文学批評 『花柳小説名作選』を読む(3) ――舟橋聖一『堀江まきの破壊』

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舟橋聖一『堀江まきの破壊』>

 

《追ひ追ひに、ものが復興してくる中に、却て、昔より一歩乃至(ないし)数歩をすゝめたと思はれるものもあれば、どうしても、昔のものに及び難い、どこかで、今一つ、気が足りないといふものもある。これは、作る側で、工夫が足りないといふよりも、受ける側で、どこまでも、最高のものでなければ承知しないといふ精神が不足してゐるために、その逆作用がはたらいて、作る側にも、それだけの気魄(きはく)が、こもらぬといふ結果になるからであらう。

 芸術作品などは、むろん、さうだが、芸術品でなくとも、日常品や実用品でも、それを使用する側の精神が、微妙に働くことを見逃すわけにはいかない。着るもの、食べるもの、なども同じ道理である。

 しかし、一方、破壊されてしまったものもある。もとへ戻る余地は、殆ど、ありえないといふ状態にまで。

 堀江まきも、破壊された一人であらうか。つい、最近、彼女を見かけたといふ人の話に、彼女は、もう五十に手がとゞくといふのに、二十三、四の、息子より若い程の、復員青年と恋におちて、裏長屋のやうな家で、暮してゐるといふことであつた。

 堀江まきの破壊といふことを、端的につかむには、丁度、歌舞伎の破壊といふやうな現象になぞつて考へてみるのが、近道のやうだ。といふのは、どんな歌舞伎の心酔者ですらが、歌舞伎の破壊には、一種の痛快感を否めないからである。

 それは、日本芸術の代表のやうにいはれ、絢爛(けんらん)たる劇場を独占し、多数の、しかも上流のファンに支持されてゐることへの反感といふ類(たぐひ)のものではない。実際は、あまりにも、現代からかけ離れたロマンチックな匂ひのするものを、一応、雛壇から引きおろし、戦争に負けた日本のリアリティの中で、それに耐へられるホンモノかどうかの気合ひをかけてみたいといふやうな一般的関心事の中に、それはある、からである。》

 

・『名作選』の丸谷才一野口冨士男の対談から。

丸谷 相撲買いの小説っていうのは、ないですね。

野口 ありませんね。相撲じゃ小説にならないのかな(笑)。

丸谷 舟橋聖一さんなんか、芸者の相撲買いを書いたら、面白かったんじゃないかな。

野口 舟橋さんは相撲が好きで、歌舞伎が好きで、女遊びも花柳界だったのに、花柳小説といえるものが少ないんですよね。これもぼくの不思議のひとつなんですが、あの人の場合は、良家の娘で淫奔な女の主人公みたいなのが多い。

丸谷 『堀江まきの破壊』を、ぼくは苦心の末に探し出したんです。これは前半が非常にいいですね。

野口 そうですね。舟橋さんは岩野泡鳴を尊敬していたんでしょうけど、共通点はどこかというと、二人とも小説のなかで演説をする(笑)。この短編も演説から始まっているでしょう。ほかの人なら描写から始めるところなんでしょうが、そこが舟橋さんなんですね。》

・ここで「破壊」という言葉の遣い方は、「歌舞伎の破壊」の例を読んでも端的につかみにくい。ただ、「負」の側面ではなく、ホンモノを目指しての「精算」「ゼロ・リセット」「白紙化」に近く、従って悲惨ではなく「痛快」である。

 

《堀江まきは、今から、三十何年前、葭町(よしちょう)から、小稲と名のって、半玉(はんぎょく)の披露目(ひろめ)をした。二流地の葭町でも、当時は躾(しつけ)がきびしく、御座敷で、お客様と一緒に、ものを食べたりしたら、どやされたものである。その代り、半玉のうちから、蔭をかせぐことを強要されたりはしないですんだ。行儀作法はやかましかつたが、商売上の苦労は、何もなく、九時をすぎると御座敷にゐても眠くなつて、こつくりさんが出る位だつた。大ていの御座敷が、みなお母さんの、お遊と一緒であつた。小稲だけ呼ばれることはなく、時に、さういふお名ざしでかゝることがあつても、用心して、ことわつてゐた。お遊は、押しも押されもしないこの土地の大姐(おほねえ)さん株で、常磐津(ときはづ)の地(ぢ)をひかしたら、新橋にも柳橋にも、歯の立つ者はゐないだらうと、いはれた。小稲は、恐らく最近まで、このお遊を、真実の母と思ひこんでゐたのだらうが、古いわけを知る者にきくと、お遊には子供がなく、小稲を藁(わら)の上から貰ひうけて育てたのだともいひ、又、お遊の旦那が、よそ土地の芸者と浮気をして出来た子を、三つの時に、引取つて、自分の子に直したのだともいふ。

 したがつて、堀江まきの出生は、誰にもわかつてをらない。

 しかし、たとへ義理の仲にしろ、小稲には、さうした大きな庇護と背景があるのだから、どんな時でも、お茶をひく心配はない。気ずゐ気まゝの商売で、二月八月の、霜枯れ、夏枯れには、熱海(あたみ)だの伊香保(いかほ)だのとお遊につれられて、長滞在をしても、別段に、カレコレいはれることはなかつた。看板のわるい家の子が、反感の目を向けるぐらゐのもので、それも、平然として、黙殺すれば、却て、相手を縮み上らせるだけである。

 小稲は、六歳の時から、藤間政弥について踊りを習つた。政弥おしよさんの教授ぶりは、厳格であつた。然し、小稲の芸はすく/\と伸びて、天才的なところがあつたから、この稽古所通ひも、小稲にとつては、大した苦でもなかつた。葭町へ出てからも、むろん、踊りの小稲で売り出してゐた。春秋の大ざらひにも、お遊の七光りも手つだつて、一幕出し物をさせて貰つた。十七の時、「紅葉狩(もみぢがり)」の更科姫(さらしなひめ)で、評判を取った。この時は、先代の梅幸が見に来てくれたので、よけい、騒ぎが大きかつた。

 又、新橋のさる待合で、小稲の更科姫を見た梅幸が、羽左衛門にその話をし、

「今の年であれだけ踊れば、さきが、面白い――」

 ともいつたといふ。それを聞いて、鬼の首を取つたやうに喜んで、さつそく、お遊のところへ注進に及んだのは、中洲(なかず)の方の大きな待合のおかみさんであつた。

 日本橋の通り何丁目かの、道具屋さんで、唐池(からいけ)といふ……もともとは、静岡辺の古道具屋の小僧上りだが、その時分は、れつきとした古物商で、東京でも、華族とか大富豪とか以外は出入りをしないといふ程の羽振りになつてゐたが、この唐池が、その中洲の待合のおかみの口で、何とか、小稲を手に入れようと、機会を待つてゐた……。

 半玉が、ある年頃になれば、一本になる。そのとき、いはゆる水揚げをされて、女にして貰ふ。その代償として、莫大な金を取るといふのは、花街の不文律で、珍しいことでも何でもない。然し、年季いくらで抱えた丸抱えの妓(こ)なればいざ知らず、小稲のやうに、義理にしろ、真実の母と少しも変らぬ母がゐて、何不自由のない朝夕を送つてゐながら、看板のわるい、不見転(みずてん)さん同様、ある年頃がくると、水揚げ代を取って、一本になるといふ花街の風習を、別段に怪しむこともなく実践するところが常識人には解し得ぬ点である。

 普通、水揚げをして、そのまゝ、旦那におちつくのもあれば、水揚げは水揚げで、金を取り、旦那をつくるのは、そのあとで、ゆつくりといふのもある。そこで、水揚げ専門のお客さんもゐるわけだ。花街の女の処女性を奪ふのだけが趣味で、処女さへ手に入れゝば、あとは別に、心を残さないのである。花街にも、次ぎ次ぎと、若い妓が出てくるのだから、生れた時は、誰にしろ処女である以上、花街にだつて処女のないわけはない。待合のおかみさんいたのんでおいて、時々出る新品を狙(ねら)ふ。ところが、中には、たちのよくないのがゐて、古品を新品と称して、二度も三度も、商売をさせることもあるから、花街の処女は眉唾ものだといふ人もある位だが、普通には、水揚げは一回こつきりである筈だ。つまり、小稲のやうな、別段、処女を売らねばならぬ必要のない家の、いはゞ、お嬢ちやん芸者である人でも、やはり、相当の年頃になると、どこからともなく、水揚げの話が出てくる。その時、小稲に、自意識が発達してゐて、生活に困つてもゐないのにどうして、水揚げといふやうな野蛮な売春行為をしなければならぬのか。それは、怪しからんではないか、といふ風に考へて、自分から、積極的に反対し、お遊の心に訴へるところがあつたら、お遊も、さういふ花街の悪習に、気がついたかもしれない。然し、小稲は、つとめて、芸者子供、芸者人形たるべく養はれてきたのであるから、近代の自意識なぞのあらう筈もないのである。お遊にしても可愛い娘なのに、水揚げを狙つてくるやうな、下司(げす)な男に、小稲の処女性を売るといふ行為が、いかに非人間的な営(いとな)みかといふ点を、はつきり、懐疑してかかることを知らない。たゞ、漠然と、さういふ風習のあり方を信用してかゝつてゐる。昔から、さうであり、他の連中もさうなのだから、いくらお遊の子でも、小稲だけを、特別扱ひもなるまい位にしか考へてゐない。それが、そんな悪いことなら、今までにしろ、お上(かみ)でおさしめとなる筈だ。又、悪いことをすれば祟りがあるが、水揚げをしたからといつて、祟(たた)りがあつたといふ話はきいてゐないから、大したことはないだらう――いや、それよりも、あんまり、いつまでも、水揚げをしないで、ねんねでおいたのでは、小稲ちやんは、片輪ださうだ、ぐらゐのデマがとびかねない。そんなことになれば、小稲の将来は、台なしである。

 それより、大金を出して、小稲を女にしてやらうといふお客さまがあれば、適当にその人にまかせて、娘を元服させてやるのが、母のつとめが位に考へてゐる。幸ひにして、引きつゞき、お世話になれば、それもいい。が、お金の高が多くつて、人にうしろ指をさゝれさへしなければ、水揚げは水揚げだけのお客に願ふのも、分別といふものである。安いのはごめんだ。それは何も、お金を貪(むさぼ)らうといふのではない。高い金を取れば取る程、小稲に箔(はく)がつくのだから、せいぜい、出して貰ひたいのである。そして、葭町一の水揚げといはれた。

 それが別に金に困らない、菊喜美(きくきみ)の家(や)の看板の強みといふものであつた。

 お遊は、平凡に、古風にさう考へてゐる。小稲は、更に、平凡も古風もない。いや、考へるといふことを知らない。たゞ、毎日が、現象としてくりかへされる。そこに、風習がうまれゝば、すべてが、鵜呑(うの)みになつて、批判といふものを許されない。風習こそが、絶対無上の権威である。その風習に背くことは、どんな小さなことですら、異分子であり、もぐりであつた。》

 

・昭和二十三年発表の舟橋聖一『堀江まきの破壊』はいつの時代の話か、それとなくしか書かれていない。しかし、「復員青年」と恋に落ちたときには、「もう五十に手がとゞくといふのに」とあり、また「今から、三十何年前、葭町から」とされている。唐池は水揚げしたまきのことを第一次大戦(一九一四年=大正三年)の興隆資本主義の波に乗っていた備善の耳に入れなかったし、まきの人生の転回点となった井伊掃部守暗殺をテーマとする歌舞伎の上演は大正九年七月であろうから、話のほとんどはすっぽり大正時代と言ってよかろう。

丸谷才一舟橋聖一『ある女の遠景』(講談社文庫)に解説「維子の兄」を書いている。

《鷗外最上の傑作が晩年の史伝三編であることは今さら述べるまでもないが、論じるに価するのはやはり、『澀江抽斎』『伊沢蘭軒』『北條霞亭』がなぜあれほどの高さに達し得たかといふ問題であらう。もちろん理由は一つ二つにとどまるものではあるまい。複雑きはまる条件が寄り集つて、あの賛美と完成と豊饒とを形づくつたことは明らかである。しかしそのうち最も重要な因子としては、鷗外が江戸末期の文明に寄せてゐた郷愁のやうな思慕の情をあげなければならない。(中略)

 鷗外の場合の江戸末期に当るやうな、理想ないし憧れの対象としての過去の文明の型は、自然主義に対立した作家の場合には、多かれ少なかれ見られるものである。舟橋聖一の場合、それは大正文明であつた。彼は大正改元の年に八歳、昭和改元の年に二十二歳であつたが、幼少時の文明の型は彼の資質をあざやかに規定してゐるし、その文明の本質を追求することこそ彼の生涯の主題となつたやうに見受けられる。

 これは彼の作中、大正時代へと寄せる郷愁に端を発したものが数多いといふ事情から見ても明らかだらう。名作『悉皆屋康吉』で「康吉の考案した若納戸という色気が(中略)花柳界はもとより、山の手の家庭にも、大はやりをした」のは「震災前の東京」である。(中略)そして長編小説『とりかへばや秘文』に至つては、大正十年、水沢一俊男爵が中学生、清田彰太郎を伴つての箱根ゆきにはじまり、(中略)大正時代の世相をゆつたりと描いたものである。特に終曲が、「およそ十五年の歳月が流れて、昭和十五年三月……」とはじまることは、大正時代への挽歌とも言ふべきこの作品の性格を何よりもよく證してゐるやうに思はれてならない。》

・唐池の古物商に、康吉の悉皆屋と似た世界がみえる。

 

《然し、お遊とすれば、金はともかくも、唐池では、役不足といふ気もした。政治家なら大臣級、お医者なら、北里さん級、実業家なら、三井岩崎でなくとも、せめて、古河さんあたりから、声がかゝつても、をかしくはないといふ自信だつた。然し、そこは二流地の悲しさで、お遊の理想も実現は困難であつた。

 唐池は、古河と並び称せられた銅山王、中杉の当主、備善によつて、こゝまで引立てられてきた男である。中杉備善は、先代とちがつて、放埓(ほうらつ)の行ひが多かつたが、道具に目のきくことは先代以上といはれた。先代の奥方が、駿府(すんぷ)詰(づめ)の払方役人の娘であつた縁から、唐池も、静岡の古物商の手代をふり出しに、出世の蔓(つる)をつかみ、先代奥方の歿後は、中杉家の土蔵の中は、誰よりも、唐池が知つてゐるといふありさまであつた。その長持ちには何が入つてをり、その唐櫃(からびつ)には、何の何がしまつてあるといふことを、そらんじてゐるのは、唐池一人であつた。

 備善のお伴(とも)で、日本全国はおろか、朝鮮、満州から、台湾、上海(シャンハイ)、南京(ナンキン)と歩き廻つては、金にあかして買ひあつめる道具を、備善は、持前の淡泊さから、掘出しものでも何でも、気がむけば、唐池にくれてやることもあり、時には、唐池自身も、山をあてゝ帰ることもあるので、唐池の身代は長い旅行に出るたびに、太つていつたといふ。

「そりやアね、お遊さん。唐池さんには、位はない。けれど、あの人は、普通のお茶坊主ぢやアありませんよ。今を時めく銅山王の、奥方でさへ知らないお尻の毛まで、チヤンと見ぬいてゐる人だ。中杉備善さまが、首(くび)つ丈(たけ)で、上海くんだりまで、お伴につれていくのは、唐池さんを措(お)いてないとまでいはれる人です。わたしが、すゝめるからは、お遊さんや小稲ちやんの、不ためになるやうなことをする筈がないぢやありませんか」

 と、中洲の待合のおかみ、お梶(かぢ)には、それ相当の、胸算段のあつてのことなのであつた――。

 で、お優も納得(なっとく)した。お遊さへうんといへば、小稲には、拒否権はないのであるから、あとはすべて筋書通りに運ぶことになる。いよ/\、その当日、内箱のお初に、

「小稲ちやん。大人になれば、みんな、さうなるものなんだから、今日から、あんたも、唐池さんに教へて頂いて、大人にして貰ふんですよ。素人(しろうと)のお嬢さんがお嫁にいくのと同じことなんですから、ちつとも、心配しないで、唐池さんのいふ通りに、音無(おとな)しく、してゐればいいの。何はいやの、かにはいやのといつて、唐池さんに、さからつて、却て、大人になり損(そこな)つては、大変ですよ。唐池さんは、小稲ちやんも知つての通り、親切な小父ちやんだし、お金も、そのために、どつさり払つていらつしやるんだから、唐池さんの親切を無にするやうなことでは困りますからね。それに、こんどのことでは、お梶さんも、ずゐ分、骨を折つてくれたんだから、あんたが、こゝで、駄々をこねたりすると、お梶さんの顔をつぶすことになりますよ」

 と、くどかれた。お初のいひ方は、今までにないシヤンとしたいひつぷりであり、事の仔細はわからぬが、その重大性だけは、小稲にもわかるやうな気がした。それに、お座敷でも、水揚げといふ言葉は、度々、きかされてゐて、漠然とでも、その意味を悟つてゐないことはないので、小稲としても、突然の宣告に色を変へて、騒ぐ程のことはなかつた。大体、順応主義であり、この世界に棲む以上、男のしたい放題であつて、今更、泣いても笑つても、仕方がないのであつた。たゞ、唐池といふ男を、好きでもきらひでもないことが、何か、物足らぬ思ひをさせた。が、さうかといつて、外に、好きな男もゐなかつた。半玉でも水揚げをする年になると、大ていは、一人や二人の岡惚れをこしらへて騒ぐものだが、小稲は、さういふ相手が一人もゐない。

 それをお遊も、内々は心配し、又、お遊のごま(・・)をする連中も、小稲にさういふ浮いた噂のないことを、自慢ばかりはしてゐられないといふ風であつた。

 すると、お梶などは、それを又、宣伝の具にして、

「唐池さんの果報者。あの子はね、岡惚れ一人ゐないといふ、真正真銘の無垢(むく)ですよ」

 と、しきりに、お土砂をかけたものだといふことだ。》

 

・「古河」財閥、足尾銅山の翳。

《然し、お遊とすれば、金はともかくも、唐池では、役不足といふ気もした。政治家なら大臣級、お医者なら、北里さん級、実業家なら、三井岩崎でなくとも、せめて、古河さんあたりから、声がかゝつても、をかしくはないといふ自信だつた。然し、そこは二流地の悲しさで、お遊の理想も実現は困難であつた。

 唐池は、古河と並び称せられた銅山王、中杉の当主、備善によつて、こゝまで引立てられてきた男である。》という銅山王古河の名前が出て来るが、古河と舟橋聖一はおおいに因縁がある。

舟橋聖一『文藝的な自伝的な』の第一章には、舟橋の二つの源泉がある。

一つは耽美の世界。

《わたしの人生は縮緬(ちりめん)の肌ざわりからはじまった。

 五ツ六ツの頃から、祖母近藤ひろ子のお供で、芝居を見に行き、お化けが出るのが怖ろしく、同行の女客の膝に顔をうつ伏せた時、一越(ひとこし)縮緬や紋縮緬の感触が、子供心にも、得も言われぬ魅惑だった。》

 もう一つは古河財閥足尾銅山をめぐる翳。

《わたしの生れる少し前に、足尾銅山鉱毒事件が、世間を深憾させる社会的話題になったことは誰れ知らぬ者もなかった。しかも事件に直接関係のあった足尾銅山の所長が、わたしの祖父近藤陸三郎だと言うのだから、それをわたしがどんな風に考えたか、または考えさせられていたのか、これはわたしの一生に思い翳となった。》

 

 

《はじめは、唐池も、ほんの水揚げだけのつもりだつたらしい。が、そのうちに、いつまでたつても、離しさうにもないので、やうやく、世間にもパツとしてきた。然し、何分、唐池は、身上(しんしやう)があるといつても、一代分限(ぶげん)だから、根にしつかりしたところがあり、小稲の旦那になつたからとて、とくに、披露目をするわけでなし、ごく、内輪にふるまつてゐるので、ほかのお座敷の邪魔になるといふ程ではなく、一本になつてからの小稲は、却て、玉代があがる位であつた。それで、お遊もすつかり安心し、お梶やお初にも、たんまり祝儀をはずんだといふ話であつた。

「小稲――おまへさんは仕合せもんだよ。いくら大臣だ頭取だのつて、名前ばかりはあつても、芸者を虫けらのやうにあつかふ人もある。さういふ人の手にかゝつて、大人にして貰つても、その時は、パツとして派手かもしれないが、あと味のわるいものさね。そこへいくと、唐池さんは、存外、情(じょう)のふかい人だ。お金はあつて、情もあつて、その上、男つぷりだつて、そんなに悪かないもの、三拍子揃つてるとは、あの人のことだよ」

 と、すつかり宗旨をかへてゐた。小稲は、別段、それにさからふ様子もなく、さりとて、唐池さんから貰ひがかゝつても、これといつて嬉しさうな表情もないのだつた。

 その頃から、小稲は、本を読むのが好きになつた。いや、目立つやうになつた。むろん、芸者と小説本はつきものだが、小稲の読むのは赤本でなく、「カラマゾフの兄弟」とか、「アンナ・カレーニナ」とか「女の一生」とか、さうかと思ふと、古今集のやうなものを読んでゐることもあつた。

 誰の影響といふことは、わからなかつた。小稲の部屋の本棚には、背皮に金文字の厚表紙の本がズラリと並んで異彩を放つてゐたが、お遊も、これには手を焼くだけであつた。まさか、唐池の指図であるわけもないが、さうかといつて、唐池以外に、しんねこ(・・・・)で、呼んでくれるお客の中に、その方面の人はゐなかつた。御座敷以外で、こつそり、逢ひ引きをしてゐる様子は、むろん、無い。

 けれども、さういふむづかしい本を読んだからといつて、変に、理屈つぽくなつたり、一々、批判的になつたりする様子はないので、お遊も少しづゝ、安心した。たゞ、読んでるだけなら、別条はあるまいし、それに、ソロ/\、好きな人の一人や半分をこしたへても不足のない年になつて、神妙に、唐池だけの機嫌気褄(きづま)を取つてゐる風なら、娘としては、大出来の部といへるのであつた。

 ところで、唐池は、小稲のことだけは、備善の耳へ入れなかつた。その頃の備善は、第一次大戦の興隆資本主義の波にのつてゐるのだから、腕をこまぬいてゐても、株価は上り、資産はふえ、大ていの無理は、いふ目が出るといふ風であつたので、連日連夜の馬鹿遊びに、折花攀柳(せつくわはんりう)の数のみを誇つてゐたが、今夜はたまに、河岸(かし)をかへて、葭町(よしちやう)はどうだといつても、唐池は即座に、

「あすこは、二流地でござんすから、ごぜんのお遊びになるところではございません」

 といつて、同意しない。随分、一人勝手の備善が、唐池のいふことだけは、よくきくのもふしぎだつた。それといふのも、備善が自分でも無理と思ふやうなのに目をつけて、是非、あれをどうかしてくれといひ出すと、その交渉を引うけて、必ず何とか、仕出(しで)かしてくるのが、唐池であつたからにもよる。丁度、あの、光源氏の、無理難題の色あそびに、必ずお伴を仰せつかる惟光朝臣(これみつあそん)にも似てゐるのが唐池で、むろん、源氏が源氏なら、惟光も惟光で、主人が主人なら、家来も家来、おたがひに、持ちつ持たれつの仲だつたとはいへ、小稲に関する限り、唐池の口には、ぴつたりと、大戸が立つてゐたのである。》

 

三島由紀夫に読書遍歴を問われて(対談「私の文学鑑定」)、舟橋は誰の影響を受けたかを素直に語るが、「押しの強さ」「六代目の生世話」あたりに谷崎との通奏低音が聴こえる。

《最初からいえばやっぱり紅葉ですよ。紅葉の「伽羅枕(きゃらまくら)」「不信不語」「心の闇」「三人妻」というのは、愛読耽読(たんどく)した。ぼくの生れた年は明治三十七年ですから自然主義が風靡してくるころですが。三十九年が大体自然主義の黄金期とみて、やっぱり小学校のときから田山花袋や「あらくれ」「爛(ただれ)」(徳田秋声)などというものを読んだ影響がありますね。泉鏡花もむろんだけども、案外ぼくはそう花柳物なんて読まなかったし、そんなに興味もなかったですよ。むしろ紅葉の作品のもっている押しの強さみたいなものに興味をもった。そして比較的にノーマルに成長してきたんだけれども、やっぱり谷崎潤一郎ですね。谷崎さん以来かわっちゃった。たいへんな変り方をしたわけですよ。だからぼくの少年期を過ぎて青年期以後に影響を与えたものは「春琴抄」と「蓼(たで)喰ふ虫」、ラディゲの「ドルジェル伯の舞踏会」、それから梶井基次郎、この三者によってぼくの今日はかなりできてきたわけです。それまでは尾崎紅葉とか、小栗風葉とか村上浪六(なみろく)とかそういうようなものを雑然と読み、それから歌舞伎に陶酔したわけだ。歌舞伎といっても殊に六代目(菊五郎)の生世話(きぜわ)に陶酔した。》

・小稲はトルストイアンナ・カレーニナ』を読む女だった。しかし、因縁や勿体をつけずにさらりと書くところが舟橋らしい。

・《惟光朝臣(これみつあそん)にも似てゐるのが唐池で》には、後の舟橋歌舞伎『源氏物語』(昭和二六年(一九五一年)3月歌舞伎座初演、九代目海老蔵による光源氏)につながるものがある。

 

《中杉家で、宴会があるといへば、誰よりも、唐池が宰配(さいはい)をふる。前の日からつめかけ、お花いけ、お掛物、香炉香合の類はもとより、ちがひ棚、飾り棚の置き物、お火鉢、小几帳(こぎちやう)、衝立(ついたて)などまで、すべて、唐池の指図をまたなければならない。時には、お台所にも顔を出し、食器、お器(うつは)の類も、特別、価の高いものを使ふときは、唐池が世話をする。むろん、お茶道具一式は、唐池の領分であり、この前の宴席に使つたものを、二度使ふのは、気のひけるものであるから、なるべく、客に目新しさを感じさせるやうの、こまかく気を使ふ。それには、どうしても、記憶にたよる以外はない。唐池は、中杉家の年中行事、悉(ことごと)く、一冊の手帖に書きしるしてあつて、その閻魔帖(えんまてふ)を以て、その都度(つど)のプランを立てるのであつた。

 備善は、いはゆる殿様であつて、鷹揚(おうやう)にかまへてゐるとはいへ、さういふ饗宴に、少しでも、ソツのあるのは、大きらひであるから、唐池でなければ、夜も日もあけない。といふのは、奥方はむろんのこと、愛妾(あいせふ)といふべき人も、一人や二人ではない筈なのに、女の仕事は、どこかで尻が割れてゐるので、どうしても気に入らぬのであつた。奥方の竜子も、はじめのうちは、唐池が指図がましく出てくるのを、面白からぬやうに見えたが、そのうちには、却て、何でも唐池にやらせておく方が、一つには重宝なり、一つには、備善の機嫌にもかなふので、妙な感情を插むのを、やめにした。それでます/\、唐池が、中杉家の家政の中軸に参画するやうになり、時には、唐池次第で、中杉家はどうにでもなると思はれるやうな場面さへ出てきたのである。

 この時代が、いはゞ、唐池の全盛時代でもあつたのであるが、たゞ、その中で、一つの不自由は、小稲との関係を、ひし隠しにかくしてゐるために、矛盾や衝突のおこる場合が少くなかつたことである。

 唐池が、たまに小稲と、二三日、温泉へでも行かうとしてゐると、備善が新橋の誰それをつれて箱根へいくから、一緒に来いといふやうな話になるので、唐池としても、砂を噛むやうな、宮仕への苦々しさを味ふのである。然し、小稲は、いざ出かけるといふ矢先きに、唐池から、ことわりの電話がかかつてきても、別に、苦情一ついふではなく、自分一人で、さつさと身軽に、温泉宿へ出かけていつて、二日でも三日でも、約束通り、一人で遊んでくる。むろん、鞄のなかには、「トルストイ全集」を何冊か入れていくのだから、退屈する筈はない。

「ほんたうにすまないね。若(も)し、うまく、ごぜんをまいたら、すぐ、とんでいくよ。待つてゐておくれ」

 などと、唐池に甘いことをいはれても、小稲とすれば、二日でも三日でも、遠出にしてくれて、お遊の目のないところで、好きな本をよまして貰ふのは、このうへない極楽なのであつた。

 さうかといつて、本にばかり夢中になつて、唐池に冷く当るかといふと、さうでもない。要するに、熱くもないが、冷くもないといふ、ぬるま湯のやうな小稲だつたので、唐池としてもはり合ひもない代り、扱ひ憎いところは一つもない。それに彼は何しろ忙しい毎日だから、ほんたうの遊び人のやうに、女をとろ/\にするやうな性の技巧にふけつてゐる余裕がなかつたのか。

 そういう空気を、お梶たちも、それとなく察していて、

「一体、どうなの、小稲ちやんは――」

 などと、突つこんでくることもある。

「別に、どうつてこともないさ」

「そんならいいけれど、お遊さんも、少し心配してるんですよ。家にゐると、本ばかり、読んでるんですつて、さ。どうも、小稲は、おく(・・)の方ぢやないかつて」

「ふーん」

「でも、唐池さんが離さないところを見ると、おく(・・)でもないだらうつて――」

「ばか――」

「みんな、ふしぎがつてるわ」

「何を?」

「唐池さんの箒(はうき)さんが、すつかり宗旨がへをしたつて」

「この頃は、いそがしいんだよ」

「お忙しいのは、結構だけれど、あんた方ときたら、いつまでたつても、遠慮がとれないみたいね。どういふんでせう」

「さういふのを、他人の疝気(せんき)を頭痛に病むといふんだよ」

 さういつて、唐池は軽く一蹴したが、内心は、痛いところを、ピツタリといひ当てられた思ひをしてゐるのであつた。

 或日、備善がいつた。

「蘭五堂。お前は、葭町は二流地だといつて、いつも、けなしてゐるが、あすこにも、なか/\、評判のがゐるさうではないか」

 唐池は、ヒヤリとした。

常磐津ではお遊。荻江(をぎえ)では、民枝など、新橋にも負けないさうだし、そのお遊の子に、筋のいい立方(たちかた)がゐるさうだね」

「へい、よくご存知で。誰が申しましたでせう」

「その子と同じ、政弥について、踊りを稽古してゐる新橋の若いのに聞いた」

 誰がしやべつたのだらう。あんなに固く、口どめをしておいたのに、おしやべり雀! と、唐池は、頭の中に、新橋藤間の若手の顔をずらりと並べて見た。

 然し、備善の話はそれつきりであつた。別に、その子に逢ひたいといふのでもなかつた。お遊の子といふだけで、小稲といふ芸名も知つてゐないのは、一安堵(ひとあんど)であつた。が、油断はならなかつた。》

 

・「唐池さんの箒(はうき)さんが、すつかり宗旨がへをしたつて」の「箒」とは、次々と女と関係する浮気性の男のこと。

・《二流地の葭町でも、当時は躾(しつけ)がきびしく、御座敷で、お客様と一緒に、ものを食べたりしたら、どやされたものである。その代り、半玉のうちから、蔭をかせぐことを強要されたりはしないですんだ。》とあるように「葭町」は一流ではないにしても、お遊、小稲のいる葭町の家は荷風「あぢさゐ」ほど落ちてはいないが、「蔭をかせぐことを強要されたり」という世界もあったことが匂わされている。

・丸谷は「維子の兄」で、一種の社会小説である『とりかへばや秘文』の政治という局面以外の、六代目菊五郎小山内薫横綱大錦、帝国ホテルのグリル、市川猿之助など華やかな文明の別の局面を紹介してから、

《しかしここで芝居や相撲以上に逸してならないのは、

   たとへば、のちに初代花柳寿美として、押しも押されもしない舞踊家になつた新橋芸者小奴は、当時三越の常務だつた朝吹さんの寵愛するところ、同じく君太郎は六代目菊五郎の彼女で、後に正夫人となつたし、桂太郎にしても、原敬にしても、また渋沢、大倉、馬越、根津(嘉)、岩田(宙)、久原の愛妓愛妾のことは、大小と泣く、他人の目に触れ……

とあることでも判るやうに藝者である。今の引用が語るやうに、縉紳(しんしん)ことごとく藝者を好み、そして世間はそれを許すだけではなく、その好尚をまたみづからの好尚として憧れたのが大正といふ時代であつた。その文明においては藝者は女性の典型であり、藝者の艶(あで)すがたはこの時代の様式美の基本であつたと言つてもよからう。おそらく舟橋の女性像の原型はこれによつて定まつたのである。》

 舟橋『文藝的な自伝的な』は、小学校低学年ながら芸者がごく自然に周りにいて、すでに「にせの市民社会」を頭で知らずとも肌で感じていたと教える。

 母の実家だった本所区《番場町の家では主人陸三郎が、古河合名会社の一等支配人として、殆んど隔日ぐらいに、客を接待したので、女中だけでは間に合わず、給仕役に柳橋の芸者を呼ぶのを例とした。そのため祖母は、料亭の女将のように、芸者たちをもてなしてやらなければならなかった。陸三郎は下戸だったが、客のうちには酔っぱらうものもあって、賑やかな宴会となり、三味線も鳴り、芸者の手踊りなどもあった。わたしは廊下の遠方から、そっと覗いていたものだ。

 そういう芸者や半玉(はんぎょく)が先に来て、陸三郎の帰宅や客の来訪を待っているあいだ、手持無沙汰にかこつけて、わたしを相手に隠れんぼや鬼ごっこをしたりするのは、多くは半玉か、一本になりたての若い妓(こ)であった。》

  

《丁度、その頃、歌舞伎座で、井伊掃部守(かもんのかみ)が尊王攘夷派の浪士に暗殺される話を仕組んだ新作ものが上演されたことがある。市川左団次が井伊に扮し、水戸の烈公を、先代市川八百蔵が、やつた。生憎(あいにく)なことに、その日、唐池は、お梶にたのまれて、平土間を二桝(ます)ほど取り、小稲も一緒につれていくつもりで、葭町連を誘ひ合せてゐたところが、突然、古河家からの招待で、備善が歌舞伎座へ出かけることになり、唐池はその随行を命じられたのであつた。

 唐池はすぐ、小稲に電話をかけ、古河家の席は、東の桟敷(さじき)の四と五をぶつこぬいたところだから、おまへたちは、なるべく、目立たぬやうにして、平土間で見物してゐなさい。茶屋は、古河家は武田屋からだから、そのつもりで、あまり仰山(ぎやうさん)に、二階の方をふり仰いだりしないやうにと、注意をあたへ、それから、芝居がはねたら、おそくも十時までには、いつもの家へ行くから、そこで待つてゐるやうにと、念を押した。

 その頃の歌舞伎座は、まだ椅子席ではなく、二階両桟敷のほか、下に、うづら、高土間、新高が、両花道のそとにあつて、平土間は四人一桝。桝の上を、出方(でかた)がひよい/\と、お茶や弁当を持つて歩いた。幕間(まくあひ)には、役者の名前を筆太に書いた引幕が次ぎ/\と引かれた。

 唐池が、備善のうしろについて、武田屋の案内で桟敷へ入つていくと、舞台はもうあいてゐて、頼三樹三郎(らいみきさぶらう)に扮した市川猿之助が、唐丸籠(たうまるかご)で、江戸へ護送される場面らしく、いはゆる安政の大獄が、この芝居の筋になつてゐるものと思はれた。縄目にかけられた頼は、悲痛な声で、自作のらしい詩を吟じた。

 やがて、幕になつた。新作物は、場内の電燈を暗くしてあるので、幕になるとパツと、一斉に、灯がついた。と見ると、東の仮花道のすぐ傍に、小稲の顔が見えた。殆ど、ま正面に見えるので、唐池はドキリとした。お遊もゐる。民枝もゐる。あんなに注意しておいたのに、若い妓ならいざ知らず、お遊までが、こちらを見上げて、何か、噂でもしてゐるらしい様子。これでは、備善の目にとまるのも、当り前であつた。

 果して、備善はすぐ気がついた。

「蘭五堂」

「へい」

「あすこに、大分、ゐるな」

「へい」

「どこの連中だ。見かけない顔だな」

「へい――」

「一番手前にゐるのは、きれいな子ではないか」

「へい」

 小稲のことであつた。

「あとで、聞いてみてくれ。どこの何つて子か」

「へい」

 唐池はげんなりした。こんなことになりはしないかといふ予感はしないでもなかつたのである。

 然し、綸言(りんげん)は汗の如しである。一度、備善の口から出た以上、再び戻ることは、あり得ない。

 次の幕は、井伊が、その愛妾と、ギヤマンのコップで、赤い南蛮の酒をのむ場面であつた。市川左団次の得意とするリリカルなエロキューションは、こゝでも、観客に受けてゐる風である。愛妾に扮したのは、坂東秀調であつた。

 幕が下りると、備善は、外へ出ようといつた。

 二人は、茶屋へ通ずる橋廊下の袂(たもと)にある喫茶室へ入つた。

「わかつたか」ときかれる。

「葭町の婆さん連中ださうでござんす」

「若いのは?」

「やつぱり、同じで」

「だから、名前は何といふんだ」

「へい。では調べさせませう」

「何だ。蘭五堂は、よつぽど、葭町ぎらひと見えるな。では、もう頼まん」

「いえ、さういふわけぢやござんせん。では何ですか。ごぜんは、あゝいふのが、お好きで――」

「うん。ちよつとした代(しろ)ものだな。今夜、さつそく、遭つてみたいね。呼んで貰はう。瓢屋(ひさごや)がいいだらう――」

「へい」

 かしこまりました、といはざるを得ないのである。が、備善のことだ。たゞ、逢ふだけで承知する筈はない。

 唐池として、致命的なエラーであつた。彼は、次の幕を見る勇気を失つたが、その間に、お梶を呼出して、

「とんだことになつてしまつたよ」

 と、備善の無理難題を、ありのまゝに、つたへた。お梶も顔色をかへた。

「それで、旦那の肚(はら)はどうなの?」

「困つたよ」

「いえさ、どうでも、小稲ちやんを出してくれるな、つて仰言(おつしや)られゝば、あの子には、若い役者衆に、いい人があつて、そつちへのぼせ上つてゐるから、とか何とか、あきらめて頂くやうにする手は、あるわ」

「ところが、ごぜんときたひ(・)には、そんな、甘口には、のらない」

「さうかしら」

「一にも二にも金で、テキパキ、片づけていくんだからたまらない」

「駄目よ、そんなに、悲観しちや」

「いや、ごぜんに見こまれては、百年目だと思つてゐたのが、たうたう、来てしまつた」

「そんなに、参らないで、いつそ、あれは、自分のですつて、打明けておしまひなさいな――さうしたら、いくら、ごぜんだつて、旦那のもとものまで、欲しいとは、仰言りますまい」

「ところが、悪いお癖で、人のもちものほど、欲しがんなさる」

「困つたね」

「いや、殿様なんてそんなものさ。もう、何もかも、したいことはみな、しつくしてしまつた方だ。あとは、棒鼻をちぎることしかない。人のものを、取る外ない。主(ぬし)のない花なんか、かへりみようともなさらないんだ」

「それで旦那は、小稲ちやんを、見せまい見せまいとなすつたのね」

「さうなんだよ。だから、弱るんだ」

 唐池は、さういふ備善の手癖をよく知つてゐる。それは旅きなどで、一夜の遊びに呼ぶ芸者などにしても、一度、唐池の女にきめてから、それをよこせといふ風な悪趣味がある。又、主人側の寵妓と知れてゐる女を、無理に欲しがる癖があつて、中へ插まつて、唐池が冷汗をかくことは、一再でない。だから、小稲が、唐池のものだとわかつても、それに遠慮して、心猿意馬をおさへようとする備善ではないどころか、むしろ、さう聞くことによつて、却て、野望を燃え上らせる結果になることは知れてゐる。

「お梶さん――わしや、仕方がない。あきらめるよ」

 と、唐池はいつた。

「へえ?――あきらめるつて、旦那。それぢや小稲さんを――」

「見つかつたのが、そもそも、不運だ。いくら、あがいても、もう駄目。その位なら、何もいはずに、目をつぶつて、進呈してしまはう」

 唐池の額には、さすがに、青筋がピク/\してゐた。》

 

・二人とも幼少時の虚弱体質、祖母の溺愛と御供による歌舞伎愛好が共通している舟橋聖一三島由紀夫(舟橋は三島の母倭文重(しづえ)と西片町の誠之(せいし)小学校で同級だと、その時は知ずじまいだったが後年三島と親しくなってから聞く)の対談「舟橋聖一との対話」(初出「昭和24年3月文学界」だから『堀江まきの破壊』と同時期)から、舟橋の性向、文学の本質が婉曲にだが理解できる。それは「原型と変型」、そして「エロ」。

三島 歌舞伎はこの頃御覧になりますか。

舟橋 たまには見ますけどね。

三島 舟橋さんなんか江戸ッ子でいらっしゃるから、宗十郎なんかお嫌いでしょう。

舟橋 僕は宗十郎、絶対嫌いですよ。

三島 僕は好きです。

舟橋 僕の考えは、あなたと違うかも知れませんよ。つまり歌舞伎の一番本質的なものがあるということで宗十郎を認めてるということでしょう。例えば塩谷(えんや)判官ですね、六代目(菊五郎)と宗十郎を比べたら、塩谷判官の原型は宗十郎にあるわけですね。しかしだね、それは基本なのであって、いろんな変型が行われるわけですよ。芸術、殊にああいう型の芸術だから、われわれみたいな創造の芸術とは違って、まず型を基本にして、そこに変型が行われて来るわけだ。型破りはいけない世界なんだ。――われわれのはしょっちゅう型破りですがね。――だから、宗十郎の塩谷判官が塩谷判官の原型であるということは認めるんですよ。だけども、見物人にアッピールするのは、六代目の演出にあるわけなんだ。その六代目を見ちゃうと、それじゃ宗十郎のは原型に過ぎない、ということになっちゃうんだ。つまり標本室の標本に過ぎない。われわれが現代にアミーバとして動くならば、六代目のほうに深く惹(ひ)きつけられる、ということになるんだな。

三島 それが今の大衆にはわからないんじゃないかしらん。しかしこれからの友右衛門(ともえもん)とか何とかでは、そういう意味で原型の役者が出て来ないと思うんです。そういう意味で宗十郎は希少価値を持って来てると思うんです。

舟橋 そういうことですよ。だから、僕はいつでも原型を愛して、それを進歩させるものを愛してるんだ。いつでもそうですよ。つまり小手投げなら小手投げの原型を愛してますよ。しかし、その原型を更に進歩させる人を更に愛してるな。だけど、原型主義者には判らない。あいつは邪道だと言いたくなるんだな。ここに問題があると思うんだ。そうそう僕はこないだ古靱太夫の「伊勢音頭」を聴いてね、これはもうすっかり感心したな。

三島 聴きたかったな。

(中略)

舟橋 これは六代目の落し葉梨のように言われてるけど、忠臣蔵のお軽は戸塚へ来るまでの間に勘平と何遍寝たか。それによって演出が違って来る。一遍しか寝てないのか、三遍寝てるのか。それまで六代目は考えてるんです。

三島 僕は日本の文学もそういう所を通さなければ、西洋文学との交流なんていうこともあり得ないと思うんです。それをみんなやらないんですよ。

 

舟橋 ラディゲの「ドルジェル伯の舞踏会」で、腋の下へちょっと肘が触れる所があるでしょう。あれはエロティックだけど、それはまだ関係してないからエロティックなんだ。だから非常なエロですよ。だけども、十遍も二十遍も寝た女の二の腕がちょっと触ったって、ちっともエロじゃない。これがわからなければしようがないんだ。あの描写はエロだと思うな。

三島 非情なエロです。

舟橋 だから、必ずしも寝室を描かなければエロでないということはない。われわれの現実生活だってそうでしょう。惚(ほ)れた女ならちょっと顔を見合しただけでホルモンが湧きますからね。そういうことが批評家にわかってもらいたいんだけどね。

三島 今の日本じゃわかりません。絶対にわかりません。(後略)》

 三島の他に折口信夫宗十郎贔屓で、舟橋の他に谷崎が六代目贔屓だったのも、通じるところがある。舟橋は彼が語ったような意味合いで、小説家としての「六代目」、寝室を描かない「エロ」である。

  

それでも、その晩は、月の障(さは)りと申し立てゝ、備善の追求をまぬがれたが、小稲も、すべての行がかりをそれとのみこめる程度には、カンをはたらかした。十二時近く、中洲へ帰つてきた小稲は、こんどは、あらためて、唐池にくどかれる番であつた。

「小稲。おまへは、どう思ふ?」

「はい」

「ごぜんの肚を、鏡にかけて見ると、何もかも、承知のうへで、おまへをくどいてゐるとしか思へないんだ」

「はい」

「むろん、わたしのものといふことも、御存知と思へる。ごぜんは、あの癖がまだ、なほらない。何アに、ずつと前から、ごぜんは、おまへのことは知つてゐて、見ぬ恋に、憧れてゐなすつたんだ。それが今日――まつたく、千慮の一失とは、このことだ」

「芝居なんぞに、参らねば、よろしかつたのでございますね」

「ほんたうだ。が、後悔は先きに立たずだから、今更、ぐちを云つてもはじまらない。ごぜんも、芝居なぞを、ジツとして見てゐる方ではないんだが、今日は、何しろ、古河男爵のお招きといふんでね――そこで、小稲。おまへは、ごぜんのやうな方は、好きかい?」

 と唐池はきいた。

「好きでもきらひでも、ございません。何とも思ひません」

「ふーん。では、若し、ごぜんが、たつえ、おまへを可愛いから、と仰言つた場合、死んでもいや、といふ程のことはないのだね」

「…………」

 彼女は答へなかつた。

「実は、それが、若しではなく、はつきりと、さういふお望みなのだ。それで、お梶も困り、わしも弱つた。何しろ、わしにとつては、大事な殿様だし、こゝで御機嫌を損じては、今までの苦労が、全部、水の泡だから」

「…………」

「むろん、現在、おまへを世話してゐるわしから、こんな、バカなことは、いへた義理ではない。然し、相手がごぜんでは、わしも、策の施しやうがないのだ。わしは苦しい。苦しいが、絶体絶命のやうにも思はれる。おまへといふものを、あきらめるよりほかにないのではないかと思つたのだ」

「わかりました」

 と、小稲は、澄みきつた清水のやうな声でいひ、それから、あらたまつて、手をついて、今まで、長い間、世話をして貰ひ、お蔭で、大過なく、朝夕を送つてこられたことの礼をのべた。そして、帰らうとすると、お梶が、今夜は最後のお勤めだから、お勤めしておいきなさいといふので、又、それにも特にさからふといふのでなしに、音無(おとな)しく、

「はい。さうですか」

 と、返事をしたのださうである。お梶も、これには、ホト/\、感心して、鬼の目にも泪といふが、思はず、いぢらしさに、胸が一杯になつたといふ。

 然し、考へやうによつては、個性も何もない温室育ちの花だといつて、批難すればする人もあるわけである。正直な話、小稲に、一言の未練も愚痴もいはれずに、別れ話がまとまつたことでは、唐池としても、薄気味のわるい思ひだつた。

 あとでお梶に、

「小稲は、どうだらう。怒つてるのかしら」

 ときいた。お梶の方でも、それは唐池の胸を叩いて見たいところだつたので、

「それは、旦那にききたいと思つてたんですよ」

「それが、わからないんだ。まア、条理をといてきかすと、わかりました、と、すんなり、返事をしたゞけだ。それで、何もかも、胸に入つたといふんだらうか、それとも、わかつたといふのは反語で、わからないといふ意味なのか。旦那みたいな、わからない人は、いやです。仰言る通り、別れませうと、啖呵(たんか)を切るところを、たゞ、あの子らしい淑(しと)やかさで、わかりました、と、ツンとして見せたのか」

「ツンとしたんですか?」

「それもわからない。大体、ツンとしたりすることのない子だからね。ツンとしたり、プン/\したり、すぐ、メソ/\したり、さういふ下司(げす)なことはしない人だ」

「ほんとに、素直つて、あんな素直な子、見たことがありませんよ」

「それで、バカではないんだ。何しろ、外国物の小説を、パリ/\、読んでるさうだ」

芯(しん)が利口なのね。そのくせ、利口ぶらないんですよ」

「恐ろしく、出来た子だ。お遊の仕込みかね?」

「とんでもない。お遊さんつてのは、あれでひどいヒステリーでね。すぐ、ギヤン/\、はじめるんですよ。あの人の子にしては、まつたく、出来すぎてる。鳶(と)ん鷹(たか)の方でせうね」

「さうかもしれないね」

「それで、帰るつていふから、それでは、今までの御恩に対して、水臭いから、つていふと、音無しく、はいつて云つて、旦那のところへいくんですからね。どうでした?」

「何が」

「何がはないでせう。最後のお勤め振りのことよ」

「あゝ、さうか。いや、ふだんと、変らなかつたよ。最後だからといつて、特に、念も入れない代り、あとは野となれといふ風な、投げたところも見えないんだ――」

「小稲ちやんらしい」

「然し、わしの方は、最後だと思つたんで、力が入つたがね――」

「まア、好かん。そんなこと、聞いてやしません――でも旦那も、気の毒な。これが、ほんにいふ、鳶に油げですよ」

「十七の秋からだよ」

「さうですね。惜しい気がするでせうね」

「そりやア惜しい。いや、勿体(もったい)ないよ。大事に、大事に、育てた花を、アツといふ間に、二百十日の風に、ふき折られたといふ奴でね――」

 と、唐池は、胸の芯が、ジワツとあつくなつてくるのを覚えながらいつた。こんな風に、今頃、人に奪(と)られる程なら、もつと、あの手この手を使つて、女の肉体を荒してやればよかつたといふ気もした。あんまり大事にしすぎて、外側から鑑賞してばかりゐたので、女の肉体に、はつきり、蘭五堂の落款(らくくわん)を捺(お)しておかなかつたことも、不覚の一つである。それがあれば、小稲も、あの程度の説明で、備善の所望に応ずべき筈はなかつたのではないか。然し、唐池は、やがて時のたつにしたがつて、すべては上手の手から水が洩つたのだと、あきらめてゐた――。》

 

・中村吉蔵作『井伊大老の死』は大正九年(一九二〇年)七月、歌舞伎座初演、井伊掃部守は二代目左団次。

《次の幕は、井伊が、その愛妾と、ギヤマンのコップで、赤い南蛮の酒をのむ場面であつた。市川左団次の得意とするリリカルなエロキューションは、こゝでも、観客に受けてゐる風である。愛妾に扮したのは、坂東秀調であつた。》のように、愛妾お静の方が登場する。

 舟橋は『文藝的な自伝的な』で、大正九年十二月の、舟橋曰く「震災前の歌舞伎演劇のピークを飾る」師走狂言の観劇(演目は『一谷嫩軍記』『色彩間刈豆』『彦山権現誓助剣』『浄瑠璃物語』『与話情浮名横櫛』『二人道成寺』)を数ページにわたって劇評的に書いているが、七月の『井伊大老の死』についての言及はない。

・舟橋といえば昭和二十七~八年の毎日新聞連載『花の生涯』を、昭和三十八年にNHKが二代目尾上松緑を主役にしての記念すべき大河ドラマがよく知られるところだが、井伊大老と同じくらいに正室昌子の方(八千草薫)、側室・愛妾秋山志津(香川京子)、侍女村山たか(淡島千景)が活躍した。

・知られているように舟橋には戦前から芸者出身の女性がいて、のちには妻妾同居で叩かれもされた。実情は娘の舟橋美香子『父のいる遠景』に詳しく、その女性の性格や同居の日常生活は情緒纏綿としたところがあって、この小説のまきを思わせもするけれども、舟橋は妻以外の女性、愛妾が登場する多くの小説を書いたが、私小説的に書いたことはなく、ロマネスクとして昇華している。

・「月の障り」といえば、丸谷《舟橋には生理と病気についての持続的な関心があつて、それはむしろ一つの偏愛にすらなつてゐる。》と書いている。

・《こんな風に、今頃、人に奪(と)られる程なら、もつと、あの手この手を使つて、女の肉体を荒してやればよかつたといふ気もした。あんまり大事にしすぎて、外側から鑑賞してばかりゐたので、女の肉体に、はつきり、蘭五堂の落款(らくくわん)を捺(お)しておかなかつたことも、不覚の一つである。それがあれば、小稲も、あの程度の説明で、備善の所望に応ずべき筈はなかつたのではないか。》といった、具体表現としては控えめながらもエロティックな連想をさせるところは同時期の『雪夫人絵図』(昭和二十三年)と同じ世界だ。

  

《アツといふまに、よその庭に、移し植ゑられた小稲は、それで、商売も引き、中杉備善の何番目かの、側室となつたまゝ、かといつて、とくべつの変化もあらはれる模様はなかつた。

 備善の熱は、段々高く燃えてゆき、一時は、ほかの妾たちを、かへりみる余裕もない程であつた。その烈しさを、まともには、受けかねてか、小稲の希望で、箱根・強羅(がうら)の別荘に、住むことになつた。そこは、木立の古い、しまつた黒土の崖の中腹に立つてゐて、庭の中へ、自然の流れを取り入れ、その水が渡殿(わたどの)の下を、ちろ/\と音立てゝ、流れてゐた。渡殿には、檜(ひのき)丸太(まるた)のてすりがあつて、その水に、のぞんで、酒をくむことが出来た。

 部屋は表座敷、裏座敷、別殿、御寝所などにわかれてゐて、お風呂は、タイルと檜が、二風呂。べつに自然木の根株をくりぬいたものが一つあつて、温泉は昼夜のわかちなく、涌(わ)きこぼれた。

 備善は、小稲を住まはせてからといふものは、箱根にばかり出かけて、一日の予定が三日になり、三日の予定が一週間とのびがちであつた。時とすると、蘭五堂をお伴につれた。

 唐池は、口を拭(ぬぐ)つてゐた。

 備善と小稲のまきが寝る御寝所と、廊下一つへだてた裏座敷へ、唐池は泊るのだが、彼はスヤ/\と、寝息を立てた。その寝息は、備善の耳にも入つてきた。

「蘭五堂は、寝つきのいい男だ。もう、寝たらしい」

 と、備善はいつた。

 唐池は、朝も早く起きた。そして、寝所の前の、苔(こけ)の青い庭の落葉を掃いたりして、二人の起きるのを待つた。

 或る朝、唐池が、箒の手を休めて、山の鳥の鳴くのに耳を立てゝゐると、寝所の杉戸があいて、鴇(とき)色のしごきを前で結んだ寝間着姿のまきが、あらはれたことがある。

 さすがのまきも、ハツとした風で、軽く、ためらひの色をうかべたが、次の瞬間、無感動の、いつものまきに戻つてゐて、縮緬(ちりめん)の褄(つま)を蹴出(けだ)しながら、手水鉢(てうづばち)の前へ出た。

「お早うございます」

 と、唐池は丁寧にあたまをさげ、いそいで柄杓(ひしゃく)を取つて、彼女の白魚のやうな手に、山の清水をかけた。

「はゞかりさま」

「山の朝は、気分が爽かでございますね」

「落葉が、すぐ、たまるんですよ」

「あんまり強く掃くと、せつかくの苔をいためますもんですから。美事な苔でございますなア」

「御先代が丹精なすつたものださうですわ」

「ごぜんはお目ざめになりましたか?」

「今、起きて、お床の中で煙草を喫(の)んでいらしやいます」

「けふは、おくさまの御点前(おてまえ)を拝見しようと思ひまして、お茶席の方に、お釜をわかしておきました」

 と、唐池は腰をかゞめ、縁側のてすりに、手を靠(もた)れて云つた。誰が見ても聞いても、昔の女と口をきいてゐるけぶりもなかつたといふ。また、まきの方も、すつかり、山荘の女主人の板についてゐて、どぎまぎしたところのないのは、いかにも、美亊であつた。

 又、鳥が鳴いた。

「あの鳥の声をききますと、夜中に三味線の転手(てんじゆ)がゆるんで、三の絃(いと)が、キキツと一度にほどける音によく似てをりますね」

 と、唐池がいつた。それは昔、中洲の待合に泊つた晩、おそくまで三味線をひいてゐて、そのまゝ、床脇に立てゝ寝たのが、どうしたのか、ま夜中に、転手がゆるみ、三の絃が、その鳥の声のやうな音を立てゝ鳴つたことがある。そして、その時、目をさまして可怕(こは)いといつて、小稲の手が、唐池の胴をまいたのだ。それにかけて、唐池は、洒落(しゃれ)言葉をいつたわけで、その洒落は、まきでなければ、とけない謎で。それを、そらとぼけて、馬鹿丁寧な調子で、唐池はしやべつたのである。

 その時、御寝所で手が鳴つた。まきは、褄をかへした。唐池は、掃きよせた落葉を、塵取りに、掻いた。》

 

・丸谷《舟橋の小説は歌舞伎的・浮世絵的な様式に富んでをり、しかも一方、尾籠なことがそのすぐ前、ないし後に控へてゐるのである。》と関連して、「御不浄」とは書かれていないが、次の描写は尾籠でエロティックな連想をさせる。

《或る朝、唐池が、箒の手を休めて、山の鳥の鳴くのに耳を立てゝゐると、寝所の杉戸があいて、鴇(とき)色のしごきを前で結んだ寝間着姿のまきが、あらはれたことがある。

 さすがのまきも、ハツとした風で、軽く、ためらひの色をうかべたが、次の瞬間、無感動の、いつものまきに戻つてゐて、縮緬(ちりめん)の褄(つま)を蹴出(けだ)しながら、手水鉢(てうづばち)の前へ出た。

「お早うございます」

 と、唐池は丁寧にあたまをさげ、いそいで柄杓(ひしゃく)を取つて、彼女の白魚のやうな手に、山の清水をかけた。

「はゞかりさま」》

  

《歳月がたつた。お遊が死んでゐた。

 そのうちに、備善は、又、外に増す花が出来たのか、箱根詣りも、ポツ/\になり、稀に来ても、その日のうちに、小田原へ下りたりした。

 或時、お梶が来ての話に、唐池が、後悔して、逢へば必ず、まきさんのことが出る。こんど、東京へお出になつたら、一度、ゆつくり逢つてやつてくれないか。昔話をするだけでも、さぞ生きのびる思ひでせうと、持ちかけるやうにいつたが、堀江まきも、こんどは、知らん顔をしてゐた。

 年と共に、まきの美しさは、古い陶器のやうに、時代がついて、渋く、みがいた光沢を放ち、古典的(クラシツク)な色香を、匂はせるやうになつた。手垢もつかず、皺もよらず、いつまでも水々しいなかに、重みといふか、威といふか、しつとりとした翳(かげ)がかゝつて、ます/\、その値を高くしたと見られた。備善が遠のいたのも、まきの深さについていけなかつたのではないかと見てをり、その頃のまきを知る者は、うつかりは、口もきけないやうなものを感じたといふ。

 たとへば、いはゆる功成つた芸術家などに見られる一種の精神家のやうな風丰(ふうぼう)が、いつの頃からか、堀江まきにも備はつてきて、それが、しまひには、非情を思はせるに至つたとも、解しえられる。

 本箱の本も、追ひ追ひに、特殊のものが並べられた。それは、独学の勤行(ごんぎやう)にも似て、一冊、一冊、おのれの心で選び、取り、積み、蓄へたものであらうか。それとも、全く、余人の知らぬところに、彼女の指南番たる人がゐて、見えぬ糸をたぐり、ひそかに、夜深く、彼女の奥殿に、参ずるところがあつたのか。――それは、つひに、誰もあきらかにしてをらない。

 そのうちに、備善が死んだ。長患(ながわづら)ひではなく、十日程、病んだきりであつた。死ぬと、奥方が棺の側に付添つたまゝ、他の側室の一人をも近づけしめなかつたという。

 側室たちは、大方、その邸から追はれた。備善の突発的な死は、中杉家の革命にも似てゐた。然し、堀江まきの場合だけは、強羅の別荘が、すでに、十年も以前から、まきの名儀に書きかへられてゐたので、竜子も手のつけやうがなかつた。まきは、自分の知らぬまに、それだけのことをしてくれた備善の誠意には胸をうたれたが、然し、死目に逢ふにも逢へなかつた自分の分際(ぶんざい)については、あきらめてゐた。竜子によつて、追放の命にあへば、当然、山を下らうと所期してゐた。

 唐池も追はれる組の一人であつた。然し、彼は、彼として、吸ひとれるだけのものは、吸ひつくしたあとだといふ噂で、同情はうすかつた。然し、彼は、最後の啖呵のつもりで、

「強羅のお邸だけは、ごぜんの最愛の方だから、あすこまで、手をつけるやうなら、わしにも覚悟がある」

 といつて、竜子を相手にいきまいたのが、土壇場でものをいひ、強羅だけは、ソツとしておくことになつたのだとも、取沙汰された。

 

 唐池が、死んだのは、松江の地震であつた。備善の死後、とかく、商売の調子も思ふやうにいかないのを、一気に挽回しようとして、出雲(いづも)方面へ出かけていつての遭難であつた。その頃のまきは、唐池の死には、些(いさゝ)か心の動揺を禁じ能はなかつたか、知らせを受けてから、三日の間は、一間にこもつて、香をたやさなかつたといはれた。

 そのうちに、戦争が悪化し、空襲がはじまると、本宅の奥方から、強羅の一室へ疎開したいといふ申入れがあり、むろんのこと、堀江まきは、喜んで、竜子を迎へ入れた。そして、戦争が終るまで、まきの心境は、秋空のやうに澄んでゐて、微塵(みじん)のゆるみも、紊(みだ)れも、頽(すた)れも、見られなかつたのであるのに、敗れた日から、いくばくもなくして、突然、彼女は過去を破壊し、その古い山荘を下つて、年下の、まるで、息子のやうな復員青年と二人で、はじめて人間的生活に入つたことが、誰からともなくいひふらされた。

 山荘の標札は、堀江でも中杉でもなく、全然別の、第三者によつて、はりかへられた。その当座は、彼女について、説をなす者も多かつたが、終戦後三年の今日となつては、もはや、古きものの権威は、あらかた、潰(つひ)え去つてしまつたので、取り立てゝ堀江まきの行方を追はうという奇特者もゐなくなつた。

