文学批評 二人の万菊 ――吉田修一『国宝』と三島由紀夫『女方』

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 三島由紀夫女方』(昭和22年、1957年)と吉田修一『国宝』(平成30年、2018年)は歌舞伎の世界を描いた小説で、前者は短篇、後者は長編であり、どちらにも主役、脇役の違いこそあれ、名女形の「万菊(まんぎく)」が登場する。前者の万菊の芸名は「佐野川万菊」で、あきらかに成駒屋の六世中村歌右衛門がモデルだ。後者もモデルは同じく歌右衛門、三島作品を十分に意識しての「小野川万菊」であろう。

 劇評家渡辺保の『国宝』書評「歌舞伎と小説のあいだ」には、女形についての問題提起、本質の考察がある。そこから三島と吉田の両作品を読み比べると、歌舞伎と女形に関する二人の理解度の差、渡辺の考察の意味合いがはっきりしてくる。

(だがその前に、「女方」なのか「女形」なのか、表記の混乱を解いておきたい。渡辺保『歌舞伎のことば』によれば、《今は女形と書くが、古くは女方と書く。この「方(かた)」は立方(たちかた)(踊り手)、地方(ぢかた)(伴奏者)、囃子(はやし)方(鼓や太鼓、笛の演奏者)、あるいは道化方(三枚目の役者)の「方」と同じで、その部署を担当する者という意味である。すなわち女方といえば、女性の役を担当する役者という意味になる。それがいつ頃から女形になったのかはよくわかっていない。しかしどうしてそうなったのかは興味深い。女形の歴史のなかで「方」(機能)から「形」(フォーム)への変化があったに違いないからである》とあり、戸板康二も同様である。三島が「女形」ではなく「女方」を使用した理由はわからないが、ここでは、一般表記としては「女形」を用い、引用文の表記が「女方」の場合はそれに従うこととする。)

 

 

吉田修一『国宝』>

 

渡辺保『国宝』書評――「歌舞伎と小説のあいだ」>

《ストーリー・テラーの名手吉田修一の長編小説である。さすがによく出来ていて、次から次へ読者の興味を惹く事件が展開する。》、《長崎のヤクザの息子立花喜久雄が、不思議な運命の廻り合わせで歌舞伎の女形になり、ついに「人間国宝」に指定される名優になるまで。その苦難に満ちた人生の物語である。歌舞伎の幕内、人気役者の周囲、そして芸の苦労がよく調べてあって赤裸々に書かれている。なかでも出色なのは喜久雄の母マツと師匠四代目花井百虎の夫人幸子の二人である。(中略)次々と起こる事件、サスペンスのなかでもこの人間描写が的確である。》

 ここまではあらすじ紹介と頌であるが、《しかしそう思って読みながら私はかすかな違和感をもった。》と、歌舞伎劇評家の感想は転回する。

《最初に違和感を感じたのは、主人公の立花喜久雄が芸名花井半二郎になって、その目標とも仰ぐ名女形小野川万菊が「加賀見山」の岩藤と「二人道成寺」を踊るところ。小説だからなんでもいいだろうが、「道成寺」の後に「加賀見山」が上演されることになっている。私がこの上演順になぜ違和感を感じたかというと、この二本を上演する場合は順序が逆だからである。時代物の義太夫狂言が先へきて踊りが最後に来るというバランスのせいもあるが、もっと大事なのは、小野川万菊が悪女の岩藤で殺された後に、キレイになって「道成寺」を踊ってこそ女形の色気があり、観客も喜ぶ。そうでないと万菊自身も観客も後味が悪いのである。

 まあそれは小説だからと思いながら通り過ぎて、二度目に違和感を感じたのは、万菊とならぶ名女形姉川鶴若が借金からどんな役にでも出たいといって「先代萩」の腰元に出るところである。》 

かりにも万菊の政岡に八汐を勤めたほどの人が、いくら金に困ったとはいえ、腰元に出るというのは、役者には格も身分もあるのでおかしい、無理である(本当のところは渡辺の記憶違いで、腰元ではなく台詞のある侍女、澄(すみ)の江で出たのだが、たとえ侍女でも渡辺の指摘は変わらないであろう)。

 それでも、そんなことは枝葉末葉だと思っていたが、このかすかな違和感が実はもっと大事なことに繋がっていることに気づいた時にはもうラストシーンであった。

《花井半二郎は今や功成り名遂げて、歌舞伎界を背負って立つ名女形になっている。その半二郎が歌舞伎座の舞台で得意の「阿古屋」を演じる。その幕切れ。阿古屋をはじめ舞台の役者全員がきまった瞬間、半二郎が突然舞台から客席の通路へ降り、後方の扉に向かう。慌てて案内係が扉を開けると絢爛豪華な阿古屋の遊女姿のまま、歌舞伎座のロビーを横切り、正面玄関を出て劇場の外へ出る。歌舞伎座の外は築地から銀座へ向かう晴海通り。折からの夜の賑わいのなかに自動車のライトがあふれている。そのライトのなかを美しい女形姿の半二郎が悠々と静かに歩いて行く。

 こう書くと半二郎は自分を失ったのではないかと思われるだろう。そうではない。その前から彼は自分を見つめているなにかを感じていて、そのなにかに惹かれて外へ出たのである。本来虚構である女形が現実を越えた瞬間なのである。

 ここを読みながら私は三島由紀夫が『六世中村歌右衛門序説』で有楽町の朝日新聞社前の喧騒と歌舞伎座歌右衛門の舞台を対比させた件りを思い出した。三島由紀夫と同じように吉田修一も現実と虚構を対比させている。そしてこの奇想天外なラスト・シーンこそ、この長編小説を締めくくるにふさわしい凄惨な迫力を持っている。

そのことに感心しつつ、これは小説だから認められることであって実は女形の名人たちが達する心境とは違うという思いがした。》

ここからは「女形」論である。「女形」(歌右衛門雀右衛門芝翫玉三郎など)について、「型」について、長きにわたって幾つもの著作を現わして来た著者の到達地からの批評である。

《どう違うのか。女形は型(演出)によって女になる。修業を重ねて型を身体化する。型は身体に生きてほとんど無意識になる。無心。無心になった女形は、その身体からも、芸からも、型からも、役からも、自分自身の人生からさえも解放されて自由になる。たとえば晩年の歌右衛門はほとんど無意識に芝居を運んでいるように見えて、その自由さによって一つの濃密な世界を作って現実を越えた。

 この違いを理解するには、小野川万菊と、半二郎の親友でありライバルでもあった五代目花井百虎の二人の女形の最後の姿を見ればいい。

 万菊は富も名誉も舞台も捨てて、山谷のドヤ街で人知れず孤独死した。白虎は病気で足を失いながら壮絶な最期の舞台を演じる。万菊は老いて全てを捨てて自由になった。しかしその自由は普通の老人の自由であり、白虎は身体を失って身体を超えることが出来なかった。この二人の獲得し、あるいは獲得しようとした自由さは現実的でありだれにも分かる。それに比べれば半二郎は最後まで舞台を捨てず身体を失うこともなかったが、現実の街に消えて行った。この自由さも二人の自由さと同じく現実的で分りやすい。しかし歌右衛門の自由さは、芸によって得られた舞台の上の自由である。女形たちの死に場所は舞台にしかなく、舞台以外のところでの自由とは本質的に違うのではないだろうか。その自由さは精神的なものであって、だれの目にも明らかなほど分りやすくはない。》

 この《だれの目にも明らかなほど分りやすくはない。》こそが肝であって、詳しくは後述とするが、吉田『国宝』と三島『女方』の差異は、分りにくいことを分りやすくせず、分りにくく書けているかに極まるからだ。

 渡辺は続ける。

《ラスト・シーンで晴海通りを自動車のライトに照らされながら歩く花井半二郎の姿を読みながら、ヤクザの世界からここまで生きて来た人間すなわち立花喜久雄の顔はよく見える。しかし女形花井半二郎の顔が私には見えなかった。なぜだろうか。おそらく江戸時代から女形役者が営々と築き上げて来た女形の、芸によって自由になるというあの自由と半二郎の自由が微妙に違うからだろう。しかしその女形本来の方法論に従えば半二郎は晴海通りへ出ることは出来ない。折角この小説のラスト・シーンにふさわしい幕切れが不可能になる。それでは物語としては完結しない。むずかしいところである。

 むろん私の抱いた違和感は、歌舞伎を愛してきた私個人の感想に過ぎない。それを別にすれば「国宝」上下二巻は長編小説としてその展開のスピード感、その人間描写の的確さにおいて、読者を引きつける魅力をもった力作だろう。》

 

<関容子『歌右衛門合せ鏡』>

 万菊に焦点をあてたい。

《万菊は富も名誉も舞台も捨てて、山谷のドヤ外で人知れず孤独死した。》という結末は、ドラマティックに奇を衒いすぎではないかという疑問を別にすれば、小説のなかの万菊は、あたかもそこに歌右衛門がいるかのように、こそばゆいほど特徴をとらえて活写され、また女形についての解説にもなっているので、順を追ってみてゆきたい。

 

 その前に、現実の歌右衛門の死の様子は、関容子『歌右衛門合せ鏡』の「雪月花」から窺い知ることができる。平成十三年、世田谷の閑静な住宅街岡本町の屋敷での穏やかな臨終で、引用するのは「情景」という言葉がぴったりの見事なエッセイのはじめの部分にすぎない。

歌右衛門の命日は三月三十一日。

 夜七時のニュースでいつもより早い満開の桜に、突然季節が後戻りして雪が降りしきるという、絵空事のような光景をテレビが映し出し、うっとりと見とれていたら、続いてすぐに「二十世紀を代表する名優の死」が報じられてびっくりした。

 あとで伺った有紀子さん(筆者註:養子の長男梅玉(ばいぎょく)夫人)の話だと、その日も成駒屋はいつものようにベッドの中で邦楽のテープに聴き入っていた。退院後、初めのうちは興行中の歌舞伎のビデオを観てあれこれ駄目出しをしていたが、だんだんとそれが大儀になり、観れば苛立(いらだ)って病状が悪くなる。有紀子さんは考えて、「昔のお父様のビデオだけ」をかけることにしてみたら、だいぶ状態が落着いた。

 臨終の日、朝からうつらうつらとしながらも、『道成寺』や『将門(まさかど)』や『茨木』のテープに耳を傾けて、なぜ清元の『隅田川』がかからないのか、と成駒屋は思ったかもしれない。あたしが一番好きなのを知ってるくせに……。しかしお念仏を唱える子供の甲高い声があまりに悲しいので、わざとはずしたのだった。

 夕方になり、ちょうど『関扉』のテープを流し始めて、〽墨染の立ち姿……と常磐津が語るころ、雪が降り出し、そのとき、容態が急変する。

 歌舞伎座では、四月興行に出る『頼朝の死』の舞台稽古の最中だった。頼家役の梅玉さんに知らせはあったが、もちろん帰るわけには行かない。その序幕で役の終る成駒屋古参の弟子、歌江さんをかげに呼び、

「化粧道具、持ってる?」

 と、小声で訊いた。役者が化粧道具を持たないはずはないが……歌江さんは思って、すぐにハッとする。成駒屋がかねがね、

「いいかい、あたしの死化粧は歌江にね」

 と言い遺していることは察しがついていた。あ、いよいよその日が来たのだと思い、素踊りのときに使うパンケーキ類の入った化粧ポーチを小脇に、師匠の家に急いだ。

 成駒屋はこのお弟子の化粧の技術に信頼を寄せていた。歌舞伎のときは従来の顔のし方だが、素踊りや舞台挨拶、新派やモダンな新作ものに出演するときはいつも、

「ねえ、顔はどうしたらいいんだい?」

 と相談した。肌色のパンケーキを選び、役柄によっては付け睫毛をしたり、そこに金粉をあしらったりするのを、成駒屋がとても面白がってくれたという。

 歌江さんが岡本町に着く。

「あ、歌江さん。お父様、歌江さんですよ。歌江さんが来ましたよ」

有紀子さんの声が届いたのか、ベッドの横の血圧を示す計器の数字がパパパパッと六十ぐらいまで上昇したが、そのうちだんだんと下っていって、それがお別れだった。

 しばらくみんな別室に出されたが、また呼び入れられて遺体の着換えをしたのは、有紀子さんと、梅玉夫妻の長女なぎささん、それに歌江さんの三人だけだった。黒紋付を着せ、羽織袴はその上からそっと掛けるだけにした。

 病床に五年もいたというのに不思議なほど面やつれしていない、きれいな肌だ、そう思いながら歌江さんは心をこめてパンケーキを塗り、きわ墨で眉を引いた。きわ墨というのは、和紙に卵黄を塗り、乾いたらこれをローソクの火であぶり、その油煙から出る煤を別の和紙に移し取る。これで眉を引くと自然に描ける。最後に口紅を薄くさす。そこに昔の成駒屋がよみがえった。

 弔問の客が次々と集り始めるころ、雪はとっくにやんで、月が輝いていた。

 対面した客たちが成駒屋の顔の美しさに息を呑んで感嘆し、口々に讃えていた。》

 全てを捨てて自由になる、とはドヤ外で人知れず死ぬといった「事件」ではなく、舞台から降りた女形歌右衛門のゆるやかな死に臨む精神の自由さに近いのではないか。

 

<「第四章 大阪二段目」>

 さて吉田『国宝』に戻ると、万菊の初登場は「第四章 大阪二段目」、京都南座の楽屋で丹波屋の二代目花井半二郎が息子俊介と部屋子(へやご)候補の喜久雄の二人を万菊に挨拶に行かせる場面で、すぐに(歌右衛門が一番好きだったという)清元『隅田川』の班女(はんにょ)の前(まえ)に世界が転回してしまう二人がいる。

《万菊の物言いも物腰も柔らかすぎて、喜久雄はちょっと拍子抜けで、遊園地の化け物屋敷に入ったとたん、一斉に電気がついたような感じでございます。

 ただ、次の瞬間、ちらっと向けられた万菊の視線に、喜久雄はいきなり射抜かれます。どう説明すればよいのか、その目だけが笑っておらず、更に申しますと、半二郎と俊介の角度からは笑っているように見えるのに、なぜか喜久雄の位置からだけは、その色が違って見えるのでございます。お

 背筋がゾクッといたしまして、喜久雄は目を逸らします。逸らした先では、奇妙なほど長い万菊の手指が薄い太腿のうえでぴったりと揃っておりまして、今にも蛇のように動き出し、こちらへ這(は)ってきそうであります。(中略)

 そうこうしているうちに、昔からの贔屓(ひいき)だという小説家が万菊の楽屋へ挨拶にまいりまして、「では、そろそろ」と立ち上がった半二郎に、喜久雄もついて出ようといたしますと、

「喜久雄さんでしたっけ? ちょっと」

 と、万菊が喜久雄だけを呼び止めます。

 恐る恐る振り返れば、万菊にまじまじと見つめられ、

「ほんと、きれいなお顔だこと」

 どう反応してよいのか分からず、喜久雄は居心地悪くて仕方ありません。

「でも、あれですよ、役者になるんだったら、そのお顔は邪魔も邪魔。いつか、そのお顔に自分が食われちまいますからね」

 ますます混乱する喜久雄ですが、運よく件(くだん)の小説家が現れましたので、これ幸いとばかりに罠(わな)から解放された獣の子の如く慌てて俊介を追うのでございます。(中略)

 もの悲しい清元の三味線が、青く染まった夕暮れの隅田川に流れます。

〽 実に人の親の 心は闇にあらねども

  子を思う道に迷うとは

 広い劇場のなか、どこかにぽっかりと穴が空いているようで、今にもそこから何かが出てきそうな、そんな無気味さで客席全体が震え上がりそうになったまさにそのとき、まるで人魂(ひとだま)のように、我が子を探し狂女となった小野川万菊が、花道に現れるのでございます。

 班女の前はそろりそろりと花道を舞台へ向かいます。その姿、その色、その陰影、まるでこの世のものとは思われず、円山応挙(まるやまおうきょ)が描いた幽霊がそこに現れたかと思うほどのおどろおどろしさでございます。

 気がつけば、喜久雄はその怪奇な世界に引き摺(ず)り込まれておりまして、現実とも夢とも違う、なにやら生ぬるく湿った場所に一人立たされているようでありまして、それはまた他の客たちも同じこと、誰もが万菊を見つめる亡霊の一人となっているのでございます。

「こんなもん、女ちゃうわ。化け物(もん)や」

 あまりに強烈な体験に喜久雄の心は拒否反応を示すのですが、次第にその化け物がもの悲しい女に見えてまいります。

「……いや、こんなもん、女形でもないわ。女形いうもんは、もっとうっとりするくらいきれいなもんや。それが女形や」

 喜久雄が万菊の魔力を断ち切るように、隣の俊介に目を向けますと、やはり何かに憑(つ)かれたように舞台を凝視しております。

「……こんなもん、ただの化け物やで」

 何かから逃れるように笑い飛ばした喜久雄の言葉に、このとき俊介は次のように応えます。

「たしかに化け物や。そやけど美しい化け物やで」と。

 実はこの日、二人が目の当たりにした小野川万菊の姿が、のちの二人の人生を大きく狂わせていくことになるのでございますが、当然このときはまだ、二人ともそれを知る由もございません。》

 

 ここで、《恐る恐る振り返れば、万菊にまじまじと見つめられ、

「ほんと、きれいなお顔だこと」

 どう反応してよいのか分からず、喜久雄は居心地悪くて仕方ありません。

「でも、あれですよ、役者になるんだったら、そのお顔は邪魔も邪魔。いつか、そのお顔に自分が食われちまいますからね」》の万菊の忠告と、《「……いや、こんなもん、女形でもないわ。女形いうもんは、もっとうっとりするくらいきれいなもんや。それが女形や」》という「美しい女形と美しくない女形」は、「女形論」の中心命題である。

 この万菊の言葉は、俊介と喜久雄が中堅どころとなった下巻「第十二章 反魂香(はんごんこう)」の『本朝廿四孝(ほんちょうにじゅうしこう)』「奥庭狐火(おくにわきつねび)の場」の人形振りの稽古で反復される。

《「人形振りに関しては、喜久雄さんのほうが一枚も二枚も上手ですよ」

 稽古中、わざとなのか無意識なのか、万菊は喜久雄の名前をよく出します。

「……あの喜久雄さんってのはね、言ってみりゃ、いい意味でも悪い意味でも、本人が文楽の人形みたいな人ですからね。ある意味、このお役には打ってつけなんですよ。でもね、ずっと綺麗な顔のままってのは悲劇ですよ。考えてごらんなさいな、晴れやかな舞台が終わって薄暗い物置の隅に投げ置かれたって、綺麗な顔のまんまなんですからね。なんでも笑い飛ばせばいいって今の世のなかで、そりゃ、ますます悲劇でしょうよ」》

 

『マクアイ・リレー対談――中村歌右衛門氏・三島由紀夫氏対談』(「幕間」昭和33年5月)で、歌右衛門と三島は女形の美しさについて迷うことなく一致している。

《「歌右衛門  女の人に近ければ近い程、私は魅力がないと思うの。歌舞伎である以上、女の人になるべく近付こうとする演出やお化粧なら、私はしない方がいいと思うの。」

三島  勿論、そう。戦後の若い女形の間違いというのは、そこから来ていると思うんだ。ああいうところから、歌舞伎というものを間違える原因が出て来る。劇評家がそういうものを褒めたということは、いけないことだ。」》

 

 美しい女形と美しくない女形。女と女形

折口信夫全集 かぶき讃』に収録されている『役者の一生』(昭和17年)は、四世沢村源之助の一生を振り返りながらの女形論ともいえるものだが、さきの『マクアイ・リレー対談――中村歌右衛門氏・三島由紀夫氏対談』における「女と女形」の二人と同一見解が述べられている。

女形に美しい女形と美しくない女形とがある。立役・女形を通じて素顔の真に美しい人の出て来たのは、明治以後で、家橘・栄三郎のような美しい役者は今までなかった、と市川新十郎が語っていたくらいである。これは明治代の写真を見ればわかる事で、それには写真技術の拙さという事もあろうけれど、一体に素顔のよくない女形が多かった。岩井半四郎などは美しかったというけれども、どの程度だったかについては、多分に疑問が残ると思う。(中略)

 この頃は女形が大体美しくなった。併し美しいということは芸の上からは別問題で、昔風に言えば軽蔑されるべきものなのである。最近故人になった市川松蔦など、生涯娘形で終るかと思われるくらい小柄で美しい女形であった。だが松蔦の美しさは、素人としての美しさに過ぎなかったのである。こうした美しさは、鍛錬された芸によって光る美しさではなく、素の美しさで、役者としては寧、恥じてよい美しさである。(中略)

 要は、芸によって美しく見えるということが、平凡でも肝腎なことなので、女形がそれ自身純然たる女を思わせるということに対しては、条件をつけて考えねばならぬと思う。歌舞妓芝居に於ては、女形も女らしい女ではいけない。立役にしてからが、自体、世間普通の男とはどこか違った男である。そうした芝居の世界の男に相応した女でなければならず、現実の世界の女であってはならないのである。それだからこそ、松蔦のような女形では、そぐわないことになる訣である。梅幸なども時代が遅れていたからよいけれど、あれがもっと前だったら、素の美しさを感じ、舞台の男に調和する女の美しさが感じられなかったであろう。

 東京の女形は、明治以後、早くから女らしい美しい女形になった。亡くなった(筆者註:5世)歌右衛門が、小杉天外の「はつ姿」か「こぶし」かの女学生を演じて、舞台で上半身肌脱ぎになって化粧する場面を見せたなどは、芝居の方からは謂わば邪道である。歌右衛門がその天賦の麗質によほどの自信があったからでもあるが、それを又人々が喜んだのだった。思えば女形としては突拍子もないことであるが、歌右衛門はこのように、素に持っていた美しさを、芸と一所くたにして見せた。この点、彼は実に錯覚を起させた役者である。彼は余りに美しく、己もその美しさに非常な自信を持って居り、その自信の重さが、彼の芸の重々しい質を作ったので、一つは晩年体も次第に利かなくなったことにもよるが、とにかく動きの少い役をする事になった。だから歌右衛門という役者は、死ぬまで本道に上手下手がわからずにすんだと思う。梅幸も美しい女形であって、その唯一つの欠点は下唇の突き出ている事だけだが、これが又一つの彼の舞台美でもあったのである。つまり醜のある強調から生ずる美である。こうして美しい東京の女形は、女優にだんだん近いものになってしまった。

 だが大阪には今に、きたない女形がいる。近代の大阪の女形で一番美しいのは、何といっても今の中村梅玉であろう。(中略)

 これほど美しい女形は大阪にはない。もと成太郎といって、沢村源之助の四十年代の芝居によく女形をした中村魁車になると、素顔はそれほどでないが、舞台顔は今でもよい。併しこれ以外に近代の大阪に美しい女形はない。この梅玉・魁車、更にさかのぼって雀右衛門あたり以上に古くなると美しい女形というものはまるで見当らない。私の見た時代は女形凋落時代で、大概みんな化け猫女形ばかりであった。又歌舞妓芝居には、見物にとって舞台に出て来る役者は、一種の記号のようなもので、美しい顔をしていようが汚い顔していようが、ともかく舞台で役者が動いていればよいので、あとは見物がめいめい勝手に幻想のようなもので、いろいろに芝居を作ってしまうようなところがある。》

 

 いみじくも折口信夫が指摘したように女形は、「現実の女であってはならない」「一種の記号のようなもの」「幻想のようなもの」であることを慧眼なロラン・バルトも見抜いた。

 バルト『記号の国(表徴の帝国)』の文楽についての論考はよく知られるところだが、女形についても短いながら本質をついた批評を残している。それはバルトが、学生時代にギリシャ演劇グループで活動し、長じてはブレヒト劇を論じ、かの『ラシーヌ論』で歴史に残る論争を引き起こした劇評家でもあったことから来たものに違いない。

『記号の国』の女形の写真のキャプションにはこうある。

《東洋の女装男優は、「女性」を模倣するのではなく、記号化する。》

「書かれた顔」という章では、次のように書いている。

《歌舞伎の女形は(女性の役は男性によって演じられる)、女装した少年が微妙なニュアンスや、真実らしい外観や、犠牲をはらっての偽装などを駆使して演じるのではない。女形とは純然たるシニフィアンであり、その下にあるもの(・・・・・・・・)(真実)は秘されておらず(用心ぶかく隠されているのではなく)、ひそかに示されているのでもない(西欧の女装男優が、豊満な胸のブロンド女に扮しても、その下品な手や大きな足によって、女性ホルモンによる胸ではないことをかならず露見させてしまうようなときに、実体の男性的な特徴にたいして道化的な目くばせがなされるのだが)。真実はただ不在化されている(・・・・・・・・)のである。俳優は、その顔において女性をよそおっているのではなく、まねているのでもなく、ただ女性を意味しているだけだ。マラルメの言ったように、もしエクリチュールが「観念の身ぶり」から生みだされるのだとすれば、日本の女形とは女らしさの身ぶりなのであって、剽窃ではない。だから、五〇歳の男優(非常に高名で尊敬されている)が、恋をしておどおどしている若い女の役を演じるのを見ても、まったく驚くことではなくなる。つまり、目だった(・・・・)ことではないのである(西欧では信じられないことだ。女装男優それ自体がすでに、よく思われておらず、あまり許容されてもおらず、まったく反良識的な存在となっているからである)。なぜなら歌舞伎においては、女らしさとおなじように若さも、その真実を必死で追いもとめるべき自然な本質ではないのだった。規範の洗練やその正確さ――生体の類型(若い女性の現実の身体を思わせるもの)を模倣しつづけることにはいっさいかかわりない――は、女性的な現実すべてをシニフィアンの微妙な回折のなかに吸収して消し去ってしまうという効果――正しい結果――をもたらしている。「女性」は、意味されているが表現されておらず、ひとつの観念になっている(ひとつの性質ではない)。そのようなものとして、「女性」は、分類の戯れのなかへと、そして純然たる差異という真実のなかへと帰着してゆく。西欧の女装男優はひとりの女性であろうとしているが、東洋の女形は「女性」の記号を組み合わせてゆくこと以外には何も求めていない。》

 ここには、「女形とは純然たるシニフィアン」であり、「日本の女形とは女らしさの身ぶりなのであって、剽窃ではない」、「女形は「女性」の記号を組み合わせてゆくこと以外には何も求めていない」といった「記号の国」日本らしい「女形」に悦び、愛した、バルトの姿が見てとれる。

 

<「第十章 怪猫(かいびょう)」>

 次の万菊の登場は「第十章 怪猫(かいびょう)」。喜久雄という《部屋子の弟子に三代目半二郎の名跡まで盗られて、失意のまま見世物小屋の芸人にまで落ちた元丹波屋の若旦那》俊介の復活劇を企む興行会社三友の社員竹野に同行しての、別府近郊の芝居小屋の場となる。

《幕が開き、小さな舞台で早速始まったのは、先日竹野が三朝温泉の小屋で見た『有馬の猫騒動』で、猫の飼主であるお藤の方をいじめる老女岩波たちの田舎芝居を見る万菊の顔が、みるみる苦痛に歪(ゆが)んでまいります。

 しばしご辛抱を、と祈るような竹野の思いとは裏腹に、この田舎芝居に酔客たちからの「千両役者! 後家殺し!」のふざけたかけ声。思わず竹野、「うるさい」と怒鳴りそうな気持ちを必死に抑えます。

 それでも稚拙な立ち回りが終わりますと、万菊も落ち着いてきまして、扇子で顔を扇(あお)ぎながら舞台を静かに見つめております。

 そしていよいよ、のちに化け猫と化す召使お仲が舞台に現れたときでございます。緩みきっていた客席の空気が、前回と同じようにまたピンと張り、小屋のなかの時間だけが止まったのでございます。(中略)

 テケテン、テケテン、テケテン。

 舞台では主人がなぶり殺しにした老女岩波への復讐が始まります。床をのたうち回る老女岩波を操る化け猫。しかしそこには踊りの基礎がなければできない、しっかりとした所作があるのでございます。

 舞台をみつめる万菊の大きな手が、化け猫の舞をなぞるように動き出したのはそのときで、まるで万菊までが何かに憑かれたように、客席で手をふり、首を傾(かし)げ、ときに周囲を睨み、一心不乱に踊っているのでございます。

 舞台の俊介、そして客席の万菊。この二人の共演に気づいているのは自分だけ、そう思った瞬間、竹野の体には寒気がするほどの鳥肌が立つのでございます。

 客たちの意識を根こそぎさらっていくような迫力の芝居が終わり、幕がおりた直後であります。静まり返っていた客席に、とつぜん火がついたような拍手。たった今、自分が目にしたものを理解できず、誰もがその場でさまよっているのでございます。

 鳴り止(や)まぬ拍手のなか、竹野は万菊の元へ駆け寄りまして外へと連れ出しますと、どうでしたかと問うのも無粋極まりなく、黙ってその顔を見つめれば、万菊も黙って頷(うなず)きます。

「楽屋へまいりましょう」

 まだ小屋のなかで鳴り響いている拍手が、古い温泉街の路地に漏れております。

 裏口に回って声をかけますと、楽屋なら奥です、と一座の若い衆が案内してくれます。廊下の壁にずらりと並んでおりますのは、この地を訪れた人気ストリッパーたちの写真でございます。

 廊下の奥、土間の先に小上がりがありまして、数人の役者たちがこちらに背を向けて鏡台に向かっております。

 その一人、汗だくの背中を裸電球に照らされているのが紛れもない俊介で、

「すいません」

 声をかけた竹野に振り向いた途端、その目が万菊の姿を捉えたのでございます。

 その俊介の目は、万菊ではなく、その先にいる誰かを見ているようでありました。そしてとても長い沈黙が伸びたのでございます。

 まず口を開いたのは万菊でした。

「このあたしが丹波屋のお兄さんに代わって、まずは礼を言わせてもらいますよ。ほんとにあなた、生きててくれてありがとう」

 小上がりにそっと揃えらえた万菊の指を、俊介はじっと見つめております。

「……今の舞台、しっかり見せてもらいましたよ。……あなた、歌舞伎が憎くて憎くて仕方ないんでしょ」

 一瞬、俊介の視線が揺れます。

「……でも、それでいいの。それでもやるの。それでも毎日舞台に立つのがあたしたち役者なんでしょうよ」

 これほど熱のこもった万菊の震えた声を、竹野は初めて聞いたのでございます。》

 

 かくして俊介は明治座の『加賀見山旧錦絵(かがみやまこきょうのにしきえ)』の中老尾上(おのえ)に抜擢され、万菊が脇に回った岩藤(いわふじ)で復帰することになる。

しばらく経って俊介が喜久雄のいる劇場を訪ねてきたのは、上の稽古場で万菊に直接稽古をつけてもらう約束があるとのことで、直接稽古をつけてもらえる俊介を羨んでいる自分に気づく。

《喜久雄が足音を忍ばせるように廊下を進めば、地方(じかた)の三味線が奏でているのは『娘道成寺(むすめどうじょうじ)』、遠い昔、この演目を俊介と演じ、喝采を浴びたころのことが鮮明に浮かんでまいります。

「ちょっとあなた、そう動かすから粗く見えるんですよ。いいかい、こうやってチョン、こう回ってチョン。ほら、見てごらんなさいな。踊っているあいだ、あなたの袖口(そでぐち)は落ちて腕が丸見えだけど、あたしの袖口は手首に吸いついてるみたいだろ」

 再び地方の三味線が鳴りまして、万菊の指導通りに踊る俊介の袖口が今度はしっかりと手首に吸いつきます。

「……いいかい、これだって技術じゃあないんですよ。若い娘になりきってれば、二の腕を晒すなんて恥ずかしくってできゃしないんだからね。踊っててそうなるってことは、そりゃあなたが娘になっていないってことですよ」》

 歌右衛門が実際に「そりゃあなたが娘になっていないってことですよ」と指導したかどうかはわからないが、『娘道成寺』に関する歌右衛門の「一人の女」というよく知られた言葉、解釈がある。

 渡辺保歌右衛門 名残りの花』、関容子『歌右衛門 合せ鏡』などに記述があるが、後者から引用しよう。

歌右衛門 合せ鏡』の「芝居の話 役々のこと」のなかで、『道成寺』の話になった。道成寺の後見の逸話、引き抜きについて、成駒屋型の後(のち)ジテの鐘入りの般若隈の難しさ、「いわゆる妖怪変化じゃなくて、女が嫉妬するとこういう顔になりますよ、ということを表わしているわけなのよね。どこまでも一人の女の物語として、ずうっと通して踊るわけですよね」を受けて、

成駒屋が「一人の女」ということを強調しているのにはわけがあった。先ごろ渡辺保さんとの対談(「歌舞伎」)で、〽恋の手習い……以下のクドキの文句が、娘、遊女、人妻と三人の女になっている、という佐々醒雪の説の話が出て、

「そりゃあ、学者が歌詞を解釈してあれこれ考えるのはいいんだけれども、踊るほうの心持はあくまでも一人の娘、でなけりゃあ踊れません。何しろ、あなた、娘道成寺なんだからね、って渡辺さんに申しましたのよ」

 ということだった。

 醒雪は、〽誓紙さへ偽りか……と誓紙をかわすのは遊女、〽ふっつり悋気せまいぞ……とたしなむ……のは人妻、という解釈をしているのだが、

「娘だってあなた、遊女の真似っこして、誓紙交わしっこしたりするかもしれないし、別に女房じゃなくたって焼餅くらい焼くんだからね」》

 すぐ続いて、渡辺保の『国宝』書評の《最初に違和感を感じたのは、主人公の立花喜久雄が芸名花井半二郎になって、その目標とも仰ぐ名女形小野川万菊が「加賀見山」の岩藤と「二人道成寺」を踊るところ。小説だからなんでもいいだろうが、「道成寺」の後に「加賀見山」が上演されることになっている。私がこの上演順になぜ違和感を感じたかというと、この二本を上演する場合は順序が逆だからである。時代物の義太夫狂言が先へきて踊りが最後に来るというバランスのせいもあるが、もっと大事なのは、小野川万菊が悪女の岩藤で殺された後に、キレイになって「道成寺」を踊ってこそ女形の色気があり、観客も喜ぶ。そうでないと万菊自身も観客も後味が悪いのである。》と似たような逸話が出てくる。

成駒屋玉三郎に『先代萩』の政岡を教えることになり、それを聞いた勘九郎(筆者註:18代目勘三郎勘九郎時代)さんが、「俺、八汐に出ても政岡を教えるところに一緒に行ってみたいな」と呟いたことを、ある日成駒屋にそっと話してみると、

「そんなずるっこしいこと考えちゃいけないよぅ」

 と厳しく言われた。そのまま引き退っては勘九郎さんのためによくないと思い、そうでしょうか、もし私が女優だったら、尊敬する大女優がお稽古をつけるところを群衆の一人にでも志願して見ていたいという気になると思います、勘九郎さんは、純粋な気持だと思います……と、口答えをした。

 すると成駒屋は「フーン」と笑って、

「たしかあの子は『先代萩』のあとで『娘道成寺』を踊るんじゃなかった? 花子の前に悪人の八汐で出ちゃあ御見物の感じがよくないから、そのうち政岡をちゃんと教えてあげるよ」

 と言ってくださったのだが、役者はその役がつかなければ教わりに行くことができないものだから、ついにその機会はなかった。》

 

<「第十章 悪の華」>

「第十章 悪の華」で、復帰する俊介(芸名花井半弥)が小野川万菊と共に『二人道成寺(ににんどうじょうじ)』を舞う明治座初日。万菊が出て行ったばかりの花道の出入り口である鳥屋(とや)へ向かった喜久雄は、舞台を一望できる覗き窓に顔を寄せた。

《〽 しどけなり振り アア、恥ずかしや

 〽 さりとては さりとては

 鳴り止(や)まぬ万菊への拍手のなか、花道には同じく白拍子花子に扮した俊介を載せたセリが浮き上がってきたところ、丹波屋本流の登場を十年も待ちわびた人々の拍手とかけ声が、万菊へのそれを超えて響きます。

〽 恋をする身は 浜辺の千鳥

 夜毎夜毎に 袖絞(そでしぼ)る しょんがえ

 万菊と並び立った俊介の美しさ、扇子をくわえるそのしどけなさ、また広げた懐紙を手鏡に見立てて髪を整えるその色香、何もかもが、十年前に同じ演目で共演した俊介とは明らかに違っております。(中略)

 その上、共演しているのは稀代(きたい)の立女形(たておんながた)の小野川万菊、若い俊介を自由に躍らせているように見えて、肝心の見せ場では、わざと調子を崩すような動きを見せて、客たちの視線をすべて自分のほうに向けます。

 またその少し崩した型の美しいこと、悩ましいこと。

 それを目の当たりにした俊介の動きにもさすがに焦りが見え隠れ、しかしその焦りを、可憐な嫉妬を抱く乙女のような指先の震えに変えてみせるのでございますから見事。》

 

 渡辺保歌右衛門 名残りの花』には、渡辺が『国宝』で違和感を抱いた大事なこと、《女形は型(演出)によって女になる。修業を重ねて型を身体化する。型は身体に生きてほとんど無意識になる。無心。無心になった女形は、その身体からも、芸からも、型からも、役からも、自分自身の人生からさえも解放されて自由になる。たとえば晩年の歌右衛門はほとんど無意識に芝居を運んでいるように見えて、その自由さによって一つの濃密な世界を作って現実を越えた。》についてさらに理解を届ける文章が吉田千秋の舞台写真とともにある。

白拍子花子(しらびょうしはなこ) 京鹿子娘二人道成寺(きょうがのこむすめににんどうじょうじ)」の項の「黒の振袖」では無意識、無心について。

《花道の暗闇に歌右衛門の花子の姿がうかんでいる。三枚ともに「道行」のなかでは有名なポーズ。右が「あじな娘と」、中が「笑わば笑え」。左が「田の面(も)に落つる雁の声」である。

 こうしてみると黒地に金銀色糸の枝垂れ桜に霞の縫取り(刺繍)の衣裳が歌右衛門に実によく似合っているのがわかる。

 本来「道行」は、のちの乱拍子と同じ赤の振袖で踊るのが本当である。「道行」を黒地に変わり模様(散り桜と花駒と二通り)の振袖にしたのは六代目菊五郎らしい。梅幸は散り桜であった。

 歌右衛門も私の見た限り二回、赤で踊っている。一度は、昭和二十五年(一九五〇)年六月の東劇ではじめて「道行」を踊ったとき、もう一度は昭和三十年六月新橋演舞場歌舞伎座梅幸と競演になったとき。この二回の赤は、古風で、目の醒めるような美しさであった。まるで江戸の娘を描いた錦絵を見るような、はなやかさであった。

 それから幾星霜。この写真を見ると、この黒地を歌右衛門が自分のものにしていることがわかる。姿がうき立っているのは、一つは歌右衛門が振袖の模様を、散り桜から赤と同じ枝垂れ桜に霞の模様にした工夫による。しかしもう一つは歌右衛門が大きく成熟して、芸がかわり、衣裳をおのれの身体の一部にしたからである。

 しかも、よく見ると三枚ともスーッと自然にきまっていて、身体のどこにも力が入っていない。それでいて見る者に強い印象を与える。

 昔の写真と比べれば一目瞭然としているが、昔は力が入っていて、こんなに軽くない。形を気にしている意識が露骨に出ていて、形そのもののためにきまっている。ところが、この三枚は、いずれもフワッときまっていて透明無比、きまりであることさえも忘れる。無心に踊っていて、それが自然にいい形になる。形をきめるのでなく、おのずから形になる。無意識のうちに形ができて五分のスキもなく「絵」になっている。

 この無心が歌右衛門最後の「娘道成寺」の心境だった。》

 そして「玉手御前(たまてごぜん) 摂州合邦辻(せっしゅうがっぽうがつじ)」の項の「芸の風格」では、《一つの濃密な世界を作って現実を越えた》、行き着くところまで行き着いた余裕、自然さ、自由について。

《今にも降りかかる、大輪の牡丹の艶やかさである。

 円熟した歌右衛門晩年の玉手御前の魅力が、この一枚の写真に余すところなく写っている。艶やかな丸髷、目の鋭さ、小さな口もとの色気、ちぎられた襦袢の赤い疋田(ひった)の片袖、不安定に傾けた体と左手、右手の頭巾に添う指先の繊細さ。そういうものが全て一つに溶け合って、その情感、その持ち味、そしてなによりもその芸の風格が見事である。

 しかし、よく見ると目もとの鋭さに表れているように、彼女は闘っているのがわかる。父合邦とも母おとくとも、いや息子俊徳丸への恋を非難する世間全体と闘っている。この画面にあふれる身体の緊張感はそこから生まれる。しかし闘っているのは玉手御前だけではない。歌右衛門もまた闘っている。女形という特異な仕事に対する社会の無理解、老いてなお若い女を演じることへの社会の無理解。歌右衛門は自分の存在を賭けて闘っている。その闘いのために歌右衛門は、いま、身を起そうとしているのだ。

 しかしこの円熟した美しさにはもう一つ、正反対の意味もある。すなわち行き着くところまで行き着いた余裕。指先も、左手も、ほとんど無意識に動いている。その無意識な姿に玉手という女の全てが語り尽くされている。玉手ばかりではない。歌右衛門の全てが語られている。しとやかで、艶やかで、しかもどこか鋭く、孤独になにかに向っている。大名の奥方の気品、匂うような気高さと、全く正反対なはしたないほどのエロティシズム。真っ盛りでありながら、いまにも崩れそうなものが滲んでいる。極彩色の大胆さとおさえた地味な色彩、繊細さと力強さ、人工と自然。そういう正反対なものが渾然一体となって、ここにある。

 そういうことがおこるのは、これがどこまでも人工的な技巧を重ねたつくりものでありながら、その一方でつくっても決して出来ぬものに到達しているからである。

 歌右衛門は人生最後の瞬間にその自然さに到達した。ここには邪恋に狂い、社会と闘う姿とはまるで関係のない女の、艶やかな内面の味がある。私がそういうものを見たのは、歌右衛門の最晩年だった。すなわちこの写真のときと、この後半年後に演じた京都南座の顔見世のときだけだった。

 そこには物語からも、歌右衛門の人生からもはなれて、一人の女がいて、幸せな光明に包まれている。芸に風格が出来たのである。

 風格はつくって出来るものではない。おのずから成る。風格とはそういうものだろう。》

 

<「第十六章 巨星墜つ」>

 ドヤ街の安旅館での人知れぬ死の不自然な描写については、最後の数ヵ月ほどに交流のあった者から伝わってきた「ここにゃ美しいもんが一つもないだろ。妙に落ち着くんだよ。なんだか、ほっとすんのよ。もういいんだよって、誰かに、やっと言ってもらえたみたいでさ」などという声など、《こればかりは本人が誰にも語らずに亡くなっているため、藪のなかなのでございます》と言訳されても、これまでの万菊の言動や振舞いからは、番町の高級マンションで風呂にも入らなくなった万菊がゴミのなかで暮していたとか、狐につままれたようである。もちろん、奇怪な死を迎えた歌舞伎役者は空襲、殺人事件、自死など幾人もいるが、『歌右衛門合せ鏡』に描かれた歌右衛門の最後の情景こそが、万菊にもふさわしい。あえて言えば、「第十九章 錦鯉」で《今日の舞台での縄に繋がれた雪姫の姿など、それがそのまま水槽の錦鯉となった喜久雄にも重なって、ならばこそ「できることなら、ここから逃がしてやりたい」という雪姫への思いは、知らず知らずのうちに喜久雄本人へも向けられていたのかもしれません》とばかりに見るも忍びなく、竹野を「ありゃ、正気の人間の目じゃねえよ……。なあ、いつから……」と驚かせた三代目半二郎こと喜久雄ならば「いつまでも舞台に立っていてえんだよ。幕を下ろさないでほしいんだ」とは言ったものの、まだわかろうというものだが……。

 

 渡辺は《しかし歌右衛門の自由さは、芸によって得られた舞台の上の自由である。女形たちの死に場所は舞台にしかなく、舞台以外のところでの自由とは本質的に違うのではないだろうか。その自由さは精神的なものであって、だれの目にも明らかなほど分りやすくはない。》と評したが、《だれの目にも明らかなほど分りやすくはない。》という点において、吉田『国宝』は新聞連載ということもあってか、読者に分かりやすくしようと作為している。

 一方、次に見てゆく三島『女方』は、分りにくいことを分りやすくせず、分りにくいままに書けている。登場する万菊は最初から最後まで、《その自由さは精神的なものであって、だれの目にも明らかなほど分りやすくはない。》 そこに吉田とは比べようのない、三島の幼いころから骨身に染みついた歌舞伎理解と文学的深さを感じずにはいられない。

 

 しかし、『国宝』は「本作を読みおえたとき、小説を読了したのではなく、通し狂言の序幕から大切りまでを見終えたような気分になったのは、私ばかりではあるまい。歌舞伎の情熱と絢爛は、小説として再成されたのである」(「中央公論文芸賞浅田次郎選評)という悦びにおいては三島『女方』の辛気臭さとは比べものにならない。

 また「多くの役者の印象を撹拌して、いかにもそれらしい俳優を次々と作り出した」(同前)には、二代目中村鴈治郎、二代目中村扇雀、(ほぼ盲目となった)十三代目仁左衛門、六代目中村歌右衛門、(映画帰りの)中村雀右衛門中村富十郎坂東玉三郎尾上菊五郎劇団、(両足切断した)澤村田之助などあれこれ思い浮かぶから歌舞伎好きには堪らない。

 とりわけ、いわゆる「芸道物」として魅力的だ。

 渡辺が指摘した《長崎のヤクザの息子立花喜久雄が、不思議な運命の廻り合わせで歌舞伎の女形になり、ついに「人間国宝」に指定される名優になるまで。その苦難に満ちた人生の物語である。歌舞伎の幕内、人気役者の周囲、そして芸の苦労がよく調べてあって赤裸々に書かれている。なかでも出色なのは喜久雄の母マツと師匠四代目花井百虎の夫人幸子の二人である。(中略)次々と起こる事件、サスペンスのなかでもこの人間描写が的確である。》に加えて、喜久雄だけでなく俊介との「それぞれ魅力的な二人」「どこにでもいそうで、どこにもいない歌舞伎役者」(「中央公論文芸賞林真理子選評)の主役を作りあげることで物語の色彩豊かな絹糸を撚りあげた。

さらには、はじめ喜久雄の幼馴染の同棲相手でありながら、失踪する俊介を支えて梨園の妻となった春江も、「「芸道物化」の鍵となるのは女性である」(木下千花溝口健二論 映画の美学と政治学』「第5章 芸道物考」)からには忘れてはならず、「第二十章 国宝」で、錦鯉みたいな喜久雄に言及した竹野に、「竹野さん、何を今さらやわ。この世界に何年おんの? うちはな、もう体の芯から役者の女房やわ。旦那が光熱やろうと、両足失おうと、……たとえ気ぃふれたとしても、その背中、泣きながらでも押して舞台に立たせます。ひどい話や。ひどい女房や。せやけど、それでも役者には舞台で拍手浴びてほしいねん」と気丈な言葉で応えた春江だった。

 そこには溝口健二監督の芸道物の傑作『残菊物語』の世界がある。現に、吉田自身が(「歌舞伎の黒衣経験を血肉に、冒険し続けた4年間 吉田修一さん新刊「国宝」1万字インタビュー」(朝日新聞「好書好日」2018年9月8日)次のように答えている。

《――それにしても、どうして歌舞伎を描こうと思ったんでしょう。

吉田 最初のきっかけは、仲のいい映画監督と歌舞伎の話になったことでした。数年後に朝日でまた連載をやることになっていて『悪人』からちょうど10年ぶりの作品になるから、何かスケールの大きいものを描きたいというのがあって、まったく自分が知らないところに飛び込んで、これまでとは違うものを描きたいとなんとなく思っていたところに、歌舞伎っていうのがピタッとハマったんですよね。決定打になったのは、それからしばらくして溝口健二の『残菊物語』を観たんです。『残菊物語』は、『国宝』の俊介と同じで、一度は落ちぶれた歌舞伎役者が旅回りをして復活する話なんですけど、その時に踊って見せるのが『積恋雪関扉』で「スゴイ!」と思って、あれでヤラれちゃいましたね。花魁かんざしをいっぱいつけた墨染が、くっくっくっと首を人形みたいに動かして踊るのを観た時に、何だろう、これはと惹きつけられた。その時の自分は歌舞伎がどういうものかもわからない今以上のド素人だったけれど、一流の踊りっていうのは、こういうものかと思わせるものがあったんです。だから入り口は、実は映画でした。

――それで『国宝』でも、喜久雄が初めて登場するシーンに『積恋雪関扉』を選んだんですね。侠客たちの新年会の席で墨染を堂々と演じてのける14歳の美少年。不世出の女形の片鱗を感じさせる印象的な場面です。

吉田 そうですね。あれはもう、本当に『残菊物語』が自分が歌舞伎に感銘を受けたスタートだったからそうしたんですけど、作家としても、あそこで生まれて初めて歌舞伎の舞台というものを描写するわけですよ。そのプレッシャーたるや相当なもので、どうすれば歌舞伎っぽく見えるのかって本当に何度も描き直しをしました。》

 

 

 

三島由紀夫女方』>

 

<「幻滅と嫉妬と破滅」/「美とナルシシスムと悪」>

《雪はコンクリートの暗い塀を背に、見えるか見えぬかといふほどふつてゐて、二三の雪片が樂屋口の三和土(たたき)の上に舞つた。

「それぢやあ」と万菊は増山に會釋をした。微笑してゐる口もとが仄かに襟巻のかげに見えた。

「いいのよ。傘は私がさしてゆくから。それより運轉手に早くさう言つて頂戴」

 万菊は弟子にさう言ひつけて、自分でさした傘を、川崎の上へさしかけた。川崎の外套の背と、万菊のモヂリの背が、傘の下に並んだとき、傘からは、たちまち幾片(いくひら)の淡雪が、はねるやうに飛んだ。

 見送つてゐる増山は、自分の心の中にも、黒い大きな濡れた洋傘が、音を立ててひらかれるのを感じた。少年時代から万菊の舞臺にゑがき、幕内(まくうち)の人となつてからも崩れることのなかつた幻影が、この瞬間、落した繊細な玻璃(はり)のやうに、崩れ去つて四散するのが感じられた。『俺はやつとここまで來て幻滅を知つたのだから、もう芝居はやめてもいい』と彼は思つた。

 しかし幻滅と同時に、彼はあらたに、嫉妬に襲はれてゐる自分を知つた。その感情がどこへ向つて自分を連れてゆくのかを増山は怖れた。》

 

女方』の末尾である。この場面は『女方』第一章と照応するだろう。

《「妹背山」の御殿で、万菊の扮するお三輪が、戀人の求女(もとめ)を橘姫に奪はれ、官女たちにさんざんなぶられた末、嫉妬と怒りに狂はんばかりになつて花道にかかる。と、舞臺の奥で、「三國一の聟取り済ました。シャンシャンシャン。お目出たう存じまする」といふ官女たちの聲がする。床(ゆか)の浄瑠璃が「お三輪はきつと見返りて」と力強く語る。「あれを聞いては」とお三輪が見返る。いよいよお三輪が、人格を一變して、いはゆる疑着(ぎちやく)の相をあらはす件(くだ)りである。

 ここを見るたびに、増山は一種の戦慄を感じた。明るい大舞臺と、きらびやかな金殿(きんでん)の大道具と、美しい衣裳と、これを見守る數千の觀客との上を、一瞬、魔的な影がよぎる。それはあきらかに万菊の肉體から發してゐる力だが、同時に万菊の肉體を超えてゐる力でもある。彼のしなやかさ、たをやかさ、優雅、繊細、その他もろもろの女性的な諸力を具へた舞臺姿から、かうしたとき、増山は、暗い泉のやうなものの迸(ほとばし)るのを感じる。それが何であるかはわからない。舞臺俳優の魅力の最後のものであるあの不可思議な惡、人をまどはし一瞬の美の中へ溺れさせるあの優美な惡、それがその泉の正體だと増山は思ふことがある。しかしさう名付けても、それだけでは何も説き明かされない。

 お三輪は髪を振りみだす。彼女のかへつてゆく本舞臺には、彼女を殺すべき鱶七の刃が待つている。

「奧は豊かに音樂の、調子も秋の哀れなり」

 お三輪が自分の破局へむかつて進んでゆくあの足取には、同じやうに戦慄的なものがあつた。死と破滅へむかつて、裾をみだして駈けてゆく白い素足は、今自分を推し進めてゐる激情が、舞臺のどの時、どの地點でをはるかを、正確に知つてゐて、嫉妬の苦しみのなかで欣び勇みながら、そこへ向つて馳せ寄るやうに思はれた。そこでは苦悩と歡喜とが豪奢な西陣織の、暗い金絲の表と、明るい絲のあつまる裏面とのやうに、表裏をなしてゐたのである。》

 

 両者に共鳴する「幻滅と嫉妬と破滅」は、「美とナルシシスムと悪」という三つの要素の複合体と表裏を織りなす三島文学のエッセンスに違いない。

 

 昭和24年に『中村芝翫(しかん)論』を書きあげていた二十四歳の三島由紀夫(大正14年(1925年)1月14日生まれの三島由紀夫は、「昭和」とともに歩んだ人だった。なぜなら、翌大正15年は12月25日をもって昭和元年となり、正月を迎えるとすぐに昭和2年になったから、昭和の年数を数えること、それは三島の年齢を数えることに等しかった、少なくとも昭和45年までは)が、はじめて成駒屋本人に逢ったのは、昭和26年4月六世中村歌右衛門襲名の半年後の11月と遅かった。

 

<六世中村歌右衛門三島由紀夫対談>

『マクアイ・リレー対談――中村歌右衛門氏・三島由紀夫氏対談』(「幕間」昭和33年5月)というのがあって、三島の短編小説『女方』の複雑な感情の理解となる。

《 「お軽の扮装で初対面」

司会 先生の歌右衛門贔屓(びいき)というのは、有名ですけれども、いつ頃から。

三島 とにかく楽屋に伺うようになる前が随分長いんですよ。それで僕が芝居を初めて観たというのは、中学に入った十三の年なんです。羽左衛門(うざえもん)と六代目(菊五郎)の「忠臣蔵」の時。小学校の間は、芝居を観ると教育に悪いというので、観せてくれなかった。それで初めは俳優さんの名前もよく知らないし、歌右衛門さんのことも、余り印象に残っていないのですが、その後、例えば「鏡獅子」の“胡蝶”に梅幸さんと一緒に出ていらしたのなどは、拝見しているわけですよ。それでだんだん贔屓が出来て、いろいろ踊りの役なんかで、きれいだなと思っていた。いつから本当にファンになったのかしらね。やっぱり戦争が済んだ後の、東劇の「千本」(義経千本桜)の道行(みちゆき)かもしれないな。

歌右衛門 高麗屋さんの時ですか。

三島 そうそう、高麗屋さんの忠信(ただのぶ)でね。他には「寺子屋」とか、吉右衛門の「佐倉宗五郎」が出たでしょう、あの時の道行は一番決定的でしょうね。時代が転換して、本当に新らしい時代になって、みんなが華やかなものに憧れていた時に、パッと出たという感じがしたのが、あの道行の静(しずか)でしょうね。それからはもっぱら成駒屋さんを観に行くというふうにしていて、僕は初めは楽屋には絶対行かない、といっていたのですよ。舞台のイメージだけでね。そのうちにある時「文芸」という雑誌が「成駒屋さんに会ってくれ」「それなら扮装したところでお目に掛かりましょう」といって、道行のお軽の紫の矢絣(やがすり)着て、かつら付けたところに行って、歌右衛門さんと握手したかなんかだったな。

司会 いつ頃ですか。

三島 襲名してからですね。「新歌右衛門丈と会う」ということだったから……。それまで盛んにワイワイ観ていたのが、三越劇場時代です。それからだんだん親しくしてもらって、「地獄変」なんか書いたでしょう。「鰯売(いわしうり)」とかね。僕としてはあくまでファンの気持でというのが建前で、楽屋に行っても、ためにするために楽屋に行きたいとは思わないな。いわゆる劇作家としてでなく、全くファンの気持で部屋にも行かしてもらったし、友達にもしてもらう、将来もその気持で付合いたいのです。

司会 先生はやっぱり舞台のイメージを壊したくないという……。

三島 そういう気持だったのですがね。というより、歌舞伎の楽屋というものに、世間の人が持つような恐怖心があったから。つまりどういう不思議なところか、どういう特殊なところか、とても恐いような気がしていたのです。成駒屋さんに限って、そういうイメージが裏切られるということはなかった、と思っていますがね。僕が「中村芝翫(しかん)論」を書いたのは、なんという雑誌だったかな、今は勿論ない雑誌だけれども、あんたの芝翫時代でしたね。》

 

 中村歌右衛門は大正6年(1917年)1月20日生まれなので、三島の八歳年上であるにも関わらず、この昭和33年の対談時には、三島が歌右衛門を「あんた」と呼ぶ関係になっている(歌右衛門が三島を「先生」と呼んでいるのは歌舞伎台本を書き、演出していたからであろう)。

「お軽の扮装で初対面」のあと、小説『女方』の演出の場面を連想させる「大時代な本読み」があり、「鏡花作品は楽しみ」「武智鉄二の仕事」「愛着は「大内実記」に」、そして女形の魅力について二人の意見が一致する「女と女形」があって、「飽くまでファンの立場」と対談は続く。

 出会いをお膳立てした「文芸」に発表した短文『新歌右衛門丈のこと』(「文芸」昭和27年1月)を読むことができる。

《日ごろさしもの鉄面皮の僕が、歌右衛門丈の前に出て初対面の挨拶をすると、体は固く、言葉は自在を欠くやうに思はれた。僕は丈の年来のひいきであり、時花(はやり)言葉でいふと、一辺倒のファンである。今まで何度か人に丈の楽屋へ誘はれたことがあるが、その舞台上の幻影がほんのわずかでも崩れるのがおそろしさに、つい対面の折を逸して来た。今度は扮装のままといふことだつたので、やうやく丈を訪ねる勇気が出たのである。

 さう言ふと、ばかに勿体(もつたい)ぶつてゐるやうにきこえるが、僕は丈の雪姫や八重垣姫や墨染を、この世ならぬ美、歌舞伎の妖精(えうせい)だと考へつゞけてゐたかつたのである。

 逢つてみる。決して幻影は崩れない。

 それから五日たつた。却(かへ)つて幻影は鞏固(きようこ)になり、正確になつた。僕があの短かい逢瀬のあひだ、失礼ながら丈の内部に想像したものは、今は滅びた壮大な感情のかずかず、婦徳や嫉妬や犠牲や懊悩や怨恨の、今の世に見られない壮麗な悲劇的情熱のかずかずであつた。》

 どこにでもいる世間のファンの気持が汲みとれるが、にも拘らず三島は「決して幻影は崩れない」と「壮麗な悲劇的情熱」の二つともを卑俗に否定した複雑な感情を題材に『女方』を仕立てあげたというわけだ。

 

 三島の『女方』執筆前後の、歌右衛門をめぐる歌舞伎関連を年譜で整理すれば、芝翫歌右衛門)論を発表後、楽屋で初対面、その後は松竹の依頼を受けて歌右衛門に当てたいくつかの歌舞伎を書き、演出もし、舞台上演している。

中村芝翫論』(昭和24年、「季刊 劇場」)。

『新歌右衛門のこと』(昭和26年4月、「六世中村歌右衛門襲名 歌舞伎座プログラム」)。

歌舞伎座楽屋で初対面(昭和26年11月、「忠臣蔵 道行」お軽の扮装のままの歌右衛門と)

地獄変』(昭和28年12月、歌舞伎座)。

『鰯売恋曳網(いわしうりこいのひきあみ)』(昭和29年11月、歌舞伎座)。

『熊野(ゆや)』(昭和30年2月、歌舞伎座)。

『芙蓉露大内実記(ふようのつゆおおうちじつき)』(昭和30年11月、歌舞伎座)。

小説『女方』(昭和32年1月、「世界」)。

『むすめごのみ帯取池(おびとりのいけ)』(昭和33年11月、歌舞伎座)。

豪華本写真集『六世中村歌右衛門三島由紀夫編、『六世中村歌右衛門序説』所収(昭和34年9月、講談社)。

四世鶴屋南北作『桜姫東文章(さくらひめあずまぶんしよう)』の復活台本監修(昭和34年11月、歌舞伎座)、歌右衛門の桜姫。

 最後の歌舞伎作品『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』(昭和44年11月、国立劇場)は歌右衛門のためではなかった。

