文学批評/オペラ批評 『マクベス』と『ムツェンスク郡のマクベス夫人』の「二枚舌」(資料メモ) 

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 シェイクスピアマクベス』は「二枚舌」の観点から読み解くことが出来る(残念ながら、ヴェルディによるオペラ『マクベス』には「二枚舌」の台詞で有名な「門番」の場面はないが、「二枚舌」はなにも門番の場面ばかりではなく、意味的には、「魔女」の言説をはじめ、至るところに散りばめられている)。

 シェイクスピア自身の生き方もまた、カトリシズムに関して「二枚舌」であったかもしれない。

 ショスタコーヴィチのオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』もまた「二枚舌」として解釈しうる。

 ショスタコーヴィチの生涯全体が、スターリン体制下およびスターリン死後に共産党員となってからさえも、「二枚舌」のもとにあった。

 ここにおいて、「二枚舌」は必ずしも「悪」「嘘つき」の側に一方的に立つものではない。「二枚舌」でなければ、表現することはおろか、生き延びることさえ困難な、苛酷な政治体制、統治があった。

 下記の資料(引用文)で理解できるだろう。 

 

シェイクスピアの「二枚舌」――『マクベス』>

 

<玉泉八州男「シェイクスピアとカトリシズム」から>

《それ以上に問題なのは、この文書(筆者註:父親(John)の署名になる六葉綴りのパンフレット、信仰遺言書)がたとえ贋作だったとしても、それでSh.(筆者註:「Shakespeareシェイクスピア」の略)家はカトリックでなかったと結論づけるわけにはいかないという点にある。まず父親。彼は一五九二年九月二五日に「負債に対する法的措置の執行を恐れて教会に現われなかった」九名の国教忌避者(recusants)の中に名を連ねている。そして、「法的措置」云々は、彼らカトリック教徒の礼拝不参加のありふれた口実の一つであった。母メアリーは、一一七八年の土地台帳作成以前に遡るアーデン一族の一員。一五八三年愚かな女婿による女王暗殺事件(サマーヴィル事件)発覚のため、遠縁に当たるであろうパーク・ホールのアーデン家当主とサマーヴィルの首は、Sh. が出奔した当時も、ロンドン橋の上に曝されていた(Sh. の父ジョンが屋根の梁の間に信仰遺言書を隠したのも、この事件で迫害の波が及ぶのを恐れての措置と、従来は考えられてきた)。娘のスザンナも一六〇六年春復活祭の聖餐をうけなかった二一名のリストに登場する。彼の文法学校の先生たちもカトリックだった(1571−74, Simon Hunt ; 75−79, Thomas Jenkins ; 80−81, John Cottam)。そして彼自身については、死後五〇年以上経過した一七世紀末に、オックスフォード大学コーパス・クリスティ学寮つきの牧師デイヴィス(R. Davies)が、覚え書に彼はカトリックとして死んだ(He dyed a papist)と記している。そういう訳で、今日の時点では父のみならずSh. もカトリックだったと考える方が説得力があるばかりか、作品の理解もますように思われる。以下はその見地に立った、Sh. への一つのアプローチである。》

《まず一人の劇作家を扱うのに、どうして宗教的立場をそんなに重視せねばならないのか、といった素朴な疑問から入るとしよう。今日のわれわれ、とくに日本人にとって、宗教は個人的信条でしかないのだが、Sh. 当時それは公的行動全体に及ぶ大問題であった。しかも、信仰の領土帰属主義(cujus regio, ejus religio)が一般的な中で、英国国教会以外を信奉することは、多大の勇気を要し、犠牲を伴った。一六〇五年一一月五日の火薬陰謀事件の発覚がきっかけでカトリック弾圧が頂点に達するとはいえ、エリザベス朝からすでに亡命中のスコットランド女王メアリを担いでの再カトリック化計画との絡みで、臣従の誓い(the Oath of Allegiance)を行い、国教会流の礼拝をうけることが公的生活を営む最低の前提だった。不履行者は当時の文法学校教師の年収に当たる二〇ポンドを毎月科料として支払わねばならない。それを恐れて、日曜礼拝に形だけ参列する「教会カトリック(Church Papist)」が出現する所以だろう。》

《纏めていえば、「非国民」の身を終始自覚し、ユグノーや娼婦の間に身を潜め、他人との関わりをできる限り避けて非人情を貫き、蓄財に専念する。これが二五年に及ぶ Sh. のロンドンでの(単身赴任?)生活の基本だったのではあるまいか。彼はよく「温厚なシェイクスピア(gentle Sh.)」といわれるが、それは非人情を隠す愛想のよさの仮面がいつしかくっついて離れない直面(ひためん)に変わったせいだったかもしれない。

  傍観者に終始し、コミットしない、こうした生き方は、何ごとも深追いしない作劇術に繋がってゆく。キーツJohn Keats)は、Sh. が「ことをなす人間(a Man of Achievement)」らしく「消極的能力(Negative Capability)」を大量にもっていたと評したが、「不確定、神秘、疑惑の状態、つまり曖昧なままにすべてを留める能力」こそ、カトリック的生き方の芸術的昇華といってよいだろう。》

《しかも、この曖昧さはカトリック的心情の昇華に留まらず、カトリック的処世術の演劇的利用ととれる時すらある。中でも顕著なのは、二枚舌(equivocation)と呼ばれる詭弁術。古来あったこの言語表現が積極的に悪用されるようになったのは、イギリスではカトリック詮議が本格化した一五八〇年代サウスウェルの取調べからといわれている。どういうものか、一、二例をあげると、‘Are you a priest?’ と問われると、‘No, I am not.’ その心は‘not an Apollo’s priest at Delphos’ の意。‘Have you ever been beyond the seas?’ に対しては‘I have never been beyond the Indian seas’ と、これまた見当外れな答えをする。これが世間的に有名になったのは、火薬陰謀事件発覚後のイエズス会の大立者ガーネット(Henry Garnet)の詮議を巡って、当局が一六〇六年三月裁判終了後、五月までにその模様をパンフレットにして全土に配り、反イエズス会キャンペーンを実施してからのことだ。

  この当局の動きにSh. も呼応した。事件直後に書かれたであろう『マクベス(Macbeth)』(1606)の「門番の場」に早速地獄堕ちの「二枚舌」を登場させる。それだけではない。バーナムの森(Great Birnam wood)がダンシネインの丘(Duncinane hill)めがけて進軍してこなければ、滅びることはないと「第三の幻影」に予言させ、「女の腹から生まれた者に負けるはずがない」と「第二の幻影」に いわせておいて(IV. i)、枝をかざし(て森とみせかけ)た兵士を進軍させ、帝王切開で生まれたマクダフ(Macduff)と戦わせてマクベスを滅ぼす。つまり、筋の展開にも巧みに二枚舌を絡ませている。

 だが、二枚舌は『マクベス』が有名とはいえ、実はそこがSh. における初出ではない。OED が悪しき意味での用例の初出年とする一五九九年前後に書かれた『ハムレット』の五幕一場墓掘りの場のハムレットと墓掘りのかけ合いにすでに現われていた。》

《それを確認した後で『マクベス』に改めて眼を向けた時に気付くのは、二枚舌というカトリック的処世術への距離の置き方だ。『マクベス』は、曖昧さに賭けてことに及んだものの、王国の未来の支配者が誰なのか判然としない状態に耐えきれず、はっきりした見通しをえようとして魔女の二枚舌にひっかかって敗北してゆく男の悲劇。魔女が「不透明さそのものの具現化(the embodiment of the principle of opacity)」であり、二枚舌が曖昧さというカトリック的処世術を極限化したものなら、見方によっては劇自体がカトリックの自縄自縛の物語といった趣をもつ。ガーネットは裁判で二枚舌と虚偽の相違を力説したといわれるが、劇では「二枚舌」は虚偽で地獄堕ちに値するという(カトリックらしからぬ)論理が当然の前提になっている。》

《Sh. は、己れの志操と関わりなく、国王一座の座付作家としての義務の念から「安心を売る集団的儀式(a collective ritual of reassurance)」を執り行っているのだろうか。九死に一生をえた国王ジェイムズの無事を、バンクォーの子孫たるその家系の繁栄と重ねて寿ぐ「追従の劇(a piece of flattery)」をものする絶好の機会と捉えて。それとも、事件関係者一三人中六人がストラットフォードという(当局からみれば)ミッドランドの 「死角」 周辺の出身者であり、ケイツビーをはじめ Sh. と面識のあった人物がいたとすれば、火の粉がふりかからぬよう必死に防いでいただけなのか。何しろ、『マクベス』執筆の年の春聖餐を受けなかった国教忌避者たる娘を、「新教徒としての信任状」が必要と察知すれば、翌七年「非の打ちどころのない新教徒」と妻せる父親だ。あるいは、世紀の変わり目頃から、新教徒への道を歩み始めていたのだろうか。

  この最後の点との絡みを的確に捉えるのは難しいが、父ジョンが死ぬ一六〇一年頃から演劇人Sh. にも変化が訪れていた。「二枚舌」は「あるのにないふりをすること(dissimulation)」で、バーナムの森が動く「ないのにあるふりをすること(simulation)」とは厳密にいえば違うが、両者を纏めて「ふり(counterfeit)」と捉えれば、その語は一六世紀の末までは肯定的な文脈を残していた。》

《問題劇から晩年の悲劇で新教徒への道を歩み始めていたようにみえて、最晩年の最晩年のロマンス劇では奇跡や神の出現がみられるカトリック的世界へ再び回帰してゆく。要するに、徹頭徹尾「二重意識」「消極的能力」の持主だったということだ。そして、見方によっては、そこにこそ彼の劇作家として最大の存在事由があったといえなくはない。》

  

<ジェイムズ・シャピロ『『リア王』の時代 一六〇六年のショイクスピア』から>

《一六〇六年の春にシェイクスピアの『マクベス』の初演(訳者(河合祥一郎)註:『マクベス』の初演は不詳であり、これは推定。記録に残る『マクベス』上演は、一六一一年に医者サイモン・フォーマンが観劇を記録したもの)を観た観客は、劇の核となる場面、すなわちすべての元凶となるダンカン王殺しの場を見られなかったことに驚いたかもしれない。殺人の現場を演じないというのは異例の判断である。観客もそれを見たいと思っていただろうし、シェイクスピアのそれまでの悲劇では見せていたのだから。(中略)

 ダンカン王が舞台裏で殺された直後、殺害の場がなかった埋め合わせに、シェイクスピア作品のなかで最も場違いな場面がやってくる。あまりにも変わった場面なので、サミュエル・テイラー・コールリッジら初期の批評家たちは、「大衆を喜ばせるために誰かほかの人が書いたのではないか」と疑ったほどだ。二日酔いで、くだらぬことをよくしゃべる門番が、城の門を叩く音を聞いて訪問客を迎え入れる自分の仕事を果たそうと、ゆっくりと音に反応する。この役は恐らく初演時に、劇団の賢い喜劇役者ロバート・アーミンが演じて評判をとったのだろう。アーミンのためにシェイクスピアはつい最近『リア王』の道化役を書いたばかりだ。門を叩く音は、門番の登場前から始まる。最初にそれを聞くのはマクベスだ。「何だ、あの音は? どうしちまったんだ、俺は、ちょっとした音にもびくつくのか?」(第二幕第二場六一~六二行)とマクベスは言う。ちょうどマクベス夫人が舞台裏の寝室で眠っている護衛たちにダンカンの血をなすりつけているときだ。戻ってきたマクベス夫人が舞台裏の寝室で眠っている護衛たちにダンカンの血をなすりつけているときだ。戻ってきたマクベス夫人も、音を聞いて夫に言う。「南の門を叩く音が。お部屋に戻りましょ」(第二幕第二場六〇~七〇行)。音は執拗に再び聞こえて、夫婦は急ぎ退場する。

 門番の場をシェイクスピアが書いたかどうかをコールリッジが問題視した数年後、トマス・ドゥ・クィンシーが「『マクベス』の城門のノックについて」という見事な論文で、この場面を擁護した。「別の世界が入りこんできており、人を殺したマクベス夫妻は人間界の外へ、人間的目的や人間的欲望の領域外へ連れ出された。夫妻は姿も変わり、マクベス夫人は女でなくなり(・・・・・・)、マクベスは自分が女から生まれたことを忘れ、二人とも悪魔さながらのイメージである。悪魔の世界が忽然と現れたのだ」と、ドゥ・クィンシーは論じる(訳者註:ドゥ・クィンシーの論の要点は、「極度の緊張状態や偉大なる人物の死などに伴う厳粛な沈黙が破れるとき、中断された生命が蘇り、血が通い出して日常性が戻って来る、それこそが沈黙を破る門を叩く音の効果なのだ」というもの。(中略)シャピロはドゥ・クィンシーの論旨を汲まず、地獄の門番という「見立て」によって悪魔的なるものが表象されるとしている)。シェイクスピアは悪魔的なものに安易な説明をつけず、マクベス夫妻がこれから経験し、スコットランドに味わわせることを生き地獄としてイメージさせている。そのために、門番に自らを「地獄の門番」(第二幕第三場二行)と想像させるのだ。中世イングランドにあった今ではほとんど忘れかけられた聖史劇のお決まりの登場人物である。そんな発想をすることで、この劇の最も実際的な場面において、地獄を呼び出すという行為を見せてくれているのである。シェイクスピアは、『リア王』でもそうしたように、悪魔を出すとどうしても強くなってしまう道徳色を回避しつつ、超自然なるものを呼び起こしている。(中略)

 門番は次に、地獄にまた誰かやってきたと想像する。名前のない「二枚舌野郎」だ。「ドン、ドン。誰だ、悪魔の名にかけて答えろ。いよっ、こいつだな、言い逃れをする野郎は。こうも誓えば、ああも誓う、神様のためなんて言って謀叛を犯しやがって、神様には二枚舌は通用しなかったわけだ。おう、入れ、二枚舌野郎」(第二幕第三場七~一一行)。まるでシェイクスピアは、その春流行っていたジョーク――つまり、謀叛人のガーネットが「処刑台で二枚舌を使うだろう」というジョーク――を聞き及んでいたかのようだ。それをさらにひとひねりして、イエズス会士が二枚舌を使ってうまいこと天国へ行こうとして失敗し、とうとう地獄にやってきてしまったかのように観客に想像させたのである。

 関連は、そればかりではない。門番は、最後に登場したマクダフに対して、なぜ門を開けるのにこんなに時間がかかったのかを二枚舌を使い続けながら説明する。「はっ。二番鳥が鳴くまで飲んでおりました。酒は、三つのことを惹き起こしなすんで」(第二幕第三場二三~二四行)。マクダフが挑発に乗って、「何だ、その、酒が惹き起こす三つのことっていうのは?」と尋ねると、門番は答える。

    はい、鼻が赤くなること、眠ること、それに小便であります。女とやりたいっ

て気にもさせますが、萎えさせもします。欲望を刺激しながら実行はできないようにする。それゆえ、大酒は、色事に二枚舌を使うと言えます。その気にさせて、だめにする。むらむらさせて、ふにゃっとさせる。突っ張っといて、がっかりさせる。立たせておいて、立たなくさせる。結論としまして、二枚舌で眠らせ、よう、この嘘つき野郎、よう、よう、と用を足して、しゃーっと出て行きます。(第二幕第三場二七~三五行)

 好色、飲酒、二枚舌についての冗談は、さらに、二枚舌を使うガーネットの深酒と有名な女遊びへの当てこすりとなっている(ソールズベリー伯でさえ、このことでガーネットをからかわずにいられなかった)。(中略)

 この劇における最も重大な曖昧表現は、マクベスとバンクォーが最初に魔女たち――実は「魔女」とは一度も呼ばれておらず、「この世のものでない姉妹(運命の三姉妹)(Weird or Weyard Sisters)」とのみ言及されているのだが――と出会う場面で起こる。最初の魔女がマクベスを「グラームズの領主」と呼び、二人目が「コーダーの領主」と呼びかけ、三人目が「やがて王となるお方」と呼ぶ。それからバンクォーに「王を生みはするが、ご自身は王にはならぬお方」と言う(第一幕第三場四九~六七行)。どれも嘘ではないが、重要な情報を告げていないという点で二枚舌になっている。つまり、王になるためには王を殺さねばならないと告げていないし、バンクォーには、生きて予言の成就を見ることはないと告げていない。二枚舌のせいで、『マクベス』の対話を理解するのは精神的に疲れることになる。観客は――二枚舌を使うイエズス会士と話をする役人同様に――言葉どおりの意味なのか、そうでないなら、心理保留によって隠されていることは何なのかを理解しようと努めなければならない。しかし、二枚舌を使って言葉にされなかったものがあるとすれば何なのか、決してわかることはない。「きれいは汚い……」(第一幕第一場一一行)という一見矛盾する表現の意味がはっきりするのは、「嘘の外面を見抜きさえすれば」という条件をクリアしてその答えが得られたときのみなのだ。

 二枚舌(曖昧表現)はこの劇の至るところにある。マクベスが妻に手紙を書くとき、バンクォーの末裔が王となるという予言は言わずにいる。ダンカンの護衛たちを殺したことの言い訳をするときも、二枚舌を使っている。「誰がじっとしていられよう、愛する心があるのなら、そしてその心に愛を示す勇気があるのなら?」(第二幕第三場一一八~二〇行)(訳者註:表の意味は「ダンカン王を愛する心があるなら、その王を殺した犯人を目の前にして誰がじっとしていられよう」であるが、マクベスが心の中で言っているのは「妻を愛する心があるなら、決行するしかない」という意味だと解釈される。)。心理保留がマクベスの第二の天性となっているのだ。マクベスは、バンクォーとフリーアンスを殺すために放った二人組の殺し屋たちに、三人目が加わることをわざと言わない。そして、夫人がマクベスに「何のこと?」と尋ねるときも、「かわいいおまえは知らずともよい」(第三幕第二場四八行)と言う。破滅するバンクォーが、神こそが人の心を読むことができ、隠された陰謀を暴くことができると言って、心理保留が実は虚偽にすぎないことを鋭く指摘しているのは皮肉である。

   私としては、大いなる神の御手にわが身をゆだね、

   そこから、隠された陰謀を暴き、

   謀叛の悪意と戦うつもりだ。 (第二幕第三場一三二~三四行)

 二枚舌を使うのがマクベスの習慣になればなるほど、マクベスは魔女から更なる保証を求めようとし、魔女たちはマクベスの希望につけ込み、なおも二枚舌を重ねて、悪霊を呼び出す。悪霊は「女から生まれた者にマクベスは倒せぬ」のだから「大胆に血を流せ、憶するな」と命じ、「広大なバーナムの森が」ダンシネーンの丘に向かってくるまではマクベスは決して滅びぬと告げる(第四幕第一場七九~八一、九三行)。バーナムの森から切り取られた枝をかざして軍隊がダンシネーンの丘を目指すのを信じがたい思いで見守るマクベスは、「真実のように嘘をつく悪魔の二枚舌」(第五幕第五場四三~四四行)の破壊的な結果を身にしみて知るのである。最後に、マクダフが女から生まれていない――帝王切開だったので、「母の腹から月足らずで引きずり出された」(第五幕第八場一六行)――と知ると、マクベスはついに二枚舌にやられたと考える。

   あの嘘つきの悪魔など、もう信じまい。

   二重の意味で翻弄し、

   耳に入れた約束の言葉は守りながら、

   その期待を裏切りやがる。 (第五幕第八場一九~二二行)

 観客はマクベスとともに絶望のどん底へ突き落される。地上の地獄だ。「もう日の光を見るのはうんざりだ。この世の秩序など崩壊してしまえ」(第五幕第五場四九~五〇行)と、マクベスは言う。シェイクスピアにおけるたいていの悲劇の主人公と違って、マクベスには死に際の悟りの台詞はない。最後に聴く内省の弁は、今引用した、二枚舌の働きについてようやく得た洞察の言葉である。

 二枚舌はマクベス夫人をも破滅させる。自分がダンカン殺しに関与したことを忘れようとし、また夫が関与したことも忘れようとして、夫人は二枚舌に熟達する。マクベスがバンクォーの亡霊を見て怯える宴会の場がよい例だ。夫人は、客たちに飄々と二枚舌を使ってこう言う。

   主人はよくこうなるのです。

   若い頃からそうでした。どうぞ、座ったまま。

   発作は一時的なもの。すぐにまた

   よくなります。 (第三幕第四場五三~五六行)

「よくなります」の「よい(well)」は、このあと劇の最後まで二十回ほど繰り返されるが、「よい」とは何がよいのか曖昧な表現だ。口にしたことと、二枚舌を使って言わずにおいたことの違いを完璧に例示するかのように、正気を失った夢遊病マクベス夫人は、あからさまに言えない「隠され、知らぬふりをされているもの」を書きつけ、それを読み直さずにはいられない。「ベッドから起きられて、ナイトガウンをお羽織りになり、戸棚の鍵を開け、紙を取り出し、折り畳み、何か書きつけ、読んでから封をし、またベッドにお戻りになりますが、そのあいだじゅうずっとお眠りになったままなのです」(第五幕第一場四~七行)と侍女は報告する。》

ハムレットが二枚舌のことを政治色なしで言及できた時代は終わっていた。一六〇六年初頭までに、二枚舌がいったん根付いてしまうと、「あっというまに、信念も真実も信用もなくなる」という恐怖はあまりにも現実的なものとなっていた。

 マクベスにおけるシェイクスピアの最も強烈な洞察は、そのような悪弊の広まった状況では――中世スコットランドであろうが、ジェイムズ朝のロンドンであろうが――悪のみならず善もまた二枚舌を使うと見抜いていることだ。故郷ストラットフォード・アポン・エイヴォンのみならずロンドンでも、火薬陰謀事件のあとでは疑いの文化が根付き、もはや元には戻らなかった。『マクベス』の後半では、最も尊敬されるべき人物たちでさえ、誓っておいて嘘をつき、道徳を地に落としている。たとえば、気高く見えるマクダフは、スコットランドから逃げ、家族を置き去りにしてしまう。妻が息子に、父親のマクダフは「誓いをたてて、嘘をつく」「謀叛人」でると話す場面をどのように解釈したらよいのだろうか。(中略)

 マクダフ自身もやがて二枚舌の犠牲となる。口の重いロス卿が、マクダフの妻子が殺されたことを伝えなければならなくなって、意味深い「安らか」という語を――騙すつもりではないのだが――曖昧に使うのである。(中略)

 十一月五日に実際に破壊的攻撃があったわけではないものの、人の心が破壊され、取り返しのつかぬことになったのだ。その変化が『マクベス』に反映されている。一気呵成に書き上げようという勢いがあったことを考えれば、終わり方がすっきりしないのも説明がつく。慌ただしく体制が回復されるものの、どうも頼りなくしっかりしていない。現代の演出家のほとんどが、演劇でも映画でも、エンディングに手を入れたくなるのもしかたがない。二枚舌を封じ込めて、すっきりさせるために悪の根源は悪魔にあるとしてしまうのは、クックやダヴのような悪魔使いと発想と変わらない。マクダフが最後にマクベスの斬られた首を高く掲げて登場すると――再び舞台裏でのスコットランド王殺害であり、観客はそれを目にせず、想像するだけとなるわけだが――そうなると、多くの未回答の答えから観客の気は逸れてしまう。謀叛人の二枚舌野郎の首が一旦、棒の先に掲げられたら、悪はやっつけられたということなのか。「この死んだ人殺しと悪魔のようなその妃」(第五幕第八場七十行)とけなせばよいだけなのか。もしバンクォーが、フリーアンスの血筋によって代々の王の父となるのであれば、どうして『マクベス』はマルカムが王位に就いたところで終わるのか。バンクォーの末裔がマクベスに代わってダンカン王の系譜を受け継ぎ、スコットランド王ジョイムズにまで至るまで、どんなさらなる流血があり、悪魔的な力が介入するのか。》

(オペラ、ヴェルディマクベス』には「門番」による「二枚舌野郎」の場面はない)

 

 ショスタコーヴィチの「二枚舌」――『ムツェンスク郡のマクベス夫人』>

 

亀山郁夫『磔のロシア スターリンと芸術家たち』「テロルと二枚舌 ――ショスタコーヴィチの闘い」と『ショスタコーヴィチ 引き裂かれた栄光』から>

《一九三〇年代のソビエトに澎湃(ほうはい)と湧き起こった文化革命を見まもるショスタコーヴィチの真意をさぐるうえで最大の鍵となるのは、彼が何よりも革命の子であり、革命の理念を引き受けるという素朴な信念から作曲家としてのスタートを切っている事実である。

 一九二六年にモスクワ音楽院に提出されたデヴュー作交響曲第一番は、抒情、アイロニー、暴力という、おもに三つの要素からなる彼の音楽の特質を浮きぼりにする、ある意味で原型的ともいうべき作品へみごとな仕上りをみせた。十月革命からほぼ十年、ネップ(新経済政策)下でのリベラルな気分を反映して、溢れるばかりの才気に満ちたその音楽には余分なおごりはいささかもなく、前衛かアカデミズムか、アイロニーか悲劇か、といった硬直した問いも、作品全体が放つ抒情的な煌めきのなかに渾然と溶け合っている。(中略)

 しかし、一九三〇年代が明けると、ショスタコーヴィチはもはや安閑とおのれの想像力に浸り、作曲に没頭することはできなかった。結婚その他、私生活面での大きな変化はさておき、当局による監視の目がたえず彼の身辺につきまとっていたからである。そうした抑圧的な状況を切りぬける手だては、この時代のすぐれた芸術家に共有された「二枚舌」(ないし「イソップの言語」)を徹底して鍛えあげることにしかなかった。作品の内部にみずからの真意をしまいこむ作業、簡単にいうなら、建前と本音の巧みな使い分けである。ショスタコーヴィチの直弟子で作曲家のウスペンスキーは、そうした「サバイバル」の手法をめぐって、「一歩後退二歩前進」という表現を用いている。この表現は一面でたしかに、スターリン時代のソビエト楽壇を生きぬいたショスタコーヴィチのみごとな処世術を言い当てている、かりに、ソビエト権力への譲歩や屈服を「後退」と決めつけるとしたら、それは大きな誤りであり、「後退」が果たして作曲家の不幸であったのか、というと必ずしもそうとは言いきれない。

 たとえば、一九三六年一月にスターリンによって「荒唐無稽(スンブール)」の一言が浴びせられるや、ショスタコーヴィチは、たちまちにして古典主義的な明晰さに回帰し、みずからの「本心」や「意図」を、その、高度にインターテクスチュアルな彩りのなかにしまいこんだ。他方、ショスタコーヴィチがお手のものとした、鮮烈かつ暴力的な音作りは、戦争、ファシズムの音楽的メタファーにいともたやすく転化させられ、検閲当局がお望みとあれば、同じイントネーションとリズムを用いて、底なしに楽天的な音楽を書くこともできた。ショスタコーヴィチにとって「後退」と呼ばれるモメントは、あるいは、自分を駆りたて、追いつめる原動力としても不可欠のものであったのである。(中略)

 だが、ショスタコーヴィチの音楽とは、むしろ「前進」も「後退」も含めたトータルとして理解すべき何かなのであり、「前進」のみに彼の音楽のポジティブな側面を聞きとるやり方は、全体主義下において芸術家が強いられた役割や、政治権力との相関性のなかではじめて意味をもつソビエト芸術の本来的特質をむしろ一方的にねじ曲げるものでしかない。ショスタコーヴィチ音楽の特質を考える際には、当然のことながら、スターリン主義という「所与」の条件を忘れてはならない。しかも彼が、プロ・ソビエト的な音楽を、たんなる「禊ぎ」として受け入れただけでなく、彼自身がそこに「蕩尽」の役割を担わせていたのであれば、なおさらのことである。早くして革命の洗礼を受けたショスタコーヴィチは、はじめから革命との、権力との、スターリン主義との対話をバネに作曲に励み、時には権力の要請に喜んで手を貸したこともある。全体主義の強大な抑圧のもとに生きる芸術家にとって、ベートーヴェンマーラー風の自己劇化の完遂は羨みの的となった。もとより、集団主義を国家イデオロギーの根幹にすえるソビエト権力が、芸術家のみに許される、そうした甘い特権を許容するはずもなかった。なぜならスターリン主義が芸術家に求めていたのは、あくまで、スターリンと同じ夢を見る力だったからである。》

 

 ここからは、亀山郁夫ショスタコーヴィチ 引き裂かれた栄光』を引く。

ショスタコーヴィチがオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』に着手したのは、一九三〇年十月のことで、時期的にはバレエ『黄金時代』の初演とほぼ重なっている。完成が一九三二年十二月であるから、約二年の歳月をかけたことになる。》

《舞台は、モスクワ郊外の富裕な商家イズマイロフ家。イズマイロフ家に嫁いで五年目になるカテリーナは、義理の父ボリスと夫ジノーヴィーとの生活に疲れ、辛い日々を送る。そんなある日、製粉所の堤防が壊れたため、夫のジノーヴィーが泊りがけで外出する。その夜、イズマイロフ家に新たに下男に入ったセルゲイがカテリーナの寝室を訪ね、二人は関係をもつ。だが、その事実はまもなく義理の父ボリスに知られるところとなり、事実の露顕を恐れたカテリーナはボリスを殺鼠剤入のキノコ料理で殺害する。その後も、カテリーナの寝室で逢瀬を楽しむ二人だが、カテリーナはボリスの亡霊に苦しめられ、狂気のきざしを示す。帰宅したジノーヴィーは、二人の不義の現場を押さえ、カテリーナに鞭打ちを浴びせるが、そのジノーヴィーをセルゲイが殺害する。やがて二人は結婚式を挙げるが、披露宴の最中、酔っ払って納屋に入りこんだ百姓がジノーヴィーの死体を発見し、警察に通報、二人は逮捕される。二人は、シベリア送りとなるが、すべてを失ったカテリーナにとってはいまや護送集団のなかで会ったセルゲイがすべてだった。だが、そのセルゲイは、同じ集団のなかの女囚人ソネートカに気を移していた。絶望し、復讐心にかられたカテリーナは、湖をわたる船の上からソネートカともども身投げする……。

 以上がオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』のおおよその筋だが、レスコフの原作とはいくつかディテールが異なっている。オペラの台本の執筆にあって、上演上の制約からいくつか変更が行なわれたと見るべきだろう。そもそもこのオペラのもつ扇情的な性格からして、とうてい子どもを舞台に載せるわけにはいかなかった。

 レスコフ原作のオペラ作曲へと向かったショスタコーヴィチは、当初、「女性に関する」ソヴィエト版『ニーベルングの指輪』を書きたいという意図を周囲にもらしている。ただしそれがどこまで本意であったかはわからず、たんなる口実にすぎなかった可能性もある。》

《『ムツェンスク郡のマクベス夫人』の初演は、一九三四年一月二十二日に、レニングラード・マールイ歌劇場で行われ、モスクワでは二日遅れて、ボリショイ劇場支部にあたるモスクワ劇場で初演された(モスクワ初演では、『ムツェンスク郡のマクベス夫人』ではなく『カテリーナ・イズマイロワ』のタイトルが採用された)。レニングラード初演の指揮をとったサモスードは、「一時代を築くオペラ」と絶賛し、これに類するオペラは、チャイコフスキーの『スペードの女王』を措いて他にない、とまで明言した(サモスードの念頭には、一九三五年に同じレニングラード・マールイ劇場が初演したメイエルホリドによる演出のオペラがあった)。

 ネミローヴィチ・ダンチェンコの演出によるモスクワ初演は、ショスタコーヴィチの解釈よりむしろレスコフの原作を優先させ、これを完全にリアルな悲劇として描くことをめざすもので、ひとりカテリーナへの上茶的な肩入れを避け、シェークスピアの「マクベス夫人」により近く、強烈な自我と個性を発散する女性像を浮かび上がらせることをねらいとしていたという。(中略)

 レニングラード、モスクワとも初演後の反響は上々だった。ショスタコーヴィチの親しい友人で、大の音楽通で知られた赤軍将校トゥハチェフスキー、モスクワ芸術座の創設者である演出家のスタニスラフスキー、作曲界の大御所ミャスコフスキーらもこぞって賞賛している。》

《一九三六年一月二十八日、共産党の機関紙『プラウダ』に発表された小さな論文が、ショスタコーヴィチを恐怖に陥れた。記事の見出しは「音楽ならざる荒唐無稽」となっており、当時、世界的に人気のあったオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』を徹底して批判する論文だった。批判の内容は大きく三つの点に絞られている。一に、その極左的な荒唐無稽(形式主義)、二に、「俗悪な」自然主義、そして三に、物語のモラルである。検閲当局のみならずスターリン自身の意志がそこに働いていることは、スターリンの語り口をまねた悪意ある文体そのものから容易にうかがい知ることができた。(中略)

 スターリンと二人の政治局員ジダーノフとミコヤンの二人がモスクワ劇場を訪ねたのは、正確に、一九三六年一月二十六日のことである。ソレルチンスキー宛の手紙によると、その夜、ショスタコーヴィチは、四幕が終った時点でカーテンコールを受け、舞台で拍手に応えたが、その時すでに、スターリンら一党の姿はなかったという。(中略)

プラウダ』批判は、音楽そのものの成り立ちから、芝居そのもののモラルにいたるほぼ全面否定に近いものであった。では、その批判の意図はどこにあったのか。初演以来、レニングラードですでに八十三回、モスクワで九十七回の公演を重ね、いまや世界の名だたるオペラハウスが次々とレパートリーに加えようとしていたソヴィエト・オペラの傑作に対して……。》

《思うに、一九三六年一月時点における上演禁止という事態は、ある意味で一つの長いプロセスの結果だったと見ることができる。ショスタコーヴィチは、すべての男性主人公たち、セルゲイ、ボリス、ジノーヴィーに、富農ならざる抑圧者の影を見ることで、このオペラを富農撲滅のスローガンに集約される農村集団化の流れに全面的にリンクさせられるとの読みを抱いていたのかもしれない。またこのオペラが、その、あからさまに性的な内容にもかかわらず広く聴衆に受け入れられ、圧倒的人気を博した背景には、そうした主題面での安心感があったと見られる。と同時に、そうした共通の理解があったからこそ、当局もまたショスタコーヴィチの書法上の独走を大目に見てきた一面もあったのではないか。この時期、そもそもカテリーナがオペラのヒロインとして許容されていたのは、彼女が、旧体制の破壊者、ナロードニキの革命家ソフィア・ペロフスカヤにもなぞらえられる存在であったからである。

 事実、「史的唯物論の原則」にのっとったテロリズムは、一九三四年十二月一日のキーロフ暗殺事件までは、それなりに容認され、公的な承認を得ることができた。しかし、この暗殺事件以後、状況はがらりと一変する。かりにこの事件が、スターリン自身による陰謀ではなかったと仮定するにせよ、キーロフ事件によって現実化した個人的テロルは容赦なく断罪されなくてはならなかった。つまりこのオペラは、キーロフ事件以後の複雑に込み入った政治状況のなかで、ことによると個人的なテロルへの容認、あるいはその正当化と見られる恐れがあったということである。キーロフ事件を演出したスターリンは、おそらくその「演出者」として事件の行方を特別の関心をもって注視しつづけていたにちがいない。そしてその結論の一つに、すべてトロツキー一派に帰せられるべき個人的なテロルに対する弾圧があった。端的に言うなら、『ムツェンスク郡のマクベス夫人』におけるカテリーナ(=ショスタコーヴィチ)は、いずれ、「トロツキスト」の汚名をこうむる可能性があったということである。》

《翻って、モスクワ劇場でこのオペラを観たスターリンの内心はどのようなものであったろうか。スターリン自身の立場に限りなく寄り添い、その内面に錨を落としていく時に、にわかに湧き起こってくる疑問についてここで率直に述べておこう。怒り心頭に発したスターリンが「スンブール(荒唐無稽)」と声を荒げた場面とは、たとえば、マクドナルドが指摘する第三幕七場の警察署(スターリンは警察署長を自分に対するパロディと感じたとマクドナルドはいう)でもなければ、第四幕九場の流刑囚のシーンでもなく、カテリーナによる義父殺し、さらには夫殺しでもなかったのではないか。ましてや、文字通り、「荒唐無稽」な「ポルノフォニー」でもなかったろう。親族殺人を扱った文学や演劇が、しばしば猟奇性を帯びるのは、無意識のタブーの縛りが大きいだけ、人々の意識下の思考や願望に強く働きかける作用をもつからである。

 スターリン自身の内面に親族殺人のモチーフが持ちうる影響力の強さを考えてみる。このオペラの初演におよそ一年半先だつ三二年十一月(十月革命十五周年のその日)に、スターリンは妻のナジェージダ・アリルーエワをピストル自殺で失っている。当時からこの事件については、スターリンが妻を銃殺したとの噂が広く巷間で囁かれていた。そればかりか、「毒殺」の噂は、一口話その他を介して革命の父レーニン(一九二四年)、軍事人民委員フルンゼ(一九二五年)、高名な精神病理学者ベフテーレフ(一九二七年)らの死とも関連づけられて人口に膾炙していた。

 映画や文学に対する関心の強さとはうらはらに、音楽に対するスターリンの知識はきわめて限られたものであった。舞台上のさまざまな約束事に縛られ、リアルな物語としてはなかなか感情移入しにくいオペラのジャンルが、スターリンの嗜好に合うものではなかったことは確かであり、たとえそれが大ヒット中の『ムツェンスク郡のマクベス夫人』であっても例外にはならなかったろう。このオペラがどれほど扇情的で「俗悪」なテーマを扱っているとはいえ、スターリンみずから率先して形式主義批判のキャンペーンの口火を切るほどの大きな口実を与えたはずはない。音楽的手法のレベルで言えば、この『ムツェンスク郡のマクベス夫人』よりも前作『鼻』のほうがはるかに先を行っていた。

 スターリンがこのオペラに驚愕したのは、むしろオペラをめぐる周縁的な事実、つまり、レニングラードの市民がこれほどまでこのオペラに熱狂しているという事実そのものではなかったろうか。ひょっとすると彼らの熱狂のうちに、スターリンはみずからの「過去」に対する不信を見てとったのではないか。さらにいうなら、義父「毒殺」のモチーフは、スターリンのなかで、党内の尊属殺人ともいうべきキーロフ暗殺への連想をいやおうなく呼び招くものとなったのではないか。それは、たとえば、ハムレットの「劇中劇」にも似た役割を帯びて……。そう、そこに現出したのはまさに、クローディアス=スターリンの同一化というまれなる事態であったのだ。》

 

 ここで「テロルと二枚舌 ――ショスタコーヴィチの闘い」に戻る。

スターリン権力による大テロルが猖獗をきわめる一九三七年、「荒唐無稽」批判によって窮地に立たされたショスタコーヴィチは、みすからのサバイバルを賭けて、当局の批判に答える義務があった。スターリンとしては、パステルナークが『イズヴェスチャ』紙(一九三六年一月)に発表した壮大なスターリン讃歌に匹敵する音楽を、あるいは、交響曲第二番、第三番に類する合唱つきの「党カンタータ」を期待することができた。他方、シュヴァルツが言うように、ショスタコーヴィチにかりに本気で譲歩する覚悟があったら、標題交響曲ないし歌入りの交響曲を書くことで、党への忠誠を示す方法も考えられたはずである。しかし、ショスタコーヴィチは、純粋な管弦楽曲、歌詞ぬきの交響曲で批判に応えることになった。そしてそこにはおそらく次の二つの理由があったと考えられる。

 一、当局ないしスターリンに対するあからさまな礼賛となることを避け(礼賛は、「二枚舌」ないし党へのへつらいの嫌疑を招く)、できれば、控えめなかたちでその忠誠心を呈示したかった。そうするほうが、スターリンの意に添うだろうとの読みがあった。

 二、歌詞を添えないことで、交響曲の内部に、さまざまな秘密の仕掛けを設けることができる。外部からの批判なり解釈なりに対してどのような対応も可能となる。》

《一九三七年一一月二一日、交響曲第五番の初演が終わり、フィルハーモニー大ホールのステージで必死に汗をぬぐうショスタコーヴィチは、みずからの「二枚舌」が見破られなかったことを喜んでいたのか。それとも、その汗は、「社会的要求」に応えることができたという安堵感の現われだったのか。

 交響曲第五番とは、社会主義リアリズムの音楽、あるいは勝利の音楽ではなく、スターリン権力のもつ悲劇性を、肯定と否定に揺れるアンビバレントな意識のなかで体現した音楽、あるいは、スターリン権力をめぐる、一種のメタ音楽だったといえるかもしれない。そして、逆説を恐れずにいうなら、そのアンビバレントこそ、この音楽のドラマを最高の明晰さに変えたものの正体でもあったにちがいない。いずれにせよ、この交響曲におけるショスタコーヴィチの意図とは、時代の悲劇性をスターリンと共有することにあった。だが、実際にこの曲の初演に接したレニングラードの聴衆はちがった。この音楽のただならぬ、「途方もない」響きに耳を傾けながら、彼らは、その音楽がはらむあまりに危険な意味を口にすることができなかった。彼らは、われらがショスタコーヴィチの行く末をひたすら案じ、トゥハチェフスキー(筆者註:親しかった赤軍元帥だが粛清死)の運命に思いを馳せていた。と同時に、音楽本来のディオニソス的な力に身をまかせ、一切の権力の抑圧からの解放をそこに感じていたのである。タラスキンによれば、一九三七年一一月二一日のフィルハーモニー大ホールに現出したのは、まぎれもなく一つの独立した「世論」だったということである。であるなら、この交響曲こそは、本来的な意味での、スターリン批判たりえたかもしれない。それゆえ、政治権力が集中するモスクワでの初演について、これを危険視する声があったのも不思議ではない。だが、権力側にしても、この交響曲のもつ力を、形式主義的、ブルジョワ的、悲観的として指弾するわけにはいかなかった。ショスタコーヴィチの反抗を反抗として認知することは、当局の威厳を根本から揺るがすものとなりかねなかったからだ。『ムツェンスク郡のマクベス夫人』に「荒唐無稽」の断を下したあと、ショスタコーヴィチに改めて批判の矢を浴びせ、つめ腹を切らせることは、むしろ当局の文化政策にとってこの上ない屈辱となるはずだった。しかも聴衆(初演は党関係者を集めて行われた)がこの交響曲に感じた素朴なシンパシーと当局(ないし権力)の理解のズレをこれ以上に意識させることは、むしろ当局みずからの見識を疑わせる恐れもあった。だから、この音楽のもつ光明とカタルシスの部分(シンバルによる昇華)にのみ注意を向けることが自らのメンツを保つ唯一のよすがとなったのではないか。第四楽章コーダに登場する三度の転調を、当局は、不幸中の幸いとみなし、その部分にすべての政治的な意味づけを集約させることで、事態の解決を図ろうとしたのだ。そのパッセージは、たしかに、国家の威光に対する讃歌のような響きがある。だが、ショスタコーヴィチはむろん権力の一方的な勝利など許すつもりはなかった。むしろ、権力それ自身が、おのれの安泰のために、この曖昧さのなかに、いうなれば、「公共の嘘」(タラスキン)のなかに自己避難を試みたのである。当局いやモスクワはみずからの権威保持のためにその危険性に目をつぶらざるをえなかった。ショスタコーヴィチの真の勝利はそこにあった。その勝利とは、限りない曖昧さのなかに一切の真意を隠しこむ一種の完全犯罪にも似るものであった。

 

ジジェク『オペラは二度死ぬ』から>

 

ショスタコーヴィチの『マクベス夫人』は、こうした性行為の写実的、音楽的描写においてさらに過激な方向に一歩踏み出している。この描写に関連して、ここでは『マクベス夫人』を『トリスタン』および『ばらの騎士』と比較してみるのもおもしろいだろう。ワーグナーにおいて顕著なのは、内的な緊張の発生と、それに対するオーガズム的な解決である(第二幕の終結部ではオペラ史上もっとも衝撃的な中断性交が起こり、それに対しフィナーレではオーガズム的な解決がもたらされる)。ショスタコーヴィチの『マクベス夫人』における特筆すべき、もっとも有名な要素は、第三場における、好色のかぎりをつくしたカテリーナとセルゲイの性的なやりとりをオーケストラによって生き生きと描写した部分である。つまりそれは、性行為特有のあえぎ声や激しい動きを「外面的」にミッキーマウス化すること(アニメのように、体の動きと音楽を正確に一致させること)であり、そこには、オーガズムのあとの、あのぐったりした感じを滑稽まじりに表現するトロンボーンの滑音も含まれる。『ばらの騎士』の、オーケストラによる短いプレリュード――これは歓喜に満ちあふれたセックスの場面の表現であり、突き上げるような動きの模倣、絶頂の瞬間をまねたホルンの歓声、快感に浸りきった余韻をともなっている――は、中間的な位置にある。つまりそれは、なまの性的な情念が気取ったロココ様式に包まれたかたちで噴出したものであり、その意味では、半分想像的で半分現実的というオペラの様態自体に即したものなのである。》

《『ばらの騎士』からショスタコーヴィチの『マクベス夫人』への移行は、洗練された貴族的な礼儀作法から粗野な現実への移行である。粗野な現実とは、われわれが悲しくも現実のことのなりゆきを知る場所であり、また人々が互いに打ちのめし合い、毒殺し合う――そして性交する――場所でもある。(中略)『マクベス夫人』における性行為の、オーケストラによる描写を聴く者は、同志スターリンの意見に同意したい誘惑に駆られる。このシーンに激怒しボリショイ劇場をあとにしたスターリンは、これが最善策と考えたのか、一九三六年一月二八日の『プラウダ』紙上に「音楽の代わりの荒唐無稽」という匿名の記事を載せるように命令した。この記事がいうように、「音楽は、ラブシーンをできるかぎり自然に表現するために、がやがや騒ぎ、はやし立て、息を切らし、あえぎ声をあげる」。プロコフィエフにいたっては、ショスタコーヴィチの『マクベス』の音楽を、アイロニーをこめてこう評した。それはモノフォニーからポリフォニーへの進歩における中間段階、つまり「ポルノフォニー」である、と。(中略)

 ショスタコーヴィチが、カテリーナによる二件の殺人を家父長制の圧力に苦しむ犠牲者のおこした正当な行為として救済していることは、実際のところ、見た目以上に不吉な側面をもっている。この正当化のために不可欠なのは、つまりこの殺人を納得のいくものにする唯一の方法は、犠牲者の品位を落とすこと、犠牲者を非人間的な存在にすることである(彼女の舅は好色な悪党として描かれ、一方その息子は、明確な人格造形を与えられていない無力な虚弱者である。後者の人格造形を省いたのは意図的である。というのも、彼のことを入念に描いたりすれば、殺人シーンで彼に対する同情が生まれかねないからだ)。これを補うかたちで、カテリーナにはいかなる倫理的なあいまいさも与えられていない(彼女が殺人を犯すとき、そこにはいささかの内面的葛藤もないし、殺人のあとにも良心の呵責は示されていない)。彼女は、家父長制の圧力に抗って個人の自由と尊厳を求める人物として描かれているわけではない。むしろ彼女は、性的な情念にすっかり身を任せた女、その情念を満たすうえで邪魔になるものはすべて容赦なく叩きつぶす覚悟をもった女として描かれている。この意味では、彼女もまた非人間化されているのだ。その結果、逆説的ではあるが、このオペラにおける唯一の人間的な要素は、集団的な要素、つまり最終章に「おける流刑者の、二つの哀歌を含めた合唱である。さらに、このオペラの歴史的文脈、クラーク[富農]に対する容赦ない粛清が行なわれた時期を強調したタラスキンは正しい。殺害される父とその息子は、クラークの二つの典型ではないのか。スターリンによって上演禁止令が出される前の、オペラの公演が大成功をおさめた最初の二年間において、公衆は、オペラの暴力的な内容がクラーク解体の暴力と共鳴しているということを読みとらずにすんだのではないか。したがって、このオペラが、残忍な反クラーク運動を正当化する機能をもった、とてつもなく不穏なスターリン的(・・・・・・)作品であったという事実に。だからタラスキンはこう結論する。『マクベス夫人』は「根本的に非人間的な芸術作品」である、と。「上演禁止にあたいするオペラがひとつあるとすれば、それはこの作品である。この作品の実際の上演禁止令が、実に不愉快な誤った理由から出されたという事実によっても、この評価は変わることはない」。(中略)彼の『マクベス夫人』が同じ理由から――つまり、セクシュアリティが率直に描かれているという理由だけでなく、この率直な描写は、クラーク的、家父長的な圧政者の殺害をあからさまに支持することと同様に、公的には否認されねばならないという理由からも――上演禁止処分を受けたのだとしたら、どうだろうか。このことは、『マクベス夫人』はクラークの大量殺戮、(スターリンの言葉でいえば)クラークという「階級の根絶」を正当化しているというタラスキンの批判がなぜ的はずれであるかを教えてくれる。そのオペラがもつ、あからさまな暴力的側面は、公的な場にあっては否認されねばならなかったのであり、それゆえに、その直接的な表現は容認されなかったのである。セックスと暴力の赤裸々な描写は、一枚のコインの表と裏だったのである。

 政治的テロに関するこのポイントこそ、レーニン主義スターリン主義を分かつギャップが位置づけられる場所である。》

                             (了)

       *****引用また参考文献*****

*玉泉八州男『北のヴィーナス イギリス中世・ルネサンス文学管見』(「シェイクスピアとカトリシズム」所収)(研究社)

*ジェイムズ・シャピロ『『リア王』の時代 一六〇六年のシェイクスピア河合祥一郎訳(白水社

*アントニア・フレイザー『信仰とテロリズム 1605年火薬陰謀事件』加藤弘和訳(慶應義塾大学出版会)

亀山郁夫『磔のロシア スターリンと芸術家たち』(「テロルと二枚舌 ――ショスタコーヴィチの闘い」所収)(岩波現代文庫

亀山郁夫ショスタコーヴィチ 引き裂かれた栄光』(岩波書店

スラヴォイ・ジジェク、ムラデン・ドラー『オペラは二度死ぬ』中山徹訳(青土社

文学批評/オペラ批評 『ボヴァリー夫人』と『ランメルモールのリュシー』(ノート)

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 はじめに、水村美苗本格小説』の「ルチア」を紹介したい。