 そしてそれは、前にのべた通り、堀江まき女の脱皮として一種の痛快でもあるが、又、何とはなしに、儚(はかな)くいぢらしい、らく葉の音をきくやうな気もするのであつて、時と場合の感じによつて、そのどちらもが、真実であるのではないか。》

 

・「歳月がたつた」の簡潔に、『とりかへばや秘文』で丸谷が指摘した、《特に終曲が、「およそ十五年の歳月が流れて、昭和十五年三月……」とはじまることは、大正時代への挽歌とも言ふべきこの作品の性格を何よりもよく證してゐるやうに思はれてならない。》と同じ技術が使われている。

・「松江の地震」とは昭和十八年の死者千人を数えた鳥取地震のことであろうか。               

・『アンナ・カレーニナ』を読む女であったことがこの件でじわり(・・・)と効いてくる。

講談社文芸文庫『芸者小夏』の解説で、松家仁之が『堀江まきの破壊』に筆が及んで、さすが的確に指摘している。

《『雪夫人絵図』と同じ年に発表された『堀江まきの破壊』は、旦那におとなしく従ってきた妾が、旦那の死をきっかけに人生の舵を切り、若い男をみずから愛するようになる変身を描いている。朝日新聞の連載小説『花の素顔』(一九四九年)では、銀座洋装店の女店主を主人公に、画家との婚外恋愛と、そこから引きおこされる夫との軋轢を、現在進行形の最新風俗を盛りこみながら描いた。

 彼女たちはまず男に主導権を握られ、受け身で生きる姿をみせながら、どこかで風向きの変わる瞬間をじっと待っている。そして何らかの潮目が訪れたとたん、そこから先は、人生を自分自身で選びとろうとする気配が満ちてゆく。動き、判断し、最終的に選びとるのはつねに女性の側なのだ。そして、この女性たちはその選択を間違うことがない。

 舟橋聖一の小説にあるもうひとつの特性は、社会性であり、経済だろう。登場人物の女性たちの生きる場所にはかならず社会がある。温泉芸者の社会があり、医学研究所という社会があり、銀座という社会がある。社会は彼女たちの立場や身の処し方を観察し評価する者として厳然とそこにある。世の中の価値観があり、生き方や信条を認められる前提には、生活が成り立つかどうかを否応なく決定する経済がある。

 妾であれ、芸者であれ、職業婦人であれ、舟橋聖一の描く恋愛は、社会のなかで位置づけられた女性たちのプラトニックならぬプラグマティックな恋愛なのだ。どのように生活を成り立たせ、社会のなかでどのように位置づけられているか、明確な輪郭をもつ男女の押し引き。どれほど官能的でも、閉じられた世界でのファンタジーが描かれることはない。

 その意味において、人柄だけでなく家柄や財産を見定めたうえで天秤にかける結婚や、遺産相続による境遇の変化が物語の骨格と展開をかたちづくる、十九世紀のイギリスでしきりに読まれた一群の小説と、構造的には相似形をなしているといってよい。

 敗戦が女性たちの解放の節目であったとするならば、つぎつぎと惜しみなく世の中にさしだしていったのだ。小説家としての資質と、時代の要請がみごとなまでに一致することで、舟橋聖一はまぎれもない流行作家になった。》

 こういう指摘からも、谷崎をより健康的にした「六代目」を感じるのである。

 

                               (了)

        *****引用または参考*****

*『花柳小説名作選』(舟橋聖一『堀江まきの破壊』所収)(集英社文庫

舟橋聖一『芸者小夏』(松家仁之解説所収)(講談社文芸文庫

*『丸谷才一批評集5』(「維子の兄」所収)(文藝春秋)        

*舟橋美香子『父のいる遠景』(講談社

舟橋聖一『文藝的な自伝的な』(幻戯書房

*『決定版 三島由紀夫全集39』(「舟橋聖一との対話」「私の文学鑑定」所収)(新潮社)

 

文学批評 『花柳小説名作選』を読む(2)――徳田秋声『戦時風景』

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徳田秋声『戦時風景』>

 

《或る印刷工場迹の千何百坪かの赭土の原ツぱ――長いあひだ重い印刷機やモオタアの下敷になつていたお蔭で、一茎の草だも生えてゐない其のぼかぼかした赭い粉土(こなつち)は、昼間は南の風に煽られ、濠々と一丈ばかりも舞ひあがつて北の方へと吹き靡き、周囲の芸者屋や待合、又は反対側のアパアトや住宅の部屋のなかまで舞ひこむのだつたが、その沙塵を浴びながら汗みずくになつてゐた界隈の野球チイムや、ボール投げ、自転車乗りの少年達も散らばつてしまつて、東側の崖の上に重なり合つてゐる其方此方の住宅の部屋のなかに、電燈がつく頃になると、きまつて幾つかの縁台が持ち出されて、白いパアパを着た年増、浴衣がけの若い妓、居周(ゐまは)りの若い人達の姿が、この殺風景な原の宵闇に透かされるのであつた。

 原つぱの南のはづれに、すしと焼鳥の屋台が二つ並んで見え、角に公衆電話が露出(むきだ)しに立ってゐる。風がそこからそよそよと吹いて来ると、焼鳥の匂ひと赭土に残つてゐる昼間の光熱とが、仄かに鼻に伝はつて来る。

「わたしは此の焼鳥の匂ひが大嫌ひさ。」

 縁台の傍にお行儀よくしやがんでゐる種次といふ六十幾つかの老妓が呟いた。この女は無論明治の末に創(はじ)まつたこの花柳界の草分け時分に、既に好い年増であつたに違ひない。今は気むずかしい家(や)の此の老妓をかける出先きも希だし、若い妓は怖(こは)がつて呼びもしないし、偶にかかつて来ても気の向かない座敷は「厭だよ、行かないよ」とぴたぴた断るのだ。

 縁台には芸者屋の姐さんと、その旦那らしい五十年輩の小(こ)でつぷりした浴衣がけの男とが腰かけてゐた。隅の方の柳の木の蔭で、若い芸者を二人とお酌を一人、それに待合の女中、近所の子供を多勢集めてきやつきやつといふ騒ぎのなかで、頻りに花火をあげてゐる、黒い洋服の若いお客がゐた。花火が引切(ひつきり)なし柳の木の下からしゆしゆと火玉を飛ばしてゐた。

 濡れたアスハルトの広い道路を、時々自動車が辷つて来て、入口の植込のあたりで客を吐き出して行く。空車も間断なく入つて来る。箱をかついで自動車に乗つたのやら、徒歩のやらの箱屋も影絵のやうに往つたり来たりしてゐる。三味線をひいて騒いでゐる明るい二階も浮きあがつて見えるのであつた。

「今日は少し動いてゐるね。」

 旦那らしい男が呟くと、

「さうね、大したこともなささうよ。奥さんや子供さんを避暑に遣つた人とか、避暑を遠慮した人がぽつぽつ入つて来るから、霜枯にしては少し好いくらゐのものよ、姐さんおかけなさい。」

「有難う。私はこの方が勝手ですよ。縁台はお尻の骨が痛くてね。時に戦争は何うなりますかね。」

「拡がりさうだね。」

「この辺でも随分行きましたよ。あすこの蕎麦屋さんに通りの自転車屋さん床屋さん。東タクシイでも若い人が二人も召集されて、自動車も二台御用なんですつて。あの現役のクリイニングの不良も、この春満州から帰つたばかりなのに、先月あたりから頓と姿を見せませんよ。」

「私は朝から晩まで新聞と睨みつこしてるんだけれど、年のせいか日露戦争の時なんかとちがつて、心配で心配でたまらないんですよ。何だか恁(か)うやつて長生きしてるのも済まないやうな気がして、お座敷でもかかったら、耳糞ほどの玉代でも献金しようと思つてゐるんだが、何しろ税金持出しの此の節ではね。」

日露戦争の時は何んなでしたの。」

「私はあのちよつと前まで、吉原にゐましたがね、日露戦争の時分は足を洗つて青山にゐましたよ、あの辺は軍人さんが多うござんすから、毎晩寝られないくらゐ近所がごつた返してゐたもんですよ。なかなか芸者をあげて遊ぶどころぢやない、世間はひつそり鳴りを鎮めてゐたもんですよ。後の騒ぎが又大変でしたよ。方々で交番の焼打が初まりましてね。」

「あの時分から世のなかががらりと変つた。吉原が火が消えたやうに寂れて、ちやうど――団菊が死んだりして歌舞伎の危機が来た。大概の古いものが影が薄くなつちやつたんだ。花柳界は何んなだつたかね。」

「今のやうなことはありませんね。何しろ当節は髪を洋髪にして、歌謡曲なんか踊るんですからね。芸者の値打が下りましたね。でも姐さん、それは時勢だから仕方がありませんよと言ひますけれど、私にや何が何だか薩張りわからない。第一昔しは春の出の帯を柳にしめられるなんて芸者は、一つ土地に十人とはゐなかつたもんですよ。今ぢや芸者の作法も何もあつたもんぢやない、猫も杓子も柳で反つくりかへつてゐる。私なんかは気はずかしくて到頭帯を垂らさない芸者で終りましたがね。お湯へ行くたつてさうです。今の妓供(こども)たちのお行儀のわるいこと。姐さんにお尻をむけて平気で流しを取つてゐる。昔しだつたら、何だ小汚ないおけつを出しやがつて、お前なんざ溝の外へ出てろと鉄火(てつか)な姐さんに呶鳴りつけられたもんですよ。」

「それに出先きが威張るやうになつて来ましたね。」

「さうですよ。芸者そつち退けてサアビスする達者な女中さんがゐるんですから。売りものだからたとへ何んな妓にしろ花をもたすのが真実ですからね。この間も或るお座敷でお客さまが、何だ彼奴は売らないんだと言ふ振れ込みなのに、聞いて見ればざらに売るんだと言ふぢやないかと言ふから、いいえ、それは違ひなせう、お客さまは言ふことを素直に聞くと、誰方(どなた)もさういふ風に気をおまわしになりますけれど、何うしてあの妓はそんなんぢやありませんから、安心していらつしやいつてね、何うせ芸者はその場きりのもんだから、それでお客が安心したか何うか知らないけれど、お茶を濁しておいたのさ。私はまたぐぢやぐぢやしたことが大嫌ひでね、少し悪党でもいいから、それかと言つて真実の悪(わる)でも困るけれど、歯切れのいいのが好きさ。」

 そこへ千人針をもつた仕込みらしい少女が二人組み合つてやつて来た。出てゐた時分から芸名春代姐さんが赤い糸を結ぶと、今度は種次が針をもつた。

「下町には大した千人針がありますね。羽二重や小浜のちやんちやん児に、大勝利だの万歳だのと、千人針の赤糸で縫ひ取るんですよ。」

「男の千人針もありますよ。」春代の旦那が言つた。

「そんなのあるか知ら。」

「その代り男のは黒糸なんだ。看護婦が締めるんだろ。」

「姐さんの子息さん生きてゐたら、矢張り出たでせうね。」

「そう、あれは震災の二年前でしたから。」

 工兵に取られて、除隊間際に肺をわづらひ、衛戍病院を出てから、種次の姉の青山の家で新らしく造つた離れの病室に一年ばかり寝てゐた果に死んでしまつた彼女の子息のことである。

「お座敷へ知らせが来たから、駈けつけて行くともう駄目。勝ちやん勝ちやんつて、余り私が呼ぶもんだから、煩くて行くところへ行けないから止してといつたきり……。でも安心さ。この年になつちや迚(とて)も。」

 そこへ又千人針が来た。そして其の縫つたところへ、通りがかりの土地の長唄の若師匠巳之吉が、ふらりと寄つて来た。

「何だ姐さん此処にゐるのか。今ちよつとお宅へ寄つて来た。当分お稽古はお休みだ。僕は今夜名古屋へ立つんだ。義兄が招集されたんで、後の整理をしに。」

 名古屋の姉の家は、曾つて巳之吉が小説好きの少年であつた頃働いてゐた本屋であつた。

「巳之さんは。」

「僕はまだ。足留くつてるから、直ぐ帰るけれど、千人針も二つ出来ましたよ。」》

 

・世情をにぎわせた山田順子とのスキャンダルと、プロレタリア文学興隆に押されての不振から数年ぶりに、昭和八年の『町の踊り場』で復活した秋声は、順子ものの総決算としての長編小説『仮装人物』(昭和十年七月~十三年八月)連載にかかるが、同時期に短篇小説『勲章』(昭和十年十月)、『のらもの』(昭和十二年三月)などで市井の男女の姿を描き出した。『戦時風景』(昭和十二年九月)もそのひとつである。

・山の手の花街ということでは白山であろうか。のちに官憲、情報局の干渉圧力により中断を余儀なくされた『縮図』(昭和十六年)の女主人公のモデル小林政子が白山で営む置屋での見聞に拠るのだろう。いずれにしろ、下町とは違った「赭土の原ツぱ」「崖の上に重なり合つてゐる其方此方の住宅」といった的確な情景描写から入って、登場人物をじわりと紹介してゆき、秋声がよく見た歌舞伎で言えば花道の出がうまい。

・秋声は読まれなくなったばかりか、批評も少ない。徳田秋声のガイド本に、柄谷行人中上健次古井由吉といった現代文学の担い手たちが言及、あるいは精読して自作品の参考とした、などとあっても、彼らがまとまった批評を残しているわけではない。数少ない研究者はどうしても自分の対象は擁護し、持ち上げたがるから、夏目漱石小林秀雄の批評に対しても、当時は逆の評価があったとか、読みが足りない、などと一蹴してしまいがちだ。

夏目漱石の『あらくれ評』(大正四年)は手厳しい。

《「あらくれ」は何処をつかまえても嘘らしくない。此(この)嘘らしくないのは、此人の作物を通じての特色だろうと思うが、世の中は苦しいとか、穢(けがら)わしいとか――穢わしいでは当らないかも知れない。女学生などの用いる言葉に「随分ね」と云うのがある。私はその言葉をここに借用するが、つまり世の中は随分なものだというような意味で、何処から何処まで嘘がない。(中略)

 どうも徳田氏の作物を読むと、いつも現実味はこれかと思わせられるが、只それだけで、有難味が出ない。読んだ後で、感激を受けとるとか、高尚な向上の道に向わせられるとか、何か或る慰藉(いしゃ)を与えられるとか、悲しい中に一種のレリーフを感ずるとか、只(ただ)の圧迫でなく、圧迫に対する反動を感ずるような、悲しみに対する喜びというような心持を得させられない。「人生とは成る程こんなだろうと思います。あなたはよく人生を観察し得て、描写し尽しましたね。その点に於てあなたの物は極度まで行って要る。これより先に、誰が書いても書く事は出来ますまい。」こうは云えるが、然し只それ丈(だ)けである。つまり「御尤もです」で止っていて、それ以上に踏み出さない。

 況(ま)して、人生が果してそこに尽きて居るだろうか、という疑いが起る。読んで見ると、一応は尽きて居るように思われながら、どうもそれ丈けでは済まないような気もする。ここに一つの不満がある。徳田氏のように、嘘一点も無いように書いて居ても、何処かに物足りない処が出て来るのは、此為(このため)である。(中略)

 つまり徳田氏の作物は現実其儘(そのまま)を書いて居るが、其裏にフィロソフィーがない。尤も現実其物がフィロソフィーなら、それまでであるが、眼の前に見せられた材料を圧搾する時は、こう云うフィロソフィーになるという様な点は認める事が出来ぬ。フィロソフィーが無ければ小説ではないと云うのではない。又徳田氏自身はそう云うフィロソフィーを嫌って要るのかも知れないが、そう云うアイデアが氏の作物には欠けて要る事は事実である。初めから或るアイデアがあって、それに当て嵌めて行くような書き方では、不自然の物となろうが、事実其の儘を書いて、それが或るアイデアに自然に帰着して行くと云うようなものが、所謂深さのある作物であると考える。徳田氏にはこれがない。》

小林秀雄は、『仮装人物』の刊行直後に新聞書評で正直な感想を述べているが、明晰な批評というよりも詩的なレトリックを駆使する小林らしい言回しの正鵠であろう。

《この小説の読後感は、誠に複雑なものであつた。ひねくれた、しつこい、暗い後味が残つたかと思ふと、同時にそれは意外に淡泊な、楽天的な心を語つてゐる様にも思はれた。(中略)小説といふものの結論を語つてゐる、と言つた様な断乎としたものを感ずるかと思へば、又そこからどんな小説でも飛び出しさうな不得要領な地盤を見た、といふ風にも思はれた。(中略)ここに、恐らく作者の実際の経験を其儘扱つたこの奇妙なる恋愛小説の急所といふ様な部分を、批評家根性を出して見附けようとしてもなかなか見附からない。あらゆる処で、ひょうたん鯰である。》

たしかに、漱石小林秀雄川端康成の批評は今でも通用し、的を得ている。近い将来、徳田秋声の名前は、成瀬巳喜男監督、高峰秀子主演の傑作映画『あらくれ』だけで残るのかもしれない。しかし、この『戦時風景』のような短編小説は、彼らの批評から離れたところにあるのかもしれない。》

 秋声は地味だとか言う前に、とらえどころがない「ひょうたん鯰」なのだ。そのうえでやっかいなのは、どこか魅力があって、駄作、凡作ではないことだが、批評の言葉にしがたく、感想批評、人生観披露になりがちだ。

川端康成の『日本の文学 徳田秋声1』(中央公論社)解説も的確だが、では読者を呼び寄せるものかというとなかなか難しい。

《私はこの「解説」を書くために、まず「あらくれ」から読みはじめたところが、すらすらとは進まないし、注意を集めて向っていないとのみこみにくいしで、思いのほか時日をついやした。私の耄碌のためではあるまい。作品の密度のためであろう。秋声は「作品の密度」と、よく言った。「あらくれ」が速く軽くは読めないように、秋声は楽に読めない作家であるらしい。作家の感興に読者を乗せることも抑制されている。秋声の作品が広い一般読者を持ちにくいわけの一半も、私は「あらくれ」を読みながら納得できたようであった。だいたい、私は自分が作品の解説を書けるとは思っていないし、ここでも秋声作品の解説を書こうとは考えていないのだが、解説に代えて、読者にただ一つ望みたいことは、秋声の作品をゆっくりゆっくり読んでみてほしいということである。秋声の場合、これが凡百の解説にまさる忠言と信じる。(中略)私は「あらくれ」のところどころの三、四行や一頁をくりかえし読んで、いろいろの発見があった。秋声のすぐれた自然描写、季節描写なども、その一つである。広津和郎の「徳田秋声論」に、「縮図」の文章を批評して、「一体が簡潔な秋声の文章もここに至って極度に簡潔になり、短い言葉の間に複雑な味を凝縮させながら、表現の裏側から作者の心の含蓄をにじませている技巧の完成は、彼が五十年の修練の末にたどりついたものであることを思わせる。」とあるが、「縮図」(昭和六十年)より三十年ほど前の「足迹」、「黴」、「燗」などにさかのぼっても、そのような秋声の文章はすでに見える。》

・さっそく秋声の特徴、オノマトペ類が頻出する。「ぼかぼか」「そよそよ」「ぴたぴた」「きやつきやつ」「しゆしゆ」「ぐじやぐじや」。ときに主語がさだかでなく、文脈が捩れる酩酊した文体に、庶民的で温かい愛情のリズムを与える。

 

《今年二十二になつた巳之吉は、土地の師匠巳子蔵の愛弟子であつたが、また其の内縁関係の朗子の若い愛人でもあつた。

 ちやうど去年の春頃のことだつたが、師匠がしばらく足踏みもしなくなつた芸者屋横丁の、彼がこの土地の稽古を引受けることになつてから、もう五六年ものあひだ住み馴れた家に、代稽古を委かせきりにされてゐた巳之吉は、朗子と五つになる子供と三人きりで、侘しく暮してゐるやうなことが多かつた。それといふのも師匠と朗子とのなかが兎角しつくり行かなかつたからで、朗子の養父であつた、今は故人の謳ひ手の大家米蔵贔屓(ひき)もあつたが、歌舞伎の大舞台で若手の腕達者といはれただけに、芸の魅力だけでも、芸事に凝つてゐる姐さん達に、多くのフアンのあつたことも当然で、近頃俗謡で売り出した人気ものの小峰といふ九州産れのモダアン芸者の熱情が、今まで噂の立つた幾人かの女を超えて、放埓な彼の心を悉皆蠱惑してしまつたところで、彼の足がぴつたり家へ向かなくなつてしまつた。見番の稽古にだけは約束どおり通つて来たが、それも小峰の傭ひつけのハイヤで、稽古がすむと、又その車で赤坂へ帰つて行くのだつた。

 或る晩も巳之吉は、小峰と巳子蔵師匠と三人で、末広でビフテイキを御馳走になつてから、少し銀座をぶらついてゐたが、さいやつて二人に附き合つてゐても、留守してゐる朗子や子供のことが気にかかつた。師匠の三味線の弾き方は、感がいいとか音が冴えてゐるとかいふよりも、近代人らしい撥剌味を多分にもつてゐるにしても、もとが古い芸人型の、芸だけで叩きあげた人なので、飲むことと女道楽にかけたは人に退けを取らなかつたけれど、朗子とちがつて映画とか、小説とかいふものには趣味もなかつたし、雑誌一つ読むといふやうなこともなかつた。それに比べるともともと朗子は養父の御贔屓先きの、堅気の商家の娘で、芸人好きで金をなくした父が死んでから、子供のなかつた米蔵の家に養女として引き取られて、芸事がさう好きでなかつたところから、山の手の女学校へ通はせてもらつただけに、養父の目論んだこの結婚は、初めから気に染まなかつた。しかし彼女に愛をもてなかつた養母の方に、跡を継がせたいやうな身内もあつて、朗子は家に居すわる訳にもいかなかつたし、片づくにしても我儘な相手の撰択は許されなかつた。為片なし巳子蔵との同棲生活が初まつた訳だつたが、一年たつても二年たつても許す気にはねらなかつた。

 一緒になりたてに、養父は浜町の方に家を一軒もたせてくれた。下町はちやうど震災後の復興に忙しい頃で、金座通りもほぼ出来あがつて、清洲橋の工事も完成してゐた。朗子は芝居もさう好きではなかつたけれど、子供の時分からの習慣で、新らしい歌舞伎座明治座へも、お義理で見物に行つたが、それよりも映画やレヴイユの方へ気持が注がれがちだつたが、巳子蔵とは話が合はないので、人身御供にでもあがつたやうな気持で、寂しい孤独の世界に兎角閉ぢ籠りがちであつた。

 暫らくすると今の土地へ引越すことになつた。亡くなつた春代の母が巳子蔵系統の或る師匠の名取りだつたところから、この土地で四五人お弟子が出来、ちやうど定まつた師匠もなかつたので、やがて見番の稽古を引き受けることになつた。

 朗子はお花やお茶も心得てゐて、静かな暮しが好きだつたが、長唄の家に育つて来たので、朝から晩まで聴き飽きるほど聴かされるお稽古もおしまひになつて、巳子蔵が芝居へ出かけて行つて、そのまま遅くまで帰つてこない晩などには、二階の部屋でそつと音締を合すこともあつた。或る時は外へお稽古にも通つてゐた。そしてそこへ長唄の稽古に来てゐる或る大学生とのあひだに恋愛の発生したのも、つひ三年前のことであつた。学生の手触りは彼女に取つては全く新らしい世界であつた。裁判官志望の法科のこの学生は、退職海軍中将を父にもつてゐる青年としては、珍らしい江戸趣味の真面目な理解者であつた。

 逢つてゐると、馴れ馴れしい口も利きえない二人のあひだに、手紙の遣り取りの初まつたのは、ちやうど朗子が妊娠してゐたころのことで、同じ長唄の世界での出来事であるだけに、噂はこの土地の人の耳へも伝はつて、その子供の主が誰であるかが問題になつたこともあつたが、二人の関係はそこまで進んでゐた訳ではなかつた。厳格な家庭に育つた青年は、結婚の不幸を訴へる彼女の好い聴き手であり、近代の恋愛観や女性観について、今までよりいくらか分明(はつきり)した考へを彼から得たくらゐの程度だつた。秋晴れの或る朗かな日だつたが、二人一緒に師匠の家を出ると、しばらく静かな其の辺のブルヂヨウア町を散歩した果に、円タクを呼んで時のはづみで、新様式の武蔵野館へ行つたが、帰る頃になると雨が降り出して、彼女は四谷の屋敷町まで送つて行くと、何か牾かしい気持で別れたきり、その車で家へ帰つて来た。師匠はまだ芝居から帰つてゐなかつた。

 暫く手紙の往来がつづいたが、ちやうど学校を出る次ぎの年の四月、彼から最後の手紙を受け取つた。地方へ赴任するとばかりで、任地も書いてなかつた。そして其れきりであつた。

 巳之吉が或る機会に、朗子に打ち明け話をされたのは、たゞ其だけのことだっただが、もつと立入つて疑へば、疑へる余地もないことはなかつた。その学生らしいサインのある「アンナ・カレニナ」を彼女がそつと耽読してゐたのも其の頃であつた。》

 

・秋声『戦時風景』は芸の師匠の女と弟子ができてしまう。六世藤間勘十郎藤間紫と三世市川猿之助(二世猿翁)との人口に膾炙した話とは次元も格も違うが、よくある道具立てではある。

・《裁判官志望の法科のこの学生は、退職海軍中将を父にもつてゐる青年としては、珍らしい江戸趣味の真面目な理解者であつた》、《厳格な家庭に育つた青年は、結婚の不幸を訴へる彼女の好い聴き手であり、近代の恋愛観や女性観について、今までよりいくらか分明(はつきり)した考へを彼から得たくらゐの程度だつた。》、《巳之吉が或る機会に、朗子に打ち明け話をされたのは、たゞ其だけのことだっただが、もつと立入つて疑へば、疑へる余地もないことはなかつた。その学生らしいサインのある「アンナ・カレニナ」を彼女がそつと耽読してゐたのも其の頃であつた。》というように、結婚の不幸を訴え、トルストイアンナ・カレーニナ」を読む朗子と、その打明け話を聞く巳之吉がいて、といった設定は昔紅葉門下だった名残りか。

古井由吉は、秋声の明治末年ごろの作品『新世帯』『足迒』『黴』を批評した「世帯の行方」で、小林秀雄の「ひょうたん鯰」という「取りとめのなさ」をもう少しだけ言葉に置き換えているのではないか。

《とにかく男女の日常の苦と、とりわけその取りとめのなさを描いては右に出る者もいないのではないかと思わせる作家である。取りとめのなさについては、男女のことばかりでなく、都会へ流出した人間たちの、勤勉な生活欲の底に時として、活力の飽和点あたりの境で微妙にあらわれる倦怠、頽廃と逸脱への傾斜を、人の形姿やら会話やらに描き出して、ほとんど色気に近いものを感じさせる。》としたが、この『戦時風景』にあからさまな「苦」はないものの、「取りとめのなさ」と、《微妙にあらわれる倦怠、頽廃と逸脱への傾斜を、人の形姿やら会話やらに描き出して、ほとんど色気に近いもの》が底辺に流れている。

・秋声と言えば、時間の扱いである。中村眞一郎は『この百年の小説』の中で、

《『仮装人物』は長い恋愛が終り、主人公が相手の女性に対して、うとましさしか感じなくなった状態から書き始めている。 彼は「すっかり巷(ちまた)の女になりきってしまって、悪くぶくぶくしている彼女の体」を抱いて、ダンスをしている。そして「心の皺(しわ)のなかの埃(ほこり)まぶれの甘い夢や苦い汁の古滓(ふるかす)」について「苦笑」しながら、回想に耽(ふけ)りはじめる。 この、幻滅から出発している、というところが、やはり自然主義を一生奉じていた作家らしいわけであるが、しかし物語は極く短いその幻滅的導入から、忽ち「文字どおり胸の時めくようなある一夜」の記憶へ逆転して行くのである。 この逆転、時間の遡行(そこう)は、この小説の特徴であり、しかも、遡行した時間の記憶のなかにまた別の時間が插入されるという極めて複雑な構成である。しかも、時間から時間への移り行きは専ら、主人公の回想の展開に従っている。 と、こう説明すると、読者はそれではまるでプルーストじゃないか、と問いたくなるだろう。  作者秋声は、主人公がこの恋愛によって感覚が解放された時、新鮮な気分で西欧の二十世紀文学に共感する眼を見開かされたと述べていて、現にプルーストの名もあがっているのである。 私は恐らく秋声はプルーストに触発されて、自分の経験をこのように微細に展開すること、しかもそれを専ら内面的に分析して行くようになったものと推定している。》と述べているが、《自分の経験をこのように微細に展開すること、しかもそれを専ら内面的に分析して行くようになった》ことはそうかもしれないが、時間の遡行については、松本徹が、《秋聲の作品の独自性として、最も顕著なのは、時間の扱ひやうである。野口冨士男は「時間の倒叙」と呼ぶが、単に順序を転倒させるだけでなく、じつにさまざまなふうに錯綜させてをり、それが本格的におこなはれたのは、『足迒』が初めてである。そして、直接的には、以上にみた圧縮した記述への必要から出てきたと考へられるのである。》と指摘したように、記述の必要性と、秋声の生理的な習性から来たのではないか。しかし、野口冨士男が『德田秋聲傳』で論じているように、《過去から現在にさかのぼつていく「倒叙」の手法は、ともすれば平板におちいりやすい日常の身辺的な素材を取扱つても不思議な立体感を構成している点において、独特の効果を発揮している》

・『戦時風景』のこの段落でも、《ちやうど去年の春頃のことだつたが》はわかりやすい過去への遡行だが、《もともと朗子は養父の御贔屓先きの、堅気の商家の娘で、芸人好きで金をなくした父が死んでから、子供のなかつた米蔵の家に養女として引き取られて、芸事がさう好きでなかつたところから、山の手の女学校へ通はせてもらつただけに、養父の目論んだこの結婚は、初めから気に染まなかつた。》は、読み手に意識させることなく、切れ目なく過去へ遡っている。

・「その晩」「その月」「其の頃」「その年」「その翌日」「その後」といったように、徳田文学は「その」から成る。

 時間の「その」ばかりでなく、「そこで」「そこへ」も多い。

 

《巳之吉は、其の頃朗子の影が、いつとはなしに胸に巣喰つて来るのを感じてゐた。

 子供の正也はもう三つになつてゐた。朗子は愛してもゐない巳子蔵とのあひだに出来た子供が、何うしてさう憎くもないのかと、時にはうとましさうに幼ない其の顔を見ることもあつたが、それは其の子供が疎ましいといふよりも、子供の愛に縛られなければならなくなつた自身が疎ましいのであつた。子供の或る部分、たとへば目だの鼻だの、手足や指のすんなりしたところは自分に肖てゐたが、何うかした瞬間に父親の面影がまざまざと出てくることがあつた。幸ひにそれで世間の誤解も釈け、いつも身近にゐる巳之吉にもわかつて貰へるやうな気もするのだつた。正也は日増しに可愛くなつて入つた。そして巳之吉にばかり附きまとつた。父のゐないのが何か寂しいやうに思はれて、巳子蔵の還つて来ることを願つたが、時とすると連れていらつしやいと小峰にいはれて、巳之吉が自動車で連れ出して行くこともあつた。

 或るレコオド会社の専属であり、地方の招聘にも応じて行くほかに、お座敷も忙しいので、収入も多かつた。抱えには此のところはづれがちで、商売にはならなかつたし、巳子蔵のために旦那も失敗(しくじ)つてしまつたけれど、彼を貢(みつ)ぐくらゐに事欠くやうなことはなかつた。大々した体には女盛りの血が漲り、幅のある声は流行家の唄い手の誰にも負けを取らず、派手派手しい扮装をして舞台に立つときは、誰も花柳界の女とは思はないくらゐ新鮮味があつた。それはちやうど現代風の奔放さをもつてゐる巳子蔵の三味線と、一脈相通ずるものでなければならなかつた。彼女は巳子蔵も自覚したらしく、給銀をあげる要求を会社に持ち出して見たがそれは早速には容れられず、双方の折合ひがつかないので当分出場しないことにしてゐた。しかし愛弟子の巳之吉の叔父に、座附の有力な下方(したかた)もゐるので、いつかは折合ひのつく時が来るのに違ひなかつた。

 その晩巳之吉は、小峰が買つてくれた熊の仔の玩具などを角袖の外套のポケツトに入れて家へ帰つて来たが、正也はもう寝てゐて、朗子だけが玄関に近い茶の間で雑誌を読んでゐた。巳之吉は奥へ行つて、中腰になつて子供の寝顔を見てゐたが、熊の仔を枕元におくと、師匠に附き合つた酒の気の熱つてゐる頬を両手で撫ぜながら、長火鉢の傍へ来て坐つた。

 石を敷き詰めた細い芸者屋横丁に、急ぎ足の下駄の音や格子戸の鈴の音が時々耳につく。

「酔つちやつた。見せつけられちやつたもんだから……。」

 薩摩絣のお対の著物の袂から、バツトとスヱヒロのマツチを取り出した。

「この頃飲めるの。」

「む、少しは。何うして赤ん坊が産れるんだつてお師匠さんに聞いて、笑われちやつた。仲のわるい夫婦でも子供くらゐ産れるつてさうですか。」

「何うですかね。貴方(あんた)まるで子供のやうね。」

「ああ、さう/\お茶菓子を買つて来たんだ。お茶をいれませう。」

 巳之吉は立つて、熊の仔と別のポケツトに入れ忘れた筑紫の菓子の包みを開きにかかつた。

「但しこれは僕。」

 彼は朗子と長火鉢の傍の差し向かひなどは、ひどく気のひけたものだつたが、今夜は不思議にも寧ろそれが自然のやうな感じだつた。

 銅壺の湯で、お茶を煎(い)れながら、皮包みの牛皮を自分もつまみ、朗子にも勧めた。

「どうも御親切さま。」

 若いにしては、この頃めきめき腕があがり、咽喉も去年から見ると吹き切れて来て、少し早熟かと思ふくらゐだつたが、ふはふはした見かけよりも頼もしいところもあると思はれた。

「しかし年取つた女の人の恋愛は凄いところがありますね。」

「小峰さん?」

 朗子は顔を赤くした。

「貴方も妙なことに興味をもつて来たのね。」

「己の極道は真似(まね)るなと、お師匠さん言ひますけれど、僕はあんな風に無軌道にはなれませんね。」

「さうね、勝之助さんといふ人が、昔し大変な女喰ひで、今でいへば色魔だわ。女から女を渡りあるいて搾つたものなの。その果てに酷いことになつちまつたんです。詰り肺病なのね。何うせ悪い病気もあつたでせうけれど、ス悉皆り衰弱してしまつて、頭があがらなくなつたところを、最後の女に置いてき堀喰つちやつたの。それで段梯子の三段目からのめずり落ちて血を吐いて死んぢやつたの。」

「陰惨ですね。」

「家の師匠のは、そんな大時代(おほじだい)な質の悪いのと違ふの。ただ浮気つぽいのね。でも喰い止まるでせうよ、今度で。」

「さうか知ら。」

「また何か初まつた。」

「さあ。」

 巳之吉は首を傾げた。

「あんたの彼女はあれつ限り?」

「二度ばかり手紙来たけれど……あんな小便くさいの止せつて、家のお師匠さんも口が悪いからな。しかし此の頃は僕も少し目が肥えて来たから。」

「さうお。」

 子供が泣き出したので、朗子は傍へ寄りそつて、上から叩いた。時間過ぎとみえて鉄棒の音も聞えて来た。

 

 翌朝朗子が二階からおりて来た頃には、巳之吉はそこらを綺麗に掃除して、襷掛けでせつせと入口の格子戸を拭いてゐた。

 密(ひそ)やかな驚異と悦楽と苦悩の幾月かが、それ以来巳之吉に過ぎた。しかし二人の秘密が曝露しかけて来たのは、師匠の巳子蔵が土地の招聘に応じた小峰と一緒に、彼女の故郷の博多へ旅をして、帰りに別府で五日も遊んでゐた間のことあつた。

 朗子は人目を避けて、この土地の人の行かない、少し遠いところの洗場へ行くやうにしてゐたが、しかしそこにも世間の目はあつた。

 その月も、機織場(はたば)の多い上州の方へ、巳之吉は三日がかりで出張したが、その時分には、朗子の普通でない体のことが方々で問題にされてゐたが、その主が、漸と今年徴兵検査を受けたばかりの巳之吉であるのか、それとも前に浮名の立つた大学生であるのか、又は思ひも寄らないところに、誰も気づかない恋人が出来たのか、誰にも確かなことはわからなかつたが、巳之吉らしいとは、誰も一応は考へるのだつた。

 その中でも長唄色草会の連中が、殊にこの事件に興味を寄せたし、口も煩かつた。巳子蔵を中心にした名取りの七人組の組織してゐるのが、色草会であつた。取りわけ春代、千代次、元枝、恋香なぞと云ふ、この土地では嫡々の姐さんたちが、何かといふと巳子蔵のまはりに不断集まる連中だけに、師匠の一大事とばかりに騒ぎ出した。彼女たちのなかには真実か偽か、師匠に据ゑ膳をして嬉れしがつてゐるのもあるといふ噂だつたが、これも明白(はつき)りわからなかつた。地獄よりも恐ろしい此の少女虐待の世界にも、そんな風が吹いてゐるのだつた。

 或る日も色草会の連中が、デパアトの演芸場で催すことになつてゐる、各花街の演芸会のことで見番に寄り合つてゐると、相変らず其の話が出た。そこへ種次姐さんも抱への事があつてやつて来たので、

「姐さん何う思ひます。見て見ない振してゐていいもんですか。」

「私や知らないよ。人様のお腹のふくれたことまで、気にしちやゐられないよ。」

 種次は膠なく言うふのだつた。

 その後で、年上の春代と千代次が、巳之吉の留守を目がけて朗子のところへ押し寄せて、彼女をびくりとさせた。朗子は奥の間で、爪弾きで何か弾いてゐた。

「あら珍らしいわね。」

「暑いぢやありませんか。貴女達こそお揃ひで……。」

「さうね、偶にはお寄りしようと思ひながら、つい其の何だか変梃りんで。」

「お師匠さんからお便りあります?」

 千代次も怳(とぼ)けて聞いた。

「いいえ、ちつともないんですよ。」

 朗子は彼女達の目の前で立ちあがるのも厭で、お茶をいれずに其処に居据つてゐた。

「巳之さんもゐないんでお寂しいでせう。坊やは。」

「仕込さんが可愛がるもんで、お隣へばつかり行つてるんですよ。」

「朗子さんも家に燻つてばかりゐないで、何処か一日涼しい処へ遊びに行かうぢやありませんか。」

 さすがに気がひけて、二人とも言ひそびれてしまつたが、そのうちに春代が坐り直して言ひだした。

「変なこと伺ふやうですけれど、朗子さん此の頃軀が変なんぢやありません? 皆さう言つて心配してますわ。」

「私達不断からお宅のお師匠さんに御懇意に願つてゐるでせう、見て見ぬ振て訳に行かないんですわ。外の事と違つて、是許りは世間の口が煩いでせう。後はまた何とかお取做役(とりなしやく)を勤めますから、私達だけに真実のこと打明けて頂けませんか知ら。」

 朗子は足を崩して俛(うつむ)いたきりでゐたが、

「ご心配かけて済みません。」

「いいえ、実は私達の出る幕ぢやないんだと、さうも思つて見たんですけれど、そうぢやないな、朗子さんのことだから、相談する人がなくて困つてゐるんぢやないかな。さうだとすると、遠慮なしにお話していただけるのは、矢張り私達より外にないでせう。厭に詰問するやうで悪いけれど、相手は一体誰ですの。」

「ちょいと巳之さんだと云ふ噂だけれど、真実ですの。」

 千代次は低声で言つた。

「巳之吉さんだとすれば、無理のないところもあるやうだわね。」

「誰にしたつて、これはかかり易い係締だわ。」

 暫く言葉が途絶えて、風鈴が気うとい音を立ててゐた。朗子が肯定も否定もしないで、ただじつと成り行きに委せきりの肝をすゑてゐるらしいので、泥を吐かせようと意気込んで来た二人も、その上しち醇きは言へなかつた。その上幼い時からの環境に痛めつけられて来て、女の意地といったやうなものの、朗子にあることも解つてゐた。》

 

・《子供が泣き出したので、朗子は傍へ寄りそつて、上から叩いた。時間過ぎとみえて鉄棒の音も聞えて来た。

(一行空け)

 翌朝朗子が二階からおりて来た頃には、巳之吉はそこらを綺麗に掃除して、襷掛けでせつせと入口の格子戸を拭いてゐた。

 密(ひそ)やかな驚異と悦楽と苦悩の幾月かが、それ以来巳之吉に過ぎた。》

という抑制された表現には、秋声の核心がある。

野口冨士男は『徳田秋聲ノート』に収めた「徳田秋聲の文学」を次のように結んでいる。

池大雅は、どこに墨を置くかというより、空白をどう活かすかに意をそそいだといわれるが、秋聲の作品にはそれに通じるものがある。『徳田秋聲伝』に、私は彼が<手をぬかずに省略を心がけた>作家だという意味のことを記したが、書いていない部分がくっきり書かれているというような作風で、その典型的な一例を、私は『あらくれ』の第五十三回の終りから第五十四回のはじめにかけての部分に見いだす。引用は避けるが、山の宿<浜屋>の主人とお島が通じる部分で、通じたことは一字も出て来ない。が、翌朝お島が浴室へ<湯をぬくために、冷い三和土(たゝき)へおりて行った>ところの描写には描写にないものがある。現在の作家は男女がホテルへ行ってからの行動に関して事実ベッタリの書き方をするが、秋聲なら<二人はホテルへ行った。翌朝……>というふうに表現するに違いない。秋聲作品は暗示的で、あの暗示がいかにも的確である。彼の場合の<あるがまま>とは、いわゆる糞リアリズムではない。無用な一切を切り棄てた、簡潔な文学なのである。<素人受けのしない文学>といわれるゆえんも、その辺にある。》

・しかし、『仮装人物』は唯一と言ってよい例外だ。古井由吉は『仮装人物』文庫本解説「空虚感を汲み尽そうとする情熱」で、《これは第三章の、郊外のホテルの或る一夜の、翌日のくだりである。赤い花片に似た唇とある、黒いダイヤのような目とある、悩ましい媚とある。これを秋声の文学の、一時の堕落か衰弱と見る人もあるだろう。また、このような言葉を敢えて多用することによってしか、老境に入った男性の、若い女性の魅力に掻き起された恋情のせつなさは表わされない、と得心する人もいるだろう。むろん、この作品のどこからどこまで、このような表現に覆われているわけでもない。秋声特有の強靭な客観がこの作品においても、その下地をなしている。しかしこの種の表現を除外してしまったら、「仮装人物」は「仮装人物」ではなくなるだろうこともたしかである。》

古井由吉は続ける。《やがて作品は主人公が行為の美醜を、超えるというふうでもなく、その弁別から抜け出してしまうように読者には感じられる境にまで至る。あまりのこと、と読者はさすがにあきれながら、作品の中へもうひとつ惹きこまれるところである。(中略)

――それでなくとも、幻惑の底に流れているものは、いつも寂しい空虚感で、それを紛らすためには、絶えず違った環境が望ましかった。

 これは作中の随所に見られる表白であり、したがってこの箇所を引用するのもほとんど任意に近くなるが、この空虚感を私は作品の底流とも見る。しかし空虚感だけだは、作品を支えあげるものにはならない。この空虚感を汲み尽そうとする情熱、これがこの作品に生命を吹きこんでいるもの、と私は感じる。そしてまたこの情熱こそ、「黴」と「仮装人物」をひとすじにつなぐものだ、と考えている。

 もうひとつ言い添えれば、秋声の老年期には「町の踊り場」および「死に親しむ」という、超私小説とも呼ぶべき名短篇があり、そこにはいま言った空虚感がひとまず汲み尽されて、それともはや馴親しんだ生命の様子が描かれているが、じつは「仮装人物」の執筆のほうがそれよりも後にあたるのだ。空虚感の支配をおそらくもうひとつ超えた境地から、過去を照らし、しかもその文章を当時の空虚感と惑乱の色に十分に染めたというのは、見事な作家の業ではないか。》

 ここで、『戦時風景』もその老年期の作品の一つであって、超私小説とは違う領域だが、同じ空虚感が、しかも空虚感を汲み尽そうとする静かな情熱とともにあって、それこそが「ひょうたん鯰」の魅力の正体ではないのか。

 

《まだ其の頃は検査前の巳之吉が、朗子の分娩ときいて、あわてて滝の川の産院へ駈けつけたのは、その年の十二月、クリスマスの二三日前の午後であつた。

 離縁になつた朗子は、滝の川の産みの母の手元へ引き取られて、そこで身軽になる日を待つてゐたが、何か肩身の狭い思ひで、折々訪れて来る巳之吉が待たれるのだった。

「お産は何時?」

 巳之吉は来る度に催促するやうにきいてゐたが、自分が映画劇の主人公にでも成つたやうな感じがしてゐるものらしく、朗子は可笑しかつた。来る度に彼は何か彼か買つて来た。チヨコレイトとか、ソフトビスケツトだとか、又は綺麗な映画雑誌に季節の花など。

 産院で赤ん坊を見たときには、彼はちょつと見ただけで「何だこんなものか」と言つた風だつたが、見てゐるうちに奇蹟に打たれたやうに、父にまで飛躍した自身に驚きの目を睜り、大人の矜りを感じた。男性らしい強い愛情が朗子へ湧いた。赤子は朗子のベツドから離れた小さいベツドのうへに寝かされてあつた。

「目あかないね。」

「さうお、今にあくわよ。浮世の風に当つたばかりですもの。」

「額の広いとこ己に似てゐるね。厭んなつちやふな。」

 朗子は力なげに微笑んだ。

「お師匠さん己達に結婚させると言つてるよ。」

「お気の毒みたやうね。こんなおばあさんと。」

「ううん、そんな積りぢやないよ。」

 そこへ看護婦が入つて来て、何か赤ん坊の手当をしてゐた。

 巳子蔵は朗子を離縁する一方、愛弟子の巳之吉とも一応子弟の縁を切つたのであつたが、下方(したかた)の叔父がお詫びを入れてくれたので、形式的に巳之吉に謝罪(あやま)らせて、元通り一切の代稽古を任せることになつた。

 その翌日も、出稽古を二軒も断りにあるいて、産院を訪れた。朗子は一日のことで、滅切り顔色が好くなり、水々した目にも力が出てゐたが、赤ん坊もむづむづ口を動かしたり、目を明いたりした。巳之吉は傍へ椅子をもつて行つて不思議さうにぎつと見てゐた。

「面白いもんだね。正ちやんもこんなだつた?」

「あの時は別に気もつかなかつたわ。」

「いや、世間ぢやね、この赤ん坊を己の子ぢやないなんて言つてるんだよ。春代さんなんかもね、押(おつ)つけられたんぢやないなんて言つてるんだよ。」

四谷怪談の子助ぢやあるまいし、そんな事言はれても黙つてる法はないでせう。あの人達の師匠へお諛(へつら)ひよ。」

「それあさうだ。しかし変なことを聞いたよ。己は何んにもしらなかつたけれど。」

「何よ。言つてごらんなさい。」

「ううん何でもないよ。」

 巳之吉は打消したが、ちよつと口を辷らせてしまつた。

「朗子さん病院で初めて許したんだつて、さう。」

「誰がそんな事言つたのよ。」

「ちよつと耳にしたの。」

「それあさうだわ。結婚して四月目かに師匠が痔の手術で入院してゐた時、この機会とばかりに、皆んなで否応なしに私に附添はしたものなの。」

 朗子はその時のことを思い出して、顔を赧らめてゐた。

「でもあの人は私なんか何うだつて可いんですもの。」

「いや、さうぢやない。師匠は小峰さんをほんたうに愛してるか何うだか解んない、正ちやんの実のお母さんとしての朗子さんが、何と言つても師匠の頭脳に刻まれてゐるんだね。」

「何うして?」

「今に僕に結婚させると言つてゐながら、自分では小峰さんと結婚する気があるのやらないのやら。小峰さんに催促されると、もう一年も経つて世間の噂が静まつてからなんて言つてゐるんだもの。」

「じらしてゐるのよ、故意(わざつ)と。」

「さうかしら。でもね、師匠の心理では、小峰さんの人気のあるのも、余り好い気持はしてゐないらしいんだ、殊にこの頃芝居へも出ないでせう。酒を飲んでゐても何だか寂しさうだよ。」

「私と関係ないことだわ。」

「いやさうぢやない。小峰さんに惹著けられれば惹著けられるほど、貴女を思ひ出すらしいんだ。」

「気持は好くないでせう。それは解るけれど……。」

 朗子が疲れるので、巳之吉はやがて病室を出た。

 

 姉の店の整理もそこそこに、名古屋から大急ぎで帰つて来た巳之吉のために、色草会の連中に五六人のお弟子も交つて、或る夜土地の料亭で送別の宴が開かれてから、兵営生活の三ヶ月もすぎて、彼は浅草にある家(うち)の、町内の人達に送られて、東京駅から戦地へと立つて行つた。色草会の連中に取りまかれて、師匠も来てゐた。

 巳之吉は何が何だか解らずに、プラツトホームの群衆の殺気立つてゐるのに、頭がぼつとしてゐた。プラツトホームは、国旗の波と万歳の声とで、蒸し返されてゐた。

 列車に乗つてからも、窓の下に集まつて来る人の顔が、誰が誰やら見分けもつかなかつた。ふとみると、春代や千代次の立つてゐる蔭で、目の下に朗子と師匠と顔を寄せて、何か話してゐるのに気をひかれた。俛(うつむ)いた朗子は時々ハンケチで目の縁を拭いてゐた。巳之吉は一時に神経が蘇つて来るのを感じた。瞬間微笑を浮べた巳子蔵の目と目が直(ぴつた)り合つた。

「今も朗子に言つてるんだが、補充の己に召集令が来ないで、第二乙のお前が一足先きに立つことになるなんて。しかし心配することはない。己が招集されるまでは朗子のことは時々面倒見るよ。お前も帝国軍人だ、心を残さずしつかり遣つてくれ。いづれ戦場でお目にかかる時もあるだらうよ。」

「はつ。」

 兵士らしく巳之吉は頭を下げた。

「先づそれまでは……去らば/\でせう。」

 春代が傍から混ぜかへした。

 後ろから万歳の叫びが物凄く雪崩れて来たところで、巳子蔵も手をあげて万歳を叫んだ。

「☓☓☓☓☓☓☓☓☓☓☓☓☓☓☓☓。」

 巳之吉は顔の筋肉の痙攣するのを感じた。

 やがて列車が動き出した。》

 

・『名人選』巻末の対談で、丸谷才一が、川端康成の「童謡」について、戦前の検閲制度をくらますことにかけては、まさに天才的、なかなかの芸人、と讃えたあとを受けた野口冨士男は、

野口 みんなそれをやっているんですね。徳田秋声の「戦時風景」で、最後のページに十六字分、☓☓になっている。ぼくはこれ、徳田一穂(筆者註:秋声の長男)さんに聞いたんですが、「戦争に行かない奴は暢気(のんき)でゐやがる」という巳之吉のモノローグらしい。それだと十六字でぴったり合う。山手の花柳界の生活がよく出ていますね。

丸谷 野口さんに教えていただいて入れることができた作品なんですが、たいへん感心しました。これだけの短かさのなかに、いろいろな人間の運命の移り変りが、うまく書かれている。

野口 花柳小説には、遊びの面を書くのと、花柳界の人間の生活者としての面を書くのと、二種類あると思うんですが、これは生活者のほうですね。

丸谷 具体的に名前を挙げていえば、荷風の書く花柳小説と、秋声の書く花柳小説。

野口 荷風にも「風邪ごこち」とか例外はありますけれども、それは二人の、はっきりした違いでしょうね。》

・丸谷が「対談」のなかで、大岡昇平『黒髪』を『名作選』に入れた理由を、《一人の女の流転の姿を描く……いわば女を中心とした一種の教養小説というのかな、逆の教養小説みたいな感じ。そういう小説のひとつの典型だと思うからです。(中略)花柳小説の書き方には、一人の女の生きゆく姿を、春夏秋冬の移り変りみたいなものとしてとらえ、そこにあわれをおぼえ人生を見る……というところがありますが、そういう感じを現代において、一番くっきりと代表しているのが、この「黒髪」じゃないかと思ったんです。》と語るのを受けて、

野口 生島遼一さんによると、ヨーロッパの小説には女の流転を書いたものが多いけれども、日本では案外ないんだそうですね。もちろん西鶴の一代女とかいろいろあることはあるんでしょうけれど、そういうところで秋声を……秋声っていうのはほとんど流転小説ですから、生島さんは買っていますね。》

・丸谷の言う《これだけの短かさのなかに、いろいろな人間の運命の移り変りが、うまく書かれている。》のとおり、春代、巳之吉、朗子、巳子蔵、小峰といった登場人物の人生の移り変りが過不足なく書かれていて、だから最後の別れの場面も、思わせぶりな描写によって、朗子と巳子蔵はどうにでもなりそうな運命が待っていると思わせる。

・秋声の反戦思想、ファシズム嫌悪ということでは、「徳田秋声論」を書いた広津和郎江藤淳との対談「徳田秋声を語る」で披露した逸話がある。

《「広津 秋声のおもしろいのは、これも「群像」に書いていますけれどもね。昭和十一年、斎藤内閣のときに、警保局長だった松本学が文学統制に乗り出したんです。(中略)斎藤首相に話をしたら、それは結構な話だというんで、作家たちを呼んだわけです。そうして「この集まりを私設の文芸院という名にしたいと思います。元来国家がもっと文学のためにつくさなければならないのですが日本では文学に対して政治家があまりに冷淡でした。それで、いま国家のそういう方向への機運を促進するために、私設文芸院を作りたいのです」と言ったときに、徳田さんがいきなり、「日本の文学は庶民から生まれ、庶民の手で育った。いままで為政者に保護されたことはないし、いまさら保護されるなんていわれたって、そんなもの信用できないし、気持ちが悪い」それに「日本の政府がいま文字の保護に出てくるほどの暇があるはずはない、そんなことは信じない」と間髪を入れずそういうように言ったんで、松本学はこれはなかなか文字の統制なんて出来るものではないと、方向転換したわけです。名も文芸院はやめて、文芸懇話会という当らず障らずの名にして、意味もない会合を続けることになりましたが、そのうちその会で、どっからもってきたのか、金があるので「文芸懇話会」という雑誌を作ろうということになった。そのとき島崎藤村がおだやかに、「松本さん、お台所のほうはどうぞあなたがおやりください、しかし編集のほうは私どもがやりますから」と一本釘をさした。これは内務省御用雑誌にされないためです。こういう急所急所でびしっと言うべきことを言う点で、やっぱり明治文壇の藤村・秋声はえらいと、のとき感じたんです。」》

 漱石のような書斎の人ではなく、生涯、市井・庶民の人秋声らしいではないか。

・さきに野口が言及したフランス文学者生島遼一の「秋声小論」には、日本の「女の一生」、「女の運命」についての指摘ばかりでなく、秋声への顕彰がある。

三好達治君が話していたことだが、川端康成が秋声を訪ねて行ったら、秋声はちょうど晩年の愛人である婦人の家で、肩をぬいで膏薬をはらしていたところで、その様子を見て「らくになってるな、と思った」と川端さんが語っていたそうだ。面目がよく出ている。作品のほうにも、晩年のもなかなか気の張りを落とさず書いてはあるが、そういう、らくになった人柄がどこかあらわれている。(中略)この人の女の書き方は自然主義系統の人の中で、一番やわらか味があり、上手である。川端康成さんは「仮装人物」の女の肉体はみずみずしい、とほめていた。紅葉の門下であって文学の質では異端者ということになっているが、女を描くことの柔軟なうまみという点では紅葉たちとのつながりを私は感じてならない。文学の技法は硯友社より新しいが、そういうところにつながりを感じる。

 人間に愛情をもっていた人の作品は残るという気がする。もしくは憎悪でもいい。甘く見えても、またいろいろ糊塗してあっても、そういう愛情のない人の作品は結局忘れられるにちがいない。秋声は愛情をもっていた人だ。客観描写主義のdiscipline(修業)と日本人的なストイシズムでそういうものをおさえおさえし、あるいは一脈の気の弱さで躊躇しながらも、――結局は愛情に生き、愛情のためならすべてを描いて行くような一図なものを胸底にもっていた人だったろう。短篇で「蒼白い月」とか「或売笑婦の話」などというのはほうぼうの選集におさめてあって、きっと作者の気にいっていたものだろうが、ああいう作品には大作とちがっていま言ったような愛情がごく自然に流れている感じで私も好きだ。》

 なるほど『戦時風景』も「らく(・・)になった」ころの短篇であり、「愛情をもっていた」人の作品の一つ、「愛情がごく自然に流れている感じで」私も好きだ。

 

                               (了)

        *****引用または参考*****

*『花柳小説名作選』(徳田秋声『戦時風景』所収)(集英社文庫

野口冨士男徳田秋聲ノート』(中央大学出版部)

野口冨士男徳田秋聲傳』(筑摩書房

野口冨士男徳田秋聲の文学』(筑摩書房

徳田秋声『新世帯・黴』(古井由吉解説「世帯の行方」所収)(福武書店文芸選書)

徳田秋声『仮装人物』(古井由吉解説「空虚感を汲み尽そうとする情熱」所収)(講談社文芸文庫

*『現代日本文學大系15 徳田秋聲集』(夏目漱石「『あらくれ』評」、広津和郎徳田秋声論」所収)(筑摩書房

*『日本の文学 徳田秋声1』(川端康成解説所収)(中央公論社

*『日本の文学 徳田秋声2』(江藤淳解説、広津和郎江藤淳対談「徳田秋声を語る」所収)(中央公論社

中村眞一郎『この百年の小説』(新潮社)

*『寺田透評論Ⅰ』(思潮社

*松本徹『徳田秋聲』(笠間書院

紅野謙介・大木志門編『21世紀日本文学ガイドブック6 徳田秋聲』(ひつじ書房

生島遼一『朝日選書 日本の小説』(「秋声小論」所収)(朝日新聞社

文学批評 『花柳小説名作選』を読む(1) ――永井荷風『あぢさゐ』

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 『花柳小説名作選』(丸谷才一選。以下『名作選』と略す)から永井荷風『あぢさゐ』、徳田秋声『戦時風景』、舟橋聖一『堀江まきの破壊』の三作品を読む。

 荷風は別格として、徳田秋声舟橋聖一の二人はかつて大家でありながら今ではほとんど忘れられているものの、読めば『名作選』の中でも指折りの名作にふさわしい。

 荷風『あぢさゐ』が昭和六年、秋声『戦時風景』が昭和十二年、聖一『堀江まきの破壊』が昭和二十三年の発表だから、大正から昭和前半への花柳社会の衰退、下降を、作家たちの目が冷徹に見据えていたと知る。

 荷風『あぢさゐ』と秋声『戦時風景』に共通するものは男が「芸人・三味線ひき」なことであり、秋声『戦時風景』と聖一『堀江まきの破壊』に共通するのは『アンナ・カレーニナ』を読む女であり、聖一『堀江まきの破壊』と荷風『あぢさゐ』では「葭町(よしちょう)(芳町)」という場(ば)・空間である。

 

 なぜ「花柳小説」などをという向きがあるかもしれないので、『名作選』巻末の丸谷才一野口冨士男の対談から、丸谷の「にせの市民社会としての花柳界」という批評的文明論を紹介しておく。

丸谷 いろいろな種類の人間が出会ったり別れたり、愛したり憎んだりすることによってできる模様を書いて、それでなにかを表現する、というのがごく普通の西洋風の小説の考え方だろうと思います。

 ところが明治以降の日本の社会では、身分や階級、職業の違いなどにあまり関係のない市民社会というものができなかったせいで、男と男でも、なかなか自由に出会うことがなかった。まして男と女となると、出会う機会が、まことに少ない。娘たちは家の外へ出してもらえないし、奥さんもよその男と話をすることはめったにない。そういう種類のたいへん窮屈な、洗練されていない社会であった。

 そんなふうに垣根が幾つもあるような、洗練度の低い社会で小説を書くのは、非常に厄介なことだったと思うんですが、そういうなかで、人間と人間がわりに自由な感じで出会うことができる場所はわずかにあって、それが花柳界だったんですね。》

                ******

 永井荷風『あぢさゐ』>

 

駒込辺を散策の道すがら、ふと立寄つた或寺の門内(もんない)で思ひがけない人に出逢つた。まだ鶴喜太夫が達者で寄席へも出てゐた時分だから、二十年ぢかくにもならう。その頃折々家(うち)へも出入をした鶴沢宗吉といふ三味線ひきである。

「めづらしい処で逢ふものだ。変りがなくつて結構だ。」

「その節はいろ/\御厄介になりました。是非一度御機嫌伺ひに上らなくつちやならないんで御在ますが、申訳が御在ません。」

「噂にきくと、その後商売替をしなすつたといふが、ほんとうかね。」

「へえ。見切をつけて足を洗ひました。」

「それア結構だ。して今は何をしておいでだ。」

「へえ。四谷も大木戸のはづれでケチな芸者家をして居ります。」

「芸人よりかその方がいゝだらう。何事によらず腕ばかりぢや出世のできない世の中だからな。好加減に見切をつけた方が利口だ。」

「さうおつしやられると、何と御返事をしていゝかわかりません。いろ/\込入つたわけも御在ましたので。一時はどうしたものかと途方にくれましたが、今になつて見れば結句この方が気楽で御在ます。」

「お墓まゐりかね。」

「へえ、先生の御菩提所もこちらなんで御在ますか。」

「なに。何でもないんだがね。近頃はだん/\年はとるし、物は高くなるし、どこへ行つても面白くないことづくめだからね。退屈しのぎに時々むかしの人のお墓をさがしあるいてゐるんだよ。」

