文学批評 モーリヤック『テレーズ・デスケイルゥ』とデュラス『モデラート・カンタービレ』

 

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 フランソワ・モーリヤック『テレーズ・デスケイルゥ』とマルグリット・デュラスモデラート・カンタービレ』に、プルーストの末裔としての、匂いとイメージの照応をみる。イメージは匂いに誘われたかのように薄暗がりから引き出される。

 

プルースト失われた時を求めて』>

 プルースト失われた時を求めて』の『スワン家の方へ』から、有名な「匂い」の場面をいくつかとりあげるが、匂いは淫蕩なイメージ、背徳的な行為に語り手を導く。エロチックな官能性だけでなく、神聖な宗教的イメージの残酷な冒瀆といった要素もある。

 

《すると火が、まるでパイ生地を焼くように、食欲をそそる匂いをこんがりと焼きあげる。その匂いが部屋の空気を練り粉にし、朝の、陽光をあびた湿った冷気で醗酵させて「膨らませる」と、火はその匂いを幾重にも折りかさね、皺をつけ、膨らませたうえ、こんがりと焼きあげ、目には見えないが感知できる田舎のパイ、巨大な「ショーソン」をつくりあげる。このショーソンでは、戸棚や整理ダンスや枝葉模様の壁紙など外側の、中よりはるかにパリパリした、より繊細で、ずっと評判のいい、それでいて味気ない風味を味わうと、すぐに私は、いつも密かな渇望をいだきつつ、中央に位置する花柄のベッドカバーの、べとべとして、むっとする、消化しにくいフルーティーな匂いにもぐりこむのだ。》

 

《教会を出る段になって祭壇の前にひざまづいた私は、立ち上った拍子に、ふとサンザシからアーモンドのような、ほろ苦く甘い匂いが漏れてくるのを感じた。そのとき花の表面に、はるかに濃いブロンド色をした小さな箇所がいくつもあるのに気づき、その下にこの匂いが隠されているにちがいないと想いこんだ。ちょうど焼けこげた部分の下にフランジパーヌ(筆者註:アーモンドパウダーを加えたケーキ用クリーム)の味が、また茶褐色のそばかすの下にヴァントゥイユ嬢の頬の味が隠されているにちがいないと思うのと同じだ。サンザシは音もなくじっとしているのだが、この間歇的な匂いは、さながらその強烈な生命力のつぶやきであり、それでもって祭壇がうち震えるように感じられるのは、あたかも元気のいい感覚の訪れをうけて震える田園の生け垣を想わせる。そんな感覚が想いうかぶのも、赤茶けた雄蕊をいくつか見ていると、それが春の毒を、きょうは花に変身しているが昆虫の人を刺す力をいまだに宿しているように思えるからであった。》

 プルーストはサンザシの匂いを、控えめに「アーモンドのような、ほろ苦く甘い匂い」と書いているが、実際のサンザシは、精液にも似た強烈な性的臭気を発することから同性愛的な連想もこびりつく。

 

《その小道は、サンザシの匂いでぶんぶん唸っていた。生け垣のつくる形はさながらひとつづきの小礼拝堂で、積み上げられて仮祭壇をつくる散華(さんげ)のような花のむこうに隠れている。花の下には、太陽が、あたかもステンドグラスを通過してきたかのように床に光の格子縞を落としている。サンザシの香りは、まるで私が聖母マリアの祭壇の前にいるかと思えるほど、粘っこく限定された形に拡がり、花はといえば、これまた着飾って、うわの空といったようすで、めいめいが輝くばかりの雄蕊(おしべ)の花束を手にしている。(中略)

 私は、サンザシの前にとどまり、目には見えないがそこを動くことのない匂いを嗅ぎ、その匂いをわが思考に差し出したが、思考にはそれをどうすべきかは判然としなかった。》

 

《それはコンブレーの家のてっぺんの、アイリスの香るトイレに入り、なかば開いたガラス窓の真ん中に天守閣の塔だけが見えていたときのことで、私としては、探検を企てる旅人や、絶望のあまり自殺する人のような悲壮なためらいを胸に、気が遠くなりつつ、わが身のなかで未知の、死にいたるかと思える道をかきわけるようにたどり、とうとうカタツムリの這った跡のような一筋の天然の跡を、そばに垂れ下がってきたカシスの葉につけたのである。》

 自涜である。

 

失われた時を求めて』のドイツへの紹介者、翻訳者でもあったベンヤミンは、卓抜なプルースト論『プルーストのイメージ』の最後で、イメージと匂いを結びつけた。

《もし生理学的文体論というものがあれば、それはプルーストの創作行為の核心へと導いてくれるであろう。そうすれば、追想が嗅覚のなかに保存されるときの(匂いが追想のなかに保存されるときの、では断じてなく)特別な耐久性を知っている者は、匂いに対するプルーストの敏感さを偶然だと見なすわけにはいかなくなるであろう。たしかに、私たちが探究する追想の大部分は、視覚イメージとして私たちのまえに立ち現われる。そして無意志的記憶(メモワール・アンヴォロンテール)の形成する、自由に浮かびあがるイメージも、まだそのかなりの部分は、謎めいたかたちでしか姿を見せない孤立した視覚イメージである。しかしまさにそれゆえに、プルーストの文学の最も内奥にある心の震えに意識して身を委ねるためには、この無意志的想起(アインゲデンケン)の特殊な層、その最深層に自分を移し入れねばならない。そこでは追想のもろもろの要素は、もはや孤立して、イメージとしてではなく、イメージをもたず形ももたず、はっきり規定されてはいないが重みをもって、ある全体について、私たちに知らせてくれるのだ。ちょうど、網の重さが漁師に、どれほど漁獲があったか知らせてくれるように。匂い、それは失われた時(タン・ペルデュ)という海に網を投げる者が得る、重さの感覚である。そして彼の文章は、知性の肉体が行なう筋肉運動の総体であり、この漁獲を引きあげるときのあらゆる労苦、名状しがたい労苦を含んでいる。》

 

<モーリヤック『テレーズ・デスケイルゥ』>

 クリステヴァは『プルースト 感じられる時』でモーリヤックに言及している。

プルーストの後では、フランス文学は、ブルトンアラゴンとともに狂気の愛を讃え、サルトルとともに哲学となり、マルローとともに政治となり、ブランショヌーヴォー・ロマンミニマリズムとともにフローベールの遺産に群がり、セリーヌとともに、情動のプルースト的な探究と競い合いながらも、「フランス=イデッシュ語」的な彼の文体と彼の性欲を拒否する徴候を見せる。(中略)この作品の無道徳を強調するのは、モーリヤックのように地獄の悦楽に好奇心を抱くカトリックモラリストであり、またバタイユのような、神秘的な体験の探求者である。一方はそれを嘆き、他方はそれを賛美することになるわけだが、どちらも驚嘆していることに変わりない。》

 

 辻邦生は、《モーリアックの小説世界の魅力は、息づまるような心理的拷問室のなかで感じる眩暈に似ている。》と述べ、菅野昭正は、《地方性、風土性の枠の上に、一般性、普遍性の枠を重ねあわせようとする。》、《幼い頃から培われた信仰が、ジャンセニスムふうの峻厳なものであったこと》、《人間の原罪の深さと、人間の心の底に宿る不安を厳しく意識すること、人間の魂に内在する悪をみつめる神の視線を懼れること――そういう信仰の芽は幼いときにすでにしっかり植えつけられていたのである。人間の不安や悪の問題に正面から向かいあったパスカルボードレールドストエフスキーが、モーリヤックにとって大きな意味をもつ存在となったのも、むろん信仰との関連においてである。》、《人間の俗悪な面へむかう下降性と、高邁な面へむかう上昇性との交点で成りたっている。といっても、小説のなかで、表面的に大きな部分を占めているのが「悪魔へむかうもの」であり、人間の下降性であることはいうまでもない。》と解説している。

 

 モーリヤックは、『パリ・レヴュー』のインタビューで、《小説を書きはじめる前に、私は、自分の内部に、その場所、環境、色彩、匂いを、ふたたび生きいきとえがきだしてみるんです。自分の内面で、少年時代、青年時代の雰囲気をふたたび生活してみるのです。――私は自分の作中人物となり、その世界となるんですよ。》と語るとともに、小説の危機について言及した。

《小説の危機は、私の考えでは、形而上学的な性格のもので、人間に関するある種の概念と結びついています。心理小説に反対の見解は、本質的に、いまの世代のもっている人間に関する概念――それは一個の人間という全一像(・・・)を全面的に否認するものです。一個人に対するこのような変貌した見方は、かなり前からはじまっていました。プルーストの小説がそれを示しています。『スワン家の方』(これは完璧な小説です)と『見出された時』とのあいだで、私たちは作中人物が解体してしまうのを見ます。小説が進行するにつれて作中人物は消えさってゆくのです。(中略)『囚われの女』からあと、小説は、嫉妬についてのながい瞑想に入ってゆきます。アルベルティーヌはもはや肉体としては存在しません。小説の冒頭では存在していたように思われた人物――たとえばシャルリュスのような――は、彼らをむさぼりくう悪徳と一つにまじりあってしまうのです。

 小説の危機は、こういうわけで、形而上学的なものです。私たちより前の世代の人たちから、すでに、キリスト教的ではありませんでしたが、それでもその人たちは人間個人を信じており、それは魂を信ずるというのと同じことでした。私たちのめいめいが<魂>という言葉によって理解している内容は異なっています。しかしともかくある一定点のまわりに個人という全一像(・・・)がつくられているのです。

 神への信仰は多くの人々から失われています。しかしこの信仰が要求しているような価値が失われたのではありません。善は悪ではなく、悪は善ではなかったのです。小説の衰退はこの基本的な概念――善と悪の認知――の崩壊から由来しています。言語それ自体も、この良心への攻撃によって、意味内容の価値を失ってしまい、空虚になったのです。》

 

 モーリヤック『テレーズ・デスケイルゥ』で、夫を毒殺未遂した嫌疑から免訴となったテレーズは、家の名誉のため偽証し、事件を揉み消した夫ベルナールの待つ、ボルドー南部ランド地方の地のはてアルジュルーズまで、馬車と列車を乗り継ぐ。帰途の追想、イメージは匂いの官感とともにあらわれる。

《弁護士がドアをあけた。テレーズ・デスケイルゥは、裁判所の裏口に通じているこの廊下の中で、顔の上に霧を感じ、ふかぶかと、胸の奥に吸いこんだ。(中略)パン焼き場の匂(にお)いと霧の匂いは、テレーズにとって、もはや、小さな町の夕方の匂いというだけのものではなかった。ついに返してもらえた生活の匂いを、テレーズはそこに見つけた。眠りこんだ大地、草が生(お)いしげりしめっている大地の息吹(いぶ)きに、テレーズは眼をとじた。》

《古い馬車のあのかびくさい匂(にお)い、テレーズはそれが好きだった。まっくらな中でタバコをふかすのはきらいなので、タバコを忘れてきたことを、しまったとも思わず、あきらめた。(中略)もしも免訴にならずに、そのままだったら、判決の前夜にきっと襲われたに相違ない空想に、テレーズは身をまかせる。地震が起ってくれればいいという期待、テレーズは帽子をぬぎ、匂いの強い革に、しきりにゆれる鉛色の小さな顔を押しあて、車の動揺にからだをゆだねる。今夜というときまで、彼女は、追いつめられて、生きてきた。救いだされたいま、テレーズは自分の疲労の深さをはかる。くぼんだ頬(ほお)、とび出た頬骨、とがった唇(くちびる)、それから、ひろい、みごとな額、それが刑の宣告を受けた女の顔を作りだしている――そうだ、男たちはテレーズを有罪とは認定しなかったけれども――永久の孤独という刑の宣告を受けた女の顔を。》

《テレーズは、手さぐりで、駅長の家の庭を横ぎり、夜目には見えぬ菊の花の匂いをかいだ。一等室には誰もいなかった。それにいたとしても、かすかなあかりが一つ、テレーズの顔を照らすにもたりなかった。本を読むことはできない。だが、どんな物語がテレーズには色あせたものに見えないであろうか、おそろしい自分の生涯にくらべて? はずかしさのために、はげしい不安のために、悔恨のために、疲労のために、死ぬことがあるかもしれない、――しかし、たいくつのために死ぬことだけはないであろう。

 テレーズは車室の隅(すみ)に陣どり、目をつぶった。テレーズのような頭のいい女が、この悲劇を理解しうるものにすることがどうしてもできないとは、ありうることに思われるだろうか? そうだ、告白が終ると、ベルナールは彼女を抱き起すだろう。「平気でおいで、テレーズ、もう何も心配しなくてもいい。このアルジュルーズの邸(やしき)で、二人でいっしょに死を待とう。できてしまったことが、僕たち二人をへだてるなどということは、絶対にない。僕は喉(のど)がかわいた。お前自分で台所へ出てくれないか。オレンジエードを一杯こしらえておくれ。にごっていてもかまわない。一息に飲みほそう。その味が、昔の僕の朝のチョコレートを思いださせるとしても、それがなんだろう? ああ、お前おぼえているかい、あの吐き気のことを? お前のやさしい手が僕の頭をささえていてくれた。お前はその緑がかった液体から目をそらさなかった。僕の仮死状態はお前をおびえさせはしなかった。とはいえ、僕の足がなえて、無感覚になったことに、僕が気づいた晩、お前の顔のまっさおになったことといったら! 僕はがたがたふるえていた。お前おぼえているかい? それから、あのまぬけのドクトル・ペドメイが、口もきけないくらい驚いていたっけ、僕の体温がこんなに低くて、脈ばかりはやいのに……」

「ああ!」と、テレーズは考える。「あの人にはわからないだろう。すっかり初めから言いなおさなければならないだろう……」われわれの行為の始まりはどこにあるのか? われわれの運命は、われわれがこれを一つだけ切り離そうとすると、根をつけてひき抜くことのできない植物に似ている。テレーズが自分の子供のときまでさかのぼるだろうか? だが少女時代そのものが一つの終りである。到達点である。》

 菊の花の匂いに誘われたのか、テレーズの夢想、再会するベルナールへの虚しい願望のなかにオレンジエードが登場した。

 

 オレンジエードは『失われた時を求めて』に幾度もあらわれる。

 クリステヴァは『プルースト 感じられる時』で、

《あらゆる食物のなかで、変態を物質化しているもの――氷のように結晶と液体を兼ねているもの、かつて固体であったものを液体化したフルーツ・ジュースなど――は、逃げ去りやすい欲望のたどる気紛れな経路を表わすのにより適している。

 オデットとスワンのすでに消えかかっている関係を実体化しているオレンジエードもそうである。ヴァントゥイユの小楽節と並行して、オレンジエードは、スワンがフォルシュヴィルに抱く嫉妬、あるいはオデットが彼に与え始めている無関心を、きっぱりとした愛に変えるのに貢献している。その愛とは、語り手の不毛な分身alter egoであるユダヤ人の耽美家のかさついた精神を潤すことになる。チッポラの生き写しに対するものである。それ自体混合物であるオレンジエードはまた、となりにあるランプの光や間近にある肘掛椅子や愛する者の憂鬱な夢想をも吸い込んでいる。その味は広がっていく。拡張する感覚が、外と内、病的な辛辣さや意志的な甘美さを混ぜ合わせる場面全体を覆う。「そうした瞬間、彼女が彼らにオレンジエードをつくってやっている間に、突然、調整のきかない反射鏡が、はじめは壁のうえで一つの対象物のまわりにさ迷わせている幻想的な大きな蔭がやがて折り畳まれて、その対象そのもののうちに消えていくのと同じように、オデットについて彼が作り上げているあらゆる恐ろしい揺れ動く考えが消えていき、スワンが目の前にしている魅惑的な体に合流していくのであった。[……]スワンにそんなにも悲しく思われている自分の生活のあらゆる些細なものごとは、しかし、それが同時にオデットの生活の一部になっていたかもしれないのだから、もっとも親しみのあるものでさえ――このランプ、このオレンジエード、そんなにも夢を湛え、あれほどの欲望を物質化していたこの肘掛椅子のように――、どんなにあふれるほどの甘美さと神秘的な密度を持っていることになったことだろう」。》

 

 クリテヴァは言及していないが、最後の「見出された時」のゲルマント大公邸のパーティーで、オレンジエードとナプキンの感触は、熱いハーブティーに浸したマドレーヌの味覚と同じ作用を及ぼす。

《ずいぶん前からゲルマント大公に仕えている給仕頭が私のすがたを目にとめ、立食テーブルまで行かずにすむよう、私の通されていた書斎にまで、プチ・フールの盛り合わせと一杯のオレンジエードを持ってきてくれたので、私は渡されたナプキンで口を拭った。と、まもなく、あたかも『千夜一夜物語』の登場人物が、自分を遠くまで連れていってくれるが自分にしかすがたの見えない従順な守護神を出現させる儀式をわれ知らずやってのけたかのように、新たな紺碧の空の光景が目の前にあらわれた。》

 

 それは最初から始まっていた、むせるような息づまる匂いに閉ざされて。

《サン‐クレールのあの狭い教会の中での、息のつまるような婚礼の当日。婦人連のおしゃべりが、息の切れたオルガンの音をかき消し、彼女たちの香料と体臭が、ふりまかれる祭壇の香を圧したあの婚礼の式の当日、あの日こそ、テレーズが身の破滅を感じた日だった。彼女は夢遊病者のようにおり(・・)の中へはいった。》

 

 テレーズの追想の中、イタリア湖水地方への新婚旅行の帰路パリでのこと。

 アヌ(筆者註:ベルナールの妹で、結婚前の回想には同性愛的な雰囲気があった。アンヌとも表記される)からの三通の手紙には、ユダヤ人の血筋と言われるアゼヴェド家の、肺病やみと噂の息子ジャン・アゼヴェドとの恋と、家族の反対が書き連ねてある。

 硫黄の匂い、オーデコロンによる気付け。

《はやくも、この七月の朝、硫黄(いおう)の匂(にお)いのする暑さが、あたりを領していた。いぶった太陽が、バルコンのむこうに、死んだような家の正面をいっそうきたなく見せていた。ベルナールはテレーズのそばへ歩みよってきていた。しきりにこんなことを叫んだ。「いくらなんでも、ひどすぎる! アヌの奴、お前の友達だが、あんまりな奴だ。まるで妹の奴が……」》