 軽井沢でのハイ・ティーの晩に照り渡る月の光を白い服に集めて、マリア・カラスの好きな春絵に嫌みを言われながら、よう子は歌を歌ったことがあった。それは「桜の園」の章で、雅之の父雅雄と京大で知りあいだった老紳士白河が、もう二十年以上も前のことになるけれど、「この辺りの言い伝えで娘が一人きりで長いこと月に照らされていると物に憑かれるというのがあるそうですが、あのときのよう子ちゃんはまさに何かに憑かれたようでしたな」と回想するコロラトゥーラの「ルチア」――ドニゼッティ作のオペラ『ランメルモールのルチア』のヒロインで、城主の妹ルチアは兄と敵対関係にあるエドガルドと恋仲だったのに引き裂かれて別人と政略結婚させられる、が婚礼の夜ルチアは夫を殺したあと狂い死にし、エドガルドも後を追う――を歌う姿だった。

「二十年以上も前のこと」という場面はこうだ。                               

《あるハイ・ティーの晩、よう子ちゃん、何か歌ったら、とゆう子ちゃんが勧めてよう子ちゃんが歌うことになり、ほかのお客様はしんみりと聴いていらっしゃるのに春絵さん一人苦笑いを浮かべ続け、歌が終わって拍手があったとたん、さあて、お口直しにカラスを掛けましょうか、と婉然と微笑んでみなさんを見回されたこともありました。春絵さんの耳にはよう子ちゃんの歌は耐えがたいものだったのかもしれませんが、その底意地の悪さに雅之ちゃんは藤椅子から立ち上がり、みなさんの見ている中を、よう子ちゃんの側へと歩いて慰めに行きました。幸いよう子ちゃんは歌い終わってぼうっとしていて春絵さんの言葉が聞こえた風もなく、照り渡る月光を白い服に集めているだけでした。》

 この逸話に象徴されるように、『本格小説』の白い服をまとって月の光を浴びたよう子も、悲恋の果ての死を迎える。言うまでもなく、女性名「ルチア」の語源はラテン語のlux(「光り」)であるが、シシリア島のシラクサで殉教した目(視覚)の守護聖人ルチアのイメージも背負っている。

                                      

 ジェイムズ・ジョイスユリシーズ』の第六挿話「ハーデス」は、ホメロスオデュッセイア』で、死者の国(ハーデス)に出向く場面を下敷きとした、主人公ブルームが友人ディグナムの葬儀に列席する話だが、その一節に「ルチア」への言及がある。

若いころオペラ歌手を目指し(ジョイス『ダブリン市民』、『若い藝術家の肖像』に痕跡を見出せる)、同郷のテノール歌手に入れあげた時期もある、耳のよいジョイスの一人娘の名は「ルチア」だった。不幸にも統合失調症を病んでしまった娘を思いながら、悪い目で『ランモルメールのルチア』を観劇することもあったという。

《ミスタ・ブルームは恰幅(かっぷく)のいい親切な管理人のうしろで体を動かした。カットのいいフロックコート。たぶん、次に死ぬのは誰かとみんな瀬ぶみしている。とにかく長い休息なんだ。何も感じなくなる。感じるのは瞬間だけ。ひどく不愉快な気持だろう。はじめはとても信じられない。きっと人ちがいだよ、おれじゃない。向いの家で聞いてごらん。待ってくれ、おれは生きていたい。おれはまだ。それから薄暗い臨終の部屋。みんな光をほしがる。自分のまわりでささやく声。神父様を呼びましょうか? それから右往左往。一生のあいだずっと隠して来た錯乱のすべて。断末魔のあがき。その眠りは自然な眠りではない。下瞼(まぶた)を押してごらん。せりあがっている彼の鼻、とがっている彼の顎(あご)、そしてくぼんでいる彼の足の裏、黄いろ。枕を抜きとり床の上におろしてやれ、もう審判はくだったんだ。あの「罪びとの死」という絵、悪魔が彼に女を見せつけている。シャツを着た瀕死の男は女が抱きたくてたまらない。「ルチア」の最後の幕。「もう二度とお前を見ることはないのだろうか?」バン!絶命。ついに死んだ。しばらくはみんなが君の話をして、それから忘れてしまう。彼のために祈ることを忘れるな。お祈りのなかで彼の名をとなえてくれ。パーネルでさえ。「蔦の日(アイヴイ・デイ)」も消えようとしている。それからみんながあとを追う、一人ずつ順に穴のなかに落ちる。》

 オペラ『ランメルモールのルチア』の中に、「もう二度とお前を見ることはないのだろうか?」と同一の歌詞はないが、最後の幕でルチアの死を知らされて自死するエドガルドの、ルチアを想う絶唱は似たような心境だった。

「ルチア」には悲しい死の匂いがある。

 

 フローベールボヴァリー夫人』第二部の最終十五章、シャルルとエンマのボヴァリー夫妻はルーアンに出向いて、オペラ『ランメルモールのリュシー』(イタリア・オペラ『ランメルモールのルチア』のフランス版。以下『リュシー』と略す)を観劇する。期せずして、かつてのプラトニックな恋人レオンと再会する本章は、章をまたぐ第三部一章の大聖堂見物、辻馬車での姦通の橋渡しとなる重要な場面だが、ほとんど取り上げられない。

 エンマはこれを機に非業の死へと雪崩れてゆくのだが、『ボヴァリー夫人』の『リュシー』が表象するものには、第三幕終盤の、二人の死の場面の前に劇場外へ出てしまうだけに、かえってフローベールならではの皮肉と美しさが「隠すことで現われる」とばかり、意味ありげに絡まっているにも関わらず。

 

 たとえば、『フローベール全集』(筑摩書房)の『別巻 フローベール研究』は、プルースト、デュ・ボス、チボーデ、ジャン=ピエール・リシャール、ジョルジュ・プーレ、ジャン・ルーセサルトルエドマンド・ウィルソン、リチャード・パーマー・ブラックマーらの「フローベール論」「『ボヴァリー夫人』論」が収められているが、『リュシー』についてわずかながら言及しているのは、ブラックマーだけであるが、その論考もさしたることはない。

 蓮實重彦は、『別巻 フローベール研究』の「フローベールと文学の変貌――解説にかえて――」で、発刊された一九六八年当時のフローベール研究の見通しの良いレジメと、プーレ、リシャールの研究を契機とする今後の方向性を明示した。その後の研究も踏まえて、二〇一四年に八百ページからなる『『ボヴァリー夫人』論』を刊行したが、オペラ『リュシー』の内容そのものには踏み込んでいない。とはいえ、主題論的批評の面白さがある。

 蓮實がなぜか無視しているウラジーミル・ナボコフ『ヨーロッパ文学講義』の「『ボヴァリー夫人』論」はナボコフらしく、フローベールの文学芸術の標本学的研究(ナボコフは鱗翅類の収集研究家でもあった)となっていて、『リュシー』観劇の場面をフローベールの「対位法的手法」の一例として分析しているが、「農業共進会」の場面での手法説明に比べて理解しにくい。

 もっとも文字数を割いているのは、これも蓮實の書誌に登場しないのだが、トニー・タナー『姦通の文学 契約と違犯 ルソー・ゲーテフロベール』だろう。思い込み解釈で首をかしげるところがあるけれども、教えられるところは多い。

 

<オペラ『ランメルモールのリュシー』概要>

 ドニゼッティが一八三五年に作曲した『ランメルモールのルチア』は、イタリアの検閲を避けてパリに移住した彼によって、一八三九年にフランス語に改作され、『ランメルモールのリュシー』と呼ばれている。言語ばかりでなく、登場人物(フランス名だけでなく、侍女アリーサの不在や、部下ノルマンノに代わって従者レイモンドの存在など)や場面設定にもかなりの改変を凝らした。

 スコットランドのランメルモール地方、リュシー(イタリア版:ルチア)とエドガール(同前:エドガルド)は恋人同士だが、両家は敵対関係にある。リュシーは兄アンリ・アシュトン(同前:エンリーコ)の陰謀によって、アルチュール(同前:アルトゥーロ)と政略結婚をさせられる。フランスから帰国して、結婚誓約書にリュシーの署名を見たエドガールは激怒する。アルチュールとの結婚式の夜、リュシーはアルチュールを殺し、狂乱する。やがてエドガールはリュシーの死を知り、後を追って自死する。舞台背景に満月が皎々(こうこう)と照り、月下に悲劇が繰り広げられることが多い。

 第一幕

 農夫や貴族が猟の歌を合唱している。アンリ・アシュトンは敵対関係にあるエドガールから一家を救うために妹リュシーをアルチュールと政略結婚させたいものの、彼女が拒んでいると語る。従者ジルベールはリュシーがエドガールと恋に落ち、密会を重ねているとアシュトンに告げ、二人を見た農民たちの合唱によって事実と知り、激怒する。

リュシーが哀切なアリアを歌い終わると、エドガールが現れてフランスに行くことになったと告げる。二人は抱き合い、結婚を誓ってエンゲージ・リングを交換し、別れを告げる。

 第二幕

 ジルベールは主人アシュトンに、贋のエンゲージ・リングによってリュシーあざむく悪だくみをさずける。アルチュールとの結婚を拒むリュシーに、アシュトンは贋のリングを見せ、一家を滅亡から救うためにアルチュールと結婚するよう強要する。

 結婚の祝宴にアルチュールが迎えられ、人々は彼をたたえて合唱する。リュシーは、結婚の誓約書に無理やり署名させられてしまう。そこにエドガールが乱入し、エドガール、リュシー、アシュトン、アルチュール、ジルベール、レイモンド(同前ライモンド、ルチアの教育係・牧師)による「六重唱」となる。エドガールはリュシーの署名を見せられて激怒し、混乱のうちに幕となる。

 第三幕

 アシュトンとエドガールは夜明け前に墓地で決闘すると約束する。アシュトンの城では、結婚の祝宴が続き、リュシーはアルチュールとの初夜へ向かう。

 レイモンドが現れ、リュシーがアルチュールを刺し殺したと告げる。白い衣装を血まみれにして、正気を失ったリュシーによる「狂乱の場」となり、エドガールとの結婚の幻想を歌う。リュシーは天国でエドガールと再会することを夢見て倒れる。

 エドガールは、先祖の墓の前で絶望の歌を歌っている。人々が現れ、リュシーが死に瀕していると歌う。やがて死を告げる鐘が鳴り、レイモンドがリュシーは死んだと伝えると、エドガールは剣を胸に刺して後を追う。

 

<『ボヴァリー夫人』――「月の光」と「死の場面」>

ボヴァリー夫人』には「月の光」が二十箇所以上出てくるという。『リュシー』との関連性をフローベールはことさらに言及しない注意深さだが、エンマが月の光の下にいた場面の情緒性、ロマン派的ステレオタイプな描写を見てみれば、観劇の場面でのエンマの感情の流れは、フローベールが巧みになぞったアイロニーとわかる。

 新婚の時期、エンマは夫シャルルの恋心をかきたてようとしたが、空しかった。

《一方、エンマはエンマで、自分が有効と信じている処方に従って恋を感じようとした。庭で月光のもと、そらんじているかぎりの情熱的な詩句を口ずさみ、溜息(ためいき)まじりに憂わしげなアダジオを夫に歌って聞かせた。しかしエンマはそのあと、すぐにまたもとの木阿弥(もくあみ)の冷静な自分に帰ったし、シャルルのほうも、いっこうに恋心をかきたてられたようにも、胸をおどらすようにも見えなかった。》

「農業共進会」におけるロドルフの口説きの場面では、ロドルフが「月の光」を語ってエンマの心をとらえる。

《そしてふたりは田舎のつまらなさ、そのつまらなさのなかに窒息しそうな生活、はかなく消えて行く夢について語った。

「こうして私はたとえようもなく悲しい気持に引き込まれてゆくのです……」

「あなたが!」と彼女は驚いて言った。「とても陽気なお方とばかり存じておりましたのに」

「ええ、うわべはそうでしょう。私は世間にあっては、茶化した笑いの仮面をかぶるすべを心得ていますから。しかし月の光に照らされた墓地をながめたりすると、あそこにああして眠っている人たちのところへ行ったほうがどんなによいかと、そのたびごとに思うのです……」》

 ロドルフとの姦通生活が何ヵ月かたったころ、月ばかりか、『リュシー』でも重要な役割を果たした「指輪」の逸話も登場した。

《それに彼女は近頃ひどい感傷家になってきた。小さな肖像画を交換しなければならないと言い、髪の毛を一束切って取りかわしもした。そして今度は永遠に渝(かわ)らぬ恋のしるしに、指輪を、それも本式の結婚指輪をほしいと言い出した。何かというと夕べの鐘だの、「大自然の叫び声」だのについて語り、また自分の母親やロドルフの母親の話をした。ロドルフが二十年も前に母親を亡くしたと言うと、エンマはしきりに同情する一方、まるで捨て子にでも言い聞かすような甘ったるい言葉で彼をなぐさめた。ときには月をながめて、

「あなたのお母さまはわたしの母といっしょに月の世界にいらっしゃって、きっとふたりしてわたしたちの恋を喜んでいてくださいますわ」などと言いいさえした。

 しかしエンマは文句なく美しかった! 彼はこんなに生(き)一本な女を情婦に持ったことはなかった!》

 やがてエンマはロドルフに駈け落ちを迫るようになり、ロドルフは延期に延期を重ねたあげく、厄介払いする段取りを決めての最後の逢い引きの場面は月夜だった。

《「なんてかわいい人だ!」彼はエンマを両腕に抱きしめて言った。

「ほんとう?」と彼女はあだっぽく笑いながら、「わたしが好き? そんなら誓って!」

「好きかって! 好きかって! それどころかしんから惚れぬいているよ!」

 月はまん丸く赤みがかって、牧場(まきば)の果ての地平すれすれに浮かんでいた。見る見る月はのぼってゆく。ポプラの枝の向こうにかかると、枝は穴のあいた黒いカーテンのようにところどころ月のおもてを隠した。やがて月は皎々(こうこう)と輝き出て、もはや何ひとつさえぎるもののない大空を照らす。そのとき月は歩みをゆるめ、川波の上へ大きな影を落とすと、影はたちまち無数の星となって散った。そしてその銀色のほの明かりは、きらめく鱗(うろこ)におおわれた無頭の水(みず)蛇(へび)のように川底まで身をよじらせて突き入るかと見え、あるいはまた、熔(と)けたダイヤモンドの雫(しずく)がたらたらととめどなく伝い落ちる巨大な枝つき燭台(しょくだい)をも思わせた。静かな夜がふたりのまわりに広がっていた。》

 ルーアンでレオンとすごした至福の三日間は、エンマの真の蜜月だった。夕方には小舟をやとって、川中の島へ食事に出かけた。

《やがて月が出た。すると、ふたりは申し合わせたように美辞麗句をならべ、月はなんと物悲しく詩趣に満ちていることでしょうと言った。エンマは歌さえうたいだした。

   かの宵を思いいでずや、われ君と漕(こ)ぎ…… (ラマルチーヌ『みずうみ』)

 彼女のなだらかな、かそけき歌声は波の上に消え、ときに急テンポに高まる節まわしが風に吹き流されるのを、レオンは鳥が身のまわりに羽ばたき過ぎる音のように聞いた。

 彼女は舟の屋形の板によりかかって、レオンと向き合っていた。窓の鎧戸が開いているその一つから、月の光がさし込んでいた。黒いドレスの裾襞(すそひだ)は扇形にひろがって、彼女をいっそうすんなりと背高く見せていた。彼女は姿勢正しく、手を合わせ、じっと空をあおいでいた。ときどき彼女の姿は岸辺の柳の影にすっぽり隠れて見えなくなる、と思うとたちまち幻のように月光をあびて現われるのだった。》

 

 オペラ『リュシー』で、リュシーの「死の場面」は舞台にあがらない。従って、リュシーの死体を見ることはない。しかしフローベールは死にゆくエンマばかりでなく、遺体をも、医者だった父のような冷徹な目で解剖学的に描く。

《エンマは舌の上に何かひどく重いものでものせているように、しょっちゅうぱくぱく口をあけては、苦しさに堪えて、ゆるやかに頭を左右に動かしていた。(中略)エンマはまもなく血を吐いた。唇はますます引きつった。手足は痙攣(けいれん)し、全身は褐色の斑点(はんてん)におおわれ、脈は張りつめた糸のように、今にも切れようとするハープの絃のように、指の下をかすめた。(中略)たちまち胸がせわしくあえぎはじめた。舌がだらりと口の外へたれた。目の玉はたえずぎろぎろ動きながらも、消えてゆく二つのランプの丸ほや(・・)のように光が失せていった。魂が肉体を離れようとしてあばれているように、肋骨(ろっこつ)がおそろしいほどの息づかいでゆさぶられる。(中略)痙攣がエンマをベッドの上に打ち倒した。みんなは枕(まくら)べにつめ寄った。彼女はすでにこときれていた。》

 シャルルは、エンマの亡骸(なきがら)を、結婚式のリュシーのように飾りたてたかったのだろうか。

《シャルルは診察室にこもって、ペンを取り、しばらく嗚咽(おえつ)にむせんでから、次のようにしたためた。

   [婚礼の衣裳を着せて埋葬してください。白靴をはかせ、花かずらをかぶせること。髪は両肩をゆたかにおおうようにする。棺は三重とする。柏(かしわ)と、マホガニーと、鉛とで。小生は取り乱すまじきゆえ、何もおっしゃってはくださるまじく。棺の覆(おお)いは緑色のビロードをたっぷりと願います。小生の望むところは以上、なにとぞそのとおりにおはからい願います。]

 これを読んだ薬剤師と司祭は、ボヴァリーの小説じみた着想にあきれ返った。薬剤師はすぐに出向いて、

「このビロードはいくらなんでもあんまり大げさじゃないでしょうか。費用の点からも、こりゃちょっと……」

「わたしの家内の葬式ですよ!」とシャルルは叫んだ。「いらぬお世話だ! あなたはあれを愛していないからわからない! お帰り下さい!」》

 フローベールは亡骸の描写も容赦ない。

《エンマは頭を右肩寄りにかしげていた。口は開き、その口もとは顔の下部に暗い穴のような影をつくっている。両手の親指はてのひらのほうへ折れ曲がっている。睫毛(まつげ)は白い粉(こ)を吹いたように見え、瞳(ひとみ)はまるで蜘蛛(くも)の巣におおわれたように、薄絹まいた、ねばねばした、青白いものの下に消え入ろうとしていた。》

 二日目の通夜。空には星かげがちらほら、しめやかな夜だった。死に化粧を施されたエンマはシャルルの指示したとおり花嫁姿で横たわっている。書かれてはいないが、あたかもリュシーのように。

《月光のように白々と光る繻子のドレスには木目模様がきらきらとふるえていた。エンマはその下にかくれていた。シャルルは、エンマが彼女自身の外へのがれ出て、周囲の事物のなかへ、しじまのなかへ、闇のなかへ、吹きわたる風のなかへ、ゆらめきのぼるしっとりした香煙のなかへ、いずこともなく溶け込んでゆくような気がした。》

 恋人だったロドルフもレオンも自死する気配などまったくなく、ぬけぬけと生きつづけている。一方、シャルルは彼らしく暢気な死を迎える。そこにあるのは、ロマンティシズムの「紋切り型」を裏切るフローベールの作為であろう。

 エンマ亡き後、シャルルはひたすらエンマに思いを馳せ、ぜいたくな趣味やロマンティシズムまで模倣する。娘ベルトへの愛に執着し、夏になると、夕方、娘を連れて墓参りをするようになった。

 ぱったり出会ったロドルフに「運命のいたずらです!」と、生涯を通じてただの一度の名台詞を語った彼は、

《翌日、シャルルは青葉棚の下のベンチへ行って腰をかけた。日の光が格子のあいだからふりそそぐ。ぶどうの葉は砂利の上に影を描き、素馨(そけい)の花はかおり、空は青く、咲き乱れた百合のまわりに芫菁(はんみょう)が羽音をたてている。そしてシャルルは、そこはかとない恋の香に切ない胸をふくらませ、まるで青年のようにあえいだ。

 七時にベルトが夕飯に呼びに来た。昼過ぎから父親の顔を見ていない。

 父親はあおむけに頭を塀にもたせ、目を閉じ、口をあけて、長い黒髪のひと房を両手に持っていた。

「お父さま、いらっしゃいな!」

 そして父親がわざと聞こえないふりをしているのだと思って、ベルトはそっと突いた。彼は地面に倒れた。死んでいた。》

 記憶力のよい読者ならば「青葉棚の下のベンチ」に思い当たるはずだが、エンマがレオン、ロドルフと逢引した場所に他ならない。

 

<トニー・タナーによる『ボヴァリー夫人』論――「姦通の文学」>

 トニー・タナー『姦通の文学 契約と違犯 ルソー・ゲーテフロベール』から。

『リュシー』はあまりにシンプルでストレートすぎると評されもしようが、《オペラの物語そのものが支離滅裂で、音楽とあちこちから寄せ集めた感傷的な仕草や台詞を盛り込んだかなりでたらめな代物》、《もってまわって入り組んだ筋》と表現しているところから、タナーはこのオペラを見ていないのではないか、筋もよく理解していないのではないか、と疑いたくもなるが、批評自体は優れた分析、論考となっている。

《劇場でエンマは演し物に対して実にさまざまな反応を示している。それは彼女が単に幻想に身を委ね、音楽に身をまかせたといった問題ではなく、彼女が終わりを待たずに劇場を出たのも、必ずしもレオンの予期せぬ出現のせいばかりではなさそうだ。ある意味で、エンマは、彼女の感情生活のすべてを、そこで要約的に再体験しているのだと言える。まず劇場に入るときの彼女の喜びと興奮は「子供のよう」と描写されているし、オペラが始まると彼女は「娘時代の思い出の小説の国」に浸り、ラガルディーが現われて彼女を誘惑して後は、シャルルとの結婚、レオンへの思い、ロドルフとの姦通などを通じて体験したあらゆる感情や欲望や幻想の中を、再びかけめぐり始めるように見える。エンマの「ああ」という叫び声が、最初の場面の終わりの楽音に「溶け込んだ」ように――原語の”se confondit”は言うまでもなく終始エンマにつきまとう語である――すべての彼女の感情は、互いに入り乱れ、混ざり合い「溶け合って」消えていくかのようである。特に彼女は結婚式の日を思い出し、何故もっと抵抗しなかったかと悔やむのだが、彼女の回想には、いささか奇妙な言葉遣いが見られる。初々(ういうい)しい美しさがまだまだ自分のものだったあの頃、結婚生活のけがれ(soilure)も、邪恋の幻滅も味わい知らぬあの青春の日に、もしもだれか大きな強い心を持った人の手に自分の一生を託すことができていたとしたら……」(第二部第十五章)。”soilure”(「けがれ」)とは不純や汚染を意味する語で、汚染恐怖が根強く残る未開社会の多くでは、姦通こそが「けがれ」の源泉で、共同体を危険に導くものとされている(従って姦夫や姦婦の接触や眼差しは病気を招くと考えられている)。けがれとは「所定の場所にない、場違いなもの」のことだとするウィリアム・ジェイムズの説に従えば、姦通を犯した者が「けがらわしい」のは、彼(や彼女)が社会的に認められた範疇を踏み越えて禁じられた境域に踏み入ったからであり、いわば違うベッドにもぐり込んで、「場違いな」人間と成り果てたせいであろう。従って通常の考え方では、結婚によって「けがれる」のは不可能で、むしろ結婚に「幻滅」(”disillusionment”)を味わうというのなら、理解もできるし可能でもあるということになろう。いわばエンマは言葉を並べ違えているのであって、用語と属性を混乱させ始めていると言ってもよい。この「けがれ」と「幻滅」というレッテルの言及しうる体験領域の転倒ないしは「転移」は、エンマの思考過程そのものが「混ぜ物をした=姦通的な」(”adulterous”)ものになりつつあることを示していよう。結婚と姦通を距てる壁を乗り越えることと、両者の区別を見失うことはまったく別のことで、後者の方がはるかに不穏な事態であることは言うまでもあるまい。その不穏さが「強い心」(”cœur solide”)の持ち主と結ばれていたら、という彼女の空しく絶望的な望みの苦々しさを倍化することになる。彼女は身も心も分裂し崩壊する過程になすすべもなく巻き込まれていく一方で、必死にありえないような「堅さ、強さ」に憧れているのである。後にも彼女は同じ思いを抱き続けている――「もしもこの世のどこかに、強く美しい人がいてくれたなら……」(第三部第六章)。彼女がこのような思いに悩むのも、彼女には結婚相手が「零」に思われ、愛人たちにも同様の不足と実体の欠如を見出さずにいられなかったからである(サルトル風の用語を使えば、エンマは、生活と体験の「無」が生み出した「存在」の夢に焦がれ続けた、ということになろう――ここでは抽象的な言葉遣いが、かえって彼女の窮境をよく象徴しうるように思う)。

 オペラを眺めやりながら、エンマは曖昧ゆえに必然的に満足させられえぬ欲望と不可分の幻滅を経験する。この上ない幸福感など、「すべての欲望(désir)を絶望(désespoir)に追いやるべく生み出された、一種の虚構に違いない」と彼女は決めつけ始めるのだが、ここで再び言葉どうしの混融が起こるように見える。文字づらがそうであるように(dés[espo]ir)、「欲望」が「絶望」をはらんでいるのである。これは決して無意味な指摘ではなく、差異の境界線がぼやけてくるにつれて、堅固な安定した意味(「存在」と呼んでもよい)は確実に見失われていく。エンマがここで目撃しているのが、欲望と絶望のもつれ合いだとすれば、後に彼女が体験するのは、もはや両者が識別不可能にまでいたった事態であろう。それは、われわれ読者も読みのレベルで追体験させられる、きわめて厄介な状況である。エンマは、一時しのぎの策として、「自分の苦悩の再現」とまで思えたオペラを、「ただごてごて飾りたてた虚仮(こけ)おどしのでたらめ」だと思い込もうとする。しかし屈辱の恋人(ラガルディー)が再び現われると、エンマはその「人物の与える幻想」(”illusion du personage”)に惹きつけられざるをえない。”personage”という語は、英語でもそうだが「高位の人物」または一般に「人物」を指す。従って、ある意味でエンマは、現実の「人物」――堅くて、強い――の面前にいるとの「幻想」にとらわれたのだと言ってもよいだろう。エドガール・ラガルディーはフローベールによって、「驚くべき香具師(やし)根性」の持ち主と描写されており、「床屋」とも「闘牛士」とも見えたという体軀をもつこの男は、ルール―と同じように、遠くはあのシャルルの帽子に起源をもつ、雑種的寄せ集めの産物の一人と見なせよう。しかし、そのような人物がエンマに、いかにも生き生きとした現実の「人物」であるかのような印象を与えたという逆説を、あまり強調しすぎるのは愚かしいことであろう――そのような詐術こそ劇場の得意とするところだろうし、フローベールはそれほど陳腐な技巧を弄したりなどしない。エンマは決してだまされているのではない。ただ混乱しているのである――それもあらゆる基準点を見失いかけているため、彼女が自分で思っている以上に、である。彼女がしばしば、自分の居場所を見失いかけること自体は、さして重要ではない。むしろこの手の劇場は、その種の時間的・空間的混乱を観客に体験させることを本領とするのだから。はるかに重要なのは、彼女が自分が何である(・・・・)のか、更には自分を取り巻く事態がどうなっているのか、もはや理解できなくなりつつあることであろう。彼女の体験が肉体的、感情的である場合ですら、彼女のかかえた窮境は存在論的価値をもつのである。実際彼女は、「結び目をほどかれて」(“dénouée”)いるのだ(この語とそれが意味する状況については、後に触れよう)。

 続けてエンマに降りかかっている事態を検討する前に、舞台で何が起こっているのか理解できずにいるシャルルに、しばらく同情の眼を注いでみよう。フローベールが、書き写している断片的で一貫性のない舞台風景からは、われわれ読者とて、ごく大雑把な物語の筋を拾い上げることすらできまい。無論それはオペラの物語そのものが支離滅裂で、音楽とあちこちから寄せ集めた感傷的な仕草や台詞を盛り込んだかなりでたらめな代物であったためであろう。しかしそのことは逆に、にもかかわらずエンマはそれを理解し、所詮はごた混ぜ品にすぎぬはずの演し物の中に、物語のみならず、意味をもった関係と状況を見出したつもりになっていたという事実の方に、改めてわれわれの注意を引きつける。このオペラはどうやら『ラマムアの花嫁』に基づくもので、エンマは、ウォルター・スコットのこの作品を読んだ記憶をたどりながら、物語の筋を補っている――「忘れもしない小説の筋だったから、脚本の運びもよくわかった」――しかし彼女が覚えている筋も、霧の中から(またしても頭の中の霧である)聞えてくるスコットランドの風笛の音にかき消えていく。つまり、風景や衣装や音楽が入り乱れるオペラの断片的情景を語るフローベールの筆法は、エンマの見たまま感じたままをなぞっているとわかるのだが、何故か彼女はその混乱の中に秩序だった意味をもつ体験を拾い出していたということになる。いわばフローベールが描き出しているのは、エンマ自身の意識の断片化・無秩序化の姿に他ならなかったのかもしれない。対照的にシャルルは、階級、役柄、状況などを判断する力がなく、主人と恋人を混同し、情熱と虐待を取り違えている。言葉を換えれば、彼は何でも文字どおりにしか理解できない人物で、この舞台に展開されている、ほとんど馬鹿げたと言えるほどもってまわって入り組んだ筋には、もはやついて行けなかったものと見える。彼は正直者とも愚か者とも呼べようが、いずれにしても、「回りくどさ」や「遠回しの表現」は彼のよく対処しうるところではなかった。「規則」(”les règles”)を重んじ、それに従うのを事として、「曲りくねった=逸脱」(”les tournures”)はまったく解しかねた男である以上、”les tournures”のかたまりとも言うべき劇場が、彼の受け容れるところとなろうはずもなかったのである。ある意味で、彼は決して劇場の中に「踏み込んで」はいないのであって、劇場外で通用する「規則」を何とかそこに適用しようと努めているにすぎない。彼は自ら言うとおり「はっきりさせたい性分」なのだが、この芝居に、「はっきりさせられる」ものなど見出しようもない。同じ意味で、エンマの方は決して劇場から「立ち去って」はいないのだと言えよう。彼女が第三幕の途中で外に出ようとするとき、すでに彼女の意識は、最後の段階とも言うべき完全な「劇場化」の段階を迎えていたからである。一人の客の声が「第三幕が始まりかけているので」静かに、という合図を彼らに送るとき、そこに込められたアイロニーは幾重にも重なり、ほとんど存在論的性質をおびている。「第三幕」とはオペラの第三幕であるばかりか、第三の男と過ごすエンマの人生の第三段階をも指そうし、まさに「始まりかけている」小説そのものの「第三部」をも予告している――つまり「第三幕」の中で物理的、劇場的、語彙的領域が、混合し融合しているのである。こうしてエンマは、遂にそこを「立ち去る」ことのない「幕=行為」(”acte”)の中に踏み込んでいく。》

 

 第三幕の途中で帰ってしまうので、エンマも、そして読者も、『リュシー』の結末がどうなったのかを知りえない。しかし、これはフローベールの策略なのだ。

 フローベールボヴァリー夫人』の第二部から第三部へ跨いで、エンマとレオンとの逢引を描くフローベールが「隠すことと現われること」のイリュージョン技法を駆使しているとジジェクは論じる(『否定的なもののもとへの滞留 カント・ヘーゲルイデオロギー批判』)。

 エンマはルーアンでオペラ『ランメルモールのリュシー』を夫妻で観劇したさい、旧知のレオンと偶然出会う。翌々日には大聖堂で逢引し、馬車に乗るよう促された。

《恋人たち二人が馬車に乗り込み、御者にただ街中を走り回るように命じたあと、われわれは馬車の完全にとざされたカーテンの背後で何が起こっているのかを聞かされることはない。後のヌーヴォー・ロマンを思い起こさせるディテールへのこだわりをもって、フローベールは馬車が当てもなくさまよう周囲の都市の様子をただひたすら描写していく。舗装された通り、教会のアーチ、等々――ただひとつの短いセンテンスだけが、ほんの一瞬、カーテンから突き出した何もつけていない手に言及するだけである。この場面は、「公式」の機能としてはセクシュアリティを隠すはずの言葉が、実際には、その秘密の出現=現われを生み出すという、あるいは、フーコーのテーゼがそれへの批判として目論まれて当の精神分析の用語を用いるなら、「抑圧された」内容は抑圧の効果であるという、『性の歴史』第一巻におけるフーコーのテーゼをあたかも図解するかのようにできている。作家のまなざしが、どうでもよい退屈な建築のディテールに限定されればされるほど、われわれ読者は責め苛まれ、馬車の閉ざされたカーテンの背後の空間で何が起こっているのかを知りたいという熱望に駆られる。『ボヴァリー夫人』をめぐる裁判で、この作品の猥褻性の一例としてまさにこのパッセージを引いたとき、検事はこの罠に掛かってしまった。フローベールの弁護士にとって、舗装した道や古い家の中性的な描写にはいささかも猥褻なところはないことを指摘するのは容易なことであった。いかなる猥褻性も、カーテンの背後の「本当の[現実の]ものreal thing」に取り憑かれた読者(この場合は検事)の想像力にその存在をすべて負っている。今日われわれには、フローベールのこの方法がきわだって映画的(・・・)に思えるのは、たぶん偶然ではないだろう。それはあたかも、映画理論が「視野外hors-champ」と呼ぶもの、まさにそれ自身の不在において見られうるもののエコノミーを組織するものである。視野に対する外在性を利用しているかのようなのだ。》

 

『リュシー』第三幕のラストで、リュシーが狂乱の果てに死んでしまい、それを知ってエドガールも自死する場面をここで露わに表現しては、死に方が違うとはいえ、エンマが砒素を飲んで自死し、ほどなくしてシャルルもベンチで眠るように死んでしまう事態との共通性が見えすぎてしまう。

 それは、ナボコフが『ボヴァリー夫人』論の「農業共進会」の場面で、やがてエンマに訪れる「恐ろしき結末」、「皮肉と悲哀を美しくからまり」あわせた意味深長な仕掛けとは逆に、あからさまにしてしまうがゆえに、隠すこと、つまりは最後まで見ずに劇場から出てしまうことを選んだのに違いない。

 ナボコフは次のように書いている。(下記で、オメーは薬剤師・薬屋、ブーランジェとはロドルフ・ブーランジェ)

《共進会がはじまるところで、人物たちを組み合わせるに当って、フローベールは、金貸しで呉服商のルールーとエンマに関して、特に意味深長なことをやってのけている。それより少し前、ルールーがエンマにいろいろと奉仕すると申し入れた際――着る物とか、必要とあれば、お金も――彼は妙に宿屋の真向いにあるカフェの主人、テリエの病気のことを気にしていた、そのことが思い出されよう。さて、宿屋の女将がまんざら満足でなくもない調子で、お向いのカフェが閉店になると、オメーに話す。ルールーがカフェの主人の健康が次第にそこなわれていることに気づき、いまこそ貸した金をごっそり取りもどす潮時だと、腹をきめていたことは明白だ、それで哀れなテリエは、とうとう破産してしまったのである。「なんたる恐ろしき結末ぞや!」と、オメーが叫ぶ。この男はいかなる場合にも通用する適切な表現を心得ていると、フローベールは皮肉に注している。が、この皮肉の背後には、なにかがある。というのは、オメーが「なんたる恐ろしき結末ぞや!」と、いつもの愚かで、誇張した、大仰な言いかたで叫んだ、ちょうどそのとき、女将は広場の向うを指さして、こういっているからだ、「あれ、あそこに、ルールーが歩いてくわよ、ボヴァリーの奥さんに挨拶してる。奥さんはブーランジェさんと腕なんか組んでるよ」。この構造的な一行の美しさは、カフェの主人を破産させたルールーが、ここで主題的にエンマと結びつけられているところにある。彼女がやがて滅びるのは、なにも情夫たちのためばかりでなく、ルールーのためでもあるからだ――まことに、エンマの死は「恐ろしき結末ぞや」ということになるだろう。皮肉と悲哀がフローベールの小説にあっては、美しくからまり合っている。》

 

蓮實重彦による『ボヴァリー夫人』論――「塵埃」>

 蓮實重彦『『ボヴァリー夫人』論』の「Ⅵ 塵埃と頭髪」から。

《『ボヴァリー夫人』には、鼻孔から体内に取りこもうとしているものが文字通り「塵埃」の香りにほかならぬことで、豊かな意味を帯びる段落が存在している。それは、第二部の十五章のことであり、病みあがりのエンマがルーアンへオペラ観劇に出かける挿話に見られるものだ。すでに高価な切符を予約している彼女は、「あまり早くから桟敷にはいって笑われるのをおそれ」(Ⅱ部-15章:『ボヴァリー夫人』山田𣝣(じゃく)訳(河出書房文庫)P365)、夫をうながして港のあたりの散策でじっくり時間を潰してから劇場に足を踏み入れる。

   玄関へはいったとたんにエンマの胸はたかなった。自分は「二階指定席」への階段をのぼって行くのに、一般群衆は別の廊下から右手のほうへわれがちにと突進する、そのさまを見て思わず得意の笑いがこみあげてきた。布張りのどっしりしたドアを指で押すのも、たあいなくうれしかった。通路のほこりっぽいにおいも胸いっぱい吸い込んだ。そして自分の桟敷にすわったときには、公爵夫人のように場慣れした様子で、すいと(・・・)背を延ばした。(同前)

 注目すべきは、正面入口を通って二階席へ向かうエンマの存在がたちまち触覚と嗅覚に還元され、劇場という建築空間も、階段、廊下、通路、桟敷の扉など、もっぱらそれにふさわしい細部としてしか感知されなくなっており、かたわらにつきそっているはずの夫さえ姿を消しているかにみえることだ。しかも、通路で彼女の感じやすい鼻孔が吸いこむのは、ほかならぬ「ほこりっぽいにおい」なのである。その「ほこりっぽい」«pousiéreuse»という形容詞の女性形は、草稿のある段階で余白に書きこまれたものであり、ある時期まではたんに「通路のにおい」とのみ書かれていたにすぎない。また、その後は削除されることになるが、「通路のほこりっぽいにおい」と同格の長い名詞句が余白に書きそえられているので、その加筆部分をひとまず訳しておくなら、「それは、彼女には、官能的な繊細さと理想的な逸楽にみちた美しく詩的で、この世ならぬ世界のとらえがたい香華と思われた」(Brouillons,vol.4,folio 269v)となるだが、ここでの主題論的な読み方からすれば、「ほこりっぽい」という形容詞にそれだけの意味がこめられていることぐらいは、『ボヴァリー夫人』における「塵埃」をめぐる体験の官能性からして、誰もがすでに察知していたはずである。

 この二階の桟敷席での塵埃体験と農業共進会の場面における村役場の二階での塵埃体験の類似を指摘するのはいかにもたやすいことだ。いずれにおいても、エンマが一段と高い位置に身を置いているのは誰の目にも明らかだからである。すでにポマードの匂いで現在と過去とを混同し始めていた彼女は、その居場所から、砂塵を捲きたてて丘を下ってくる乗合馬車を認め、その砂ぼこりがレオンの記憶をよび醒ましていたのだが、あたかもそのことに対応するかのように、「ほこりっぽいにおい」に導かれて坐ったこの桟敷席には、シャルルが偶然に出会ったレオンその人が幕間に姿を見せるだろう。さりげなさを装って舞台に見入る彼女は、彼の「なま暖かい鼻息が髪の毛にかかるのを感じて」(Ⅱ-15:366)おののくしかなく、もはや楽しみにしていたオペラを見続けることなどできはしない。

 だが、さらに興味深いのは、「土ぼこり」と「ほこりっぽい」という語彙的な類縁性が二つの引用文を関係づけていることにもまして、それとはまったく異なる語彙がこの二つの挿話に刻みつけられているという点である。それは、瞳や鼻孔によって感知しうる外界の対象としての塵埃を感知しつつあるエンマの姿勢を示す動詞にほかならない。「土ぼこり」の渦を彼方に認めたり、「ほこりっぽいにおい」を胸いっぱいに吸いこむ瞬間に、「椅子の背にそり返りながら瞼を細めたそのとき」«Mais,dans ce geste qu’elle fit en se cambrant sur sa chaise»(Bovary246)と、「すいと(・・・)背を延ばした」«elle se cambra la taille»(Bovery340)のように翻訳では異なる日本語の動詞があてられているが、彼女はいずれにおいても「身をのけぞらせる」«se cambrer»という同じ動作を演じている。村役場の二階の窓辺と劇場の「二階指定席」の桟敷にただ坐っているだけではなく、いずれにあっても、エンマは充足感から思わず背をのばして椅子に坐りなおすのである。そして、その動作を示す「身をのけぞらせる」という動詞が、この二つの挿話において、「塵埃」という名詞、あるいは「ほこりっぽい」という形容詞と強い吸引力によって接しあっている。したがって、この二つの挿話の類似は、物語の状況やその背景の空間的な形態にとどまらず、そこに配置された語彙の水準にまで及んでいるという点をここで強調しておきたい。》

 

蓮實重彦による『ボヴァリー夫人』論――「反復」>

 蓮實重彦『『ボヴァリー夫人』論』の「Ⅲ 署名と交通」から。

《第二部を閉ざすことになる十五章のボヴァリー夫妻のオペラ鑑賞は、すでに見た「主題論」的な意義深い細部の「反復」によって、この作品の「説話論」的な構造の一貫性を証明しているかに見える。だが、その一貫性は、これから検討してみるように、語りの大きな変化を誘発するものとはいいがたい。すでに指摘したことだが、物語を異なる領域へと移行させるものは、返すあてもないまま二枚の約束手形に「署名」することでシャルルが債務者となるという変化にほかならず、第三部は、その身振りのはらむ「署名」の価値下落をエンマがほとんど無意識に「反復」することで、ボヴァリーという名前の「信用」の失墜があからさまになる過程として語られることになるからだ。債務者夫妻のルーアンへの観劇旅行は、それを加速させる最初の機会にほかならない。

 だが、エンマはいうにおよばず、読者にとってさえ充分に意識されずにいるのは、そこに機能している「反復」のメカニズムがかえって変化の不在をきわだたせ、語られている目の前の現実を操作しているものをいくぶん視界から遠ざけ、事態の推移を見えにくくさせているからである。実際、トストからヨンヴィルへの移住がエンマの「神経の不具合」の治療に必要な「転地」でもあったように、ここでの「移動」――それは、ほんの数日のものでしかないが――もまた、「この気晴らしが妻の健康によいにちがいない」(Ⅱ-14:353)と信じるシャルルの医学的な判断によって実現された一種の「転地」にほかならない。彼にそう決心させたのは、「大芸術家」としてあれこれ噂のたえない「ラガルディーが歌うのは一日きり」(同前)なのでそれを見逃す手はないというオメーの言葉なのだから、第一部の終わりでシャルルとの書簡の交換によってボヴァリー夫妻をヨンヴィルへと呼びよせた薬剤師が、第二部の終わりでも二人をルーアンへと送り出すことに深くかかわっており、そこにまぎれもなく「反復」が演じられている。さらに、パリに行っていたはずのレオンとオペラ座で偶然に出会い、夫の説得にしたがってルーアンに残るエンマが、いまはその都市の法律事務所で書記として働いているこの若者に身を任せるという事態の推移も、「呼吸困難」に陥りがちな彼女を乗馬につれだそうというロドルフの提案にシャルルが医師として賛同したことで、二人が恋人同士になるというすでに見た構図の絵に描いたような「反復」にほかならない。

 ここで見落としてならないのは、シャルルが、ほとんど反復脅迫に身をさらしているかのように、自分にとっては不利に作用する状況を妻への医学的な配慮によって引きよせていながら、その自覚が彼にはまったくないということだ。「今度にかぎってシャルルはゆずらなかった」(同前)という一行にこめられている夫の頑固さが回復期のエンマにオペラ見物の小旅行に同意させたように、彼女が夫とともにヨンヴィルには帰らず、レオンとともに二日も余分にルーアンに滞在することになるのは「お前は日曜に帰ればいい。ぜひ、そうしなさい! 少しでも体にいいと思ったら、ためらうことはない」(Ⅱ―15:368)という夫の一言なのだ。それは、ロドルフの用意した馬に乗って森へと出かけることを彼女に説得した「何よりも問題は健康だ! おまえはどうかしているよ!」(Ⅱ-9:248)という言葉の遙かな谺のように響く。》

 

蓮實重彦による『ボヴァリー夫人』論――「ぎこちなさ」>

 蓮實重彦『『ボヴァリー夫人』論』の「Ⅶ 類似と齟齬」から。

《これ(筆者註:「農業共進会」の場面)とほとんど同じ状況がシャルルの存在の希薄化をいちじるしく助長しているのは、「つめかけた観衆は正面玄関の左右、壁ぎわの柵のあいだに列をつくって待っていた」(Ⅱ-15:355)というルーアンでのオペラ観劇の場面である。農業共進会に押し寄せる「群衆」のように、ここでは不特定多数の「観衆」があたりにあふれかえっているので、「ズボンのポケットのなかで切符をしっかり握りしめ、おまけに握ったその手を下腹に押し当てた」(Ⅱ-15:356)といういかにもぎこちない姿勢で劇場へと急ぐシャルルの中には、すでに未知の空間に触れるときに体験するだろう彼の精神と肉体の異様な硬直ぶりが予告されている。実際、「玄関へはいったとたんにエンマの胸はたかなった」(同前)と書かれてから、予約しておいた桟敷席にすわって「公爵夫人のように場慣れした様子で、すいと(・・・)背を延ばした」(同前)彼女のかたわらに腰をおろしているはずの夫への言及は、ぴたりと途絶えてしまう。天井からおりてくるシャンデリアが燦然と輝き、管楽器の高まりとともに幕がするするとあがると、いきなり「娘時代の思い出の小説の国へ、ウォルター・スコットの世界のまっただなか」(Ⅱ-15:357)へとつれさられるエンマのかたわらで、シャルルは「こう音楽がやかましくちゃあ台詞(せりふ)の邪魔」(Ⅱ-15:360)になって「話の筋がどうにもわからない」(同前)と口にして、「静かにしてらっしゃい!」(同前)とたしなめられるところなど、ヴォビエサールでの二人のやりとりを想起させる。ここでも、シャルルは、オペラの上演にまつわるさまざまな規則には通じておらず、しかも、幕間には、廊下にあふれた群衆に足をとられ、両手に持った飲み物をさるご婦人の正装のドレスにひっかけ、「孔雀(くじゃく)のような叫び声」(Ⅱ-15:364)まであげさせてしまう始末だから、彼の理解力のみならず、運動神経までが目に見えて低下しているといわざるをえない。その直後に、偶然にであったレオンが桟敷にたずねてくるので、シャルルの存在感はますます低下するしかない。》

 

ナボコフ蓮實重彦による『ボヴァリー夫人』論――「交響曲」>

 第二部十五章の、《その男のかぶっているスペイン風の鍔(つば)の広い帽子は、ふと彼が身ぶりをするはずみに下へ落ちた。それを合図に器楽合奏も歌手たちもいっせいに六重唱にはいった。火をふかんばかりに怒ったエドガールはひときわ朗々たる声で他を圧した。アシュトンは無気味な低音で彼に決闘をいどんだ。リュシーはかん高い哀訴の声をあげ、アルチュールはひとり離れたところに立ってバリトンをひびかせ、牧師のバス・バリトンはパイプ・オルガンのようにうなった。すると今度は女声合唱が牧師の言葉を反復して美しく歌いつづける。彼らはみな一列にならんで身ぶりをしていた。なかば開いた彼らの口から、憤怒や、復讐や、嫉妬(しっと)や、恐怖や、憐憫(れんびん)や、驚愕(きょうがく)が同時にほとばしり出た。》という「六重唱」こそ、フローベールの目論む「交響曲」に相当するだろう。

 

 ナボコフは「『ボヴァリー夫人』論」でそれを、《あたかも、芽生えた恋を祝うかのように、フローベールは一切の人物を市場に集め、文体の実演を披露して見せる。これこそ、この章のめざしている真の意図である。恋人同士、ロドルフ(贋の情熱の象徴)とエンマ(その犠牲)が、オメー(やがてエンマがそれ故に命を絶つことになる毒素の贋の保管者)と、ルールー(これはエンマを砒素の壺にと駆ることになる経済的破滅と恥辱の代表)とにつながれ、それからそこにはシャルル(結婚生活の慰め)もいるのだ。》として、時系列的に説明してゆく。

《共進会の場面では、平行挿入ないし対位法的手法(・・・・・・・・・・・・・)がふたたび用いられている。ロドルフは腰掛けを三脚みつけてきて、それをつないでベンチにすると、エンマと一緒に役場のバルコニーに陣どって、演壇の上の見せ物を見物し、演説を聞き、そして戯れの恋の会話にうつつをぬかす。厳密には、二人はまだ恋人ではない。対位法の第一展開で、顧問官が比喩をめったやたらと混ぜ合わせ、まったくの言葉の自働機械と化して、自己矛盾を冒しながら演説する。(中略)第一段階では、ロドルフとエンマの会話が、盛りだくさんな役人の雄弁と交替に現れる。(中略)フローベール、およそ考えられうる限りの新聞体および政治演説の月並な常套句を収集している。が、大事なことは、役人の演説が陳腐な「新聞体(ジャーナリーズ)」なら、ロドルフとエンマのあいだにかわされるロマンティックな会話は、陳腐な「恋物語調(ロマンティーズ)」であるということだ。この場面の美しさは、善と悪とがたがいにせめぎ合っているというのではなく、一種の悪が別種の悪とたがいに混じり合っているところにある。フローベール自身いっていたように、まことに彼は色の上に色を重ねて描いているのだ。第二の展開は、顧問官リューヴァンが腰をおろし、ついでドロレーズ氏が立ちあがって演説するところからはじまる。(中略)やがて第三の展開がはじまると、直接の引用が再開し、演壇から風に乗ってただよってくる賞品授与の叫びの断片が、なんの注釈も描写もなしに矢つぎ早やに交互に現れる。(中略)第四の展開はここからはじまる、二人はようやく黙り、いまや特賞が与えられようとしている演壇から、言葉がふんだんに注釈をともなって聞こえてくる。(中略)このように見事な対位法的な章をしめくくる圧巻は、オメーがルーアンの新聞に寄稿した、この見せ物と祝宴に関する記事である。(中略)ある意味では、かの双子の姉妹とも言うべき産業と芸術とは、豚飼いと艶にやさしき恋人同士とを一種道化茶番風に統合する象徴となっているといえよう。これは素晴らしい一章だ。ジェイムズ・ジョイスに多大な影響を与えたのも、この章である。表面的にはいろいろと新規な工夫がこらされているにもかかわらず、ジョイスフローベールよりも一歩先にすすんだとは、わたしには考えられない。》と絶賛した。