 

<小説『女方』>

女方』は、「世界」昭和32年1月の初出で、翌昭和33年に、『橋づくし』『施餓鬼舟』『急停車』『博覧』『十九歳』『女方』『貴顕』の六編からなる短編集『橋づくし』として刊行された。

「あとがき」には、三島らしく韜晦の滲む注文がある。《「女方」は俳優の分析であり、「貴顯」は藝術(げいじゆつ)愛好家の分析である。前者の主人公は女性的なディオニュソスであり、後者の主人公は衰退せるアポロンである。この二篇はいはば對(つい)をなしてをり、一雙(さう)の作品として讀(よ)まれることを希望する。》 

 昭和43年の文庫自選短編集『花ざかりの森・憂国』では、著者「解題」として、《『女方』に扱った役者の世界の、壮大な卑俗と自分本位》とアイロニカルなコメントを残している。別の文庫自選短編集『真夏の死』に収められた『貴顕』については、《歴然たるモデルがあり、作中に明示しているように、私の少年時代の思い出のモデルを、できるかぎり抽象化して、ウォルター・ペイターのイマジナリイ・ポートレイトの技法に倣って、描き出そうとした短編である》としているが、『女方』については「役者」のモデルについての言及はない。

 いったい、「役者」のモデルが六世中村歌右衛門であることがあからさまな『女方』はどういう作品なのだろうか。歌右衛門を想定して歌舞伎台本を書いていた三島が、いくら小説という文芸作品のなかとはいえ、揶揄したとしか思えない『女方』を発表した。しかし、それを歌右衛門が怒ったという徴候が、いくつかの対談(三島、歌右衛門、演劇人によるさまざまな対談)にあたっても見当たらないばかりか、そもそも『女方』という小説などどこにも存在しない幻であるかのように誰の口の端にも上らない。

 ここで、小説『女方』の筋立てを、なるべく原文を引用する形でみてゆく。というのは、『女方』の文体そのものが女形万菊の存在そのもの、肌触りだからである。

 そして、《だれの目にも明らかなほど分りやすくはない。》

 

(一)増山は佐野川万菊の藝に傾倒してゐる。國文科の學生が作者部屋の人になつたのも、元はといへば万菊の舞臺に魅せられたからである。高等學校の時分から増山は歌舞伎の虜(とりこ)になつた。佐野川万菊は今の世にめづらしい眞女方(まをんながた)である。花やかではあるが、陰濕であり、あらゆる線が繊細をきはめてゐる。力も、權勢も、忍耐も、膽力も、智勇も、強い抵抗も、女性的表現といふ一つの關門を通さずしては決して表現しない人である。ただやみくもに女を眞似ることで得られるものではない。たとへば「金閣寺」の雪姫などは、佐野川屋の當り役で、増山は一ト月興行に十日も通つた記憶があるが、何度重ねて見ても彼の陶酔はさめなかつた。佐野川屋の舞臺には、たしかに魔的な瞬間があつた。その美しい目はよく利いたので、花道から本舞臺を見込んだり、本舞臺から花道を見込んだり、あるひは「道成寺」でキッと鐘を見上げたりするときの目には、目づかひ一つで觀衆の全部に、情景が一變したかのやうな幻覺を起させることがよくあつた。「妹背山」の御殿で、万菊の扮するお三輪が、戀人の求女(もとめ)を橘姫に奪はれ、官女たちにさんざんなぶられた末、嫉妬と怒りに狂はんばかりになつて花道にかかる。いよいよお三輪が、人格を一變して、いはゆる疑着(ぎちやく)の相をあらはす件(くだ)りである。お三輪は髪を振りみだす。彼女のかへつてゆく本舞臺には、彼女を殺すべき鱶七の刃が待つている。死と破滅へむかつて、裾をみだして駈けてゆく白い素足は、今自分を推し進めてゐる激情が、舞臺のどの時、どの地點でをはるかを、正確に知つてゐて、嫉妬の苦しみのなかで欣び勇みながら、そこへ向つて馳せ寄るやうに思はれた。

 

(二)増山が作者部屋の人となつたのは、歌舞伎の、わけても万菊の魅惑に依ることは勿論だが、同時に、舞臺裏に通暁することなしには、この魅惑の縛しめからのがれられないと思つたためでもあつた。人ぎきに舞臺裏の幻滅をも知つてゐて、一方では、そこに身を沈めて、この身一つに本物の幻滅を味はひたいと思つたためでもあつた。しかし幻滅はなかなか訪れなかつた。舞臺の万菊に魅せられたのは、増山は男であるから、あくまで女性美に魅せられたのであることはまちがひない。が、この魅惑が、樂屋の姿をまざまざと見たのちも崩れないといふのはふしぎである。それは、それ自體としてグロテスクであるかもしれない。が、増山の感じた魅惑の正體、いはば魅惑の實質はそこにはなく、從つてそこでもつて彼の感じた魅惑が崩壊する危険はなかつた。舞臺の女方の役のほてりが、同じ假構の延長である日常の女らしさの中へ、徐々に融け消えてゆく汀のやうな時、その時、もし万菊の日常が男であつたら、汀は斷絶して、夢と現實とは一枚の殺風景なドアで仕切られることになつたであらう。假構の日常が假構の舞臺を支へてゐる。それこそ女方といふものだと増山は考へた。女方こそ、夢と現實との不倫の交はりから生れた子なのである。

 

(三)万菊が人にものをたのむときの、尤もそれは機嫌のよいときのことであるが、鏡臺から身を斜(はす)にふりむいて、につこりして軽く頭を下げるときの、何とも云へぬ色氣のある目もとは、この人のためなら犬馬(けんば)の勞をとりたいとまで、増山に思はせる瞬間があつた。さういふと万菊自身も、自分の權威を忘れず、とるべき一定の距離を忘れてゐないながらも、明瞭に自分の色氣を意識してゐた。これが女なら、女の全身の上に色氣の潤んだ目もとが加はるわけであるが、女方の色氣といふものは、或る瞬間の一點の仄(ほの)めきだけが、それだけ獨立して、女をひらめかせるものであつた。万菊は軽く會釋(ゑしやく)をして、弟子を連れて、先に廊下へ出て、増山のはうへ斜(はす)かひにふりむいて、につこりしながら、もう一度會釋をした。目尻に刷いた紅(べに)があでやかに見えた。増山が自分を好いてゐることを、万菊はよく承知してゐると増山は感じた。

 

(四)増山の属する劇團は、十一月、十二月、正月と、同じ劇場に居据ることになり、正月興行の演目が、早くから取沙汰された。その中に或る新劇作家の新作がとりあげられることになり、この作家は若さに似合はぬ見識家で、いろいろな條件を出し、増山は作家と俳優との間のみならず、劇場関係の重役との間をも、複雜な折衝を通じてつないでゆくことで多忙を極めた。劇作家の出した條件の一つに、彼の信頼してゐる新劇の或る若い有能な演出家に、演出を擔當させるといふ一條があり、重役もそれを呑んだ。新作は「とりかへばや物語」を典據にした平安朝物で現代語の脚本であつたが、重役はこの新作については奧役(おくやく)に委ねることをしないで、若い増山に一任すると言つた。演出家の川崎は定刻に遅れた。年若な俳優の多い新劇畑で育つたものは、素顔で並ぶと堂々たる貫禄の年輩の俳優ばかりの歌舞伎役者に、馴染んでゆくのが容易ではない。事實、打合せ會に並んだ大名題(おほなだい)の役者たちは、無言の、慇懃な態度で、どことはなしに川崎に對する軽侮の氣持を漂はせてゐた。万菊は、矜(ほこ)りを秘めてつつましく控へ、侮る様子がさらになかつた。

 

(五)抜き稽古がはじまつてみると、果して川崎は、西洋人が紛れ込んで來たやうなものであることが、みんなにわかつてしまつた。川崎は歌舞伎のかの字も知らなかつた。そばで増山が歌舞伎の術語の一つ一つを説明してやらなければならない。かういふことから、川崎は大そう増山をたよりにするやうになつた。十二月興行の千秋樂のあくる日から、いよいよ顔を揃へた立稽古がはじまつた。川崎と俳優たちの間にはしばしば火花が散つた。「ここは、どうも、立上れないところですがね」「何とかして立上つて下さい」 苦笑ひをしながら、川崎の顔は、みるみる矜(ほこ)りを傷つけられて蒼ざめてくる。「立上れつて仰言つたつて無理ですな。かういふところは、じつと肚に蓄(た)めて物を言ふところですから」 そこまで言はれると、川崎は、はげしい焦躁をあらはして、黙つてしまふ。しかし万菊のときはちがつてゐた。川崎が坐れと言へば坐り、立てと言へば立つた。水の流れるやうに、川崎の言葉に從つた。万菊が、いかに氣の入(はひ)つてゐる役だとはいへ、いつもの稽古のときと可成ちがふのを増山は感じた。右手の壁ぎはに万菊が端坐してゐる。目がいかにも和(な)いで、やはらかな視線が、川崎のはうへ向いて動かうともしない。……増山は軽い戦慄を感じ、入らうとしてゐた稽古場に入りかねた。

 

(六)「さうでせうか。川崎さんがあんまりやりにくさうでお氣の毒だわ。××屋さんも△△屋さんも、すこしかさにかかつた言ひ方をなさるもんだから、私、ひやひやして。……おわかりでせう。私、自分でかうしたいと思ふところも、川崎さんの仰言るとほりにして、私一人でも、川崎さんがなさりいいやうに、と思つてゐるのよ。だつて他の方々に、私から申上げるわけに行かないし、ふだんやかましい私が大人しくしてゐれば、他の方々も氣がつくだらうと思ひます。さうでもして、川崎さんを庇つてあげなければ、折角ああして、一生けんめいやつていらつしやるのに、ねえ」 増山は何の感情の波立ちもなしに、万菊のこの言葉をきいてゐた。万菊自身が、自分の戀をしてゐることに氣づいてゐないのかもしれなかつた。彼はあまりにも壮大な感情に馴らされてゐた。そして増山はといへば、万菊の中に結ぼほれた或る思ひは、いかにも万菊にふさはしくないやうに思はれた。舞臺稽古の前日になると、川崎の焦躁は、傍目(はため)にもいたいたしかつた。稽古がすむ。待ちかねてゐたやうに、増山を酒に誘ふ。「どうしてです。あの人のどこがいいんです。僕は稽古中に、ごてて言ふことをきかなかつたり、いやに威嚇的に出たり、サボタージュをしたりする役者には、あんまり腹も立たないけれど、万菊さんは一體何です。あの人が一等僕を冷笑的に見てゐる。腹の底から非妥協的で、僕のことを物知らずの小僧ッ子だと決めてかかつてゐる。そりやああの人は、何から何まで僕の言ふとほりに動いてくれる。僕の言ふとほりになるのはあの人一人だ。それが又、腹が立つてたまらないんだ。『さうか。お前がさうしたいんならさうしてやらう。しかし舞臺には一切私は責任はもてないぞ』とあの人は無言のうちに、しよつちゆう僕に宣言してるやうなもんだ。あれ以上のサボタージュは考へられんよ。僕はあの人が一等腹黒いと思ふんだ」増山は呆れてきいてゐたが、この青年に今眞相を打明けることは憚られた。 

     

(七)年が明けて、曲りなりにも、初芝居の初日はあいた。万菊は戀をしてゐた。その戀はまづ、目ざとい弟子たちの間で囁かれた。たびたび樂屋へ出入りをしてゐる増山にも、これは逸早(いちはや)くわかつたことだが、やがて蝶になるべきものが繭の中へこもるやうに、万菊は自分の戀の中へこもつてゐた。彼一人の樂屋は、いはばその戀の繭である。世間普通の役者なら、日常生活の情感を糧にして、舞臺を豊かにしてゆくだらうが、万菊はさうではない。万菊が戀をする! その途端に、雪姫やお三輪や雛衣(ひなぎぬ)の戀が、彼の身にふりかかつてくるのである。それを思ふと、さすがに増山も只ならぬ思ひがした。増山が高等學校の時分からひたすら憧れてきたあの悲劇的感情、舞臺の万菊が官能を氷の炎にとぢこめ、いつも身一つで成就してゐたあの壮大な感情、……それを今万菊は目(ま)のあたり、彼の日常生活のうちに育(はぐく)んでゐるのである。そこまではいい、しかし、その對象は、才能こそ幾分あるかもしれないが、事(こと)歌舞伎に関しては目に一丁字もない、若い平凡な風采の演出家にすぎない。

  

(八)「とりかへばや物語」の世評はよかつた。正月も七日のことである。増山は万菊の樂屋に呼ばれた。「……今夜ハネたら、御一緒にお食事をしたいんですけど、あなたから御都合を伺つていただけない? 二人きりで、いろいろお話したいつて」「はあ」「わるいわね。あなたにこんな用事をおねがひして」「いや……いいんです」 そのとき万菊の目はぴたりと動きを止(や)めて、ひそかに増山の顔色を窺つてゐるのがわかつた。増山の動搖を期待して、たのしんでゐるやうに感じられた。「ぢやあ、さう申し傳へてまゐりますから」 と増山はすぐ立上つた。川崎は花やかな廊下に似合はぬ身装(みなり)をしてゐた。増山は彼を廊下の片隅へ連れて行つて、万菊の意向を傳へた。「今さら何の用があるんだらう。食事なんてをかしいな。今夜は暇だから、全然都合はいいけど」「何か芝居の話だらう」「チェッ、芝居の話か。もう澤山だな」 川崎は、やつてきて、外套のポケットに両手をつつこんだまま、ぶつきらぼうな挨拶をした。「それぢやあ」と万菊は増山に會釋をした。微笑してゐる口もとが仄かに襟巻のかげに見えた。「いいのよ。傘は私がさしてゆくから。それより運轉手に早くさう言つて頂戴」 万菊は弟子にさう言ひつけて、自分でさした傘を、川崎の上へさしかけた。川崎の外套の背と、万菊のモヂリの背が、傘の下に並んだとき、傘からは、たちまち幾片(いくひら)の淡雪が、はねるやうに飛んだ。見送つてゐる増山は、自分の心の中にも、黒い大きな濡れた洋傘が、音を立ててひらかれるのを感じた。少年時代から万菊の舞臺にゑがき、幕内(まくうち)の人となつてからも崩れることのなかつた幻影が、この瞬間、落した繊細な玻璃(はり)のやうに、崩れ去つて四散するのが感じられた。『俺はやつとここまで來て幻滅を知つたのだから、もう芝居はやめてもいい』と彼は思つた。しかし幻滅と同時に、彼はあらたに、嫉妬に襲はれてゐる自分を知つた。その感情がどこへ向つて自分を連れてゆくのかを増山は怖れた。

 

<『中村芝翫論』と『六世中村歌右衛門序説』>

 三島は、祖母と母の影響によって、十三の年から歌舞伎を見はじめ、「丸本をもって行って、役者の型を舞台を見つめながら鉛筆だけうごかして、メモした」(「僕の『地獄変』」)劇評ノートは、のちに『芝居日記』として刊行されているが、作家としてデヴューするや、戸板康二を通じて歌舞伎に関する評論を発表する機会を得、昭和24年に『中村芝翫論』を「季刊 劇場」に発表した。

 現在でも揺るぐことなき六世中村歌右衛門論である『中村芝翫(しかん)論』の美学は、昭和26年に芝翫が六世中村歌右衛門を襲名したさいの歌舞伎座プログラム中の『新歌右衛門のこと』においても、あるいは昭和34年に三島が編者となって世に出した『六世中村歌右衛門』写真集の巻頭を飾る『六世中村歌右衛門序説』においてさえもまったく変化していない。すぐに、昭和32年の小説『女方』の雪姫、お三輪の劇評にほぼそのまま使われていることに気づく。

中村芝翫論』の核となる文章はこうだ。

中村芝翫の美は一種の危機感にあるのであろう。

 金閣寺の雪姫が後手に縛(ばく)されたまま深く身を反らす。ほとんどその身が折れはしないかと思われるまで、戦慄的な徐(ゆる)やかさで、ますます深く身を反らす。その胸へ桜が繚乱と散りかかる。

 妹背山(いもせやま)のお三輪がいじめの官女たちにいじめられる。裾(すそ)を乱し、身もだえし、息も絶えんばかりに見える。そのたおやかさが、今にも崩(くず)折(お)れそうな迫力を押しだす。 かごつるべの見染めで八ツ橋が花道へかかる。八文字(はちもんじ)を踏みはじめる合図に、男衆の肩で右手を立てて、本舞台を見込んで嫣然(えんぜん)とする。踏み出す足に華麗な衣裳がグラグラと揺れる。

 こうした刹那(せつな)刹那に、芝翫のたぐいなく優柔な肉体から、ある悲劇的な光線が放たれる。それが舞台全体に、むせぶようなトレモロを漲(みなぎ)らす。妖気に似ている。墨染や滝夜叉が適(かな)うのは当然である。》

芝翫のお三輪や墨染や滝夜叉には、たおやかな悪意が内にこもって、その優柔な肉を力強く支えている。人はそれを陰性という。しかしただの陰性にこのような力はない。彼の演技の中心は、人間の理性をも麻痺させるような力強い・執拗な感性の復讐にあるように思える。》

 

 歌舞伎座プログラム中の『新歌右衛門のこと』でも次のように踏襲されている。

《今度の歌右衛門の特徴というべきは、あの迸(ほとばし)るような冷たい情熱であろう。芝翫の舞台を見ていると、冷静な知力や計算のもつ冷たさではなくて、情熱それ自身の持つ冷たさが満溢(まんいつ)している。道成寺のごとき蛇身の鱗(うろこ)の冷たさがありありと感じられ、氷結した火事を見るような壮観である。芝翫の動くところ、どこにも冷たい焔がもえあがり、その焔は氷のように手を灼(や)くだろうと思われる。》

 

『六世中村歌右衛門』写真集の『六世中村歌右衛門序説』では、前記『新歌右衛門のこと』全体をまるごと引用しているうえに、歌右衛門と楽屋で逢い、歌舞伎台本を書き、時代な本読みをはじめ、嫌気を起させた演出の苦労(三島歌舞伎についての文献にあたれば、いくつものエピソードが見つかる)も踏まえての、三島らしい逆説の形而上的論理を展開している。このナルシシスム論こそが、小説『女方』を読み解くうえでの重要なキーである。

 さきに渡辺保が、《歌舞伎座の外は築地から銀座へ向かう晴海通り。折からの夜の賑わいのなかに自動車のライトがあふれている。そのライトのなかを美しい女形姿の半二郎が悠々と静かに歩いて行く。(中略)ここを読みながら私は三島由紀夫が『六世中村歌右衛門序説』で有楽町の朝日新聞社前の喧騒と歌舞伎座歌右衛門の舞台を対比させた件りを思い出した。三島由紀夫と同じように吉田修一も現実と虚構を対比させている。》に相当する白昼夢のような文章がある。

《かりに私が、昼間の銀座街頭を散策して、現代の雑多な現象に目を奪われ、人もなげな様子で腕を組んで歩く若い男女や、目つきの鋭い与太者の群や、春画売りや、昼日中からそれらしい素振りを見せる街娼や、さては家族連れで舶来の洋品を商う店に立寄る有名な実業家や、政治家や、これらの織りなす人出を縫って歩き、新聞社の玄関に発着する夥(おびただ)しい自動車の窓に、緊張した記者やカメラマンの横顔を瞥見(べっけん)しつつ、ようやく劇場の前に達して、外光に馴れた目を一旦場内の薄闇に涵し、むこうにひろがる光りかがやく舞台の上に、たとえばそれが「娘道成寺(むすめどうじょうじ)」の一幕ででもあって、ただひとり踊り抜く歌右衛門の姿を突然見たとする。このとき私の感じるのは、時代からとりのこされた一人の古典的な俳優の姿ではなくて、むしろ今しがたまで耳目を占めてきた雑然たる現代の午(ひる)さがりの光景を、ここに昼の只中の夜(・・・・・・)があって、その夜の中心部で、一人の美しい俳優が、一種の呪術のごときものを施しつつ、引き絞って一点に収斂(しゅうれん)させている姿である。》を受けて、

《私はかねて俳優という芸術家の、ナルシス的創造過程に深い興味を寄せて来たが、女方というものについては、一そうその興味の深まるのを感じる。何故なら女方のナルシシスムとは、いわば自分でない者へのナルシシスム(・・・・・・・・・・・・・・)であり、彼の鏡の映像と彼自体とは、あの希臘(ギリシヤ)の美少年のような同一の姿をとらないからである。

 もし美が存在しえず、社会がその存在を否定するならば、彼自身が美とならなければならないが、この背理を犯すには、鏡のなかの美しい映像が、彼自身であってしかも彼自身ではないということは、何という有効な条件であろう! 又、何という巧みな詐術であろう。その鏡裡の像の存在は、正しく彼自身によって保証されているのであるが、他ならぬ彼自身こそ、その存在を否定する者であるということは、何という微妙な逆説であろう。

 女方のナルシシスムとは、かくて、理不尽な、やみくもな、すべてを背理に押し包んでしまう、暴力的な熱病の如きものである。それは怖ろしい否定的なナルシシスムであり、現代社会の否定を彼がものともしないのは、彼自身が(楽屋に於て)全社会に先立っての否定者であり、否定者としてのナルシスだからである。このようなナルシシスムこそ、永遠に不敗であり、無敵である。従って六世中村歌右衛門は不敗なのである。》

 さらに三島は表現を変えて称揚した。

《一人の俳優の中で、美とナルシシスムと悪がいかに結びつき、いかに関わりあうか、それはおそらく俳優の天分と価値とを決定する基本的な条件である。美は存在の力である。客観性の保証である。悪は魅惑する力である。佯(いつ)わりの、人工と巧智の限りをつくして、人を魅し、憑(つ)き、天外へ拉(らつ)し去る力である。そしてナルシシスムは、彼自身のなかで、美と悪とを強引に化合させる力である。すなわち、彼自体であるところのものと、彼自体ではないもの、すなわちあらゆる外界を、他人を、他人の感動と情緒とを、一つの肉体の中に塗り込めて維持する力である。こうしてはじめて俳優は、一時代の個性になり、魂になる。私は六世歌右衛門にこの三つの要素の、間然するところのない複合体を見るのである。》

 

アポロンディオニュソス

 三島作品のほとんど、『仮面の告白』『愛の渇き』『金閣寺』『午後の曳航』『春の雪』『暁の寺』などは、『女方』と同じ構造の下にある。折口やバルトが女形に見抜いた「幻想のようなもの」「シニフィアン」「記号」(対象は、あるときは同性の同級生、あるときは若い園丁、あるときは金閣、あるときは母の恋人、あるときは宮家と婚約した幼なじみ、あるときはタイの姫君、そしてあるときは女形)には、決して到達できない、いや到達してはならない「絶対」であるという構造。妄想によって強化された「幻想(幻影)」に焦がれる悲劇の構造は、空無の、虚無の「絶対」への愛恋でもある(天皇も同じ位置づけ)。不可能な幻想への欲望ゆえに、ついに幻滅し、嫉妬し、はては死という破滅にむかう、美とナルシシスムと悪の三位一体。「幻滅と嫉妬と破滅」とは、なにも三島の病理的なものではなく、ギリシャ悲劇、ラシーヌ劇、歌舞伎にみられる、古典的であるからこそ現代的でもある病理、深層心理に裏打ちされたもので、それゆえに歌右衛門は魅力的であったし、同じく三島文学もまた魅力的なのである。

 さきに引用したように、三島は『六世中村歌右衛門序説』に、《私はかねて俳優という芸術家の、ナルシス的創造過程に深い興味を寄せて来たが、女方というものについては、一そうその興味の深まるのを感じる。何故なら女方のナルシシスムとは、いわば自分でない者へのナルシシスム(・・・・・・・・・・・・・・)であり、彼の鏡の映像と彼自体とは、あの希臘(ギリシヤ)の美少年のような同一の姿をとらないからである》と書いたが、それこそが『女方』において、《増山が作者部屋の人となつたのは、歌舞伎の、わけても万菊の魅惑に依ることは勿論だが、同時に、舞臺裏に通暁することなしには、この魅惑の縛しめからのがれられないと思つたためでもあつた。人ぎきに舞臺裏の幻滅をも知つてゐて、一方では、そこに身を沈めて、この身一つに本物の幻滅を味はひたいと思つたためでもあつた》という増山への三島の仮託だったろう。

 しかし本心では三島は、増山ではなく万菊(歌右衛門)に、つまりは「俳優」(女形)を、自身を意味する「作家」に置き換えたいと欲望していたのではないか。すると、「私はかねて作家という芸術家の、ナルシス的創造過程に深い興味を寄せて来たが、作家というものについては、一そうその興味の深まるのを感じる。何故なら作家のナルシシスムとは、いわば自分でない者へのナルシシスム(・・・・・・・・・・・・・・)であり、彼の鏡の映像と彼自体とは、あの希臘(ギリシヤ)の美少年のような同一の姿をとらないからである」と欲望したが、鏡の映像は、美とはほど遠い貧弱な肉体をもった自分そのものであることに絶望しつづけたのではないか。

 三島は歌右衛門のような、《もし美が存在しえず、社会がその存在を否定するならば、彼自身が美とならなければならないが、この背理を犯すには、鏡のなかの美しい映像が、彼自身であってしかも彼自身ではないということは、何という有効な条件であろう! 又、何という巧みな詐術であろう。その鏡裡の像の存在は、正しく彼自身によって保証されているのであるが、他ならぬ彼自身こそ、その存在を否定する者であるということは、何という微妙な逆説であろう。

 女方のナルシシスムとは、かくて、理不尽な、やみくもな、すべてを背理に押し包んでしまう、暴力的な熱病の如きものである。それは怖ろしい否定的なナルシシスムであり、現代社会の否定を彼がものともしないのは、彼自身が(楽屋に於て)全社会に先立っての否定者であり、否定者としてのナルシスだからである。このようなナルシシスムこそ、永遠に不敗であり、無敵である。従って六世中村歌右衛門は不敗なのである》という存在には、いくら肉体美を得ようとも「鏡のなかの美しい映像が、彼自身であってしかも彼自身ではない」存在には、舞台で演じる女方とは違って、作家はなりえないのだった。

 女形歌右衛門は不敗であったが、作家三島は、《『俺はやつとここまで來て幻滅を知つたのだから、もう芝居はやめてもいい』と彼は思つた。しかし幻滅と同時に、彼はあらたに、嫉妬に襲はれてゐる自分を知つた。その感情がどこへ向つて自分を連れてゆくのかを増山は怖れた》のように、幻影のはてで「幻滅と嫉妬と破滅」すること、「記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまった」(遺作『豊饒の海 天人五衰』末尾)ことで必敗なのであり、むしろ必敗の美学の芸術家として生きたのだった。

「あとがき」の、《「女方」は俳優の分析であり、「貴顯」は藝術(げいじゆつ)愛好家の分析である。前者の主人公は女性的なディオニュソスであり、後者の主人公は衰退せるアポロンである。この二篇はいはば對(つい)をなしてをり、一雙(さう)の作品として讀(よ)まれることを希望する》とは、ときに正直すぎる人三島が真正直に心中を吐露したものだろう。

 ニーチェは『悲劇の誕生』で、芸術は、夢の世界としてのアポロン的なものと、陶酔の世界としてのディオニソス的なものの対立を軸として発展してきて、しかもアポロン的なものディオニュソス的なものとの二重性に結びついているということを指摘した。早くからニーチェに心酔し、理解していた明晰な三島は、アポロン的なものディオニソス的なものを軸として、しかも二重性を忘れることなく、たくみに仮面の裏表を操る芸術家として数々の作品を世に出してきたが、幼いころから自己の暴力的で血の滴るディオニソス性の不足をはっきりと感じていた。衰退せる近代人としてのアポロン的な夢みる三島は、自分もまた、歌右衛門のようなディオニソス的な陶酔の悲劇の主人公であることを望んだが、ついぞかなわなかった。『女方』は万菊こと歌右衛門を揶揄した小説ではなく、増山であり川崎である三島自身を揶揄した小説なのだ。

 しかしそれでも、《一人の俳優の中で、美とナルシシスムと悪がいかに結びつき、いかに関わりあうか、それはおそらく俳優の天分と価値とを決定する基本的な条件である。美は存在の力である。客観性の保証である。悪は魅惑する力である。佯(いつ)わりの、人工と巧智の限りをつくして、人を魅し、憑(つ)き、天外へ拉(らつ)し去る力である。そしてナルシシスムは、彼自身のなかで、美と悪とを強引に化合させる力である。すなわち、彼自体であるところのものと、彼自体ではないもの、すなわちあらゆる外界を、他人を、他人の感動と情緒とを、一つの肉体の中に塗り込めて維持する力である。こうしてはじめて俳優は、一時代の個性になり、魂になる。私は六世歌右衛門にこの三つの要素の、間然するところのない複合体を見るのである》との頌は、そのまま作家三島由紀夫にあてはめることができよう。

「一人の作家の中で、美とナルシシスムと悪がいかに結びつき、いかに関わりあうか、それはおそらく作家の天分と価値とを決定する基本的な条件である。美は存在の力である。客観性の保証である。悪は魅惑する力である。佯(いつ)わりの、人工と巧智の限りをつくして、人を魅し、憑(つ)き、天外へ拉(らつ)し去る力である。そしてナルシシスムは、彼自身のなかで、美と悪とを強引に化合させる力である。すなわち、彼自体であるところのものと、彼自体ではないもの、すなわちあらゆる外界を、他人を、他人の感動と情緒とを、一つの作品の中に塗り込めて維持する力である。こうしてはじめて作家は、一時代の個性になり、魂になる。私は三島由紀夫にこの三つの要素の、間然するところのない複合体を見るのである。」

 

 昭和45年(1970年)の三島没から四半世紀以上、歌右衛門は三島が嫌悪した老いを、『女方』に描かれた「役者の世界の、壮大な卑俗と自分本位」をもって生き抜いた。容色が大事な女形ゆえになおさら、忍び寄る老いの醜と孤独に闘い、内面と外面の拮抗によって芸は円熟し、醜の美とでもいった奇蹟を生んだ。「美とナルシシスムと悪」に、老いと孤独と醜を加えて、七十九歳の最後の舞台、平成8年(1996年)8月の舞踊『関寺小町』まで歌右衛門は、『女方』に描かれた「女性的なディオニュソス」として陶酔を観客に与え続けたと知る時、三島が『女方』の万菊に、晩年の孤高の残光に揺らめく「夢と現實との不倫の交はりから生れた」女形歌右衛門の未来の幻影までも織り込んでいたことに気づかされる。

                                 (了)

 

           ****参考または引用文献****

吉田修一『国宝 (上・下)』(朝日新聞出版)

*『新潮 2018年12月号』(渡辺保書評「歌舞伎と小説のあいだ――『国宝(上・下)』吉田修一」所収)(新潮社)

*『婦人公論 2019年10月23日号』(「令和元年「中央公論文芸賞」受賞作『国宝』選評 浅田次郎鹿島茂林真理子村山由佳」所収)(中央公論社

三島由紀夫女方』(日本ペンクラブ 電子文藝館、講談社「日本現代文学全集」)

*『マクアイ・リレー対談――中村歌右衛門氏・三島由紀夫氏対談』(「幕間」昭和33年5月)

戸板康二三島由紀夫対談『歌右衛門の美しさ』(劇評別冊「六世 中村歌右衛門」昭和26年4月)

*木谷真紀子『三島由紀夫と歌舞伎』翰林書房

*『三島由紀夫研究⑨ 三島由紀夫と歌舞伎』松本徹ほか(鼎書房)

*『決定版三島由紀夫全集』(新潮社)

三島由紀夫自選短編集『花ざかりの森・憂国』(『女方』所収)(新潮文庫

三島由紀夫自選短編集『真夏の死』(『貴顕』所収)(新潮文庫

中村歌右衛門『「三島歌舞伎」の世界』聞き手 織田紘二(『芝居日記』所収、新潮社)

*『折口信夫全集22 かぶき讃(芸能史2)』(中央公論社

ロラン・バルトロラン・バルト著作集7 記号の国』石川美子訳(みすず書房

ニーチェ悲劇の誕生西尾幹二訳(岩波文庫

渡辺保女形の運命』(岩波現代文庫

渡辺保歌右衛門伝説』(新潮社)

渡辺保(文)、渡辺文雄(写真)『歌右衛門 名残の花』(マガジンハウス)

渡辺保『歌舞伎のことば』(大修館書店)

渡辺保『戦後歌舞伎の精神史』(講談社

橋本治『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』(新潮社)

*関容子『歌右衛門合せ鏡』(文藝春秋

*「歌舞伎の黒衣経験を血肉に、冒険し続けた4年間 吉田修一さん新刊「国宝」1万字インタビュー」(朝日新聞「好書好日」2018年9月8日)

木下千花溝口健二論  映画の美学と政治学』(「芸道物考」所収)(法政大学出版局

 

文学批評 ボルヘスを斜めから読むための補助線 ――『タデオ・イシドロ・クルスの生涯(一八二九~一八七四)』/『エンマ・ツンツ』/『もうひとつの死』 

 

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・ミュージカル『エヴィータ』の人気に、実在のエヴィータエバ)のカリスマ性、神話性が寄与していることは否めないだろう。丸谷才一はエッセイ『私怨の晴らし方』で、『まねごと』におけるボルヘスの完璧な私怨の晴らし方を紹介してから、比較して鷗外『空車(むなぐるま)』は、武者小路実篤夏目漱石を賛美して鴎外を敬愛しないことへの揶揄であるという松本清張の解釈に賛同し、鷗外には「もともと詰まらぬことを根に持つて文を行(や)る癖(へき)があつた」と指摘し、「残念なことに出来が悪いし無内容である」と結んでいる。

ボルヘスの伝記を読んで、徹底したペロン嫌ひであることを知り、いささか衝撃を受けた。この作家があの軍人を尊敬してゐるとはまさか思つてゐなかつたけれど。

 もちろん彼があの大統領に反感を持つのは筋が通つてゐる。第一に彼は英米流の民主主義を奉じてゐて、独裁やファシズムは性に合はなかつた。第二にマチスモ(男性的権力意識)を敵視してゐて、ペロンはその代表みたいな男だつた。第三に彼は自分が図書館員の職から鶏と兎の検査官の職に左遷されたのはペロンの命によると信じてゐた(これはどうやら違ふらしい)。そんなわけだから、何かにつけて非難したつて、不思議はない。

 それなのにわたしがボルヘス伝を読んで、執念深いペロン攻撃に驚いたのには理由がある。彼のごく短い短編小説に、あの将軍を扱つた玲瓏(れいろう)珠のごとき名篇があるからだ。こんなに怨んでゐるくせに、愛憎を突き抜けた感じの、構えへの大きい小品が書ける。すごいものだなと敬服したのだ。

 しかし、とりあへずペロン夫妻の生涯を一筆がきして置かう。ペロンはアルゼンチンの軍人、政治家、大統領。イタリアに留学し、ムッソリーニに共鳴して帰国、一九四三年クーデターに参加。労働者に受けがよく、陸軍大臣、副大統領。反ペロン派のよつて幽閉されただ、労働者の大規模な抗議デモにより釈放された。四六年、金髪の夫人エバ(寒村の私生児として生れた声優、女優)の人気のせいもあつて大統領選で圧勝。五一年に再選されたが、五二年七月にエバが亡くなると、彼への支持も衰へて行つた。

 その短篇小説『まねごと』はこんな話だ。

 一九五二年七月、アルゼンチンのとある村に喪服の男が現れ、一軒の小屋を選び、棺に見立てた段ボールの箱に金髪の人形を納めたものを展示する。村人たちがやつて来て列を作り、男に向つて「将軍」と呼びかけてお悔やみを言ふと、男は握手をし、何か短く挨拶する。ブリキの箱に二ペソづつ銅貨が投げ入れられる。

 これは実話で、しかも役者と場所を変へてほうぼうでおこなはれた、と説明をつけてからボルヘスは書く。

「それは言わば、ある夢の影であり、『ハムレット』の劇中劇のようなものである。喪服の男はペロンではなく、ブロンドの髪の人形はその妻のエバ・ドゥアルテではなかった。しかし同様に、ペロンはペロンではなく、エバエバではなかった。」(鼓直訳)

 ボルヘスといふ果実からしたたり落ちた一滴。オリジナルとコピーは見事な一対となり、さらに、オリジナルなど存在せず、コピーとコピーの関係があるだけといふ認識が示され、ペロンとエバの人生は香具師(やし)と人形による奇妙な興行と当価値のもにされる。香具師と人形が一瞬のうちに神話化されると言つてもよい。皮肉な発想による完璧な仕上げの工藝品。ここには意趣返しなどといふ卑しい動機はまつたく見えず、ただボルヘスの世界観とそれを托するに打つてつけのラテンアメリカ的現実がある。いや、作家が私怨を晴らすときにはかう書けといふ模範、と見るべきか。》

 

・ レヴィ=ストロースは、社会学民族学の問題にとりくむ前に、ほとんどいつもマルクス『ルイ・ ボナパルトブリュメール十八日』を何ページか読んで、思考に活力を与えていたという。

 似たような意味あいで、二十世紀の二人の哲学者は、思想・哲学書の「序」にボルヘスを引用することによって、思考に活力ばかりか起点をも与えた。

 一つめはミシェル・フーコー『言葉と物』。

「序」がボルヘスのテクストの紹介(『続審問』の『ジョン・ウィルキンズの分析言語』の引用)から始まるのはよく知られたところだ。

《この書物の出生地はボルヘスのあるテクストのなかにある。それを読みすすみながら催した笑い、思考におなじみなあらゆる事柄を揺さぶらずにはおかぬ、あの笑いのなかにだ。いま思考と言ったが、それは、われわれの時代と風土の刻印をおされたわれわれ自身の思考のことであって、その笑いは、秩序づけられたすべての表層と、諸存在の繁茂をわれわれのために手加減してくれるすべての見取図とをぐらつかせ、<同一者>と<他者>についての千年来の慣行をつきくずし、しばし困惑をもたらすものである。ところで、そのテクストは、「シナのある百科事典」を引用しており、そこにはこう書かれている。「動物は次のごとく分けられる。(a)皇帝に属するもの、(b)香の匂いを放つもの、(c)飼いならされたもの、(d)乳呑み豚、(e)人魚、(f)お話に出てくるもの、(g)放し飼いの犬、(h)この分類自体に含まれているもの、(i)気違いのように騒ぐもの、(j)算えきれぬもの、(k)駱駝の毛のごく細の毛筆で描かれたもの、(l)その他、(m)いましがた壺をこわしたもの、(n)とおくから蝿のように見えるもの。」この分類法に驚嘆しながら、ただちに思いおこされるのは、つまり、この寓話により、まったく異った思考のエクゾチックな魅力としてわれわれに差ししめされるのは、われわれの思考の限界、《こうしたこと》を思考するにあたっての、まぎれもない不可能性にほかならない。(中略)

 このボルヘスのテクストは、ながいことわたしを笑わせたが、同時に、打ちかちがたい、まぎれもない当惑を覚えさせずにはおかなかった。おそらくそれは、彼のテクストをたどりながら、《唐突なもの》や適合しないものの接近によって生ずる以上に、ひどい混乱があるのではないか、そんな疑惑が生れたためだったろう。》

 これを端緒にフーコーは文化の諸コード、秩序、知の考古学、「エピステーメー」へと思考を展開してゆく。

 二つめはジル・ドゥルーズ『差異と反復』。

「はじめに」の最後で、哲学的表現の新しい手段の追求のために、哲学史は、絵画におけるコラージュの役割にかなり似た役割を演じるべきとして、ボルヘスで締めくくってゆく。

《周知のように、ボルヘスは、想像上の本を報告することにかけては卓越した力量をもっている。しかしボルヘスがもっと徹底してことにあたるのは、彼が、たとえば『ドン・キホーテ』のような実在する書物を、想像上の著者ピエール・メナール自身によって再生産された想像上の書物であるかのようにみなしておきながら、しかもこのピエール・メナールを今度は実在的な人物であるかのようにみなすときである。そのとき、もっとも正確でもっとも厳密な反復が、最高度の差異を相関項としているのである(「セルヴァンテスのテクストとメナールのテクストは、言葉のうえでは同一であるが、しかし後者のほうが、ほとんど無限に豊かである……」)。哲学史の諸報告は、テクストに関する、一種のスローモーション、凝固あるいは静止を表象=再現前化していなければならず、しかも、その諸報告が関係しているテクストばかりでなく(・・・・・・)、その諸報告がその内部に潜んでいる当のテクストまでも扱わなければならない。したがって、哲学史の諸報告は、或る分身的存在をもつのであり、そして、古いテクストとアクチュアルなテクストの相互間における(・・・・・・・)純然たる反復を、理想的な分身としてもつのである。(後略)》

 そもそもボルヘスの文学自体が「差異と反復」なのは、彼のキーワード、「時間」「無限後退」「永遠」「鏡」「不死」「迷宮」「図書館」をイメージすればすぐにわかる。

 

ボルヘスの本質について、ブランショが『来るべき書物』の中で述べている。

ボルヘスは、本質的に文学的な人物であって(これは彼が、つねに、文学によって許された理解の様式にしたがって理解しようとしているという意味だ)、彼は、この悪しき永遠性及び悪しき無限性とたたかっているが、法悦と呼ばれるあの輝かしい逆転に到るまでは、おそらくこの二つだけが、われわれの吟味しうるものである。書物とは、彼にとっては原理的に世界なのであり、世界とは一冊の書物である。まさしくこのことこそ、世界全体の意味に関して、彼を安心させることとなるようだ。なぜなら、世界全体が理性に貫かれているかどうかということについては、人は疑いを抱くことが出来るが、われわれが作る書物の場合、それも特に、たとえば探偵小説のように、まったく明確な解決がぴったりするまったくあいまいな問題として、たくみに構成された仮構物的な書物の場合、われわれには、それらが、知性に浸透され、精神というあの連結能力によって動かされていることがわかっている。だが、もし、世界が一冊の書物であれば、どんな書物もみな世界である。そしてこの無邪気な同語反復から、さまざまなおそるべき結果が惹き起こされるのである。》

 

・しかし、ボルヘスには『ブロディーの報告書』(一九七〇年)のように、ボルヘス曰く「簡潔で直截な」、「リアリスティック」な作品もある。それは土着的でマッチョな世界であり、七十歳の出版だから、それまでの作風から旋回したのかと思われがちだが、『伝奇集』(一九四四年)にも『エル・アレフ』(一九四九年)にも、アルゼンチンを舞台とした、「リアリスティック」風な、「土着的でマッチョな世界」がいくつか入っている。人によってはボルヘスの真髄であるにも関わらず敬遠しがちな「観念論」をも包含し、つまりは「ボルヘスのすべて」が凝縮、顕現している。

 これから読む『タデオ・イシドロ・クルスの生涯(一八二九~一八七四)』、『エンマ・ツンツ』、『もうひとつの死』は、『エル・アレフ』からのそういった三作品である。

 知られているように、晩年のボルヘスは遺伝性眼疾の進行によってほぼ盲目だったが、朗読による読書、口述筆記、介添人の腕に頼っての世界旅行と、作家人生を精力的に生き抜いた。私たちもまた、ボルヘスを理解し感じとるために、闇夜の道標となる補助線があれば、たちまち夢とうつつの世界が現前するだろう。

 

<『タデオ・イシドロ・クルスの生涯(一八二九~一八七四)』>

     わたしはさがしている

      創世記の自分の顔を。

         イエイツ『螺旋階段』

 一八二九年二月六日、終日ラバジェ将軍の攻撃に悩まされながら、ロペス麾下の師団と合流すべく北進して来たガウチョの義勇兵の一隊は、ペルガミーノから二十キロばかり離れた、とある名も知らぬ牧場で休止した。明け方近く、男たちの一人が執拗な悪夢にうなされた。小屋の薄暗がりの中で、その男のうろたえた叫び声が、隣りに寝ていた女を目覚めさせた。彼が何を夢みたのかは知るよしもない。というのは翌日の午後四時頃、義勇兵たちは、スアレスの騎兵隊に五十キロも追われたあげく、夕闇迫る湿地の丈高い草の間で潰滅したからである。その男は、すでにペルーやブラジルの戦いに活躍したサーベルで頭蓋を割られ、溝の中で死んだ。例の女の名はイシドラ・クルスといった。生れた子供は、タデオ・イシドロと名づけられた。

 わたしの目的は、彼の全生涯を反復すようというものではない。その人生を構成した数々の昼と夜の中、私の関心を引くのはただ一夜である。残りの日夜については、その夜を理解するのに不可欠な場合にのみ、語ろうと思う。彼の冒険譚は有名な歌物語に詳しい。例の、ほとんど無尽蔵ともいえる変形、解釈、曲解が可能なために、今ではその材料が「すべての人には凡(すべ)ての人の状(さま)に従へり」(コリント前書第九章二十二節)という有様になってしまった物語である。タデオ・イシドロの物語について評釈した人びとは――これが又数多いのだが――彼の人格形成に及ぼした平原の影響を強調する。しかし、彼と全くよく似たガウチョの中にも、パラナ川沿岸の森林地帯や、ウルグアイの丘陵地帯に生れそして死んだ者もいるのである。なるほど彼が単調この上ない未開の世界に生きていたのは確かだ。一八七四年に天然痘で死ぬまで、彼は山もガスの火口も風車も目にしたことがなかった。又都会も見たことがなかった。一八四九年に、彼はフランシスコ・ザビエル・アセベードの牧場から、牛を追う旅でブエノス・アイレスへ行った。他の牛追いたちは、胴巻きを空にするために町へくり出した。が用心深いクルスは、家畜置場にほど近い安宿から遠くへは出なかった。そこで彼はたった一人、無言で数日を暮した。土間に眠り、マテ茶をすすり、夜明けと共に起き、夕べの祈りと共に床についた。彼は(言葉も、理性さえも届かぬところで)、その都会が自分には無縁であることを悟っていた。牛追いたちの一人が、酔っぱらって、彼をからかいはじめた。クルスは彼を無視した。しかし帰りの旅の途中幾夜も、焚火を囲んでいる時に、その男がからみ続けたので、クルスは(その時まで怒った顔も不快そうな顔も見せたことはなかったのに)、ナイフの一突きで彼をのばしてしまった。逃亡の途中、彼は湿地の茂みに身をかくす羽目になった。幾夜かたって、鷺(チヤハ)の叫びで警察に包囲されていることを知った。彼は草むらでナイフの刃をためし、足が草にもつれるのを避けるために拍車を外(はず)した。降伏するよりはあくまで戦う方をえらんだのだ。前腕と肩と左手に傷を負ったが、敵方の最も勇敢な連中に深傷(ふかで)を負わせた。指の間を血が流れ落ちると、なおいっそう獅子奮迅の勢いを増した。明け方近く、出血のために弱って、ついに武器をたたき落された。軍隊は、当時、一種の懲罰機関の役割を果していたから、クルスは北部国境の小堡に派遣された。一兵卒として内戦に参加し、ある時は故郷の州のために、ある時はそれを敵にまわして戦った。一八五六年一月二十三日、カルドーソの湿地帯で二百人のインディオと戦った、エウセビオ・ラプリーダ曹長麾下の三十人の白人部隊の中にも彼はいた。この時の戦闘で、彼は槍傷を受けている。

 彼の判然としない、勇敢な生涯には多くの空白がある。一八六八年頃、彼が再びペルガミーノにいることが知れる。結婚したか、同棲したか、一児の父となり、わずかな土地の所有者である。一八六九年には、土地の警察の巡査部長に任命された。すでに過去は清算されていた。そしてその頃は、自分は幸せだと思っていたにちがいない。心の奥底ではそうではなかったのだが。(その夜を、まだ未来に隠れて、根底から照らし出す啓示の一夜が待ちかまえていたのだ。ついに自分の本当の顔を見る夜、ついに自分の名を聞く夜が。真の意味を理解すれば、それは一夜にして彼の全生涯を尽くすことになるのだ。いやむしろ、その夜の一瞬が、その夜の一行為がといった方がよいだろう。なぜなら、行為こそわれわれの象徴だからだ。)およそ運命とは、いかに長く又複雑であろうとも、本質的には「ただ一瞬で」成り立っているものだ。その一瞬に、人は、決定的におのれの正体を知るのである。アレキサンダー大王は、アキレスの神話の中に自分の鉄の未来を見、スウェーデンのカール十二世は、アレキサンダー大王の伝記の中に自分の未来の反映を見たと言われている。読むことを知らなかったタデオ・イシドロ・クルスにとって、その啓示は書物によって与えられたのではない。彼は乱闘の中で、そして一人の男の中に、おのれ自身を見たのであった。その次第は次のとおりである。

 一八七〇年六月の末、彼は二人の男を殺害した無法者を逮捕せよとの命令を受ける。南部国境守備のベニート・マチャード大佐の部隊の脱走兵である。売春宿で酔っぱらったあげくの喧嘩で黒人を殺し、又ぞろ酒の上の喧嘩でロハス郡の住民を殺したという。彼がラグーナ・コロラーダの出身であることもその手配書には書き添えられていた。それこそ、四十年ばかり前にガウチョの義勇軍が、結局彼らの肉を禿鷹や野犬の餌食に供することとなった不運な戦いに出陣するために、終結した地点だったのである。それは、後にブエノス・アイレスのビクトリア広場で、その最後の叫びをかき消さんばかりに轟きわたる太鼓の響きの中で処刑された、マヌエル・メーサの出身地だった。それは又、クルスの父であり、ペルーとブラジルの戦場で活躍したサーベルに頭蓋を割られて溝の中で死んだ、あの無名の男と出身地でもあった。クルスはその地名をとっくに忘れていたのだが、軽い、しかし名状しがたい胸騒ぎと共に、今彼はそれを思い出した……

 警官たちに追われたお尋ね者は、馬を縦横に乗り廻して、長い迷路を織りなした。しかしついに、七月十二日夜、捜索隊は彼を追いつめた。彼は丈高い草の茂みに身をひそめた。ほとんど見とおしのきかぬ闇である。クルスとその部下は、足音をしのばせて、その真中に隠れた男が待ちかまえているか眠っているかしているはずの、かすかにゆらぐ茂みに向って進んで行った。鷺(チヤハ)が叫びをあげた。タデオ・イシドロ・クルスは、以前この瞬間を経験したことがあるような気がした。犯人は戦うために隠れ場所から出て来た。クルスはぞっとするような彼の顔を見分けた。のび放題の髪と半白のあごひげがその顔を蚕食しているように見える。ある明白な理由から、それに続く戦闘の模様を描写するのはやめることにする。ただ、逃亡者がクルスの部下の幾人かに重傷を負わせ、或いは殺したことだけを指摘すれば足りよう。闇の中で戦っている間に(暗の中で彼の肉体が戦っている間に)、彼は理解しはじめたのだ。一つの運命が他の運命よりよいなどということはあり得ない、しかし、誰も自分の内なるものを尊重する他はないのだ、ということを。自分の肩章や制服が今や邪魔になったということを。自分本来の運命は一匹狼であって、衆をたのむ犬ではないことを。あの相手こそ自分自身であることを理解したのだ。はてしない平原の夜が明けた。クルスは軍帽をかなぐり捨て、勇士を殺すような犯罪には加担出来ないと叫ぶや、自分の部下を向うにまわして戦いはじめた。逃亡者マルティンフィエロと肩をならべて。》

 

ボルヘスは『ボルヘスとわたし――自選短篇集』(原題 “The Aleph and other stories 1933-1969”)で本作を「著者注釈」している。

《この物語は野性の呼び声(・・・・・・)のアルゼンチン版である。これはまた、一八八二年にホセ・エルナンデス(アルゼンチンの作家、一八三四~八六)によって書かれた、ガウチョの多難な放浪の歌物語『マルティンフィエロ』に対するひとつの注釈(グロス)でもある。この歌物語》におけるクルスは、かつては命知らずのならず者だったが、改心して巡査部長にまでなり、脱走兵の殺人犯マルティンフィエロの捜索に行く警察隊の隊長となる人物である。そしてクルスは、おたずね者の勇気をまのあたりにして彼の側につき、自分の部下を数人殺して、昔の生活に戻っていく。この予期できない唐突な決断ゆえに、わたしはクルスをエルナンデスの作品中、最も興味深い、謎に満ちた人物であると思う。わたしの知る限りでは、敵方に転じた警官の奇妙な行動に驚嘆した読者はわたしだけのようだ。『マルティンフィエロ』はもはや古典となっているので、その中の出来事は何か当然のことと思われ、誰も新鮮な驚きを覚えないのだろう。

 クルスの行動に対するわたし自身の当惑が、わたしにこの物語を書かせたのだと思う。警官クルスの前半生は、エルナンデスの作品に詳述されている。そこで、この歌物語に親しんでいる読者に最後まで気づかれないように、背景となる情況を変える必要があった。クルスという名前には、タデオ・イシドロを冠した。また、エルナンデスの作品とは関係のないメサの処刑とか、二百人のインディオたちと戦ったラプリーダ麾下の三十人の白人の話のような歴史的エピソードを織りこんだ。付随的な詳細のうちには、わたし自身の先祖に由来するものも多い。例えば、冒頭で義勇兵ガウチョたちを潰走させてしまうスワレスなる人物は、わたしの曾祖父である。そして、クルスが働いていた農場は、これまた親族のフランシスコ・ザビエル・アセベード所有のものである。ついでに言えば、マヌエル・メサの最後の呪いの叫び声をかき消すために、太鼓を打ち鳴らすように命じたのはスワレスであった。しかしながら、この物語が単なるトリックで終ってしまわないように、わたしはそこにあるヒントや痕跡を残しておいた。物語の第二節で早くも、あの歌物語との関連が明かされる。そして物語の最後で、明らかな理由によって闘いの場面は描写しないとあるが、その理由とは、『マルティンフィエロ』の中でそれが詳細に述べられている、ということである。

 タデオ・イシドロ・クルスが自身の正体を見出し、マルティンフィエロと敵対することを拒絶するあの劇的な瞬間、そこには、意識されてはいなくとも根深いスペイン的なものがあるように思われる。わたしは、鉄の鎖で数珠(じゅず)つなぎにされて行く囚人たちを目にした騎士ドン・キホーテが、護衛の役人に彼らの釈放を要請する有名な一節を思い出す。「めいめいの者が犯した罪はあの世で償わせるがよい。悪人をこらしめ、善人を嘉(よみ)することをゆるがせにし給うことなき神が天にましますのじゃ。正しい人びとが他人の刑罰の執行人となることは決してほめた話ではない……。」》

 

清水徹が「ひとつのボルヘス入門」(一九八一年の講演記録の書き直し)で、「ボルヘスにおける地方性と国際性」と題して考察しているが、これら三つの作品に当てはまる。

《(前略)ボルヘスには中世英文学に関する著書などもあって、博識の権化のような作家、博識によって幻想をつくりだすような作家なのですが、じつはけっしてそれだけではない。彼の短編小説を読むと、ガウチョ(gaucho)つまりラプラタ河流域の大草原(パンパ)(pampa)で家畜の養育にあたる、いわばアルゼンチンにおけるカウボーイのような役どころである人間と、コンパドリート(compadrito)――都市の場末に住んでいるならず者で、独特のやや悪趣味な服装をして自分では伊達男のつもりでおり、傲然と他人を見下ろし、ナイフで自分の名誉を守ろうとするような人間、このふたつのタイプがよく出てきます。(中略)

 ボルヘスの著書『エバリスト・カリエゴ』(一九三〇、一九五五)によれば、この民衆詩人はボルヘスが幼時をすごしたパレルモ地区での隣人で、ならず者(コンパドリート)たちとつき合い、いつも黒づくめの服装で、肺を病んで血痰を吐きながら、タンゴの流れる場末街の魂をうたいつづけたという人物です。

 ボルヘスはこの本で、パレルモ地区の過去――「いちじくの木が土塀に影を落とし、落花生売りの頼りなげな角笛の音が夕暮れをまさぐり、シャボテンを無雑作に飾った石の壺が貧しい家に置いてある」ような地区、「目深にかぶったミトラ風の鰐広帽と田舎者じみたたっつけズボンの盗賊」が、気取ってわざわざ刃渡りの短いナイフをもって、警察に個人的な決闘を挑むような地区の話を書きながら、ブラウニングの「ここ、まぎれもなくここで、英国は私を救った」(Here and here did England help me)という一句を思い出し、「英国」を「ブエノスアイレス」と入れ換えてこう思う――「その詩句は、私にとって、孤独の夜の象徴であり、街の無限のなかをさまよう恍惚として終ることのない散策の象徴であった。というのも、ブエノスアイレスは果てしがなく、幻滅や苦悩のうつにある私が、その数ある通りへとはいりこんでゆくと、かならず思いもよらぬ慰めが得られたものである。その慰めとは、あるときは非現実の感覚だったり、あるときは中庭の奥から聞えてくるギターの調べだったり、またあるときは、生の交歓だったりしたのだが」(中略)

 ボルヘスは《ガウチョ》とか《コンパドリート》というアルゼンチンの土着的なものを、いわばその本質をなすと同時に人間にとって普遍的な要素でもあるものへと還元し、そのことによって透明化するのです。ガウチョやコンパドリートが伊達をつらぬいて、決闘でころりと死んでしまう、――ボルヘスはそういう物語をたくさん書いていますが、それらはアルゼンチンの土着的風俗を表現するための題材としてあるのではなく、人間の生と死をめぐる非常に単純素朴な、それゆえに生と死をめぐる根源的な謎がますますくっきりと浮かびあがるような状況として選ばれているのです。人間の生活のひどく単純な要素と、生と死とをめぐる根元的な不可能さ、時が過ぎ、それとともにいかなる人間的な夢も満たされぬまま過ぎ去って、非情な死が訪れるという現実を感じとるときの、あるエモーショナルなもの、総じて《時間》に関する独特な感覚――たしかにそれは、ガウチョやコンパドリートの風俗をふまえた、《アルゼンチン的悲哀》と名づけられるものではありますが、と同時にたんなる《地方性》といったものではなく、まぎれもなく《時間》というものに関する普遍的で根源的な情感でありましょう。そうした普遍的な情感が、パンパ、ガウチョ、コンパドリート、タンゴ、といった道具立において、じつにくっきりと浮かびあがる、といったふうなのです。(中略)

 アルゼンチンの「伝統的」な風俗、ブエノスアイレスの「地方的」な庶民性――それらもボルヘスの作品のなかに取り入れられたとき、「伝統的」とか「地方的」といった言葉に示されるところの、いわば《時間》の相の下において形成された「いま(・・)」「ここ(・・)」におけるものという性格を失なう。そして一方では、人間の生と死をめぐる根源的なものを浮かびあがらせるための舞台装置という役割にしりぞき、他方ではボルヘス独特の、一見詭弁とも思える時間論を形成してゆくのです。

 ボルヘスの巧智。――ボルヘスはここで、いかにも地方色そのものといった風物を点描しながら、場末街のひとりの民衆詩人を論じている。だが、そういうボルヘスの筆はいつのまにか、このカリエゴなる人物が《時間》のなかでもつ一回限りの個体性の輪郭を薄れさせてしまう。かわりに出現するのは、ある素朴な、それゆえに根元的な仕草を繰り返しているように見える人間たち、彼らひとりひとりの個体としてのはかなさと、個体の繰り返しとしての種の永遠との対比、そうした対比を認めるときににじみだす哀愁、そういったものなのです。》

 

<『エンマ・ツンツ』>

《一九二二年一月十四日、タルブーフ=レーヴェンタール織物工場から帰ったエンマ・ツンツは、玄関ホールの奥で、ブラジルの消印のある手紙を見つけた。それは、彼女の父の死を告げるものだった。最初は切手と封筒に目を欺かれた。それから見馴れぬ筆蹟に不安を覚えた。九行か十行の文字が、紙片一ぱいに書きなぐられていた。マイエル氏が誤ってヴェロナールを多量に服用し、今月の三日にバジェの病院で死亡した、とエンマは読んだ。父の下宿の友人の、フェインとかファインとかいうリオ・グランデの人が、亡くなった人の娘に宛てるものとも知らずに署名していた。