 アヌからの手紙に、ダビデのごときジャン・アゼヴェドの写真が同封されていた。

《シャツの前が少しはだけている……「これが彼のいわゆる認められた最終限度の愛撫なの……」テレーズは目をあげ、鏡の中の自分の顔にびっくりした。食いしばっていた歯をゆるめ、唾(つば)をのみこむのに、すぐにはできなかった。オーデコロンで、こめかみを、額をこすってみた。「アヌがあの喜びを知っているって……じゃ、私は、どうなのだろう? え、私は? どうして、私が知らないというのか?」写真はテーブルの上におかれていた。そばにピンが一本光っていた……

「私があんなことをしたのだ。この私があんなことを……」くだり坂にかかったとみえて、速力のはやくなったゆれる汽車の中で、テレーズはくりかえす。「もう二年になる。あのホテルの部屋で、私はピンをとりあげ、この青年の写真の心臓の場所につきさした。――怒って夢中にさしたのではない。冷静に、まるであたりまえのことのようにしてさしたのだった、――便所の中へ、そうやって孔(あな)をあけた写真を捨てた。そして、水洗装置のひもをひいた」》

《彼は妻にむかって、金はかかるだけかかるだろうが、しかし、今度の旅行の最後の昼飯だから、どこかボワ(訳注 ブローニュの森)のレストランへ行くことにしよう、と言った。タクシーの中で、夫は、今度の解禁のときのために考えている計画のことを話題にした。バリヨンに言いつけて訓練させてあるあの犬をはやく使ってみたいというのだった。母親の手紙には、お灸(きゅう)のおかげで、牝馬(めうま)がもうびっこをひかなくなった、と書いてある……時刻が時刻だけに、このレストランには人影がまばらだった。ナイフやフォークの数がむやみに多いのが、いささか二人をおじけさせた。テレーズはあのときの匂(にお)いを思い出す。ゼラニウムと塩粕(しおかす)。ベルナールはライン産ブドウ酒を呑むのはこれが初めてだった。「こいつはうまい、しかし、さぞかし目の玉の飛び出るほど取るだろうな」が、毎日お祭り騒ぎをするわけではなし。ベルナールの肩がじゃまでテレーズは部屋の中を見渡すことができなかった。》

《テレーズは窓をあけた。この夜あけ前の時刻に、たった一台の砂利車ががらがら音をたてている石の深淵をのぞきこみながら、手紙をこまかくひきさいた。紙きれがひらひら舞い、下の方の階のバルコンの上にとまった。この若い人妻の吸いこんだ植物の匂いは、どこの田舎からこのアスファルトの砂漠まで運ばれてきたものであろう? 舗道の上にぐじゃぐじゃにつぶれている自分のからだが小さく見える。そのありさまをテレーズはまざまざと思いうかべた、――そして、そのまわりに、警官や群衆が右往左往する姿を……テレーズよ、自殺をするにはあまりに空想が多すぎるではないか。》

《どんなことをしても、アヌがドギレムとの結婚をはずしてはならない。部屋の中に立ちこめているチョコレートの匂いがテレーズをむかむかさせた。この軽い違和は、ほかのいくつかの徴候を確証するものだった。妊娠なのだ、もう。「はやいほうがかえっていいよ。すんでしまえば、それからはもう考えなくてすむ」とベルナールは言う。それから、彼は、尊敬の気持をこめて、数えきれぬ松の木のただ一人の支配者を胎内に宿している女を、つくづくながめた。》

 

 旅行から帰って来た。ゼラニウムの刺激的な匂い。

《庭で、テレーズは若い娘といっしょになった。去年の服がだぶだぶのいたましい娘。「どうだった?」仲よしのテレーズが近よってくるとすぐにアヌはこう叫んだ。庭の中の道の灰のような土、かわききってきしるような音をたてる草原、枯れたゼラニウムの匂(にお)い、それから、この八月の午後に、どんな植物よりもしおれているこの少女、どれ一つとして、テレーズの胸の底に、ありありと思いうかべられないものはない。》

 

《例のマノの大火事の当日だった。家じゅうの者が、大急ぎで昼飯を食べている食堂に、男たちがどやどやとはいってきた。火事はサン‐クレールからは非常に遠いらしいと断言する者もあり、早く警鐘を鳴らすべきだと言いはる者もあった。樹脂の焼ける匂(にお)いが、酷熱の日の空をみたし、太陽は薄ぎたなくよごれて見えた。テレーズはあのときのベルナールの姿をありありと見る。顔をわきにふりむけ、バリヨンの報告に聞きいっている姿を。毛だらけの大きな手がコップの上にかざされたまま、われを忘れ、ファウラー氏液の滴が水の中にしたたっていた。暑さにぼんやりしたテレーズが、薬の分量がいつもの倍だということを注意しようと思うひまもなく、夫は一息にコップの薬を飲みほしてしまった。みんな食卓を離れてしまっていた、――残ったのはテレーズ一人で、この悲劇には関心を持たず、いや、自分の悲劇以外のすべての悲劇に関心を持たなかったのであるが、ぼんやり、この騒ぎにはまるで赤の他人といった態度で、みずみずしいはたんきょう(・・・・・・)(筆者註:アーモンド)を割って食べていた。警鐘はまだ鳴らなかった。やっと、ベルナールが帰ってきた。「今度は、お前の勝ちだ。騒がなくてよかったよ。燃えているのはマノの方角だ……」彼はこうきいた。「僕は薬を飲んだっけね?」それから、返事も待たず、ふたたび、コップの中に垂らしはじめた。テレーズはめんどうくさくてだまっていた。むろん、疲れていたのである。この瞬間に、彼女は何を望んでいたろうか? 「初めから、だまっていようと思っていたなどということはありえない」

 とはいえ、その晩、吐いたり泣いたりして苦しんでいるベルナールの枕もとで、日中のできごと(・・・・)についてきいたドクトル・ペドメイにむかって、彼女は食卓で目撃したことを何一つ語らなかった。》

 

 ベルナールは世間体からテレーズをアルジュルーズに幽閉する。

《テレーズは、窓の前に立ちつくしていた。白い砂利が少し見え、柵(さく)で家畜の群れからまもられている菊の花の匂(にお)いが鼻をついた。そのむこうには、一かたまりの黒いかし(・・)の木が松林をかくしている。が、松脂(まつやに)の匂いが夜の闇(やみ)の中にいっぱい立ちこめている。目には見えぬが、すぐまぢかまで迫っている敵の軍勢といったかっこうで、松林が家をとりまいていることを、テレーズは知っている。この番人たち、その低い嘆きの声に彼女はじっと耳をすましているが、この番人たちは、彼女が幾冬をかさねて衰え、酷熱の日にあえぐのを、見るであろう。彼らはこの緩慢な窒息作用の目撃者となるであろう。》

 

《ベルナールは、その日は外出しなかった。テレーズはタバコをふかしていたが、吸殻を投げ捨てると、階段の踊り場の上に出てみた。夫が、階下の一室から別の部屋へ歩きまわっている足音が聞えた。パイプでくゆらすタバコの匂(にお)いが、部屋の中まで流れこんできて、テレーズのふかすブロンド・タバコの匂いを消した。彼女は昔の自分の生活の匂いを認めた。雨の季節の第一日……火の消えかかっているこのだんろの片隅(かたすみ)で、どれだけ、こうして、日を送らなければならないのだろうか?》

 

 アヌの婚礼を待ってベルナールはテレーズを放してくれる、パリの深い底へ沈めるように。

婚礼の直後、世間体を思ったベルナールはテレーズについてパリまで来てしまったが、はやく南部行きの汽車に乗ってランドに帰りたい。

《彼女は人間の流れをじっとながめた。彼女のからだがぶつかってゆくと、開き、まきこみ、ひっぱってゆくに相違ない、この生きたもののかたまり。もう何もすることはない。ベルナールはまた時計を出して見た。

 ――十一時十五分前か、これからホテルへよればちょうど……

 ――旅行をなさるのに暑すぎなくていいわね。

 ――それどころか、今夜あたり、自動車の中では、外套(がいとう)でも着なくては。

 テレーズは、頭の中で、彼が車を走らせてゆく街道を思いうかべた。冷たい風が自分の顔をなでるような気がした。沼の匂いのする風、樹脂の匂いのする木くず、草を焼く火、薄荷(はっか)、霧。彼女はベルナールをながめた。そして例の微笑をうかべた。昔、ランドの婦人たちに、「あの人を美しいと言いきるわけにはゆきませんよ。けれども、まあ、じつにすばらしい魅力ですね」と言わせた微笑を。もしもベルナールが「許す、いっしょにおいで……」と言っていたなら、彼女は立ちあがって、いっしょについていったであろう。が、一瞬、心をゆり動かされたことにいらだったベルナールは、それが過ぎるともう、なれない動作にたいする嫌悪(けんお)、毎日習慣的にかわしている言葉とは別の言葉にたいする反撥(はんぱつ)を、感じるばかりだった。ベルナールは、彼の馬車と同じように、「道幅に合わせて作られた」人間である。彼はわだち(・・・)を必要とする。》

 

 匂いの役割は、いつしか料理、飲み物に変化してゆくかに見えるが、クリステヴァプルーストにおいて、《口による快楽と、それが引き金になって現れる溢れんばかりの回想とを思い起こしてみるとよい。感覚能力の原初的(アルカイック)な投錨である飲み物と食べ物は、語り手と登場人物たちの欲望の中心的な場所を占めている。》といったことはなく、小説の舞台ランド地方のように不毛だ。

 保存食ともいえる油づけ(コンフィ)、冷製の肉は死体のようでもある。

 出てくるブドウ酒(ワイン)は、ボワでのライン産もそうだったが、忌避するかのように地元ボルドー産以外である。

 

《あかつきの鶏が、小作地の人々をめざめさせる。サン‐クレールの教会の鐘が東風に乗って鳴っている。テレーズのまぶたがやっととじる。と、また、男のからだが動く。彼は、大急ぎで、百姓の着物を着る(冷たい水にそそくさと顔をつけただけで)。彼は犬のように台所へ飛んでゆく。台所の戸棚(とだな)の中の残りものに鼻を鳴らしながら。ほんの一口、大急ぎで食べる。冷たい鶏の油づけを一切れか、それともブドウの一房か、にら(・・)いりのパイ、一日のうちでの彼のいちばんのごちそう! 彼は、あごを鳴らしているフランボとディアーヌにもわけてやる。霧はまるで秋の匂(にお)いがする。ベルナールがもはや苦しまなくなる時刻、ふたたび身うちに、全能の若さを感じる時刻である。》

《田舎では、たくさんの女が産褥(さんじょく)で死ぬ。テレーズは、自分も母親と同じようにして死ぬだろう、たしかに、母親と同じ運命が自分を待っていると断言して、クララ伯母を何度も泣かせた。テレーズはそのたびに、「いいわ、死んだって、平気よ」とつけ加えることを忘れなかった。それはうそだった! このときほど、彼女が、生きることをはげしく願ったことはなかった。それに、また、ベルナールも、このときくらい心づかいを見せてくれたこともない。夫は私のことを気にかけてくれたのではない。私がおなかの中に持っていたものを心配していたのだ。あのぞっとするような声で、くどくどと夫のくりかえしたことを、私は一度だって実行したことがない。「野菜の裏ごしを食べなくちゃだめだよ……魚を食べちゃだめだ……今日はもう散歩は十分じゃないか……」乳の質がいいためにだいじにされる赤の他人の乳母(うば)以上に、私はこれらの言葉から心を動かされなかった。》

《アルジュルーズ以外の場所では生きてゆけないという理由で、クララ伯母は、私の枕もとに侍ることを承知しなかった。そのかわり、たびたび、どんなお天気のときでもおかまいなしに、例の「道幅に合わせた」二輪馬車を飛ばして来てくれ、私が子供のころには好きだった砂糖菓子、いまでも好きだと伯母の思っている砂糖菓子、を持ってきてくれた。裸麦の粉と蜂蜜をかためた例の灰色の玉でミックと呼ばれるもの、フーガスとかルーマジャドとか呼ばれる菓子、を持ってきてくれた。》

《クララ伯母は、息を切らしながら、燭台(しょくだい)を片手に、階段をあがった。

 ――お前たち寝ないのかね? テレーズは疲れているだろうに。部屋にスープとひなどり(・・・・)の冷肉がそろえてありますよ。

 が、夫婦は、ひかえ間の中につっ立ったまま、動かなかった。》

《七時ごろ、バリヨンの女房が、ハム・エッグを一皿持ってきたので、彼女は食べることをこばんだ。脂(あぶら)の匂いがむかむかしてやりきれないというのに! いつでも、油づけかハムばかり。バリヨンの女房は、これ以上のさしあげられるものがない、と言う。ベルナール様が家禽(かきん)の料理をすることをさしとめなされたので。》

《その日は、とうとう床を離れず、身じまいもしなかった。タバコが吸いたいばかりに、鶏の油づけを二口三口食べ、コーヒーを飲んだ(食べものがはいっていないと、彼女の胃はタバコを受けつけなかった)。夜のあいだのあの空想のいとぐち(・・・・)をもう一度見つけようとこころみた。それに、アルジュルーズでは、昼でも夜以上に物音がしない。午後はほとんど夜以上に暗くないとは言えなかった。一年でいちばん日の短いこのごろ、間なしに降りしきる雨が、時を一様化し、すべての時間をとけあわさせる。一つの薄あかりが動かぬ沈黙の中に別の薄あかりに追いつく。が、テレーズは不眠症になり、彼女の夢は、ますますはっきりした形をとってきた。順序をたてて、彼女は、自分の過去の世界から、忘れていた顔や、遠くから好もしく思った唇や、不意のめぐりあいや、夜偶然にすれちがったというような事実が、罪を知らぬ彼女の肉体に近づけたおぼろな肉体を、捜し求めた。テレーズは幸福を構成し、歓喜を発明していた。一つの不可能な恋愛を無からつくりだしていた。

 ――寝たきりだよ。油づけもパンも残してばかりいてさ――と、それからしばらくして、バリヨンの女房がバリヨンに言った。――だけんど、ブドウ酒のびんをきれいにあけることといったら、びっくりするから。あの女ときたら、やるだけ、いくらでも飲んでしまうて。それにまた、タバコで敷布に焼けこがしをこしらえてさ。いまに、きっと火事を出してしまうから。》

《テレーズはふたたび目をあける。ベルナールが彼女の前に立っている。コップを手に持っていて、こんなことを言う。「ぐっと飲んでごらん。スペインのブドウ酒だよ。とても力がつくから」それから、この男は、いつでもやろうときめたことは実行するので、台所へはいってゆき、いきなりどなりたてる。きんきん声のバリヨンの女房の方言を聞きながら、テレーズは、こんなことを考える。「ベルナールは心配になったのだ。きっとそうだ。何を心配したのか?」ベルナールはひきかえしてくる。(中略)テレーズは、自分の正面に腰をおろしてだんろの火をいじっている夫を、じっと見まもる。が、彼女は、夫の大きな目がほのおの中に見ている姿を、『プチ・パリジャン』紙の赤と緑の二色ずりの付録「ポワチエの女囚」(筆者註:1900年頃、ポワチエでおきた事件。家族の反対する恋愛のために二十五年間幽閉されていた女が、著名の手紙の告発で救出された。同じように世間から告発されることをベルナールは怖れた)の絵を、おしはかるよしもない。》

 

 モーリヤックは『テレーズ・デスケイルゥ』執筆と並行して評論『ジャン・ラシーヌの生涯』を著したが、「古典主義作家ではラシーヌパスカルの他に師はいない。二人が師なのは、彼らに自分の兄弟を見出すからである」と序文に記している。

 なるほど『テレーズ・デスケイルゥ』には、ラシーヌ『フェードル』の影がある。

 ロラン・バルトは『ラシーヌ論』の作品論で次のように指摘したが、テレーズはフェードルの分身、同族、末裔である。

《冒頭からフェードルは、自分が罪深いことを知っている。彼女が罪ある身だということが問題なのではなく、彼女が沈黙していることが問題なのだ。そこにこそ、彼女の自由もかかっている。フェードルはこの沈黙を、三度破る。すなわち、エノーヌの前で(一幕三場)、イポリットの前で(二幕五場)、テゼーの前で(五幕七場)。この三回の沈黙の破棄は、段階的に重みを増す。その度ごとに、フェードルは、言葉の一層純粋な状態に近づく。》

《事物は、まさにそれが隠された瞬間から、罪あるものとなる。ラシーヌ悲劇の人間は、自分の秘密を解き明かさない、これが彼の苦しみ=悪である。あからさまに病気と同一視すること以上に、罪過の外面的(・・・)=形式的(・・・)性格を証すものはない。フェードルの客観的な有罪性(不倫、近親相姦)とは、結局のところ、秘密による苦しみに自然の姿を与え、外的形式を内容へと有効に変形するために、後から付け加えられた、人為的な構造物にすぎない。この逆転は、ラシーヌ悲劇の構築全体を成立させている運動にほかならない、より一般的な運動と合致する。すなわち、《悪》は、それが空虚である度合いに比例して恐るべきものであり、人間はただ形式によって苦しむのである。これこそラシーヌが、フェードルにとっては罪そのものが罰であると語るとき、フェードルについて極めて適切に言い表わしたことなのである。フェードルの努力のことごとくは、おのが罪過を満たす(・・・)ことにある、つまり、《神》を免罪することにあるのだ。》

『テレーズ・デスケイルゥ』では、第二章の、裁判所からニザン街道を行く馬車のかびくさい匂いの中で、

《すべてを言おうと決心したことだけで、事実、テレーズには、すでに一種のえも言われぬこころよい身うちのゆるみを知るのに十分だった。「ベルナールに全部うちあけよう、全部言ってしまおう……」

 何を夫に言おうというのか? どういう告白から始めるか? 欲望と決意と予見不可能の行為との混沌(こんとん)とした奔流をせきとめるのに、言葉だけでたりるだろうか? みんな、どんなふうにするのだろうか、己(おの)れの罪を知っているすべての人たちは?……「私は、自分の罪を知ってはいない。人が私に着せている罪を、自分は犯すつもりはなかった。自分が何をするつもりだったのか、自分にはわからない。自分の身うちに、それからまた自分の外に、あのがむしゃらな力が、何をめざして働いていたのか、一度も自分にはわからなかった。その力が、進んでゆく途中で、破壊したもの、それには、自分自身うちひしがれ、びっくりしたではないか……」》

 テレーズが弁解の言葉を用意するなかで、ベルナールのことを、《若者としては、彼は決してそんなに醜いほうではなかった。このできそこないのイポリット(訳注:ギリシャ神話・テゼ王の息子。義母フェードルに求愛された)(筆者註:モーリヤックはラシーヌ『フェードル』を意識している)は――若い娘よりは、ランドに追いつめる兎(うさぎ)のほうに、よけい気をとられている若者は……》と作者モーリヤックは揶揄する。

 

 テレーズの「告白」はなされずに最終十三章まで来る。パリのカフェ・ド・ラ・ペのテラスで。

《――テレーズ……一つききたいことがあるのだ……

 ベルナールは目をそらした。この女の視線をささえることは、どんな場合でも、彼にはできないことだった。それから、大急ぎで、

 ――知っておきたいのだ……例のことは、例のことは、僕を憎んでいたからなのかい? 僕がおそろしかったからか?