 

 蓮實重彦は『『ボヴァリー夫人』論』の「Ⅳ 小説と物語」で、「同時多発」という主題を掲げ、ナボコフと似たような部分を取りあげながら、「交響曲の効果」を説明する。

《では、「書くこと」と「語る」こととは、作品にいかなる齟齬をもたらすのか。それを明らかにするには、一八五三年十月十二日付けのルイーズ・コレ宛の手紙で「交響曲の効果が仮にも一冊の本のなかに移されたということがあるとすれば、この場面がまさにそれになりましょう」(フローベール全集九 P212)とフローベール自身が書いている「農業共進会」の場面がどのように書かれたかを、やや詳しく見てみなければならない。「全体が一緒になって怒号する体のものでなくてはならない(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)」(同書 213)という第二部の八章のこの場面については、それを仕上げることの困難を彼は何度もルイーズにもらしているが、ここで問題としてみたいのは、その「交響曲の効果」そのものの評価ではない。そうではなく、フローベールが何をもって「交響曲の効果」と呼んでいるのか、また彼がそれをどのように「書いた」かを詳しく見ておかねばならないのである。》と前置きして具体的説明に入る。

《そこで、まず指摘しておかねばならぬのは、確かに「牝牛の鳴き声、愛の溜息、役人の演説が同時に聞えてこなければなりません」(同前)といわれているが、文学的なものであれ非文学的なものであれ、散文の言説がおさまらざるをえない文字言語の線上の秩序は、語らるべき事態の同時多発性を言語で同時多発的に表象することなどできはしないという事実にほかならない。「牝牛の鳴き声、愛の溜息、役人の演説が同時に聞え」ると書くことはできても、それはあくまでも単声的な言表の連鎖にすぎず、あらゆる音声が「同時」に聞こえる「交響曲の効果」はそこに皆無だからである。また、「交響曲の効果」なるものを、できごとの同時多発性を比喩的に喚起するような言表行為と理解するとしても、「書く」ことで言語の諸単位はあくまで単声的な線上性におさまるしかなく、そこに「書く」ことと「語る」ことの齟齬がいやおうもなく露呈される。題材の同時性を比喩的に処理するにしても、多声的な印象を捏造する「語り」の技法的な介入は不可欠であり、しかも、それを象徴する言語は、あくまで線状の秩序におさまるしかないからである。

「農業共進会」の場面を書き進めることの厄介さについて、フローベールはルイーズ・コレ宛の書簡でしばしば言及している。たとえば、一八五三年七月十五日付けの書簡で、彼はすでに述べたことがらを別の表現でこう書き記している。

   今晩、農事共進会の大場面の全体をざっと書いて見ました。これは大したものになりますよ。三十頁にはなりそうです。この田舎町の行事とその細部を通して(ここでは、作品中のすべての(・・・・)副次的人物が現れ、喋り、動き回ります)、一人の婦人と彼女を口説いている紳士の対話を最前列でずっと追っていかなければなりません。更に、中心部には、県参事官の荘重なる演説を置き、一番終いに(すべてが終ったところで)、薬屋が哲学的、詩的、進歩的なる達者な文章で行事の経過を報告した新聞記事を据えます。並大抵のことじゃないと分るでしょう。(全集九 178)

(中略)

 いま引用したルイーズ宛の手紙には「交響曲の効果」という言葉は使われていないが、語るべきことがらの同時多発的な推移が問題となっているのはいうまでもない。「最前面」には「一人の婦人と彼女を口説いている(・・・・・・)紳士の対話」とあるから、村役場の二階に位置どるエンマとロドルフの人目を避けたきわどい会話がそれにあたり、「中心部」には「県参事官の荘重なる演説」とあるから、来賓代理のリューヴァン氏の演説がそれにあたるといえる。ここでの「最前面」と「中心部」とは、おそらく同時的な事態として構想されているのだろうが、さらに「作品中のすべての(・・・・)副次的人物が現れ、喋り、動き回」るという同時的事態が、「交響曲の効果」をさらに高めることになるのだろう。そこに描きだされようとしているのは、階級や職業はいうまでもなく、意識や趣味、あるいは利害関係さえ共有することのない者たちが、一日かぎりの共存を演じてみせるといういかにもフィクションめいた混沌ともいうべきものなのである。

(中略)

 あらゆるものが無方向に揺れているかにみえるこの祝祭空間にも、かろうじて中心らしきものがかたちづくられる。それは、「銀の縫い取りをした短い燕尾服の紳士が馬車から降り」(Ⅱ-8:220)たち、村長のチュヴァッシュ氏に向かって「知事閣下はお見えにならないとつげ、自分は県参事官であると名乗って、二、三弁解の言葉をつく加え」(同前)てから演壇に立つときにほかならない。「いつのまにかその参事官がリューヴァンという名であることが知れていたので、群衆のなかをその名前が口々に言い伝えられてい」(Ⅱ-8:222)くと語られているからだ。そのとき、ロドルフは、人目を避けてすでにボヴァリー夫人を村役場の二階の「会議室」に誘いこんでおり、「国王の胸像の下にある楕円形のテーブルのまわりからスツールを三脚取ってきて、それを窓の一つの近くにならべ、ふたりは肩を寄せて腰をかけ」(同前)る。こうして彼の誘惑の言葉と女の抵抗の仕草とが参事官の演説と同時に進行することになるのだが、すでに述べたように、並行的に推移する二つの事態を言語で同時に表象することはできないので、ここでの同時性も断片化された交互性によって置き換えられざるをえない。すなわち、同時に口にされている参事官の言葉の断片とエンマとロドルフの睦言の断片とが、交互に何度かくり返し描かれることになる。

  「でも幸福ってあるものでしょうか」とエンマはきいた。

  「ええ、幸福はいつかはめぐりあえるものです」と彼は答えた。

 

   《諸般の趨勢よりして諸君は了解されたでありましょう》と参事官はいった。《農業家および地方労務者たる諸君(後略)》(Ⅱ-8:225)

 読まれる通り、同時的な事象を「語る」ことはかろうじてできる。だが、その同時的な事象を同時的なものとして「書く」ことはできず、そこに交互性という秩序を導入せざるをえない。同時性のこうした交互的な表象は、リューヴァン氏の演説が終わり、品評会の審査委員長であるドロズレー氏の挨拶が間接話法で伝えられ、さらに賞金の授与式が始まっても維持されることになる。実際、壇上の審査委員長の声と窓辺でささやき合う男女の声とが、ほとんど媒介なしに交互に描かれている。参事官の演説と男女の睦言とはこれまで一行あきで継起していたが、いまや、二人の台詞と表彰式で口にされる儀式的な発言とはいっさい余白なしに交互に配置され、交響曲の終幕に向けてそのリズムを早めている。

  「私たちはなぜ知りあったのでしょう。(中略)それはきっと、先は一つに合流するときまった二つの川のように、はじめは互いに遠くはなれていても、私たちの身におのずとそなわった特殊な傾斜がふたりを互いのほうへと導いてくれたにちがいありません」

   こう言って彼はエンマの手を握った。エンマは手を引っ込めなかった。

  《総じて耕作成績良好なる者!》と委員長が叫んだ。

  「げんに今日私がお宅へ伺ったときも……」

  《カンカンポワ村のビゼー君》

  「こうしてごいっしょにいられるなどと夢にも思ったでしょうか」

  《賞金七十フラン!》

  「心弱くもあきらめて帰ろうと幾度思ったことか。それがけっきょく、あなたのお供をして、おそばに残ることとなったのです」

  《肥料賞》

  (中略)

  《豚類。ルエリッセ、キュランブール両君、「同格として(エクス・エクオ)」賞金六十フラン!》

   ロドルフはエンマの手を握りしめていた。エンマの手は熱っぽく、生け捕られた雉鳩(きじばと)が飛び立とうとするようにふるえていた。(Ⅱ-8:233~235)

 エンマが握られていた手の指を思わず動かすと、それを承諾のしるしと受けとめたふりを装うロドルフは、「おお、ありがとう! あなたは拒まない! わかっていただけた!」(Ⅱ-8:235)と声を高める。それへのエンマの応答はいっさい語られておらず、不意に捲き起こる一陣の風が内部と外部を通底せしめるばかりだ。

   窓から風が吹き込んで、テーブル掛けに皺(しわ)をよせた。そして下の広場では、百姓女たちの大きな布帽が、白い蝶の羽がひらめくようにさっと一度にひるがえった。(同前)》

 

 ルイーズ・コレ宛書簡の、《薬屋が哲学的、詩的、進歩的なる達者な文章で行事の経過を報告した新聞記事を据えます》の薬屋オメーによる新聞記事は、《夜に入っては絢爛(けんらん)昼をあざむく花火が突如として天空を照らし、万華鏡をさし覗くがごとく、またオペラの舞台を眼前に見るがごとく、一瞬われらが渺(びょう)たる小村も『千一夜物語』の夢の世界のただなかに運びさられたかの感があった》と、「オペラ」という語を比喩的に使っている。しかもエンマとロドルフの近づきのアイロニカルな、かつオメーの堂々たる俗物性の一例として、《ちなみに当日の和気藹々(あいあい)たる会合を紊乱(びんらん)するがごとき不祥事(ふしょうじ)の発生をも見なかったことを付記しよう》が添えられて。

 

ナボコフによる『ボヴァリー夫人』論――「対位法的手法」>

 ナボコフ『ヨーロッパ文学講義』から。

フローベールには、対位法的手法(・・・・・・)と呼んでさしつかえない特殊な方法がある。それは二つないしそれ以上の会話なり思考の流れを、平行して挿入したり、からませたりする方法のことだ。》

《エンマが青い霞に包まれたロマンティックな夢の世界にともに駈け落ちしようと期待した矢先に捨てられる、ロドルフとの情事の終りにつづいて、二つの関連した場面が、フローベール得意の対位法的構造で描かれる。最初の場面は、歌劇ルチア・ディ・ラメルモールの上演の晩で、そこでエンマはパリからもどってきたレオンに再会する。粋な青年たちが手袋をはめた掌を、つややかなステッキの握りに当てて、劇場の平土間席を気取って歩いているのが見える。とかくするうちに、いろいろな楽器が騒がしく演奏前の調律をしはじめる。

 この場面の第一展開で、エンマはテノール歌手の美しい旋律の嘆きに酔う。今は遠く過ぎ去ったロドルフへの恋を思い出したからだ。シャルルは味気ないことを口だししては、彼女の音楽的な気分を害する。シャルルにはこの歌劇は馬鹿げた身振りのごたまぜにしか見えない、が、エンマは原作をフランス語訳で読んでいたので、筋がよく理解できる。第二の展開で、彼女は舞台のルチアの運命のあとを追い、ひるがえって自分自身の運命に思いをはせる。エンマは舞台の娘と一心同体となり、テナー歌手と同じような男なら、誰でもいい、愛されてみたいと思う。だが、第三の展開で、役どころが逆転する。いまや有難くない邪魔を入れるのは、歌劇のほう、歌のほうだ。これこそ本物といえるのは、レオンとの会話のほうで、シャルルはやっと楽しい気分になりかけてきた、その矢先に彼はカフェに連れ出されてしまう。第四に、日曜日にまた来て見そこねた終幕をご覧になったらと、レオンがエンマにいう。まことに図式的な等式がここに成立している――エンマにとって、最初、歌劇は現実と等しかった。歌手は初めロドルフ自身だった。ついで歌手ラガルディー自身、ありうべき恋人となる、それからありうべき恋人はレオンとなり、ついにはレオンは現実と等しくなり、エンマは歌劇に興味を失い、劇場の熱気を避けようと、レオンとともにカフェに避難する次第である。》

 

<ブラックマーによる『ボヴァリー夫人』論――「香具師(やし)」>

 リチャード・パーマー・ブラックマー「ところを得ぬ美 フローベールの『ボヴァリー夫人』」から。

《エンマのほんとうの堕落が始まるのは、シャルルに連れられて『ルチア』のラガルディーを聴きに行くときである。そのとき彼女は装いを新たにしたおのれの青春を読むのだ。このオペラ――いかなる感情も挫折することなく、あらゆるものが多様な形で満たされる、あの遠くて近い因襲芸術――を観ているとき、彼女は、幸福の高みがじつは「一切の情慾を絶望の淵に陥らせるために考え出された嘘いつわり」であったことを知る。「彼女は今では、芸術によって誇張された情熱のくだらない正体を知っていた。」 しかし、彼女がこのことを知るにいたった方法も、またその結果も、ラガルディーも「驚くべき香具師(やし)気質(かたぎ)」を通じてであるという、彼女独特の奇妙な流儀においてである。それは逆立ちしたボヴァリスムだ。彼女が欲望の幻にあてた一瞬の照明が、どうしたわけか逆の選択を可能にしたのだ。つまり、彼女は歌劇役者の役柄のほうを棄て、かわりに役者のほうを取っている――役者であることの香具師(やし)的役割を取っているのである。たしかにラガルディーは測り知れない愛にあふれている。その愛はエンマの本性にひそんでいる香具師(やし)のようであった。だからこそ彼女は、レオンがまるで貴族のように手を差し延べながら姿をあらわしたとき、ラガルディーへの思慕をレオンその人に向けることができたのである。エンマは、レオンがいまや演技をすることができるということ、また、演技することがいまや彼女自身に残された唯一のことであるということを、直ちに見てとる。それが人生に残されたことである。彼女の大きな魅力は、これまではその純真さ(それは堕落させられる可能性がある)にあったのに、いまや、彼女が自分自身のなかから喚起することのできる幻の偶像(それはひとを堕落させる力をもっている)となる。しかし、それは役割を逆転させることではない。エンマがロドルフを演じようとしているのではない。むしろ彼女自身の役割を、真実なものから背徳的なものへと拡げようとしているのだ。かくて私たちは、ロドルフを俟たずに、エンマ・ボヴァリーの衣装をはぎとる。》

 

 付記

<『ボヴァリー夫人』――「第二部 十五章」>

《つめかけた観客は正面玄関の左右、壁ぎわの柵(さく)のあいだに列をつくって待っていた。近くの町かどごとに、ばかでかいポスターが貼(は)られ、「『ランメルモールのリュシー』……ラガルディー……オペラ」などの同じ文句が珍妙な字体で書かれてあった。よい天気で、暑かった。汗は人々のカールさせた髪の毛のなかを流れ、手に手に取りだされたハンカチは、赤くほてった額をぬぐっていた。しめった川風が、ときどきむっと(・・・)吹きつけて、酒場の入口に張ったズックの日よけテントの縁(へり)をかすかにそよがせた。しかし、もっと川岸寄りのほうへ行くと、ひんやりした風が肌(はだ)に涼しく、同時にグリースや革や油のにおいがした。それは、暗い大倉庫が立ちならび、人夫が樽(たる)をころがしているシャレット通りから来る臭気だった。

 エンマはあまり早くから桟敷にはいって笑われるのをおそれて、入場する前に河港のあたりをひとまわり散歩したいと言った。するとボヴァリーはまたえらく用心して、ズボンのポケットのなかで切符をしっかり握りしめ、おまけに握ったその手を下腹に押し当てた。

 玄関へはいったとたんにエンマの胸はたかなった。自分は「二階指定席」への階段をのぼって行くのに、一般群衆は別の廊下から右手のほうへわれがちにと突進する、そのさまを見て思わず得意の笑いがこみあげてきた。布張りのどっしりしたドアを指で押すのも、たあいなくうれしかった。通路のほこりっぽいにおいも胸いっぱい吸い込んだ。そして自分の桟敷にすわったときには、公爵夫人のように場慣れした様子で、すいと(・・・)背を延ばした。

 場内は満員になりはじめた。ケースからオペラ・グラスを取りだす者、遠くから見つけ合って会釈(えしゃく)をかわしているのは劇場(こや)の常連でもあろう。彼らは芸術のうちに商売の憂さをはらしに来ながらも「取引き」を忘れず、またしても木綿や標準酒精や藍(インデイゴ)染料の話をしている。老人の顔も見える。みな無表情で、もの静かに、髪も顔も白っぽく、鉛の蒸気でいぶした銀メダルのようだった。若いハイカラ連中はチョッキの胸もとに桃色や薄緑色のネクタイをひけらかしながら、「平土間」を闊歩(かっぽ)していた。そしてボヴァリー夫人は、彼らが黄色い革手袋をぴったりはめた手を、細身のステッキの金の握りにそえている伊達(だて)姿を、二階からあかずながめ入った。

 やがてオーケストラ席のろうそくがともった。シャンデリアが天井からさがってきて、ガラスの切子面が燦然(さんぜん)とかがやくと、思いがけないはなやかさが場内にみなぎった。そこへ楽士たちが相次いではいって来た。最初は、調子を合わせる諸楽器の騒音が長々とひびく――チェロはうなり、ヴァイオリンはきしり、トランペットはかん高く叫び、フリュートフラジオレットぴよぴよ鳴いた。しかし舞台に拍子木の音が三つ聞こえると、ティンパニの連打がはじまり、金管群はいっせいに咆哮(ほうこう)し、幕がするするとあがって、一つの景色が現われた。

 それは、森のなかの四つ辻(つじ)で、左手には柏(かしわ)の木陰に泉が見える。碁盤縞(ごばんじま)のマントを肩にかけた農夫や貴族が猟の歌を合唱している。突然、一人の士官が現われ、両腕を高々と差し上げて悪魔に祈りをささげる。また別の男が出て来る。ふたりが退場すると、猟人たちはまた歌い出す。

 エンマは娘時代の思い出の小説の国へ、ウォルター・スコットの世界のまっただなかに帰った。立ちこめる霧のかなたに、ヒースの荒野にこだまするスコットランドの風笛の音が聞こえてくるようだ。それに、忘れもしない小説の筋だったから、脚本の運びもよくわかる。彼女は一句一句劇の展開をあとづけていった。しかし胸によみがえるとらえがたい思いのかずかずは、音楽の突風にたちまち吹き散らされた。彼女はメロディーに揺られるままに身を任せ、まるでヴァイオリンの弓が彼女の神経をじかにこすってでもいるかのように全身をわななかせた。さまざまな衣裳や舞台装置や登場人物、人が歩くと揺れる書き割りの立ち木、ビロードの帽子、マントや剣など、すべてこれらの空想の所産は、この世ならぬ雰囲気のなかに音楽の快い調べに乗って動き、エンマは目がいくつあっても足りない思いだった。が、今やひとりの若い女が進み出ると、緑衣の従者に財布を投げ与えた。舞台はこの女ひとりになった。すると、わき出る泉のささやきのような、また小鳥のさえずりのようなフリュートの弱奏が聞こえて、リュシーは荘重にト長調のカヴァチオを歌いはじめた。彼女は恋を訴え、翼をもとめた。エンマも同じ思いにひたった。憂き世をのがれて、抱擁の別世界へと飛び去りたかった。と、そこへ突然、今夜のエドガール役でしかもその名もエドガール・ラガルディーが現われた。

 彼は、生来情熱的な南仏人の顔に一面大理石のような冷厳のおもむきをそえるあのまばゆいばかりの色白さを持っていた。そのたくましい体軀(たいく)を褐色の胴衣にぴっちりと包み、鞘(さや)に彫金をほどこした短剣を左の腿(もも)の上につって、彼は白い歯を見せながら悩ましげに視線をさまよわせていた。噂によれば、彼はもとビアリッツの海岸でランチの修理工をしていたのだが、たまたまある晩彼の歌声を聞いたポーランドのさる公爵夫人が彼にすっかり血道を上げ、彼のために身代限りまでした。しかるに彼はこの女をあっさりおっぽって、ほかの女たちをつぎつぎに追ったという。この艶聞(えんぶん)は彼の芸術家としての評判を高めこそすれ傷つけはしなかった。おまけに、処世の術にたけたこの旅役者は、自分の肉体的魅力と多情多感な心ばせとを謳(うた)った詩的な文句をたくみに広告文のなかに織り込む用意をつねに忘れなかった。美声に加えて堂々たる押し出し、知性よりはむしろ熱っぽさ、しめやかな抒情よりはむしろ表現のどぎつさを看板とすることなどが、床屋ないしは闘牛士めいたこの男の驚くべき香具師(やし)根性を、このうえなく引き立ておおせていた。

 彼は初手から観客を熱狂させた。リュシーをかきいだくかと思えば、歩み去り、また取って返す。絶望の極とおぼしく、怒りの叫びをあげたが、やがてそれは惻々(そくそく)と胸をうつ憂いのうめきと変わった。そしてその歌声はむせび泣きと口づけに満ちて、彼のあらわな喉をもれた。エンマは桟敷(さじき)席のビロードに爪を立てながら、身を乗り出して彼を見ようとした。吹きすさぶ暴風雨(あらし)をついてかすかに聞こえる難船者の叫びのように、コントラバスの伴奏に乗ってなよなよと歌いつづけられる愁訴の声を、エンマは胸いっぱいに受けとめた。エンマは過日自分がそのために危く死にかけた陶酔と苦悩のすべてをそこに認めた。リュシーの歌声は自分の心の反響としか、そして心奪うこの幻影は自分の生活の一部としか思えなかった。しかし、エドガールのような激情をこめて愛してくれた人はまだひとりもない。最後の夜、月光のもとで「じゃ、明日(あした)、明日ね!……」と言いかわしたときも、あの人はエドガールのように泣いてはくれなかった。喝采(かっさい)の声がどっと場内をゆるがせた。幕切れの終曲(ストレツタ)全部が繰りかえされ、恋人同士はふたたび彼らの墓の花や、誓いや、流謫(るたく)や、宿命や、希望について語り合った。そしてふたりがいよいよ最後の別れを告げたとき、エンマは思わず「ああ」と鋭く叫んだが、それは楽の音(ね)の最後のふるえに溶け込んで消えた。

「どうしてあの貴族はあの女をいじめてばかりいるのかね」とボヴァリーがきいた。

「ちがいますよ、あれがリュシーの恋人なんです」とエンマは答えた。

「妙だな、あの男は女の家族に復讐(ふくしゅう)するんだっていきまいていたし、さっき出て来たもうひとりの男は『私はリュシーを愛している。リュシーも私を愛していると思う』と言っていた。それにあとのほうの男は女の父親と親しげに腕を組んで立ち去ったじゃないか。あれがたしかに父親なんだろう、帽子に雄鶏の羽根をつけていたあのはえない小男が?」

 エンマがいろいろと説明してやったにもかかわらず、従者のジルベールがその憎むべき悪だくみを主人アシュトンにさずける掛け合いの叙唱(レシタテイーヴオ)がはじまったとき、シャルルは、リュシーをあざむく贋(にせ)のエンゲージ・リングを見て、それはてっきりエドガールがリュシーに贈る恋のかたみだと思い込んだ。もっともシャルルは――こう音楽がやかましくちゃあ台詞(せりふ)の邪魔にばかりなって――話の筋がどうにもわからないのだと白状した。

「わからないならわからないでいいじゃありませんか。静かにしてらっしゃい!」とエンマは言った。

 シャルルは妻の肩に身を寄せて、「いや、おれはわからないじゃあすませられない性分でね」。

「しいっ! 黙って!」と彼女は眉(まゆ)をひそめて言った。

 髪にオレンジの花かずらをつけ、ドレスの白繻子(しろじゆす)よりもなお蒼白(そうはく)な顔色のリュシーが、侍女たちにささえられるようにして進み出た。エンマは自分の結婚式の日を思い出した。あの田舎の麦畑のなかの小道を、皆といっしょに教会へと歩いて行った自分の姿が目に浮んできた。どうしてあのときリュシーと同じように反抗し、哀願しなかったのだろう。それどころか自分は奈落(ならく)の底へ落ち込もうとしているとも知らず、ただ喜んでいたのだった……ああ! 初々(ういうい)しい美しさがまだ自分のものだったあのころ、結婚生活のけがれも、邪恋の幻滅も味わい知らぬ青春の日に、もしもだれか大きな強い心を持った人の手に自分の一生を託することができたとしたら、そのときこそ貞操も愛情も快楽も義務もおのずと分かちがたく溶け合って、その幸福の絶頂からついに一歩も降り立つことはなかったろうに。しかしそうした幸福も、ことによったら、人間のすべての欲望が現実ではとうていかなえられないがゆえにこそ編み出された嘘(うそ)なのではなかろうか。彼女は今では情熱のみなしさを、そしてその本来むなしい情熱を芸術がいかに針小棒大に描き出すかを知っていた。そこでエンマは舞台の感動にひき込まれないようにつとめながら、ついさっきまで自分の苦悩を如実に再現したかとも思われたこのオペラを、なんのことはない、ただごてごて飾りたてたこけおどしのでたらめとのみ見ようとした。だから彼女は、やがて舞台の奥からビロードの帳(とばり)を押しわけて黒マントの男が現われたときでさえ、ひそかにさげすむような憐(あわ)れみの微笑を浮かべたのだった。

 その男のかぶっているスペイン風の鍔(つば)の広い帽子は、ふと彼が身ぶりをするはずみに下へ落ちた。それを合図に器楽合奏も歌手たちもいっせいに六重唱にはいった。火をふかんばかりに怒ったエドガールはひときわ朗々たる声で他を圧した。アシュトンは無気味な低音で彼に決闘をいどんだ。リュシーはかん高い哀訴の声をあげ、アルチュールはひとり離れたところに立ってバリトンをひびかせ、牧師のバス・バリトンはパイプ・オルガンのようにうなった。すると今度は女声合唱が牧師の言葉を反復して美しく歌いつづける。彼らはみな一列にならんで身ぶりをしていた。なかば開いた彼らの口から、憤怒や、復讐や、嫉妬(しっと)や、恐怖や、憐憫(れんびん)や、驚愕(きょうがく)が同時にほとばしり出た。屈辱の恋人エドガールは抜き身の剣を振りまわす。と、レースの襟飾りは胸が動くにつれて激しく上下した。踝(くるぶし)のところがふくらんだ柔らかい長靴の金めっきした拍車を舞台の床(ゆか)に鳴らしながら、彼は大股(おおまた)に歩きまわった。この男がこんなにもたっぷりとありあまる愛の思いを観客の上にばらまいているところを見ると、さだめし彼の胸のなかには無限の愛のたくわえがあるにちがいないとエンマは考えた。こうしてこの役の与える詩的な情緒にひき入れられるにつれて、先刻のオペラなど子どもだましだといった気分もいつしか消えた。そして役柄によって夢をそそられた彼女は、やがて役を演ずる俳優その人の上にまで思いをはせ、彼の日ごろの生活を想像してみようとした。それは世間周知の非凡なすばらしい生活である。だが彼女だってその同じ生活を、もし運命が許しさえしたら逃れたかもしれないのだ。自分はあの人と知り合い、愛し合ったかもしれないのだ! あの人と手に手をたずさえてヨーロッパじゅうの国々を、都から都へと旅しつづけ、あの人の疲れも誇りもともに分かち合、あの人に投げられる花を拾い、あの人の舞台衣裳を手ずから刺繍(ししゅう)することもできたかもしれないのだ。そして夜ごと劇場の桟敷(さじき)の奥、金色の仕切り格子に身を寄せて、自分だけのために歌ってくれるあの人の魂の声に恍惚(こうこつ)と聞きほれたかもしれないのだ。あの人はきっと歌いながらも舞台から自分のほうを見つめてくれるだろう。そこまで空想したとき、狂気に似た思いが彼女をとらえた。今、げんにあの人は私を見つめているではないか! そうだ、まちがいない! 彼女は駆け出して行って彼の腕に身を投げ、恋愛そのものの権化(ごんげ)のような力強い彼の胸のなかにかくまってもらいたかった。そして言いたかった、叫びたかった、「わたしをさらってちょうだい、連れて逃げてちょうだい、さあ行きましょう! わたしの燃える思いも、遠いあこがれもみんなあなたにささげます、みんなあなたのものです!」と。

 幕がおりた。

 石油ランプのにおいが人いきれに交じっていた。扇子の風が空気をいっそう息づまるようにしていた。エンマは外へ出ようとしたが、廊下もいっぱいの人波だった。胸をしめつけるような動悸がして、エンマはまた椅子にくずおれた。シャルルは、彼女が卒倒するのではないかとうろたえて、アーモンド水を買いに食堂へ走った。

 席へもどるのが大骨折りだった。コップを両手でささげ持っているので、張った両肘が一歩ごとに人にぶつかった。あげくのはては袖の短いドレスを着たルーアン女の肩へ、コップの中身を半分以上ぶちまけてしまった。女は冷たい水が腰へ流れ込むので、殺されでもしたかのように、孔雀(くじゃく)のような叫び声をあげた。亭主の紡績工場主はこの粗忽(そこつ)者にむかっ腹を立て、細君が桜色タフタのみごとなドレスについたしみをハンカチでふいているあいだじゅう、損害賠償だの、費用だの、弁償だのといった言葉をぶつくさつぶやいていた。やっとのことで妻のそばへたどりつくと、シャルルははあはあ言いながら、

「いやはや、行ったきりで帰れないかと思ったよ! えらい人混みだ!……たいへんなもんだ!……」

 そして彼はつけ加えた。

「階上(うえ)でだれに会ったと思う? レオン君だよ!」

「レオンさん?」

「そうなんだ。すぐにおまえに挨拶に来るって言ってた」

 その言葉が終わらないうちに、ヨンヴィルの元書記が桟敷(さじき)へはいって来た。

 レオンは貴族のような鷹揚(おうよう)さで手を差しのべた。ボヴァリー夫人はとっさに気をのまれたかたちで、思わず手を出した。この人の手を握るのはあの春の夕暮れ以来のことだ。言葉が雨にぬれていたあの宵(よい)、ふたりは窓べに立って別れをかわしたのだった。だがエンマはすぐに場所柄をわきまえ、こうした追憶のぬるま湯にひたそうとする心をひと思いに振り払い、急(せ)きこんでどもりがちな言葉を口にのぼせはじめた。

「まあ、お久しぶり……でも、どうして! あなたがここに?」

「しいっ!」と平土間から声があがった。第三幕がはじまりかけているのだった。

「では、ルーアンに今おすまいですの?」

「ええ」

「いつから?」

「出てゆけ! 出てゆけ!」

 皆が彼らのほうをふり向いた。ふたりは黙った。

 しかしそれ以後もうオペラは彼女の耳にはいらなかった。結婚式に招かれた客たちの合唱も、アシュトンとその従者の場も、ニ長調の大二重唱も、まるで楽器の音はかすれ、人物も後退したかのように、すべては彼女にとって遠い世界へと移行した。彼女は薬剤師の家でのトランプや、乳母の家への散歩を、また青葉棚の下の読書、炉ばたの差し向かいなど、あんなにもしめやかに、つつましくもまた優しく、細々とつづいたあの哀れな恋を、そのくせ今まで忘れてしまっていたあの恋のすべてを思い出した。この人はなぜふたたび姿を現したのだろう? どういうまわり合わせでこの人はこうしてまた自分の生活のなかに立ち返って来たのだろう? そのレオンは桟敷の仕切りに肩をもたせながら、彼女の後ろに立っていた。ときどき、なま暖かい鼻息が髪の毛にかかるのを感じて彼女はおののいた。

「いかがです、おもしろいですか」とレオンはきいたが、エンマの顔の間近までかがみ込んだので、口ひげの先が彼女の頬にふれた。

 エンマはつまらなそうに答えた。

「いいえ、たいして」

 するとレオンは、劇場を出て、どこかへ氷菓子を食べに行こうと誘った。

「いや、まだまだ! もっと見てゆきましょう!」とボヴァリーは言った。「あの女、髪を振りみだしたところを見ると、いよいよこれからが見せ場らしい」

 しかし狂乱の場はエンマにはつまらなく、プリマドンナは演技過剰に思われた。

「あんまり絶叫しすぎるわ」と彼女はシャルルのほうを向いて言った。シャルルはここぞとばかり聞き耳を立てている。

「うむ……そういえば……多少そうかな」正直楽しい気持と、妻への気がねとにはさまれて、シャルルはどっちつかずに答えた。

 やがてレオンは溜息をついて、

「いや、こう暑くっちゃあ……」

「たまりませんわ! ほんとうに」

「おまえ、気分がよくないのかい」とボヴァリーがきいた。

「ええ、息がつまりそうよ、出ましょう」

 レオンは長いレースの肩掛けを、慣れた手つきで彼女にかけてやった。そして三人は連れだって、河港にのぞんだコーヒー店のガラス張りの前、外店(テラス)の席に腰をおろした。

 最初はエンマの病気の話が出た。しかしエンマは、そんな話はレオンさんにはご退屈よと言って、何度かシャルルをさえぎった。それからレオンが、パリとノルマンディーとでは事務のやり方もしぜんちがうので、こちらのやり方に習熟する目的でルーアンへやって来た、ある大きな事務所に二年計画で勤めているのだとふたりに語った。ついでベルトのことや、オメー一家のこと、ルフランソワの女将(おかみ)のことをたずねた。が、エンマもレオンも、夫のいる前ではそれ以上何も話すことがなかったから、やがて話はとだえた。

 オペラがはねた帰りの人たちが「おお麗(うるわ)しの天使、リュシー」と、低声(こごえ)に口ずさみ、また大声にわめきたてながら歩道を通って行く。するとレオンは趣味人を気どって、音楽論をはじめた。タンブリーニもルビーニもペルシアーニもグリージーも見たが、そこへゆくとラガルディーなんぞはただやたらと大げさなだけで比較にならないと言った。

「お言葉だが」とシャルルはラム酒入りのシャーベットをなめなめ異議をとなえて、

「ラガルディーは幕切れの場では文句なしにすばらしいという評判ですよ。終わりまで見ないで出たのはなんとしても心残りだ。やっとこれからというところだったのに」

「なに近々またやるそうですよ」と書記は答えた。

 しかしシャルルは、自分たちは明日はもう帰る予定だと言った。そして妻のほうを振りかえって、

「それとも、おまえだけ残ることにするか」とつけ加えた。

 そういう意外な風向きとなったので、レオン青年はひそかな望みをとげる好機いたれりとばかり、とっさに前言をひるがえして終幕のラガルディーを絶賛しはじめた。いや、なんというか、たいしたものだ、崇高のきわみだ! するとシャルルは手もなくあおられて、

「おまえは日曜に帰ればいい。ぜひ、そうしなさい! 少しでも体にいいと思ったらためらうことはない」

 いつのまにか、あたりのテーブルが空(から)になっていた。ボーイがそっと来て、彼らのそばに立った。シャルルはそれと悟って財布を取り出した。すると書記はシャルルの腕をおさえて勘定を払ったばかりか、ぬかりなく銀貨を二枚テーブルの大理石の上に投げ出した。

「これは困る、いたまったく済まん、あなたに払っていただいたりしちゃ……」とシャルルはもごもご言った。

 相手は、何をおっしゃると言いたげな気さくな身ぶりをして、帽子を手に取ると、

「では明日の晩、六時に」

 シャルルは自分のほうは予定があるからと重ねて断わった。が、家内が残るのはべつに……

「ええ、でも……わたしどうしようかしら……」とエンマは口ごもったが、顔は意味ありげに笑っていた。

「じゃ、まあとっくり考えるさ。明日になりゃ決心がつくだろう。ことわざにもいうとおり、一晩おいて思案せよだ……」

 それから、いっしょに歩いているレオンに向かって、

「これからはまたお近くになったんだから、たまには夕食でもやりに来てください」

 書記は、ヨンヴィルへは事務所の用事で行くついでもあることだし、近いうちにかならず参上しますと約束した。そして彼らは、大聖堂の鐘が十一時半を打つのを聞きながら、サン=テルブラン通りの前で別れた。》

 

                               (了)

      *****引用または参考文献*****

(引用文中の「フロベール」表記は、「フローベール」に統一した)

*ギュスターブ・フローベールボヴァリー夫人』山田𣝣(じゃく)訳(河出書房文庫)

*『フローベール全集 別巻 フローベール研究』(リチャード・パーマー・ブラックマー「ところを得ぬ美 フローベールの『ボヴァリー夫人』」土岐恒二訳、他所収)蓮實重彦他訳(筑摩書房

*『フローベール全集 九 書簡2』山田𣝣(じゃく)訳(筑摩書房

蓮實重彦『『ボヴァリー夫人』論』(筑摩書房)                                                       

ウラジーミル・ナボコフ『ヨーロッパ文学講義』野島秀勝訳(TBSブリタニカ)

*トニー・タナー『姦通の文学 契約と違犯 ルソー・ゲーテフロベール高橋和久御輿哲也訳(朝日出版社

*工藤庸子『近代ヨーロッパ宗教文化論 姦通小説・ナポレオン法典政教分離』(東京大学出版会

*M・バルガス=リョサ『果てしなき饗宴 フローベールと『ボヴァリー夫人』』工藤庸子訳(筑摩書房

ジャン=ポール・サルトル『家の馬鹿息子 1,2,3,4』平井啓之、鈴木道彦、海老坂武訳(人文書院

スラヴォイ・ジジェク『否定的なもののもとへの滞留 カント・ヘーゲルイデオロギー批判』酒井隆史田崎英明訳(太田出版

水村美苗本格小説』(新潮社)

ジェイムズ・ジョイスユリシーズ丸谷才一、永川玲二、高松雄一訳(河出書房)

*宮田恭子『ジョイスとめぐるオペラ劇場』(水声社

オペラ批評 プッチーニ『トスカ』に関するノート

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 一九〇〇年にプッチーニのオペラ『トスカ Tosca』がローマで初演されるや、ワーグナー崇拝が濃い北ヨーロッパの評論家、音楽家たちはこぞって批難した。グスタフ・マーラーの「巨匠の駄作」、リヒャルト・シュトラウスの「たちの悪い札つきの低俗作品」、ユリウス・コルンゴルトの「最も腹黒い恐怖からなる大げさな芝居」「苦悩のドラマ」、オスカー・ビーの「好意を装った虐殺者の仕業、冷笑を浮かべながらの殺人」、リヒャルト・シュペピトの「嘘つきな通俗劇場」、アンドレ・メサジュの「音楽がほとんど自分を見出すひまもないほど、矢継ぎ早に進む筋を喘ぎながら追いかけ(なければならない)」、悪しき意味合いを込めての「ヴェリズモ」「南国的劇場オペラ」「血まみれのスリラー・ドラマ」と悪評は長く続いた。(アッティラ・チャンパイ「拷問部屋と協和音――プッチーニの《トスカ》と歌唱オペラの危機」より)

 けれども、『トスカ』は不動の人気を保ち続け、現在でも有名オペラハウスのシーズン・オープニングを飾ってやまない。なぜ人々を魅了し続けるのか。

 音楽的には、ワーグナーが活用したライト・モティーフ(動機)の応用で、幕開けの「スカルピアの動機」からはじまり、「トスカの登場の動機」「拷問の動機」など何十ものライト・モティーフが織りあわされ、情景描写を醸しつつ、スピード感(現代まで残るには極めて重要)をもって、追うものと追われるものの手に汗握る逆転が心はやらせる。第一幕幕切れ、「テ・デウム Te Deum」では、教会による戦勝を感謝する大合唱に、スカルピアの欲望のモノローグが臆面もなく重なって、荘厳な音楽と視覚的スペクタクルが相乗効果を生む。第二幕では、トスカのカンタータが外から聴こえてくると、被さるようにスカルピアがトスカへのサディスティックな性的欲望を歌いあげる。スカルピアがトスカを強迫、凌辱しようとする場面では、カヴァラドッシの処刑台を組立てる音がこだまし、演劇的な効果がいたるところに散りばめられている。第三幕冒頭の羊飼いが歌う牧歌的夜明けの情景は、血なまぐさい死の欲動の南国的ドラマに間奏曲として息抜きを与える。エンターテイメント性が綿密に練り込まれた現代風の、心躍らすミュージカル音楽とも、琴線に触れる映画音楽の「アンダースコア(背景に音楽を入れる)」を先取りしている(『風と共に去りぬ』のスタイナーの音楽を思い起そう)とも称されよう。そして、プッチーニ第一次世界大戦前後のスランプを越えた遺作『トゥーランドット』の未完の大詰めに象徴される「オペラの終焉」へ向けた、彼特有の永遠の「謎」を残す、世紀の変換期の到達点とも言えよう。

 だが、文芸的、演劇的、思想・形而上学的にはどのように受容されるべきか、いかなる批評が可能なのだろうか。

 

スタンダールパルムの僧院』の一八〇〇年>

『トスカ』の時代背景は一八〇〇年六月十七日、ナポレオンがマレンゴーの戦い(六月十四日)で勝利したとの報告が届くローマの一日で、ちょうど百年後の一九〇〇年一月十四日、同じローマでの初演として企画された。一八〇〇年のイタリア、ローマの歴史的、政治的状況は、「ナポリ国王フェルディナンド四世の王妃マリイ・カロリーヌに代表されるオーストリア帝国ハプスブルク家ナポリ=ブルボン王朝とローマ教皇の旧思想保守勢力」対「ナポレオン率いるフランス軍ヴォルテール、ルソーといった共和主義者による新思想革命勢力」の対立構造と解説書には書かれているが、一八〇〇年当時の、民衆、貴族らの精神状態、気質、情熱については、スタンダールの小説『パルムの僧院』を読むのがよい(惜しむらくはオーストリアにより近いミラノとパルムが主な舞台で、ローマではないことだが)。

 ロラン・バルトが遺稿「人はつねに愛するものについて語りそこなう」で賞賛した『パルムの僧院』の冒頭部分を引用する(バルトの賞賛理由は『トスカ』の本質と関係しているので後述する)。

《一七九六年五月十五日、ボナパルト将軍は、ロジ橋を渡ってシーザーとアレクサンダーが幾多の世紀を経て一人の後継者をえたことを世界に知らしめたばかりの、あの若々しい軍隊をひきいてミラノに入った。イタリアが数か月にわたって見てきた勇気と天才の奇蹟は眠っていた民衆の目をさました。フランス軍到着のまだ八日前まではミラノの人たちはフランス兵とはオーストリア皇帝軍にあえば必ず敗走する盗賊の集りとしか考えていなかった。少なくとも、汚(きた)ならしい紙に刷った掌(てのひら)くらいの大きさの小新聞が二三度そういうことをくりかえしていた。

 中世には、共和国のロンバルジア人はフランスに負けぬ勇気を示したものだ。そのためついに彼らの都市はドイツ諸皇帝によって完全に破壊されてしまった。さて彼らが忠実な臣民(・・・・・)となってからは、目ぼしい仕事といえば貴族や富豪の娘が結婚するときにばら色琥珀織(タフタ)の小さいハンカチに四行詩を刷りつけるといったことになってしまった。こういう娘が一生のたいせつな時期を経て二三年たつとそれぞれ忠実な騎士をもつようになる、ときには夫の家からちゃんと選んだ扈従(こじゅう)騎士(きし)の名が結婚の証書にれいれいしく載っていることさえあった。思いがけぬフランス軍到着があたえた深刻な感動は、こんな柔弱な風習とはおよそ縁遠いものだった。やがて新しい情熱的な風習が勃然(ぼつぜん)と起ってきた。一七九六年五月十五日に、全国民はいままで自分たちが尊重していたあらゆることは、じつにばからしく、ときにはいとわしいことだったと知った。オーストリアの最期の連隊が撤退すると同時に旧思想はまったく没落し、命を敢然と投げ出すことが流行しだした。数世紀間を味もそっけもない気持ですごしたのち、幸福になるためには祖国を現実的な熱情をもって愛し、英雄的な行為を求めねばならないことを人びとはさとった。シャルル・カン皇帝とフィリップ二世の猜疑(さいぎ)心のつよい専制政治によっていままで深い闇におしこまれていたのだ。その像をひっくりかえした。と、人々はたちまちかがやかしい光につつまれた感じだった。五十年来『百科全書』やヴォルテールがフランスで跳梁(ちょうりょう)するにつれて、僧侶たちはミラノの善良な市民にむかって読むことを習い世間の何かを知ることは無用の骨折りで、めいめいが司祭さんにとどこおりなく十分一税を納め、犯した小さな罪を忠実にざんげしてさえいれば未来は天国で結構にしていただけることはまず確実だと、声高く説いていた。(中略)

 一七九六年五月十五日にフランス軍がミラノに入ってから、一七九九年四月カッサノの戦いの結果追っぱらわれるまで、狂気じみた歓喜や、快活と官能の楽しみがはなはだしかったこと、あらゆる陰鬱(いんうつ)な感情、ただもう分別くさくなることさえも忘れられたことの証拠に、この期間には、陰気くさい顔をやめ、金儲(もう)けのことを忘れてしまった老千万長者、老金貸、老公証人たちを指摘できるほどだ。(中略)

 こうした熱狂と幸福の二年間がすぎると、パリの執政官政府は、権威の確立した君主づらをして、すべて凡庸でないものにはげしい憎悪を示しはじめた。政府からイタリア軍に派遣した無能な将軍たちは二年前アルコーレやロナートの異常な勝利をえたこの同じヴェロナの平原で、あいついで敗北した。オーストリア軍はまたミラノに迫ってきた。(中略)

 こうしてまた、ミラノ人がi tredici mesi(十三か月)と呼ぶ、反動と旧思想への復帰の時代がはじまった。こう呼ぶのはさいわいこの愚劣への復帰が、マレンゴーの戦いまで、十三か月しかつづかなかったからである。旧式で信心深くて陰気なすべてのものが再びあらゆることを支配しはじめ、社会の指導権をもつにいたった。まもなく保守主義に忠実だった連中は、ナポレオンがそうなる資格がじゅうぶんにあったごとく、エジプトでモメルク人に絞殺されたと村々に発表した。(中略)

 われわれの主人公の物語をはじめるにあたって、多くのきまじめな作家たちの手法にならい、まずその出生一年前から説き起したことを、作者は告白する。この主要人物というのは、ミラノでデル・ドンゴ小侯爵(マルケジノ)と呼んでいるファブリス・ヴァルセㇽラその人にほかならない。彼はちょうどフランス軍が撃退されているときにこの世に生れ、偶然にも、大貴族デル・ドンゴ侯爵の次男となったのである。父侯爵の蒼白い大きな顔や、意地の悪そうな微笑や、新思想にたいするかぎりない憎悪のことはすでに読者が知っておられる。一家の全財産は、父に生き写しの長子アスカニオ・デル・ドンゴに譲られることにきまっていた。この兄が八歳、ファブリスが二歳のときのことである。家柄のいい人たちがみなもうとっくに絞殺されたものと信じていたボナパルト将軍が、突如としてサン・ベルナール山を降ってきた。そしてミラノに入城した。これまた史上類をみない一瞬であった。全民衆がいかに熱狂したか想像していただきたい。その後、幾日もたたぬうちにナポレオンは、マレンゴーの戦いに勝った。その余のことはいうまでもない。ミラノ人の陶酔は絶頂にたっした。が、こんどの陶酔には復讐の念がまじっていた。この善良な民衆は憎悪ということを教えられていたからだ。》

 

<バルト「人はつねに愛するものについて語りそこなう」の「神話」>

 ロラン・バルトは、スタンダールのイタリア、ローマ・ナポリフィレンツェをめぐる「旅日記」をめぐって、「人はつねに愛するものについて語りそこなう」というエッセイをタイプライターに挟んだまま不慮の事故で世を去った。

 バルトが『パルムの僧院』について語る「神話」は、ほとんどオペラ『トスカ』そのもののようだ。『トスカ』に、「英雄」ナポレオン・ボナパルト本人は姿を見せないが、第一幕、マレンゴーの戦いでナポレオンが敗戦したと教会の番人(堂守)が誤報し(史実としては、オーストリア軍のメラス将軍は、六月十四日昼過ぎに勝利を確信してウィーンに勝報を伝えたが、大逆転を受けて十五日に降伏する。ナポレオンが負けたとの一報はフランス、パリでも権力闘争騒ぎを引き起こす)、勝利の祝宴で歌姫トスカは歌を披露する。第二幕の拷問の場面で、実はボナパルトが勝利し、メラスは逃げたとの報が入り、「勝利だ、勝利だ!」と叫んだカヴァラドッシは処刑へ運ばれてしまうが、その間ずっとナポレオンは登場人物たちの心と脳の中を闊歩している。白馬にまたがった「英雄」ナポレオンの幻像を背景に見ている。そして「対立」には事欠かない、初めから終わりまで「対立」によってオペラは加速度的に幕切れへ急ぐ。『トスカ』は悲劇であっても「祝祭」のようではないか。