 エンマは紙片を取り落した。彼女の第一印象は、腹部と両膝の力が抜けた感じだった。次いで、何とも知れぬ罪悪感と、非現実感と、寒さと、恐怖に襲われた。それから、早く今日が終って明日になっていればよいのに、と思った。だが次の瞬間、その願いは無益であると悟った。なぜといって、父の死はこの世で一回限り起ることであり、しかも永遠に続くものだからである。彼女はその紙片を拾い上げて、自分の部屋へ行った。こっそりと彼女はそれを引き出しにしまった。どういう理由からか、その遠方の出来事をすでに知っていたかのように。多分、その事態をすでに推測しはじめていたのだろう。すでに未来の自分になっていたのだ。

 次第に濃くなる夕闇の中で、エンマはその日の終りまで、かつての幸せな日々にはエマヌエル・ツンツであったマヌエル・マイエルの自殺を嘆き悲しんだ。彼女はグワレグワイの近くの小さな農場で過した夏休みを思い出し、母親を思い出し(思い出そうとし)、競売にされたラヌスの小さな家を思い出し、黄色い菱形窓を思い出し、禁固刑の判決を、汚名を思い出し、「出納係の受託金横領」についての新聞記事と共に匿名の投書を思い出し、さらに(これは片時も忘れたわけではなかったが)父親が、最後の夜に、誓って盗んだのはレーヴェンタールだと彼女に言ったことを思い出した。レーヴェンタール、アアロン・レーヴェンタールは、以前はその工場の支配人だったが、今は所有者の一人になっていた。エンマは、一九一六年以来、この秘密を守って来た。誰にも明さず、親友のエルザ・ウルスタインにさえ言わなかった。恐らくひどい不信を買うことを避けたのだろうし、その秘密が自分と不在の父親を結ぶ絆になると信じたかったからだろう。レーヴェンタールは彼女が知っていることを知らなかった。エンマ・ツンツはこの些細な事実のために、優越感を抱いていた。

 その夜は一睡もせず、曙光が四角い窓を明るませた時には、彼女の計画はすでに出来上っていた。その日は彼女にとって無限に思われたが、いつもと変らぬように努めた。工場にはストライキの噂が流れていた。エンマはいつものように、あらゆる暴力に反対すると言明した。六時に仕事が終ると、エルザと一緒に、体育館とプールのある女性のクラブへ行った。自分たちの名前を署名した。彼女は名前と苗字をくり返し、一字ずつ綴りを言わなければならなかった。身体検査につきものの下品な冗談にも答えなければならなかった。エルザやクロンフス家の末娘と、日曜の午後はどの映画に行こうかと議論した。それから恋人の話になったが、誰もエンマが会話に加わるとは思わなかった。四月には十九になるというのに、男たちはまだ、彼女に病的といってよい程の恐怖をおこさせるのだった……家に帰ると、タピオカのスープと二、三の野菜を調理し、早目に食べ、床について何とか眠ろうとした。このようにして、骨の折れる、しかも平凡な十五日金曜日、つまりその前夜が過ぎて行った。

 土曜日、彼女は焦燥にかられて目をさました。それは焦燥であって不安ではなかった。さらに、ついにその日が来たという奇妙な安堵でもあった。も早計画したり想像したりする必要はない。数時間もすれば、事は単純に見えるだろう。彼女は「ラ・プレンサ」紙で、スウェーデンのマルメーの船《北極星号》が、その夜第三埠頭から出航するという記事を読んだ。電話でレーヴェンタールを呼び出し、他の女たちには内密で、ストライキに関することをお耳に入れたいとほのめかして、暮れ方に彼の事務所に寄ると約束した。彼女の声はふるえていた。だがそのふるえは、密告者にふさわしかった。その朝は、他にこれといったことは起らなかった。エンマは十二時まで仕事をし、それから、エルザやベルラ・クロンフスと日曜の散歩の細かい打合せをした。昼食後、目を閉じたまま横になって、すでに周到にめぐらした計画を再検討した。最後の一歩は最初の一歩ほど恐ろしくはないだろうし、きっと勝利と正義の味を味わわせてくれるだろうと思った。突然、ぎょっとして彼女は起き上がり、たんすの引き出しにかけ寄った。それをあける、とミルトン・シルスの写真の下に、前夜のまま、ファインの手紙があった。誰も見たはずはない。彼女はそれを読みはじめ、それから破りすてた。

 その午後の出来事を何らかの現実性をもって物語ることは、困難でもあろうし、また恐らく適切ではないだろう。地獄のような経験には非現実性がつきものである。この属性はその恐怖をやわらげもし、また多分一層つのらせもするように思われる。それを行った当人さえほとんど信じられないような行為を、一体どうすれば真実らしく見せることが出来るだろう? 今はエンマ・ツンツの記憶さえ否認し混同しているあの束の間の混沌を、どうすれば再現することが出来るだろう? エンマはリニエルス街のアルマグロに住んでいた。その午後、彼女が港へ行ったことは分っている。恐らくあのいかがわしいパセオ・デ・フリオ界隈で、幾重にも鏡に映り、灯りに身をさらして、飢えた視線に裸にむかれたのだろうが、それよりは、最初気づかれずに無関心な入り口からさまよい入ったと想像する方がまっとうだろう……二、三軒のバーにはいって、他の女たちのもの馴れた手練手管に目をとめた。最後に、彼女は《北極星号》の乗組員たちに出会った。その中の一人は非常に若く、甘い気分をかきたてられそうだったので、別の一人、多分彼女より背が低くて野卑な男をえらんだ。恐怖の純粋さを鈍らせぬためだった。その男は彼女をとある戸口へ連れて行き、それから陰気な玄関ホールへ、それから曲りくねった階段へ、それから控えの間(そこにはラヌスの家と同じ菱形窓があった)へ、それから廊下へ、それから一つの戸口へと進んでその戸を彼女の後で閉めた。重大な出来事は、時間の外でおこる。その直前の過去が、あたかも未来から切りはなされているように思えるからか、或いは、その出来事を構成する部分部分が、非連続に見えるからである。

 そういった時間の外の時間の間、その切れ切れのむごたらしい感覚がどうしようもなく乱れている間に、エンマ・ツンツは、この犠牲をうながした当の死者のことを、ただの一度でも考えただろうか? 彼女はたしかに一度は考えた、そしてその瞬間、その必死の計画を危くぶちこわすところだった、とわたしは信じる。今自分がされているような、ぞっとする程いやらしいことを父が母にしたのだ、と彼女は考えた(考えずにはいられなかった)。彼女はそのことを軽く驚きながら考え、それからす早く、めまいの中に逃避した。その男はスウェーデン人かフィンランド人か、とにかくスペイン語を話せなかった。彼女が彼にとって道具であったのと同じく、彼もエンマの道具であった。ただ、彼女は彼の快楽に奉仕し、一方彼は彼女の正義に奉仕したのである。

 ひとりになった時、エンマはすぐには目を開かなかった。ナイト・テーブルの上には、男がおいて行った紙幣があった。エンマは身を起して、前に手紙を破り棄てたように、それを粉々にちぎった。紙幣を破ることは、パンをすてるのと同じ不敬な行為である。エンマはとたんにそれを後悔した。傲慢な行為を、しかもその当日にしてしまうなんて……彼女の恐怖は、肉体の悲しみの中に、嫌悪感の中に消えてしまった。むかつきと悲しみとにがんじがらめになりながら、しかしエンマはゆっくりと起き上って、着物を着ていった。部屋の中には、もう明るい色は残っていなかった。夕闇が濃くなっていた。エンマは誰にも見られずに出て行くことが出来た。通りの角で、西へ行く市内電車に乗った。計画にのっとって、顔を見られないように、最前部の座席をえらんだ。恐らく、単調に動いて行く街並みの中で、さっき起ったことは何も汚しはしなかったのだと確認することで、自ら慰めていたのだろう。彼女は家並みのまばらになって行くくすんだ郊外を通過し、それらを見るそばから忘れて行って、やがてワルネスの一つの辻で降りた。矛盾した話だが、彼女の疲労が力となったのだ。なぜなら、疲労のために彼女はその冒険の細部に集中せざるを得なくなり、その根拠や目的を見失ってしまったからである。

 アアロン・レーヴェンタールは、真面目な男で通っており、親しい友人の間では吝嗇家とされていた。彼は、ひとりで、工場の上の階に住んでいた。それはさびれた町外れだったから、彼は泥棒を恐れていた。工場の中庭には大きな犬が飼ってあり、机の引き出しに連発拳銃が忍ばせてあることは誰知らぬ者もなかった。その前年に、彼は思いがけず妻――ガウス家の娘でかなりの持参金を持って来た!――を亡くして仰々しく悲しんでいたが、彼の本当の情熱は金にあった。内心赤面しながらも、彼は自分が金をもうける方よりは貯める方に向いていると心得ていた。彼は非常に信心深かった。そして祈禱や勤行とひきかえに、善行を積まなくてもよいという密約を神と交わしたのだと信じていた。禿げで、肥って、喪服を着け、いぶしガラスの鼻眼鏡をかけ、金色の髭をたくわえたその男は、窓のそばに立って、女工ツンツの密告を待ちかまえていた。

 彼女が鉄の門(彼がそれをあけておいた)を押して、うす暗い中庭を横切って来るのが見えた。鎖でつながれている犬が吠えた時、少し遠廻りするのが見えた。エンマの唇は、低い声で祈りを唱えている人のように、いそがしく動いていた。疲れながらも、それは、レーヴェンタール氏が死の直前に聞くはずの宣告をくり返していたのであった。

 事は、エンマ・ツンツの予想どおりには起らなかった。昨日の明け方以来、彼女は、断固として拳銃をつきつけてこの卑劣漢に卑劣な罪を告白させ、神の正義をして人間の正義に勝たしめるという大胆不敵な計略をあらわにする自分の姿を、何度も夢想していたのだ。(恐怖からではなく、自分が正義の手先であるという理由で、彼女は罰せられることを望まなかった。)それから、胸のど真中にぶちこむただの一発が、レーヴェンタールの運命を封印するだろう。ところが、事はそんな風には運ばなかった。

 アアロン・レーヴェンタールの前に出ると、何としても父の復讐をとげようという思いよりも、自分の受けた凌辱に罰を加えたいという気持の方を強く感じた。かくも綿密に準備された恥の後では、彼を殺さずにおくことは出来なかった。それに、大芝居をうつ暇もなかった。腰かけて、おずおずと、彼女はレーヴェンタールに弁解し、(密告者の特権として)口外しない約束の念をおしてから、いく人かの名前をあげ、なおその他の名前を匂わせ、それからまるで恐怖に負けたかのように口をつぐんだ。こうして、レーヴェンタールが水を一ぱい取りに行くようにし向けることに成功した。彼がその大げさな様子をいぶかりながらも大目に見て食堂から戻って来た時、エンマはすでに引き出しからずっしりした連発拳銃を取り出していた。彼女は引き金を二度引いた。かなり大きな体が、銃声と硝煙に打ち砕かれたかのようにくずおれ、水を入れたコップは砕け散り、驚きと怒りを浮べた顔が彼女を見まもり、その顔の唇がスペイン語イディッシュ語で彼女を罵った。その悪罵はいっこうに弱まらなかったので、エンマはもう一発射たねばならなかった。中庭で鎖につながれた犬が吠えはじめ、猥らな唇からどっと血が噴き出して髭と服を汚した。エンマはあらかじめ用意した告発をはじめた。(「わたしは父の復讐を果したのであり、誰もわたしを罰することは出来ないはずだ……」)しかし彼女は途中でやめた、というのもレーヴェンタール氏はすでに死んでしまったからだ。彼が理解し得たかどうかは、彼女にはついに分らなかった。

 激しい犬の吠え声が、まだ気をゆるめることは出来ないことを彼女に思い出させた。長椅子を乱し、死体の上衣のボタンを外し、ガラスのとび散った鼻眼鏡を取ってそれをファイルのキャビネットの上においた。それから受話器を取り上げて、後に同じ言葉や別の言葉でたびたびくり返すことになったことをくり返した。《信じられないことが起こりました……レーヴェンタールさんがストライキを口実にしてわたしを呼びつけたんです……彼はわたしを辱めました、わたしは彼を殺しました……》

 実際、その話は信じがたかったが、大筋のところは真実だったから、誰にも感銘を与えた。エンマ・ツンツの語調は真実だったし、その恥辱は真実だったし、その憎悪も真実だった。彼女が受けた凌辱もまた真実だった。ただ状況と、時間と、一つ二つの固有名詞だけが虚偽だった。》

 

ボルヘス作品には女性が主人公のものはほとんどない。男性、もしくは男性ではあるが、ほとんど性別はどうでもよいような普遍的人間からなる。たまに女性が登場しても脇役にすぎない。『ブロディーの報告書』の中の「老婦人」のハウレギ夫人も、「決闘」のフィゲロア夫人とマルタ・ピッサロの女二人も、女性性を刻印されていない。ボルヘス自身が女性に対して奥手であり、引っ込み思案であったことも関係しているのかもしれないし、たまたま論じる対象が男だっただけでジェンダーやセックスなどどうでもよいことだったのかもしれない。

 そういう意味では、このエンマ・ツンツという女主人公は、処女を喪失する(セックスの場面もあるが、エロティシズムはない)ということで、まさしく女性として描かれた珍しい作品である。

 

柄谷行人は『批評とポスト・モダン』所収の『唐十郎の劇と小説』で、《滞米中、私はひとが現代の小説について話すのを聞いたことがなかった。例外的に話題になったのはボルヘスである。しかし、ボルヘスが話題になることと、小説が話題にならないこととは同じことである。小説とは、描写であり、風景であり、内部であり、つまるところ認識論的な遠近法であるが、ボルヘスにはそれが一切欠けている。彼の小説は、本についての注釈であり引用なのである。》と書いているが、この『エンマ・ツンツ』には、ボルヘスの小説には一切欠けているはずの《描写であり、風景であり、内部であり、つまるところ認識論的な遠近法》が書き連ねられている。

《ひとりになった時、エンマはすぐには目を開かなかった。ナイト・テーブルの上には、男がおいて行った紙幣があった。エンマは身を起して、前に手紙を破り棄てたように、それを粉々にちぎった。紙幣を破ることは、パンをすてるのと同じ不敬な行為である。エンマはとたんにそれを後悔した。傲慢な行為を、しかもその当日にしてしまうなんて……彼女の恐怖は、肉体の悲しみの中に、嫌悪感の中に消えてしまった。むかつきと悲しみとにがんじがらめになりながら、しかしエンマはゆっくりと起き上って、着物を着ていった。部屋の中には、もう明るい色は残っていなかった。夕闇が濃くなっていた。エンマは誰にも見られずに出て行くことが出来た。通りの角で、西へ行く市内電車に乗った。計画にのっとって、顔を見られないように、最前部の座席をえらんだ。恐らく、単調に動いて行く街並みの中で、さっき起ったことは何も汚しはしなかったのだと確認することで、自ら慰めていたのだろう。彼女は家並みのまばらになって行くくすんだ郊外を通過し、それらを見るそばから忘れて行って、やがてワルネスの一つの辻で降りた。矛盾した話だが、彼女の疲労が力となったのだ。なぜなら、疲労のために彼女はその冒険の細部に集中せざるを得なくなり、その根拠や目的を見失ってしまったからである。》

《彼女は引き金を二度引いた。かなり大きな体が、銃声と硝煙に打ち砕かれたかのようにくずおれ、水を入れたコップは砕け散り、驚きと怒りを浮べた顔が彼女を見まもり、その顔の唇がスペイン語イディッシュ語で彼女を罵った。その悪罵はいっこうに弱まらなかったので、エンマはもう一発射たねばならなかった。中庭で鎖につながれた犬が吠えはじめ、猥らな唇からどっと血が噴き出して髭と服を汚した。エンマはあらかじめ用意した告発をはじめた。》

《激しい犬の吠え声が、まだ気をゆるめることは出来ないことを彼女に思い出させた。長椅子を乱し、死体の上衣のボタンを外し、ガラスのとび散った鼻眼鏡を取ってそれをファイルのキャビネットの上においた。それから受話器を取り上げて、後に同じ言葉や別の言葉でたびたびくり返すことになったことをくり返した。《信じられないことが起こりました……レーヴェンタールさんがストライキを口実にしてわたしを呼びつけたんです……彼はわたしを辱めました、わたしは彼を殺しました……》》

 

・『エンマ・ツンツ』が「時間」と無縁かといえばそうではない。エンマの殺人行為は、分岐し続ける「時間」の内と外を往き来する。

《その午後の出来事を何らかの現実性をもって物語ることは、困難でもあろうし、また恐らく適切ではないだろう。地獄のような経験には非現実性がつきものである。この属性はその恐怖をやわらげもし、また多分一層つのらせもするように思われる。それを行った当人さえほとんど信じられないような行為を、一体どうすれば真実らしく見せることが出来るだろう? 今はエンマ・ツンツの記憶さえ否認し混同しているあの束の間の混沌を、どうすれば再現することが出来るだろう?》

《そういった時間の外の時間の間、その切れ切れのむごたらしい感覚がどうしようもなく乱れている間に、エンマ・ツンツは、この犠牲をうながした当の死者のことを、ただの一度でも考えただろうか? 》

《事は、エンマ・ツンツの予想どおりには起らなかった。昨日の明け方以来、彼女は、断固として拳銃をつきつけてこの卑劣漢に卑劣な罪を告白させ、神の正義をして人間の正義に勝たしめるという大胆不敵な計略をあらわにする自分の姿を、何度も夢想していたのだ。(恐怖からではなく、自分が正義の手先であるという理由で、彼女は罰せられることを望まなかった。)それから、胸のど真中にぶちこむただの一発が、レーヴェンタールの運命を封印するだろう。ところが、事はそんな風には運ばなかった。》

《実際、その話は信じがたかったが、大筋のところは真実だったから、誰にも感銘を与えた。エンマ・ツンツの語調は真実だったし、その恥辱は真実だったし、その憎悪も真実だった。彼女が受けた凌辱もまた真実だった。ただ状況と、時間と、一つ二つの固有名詞だけが虚偽だった。》

 

ドゥルーズが『シネマ2*時間イメージ』の第6章「偽なるものの力能」でボルヘスにまで言及した、可能と不可能の「共不可能性」という時間論は、殺すかもしれないし、殺されるかもしれないし、二人とも死ぬかもしれないし、等々……で、『エンマ・ツンツ』にあてはまる(さらには、後述する作品の『もうひとつの死』にもあてはまる)。

《思想史を振り返ると、時間はつねに真理という観念を危機にさらすものであったことがわかる。真理が時代によって変化するということではない。真理を危機にさらすのは、時間の単なる経験的な内容ではなく、時間の純粋な形態、あるいはむしろ純粋な力である。こうした危機は、古代にあってすでに「不慮の未来」という逆説において明らかになっている。海戦が明日起こりうる(・・)というのが真(・)であれば、次の二つの帰結のうちの一つをいかにして避ければよいのか。つまり、不可能が可能から生じる(というのは、海戦が起これば、もはや起こらなかったことはありえないから)、もしくは、過去は必ずしも真ではない(というのは、起こらないことが可能であったから)という二つの帰結である。この逆説を詭弁といってかたづけるのは容易である。これは逆説であるといっても、真理が時間の形態に対してもつ直接的な関係を考えることの難しさを示しており、真なるものを、実際に存在するものからは隔たった、永遠なるもの、あるいは永遠を模倣するもののうちに閉じ込めることを余儀なくさせる。この逆説に関して、最も巧妙な解決方法を手にするには、ライプニッツをまたなければならないが、彼の解決方法はまた、最も謎めいており、最も屈折したものでもある。ライプニッツによれば、海戦は起こることもありうるし、起こらないこともありうるが、それは同じ世界の中でのことではない。つまり、ある一つの世界では起こり、別の世界では起こらないのであり、この二つの世界は可能であるが、「ともに可能」ではない。それゆえ真理を救済しながらこの逆説を解決するためには、共不可能性(・・・・・)という美しい概念を捏造しなければならない(これは矛盾とはたいそう異なっている)。ライプニッツによると、可能なものから生じるのは、不可能なものではなく、共不可能なものである。そして、過去は必然的に真でなくても、真でありうる。しかし真理の危機はこうして解決されるというよりも、むしろ中断されるだけである。というのも、もろもろの共不可能性は同じ世界に属し、もろもろの共不可能な世界は同じ宇宙に属すると断言することを妨げるものは何もないからだ。「たとえば憑(ファン)は秘密を握っている。見知らぬ誰かがドアをたたく……。憑(ファン)は侵入者を殺すかもしれず、侵入者は憑(ファン)を殺すかもしれない。二人とも一命を取りとめるかもしれないし、二人とも死ぬかもしれないし、等々……。あなたは私のところにくる。でも、可能な様々な過去のうちの一つにおいては、あなたは私の敵であり、別の過去においては友である……」。これがライプニッツへのボルヘスの答えである。つまり、時間の力、時間の迷路としての直線はまた、分岐し、たえず分岐し続ける線でもあり共不可能的な現在(・・・・・・・・)を通って、必然的に真ではない過去(・・・・・・・・・)にもどってくる。》

 

・ところで、エンマ・ツンツもまたある種の悪党なのではないか。イシドロ・クルスや、『もうひとつの死』のダミアンのような、いわくありげな男たちではなく、女工の少女であっても。『まねごと』の、ペロンとエヴィータへの「完璧な仕上げの工藝品」のような私怨の晴らし方を、小説を書けない少女は、自らの処女性と銃とで暴力的に果たしたのだ。

 ボルヘス批評はどれも同じように、「時間」「無限後退」「永遠」「鏡」「不死」「迷宮」「図書館」といった惑星として軌道を廻り続けるのが常だが、ポール・ド・マンは「現代の文豪――ホルヘ・ルイス・ボルヘス」で、《ボルヘスは難解であり、どこに位置づけるべきかきわめて困難な作家なのだ。批評家が適切な比較事項をあれこれ捜し求めても、その試みは徒労に終わるのである。》としたうえで、「悪党」「暴力」という卓抜な惑星を発見する。

《とりわけ初期作品についていえることだが、ボルヘスは悪党のことを書いているのだという点は、誰もが認めるはずである。たとえば短篇集『汚辱の世界史』では、実に魅力的な悪漢が一堂に会している。しかしながらボルヘスは、悪党という主題が道徳的なものであるとは考えていない。ここに収録されている短篇群から示唆されるのは、いかなる意味においても社会や人間性、人間の運命といったものに対する告発などではないし、ジイドのニーチェ的主人公ラフカディア(『法王庁の抜け穴』に出てくる若者)のごとき気楽な観点でもない。彼の作品における悪党とは、審美学的、形式論的原理として機能しているものである。(中略)

 厖大なるボルヘスの文学作品群を構成している短篇小説は、カフカの作品とは違い、道徳的寓話などではないのである。ボルヘスカフカと比較されることが多いが、それは誤りであろう。ボルヘスの作品が心理分析を試みたものであるはずがない。一番近い文学上の類比でいうならば、彼は実体験ではなく知的命題を再提出=表象しているという点で、十八世紀の「哲学的短編小説」の系譜に近いといえるだろうか。『カンディード』[ヴォルテール作・一七五九年]と『ボヴァリー夫人』[フロベール作・一八五六年]から、同種の心理洞察や直接的個人体験を期待するのは間違っていよう。そしてボルヘスの作品は、一九世紀小説よりヴォルテールを読む際に似た期待を抱きながら読むべきものなのだ。(中略)

 おそらくボルヘスが才気溢れる作家であるため、彼の創り出した鏡の世界には、常にアイロニカルではあるが、深遠なまでに無気味な雰囲気が漂うのであろう。『汚辱の世界史』のようにきな臭さの漂うものから、のちの『伝奇集』における暗く荒れ果てた世界まで、恐怖の影にはさまざまあるが、『創造者』では暴力がいっそう荒涼かつ陰鬱なものになっている。ボルヘスが生まれ育ったアルゼンチンの雰囲気に近づいてきているのであろうか。(中略)彼の初期作品における鏡の技法には、時間が無限という無形の空虚の中に永久(とわ)に没入するのを堰き止めんとする意図が表象されていた。すなわち文体とは、哲学者の思索と同様、不死を求める営みなのだ。だがこの試みは、失敗に終わらざるを得ない。ボルヘスがお気に入りの作品であるトマス・ブラウンの『壺葬論』(一六五八年)から引用するならば、「物事を仮初(かりそ)めにしか惟(おもんみ)ぬ、時間という阿片の解毒剤などないのである」。だがこれは、先にも述べた、詩人が現実に対して用いているトリックと同じものを、ボルヘスの神が詩人に仕掛けているからということではない。神とは実は、人を永遠という幻想に騙し導く悪党の頭(かしら)であった、ということではないのである。邪(よこしま)な詐術にひそむ詩的衝動とは、人のみぞ有している、人をして本質的に人間なのだということを指し示すものなのだから。しかしながら神は、詩が失敗に終わったことの証しとなる死という形をとり、現実そのものを支配する権力としての舞台に登場する。それこそが、ボルヘスの全作品に暴力という主題があまねく窺われる奥深い理由なのである。》

 

<『もうひとつの死』>

《たしか二年ほど前、(その手紙はなくしてしまったが)ガノンがグワレグワイチュの農場から、ラルフ・ウォルドー・エスマンの『過去』という詩篇の、恐らく最初のスペイン語訳を送るという手紙をよこし、追伸に、わたしも多少は覚えているはずのドン・ペドロ・ダミアンが、数日前の夜肺充血で死亡したと書き添えてあった。熱に浮かされたその男は、譫妄状態の中で、マソリェールの戦いの血なまぐさい一日を再び生きたという。その知らせは何ら驚くにあたらなかったし、異常とも思えなかった。なぜなら、ドン・ペドロは、十九か二十の頃から、アパリシオ・サラビアの旗の下に馳せ参じていたからだ。一九〇四年の革命が勃発した時、彼はリオ・ネグロかパイサンドゥの農場で作男として働いていた。ペドロ・ダミアンはエントレ・リーオス州のグワレグワイチュの出身だったが、仲間について行き、彼ら同様無知で向う意気が強かったから、叛乱軍に加わったのである。彼は一、二度小ぜり合いを経験してから、最後の戦闘に加わった。一九〇五年に帰郷すると、謙虚に黙々と、再び野良仕事に精を出した。わたしの知る限り、彼は二度と故郷の州を出ていない。そして死ぬまで三十年というもの、ニャンカイから十キロばかりの一軒家に住んでいた。その人里はなれた所で、一九四二年頃、わたしは一夕彼と会話をまじえた(一夕彼と会話をまじえようとした)。彼は無口で無教養な男だった。マソリュールの戦いの喧騒と怒号が、彼の一生を使い切ってしまった。だから、死の時にそれを再び生き直したと聞いても私は驚かなかったのだ……もう二度とダミアンに会えないと知って、わたしは彼を思い出そうとした。が、わたしの視覚的記憶は余りに薄かったので、わずかに思い出すことが出来たのは、ガノンが撮った一枚の写真の面影だけであった。彼に会ったのは一九四二年の初頭に一度限りであり、写真の方は何度も見ていることを考えれば、この事実には何の不思議もない。ガノンがその写真を送ってくれたのだが、それもなくしてしまったし、今となっては探す気もない。もし出くわすことがあれば、恐怖を感じるだろう。

 第二のエピソードは、数か月後モンテビデオで起る。ドン・ペドロの高熱と苦悶が、マソリェールの敗戦にもとづく幻想物語をわたしに思いつかせた。その概況を聞いたエミール・ロドリゲス・モネガルが、その戦闘に参加したディオニシオ・タバーレス大佐に紹介状を書いてくれた。大佐はある日の夕食後にわたしを迎えた。彼は中庭の揺り椅子に坐って、前後の脈絡なく、しかし往時をいとおしみながら思い出を呼びおこした。ついに届かなかった弾薬のこと、疲れきって到着した騎兵隊のこと、埃だらけで半分眠りながらじぐざぐの迷路を織りつつ行進する兵士たちのこと、モンテビデオにはいることも出来たはずなのに、「ガウチョは都市をこわがるから」という理由で進路を変えたサラビアのこと、首をちょん切られた男のこと、わたしには両軍の激突というよりは牛泥棒や山賊の夢のように思える内戦のこと。イリュスカス、トゥパンバエ、マソリェールといった戦場の名前が続いた。彼はそれを実に効果的な間をとって眼前に彷彿とさせるので、同じことを何度もくり返し語ったにちがいないことが分り、その言葉の裏には、真実の記憶がもはやほとんど残っていないのではないかとさえ思われた。彼がちょっと息をついた時、わたしはどうにかダミアンの名をはさむことが出来た。

「ダミアン? ペドロ・ダミアンかね?」と大佐は言った。「あれはわしの部下だったよ。ちっこい混血でね、みなはダイマンと呼んでいた――川の名にちなんでな。」大佐はいきなり大声で笑い出し、それから、又急に笑いやんだが、そのぎこちなさは、真実のものかみせかけのものか分らなかった。

 ここで声の調子を改めた彼は、戦争というものは女と同じで、男にとっての試金石となるのだから、戦火をくぐるまでは、自分が何者なのか誰にも分りはしないのだ、と言った。自分は臆病だと思っていた者が、実際は勇敢だったり、又その逆に、白人を示す白リボンをひめらかして酒場あたりをのし歩いていたくせに、後になってマソリェールでは、腰抜けを暴露したあのあわれなダミアンのような者もある。常連との撃ち合いの時は男らしく振舞ったが、いざ軍隊同士が真正面からぶつかって砲撃がはじまり、誰もが、まるで5千人の敵兵が自分一人をめがけて殺到して来るような気がする戦場では、全く別問題になる。あわれな雑種さ。それまでずっと農場で羊を消毒液に浸ける仕事をして暮して来たのが、突然あんな激烈な行動に引きずりこまれたんだから……

 馬鹿げたことに、タバーレスの話を聞いている中、わたしは居心地の悪い思いがして来た。もっとちがった風にことがおこってほしかったと内心望んでいたのだろう。無意識の中に、何年も前に一夕会ったきりの老ダミアンから、わたしは一種の偶像を仕立て上げていたのだ。タバーレスの話はそれを打ち砕いた。突然、ダミアンが孤立し、頑なに自分の殻に閉じこもっていた理由が読めた。それはつつましさからではなく、恥ずかしさから来たものだったのだ。卑怯な行為をしたという悔恨に責められている男の方が、単に向こう見ずな男よりずっと複雑で興味があるものだ、とわたしはむなしく自分に言いきかせた。ガウチョのマルティンフィエロより、ロード・ジムやラズーモフの方が、より心に残る。そのとおりだ、とはいえ、ダミアンは、ガウチョとして、マルティンフィエロとなるべきだったのだ――とりわけ、ウルグワイのガウチョたちの前では。タバーレスの言葉の表裏に、いわゆるアルティギスモの野趣が感じられた。即ち、ウルグワイの方がわがアルゼンチンより素朴であり、したがってより勇猛であるという(恐らく論駁しがたい)信念が……その夜、わたしたちは、いささか誇張した親愛の情をこめて、別れの挨拶を交したのを覚えている。

 その冬、わたしの幻想物語(それはどういうものかなかなか体をなさなかった)に、一、二の状況が必要だったので、再びタバーレス大佐の家を訪ねることになった。彼はもう一人同年輩の紳士と一緒だった。バイサンドゥから来たフアン・フランシスコ・アマーロ博士とかいう人物で、彼もまたサラビア将軍の革命に参加したという。当然、話はマソリェールのことになった。アマーロは二、三の挿話を語ってから、ゆっくりと、声に出して考えている者の調子でつけ加えた。

「サンタ・イレーネで夜営をしたのを覚えていますが、そのあたりの男が数人、われわれに合流しました。その中に、戦闘の前夜に死んだフランス人の獣医と、エントレ・リーオス出身の、ペドロ・ダミアンとかいう若い羊毛刈り(エスキラドール)がいましたな」

 わたしは鋭くさえぎって口をはさんだ。「ええ、知ってます。弾丸の前でおじけづいたアルゼンチンの男でしょう」

 わたしは言葉を切った。二人が当惑したようにわたしを見ていたからだ。

「それはちがいますよ、あなた」としばらくしてアマーロが言った。「ペドロ・ダミアンは、男なら誰でもうらやむような死に方をしました。午後の四時頃でした。正規軍の歩兵部隊が丘の上の塹壕にたてこもっているところを、わが軍が槍で攻撃したんです。ダミアンは喊声(かんせい)をあげて先頭を切りました。その時、一発の弾丸が胸のどまんなかを貫いたんですよ。彼はあぶみにつっ立ち雄叫びを終えるや、どうと地面に転げ落ち、多くの馬蹄にかけられました。そしてマソリェールの最後の総攻撃は、彼の屍を踏みこえて行われたのです。それほど大胆不敵な奴でした。しかも二十(はたち)そこそこでね」

 彼が話したのは、疑いもなく、別のダミアンのことだ。が、わたしはふと、その若者は何と叫んでいたのかと訊く気になった。

「悪態だよ」と大佐が言った。「突撃の時はそういうもんだ」

「多分ね」とアマーロが言う、「しかし、奴はこうも叫んでいましたよ、《ウルキーサ万歳!》とね」

 わたしたちは黙りこんでしまった。がようやく大佐がつぶやいた。「どうもわれわれは、マソリェールではなくて、百年も前に、カガンチャかインディア・ムエルタで戦ったような気がしますな。」彼は心底困惑した様子でつけ加えた。「わしはあの部隊の指揮をとっていたんだが、そのダミアンとかの話を聞くのは誓ってはじめてなんだ」

 大佐にダミアンのことを思い出させることはづしても出来なかった。

 彼の記憶喪失がわたしにひきおこした驚愕は、その後ブエノス・アイレスでもう一度くり返されることになった。ある午後、英語の本を扱うミッチェル書店の地階で、エマスンの作品集の喜ばしい第十一巻をぱらぱらとめくっていると、パトリシア・ガノンに出会ったのである。わたしは『過去』の翻訳のことをたずねた。すると、そんな翻訳は考えてもいない、大体スペイン文学だけでうんざりなので、エマスンなぞはよけいなことだと言うのだ。わたしは、彼がダミアンの死を知らせてくれた同じ手紙で、翻訳を送ると約束したことを思い出させようとした。すると彼は、ダミアンとは誰だと訊く。いくら話しても無駄だった。彼がひどく怪訝な顔つきで聞いているのに気がつくと、恐怖の念がきざして来たので、わたしは、あの不幸なポーよりもはるかに複雑で技巧的で、明らかにずっと独特な詩人エマスンを誹謗する人びとを話題にした文学談義に逃げこんだ。

 いくつかの事実をつけ加えておかねばなるまい。四月に、ディオニシオ・タバーレス大佐から手紙を受取った。彼の記憶の霧がはれて、マソリェールの攻撃の先鋒となりその夜丘の麓に埋葬された、エントレ・リーオス出身の若者を、今ははっきり覚えているという。七月、わたしはグワレグワイチュを通った。ダミアンの小屋は見当らなかったし、彼を覚えている者も今はないようであった。ダミアンの死を看取った牧場番人のディエゴ・アバローア自身も冬のはじめに亡くなっていた。わたしは何とかダミアンの容貌を思い出そうとしてみた。数ヵ月後、古いアルバムをくっていた時、わたしが喚起しようとしていたあの浅黒い顔は、実はオセローを演じている有名なテノール歌手、タンベルリークのそれだったことに気がついた。

 さて、ここでいくつかの推測に移るとしよう。最も容易だが、同時に最も不満足な推測は、二人のダミアン――一九四六年頃エントレー・リーオスで死んだ臆病者と、一九〇四年にマソリェールで死んだ勇士――を想定することである。しかし、この推測の欠陥は、タバーレス大佐の記憶の奇妙な変動、それほど短時日に、あの戦闘の生き残りの姿どころか名前まで拭い去った健忘症という、全く謎めいた事実を説明出来ない点にある。(第一の男がわたしの夢想だったという、より単純な可能性は、受入れることが出来ないし、受入れたいとも思わない。)それよりもっと奇妙なのは、ウルリーケ・フォン・キュールマンが考えた超自然的推測である。ウルリーケによれば、ペドロ・ダミアンはその戦闘で戦死した、が、息を引き取る時に、エントレ・リーオスに返して下さいと神に祈った。神はその願いを聞き届ける前に一瞬ためらわれた。その間にその男は死んでしまい、倒れるところを人に見られた。神は、過去を作り変えることは出来ないが、過去のイメージを変えることは出来るので、ダミアンの非業の死というイメージを、失神のそれに切りかえたのだ。こうしてエントレ・リーオスの若者の霊が故郷に帰ったのである。帰ったにはちがいない、が、霊の身であったことを忘れてはならない。それは、女もなく友もない孤独の中に生きた。それはあらゆるものを愛し所有した、しかし距離をおいて、あたかも鏡の向う側からのようにそうしたのである。ついにそれは「死んだ」、そしてその希薄なイメージは、水が水に溶けるように消失してしまった。この推測には誤りがある。しかし、多分これがわたしに真実の仮説(今わたしが真実と信じている仮説)を暗示したのだ。それはより単純であると同時に、より前代未聞のものであった。まるで魔法のように、わたしはそれをピエトロ・ダミアーニの論文『全能について(デ・オム・ニポテンテイア)』の中に発見したのだが、そこに至る契機は、正しくダミアーニの自己証明の問題が提起されている『天国篇』第二十一歌の二行を読んだことにあった。その論文の第五章で、ピエトロ・ダミアーニは――アリストテレスやトゥールのフレデゲールに反して――神はかつて存在したものを存在しなかったものにすることが出来る、と主張している。こうした昔の神学論争を読んでいる中に、わたしはドン・ペドロ・ダミアンの悲劇的生涯を理解しはじめたのである。

 わたしの解答はこうである。ダミアンはマソリェールの戦場で臆病者のような振舞いをした。そこで余生をその恥ずべき怯懦を修正することに捧げた。エントレ・リーオスに戻った。誰に対しても手をふりあげず、誰一人傷つけず、勇士の名誉も求めず、ただニャンカイの僻地に住んで、茨や野生の牛と格闘しておのれを鍛えた。確かにそれとは気づかずに、奇蹟を準備していたのだ。彼は心の奥底で、「もし運命がもう一度おれを戦場にかりたてるなら、今度こそ堂々と戦うぞ」と誓っていた。四十年というもの、秘かな希望を抱いて彼は待ちに待った。そしてようやく臨終(いまわ)の際に、運命は戦いをもたらしたのだ。それは譫妄状態をとって訪れた、というのも、ギリシア人が夙に知っていたように、われらは夢の影に過ぎないからである。断末魔に、彼はあの戦闘を再び生き、男らしく振舞い、最後の総攻撃の先鋒を切っている時、胸の真中に弾丸を受けた。かくして、一九四六年、長い艱難辛苦の後にペドロ・ダミアンは、一九〇四年の冬から春への間に起きたマソリェールの敗戦において死んだのである。

神学大全』には、神が過去を作り変えることは不可能とされているが、原因と結果との錯雑した連鎖関係については言及がない。その関係はあまりにも広くまた密接であるために、たとえとるに足らぬと思えるたった一つの(・・・・・・)昔の事実も、現在を無効にすることなく抹消するのは不可能だろう。過去を修正することは、ただ一つの事実を修正することではない。それは、無限に及ぼうとするその事実の結果を抹消することになる。換言すれば、それは二つの世界史を創ることになるのだ。たとえてみれば第一の歴史においては、ペドロ・ダミアンは一九四六年にエントレ・リーオスで死に、第二の歴史においては、一九〇四年にマソリェールで死んだのである。われわれが今生きているのはこの第二の歴史の方だが、第一の方の抹消がすぐに行われなかったために、これまで述べて来たような奇妙な矛盾が生じたのであった。ディオニシオ・タバーレス大佐の脳裡には、さまざまな局面が継起した。最初、彼はダミアンが腰抜けのように振舞ったことを思い出した。次に、全く記憶を失った。それから、その壮烈な死を思い出したのである。牧場番人アバローアの場合も納得がゆく。思うに、彼はドン・ペドロ・ダミアンについて天地にも多くの記憶を保持していたが故に、死ななければならなかったのだ。

 わたし自身に関しては、同様の危険を冒しているとは思わない。なるほどわたしは、人間の理解を絶する推移、理性の中傷とでもいうべきものを推測し記録して来た。しかし、わたしのこのような特権行使のはらむ危険は、ある情況によって弱められている。現在のところ、わたしは常に真実を書いて来たという保証をもたない。わたしの物語の中には、いくつかの記憶違いがあるのではないかと思う。ペドロ・ダミアンは(もし実在するとして)、ペドロ・ダミアンという名ではなかったのではないか、さらにわたしが彼をその名で記憶しているのは、いつの日か、この物語全体がピエトロ・ダミアーニの論文によって暗示されたものだと信ずるためではなかったのか、と思われるのだ。似たようなことが、冒頭に言及した、過去の改変不能をうたった詩についてもあてはまる。今から数年後の一九五一年頃には、わたしは一個の幻想物語を作り上げたと信じているだろうが、その実、実際に起った出来事を記録したことになるだろう。丁度、二千年ほど前に、何も知らないヴァージルがある男の誕生を記録したと信じながら、キリストの誕生を予告していたように。

 哀れなダミアン! 二十歳の時に、悲劇的でしかも世に知られぬ戦争の局地戦で、死が彼を連れ去った。しかし、彼は心底から望んでいたものを手に入れたのだ。手に入れるまでには長い時間がかかったとはいえ、恐らくこれにまさる幸福はあり得ない。》

  

・この作品も『ボルヘスとわたし』にあって「著者注釈」を読める(なにもボルヘスの「著者注釈」に限ったことではないが、小説作品そのものより面白くないのは、冗長だからか、説明的であることによって詩、秘儀が凡庸に切り下がり、決して読みを深めをしないのは、ある種の定理ともいえる)。

《すべての神学者が、神による一つの奇蹟――過去を取り消すという奇蹟――を否定していた。ところが、十一世紀の大司教ピエトロ・ダミアーノは、ほとんど想像し難いその力を神に与えている。これからヒントを得たわたしは、卑近なやり方で同様の離れ業を試そうとする科学者についての物語を書いたことがある。彼は二個の黒い球を上段の引出しに、そして三個の黄色い球を下段の引出しにしまい、長年の苦行の末、それらの球が場所を変えているのを見出すというのである。わたしはすぐに、こんな単純な奇蹟など意味がないと思うようになり、何かもっと劇的なことを考え出さねばならなかった。そして、まさに死に直面して、無意識のうちに、そのような奇蹟に到達することになる平凡な男を思いついた。アパリシオ・サラビア(ウルグアイの軍人、政治家、一八五五~一九〇四)の革命は子供のころからわたしの空想をかきたてていたので、僻地におけるその内乱を背景として利用し、基本的美徳としてのガウチョ的な勇気とわたしの形而上学的な意図を結合する方法を考え出した。こうして生まれたのがこの物語であり、これは当初、『贖(あがない)』と題されていた。

 文学的配慮のため、この物語では奇蹟は四十有余年の歳月を待って実現される。ペドロ・ダミアンの過失は、彼がアルゼンチン兵士としてただ一人、ウルグワイ人たちの間にいたがゆえに、その体面上、いっそう屈辱的な耐え難いものであった。しかし最後にダミアンは、久しく渇望していたように、攻撃の先鋒を(・・・・・・)切っている時に(・・・・・・・)胸を撃たれて死ぬ(・・・・・・・・)。もしこれが現実に起ったことだとしたら、兵隊仲間は、一兵士の死といった小さな事実に留意することなどなかったであろう。

 冒頭でエマソンの詩に言及したのは、主として二つの理由による。第一には、単にわたしがその美しさを称賛しているからであり、第二には、もし読者がその詩を手にするような時――その詩は過去の変更不可能性を強く表現したものだから――この物語との関連あるいは対照に思いをはせていただくためである。

 友人の本名を虚構の中にとり入れるのは、わたしの大好きな手口(・・)である。もう一つの死」の中には、ウルリーケ・フォン・キュールマン、パトリシオ・ガノン、そしてエミール・ロドリーゲス・モネガルなどの名前が見られる。》

 

ボルヘス『語るボルヘス』の「不死性」から。

《われわれにとって自我というのは取るに足りないものであり、自意識など何の意味もありません。私が自分をボルヘスだと感じ、あなた方がそれぞれ自分自身をA、B、あるいはCだと感じたとしても何の違いがあるでしょう。違いなどありません。そうした自我というのはわれわれ全員が共有していて、何らかの形ですべての被造物のうつにあるものなのです。したがって、個人のそれではなく、もうひとつのあの不死性は必要不可欠なものだと言えるでしょう。たとえば、ある人が自分の敵を愛したとすると、その時キリストの不死性がよみがえってきます。その瞬間、その人はキリストになるのです。われわれが、ダンテ、あるいはシェイクスピアの詩を読み返したとします。その時、われわれは何らかの形でその詩を創造した瞬間のシェイクスピア、あるいはダンテになります。ひとことで言えば、不死性は他人の記憶の中、あるいはわれわれの残した作品の中に生き続けることなのです。その作品が忘れ去られたとしても、気にすることはありません。》

《最後に、私は不死を信じていると申し上げておきます。むろん個人のそれではなく、宇宙的な広がりをもつ広大無辺の不死です。われわれはこれからも不死であり続けるでしょう。肉体的な死を越えて、われわれの行動、われわれの行為、われわれの態度物腰、世界史の驚くべき一片は残るでしょう。しかし、われわれはそのことを知らないでしょうし、知らない方がいいのです。》

 

ボルヘス『語るボルヘス』の「時間」から。

《時間をどうしても無視できないのは、それが本質的な問題だからだ、と私は言いたいのです。われわれの意識は絶えずある状態から別の状態へと変化していきますが、それが継起、つまり時間なのです。時間は形而上学のもっとも肝要な問題である、と言ったのはたしかアンリ・ベルクソンだと思います。もしこの問題が解決されていたら、おそらくほかのすべての問題も解決されていたことでしょう。しかし、幸いなことにこの問題が解決される気遣いはないようですから、今後もこの問題に取り組むことができそうです。《時間とは何か、そう訊かれなければ、何であるか分かっているのに、人から尋ねられたとたんに分からなくなってしまう》と聖アウグスティヌスは言っていますが、われわれはこれからもこの言葉を繰り返し使うことができると思います。

 時間に関してはこれまで二十世紀、あるいは三十世紀にわたって考察が続けられてきましたが、大きな進歩があったとは思われません。私は決まって、「人は二度同じ川に降りていかない」という言葉に戻っていくのですが、この言葉を書いた時、ヘラクレイトスはどれだけ困惑を覚えたことでしょう。今でもわれわれは、時間の問題について思索を巡らせると、あの古代の哲学者と同じ思いにとらわれます。なぜ人は二度同じ川に降りていかないのでしょう? ひとつは川の水が絶え間なく流れ去っていくからであり、もうひとつはわれわれ自身もまた川、つまり移ろい、変化していく存在だからです――この考えは、形而上学的な意味でわれわれの心を打ち、畏怖の念を起させるもとになります。時間の問題とはそのようなものなのです。つまり、逃れ去っていくものの問題であり、時は移ろっていくのです。ここで思い出されるのが、ボワロー(ニコラ・ボワロー=デプレオー、一六三六~一七一一.フランスの詩人)の「何かが自分から遠ざかった瞬間に、時は流れる」という美しい詩句です。》

 

ボルヘスと親交のあったアルゼンチンの作家エルネスト・サバトは、評論集『作家と亡霊たち』の『二人のボルヘス』で、辛辣な批評を展開した。なにもサバトの文学観、予言を尊重する必要はないが、ここにあげた三作品は、下記に一部引用するサバトの批判と求めを乗り越えて、「後世に残るボルヘス」に違いない。

《そしてボルヘス、肉体と感情を持ち、肉体のもろさを劇的なまでに痛感していたボルヘスは、多くの芸術家(それに多くの若者)と同じく雑踏のなかで秩序を、不安のなかで安らぎを、不幸のなかで平和を求め、プラトンの手を借りて絶対的宇宙に近づこうとした。そして作品のなかで菱形の部屋や図書館や迷宮に住む亡霊たちを時間から切離し、そこに言葉を通してしか生きることも苦しむこともない世界――苦しみとは時間と死に他ならない――を作り上げたのである。ボルヘスの作品は現実の向こうにある大理石の世界を象徴する。時として彼は、偉大な文学にふさわしいのは純粋精神の領域だけであると考えているように見える。実際には偉大な文学の名に値するのは、不純な精神、すなわちプラトン的天上世界に生きる亡霊ではなく、このヘラクレイトス的混沌の世界に生きる人間を扱った作品に他ならない。人間の特性は純粋精神などではなく、暗闇に引き裂かれた心の部分、人間の存在にとって最も重大なことが起こるこの領域なのである。愛、憎しみ、神話、フィクション、希望、夢、どれ一つとして厳密な意味で精神に属するものではなく、すべて思想と血、意識的な力と盲目な衝動が暗い色で熱く混ざりあったものである。苦悩に満ちた曖昧な心は肉体と理性に引き裂かれ、死すべき肉体の情熱に囚われながらも、精神の永遠を求めることをやめず、相対と絶対、堕落と不死、悪魔と神の間を常にさまよい続ける。芸術と詩はその混乱した領域から、他ならぬ混乱を土台に生れてくる。神は小説を書かない。

 だからこそ ボルヘスプラトン的アヘンは役に立たない。すべてが遊び、まやかし、子供じみた逃避に見えてしまう。哲学や科学があの理想世界こそ本物だといくら言い張っても、我々にとっては現世だけが不幸と幸せを与えてくれる本物の世界なのである。我々の肉体と、唯一本物の精神、つまり肉体を伴った精神が日々生き抜いているのは、血と火と愛と死でできたこの現実世界以外にはないのである。》

《時間の進行を否定した後でボルヘスは(美しく感動的に)こんなことを書く。「それでも、それでも……時間の経過や自己、そして宇宙の存在を否定することは、一見絶望のように見えても実はひそかな慰めを伴う……私は時間で出来ている。時は私を押し流す川だが、私もまた川である。私を噛み砕く虎だが、私もまた虎である。私を焼き尽くす火だが、私もまた火である。不幸にも世界は本当に存在するし、不幸にも私はボルヘスなのである。」

 この最後の告白をするボルヘスこそ我々の求めるボルヘスであり、真に作家の名に値するボルヘスだ。ブエノス・アイレスの黄昏や幼児期の中庭、場末の通りといった貧相ではかないが極めて人間的なことを詠った詩人、これが(予言してもいい)後世に残るボルヘスなのだ。信じてもいない哲学や神学を軽々しく弄んだ後、輝きには欠けるが確かなこの世界、誰もが生まれ、苦しみ、愛し、死ぬこの世界へと戻ってくるボルヘス、記号でしかないレッド・シャルラッハ(筆者註:ボルヘス『死とコンパス』の殺し屋)が幾何学的に罪を犯す任意の町Xではなく、我々が生きて苦しむ愛憎にまみれた町、薄汚れてくすんだ、この本物のブエノス・アイレスに生きるボルヘスなのである。》

 

                               (了)

        *****引用または参考*****

*『筑摩世界文学大系81 ボルヘスナボコフ』(『伝奇集』、『エル・アレフ』、『ブローディーの報告書』篠田一士訳所収)(筑摩書房

*J・L・ボルヘス『創造者』(『まねごと』所収)鼓直訳(岩波文庫

*J・L・ボルヘスボルヘスとわたし――自選短篇集』牛島信明訳(ちくま文庫

*J・L・ボルヘス『続審問』中村健二訳(岩波文庫

*J・L・ボルヘス『語るボルヘス木村栄一訳(岩波文庫

*J・L・ボルヘスエバリスト・カリエゴ』岸本静江訳(国書刊行会

*『ボルヘスの世界』(清水徹「ひとつのボルヘス入門」所収)(国書刊行会

野谷文昭編『日本の作家が語る ボルヘスとわたし』(岩波書店

*『すばる』1999年9月号(ポール・ド・マン「現代の文豪──ホルヘ・ルイス・ボルヘス」橋本安央訳所収)(集英社

ミシェル・フーコー『言葉と物――人文科学の考古学』渡辺一民佐々木明訳(新潮社)

*G・ドゥルーズ『差異と反復』財津理訳(河出文庫

*G・ドゥルーズ『シネマ2 時間イメージ』宇野邦一他訳(法政大学出版局

*ジェイムズ・ウッダル『ボルヘス伝』平野幸彦(白水社

モーリス・ブランショ『来るべき書物』粟津則雄(ちくま学芸文庫

丸谷才一『無地のネクタイ』(『私怨の晴らし方』所収)(岩波書店

エルネスト・サバト『作家とその亡霊たち』(『二人のボルヘス』所収)寺尾隆吉訳(現代企画室)

文学批評 『花柳小説名作選』を読む(3) ――舟橋聖一『堀江まきの破壊』

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舟橋聖一『堀江まきの破壊』>

 

《追ひ追ひに、ものが復興してくる中に、却て、昔より一歩乃至(ないし)数歩をすゝめたと思はれるものもあれば、どうしても、昔のものに及び難い、どこかで、今一つ、気が足りないといふものもある。これは、作る側で、工夫が足りないといふよりも、受ける側で、どこまでも、最高のものでなければ承知しないといふ精神が不足してゐるために、その逆作用がはたらいて、作る側にも、それだけの気魄(きはく)が、こもらぬといふ結果になるからであらう。

 芸術作品などは、むろん、さうだが、芸術品でなくとも、日常品や実用品でも、それを使用する側の精神が、微妙に働くことを見逃すわけにはいかない。着るもの、食べるもの、なども同じ道理である。

 しかし、一方、破壊されてしまったものもある。もとへ戻る余地は、殆ど、ありえないといふ状態にまで。

 堀江まきも、破壊された一人であらうか。つい、最近、彼女を見かけたといふ人の話に、彼女は、もう五十に手がとゞくといふのに、二十三、四の、息子より若い程の、復員青年と恋におちて、裏長屋のやうな家で、暮してゐるといふことであつた。

 堀江まきの破壊といふことを、端的につかむには、丁度、歌舞伎の破壊といふやうな現象になぞつて考へてみるのが、近道のやうだ。といふのは、どんな歌舞伎の心酔者ですらが、歌舞伎の破壊には、一種の痛快感を否めないからである。

 それは、日本芸術の代表のやうにいはれ、絢爛(けんらん)たる劇場を独占し、多数の、しかも上流のファンに支持されてゐることへの反感といふ類(たぐひ)のものではない。実際は、あまりにも、現代からかけ離れたロマンチックな匂ひのするものを、一応、雛壇から引きおろし、戦争に負けた日本のリアリティの中で、それに耐へられるホンモノかどうかの気合ひをかけてみたいといふやうな一般的関心事の中に、それはある、からである。》

 

・『名作選』の丸谷才一野口冨士男の対談から。

丸谷 相撲買いの小説っていうのは、ないですね。

野口 ありませんね。相撲じゃ小説にならないのかな(笑)。

丸谷 舟橋聖一さんなんか、芸者の相撲買いを書いたら、面白かったんじゃないかな。

野口 舟橋さんは相撲が好きで、歌舞伎が好きで、女遊びも花柳界だったのに、花柳小説といえるものが少ないんですよね。これもぼくの不思議のひとつなんですが、あの人の場合は、良家の娘で淫奔な女の主人公みたいなのが多い。

丸谷 『堀江まきの破壊』を、ぼくは苦心の末に探し出したんです。これは前半が非常にいいですね。

野口 そうですね。舟橋さんは岩野泡鳴を尊敬していたんでしょうけど、共通点はどこかというと、二人とも小説のなかで演説をする(笑)。この短編も演説から始まっているでしょう。ほかの人なら描写から始めるところなんでしょうが、そこが舟橋さんなんですね。》

・ここで「破壊」という言葉の遣い方は、「歌舞伎の破壊」の例を読んでも端的につかみにくい。ただ、「負」の側面ではなく、ホンモノを目指しての「精算」「ゼロ・リセット」「白紙化」に近く、従って悲惨ではなく「痛快」である。

 

《堀江まきは、今から、三十何年前、葭町(よしちょう)から、小稲と名のって、半玉(はんぎょく)の披露目(ひろめ)をした。二流地の葭町でも、当時は躾(しつけ)がきびしく、御座敷で、お客様と一緒に、ものを食べたりしたら、どやされたものである。その代り、半玉のうちから、蔭をかせぐことを強要されたりはしないですんだ。行儀作法はやかましかつたが、商売上の苦労は、何もなく、九時をすぎると御座敷にゐても眠くなつて、こつくりさんが出る位だつた。大ていの御座敷が、みなお母さんの、お遊と一緒であつた。小稲だけ呼ばれることはなく、時に、さういふお名ざしでかゝることがあつても、用心して、ことわつてゐた。お遊は、押しも押されもしないこの土地の大姐(おほねえ)さん株で、常磐津(ときはづ)の地(ぢ)をひかしたら、新橋にも柳橋にも、歯の立つ者はゐないだらうと、いはれた。小稲は、恐らく最近まで、このお遊を、真実の母と思ひこんでゐたのだらうが、古いわけを知る者にきくと、お遊には子供がなく、小稲を藁(わら)の上から貰ひうけて育てたのだともいひ、又、お遊の旦那が、よそ土地の芸者と浮気をして出来た子を、三つの時に、引取つて、自分の子に直したのだともいふ。

 したがつて、堀江まきの出生は、誰にもわかつてをらない。

 しかし、たとへ義理の仲にしろ、小稲には、さうした大きな庇護と背景があるのだから、どんな時でも、お茶をひく心配はない。気ずゐ気まゝの商売で、二月八月の、霜枯れ、夏枯れには、熱海(あたみ)だの伊香保(いかほ)だのとお遊につれられて、長滞在をしても、別段に、カレコレいはれることはなかつた。看板のわるい家の子が、反感の目を向けるぐらゐのもので、それも、平然として、黙殺すれば、却て、相手を縮み上らせるだけである。

 小稲は、六歳の時から、藤間政弥について踊りを習つた。政弥おしよさんの教授ぶりは、厳格であつた。然し、小稲の芸はすく/\と伸びて、天才的なところがあつたから、この稽古所通ひも、小稲にとつては、大した苦でもなかつた。葭町へ出てからも、むろん、踊りの小稲で売り出してゐた。春秋の大ざらひにも、お遊の七光りも手つだつて、一幕出し物をさせて貰つた。十七の時、「紅葉狩(もみぢがり)」の更科姫(さらしなひめ)で、評判を取った。この時は、先代の梅幸が見に来てくれたので、よけい、騒ぎが大きかつた。

 又、新橋のさる待合で、小稲の更科姫を見た梅幸が、羽左衛門にその話をし、

「今の年であれだけ踊れば、さきが、面白い――」

 ともいつたといふ。それを聞いて、鬼の首を取つたやうに喜んで、さつそく、お遊のところへ注進に及んだのは、中洲(なかず)の方の大きな待合のおかみさんであつた。

 日本橋の通り何丁目かの、道具屋さんで、唐池(からいけ)といふ……もともとは、静岡辺の古道具屋の小僧上りだが、その時分は、れつきとした古物商で、東京でも、華族とか大富豪とか以外は出入りをしないといふ程の羽振りになつてゐたが、この唐池が、その中洲の待合のおかみの口で、何とか、小稲を手に入れようと、機会を待つてゐた……。

 半玉が、ある年頃になれば、一本になる。そのとき、いはゆる水揚げをされて、女にして貰ふ。その代償として、莫大な金を取るといふのは、花街の不文律で、珍しいことでも何でもない。然し、年季いくらで抱えた丸抱えの妓(こ)なればいざ知らず、小稲のやうに、義理にしろ、真実の母と少しも変らぬ母がゐて、何不自由のない朝夕を送つてゐながら、看板のわるい、不見転(みずてん)さん同様、ある年頃がくると、水揚げ代を取って、一本になるといふ花街の風習を、別段に怪しむこともなく実践するところが常識人には解し得ぬ点である。