 彼は、自分自身の言葉に聞きいりながら、驚きをおぼえ、いらだたしさを感じる。テレーズはにっこり笑い、それから、まじめな顔でじっと夫を見つめた。とうとう! ベルナールが彼女に問いをかけた。もしもテレーズが、ベルナールの位置に立ったとしたなら、まっさきに彼女の頭にうかんだに相違ないその問いを! ニザン街道を走っているあいだじゅう、馬車の中で、それからサン‐クレール行きの軽便鉄道の中で、長い時間をかけて用意したあの告白、あの探究にあかした夜、しんぼう強いあの探索、自分の行為の源泉にさかのぼるためのあの努力、――つまり、あのしんの疲れる自分自身への帰還、それが、ことによったら、むくいられるときに達したのだ。(中略)

 ――私は、どんなに、全部あなたに知っていただきたいと思ったか知れませんわ。私がどんな苦しみに身をまかせたか、あなたがごぞんじだったら、ただ、はっきり見たいということのために……でも、あなたに聞いていただけるようなすべての理由は、私の口から出るともう、うそっぱちなものに思えそうなのですもの、ほんとにわかっていただけるかしら……

 ベルナールはいらだった。

 ――とにかく、一度は、お前が決心をした日があったのだろう……お前が行動に訴えた日が?

 ――ええ、そうよ、マノの大火事の日ですわ。

 二人は額をよせ、声をひそめてしゃべっていた。このパリの十字街で、この軽快な太陽の下で、外国タバコの匂(にお)いが流れ、黄と赤の窓かけのあおられている、少し涼しすぎるこの風の中で、あの酷熱の午後を、煙でいっぱいの空を、くろずんだ青空を、焼けた松かさの放つあの鼻をつくたいまつ(・・・・)のような匂いを、――そしてしだいに罪が形をなしていった眠っていたあのときの彼女自身の心を、思いうかべることが、テレーズには、ふしぎな気がする。

 ――どういうふうにしてああなったか、これから申しますわ。正午でもあいかわらず薄暗い、あの食堂にいたときでした。あなたは何かしゃべっていらっしゃいました。少しバリヨンの方をふりむいて、コップの中にたらしている薬の滴の数を数えることを忘れながら。

(中略)

 ――聞いてちょうだい、ベルナール、私の言っていることは、私の無実をあなたに思いこませようというためではありません。まるでちがいますわ!

 彼女は自分に罪をおわせるのにふしぎな情熱をつぎこむ。このように夢遊病者のような行動に出たことは、テレーズの言うことを聞いていると、彼女が、何ヵ月も前から、罪深い考えを養い、心の中に迎えていたと解さなければならぬ。それに、最初の動作をすましてしまうと、じつに明晰(めいせき)な熱烈さで、彼女は自分のくわだてを遂行したではないか! そして、なんという執拗(しつよう)さで!

(中略)

 ――私が何を望んでいたかですって! 私が何を望まなかったかを言うほうがむろんやさしいでしょうよ。》

 

 小説は、ともかくも次のように終わる。

《テレーズは、ベルナールの杯の底に残ったポルトのしずくを、長いこと見つめた。それから、ふたたび、通行人の顔をつぎつぎにながめた。(中略)空腹をおぼえたので、立ちあがって、オールド・イングランド(筆者註:パリ、オペラ・ガルニエ広場のカフェ・ド・ラ・ペからほど近い英国風紳士服店)の鏡の中に、自分の姿である若い女をながめた。ぴったりからだについた旅行着がよく似合っていた。が、アルジュルーズ時代のなごりで、顔だけはまだむしばまれたようなあとがとれなかった。とびでた頬骨(ほおぼね)、肉の落ちた鼻。テレーズはこんなことを考えてみる。「私の顔は年がわからない」彼女は(たびたび夢想の中でしたように)ロワイヤル街で昼食を食べた。帰りたくないのに、なぜホテルへ帰るのか? プイイ(筆者註:ブルゴーニュ・ワイン)の小びんのおかげで、ぽっと身うちのほてるまんぞく感がわいてきた。タバコをたのんだ。隣のテーブルにいた若い男が、ライターをすって彼女の方にさしだした。(中略)

テレーズは少し飲み、たくさんタバコをふかした。みちたりた女のように一人で笑った。念いりに、頬と唇のべに(・・)をひきなおした。それから、往来に出ると、あてもなく歩き出した。   (了)》

 

 モーリヤックの「インタビュー集」から。

《◇もしよければ、あなたの最も重要な作品のひとつ『テレーズ・デスケィルー』(一九二七)に話題を移しましょう。もしテレーズを定義しなければならないとしたら、どのような表現でなさいますか。

⇒彼女は、存在の困難さそのものの体現です。それは、ひとりの女性のなかにある不適応性の物語なのです。(一九六六)》

《◇あなたの映画のなかで、アンヌはもっとも重要な人物であるとお思いになりませんか。実際、テレーズにベルナールとの結婚が失敗だったとわからせたのは、アゼヴェドに対するアンヌの恋なのですから。

⇒アンヌ、あれは試金石です。テレーズのドラマとは、「道のない土地」に住んでいることです。同じような土地に住んでいる人たちの数は、今も変わっていません。テレーズ・デスケィルーは、人生の犠牲者です。彼女の居場所は、この地上にはありません。ランド地方が今もそうであるように、がっしりとした階級制度でかためられた土地に生きてきたのです。そこに悲劇が起こりました。わたしの言うのは、むろん、一九二〇年のランド地方のことです。テレーズ・デスケィルーのドラマは、当時、ほとんどすべての家庭で起こっていました。女の子は、裕福な家庭の出身である場合、サクレ=クール女学院で教育を受け、そうでない場合は、小作農の生活を送っていたのです。当時、既婚女性のある人たちの犠牲的な生活は、今日では想像を絶するものでした。(一九六二)

◇テレーズ・デスケィルーは、今日もまた存在するとお考えでしょうか。

⇒もちろんですとも。条件は変わりましたが、テレーズ・デスケィルーは生き残っています……。毒を盛った女は、復活します。彼女は夫に砒素を盛ったのです。我慢のならなかったでっぷり肥えた夫ベルナールに。とはいえ、他の男よりも悪いというわけではないのですが。この小説は――映画もですが――、人なみすぐれた女性を犯罪へと押しやるこの嫌悪の物語です。その女性の敗北とわが身に受ける罰の物語なのです。(一九六二)

◇このようなタイプの女性が「生き残って」いるとどうして言い切れるのですか。テレーズ・デスケィルーのような女性は、怪物なのでしょうか。

⇒テレーズ・デスケィルーが怪物ですって。小説の序文にはそのように書きましたが、当時としては必要であった慎重さ、警戒心のためでした。実際には、全面的にこの女性の味方です。わたしにとって怪物性とは、行為にあるのではなく、魂の不在にあるのですから……。(一九六二)》

 

『パリ・レヴュー』誌のインタビューで、モーリヤックは小説の技法論として、

《『テレーズ・デスケールー』のなかでは無声映画からヒントを得た方法――つまり前もって行う説明の省略、突然の情景提示、フラッシャ・バックなどを用いました。それは、当時では、斬新で、意表をついた方法だったのです。》と答えているが、ここにはデュラスの映画的手法と共通項がある。

 

<デュラス『モデラート・カンタービレ』>

 デュラスの『モデラート・カンタービレ』で、ブルジョワの女アンヌ・デバレードと失業者ショーヴァンは、偶然目撃した情痴事件について男が女を殺害した海辺のカフェで毎日ワインを飲みながら語り合い、夢想するうち――女が男に自分を殺してくれとせがんだのではないか――、しだいに狂おしい熱情(パッシオン)に昇りつめてゆく。

 7章と最終8章は匂いと料理からなるが、その前の3章から伏線がある。

 木蓮の匂いの記憶とともに、男が女を殺した心理についてのアンヌの詮索がはじまる。

 

 デュラスの小説に登場する女の特徴として、エレーヌ・シクススはミッシェル・フーコーとの対談で、

《デュラスの作品でとても美しい言回しがあると思うと、それはきまって受動態、つまり誰かが(・・・)見つめられている(・・・・・・・・)、といった文章なんです。《彼女は》見つめられ、見つめられているのを知らない。ここで視線は主体の上に投げかけられているんですが、主体は視線を受けとっていない。》と指摘したように、アンヌもまた「見つめられる」人である。モーリヤックのテレーズが「見る」人だった(たとえばマノの大火の日、ベルナールが薬の量を間違えるのを見とどける)のに対して。

 

 匂いとイメージ。

《彼女はつとめて話題を探し出した。

「わたしは海岸通りの一番端に住んでるの、町の終わる最後の家よ。ちょうど砂丘の真前にあたるの」

「お宅の庭の柵の、左の角にある木蓮(マグノリア)は満開ですね」

「ええ、ちょうど今頃はあまり花が多いので、夢にまで出てきて、その翌る日一日じゅう気持ちが悪くなるくらいよ。とてもたまらないので窓を閉めておくの」

「今から十数年前に結婚なすったのもあの家ですか?」

「ええあの家よ。わたしの部屋は二階の左手にあって海に面してるの。この前あなたは、あの男が女を殺したのは、女にそう頼まれたからだ、要するに女の気にいるためだっておっしゃったわね?」

 彼は質問に答えず手間取っていたがようやく彼女の肩の線を見やった。

「今頃窓を閉めておいたら、さぞかし暑くて寝苦しいでしょう」と彼は言った。

 アンヌ・デバレードは、話題のうわべの必要度以上に真剣になった。

木蓮の匂いってすごく強いのよ、わかるかしら」

「わかりますよ」

 彼は彼女の肩の直線から視線をはずし、彼女から眼をそらした。

「二階には長い廊下がありませんか、あなたやお宅のほかの人たちが行ったり来たりして、みんなを結びつけると同時に切り離す役目をする非常に長い廊下がないですか?」

「そういう廊下があってよ」とアンヌ・デバレードは言った。「しかもあなたの言った通りよ。お願いだから言ってくださらない、どうやってあの女が、ああすることこそ男に対して自分が望んでいたことなんだって発見するようになったのか、どうやって彼女が男に対する欲求をあそこまで悟ったのか」

 彼の眼が、いささか凶暴性をおびて、ふたたび彼女の眼をじっと見つめた。

「ぼくの想像では」と彼は言った。「ある日、暁方かなんかに突然、彼女は男に対する自分の欲求を悟ったんですよ。自分の欲求が何であるかを男に打ち明けるくらい、すべてが彼女にとって明瞭になった。そうした種類の発見には、ぼくが思うに説明は不可能ですよ」》

 

 匂いと料理とワイン。

《三代がかりで購入したという銀の皿に乗せられて、一匹まるごと冷やした鮭が出る。宮中の小姓よろしく、黒い服に白の手袋をはめた一人の男がそれを運び、晩餐開始の沈黙のうちにそれぞれの客に差出してゆく。それを話題にとりあげないのがたしなみというものである。

 庭園の北のはずれでは、木蓮がその香を発散し、それは砂丘から砂丘をわたって消えてゆく。今宵、風は南風である。一人の男が海岸通りをさまよい歩いている。一人の女がそれを知っている。

 鮭は儀式的に手から手へ渡されてゆく。この儀式を乱すものといえば、各人の胸に秘めた危懼――これほどの完璧さが、あまりにも明白な一人の非常識のために、にわかに破壊され傷つけられるのではないかという危懼の念をのぞいて、何もない。外では、初春の夕闇のうちに、庭園の木蓮が、その葬儀ともいうべき開花に精を出している。

 吹き行き吹き来り、町の中の障害物にぶつかってはまた吹きぬけてゆく風の波にのって、その香は、男に届いたり彼から離れたり交互にそれを繰り返している。

 台所では女たちが、額に汗をうかべ、腕によりをかけて次の料理を仕上げ終わり、オレンジの経帷子に覆われた鴨の死体を剥いでいる。そうしているうちにも、大洋の広々とした水からあげられた、バラ色の、蜜のような味のする鮭は、ほんのわずかな時間の経過のうちに醜く変わり、完全なる消滅に向かって避けることのできない歩みを続けている。また一方、鮭の消滅に伴うこの儀式に、何か失態が生じるのではないかという懸念も次第に雲散霧消してゆく。(中略)

 アンヌ・デバレードは絶えず飲んでいる。今宵このポマール(訳註:ブルゴーニュ産の赤ぶどう酒)は通りにいる男のまだ触れたことのない唇の、すべてを忘れさせてくれる味がする。(中略)

 木蓮の花弁はなめらかで、つるつるした穀粒のような感触である。彼女の指は、穴があくまで花弁をもみくちゃにし、それからはっと狼狽して中止し、テーブルの上に置き直され、待機の姿勢で、さりげない体裁を整えようとするがそれも空しい。なぜなら向かいの男が彼女の指に気づいたから。アンヌ・デバレードはほかにすることがなかったんだという意味の言訳の微笑をうかべようとするが、酔いが廻って、その顔は酩酊の度合いを、羞恥の色もなく、あからさまに表にあらわしている。重苦しい視線がじっと彼女にそそがれているが、その視線は感覚反応を失っている。さんざん煮え湯を飲まされて、その視線はすでにどんなことにも驚かなくなってしまっているのだ。こんなことになるだろうと、とうから予測していたのだ。

 アンヌ・デバレードは、眼をなかば閉じながら、またグラスの酒を一杯全部飲む。彼女はもはやそうする以外何もできなくなっている。彼女は飲むことによって、これまでの隠微な欲求の正体を確認し、この発見に言語道断な慰めを見出す。(中略)

 アンヌ・デバレードは料理をことわったところだ。しかし彼女の前にはまだ皿が置かれたままである。極めて短い時間だが顰蹙(ひんしゅく)を買う時間だ。彼女は辞退の申し出を繰り返すため、教わった通り手を上げる。それ以上に無理に押しつけられない。テーブルの彼女のまわりは沈黙に陥った。

「みなさんに悪いんですけど、わたしは食べられそうにないんです」

 彼女はもう一度、花の高さに手を上げる。花は胸の間で萎れかけ、その香は庭園を越えて海にまで達する。

「おそらくその花のせいじゃないか?」と突っ込まれる。「その匂いはひどく強いから」

「いいえ、この花にはなれてます、なんでもないんですの」(中略)

 アンヌ・デバレードは満たされたばかりのグラスをもう一度取って飲む。彼女の妖女のような腹は、人とはちがって酒の火気によって養われるのだ。両側から重い花を囲む重い胸は、うって変わった憐れな花の姿に疼(うず)き、彼女は悲痛な思いを抱く。声には出さないが一つの名前を一杯にふくんだ彼女の口の中を酒が流れる。 この無言の出来事のため腰が割れるように痛む。》

 

《アンヌ・デバレードは、モカのアイスクリームを、干渉を避けるために少し食べるだろう。》

 クリステヴァは『プルースト 感じられる時』で、《アイスクリームは、『囚われの女』の有名なページのなかで、語り手とアルベルチーヌとの愛を、象徴するというよりも、実現し、あるいは受肉させ具現化している。オレンジエードと同じように、アイスクリームは、アルベルチーヌの愛とアルベルチーヌに対する愛の、媒体であると同時に実在(・・・・・・・・・・・)となっている。渇望、貪欲さ、なめらかさ、溶けかかった姿、消滅、束の間の快楽、凍るように冷たい欲望、抵抗力のある岩、難攻不落の山、体にも温泉源の火があることを知ることのないよう運命づけられた恋人たちの幻想(ファンタスム)の岩盤。口唇の欲望の激しさを含意として示しているアイスクリームは、感度のよい繊細な口蓋palaisに結びつけられている。豪奢な宮殿palais、ヴェネチアまたはホテル・リッツ。アイスクリームはまた、記念碑の如く聳えるゼリー、宙吊になっていて、凝結しているだけにいっそう艶かしい欲望と不可能性との壮麗なゼリーでもあるだろう。主人公がそれを食べたいと思うまさにその瞬間に溶けだすかもしれないが。》と論じたが、アンヌはあまりにそっけない。

 

 アンヌ・デバレードは子供を取り上げられる。

《「今週からね、わたし以外のほかの者があの子をジロー先生のレッスンへつれてゆくことになったのよ。わたしの代わりをほかの者がやることを、承知したの」》

《アンヌ・デバレードが言った。

「あの子はね、あなたに話す暇がなかったけど……」

「知ってます」とショーヴァンが言った。

 彼女はテーブルの上から手を引っ込め、相変わらずそこに置かれているショーヴァンの手をじっと見つめた。彼の手は震えていた。それから彼女はおだやかな口調で、堪(こら)えきれなくなった歎きを訴え始めたが――ラジオの音に消され――それは彼にしか聞き取れなかった。

「時々あの子は」と彼女は言った。「わたしの想像の世界に生きているような気がして……」

「お子さんのことはわかっています」ショーヴァンがにべもなく言った。》

『テレーズ・デスケイルゥ』でも、夫ベルナールは娘マリをテレーズから引き離した。

《――マリは?