《イタリアへの愛を語っているが、それを伝えてくれないこれらの「日記」(これは少なくとも私自身の読後感ですが)だけを読んでいると、悲しげに(あるいは、深刻そうに)、人はつねに愛するものについて語りそこなうと繰り返すのももっともだと思うでしょう。しかし、二十年後、これも愛のねじれた論理の一部である一種の事後作用により、スタンダールはイタリアについてすばらしい文章を書きます。それは、私的日記が語ってはいたが、伝えてはくれなかったこの喜び、あの輝きでもって、読者である私(私だけではないと思いますが)を熱狂させます。この感嘆すべき文章とは『パルムの僧院』の冒頭の数ページのことです。フランス軍の到着とともにミラノに《侵入した大量の幸福と快楽》とわれわれ自身の読む喜びとの間に奇跡的な調和があります。要するに、語られる印象と生み出される印象とが一致するのです。どうしてこのような転回が生じたのでしょうか。それは、スタンダールが、「日記」から「小説」へ、(マラルメの区別を採用すれば)「アルバム」から「書物」へと移り、生き生きとした、しかし、構成不能の断片である感覚を切り捨て、「物語」という、もっと適切にいえば、「神話」という、大きな媒介的形式に近づいたからにほかなりません。「神話」を作るにはどうすればいいのでしょう。二つの力の作用が必要です。まず第一に、英雄です。偉大な解放者の姿です。それはボナパルトです。スタンダールが、もっとみじめな姿でしたが、自分自身で体験したように、サン=ベルナール峠を下って、ミラノに入り、イタリアに侵攻するボナパルトです。次に、対立です。アンチテーゼです。つまり、範列(パラデイグム)です。それは、「アルバム」には欠けていて、書物に属する「善」と「悪」との戦いを、すなわち、意味を登場させます。『パルムの僧院』の最初の数ページでは、一方に、倦怠、富、吝嗇、オーストリア、「警察」、アスカニオ、グリアンタがあり、もう一方には、陶酔、ヒロイズム、貧困、「共和国」、ファブリス、ミラノがあります。とりわけ、一方には、「神父」が、もう一方には、「女性たち」がいます。「神話」に身を委ね、書物に身を任せて、スタンダールは、かつて、いわば、アルバムではしくじったこと、つまり、印象の表現を見事に回復したのです。この印象――イタリアの印象――はついに名前を持つに至ります。それはもう、「美しい」というような、きわめて平板な名前ではありません。それは祝祭という名です。イタリアは祝祭です。これこそが『パルムの僧院』のミラノでの序幕がついに伝えてくれたものです。》

 

「善」と「悪」の「対立」の問題は後でとりあげるが、《一方には、「神父」が、もう一方には、「女性たち」がいます》の「女性たち」にはトスカと、アッタヴァンティ侯爵夫人が相当する。「善」の側の侯爵夫人は兄アンジェロッティの逃亡を幇助し、たまたまカヴァラドッシが描く「マグダラのマリア」像のモデルとなり、紋章の入った扇子を残すことでトスカの嫉妬を誘引してしまう重要な役割を果たすものの、舞台上には登場しないことで、かえって観客の想像力は嫉妬するトスカと同一化する。

 この消去法をさらに推し進めて、ドラマの複雑化を避けるためであろう、戯曲で大活躍する「悪」の側のマリイ・カロリーヌ王妃にいたっては、オペラでは登場はおろか言及すら一切されない。

 もう一方の「神父」には第一幕の大詰めでの枢機卿の登場、壮大な大合唱「テ・デウム Te Deum」の聖なる儀式が託されている。

 

三島由紀夫の「劇場といふ祭壇に捧げられたミサ曲」「可憐なるトスカ」>

 戯曲『トスカ』の原題はヴィクトリアン・サルドゥ作『ラ・トスカ La Tosca』で、一八八七年、サラ・ベルナールラシーヌのフェードル役などで名高く、プルースト失われた時を求めて』で話者に多大な影響を与える女優ラ・ベルマのモデル)をタイトル・ロールにパリで初演されたが、その本質を、脚本翻訳を潤色した三島由紀夫が公演プログラムで解説している。

《戯曲「トスカ」は文学的には二流の本だが、そのシアトリカル(劇場的)な効果は絶大の本である。サラ・ベルナアルや、音にきく十九世紀の名女優たちは、文学的には二流でも、おのれの技芸を最高度に発揮できる本を求めて、かういふ舞台効果そのものに集中した本を得たのだつた。この戯曲では、すべてがフットライトのために、壮麗な書割のために、名女優の一挙手一投足の光りかがやく顫動(せんどう)のために、劇場全体のわれを忘れた熱狂のために、きちがひじみた拍手のために捧げられてゐる。これはいはば、劇場といふ祭壇に捧げられたミサ曲である。(中略)

 内容は他愛がないといへばないが、熱血の革命党と残酷な圧政との対立、その背後にかがやくナポレオンのアルプス越え、全ヨーロッパの変革の嵐を背景にして、情熱そのもののやうな美しい歌姫の悲恋を、たえざるサスペンスを孕(はら)ませつつ描いて、事件は一直線に高まって破局に達し、アレヨアレヨとばかり、退屈する暇がない。(中略)

 日本での「トスカ」の上演史は、原作そのままによる上演は、今回が最初であるが、明治初年にすでに、円朝の口演によつて紹介され、歌姫トスカを女狂言師に直した翻案物として、「舞扇恨之刃」といふ外題の歌舞伎になつたことがあるさうだ。その後の、歌劇トスカの再々の上演も入れれば、「トスカ」が、日本人に親しまれてきた歴史はかなり古い。この愛すべき女の嫉妬が捲き起す悲劇は、「道成寺」以来、女の嫉妬の舞台表現を愛してきた日本人の、心をそそるものがあつたのであらう》(なお、本上演が本邦初演としているが、松居松葉訳「トスカ」が大正二年六月に川上貞奴らによって上演されている)

 

 さすが三島は鋭い。《戯曲『トスカ』は二流の本だが、そのシアトリカル(劇場的)な効果は絶大》だというのは、プッチーニのオペラでは更に数段高められている。《すべてがフットライトのために、壮麗な書割のために、名女優の一挙手一投足の光りかがやく顫動(せんどう)のために、劇場全体のわれを忘れた熱狂のために、きちがひじみた拍手のために捧げられてゐる。これはいはば、劇場といふ祭壇に捧げられたミサ曲である。(中略)内容は他愛がないといへばないが、熱血の革命党と残酷な圧政との対立、その背後にかがやくナポレオンのアルプス越え、全ヨーロッパの変革の嵐を背景にして、情熱そのもののやうな美しい歌姫の悲恋を、たえざるサスペンスを孕(はら)ませつつ描いて、事件は一直線に高まって破局に達し、アレヨアレヨとばかり、退屈する暇がない。》とは、三島らしい語彙による的確な指摘である。

 とりわけ「劇場といふ祭壇に捧げられたミサ曲」との形容は、『トスカ』の「聖性」と「悪」の悲劇的な婚姻関係、「死の欲動」を見事に言いあてている。オペラでは戦勝を祝う「テ・デウム Te Deum」で教会が感謝を捧げるなか、国家権力の暴力装置を司る警視総監スカルピアはトスカへの性的欲望を蝮(まむし)が絡み合うように恥じらいもなく歌いあげる。

 チャンパイが、《プッチーニはスカルピアの活動とカトリック教会の儀式の間に音楽的にも作劇手法的にもいくつもの結合線を引いて、紛れようもなくはっきりとした社会批判的アクセントを置いている。スカルピアの血なまぐさい警察テロと倒錯した性的幻想が、聖なる儀式のわく内の神聖化された土壌で育まれる。

 このようなわけで作曲者と台本作者は、スカルピアのサディスト的渇望に対して、第1幕の壮大な大詰め場面での100人の咽喉から響きわたる「テ・デウムTe Deum」で、音楽的雰囲気と共に精神的環境も形成する》とはこのことだ。

《熱血の革命党と残酷な圧政との対立、その背後にかがやくナポレオンのアルプス越え》とは、バルトが指摘した「対立」と「英雄」による「神話」に他ならない。

 

 チャンパイは「妨害」が重要な要素だとの卓抜な見解を示したが、「妨害」は「対立」があってこそだ。それは「侵犯」という見立てもできよう。

《『トスカ』のストーリーで一番多く用いられ、しかも最も重要な演劇作法的構成手段は妨害である。これは全編にわたって挿入されていて、モノローグやディアローグがまだ終らないうちに、新しい場面の突然の開始や、人物の予期しない登場によって中断され、強引にさえぎられる。ロマンティックな俗受け作品のこの基本原則は、脚本原案段階で有力だった。つまり舞台の強いコントラスト効果が緊張をもたらし、ストーリーを先へ先へと進めてくれる。オペラでは、ふつう妨害によって演奏のきっかけが作りだされる。ベルリーニBelliniやドニゼッティDonizettiの作品、初期と中期のヴェルディのオペラのカバレッタは、例外なく、使者や召使いなどの突然の登場によって妨げられる。(良かれ悪しかれ)扇情的な知らせによって、主人公はそのつど驚き、続いて感情を爆発させる動因がもたらせられるのである。従って、妨害はたいてい音楽を引き起こすという意図を持っている。ところが『トスカ』では全く事情が違っている。妨害は正反対の目的、つまり阻止、歌唱の唐突な中断、人物と場面の感情面での後退のために使用されている。このオペラでは絶え間のない妨害が歌唱に向けられ、しかも演劇作法的な審美的意図をもっている。それらは、登場人物の感情の流れを中断し、またその歌唱をもおびやかす。》

 

「対立」とは、ロラン・バルトラシーヌ論』における「逆転」でもある。

《舞台上演たる悲劇の仕掛けは、神の摂理に基づく形而上学のそれと同一だということである。すなわち、逆転である。すべてのものを反対のものに変えてしまうこと(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)、それは神の権力の処方であると同時に、悲劇の定石にほかならない。(中略)純粋な行為として、逆転にはいかなる持続もない。それは点であり、電光の炸裂であり――古典期の用語で言えば、「突然の行為・事件」(coup)と呼ばれるもの――、ほとんど、同時性(・・・)と言ってよいものである。(中略)《運命》は、まるで鏡に映ったもののように、いかなるものをもその正反対の姿へと導く。逆転させられても世界は存続するのであり、ただ世界の構成要素の意味(・・)=方向(・・)が、入れ替わるだけだ。打ち倒された主人公を恐怖せしめるのは、まさにこの対立の相称(シンメトリー)の自覚にほかならない。(中略)彼が変化の極限=絶頂と呼ぶものは、常に命運をまさしく(・・・・)正反対の位置へと導くかに見える、あのすべてを知った力のことだ。(中略)世界は、悪意によって支配されており、それは幸せのなかにさえも、その否定的な核心を探しに行く術を心得ている。悲劇の世界の構造は、あらかじめ構図ができており、ために世界は、絶えず不動性のなかに沈められてしまう。対立の相称(シンメトリー)は、調停の不在と、挫折と、死と、不毛性の造型術にほかならない。

 悪意は常に明確であり、そこから人は、ラシーヌ悲劇を悪意の芸術だと言うこともできる。神が対立の相称(シンメトリー)を操るからこそ、神は見世物を与えてくれる、すなわち人間が押し潰されて沈んでいく光景の見世物である。》

 

 文学座の上演プログラムを「可憐なるトスカ」と題した三島の文章は、「世界」と「悪意」に向き合うトスカを表現しているのではないか。そしてプッチーニのオペラ『トスカ』もまたラシーヌ悲劇と同じく「悪意の芸術」ではなかったか。「悪意の芸術」家に違いなかった三島は生理的によくわかっていた。

《従つて私は、大詰の、投身自殺直前のトスカに、もつとも興味を惹かれる。ここに、この錯誤悲劇が真の悲劇にいたる重要なモチーフが伏在してゐる。投身自殺直前のトスカは、全世界を敵にしてゐる。恋人はすでに殺され、この世にもはや希望もなく、トスカは自分が人生で果した役割が何だつたのか、最後の結着を迫られる。今まで彼女は無意識に、奔放に、野生の命ずるままに恋を貫ぬき、(この点でトスカは「貞節カルメン」ともいふべきか)、自分に対する誠実によつて一直線に行動したのだが、その結果はすべてイスカの嘴と喰ひちがひ、かくて死の直前に、はじめてトスカは自分の役割を意識することになる。そのトスカこそ、可憐なトスカではなく、悲劇のヒロインとしての壮大なトスカである。

 投身直前のトスカの目には、もはや恋人の亡骸も映らず、絶対の拒否を以て世界に直面してゐる。作者のサルドゥはそこまで書いてゐないかもしれないが、潤色者の私はどうしてもさう思ふ。そしてトスカなる女性は、この汚れた権力の争奪の世界を一筋の純愛で引つかきまはさうとして立ち現はれたイタリアの民衆の力の、その力の霊媒であつたかもしれないのだ。》

 

啓蒙主義ロマン主義/理性の不安/「カントとサド」>

 一八〇〇年の歴史的、精神的状況はどうであったのか。

『トスカ』の「対立」は、思想・哲学的には一七〇〇年代中ごろに顕在化しつつあった「亀裂」の顕在化といえる。

 柄谷行人は、《カントが啓蒙主義ロマン主義の「間」に立っていた》と論じている。

《カントが『視霊者の夢』を書いた一七六〇年代には、ライプニッツ形而上学には埋めようのない亀裂があいていた。ライプニッツにおいて感性と理性が連続的な進化の段階にあるとしたら、この亀裂は、感性と悟性の間にある。(中略)

 この「亀裂」を具体的に象徴したのは、一七五五年十一月一日のリスボン地震である。ヨーロッパですべての聖人たちを祭るこの日、まさに信者が教会で礼拝していたときに起こったため、この地震は神の恩寵に対する疑いを巻き起こした。それは大衆的なレベルにとどまらず、文字どおり、全ヨーロッパの知的世界を震撼させた。たとえば、ヴォルテールは数年後に『カンディード』を書き、ライプニッツ的予定調和の観念を嘲笑し、ルソーも、地震は人間が自然を忘れたことへの裁きであると書いている。そのなかで、カントは地震に対して一切の宗教的な意味を与えることを拒絶し、その自然科学的原因と耐震対策を説いた。にもかかわらず、別の意味で彼がそれに揺すぶられたことは疑いがない。それは二つの面から言える。第一に、哲学を二度と瓦解しないような建築にしようとするカントのメタファー(建築術)はそこから来ているといってもよい。第二に、先に述べたように、この地震を予言した視霊者スウェーデンボルグの「知」に惹きつけられたことである。

 しかし、以後の長い沈黙のあとに発表された『純粋理性批判』には、一見してこうした「問題」は消えている。それをむしろ後退として見るべきだろうか。もしこの本が、ライプニッツ的な合理論とバロック的な経験論への批判として書かれたと読むなら、そう見えるだろう。しかし、彼はそれとは違った文脈に生きていたはずである。たしかにカントは、経験論と合理論の「間」に立っていた。彼は合理論者から見れば経験論的であり、経験論者から見れば合理論者である。むろん、誰もがいうように、彼はそのいずれでもない。しかし、むしろ注目すべきことは、彼が啓蒙主義ロマン主義の「間」にも立っていたことである。

 カントの芸術論(『判断力批判』)は、美を主観性において見いだすことにおいてロマン主義的であり、事実、ロマン主義美学の基盤を与えている。しかし、厳密には、彼は古典主義とロマン主義の「間」に立っている。それは、ゲーテが古典主義的であると同時にロマン主義的であるといわれるのと、或る意味で似ているだろう。しかし、カントが古典主義とロマン主義の「間」に立っていたと私がいうのは、彼がそれらの過渡期に生きていたという意味ではなく、それらのいずれをも「批判」する視点に立っていたという意味である。

 カントが啓蒙主義ロマン主義の「間」に立っていたというのも、同じ意味である。彼がロマン主義者から見れば啓蒙主義者であり、啓蒙主義者から見ればロマン主義者と見えることは疑いがない。》(柄谷行人「探究Ⅲ」)

 

 スウェーデンボルグを前にしたカントの揺らぎを柄谷は次のように捉える。

《カントがこうした理性の欲動を見いだしたのは、『形而上学の夢によって解明されたる視霊者の夢』(一七六六年)においてである。これは、スウェーデンの視霊者スウェーデンボルグを論じた論文である。彼は基本的に、視霊という現象を「夢想」あるいは「脳病」の一種と見なしている。そこでは、ある思念が感官を通して外から来たかのように受けとめられている。だが、このヴィジョンはその鮮明さにおいて、知覚にあることがあるし、実際にそれらは区別できない。形而上学も同じことではないかと、カントはいう。なぜなら、形而上学は、なんら経験に負わない思念をあたかも実在するかのように扱っているからである。このエッセイは、その意味で「視霊者の夢によって解明されたる形而上学の夢」であるといってもよい。

 しかし、彼はスウェーデンボルグの「知」を否定すると同時に、それを否定することができない。霊という超感性的なものを感官において受けとることは、たんに想像(妄想)でしかないが、他方、霊が直観されるということは、構想力による錯覚が混じっているにせよ、それをもたらす霊の影響を推定することができないわけではない。しかし、カントは態度を決定できない。彼は、それを精神錯乱と呼んだにもかかわらず、「視霊者の夢」を真面目に扱わずにいられない。同時に、そのことを自嘲せずにもいられない。(中略)

 この『視霊者の夢』に、カントの「批判」の先駆を見いだせることはいうまでもない。すでに、ここで、彼は、主観によって構成された外部(現象)とそうでない外部(物自体)の区別について語っている。あるいは、恣意的な空想と、ヌーメナルなものを感性的に把握する構想力との区別――それはのちに、自由と自然を媒介するものとして「判断力」を措定することにつながるだろう。しかし、『視霊者の夢』を特徴づけるのは、たとえば、スウェーデンボルグを肯定すると同時に、肯定する自分を嘲笑するというような書き方である。》(柄谷行人「探究Ⅲ」)

 

 十九世紀まで俗悪なだけと言われてきたサドが二十世紀に入ると、アドルノ(『啓蒙の弁証法』)、クロソウスキー(『わが隣人サド』)、バタイユ(『エロティシズム』)、ブランショ(『ロートレアモンとサド』)、ボーヴォワール(『サドは有罪か』)、フーコー(「侵犯への序文」)、ラカン(「カントとサド」)、ドゥルーズ(『ザッフェル=マゾッホ紹介』)、パゾリーニ(『ソドムの市』)、バルト(『サド、フーリエロヨラ』)らによって評価が逆転した。

カントとサドが同時代人であると伝えるラカン精神分析の倫理』の、メビウスの輪のような言説を知ろう。

《ショックを与えて皆さんの目を開かせるために――そういうことは我々の進歩に不可欠ですが――ここでは次のことに注目していただくだけで結構です。つまり『実践理性批判』は『純粋理性批判』の初版の七年後、一七八八年に出版されましたが、その七年後の一七九五年、<テルミドール>(訳注:フランス革命期の一七九四年七月二七日(共和歴第二年テルミドール九日)にロベスピエール派を失脚させたクーデターのこと)の直後にもう一つの著作、『閨房哲学』と呼ばれる著作が出版されているということです。

 皆さんご存じのように、『閨房哲学』は様々な理由で有名なサド侯爵の著作です。彼のスキャンダラスな名声は、最初いくつかの不運に伴われていました。彼は二五年のあいだ囚われの身でしたから、彼に対しては権力が濫用されたと言うこともできます。(中略)サド侯爵の著作は、ある人々の目には一種の気晴らしの方法と見えるかも知れませんが、実はそれほど面白いものでもありませんし、最も評価されている部分などはきわめて退屈なものです。しかし、彼の著作が筋が通らないと言うことはできません。むしろそこではまさしくカントのクライテリアが、一種の反‐道徳とも言うべき立場を正当化するために強調されているのです。

 反‐道徳パラドックスは『閨房哲学』と題された作品においてきわめて筋の通ったやり方で擁護されています。ここにいらっしゃる方々を考慮すると、ここだけは是非ともお読みいただきたいのは、「フランス人よ、共和主義者たらんとせばいま一息だ」と題された部分です。

 この部分は、当時革命下のパリで暴れ回っていた小組織のパンフレットと考えられています。このアピールに続けてサド侯爵は、権威の失墜を考慮すれば――真の共和制の到来は権威の失墜からなるというのがこの著作の前提となっています――実現可能な一貫した道徳生活の最低限度とこれまで考えられてきたものとは正反対のものを我々の行動の普遍的格率とするように提唱しています。

 実際、彼はそれをなかなか見事に擁護しています。誹謗への賛辞が『閨房哲学』のこの部分の最初に見られるのも決して偶然ではありません。彼によれば、当然向けられるべきよりもさらに悪いものを誹謗は隣人に負わせるとしても、誹謗は決して有害なものではありません。というのは、誹謗は誹謗の企てに対して用心させてくれるからです。さらに彼は続けて、道徳的法則の基本的な命令を覆すことを徐々に正当化し、近親相姦、姦通、盗み、およびそれらに付け加えることのできるものすべてを褒めそやします。十戒が定めるあらゆる法の正反対を考えてみて下さい。そうすると首尾一貫したものが得られますが、それは最終的にはこうなります。「誰であろうと他者を我々の快楽の道具として享楽する権利を我々の行為の普遍的格率とすべし」。

 サドは、この法が普遍化されて、同意しようとしまいと、あらゆる女性を誰彼なしに自由に所有する権利をリベルタンに与えるとしても、逆にこの法は、文明化された社会が夫婦関係の中で課すあらゆる義務から女性たちを解放するのだということを、きわめて筋の通ったやり方で論証します。この構想は、サドが空想的に欲望の地平に措定している水門を全開にするものであり、誰もがその貪欲さを最大限に高め、実現することを要請されるということです。

 万人にこの解放がもたらされると、そこに現われるのが自然社会です。これに対する我々の嫌悪感は、カント自身が道徳的法則のクライテリアからは除外すると称したもの、つまり感情的な要素と見なすことができるでしょう。

 もし我々があらゆる感情的要素を道徳から除外し、我々を感情的に導くあらゆる案内を消去し失効させるなら、極限においてサドの世界は――たとえその裏面であり戯画であるとしても――あるラディカルな倫理、一七八八年に起草されたカントの倫理によって統治される世界の一つの可能な達成と考えることのできるものです。

 よろしいですか、リベルタンと呼ばれる人々が残した膨大な文献、快楽人間のそれに見いだすことのできる道徳の分節化のさまざまな試みにはカントの影響がはっきりと認められるのです。》(ラカン精神分析の倫理』(上))

 

 カント学者の坂部恵が、十八世紀の終りのカントの理性の不安を考察している。

ミシェル・フーコーは、『古典主義時代における狂気の歴史』において、サドの体現する「サディズム」という現象が、けっして、「エロスと同じだけ古い」ものではなく、まさに十八世紀のおわりという西欧の古典的理性の爛熟の時代に、「西欧的想像力のもっとも大きな転換の一つを構成する」集団的文化現象としてあらわれたのであること、すなわち久しく日常の理性的生活から隔離されいまや沈黙のうちに追いやられた「非理性」が、今度は世界のなかに姿をあらわす形象としてではなく、「ことばと欲望」(discours et désir)として、いいかえれば、「魂の錯乱、欲望の狂気、欲望の再現のない専横における愛と死との狂気じみた対話」としてふたたび姿をあらわしたものにほかならぬことをいい、(中略)ジャック・ラカンは、”Kant avec Sade”と名づけられた卓抜な小論において、カントの『実践理性批判』とその八年後に出されたサドの『閨房哲学』(La philosophie dans le boudoir)を対比させながら、『閨房哲学』は、まさに、『実践理性批判』の世界の底にかくされた「真実」を示すものにほかならぬこと、すなわち、カントの道徳の自律的主体を構成する一切対象にとらわれぬ形式的命法としての道徳法則は、サドのいわば主体なき思考としての幻想世界を生んだ果てしのない一種求道者的な欲望と、じつは、同一の欲望の変換過程の構造のなかに、表裏の関係をなすものとして位置づけうるものにほかならないことをあきらかにする。

 これらの見方は、いずれも、十八世紀のおわりといういわば光の時代、理性の時代ののぼりつめた頂点といってもよい時期におけるサドの存在がけっして偶然ではなく、むしろ、時代の必然的裏面あるいは陰画の部分にほかならぬことを示す点において、軌を一にするといってもよいだろう。》(坂部恵『理性の不安――サドとカント――』)

 

 スラヴォイ・ジジェクが『オペラは二度死ぬ』で、スカルピアについて言及しているが、スカルピアのサディズムは、時代の理性の不安の一症例であろう。

モーツァルトの『コシ・ファン・トゥッテ』にでてくる二人の男は、自分のフィアンセに彼女たちが屈辱をうけるところを想像させたいのである。ポイントは、単にフィアンセの貞節を試すことではなく、人前でみずからの不貞行為に向き合わせることのよって彼女たちを困惑させることである(フィナーレを思い出そう。[彼らのフィアンセと]二人のアルバニア人が婚約したあと、二人の男は彼ら本来の服装で登場し、アルバニア人に変装していたのは自分たちであったことをフィアンセに教える)。ここで得体が知れないのは、女の欲望(それは堅忍不抜なものなのか、かりそめのものなのか)ではなく、男の欲望である。女性にそうした残酷な試練を受けさせる、二人の若い男の天邪鬼な心理とは、いったいいかなるものなのか。なぜ彼らは、平和で牧歌的な恋愛関係を混乱におとしいれるように強いられるのか。彼らは明らかに、フィアンセとよりを戻したいと思っている。しかし、彼らはあくまで、女性的欲望がはらむ虚栄心に直面してからでなければ、そうしないのである。このようにして彼らは、厳密な意味で、サド的倒錯者の立場にいる。彼らの目的は、欲望する主体の分裂を<他者>(犠牲者)の側に置き換えることである。つまり、あわれなフィアンセたちは、みずからの欲望に嫌悪感をおぼえるという苦痛を引き受けなければならないのである。

 後期ロマン派に典型的な悪漢(たとえば、プッチーニの『トスカ』に出てくるスカルピア)とともにわれわれが手にするのは、これとはまったく異質な関係構造である。それは、猥褻のかぎりをつくした第一幕のフィナーレだけでなく、第二幕全般にわたっても認められる。スカルピアはトスカを性的に支配したいだけでなく、トスカが彼の行為によって苦しんだり、無力な怒りを爆発させるところを見たいのである。「君はなんと私を憎んでいるのだろう!……私は、そんな君が欲しいのだ!」。スカルピアの望みは、自分の[欲望の]対象のなかに、無力な状態にされたことへの怒りからくる憎悪を発生させることである。彼が欲しいのは彼女の愛ではなく、むしろ、彼女がマリオへの――彼へのではない――愛のために彼に身を任せるという、徹底した屈辱行為なのである。彼の望みは、女性という対象への憎悪である。スカルピアの本当のパートナーは、女性によって欲望される/愛される男である。だからこそ、マリオが彼への愛からスカルピアに身をゆだねるトスカの姿を目にし、それを理由に彼女を罵倒/拒絶するとき、スカルピアは無上の勝利を手にすることになるのだ。スカルピアとヴァルモンの差異は、ここからでてくる。ヴァルモンは、女が身をまかせながら自己嫌悪におちいることを望むが、スカルピアは、女が彼を、つまり誘惑者を嫌悪することを望むのである。》

 

<「悪」の三つの形式/「根源的<悪>」/「エルサレムアイヒマン」>

 警視総監スカルピアや警部スポレッタにどのような「悪」を見るべきなのか。

 ジジェクが『否定的なもののもとへの滞留』の中で、カントの「悪」に関連して、「悪」の三つの形式を解説している。

《<悪>の第一の、最も穏やかな形式は、「人間本性の弱さ」への訴え掛けを通じて自己を表現する。私は自分の義務が何であるかを知っている。私はその義務を完全に承認している、しかし私はその呼び掛けにしたがい、「病理的」な誘惑に屈せぬほどには強くないのだというわけである。このポジションの誤りは、もちろんその底にある自己客体化の身振りにある。私の性格の弱さは、私の所与の[持って生まれた]本性の一部ではない。私の本性が何を許容しているのかを確証することができるような、メタ言語のポジション、自分自身の客観的な観察者のポジションに立つ権利は私にはないのだから。私の「自然な傾向性」が私の行動を決定するのは、自由で、自律的な存在として私がそれを承認するかぎりにおいて、それに対して私が一切の責任を負うかぎりにおいてである。この責任こそ<悪>の第一の形式が回避するものなのである。

 第二の形式は、比べものにならないほど危険であるのだが、第一の形式の転倒を行う。<悪>の第一の形式では主体は、自分の義務が何であるのかについての十分な概念をもちながらも、自分にはそれを実行する能力がないことを告白するのであった。ところが、この第二の形式では主体は、実際には病理的な動機づけによって導かれているのにもかかわらず、義務のために行動し、ただ倫理的関心にのみ動機づけられていると主張するのである。典型的な例は、実際には自分のサディスティックな衝動を満たしているだけなのに、子供たち自身の道徳的な向上に資するものと自らは信じて生徒をいじめる厳格な教師である。この自己欺瞞は第一の形式よりも深い、というのは主体が誤認しているのは義務の輪郭そのものなのだから。

 第三の最悪の形式は、特殊な道徳的な作用因としての義務に対する内的感覚、内的な関係の一切を主体が失ってしまい、道徳を利己的な「病理的」利害の追求を抑制するために社会が設けた単なる外在的なルールの一式、障害物の一式としか捉えなくなってしまうというものである。このようにして「正しい」「間違い」という概念そのものがその意味を失う。主体が道徳的ルールにしたがうとしても、それは、ただ単に苦痛を与えるその諸帰結を回避するために過ぎない。しかしもしも、彼が捕まることなく、「法を曲げることができる」なら、彼にとってはその方がずっといいのだ。この態度をとる主体が、何か残酷な、あるいは不道徳なことをしたといって非難されるときによく用いるいいのがれは、「法を破ったわけじゃない。難癖をつけるのはやめてくれ!」というものである。》

 

 スポレッタは第一の悪だろう(ところどころで人間性、弱さを見せる)。では、スカルピアは? ファルネーゼ宮殿の部屋で一人夕食をとるスカルピアは、窓外からの(誤った)戦勝の祝宴で歌うトスカの声を聴いて、モノローグ「彼女は来る」を征服の思いから歌うスカルピアはどうなのか? 第二の形式を明らかに越えている。第三の形式のような論理性はない。

 チャンパイは「スカルピア、すなわち応報でない偶然の死」と題して、スカルピアの「悪」を考察し、《スカルピアは、ベートーヴェンのピツァロPizarroから引用され、オペラでの市民拷問役人の長い系列の中でも最後のところに位置する最悪人の一人である。たしかに男爵ではあるが貴族的出生は何の役割も果たしていない。その精神は市民階級権力者の疾患を示す。つまりスカルピアは警官だからサディスト的なのではなく、サディストだから警官なのであるとベルナール・ボヴィエ‐ラピエールが、その試論に書いている》と書いているが、スカルピアの「悪」とは三つの形式を越えたもの、「根源的<悪>」とカントが定式化したそれではないのか。

 

 ジジェクモーツァルトドン・ジョヴァンニ』をとりあげながら「悪」について解説する。

《われわれがここでまのあたりにしているのは、もちろん、カントがその『理性の限界内の宗教』で初めて定式化した「根源的<悪>」の問題である。カントによれば、人間のうちに<善>へと向かう彼の性向に逆行する実定的な力が現前していることの究極の証拠となるのは、主体が彼自身のうちなる道徳<法[則]>を、彼の自尊心や自己愛を踏みにじる耐えがたいトラウマ的なプレッシャーとして経験することである。つまり、<自己>の本性そのもののうちにある何かが道徳<法[則]>に抵抗するのでなければならない、いいかえるならエゴイスティックで「病理的」な傾向を、道徳<法[則]>にしたがうとする性向よりも優位に置く何かが存在するのである。カントは、<悪>に対するこの傾きのア・プリオリな性格を強調している(これは後にシェリングによって展開される契機である)。私が自由な存在であるかぎり、私は、私のうちで<善>に抵抗する何かをただ単に客体化することはできない(たとえば、それは私には責任のとりようのない私の本性=自然の一部であるということによって)。私が自分の悪に対して、道徳的に責任があると感じるという、まさにその事実こそが、私が非時間的な超越論的行為において<善>よりも<悪>のほうを好む性向を与えるというかたちで、自分の永遠の性格を自由に選んだに違いないということを証拠立てているのである。これがカントが考えるところの「根源的<悪>」である。それは、あるア・プリオリなのであって、人間本性の、<悪>へと向かう経験的‐偶然的な性向にすぎないものではない。しかしながら、「悪魔的な<悪>」の仮説を退けることで、カントは根源的<悪>の究極の逆説から後退してしまっている――その内容に関しては「悪」であるにもかかわらず、倫理的な行為の形式的基準を完全に満たしてしまうような行為の不気味な領域から。そのような行為はいかなる病理的な考慮によっても動機づけられていない、つまりその唯一の動機づけの根拠は原理としての悪であり、それゆえに自分の命を犠牲にすることさえ厭わぬほどの、自分の病理的な関心=利害の根源的な破棄を遂行することができるのである。

 モーツァルトドン・ジョヴァンニのことを思い起こそう。コメンダトーレ(騎士長)の石像との最後の対面の場面で、ドン・ジョヴァンニは、彼の罪深い過去を悔い改め、否認することを拒むとき、根源的な倫理的な立場としか呼ぶ以外にはない何かを完成させるのである。そのときの彼の頑強さは、カント自身が『実践理性批判』で挙げた、代償が絞首台であると知るや否やすぐさま自分の情熱の満足を断念する覚悟を決めるリベルタンという例を、嘲笑いながら転倒させるかのようなのだ。ドン・ジョヴァンニは、彼を待ち受けているものが、ただ絞首台のみ(・・)であって、いかなる満足でもないということをはっきりと知っているまさにそのときに、自らのリベルタン的態度に執着する。つまり、病理的な利害の立場からするなら、なすべきことは改悛の身振りをかたちばかりしてみせるということであったはずだ。ドン・ジョヴァンニは死が近いことを知っている。したがって自らの行いを悔い改めたところで失うものは何もなく、ただ得るばかりである(つまり、死後に責め苛まれることを避けることができる)。しかし、彼は「原理にしたがって」リベルタンの反抗的なスタンスを一貫させることを選ぶ。石像に対する、この生ける死者(リヴイング・デツド)に対する、彼の不屈の「ノー」を、その内容が「悪」であるにもかかわらず、非妥協的な倫理的態度のモデルとして経験しないことなど、どのようにできようか。

 もしもわれわれがこのような「悪」である倫理的態度の可能性を受け入れるとするならば、根源的<悪>を、<善>への性向と同様に主観性の概念そのものに内属するものとだけ捉えるのでは不十分である。さらにいま一歩歩みを進めなければならず、根源的<悪>を<善>に存在論的に先立って、それ[<善>]のための空間を開く何かとして捉える必要がある。いいかえるならば、正確なところ<悪>とは何である(・・・)のか。<悪>とは、「死の欲動」に対する別名、つまりわれわれの通常の生の循環を脱線させてしまう<モノ>への固着に対する別名なのだ。<悪>によって、人間は動物的な本能のリズムから自らを引き剥がす。つまり、<悪>は「自然」な関係に対する根源的な転倒を導入するのである。》(ジジェク『否定的なもののもとへの滞留』)

 

 

 アイヒマンはどうなのか。ハンナ・アーレントは『エルサレムアイヒマン』のなかで、《自分はこれまでの全生涯をカントの道徳の教え、特にカントによる義務の定義にのっとって生きてきたと彼が突然ひどく力をこめて言明した》というアイヒマンが、判事に質問されて、

《ところが誰もが驚いたことにアイヒマンはカントの定言的命令のおおよそ正しい定義を下してみせた。「わたしがカントについて言ったことは、わたしの意志の原理はつねに普遍的な法の原則となりうるようなものでなければならないということです」(中略)それから彼は、「最終的解決」の実施を命じられたときから自分はカントの原則に従って生きることをやめた、そのことは自覚していたが、自分はもはや「自らの行為の主人(あるじ)」ではなく、「何かを変える」ことは自分にはできないと考えて自分を慰めていたと説明を試みた。彼が法廷で言わなかったことは、この「国家によって犯罪が合法化されていた時代」――今は彼自身もそう言っていた――においてカントの公式をもはや適用し得ぬものとしてしりぞけてしまっただけでなく、これを次のように読み曲げていたということである。すなわち、汝の行動の原理が立法者の、もしくは国法の原則と同一であるかのごとく行為せよ、――あるいはハンス・フランクの述べた「第三帝国の定言的命令」――アイヒマンもこれを知っていたものと思われるが――にあるように、「総統(フューラー)が汝の行為を知ったとすれば是認するように行為せよ」と。カントにはもちろん、このような種類のことは全然言う気がなかった。反対にカントにとってはすべての人間はその<実践理性>を用いることによって、法の原理となり得る原理、法の原理となるべき原理を見出すのであった。しかしアイヒマンのこの無意識の歪曲が、彼自身が「凡人の日常の用に供するための」カント解釈と呼んでいたものと一致することは事実である。この日常の用においてカントの精神のうち残されたものは、人間は法に従うだけではあってはならず、単なる服従の義務を越えて自分の意志を法の背後にある原理――法がそこから生じてくる源泉――と同一化しなければならないという要求である。カント哲学においては、この源泉は実践理性である。アイヒマンのカント哲学の日常の用においては、それは総統(フューラー)の意志である。最終的解決の実施におけるおそろしく入念な徹底ぶりの多くは――これは典型的にドイツ的なものとして、あるいはまた完璧な官僚に特徴的なものとして人の目を引く徹底さであるが――、法を遵守するということは単に法に従うということだけではなく、自分自身が自分の従う法の立法者であるかのように行為することを意味するという、事実ドイツではごく一般的に見られる観念に帰せられ得るのである。少なくとも義務の命ずる以上のことをしなければならないという信条は、ここから来る。》

 

 第三帝国にあっては《総統の言葉は法律の力を持っていた》ということを何度となく説明しようと試みたアイヒマンの主張が認められるならば、戯曲の警視総監スカルピアにとっての総統ヒトラーはマリイ・カロリーヌ王妃だっただけではないか、ということになる。たかだか「悪」の第一の形式にすぎない弱き人間、「凡庸な悪」とさえ表現しうる人間にすぎないとばかりに。

 アーレントは、大多数の人間が、正常な欲望や傾向に反するので、殺さないこと、奪わないこと、隣人を死に赴かせないことのほうに、誘惑を感じていたにちがいなく、これらの犯罪すべての共犯者になりたくない、という誘惑を感じていたにちがいないのに、だが、なぜか、彼らは誘惑に抵抗して、殺してしまった、とアーレントらしい誤解を生みがちな逆説的言い回しで主張している。「だが、なぜか」こそが、「根源的<悪>」の由縁ではないのか。「凡庸な悪」と「根源的<悪>」は「だが、なぜか」によって背中合わせではないのか。

《人間の自然な欲望や傾向が時として殺人に向かうことがあるにもかかわらず、良心の声はすべての人間に「汝殺すべからず」と語りかけるものと前提しているのとまったく同じく、ヒトラーの国の法律は良心の声がすべての人間に「汝殺すべし」と語りかけることを要求した。殺戮の組織者たちは殺人が大多数の人間の通常の欲望や傾向に反するということを充分知っているにもかかわらず、である。第三帝国における<悪>は、それによって人間が悪を識別する特性――誘惑という特性を失っていた。ドイツ人やナチの多くの者は、おそらくその圧倒的大多数は、殺したくない、盗みたくない、自分たちの隣人を死におもむかせたくない(・・)(なぜならユダヤ人が死に向かって運ばれていくのだということを彼らはもちろん知っていたからだ、たとえ彼らの多くはその惨(むご)たらしい細部を知らなかったとしても)、そしてそこから自分の利益を得ることによってこれらすべての犯罪の共犯者になりたくない、という誘惑を感じたに相違ない。しかし、ああ、彼らはいかにして誘惑に抵抗するかということを学んでいたのである。》(アーレントエルサレムアイヒマン』)

 

 

<隠すことと現われること>

 作曲家ジャコモ・プッチーニと台本作者ジャコーザとイッリカの手慣れた三人組は、戯曲『ラ・トスカ』の原作者サルドゥと相談しつつも、戯曲の冗長な部分を大胆に削除、改変することで、オペラの密度を限りなく高めた。 

 登場人物は二十三人から九人(演技しない羊飼いを除けば八人)へ大幅に減らし、しかも主な登場人物はトスカ、カヴァラドッシ、スカルピアの三人で、第一幕にアンジェロッティと教会の番人(戯曲ではヱウゼヱベとゼッナリイノという名を持つ二人で、冒頭に掛け合いで時代・人物の背景説明をするが、オペラでは一人に集約され名前も与えられない)、そして警部スポレッタに、脇役の憲兵シャローネと看守が絡むだけだ。

 全五幕は三幕になり、場面や出来事の、時間的、空間的入れ替えによって緊迫感を持たせ、ドラマティックになっている。

 戯曲第二幕「パラッツオ・ファルネーゼの祝宴の場」と第三幕「マリオの別邸」を概ね省略し、必要な部分のみオペラ第一幕「サンタンドレア・デッラ・ヴァッレ教会」と第二幕「パラッツオ・ファルネーゼ、スカルピアの部屋」に「同時性」の劇的効果を狙って移動(例えば、マレンゴーの戦いのナポレオン勝利の報を戯曲第二幕の祝宴の場からオペラ第二幕のカラヴァドッシ拷問の場面に、スカルピアが扇子によってトスカの嫉妬心を煽る場面を戯曲第二幕からオペラ第一幕へ、など)。

「同時性」の最大効果は、トスカがカヴァラドッシの死に気づく直後の、「刺し殺されたんだ! スカルピアが? 女はトスカだ! 逃がすな」の声が外から聞えてくる場面だろう(オペラ『トスカ』は、トスカの外からの声「マリオ! マリオ! マリオ!」で始まることを思い出そう)。

 戯曲第四幕「カステル・サンタンジェロ、スカルピアの部屋」をオペラ第二幕「パラッツオ・ファルネーゼ、スカルピアの部屋」に収斂。

 しかし削除することで、なくなったわけではない。かえって、隠すことで演劇的効果がより強く現われる。あたかも藤原定家「見渡せば花も紅葉 もなかりけり 浦の苫屋(とまや)の秋の夕暮」の「見せ消ち」のように。

 

 フロベールボヴァリー夫人』の第二部の終り近く、恋人レオンとの逢引を描くフロベールが「隠すことと現われること」のイリュージョン技法を駆使しているとジジェクは論じる。

 エンマはルーアンでオペラ『ランメルモールのルチア』を田舎者の夫と観劇したさい、旧知のレオンと偶然出会う。翌々日には大聖堂で逢引し、馬車に乗るよう促された。

《恋人たち二人が馬車に乗り込み、御者にただ街中を走り回るように命じたあと、われわれは馬車の完全にとざされたカーテンの背後で何が起こっているのかを聞かされることはない。後のヌーヴォー・ロマンを思い起こさせるディテールへのこだわりをもって、フロベールは馬車が当てもなくさまよう周囲の都市の様子をただひたすら描写していく。舗装された通り、教会のアーチ、等々――ただひとつの短いセンテンスだけが、ほんの一瞬、カーテンから突き出した何もつけていない手に言及するだけである。この場面は、「公式」の機能としてはセクシュアリティを隠すはずの言葉が、実際には、その秘密の出現=現われを生み出すという、あるいは、フーコーのテーゼがそれへの批判として目論まれて当の精神分析の用語を用いるなら、「抑圧された」内容は抑圧の効果であるという、『性の歴史』第一巻におけるフーコーのテーゼをあたかも図解するかのようにできている。作家のまなざしが、どうでもよい退屈な建築のディテールに限定されればされるほど、われわれ読者は責め苛まれ、馬車の閉ざされたカーテンの背後の空間で何が起こっているのかを知りたいという熱望に駆られる。『ボヴァリー夫人』をめぐる裁判で、この作品の猥褻性の一例としてまさにこのパッセージを引いたとき、検事はこの罠に掛かってしまった。フロベールの弁護士にとって、舗装した道や古い家の中性的な描写にはいささかも猥褻なところはないことを指摘するのは容易なことであった。いかなる猥褻性も、カーテンの背後の「本当の[現実の]ものreal thing」に取り憑かれた読者(この場合は検事)の想像力にその存在をすべて負っている。今日われわれには、フロベールのこの方法がきわだって映画的(・・・)に思えるのは、たぶん偶然ではないだろう。それはあたかも、映画理論が「視野外hors-champ」と呼ぶもの、まさにそれ自身の不在において見られうるもののエコノミーを組織するものである。視野に対する外在性を利用しているかのようなのだ。》(ジジェク『否定的なもののもとへの滞留』)

 

 たしかに『トスカ』は、「視野に対する外在性を利用し」、観客の「想像力にその存在をすべて負って」映画的である。

 以下、三島潤色の戯曲から適宜引用し、オペラでいかに「隠すことと現われること」が処理されて効果を発揮しているかを見てゆく。

 

<マリイ・カロリーヌ王妃の命令>

『トスカ』は全体に史実に忠実で、登場人物たちもモデルがいたとされている。オペラの舞台に登場することはないが、戯曲では大活躍のマリイ・カロリーヌ(マリア・カロリーナ)王妃(女王)は、夫のナポリ国王フェルディナンド4世が病弱で政治に関心がなかったことから牛耳っていた。オーストリア帝国マリア・テレジア女帝の娘で、一七九三年にフランス革命で断頭台の露と消えたマリー・アントワネットのすぐ上の姉にあたる。ナポレオンがローマにローマ共和国を、その翌年にナポリ王国を倒してパルテノペア共和国を樹立するとナポリから追い出されてしまうが、ナポレオンの撤退とともに勢力を回復し、ローマが教皇の権力下に戻ると、反動政治を操って共和主義者を一万人投獄し、千人以上処刑したとされる。

 戯曲《マリイ・カロリイヌ どう、アンゼロッティについて、何かしらせでも?

スカルピア 陛下、それがまだ、しかとは、ローマにをらぬことは確かでございますが。

マリイ・カロリイヌ この事件が、命とりにならぬやう気をおつけ。お前には敵が沢山あるから。

スカルピア 陛下と同じ敵でございますな。

マリイ・カロリイヌ さういふ人たちがお前の悪い噂をね。

スカルピア 女王陛下に悪声を放つ輩(やから)は、容赦なく引括(ひつくく)つてをります。

マリイ・カロリイヌ アンゼロッティは、一年も牢に入つてゐたのに、お前の赴任一週間後に、もう牢破りが出来たと、世間では云つてゐるさうな。》

《群衆の声 女王陛下、万歳! (続いて)アンゼロッティ!……アンゼロッティ!……殺してしまへ!……

(中略)

群衆の声 スカルピア!……斃(たふ)せ、スカルピア!

マリイ・カロリイヌ (前と同じく)今度はお前の首だわ。(列席者笑ふ)

スカルピア (冷然として、そして、左手にカプレオラ、トリヴルチェ、及びその他の彼を嘲笑する一群を傲然と見つめながら)醜い、きたならしい人民ども。(叫び声は少しづつ静まり、音楽は尚ほ続く。スカルピア、独りテーブルの前に再び来る。他のすべての者は、或ひは起ち、或は坐つて、広場の方にむいてゐる)アンゼロッティをとりにがせば、次はこの俺が不興を蒙(かうむ)るばかり。腑抜けの大宮人どもが、この俺のつまづくのを待つて喜んでゐる。しかしおそろしいのは女王ぢやない。むしろハミルトンのあま(・・)だ。あの女、アンゼロッティの頸(くび)を締める喜びをのがしたとなれば、今度はこつちへかかつてくる。》

 

 この件があると、スカルピアは主人に従う悪の第一の形式となるが、オペラではより悪の強度を高めて劇的にしている。すべては劇的であること、が優先されるから、《群衆の声 女王陛下、万歳! (続いて)アンゼロッティ!……アンゼロッティ!……殺してしまへ!》といった、長く教皇の支配を受けたローマの庶民、群衆の信心深い保守性は、冒頭の教会の番人(堂守)の呟き程度に抑え、「善」「悪」の境界がぼやけてしまう役柄の錯綜は許さなかった。

 

 戯曲では、スカルピアが恐れる人間はマリイ・カロリーヌの他にもう一人いる。

《しかしおそろしいのは女王ぢやない。むしろハミルトンのあま(・・)だ。あの女、アンゼロッティの頸(くび)を締める喜びをのがしたとなれば、今度はこつちへかかつてくる。》と唾棄した「ハミルトンのあま(・・)」である。戯曲でアンジェロッティは、初対面(オペラでは旧知)のカヴァラドッシに、昔ロンドンで、エンマ・リヨンという娼婦まがいの女と関係を持ったが、その後、女は英国大使ハミルトン卿夫人にのし上がってレディ・ハミルトンとなった、女はカロリイヌ王妃の威光を借りて革命党弾圧を煽動した。自分は出来心からこの女に挑んでやろうと女の素性を喋ったので家宅捜査され、ヴォルテールの著作を本棚に差し挟む陰謀によって三年間の服役をくらわされた、とながなが自己紹介する。

 オペラで、マリイ・カロリーヌ以上にレディ・ハミルトンがオペラで消されている理由を述べることはもう不要だろう。

 

<ルソー『新エロイーズ』>

 戯曲ではルソーと『新エロイーズ』の逸話が登場するけれど、オペラでは隠されている。

 戯曲《フロリア(トスカ) よござんす、どうせ私のいふことなんぞ茶化しておしまひになるんだから。でもそれが一番私は苦になるの。あなたつて、本当は心はいゝ方なのに、考えへ方が悪いのね。ヴォルテエルの本なんか読むんですもの! それにまあ、怖ろしい。この間下さつたもう一冊のあの本。

マリオ(カヴァラドッシ) 「新エロイーズ」か。

フロリア いつもざんげをきいていただくカラファ様にお話ししたら、「早くそんなけがらはしい本を焼き捨てないと、その本があなたの身を焼くことになる」と仰言つたわ。

マリオ で、焼いちやつたのか?