 普通、水揚げをして、そのまゝ、旦那におちつくのもあれば、水揚げは水揚げで、金を取り、旦那をつくるのは、そのあとで、ゆつくりといふのもある。そこで、水揚げ専門のお客さんもゐるわけだ。花街の女の処女性を奪ふのだけが趣味で、処女さへ手に入れゝば、あとは別に、心を残さないのである。花街にも、次ぎ次ぎと、若い妓が出てくるのだから、生れた時は、誰にしろ処女である以上、花街にだつて処女のないわけはない。待合のおかみさんいたのんでおいて、時々出る新品を狙(ねら)ふ。ところが、中には、たちのよくないのがゐて、古品を新品と称して、二度も三度も、商売をさせることもあるから、花街の処女は眉唾ものだといふ人もある位だが、普通には、水揚げは一回こつきりである筈だ。つまり、小稲のやうな、別段、処女を売らねばならぬ必要のない家の、いはゞ、お嬢ちやん芸者である人でも、やはり、相当の年頃になると、どこからともなく、水揚げの話が出てくる。その時、小稲に、自意識が発達してゐて、生活に困つてもゐないのにどうして、水揚げといふやうな野蛮な売春行為をしなければならぬのか。それは、怪しからんではないか、といふ風に考へて、自分から、積極的に反対し、お遊の心に訴へるところがあつたら、お遊も、さういふ花街の悪習に、気がついたかもしれない。然し、小稲は、つとめて、芸者子供、芸者人形たるべく養はれてきたのであるから、近代の自意識なぞのあらう筈もないのである。お遊にしても可愛い娘なのに、水揚げを狙つてくるやうな、下司(げす)な男に、小稲の処女性を売るといふ行為が、いかに非人間的な営(いとな)みかといふ点を、はつきり、懐疑してかかることを知らない。たゞ、漠然と、さういふ風習のあり方を信用してかゝつてゐる。昔から、さうであり、他の連中もさうなのだから、いくらお遊の子でも、小稲だけを、特別扱ひもなるまい位にしか考へてゐない。それが、そんな悪いことなら、今までにしろ、お上(かみ)でおさしめとなる筈だ。又、悪いことをすれば祟りがあるが、水揚げをしたからといつて、祟(たた)りがあつたといふ話はきいてゐないから、大したことはないだらう――いや、それよりも、あんまり、いつまでも、水揚げをしないで、ねんねでおいたのでは、小稲ちやんは、片輪ださうだ、ぐらゐのデマがとびかねない。そんなことになれば、小稲の将来は、台なしである。

 それより、大金を出して、小稲を女にしてやらうといふお客さまがあれば、適当にその人にまかせて、娘を元服させてやるのが、母のつとめが位に考へてゐる。幸ひにして、引きつゞき、お世話になれば、それもいい。が、お金の高が多くつて、人にうしろ指をさゝれさへしなければ、水揚げは水揚げだけのお客に願ふのも、分別といふものである。安いのはごめんだ。それは何も、お金を貪(むさぼ)らうといふのではない。高い金を取れば取る程、小稲に箔(はく)がつくのだから、せいぜい、出して貰ひたいのである。そして、葭町一の水揚げといはれた。

 それが別に金に困らない、菊喜美(きくきみ)の家(や)の看板の強みといふものであつた。

 お遊は、平凡に、古風にさう考へてゐる。小稲は、更に、平凡も古風もない。いや、考へるといふことを知らない。たゞ、毎日が、現象としてくりかへされる。そこに、風習がうまれゝば、すべてが、鵜呑(うの)みになつて、批判といふものを許されない。風習こそが、絶対無上の権威である。その風習に背くことは、どんな小さなことですら、異分子であり、もぐりであつた。》

 

・昭和二十三年発表の舟橋聖一『堀江まきの破壊』はいつの時代の話か、それとなくしか書かれていない。しかし、「復員青年」と恋に落ちたときには、「もう五十に手がとゞくといふのに」とあり、また「今から、三十何年前、葭町から」とされている。唐池は水揚げしたまきのことを第一次大戦(一九一四年=大正三年)の興隆資本主義の波に乗っていた備善の耳に入れなかったし、まきの人生の転回点となった井伊掃部守暗殺をテーマとする歌舞伎の上演は大正九年七月であろうから、話のほとんどはすっぽり大正時代と言ってよかろう。

丸谷才一舟橋聖一『ある女の遠景』(講談社文庫)に解説「維子の兄」を書いている。

《鷗外最上の傑作が晩年の史伝三編であることは今さら述べるまでもないが、論じるに価するのはやはり、『澀江抽斎』『伊沢蘭軒』『北條霞亭』がなぜあれほどの高さに達し得たかといふ問題であらう。もちろん理由は一つ二つにとどまるものではあるまい。複雑きはまる条件が寄り集つて、あの賛美と完成と豊饒とを形づくつたことは明らかである。しかしそのうち最も重要な因子としては、鷗外が江戸末期の文明に寄せてゐた郷愁のやうな思慕の情をあげなければならない。(中略)

 鷗外の場合の江戸末期に当るやうな、理想ないし憧れの対象としての過去の文明の型は、自然主義に対立した作家の場合には、多かれ少なかれ見られるものである。舟橋聖一の場合、それは大正文明であつた。彼は大正改元の年に八歳、昭和改元の年に二十二歳であつたが、幼少時の文明の型は彼の資質をあざやかに規定してゐるし、その文明の本質を追求することこそ彼の生涯の主題となつたやうに見受けられる。

 これは彼の作中、大正時代へと寄せる郷愁に端を発したものが数多いといふ事情から見ても明らかだらう。名作『悉皆屋康吉』で「康吉の考案した若納戸という色気が(中略)花柳界はもとより、山の手の家庭にも、大はやりをした」のは「震災前の東京」である。(中略)そして長編小説『とりかへばや秘文』に至つては、大正十年、水沢一俊男爵が中学生、清田彰太郎を伴つての箱根ゆきにはじまり、(中略)大正時代の世相をゆつたりと描いたものである。特に終曲が、「およそ十五年の歳月が流れて、昭和十五年三月……」とはじまることは、大正時代への挽歌とも言ふべきこの作品の性格を何よりもよく證してゐるやうに思はれてならない。》

・唐池の古物商に、康吉の悉皆屋と似た世界がみえる。

 

《然し、お遊とすれば、金はともかくも、唐池では、役不足といふ気もした。政治家なら大臣級、お医者なら、北里さん級、実業家なら、三井岩崎でなくとも、せめて、古河さんあたりから、声がかゝつても、をかしくはないといふ自信だつた。然し、そこは二流地の悲しさで、お遊の理想も実現は困難であつた。

 唐池は、古河と並び称せられた銅山王、中杉の当主、備善によつて、こゝまで引立てられてきた男である。中杉備善は、先代とちがつて、放埓(ほうらつ)の行ひが多かつたが、道具に目のきくことは先代以上といはれた。先代の奥方が、駿府(すんぷ)詰(づめ)の払方役人の娘であつた縁から、唐池も、静岡の古物商の手代をふり出しに、出世の蔓(つる)をつかみ、先代奥方の歿後は、中杉家の土蔵の中は、誰よりも、唐池が知つてゐるといふありさまであつた。その長持ちには何が入つてをり、その唐櫃(からびつ)には、何の何がしまつてあるといふことを、そらんじてゐるのは、唐池一人であつた。

 備善のお伴(とも)で、日本全国はおろか、朝鮮、満州から、台湾、上海(シャンハイ)、南京(ナンキン)と歩き廻つては、金にあかして買ひあつめる道具を、備善は、持前の淡泊さから、掘出しものでも何でも、気がむけば、唐池にくれてやることもあり、時には、唐池自身も、山をあてゝ帰ることもあるので、唐池の身代は長い旅行に出るたびに、太つていつたといふ。

「そりやアね、お遊さん。唐池さんには、位はない。けれど、あの人は、普通のお茶坊主ぢやアありませんよ。今を時めく銅山王の、奥方でさへ知らないお尻の毛まで、チヤンと見ぬいてゐる人だ。中杉備善さまが、首(くび)つ丈(たけ)で、上海くんだりまで、お伴につれていくのは、唐池さんを措(お)いてないとまでいはれる人です。わたしが、すゝめるからは、お遊さんや小稲ちやんの、不ためになるやうなことをする筈がないぢやありませんか」

 と、中洲の待合のおかみ、お梶(かぢ)には、それ相当の、胸算段のあつてのことなのであつた――。

 で、お優も納得(なっとく)した。お遊さへうんといへば、小稲には、拒否権はないのであるから、あとはすべて筋書通りに運ぶことになる。いよ/\、その当日、内箱のお初に、

「小稲ちやん。大人になれば、みんな、さうなるものなんだから、今日から、あんたも、唐池さんに教へて頂いて、大人にして貰ふんですよ。素人(しろうと)のお嬢さんがお嫁にいくのと同じことなんですから、ちつとも、心配しないで、唐池さんのいふ通りに、音無(おとな)しく、してゐればいいの。何はいやの、かにはいやのといつて、唐池さんに、さからつて、却て、大人になり損(そこな)つては、大変ですよ。唐池さんは、小稲ちやんも知つての通り、親切な小父ちやんだし、お金も、そのために、どつさり払つていらつしやるんだから、唐池さんの親切を無にするやうなことでは困りますからね。それに、こんどのことでは、お梶さんも、ずゐ分、骨を折つてくれたんだから、あんたが、こゝで、駄々をこねたりすると、お梶さんの顔をつぶすことになりますよ」

 と、くどかれた。お初のいひ方は、今までにないシヤンとしたいひつぷりであり、事の仔細はわからぬが、その重大性だけは、小稲にもわかるやうな気がした。それに、お座敷でも、水揚げといふ言葉は、度々、きかされてゐて、漠然とでも、その意味を悟つてゐないことはないので、小稲としても、突然の宣告に色を変へて、騒ぐ程のことはなかつた。大体、順応主義であり、この世界に棲む以上、男のしたい放題であつて、今更、泣いても笑つても、仕方がないのであつた。たゞ、唐池といふ男を、好きでもきらひでもないことが、何か、物足らぬ思ひをさせた。が、さうかといつて、外に、好きな男もゐなかつた。半玉でも水揚げをする年になると、大ていは、一人や二人の岡惚れをこしらへて騒ぐものだが、小稲は、さういふ相手が一人もゐない。

 それをお遊も、内々は心配し、又、お遊のごま(・・)をする連中も、小稲にさういふ浮いた噂のないことを、自慢ばかりはしてゐられないといふ風であつた。

 すると、お梶などは、それを又、宣伝の具にして、

「唐池さんの果報者。あの子はね、岡惚れ一人ゐないといふ、真正真銘の無垢(むく)ですよ」

 と、しきりに、お土砂をかけたものだといふことだ。》

 

・「古河」財閥、足尾銅山の翳。

《然し、お遊とすれば、金はともかくも、唐池では、役不足といふ気もした。政治家なら大臣級、お医者なら、北里さん級、実業家なら、三井岩崎でなくとも、せめて、古河さんあたりから、声がかゝつても、をかしくはないといふ自信だつた。然し、そこは二流地の悲しさで、お遊の理想も実現は困難であつた。

 唐池は、古河と並び称せられた銅山王、中杉の当主、備善によつて、こゝまで引立てられてきた男である。》という銅山王古河の名前が出て来るが、古河と舟橋聖一はおおいに因縁がある。

舟橋聖一『文藝的な自伝的な』の第一章には、舟橋の二つの源泉がある。

一つは耽美の世界。

《わたしの人生は縮緬(ちりめん)の肌ざわりからはじまった。

 五ツ六ツの頃から、祖母近藤ひろ子のお供で、芝居を見に行き、お化けが出るのが怖ろしく、同行の女客の膝に顔をうつ伏せた時、一越(ひとこし)縮緬や紋縮緬の感触が、子供心にも、得も言われぬ魅惑だった。》

 もう一つは古河財閥足尾銅山をめぐる翳。

《わたしの生れる少し前に、足尾銅山鉱毒事件が、世間を深憾させる社会的話題になったことは誰れ知らぬ者もなかった。しかも事件に直接関係のあった足尾銅山の所長が、わたしの祖父近藤陸三郎だと言うのだから、それをわたしがどんな風に考えたか、または考えさせられていたのか、これはわたしの一生に思い翳となった。》

 

 

《はじめは、唐池も、ほんの水揚げだけのつもりだつたらしい。が、そのうちに、いつまでたつても、離しさうにもないので、やうやく、世間にもパツとしてきた。然し、何分、唐池は、身上(しんしやう)があるといつても、一代分限(ぶげん)だから、根にしつかりしたところがあり、小稲の旦那になつたからとて、とくに、披露目をするわけでなし、ごく、内輪にふるまつてゐるので、ほかのお座敷の邪魔になるといふ程ではなく、一本になつてからの小稲は、却て、玉代があがる位であつた。それで、お遊もすつかり安心し、お梶やお初にも、たんまり祝儀をはずんだといふ話であつた。

「小稲――おまへさんは仕合せもんだよ。いくら大臣だ頭取だのつて、名前ばかりはあつても、芸者を虫けらのやうにあつかふ人もある。さういふ人の手にかゝつて、大人にして貰つても、その時は、パツとして派手かもしれないが、あと味のわるいものさね。そこへいくと、唐池さんは、存外、情(じょう)のふかい人だ。お金はあつて、情もあつて、その上、男つぷりだつて、そんなに悪かないもの、三拍子揃つてるとは、あの人のことだよ」

 と、すつかり宗旨をかへてゐた。小稲は、別段、それにさからふ様子もなく、さりとて、唐池さんから貰ひがかゝつても、これといつて嬉しさうな表情もないのだつた。

 その頃から、小稲は、本を読むのが好きになつた。いや、目立つやうになつた。むろん、芸者と小説本はつきものだが、小稲の読むのは赤本でなく、「カラマゾフの兄弟」とか、「アンナ・カレーニナ」とか「女の一生」とか、さうかと思ふと、古今集のやうなものを読んでゐることもあつた。

 誰の影響といふことは、わからなかつた。小稲の部屋の本棚には、背皮に金文字の厚表紙の本がズラリと並んで異彩を放つてゐたが、お遊も、これには手を焼くだけであつた。まさか、唐池の指図であるわけもないが、さうかといつて、唐池以外に、しんねこ(・・・・)で、呼んでくれるお客の中に、その方面の人はゐなかつた。御座敷以外で、こつそり、逢ひ引きをしてゐる様子は、むろん、無い。

 けれども、さういふむづかしい本を読んだからといつて、変に、理屈つぽくなつたり、一々、批判的になつたりする様子はないので、お遊も少しづゝ、安心した。たゞ、読んでるだけなら、別条はあるまいし、それに、ソロ/\、好きな人の一人や半分をこしたへても不足のない年になつて、神妙に、唐池だけの機嫌気褄(きづま)を取つてゐる風なら、娘としては、大出来の部といへるのであつた。

 ところで、唐池は、小稲のことだけは、備善の耳へ入れなかつた。その頃の備善は、第一次大戦の興隆資本主義の波にのつてゐるのだから、腕をこまぬいてゐても、株価は上り、資産はふえ、大ていの無理は、いふ目が出るといふ風であつたので、連日連夜の馬鹿遊びに、折花攀柳(せつくわはんりう)の数のみを誇つてゐたが、今夜はたまに、河岸(かし)をかへて、葭町(よしちやう)はどうだといつても、唐池は即座に、

「あすこは、二流地でござんすから、ごぜんのお遊びになるところではございません」

 といつて、同意しない。随分、一人勝手の備善が、唐池のいふことだけは、よくきくのもふしぎだつた。それといふのも、備善が自分でも無理と思ふやうなのに目をつけて、是非、あれをどうかしてくれといひ出すと、その交渉を引うけて、必ず何とか、仕出(しで)かしてくるのが、唐池であつたからにもよる。丁度、あの、光源氏の、無理難題の色あそびに、必ずお伴を仰せつかる惟光朝臣(これみつあそん)にも似てゐるのが唐池で、むろん、源氏が源氏なら、惟光も惟光で、主人が主人なら、家来も家来、おたがひに、持ちつ持たれつの仲だつたとはいへ、小稲に関する限り、唐池の口には、ぴつたりと、大戸が立つてゐたのである。》

 

三島由紀夫に読書遍歴を問われて(対談「私の文学鑑定」)、舟橋は誰の影響を受けたかを素直に語るが、「押しの強さ」「六代目の生世話」あたりに谷崎との通奏低音が聴こえる。

《最初からいえばやっぱり紅葉ですよ。紅葉の「伽羅枕(きゃらまくら)」「不信不語」「心の闇」「三人妻」というのは、愛読耽読(たんどく)した。ぼくの生れた年は明治三十七年ですから自然主義が風靡してくるころですが。三十九年が大体自然主義の黄金期とみて、やっぱり小学校のときから田山花袋や「あらくれ」「爛(ただれ)」(徳田秋声)などというものを読んだ影響がありますね。泉鏡花もむろんだけども、案外ぼくはそう花柳物なんて読まなかったし、そんなに興味もなかったですよ。むしろ紅葉の作品のもっている押しの強さみたいなものに興味をもった。そして比較的にノーマルに成長してきたんだけれども、やっぱり谷崎潤一郎ですね。谷崎さん以来かわっちゃった。たいへんな変り方をしたわけですよ。だからぼくの少年期を過ぎて青年期以後に影響を与えたものは「春琴抄」と「蓼(たで)喰ふ虫」、ラディゲの「ドルジェル伯の舞踏会」、それから梶井基次郎、この三者によってぼくの今日はかなりできてきたわけです。それまでは尾崎紅葉とか、小栗風葉とか村上浪六(なみろく)とかそういうようなものを雑然と読み、それから歌舞伎に陶酔したわけだ。歌舞伎といっても殊に六代目(菊五郎)の生世話(きぜわ)に陶酔した。》

・小稲はトルストイアンナ・カレーニナ』を読む女だった。しかし、因縁や勿体をつけずにさらりと書くところが舟橋らしい。

・《惟光朝臣(これみつあそん)にも似てゐるのが唐池で》には、後の舟橋歌舞伎『源氏物語』(昭和二六年(一九五一年)3月歌舞伎座初演、九代目海老蔵による光源氏)につながるものがある。

 

《中杉家で、宴会があるといへば、誰よりも、唐池が宰配(さいはい)をふる。前の日からつめかけ、お花いけ、お掛物、香炉香合の類はもとより、ちがひ棚、飾り棚の置き物、お火鉢、小几帳(こぎちやう)、衝立(ついたて)などまで、すべて、唐池の指図をまたなければならない。時には、お台所にも顔を出し、食器、お器(うつは)の類も、特別、価の高いものを使ふときは、唐池が世話をする。むろん、お茶道具一式は、唐池の領分であり、この前の宴席に使つたものを、二度使ふのは、気のひけるものであるから、なるべく、客に目新しさを感じさせるやうの、こまかく気を使ふ。それには、どうしても、記憶にたよる以外はない。唐池は、中杉家の年中行事、悉(ことごと)く、一冊の手帖に書きしるしてあつて、その閻魔帖(えんまてふ)を以て、その都度(つど)のプランを立てるのであつた。

 備善は、いはゆる殿様であつて、鷹揚(おうやう)にかまへてゐるとはいへ、さういふ饗宴に、少しでも、ソツのあるのは、大きらひであるから、唐池でなければ、夜も日もあけない。といふのは、奥方はむろんのこと、愛妾(あいせふ)といふべき人も、一人や二人ではない筈なのに、女の仕事は、どこかで尻が割れてゐるので、どうしても気に入らぬのであつた。奥方の竜子も、はじめのうちは、唐池が指図がましく出てくるのを、面白からぬやうに見えたが、そのうちには、却て、何でも唐池にやらせておく方が、一つには重宝なり、一つには、備善の機嫌にもかなふので、妙な感情を插むのを、やめにした。それでます/\、唐池が、中杉家の家政の中軸に参画するやうになり、時には、唐池次第で、中杉家はどうにでもなると思はれるやうな場面さへ出てきたのである。

 この時代が、いはゞ、唐池の全盛時代でもあつたのであるが、たゞ、その中で、一つの不自由は、小稲との関係を、ひし隠しにかくしてゐるために、矛盾や衝突のおこる場合が少くなかつたことである。

 唐池が、たまに小稲と、二三日、温泉へでも行かうとしてゐると、備善が新橋の誰それをつれて箱根へいくから、一緒に来いといふやうな話になるので、唐池としても、砂を噛むやうな、宮仕への苦々しさを味ふのである。然し、小稲は、いざ出かけるといふ矢先きに、唐池から、ことわりの電話がかかつてきても、別に、苦情一ついふではなく、自分一人で、さつさと身軽に、温泉宿へ出かけていつて、二日でも三日でも、約束通り、一人で遊んでくる。むろん、鞄のなかには、「トルストイ全集」を何冊か入れていくのだから、退屈する筈はない。

「ほんたうにすまないね。若(も)し、うまく、ごぜんをまいたら、すぐ、とんでいくよ。待つてゐておくれ」

 などと、唐池に甘いことをいはれても、小稲とすれば、二日でも三日でも、遠出にしてくれて、お遊の目のないところで、好きな本をよまして貰ふのは、このうへない極楽なのであつた。

 さうかといつて、本にばかり夢中になつて、唐池に冷く当るかといふと、さうでもない。要するに、熱くもないが、冷くもないといふ、ぬるま湯のやうな小稲だつたので、唐池としてもはり合ひもない代り、扱ひ憎いところは一つもない。それに彼は何しろ忙しい毎日だから、ほんたうの遊び人のやうに、女をとろ/\にするやうな性の技巧にふけつてゐる余裕がなかつたのか。

 そういう空気を、お梶たちも、それとなく察していて、

「一体、どうなの、小稲ちやんは――」

 などと、突つこんでくることもある。

「別に、どうつてこともないさ」

「そんならいいけれど、お遊さんも、少し心配してるんですよ。家にゐると、本ばかり、読んでるんですつて、さ。どうも、小稲は、おく(・・)の方ぢやないかつて」

「ふーん」

「でも、唐池さんが離さないところを見ると、おく(・・)でもないだらうつて――」

「ばか――」

「みんな、ふしぎがつてるわ」

「何を?」

「唐池さんの箒(はうき)さんが、すつかり宗旨がへをしたつて」

「この頃は、いそがしいんだよ」

「お忙しいのは、結構だけれど、あんた方ときたら、いつまでたつても、遠慮がとれないみたいね。どういふんでせう」

「さういふのを、他人の疝気(せんき)を頭痛に病むといふんだよ」

 さういつて、唐池は軽く一蹴したが、内心は、痛いところを、ピツタリといひ当てられた思ひをしてゐるのであつた。

 或日、備善がいつた。

「蘭五堂。お前は、葭町は二流地だといつて、いつも、けなしてゐるが、あすこにも、なか/\、評判のがゐるさうではないか」

 唐池は、ヒヤリとした。

常磐津ではお遊。荻江(をぎえ)では、民枝など、新橋にも負けないさうだし、そのお遊の子に、筋のいい立方(たちかた)がゐるさうだね」

「へい、よくご存知で。誰が申しましたでせう」

「その子と同じ、政弥について、踊りを稽古してゐる新橋の若いのに聞いた」

 誰がしやべつたのだらう。あんなに固く、口どめをしておいたのに、おしやべり雀! と、唐池は、頭の中に、新橋藤間の若手の顔をずらりと並べて見た。

 然し、備善の話はそれつきりであつた。別に、その子に逢ひたいといふのでもなかつた。お遊の子といふだけで、小稲といふ芸名も知つてゐないのは、一安堵(ひとあんど)であつた。が、油断はならなかつた。》

 

・「唐池さんの箒(はうき)さんが、すつかり宗旨がへをしたつて」の「箒」とは、次々と女と関係する浮気性の男のこと。

・《二流地の葭町でも、当時は躾(しつけ)がきびしく、御座敷で、お客様と一緒に、ものを食べたりしたら、どやされたものである。その代り、半玉のうちから、蔭をかせぐことを強要されたりはしないですんだ。》とあるように「葭町」は一流ではないにしても、お遊、小稲のいる葭町の家は荷風「あぢさゐ」ほど落ちてはいないが、「蔭をかせぐことを強要されたり」という世界もあったことが匂わされている。

・丸谷は「維子の兄」で、一種の社会小説である『とりかへばや秘文』の政治という局面以外の、六代目菊五郎小山内薫横綱大錦、帝国ホテルのグリル、市川猿之助など華やかな文明の別の局面を紹介してから、

《しかしここで芝居や相撲以上に逸してならないのは、

   たとへば、のちに初代花柳寿美として、押しも押されもしない舞踊家になつた新橋芸者小奴は、当時三越の常務だつた朝吹さんの寵愛するところ、同じく君太郎は六代目菊五郎の彼女で、後に正夫人となつたし、桂太郎にしても、原敬にしても、また渋沢、大倉、馬越、根津(嘉)、岩田(宙)、久原の愛妓愛妾のことは、大小と泣く、他人の目に触れ……

とあることでも判るやうに藝者である。今の引用が語るやうに、縉紳(しんしん)ことごとく藝者を好み、そして世間はそれを許すだけではなく、その好尚をまたみづからの好尚として憧れたのが大正といふ時代であつた。その文明においては藝者は女性の典型であり、藝者の艶(あで)すがたはこの時代の様式美の基本であつたと言つてもよからう。おそらく舟橋の女性像の原型はこれによつて定まつたのである。》

 舟橋『文藝的な自伝的な』は、小学校低学年ながら芸者がごく自然に周りにいて、すでに「にせの市民社会」を頭で知らずとも肌で感じていたと教える。

 母の実家だった本所区《番場町の家では主人陸三郎が、古河合名会社の一等支配人として、殆んど隔日ぐらいに、客を接待したので、女中だけでは間に合わず、給仕役に柳橋の芸者を呼ぶのを例とした。そのため祖母は、料亭の女将のように、芸者たちをもてなしてやらなければならなかった。陸三郎は下戸だったが、客のうちには酔っぱらうものもあって、賑やかな宴会となり、三味線も鳴り、芸者の手踊りなどもあった。わたしは廊下の遠方から、そっと覗いていたものだ。

 そういう芸者や半玉(はんぎょく)が先に来て、陸三郎の帰宅や客の来訪を待っているあいだ、手持無沙汰にかこつけて、わたしを相手に隠れんぼや鬼ごっこをしたりするのは、多くは半玉か、一本になりたての若い妓(こ)であった。》

  

《丁度、その頃、歌舞伎座で、井伊掃部守(かもんのかみ)が尊王攘夷派の浪士に暗殺される話を仕組んだ新作ものが上演されたことがある。市川左団次が井伊に扮し、水戸の烈公を、先代市川八百蔵が、やつた。生憎(あいにく)なことに、その日、唐池は、お梶にたのまれて、平土間を二桝(ます)ほど取り、小稲も一緒につれていくつもりで、葭町連を誘ひ合せてゐたところが、突然、古河家からの招待で、備善が歌舞伎座へ出かけることになり、唐池はその随行を命じられたのであつた。

 唐池はすぐ、小稲に電話をかけ、古河家の席は、東の桟敷(さじき)の四と五をぶつこぬいたところだから、おまへたちは、なるべく、目立たぬやうにして、平土間で見物してゐなさい。茶屋は、古河家は武田屋からだから、そのつもりで、あまり仰山(ぎやうさん)に、二階の方をふり仰いだりしないやうにと、注意をあたへ、それから、芝居がはねたら、おそくも十時までには、いつもの家へ行くから、そこで待つてゐるやうにと、念を押した。

 その頃の歌舞伎座は、まだ椅子席ではなく、二階両桟敷のほか、下に、うづら、高土間、新高が、両花道のそとにあつて、平土間は四人一桝。桝の上を、出方(でかた)がひよい/\と、お茶や弁当を持つて歩いた。幕間(まくあひ)には、役者の名前を筆太に書いた引幕が次ぎ/\と引かれた。

 唐池が、備善のうしろについて、武田屋の案内で桟敷へ入つていくと、舞台はもうあいてゐて、頼三樹三郎(らいみきさぶらう)に扮した市川猿之助が、唐丸籠(たうまるかご)で、江戸へ護送される場面らしく、いはゆる安政の大獄が、この芝居の筋になつてゐるものと思はれた。縄目にかけられた頼は、悲痛な声で、自作のらしい詩を吟じた。

 やがて、幕になつた。新作物は、場内の電燈を暗くしてあるので、幕になるとパツと、一斉に、灯がついた。と見ると、東の仮花道のすぐ傍に、小稲の顔が見えた。殆ど、ま正面に見えるので、唐池はドキリとした。お遊もゐる。民枝もゐる。あんなに注意しておいたのに、若い妓ならいざ知らず、お遊までが、こちらを見上げて、何か、噂でもしてゐるらしい様子。これでは、備善の目にとまるのも、当り前であつた。

 果して、備善はすぐ気がついた。

「蘭五堂」

「へい」

「あすこに、大分、ゐるな」

「へい」

「どこの連中だ。見かけない顔だな」

「へい――」

「一番手前にゐるのは、きれいな子ではないか」

「へい」

 小稲のことであつた。

「あとで、聞いてみてくれ。どこの何つて子か」

「へい」

 唐池はげんなりした。こんなことになりはしないかといふ予感はしないでもなかつたのである。

 然し、綸言(りんげん)は汗の如しである。一度、備善の口から出た以上、再び戻ることは、あり得ない。

 次の幕は、井伊が、その愛妾と、ギヤマンのコップで、赤い南蛮の酒をのむ場面であつた。市川左団次の得意とするリリカルなエロキューションは、こゝでも、観客に受けてゐる風である。愛妾に扮したのは、坂東秀調であつた。

 幕が下りると、備善は、外へ出ようといつた。

 二人は、茶屋へ通ずる橋廊下の袂(たもと)にある喫茶室へ入つた。

「わかつたか」ときかれる。

「葭町の婆さん連中ださうでござんす」

「若いのは?」

「やつぱり、同じで」

「だから、名前は何といふんだ」

「へい。では調べさせませう」

「何だ。蘭五堂は、よつぽど、葭町ぎらひと見えるな。では、もう頼まん」

「いえ、さういふわけぢやござんせん。では何ですか。ごぜんは、あゝいふのが、お好きで――」

「うん。ちよつとした代(しろ)ものだな。今夜、さつそく、遭つてみたいね。呼んで貰はう。瓢屋(ひさごや)がいいだらう――」

「へい」

 かしこまりました、といはざるを得ないのである。が、備善のことだ。たゞ、逢ふだけで承知する筈はない。

 唐池として、致命的なエラーであつた。彼は、次の幕を見る勇気を失つたが、その間に、お梶を呼出して、

「とんだことになつてしまつたよ」

 と、備善の無理難題を、ありのまゝに、つたへた。お梶も顔色をかへた。

「それで、旦那の肚(はら)はどうなの?」

「困つたよ」

「いえさ、どうでも、小稲ちやんを出してくれるな、つて仰言(おつしや)られゝば、あの子には、若い役者衆に、いい人があつて、そつちへのぼせ上つてゐるから、とか何とか、あきらめて頂くやうにする手は、あるわ」

「ところが、ごぜんときたひ(・)には、そんな、甘口には、のらない」

「さうかしら」

「一にも二にも金で、テキパキ、片づけていくんだからたまらない」

「駄目よ、そんなに、悲観しちや」

「いや、ごぜんに見こまれては、百年目だと思つてゐたのが、たうたう、来てしまつた」

「そんなに、参らないで、いつそ、あれは、自分のですつて、打明けておしまひなさいな――さうしたら、いくら、ごぜんだつて、旦那のもとものまで、欲しいとは、仰言りますまい」

「ところが、悪いお癖で、人のもちものほど、欲しがんなさる」

「困つたね」

「いや、殿様なんてそんなものさ。もう、何もかも、したいことはみな、しつくしてしまつた方だ。あとは、棒鼻をちぎることしかない。人のものを、取る外ない。主(ぬし)のない花なんか、かへりみようともなさらないんだ」

「それで旦那は、小稲ちやんを、見せまい見せまいとなすつたのね」

「さうなんだよ。だから、弱るんだ」

 唐池は、さういふ備善の手癖をよく知つてゐる。それは旅きなどで、一夜の遊びに呼ぶ芸者などにしても、一度、唐池の女にきめてから、それをよこせといふ風な悪趣味がある。又、主人側の寵妓と知れてゐる女を、無理に欲しがる癖があつて、中へ插まつて、唐池が冷汗をかくことは、一再でない。だから、小稲が、唐池のものだとわかつても、それに遠慮して、心猿意馬をおさへようとする備善ではないどころか、むしろ、さう聞くことによつて、却て、野望を燃え上らせる結果になることは知れてゐる。

「お梶さん――わしや、仕方がない。あきらめるよ」

 と、唐池はいつた。

「へえ?――あきらめるつて、旦那。それぢや小稲さんを――」

「見つかつたのが、そもそも、不運だ。いくら、あがいても、もう駄目。その位なら、何もいはずに、目をつぶつて、進呈してしまはう」

 唐池の額には、さすがに、青筋がピク/\してゐた。》

 

・二人とも幼少時の虚弱体質、祖母の溺愛と御供による歌舞伎愛好が共通している舟橋聖一三島由紀夫(舟橋は三島の母倭文重(しづえ)と西片町の誠之(せいし)小学校で同級だと、その時は知ずじまいだったが後年三島と親しくなってから聞く)の対談「舟橋聖一との対話」(初出「昭和24年3月文学界」だから『堀江まきの破壊』と同時期)から、舟橋の性向、文学の本質が婉曲にだが理解できる。それは「原型と変型」、そして「エロ」。

三島 歌舞伎はこの頃御覧になりますか。

舟橋 たまには見ますけどね。

三島 舟橋さんなんか江戸ッ子でいらっしゃるから、宗十郎なんかお嫌いでしょう。

舟橋 僕は宗十郎、絶対嫌いですよ。

三島 僕は好きです。

舟橋 僕の考えは、あなたと違うかも知れませんよ。つまり歌舞伎の一番本質的なものがあるということで宗十郎を認めてるということでしょう。例えば塩谷(えんや)判官ですね、六代目(菊五郎)と宗十郎を比べたら、塩谷判官の原型は宗十郎にあるわけですね。しかしだね、それは基本なのであって、いろんな変型が行われるわけですよ。芸術、殊にああいう型の芸術だから、われわれみたいな創造の芸術とは違って、まず型を基本にして、そこに変型が行われて来るわけだ。型破りはいけない世界なんだ。――われわれのはしょっちゅう型破りですがね。――だから、宗十郎の塩谷判官が塩谷判官の原型であるということは認めるんですよ。だけども、見物人にアッピールするのは、六代目の演出にあるわけなんだ。その六代目を見ちゃうと、それじゃ宗十郎のは原型に過ぎない、ということになっちゃうんだ。つまり標本室の標本に過ぎない。われわれが現代にアミーバとして動くならば、六代目のほうに深く惹(ひ)きつけられる、ということになるんだな。

三島 それが今の大衆にはわからないんじゃないかしらん。しかしこれからの友右衛門(ともえもん)とか何とかでは、そういう意味で原型の役者が出て来ないと思うんです。そういう意味で宗十郎は希少価値を持って来てると思うんです。

舟橋 そういうことですよ。だから、僕はいつでも原型を愛して、それを進歩させるものを愛してるんだ。いつでもそうですよ。つまり小手投げなら小手投げの原型を愛してますよ。しかし、その原型を更に進歩させる人を更に愛してるな。だけど、原型主義者には判らない。あいつは邪道だと言いたくなるんだな。ここに問題があると思うんだ。そうそう僕はこないだ古靱太夫の「伊勢音頭」を聴いてね、これはもうすっかり感心したな。

三島 聴きたかったな。

(中略)

舟橋 これは六代目の落し葉梨のように言われてるけど、忠臣蔵のお軽は戸塚へ来るまでの間に勘平と何遍寝たか。それによって演出が違って来る。一遍しか寝てないのか、三遍寝てるのか。それまで六代目は考えてるんです。

三島 僕は日本の文学もそういう所を通さなければ、西洋文学との交流なんていうこともあり得ないと思うんです。それをみんなやらないんですよ。

 

舟橋 ラディゲの「ドルジェル伯の舞踏会」で、腋の下へちょっと肘が触れる所があるでしょう。あれはエロティックだけど、それはまだ関係してないからエロティックなんだ。だから非常なエロですよ。だけども、十遍も二十遍も寝た女の二の腕がちょっと触ったって、ちっともエロじゃない。これがわからなければしようがないんだ。あの描写はエロだと思うな。

三島 非情なエロです。

舟橋 だから、必ずしも寝室を描かなければエロでないということはない。われわれの現実生活だってそうでしょう。惚(ほ)れた女ならちょっと顔を見合しただけでホルモンが湧きますからね。そういうことが批評家にわかってもらいたいんだけどね。

三島 今の日本じゃわかりません。絶対にわかりません。(後略)》

 三島の他に折口信夫宗十郎贔屓で、舟橋の他に谷崎が六代目贔屓だったのも、通じるところがある。舟橋は彼が語ったような意味合いで、小説家としての「六代目」、寝室を描かない「エロ」である。

  

それでも、その晩は、月の障(さは)りと申し立てゝ、備善の追求をまぬがれたが、小稲も、すべての行がかりをそれとのみこめる程度には、カンをはたらかした。十二時近く、中洲へ帰つてきた小稲は、こんどは、あらためて、唐池にくどかれる番であつた。

「小稲。おまへは、どう思ふ?」

「はい」

「ごぜんの肚を、鏡にかけて見ると、何もかも、承知のうへで、おまへをくどいてゐるとしか思へないんだ」

「はい」

「むろん、わたしのものといふことも、御存知と思へる。ごぜんは、あの癖がまだ、なほらない。何アに、ずつと前から、ごぜんは、おまへのことは知つてゐて、見ぬ恋に、憧れてゐなすつたんだ。それが今日――まつたく、千慮の一失とは、このことだ」

「芝居なんぞに、参らねば、よろしかつたのでございますね」

「ほんたうだ。が、後悔は先きに立たずだから、今更、ぐちを云つてもはじまらない。ごぜんも、芝居なぞを、ジツとして見てゐる方ではないんだが、今日は、何しろ、古河男爵のお招きといふんでね――そこで、小稲。おまへは、ごぜんのやうな方は、好きかい?」

 と唐池はきいた。

「好きでもきらひでも、ございません。何とも思ひません」

「ふーん。では、若し、ごぜんが、たつえ、おまへを可愛いから、と仰言つた場合、死んでもいや、といふ程のことはないのだね」

「…………」

 彼女は答へなかつた。

「実は、それが、若しではなく、はつきりと、さういふお望みなのだ。それで、お梶も困り、わしも弱つた。何しろ、わしにとつては、大事な殿様だし、こゝで御機嫌を損じては、今までの苦労が、全部、水の泡だから」

「…………」

「むろん、現在、おまへを世話してゐるわしから、こんな、バカなことは、いへた義理ではない。然し、相手がごぜんでは、わしも、策の施しやうがないのだ。わしは苦しい。苦しいが、絶体絶命のやうにも思はれる。おまへといふものを、あきらめるよりほかにないのではないかと思つたのだ」

「わかりました」

 と、小稲は、澄みきつた清水のやうな声でいひ、それから、あらたまつて、手をついて、今まで、長い間、世話をして貰ひ、お蔭で、大過なく、朝夕を送つてこられたことの礼をのべた。そして、帰らうとすると、お梶が、今夜は最後のお勤めだから、お勤めしておいきなさいといふので、又、それにも特にさからふといふのでなしに、音無(おとな)しく、

「はい。さうですか」

 と、返事をしたのださうである。お梶も、これには、ホト/\、感心して、鬼の目にも泪といふが、思はず、いぢらしさに、胸が一杯になつたといふ。

 然し、考へやうによつては、個性も何もない温室育ちの花だといつて、批難すればする人もあるわけである。正直な話、小稲に、一言の未練も愚痴もいはれずに、別れ話がまとまつたことでは、唐池としても、薄気味のわるい思ひだつた。

 あとでお梶に、

「小稲は、どうだらう。怒つてるのかしら」

 ときいた。お梶の方でも、それは唐池の胸を叩いて見たいところだつたので、

「それは、旦那にききたいと思つてたんですよ」

「それが、わからないんだ。まア、条理をといてきかすと、わかりました、と、すんなり、返事をしたゞけだ。それで、何もかも、胸に入つたといふんだらうか、それとも、わかつたといふのは反語で、わからないといふ意味なのか。旦那みたいな、わからない人は、いやです。仰言る通り、別れませうと、啖呵(たんか)を切るところを、たゞ、あの子らしい淑(しと)やかさで、わかりました、と、ツンとして見せたのか」

「ツンとしたんですか?」

「それもわからない。大体、ツンとしたりすることのない子だからね。ツンとしたり、プン/\したり、すぐ、メソ/\したり、さういふ下司(げす)なことはしない人だ」

「ほんとに、素直つて、あんな素直な子、見たことがありませんよ」

「それで、バカではないんだ。何しろ、外国物の小説を、パリ/\、読んでるさうだ」

芯(しん)が利口なのね。そのくせ、利口ぶらないんですよ」

「恐ろしく、出来た子だ。お遊の仕込みかね?」

「とんでもない。お遊さんつてのは、あれでひどいヒステリーでね。すぐ、ギヤン/\、はじめるんですよ。あの人の子にしては、まつたく、出来すぎてる。鳶(と)ん鷹(たか)の方でせうね」

「さうかもしれないね」

「それで、帰るつていふから、それでは、今までの御恩に対して、水臭いから、つていふと、音無しく、はいつて云つて、旦那のところへいくんですからね。どうでした?」

「何が」

「何がはないでせう。最後のお勤め振りのことよ」

「あゝ、さうか。いや、ふだんと、変らなかつたよ。最後だからといつて、特に、念も入れない代り、あとは野となれといふ風な、投げたところも見えないんだ――」

「小稲ちやんらしい」

「然し、わしの方は、最後だと思つたんで、力が入つたがね――」

「まア、好かん。そんなこと、聞いてやしません――でも旦那も、気の毒な。これが、ほんにいふ、鳶に油げですよ」

「十七の秋からだよ」

「さうですね。惜しい気がするでせうね」

「そりやア惜しい。いや、勿体(もったい)ないよ。大事に、大事に、育てた花を、アツといふ間に、二百十日の風に、ふき折られたといふ奴でね――」

 と、唐池は、胸の芯が、ジワツとあつくなつてくるのを覚えながらいつた。こんな風に、今頃、人に奪(と)られる程なら、もつと、あの手この手を使つて、女の肉体を荒してやればよかつたといふ気もした。あんまり大事にしすぎて、外側から鑑賞してばかりゐたので、女の肉体に、はつきり、蘭五堂の落款(らくくわん)を捺(お)しておかなかつたことも、不覚の一つである。それがあれば、小稲も、あの程度の説明で、備善の所望に応ずべき筈はなかつたのではないか。然し、唐池は、やがて時のたつにしたがつて、すべては上手の手から水が洩つたのだと、あきらめてゐた――。》

 

・中村吉蔵作『井伊大老の死』は大正九年(一九二〇年)七月、歌舞伎座初演、井伊掃部守は二代目左団次。

《次の幕は、井伊が、その愛妾と、ギヤマンのコップで、赤い南蛮の酒をのむ場面であつた。市川左団次の得意とするリリカルなエロキューションは、こゝでも、観客に受けてゐる風である。愛妾に扮したのは、坂東秀調であつた。》のように、愛妾お静の方が登場する。

 舟橋は『文藝的な自伝的な』で、大正九年十二月の、舟橋曰く「震災前の歌舞伎演劇のピークを飾る」師走狂言の観劇(演目は『一谷嫩軍記』『色彩間刈豆』『彦山権現誓助剣』『浄瑠璃物語』『与話情浮名横櫛』『二人道成寺』)を数ページにわたって劇評的に書いているが、七月の『井伊大老の死』についての言及はない。

・舟橋といえば昭和二十七~八年の毎日新聞連載『花の生涯』を、昭和三十八年にNHKが二代目尾上松緑を主役にしての記念すべき大河ドラマがよく知られるところだが、井伊大老と同じくらいに正室昌子の方(八千草薫)、側室・愛妾秋山志津(香川京子)、侍女村山たか(淡島千景)が活躍した。

・知られているように舟橋には戦前から芸者出身の女性がいて、のちには妻妾同居で叩かれもされた。実情は娘の舟橋美香子『父のいる遠景』に詳しく、その女性の性格や同居の日常生活は情緒纏綿としたところがあって、この小説のまきを思わせもするけれども、舟橋は妻以外の女性、愛妾が登場する多くの小説を書いたが、私小説的に書いたことはなく、ロマネスクとして昇華している。

・「月の障り」といえば、丸谷《舟橋には生理と病気についての持続的な関心があつて、それはむしろ一つの偏愛にすらなつてゐる。》と書いている。

・《こんな風に、今頃、人に奪(と)られる程なら、もつと、あの手この手を使つて、女の肉体を荒してやればよかつたといふ気もした。あんまり大事にしすぎて、外側から鑑賞してばかりゐたので、女の肉体に、はつきり、蘭五堂の落款(らくくわん)を捺(お)しておかなかつたことも、不覚の一つである。それがあれば、小稲も、あの程度の説明で、備善の所望に応ずべき筈はなかつたのではないか。》といった、具体表現としては控えめながらもエロティックな連想をさせるところは同時期の『雪夫人絵図』(昭和二十三年)と同じ世界だ。

  

《アツといふまに、よその庭に、移し植ゑられた小稲は、それで、商売も引き、中杉備善の何番目かの、側室となつたまゝ、かといつて、とくべつの変化もあらはれる模様はなかつた。

 備善の熱は、段々高く燃えてゆき、一時は、ほかの妾たちを、かへりみる余裕もない程であつた。その烈しさを、まともには、受けかねてか、小稲の希望で、箱根・強羅(がうら)の別荘に、住むことになつた。そこは、木立の古い、しまつた黒土の崖の中腹に立つてゐて、庭の中へ、自然の流れを取り入れ、その水が渡殿(わたどの)の下を、ちろ/\と音立てゝ、流れてゐた。渡殿には、檜(ひのき)丸太(まるた)のてすりがあつて、その水に、のぞんで、酒をくむことが出来た。

 部屋は表座敷、裏座敷、別殿、御寝所などにわかれてゐて、お風呂は、タイルと檜が、二風呂。べつに自然木の根株をくりぬいたものが一つあつて、温泉は昼夜のわかちなく、涌(わ)きこぼれた。

 備善は、小稲を住まはせてからといふものは、箱根にばかり出かけて、一日の予定が三日になり、三日の予定が一週間とのびがちであつた。時とすると、蘭五堂をお伴につれた。

 唐池は、口を拭(ぬぐ)つてゐた。

 備善と小稲のまきが寝る御寝所と、廊下一つへだてた裏座敷へ、唐池は泊るのだが、彼はスヤ/\と、寝息を立てた。その寝息は、備善の耳にも入つてきた。

「蘭五堂は、寝つきのいい男だ。もう、寝たらしい」

 と、備善はいつた。

 唐池は、朝も早く起きた。そして、寝所の前の、苔(こけ)の青い庭の落葉を掃いたりして、二人の起きるのを待つた。

 或る朝、唐池が、箒の手を休めて、山の鳥の鳴くのに耳を立てゝゐると、寝所の杉戸があいて、鴇(とき)色のしごきを前で結んだ寝間着姿のまきが、あらはれたことがある。

 さすがのまきも、ハツとした風で、軽く、ためらひの色をうかべたが、次の瞬間、無感動の、いつものまきに戻つてゐて、縮緬(ちりめん)の褄(つま)を蹴出(けだ)しながら、手水鉢(てうづばち)の前へ出た。

「お早うございます」

 と、唐池は丁寧にあたまをさげ、いそいで柄杓(ひしゃく)を取つて、彼女の白魚のやうな手に、山の清水をかけた。

「はゞかりさま」

「山の朝は、気分が爽かでございますね」

「落葉が、すぐ、たまるんですよ」

「あんまり強く掃くと、せつかくの苔をいためますもんですから。美事な苔でございますなア」

「御先代が丹精なすつたものださうですわ」

「ごぜんはお目ざめになりましたか?」

「今、起きて、お床の中で煙草を喫(の)んでいらしやいます」

「けふは、おくさまの御点前(おてまえ)を拝見しようと思ひまして、お茶席の方に、お釜をわかしておきました」

 と、唐池は腰をかゞめ、縁側のてすりに、手を靠(もた)れて云つた。誰が見ても聞いても、昔の女と口をきいてゐるけぶりもなかつたといふ。また、まきの方も、すつかり、山荘の女主人の板についてゐて、どぎまぎしたところのないのは、いかにも、美亊であつた。

 又、鳥が鳴いた。

「あの鳥の声をききますと、夜中に三味線の転手(てんじゆ)がゆるんで、三の絃(いと)が、キキツと一度にほどける音によく似てをりますね」

 と、唐池がいつた。それは昔、中洲の待合に泊つた晩、おそくまで三味線をひいてゐて、そのまゝ、床脇に立てゝ寝たのが、どうしたのか、ま夜中に、転手がゆるみ、三の絃が、その鳥の声のやうな音を立てゝ鳴つたことがある。そして、その時、目をさまして可怕(こは)いといつて、小稲の手が、唐池の胴をまいたのだ。それにかけて、唐池は、洒落(しゃれ)言葉をいつたわけで、その洒落は、まきでなければ、とけない謎で。それを、そらとぼけて、馬鹿丁寧な調子で、唐池はしやべつたのである。

 その時、御寝所で手が鳴つた。まきは、褄をかへした。唐池は、掃きよせた落葉を、塵取りに、掻いた。》

 

・丸谷《舟橋の小説は歌舞伎的・浮世絵的な様式に富んでをり、しかも一方、尾籠なことがそのすぐ前、ないし後に控へてゐるのである。》と関連して、「御不浄」とは書かれていないが、次の描写は尾籠でエロティックな連想をさせる。

《或る朝、唐池が、箒の手を休めて、山の鳥の鳴くのに耳を立てゝゐると、寝所の杉戸があいて、鴇(とき)色のしごきを前で結んだ寝間着姿のまきが、あらはれたことがある。

 さすがのまきも、ハツとした風で、軽く、ためらひの色をうかべたが、次の瞬間、無感動の、いつものまきに戻つてゐて、縮緬(ちりめん)の褄(つま)を蹴出(けだ)しながら、手水鉢(てうづばち)の前へ出た。

「お早うございます」

 と、唐池は丁寧にあたまをさげ、いそいで柄杓(ひしゃく)を取つて、彼女の白魚のやうな手に、山の清水をかけた。

「はゞかりさま」》

  

《歳月がたつた。お遊が死んでゐた。

 そのうちに、備善は、又、外に増す花が出来たのか、箱根詣りも、ポツ/\になり、稀に来ても、その日のうちに、小田原へ下りたりした。

 或時、お梶が来ての話に、唐池が、後悔して、逢へば必ず、まきさんのことが出る。こんど、東京へお出になつたら、一度、ゆつくり逢つてやつてくれないか。昔話をするだけでも、さぞ生きのびる思ひでせうと、持ちかけるやうにいつたが、堀江まきも、こんどは、知らん顔をしてゐた。

 年と共に、まきの美しさは、古い陶器のやうに、時代がついて、渋く、みがいた光沢を放ち、古典的(クラシツク)な色香を、匂はせるやうになつた。手垢もつかず、皺もよらず、いつまでも水々しいなかに、重みといふか、威といふか、しつとりとした翳(かげ)がかゝつて、ます/\、その値を高くしたと見られた。備善が遠のいたのも、まきの深さについていけなかつたのではないかと見てをり、その頃のまきを知る者は、うつかりは、口もきけないやうなものを感じたといふ。

 たとへば、いはゆる功成つた芸術家などに見られる一種の精神家のやうな風丰(ふうぼう)が、いつの頃からか、堀江まきにも備はつてきて、それが、しまひには、非情を思はせるに至つたとも、解しえられる。

 本箱の本も、追ひ追ひに、特殊のものが並べられた。それは、独学の勤行(ごんぎやう)にも似て、一冊、一冊、おのれの心で選び、取り、積み、蓄へたものであらうか。それとも、全く、余人の知らぬところに、彼女の指南番たる人がゐて、見えぬ糸をたぐり、ひそかに、夜深く、彼女の奥殿に、参ずるところがあつたのか。――それは、つひに、誰もあきらかにしてをらない。

 そのうちに、備善が死んだ。長患(ながわづら)ひではなく、十日程、病んだきりであつた。死ぬと、奥方が棺の側に付添つたまゝ、他の側室の一人をも近づけしめなかつたという。

 側室たちは、大方、その邸から追はれた。備善の突発的な死は、中杉家の革命にも似てゐた。然し、堀江まきの場合だけは、強羅の別荘が、すでに、十年も以前から、まきの名儀に書きかへられてゐたので、竜子も手のつけやうがなかつた。まきは、自分の知らぬまに、それだけのことをしてくれた備善の誠意には胸をうたれたが、然し、死目に逢ふにも逢へなかつた自分の分際(ぶんざい)については、あきらめてゐた。竜子によつて、追放の命にあへば、当然、山を下らうと所期してゐた。

 唐池も追はれる組の一人であつた。然し、彼は、彼として、吸ひとれるだけのものは、吸ひつくしたあとだといふ噂で、同情はうすかつた。然し、彼は、最後の啖呵のつもりで、

「強羅のお邸だけは、ごぜんの最愛の方だから、あすこまで、手をつけるやうなら、わしにも覚悟がある」

 といつて、竜子を相手にいきまいたのが、土壇場でものをいひ、強羅だけは、ソツとしておくことになつたのだとも、取沙汰された。

 

 唐池が、死んだのは、松江の地震であつた。備善の死後、とかく、商売の調子も思ふやうにいかないのを、一気に挽回しようとして、出雲(いづも)方面へ出かけていつての遭難であつた。その頃のまきは、唐池の死には、些(いさゝ)か心の動揺を禁じ能はなかつたか、知らせを受けてから、三日の間は、一間にこもつて、香をたやさなかつたといはれた。

 そのうちに、戦争が悪化し、空襲がはじまると、本宅の奥方から、強羅の一室へ疎開したいといふ申入れがあり、むろんのこと、堀江まきは、喜んで、竜子を迎へ入れた。そして、戦争が終るまで、まきの心境は、秋空のやうに澄んでゐて、微塵(みじん)のゆるみも、紊(みだ)れも、頽(すた)れも、見られなかつたのであるのに、敗れた日から、いくばくもなくして、突然、彼女は過去を破壊し、その古い山荘を下つて、年下の、まるで、息子のやうな復員青年と二人で、はじめて人間的生活に入つたことが、誰からともなくいひふらされた。

 山荘の標札は、堀江でも中杉でもなく、全然別の、第三者によつて、はりかへられた。その当座は、彼女について、説をなす者も多かつたが、終戦後三年の今日となつては、もはや、古きものの権威は、あらかた、潰(つひ)え去つてしまつたので、取り立てゝ堀江まきの行方を追はうという奇特者もゐなくなつた。

 そしてそれは、前にのべた通り、堀江まき女の脱皮として一種の痛快でもあるが、又、何とはなしに、儚(はかな)くいぢらしい、らく葉の音をきくやうな気もするのであつて、時と場合の感じによつて、そのどちらもが、真実であるのではないか。》

 

・「歳月がたつた」の簡潔に、『とりかへばや秘文』で丸谷が指摘した、《特に終曲が、「およそ十五年の歳月が流れて、昭和十五年三月……」とはじまることは、大正時代への挽歌とも言ふべきこの作品の性格を何よりもよく證してゐるやうに思はれてならない。》と同じ技術が使われている。

・「松江の地震」とは昭和十八年の死者千人を数えた鳥取地震のことであろうか。               

・『アンナ・カレーニナ』を読む女であったことがこの件でじわり(・・・)と効いてくる。

講談社文芸文庫『芸者小夏』の解説で、松家仁之が『堀江まきの破壊』に筆が及んで、さすが的確に指摘している。

《『雪夫人絵図』と同じ年に発表された『堀江まきの破壊』は、旦那におとなしく従ってきた妾が、旦那の死をきっかけに人生の舵を切り、若い男をみずから愛するようになる変身を描いている。朝日新聞の連載小説『花の素顔』(一九四九年)では、銀座洋装店の女店主を主人公に、画家との婚外恋愛と、そこから引きおこされる夫との軋轢を、現在進行形の最新風俗を盛りこみながら描いた。

 彼女たちはまず男に主導権を握られ、受け身で生きる姿をみせながら、どこかで風向きの変わる瞬間をじっと待っている。そして何らかの潮目が訪れたとたん、そこから先は、人生を自分自身で選びとろうとする気配が満ちてゆく。動き、判断し、最終的に選びとるのはつねに女性の側なのだ。そして、この女性たちはその選択を間違うことがない。

 舟橋聖一の小説にあるもうひとつの特性は、社会性であり、経済だろう。登場人物の女性たちの生きる場所にはかならず社会がある。温泉芸者の社会があり、医学研究所という社会があり、銀座という社会がある。社会は彼女たちの立場や身の処し方を観察し評価する者として厳然とそこにある。世の中の価値観があり、生き方や信条を認められる前提には、生活が成り立つかどうかを否応なく決定する経済がある。

 妾であれ、芸者であれ、職業婦人であれ、舟橋聖一の描く恋愛は、社会のなかで位置づけられた女性たちのプラトニックならぬプラグマティックな恋愛なのだ。どのように生活を成り立たせ、社会のなかでどのように位置づけられているか、明確な輪郭をもつ男女の押し引き。どれほど官能的でも、閉じられた世界でのファンタジーが描かれることはない。

 その意味において、人柄だけでなく家柄や財産を見定めたうえで天秤にかける結婚や、遺産相続による境遇の変化が物語の骨格と展開をかたちづくる、十九世紀のイギリスでしきりに読まれた一群の小説と、構造的には相似形をなしているといってよい。

 敗戦が女性たちの解放の節目であったとするならば、つぎつぎと惜しみなく世の中にさしだしていったのだ。小説家としての資質と、時代の要請がみごとなまでに一致することで、舟橋聖一はまぎれもない流行作家になった。》

 こういう指摘からも、谷崎をより健康的にした「六代目」を感じるのである。

 

                               (了)

        *****引用または参考*****

*『花柳小説名作選』(舟橋聖一『堀江まきの破壊』所収)(集英社文庫

舟橋聖一『芸者小夏』(松家仁之解説所収)(講談社文芸文庫

*『丸谷才一批評集5』(「維子の兄」所収)(文藝春秋)        

*舟橋美香子『父のいる遠景』(講談社

舟橋聖一『文藝的な自伝的な』(幻戯書房

*『決定版 三島由紀夫全集39』(「舟橋聖一との対話」「私の文学鑑定」所収)(新潮社)

 

文学批評 『花柳小説名作選』を読む(2)――徳田秋声『戦時風景』

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徳田秋声『戦時風景』>

 

《或る印刷工場迹の千何百坪かの赭土の原ツぱ――長いあひだ重い印刷機やモオタアの下敷になつていたお蔭で、一茎の草だも生えてゐない其のぼかぼかした赭い粉土(こなつち)は、昼間は南の風に煽られ、濠々と一丈ばかりも舞ひあがつて北の方へと吹き靡き、周囲の芸者屋や待合、又は反対側のアパアトや住宅の部屋のなかまで舞ひこむのだつたが、その沙塵を浴びながら汗みずくになつてゐた界隈の野球チイムや、ボール投げ、自転車乗りの少年達も散らばつてしまつて、東側の崖の上に重なり合つてゐる其方此方の住宅の部屋のなかに、電燈がつく頃になると、きまつて幾つかの縁台が持ち出されて、白いパアパを着た年増、浴衣がけの若い妓、居周(ゐまは)りの若い人達の姿が、この殺風景な原の宵闇に透かされるのであつた。

 原つぱの南のはづれに、すしと焼鳥の屋台が二つ並んで見え、角に公衆電話が露出(むきだ)しに立ってゐる。風がそこからそよそよと吹いて来ると、焼鳥の匂ひと赭土に残つてゐる昼間の光熱とが、仄かに鼻に伝はつて来る。