 ――マリはあす、女中といっしょに、サン‐クレールへやる。それからお母さんに南仏へつれていってもらう。健康のためという理由にすればいい。まさか、あの娘(こ)を手もとにおかせてくれなどとは言わないだろう? あの娘だって、安全をはかっておいてやらなければならん! 俺がいなくなった後は、あの娘が二十一になれば、財産はあの娘のものだからな。ご亭主のつぎは、子供がねらわれる番だ……ないとは言えないだろう。》

 

 理解することの不可能性。

《「彼があの女に会うまでは、いつか自分があんな欲望を抱くようになろうとは、夢にも思っていなかったでしょうね」

「彼女は彼の意向にすっかり同意したわけね?」

「感嘆したくらいですよ」

 アンヌ・デバレードはショーヴァンの方にうつろな視線をあげた。彼女の声はかぼそくなり、子供の声のような感じを与えた。

「いつかはああなりたいというその欲望が、なぜそんなにすばらしいものに思われてきたのかしら、そこのところをすこし知りたいわ」

 ショーヴァンは依然として彼女の方を見なかった。彼の声は、落ち着いた、響きのない声で、よく通らなかった。

「知ろうとしても無駄ですよ。そんなところまで理解することは不可能です」

「こういったことは、放っておくほかはないっていうわけ?」

「そういうことですね」

 アンヌ・デバレードの顔は生気を失い、ほとんど間抜けのような表情になった。彼女の唇は蒼白さを通りこして灰色になり、泣き出す前のように震えていた。

「男の意志をさまたげるために何かしようとするような気持ちは彼女に全然ないのね」と彼女は小声で言った。

「ないでしょうね。もうすこし飲みませんか」

 彼女は前と同じようにちびちび飲んだ。それから彼も飲んだ。彼の唇もまた、グラスの上で震えていた。》

 

 小説はこう終わる。『テレーズ・デスケイルゥ』のテレーズのように、あてもなくアンヌが歩き出して。

《「怖いわ」とアンヌ・デバレードはつぶやいた。

 ショーヴァンはテーブルに体を寄せて彼女を求め、求めながらやがて諦めた。

 その時彼女が、彼のなし得なかったことをやってのけた。彼女は、二人の唇が接するくらいの近さまで彼の方へ体を乗り出した。二人の唇は重なり合った。先刻、彼らの冷たい震える手が行なったのと同じ死の儀式にのっとり、触れ合わねばならぬという意志のもとに、彼らの唇はそのままの姿勢を続けた。儀式は成就された。(中略)

「わたしはあんな風になれそうもないわ」と彼女はつぶやいた。

 それはもはや、彼の耳にはいらなかったかもしれない。彼女は上着の前を合わせ、ボタンをかけ、体をきつく締めあげ、またしても荒々しい呻き声をあげた。

「とてもだめだわ」と彼女は言った。

 それはショーヴァンの耳にはいった。

「もう一分」と彼は言った。「そしたらぼくたちもああなれるかもしれない」

 アンヌ・デバレードはその一分を待った。そして椅子から立ち上がろうとした。ようやくの思いで彼女は立ち上った。ショーヴァンは他所(よそ)を見ていた。男たちはなお、この姦婦に眼を向けるのを避けた。彼女は立っていた。

「あなたは死んだ方がよかったんだ」とショーヴァンが言った。

「もう死んでるわ」とアンヌ・デバレードは言った。(中略)

 彼女は、カウンターにたむろする男たちを通り過ぎ、その日の終わりを示す赤い光線を浴びて西日に向かい合った。

 彼女が去ってしまうと、女主人はラジオのヴォリュームをあげた。幾人かの男が、音が大きすぎると不平を言った。   (了)》

 

 デュラスはインタビューで、

《「他の視線と絶えず交差し、そして他の視線へと吸いこまれるひとつの視線。視線は、それによって登場人物と物語の現実が明らかにされる真の認識手段にとどまっています。たがいに重なり合う視線。登場人物のひとりひとりがだれかを見つめ、そのだれかから見つめられる。(中略)男女一組のあいだに情熱が燃えあがるのを目撃する、第三の人物の絶えざる存在という仮説を確認したいかのようですね。」》と訊かれて、次のように答えている。

《「わたしはつねに、愛は三人で実現すると考えていました。一方から他方へと欲望が循環するあいだ、見つめているひとつの目。精神分析は、原風景の執拗な繰り返しについて語ります。わたしは、ひとつの物語の第三の要素としての書かれた言葉(エクリチュール)を語るでしょう。だいいち、わたしたちは、自分がしていることと完全に一致することは決してありません。わたしたちは自分がいると信じているところに完全にいることはない。わたしたちとわたしたちの行動のあいだには、隔たりがある。そしてすべてが起こるのは外部において(・・・・・・)なのです。登場人物たちは、自分たちの眼前でさらにもう一度、展開する「原風景」から除外されていると同時に、そのなかに包含され、自分もまた見られるためにそこにいることを知りながら、見るのです。」》(『私はなぜ書くのか』)

 デュラスは答える。

《「アンヌ・デバレードの生きている世界はまだわれわれと同じ世界です。そこからどうにかして離れるために、彼女は個人的体験を仲介とするほかなかった。詩的、情熱的興奮が彼女には必要だった。知的、精神的、政治的経験というのは彼女には手が届きません。ブルジョワジーの大半の女性に特有な澱みのなかで硬直していたからです。でも彼女は、パッション熱情に関しては、すばらしい天分をさずかっていたし、熱情というものは、知性よりもその動きを抑制しにくいものなのです。それが彼女にとっての唯一の通路だったのです」》(インタビュー「テレラマ」)

《「アンヌ・デバレードというのは、突如として別のものを感じ、見てしまうブルジョワ女性です。厳密にいえばとうてい生きてはゆけない社会環境の中で、彼女は熱情―殉教(パッシオン)の剽窃を通して死ぬことになるのです。彼女の受ける変化は不可逆的なものですが、そのあと、彼女にはなにひとつ提供されません。子供まで取りあげられてしまったのです。」》(インタビュー「ル・モンド」)

《「彼女にはもはやなにひとつ残されていません。私の考えでは、彼女はおそらく狂気に向かって歩いて行くのです。」》(インタビュー「ル・モンド」)

 

 ピーター・ブルック監督の映画『モデラート・カンタービレ』について、デュラスは女主人公を演じたジャンヌ・モローへインタビューしながら自らも語っている。

撮影現場とされたジロンド川は『テレーズ・デスケイルゥ』の舞台ボルドーを貫くガロンヌ川下流域名である。とっさにデュラスがでっちあげたアンヌの少女時代はテレーズのそれをイメージさせないか。

《――(ジャンヌ)『モデラート』のときには、死んだも同然でしたね、女主人公がそうだったように。『ジュールとジム』のときも同じでした。

(デュラス)わたしは『モデラート』が撮影されていたとき、毎日ジャンヌに会っていた。だから役を「自分のものにする」ために、彼女がいかなる知識、いかなる決意を込めるか知っている。

 撮影の直前、彼女がわたしたちから離れざるをえないその危機的な時期に、映画が撮影される予定のジロンド川河口べりの小さな町ブレーに彼女は住みこんだ。そこは藺草(いぐさ)の町で、鴨、チョウザメ、グラ―ヴ岬の赤ぶどうで知られている。

――(ジャンヌ)一週間、わたしはブレーじゅうをほっつき歩きました。あの町が頭のなかだけではなく足にも叩き込まれるまでね。すこしづつわたしはブレーの住民になっていったのです。

(デュラス)いつも彼女は、自分が演じる予定のヒロイン、アンヌ・デバレードについていっそう知りたがった。アンヌの青春について、少女時代について、わたしに絶えず情報を求めた。もっと、もっと。撮影台本のなかでは検討されていないこれこれの状況においてアンヌならばどうしたか知ろうとした。ある日わたしは彼女のためにアンヌの素性をでっちあげた。「あなたはリモージュの近郊で生まれたのよ。お父さんは公証人でした。三人の兄弟がいたの。あなたは孤独で夢見がちな少女時代を過しました。毎年秋に行っていたソローニュ地方で、ある日、猟をしていて、あなたはやがて夫になるデバレード氏に遭ったのです。二十歳の時でした。等々」ジャンヌは驚嘆していた。「そのとおりよ……まったく……。なぜもっと早く言ってくれなかったの?」わたしは彼女のために、彼女を助けるために、たったいまでっちあげたのだと白状した。》(『アウトサイド』)

 いや、デュラスがでっちあげた少女時代だけでなく、アンヌ・デバレードとテレーズ・デスケイルゥは、まるでラカン「二人であることの病い」のパパン姉妹のような鏡像に違いない。                                              

                                   (了)

          *****引用または参考文献*****

*モーリヤック『テレーズ・デスケイルゥ』杉捷夫訳(新潮文庫

*モーリアック『テレーズ・デスケルウ』遠藤周作訳(講談社文芸文庫

*モーリヤック『テレーズ・デスケルー』福田耕介訳(上智大学出版)

*『筑摩世界文学大系55 ジイド、モーリヤック』(「解説」菅野昭正所収)(筑摩書房

*『モーリヤック著作集1~6』遠藤周作高橋たか子他訳(月報「小説家の意識と在り方」辻邦生所収)(春秋社)

*キース・ゴシュ編『フランソワ・モーリヤック インタビュー集 残された言葉』田辺保・崔達用訳(教文社)

*『作家の秘密 14人の作家とのインタビュー』(「フランソワ・モーリアック辻邦生訳所収)(新潮社)

*クロード・エドモンド・マニー『現代フランス小説史』(「第五章 静寂主義の小説家――フランソワ・モーリヤック」若林真訳所収)(白水社

*『グレアム・グリーン全集2 神・人・悪魔 八十のエッセイ』(「フランソワ・モーリアック」所収)前川祐一訳(早川書房

サルトル『シチュアシオンⅠ』(「フランソワ・モーリヤック氏と自由」所収)小林正訳(人文書院

遠藤周作『私の愛した小説』(新潮社)

*『遠藤周作文学論集』(講談社

遠藤周作カトリック作家の問題――現代の苦悩とカトリシズム』(早川書房

マルグリット・デュラスモデラート・カンタービレ』田中倫郎訳、解説(河出文庫

*『マルグリット・デュラス 生誕100年愛と狂気の作家』(吉田喜重「モラルと反モラルのはざまで」、郷原佳以「三角関係の脱臼――書くことと愛、ブランショとデュラス」他所収)(河出書房新社

*『ユリイカ 増頁特集 マルグリット・デュラス』(ミッシェル・フーコー/エレーヌ・シクスス「外部を聞く盲目の人デュラス」、ジャック・ラカンマルグリット・デュラス賛――ロル・V・シュタインの歓喜について」、瀬戸内寂聴「デュラス、愛と孤独」他所収」(青土社

*デュラス『愛人 ラマン』清水徹訳(河出文庫

*デュラス『私はなぜ書くのか』聞き手レオポルディーナ・パッロッタ・デッラ・トッレ、北代美和子訳(河出書房新社

*デュラス『アウトサイド』(「ジャンヌ・モローの静かな日常」所収)佐藤和生訳(晶文社

プルースト失われた時を求めて吉川一義訳(岩波文庫

*『ベンヤミン・コレクション2 エッセイの思想』(『プルーストのイメージ』久保哲司訳所収)(ちくま学芸文庫

ジュリア・クリステヴァプルースト 感じられる時』中野知律訳(筑摩書房

ロラン・バルトラシーヌ論』渡辺守章訳(みすず書房

ジャック・ラカン『二人であることの病い パラノイアと言語』宮本忠雄、関忠盛訳(講談社学芸文庫)

文学批評 水村美苗『続明暗』から夏目漱石『明暗』へ(資料ノート)

 

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 《読むということから、書くということが生まれる。私はしつこくそれを言い続けている。》

 水村美苗は『日本語で書くということ』の「あとがき」で、そう宣言している。「読むということ」から「書くということ」への連なり、転移、そしてまた「書くということ」から「読むということ」へのメビウスの輪のような循環。

 

 辻邦生水村美苗の往復書簡『手紙、栞を添えて』の第一回は、辻邦生からの「なぜ恋愛小説が困難に?」(一九九六年四月七日)だった。

《あなたへのお手紙の冒頭に、闇から白刃を斬り下ろすように、およそエレガントな雰囲気もなく、いきなり恋愛論と様式論を持ち出してきましたのは、あなたのお書きになった『続明暗』と『私小説from left to right』に強烈な印象を受けたからでした。

 それは、あまりに多くの問題が複合していて、いちいち検証してゆくには大部の書物が必要なほどです。いずれ、この書簡の中でも、折にふれてそれらに戻ってくると思いますが、最初に申し上げたいのは、この二作品に凝集している情念の火についてです。

『続明暗』は、日本の小説家の中で、真の恋愛小説を書いたただ一人の人ではないかと思える夏目漱石の最後の小説『明暗』を、信じ難いロマネスクの離れ業と文体的パロディーの才で、書きついだものでした。それは不可能になった恋愛の情熱を、批判意識の下に持ちだすことによって、つまり素朴喪失を逆手にとって、燃え上がらせた試みと私などには見えます。》

 対する水村の返事は、

《今、恋愛小説を描く困難――それが私の小説の根本にもあるというのは、ご指摘どおりです。『続明暗』ではこの時代に『明暗』を書くことの不可能が、『私小説from left to right』では男女の物語の喪失が、それぞれの小説を形作っているからです。恋愛小説の「終わり」というものは意識していました。》

「書くことの不可能性」、「恋愛小説の終わり」とは、「批判意識の下」でとは、どういう意味だろうか?

 

『続明暗』の文庫本で水村が自ら解説したように、《漱石のふつうの小説より筋の展開というものを劇的にしようとした。筋の展開というものは読者をひっぱる力を一番もつ》は正しい選択であったし、そのうえ《心理描写を少なくした。これは私自身『明暗』を読んで少し煩雑(はんざつ)すぎると思ったことによる。語り手が物語の流れからそれ、文明や人生について諧謔(かいぎゃく)をまじえて考察するという、漱石特有の小説法も差し控えた》、さらには、《もちろん漱石の小説を特徴づける、大団円にいたっての物語の破綻は真似しようとは思わなかった。漱石の破綻は書き手が漱石だから意味をもつのであり、私の破綻には意味がない》は賢明で戦略的でもあった。それもこれも、《我々が我を忘れて漱石を読んでいる時は、漱石を読んでいるのも忘れている時であり、その時、漱石の言葉はもっとも生きている》に違わぬ水村の筆力、言語能力がすべてを可能とした。

 評論『「男と男」と「男と女」――藤尾の死』で、《『虞美人草』とは、基本的には、中上流階級に属する何組かの若い男女が正しい結婚相手と一緒になるという話に過ぎないからである。それはまさにジェーン・オースティンの世界にほかならない》と書いた水村は高橋源一郎との対談『最初で最後の<本格小説>』で、『細雪』はなぜさきへさきへ読みたいという気をあんなに起こさせるのか、同時に、どうやってあのようなリアリズムを得られるのかを考えたとき、《意味もない物や場所の名前が、固有名詞で、やたら丁寧に入っていることと無関係ではないのに思いあたりました》と語っているが、なるほど漱石は細部が面白く、『明暗』にも見てとれるし、『続明暗』もまた当然である。

 

 とはいえ、「書くということ」の前に「読むということ」がある。

 対談『『續明暗』と小説の行為』で、《この『續明暗』を読むために『明暗』を読んでみたんですけれど、漱石を読みだしたらとまらなくなっちゃったのね》と語る高橋源一郎に水村は、

《そうなの。それをねらっていたの。出版社の方からは『明暗』の粗筋を入れないかという話がずっとあったんです。でもできれば私は『續明暗』をきっかけにみんなが『明暗』を読み始め、それで病みつきになって「漱石がこんなにおもしろくっていいのかしら」という感じで全部読んでほしい》と応じた。

 

(註:1990年9月に単行本として出版された題名は『續明暗』だったが、文庫化にあたって文庫の漱石『明暗』に準じて旧字を新字体に、旧仮名づかいを新仮名づかいに改めることで、題名も『続明暗』とされた。従って下記文中では、取りあげられた時期によって、『續明暗』と『続明暗』の両表記が混在する。)

 

加藤周一漱石に於ける現実――殊に『明暗』に就いて』>

 漱石『明暗』の評価ははっきりと二分されている。

『明暗』を評価した、最も的確かつ明晰な批評は加藤周一の以下の文章につきる。それは意表をついた発端で始まる。

《新しい現実は、『明暗』のなかにある。私は、『明暗』によって、又『明暗』によってのみ、漱石は不朽であると思う。そして、『明暗』は、漱石の「知性人たる本質」によってではなく、知性人たらざる本質によって、その他のすべての小説が達し得なかった、今日なお新しい現実、人間の情念の変らぬ現実に達し得たと思う。嘗て、汎神論的世界の中央に坐し、詩と真実とを悠々と眺め得た、ヴァイマールの大臣のアポロ的知性さえも、しばしばデーモンの秘かな協力に就いて語り、創造のからくりのなかに潜むデモーニッシュな力の大きな役割に就いて語った。そのデーモンは、『明暗』の作者を、捉えたのであり、生涯に一度ただその時にのみ捉えたのである。》

《『明暗』の場面の構成は、ことごとく、見事に計算され、見事ではあるが、多少に拘らず作者の手の見え透くものである。若し、この小説のなかに、何らかの現実が捉えられ、我々を一つの世界へ招待する魅惑がはたらいているとすれば、それは、場面の構成の劇的効果ではあるまい。夫婦喧嘩の事件、その事件を組みたてている背景や人物の出会いや投げあう言葉や、要するに、事件と事件の条件とが現実的なのではなく、ここで現実的なものは、喧嘩をする人物たちのなかに燃えている虚栄心や憎悪やあらゆる種類の偏執の激しさそのものに、他ならないであろう。かくの如き情念の激しさは、日常的意識の表面に浮んでは来ない。別の言葉で言えば、日常的意識が現実として受けとるものではない。批評家が、第一に『明暗』の知的構成を指摘し、第二にその観念的特徴を注意する所以である。