「見ぬ世の友をしのぶといふわけで。」

「宗さん。お前さん、俳諧をやんなさるんだつけね。」

「イヤモゥ。手前なんざ、唯もう、酔つて俳徊する方で御在ます。」

 話をしながら本堂の裏手へ廻つて墓場へ出ると、花屋の婆は既にとある石塔のまはりに手桶の水を打ち竹筒の枯れた樒を、新しい花にさしかへ、線香を手に持つて、宗吉の来るのを待つてゐた。見れば墓石もさして古からず、戒名は香園妙光信女としてあるので、わたしは何心もなく、

「おふくろさんのお墓かね。」

「いえ。さうぢや御在ませむ。」と宗吉は袂から数珠を取出しながら、「先生だからおはなし申しますが、実は以前馴染(なじみ)の芸者で御在ます。」

「さうかい。人の事はいへないが、お前さんも年を取つたな。馴染の女の墓参りをしてやるやうな気になつたかな。」

「へゝえ。すつかり焼きがまはりました。先生お笑ひなすツちやいけません。」と宗吉はしやがむで、口の中に念仏を称へてゐたが、やがて立上り、「先生、この石塔も実は今の嚊には内々(ないない)で建てゝやつたんで御在ます。」

「さうか。ぢや大分わけがありさうだな。」

「へえ。まんざら無いことも御在ません。親爺やお袋の墓は何年も棒杭のまゝで、うつちやり放しにして置きながら、頼まれもしない女の石塔を建てゝやるなんて、いゝ年をしていつまで罰当りだか、愛想がつきます。石がたしか十円に、お寺へ五円、何のかのと二拾円から掛つでゐます。」

「どこの芸者衆だ。」

「葭町の房花家(ふさはなや)といふ家にゐた小園(こその)といふ女で御在ます。」

「聞いたことのあるやうな名前だが。」

「いえ。とても旦那方の御座敷なんぞへ出た事のあるやうな女ぢや御在ません。第一看板がよくない家(うち)でしたし、芸もないし、手前見たやうなものでも、昼日中一緒につるんで歩くのは気が引けたくらゐで御在ましたからね。芸者の位といふものは見る人が見るとすぐわかるもので御在ますからね。」

 寺の門前に折好く植木屋のやうな昔風な家(や)づくりの蕎麦屋が在つたので、往来際の木戸口から小庭の飛石つたひ、濡縁をめぐらした小座敷に上つて、わたしは宗吉のはなしを聞いた。

     *         *         *         *  》

             

・『名作選』巻末の丸谷才一野口冨士男による「<対談解説>花柳小説とは何か」から、『あぢさゐ』に言及された会話を見ておこう。

野口 ぼくはこれ、どうして「あぢさゐ」って題名なんだろうと思っていたんですよ。そうしたらアジサイっていうのは、どんどんいろ(・・)が変るんですね。いろ(・・)というのは色彩ですけれども、情夫という意味もある。

 ふつうオーソドックスな花柳小説では、男が女をかえるのに、この場合は逆に、女が男をかえている。そういう意味でもこれは、大変な作品ですね。

丸谷 なるほど。たしかにそうですね。ぼくはアジサイの花の一種の頽廃感があるでしょう、花がだんだん崩れていく感じ……荷風はそういう感じを非常に愛していて、「あぢさゐや身を持崩す庵のぬし」という句を詠んだくらいですから、アジサイの花の崩れていく感じを、いろいろな男のせいでだめな女になっていく女主人公のなかに見てつけたのかと思っていました。

野口 それもあるでしょうけれど、戦前の東京では小さな貸家でも、陽の当らない猫の額ほどの庭があって、そこにアオキやヤツデ、イチジク、アジサイなんかを植えてあった。ところが、お妾さんの家にはアジサイを植えちゃいけなかったんですって。いろ(・・)がかわるといけないから(笑)。それを聞いたときに、あ、それで荷風のあれも『あぢさゐ』なのかと……。

丸谷 面白いですね。たしかにたいていの花柳小説では男が女をかえる、つまり男性中心的な書き方ですね。

野口 芸者が役者買い、相撲買いをするといっても、普通は男の玩弄物ですよ。荷風の場合は女性の主人公に、非常に好色な女が多い。

丸谷 「腕くらべ」が役者買いの小説ですね。

野口 そうですよね。あのモデルは十五世の羽左衛門だといわれているわけですけれども……》

(ちなみに、『腕くらべ』の瀬川一糸のモデルは、十五世市村羽左衛門とも(相磯凌霜(あいそりょうそう)『腕くらべ余話』)、三世坂東(ばんどう)秀調(しゅうちょう)とも(吉田精一永井荷風』)言われるが、荷風は一人のモデルから作中人物の造形をしないことを自慢していたから、若いころ歌舞伎座作者部屋で働いたときの歌舞伎界の裏表の見聞を基に(荷風『書かでもの記』)、ちょうどそのころ荷風と結婚し、半年で離婚し、しかしその後も付き合いがあった新橋巴家(ともえや)の八重次(のちの藤蔭静枝)から艶聞を聞かされていたはずの羽左衛門、合評会などで交流があった秀調(彼の父金子翁と八重次とは親しかったので結婚式で八重次の仮親元となった。荷風『矢はずぐさ』)、作劇を依頼されたものの黙阿弥のようには上手く書けず苦しむことになったり、八重次との結婚では仲人を務めてもらうなど、生涯に渡って蜜のごとき親しさだった二世市川左団次近藤富枝荷風と左団次』)らの多重映像と考えるのが妥当で、これ以上にモデル探しをしても荷風の言葉どおり虚しい。)

・「問わずがたり」的な短編小説の構成、枠組みの技巧、工夫があって、話者に語らせる明治大正期の常套とはいえ、小説形式への美意識は、なにもジッド『贋金使い』の小説のなかの小説形式を用いた『濹東綺譚』に始まったわけではない。

・町や墓地を散策する「日和下駄」の荷風散人を思わせもする「先生」と呼ばれた旦那の、「~かね」「~だ」の無愛想、ぞんざいなのは脇役がうるさくならないためであるのと、対比して三味線ひき宗吉の「御在ます」「御在ます」という腰の低さに、社会的な芸人の地位、上下関係がみてとれる。

・「戒名は香園妙光信女」に、執筆当時に荷風が関係した女「園香」のうっすらとした刻印がある(荷風は登場人物にモデル等の名前を改変流用することはまずないが、それでも穿てば、三味線ひき「宗吉」に荷風こと本名永井壮吉の見果てぬ影がある)とは、荷風研究家秋庭太郎も指摘していた。

・《いえ。とても旦那方の御座敷なんぞへ出た事のあるやうな女ぢや御在ません。第一看板がよくない家(うち)でしたし、芸もないし、手前見たやうなものでも、昼日中一緒につるんで歩くのは気が引けたくらゐで御在ましたからね。芸者の位といふものは見る人が見るとすぐわかるもので御在ますからね。》に「葭町(よしちょう)」という場の位置づけと、芸者の格が表象されている。

  

《「もうかれこれ十四五年になります。手前が丁度三十の時で御在ました。始めて逢つたのは芳町ぢや御在ません。下谷のお化新道で君香といつて居りました。旦那の御屋敷へ御けいこに上つて御酒をいたゞいた帰りなんぞに逢引をした事が御在ました。その時分には、アノ、旦那もたしか御存じの通り、新橋に丸次といふ色がありましたが、然し何をいふにも血気ざかり。いくら向からやんや言はれても、いやに姉さんぶつた年上の女一人、後生大事に守つちやゐられません。御贔屓の御座敷や何かで、不時の収入(みいり)がありますと、内所で処かまはず安い芸者を買ひ散らしたもんで御在ます。一人きまつたのがあつて、それで方々遊び歩くのは、まづ屋台店の立喰といふ格で、また別なもんで御在ます。ネエ、先生。はじめて湯島天神下の小待合で君香を買つたのもそんなわけで御在ます。何しろ十時頃に上つて十二時過には家へ帰つてゐやうといふんですから、女のよしあしなんぞ択好(よりごの)みしちや居られません。何でも早く来るやつをと、時計を見ながら、時によると、女の来ない中から仕度をさせ、腹ばひになつて巻烟草をふかし、今晩はといつて手をつくやつを、すぐに取(とつ)つかまへるといふやうな乱暴なまねをした事もあります。その晩もまづさういつた調子です。暫くして座敷へ来たのを見ると思つたよりは上玉でした。何も彼も忘れずにおぼえて居ります。衣裳は染返しの小紋に比翼の襟が飛出してゐるし半襟の縫もよごれてゐる。鳥渡見ても、丸抱(まるがゝへ)で時間かまはずかせぎ廻される可哀さうな連中です。つぶしに結つた前髪に張金を入れておつ立てゝゐるので、髪のよくない事が却て目につきました。しかし睫毛の長い一重目縁の眼は愛くるしく、色の白い細面のどこか淋しい顔立。それにまた撫肩で頸が長いのを人一倍衣紋をつくつた着物のきこなしで、いかにもしなやかに、繊細(かぼそ)く見える身体つき。それに始終俯向加減に伏目になつて、あまり口数もきかず、どこかまだ座敷馴れないやうな風だから、いかにも内輪なおとなしい女としか思はれません。長くこんな商売をしてゐられる身体ぢやない。さぞ辛い事だらうと、気の毒な心持になつたのが、そも/\間違のはじまりです。人は見かけによらないといふ事がありますが、この女ほど見かけによらないのもまづ少う御在ます。」

「柄にもない。一杯食されたんだね。」

「まアさうで御在ます。後になつて見れば、女の方ぢや別にだまさうと思つてかゝつた訳でも無いんでせうが、実に妙な意地張りづくになつて、先生、わツしや全く人殺をしやうと思つたんで御在ます。思出すと今でもぞつといたします。ところが、わたしよりも一足先に殺した奴があつたんで、わたしは無事で助かりました。わたしの名前は好塩梅に出ませんでしたが、その事は葭町の芸者殺しといふんで新聞にも出ました。下谷から葭町へ住替をさせたのは、わたしが女から頼まれてやつた事で、其訳はこの女には〆蔵といふ新内の流しがついてゐました。地体浮気で男にほれつぼい女だとは知らないから、わたしも始めての晩、御用さへ済めば別にはなしのある訳もなし、急いで帰らうとすると、「兄さん、お願ひだから、もう一度お目にかゝらせてね。」と寝乱髪に憂(うれひ)のきく淋しい眼元。袖にすがつていきなり泣落しと来たんだから、こたへられません。全体座敷で口数をきかない女にかぎつて床へ廻つてから殺文句を言ふもんです。それから通ひ出して丁度一月ばかり。逢つた度数(かず)で申さうなら七八遍といふところ。お互に気心が知れ合つて、すつかり打解ながら、まだどこやらに遠慮があつて、お互にわるく思はれまい。愛想(あいそ)をつかされまいといふ心配が残つてゐる。惚れた同士の一番楽しい絶頂です。君香はきかれもしないのに、子供の時からいろ/\と身の上ばなしをした末に、新内語(しんないかたり)の〆蔵との馴れそめを打明け、あの人はお酒がよくないし、手慰みもすきだし、万一の事でもあると困るから、体好(ていよ)く切れたい。そのために一時この土地をはなれて、田舎へでも行かうかと言ひます。此方(こつち)はのぼせてゐる最中だから、この場合、「うむ。さうか。ぢやア行つてきねえ。」とは云へません。「お前の胸さへきまつてゐるなら、お前のからだはおれが引受けやう。そんな無分別な事をせずと、東京にゐてくれ。」と乗出さずには居られません。芸者の住替をする道は素人ぢやないから能く知つてゐます。周旋屋の手にかゝつて手数料を取られ、碌でもない処へはめ込められるより、わたし自身で道をつけてやる方が結句女の為めだと考へ、お参りからすぐに親里ヘドロンをきめさせ、借金もならう事なら今までの稼高だけでも負けさせて住替の相談をつけてやらうと考へました。君香の実家は木更津ださうで、親爺は学校か町役場の小使でもしてゐたらしい。兎に角悪い人ぢやないやうでした。わたしは一先当人を親里へ逃して置いて、芸者家へは当人から病気になつたから、二三日帰れないといふ手紙を出させ、陰に廻つて、そつと東京へ呼戻して、抱主との話がつくまで毎日逢つてゐやうと言ふんです。もと/\逢ひたい見たいが第一で、別に女を喰物にしやうといふ悪い腹は微塵もないんですから、逃す時にも当座の小遣銭(こづかひ)、それから往復の旅費、此方(こつち)へ呼もどしてから、本所石原町に知つてゐる者があつたので、その二階を借りるやら、荷物は残らず芸者家へ押へられてゐるから、さしづめ着がへの寝衣に夜具も買ふ。わたしの身にしては七苦八苦の騒ぎです。何しろ其時分は丸次の家の厄介になつてゐた身ですから、公然(おほぴら)余所(よそ)へ泊るわけには行きません。昼間か宵の中忍んで行くより仕様がないので、自然出稽古はそつちのけ、御贔屓のお客はしくじる。師匠からは大小言(おほこごと)。忽の中に世間は狭くなる。金の工面には困つてくる。さてさうなると、いよ/\つのるが恋のくせ。二度と芸者には出したくないやうな気がして来ます。いづれは住替と、話はきまつてゐるものゝ、一日でも長く此のまゝ素人にさして置きたいといふ気になつて、諸所方々無理算談をしながら、若しや、君香がそれと知つたら、済まないと思つて早く住替をしやうといふにちがひない。さう云ふ気にならせまいと、わたしは何不自由もしない顔をして、丁度夏の事でしたから、或日は明石縮一反、或日は香水を買つてやつた事もあります。貸二階にばかり引込んでゐても気が晴れまいからと、人目を忍んでわざ/\場末の活動へ連れて行き帰りには鳥屋か何かで飯をくふ。君香は何も知らないから嬉しがつて、「兄さん、わたしこの儘でかうして素人でゐられたら。」と言つて泣きます。昼間だけ逢つてゐるんぢや、もう、どうしても我慢ができない。一晩はお袋が病気だと、丸次の手前を胡麻化し、その次は時節柄さる御贔屓の別荘へお伴をすると云ひこしらへて、三日ばかりとまつて、何喰はぬ顔で新橋へ帰つて来ますと、イヤハヤ、隠すより顕るゝはなし。世間は広いやうでも狭いもの。丸次の家で使つてゐる御飯焚の婆の家(うち)が、君香のゐる家のすぐ二三軒先で、一伍一什(いちぶしじふ)すつかり種が上つてゐるとは夢にも知らないから、此方はいつもの調子で、「今更切れるの、別れるのと、そんな仲ぢやあるまい。冗談もいゝ加減にしな。」と甘く持ちかけたから猶更いけない。「宗さん。人を馬鹿にするにも程があるよ。」ときつぱり、丸次は長烟管で畳をたゝき、「お前さん、それほどあの女が恋しいなら、わたしも同じ芸者だよ。未練らしい事を云って邪魔立てはしないから、立派に世間晴れて添ひとげて御覧。憚りながらまだ男ひでりはしないからね。痩せても枯れても、新橋の丸次といへば、わき土地へも知られてゐる顔だよ。さう/\踏みつけにはされたくないからね。立派に熨斗をつけて進上するから、ねえ、宗さん、後になつていざこざのないやうに一筆書いておくんなさいよ。その代りこれはわたしの志(こゝろざし)さ。」と目の前につき付けたのは後で数へて見れば百円札が五枚。いくら仕がない芸人でも、女から手切を貰つて引込むやうな男だと、高をくゝられたのが口惜しいから、金は突返して、高慢ちきな横面(よこつつら)足蹴(あしげ)にして飛出さうと立ちかゝる途端、これさへあれば君香の前借も話がつくんだと、卑劣な考がふつと出たばかりに、何にも云はず、おとなしく証文をかいた時は、我ながら無念の涙に目がかすみ、筆持つ手も顫へました。わたくしが其後三味線引をやめたのも、芸人でなかつたらあの耻はかゝされまいと、その時の無念がわすれられなかつたからで御在ますよ。》

 

・やはり『名人選』の対談から、花柳界、芸者の「分類」と、『あぢさゐ』の眼目について。

丸谷 野口さんは前に荷風を論じたときに、芸者と客の関係を、宴席と平(ひら)の座敷と枕席の三つに分けて、荷風の書く芸者は、枕席だけの芸者である、と……。

野口 枕席だけになってしまえば、ヒロインが芸者である必要はないんで、しだいに女給を書き、密淫売を書き……というふうに移行していったんですね。「雪解」というのは、芸者から女給に移ろうとした最初の作品だと思うんですよ。

丸谷 なるほど。

野口 けれども、自分の父親が間借りしているところへ娘が来て、床の間にあった二合罎を見て「お父(とつ)さん、お上んなさいよ」とお燗つけるでしょう。あれね、やはり女給じゃないんだな。

丸谷 芸者っぽいですね。

野口 そうでしょう。女給に素材を移そうとしたけれども、筆が芸者になれている小説、という気がするんだな。もっとも当時のカフェとか女給というのは、そんなものだったのかも知れませんが……。

丸谷 その意味でも、芸者から女給への過渡期を示す短篇小説、ということになりますね。

野口 枕席だけの芸者といえば、話が前に戻りますが、『あぢさゐ』の主人公について、「箱無しの枕芸者」という言葉が出てくる。箱というのは三味線で、戦前は検番で三味線の試験があって、それを通って初めて芸者になれたくらいだから、箱は芸者の命なのに、箱なしの枕芸者となると、これはまったく芸がなくてただ寝るだけ、いわゆる不見転(みずてん)で、だれにでも買われる芸者なんだけれども、それでもやはり人間性というのがあって、好きな男ができて、いろが変って行く……というところが『あぢさゐ』の眼目ですね。

丸谷 それともうひとつの眼目は、芸人が新橋のちゃんとした芸者を色にしていながら、それよりはずっと格の低い、芸者といえないような芸者のために身を持崩していく、そういう男のなかにあるデカダンスへの傾斜……。

野口 それで殺してやろうと思ったら、ほかのやつが先に殺していた、と最後はちょっと黙阿弥の世界になるんだけれども……。

丸谷 とにかくこれは文章がうまくてね。いやになるほどうまい。芸人が急いで帰ったら、女が留守なんで、「一番怪しいのは新内の〆蔵だ。と思ふと二階へ上つてもぢつとしては居られません。何かの手がゝりをと其辺を探しても」云々とあって「それらしいもんは目につかないので、猶更(なおさら)いら/\してまた外へ出た」、この「外へ出た」がすごい。

 それまではずっと、どこかの旦那衆に話をしているわけだから、丁寧な口調でしゃべっていたのが、女を疑い始めたところで、「猶更いら/\してまた外へ出た」。いきなりざっくりした、ぞんざいな口のきき方に変る。そこで世界が事件の現場になるんですね。こうした言葉の遣い方の切れ味のよさは、大変なものですね。》

 

・丸谷の「デカダンスへの傾斜」という指摘は、次のような文章によるだろう。

《始めて逢つたのは芳町ぢや御在ません。下谷のお化新道で君香といつて居りました。旦那の御屋敷へ御けいこに上つて御酒をいたゞいた帰りなんぞに逢引をした事が御在ました。その時分には、アノ、旦那もたしか御存じの通り、新橋に丸次といふ色がありましたが、然し何をいふにも血気ざかり。いくら向からやんや言はれても、いやに姉さんぶつた年上の女一人、後生大事に守つちやゐられません。御贔屓の御座敷や何かで、不時の収入(みいり)がありますと、内所で処かまはず安い芸者を買ひ散らしたもんで御在ます。一人きまつたのがあつて、それで方々遊び歩くのは、まづ屋台店の立喰といふ格で、また別なもんで御在ます。ネエ、先生。はじめて湯島天神下の小待合で君香を買つたのもそんなわけで御在ます。何しろ十時頃に上つて十二時過には家へ帰つてゐやうといふんですから、女のよしあしなんぞ択好(よりごの)みしちや居られません。何でも早く来るやつをと、時計を見ながら、時によると、女の来ない中から仕度をさせ、腹ばひになつて巻烟草をふかし、今晩はといつて手をつくやつを、すぐに取(とつ)つかまへるといふやうな乱暴なまねをした事もあります。その晩もまづさういつた調子です。》(なぜか荷風は、「葭町」と「芳町」を混在して使っている。)

《衣裳は染返しの小紋に比翼の襟が飛出してゐるし半襟の縫もよごれてゐる。鳥渡見ても、丸抱(まるがゝへ)で時間かまはずかせぎ廻される可哀さうな連中です。つぶしに結つた前髪に張金を入れておつ立てゝゐるので、髪のよくない事が却て目につきました。》

・こういった遊びに関する、荷風らしい箴言、決め台詞なら、《一人きまつたのがあつて、それで方々遊び歩くのは、まづ屋台店の立喰といふ格で、また別なもんで御在ます。》をはじめいくつかある。《全体座敷で口数をきかない女にかぎつて床へ廻つてから殺文句を言ふもんです。それから通ひ出して丁度一月ばかり。逢つた度数(かず)で申さうなら七八遍といふところ。お互に気心が知れ合つて、すつかり打解ながら、まだどこやらに遠慮があつて、お互にわるく思はれまい。愛想(あいそ)をつかされまいといふ心配が残つてゐる。惚れた同士の一番楽しい絶頂です。》

  

《然し五百円をふところにして丸次の家を出ると、其場の口惜しさ無念さは忽ちどこへやら。今し方別れたばかりの君香に逢ひ借金を返すはなしをしたら、どんなに喜ぶことだらうと思ふと、もう矢も楯もたまりませむ。電車の来るのも待ちどしく、自動車を飛して埋堀(うめぼり)の家へかけつけて見ると、夏の夜ながら川風の涼しさ。まだ十二時前なのに河岸通から横町一帯しんとして、君香の借りてゐる二階の窓も、下の格子戸も雨戸がしまつてゐます。戸を敲くと下の人が、「お帰んなさい。」と上り口の電燈をひねつて、わたしの顔を見、「あらお一人。」といふから、「お君は。」と問ひ返すと、「御一緒だと思つたら、ほゝゝゝほ。」と何だか雲をつかむやうなはなし。いつものやうに君香は先刻(さつき)わたしの帰るのを電車の停留場まで送つて行き、それなり家へはまだ戻らないのだな。明日(あした)の昼頃までおれの来ないのを承知してゐるからは、事によると今夜は帰るまい。どこへ行きやアがつた。前々から馴染のお客もないことはあるまい。一番怪しいのは新内の〆蔵だ。と思ふと二階へ上つてもぢつとしては居られません。何かの手がゝりをと其辺をさがしても衣類道具は、まだ下谷の芸者家へ置いたまゝの始末だから、こゝには鏡台一ツなく、押入には汚れたメレンスの風呂敷づゝみが一つあるばかり。それらしいものは目につかないので、猶更いら/\してまた外へ出た。

 埋立をした河岸通は真暗で人通りもなく、ぴた/\石垣を甞める水の音が物さびしく耳立つばかり。御厩橋を渡る電車ももうなくなつたらしく、両国橋の方を眺めても自動車の灯が飛びちがふばかり。ひや/\する川風はもうすつかり秋だ。向河岸の空高く突立つてゐる蔵前の烟突を掠めて、星が三ツも四ツもつゞけざまに流れては消えるのをぼんやり見上げながら、さしづめ今夜はこれからどこへ行かう。新橋はもう縁が切れてゐる。こゝに持つてゐる五百円。あんなに耻をかゝされて、手出しもならず。押しいたゞいて貰つて来たのは、そも/\誰のためだ。玉子の殻がまだ尻ツペたにくつゝいてゐる不見点(みずてん)のくせにしやがつて、よくも一杯喰はせやがつたな。胸糞のわるいこんな札(さつ)びらは一層(いつそ)の事水に流して、さつぱりしてしまつた方がと、お蔵の渡しの近くまで歩いて来て、ぢつと流れる水を見てゐますと、息せき切つて小走りに行過る人影。誰あらう、君香です。

「おい。おれだ。どこへ行く。」と呼留めた声はたしかに顫へてゐました。

「あら。兄(にい)さん。」と寄り添ふのを突放して、「何が兄さんだ。こゝにおれが居やうとは思はなかつたらう。ざまア見ろ。男をだますなら、もうすこし器用にやれ。」

 女は砂利の上へ膝をついたまゝ立上らうともせず、両方の袂で顔をかくし、肩で息をしてゐるばかり。何とも言はないから、「おい、好加減にしな。」と進寄つて引起さうとすると、君香は何か手荒な事でもされると思つたのか、その儘わたしの手にしがみつき、

「兄さん。気のすむやうに、どうにでもして下さい。わたし本望なのよ。兄さんに殺されりやアほんとうに嬉しいのよ。どうせ、生きてゐたつて仕様のない身なんだから。」とまた土の上に膝をつき、わたしの袂に顔を押し当てあたり構はず泣きしづむ。

此方(こつち)はすこし面喰つて、「もういゝ。もういゝ。」と抱き起し背をさすれば、君香はいよ/\身を顫はし涙にむせび、「兄さん、みんなわたしが悪いんです。打(ぶ)たれても蹴られても、わたし決して兄さんの事を恨みはしないから、思ひ入れひどい目に会はして頂戴。ヨウヨウ。」と身を摺りつける様子の、どうやら気味わるく、次第に高まる泣声は河水に響渡るやうな気もしてくるので、始の威勢はどこへやら、此方からあべこべに、「おれがわるかつた。勘忍しなよ。」と気嫌を取り/\やつと貸間の二階へつれもどりました。

 一時狂気のやうに上づツた心持がすこし落ちついて来ると、乱れた鬢をかき直し、泣脹した眼をしばたゝいて、気まりわるげに、燈火(あかり)避(よ)けてうつ向く様子のいた/\しさも、みんな此方(こつち)の短気からと後悔すれば、いよ/\いとしさが彌増り、いたはる上にもいたはる気になりますから、女の方では猶更嬉しさのあまり、思出したやうに又しやくり上げる。イヤモウ、手放しの痴言放題(のろけはうだひ)、何とも申訳が御在ませんが、喧嘩するほど深くなるとは、まつたく嘘いつはりのない所で御在ます。

 君香は芸者家のはなしが大分むづかしくなつて、親元の方へ弁護士を差向けるとかいふはなしを聞き、以前世話になつた周旋屋の店が、すぐ河向の須賀町なので、内々様子をきゝに行つたのだと言ふので、「そんなら早くさう言やアいゝのに。」とわたしは百円札を並べて見せ、証文は丸抱の八百円といふのだから、これでどうにか一時話がつくだらうと、その夜は行末の事までこま/゛\と、抱(だ)き合ひしめ合ひ、語りあかして、翌日(あくるひ)の朝早く、わたしは新橋の方さへ遠慮がなくなれば世の中に怖いものはないのだから、えばつて、下谷の芸者家へ出かけ、きれいに話をつけて来ました。》

 

・このあたり「情痴小説」の体であるが、このまま流されない冷徹さこそ荷風荷風たるゆえんだ。

荷風は『断腸亭日乗』昭和十一年一月三十日の記に、深い関わりを持った女十六名を列挙し、簡潔な註をくわえていて、次のような調子だ。

《十三 関根うた  麹町冨士見町川岸家抱鈴龍、昭和二年九月壱千円にて見受、飯倉八幡町に囲ひ置きたる後昭和三年四月頃より冨士見町にて待合幾代という店を出させやりたり、昭和六年手を切る、日記に詳なればこゝにしるさず、実父上野桜木町〻会事務員》

《[欄外墨書]十四 山路さん子  神楽坂新見番藝妓さん子本名失念す昭和五年八月壱千円にて見受同年十二月四谷追分播磨家へあづけ置きたり昭和六年九月手を切る松戸町小料理家の女》

・帰朝依頼馴染を重ねたる女、列挙の十三番、関根うた(歌)は、荷風が生涯に愛した女のなかでは、若い頃に入籍した八重次を別にすれば、最も深く馴染んだ女で、珍しく四年間も関係が続いき、別れたあとも何度か会い、老いてなお慕い続けた。

断腸亭日乗』昭和五年、《二月十四日。番街の小星(しょうせい)昨夜突然待合(まちあい)を売払ひ左褄(ひだりづま)取る身になりたしと申出でいろいろ利害を説き諭(さと)せども聴かざる様子なれば、今朝家に招きて熟談する所あり。余去年秋以来情欲殆(ほとんど)消磨し、日に日に老の迫るを覚るのみなれば女の言ふところも推察すれば決して無理ならず。余一時はこの女こそわがために死水(しにみず)を取ってくれるものならめと思込みて力にせしが、それもはかなき夢なりき。(中略)この日、午下(ごか)中洲に徃き牛門の妓家を過訪しれ帰る、名月皎々(こうこう)たり。》(ここで、「小星」とは、漢詩で「妾」の意だが、関根うたにおいては愛称的に使われている。)

・ここで「牛門の妓家」こそ、のちの昭和六年二月十二日の記にある、《園香初め牛門若宮小路にありや山子といひしなり。去年正月二十四日中洲病院の帰途尾沢薬舗裏の待合(まちあい)新春日といふ家にて始めて相知りしなり。》で、荷風は山路さん子(芸名園香。または山子)という女と馴染みになっていて、うたの深刻な相談にのったその日にも訪れたと知れる。(小説冒頭の「戒名は香園妙光信女」を邪推させる「園香」である。)

 さらに二月十六日には、《午下牛門若宮小路も妓家を訪ひ昼餉を食す、さん子と呼べる女の語りし稚きころの物語をきゝて短編小説の好資料を獲たり。》とあり、その短編小説こそ『悪夢』『紫陽花(あじさい)』(のちに『夢』『あぢさゐ』と改題)に他ならない。

断腸亭日乗』昭和五年、《十二月三十一日。晴。午後神楽坂(かぐらざか)田原屋に徃きて昼餉(ひるげ)を食す。園香髪結(かみゆい)の帰なりとて来るに逢ふ。いつもの如く鶴福に徃きて飲む。夜番街の小星を訪(と)ひ夜半家に帰る。車上除夜の鐘を聞く。今年夏過ぎてより世の中不景気の声一層甚しくなり、予が収入も半減の有様となれり。郵船会社の株は無配当となり、東京電燈会社の如きも一株金壱円の配当なり。されど予が健康今年は例になく好き方にて、夏の夜を神楽坂の妓家(ぎか)に飲み明かしたることもしばしばなりき。五十二歳の老年に及びて情癡(じょうち)猶青年の如し、笑ふ可く悲しむ可く、また大(おお)いに賀すべきなり。白楽天(はくらくてん)の詩に曰く老来多健忘惟不忘相思。》

《情欲殆(ほとんど)消磨し、日に日に老の迫るを覚るのみ》だった荷風を、《五十二歳の老年に及びて情癡(じょうち)猶青年の如し、笑ふ可く悲しむ可く、また大(おお)いに賀すべきなり》とさせた女園香にはしかし情夫があった。その情夫のことを荷風は昭和六年二月九日の日記に次のように書いている、《鍛冶橋外秘密探偵岩井三郎事務所を訪ひ、園香の客なる伊藤某といふ者の住所職業探索のことを依頼す、伊藤某は大木戸待合七福の女房と関係ある者のよし、去年来妓園香を予に奪はれたりと思ひ過り、之を遺恨に思ひ密に余が身辺に危害を与へんと企てゐる由、注意するものありし故、万一の事を慮り其身分職業をたしかめ置かむと欲するなり。》

 しかし荷風はその三日後に園香と会っていて、このあたりの探究心こそ作家荷風の凄みである(《されど歓情既に当初相見し時の如くならず》の飽きっぽさともども)。

断腸亭日乗』昭和六年、《二月十二日。晴。風やや暖なり、一昨年春頃執筆せし『榎物語』を訂正浄書す。午後三菱銀行に赴き、神楽坂中河亭に飲む。園香大木戸より来る。されど歓情既に当初相見し時の如くならず、悲しむべきなり。園香初め牛門若宮小路にありや山子といひしなり。去年正月二十四日中洲病院の帰途尾沢薬舗裏の待合(まちあい)新春日といふ家にて始めて相知りしなり。余この妓のためには散財も尠(すくなか)らざる次第なれど、久しく廃絶せし創作の感興再び起来りて、此頃偶然『悪夢』『紫陽花(あじさい)』など題せし短編小説をものし得たるはこの妓に逢ひしが為なり、一得あれば一失あるは人生の常なれば致方もなし。》

  

《さて一月二月は夢中でくらしてしまひましたが、これまでに諸所方々不義理だらけの身ですから、やがて二人とも着るものは一枚残らずぶち殺してしまつて、日にまし秋風が身にしむ頃には、ぶる/\布団の中で顫へてゐるやうになりました。二人相談づくといつたところで、お君はもともと箱無しの枕芸者ですから、わたし一人覚悟をきめ義太夫の流しとまで身をおとしました。

「お君、お前はよつぽど流しに縁があるんだ。新内と縁が切れたら今度は太棹ときたぜ。然し心配するな。その中先の師匠に泣きを入れて、どうにかするから、もう暫くの間辛抱してくれ。」と毎夜山の手の色町を流してゐる中風邪を引込んでどつと寝ついてしまひました。こゝでいよ/\切破(せつぱ)つまつて、泣きの涙でお君を手放す。お君は須賀町の周旋屋から芳町の房花家へ小園と名乗つて二度とる褄。前借はほんの当座の衣裳代だけで四分六(しぶろく)の稼ぎといふ話だつたが、病気が直つてから、会ひに行つて見ると大きな違ひで、前借は分(わけ)で七百円。しかも其金の行衛は、一体どうなつたんだときいて見ても、女の返事はあいまいで判然としない。わたしは内心こゝ等があきらめ時だ。長くこんな女と腐れ合つてゐちやア到底うだつが上らないと思ひながら、どうもまだ未練が残つてゐます。新橋の女からは其頃詫びの手紙が届いてゐながら、此方(こつち)は落目になつてゐるだけ、フム、人を安く見やアがるな。男地獄ぢやねえ。さんざツぱら耻をかゝして置きやがつて、今更腹にもない悪体をついたもよく言へたもんだ。それ程おれが可愛(かわい)けりや小色の一人や二人大目に見て置くがいゝ。姉さんぶつた面(つら)真平御免(まつぴらごめん)だと、ます/\ひがみ根性(こんじやう)の痩我慢。どうかしてもう一度お君を素人(しろと)にして見せつけてやりたいと意地張つた気になります。とは云ふものゝ、わたしは又時々、どうして、あんな働きもなければ、かいしよもない、下らない女に迷込んでしまつたんだらうと、自分ながら不審に思ふこともありました。

 年は丁度二十(はたち)、十四五の時から淫奔(いたづら)で、親の家を飛出し房州あたりの達磨茶屋を流れ歩いて、十八の暮から下谷へ出た。生れつき水商売には向いてゐる女だから、座敷はいつもいそがしく相応に好いお客もつくのだが、行末どうしやうといふ考もなく、慾もなければ世間への見得もなく、唯愚図々々でれ/\と月日を送つてゐる。どこか足りない処のあるやうな女です。それが却て無邪気にも思はれ、可哀さうにも見えて諦めがつきません。一口に言へばまづ悪縁で御在ます。仕様のない女だと百も承知してゐながら、さて此の女と一緒に暮してゐますと、此方までが、人の譏りも世間の義理も、見得も糸瓜もかまはぬ気になつて、唯茫然(ぼんやり)と夢でも見てゐるやうな、半分麻痺した呑気な心持になつて、一日顔も洗はず、飯も食はずに寝てゐたやうな始末。成らう事なら、此のまゝ二人乞食にでもなつたら、さぞ気楽だらうと云ふやうな心持になるので御在ます。

 わたしはお君が葭町へ去つた後も、二人一緒に居ぎたなく暮した昨日(きのふ)の夢のなつかしさに、石原町(いしはらまち)の貸二階を去りかね、そのまゝ居残つて、約束通り、月に一度なり二度なりと、お君がおまゐりの帰りか何かに立寄つてくれるのを、この世のかぎりの楽しみにして、待ち焦れてゐました。尤も表向は手が切れた事になつたんで、中に人もはいり、師匠の方も詫が叶ひ、元通り稽古を始めましたから、食ふ道はつくやうになりました。》

 

・《お君は須賀町の周旋屋から芳町の房花家へ小園と名乗つて二度とる褄。前借はほんの当座の衣裳代だけで四分六(しぶろく)の稼ぎといふ話だつたが、病気が直つてから、会ひに行つて見ると大きな違ひで、前借は分(わけ)で七百円。しかも其金の行衛は、一体どうなつたんだときいて見ても、女の返事はあいまいで判然としない。わたしは内心こゝ等があきらめ時だ。長くこんな女と腐れ合つてゐちやア到底うだつが上らないと思ひながら、どうもまだ未練が残つてゐます。新橋の女からは其頃詫びの手紙が届いてゐながら、此方(こつち)は落目になつてゐるだけ、フム、人を安く見やアがるな。男地獄ぢやねえ。さんざツぱら耻をかゝして置きやがつて、今更腹にもない悪体をついたもよく言へたもんだ。それ程おれが可愛(かわい)けりや小色の一人や二人大目に見て置くがいゝ。姉さんぶつた面(つら)は真平御免(まつぴらごめん)だと、ます/\ひがみ根性(こんじやう)の痩我慢。どうかしてもう一度お君を素人(しろと)にして見せつけてやりたいと意地張つた気になります。とは云ふものゝ、わたしは又時々、どうして、あんな働きもなければ、かいしよもない、下らない女に迷込んでしまつたんだらうと、自分ながら不審に思ふこともありました。》あたりの男の心理を、語らせつつ冷厳に描く巧みさ。

・園香から聴きとった逸話と、男のデカダンスへの傾斜は、《年は丁度二十(はたち)、十四五の時から淫奔(いたづら)で、親の家を飛出し房州あたりの達磨茶屋を流れ歩いて、十八の暮から下谷へ出た。生れつき水商売には向いてゐる女だから、座敷はいつもいそがしく相応に好いお客もつくのだが、行末どうしやうといふ考もなく、慾もなければ世間への見得もなく、唯愚図々々でれ/\と月日を送つてゐる。どこか足りない処のあるやうな女です。それが却て無邪気にも思はれ、可哀さうにも見えて諦めがつきません。一口に言へばまづ悪縁で御在ます。仕様のない女だと百も承知してゐながら、さて此の女と一緒に暮してゐますと、此方までが、人の譏りも世間の義理も、見得も糸瓜もかまはぬ気になつて、唯茫然(ぼんやり)と夢でも見てゐるやうな、半分麻痺した呑気な心持になつて、一日顔も洗はず、飯も食はずに寝てゐたやうな始末。成らう事なら、此のまゝ二人乞食にでもなつたら、さぞ気楽だらうと云ふやうな心持になるので御在ます。》に表れる。

野口冨士男『わが荷風』「6 堤上からの眺望」「8 それが終るとき」から『あぢさゐ』に関するところを引用するが、『あぢさゐ』はプレ『つゆのあとさき』として考察されている。

《親がかりであった外遊前や外遊中は別として、明治四十一年に帰朝した荷風柳橋に遊び、新橋の妓に狎(な)れしたしんで、刺青をし合ったり、家へ入れるまでに至っている。そして、そういう遊蕩状況は大正五年ごろまで持続される。『新橋夜話』や『腕くらべ』がそうした体験のなかからうまれ、『夏すがた』から『おかめ笹』に至った文学的経路を私は前章で《麻布十番までの道》とよんで、彼の花柳小説をついに行き着くところまで行き着いたとみた。その先には『つゆのあとさき』、『ひかげの花』の世界しかなかったとのべたのであったが、もしここに代表作中心の荷風略年譜といったものを作製するとしたら、大正七年一月の『おかめ笹』から昭和六年十月の『つゆのあとさき』に至るまでの間にいかなる文学的業績をえらんでかかげるべきだろうか。

 ひとくちに大正七年から昭和六年までといっても、その期間は実に十四年間で、年齢的にいえば四十歳から五十三歳――中年から初老に至る、作家的には完成期に相当するもっとも貴重な歳月が空白ではないまでも、甚だしく充実を欠いている。四十歳にして過半の新進作家がようやく名を知られる現状に、この年齢をあてはめることはゆるされない。荷風は当時、すでに大家のひとりであった。昭和二年にみずからの生命を断った芥川龍之介がかぞえ年でも三十六歳であったといえば、思いなかばに過ぎるものがあるだろう。大正十年の『雨瀟瀟(あめしょうしょう)』にみられる陰々滅々たる心情がどこから生じているか、想像に難くない。

 こんど私は『つゆのあとさき』に多少ともかかわりのある大正十一年の『雪解』、十四年の『ちゞらし髪』(『ちゞれ髪』の改題)、翌十五年の『かし間の女』(『やどり蟹』の改題)、昭和三年の『カツフヱー一夕話』、同四年の『かたおもひ』、五年の『夢』、六年三月の『あぢさゐ』(『紫陽花』の改題)、五月の『榎物語』、八月の『夜の車』などを発表年代順にあらためてノートしながら読み直してみたが、そのあいだにも始終私の脳裡につきまとってはなれなかったのは『雨瀟瀟』にみられる次の一節であった。

《されば本業の小説も近頃は廃絶の形にて本屋よりの催促断りやうも無之儘(これなきまゝ)一字金一円と大きく吹掛け居候ものゝ実は少々老先心細くこれではならぬと時には額に八の字よせながら机に向つて見る事も有之(これあり)候へども一二枚書けば忽筆渋りて癇癪ばかり起り申候間まづまづ当分は養痾に事寄せ何も書かぬ覚悟にて唯折節若き頃読耽りたる書冊埒もなく読返して僅に無聊を慰め居候次第に御座候。》》

《柳新二橋に拮抗する赤坂を主舞台としている里見弴の『今年竹』などには、平の座敷で客と芸者が機知縦横に軽妙な会話をとりかわす情景が活写されていて、そこには花柳界に固有の華やいだ雰囲気が明るく繰りひろげられているのだが、荷風の花柳小説では新橋を取り上げている『腕くらべ』においてもほぼ枕席に終始していて、里見弴の表ないし明に対して、裏または暗の面が展開される。すなわち、荷風作中の芸者は歌舞音曲等の遊芸を表看板とする職業女性ではなく、公娼や私娼とさしてえらぶところのない春婦であって、極限すれば単なる肉塊に過ぎない。神楽坂をえがく『夏すがた』や、富士見町や白山をえがく『おかめ笹』に至って、その偏向はいよいよ顕著となる。内実はどうあれ、芸者は一応建前として芸と粋(いき)とが売りものである以上、《箱無しの枕芸者》(『あぢさゐ』)ばかりになっては、花柳小説の花柳小説たる特徴がうしなわれる。特徴をみずから放棄しては、ゆきづまらざるを得ない。『おかめ笹』が、花柳小説としての終着駅となったゆえんである。》

《それでは、どのようにして君江(筆者註:『つゆのあとさき』の女主人公)の性格は造出されたのであろうか。荷風自身、『正宗谷崎両氏の批評に答ふ』に先立つ、昭和六年十月二十二日付の谷崎潤一郎宛書簡のなかでのべている。

《五十歳を過ぎたる今日小生の芸術的興味を覚(おぼえ)るは世態人心の変化する有様を見ることにて昔の戯作者のなしたる事と大差なく従つて思想上之といふ抱負も無御座候(ござなくさうらふ) それ故自分ながら気魄の薄弱なるには慚愧(ざんき)致居候 モデルは別に之と定りたる女もなし実験の上三四人同じやうな性行の女をあれこれと取合せて作り上げしもの之はドーデが屡取りし方法に御座候》

 過大な謙遜は割引きして読むほかはないとして、君江のモデルは実際に複数者の合成人物であったのだろうし、誰と誰の合成か、そんなことはかりにつきとめられるとしても知る必要のないことである。なぜなら、荷風は『つゆのあとさき』の執筆にのぞんでにわかに君江という人物を造型したのではなくて、君江の原型ともいうべき性格づくりを、恐らくはまだ『つゆのあとさき』などという作品の構想がカケラほども念頭になかったはずの数年前から、すでに着々とこころみていたことが、われわれにはわかっているからなのである。大正十五年の『かし間の女』、昭和五年の『夢』、六年の『あぢさゐ』などがそれであって、そうしたかずかずの試行錯誤のはてに把握した性格を具象化したのか『つゆのあとさき』の君江に相違あるまい。むしろ執筆の時点では、モデルなどあって無きにひとしかったほどであろう。》

《また、『あぢさゐ』は下谷の枕芸者におぼれた三味線ひきが多情な女のしうちに殺意をいだくが、それより早く女は他の男に殺されるという筋立ての小篇で、《年は丁度二十(はたち)、十四五の時から淫奔(いたづら)で、親の家を飛出し房州あたりの達磨茶屋を流れ歩いて、十八の暮から下谷へ出た。生れつき水商売には向いてゐる女だから、座敷はいつもいそがしく相応に好いお客もつくのだが、行末どうしやうといふ考もなく、慾もなければ世間への見得もなく、唯愚図愚図でれでれと月日を送ってゐる。》という点などが、やはり濃密に君江と共通している。

 いったい『つゆのあとさき』は女給ものの集成とよばれて、それが定説化している模様だし、私なども今回あらためてやや系統的に関連作品を読み返してみるまでは、ただうかうかと流説を鵜呑(うの)みにしていたのであったが、こうしてつぶさに検討してみた結果、かならずしも女給ものの系譜の上に立っているわけではないことに気づかされた。

 そこで以上の記述をざっと整理してみると、『雪解』のお照は職業が女給だというだけで『つゆのあとさき』の君江の性格とは無縁である。『カツフヱー一夕話』のお蔦もまた然りで、君江に直線的なつながりをもつ『かし間の女』の菊子はカフエーに出入りすることのない私娼であり、『夢』の《女》は芸者、『あぢさゐ』の君香もまた芸者なのだから、『つゆのあとさき』が女給ものの集成だという見方はもはや撤回されるべきだろう。そして、芸者という職業女性にはおさめきれなくなって、芸者からはみ出るものを女給のなかに盛りこんだ作品が『つゆのあとさき』であったとみるべきなのである。》

《お雪は魔窟で春をひさぐプロスティチュート(売春婦の意)であっても『夏すがた』の千代香や、『かし間の女』の菊子や、『あぢさゐ』の君香や、『つゆのあとさき』の君江や、『ひかげの花』のお千代のような淫獣ではない。娼婦でありながら、≪わたくし≫にとっては≪消え去つた過去の幻影を再現させてくれる≫媒体として取扱われているために、ほとんど肉体を感じさせないほどである。だから、彼女が身を置いている現実の玉の井は淫靡で不潔な場所であっても、お雪は、そして『濹東綺譚』はひたすら美しいのである。》

 しかし、野口に「淫獣」と極言された君香(小園)にしてから、どこか憎めず、美化されていないだろうか。

  

《お君はその後二三度尋ねて来て、わたしが気をもむのもかまはず、或晩とまつて、翌朝(あくるあさ)もお午頃まで居てくれた事がありましたが、それなりけり。一月たち二月たち、三の酉も過ぎて、いつか浅草に年の市が立つ頃になつてもたよりが有りません。忘れもしない。其年十二月二十日の夕方、思ひがけない大雪で、兜町の贔屓先へ出稽古に行つた帰り道.。寒さしのぎに一杯やり、新大橋から川蒸汽で家へ帰らうと思ひながら、雪の景色に気が変り、ふら/\と行く気もなく竈河岸(へつつひがし)の房花家をたづねますと、小園(こその)を入れて三人ゐる筈の抱はもう座敷へ行つたと見えて、一人もゐない。亭主もゐなければ女房同様の姉さんの姿も見えず、長火鉢の向に二重廻を着たまゝ煙草をのんでゐるのは、お君の小園をこゝの家へ入れた周旋屋の山崎といふ四十年輩の男。その節顔は見知つてゐるので、

「その後(ご)は。」と此方(こつち)から挨拶すると、周旋屋は猫を追ひのけ、主人らしく座布団をすゝめて、

「おいそがしう御在ませう。わるいものが降り出しました。師匠。実はちいツと御相談しなくちや、成らない事があるんで、この間からお尋申さうと思ひながら、今夜もこの雪でかじかんでしまひました。」と薄ツペらな唇からお獅子のやうな金歯を見せて世辞笑ひをする。

「ぢや丁度好い都合だ。御相談といふのは何かあの子のことで。」

「はい。小園さんのことで。丁度誰も家にはゐないさうですから、今の中御話をしてしまひませう。」と切り出した周旋屋山崎のはなしを聞くと、お君は房花家へ抱へられると早々、どつちから手を出したのか知らないが、今では主人の持ものになり、ごたつき返した末女房同様の姉さんは追出されてしまつた。就いてはどうにとも師匠の気がすむやうにしやうから、綺麗に小園さんを下さるやうにと、主人から依頼されてゐるのだと云ふ。事の意外にわたしは何とも言へず山崎の顔を見詰めてゐると、

「師匠、お察し申します、恥を言はねば理が聞えない。実はあの子にかゝつちや、手前も一杯くつてゐるんで御在ますよ。」

「何だ。お前さんも御親類なのか。」

「手前は、あの子がまだ房州にゐる時分の事で、その後(ご)は何のわけも御在ませんが、何しろ十六の時から知つてゐますから、あの子の気質はまんざら分らない事も御在ません。どうせ、長続きのしつこは無いから、御亭(ごてい)の言ひなり次第、取るものは取つて、一時話をつけておやんなすつたらどうでせう。まづ来年も、桜のさく時分まで続けば見ものだと、わたしは高をくゝつてゐますのさ。」

「お前さん、御存じだらう。〆蔵の方は一体どうなつてゐるんだ。」

「こゝの大将は師匠の事ばかり心配して、〆蔵さんの事は何も言はないから、手前も別にまだ捜つても見ません。あれはまづ、あれツきりで御在ませう。」

「小園はお座敷かしら。」

「二三日前から遠出をしてゐるさうで。外の抱は二人ともあの子が姉さんになるのなら、わきへ住替へるといふんで、一人は昨日(きのふ)この土地ですぐに話がつきました。もう一人は手前の手で、年内には大森あたりへまとまるだらうと思つてゐます。」

「あゝさうかね。実は一度逢つた上でと思つたが、さうまで事が進んでゐちやア愚図々々云ふ程此方の器量が下るばかりだから、何も云はずに引下りませう。後の事はよかれ悪しかれ、お前さんへおまかせしやう。その中一度石原の方へも来て御くんなさい。」

 わたしは穏に話をして、まだ降り歇まぬ雪の中を外へ出た。周旋屋と話をしてゐる中、いつともなく覚悟がついてしまつたので御在ます。もと/\承知の上で二度芸者をさせた女の事。好いお客がついて身受になるといふのなら、いかほど口惜しくつても指を啣へてだまつて見てゐやうが、抱主の云ふがまゝになつて、前借も踏まず、長火鉢の前に坐つて姉さんぶらうと云ふからには、もう此のまゝにはして置けない。人形町の通へ出ると直ぐに目についた金物屋の店先で、メス一本を買ひ、雪を幸今夜の中にどうかして居処をつきつけたいと、手も足も凍つてしまふまで、其辺をうろついてゐましたが、敵(かたき)の行衛がわからないので、一先石原の二階へ立戻り、翌日からは毎日毎夜、つけつ覗(ねら)ひつしてゐましたが姿は一向見当りません。感付かれたと思つたから、油断をさせやうと、二三日家に引込んでゐますと、其年もいつか暮の二十八日。今夜こそはと、夜店をひやかす振りで様子をさぐりに、灯(ひ)のつくのを待つて葭町の路地といふ路地、横町といふ横町は残りなく徘徊したが、やツぱり隙がない。よく/\生命(いのち)冥加な尼(あまつ)ちよだと、自暴酒(やけざけ)をあふつて、ひよろ/\しながら帰つて来たのは、いつぞや新橋から手切を貰つて突出された晩、お君に出会つた石原の河岸通。震災後唯今では蔵前の新しい橋がかゝつてゐるあたりで御在ます。人立ちがしてゐますから、何気なく立寄つて見ると、身投の女だといふもあり、斬られて突落されたのだと云ふもあり、さうぢやない、心中で、男ばかり飛込み女は巡査につかまつたのだと云ふもあり、噂はとり/゛\。訳はさつぱり分りませんが、何やら急に胸さわぎがして来ましたので、急いで家へ帰って見ますと、稽古につかふ五行本(ごぎやうぼん)の上に鉛筆でかいた置手紙。

「急におはなしをしたい事があつて来ましたけれど、あいにくお留守で今夜はいそぎますから、お待ち申さずに帰ります。三十日の晩に髪結さんの帰りにまたお寄り申します。おからだ御大事に。君より。」

其のまゝ息をきつて警察署へ馳けつけ様子をきくと、殺されたのは、やつぱり虫の知らせにたがはず、お君でした。うしろから背中を一突刺されて川の中へのめり落ち、救上げられたものゝ息はもう切れてゐました。わたしの懐中にメスが在つたので、申訳ができず、御用にならうといふ時、派出所の巡査が自首した男だと云つて連れて来たのは新内流しの〆蔵だ。其の申立によると、〆蔵はお君がわたしと一緒に暮らしてゐた時分にも、二三度逢引をした事もあつたとやら。殺意を起したわけはわたしの胸と変りは御在ません。抱主の持物になつて姉さん気取りで納(をさま)らうとしたのが、無念で我慢がしきれなかつたと云ふのです。

 お君は実際のところ、さういふ量見で房花家の亭主と好い仲になつたのか、どうだか、死人に口なしで、しかとはわかりません。わたしへの手紙から見れば、さういふ考でした事だとも思はれない。口説かれると、見境ひなく、誰の言ふ事でもすぐきくのが、あの女の病ひでもあり又徳でもあり、其のためにとう/\生命(いのち)をなくした。それにつけても、お君はあの晩わたしの家へ寄りさへしなければ、〆蔵に突かれはしなかつたらう。わたしが家にゐて、一緒に帰りを送つて行つたら無事であつたにちがひはない。それとも〆蔵のかはりに、わたしがとんだお祭佐七になつたかも知れませぬ。人の身の運不運はわからないもので御在ます。

 その後(ご)あの辺(へん)もすつかり様子が変つて、埋堀(うめぼり)御蔵橋(みくらばし)もあつたものぢや御在ません。今の女房を持つて大木戸へ引込んだはなしも一通り聞いていたゞきたいと思ひますが、あんまり長くなつて御退屈でせうから、いづれその中、お目にかゝつた時にいたしませう。」》

 

・ところで、殺しがあった時代はいつなのだろう。作品発表は昭和六年、園香とのことも昭和五年から六年のことではあるが、なにしろ三味線ひき宗吉は《もうかれこれ十四五年になります。手前が丁度三十の時で御在ました。》と回顧し、小園の死体があがったのは、《石原の河岸通。震災後唯今では蔵前の新しい橋がかゝつてゐるあたりで御在ます》と言うのだから、大正十二年の関東大震災以前、大正五年頃のことであろうか。

・《お君はその後二三度尋ねて来て、わたしが気をもむのもかまはず、或晩とまつて、翌朝(あくるあさ)もお午頃まで居てくれた事がありましたが、それなりけり。》の「それなりけり」の巧さは、丸谷が言う「猶更いら/\してまた外へ出た」のいきなりざっくりした、ぞんざいな口のきき方に変る、と同じ凄みである。

・黙阿弥の世界ということでは、「「つゆのあとさき」を読む」で荷風のカムバックを讃えた谷崎潤一郎の『お艶殺し』もそうだったように、大川(墨田川)端が舞台であることが、ドラマティックな人生を川の流れでイメージさせて重要だ。『お艶殺し』は久保田万太郎脚色で歌舞伎化されているが、『あぢさゐ』もまた万太郎によって新派の花柳十種となっている。

《然し五百円をふところにして丸次の家を出ると、其場の口惜しさ無念さは忽ちどこへやら。今し方別れたばかりの君香に逢ひ借金を返すはなしをしたら、どんなに喜ぶことだらうと思ふと、もう矢も楯もたまりませむ。電車の来るのも待ちどしく、自動車を飛して埋堀(うめぼり)の家へかけつけて見ると、夏の夜ながら川風の涼しさ。まだ十二時前なのに河岸通から横町一帯しんとして、君香の借りてゐる二階の窓も、下の格子戸も雨戸がしまつてゐます。》

《埋立をした河岸通は真暗で人通りもなく、ぴた/\石垣を甞める水の音が物さびしく耳立つばかり。御厩橋を渡る電車ももうなくなつたらしく、両国橋の方を眺めても自動車の灯が飛びちがふばかり。ひや/\する川風はもうすつかり秋だ。向河岸の空高く突立つてゐる蔵前の烟突を掠めて、星が三ツも四ツもつゞけざまに流れては消える》

《其年十二月二十日の夕方、思ひがけない大雪で、兜町の贔屓先へ出稽古に行つた帰り道.。寒さしのぎに一杯やり、新大橋から川蒸汽で家へ帰らうと思ひながら、雪の景色に気が変り、ふら/\と行く気もなく竈河岸(へつつひがし)の房花家をたづねますと》

《今夜こそはと、夜店をひやかす振りで様子をさぐりに、灯(ひ)のつくのを待つて葭町の路地といふ路地、横町といふ横町は残りなく徘徊したが、やツぱり隙がない。よく/\生命(いのち)冥加な尼(あまつ)ちよだと、自暴酒(やけざけ)をあふつて、ひよろ/\しながら帰つて来たのは、いつぞや新橋から手切を貰つて突出された晩、お君に出会つた石原の河岸通。震災後唯今では蔵前の新しい橋がかゝつてゐるあたりで御在ます。》

《その後(ご)あの辺(へん)もすつかり様子が変つて、埋堀(うめぼり)も御蔵橋(みくらばし)もあつたものぢや御在ません。》

『あぢさゐ』では、川の西側には小説発端の駒込、宗吉の現在の芸者屋四谷大木戸、花街の下谷湯島天神下、葭町、新橋と贔屓先の兜町があり、川の東側には当時の宗吉の住まい本所石原町と近場の埋堀、河岸通、御蔵橋、蔵前があり、そして両者を結ぶ御厩橋、両国橋、新大橋、川蒸汽が登場する。

・最後の《わたしがとんだお祭佐七になつたかも知れませぬ。》はまさに、対談で野口が洩らした《それで殺してやろうと思ったら、ほかのやつが先に殺していた、と最後はちょっと黙阿弥の世界になるんだけれども……。》で、四代目鶴屋南北『心謎解色絲(こころのなぞとけたいろいと)』のお祭佐七と小糸の色と殺しは、黙阿弥の弟子三代目河竹新七『江戸育お祭佐七』に換骨奪胎される。鉄火な佐七が愛想尽かしから芸者小糸を土手で殺し、しかし小糸の書置きでことの真相を知る世界は黙阿弥的で、さすが若い頃ひとときとはいえ歌舞伎台本見習いに手を染め、後年紫陽花にちなんだ句「紫陽花や瀧夜叉姫が花かざし」を残した荷風らしい。

 

                             (了)

       *****引用または参考*****

*『花柳小説名作選』(集英社文庫

永井荷風『花火・来訪者』(『あぢさゐ』『夢』所収)(岩波文庫

野口冨士男『わが荷風』(岩波現代文庫

永井荷風断腸亭日乗』(岩波書店

松本哉『女たちの荷風』(ちくま文庫

磯田光一永井荷風』(講談社

*『久保田万太郎全集8』(戯曲『あぢさゐ』所収)(中央公論社

文学批評 加賀乙彦『フランドルの冬』の「精神医学」と「世界投企」(引用ノート)

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 加賀乙彦の「『フランドルの冬』 新しいあとがき」は次のようにはじまる。

《長編小説『フランドルの冬』は私の処女作である。一九六七年八月筑摩書房から出版された。翌六八年四月芸術選奨文部大臣新人賞を受賞した。一九七四年に文庫化され、その後十年ほど経ってからと思うが、いつのまにか絶版になった。今年(二〇一九年)の夏、小学館から再販される事になった。そこでこの作品についての思い出話を書いてみたい。》

 昨今、多くの小説の文庫本が絶版になってしまうとはいえ、この長編小説作家の処女作は、のちの『宣告』等に比べて不遇で、ほとんど批評されることもなかったが、遣り過ごしてよい作品ではない。

「あとがき」を続けよう。

《まずは事実の世界として、作者である私のフランス留学があった。(中略)一九五七年九月、私は、横浜港からフランス船カンボジ号に乗って船出した。この船は四〇日の航海の末、やっとマルセイユに着いた。パリは秋たけなわであった。公園には紅葉が欠けていたが、豪勢な銀色の森が光り、そして美しかった。

 パリ市内南方にある精神医学センターで精神病理学犯罪心理学を学ぶ毎日となった。

 午前中は臨床医として働いた。その当時、パリ大学精神科のドレイ教授の発見した一連の向精神薬物に薬効があることが全世界に知られて、精神医学センター内のパリ大学精神科には、三〇ヵ国もの医師たちが新薬による治療法を学ぼうと集まっていた。同時にアンリ・エー、ジャック・ラカンなどの諸外国にも名の聞こえている優秀な精神科医が、公開臨床や講義をして、精神医学の新時代を謳歌し、また宣伝していた。

 午前中は病室に入り、臨床に励んだ。ドレイ教授が発見した向精神薬をどのようにして用いているかを学び、母校の精神医学教室にそれを伝えた。が、午後になるとセンターの図書館に籠り、精神医学史の最新の情報を読み、またフランス革命時代の古文献に始まり、十九世紀の研究業績の束を夢中になって読んだ。精神医学という医学分野は、数多くの患者の診察から生まれてきた。日本のように、他国の医師たちの観察、治療、失敗、成功の末に成り立つ医学を後追いすればよいのではなく、研究者たちの先取特権で成り立つ医学を追い求めるのがフランスという文明国の実情だった。(中略)

 一九五九年の春になって東京大学医学部精神医学教室から助手席が空いたので帰国しないかという誘いが来た。その気になって帰国の準備に忙殺されている時に、パリで親しくなった精神科医から、彼が医長をしているフランドル地方の精神病院で働かないかと誘われた。(中略)