フロリア いいえ。

マリオ よかつた。僕の大事にしてゐる本なんだから、あれは、ルウソウから父への贈物なんだ。

フロリア 私、あれを読んだわ。でもあんな本、ちつとも身を焼いたりしなかつたわ。だつて何でもないんですもの。

マリオ (半ば横になるやうに、フロリアに寄りそひ、足場の上で)そりやさうだ。

フロリア おしやべり揃ひね。あの中へ出てくる人たちは、しじゆう口を利いてるくせに、ちつとも愛し合はない。》

 

 戯曲のトスカは、三島由紀夫が「可憐なるトスカ」で形容した野育ちとはいえけっこう弁が立ち、しっかり者なのに対して、オペラでは美徳が高められている。一方のカヴァラドッシは、第一幕で「さまざまな美の隠れた調和」、「巧みはその神秘の中でさまざまな美を融け合わす」などとアリア「妙なる調和」を歌い、政治思想的に穏健で、美に殉じる純情な人間にすぎないことが強調されている。第三幕のサン・タンジェロ城の牢獄で、死を前にしたカヴァラドッシは、トスカとの永遠の別れを惜しんでアリア「星は光りぬ」を甘く歌いあげる。こういった二人の間に危険思想としてのルソーおよび『新エロイーズ』の出番はない。

 それでも、ドゥルーズが『新エロイーズ』について、

《美徳への愛とは、状況に逆らって善性を保ち続けようとすることである。この自然的善性は美徳ではなく、美徳への愛に他ならない。

 これこそ『新エロイーズ』の問題である。ジュリは善良であり、彼女の父も同様だ。しかし、彼女らの置かれた客観的な社会的状況ゆえに、ジュリは過ちを犯さずにはサン=プルーを愛することはできない。サン=プルーも過ちを犯さずにはジュリを愛することができない。彼らに残っているのは美徳への愛である。これは道徳的な問題である。》(ドゥルーズ『基礎づけるとは何か』(「ルソー講義 1959-1960 ソルボンヌ」)

と語ったように、「美徳への愛」という観点から、オペラで一言ぐらいあってよさそうなものだが、ここでも複雑化と政治思想を避けたのだろう。

 

 カヴァラドッシの出自説明がオペラにないことも同じような理由だろう。

 戯曲《ヱウゼヱベ(教会の番人) いやいや、わしのはうがよく知つてる。わしが若いころに名の高かつた、あの人のお父さんから云へば、そりやあ、ローマ人とも云へるだらう。だがおつかさんはパリー生れでそつちの血筋からはフランス人さ。》

《ヱウゼヱベ ゼッナリイノ、あれぢやまるでジャコバン党だ。まるで本物だ。血筋は争はれぬもの、あの方のお父さんが誰知らぬもののない進歩派でな。永いことパリでくらして、あの怖ろしいヴォルテエルめや、同じ徒党の悪漢どもと友だちづき合いをしてをられた方なんだから。それにつけてもゼッナリイノ、気をつけろよ、不信心者と交はると、地獄へ逆落しだぞ。》

 

 チャンパイは「カヴァラドッシすなわち遮断された退路」で、オペラのカヴァラドッシが「小者」だと言う。

《カヴァラドッシのトスカとの親密な間柄は、ただ外面だけである。2人の間には、<純粋で>、<完全で>、<絶対的な>愛情関係は存在せず、むしろその反対である。今日の尺度に照らせば、2人の関係はかなり当世風のものと格づけされるに違いない。その関係は古典的というよりもむしろ現代的である。2人の愛情はときたま激しく燃え上がるが、根本的にはゆるやかで色情的な引力と美的な関心に基づいている。トスカは美しく、歌がうまく、情熱的な女性である。これがカヴァラドッシを満足させた。しかしトスカに秘密を全部もらすほどにはなっていないと思われる。このことは第1幕における2人の<愛の場面>がはっきり証明している。(中略)

 というわけでカヴァラドッシの悲劇性は、トスカとの関係の妨害にではなく、政治組織の不条理と専横によるその死の完全な無意味さにある。そういえるのは、最後までカヴァラドッシは客観的にも主観的にも(スカルピアの術策の内で)小者である。すなわち彼は偶然に政治的紛争にまきこまれ、考えられる限り賢明には振舞わなかったので死ぬほかないという、政治的に重要ではない人物にとどまっている。もともとスカルピアは自分にとっての危険の源であるアンジェロッティの首とトスカの人身御供だけが欲しいのだ。カヴァラドッシに対してはサディスト的情欲だけを満足させた。拷問によってトスカに憎まれるほど怒らせる。この憎悪を必要とし、愛する対象に憎み嫌われたい、とスカルピアはただこのようにして必要な性的刺激を手に入れるのである。従ってカヴァラドッシの死はスカルピアの快楽獲得に役立つだけで、本来の意味での悲劇的死ではない。意味をなし、跡を残す劇的な死ではない。無意味である。神経症患者たちが握る権力機構の無名の犠牲者と言える。》

 

 戯曲ではカヴァラドッシの不信心ぶりが表現され、教会がスカルピアの側であることが如実にわかる。

 戯曲《神のお情にすがるやうにとのありがたいお説教にも、あの男は、神にゆるしてもらふ必要はない、自分は虐政に苦しめられた犠牲者を助けて、義人の道を歩んできたのだ》、《もしこの事件で科のあるのは誰かといへば天に対する自分ではなく、自分に対する天の罪だ》などと答え、スカルピアに「過激党に限ってそんなことをいふのさ!」、「怖ろしい冒瀆(ぼうとく)だな」、「いやはや立派なキリスト教徒だな」と断定されるが、オペラでは省略されてしまう。しかしプッチーニに思想性は乏しく、それがオペラのカヴァラドッシの人物像に反映されて、政治思想的に透明な存在として、ひたすらスカルピアの引立て役に廻っている。

 

<スポレッタとトスカの「告白」>

 警部スポレッタは「パルミヱリの時と同じやうに」の秘密をトスカに告白し、トスカは「スカルピアを殺してやりました」とスポレッタに告白する。

 戯曲《フロリア 血だわ! 死んだ! ああ、マリオ!……殺されたのね! 殺された! 大事なこの人をあいつたちが! (スポレッタ、スキャルロオネ、軍曹、兵士等を引き連れて再び登場。フロリア、スポレッタに飛びついて)

 人殺し! 助けると約束しておきながら!

スポレッタ あなたのさう思わせ、そしてパルミヱリの時と同じやうに銃殺すること。これが閣下からの命令でございました。

フロリア 悪魔! もう一度あの男を殺してやりたい。もう一度!(皆、驚く)

スポレッタ あいつを殺す?

フロリア さうです。殺してやりました。お前たちの大将のスカルピアを。》

 

 ところがオペラには告白の場面はない。

「パルミエリのように」とは具体的にどうだったのか疑問のまま、観客に残される。いわばエーコの「開かれた作品」やバルトのテクスト論の「ゼロ度」のように、観客は想像力で作品を完成させなくてはならない。

 スカルピア殺害は、タイミングよく(「同時性」)外部からの声だけで、ヒッチコック映画のように巧みに処理される。

 オペラ《声 ああ! 殺されたんだ! スカルピアが? 女はトスカだ! 逃がすな。階段の出口に注意しろ!》という外からの「声」、「妨害」とも「侵犯」ともいえる「同時性」によって、劇的速度は速まり、緊張度は極限に達する。

 

<「ああスカルピア、神様の御前で!」>

 オペラで、死の間際に最後の言葉として(マリオ)カヴァラドッシの名ではなく、「ああスカルピア、神様の御前で!」とスカルピアの名を出したのは、実はスカルピアに愛情を抱いていたから、との穿った見方がある。戯曲には「ああスカルピア、神様の御前で!」の叫びはなく、かわって相当する(フロリア)トスカの強い予告があるのだが、オペラでは消されてしまった。その隠す作劇術は抜群の効果を生んでいる。

 プッチーニは「謎」を残すのが巧い。とりわけラスト・シーンはつねに謎を孕んで幕が下りる。だから新プロダクション(演出)のラスト・シーンで、多様な解釈というだけでなく、むしろ「対立」する解釈、過去の解釈への「侵犯」を纏って演じられることがよくある。最近でも、『蝶々夫人』のラストで自裁した蝶々夫人が、彼女を愛し続けたピンカートンとあの世で手を取り合うハッピー・エンドだったり、『トゥーランドット』でトゥーランドット姫はカラフ王子と結ばれる(プッチーニの死後、アルファーノが補筆完成させたハッピー・エンド)ことなく自害したり、『トスカ』でサン・タンジェロ城から身を投げたトスカは下降することなく昇天する、といった「逆転」、「転倒」さえ可能となっている。オーソドックスな演出であったとしても、観客は決して解けない謎を今度こそ解けるのではないか、心理的に納得できるか、と何度でも劇場に足を運んで確認したくなる。

「ああスカルピア、神様の御前で!」の(フロリア)トスカの予言の言葉とは、

 戯曲《スカルピア で、その男はアンゼロッティだな。

フロリア いいえ……

スカルピア (嘲笑しながら)つまり、アンゼロッティだな。

フロリア いいえ。私はいいえ、と言つています。

スカルピア (同じやうに)その力をこめて「いいえ」といふ処が、とりもなほさず「さうです」といふことになる。

フロリア ああ、お前が神様の御前(ごぜん)で、最後のお審(さば)きをうける時にわかるだらうよ。その時は一緒に立ち会つてあげるわ。……それに私がアンゼロッティの顔を知るわけがないぢやないの。お前の探すアンゼロッティの。》

 

 オペラでは第二幕で、拷問室のカヴァラドッシを見させられたトスカがスカルピアに嘆くと、戯曲のトスカに代わってスポレッタが審判者について言及する(スポレッタの人間性の一面で、悪の第一の形式の証左)。

 オペラ《トスカ これまで私が貴方に何をしたというのですか。

貴方がこんなふうに苦しめているのは私なのです…

貴方は魂を苦しめて…そう、私の魂を

苦しめているのです。

スポレッタ (祈る姿でつぶやく)

だから審判者が席にお付きになる時

隠されていたこともみんな現れ、

報いを受けないことはない。

報いを受けないことはない。

(スカルピアはトスカの落胆を利して拷問室の近くに行き、ふたたび拷問を始めるよう合図する)》

 

 戯曲では、トスカの出自ははっきりと語られるが、オペラではトスカの歌(「歌に生き、愛に生き」 Vissi d’arte ,vissi d’amore のamoreとは、カヴァラドッシへの「恋」ではなく、信仰深き神への「愛」に他ならないから「歌に生き、恋に生き」という訳は間違い)や、カヴァラドッシのさまざまな発言で、彼女の信心深さは容易にわかるよう仕組まれている。

 戯曲《マリオ 立派な歌ひ手で、しかも、女、女そのものです。

むかしは野育ちのまま、羊の番をしてゐたところを、修道院に拾はれて、そこのオルガン弾きの坊さんに歌を教はる。

十六の時には評判の歌ひ手で、信心者でした。

それから四年、あれはラ・ニイナ座で花々しくデビューし、その後はラ・スカラ座、サン・カルロ座、ラ・フェニツェ座など到る処で有名になりました。僕たちの馴染(なれそ)めは、ここローマのラルジェンティヌ座へ急に彼女が出ることになつたとき、お互ひに、一目(ひとめ)惚(ぼ)れ、と、いふやうなわけで。》

 

 オペラ第三幕冒頭で羊飼いが歌う牧歌的夜明けの情景(実際、一八〇〇年当時はローマ市中を羊飼いが歩いていたという)に、戯曲のトスカは《むかしは野育ちのまま、羊の番をしてゐたところを》の余韻が残されていたとしても、もしも《修道院に拾はれて、そこのオルガン弾きの坊さんに歌を教はる》があれば、一八〇〇年頃には、トスカは娼婦になるしかないような境遇だったと、観客は容易に想像しただろう。そもそも、当時の歌姫という職業が放埓で、仕事を得るためには劇場主や作曲家と懇ろになるのは普通のことであり、もちろんスカルピアはそのことを十分知っていたのは間違いない。教会でカヴァラドッシが描く「マグダラのマリア」の、「聖女と娼婦」の両義性、「娼婦たちの守護神」像もそれを暗示している(「マグダラのマリア」について後述する)。

蝶々夫人』が芸者より低い、契約された現地妻にすぎない(たとえ芸者だとしても不見転(みずてん)だろう)から捨てられて当然なのに、未練がましくもお涙頂戴できるよう純情可憐に設定したように、プッチーニ(一九〇〇年のローマ初演でトスカを演じたルーマニア出身のソプラノ、ハリクレア・ダルクレに色男プッチーニはすかさず手を付けている)は色情的官能性をスカルピアだけに負わせて、トスカの純情可憐さを研ぎすました。

 教皇領ローマでは、十八世紀後半まで女性が舞台に上がることは禁止され(「教会の中で婦人たちは黙っていなさい」という聖書のパウロの教えから、聖歌は男性によって歌われた)、オペラ劇場では去勢男性歌手が女の声で歌うカストラートが興隆していた(その性的倒錯性は、一七五八年のカストラートが活躍するローマとその後を描いたバルザック『サラジーヌ』、および精妙な読解であるロラン・バルト『S/Z バルザック『サラジーヌ』の構造分析』に詳しい)。ナポレオンによって去勢を伴うカストラートが禁止され、女性が舞台に上がれるようになったことで、歌姫トスカは存在したのであって、ここにもオペラの舞台には登場しない英雄ナポレオンの神話的な幻影が背景にある。

 

<隠された三角形の一つの頂点>

 三角関係は恋愛小説あるいは姦通小説のエンジンになるのだが、デュラスの小説には「三角関係の脱臼」があるという(郷原佳以「三角関係の脱臼――書くことと愛、ブランショとデュラス」)。

《『ロル・V・シュタインの歓喜』を読んで驚喜したラカンが喝破したように、しかし、そこで指摘された事実自体についてはラカンに言われるまでもなくデュラスの読者であれば誰しも気づいていたように、デュラス的な愛を不可能なものとして成り立たせているのはある三角形、三項関係である。T・ビーチの舞踏会でロルの婚約者マイケル・リチャードソンがロルの眼の前でアンヌ=マリー=ストレッテルに吸い寄せられ、ロルの前から姿を消したこと。(中略)寄宿舎の友人エレーヌ・ラゴネルを自分の愛人の中国青年に抱かせ、自分はそれを見ていたいという少女の激しい欲望。(中略)こうした反復される三角形の主題は、なるほどデュラスとアンテルムスとマスコロの友愛に結ばれたトリオを想起させずにはおかないが、しかし、おそらくそれも含めていずれの三角形も、互いを追いかけ合うことで嫉妬の力学と戯れを作用させるような恋の三角関係とは別の位相にある。三角形があったとしても、三角関係はそこで脱臼されて「愛の物語」がいかにしても成就しない<外>へ、無限定の<外>へ開かれている。》

 

 オペラ『トスカ』にも「三角関係の脱臼」がある。常に「三角関係の脱臼」が起こり、「三角形の一つの頂点」が消失、不在、外部にある。

 

 オペラ「第一幕」から見て行こう。

・冒頭、アンジェロッティが逃げて来るが、番人が現われるとアンジェロッティは隠れ、番人が去ると現われる。

・カヴァラドッシ、アンジェロッティが話していると、トスカの声が外から聞えてくる。

・アンジェロッティが礼拝堂に隠れるとトスカが現れ、トスカが去るとアンジェロッティが現われる。

・教会でカヴァラドッシが描いている「マグダラのマリア」の絵のモデルは青い目のアッタヴァンティ侯爵夫人(アンジェロッティの妹)だが、登場することはなく、黒い目のトスカは想像力だけで嫉妬する。

・スカルピアがアッタヴァンティ侯爵夫人の扇をトスカに示して嫉妬を煽ることで、姿を見せないアッタヴァンティ侯爵夫人の存在は濃くなる。この時、カヴァラドッシは外に出ている。

 

「第二幕」

・スカルピアがカヴァラドッシを拷問する時、トスカの祝祭の歌声が窓の外から聴こえてくる(トスカの不在と歌声)。

・トスカが入って来ると、カヴァラドッシは隣の(演出によっては階下の)拷問室へ連れて行かれる(カヴァラドッシの不在、拷問室からの呻き声)

・スカルピアがトスカに迫る場面で、カヴァラドッシは処刑のために出されている。

・スポレッタは退場させられ、二人きりになったスカルピアはトスカに迫るが、殺される。

 

「第三幕」

・カヴァラドッシとトスカが牢獄で再会する場面で、スポレッタは席を外して不在を作り出す。

・外から、スカルピアが殺されたという声が聞こえてくる。

 

<「マグダラのマリア」>

 戯曲では、カヴァラドッシは共和主義者の象徴の鬚をはやしていることから胡散臭い男と見られていて、トスカと逢えなくなる事態を避けるために、無料奉仕で「マグダラのマリア」の壁画を描くことで信心者の保証をもらっていた。

 オペラで教会の番人は、礼拝堂で敬虔な祈りを奉げる金髪のアッタヴァンティ伯爵夫人を、人知れずモデルにして「マグダラのマリア」像を描くカヴァラドッシに、

 オペラ《番人 ふざけるなら俗人を相手にして、聖人には手を触れるな!》と二度、三度呟くように差し挟む。

《どいつもこいつも悔い改めない奴ばかりだ! 十字でも切ったほうがいい》、《聖母と競う これらの裳裾は 地獄の臭いがする》とも言う。

 茶色の髪で黒い目をしたトスカはカヴァラドッシが描いている絵を目にして、《あの金髪の女は誰なの?》と彼に尋ねるが、《マグダラのマリアだ。気に入ったかい?》と返答され、《美しすぎるわ!》と言う。《あの青い目は、見たことがあるわ》、《アッタヴァンティだわ!》、《彼女に逢うの、貴方を愛しているの? 彼女を愛しているの?》、《あの尻軽女、見てらっしゃい!》、《あれを黒い目にして!》と嫉妬する。

 ここで、「マグダラのマリア」の表象するものは何か。

岡田温司マグダラのマリア エロスとアガペーの聖女』によれば、「マグダラのマリア」は下記のように整理できる。

(1)実在した女性のようだが、脚色、書換え、加工によって、キャラクター形成された性格が強い。両義性をもつ(「聖と俗」「聖女と娼婦」「敬虔と官能」「禁欲と快楽」)。ジェンダーの葛藤(女性をどう位置づけるか)が刻印されている。

(2)福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)のキリストの磔、埋葬、復活に名が記載されているが、娼婦で、罪深い女であったという記載はない。ルカ福音書「女どもの言うことは信じられない」との、やや悪意あるものから、ヨハネ福音書「「我に触れるな(ノリ・メ・タンゲレ)」(キリストの言葉)」の好意的なものまで、ずれの温度差、振れ幅がある。一方、二世紀に作られ、二十世紀に発見された外典(「マリアによる福音書」「トマスの福音書」「フィリポの福音書」)では、神秘的な預言の能力、キリストの良き伴侶、男の弟子たちのうち、とりわけペテロとの確執が記載されている。しかしまだ娼婦、罪深き女ではない。

(3)六世紀から七世紀の変換期の教皇大グレゴリウス(グレゴリウス一世)(在位五九〇~六〇四年)による重大な加工(でっちあげ)があった。マグダラのマリア以外の女性のイメージ、ルカ福音書の「罪深い女(パリサイ人の家で食卓についているイエスの足元に駆け寄り、涙で濡らした髪の毛で拭って口づけをし、罪を悔い改めようとした)」、ヨハネ福音書の「ベタニアのマリア(香油をイエスの足元に注いで自分の髪の毛で拭った。姉マルタ、兄ラザロという家族がいる)」などをハイブリッドに組み合わせた。罪深き女がキリストによって回心する、両義性・二面性があり、苦行者and/or豊かな裸体と美しい金髪を持ち、キリストの足元に駆け寄り、油壺を持つ、といった多重映像は、時代が下るごとに回心前後のギャップを膨らませ、より劇的になってゆく。

(4)十三世紀初め、第四回ラテラノ公会議で、少なくとも年一回の告解(懺悔)の義務付けが決まると、マグダラのマリアは宗教的役割を担った。「罪を悔い改めたマグダラのマリアは悔い改めの模範」、「告解してマグダラのマリアにならうこと(イミタティオ)」、「キリストの受難の苦しみを共有する(コンパッシオ)」をフランチェスコ修道会がプロモートした。

 当時の女性たちには限られた選択肢しかなく、①結婚(持参金制度が重荷)、②修道女、③娼婦、のうち娼婦の可能性は高かった。悔悟娼婦を収容、救済する女子修道院などで、「かつて娼婦だった」イメージが作られ、しかし悔い改めによって聖母マリアに近づいている「守護聖女」となった。

 十六世紀ごろのローマ、ヴェネツィアでは、王侯貴族や高位聖職者の愛人であり、文化教養度も高かった高級娼婦(コルティジャート)の肖像画パトロンが画家に描かせた。

(5)次第に信仰の対象から、「美とエロスの象徴」、「波瀾に富んだ生涯と劇的な運命の逆転劇」としてファム・ファタール(運命の女、妖婦)性を増し、時代が下るごとに美術、演劇、オペラ、小説、映画での鑑賞の対象となった。アベ・プレヴォー『マノン・レスコー』、フロベールの『ボヴァリー夫人』、トルストイアンナ・カレーニナ』などに「マグダラのマリア」のイメージが見てとれるが、プッチーニはオペラ『マノン・レスコー』を残し、『蝶々夫人』、『トゥーランドット』のタイトル・ロール、『ラ・ボエーム』のミミにそのイメージを見てとれることを想えば、オペラ『トスカ』にどうして「マグダラのマリア」の表象を感じないでいられよう。

『トスカ』の「マグダラのマリア」には「両義性」(「聖と俗」「聖女と娼婦」「敬虔と官能」「禁欲と快楽」)、「美とエロスの象徴」、「波瀾に富んだ生涯と劇的な運命の逆転劇」や、トスカという女とスカルピアという男のジェンダーの葛藤、告解(懺悔)といったものが織り込まれている。

 

 オペラで教会の番人が《ふざけるなら俗人を相手にして、聖人には手を触れるな!》と二、三度となく差し挟むのは、聖なる主題のマグダラのマリアのなかに、俗なるアッタヴァンディ侯爵夫人をモデルにする混入をするな、聖と俗の境界線を脅かすな、というトレント公会議(一五六三年終結)以降の忠告であり、《どいつもこいつも悔い改めない奴ばかりだ! 十字でも切ったほうがいい》、《聖母と競う これらの裳裾は 地獄の臭いがする》は、「悔い改めのマグダラのマリア」を前にしての、不遜な絵描きに対する教会権力の警告だろう。

 トスカの《美しすぎるわ!》と《あの尻軽女、見てらっしゃい!》には、アッタヴァンディ侯爵夫人と「マグダラのマリア」のダブル・イメージが読みとれる、さらには歌姫トスカ自身の娼婦性も多重映像化して。

 

<「ローマの女」>

 戯曲第五幕第二場、フロリア(トスカ)はマリオ(カヴァラドッシ)にスカルピアから得た通行証を示し、続く第三場でフロリアはスカルピアをナイフで殺したこと、チヴィタ・ヴェッキオから海へ出られることをマリオに告げると、《マリオ ああ、おまへ、本当に勇ましい! 本当のローマの女だ。昔のローマそのままの勇ましい女だよ!》と感嘆する。

 オペラ第三幕に「ローマの女」の台詞はなく、ひたすら甘美な二重唱で「ああ柔らかくて汚れのないやさしい手」と「手」を賛美する。

 オペラ《トスカ (堰を切ったように)

あの人は、貴方の血か私の愛かを

望んだのよ。嘆願も涙も無駄でした。

私は恐怖に気も狂わんばかりに、

聖母様と聖人たちにお祈りしましたが、それも無駄で…

あの悪党の鬼は

言ったのよ。“もう絞首台が天に腕を拡げているぞ”って。

太鼓の音がしていました…

笑ってたわ、あの悪党の鬼は…笑ってたわ…

獲物をひっ捉えようと身構えて。

“君は私のものかね”―“ええ。”―

私は彼の望みどおりにする約束をしました。

傍に刃が光っていました…

あの男は自由を約束する書類を作り、

怖ろしい抱擁をしにやって来ました…

私は刃を心臓に突き刺しました。

カヴァラドッシ 君が?

君の手で殺したのか。

信心深くて善良な君が、僕のために?

トスカ 手がすっかり血に塗(まみ)れて!

カヴァラドッシ(情愛を込めて、トスカの両手を自分の両手のあいだに取り)

ああ柔らかくて汚れのないやさしい手、ああ、立派な敬虔な仕事のために選ばれ、

子供を愛撫し、薔薇を摘み、不幸に際しては合わせて祈るために選ばれた手、

愛によって強くなったお前の手に、

正義はその神聖な武器を与えたのか。

お前は人に死を与えた、ああ勝利に溢れた手、

ああ柔らかくて汚れのないやさしい手!》

 

 ここで戯曲の「ローマの女」は何を意味するのだろうか。ローマの女戦士のことと素直に思うだろうが、シェイクスピアが詩劇に残し、ティツィアーノ、ティントレット、レンブラントルーベンスクラナッハといった巨匠たちが題材として倦むことがなかった「ルクレティアの凌辱」「タルクイニウスとルクレティア」の逸話を思い起こすべきではないか。「ルクレティアの凌辱」「タルクイニウスとルクレティア」とは、次の通りである。

 紀元前五百九年、ローマはルトゥリ人を攻撃中で、ルクレティアの夫コッラティヌスも参戦していた。陣中でルキウス・タルクイニス・スペルブス王の王子セクストゥス・タルクイニスらとコッラティヌスは妻を比べあい、陣営を抜け出して妻たちのもとへ行き、その貞淑を確かめる。王家の妻たちは宴会に興じていたが、ルクレティアは夫の留守をよく護って貞節だった。だが、ルクレティアの姿を見たセクストゥス・タルクイニスは横恋慕し、後日。一人でルクレティアのもとを訪れた。セクストゥスはルクレティアを強姦しようと侵入し、剣で脅したがルクレティアは死をおそれなかった。しかし、奴隷の裸の死体をおいて姦通の最中に殺されたようにするとセクストゥスに脅され、ルクレティアは恥辱に耐えることができずに凌辱される。セクストゥスの去った後、ルクレティアはローマの父と夫を呼び出すと告白し、彼らに復讐を誓わせるや、短剣で自害した。

 

 クロソウスキーが、タルクイニウスに凌辱され、恥じて自害するローマの女ルクレティアについて考察している、とりわけ身振りの両義性、官能的な「手」をめぐって。クロソウスキー『歓待の掟』で、トネールが描く「ルクレティとタルクイニウス」の絵について、オクターブは次のように語る。

《トネールの描くルクレティアは、寝台に横になり、片ひじに体をもたせかけ、横顔だけ見せて頭をもたげ、一方の脚を長々とのばし、片方の脚で不安そうに腿を持ちあげ、まるで自分に襲いかかっている男を押しのけようとしているかのようだが、その実、さあ、いつでもいらっしゃいと言っているようにも、観客には見えるのだ。すでに彼女に襲いかかったタルクイニウスは、自分の顔をルクレティアの頬に近づけ、腕いっぱいに彼女の胴体をとらえ、ひとつの手は彼女の乳房をつかんでいる。いっぽう彼女のほうでは、ひじをもたげた腕と、開かれた手で、この青年の唇を押しのけようとしているけれども、片方の腕は胴体にそって下のほうにたれている。そして下のところではいっぱいにのびひろげられた指は、ありありと見える恥部をおおいかくしているのではなく、むしろ何かを待ちもうけているように見える。》

 

 トスカがスカルピアを殺したのは正当防衛のためではなく、自らのスカルピアへの欲望に屈しないためで、その証拠に、トスカの最期の言葉はカヴァラドッシの名前ではなく、「ああスカルピア、神様の御前で!」であったし、スカルピアを刺し殺す時の「トスカのキスよ!」に表現されている、といった精神分析学的解釈は馬鹿馬鹿しくはあっても、「死の欲動」の婚姻関係が見てとれ、下品だが蠱惑的な官能的誘惑が『トスカ』の通奏低音にあることを否むことはできない。

 

<バルト『ラシーヌ論』の「明暗法(テネブローゾ)」と「受容可能性」>

 作者が意識したかどうかはともかく、『トスカ』はラシーヌ劇の「三単一の法則」に従って、「時の単一」(一八〇〇年の六月十七日昼から翌十八日早朝までの丸一日)、「場所の単一」(ローマ市内で、戯曲は三キロ四方、オペラは一キロ四方)、「筋の単一」(トスカ、カヴァラドッシ、スカルピアの死へ向かう悲劇で、オペラでは枝葉がより刈り込まれて一直線)が成立している。

 しかし、そういった法則よりも、バルト『ラシーヌ論』のスリリングな「明暗法(テネブローゾ)」に、『トスカ』と同じ世界を感じとることができる。

《こうして我々はラシーヌ的幻覚の核心に入る。影像はその基質の配置のなかに、死刑執行人と犠牲者(いけにえ)の対立そのもの、いやより正しく言えば、その弁証法を、置き換えている。映像は、絵のように描かれ、演劇化された葛藤であり、それは相対立する基質という形で、現実を演じる。エロス的場景は演劇のなかの演劇であり、葛藤の最も活々とした、しかし同時に最も脆い瞬間、すなわち、影が光の輝きによって刺し貫かれる瞬間を表わ(・・)そうとする。というのも、ここでは通常の隠喩が完全に逆転している。つまりラシーヌ劇の幻覚状態にあっては、光が影に呑み込まれるのではない。影は侵入しては来ない。反対なのだ。影が光によって射し貫かれ、影が侵蝕され、抵抗し、ついに身を任せる。(中略)ラシーヌ劇の壮大な絵画的場景は、常に影と光の壮大な神話的(かつ演劇的な)葛藤を提出している。すなわち、一方には夜と影、灰燼と、涙、眠り、沈黙、おずおずとした優しさ、断絶のない現前がある。もう一方には、鋭さを感じさせるあらゆる物体、すなわち、武器、鷲の印を戴く旗印、束桿(そつかん)、松明、軍旗、叫び声、きらめく衣裳、亜麻布(リンネル)や緋色の衣、金(きん)、鋼(はがね)、生贄を焼く祭壇、焔、血がある。二つの相異なる階層に属する基質のあいだで、常にまさに起きようとして、しかも決して成就することのない交換が想定されており、それをラシーヌはきわめて適切に、際立たせる(・・・・・)という動詞で表しているが、それこそ、《明暗法(テネブローゾ)》を構成する(しかもいかにも味わいのある)行為を指し示すものにほかならない。

 ラシーヌにおいて、目に対する物神崇拝とも呼び得るものが存在する理由も理解できる。目とは、本性上、闇に対してさし出された光である。牢獄によって翳り、涙によって曇る。ラシーヌ劇の《明暗法(テネブローゾ)》の完璧な状態とは、涙に濡れ、天を仰ぐ瞳である。》

 

 スカルピアを刺殺した直後のトスカの、燭台と十字架による、敬虔だからというだけでは済ましがたい行為は「明暗法(テネブローゾ)」が際立ち、影が光によって射し貫かれている。バロックのサンタンドレア・デッラ・ヴァッレ教会やサン・タンジェロ城の牢獄ばかりでなく、聖性と殺人が影と光に戯れながら葛藤しつつ結びつき、カヴァラドッシの死を知って、涙に濡れ、天を仰ぐトスカの黒い瞳は「マグダラのマリア」のようだ。

 オペラ《トスカ この男の前でローマが震え上っていたんだわ!

(外に出ようとするが、考え直し、左手の腕木にある2本のろうそくを取りに行き、食卓の上の燭台でそれに火を付け、燭台のほうの火を消す。スカルピアの頭の右に火の付いた1本のろうそくを置き、もう1本は左に置く。また辺りを捜して十字架を見つけ、壁から外し、うやうやしく運び、跪いてスカルピアの胸の上に置く。立ち上がり、とても用心しながら、扉を閉めて外に出る)》

 

 バルトが自らの立場を表明した「前書き」が『トスカ』に当て嵌まる。たとえサルドゥの原作戯曲が三島が言うまでもなく二流で、ラシーヌほどのフランスが誇る古典ではなく、オペラ『トスカ』がイタリア作品であるにしても、この「前書き」の「ラシーヌ」を『トスカ』に置き換えて読むことが可能で、そこに魅力の根源的な秘密、「受容可能性」を嗅ぎとることができよう。

《最後に一言、ラシーヌの今日性について触れておかねばならない(なぜ、今日ラシーヌについて語るのか)。この今日性は、周知のごとく、きわめて内容豊かである。ラシーヌの作品は、過去十年間にフランスでなされた批評的企てのうちで、何らかの重要性をもつすべてのものによって取り上げられてきた。社会的な批評はリュシアン・ゴールドマンが、精神分析学的批評はシャルル・モーロンが、伝記的な批評はジャン・ポミエとレーモン・ピカールが、深層心理学的批評はジョルジュ・プーレとジャン・スタロビンスキーが、それである。その結果、驚くべき逆説によって、フランスの作家のうちでおそらく、古典主義的透明さ(・・・)という思想に最も結び付けられている作家が、今世紀のあらゆる新しい言語を、自分の上に集中させ得た唯一の作家となっているのである。

 というのも実は、透明さとは両義的な価値にほかならないからだ。それは、もはやそれについてなにも語ることがない事柄であると同時に、最も多くの語るべきことがある事柄でもあるのだ。したがってそれは、結果的には、その透明さそのものが、ラシーヌをして、わが国の文学の文字通りの通念、批評の対象としてのゼロ度、空無ではあるが、永遠に意味作用へと差し出されている一つの場たらしめている。文学というものが、私の信じるように、その本質において、確定された意味であると同時に失敗した意味であるとするならば、ラシーヌはおそらくフランスの最大の作家である。その天才は、次々と彼の財産となった美徳のどの一つの中にも、特別には存していない(いかにも、ラシーヌについての倫理的な定義は、変化することを止めなかったのだから)、そうではなくて、むしろ誰も比肩し得なかった受容可能性(disponibilité)の術にあり、これがラシーヌに、どのような批評的言語の領域においても、永遠に持ちこたえることを可能にしているのである。

 この受容可能性は、取るに足らぬ美徳ではない。それどころか、絶頂にまで高められた文学の、存在そのものである。書くとは、世界の意味を揺さぶること、そこに間接的な(・・・・)問いを仕掛けることであり、この問いに対して作家は、究極の宙吊りにより、答えることを控えるのだ。答えを与えるのは、我々の一人ひとりであり、そこに自分の歴史、自分の言語、自分の自由をもたらすことによってなのだ。しかし、歴史も言語も自由も、無限に変わるのだから、作家に対する世界の解答もまた無限である。(中略)

 暗示と断言、語る作品の沈黙と、聴き取る人間の言葉、これが世界と歴史の内部における文学の無限の息である。そして、まさにラシーヌが、文学作品の暗示的な原則を完璧に履行したからこそ、彼は我々に、我々の断言的な役割を十全に果たすことを要求するのだ。》

                                (了)

          *****引用または参考文献******

アッティラ・チャンパイ、ディートマル・ホラント編『名作オペラブックス プッチーニ トスカ』(アッティラ・チャンパイ「拷問部屋と協和音――プッチーニの《トスカ》と歌唱オペラの危機」、モスコ・カーナー「プッチーニの《トスカ》の現代性」、ベルナール・ボヴィエ‐ラピエール「《トスカ》はオペラにおける革命か?」など所収)戸口幸策、嶺崎章郎訳(音楽之友社) (適宜、改訳のうえ引用)

*『決定版 三島由紀夫全集25』(「「ヴィクトリアン・サルドゥ作トスカ 五幕」安堂新家訳、三島由紀夫潤色、解題(「『トスカ』上演について」《労演》昭38・6・10)所収)(新潮社)

*『三島由紀夫全集31』(「「可憐なるトスカ」文学座プログラム・昭和三十八年六月」所収)(新潮社)

白崎容子『オペラのイコノロジー トスカ イタリア的愛の結末』(ありな書房)

*加藤浩子『オペラでわかるヨーロッパ史』(平凡社新書

スタンダールパルムの僧院生島遼一訳(岩波文庫

ロラン・バルト『テクストの出口』(「人はつねに愛するものについて語りそこなう」所収)沢崎浩平訳(みすず書房

ハンナ・アーレントエルサレムアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』大久保和郎訳(みすず書房

スラヴォイ・ジジェク『否定的なもののもとへの滞留』酒井隆史田崎英明訳(太田出版

スラヴォイ・ジジェク、ムラデン・ドラー『オペラは二度死ぬ』中山徹訳(青土社

*『カント全集10』(「たんなる理性の限界内の宗教」所収)北岡武司訳(岩波書店

*リチャード・J/バーンスタイン『根源悪の系譜 カントからアーレントまで』菅原潤他訳(法政大学出版局

岡田温司マグダラのマリア エロスとアガペーの聖女』(中央公論新社

ピエール・クロソウスキー『歓待の掟』若林真、永井旦訳(河出書房新社

柄谷行人「探究Ⅲ」第十八回(「群像」1996年3月号に所収)(講談社

坂部恵坂部恵集2 思想史の余白に』(「理性の不安――サドとカント――」(岩波書店

ジャック・ラカン精神分析の倫理』ジャック=アラン・ミレール編、小出浩之他訳(岩波書店

ミシェル・フーコー『狂気の歴史――古典主義時代における』田村俶訳(新潮社)

*『マルグリット・デュラス 生誕100年愛と狂気の作家』(郷原佳以「三角関係の脱臼――書くことと愛、ブランショとデュラス」所収)(河出書房新社

ジル・ドゥルーズ『基礎づけるとは何か』(「ルソー講義 1959-1960 ソルボンヌ」所収)國分功一郎他訳(ちくま学芸文庫

ロラン・バルト『S/Z バルザック『サラジーヌ』の構造分析』(バルザック『サラジーヌ』も収録)沢崎浩平訳(みすず書房

ロラン・バルトラシーヌ論』渡辺守章訳(みすず書房

*エリック・マルティ『サドと二十世紀』森井良訳(水声社

*T.W.アドルノ、M.ホルクハイマー『啓蒙の弁証法』徳永恂訳(岩波文庫

ピエール・クロソウスキー『わが隣人サド』豊崎光一(晶文社

ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』酒井健訳(筑摩書房

モーリス・ブランショ『文学と悪』山本功訳(筑摩書房

モーリス・ブランショロートレアモンとサド』小浜俊郎訳(国文社)

*S・D・ボーヴォワール『サドは有罪か』白井健三郎訳(現代思潮社

ミシェル・フーコーフーコー・コレクション2 文学・侵犯』(「侵犯への序文」所収)小林康夫他訳(筑摩書房

ジル・ドゥルーズ『ザッフェル=マゾッホ紹介』堀千晶訳(河出書房新社

ピエル・パオロ・パゾリーニ監督映画『ソドムの市』

ロラン・バルト『サド、フーリエロヨラ』篠田浩一郎(みすず書房

 

小説  文楽の男の手

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文楽の男の手」

 文楽の男の手を知っていますか。

 五月の東京三宅坂国立劇場でのことです。若草色の市松単衣を着た私は楽屋を横目で見ながら狭い廊下を進みました。先を歩いていた知人の人形遣いは、女の人形をひょいと手に取るとすたすたと舞台袖に向かいます。

 船底と呼ばれる舞台には、近松作『冥途の飛脚』の大道具がすでにセットされていました。

 知人は『冥途の飛脚』の遊女梅川役の吉田簑助師匠のお弟子さんです。観劇のついでに人形を抱きに行きませんかと誘ってくれた男友達が知り合いだったのです。

 首(かしら)を肩板(かたいた)からいとも簡単にはずし、頸骨のような胴串(どぐし)を慣れた手つきで握ります。

「これはうなずきの糸と呼ばれていて、三味線の二の糸と同じ絹糸でできているんですよ。こうして薬指と小指、場合によって掌で受けて、この引栓(ひきせん)を中指と人差し指で操るんです。」

 中指で引栓を動かすと遊女の首がうなずき、人差し指で糸を押さえたり弛めたりすると一瞬で血が通いました。手首を捩りながら操作すると、首は左右にいやいやをしながら面(おもて)の光と影で情をおびてきます。そしてまた肩板に首をすべらすと、着物の重みだけで人形はすっくと立ちあがりました。今度は女の背の割れ目に左手を挿し入れ、中で指を動かしてみせたのです。と、遊女は生きているようになまめいた動きで誘ってくるのです。

 持たせてもらいましたが、どうにもガクガクした動きにしかならないので情けなくなりました。仕方ありません。文楽の人形は三人遣いで、「足十年、左十年」の修行を経て、ようやく首と右手を操る主遣いになれるのですから。

 お礼を言って舞台をあとにするとき、吉田玉男師匠の楽屋をお友達が見つけました。それからどうやって玉男師匠の楽屋に上がり込み、握手までしたのかは思い出そうとしてももう浮かんでこないのです。菅丞相らしき人形が立てかけてあったこと、老眼鏡をかけた師匠が座布団を勧めてくれたこと、一生懸命に私が今ここにいる理由を、師匠のファンであることを、これから『冥途の飛脚」を見ることなど、師匠にとってはどうでもよいことを精一杯しゃべってから、記念に写真を撮らせていただきました。

 汗ばむ手で玉男師匠に握手しますと、なんと柔らかな手でしょう。おもしろいやつだなと思ってくれたのか機嫌良くにこにこしはじめましたので、感極まって両手で握手しますと、師匠も長いしなやかな両手で握りかえしてきてくれたのです。重いものでは十数キロにもなる立役を支える左手もごつごつしていません。でももうすぐ上演時間です。私たちは忙しなく畳に頭をつけて、劇場正面に向かったのでした。

 ぼーっとしているうちに、拍子木の音で目が覚め『淡路町の段』の語りがはじまりました。しばらくすると、「籠の鳥なる、梅川に焦がれて通ふ廓雀(さとすずめ)、忠兵衛はとぼとぼ……」と玉男師匠が忠兵衛を遣って登場しました。

 はじめての私でさえ師匠のすごさはわかりました。無駄な動きのない稠密な技とでもいうのでしょうか。ギクシャクした硬さがないのはもちろん、わざとらしい力みも荒っぽさもなくて、だらしない男に端正も品格も不似合いでしょうから、洗練とか繊細と言った方がよいのかもしれません。内面を解釈しつくした所作が、卓越した抑制の技量でにじみ出てくるのがわかり震えました。それがあの人間国宝の手から生み出されるのですもの。

 

『封印切りの段』は簑助師匠の梅川で華やぎます。簑助師匠の梅川は着物の襟も胸もともざっくりと見世女郎らしく男の目を引くようにふくらみ、色ある女の肩は両肩遣いといわれる艶っぽさです。きわどい肩の傾きと首の自在な捩れは、これ以上押し進めれば現(うつつ)ではなくなる瀬戸際で踏みとどまります。一方の忠兵衛は玉男師匠の抑制を裏切るかのように梅川の限りない愛しみゆえかえって冥途へと一目散に錐もみしてゆくのです。

 ふと見れば、忠兵衛の右手が梅川の膝もとをそれはそれはやさしく撫でています。その瞬間、私は膝もとに玉男師匠の触れるか触れぬかのあたたかな手を感じたのです。

 その夜、興奮で眠れないままデジタル・カメラの写真を自分で印刷しました。友達が撮ってくれた玉男師匠との一枚目は行儀よく前を向いて座った写真。二枚目は右手で握手しているもので、だいぶ師匠の顔が和らいでいます。そして三枚目はすっかりうちとけて二人して両手で握手している写真でした。私は真っ赤で、師匠は眼鏡がずれ落ちそうに笑っています。玉男師匠の右手が、その日着ていた若草色の単衣の膝もとに忠兵衛の右手と同じように置かれている写真などないのでした。

 けれども私は信じています。あのとき菅丞相を操る文楽の男の柔かな手が縮緬地の女の膝もとを永遠のように愛しんでいたことを。

                            (了)

 

文学批評 里見弴の花柳小説を丸谷才一と読む   ――『いろをとこ』『河豚』『妻を買う経験』

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里見弴の花柳小説を丸谷才一と読む

――『いろをとこ』『河豚』『妻を買う経験』                                     

丸谷才一編・花柳小説傑作選』(以下、『傑作選』)(講談社文芸文庫、平成二十五年=二〇一三年)は、編者丸谷才一の急逝によって生前の出版を見なかった。同じく丸谷による『花柳小説名人選 日本ペンクラブ編――丸谷才一・選』(以下、『名人選』)(集英社文庫、昭和五十年(=一九八〇))のまさしく続編と言えるものだが、「続」とならなかったのは、ひとえに出版社が違うからという理由である。『傑作選』の文庫本末尾にある出版部部長の記事によれば、『名人選』から三十年近くに時を経て、新たなる花柳小説を編んでみようということで、丸谷が候補作を挙げた。全三巻での刊行ではどうかと進言したが、「こういうのはぎゅっとまとめた方がいいんだ」と言われて、選別を進め、一巻にまとめたそうだ。ゲラを作り、順番を変え、文字遣いを直したりして、できあがってきたが、杉本秀太郎との対談を巻末に掲載するため、十一月十四日に設定された対談はかなうことなく、丸谷は十月十三日に帰らぬ人となってしまった。

 ここで、『名人選』と『傑作選』の作品を俯瞰的に頭に入れておこう。

『名人選』の目次は以下の通り。

『あぢさゐ』永井荷風、『その魚』吉行淳之介、『いろをとこ』里見弴、『童謡』川端康成、『継三味線』泉鏡花、『黒髪』大岡昇平、『戦時風景』徳田秋声、『梅龍の話』小山内薫、『四つの袖』岡鬼太郎、『雪解』永井荷風、『堀江まきの破壊』舟橋聖一、『そめちがへ』森鴎外、『なぎの葉考』野口富士男、『橋づくし』三島由紀夫、『海面』丹羽文雄、『名妓』中山義秀、『老妓抄』岡本かの子、『牡丹の客』永井荷風、<対談解説>「花柳小説とは何か」野口富士男、丸谷才一

 一方の『傑作選』は次の通り。

『娼婦の部屋』吉行淳之介、『寝台の舟』吉行淳之介、『極刑』井上ひさし、『てっせん』瀬戸内晴美、『一九二一年・梅雨 稲葉正武』島村洋子、『一九四一年・春 稲葉正武』島村洋子、『母』大岡昇平、『蜜柑』永井龍男、『甲羅類』丹羽文雄、『河豚』里見弴、『妻を買う経験』里見弴、『瑣事』志賀直哉、『山科の記憶』志賀直哉、『痴情』志賀直哉、『妾宅』永井荷風、『花火』永井荷風、『葡萄棚』永井荷風、『町の踊り場』徳田秋声、『哀れ』佐藤春夫、<解説>杉本秀太郎、「丸谷さんと『花柳小説傑作選』」講談社出版部部長原田博志。

 

 丸谷急逝のため、『傑作選』には、説明、分析、解題として読み応えのある<対談解説>が不在だ。一人杉本秀太郎が、丸谷才一がどういう了見で自分を対談相手に採ったのか、思い当たる節の二、三を、溜息まじりのように書き連ねてから、おもむろに解説に入る。『傑作選』は『名人選』と違って、梨園、芝居役者ものが二篇、京都の花柳界(仲居も含めて)を扱ったものが四編あると説明するが、丸谷がどういう真意、狙いをもって作品を選出したのか、杉本自身も測りかねている。たとえば永井龍男『蜜柑』は、しろうとの婦人の気配があって、《そうとすれば「花柳」の範囲は開け放しの野放図なものになりかねないのが訝しい》と当惑しているくらいだから、個々の作品の味わいについてまで論じるに至らない。

 思うに、『傑作選』の選には三つの不思議がある。

 一つめは、志賀直哉の『瑣事』『山科の記憶』『痴情』が三つ並んでいることだ。丸谷は、中学生のころ『網走まで』が大嫌いで、志賀『暗夜行路』をまったく評価せず、せいぜいスケッチ的短編小説作家にすぎないと言っている。たしかに国語教科書の道徳教育的側面とは正反対な、志賀の京都での遊蕩的一面を見せてはくれるが、あれほど削った一冊に三篇も、しかも素晴らしい出来とも言い難いのに、という疑問である。

 二つめは荷風について。『名人選』の『あぢさゐ』『雪解』『牡丹の客』のどれも甲乙つけがたく素晴らしいが、『傑作選』の三篇、『妾宅』『花火』『葡萄棚』は、小説というよりは社会、文明批判的な色合いが濃く、そういう作品ばかりを選んだ理由を知りたい。

 三つめは、島村洋子から二篇選んだこと。花柳界の底辺社会で発生した阿部定事件という知悉された題材をたしかな筆致で描き、作品そのものに不満はないが、他の作家が文化勲章芸術院会員レベルなのに、杉本でさえ知らなかった作家からなぜ、という素朴な疑問を拭えない。

 しかし、死人に口なし、残念である。

 

『名人選』と『傑作選』のいわれはこのくらいにして、里見弴をとりあげたい。

『いろをとこ』(『名人選』)、『河豚』『妻を買う経験』(『傑作選』)である。

 丸谷は里見を高く買い、その批評文はほとんど自己の文学的志、思想を語るかのようである。あたかも、モーリス・ブランショの「仲間ぼめ批評」のように、友人(丸谷の場合は先人)の作品の核心に、自身の問題意識から光を投げかけて思想を展開する。同じ論旨の批評、エッセイはあまたあるから、いちいちあげないが、小説では『たった一人の反乱』、『笹まくら』に代表される。

 丸谷は少なくとも四編の重要な里見論を残している。うち三篇「誰も里見弴を読まない」「ある花柳小説」「里見弴の従兄弟たち」が、丸谷死後すぐに刊行された『丸谷才一全集』全12巻(全作品ではない)の『第9巻 同時代の文学』に収録されている(残る一編は「里見弴についての小論」(『恋ごころ』講談社文芸文庫、解説))から、里見が丸谷にとって重要な作家であることを見抜いた編集委員池澤夏樹辻原登三浦雅士湯川豊)の確かな目に感謝したい。

 

 ここで少し脱線するうえに、丸谷の里見論紹介前の勇み足ともなるが、「仲間ぼめ批評」のもう一人の対象、舟橋聖一に関する丸谷の論考を紹介しておこう。舟橋聖一『ある女の遠景』(講談社文庫)の丸谷才一解説「維子(つなこ)の兄」である。ここには里見論と同じキーワード、テーマがいくつも見てとれる。

《鷗外の場合の江戸末期に当るやうな、理想ないし憧れの対象としての過去の文明の型は、自然主義に対立した作家の場合は、多かれ少なかれ見られるものである。舟橋聖一の場合、それは大正文明であつた。彼は大正改元の年に八歳、昭和改元の年に二十二歳であつたが、幼少時の文明の型は彼の資質をあざやかに規定してゐるし、その文明の本質を追究することこそ彼の生涯の主題となつたやうに見受けられる。》