 しかし、真に現実的なものは、日常的意識の表面にではなく、その奥にあり、観念的なものこそ、現実的であり得るただ一つのものだ。》

《『明暗』は、心理小説として、深いものであるが、その深さは、ありそうな現実を観察して獲得されたものではない。しかし、注意すべきことは、漱石の他のあらゆる小説と異り、この場合にのみ、登場人物の心理が、作者の抽象的思考の単純な反映ではないということである。そこには、動かし難い現実感がある。その現実感は、何処から来るのか。ありそうもない心理的葛藤の観念的な展開のなかに、現実があるとすれば、その現実は、日常的意識の彼方、この場合には更に客観的観察と分析との捉える世界の彼方、作者の内部に深く体験された現実でなければならない。その現実は、表現をもとめ、漱石は、『明暗』を書いた。》

《文学に於ける現実は、観察の結果そのもの、生の表面に無秩序に相次ぐ印象の系列そのものではない。我々の自然主義小説家たちは、そこから何ら本質的なものを帰納しなかったのであり、従ってモラリストではなかった。しかし、叙事詩的に展開するほど壮大な観念を、自己の内心に蔵(かく)していたわけでもない。不完全にしか成熟しなかった市民社会の文学者は、周囲に交際社会を見出さず、自己に浪漫派的個人を見出さず、その告白的私小説は、遂に如何なる人間の現実を捉えるにも到らなかった。資料の記録のようなものはあるし、現に才能ある批評家は、小説を研究して小説家の私生活を発(あば)いている。しかし、資料の蒐集からは、一個の人間の歴史も導き出すことはできない。単なる事実は、常に無秩序であり、現実とは、必ず何らかの秩序でなければならないから、現実を認識することは、事実のなかに秩序を見出す、或はむしろ創るであろう。その能力は、自然主義小説家の記録的文学には認められないものである。明治文学のなかで、真に深く現実的であり得たものは、陰鬱執拗な『明暗』の観念的な葛藤のなかに憑かれた小説家の歌った魂の歌の他にはない。そして、歌うためには、計画と構成と知性のあらゆる努力とが必要であった。》

《しかし、『明暗』の時代的意味は、以上の要点に尽きない。その多くの特徴は、ヨーロッパの市民社会に発達した小説という形式の今日から見ても、もっとも完璧な範例を、我々に示している。

 第一に、小説の世界は、市民の日常生活の日常的な事件のなかに展開する。事件に就いて言えば、主人公津田の入院とその後の転地療養という以外に、事件というほどの事件はない。勿論所謂自然主義の作家も又、このような世界を描き、意識してこのような世界のみを描いた。しかし、彼等は、それをヨーロッパの自然主義の理論から必然的に導かれるものと考えた。その考えの誤りであることは言うまでもない。正しく意識して、小説の世界を、本来あったし、又あるべき、もっとも典型的な背景のなかに展開したのは、イギリスの小説を知っていた漱石だけであろう。

 第二に、同じ日常生活を描いても、明治の小説の多くは、家を背景とし、親子の関係を人間関係の主な要素として扱った。別の言葉で言えば、人物は近代的な市民的環境のなかに生きていない。然るに『明暗』に於ける心理的葛藤の舞台は、主として夫婦間にあり、僅かに兄弟の間にもあるが、親子の間には殆どない。既に親子の関係を軸として小説を試みたことのあるこの作家が、自己の方法を自覚し、最大の野心を以てはじめた最大の実験を、比較的純粋に近代的な市民生活のなかで行ったとすれば、近代小説の本質に係る小さくない意味がそこにあろう。

 第三に、少くとも、現在我々の読むことの出来る『明暗』の主な葛藤は、金をめぐる動機によって惹き起される。主人公の入院費は、殆ど全体を貫くライト・モティーフであるし、小林という無頼の友人と主人公との交渉にも、金のやりとりが、目立つ。何も『明暗』に限らないが、貧窮の問題としてではなく、中産階級の家庭に於ける心理的交渉の主な動機として、金を扱った場合は、少くとも日本の小説では稀である。『明暗』の特徴の一つは、そこにもある。

 しかし、第四に、最も重大な特徴は、絵画的描写が、この小説に甚だ乏しいということである。引用の煩を避けるが、冒頭の部分に散見する女主人公お延の表情の印象的な描写の如きは、殆ど例外に属する。他の人物に就いては、如何なる表情、如何なる衣裳、如何なる動作も、読者は想い描くことが出来ない。この文体の、視覚に訴えることは、極めて少い。日本語の散文が到達したもっとも視覚的な成功である志賀直哉の文体とは、その意味で、著しい対照を示す。必然的に『明暗』は、人間の心理を扱い、しかも心理のみを扱わねばならなかった。》

 

谷崎潤一郎『藝術一家言』>

 ここまで言うか、というほど辛辣な批判は、すでに二十四歳にして『『門』を評す』という小文で、《先生の小説は拵へ物である。然し小なる真実よりも大いなる意味のうそ(・・)の方が価値がある。『それから』はこの意味に於いて成功した作である。『門』はこの意味に於いて失敗である》と漱石文学を批評していた谷崎潤一郎によるものだろう。

《私は死んだ夏目先生に対して敬意をこそ表すれ、決して反感を持つては居ない。にも拘わらず、「明暗」の悪口を云はずに居られないのは、漱石氏を以て日本に於ける最大作家となし、就中その絶筆たる「明暗」を以て同氏の大傑作であるかの如くに推賞する人が、世間の知識階級の間に甚だ少くないことを発見したからである。》

《たとえば主人公の津田と云ふ男の性格はどうであるかと云ふに、極めて贅沢な閑つぶしの煩悶家であるに過ぎない。作者は第二回の末節に於いて予め物語の伏線を置き、津田をして下のやうなことを独語させてゐる。――

  「何(ど)して彼(あ)の女は彼所(あすこ)へ嫁に行つたのだらう。それは自分で行かう と思つたから行つたに違ひない。然し何うしても彼所へ嫁に行く筈ではなかつたのに。さうして此己は又何うして彼の女と結婚したのだらう。それも己が貰はうと思つたからこそ結婚が成立したに違ひない。然し己は未だ嘗て彼の女を貰はうと思つてゐなかつたのに。偶然? ポアンカレーの所謂複雑の極致? 何だか解らない」

   彼は電車を降りて考へながら宅(うち)の方へ歩いて行つた。

 此れが津田の煩悶であつて、事件は此れを枢軸にして廻転し、展開して行くかのやうに(・・・・・・・)見える。が、作者は此の伏線の種を容易に明かさないで、ところどころに思はせ振りな第二第三の伏線を匂はせながら、津田にいろ/\の道草を喰はせて居る。若しあの物語の組み立ての中に何等か技巧らしいものがあるとすれば、此れ等の伏線に依つて読者の興味を最後まで繋いで行かうとする点にあるのだが、その手際は決して上手なものとは云へない。読者は第一の伏線に依つて、津田が現在の妻に満足して居ない事と、彼には嘗て恋人があつた事とを暗示される。さうして其処から何等かの葛藤が生ずるのであらうと予期する。ところが津田はそれとは関係のない入院の手続きだの、金の工面だのにくよくよして、吉川夫人を訪問したり、妻の延子と相談したりしてぐづぐづして居る。と、第十一回に於いて、突如として吉川夫人の口から第二の伏線が現れる。

  「嘘だと思ふなら、帰つて貴方の奥さんに訊いて御覧遊ばせ。お延さんも屹度私と同意見だから。お延さんばかりぢやないわ、まだ外にもう一人ある筈よ(・・・・・・・・・・・・)、屹度」

   津田の顔が急に堅くなつた。唇の肉が少し動いた。彼は眼を自分の膝の上に落したぎり何も答へなかつた。

  「解つたでせう、誰だか」

   細君は彼の顔を覗き込むやうにして訊いた。彼は固(もと)より其誰であるかを能く承知してゐた。………

 此の第二の伏線は、津田が吉川夫人に暇乞ひをして自宅へ帰る途中に於いて、再び彼の頭の中で繰り返される。(中略)

 が、此の先へ来ると又も金の工面だの病院の光景だの、それに関聯して岡本だの藤井だの堀だの吉川だのと云ふ家族の人々や一種不思議な小林と云ふ人物だのが飛び出して来て場面はます/\賑やかになるが、所謂あの事件なるものは当分の間何処かへはぐらかされてしまって居る。(中略)出て来る人間も出て来る人間も物を云ふのに一々相手の顔色を判じたり、自他の心理を解剖したり、妙に細かく神経を働かせたりして、徹頭徹尾理智に依つて動いて行く。》

《私に云はせればあの物語中の出来事は、悉くヒマな人間の余計なオセツカヒと馬鹿々々しい遠慮の為めに葛藤が起つてゐるのである。たとへば津田は、どういふ訳からか知らぬが、結婚しようと思つてゐなかつたお延と結婚してしまひながら、いつ迄も以前の恋人の清子のことを考へてゐる。そこへ吉川夫人と云ふ頗る世話好きの貴婦人型の女が出て来て、津田の未練を晴らさせる為めと称して、延子には知らせずに、彼を清子に会はせようとする。(中略)

「明暗」の読者は、此の場合をよく考へて見るがいゝ。此の婦人は立派な社会的地位のある、思慮に富み分別に富んだ相当の年配の女である。それがどんな事情があるにもせよ、既に他人の妻になつてゐる清子の所へ、そつと津田を会はせにやらうとする事は、而も津田の妻たる延子に内證で、いろ/\の手段を弄したりしてまで、そんな真似をさせようとする事は、余りに乱暴な処置ではあるまいか。彼女はまるで若い書生ッぽのやうに他人の心理解剖に興味を持ち、一時の気まぐれからハタの迷惑も考へずに、余計なオセツカヒをしに来たとしか受け取れない。然るに、彼女と同様に思慮に富んでゐるらしい津田が、又ノコノコと彼女の云ふなり次第になつて、お延の前を云ひ繕つて、清子に会ひに行くのである。彼はなぜ、吉川夫人などゝ云ふイヤに悧巧振つた下らない女を、尊敬したり相手にしたりしてゐるのか。それほど未練があつたとしたら、なぜ始めから自分独りで、お延になり清子になり正直に淡泊にぶつからぬか。さうすれば問題はもつと簡単に解決すべきではないか。斯くの如きまどろつこしさ(・・・・・・・)は、それが彼等の性格から来る必然の経路と云ふよりも、たゞ徒に事端をこんがらかし(・・・・・・)て話を長く引つ張らうとする作者の都合から、得手勝手に組み合はされたものとしか思はれないのである。》

 書かれたのは大正九年関東大震災(大正十二年)によって谷崎が関西に移住する以前の、ややスランプに陥っていた横浜時代のころにあたる。面白いのは、関西に移住してからの円熟期に書きあげた『卍』、『蓼喰う虫』、そして戦中戦後の『細雪』が、谷崎がここで批判したような、貴族趣味の、くよくよ、ぐずぐず、くだくだ、煮え切らない、ヒマな、オセツカヒの、こんがらかして、まどろっこしさの色調に染めあがり、そこにこそ文学の、読むことの、悦びが溢れていることである。しかし、水村の『続明暗』を谷崎が読んだならば、当時の谷崎の批判を免れたであろう。

 

古井由吉漱石漢詩を読む』>

 古井由吉漱石漢詩、とりわけ漱石が『明暗』執筆と同時並行で盛んに作詩した漢詩を読みながらの、『明暗』についてのエッセイは、一読者の素直な感想であるとともに、実作者としての直観に満ちている。

《最初の八月十四日の漢詩が詠まれた頃、吉川幸次郎氏が解説に書いておられる通り、『明暗』の次の箇所、「津田の妻お延が、夫のいない二階で、夫の秘密をさぐり出そうとするあたり」がかかっていた。そのさらに一週間後には、病院の二階で寝ている主人公のもとを、妹が訪れて、兄を猛烈に批判する、まくし立てる、おおよそその場面にあたる。この箇所は、『明暗』を何度読み返しても、ここまでくると放擲(ほうてき)する人がたくさんいる。長々と妹がまくし立てる。一連の漢詩の最初の一篇を詠んだ時、漱石は小説の方では最も騒々しい場面にとりかかっていたわけです。ところで、『明暗』という作品自体、ひとまずは騒々しい小説であるとは言えませんか。》

漱石の作品をとおして読み比べてみると、『明暗』は最も無理をしている小説だということが見える。『明暗』以前の小説は、主人公、あるいは他の登場人物にしても、漱石が選んだのは、自身がかなり自己投影をできる、そういう人物です。ところが『明暗』は、主人公の津田、その細君、妹、それからどこぞのマダム、これらの人びとに、漱石は違和感を覚えながら書いていると思います。

 時は大正の初めです。そのとき、三十歳であった人間、あるいはそれを囲む人間たちは、漱石とは世代が隔たっている。いわば、大正の人です。大正期に人となった人です。永井荷風の『濹東綺譚(ぼくとうきだん)』の「作者贅言」にも、大正の人間にたいして、明治の人間の違和感が述べられている。『明暗』では、それほど隔たった人間を、あえて主人公にした。

 そういう登場人物の生活や言動をつぶさに書いていこうとするけれども、筆がなかなかしっくりなじまない。そこで、いろいろな説明、形容、分析を重ねていくものですから、文章もかなり冗漫になってしまった。乱れもあります。しかしおそらくは、作家として自分を突き放す覚悟で書かれたものだろうと思います。一回ごとの消耗度は、そんな次第ですから、それまでの作品に比べて、格段に強かったと思います。》

《『明暗』についてまずいえることの一つは、人の暗愚を描いているということです。身も蓋もないことをいえば、主人公をはじめとしてよくもまあ、あれほどどうしようもない人間たちを続々と登場させるものだ、と感じます。関係のもつれや葛藤を、なまじ深刻に受け止めたりせずに、またエゴイズムなどという観念にも縛られずに、その主人公をはじめとするもろもろの人物の暗愚さの絡み合いを描き、そこから何が出てくるかを待つという態度に見えます。未完に終わっています。最後にはようやく「明」が現れ、明暗が対立しながら一つにまとまった小説になったかもしれない。それはしかし、私たちにはしょせんわからないことです。》

 無理やりに漢詩の意味と結びつけることなく、「しょせんわからないことです」と結んだ。

 

大岡昇平『小説家 夏目漱石』>

 大岡昇平は、《さてそれでは『明暗』はどういう風に終ったろうか》と推理し、その最後に《いくつかの詩案を提示しましたが、それは少し突飛で、『明暗』のこれまでの調子とは必ずしも一致していません》と断っているが、それら試案よりも、『明暗』に対する率直でリアルな感想の方が重要ではないか。

《私は人並に漱石の作品が文学入門でして、大正十二年、中学三年頃までにひと通り読みました。大抵は面白かったのですが『明暗』はどうも面白くありませんでした。諸人物の丁々発止の言葉のやり取りが、あまり理屈っぽく、わざとらしくて、子供の目には、現実でないように見えたのです。そのためずっと読み返さなかったのですが、昭和十八年、森田草平の回想や滝沢克己さんの『夏目漱石』第一版が出て、ちょっとリヴァイヴァルになった時、読み返したが、やはり会話がわずらわしかった。人物がむりにエゴイストにされているようで、吉川夫人や小林のような狂言廻し的人物の言動はわざとらしく、どうしても面白くない。やっと最後の湯河原の旅館の廊下で津田が迷うところが、実感があって面白かったが、まもなく小説は中断するのです。戦後のブームで、みなが日本の近代小説の元祖、記念碑的作品というのがふしぎでした。

 ところでこんどこの講演をするために、読み返したら、面白かった。もっともその意味は複雑でして、諸家の異なった様々な議論を導き出すテクスト、パズルとしてのテクストの興味でした。》

 

柄谷行人『意識と自然』、『『明暗』解説』>

 柄谷行人は、「漱石試論」としての『意識と自然』の中で、《漱石の小説は倫理的な位相と存在論的な位相の二重構造をもっている》、《行きどまりの先にまだ奥がある。こうした書き出しのなかに『明暗』のモチーフがいい尽されている》と書き、

《津田が温泉宿の廊下を迷路のようにさまようことからみても、われわれはここに『坑夫』のモチーフを確認できるであろう。津田が清子に会うのはほとんど「夢」の世界、異次元の世界である。泊り客に一人も出会わないような広大な宿屋をさまよう条りは、このリアリスティックな小説を暗喩的なものに変えてしまう。そのとき、われわれは漱石のなまの存在感覚が露出してくるのを感じざるをえない。「冷たい山間(やまあひ)の空気と、其山を神秘的に黒くぼかす夜の色と、其夜の色の中に自分の存在を呑み尽された津田とが一度に重なり合つた時、彼は思はず恐れた。ぞつとした」(『明暗』[百七十二])。

 この「恐れ」は、お延や小林との間で生じている倫理的(・・・)な葛藤とはまた異質であり、存在論的なものである。いうまでもないが、『明暗』もまた終末において(未完ではあるが)、漱石の二重のモチーフを露わにしはじめるのである。しかし、漱石は『門』や『行人』や『こゝろ』のようにこの小説を終了させたとは考えられない》としたうえで、

漱石は『明暗』において、「わが全生活」を「大正五年の潮流」のなかに注ぎこんだことは疑いがない。そして、漱石にもう少しの寿命があれば、われわれは『明暗』のなかにある包括的な世界像をもつことができたかもしれない。そこから見たとき、漱石以後の文学と人間の分裂と喪失の形態がより明瞭に浮き彫りされるであろうことは疑いをいれないのである》とした。ここで、夢中歩行者(ソムナンビュリスト)のような津田には漱石の投影があるに違いない。