 一九五九年の春からほぼ一年間、私はフランドル地方の精神病院で医師として働いた。そして、一九六〇年の春、航空機に乗って帰国した。しかし『フランドルの冬』という小説を書き出し、コバヤシという中年男の物語を書きあげたのは一九六八年の夏である。その小説の主人公コバヤシと私加賀乙彦とは余り似通ってはいない。私はむしろ実在しない人物を仕立てあげたのだ。ドロマール、エニヨン、ブノワ、クルトンも、私が会ったこともない人物になっている。

 まずコバヤシという日本人の医師が登場する。彼は日本に帰ろうとは思っていない。帰国して安定した医師として過ごすよりも、ドロマールという風変わりな医師についてフランスの精神医学の歴史を研究し、少し長い時間をかけて彼の精神医学の世界を探ろうとしている。

 ドロマールは独身である。精神科病院の一番古参の医師でありながら、電話のない質素な家に住み、天井まで書物で埋まった図書館を持ち、十九世紀の精神医学の歴史を細密に追うことができた。

 ドロマールより若いが、活発で時とすると憤怒で叫んだり、逆にすぐ機嫌を直して笑ったりするのがロベール・エニヨンである。彼は子福な人、妻のスザンヌとの間に五人の子供がいる。で、子供たちを優れたパリ近郊の学校に通わせたく、彼自身もパリの精神科医長になって幸福な一生を送りたいと思っている。(中略)

 この二人の医長の元に若い医師たちの日常があった。コバヤシ、ブノワ、ヴリアン、女医のアンヌ・ラガン、さらにアルジェリア戦争より帰還したクルトンなどである。医師ではないが、医師の助手として患者の世話をするカミーユという娘はコバヤシと仲がよかった。アルジェリアで重傷を負ったクルトンは春から夏へ、移ろう季節にそそのかされるように、自殺への願望に取りつかれていく……。》

 作者のエッセイなどから、小説ではドロマール(フランス精神医学界にはドロマールという名の人物がいて、ラカンも学位論文『人格との関係からみたパラノイア性精神病』の第一部3章で「妄想的解釈」について論じているが、小説のドロマールも「解釈妄想の成立機序」という論文を書いたことになっている)に誘われてフランドルに来たことになっているが、現実ではロベール・エニヨンのモデルに誘われたこと、コバヤシの自動車事故は加賀自身の体験だったことなどがわかる。虚実を巧みに配合(著名な精神科医アンリ・エーやジャン・ドレイは実名で登場する)して小説を作りあげていて、彼らはまんざら「私が会ったことがない人物」というわけではないだろう(これは直観にすぎないが、加賀はカミーユのモデルに特別な感情を抱いていたのではないか、というのも、コバヤシが妊娠させたニコルの名をあげるべきなのに、カミーユしかあげておらず、その描写には人肌の温もりがある)。

 コバヤシの精神医学史に関する読書遍歴が、加賀の本名、小木(こぎ)貞孝(さだたか)による『フランスの妄想研究』(コバヤシが自動車事故を起こし、二度の大戦の激戦場ゆえ、いたるところにある軍隊墓地に迷い込んで、野犬の群れに遠巻きにされた場面の描写こそ「妄想」描写である)に結実し、ドロマールがコバヤシにメルロ=ポンティは読んだかと問いかけると、「『知覚の現象学』を」と答えさせているが、その共訳者に本名を見出せるように。

 

 篠田一士による「解説」をみておこう。

《もちろん、コバヤシひとりの内外だけが、この小説の主要な関心事ではない。むしろ、主人公のいない小説としてコバヤシ以外の何人かの人物にもよく目配りして読む方がこの作品のうま味を知ることができるかもしれない。たとえば、クルトンという若い医師がいる。アルジェリア戦線で瀕死の重傷を負い、やっと退院して、この病院に復帰するが、彼にはもうだれをも愛することができなくなってしまっている。「黒い炎」がたえず自分を悩ますと口走りながら、なにかといえば、とっ拍子もない行動をしでかしては周囲の人々をおどろかす。彼にのこされた道は自殺しかなく、とうとう何度目かの失敗ののち、みずから命を絶つ。この実存的決断を当然の「世界投企(ヴエルト・エントヴルフ)」と、冷ややかな口調で、しかも、あますところなく説明するのはドロマール医長である。この怪物的医師はおどろくべき学識と鋭い洞察力をもち、また、だれにも屈することのない自尊心と無気味なシニシズムをもって孤高の毎日を送っているが、コバヤシが留学年限を延長してまで、わざわざ、僻地の病院にやってきたのは、ひとえに、この人物に牽かれたためである。だが、このきらめくような知性の持主は、生まれてこの方、女性に愛を感ずることができない、やはり呪われた人間だったのである。クルトンやドロマールのような人物に象徴される、愛を見失い、神の死の下に精緻な観念を組み立てながら、ついに精神の自由を失ったヨーロッパ精神の悲劇的情況――それにコバヤシは敏感に反応することはできる。だが、反応することは、かならずしも理解することではない。》

 ここで、ドロマールを「女性に愛を感ずることができない、やはり呪われた人間だったのである」と同性愛をおぞましく表現したのは、書評を書いた当時の限界で、二十一世紀の現在なら、問題とすべきは小児性愛的なところであろうが、ドロマールをめぐる正常か異常か、普通か異邦人かは、ミステリアスに読ませる。

 この「黒い炎」と「世界投企」については、後に見てゆく。

 

 小説の構成や技法に関しては、平岡篤頼(同じカンボジア号に乗船してマルセイユに向かった一人で、他には辻邦夫も同船していた)の解説が的確だ。

《それは必ずしもストーリーの一貫性や視点の統一を目指した努力ではなく、むしろ孤独な各人物の視線は融和することなく多元的に交叉するだけで、どの人物の内面も他の人物にとっては不透明なままである。クルトンの自殺やカミーユの幻覚やコバヤシの錯乱が、人間のこころの奥に口を開けている深淵を垣間見せさせるのにたいして、一家団欒のなかでクリスマスの準備が議論されるという、とりわけ平和な光景が冒頭を照らし出しているのも、対照の妙によって、どんな悲劇や苦悩をも呑みこんで事もなく過ぎゆく不動の日常の手応えを感じさせる。時間構成の点でも、物語の展開順序の中途から書きはじめるなど、単線的なストーリー性をむしろ混乱させるような工夫が凝らされている。》

 平岡が最後に賞賛しているように、第一章の冒頭はクリスマスのロベール・エニヨン一家の団欒からはじまり、第二章で時間は遡ってコバヤシのフランドルへの赴任、第三章でさまざまな出来事が起こり、第四章は、第一章の後を単純に継ぐのではなく、第一章と同じ時間を、違う登場人物の違った視点と行為によって絡み合いながら、いつしか追い抜いて結末へ向かって行くという離れ術は、処女作とは思い難い完成度である。

 平岡は先の文に続けて、《それでいて、どの部分をとってみてもその範囲内ではきわめて明解である。作品を夢の形に近づけようとするならば、究極的には、言語自体も夢の論理にしたがった、輪郭も意味も曖昧でそのくせ呪縛力をもつ不透明な言語、例えばコバヤシの錯乱の描写で部分的に実験されている言語に行きつくのかも知れないが、そこまで行くと読者とのコミュニケーションは不可能になってしまう。恐らくはそう考え、作品とは読者にとって理解可能な範囲に留らねばならないとも考えているらしい作者は、夢と正気との際どい分水嶺に沿って歩くという、これまた処女作とは到底思えないような芸当を見事にやってのけている。》

 自動車事故を起こして戦争墓地に迷いこんだコバヤシの妄想の描写は、《犬どもは明らかに接近して来て、風声を貫いて彼らの荒い息つかいまでがきこえてきた。それは冷えきった清潔な気流のなかで、妙に生暖ったかな野蛮さを感じさせた。寒さも痛みも麻痺(まひ)し、内側にはすでに重い疲労と眠りがひろがっていたが、彼は知覚をかきたて、耳をすまし朦朧(もうろう)とした風景に目をこらした。彼の体のうち生き残っている部分――頭蓋骨(ずがいこつ)の容器の底にちぢこまった小さな脳と背骨の管内で紐(ひも)のように垂(た)れさがっている脊髄(せきずい)――を彼は連想した》といった表現に続いて、部分的に実験された詩的表現、《皮膚の表面を快感が走っていく。さわさわと下のほうから肉感的な刺激(しげき)がのぼってくる、若い女の手になぜかなぜられているような快感。乳色の精液が睾丸(こうがん)に充ち溢(あふ)れ、さわさわと皮膚をしめらせていくような。それは時間を忘れさせる快感なのだ。》などいくつかのフレーズが重なる。

 作者は、カミーユリゼルグ酸を飲んだ(ドロマールによれば、ただの水だったのに、「今のはリゼルグ酸だ」と言ってみたところ、《まるであの強烈な幻覚剤を五十ガンマーも飲んだみたいな状態になった。精神医学的には錯乱と幻覚をともなうヒステリー性朦朧状態(もうろうじょうたい)なんだ。これは学問的に実に興味ある現象だ。ぼくは機会をのがさない。ただちに観察を続行し記録をとった》)場面でも、《カミーユは従った。どうしてだか、ドロマールに従うのが気持よかった。歩きながら、下腹部と乳房に甘い快感を覚えた。全身の皮膚は極度に敏感で、ストッキングとブラジャーは電気を帯びているようにピリピリし、下着がぴったり皮膚に貼りつくようだ。まるで素裸で歩いている感じ、つまり衣類の中で裸の肉体だけが孤立して感じられるのである。カミーユは快感に酔いながら全身をほてらせた。》といったぐあいに、ただの文学的表現を越え、投与実験に立会って記録した経験を基に表現している。

 

 精神科医でもある神谷美恵子の書評は、『フランドルの冬』の希有な特徴をとらえている。

《「この世は巨大な牢獄で、わたくしたちすべては無期徒刑因……なのに、その不安の本態を自覚する人はごくわずかです」

 この小説の終りのほうで、主人公とみられる精神科医ドロマールのいうことばである。この世界の退屈と無意味さからの脱出、というと、現代のわたくしたちにとって、すでにかなりなじみ深い実存哲学的なひびきが感じとられる。

 事実、この小説をつらぬく基本的な主題はこの脱出の問題と思われるが、長年死刑囚の精神状況探究に打ちこんだ著者の筆にかかると、右のことばは決して単なる抽象的思考ではなくなってくる。北フランスの荒涼たる自然、そこに一般社会から隔絶されて立つ精神病院内部の人物や情況。そうしたものの、めんみつにかきこまれた描写と構成を通して、この主題はどっしりした現実感をもってせまってくる。長編小説の持つ威力をあらためて感じさせる作品である。

 脱出の方法は患者たちの狂気の姿及び数人の特異な人物の生きかたによって、きわめて具体的に描き出されている。それは作中の多くの普通人とあざやかな対照をなす。(中略)

 フランスの精神病院と精神科医、フランスの精神医学とその歴史などを、その地で学び、働いた精神科医の手によって、内部から照らし出してもらえたのは、わたくしたち精神科医にとって、とくにありがたいことであった。ただ文献を読んだり、行きずりにフランスの精神病院を見学するくらいでは、到底わかりえないことである。一国の学問というものが、決してただ孤立した専門的な知的作業だけでできあがるものでなく、その国全体の社会と文化のありかたを基盤として築きあげられるものであることを、この書物は強い説得力をもって示している。》

 それは例えば、治療の対象とならない、患者をただ収容して生かしておくだけの「不潔病棟(メゾン・ド・ガチスム)」で、「看護尼」が献身的に働いている、というキリスト教世界の事を知るだけでも、フランスの社会と文化のありかたがわかる。

 また、神谷はドラボルド神父の「描写は希薄に感じられた」と指摘し、「著者にとってかなり無縁な、したがって重要性の少ないありかたなのかも知れない」とは、著者が晩年になって洗礼を受けていることから、キリスト教および神父という存在に重要性、ひっかかりは当時から十分にあったが、著者の内面で、モーリヤックやベルナノスのようにまで小説の言語表現するほどには煮詰まっていなかった、ということを示しているのかもしれない。

 篠田や平岡のように「主人公のいない小説」、「孤独な各人物の視線は融和することなく多元的に交叉するだけ」と捉えるか、あるいは安直にコバヤシを主人公と考えるか、に反して神谷のように、ドロマールを主人公とみる、というのは異論のあるところだろうが、端的に言われてしまえば、神谷の指摘した世界をもっとも貫いている人物と理解しうる。

 

 ここからは、この作品をもっとも特徴づけ、他に類を見ない学識と深度の、神谷的な視点である「精神医学」に関する記述を、「実存哲学的なひびき」(「黒い炎」)とともに取りあげる。

精神病院が舞台となった小説はいくつかあるが、たとえ医者が主役の場合でも、病理学的見識にまで達した作品はまずみかけないからである(未達の代表例としては、北杜生『楡家の人々』、武田泰淳『富士』、埴谷雄高『死霊』があげられよう)。

 

<フランスの「精神医学」>

 これから引用する部分が、この小説ならではの記述といえる。

新潮文庫P162)《コバヤシがドロマールの名を知ったのは、《医学心理学雑誌(アナル・メディコ・プシコロジック)》の書評欄においてである。一八四三年に創刊され、世界でもっとも古くから永続したこの精神医学雑誌(因(ちな)みに日本の《精神神経学雑誌》は一九〇二年の創刊である)は、コバヤシのいた大学の医学図書館の書架に、第一巻から揃えられ、百年以上にわたるその量と権威とすぐれた内容でコバヤシの興味をひいた。精神病理学を専攻する若い彼にとって、何よりも便利であったのは、この雑誌が世界各国の新しい論文や単行本を紹介し解説する立派な書評欄を備えていたことで、それさえ読めば世界中の学問の趨勢(すうせい)がたちどころにつかめるのであった。そして月々出る厖大(ぼうだい)な書評の末尾に必ず書かれているJ・V・ドロマールの名を、コバヤシは驚嘆と賛美(さんび)の念をもって眺めたのである。

 J・V・ドロマールとは何者か。彼は教授名鑑に出ていないから教授ではないらしい。といって若い学者ではなさそうだ。読まれた文献から推すと、英独仏露をはじめスペイン・イタリー・ポーランド・オランダ・デンマーク・ノールウェーの各国語を自由に読めるらしい。おそるべき語学者である。全ヨーロッパ語に通じた、ヨーロッパそのもののような怪物をコバヤシは思い描いた。

 そのうち、J・V・ドロマール著の《幻覚剤リゼルグ酸の正常人および分裂病者に対する影響》という論文が医学心理学雑誌にのりはじめた(筆者註:リゼルグ酸=LSD25。「分裂病」は2002年に「統合失調症」と名称変更されているが、執筆当時のママとする)。これは数回にわたって連載された長大な論文で、彼一流の該博(がいはく)な知識で古今の文献を引用しながら証拠として自分の症例を報告していくという体裁をとっていた。とくにハシシュ・メスカリン・モルヒネ・アルコールとリゼルグ酸との異同を論じた部分は、多数の文学者(たとえば、バルザックユゴー、ゴーチェ、ボードレール、ド・クィンシイ、コールリッジ、ポオ、その他きいたこともない人々)の病誌(パトグラフイー)が詳細に分析されていた。学生時代、誰でもやるよう飜訳(ほんやく)小説を耽読(たんどく)したことのあるコバヤシは、それらの記述をそれはそれとして面白く思ったし、ドロマールに或る種の親密感さえいだきはしたものの、大論文全体を読みおえると、まるで玉石混淆(ぎょくせきこんこう)の美術館を丹念に見終えたときのような、苛立(いらだ)たしい疲労にうちのめされてしまった。それは、たとえばヨーロッパとは何かと問いつめられ答に窮した場合の困惑に似ていた。たしかに何か独創があるらしい。しかし、その正体が皆目わからない。《この男は、とてつもなく偉いか、よほどの莫迦(ばか)にちがいない》コバヤシは呟いた。

 けれども、この大論文の文献表のおかげでコバヤシはドロマールの百余りもある他の著作を知り、暇をみては少しずつ読みすすむことになった。そして十五年も昔の《解釈妄想(もうそう)の成立機序》を読んだとき目から鱗(うろこ)が落ちる思いをしたのである。そこで述べられている《拡散と放射(ディフュージョン・エ・レイヨンスマン)の理論》は、断固たる独創であり、ドロマールの全業績を解く鍵なのである。そして《リゼルグ酸》の漠然(ヴァーグ)として巨大な(ヴァースト)(ヴァーグ・エ・ヴァーストという形容詞をドロマールは好んで用いた)様相も、一個の芯(しん)から放射(・・)された拡散(・・)にほかならないのである。ドロマールは漠然として巨大な樹のような男だ。無数の枝葉を茂らせた幻惑するほどの多様さの中央で、一本の太い幹がどっしり根をはっている。コバヤシは今度は心から感嘆した。

 二年前、彼がフランス政府の給費留学生となってパリのサンタンヌ病院で勉強することになったとき、同僚の誰彼は一様にいぶかしがった。戦前、日本の精神医学は完全にドイツ精神医学の影響下にあった。敗戦後は、アメリカ精神医学こそが規範たるべきである。それが通念であった。若い研究者はアメリカの力動精神医学(ダイナミック・サイカイアトリ)や精神分析を習うため競って留学を志していた。

「フランスだって? もう古いよ、きみ。あの国が全盛だったのは、十九世紀だろう。ピネル、エスキロール、モレル、マニャン、彼らの時代にはフランスは世界の中心だった。が、ドイツに大天才クレペリンが出現してからは、もう駄目だね」

「仏文学者や画かきや音楽家ならまだしも、なにも医学をやるものがパリくんだりまででかけることはなかろう」

 もちろん、心ある者たちは、クロールプロマジンという劃期(かっき)的な向精神剤を発見したジャン・ドレイやネオ・ジャクソン主義をとなえて有名なアンリ・エイの名前ぐらいは心得ていた。しかし、J・V・ドロマールとなると誰一人、全く何一つ知らないのであった。ドロマールはあまりに漠然として巨大なるが故(ゆえ)に彼らの目に見えないのだ――そう考えて、コバヤシは自分を慰めた。

 パリ大学附属サンタンヌ病院は監獄なみの高い頑丈(がんじょう)な塀(へい)に囲まれた、古い大きな精神病院である。病院というより病院群といったほうが正確かもしれない。カバニス街に開いた鉄門からマロニエの並木道をかなり行くと、右に救急病棟(アドミッション)と称するパリ市に発生した精神病者を収容する平べったい漠(ばく)とした建物が見えて来る。左には、アンリ・ルッセルという独立した病院が、品のよい女性のような風格で建っている。さらにその奥へ歩いていくと、ようやくパリ大学附属精神科のくすんだ四角い病棟(クリニック)に到達する。最初、サンタンヌ病院の規模の広大さに驚いたコバヤシは、この大学附属精神科の、建物の古さと小ささにも、また吃驚(びっくり)した。ともあれ、コバヤシの留学生活は規則正しく続けられた。午前九時から正午まで患者の診察、昼食をサル・ド・ギャルドという職員食堂で食べ、午後は図書館へ出向く、そんな生活である。(中略)

 毎週火曜日の朝、主任のジャン・ドレイ教授の診察が行なわれる。クロールプロマジンを発見し精神病治療の革命をやりとげ、国際的名声をもつうえ、若くして最短コースで教授になり、《アンドレイ・ジイドの青春》で批評家大賞をうけた文学者でもあり、やがてはアカデミイの会員たらんとする、このドレイ教授の権勢たるや、それはもう大したものであった。》

 

 サンタンヌ病院の図書室での様子からはじまって、フランス精神医学史を、フーコー『狂気の歴史』や『監獄の誕生』を読むような感覚であらわしている。

(P169)《コバヤシは、黒や青や赤の地味な書物の列の間を、その背表紙の金文字を追って、書棚(しょだな)から書棚へとゆっくり歩むのが好きだった。そんな散策の途次、ひょいと掘出物を発見する。ピネルの《哲学的疾病分類学》や《マニーにかんする医学哲学論》の初版本やジョルジュの《狂気について》やJ・P・ファレルの《循環性精神病》など、世界の精神医学を創始した輝かしい先達たちの名著が、日本ではとても読めないと思ってあきらめていた古書が、現実に手の中に握られるのである。

 はじめは手当り次第に、そのうち系統的に、コバヤシは古い文献を読みはじめた。かつて、《医学心理学雑誌》を読みあさっていた頃とは、またちがった様相のもとに、フランス精神医学の歴史がその広く深い奥底を現わしてきた。それは単に、広く深いだけではない。何よりもこの国に育ち経過した出来事であり、コバヤシが注意深く探究さえすれば、その痕跡(こんせき)を現に目で確かめられる歴史であった。

 早い話が、日本にいたとき、コバヤシにとっては、精神医学は、他の医学の全領域と同じように、ヨーロッパ語の飜訳語を用い、病気をなおすという明確な目的をもち、まとまりをもった体系と知識の集成であった。彼は、それがそこにあるからという理由だけで、精神医学に臨床に研究に、熱中すればよかったのである。確かに、それがよそ(・・)から到来したという意識はどこかにあった。が、すべての科学が到来品である以上、彼は別に精神医であるということに不思議も迷いも感じなかった。

 今、パリのサンタンヌの図書室で、古書に埋れながらコバヤシを打った驚きと眩暈(めまい)は、美しく完成された作品の背後に、血まみれの苦悶(くもん)に彩られた莫大(ばくだい)な屑(くず)と習作を発見した観賞家のそれであった。ヒッポクラテス以来、二千三百年の間に、何と多くの過誤が、愚劣な意見が、血と死がばらまかれていることか。

 ギリシャ、ローマでは、狂人はまだしも病人とみなされ、医者の手にゆだねられていた。しかし、長い中世においては、狂人は魔法使い・悪魔(あくま)憑(つ)き・魔女とみなされ、外科手術が理髪師の手で行われたように、乱暴にも、悪魔(あくま)祓(ばら)いの僧侶(そうりょ)によって処理されることになった。錬金術と並んで鬼神論(デモノロジー)が登場するのである。鬼神論は最初、狂人に対して寛大であった。人々は神を愛すると同じくらい、悪魔を怖れていたのである。狂人を救うために、聖人の墓の奇蹟(きせき)的な霊験が求められ、呪文(じゅもん)がかけられ、修道院は庇護(ひご)を与えた。魔女や魔法使いが大量に死刑になり、火に投ぜられるのは、十三世紀の法王イノセント四世の時代に宗教裁判の制度ができて以後、なかんずくルネサンスの科学復興の行われた十五世紀と、続く二世紀の間であった。

 この十五世紀に現れた二人のドミニコ派の僧侶、ヨハン・シュプレンガーとハインリッヒ・クレーマーの《魔女の槌(つち)》という法皇公認の書物こそ、中世の鬼神論とルネサンスの科学精神の見事な化合物なのであった。宗教裁判の教典となったこの四折判の分厚い書物のあらゆる頁(ページ)から、狂信的で一方的な、しかし整然とした観察と推論と結論が溢(あふ)れだし来た。人間は何をしようとも、たとえ狂気にかかったとしても、それは自分の自由意思で行う。人間は自由意思で悪魔の要求に服従する。だから、狂人は責任をとるべきであり、罰せらるべきである。しからば、狂人を悪魔の手より救う道は? 狂者の霊魂は堕落したみだらな意志によって肉体の中に罪深く囚(とら)われているから、再び解放してやるべきだ。つまり肉体は焼かれねばならない。宗教裁判は、こうして、もっとも慈悲深い宗教的判決ともっとも科学的な処置として、火刑を宣告した。何十万という狂人たちが、魔女や魔法使いの烙印(らくいん)をおされて焔(ほのお)の中に消えていった。魔女の槌音は強大な反響をヨーロッパ中にこだまさせながら、長い間、ほとんど三百年の間、鳴りひびいた。最後の魔女がスイスのグラルスで殺されたのは、実に一七八二年のことである。

 もちろん、魔女裁判的な狂人の集団殺戮のみが当時の風潮のすべてであったのではない。数は少ないがそれに反対する先覚者もいたのである。十六世紀のパラケルスス、ファン・ルイス・ヴィヴァス、ヨハネス・ワイヤーなどの進歩的な――といってもたかだかギリシャ、ローマ的なものではあったが――人々は、十七世紀にはさらに多く、十八世紀にはもっと多かった。ただ、先覚者たちの抗議や叫びにもかかわらず、一般世人の狂者への考え方は、依然として中世的・ルネサンス的なものにとどまったのである。そして、十八世紀の末、フィリップ・ピネルが登場した頃でも、精神病者のための真の病院はヨーロッパに一つもなく、患者たちは重罪犯同様監獄に終身拘禁され、鎖でつながれ、鞭打(むちうち)・殴打(おうだ)・絶食の折檻(せっかん)をうけていた。たまに治療が行われても、それは残酷な瀉血(しゃけつ)であり、灌水浴や回転椅子であった。

 ピネルにいたって、はじめて、狂人(フー)が病者になり、監獄が病院になり、折檻と拷問が治療になった。そして、十九世紀こそフランスを中心として近代精神医学が発達し、現代精神医学への重要な橋渡しの役をつとめるのである。コバヤシは、ルネ・スムレーニュの《フランスの偉大な精神医たち》を指標に、十九世紀の原典を読みふけり、その豊饒さと複雑さに完全に圧倒されてしまった。つまり、奥深い出口のない迷路に迷いこんでしまったのである。

ピネルの前には、全人格論者ピェール・カバニス(サンタンヌ病院前の道は彼の名前で呼ばれている)、人道主義的精神医ジャン・コロンビエ、ジョセフ・ダカン、そしてジャック・ルネテノンがいた。ピネルの弟子(でし)には《医学心理学会》の創設者であり一八三八年の法律をつくったギョーム・フェルュスと、精神医学の体系の基礎をきずいたエスキロールがいた。エスキロールの伝統のもとに、若き天才ジョルジェ、完璧(かんぺき)な臨床医ジャン・ピェール・ファルレ、《医学心理学雑誌》の創刊者バイヤルジェ、それから有名な変質論者モレルとマニャンが来る。彼らはすべて、熱烈な研究者であり、創造的な人々で、その点でフランス精神医学の太い幹をつくっている。が、彼らの意見には、何という対立と矛盾と混乱が充(み)ちていることだろう。それは、一つの意見が創見とも偏見ともなり、一つの臨床的記述が立派な学問的資料とも単なる空想ともなる時代であった。

 困惑しきったコバヤシは、或る日、埃(ほこり)にまみれた小冊子を発見し、救われたのである。それは、パリ大学博士論文(テーズ)紀要中の一冊で《十九世紀のフランス性維新医学と精神病院》という、コバヤシにとってお誂向(あつらえむ)きの表題であった。著者はジャン・ヴァンサン・ドロマール!(中略)

 たとえば次のような記述がある。

 普通、偉大なる人道主義者で狂人を鎖より解放し、精神医学の創始者とみなされているフィリップ・ピネルが、ビセートル監獄に来たのは一七九三年、サルペトリエール病院にのりかんだのは一七九五年である。ピネルの事業はトニ・ロベール・フルーリーの画(その複製をコバヤシは東京の松沢病院で見たことがあった)やサルペトリエール前の銅像(それは一八八五年《医学心理学会》の手で除幕された)によって全世界に一般化され有名である。しかし、ピネルの弟子ギョ-ム・フェルュスが一八二六年ビセートルの医長となったとき、つまりピネルの改革後三十年たったとき、フェルュスがみたのは、依然として暗く湿った不潔な独房であり、壁に鉄の輪でくくりつけられ強制的に立ったままの生活をさせられている狂人たちであった。フェルュスは、ピネルと同じ熱意で病院を改革した。フェルュスの創始した作業療法用の農場、それこそ現在のサンタンヌ病院の敷地なのである。サンタンヌには牧場と豚小屋と畑、搾乳場や薬局があった。しかし、フェルュスがビセートルを去ったとたん、サンタンヌの農場は忘れられ、患者たちは治療も監督もなしに、うろつきまわり、ついにこの世界最初の作業療法場は閉鎖されてしまった……》

 

 後の一九六九年に、フーコー『狂気の歴史』(一九六一年)に対して、「精神医学の正当性に異議を申し立て、精神疾患概念や精神医学の治療機能の存在理由をおびやかす「精神医学殺し」」として激しく反論、非難したアンリ・エーに関する記述もある(対してフーコーは、一九七三年度、七四年度のコレージュ・ド・フランスの講義『精神医学の権力』と『異常者たち』で「権力装置」としての精神医学の告発をし、さらにエイは晩年の一九七八年に『精神医学とは何か――反精神医学への反論』を刊行した)。

(P192)《アンリ・エイというのは、ピェール・ジャネなきあと、フランスの生んだ最も世界的に高名な精神病理学者の一人である。英国の神経学者ジョン・ヒューリング・ジャクソンの理論を精神医学に導入し、神経学と精神医学の総合を企てた彼の理論体系は、ネオ・ジャクソン主義という名で知られていた。確かに骨太で広範な可能性をもつ体系で、それは、フロイト精神分析、ジャネの心的緊張論、ビンスワンガーの現存在分析(ダーザインスアナリーゼ)、ミンコフスキーの現象学など、すべての二十世紀精神病理学を自分の体系の中に併呑してしまった。エイと個人的には仲の悪いドレイ教授すら、《リボーの心理学とジャクソン主義》という論文で暗にエイの学説を讃(たた)えている。それもコバヤシのみたところ、無理もないことで、エイとドレイはともに、サンタンヌ病院に根拠を置く、《サンタンヌ学派》なのである。そしてサンタンヌ学派はクレランボーやオイエを中心とする《サンペトリアール学派》と鋭く対立していた。たとえば、ついさっきヴリアンが暗唱していたクレランボーの学説は、エイによって《十九世紀的脳局在論、デカルト的機械論、時代錯誤の分子論(アトミスム)》として激しく論難されていたのである。ヴリアンがクレランボーの精神自動症を丸暗記するかたわら、エイの講義プリントに随喜する、その矛盾した態度が、コバヤシには、半ば滑稽で半ば不可解なものに思えたのである。》

 

<診察/治療>

 実際の診察、治療や、医長資格試験(メディカ)についての記述も重要だ。ここで、フランスにおける「医長」の位置づけを知っておいた方がよい。

(P328)《精神科医長(メトサン・デ・ゾピトウ・プシキアトリック)、それはフランスにおいて大学教授の資格と同等の重みを持っている。いやそれ以上かも知れない。現に国際的名声をもつ、J・V・ドロマールやアンリ・エイは精神科医長ではあるが教授ではない。医長の資格こそは最高の名誉であり出世であり、広いれっきとした公舎と自動車二台を保証する身分なのである。》

(P263)《六月中旬に行われる《メディカ》がもっぱらの関心の的なのである。ラガンはまだ若すぎ、ブノワは自信がない。そこで今年運試しをするヴリアンの勉強を助けるという名目で寄集っていた。或る日、ドロマールの発案でコンクールの模擬が行なわれた。もちろん、ヴリアンが受験者で、医長連が審査委員になった。

 その日の午後、会場の閲覧室に、病院の全医師が集った。正面にドロマール、エニヨン、マッケンゼンの三医長、その前にヴリアン、傍聴席には、ブノワ、ラガン、クルトン、エニヨン夫人、コバヤシの内勤医全員が坐った。

 面々の顔ぶれが揃ったところでドロマールが右手をあげパチリと指をならした。それを相図に、ヴァランチーヌとニコルに前後をはさまれた患者が入室した。ドロマールがストップウォッチを押し、診察が始った。

 ヴリアンはさすが緊張し、すでに汗ばみながら、患者に向ってとってつけたような微笑をつくり、老練な精神医らしい形を演じていた。

「あなたのお名前は? その、ここに居るのはみんなお医者さんですから、別に心配しなくてもいい。で、あなたのお名前は?」

マドモワゼル・リフラール

「おとしは?……」

「…………」

「これは失礼。それでは、その、あなたはいつ入院しましたか」

「…………」

「それでは、なぜ入院したか、わかりますか」

「…………」「なにかあったからでしょう。それでは、うかがいますが、あなたは病気ですか。つまりどこか悪い?」

 マドモワゼル・リフラールは沈黙した。ヴリアンは何とか喋らせようと患者の横に椅子を移動させ、その顔をのぞきこんだ。患者は化石したように動かない。まばたきだけが彼女が生きていることを証拠だてていた。

 リフラールはコバヤシの患者である。いわゆる慢性妄想病者(デリラン・クロニック)で、病室内では模範的な――つまり従順で物静かで、昔お針子だった技術を生かして他の患者の作業を指導する立場の――患者であった。模擬コンクール用の患者として彼女が選ばれたのは、ヴリアンが患者を知らないという理由のほかに、彼女がきわめて人当りよく、《よく話す》患者であったからだ。一見正常人と変らない彼女の内側に匿(かく)れた病的な被害妄想(もうそう)をききだすこと、それがヴリアンに課せられた使命なのである。

 しかし、ヴリアンは最初からつまずいたようだ。彼の禿頭(はげあたま)に吹出した吹出物のような汗と、憐(あわ)れな切れぎれの低音と、沈黙を続けるリフラールの硬(かた)い姿勢がそれを物語っていた。

 ドロマールは無表情にストップウォッチに見入っている。エニヨンは自分の内勤医の不手際(ふてぎわ)に不満なのかしきりと尻の位置を変えて椅子をミシミシさせ、マッケンゼンは眠ったように目を閉じた。そしてコバヤシは患者の後に立っているニコルを食入るように見詰めていた。

 どうしても返答をえられないので焦ったヴリアンは、意を決して患者の肩をたたいてみた。

「ねえ、マドモワゼル。ぼくの質問が……」患者は、やにわに肩を引き、のけぞりながら立上った。ニコルがそれを椅子に連戻した。

「さあ、こわがらないで、ルイーズ。この方はドクトゥールなのよ。いつも私にお話しするつもりで、答えてごらんなさい」

 するとエニヨンが鋭く叱責(しっせき)した。

「看護婦は黙って! 今は、ドクトゥール・ヴリアンだけに発言の権利がある」

 ニコルはさっと赤くなった。コバヤシは自分自身が叱(しか)られたように顔に血がのぼるのを感じた。その一刹那(いっせつな)、リフラールが椅子を倒してとびあがり叫びだした。

「もうたくさん! なんだって皆さんは、わたしを見世物にするんです。おんなじ質問をばっかみたいに繰返してさ」

 亢奮(こうふん)した患者は、支離滅裂に喋(しゃべ)りまくり、ニコルを突除(つきの)け、出口に駈けだそうとした。すると今までスイスの番兵式に直立不動の姿勢でいたヴァランチーヌがひょいと振子のように手を伸ばして患者の腕首をつかみ、部屋の中にぐいっと引戻した。その、あまりに鮮(あざや)かな早技(はやわざ)に患者も驚いたらしい。急に喋りやめ、当惑したように周囲を見回した。中腰になったヴリアンは安心して腰を降し急いで記録をとりだした。今の突発的亢奮は明らかに彼に有利だった。少なくとも錯乱状態と思考障害と被害妄想の要点はつかみえたはずだ。

 意外にもマドモワゼル・リフラールの目はコバヤシのところで止った。生気のない曇った目に不穏な光がさしこむ――コバヤシは自分の受持患者の目についぞ見たことのない激しい敵意を見てとった。

「お前だ。お前みたいにきたならしい黄色人種がわたしを駄目にする。お前が医者だって? なにさ、女みたいに毛のないくせに。知ってるよ。お前は男じゃないんだ。くやしかったら黄色い子供でも生ませてみりゃいい」

 彼女は後からあとから淫猥(いんわい)な侮蔑(ぶべつ)の言葉をコバヤシになげつづけた。が、コバヤシは努めて平静を装い、その努力のため、もう何もきいていなかった。《たかが狂った患者の言葉じゃないか。誰も本気にとりはしない》そう自分に言聞かせると同時に、《精神病者というものは、正常人のひそかにいだく観念を異常に拡大するものだ》という知識が彼を苦しめた。火のないところに煙は立たないのである。

《ニコルがきいている。みんなどうしてやめさせないんだ。みんなどうして黙ってるんだ。あのヴリアンの奴(やつ)はどうして落着き払って速記してるんだ。ああ、やめさせてくれ……》その時リフラールの声が耳に入った。「みんな言ってるよ。マドモワゼル・ラガンの時は良かったって。お前の患者じゃ恥ずかしくってとってもやりきれないとさ。本当だよ……」

 その一分か二分のあいだ、コバヤシは人々みんなの視線が自分に注がれていると感じ、その場にいたたまれぬ思いをした。けれども、リフラールが鉾先(ほこさき)を変え、今度はブノワを攻撃しだしたこと、彼女の言葉が彼が聞き取ったよりも存外にまとまりを欠き到底一貫した意味を持たないことを悟ると、自分が平然とした態度をとり、医師の高みから患者の病気を見下しえたことに満足した。そうして自分の心の中に弱点が――医学でいうLocus minoris resistentiae――があり、その点に触れられることに極端に敏感に反応しすぎることを反省した。

 何事もおこらなかった。ニコルも顔色一つ変えなかった。彼女は患者の混乱した言語を聞いただけで意味などわかりはしなかった。《そうだ。これが例の病気なのだ。ぼくだけが、ぼく一人だけが何かを怖(おそ)れている》

 患者の亢奮はますます激しくなった。もうヴァランチーヌとニコルの力だけでは及ばず、数人の看護婦が総掛りで患者の腕を押えつけねばならなかった。その前でヴリアンは、なすすべもなく、しかしうわべは冷静を装って記録をとっている。それはいかにも見世物めいた醜悪な情景となってきた。

 ドロマールが顔をあげ、右手で合図した。

「あと五分だ。ヴリアン。それから別室でリポートを作成したまえ」

 ヴリアンは会釈した。彼は実に困惑しきっていたのだ。なるほど患者の錯乱状態は十二分に観察しえた。だが、この種の妄想患者においてもっとも重要な症状――過去から現在までの経過――については何ひとつききだしていなかったのである。

マドモワゼル・リフラール。もう一度おたずねしますが、その、あなたが入院した理由はなんですか」

 またしても型通りの質問である。亢奮患者には立上って大声で話しかけるべきなのに、彼は坐ったまま、間のびした低音で訊(たず)ねたのである。患者は質問を無視し歯をむきだした。そして看護婦たちの隙(すき)をみると、机上からヴリアンのノートをひったくり投げ捨てた。看護婦たちが一団となって机に倒れこみ、インク瓶(びん)が転(ころ)がり落ち、インクまみれの憐れなヴリアンが悲鳴をあげた。ドロマールが苦々しげに叫んだ。

「患者をつれて行きたまえ。何ということだ」

 それからどうなったかコバヤシは知らない。彼は、看護婦二人が躍起となって患者に拘束衣(カミゾール)を着せようとしていた。患者は抵抗し、唾(つば)を吐き、悲鳴をあげて荒れ狂っていた。丁度そんな騒ぎの最中にコバヤシは来合わせたのである。

《あの、おとなしい患者が、どうしたことだ》一歩、近付いてみた。すると患者は煮湯でもかけられたように一層激しく暴(あば)れ、危く、ベッドの鉄枠(てつわく)に頭をぶつけそうになった。

 ヴァランチーヌは、いかにも邪魔だというようにコバヤシを肘(ひじ)で押し、拘束衣(カミゾール)を持って待機していたニコルに「ラルガクティルの五十ミリグラムを筋注、いそいで」と命じた。そして、ニコルが注射器と薬をとりに去ると、言訳がましく「医長先生の指示です。亢奮したときはラルガクティルを注射するように」と言った。

 とっさに、自分でも思いがけない強い言葉がコバヤシの口から飛出した。

「さあ、手を放して。みんな部屋から出てもらいたい」

 看護婦たちはすぐにはコバヤシの命令に従わず、ヴァランチーヌの顔色をうかがった。それがコバヤシの癇(かん)に触(さわ)った。

「放せといったら、放すんだ。そしてみんな出て行きたまえ」

「しかし、ドクトゥール」ヴァランチーヌが批難の目付で睨(にら)んだ。「医長先生が……」

「かまわん。とにかく、ぼくとマドモワゼル・リフラールの二人だけにしてくれ」

 ふと、あの感覚、憲兵を言含めたときの、昂揚(こうよう)した気分が復活した。どこかの半透明な別世界から、すぽっと明確な現実世界に落ちて来た、あの気持である。彼は、自尊心を傷つけられた尼さんの手負猪(ておいじし)のような身のこなし、看護婦たちの驚きの表情、そして――これが最も重要なことだったが――不意に身じろぎをやめたリフレールの好奇のまなざしを、ありありと意識した。

「出てゆきたまえ、みんな。あとはぼくがやる」

 二人きりになると患者は顔をそむけた。が、暴れ出そうとはしなかった。コバヤシは力を得て、話しかけてみた。

マドモワゼル・リフラール。ぼくは後悔してますよ、あなたを、あんな場所に連れだしたことを」

 患者はちらっと視線を走らせたがすぐ傍(わき)を向いてしまった。天井をにらんでいる頑(かたく)なな横顔が枕の上にあった。しかし、その顔の中には、もう荒々しい狂乱のきざしは見られなかった。コバヤシは辛抱強く待った。《彼女は迷っている。こういうとき何かを尋ねてはならぬ。待つんだ……》

 三十分ほどした頃、リフラールはにんまりと笑い、上目遣(うわめづか)いにこちらを見た。

「どうして、あなたはそこにばっかみたいに立ってるんですの?」

「あなたと話がしたいからですよ」

「おかしなひと」

 彼女は枕に顔をうずめてくっくと笑いこけた。笑いやめると、今度は身を起して真正面からコバヤシを見詰めた。(中略)

 次第に頬の病的な赤らみが消え、怒張して不自然な笑いをつくっていた顔面筋が和(なご)み、彼女が目を開くまでの数十分、コバヤシは立ったまま待った。何も考えなかった。ただそうしなければならぬという義務感だけが彼を駆立てていた。

 彼女は彼を認めた。そこには気持のよい驚きの表情があった。

「気がつきましたね」

「ああ、ドクトゥール・コバヤシ。わたしどうしたんでしょう」

「何があったか、思い出してごらんなさい」

「いいえ、何もおぼえてません。何も……」

「それでいいのです」

 コバヤシは微笑した。》

 

(P278)《コバヤシは、自分がこの国に来てからの勉強方針が、全くの誤謬(ごびゅう)だったとはいえないにしても、何かあまりに一面的すぎていたことに気付いた。《精神医学史も結構、精神薬理学も結構、でも、それが医学である以上、病気を癒すという点に力点があるのだ。そして、医学をつくるのは医者だ。もっともっとこの国の医者(・・)について学ばねばならない》そう考えて、彼は医者としてのエニヨンとクルトンに興味を持った。

 ロベール・エニヨンは、ドロマールとまた違った意味で、学者であり医者であった。大の勉強家で最近の精神医学、ことに治療法や病院管理法の文献には精通している。コバヤシは、エニヨンの病棟を見学に行き、その明るい整然とした病室と活気に充(み)ちた雰囲気と高価な治療器具が所狭しと並べてある壮観に圧倒された。サンタンヌの病室などより、よほど近代化されている。

「どうだね」案内を終えたエニヨンは誇らしげに肉付のよい肩をそらした。

「大変、近代的(モデルヌ)だと思います」

 ところがエニヨンは不満げにこちらを睨みつけた。

「いいや、きみ、近代的(モデルヌ)じゃない、現代的(アクチュエル)だと言ってほしいね」

「なるほど、大変に現代的(アクチュエル)ですな」

 エニヨンは、ヒッヒと鋭く空気を切断するように笑った。それはつい、こちらも誘いこまれるような、あけすけに快活な笑い方であった。

 エニヨンは白衣を嫌(きら)い、ペンキ職人のようなジャンパー姿で病室内をぶらつく。それは、医者という権威を捨て、一個の人間として患者と平等な立場で話合うためである。彼が、家庭で大勢の子供たちに囲まれているように、嬉しげに近寄ってくる患者たちの中央で目を細めている。そんな姿をコバヤシは何度もみかけた。

 エニヨンの現代治療法は、確かに目覚(めざま)しい成果をあげていた。院内で彼のところが一番退院患者が多く、従って入院患者も多く、ベッドの回転率が高いのである。このことは、彼をはじめ看護婦たちをいやがうえにも多忙にし、他方では病室内に生き生きとした熱気をかもしだしていた。退院患者のアフター・ケアー、入院患者の環境調査で、家庭訪問員(アシスタント・ソシアル)のカミーユ・タレは、ほとんどエニヨンのためにとびまわっていた。コバヤシは、あの陰鬱(いんうつ)なカミーユが、エニヨンのところでは、別人のように明朗でお喋りなのにも一驚した。エニヨンの強力な影響は、看護婦たちにも明白に及んでいた。彼女たちは、電気をかけられたようにきびきびと立回り、しかも陽気であった。

 あらゆる科学と同じく、医学にも不能の領域がある。そのことをエニヨンとて知らぬわけではあるまい。しかし、彼は好んで光の当った明るい部分に目を向けていた。それだけでも為すべきことが山積みされているのだ。ところで、クルトンは、逆に、暗い翳(かげ)の部分に一層の関心を示していたといえよう。

 或る日、コバヤシが診察に熱中しているところへ電話がかかってきた。精神薄弱者病棟の患者が一人食事をせず衰弱しているからどうしたらようかと当直医としての彼に問合せてきたのである。いつものように電話で指示するだけで厄介払いしようとしているうち、相手の声が急にクルトンの声に変った。

「なあんだ君か。声色を使っていたな」

「まあそう怒るな。ところでこんな場合、当直医としてはどうするかね」

「いったい君は今どこに居るんだ」

「不潔病棟だ」

「そんなら、君が診てくれればいいじゃないか」

「そうはいかない。急患は当直医の仕事でね」

「わかったよ。今行く」

 そしてコバヤシは、例の素裸の白痴を収容した保護室や、廊下と壁に滲みこんだ糞臭(ふんしゅう)のほかに、大部屋につめこまれた《軽傷》の精薄者たちの集団を見たのだった。それはまさしく見た(・・)のであり、それ以上の何かをしたい(・・・)と思ったわけではなかった。医者というものは、重い病者をみると、それをどうにかして癒(なお)さねばならぬ義務感を覚えるものである。ところが、不潔病棟では、一目見たときから、あきらめを、まるで一般の人々が重病人に感じるような、重苦しい当惑感を覚えるだけだった。

 薄汚れた制服の彼らは、仄暗(ほのぐら)い室内で、青い虫のように無秩序にうごめいていた。ガラス玉をはめこんだように冷い不動の目、古ゴムのように弾力を失って開きっぱなしの唇(くちびる)、蝕(むしば)まれた黄色い歯から石鹸水(せっけんすい)のような唾液(だえき)が胸のあたりまで垂れている。そんな彼らの間から、意味のわからぬ動物の吠声(ほえごえ)に似た奇声が起っては消えた。

 壁側には木製の奇妙な椅子に患者たちが縛りつけられていた。この椅子というのは、尻の当るところに大きな穴があり、下に便器を挿入(そうにゅう)できるようになっている。腰から上は、袖(そで)の閉じられた拘束衣を着せられ、下半身は裸の患者たちが、椅子に腰かけて一列に並んでいる光景を、コバヤシは無感動に眺めた。彼は、わずか一、二分でこの場の異様さに馴(な)れてしまった。《これはどうにも仕様がない。そうするのが当然なのだ》、と、そんな気になってしまったのである。

「やあ来たね。当直医殿」

 隣室からクルトンが現われた。彼はコバヤシを、ユースホステルめいた二段ベッドの立並ぶ寝室にひっぱって行った。ベッドには一人の痩せ細った真白な少女が横になっていた。

「ジョゼットだ。症状を説明しよう」「いや、ぼくはいい。大体覚えている」

 病棟づきの老いた看護尼が差出した病歴をクルトンは、コバヤシに手渡した。ジョゼットは脳性小児麻痺(しょうにまひ)だった。以前からあった痙攣発作(けいれんほっさ)が三日前から頻発するようになり、今朝からはのべつに発作をおこし続けている。

「つまり、てんかん発作の重積状態だね」コバヤシは自信なげに、眠っている少女の白い顔を見た。

「そうだ。抗痙攣剤を大量に使ったが、効(き)き目(め)がない。これ以上は危険だ。心臓がもたないだろう。あっ、またおこった」

 少女のほっそりとした美しい顔が、醜く痛ましくゆがんだ。歯をくいしばって叫び、ベッドからころげ落ちようとする。コバヤシとクルトンはベッドの両側から少女を押えつけた。発作は数分続いたのち一度鎮(しずま)ったかにみえたが、すぐ再発してきた。少女の血の気のない皮膚は、これだけ暴れているのに汗さえかかず乾燥してざら紙のようだった。水分の不足なのである。三度目の発作の嵐(あらし)が去ったとき、コバヤシはクルトンに言った。

「どうだろう。まず水分の補給だ。葡萄糖とビタミン剤を注射しておいて、脊髄液を抜いてみたら?」

「しかし、どうやって注射するね。こう絶え間のない発作じゃあねぇ。ほら、またおこった」

「君が押えていてくれたまえ。ぼくがやってみる」

 ところでこの不潔病棟には、十分な薬も脊髄穿刺針(せきずいせんししん)も備えられてなかった。それどころか看護婦すらいない。誰もこんなところで働こうという者がいなかったのである。篤志の老看護尼が三人夜昼泊りこんでいるだけでは、収容者の身のまわりの世話で手一杯で到底医療にまで手がまわらない。誰かが病気になると一応当直医の指示をあおぐものの、それは形式であって、実際には病人は放置され自然にまかされるだけであった。驚きあきれているコバヤシにクルトンが言った。

「そうなんだよ、君、これが現実だ」

 看護尼の控室まで行き、電話でA一病棟の看護婦に必要な薬と器具を持って来るように言付け、戻ってみると患者の容態(ようだい)はさらに悪化していた。といって、ただもう押えつけて以外に為(な)すすべがない。ふとコバヤシの心に疑念が浮んだ。

クルトン、君はずっとここにいたのかね」

「一時間前からだ。この病棟付の看護尼にとっちゃ、君よりまずぼくのほうが呼びやすかったんだろうね。ぼくは時々、この病棟に来てやるから」

「その一時間のあいだ、君は何もしなかったのかね。つまり何か処置をしようと……」

「したさ。抗痙攣剤を大量にうってみたと言ったろう」

「でもそれだけじゃ……」

「不足かね」クルトンは窪(くぼ)んだ小さな目をしばたいた。「たしかに不足だ。医者としては怠慢だ。ぼくは自分の受持病棟から看護婦を呼びよせることだって出来たわけだから。わかってるよ、君の疑問は。君は、ぼくがなぜ君を読んだか知りたがってるんだ」

「そうだ。なぜだ?」

「それはだね」クルトンはぐったり仰向いている少女の髪を撫(な)でた。「君の助けをかりたかったから、と言うと半分以上は嘘(うそ)になる。君にこの病棟を見てもらいたかったというと、真実により近いが、それでも半分ほどは嘘だ。ぼくはね、ただ、君に来てもらいたかったのさ。そう、それだけだ」

 クルトンは疲れたように言葉を切った。コバヤシは、それを弁解ととった。《要するにこの男は何もしなかったのだ。しようとする気力もなかったのだ。そして、面倒なことは当直医に押付けようとしている》

「できるだけのことは、やるべきじゃないか」コバヤシの言葉には強い憤慨がこめられていた。クルトンは首を傾(かし)げ肩をすくめた。このフランス人特有の曖昧(あいまい)な動作をコバヤシは腹立たしげににらみつけた。

 看護婦が必要なものを持ってくると、コバヤシは、クルトンと看護婦に少女を押えさせ、注意深く、細い透き徹(とお)るような静脈に高調葡萄糖を注射した。小止(おや)みのない痙攣に邪魔されながら、ともかくは注射は成功した。心なしか発作が弱まり、蒼白(あおじろ)い皮膚に血の気がもどってきた。血圧と心臓の鼓動に注意し、少女が安らかな寝息をたてているのを見て、コバヤシは思い切って脊髄液を抜きにかかった。太い針を背中に刺し、脊椎(せきつい)と脊椎との狭い柔い部分の奥に針が到達するとすぐ、ポタポタと生暖い水が流れだした。この脊椎穿刺は、精神医となってから何百回も実施し、コバヤシの手技は完全な熟練の域に達していた。みていた老看護尼が「ほう!」と感嘆したほど、コバヤシの手並は正確で堂に入ったものであった。

 この治療が効いたのか、少女の発作は消え、やがて目を開いて不思議そうにあたりを見回した。コバヤシは、老看護尼や看護婦の前で、医師としての自分の手腕を誇ることができた。そして、その看護婦がニコルでないことを残念に思った。

 ところが、翌早朝に不潔病棟から電話があり、患者が死んだと知らせてきた。仰天したコバヤシは、隣室のクルトンをたたき起した。

「すぐ行こう。そんな筈(はず)はないんだ」

「何をそんなに、じたばたしてるんだ」

「患者が死んだんだよ」

「だから、死んだものを今さら診(み)に行ったって仕方がなかろう」

「それはそうだが、何故(なぜ)死んだか知る必要がある」

「ジョゼットは死ぬべき運命にあったんだよ。あそこじゃ、こんなふうにしてたくさんの患者が死んだのさ」

「何だと」

 コバヤシは、クルトンの落着き払った微笑(ほほえ)みをにらんでいるうちに睡気(ねむけ)がとれ頭がはっきりしてきた。《ぼくも、あの少女が助からないことを何となく知っていた。それを強いて治療してみせただけなのだ。昨日、ぼくのやったことは全くのお芝居だった》そう思うと、吐気のような自己嫌悪(じこけんお)がおこってきた。

「知ってたんだな、君は。彼女が助からないってことを……」

「まあいいじゃないか。もう一度ゆっくり寝たまえ。死んだものは仕方がない」

 クルトンは、美しい歯をみせて欠伸(あくび)した。そして、扉から顔を出したカミーユに手をふった。

「何でもない。死ぬべき患者が、死んだだけなんだ」》

 

<「黒い炎」/「世界投企」>

 精神医学の世界は、二十世紀の実存的、現象学的な哲学に結びついて来た、ハイデガーヤスパースメルロ=ポンティ、……。

(P136)《「わからないな」ドロマールは怖(おそ)ろしく生まじめに言った。「彼が自殺すると言うとどうして異常なんだ。どうして治療しなくちゃならないんだ」

「なぜなら……」エニヨンは面喰(めんくら)ってくちごもった。

「なぜなら、神がそれを禁じているから、なぜなら、医者は患者を治療すべきであるから……ああ、エニヨン、君は大層有能な人物であるのに、惜しいかな、無数の格言と常識的定義で雁字搦(がんじがら)めだ。目を開きたまえ。もっと素朴で、子供のように無邪気な目で物を見たまえ。そうすればクルトンの深淵(しんえん)に燃える黒い炎もみえるだろう」

「黒い炎だって。深淵だって。まあ、何を言い出すんだ」エニヨンは叫んだ。この若い医長は他人との議論で負けたためしがなかった。いつだって運営会議を自分の意志どおりに動かしてきたのである。こんな具合に手玉にとられるのは大いなる屈辱である。今やエニオンは精力的な身体に闘志を漲(みなぎ)らせてドロマールを睨めつけていた。

「黒い炎と言ってわるければ、ドイツ人のいう世界投企(ヴエルト・エントヴルフ)といってもいい」ドロマールは淡々とした調子で言った。》

 

(P391)《「それが彼のいう黒い炎ですか」コバヤシは、ほてって燃えあがるような意識の中で、ドロマールのドイツ語を、現存在分析(ダーザインスアナリーゼ)の用語を反芻(はんすう)し、それをクルトンの不可解な言葉と結びつけた。

「ほう」ドロマールは、彼としては異例なことだが、目を輝かして溜息をもらした。「あなたはわかるんだね、あの男が」

「いいや」コバヤシは目を伏せた。「わかりません。ただそんな言葉を彼がよく使うものだから……ただそう言ってみただけです」

「わかってますよ。ね、コバヤシ。あなたにはわかっている。それは言葉の問題じゃない。思想の、否、感覚の、いかんまだ言葉だ。なにか手垢(てあか)にまみれた言葉でない言葉が必要だが……」

 ドロマールは、外科帽の下でぎろりと目をむき考えこんだ。その目を義眼とばかり思いこんでいたコバヤシは赤い血管の走るなまなましい眼球を驚いてみつめた。しばらくしてドロマールは目を細めた。すると、見馴(みな)れた顔付、能面のような無表情になった。

「あなたは《存在と時間》を読みましたか」

「いいえ、まだです。詠みはじめたことはありますが……」

サルトルは?」

「まあ大体よみました」

「メルロ・ポンチは?」

「初期のものだけ、《知覚の現象学》なんかを……」

「それでは、《世界内存在(イン・デア・ヴェルト・ザイン)》という用語がわかりますね」

「わかっているというほどではないのですが」

「それで充分です。この用語を借用しましょう」ドロマールは断固として言った。「要するに、当り前の単純なことなんです。どんな人間も、この世に生きている。無数の物体や生物や他人とかかわりなしには生きられない、人間のこの運命的なありさまが世界内存在でしょう。つまり人間のアプリオリな規定は世界内存在です。ここまでは哲学者の考えたことだ。ところがこの凡庸な人間の規定に満足せず、そこから脱出しようとする人間もいる。それが狂人と自殺者です。前者は異常という事実性に転落することによって世界を拡大し、後者はもっとも正常な(正常が平均値という意味ならこれも異常ですが)投企によって、世界から脱出する。そのことを知っているのは狂人や自殺者と暮しているわれわれ精神医です。つまり現代のように人間が、実にうんざりするほどの物体や生物や他人の組立てた牢獄(ろうごく)にがんじがらめになって平均化されている時代には、狂人と自殺者こそは、英雄です。彼らは牢獄を拡大したり破壊したりできる。つまり、ひとにぎりの哲学者の存在論的定義の網の目からもれて、未知の暗黒の宏大無辺な世界を所有しうるのです。しかも、これが大切なところだが、この操作は、彼らの主観(なんという古くさい言葉でしょう)や精神の内側で行われるのではなく、主観も客観も、精神も肉体も、(ああこんな二元論的言葉は使ってはいけない)こういいましょう、彼らの世界内存在すべてをひっくるめておこなわれる。ここまでくると普通の精神医ですらもうわからない。なぜって、もう言葉がないからです。残るのは行為のみ! 狂人になる(・・)か自殺者になる(・・)かどちらかです。この場合、便法がないわけではない。それは……あなたを前にしていいにくいが、しかしあなたを誹謗(ひぼう)するわけじゃないからいいましょう……それは、異邦人になる(・・)ことです。つまり、この牢獄的世界からはじきだされ表面に浮びあがることです。ただし、この便法はあくまで便法です。それは本当の英雄的行為ではない。少し卑怯(ひきょう)な、まあ比較的安全な行為です。それでも、なお、普通の正常の(こういったときドロマールは苦々しげに口をゆがめた)そこらにうようよしている人間どもより、どれだけまし(・・)か知れん。それはともかくこの世ではない別世界をつくる。たとえばすぐれた科学者や芸術家のように……さて、クルトンだが、彼の黒い炎というのは、思想でも感覚でもない。そうだ、うまい言葉がある。それは行為なのですよ。炎は動くでしょう。燃えるでしょう、そして燃えつきるでしょう。わかりましたか。黒い炎とは自殺するという行為なのです」

「なるほど……」コバヤシはドロマールの断定的な雄弁に圧倒され、自分がフランス語の網で包みこまれたような気がした。》

 

 そして実存文学、サルトル『嘔吐』やカミュ『異邦人』との類縁性を、コバヤシが幾度も精神に異常をきたしそうに感じる場面に見出しうる。

(P214)《何か異常な変質が世界におこっていた。病棟内の雰囲気がただならぬものに感じられるのである。《疲れているせいだ。不眠のせいだ》とコバヤシは理由を自分の心や体の中に無理に探し求めた。が、それらの理由を越えた何かの変化が外界そのものから醗酵してきた。そのことに気がついたのは病棟内を巡回しているときだった。

 コバヤシを驚かしたのは外界の景色ではなかった。病棟はいつものようにそこにあった。彼はそれを微細に描写することができる。看護婦たち、ヴァランチーヌ尼の服装や動作。クレゾール石鹸水(せっけんすい)とシーツの糊(のり)の匂(にお)い。ことにも雨にたたかれている新緑の庭。コバヤシはヴェランダの端に立って、注意深く庭を眺(なが)めてみた。梨(なし)の花は散ったが、花々は今盛りであった。マロニエの蝋燭(ろうそく)型(がた)の白い花、薄紫のリラの花、浅緑の葉に隠れるような菩提樹(ぼだいじゅ)の花、それらの背後にトネリコの赤い葉が見えた。それらの花々や緑の木々は、雨の中で一際(ひときわ)冴(さ)え、何か――例(たと)えば春――を表現していることは疑いなかった。けれども、コバヤシを驚かしたのは、その景色が自分の心を、もはや少しも動かさないということだった。美しいはずの景色が美しくなかった。といって醜いのでもない。強(し)いていえば、それは嫌らしく《死滅》していた。色も形もそっくりそのままそこに見えていたが、もはやコバヤシとは無関係な、興味のない画のような、別世界なのであった。コバヤシは何かを見ているのに、何も見ていなかった。(中略)

 スープを一匙(ひとさじ)口に入れたとき、常ならぬ味と匂いがした。苦くて石油くさく、毒物でも混入してあるのかと思われた。二匙目を流しこんで慎重に味わってみた。それはごくあるふれた豆入りポタージュの味だった。肝腎(かんじん)なことは、それがおいしい豆入りポタージュの味であるという完全な資格――青くささと食塩とバターのふっくらとした厚みのある味――を持っていなかったことである。それは単なる豆入りポタージュの味で、それだけだった。コバヤシの舌は、正確に味を分析しながら、石油や毒物のもつ《味気なさ》や《胸のむかつく感じ》を知覚していた。(中略)

 どうでもいい会話、どうでもいい人間ども、自分とは無縁だと思っていた彼らを、六か月後にはすっかり忘れてしまうはずの彼らを、どうしてこうもうるさい嫌な存在として、時には今のようにくだらない迫害者として意識しなくてはならないのか。今、自分が異常であることを彼らに知られることを、どうして自分は怖れるのだろうか。