 ちなみに、里見弴は大正改元の年に二十四歳、昭和改元の年に三十八歳だから、まさに大正文明の人だった。

 大正十二年の永井荷風『麻布襍記(ざつき)』における《荷風の悪口雑言は、知的な女の風俗が幼稚劣悪であるため、作家はつまるところ花柳小説を書くしかない(なぜなら花柳界にだけは洗練された風俗があるから)といふ趣旨の弁明であつた。風俗小説が単なる観察と描写の結果ではなく、対象に対する愛と共感なしには創り得ないものである以上、荷風のこの見解は正しいし、また悲痛であると言はなければならない。そして、ここまではつきりものを言ふのは荷風だけにできる藝だとしても、これはおそらく孤独な文士の意見ではなく、彼の生きてゐた社会全体の、つまり大正文明の常識の反映だつたのではないか。感受性の優れた少年がこの時代に生きれば、かういふ一文明の美学を存分に吸収し、藝者を女性美の基準とみなし、さらに理想化するのは、むしろ当然のことだらう。》

《彼にはいはゆる私小説的な作風のものがかなりあるが、その手のものがほとんど最上の出来ばえを示してゐないことは、この際なかなか示唆に富んでゐるやうだ。彼は自己中心的な私小説作家ではなく、伝統に対して謙虚な、正統的な作家なのである。

 すなはち、彼にとつての過去は、単に大正時代だけにとどまるものではない。たとへば『裾野』の曜子は戦争直後の窮乏のなかに生きてゐるが、彼女の姿は伝説の篠姫をその背後におぼろに秘めてゐるし、実は背後にゐるのは篠姫だけではない。(中略)

 一応のところでは、雲の絶間姫と女鳴神だけが、篠子の姿を思ひ描くのに役立つかのやうである。しかし実を言へば、その相似をいつたん打消されてゐる雪姫、桂姫、八重垣姫、桜姫などの姿が、篠子のそれと重なるのだ。北関東への疎開者である現代の女は、かういふ歌舞伎の美女たちとの複合体となつてわれわれに迫つて来る。ここには、二十世紀ヨーロッパ文学の代表的技法の一つである神話的方法が取入れられてゐると見なしてもよからう。

 そして舟橋がかういふ新しい方法を採用することは、わたしが前に述べた、彼の文学的故郷とも言ふべき文明の型が大正時代のそれであることといささかも矛盾しない。第一に大正時代から昭和初年にかけては、ヨーロッパの新文学が激しく移入された時期だし、舟橋はその手のものを熱心に読み耽つてゐるからである。もちろん神話的方法といふやうな文学用語は、彼の知るところではなからう。しかし創造的な才能の持主が作品そのものを味読すれば、批評的に分析し論述することはできないにしても、影響を受けることは充分にあり得るはずだ。古典と現代とが交錯し合体する彼の方法に、ジョイスヴァレリートーマス・マンの方法との文学的類縁があることは、極めて明らかな話だらう。》

 ここで舟橋について指摘されたあれこれ、普遍的なものへの信頼は、まるごと里見に、大正時代にコミットした年齢からしてより自然な姿で当てはまるに違いない。面白いのは、里見も舟橋も芝居の人、歌舞伎様式に幼いころから親しんでいたということだが、歌舞伎の時空を超えた融通無碍を想えば、当然と言えば当然であろう。

 

<『いろをとこ』>

 まず丸谷「誰も里見弴を読まない」から始める。誰も読まない里見弴を読むのならば里見の全体像を摑んでおきたいし、題名こそ出ないものの、『いろをとこ』の文学的背景がはっきりと示されている。

《誰も里見弴を読まない。今日、彼は小津安二郎の映画の原作者として一般に意識されてゐるにすぎないだらう。ちようど滝沢馬琴東映映画によつて人々に親しまれてゐると同じやうに。先日ある大新聞の書評欄は彼の短編小説集の書評をかかげたけれども、彼特有の振仮名たくさんなスタイルをからかふだけで、彼の作品の魅力と本質については触れてゐなかつたやうに記憶する。誰も、さう、大新聞の書評者さへも里見弴を読まない》から始まって、

《里見弴はもともと私小説の作家ではない。もつと厳密な言ひ方をすれば、私小説的な発想ないし手法ではすぐれた作品が書けない文学者なのである。(にもかかはらず私小説の風土において仕事をしなければならなかつたことが、彼の最大の不幸であつた。)》

《里見弴は生れながらの物語作家(ストーリー・テラー)である。彼は、凡俗な都会人の生活のなかにロマネスクな世界を構築する点で、他に類を見ないほどに西欧的な作家なのだ。》としたうえで、

《彼が夏目漱石経由で学んだイギリス小説の伝統への忠実な師事を見るのである。》

《彼の方法は、その基本的な様相においては、かう考へるのがいささかも異様でないほど、市民小説への接近によつて成立してゐる。》

《しかし隠者には絶対なれない男が、私小説の傑作を書くはずはないのである。彼の才能はそのやうな退屈な才能ではなかつた。》

《里見弴はぼくにまづ、話好きでしかも話上手な隣人を連想させる。その話術の巧妙さはすでに定評のあるもので、今さら改めて言ひ立てる必要はなからう。大事なのは、彼が隣人であるからこそ、あれほどいきいきと、具体的に、ぼくたちに語りかけることができるといふ面であらう。(中略)語り手は聞き手の反応を絶えずたしかめながら、つまり相手がうなづくのを見たり、にやりと笑ひを浮べるのへこちらもにやりと応じたりしながら、話を進めてゆくのだ。かういふ説話体以上に彼の小説の方法をはつきりと示してくれるものを、ぼくは知らない。(中略)

 人々はおそらくかうした作風を、落語家のやうだとか何とか言つて責めるかもしれない。そしてまた、事実さう非難されても仕方がないやうな、卑俗さへと堕しかけてゐる瞬間にぼくたちはときどき立会はされるのだが、このことについてもぼくはかなり同情的である。つまり、里見弴は、幸福な語り手といふものの典型をぼくたちの文明のなかに求めるとき、円朝や小さんへとゆきあたるしかなかつたのではないか、責めはむしろ、話上手なサロンの紳士といふ型を完成させなかつた過去の日本文明にあるのではないかと、僕は考へるのだ。》

《この風俗小説作家の最上の武器は登場人物を型として捉へるといふ態度であった。(中略)もちろん型による人間把握を現代作家が嫌ふやうになつたのは、理由があることだ。型が崩れ、失せてしまつたからである。(中略)しかし現代日本の小説は、このやうな方法にいさぎよく見切りをつけてしまつたため、莫大な損失を招いてゐるやうにぼくは思ふ。新しい小説家は、ぼくたちが生きてゐる社会にどのやうな人間の型があるのかを発見することによつて、新しい局面を開くことが可能なはずである。その際、最も参考になる指針の一つが里見弴であることは、今さら言ふ必要もないだらう。》

 

 ここで、『名人選』の野口富士夫・丸谷才一による<対談解説>の『いろをとこ』に関する部分を見ておく。

《丸谷 里見さんの「いろをとこ」は、好短編のなかの好短編といった短かいもので、いうまでもなくここに出てくる主人公は山本五十六なんだけれども、その名前を最後まで明かさない。しかも山本五十六はこの芸者にとって、要するに旦那ではない。

野口 違いますね。

丸谷 情夫(いろ)ですね。連合艦隊司令長官が、旦那ではなく情夫であった、ということは、日本一の情夫だったんですね。

野口 戦前から戦中にかけての花柳界において、藝者とはこういうものであった……ということを示す代表的なものですよ。

丸谷 西洋の貴婦人がいろんな男をつまみ食いする。小説家と遊んだり、詩人と遊んだり、役者と遊んだりする。それに近い感じで、この芸者は連合艦隊司令長官と遊んでいたわけですね。そういうところで日本の芸者の社会的格式みたいなものを示すのに、この短編小説は逸すべからずものだと思ったんですよ。

野口 総理大臣が、待合のおかみの前では、へこへこしたりしているわけだから……。

丸谷 そういう戦前の日本の社会のいわば全体が、この眇たる短編小説に入っている。ただどうもこの連合艦隊司令長官山本五十六が、何だか少し歌舞伎の大名題みたいな感じで、真珠湾攻撃というのが、実は十二月は京都で「太功記」を出すというような(笑)、そのくらいの話になっている感じがしないでもない。あるいは山本五十六が、やはり歌舞伎の大名題みたいなところがある男だったという気もしますが……。

野口 大石内蔵助が京都の一力茶屋で遊んだときも、こんなふうだったんじゃないですか。

丸谷 そうかもしれませんね。

野口 討入りをにおわすような、におわさないような……。

丸谷 男が政治的・経済的な有用性とは違う、そういうものからいっさい切離されたところで女に接しているわけですからね。だからこういう感じになるんでしょうね。とにかくぼくは最初にこの短編小説を読んだときは、本当に驚きました。

野口 大石内蔵助ですよね、これは。》

 

『いろをとこ』から引用しだすときりがないのだけれど、会話とやりとりの説話体の艶っぽさと、泉鏡花仕込みの文飾、アイロニーで締まった地の文との、女の本質を炙りだす名人芸を、「奥の細道」藤原三代の無常を脳裡にちらつかせさえする芝居がかった幕切れまで引用しておく。ついでだが、鏡花も里見弴も芝居好きなだけでなく、親類縁者の猛反対を押し切って(あまり格の高くない)芸者と結婚した経歴を持つ(似たもう一人が久保田万太郎)。

《前夜の言ひつけを守つて、ビールと枝豆だけ先に来た。湯あがりの胸をはだけて、一本半ほどあけ、そろ/\銚子や料理も運ばれだした頃、女は、三島菊の、四十ちかい年齢(とし)にしてはあら(・・)い柄を、寧ろじみ(・・)すぎる好みのやうに着なし、白献上(けんじょう)の半幅帯の結び目に手を廻したまゝではいつて来た。

「お待ち遠様」

 したとも見えぬ化粧も匂ひやかに、ピタリと餉台のむかうに座を占めるのが、いかにもいた(・・)についたとりなしだつた。

「さつき、うちへ電話を申込んどいて貰ひましたの」

「さうか。……ビール、どうだ」

「さうね、あたしはお酒にします。おいしさうだけど、あと汗ンなるで……」

いづれにしても汗にやァなるさ」

 すましてさう言ひ、酌をしようとするのを、優しく奪ひ取つて、逆に銚子の口を向け変へながら、

「序(ついで)に、なんか、東京に御用ありませんか?」

「お前ンとこなんぞに用のあるわけはないぢやないか」(中略)

「いゝえ、慍(おこ)りやしませんけど、……どんなむづかしい問題だつて、大抵、一時間かそこら考へたら、どうなりと思案がきまるもんだと思ふわ。そんな、あんたみたいに、一ン日(ち)もふつ日(か)も考へづめに考へてたからつて……」

「下手(へた)な考へ休に似たり、か」

「そんな、下手なんてことないでせうけど、……でも、なんだか少しへんね。いつものだんまり虫と、今度は、なんとなく様子が違つててよ」

「をかしいな。どう違ふ?」

「どうつてね。……そろ/\あたしに飽きが来たんぢやァない?」

莫迦な! 嫌ひな奴と一緒に旅行なんかするもんか」

「嫌ひにならないまでも、……さうね、なんかわけがあつて、これッきりもうあたしに会はないつもりかなんかで……」

「しよっとるなァ」

「ちやかさないでよ。……それで、あんたにしては、珍しく、ふた晩もみ晩も……」

「いゝぢやないか。ふた晩み晩たんのう(・・・・)させて貰へば、願つたり叶つたりだらう。自惚るくらゐなら、そこまで自惚とれよ」

「えゝ。でも、それね、なんとなくあんたらしくなくつて、……却つて気味が悪いの」

「をかしな奴だ」

 と事もなげに笑つたが、この女の勘は壺をはづさなかつた……。

 翌日は天気が崩れ、急に秋風だつて、時をり、パラ/\と、時雨(しぐれ)模様の雨が落ちて来たりした。それでも、障子はあけはなしのまゝ、揺れ動く萩などに、瞚(まじろ)がない目を置き据ゑて、昨日(きのう)に変わらぬ男の緘黙が続いた。

 三日目の朝は早起きをし、旅装もととゝのへてから、

「あゝあ、今度こそあたし、天徳(てんとく)をしくじるわ」(中略)

 そんなことで、A駅から、上りと下りと別れたきり、ふッつりと音も沙汰もなかつた。世に聞えた人だのに、誰に訊いても、――唯一の親友・森に会つてさへも、曖昧に言葉を濁ごされた。或る財閥の当主たる旦那に暇を出されたあとも、生得の暢気(のんき)さと淫奔心(みだらごゝろ)から、かねてのいろ客・某省の何某(なにがし)とて、札つきの箒木(ほうき)のもちもの(・・・・)となつて、その日その日を面白可笑しく暮し、いつかあの男の記憶も薄れて行つた。

 ふた月半ほどすると、突然、彼(か)の人の名が、日本はおろか世界中にさへも響き亙った。根掘り、葉掘り、その後の様子を聞き知らうとの熱意も失はれてゐた折からだけに、なほさら女の驚愕(おどろき)は大きかつた。前の旦那の別荘に乗り込んで来て、大威張りで泊まつたり、旦那と一緒に飲み食ひしたりするやうな、ふてぶてしいとも、図々しいとも言ひやうのない「いろをとこ」が、庭先を歩くでもなく、昼は、禅坊主さへ退屈しさうな無言の行(ぎやう)、夜半(よなか)は、打つて変へての、雄々しくも逞しい性慾で圧倒して、未練なげに別れて行つた、あの、残暑の三日ふた晩の旅に、今更らしく、思ひあたる節(ふし)々を捜し覓(もと)めたりして、自分までが、一躍世界的の人物にでもなつたやうな、嘗て覚えのない心のときめき(・・・・)をどうすることも出来なかつた。森を介して、心入れの品々を送り届け、たまさかの短いたより(・・・)を喜び、新しい旦那に見せびらかして、痴話の種にしたりもした。(中略)

 四月、華々しい戦死を遂げた男の遺骨を捧じて還つた下役の者から、英雄の最期に適(ふさ)はしい、現場の模様を聞かされた。(中略)

 もとより遺族ではないが、特に設けられた席から、かくべつえらいとも、勝(すぐ)れてゐるとも思へなかつた人に対する、国を挙げての哀悼を目前(まのあたり)にしては、さすがの暢気屋(のんきや)も、「万感胸に迫る」といふ聞き齧(かじ)りの言葉どほり、何がなんだかわけがわからなくなつて、附添ひの者を不安にしたほど、ひた泣きに泣き崩れた。

 不見転(みずてん)あがりだとか、男誑(をとこたら)しだとか、強慾(がうよく)だとか、見栄坊だとか、傲慢だとか、あらゆる悪評を屁とも思はなかつたやうな彼の女にまで、急に好意や同情の慈雨が降り注いだ、さうされると、別人の如く優雅(しとやか)になり、控目にもなつて、未亡人じみた悲嘆の日を、ひとり静かに送りたがつた。――いつまで続くことかと、嘲り嗤(わら)ふ者もないではなかつたが……。(一行空け)

 一時は香煙を絶たなかつた西郊多磨なる墓所に、いま夏草が茂つてゐる……。》

 丸谷は「ある花柳小説」で『いろをとこ』を論じた。

《里見弴に『いろをとこ』といふわづか二十枚の短編小説がある。まことにすぐれた出来ばえのもので、傑作と呼んで差支へないが、世評は高くない、といふよりもむしろ誰も論じない。しかしどうやら作者鍾愛の一篇であるらしい。文学全集類に収める際のあつかひで、自信の程は判るやうな気がする。》

山本五十六といふ名はおしまひまで出てこないが、しかし終り近くになると、ははあ、と見当がつくやうになつてゐる。それは歌舞伎の引抜きといふやつに近い芝居がかつた仕掛けで、短編小説作法で言へば例のドンデン返しである。われわれは、残暑の温泉へ二泊三日、年増藝者を、旦那の眼を盗んで連れて来て、夜はともかく日中は女をちつとも相手にせず、ろくすつぽ口もきかずに考へごとばかりしてゐる、得体の知れない六十男とつきあつたあげく、あの男が実は山本五十六だと聞かされて息を呑むのだ。》

《しかしもうすこし仔細に見れば、これは女の眼から見た物語といふ趣向になつてゐる。かつて平野謙有島武郎の『或る女』のなかの一節を引き、男の姿が女房的視点から眺められ、矮小化・日常化されてゐることを指摘して、それをきつかけに、わが近代小説のリアリズムを批判したことがある。つまり男の偉さが見のがされてゐるといふわけだ。それはたしかに巨視的な展望として当を得てゐるだらう。が、有島の末弟の書いたこの短編小説の場合は違ふ。女は黙りこくつてばかりゐる男を持て余し、不安に思ひ、しかし相変らず惚れつづけ、そのあげく真珠湾の勝利に驚き、そしてしばらくたつと今度は男の死を知ることになるのだ。この場合、話は逆で、女の視点から男を見たのでは男の本当の姿は判らないといふことがいはば主題になつてゐるだらう。

 さうなるのは当然だ、とも言へるので、これは妻の視点からではなく藝者の視点から書かれてゐる。そこにしつらへられてゐるのは、藝者といふ、戦前の日本では唯一の社会化されてゐた女の視点だから、外界に対してせめてこの程度の視力でも持ち得た、と考へることもできよう。この女はすくなくとも、自分では測ることのできない価値がこの男にあるといふことを漠然と感知したり予感したりしてゐて、それが彼女の恋ごころに、薬味のやうに作用してゐるのだ。

 その意味で、『いろをとこ』はいかにも花柳小説の名手にふさはしい作品だし、いや、いつそ花柳小説そのものだと考へるほうが納得がゆく。女が、「田舎出(ぽつとで)の若い女中」とかはす会話、男との短いやりとり、その表情や立居振舞の描写などがどんなに上手いかは、何も今さらわたしが褒めるまでもないが、是非とも言つておかなければならないのは、女の意識のなかにおける社会のありやうが、ほとんど厭になるくらゐ精細にとらへられてゐることだ。この年増藝者にとつての男は、客いろである役者のやうなもので、しかしこの立役者が今度、上方であるいは名古屋で何を演じるかはちつとも知らされてゐない、まあ言つてみればそんな調子のものとして外界が存在し、しかもさういふ恰好の、淡くて漠然として他愛のない感じの社会のあり方が一筆がきで勢ひよく、生気にみちた筆づかひで描かれてゐる。以前の日本では、ただ花柳小説だけが社会小説だつたといふわたしの持論は、これを見てもやはり正しいやうな気がするのである。》

 

<『河豚』>

 丸谷は「里見弴についての小論」で、『河豚』をとりあげる。

《もつとも、さうは言つても、里見の作風が社交的な人あたりのよいものだと取られては困る。一皮めくれば、底流するものはずいぶん暗い、苦いものだ。このへんのことを知つてもらふには、最初期の作である『河豚』を差出せばよい。

 題にこだはつてばかりゐるやうだが、『河豚』は最初につけた『実川延童の死』のほうがよかつた。『河豚』では曲がないし花がない。まづ名前で上方の歌舞伎役者を色つぽく現前させ、その藝名のなかの「童」とおしまひの「死」とを衝突させる原題のほうが効果がきつい。つまり主題である生の花やぎと死との関係を色つぽく示す。これは例の大正文学好みの生命力をいちはやく(大正二年=一九一三)扱つた、新人の名作であらう。

 前にも言つたやうに一体に大正文学は、あれは大逆事件以後の暗い重圧への反撥ないし韜晦(とうかい)かしら、自然主義文学のマイナス方向ばかり強調する単調さへの抵抗もあつたかもしれないし、それとももつと広く、山崎正和のいはゆる「不機嫌の時代」を打ち破る策としてかもしれないが、生命力賛美がさながら時代精神のあらはれのやうになつた。「人間」といふ言葉の頻出などもその一兆候である。

 ただしおほむねの文学者の生命力とのかかはり方は素朴単純なもので、小説の場合もあまり変らず、志賀直哉『暗夜行路』前編末尾の、女の乳房に触りながらの「豊年だ! 豊年だ!」あたりが手のこんだ藝であつたらう。そこへゆくと里見初期のこの短編小説は、花形役者の若さを馬鹿ばかしい死に方で隈どることで見事な効果をあげてゐた。それを当時の読者たちは、単に絶妙の藝とだけ取つてゐたのだが、人生を見る眼光が冴えてゐなければ、藝の深さはあり得ない。(中略)

里見の作中人物たちは、花柳小説の場合でも、一連の逃亡者列伝の場合でも、市民小説の場合でも、みな魅惑に富む。さらに言へば愛嬌がある。つきあひたい気持になり、友情を感じる。この作家は小説といふ形式の核心のところをとらへてゐる。これはわが近代文学において彼が最も誇るべき長所であつた。》

 また丸谷は「里見弴についての小論」で、『縁談窶』に関する思い出とモダニズムについて語っている。その内的独白というモダニズムは、『縁談窶』の一年前、大正十三年(一九二四)の『河豚』にすでに見出せるではないか。ジョイスユリシーズ』の第十八挿話「ぺネロペイア」(一九二二)の、眠りにつくモリーの淫蕩な内的独白を、河豚中毒で死にゆく歌舞伎役者に出現させるという離れ技だ。

《『縁談窶』には思ひ出がある。

 わたしは中学生のころ里見弴の小説が好きで、それも何となく西洋の小説に学んでゐるやうな書き方が気に入つてゐて、かういう作風の人が志賀直哉と親しいのはをかしな話だと子供心に感じてゐた。何しろ当時は志賀がやたらに崇拝されてゐたからやはり気にするし、彼の『或る男、その姉の死』とか『和解』とかとりわけ『網走まで』が大嫌ひなわたしには、この二人の取合せがどうも納得ゆかなかったのである。》

 生まれ育った城下町の古本屋に里見弴「縁談窶」という題の本があったが、気に入りの作家なのに手に取ることもせず、三字目の字がいやで、読めないし、感じが悪く、いつになく辞書に当たろうともせずに、故郷の町を去ったのが昭和十八年(一九四三)。戦後もずいぶん経ってから、たしか里見没後のこと、誰かの編で出た小説集の目次の振り仮名のせいで訓(よ)みを知り、『縁談やつれ』と書いてくれればよかったのにとぶつぶつ言いながら読んで見ると、じつにおもしろかった。鎌倉住いの初老の男が踏切近くの路で、昔、放蕩者だったころ、髪結いに行った藝者が帰るのを待っていたときのことを思い出す、内的独白まじりのくだりがすばらしかった、と文庫本の二頁半にわたって『縁談窶』の該当場面を引用して見せた。

 後半を書き写せば、

《――待ってみると、五分という時間もなかなか永かった。それが、ゆくりなくも、阿野の心に、痴情の限りを尽した昔日(むかし)の思い出を喚び起して来た。……三日三晩ひと間(ま)に籠りきって、食べるものさえ碌に食べず、たまに執(と)る箸も、寝床の上に腹ン匍(ばい)のまま、というような為体(ていたらく)でいながら、その四日目の午後(ひるすぎ)、妓(おんな)が髪を結(ゆ)いに行っている間、餉(ちゃぶ)台(だい)に頬杖をついて、じッと時計のセコンドを睨めたきりで過した一時間あまり、……今、髪結(かみゆい)さんが、紐で腰にぶらさげている鋏(はさみ)で、パチリと根の元結(もとゆい)を切った。……今、あの沢山ある毛を梳かせながら、目尻を吊しあげて、薄目使いに鏡のなかを見ている。……今、前髪をとった。(中略)――さア、格子戸をあけた。……今のように一足。……今、二足。……ここまで、百歩とはあるまい……。――目に見えず、耳に聞えず、手に触れられない女の一挙一動を、寸分(すんぶん)の誤りなく思い計ろうとして、尺蠖(しやくとりむし)のようにぴッたりぴッたりと、青白い時計の指針面(ししんめん)に心を吸いつけ、伸びつ、縮みつ、じりじりと迫りよって行った一時間あまり!――今にして思えば、我ながら薄気味わるいほどだが、ひとを待つ時の歩みの遅(のろ)さが、ふと、そんなふた昔も前の、一生ひと(・・)にも話せないような記憶まで揺り醒(さま)して来たのだ。

(あの女もどうしているか……)

 陽(ひ)の翳(かげ)るように、寂(さび)しく心が暗もうとした時に、表停車場の方から踏切を、日除(ひよけ)だけに幌をかけた俥が、横切り近づいて来た。馬鹿に眼性(めしよう)のいい阿野には、片手を軽く幌の骨にかけて、すましこんで乗って来るのが、紛(まぎ)れもなく、ひと目で都留子と知れた。

(やア、来た! 来た!)》

 引用に続いて丸谷は、

《今の鎌倉駅の近くと数十年前の大阪の三業地、亡友の娘である良家の子女と昔の遊びの相手である藝者、時間、土地、階級の三要素がいい呼吸で交錯するそのあざやかさと言つたらない。わたしはつい、これはモダニズム小説だよと感嘆してゐた。

 年譜を操つてみると大正十四年(一九二五)の作品だから、ジョイスプルーストも翻訳されてゐない。いつどういふふうに仕入れた藝だらうと不思議になるが、名匠の勘は冴えてゐて、いちはやく時代の気運を察し、思ひがけない所から示唆を得、工夫したにちがひない。ぢかに学び取つたものでない半ば独創の藝であるだけふうはりとした味があるとも言へよう。

 それにもともと里見は、若年のころゴーリキの作に親しみ、あるだけの英訳に残らず目を通したといふ。ひよつとすると、原書や英訳によつてモダニズムの新風に接してゐて、それに触発されてゐたのかもしれぬ。何しろ昭和九年(一九四三)といふ早い時期、『荊棘の冠』においてジード『女の学校』の影響をあらはに、しかしじつに巧みに見せた人ゆゑ、見くびつてはいけないのである。里見は私小説的な作風であるにもかかはらず、それは素材的にさうであるだけで、技法的にはずいぶん西洋くさい作家であつた。さらに言へば昭和期の藝術家小説を参看しながら私小説といふ独特の方法を作つて行つたので、そこでは後年の狭苦しい気風は支配的でなかつた。》

 一方、『河豚』の終盤、大阪は玉庄の河豚にあたった実川延童は、民間療法なのであろうか、回復を願って生きたまま土に埋められる。その臨死体験とでもいえる精神世界を、登場人物をうまく動かしながら、目の前で見聞きしているかのように描く技量の凄み。芝居見者らしく、妙ににぎにぎしく、余韻たぷりの幕引き。

《「河豚食って、河豚にあたって、ふぐにお暇や」などと戯れていた。いつともなく、手足や脣などのギコチなさが次第に加わって来ているのも心づいてはいたが、気持はふだん(・・・)よりも却ってハッキリして快かった。こんな時なら何をしても、舞台の上のことばかりではなく、勝負ごとでも、日ごろ嗜む手細工のようなことでも、何でもうまく行きそうな気がした。

 しかし、夕方の六時頃には、延童の体はもう彼の自由にはならなかった。口も利けなかった。そとから帰ったままの黒の紋服のなりで、床の上に抱き移された。(中略)

 当時の名優海老十郎が見舞に来た頃にはもう大分に夜も更けていた。案内して来た男は途中ではた(・・)の人にせわしなく呼びかけられて、「どうぞあちらへ」と云い置いたまま。床の敷いてある部屋の襖のところから小走りに引き返して行って了った。丁度延童の体が縁先の土に埋められた時だった。華美な纈(くく)り枕を支(か)った首だけが、幾つもの色の違った灯に照らし出されて、クッキリときわだって見えた。(中略)

「もう、どないしてももど(・・)りまへんのか」

「私の考では、とても、いけそうもありません」

「なんだっか? 河豚にあたった……?」

「そうです、河豚の中毒で。誠にお気の毒なことでした」

 医者は少しも自分を弁護するようなことは云わなかった。

「フウン」と海老十郎は不機嫌に唸って、死んで行く人を咎めるように首を二三度横に動かした。

 これきりでこの二人もはた(・・)の沈黙に吸い込まれて了った。

 その自分になって、丁度眠りから覚めかけたように、延童の微な命には、再びこんなことを考えるもの(・・)が動き始めた。

 大分永いこと気を失っていたようだ。一体どうしたんだろう。(こう思って、ちょっと不安に感じた。)何んでもこれは不時の出来ごとではない。どうしてもこうならなければならなくって、こうなったのだ、何しろそれだけは慥かだ。して見ると広島以来の脳病かな? それより他にない。なんだあのくらいな脳病で……。(こう思いつくと不意に可笑しくなった。自分のまだ極く軽い脳病のために命までも気づかったことが、ちょっとでもそんな気になったことが、既に馬鹿げきった滑稽に感じられたのだ。この考えで一時に愉快になって来た。)――たしか、前にも一度こんなことがあった。(と、また考え続けた。)その時にも死ぬかと思って、あんまり馬鹿々々しいので可笑しくなって了った。そうだ、何から何まで丁度あの時とおんなじだ。(この発見は益々彼を愉快にしたので、暫くは、同じ大さのものを重ねるようにピタリピタリと合う、いつのこととも解らない或る以前の記憶をたどっていた)。そうそう、そう云えば親仁(おやじ)だってそうだ。(竹田の芝居が焼けた時の有様がマザマザと目の前に浮んで来た。)あのときの額十郎(いづつや)さんは松王と千代とを早替りで勤めていた。もう火事だ火事だと云って人が騒ぎだしているのに、親仁はすまして松王の鬘を持って額十郎さんの部屋の方へ行ったっけ。さあそのうちに奈落へ火が廻る――もうあれから九年になるなァ。(中略)

 ――どうだろう、よもや命に別状はあるまいな、それだけ一寸酒井さんに尋ねて置こうかしら。何しろあの竹田の芝居の火事だって、大変な人死(ひとじ)にだったんだから……。第一あんなに落ちつき払っていた親仁が、矢っ張り焼け死んでいるのだからな……。

 こう思いつくと、まるでそれまで思い設けなかった火の玉のような不安が、身をかわ(・・)すひまもない速さで、降りかかって来た。――口を利こうとした。しかし、かつてものを云う法を知らなかった人のように、どうしてよいのかあてすらつかなかった。その苦みの表情も、もう、蒼白い延童の顔の筋肉までは浮んで来なかった。

 一時間ほどの後に、延童の屍は掘り出されて床の上にあった。

「惜しい人だった」

 海老十郎にひと言こう云われると、小延童は今まで堪えに堪えていた涙を流した。多見蔵も来てくれた。珊瑚屋の妾の泉さんはもう公然と亡き情人の枕辺ちかくにいた。お峰、小しづ、――通夜の席にいたのは以前に関係があったと云うような、もう姐さん株の年増が多かったが、中には若い妓の目を泣き腫らしているのも混っていた。

 翌日から玉庄は永く店をとじて了った。

 明治十六年のできごとである。》 

 

 

<『妻を買う経験』>

 杉本秀太郎が個々の作品を『傑作選』で解説することはなかった、とさきに書いたが、それでも『名人選』に対して全体に調子の低いなかでは秀作の、徳田秋声、里見弴、丹羽文雄について、さすが杉本らしく文学の機微を知り尽くした文章を残している。職人的な巧さ、やや頽廃的な味わい、読むことの快楽とは、大人にとってこういうものだと、あたかも京の花街祇園の高度な悦楽のように囁く。

《この『傑作選』のうちには、『街の踊り場』の徳田秋声、『河豚』、『妻を買う経験』の里見弴、『甲羅類』の丹羽文雄、三人の名うての小説家が含まれている。不知不識のうちに「花柳小説」という観点を離れてこの三人それぞれの文章を読むうちに、私は一種畏怖の念をおぼえていた。『妻を買う経験』と『甲羅類』は極めてこみいった話の連続だが、話の折れ目、曲り目、切れ目の処理、入念執拗な、粘着的な書き振り、全体にわたっての、それぞれに等質な文章の密度の高さは、当節の作家のうちにその類を見ることのないところで、読み終えると、どっと疲れが襲ってくる。しかも、麻痺した頭に充ちてくる陶酔の名残りが、またとなく快い。秋声の『街の踊り場』は上の二作に較べればよほど短いが、タイヤの空気が抜けてハンドルは半分こわれかけている中古車にゆすられ運ばれているような不安と危険への注意力の緊張と弛緩の波が、独特の読中感覚を与えるところ、至芸なのか芸の崩壊なのか、にわかには見分け難い。》

 

 丸谷「里見弴についての小論」は『恋ごころ』(講談社文芸文庫)の解説だが、収録作品の一つ、『妻を買う経験』については素気ない。

《大正文学の主調は生命力の謳歌で、現場の心得としてはあおれがディテイルの重視をもたらした。そのせいでとはかならずしも言へないはずだが、しかし実際にはそのせいで想像力が軽んじられ、作家の実地に体験したことしか書かない気風が支配的になつた。それはよく言へば仕込みに元手をかける態度で、それが最もはなはだしいのは里見である。たとへば『大火』を読むと、吉原事情にこれだけ通じるには生半可な出費ではむづかしいと思はせられる。通常のときの吉原に詳しいから、非常の場合の吉原の大みせのいろいろな業種をこれだけいきいきと描きわけることができるだらう。筆が立つのはもちろんだが、そのことに感心する前に取材費の金額に舌を巻くのがこちらの反応になつてしまふ。

 同じことは『妻を買う経験』についても言へよう。これは金銭が眼目の話だから、現物に当ればよくわかるはずゆゑ、説明は略す。》

 しかし、続く指摘は里見の本質、ひいては文学の本質、あるいは文化的に成熟した人間の生き方をよく言いあてている。

《花柳小説の作者たちに限らず、一般に近代日本の文学者は社会に背を向けてゐたし、そして里見は、社会から脱出する者を好んで取上げながら、日本の社会とじつにうまく折合ひがついてゐた。心の底はともかく、表向きはさうであつた。本当はこれが正統的な作家の態度なので、このことは里見の小説の方法の西洋くささと深いところで関係がありさうだ。(中略)そこには出身階級に縛られずに、羇絆(きはん)を脱して生きたいといふ作者の願ひがよく見て取れて、しかしそれにもかかはらずその自分が属してゐた中流上層ないし上流を含む日本の社会がきちんと焦点が合つた感じでとらへられてゐる。さうなると帝政末期のロシア小説よりもむしろイギリス小説に近くなる。里見の反逆が幼稚に抒情的でなく大人つぽい感じなのは、主としてこのせいかもしれない。彼の作品の小説的に安定した味はここから生じる。

 そしてこの作家独特の社交的な説話性は、このへんの事情からもたらされる。》

 

 丸谷は「里見弴の従兄弟たち」をこう始める。鶴見俊輔の『戦時期日本の精神史』という本で、華族の家の妾腹の子として生れた大河内光孝の話を読んで、里見弴を連想する。

《わたしはこの話を読んで、ほとんど反射的に、里見弴の流転の生涯を送る男たちをあつかつた一系列の作品を思ひ浮べた。社会的脱落者である主人公。数奇を極めた生涯。みじめではあるもののしかし何となく花やかな彩り。これらの条件に加へて、彼の冒険と愚行に迷惑しながらしかし彼に魅力を感じてゐる周囲の者や、それにこれは技法上のことだけれど、語り手の知らない余白の部分がいつぱいあつて、それがかへつて現実の広大さ、人生の謎めいた感触をうまく出してゐる効果などを付け加へるならば、まさしく里見の世界ではないかと思つたのである。》

楽天的でしかもそのくせ充分に敏感な小説家が、ゴーリキーにおける放浪者と藝術家との二重写しに共感を抱いたのは、当然のことだつた。この型の主人公でゆけば、屈託のない、寛闊な自己主張といつしよに、苦りのきいた自己批評も出せるからである。彼は一方では藝術家であることに圧倒的な優越感をいだきながら、他方、自分が属するこの種族の胡散くささを鋭く感じとつてゐたのである。その態度にはたぶんトーマス・マンと共通するものがあるはずだ。別の言ひ方をすれば、彼は浪漫主義に魅惑されてゐたが、その魅惑のされ方はずいぶん高度なもので、それと同時にロマンチック・アイロニーも知つてゐた、直感的に知つてゐた、といふことになりさうである。この皮肉な味は、大正期の藝術家崇拝には珍しいものであつた。それゆゑ里見は、いはば本能的に、幇間や泥棒やサーカスの団員くづれの画家や蕩児など、この種のいかがはしい男たちの流転の物語を、不思議な優しさで語りつづけたのだらう。そこには傍観と友情とが、それぞれの場合に応じて、じつに適当な割合でまじつてゐた。里見の作品のなかで、藝術家ではなく藝術家型の失敗者を描いたこの系列のものが概して最も出来がいいのは、かういうアイロニーの味がうまく添へてあるせいだと思はれる。》

《里見は、社会に背を向ける流浪者に自分をなぞらへながら、しかしいつも社会を意識してゐた。あるいは、社会があればこそそれからの脱落者との双方に対して憐れみの眼を向けてゐたのである。》

《里見は上流の子弟として生れながら、本来のコースをたどらず、つまり、陸海軍の将校にも、外交官にも、実業家にも、貴族院議員にもならず、身を持ち崩して小説家になつた。そのせいで彼のつきあふ範囲は、小説家、画家、俳優、藝人、藝者、女将、幇間、その他いろいろと、非常に広くなつたし、ここまでは永井荷風の場合と同じだけれど、ここからさきは大きく違つて、里見は出身階級と縁を切らなかつたので、彼の視野にはいつまでも社会の全階層が、具体的な形で存在することになつた。(中略)このことは里見の小説の世界に意外なほどの幅の広さをもたらしてゐるので、彼が近代日本文学には稀な社会批評の作家となつたのは、この条件と深い関係があるやうに思はれる。荷風の社会批評が、とかく上流への敵意と下層への親愛があらはになりがちなため、一種イデオロギー的な、あるいは感傷的な、図式性の枠のなかにあるのとは異り、里見はあらゆる階級に対して寛容であつた。もちろんそれをあきたらなく思ふ読者もゐるだらうが、しかしこれが小説の本道だと見る立場も許されなければならない。ここで言ふ社会批評とは、社会主義の正義感を援用して裁くといふ意味ではなく、風俗を回路にして社会を認識するといふ意味だからである。その点で里見の小説は、意外なくらゐイギリス小説の方法に近かつたやうに見える。》

 丸谷の批評は『妻を買う経験』の登場人物、たとえば内藤の、あるいは昌造の、《社会的脱落者である主人公。数奇を極めた生涯。みじめではあるもののしかし何となく花やかな彩り》の、どこか憎めない魅力に相応するだろう。描写力と語彙と文章の確かさ、地の文と会話の滑らかにして天性の絶妙な間(ま)。芸者おしげのモデルで、大阪の芸妓だった妻の山中まさに大阪弁をみてもらったと、悪びれることなく対談で告白している。込み入った話を巧みにほどく語り口、目の前にたしかに相手がいる会話、結婚が金銭の話になってしまうアイロニカルな場面を二、三引用したい。

《清水の四男で母方の姓を継いでいる昌造が、大阪で或る芸者と懇(ねんごろ)になって、その女と結婚しようと決心した。二人の間には子供まで出来た。それが生れる少し前に、清水の両親はさんざ反対した末に、とうとう伜の強情に折れて、諦めの意味からやっとそのことを承知した。長男の敬一は、まだ両親までその話がもち出されないズッと以前から、なんのかのと頼りにされて、始終同情者の位置に立っていたが、先方の娘が背負わされている馬鹿げて多額な借金については、弟とも相談のうえ、凡そその半額ばかりに両親には話させて置いた。併しそれでも、父親は多過ぎると言って、実際ありそうもしないものまで言い立てて貪ろうとしているのだと疑った。それの真偽を突き止めることとか、先方の母親や同胞(きょうだい)とは、親類づき合いは末(おろか)、決して出入りもさせないことに証文を取り交わして置けとか、いろいろな条件があって、大体承知はしたと言うものの、それ等の条件に欠ける点があれば、勿論すぐ取消になるような承知のし方だった。外の条件はどうにでもなるとして、昌造には勿論、敬一にもどうすることが出来ないのは、結局借金の始末だった。

「僕などはそんなことにかけたら全くの無能力者だ」

 と、謹直な敬一は笑いながら内藤に話した。「そこへ行くと君は、だいぶ苦い経験も嘗めさせられたような話だから……」

「や、どうも、とんだところで先輩扱いにされて恐縮ですな」

 聞いているうちに、内藤の心にはすぐもう計画が立った、――ような気がした。と言うのは、彼が自分自身の場合に執った総ての計画なり経過なり結果なりが、いま話で聞いた昌造の場合の上へ探照燈を注ぎかけたように、そこの総てのことを明るく眺めさせたことだった。》

《三十何年芸者で暮したわりには心持に潔癖なところの残っている、我強(がづよ)い、臆病な、猜疑(うたぐり)深い母親は、初対面の、而も自分の利益と撞着する性質の用件を帯びて来ている男を、恰も懐に匕首(あいくち)を吞んでいるほどに不気味に感じて、神経の昂った、少し青ざめた顔つきをして、油断なくジロリジロリと内藤の心に目をつけながら、大きな、間の隙(す)いた前歯をむき出して、声を立てずに、これも変な笑い方をした。

 二つ三つ世間話の後に、話題はすぐに用件に移った。

「……こっちのことはよく知りませんが、五千円という借金はちっと多いようですな」

「五千円もあれしめへんけどな」

「四千何百円、かれこれまア五千円でさアね。そんな芸者が、こっちには大勢いるんですかねえ」

「さア、どうだっしゃろな」

 と、故意(わざ)と冷淡に、「けど、わしとこではおまんね。掛値も嘘も言えしめん。そらアあんた(・・・)もよう知ってなはりまッ」

 母親は昌造の方を顎で指した。昌造はここでは常にあんた(・・・)と呼ばれていた。

「さ、そう貴方のように言っちゃ困る。掛値があるともなんとも言ってやしませんと」

「へ」

 と、苦り切っている。

「それだけの借金を背負った女は、東京じゃアそうたんとはありませんがね」

「そうだっかいな」

 黙って聞いてろイ! と言いたげに内藤は眉間に電光を走らせて、「が、それアあるものはあるでいいとしてだ、清水家の御両親は、せいぜい二千円より出されんと仰有っとるんですからね。……まアま、黙ってお聞きなさいよ。とにかく纏りそうな話にせんけれア、いくら私たち友達が仲イはいってみたところで、これア相談にもなんにもならんのだから……。いいかね。ここは一つ貴方ともご相談だが、私でいいところは私がいくらでもやってみるけれど、私じゃアいかんところもある。そこは一つ、貴方も自分の娘さんのためだ、ひと肌ぬいでくださらんとね」

「それがいきまへんね。太田の口にせ、明石の口にせ、何も商売にしてなはる金貨と違いまんね。みんなわての古い古い馴染だんね、……馴染いうたかて女子(おなご)はんだっせ、つまり昔の朋輩だんな、……それでわての気性をよう知ってくれてますよってに、長吉ッさんやったら間違いないやろ言うて、自分で稼ぎ貯めた、それこそ虎の子のようなお金を貸してくれはった、ほん義理の深アい借金だすよってな、……どない言うて貰うても、わての口から、まけ(・・)てほしいなんてよう言いまへんね」》

 里見はいつも、最後の拍子木のチョンが胸に応える。

結局、あまり要領を得ずじまいに内藤が帰京してから、《昌造は四五人の債務者を相手に、血眼になって自分の妻たるべき者の値段を極力値切り倒し》、《凱旋の将軍が捕虜を従えて来るように、値切って買い取った妻を伴って上京してきた》が、おしげは主婦となってからも《暫の間清水家に出入することを許されなかった。翌年の夏の初めに、結婚式と仲人とのない、だしぬけの披露》となった。

《――この披露の席に内藤を請待(しょうたい)することを、清水の父親が特に昌造に注意した。彼は大阪から「凱旋」した後に、内藤が彼のために凡そ費したほどの金高の札物を持って彼を訪ねたことがあったが、その時は、留守で会えなかったから(序に内藤のために、その礼物がそっくり返却されたことを記して置く)昌造は大阪で別れて以来初めてその席で彼と顔を合せるのだった。よく言えば、わりに淡泊な性分をもっている昌造は、そこに彼の父親が特別に注意を払ったほどには、もう内藤に拘ってはいなかった。客を待ち受けるために五十分ばかりも早めに料理屋へ出かけて行った彼は、そこの樹木の多い庭に近く座布団を持ち出したりして、もう、真先に内藤が来ているのを見た。――郊外の家から東京へ出る序にと、用達(ようたし)を兼ねて来たのが、その用が案外早く片づいたので、あまり早く来過ぎて失礼した、と内藤は断ったけれども、それはそうであろうとも、内藤が真先にこの席にいたことが、昌造の心に何か湯のように温いものを迸らせた。

「あの節は、いろいろ有難う御座いました。……失礼ばかり致しまして……」

 この言葉を言う時、昌造は内藤の顔を見ることが出来なかった。またもや、あの突拍子もない血が彼の頬へと衝きあげて来るのを感じた。》

 丸谷が指摘した、《これらの条件に加へて、彼の冒険と愚行に迷惑しながらしかし彼に魅力を感じてゐる周囲の者》とは、見事な幕引きに心温まり、名残り惜しむように本を閉じる読者もまたその一人である。

                             (了)

      *****引用または参考文献*****

*『花柳小説名人選 日本ペンクラブ編――丸谷才一・選』(集英社文庫

*『丸谷才一編・花柳小説傑作選』(講談社文芸文庫

*『丸谷才一全集9』(「誰も里見弴を読まない」「ある花柳小説」「里見弴の従兄弟たち」所収)(文藝春秋社)

*里見弴『恋ごころ』(丸谷才一解説「里見弴についての小論」所収)(講談社文芸文庫

*里見弴『初舞台・彼岸花』(講談社文芸文庫

*里見弴『秋日和』(夏目書房

*『唇さむし――文学と芸について 里見弴対談集』(かまくら春秋社)

*『筑摩現代文学大系22 里見弴・久保田万太郎集』(筑摩書房

*『丸谷才一批評集5』(舟橋聖一『ある女の遠景』(講談社文庫)の解説「維子(つなこ)の兄」所収)(文藝春秋

*『筑摩現代文学大系49 舟橋聖一集』(筑摩書房

 

映画批評 溝口健二『近松物語』論ノート

 

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映画批評 溝口健二近松物語』論ノート

<「『近松物語』の物語」>

溝口健二監督『近松物語』(1954)の脚本家、依田義賢の『依田義賢 人とシナリオ』「シナリオ 近松物語」は、溝口健二(1898~1956)の人間的な気性、理不尽さと、監督が求める狙い、水準の高さを、重要場面の誕生秘話とともに描写して申し分ない。いわば「『近松物語』の物語」だ。長くなるが転載する。

(溝さん=溝口健二、川口さん=川口松太郎。辻君=辻久一)。

《溝さんは永田社長に呼ばれて東上し、もっと、何かこれと言ったものはないかとたずねられたようです。

近松のものをやってみてはどうだろうかとその時、話が出たらしいのです。溝さんは『堀川波鼓』をやってみたいと、社長に言ったということが、すぐ京都にしらされまして、まだあの作をよく知らなかったわたしは、すぐに読みましたが、この姦通ものは面白いので、わたしは賛成したいと思って、溝さんの帰りを待っていました。溝さんが帰って来て、川口さんと企画部長の服部君、企画者の辻君たちと早速、検討しましたが、どうも子持ちのかみさんの話では地味だというのがみんなの意見でした。それに武家というのが、溝さん自身も少々、荷厄介なようでした。他になにかあるかいと問われて、わたしは、近松の作品で現代性に通ずるものは『女殺し油地獄』がいちばんだと言ったのですが、皆の賛同を得られません。姦通ものでもいいが、他になにがあるかというので、すぐに溝さんの口をついて出たのが『大経師昔暦』でした。(中略)

 ところが、『近松物語』のシナリオづくりがまたまた大騒動でした。はじめ、川口さんが本を書くということになりまして、それが出来てきますと、私の手にわたります。がっちりと芝居は組まれて、申し分がありません。(中略)本読みをしました。溝さんはむっつりして容易に感想を述べません。

「これでやれとおっしゃるならやりますよ。しかし、こんなものでいいのですか。」

と言う。

「どこが気に入らないんだ。」

川口さんがききます。

「芝居はちゃんとできてますよ、しかし、これでは困るのですがね。」

そう言うだけで、一向にその理由がわからない。

「わたしは西鶴のおさん茂右衛門の方をもっと、とり入れてほしいのです。」

 聞いていて、わたしは、あっと思った。近松の『大経師昔暦』をというので、仕事がすすんでいたのでしたが、これはお玉という女中が中心となっているのです。それでは、おさん茂兵衛が立たない。いや茂兵衛の長谷川一夫さんが立たないということを、溝さんは考えているのです。溝さんはそれを口にのぼせませんでしたが、川口さんもそこに気がついたにちがいありません。

「それなら、そうとはじめから言ってくれよ、後は君たちでやってくれ。」

と、そこでわたしと辻君に新しい稿がまかされました。

 おさんと茂兵衛が駈落するまでのところは、近松は実によく事情が組んであってまず動かぬところだから、駈落してからの後半を直すことになります。

 つまり、お玉が二人の罪をかぶって、処刑されるにいたるくだりを、おさん茂兵衛の運命を追いつめてゆくことになるわけです。西鶴の『好色五人女』の巻三にあるおさん茂右衛門の話について、詳しく述べるのははぶきますが、この不義におちるまでのいきさつは、たわいない誤ちによっています。たわいないというのはくだらないというのではなく、女中のりんに思慕をよせる奉公人の茂右衛門が純情に思いをかきつづる恋文を読んだおさんが、影待の酒の酔いについいたづらごころをおこし、女中の寝床に入って、恥入らせ、こらしめてやろうというのが、疲れて眠ってしまって誤ちを犯したという、追いつめられたようなものでないのです。自然さ、ありそうなことといえば、この方がよいので、近松の方は如何にも、しぐみ、こしらえあげたという感じで、ふとした誤ちが苛酷な運命を誘うというのはなかなか見事なものです。わたしなどは、西鶴のこの事情の方が好きなのですが、こういう展開では溝さんは承知しません。世間の仕組み、封建の世の枷(かせ)というものを、強く組み合わせて描くことを求める人ですから、この点で、前半の方は近松をとりたいというのはわかっていました。二人が家を立ち退いて後のことについては、実は溝さんは、このシナリオにかかる前に、わたしに西鶴のあのところのくだりの文章の見事な美しさはたまらない、あんな美しい文章はちょっとありませんよとしきりに言っていたのです。わたしはそれを聞いていたにもかかわらず、近松の方を土台にこの話がすすめられていましたし、それを追ってゆけば、女中お玉の運命を辿るのが構成の自然の展開と見、川口さんも同様に思われたのでしょう。近松のよいところ西鶴のよいところをとりあげ、ないまぜてという風には考えなかったわけです。あるいは、今から思いかえしてみますと、近松の作をまとめられた川口さんの作に対して、大きく改変することは悪いと気がねしたということもありました。なにはともあれ、西鶴の作を辿って後半を構成しました。あらましは、京をのがれて近江に出て、湖に身をおえようとしたが、生きて年月を送ろうと、丹波の奥の茂右衛門の親もとをたずねる。ここでは律儀な親の怒りを買い、追われてゆくうちに京よりの追手がかかり、遂に、捕らえられて、粟田口に処刑のため町を引きまわされてゆくというのです。》