「わたしは此の焼鳥の匂ひが大嫌ひさ。」

 縁台の傍にお行儀よくしやがんでゐる種次といふ六十幾つかの老妓が呟いた。この女は無論明治の末に創(はじ)まつたこの花柳界の草分け時分に、既に好い年増であつたに違ひない。今は気むずかしい家(や)の此の老妓をかける出先きも希だし、若い妓は怖(こは)がつて呼びもしないし、偶にかかつて来ても気の向かない座敷は「厭だよ、行かないよ」とぴたぴた断るのだ。

 縁台には芸者屋の姐さんと、その旦那らしい五十年輩の小(こ)でつぷりした浴衣がけの男とが腰かけてゐた。隅の方の柳の木の蔭で、若い芸者を二人とお酌を一人、それに待合の女中、近所の子供を多勢集めてきやつきやつといふ騒ぎのなかで、頻りに花火をあげてゐる、黒い洋服の若いお客がゐた。花火が引切(ひつきり)なし柳の木の下からしゆしゆと火玉を飛ばしてゐた。

 濡れたアスハルトの広い道路を、時々自動車が辷つて来て、入口の植込のあたりで客を吐き出して行く。空車も間断なく入つて来る。箱をかついで自動車に乗つたのやら、徒歩のやらの箱屋も影絵のやうに往つたり来たりしてゐる。三味線をひいて騒いでゐる明るい二階も浮きあがつて見えるのであつた。

「今日は少し動いてゐるね。」

 旦那らしい男が呟くと、

「さうね、大したこともなささうよ。奥さんや子供さんを避暑に遣つた人とか、避暑を遠慮した人がぽつぽつ入つて来るから、霜枯にしては少し好いくらゐのものよ、姐さんおかけなさい。」

「有難う。私はこの方が勝手ですよ。縁台はお尻の骨が痛くてね。時に戦争は何うなりますかね。」

「拡がりさうだね。」

「この辺でも随分行きましたよ。あすこの蕎麦屋さんに通りの自転車屋さん床屋さん。東タクシイでも若い人が二人も召集されて、自動車も二台御用なんですつて。あの現役のクリイニングの不良も、この春満州から帰つたばかりなのに、先月あたりから頓と姿を見せませんよ。」

「私は朝から晩まで新聞と睨みつこしてるんだけれど、年のせいか日露戦争の時なんかとちがつて、心配で心配でたまらないんですよ。何だか恁(か)うやつて長生きしてるのも済まないやうな気がして、お座敷でもかかったら、耳糞ほどの玉代でも献金しようと思つてゐるんだが、何しろ税金持出しの此の節ではね。」

日露戦争の時は何んなでしたの。」

「私はあのちよつと前まで、吉原にゐましたがね、日露戦争の時分は足を洗つて青山にゐましたよ、あの辺は軍人さんが多うござんすから、毎晩寝られないくらゐ近所がごつた返してゐたもんですよ。なかなか芸者をあげて遊ぶどころぢやない、世間はひつそり鳴りを鎮めてゐたもんですよ。後の騒ぎが又大変でしたよ。方々で交番の焼打が初まりましてね。」

「あの時分から世のなかががらりと変つた。吉原が火が消えたやうに寂れて、ちやうど――団菊が死んだりして歌舞伎の危機が来た。大概の古いものが影が薄くなつちやつたんだ。花柳界は何んなだつたかね。」

「今のやうなことはありませんね。何しろ当節は髪を洋髪にして、歌謡曲なんか踊るんですからね。芸者の値打が下りましたね。でも姐さん、それは時勢だから仕方がありませんよと言ひますけれど、私にや何が何だか薩張りわからない。第一昔しは春の出の帯を柳にしめられるなんて芸者は、一つ土地に十人とはゐなかつたもんですよ。今ぢや芸者の作法も何もあつたもんぢやない、猫も杓子も柳で反つくりかへつてゐる。私なんかは気はずかしくて到頭帯を垂らさない芸者で終りましたがね。お湯へ行くたつてさうです。今の妓供(こども)たちのお行儀のわるいこと。姐さんにお尻をむけて平気で流しを取つてゐる。昔しだつたら、何だ小汚ないおけつを出しやがつて、お前なんざ溝の外へ出てろと鉄火(てつか)な姐さんに呶鳴りつけられたもんですよ。」

「それに出先きが威張るやうになつて来ましたね。」

「さうですよ。芸者そつち退けてサアビスする達者な女中さんがゐるんですから。売りものだからたとへ何んな妓にしろ花をもたすのが真実ですからね。この間も或るお座敷でお客さまが、何だ彼奴は売らないんだと言ふ振れ込みなのに、聞いて見ればざらに売るんだと言ふぢやないかと言ふから、いいえ、それは違ひなせう、お客さまは言ふことを素直に聞くと、誰方(どなた)もさういふ風に気をおまわしになりますけれど、何うしてあの妓はそんなんぢやありませんから、安心していらつしやいつてね、何うせ芸者はその場きりのもんだから、それでお客が安心したか何うか知らないけれど、お茶を濁しておいたのさ。私はまたぐぢやぐぢやしたことが大嫌ひでね、少し悪党でもいいから、それかと言つて真実の悪(わる)でも困るけれど、歯切れのいいのが好きさ。」

 そこへ千人針をもつた仕込みらしい少女が二人組み合つてやつて来た。出てゐた時分から芸名春代姐さんが赤い糸を結ぶと、今度は種次が針をもつた。

「下町には大した千人針がありますね。羽二重や小浜のちやんちやん児に、大勝利だの万歳だのと、千人針の赤糸で縫ひ取るんですよ。」

「男の千人針もありますよ。」春代の旦那が言つた。

「そんなのあるか知ら。」

「その代り男のは黒糸なんだ。看護婦が締めるんだろ。」

「姐さんの子息さん生きてゐたら、矢張り出たでせうね。」

「そう、あれは震災の二年前でしたから。」

 工兵に取られて、除隊間際に肺をわづらひ、衛戍病院を出てから、種次の姉の青山の家で新らしく造つた離れの病室に一年ばかり寝てゐた果に死んでしまつた彼女の子息のことである。

「お座敷へ知らせが来たから、駈けつけて行くともう駄目。勝ちやん勝ちやんつて、余り私が呼ぶもんだから、煩くて行くところへ行けないから止してといつたきり……。でも安心さ。この年になつちや迚(とて)も。」

 そこへ又千人針が来た。そして其の縫つたところへ、通りがかりの土地の長唄の若師匠巳之吉が、ふらりと寄つて来た。

「何だ姐さん此処にゐるのか。今ちよつとお宅へ寄つて来た。当分お稽古はお休みだ。僕は今夜名古屋へ立つんだ。義兄が招集されたんで、後の整理をしに。」

 名古屋の姉の家は、曾つて巳之吉が小説好きの少年であつた頃働いてゐた本屋であつた。

「巳之さんは。」

「僕はまだ。足留くつてるから、直ぐ帰るけれど、千人針も二つ出来ましたよ。」》

 

・世情をにぎわせた山田順子とのスキャンダルと、プロレタリア文学興隆に押されての不振から数年ぶりに、昭和八年の『町の踊り場』で復活した秋声は、順子ものの総決算としての長編小説『仮装人物』(昭和十年七月~十三年八月)連載にかかるが、同時期に短篇小説『勲章』(昭和十年十月)、『のらもの』(昭和十二年三月)などで市井の男女の姿を描き出した。『戦時風景』(昭和十二年九月)もそのひとつである。

・山の手の花街ということでは白山であろうか。のちに官憲、情報局の干渉圧力により中断を余儀なくされた『縮図』(昭和十六年)の女主人公のモデル小林政子が白山で営む置屋での見聞に拠るのだろう。いずれにしろ、下町とは違った「赭土の原ツぱ」「崖の上に重なり合つてゐる其方此方の住宅」といった的確な情景描写から入って、登場人物をじわりと紹介してゆき、秋声がよく見た歌舞伎で言えば花道の出がうまい。

・秋声は読まれなくなったばかりか、批評も少ない。徳田秋声のガイド本に、柄谷行人中上健次古井由吉といった現代文学の担い手たちが言及、あるいは精読して自作品の参考とした、などとあっても、彼らがまとまった批評を残しているわけではない。数少ない研究者はどうしても自分の対象は擁護し、持ち上げたがるから、夏目漱石小林秀雄の批評に対しても、当時は逆の評価があったとか、読みが足りない、などと一蹴してしまいがちだ。

夏目漱石の『あらくれ評』(大正四年)は手厳しい。

《「あらくれ」は何処をつかまえても嘘らしくない。此(この)嘘らしくないのは、此人の作物を通じての特色だろうと思うが、世の中は苦しいとか、穢(けがら)わしいとか――穢わしいでは当らないかも知れない。女学生などの用いる言葉に「随分ね」と云うのがある。私はその言葉をここに借用するが、つまり世の中は随分なものだというような意味で、何処から何処まで嘘がない。(中略)

 どうも徳田氏の作物を読むと、いつも現実味はこれかと思わせられるが、只それだけで、有難味が出ない。読んだ後で、感激を受けとるとか、高尚な向上の道に向わせられるとか、何か或る慰藉(いしゃ)を与えられるとか、悲しい中に一種のレリーフを感ずるとか、只(ただ)の圧迫でなく、圧迫に対する反動を感ずるような、悲しみに対する喜びというような心持を得させられない。「人生とは成る程こんなだろうと思います。あなたはよく人生を観察し得て、描写し尽しましたね。その点に於てあなたの物は極度まで行って要る。これより先に、誰が書いても書く事は出来ますまい。」こうは云えるが、然し只それ丈(だ)けである。つまり「御尤もです」で止っていて、それ以上に踏み出さない。

 況(ま)して、人生が果してそこに尽きて居るだろうか、という疑いが起る。読んで見ると、一応は尽きて居るように思われながら、どうもそれ丈けでは済まないような気もする。ここに一つの不満がある。徳田氏のように、嘘一点も無いように書いて居ても、何処かに物足りない処が出て来るのは、此為(このため)である。(中略)

 つまり徳田氏の作物は現実其儘(そのまま)を書いて居るが、其裏にフィロソフィーがない。尤も現実其物がフィロソフィーなら、それまでであるが、眼の前に見せられた材料を圧搾する時は、こう云うフィロソフィーになるという様な点は認める事が出来ぬ。フィロソフィーが無ければ小説ではないと云うのではない。又徳田氏自身はそう云うフィロソフィーを嫌って要るのかも知れないが、そう云うアイデアが氏の作物には欠けて要る事は事実である。初めから或るアイデアがあって、それに当て嵌めて行くような書き方では、不自然の物となろうが、事実其の儘を書いて、それが或るアイデアに自然に帰着して行くと云うようなものが、所謂深さのある作物であると考える。徳田氏にはこれがない。》

小林秀雄は、『仮装人物』の刊行直後に新聞書評で正直な感想を述べているが、明晰な批評というよりも詩的なレトリックを駆使する小林らしい言回しの正鵠であろう。

《この小説の読後感は、誠に複雑なものであつた。ひねくれた、しつこい、暗い後味が残つたかと思ふと、同時にそれは意外に淡泊な、楽天的な心を語つてゐる様にも思はれた。(中略)小説といふものの結論を語つてゐる、と言つた様な断乎としたものを感ずるかと思へば、又そこからどんな小説でも飛び出しさうな不得要領な地盤を見た、といふ風にも思はれた。(中略)ここに、恐らく作者の実際の経験を其儘扱つたこの奇妙なる恋愛小説の急所といふ様な部分を、批評家根性を出して見附けようとしてもなかなか見附からない。あらゆる処で、ひょうたん鯰である。》

たしかに、漱石小林秀雄川端康成の批評は今でも通用し、的を得ている。近い将来、徳田秋声の名前は、成瀬巳喜男監督、高峰秀子主演の傑作映画『あらくれ』だけで残るのかもしれない。しかし、この『戦時風景』のような短編小説は、彼らの批評から離れたところにあるのかもしれない。》

 秋声は地味だとか言う前に、とらえどころがない「ひょうたん鯰」なのだ。そのうえでやっかいなのは、どこか魅力があって、駄作、凡作ではないことだが、批評の言葉にしがたく、感想批評、人生観披露になりがちだ。

川端康成の『日本の文学 徳田秋声1』(中央公論社)解説も的確だが、では読者を呼び寄せるものかというとなかなか難しい。

《私はこの「解説」を書くために、まず「あらくれ」から読みはじめたところが、すらすらとは進まないし、注意を集めて向っていないとのみこみにくいしで、思いのほか時日をついやした。私の耄碌のためではあるまい。作品の密度のためであろう。秋声は「作品の密度」と、よく言った。「あらくれ」が速く軽くは読めないように、秋声は楽に読めない作家であるらしい。作家の感興に読者を乗せることも抑制されている。秋声の作品が広い一般読者を持ちにくいわけの一半も、私は「あらくれ」を読みながら納得できたようであった。だいたい、私は自分が作品の解説を書けるとは思っていないし、ここでも秋声作品の解説を書こうとは考えていないのだが、解説に代えて、読者にただ一つ望みたいことは、秋声の作品をゆっくりゆっくり読んでみてほしいということである。秋声の場合、これが凡百の解説にまさる忠言と信じる。(中略)私は「あらくれ」のところどころの三、四行や一頁をくりかえし読んで、いろいろの発見があった。秋声のすぐれた自然描写、季節描写なども、その一つである。広津和郎の「徳田秋声論」に、「縮図」の文章を批評して、「一体が簡潔な秋声の文章もここに至って極度に簡潔になり、短い言葉の間に複雑な味を凝縮させながら、表現の裏側から作者の心の含蓄をにじませている技巧の完成は、彼が五十年の修練の末にたどりついたものであることを思わせる。」とあるが、「縮図」(昭和六十年)より三十年ほど前の「足迹」、「黴」、「燗」などにさかのぼっても、そのような秋声の文章はすでに見える。》

・さっそく秋声の特徴、オノマトペ類が頻出する。「ぼかぼか」「そよそよ」「ぴたぴた」「きやつきやつ」「しゆしゆ」「ぐじやぐじや」。ときに主語がさだかでなく、文脈が捩れる酩酊した文体に、庶民的で温かい愛情のリズムを与える。

 

《今年二十二になつた巳之吉は、土地の師匠巳子蔵の愛弟子であつたが、また其の内縁関係の朗子の若い愛人でもあつた。

 ちやうど去年の春頃のことだつたが、師匠がしばらく足踏みもしなくなつた芸者屋横丁の、彼がこの土地の稽古を引受けることになつてから、もう五六年ものあひだ住み馴れた家に、代稽古を委かせきりにされてゐた巳之吉は、朗子と五つになる子供と三人きりで、侘しく暮してゐるやうなことが多かつた。それといふのも師匠と朗子とのなかが兎角しつくり行かなかつたからで、朗子の養父であつた、今は故人の謳ひ手の大家米蔵贔屓(ひき)もあつたが、歌舞伎の大舞台で若手の腕達者といはれただけに、芸の魅力だけでも、芸事に凝つてゐる姐さん達に、多くのフアンのあつたことも当然で、近頃俗謡で売り出した人気ものの小峰といふ九州産れのモダアン芸者の熱情が、今まで噂の立つた幾人かの女を超えて、放埓な彼の心を悉皆蠱惑してしまつたところで、彼の足がぴつたり家へ向かなくなつてしまつた。見番の稽古にだけは約束どおり通つて来たが、それも小峰の傭ひつけのハイヤで、稽古がすむと、又その車で赤坂へ帰つて行くのだつた。

 或る晩も巳之吉は、小峰と巳子蔵師匠と三人で、末広でビフテイキを御馳走になつてから、少し銀座をぶらついてゐたが、さいやつて二人に附き合つてゐても、留守してゐる朗子や子供のことが気にかかつた。師匠の三味線の弾き方は、感がいいとか音が冴えてゐるとかいふよりも、近代人らしい撥剌味を多分にもつてゐるにしても、もとが古い芸人型の、芸だけで叩きあげた人なので、飲むことと女道楽にかけたは人に退けを取らなかつたけれど、朗子とちがつて映画とか、小説とかいふものには趣味もなかつたし、雑誌一つ読むといふやうなこともなかつた。それに比べるともともと朗子は養父の御贔屓先きの、堅気の商家の娘で、芸人好きで金をなくした父が死んでから、子供のなかつた米蔵の家に養女として引き取られて、芸事がさう好きでなかつたところから、山の手の女学校へ通はせてもらつただけに、養父の目論んだこの結婚は、初めから気に染まなかつた。しかし彼女に愛をもてなかつた養母の方に、跡を継がせたいやうな身内もあつて、朗子は家に居すわる訳にもいかなかつたし、片づくにしても我儘な相手の撰択は許されなかつた。為片なし巳子蔵との同棲生活が初まつた訳だつたが、一年たつても二年たつても許す気にはねらなかつた。

 一緒になりたてに、養父は浜町の方に家を一軒もたせてくれた。下町はちやうど震災後の復興に忙しい頃で、金座通りもほぼ出来あがつて、清洲橋の工事も完成してゐた。朗子は芝居もさう好きではなかつたけれど、子供の時分からの習慣で、新らしい歌舞伎座明治座へも、お義理で見物に行つたが、それよりも映画やレヴイユの方へ気持が注がれがちだつたが、巳子蔵とは話が合はないので、人身御供にでもあがつたやうな気持で、寂しい孤独の世界に兎角閉ぢ籠りがちであつた。

 暫らくすると今の土地へ引越すことになつた。亡くなつた春代の母が巳子蔵系統の或る師匠の名取りだつたところから、この土地で四五人お弟子が出来、ちやうど定まつた師匠もなかつたので、やがて見番の稽古を引き受けることになつた。

 朗子はお花やお茶も心得てゐて、静かな暮しが好きだつたが、長唄の家に育つて来たので、朝から晩まで聴き飽きるほど聴かされるお稽古もおしまひになつて、巳子蔵が芝居へ出かけて行つて、そのまま遅くまで帰つてこない晩などには、二階の部屋でそつと音締を合すこともあつた。或る時は外へお稽古にも通つてゐた。そしてそこへ長唄の稽古に来てゐる或る大学生とのあひだに恋愛の発生したのも、つひ三年前のことであつた。学生の手触りは彼女に取つては全く新らしい世界であつた。裁判官志望の法科のこの学生は、退職海軍中将を父にもつてゐる青年としては、珍らしい江戸趣味の真面目な理解者であつた。

 逢つてゐると、馴れ馴れしい口も利きえない二人のあひだに、手紙の遣り取りの初まつたのは、ちやうど朗子が妊娠してゐたころのことで、同じ長唄の世界での出来事であるだけに、噂はこの土地の人の耳へも伝はつて、その子供の主が誰であるかが問題になつたこともあつたが、二人の関係はそこまで進んでゐた訳ではなかつた。厳格な家庭に育つた青年は、結婚の不幸を訴へる彼女の好い聴き手であり、近代の恋愛観や女性観について、今までよりいくらか分明(はつきり)した考へを彼から得たくらゐの程度だつた。秋晴れの或る朗かな日だつたが、二人一緒に師匠の家を出ると、しばらく静かな其の辺のブルヂヨウア町を散歩した果に、円タクを呼んで時のはづみで、新様式の武蔵野館へ行つたが、帰る頃になると雨が降り出して、彼女は四谷の屋敷町まで送つて行くと、何か牾かしい気持で別れたきり、その車で家へ帰つて来た。師匠はまだ芝居から帰つてゐなかつた。

 暫く手紙の往来がつづいたが、ちやうど学校を出る次ぎの年の四月、彼から最後の手紙を受け取つた。地方へ赴任するとばかりで、任地も書いてなかつた。そして其れきりであつた。

 巳之吉が或る機会に、朗子に打ち明け話をされたのは、たゞ其だけのことだっただが、もつと立入つて疑へば、疑へる余地もないことはなかつた。その学生らしいサインのある「アンナ・カレニナ」を彼女がそつと耽読してゐたのも其の頃であつた。》

 

・秋声『戦時風景』は芸の師匠の女と弟子ができてしまう。六世藤間勘十郎藤間紫と三世市川猿之助(二世猿翁)との人口に膾炙した話とは次元も格も違うが、よくある道具立てではある。

・《裁判官志望の法科のこの学生は、退職海軍中将を父にもつてゐる青年としては、珍らしい江戸趣味の真面目な理解者であつた》、《厳格な家庭に育つた青年は、結婚の不幸を訴へる彼女の好い聴き手であり、近代の恋愛観や女性観について、今までよりいくらか分明(はつきり)した考へを彼から得たくらゐの程度だつた。》、《巳之吉が或る機会に、朗子に打ち明け話をされたのは、たゞ其だけのことだっただが、もつと立入つて疑へば、疑へる余地もないことはなかつた。その学生らしいサインのある「アンナ・カレニナ」を彼女がそつと耽読してゐたのも其の頃であつた。》というように、結婚の不幸を訴え、トルストイアンナ・カレーニナ」を読む朗子と、その打明け話を聞く巳之吉がいて、といった設定は昔紅葉門下だった名残りか。

古井由吉は、秋声の明治末年ごろの作品『新世帯』『足迒』『黴』を批評した「世帯の行方」で、小林秀雄の「ひょうたん鯰」という「取りとめのなさ」をもう少しだけ言葉に置き換えているのではないか。

《とにかく男女の日常の苦と、とりわけその取りとめのなさを描いては右に出る者もいないのではないかと思わせる作家である。取りとめのなさについては、男女のことばかりでなく、都会へ流出した人間たちの、勤勉な生活欲の底に時として、活力の飽和点あたりの境で微妙にあらわれる倦怠、頽廃と逸脱への傾斜を、人の形姿やら会話やらに描き出して、ほとんど色気に近いものを感じさせる。》としたが、この『戦時風景』にあからさまな「苦」はないものの、「取りとめのなさ」と、《微妙にあらわれる倦怠、頽廃と逸脱への傾斜を、人の形姿やら会話やらに描き出して、ほとんど色気に近いもの》が底辺に流れている。

・秋声と言えば、時間の扱いである。中村眞一郎は『この百年の小説』の中で、

《『仮装人物』は長い恋愛が終り、主人公が相手の女性に対して、うとましさしか感じなくなった状態から書き始めている。 彼は「すっかり巷(ちまた)の女になりきってしまって、悪くぶくぶくしている彼女の体」を抱いて、ダンスをしている。そして「心の皺(しわ)のなかの埃(ほこり)まぶれの甘い夢や苦い汁の古滓(ふるかす)」について「苦笑」しながら、回想に耽(ふけ)りはじめる。 この、幻滅から出発している、というところが、やはり自然主義を一生奉じていた作家らしいわけであるが、しかし物語は極く短いその幻滅的導入から、忽ち「文字どおり胸の時めくようなある一夜」の記憶へ逆転して行くのである。 この逆転、時間の遡行(そこう)は、この小説の特徴であり、しかも、遡行した時間の記憶のなかにまた別の時間が插入されるという極めて複雑な構成である。しかも、時間から時間への移り行きは専ら、主人公の回想の展開に従っている。 と、こう説明すると、読者はそれではまるでプルーストじゃないか、と問いたくなるだろう。  作者秋声は、主人公がこの恋愛によって感覚が解放された時、新鮮な気分で西欧の二十世紀文学に共感する眼を見開かされたと述べていて、現にプルーストの名もあがっているのである。 私は恐らく秋声はプルーストに触発されて、自分の経験をこのように微細に展開すること、しかもそれを専ら内面的に分析して行くようになったものと推定している。》と述べているが、《自分の経験をこのように微細に展開すること、しかもそれを専ら内面的に分析して行くようになった》ことはそうかもしれないが、時間の遡行については、松本徹が、《秋聲の作品の独自性として、最も顕著なのは、時間の扱ひやうである。野口冨士男は「時間の倒叙」と呼ぶが、単に順序を転倒させるだけでなく、じつにさまざまなふうに錯綜させてをり、それが本格的におこなはれたのは、『足迒』が初めてである。そして、直接的には、以上にみた圧縮した記述への必要から出てきたと考へられるのである。》と指摘したように、記述の必要性と、秋声の生理的な習性から来たのではないか。しかし、野口冨士男が『德田秋聲傳』で論じているように、《過去から現在にさかのぼつていく「倒叙」の手法は、ともすれば平板におちいりやすい日常の身辺的な素材を取扱つても不思議な立体感を構成している点において、独特の効果を発揮している》

・『戦時風景』のこの段落でも、《ちやうど去年の春頃のことだつたが》はわかりやすい過去への遡行だが、《もともと朗子は養父の御贔屓先きの、堅気の商家の娘で、芸人好きで金をなくした父が死んでから、子供のなかつた米蔵の家に養女として引き取られて、芸事がさう好きでなかつたところから、山の手の女学校へ通はせてもらつただけに、養父の目論んだこの結婚は、初めから気に染まなかつた。》は、読み手に意識させることなく、切れ目なく過去へ遡っている。

・「その晩」「その月」「其の頃」「その年」「その翌日」「その後」といったように、徳田文学は「その」から成る。

 時間の「その」ばかりでなく、「そこで」「そこへ」も多い。

 

《巳之吉は、其の頃朗子の影が、いつとはなしに胸に巣喰つて来るのを感じてゐた。

 子供の正也はもう三つになつてゐた。朗子は愛してもゐない巳子蔵とのあひだに出来た子供が、何うしてさう憎くもないのかと、時にはうとましさうに幼ない其の顔を見ることもあつたが、それは其の子供が疎ましいといふよりも、子供の愛に縛られなければならなくなつた自身が疎ましいのであつた。子供の或る部分、たとへば目だの鼻だの、手足や指のすんなりしたところは自分に肖てゐたが、何うかした瞬間に父親の面影がまざまざと出てくることがあつた。幸ひにそれで世間の誤解も釈け、いつも身近にゐる巳之吉にもわかつて貰へるやうな気もするのだつた。正也は日増しに可愛くなつて入つた。そして巳之吉にばかり附きまとつた。父のゐないのが何か寂しいやうに思はれて、巳子蔵の還つて来ることを願つたが、時とすると連れていらつしやいと小峰にいはれて、巳之吉が自動車で連れ出して行くこともあつた。

 或るレコオド会社の専属であり、地方の招聘にも応じて行くほかに、お座敷も忙しいので、収入も多かつた。抱えには此のところはづれがちで、商売にはならなかつたし、巳子蔵のために旦那も失敗(しくじ)つてしまつたけれど、彼を貢(みつ)ぐくらゐに事欠くやうなことはなかつた。大々した体には女盛りの血が漲り、幅のある声は流行家の唄い手の誰にも負けを取らず、派手派手しい扮装をして舞台に立つときは、誰も花柳界の女とは思はないくらゐ新鮮味があつた。それはちやうど現代風の奔放さをもつてゐる巳子蔵の三味線と、一脈相通ずるものでなければならなかつた。彼女は巳子蔵も自覚したらしく、給銀をあげる要求を会社に持ち出して見たがそれは早速には容れられず、双方の折合ひがつかないので当分出場しないことにしてゐた。しかし愛弟子の巳之吉の叔父に、座附の有力な下方(したかた)もゐるので、いつかは折合ひのつく時が来るのに違ひなかつた。

 その晩巳之吉は、小峰が買つてくれた熊の仔の玩具などを角袖の外套のポケツトに入れて家へ帰つて来たが、正也はもう寝てゐて、朗子だけが玄関に近い茶の間で雑誌を読んでゐた。巳之吉は奥へ行つて、中腰になつて子供の寝顔を見てゐたが、熊の仔を枕元におくと、師匠に附き合つた酒の気の熱つてゐる頬を両手で撫ぜながら、長火鉢の傍へ来て坐つた。

 石を敷き詰めた細い芸者屋横丁に、急ぎ足の下駄の音や格子戸の鈴の音が時々耳につく。

「酔つちやつた。見せつけられちやつたもんだから……。」

 薩摩絣のお対の著物の袂から、バツトとスヱヒロのマツチを取り出した。

「この頃飲めるの。」

「む、少しは。何うして赤ん坊が産れるんだつてお師匠さんに聞いて、笑われちやつた。仲のわるい夫婦でも子供くらゐ産れるつてさうですか。」

「何うですかね。貴方(あんた)まるで子供のやうね。」

「ああ、さう/\お茶菓子を買つて来たんだ。お茶をいれませう。」

 巳之吉は立つて、熊の仔と別のポケツトに入れ忘れた筑紫の菓子の包みを開きにかかつた。

「但しこれは僕。」

 彼は朗子と長火鉢の傍の差し向かひなどは、ひどく気のひけたものだつたが、今夜は不思議にも寧ろそれが自然のやうな感じだつた。

 銅壺の湯で、お茶を煎(い)れながら、皮包みの牛皮を自分もつまみ、朗子にも勧めた。

「どうも御親切さま。」

 若いにしては、この頃めきめき腕があがり、咽喉も去年から見ると吹き切れて来て、少し早熟かと思ふくらゐだつたが、ふはふはした見かけよりも頼もしいところもあると思はれた。

「しかし年取つた女の人の恋愛は凄いところがありますね。」

「小峰さん?」

 朗子は顔を赤くした。

「貴方も妙なことに興味をもつて来たのね。」

「己の極道は真似(まね)るなと、お師匠さん言ひますけれど、僕はあんな風に無軌道にはなれませんね。」

「さうね、勝之助さんといふ人が、昔し大変な女喰ひで、今でいへば色魔だわ。女から女を渡りあるいて搾つたものなの。その果てに酷いことになつちまつたんです。詰り肺病なのね。何うせ悪い病気もあつたでせうけれど、ス悉皆り衰弱してしまつて、頭があがらなくなつたところを、最後の女に置いてき堀喰つちやつたの。それで段梯子の三段目からのめずり落ちて血を吐いて死んぢやつたの。」

「陰惨ですね。」

「家の師匠のは、そんな大時代(おほじだい)な質の悪いのと違ふの。ただ浮気つぽいのね。でも喰い止まるでせうよ、今度で。」

「さうか知ら。」

「また何か初まつた。」

「さあ。」

 巳之吉は首を傾げた。

「あんたの彼女はあれつ限り?」

「二度ばかり手紙来たけれど……あんな小便くさいの止せつて、家のお師匠さんも口が悪いからな。しかし此の頃は僕も少し目が肥えて来たから。」

「さうお。」

 子供が泣き出したので、朗子は傍へ寄りそつて、上から叩いた。時間過ぎとみえて鉄棒の音も聞えて来た。

 

 翌朝朗子が二階からおりて来た頃には、巳之吉はそこらを綺麗に掃除して、襷掛けでせつせと入口の格子戸を拭いてゐた。

 密(ひそ)やかな驚異と悦楽と苦悩の幾月かが、それ以来巳之吉に過ぎた。しかし二人の秘密が曝露しかけて来たのは、師匠の巳子蔵が土地の招聘に応じた小峰と一緒に、彼女の故郷の博多へ旅をして、帰りに別府で五日も遊んでゐた間のことあつた。

 朗子は人目を避けて、この土地の人の行かない、少し遠いところの洗場へ行くやうにしてゐたが、しかしそこにも世間の目はあつた。

 その月も、機織場(はたば)の多い上州の方へ、巳之吉は三日がかりで出張したが、その時分には、朗子の普通でない体のことが方々で問題にされてゐたが、その主が、漸と今年徴兵検査を受けたばかりの巳之吉であるのか、それとも前に浮名の立つた大学生であるのか、又は思ひも寄らないところに、誰も気づかない恋人が出来たのか、誰にも確かなことはわからなかつたが、巳之吉らしいとは、誰も一応は考へるのだつた。

 その中でも長唄色草会の連中が、殊にこの事件に興味を寄せたし、口も煩かつた。巳子蔵を中心にした名取りの七人組の組織してゐるのが、色草会であつた。取りわけ春代、千代次、元枝、恋香なぞと云ふ、この土地では嫡々の姐さんたちが、何かといふと巳子蔵のまはりに不断集まる連中だけに、師匠の一大事とばかりに騒ぎ出した。彼女たちのなかには真実か偽か、師匠に据ゑ膳をして嬉れしがつてゐるのもあるといふ噂だつたが、これも明白(はつき)りわからなかつた。地獄よりも恐ろしい此の少女虐待の世界にも、そんな風が吹いてゐるのだつた。

 或る日も色草会の連中が、デパアトの演芸場で催すことになつてゐる、各花街の演芸会のことで見番に寄り合つてゐると、相変らず其の話が出た。そこへ種次姐さんも抱への事があつてやつて来たので、

「姐さん何う思ひます。見て見ない振してゐていいもんですか。」

「私や知らないよ。人様のお腹のふくれたことまで、気にしちやゐられないよ。」

 種次は膠なく言うふのだつた。

 その後で、年上の春代と千代次が、巳之吉の留守を目がけて朗子のところへ押し寄せて、彼女をびくりとさせた。朗子は奥の間で、爪弾きで何か弾いてゐた。

「あら珍らしいわね。」

「暑いぢやありませんか。貴女達こそお揃ひで……。」

「さうね、偶にはお寄りしようと思ひながら、つい其の何だか変梃りんで。」

「お師匠さんからお便りあります?」

 千代次も怳(とぼ)けて聞いた。

「いいえ、ちつともないんですよ。」

 朗子は彼女達の目の前で立ちあがるのも厭で、お茶をいれずに其処に居据つてゐた。

「巳之さんもゐないんでお寂しいでせう。坊やは。」

「仕込さんが可愛がるもんで、お隣へばつかり行つてるんですよ。」

「朗子さんも家に燻つてばかりゐないで、何処か一日涼しい処へ遊びに行かうぢやありませんか。」

 さすがに気がひけて、二人とも言ひそびれてしまつたが、そのうちに春代が坐り直して言ひだした。

「変なこと伺ふやうですけれど、朗子さん此の頃軀が変なんぢやありません? 皆さう言つて心配してますわ。」

「私達不断からお宅のお師匠さんに御懇意に願つてゐるでせう、見て見ぬ振て訳に行かないんですわ。外の事と違つて、是許りは世間の口が煩いでせう。後はまた何とかお取做役(とりなしやく)を勤めますから、私達だけに真実のこと打明けて頂けませんか知ら。」

 朗子は足を崩して俛(うつむ)いたきりでゐたが、

「ご心配かけて済みません。」

「いいえ、実は私達の出る幕ぢやないんだと、さうも思つて見たんですけれど、そうぢやないな、朗子さんのことだから、相談する人がなくて困つてゐるんぢやないかな。さうだとすると、遠慮なしにお話していただけるのは、矢張り私達より外にないでせう。厭に詰問するやうで悪いけれど、相手は一体誰ですの。」

「ちょいと巳之さんだと云ふ噂だけれど、真実ですの。」

 千代次は低声で言つた。

「巳之吉さんだとすれば、無理のないところもあるやうだわね。」

「誰にしたつて、これはかかり易い係締だわ。」

 暫く言葉が途絶えて、風鈴が気うとい音を立ててゐた。朗子が肯定も否定もしないで、ただじつと成り行きに委せきりの肝をすゑてゐるらしいので、泥を吐かせようと意気込んで来た二人も、その上しち醇きは言へなかつた。その上幼い時からの環境に痛めつけられて来て、女の意地といったやうなものの、朗子にあることも解つてゐた。》

 

・《子供が泣き出したので、朗子は傍へ寄りそつて、上から叩いた。時間過ぎとみえて鉄棒の音も聞えて来た。

(一行空け)

 翌朝朗子が二階からおりて来た頃には、巳之吉はそこらを綺麗に掃除して、襷掛けでせつせと入口の格子戸を拭いてゐた。

 密(ひそ)やかな驚異と悦楽と苦悩の幾月かが、それ以来巳之吉に過ぎた。》

という抑制された表現には、秋声の核心がある。

野口冨士男は『徳田秋聲ノート』に収めた「徳田秋聲の文学」を次のように結んでいる。

池大雅は、どこに墨を置くかというより、空白をどう活かすかに意をそそいだといわれるが、秋聲の作品にはそれに通じるものがある。『徳田秋聲伝』に、私は彼が<手をぬかずに省略を心がけた>作家だという意味のことを記したが、書いていない部分がくっきり書かれているというような作風で、その典型的な一例を、私は『あらくれ』の第五十三回の終りから第五十四回のはじめにかけての部分に見いだす。引用は避けるが、山の宿<浜屋>の主人とお島が通じる部分で、通じたことは一字も出て来ない。が、翌朝お島が浴室へ<湯をぬくために、冷い三和土(たゝき)へおりて行った>ところの描写には描写にないものがある。現在の作家は男女がホテルへ行ってからの行動に関して事実ベッタリの書き方をするが、秋聲なら<二人はホテルへ行った。翌朝……>というふうに表現するに違いない。秋聲作品は暗示的で、あの暗示がいかにも的確である。彼の場合の<あるがまま>とは、いわゆる糞リアリズムではない。無用な一切を切り棄てた、簡潔な文学なのである。<素人受けのしない文学>といわれるゆえんも、その辺にある。》

・しかし、『仮装人物』は唯一と言ってよい例外だ。古井由吉は『仮装人物』文庫本解説「空虚感を汲み尽そうとする情熱」で、《これは第三章の、郊外のホテルの或る一夜の、翌日のくだりである。赤い花片に似た唇とある、黒いダイヤのような目とある、悩ましい媚とある。これを秋声の文学の、一時の堕落か衰弱と見る人もあるだろう。また、このような言葉を敢えて多用することによってしか、老境に入った男性の、若い女性の魅力に掻き起された恋情のせつなさは表わされない、と得心する人もいるだろう。むろん、この作品のどこからどこまで、このような表現に覆われているわけでもない。秋声特有の強靭な客観がこの作品においても、その下地をなしている。しかしこの種の表現を除外してしまったら、「仮装人物」は「仮装人物」ではなくなるだろうこともたしかである。》

古井由吉は続ける。《やがて作品は主人公が行為の美醜を、超えるというふうでもなく、その弁別から抜け出してしまうように読者には感じられる境にまで至る。あまりのこと、と読者はさすがにあきれながら、作品の中へもうひとつ惹きこまれるところである。(中略)

――それでなくとも、幻惑の底に流れているものは、いつも寂しい空虚感で、それを紛らすためには、絶えず違った環境が望ましかった。

 これは作中の随所に見られる表白であり、したがってこの箇所を引用するのもほとんど任意に近くなるが、この空虚感を私は作品の底流とも見る。しかし空虚感だけだは、作品を支えあげるものにはならない。この空虚感を汲み尽そうとする情熱、これがこの作品に生命を吹きこんでいるもの、と私は感じる。そしてまたこの情熱こそ、「黴」と「仮装人物」をひとすじにつなぐものだ、と考えている。

 もうひとつ言い添えれば、秋声の老年期には「町の踊り場」および「死に親しむ」という、超私小説とも呼ぶべき名短篇があり、そこにはいま言った空虚感がひとまず汲み尽されて、それともはや馴親しんだ生命の様子が描かれているが、じつは「仮装人物」の執筆のほうがそれよりも後にあたるのだ。空虚感の支配をおそらくもうひとつ超えた境地から、過去を照らし、しかもその文章を当時の空虚感と惑乱の色に十分に染めたというのは、見事な作家の業ではないか。》

 ここで、『戦時風景』もその老年期の作品の一つであって、超私小説とは違う領域だが、同じ空虚感が、しかも空虚感を汲み尽そうとする静かな情熱とともにあって、それこそが「ひょうたん鯰」の魅力の正体ではないのか。

 

《まだ其の頃は検査前の巳之吉が、朗子の分娩ときいて、あわてて滝の川の産院へ駈けつけたのは、その年の十二月、クリスマスの二三日前の午後であつた。

 離縁になつた朗子は、滝の川の産みの母の手元へ引き取られて、そこで身軽になる日を待つてゐたが、何か肩身の狭い思ひで、折々訪れて来る巳之吉が待たれるのだった。

「お産は何時?」

 巳之吉は来る度に催促するやうにきいてゐたが、自分が映画劇の主人公にでも成つたやうな感じがしてゐるものらしく、朗子は可笑しかつた。来る度に彼は何か彼か買つて来た。チヨコレイトとか、ソフトビスケツトだとか、又は綺麗な映画雑誌に季節の花など。

 産院で赤ん坊を見たときには、彼はちょつと見ただけで「何だこんなものか」と言つた風だつたが、見てゐるうちに奇蹟に打たれたやうに、父にまで飛躍した自身に驚きの目を睜り、大人の矜りを感じた。男性らしい強い愛情が朗子へ湧いた。赤子は朗子のベツドから離れた小さいベツドのうへに寝かされてあつた。

「目あかないね。」

「さうお、今にあくわよ。浮世の風に当つたばかりですもの。」

「額の広いとこ己に似てゐるね。厭んなつちやふな。」

 朗子は力なげに微笑んだ。

「お師匠さん己達に結婚させると言つてるよ。」

「お気の毒みたやうね。こんなおばあさんと。」

「ううん、そんな積りぢやないよ。」

 そこへ看護婦が入つて来て、何か赤ん坊の手当をしてゐた。

 巳子蔵は朗子を離縁する一方、愛弟子の巳之吉とも一応子弟の縁を切つたのであつたが、下方(したかた)の叔父がお詫びを入れてくれたので、形式的に巳之吉に謝罪(あやま)らせて、元通り一切の代稽古を任せることになつた。

 その翌日も、出稽古を二軒も断りにあるいて、産院を訪れた。朗子は一日のことで、滅切り顔色が好くなり、水々した目にも力が出てゐたが、赤ん坊もむづむづ口を動かしたり、目を明いたりした。巳之吉は傍へ椅子をもつて行つて不思議さうにぎつと見てゐた。

「面白いもんだね。正ちやんもこんなだつた?」

「あの時は別に気もつかなかつたわ。」

「いや、世間ぢやね、この赤ん坊を己の子ぢやないなんて言つてるんだよ。春代さんなんかもね、押(おつ)つけられたんぢやないなんて言つてるんだよ。」

四谷怪談の子助ぢやあるまいし、そんな事言はれても黙つてる法はないでせう。あの人達の師匠へお諛(へつら)ひよ。」

「それあさうだ。しかし変なことを聞いたよ。己は何んにもしらなかつたけれど。」

「何よ。言つてごらんなさい。」

「ううん何でもないよ。」

 巳之吉は打消したが、ちよつと口を辷らせてしまつた。

「朗子さん病院で初めて許したんだつて、さう。」

「誰がそんな事言つたのよ。」

「ちよつと耳にしたの。」

「それあさうだわ。結婚して四月目かに師匠が痔の手術で入院してゐた時、この機会とばかりに、皆んなで否応なしに私に附添はしたものなの。」

 朗子はその時のことを思い出して、顔を赧らめてゐた。

「でもあの人は私なんか何うだつて可いんですもの。」

「いや、さうぢやない。師匠は小峰さんをほんたうに愛してるか何うだか解んない、正ちやんの実のお母さんとしての朗子さんが、何と言つても師匠の頭脳に刻まれてゐるんだね。」

「何うして?」

「今に僕に結婚させると言つてゐながら、自分では小峰さんと結婚する気があるのやらないのやら。小峰さんに催促されると、もう一年も経つて世間の噂が静まつてからなんて言つてゐるんだもの。」

「じらしてゐるのよ、故意(わざつ)と。」

「さうかしら。でもね、師匠の心理では、小峰さんの人気のあるのも、余り好い気持はしてゐないらしいんだ、殊にこの頃芝居へも出ないでせう。酒を飲んでゐても何だか寂しさうだよ。」

「私と関係ないことだわ。」

「いやさうぢやない。小峰さんに惹著けられれば惹著けられるほど、貴女を思ひ出すらしいんだ。」

「気持は好くないでせう。それは解るけれど……。」

 朗子が疲れるので、巳之吉はやがて病室を出た。

 

 姉の店の整理もそこそこに、名古屋から大急ぎで帰つて来た巳之吉のために、色草会の連中に五六人のお弟子も交つて、或る夜土地の料亭で送別の宴が開かれてから、兵営生活の三ヶ月もすぎて、彼は浅草にある家(うち)の、町内の人達に送られて、東京駅から戦地へと立つて行つた。色草会の連中に取りまかれて、師匠も来てゐた。

 巳之吉は何が何だか解らずに、プラツトホームの群衆の殺気立つてゐるのに、頭がぼつとしてゐた。プラツトホームは、国旗の波と万歳の声とで、蒸し返されてゐた。

 列車に乗つてからも、窓の下に集まつて来る人の顔が、誰が誰やら見分けもつかなかつた。ふとみると、春代や千代次の立つてゐる蔭で、目の下に朗子と師匠と顔を寄せて、何か話してゐるのに気をひかれた。俛(うつむ)いた朗子は時々ハンケチで目の縁を拭いてゐた。巳之吉は一時に神経が蘇つて来るのを感じた。瞬間微笑を浮べた巳子蔵の目と目が直(ぴつた)り合つた。

「今も朗子に言つてるんだが、補充の己に召集令が来ないで、第二乙のお前が一足先きに立つことになるなんて。しかし心配することはない。己が招集されるまでは朗子のことは時々面倒見るよ。お前も帝国軍人だ、心を残さずしつかり遣つてくれ。いづれ戦場でお目にかかる時もあるだらうよ。」

「はつ。」

 兵士らしく巳之吉は頭を下げた。

「先づそれまでは……去らば/\でせう。」

 春代が傍から混ぜかへした。

 後ろから万歳の叫びが物凄く雪崩れて来たところで、巳子蔵も手をあげて万歳を叫んだ。

「☓☓☓☓☓☓☓☓☓☓☓☓☓☓☓☓。」

 巳之吉は顔の筋肉の痙攣するのを感じた。

 やがて列車が動き出した。》

 

・『名人選』巻末の対談で、丸谷才一が、川端康成の「童謡」について、戦前の検閲制度をくらますことにかけては、まさに天才的、なかなかの芸人、と讃えたあとを受けた野口冨士男は、

野口 みんなそれをやっているんですね。徳田秋声の「戦時風景」で、最後のページに十六字分、☓☓になっている。ぼくはこれ、徳田一穂(筆者註:秋声の長男)さんに聞いたんですが、「戦争に行かない奴は暢気(のんき)でゐやがる」という巳之吉のモノローグらしい。それだと十六字でぴったり合う。山手の花柳界の生活がよく出ていますね。

丸谷 野口さんに教えていただいて入れることができた作品なんですが、たいへん感心しました。これだけの短かさのなかに、いろいろな人間の運命の移り変りが、うまく書かれている。

野口 花柳小説には、遊びの面を書くのと、花柳界の人間の生活者としての面を書くのと、二種類あると思うんですが、これは生活者のほうですね。

丸谷 具体的に名前を挙げていえば、荷風の書く花柳小説と、秋声の書く花柳小説。

野口 荷風にも「風邪ごこち」とか例外はありますけれども、それは二人の、はっきりした違いでしょうね。》

・丸谷が「対談」のなかで、大岡昇平『黒髪』を『名作選』に入れた理由を、《一人の女の流転の姿を描く……いわば女を中心とした一種の教養小説というのかな、逆の教養小説みたいな感じ。そういう小説のひとつの典型だと思うからです。(中略)花柳小説の書き方には、一人の女の生きゆく姿を、春夏秋冬の移り変りみたいなものとしてとらえ、そこにあわれをおぼえ人生を見る……というところがありますが、そういう感じを現代において、一番くっきりと代表しているのが、この「黒髪」じゃないかと思ったんです。》と語るのを受けて、

野口 生島遼一さんによると、ヨーロッパの小説には女の流転を書いたものが多いけれども、日本では案外ないんだそうですね。もちろん西鶴の一代女とかいろいろあることはあるんでしょうけれど、そういうところで秋声を……秋声っていうのはほとんど流転小説ですから、生島さんは買っていますね。》

・丸谷の言う《これだけの短かさのなかに、いろいろな人間の運命の移り変りが、うまく書かれている。》のとおり、春代、巳之吉、朗子、巳子蔵、小峰といった登場人物の人生の移り変りが過不足なく書かれていて、だから最後の別れの場面も、思わせぶりな描写によって、朗子と巳子蔵はどうにでもなりそうな運命が待っていると思わせる。

・秋声の反戦思想、ファシズム嫌悪ということでは、「徳田秋声論」を書いた広津和郎江藤淳との対談「徳田秋声を語る」で披露した逸話がある。

《「広津 秋声のおもしろいのは、これも「群像」に書いていますけれどもね。昭和十一年、斎藤内閣のときに、警保局長だった松本学が文学統制に乗り出したんです。(中略)斎藤首相に話をしたら、それは結構な話だというんで、作家たちを呼んだわけです。そうして「この集まりを私設の文芸院という名にしたいと思います。元来国家がもっと文学のためにつくさなければならないのですが日本では文学に対して政治家があまりに冷淡でした。それで、いま国家のそういう方向への機運を促進するために、私設文芸院を作りたいのです」と言ったときに、徳田さんがいきなり、「日本の文学は庶民から生まれ、庶民の手で育った。いままで為政者に保護されたことはないし、いまさら保護されるなんていわれたって、そんなもの信用できないし、気持ちが悪い」それに「日本の政府がいま文字の保護に出てくるほどの暇があるはずはない、そんなことは信じない」と間髪を入れずそういうように言ったんで、松本学はこれはなかなか文字の統制なんて出来るものではないと、方向転換したわけです。名も文芸院はやめて、文芸懇話会という当らず障らずの名にして、意味もない会合を続けることになりましたが、そのうちその会で、どっからもってきたのか、金があるので「文芸懇話会」という雑誌を作ろうということになった。そのとき島崎藤村がおだやかに、「松本さん、お台所のほうはどうぞあなたがおやりください、しかし編集のほうは私どもがやりますから」と一本釘をさした。これは内務省御用雑誌にされないためです。こういう急所急所でびしっと言うべきことを言う点で、やっぱり明治文壇の藤村・秋声はえらいと、のとき感じたんです。」》

 漱石のような書斎の人ではなく、生涯、市井・庶民の人秋声らしいではないか。

・さきに野口が言及したフランス文学者生島遼一の「秋声小論」には、日本の「女の一生」、「女の運命」についての指摘ばかりでなく、秋声への顕彰がある。

三好達治君が話していたことだが、川端康成が秋声を訪ねて行ったら、秋声はちょうど晩年の愛人である婦人の家で、肩をぬいで膏薬をはらしていたところで、その様子を見て「らくになってるな、と思った」と川端さんが語っていたそうだ。面目がよく出ている。作品のほうにも、晩年のもなかなか気の張りを落とさず書いてはあるが、そういう、らくになった人柄がどこかあらわれている。(中略)この人の女の書き方は自然主義系統の人の中で、一番やわらか味があり、上手である。川端康成さんは「仮装人物」の女の肉体はみずみずしい、とほめていた。紅葉の門下であって文学の質では異端者ということになっているが、女を描くことの柔軟なうまみという点では紅葉たちとのつながりを私は感じてならない。文学の技法は硯友社より新しいが、そういうところにつながりを感じる。

 人間に愛情をもっていた人の作品は残るという気がする。もしくは憎悪でもいい。甘く見えても、またいろいろ糊塗してあっても、そういう愛情のない人の作品は結局忘れられるにちがいない。秋声は愛情をもっていた人だ。客観描写主義のdiscipline(修業)と日本人的なストイシズムでそういうものをおさえおさえし、あるいは一脈の気の弱さで躊躇しながらも、――結局は愛情に生き、愛情のためならすべてを描いて行くような一図なものを胸底にもっていた人だったろう。短篇で「蒼白い月」とか「或売笑婦の話」などというのはほうぼうの選集におさめてあって、きっと作者の気にいっていたものだろうが、ああいう作品には大作とちがっていま言ったような愛情がごく自然に流れている感じで私も好きだ。》

 なるほど『戦時風景』も「らく(・・)になった」ころの短篇であり、「愛情をもっていた」人の作品の一つ、「愛情がごく自然に流れている感じで」私も好きだ。

 

                               (了)

        *****引用または参考*****

*『花柳小説名作選』(徳田秋声『戦時風景』所収)(集英社文庫

野口冨士男徳田秋聲ノート』(中央大学出版部)

野口冨士男徳田秋聲傳』(筑摩書房

野口冨士男徳田秋聲の文学』(筑摩書房

徳田秋声『新世帯・黴』(古井由吉解説「世帯の行方」所収)(福武書店文芸選書)

徳田秋声『仮装人物』(古井由吉解説「空虚感を汲み尽そうとする情熱」所収)(講談社文芸文庫

*『現代日本文學大系15 徳田秋聲集』(夏目漱石「『あらくれ』評」、広津和郎徳田秋声論」所収)(筑摩書房

*『日本の文学 徳田秋声1』(川端康成解説所収)(中央公論社

*『日本の文学 徳田秋声2』(江藤淳解説、広津和郎江藤淳対談「徳田秋声を語る」所収)(中央公論社

中村眞一郎『この百年の小説』(新潮社)

*『寺田透評論Ⅰ』(思潮社

*松本徹『徳田秋聲』(笠間書院

紅野謙介・大木志門編『21世紀日本文学ガイドブック6 徳田秋聲』(ひつじ書房

生島遼一『朝日選書 日本の小説』(「秋声小論」所収)(朝日新聞社

文学批評 『花柳小説名作選』を読む(1) ――永井荷風『あぢさゐ』

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 『花柳小説名作選』(丸谷才一選。以下『名作選』と略す)から永井荷風『あぢさゐ』、徳田秋声『戦時風景』、舟橋聖一『堀江まきの破壊』の三作品を読む。

 荷風は別格として、徳田秋声舟橋聖一の二人はかつて大家でありながら今ではほとんど忘れられているものの、読めば『名作選』の中でも指折りの名作にふさわしい。

 荷風『あぢさゐ』が昭和六年、秋声『戦時風景』が昭和十二年、聖一『堀江まきの破壊』が昭和二十三年の発表だから、大正から昭和前半への花柳社会の衰退、下降を、作家たちの目が冷徹に見据えていたと知る。

 荷風『あぢさゐ』と秋声『戦時風景』に共通するものは男が「芸人・三味線ひき」なことであり、秋声『戦時風景』と聖一『堀江まきの破壊』に共通するのは『アンナ・カレーニナ』を読む女であり、聖一『堀江まきの破壊』と荷風『あぢさゐ』では「葭町(よしちょう)(芳町)」という場(ば)・空間である。

 

 なぜ「花柳小説」などをという向きがあるかもしれないので、『名作選』巻末の丸谷才一野口冨士男の対談から、丸谷の「にせの市民社会としての花柳界」という批評的文明論を紹介しておく。

丸谷 いろいろな種類の人間が出会ったり別れたり、愛したり憎んだりすることによってできる模様を書いて、それでなにかを表現する、というのがごく普通の西洋風の小説の考え方だろうと思います。

 ところが明治以降の日本の社会では、身分や階級、職業の違いなどにあまり関係のない市民社会というものができなかったせいで、男と男でも、なかなか自由に出会うことがなかった。まして男と女となると、出会う機会が、まことに少ない。娘たちは家の外へ出してもらえないし、奥さんもよその男と話をすることはめったにない。そういう種類のたいへん窮屈な、洗練されていない社会であった。

 そんなふうに垣根が幾つもあるような、洗練度の低い社会で小説を書くのは、非常に厄介なことだったと思うんですが、そういうなかで、人間と人間がわりに自由な感じで出会うことができる場所はわずかにあって、それが花柳界だったんですね。》

                ******

 永井荷風『あぢさゐ』>

 

駒込辺を散策の道すがら、ふと立寄つた或寺の門内(もんない)で思ひがけない人に出逢つた。まだ鶴喜太夫が達者で寄席へも出てゐた時分だから、二十年ぢかくにもならう。その頃折々家(うち)へも出入をした鶴沢宗吉といふ三味線ひきである。

「めづらしい処で逢ふものだ。変りがなくつて結構だ。」

「その節はいろ/\御厄介になりました。是非一度御機嫌伺ひに上らなくつちやならないんで御在ますが、申訳が御在ません。」

「噂にきくと、その後商売替をしなすつたといふが、ほんとうかね。」

「へえ。見切をつけて足を洗ひました。」

「それア結構だ。して今は何をしておいでだ。」

「へえ。四谷も大木戸のはづれでケチな芸者家をして居ります。」

「芸人よりかその方がいゝだらう。何事によらず腕ばかりぢや出世のできない世の中だからな。好加減に見切をつけた方が利口だ。」

「さうおつしやられると、何と御返事をしていゝかわかりません。いろ/\込入つたわけも御在ましたので。一時はどうしたものかと途方にくれましたが、今になつて見れば結句この方が気楽で御在ます。」

「お墓まゐりかね。」

「へえ、先生の御菩提所もこちらなんで御在ますか。」

「なに。何でもないんだがね。近頃はだん/\年はとるし、物は高くなるし、どこへ行つても面白くないことづくめだからね。退屈しのぎに時々むかしの人のお墓をさがしあるいてゐるんだよ。」

「見ぬ世の友をしのぶといふわけで。」

「宗さん。お前さん、俳諧をやんなさるんだつけね。」

「イヤモゥ。手前なんざ、唯もう、酔つて俳徊する方で御在ます。」

 話をしながら本堂の裏手へ廻つて墓場へ出ると、花屋の婆は既にとある石塔のまはりに手桶の水を打ち竹筒の枯れた樒を、新しい花にさしかへ、線香を手に持つて、宗吉の来るのを待つてゐた。見れば墓石もさして古からず、戒名は香園妙光信女としてあるので、わたしは何心もなく、

「おふくろさんのお墓かね。」

「いえ。さうぢや御在ませむ。」と宗吉は袂から数珠を取出しながら、「先生だからおはなし申しますが、実は以前馴染(なじみ)の芸者で御在ます。」

「さうかい。人の事はいへないが、お前さんも年を取つたな。馴染の女の墓参りをしてやるやうな気になつたかな。」

「へゝえ。すつかり焼きがまはりました。先生お笑ひなすツちやいけません。」と宗吉はしやがむで、口の中に念仏を称へてゐたが、やがて立上り、「先生、この石塔も実は今の嚊には内々(ないない)で建てゝやつたんで御在ます。」

「さうか。ぢや大分わけがありさうだな。」

「へえ。まんざら無いことも御在ません。親爺やお袋の墓は何年も棒杭のまゝで、うつちやり放しにして置きながら、頼まれもしない女の石塔を建てゝやるなんて、いゝ年をしていつまで罰当りだか、愛想がつきます。石がたしか十円に、お寺へ五円、何のかのと二拾円から掛つでゐます。」

「どこの芸者衆だ。」

「葭町の房花家(ふさはなや)といふ家にゐた小園(こその)といふ女で御在ます。」

「聞いたことのあるやうな名前だが。」

「いえ。とても旦那方の御座敷なんぞへ出た事のあるやうな女ぢや御在ません。第一看板がよくない家(うち)でしたし、芸もないし、手前見たやうなものでも、昼日中一緒につるんで歩くのは気が引けたくらゐで御在ましたからね。芸者の位といふものは見る人が見るとすぐわかるもので御在ますからね。」

 寺の門前に折好く植木屋のやうな昔風な家(や)づくりの蕎麦屋が在つたので、往来際の木戸口から小庭の飛石つたひ、濡縁をめぐらした小座敷に上つて、わたしは宗吉のはなしを聞いた。

     *         *         *         *  》

             

・『名作選』巻末の丸谷才一野口冨士男による「<対談解説>花柳小説とは何か」から、『あぢさゐ』に言及された会話を見ておこう。

野口 ぼくはこれ、どうして「あぢさゐ」って題名なんだろうと思っていたんですよ。そうしたらアジサイっていうのは、どんどんいろ(・・)が変るんですね。いろ(・・)というのは色彩ですけれども、情夫という意味もある。

 ふつうオーソドックスな花柳小説では、男が女をかえるのに、この場合は逆に、女が男をかえている。そういう意味でもこれは、大変な作品ですね。

丸谷 なるほど。たしかにそうですね。ぼくはアジサイの花の一種の頽廃感があるでしょう、花がだんだん崩れていく感じ……荷風はそういう感じを非常に愛していて、「あぢさゐや身を持崩す庵のぬし」という句を詠んだくらいですから、アジサイの花の崩れていく感じを、いろいろな男のせいでだめな女になっていく女主人公のなかに見てつけたのかと思っていました。

野口 それもあるでしょうけれど、戦前の東京では小さな貸家でも、陽の当らない猫の額ほどの庭があって、そこにアオキやヤツデ、イチジク、アジサイなんかを植えてあった。ところが、お妾さんの家にはアジサイを植えちゃいけなかったんですって。いろ(・・)がかわるといけないから(笑)。それを聞いたときに、あ、それで荷風のあれも『あぢさゐ』なのかと……。