 その時、あの奇怪な壁画が、切断された裸女と無数の目が、何か親しい、よく見知っている世界としてコバヤシの目に迫ってきた。あれほど醜悪で病的だと思っていた画が、今や彼の側に(・・・・)あるのだった。何もかもよく理解できる。この無数の目は人々の、他人の、彼らの目であり、この若い女患者は、見詰められ、さいなまれ、ついには視線の刃物で体のあらゆる部分まで切断され、解剖しつくされたのである。この完全な被害妄想(もうそう)の世界には、この世と同じ温和な中間色はありえない。徹頭徹尾、原色で塗りつぶされた非現実の世界でなくてはならない。彼女は、もはや彼女であること、人間であることをやめたのである。彼女は《切断される存在》に変身しきってしまったのだ。《ぼくは狂ってしまったのだろうか》コバヤシは呟(つぶや)き、必死で強靭(きょうじん)な画の魔力から逃げだそうと焦(あせ)った。目をつぶり、又開いてみる。こんなことを何度か繰返した末、ようやく壁画が以前の醜悪な病的な世界にみえてきた。

 コバヤシはほっとした。《ぼくはまだ狂っていない》それとともに慄然(りつぜん)とした思いがこみあげてきた。《自分が自分でなくなることを怖れている今の状態、こいつはひょっとすると自分が自分で全然なくなってしまった狂気の世界の一歩手前なのだ。そして、おそろしいことにぼくは、その世界に逃げだそうとしていた。ちょうど便器の中に排泄されたものが、一瞬前まで自分のものであったものが、もはや自分のものでなくなる――あの快感、そいつをぼくは望んでいたのだ。排泄すること、つまり変身が完全ならば、ぼくは爽快なのだ。ぼくの不幸はぼくの不快は不徹底な変身のせいだ。だがなぜだろう?なぜ?》

 

 ニコルの弟、ジャンマリー少年への男色行為に関するドロマールの弁明・考察には、加賀乙彦の精神医としての生涯のテーマ「死刑囚と無期囚の心理」が反映している。

(P477)《「たしかあの子が」ドロマールは無表情だった。「十ぐらいのときだったかな。デュピベルが診察をたのみに来た。学校の成績がだめなうえ、盗癖と放浪癖があるのでなおしたいということだった。学校から友達の文房具を盗んでは持帰る、叱りつけると家を飛出し夜おそくでないと帰らない。色々検査してみると知能がわるいだけではすべてが説明つかない。どうしても、反社会的な異常性格が背景にあるとしか考えられない。そこでぼくは治療にかかった。週一回精神療法にかよわせることにしたんだ。もちろんグルクロル酸やフエノチアジン系の向精神薬など精神薄弱や性格異常に効ありとされる薬物もずいぶん試みてみた。二年前からは催眠術もつかっている。砂時計をみつめさすとあの子はたあいなく催眠状態におちるのだよ。そしてどんどん退行現象をおこす。いつだったか二歳の記憶まで再現させることができたよ。あの子は若く美しい母親に抱かれて眠っている。その闇の中へ、誰かが入ってくる。あの子は泣き、母親が獣のようなものにおさえつけられるのを見たんだ……」

「そんなことは……」エニヨンが口を挿(はさ)んだ。「そんなことは治療と関係ない。いったい、君は催眠術であの子をなおすことができたのか。あの子の素行は依然としておさまってないぜ。去年の夏はバスターミナルから切符を盗みだしたという。学校では劣等生で、とくに悪いのは善良なクラスメイトまで悪の道にひきこんでしまう。どうやらジャンマリーの非行性は悪質化の一途をたどっているようだが……」

「それはだね」ドロマールは珍しく口籠(くちごも)った。そこへエニヨンが畳み掛けた。

「失礼だが、君は患者をなおしもせず、ただいじくりまわしている。君は催眠術を乱用しているようだ。今、思い出したが、あのカミーユ・タレだって催眠術で意のままにしたのじゃないかね。クルトンが死んだ今、あの件は、時効だとしよう。しかし、ジャンマリーは、あの子の治療に関してはぼくも関心がある。いったい君はどの点まで治療に成功したと言えるんだ」

「治療は不成功だった」ドロマールはそう言うと、ひょっこり立上った。そして前掛をとり、外科帽をはねのけ灰色の髪をむきだしにした。「わたくしはあの子を治療する能力を失ったのだ。なぜなら、わたくしはあの子を愛しはじめたからだ。或る日、それは黄金の光のさす午後だったが、あの子は生れたままの形になった。美しい。実に美しい。わたくしはあの子を愛さずにはおれなかった」

 不意にドロマールの語調に不思議な抑揚がつきまとい目に顔に全体に張りができた。まるで、コメディ・フランセーズの舞台で俳優が長詩を朗読しているような具合にである。エニヨンは訝(いぶか)り顔(がお)をフージュロンへ向けた。

「ドロマール」「ムッシュ・ドロマール」二人は示し合わしたように呼んだ。「大丈夫ですか」

「大丈夫です。大丈夫ですとも」ドロマールは二人のあわて顔を面白そうに見下した。というより、夢見るような目で微笑した。

「大丈夫です。わたくしは狂ってやしません。ごく当り前の真面目(まじめ)な話をしてるのです。つまり、何故(なぜ)、自分がジャンマリーを愛しはじめたかについて考察しようというのです。よくきいてください。一度しか言いませんからね。ね、あなたがた、この世界は退屈です。愚劣で無意味です。科学は進歩するが文化は荒廃するばかり、そして誰もが目標を失って生きている。夏は去り冬が、暗い冷い死の冬が来た。そして春はもう……いや、慎重にまだといっておきましょう……まだ来ない。できることはどこかへ逃げていくことです。現にコバヤシは去ろうとしている。利巧なつまり卑怯(ひきょう)なやりかたです。彼は逃げていく国があるかのように錯覚している。しかし、この世界に逃げていく国が存在するわけがない。この世は巨大な牢獄(ろうごく)で、わたくしたちすべては無期徒刑囚なのですから。よく譬(たと)えられるように人間を死刑囚とみるのは不正確な比喩(ひゆ)です。切迫した確実な強力な死、苦悶と恐怖に圧縮された時間、いやどうも、それはあまりにも芝居じみた比喩です。誰だって狭いところにとじこめられれば狭所恐怖(クロウストロフォビイ)をおこすでしょう。時間のクロウストロフォビイの場合も同じことです。しかし、無期囚は……ああ、みなさん(ドロマールは大勢の人人の前にいるようにあたりを見廻した)、あなたがたすべたは無期囚なのにその不安の本態を自覚する人はごくわずかです。それは無限に続くかにみえる水平線にかこまれた大洋のただなかに投げこまれた人の不安です。死という予測不能な終末までの時間を牢獄の陰鬱(いんうつ)な壁の中に拘禁される。残された自由といったら自分の寿命を短くすることだけである。それは時間の広場恐怖(アゴラフォビイ)です。それこそあなたがたの正体なのです。この人間に残された唯一の自由を行使する。それが自殺です。クルトンはこの世を憎悪しました。そして未知の世界を愛した。で、彼は自殺しました。それも一つの解決法でしょう。でも、わたくしに言わせれば、彼が死を選んだのは一片のつまらない錯覚です。なぜって、この世を憎んであの世を愛したところでつまり憎悪の対極に愛を置いたところで、結局事態は何ひとつ変りはしなかった。彼は世界を変えたと錯覚して実は自分が変っただけです。もちろんこんな言い方は正確じゃありません。なぜなら、個人の知覚と無関係な、独立した世界――それは科学者の迷信ですが――などどこにもありゃしないのですから。クルトンが死んだことで、わたくしたちのこの世界は血を流したというのが正確な表現でしょう。ところで、このわたくしは他国へ逃亡もしないしあの世へ飛躍もしない。この世界にただもうじっと生きています。この世の不安をすべて受けとめ、それどころか、わずかながらも科学を愛し、それとともにジャンマリーを愛し、その他たくさんのものを愛してね。もうおわかりでしょう。愛の裏側には憎悪などない。あるのはただ不安、永劫(えいごう)に癒(いや)されぬ人間の不安なのです」

 隙間のない早口で一気に喋りおえるとドロマールは再び疲労しきったような無表情にかえり、顕微鏡のライトをカチリとつけ、標本をのぞきはじめた。》

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        *****引用または参考文献*****

加賀乙彦『フランドルの冬』(新潮文庫

加賀乙彦『フランドルの冬』(加賀乙彦「『フランドルの冬』新しいあとがき」)(小学館

*『新潮現代文学76 加賀乙彦』(平岡篤頼「解説」所収)(新潮社)

加賀乙彦『頭医者留学記』(毎日新聞

加賀乙彦『宣告』(新潮文庫

加賀乙彦『自伝』(ホーム社

加賀乙彦『死刑囚の有限と無期囚の無限 ―精神科医・作家の死刑廃止論』(コールサック社)

加賀乙彦『死刑囚の記録』(中公新書

*小木(こぎ)貞孝(さだたか)『フランスの妄想研究』(金剛出版)

ミシェル・フーコー『狂気の歴史』(新潮社)

*『ミシェル・フーコー講義集成4 精神医学の権力(コレージュ・ド・フランス講義1973-74)』慎改康之訳(筑摩書房

*『ミシェル・フーコー講義集成5 異常者たち(コレージュ・ド・フランス講義1974-75)慎改康之訳(筑摩書房

ミシェル・フーコー精神疾患と心理学』(みすず書房

ミシェル・フーコー『監獄の誕生――監視と処罰』田村淑訳(新潮社)

*『神谷美恵子コレクション 本、そして人』(「加賀乙彦『フランドルの冬』書評」所収)(みすず書房

*アンリ・エー『精神医学とは何か―反精神医学への反論』藤元登四郎他訳(創造出版)

*佐々木滋子『狂気と権力 フーコーの精神医学批判』(水声社

ジャック・ラカン『人格との関係からみた パラノイア性精神病』宮本忠雄、関忠盛訳(朝日出版社

*モーリス・メルロ=ポンティ『知覚の現象学竹内芳郎、小木貞孝、他訳(みすず書房

ハイデガー存在と時間熊野純彦訳(岩波文庫

ヤスパース精神病理学原論』西丸四方訳(みすず書房

サルトル『嘔吐』鈴木道彦訳(人文書院

文学批評/オペラ批評 『マクベス』と『ムツェンスク郡のマクベス夫人』の「二枚舌」(資料メモ) 

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 シェイクスピアマクベス』は「二枚舌」の観点から読み解くことが出来る(残念ながら、ヴェルディによるオペラ『マクベス』には「二枚舌」の台詞で有名な「門番」の場面はないが、「二枚舌」はなにも門番の場面ばかりではなく、意味的には、「魔女」の言説をはじめ、至るところに散りばめられている)。

 シェイクスピア自身の生き方もまた、カトリシズムに関して「二枚舌」であったかもしれない。

 ショスタコーヴィチのオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』もまた「二枚舌」として解釈しうる。

 ショスタコーヴィチの生涯全体が、スターリン体制下およびスターリン死後に共産党員となってからさえも、「二枚舌」のもとにあった。

 ここにおいて、「二枚舌」は必ずしも「悪」「嘘つき」の側に一方的に立つものではない。「二枚舌」でなければ、表現することはおろか、生き延びることさえ困難な、苛酷な政治体制、統治があった。

 下記の資料(引用文)で理解できるだろう。 

 

シェイクスピアの「二枚舌」――『マクベス』>

 

<玉泉八州男「シェイクスピアとカトリシズム」から>

《それ以上に問題なのは、この文書(筆者註:父親(John)の署名になる六葉綴りのパンフレット、信仰遺言書)がたとえ贋作だったとしても、それでSh.(筆者註:「Shakespeareシェイクスピア」の略)家はカトリックでなかったと結論づけるわけにはいかないという点にある。まず父親。彼は一五九二年九月二五日に「負債に対する法的措置の執行を恐れて教会に現われなかった」九名の国教忌避者(recusants)の中に名を連ねている。そして、「法的措置」云々は、彼らカトリック教徒の礼拝不参加のありふれた口実の一つであった。母メアリーは、一一七八年の土地台帳作成以前に遡るアーデン一族の一員。一五八三年愚かな女婿による女王暗殺事件(サマーヴィル事件)発覚のため、遠縁に当たるであろうパーク・ホールのアーデン家当主とサマーヴィルの首は、Sh. が出奔した当時も、ロンドン橋の上に曝されていた(Sh. の父ジョンが屋根の梁の間に信仰遺言書を隠したのも、この事件で迫害の波が及ぶのを恐れての措置と、従来は考えられてきた)。娘のスザンナも一六〇六年春復活祭の聖餐をうけなかった二一名のリストに登場する。彼の文法学校の先生たちもカトリックだった(1571−74, Simon Hunt ; 75−79, Thomas Jenkins ; 80−81, John Cottam)。そして彼自身については、死後五〇年以上経過した一七世紀末に、オックスフォード大学コーパス・クリスティ学寮つきの牧師デイヴィス(R. Davies)が、覚え書に彼はカトリックとして死んだ(He dyed a papist)と記している。そういう訳で、今日の時点では父のみならずSh. もカトリックだったと考える方が説得力があるばかりか、作品の理解もますように思われる。以下はその見地に立った、Sh. への一つのアプローチである。》

《まず一人の劇作家を扱うのに、どうして宗教的立場をそんなに重視せねばならないのか、といった素朴な疑問から入るとしよう。今日のわれわれ、とくに日本人にとって、宗教は個人的信条でしかないのだが、Sh. 当時それは公的行動全体に及ぶ大問題であった。しかも、信仰の領土帰属主義(cujus regio, ejus religio)が一般的な中で、英国国教会以外を信奉することは、多大の勇気を要し、犠牲を伴った。一六〇五年一一月五日の火薬陰謀事件の発覚がきっかけでカトリック弾圧が頂点に達するとはいえ、エリザベス朝からすでに亡命中のスコットランド女王メアリを担いでの再カトリック化計画との絡みで、臣従の誓い(the Oath of Allegiance)を行い、国教会流の礼拝をうけることが公的生活を営む最低の前提だった。不履行者は当時の文法学校教師の年収に当たる二〇ポンドを毎月科料として支払わねばならない。それを恐れて、日曜礼拝に形だけ参列する「教会カトリック(Church Papist)」が出現する所以だろう。》

《纏めていえば、「非国民」の身を終始自覚し、ユグノーや娼婦の間に身を潜め、他人との関わりをできる限り避けて非人情を貫き、蓄財に専念する。これが二五年に及ぶ Sh. のロンドンでの(単身赴任?)生活の基本だったのではあるまいか。彼はよく「温厚なシェイクスピア(gentle Sh.)」といわれるが、それは非人情を隠す愛想のよさの仮面がいつしかくっついて離れない直面(ひためん)に変わったせいだったかもしれない。

  傍観者に終始し、コミットしない、こうした生き方は、何ごとも深追いしない作劇術に繋がってゆく。キーツJohn Keats)は、Sh. が「ことをなす人間(a Man of Achievement)」らしく「消極的能力(Negative Capability)」を大量にもっていたと評したが、「不確定、神秘、疑惑の状態、つまり曖昧なままにすべてを留める能力」こそ、カトリック的生き方の芸術的昇華といってよいだろう。》

《しかも、この曖昧さはカトリック的心情の昇華に留まらず、カトリック的処世術の演劇的利用ととれる時すらある。中でも顕著なのは、二枚舌(equivocation)と呼ばれる詭弁術。古来あったこの言語表現が積極的に悪用されるようになったのは、イギリスではカトリック詮議が本格化した一五八〇年代サウスウェルの取調べからといわれている。どういうものか、一、二例をあげると、‘Are you a priest?’ と問われると、‘No, I am not.’ その心は‘not an Apollo’s priest at Delphos’ の意。‘Have you ever been beyond the seas?’ に対しては‘I have never been beyond the Indian seas’ と、これまた見当外れな答えをする。これが世間的に有名になったのは、火薬陰謀事件発覚後のイエズス会の大立者ガーネット(Henry Garnet)の詮議を巡って、当局が一六〇六年三月裁判終了後、五月までにその模様をパンフレットにして全土に配り、反イエズス会キャンペーンを実施してからのことだ。

  この当局の動きにSh. も呼応した。事件直後に書かれたであろう『マクベス(Macbeth)』(1606)の「門番の場」に早速地獄堕ちの「二枚舌」を登場させる。それだけではない。バーナムの森(Great Birnam wood)がダンシネインの丘(Duncinane hill)めがけて進軍してこなければ、滅びることはないと「第三の幻影」に予言させ、「女の腹から生まれた者に負けるはずがない」と「第二の幻影」に いわせておいて(IV. i)、枝をかざし(て森とみせかけ)た兵士を進軍させ、帝王切開で生まれたマクダフ(Macduff)と戦わせてマクベスを滅ぼす。つまり、筋の展開にも巧みに二枚舌を絡ませている。

 だが、二枚舌は『マクベス』が有名とはいえ、実はそこがSh. における初出ではない。OED が悪しき意味での用例の初出年とする一五九九年前後に書かれた『ハムレット』の五幕一場墓掘りの場のハムレットと墓掘りのかけ合いにすでに現われていた。》

《それを確認した後で『マクベス』に改めて眼を向けた時に気付くのは、二枚舌というカトリック的処世術への距離の置き方だ。『マクベス』は、曖昧さに賭けてことに及んだものの、王国の未来の支配者が誰なのか判然としない状態に耐えきれず、はっきりした見通しをえようとして魔女の二枚舌にひっかかって敗北してゆく男の悲劇。魔女が「不透明さそのものの具現化(the embodiment of the principle of opacity)」であり、二枚舌が曖昧さというカトリック的処世術を極限化したものなら、見方によっては劇自体がカトリックの自縄自縛の物語といった趣をもつ。ガーネットは裁判で二枚舌と虚偽の相違を力説したといわれるが、劇では「二枚舌」は虚偽で地獄堕ちに値するという(カトリックらしからぬ)論理が当然の前提になっている。》

《Sh. は、己れの志操と関わりなく、国王一座の座付作家としての義務の念から「安心を売る集団的儀式(a collective ritual of reassurance)」を執り行っているのだろうか。九死に一生をえた国王ジェイムズの無事を、バンクォーの子孫たるその家系の繁栄と重ねて寿ぐ「追従の劇(a piece of flattery)」をものする絶好の機会と捉えて。それとも、事件関係者一三人中六人がストラットフォードという(当局からみれば)ミッドランドの 「死角」 周辺の出身者であり、ケイツビーをはじめ Sh. と面識のあった人物がいたとすれば、火の粉がふりかからぬよう必死に防いでいただけなのか。何しろ、『マクベス』執筆の年の春聖餐を受けなかった国教忌避者たる娘を、「新教徒としての信任状」が必要と察知すれば、翌七年「非の打ちどころのない新教徒」と妻せる父親だ。あるいは、世紀の変わり目頃から、新教徒への道を歩み始めていたのだろうか。

  この最後の点との絡みを的確に捉えるのは難しいが、父ジョンが死ぬ一六〇一年頃から演劇人Sh. にも変化が訪れていた。「二枚舌」は「あるのにないふりをすること(dissimulation)」で、バーナムの森が動く「ないのにあるふりをすること(simulation)」とは厳密にいえば違うが、両者を纏めて「ふり(counterfeit)」と捉えれば、その語は一六世紀の末までは肯定的な文脈を残していた。》

《問題劇から晩年の悲劇で新教徒への道を歩み始めていたようにみえて、最晩年の最晩年のロマンス劇では奇跡や神の出現がみられるカトリック的世界へ再び回帰してゆく。要するに、徹頭徹尾「二重意識」「消極的能力」の持主だったということだ。そして、見方によっては、そこにこそ彼の劇作家として最大の存在事由があったといえなくはない。》

  

<ジェイムズ・シャピロ『『リア王』の時代 一六〇六年のショイクスピア』から>

《一六〇六年の春にシェイクスピアの『マクベス』の初演(訳者(河合祥一郎)註:『マクベス』の初演は不詳であり、これは推定。記録に残る『マクベス』上演は、一六一一年に医者サイモン・フォーマンが観劇を記録したもの)を観た観客は、劇の核となる場面、すなわちすべての元凶となるダンカン王殺しの場を見られなかったことに驚いたかもしれない。殺人の現場を演じないというのは異例の判断である。観客もそれを見たいと思っていただろうし、シェイクスピアのそれまでの悲劇では見せていたのだから。(中略)

 ダンカン王が舞台裏で殺された直後、殺害の場がなかった埋め合わせに、シェイクスピア作品のなかで最も場違いな場面がやってくる。あまりにも変わった場面なので、サミュエル・テイラー・コールリッジら初期の批評家たちは、「大衆を喜ばせるために誰かほかの人が書いたのではないか」と疑ったほどだ。二日酔いで、くだらぬことをよくしゃべる門番が、城の門を叩く音を聞いて訪問客を迎え入れる自分の仕事を果たそうと、ゆっくりと音に反応する。この役は恐らく初演時に、劇団の賢い喜劇役者ロバート・アーミンが演じて評判をとったのだろう。アーミンのためにシェイクスピアはつい最近『リア王』の道化役を書いたばかりだ。門を叩く音は、門番の登場前から始まる。最初にそれを聞くのはマクベスだ。「何だ、あの音は? どうしちまったんだ、俺は、ちょっとした音にもびくつくのか?」(第二幕第二場六一~六二行)とマクベスは言う。ちょうどマクベス夫人が舞台裏の寝室で眠っている護衛たちにダンカンの血をなすりつけているときだ。戻ってきたマクベス夫人が舞台裏の寝室で眠っている護衛たちにダンカンの血をなすりつけているときだ。戻ってきたマクベス夫人も、音を聞いて夫に言う。「南の門を叩く音が。お部屋に戻りましょ」(第二幕第二場六〇~七〇行)。音は執拗に再び聞こえて、夫婦は急ぎ退場する。

 門番の場をシェイクスピアが書いたかどうかをコールリッジが問題視した数年後、トマス・ドゥ・クィンシーが「『マクベス』の城門のノックについて」という見事な論文で、この場面を擁護した。「別の世界が入りこんできており、人を殺したマクベス夫妻は人間界の外へ、人間的目的や人間的欲望の領域外へ連れ出された。夫妻は姿も変わり、マクベス夫人は女でなくなり(・・・・・・)、マクベスは自分が女から生まれたことを忘れ、二人とも悪魔さながらのイメージである。悪魔の世界が忽然と現れたのだ」と、ドゥ・クィンシーは論じる(訳者註:ドゥ・クィンシーの論の要点は、「極度の緊張状態や偉大なる人物の死などに伴う厳粛な沈黙が破れるとき、中断された生命が蘇り、血が通い出して日常性が戻って来る、それこそが沈黙を破る門を叩く音の効果なのだ」というもの。(中略)シャピロはドゥ・クィンシーの論旨を汲まず、地獄の門番という「見立て」によって悪魔的なるものが表象されるとしている)。シェイクスピアは悪魔的なものに安易な説明をつけず、マクベス夫妻がこれから経験し、スコットランドに味わわせることを生き地獄としてイメージさせている。そのために、門番に自らを「地獄の門番」(第二幕第三場二行)と想像させるのだ。中世イングランドにあった今ではほとんど忘れかけられた聖史劇のお決まりの登場人物である。そんな発想をすることで、この劇の最も実際的な場面において、地獄を呼び出すという行為を見せてくれているのである。シェイクスピアは、『リア王』でもそうしたように、悪魔を出すとどうしても強くなってしまう道徳色を回避しつつ、超自然なるものを呼び起こしている。(中略)

 門番は次に、地獄にまた誰かやってきたと想像する。名前のない「二枚舌野郎」だ。「ドン、ドン。誰だ、悪魔の名にかけて答えろ。いよっ、こいつだな、言い逃れをする野郎は。こうも誓えば、ああも誓う、神様のためなんて言って謀叛を犯しやがって、神様には二枚舌は通用しなかったわけだ。おう、入れ、二枚舌野郎」(第二幕第三場七~一一行)。まるでシェイクスピアは、その春流行っていたジョーク――つまり、謀叛人のガーネットが「処刑台で二枚舌を使うだろう」というジョーク――を聞き及んでいたかのようだ。それをさらにひとひねりして、イエズス会士が二枚舌を使ってうまいこと天国へ行こうとして失敗し、とうとう地獄にやってきてしまったかのように観客に想像させたのである。

 関連は、そればかりではない。門番は、最後に登場したマクダフに対して、なぜ門を開けるのにこんなに時間がかかったのかを二枚舌を使い続けながら説明する。「はっ。二番鳥が鳴くまで飲んでおりました。酒は、三つのことを惹き起こしなすんで」(第二幕第三場二三~二四行)。マクダフが挑発に乗って、「何だ、その、酒が惹き起こす三つのことっていうのは?」と尋ねると、門番は答える。

    はい、鼻が赤くなること、眠ること、それに小便であります。女とやりたいっ

て気にもさせますが、萎えさせもします。欲望を刺激しながら実行はできないようにする。それゆえ、大酒は、色事に二枚舌を使うと言えます。その気にさせて、だめにする。むらむらさせて、ふにゃっとさせる。突っ張っといて、がっかりさせる。立たせておいて、立たなくさせる。結論としまして、二枚舌で眠らせ、よう、この嘘つき野郎、よう、よう、と用を足して、しゃーっと出て行きます。(第二幕第三場二七~三五行)

 好色、飲酒、二枚舌についての冗談は、さらに、二枚舌を使うガーネットの深酒と有名な女遊びへの当てこすりとなっている(ソールズベリー伯でさえ、このことでガーネットをからかわずにいられなかった)。(中略)

 この劇における最も重大な曖昧表現は、マクベスとバンクォーが最初に魔女たち――実は「魔女」とは一度も呼ばれておらず、「この世のものでない姉妹(運命の三姉妹)(Weird or Weyard Sisters)」とのみ言及されているのだが――と出会う場面で起こる。最初の魔女がマクベスを「グラームズの領主」と呼び、二人目が「コーダーの領主」と呼びかけ、三人目が「やがて王となるお方」と呼ぶ。それからバンクォーに「王を生みはするが、ご自身は王にはならぬお方」と言う(第一幕第三場四九~六七行)。どれも嘘ではないが、重要な情報を告げていないという点で二枚舌になっている。つまり、王になるためには王を殺さねばならないと告げていないし、バンクォーには、生きて予言の成就を見ることはないと告げていない。二枚舌のせいで、『マクベス』の対話を理解するのは精神的に疲れることになる。観客は――二枚舌を使うイエズス会士と話をする役人同様に――言葉どおりの意味なのか、そうでないなら、心理保留によって隠されていることは何なのかを理解しようと努めなければならない。しかし、二枚舌を使って言葉にされなかったものがあるとすれば何なのか、決してわかることはない。「きれいは汚い……」(第一幕第一場一一行)という一見矛盾する表現の意味がはっきりするのは、「嘘の外面を見抜きさえすれば」という条件をクリアしてその答えが得られたときのみなのだ。

 二枚舌(曖昧表現)はこの劇の至るところにある。マクベスが妻に手紙を書くとき、バンクォーの末裔が王となるという予言は言わずにいる。ダンカンの護衛たちを殺したことの言い訳をするときも、二枚舌を使っている。「誰がじっとしていられよう、愛する心があるのなら、そしてその心に愛を示す勇気があるのなら?」(第二幕第三場一一八~二〇行)(訳者註:表の意味は「ダンカン王を愛する心があるなら、その王を殺した犯人を目の前にして誰がじっとしていられよう」であるが、マクベスが心の中で言っているのは「妻を愛する心があるなら、決行するしかない」という意味だと解釈される。)。心理保留がマクベスの第二の天性となっているのだ。マクベスは、バンクォーとフリーアンスを殺すために放った二人組の殺し屋たちに、三人目が加わることをわざと言わない。そして、夫人がマクベスに「何のこと?」と尋ねるときも、「かわいいおまえは知らずともよい」(第三幕第二場四八行)と言う。破滅するバンクォーが、神こそが人の心を読むことができ、隠された陰謀を暴くことができると言って、心理保留が実は虚偽にすぎないことを鋭く指摘しているのは皮肉である。

   私としては、大いなる神の御手にわが身をゆだね、

   そこから、隠された陰謀を暴き、

   謀叛の悪意と戦うつもりだ。 (第二幕第三場一三二~三四行)

 二枚舌を使うのがマクベスの習慣になればなるほど、マクベスは魔女から更なる保証を求めようとし、魔女たちはマクベスの希望につけ込み、なおも二枚舌を重ねて、悪霊を呼び出す。悪霊は「女から生まれた者にマクベスは倒せぬ」のだから「大胆に血を流せ、憶するな」と命じ、「広大なバーナムの森が」ダンシネーンの丘に向かってくるまではマクベスは決して滅びぬと告げる(第四幕第一場七九~八一、九三行)。バーナムの森から切り取られた枝をかざして軍隊がダンシネーンの丘を目指すのを信じがたい思いで見守るマクベスは、「真実のように嘘をつく悪魔の二枚舌」(第五幕第五場四三~四四行)の破壊的な結果を身にしみて知るのである。最後に、マクダフが女から生まれていない――帝王切開だったので、「母の腹から月足らずで引きずり出された」(第五幕第八場一六行)――と知ると、マクベスはついに二枚舌にやられたと考える。

   あの嘘つきの悪魔など、もう信じまい。

   二重の意味で翻弄し、

   耳に入れた約束の言葉は守りながら、

   その期待を裏切りやがる。 (第五幕第八場一九~二二行)

 観客はマクベスとともに絶望のどん底へ突き落される。地上の地獄だ。「もう日の光を見るのはうんざりだ。この世の秩序など崩壊してしまえ」(第五幕第五場四九~五〇行)と、マクベスは言う。シェイクスピアにおけるたいていの悲劇の主人公と違って、マクベスには死に際の悟りの台詞はない。最後に聴く内省の弁は、今引用した、二枚舌の働きについてようやく得た洞察の言葉である。

 二枚舌はマクベス夫人をも破滅させる。自分がダンカン殺しに関与したことを忘れようとし、また夫が関与したことも忘れようとして、夫人は二枚舌に熟達する。マクベスがバンクォーの亡霊を見て怯える宴会の場がよい例だ。夫人は、客たちに飄々と二枚舌を使ってこう言う。

   主人はよくこうなるのです。

   若い頃からそうでした。どうぞ、座ったまま。

   発作は一時的なもの。すぐにまた

   よくなります。 (第三幕第四場五三~五六行)

「よくなります」の「よい(well)」は、このあと劇の最後まで二十回ほど繰り返されるが、「よい」とは何がよいのか曖昧な表現だ。口にしたことと、二枚舌を使って言わずにおいたことの違いを完璧に例示するかのように、正気を失った夢遊病マクベス夫人は、あからさまに言えない「隠され、知らぬふりをされているもの」を書きつけ、それを読み直さずにはいられない。「ベッドから起きられて、ナイトガウンをお羽織りになり、戸棚の鍵を開け、紙を取り出し、折り畳み、何か書きつけ、読んでから封をし、またベッドにお戻りになりますが、そのあいだじゅうずっとお眠りになったままなのです」(第五幕第一場四~七行)と侍女は報告する。》

ハムレットが二枚舌のことを政治色なしで言及できた時代は終わっていた。一六〇六年初頭までに、二枚舌がいったん根付いてしまうと、「あっというまに、信念も真実も信用もなくなる」という恐怖はあまりにも現実的なものとなっていた。

 マクベスにおけるシェイクスピアの最も強烈な洞察は、そのような悪弊の広まった状況では――中世スコットランドであろうが、ジェイムズ朝のロンドンであろうが――悪のみならず善もまた二枚舌を使うと見抜いていることだ。故郷ストラットフォード・アポン・エイヴォンのみならずロンドンでも、火薬陰謀事件のあとでは疑いの文化が根付き、もはや元には戻らなかった。『マクベス』の後半では、最も尊敬されるべき人物たちでさえ、誓っておいて嘘をつき、道徳を地に落としている。たとえば、気高く見えるマクダフは、スコットランドから逃げ、家族を置き去りにしてしまう。妻が息子に、父親のマクダフは「誓いをたてて、嘘をつく」「謀叛人」でると話す場面をどのように解釈したらよいのだろうか。(中略)

 マクダフ自身もやがて二枚舌の犠牲となる。口の重いロス卿が、マクダフの妻子が殺されたことを伝えなければならなくなって、意味深い「安らか」という語を――騙すつもりではないのだが――曖昧に使うのである。(中略)

 十一月五日に実際に破壊的攻撃があったわけではないものの、人の心が破壊され、取り返しのつかぬことになったのだ。その変化が『マクベス』に反映されている。一気呵成に書き上げようという勢いがあったことを考えれば、終わり方がすっきりしないのも説明がつく。慌ただしく体制が回復されるものの、どうも頼りなくしっかりしていない。現代の演出家のほとんどが、演劇でも映画でも、エンディングに手を入れたくなるのもしかたがない。二枚舌を封じ込めて、すっきりさせるために悪の根源は悪魔にあるとしてしまうのは、クックやダヴのような悪魔使いと発想と変わらない。マクダフが最後にマクベスの斬られた首を高く掲げて登場すると――再び舞台裏でのスコットランド王殺害であり、観客はそれを目にせず、想像するだけとなるわけだが――そうなると、多くの未回答の答えから観客の気は逸れてしまう。謀叛人の二枚舌野郎の首が一旦、棒の先に掲げられたら、悪はやっつけられたということなのか。「この死んだ人殺しと悪魔のようなその妃」(第五幕第八場七十行)とけなせばよいだけなのか。もしバンクォーが、フリーアンスの血筋によって代々の王の父となるのであれば、どうして『マクベス』はマルカムが王位に就いたところで終わるのか。バンクォーの末裔がマクベスに代わってダンカン王の系譜を受け継ぎ、スコットランド王ジョイムズにまで至るまで、どんなさらなる流血があり、悪魔的な力が介入するのか。》

(オペラ、ヴェルディマクベス』には「門番」による「二枚舌野郎」の場面はない)

 

 ショスタコーヴィチの「二枚舌」――『ムツェンスク郡のマクベス夫人』>

 

亀山郁夫『磔のロシア スターリンと芸術家たち』「テロルと二枚舌 ――ショスタコーヴィチの闘い」と『ショスタコーヴィチ 引き裂かれた栄光』から>

《一九三〇年代のソビエトに澎湃(ほうはい)と湧き起こった文化革命を見まもるショスタコーヴィチの真意をさぐるうえで最大の鍵となるのは、彼が何よりも革命の子であり、革命の理念を引き受けるという素朴な信念から作曲家としてのスタートを切っている事実である。

 一九二六年にモスクワ音楽院に提出されたデヴュー作交響曲第一番は、抒情、アイロニー、暴力という、おもに三つの要素からなる彼の音楽の特質を浮きぼりにする、ある意味で原型的ともいうべき作品へみごとな仕上りをみせた。十月革命からほぼ十年、ネップ(新経済政策)下でのリベラルな気分を反映して、溢れるばかりの才気に満ちたその音楽には余分なおごりはいささかもなく、前衛かアカデミズムか、アイロニーか悲劇か、といった硬直した問いも、作品全体が放つ抒情的な煌めきのなかに渾然と溶け合っている。(中略)

 しかし、一九三〇年代が明けると、ショスタコーヴィチはもはや安閑とおのれの想像力に浸り、作曲に没頭することはできなかった。結婚その他、私生活面での大きな変化はさておき、当局による監視の目がたえず彼の身辺につきまとっていたからである。そうした抑圧的な状況を切りぬける手だては、この時代のすぐれた芸術家に共有された「二枚舌」(ないし「イソップの言語」)を徹底して鍛えあげることにしかなかった。作品の内部にみずからの真意をしまいこむ作業、簡単にいうなら、建前と本音の巧みな使い分けである。ショスタコーヴィチの直弟子で作曲家のウスペンスキーは、そうした「サバイバル」の手法をめぐって、「一歩後退二歩前進」という表現を用いている。この表現は一面でたしかに、スターリン時代のソビエト楽壇を生きぬいたショスタコーヴィチのみごとな処世術を言い当てている、かりに、ソビエト権力への譲歩や屈服を「後退」と決めつけるとしたら、それは大きな誤りであり、「後退」が果たして作曲家の不幸であったのか、というと必ずしもそうとは言いきれない。

 たとえば、一九三六年一月にスターリンによって「荒唐無稽(スンブール)」の一言が浴びせられるや、ショスタコーヴィチは、たちまちにして古典主義的な明晰さに回帰し、みずからの「本心」や「意図」を、その、高度にインターテクスチュアルな彩りのなかにしまいこんだ。他方、ショスタコーヴィチがお手のものとした、鮮烈かつ暴力的な音作りは、戦争、ファシズムの音楽的メタファーにいともたやすく転化させられ、検閲当局がお望みとあれば、同じイントネーションとリズムを用いて、底なしに楽天的な音楽を書くこともできた。ショスタコーヴィチにとって「後退」と呼ばれるモメントは、あるいは、自分を駆りたて、追いつめる原動力としても不可欠のものであったのである。(中略)

 だが、ショスタコーヴィチの音楽とは、むしろ「前進」も「後退」も含めたトータルとして理解すべき何かなのであり、「前進」のみに彼の音楽のポジティブな側面を聞きとるやり方は、全体主義下において芸術家が強いられた役割や、政治権力との相関性のなかではじめて意味をもつソビエト芸術の本来的特質をむしろ一方的にねじ曲げるものでしかない。ショスタコーヴィチ音楽の特質を考える際には、当然のことながら、スターリン主義という「所与」の条件を忘れてはならない。しかも彼が、プロ・ソビエト的な音楽を、たんなる「禊ぎ」として受け入れただけでなく、彼自身がそこに「蕩尽」の役割を担わせていたのであれば、なおさらのことである。早くして革命の洗礼を受けたショスタコーヴィチは、はじめから革命との、権力との、スターリン主義との対話をバネに作曲に励み、時には権力の要請に喜んで手を貸したこともある。全体主義の強大な抑圧のもとに生きる芸術家にとって、ベートーヴェンマーラー風の自己劇化の完遂は羨みの的となった。もとより、集団主義を国家イデオロギーの根幹にすえるソビエト権力が、芸術家のみに許される、そうした甘い特権を許容するはずもなかった。なぜならスターリン主義が芸術家に求めていたのは、あくまで、スターリンと同じ夢を見る力だったからである。》

 

 ここからは、亀山郁夫ショスタコーヴィチ 引き裂かれた栄光』を引く。

ショスタコーヴィチがオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』に着手したのは、一九三〇年十月のことで、時期的にはバレエ『黄金時代』の初演とほぼ重なっている。完成が一九三二年十二月であるから、約二年の歳月をかけたことになる。》

《舞台は、モスクワ郊外の富裕な商家イズマイロフ家。イズマイロフ家に嫁いで五年目になるカテリーナは、義理の父ボリスと夫ジノーヴィーとの生活に疲れ、辛い日々を送る。そんなある日、製粉所の堤防が壊れたため、夫のジノーヴィーが泊りがけで外出する。その夜、イズマイロフ家に新たに下男に入ったセルゲイがカテリーナの寝室を訪ね、二人は関係をもつ。だが、その事実はまもなく義理の父ボリスに知られるところとなり、事実の露顕を恐れたカテリーナはボリスを殺鼠剤入のキノコ料理で殺害する。その後も、カテリーナの寝室で逢瀬を楽しむ二人だが、カテリーナはボリスの亡霊に苦しめられ、狂気のきざしを示す。帰宅したジノーヴィーは、二人の不義の現場を押さえ、カテリーナに鞭打ちを浴びせるが、そのジノーヴィーをセルゲイが殺害する。やがて二人は結婚式を挙げるが、披露宴の最中、酔っ払って納屋に入りこんだ百姓がジノーヴィーの死体を発見し、警察に通報、二人は逮捕される。二人は、シベリア送りとなるが、すべてを失ったカテリーナにとってはいまや護送集団のなかで会ったセルゲイがすべてだった。だが、そのセルゲイは、同じ集団のなかの女囚人ソネートカに気を移していた。絶望し、復讐心にかられたカテリーナは、湖をわたる船の上からソネートカともども身投げする……。

 以上がオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』のおおよその筋だが、レスコフの原作とはいくつかディテールが異なっている。オペラの台本の執筆にあって、上演上の制約からいくつか変更が行なわれたと見るべきだろう。そもそもこのオペラのもつ扇情的な性格からして、とうてい子どもを舞台に載せるわけにはいかなかった。

 レスコフ原作のオペラ作曲へと向かったショスタコーヴィチは、当初、「女性に関する」ソヴィエト版『ニーベルングの指輪』を書きたいという意図を周囲にもらしている。ただしそれがどこまで本意であったかはわからず、たんなる口実にすぎなかった可能性もある。》

《『ムツェンスク郡のマクベス夫人』の初演は、一九三四年一月二十二日に、レニングラード・マールイ歌劇場で行われ、モスクワでは二日遅れて、ボリショイ劇場支部にあたるモスクワ劇場で初演された(モスクワ初演では、『ムツェンスク郡のマクベス夫人』ではなく『カテリーナ・イズマイロワ』のタイトルが採用された)。レニングラード初演の指揮をとったサモスードは、「一時代を築くオペラ」と絶賛し、これに類するオペラは、チャイコフスキーの『スペードの女王』を措いて他にない、とまで明言した(サモスードの念頭には、一九三五年に同じレニングラード・マールイ劇場が初演したメイエルホリドによる演出のオペラがあった)。

 ネミローヴィチ・ダンチェンコの演出によるモスクワ初演は、ショスタコーヴィチの解釈よりむしろレスコフの原作を優先させ、これを完全にリアルな悲劇として描くことをめざすもので、ひとりカテリーナへの上茶的な肩入れを避け、シェークスピアの「マクベス夫人」により近く、強烈な自我と個性を発散する女性像を浮かび上がらせることをねらいとしていたという。(中略)

 レニングラード、モスクワとも初演後の反響は上々だった。ショスタコーヴィチの親しい友人で、大の音楽通で知られた赤軍将校トゥハチェフスキー、モスクワ芸術座の創設者である演出家のスタニスラフスキー、作曲界の大御所ミャスコフスキーらもこぞって賞賛している。》

《一九三六年一月二十八日、共産党の機関紙『プラウダ』に発表された小さな論文が、ショスタコーヴィチを恐怖に陥れた。記事の見出しは「音楽ならざる荒唐無稽」となっており、当時、世界的に人気のあったオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』を徹底して批判する論文だった。批判の内容は大きく三つの点に絞られている。一に、その極左的な荒唐無稽(形式主義)、二に、「俗悪な」自然主義、そして三に、物語のモラルである。検閲当局のみならずスターリン自身の意志がそこに働いていることは、スターリンの語り口をまねた悪意ある文体そのものから容易にうかがい知ることができた。(中略)

 スターリンと二人の政治局員ジダーノフとミコヤンの二人がモスクワ劇場を訪ねたのは、正確に、一九三六年一月二十六日のことである。ソレルチンスキー宛の手紙によると、その夜、ショスタコーヴィチは、四幕が終った時点でカーテンコールを受け、舞台で拍手に応えたが、その時すでに、スターリンら一党の姿はなかったという。(中略)

プラウダ』批判は、音楽そのものの成り立ちから、芝居そのもののモラルにいたるほぼ全面否定に近いものであった。では、その批判の意図はどこにあったのか。初演以来、レニングラードですでに八十三回、モスクワで九十七回の公演を重ね、いまや世界の名だたるオペラハウスが次々とレパートリーに加えようとしていたソヴィエト・オペラの傑作に対して……。》

《思うに、一九三六年一月時点における上演禁止という事態は、ある意味で一つの長いプロセスの結果だったと見ることができる。ショスタコーヴィチは、すべての男性主人公たち、セルゲイ、ボリス、ジノーヴィーに、富農ならざる抑圧者の影を見ることで、このオペラを富農撲滅のスローガンに集約される農村集団化の流れに全面的にリンクさせられるとの読みを抱いていたのかもしれない。またこのオペラが、その、あからさまに性的な内容にもかかわらず広く聴衆に受け入れられ、圧倒的人気を博した背景には、そうした主題面での安心感があったと見られる。と同時に、そうした共通の理解があったからこそ、当局もまたショスタコーヴィチの書法上の独走を大目に見てきた一面もあったのではないか。この時期、そもそもカテリーナがオペラのヒロインとして許容されていたのは、彼女が、旧体制の破壊者、ナロードニキの革命家ソフィア・ペロフスカヤにもなぞらえられる存在であったからである。

 事実、「史的唯物論の原則」にのっとったテロリズムは、一九三四年十二月一日のキーロフ暗殺事件までは、それなりに容認され、公的な承認を得ることができた。しかし、この暗殺事件以後、状況はがらりと一変する。かりにこの事件が、スターリン自身による陰謀ではなかったと仮定するにせよ、キーロフ事件によって現実化した個人的テロルは容赦なく断罪されなくてはならなかった。つまりこのオペラは、キーロフ事件以後の複雑に込み入った政治状況のなかで、ことによると個人的なテロルへの容認、あるいはその正当化と見られる恐れがあったということである。キーロフ事件を演出したスターリンは、おそらくその「演出者」として事件の行方を特別の関心をもって注視しつづけていたにちがいない。そしてその結論の一つに、すべてトロツキー一派に帰せられるべき個人的なテロルに対する弾圧があった。端的に言うなら、『ムツェンスク郡のマクベス夫人』におけるカテリーナ(=ショスタコーヴィチ)は、いずれ、「トロツキスト」の汚名をこうむる可能性があったということである。》

《翻って、モスクワ劇場でこのオペラを観たスターリンの内心はどのようなものであったろうか。スターリン自身の立場に限りなく寄り添い、その内面に錨を落としていく時に、にわかに湧き起こってくる疑問についてここで率直に述べておこう。怒り心頭に発したスターリンが「スンブール(荒唐無稽)」と声を荒げた場面とは、たとえば、マクドナルドが指摘する第三幕七場の警察署(スターリンは警察署長を自分に対するパロディと感じたとマクドナルドはいう)でもなければ、第四幕九場の流刑囚のシーンでもなく、カテリーナによる義父殺し、さらには夫殺しでもなかったのではないか。ましてや、文字通り、「荒唐無稽」な「ポルノフォニー」でもなかったろう。親族殺人を扱った文学や演劇が、しばしば猟奇性を帯びるのは、無意識のタブーの縛りが大きいだけ、人々の意識下の思考や願望に強く働きかける作用をもつからである。

 スターリン自身の内面に親族殺人のモチーフが持ちうる影響力の強さを考えてみる。このオペラの初演におよそ一年半先だつ三二年十一月(十月革命十五周年のその日)に、スターリンは妻のナジェージダ・アリルーエワをピストル自殺で失っている。当時からこの事件については、スターリンが妻を銃殺したとの噂が広く巷間で囁かれていた。そればかりか、「毒殺」の噂は、一口話その他を介して革命の父レーニン(一九二四年)、軍事人民委員フルンゼ(一九二五年)、高名な精神病理学者ベフテーレフ(一九二七年)らの死とも関連づけられて人口に膾炙していた。

 映画や文学に対する関心の強さとはうらはらに、音楽に対するスターリンの知識はきわめて限られたものであった。舞台上のさまざまな約束事に縛られ、リアルな物語としてはなかなか感情移入しにくいオペラのジャンルが、スターリンの嗜好に合うものではなかったことは確かであり、たとえそれが大ヒット中の『ムツェンスク郡のマクベス夫人』であっても例外にはならなかったろう。このオペラがどれほど扇情的で「俗悪」なテーマを扱っているとはいえ、スターリンみずから率先して形式主義批判のキャンペーンの口火を切るほどの大きな口実を与えたはずはない。音楽的手法のレベルで言えば、この『ムツェンスク郡のマクベス夫人』よりも前作『鼻』のほうがはるかに先を行っていた。

 スターリンがこのオペラに驚愕したのは、むしろオペラをめぐる周縁的な事実、つまり、レニングラードの市民がこれほどまでこのオペラに熱狂しているという事実そのものではなかったろうか。ひょっとすると彼らの熱狂のうちに、スターリンはみずからの「過去」に対する不信を見てとったのではないか。さらにいうなら、義父「毒殺」のモチーフは、スターリンのなかで、党内の尊属殺人ともいうべきキーロフ暗殺への連想をいやおうなく呼び招くものとなったのではないか。それは、たとえば、ハムレットの「劇中劇」にも似た役割を帯びて……。そう、そこに現出したのはまさに、クローディアス=スターリンの同一化というまれなる事態であったのだ。》

 

 ここで「テロルと二枚舌 ――ショスタコーヴィチの闘い」に戻る。

スターリン権力による大テロルが猖獗をきわめる一九三七年、「荒唐無稽」批判によって窮地に立たされたショスタコーヴィチは、みすからのサバイバルを賭けて、当局の批判に答える義務があった。スターリンとしては、パステルナークが『イズヴェスチャ』紙(一九三六年一月)に発表した壮大なスターリン讃歌に匹敵する音楽を、あるいは、交響曲第二番、第三番に類する合唱つきの「党カンタータ」を期待することができた。他方、シュヴァルツが言うように、ショスタコーヴィチにかりに本気で譲歩する覚悟があったら、標題交響曲ないし歌入りの交響曲を書くことで、党への忠誠を示す方法も考えられたはずである。しかし、ショスタコーヴィチは、純粋な管弦楽曲、歌詞ぬきの交響曲で批判に応えることになった。そしてそこにはおそらく次の二つの理由があったと考えられる。

 一、当局ないしスターリンに対するあからさまな礼賛となることを避け(礼賛は、「二枚舌」ないし党へのへつらいの嫌疑を招く)、できれば、控えめなかたちでその忠誠心を呈示したかった。そうするほうが、スターリンの意に添うだろうとの読みがあった。

 二、歌詞を添えないことで、交響曲の内部に、さまざまな秘密の仕掛けを設けることができる。外部からの批判なり解釈なりに対してどのような対応も可能となる。》

《一九三七年一一月二一日、交響曲第五番の初演が終わり、フィルハーモニー大ホールのステージで必死に汗をぬぐうショスタコーヴィチは、みずからの「二枚舌」が見破られなかったことを喜んでいたのか。それとも、その汗は、「社会的要求」に応えることができたという安堵感の現われだったのか。

 交響曲第五番とは、社会主義リアリズムの音楽、あるいは勝利の音楽ではなく、スターリン権力のもつ悲劇性を、肯定と否定に揺れるアンビバレントな意識のなかで体現した音楽、あるいは、スターリン権力をめぐる、一種のメタ音楽だったといえるかもしれない。そして、逆説を恐れずにいうなら、そのアンビバレントこそ、この音楽のドラマを最高の明晰さに変えたものの正体でもあったにちがいない。いずれにせよ、この交響曲におけるショスタコーヴィチの意図とは、時代の悲劇性をスターリンと共有することにあった。だが、実際にこの曲の初演に接したレニングラードの聴衆はちがった。この音楽のただならぬ、「途方もない」響きに耳を傾けながら、彼らは、その音楽がはらむあまりに危険な意味を口にすることができなかった。彼らは、われらがショスタコーヴィチの行く末をひたすら案じ、トゥハチェフスキー(筆者註:親しかった赤軍元帥だが粛清死)の運命に思いを馳せていた。と同時に、音楽本来のディオニソス的な力に身をまかせ、一切の権力の抑圧からの解放をそこに感じていたのである。タラスキンによれば、一九三七年一一月二一日のフィルハーモニー大ホールに現出したのは、まぎれもなく一つの独立した「世論」だったということである。であるなら、この交響曲こそは、本来的な意味での、スターリン批判たりえたかもしれない。それゆえ、政治権力が集中するモスクワでの初演について、これを危険視する声があったのも不思議ではない。だが、権力側にしても、この交響曲のもつ力を、形式主義的、ブルジョワ的、悲観的として指弾するわけにはいかなかった。ショスタコーヴィチの反抗を反抗として認知することは、当局の威厳を根本から揺るがすものとなりかねなかったからだ。『ムツェンスク郡のマクベス夫人』に「荒唐無稽」の断を下したあと、ショスタコーヴィチに改めて批判の矢を浴びせ、つめ腹を切らせることは、むしろ当局の文化政策にとってこの上ない屈辱となるはずだった。しかも聴衆(初演は党関係者を集めて行われた)がこの交響曲に感じた素朴なシンパシーと当局(ないし権力)の理解のズレをこれ以上に意識させることは、むしろ当局みずからの見識を疑わせる恐れもあった。だから、この音楽のもつ光明とカタルシスの部分(シンバルによる昇華)にのみ注意を向けることが自らのメンツを保つ唯一のよすがとなったのではないか。第四楽章コーダに登場する三度の転調を、当局は、不幸中の幸いとみなし、その部分にすべての政治的な意味づけを集約させることで、事態の解決を図ろうとしたのだ。そのパッセージは、たしかに、国家の威光に対する讃歌のような響きがある。だが、ショスタコーヴィチはむろん権力の一方的な勝利など許すつもりはなかった。むしろ、権力それ自身が、おのれの安泰のために、この曖昧さのなかに、いうなれば、「公共の嘘」(タラスキン)のなかに自己避難を試みたのである。当局いやモスクワはみずからの権威保持のためにその危険性に目をつぶらざるをえなかった。ショスタコーヴィチの真の勝利はそこにあった。その勝利とは、限りない曖昧さのなかに一切の真意を隠しこむ一種の完全犯罪にも似るものであった。

 

ジジェク『オペラは二度死ぬ』から>

 

ショスタコーヴィチの『マクベス夫人』は、こうした性行為の写実的、音楽的描写においてさらに過激な方向に一歩踏み出している。この描写に関連して、ここでは『マクベス夫人』を『トリスタン』および『ばらの騎士』と比較してみるのもおもしろいだろう。ワーグナーにおいて顕著なのは、内的な緊張の発生と、それに対するオーガズム的な解決である(第二幕の終結部ではオペラ史上もっとも衝撃的な中断性交が起こり、それに対しフィナーレではオーガズム的な解決がもたらされる)。ショスタコーヴィチの『マクベス夫人』における特筆すべき、もっとも有名な要素は、第三場における、好色のかぎりをつくしたカテリーナとセルゲイの性的なやりとりをオーケストラによって生き生きと描写した部分である。つまりそれは、性行為特有のあえぎ声や激しい動きを「外面的」にミッキーマウス化すること(アニメのように、体の動きと音楽を正確に一致させること)であり、そこには、オーガズムのあとの、あのぐったりした感じを滑稽まじりに表現するトロンボーンの滑音も含まれる。『ばらの騎士』の、オーケストラによる短いプレリュード――これは歓喜に満ちあふれたセックスの場面の表現であり、突き上げるような動きの模倣、絶頂の瞬間をまねたホルンの歓声、快感に浸りきった余韻をともなっている――は、中間的な位置にある。つまりそれは、なまの性的な情念が気取ったロココ様式に包まれたかたちで噴出したものであり、その意味では、半分想像的で半分現実的というオペラの様態自体に即したものなのである。》

《『ばらの騎士』からショスタコーヴィチの『マクベス夫人』への移行は、洗練された貴族的な礼儀作法から粗野な現実への移行である。粗野な現実とは、われわれが悲しくも現実のことのなりゆきを知る場所であり、また人々が互いに打ちのめし合い、毒殺し合う――そして性交する――場所でもある。(中略)『マクベス夫人』における性行為の、オーケストラによる描写を聴く者は、同志スターリンの意見に同意したい誘惑に駆られる。このシーンに激怒しボリショイ劇場をあとにしたスターリンは、これが最善策と考えたのか、一九三六年一月二八日の『プラウダ』紙上に「音楽の代わりの荒唐無稽」という匿名の記事を載せるように命令した。この記事がいうように、「音楽は、ラブシーンをできるかぎり自然に表現するために、がやがや騒ぎ、はやし立て、息を切らし、あえぎ声をあげる」。プロコフィエフにいたっては、ショスタコーヴィチの『マクベス』の音楽を、アイロニーをこめてこう評した。それはモノフォニーからポリフォニーへの進歩における中間段階、つまり「ポルノフォニー」である、と。(中略)

 ショスタコーヴィチが、カテリーナによる二件の殺人を家父長制の圧力に苦しむ犠牲者のおこした正当な行為として救済していることは、実際のところ、見た目以上に不吉な側面をもっている。この正当化のために不可欠なのは、つまりこの殺人を納得のいくものにする唯一の方法は、犠牲者の品位を落とすこと、犠牲者を非人間的な存在にすることである(彼女の舅は好色な悪党として描かれ、一方その息子は、明確な人格造形を与えられていない無力な虚弱者である。後者の人格造形を省いたのは意図的である。というのも、彼のことを入念に描いたりすれば、殺人シーンで彼に対する同情が生まれかねないからだ)。これを補うかたちで、カテリーナにはいかなる倫理的なあいまいさも与えられていない(彼女が殺人を犯すとき、そこにはいささかの内面的葛藤もないし、殺人のあとにも良心の呵責は示されていない)。彼女は、家父長制の圧力に抗って個人の自由と尊厳を求める人物として描かれているわけではない。むしろ彼女は、性的な情念にすっかり身を任せた女、その情念を満たすうえで邪魔になるものはすべて容赦なく叩きつぶす覚悟をもった女として描かれている。この意味では、彼女もまた非人間化されているのだ。その結果、逆説的ではあるが、このオペラにおける唯一の人間的な要素は、集団的な要素、つまり最終章に「おける流刑者の、二つの哀歌を含めた合唱である。さらに、このオペラの歴史的文脈、クラーク[富農]に対する容赦ない粛清が行なわれた時期を強調したタラスキンは正しい。殺害される父とその息子は、クラークの二つの典型ではないのか。スターリンによって上演禁止令が出される前の、オペラの公演が大成功をおさめた最初の二年間において、公衆は、オペラの暴力的な内容がクラーク解体の暴力と共鳴しているということを読みとらずにすんだのではないか。したがって、このオペラが、残忍な反クラーク運動を正当化する機能をもった、とてつもなく不穏なスターリン的(・・・・・・)作品であったという事実に。だからタラスキンはこう結論する。『マクベス夫人』は「根本的に非人間的な芸術作品」である、と。「上演禁止にあたいするオペラがひとつあるとすれば、それはこの作品である。この作品の実際の上演禁止令が、実に不愉快な誤った理由から出されたという事実によっても、この評価は変わることはない」。(中略)彼の『マクベス夫人』が同じ理由から――つまり、セクシュアリティが率直に描かれているという理由だけでなく、この率直な描写は、クラーク的、家父長的な圧政者の殺害をあからさまに支持することと同様に、公的には否認されねばならないという理由からも――上演禁止処分を受けたのだとしたら、どうだろうか。このことは、『マクベス夫人』はクラークの大量殺戮、(スターリンの言葉でいえば)クラークという「階級の根絶」を正当化しているというタラスキンの批判がなぜ的はずれであるかを教えてくれる。そのオペラがもつ、あからさまな暴力的側面は、公的な場にあっては否認されねばならなかったのであり、それゆえに、その直接的な表現は容認されなかったのである。セックスと暴力の赤裸々な描写は、一枚のコインの表と裏だったのである。

 政治的テロに関するこのポイントこそ、レーニン主義スターリン主義を分かつギャップが位置づけられる場所である。》

                             (了)

       *****引用また参考文献*****

*玉泉八州男『北のヴィーナス イギリス中世・ルネサンス文学管見』(「シェイクスピアとカトリシズム」所収)(研究社)

*ジェイムズ・シャピロ『『リア王』の時代 一六〇六年のシェイクスピア河合祥一郎訳(白水社

*アントニア・フレイザー『信仰とテロリズム 1605年火薬陰謀事件』加藤弘和訳(慶應義塾大学出版会)

亀山郁夫『磔のロシア スターリンと芸術家たち』(「テロルと二枚舌 ――ショスタコーヴィチの闘い」所収)(岩波現代文庫

亀山郁夫ショスタコーヴィチ 引き裂かれた栄光』(岩波書店

スラヴォイ・ジジェク、ムラデン・ドラー『オペラは二度死ぬ』中山徹訳(青土社

文学批評/オペラ批評 『ボヴァリー夫人』と『ランメルモールのリュシー』(ノート)

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 はじめに、水村美苗本格小説』の「ルチア」を紹介したい。

 軽井沢でのハイ・ティーの晩に照り渡る月の光を白い服に集めて、マリア・カラスの好きな春絵に嫌みを言われながら、よう子は歌を歌ったことがあった。それは「桜の園」の章で、雅之の父雅雄と京大で知りあいだった老紳士白河が、もう二十年以上も前のことになるけれど、「この辺りの言い伝えで娘が一人きりで長いこと月に照らされていると物に憑かれるというのがあるそうですが、あのときのよう子ちゃんはまさに何かに憑かれたようでしたな」と回想するコロラトゥーラの「ルチア」――ドニゼッティ作のオペラ『ランメルモールのルチア』のヒロインで、城主の妹ルチアは兄と敵対関係にあるエドガルドと恋仲だったのに引き裂かれて別人と政略結婚させられる、が婚礼の夜ルチアは夫を殺したあと狂い死にし、エドガルドも後を追う――を歌う姿だった。

「二十年以上も前のこと」という場面はこうだ。                               

《あるハイ・ティーの晩、よう子ちゃん、何か歌ったら、とゆう子ちゃんが勧めてよう子ちゃんが歌うことになり、ほかのお客様はしんみりと聴いていらっしゃるのに春絵さん一人苦笑いを浮かべ続け、歌が終わって拍手があったとたん、さあて、お口直しにカラスを掛けましょうか、と婉然と微笑んでみなさんを見回されたこともありました。春絵さんの耳にはよう子ちゃんの歌は耐えがたいものだったのかもしれませんが、その底意地の悪さに雅之ちゃんは藤椅子から立ち上がり、みなさんの見ている中を、よう子ちゃんの側へと歩いて慰めに行きました。幸いよう子ちゃんは歌い終わってぼうっとしていて春絵さんの言葉が聞こえた風もなく、照り渡る月光を白い服に集めているだけでした。》