 苦心をして、二度目の本読みです。

《溝さんは、むっとして、口を開きません。

「気に入らないのか。」

「いや。」

溝口さんは、肩をそびやかし、

「そんなことじゃないんです。いったい、これは何を描こうというんです。わたくしはそれを、おたずねしたいのです。テーマはなんですか。」

 辻君は、

「封建下の男女の悲恋でしょう。」

といいましたかどうか、とにかく才走った彼だからもっと巧みに話したと思います。その時どんな言葉を溝さんが言ったか忘れてしまいましたが、

「そんなものが描かれていますか。こういっちゃ失礼だが、そんなものは描けているとは認めません。ただ、苦労して、つかまって死んだというだけの話じゃありませんか。」

 いや、そんな言葉じゃなかったようです。

「この題材がだめなんですかね。近松西鶴がだめなんですかね。」

 というようなことも言われた気がします。(中略)

辻君のほうも、

「もう一度考えてみましょう。ですから先生の御意見を。」

「どうしたらいいか、それは君たちが考えて下さらなきゃ困るじゃないですか。しかし、言ったってむだでしょ。」

「たとえばどうなんだよ」と川口さん。

 溝さんはかっととりのぼせたような顔で、

「大経師のような家は体面がある筈です。心中してくれては困る筈です。そうでしょう。」

「死ぬことも出来ないということですね。」

 わたしが言う。

「そうですよ。そこを考えればいろいろあると思うんだ。不義ものを出した大経師のような家は闕所(けっしょ)になる筈です。」

(大経師とは伊勢神宮よりの暦を神祇官より最初に受けて版行する名家)なるほどそれはさすがに、溝さんらしい考え方、とわたしはすぐに感心して、されば、と思って、ようしという気になりました。》

 茂兵衛という人間の肉体感、実在性、奉公人としての立場、思いを明確にしようと、人物を紹介するところで境遇や人間性がずばりと出る方法がないか。信頼されている、誠実で律儀な人柄を表現しようと、辻君と相談して、風邪でもひいて寝ているということにし、彼でなければ出来ない表具をせかされて病中を押してやる、ということになった。さらに、姦通した男女は不義の刑として磔刑にあうということを前に出して置く必要があるだろうということで、まだ互いに何の思いもないおさん、茂兵衛が引きまわしを見ることによって、二人の運命の暗示だけでなく、そのような社会なのだと裏付けられ、不義ものを出した家は闕所になることが強く了解できる。そう考えて全部書き直し、溝さんと東上して、社長に本読みした。

《社長はきいて満足のようでしたが、

「どうや、これで」ときくと、溝さんは、まだむっとしています。

「総体に芝居が出来てないんですね。」

 きいたわたしは、なんという言い方だろうと、ほんとうに情けなくなりました。

「例えば、どういうことや。」

 社長がききますと、

「宿で、二人ができるのは困ります。それから琵琶湖で死のうというのではだめですよ。二人は死のうと思ってゆくんです。舟にのって死のうとしたときに、二人の気持が出るんだと思います。すると急に死ぬのが惜しくなるんです。芝居というものはそういうものだと思います。総体にそういうところがないんです。」

 なるほど、これはやられたと思いました。》

 溝口健二の『堀川波鼓』、『女殺油地獄』も見たかった、との思いを禁じえないのは私だけではあるまい。

武家というのが、溝さん自身も少々、荷厄介なようでした」というのは、戦前の国策映画『元禄忠臣蔵』(1941、42)の苦労が頭にあるからだろう。「世間の仕組み、封建の世の枷(かせ)」と言っても、あくまでも圧迫される庶民のそれをマゾヒスティックなまでに絞り上げての美であった。翌年の『楊貴妃』(1955)における貴族階級も遠い世界だったから、楊貴妃京マチ子)と玄宗皇帝(森雅之)とを無理やり繁華街にお忍び散策させ、苦肉の庶民風俗を撮った。

 

西鶴の作を辿って後半を構成した、とはいっても、実際西鶴の作に当ってみれば、お玉は舞台を去り、琵琶湖で死のう、という題材はそのとおりだとしても、荒唐無稽な雑音は割愛されて、丹波の茂兵衛の父との別れの場、一度捕まっておさんだけが実家に戻されて母に諭されるが、また二人して逃げ出す場など、溝口監督の言う「芝居」作り、「封建の世の枷」の主旨を十分に組み込んでの、相当に改変した脚本を作ったと判る。

近松を採ったという前半にしたところで、近松『大経師昔暦』では、礼を言おうとお玉の部屋に忍び込んだ茂兵衛は、以春を懲らしめるために代わりに床に入っていたおさんと互いに知らずにできてしまう。しかも近松は閨房の場を卑猥に表現した。

《屏風そろ/\押遣(や)りて夜着(よぎ)にひっしと抱(いだき)付き。ゆり起(おこ)しゆり起し。ゆり起されて驚きの今目のさめし風情(ふぜい)にて。頭(かしら)を撫づれば縮緬頭巾サア是こそと頷(うなづ)けば。男は今日(けふ)の一礼の聲を立てねば詞なく。手先に物をいわせては伏拝(ふしおが)み/\心の。たけを泣く涙。顔にはら/\落ちかゝる其の手を取って引寄せて。肌と/\は合ひながら心隔たる屏風の中。縁(えん)の始(はじめ)は身の上の仇の始と成りにける。既に五更(かう)の八聲の鳥門の戸険(けは)しくとん/\/\。旦那お帰り。はっと消入る寝(ね)所に汗は湖水を湛へたり。やい/\戻った明けやいと。呼(よば)はるは以春の聲。助右衛門目をさまし。どいつらも大ぶせりと提(さ)げて出でたる行燈(あんどう)の光。顔を見合す夜着の内。ヤアおさん様か。茂兵衛か。はあはあゝ》

 逃亡後に「宿で、二人ができるのは困ります」どころではない。水上勉は『近松物語の女たち』「おさん――『大経師昔暦』」で、本当に二人は人違いと気づかずに肌と肌を合わせたのか、「湖水を湛え」るまでに、といらぬ邪推をし、心理分析を執拗にしているが、映画では慎ましいまでに行儀よい。結ばれは、後ろへ後ろへと先延ばし、遅延される。伏見の船宿では床をのべに来た女中が二つ枕を用意するのを茂兵衛が見とがめると、おさん(香川京子)「茂兵衛、一人で心細い。ここに居てて」、茂兵衛(長谷川一夫)「めっそうもない、お家さまと、同じ部屋になど」の会話に続いて、茂兵衛は美しい所作で布団を捲りあげ、一つ残された枕を整えてから奉公人らしく引き下がる。そして、舟の上での「死ぬのはいやや、生きていたい。茂兵衛!」でおさんがしがみつく。前面に漁師小屋を配した湖上の舟に人影が見えないショットで、ようやく結ばれたことを表徴した。

 

・撮影宮川一夫が残した台本によれば、

《舟のシーンに続いて、「水辺:水際に、二人の乱れた足跡が続いている。辿ってゆくと、小さな、漁師小屋に続いている」というト書きがある。このショットはあまり語られることはないものの、実は完成したフィルムにも残存している。ところが、この後、撮影台本の挿入ページには漁師小屋の内部で事を終えたおさん茂兵衛の描写があった。ト書きには二人は「放心したように抱き合い」「衣服に乱れが見え」とあり、茂兵衛がおさんの手を取って想いを遂げた幸せを述べ、彼女は頬を寄せる。しかし、この場面には宮川による絵コンテの書き込みはなく、実際に撮影されたとは考え難い。》(木下千花溝口健二論 映画の美学と政治学』)

 かくして、実亊は湖上の小舟の上で行なわれたとも、漁師小屋で行なわれたとも、溝口健二は両義的な解釈を見るものに与えた。

 

<視線/音>

・小説家阿部和重は映画専門学校出身だけあって、キャメラと役者を転倒させた解釈で溝口を評した。溝口の映画の主要なキャラクターたちは、「必ずどこかに行きたがる」、「立ち去ってしまったり」、「その場を離れたり」、「定住しない」、「とどまらない」。「ある抑圧」、「権力者のような人たちから強制され、追い出されてしまう」、「社会的なルールやシステムに従うように強制されて居場所を失う」のは、なるほど『雨月物語』も『西鶴一代女』も『山椒大夫』も、「浪華悲歌(エレジー)」も、勿論『近松物語』もそうで、許しがたいまでに追いかけまわす、執拗なストーカーぶりである。

阿部和重 とにかく逃げ回るわけですね。逃げて、隠れようとする。溝口の映画では、役者がフレームアウトすることがわりと多いような気がするのですが、彼らはとにかく逃げようとしています。それは「視線」から逃げようとしているわけで、言ってみれば、溝口のキャラクターというのは他者の視線を内面化したような存在ではないか、と思えるのです。こうなると役者というか作中人物たちは逃げ回ってしまうわけですから。撮る側としてはキャメラを移動させてそれを追いかけなければなりませんよね。というわけで、移動ショットの必要性というものが出てきたのではないでしょうか。》(『国際シンポジウム溝口健二 没後50年「MIZOGUCHI2006」の記録』、「シンポジウム 日本における溝口」)

 

・小津作品は対話する相手をまっすぐ見つめあい、切り返しショットで繋ぐが、溝口作品は視線と視線が絡み合わない(よって切り返しショットなどありえない)。溝口の作中人物の視線とキャメラとは決して重なり合わない。視線は放射する。

 蓮實重彦は「翳りゆく時間のなかで 溝口健二近松物語』論」で、自由な恋愛を謳歌する稀な時代劇、西欧的なラブ・ロマンスであるどころか、結ばれるまでのおさんと茂兵衛の心理は曖昧で、愛の心理というものが念入りに描かれてはいない(おさんも茂兵衛も恋心を匂わす仕草、表情をまったく見せないのは、茂兵衛に惚れている女中お玉の演技と対称的)、メロドラマをまぬかれている、としたうえで、「見つめあうこと」を代理する「音」、「触感」について次のように論じた。

・《『近松物語』の男女は、多くの溝口的存在がそうであるように、あたかも何かを見ているかのような位置キャメラにおさまることはまずないといってよい。おさんと茂兵衛は、たがいに相手を見つめるという動作を初めから禁じられた存在なのだ。(中略)

 では、見つめあうことを禁じられた恋人たちは、いかにして愛を確かめあうのか。すでに指摘しておいたように、茂兵衛が熟達した経師職人であることを示すにあたり、溝口は、その巧みな手さばきを視覚的に描くことを排し、もっぱら道具類の音を夜の闇に響かせるという方法を選ぶ。その事実は、廊下での金策の場面に豊かな情感を漂わせるものが、画面には写っていないおさんの声であったことと無縁ではなかろう。低く抑えられてはいても厳しさとは無縁の、ほとんど性的な誘惑を思わせさえする呼びかけに茂兵衛が「へえ」と応ずる瞬間に、笛の音が高まる。彼女が廊下の奥の薄暗がりに衣裳を鈍く光らせて姿を見せるのは、そうした音の戯れに導かれてである。(中略)

 事実、一つの誤解から始まる逃避行は、表面で触れ合うもののたてるひそかな物音を背景として進んでゆく。おさんを背負って賀茂川を渡る茂兵衛の裸足の足の裏が、川瀬の浅い流れに触れてたてる湿った音の魅力はどうだろう。また、心中を思い立って琵琶湖にこぎ出す舟が、水面と触れあってたてる冷たい音の繊細さはどうか。おそらく世界映画史で最高の技術的達成といえようこうした音響的世界は、拭いたり擦り合わせることで始まったこの映画の主題的な統一を誇示しながら、また同時に、それと意識されることなく配置されていた愛の映画的な記号に、ここでぴたりと重なり合ってしまうのだ。》

 徹夜明けの茂兵衛が休もうとすると、画面オフから聞えてくる、か細いおさんの「茂兵衛、茂兵衛」という声が、落ちて行く二人の運命を暗示する。溝口作品についてまわる金銭の話が、おさんの実家の兄、当代岐阜屋道喜(田中春男)からおさんへ、おさんから茂兵衛へと伝えられ、発端となる。茂兵衛はおさんに頼まれた五貫目を用立てるため、白紙手形に大経師以春(進藤英太郎)の判を持ちだして押すところを、手代の助右衛門(小澤栄)に見とがめられる。ここでも助右衛門の声が画面オフから入る。オフの声こそ不吉な運命の合図に違いない。

 

・蓮實は、おさんの素晴らしい視線と声の官能的なハーモニーに感嘆する。

《『近松物語』の終り近く、われわれは素晴らしい視線に出会う。実家につれ戻されたおさんが、母親と兄から大経師のもとに戻るよう説得される場面である。庭に面した部屋で障子がなかば開かれている。家族の言葉を聞き入れようとしない彼女は、逃れるように縁側に立ち、障子に手をそえて力なくすわり込む。夜で、あたりには暗さがたれこめている。と、そのとき、何ごとか物音を耳にして、闇夜の庭に瞳を向ける。それに続く無人の庭のショットが素晴らしい。凝視する瞳と、その視線の対象とが一つに結ばれるという例外的な編集がこれほどの情感を漂わせうることに人は深い驚きを覚える。丹波の山奥では不安を漂わせていたおさんの目は、いま、愛に湿って官能に震えている。そして闇の中の黒々とした塀と、その右はしの木戸のあたりに定かならぬ人影が揺れるのが見えるとき、この映画での唯一の主観的ショットの暗く奥深い拡がりを、心から美しく思う。これこそ、映画のみが可能にする愛の空間ともいうべきものだからである。思わず「茂兵衛」と口にして庭に駈け出してゆくおさんの姿を痛ましい思いで見つめながら、この声こそ、かつて廊下の薄暗がりの中で職人を呼んだ女主人の声にほかならぬことを理解する。》(蓮實重彦「翳りゆく時間のなかで 溝口健二近松物語』論」)

 

秋山邦晴は「「近松物語」の一音の論理」で、映画音楽の前衛性について解説した。

早坂文雄はこの映画に、歌舞伎で使われる下座音楽(げざおんがく)を主体として用いた。(中略)

 タイトルは、拍子木、大拍子(太鼓)、しめ太鼓、笛などの伝統楽器による音楽である。開幕を暗示する横笛、しめ太鼓の一声があって、やがて横笛が鋭く、しかも揺れるようにうごき、それに太鼓が漸増のリズムをくりかえしていく。能、歌舞伎の開幕の音楽の“型”をとりいれているといってもよい。(中略)不義のためハリツケ刑となり、刑場へと馬でひかれていく男女の行列が街中を通っていく場面。横笛が哀調をおびてきこえる。すると間をおいて、ズーン、ズーンと地鳴りのように大太鼓のひびきが画面を圧する。(中略)

 早坂文雄が下座音楽を時代劇の雰囲気をつくりだすために使用したのではなく、むしろ現代劇にみられるような人間の心のうごきの表現として使っているということである。(中略)

 おさんと茂兵衛の「道行」のシーン、おさんをおぶって川を渡る場面では、水音とともに、笛とゆっくりとした四連音の太鼓の音を遠くきかせている。そして宿屋の場面では大太鼓のしずかにゆっくりと打ちつづける連続音を遠く聞かせながら、ときどき三味線が8連音をかきならすひびきをくわえる。

 おなじ「道行の旅」で、疲れたおさんの歩くシーンに、太棹の三味線の音楽をきかせる。映像のうごきとともに、ときにはその音はクローズ・アップされ増幅されて演出されている。太棹三味線の独特の深い音色が、実に効果的に映像への表現力として働きかけている。

 おさんの実家に立ち寄る場面では、つけ板の鋭く乾いた音色としめ太鼓が画面いっぱいに増幅されて、すばらしい迫力で迫っている。(中略)

 この映画のラスト・シーンは、おさんと茂兵衛のふたりが不義の罪に問われ、捕われて、馬にのせられ、刑場へとひかれていく。音楽はファースト・シーンとおなじように、あの大太鼓の音がまた不気味にひびいている。ところが、この音とともに、太棹と胡弓の音がそれにくわわっていく。胡弓の不安定な音程が不安なものを感じさせながら、この不条理な悲劇の暗く重くやりきれない状況と、人間の悲しさをいやというほどつきつけながらひびいていくのである。》

 

<怪物と怪物>

・助監督田中徳三は、「怪物と怪物との壮絶なバトル」で、溝口健二長谷川一夫に負けた、と発言する。

《田中 私は溝口さんから呼ばれて、「長谷川君に『この役は丹波の山奥で生まれて、米の飯なんて見たことない、粟ばっかり食ってた男が、京都の大経師という非常に位のある家に丁稚奉公に行って、それが手代にまで出世というか、上り詰めた男だ』と伝えてくれ」と言われたんですよ。長谷川一夫はあの通り二枚目ですね。要するにいつもの長谷川一夫さんの、二枚目では困るというわけなんですよ。だから、ちゃんと長谷川さんに、いや、長谷川君ですわ、溝口さんに言わせると――長谷川君に言っておきたまえと。これはチーフのお前の責任だと言われて。だいたいね、芝居については監督が言うものでしょう(笑)。何も助監督の僕がのこのこ行って、天下の長谷川さんに言えと言われてもねえ。それはしょうがないから行きましたけど。》

 溝口健二に言われた通り伝えると、長谷川一夫は「うんうんうん」、「ああ徳さん、わかったよ」と言ってそこはそれで終わりだったが、

《田中 それで初日を迎えたわけですが、最初の撮影は、長谷川さんの茂兵衛が風邪を引いて、二階の隅っこで寝ているというシーンでした。そこに、どうしてもあの手代の仕事でないと困るというご贔屓(ひいき)の客が来てるから起きてくれと言われ、茂兵衛はしょうがないから起き上がるわけです。それまで長谷川さんは横を向いて寝ているから、よくわからなかったんですが、すっと起き上がったら、これはもう天下の二枚目の長谷川一夫なんですよ(笑)。

 宮川さんもそれまでの経緯を知っておりましたので、僕ら二人で顔を見合わせて、「えらいこっちゃで」とか、「今日はもうワンカットも回らんで」なんてことを話してたんですが、ところが溝口さんは長谷川さんの顔を見ても何にも言わないんですね。ともかくその日の撮影は終わったんですが、それから三日ほど経っても、長谷川さんは自分のスタイルを絶対に壊していないわけですよ。すると、「徳さん、徳さん」と長谷川さんが僕を呼ぶわけです。お弟子さんが近寄ってきて、「先生が呼んではる」と言うので行ったら、「徳さん、あんたいろんなこと言うたけど、先生は何にも言わはらないやないか」と、「これでええんやろ、これでいくで」ということになって、こっちは三枚目ですよ。》

 溝口監督は何にも言わない、どうしてでしょう?と山根貞男に聞かれて、

《田中 さあ、どうしてなんでしょうねえ。(中略)表現は悪いけれども、怪物と怪物との壮絶なバトルなんですよ、あの作品は(笑)。それで結局は、長谷川ペースで終ってしまったんですが、できあがりはすごい作品で、長谷川さんもいつもの長谷川一夫じゃなしに、抑えた芝居をされている。もう亡くなられて五十年だから、いまここで言うても大丈夫だと思いますけど(笑)、「ああ、溝口さん負けたな」というふうに思いましたね。これは僕だけの思いなんですが。》(『国際シンポジウム溝口健二 没後50年「MIZOGUCHI2006」の記録』、田中徳三「助監督の証言」)

 

・しかし、蓮實重彦山根貞男は、溝口監督は負けてはいない、と合わせる。

《蓮實 シンポジウムのなかで田中監督は、『近松物語』では、長谷川一夫に溝口さんが負けたのだということをおっしゃっていましたが、私は溝口はやはり負けていないと思います。溝口は、『近松物語』ではじめていわゆる長谷川一夫的な、立役ではない二枚目に触れたわけではありません。それ以前に、花柳章太郎主演の『残菊物語』(一九三九)でやっているわけです。ですから、彼は長谷川一夫をどう使えばいいかということを、頭ではよくわかっていたはずです。確かに当時長谷川一夫大映の大スターで、その辺の事情はいろいろあっただろうけれど、決して溝口は「この人はこの程度でいいや」と思ったわけではない。溝口が長谷川一夫に負けた、ということに関しては絶対に違う、と思います。山根さんはどう思いますか?

山根 僕も溝口が負けたとはいえないと思いますね。田中さんは、チーフ監督の立場から見て、溝口さんの負けですということをおっしゃったのでしょうが、長谷川一夫自身も自分が溝口に勝ったとは絶対に思っていないはずです。結局のところ溝口監督の目指す方向にうまく自分が使われたと、彼も感じていたのではないですか。もちろんそれはお互いさまということになるでしょうが、最終的に溝口は長谷川一夫のいいところを撮ってしまったと思いますね。蓮實さんがおっしゃったように、溝口の望む水準がとても高いところにある。だから長谷川一夫も知らず知らずのうちに、そこにいかざるを得なかったんだと思います。そうでなければ、あれほどいい茂兵衛にはならないはずです。

蓮實 長谷川一夫が「林長二郎」時代からずっと持っていた、やや女性的で稚児風のものとはまったく違う男にしてしまったわけですよね。

山根 僕はカタログ用に香川京子さんにインタビューした際に、『近松物語』の浅瀬を渡るシーンで、おさんが濡れないようにと、茂兵衛がおさんをおぶって渡る印象深い動作について尋ねたのですが、あの独特の背負い方は長谷川一夫が持っていた型だとおっしゃっていました。溝口監督が、こういうときはこういうふうにやるものだと指示したわけではない。にもかかわらず、すばらしい動作をすっとやってしまう、あるいは、やらせてしまう、という二人の関係なんですね。溝口映画における監督と俳優の関係が象徴されていると思います。》(『国際シンポジウム溝口健二 没後50年「MIZOGUCHI2006」の記録』)

 

・茂兵衛がおさんをおぶるシーンは、お家さんの肉体に触れないがための主従関係の見事な表出、型でもあるが、内弟子を任じる宮嶋八蔵は「溝口健二監督の映画作法 近松物語」で、勝負は五分五分と回顧した。

《茂兵衛がおさんを担いで河を渡る場面のロケ地は嵐山の東公園です。ライテングの為に助監督がおさんと茂兵衛の代わりのスタンドインをしたのです。先輩助監督の土井茂さんの背中に私は子供が背負われるようにおぶさっていました。本番では長谷川さんは見事に美しく斜め背負いをしたのです。土井助監督と私は思わず「いかれたねぇ。みごとやねぇ。けれどあの抱えはきつい力がいるでぇ。」この場面は一回でOKとなりました。美しさにおいては、長谷川さんの勝。リアリズムの先生もクソリアリズムではないと思いました。どんな芝居でも品位と形の奥にある心情を大切にされる溝口先生の勝でもあります。勝負は五分五分でしょうか。》

 

・《香川京子 とにかく監督さんは何もおっしゃらないし。ただ一番多く言われたことは、今でしたら「リアクション」という言葉で言いますけれども、溝口監督は独特の「反射してください」というふうにおっしゃったんですよね。「反射してください」「反射してますか」ということは、ずいぶん言われました。それはつまり、芝居というのは自分の台詞を言う番が来たから言うのではなくて、相手の言葉とか動作によってはじめて自分の芝居が生まれるというようなことだったんだと思います。

 ですから「セットに入ったときに、その役のそのときの気持ちになっていれば自然に動けるはずです」とおっしゃるんですね。それをまた私がボーッとしていて、よく摑んでいないものだから、それで動けなかったんだと思うんですけれど、それはもう本当に芝居の基本だと思いますね。それをあの作品一本で叩き込まれたというか、若かったし、すごく吸収できたと思うんです。ですからこうやって長く仕事をさせていただけているのも、あの溝口監督のご指導があったからだと、本当に今改めてありがたく思っているんです。

山根貞男 でも「反射してください」という言葉は、突然言われたら意味がわからないですよね。

香川 そうですね(笑)。たとえば一度二人で逃げて、引き離されて私だけ自分の家に戻されますね。そして、お母さんやお兄さんから側でいろいろ言われます。そのときに私は、鏡の前でお母さんに乱れた髪を梳(くしけず)ってもらっていたんですね。それで「ああ、このあとの芝居はどうやったらいいのかなあ」って目をつぶって考えていたんです。そうしたら監督さんが「そういう感じがよいです」っておっしゃるんです。「あなたはお母さんやお兄さんにそういうことを言われてそこにじっと坐っていられますか?」というふうにおっしゃるわけです。「ああ、そうだなあ。これを聞いているのはとってもつらくて聞いていられない」と思って、それで障子の方に逃げていくようにしました。そのときに茂兵衛が入ってくるのを見つけて、最初はだれかわからないのですが、おさんにだけはわかるわけです。「あ、茂兵衛だ」ということが。それで茂兵衛に縋(すが)り付いていく、というシーンでした。そこのところなんかもよく覚えていますね。

蓮實重彦 あのシーンは本当にすばらしいですね。おそらく世界映画史の上でもあんなにすばらしいシーンはそんなにないと思います。

香川 やはり溝口監督のお力はすばらしいですね。でも私は、お恥ずかしいことにこういう演技にしようとかまったく計算がないんですね。「どうしよう、どうしよう」ってなるばっかりで。先ほど上映された『近松物語』の船のシーンでも、あれはセットで撮ったんですけれども、水槽に水がいっぱい張られてそこにすーっと船が現れてきますね。そこで茂兵衛に告白されるわけですけれども、その船がすーっと動いているあいだ「ああ、どうやったらいいんだろう」「どうやったらいいんだろう」ってそればっかり考えていたんです(笑)。

 今、振り返ってみると、溝口監督という方は、そういうふうに苦しめて苦しめてそこまで追い詰めて、そこで何か自分で考えて出てくるものを待っていらしたというか、そういう感じがするんです。》(『国際シンポジウム溝口健二 没後50年「MIZOGUCHI2006」の記録』、香川京子「女優の証言」)

 

・この裏庭のシーンは次のような観点から見ることもできる。

《裏庭の入口は薄暗くて裏庭は離れの光がこぼれている。というようなライテングでした。裏木戸から茂兵衛が羽織を被り物のように頭上を被って入ってくるのです。その時はシルエットのようですが離れ座敷の漏れた灯りの処でパラリと被り物を外します。すると、綺麗な長谷川さんが現れたのです。思わず助監督の土井さんと私が顔を見合わせたのです。「又、長谷川さんが現れた。いかれたねぇ。」あの汚い小屋にいて、山道を歩いて来てこんなに奇麗なはずはありません。茂兵衛がおさんと会う強烈な再会の恋情が爆発するのですが、監督の文句は何もありませんでした。これから後の芝居も音楽も歌舞伎の下座音楽風に変わります。》(宮嶋八蔵「溝口健二監督の映画作法 近松物語」)

 

<琵琶湖舟上/愛宕山山中>

・「もう、あの家に居とうないのや」と嘆くおさんの逃避行だったが、次々と迫る追っ手に嫌気をさしてしまい、生きて恥をさらすのは嫌や、といっそ死のうと決意する。茂兵衛は宥め、止めつつも、「参りましょう、お供いたします」と付いてゆく。溝口の「宿で、二人ができるのは困ります。それから琵琶湖で死のうというのではだめですよ。二人は死のうと思ってゆくんです。舟にのって死のうとしたときに、二人の気持が出るんだと思います。すると急に死ぬのが惜しくなるんです。芝居というものはそういうものだと思います。総体にそういうところがないんです。」に従って書き直された、琵琶湖への死出の舟の漕ぎ出し(『瀧の白糸』(1933)、『残菊物語』(1939)、『名刀美女丸』(1945)、『歌麿をめぐる五人の女』(1946)、『お遊さま』(1951)、『雨月物語』(1952)、『山椒大夫』(1953)など、途切れることなく何らかの形で出現する、溝口作品になくてはならない舟のシーン)は、いまだ主従関係が持続した道行だった。

《茂兵衛 おさんさま。おかくごはよろしゅうございますか。

(おさん、帯を茂兵衛に渡す)(茂兵衛は帯で膝上を幾重にも縛ってゆく)

おさん 私のために、お前をとうとう死なせるようなことにしてしもうて。許しておくれ。

茂兵衛 何をおっしゃいます。茂兵衛は、喜んでお供するのでございます。いまわの際なら、罰もあたりますまい……この世に心が残らぬよう、ひとことお聞き下さいまし。(茂兵衛が結び目を作る)茂兵衛は……、茂兵衛はとうから、あなたさまを、お慕い申しておりました。(おさんの膝を抱きしめる)

おさん ええっ。私を?

茂兵衛 はい。さあ。しっかり、しっかりつかまっておいでなされませ。さあ。(二人して立ち上がる)おさんさま。どうなされました。お怒りになりましたのか。(茂兵衛はしゃがみこむ)悪うございました。

おさん (かがみこんで)お前の今の一言(ひとこと)で、死ねんようになった。

茂兵衛 今さら、何をおっしゃいますか。

おさん 死ぬのはいやや、生きていたい。茂兵衛!(おさん、茂兵衛にしがみつく)》

 

・撮影の裏話として、溝口監督は長谷川一夫にも遠慮することなく、「形芝居は駄目」、「反射して」と注文していたと知る。

《茂平がおさんと小舟の中で心中しょうとするところ、いまわの水際の恋情の打ち明けでおさんもそれに感動して愛の爆発となる。芝居の動きが激しくなるから船も揺れるだろう、その揺れを助けようと水の中へ入ると監督が腕を掴んで「いらん!」と言われました。監督は俳優に「君ッ… 茂兵衛ですよッ。形芝居は駄目です!反射して下さい。気持ちが爆発するんだよ!胸が突き当たるんだ!」 NG本番……そして二人は狂気のようにぶつかり抱き合ったまま舟底に転げる。OKとなる。当然舟は抱き合いと転倒の衝撃で強烈に揺れていました。(おさんの方が先に茂兵衛の胸に飛び込んでいたのです。)》(宮嶋八蔵「溝口健二監督の映画作法 近松物語」) 

 

・琵琶湖で結ばれてから最初におさんと茂兵衛が登場するシーンは山の中だ。茂兵衛の実家がある丹波へと向かう愛宕山の峠の貧しい茶屋で、茂兵衛はおさんのくじいた足を濯ぐ。老婆が薬を塗ろうとして漏らす「土の上を踏んだこともないような足やな」との声に、おさんは眉を曇らせる。おさんの手当てをした茂兵衛は、嵯峨村の高札でお上が探しているのは茂兵衛だけであり、自分だけ逃げるか、お縄になれば、おさんは大経師の内儀に戻ることができると考えて、一人離れる。

 茶屋の老婆が外を眺めながら「連れさんはどうしたんや」と尋ねると、おさんは「えっ!」とばかりに同じ方向を向く。おさんの強い眼差しが、初めての自立を現わすようで素晴らしい。おさんは足を引きずりながら「茂兵衛!」、「茂兵衛!」と叫んで斜面を駈け下り、茂兵衛を追う。斜面を下りきった茂兵衛は炭焼小屋に隠れ、耳を塞いで苦悶する。おさんが倒れるや、茂兵衛は飛び出してきておさんの足首をさすり、口づけする。

《おさん 私は、お前なしで生きていけると思うてるのか。お前はもう、奉公人やない。私の夫や。旦那様や。

茂兵衛 悪うございました。悪うございました。もうお側を離れません。離れません。……》

 二人は抱き合って転がり、おさんが上になって悦びに嗚咽する。はじめて主従の逆転が起こった。

 木下千花は『溝口健二論 映画の美学と政治学』の註に、《この演出[ミザンセヌ]はまさに溝口システムの精髄を示す。香川京子によると、「何度もテストを繰り返すうちに私、疲れて、走っていてバッターンと倒れちゃった。わざとでなく。そしたらカーッと気持ちが高揚してきましてね、夢中でぶつかっていったら、監督さんが、「はい、本番いきましょ」って」。(香川京子『愛すればこそ――スクリーンの向こうから』勝田友巳編(毎日新聞社)) 一方、長谷川一夫はこの場面についてこう証言している。「……おさんが足に怪我して、茂兵エがその血を吸ってやるところがありましたね。あれは茂兵エの情熱の発露でしょうが、実はあそこに歌舞伎の型が入ってるのです。あの場合、まともに女の足をもちあげちゃ醜悪ですからね、うしろへ廻ってにじりよって、ふくらはぎの方から、そっともちあげるようにしてやったわけです。溝口さんのはロングのワンカットだから、切返しがない。此方がキャメラの方へもって行くしかない。あの演技も溝口さんの注文で工夫したものですけれど、形から入ってリアルな感情を出すラヴシーンをねらったつもりです」。(長谷川一夫依田義賢「「芸」について」『時代映画』一九五五年五月号) つまり、まったく異なったタイプの演技術が溝口システムによって引き出され、結合されたのである。》

 ここで長谷川一夫が、接吻ではなく、足の怪我の血を吸っている、と語っているのはどうしたことだろう。

 

<愛死>

・内儀おさんと使用人茂兵衛が不義密通の疑いで逃亡したことによって、結局は大経師の家は取りつぶし、闕所(けっしょ)となる。冒頭に繁盛している店の様子が俯瞰され、最後には廃墟となってゆく店内が映し出される。大経師以春と手代助右衛門は、お取潰しを気にするだけで、おさんと茂兵衛の関係そのものには、ほとんど頓着していない。そもそも以春の怒りは、執心していた女中お玉(南田洋子。当初の企画では、香川京子がお玉で、木暮実千代がおさんだった)に袖にされ、しかもお玉と茂兵衛が通じているのではないかとの疑念による。『近松物語』は家が潰れることに右往左往する以春と助右衛門、岐阜屋道喜と母おこう(浪花千栄子)の悲喜劇でもある。

おさんと茂兵衛はおさんの母に、大経師の家だけでなく実家の岐阜屋までつぶしてしまうのか、と諭されてはじめて、「家」に思いをはせる。大経師を取り巻く高い階層の人物たち(鞠小路侍従(十朱久雄)、公卿の諸太夫(荒木忍)、院の経師以三(石黒達也)、)も、おさんの実家(岐阜屋道喜、おさんの母おこう)もみな、『浪華(なにわ)悲歌(エレジー)』撮影時に溝口が発した「かんきつ(・・・・)」という奇妙な語の面々である。

《「かんきつ(・・・・)だよ。かんきつ(・・・・)な人間を描いてもらいたいんだよ。かんきつ(・・・・)、みんなえげつない奴ばっかりだよ、この世の中は」と、しきりに、この「かんきつ」という言葉をいうのです。辞書をひいてみればわかったのでしょうが、奸譎という字であろうと思っただけで、後に正しくはかんけつと読むことを知りましたけれど、ねじけた、いつわりの多いという意味でわたしは、溝さんが歯をかむようにしていう語気からして、油断のならない、腹黒な、あるいは、手きびしい、非人情な世界という人間を書けという風に受けとりました。》(依田義賢依田義賢 人とシナリオ』)

 

木下千花は『溝口健二論 映画の美学と政治学』で「閉域と性愛」と題して、『近松物語』の閉塞的社会と性愛による解放について論じた。

《『近松物語』の「閉域」は大経師の屋敷であるとさしあたり述べた。しかし、おさん茂兵衛にとって屋敷からの脱出は「解放」として機能しない。この映画の中盤の息詰まる緊張感は、二人の道行きを常に追っ手に脅かされながらの逃避行として構築することによって生み出されている。おさん茂兵衛のシークェンスには、伏見の船宿で二人の間を勘ぐる女中、街道筋で通行人を詮議し二人を捜す所司代の役人たち、堅田の宿での役所への通報、と常に二人を監視し脅かす者の存在がある。さらに、伏見の船宿と街道の間には大経師の屋敷での初暦の売り出し、おさんの実家である下立売の岐阜屋のシークェンスをはさむことで、二人を捜し、追う側の対応も克明に伝えている。おさん茂兵衛の動向は大経師に伝えられて新たな戦略に帰結し、下立売りに送った金と手紙は届いて兄の感謝と母の心配の念を引き起こす、というように、二人は屋敷を出奔しても交換と承認のネットワークに絡め取られたままなのだ。すなわち、大経師の屋敷内に空間化されていた権力関係としがらみの閉域には、その実、「外部」などなかったのである(中略)

 負債と贈与のネットワークと封建的社会関係が出奔した後でもおさん茂兵衛を縛り続けるという構想は、原作や歴史学というよりは、明らかに溝口のものであった。『近松物語』の偉業は、あくまで映画の時空間の語りと演出(ミザンセヌ)によって、それが生み出す物語世界全体をさながら「閉域」に転換したことにある。

 このように物語世界全体が閉域と化してしまったとき、どこに脱出が、「外部」がありうるだろうか。性愛と死のなかに、というのが『近松物語』の明快な回答である。桑原武夫の『近松物語』論からは、この回答が同時代においてはっきりと認知されていたことが見て取れる。

「寝床の入れかわりでの結ばれが、湖上の小舟までもちこされ、そこで死ぬ前ならといって茂兵衛が以前からの愛着を告白する。その告白が劇の転回点となるのだが、あの発言は偶然ではなくて必然なのである。

 必然によって、愛するものは追手をよそに湖上に契る。何という大胆さ。しかし宿命であれば他に道はないのだ。そして、その契りを契機としておさんに新しい世界がひらける。それは愛慾ひとすじの世界と見えるが、しかも恋愛至上主義ではない。むしろ必死の生活至上主義とでもいおうか。二人は生きようとするのだが、あのさい生きるとは愛撫以外ではありえぬだけである。そうした生への意欲によって、二人は封建社会を批判する――捕えらえて刑場への引きまわしの場面で、しばられた馬上で茂兵衛と堅くにぎり合うおさんの手と、その明るい顔が封建の暗さにスポットライトをあて、その究極的批判となっている。」》

 

松浦寿輝は、『祇園囃子』(木暮実千代若尾文子)にフォーカスして、「横臥と権力――溝口健二」論を書いたが、その構造は『近松物語』にも適用しうる。

《虐げられた女たちに視線を向けることを彼が好んでいたとわれわれが言うとき、それは何も、異性が苦しむところを見ることに快感を覚えるサディストだったという意味ではない。ただ、権力に刺し貫かれた非対称的な人間関係を劇として造型することが溝口の情熱だったのであり、溝口映画の偉大さはひとえにこの情熱の強度にかかっているという点を確認しておきたいのだ。溝口映画が弱者に対する不正や抑圧を告発しているなどというのはジャーナリズムの建前論にすぎない。不均衡と非対称の視覚化に捧げられたこうした情熱にとっては、誰もが同じ権利を均等に分かち持つ平等社会など、劇的葛藤の強度を殺してしまう退屈このうえもない環境としてもっとも忌み嫌うところだったはずだからである。溝口の徹底的に反=民主主義的な視線によって権力の磁場が物質的に露呈する。彼の造型する空間には、非対称的な力の関係が絶えずぴりぴりと張りつめているのだ。(中略)

 彼の関心は、広い意味で封建的と形容されうるだろう権力の戯れにある。性別や生まれの貴賤や親から受け継いだ遺産の多寡であらかじめ振り分けられてしまっている強者と弱者とが繰り広げる葛藤の、誰も免れようのない残酷さと、その残酷さゆえの官能的な戦慄にある。彼が現代劇よりは時代劇を多く撮り、封建時代の権力者を描くことを好んだのは、このことのゆえである。「女の哀れ」が溝口の主題だったというのも、それがこうした意味での政治空間の一要素をなすかぎりにおいてのことだったにすぎない。溝口が執着するのは、『赤線地帯』の場合であろうと、性ではなくあくまで権力である。性は、金銭と同じく、溝口においては権力を露呈させるための口実でしかない。彼は、トリュフォーのように女をひたすら愛の対象として描きたかったのではなく、権力空間で必ず弱者の地位に置かれる力学的存在としての女に関心を持ったにすぎない。芸妓や娼婦のような、肉体を金銭に縛られた女性たちの自由と不自由、主体性と隷属の葛藤の主題へのあれほどの執着も、ここから来るものだ。そして、それが女だろうが男だろうが、個人の意思と肉体が無慈悲な権力の磁場に絡め取られ、抜き差しならぬ闘いに疲れてゆるやかに敗北してゆくとき、溝口健二の映画的感性は、そこに官能的な、いやほとんど性的な戦慄を覚え、残酷な興奮にうち震える。》

 ラストシーンの引きまわしを見ながら、大経師の元使用人たちは、「お家さんのあんな明るいお顔を見たことがない。茂兵衛さんも晴れ晴れした顔色で。ほんまに、これから死なはるのやろか」と噂するが、二人の顔、頭の作りは非リアリズムな歌舞伎舞台の美しさに仕立てられていて、「個人の意思と肉体が無慈悲な権力の磁場に絡め取られ、抜き差しならぬ闘いに疲れてゆるやかに敗北してゆくとき、溝口健二の映画的感性は、そこに官能的な、いやほとんど性的な戦慄を覚え、残酷な興奮にうち震える」明るい二人を、「愛死」に他ならないと噂する群衆を、下座音楽とともに表現しつくしている。

そこにあるのは、「普遍性」、「真実の生」に違いなく、J=L・ゴダールエリック・ロメールは、溝口健二への敬意を捧げた。

 

ゴダールは、「エキゾチズムという、魅力的だが低次元の段階を決定的に乗り越えて、より高い水準に達している」(ジャン=ジョゼ・リシュ『カイエ・デュ・シネマ』40号)との溝口評を引用してから、溝口の「偉大な映像作家の特質」である「効果と表現の簡潔さ」に感嘆した。

《溝口の撮る映画には、その各瞬間、各ショットの詩があらわれる。(中略)彼のヒロインたちはみんな同一人物であって、トマス・ハーディのアーバーヴィル家のテスに不思議と似通っている。彼女たちの身に、最悪の不幸がつぎつぎにふりかかる。溝口は、ラルフ・アビブ(訳注:通俗的な中級作品が多い)が少しばかりましな衣装をまとった程度の監督にすぎない黒澤とは違って、娼家に特殊な愛着を示しているが、美的なもののまやかしの魅力に閉じこもるようなことは決してしない。彼は、古い日本を再現する時、逸話や安っぽいけばけばしさを越えて、たとえば「フランチェスコ・神の道化師」(訳注:ロッセリーニ監督作品)のなかにしか見出せないような素晴らしく冴えた技巧で、われわれになまの真実を解きはなつ。今まで一度も、われわれは、中世がこれほど強烈な雰囲気をもって存在しているのを、この目で見たことはなかった。(中略)

 溝口健二の芸術は、「真実の生は別のところにある」、しかし生は、みずからの不思議な輝かしい美のなかにこそある、という二つの事柄を同時に証明してみせる点にある。》(J=L・ゴダール「簡潔さのテクニック」)

 

ロメールは、《「近松物語」の監督が日本人のなかでも最も日本人的な人間であるか否かはわたしたちにとってどうでもいいことだ。というのも、そうしたことにもかかわらず――あるいは、そうしたことゆえにこそ――彼は最も普遍的な監督であるからだ。彼がわたしたちにとってきわめて近い存在に感じられるとしたら、それは彼が西洋の文化を剽窃したからではなく、はるかかなたの遠い地点からやって来て、わたしたちと同じ本質の概念にたどり着いたからだ。それを抽象化と呼ぼうが、総合化と呼ぼうが、表現主義と呼ぼうが、そうした名称はどうでもいいことだ》に続けて、

《十八世紀の有名な作家である近松の戯曲をもとにしたこの映画(「近松物語」)の主題は、どこかトリスタンとイゾルデを思わせる。裕福な経師の妻が、夫が女中に言い寄っている現場を押さえようとして、不運の連続で、逆に使用人の茂兵衛と不実を働いていると夫から非難されるはめになる。彼女は、その忠実な使用人に付き添われて、両親のもとに身を隠そうと、家を出る。だが、この時代に、姦通は法によって厳罰に処せられることになっていた。姦通した男女には磔の刑が待っているし、夫には妻とその愛人を告発することが義務づけられていた。そこで夫は逃げたふたりを密かに捜させ、わたしたち観客はふたりが山や森のすばらしい景色のなかを逃げまどうさまを見ていくことになる。許されないはずの愛をたがいが告白するのはこの逃避行の最中においてなのだ。一方、傲慢で放蕩者の経師は周囲に敵をつくってしまっていた。当局に通報がなされてしまい、逃げたふたりは捕まって磔にされ、夫の財産は没収されることになる。こうして続けざまに避けようもなく襲ってくる不幸――悪いほうへとばかり向かう偶然の一致と信じがたいような不手際によって引き起こされる不幸――は、わたしたちを鼻白みさせかねないところだが、そうしたものは並のものではない犠牲精神、そして、たがいの魂はあの世でまた再会できるのだから愛は死を乗り越えるのだという観念を称揚するためのものにすぎないのだ。》(エリック・ロメール「才能の普遍性」)

                             (了)

      *****引用または参考文献*****

*『国際シンポジウム溝口健二 没後50年「MIZOGUCHI2006」の記録』(蓮實重彦山根貞男阿部和重井口奈己柳町光男山崎貴「シンポジウム 日本における溝口」、香川京子若尾文子「女優の証言」、田中徳三「助監督の証言」、蓮實重彦「言葉の力 溝口健二『残菊物語』論」他所収)(朝日新聞社

*『ユリイカ 特集 溝口健二あるいは日本映画の半世紀(1992.10)』(J=L・ゴダール「簡潔さのテクニック」保苅瑞穂訳、エリック・ロメール「才能の普遍性」谷昌親訳所収)(青土社

*『季刊リュミエール4 日本映画の黄金時代』(蓮實重彦「翳りゆく時間のなかで 溝口健二近松物語』論」所収)(筑摩書房

松浦寿輝『映画 1+1』(「横臥と権力――溝口健二」所収)(筑摩書房

四方田犬彦編『映画監督 溝口健二』(新曜社

木下千花溝口健二論 映画の美学と政治学』(法政大学出版局

溝口健二、佐相勉『溝口健二著作集』(キネマ旬報社

新藤兼人『ある映画監督 溝口健二と日本映画』(岩波新書

佐藤忠男溝口健二の世界』(平凡社ライブラリー

依田義賢溝口健二の人と芸術』(田畑書店)

依田義賢依田義賢 人とシナリオ』(「シナリオ 近松物語」所収)(日本シナリオ作家協会

ドゥルーズ『シネマ1 運動イメージ』財津理、齋藤範訳(法政大学出版局

*前田晃一「《レポート》映画講座 万田邦敏監督による「溝口健二論」」(神戸映画ワークショップ)

*宮嶋八蔵「日本映画四方山話」(「溝口健二監督の映画作法 近松物語」)

香川京子『愛すればこそ スクリーンの向こうから』勝田友巳編(毎日新聞社

*『桑原武夫全集3』(「映画論 「近松物語」の感動」所収)(朝日新聞社

*『キネマ旬報特別編集 溝口健二集成』(秋山邦晴「「近松物語」の一音の論理」所収)(キネマ旬報社

文楽床本『おさん茂兵衛 大経師昔暦』(国立劇場

*廣末保『近松序説』(未来社

水上勉近松物語の女たち』(「おさん――『大経師昔暦』」所収)(中公文庫)

*『日本古典文学大系 近松浄瑠璃集(上)』(「大経師昔暦」所収)(岩波書店

*『川口松太郎全集14』(「おさん茂兵衛」所収)(講談社

井原西鶴好色五人女』(「巻三 中段に見る暦屋物語」所収)(角川ソフィア文庫

映画批評 成瀬巳喜男『浮雲』論 ――デュラス/林芙美子/成瀬巳喜男

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成瀬巳喜男浮雲』論

      ――デュラス/林芙美子成瀬巳喜男

                                

《この作品は、ある時代の私の現象でもあるのだ。よいものか、悪いものかは、読者がきめてくれるものであろうが、私は、この**のあと、非常に疲れた。めまぐるしく私の周囲の速度は早い。こんな地味な仕事をこつこつやっているうちに、歴史はぐるぐる変化してゆく。だが、私は、この作品は、私にとって、最も困難な仕事でもあった。四囲のこともかまわずに、この仕事にむきあっていた。いわゆる、誰の眼にも見逃されている、空間を流れている、人間の運命を書きたかったのだ。筋のない世界。説明の出来ない、小説の外側の小説。誰の影響もうけていない、私の考えた一つのモラル。そうしたものを意図していた。(中略)神は近くにありながら、その神を手さぐりでいる、私自身の生きのもどかしさを、この作品に描きたかったのだ。(中略)一切の幻滅の底に行きついてしまって、そこから、再び萌え出るもの、それが、この作品の題目であり、**といふ題が生まれた。……》

 マルグリット・デュラスを読む者の誰もが感じる作者の言葉ではないか。

 と欺いてもおかしくないこの言葉は、実は林芙美子浮雲』のあとがき(1951.3.3、下落合にて。芙美子は1951.6.29に死去)で、上記**には「浮雲」が入る。

 報道記者として南京(陥落の虐殺事件直後)、上海、漢口(一番乗り)、ジャワ、ボルネオなどに出向き、「ペン部隊」、「文芸銃後運動」に勤(いそ)しんだ芙美子について、田辺聖子は『ゆめはるか吉屋信子 秋灯机の上の幾山河』で、従軍作家としての吉屋信子林芙美子を比較しながら、芙美子の「報国文学」の本質を次のように断定した。