丸谷 面白いですね。たしかにたいていの花柳小説では男が女をかえる、つまり男性中心的な書き方ですね。

野口 芸者が役者買い、相撲買いをするといっても、普通は男の玩弄物ですよ。荷風の場合は女性の主人公に、非常に好色な女が多い。

丸谷 「腕くらべ」が役者買いの小説ですね。

野口 そうですよね。あのモデルは十五世の羽左衛門だといわれているわけですけれども……》

(ちなみに、『腕くらべ』の瀬川一糸のモデルは、十五世市村羽左衛門とも(相磯凌霜(あいそりょうそう)『腕くらべ余話』)、三世坂東(ばんどう)秀調(しゅうちょう)とも(吉田精一永井荷風』)言われるが、荷風は一人のモデルから作中人物の造形をしないことを自慢していたから、若いころ歌舞伎座作者部屋で働いたときの歌舞伎界の裏表の見聞を基に(荷風『書かでもの記』)、ちょうどそのころ荷風と結婚し、半年で離婚し、しかしその後も付き合いがあった新橋巴家(ともえや)の八重次(のちの藤蔭静枝)から艶聞を聞かされていたはずの羽左衛門、合評会などで交流があった秀調(彼の父金子翁と八重次とは親しかったので結婚式で八重次の仮親元となった。荷風『矢はずぐさ』)、作劇を依頼されたものの黙阿弥のようには上手く書けず苦しむことになったり、八重次との結婚では仲人を務めてもらうなど、生涯に渡って蜜のごとき親しさだった二世市川左団次近藤富枝荷風と左団次』)らの多重映像と考えるのが妥当で、これ以上にモデル探しをしても荷風の言葉どおり虚しい。)

・「問わずがたり」的な短編小説の構成、枠組みの技巧、工夫があって、話者に語らせる明治大正期の常套とはいえ、小説形式への美意識は、なにもジッド『贋金使い』の小説のなかの小説形式を用いた『濹東綺譚』に始まったわけではない。

・町や墓地を散策する「日和下駄」の荷風散人を思わせもする「先生」と呼ばれた旦那の、「~かね」「~だ」の無愛想、ぞんざいなのは脇役がうるさくならないためであるのと、対比して三味線ひき宗吉の「御在ます」「御在ます」という腰の低さに、社会的な芸人の地位、上下関係がみてとれる。

・「戒名は香園妙光信女」に、執筆当時に荷風が関係した女「園香」のうっすらとした刻印がある(荷風は登場人物にモデル等の名前を改変流用することはまずないが、それでも穿てば、三味線ひき「宗吉」に荷風こと本名永井壮吉の見果てぬ影がある)とは、荷風研究家秋庭太郎も指摘していた。

・《いえ。とても旦那方の御座敷なんぞへ出た事のあるやうな女ぢや御在ません。第一看板がよくない家(うち)でしたし、芸もないし、手前見たやうなものでも、昼日中一緒につるんで歩くのは気が引けたくらゐで御在ましたからね。芸者の位といふものは見る人が見るとすぐわかるもので御在ますからね。》に「葭町(よしちょう)」という場の位置づけと、芸者の格が表象されている。

  

《「もうかれこれ十四五年になります。手前が丁度三十の時で御在ました。始めて逢つたのは芳町ぢや御在ません。下谷のお化新道で君香といつて居りました。旦那の御屋敷へ御けいこに上つて御酒をいたゞいた帰りなんぞに逢引をした事が御在ました。その時分には、アノ、旦那もたしか御存じの通り、新橋に丸次といふ色がありましたが、然し何をいふにも血気ざかり。いくら向からやんや言はれても、いやに姉さんぶつた年上の女一人、後生大事に守つちやゐられません。御贔屓の御座敷や何かで、不時の収入(みいり)がありますと、内所で処かまはず安い芸者を買ひ散らしたもんで御在ます。一人きまつたのがあつて、それで方々遊び歩くのは、まづ屋台店の立喰といふ格で、また別なもんで御在ます。ネエ、先生。はじめて湯島天神下の小待合で君香を買つたのもそんなわけで御在ます。何しろ十時頃に上つて十二時過には家へ帰つてゐやうといふんですから、女のよしあしなんぞ択好(よりごの)みしちや居られません。何でも早く来るやつをと、時計を見ながら、時によると、女の来ない中から仕度をさせ、腹ばひになつて巻烟草をふかし、今晩はといつて手をつくやつを、すぐに取(とつ)つかまへるといふやうな乱暴なまねをした事もあります。その晩もまづさういつた調子です。暫くして座敷へ来たのを見ると思つたよりは上玉でした。何も彼も忘れずにおぼえて居ります。衣裳は染返しの小紋に比翼の襟が飛出してゐるし半襟の縫もよごれてゐる。鳥渡見ても、丸抱(まるがゝへ)で時間かまはずかせぎ廻される可哀さうな連中です。つぶしに結つた前髪に張金を入れておつ立てゝゐるので、髪のよくない事が却て目につきました。しかし睫毛の長い一重目縁の眼は愛くるしく、色の白い細面のどこか淋しい顔立。それにまた撫肩で頸が長いのを人一倍衣紋をつくつた着物のきこなしで、いかにもしなやかに、繊細(かぼそ)く見える身体つき。それに始終俯向加減に伏目になつて、あまり口数もきかず、どこかまだ座敷馴れないやうな風だから、いかにも内輪なおとなしい女としか思はれません。長くこんな商売をしてゐられる身体ぢやない。さぞ辛い事だらうと、気の毒な心持になつたのが、そも/\間違のはじまりです。人は見かけによらないといふ事がありますが、この女ほど見かけによらないのもまづ少う御在ます。」

「柄にもない。一杯食されたんだね。」

「まアさうで御在ます。後になつて見れば、女の方ぢや別にだまさうと思つてかゝつた訳でも無いんでせうが、実に妙な意地張りづくになつて、先生、わツしや全く人殺をしやうと思つたんで御在ます。思出すと今でもぞつといたします。ところが、わたしよりも一足先に殺した奴があつたんで、わたしは無事で助かりました。わたしの名前は好塩梅に出ませんでしたが、その事は葭町の芸者殺しといふんで新聞にも出ました。下谷から葭町へ住替をさせたのは、わたしが女から頼まれてやつた事で、其訳はこの女には〆蔵といふ新内の流しがついてゐました。地体浮気で男にほれつぼい女だとは知らないから、わたしも始めての晩、御用さへ済めば別にはなしのある訳もなし、急いで帰らうとすると、「兄さん、お願ひだから、もう一度お目にかゝらせてね。」と寝乱髪に憂(うれひ)のきく淋しい眼元。袖にすがつていきなり泣落しと来たんだから、こたへられません。全体座敷で口数をきかない女にかぎつて床へ廻つてから殺文句を言ふもんです。それから通ひ出して丁度一月ばかり。逢つた度数(かず)で申さうなら七八遍といふところ。お互に気心が知れ合つて、すつかり打解ながら、まだどこやらに遠慮があつて、お互にわるく思はれまい。愛想(あいそ)をつかされまいといふ心配が残つてゐる。惚れた同士の一番楽しい絶頂です。君香はきかれもしないのに、子供の時からいろ/\と身の上ばなしをした末に、新内語(しんないかたり)の〆蔵との馴れそめを打明け、あの人はお酒がよくないし、手慰みもすきだし、万一の事でもあると困るから、体好(ていよ)く切れたい。そのために一時この土地をはなれて、田舎へでも行かうかと言ひます。此方(こつち)はのぼせてゐる最中だから、この場合、「うむ。さうか。ぢやア行つてきねえ。」とは云へません。「お前の胸さへきまつてゐるなら、お前のからだはおれが引受けやう。そんな無分別な事をせずと、東京にゐてくれ。」と乗出さずには居られません。芸者の住替をする道は素人ぢやないから能く知つてゐます。周旋屋の手にかゝつて手数料を取られ、碌でもない処へはめ込められるより、わたし自身で道をつけてやる方が結句女の為めだと考へ、お参りからすぐに親里ヘドロンをきめさせ、借金もならう事なら今までの稼高だけでも負けさせて住替の相談をつけてやらうと考へました。君香の実家は木更津ださうで、親爺は学校か町役場の小使でもしてゐたらしい。兎に角悪い人ぢやないやうでした。わたしは一先当人を親里へ逃して置いて、芸者家へは当人から病気になつたから、二三日帰れないといふ手紙を出させ、陰に廻つて、そつと東京へ呼戻して、抱主との話がつくまで毎日逢つてゐやうと言ふんです。もと/\逢ひたい見たいが第一で、別に女を喰物にしやうといふ悪い腹は微塵もないんですから、逃す時にも当座の小遣銭(こづかひ)、それから往復の旅費、此方(こつち)へ呼もどしてから、本所石原町に知つてゐる者があつたので、その二階を借りるやら、荷物は残らず芸者家へ押へられてゐるから、さしづめ着がへの寝衣に夜具も買ふ。わたしの身にしては七苦八苦の騒ぎです。何しろ其時分は丸次の家の厄介になつてゐた身ですから、公然(おほぴら)余所(よそ)へ泊るわけには行きません。昼間か宵の中忍んで行くより仕様がないので、自然出稽古はそつちのけ、御贔屓のお客はしくじる。師匠からは大小言(おほこごと)。忽の中に世間は狭くなる。金の工面には困つてくる。さてさうなると、いよ/\つのるが恋のくせ。二度と芸者には出したくないやうな気がして来ます。いづれは住替と、話はきまつてゐるものゝ、一日でも長く此のまゝ素人にさして置きたいといふ気になつて、諸所方々無理算談をしながら、若しや、君香がそれと知つたら、済まないと思つて早く住替をしやうといふにちがひない。さう云ふ気にならせまいと、わたしは何不自由もしない顔をして、丁度夏の事でしたから、或日は明石縮一反、或日は香水を買つてやつた事もあります。貸二階にばかり引込んでゐても気が晴れまいからと、人目を忍んでわざ/\場末の活動へ連れて行き帰りには鳥屋か何かで飯をくふ。君香は何も知らないから嬉しがつて、「兄さん、わたしこの儘でかうして素人でゐられたら。」と言つて泣きます。昼間だけ逢つてゐるんぢや、もう、どうしても我慢ができない。一晩はお袋が病気だと、丸次の手前を胡麻化し、その次は時節柄さる御贔屓の別荘へお伴をすると云ひこしらへて、三日ばかりとまつて、何喰はぬ顔で新橋へ帰つて来ますと、イヤハヤ、隠すより顕るゝはなし。世間は広いやうでも狭いもの。丸次の家で使つてゐる御飯焚の婆の家(うち)が、君香のゐる家のすぐ二三軒先で、一伍一什(いちぶしじふ)すつかり種が上つてゐるとは夢にも知らないから、此方はいつもの調子で、「今更切れるの、別れるのと、そんな仲ぢやあるまい。冗談もいゝ加減にしな。」と甘く持ちかけたから猶更いけない。「宗さん。人を馬鹿にするにも程があるよ。」ときつぱり、丸次は長烟管で畳をたゝき、「お前さん、それほどあの女が恋しいなら、わたしも同じ芸者だよ。未練らしい事を云って邪魔立てはしないから、立派に世間晴れて添ひとげて御覧。憚りながらまだ男ひでりはしないからね。痩せても枯れても、新橋の丸次といへば、わき土地へも知られてゐる顔だよ。さう/\踏みつけにはされたくないからね。立派に熨斗をつけて進上するから、ねえ、宗さん、後になつていざこざのないやうに一筆書いておくんなさいよ。その代りこれはわたしの志(こゝろざし)さ。」と目の前につき付けたのは後で数へて見れば百円札が五枚。いくら仕がない芸人でも、女から手切を貰つて引込むやうな男だと、高をくゝられたのが口惜しいから、金は突返して、高慢ちきな横面(よこつつら)足蹴(あしげ)にして飛出さうと立ちかゝる途端、これさへあれば君香の前借も話がつくんだと、卑劣な考がふつと出たばかりに、何にも云はず、おとなしく証文をかいた時は、我ながら無念の涙に目がかすみ、筆持つ手も顫へました。わたくしが其後三味線引をやめたのも、芸人でなかつたらあの耻はかゝされまいと、その時の無念がわすれられなかつたからで御在ますよ。》

 

・やはり『名人選』の対談から、花柳界、芸者の「分類」と、『あぢさゐ』の眼目について。

丸谷 野口さんは前に荷風を論じたときに、芸者と客の関係を、宴席と平(ひら)の座敷と枕席の三つに分けて、荷風の書く芸者は、枕席だけの芸者である、と……。

野口 枕席だけになってしまえば、ヒロインが芸者である必要はないんで、しだいに女給を書き、密淫売を書き……というふうに移行していったんですね。「雪解」というのは、芸者から女給に移ろうとした最初の作品だと思うんですよ。

丸谷 なるほど。

野口 けれども、自分の父親が間借りしているところへ娘が来て、床の間にあった二合罎を見て「お父(とつ)さん、お上んなさいよ」とお燗つけるでしょう。あれね、やはり女給じゃないんだな。

丸谷 芸者っぽいですね。

野口 そうでしょう。女給に素材を移そうとしたけれども、筆が芸者になれている小説、という気がするんだな。もっとも当時のカフェとか女給というのは、そんなものだったのかも知れませんが……。

丸谷 その意味でも、芸者から女給への過渡期を示す短篇小説、ということになりますね。

野口 枕席だけの芸者といえば、話が前に戻りますが、『あぢさゐ』の主人公について、「箱無しの枕芸者」という言葉が出てくる。箱というのは三味線で、戦前は検番で三味線の試験があって、それを通って初めて芸者になれたくらいだから、箱は芸者の命なのに、箱なしの枕芸者となると、これはまったく芸がなくてただ寝るだけ、いわゆる不見転(みずてん)で、だれにでも買われる芸者なんだけれども、それでもやはり人間性というのがあって、好きな男ができて、いろが変って行く……というところが『あぢさゐ』の眼目ですね。

丸谷 それともうひとつの眼目は、芸人が新橋のちゃんとした芸者を色にしていながら、それよりはずっと格の低い、芸者といえないような芸者のために身を持崩していく、そういう男のなかにあるデカダンスへの傾斜……。

野口 それで殺してやろうと思ったら、ほかのやつが先に殺していた、と最後はちょっと黙阿弥の世界になるんだけれども……。

丸谷 とにかくこれは文章がうまくてね。いやになるほどうまい。芸人が急いで帰ったら、女が留守なんで、「一番怪しいのは新内の〆蔵だ。と思ふと二階へ上つてもぢつとしては居られません。何かの手がゝりをと其辺を探しても」云々とあって「それらしいもんは目につかないので、猶更(なおさら)いら/\してまた外へ出た」、この「外へ出た」がすごい。

 それまではずっと、どこかの旦那衆に話をしているわけだから、丁寧な口調でしゃべっていたのが、女を疑い始めたところで、「猶更いら/\してまた外へ出た」。いきなりざっくりした、ぞんざいな口のきき方に変る。そこで世界が事件の現場になるんですね。こうした言葉の遣い方の切れ味のよさは、大変なものですね。》

 

・丸谷の「デカダンスへの傾斜」という指摘は、次のような文章によるだろう。

《始めて逢つたのは芳町ぢや御在ません。下谷のお化新道で君香といつて居りました。旦那の御屋敷へ御けいこに上つて御酒をいたゞいた帰りなんぞに逢引をした事が御在ました。その時分には、アノ、旦那もたしか御存じの通り、新橋に丸次といふ色がありましたが、然し何をいふにも血気ざかり。いくら向からやんや言はれても、いやに姉さんぶつた年上の女一人、後生大事に守つちやゐられません。御贔屓の御座敷や何かで、不時の収入(みいり)がありますと、内所で処かまはず安い芸者を買ひ散らしたもんで御在ます。一人きまつたのがあつて、それで方々遊び歩くのは、まづ屋台店の立喰といふ格で、また別なもんで御在ます。ネエ、先生。はじめて湯島天神下の小待合で君香を買つたのもそんなわけで御在ます。何しろ十時頃に上つて十二時過には家へ帰つてゐやうといふんですから、女のよしあしなんぞ択好(よりごの)みしちや居られません。何でも早く来るやつをと、時計を見ながら、時によると、女の来ない中から仕度をさせ、腹ばひになつて巻烟草をふかし、今晩はといつて手をつくやつを、すぐに取(とつ)つかまへるといふやうな乱暴なまねをした事もあります。その晩もまづさういつた調子です。》(なぜか荷風は、「葭町」と「芳町」を混在して使っている。)

《衣裳は染返しの小紋に比翼の襟が飛出してゐるし半襟の縫もよごれてゐる。鳥渡見ても、丸抱(まるがゝへ)で時間かまはずかせぎ廻される可哀さうな連中です。つぶしに結つた前髪に張金を入れておつ立てゝゐるので、髪のよくない事が却て目につきました。》

・こういった遊びに関する、荷風らしい箴言、決め台詞なら、《一人きまつたのがあつて、それで方々遊び歩くのは、まづ屋台店の立喰といふ格で、また別なもんで御在ます。》をはじめいくつかある。《全体座敷で口数をきかない女にかぎつて床へ廻つてから殺文句を言ふもんです。それから通ひ出して丁度一月ばかり。逢つた度数(かず)で申さうなら七八遍といふところ。お互に気心が知れ合つて、すつかり打解ながら、まだどこやらに遠慮があつて、お互にわるく思はれまい。愛想(あいそ)をつかされまいといふ心配が残つてゐる。惚れた同士の一番楽しい絶頂です。》

  

《然し五百円をふところにして丸次の家を出ると、其場の口惜しさ無念さは忽ちどこへやら。今し方別れたばかりの君香に逢ひ借金を返すはなしをしたら、どんなに喜ぶことだらうと思ふと、もう矢も楯もたまりませむ。電車の来るのも待ちどしく、自動車を飛して埋堀(うめぼり)の家へかけつけて見ると、夏の夜ながら川風の涼しさ。まだ十二時前なのに河岸通から横町一帯しんとして、君香の借りてゐる二階の窓も、下の格子戸も雨戸がしまつてゐます。戸を敲くと下の人が、「お帰んなさい。」と上り口の電燈をひねつて、わたしの顔を見、「あらお一人。」といふから、「お君は。」と問ひ返すと、「御一緒だと思つたら、ほゝゝゝほ。」と何だか雲をつかむやうなはなし。いつものやうに君香は先刻(さつき)わたしの帰るのを電車の停留場まで送つて行き、それなり家へはまだ戻らないのだな。明日(あした)の昼頃までおれの来ないのを承知してゐるからは、事によると今夜は帰るまい。どこへ行きやアがつた。前々から馴染のお客もないことはあるまい。一番怪しいのは新内の〆蔵だ。と思ふと二階へ上つてもぢつとしては居られません。何かの手がゝりをと其辺をさがしても衣類道具は、まだ下谷の芸者家へ置いたまゝの始末だから、こゝには鏡台一ツなく、押入には汚れたメレンスの風呂敷づゝみが一つあるばかり。それらしいものは目につかないので、猶更いら/\してまた外へ出た。

 埋立をした河岸通は真暗で人通りもなく、ぴた/\石垣を甞める水の音が物さびしく耳立つばかり。御厩橋を渡る電車ももうなくなつたらしく、両国橋の方を眺めても自動車の灯が飛びちがふばかり。ひや/\する川風はもうすつかり秋だ。向河岸の空高く突立つてゐる蔵前の烟突を掠めて、星が三ツも四ツもつゞけざまに流れては消えるのをぼんやり見上げながら、さしづめ今夜はこれからどこへ行かう。新橋はもう縁が切れてゐる。こゝに持つてゐる五百円。あんなに耻をかゝされて、手出しもならず。押しいたゞいて貰つて来たのは、そも/\誰のためだ。玉子の殻がまだ尻ツペたにくつゝいてゐる不見点(みずてん)のくせにしやがつて、よくも一杯喰はせやがつたな。胸糞のわるいこんな札(さつ)びらは一層(いつそ)の事水に流して、さつぱりしてしまつた方がと、お蔵の渡しの近くまで歩いて来て、ぢつと流れる水を見てゐますと、息せき切つて小走りに行過る人影。誰あらう、君香です。

「おい。おれだ。どこへ行く。」と呼留めた声はたしかに顫へてゐました。

「あら。兄(にい)さん。」と寄り添ふのを突放して、「何が兄さんだ。こゝにおれが居やうとは思はなかつたらう。ざまア見ろ。男をだますなら、もうすこし器用にやれ。」

 女は砂利の上へ膝をついたまゝ立上らうともせず、両方の袂で顔をかくし、肩で息をしてゐるばかり。何とも言はないから、「おい、好加減にしな。」と進寄つて引起さうとすると、君香は何か手荒な事でもされると思つたのか、その儘わたしの手にしがみつき、

「兄さん。気のすむやうに、どうにでもして下さい。わたし本望なのよ。兄さんに殺されりやアほんとうに嬉しいのよ。どうせ、生きてゐたつて仕様のない身なんだから。」とまた土の上に膝をつき、わたしの袂に顔を押し当てあたり構はず泣きしづむ。

此方(こつち)はすこし面喰つて、「もういゝ。もういゝ。」と抱き起し背をさすれば、君香はいよ/\身を顫はし涙にむせび、「兄さん、みんなわたしが悪いんです。打(ぶ)たれても蹴られても、わたし決して兄さんの事を恨みはしないから、思ひ入れひどい目に会はして頂戴。ヨウヨウ。」と身を摺りつける様子の、どうやら気味わるく、次第に高まる泣声は河水に響渡るやうな気もしてくるので、始の威勢はどこへやら、此方からあべこべに、「おれがわるかつた。勘忍しなよ。」と気嫌を取り/\やつと貸間の二階へつれもどりました。

 一時狂気のやうに上づツた心持がすこし落ちついて来ると、乱れた鬢をかき直し、泣脹した眼をしばたゝいて、気まりわるげに、燈火(あかり)避(よ)けてうつ向く様子のいた/\しさも、みんな此方(こつち)の短気からと後悔すれば、いよ/\いとしさが彌増り、いたはる上にもいたはる気になりますから、女の方では猶更嬉しさのあまり、思出したやうに又しやくり上げる。イヤモウ、手放しの痴言放題(のろけはうだひ)、何とも申訳が御在ませんが、喧嘩するほど深くなるとは、まつたく嘘いつはりのない所で御在ます。

 君香は芸者家のはなしが大分むづかしくなつて、親元の方へ弁護士を差向けるとかいふはなしを聞き、以前世話になつた周旋屋の店が、すぐ河向の須賀町なので、内々様子をきゝに行つたのだと言ふので、「そんなら早くさう言やアいゝのに。」とわたしは百円札を並べて見せ、証文は丸抱の八百円といふのだから、これでどうにか一時話がつくだらうと、その夜は行末の事までこま/゛\と、抱(だ)き合ひしめ合ひ、語りあかして、翌日(あくるひ)の朝早く、わたしは新橋の方さへ遠慮がなくなれば世の中に怖いものはないのだから、えばつて、下谷の芸者家へ出かけ、きれいに話をつけて来ました。》

 

・このあたり「情痴小説」の体であるが、このまま流されない冷徹さこそ荷風荷風たるゆえんだ。

荷風は『断腸亭日乗』昭和十一年一月三十日の記に、深い関わりを持った女十六名を列挙し、簡潔な註をくわえていて、次のような調子だ。

《十三 関根うた  麹町冨士見町川岸家抱鈴龍、昭和二年九月壱千円にて見受、飯倉八幡町に囲ひ置きたる後昭和三年四月頃より冨士見町にて待合幾代という店を出させやりたり、昭和六年手を切る、日記に詳なればこゝにしるさず、実父上野桜木町〻会事務員》

《[欄外墨書]十四 山路さん子  神楽坂新見番藝妓さん子本名失念す昭和五年八月壱千円にて見受同年十二月四谷追分播磨家へあづけ置きたり昭和六年九月手を切る松戸町小料理家の女》

・帰朝依頼馴染を重ねたる女、列挙の十三番、関根うた(歌)は、荷風が生涯に愛した女のなかでは、若い頃に入籍した八重次を別にすれば、最も深く馴染んだ女で、珍しく四年間も関係が続いき、別れたあとも何度か会い、老いてなお慕い続けた。

断腸亭日乗』昭和五年、《二月十四日。番街の小星(しょうせい)昨夜突然待合(まちあい)を売払ひ左褄(ひだりづま)取る身になりたしと申出でいろいろ利害を説き諭(さと)せども聴かざる様子なれば、今朝家に招きて熟談する所あり。余去年秋以来情欲殆(ほとんど)消磨し、日に日に老の迫るを覚るのみなれば女の言ふところも推察すれば決して無理ならず。余一時はこの女こそわがために死水(しにみず)を取ってくれるものならめと思込みて力にせしが、それもはかなき夢なりき。(中略)この日、午下(ごか)中洲に徃き牛門の妓家を過訪しれ帰る、名月皎々(こうこう)たり。》(ここで、「小星」とは、漢詩で「妾」の意だが、関根うたにおいては愛称的に使われている。)

・ここで「牛門の妓家」こそ、のちの昭和六年二月十二日の記にある、《園香初め牛門若宮小路にありや山子といひしなり。去年正月二十四日中洲病院の帰途尾沢薬舗裏の待合(まちあい)新春日といふ家にて始めて相知りしなり。》で、荷風は山路さん子(芸名園香。または山子)という女と馴染みになっていて、うたの深刻な相談にのったその日にも訪れたと知れる。(小説冒頭の「戒名は香園妙光信女」を邪推させる「園香」である。)

 さらに二月十六日には、《午下牛門若宮小路も妓家を訪ひ昼餉を食す、さん子と呼べる女の語りし稚きころの物語をきゝて短編小説の好資料を獲たり。》とあり、その短編小説こそ『悪夢』『紫陽花(あじさい)』(のちに『夢』『あぢさゐ』と改題)に他ならない。

断腸亭日乗』昭和五年、《十二月三十一日。晴。午後神楽坂(かぐらざか)田原屋に徃きて昼餉(ひるげ)を食す。園香髪結(かみゆい)の帰なりとて来るに逢ふ。いつもの如く鶴福に徃きて飲む。夜番街の小星を訪(と)ひ夜半家に帰る。車上除夜の鐘を聞く。今年夏過ぎてより世の中不景気の声一層甚しくなり、予が収入も半減の有様となれり。郵船会社の株は無配当となり、東京電燈会社の如きも一株金壱円の配当なり。されど予が健康今年は例になく好き方にて、夏の夜を神楽坂の妓家(ぎか)に飲み明かしたることもしばしばなりき。五十二歳の老年に及びて情癡(じょうち)猶青年の如し、笑ふ可く悲しむ可く、また大(おお)いに賀すべきなり。白楽天(はくらくてん)の詩に曰く老来多健忘惟不忘相思。》

《情欲殆(ほとんど)消磨し、日に日に老の迫るを覚るのみ》だった荷風を、《五十二歳の老年に及びて情癡(じょうち)猶青年の如し、笑ふ可く悲しむ可く、また大(おお)いに賀すべきなり》とさせた女園香にはしかし情夫があった。その情夫のことを荷風は昭和六年二月九日の日記に次のように書いている、《鍛冶橋外秘密探偵岩井三郎事務所を訪ひ、園香の客なる伊藤某といふ者の住所職業探索のことを依頼す、伊藤某は大木戸待合七福の女房と関係ある者のよし、去年来妓園香を予に奪はれたりと思ひ過り、之を遺恨に思ひ密に余が身辺に危害を与へんと企てゐる由、注意するものありし故、万一の事を慮り其身分職業をたしかめ置かむと欲するなり。》

 しかし荷風はその三日後に園香と会っていて、このあたりの探究心こそ作家荷風の凄みである(《されど歓情既に当初相見し時の如くならず》の飽きっぽさともども)。

断腸亭日乗』昭和六年、《二月十二日。晴。風やや暖なり、一昨年春頃執筆せし『榎物語』を訂正浄書す。午後三菱銀行に赴き、神楽坂中河亭に飲む。園香大木戸より来る。されど歓情既に当初相見し時の如くならず、悲しむべきなり。園香初め牛門若宮小路にありや山子といひしなり。去年正月二十四日中洲病院の帰途尾沢薬舗裏の待合(まちあい)新春日といふ家にて始めて相知りしなり。余この妓のためには散財も尠(すくなか)らざる次第なれど、久しく廃絶せし創作の感興再び起来りて、此頃偶然『悪夢』『紫陽花(あじさい)』など題せし短編小説をものし得たるはこの妓に逢ひしが為なり、一得あれば一失あるは人生の常なれば致方もなし。》

  

《さて一月二月は夢中でくらしてしまひましたが、これまでに諸所方々不義理だらけの身ですから、やがて二人とも着るものは一枚残らずぶち殺してしまつて、日にまし秋風が身にしむ頃には、ぶる/\布団の中で顫へてゐるやうになりました。二人相談づくといつたところで、お君はもともと箱無しの枕芸者ですから、わたし一人覚悟をきめ義太夫の流しとまで身をおとしました。

「お君、お前はよつぽど流しに縁があるんだ。新内と縁が切れたら今度は太棹ときたぜ。然し心配するな。その中先の師匠に泣きを入れて、どうにかするから、もう暫くの間辛抱してくれ。」と毎夜山の手の色町を流してゐる中風邪を引込んでどつと寝ついてしまひました。こゝでいよ/\切破(せつぱ)つまつて、泣きの涙でお君を手放す。お君は須賀町の周旋屋から芳町の房花家へ小園と名乗つて二度とる褄。前借はほんの当座の衣裳代だけで四分六(しぶろく)の稼ぎといふ話だつたが、病気が直つてから、会ひに行つて見ると大きな違ひで、前借は分(わけ)で七百円。しかも其金の行衛は、一体どうなつたんだときいて見ても、女の返事はあいまいで判然としない。わたしは内心こゝ等があきらめ時だ。長くこんな女と腐れ合つてゐちやア到底うだつが上らないと思ひながら、どうもまだ未練が残つてゐます。新橋の女からは其頃詫びの手紙が届いてゐながら、此方(こつち)は落目になつてゐるだけ、フム、人を安く見やアがるな。男地獄ぢやねえ。さんざツぱら耻をかゝして置きやがつて、今更腹にもない悪体をついたもよく言へたもんだ。それ程おれが可愛(かわい)けりや小色の一人や二人大目に見て置くがいゝ。姉さんぶつた面(つら)真平御免(まつぴらごめん)だと、ます/\ひがみ根性(こんじやう)の痩我慢。どうかしてもう一度お君を素人(しろと)にして見せつけてやりたいと意地張つた気になります。とは云ふものゝ、わたしは又時々、どうして、あんな働きもなければ、かいしよもない、下らない女に迷込んでしまつたんだらうと、自分ながら不審に思ふこともありました。

 年は丁度二十(はたち)、十四五の時から淫奔(いたづら)で、親の家を飛出し房州あたりの達磨茶屋を流れ歩いて、十八の暮から下谷へ出た。生れつき水商売には向いてゐる女だから、座敷はいつもいそがしく相応に好いお客もつくのだが、行末どうしやうといふ考もなく、慾もなければ世間への見得もなく、唯愚図々々でれ/\と月日を送つてゐる。どこか足りない処のあるやうな女です。それが却て無邪気にも思はれ、可哀さうにも見えて諦めがつきません。一口に言へばまづ悪縁で御在ます。仕様のない女だと百も承知してゐながら、さて此の女と一緒に暮してゐますと、此方までが、人の譏りも世間の義理も、見得も糸瓜もかまはぬ気になつて、唯茫然(ぼんやり)と夢でも見てゐるやうな、半分麻痺した呑気な心持になつて、一日顔も洗はず、飯も食はずに寝てゐたやうな始末。成らう事なら、此のまゝ二人乞食にでもなつたら、さぞ気楽だらうと云ふやうな心持になるので御在ます。

 わたしはお君が葭町へ去つた後も、二人一緒に居ぎたなく暮した昨日(きのふ)の夢のなつかしさに、石原町(いしはらまち)の貸二階を去りかね、そのまゝ居残つて、約束通り、月に一度なり二度なりと、お君がおまゐりの帰りか何かに立寄つてくれるのを、この世のかぎりの楽しみにして、待ち焦れてゐました。尤も表向は手が切れた事になつたんで、中に人もはいり、師匠の方も詫が叶ひ、元通り稽古を始めましたから、食ふ道はつくやうになりました。》

 

・《お君は須賀町の周旋屋から芳町の房花家へ小園と名乗つて二度とる褄。前借はほんの当座の衣裳代だけで四分六(しぶろく)の稼ぎといふ話だつたが、病気が直つてから、会ひに行つて見ると大きな違ひで、前借は分(わけ)で七百円。しかも其金の行衛は、一体どうなつたんだときいて見ても、女の返事はあいまいで判然としない。わたしは内心こゝ等があきらめ時だ。長くこんな女と腐れ合つてゐちやア到底うだつが上らないと思ひながら、どうもまだ未練が残つてゐます。新橋の女からは其頃詫びの手紙が届いてゐながら、此方(こつち)は落目になつてゐるだけ、フム、人を安く見やアがるな。男地獄ぢやねえ。さんざツぱら耻をかゝして置きやがつて、今更腹にもない悪体をついたもよく言へたもんだ。それ程おれが可愛(かわい)けりや小色の一人や二人大目に見て置くがいゝ。姉さんぶつた面(つら)は真平御免(まつぴらごめん)だと、ます/\ひがみ根性(こんじやう)の痩我慢。どうかしてもう一度お君を素人(しろと)にして見せつけてやりたいと意地張つた気になります。とは云ふものゝ、わたしは又時々、どうして、あんな働きもなければ、かいしよもない、下らない女に迷込んでしまつたんだらうと、自分ながら不審に思ふこともありました。》あたりの男の心理を、語らせつつ冷厳に描く巧みさ。

・園香から聴きとった逸話と、男のデカダンスへの傾斜は、《年は丁度二十(はたち)、十四五の時から淫奔(いたづら)で、親の家を飛出し房州あたりの達磨茶屋を流れ歩いて、十八の暮から下谷へ出た。生れつき水商売には向いてゐる女だから、座敷はいつもいそがしく相応に好いお客もつくのだが、行末どうしやうといふ考もなく、慾もなければ世間への見得もなく、唯愚図々々でれ/\と月日を送つてゐる。どこか足りない処のあるやうな女です。それが却て無邪気にも思はれ、可哀さうにも見えて諦めがつきません。一口に言へばまづ悪縁で御在ます。仕様のない女だと百も承知してゐながら、さて此の女と一緒に暮してゐますと、此方までが、人の譏りも世間の義理も、見得も糸瓜もかまはぬ気になつて、唯茫然(ぼんやり)と夢でも見てゐるやうな、半分麻痺した呑気な心持になつて、一日顔も洗はず、飯も食はずに寝てゐたやうな始末。成らう事なら、此のまゝ二人乞食にでもなつたら、さぞ気楽だらうと云ふやうな心持になるので御在ます。》に表れる。

野口冨士男『わが荷風』「6 堤上からの眺望」「8 それが終るとき」から『あぢさゐ』に関するところを引用するが、『あぢさゐ』はプレ『つゆのあとさき』として考察されている。

《親がかりであった外遊前や外遊中は別として、明治四十一年に帰朝した荷風柳橋に遊び、新橋の妓に狎(な)れしたしんで、刺青をし合ったり、家へ入れるまでに至っている。そして、そういう遊蕩状況は大正五年ごろまで持続される。『新橋夜話』や『腕くらべ』がそうした体験のなかからうまれ、『夏すがた』から『おかめ笹』に至った文学的経路を私は前章で《麻布十番までの道》とよんで、彼の花柳小説をついに行き着くところまで行き着いたとみた。その先には『つゆのあとさき』、『ひかげの花』の世界しかなかったとのべたのであったが、もしここに代表作中心の荷風略年譜といったものを作製するとしたら、大正七年一月の『おかめ笹』から昭和六年十月の『つゆのあとさき』に至るまでの間にいかなる文学的業績をえらんでかかげるべきだろうか。

 ひとくちに大正七年から昭和六年までといっても、その期間は実に十四年間で、年齢的にいえば四十歳から五十三歳――中年から初老に至る、作家的には完成期に相当するもっとも貴重な歳月が空白ではないまでも、甚だしく充実を欠いている。四十歳にして過半の新進作家がようやく名を知られる現状に、この年齢をあてはめることはゆるされない。荷風は当時、すでに大家のひとりであった。昭和二年にみずからの生命を断った芥川龍之介がかぞえ年でも三十六歳であったといえば、思いなかばに過ぎるものがあるだろう。大正十年の『雨瀟瀟(あめしょうしょう)』にみられる陰々滅々たる心情がどこから生じているか、想像に難くない。

 こんど私は『つゆのあとさき』に多少ともかかわりのある大正十一年の『雪解』、十四年の『ちゞらし髪』(『ちゞれ髪』の改題)、翌十五年の『かし間の女』(『やどり蟹』の改題)、昭和三年の『カツフヱー一夕話』、同四年の『かたおもひ』、五年の『夢』、六年三月の『あぢさゐ』(『紫陽花』の改題)、五月の『榎物語』、八月の『夜の車』などを発表年代順にあらためてノートしながら読み直してみたが、そのあいだにも始終私の脳裡につきまとってはなれなかったのは『雨瀟瀟』にみられる次の一節であった。

《されば本業の小説も近頃は廃絶の形にて本屋よりの催促断りやうも無之儘(これなきまゝ)一字金一円と大きく吹掛け居候ものゝ実は少々老先心細くこれではならぬと時には額に八の字よせながら机に向つて見る事も有之(これあり)候へども一二枚書けば忽筆渋りて癇癪ばかり起り申候間まづまづ当分は養痾に事寄せ何も書かぬ覚悟にて唯折節若き頃読耽りたる書冊埒もなく読返して僅に無聊を慰め居候次第に御座候。》》

《柳新二橋に拮抗する赤坂を主舞台としている里見弴の『今年竹』などには、平の座敷で客と芸者が機知縦横に軽妙な会話をとりかわす情景が活写されていて、そこには花柳界に固有の華やいだ雰囲気が明るく繰りひろげられているのだが、荷風の花柳小説では新橋を取り上げている『腕くらべ』においてもほぼ枕席に終始していて、里見弴の表ないし明に対して、裏または暗の面が展開される。すなわち、荷風作中の芸者は歌舞音曲等の遊芸を表看板とする職業女性ではなく、公娼や私娼とさしてえらぶところのない春婦であって、極限すれば単なる肉塊に過ぎない。神楽坂をえがく『夏すがた』や、富士見町や白山をえがく『おかめ笹』に至って、その偏向はいよいよ顕著となる。内実はどうあれ、芸者は一応建前として芸と粋(いき)とが売りものである以上、《箱無しの枕芸者》(『あぢさゐ』)ばかりになっては、花柳小説の花柳小説たる特徴がうしなわれる。特徴をみずから放棄しては、ゆきづまらざるを得ない。『おかめ笹』が、花柳小説としての終着駅となったゆえんである。》

《それでは、どのようにして君江(筆者註:『つゆのあとさき』の女主人公)の性格は造出されたのであろうか。荷風自身、『正宗谷崎両氏の批評に答ふ』に先立つ、昭和六年十月二十二日付の谷崎潤一郎宛書簡のなかでのべている。

《五十歳を過ぎたる今日小生の芸術的興味を覚(おぼえ)るは世態人心の変化する有様を見ることにて昔の戯作者のなしたる事と大差なく従つて思想上之といふ抱負も無御座候(ござなくさうらふ) それ故自分ながら気魄の薄弱なるには慚愧(ざんき)致居候 モデルは別に之と定りたる女もなし実験の上三四人同じやうな性行の女をあれこれと取合せて作り上げしもの之はドーデが屡取りし方法に御座候》

 過大な謙遜は割引きして読むほかはないとして、君江のモデルは実際に複数者の合成人物であったのだろうし、誰と誰の合成か、そんなことはかりにつきとめられるとしても知る必要のないことである。なぜなら、荷風は『つゆのあとさき』の執筆にのぞんでにわかに君江という人物を造型したのではなくて、君江の原型ともいうべき性格づくりを、恐らくはまだ『つゆのあとさき』などという作品の構想がカケラほども念頭になかったはずの数年前から、すでに着々とこころみていたことが、われわれにはわかっているからなのである。大正十五年の『かし間の女』、昭和五年の『夢』、六年の『あぢさゐ』などがそれであって、そうしたかずかずの試行錯誤のはてに把握した性格を具象化したのか『つゆのあとさき』の君江に相違あるまい。むしろ執筆の時点では、モデルなどあって無きにひとしかったほどであろう。》

《また、『あぢさゐ』は下谷の枕芸者におぼれた三味線ひきが多情な女のしうちに殺意をいだくが、それより早く女は他の男に殺されるという筋立ての小篇で、《年は丁度二十(はたち)、十四五の時から淫奔(いたづら)で、親の家を飛出し房州あたりの達磨茶屋を流れ歩いて、十八の暮から下谷へ出た。生れつき水商売には向いてゐる女だから、座敷はいつもいそがしく相応に好いお客もつくのだが、行末どうしやうといふ考もなく、慾もなければ世間への見得もなく、唯愚図愚図でれでれと月日を送ってゐる。》という点などが、やはり濃密に君江と共通している。

 いったい『つゆのあとさき』は女給ものの集成とよばれて、それが定説化している模様だし、私なども今回あらためてやや系統的に関連作品を読み返してみるまでは、ただうかうかと流説を鵜呑(うの)みにしていたのであったが、こうしてつぶさに検討してみた結果、かならずしも女給ものの系譜の上に立っているわけではないことに気づかされた。

 そこで以上の記述をざっと整理してみると、『雪解』のお照は職業が女給だというだけで『つゆのあとさき』の君江の性格とは無縁である。『カツフヱー一夕話』のお蔦もまた然りで、君江に直線的なつながりをもつ『かし間の女』の菊子はカフエーに出入りすることのない私娼であり、『夢』の《女》は芸者、『あぢさゐ』の君香もまた芸者なのだから、『つゆのあとさき』が女給ものの集成だという見方はもはや撤回されるべきだろう。そして、芸者という職業女性にはおさめきれなくなって、芸者からはみ出るものを女給のなかに盛りこんだ作品が『つゆのあとさき』であったとみるべきなのである。》

《お雪は魔窟で春をひさぐプロスティチュート(売春婦の意)であっても『夏すがた』の千代香や、『かし間の女』の菊子や、『あぢさゐ』の君香や、『つゆのあとさき』の君江や、『ひかげの花』のお千代のような淫獣ではない。娼婦でありながら、≪わたくし≫にとっては≪消え去つた過去の幻影を再現させてくれる≫媒体として取扱われているために、ほとんど肉体を感じさせないほどである。だから、彼女が身を置いている現実の玉の井は淫靡で不潔な場所であっても、お雪は、そして『濹東綺譚』はひたすら美しいのである。》

 しかし、野口に「淫獣」と極言された君香(小園)にしてから、どこか憎めず、美化されていないだろうか。

  

《お君はその後二三度尋ねて来て、わたしが気をもむのもかまはず、或晩とまつて、翌朝(あくるあさ)もお午頃まで居てくれた事がありましたが、それなりけり。一月たち二月たち、三の酉も過ぎて、いつか浅草に年の市が立つ頃になつてもたよりが有りません。忘れもしない。其年十二月二十日の夕方、思ひがけない大雪で、兜町の贔屓先へ出稽古に行つた帰り道.。寒さしのぎに一杯やり、新大橋から川蒸汽で家へ帰らうと思ひながら、雪の景色に気が変り、ふら/\と行く気もなく竈河岸(へつつひがし)の房花家をたづねますと、小園(こその)を入れて三人ゐる筈の抱はもう座敷へ行つたと見えて、一人もゐない。亭主もゐなければ女房同様の姉さんの姿も見えず、長火鉢の向に二重廻を着たまゝ煙草をのんでゐるのは、お君の小園をこゝの家へ入れた周旋屋の山崎といふ四十年輩の男。その節顔は見知つてゐるので、

「その後(ご)は。」と此方(こつち)から挨拶すると、周旋屋は猫を追ひのけ、主人らしく座布団をすゝめて、

「おいそがしう御在ませう。わるいものが降り出しました。師匠。実はちいツと御相談しなくちや、成らない事があるんで、この間からお尋申さうと思ひながら、今夜もこの雪でかじかんでしまひました。」と薄ツペらな唇からお獅子のやうな金歯を見せて世辞笑ひをする。

「ぢや丁度好い都合だ。御相談といふのは何かあの子のことで。」

「はい。小園さんのことで。丁度誰も家にはゐないさうですから、今の中御話をしてしまひませう。」と切り出した周旋屋山崎のはなしを聞くと、お君は房花家へ抱へられると早々、どつちから手を出したのか知らないが、今では主人の持ものになり、ごたつき返した末女房同様の姉さんは追出されてしまつた。就いてはどうにとも師匠の気がすむやうにしやうから、綺麗に小園さんを下さるやうにと、主人から依頼されてゐるのだと云ふ。事の意外にわたしは何とも言へず山崎の顔を見詰めてゐると、

「師匠、お察し申します、恥を言はねば理が聞えない。実はあの子にかゝつちや、手前も一杯くつてゐるんで御在ますよ。」

「何だ。お前さんも御親類なのか。」

「手前は、あの子がまだ房州にゐる時分の事で、その後(ご)は何のわけも御在ませんが、何しろ十六の時から知つてゐますから、あの子の気質はまんざら分らない事も御在ません。どうせ、長続きのしつこは無いから、御亭(ごてい)の言ひなり次第、取るものは取つて、一時話をつけておやんなすつたらどうでせう。まづ来年も、桜のさく時分まで続けば見ものだと、わたしは高をくゝつてゐますのさ。」

「お前さん、御存じだらう。〆蔵の方は一体どうなつてゐるんだ。」

「こゝの大将は師匠の事ばかり心配して、〆蔵さんの事は何も言はないから、手前も別にまだ捜つても見ません。あれはまづ、あれツきりで御在ませう。」

「小園はお座敷かしら。」

「二三日前から遠出をしてゐるさうで。外の抱は二人ともあの子が姉さんになるのなら、わきへ住替へるといふんで、一人は昨日(きのふ)この土地ですぐに話がつきました。もう一人は手前の手で、年内には大森あたりへまとまるだらうと思つてゐます。」

「あゝさうかね。実は一度逢つた上でと思つたが、さうまで事が進んでゐちやア愚図々々云ふ程此方の器量が下るばかりだから、何も云はずに引下りませう。後の事はよかれ悪しかれ、お前さんへおまかせしやう。その中一度石原の方へも来て御くんなさい。」

 わたしは穏に話をして、まだ降り歇まぬ雪の中を外へ出た。周旋屋と話をしてゐる中、いつともなく覚悟がついてしまつたので御在ます。もと/\承知の上で二度芸者をさせた女の事。好いお客がついて身受になるといふのなら、いかほど口惜しくつても指を啣へてだまつて見てゐやうが、抱主の云ふがまゝになつて、前借も踏まず、長火鉢の前に坐つて姉さんぶらうと云ふからには、もう此のまゝにはして置けない。人形町の通へ出ると直ぐに目についた金物屋の店先で、メス一本を買ひ、雪を幸今夜の中にどうかして居処をつきつけたいと、手も足も凍つてしまふまで、其辺をうろついてゐましたが、敵(かたき)の行衛がわからないので、一先石原の二階へ立戻り、翌日からは毎日毎夜、つけつ覗(ねら)ひつしてゐましたが姿は一向見当りません。感付かれたと思つたから、油断をさせやうと、二三日家に引込んでゐますと、其年もいつか暮の二十八日。今夜こそはと、夜店をひやかす振りで様子をさぐりに、灯(ひ)のつくのを待つて葭町の路地といふ路地、横町といふ横町は残りなく徘徊したが、やツぱり隙がない。よく/\生命(いのち)冥加な尼(あまつ)ちよだと、自暴酒(やけざけ)をあふつて、ひよろ/\しながら帰つて来たのは、いつぞや新橋から手切を貰つて突出された晩、お君に出会つた石原の河岸通。震災後唯今では蔵前の新しい橋がかゝつてゐるあたりで御在ます。人立ちがしてゐますから、何気なく立寄つて見ると、身投の女だといふもあり、斬られて突落されたのだと云ふもあり、さうぢやない、心中で、男ばかり飛込み女は巡査につかまつたのだと云ふもあり、噂はとり/゛\。訳はさつぱり分りませんが、何やら急に胸さわぎがして来ましたので、急いで家へ帰って見ますと、稽古につかふ五行本(ごぎやうぼん)の上に鉛筆でかいた置手紙。

「急におはなしをしたい事があつて来ましたけれど、あいにくお留守で今夜はいそぎますから、お待ち申さずに帰ります。三十日の晩に髪結さんの帰りにまたお寄り申します。おからだ御大事に。君より。」

其のまゝ息をきつて警察署へ馳けつけ様子をきくと、殺されたのは、やつぱり虫の知らせにたがはず、お君でした。うしろから背中を一突刺されて川の中へのめり落ち、救上げられたものゝ息はもう切れてゐました。わたしの懐中にメスが在つたので、申訳ができず、御用にならうといふ時、派出所の巡査が自首した男だと云つて連れて来たのは新内流しの〆蔵だ。其の申立によると、〆蔵はお君がわたしと一緒に暮らしてゐた時分にも、二三度逢引をした事もあつたとやら。殺意を起したわけはわたしの胸と変りは御在ません。抱主の持物になつて姉さん気取りで納(をさま)らうとしたのが、無念で我慢がしきれなかつたと云ふのです。

 お君は実際のところ、さういふ量見で房花家の亭主と好い仲になつたのか、どうだか、死人に口なしで、しかとはわかりません。わたしへの手紙から見れば、さういふ考でした事だとも思はれない。口説かれると、見境ひなく、誰の言ふ事でもすぐきくのが、あの女の病ひでもあり又徳でもあり、其のためにとう/\生命(いのち)をなくした。それにつけても、お君はあの晩わたしの家へ寄りさへしなければ、〆蔵に突かれはしなかつたらう。わたしが家にゐて、一緒に帰りを送つて行つたら無事であつたにちがひはない。それとも〆蔵のかはりに、わたしがとんだお祭佐七になつたかも知れませぬ。人の身の運不運はわからないもので御在ます。

 その後(ご)あの辺(へん)もすつかり様子が変つて、埋堀(うめぼり)御蔵橋(みくらばし)もあつたものぢや御在ません。今の女房を持つて大木戸へ引込んだはなしも一通り聞いていたゞきたいと思ひますが、あんまり長くなつて御退屈でせうから、いづれその中、お目にかゝつた時にいたしませう。」》

 

・ところで、殺しがあった時代はいつなのだろう。作品発表は昭和六年、園香とのことも昭和五年から六年のことではあるが、なにしろ三味線ひき宗吉は《もうかれこれ十四五年になります。手前が丁度三十の時で御在ました。》と回顧し、小園の死体があがったのは、《石原の河岸通。震災後唯今では蔵前の新しい橋がかゝつてゐるあたりで御在ます》と言うのだから、大正十二年の関東大震災以前、大正五年頃のことであろうか。

・《お君はその後二三度尋ねて来て、わたしが気をもむのもかまはず、或晩とまつて、翌朝(あくるあさ)もお午頃まで居てくれた事がありましたが、それなりけり。》の「それなりけり」の巧さは、丸谷が言う「猶更いら/\してまた外へ出た」のいきなりざっくりした、ぞんざいな口のきき方に変る、と同じ凄みである。

・黙阿弥の世界ということでは、「「つゆのあとさき」を読む」で荷風のカムバックを讃えた谷崎潤一郎の『お艶殺し』もそうだったように、大川(墨田川)端が舞台であることが、ドラマティックな人生を川の流れでイメージさせて重要だ。『お艶殺し』は久保田万太郎脚色で歌舞伎化されているが、『あぢさゐ』もまた万太郎によって新派の花柳十種となっている。

《然し五百円をふところにして丸次の家を出ると、其場の口惜しさ無念さは忽ちどこへやら。今し方別れたばかりの君香に逢ひ借金を返すはなしをしたら、どんなに喜ぶことだらうと思ふと、もう矢も楯もたまりませむ。電車の来るのも待ちどしく、自動車を飛して埋堀(うめぼり)の家へかけつけて見ると、夏の夜ながら川風の涼しさ。まだ十二時前なのに河岸通から横町一帯しんとして、君香の借りてゐる二階の窓も、下の格子戸も雨戸がしまつてゐます。》

《埋立をした河岸通は真暗で人通りもなく、ぴた/\石垣を甞める水の音が物さびしく耳立つばかり。御厩橋を渡る電車ももうなくなつたらしく、両国橋の方を眺めても自動車の灯が飛びちがふばかり。ひや/\する川風はもうすつかり秋だ。向河岸の空高く突立つてゐる蔵前の烟突を掠めて、星が三ツも四ツもつゞけざまに流れては消える》

《其年十二月二十日の夕方、思ひがけない大雪で、兜町の贔屓先へ出稽古に行つた帰り道.。寒さしのぎに一杯やり、新大橋から川蒸汽で家へ帰らうと思ひながら、雪の景色に気が変り、ふら/\と行く気もなく竈河岸(へつつひがし)の房花家をたづねますと》

《今夜こそはと、夜店をひやかす振りで様子をさぐりに、灯(ひ)のつくのを待つて葭町の路地といふ路地、横町といふ横町は残りなく徘徊したが、やツぱり隙がない。よく/\生命(いのち)冥加な尼(あまつ)ちよだと、自暴酒(やけざけ)をあふつて、ひよろ/\しながら帰つて来たのは、いつぞや新橋から手切を貰つて突出された晩、お君に出会つた石原の河岸通。震災後唯今では蔵前の新しい橋がかゝつてゐるあたりで御在ます。》

《その後(ご)あの辺(へん)もすつかり様子が変つて、埋堀(うめぼり)も御蔵橋(みくらばし)もあつたものぢや御在ません。》

『あぢさゐ』では、川の西側には小説発端の駒込、宗吉の現在の芸者屋四谷大木戸、花街の下谷湯島天神下、葭町、新橋と贔屓先の兜町があり、川の東側には当時の宗吉の住まい本所石原町と近場の埋堀、河岸通、御蔵橋、蔵前があり、そして両者を結ぶ御厩橋、両国橋、新大橋、川蒸汽が登場する。

・最後の《わたしがとんだお祭佐七になつたかも知れませぬ。》はまさに、対談で野口が洩らした《それで殺してやろうと思ったら、ほかのやつが先に殺していた、と最後はちょっと黙阿弥の世界になるんだけれども……。》で、四代目鶴屋南北『心謎解色絲(こころのなぞとけたいろいと)』のお祭佐七と小糸の色と殺しは、黙阿弥の弟子三代目河竹新七『江戸育お祭佐七』に換骨奪胎される。鉄火な佐七が愛想尽かしから芸者小糸を土手で殺し、しかし小糸の書置きでことの真相を知る世界は黙阿弥的で、さすが若い頃ひとときとはいえ歌舞伎台本見習いに手を染め、後年紫陽花にちなんだ句「紫陽花や瀧夜叉姫が花かざし」を残した荷風らしい。

 

                             (了)

       *****引用または参考*****

*『花柳小説名作選』(集英社文庫

永井荷風『花火・来訪者』(『あぢさゐ』『夢』所収)(岩波文庫

野口冨士男『わが荷風』(岩波現代文庫

永井荷風断腸亭日乗』(岩波書店

松本哉『女たちの荷風』(ちくま文庫

磯田光一永井荷風』(講談社

*『久保田万太郎全集8』(戯曲『あぢさゐ』所収)(中央公論社

文学批評 加賀乙彦『フランドルの冬』の「精神医学」と「世界投企」(引用ノート)

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 加賀乙彦の「『フランドルの冬』 新しいあとがき」は次のようにはじまる。

《長編小説『フランドルの冬』は私の処女作である。一九六七年八月筑摩書房から出版された。翌六八年四月芸術選奨文部大臣新人賞を受賞した。一九七四年に文庫化され、その後十年ほど経ってからと思うが、いつのまにか絶版になった。今年(二〇一九年)の夏、小学館から再販される事になった。そこでこの作品についての思い出話を書いてみたい。》

 昨今、多くの小説の文庫本が絶版になってしまうとはいえ、この長編小説作家の処女作は、のちの『宣告』等に比べて不遇で、ほとんど批評されることもなかったが、遣り過ごしてよい作品ではない。

「あとがき」を続けよう。

《まずは事実の世界として、作者である私のフランス留学があった。(中略)一九五七年九月、私は、横浜港からフランス船カンボジ号に乗って船出した。この船は四〇日の航海の末、やっとマルセイユに着いた。パリは秋たけなわであった。公園には紅葉が欠けていたが、豪勢な銀色の森が光り、そして美しかった。

 パリ市内南方にある精神医学センターで精神病理学犯罪心理学を学ぶ毎日となった。

 午前中は臨床医として働いた。その当時、パリ大学精神科のドレイ教授の発見した一連の向精神薬物に薬効があることが全世界に知られて、精神医学センター内のパリ大学精神科には、三〇ヵ国もの医師たちが新薬による治療法を学ぼうと集まっていた。同時にアンリ・エー、ジャック・ラカンなどの諸外国にも名の聞こえている優秀な精神科医が、公開臨床や講義をして、精神医学の新時代を謳歌し、また宣伝していた。

 午前中は病室に入り、臨床に励んだ。ドレイ教授が発見した向精神薬をどのようにして用いているかを学び、母校の精神医学教室にそれを伝えた。が、午後になるとセンターの図書館に籠り、精神医学史の最新の情報を読み、またフランス革命時代の古文献に始まり、十九世紀の研究業績の束を夢中になって読んだ。精神医学という医学分野は、数多くの患者の診察から生まれてきた。日本のように、他国の医師たちの観察、治療、失敗、成功の末に成り立つ医学を後追いすればよいのではなく、研究者たちの先取特権で成り立つ医学を追い求めるのがフランスという文明国の実情だった。(中略)

 一九五九年の春になって東京大学医学部精神医学教室から助手席が空いたので帰国しないかという誘いが来た。その気になって帰国の準備に忙殺されている時に、パリで親しくなった精神科医から、彼が医長をしているフランドル地方の精神病院で働かないかと誘われた。(中略)

 一九五九年の春からほぼ一年間、私はフランドル地方の精神病院で医師として働いた。そして、一九六〇年の春、航空機に乗って帰国した。しかし『フランドルの冬』という小説を書き出し、コバヤシという中年男の物語を書きあげたのは一九六八年の夏である。その小説の主人公コバヤシと私加賀乙彦とは余り似通ってはいない。私はむしろ実在しない人物を仕立てあげたのだ。ドロマール、エニヨン、ブノワ、クルトンも、私が会ったこともない人物になっている。

 まずコバヤシという日本人の医師が登場する。彼は日本に帰ろうとは思っていない。帰国して安定した医師として過ごすよりも、ドロマールという風変わりな医師についてフランスの精神医学の歴史を研究し、少し長い時間をかけて彼の精神医学の世界を探ろうとしている。

 ドロマールは独身である。精神科病院の一番古参の医師でありながら、電話のない質素な家に住み、天井まで書物で埋まった図書館を持ち、十九世紀の精神医学の歴史を細密に追うことができた。

 ドロマールより若いが、活発で時とすると憤怒で叫んだり、逆にすぐ機嫌を直して笑ったりするのがロベール・エニヨンである。彼は子福な人、妻のスザンヌとの間に五人の子供がいる。で、子供たちを優れたパリ近郊の学校に通わせたく、彼自身もパリの精神科医長になって幸福な一生を送りたいと思っている。(中略)

 この二人の医長の元に若い医師たちの日常があった。コバヤシ、ブノワ、ヴリアン、女医のアンヌ・ラガン、さらにアルジェリア戦争より帰還したクルトンなどである。医師ではないが、医師の助手として患者の世話をするカミーユという娘はコバヤシと仲がよかった。アルジェリアで重傷を負ったクルトンは春から夏へ、移ろう季節にそそのかされるように、自殺への願望に取りつかれていく……。》