 この逸話に象徴されるように、『本格小説』の白い服をまとって月の光を浴びたよう子も、悲恋の果ての死を迎える。言うまでもなく、女性名「ルチア」の語源はラテン語のlux(「光り」)であるが、シシリア島のシラクサで殉教した目(視覚)の守護聖人ルチアのイメージも背負っている。

                                      

 ジェイムズ・ジョイスユリシーズ』の第六挿話「ハーデス」は、ホメロスオデュッセイア』で、死者の国(ハーデス)に出向く場面を下敷きとした、主人公ブルームが友人ディグナムの葬儀に列席する話だが、その一節に「ルチア」への言及がある。

若いころオペラ歌手を目指し(ジョイス『ダブリン市民』、『若い藝術家の肖像』に痕跡を見出せる)、同郷のテノール歌手に入れあげた時期もある、耳のよいジョイスの一人娘の名は「ルチア」だった。不幸にも統合失調症を病んでしまった娘を思いながら、悪い目で『ランモルメールのルチア』を観劇することもあったという。

《ミスタ・ブルームは恰幅(かっぷく)のいい親切な管理人のうしろで体を動かした。カットのいいフロックコート。たぶん、次に死ぬのは誰かとみんな瀬ぶみしている。とにかく長い休息なんだ。何も感じなくなる。感じるのは瞬間だけ。ひどく不愉快な気持だろう。はじめはとても信じられない。きっと人ちがいだよ、おれじゃない。向いの家で聞いてごらん。待ってくれ、おれは生きていたい。おれはまだ。それから薄暗い臨終の部屋。みんな光をほしがる。自分のまわりでささやく声。神父様を呼びましょうか? それから右往左往。一生のあいだずっと隠して来た錯乱のすべて。断末魔のあがき。その眠りは自然な眠りではない。下瞼(まぶた)を押してごらん。せりあがっている彼の鼻、とがっている彼の顎(あご)、そしてくぼんでいる彼の足の裏、黄いろ。枕を抜きとり床の上におろしてやれ、もう審判はくだったんだ。あの「罪びとの死」という絵、悪魔が彼に女を見せつけている。シャツを着た瀕死の男は女が抱きたくてたまらない。「ルチア」の最後の幕。「もう二度とお前を見ることはないのだろうか?」バン!絶命。ついに死んだ。しばらくはみんなが君の話をして、それから忘れてしまう。彼のために祈ることを忘れるな。お祈りのなかで彼の名をとなえてくれ。パーネルでさえ。「蔦の日(アイヴイ・デイ)」も消えようとしている。それからみんながあとを追う、一人ずつ順に穴のなかに落ちる。》

 オペラ『ランメルモールのルチア』の中に、「もう二度とお前を見ることはないのだろうか?」と同一の歌詞はないが、最後の幕でルチアの死を知らされて自死するエドガルドの、ルチアを想う絶唱は似たような心境だった。

「ルチア」には悲しい死の匂いがある。

 

 フローベールボヴァリー夫人』第二部の最終十五章、シャルルとエンマのボヴァリー夫妻はルーアンに出向いて、オペラ『ランメルモールのリュシー』(イタリア・オペラ『ランメルモールのルチア』のフランス版。以下『リュシー』と略す)を観劇する。期せずして、かつてのプラトニックな恋人レオンと再会する本章は、章をまたぐ第三部一章の大聖堂見物、辻馬車での姦通の橋渡しとなる重要な場面だが、ほとんど取り上げられない。

 エンマはこれを機に非業の死へと雪崩れてゆくのだが、『ボヴァリー夫人』の『リュシー』が表象するものには、第三幕終盤の、二人の死の場面の前に劇場外へ出てしまうだけに、かえってフローベールならではの皮肉と美しさが「隠すことで現われる」とばかり、意味ありげに絡まっているにも関わらず。

 

 たとえば、『フローベール全集』(筑摩書房)の『別巻 フローベール研究』は、プルースト、デュ・ボス、チボーデ、ジャン=ピエール・リシャール、ジョルジュ・プーレ、ジャン・ルーセサルトルエドマンド・ウィルソン、リチャード・パーマー・ブラックマーらの「フローベール論」「『ボヴァリー夫人』論」が収められているが、『リュシー』についてわずかながら言及しているのは、ブラックマーだけであるが、その論考もさしたることはない。

 蓮實重彦は、『別巻 フローベール研究』の「フローベールと文学の変貌――解説にかえて――」で、発刊された一九六八年当時のフローベール研究の見通しの良いレジメと、プーレ、リシャールの研究を契機とする今後の方向性を明示した。その後の研究も踏まえて、二〇一四年に八百ページからなる『『ボヴァリー夫人』論』を刊行したが、オペラ『リュシー』の内容そのものには踏み込んでいない。とはいえ、主題論的批評の面白さがある。

 蓮實がなぜか無視しているウラジーミル・ナボコフ『ヨーロッパ文学講義』の「『ボヴァリー夫人』論」はナボコフらしく、フローベールの文学芸術の標本学的研究(ナボコフは鱗翅類の収集研究家でもあった)となっていて、『リュシー』観劇の場面をフローベールの「対位法的手法」の一例として分析しているが、「農業共進会」の場面での手法説明に比べて理解しにくい。

 もっとも文字数を割いているのは、これも蓮實の書誌に登場しないのだが、トニー・タナー『姦通の文学 契約と違犯 ルソー・ゲーテフロベール』だろう。思い込み解釈で首をかしげるところがあるけれども、教えられるところは多い。

 

<オペラ『ランメルモールのリュシー』概要>

 ドニゼッティが一八三五年に作曲した『ランメルモールのルチア』は、イタリアの検閲を避けてパリに移住した彼によって、一八三九年にフランス語に改作され、『ランメルモールのリュシー』と呼ばれている。言語ばかりでなく、登場人物(フランス名だけでなく、侍女アリーサの不在や、部下ノルマンノに代わって従者レイモンドの存在など)や場面設定にもかなりの改変を凝らした。

 スコットランドのランメルモール地方、リュシー(イタリア版:ルチア)とエドガール(同前:エドガルド)は恋人同士だが、両家は敵対関係にある。リュシーは兄アンリ・アシュトン(同前:エンリーコ)の陰謀によって、アルチュール(同前:アルトゥーロ)と政略結婚をさせられる。フランスから帰国して、結婚誓約書にリュシーの署名を見たエドガールは激怒する。アルチュールとの結婚式の夜、リュシーはアルチュールを殺し、狂乱する。やがてエドガールはリュシーの死を知り、後を追って自死する。舞台背景に満月が皎々(こうこう)と照り、月下に悲劇が繰り広げられることが多い。

 第一幕

 農夫や貴族が猟の歌を合唱している。アンリ・アシュトンは敵対関係にあるエドガールから一家を救うために妹リュシーをアルチュールと政略結婚させたいものの、彼女が拒んでいると語る。従者ジルベールはリュシーがエドガールと恋に落ち、密会を重ねているとアシュトンに告げ、二人を見た農民たちの合唱によって事実と知り、激怒する。

リュシーが哀切なアリアを歌い終わると、エドガールが現れてフランスに行くことになったと告げる。二人は抱き合い、結婚を誓ってエンゲージ・リングを交換し、別れを告げる。

 第二幕

 ジルベールは主人アシュトンに、贋のエンゲージ・リングによってリュシーあざむく悪だくみをさずける。アルチュールとの結婚を拒むリュシーに、アシュトンは贋のリングを見せ、一家を滅亡から救うためにアルチュールと結婚するよう強要する。

 結婚の祝宴にアルチュールが迎えられ、人々は彼をたたえて合唱する。リュシーは、結婚の誓約書に無理やり署名させられてしまう。そこにエドガールが乱入し、エドガール、リュシー、アシュトン、アルチュール、ジルベール、レイモンド(同前ライモンド、ルチアの教育係・牧師)による「六重唱」となる。エドガールはリュシーの署名を見せられて激怒し、混乱のうちに幕となる。

 第三幕

 アシュトンとエドガールは夜明け前に墓地で決闘すると約束する。アシュトンの城では、結婚の祝宴が続き、リュシーはアルチュールとの初夜へ向かう。

 レイモンドが現れ、リュシーがアルチュールを刺し殺したと告げる。白い衣装を血まみれにして、正気を失ったリュシーによる「狂乱の場」となり、エドガールとの結婚の幻想を歌う。リュシーは天国でエドガールと再会することを夢見て倒れる。

 エドガールは、先祖の墓の前で絶望の歌を歌っている。人々が現れ、リュシーが死に瀕していると歌う。やがて死を告げる鐘が鳴り、レイモンドがリュシーは死んだと伝えると、エドガールは剣を胸に刺して後を追う。

 

<『ボヴァリー夫人』――「月の光」と「死の場面」>

ボヴァリー夫人』には「月の光」が二十箇所以上出てくるという。『リュシー』との関連性をフローベールはことさらに言及しない注意深さだが、エンマが月の光の下にいた場面の情緒性、ロマン派的ステレオタイプな描写を見てみれば、観劇の場面でのエンマの感情の流れは、フローベールが巧みになぞったアイロニーとわかる。

 新婚の時期、エンマは夫シャルルの恋心をかきたてようとしたが、空しかった。

《一方、エンマはエンマで、自分が有効と信じている処方に従って恋を感じようとした。庭で月光のもと、そらんじているかぎりの情熱的な詩句を口ずさみ、溜息(ためいき)まじりに憂わしげなアダジオを夫に歌って聞かせた。しかしエンマはそのあと、すぐにまたもとの木阿弥(もくあみ)の冷静な自分に帰ったし、シャルルのほうも、いっこうに恋心をかきたてられたようにも、胸をおどらすようにも見えなかった。》

「農業共進会」におけるロドルフの口説きの場面では、ロドルフが「月の光」を語ってエンマの心をとらえる。

《そしてふたりは田舎のつまらなさ、そのつまらなさのなかに窒息しそうな生活、はかなく消えて行く夢について語った。

「こうして私はたとえようもなく悲しい気持に引き込まれてゆくのです……」

「あなたが!」と彼女は驚いて言った。「とても陽気なお方とばかり存じておりましたのに」

「ええ、うわべはそうでしょう。私は世間にあっては、茶化した笑いの仮面をかぶるすべを心得ていますから。しかし月の光に照らされた墓地をながめたりすると、あそこにああして眠っている人たちのところへ行ったほうがどんなによいかと、そのたびごとに思うのです……」》

 ロドルフとの姦通生活が何ヵ月かたったころ、月ばかりか、『リュシー』でも重要な役割を果たした「指輪」の逸話も登場した。

《それに彼女は近頃ひどい感傷家になってきた。小さな肖像画を交換しなければならないと言い、髪の毛を一束切って取りかわしもした。そして今度は永遠に渝(かわ)らぬ恋のしるしに、指輪を、それも本式の結婚指輪をほしいと言い出した。何かというと夕べの鐘だの、「大自然の叫び声」だのについて語り、また自分の母親やロドルフの母親の話をした。ロドルフが二十年も前に母親を亡くしたと言うと、エンマはしきりに同情する一方、まるで捨て子にでも言い聞かすような甘ったるい言葉で彼をなぐさめた。ときには月をながめて、

「あなたのお母さまはわたしの母といっしょに月の世界にいらっしゃって、きっとふたりしてわたしたちの恋を喜んでいてくださいますわ」などと言いいさえした。

 しかしエンマは文句なく美しかった! 彼はこんなに生(き)一本な女を情婦に持ったことはなかった!》

 やがてエンマはロドルフに駈け落ちを迫るようになり、ロドルフは延期に延期を重ねたあげく、厄介払いする段取りを決めての最後の逢い引きの場面は月夜だった。

《「なんてかわいい人だ!」彼はエンマを両腕に抱きしめて言った。

「ほんとう?」と彼女はあだっぽく笑いながら、「わたしが好き? そんなら誓って!」

「好きかって! 好きかって! それどころかしんから惚れぬいているよ!」

 月はまん丸く赤みがかって、牧場(まきば)の果ての地平すれすれに浮かんでいた。見る見る月はのぼってゆく。ポプラの枝の向こうにかかると、枝は穴のあいた黒いカーテンのようにところどころ月のおもてを隠した。やがて月は皎々(こうこう)と輝き出て、もはや何ひとつさえぎるもののない大空を照らす。そのとき月は歩みをゆるめ、川波の上へ大きな影を落とすと、影はたちまち無数の星となって散った。そしてその銀色のほの明かりは、きらめく鱗(うろこ)におおわれた無頭の水(みず)蛇(へび)のように川底まで身をよじらせて突き入るかと見え、あるいはまた、熔(と)けたダイヤモンドの雫(しずく)がたらたらととめどなく伝い落ちる巨大な枝つき燭台(しょくだい)をも思わせた。静かな夜がふたりのまわりに広がっていた。》

 ルーアンでレオンとすごした至福の三日間は、エンマの真の蜜月だった。夕方には小舟をやとって、川中の島へ食事に出かけた。

《やがて月が出た。すると、ふたりは申し合わせたように美辞麗句をならべ、月はなんと物悲しく詩趣に満ちていることでしょうと言った。エンマは歌さえうたいだした。

   かの宵を思いいでずや、われ君と漕(こ)ぎ…… (ラマルチーヌ『みずうみ』)

 彼女のなだらかな、かそけき歌声は波の上に消え、ときに急テンポに高まる節まわしが風に吹き流されるのを、レオンは鳥が身のまわりに羽ばたき過ぎる音のように聞いた。

 彼女は舟の屋形の板によりかかって、レオンと向き合っていた。窓の鎧戸が開いているその一つから、月の光がさし込んでいた。黒いドレスの裾襞(すそひだ)は扇形にひろがって、彼女をいっそうすんなりと背高く見せていた。彼女は姿勢正しく、手を合わせ、じっと空をあおいでいた。ときどき彼女の姿は岸辺の柳の影にすっぽり隠れて見えなくなる、と思うとたちまち幻のように月光をあびて現われるのだった。》

 

 オペラ『リュシー』で、リュシーの「死の場面」は舞台にあがらない。従って、リュシーの死体を見ることはない。しかしフローベールは死にゆくエンマばかりでなく、遺体をも、医者だった父のような冷徹な目で解剖学的に描く。

《エンマは舌の上に何かひどく重いものでものせているように、しょっちゅうぱくぱく口をあけては、苦しさに堪えて、ゆるやかに頭を左右に動かしていた。(中略)エンマはまもなく血を吐いた。唇はますます引きつった。手足は痙攣(けいれん)し、全身は褐色の斑点(はんてん)におおわれ、脈は張りつめた糸のように、今にも切れようとするハープの絃のように、指の下をかすめた。(中略)たちまち胸がせわしくあえぎはじめた。舌がだらりと口の外へたれた。目の玉はたえずぎろぎろ動きながらも、消えてゆく二つのランプの丸ほや(・・)のように光が失せていった。魂が肉体を離れようとしてあばれているように、肋骨(ろっこつ)がおそろしいほどの息づかいでゆさぶられる。(中略)痙攣がエンマをベッドの上に打ち倒した。みんなは枕(まくら)べにつめ寄った。彼女はすでにこときれていた。》

 シャルルは、エンマの亡骸(なきがら)を、結婚式のリュシーのように飾りたてたかったのだろうか。

《シャルルは診察室にこもって、ペンを取り、しばらく嗚咽(おえつ)にむせんでから、次のようにしたためた。

   [婚礼の衣裳を着せて埋葬してください。白靴をはかせ、花かずらをかぶせること。髪は両肩をゆたかにおおうようにする。棺は三重とする。柏(かしわ)と、マホガニーと、鉛とで。小生は取り乱すまじきゆえ、何もおっしゃってはくださるまじく。棺の覆(おお)いは緑色のビロードをたっぷりと願います。小生の望むところは以上、なにとぞそのとおりにおはからい願います。]

 これを読んだ薬剤師と司祭は、ボヴァリーの小説じみた着想にあきれ返った。薬剤師はすぐに出向いて、

「このビロードはいくらなんでもあんまり大げさじゃないでしょうか。費用の点からも、こりゃちょっと……」

「わたしの家内の葬式ですよ!」とシャルルは叫んだ。「いらぬお世話だ! あなたはあれを愛していないからわからない! お帰り下さい!」》

 フローベールは亡骸の描写も容赦ない。

《エンマは頭を右肩寄りにかしげていた。口は開き、その口もとは顔の下部に暗い穴のような影をつくっている。両手の親指はてのひらのほうへ折れ曲がっている。睫毛(まつげ)は白い粉(こ)を吹いたように見え、瞳(ひとみ)はまるで蜘蛛(くも)の巣におおわれたように、薄絹まいた、ねばねばした、青白いものの下に消え入ろうとしていた。》

 二日目の通夜。空には星かげがちらほら、しめやかな夜だった。死に化粧を施されたエンマはシャルルの指示したとおり花嫁姿で横たわっている。書かれてはいないが、あたかもリュシーのように。

《月光のように白々と光る繻子のドレスには木目模様がきらきらとふるえていた。エンマはその下にかくれていた。シャルルは、エンマが彼女自身の外へのがれ出て、周囲の事物のなかへ、しじまのなかへ、闇のなかへ、吹きわたる風のなかへ、ゆらめきのぼるしっとりした香煙のなかへ、いずこともなく溶け込んでゆくような気がした。》

 恋人だったロドルフもレオンも自死する気配などまったくなく、ぬけぬけと生きつづけている。一方、シャルルは彼らしく暢気な死を迎える。そこにあるのは、ロマンティシズムの「紋切り型」を裏切るフローベールの作為であろう。

 エンマ亡き後、シャルルはひたすらエンマに思いを馳せ、ぜいたくな趣味やロマンティシズムまで模倣する。娘ベルトへの愛に執着し、夏になると、夕方、娘を連れて墓参りをするようになった。

 ぱったり出会ったロドルフに「運命のいたずらです!」と、生涯を通じてただの一度の名台詞を語った彼は、

《翌日、シャルルは青葉棚の下のベンチへ行って腰をかけた。日の光が格子のあいだからふりそそぐ。ぶどうの葉は砂利の上に影を描き、素馨(そけい)の花はかおり、空は青く、咲き乱れた百合のまわりに芫菁(はんみょう)が羽音をたてている。そしてシャルルは、そこはかとない恋の香に切ない胸をふくらませ、まるで青年のようにあえいだ。

 七時にベルトが夕飯に呼びに来た。昼過ぎから父親の顔を見ていない。

 父親はあおむけに頭を塀にもたせ、目を閉じ、口をあけて、長い黒髪のひと房を両手に持っていた。

「お父さま、いらっしゃいな!」

 そして父親がわざと聞こえないふりをしているのだと思って、ベルトはそっと突いた。彼は地面に倒れた。死んでいた。》

 記憶力のよい読者ならば「青葉棚の下のベンチ」に思い当たるはずだが、エンマがレオン、ロドルフと逢引した場所に他ならない。

 

<トニー・タナーによる『ボヴァリー夫人』論――「姦通の文学」>

 トニー・タナー『姦通の文学 契約と違犯 ルソー・ゲーテフロベール』から。

『リュシー』はあまりにシンプルでストレートすぎると評されもしようが、《オペラの物語そのものが支離滅裂で、音楽とあちこちから寄せ集めた感傷的な仕草や台詞を盛り込んだかなりでたらめな代物》、《もってまわって入り組んだ筋》と表現しているところから、タナーはこのオペラを見ていないのではないか、筋もよく理解していないのではないか、と疑いたくもなるが、批評自体は優れた分析、論考となっている。

《劇場でエンマは演し物に対して実にさまざまな反応を示している。それは彼女が単に幻想に身を委ね、音楽に身をまかせたといった問題ではなく、彼女が終わりを待たずに劇場を出たのも、必ずしもレオンの予期せぬ出現のせいばかりではなさそうだ。ある意味で、エンマは、彼女の感情生活のすべてを、そこで要約的に再体験しているのだと言える。まず劇場に入るときの彼女の喜びと興奮は「子供のよう」と描写されているし、オペラが始まると彼女は「娘時代の思い出の小説の国」に浸り、ラガルディーが現われて彼女を誘惑して後は、シャルルとの結婚、レオンへの思い、ロドルフとの姦通などを通じて体験したあらゆる感情や欲望や幻想の中を、再びかけめぐり始めるように見える。エンマの「ああ」という叫び声が、最初の場面の終わりの楽音に「溶け込んだ」ように――原語の”se confondit”は言うまでもなく終始エンマにつきまとう語である――すべての彼女の感情は、互いに入り乱れ、混ざり合い「溶け合って」消えていくかのようである。特に彼女は結婚式の日を思い出し、何故もっと抵抗しなかったかと悔やむのだが、彼女の回想には、いささか奇妙な言葉遣いが見られる。初々(ういうい)しい美しさがまだまだ自分のものだったあの頃、結婚生活のけがれ(soilure)も、邪恋の幻滅も味わい知らぬあの青春の日に、もしもだれか大きな強い心を持った人の手に自分の一生を託すことができていたとしたら……」(第二部第十五章)。”soilure”(「けがれ」)とは不純や汚染を意味する語で、汚染恐怖が根強く残る未開社会の多くでは、姦通こそが「けがれ」の源泉で、共同体を危険に導くものとされている(従って姦夫や姦婦の接触や眼差しは病気を招くと考えられている)。けがれとは「所定の場所にない、場違いなもの」のことだとするウィリアム・ジェイムズの説に従えば、姦通を犯した者が「けがらわしい」のは、彼(や彼女)が社会的に認められた範疇を踏み越えて禁じられた境域に踏み入ったからであり、いわば違うベッドにもぐり込んで、「場違いな」人間と成り果てたせいであろう。従って通常の考え方では、結婚によって「けがれる」のは不可能で、むしろ結婚に「幻滅」(”disillusionment”)を味わうというのなら、理解もできるし可能でもあるということになろう。いわばエンマは言葉を並べ違えているのであって、用語と属性を混乱させ始めていると言ってもよい。この「けがれ」と「幻滅」というレッテルの言及しうる体験領域の転倒ないしは「転移」は、エンマの思考過程そのものが「混ぜ物をした=姦通的な」(”adulterous”)ものになりつつあることを示していよう。結婚と姦通を距てる壁を乗り越えることと、両者の区別を見失うことはまったく別のことで、後者の方がはるかに不穏な事態であることは言うまでもあるまい。その不穏さが「強い心」(”cœur solide”)の持ち主と結ばれていたら、という彼女の空しく絶望的な望みの苦々しさを倍化することになる。彼女は身も心も分裂し崩壊する過程になすすべもなく巻き込まれていく一方で、必死にありえないような「堅さ、強さ」に憧れているのである。後にも彼女は同じ思いを抱き続けている――「もしもこの世のどこかに、強く美しい人がいてくれたなら……」(第三部第六章)。彼女がこのような思いに悩むのも、彼女には結婚相手が「零」に思われ、愛人たちにも同様の不足と実体の欠如を見出さずにいられなかったからである(サルトル風の用語を使えば、エンマは、生活と体験の「無」が生み出した「存在」の夢に焦がれ続けた、ということになろう――ここでは抽象的な言葉遣いが、かえって彼女の窮境をよく象徴しうるように思う)。

 オペラを眺めやりながら、エンマは曖昧ゆえに必然的に満足させられえぬ欲望と不可分の幻滅を経験する。この上ない幸福感など、「すべての欲望(désir)を絶望(désespoir)に追いやるべく生み出された、一種の虚構に違いない」と彼女は決めつけ始めるのだが、ここで再び言葉どうしの混融が起こるように見える。文字づらがそうであるように(dés[espo]ir)、「欲望」が「絶望」をはらんでいるのである。これは決して無意味な指摘ではなく、差異の境界線がぼやけてくるにつれて、堅固な安定した意味(「存在」と呼んでもよい)は確実に見失われていく。エンマがここで目撃しているのが、欲望と絶望のもつれ合いだとすれば、後に彼女が体験するのは、もはや両者が識別不可能にまでいたった事態であろう。それは、われわれ読者も読みのレベルで追体験させられる、きわめて厄介な状況である。エンマは、一時しのぎの策として、「自分の苦悩の再現」とまで思えたオペラを、「ただごてごて飾りたてた虚仮(こけ)おどしのでたらめ」だと思い込もうとする。しかし屈辱の恋人(ラガルディー)が再び現われると、エンマはその「人物の与える幻想」(”illusion du personage”)に惹きつけられざるをえない。”personage”という語は、英語でもそうだが「高位の人物」または一般に「人物」を指す。従って、ある意味でエンマは、現実の「人物」――堅くて、強い――の面前にいるとの「幻想」にとらわれたのだと言ってもよいだろう。エドガール・ラガルディーはフローベールによって、「驚くべき香具師(やし)根性」の持ち主と描写されており、「床屋」とも「闘牛士」とも見えたという体軀をもつこの男は、ルール―と同じように、遠くはあのシャルルの帽子に起源をもつ、雑種的寄せ集めの産物の一人と見なせよう。しかし、そのような人物がエンマに、いかにも生き生きとした現実の「人物」であるかのような印象を与えたという逆説を、あまり強調しすぎるのは愚かしいことであろう――そのような詐術こそ劇場の得意とするところだろうし、フローベールはそれほど陳腐な技巧を弄したりなどしない。エンマは決してだまされているのではない。ただ混乱しているのである――それもあらゆる基準点を見失いかけているため、彼女が自分で思っている以上に、である。彼女がしばしば、自分の居場所を見失いかけること自体は、さして重要ではない。むしろこの手の劇場は、その種の時間的・空間的混乱を観客に体験させることを本領とするのだから。はるかに重要なのは、彼女が自分が何である(・・・・)のか、更には自分を取り巻く事態がどうなっているのか、もはや理解できなくなりつつあることであろう。彼女の体験が肉体的、感情的である場合ですら、彼女のかかえた窮境は存在論的価値をもつのである。実際彼女は、「結び目をほどかれて」(“dénouée”)いるのだ(この語とそれが意味する状況については、後に触れよう)。

 続けてエンマに降りかかっている事態を検討する前に、舞台で何が起こっているのか理解できずにいるシャルルに、しばらく同情の眼を注いでみよう。フローベールが、書き写している断片的で一貫性のない舞台風景からは、われわれ読者とて、ごく大雑把な物語の筋を拾い上げることすらできまい。無論それはオペラの物語そのものが支離滅裂で、音楽とあちこちから寄せ集めた感傷的な仕草や台詞を盛り込んだかなりでたらめな代物であったためであろう。しかしそのことは逆に、にもかかわらずエンマはそれを理解し、所詮はごた混ぜ品にすぎぬはずの演し物の中に、物語のみならず、意味をもった関係と状況を見出したつもりになっていたという事実の方に、改めてわれわれの注意を引きつける。このオペラはどうやら『ラマムアの花嫁』に基づくもので、エンマは、ウォルター・スコットのこの作品を読んだ記憶をたどりながら、物語の筋を補っている――「忘れもしない小説の筋だったから、脚本の運びもよくわかった」――しかし彼女が覚えている筋も、霧の中から(またしても頭の中の霧である)聞えてくるスコットランドの風笛の音にかき消えていく。つまり、風景や衣装や音楽が入り乱れるオペラの断片的情景を語るフローベールの筆法は、エンマの見たまま感じたままをなぞっているとわかるのだが、何故か彼女はその混乱の中に秩序だった意味をもつ体験を拾い出していたということになる。いわばフローベールが描き出しているのは、エンマ自身の意識の断片化・無秩序化の姿に他ならなかったのかもしれない。対照的にシャルルは、階級、役柄、状況などを判断する力がなく、主人と恋人を混同し、情熱と虐待を取り違えている。言葉を換えれば、彼は何でも文字どおりにしか理解できない人物で、この舞台に展開されている、ほとんど馬鹿げたと言えるほどもってまわって入り組んだ筋には、もはやついて行けなかったものと見える。彼は正直者とも愚か者とも呼べようが、いずれにしても、「回りくどさ」や「遠回しの表現」は彼のよく対処しうるところではなかった。「規則」(”les règles”)を重んじ、それに従うのを事として、「曲りくねった=逸脱」(”les tournures”)はまったく解しかねた男である以上、”les tournures”のかたまりとも言うべき劇場が、彼の受け容れるところとなろうはずもなかったのである。ある意味で、彼は決して劇場の中に「踏み込んで」はいないのであって、劇場外で通用する「規則」を何とかそこに適用しようと努めているにすぎない。彼は自ら言うとおり「はっきりさせたい性分」なのだが、この芝居に、「はっきりさせられる」ものなど見出しようもない。同じ意味で、エンマの方は決して劇場から「立ち去って」はいないのだと言えよう。彼女が第三幕の途中で外に出ようとするとき、すでに彼女の意識は、最後の段階とも言うべき完全な「劇場化」の段階を迎えていたからである。一人の客の声が「第三幕が始まりかけているので」静かに、という合図を彼らに送るとき、そこに込められたアイロニーは幾重にも重なり、ほとんど存在論的性質をおびている。「第三幕」とはオペラの第三幕であるばかりか、第三の男と過ごすエンマの人生の第三段階をも指そうし、まさに「始まりかけている」小説そのものの「第三部」をも予告している――つまり「第三幕」の中で物理的、劇場的、語彙的領域が、混合し融合しているのである。こうしてエンマは、遂にそこを「立ち去る」ことのない「幕=行為」(”acte”)の中に踏み込んでいく。》

 

 第三幕の途中で帰ってしまうので、エンマも、そして読者も、『リュシー』の結末がどうなったのかを知りえない。しかし、これはフローベールの策略なのだ。

 フローベールボヴァリー夫人』の第二部から第三部へ跨いで、エンマとレオンとの逢引を描くフローベールが「隠すことと現われること」のイリュージョン技法を駆使しているとジジェクは論じる(『否定的なもののもとへの滞留 カント・ヘーゲルイデオロギー批判』)。

 エンマはルーアンでオペラ『ランメルモールのリュシー』を夫妻で観劇したさい、旧知のレオンと偶然出会う。翌々日には大聖堂で逢引し、馬車に乗るよう促された。

《恋人たち二人が馬車に乗り込み、御者にただ街中を走り回るように命じたあと、われわれは馬車の完全にとざされたカーテンの背後で何が起こっているのかを聞かされることはない。後のヌーヴォー・ロマンを思い起こさせるディテールへのこだわりをもって、フローベールは馬車が当てもなくさまよう周囲の都市の様子をただひたすら描写していく。舗装された通り、教会のアーチ、等々――ただひとつの短いセンテンスだけが、ほんの一瞬、カーテンから突き出した何もつけていない手に言及するだけである。この場面は、「公式」の機能としてはセクシュアリティを隠すはずの言葉が、実際には、その秘密の出現=現われを生み出すという、あるいは、フーコーのテーゼがそれへの批判として目論まれて当の精神分析の用語を用いるなら、「抑圧された」内容は抑圧の効果であるという、『性の歴史』第一巻におけるフーコーのテーゼをあたかも図解するかのようにできている。作家のまなざしが、どうでもよい退屈な建築のディテールに限定されればされるほど、われわれ読者は責め苛まれ、馬車の閉ざされたカーテンの背後の空間で何が起こっているのかを知りたいという熱望に駆られる。『ボヴァリー夫人』をめぐる裁判で、この作品の猥褻性の一例としてまさにこのパッセージを引いたとき、検事はこの罠に掛かってしまった。フローベールの弁護士にとって、舗装した道や古い家の中性的な描写にはいささかも猥褻なところはないことを指摘するのは容易なことであった。いかなる猥褻性も、カーテンの背後の「本当の[現実の]ものreal thing」に取り憑かれた読者(この場合は検事)の想像力にその存在をすべて負っている。今日われわれには、フローベールのこの方法がきわだって映画的(・・・)に思えるのは、たぶん偶然ではないだろう。それはあたかも、映画理論が「視野外hors-champ」と呼ぶもの、まさにそれ自身の不在において見られうるもののエコノミーを組織するものである。視野に対する外在性を利用しているかのようなのだ。》

 

『リュシー』第三幕のラストで、リュシーが狂乱の果てに死んでしまい、それを知ってエドガールも自死する場面をここで露わに表現しては、死に方が違うとはいえ、エンマが砒素を飲んで自死し、ほどなくしてシャルルもベンチで眠るように死んでしまう事態との共通性が見えすぎてしまう。

 それは、ナボコフが『ボヴァリー夫人』論の「農業共進会」の場面で、やがてエンマに訪れる「恐ろしき結末」、「皮肉と悲哀を美しくからまり」あわせた意味深長な仕掛けとは逆に、あからさまにしてしまうがゆえに、隠すこと、つまりは最後まで見ずに劇場から出てしまうことを選んだのに違いない。

 ナボコフは次のように書いている。(下記で、オメーは薬剤師・薬屋、ブーランジェとはロドルフ・ブーランジェ)

《共進会がはじまるところで、人物たちを組み合わせるに当って、フローベールは、金貸しで呉服商のルールーとエンマに関して、特に意味深長なことをやってのけている。それより少し前、ルールーがエンマにいろいろと奉仕すると申し入れた際――着る物とか、必要とあれば、お金も――彼は妙に宿屋の真向いにあるカフェの主人、テリエの病気のことを気にしていた、そのことが思い出されよう。さて、宿屋の女将がまんざら満足でなくもない調子で、お向いのカフェが閉店になると、オメーに話す。ルールーがカフェの主人の健康が次第にそこなわれていることに気づき、いまこそ貸した金をごっそり取りもどす潮時だと、腹をきめていたことは明白だ、それで哀れなテリエは、とうとう破産してしまったのである。「なんたる恐ろしき結末ぞや!」と、オメーが叫ぶ。この男はいかなる場合にも通用する適切な表現を心得ていると、フローベールは皮肉に注している。が、この皮肉の背後には、なにかがある。というのは、オメーが「なんたる恐ろしき結末ぞや!」と、いつもの愚かで、誇張した、大仰な言いかたで叫んだ、ちょうどそのとき、女将は広場の向うを指さして、こういっているからだ、「あれ、あそこに、ルールーが歩いてくわよ、ボヴァリーの奥さんに挨拶してる。奥さんはブーランジェさんと腕なんか組んでるよ」。この構造的な一行の美しさは、カフェの主人を破産させたルールーが、ここで主題的にエンマと結びつけられているところにある。彼女がやがて滅びるのは、なにも情夫たちのためばかりでなく、ルールーのためでもあるからだ――まことに、エンマの死は「恐ろしき結末ぞや」ということになるだろう。皮肉と悲哀がフローベールの小説にあっては、美しくからまり合っている。》

 

蓮實重彦による『ボヴァリー夫人』論――「塵埃」>

 蓮實重彦『『ボヴァリー夫人』論』の「Ⅵ 塵埃と頭髪」から。

《『ボヴァリー夫人』には、鼻孔から体内に取りこもうとしているものが文字通り「塵埃」の香りにほかならぬことで、豊かな意味を帯びる段落が存在している。それは、第二部の十五章のことであり、病みあがりのエンマがルーアンへオペラ観劇に出かける挿話に見られるものだ。すでに高価な切符を予約している彼女は、「あまり早くから桟敷にはいって笑われるのをおそれ」(Ⅱ部-15章:『ボヴァリー夫人』山田𣝣(じゃく)訳(河出書房文庫)P365)、夫をうながして港のあたりの散策でじっくり時間を潰してから劇場に足を踏み入れる。

   玄関へはいったとたんにエンマの胸はたかなった。自分は「二階指定席」への階段をのぼって行くのに、一般群衆は別の廊下から右手のほうへわれがちにと突進する、そのさまを見て思わず得意の笑いがこみあげてきた。布張りのどっしりしたドアを指で押すのも、たあいなくうれしかった。通路のほこりっぽいにおいも胸いっぱい吸い込んだ。そして自分の桟敷にすわったときには、公爵夫人のように場慣れした様子で、すいと(・・・)背を延ばした。(同前)

 注目すべきは、正面入口を通って二階席へ向かうエンマの存在がたちまち触覚と嗅覚に還元され、劇場という建築空間も、階段、廊下、通路、桟敷の扉など、もっぱらそれにふさわしい細部としてしか感知されなくなっており、かたわらにつきそっているはずの夫さえ姿を消しているかにみえることだ。しかも、通路で彼女の感じやすい鼻孔が吸いこむのは、ほかならぬ「ほこりっぽいにおい」なのである。その「ほこりっぽい」«pousiéreuse»という形容詞の女性形は、草稿のある段階で余白に書きこまれたものであり、ある時期まではたんに「通路のにおい」とのみ書かれていたにすぎない。また、その後は削除されることになるが、「通路のほこりっぽいにおい」と同格の長い名詞句が余白に書きそえられているので、その加筆部分をひとまず訳しておくなら、「それは、彼女には、官能的な繊細さと理想的な逸楽にみちた美しく詩的で、この世ならぬ世界のとらえがたい香華と思われた」(Brouillons,vol.4,folio 269v)となるだが、ここでの主題論的な読み方からすれば、「ほこりっぽい」という形容詞にそれだけの意味がこめられていることぐらいは、『ボヴァリー夫人』における「塵埃」をめぐる体験の官能性からして、誰もがすでに察知していたはずである。

 この二階の桟敷席での塵埃体験と農業共進会の場面における村役場の二階での塵埃体験の類似を指摘するのはいかにもたやすいことだ。いずれにおいても、エンマが一段と高い位置に身を置いているのは誰の目にも明らかだからである。すでにポマードの匂いで現在と過去とを混同し始めていた彼女は、その居場所から、砂塵を捲きたてて丘を下ってくる乗合馬車を認め、その砂ぼこりがレオンの記憶をよび醒ましていたのだが、あたかもそのことに対応するかのように、「ほこりっぽいにおい」に導かれて坐ったこの桟敷席には、シャルルが偶然に出会ったレオンその人が幕間に姿を見せるだろう。さりげなさを装って舞台に見入る彼女は、彼の「なま暖かい鼻息が髪の毛にかかるのを感じて」(Ⅱ-15:366)おののくしかなく、もはや楽しみにしていたオペラを見続けることなどできはしない。

 だが、さらに興味深いのは、「土ぼこり」と「ほこりっぽい」という語彙的な類縁性が二つの引用文を関係づけていることにもまして、それとはまったく異なる語彙がこの二つの挿話に刻みつけられているという点である。それは、瞳や鼻孔によって感知しうる外界の対象としての塵埃を感知しつつあるエンマの姿勢を示す動詞にほかならない。「土ぼこり」の渦を彼方に認めたり、「ほこりっぽいにおい」を胸いっぱいに吸いこむ瞬間に、「椅子の背にそり返りながら瞼を細めたそのとき」«Mais,dans ce geste qu’elle fit en se cambrant sur sa chaise»(Bovary246)と、「すいと(・・・)背を延ばした」«elle se cambra la taille»(Bovery340)のように翻訳では異なる日本語の動詞があてられているが、彼女はいずれにおいても「身をのけぞらせる」«se cambrer»という同じ動作を演じている。村役場の二階の窓辺と劇場の「二階指定席」の桟敷にただ坐っているだけではなく、いずれにあっても、エンマは充足感から思わず背をのばして椅子に坐りなおすのである。そして、その動作を示す「身をのけぞらせる」という動詞が、この二つの挿話において、「塵埃」という名詞、あるいは「ほこりっぽい」という形容詞と強い吸引力によって接しあっている。したがって、この二つの挿話の類似は、物語の状況やその背景の空間的な形態にとどまらず、そこに配置された語彙の水準にまで及んでいるという点をここで強調しておきたい。》

 

蓮實重彦による『ボヴァリー夫人』論――「反復」>

 蓮實重彦『『ボヴァリー夫人』論』の「Ⅲ 署名と交通」から。

《第二部を閉ざすことになる十五章のボヴァリー夫妻のオペラ鑑賞は、すでに見た「主題論」的な意義深い細部の「反復」によって、この作品の「説話論」的な構造の一貫性を証明しているかに見える。だが、その一貫性は、これから検討してみるように、語りの大きな変化を誘発するものとはいいがたい。すでに指摘したことだが、物語を異なる領域へと移行させるものは、返すあてもないまま二枚の約束手形に「署名」することでシャルルが債務者となるという変化にほかならず、第三部は、その身振りのはらむ「署名」の価値下落をエンマがほとんど無意識に「反復」することで、ボヴァリーという名前の「信用」の失墜があからさまになる過程として語られることになるからだ。債務者夫妻のルーアンへの観劇旅行は、それを加速させる最初の機会にほかならない。

 だが、エンマはいうにおよばず、読者にとってさえ充分に意識されずにいるのは、そこに機能している「反復」のメカニズムがかえって変化の不在をきわだたせ、語られている目の前の現実を操作しているものをいくぶん視界から遠ざけ、事態の推移を見えにくくさせているからである。実際、トストからヨンヴィルへの移住がエンマの「神経の不具合」の治療に必要な「転地」でもあったように、ここでの「移動」――それは、ほんの数日のものでしかないが――もまた、「この気晴らしが妻の健康によいにちがいない」(Ⅱ-14:353)と信じるシャルルの医学的な判断によって実現された一種の「転地」にほかならない。彼にそう決心させたのは、「大芸術家」としてあれこれ噂のたえない「ラガルディーが歌うのは一日きり」(同前)なのでそれを見逃す手はないというオメーの言葉なのだから、第一部の終わりでシャルルとの書簡の交換によってボヴァリー夫妻をヨンヴィルへと呼びよせた薬剤師が、第二部の終わりでも二人をルーアンへと送り出すことに深くかかわっており、そこにまぎれもなく「反復」が演じられている。さらに、パリに行っていたはずのレオンとオペラ座で偶然に出会い、夫の説得にしたがってルーアンに残るエンマが、いまはその都市の法律事務所で書記として働いているこの若者に身を任せるという事態の推移も、「呼吸困難」に陥りがちな彼女を乗馬につれだそうというロドルフの提案にシャルルが医師として賛同したことで、二人が恋人同士になるというすでに見た構図の絵に描いたような「反復」にほかならない。

 ここで見落としてならないのは、シャルルが、ほとんど反復脅迫に身をさらしているかのように、自分にとっては不利に作用する状況を妻への医学的な配慮によって引きよせていながら、その自覚が彼にはまったくないということだ。「今度にかぎってシャルルはゆずらなかった」(同前)という一行にこめられている夫の頑固さが回復期のエンマにオペラ見物の小旅行に同意させたように、彼女が夫とともにヨンヴィルには帰らず、レオンとともに二日も余分にルーアンに滞在することになるのは「お前は日曜に帰ればいい。ぜひ、そうしなさい! 少しでも体にいいと思ったら、ためらうことはない」(Ⅱ―15:368)という夫の一言なのだ。それは、ロドルフの用意した馬に乗って森へと出かけることを彼女に説得した「何よりも問題は健康だ! おまえはどうかしているよ!」(Ⅱ-9:248)という言葉の遙かな谺のように響く。》

 

蓮實重彦による『ボヴァリー夫人』論――「ぎこちなさ」>

 蓮實重彦『『ボヴァリー夫人』論』の「Ⅶ 類似と齟齬」から。

《これ(筆者註:「農業共進会」の場面)とほとんど同じ状況がシャルルの存在の希薄化をいちじるしく助長しているのは、「つめかけた観衆は正面玄関の左右、壁ぎわの柵のあいだに列をつくって待っていた」(Ⅱ-15:355)というルーアンでのオペラ観劇の場面である。農業共進会に押し寄せる「群衆」のように、ここでは不特定多数の「観衆」があたりにあふれかえっているので、「ズボンのポケットのなかで切符をしっかり握りしめ、おまけに握ったその手を下腹に押し当てた」(Ⅱ-15:356)といういかにもぎこちない姿勢で劇場へと急ぐシャルルの中には、すでに未知の空間に触れるときに体験するだろう彼の精神と肉体の異様な硬直ぶりが予告されている。実際、「玄関へはいったとたんにエンマの胸はたかなった」(同前)と書かれてから、予約しておいた桟敷席にすわって「公爵夫人のように場慣れした様子で、すいと(・・・)背を延ばした」(同前)彼女のかたわらに腰をおろしているはずの夫への言及は、ぴたりと途絶えてしまう。天井からおりてくるシャンデリアが燦然と輝き、管楽器の高まりとともに幕がするするとあがると、いきなり「娘時代の思い出の小説の国へ、ウォルター・スコットの世界のまっただなか」(Ⅱ-15:357)へとつれさられるエンマのかたわらで、シャルルは「こう音楽がやかましくちゃあ台詞(せりふ)の邪魔」(Ⅱ-15:360)になって「話の筋がどうにもわからない」(同前)と口にして、「静かにしてらっしゃい!」(同前)とたしなめられるところなど、ヴォビエサールでの二人のやりとりを想起させる。ここでも、シャルルは、オペラの上演にまつわるさまざまな規則には通じておらず、しかも、幕間には、廊下にあふれた群衆に足をとられ、両手に持った飲み物をさるご婦人の正装のドレスにひっかけ、「孔雀(くじゃく)のような叫び声」(Ⅱ-15:364)まであげさせてしまう始末だから、彼の理解力のみならず、運動神経までが目に見えて低下しているといわざるをえない。その直後に、偶然にであったレオンが桟敷にたずねてくるので、シャルルの存在感はますます低下するしかない。》

 

ナボコフ蓮實重彦による『ボヴァリー夫人』論――「交響曲」>

 第二部十五章の、《その男のかぶっているスペイン風の鍔(つば)の広い帽子は、ふと彼が身ぶりをするはずみに下へ落ちた。それを合図に器楽合奏も歌手たちもいっせいに六重唱にはいった。火をふかんばかりに怒ったエドガールはひときわ朗々たる声で他を圧した。アシュトンは無気味な低音で彼に決闘をいどんだ。リュシーはかん高い哀訴の声をあげ、アルチュールはひとり離れたところに立ってバリトンをひびかせ、牧師のバス・バリトンはパイプ・オルガンのようにうなった。すると今度は女声合唱が牧師の言葉を反復して美しく歌いつづける。彼らはみな一列にならんで身ぶりをしていた。なかば開いた彼らの口から、憤怒や、復讐や、嫉妬(しっと)や、恐怖や、憐憫(れんびん)や、驚愕(きょうがく)が同時にほとばしり出た。》という「六重唱」こそ、フローベールの目論む「交響曲」に相当するだろう。

 

 ナボコフは「『ボヴァリー夫人』論」でそれを、《あたかも、芽生えた恋を祝うかのように、フローベールは一切の人物を市場に集め、文体の実演を披露して見せる。これこそ、この章のめざしている真の意図である。恋人同士、ロドルフ(贋の情熱の象徴)とエンマ(その犠牲)が、オメー(やがてエンマがそれ故に命を絶つことになる毒素の贋の保管者)と、ルールー(これはエンマを砒素の壺にと駆ることになる経済的破滅と恥辱の代表)とにつながれ、それからそこにはシャルル(結婚生活の慰め)もいるのだ。》として、時系列的に説明してゆく。

《共進会の場面では、平行挿入ないし対位法的手法(・・・・・・・・・・・・・)がふたたび用いられている。ロドルフは腰掛けを三脚みつけてきて、それをつないでベンチにすると、エンマと一緒に役場のバルコニーに陣どって、演壇の上の見せ物を見物し、演説を聞き、そして戯れの恋の会話にうつつをぬかす。厳密には、二人はまだ恋人ではない。対位法の第一展開で、顧問官が比喩をめったやたらと混ぜ合わせ、まったくの言葉の自働機械と化して、自己矛盾を冒しながら演説する。(中略)第一段階では、ロドルフとエンマの会話が、盛りだくさんな役人の雄弁と交替に現れる。(中略)フローベール、およそ考えられうる限りの新聞体および政治演説の月並な常套句を収集している。が、大事なことは、役人の演説が陳腐な「新聞体(ジャーナリーズ)」なら、ロドルフとエンマのあいだにかわされるロマンティックな会話は、陳腐な「恋物語調(ロマンティーズ)」であるということだ。この場面の美しさは、善と悪とがたがいにせめぎ合っているというのではなく、一種の悪が別種の悪とたがいに混じり合っているところにある。フローベール自身いっていたように、まことに彼は色の上に色を重ねて描いているのだ。第二の展開は、顧問官リューヴァンが腰をおろし、ついでドロレーズ氏が立ちあがって演説するところからはじまる。(中略)やがて第三の展開がはじまると、直接の引用が再開し、演壇から風に乗ってただよってくる賞品授与の叫びの断片が、なんの注釈も描写もなしに矢つぎ早やに交互に現れる。(中略)第四の展開はここからはじまる、二人はようやく黙り、いまや特賞が与えられようとしている演壇から、言葉がふんだんに注釈をともなって聞こえてくる。(中略)このように見事な対位法的な章をしめくくる圧巻は、オメーがルーアンの新聞に寄稿した、この見せ物と祝宴に関する記事である。(中略)ある意味では、かの双子の姉妹とも言うべき産業と芸術とは、豚飼いと艶にやさしき恋人同士とを一種道化茶番風に統合する象徴となっているといえよう。これは素晴らしい一章だ。ジェイムズ・ジョイスに多大な影響を与えたのも、この章である。表面的にはいろいろと新規な工夫がこらされているにもかかわらず、ジョイスフローベールよりも一歩先にすすんだとは、わたしには考えられない。》と絶賛した。

 

 蓮實重彦は『『ボヴァリー夫人』論』の「Ⅳ 小説と物語」で、「同時多発」という主題を掲げ、ナボコフと似たような部分を取りあげながら、「交響曲の効果」を説明する。

《では、「書くこと」と「語る」こととは、作品にいかなる齟齬をもたらすのか。それを明らかにするには、一八五三年十月十二日付けのルイーズ・コレ宛の手紙で「交響曲の効果が仮にも一冊の本のなかに移されたということがあるとすれば、この場面がまさにそれになりましょう」(フローベール全集九 P212)とフローベール自身が書いている「農業共進会」の場面がどのように書かれたかを、やや詳しく見てみなければならない。「全体が一緒になって怒号する体のものでなくてはならない(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)」(同書 213)という第二部の八章のこの場面については、それを仕上げることの困難を彼は何度もルイーズにもらしているが、ここで問題としてみたいのは、その「交響曲の効果」そのものの評価ではない。そうではなく、フローベールが何をもって「交響曲の効果」と呼んでいるのか、また彼がそれをどのように「書いた」かを詳しく見ておかねばならないのである。》と前置きして具体的説明に入る。

《そこで、まず指摘しておかねばならぬのは、確かに「牝牛の鳴き声、愛の溜息、役人の演説が同時に聞えてこなければなりません」(同前)といわれているが、文学的なものであれ非文学的なものであれ、散文の言説がおさまらざるをえない文字言語の線上の秩序は、語らるべき事態の同時多発性を言語で同時多発的に表象することなどできはしないという事実にほかならない。「牝牛の鳴き声、愛の溜息、役人の演説が同時に聞え」ると書くことはできても、それはあくまでも単声的な言表の連鎖にすぎず、あらゆる音声が「同時」に聞こえる「交響曲の効果」はそこに皆無だからである。また、「交響曲の効果」なるものを、できごとの同時多発性を比喩的に喚起するような言表行為と理解するとしても、「書く」ことで言語の諸単位はあくまで単声的な線上性におさまるしかなく、そこに「書く」ことと「語る」ことの齟齬がいやおうもなく露呈される。題材の同時性を比喩的に処理するにしても、多声的な印象を捏造する「語り」の技法的な介入は不可欠であり、しかも、それを象徴する言語は、あくまで線状の秩序におさまるしかないからである。

「農業共進会」の場面を書き進めることの厄介さについて、フローベールはルイーズ・コレ宛の書簡でしばしば言及している。たとえば、一八五三年七月十五日付けの書簡で、彼はすでに述べたことがらを別の表現でこう書き記している。

   今晩、農事共進会の大場面の全体をざっと書いて見ました。これは大したものになりますよ。三十頁にはなりそうです。この田舎町の行事とその細部を通して(ここでは、作品中のすべての(・・・・)副次的人物が現れ、喋り、動き回ります)、一人の婦人と彼女を口説いている紳士の対話を最前列でずっと追っていかなければなりません。更に、中心部には、県参事官の荘重なる演説を置き、一番終いに(すべてが終ったところで)、薬屋が哲学的、詩的、進歩的なる達者な文章で行事の経過を報告した新聞記事を据えます。並大抵のことじゃないと分るでしょう。(全集九 178)

(中略)

 いま引用したルイーズ宛の手紙には「交響曲の効果」という言葉は使われていないが、語るべきことがらの同時多発的な推移が問題となっているのはいうまでもない。「最前面」には「一人の婦人と彼女を口説いている(・・・・・・)紳士の対話」とあるから、村役場の二階に位置どるエンマとロドルフの人目を避けたきわどい会話がそれにあたり、「中心部」には「県参事官の荘重なる演説」とあるから、来賓代理のリューヴァン氏の演説がそれにあたるといえる。ここでの「最前面」と「中心部」とは、おそらく同時的な事態として構想されているのだろうが、さらに「作品中のすべての(・・・・)副次的人物が現れ、喋り、動き回」るという同時的事態が、「交響曲の効果」をさらに高めることになるのだろう。そこに描きだされようとしているのは、階級や職業はいうまでもなく、意識や趣味、あるいは利害関係さえ共有することのない者たちが、一日かぎりの共存を演じてみせるといういかにもフィクションめいた混沌ともいうべきものなのである。

(中略)

 あらゆるものが無方向に揺れているかにみえるこの祝祭空間にも、かろうじて中心らしきものがかたちづくられる。それは、「銀の縫い取りをした短い燕尾服の紳士が馬車から降り」(Ⅱ-8:220)たち、村長のチュヴァッシュ氏に向かって「知事閣下はお見えにならないとつげ、自分は県参事官であると名乗って、二、三弁解の言葉をつく加え」(同前)てから演壇に立つときにほかならない。「いつのまにかその参事官がリューヴァンという名であることが知れていたので、群衆のなかをその名前が口々に言い伝えられてい」(Ⅱ-8:222)くと語られているからだ。そのとき、ロドルフは、人目を避けてすでにボヴァリー夫人を村役場の二階の「会議室」に誘いこんでおり、「国王の胸像の下にある楕円形のテーブルのまわりからスツールを三脚取ってきて、それを窓の一つの近くにならべ、ふたりは肩を寄せて腰をかけ」(同前)る。こうして彼の誘惑の言葉と女の抵抗の仕草とが参事官の演説と同時に進行することになるのだが、すでに述べたように、並行的に推移する二つの事態を言語で同時に表象することはできないので、ここでの同時性も断片化された交互性によって置き換えられざるをえない。すなわち、同時に口にされている参事官の言葉の断片とエンマとロドルフの睦言の断片とが、交互に何度かくり返し描かれることになる。

  「でも幸福ってあるものでしょうか」とエンマはきいた。

  「ええ、幸福はいつかはめぐりあえるものです」と彼は答えた。

 

   《諸般の趨勢よりして諸君は了解されたでありましょう》と参事官はいった。《農業家および地方労務者たる諸君(後略)》(Ⅱ-8:225)

 読まれる通り、同時的な事象を「語る」ことはかろうじてできる。だが、その同時的な事象を同時的なものとして「書く」ことはできず、そこに交互性という秩序を導入せざるをえない。同時性のこうした交互的な表象は、リューヴァン氏の演説が終わり、品評会の審査委員長であるドロズレー氏の挨拶が間接話法で伝えられ、さらに賞金の授与式が始まっても維持されることになる。実際、壇上の審査委員長の声と窓辺でささやき合う男女の声とが、ほとんど媒介なしに交互に描かれている。参事官の演説と男女の睦言とはこれまで一行あきで継起していたが、いまや、二人の台詞と表彰式で口にされる儀式的な発言とはいっさい余白なしに交互に配置され、交響曲の終幕に向けてそのリズムを早めている。

  「私たちはなぜ知りあったのでしょう。(中略)それはきっと、先は一つに合流するときまった二つの川のように、はじめは互いに遠くはなれていても、私たちの身におのずとそなわった特殊な傾斜がふたりを互いのほうへと導いてくれたにちがいありません」

   こう言って彼はエンマの手を握った。エンマは手を引っ込めなかった。

  《総じて耕作成績良好なる者!》と委員長が叫んだ。

  「げんに今日私がお宅へ伺ったときも……」

  《カンカンポワ村のビゼー君》

  「こうしてごいっしょにいられるなどと夢にも思ったでしょうか」

  《賞金七十フラン!》

  「心弱くもあきらめて帰ろうと幾度思ったことか。それがけっきょく、あなたのお供をして、おそばに残ることとなったのです」

  《肥料賞》

  (中略)

  《豚類。ルエリッセ、キュランブール両君、「同格として(エクス・エクオ)」賞金六十フラン!》

   ロドルフはエンマの手を握りしめていた。エンマの手は熱っぽく、生け捕られた雉鳩(きじばと)が飛び立とうとするようにふるえていた。(Ⅱ-8:233~235)

 エンマが握られていた手の指を思わず動かすと、それを承諾のしるしと受けとめたふりを装うロドルフは、「おお、ありがとう! あなたは拒まない! わかっていただけた!」(Ⅱ-8:235)と声を高める。それへのエンマの応答はいっさい語られておらず、不意に捲き起こる一陣の風が内部と外部を通底せしめるばかりだ。

   窓から風が吹き込んで、テーブル掛けに皺(しわ)をよせた。そして下の広場では、百姓女たちの大きな布帽が、白い蝶の羽がひらめくようにさっと一度にひるがえった。(同前)》

 

 ルイーズ・コレ宛書簡の、《薬屋が哲学的、詩的、進歩的なる達者な文章で行事の経過を報告した新聞記事を据えます》の薬屋オメーによる新聞記事は、《夜に入っては絢爛(けんらん)昼をあざむく花火が突如として天空を照らし、万華鏡をさし覗くがごとく、またオペラの舞台を眼前に見るがごとく、一瞬われらが渺(びょう)たる小村も『千一夜物語』の夢の世界のただなかに運びさられたかの感があった》と、「オペラ」という語を比喩的に使っている。しかもエンマとロドルフの近づきのアイロニカルな、かつオメーの堂々たる俗物性の一例として、《ちなみに当日の和気藹々(あいあい)たる会合を紊乱(びんらん)するがごとき不祥事(ふしょうじ)の発生をも見なかったことを付記しよう》が添えられて。

 

ナボコフによる『ボヴァリー夫人』論――「対位法的手法」>

 ナボコフ『ヨーロッパ文学講義』から。

フローベールには、対位法的手法(・・・・・・)と呼んでさしつかえない特殊な方法がある。それは二つないしそれ以上の会話なり思考の流れを、平行して挿入したり、からませたりする方法のことだ。》

《エンマが青い霞に包まれたロマンティックな夢の世界にともに駈け落ちしようと期待した矢先に捨てられる、ロドルフとの情事の終りにつづいて、二つの関連した場面が、フローベール得意の対位法的構造で描かれる。最初の場面は、歌劇ルチア・ディ・ラメルモールの上演の晩で、そこでエンマはパリからもどってきたレオンに再会する。粋な青年たちが手袋をはめた掌を、つややかなステッキの握りに当てて、劇場の平土間席を気取って歩いているのが見える。とかくするうちに、いろいろな楽器が騒がしく演奏前の調律をしはじめる。

 この場面の第一展開で、エンマはテノール歌手の美しい旋律の嘆きに酔う。今は遠く過ぎ去ったロドルフへの恋を思い出したからだ。シャルルは味気ないことを口だししては、彼女の音楽的な気分を害する。シャルルにはこの歌劇は馬鹿げた身振りのごたまぜにしか見えない、が、エンマは原作をフランス語訳で読んでいたので、筋がよく理解できる。第二の展開で、彼女は舞台のルチアの運命のあとを追い、ひるがえって自分自身の運命に思いをはせる。エンマは舞台の娘と一心同体となり、テナー歌手と同じような男なら、誰でもいい、愛されてみたいと思う。だが、第三の展開で、役どころが逆転する。いまや有難くない邪魔を入れるのは、歌劇のほう、歌のほうだ。これこそ本物といえるのは、レオンとの会話のほうで、シャルルはやっと楽しい気分になりかけてきた、その矢先に彼はカフェに連れ出されてしまう。第四に、日曜日にまた来て見そこねた終幕をご覧になったらと、レオンがエンマにいう。まことに図式的な等式がここに成立している――エンマにとって、最初、歌劇は現実と等しかった。歌手は初めロドルフ自身だった。ついで歌手ラガルディー自身、ありうべき恋人となる、それからありうべき恋人はレオンとなり、ついにはレオンは現実と等しくなり、エンマは歌劇に興味を失い、劇場の熱気を避けようと、レオンとともにカフェに避難する次第である。》

 

<ブラックマーによる『ボヴァリー夫人』論――「香具師(やし)」>

 リチャード・パーマー・ブラックマー「ところを得ぬ美 フローベールの『ボヴァリー夫人』」から。

《エンマのほんとうの堕落が始まるのは、シャルルに連れられて『ルチア』のラガルディーを聴きに行くときである。そのとき彼女は装いを新たにしたおのれの青春を読むのだ。このオペラ――いかなる感情も挫折することなく、あらゆるものが多様な形で満たされる、あの遠くて近い因襲芸術――を観ているとき、彼女は、幸福の高みがじつは「一切の情慾を絶望の淵に陥らせるために考え出された嘘いつわり」であったことを知る。「彼女は今では、芸術によって誇張された情熱のくだらない正体を知っていた。」 しかし、彼女がこのことを知るにいたった方法も、またその結果も、ラガルディーも「驚くべき香具師(やし)気質(かたぎ)」を通じてであるという、彼女独特の奇妙な流儀においてである。それは逆立ちしたボヴァリスムだ。彼女が欲望の幻にあてた一瞬の照明が、どうしたわけか逆の選択を可能にしたのだ。つまり、彼女は歌劇役者の役柄のほうを棄て、かわりに役者のほうを取っている――役者であることの香具師(やし)的役割を取っているのである。たしかにラガルディーは測り知れない愛にあふれている。その愛はエンマの本性にひそんでいる香具師(やし)のようであった。だからこそ彼女は、レオンがまるで貴族のように手を差し延べながら姿をあらわしたとき、ラガルディーへの思慕をレオンその人に向けることができたのである。エンマは、レオンがいまや演技をすることができるということ、また、演技することがいまや彼女自身に残された唯一のことであるということを、直ちに見てとる。それが人生に残されたことである。彼女の大きな魅力は、これまではその純真さ(それは堕落させられる可能性がある)にあったのに、いまや、彼女が自分自身のなかから喚起することのできる幻の偶像(それはひとを堕落させる力をもっている)となる。しかし、それは役割を逆転させることではない。エンマがロドルフを演じようとしているのではない。むしろ彼女自身の役割を、真実なものから背徳的なものへと拡げようとしているのだ。かくて私たちは、ロドルフを俟たずに、エンマ・ボヴァリーの衣装をはぎとる。》