《いま芙美子の二冊の従軍記を読むと、小説よりも芙美子の資質がよくわかって面白いところがある。運命的な軍令一下、遮二無二つき進んでゆく男の、野性的生命力に触れて芙美子は甘美な戦慄を感じている。野性の中の人間味に恍惚とし、男たちのエネルギイに陶酔する。芙美子は 従軍記の体裁をとって〈兵隊〉と寝たのである。》

「<兵隊>と寝た」女と、ナチス・ドイツのパリ占領下、レジスタンスの一員として逮捕された夫アンテルムスの生還を待ち続けたデュラス(小説『かくも長き不在』『苦悩』、手記『戦争ノート』)とは正反対ではないかと言いたくもなろうが、絶筆となった『浮雲』を読んでみれば(成瀬巳喜男監督映画『浮雲』を観れば)、「小説の外側の小説」「一つのモラル」「神を手さぐりでいる、私自身の生きのもどかしさ」「一切の幻滅の底」と通奏すると気づかずにいられようか。

 だいいち、芙美子の『戦線』『北岸部隊』に支那兵の死体描写(《ダウンと、何かに乗りあげては突き進んでいますが、此狭い路では、何度となくアジア号は支那兵の死体の上を乗り越えて行きました。(『戦線』)》、《畑の中にはあっちにも支那兵の死体がごろごろしていた。なかには眼をあけているような死体もあった(中略)。此死体達は、犬よりもみじめな死にかたをしようとは夢にも思わなかっただろう。(中略)城内へ這入って行くと、軒なみに、支那兵の死体がごろごろしていた。(中略)此辺には往来の到る処、折りかさなった支那兵の死体ばかりだ。(『北岸部隊』)》)があっても日本兵は皆無なことは、藤田嗣治の戦争記録画「アッツ島玉砕」の累々たる死体の群れがアメリカ兵ばかりで、一つも日本兵の死体が描かれなかったと同じ戦意高揚の表現規制があったからとみるべき面もあろう(もちろんデュラスのレジスタンスと比較して、あまりに無邪気で腰が引けているとの非難を免れることはできない)。

 とりわけ『浮雲』は、事後とはいえ反戦的でさえある。ジャン・ドゥーシェが「成瀬について」で語っているように、《カップルの話を通して、一九四五年から一九五五年にかけて日本人を襲った精神的、道徳的悲しみを語っている映画なのだ。現在時が全面を支配しているのは、現在というものが、口にはされないあの大きな出来事から生まれているからだ。つまり敗戦のことである。敗戦は、ほとんど喚起されていないが、つねに明白に存在している。(中略)しかし敗戦が心理的構造を揺り動かす。男性は職を失い、自分の目にも社会的な正当性を失ってしまった。彼は煮え切らない男になり、とりわけ無責任になってしまう。ゆき子は逆に、アメリカ占領軍の兵士に身を売りさえしてまで、生きていくために戦っている。(中略)『浮雲』は間違いなく、日本人の精神性にかんするもっとも内奥の赤裸々な真実を、服従する心と傲慢な心という相対立する二つの側面に沿って語った証言なのである。》

 

 映画監督吉田喜重が、成瀬『浮雲』とデュラスを、別個の場で無関係に論じているのだが、並べてみればなんと似ていることだろう。(ちなみに、吉田の妻は『浮雲』で伊香保のバーの若妻おせいを演じた岡田茉莉子。)

 吉田は小津安二郎と成瀬を比較しながら、『浮雲』について次のように書いている。

《それでも、『浮雲』が、決して声高ではない成瀬の映画を、誰もが黙って見つづけてしまう、その名状しがたい魅力を、この作品がみずから解きあかしていると言えなくもない。

 人間を狂気に走らせる戦争と、敗戦後の日本の混乱。そうした激動期に男と女が出会い、別れ、そしてふたたび会い、また別離してゆく。それは女との死別のときまで続くのだが、こうした反復が強いられるなかに、誰しもが見出すものは、あの時代の日本の悲劇でもなければ、男と女との愛の行く方といったものでもない。

 それはあくまでも表面に浮かぶ上澄みでしかなく、真底は別離を心に決めながら、別れきれない人間の業といったものが深く秘められていたのである。

 小津の映画もまた、人生は別離であることを繰り返し描いてきた。それを非条理なものとは考えず、人間の自然なありようとして受け入れ、淡々と表現してきた。それをいま成瀬が、測り知れない人間の非条理な業として描くのを知ったとき、小津はみずからの視点が危うく揺らぐのを感じたに違いない。それが『浮雲』への称賛となって現れたのだろう。

 それにしても「業」という言葉の意味を、西欧の人びとにどのように伝えればよいのだろうか。もちろん「業」という言葉は仏教に由来するものであり、おそらく西欧の人びとにはキリスト教における、「原罪」という言葉に相等するのかもしれない。

 だが成瀬は宗教に依存し、救いを求めたりはしない。こうした人間の非条理なありようを限りなくオクターブを低く、むしろ沈黙のうちに見つめようとするところに、偉大なる影としての成瀬巳喜男の存在がある。》

 一方、デュラスについては次のような発言をした。

《「人間が抱く愛、それはデュラスの場合、セックスと同義語と言ってもよいのですが、彼女自身次のように述べています。『人間はセックスをとおして、みずからが孤独であることを思い知らされ、そしてセックスはわれわれを雷のように打ちのめす』のだと。そして彼女自身、そうした拷問に耐えて生きてゆくことこそ、それをデュラスはモラルと呼んでいるのです。

 第二次世界大戦のさなか、彼女の夫がドイツの収容所に送られ、何時その死の知らせが届くか、不安におののく日々、夫の悲報を聞かされ絶望に打ちのめされるのか、あるいは無事な生還を歓喜しながら迎えることができるのか、この相反する苛酷なはざまに身を置き、その苦痛に耐え続けながら、ついには待つことの不安に打ちのめされ、デュラスは別の男と関係をもってしまう。まぎれもなくこうした行為は裏切りであり、反モラル、非道徳のきわみであり、決して許されないと多くの人びとは批判するでしょう。しかし、夫の生死いずれかの知らせを待つことの苦痛に耐えきれない、その悲しき弱さこそが人間の偽らざるありようであり、それを裏切りという行為で示してしまうこともまた、夫へのかぎりない愛の反転した証しであり、それほど夫を愛したという自負の表れでもあったのではないか。おそらくデュラスは、このようにモラルのはざまをまぎれもなく生き抜くことこそ、生身の人間としての真のモラルと考える人だった……」》

 デュラスはインタビューで《「小説のなかでも映画のなかでも、あなたはセックスに大きな意味をあたえています。あなたご自身が、「セクシュアリティのなかに浸されていない小説は存在しない」と主張しています。」》を受けて、《「わたしの興味を引くのはセックス……人びとが脱色された官能のようなもののなかですることではない。エロティシズムの源泉にあるもの、欲望です。セックスでは鎮められないもの、おそらくは鎮めてはいけないもの、欲望は隠れた活動であり、その点で書くこと(エクリチュール)に似ています。人は書くように欲望する、いつも。

 だいいち、書く気になっているときのほうが、そのあと実際に書いているときよりもなお強く書くこと(エクリチュール)によって満たされていると感じます。欲望と官能の歓びのあいだには、書くことの最初のカオス、完全な、判読不能のカオスと、ページのうえで自由になるもの、明らかになるものの最終結果のあいだにあるのと同じ違いがあります。」》と答えた。

 芙美子もまた「書くように欲望する、いつも」だった。

 

 ところで、田辺聖子は『浮雲』について、《私は若いときから林芙美子のファンだった》と前置きしてから、次のように慶賀した。

《芙美子の代表作といえば、私は短編としては初期の『風琴と魚の町』、長編は晩年の、詩性とリアリズムが美しく融合し、芙美子の持てる佳(よ)きものが集大成された『浮雲』だろうと思う。いろんな男を見てきた芙美子は、インテリだけども元来がアナーキーな富岡という男をみごとに造型する。祖国の敗亡という運命に遭遇して呆然自失、為すすべもなく、雪崩(なだれ)おちてゆく何かを手放しで見ているだけ、といった荒廃の男。

 それこそ日本の敗残そのものの象徴である。

 芙美子はよく日本の<敗戦>を描き切った。それは、彼を愛した幸田ゆき子というヒロインを鏡として反映させたから、可能だったのかもしれない。ゆき子は富岡と違って、混乱の世を果敢に生きぬく。(中略)

 男と女の流転を前景に、敗戦前後の日本の崩壊がそのうしろに描き込まれている。芙美子の人生、芙美子の才華(さいか)のすべてはこの一作に結実した。》

 さらには富岡について、《再生の道を女に求め、どの女にも救われないで、孤独の深淵をのたうちまわっている。これは陰画の『源氏物語』であり、現代の光源氏ではないか。救いようのない虚無と孤独にたちすくんでいる男。その心象風景は寒々しく、やりきれずくらい。だが、人間の面白いところは、ふとした拍子に心が明るみ、また昂揚感と生きる気力をとりもどすことである。富岡にはそれが酒であり、新手の女である。その空しさを知りつつ、空しさにまた賭けてしまう……。底をついた男の本音を耳もとできく気がする。男の体臭のぷんぷん匂う、そしてそのやりきれなさが男そのものの魅力になっているのが<富岡>である。私はしみじみと富岡に共感する。》

 田辺は芙美子を「人間を描くのに、情が濃い」、「作品に熱っぽさを与える」と形容しているが、デュラスが、虚無的なのに情が濃い、極北の冷たさなのに芯は熱っぽい、ことの手袋の裏表だったのではないか。

 

 瀬戸内寂聴はデュラスについて、《私がデュラスに惹かれつづけて今も飽きないのは、デュラスの作品の行間から覗く、彼女の「極度の孤独」と「放心」とそれも上廻る「愛の密度」のせいである。(中略)「無」や「空」というと仏教用語が、デュラスの作品の中から漂ってくると感じるのは、私が出離者であることとは何の関係もない。

 この世で生きることは人間が孤独だということを思い知ることであるということを、デュラスは常に語っている。

 他者との理解など彼女はあり得ないと信じているのではないだろうか。彼女の作品の中から、女の極限状況から発せられるような恐怖の叫びがひびくのは、人間存在の闇をデュラスが見きわめてしまった恐怖からではないだろうか。

 デュラスの愛は死を呼びこむ。死の裏づけがあってはじめてデュラスは愛を認める。デュラスが何を書こうと、何にアンガージュしようと、デュラス自身の告白するように、たくさんの男たちと、激しい情熱的な性愛を持ったとしても、デュラスが常に充たされきれず、愛に渇き、孤独に沈潜していたことを私は信じずにはいられない。》と語った。

 一方、芙美子のことは、瀬戸内晴美前田愛『対談紀行 名作のなかの女たち』(「『放浪記』と林芙美子」)で、こう語っている。

《『放浪記』は非常にどん底を書きながら明るいでしょう。だけども、林芙美子は虚無的なんですね。その虚無的なものが、だんだん、だんだん沈殿(ちんでん)していって、どん底のときは明るいのに、功成り名遂げたときに非常に暗くなってきてますね。

浮雲』は、私は本当に傑作だと思うんですけれども、『浮雲』には明るさがまったくないんです。それはやはり、林芙美子の最期の死の影を感じつつ書いた、自分は意識しないけれども、もう死の前の作品で、そのとき林芙美子の行き着いた境地というのは非常に暗い虚無的な世界、救いのまったくない世界です。》

 要するに二人の本質は「アウトサイド(外側)」なのだ。

 

 ところで、デュラス『愛人 ラマン』も『浮雲』も仏印インドシナ)を舞台とし、どちらからもインドシナ・フルーツの爛熟が匂いたつ。

『愛人 ラマン』のデュラスは欲望する。フルーツのイマージュは世界を記述するために存在するだろう。

《エレーヌ・ラゴネルの身体は重い、まだ無垢だ、彼女の皮膚の滑らかさはさながらある種の果物のようだ、そんな皮膚の滑らかさは、感じとれるかとれないかの境い目にあるもの、すこし非現実的なもの、この世界をはみだした余計なものだ。》

 サイゴンの中華街チョロン地区の一室で《彼は言う、この国で、この耐えがたい緯度で何年もの年月をすごしたために彼女はこのインドシナの娘になってしまった。この国の娘たちのようなほっそりした手首をしているし、この国の娘たちの髪と同じように、まるで張りのある力のすべてを引き受けて身につけてしまったかのような、濃く、長い髪をしている。とりわけこの肌、全身の肌といつたら、この国で女や子供たちのために取っておく雨水を使っての水浴を経験してきた肌だ。彼は言う、フランスの女たちの身体の肌は、この国の女たちとくらべると、固く、ほとんどざらついている。彼はさらに言う、魚と果物だけの熱帯の貧しい食物も、それにいくらか役立っている。》

 一方の『浮雲』。

 義兄との不倫から抜けきりたい気持ちでタイピストとして仏印行きを決心した幸田ゆき子(高峰秀子の演技の凄み)が、サイゴンを経てダラットの高原に着いたのは昭和十八年だった。しかしじきに妻ある農林研究技官富岡と男女の仲になってしまう。

 戦後敦賀から東京へ引き揚げて来たゆき子は富岡を訪ね、諍いと未練の腐れ縁を繰りかえしてしまう。あげく、心中してしまうつもりでゆき子を伊香保に誘った富岡(有島武郎の長男で京大哲学中退の俳優森雅之のなんと太宰治に似ていることか)は温泉で知り合ったバーの若妻おせいとも関係してしまう(してしまう(・・・・・)こそ情痴の本質だ)。

 愛の象徴なのか二人は林檎を買い求め、皮をむく。

《マンゴスチーンを上品な果実とすれば、その正反対な果実に、臭気ふんぷんとしたドゥリアンと云う珍果のある事をも書かねばならぬ》といった雑文で富岡は稿料を稼ぐ(成瀬作品につきまとう「金銭」をめぐる葛藤)が、その半分はゆき子に送られて子供をおろす費用となってしまう。

 いかさま新興宗教から六十万円(映画では二十万円)を盗んだゆき子は富岡と島流しのように屋久島へ向かう。途中、鹿児島で買った林檎はまずく、富岡は芯をかっと吐き出す。胸を病み、熱に浮かされるゆき子に蜜の記憶があらわれる。《窓の外に、大きな樹の実の落ちる音がした。二人は、その音にもおびえる。井戸の底にでもいるような、静かな、高原のビアンホアのホテルの一夜は、ゆき子にとっては、夢の中にまで現われて来る。房々とした富岡の頭髪の手触りが、いまでもじいっと思いをこらすと、掌のなかに匂ってきた。》(喘ぐように息継ぎが多いが、吹っ切れた芙美子の文体。)

 ゆき子が、ああ生きたいとうめいているとき、小説の富岡は土砂降りの山の営林所で薯焼酎を飲みながら、八重岳の山容がアンコール・トムのバイヨン宮に似ていると話しだす。《山の石肌(いしはだ)には、巨大な、人面を現した石積の塔が聳(そび)えていてね、部屋々々の石柱は、傾き、石梁(せきりょう)は落ちかけて、この山石の、廃墟(はいきょ)の前庭には、巨(おお)きな樹が、倒れかけた擁壁を支えているし、ここの、杉のミイラと少しも変りはない。》

  やっと官舎に戻るとゆき子は冥府へ走り去っていた。

 

 さて、成瀬監督自身が高峰秀子との対談で『浮雲』のあらすじを紹介している(成瀬は高峰にあまりいい感じを持っていなかった、ただ演技だけはかっていた、だから普通のときはあまり話をしなかった(他の女優にも似たような逸話が残っている)、という「成瀬組」の打明け話を頭の片隅に置いたうえで)。

「[対談]『浮雲』について 成瀬巳喜男高峰秀子」から(東宝の正月文芸作撮影中の、東宝撮影所のセットに二人を訪ねて)。

《高峰 まさかあたしに、ゆき子の役がまわってくるとは思わなかったし、とてもむずかしくて演れそうもなかったので再三ご辞退したんですけど……でも女優だったら誰でも一度は演りたい役でしょうね。

成瀬 主人公のゆき子は、秀ちゃんより他にはいないよ。

高峰 あたし、いままで、情痴というと大ゲサだけど、べったりした恋愛ものに出たことがないの。富岡謙吾になる森さんと、仏印から東京、伊香保また東京、伊豆長岡から鹿児島へ行き、屋久島で病死するまで、二人がついたり離れたりする、大恋愛劇なんですもの。それに、森さんと一緒におふろに入ったり、接ぷんシーンをやったり、酔っぱらって、くだまいて口説いたり、生れて初めてのことばかりなんですもの……

 先生は、林さんの作品を『めし』『稲妻』『妻』『晩菊』と手がけられて、これで五度目、一人の監督さんが、一人の作家の作品を五回も手がけられるということは珍らしいことですね。

成瀬 余程、林さんの作風と肌が合うんでしょう。でも、恐らくこれが最後の作品になるでしょう。ほかのどの小説をもってきても同じでしょうから……

高峰 先生の作品は、いつも下町情緒で、淡々としていらっしゃるんですけど、『浮雲』は随分油っこい……

成瀬 『あにいもうと』も相当アクドイものだったけれど……ゆき子という主人公は、少女時代に義理の兄さんに犯され、農林省タイピストとして仏印に赴任し、そこで富岡と結ばれる。富岡を生涯の男として慕うが、帰国した男には妻があって結婚できない。この男と同棲するが、生活のためにパンパンになったり、再び義兄の世話になったりするが、結局屋久島で病死するまで離れられない。男の方も離婚できないまま同棲し、生活能力がないので女と心中しようとするが、バアの若妻にずるずると惹かれて死ねない。再起しようと発憤して屋久島に渡り、そこで女に死なれて初めて女の愛情というものをしみじみと感じる。というように、あちこちと場所がうつり、その間、ほとんどゆき子と富岡の二人の話ばかりなので、相当ねつっこいものになりますね。でも、一人の人間が、全然別個の境地に進むということは、なかなかできるものじゃないから、この映画もできあがってしまうと、案外ぼくのいつもの作品と同系統のものになってしまうかもしれない。》

 

 蓮實重彦は「二〇〇五年の成瀬巳喜男――序にかえて」で、《その中心になるのは、林芙美子の原作を田中澄江水木洋子などの女性脚本家の協力をえて脚色した作品である。それはまた、脚本家が書き込んだ文学的、演劇的な台詞を可能な限り削除し、言葉よりも視線や身振りの交錯ですべてを語ろうとするサイレント映画を体験した成瀬巳喜男だけに可能な演出技法が見事に開花した一時期でもあった。》と述べているが、その実際は、田中澄江他編『成瀬巳喜男――透きとおるメロドラマの波光よ(映画読本)』の「[採録]『浮雲』撮影台本より」(伊香保の場面)から知ることができる。

《言葉よりも視線や身振りの交錯ですべてを語ろうとする》演出技法は、とりわけ「視線」の演技に顕著である。日本に戻って来たゆき子が富岡の家を訪ねると、富岡の妻は彼女を隈なく見つめて値踏みする。フラッシュバックした回想のベトナムで、富岡は欲望の眼差しを現地の女中やゆき子に注ぐ。その眼差しは伊香保で知り合ったおせいと無遠慮なまでに交錯しあい、その互い違いの見つめ見つめられに、ゆき子の疑いの凄まじい視線が十字に交差する。屋久島の官舎で、病の床にありながらも、富岡と手伝婦が何か示しあわせているのではないかと疑いを向けずにはいられないゆき子のせっぱつまった凄惨な視線。

 実際、デュラスはインタビューで、《「他の視線と絶えず交差し、そして他の視線へと吸いこまれるひとつの視線。視線は、それによって登場人物と物語の現実が明らかにされる真の認識手段にとどまっています。たがいに重なり合う視線。登場人物のひとりひとりがだれかを見つめ、そのだれかから見つめられる。(中略)男女一組のあいだに情熱が燃えあがるのを目撃する、第三の人物の絶えざる存在という仮説を確認したいかのようですね。」》と聞かれて、次のように答えている(『私はなぜ書くのか』)。

《「わたしはつねに、愛は三人で実現すると考えていました。一方から他方へと欲望が循環するあいだ、見つめているひとつの目。精神分析は、原風景の執拗な繰り返しについて語ります。わたしは、ひとつの物語の第三の要素としての書かれた言葉(エクリチュール)を語るでしょう。だいいち、わたしたちは、自分がしていることと完全に一致することは決してありません。わたしたちは自分がいると信じているところに完全にいることはない。わたしたちとわたしたちの行動のあいだには、隔たりがある。そしてすべてが起こるのは外部において(・・・・・・)なのです。登場人物たちは、自分たちの眼前でさらにもう一度、展開する「原風景」から除外されていると同時に、そのなかに包含され、自分もまた見られるためにそこにいることを知りながら、見るのです。」》

 

 ミッシェル・フーコーとエレーヌ・シクススの対談「外部を聞く盲目の人デュラス」で、シクススは、《デュラスの作品でとても美しい言回しがあると思うと、それはきまって受動態、つまり、誰かが見つめられている、といった文章でなんです。《彼女》は見つめられ、見つめられているのを知らない。ここで視線は主体の上に投げかけられているんですが、主体は視線を受けとっていない。》と語ったが、成瀬映画の視線にも当て嵌まる。

 郷原佳以は「三角関係の脱臼――書くことと愛、ブランショとデュラス」で、《デュラスの文体は、物語を書き込まないことによって、語らないことによって、むしろ、まるでト書きのように可能な限り文飾を削ぎ落として書くことによって、行間から恐ろしいほどの余韻を響かせる》と書いたが、成瀬の《言葉よりも視線や身振りの交錯ですべてを語ろうとする》演出法に通じるところがある。

 またシクススは、《私は、デュラスの創り出すものを《貧素(pauvreté)》と呼んでもいいと思います。作品を読み進むにつれ、豊かさや巨大な構築物を徐々に棄ててゆくという作業があるんです。余計なものを次第次第に取り払ってゆき、舞台装置や装飾や物が順々に少なくなっていくんですね。》と論じたが、それは成瀬が心の底で望んでいたものに違いなく、屋久島での臨終場面のミニマライズな「撮影設計」に表れが見える。さらには高峰秀子の思い出のエピソードがある。高峰『わたしの渡世日記』の「イジワルジイサン」こと成瀬との『浮雲』撮影時の回想で、成瀬との最後の仕事になった松山善三脚本『ひき逃げ』撮影中の会話がある。イジの悪いほど喋らない彼が珍しく口を開いた。《「ねえ秀ちゃん」「へえ?」「ボクはね、いつか……装置も色もない、一枚の白バックだけの映画を撮ってみたいのよ」「白バック?」「なんにも邪魔のない、白バックの前で芝居だけをみせるの……。そのとき秀ちゃん演(で)てくれるかな?」「……」》

 実現しなかったとはいえ、削ぎ落とすことで響かせたいという思いが強かったのだ。

 

 ここで、郷原「三角関係の脱臼――書くことと愛、ブランショとデュラス」に戻れば、《『ロル・V・シュタインの歓喜』を読んで驚喜したラカンが喝破したように、しかし、そこで指摘された事実自体についてはラカンに言われるまでもなくデュラスの読者であれば誰しも気づいていたように、デュラス的な愛を不可能なものとして成り立たせているのはある三角形、三項関係である。T・ビーチの舞踏会でロルの婚約者マイケル・リチャードソンがロルの眼の前でアンヌ=マリー=ストレッテルに吸い寄せられ、ロルの前から姿を消したこと。(中略)寄宿舎の友人エレーヌ・ラゴネルを自分の愛人の中国青年に抱かせ、自分はそれを見ていたいという少女の激しい欲望。(中略)こうした反復される三角形の主題は、なるほどデュラスとアンテルムスとマスコロの友愛に結ばれたトリオを想起させずにはおかないが、しかし、おそらくそれも含めていずれの三角形も、互いを追いかけ合うことで嫉妬の力学と戯れを作用させるような恋の三角関係とは別の位相にある。三角形があったとしても、三角関係はそこで脱臼されて「愛の物語」がいかにしても成就しない<外>へ、無限定の<外>へ開かれている。》

浮雲』においても、富岡・ゆき子・富岡の妻の三角形は、富岡・ゆき子・外国人ジョオ、富岡・ゆき子・おせい、富岡・ゆき子・義兄とくるくる回転し、富岡は、妻、おせい、ゆき子の三人の女たちに、つぎつぎと命を落とさせることしかできず、恋というよりは脱臼している。

<外>へということであれば、ベルナール・エイゼンシッツが「成瀬巳喜男におけるさまざまな移動――日本を縦断して」で論じているように、成瀬映画は、とりわけ芙美子作品では、たゆまず「遁走」「流浪」「放浪」「移動」する。『浮雲』でも富岡とゆき子の二人は、自分の過去を背負ってあてもなく何度も、並んで道を歩く。

 成瀬の《映画の筋書きは戦前においては、社会の網目のなかで、空間のなかに展開されるのと同じように厳密に展開していた。一九四五年以降は、歴史のなかでそれは展開されていく。成瀬は「国を挙げての記憶喪失」にはまったく加わらない。逆に、以後すべては戦争に端を発するように見えてくるのだ。》

 はじめから内地を離れた仏印で出会い、日本に戻ってからも都内を遁走するようにいく度も転居し、伊香保へ、伊豆の湯へ、ついには鹿児島、そして屋久島へと、時間の中に生きているのに、時間から逃げるように移動する(『めし』や『浮雲』では、使い古した靴の映像が、「遁走」「流浪」「放浪」「移動」する庶民の生活感と恋愛の徒労感を表象する)。

 

 ふたたび、成瀬と高峰の対談に戻る。

《高峰 割り合い長い映画になるようで……

成瀬 ぼくのものとしては、異例の作品となりそうで、二時間以上の長さになる予定です。それだけ長いとね、途中でどうしてもダレるでしょう。今、心配しているのは、富岡が病気のゆき子を連れて屋久島へ渡る連絡船に乗って鹿児島を離れていくシーンで、お客はここで終るんじゃないかと思われそうなんです。どうにかお客を立たせないように、いま一生懸命やっているんですがね。それにあれだけの長編小説を、二時間余りの映画の中に全部盛り込もうとするとストーリーを追うことと、セリフを言わせるだけでも一杯です。いま、シナリオを再整理しながら撮影している始末です。》(昭和29年12月24日)

 そうして成瀬は、「お客を立たせない」どころか、「金子正且 プロデューサーが語る、企画・キャスティング術」で金子が、《「いま見てもキレイですよねえ、『浮雲』のデコは。僕なんか日本映画最高の一本だと思います。」「――終わりに行けば行くほどキレイになるんですよね。」「そう、死ぬときなんかね。だから、あの役はやっぱりデコしかないと思ったんじゃないでしょうか。あの頃はもう三十ぐらいになって、ちょうど脂が乗り切っているという感じだし。」》と語った女優高峰秀子(《この仕事が終わって松山善三と結婚したら、女優をやめて女房業に専心したいと希(のぞ)んでいた》、愛称デコ)の最高に美しい顔であるうえに、《映画史上最も美しいクローズ・アップの一つ》(蓮實)となった。

(付け加えれば、林芙美子原作の「最後の作品」とはならなかった。八年後の昭和三十七年、同じく高峰で『放浪記』を撮っていて、興行的にはヒットしなかったものの、高峰は甲乙つけがたく、監督はむしろこちらに愛着を抱いていたという。)

 蓮實重彦は「寡黙なるものの雄弁――戦後の成瀬巳喜男」で、こう述べている。

《『浮雲』の最後で人が目にするものは、何の飾りけもない殺風景な風景で息を引き取ろうとする病床の若い女と、それをなすすべもなく無言で見まもるしかない中年の男性ばかりである。二人の間に、言葉はおろか、視線さえかわされることがない。男にできることといえば、東南アジアの熱帯雨林での最初の出会いを回想しながら、動こうともしない女の唇に口紅を塗ってやることぐらいだ。舞台は、日本の南端に位置する亜熱帯の孤島に設定されており、そこには電気さえ通っていない。戸外には夕暮れ近くの嵐が吹き荒れている。

 だが、アルコール・ランプに照らしだされる二人の翳りをおびた孤立ぶりは、これという装飾もない無味乾燥な室内装飾がそうであるように、そうした特殊な地理的条件とも、例外的な気象状況とも、原作となった小説の描写ともいっさい無縁である。彼らは、あらゆるものから見放されたかのような無防備で、同じ時間と同じ空間を共有しあう一組の男女としての時分を受け入れているにすぎない。そこには、それさえあれば映画が成立すると成瀬が信じている男と女が、途方もない豊かさを実現しうる希有の単純さとして露呈されている。だから『浮雲』を見るものは、その最後での二人の男女の孤立が、豊かな単純さへの確固たる意志が導きだした一つの実践的な形式であることを理解せざるをえない。

 成瀬巳喜男にとって、映画が成立するためには、何よりもまず、画面を構成するすべての要素が一組の男女に還元されねばならない。『浮雲』の最後で、女の身を気遣う近隣のものたちが、男の指示でことごとく部屋から遠ざけられているのは、そのためである。実際、ここでは、すべてが呆気ないほど簡素な構造におさまっており、画面に息づまるような震えを導入するのは、森雅之が床からたぐりよせてそっと枕元に置く何の変哲もないランプばかりなのだ。それが投げかける弱い光を受けとめながら、ことによると、成瀬巳喜男は、男と女をつつみこむこの光によって映画を定義しようとしているのかもしれないと人はつぶやく。

 実際、あくまでもつつましい動きで位置を変えるこの鈍い光源が死の床に横たわる高峰秀子の表情に微妙な照明を投げかけるとき、誰もがそう思わずにはいられない。視線を交わしあうことすらなくなった二人に向けられるキャメラが、それぞれの顔を微妙な陰影の推移の中に浮かび上がらせ、そこに、映画史上最も美しいクローズ・アップの一つが生まれ落ちることになるからである。二人の不運な境遇をここまでたどってきた者たちは、終わりを迎えつつある物語が煽りたてる情動の高まりを超えて、薄暗がりに浮かびあがる女の相貌のものいわぬ白さに無媒介的に惹きつけられる。》

 さらに蓮實は成瀬賛を次のように結ぶ。

成瀬巳喜男の的確な演出は、目をそむけずにはいられない凄惨な女の修羅場を、ありうべき現実の再現には到底おさまりがつかぬ透明な虚構として、何度でもスクリーンに推移させてみせるだろう。それが、世界で誰もやったことのない寡黙な雄弁さともいうべきもので映画をひときわ輝かせる。》

 

「寡黙な雄弁さ」。それを象徴するかのような「浮雲」の映像は、映画にはないが、原作では「浮雲」という語が二か所あらわれる。

《富岡が歩き出すと、ゆき子もそのまま、水溜(みずたま)りのなかへはいって来た。――富岡は孤独に耐えられない気持ちで、一人でさっさと歩きながらも、後から濡れた道をびちゃびちゃと歩いて来るゆき子の表情を、素通しにして、心で眺(なが)め、自分の孤独の道づれになって貰(もら)いたい気持ちになっていた。そのくせ、ゆき子と歩いている時は、何となく犯罪感がつきまとう気さえしてくる。

 自分の孤独を考えてゆきながら、その孤独に、ひどく戦慄(せんりつ)しているような、おびえを、富岡は感じていた。現在に立ち到(いた)って、何ものも所有しないと云う孤独には、富岡は耐えてゆけない淋(さみ)しさだった。自分を慰めてくれる、自己のなかの神すらも、いまは所有していないとなると、空虚なやぶれかぶれが、胸のなかに押されるように、鮮(あざやか)かにうごいて来る。

 ゆき子と、二人きりで、いまのままの気持ちで、自殺してしまいたかった。――若い日本の男が、外国の女とかけおちをして、追手に反抗して、郊外の駅で劇薬をのんだ事件があったのを、富岡は思い出していた。

 人間と云うものの哀しさが、浮雲のようにたよりなく感じられた。まるきり生きてゆく自信がなかったのだ。二人は、何処へ行く当てもなく、市電の停留所までぶらぶら歩いた。》

屋久島へ帰る気力もない。だが、ゆき子の土葬にした亡骸(なきがら)をあの島へ、たった一人置いて去るにも忍びないのだ。それかと云って、いまさら、東京に戻って何があるだろうか……。

 富岡は、まるで、浮雲のような、己れの姿を考へていた。それは、何時、何処かで、消えるともなく消えてゆく、浮雲である。》

 これらがデュラス『モデラート・カンタービレ』や『北の愛人』の一文であってもなんの違和感もないだろう。そして、デュラス『破壊しに、と彼女は言う』や『インディア・ソング』のフィルムのシーンであったとしても。

 

<補遺>

 成瀬巳喜男の映画についての重要な言説、証言は、蓮實重彦山根貞男編『成瀬巳喜男の世界へ』(筑摩書房)がほぼカバーしている。参考までに、蓮實の文章から断章的に引用しておく。

 

<蓮實「二〇〇五年の成瀬巳喜男――序にかえて」から>

・《『めし』、『お国と五平』、『おかあさん』、『稲妻』、『妻』、『あにいもうと』、『山の音』、『晩菊』、『浮雲』、『流れる』、『あらくれ』、『杏っ子』という彼の一九五〇年代の十二本をとってみると、たんに日本映画にとどまらず、世界的に見ても、この時期にこれほど充実した作品を撮り続けた映画作家はごく稀だということが、すぐにも明らかになるはずだ。これにとどまらず、この時期のそれぞれの作品に発揮されている演出的な手腕の確かさはいうまでもなく、現実把握の豊かな拡がりという点でも、比類なき映画作家の現存に眼も眩む思いがするほどだ。》(P6)

・《『めし』原節子よりも今井正監督の『青い山脈』(一九四九)の原節子を、『浮雲』の高峰秀子より木下恵介監督の『二十四の瞳』(一九五四)の高峰秀子を、より身近で、より現実的なものと感じとる感性というものが、ある時期まではまぎれもなく存在していたのである。》(P6)

・《成瀬巳喜男の作品には、悲劇的な題材をあつかった場合でも、その画面にはペシミズムとは無縁の透明感が漂っている。彼の外景撮影におけるやや逆光ぎみの光線への感性や、室内撮影における人物に向けられた照明へのこだわりは、サイレント期からつちかわれたキャメラへの揺るぎない確信からくるものである。》(P7)

・《成瀬巳喜男の演出は、物語をたくみに語ることとは別に、被写体となった人物の表情や、舞台となった地方の風景を捉えたショットそのものの生なましさによって、いわゆる社会的な題材のリアリズム性とは異なる映画ならではの現実をフィルムにおさめている。》(P14)

・《その中心になるのは、林芙美子の原作を田中澄江水木洋子などの女性脚本家の協力をえて脚色した作品である。それはまた、脚本家が書き込んだ文学的、演劇的な台詞を可能な限り削除し、言葉よりも視線や身振りの交錯ですべてを語ろうとするサイレント映画を体験した成瀬巳喜男だけに可能な演出技法が見事に開花した一時期でもあった。》(P16)

・《一九六九年、成瀬巳喜男が六三歳で他界したとき、やがて東宝の撮影所はほとんど貸しスタジオと化して、子会社の映画やテレビ向けの作品しか撮影されてはおらず、やがて東宝そのものも製作会社から配給会社へと変貌してゆく。こうした撮影所システムの崩壊や、新人監督の登場とともに、成瀬巳喜男が丹精こめて取りあげた作品は、映画界の前景からゆっくりと遠ざかってゆく。成瀬の作品が改めて「発見」されるのには、彼自身の死後、二十余年の歳月をまたねばならなかったのである。》(P18)

・《成瀬巳喜男は、「映画は、封切られてから、一、二週間で消えてしまう」という言葉で、その特徴が儚さにあることを強調したことがある。だが、その言明が彼の生涯で犯した唯一の誤りであったことが、いま明らかになろうとしている。》(P20)

 

<蓮實「寡黙なるものの雄弁――戦後の成瀬巳喜男」から>

「曖昧」

・《成瀬巳喜男の代表作とみなされている『浮雲』の位置は、一見したところ、きわめて曖昧である。中流以下の階級の素朴な生活描写に優れた手腕を発揮するといわれ、ときには「庶民劇」などという言葉でその作風を定義されているこの映画作家が、たとえば『おかあさん』や『稲妻』の舞台となる「庶民」の家庭などをこの作品にはまったく登場させていないからだ。また、『めし』の成功以後、『夫婦』、『妻』、あるいは『驟雨』などの作品で、結婚した男女間の微妙な心理の綾を分析することで、「夫婦もの」と呼ばれるべきジャンルを確立したとされる成瀬が、この作品では結婚という主題そのものを視界から遠ざけているからでもある。さらには、『女が階段を上る時』や『妻として女として』に代表される「水商売もの」の雇われ女将のように、男たちに媚を売ったり、彼らの欲望に弄ばれるようなこともないからである。だとするなら、『浮雲』は、成瀬巳喜男にとって例外的な作品とみなされるべきなのだろうか。》(P62)

・《豊かな陰影をこめて高峰秀子が演じている『浮雲』のヒロインは、落ち着くべき家庭もなく、夫と呼ぶべき男性も持てず、だからといって異性にへつらうこともない一本気な女として描かれている。彼女は、他人の家庭を崩壊させかねない自分の振る舞いに深く悩んだりすることもなく、妻のある男と二人だけの時間をすごしたいという執拗な意志をひたすらはぐくみ続ける。戦時中の仏印のジャングルから戦後の焼け野原まで、伊香保のうらぶれた旅籠から伊豆の温泉宿まで、そして雨季の屋久島の殺風景な宿舎へと、彼女はいっときもこの意志を見失わぬままに流浪し、そのあげくに病に倒れ、駆けつけた男に見とられて静かに息をひきとる。》(P62)

・《その死の床のまわりには亜熱帯の湿った嵐が吹き荒れ、「庶民劇」にふさわしい行商人が物を売り歩く下町の街並みもなければ、「夫婦もの」にふさわしい買い物帰りの女たちが無言で歩む一本道やたて込んだ細い路地もなく、「水商売もの」の舞台装置を彩る虚飾のネオンサインも輝いてはいない。こうして、その最後のイメージにおいて、『浮雲』のヒロインは成瀬巳喜男ならではの「庶民」からも、「夫婦」からも、「水商売」からも思い切り遠い世界へと孤独に旅だってゆくかにみえる。》(P63)

・《『浮雲』が示唆しているのは、成瀬巳喜男にとっての映画が、家庭を遠く離れた一組の男女だけで成立するという事実にほかならない。》(P63)

 

「二間続きの部屋」

・《部屋に落ちかかる照明の作品ごとの微妙な変化は、美学的な要請であると同時に、登場人物の経済的な背景をほとんど唯物論的に反映する視覚的な細部をかたちづくることになる。》(P66)

・《成瀬巳喜男の映画がしばしば舞台装置としているこの二間続きの生活空間は、日本のある時期のしかるべき和風の建築様式の再現ということもあろうが、それにもまして、監督がキャメラを向けようとする人物たちを、心理的というよりむしろ経済的に規定するものなのである。》(P66)

・《『浮雲』のヒロインが家庭を持たず、結婚とも無縁な存在だということは、彼女がこうした生活空間のなめらかな連続性の中に位置することを拒む人物だということを意味する。彼女は、そこから排斥されているというより、そうした空間に位置することを意図して回避しているかに見える。

 実際、高峰秀子は、まず、東南アジアの熱帯雨林の木洩れ日の中で、男との最初の愛を確かめあう。それは回想として語られる挿話にほかならず、物語そのものは、戦後の混乱期の日本の首都で、彼女が焼け跡の住居に男を訪ねるところから始まるのだが、玄関さきでのその妻との気づまりなやりとりの後に、戦争直後の荒廃しきった街路を誘いだした男とたどりながら、盛り場の小さな旅館で初めて二人だけの時間を見いだす。その小さな部屋に身をおいた男女に対して、生活の連続的な空間性をきわだたせる演出が行なわれていないことは、誰の目に

も明らかだろう。男に肩を寄せて並んで歩いていても、男とともに粗末なテーブルを囲んでみても、窓辺にたたずんで戸外に視線をはせてみても心の安定が見いだしがたいのは、成瀬巳喜男が、いまみた二間続きの構図の中にヒロインの人物像を描きだしてはいないからだ。》(P67)

・《実際、娼婦同然の生活に陥り、蝋燭しかない仮説のバラックに男を迎え入れたりする高峰秀子に向けられたキャメラは、照明からしても、奥行きの不在という点からしても、彼女を二間続きの日本間とはまったく異質の空間に位置づけている。不意に狭くるしい下宿に姿を見せて男を戸惑わせたりするときも、自殺するといって男を地方の宿に呼びつけるときも、死ぬ気で男とともに温泉町に逗留するときも、そこに二間続きの生活空間が姿を見せることはないだろう。》(P68)

・《ヒロインの思いつめたような表情にわずかな安堵感が漂うのは、鉄道や船を乗り継いで亜熱帯の孤島まで落ち延びようとするときからでしかない。実際、混雑した車内で男に身をあずけたまま眠りふけっている彼女を正面からとらえたショットは、ほんの短く挿入されているにすぎなくとも、充分すぎるほど美しい。長旅に疲れて眠りこけている男の存在をかたわらに感じながら、車窓を流れる風景に目をやっている女をとらえたショットも文句なくすばらしい。だから、島への出発を待つ鹿児島で病に倒れ、男に介抱されて力無く布団に横たわるしかないヒロインの無表情な相貌に初めてやすらぎの影がよぎるとき、見ている者は思わずほっとため息をつく。》(P68)

 

「生活空間を遠く離れて」

・《『浮雲』の最後で人が目にするものは、何の飾りけもない殺風景な風景で息を引き取ろうとする病床の若い女と、それをなすすべもなく無言で見まもるしかない中年の男性ばかりである。二人の間に、言葉はおろか、視線さえかわされることがない。男にできることといえば、東南アジアの熱帯雨林での最初の出会いを回想しながら、動こうともしない女の唇に口紅を塗ってやることぐらいだ。舞台は、日本の南端に位置する亜熱帯の孤島に設定されており、そこには電気さえ通っていない。戸外には夕暮れ近くの嵐が吹き荒れている。

 だが、アルコール・ランプに照らしだされる二人の翳りをおびた孤立ぶりは、これという装飾もない無味乾燥な室内装飾がそうであるように、そうした特殊な地理的条件とも、例外的な気象状況とも、原作となった小説の描写ともいっさい無縁である。彼らは、あらゆるものから見放されたかのような無防備で、同じ時間と同じ空間を共有しあう一組の男女としての時分を受け入れているにすぎない。そこには、それさえあれば映画が成立すると成瀬が信じている男と女が、途方もない豊かさを実現しうる希有の単純さとして露呈されている。だから『浮雲』を見るものは、その最後での二人の男女の孤立が、豊かな単純さへの確固たる意志が導きだした一つの実践的な形式であることを理解せざるをえない。

 成瀬巳喜男にとって、映画が成立するためには、何よりもまず、画面を構成するすべての要素が一組の男女に還元されねばならない。『浮雲』の最後で、女の身を気遣う近隣のものたちが、男の指示でことごとく部屋から遠ざけられているのは、そのためである。実際、ここでは、すべてが呆気ないほど簡素な構造におさまっており、画面に息づまるような震えを導入するのは、森雅之が床からたぐりよせてそっと枕元に置く何の変哲もないランプばかりなのだ。それが投げかける弱い光を受けとめながら、ことによると、成瀬巳喜男は、男と女をつつみこむこの光によって映画を定義しようとしているのかもしれないと人はつぶやく。》(P70)

・《実際、あくまでもつつましい動きで位置を変えるこの鈍い光源が死の床に横たわる高峰秀子の表情に微妙な照明を投げかけるとき、誰もがそう思わずにはいられない。視線を交わしあうことすらなくなった二人に向けられるキャメラが、それぞれの顔を微妙な陰影の推移の中に浮かび上がらせ、そこに、映画史上最も美しいクローズ・アップの一つが生まれ落ちることになるからである。二人の不運な境遇をここまでたどってきた者たちは、終わりを迎えつつある物語が煽りたてる情動の高まりを超えて、薄暗がりに浮かびあがる女の相貌のものいわぬ白さに無媒介的に惹きつけられる。》(P71)

・《成瀬巳喜男の演出が冴えわたるのは、キャメラ玉井正夫と、照明の石井長四郎と、美術の中古智のたぐい稀な技術的達成に支えられながら、光という単純な要素だけで男女をつつみこもうとする瞬間である。この寡黙な雄弁さともいうべきものが、映画だけに許された豊かな単純さにほかならず、成瀬巳喜男はそれに身をまかせる喜びを知っている数少ない映画作家の一人なのだ。》(P71)

・《物語の水準でいうなら、事態は必ずしも単純なものとはいえない。女の最期を見とるこの優柔不断な男にはれっきとした妻がいた身であり、行きずりの情事の相手となる女も一人や二人でなかったことを、見るものは知っているからである。だが、決して単純なものとはいえないこうした劇的状況の内部で、監督は、宿命的な出会いを演じた男女を、空間的にも時間的にも、あえて孤立させている。『浮雲』にとどまらず、彼の作品には、主人公たちの意志というより周囲の状況に身をまかせることで、一組の男女が不意に二人だけの空間と時間を見いだし、たがいの存在を身近に確かめあおうとする場面が決まって挿入されている。そんな二人にキャメラを向けるとき、成瀬巳喜男は、それこそが映画の豊かさの証左にほかならぬというかのように、そのシークェンスを特権的にきわだたせずにはいられないのである。》(P72)

 

・「病に倒れる」「看病」「木漏れ日の下での出会い」「並んで道を歩くという再会」「移動画面」「遁走」「たびかさなる転居」「父親の不在」「母系家族」「寝穢(いぎたな)く」「せっぱつまった関係」「ためらいを欠いた思い切りのよさ」(P74~。いくつかのキーワード)

 

「凄惨さ」

・《その一連の仕草にキャメラを向けるとき、女たちが演じ立てるおだやかな凄惨さともいうべきものへの成瀬巳喜男の異常な執着が生なましく目覚めるかのようだ。彼は、男なら逃げてしまうであろう気づまりな対話や居心地のよくない出会いを、思い切りよくはしたなさに徹してみせる女たちのためらいの不在を擁護するかのように、真正面から揺るぎなくキャメラにおさめる。》(P104)

・《成瀬巳喜男の的確な演出は、目をそむけずにはいられない凄惨な女の修羅場を、ありうべき現実の再現には到底おさまりがつかぬ透明な虚構として、何度でもスクリーンに推移させてみせるだろう。それが、世界で誰もやったことのない寡黙な雄弁さともいうべきもので映画をひときわ輝かせる。》(P104)

                                 (了)

 

          *****引用または参考文献*****

蓮實重彦山根貞男編『成瀬巳喜男の世界へ』(蓮實重彦「二〇〇五年の成瀬巳喜男――序にかえて」、「寡黙なるものの沈黙」、ジャン・ドゥーシェ「成瀬について」、ベルナール・エイゼンシッツ成瀬巳喜男におけるさまざまな移動――日本を縦断して」、玉井正夫「成瀬さんの本領は、一歩歩いて振り返る、独特の振り返りのポジションですね」、中古智「美術監督の語る成瀬巳喜男」、吉田喜重「反転する光と影、あるいは人間の別離をめぐって――小津安二郎成瀬巳喜男」、他所収)(筑摩書房

高峰秀子『わたしの渡世日記』(文春文庫)

川本三郎成瀬巳喜男 映画の面影』(新潮社)

川本三郎林芙美子の昭和』(新書館

*スザンネ・シェアマン『成瀬巳喜男 日常のきらめき』(キネマ旬報

村川英編『成瀬巳喜男 演出術――役者が語る演技の現場』(ワイズ出版

*中古智/蓮實重彦成瀬巳喜男の設計――美術監督は回想する』(筑摩書房

田中澄江他編『成瀬巳喜男――透きとおるメロドラマの波光よ(映畫読本)』(「[対談]『浮雲』について 成瀬巳喜男高峰秀子」(「日刊スポーツニッポン」昭和29年12月24日)、「『浮雲』撮影台本より」、「金子正且 プロデューサーが語る、企画・キャスティング術」他所収)(フィルム・アート社)

林芙美子浮雲』(新潮文庫

*『日本文学全集41 岡本かの子林芙美子宇野千代』(筑摩書房

*『林芙美子全集16』(「「浮雲」あとがき」所収))(文泉堂出版)

*『マルグリット・デュラス 生誕100年愛と狂気の作家』(吉田喜重「モラルと反モラルのはざまで」、郷原佳以「三角関係の脱臼――書くことと愛、ブランショとデュラス」所収)(河出書房新社

*『ユリイカ 増頁特集 マルグリット・デュラス』(ミッシェル・フーコー/エレーヌ・シクスス「外部を聞く盲目の人デュラス」、ジャック・ラカンマルグリット・デュラス賛――ロル・V・シュタインの歓喜について」、瀬戸内寂聴「デュラス、愛と孤独」所収」(青土社

*デュラス『愛人 ラマン』清水徹訳(河出文庫

*デュラス『私はなぜ書くのか』聞き手レオポルディーナ・パッロッタ・デッラ・トッレ、北代美和子訳(河出書房新社

瀬戸内晴美前田愛『対談紀行 名作のなかの女たち』(「『放浪記』と林芙美子」所収)(角川選書

*『ちくま日本文学020 林芙美子』(「解説 慰藉の文学 田辺聖子」所収)(筑摩書房

田辺聖子『ゆめはるか吉屋信子 秋灯机の上の幾山河』(朝日新聞社

田辺聖子『ほのかに白粉の匂い 新・女が愛に生きるとき』(「冷酷な男の色気――林芙美子浮雲』の富岡」所収)(講談社文庫)

菅聡子林芙美子『戦線』「北岸部隊」を読む ―戦場のジェンダー、敗戦のジェンダー」(「表現研究」92号)

林芙美子『戦線』(中公文庫)

林芙美子『北岸部隊』(中公文庫)