 作者のエッセイなどから、小説ではドロマール(フランス精神医学界にはドロマールという名の人物がいて、ラカンも学位論文『人格との関係からみたパラノイア性精神病』の第一部3章で「妄想的解釈」について論じているが、小説のドロマールも「解釈妄想の成立機序」という論文を書いたことになっている)に誘われてフランドルに来たことになっているが、現実ではロベール・エニヨンのモデルに誘われたこと、コバヤシの自動車事故は加賀自身の体験だったことなどがわかる。虚実を巧みに配合(著名な精神科医アンリ・エーやジャン・ドレイは実名で登場する)して小説を作りあげていて、彼らはまんざら「私が会ったことがない人物」というわけではないだろう(これは直観にすぎないが、加賀はカミーユのモデルに特別な感情を抱いていたのではないか、というのも、コバヤシが妊娠させたニコルの名をあげるべきなのに、カミーユしかあげておらず、その描写には人肌の温もりがある)。

 コバヤシの精神医学史に関する読書遍歴が、加賀の本名、小木(こぎ)貞孝(さだたか)による『フランスの妄想研究』(コバヤシが自動車事故を起こし、二度の大戦の激戦場ゆえ、いたるところにある軍隊墓地に迷い込んで、野犬の群れに遠巻きにされた場面の描写こそ「妄想」描写である)に結実し、ドロマールがコバヤシにメルロ=ポンティは読んだかと問いかけると、「『知覚の現象学』を」と答えさせているが、その共訳者に本名を見出せるように。

 

 篠田一士による「解説」をみておこう。

《もちろん、コバヤシひとりの内外だけが、この小説の主要な関心事ではない。むしろ、主人公のいない小説としてコバヤシ以外の何人かの人物にもよく目配りして読む方がこの作品のうま味を知ることができるかもしれない。たとえば、クルトンという若い医師がいる。アルジェリア戦線で瀕死の重傷を負い、やっと退院して、この病院に復帰するが、彼にはもうだれをも愛することができなくなってしまっている。「黒い炎」がたえず自分を悩ますと口走りながら、なにかといえば、とっ拍子もない行動をしでかしては周囲の人々をおどろかす。彼にのこされた道は自殺しかなく、とうとう何度目かの失敗ののち、みずから命を絶つ。この実存的決断を当然の「世界投企(ヴエルト・エントヴルフ)」と、冷ややかな口調で、しかも、あますところなく説明するのはドロマール医長である。この怪物的医師はおどろくべき学識と鋭い洞察力をもち、また、だれにも屈することのない自尊心と無気味なシニシズムをもって孤高の毎日を送っているが、コバヤシが留学年限を延長してまで、わざわざ、僻地の病院にやってきたのは、ひとえに、この人物に牽かれたためである。だが、このきらめくような知性の持主は、生まれてこの方、女性に愛を感ずることができない、やはり呪われた人間だったのである。クルトンやドロマールのような人物に象徴される、愛を見失い、神の死の下に精緻な観念を組み立てながら、ついに精神の自由を失ったヨーロッパ精神の悲劇的情況――それにコバヤシは敏感に反応することはできる。だが、反応することは、かならずしも理解することではない。》

 ここで、ドロマールを「女性に愛を感ずることができない、やはり呪われた人間だったのである」と同性愛をおぞましく表現したのは、書評を書いた当時の限界で、二十一世紀の現在なら、問題とすべきは小児性愛的なところであろうが、ドロマールをめぐる正常か異常か、普通か異邦人かは、ミステリアスに読ませる。

 この「黒い炎」と「世界投企」については、後に見てゆく。

 

 小説の構成や技法に関しては、平岡篤頼(同じカンボジア号に乗船してマルセイユに向かった一人で、他には辻邦夫も同船していた)の解説が的確だ。

《それは必ずしもストーリーの一貫性や視点の統一を目指した努力ではなく、むしろ孤独な各人物の視線は融和することなく多元的に交叉するだけで、どの人物の内面も他の人物にとっては不透明なままである。クルトンの自殺やカミーユの幻覚やコバヤシの錯乱が、人間のこころの奥に口を開けている深淵を垣間見せさせるのにたいして、一家団欒のなかでクリスマスの準備が議論されるという、とりわけ平和な光景が冒頭を照らし出しているのも、対照の妙によって、どんな悲劇や苦悩をも呑みこんで事もなく過ぎゆく不動の日常の手応えを感じさせる。時間構成の点でも、物語の展開順序の中途から書きはじめるなど、単線的なストーリー性をむしろ混乱させるような工夫が凝らされている。》

 平岡が最後に賞賛しているように、第一章の冒頭はクリスマスのロベール・エニヨン一家の団欒からはじまり、第二章で時間は遡ってコバヤシのフランドルへの赴任、第三章でさまざまな出来事が起こり、第四章は、第一章の後を単純に継ぐのではなく、第一章と同じ時間を、違う登場人物の違った視点と行為によって絡み合いながら、いつしか追い抜いて結末へ向かって行くという離れ術は、処女作とは思い難い完成度である。

 平岡は先の文に続けて、《それでいて、どの部分をとってみてもその範囲内ではきわめて明解である。作品を夢の形に近づけようとするならば、究極的には、言語自体も夢の論理にしたがった、輪郭も意味も曖昧でそのくせ呪縛力をもつ不透明な言語、例えばコバヤシの錯乱の描写で部分的に実験されている言語に行きつくのかも知れないが、そこまで行くと読者とのコミュニケーションは不可能になってしまう。恐らくはそう考え、作品とは読者にとって理解可能な範囲に留らねばならないとも考えているらしい作者は、夢と正気との際どい分水嶺に沿って歩くという、これまた処女作とは到底思えないような芸当を見事にやってのけている。》

 自動車事故を起こして戦争墓地に迷いこんだコバヤシの妄想の描写は、《犬どもは明らかに接近して来て、風声を貫いて彼らの荒い息つかいまでがきこえてきた。それは冷えきった清潔な気流のなかで、妙に生暖ったかな野蛮さを感じさせた。寒さも痛みも麻痺(まひ)し、内側にはすでに重い疲労と眠りがひろがっていたが、彼は知覚をかきたて、耳をすまし朦朧(もうろう)とした風景に目をこらした。彼の体のうち生き残っている部分――頭蓋骨(ずがいこつ)の容器の底にちぢこまった小さな脳と背骨の管内で紐(ひも)のように垂(た)れさがっている脊髄(せきずい)――を彼は連想した》といった表現に続いて、部分的に実験された詩的表現、《皮膚の表面を快感が走っていく。さわさわと下のほうから肉感的な刺激(しげき)がのぼってくる、若い女の手になぜかなぜられているような快感。乳色の精液が睾丸(こうがん)に充ち溢(あふ)れ、さわさわと皮膚をしめらせていくような。それは時間を忘れさせる快感なのだ。》などいくつかのフレーズが重なる。

 作者は、カミーユリゼルグ酸を飲んだ(ドロマールによれば、ただの水だったのに、「今のはリゼルグ酸だ」と言ってみたところ、《まるであの強烈な幻覚剤を五十ガンマーも飲んだみたいな状態になった。精神医学的には錯乱と幻覚をともなうヒステリー性朦朧状態(もうろうじょうたい)なんだ。これは学問的に実に興味ある現象だ。ぼくは機会をのがさない。ただちに観察を続行し記録をとった》)場面でも、《カミーユは従った。どうしてだか、ドロマールに従うのが気持よかった。歩きながら、下腹部と乳房に甘い快感を覚えた。全身の皮膚は極度に敏感で、ストッキングとブラジャーは電気を帯びているようにピリピリし、下着がぴったり皮膚に貼りつくようだ。まるで素裸で歩いている感じ、つまり衣類の中で裸の肉体だけが孤立して感じられるのである。カミーユは快感に酔いながら全身をほてらせた。》といったぐあいに、ただの文学的表現を越え、投与実験に立会って記録した経験を基に表現している。

 

 精神科医でもある神谷美恵子の書評は、『フランドルの冬』の希有な特徴をとらえている。

《「この世は巨大な牢獄で、わたくしたちすべては無期徒刑因……なのに、その不安の本態を自覚する人はごくわずかです」

 この小説の終りのほうで、主人公とみられる精神科医ドロマールのいうことばである。この世界の退屈と無意味さからの脱出、というと、現代のわたくしたちにとって、すでにかなりなじみ深い実存哲学的なひびきが感じとられる。

 事実、この小説をつらぬく基本的な主題はこの脱出の問題と思われるが、長年死刑囚の精神状況探究に打ちこんだ著者の筆にかかると、右のことばは決して単なる抽象的思考ではなくなってくる。北フランスの荒涼たる自然、そこに一般社会から隔絶されて立つ精神病院内部の人物や情況。そうしたものの、めんみつにかきこまれた描写と構成を通して、この主題はどっしりした現実感をもってせまってくる。長編小説の持つ威力をあらためて感じさせる作品である。

 脱出の方法は患者たちの狂気の姿及び数人の特異な人物の生きかたによって、きわめて具体的に描き出されている。それは作中の多くの普通人とあざやかな対照をなす。(中略)

 フランスの精神病院と精神科医、フランスの精神医学とその歴史などを、その地で学び、働いた精神科医の手によって、内部から照らし出してもらえたのは、わたくしたち精神科医にとって、とくにありがたいことであった。ただ文献を読んだり、行きずりにフランスの精神病院を見学するくらいでは、到底わかりえないことである。一国の学問というものが、決してただ孤立した専門的な知的作業だけでできあがるものでなく、その国全体の社会と文化のありかたを基盤として築きあげられるものであることを、この書物は強い説得力をもって示している。》

 それは例えば、治療の対象とならない、患者をただ収容して生かしておくだけの「不潔病棟(メゾン・ド・ガチスム)」で、「看護尼」が献身的に働いている、というキリスト教世界の事を知るだけでも、フランスの社会と文化のありかたがわかる。

 また、神谷はドラボルド神父の「描写は希薄に感じられた」と指摘し、「著者にとってかなり無縁な、したがって重要性の少ないありかたなのかも知れない」とは、著者が晩年になって洗礼を受けていることから、キリスト教および神父という存在に重要性、ひっかかりは当時から十分にあったが、著者の内面で、モーリヤックやベルナノスのようにまで小説の言語表現するほどには煮詰まっていなかった、ということを示しているのかもしれない。

 篠田や平岡のように「主人公のいない小説」、「孤独な各人物の視線は融和することなく多元的に交叉するだけ」と捉えるか、あるいは安直にコバヤシを主人公と考えるか、に反して神谷のように、ドロマールを主人公とみる、というのは異論のあるところだろうが、端的に言われてしまえば、神谷の指摘した世界をもっとも貫いている人物と理解しうる。

 

 ここからは、この作品をもっとも特徴づけ、他に類を見ない学識と深度の、神谷的な視点である「精神医学」に関する記述を、「実存哲学的なひびき」(「黒い炎」)とともに取りあげる。

精神病院が舞台となった小説はいくつかあるが、たとえ医者が主役の場合でも、病理学的見識にまで達した作品はまずみかけないからである(未達の代表例としては、北杜生『楡家の人々』、武田泰淳『富士』、埴谷雄高『死霊』があげられよう)。

 

<フランスの「精神医学」>

 これから引用する部分が、この小説ならではの記述といえる。

新潮文庫P162)《コバヤシがドロマールの名を知ったのは、《医学心理学雑誌(アナル・メディコ・プシコロジック)》の書評欄においてである。一八四三年に創刊され、世界でもっとも古くから永続したこの精神医学雑誌(因(ちな)みに日本の《精神神経学雑誌》は一九〇二年の創刊である)は、コバヤシのいた大学の医学図書館の書架に、第一巻から揃えられ、百年以上にわたるその量と権威とすぐれた内容でコバヤシの興味をひいた。精神病理学を専攻する若い彼にとって、何よりも便利であったのは、この雑誌が世界各国の新しい論文や単行本を紹介し解説する立派な書評欄を備えていたことで、それさえ読めば世界中の学問の趨勢(すうせい)がたちどころにつかめるのであった。そして月々出る厖大(ぼうだい)な書評の末尾に必ず書かれているJ・V・ドロマールの名を、コバヤシは驚嘆と賛美(さんび)の念をもって眺めたのである。

 J・V・ドロマールとは何者か。彼は教授名鑑に出ていないから教授ではないらしい。といって若い学者ではなさそうだ。読まれた文献から推すと、英独仏露をはじめスペイン・イタリー・ポーランド・オランダ・デンマーク・ノールウェーの各国語を自由に読めるらしい。おそるべき語学者である。全ヨーロッパ語に通じた、ヨーロッパそのもののような怪物をコバヤシは思い描いた。

 そのうち、J・V・ドロマール著の《幻覚剤リゼルグ酸の正常人および分裂病者に対する影響》という論文が医学心理学雑誌にのりはじめた(筆者註:リゼルグ酸=LSD25。「分裂病」は2002年に「統合失調症」と名称変更されているが、執筆当時のママとする)。これは数回にわたって連載された長大な論文で、彼一流の該博(がいはく)な知識で古今の文献を引用しながら証拠として自分の症例を報告していくという体裁をとっていた。とくにハシシュ・メスカリン・モルヒネ・アルコールとリゼルグ酸との異同を論じた部分は、多数の文学者(たとえば、バルザックユゴー、ゴーチェ、ボードレール、ド・クィンシイ、コールリッジ、ポオ、その他きいたこともない人々)の病誌(パトグラフイー)が詳細に分析されていた。学生時代、誰でもやるよう飜訳(ほんやく)小説を耽読(たんどく)したことのあるコバヤシは、それらの記述をそれはそれとして面白く思ったし、ドロマールに或る種の親密感さえいだきはしたものの、大論文全体を読みおえると、まるで玉石混淆(ぎょくせきこんこう)の美術館を丹念に見終えたときのような、苛立(いらだ)たしい疲労にうちのめされてしまった。それは、たとえばヨーロッパとは何かと問いつめられ答に窮した場合の困惑に似ていた。たしかに何か独創があるらしい。しかし、その正体が皆目わからない。《この男は、とてつもなく偉いか、よほどの莫迦(ばか)にちがいない》コバヤシは呟いた。

 けれども、この大論文の文献表のおかげでコバヤシはドロマールの百余りもある他の著作を知り、暇をみては少しずつ読みすすむことになった。そして十五年も昔の《解釈妄想(もうそう)の成立機序》を読んだとき目から鱗(うろこ)が落ちる思いをしたのである。そこで述べられている《拡散と放射(ディフュージョン・エ・レイヨンスマン)の理論》は、断固たる独創であり、ドロマールの全業績を解く鍵なのである。そして《リゼルグ酸》の漠然(ヴァーグ)として巨大な(ヴァースト)(ヴァーグ・エ・ヴァーストという形容詞をドロマールは好んで用いた)様相も、一個の芯(しん)から放射(・・)された拡散(・・)にほかならないのである。ドロマールは漠然として巨大な樹のような男だ。無数の枝葉を茂らせた幻惑するほどの多様さの中央で、一本の太い幹がどっしり根をはっている。コバヤシは今度は心から感嘆した。

 二年前、彼がフランス政府の給費留学生となってパリのサンタンヌ病院で勉強することになったとき、同僚の誰彼は一様にいぶかしがった。戦前、日本の精神医学は完全にドイツ精神医学の影響下にあった。敗戦後は、アメリカ精神医学こそが規範たるべきである。それが通念であった。若い研究者はアメリカの力動精神医学(ダイナミック・サイカイアトリ)や精神分析を習うため競って留学を志していた。

「フランスだって? もう古いよ、きみ。あの国が全盛だったのは、十九世紀だろう。ピネル、エスキロール、モレル、マニャン、彼らの時代にはフランスは世界の中心だった。が、ドイツに大天才クレペリンが出現してからは、もう駄目だね」

「仏文学者や画かきや音楽家ならまだしも、なにも医学をやるものがパリくんだりまででかけることはなかろう」

 もちろん、心ある者たちは、クロールプロマジンという劃期(かっき)的な向精神剤を発見したジャン・ドレイやネオ・ジャクソン主義をとなえて有名なアンリ・エイの名前ぐらいは心得ていた。しかし、J・V・ドロマールとなると誰一人、全く何一つ知らないのであった。ドロマールはあまりに漠然として巨大なるが故(ゆえ)に彼らの目に見えないのだ――そう考えて、コバヤシは自分を慰めた。

 パリ大学附属サンタンヌ病院は監獄なみの高い頑丈(がんじょう)な塀(へい)に囲まれた、古い大きな精神病院である。病院というより病院群といったほうが正確かもしれない。カバニス街に開いた鉄門からマロニエの並木道をかなり行くと、右に救急病棟(アドミッション)と称するパリ市に発生した精神病者を収容する平べったい漠(ばく)とした建物が見えて来る。左には、アンリ・ルッセルという独立した病院が、品のよい女性のような風格で建っている。さらにその奥へ歩いていくと、ようやくパリ大学附属精神科のくすんだ四角い病棟(クリニック)に到達する。最初、サンタンヌ病院の規模の広大さに驚いたコバヤシは、この大学附属精神科の、建物の古さと小ささにも、また吃驚(びっくり)した。ともあれ、コバヤシの留学生活は規則正しく続けられた。午前九時から正午まで患者の診察、昼食をサル・ド・ギャルドという職員食堂で食べ、午後は図書館へ出向く、そんな生活である。(中略)

 毎週火曜日の朝、主任のジャン・ドレイ教授の診察が行なわれる。クロールプロマジンを発見し精神病治療の革命をやりとげ、国際的名声をもつうえ、若くして最短コースで教授になり、《アンドレイ・ジイドの青春》で批評家大賞をうけた文学者でもあり、やがてはアカデミイの会員たらんとする、このドレイ教授の権勢たるや、それはもう大したものであった。》

 

 サンタンヌ病院の図書室での様子からはじまって、フランス精神医学史を、フーコー『狂気の歴史』や『監獄の誕生』を読むような感覚であらわしている。

(P169)《コバヤシは、黒や青や赤の地味な書物の列の間を、その背表紙の金文字を追って、書棚(しょだな)から書棚へとゆっくり歩むのが好きだった。そんな散策の途次、ひょいと掘出物を発見する。ピネルの《哲学的疾病分類学》や《マニーにかんする医学哲学論》の初版本やジョルジュの《狂気について》やJ・P・ファレルの《循環性精神病》など、世界の精神医学を創始した輝かしい先達たちの名著が、日本ではとても読めないと思ってあきらめていた古書が、現実に手の中に握られるのである。

 はじめは手当り次第に、そのうち系統的に、コバヤシは古い文献を読みはじめた。かつて、《医学心理学雑誌》を読みあさっていた頃とは、またちがった様相のもとに、フランス精神医学の歴史がその広く深い奥底を現わしてきた。それは単に、広く深いだけではない。何よりもこの国に育ち経過した出来事であり、コバヤシが注意深く探究さえすれば、その痕跡(こんせき)を現に目で確かめられる歴史であった。

 早い話が、日本にいたとき、コバヤシにとっては、精神医学は、他の医学の全領域と同じように、ヨーロッパ語の飜訳語を用い、病気をなおすという明確な目的をもち、まとまりをもった体系と知識の集成であった。彼は、それがそこにあるからという理由だけで、精神医学に臨床に研究に、熱中すればよかったのである。確かに、それがよそ(・・)から到来したという意識はどこかにあった。が、すべての科学が到来品である以上、彼は別に精神医であるということに不思議も迷いも感じなかった。

 今、パリのサンタンヌの図書室で、古書に埋れながらコバヤシを打った驚きと眩暈(めまい)は、美しく完成された作品の背後に、血まみれの苦悶(くもん)に彩られた莫大(ばくだい)な屑(くず)と習作を発見した観賞家のそれであった。ヒッポクラテス以来、二千三百年の間に、何と多くの過誤が、愚劣な意見が、血と死がばらまかれていることか。

 ギリシャ、ローマでは、狂人はまだしも病人とみなされ、医者の手にゆだねられていた。しかし、長い中世においては、狂人は魔法使い・悪魔(あくま)憑(つ)き・魔女とみなされ、外科手術が理髪師の手で行われたように、乱暴にも、悪魔(あくま)祓(ばら)いの僧侶(そうりょ)によって処理されることになった。錬金術と並んで鬼神論(デモノロジー)が登場するのである。鬼神論は最初、狂人に対して寛大であった。人々は神を愛すると同じくらい、悪魔を怖れていたのである。狂人を救うために、聖人の墓の奇蹟(きせき)的な霊験が求められ、呪文(じゅもん)がかけられ、修道院は庇護(ひご)を与えた。魔女や魔法使いが大量に死刑になり、火に投ぜられるのは、十三世紀の法王イノセント四世の時代に宗教裁判の制度ができて以後、なかんずくルネサンスの科学復興の行われた十五世紀と、続く二世紀の間であった。

 この十五世紀に現れた二人のドミニコ派の僧侶、ヨハン・シュプレンガーとハインリッヒ・クレーマーの《魔女の槌(つち)》という法皇公認の書物こそ、中世の鬼神論とルネサンスの科学精神の見事な化合物なのであった。宗教裁判の教典となったこの四折判の分厚い書物のあらゆる頁(ページ)から、狂信的で一方的な、しかし整然とした観察と推論と結論が溢(あふ)れだし来た。人間は何をしようとも、たとえ狂気にかかったとしても、それは自分の自由意思で行う。人間は自由意思で悪魔の要求に服従する。だから、狂人は責任をとるべきであり、罰せらるべきである。しからば、狂人を悪魔の手より救う道は? 狂者の霊魂は堕落したみだらな意志によって肉体の中に罪深く囚(とら)われているから、再び解放してやるべきだ。つまり肉体は焼かれねばならない。宗教裁判は、こうして、もっとも慈悲深い宗教的判決ともっとも科学的な処置として、火刑を宣告した。何十万という狂人たちが、魔女や魔法使いの烙印(らくいん)をおされて焔(ほのお)の中に消えていった。魔女の槌音は強大な反響をヨーロッパ中にこだまさせながら、長い間、ほとんど三百年の間、鳴りひびいた。最後の魔女がスイスのグラルスで殺されたのは、実に一七八二年のことである。

 もちろん、魔女裁判的な狂人の集団殺戮のみが当時の風潮のすべてであったのではない。数は少ないがそれに反対する先覚者もいたのである。十六世紀のパラケルスス、ファン・ルイス・ヴィヴァス、ヨハネス・ワイヤーなどの進歩的な――といってもたかだかギリシャ、ローマ的なものではあったが――人々は、十七世紀にはさらに多く、十八世紀にはもっと多かった。ただ、先覚者たちの抗議や叫びにもかかわらず、一般世人の狂者への考え方は、依然として中世的・ルネサンス的なものにとどまったのである。そして、十八世紀の末、フィリップ・ピネルが登場した頃でも、精神病者のための真の病院はヨーロッパに一つもなく、患者たちは重罪犯同様監獄に終身拘禁され、鎖でつながれ、鞭打(むちうち)・殴打(おうだ)・絶食の折檻(せっかん)をうけていた。たまに治療が行われても、それは残酷な瀉血(しゃけつ)であり、灌水浴や回転椅子であった。

 ピネルにいたって、はじめて、狂人(フー)が病者になり、監獄が病院になり、折檻と拷問が治療になった。そして、十九世紀こそフランスを中心として近代精神医学が発達し、現代精神医学への重要な橋渡しの役をつとめるのである。コバヤシは、ルネ・スムレーニュの《フランスの偉大な精神医たち》を指標に、十九世紀の原典を読みふけり、その豊饒さと複雑さに完全に圧倒されてしまった。つまり、奥深い出口のない迷路に迷いこんでしまったのである。

ピネルの前には、全人格論者ピェール・カバニス(サンタンヌ病院前の道は彼の名前で呼ばれている)、人道主義的精神医ジャン・コロンビエ、ジョセフ・ダカン、そしてジャック・ルネテノンがいた。ピネルの弟子(でし)には《医学心理学会》の創設者であり一八三八年の法律をつくったギョーム・フェルュスと、精神医学の体系の基礎をきずいたエスキロールがいた。エスキロールの伝統のもとに、若き天才ジョルジェ、完璧(かんぺき)な臨床医ジャン・ピェール・ファルレ、《医学心理学雑誌》の創刊者バイヤルジェ、それから有名な変質論者モレルとマニャンが来る。彼らはすべて、熱烈な研究者であり、創造的な人々で、その点でフランス精神医学の太い幹をつくっている。が、彼らの意見には、何という対立と矛盾と混乱が充(み)ちていることだろう。それは、一つの意見が創見とも偏見ともなり、一つの臨床的記述が立派な学問的資料とも単なる空想ともなる時代であった。

 困惑しきったコバヤシは、或る日、埃(ほこり)にまみれた小冊子を発見し、救われたのである。それは、パリ大学博士論文(テーズ)紀要中の一冊で《十九世紀のフランス性維新医学と精神病院》という、コバヤシにとってお誂向(あつらえむ)きの表題であった。著者はジャン・ヴァンサン・ドロマール!(中略)

 たとえば次のような記述がある。

 普通、偉大なる人道主義者で狂人を鎖より解放し、精神医学の創始者とみなされているフィリップ・ピネルが、ビセートル監獄に来たのは一七九三年、サルペトリエール病院にのりかんだのは一七九五年である。ピネルの事業はトニ・ロベール・フルーリーの画(その複製をコバヤシは東京の松沢病院で見たことがあった)やサルペトリエール前の銅像(それは一八八五年《医学心理学会》の手で除幕された)によって全世界に一般化され有名である。しかし、ピネルの弟子ギョ-ム・フェルュスが一八二六年ビセートルの医長となったとき、つまりピネルの改革後三十年たったとき、フェルュスがみたのは、依然として暗く湿った不潔な独房であり、壁に鉄の輪でくくりつけられ強制的に立ったままの生活をさせられている狂人たちであった。フェルュスは、ピネルと同じ熱意で病院を改革した。フェルュスの創始した作業療法用の農場、それこそ現在のサンタンヌ病院の敷地なのである。サンタンヌには牧場と豚小屋と畑、搾乳場や薬局があった。しかし、フェルュスがビセートルを去ったとたん、サンタンヌの農場は忘れられ、患者たちは治療も監督もなしに、うろつきまわり、ついにこの世界最初の作業療法場は閉鎖されてしまった……》

 

 後の一九六九年に、フーコー『狂気の歴史』(一九六一年)に対して、「精神医学の正当性に異議を申し立て、精神疾患概念や精神医学の治療機能の存在理由をおびやかす「精神医学殺し」」として激しく反論、非難したアンリ・エーに関する記述もある(対してフーコーは、一九七三年度、七四年度のコレージュ・ド・フランスの講義『精神医学の権力』と『異常者たち』で「権力装置」としての精神医学の告発をし、さらにエイは晩年の一九七八年に『精神医学とは何か――反精神医学への反論』を刊行した)。

(P192)《アンリ・エイというのは、ピェール・ジャネなきあと、フランスの生んだ最も世界的に高名な精神病理学者の一人である。英国の神経学者ジョン・ヒューリング・ジャクソンの理論を精神医学に導入し、神経学と精神医学の総合を企てた彼の理論体系は、ネオ・ジャクソン主義という名で知られていた。確かに骨太で広範な可能性をもつ体系で、それは、フロイト精神分析、ジャネの心的緊張論、ビンスワンガーの現存在分析(ダーザインスアナリーゼ)、ミンコフスキーの現象学など、すべての二十世紀精神病理学を自分の体系の中に併呑してしまった。エイと個人的には仲の悪いドレイ教授すら、《リボーの心理学とジャクソン主義》という論文で暗にエイの学説を讃(たた)えている。それもコバヤシのみたところ、無理もないことで、エイとドレイはともに、サンタンヌ病院に根拠を置く、《サンタンヌ学派》なのである。そしてサンタンヌ学派はクレランボーやオイエを中心とする《サンペトリアール学派》と鋭く対立していた。たとえば、ついさっきヴリアンが暗唱していたクレランボーの学説は、エイによって《十九世紀的脳局在論、デカルト的機械論、時代錯誤の分子論(アトミスム)》として激しく論難されていたのである。ヴリアンがクレランボーの精神自動症を丸暗記するかたわら、エイの講義プリントに随喜する、その矛盾した態度が、コバヤシには、半ば滑稽で半ば不可解なものに思えたのである。》

 

<診察/治療>

 実際の診察、治療や、医長資格試験(メディカ)についての記述も重要だ。ここで、フランスにおける「医長」の位置づけを知っておいた方がよい。

(P328)《精神科医長(メトサン・デ・ゾピトウ・プシキアトリック)、それはフランスにおいて大学教授の資格と同等の重みを持っている。いやそれ以上かも知れない。現に国際的名声をもつ、J・V・ドロマールやアンリ・エイは精神科医長ではあるが教授ではない。医長の資格こそは最高の名誉であり出世であり、広いれっきとした公舎と自動車二台を保証する身分なのである。》

(P263)《六月中旬に行われる《メディカ》がもっぱらの関心の的なのである。ラガンはまだ若すぎ、ブノワは自信がない。そこで今年運試しをするヴリアンの勉強を助けるという名目で寄集っていた。或る日、ドロマールの発案でコンクールの模擬が行なわれた。もちろん、ヴリアンが受験者で、医長連が審査委員になった。

 その日の午後、会場の閲覧室に、病院の全医師が集った。正面にドロマール、エニヨン、マッケンゼンの三医長、その前にヴリアン、傍聴席には、ブノワ、ラガン、クルトン、エニヨン夫人、コバヤシの内勤医全員が坐った。

 面々の顔ぶれが揃ったところでドロマールが右手をあげパチリと指をならした。それを相図に、ヴァランチーヌとニコルに前後をはさまれた患者が入室した。ドロマールがストップウォッチを押し、診察が始った。

 ヴリアンはさすが緊張し、すでに汗ばみながら、患者に向ってとってつけたような微笑をつくり、老練な精神医らしい形を演じていた。

「あなたのお名前は? その、ここに居るのはみんなお医者さんですから、別に心配しなくてもいい。で、あなたのお名前は?」

マドモワゼル・リフラール

「おとしは?……」

「…………」

「これは失礼。それでは、その、あなたはいつ入院しましたか」

「…………」

「それでは、なぜ入院したか、わかりますか」

「…………」「なにかあったからでしょう。それでは、うかがいますが、あなたは病気ですか。つまりどこか悪い?」

 マドモワゼル・リフラールは沈黙した。ヴリアンは何とか喋らせようと患者の横に椅子を移動させ、その顔をのぞきこんだ。患者は化石したように動かない。まばたきだけが彼女が生きていることを証拠だてていた。

 リフラールはコバヤシの患者である。いわゆる慢性妄想病者(デリラン・クロニック)で、病室内では模範的な――つまり従順で物静かで、昔お針子だった技術を生かして他の患者の作業を指導する立場の――患者であった。模擬コンクール用の患者として彼女が選ばれたのは、ヴリアンが患者を知らないという理由のほかに、彼女がきわめて人当りよく、《よく話す》患者であったからだ。一見正常人と変らない彼女の内側に匿(かく)れた病的な被害妄想(もうそう)をききだすこと、それがヴリアンに課せられた使命なのである。

 しかし、ヴリアンは最初からつまずいたようだ。彼の禿頭(はげあたま)に吹出した吹出物のような汗と、憐(あわ)れな切れぎれの低音と、沈黙を続けるリフラールの硬(かた)い姿勢がそれを物語っていた。

 ドロマールは無表情にストップウォッチに見入っている。エニヨンは自分の内勤医の不手際(ふてぎわ)に不満なのかしきりと尻の位置を変えて椅子をミシミシさせ、マッケンゼンは眠ったように目を閉じた。そしてコバヤシは患者の後に立っているニコルを食入るように見詰めていた。

 どうしても返答をえられないので焦ったヴリアンは、意を決して患者の肩をたたいてみた。

「ねえ、マドモワゼル。ぼくの質問が……」患者は、やにわに肩を引き、のけぞりながら立上った。ニコルがそれを椅子に連戻した。

「さあ、こわがらないで、ルイーズ。この方はドクトゥールなのよ。いつも私にお話しするつもりで、答えてごらんなさい」

 するとエニヨンが鋭く叱責(しっせき)した。

「看護婦は黙って! 今は、ドクトゥール・ヴリアンだけに発言の権利がある」

 ニコルはさっと赤くなった。コバヤシは自分自身が叱(しか)られたように顔に血がのぼるのを感じた。その一刹那(いっせつな)、リフラールが椅子を倒してとびあがり叫びだした。

「もうたくさん! なんだって皆さんは、わたしを見世物にするんです。おんなじ質問をばっかみたいに繰返してさ」

 亢奮(こうふん)した患者は、支離滅裂に喋(しゃべ)りまくり、ニコルを突除(つきの)け、出口に駈けだそうとした。すると今までスイスの番兵式に直立不動の姿勢でいたヴァランチーヌがひょいと振子のように手を伸ばして患者の腕首をつかみ、部屋の中にぐいっと引戻した。その、あまりに鮮(あざや)かな早技(はやわざ)に患者も驚いたらしい。急に喋りやめ、当惑したように周囲を見回した。中腰になったヴリアンは安心して腰を降し急いで記録をとりだした。今の突発的亢奮は明らかに彼に有利だった。少なくとも錯乱状態と思考障害と被害妄想の要点はつかみえたはずだ。

 意外にもマドモワゼル・リフラールの目はコバヤシのところで止った。生気のない曇った目に不穏な光がさしこむ――コバヤシは自分の受持患者の目についぞ見たことのない激しい敵意を見てとった。

「お前だ。お前みたいにきたならしい黄色人種がわたしを駄目にする。お前が医者だって? なにさ、女みたいに毛のないくせに。知ってるよ。お前は男じゃないんだ。くやしかったら黄色い子供でも生ませてみりゃいい」

 彼女は後からあとから淫猥(いんわい)な侮蔑(ぶべつ)の言葉をコバヤシになげつづけた。が、コバヤシは努めて平静を装い、その努力のため、もう何もきいていなかった。《たかが狂った患者の言葉じゃないか。誰も本気にとりはしない》そう自分に言聞かせると同時に、《精神病者というものは、正常人のひそかにいだく観念を異常に拡大するものだ》という知識が彼を苦しめた。火のないところに煙は立たないのである。

《ニコルがきいている。みんなどうしてやめさせないんだ。みんなどうして黙ってるんだ。あのヴリアンの奴(やつ)はどうして落着き払って速記してるんだ。ああ、やめさせてくれ……》その時リフラールの声が耳に入った。「みんな言ってるよ。マドモワゼル・ラガンの時は良かったって。お前の患者じゃ恥ずかしくってとってもやりきれないとさ。本当だよ……」

 その一分か二分のあいだ、コバヤシは人々みんなの視線が自分に注がれていると感じ、その場にいたたまれぬ思いをした。けれども、リフラールが鉾先(ほこさき)を変え、今度はブノワを攻撃しだしたこと、彼女の言葉が彼が聞き取ったよりも存外にまとまりを欠き到底一貫した意味を持たないことを悟ると、自分が平然とした態度をとり、医師の高みから患者の病気を見下しえたことに満足した。そうして自分の心の中に弱点が――医学でいうLocus minoris resistentiae――があり、その点に触れられることに極端に敏感に反応しすぎることを反省した。

 何事もおこらなかった。ニコルも顔色一つ変えなかった。彼女は患者の混乱した言語を聞いただけで意味などわかりはしなかった。《そうだ。これが例の病気なのだ。ぼくだけが、ぼく一人だけが何かを怖(おそ)れている》

 患者の亢奮はますます激しくなった。もうヴァランチーヌとニコルの力だけでは及ばず、数人の看護婦が総掛りで患者の腕を押えつけねばならなかった。その前でヴリアンは、なすすべもなく、しかしうわべは冷静を装って記録をとっている。それはいかにも見世物めいた醜悪な情景となってきた。

 ドロマールが顔をあげ、右手で合図した。

「あと五分だ。ヴリアン。それから別室でリポートを作成したまえ」

 ヴリアンは会釈した。彼は実に困惑しきっていたのだ。なるほど患者の錯乱状態は十二分に観察しえた。だが、この種の妄想患者においてもっとも重要な症状――過去から現在までの経過――については何ひとつききだしていなかったのである。

マドモワゼル・リフラール。もう一度おたずねしますが、その、あなたが入院した理由はなんですか」

 またしても型通りの質問である。亢奮患者には立上って大声で話しかけるべきなのに、彼は坐ったまま、間のびした低音で訊(たず)ねたのである。患者は質問を無視し歯をむきだした。そして看護婦たちの隙(すき)をみると、机上からヴリアンのノートをひったくり投げ捨てた。看護婦たちが一団となって机に倒れこみ、インク瓶(びん)が転(ころ)がり落ち、インクまみれの憐れなヴリアンが悲鳴をあげた。ドロマールが苦々しげに叫んだ。

「患者をつれて行きたまえ。何ということだ」

 それからどうなったかコバヤシは知らない。彼は、看護婦二人が躍起となって患者に拘束衣(カミゾール)を着せようとしていた。患者は抵抗し、唾(つば)を吐き、悲鳴をあげて荒れ狂っていた。丁度そんな騒ぎの最中にコバヤシは来合わせたのである。

《あの、おとなしい患者が、どうしたことだ》一歩、近付いてみた。すると患者は煮湯でもかけられたように一層激しく暴(あば)れ、危く、ベッドの鉄枠(てつわく)に頭をぶつけそうになった。

 ヴァランチーヌは、いかにも邪魔だというようにコバヤシを肘(ひじ)で押し、拘束衣(カミゾール)を持って待機していたニコルに「ラルガクティルの五十ミリグラムを筋注、いそいで」と命じた。そして、ニコルが注射器と薬をとりに去ると、言訳がましく「医長先生の指示です。亢奮したときはラルガクティルを注射するように」と言った。

 とっさに、自分でも思いがけない強い言葉がコバヤシの口から飛出した。

「さあ、手を放して。みんな部屋から出てもらいたい」

 看護婦たちはすぐにはコバヤシの命令に従わず、ヴァランチーヌの顔色をうかがった。それがコバヤシの癇(かん)に触(さわ)った。

「放せといったら、放すんだ。そしてみんな出て行きたまえ」

「しかし、ドクトゥール」ヴァランチーヌが批難の目付で睨(にら)んだ。「医長先生が……」

「かまわん。とにかく、ぼくとマドモワゼル・リフラールの二人だけにしてくれ」

 ふと、あの感覚、憲兵を言含めたときの、昂揚(こうよう)した気分が復活した。どこかの半透明な別世界から、すぽっと明確な現実世界に落ちて来た、あの気持である。彼は、自尊心を傷つけられた尼さんの手負猪(ておいじし)のような身のこなし、看護婦たちの驚きの表情、そして――これが最も重要なことだったが――不意に身じろぎをやめたリフレールの好奇のまなざしを、ありありと意識した。

「出てゆきたまえ、みんな。あとはぼくがやる」

 二人きりになると患者は顔をそむけた。が、暴れ出そうとはしなかった。コバヤシは力を得て、話しかけてみた。

マドモワゼル・リフラール。ぼくは後悔してますよ、あなたを、あんな場所に連れだしたことを」

 患者はちらっと視線を走らせたがすぐ傍(わき)を向いてしまった。天井をにらんでいる頑(かたく)なな横顔が枕の上にあった。しかし、その顔の中には、もう荒々しい狂乱のきざしは見られなかった。コバヤシは辛抱強く待った。《彼女は迷っている。こういうとき何かを尋ねてはならぬ。待つんだ……》

 三十分ほどした頃、リフラールはにんまりと笑い、上目遣(うわめづか)いにこちらを見た。

「どうして、あなたはそこにばっかみたいに立ってるんですの?」

「あなたと話がしたいからですよ」

「おかしなひと」

 彼女は枕に顔をうずめてくっくと笑いこけた。笑いやめると、今度は身を起して真正面からコバヤシを見詰めた。(中略)

 次第に頬の病的な赤らみが消え、怒張して不自然な笑いをつくっていた顔面筋が和(なご)み、彼女が目を開くまでの数十分、コバヤシは立ったまま待った。何も考えなかった。ただそうしなければならぬという義務感だけが彼を駆立てていた。

 彼女は彼を認めた。そこには気持のよい驚きの表情があった。

「気がつきましたね」

「ああ、ドクトゥール・コバヤシ。わたしどうしたんでしょう」

「何があったか、思い出してごらんなさい」

「いいえ、何もおぼえてません。何も……」

「それでいいのです」

 コバヤシは微笑した。》

 

(P278)《コバヤシは、自分がこの国に来てからの勉強方針が、全くの誤謬(ごびゅう)だったとはいえないにしても、何かあまりに一面的すぎていたことに気付いた。《精神医学史も結構、精神薬理学も結構、でも、それが医学である以上、病気を癒すという点に力点があるのだ。そして、医学をつくるのは医者だ。もっともっとこの国の医者(・・)について学ばねばならない》そう考えて、彼は医者としてのエニヨンとクルトンに興味を持った。

 ロベール・エニヨンは、ドロマールとまた違った意味で、学者であり医者であった。大の勉強家で最近の精神医学、ことに治療法や病院管理法の文献には精通している。コバヤシは、エニヨンの病棟を見学に行き、その明るい整然とした病室と活気に充(み)ちた雰囲気と高価な治療器具が所狭しと並べてある壮観に圧倒された。サンタンヌの病室などより、よほど近代化されている。

「どうだね」案内を終えたエニヨンは誇らしげに肉付のよい肩をそらした。

「大変、近代的(モデルヌ)だと思います」

 ところがエニヨンは不満げにこちらを睨みつけた。

「いいや、きみ、近代的(モデルヌ)じゃない、現代的(アクチュエル)だと言ってほしいね」

「なるほど、大変に現代的(アクチュエル)ですな」

 エニヨンは、ヒッヒと鋭く空気を切断するように笑った。それはつい、こちらも誘いこまれるような、あけすけに快活な笑い方であった。

 エニヨンは白衣を嫌(きら)い、ペンキ職人のようなジャンパー姿で病室内をぶらつく。それは、医者という権威を捨て、一個の人間として患者と平等な立場で話合うためである。彼が、家庭で大勢の子供たちに囲まれているように、嬉しげに近寄ってくる患者たちの中央で目を細めている。そんな姿をコバヤシは何度もみかけた。

 エニヨンの現代治療法は、確かに目覚(めざま)しい成果をあげていた。院内で彼のところが一番退院患者が多く、従って入院患者も多く、ベッドの回転率が高いのである。このことは、彼をはじめ看護婦たちをいやがうえにも多忙にし、他方では病室内に生き生きとした熱気をかもしだしていた。退院患者のアフター・ケアー、入院患者の環境調査で、家庭訪問員(アシスタント・ソシアル)のカミーユ・タレは、ほとんどエニヨンのためにとびまわっていた。コバヤシは、あの陰鬱(いんうつ)なカミーユが、エニヨンのところでは、別人のように明朗でお喋りなのにも一驚した。エニヨンの強力な影響は、看護婦たちにも明白に及んでいた。彼女たちは、電気をかけられたようにきびきびと立回り、しかも陽気であった。

 あらゆる科学と同じく、医学にも不能の領域がある。そのことをエニヨンとて知らぬわけではあるまい。しかし、彼は好んで光の当った明るい部分に目を向けていた。それだけでも為すべきことが山積みされているのだ。ところで、クルトンは、逆に、暗い翳(かげ)の部分に一層の関心を示していたといえよう。

 或る日、コバヤシが診察に熱中しているところへ電話がかかってきた。精神薄弱者病棟の患者が一人食事をせず衰弱しているからどうしたらようかと当直医としての彼に問合せてきたのである。いつものように電話で指示するだけで厄介払いしようとしているうち、相手の声が急にクルトンの声に変った。

「なあんだ君か。声色を使っていたな」

「まあそう怒るな。ところでこんな場合、当直医としてはどうするかね」

「いったい君は今どこに居るんだ」

「不潔病棟だ」

「そんなら、君が診てくれればいいじゃないか」

「そうはいかない。急患は当直医の仕事でね」

「わかったよ。今行く」

 そしてコバヤシは、例の素裸の白痴を収容した保護室や、廊下と壁に滲みこんだ糞臭(ふんしゅう)のほかに、大部屋につめこまれた《軽傷》の精薄者たちの集団を見たのだった。それはまさしく見た(・・)のであり、それ以上の何かをしたい(・・・)と思ったわけではなかった。医者というものは、重い病者をみると、それをどうにかして癒(なお)さねばならぬ義務感を覚えるものである。ところが、不潔病棟では、一目見たときから、あきらめを、まるで一般の人々が重病人に感じるような、重苦しい当惑感を覚えるだけだった。

 薄汚れた制服の彼らは、仄暗(ほのぐら)い室内で、青い虫のように無秩序にうごめいていた。ガラス玉をはめこんだように冷い不動の目、古ゴムのように弾力を失って開きっぱなしの唇(くちびる)、蝕(むしば)まれた黄色い歯から石鹸水(せっけんすい)のような唾液(だえき)が胸のあたりまで垂れている。そんな彼らの間から、意味のわからぬ動物の吠声(ほえごえ)に似た奇声が起っては消えた。

 壁側には木製の奇妙な椅子に患者たちが縛りつけられていた。この椅子というのは、尻の当るところに大きな穴があり、下に便器を挿入(そうにゅう)できるようになっている。腰から上は、袖(そで)の閉じられた拘束衣を着せられ、下半身は裸の患者たちが、椅子に腰かけて一列に並んでいる光景を、コバヤシは無感動に眺めた。彼は、わずか一、二分でこの場の異様さに馴(な)れてしまった。《これはどうにも仕様がない。そうするのが当然なのだ》、と、そんな気になってしまったのである。

「やあ来たね。当直医殿」

 隣室からクルトンが現われた。彼はコバヤシを、ユースホステルめいた二段ベッドの立並ぶ寝室にひっぱって行った。ベッドには一人の痩せ細った真白な少女が横になっていた。

「ジョゼットだ。症状を説明しよう」「いや、ぼくはいい。大体覚えている」

 病棟づきの老いた看護尼が差出した病歴をクルトンは、コバヤシに手渡した。ジョゼットは脳性小児麻痺(しょうにまひ)だった。以前からあった痙攣発作(けいれんほっさ)が三日前から頻発するようになり、今朝からはのべつに発作をおこし続けている。

「つまり、てんかん発作の重積状態だね」コバヤシは自信なげに、眠っている少女の白い顔を見た。

「そうだ。抗痙攣剤を大量に使ったが、効(き)き目(め)がない。これ以上は危険だ。心臓がもたないだろう。あっ、またおこった」

 少女のほっそりとした美しい顔が、醜く痛ましくゆがんだ。歯をくいしばって叫び、ベッドからころげ落ちようとする。コバヤシとクルトンはベッドの両側から少女を押えつけた。発作は数分続いたのち一度鎮(しずま)ったかにみえたが、すぐ再発してきた。少女の血の気のない皮膚は、これだけ暴れているのに汗さえかかず乾燥してざら紙のようだった。水分の不足なのである。三度目の発作の嵐(あらし)が去ったとき、コバヤシはクルトンに言った。

「どうだろう。まず水分の補給だ。葡萄糖とビタミン剤を注射しておいて、脊髄液を抜いてみたら?」

「しかし、どうやって注射するね。こう絶え間のない発作じゃあねぇ。ほら、またおこった」

「君が押えていてくれたまえ。ぼくがやってみる」

 ところでこの不潔病棟には、十分な薬も脊髄穿刺針(せきずいせんししん)も備えられてなかった。それどころか看護婦すらいない。誰もこんなところで働こうという者がいなかったのである。篤志の老看護尼が三人夜昼泊りこんでいるだけでは、収容者の身のまわりの世話で手一杯で到底医療にまで手がまわらない。誰かが病気になると一応当直医の指示をあおぐものの、それは形式であって、実際には病人は放置され自然にまかされるだけであった。驚きあきれているコバヤシにクルトンが言った。

「そうなんだよ、君、これが現実だ」

 看護尼の控室まで行き、電話でA一病棟の看護婦に必要な薬と器具を持って来るように言付け、戻ってみると患者の容態(ようだい)はさらに悪化していた。といって、ただもう押えつけて以外に為(な)すすべがない。ふとコバヤシの心に疑念が浮んだ。

クルトン、君はずっとここにいたのかね」

「一時間前からだ。この病棟付の看護尼にとっちゃ、君よりまずぼくのほうが呼びやすかったんだろうね。ぼくは時々、この病棟に来てやるから」

「その一時間のあいだ、君は何もしなかったのかね。つまり何か処置をしようと……」

「したさ。抗痙攣剤を大量にうってみたと言ったろう」

「でもそれだけじゃ……」

「不足かね」クルトンは窪(くぼ)んだ小さな目をしばたいた。「たしかに不足だ。医者としては怠慢だ。ぼくは自分の受持病棟から看護婦を呼びよせることだって出来たわけだから。わかってるよ、君の疑問は。君は、ぼくがなぜ君を読んだか知りたがってるんだ」

「そうだ。なぜだ?」

「それはだね」クルトンはぐったり仰向いている少女の髪を撫(な)でた。「君の助けをかりたかったから、と言うと半分以上は嘘(うそ)になる。君にこの病棟を見てもらいたかったというと、真実により近いが、それでも半分ほどは嘘だ。ぼくはね、ただ、君に来てもらいたかったのさ。そう、それだけだ」

 クルトンは疲れたように言葉を切った。コバヤシは、それを弁解ととった。《要するにこの男は何もしなかったのだ。しようとする気力もなかったのだ。そして、面倒なことは当直医に押付けようとしている》

「できるだけのことは、やるべきじゃないか」コバヤシの言葉には強い憤慨がこめられていた。クルトンは首を傾(かし)げ肩をすくめた。このフランス人特有の曖昧(あいまい)な動作をコバヤシは腹立たしげににらみつけた。

 看護婦が必要なものを持ってくると、コバヤシは、クルトンと看護婦に少女を押えさせ、注意深く、細い透き徹(とお)るような静脈に高調葡萄糖を注射した。小止(おや)みのない痙攣に邪魔されながら、ともかくは注射は成功した。心なしか発作が弱まり、蒼白(あおじろ)い皮膚に血の気がもどってきた。血圧と心臓の鼓動に注意し、少女が安らかな寝息をたてているのを見て、コバヤシは思い切って脊髄液を抜きにかかった。太い針を背中に刺し、脊椎(せきつい)と脊椎との狭い柔い部分の奥に針が到達するとすぐ、ポタポタと生暖い水が流れだした。この脊椎穿刺は、精神医となってから何百回も実施し、コバヤシの手技は完全な熟練の域に達していた。みていた老看護尼が「ほう!」と感嘆したほど、コバヤシの手並は正確で堂に入ったものであった。

 この治療が効いたのか、少女の発作は消え、やがて目を開いて不思議そうにあたりを見回した。コバヤシは、老看護尼や看護婦の前で、医師としての自分の手腕を誇ることができた。そして、その看護婦がニコルでないことを残念に思った。

 ところが、翌早朝に不潔病棟から電話があり、患者が死んだと知らせてきた。仰天したコバヤシは、隣室のクルトンをたたき起した。

「すぐ行こう。そんな筈(はず)はないんだ」

「何をそんなに、じたばたしてるんだ」

「患者が死んだんだよ」

「だから、死んだものを今さら診(み)に行ったって仕方がなかろう」

「それはそうだが、何故(なぜ)死んだか知る必要がある」

「ジョゼットは死ぬべき運命にあったんだよ。あそこじゃ、こんなふうにしてたくさんの患者が死んだのさ」

「何だと」

 コバヤシは、クルトンの落着き払った微笑(ほほえ)みをにらんでいるうちに睡気(ねむけ)がとれ頭がはっきりしてきた。《ぼくも、あの少女が助からないことを何となく知っていた。それを強いて治療してみせただけなのだ。昨日、ぼくのやったことは全くのお芝居だった》そう思うと、吐気のような自己嫌悪(じこけんお)がおこってきた。

「知ってたんだな、君は。彼女が助からないってことを……」

「まあいいじゃないか。もう一度ゆっくり寝たまえ。死んだものは仕方がない」

 クルトンは、美しい歯をみせて欠伸(あくび)した。そして、扉から顔を出したカミーユに手をふった。

「何でもない。死ぬべき患者が、死んだだけなんだ」》

 

<「黒い炎」/「世界投企」>

 精神医学の世界は、二十世紀の実存的、現象学的な哲学に結びついて来た、ハイデガーヤスパースメルロ=ポンティ、……。

(P136)《「わからないな」ドロマールは怖(おそ)ろしく生まじめに言った。「彼が自殺すると言うとどうして異常なんだ。どうして治療しなくちゃならないんだ」

「なぜなら……」エニヨンは面喰(めんくら)ってくちごもった。

「なぜなら、神がそれを禁じているから、なぜなら、医者は患者を治療すべきであるから……ああ、エニヨン、君は大層有能な人物であるのに、惜しいかな、無数の格言と常識的定義で雁字搦(がんじがら)めだ。目を開きたまえ。もっと素朴で、子供のように無邪気な目で物を見たまえ。そうすればクルトンの深淵(しんえん)に燃える黒い炎もみえるだろう」

「黒い炎だって。深淵だって。まあ、何を言い出すんだ」エニヨンは叫んだ。この若い医長は他人との議論で負けたためしがなかった。いつだって運営会議を自分の意志どおりに動かしてきたのである。こんな具合に手玉にとられるのは大いなる屈辱である。今やエニオンは精力的な身体に闘志を漲(みなぎ)らせてドロマールを睨めつけていた。

「黒い炎と言ってわるければ、ドイツ人のいう世界投企(ヴエルト・エントヴルフ)といってもいい」ドロマールは淡々とした調子で言った。》

 

(P391)《「それが彼のいう黒い炎ですか」コバヤシは、ほてって燃えあがるような意識の中で、ドロマールのドイツ語を、現存在分析(ダーザインスアナリーゼ)の用語を反芻(はんすう)し、それをクルトンの不可解な言葉と結びつけた。

「ほう」ドロマールは、彼としては異例なことだが、目を輝かして溜息をもらした。「あなたはわかるんだね、あの男が」

「いいや」コバヤシは目を伏せた。「わかりません。ただそんな言葉を彼がよく使うものだから……ただそう言ってみただけです」

「わかってますよ。ね、コバヤシ。あなたにはわかっている。それは言葉の問題じゃない。思想の、否、感覚の、いかんまだ言葉だ。なにか手垢(てあか)にまみれた言葉でない言葉が必要だが……」

 ドロマールは、外科帽の下でぎろりと目をむき考えこんだ。その目を義眼とばかり思いこんでいたコバヤシは赤い血管の走るなまなましい眼球を驚いてみつめた。しばらくしてドロマールは目を細めた。すると、見馴(みな)れた顔付、能面のような無表情になった。

「あなたは《存在と時間》を読みましたか」

「いいえ、まだです。詠みはじめたことはありますが……」

サルトルは?」

「まあ大体よみました」

「メルロ・ポンチは?」

「初期のものだけ、《知覚の現象学》なんかを……」

「それでは、《世界内存在(イン・デア・ヴェルト・ザイン)》という用語がわかりますね」

「わかっているというほどではないのですが」

「それで充分です。この用語を借用しましょう」ドロマールは断固として言った。「要するに、当り前の単純なことなんです。どんな人間も、この世に生きている。無数の物体や生物や他人とかかわりなしには生きられない、人間のこの運命的なありさまが世界内存在でしょう。つまり人間のアプリオリな規定は世界内存在です。ここまでは哲学者の考えたことだ。ところがこの凡庸な人間の規定に満足せず、そこから脱出しようとする人間もいる。それが狂人と自殺者です。前者は異常という事実性に転落することによって世界を拡大し、後者はもっとも正常な(正常が平均値という意味ならこれも異常ですが)投企によって、世界から脱出する。そのことを知っているのは狂人や自殺者と暮しているわれわれ精神医です。つまり現代のように人間が、実にうんざりするほどの物体や生物や他人の組立てた牢獄(ろうごく)にがんじがらめになって平均化されている時代には、狂人と自殺者こそは、英雄です。彼らは牢獄を拡大したり破壊したりできる。つまり、ひとにぎりの哲学者の存在論的定義の網の目からもれて、未知の暗黒の宏大無辺な世界を所有しうるのです。しかも、これが大切なところだが、この操作は、彼らの主観(なんという古くさい言葉でしょう)や精神の内側で行われるのではなく、主観も客観も、精神も肉体も、(ああこんな二元論的言葉は使ってはいけない)こういいましょう、彼らの世界内存在すべてをひっくるめておこなわれる。ここまでくると普通の精神医ですらもうわからない。なぜって、もう言葉がないからです。残るのは行為のみ! 狂人になる(・・)か自殺者になる(・・)かどちらかです。この場合、便法がないわけではない。それは……あなたを前にしていいにくいが、しかしあなたを誹謗(ひぼう)するわけじゃないからいいましょう……それは、異邦人になる(・・)ことです。つまり、この牢獄的世界からはじきだされ表面に浮びあがることです。ただし、この便法はあくまで便法です。それは本当の英雄的行為ではない。少し卑怯(ひきょう)な、まあ比較的安全な行為です。それでも、なお、普通の正常の(こういったときドロマールは苦々しげに口をゆがめた)そこらにうようよしている人間どもより、どれだけまし(・・)か知れん。それはともかくこの世ではない別世界をつくる。たとえばすぐれた科学者や芸術家のように……さて、クルトンだが、彼の黒い炎というのは、思想でも感覚でもない。そうだ、うまい言葉がある。それは行為なのですよ。炎は動くでしょう。燃えるでしょう、そして燃えつきるでしょう。わかりましたか。黒い炎とは自殺するという行為なのです」

「なるほど……」コバヤシはドロマールの断定的な雄弁に圧倒され、自分がフランス語の網で包みこまれたような気がした。》

 

 そして実存文学、サルトル『嘔吐』やカミュ『異邦人』との類縁性を、コバヤシが幾度も精神に異常をきたしそうに感じる場面に見出しうる。

(P214)《何か異常な変質が世界におこっていた。病棟内の雰囲気がただならぬものに感じられるのである。《疲れているせいだ。不眠のせいだ》とコバヤシは理由を自分の心や体の中に無理に探し求めた。が、それらの理由を越えた何かの変化が外界そのものから醗酵してきた。そのことに気がついたのは病棟内を巡回しているときだった。

 コバヤシを驚かしたのは外界の景色ではなかった。病棟はいつものようにそこにあった。彼はそれを微細に描写することができる。看護婦たち、ヴァランチーヌ尼の服装や動作。クレゾール石鹸水(せっけんすい)とシーツの糊(のり)の匂(にお)い。ことにも雨にたたかれている新緑の庭。コバヤシはヴェランダの端に立って、注意深く庭を眺(なが)めてみた。梨(なし)の花は散ったが、花々は今盛りであった。マロニエの蝋燭(ろうそく)型(がた)の白い花、薄紫のリラの花、浅緑の葉に隠れるような菩提樹(ぼだいじゅ)の花、それらの背後にトネリコの赤い葉が見えた。それらの花々や緑の木々は、雨の中で一際(ひときわ)冴(さ)え、何か――例(たと)えば春――を表現していることは疑いなかった。けれども、コバヤシを驚かしたのは、その景色が自分の心を、もはや少しも動かさないということだった。美しいはずの景色が美しくなかった。といって醜いのでもない。強(し)いていえば、それは嫌らしく《死滅》していた。色も形もそっくりそのままそこに見えていたが、もはやコバヤシとは無関係な、興味のない画のような、別世界なのであった。コバヤシは何かを見ているのに、何も見ていなかった。(中略)

 スープを一匙(ひとさじ)口に入れたとき、常ならぬ味と匂いがした。苦くて石油くさく、毒物でも混入してあるのかと思われた。二匙目を流しこんで慎重に味わってみた。それはごくあるふれた豆入りポタージュの味だった。肝腎(かんじん)なことは、それがおいしい豆入りポタージュの味であるという完全な資格――青くささと食塩とバターのふっくらとした厚みのある味――を持っていなかったことである。それは単なる豆入りポタージュの味で、それだけだった。コバヤシの舌は、正確に味を分析しながら、石油や毒物のもつ《味気なさ》や《胸のむかつく感じ》を知覚していた。(中略)