 

 付記

<『ボヴァリー夫人』――「第二部 十五章」>

《つめかけた観客は正面玄関の左右、壁ぎわの柵(さく)のあいだに列をつくって待っていた。近くの町かどごとに、ばかでかいポスターが貼(は)られ、「『ランメルモールのリュシー』……ラガルディー……オペラ」などの同じ文句が珍妙な字体で書かれてあった。よい天気で、暑かった。汗は人々のカールさせた髪の毛のなかを流れ、手に手に取りだされたハンカチは、赤くほてった額をぬぐっていた。しめった川風が、ときどきむっと(・・・)吹きつけて、酒場の入口に張ったズックの日よけテントの縁(へり)をかすかにそよがせた。しかし、もっと川岸寄りのほうへ行くと、ひんやりした風が肌(はだ)に涼しく、同時にグリースや革や油のにおいがした。それは、暗い大倉庫が立ちならび、人夫が樽(たる)をころがしているシャレット通りから来る臭気だった。

 エンマはあまり早くから桟敷にはいって笑われるのをおそれて、入場する前に河港のあたりをひとまわり散歩したいと言った。するとボヴァリーはまたえらく用心して、ズボンのポケットのなかで切符をしっかり握りしめ、おまけに握ったその手を下腹に押し当てた。

 玄関へはいったとたんにエンマの胸はたかなった。自分は「二階指定席」への階段をのぼって行くのに、一般群衆は別の廊下から右手のほうへわれがちにと突進する、そのさまを見て思わず得意の笑いがこみあげてきた。布張りのどっしりしたドアを指で押すのも、たあいなくうれしかった。通路のほこりっぽいにおいも胸いっぱい吸い込んだ。そして自分の桟敷にすわったときには、公爵夫人のように場慣れした様子で、すいと(・・・)背を延ばした。

 場内は満員になりはじめた。ケースからオペラ・グラスを取りだす者、遠くから見つけ合って会釈(えしゃく)をかわしているのは劇場(こや)の常連でもあろう。彼らは芸術のうちに商売の憂さをはらしに来ながらも「取引き」を忘れず、またしても木綿や標準酒精や藍(インデイゴ)染料の話をしている。老人の顔も見える。みな無表情で、もの静かに、髪も顔も白っぽく、鉛の蒸気でいぶした銀メダルのようだった。若いハイカラ連中はチョッキの胸もとに桃色や薄緑色のネクタイをひけらかしながら、「平土間」を闊歩(かっぽ)していた。そしてボヴァリー夫人は、彼らが黄色い革手袋をぴったりはめた手を、細身のステッキの金の握りにそえている伊達(だて)姿を、二階からあかずながめ入った。

 やがてオーケストラ席のろうそくがともった。シャンデリアが天井からさがってきて、ガラスの切子面が燦然(さんぜん)とかがやくと、思いがけないはなやかさが場内にみなぎった。そこへ楽士たちが相次いではいって来た。最初は、調子を合わせる諸楽器の騒音が長々とひびく――チェロはうなり、ヴァイオリンはきしり、トランペットはかん高く叫び、フリュートフラジオレットぴよぴよ鳴いた。しかし舞台に拍子木の音が三つ聞こえると、ティンパニの連打がはじまり、金管群はいっせいに咆哮(ほうこう)し、幕がするするとあがって、一つの景色が現われた。

 それは、森のなかの四つ辻(つじ)で、左手には柏(かしわ)の木陰に泉が見える。碁盤縞(ごばんじま)のマントを肩にかけた農夫や貴族が猟の歌を合唱している。突然、一人の士官が現われ、両腕を高々と差し上げて悪魔に祈りをささげる。また別の男が出て来る。ふたりが退場すると、猟人たちはまた歌い出す。

 エンマは娘時代の思い出の小説の国へ、ウォルター・スコットの世界のまっただなかに帰った。立ちこめる霧のかなたに、ヒースの荒野にこだまするスコットランドの風笛の音が聞こえてくるようだ。それに、忘れもしない小説の筋だったから、脚本の運びもよくわかる。彼女は一句一句劇の展開をあとづけていった。しかし胸によみがえるとらえがたい思いのかずかずは、音楽の突風にたちまち吹き散らされた。彼女はメロディーに揺られるままに身を任せ、まるでヴァイオリンの弓が彼女の神経をじかにこすってでもいるかのように全身をわななかせた。さまざまな衣裳や舞台装置や登場人物、人が歩くと揺れる書き割りの立ち木、ビロードの帽子、マントや剣など、すべてこれらの空想の所産は、この世ならぬ雰囲気のなかに音楽の快い調べに乗って動き、エンマは目がいくつあっても足りない思いだった。が、今やひとりの若い女が進み出ると、緑衣の従者に財布を投げ与えた。舞台はこの女ひとりになった。すると、わき出る泉のささやきのような、また小鳥のさえずりのようなフリュートの弱奏が聞こえて、リュシーは荘重にト長調のカヴァチオを歌いはじめた。彼女は恋を訴え、翼をもとめた。エンマも同じ思いにひたった。憂き世をのがれて、抱擁の別世界へと飛び去りたかった。と、そこへ突然、今夜のエドガール役でしかもその名もエドガール・ラガルディーが現われた。

 彼は、生来情熱的な南仏人の顔に一面大理石のような冷厳のおもむきをそえるあのまばゆいばかりの色白さを持っていた。そのたくましい体軀(たいく)を褐色の胴衣にぴっちりと包み、鞘(さや)に彫金をほどこした短剣を左の腿(もも)の上につって、彼は白い歯を見せながら悩ましげに視線をさまよわせていた。噂によれば、彼はもとビアリッツの海岸でランチの修理工をしていたのだが、たまたまある晩彼の歌声を聞いたポーランドのさる公爵夫人が彼にすっかり血道を上げ、彼のために身代限りまでした。しかるに彼はこの女をあっさりおっぽって、ほかの女たちをつぎつぎに追ったという。この艶聞(えんぶん)は彼の芸術家としての評判を高めこそすれ傷つけはしなかった。おまけに、処世の術にたけたこの旅役者は、自分の肉体的魅力と多情多感な心ばせとを謳(うた)った詩的な文句をたくみに広告文のなかに織り込む用意をつねに忘れなかった。美声に加えて堂々たる押し出し、知性よりはむしろ熱っぽさ、しめやかな抒情よりはむしろ表現のどぎつさを看板とすることなどが、床屋ないしは闘牛士めいたこの男の驚くべき香具師(やし)根性を、このうえなく引き立ておおせていた。

 彼は初手から観客を熱狂させた。リュシーをかきいだくかと思えば、歩み去り、また取って返す。絶望の極とおぼしく、怒りの叫びをあげたが、やがてそれは惻々(そくそく)と胸をうつ憂いのうめきと変わった。そしてその歌声はむせび泣きと口づけに満ちて、彼のあらわな喉をもれた。エンマは桟敷(さじき)席のビロードに爪を立てながら、身を乗り出して彼を見ようとした。吹きすさぶ暴風雨(あらし)をついてかすかに聞こえる難船者の叫びのように、コントラバスの伴奏に乗ってなよなよと歌いつづけられる愁訴の声を、エンマは胸いっぱいに受けとめた。エンマは過日自分がそのために危く死にかけた陶酔と苦悩のすべてをそこに認めた。リュシーの歌声は自分の心の反響としか、そして心奪うこの幻影は自分の生活の一部としか思えなかった。しかし、エドガールのような激情をこめて愛してくれた人はまだひとりもない。最後の夜、月光のもとで「じゃ、明日(あした)、明日ね!……」と言いかわしたときも、あの人はエドガールのように泣いてはくれなかった。喝采(かっさい)の声がどっと場内をゆるがせた。幕切れの終曲(ストレツタ)全部が繰りかえされ、恋人同士はふたたび彼らの墓の花や、誓いや、流謫(るたく)や、宿命や、希望について語り合った。そしてふたりがいよいよ最後の別れを告げたとき、エンマは思わず「ああ」と鋭く叫んだが、それは楽の音(ね)の最後のふるえに溶け込んで消えた。

「どうしてあの貴族はあの女をいじめてばかりいるのかね」とボヴァリーがきいた。

「ちがいますよ、あれがリュシーの恋人なんです」とエンマは答えた。

「妙だな、あの男は女の家族に復讐(ふくしゅう)するんだっていきまいていたし、さっき出て来たもうひとりの男は『私はリュシーを愛している。リュシーも私を愛していると思う』と言っていた。それにあとのほうの男は女の父親と親しげに腕を組んで立ち去ったじゃないか。あれがたしかに父親なんだろう、帽子に雄鶏の羽根をつけていたあのはえない小男が?」

 エンマがいろいろと説明してやったにもかかわらず、従者のジルベールがその憎むべき悪だくみを主人アシュトンにさずける掛け合いの叙唱(レシタテイーヴオ)がはじまったとき、シャルルは、リュシーをあざむく贋(にせ)のエンゲージ・リングを見て、それはてっきりエドガールがリュシーに贈る恋のかたみだと思い込んだ。もっともシャルルは――こう音楽がやかましくちゃあ台詞(せりふ)の邪魔にばかりなって――話の筋がどうにもわからないのだと白状した。

「わからないならわからないでいいじゃありませんか。静かにしてらっしゃい!」とエンマは言った。

 シャルルは妻の肩に身を寄せて、「いや、おれはわからないじゃあすませられない性分でね」。

「しいっ! 黙って!」と彼女は眉(まゆ)をひそめて言った。

 髪にオレンジの花かずらをつけ、ドレスの白繻子(しろじゆす)よりもなお蒼白(そうはく)な顔色のリュシーが、侍女たちにささえられるようにして進み出た。エンマは自分の結婚式の日を思い出した。あの田舎の麦畑のなかの小道を、皆といっしょに教会へと歩いて行った自分の姿が目に浮んできた。どうしてあのときリュシーと同じように反抗し、哀願しなかったのだろう。それどころか自分は奈落(ならく)の底へ落ち込もうとしているとも知らず、ただ喜んでいたのだった……ああ! 初々(ういうい)しい美しさがまだ自分のものだったあのころ、結婚生活のけがれも、邪恋の幻滅も味わい知らぬ青春の日に、もしもだれか大きな強い心を持った人の手に自分の一生を託することができたとしたら、そのときこそ貞操も愛情も快楽も義務もおのずと分かちがたく溶け合って、その幸福の絶頂からついに一歩も降り立つことはなかったろうに。しかしそうした幸福も、ことによったら、人間のすべての欲望が現実ではとうていかなえられないがゆえにこそ編み出された嘘(うそ)なのではなかろうか。彼女は今では情熱のみなしさを、そしてその本来むなしい情熱を芸術がいかに針小棒大に描き出すかを知っていた。そこでエンマは舞台の感動にひき込まれないようにつとめながら、ついさっきまで自分の苦悩を如実に再現したかとも思われたこのオペラを、なんのことはない、ただごてごて飾りたてたこけおどしのでたらめとのみ見ようとした。だから彼女は、やがて舞台の奥からビロードの帳(とばり)を押しわけて黒マントの男が現われたときでさえ、ひそかにさげすむような憐(あわ)れみの微笑を浮かべたのだった。

 その男のかぶっているスペイン風の鍔(つば)の広い帽子は、ふと彼が身ぶりをするはずみに下へ落ちた。それを合図に器楽合奏も歌手たちもいっせいに六重唱にはいった。火をふかんばかりに怒ったエドガールはひときわ朗々たる声で他を圧した。アシュトンは無気味な低音で彼に決闘をいどんだ。リュシーはかん高い哀訴の声をあげ、アルチュールはひとり離れたところに立ってバリトンをひびかせ、牧師のバス・バリトンはパイプ・オルガンのようにうなった。すると今度は女声合唱が牧師の言葉を反復して美しく歌いつづける。彼らはみな一列にならんで身ぶりをしていた。なかば開いた彼らの口から、憤怒や、復讐や、嫉妬(しっと)や、恐怖や、憐憫(れんびん)や、驚愕(きょうがく)が同時にほとばしり出た。屈辱の恋人エドガールは抜き身の剣を振りまわす。と、レースの襟飾りは胸が動くにつれて激しく上下した。踝(くるぶし)のところがふくらんだ柔らかい長靴の金めっきした拍車を舞台の床(ゆか)に鳴らしながら、彼は大股(おおまた)に歩きまわった。この男がこんなにもたっぷりとありあまる愛の思いを観客の上にばらまいているところを見ると、さだめし彼の胸のなかには無限の愛のたくわえがあるにちがいないとエンマは考えた。こうしてこの役の与える詩的な情緒にひき入れられるにつれて、先刻のオペラなど子どもだましだといった気分もいつしか消えた。そして役柄によって夢をそそられた彼女は、やがて役を演ずる俳優その人の上にまで思いをはせ、彼の日ごろの生活を想像してみようとした。それは世間周知の非凡なすばらしい生活である。だが彼女だってその同じ生活を、もし運命が許しさえしたら逃れたかもしれないのだ。自分はあの人と知り合い、愛し合ったかもしれないのだ! あの人と手に手をたずさえてヨーロッパじゅうの国々を、都から都へと旅しつづけ、あの人の疲れも誇りもともに分かち合、あの人に投げられる花を拾い、あの人の舞台衣裳を手ずから刺繍(ししゅう)することもできたかもしれないのだ。そして夜ごと劇場の桟敷(さじき)の奥、金色の仕切り格子に身を寄せて、自分だけのために歌ってくれるあの人の魂の声に恍惚(こうこつ)と聞きほれたかもしれないのだ。あの人はきっと歌いながらも舞台から自分のほうを見つめてくれるだろう。そこまで空想したとき、狂気に似た思いが彼女をとらえた。今、げんにあの人は私を見つめているではないか! そうだ、まちがいない! 彼女は駆け出して行って彼の腕に身を投げ、恋愛そのものの権化(ごんげ)のような力強い彼の胸のなかにかくまってもらいたかった。そして言いたかった、叫びたかった、「わたしをさらってちょうだい、連れて逃げてちょうだい、さあ行きましょう! わたしの燃える思いも、遠いあこがれもみんなあなたにささげます、みんなあなたのものです!」と。

 幕がおりた。

 石油ランプのにおいが人いきれに交じっていた。扇子の風が空気をいっそう息づまるようにしていた。エンマは外へ出ようとしたが、廊下もいっぱいの人波だった。胸をしめつけるような動悸がして、エンマはまた椅子にくずおれた。シャルルは、彼女が卒倒するのではないかとうろたえて、アーモンド水を買いに食堂へ走った。

 席へもどるのが大骨折りだった。コップを両手でささげ持っているので、張った両肘が一歩ごとに人にぶつかった。あげくのはては袖の短いドレスを着たルーアン女の肩へ、コップの中身を半分以上ぶちまけてしまった。女は冷たい水が腰へ流れ込むので、殺されでもしたかのように、孔雀(くじゃく)のような叫び声をあげた。亭主の紡績工場主はこの粗忽(そこつ)者にむかっ腹を立て、細君が桜色タフタのみごとなドレスについたしみをハンカチでふいているあいだじゅう、損害賠償だの、費用だの、弁償だのといった言葉をぶつくさつぶやいていた。やっとのことで妻のそばへたどりつくと、シャルルははあはあ言いながら、

「いやはや、行ったきりで帰れないかと思ったよ! えらい人混みだ!……たいへんなもんだ!……」

 そして彼はつけ加えた。

「階上(うえ)でだれに会ったと思う? レオン君だよ!」

「レオンさん?」

「そうなんだ。すぐにおまえに挨拶に来るって言ってた」

 その言葉が終わらないうちに、ヨンヴィルの元書記が桟敷(さじき)へはいって来た。

 レオンは貴族のような鷹揚(おうよう)さで手を差しのべた。ボヴァリー夫人はとっさに気をのまれたかたちで、思わず手を出した。この人の手を握るのはあの春の夕暮れ以来のことだ。言葉が雨にぬれていたあの宵(よい)、ふたりは窓べに立って別れをかわしたのだった。だがエンマはすぐに場所柄をわきまえ、こうした追憶のぬるま湯にひたそうとする心をひと思いに振り払い、急(せ)きこんでどもりがちな言葉を口にのぼせはじめた。

「まあ、お久しぶり……でも、どうして! あなたがここに?」

「しいっ!」と平土間から声があがった。第三幕がはじまりかけているのだった。

「では、ルーアンに今おすまいですの?」

「ええ」

「いつから?」

「出てゆけ! 出てゆけ!」

 皆が彼らのほうをふり向いた。ふたりは黙った。

 しかしそれ以後もうオペラは彼女の耳にはいらなかった。結婚式に招かれた客たちの合唱も、アシュトンとその従者の場も、ニ長調の大二重唱も、まるで楽器の音はかすれ、人物も後退したかのように、すべては彼女にとって遠い世界へと移行した。彼女は薬剤師の家でのトランプや、乳母の家への散歩を、また青葉棚の下の読書、炉ばたの差し向かいなど、あんなにもしめやかに、つつましくもまた優しく、細々とつづいたあの哀れな恋を、そのくせ今まで忘れてしまっていたあの恋のすべてを思い出した。この人はなぜふたたび姿を現したのだろう? どういうまわり合わせでこの人はこうしてまた自分の生活のなかに立ち返って来たのだろう? そのレオンは桟敷の仕切りに肩をもたせながら、彼女の後ろに立っていた。ときどき、なま暖かい鼻息が髪の毛にかかるのを感じて彼女はおののいた。

「いかがです、おもしろいですか」とレオンはきいたが、エンマの顔の間近までかがみ込んだので、口ひげの先が彼女の頬にふれた。

 エンマはつまらなそうに答えた。

「いいえ、たいして」

 するとレオンは、劇場を出て、どこかへ氷菓子を食べに行こうと誘った。

「いや、まだまだ! もっと見てゆきましょう!」とボヴァリーは言った。「あの女、髪を振りみだしたところを見ると、いよいよこれからが見せ場らしい」

 しかし狂乱の場はエンマにはつまらなく、プリマドンナは演技過剰に思われた。

「あんまり絶叫しすぎるわ」と彼女はシャルルのほうを向いて言った。シャルルはここぞとばかり聞き耳を立てている。

「うむ……そういえば……多少そうかな」正直楽しい気持と、妻への気がねとにはさまれて、シャルルはどっちつかずに答えた。

 やがてレオンは溜息をついて、

「いや、こう暑くっちゃあ……」

「たまりませんわ! ほんとうに」

「おまえ、気分がよくないのかい」とボヴァリーがきいた。

「ええ、息がつまりそうよ、出ましょう」

 レオンは長いレースの肩掛けを、慣れた手つきで彼女にかけてやった。そして三人は連れだって、河港にのぞんだコーヒー店のガラス張りの前、外店(テラス)の席に腰をおろした。

 最初はエンマの病気の話が出た。しかしエンマは、そんな話はレオンさんにはご退屈よと言って、何度かシャルルをさえぎった。それからレオンが、パリとノルマンディーとでは事務のやり方もしぜんちがうので、こちらのやり方に習熟する目的でルーアンへやって来た、ある大きな事務所に二年計画で勤めているのだとふたりに語った。ついでベルトのことや、オメー一家のこと、ルフランソワの女将(おかみ)のことをたずねた。が、エンマもレオンも、夫のいる前ではそれ以上何も話すことがなかったから、やがて話はとだえた。

 オペラがはねた帰りの人たちが「おお麗(うるわ)しの天使、リュシー」と、低声(こごえ)に口ずさみ、また大声にわめきたてながら歩道を通って行く。するとレオンは趣味人を気どって、音楽論をはじめた。タンブリーニもルビーニもペルシアーニもグリージーも見たが、そこへゆくとラガルディーなんぞはただやたらと大げさなだけで比較にならないと言った。

「お言葉だが」とシャルルはラム酒入りのシャーベットをなめなめ異議をとなえて、

「ラガルディーは幕切れの場では文句なしにすばらしいという評判ですよ。終わりまで見ないで出たのはなんとしても心残りだ。やっとこれからというところだったのに」

「なに近々またやるそうですよ」と書記は答えた。

 しかしシャルルは、自分たちは明日はもう帰る予定だと言った。そして妻のほうを振りかえって、

「それとも、おまえだけ残ることにするか」とつけ加えた。

 そういう意外な風向きとなったので、レオン青年はひそかな望みをとげる好機いたれりとばかり、とっさに前言をひるがえして終幕のラガルディーを絶賛しはじめた。いや、なんというか、たいしたものだ、崇高のきわみだ! するとシャルルは手もなくあおられて、

「おまえは日曜に帰ればいい。ぜひ、そうしなさい! 少しでも体にいいと思ったらためらうことはない」

 いつのまにか、あたりのテーブルが空(から)になっていた。ボーイがそっと来て、彼らのそばに立った。シャルルはそれと悟って財布を取り出した。すると書記はシャルルの腕をおさえて勘定を払ったばかりか、ぬかりなく銀貨を二枚テーブルの大理石の上に投げ出した。

「これは困る、いたまったく済まん、あなたに払っていただいたりしちゃ……」とシャルルはもごもご言った。

 相手は、何をおっしゃると言いたげな気さくな身ぶりをして、帽子を手に取ると、

「では明日の晩、六時に」

 シャルルは自分のほうは予定があるからと重ねて断わった。が、家内が残るのはべつに……

「ええ、でも……わたしどうしようかしら……」とエンマは口ごもったが、顔は意味ありげに笑っていた。

「じゃ、まあとっくり考えるさ。明日になりゃ決心がつくだろう。ことわざにもいうとおり、一晩おいて思案せよだ……」

 それから、いっしょに歩いているレオンに向かって、

「これからはまたお近くになったんだから、たまには夕食でもやりに来てください」

 書記は、ヨンヴィルへは事務所の用事で行くついでもあることだし、近いうちにかならず参上しますと約束した。そして彼らは、大聖堂の鐘が十一時半を打つのを聞きながら、サン=テルブラン通りの前で別れた。》

 

                               (了)

      *****引用または参考文献*****

(引用文中の「フロベール」表記は、「フローベール」に統一した)

*ギュスターブ・フローベールボヴァリー夫人』山田𣝣(じゃく)訳(河出書房文庫)

*『フローベール全集 別巻 フローベール研究』(リチャード・パーマー・ブラックマー「ところを得ぬ美 フローベールの『ボヴァリー夫人』」土岐恒二訳、他所収)蓮實重彦他訳(筑摩書房

*『フローベール全集 九 書簡2』山田𣝣(じゃく)訳(筑摩書房

蓮實重彦『『ボヴァリー夫人』論』(筑摩書房)                                                       

ウラジーミル・ナボコフ『ヨーロッパ文学講義』野島秀勝訳(TBSブリタニカ)

*トニー・タナー『姦通の文学 契約と違犯 ルソー・ゲーテフロベール高橋和久御輿哲也訳(朝日出版社

*工藤庸子『近代ヨーロッパ宗教文化論 姦通小説・ナポレオン法典政教分離』(東京大学出版会

*M・バルガス=リョサ『果てしなき饗宴 フローベールと『ボヴァリー夫人』』工藤庸子訳(筑摩書房

ジャン=ポール・サルトル『家の馬鹿息子 1,2,3,4』平井啓之、鈴木道彦、海老坂武訳(人文書院

スラヴォイ・ジジェク『否定的なもののもとへの滞留 カント・ヘーゲルイデオロギー批判』酒井隆史田崎英明訳(太田出版

水村美苗本格小説』(新潮社)

ジェイムズ・ジョイスユリシーズ丸谷才一、永川玲二、高松雄一訳(河出書房)

*宮田恭子『ジョイスとめぐるオペラ劇場』(水声社

オペラ批評 プッチーニ『トスカ』に関するノート

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 一九〇〇年にプッチーニのオペラ『トスカ Tosca』がローマで初演されるや、ワーグナー崇拝が濃い北ヨーロッパの評論家、音楽家たちはこぞって批難した。グスタフ・マーラーの「巨匠の駄作」、リヒャルト・シュトラウスの「たちの悪い札つきの低俗作品」、ユリウス・コルンゴルトの「最も腹黒い恐怖からなる大げさな芝居」「苦悩のドラマ」、オスカー・ビーの「好意を装った虐殺者の仕業、冷笑を浮かべながらの殺人」、リヒャルト・シュペピトの「嘘つきな通俗劇場」、アンドレ・メサジュの「音楽がほとんど自分を見出すひまもないほど、矢継ぎ早に進む筋を喘ぎながら追いかけ(なければならない)」、悪しき意味合いを込めての「ヴェリズモ」「南国的劇場オペラ」「血まみれのスリラー・ドラマ」と悪評は長く続いた。(アッティラ・チャンパイ「拷問部屋と協和音――プッチーニの《トスカ》と歌唱オペラの危機」より)

 けれども、『トスカ』は不動の人気を保ち続け、現在でも有名オペラハウスのシーズン・オープニングを飾ってやまない。なぜ人々を魅了し続けるのか。

 音楽的には、ワーグナーが活用したライト・モティーフ(動機)の応用で、幕開けの「スカルピアの動機」からはじまり、「トスカの登場の動機」「拷問の動機」など何十ものライト・モティーフが織りあわされ、情景描写を醸しつつ、スピード感(現代まで残るには極めて重要)をもって、追うものと追われるものの手に汗握る逆転が心はやらせる。第一幕幕切れ、「テ・デウム Te Deum」では、教会による戦勝を感謝する大合唱に、スカルピアの欲望のモノローグが臆面もなく重なって、荘厳な音楽と視覚的スペクタクルが相乗効果を生む。第二幕では、トスカのカンタータが外から聴こえてくると、被さるようにスカルピアがトスカへのサディスティックな性的欲望を歌いあげる。スカルピアがトスカを強迫、凌辱しようとする場面では、カヴァラドッシの処刑台を組立てる音がこだまし、演劇的な効果がいたるところに散りばめられている。第三幕冒頭の羊飼いが歌う牧歌的夜明けの情景は、血なまぐさい死の欲動の南国的ドラマに間奏曲として息抜きを与える。エンターテイメント性が綿密に練り込まれた現代風の、心躍らすミュージカル音楽とも、琴線に触れる映画音楽の「アンダースコア(背景に音楽を入れる)」を先取りしている(『風と共に去りぬ』のスタイナーの音楽を思い起そう)とも称されよう。そして、プッチーニ第一次世界大戦前後のスランプを越えた遺作『トゥーランドット』の未完の大詰めに象徴される「オペラの終焉」へ向けた、彼特有の永遠の「謎」を残す、世紀の変換期の到達点とも言えよう。

 だが、文芸的、演劇的、思想・形而上学的にはどのように受容されるべきか、いかなる批評が可能なのだろうか。

 

スタンダールパルムの僧院』の一八〇〇年>

『トスカ』の時代背景は一八〇〇年六月十七日、ナポレオンがマレンゴーの戦い(六月十四日)で勝利したとの報告が届くローマの一日で、ちょうど百年後の一九〇〇年一月十四日、同じローマでの初演として企画された。一八〇〇年のイタリア、ローマの歴史的、政治的状況は、「ナポリ国王フェルディナンド四世の王妃マリイ・カロリーヌに代表されるオーストリア帝国ハプスブルク家ナポリ=ブルボン王朝とローマ教皇の旧思想保守勢力」対「ナポレオン率いるフランス軍ヴォルテール、ルソーといった共和主義者による新思想革命勢力」の対立構造と解説書には書かれているが、一八〇〇年当時の、民衆、貴族らの精神状態、気質、情熱については、スタンダールの小説『パルムの僧院』を読むのがよい(惜しむらくはオーストリアにより近いミラノとパルムが主な舞台で、ローマではないことだが)。

 ロラン・バルトが遺稿「人はつねに愛するものについて語りそこなう」で賞賛した『パルムの僧院』の冒頭部分を引用する(バルトの賞賛理由は『トスカ』の本質と関係しているので後述する)。

《一七九六年五月十五日、ボナパルト将軍は、ロジ橋を渡ってシーザーとアレクサンダーが幾多の世紀を経て一人の後継者をえたことを世界に知らしめたばかりの、あの若々しい軍隊をひきいてミラノに入った。イタリアが数か月にわたって見てきた勇気と天才の奇蹟は眠っていた民衆の目をさました。フランス軍到着のまだ八日前まではミラノの人たちはフランス兵とはオーストリア皇帝軍にあえば必ず敗走する盗賊の集りとしか考えていなかった。少なくとも、汚(きた)ならしい紙に刷った掌(てのひら)くらいの大きさの小新聞が二三度そういうことをくりかえしていた。

 中世には、共和国のロンバルジア人はフランスに負けぬ勇気を示したものだ。そのためついに彼らの都市はドイツ諸皇帝によって完全に破壊されてしまった。さて彼らが忠実な臣民(・・・・・)となってからは、目ぼしい仕事といえば貴族や富豪の娘が結婚するときにばら色琥珀織(タフタ)の小さいハンカチに四行詩を刷りつけるといったことになってしまった。こういう娘が一生のたいせつな時期を経て二三年たつとそれぞれ忠実な騎士をもつようになる、ときには夫の家からちゃんと選んだ扈従(こじゅう)騎士(きし)の名が結婚の証書にれいれいしく載っていることさえあった。思いがけぬフランス軍到着があたえた深刻な感動は、こんな柔弱な風習とはおよそ縁遠いものだった。やがて新しい情熱的な風習が勃然(ぼつぜん)と起ってきた。一七九六年五月十五日に、全国民はいままで自分たちが尊重していたあらゆることは、じつにばからしく、ときにはいとわしいことだったと知った。オーストリアの最期の連隊が撤退すると同時に旧思想はまったく没落し、命を敢然と投げ出すことが流行しだした。数世紀間を味もそっけもない気持ですごしたのち、幸福になるためには祖国を現実的な熱情をもって愛し、英雄的な行為を求めねばならないことを人びとはさとった。シャルル・カン皇帝とフィリップ二世の猜疑(さいぎ)心のつよい専制政治によっていままで深い闇におしこまれていたのだ。その像をひっくりかえした。と、人々はたちまちかがやかしい光につつまれた感じだった。五十年来『百科全書』やヴォルテールがフランスで跳梁(ちょうりょう)するにつれて、僧侶たちはミラノの善良な市民にむかって読むことを習い世間の何かを知ることは無用の骨折りで、めいめいが司祭さんにとどこおりなく十分一税を納め、犯した小さな罪を忠実にざんげしてさえいれば未来は天国で結構にしていただけることはまず確実だと、声高く説いていた。(中略)

 一七九六年五月十五日にフランス軍がミラノに入ってから、一七九九年四月カッサノの戦いの結果追っぱらわれるまで、狂気じみた歓喜や、快活と官能の楽しみがはなはだしかったこと、あらゆる陰鬱(いんうつ)な感情、ただもう分別くさくなることさえも忘れられたことの証拠に、この期間には、陰気くさい顔をやめ、金儲(もう)けのことを忘れてしまった老千万長者、老金貸、老公証人たちを指摘できるほどだ。(中略)

 こうした熱狂と幸福の二年間がすぎると、パリの執政官政府は、権威の確立した君主づらをして、すべて凡庸でないものにはげしい憎悪を示しはじめた。政府からイタリア軍に派遣した無能な将軍たちは二年前アルコーレやロナートの異常な勝利をえたこの同じヴェロナの平原で、あいついで敗北した。オーストリア軍はまたミラノに迫ってきた。(中略)

 こうしてまた、ミラノ人がi tredici mesi(十三か月)と呼ぶ、反動と旧思想への復帰の時代がはじまった。こう呼ぶのはさいわいこの愚劣への復帰が、マレンゴーの戦いまで、十三か月しかつづかなかったからである。旧式で信心深くて陰気なすべてのものが再びあらゆることを支配しはじめ、社会の指導権をもつにいたった。まもなく保守主義に忠実だった連中は、ナポレオンがそうなる資格がじゅうぶんにあったごとく、エジプトでモメルク人に絞殺されたと村々に発表した。(中略)

 われわれの主人公の物語をはじめるにあたって、多くのきまじめな作家たちの手法にならい、まずその出生一年前から説き起したことを、作者は告白する。この主要人物というのは、ミラノでデル・ドンゴ小侯爵(マルケジノ)と呼んでいるファブリス・ヴァルセㇽラその人にほかならない。彼はちょうどフランス軍が撃退されているときにこの世に生れ、偶然にも、大貴族デル・ドンゴ侯爵の次男となったのである。父侯爵の蒼白い大きな顔や、意地の悪そうな微笑や、新思想にたいするかぎりない憎悪のことはすでに読者が知っておられる。一家の全財産は、父に生き写しの長子アスカニオ・デル・ドンゴに譲られることにきまっていた。この兄が八歳、ファブリスが二歳のときのことである。家柄のいい人たちがみなもうとっくに絞殺されたものと信じていたボナパルト将軍が、突如としてサン・ベルナール山を降ってきた。そしてミラノに入城した。これまた史上類をみない一瞬であった。全民衆がいかに熱狂したか想像していただきたい。その後、幾日もたたぬうちにナポレオンは、マレンゴーの戦いに勝った。その余のことはいうまでもない。ミラノ人の陶酔は絶頂にたっした。が、こんどの陶酔には復讐の念がまじっていた。この善良な民衆は憎悪ということを教えられていたからだ。》

 

<バルト「人はつねに愛するものについて語りそこなう」の「神話」>

 ロラン・バルトは、スタンダールのイタリア、ローマ・ナポリフィレンツェをめぐる「旅日記」をめぐって、「人はつねに愛するものについて語りそこなう」というエッセイをタイプライターに挟んだまま不慮の事故で世を去った。

 バルトが『パルムの僧院』について語る「神話」は、ほとんどオペラ『トスカ』そのもののようだ。『トスカ』に、「英雄」ナポレオン・ボナパルト本人は姿を見せないが、第一幕、マレンゴーの戦いでナポレオンが敗戦したと教会の番人(堂守)が誤報し(史実としては、オーストリア軍のメラス将軍は、六月十四日昼過ぎに勝利を確信してウィーンに勝報を伝えたが、大逆転を受けて十五日に降伏する。ナポレオンが負けたとの一報はフランス、パリでも権力闘争騒ぎを引き起こす)、勝利の祝宴で歌姫トスカは歌を披露する。第二幕の拷問の場面で、実はボナパルトが勝利し、メラスは逃げたとの報が入り、「勝利だ、勝利だ!」と叫んだカヴァラドッシは処刑へ運ばれてしまうが、その間ずっとナポレオンは登場人物たちの心と脳の中を闊歩している。白馬にまたがった「英雄」ナポレオンの幻像を背景に見ている。そして「対立」には事欠かない、初めから終わりまで「対立」によってオペラは加速度的に幕切れへ急ぐ。『トスカ』は悲劇であっても「祝祭」のようではないか。

《イタリアへの愛を語っているが、それを伝えてくれないこれらの「日記」(これは少なくとも私自身の読後感ですが)だけを読んでいると、悲しげに(あるいは、深刻そうに)、人はつねに愛するものについて語りそこなうと繰り返すのももっともだと思うでしょう。しかし、二十年後、これも愛のねじれた論理の一部である一種の事後作用により、スタンダールはイタリアについてすばらしい文章を書きます。それは、私的日記が語ってはいたが、伝えてはくれなかったこの喜び、あの輝きでもって、読者である私(私だけではないと思いますが)を熱狂させます。この感嘆すべき文章とは『パルムの僧院』の冒頭の数ページのことです。フランス軍の到着とともにミラノに《侵入した大量の幸福と快楽》とわれわれ自身の読む喜びとの間に奇跡的な調和があります。要するに、語られる印象と生み出される印象とが一致するのです。どうしてこのような転回が生じたのでしょうか。それは、スタンダールが、「日記」から「小説」へ、(マラルメの区別を採用すれば)「アルバム」から「書物」へと移り、生き生きとした、しかし、構成不能の断片である感覚を切り捨て、「物語」という、もっと適切にいえば、「神話」という、大きな媒介的形式に近づいたからにほかなりません。「神話」を作るにはどうすればいいのでしょう。二つの力の作用が必要です。まず第一に、英雄です。偉大な解放者の姿です。それはボナパルトです。スタンダールが、もっとみじめな姿でしたが、自分自身で体験したように、サン=ベルナール峠を下って、ミラノに入り、イタリアに侵攻するボナパルトです。次に、対立です。アンチテーゼです。つまり、範列(パラデイグム)です。それは、「アルバム」には欠けていて、書物に属する「善」と「悪」との戦いを、すなわち、意味を登場させます。『パルムの僧院』の最初の数ページでは、一方に、倦怠、富、吝嗇、オーストリア、「警察」、アスカニオ、グリアンタがあり、もう一方には、陶酔、ヒロイズム、貧困、「共和国」、ファブリス、ミラノがあります。とりわけ、一方には、「神父」が、もう一方には、「女性たち」がいます。「神話」に身を委ね、書物に身を任せて、スタンダールは、かつて、いわば、アルバムではしくじったこと、つまり、印象の表現を見事に回復したのです。この印象――イタリアの印象――はついに名前を持つに至ります。それはもう、「美しい」というような、きわめて平板な名前ではありません。それは祝祭という名です。イタリアは祝祭です。これこそが『パルムの僧院』のミラノでの序幕がついに伝えてくれたものです。》

 

「善」と「悪」の「対立」の問題は後でとりあげるが、《一方には、「神父」が、もう一方には、「女性たち」がいます》の「女性たち」にはトスカと、アッタヴァンティ侯爵夫人が相当する。「善」の側の侯爵夫人は兄アンジェロッティの逃亡を幇助し、たまたまカヴァラドッシが描く「マグダラのマリア」像のモデルとなり、紋章の入った扇子を残すことでトスカの嫉妬を誘引してしまう重要な役割を果たすものの、舞台上には登場しないことで、かえって観客の想像力は嫉妬するトスカと同一化する。

 この消去法をさらに推し進めて、ドラマの複雑化を避けるためであろう、戯曲で大活躍する「悪」の側のマリイ・カロリーヌ王妃にいたっては、オペラでは登場はおろか言及すら一切されない。

 もう一方の「神父」には第一幕の大詰めでの枢機卿の登場、壮大な大合唱「テ・デウム Te Deum」の聖なる儀式が託されている。

 

三島由紀夫の「劇場といふ祭壇に捧げられたミサ曲」「可憐なるトスカ」>

 戯曲『トスカ』の原題はヴィクトリアン・サルドゥ作『ラ・トスカ La Tosca』で、一八八七年、サラ・ベルナールラシーヌのフェードル役などで名高く、プルースト失われた時を求めて』で話者に多大な影響を与える女優ラ・ベルマのモデル)をタイトル・ロールにパリで初演されたが、その本質を、脚本翻訳を潤色した三島由紀夫が公演プログラムで解説している。

《戯曲「トスカ」は文学的には二流の本だが、そのシアトリカル(劇場的)な効果は絶大の本である。サラ・ベルナアルや、音にきく十九世紀の名女優たちは、文学的には二流でも、おのれの技芸を最高度に発揮できる本を求めて、かういふ舞台効果そのものに集中した本を得たのだつた。この戯曲では、すべてがフットライトのために、壮麗な書割のために、名女優の一挙手一投足の光りかがやく顫動(せんどう)のために、劇場全体のわれを忘れた熱狂のために、きちがひじみた拍手のために捧げられてゐる。これはいはば、劇場といふ祭壇に捧げられたミサ曲である。(中略)

 内容は他愛がないといへばないが、熱血の革命党と残酷な圧政との対立、その背後にかがやくナポレオンのアルプス越え、全ヨーロッパの変革の嵐を背景にして、情熱そのもののやうな美しい歌姫の悲恋を、たえざるサスペンスを孕(はら)ませつつ描いて、事件は一直線に高まって破局に達し、アレヨアレヨとばかり、退屈する暇がない。(中略)

 日本での「トスカ」の上演史は、原作そのままによる上演は、今回が最初であるが、明治初年にすでに、円朝の口演によつて紹介され、歌姫トスカを女狂言師に直した翻案物として、「舞扇恨之刃」といふ外題の歌舞伎になつたことがあるさうだ。その後の、歌劇トスカの再々の上演も入れれば、「トスカ」が、日本人に親しまれてきた歴史はかなり古い。この愛すべき女の嫉妬が捲き起す悲劇は、「道成寺」以来、女の嫉妬の舞台表現を愛してきた日本人の、心をそそるものがあつたのであらう》(なお、本上演が本邦初演としているが、松居松葉訳「トスカ」が大正二年六月に川上貞奴らによって上演されている)

 

 さすが三島は鋭い。《戯曲『トスカ』は二流の本だが、そのシアトリカル(劇場的)な効果は絶大》だというのは、プッチーニのオペラでは更に数段高められている。《すべてがフットライトのために、壮麗な書割のために、名女優の一挙手一投足の光りかがやく顫動(せんどう)のために、劇場全体のわれを忘れた熱狂のために、きちがひじみた拍手のために捧げられてゐる。これはいはば、劇場といふ祭壇に捧げられたミサ曲である。(中略)内容は他愛がないといへばないが、熱血の革命党と残酷な圧政との対立、その背後にかがやくナポレオンのアルプス越え、全ヨーロッパの変革の嵐を背景にして、情熱そのもののやうな美しい歌姫の悲恋を、たえざるサスペンスを孕(はら)ませつつ描いて、事件は一直線に高まって破局に達し、アレヨアレヨとばかり、退屈する暇がない。》とは、三島らしい語彙による的確な指摘である。

 とりわけ「劇場といふ祭壇に捧げられたミサ曲」との形容は、『トスカ』の「聖性」と「悪」の悲劇的な婚姻関係、「死の欲動」を見事に言いあてている。オペラでは戦勝を祝う「テ・デウム Te Deum」で教会が感謝を捧げるなか、国家権力の暴力装置を司る警視総監スカルピアはトスカへの性的欲望を蝮(まむし)が絡み合うように恥じらいもなく歌いあげる。

 チャンパイが、《プッチーニはスカルピアの活動とカトリック教会の儀式の間に音楽的にも作劇手法的にもいくつもの結合線を引いて、紛れようもなくはっきりとした社会批判的アクセントを置いている。スカルピアの血なまぐさい警察テロと倒錯した性的幻想が、聖なる儀式のわく内の神聖化された土壌で育まれる。

 このようなわけで作曲者と台本作者は、スカルピアのサディスト的渇望に対して、第1幕の壮大な大詰め場面での100人の咽喉から響きわたる「テ・デウムTe Deum」で、音楽的雰囲気と共に精神的環境も形成する》とはこのことだ。

《熱血の革命党と残酷な圧政との対立、その背後にかがやくナポレオンのアルプス越え》とは、バルトが指摘した「対立」と「英雄」による「神話」に他ならない。

 

 チャンパイは「妨害」が重要な要素だとの卓抜な見解を示したが、「妨害」は「対立」があってこそだ。それは「侵犯」という見立てもできよう。

《『トスカ』のストーリーで一番多く用いられ、しかも最も重要な演劇作法的構成手段は妨害である。これは全編にわたって挿入されていて、モノローグやディアローグがまだ終らないうちに、新しい場面の突然の開始や、人物の予期しない登場によって中断され、強引にさえぎられる。ロマンティックな俗受け作品のこの基本原則は、脚本原案段階で有力だった。つまり舞台の強いコントラスト効果が緊張をもたらし、ストーリーを先へ先へと進めてくれる。オペラでは、ふつう妨害によって演奏のきっかけが作りだされる。ベルリーニBelliniやドニゼッティDonizettiの作品、初期と中期のヴェルディのオペラのカバレッタは、例外なく、使者や召使いなどの突然の登場によって妨げられる。(良かれ悪しかれ)扇情的な知らせによって、主人公はそのつど驚き、続いて感情を爆発させる動因がもたらせられるのである。従って、妨害はたいてい音楽を引き起こすという意図を持っている。ところが『トスカ』では全く事情が違っている。妨害は正反対の目的、つまり阻止、歌唱の唐突な中断、人物と場面の感情面での後退のために使用されている。このオペラでは絶え間のない妨害が歌唱に向けられ、しかも演劇作法的な審美的意図をもっている。それらは、登場人物の感情の流れを中断し、またその歌唱をもおびやかす。》

 

「対立」とは、ロラン・バルトラシーヌ論』における「逆転」でもある。

《舞台上演たる悲劇の仕掛けは、神の摂理に基づく形而上学のそれと同一だということである。すなわち、逆転である。すべてのものを反対のものに変えてしまうこと(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)、それは神の権力の処方であると同時に、悲劇の定石にほかならない。(中略)純粋な行為として、逆転にはいかなる持続もない。それは点であり、電光の炸裂であり――古典期の用語で言えば、「突然の行為・事件」(coup)と呼ばれるもの――、ほとんど、同時性(・・・)と言ってよいものである。(中略)《運命》は、まるで鏡に映ったもののように、いかなるものをもその正反対の姿へと導く。逆転させられても世界は存続するのであり、ただ世界の構成要素の意味(・・)=方向(・・)が、入れ替わるだけだ。打ち倒された主人公を恐怖せしめるのは、まさにこの対立の相称(シンメトリー)の自覚にほかならない。(中略)彼が変化の極限=絶頂と呼ぶものは、常に命運をまさしく(・・・・)正反対の位置へと導くかに見える、あのすべてを知った力のことだ。(中略)世界は、悪意によって支配されており、それは幸せのなかにさえも、その否定的な核心を探しに行く術を心得ている。悲劇の世界の構造は、あらかじめ構図ができており、ために世界は、絶えず不動性のなかに沈められてしまう。対立の相称(シンメトリー)は、調停の不在と、挫折と、死と、不毛性の造型術にほかならない。

 悪意は常に明確であり、そこから人は、ラシーヌ悲劇を悪意の芸術だと言うこともできる。神が対立の相称(シンメトリー)を操るからこそ、神は見世物を与えてくれる、すなわち人間が押し潰されて沈んでいく光景の見世物である。》

 

 文学座の上演プログラムを「可憐なるトスカ」と題した三島の文章は、「世界」と「悪意」に向き合うトスカを表現しているのではないか。そしてプッチーニのオペラ『トスカ』もまたラシーヌ悲劇と同じく「悪意の芸術」ではなかったか。「悪意の芸術」家に違いなかった三島は生理的によくわかっていた。

《従つて私は、大詰の、投身自殺直前のトスカに、もつとも興味を惹かれる。ここに、この錯誤悲劇が真の悲劇にいたる重要なモチーフが伏在してゐる。投身自殺直前のトスカは、全世界を敵にしてゐる。恋人はすでに殺され、この世にもはや希望もなく、トスカは自分が人生で果した役割が何だつたのか、最後の結着を迫られる。今まで彼女は無意識に、奔放に、野生の命ずるままに恋を貫ぬき、(この点でトスカは「貞節カルメン」ともいふべきか)、自分に対する誠実によつて一直線に行動したのだが、その結果はすべてイスカの嘴と喰ひちがひ、かくて死の直前に、はじめてトスカは自分の役割を意識することになる。そのトスカこそ、可憐なトスカではなく、悲劇のヒロインとしての壮大なトスカである。

 投身直前のトスカの目には、もはや恋人の亡骸も映らず、絶対の拒否を以て世界に直面してゐる。作者のサルドゥはそこまで書いてゐないかもしれないが、潤色者の私はどうしてもさう思ふ。そしてトスカなる女性は、この汚れた権力の争奪の世界を一筋の純愛で引つかきまはさうとして立ち現はれたイタリアの民衆の力の、その力の霊媒であつたかもしれないのだ。》

 

啓蒙主義ロマン主義/理性の不安/「カントとサド」>

 一八〇〇年の歴史的、精神的状況はどうであったのか。

『トスカ』の「対立」は、思想・哲学的には一七〇〇年代中ごろに顕在化しつつあった「亀裂」の顕在化といえる。

 柄谷行人は、《カントが啓蒙主義ロマン主義の「間」に立っていた》と論じている。

《カントが『視霊者の夢』を書いた一七六〇年代には、ライプニッツ形而上学には埋めようのない亀裂があいていた。ライプニッツにおいて感性と理性が連続的な進化の段階にあるとしたら、この亀裂は、感性と悟性の間にある。(中略)

 この「亀裂」を具体的に象徴したのは、一七五五年十一月一日のリスボン地震である。ヨーロッパですべての聖人たちを祭るこの日、まさに信者が教会で礼拝していたときに起こったため、この地震は神の恩寵に対する疑いを巻き起こした。それは大衆的なレベルにとどまらず、文字どおり、全ヨーロッパの知的世界を震撼させた。たとえば、ヴォルテールは数年後に『カンディード』を書き、ライプニッツ的予定調和の観念を嘲笑し、ルソーも、地震は人間が自然を忘れたことへの裁きであると書いている。そのなかで、カントは地震に対して一切の宗教的な意味を与えることを拒絶し、その自然科学的原因と耐震対策を説いた。にもかかわらず、別の意味で彼がそれに揺すぶられたことは疑いがない。それは二つの面から言える。第一に、哲学を二度と瓦解しないような建築にしようとするカントのメタファー(建築術)はそこから来ているといってもよい。第二に、先に述べたように、この地震を予言した視霊者スウェーデンボルグの「知」に惹きつけられたことである。

 しかし、以後の長い沈黙のあとに発表された『純粋理性批判』には、一見してこうした「問題」は消えている。それをむしろ後退として見るべきだろうか。もしこの本が、ライプニッツ的な合理論とバロック的な経験論への批判として書かれたと読むなら、そう見えるだろう。しかし、彼はそれとは違った文脈に生きていたはずである。たしかにカントは、経験論と合理論の「間」に立っていた。彼は合理論者から見れば経験論的であり、経験論者から見れば合理論者である。むろん、誰もがいうように、彼はそのいずれでもない。しかし、むしろ注目すべきことは、彼が啓蒙主義ロマン主義の「間」にも立っていたことである。

 カントの芸術論(『判断力批判』)は、美を主観性において見いだすことにおいてロマン主義的であり、事実、ロマン主義美学の基盤を与えている。しかし、厳密には、彼は古典主義とロマン主義の「間」に立っている。それは、ゲーテが古典主義的であると同時にロマン主義的であるといわれるのと、或る意味で似ているだろう。しかし、カントが古典主義とロマン主義の「間」に立っていたと私がいうのは、彼がそれらの過渡期に生きていたという意味ではなく、それらのいずれをも「批判」する視点に立っていたという意味である。

 カントが啓蒙主義ロマン主義の「間」に立っていたというのも、同じ意味である。彼がロマン主義者から見れば啓蒙主義者であり、啓蒙主義者から見ればロマン主義者と見えることは疑いがない。》(柄谷行人「探究Ⅲ」)

 

 スウェーデンボルグを前にしたカントの揺らぎを柄谷は次のように捉える。

《カントがこうした理性の欲動を見いだしたのは、『形而上学の夢によって解明されたる視霊者の夢』(一七六六年)においてである。これは、スウェーデンの視霊者スウェーデンボルグを論じた論文である。彼は基本的に、視霊という現象を「夢想」あるいは「脳病」の一種と見なしている。そこでは、ある思念が感官を通して外から来たかのように受けとめられている。だが、このヴィジョンはその鮮明さにおいて、知覚にあることがあるし、実際にそれらは区別できない。形而上学も同じことではないかと、カントはいう。なぜなら、形而上学は、なんら経験に負わない思念をあたかも実在するかのように扱っているからである。このエッセイは、その意味で「視霊者の夢によって解明されたる形而上学の夢」であるといってもよい。

 しかし、彼はスウェーデンボルグの「知」を否定すると同時に、それを否定することができない。霊という超感性的なものを感官において受けとることは、たんに想像(妄想)でしかないが、他方、霊が直観されるということは、構想力による錯覚が混じっているにせよ、それをもたらす霊の影響を推定することができないわけではない。しかし、カントは態度を決定できない。彼は、それを精神錯乱と呼んだにもかかわらず、「視霊者の夢」を真面目に扱わずにいられない。同時に、そのことを自嘲せずにもいられない。(中略)

 この『視霊者の夢』に、カントの「批判」の先駆を見いだせることはいうまでもない。すでに、ここで、彼は、主観によって構成された外部(現象)とそうでない外部(物自体)の区別について語っている。あるいは、恣意的な空想と、ヌーメナルなものを感性的に把握する構想力との区別――それはのちに、自由と自然を媒介するものとして「判断力」を措定することにつながるだろう。しかし、『視霊者の夢』を特徴づけるのは、たとえば、スウェーデンボルグを肯定すると同時に、肯定する自分を嘲笑するというような書き方である。》(柄谷行人「探究Ⅲ」)

 

 十九世紀まで俗悪なだけと言われてきたサドが二十世紀に入ると、アドルノ(『啓蒙の弁証法』)、クロソウスキー(『わが隣人サド』)、バタイユ(『エロティシズム』)、ブランショ(『ロートレアモンとサド』)、ボーヴォワール(『サドは有罪か』)、フーコー(「侵犯への序文」)、ラカン(「カントとサド」)、ドゥルーズ(『ザッフェル=マゾッホ紹介』)、パゾリーニ(『ソドムの市』)、バルト(『サド、フーリエロヨラ』)らによって評価が逆転した。

カントとサドが同時代人であると伝えるラカン精神分析の倫理』の、メビウスの輪のような言説を知ろう。

《ショックを与えて皆さんの目を開かせるために――そういうことは我々の進歩に不可欠ですが――ここでは次のことに注目していただくだけで結構です。つまり『実践理性批判』は『純粋理性批判』の初版の七年後、一七八八年に出版されましたが、その七年後の一七九五年、<テルミドール>(訳注:フランス革命期の一七九四年七月二七日(共和歴第二年テルミドール九日)にロベスピエール派を失脚させたクーデターのこと)の直後にもう一つの著作、『閨房哲学』と呼ばれる著作が出版されているということです。

 皆さんご存じのように、『閨房哲学』は様々な理由で有名なサド侯爵の著作です。彼のスキャンダラスな名声は、最初いくつかの不運に伴われていました。彼は二五年のあいだ囚われの身でしたから、彼に対しては権力が濫用されたと言うこともできます。(中略)サド侯爵の著作は、ある人々の目には一種の気晴らしの方法と見えるかも知れませんが、実はそれほど面白いものでもありませんし、最も評価されている部分などはきわめて退屈なものです。しかし、彼の著作が筋が通らないと言うことはできません。むしろそこではまさしくカントのクライテリアが、一種の反‐道徳とも言うべき立場を正当化するために強調されているのです。

 反‐道徳パラドックスは『閨房哲学』と題された作品においてきわめて筋の通ったやり方で擁護されています。ここにいらっしゃる方々を考慮すると、ここだけは是非ともお読みいただきたいのは、「フランス人よ、共和主義者たらんとせばいま一息だ」と題された部分です。

 この部分は、当時革命下のパリで暴れ回っていた小組織のパンフレットと考えられています。このアピールに続けてサド侯爵は、権威の失墜を考慮すれば――真の共和制の到来は権威の失墜からなるというのがこの著作の前提となっています――実現可能な一貫した道徳生活の最低限度とこれまで考えられてきたものとは正反対のものを我々の行動の普遍的格率とするように提唱しています。

 実際、彼はそれをなかなか見事に擁護しています。誹謗への賛辞が『閨房哲学』のこの部分の最初に見られるのも決して偶然ではありません。彼によれば、当然向けられるべきよりもさらに悪いものを誹謗は隣人に負わせるとしても、誹謗は決して有害なものではありません。というのは、誹謗は誹謗の企てに対して用心させてくれるからです。さらに彼は続けて、道徳的法則の基本的な命令を覆すことを徐々に正当化し、近親相姦、姦通、盗み、およびそれらに付け加えることのできるものすべてを褒めそやします。十戒が定めるあらゆる法の正反対を考えてみて下さい。そうすると首尾一貫したものが得られますが、それは最終的にはこうなります。「誰であろうと他者を我々の快楽の道具として享楽する権利を我々の行為の普遍的格率とすべし」。

 サドは、この法が普遍化されて、同意しようとしまいと、あらゆる女性を誰彼なしに自由に所有する権利をリベルタンに与えるとしても、逆にこの法は、文明化された社会が夫婦関係の中で課すあらゆる義務から女性たちを解放するのだということを、きわめて筋の通ったやり方で論証します。この構想は、サドが空想的に欲望の地平に措定している水門を全開にするものであり、誰もがその貪欲さを最大限に高め、実現することを要請されるということです。

 万人にこの解放がもたらされると、そこに現われるのが自然社会です。これに対する我々の嫌悪感は、カント自身が道徳的法則のクライテリアからは除外すると称したもの、つまり感情的な要素と見なすことができるでしょう。

 もし我々があらゆる感情的要素を道徳から除外し、我々を感情的に導くあらゆる案内を消去し失効させるなら、極限においてサドの世界は――たとえその裏面であり戯画であるとしても――あるラディカルな倫理、一七八八年に起草されたカントの倫理によって統治される世界の一つの可能な達成と考えることのできるものです。

 よろしいですか、リベルタンと呼ばれる人々が残した膨大な文献、快楽人間のそれに見いだすことのできる道徳の分節化のさまざまな試みにはカントの影響がはっきりと認められるのです。》(ラカン精神分析の倫理』(上))

 

 カント学者の坂部恵が、十八世紀の終りのカントの理性の不安を考察している。

ミシェル・フーコーは、『古典主義時代における狂気の歴史』において、サドの体現する「サディズム」という現象が、けっして、「エロスと同じだけ古い」ものではなく、まさに十八世紀のおわりという西欧の古典的理性の爛熟の時代に、「西欧的想像力のもっとも大きな転換の一つを構成する」集団的文化現象としてあらわれたのであること、すなわち久しく日常の理性的生活から隔離されいまや沈黙のうちに追いやられた「非理性」が、今度は世界のなかに姿をあらわす形象としてではなく、「ことばと欲望」(discours et désir)として、いいかえれば、「魂の錯乱、欲望の狂気、欲望の再現のない専横における愛と死との狂気じみた対話」としてふたたび姿をあらわしたものにほかならぬことをいい、(中略)ジャック・ラカンは、”Kant avec Sade”と名づけられた卓抜な小論において、カントの『実践理性批判』とその八年後に出されたサドの『閨房哲学』(La philosophie dans le boudoir)を対比させながら、『閨房哲学』は、まさに、『実践理性批判』の世界の底にかくされた「真実」を示すものにほかならぬこと、すなわち、カントの道徳の自律的主体を構成する一切対象にとらわれぬ形式的命法としての道徳法則は、サドのいわば主体なき思考としての幻想世界を生んだ果てしのない一種求道者的な欲望と、じつは、同一の欲望の変換過程の構造のなかに、表裏の関係をなすものとして位置づけうるものにほかならないことをあきらかにする。

 これらの見方は、いずれも、十八世紀のおわりといういわば光の時代、理性の時代ののぼりつめた頂点といってもよい時期におけるサドの存在がけっして偶然ではなく、むしろ、時代の必然的裏面あるいは陰画の部分にほかならぬことを示す点において、軌を一にするといってもよいだろう。》(坂部恵『理性の不安――サドとカント――』)

 

 スラヴォイ・ジジェクが『オペラは二度死ぬ』で、スカルピアについて言及しているが、スカルピアのサディズムは、時代の理性の不安の一症例であろう。

モーツァルトの『コシ・ファン・トゥッテ』にでてくる二人の男は、自分のフィアンセに彼女たちが屈辱をうけるところを想像させたいのである。ポイントは、単にフィアンセの貞節を試すことではなく、人前でみずからの不貞行為に向き合わせることのよって彼女たちを困惑させることである(フィナーレを思い出そう。[彼らのフィアンセと]二人のアルバニア人が婚約したあと、二人の男は彼ら本来の服装で登場し、アルバニア人に変装していたのは自分たちであったことをフィアンセに教える)。ここで得体が知れないのは、女の欲望(それは堅忍不抜なものなのか、かりそめのものなのか)ではなく、男の欲望である。女性にそうした残酷な試練を受けさせる、二人の若い男の天邪鬼な心理とは、いったいいかなるものなのか。なぜ彼らは、平和で牧歌的な恋愛関係を混乱におとしいれるように強いられるのか。彼らは明らかに、フィアンセとよりを戻したいと思っている。しかし、彼らはあくまで、女性的欲望がはらむ虚栄心に直面してからでなければ、そうしないのである。このようにして彼らは、厳密な意味で、サド的倒錯者の立場にいる。彼らの目的は、欲望する主体の分裂を<他者>(犠牲者)の側に置き換えることである。つまり、あわれなフィアンセたちは、みずからの欲望に嫌悪感をおぼえるという苦痛を引き受けなければならないのである。

 後期ロマン派に典型的な悪漢(たとえば、プッチーニの『トスカ』に出てくるスカルピア)とともにわれわれが手にするのは、これとはまったく異質な関係構造である。それは、猥褻のかぎりをつくした第一幕のフィナーレだけでなく、第二幕全般にわたっても認められる。スカルピアはトスカを性的に支配したいだけでなく、トスカが彼の行為によって苦しんだり、無力な怒りを爆発させるところを見たいのである。「君はなんと私を憎んでいるのだろう!……私は、そんな君が欲しいのだ!」。スカルピアの望みは、自分の[欲望の]対象のなかに、無力な状態にされたことへの怒りからくる憎悪を発生させることである。彼が欲しいのは彼女の愛ではなく、むしろ、彼女がマリオへの――彼へのではない――愛のために彼に身を任せるという、徹底した屈辱行為なのである。彼の望みは、女性という対象への憎悪である。スカルピアの本当のパートナーは、女性によって欲望される/愛される男である。だからこそ、マリオが彼への愛からスカルピアに身をゆだねるトスカの姿を目にし、それを理由に彼女を罵倒/拒絶するとき、スカルピアは無上の勝利を手にすることになるのだ。スカルピアとヴァルモンの差異は、ここからでてくる。ヴァルモンは、女が身をまかせながら自己嫌悪におちいることを望むが、スカルピアは、女が彼を、つまり誘惑者を嫌悪することを望むのである。》