 また、漱石『明暗』の文庫本解説で柄谷は、

《「『明暗』は、大正五年に朝日新聞に連載され、漱石の死とともに終わった、未完結の小説である。これが未完結であることは、読むものを残念がらせ、その先を想像させずにおかない。しかし、『明暗』の新しさは、実際に未完結であるのとは別の種類の“未完結性”にあるというべきである。それは、漱石がこの作品を完成させたとしても、けっして閉じることのないような未完結性である。そこに、それまでの漱石の長編小説とは異質な何かがある。

 たとえば、『行人(こうじん)』、『こゝろ』、『道草』といった作品は、基本的に一つの視点から書かれている。わかりやすくいえば、そこには「主人公」がいる。したがって、この主人公の視点が同時に作者の視点とみなされることが可能である。しかし、『明暗』では、主要な人物がいるとしても、誰(だれ)が主人公だということはできない。それは、たんに沢山の人物が登場するからではなく、どの人物も互いに“他者”との関係におかれていて、誰もそこから孤立して存在しえず、また彼らの言葉もすべてそこから発せられているからである。

“他者”とは、私の外に在り、私の思い通りにならず見通すことのできない者であり、しかも私が求めずにいられない者のことである。『明暗』以前の作品では、漱石はそれを女性として見出(みいだ)している。『三四郎』から『道草』にいたるまで、きまって女性は、主人公を翻弄(ほんろう)する。到達しがたい不可解な“他者”としてある。文明批評的な言説がふりまかれているけれども、漱石の長編小説の核心は、このような“他者”にかかわることによって、予想だにしなかった「私」自身の在りよう、あるいは人間存在の無根拠性が開示されるところにあるといってよい。だが、それらの作品は、結局一つの視点=声によってつらぬかれている。

『明暗』においても、津田(つだ)という人物にとって、彼を見すてて結婚してしまった清子という女は、そのような“他者”としてある。しかし、この作品はそれほど単純ではない。たとえば、お延(のぶ)にとって、夫の津田がそのような“他者”であり、お秀にとって津田夫妻がそのような“他者”である。

 注目すべきことは、それまでのコケティッシュであるか寡黙(かもく)であった女性像、あるいは、一方的に謎(なぞ)として彼岸におかれていた女性像に対して、まさに彼女らこそ主人公として活動するということである(最後に登場する清子にしても、はっきりした意見をもっている)。さらに注目すべきなのは、これらの人物のように「余裕」のある中産階級の世界そのものに対して、異者として闖入(ちんにゅう)する小林の存在である。『明暗』の世界が他の作品と異なるのは、とくにこの点である。いいかえれば、それは、知的な中産階級の世界の水準での悲劇に終始したそれまでの作品に対して、それを相対化してしまうもう一つの光源をそなえている。

 さらに、このことは、津田が痔(じ)の手術を受ける過程の隠喩(いんゆ)的な表現にもあらわれている。それは、たんに、津田の病気が奥深いもので「根本的の手術」を要するという示唆(しさ)だけではない。たとえば、彼の病室は二階にあるが、一階は性病科であり、「陰気な一群の人々」が集まっている。そのなかに、お秀の夫も混じっていたこともある。それは、津田やお延、あるいは小林が求める「愛」とは無縁な世界であり、津田の親たちの世界と暗黙につながっている。

 このように『明暗』には、多種多様な声=視点がある。それは、人物たちののっぴきならない実存と切りはなすことができない。つまり、この声=視点の多様性は、たんに意見や思想の多様性ではない。『明暗』には、知識人は登場しないし、どの人物も彼らの生活から遊離した思想を語ったりはしない。むろん彼らが“思想”をもたないわけではない。ただ彼らは、それぞれ彼ら自身の内奥から言葉を発しているように感じられる。その言葉は、何としても“他者”を説得しなければならない切迫感にあふれている。もはや、作者は、彼らを上から見おろしたり操作したりする立場に立っていない。どの人物も、作者が支配できないような“自由”を獲得しており、そうであるがゆえに互いに“他者”である。

 明らかに、漱石は『明暗』において変わったのである。だが、それは、小宮豊隆(こみやとよたか)がいうように、漱石が晩年に「則天去私」の認識に達し、それを『明暗』において実現しようとしたから、というべきではない。「則天去私」という観念ならば、初期の『虞美人草(ぐびじんそう)』のような作品において露骨に示されている。そこでは、「我執」(エゴイズム)にとらわれた人物たちが登場し悲劇的に没落してしまうのだが、彼らは作者によって操作される人形のようにみえる。

『明暗』において漱石の新しい境地があるとしたら、それは「則天去私」というような観念ではなく、彼の表現のレベルにおいてのみ存在している。この変化は、たぶんドストエフスキーの影響によるといえるだろう。事実、『明暗』のなかで、小林はこう語っている。

  「露西亜(ロシア)の小説、ことにドストエヴスキの小説を読んだものは必ず知ってる筈(はず)だ。如何(いか)に人間が下賤(げせん)であろうとも、又如何に無教育であろうとも、時としてその人の口から、涙がこぼれる程有難(ありがた)い、そうして少しも取り繕わない、至純至精の感情が、泉のように流れ出して来る事を誰(だれ)でも知ってる筈だ。君はあれを虚偽と思うか」

 小林の言う「至純至精の感情」は、漱石のいう「則天去私」に似ているかもしれない。しかし、ドストエフスキー的なのは、そのような認識そのものではなく、そう語る小林のような人物そのものである。小林は、津田やお延に対して、「尊敬されたい」がゆえに、ますます軽蔑(けいべつ)されるようにしかふるまえない。傲慢(ごうまん)であるがゆえに卑屈となり、また、卑屈さのポーズにおいて反撃を狙(ねら)っている。彼の饒舌(じょうぜつ)は、自分のいった言葉に対する他者の反応にたえず先(さき)廻(まわ)りしようとする緊張から生じている。

 これは、大なり小なりお延やお秀についてもあてはまる。彼らは、日本の小説に出てくる女性としては異例なほどに饒舌なのだが、それは彼らがおしゃべりだからでも、抽象的な観念を抱いているからでもない。彼らは相手に愛されたい、認められたいと思いながら、そのように素直に「至純至精の感情」を示せば相手に軽蔑されはすまいかという恐れから、その逆のことをいってしまい、しかもそれに対する自責から、再びそれを否定するために語りつづける、といったぐあいなのである。彼らの饒舌、激情、急激な反転は、そのような“他者”に対する緊張関係から生じている。いいかえれば、漱石は、どの人物をも、中心的・超越的な立場に立たせず、彼らにとって思いどおりにならず見とおすこともできないような“他者”に対する緊張関係においてとらえたのである。

『明暗』がドストエフスキー的だとしたら、まさにこの意味においてであり、それが平凡な家庭的事件を描いたこの作品に切迫感を与えている。実際、この作品では、津田が入院する前日からはじまり、温泉で清子に会うまで十日も経(た)っていない。人物たちは、何かがさし迫っているかのように目まぐるしく交錯しあう。われわれが読みながらそれを不自然だと思わないのは、この作品自体の現実と時間性のなかにまきこまれるからである。そして、この異様な切迫感は、客観的には平凡にみえる人物たちを強(し)いている。他者に対する異様な緊張感に対応している。

(中略)お延もまた津田に対して小林と同じような態度を示す一瞬がある。彼女は、津田に自分を「愛させる」という自尊心をすてて、「貴方(あなた)意外にあたしは憑(よ)り掛り所のない女なんですから」と叫びはじめる。

   お延は急に破裂するような勢で飛びかかった。

  「じゃ話して頂戴(ちょうだい)。どうぞ話して頂戴。隠さずにみんな此処(ここ)で話 して頂戴。そうして一思いに安心させて頂戴」

   津田は面喰(めんくら)った。彼の心は波のように前後へ揺(うご)き始めた。彼はいっその事思い切って、何もかもお延の前に浚(さら)け出してしまおうかと思った。と共に、自分はただ疑れているだけで、実証を握られているのではないとも推断した。もしお延が事実を知っているなら、此処まで押して来て、それを彼の顔に叩(たた)き付けない筈はあるまいとも考えた。》

 つまり、どの人物も(津田をのぞいて)、「至純至精の感情」を一瞬かいまみせるのだが、たちまち“他者”との関係に引きもどされてしまうのである。おそらく津田自身があらゆる自尊心を捨ててかからねばならぬ一瞬があるだろう。小林が津田に、「今に君が其処(そこ)へ追い詰められて、どうする事も出来なくなった時に、僕の言葉を思い出すんだ」というように。しかし、同時に、小林が「思い出すけれども、ちっとも言葉通りに実行は出来ないんだ」というように、それはまともなかたちで生じることはありえないだろう。しかし、われわれにとって重要なのは、書かれていない結末ではなく、どの人物も“他者”との緊張関係におかれ、そこからの脱出を激しく欲しながらそのことでかえってそこに巻きこまれてしまわざるをえないような多声的(ポリフォニック)な世界を、『明暗』が実現していることである。それは、一つの視点=主題によって、“完結”されてしまうことのない世界である。》

 

江藤淳夏目漱石』>

 どうもテキストから離れて人間と人生に関する自己主張を強化しがちな江藤淳だが、『夏目漱石』の「第八章「明暗」――近代小説の誕生」で次のように指摘した。

《お延の情熱的な意志は、次のような場面で端的に爆発している。ここで彼女は夫の津田に、彼の隠している過去を一切うちあけることを要求していう。

  《「ぢや話して頂戴。どうぞ話して頂戴。隠さずにみんな此処で話して頂戴。さうして一思ひに安心させて頂戴」

  津田は面喰(めんくら)つた。彼の心は波のやうに前後へ揺(うご)き始めた。彼はいつその事思ひ切つて、何も彼(か)もお延の前に浚(さら)け出してしまはうかと思つた。……彼は気の毒になつた。同時に逃げる余地は彼にまだ残つてゐた。道義心と利害心が高低を描いて彼の心を上下へ動かした。すると其一方に温泉行の重みが急に加はつた》(「明暗」百四十九章)

 津田はここで清子との過去を一切お延に告白して、お延によって救済されることも出来た。お延はあらゆる情熱を傾けてそれを求めている。ここは感動的な場面である。同時に極めて悲劇的な場面でもある。何故なら告白は行われず、お延も津田も元のままの孤独のうちに放置されるから。彼女の努力は挫折する。漱石は執拗にここでも「愛」の不可能性――現実の日常生活の世界に於ける不可能性を証明しているかに見える。しかしこのように積極的に愛情を生み出させようとしているお延の姿は、冷静に相手の感情を打算している津田の姿より、はるかに魅力的である。不思議なことには、ここには漱石その人の横顔すら二重映しになっているかのようだ。》

 

水村美苗『人生の贈物』>

《あの作品(筆者註:『続明暗』)は、一番楽しみながら書けた作品です。まずは日本語で書く喜びがありました。次に、言葉を拾うために、漱石を毎日読む喜びがあった。でも漱石と同じようにしようとは思いませんでした。漱石は物語を離れた細部がとてもいいのですが、私はまず物語を強く出さねばと。》

《同じように未完の「浮雲」(二葉亭四迷)や「金色夜叉」(尾崎紅葉)は作品が勢いを失い、途切れている。でも「明暗」は、ちょうど勢いづいたところで途切れている。続きが読めないのが毎回腹立たしく、それが書き継ぐことを可能にしたと思います。》

《作家の意図より書かれたものを重視するという、学生時代に学んだ文学理論に助けられ、漱石がどう「明暗」を終えようとしていたかより、すでに書かれたテキストの流れを大事にさえすればよいと、そう考えることもできました。

 漱石なら少し違う展開になっていたでしょうね。古い時代の男性だから。私は女だから、女性にも精いっぱい花を持たせてしまいました。》

学生時代に学んだ文学理論とは、ポール・ド・マンの批評理論である。

 ここからはたとえばの羅列にすぎないが、『続明暗』は物語を強く出したとはいえ細部描写も『明暗』にひけを取らず、『明暗』で津田の頭に浮かぶ吉川家の応接間の調度品の光景に対置するかのような、『続明暗』で人通りと電車の響きを横切って向う側へ渡ったお延の官感を出鱈目に刺激する物や人、硝子(ガラス)越しの視線の絡(から)み合い、「寝巻(ねまき)の裾(すそ)から華やかな長襦袢(ながじゅばん)の色が上靴(スリッパー)を突っ掛けただけの素足の甲にこぼれている」、「清子の胸元を飾る派手な伊達巻(だてまき)の縞(しま)」の艶やかさ。テキストの流れとは「津田の使った妥協という言葉」、「津田の出した絵端書(えはがき)」、「慰撫(いぶ)せねばならない」、病院での関の伏線。女性に花持たせたとは、呉服屋の訪れで「細かい蛤(はまぐり)の地紋」の反物を求め、下女お時にも銘仙を一反買ってやる場面の幸福な情景や、最後の抱きしめずにはいられない愛すべきお延の「明」へと向かう救い、であろうか。

 

<対談『『續明暗』と小説の行為』(対談相手 高橋源一郎

 対談での水村の言葉は、すぐれた文学・小説・テクスト批評となっている。(以下、水村の言葉のみ引用する。)

漱石はこうは書かなかった」という反応に対して。

《まずは今おっしゃったことのうちの、最大公約数的な反応ですね。漱石はこうは書かなかっただろうという反応。それには私、私もそう思うんです、というふうにお答えするしかないの。漱石が終えたであろう形で『續明暗』を終えることは、私の目的ではないんです。この前、『ちくま』にエッセイを頼まれたときに、あんまり長くなるから、結局やめたんですですけど、初めは「私が『續明暗』でやろうとしたこと」というタイトルで書こうと思っていたんです。そこでは、私が『續明暗』でやろうとしたことは、漱石が終えたようには終えないようにした、というふうにいいたかったんですね。

 それには二つの位相があるんです。まずは原理的な問題なんですけれど、作家のオリジナルな意図というのは日記からも、手紙からも知りようがない。そんなものは実証研究的にわかるようなものではないんですね。最終的には漱石の内面にあったであろう意図のようなものを想像するしかない。でもそんなふうに考えて行ったらおそれ多くて書けないですよ。しかも、問題はもっと複雑で、作家自身、自分の意図通りの作品を書くわけではないんですね。漱石の意図を推し量りながら、漱石を書きつぐということは原理的に不可能なんです。漱石って何しろ作品の終え方の下手な人でしょう。私もおしまいは苦労して、ああ、漱石もいつも大変だったんだなって同情しましたが、それにしてもまずいですよね。》

 この「原理的な問題」とは、ポール・ド・マンから来たものに違いない。

 

《でも、いきなり小説の中に入ってしまって、ここがいいとか、あそこが変だとかいう読み方は、ふつうの読者の方ならそれで当然ですけれど、批評家だったらどうでしょうね。小説に関してのどういう前提の変容が、今、漱石を続けることを可能にしたかぐらいは、一応踏まえてもらえればと思います。別の言いかたをすれば、そういう前提の変容が『續明暗』につながることに対する驚きぐらいは持ってほしい。

 私、なぜ高橋さんがこういうことに敏感でいらしたかということはよくわかるんです。『續明暗』は裏切りとか、愛とか、結婚とか、そういうものがもちろんテーマになっているわけですけれど、それと同時に文学自体がテーマになっていると思うのね。いかに小説を書くか、この時代にいかにおもしろい小説が可能か、小説とはそもそも何なのか、そういうこと自体がテーマになっているの。その部分にある程度目をやってもらわないと、コメントとしてはちょっとつまらないと思うんですね。》

 

「完結性」、「終わり方」について。

《私、そこから漱石の思想の深遠さなんかを取り出すよりも、単に連載していたとか、アメリカみたいにエディターがついてないで文句をつけたりするようなことがなかったとか、いろんなことが言えると思うんですね。もちろん、日本人がそもそも、ディッケンズの作品にあるような完結性を追求しないということがその基本にはあるでしょうけど。》

《『彼岸過迄』なんかめちゃくちゃだし、『行人』だって『抗夫』だって、あれっていう感じで終わっちゃう。『それから』なんかも、急にメロドラマチックになってしまって実にいい加減な終わり方をしている。誰だって、あんなふうに終わってほしくないでしょう。

 今、アメリカで日本文学を研究する人たちはショーセツとノベルというのは別に考えているんですね。だから漱石の小説の多くがノベルとして見たときには破綻しているわけです。でも、『明暗』というのは日本文学の中では相当ノベルに近い。ノベルに近いからこそ破綻させずにどうにか終えたいという気持ちが起るわけです。漱石自身が書いたとしたら、それ以前の傾向から考えて、『明暗』をちゃんとおしまいまで持って行けたかどうかはあやしいもんでしょう。根気が尽きるというか、どうでもよくなっちゃった可能性の方が確率的には高いんじゃあないかしら。その方が漱石らしい終わり方にもなったと思う。でも私は『明暗』は日本の中では数少ない、ノベリスティックな小説だから、一応まともな結末を与えたかった。》

 

 結末の、「お延が死ぬ説」、「津田が死ぬ説」、「清子が死ぬ説」について。

《一読者としておしまいまで読んだときに、多分、お延は死なないだろうと思ったんです。三人とも殺さずにおこう、と書き始めたときからそう思ってました。大岡昇平の説は偶然読みましたけれど、その時はそれが私のに近いというふうには思わなかったんです。実際には私のにとても近いんですけれど、私は多くの人がああいうふうに考えているだろうと思っていた。ほとんど『明暗』に関するものを読まずにいたのも、そんなにいくつも結末のヴァリエイションはないと思っていたからなんですね。いくつかはありますが、無限にはないんです。高橋さんは先日『明暗』はすべての伏線をはり終わったところで終わっているとお書きになりましたけれど、本当にそうなんです。そして伏線をはるということはプロットの自由を奪うということなんです。だから私は個人的な結末を書こうとしたのではなくて、宿題をとくように書こうとしたのよね。話の進め方が本編にはりめぐらされている伏線と矛盾しないようにと。一番多くの人が一番納得できる、もっとも当り前な結末を、と思っていました。