 どうでもいい会話、どうでもいい人間ども、自分とは無縁だと思っていた彼らを、六か月後にはすっかり忘れてしまうはずの彼らを、どうしてこうもうるさい嫌な存在として、時には今のようにくだらない迫害者として意識しなくてはならないのか。今、自分が異常であることを彼らに知られることを、どうして自分は怖れるのだろうか。

 その時、あの奇怪な壁画が、切断された裸女と無数の目が、何か親しい、よく見知っている世界としてコバヤシの目に迫ってきた。あれほど醜悪で病的だと思っていた画が、今や彼の側に(・・・・)あるのだった。何もかもよく理解できる。この無数の目は人々の、他人の、彼らの目であり、この若い女患者は、見詰められ、さいなまれ、ついには視線の刃物で体のあらゆる部分まで切断され、解剖しつくされたのである。この完全な被害妄想(もうそう)の世界には、この世と同じ温和な中間色はありえない。徹頭徹尾、原色で塗りつぶされた非現実の世界でなくてはならない。彼女は、もはや彼女であること、人間であることをやめたのである。彼女は《切断される存在》に変身しきってしまったのだ。《ぼくは狂ってしまったのだろうか》コバヤシは呟(つぶや)き、必死で強靭(きょうじん)な画の魔力から逃げだそうと焦(あせ)った。目をつぶり、又開いてみる。こんなことを何度か繰返した末、ようやく壁画が以前の醜悪な病的な世界にみえてきた。

 コバヤシはほっとした。《ぼくはまだ狂っていない》それとともに慄然(りつぜん)とした思いがこみあげてきた。《自分が自分でなくなることを怖れている今の状態、こいつはひょっとすると自分が自分で全然なくなってしまった狂気の世界の一歩手前なのだ。そして、おそろしいことにぼくは、その世界に逃げだそうとしていた。ちょうど便器の中に排泄されたものが、一瞬前まで自分のものであったものが、もはや自分のものでなくなる――あの快感、そいつをぼくは望んでいたのだ。排泄すること、つまり変身が完全ならば、ぼくは爽快なのだ。ぼくの不幸はぼくの不快は不徹底な変身のせいだ。だがなぜだろう?なぜ?》

 

 ニコルの弟、ジャンマリー少年への男色行為に関するドロマールの弁明・考察には、加賀乙彦の精神医としての生涯のテーマ「死刑囚と無期囚の心理」が反映している。

(P477)《「たしかあの子が」ドロマールは無表情だった。「十ぐらいのときだったかな。デュピベルが診察をたのみに来た。学校の成績がだめなうえ、盗癖と放浪癖があるのでなおしたいということだった。学校から友達の文房具を盗んでは持帰る、叱りつけると家を飛出し夜おそくでないと帰らない。色々検査してみると知能がわるいだけではすべてが説明つかない。どうしても、反社会的な異常性格が背景にあるとしか考えられない。そこでぼくは治療にかかった。週一回精神療法にかよわせることにしたんだ。もちろんグルクロル酸やフエノチアジン系の向精神薬など精神薄弱や性格異常に効ありとされる薬物もずいぶん試みてみた。二年前からは催眠術もつかっている。砂時計をみつめさすとあの子はたあいなく催眠状態におちるのだよ。そしてどんどん退行現象をおこす。いつだったか二歳の記憶まで再現させることができたよ。あの子は若く美しい母親に抱かれて眠っている。その闇の中へ、誰かが入ってくる。あの子は泣き、母親が獣のようなものにおさえつけられるのを見たんだ……」

「そんなことは……」エニヨンが口を挿(はさ)んだ。「そんなことは治療と関係ない。いったい、君は催眠術であの子をなおすことができたのか。あの子の素行は依然としておさまってないぜ。去年の夏はバスターミナルから切符を盗みだしたという。学校では劣等生で、とくに悪いのは善良なクラスメイトまで悪の道にひきこんでしまう。どうやらジャンマリーの非行性は悪質化の一途をたどっているようだが……」

「それはだね」ドロマールは珍しく口籠(くちごも)った。そこへエニヨンが畳み掛けた。

「失礼だが、君は患者をなおしもせず、ただいじくりまわしている。君は催眠術を乱用しているようだ。今、思い出したが、あのカミーユ・タレだって催眠術で意のままにしたのじゃないかね。クルトンが死んだ今、あの件は、時効だとしよう。しかし、ジャンマリーは、あの子の治療に関してはぼくも関心がある。いったい君はどの点まで治療に成功したと言えるんだ」

「治療は不成功だった」ドロマールはそう言うと、ひょっこり立上った。そして前掛をとり、外科帽をはねのけ灰色の髪をむきだしにした。「わたくしはあの子を治療する能力を失ったのだ。なぜなら、わたくしはあの子を愛しはじめたからだ。或る日、それは黄金の光のさす午後だったが、あの子は生れたままの形になった。美しい。実に美しい。わたくしはあの子を愛さずにはおれなかった」

 不意にドロマールの語調に不思議な抑揚がつきまとい目に顔に全体に張りができた。まるで、コメディ・フランセーズの舞台で俳優が長詩を朗読しているような具合にである。エニヨンは訝(いぶか)り顔(がお)をフージュロンへ向けた。

「ドロマール」「ムッシュ・ドロマール」二人は示し合わしたように呼んだ。「大丈夫ですか」

「大丈夫です。大丈夫ですとも」ドロマールは二人のあわて顔を面白そうに見下した。というより、夢見るような目で微笑した。

「大丈夫です。わたくしは狂ってやしません。ごく当り前の真面目(まじめ)な話をしてるのです。つまり、何故(なぜ)、自分がジャンマリーを愛しはじめたかについて考察しようというのです。よくきいてください。一度しか言いませんからね。ね、あなたがた、この世界は退屈です。愚劣で無意味です。科学は進歩するが文化は荒廃するばかり、そして誰もが目標を失って生きている。夏は去り冬が、暗い冷い死の冬が来た。そして春はもう……いや、慎重にまだといっておきましょう……まだ来ない。できることはどこかへ逃げていくことです。現にコバヤシは去ろうとしている。利巧なつまり卑怯(ひきょう)なやりかたです。彼は逃げていく国があるかのように錯覚している。しかし、この世界に逃げていく国が存在するわけがない。この世は巨大な牢獄(ろうごく)で、わたくしたちすべては無期徒刑囚なのですから。よく譬(たと)えられるように人間を死刑囚とみるのは不正確な比喩(ひゆ)です。切迫した確実な強力な死、苦悶と恐怖に圧縮された時間、いやどうも、それはあまりにも芝居じみた比喩です。誰だって狭いところにとじこめられれば狭所恐怖(クロウストロフォビイ)をおこすでしょう。時間のクロウストロフォビイの場合も同じことです。しかし、無期囚は……ああ、みなさん(ドロマールは大勢の人人の前にいるようにあたりを見廻した)、あなたがたすべたは無期囚なのにその不安の本態を自覚する人はごくわずかです。それは無限に続くかにみえる水平線にかこまれた大洋のただなかに投げこまれた人の不安です。死という予測不能な終末までの時間を牢獄の陰鬱(いんうつ)な壁の中に拘禁される。残された自由といったら自分の寿命を短くすることだけである。それは時間の広場恐怖(アゴラフォビイ)です。それこそあなたがたの正体なのです。この人間に残された唯一の自由を行使する。それが自殺です。クルトンはこの世を憎悪しました。そして未知の世界を愛した。で、彼は自殺しました。それも一つの解決法でしょう。でも、わたくしに言わせれば、彼が死を選んだのは一片のつまらない錯覚です。なぜって、この世を憎んであの世を愛したところでつまり憎悪の対極に愛を置いたところで、結局事態は何ひとつ変りはしなかった。彼は世界を変えたと錯覚して実は自分が変っただけです。もちろんこんな言い方は正確じゃありません。なぜなら、個人の知覚と無関係な、独立した世界――それは科学者の迷信ですが――などどこにもありゃしないのですから。クルトンが死んだことで、わたくしたちのこの世界は血を流したというのが正確な表現でしょう。ところで、このわたくしは他国へ逃亡もしないしあの世へ飛躍もしない。この世界にただもうじっと生きています。この世の不安をすべて受けとめ、それどころか、わずかながらも科学を愛し、それとともにジャンマリーを愛し、その他たくさんのものを愛してね。もうおわかりでしょう。愛の裏側には憎悪などない。あるのはただ不安、永劫(えいごう)に癒(いや)されぬ人間の不安なのです」

 隙間のない早口で一気に喋りおえるとドロマールは再び疲労しきったような無表情にかえり、顕微鏡のライトをカチリとつけ、標本をのぞきはじめた。》

                                                                       (了)

        *****引用または参考文献*****

加賀乙彦『フランドルの冬』(新潮文庫

加賀乙彦『フランドルの冬』(加賀乙彦「『フランドルの冬』新しいあとがき」)(小学館

*『新潮現代文学76 加賀乙彦』(平岡篤頼「解説」所収)(新潮社)

加賀乙彦『頭医者留学記』(毎日新聞

加賀乙彦『宣告』(新潮文庫

加賀乙彦『自伝』(ホーム社

加賀乙彦『死刑囚の有限と無期囚の無限 ―精神科医・作家の死刑廃止論』(コールサック社)

加賀乙彦『死刑囚の記録』(中公新書

*小木(こぎ)貞孝(さだたか)『フランスの妄想研究』(金剛出版)

ミシェル・フーコー『狂気の歴史』(新潮社)

*『ミシェル・フーコー講義集成4 精神医学の権力(コレージュ・ド・フランス講義1973-74)』慎改康之訳(筑摩書房

*『ミシェル・フーコー講義集成5 異常者たち(コレージュ・ド・フランス講義1974-75)慎改康之訳(筑摩書房

ミシェル・フーコー精神疾患と心理学』(みすず書房

ミシェル・フーコー『監獄の誕生――監視と処罰』田村淑訳(新潮社)

*『神谷美恵子コレクション 本、そして人』(「加賀乙彦『フランドルの冬』書評」所収)(みすず書房

*アンリ・エー『精神医学とは何か―反精神医学への反論』藤元登四郎他訳(創造出版)

*佐々木滋子『狂気と権力 フーコーの精神医学批判』(水声社

ジャック・ラカン『人格との関係からみた パラノイア性精神病』宮本忠雄、関忠盛訳(朝日出版社

*モーリス・メルロ=ポンティ『知覚の現象学竹内芳郎、小木貞孝、他訳(みすず書房

ハイデガー存在と時間熊野純彦訳(岩波文庫

ヤスパース精神病理学原論』西丸四方訳(みすず書房

サルトル『嘔吐』鈴木道彦訳(人文書院

文学批評/オペラ批評 『マクベス』と『ムツェンスク郡のマクベス夫人』の「二枚舌」(資料メモ) 

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 シェイクスピアマクベス』は「二枚舌」の観点から読み解くことが出来る(残念ながら、ヴェルディによるオペラ『マクベス』には「二枚舌」の台詞で有名な「門番」の場面はないが、「二枚舌」はなにも門番の場面ばかりではなく、意味的には、「魔女」の言説をはじめ、至るところに散りばめられている)。

 シェイクスピア自身の生き方もまた、カトリシズムに関して「二枚舌」であったかもしれない。

 ショスタコーヴィチのオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』もまた「二枚舌」として解釈しうる。

 ショスタコーヴィチの生涯全体が、スターリン体制下およびスターリン死後に共産党員となってからさえも、「二枚舌」のもとにあった。

 ここにおいて、「二枚舌」は必ずしも「悪」「嘘つき」の側に一方的に立つものではない。「二枚舌」でなければ、表現することはおろか、生き延びることさえ困難な、苛酷な政治体制、統治があった。

 下記の資料(引用文)で理解できるだろう。 

 

シェイクスピアの「二枚舌」――『マクベス』>

 

<玉泉八州男「シェイクスピアとカトリシズム」から>

《それ以上に問題なのは、この文書(筆者註:父親(John)の署名になる六葉綴りのパンフレット、信仰遺言書)がたとえ贋作だったとしても、それでSh.(筆者註:「Shakespeareシェイクスピア」の略)家はカトリックでなかったと結論づけるわけにはいかないという点にある。まず父親。彼は一五九二年九月二五日に「負債に対する法的措置の執行を恐れて教会に現われなかった」九名の国教忌避者(recusants)の中に名を連ねている。そして、「法的措置」云々は、彼らカトリック教徒の礼拝不参加のありふれた口実の一つであった。母メアリーは、一一七八年の土地台帳作成以前に遡るアーデン一族の一員。一五八三年愚かな女婿による女王暗殺事件(サマーヴィル事件)発覚のため、遠縁に当たるであろうパーク・ホールのアーデン家当主とサマーヴィルの首は、Sh. が出奔した当時も、ロンドン橋の上に曝されていた(Sh. の父ジョンが屋根の梁の間に信仰遺言書を隠したのも、この事件で迫害の波が及ぶのを恐れての措置と、従来は考えられてきた)。娘のスザンナも一六〇六年春復活祭の聖餐をうけなかった二一名のリストに登場する。彼の文法学校の先生たちもカトリックだった(1571−74, Simon Hunt ; 75−79, Thomas Jenkins ; 80−81, John Cottam)。そして彼自身については、死後五〇年以上経過した一七世紀末に、オックスフォード大学コーパス・クリスティ学寮つきの牧師デイヴィス(R. Davies)が、覚え書に彼はカトリックとして死んだ(He dyed a papist)と記している。そういう訳で、今日の時点では父のみならずSh. もカトリックだったと考える方が説得力があるばかりか、作品の理解もますように思われる。以下はその見地に立った、Sh. への一つのアプローチである。》

《まず一人の劇作家を扱うのに、どうして宗教的立場をそんなに重視せねばならないのか、といった素朴な疑問から入るとしよう。今日のわれわれ、とくに日本人にとって、宗教は個人的信条でしかないのだが、Sh. 当時それは公的行動全体に及ぶ大問題であった。しかも、信仰の領土帰属主義(cujus regio, ejus religio)が一般的な中で、英国国教会以外を信奉することは、多大の勇気を要し、犠牲を伴った。一六〇五年一一月五日の火薬陰謀事件の発覚がきっかけでカトリック弾圧が頂点に達するとはいえ、エリザベス朝からすでに亡命中のスコットランド女王メアリを担いでの再カトリック化計画との絡みで、臣従の誓い(the Oath of Allegiance)を行い、国教会流の礼拝をうけることが公的生活を営む最低の前提だった。不履行者は当時の文法学校教師の年収に当たる二〇ポンドを毎月科料として支払わねばならない。それを恐れて、日曜礼拝に形だけ参列する「教会カトリック(Church Papist)」が出現する所以だろう。》

《纏めていえば、「非国民」の身を終始自覚し、ユグノーや娼婦の間に身を潜め、他人との関わりをできる限り避けて非人情を貫き、蓄財に専念する。これが二五年に及ぶ Sh. のロンドンでの(単身赴任?)生活の基本だったのではあるまいか。彼はよく「温厚なシェイクスピア(gentle Sh.)」といわれるが、それは非人情を隠す愛想のよさの仮面がいつしかくっついて離れない直面(ひためん)に変わったせいだったかもしれない。

  傍観者に終始し、コミットしない、こうした生き方は、何ごとも深追いしない作劇術に繋がってゆく。キーツJohn Keats)は、Sh. が「ことをなす人間(a Man of Achievement)」らしく「消極的能力(Negative Capability)」を大量にもっていたと評したが、「不確定、神秘、疑惑の状態、つまり曖昧なままにすべてを留める能力」こそ、カトリック的生き方の芸術的昇華といってよいだろう。》

《しかも、この曖昧さはカトリック的心情の昇華に留まらず、カトリック的処世術の演劇的利用ととれる時すらある。中でも顕著なのは、二枚舌(equivocation)と呼ばれる詭弁術。古来あったこの言語表現が積極的に悪用されるようになったのは、イギリスではカトリック詮議が本格化した一五八〇年代サウスウェルの取調べからといわれている。どういうものか、一、二例をあげると、‘Are you a priest?’ と問われると、‘No, I am not.’ その心は‘not an Apollo’s priest at Delphos’ の意。‘Have you ever been beyond the seas?’ に対しては‘I have never been beyond the Indian seas’ と、これまた見当外れな答えをする。これが世間的に有名になったのは、火薬陰謀事件発覚後のイエズス会の大立者ガーネット(Henry Garnet)の詮議を巡って、当局が一六〇六年三月裁判終了後、五月までにその模様をパンフレットにして全土に配り、反イエズス会キャンペーンを実施してからのことだ。

  この当局の動きにSh. も呼応した。事件直後に書かれたであろう『マクベス(Macbeth)』(1606)の「門番の場」に早速地獄堕ちの「二枚舌」を登場させる。それだけではない。バーナムの森(Great Birnam wood)がダンシネインの丘(Duncinane hill)めがけて進軍してこなければ、滅びることはないと「第三の幻影」に予言させ、「女の腹から生まれた者に負けるはずがない」と「第二の幻影」に いわせておいて(IV. i)、枝をかざし(て森とみせかけ)た兵士を進軍させ、帝王切開で生まれたマクダフ(Macduff)と戦わせてマクベスを滅ぼす。つまり、筋の展開にも巧みに二枚舌を絡ませている。

 だが、二枚舌は『マクベス』が有名とはいえ、実はそこがSh. における初出ではない。OED が悪しき意味での用例の初出年とする一五九九年前後に書かれた『ハムレット』の五幕一場墓掘りの場のハムレットと墓掘りのかけ合いにすでに現われていた。》

《それを確認した後で『マクベス』に改めて眼を向けた時に気付くのは、二枚舌というカトリック的処世術への距離の置き方だ。『マクベス』は、曖昧さに賭けてことに及んだものの、王国の未来の支配者が誰なのか判然としない状態に耐えきれず、はっきりした見通しをえようとして魔女の二枚舌にひっかかって敗北してゆく男の悲劇。魔女が「不透明さそのものの具現化(the embodiment of the principle of opacity)」であり、二枚舌が曖昧さというカトリック的処世術を極限化したものなら、見方によっては劇自体がカトリックの自縄自縛の物語といった趣をもつ。ガーネットは裁判で二枚舌と虚偽の相違を力説したといわれるが、劇では「二枚舌」は虚偽で地獄堕ちに値するという(カトリックらしからぬ)論理が当然の前提になっている。》

《Sh. は、己れの志操と関わりなく、国王一座の座付作家としての義務の念から「安心を売る集団的儀式(a collective ritual of reassurance)」を執り行っているのだろうか。九死に一生をえた国王ジェイムズの無事を、バンクォーの子孫たるその家系の繁栄と重ねて寿ぐ「追従の劇(a piece of flattery)」をものする絶好の機会と捉えて。それとも、事件関係者一三人中六人がストラットフォードという(当局からみれば)ミッドランドの 「死角」 周辺の出身者であり、ケイツビーをはじめ Sh. と面識のあった人物がいたとすれば、火の粉がふりかからぬよう必死に防いでいただけなのか。何しろ、『マクベス』執筆の年の春聖餐を受けなかった国教忌避者たる娘を、「新教徒としての信任状」が必要と察知すれば、翌七年「非の打ちどころのない新教徒」と妻せる父親だ。あるいは、世紀の変わり目頃から、新教徒への道を歩み始めていたのだろうか。

  この最後の点との絡みを的確に捉えるのは難しいが、父ジョンが死ぬ一六〇一年頃から演劇人Sh. にも変化が訪れていた。「二枚舌」は「あるのにないふりをすること(dissimulation)」で、バーナムの森が動く「ないのにあるふりをすること(simulation)」とは厳密にいえば違うが、両者を纏めて「ふり(counterfeit)」と捉えれば、その語は一六世紀の末までは肯定的な文脈を残していた。》

《問題劇から晩年の悲劇で新教徒への道を歩み始めていたようにみえて、最晩年の最晩年のロマンス劇では奇跡や神の出現がみられるカトリック的世界へ再び回帰してゆく。要するに、徹頭徹尾「二重意識」「消極的能力」の持主だったということだ。そして、見方によっては、そこにこそ彼の劇作家として最大の存在事由があったといえなくはない。》

  

<ジェイムズ・シャピロ『『リア王』の時代 一六〇六年のショイクスピア』から>

《一六〇六年の春にシェイクスピアの『マクベス』の初演(訳者(河合祥一郎)註:『マクベス』の初演は不詳であり、これは推定。記録に残る『マクベス』上演は、一六一一年に医者サイモン・フォーマンが観劇を記録したもの)を観た観客は、劇の核となる場面、すなわちすべての元凶となるダンカン王殺しの場を見られなかったことに驚いたかもしれない。殺人の現場を演じないというのは異例の判断である。観客もそれを見たいと思っていただろうし、シェイクスピアのそれまでの悲劇では見せていたのだから。(中略)

 ダンカン王が舞台裏で殺された直後、殺害の場がなかった埋め合わせに、シェイクスピア作品のなかで最も場違いな場面がやってくる。あまりにも変わった場面なので、サミュエル・テイラー・コールリッジら初期の批評家たちは、「大衆を喜ばせるために誰かほかの人が書いたのではないか」と疑ったほどだ。二日酔いで、くだらぬことをよくしゃべる門番が、城の門を叩く音を聞いて訪問客を迎え入れる自分の仕事を果たそうと、ゆっくりと音に反応する。この役は恐らく初演時に、劇団の賢い喜劇役者ロバート・アーミンが演じて評判をとったのだろう。アーミンのためにシェイクスピアはつい最近『リア王』の道化役を書いたばかりだ。門を叩く音は、門番の登場前から始まる。最初にそれを聞くのはマクベスだ。「何だ、あの音は? どうしちまったんだ、俺は、ちょっとした音にもびくつくのか?」(第二幕第二場六一~六二行)とマクベスは言う。ちょうどマクベス夫人が舞台裏の寝室で眠っている護衛たちにダンカンの血をなすりつけているときだ。戻ってきたマクベス夫人が舞台裏の寝室で眠っている護衛たちにダンカンの血をなすりつけているときだ。戻ってきたマクベス夫人も、音を聞いて夫に言う。「南の門を叩く音が。お部屋に戻りましょ」(第二幕第二場六〇~七〇行)。音は執拗に再び聞こえて、夫婦は急ぎ退場する。

 門番の場をシェイクスピアが書いたかどうかをコールリッジが問題視した数年後、トマス・ドゥ・クィンシーが「『マクベス』の城門のノックについて」という見事な論文で、この場面を擁護した。「別の世界が入りこんできており、人を殺したマクベス夫妻は人間界の外へ、人間的目的や人間的欲望の領域外へ連れ出された。夫妻は姿も変わり、マクベス夫人は女でなくなり(・・・・・・)、マクベスは自分が女から生まれたことを忘れ、二人とも悪魔さながらのイメージである。悪魔の世界が忽然と現れたのだ」と、ドゥ・クィンシーは論じる(訳者註:ドゥ・クィンシーの論の要点は、「極度の緊張状態や偉大なる人物の死などに伴う厳粛な沈黙が破れるとき、中断された生命が蘇り、血が通い出して日常性が戻って来る、それこそが沈黙を破る門を叩く音の効果なのだ」というもの。(中略)シャピロはドゥ・クィンシーの論旨を汲まず、地獄の門番という「見立て」によって悪魔的なるものが表象されるとしている)。シェイクスピアは悪魔的なものに安易な説明をつけず、マクベス夫妻がこれから経験し、スコットランドに味わわせることを生き地獄としてイメージさせている。そのために、門番に自らを「地獄の門番」(第二幕第三場二行)と想像させるのだ。中世イングランドにあった今ではほとんど忘れかけられた聖史劇のお決まりの登場人物である。そんな発想をすることで、この劇の最も実際的な場面において、地獄を呼び出すという行為を見せてくれているのである。シェイクスピアは、『リア王』でもそうしたように、悪魔を出すとどうしても強くなってしまう道徳色を回避しつつ、超自然なるものを呼び起こしている。(中略)

 門番は次に、地獄にまた誰かやってきたと想像する。名前のない「二枚舌野郎」だ。「ドン、ドン。誰だ、悪魔の名にかけて答えろ。いよっ、こいつだな、言い逃れをする野郎は。こうも誓えば、ああも誓う、神様のためなんて言って謀叛を犯しやがって、神様には二枚舌は通用しなかったわけだ。おう、入れ、二枚舌野郎」(第二幕第三場七~一一行)。まるでシェイクスピアは、その春流行っていたジョーク――つまり、謀叛人のガーネットが「処刑台で二枚舌を使うだろう」というジョーク――を聞き及んでいたかのようだ。それをさらにひとひねりして、イエズス会士が二枚舌を使ってうまいこと天国へ行こうとして失敗し、とうとう地獄にやってきてしまったかのように観客に想像させたのである。

 関連は、そればかりではない。門番は、最後に登場したマクダフに対して、なぜ門を開けるのにこんなに時間がかかったのかを二枚舌を使い続けながら説明する。「はっ。二番鳥が鳴くまで飲んでおりました。酒は、三つのことを惹き起こしなすんで」(第二幕第三場二三~二四行)。マクダフが挑発に乗って、「何だ、その、酒が惹き起こす三つのことっていうのは?」と尋ねると、門番は答える。

    はい、鼻が赤くなること、眠ること、それに小便であります。女とやりたいっ

て気にもさせますが、萎えさせもします。欲望を刺激しながら実行はできないようにする。それゆえ、大酒は、色事に二枚舌を使うと言えます。その気にさせて、だめにする。むらむらさせて、ふにゃっとさせる。突っ張っといて、がっかりさせる。立たせておいて、立たなくさせる。結論としまして、二枚舌で眠らせ、よう、この嘘つき野郎、よう、よう、と用を足して、しゃーっと出て行きます。(第二幕第三場二七~三五行)

 好色、飲酒、二枚舌についての冗談は、さらに、二枚舌を使うガーネットの深酒と有名な女遊びへの当てこすりとなっている(ソールズベリー伯でさえ、このことでガーネットをからかわずにいられなかった)。(中略)

 この劇における最も重大な曖昧表現は、マクベスとバンクォーが最初に魔女たち――実は「魔女」とは一度も呼ばれておらず、「この世のものでない姉妹(運命の三姉妹)(Weird or Weyard Sisters)」とのみ言及されているのだが――と出会う場面で起こる。最初の魔女がマクベスを「グラームズの領主」と呼び、二人目が「コーダーの領主」と呼びかけ、三人目が「やがて王となるお方」と呼ぶ。それからバンクォーに「王を生みはするが、ご自身は王にはならぬお方」と言う(第一幕第三場四九~六七行)。どれも嘘ではないが、重要な情報を告げていないという点で二枚舌になっている。つまり、王になるためには王を殺さねばならないと告げていないし、バンクォーには、生きて予言の成就を見ることはないと告げていない。二枚舌のせいで、『マクベス』の対話を理解するのは精神的に疲れることになる。観客は――二枚舌を使うイエズス会士と話をする役人同様に――言葉どおりの意味なのか、そうでないなら、心理保留によって隠されていることは何なのかを理解しようと努めなければならない。しかし、二枚舌を使って言葉にされなかったものがあるとすれば何なのか、決してわかることはない。「きれいは汚い……」(第一幕第一場一一行)という一見矛盾する表現の意味がはっきりするのは、「嘘の外面を見抜きさえすれば」という条件をクリアしてその答えが得られたときのみなのだ。

 二枚舌(曖昧表現)はこの劇の至るところにある。マクベスが妻に手紙を書くとき、バンクォーの末裔が王となるという予言は言わずにいる。ダンカンの護衛たちを殺したことの言い訳をするときも、二枚舌を使っている。「誰がじっとしていられよう、愛する心があるのなら、そしてその心に愛を示す勇気があるのなら?」(第二幕第三場一一八~二〇行)(訳者註:表の意味は「ダンカン王を愛する心があるなら、その王を殺した犯人を目の前にして誰がじっとしていられよう」であるが、マクベスが心の中で言っているのは「妻を愛する心があるなら、決行するしかない」という意味だと解釈される。)。心理保留がマクベスの第二の天性となっているのだ。マクベスは、バンクォーとフリーアンスを殺すために放った二人組の殺し屋たちに、三人目が加わることをわざと言わない。そして、夫人がマクベスに「何のこと?」と尋ねるときも、「かわいいおまえは知らずともよい」(第三幕第二場四八行)と言う。破滅するバンクォーが、神こそが人の心を読むことができ、隠された陰謀を暴くことができると言って、心理保留が実は虚偽にすぎないことを鋭く指摘しているのは皮肉である。

   私としては、大いなる神の御手にわが身をゆだね、

   そこから、隠された陰謀を暴き、

   謀叛の悪意と戦うつもりだ。 (第二幕第三場一三二~三四行)

 二枚舌を使うのがマクベスの習慣になればなるほど、マクベスは魔女から更なる保証を求めようとし、魔女たちはマクベスの希望につけ込み、なおも二枚舌を重ねて、悪霊を呼び出す。悪霊は「女から生まれた者にマクベスは倒せぬ」のだから「大胆に血を流せ、憶するな」と命じ、「広大なバーナムの森が」ダンシネーンの丘に向かってくるまではマクベスは決して滅びぬと告げる(第四幕第一場七九~八一、九三行)。バーナムの森から切り取られた枝をかざして軍隊がダンシネーンの丘を目指すのを信じがたい思いで見守るマクベスは、「真実のように嘘をつく悪魔の二枚舌」(第五幕第五場四三~四四行)の破壊的な結果を身にしみて知るのである。最後に、マクダフが女から生まれていない――帝王切開だったので、「母の腹から月足らずで引きずり出された」(第五幕第八場一六行)――と知ると、マクベスはついに二枚舌にやられたと考える。

   あの嘘つきの悪魔など、もう信じまい。

   二重の意味で翻弄し、

   耳に入れた約束の言葉は守りながら、

   その期待を裏切りやがる。 (第五幕第八場一九~二二行)

 観客はマクベスとともに絶望のどん底へ突き落される。地上の地獄だ。「もう日の光を見るのはうんざりだ。この世の秩序など崩壊してしまえ」(第五幕第五場四九~五〇行)と、マクベスは言う。シェイクスピアにおけるたいていの悲劇の主人公と違って、マクベスには死に際の悟りの台詞はない。最後に聴く内省の弁は、今引用した、二枚舌の働きについてようやく得た洞察の言葉である。

 二枚舌はマクベス夫人をも破滅させる。自分がダンカン殺しに関与したことを忘れようとし、また夫が関与したことも忘れようとして、夫人は二枚舌に熟達する。マクベスがバンクォーの亡霊を見て怯える宴会の場がよい例だ。夫人は、客たちに飄々と二枚舌を使ってこう言う。

   主人はよくこうなるのです。

   若い頃からそうでした。どうぞ、座ったまま。

   発作は一時的なもの。すぐにまた

   よくなります。 (第三幕第四場五三~五六行)

「よくなります」の「よい(well)」は、このあと劇の最後まで二十回ほど繰り返されるが、「よい」とは何がよいのか曖昧な表現だ。口にしたことと、二枚舌を使って言わずにおいたことの違いを完璧に例示するかのように、正気を失った夢遊病マクベス夫人は、あからさまに言えない「隠され、知らぬふりをされているもの」を書きつけ、それを読み直さずにはいられない。「ベッドから起きられて、ナイトガウンをお羽織りになり、戸棚の鍵を開け、紙を取り出し、折り畳み、何か書きつけ、読んでから封をし、またベッドにお戻りになりますが、そのあいだじゅうずっとお眠りになったままなのです」(第五幕第一場四~七行)と侍女は報告する。》

ハムレットが二枚舌のことを政治色なしで言及できた時代は終わっていた。一六〇六年初頭までに、二枚舌がいったん根付いてしまうと、「あっというまに、信念も真実も信用もなくなる」という恐怖はあまりにも現実的なものとなっていた。

 マクベスにおけるシェイクスピアの最も強烈な洞察は、そのような悪弊の広まった状況では――中世スコットランドであろうが、ジェイムズ朝のロンドンであろうが――悪のみならず善もまた二枚舌を使うと見抜いていることだ。故郷ストラットフォード・アポン・エイヴォンのみならずロンドンでも、火薬陰謀事件のあとでは疑いの文化が根付き、もはや元には戻らなかった。『マクベス』の後半では、最も尊敬されるべき人物たちでさえ、誓っておいて嘘をつき、道徳を地に落としている。たとえば、気高く見えるマクダフは、スコットランドから逃げ、家族を置き去りにしてしまう。妻が息子に、父親のマクダフは「誓いをたてて、嘘をつく」「謀叛人」でると話す場面をどのように解釈したらよいのだろうか。(中略)

 マクダフ自身もやがて二枚舌の犠牲となる。口の重いロス卿が、マクダフの妻子が殺されたことを伝えなければならなくなって、意味深い「安らか」という語を――騙すつもりではないのだが――曖昧に使うのである。(中略)

 十一月五日に実際に破壊的攻撃があったわけではないものの、人の心が破壊され、取り返しのつかぬことになったのだ。その変化が『マクベス』に反映されている。一気呵成に書き上げようという勢いがあったことを考えれば、終わり方がすっきりしないのも説明がつく。慌ただしく体制が回復されるものの、どうも頼りなくしっかりしていない。現代の演出家のほとんどが、演劇でも映画でも、エンディングに手を入れたくなるのもしかたがない。二枚舌を封じ込めて、すっきりさせるために悪の根源は悪魔にあるとしてしまうのは、クックやダヴのような悪魔使いと発想と変わらない。マクダフが最後にマクベスの斬られた首を高く掲げて登場すると――再び舞台裏でのスコットランド王殺害であり、観客はそれを目にせず、想像するだけとなるわけだが――そうなると、多くの未回答の答えから観客の気は逸れてしまう。謀叛人の二枚舌野郎の首が一旦、棒の先に掲げられたら、悪はやっつけられたということなのか。「この死んだ人殺しと悪魔のようなその妃」(第五幕第八場七十行)とけなせばよいだけなのか。もしバンクォーが、フリーアンスの血筋によって代々の王の父となるのであれば、どうして『マクベス』はマルカムが王位に就いたところで終わるのか。バンクォーの末裔がマクベスに代わってダンカン王の系譜を受け継ぎ、スコットランド王ジョイムズにまで至るまで、どんなさらなる流血があり、悪魔的な力が介入するのか。》

(オペラ、ヴェルディマクベス』には「門番」による「二枚舌野郎」の場面はない)

 

 ショスタコーヴィチの「二枚舌」――『ムツェンスク郡のマクベス夫人』>

 

亀山郁夫『磔のロシア スターリンと芸術家たち』「テロルと二枚舌 ――ショスタコーヴィチの闘い」と『ショスタコーヴィチ 引き裂かれた栄光』から>

《一九三〇年代のソビエトに澎湃(ほうはい)と湧き起こった文化革命を見まもるショスタコーヴィチの真意をさぐるうえで最大の鍵となるのは、彼が何よりも革命の子であり、革命の理念を引き受けるという素朴な信念から作曲家としてのスタートを切っている事実である。

 一九二六年にモスクワ音楽院に提出されたデヴュー作交響曲第一番は、抒情、アイロニー、暴力という、おもに三つの要素からなる彼の音楽の特質を浮きぼりにする、ある意味で原型的ともいうべき作品へみごとな仕上りをみせた。十月革命からほぼ十年、ネップ(新経済政策)下でのリベラルな気分を反映して、溢れるばかりの才気に満ちたその音楽には余分なおごりはいささかもなく、前衛かアカデミズムか、アイロニーか悲劇か、といった硬直した問いも、作品全体が放つ抒情的な煌めきのなかに渾然と溶け合っている。(中略)

 しかし、一九三〇年代が明けると、ショスタコーヴィチはもはや安閑とおのれの想像力に浸り、作曲に没頭することはできなかった。結婚その他、私生活面での大きな変化はさておき、当局による監視の目がたえず彼の身辺につきまとっていたからである。そうした抑圧的な状況を切りぬける手だては、この時代のすぐれた芸術家に共有された「二枚舌」(ないし「イソップの言語」)を徹底して鍛えあげることにしかなかった。作品の内部にみずからの真意をしまいこむ作業、簡単にいうなら、建前と本音の巧みな使い分けである。ショスタコーヴィチの直弟子で作曲家のウスペンスキーは、そうした「サバイバル」の手法をめぐって、「一歩後退二歩前進」という表現を用いている。この表現は一面でたしかに、スターリン時代のソビエト楽壇を生きぬいたショスタコーヴィチのみごとな処世術を言い当てている、かりに、ソビエト権力への譲歩や屈服を「後退」と決めつけるとしたら、それは大きな誤りであり、「後退」が果たして作曲家の不幸であったのか、というと必ずしもそうとは言いきれない。

 たとえば、一九三六年一月にスターリンによって「荒唐無稽(スンブール)」の一言が浴びせられるや、ショスタコーヴィチは、たちまちにして古典主義的な明晰さに回帰し、みずからの「本心」や「意図」を、その、高度にインターテクスチュアルな彩りのなかにしまいこんだ。他方、ショスタコーヴィチがお手のものとした、鮮烈かつ暴力的な音作りは、戦争、ファシズムの音楽的メタファーにいともたやすく転化させられ、検閲当局がお望みとあれば、同じイントネーションとリズムを用いて、底なしに楽天的な音楽を書くこともできた。ショスタコーヴィチにとって「後退」と呼ばれるモメントは、あるいは、自分を駆りたて、追いつめる原動力としても不可欠のものであったのである。(中略)

 だが、ショスタコーヴィチの音楽とは、むしろ「前進」も「後退」も含めたトータルとして理解すべき何かなのであり、「前進」のみに彼の音楽のポジティブな側面を聞きとるやり方は、全体主義下において芸術家が強いられた役割や、政治権力との相関性のなかではじめて意味をもつソビエト芸術の本来的特質をむしろ一方的にねじ曲げるものでしかない。ショスタコーヴィチ音楽の特質を考える際には、当然のことながら、スターリン主義という「所与」の条件を忘れてはならない。しかも彼が、プロ・ソビエト的な音楽を、たんなる「禊ぎ」として受け入れただけでなく、彼自身がそこに「蕩尽」の役割を担わせていたのであれば、なおさらのことである。早くして革命の洗礼を受けたショスタコーヴィチは、はじめから革命との、権力との、スターリン主義との対話をバネに作曲に励み、時には権力の要請に喜んで手を貸したこともある。全体主義の強大な抑圧のもとに生きる芸術家にとって、ベートーヴェンマーラー風の自己劇化の完遂は羨みの的となった。もとより、集団主義を国家イデオロギーの根幹にすえるソビエト権力が、芸術家のみに許される、そうした甘い特権を許容するはずもなかった。なぜならスターリン主義が芸術家に求めていたのは、あくまで、スターリンと同じ夢を見る力だったからである。》

 

 ここからは、亀山郁夫ショスタコーヴィチ 引き裂かれた栄光』を引く。

ショスタコーヴィチがオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』に着手したのは、一九三〇年十月のことで、時期的にはバレエ『黄金時代』の初演とほぼ重なっている。完成が一九三二年十二月であるから、約二年の歳月をかけたことになる。》

《舞台は、モスクワ郊外の富裕な商家イズマイロフ家。イズマイロフ家に嫁いで五年目になるカテリーナは、義理の父ボリスと夫ジノーヴィーとの生活に疲れ、辛い日々を送る。そんなある日、製粉所の堤防が壊れたため、夫のジノーヴィーが泊りがけで外出する。その夜、イズマイロフ家に新たに下男に入ったセルゲイがカテリーナの寝室を訪ね、二人は関係をもつ。だが、その事実はまもなく義理の父ボリスに知られるところとなり、事実の露顕を恐れたカテリーナはボリスを殺鼠剤入のキノコ料理で殺害する。その後も、カテリーナの寝室で逢瀬を楽しむ二人だが、カテリーナはボリスの亡霊に苦しめられ、狂気のきざしを示す。帰宅したジノーヴィーは、二人の不義の現場を押さえ、カテリーナに鞭打ちを浴びせるが、そのジノーヴィーをセルゲイが殺害する。やがて二人は結婚式を挙げるが、披露宴の最中、酔っ払って納屋に入りこんだ百姓がジノーヴィーの死体を発見し、警察に通報、二人は逮捕される。二人は、シベリア送りとなるが、すべてを失ったカテリーナにとってはいまや護送集団のなかで会ったセルゲイがすべてだった。だが、そのセルゲイは、同じ集団のなかの女囚人ソネートカに気を移していた。絶望し、復讐心にかられたカテリーナは、湖をわたる船の上からソネートカともども身投げする……。

 以上がオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』のおおよその筋だが、レスコフの原作とはいくつかディテールが異なっている。オペラの台本の執筆にあって、上演上の制約からいくつか変更が行なわれたと見るべきだろう。そもそもこのオペラのもつ扇情的な性格からして、とうてい子どもを舞台に載せるわけにはいかなかった。

 レスコフ原作のオペラ作曲へと向かったショスタコーヴィチは、当初、「女性に関する」ソヴィエト版『ニーベルングの指輪』を書きたいという意図を周囲にもらしている。ただしそれがどこまで本意であったかはわからず、たんなる口実にすぎなかった可能性もある。》

《『ムツェンスク郡のマクベス夫人』の初演は、一九三四年一月二十二日に、レニングラード・マールイ歌劇場で行われ、モスクワでは二日遅れて、ボリショイ劇場支部にあたるモスクワ劇場で初演された(モスクワ初演では、『ムツェンスク郡のマクベス夫人』ではなく『カテリーナ・イズマイロワ』のタイトルが採用された)。レニングラード初演の指揮をとったサモスードは、「一時代を築くオペラ」と絶賛し、これに類するオペラは、チャイコフスキーの『スペードの女王』を措いて他にない、とまで明言した(サモスードの念頭には、一九三五年に同じレニングラード・マールイ劇場が初演したメイエルホリドによる演出のオペラがあった)。

 ネミローヴィチ・ダンチェンコの演出によるモスクワ初演は、ショスタコーヴィチの解釈よりむしろレスコフの原作を優先させ、これを完全にリアルな悲劇として描くことをめざすもので、ひとりカテリーナへの上茶的な肩入れを避け、シェークスピアの「マクベス夫人」により近く、強烈な自我と個性を発散する女性像を浮かび上がらせることをねらいとしていたという。(中略)

 レニングラード、モスクワとも初演後の反響は上々だった。ショスタコーヴィチの親しい友人で、大の音楽通で知られた赤軍将校トゥハチェフスキー、モスクワ芸術座の創設者である演出家のスタニスラフスキー、作曲界の大御所ミャスコフスキーらもこぞって賞賛している。》

《一九三六年一月二十八日、共産党の機関紙『プラウダ』に発表された小さな論文が、ショスタコーヴィチを恐怖に陥れた。記事の見出しは「音楽ならざる荒唐無稽」となっており、当時、世界的に人気のあったオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』を徹底して批判する論文だった。批判の内容は大きく三つの点に絞られている。一に、その極左的な荒唐無稽(形式主義)、二に、「俗悪な」自然主義、そして三に、物語のモラルである。検閲当局のみならずスターリン自身の意志がそこに働いていることは、スターリンの語り口をまねた悪意ある文体そのものから容易にうかがい知ることができた。(中略)

 スターリンと二人の政治局員ジダーノフとミコヤンの二人がモスクワ劇場を訪ねたのは、正確に、一九三六年一月二十六日のことである。ソレルチンスキー宛の手紙によると、その夜、ショスタコーヴィチは、四幕が終った時点でカーテンコールを受け、舞台で拍手に応えたが、その時すでに、スターリンら一党の姿はなかったという。(中略)

プラウダ』批判は、音楽そのものの成り立ちから、芝居そのもののモラルにいたるほぼ全面否定に近いものであった。では、その批判の意図はどこにあったのか。初演以来、レニングラードですでに八十三回、モスクワで九十七回の公演を重ね、いまや世界の名だたるオペラハウスが次々とレパートリーに加えようとしていたソヴィエト・オペラの傑作に対して……。》

《思うに、一九三六年一月時点における上演禁止という事態は、ある意味で一つの長いプロセスの結果だったと見ることができる。ショスタコーヴィチは、すべての男性主人公たち、セルゲイ、ボリス、ジノーヴィーに、富農ならざる抑圧者の影を見ることで、このオペラを富農撲滅のスローガンに集約される農村集団化の流れに全面的にリンクさせられるとの読みを抱いていたのかもしれない。またこのオペラが、その、あからさまに性的な内容にもかかわらず広く聴衆に受け入れられ、圧倒的人気を博した背景には、そうした主題面での安心感があったと見られる。と同時に、そうした共通の理解があったからこそ、当局もまたショスタコーヴィチの書法上の独走を大目に見てきた一面もあったのではないか。この時期、そもそもカテリーナがオペラのヒロインとして許容されていたのは、彼女が、旧体制の破壊者、ナロードニキの革命家ソフィア・ペロフスカヤにもなぞらえられる存在であったからである。

 事実、「史的唯物論の原則」にのっとったテロリズムは、一九三四年十二月一日のキーロフ暗殺事件までは、それなりに容認され、公的な承認を得ることができた。しかし、この暗殺事件以後、状況はがらりと一変する。かりにこの事件が、スターリン自身による陰謀ではなかったと仮定するにせよ、キーロフ事件によって現実化した個人的テロルは容赦なく断罪されなくてはならなかった。つまりこのオペラは、キーロフ事件以後の複雑に込み入った政治状況のなかで、ことによると個人的なテロルへの容認、あるいはその正当化と見られる恐れがあったということである。キーロフ事件を演出したスターリンは、おそらくその「演出者」として事件の行方を特別の関心をもって注視しつづけていたにちがいない。そしてその結論の一つに、すべてトロツキー一派に帰せられるべき個人的なテロルに対する弾圧があった。端的に言うなら、『ムツェンスク郡のマクベス夫人』におけるカテリーナ(=ショスタコーヴィチ)は、いずれ、「トロツキスト」の汚名をこうむる可能性があったということである。》

《翻って、モスクワ劇場でこのオペラを観たスターリンの内心はどのようなものであったろうか。スターリン自身の立場に限りなく寄り添い、その内面に錨を落としていく時に、にわかに湧き起こってくる疑問についてここで率直に述べておこう。怒り心頭に発したスターリンが「スンブール(荒唐無稽)」と声を荒げた場面とは、たとえば、マクドナルドが指摘する第三幕七場の警察署(スターリンは警察署長を自分に対するパロディと感じたとマクドナルドはいう)でもなければ、第四幕九場の流刑囚のシーンでもなく、カテリーナによる義父殺し、さらには夫殺しでもなかったのではないか。ましてや、文字通り、「荒唐無稽」な「ポルノフォニー」でもなかったろう。親族殺人を扱った文学や演劇が、しばしば猟奇性を帯びるのは、無意識のタブーの縛りが大きいだけ、人々の意識下の思考や願望に強く働きかける作用をもつからである。

 スターリン自身の内面に親族殺人のモチーフが持ちうる影響力の強さを考えてみる。このオペラの初演におよそ一年半先だつ三二年十一月(十月革命十五周年のその日)に、スターリンは妻のナジェージダ・アリルーエワをピストル自殺で失っている。当時からこの事件については、スターリンが妻を銃殺したとの噂が広く巷間で囁かれていた。そればかりか、「毒殺」の噂は、一口話その他を介して革命の父レーニン(一九二四年)、軍事人民委員フルンゼ(一九二五年)、高名な精神病理学者ベフテーレフ(一九二七年)らの死とも関連づけられて人口に膾炙していた。

 映画や文学に対する関心の強さとはうらはらに、音楽に対するスターリンの知識はきわめて限られたものであった。舞台上のさまざまな約束事に縛られ、リアルな物語としてはなかなか感情移入しにくいオペラのジャンルが、スターリンの嗜好に合うものではなかったことは確かであり、たとえそれが大ヒット中の『ムツェンスク郡のマクベス夫人』であっても例外にはならなかったろう。このオペラがどれほど扇情的で「俗悪」なテーマを扱っているとはいえ、スターリンみずから率先して形式主義批判のキャンペーンの口火を切るほどの大きな口実を与えたはずはない。音楽的手法のレベルで言えば、この『ムツェンスク郡のマクベス夫人』よりも前作『鼻』のほうがはるかに先を行っていた。

 スターリンがこのオペラに驚愕したのは、むしろオペラをめぐる周縁的な事実、つまり、レニングラードの市民がこれほどまでこのオペラに熱狂しているという事実そのものではなかったろうか。ひょっとすると彼らの熱狂のうちに、スターリンはみずからの「過去」に対する不信を見てとったのではないか。さらにいうなら、義父「毒殺」のモチーフは、スターリンのなかで、党内の尊属殺人ともいうべきキーロフ暗殺への連想をいやおうなく呼び招くものとなったのではないか。それは、たとえば、ハムレットの「劇中劇」にも似た役割を帯びて……。そう、そこに現出したのはまさに、クローディアス=スターリンの同一化というまれなる事態であったのだ。》

 

 ここで「テロルと二枚舌 ――ショスタコーヴィチの闘い」に戻る。

スターリン権力による大テロルが猖獗をきわめる一九三七年、「荒唐無稽」批判によって窮地に立たされたショスタコーヴィチは、みすからのサバイバルを賭けて、当局の批判に答える義務があった。スターリンとしては、パステルナークが『イズヴェスチャ』紙(一九三六年一月)に発表した壮大なスターリン讃歌に匹敵する音楽を、あるいは、交響曲第二番、第三番に類する合唱つきの「党カンタータ」を期待することができた。他方、シュヴァルツが言うように、ショスタコーヴィチにかりに本気で譲歩する覚悟があったら、標題交響曲ないし歌入りの交響曲を書くことで、党への忠誠を示す方法も考えられたはずである。しかし、ショスタコーヴィチは、純粋な管弦楽曲、歌詞ぬきの交響曲で批判に応えることになった。そしてそこにはおそらく次の二つの理由があったと考えられる。

 一、当局ないしスターリンに対するあからさまな礼賛となることを避け(礼賛は、「二枚舌」ないし党へのへつらいの嫌疑を招く)、できれば、控えめなかたちでその忠誠心を呈示したかった。そうするほうが、スターリンの意に添うだろうとの読みがあった。

 二、歌詞を添えないことで、交響曲の内部に、さまざまな秘密の仕掛けを設けることができる。外部からの批判なり解釈なりに対してどのような対応も可能となる。》

《一九三七年一一月二一日、交響曲第五番の初演が終わり、フィルハーモニー大ホールのステージで必死に汗をぬぐうショスタコーヴィチは、みずからの「二枚舌」が見破られなかったことを喜んでいたのか。それとも、その汗は、「社会的要求」に応えることができたという安堵感の現われだったのか。

 交響曲第五番とは、社会主義リアリズムの音楽、あるいは勝利の音楽ではなく、スターリン権力のもつ悲劇性を、肯定と否定に揺れるアンビバレントな意識のなかで体現した音楽、あるいは、スターリン権力をめぐる、一種のメタ音楽だったといえるかもしれない。そして、逆説を恐れずにいうなら、そのアンビバレントこそ、この音楽のドラマを最高の明晰さに変えたものの正体でもあったにちがいない。いずれにせよ、この交響曲におけるショスタコーヴィチの意図とは、時代の悲劇性をスターリンと共有することにあった。だが、実際にこの曲の初演に接したレニングラードの聴衆はちがった。この音楽のただならぬ、「途方もない」響きに耳を傾けながら、彼らは、その音楽がはらむあまりに危険な意味を口にすることができなかった。彼らは、われらがショスタコーヴィチの行く末をひたすら案じ、トゥハチェフスキー(筆者註:親しかった赤軍元帥だが粛清死)の運命に思いを馳せていた。と同時に、音楽本来のディオニソス的な力に身をまかせ、一切の権力の抑圧からの解放をそこに感じていたのである。タラスキンによれば、一九三七年一一月二一日のフィルハーモニー大ホールに現出したのは、まぎれもなく一つの独立した「世論」だったということである。であるなら、この交響曲こそは、本来的な意味での、スターリン批判たりえたかもしれない。それゆえ、政治権力が集中するモスクワでの初演について、これを危険視する声があったのも不思議ではない。だが、権力側にしても、この交響曲のもつ力を、形式主義的、ブルジョワ的、悲観的として指弾するわけにはいかなかった。ショスタコーヴィチの反抗を反抗として認知することは、当局の威厳を根本から揺るがすものとなりかねなかったからだ。『ムツェンスク郡のマクベス夫人』に「荒唐無稽」の断を下したあと、ショスタコーヴィチに改めて批判の矢を浴びせ、つめ腹を切らせることは、むしろ当局の文化政策にとってこの上ない屈辱となるはずだった。しかも聴衆(初演は党関係者を集めて行われた)がこの交響曲に感じた素朴なシンパシーと当局(ないし権力)の理解のズレをこれ以上に意識させることは、むしろ当局みずからの見識を疑わせる恐れもあった。だから、この音楽のもつ光明とカタルシスの部分(シンバルによる昇華)にのみ注意を向けることが自らのメンツを保つ唯一のよすがとなったのではないか。第四楽章コーダに登場する三度の転調を、当局は、不幸中の幸いとみなし、その部分にすべての政治的な意味づけを集約させることで、事態の解決を図ろうとしたのだ。そのパッセージは、たしかに、国家の威光に対する讃歌のような響きがある。だが、ショスタコーヴィチはむろん権力の一方的な勝利など許すつもりはなかった。むしろ、権力それ自身が、おのれの安泰のために、この曖昧さのなかに、いうなれば、「公共の嘘」(タラスキン)のなかに自己避難を試みたのである。当局いやモスクワはみずからの権威保持のためにその危険性に目をつぶらざるをえなかった。ショスタコーヴィチの真の勝利はそこにあった。その勝利とは、限りない曖昧さのなかに一切の真意を隠しこむ一種の完全犯罪にも似るものであった。

 

ジジェク『オペラは二度死ぬ』から>

 

ショスタコーヴィチの『マクベス夫人』は、こうした性行為の写実的、音楽的描写においてさらに過激な方向に一歩踏み出している。この描写に関連して、ここでは『マクベス夫人』を『トリスタン』および『ばらの騎士』と比較してみるのもおもしろいだろう。ワーグナーにおいて顕著なのは、内的な緊張の発生と、それに対するオーガズム的な解決である(第二幕の終結部ではオペラ史上もっとも衝撃的な中断性交が起こり、それに対しフィナーレではオーガズム的な解決がもたらされる)。ショスタコーヴィチの『マクベス夫人』における特筆すべき、もっとも有名な要素は、第三場における、好色のかぎりをつくしたカテリーナとセルゲイの性的なやりとりをオーケストラによって生き生きと描写した部分である。つまりそれは、性行為特有のあえぎ声や激しい動きを「外面的」にミッキーマウス化すること(アニメのように、体の動きと音楽を正確に一致させること)であり、そこには、オーガズムのあとの、あのぐったりした感じを滑稽まじりに表現するトロンボーンの滑音も含まれる。『ばらの騎士』の、オーケストラによる短いプレリュード――これは歓喜に満ちあふれたセックスの場面の表現であり、突き上げるような動きの模倣、絶頂の瞬間をまねたホルンの歓声、快感に浸りきった余韻をともなっている――は、中間的な位置にある。つまりそれは、なまの性的な情念が気取ったロココ様式に包まれたかたちで噴出したものであり、その意味では、半分想像的で半分現実的というオペラの様態自体に即したものなのである。》

《『ばらの騎士』からショスタコーヴィチの『マクベス夫人』への移行は、洗練された貴族的な礼儀作法から粗野な現実への移行である。粗野な現実とは、われわれが悲しくも現実のことのなりゆきを知る場所であり、また人々が互いに打ちのめし合い、毒殺し合う――そして性交する――場所でもある。(中略)『マクベス夫人』における性行為の、オーケストラによる描写を聴く者は、同志スターリンの意見に同意したい誘惑に駆られる。このシーンに激怒しボリショイ劇場をあとにしたスターリンは、これが最善策と考えたのか、一九三六年一月二八日の『プラウダ』紙上に「音楽の代わりの荒唐無稽」という匿名の記事を載せるように命令した。この記事がいうように、「音楽は、ラブシーンをできるかぎり自然に表現するために、がやがや騒ぎ、はやし立て、息を切らし、あえぎ声をあげる」。プロコフィエフにいたっては、ショスタコーヴィチの『マクベス』の音楽を、アイロニーをこめてこう評した。それはモノフォニーからポリフォニーへの進歩における中間段階、つまり「ポルノフォニー」である、と。(中略)

 ショスタコーヴィチが、カテリーナによる二件の殺人を家父長制の圧力に苦しむ犠牲者のおこした正当な行為として救済していることは、実際のところ、見た目以上に不吉な側面をもっている。この正当化のために不可欠なのは、つまりこの殺人を納得のいくものにする唯一の方法は、犠牲者の品位を落とすこと、犠牲者を非人間的な存在にすることである(彼女の舅は好色な悪党として描かれ、一方その息子は、明確な人格造形を与えられていない無力な虚弱者である。後者の人格造形を省いたのは意図的である。というのも、彼のことを入念に描いたりすれば、殺人シーンで彼に対する同情が生まれかねないからだ)。これを補うかたちで、カテリーナにはいかなる倫理的なあいまいさも与えられていない(彼女が殺人を犯すとき、そこにはいささかの内面的葛藤もないし、殺人のあとにも良心の呵責は示されていない)。彼女は、家父長制の圧力に抗って個人の自由と尊厳を求める人物として描かれているわけではない。むしろ彼女は、性的な情念にすっかり身を任せた女、その情念を満たすうえで邪魔になるものはすべて容赦なく叩きつぶす覚悟をもった女として描かれている。この意味では、彼女もまた非人間化されているのだ。その結果、逆説的ではあるが、このオペラにおける唯一の人間的な要素は、集団的な要素、つまり最終章に「おける流刑者の、二つの哀歌を含めた合唱である。さらに、このオペラの歴史的文脈、クラーク[富農]に対する容赦ない粛清が行なわれた時期を強調したタラスキンは正しい。殺害される父とその息子は、クラークの二つの典型ではないのか。スターリンによって上演禁止令が出される前の、オペラの公演が大成功をおさめた最初の二年間において、公衆は、オペラの暴力的な内容がクラーク解体の暴力と共鳴しているということを読みとらずにすんだのではないか。したがって、このオペラが、残忍な反クラーク運動を正当化する機能をもった、とてつもなく不穏なスターリン的(・・・・・・)作品であったという事実に。だからタラスキンはこう結論する。『マクベス夫人』は「根本的に非人間的な芸術作品」である、と。「上演禁止にあたいするオペラがひとつあるとすれば、それはこの作品である。この作品の実際の上演禁止令が、実に不愉快な誤った理由から出されたという事実によっても、この評価は変わることはない」。(中略)彼の『マクベス夫人』が同じ理由から――つまり、セクシュアリティが率直に描かれているという理由だけでなく、この率直な描写は、クラーク的、家父長的な圧政者の殺害をあからさまに支持することと同様に、公的には否認されねばならないという理由からも――上演禁止処分を受けたのだとしたら、どうだろうか。このことは、『マクベス夫人』はクラークの大量殺戮、(スターリンの言葉でいえば)クラークという「階級の根絶」を正当化しているというタラスキンの批判がなぜ的はずれであるかを教えてくれる。そのオペラがもつ、あからさまな暴力的側面は、公的な場にあっては否認されねばならなかったのであり、それゆえに、その直接的な表現は容認されなかったのである。セックスと暴力の赤裸々な描写は、一枚のコインの表と裏だったのである。

 政治的テロに関するこのポイントこそ、レーニン主義スターリン主義を分かつギャップが位置づけられる場所である。》

                             (了)

       *****引用また参考文献*****

*玉泉八州男『北のヴィーナス イギリス中世・ルネサンス文学管見』(「シェイクスピアとカトリシズム」所収)(研究社)

*ジェイムズ・シャピロ『『リア王』の時代 一六〇六年のシェイクスピア河合祥一郎訳(白水社

*アントニア・フレイザー『信仰とテロリズム 1605年火薬陰謀事件』加藤弘和訳(慶應義塾大学出版会)

亀山郁夫『磔のロシア スターリンと芸術家たち』(「テロルと二枚舌 ――ショスタコーヴィチの闘い」所収)(岩波現代文庫

亀山郁夫ショスタコーヴィチ 引き裂かれた栄光』(岩波書店

スラヴォイ・ジジェク、ムラデン・ドラー『オペラは二度死ぬ』中山徹訳(青土社