 

<「悪」の三つの形式/「根源的<悪>」/「エルサレムアイヒマン」>

 警視総監スカルピアや警部スポレッタにどのような「悪」を見るべきなのか。

 ジジェクが『否定的なもののもとへの滞留』の中で、カントの「悪」に関連して、「悪」の三つの形式を解説している。

《<悪>の第一の、最も穏やかな形式は、「人間本性の弱さ」への訴え掛けを通じて自己を表現する。私は自分の義務が何であるかを知っている。私はその義務を完全に承認している、しかし私はその呼び掛けにしたがい、「病理的」な誘惑に屈せぬほどには強くないのだというわけである。このポジションの誤りは、もちろんその底にある自己客体化の身振りにある。私の性格の弱さは、私の所与の[持って生まれた]本性の一部ではない。私の本性が何を許容しているのかを確証することができるような、メタ言語のポジション、自分自身の客観的な観察者のポジションに立つ権利は私にはないのだから。私の「自然な傾向性」が私の行動を決定するのは、自由で、自律的な存在として私がそれを承認するかぎりにおいて、それに対して私が一切の責任を負うかぎりにおいてである。この責任こそ<悪>の第一の形式が回避するものなのである。

 第二の形式は、比べものにならないほど危険であるのだが、第一の形式の転倒を行う。<悪>の第一の形式では主体は、自分の義務が何であるのかについての十分な概念をもちながらも、自分にはそれを実行する能力がないことを告白するのであった。ところが、この第二の形式では主体は、実際には病理的な動機づけによって導かれているのにもかかわらず、義務のために行動し、ただ倫理的関心にのみ動機づけられていると主張するのである。典型的な例は、実際には自分のサディスティックな衝動を満たしているだけなのに、子供たち自身の道徳的な向上に資するものと自らは信じて生徒をいじめる厳格な教師である。この自己欺瞞は第一の形式よりも深い、というのは主体が誤認しているのは義務の輪郭そのものなのだから。

 第三の最悪の形式は、特殊な道徳的な作用因としての義務に対する内的感覚、内的な関係の一切を主体が失ってしまい、道徳を利己的な「病理的」利害の追求を抑制するために社会が設けた単なる外在的なルールの一式、障害物の一式としか捉えなくなってしまうというものである。このようにして「正しい」「間違い」という概念そのものがその意味を失う。主体が道徳的ルールにしたがうとしても、それは、ただ単に苦痛を与えるその諸帰結を回避するために過ぎない。しかしもしも、彼が捕まることなく、「法を曲げることができる」なら、彼にとってはその方がずっといいのだ。この態度をとる主体が、何か残酷な、あるいは不道徳なことをしたといって非難されるときによく用いるいいのがれは、「法を破ったわけじゃない。難癖をつけるのはやめてくれ!」というものである。》

 

 スポレッタは第一の悪だろう(ところどころで人間性、弱さを見せる)。では、スカルピアは? ファルネーゼ宮殿の部屋で一人夕食をとるスカルピアは、窓外からの(誤った)戦勝の祝宴で歌うトスカの声を聴いて、モノローグ「彼女は来る」を征服の思いから歌うスカルピアはどうなのか? 第二の形式を明らかに越えている。第三の形式のような論理性はない。

 チャンパイは「スカルピア、すなわち応報でない偶然の死」と題して、スカルピアの「悪」を考察し、《スカルピアは、ベートーヴェンのピツァロPizarroから引用され、オペラでの市民拷問役人の長い系列の中でも最後のところに位置する最悪人の一人である。たしかに男爵ではあるが貴族的出生は何の役割も果たしていない。その精神は市民階級権力者の疾患を示す。つまりスカルピアは警官だからサディスト的なのではなく、サディストだから警官なのであるとベルナール・ボヴィエ‐ラピエールが、その試論に書いている》と書いているが、スカルピアの「悪」とは三つの形式を越えたもの、「根源的<悪>」とカントが定式化したそれではないのか。

 

 ジジェクモーツァルトドン・ジョヴァンニ』をとりあげながら「悪」について解説する。

《われわれがここでまのあたりにしているのは、もちろん、カントがその『理性の限界内の宗教』で初めて定式化した「根源的<悪>」の問題である。カントによれば、人間のうちに<善>へと向かう彼の性向に逆行する実定的な力が現前していることの究極の証拠となるのは、主体が彼自身のうちなる道徳<法[則]>を、彼の自尊心や自己愛を踏みにじる耐えがたいトラウマ的なプレッシャーとして経験することである。つまり、<自己>の本性そのもののうちにある何かが道徳<法[則]>に抵抗するのでなければならない、いいかえるならエゴイスティックで「病理的」な傾向を、道徳<法[則]>にしたがうとする性向よりも優位に置く何かが存在するのである。カントは、<悪>に対するこの傾きのア・プリオリな性格を強調している(これは後にシェリングによって展開される契機である)。私が自由な存在であるかぎり、私は、私のうちで<善>に抵抗する何かをただ単に客体化することはできない(たとえば、それは私には責任のとりようのない私の本性=自然の一部であるということによって)。私が自分の悪に対して、道徳的に責任があると感じるという、まさにその事実こそが、私が非時間的な超越論的行為において<善>よりも<悪>のほうを好む性向を与えるというかたちで、自分の永遠の性格を自由に選んだに違いないということを証拠立てているのである。これがカントが考えるところの「根源的<悪>」である。それは、あるア・プリオリなのであって、人間本性の、<悪>へと向かう経験的‐偶然的な性向にすぎないものではない。しかしながら、「悪魔的な<悪>」の仮説を退けることで、カントは根源的<悪>の究極の逆説から後退してしまっている――その内容に関しては「悪」であるにもかかわらず、倫理的な行為の形式的基準を完全に満たしてしまうような行為の不気味な領域から。そのような行為はいかなる病理的な考慮によっても動機づけられていない、つまりその唯一の動機づけの根拠は原理としての悪であり、それゆえに自分の命を犠牲にすることさえ厭わぬほどの、自分の病理的な関心=利害の根源的な破棄を遂行することができるのである。

 モーツァルトドン・ジョヴァンニのことを思い起こそう。コメンダトーレ(騎士長)の石像との最後の対面の場面で、ドン・ジョヴァンニは、彼の罪深い過去を悔い改め、否認することを拒むとき、根源的な倫理的な立場としか呼ぶ以外にはない何かを完成させるのである。そのときの彼の頑強さは、カント自身が『実践理性批判』で挙げた、代償が絞首台であると知るや否やすぐさま自分の情熱の満足を断念する覚悟を決めるリベルタンという例を、嘲笑いながら転倒させるかのようなのだ。ドン・ジョヴァンニは、彼を待ち受けているものが、ただ絞首台のみ(・・)であって、いかなる満足でもないということをはっきりと知っているまさにそのときに、自らのリベルタン的態度に執着する。つまり、病理的な利害の立場からするなら、なすべきことは改悛の身振りをかたちばかりしてみせるということであったはずだ。ドン・ジョヴァンニは死が近いことを知っている。したがって自らの行いを悔い改めたところで失うものは何もなく、ただ得るばかりである(つまり、死後に責め苛まれることを避けることができる)。しかし、彼は「原理にしたがって」リベルタンの反抗的なスタンスを一貫させることを選ぶ。石像に対する、この生ける死者(リヴイング・デツド)に対する、彼の不屈の「ノー」を、その内容が「悪」であるにもかかわらず、非妥協的な倫理的態度のモデルとして経験しないことなど、どのようにできようか。

 もしもわれわれがこのような「悪」である倫理的態度の可能性を受け入れるとするならば、根源的<悪>を、<善>への性向と同様に主観性の概念そのものに内属するものとだけ捉えるのでは不十分である。さらにいま一歩歩みを進めなければならず、根源的<悪>を<善>に存在論的に先立って、それ[<善>]のための空間を開く何かとして捉える必要がある。いいかえるならば、正確なところ<悪>とは何である(・・・)のか。<悪>とは、「死の欲動」に対する別名、つまりわれわれの通常の生の循環を脱線させてしまう<モノ>への固着に対する別名なのだ。<悪>によって、人間は動物的な本能のリズムから自らを引き剥がす。つまり、<悪>は「自然」な関係に対する根源的な転倒を導入するのである。》(ジジェク『否定的なもののもとへの滞留』)

 

 

 アイヒマンはどうなのか。ハンナ・アーレントは『エルサレムアイヒマン』のなかで、《自分はこれまでの全生涯をカントの道徳の教え、特にカントによる義務の定義にのっとって生きてきたと彼が突然ひどく力をこめて言明した》というアイヒマンが、判事に質問されて、

《ところが誰もが驚いたことにアイヒマンはカントの定言的命令のおおよそ正しい定義を下してみせた。「わたしがカントについて言ったことは、わたしの意志の原理はつねに普遍的な法の原則となりうるようなものでなければならないということです」(中略)それから彼は、「最終的解決」の実施を命じられたときから自分はカントの原則に従って生きることをやめた、そのことは自覚していたが、自分はもはや「自らの行為の主人(あるじ)」ではなく、「何かを変える」ことは自分にはできないと考えて自分を慰めていたと説明を試みた。彼が法廷で言わなかったことは、この「国家によって犯罪が合法化されていた時代」――今は彼自身もそう言っていた――においてカントの公式をもはや適用し得ぬものとしてしりぞけてしまっただけでなく、これを次のように読み曲げていたということである。すなわち、汝の行動の原理が立法者の、もしくは国法の原則と同一であるかのごとく行為せよ、――あるいはハンス・フランクの述べた「第三帝国の定言的命令」――アイヒマンもこれを知っていたものと思われるが――にあるように、「総統(フューラー)が汝の行為を知ったとすれば是認するように行為せよ」と。カントにはもちろん、このような種類のことは全然言う気がなかった。反対にカントにとってはすべての人間はその<実践理性>を用いることによって、法の原理となり得る原理、法の原理となるべき原理を見出すのであった。しかしアイヒマンのこの無意識の歪曲が、彼自身が「凡人の日常の用に供するための」カント解釈と呼んでいたものと一致することは事実である。この日常の用においてカントの精神のうち残されたものは、人間は法に従うだけではあってはならず、単なる服従の義務を越えて自分の意志を法の背後にある原理――法がそこから生じてくる源泉――と同一化しなければならないという要求である。カント哲学においては、この源泉は実践理性である。アイヒマンのカント哲学の日常の用においては、それは総統(フューラー)の意志である。最終的解決の実施におけるおそろしく入念な徹底ぶりの多くは――これは典型的にドイツ的なものとして、あるいはまた完璧な官僚に特徴的なものとして人の目を引く徹底さであるが――、法を遵守するということは単に法に従うということだけではなく、自分自身が自分の従う法の立法者であるかのように行為することを意味するという、事実ドイツではごく一般的に見られる観念に帰せられ得るのである。少なくとも義務の命ずる以上のことをしなければならないという信条は、ここから来る。》

 

 第三帝国にあっては《総統の言葉は法律の力を持っていた》ということを何度となく説明しようと試みたアイヒマンの主張が認められるならば、戯曲の警視総監スカルピアにとっての総統ヒトラーはマリイ・カロリーヌ王妃だっただけではないか、ということになる。たかだか「悪」の第一の形式にすぎない弱き人間、「凡庸な悪」とさえ表現しうる人間にすぎないとばかりに。

 アーレントは、大多数の人間が、正常な欲望や傾向に反するので、殺さないこと、奪わないこと、隣人を死に赴かせないことのほうに、誘惑を感じていたにちがいなく、これらの犯罪すべての共犯者になりたくない、という誘惑を感じていたにちがいないのに、だが、なぜか、彼らは誘惑に抵抗して、殺してしまった、とアーレントらしい誤解を生みがちな逆説的言い回しで主張している。「だが、なぜか」こそが、「根源的<悪>」の由縁ではないのか。「凡庸な悪」と「根源的<悪>」は「だが、なぜか」によって背中合わせではないのか。

《人間の自然な欲望や傾向が時として殺人に向かうことがあるにもかかわらず、良心の声はすべての人間に「汝殺すべからず」と語りかけるものと前提しているのとまったく同じく、ヒトラーの国の法律は良心の声がすべての人間に「汝殺すべし」と語りかけることを要求した。殺戮の組織者たちは殺人が大多数の人間の通常の欲望や傾向に反するということを充分知っているにもかかわらず、である。第三帝国における<悪>は、それによって人間が悪を識別する特性――誘惑という特性を失っていた。ドイツ人やナチの多くの者は、おそらくその圧倒的大多数は、殺したくない、盗みたくない、自分たちの隣人を死におもむかせたくない(・・)(なぜならユダヤ人が死に向かって運ばれていくのだということを彼らはもちろん知っていたからだ、たとえ彼らの多くはその惨(むご)たらしい細部を知らなかったとしても)、そしてそこから自分の利益を得ることによってこれらすべての犯罪の共犯者になりたくない、という誘惑を感じたに相違ない。しかし、ああ、彼らはいかにして誘惑に抵抗するかということを学んでいたのである。》(アーレントエルサレムアイヒマン』)

 

 

<隠すことと現われること>

 作曲家ジャコモ・プッチーニと台本作者ジャコーザとイッリカの手慣れた三人組は、戯曲『ラ・トスカ』の原作者サルドゥと相談しつつも、戯曲の冗長な部分を大胆に削除、改変することで、オペラの密度を限りなく高めた。 

 登場人物は二十三人から九人(演技しない羊飼いを除けば八人)へ大幅に減らし、しかも主な登場人物はトスカ、カヴァラドッシ、スカルピアの三人で、第一幕にアンジェロッティと教会の番人(戯曲ではヱウゼヱベとゼッナリイノという名を持つ二人で、冒頭に掛け合いで時代・人物の背景説明をするが、オペラでは一人に集約され名前も与えられない)、そして警部スポレッタに、脇役の憲兵シャローネと看守が絡むだけだ。

 全五幕は三幕になり、場面や出来事の、時間的、空間的入れ替えによって緊迫感を持たせ、ドラマティックになっている。

 戯曲第二幕「パラッツオ・ファルネーゼの祝宴の場」と第三幕「マリオの別邸」を概ね省略し、必要な部分のみオペラ第一幕「サンタンドレア・デッラ・ヴァッレ教会」と第二幕「パラッツオ・ファルネーゼ、スカルピアの部屋」に「同時性」の劇的効果を狙って移動(例えば、マレンゴーの戦いのナポレオン勝利の報を戯曲第二幕の祝宴の場からオペラ第二幕のカラヴァドッシ拷問の場面に、スカルピアが扇子によってトスカの嫉妬心を煽る場面を戯曲第二幕からオペラ第一幕へ、など)。

「同時性」の最大効果は、トスカがカヴァラドッシの死に気づく直後の、「刺し殺されたんだ! スカルピアが? 女はトスカだ! 逃がすな」の声が外から聞えてくる場面だろう(オペラ『トスカ』は、トスカの外からの声「マリオ! マリオ! マリオ!」で始まることを思い出そう)。

 戯曲第四幕「カステル・サンタンジェロ、スカルピアの部屋」をオペラ第二幕「パラッツオ・ファルネーゼ、スカルピアの部屋」に収斂。

 しかし削除することで、なくなったわけではない。かえって、隠すことで演劇的効果がより強く現われる。あたかも藤原定家「見渡せば花も紅葉 もなかりけり 浦の苫屋(とまや)の秋の夕暮」の「見せ消ち」のように。

 

 フロベールボヴァリー夫人』の第二部の終り近く、恋人レオンとの逢引を描くフロベールが「隠すことと現われること」のイリュージョン技法を駆使しているとジジェクは論じる。

 エンマはルーアンでオペラ『ランメルモールのルチア』を田舎者の夫と観劇したさい、旧知のレオンと偶然出会う。翌々日には大聖堂で逢引し、馬車に乗るよう促された。

《恋人たち二人が馬車に乗り込み、御者にただ街中を走り回るように命じたあと、われわれは馬車の完全にとざされたカーテンの背後で何が起こっているのかを聞かされることはない。後のヌーヴォー・ロマンを思い起こさせるディテールへのこだわりをもって、フロベールは馬車が当てもなくさまよう周囲の都市の様子をただひたすら描写していく。舗装された通り、教会のアーチ、等々――ただひとつの短いセンテンスだけが、ほんの一瞬、カーテンから突き出した何もつけていない手に言及するだけである。この場面は、「公式」の機能としてはセクシュアリティを隠すはずの言葉が、実際には、その秘密の出現=現われを生み出すという、あるいは、フーコーのテーゼがそれへの批判として目論まれて当の精神分析の用語を用いるなら、「抑圧された」内容は抑圧の効果であるという、『性の歴史』第一巻におけるフーコーのテーゼをあたかも図解するかのようにできている。作家のまなざしが、どうでもよい退屈な建築のディテールに限定されればされるほど、われわれ読者は責め苛まれ、馬車の閉ざされたカーテンの背後の空間で何が起こっているのかを知りたいという熱望に駆られる。『ボヴァリー夫人』をめぐる裁判で、この作品の猥褻性の一例としてまさにこのパッセージを引いたとき、検事はこの罠に掛かってしまった。フロベールの弁護士にとって、舗装した道や古い家の中性的な描写にはいささかも猥褻なところはないことを指摘するのは容易なことであった。いかなる猥褻性も、カーテンの背後の「本当の[現実の]ものreal thing」に取り憑かれた読者(この場合は検事)の想像力にその存在をすべて負っている。今日われわれには、フロベールのこの方法がきわだって映画的(・・・)に思えるのは、たぶん偶然ではないだろう。それはあたかも、映画理論が「視野外hors-champ」と呼ぶもの、まさにそれ自身の不在において見られうるもののエコノミーを組織するものである。視野に対する外在性を利用しているかのようなのだ。》(ジジェク『否定的なもののもとへの滞留』)

 

 たしかに『トスカ』は、「視野に対する外在性を利用し」、観客の「想像力にその存在をすべて負って」映画的である。

 以下、三島潤色の戯曲から適宜引用し、オペラでいかに「隠すことと現われること」が処理されて効果を発揮しているかを見てゆく。

 

<マリイ・カロリーヌ王妃の命令>

『トスカ』は全体に史実に忠実で、登場人物たちもモデルがいたとされている。オペラの舞台に登場することはないが、戯曲では大活躍のマリイ・カロリーヌ(マリア・カロリーナ)王妃(女王)は、夫のナポリ国王フェルディナンド4世が病弱で政治に関心がなかったことから牛耳っていた。オーストリア帝国マリア・テレジア女帝の娘で、一七九三年にフランス革命で断頭台の露と消えたマリー・アントワネットのすぐ上の姉にあたる。ナポレオンがローマにローマ共和国を、その翌年にナポリ王国を倒してパルテノペア共和国を樹立するとナポリから追い出されてしまうが、ナポレオンの撤退とともに勢力を回復し、ローマが教皇の権力下に戻ると、反動政治を操って共和主義者を一万人投獄し、千人以上処刑したとされる。

 戯曲《マリイ・カロリイヌ どう、アンゼロッティについて、何かしらせでも?

スカルピア 陛下、それがまだ、しかとは、ローマにをらぬことは確かでございますが。

マリイ・カロリイヌ この事件が、命とりにならぬやう気をおつけ。お前には敵が沢山あるから。

スカルピア 陛下と同じ敵でございますな。

マリイ・カロリイヌ さういふ人たちがお前の悪い噂をね。

スカルピア 女王陛下に悪声を放つ輩(やから)は、容赦なく引括(ひつくく)つてをります。

マリイ・カロリイヌ アンゼロッティは、一年も牢に入つてゐたのに、お前の赴任一週間後に、もう牢破りが出来たと、世間では云つてゐるさうな。》

《群衆の声 女王陛下、万歳! (続いて)アンゼロッティ!……アンゼロッティ!……殺してしまへ!……

(中略)

群衆の声 スカルピア!……斃(たふ)せ、スカルピア!

マリイ・カロリイヌ (前と同じく)今度はお前の首だわ。(列席者笑ふ)

スカルピア (冷然として、そして、左手にカプレオラ、トリヴルチェ、及びその他の彼を嘲笑する一群を傲然と見つめながら)醜い、きたならしい人民ども。(叫び声は少しづつ静まり、音楽は尚ほ続く。スカルピア、独りテーブルの前に再び来る。他のすべての者は、或ひは起ち、或は坐つて、広場の方にむいてゐる)アンゼロッティをとりにがせば、次はこの俺が不興を蒙(かうむ)るばかり。腑抜けの大宮人どもが、この俺のつまづくのを待つて喜んでゐる。しかしおそろしいのは女王ぢやない。むしろハミルトンのあま(・・)だ。あの女、アンゼロッティの頸(くび)を締める喜びをのがしたとなれば、今度はこつちへかかつてくる。》

 

 この件があると、スカルピアは主人に従う悪の第一の形式となるが、オペラではより悪の強度を高めて劇的にしている。すべては劇的であること、が優先されるから、《群衆の声 女王陛下、万歳! (続いて)アンゼロッティ!……アンゼロッティ!……殺してしまへ!》といった、長く教皇の支配を受けたローマの庶民、群衆の信心深い保守性は、冒頭の教会の番人(堂守)の呟き程度に抑え、「善」「悪」の境界がぼやけてしまう役柄の錯綜は許さなかった。

 

 戯曲では、スカルピアが恐れる人間はマリイ・カロリーヌの他にもう一人いる。

《しかしおそろしいのは女王ぢやない。むしろハミルトンのあま(・・)だ。あの女、アンゼロッティの頸(くび)を締める喜びをのがしたとなれば、今度はこつちへかかつてくる。》と唾棄した「ハミルトンのあま(・・)」である。戯曲でアンジェロッティは、初対面(オペラでは旧知)のカヴァラドッシに、昔ロンドンで、エンマ・リヨンという娼婦まがいの女と関係を持ったが、その後、女は英国大使ハミルトン卿夫人にのし上がってレディ・ハミルトンとなった、女はカロリイヌ王妃の威光を借りて革命党弾圧を煽動した。自分は出来心からこの女に挑んでやろうと女の素性を喋ったので家宅捜査され、ヴォルテールの著作を本棚に差し挟む陰謀によって三年間の服役をくらわされた、とながなが自己紹介する。

 オペラで、マリイ・カロリーヌ以上にレディ・ハミルトンがオペラで消されている理由を述べることはもう不要だろう。

 

<ルソー『新エロイーズ』>

 戯曲ではルソーと『新エロイーズ』の逸話が登場するけれど、オペラでは隠されている。

 戯曲《フロリア(トスカ) よござんす、どうせ私のいふことなんぞ茶化しておしまひになるんだから。でもそれが一番私は苦になるの。あなたつて、本当は心はいゝ方なのに、考えへ方が悪いのね。ヴォルテエルの本なんか読むんですもの! それにまあ、怖ろしい。この間下さつたもう一冊のあの本。

マリオ(カヴァラドッシ) 「新エロイーズ」か。

フロリア いつもざんげをきいていただくカラファ様にお話ししたら、「早くそんなけがらはしい本を焼き捨てないと、その本があなたの身を焼くことになる」と仰言つたわ。

マリオ で、焼いちやつたのか?

フロリア いいえ。

マリオ よかつた。僕の大事にしてゐる本なんだから、あれは、ルウソウから父への贈物なんだ。

フロリア 私、あれを読んだわ。でもあんな本、ちつとも身を焼いたりしなかつたわ。だつて何でもないんですもの。

マリオ (半ば横になるやうに、フロリアに寄りそひ、足場の上で)そりやさうだ。

フロリア おしやべり揃ひね。あの中へ出てくる人たちは、しじゆう口を利いてるくせに、ちつとも愛し合はない。》

 

 戯曲のトスカは、三島由紀夫が「可憐なるトスカ」で形容した野育ちとはいえけっこう弁が立ち、しっかり者なのに対して、オペラでは美徳が高められている。一方のカヴァラドッシは、第一幕で「さまざまな美の隠れた調和」、「巧みはその神秘の中でさまざまな美を融け合わす」などとアリア「妙なる調和」を歌い、政治思想的に穏健で、美に殉じる純情な人間にすぎないことが強調されている。第三幕のサン・タンジェロ城の牢獄で、死を前にしたカヴァラドッシは、トスカとの永遠の別れを惜しんでアリア「星は光りぬ」を甘く歌いあげる。こういった二人の間に危険思想としてのルソーおよび『新エロイーズ』の出番はない。

 それでも、ドゥルーズが『新エロイーズ』について、

《美徳への愛とは、状況に逆らって善性を保ち続けようとすることである。この自然的善性は美徳ではなく、美徳への愛に他ならない。

 これこそ『新エロイーズ』の問題である。ジュリは善良であり、彼女の父も同様だ。しかし、彼女らの置かれた客観的な社会的状況ゆえに、ジュリは過ちを犯さずにはサン=プルーを愛することはできない。サン=プルーも過ちを犯さずにはジュリを愛することができない。彼らに残っているのは美徳への愛である。これは道徳的な問題である。》(ドゥルーズ『基礎づけるとは何か』(「ルソー講義 1959-1960 ソルボンヌ」)

と語ったように、「美徳への愛」という観点から、オペラで一言ぐらいあってよさそうなものだが、ここでも複雑化と政治思想を避けたのだろう。

 

 カヴァラドッシの出自説明がオペラにないことも同じような理由だろう。

 戯曲《ヱウゼヱベ(教会の番人) いやいや、わしのはうがよく知つてる。わしが若いころに名の高かつた、あの人のお父さんから云へば、そりやあ、ローマ人とも云へるだらう。だがおつかさんはパリー生れでそつちの血筋からはフランス人さ。》

《ヱウゼヱベ ゼッナリイノ、あれぢやまるでジャコバン党だ。まるで本物だ。血筋は争はれぬもの、あの方のお父さんが誰知らぬもののない進歩派でな。永いことパリでくらして、あの怖ろしいヴォルテエルめや、同じ徒党の悪漢どもと友だちづき合いをしてをられた方なんだから。それにつけてもゼッナリイノ、気をつけろよ、不信心者と交はると、地獄へ逆落しだぞ。》

 

 チャンパイは「カヴァラドッシすなわち遮断された退路」で、オペラのカヴァラドッシが「小者」だと言う。

《カヴァラドッシのトスカとの親密な間柄は、ただ外面だけである。2人の間には、<純粋で>、<完全で>、<絶対的な>愛情関係は存在せず、むしろその反対である。今日の尺度に照らせば、2人の関係はかなり当世風のものと格づけされるに違いない。その関係は古典的というよりもむしろ現代的である。2人の愛情はときたま激しく燃え上がるが、根本的にはゆるやかで色情的な引力と美的な関心に基づいている。トスカは美しく、歌がうまく、情熱的な女性である。これがカヴァラドッシを満足させた。しかしトスカに秘密を全部もらすほどにはなっていないと思われる。このことは第1幕における2人の<愛の場面>がはっきり証明している。(中略)

 というわけでカヴァラドッシの悲劇性は、トスカとの関係の妨害にではなく、政治組織の不条理と専横によるその死の完全な無意味さにある。そういえるのは、最後までカヴァラドッシは客観的にも主観的にも(スカルピアの術策の内で)小者である。すなわち彼は偶然に政治的紛争にまきこまれ、考えられる限り賢明には振舞わなかったので死ぬほかないという、政治的に重要ではない人物にとどまっている。もともとスカルピアは自分にとっての危険の源であるアンジェロッティの首とトスカの人身御供だけが欲しいのだ。カヴァラドッシに対してはサディスト的情欲だけを満足させた。拷問によってトスカに憎まれるほど怒らせる。この憎悪を必要とし、愛する対象に憎み嫌われたい、とスカルピアはただこのようにして必要な性的刺激を手に入れるのである。従ってカヴァラドッシの死はスカルピアの快楽獲得に役立つだけで、本来の意味での悲劇的死ではない。意味をなし、跡を残す劇的な死ではない。無意味である。神経症患者たちが握る権力機構の無名の犠牲者と言える。》

 

 戯曲ではカヴァラドッシの不信心ぶりが表現され、教会がスカルピアの側であることが如実にわかる。

 戯曲《神のお情にすがるやうにとのありがたいお説教にも、あの男は、神にゆるしてもらふ必要はない、自分は虐政に苦しめられた犠牲者を助けて、義人の道を歩んできたのだ》、《もしこの事件で科のあるのは誰かといへば天に対する自分ではなく、自分に対する天の罪だ》などと答え、スカルピアに「過激党に限ってそんなことをいふのさ!」、「怖ろしい冒瀆(ぼうとく)だな」、「いやはや立派なキリスト教徒だな」と断定されるが、オペラでは省略されてしまう。しかしプッチーニに思想性は乏しく、それがオペラのカヴァラドッシの人物像に反映されて、政治思想的に透明な存在として、ひたすらスカルピアの引立て役に廻っている。

 

<スポレッタとトスカの「告白」>

 警部スポレッタは「パルミヱリの時と同じやうに」の秘密をトスカに告白し、トスカは「スカルピアを殺してやりました」とスポレッタに告白する。

 戯曲《フロリア 血だわ! 死んだ! ああ、マリオ!……殺されたのね! 殺された! 大事なこの人をあいつたちが! (スポレッタ、スキャルロオネ、軍曹、兵士等を引き連れて再び登場。フロリア、スポレッタに飛びついて)

 人殺し! 助けると約束しておきながら!

スポレッタ あなたのさう思わせ、そしてパルミヱリの時と同じやうに銃殺すること。これが閣下からの命令でございました。

フロリア 悪魔! もう一度あの男を殺してやりたい。もう一度!(皆、驚く)

スポレッタ あいつを殺す?

フロリア さうです。殺してやりました。お前たちの大将のスカルピアを。》

 

 ところがオペラには告白の場面はない。

「パルミエリのように」とは具体的にどうだったのか疑問のまま、観客に残される。いわばエーコの「開かれた作品」やバルトのテクスト論の「ゼロ度」のように、観客は想像力で作品を完成させなくてはならない。

 スカルピア殺害は、タイミングよく(「同時性」)外部からの声だけで、ヒッチコック映画のように巧みに処理される。

 オペラ《声 ああ! 殺されたんだ! スカルピアが? 女はトスカだ! 逃がすな。階段の出口に注意しろ!》という外からの「声」、「妨害」とも「侵犯」ともいえる「同時性」によって、劇的速度は速まり、緊張度は極限に達する。

 

<「ああスカルピア、神様の御前で!」>

 オペラで、死の間際に最後の言葉として(マリオ)カヴァラドッシの名ではなく、「ああスカルピア、神様の御前で!」とスカルピアの名を出したのは、実はスカルピアに愛情を抱いていたから、との穿った見方がある。戯曲には「ああスカルピア、神様の御前で!」の叫びはなく、かわって相当する(フロリア)トスカの強い予告があるのだが、オペラでは消されてしまった。その隠す作劇術は抜群の効果を生んでいる。

 プッチーニは「謎」を残すのが巧い。とりわけラスト・シーンはつねに謎を孕んで幕が下りる。だから新プロダクション(演出)のラスト・シーンで、多様な解釈というだけでなく、むしろ「対立」する解釈、過去の解釈への「侵犯」を纏って演じられることがよくある。最近でも、『蝶々夫人』のラストで自裁した蝶々夫人が、彼女を愛し続けたピンカートンとあの世で手を取り合うハッピー・エンドだったり、『トゥーランドット』でトゥーランドット姫はカラフ王子と結ばれる(プッチーニの死後、アルファーノが補筆完成させたハッピー・エンド)ことなく自害したり、『トスカ』でサン・タンジェロ城から身を投げたトスカは下降することなく昇天する、といった「逆転」、「転倒」さえ可能となっている。オーソドックスな演出であったとしても、観客は決して解けない謎を今度こそ解けるのではないか、心理的に納得できるか、と何度でも劇場に足を運んで確認したくなる。

「ああスカルピア、神様の御前で!」の(フロリア)トスカの予言の言葉とは、

 戯曲《スカルピア で、その男はアンゼロッティだな。

フロリア いいえ……

スカルピア (嘲笑しながら)つまり、アンゼロッティだな。

フロリア いいえ。私はいいえ、と言つています。

スカルピア (同じやうに)その力をこめて「いいえ」といふ処が、とりもなほさず「さうです」といふことになる。

フロリア ああ、お前が神様の御前(ごぜん)で、最後のお審(さば)きをうける時にわかるだらうよ。その時は一緒に立ち会つてあげるわ。……それに私がアンゼロッティの顔を知るわけがないぢやないの。お前の探すアンゼロッティの。》

 

 オペラでは第二幕で、拷問室のカヴァラドッシを見させられたトスカがスカルピアに嘆くと、戯曲のトスカに代わってスポレッタが審判者について言及する(スポレッタの人間性の一面で、悪の第一の形式の証左)。

 オペラ《トスカ これまで私が貴方に何をしたというのですか。

貴方がこんなふうに苦しめているのは私なのです…

貴方は魂を苦しめて…そう、私の魂を

苦しめているのです。

スポレッタ (祈る姿でつぶやく)

だから審判者が席にお付きになる時

隠されていたこともみんな現れ、

報いを受けないことはない。

報いを受けないことはない。

(スカルピアはトスカの落胆を利して拷問室の近くに行き、ふたたび拷問を始めるよう合図する)》

 

 戯曲では、トスカの出自ははっきりと語られるが、オペラではトスカの歌(「歌に生き、愛に生き」 Vissi d’arte ,vissi d’amore のamoreとは、カヴァラドッシへの「恋」ではなく、信仰深き神への「愛」に他ならないから「歌に生き、恋に生き」という訳は間違い)や、カヴァラドッシのさまざまな発言で、彼女の信心深さは容易にわかるよう仕組まれている。

 戯曲《マリオ 立派な歌ひ手で、しかも、女、女そのものです。

むかしは野育ちのまま、羊の番をしてゐたところを、修道院に拾はれて、そこのオルガン弾きの坊さんに歌を教はる。

十六の時には評判の歌ひ手で、信心者でした。

それから四年、あれはラ・ニイナ座で花々しくデビューし、その後はラ・スカラ座、サン・カルロ座、ラ・フェニツェ座など到る処で有名になりました。僕たちの馴染(なれそ)めは、ここローマのラルジェンティヌ座へ急に彼女が出ることになつたとき、お互ひに、一目(ひとめ)惚(ぼ)れ、と、いふやうなわけで。》

 

 オペラ第三幕冒頭で羊飼いが歌う牧歌的夜明けの情景(実際、一八〇〇年当時はローマ市中を羊飼いが歩いていたという)に、戯曲のトスカは《むかしは野育ちのまま、羊の番をしてゐたところを》の余韻が残されていたとしても、もしも《修道院に拾はれて、そこのオルガン弾きの坊さんに歌を教はる》があれば、一八〇〇年頃には、トスカは娼婦になるしかないような境遇だったと、観客は容易に想像しただろう。そもそも、当時の歌姫という職業が放埓で、仕事を得るためには劇場主や作曲家と懇ろになるのは普通のことであり、もちろんスカルピアはそのことを十分知っていたのは間違いない。教会でカヴァラドッシが描く「マグダラのマリア」の、「聖女と娼婦」の両義性、「娼婦たちの守護神」像もそれを暗示している(「マグダラのマリア」について後述する)。

蝶々夫人』が芸者より低い、契約された現地妻にすぎない(たとえ芸者だとしても不見転(みずてん)だろう)から捨てられて当然なのに、未練がましくもお涙頂戴できるよう純情可憐に設定したように、プッチーニ(一九〇〇年のローマ初演でトスカを演じたルーマニア出身のソプラノ、ハリクレア・ダルクレに色男プッチーニはすかさず手を付けている)は色情的官能性をスカルピアだけに負わせて、トスカの純情可憐さを研ぎすました。

 教皇領ローマでは、十八世紀後半まで女性が舞台に上がることは禁止され(「教会の中で婦人たちは黙っていなさい」という聖書のパウロの教えから、聖歌は男性によって歌われた)、オペラ劇場では去勢男性歌手が女の声で歌うカストラートが興隆していた(その性的倒錯性は、一七五八年のカストラートが活躍するローマとその後を描いたバルザック『サラジーヌ』、および精妙な読解であるロラン・バルト『S/Z バルザック『サラジーヌ』の構造分析』に詳しい)。ナポレオンによって去勢を伴うカストラートが禁止され、女性が舞台に上がれるようになったことで、歌姫トスカは存在したのであって、ここにもオペラの舞台には登場しない英雄ナポレオンの神話的な幻影が背景にある。

 

<隠された三角形の一つの頂点>

 三角関係は恋愛小説あるいは姦通小説のエンジンになるのだが、デュラスの小説には「三角関係の脱臼」があるという(郷原佳以「三角関係の脱臼――書くことと愛、ブランショとデュラス」)。

《『ロル・V・シュタインの歓喜』を読んで驚喜したラカンが喝破したように、しかし、そこで指摘された事実自体についてはラカンに言われるまでもなくデュラスの読者であれば誰しも気づいていたように、デュラス的な愛を不可能なものとして成り立たせているのはある三角形、三項関係である。T・ビーチの舞踏会でロルの婚約者マイケル・リチャードソンがロルの眼の前でアンヌ=マリー=ストレッテルに吸い寄せられ、ロルの前から姿を消したこと。(中略)寄宿舎の友人エレーヌ・ラゴネルを自分の愛人の中国青年に抱かせ、自分はそれを見ていたいという少女の激しい欲望。(中略)こうした反復される三角形の主題は、なるほどデュラスとアンテルムスとマスコロの友愛に結ばれたトリオを想起させずにはおかないが、しかし、おそらくそれも含めていずれの三角形も、互いを追いかけ合うことで嫉妬の力学と戯れを作用させるような恋の三角関係とは別の位相にある。三角形があったとしても、三角関係はそこで脱臼されて「愛の物語」がいかにしても成就しない<外>へ、無限定の<外>へ開かれている。》

 

 オペラ『トスカ』にも「三角関係の脱臼」がある。常に「三角関係の脱臼」が起こり、「三角形の一つの頂点」が消失、不在、外部にある。

 

 オペラ「第一幕」から見て行こう。

・冒頭、アンジェロッティが逃げて来るが、番人が現われるとアンジェロッティは隠れ、番人が去ると現われる。

・カヴァラドッシ、アンジェロッティが話していると、トスカの声が外から聞えてくる。

・アンジェロッティが礼拝堂に隠れるとトスカが現れ、トスカが去るとアンジェロッティが現われる。

・教会でカヴァラドッシが描いている「マグダラのマリア」の絵のモデルは青い目のアッタヴァンティ侯爵夫人(アンジェロッティの妹)だが、登場することはなく、黒い目のトスカは想像力だけで嫉妬する。

・スカルピアがアッタヴァンティ侯爵夫人の扇をトスカに示して嫉妬を煽ることで、姿を見せないアッタヴァンティ侯爵夫人の存在は濃くなる。この時、カヴァラドッシは外に出ている。

 

「第二幕」

・スカルピアがカヴァラドッシを拷問する時、トスカの祝祭の歌声が窓の外から聴こえてくる(トスカの不在と歌声)。

・トスカが入って来ると、カヴァラドッシは隣の(演出によっては階下の)拷問室へ連れて行かれる(カヴァラドッシの不在、拷問室からの呻き声)

・スカルピアがトスカに迫る場面で、カヴァラドッシは処刑のために出されている。

・スポレッタは退場させられ、二人きりになったスカルピアはトスカに迫るが、殺される。

 

「第三幕」

・カヴァラドッシとトスカが牢獄で再会する場面で、スポレッタは席を外して不在を作り出す。

・外から、スカルピアが殺されたという声が聞こえてくる。

 

<「マグダラのマリア」>

 戯曲では、カヴァラドッシは共和主義者の象徴の鬚をはやしていることから胡散臭い男と見られていて、トスカと逢えなくなる事態を避けるために、無料奉仕で「マグダラのマリア」の壁画を描くことで信心者の保証をもらっていた。

 オペラで教会の番人は、礼拝堂で敬虔な祈りを奉げる金髪のアッタヴァンティ伯爵夫人を、人知れずモデルにして「マグダラのマリア」像を描くカヴァラドッシに、

 オペラ《番人 ふざけるなら俗人を相手にして、聖人には手を触れるな!》と二度、三度呟くように差し挟む。

《どいつもこいつも悔い改めない奴ばかりだ! 十字でも切ったほうがいい》、《聖母と競う これらの裳裾は 地獄の臭いがする》とも言う。

 茶色の髪で黒い目をしたトスカはカヴァラドッシが描いている絵を目にして、《あの金髪の女は誰なの?》と彼に尋ねるが、《マグダラのマリアだ。気に入ったかい?》と返答され、《美しすぎるわ!》と言う。《あの青い目は、見たことがあるわ》、《アッタヴァンティだわ!》、《彼女に逢うの、貴方を愛しているの? 彼女を愛しているの?》、《あの尻軽女、見てらっしゃい!》、《あれを黒い目にして!》と嫉妬する。

 ここで、「マグダラのマリア」の表象するものは何か。

岡田温司マグダラのマリア エロスとアガペーの聖女』によれば、「マグダラのマリア」は下記のように整理できる。

(1)実在した女性のようだが、脚色、書換え、加工によって、キャラクター形成された性格が強い。両義性をもつ(「聖と俗」「聖女と娼婦」「敬虔と官能」「禁欲と快楽」)。ジェンダーの葛藤(女性をどう位置づけるか)が刻印されている。

(2)福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)のキリストの磔、埋葬、復活に名が記載されているが、娼婦で、罪深い女であったという記載はない。ルカ福音書「女どもの言うことは信じられない」との、やや悪意あるものから、ヨハネ福音書「「我に触れるな(ノリ・メ・タンゲレ)」(キリストの言葉)」の好意的なものまで、ずれの温度差、振れ幅がある。一方、二世紀に作られ、二十世紀に発見された外典(「マリアによる福音書」「トマスの福音書」「フィリポの福音書」)では、神秘的な預言の能力、キリストの良き伴侶、男の弟子たちのうち、とりわけペテロとの確執が記載されている。しかしまだ娼婦、罪深き女ではない。

(3)六世紀から七世紀の変換期の教皇大グレゴリウス(グレゴリウス一世)(在位五九〇~六〇四年)による重大な加工(でっちあげ)があった。マグダラのマリア以外の女性のイメージ、ルカ福音書の「罪深い女(パリサイ人の家で食卓についているイエスの足元に駆け寄り、涙で濡らした髪の毛で拭って口づけをし、罪を悔い改めようとした)」、ヨハネ福音書の「ベタニアのマリア(香油をイエスの足元に注いで自分の髪の毛で拭った。姉マルタ、兄ラザロという家族がいる)」などをハイブリッドに組み合わせた。罪深き女がキリストによって回心する、両義性・二面性があり、苦行者and/or豊かな裸体と美しい金髪を持ち、キリストの足元に駆け寄り、油壺を持つ、といった多重映像は、時代が下るごとに回心前後のギャップを膨らませ、より劇的になってゆく。

(4)十三世紀初め、第四回ラテラノ公会議で、少なくとも年一回の告解(懺悔)の義務付けが決まると、マグダラのマリアは宗教的役割を担った。「罪を悔い改めたマグダラのマリアは悔い改めの模範」、「告解してマグダラのマリアにならうこと(イミタティオ)」、「キリストの受難の苦しみを共有する(コンパッシオ)」をフランチェスコ修道会がプロモートした。

 当時の女性たちには限られた選択肢しかなく、①結婚(持参金制度が重荷)、②修道女、③娼婦、のうち娼婦の可能性は高かった。悔悟娼婦を収容、救済する女子修道院などで、「かつて娼婦だった」イメージが作られ、しかし悔い改めによって聖母マリアに近づいている「守護聖女」となった。

 十六世紀ごろのローマ、ヴェネツィアでは、王侯貴族や高位聖職者の愛人であり、文化教養度も高かった高級娼婦(コルティジャート)の肖像画パトロンが画家に描かせた。

(5)次第に信仰の対象から、「美とエロスの象徴」、「波瀾に富んだ生涯と劇的な運命の逆転劇」としてファム・ファタール(運命の女、妖婦)性を増し、時代が下るごとに美術、演劇、オペラ、小説、映画での鑑賞の対象となった。アベ・プレヴォー『マノン・レスコー』、フロベールの『ボヴァリー夫人』、トルストイアンナ・カレーニナ』などに「マグダラのマリア」のイメージが見てとれるが、プッチーニはオペラ『マノン・レスコー』を残し、『蝶々夫人』、『トゥーランドット』のタイトル・ロール、『ラ・ボエーム』のミミにそのイメージを見てとれることを想えば、オペラ『トスカ』にどうして「マグダラのマリア」の表象を感じないでいられよう。

『トスカ』の「マグダラのマリア」には「両義性」(「聖と俗」「聖女と娼婦」「敬虔と官能」「禁欲と快楽」)、「美とエロスの象徴」、「波瀾に富んだ生涯と劇的な運命の逆転劇」や、トスカという女とスカルピアという男のジェンダーの葛藤、告解(懺悔)といったものが織り込まれている。

 

 オペラで教会の番人が《ふざけるなら俗人を相手にして、聖人には手を触れるな!》と二、三度となく差し挟むのは、聖なる主題のマグダラのマリアのなかに、俗なるアッタヴァンディ侯爵夫人をモデルにする混入をするな、聖と俗の境界線を脅かすな、というトレント公会議(一五六三年終結)以降の忠告であり、《どいつもこいつも悔い改めない奴ばかりだ! 十字でも切ったほうがいい》、《聖母と競う これらの裳裾は 地獄の臭いがする》は、「悔い改めのマグダラのマリア」を前にしての、不遜な絵描きに対する教会権力の警告だろう。

 トスカの《美しすぎるわ!》と《あの尻軽女、見てらっしゃい!》には、アッタヴァンディ侯爵夫人と「マグダラのマリア」のダブル・イメージが読みとれる、さらには歌姫トスカ自身の娼婦性も多重映像化して。

 

<「ローマの女」>

 戯曲第五幕第二場、フロリア(トスカ)はマリオ(カヴァラドッシ)にスカルピアから得た通行証を示し、続く第三場でフロリアはスカルピアをナイフで殺したこと、チヴィタ・ヴェッキオから海へ出られることをマリオに告げると、《マリオ ああ、おまへ、本当に勇ましい! 本当のローマの女だ。昔のローマそのままの勇ましい女だよ!》と感嘆する。

 オペラ第三幕に「ローマの女」の台詞はなく、ひたすら甘美な二重唱で「ああ柔らかくて汚れのないやさしい手」と「手」を賛美する。

 オペラ《トスカ (堰を切ったように)

あの人は、貴方の血か私の愛かを

望んだのよ。嘆願も涙も無駄でした。

私は恐怖に気も狂わんばかりに、

聖母様と聖人たちにお祈りしましたが、それも無駄で…

あの悪党の鬼は

言ったのよ。“もう絞首台が天に腕を拡げているぞ”って。

太鼓の音がしていました…

笑ってたわ、あの悪党の鬼は…笑ってたわ…

獲物をひっ捉えようと身構えて。

“君は私のものかね”―“ええ。”―

私は彼の望みどおりにする約束をしました。

傍に刃が光っていました…

あの男は自由を約束する書類を作り、

怖ろしい抱擁をしにやって来ました…

私は刃を心臓に突き刺しました。

カヴァラドッシ 君が?

君の手で殺したのか。

信心深くて善良な君が、僕のために?

トスカ 手がすっかり血に塗(まみ)れて!

カヴァラドッシ(情愛を込めて、トスカの両手を自分の両手のあいだに取り)

ああ柔らかくて汚れのないやさしい手、ああ、立派な敬虔な仕事のために選ばれ、

子供を愛撫し、薔薇を摘み、不幸に際しては合わせて祈るために選ばれた手、

愛によって強くなったお前の手に、

正義はその神聖な武器を与えたのか。

お前は人に死を与えた、ああ勝利に溢れた手、

ああ柔らかくて汚れのないやさしい手!》

 

 ここで戯曲の「ローマの女」は何を意味するのだろうか。ローマの女戦士のことと素直に思うだろうが、シェイクスピアが詩劇に残し、ティツィアーノ、ティントレット、レンブラントルーベンスクラナッハといった巨匠たちが題材として倦むことがなかった「ルクレティアの凌辱」「タルクイニウスとルクレティア」の逸話を思い起こすべきではないか。「ルクレティアの凌辱」「タルクイニウスとルクレティア」とは、次の通りである。

 紀元前五百九年、ローマはルトゥリ人を攻撃中で、ルクレティアの夫コッラティヌスも参戦していた。陣中でルキウス・タルクイニス・スペルブス王の王子セクストゥス・タルクイニスらとコッラティヌスは妻を比べあい、陣営を抜け出して妻たちのもとへ行き、その貞淑を確かめる。王家の妻たちは宴会に興じていたが、ルクレティアは夫の留守をよく護って貞節だった。だが、ルクレティアの姿を見たセクストゥス・タルクイニスは横恋慕し、後日。一人でルクレティアのもとを訪れた。セクストゥスはルクレティアを強姦しようと侵入し、剣で脅したがルクレティアは死をおそれなかった。しかし、奴隷の裸の死体をおいて姦通の最中に殺されたようにするとセクストゥスに脅され、ルクレティアは恥辱に耐えることができずに凌辱される。セクストゥスの去った後、ルクレティアはローマの父と夫を呼び出すと告白し、彼らに復讐を誓わせるや、短剣で自害した。

 

 クロソウスキーが、タルクイニウスに凌辱され、恥じて自害するローマの女ルクレティアについて考察している、とりわけ身振りの両義性、官能的な「手」をめぐって。クロソウスキー『歓待の掟』で、トネールが描く「ルクレティとタルクイニウス」の絵について、オクターブは次のように語る。

《トネールの描くルクレティアは、寝台に横になり、片ひじに体をもたせかけ、横顔だけ見せて頭をもたげ、一方の脚を長々とのばし、片方の脚で不安そうに腿を持ちあげ、まるで自分に襲いかかっている男を押しのけようとしているかのようだが、その実、さあ、いつでもいらっしゃいと言っているようにも、観客には見えるのだ。すでに彼女に襲いかかったタルクイニウスは、自分の顔をルクレティアの頬に近づけ、腕いっぱいに彼女の胴体をとらえ、ひとつの手は彼女の乳房をつかんでいる。いっぽう彼女のほうでは、ひじをもたげた腕と、開かれた手で、この青年の唇を押しのけようとしているけれども、片方の腕は胴体にそって下のほうにたれている。そして下のところではいっぱいにのびひろげられた指は、ありありと見える恥部をおおいかくしているのではなく、むしろ何かを待ちもうけているように見える。》

 

 トスカがスカルピアを殺したのは正当防衛のためではなく、自らのスカルピアへの欲望に屈しないためで、その証拠に、トスカの最期の言葉はカヴァラドッシの名前ではなく、「ああスカルピア、神様の御前で!」であったし、スカルピアを刺し殺す時の「トスカのキスよ!」に表現されている、といった精神分析学的解釈は馬鹿馬鹿しくはあっても、「死の欲動」の婚姻関係が見てとれ、下品だが蠱惑的な官能的誘惑が『トスカ』の通奏低音にあることを否むことはできない。

 

<バルト『ラシーヌ論』の「明暗法(テネブローゾ)」と「受容可能性」>

 作者が意識したかどうかはともかく、『トスカ』はラシーヌ劇の「三単一の法則」に従って、「時の単一」(一八〇〇年の六月十七日昼から翌十八日早朝までの丸一日)、「場所の単一」(ローマ市内で、戯曲は三キロ四方、オペラは一キロ四方)、「筋の単一」(トスカ、カヴァラドッシ、スカルピアの死へ向かう悲劇で、オペラでは枝葉がより刈り込まれて一直線)が成立している。

 しかし、そういった法則よりも、バルト『ラシーヌ論』のスリリングな「明暗法(テネブローゾ)」に、『トスカ』と同じ世界を感じとることができる。

《こうして我々はラシーヌ的幻覚の核心に入る。影像はその基質の配置のなかに、死刑執行人と犠牲者(いけにえ)の対立そのもの、いやより正しく言えば、その弁証法を、置き換えている。映像は、絵のように描かれ、演劇化された葛藤であり、それは相対立する基質という形で、現実を演じる。エロス的場景は演劇のなかの演劇であり、葛藤の最も活々とした、しかし同時に最も脆い瞬間、すなわち、影が光の輝きによって刺し貫かれる瞬間を表わ(・・)そうとする。というのも、ここでは通常の隠喩が完全に逆転している。つまりラシーヌ劇の幻覚状態にあっては、光が影に呑み込まれるのではない。影は侵入しては来ない。反対なのだ。影が光によって射し貫かれ、影が侵蝕され、抵抗し、ついに身を任せる。(中略)ラシーヌ劇の壮大な絵画的場景は、常に影と光の壮大な神話的(かつ演劇的な)葛藤を提出している。すなわち、一方には夜と影、灰燼と、涙、眠り、沈黙、おずおずとした優しさ、断絶のない現前がある。もう一方には、鋭さを感じさせるあらゆる物体、すなわち、武器、鷲の印を戴く旗印、束桿(そつかん)、松明、軍旗、叫び声、きらめく衣裳、亜麻布(リンネル)や緋色の衣、金(きん)、鋼(はがね)、生贄を焼く祭壇、焔、血がある。二つの相異なる階層に属する基質のあいだで、常にまさに起きようとして、しかも決して成就することのない交換が想定されており、それをラシーヌはきわめて適切に、際立たせる(・・・・・)という動詞で表しているが、それこそ、《明暗法(テネブローゾ)》を構成する(しかもいかにも味わいのある)行為を指し示すものにほかならない。

 ラシーヌにおいて、目に対する物神崇拝とも呼び得るものが存在する理由も理解できる。目とは、本性上、闇に対してさし出された光である。牢獄によって翳り、涙によって曇る。ラシーヌ劇の《明暗法(テネブローゾ)》の完璧な状態とは、涙に濡れ、天を仰ぐ瞳である。》

 

 スカルピアを刺殺した直後のトスカの、燭台と十字架による、敬虔だからというだけでは済ましがたい行為は「明暗法(テネブローゾ)」が際立ち、影が光によって射し貫かれている。バロックのサンタンドレア・デッラ・ヴァッレ教会やサン・タンジェロ城の牢獄ばかりでなく、聖性と殺人が影と光に戯れながら葛藤しつつ結びつき、カヴァラドッシの死を知って、涙に濡れ、天を仰ぐトスカの黒い瞳は「マグダラのマリア」のようだ。

 オペラ《トスカ この男の前でローマが震え上っていたんだわ!

(外に出ようとするが、考え直し、左手の腕木にある2本のろうそくを取りに行き、食卓の上の燭台でそれに火を付け、燭台のほうの火を消す。スカルピアの頭の右に火の付いた1本のろうそくを置き、もう1本は左に置く。また辺りを捜して十字架を見つけ、壁から外し、うやうやしく運び、跪いてスカルピアの胸の上に置く。立ち上がり、とても用心しながら、扉を閉めて外に出る)》

 

 バルトが自らの立場を表明した「前書き」が『トスカ』に当て嵌まる。たとえサルドゥの原作戯曲が三島が言うまでもなく二流で、ラシーヌほどのフランスが誇る古典ではなく、オペラ『トスカ』がイタリア作品であるにしても、この「前書き」の「ラシーヌ」を『トスカ』に置き換えて読むことが可能で、そこに魅力の根源的な秘密、「受容可能性」を嗅ぎとることができよう。

《最後に一言、ラシーヌの今日性について触れておかねばならない(なぜ、今日ラシーヌについて語るのか)。この今日性は、周知のごとく、きわめて内容豊かである。ラシーヌの作品は、過去十年間にフランスでなされた批評的企てのうちで、何らかの重要性をもつすべてのものによって取り上げられてきた。社会的な批評はリュシアン・ゴールドマンが、精神分析学的批評はシャルル・モーロンが、伝記的な批評はジャン・ポミエとレーモン・ピカールが、深層心理学的批評はジョルジュ・プーレとジャン・スタロビンスキーが、それである。その結果、驚くべき逆説によって、フランスの作家のうちでおそらく、古典主義的透明さ(・・・)という思想に最も結び付けられている作家が、今世紀のあらゆる新しい言語を、自分の上に集中させ得た唯一の作家となっているのである。

 というのも実は、透明さとは両義的な価値にほかならないからだ。それは、もはやそれについてなにも語ることがない事柄であると同時に、最も多くの語るべきことがある事柄でもあるのだ。したがってそれは、結果的には、その透明さそのものが、ラシーヌをして、わが国の文学の文字通りの通念、批評の対象としてのゼロ度、空無ではあるが、永遠に意味作用へと差し出されている一つの場たらしめている。文学というものが、私の信じるように、その本質において、確定された意味であると同時に失敗した意味であるとするならば、ラシーヌはおそらくフランスの最大の作家である。その天才は、次々と彼の財産となった美徳のどの一つの中にも、特別には存していない(いかにも、ラシーヌについての倫理的な定義は、変化することを止めなかったのだから)、そうではなくて、むしろ誰も比肩し得なかった受容可能性(disponibilité)の術にあり、これがラシーヌに、どのような批評的言語の領域においても、永遠に持ちこたえることを可能にしているのである。

 この受容可能性は、取るに足らぬ美徳ではない。それどころか、絶頂にまで高められた文学の、存在そのものである。書くとは、世界の意味を揺さぶること、そこに間接的な(・・・・)問いを仕掛けることであり、この問いに対して作家は、究極の宙吊りにより、答えることを控えるのだ。答えを与えるのは、我々の一人ひとりであり、そこに自分の歴史、自分の言語、自分の自由をもたらすことによってなのだ。しかし、歴史も言語も自由も、無限に変わるのだから、作家に対する世界の解答もまた無限である。(中略)

 暗示と断言、語る作品の沈黙と、聴き取る人間の言葉、これが世界と歴史の内部における文学の無限の息である。そして、まさにラシーヌが、文学作品の暗示的な原則を完璧に履行したからこそ、彼は我々に、我々の断言的な役割を十全に果たすことを要求するのだ。》

                                (了)

          *****引用または参考文献******

アッティラ・チャンパイ、ディートマル・ホラント編『名作オペラブックス プッチーニ トスカ』(アッティラ・チャンパイ「拷問部屋と協和音――プッチーニの《トスカ》と歌唱オペラの危機」、モスコ・カーナー「プッチーニの《トスカ》の現代性」、ベルナール・ボヴィエ‐ラピエール「《トスカ》はオペラにおける革命か?」など所収)戸口幸策、嶺崎章郎訳(音楽之友社) (適宜、改訳のうえ引用)

*『決定版 三島由紀夫全集25』(「「ヴィクトリアン・サルドゥ作トスカ 五幕」安堂新家訳、三島由紀夫潤色、解題(「『トスカ』上演について」《労演》昭38・6・10)所収)(新潮社)

*『三島由紀夫全集31』(「「可憐なるトスカ」文学座プログラム・昭和三十八年六月」所収)(新潮社)

白崎容子『オペラのイコノロジー トスカ イタリア的愛の結末』(ありな書房)

*加藤浩子『オペラでわかるヨーロッパ史』(平凡社新書

スタンダールパルムの僧院生島遼一訳(岩波文庫

ロラン・バルト『テクストの出口』(「人はつねに愛するものについて語りそこなう」所収)沢崎浩平訳(みすず書房

ハンナ・アーレントエルサレムアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』大久保和郎訳(みすず書房

スラヴォイ・ジジェク『否定的なもののもとへの滞留』酒井隆史田崎英明訳(太田出版

スラヴォイ・ジジェク、ムラデン・ドラー『オペラは二度死ぬ』中山徹訳(青土社

*『カント全集10』(「たんなる理性の限界内の宗教」所収)北岡武司訳(岩波書店

*リチャード・J/バーンスタイン『根源悪の系譜 カントからアーレントまで』菅原潤他訳(法政大学出版局

岡田温司マグダラのマリア エロスとアガペーの聖女』(中央公論新社

ピエール・クロソウスキー『歓待の掟』若林真、永井旦訳(河出書房新社

柄谷行人「探究Ⅲ」第十八回(「群像」1996年3月号に所収)(講談社

坂部恵坂部恵集2 思想史の余白に』(「理性の不安――サドとカント――」(岩波書店

ジャック・ラカン精神分析の倫理』ジャック=アラン・ミレール編、小出浩之他訳(岩波書店

ミシェル・フーコー『狂気の歴史――古典主義時代における』田村俶訳(新潮社)

*『マルグリット・デュラス 生誕100年愛と狂気の作家』(郷原佳以「三角関係の脱臼――書くことと愛、ブランショとデュラス」所収)(河出書房新社

ジル・ドゥルーズ『基礎づけるとは何か』(「ルソー講義 1959-1960 ソルボンヌ」所収)國分功一郎他訳(ちくま学芸文庫

ロラン・バルト『S/Z バルザック『サラジーヌ』の構造分析』(バルザック『サラジーヌ』も収録)沢崎浩平訳(みすず書房

ロラン・バルトラシーヌ論』渡辺守章訳(みすず書房

*エリック・マルティ『サドと二十世紀』森井良訳(水声社

*T.W.アドルノ、M.ホルクハイマー『啓蒙の弁証法』徳永恂訳(岩波文庫

ピエール・クロソウスキー『わが隣人サド』豊崎光一(晶文社

ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』酒井健訳(筑摩書房

モーリス・ブランショ『文学と悪』山本功訳(筑摩書房

モーリス・ブランショロートレアモンとサド』小浜俊郎訳(国文社)

*S・D・ボーヴォワール『サドは有罪か』白井健三郎訳(現代思潮社

ミシェル・フーコーフーコー・コレクション2 文学・侵犯』(「侵犯への序文」所収)小林康夫他訳(筑摩書房

ジル・ドゥルーズ『ザッフェル=マゾッホ紹介』堀千晶訳(河出書房新社

ピエル・パオロ・パゾリーニ監督映画『ソドムの市』

ロラン・バルト『サド、フーリエロヨラ』篠田浩一郎(みすず書房