『明暗』は漱石の他の本の倍の長さがありますね。漱石自身珍しく破綻しないようにすごく気をつけて進んでいると思うんです。せっかくあんなに伏線をはってあるんだから、という感じで。だからある程度のところまではちゃんと進んだかもしれないけれど、どうでしょう。》

 テキスト(『明暗』)からテキスト(『続明暗』)を生み出すということ、日記や手紙や漱石解釈者からではなく。

 

ジェンダーについて」、漱石作品はみな最後は男で終わるが、『続明暗』をお延という女で終わらせたこと、会話について。

《『明暗』がお延で終わっていたという可能性は結構あったと思いますよ。と同時に私が女の書き手だから漱石よりもお延により同情がいっただろうということは当然ありうると思います。実際津田の内面なんかを書くのは面倒くさくてしょうがなかったんです、こんなくだらん男などどうでもいいって。》

《ほんとうに面倒くさいと思って書いていた。今思えば『明暗』を続けたいと思った大きな理由に、『明暗』が二本立ての主人公だったということがあると思います。主人公が二人いて、一人が女性、しかもそっちのほうがすでに漱石自身によってより同情的に描かれている。でも割合と男の人たちって、身勝手ですよね。津田と清子はどうなるんだろうって、そっちの方にばかり神経が行っているような読み方ってありますよね。》

《お延で終わらせるというのは、そういう読者に対する批判にもなりうるでしょう。本当に男の人たちってなぜ津田と清子の運命ばっかり気にしているんだろ。それ自身津田のエゴイズムの反復でしょう。》

《女性の持つ他者性みたいなものがすごくよく出ていると思うの。色気も何もなくなっちゃったようなおばさんたちなどに妙な存在感があるでしょう。「由雄さんは一体ぜいたくすぎるよ」と津田を批判する藤井の叔母さんとかね。》

《会話がおもしろいんです。会話の場面がプロットの重要な構成要因となるでしょう。単に場の穴埋めのためにあるんじゃなくて、それがどんどん物語を進めていく役割をになっているから。》

漱石の会話は真の意味において劇的ですね。だから漱石の中では登場人物の沈黙も劇的に機能するんですね。私、他の作家について教えて初めてわかりました、会話がやっぱり十分に生きていない。》

 ジェーン・オースティンとの類似は「会話」において顕著であって、とりわけ岡本家での賑やかな会話は読む人を幸福感に誘う。

 

<インタビュー『水村美苗氏に聞く 『續明暗』から『明暗』へ』(聞き手 石原千秋

 インタビューの最後の、

《作家の意図したことというのが、一方にあって、テクストというのは必ずしも作家の意図した通りに意味を生産してはくれないものでしょう。その辺りのところを、やはり批評家とか、研究者の方は、お読みになるんだと思います》を認識したうえで、それでもなお作者の言葉に耳を傾けるならば……。

 

《この作品に対しては、いろんな批判がありますが、物語が発展しないとか、当り前の終え方でしかないとか、極端な場合には主要登場人物が同じじゃないかとか(笑い)、そういうご意見もあるのです。でも、少しでも想像力のある人間なら、そんなところで独創性を発揮するのは、少しもむずかしいことではないんです。そもそも物語などというものは、いくらでもひとりで暴走するものなんですから。ただそんなところで独創性を発揮してしまったら「續」である必然性がない。「續」を書く困難も楽しみもありません。たとえば私の『續明暗』の結末と大岡昇平さんのお書きになった「明暗の結末」とが似ているという御指摘をいろいろなところで受けますが、似ているということ自体を否定的にとらえようとなさるのは、まったく的をえていないと思います。私が独創的であろうとはしなかったように、大岡さんも独創的であろうとはなさらなかった。そして二人とも『明暗』を丁寧に読んだ。それだけのことです。私自身『明暗』で与えられた与件、それだけでやろうと最初から思っていました。》

 

 現在小説を書くことの意義について。

《長い話になると思うんです。また文学理論上、非常に常識的なことも入ってくると思うんですが。

 まず、文学の読み方が変わったということが一番基本にあると思います。作家中心の読み方からテクスト中心の読み方へと移行したということですね。ここ二十年くらいの間の変化です。まず、そういう理論的背景が『續明暗』の根底にある。それをぬきにしては、漱石のテクストなどには、おそれ多くて手をつけられなかったと思います、私なんか。それと、もうひとつ、これも読み方が変わったということと基本的には関係していることですが、もう新しいことは何も言えないというたぐいの認識ですね。これはちょっと不幸な認識です。でも現代の意識的な作家には共通した認識だと思います。もちろん近代小説とは、新しいことは何も言えないという問題を、常に内在的に含んでいたものだと思うんですが……》

《要するに、近代小説は、新しいこと、オリジナルなこと、そういうことを言うのに意味を見いだすジャンルとして成立した。だからかえって、新しいことは何も言えないっていう問題、つまりオリジナルな言説の不可能性というような問題も抱え込むことになったんだと思います。何しろ、既にフローベールなんかが、新しいことは何も言えないっていう認識自体を小説の主題にしたりしているわけですよね。

 いずれにしろ、そういうオリジナルな言説がある。その背後にそういう言説を発した一人の人間を見ることになるのです。つまり、『明暗』の背後に漱石を見る。「則天去私」という境地に達した漱石でも、達することのできなかった漱石でも、どっちでも同じことです。小説の背後に作家を見る。それが作家中心主義ですね。小説の解釈の中心にあるべきものが、作家という一個人であるという……。

 そして、そういう作家中心主義を可能にしているのは、こんなの言うまでもないことかもしれませんが、人間中心的な言語観ですね。それ自身、近代文学の根底をなす言語観です。言葉を個人の意識の表現としてとらえるという……。そういう言語観のなかでは、言葉はいわば二次的なものでしかない。そのかわり、個人の意識というものが、一時的となってくる。だから当然のこととしてテクストよりも作家の方が中心になるわけです。デリダにロゴセントリズム批判っていうのがありますよね。書き言葉を話し言葉よりもおとしめるのが、ロゴセントリズムであるっていう。難しいような、やさしいような話です。そんなものも、今申し上げたような人間中心的な言語観に対する、批判のひとつとしてとらえられるものだと思います。

 作家中心主義というのは、表現する側から言えば、まず自分というものがある。自分のなかにあるのは、悲しみでも、苦しみでも、何でもいいんですけれど、究極的には「言葉に言い表せないような」思いです。極めてオリジナルな、かつて言語化されたことのないような思い。そんな思いを不十分な形ではあっても、言葉によって言い表わしたのが作品だというわけです。読者に求めるものは、作品を通じての自分への理解というところに行き着かざるをえない。

 もちろん少しでも言葉に敏感な作家は、作家と作品の関係なんてそんなものじゃないっていうことを、常に言い続けています。例えばそういう作家中心主義的な解釈の第一人者サント=ブーブに対して、プルーストなんかでも『サント=ブーブに反対する』というのを書いていますね。しかもプルーストは『失われた時を求めて』の中に、そういう作家中心的な読み方をする人のクリティックというか、茶化すような部分を入れています。『赤と黒』を読むよりも、スタンダールと一緒にディナーのテーブルに座っていたほうが、より『赤と黒』についての理解が深まっていると思っている公爵夫人が出てきたりして。そして、もちろん漱石自身このような作家中心主義的な読み方をされてきた。神格化されてきたわけです。

 神格化されるということには、いろんな意味がありますよね。偉い人だって思われたり、教科書に出てきたりするのも、神格化の一部だし、お札に顔がのったりするのも、もちろんそうですね。こんなふうに『文学』が特集を組むのも、それと無関係ではない。でも、作家とテクストの関係で言えば、要は作家が神のような立場にある人間として見られるということですね。テクストの創造主。創造主であるからこそ、テクストの本当の意味を知っている人間。極端に言えば、『明暗』の本当の意味を知ってるのは、漱石のみだということになります。まさに神のみぞ知る。(笑い)『明暗』は犯してはならないものとして、存在してしまうんです。

 ところで今、作家たちを見ると、まず一方には、自分がこういうことを経験したということを、ナイーブにそのまま書いている作家がいます。もう一方には、書けないということ自体がテーマとなっているもう少し意識的な作家がいる。私はどっちかというと、書けないということがテーマにならざるを得ないようなところで、訓練は受けているわけです。それをどうつき破るか、それを書けるという状態に持ってくるのにはどうしたらいいかというところで『續明暗』なんていうものが出てきたのも、こういう作家を中心とする読み方が、すでに過去のものとなりつつあるせいですね。

 ポストモダニズムという概念がありますね。ポストモダニズムって意味の戯れなどというふうに理解されていますが、あれは根本的には歴史的な概念なんですね。新しいことはもう何も言えないという……。実際に新しいことが何も言えないかどうかということではなくて、新しいということに意味がない。そもそも、新しいことの意味がわからない。進歩というテロスを失ったときに出てきた歴史的な概念です。その時、過去のすべての芸術形態が同じ価値をもって目の前に並ぶわけです。》

 

「引用」について問われ。

《そもそも『續明暗』自体が広義の意味の引用そのものなんです。私自身が書いている時の大部分は、意味の中にどっぷり浸かって書いている。でも、そういうこととは別に、引用で書けるということを、やっぱり言いたかったんですね。『續明暗』に入っている引用というのは、偶然入っているんじゃなくて、引用が多ければ多いほどおもしろいというふうな意味があって入っているわけですね。

 私たちが言語をつくるんじゃなくて、私たちは言語の中に生まれてきただけである。私たちは与えられた言葉を必然的にしようがなくて使っているだけで、言葉というものは私たちがつくるものじゃないわけですね。そういう意味ではオリジナルな発話(エナンセーション)というのはまったくあり得なくて、全部が引用なわけですよね。引用する以外に自己表現がないですから。というよりも、引用、つまり、言語によってしかそもそも自己などというものも概念として構築されない。『續明暗』での引用は、いわば、そういう理論的な意味が、その中心にあるわけですね。もちろん引用だからといってパロディー的に引用してしまったら、その意義も薄れます。ふつうの読者におもしろく読んでいただけるように書きながら、それが引用であるという、その二つが両立していないと私が問題にしているような点がはっきり出てこないと思うんですね。パロディーというのはパロディーとしてできるとは思うんですけど。》

 たとえば、『行人』からの三味線の音、「東京辺(へん)の安料理屋より却(かえ)って好(い)い位ですね」、パロディー的には安永の義太夫日高川」(清姫安珍を恋慕い、蛇体となって日高川を渡り道成寺へ向かう)、『二百十日』からの豆腐屋の剳青(ほりもの)とヂッキンスと仏国(ふつこく)の革命の会話、『夢十夜』からのぴちゃぴちゃという冷飯草履(ひやめしぞうり)、などなど。

 

 津田と清子の小旅行における漱石『行人』の嵐の場面の暗闇の中の性的緊張、清子の二重瞼(ふたえまぶち)と『三四郎』の美禰子のそれ、などの引用の効用を問われて。

《それはやっぱり、引用するブロックの大きさによると思うんですね。『續明暗』には単語の単位の引用もあれば、文章の単位の引用もあります。引用が状況全体におよんだときには、今おっしゃったような部分は当然生まれるだろうと思います。大体自分としても、『行人』のあの場面が極めて性的な場面だったという印象が強いので、ああいうふうに使おうという発想も生まれてくるわけですから。引用の範囲のブロックの大きさによるんじゃないでしょうか。》

 

「終わり方」について聞かれると。

《私、『明暗』に関する研究書をほとんど読まなかったんですが、それはひとつには先ほども少し申し上げましたように、終わり方にそんなにバリエーションがないと思っていたからなんです。だからほかの意見を参考にするまでもないと思いました。『明暗』という小説は、要は三角関係の話ですから、終わり方の基本的なバリエーションというのは、二つの軸線をめぐってあるだけだと思うんです。津田と清子が一緒になるかどうかがひとつ。お延がどうするのかがもうひとつ。自殺をするのかどうかとか。『續明暗』がもっとも明確に否定しているのは、津田と清子が一緒になるという終わり方です。私自身、そこでは別の可能性というものは考えられませんでした。

 津田は顔も頭もいいし、まったく魅力のない主人公だとは思いません。現実世界であの程度の男に会ったとしたら、恋愛だって可能だと思う。むこうが何というかはわかりませんが。(笑い)でも作中人物として愛されてはいない。というよりも、愛するべきではないというサインが、テクストのなかに散りばめられていますね。例えば重役室で吉川の煙草にマッチをぱっと擦るところとか。》

《何しろ津田というのはそういう俗物性というものが、はっきり出ている主人公ですね。だから清子のような女と一緒になる、ロマンスの主人公たりえないと思うんです。三四郎でも、代助でも、いろんな欠点はあるわけですが、でも、俗物ではない。小林が一生懸命、朝鮮行きだかドストエフスキーだかのことをしゃべっているときに、どうしても襟飾りが気になって直してしまう場面もありますね。そういう主人公は、漱石としてもちょっとめずらしい。

 そもそも『明暗』というのはひとつの問をめぐって展開する小説だと思うんです。なぜ清子が津田のもとを去っていったのか、という問ですね。冒頭で津田自身が自分に問いかける問です。そして、重要なのは、その問が実はふたつのレベルで問いかけられているということです。津田という作中人物の意識のレベルと、津田のあり方を、ほかの作中人物との関係のなかで見ることの出来る読者の意識のレベルです。

 津田には自分の倫理性の欠如というものがよく見えない。ところが読者には、それがはっきりと見える。津田がどういうふうに他者とかかわり合うかを見ているうちに、だんだんと見えてくるんです。冒頭では読者も津田と同じようにまだ無知のなかにいます。でも先を読むにつれて、読者の方はわかっていくわけですね。こういういい加減な人間だから女に捨てられたんだろうということが。

 ですから、清子が津田と一緒になってしまったら、そもそも何のために清子が津田を捨てたのかわからない。津田は自分の問に対する答を、まさに「事実其物に戒飭され」て知る必要のある人物だというふうに設定されているんですね。》

 

 マイナスの主人公(津田)をマイナスのままで終わるのは、ちょっと芸がないなと思った、と言われると。

《最後はあれで救ったつまりなんです。真剣に話している小林の襟飾りを直すというのは、要するに他者の問題に飛び込めずに、常につまらないことが気になるということですね。それは結局彼の自意識と同じことだと思うんです。だから最後の場面では、一応自己の体の危険をおかしてもお延を……。肉体的にそういう反応に出てしまったということで、私はそれを一応自己改革の一歩としてとらえようとしたわけです。死ぬことに対して恐怖心を持っているのは当り前ですが、「自己の快楽を人間の主題」とするというふうに規定されている人物です。しかもみっともない格好は絶対したくない男でもある。それが、下血しながらガニまたで追いかけていくことによって、そういう小自我みたいなものをどこかにうっちゃってしまっている。ひたすらお延の許しを乞うしかないところに自分の身を置くわけです。そんな所を描いて、私はある程度救ったつもりでした。》

 

 恋愛至上主義、恋愛結婚について。

《清子のほうも、いったん恋愛というものをあきらめた上で関と一緒になっている。けれども恋愛による結婚が理念であることには、変わりはない。最初は、私も迂闊に読んでいたから、病院での関の伏線というのがわからかったんですね。何回か読んでいるうちにようやくピンときて、理想形態じゃないというのがわかりました。より理想的な人を選んだのではなく、『三四郎』の美禰子と同じようにコンヴェンショナルな結婚を選んだわけです。だから、恋愛至上であることには変わりはない。でも、恋愛相手だったらこうあらまほしいというのがあって、それに津田はちゃんと応えてくれない。温泉まで追いかけてきたくせに応えてくれない。お延ももちろん恋愛至上です。》

 

 蓮實重彦がテマティックな批評で指摘した漱石のテーマである「水」(『明暗』、『続明暗』でもここぞという場面では雨が降り、温泉の洗面所では四つの金盥(かなだらい)から水が溢れ)や「縦の構図」(『明暗』における梯子段(はしごだん)の上り下り、滝)と同じくらい「鏡」漱石のテーマで、病院の「顕微鏡」、歌舞伎見物の「双眼鏡、オペラグラス」、津田が温泉で迷ったときに姿を映す「鏡」、清子の部屋の黒柿(くろがき)の縁(ふち)と台のついた「三面鏡」(『続明暗』では宿に到着したお延のために同じものが運び込まれる)があり、そして『続明暗』の最後には「手鏡」を持つお延が出てくる。

《お延は、美人じゃないという自己規定がある女の人で、だから内面がある。劣等感と内面とは同じものですから。お延によって漱石の中で初めて強烈に内面を持った女性が誕生したわけです。漱石の美人型の女性というのは、存在感はあるけれども、内面に深く入り込むことは不可能でしょう。しかしお延は入り込みやすいわけです。

 津田が清子と一緒になれるかどうかというところへ主眼を置いた読みというのは、美人というサインを特権化する、すごく素朴な、ほとんど神話的な読み方です。私は『明暗』は、そういう読みを不可能にしている小説だという気がします。だから最後までお延の容姿の劣等感も出したかった。》

 電燈のスウィッチを捻り点(つ)けることで明と暗の場面転換を繰り返すのと同じほどに、水村は、清子の二重瞼(ふたえまぶち)と相対する、お延の細い眼、一重眼(ひとえまぶち)を反復描写する。

 暗喩ということでは、『明暗』で執拗に反復、変調される、津田が帰宅時に玄関を開け、お延が迎えるという日常行為における津田の性向と結婚生活の力学や、偶然とポアンカレーと御神籤と予言や、《「あたしはどうしても絶対に愛されて見たいの。比較なんか始めから嫌いなんだから」》とお秀に主張したお延が、温泉行きの津田に持たせた褞袍(どてら)より宿の方が上等であったと津田が深層心理的に連想する「お延と清子」を「較(くら)べる」アイロニー

 

「お金」は、漱石が読みふけった、英国ヴィクトリア朝時代、資本主義勃興期の、ジェーン・オースティンの世界の土台である。岡本から小切手を貰ったお延は、岡本の差し金で来た呉服屋から反物という商品を買い、それをまた質屋へ入れて金に変える。

《お延の場合は、彼女自身の存在のあいまいさのようなものが、岡本が実家ではないということから出てきていると思うんです。もし実家だったら、彼女の交換体系の中での嫁としての立場はもっと強いものになったでしょう。》

《嫁入りのときに岡本がずいぶん負担したとあります。岡本が実家ではないから吉川との関わりも薄い。そのかわり、岡本が実家ではないからこそ、愛があっての結婚だと思い込めるんです。岡本の後光のもとでやりながらもそのことに無意識でいられるというような構造になっていますね。好都合な盲点を生み出せるような構造になっている。

 いずれにせよ、強い父親がいないということは、最後には決定的に作用してきますね。温泉場に岡本が行かないのは継子の見合いによるものですから。やっぱり岡本は親ではない。》

《お延が結婚の交換体系の中で、弱い立場にあることが露呈されて行くわけです。そもそも岡本が実家だったらもっと簡単に戻れるわけです。戻る場所を失っている女だから……。》

《しかも同時にお延には自己のアイデンティティというものがあって、彼女は利口な女、取り仕切れる女という、そのアイデンティティを保ちたいというところが強くありますでしょう。》

《そうそう、愛人的ですね。だからそれは必ずしも主婦的ではなくて、要するに女の人の価値というのは、男の人から絶対的に愛されているときに、それは社会的に意味のある男性のほうがいいわけですけれども、そのときに生じるというような構造があるんです。だからお延が愛されたいという気持ちと、彼女の見栄というのは切り離せない。》

《片方だけで読むと、非常に功利的なつまらない女になるし、もう片方だけで読むと、これまたメロドラマの女主人公みたいで馬鹿みたいですよね。そこが分かちがたく結びついているのがリアリティーを生んでいると思います。》

《必然性はないんですけれど、質屋というものが本編の出だしに出てきますし、何となくあんなふうにやりたくって。結果的にはお延に自由になるお金の性質というものが、それでさらにはっきりしてきたと思うんですね。主婦は基本的にはお小遣いがないんですよ。ああいうお金しか自由になるお金がないから、それを使ってしまったら、それをまた現金にかえるしかない。ことに、実家にも岡本にも甘えるのをいさぎよしとしないお延にとっては、もうあのお金しかないわけです。》

《必需品ではあるけれども、今年は京都からも仕送りを期待できない、となると同時に、贅沢品だというふうにも見られる。要するに、どちらともとれる、あいまいなお金ですね。私はあそこで、主婦としての自己よりも、愛人としての自己、アイデンティティの確立というものをそこでもう一度試みようとしたというふうに、まずは考えたかったんですけれども。

 あの呉服は春の日の光の中で夫に見られるということを意識して買っているわけです。津田に対して女として魅力的に見えるかなというところでもう一回賭けてみよう。お延がそういう決断を下しているというふうに、私は思っていたんです。

 ところが、無残にもそれどころではなくなる。あたふたと現金にかえて行かなくてはならない。一筋の希望が見えた後の失望ということでしょうか。》

 

水村美苗『「野間文芸新人賞」受賞スピーチ』>

《さて、その「大教授」(筆者註:水村『私小説from left to right』(野間文芸新人賞受賞)に「大教授」として出てくる人物、ポール・ド・マンのことで、イェール大学の「脱構築(deconstruction)」批評の中心にいて、水村は深い畏怖の念と尊敬を抱いていた)によれば、文学というものはふつう私たちが考えているものとちがって、徹頭徹尾空虚なものなのです。それを空虚なものだと思わないのは、私たちの、言葉に対する認識が足りないからだけなのです。「大教授」は言います。言葉とは私たちが意図したことを言っているとは限らない。それどころか、私たちの意図を越え、しばしば、まるで反対のことを言ってしまう。そして、それは、言葉というものはその本質において、記号と意味とが乖離せざるを得ないものだからである。

 もちろん、人間とは言葉を使う存在である限り、意味にとらわれざるをえない存在です。それでいて、言葉の本質というものは、意味にとらわれた人間の意図を裏切らざるをえないものなのです。

 ところで、その「大教授」が一番やりだまに挙げたのはThe language of selfhood――すなわち、人が「私」というものにかんして語る時の言葉でした。人は「私」というものにかんして語る時ほど、誤謬におちいる時はない。なぜなら、人は「私」というものにかんして語る時ほど、自分の意図した意味の自明性を信じることはないからです。

 だから文学というものは、作家が何を意図しようとも、作家の自己認識に通じるということはあり得ない。解放につながることもあり得ない。癒すこともあり得ない。そもそも、作家が自分に言いたいことがあると思うのも、そして、それ以前に、自分というものがあると思うのも、疑わしい。たとえば、ルソーの『告白』といえば、私小説の元祖のようなものですが、その『告白』について「大教授」は、そこに出てくる「自分」などという概念は、たんに言葉の副作用のようなものでしかないかもしれないとも言っています。

 要するに、「私」というものにかんして言えば、ないないづくめなのが文学なのです。

 今思えば、『續明暗』を最初に書いたのも、「私」というものをかけ離れたところで書くことによって、そのThe language of selfhoodを通らずに済ますことが出来ると思ったからかも知れません。》

 

水村美苗漱石と「恋愛結婚の物語」』>

《恋愛結婚の物語を一言で要約すれば、人がいかに理想の結婚にゆきつくかという物語です。理想の結婚とは、もちろん、相思相愛の結婚をさします。でもそれはたんに好きな者同士の結婚ではない。それは、男女の現実の出会いに先行する理念なのです。相手を絶対的に愛するもの同志――相手が自分にとって神のように絶対的であるもの同志の結婚という、理念なのです。そして、人は自らの自由意思を正しく行使することによって、その理想の結婚にゆきつく。いいかえれば、どのような結婚にゆきついたかでもって、人がいかに正しく、あるいはまちがって、自らの自由意思を行使してきたかが見えるのです。恋愛結婚の物語では、結婚こそが、その人の人間としての価値を映し出す鏡となるのです。(中略)このような恋愛結婚の物語が、英国ヴィクトリア朝で花ひらいたのも当然のことでした。そこではいち早く資本主義が発達し、いち早く個人主義が確立し、いち早く女が自分で自分の生を生きるのが可能になった。しかも、そのような女の中には作家がおり、彼女らはまさに恋愛結婚をめぐる物語を書いて、食べてゆこうとしたのです。恋愛結婚の物語が、何よりもまず、自分で自分の人生を切り開いてゆこうとする女の物語であるのは、このような女の作家たちの存在と切りはなせません。

 明治維新のあと、西洋の文芸が日本に入ってくるや否や、恋愛結婚という理念は若い世代を熱病のようにとらえました。でも、そもそもの核をなす、絶対的な愛などというキリスト教を背景とした理念が、いかに異質なものであったか。何しろ見合い結婚という汎理念的な結婚――漱石の言葉でいえば「お手軽」な結婚がゆきわたっていた国です。そしてそれは、うまく機能しており、日本の女もとりたてて不自由を感じていない。日本の現実の中で、見合い結婚に是が非でも反対し、恋愛結婚の理念を高く掲げねばならないような必然はどこにもなかったのです。事実、その後の人々の結婚は、恋愛結婚でも見合い結婚でもあるような、不分明な結婚に落ち着きました。作家が文学の中で恋愛結婚を大まじめにとりあげることもありませんでした。

 驚くべきは文学の力です。

 その中で唯一漱石だけが、恋愛結婚というものを大まじめにとりあげたのです。英文学を嫌い、英文学に反発しながら書いた漱石ですが、英文学を当時のどの作家よりもよく読み、よく読んだことによって、理解してしまったのです。そのあげく、気がついたときは、恋愛結婚という理念にとらえられていた。そして、見合い結婚と不分明な恋愛などはありえないことに、こだわり続けて書くにいたった。しまいには、なんとヴィクトリア朝の女の作家たちの、息吹が感じられるような小説を書くにさえいたったのです。

 それがあの『明暗』です。漱石の中で初めて、女主人公の視点からも物語が語られたというだけではない。お延は、まさに、「自分の眼で自分の夫を撰」ぶという女――自分で自分の人生を切り開こうという女なのです。同時に、まさに、絶対的な愛という理念を心に掲げている女でもあるのです。彼女はたんに夫に充分愛されていないのが不幸なのではない。絶対的な愛という理念にかんがみて、自分が理想の結婚をしていないという自覚が、彼女を不幸にしているのです。

「何うしても絶対に愛されて見たいの。比較なんか始めから嫌ひなんだから」

 何しろこのように、翻訳小説のようなせりふをはく女です。だからまわりの女たちからは疎まれる。夫からはうんざりされる。怖がられもする。この日本の現実にどうして絶対的な愛など要るのか。ところが、『明暗』の世界にとりこまれてしまった読者にとって、お延の理念の必然は自明のものになってしまっているのです。私たちはお延の運命に一喜一憂して、文章を追ってゆくのです。

 小さいころ少女小説によって耕された心の一部を、漱石の『明暗』は知らぬまに掘り起こしていたのでした。そしてそれが『續明暗』につながっていたのでした。それに気がついたとき、時代を越えて、海を越え、男女の差を越える文学というものの力――言葉というものの力を知ったように思います。》

 

水村美苗『女は何をのぞんでいるのか――ジェーン・オースティン高慢と偏見』>

 ジェーン・オースティン高慢と偏見』を漱石は好み、その『文学論』で繰り返し引用しつつ「写実」について論じた。水村美苗『女は何をのぞんでいるのか――ジェーン・オースティン高慢と偏見』』に書かれていることは、『明暗』のハイライトともいうべき津田という男の問題であった。小島信夫も『漱石を読む』で指摘したが、『明暗』で津田は聡明であると漱石のお墨付きをもらっていながら、あることがわかっていない、そのことには少しも気がついていない、お延はそのことを感じていないというわけではないが、よくは分かっていない、分かる時がくるであろう、しかし清子はわかっていた、『続明暗』で問われ、答えて東京へ帰って行く。

《「いったい女は何をのぞんでいるのか」――女の欲望を前に困惑したフロイトの問いは有名です。『高慢と偏見』という小説は、まさに、「いったい女はどんな小説が読みたいのか」という問いに対する答えのような小説なのです。そしてそれは、「女は何をのぞんでいるのか」という問いそのものに答える小説だからにほかなりません。(中略)

 いったいこの娘は自分を愛しているのだろうか――この問いが究極的に、「いったい女は何をのぞんでいるのか」という問いにつながることはいうまでもありません。実際、「女は何をのぞんでいるのか」を問わずに、女を愛せるでしょうか。というよりも、「女は何をのぞんでいるのか」を問おうとすることこそ、女を愛することではないでしょうか。

 女は何をのぞんでいるのか。

 女は何よりもまず、男が「女は何をのぞんでいるのか」という問いを問うてくれるのをのぞんでいるのです。

 その問いを問わずにいたダーシーの「罪」は重くて当然です。しかしダーシーは幸い現実の男ではありません。女の作家の描いた男なのです。「女は何をのぞんでいるのか」を問わなかった自分の「罪」を深く恥じ入る心をもっている。深く恥じ入る心をもっているがゆえに、女にとっての理想の男となるのです。》

 いわば、漱石という男が『明暗』で焦点化した問題に、水村という女が『続明暗』で答えを示したとも言える。津田の「盲目」の罪と、かろうじて最後に下血しながらもお延を追う恥じ入る心との。

 

***<附>***

ポール・ド・マン『読むことのアレゴリー』>

 ニュークリティシズムの精緻な読解の土壌に脱構築(ディコンストラクション)批評を開花させたポール・ド・マンの、イェール大学での最後の生徒の一人だった水村美苗の小説を論じるとき、水村がド・マンに関する評論を発表していることを忘れるべきではない。

《――あまり速く読んだり、あまりゆっくり読んだりすると、何もわからない――(パスカル

『読むことのアレゴリー』は、右の、『パンセ』からの引用をそのエピグラフとして本の冒頭に掲げている。ところで、このエピグラフ自体、はたしてわれわれは読むこと=理解することができるのであろうか。》

 この問いかけから水村は、ブックガイドとしての『ポール・ド・マン 読むことのアレゴリー』を論じている。

《たとえばわれわれは『パンセ』に即してこう言えるかもしれない。

 人間は無限に大きなもの(「無数の宇宙」)と無限に微細のもの(「自然のなかの最も小さなもの」)、すなわち「無限と虚無」という「二つの無限」の「中間」に在る。それは、人間が「無限に対しては虚無……虚無に対してはすべて」だというような中途半端な存在であり、「両極端を理解することから無限に遠く離れて」いるということにほかならない。人間にとっては自分の大きさに見合ったことをかろうじて理解することしか能わず、「事物の究極もその原理も……立ち入りがたい秘密のなかに固く隠されて」いるのである。したがって、速すぎてもゆっくりすぎてもわからない、という読む行為に見いだされるあやうさは、両極端の間のきわどいバランスの上でしか成り立たない人間の理性のあやうさのひとつの比喩だと言えるだろう。》

 そのような警句として捉えることはパスカルからの引用であればなおさら自然ではあるが、もし字義どおりに、あまりにゆっくり読みすぎてしまったらどうなるのであろうか、と水村は問いかける。

《読めば読むほど、「あまりゆっくり読んだりするとわからなくなる」という言葉をモラルのこもった警句として読むべきか、そのまま真にうけて読むべきか、すなわち、比喩的に読むべきか文字どおりに読むべきかがわからなくなる。そしてその結果、「あまりゆっくり読んだりするとわからなくなる」という言葉が文字どおりに理解され、パスカルからの引用は同じ形をしていながらまったく違う文章としてその姿をわれわれの前に現すのである。

 しかもこの同じでありながら違うふたつの文章の違いはどうでもいいような違いではない。あやうさは、はたして人間の理解力に内在しているのか。人は言葉か。主体としての作家かテクストか。言わんとしていることか、言っていることか。意味か記号か。解釈か詩学か。パスカルの引用は現代批評のアポリアへとまっすぐわれわれを導いていくものである。》

 水村を、あまりド・マンにつきすぎて読んでも、離れて読んでも、わからなくなる。とはいえ、ド・マンにつきながら水村を論じた批評を目にしないので、ここでは少しばかりド・マンに添ってみる。

『続明暗』の物語構造においても、水村の次のような文章と共鳴しあうだろう。さらには『明暗』と『続明暗』の恋愛もまた「理解することの不可能性」の物語として姿をあらわす。

《読み手としてのわれわれはテクストを読むことができないし、ナラティブ(物語り)としてのテクストは――まさにパスカルからの引用のように――読むことの不可能性、そして、みずからを読まれることの不可能性をものがたっているのである。しかも、われわれは、その不可能性の前に安住していることはできない。言語が言語であるかぎり、それは、読まれること=理解されること、つまり意味をなすことをわれわれに要求し続けるものである。意味と意味とのあいだのアポリアとは、究極的には、読むことの不可能性と理解されることの絶対的必然性とのあいだのアポリアにほかならない。そのアポリアは決してスタティックなものではありえず、永久運動を続けながら、より高度な(アイロニカルな)アポリアへと突き進んでいくものなのである。》

 

水村美苗『リナンシエイション(拒絶)』>

 水村の評論『リナンシエイション(拒絶)』(「註」によれば、《このエッセイはド・マン教授が亡くなって間もなく行われた筆者の口頭試験において、同教授のために用意された主題の代わりに発表したものから生まれた》)にこうある。

《ある書き手の死がかれを読むことにおいて何らかの差をもたらすとする。かれの手で書かれたものをそれなりの歴史(history)を持つものとして把握したいという衝動がやみくもにわれわれを捉えるのは、そのひとつの表れであろう。終わりは始めを、そして始めと終わりとを結ぶ面白い物語り(story)を求める》と、漱石という書き手の死で中断された『明暗』の続編としての『続明暗』という小説を書くことを暗示しているかのような文章で始まる。

 

《「再生の悦びを感じたと思うとき、そのような変化が実際にあったのか、それとも、以前の未解決なままのオブセッションを微妙にちがう形で繰り返しているに過ぎないのか、それは私自身には最後までわからないであろう。」》

 水村が強調した語彙は、ド・マンを読むことへの水村の関心のありかを明らかにしているだろう。『続明暗』とは「再生の悦び」によって書かれており、最終章のお延に「再生の悦び」を感じはしないか。

「再生の悦び」、「未解決なままのオブセッション」、「繰り返し」、「拒絶(リナンシエイション)」、「誘惑」、「犠牲」、「存在を引き裂く亀裂」、「近代の『衰え』」など、《死、苦悩、悲哀、内面性、内省、意識、自己認識といった懐かしい言葉が棲息する文学の古典へと再び舞い戻ってきたという気がするのである》とは、ド・マンを読んだ水村の素直な感想と結びつく。

 そしてまた、「拒絶(リナンシエイション)」に清子の「拒絶」を連想しうる。

 

ポール・ド・マン『盲目と洞察』>

 ド・マン『盲目と洞察』の第Ⅶ章『盲目性の修辞学』のエピグラフは、《「……解釈をまじえずに、テクストをテクストとして読みうるということ、それは<内的経験>のもっともおくれてあらわれる形式――おそらくはほとんど不可能な形式であるかもしれない……。」 ニーチェ、『力への意志』四七九[1]》である。

 

ルカーチブランショ、プーレ、そしてアメリカの「新批評」の著作家たちからは、文学言語のきわだった特性についての膨大な洞察を学ぶことができるが、それは文学作品の観察や理解から引き出された認識を明白な仕方で言明するような、彼らの直接的言表によるものではない。どの場合でも必要なのは、断定的な傾向の強いいくつかの言明にとらわれることなく読み、それらを他の、はるかにためらいがちな発話、ときには危うく断定的言明に矛盾しそうに思えるいくつかの発話に対置してみることである。とはいってもそうした矛盾は、互いを排除し合うものでもなければ、弁証法的総合の力学に入って行くこともない。矛盾や弁証法的な運動が始動しえないのは、顕在性のレベルが基本的に異なるために、二つの言表が言説の共通のレベルで出会うことがないからである。ちょうど影の中で太陽が、あるいは誤謬の中で真理が隠れてしまうように、ひとつの言表の内部では見えなくなってしまうのだ。それに対して、洞察は、批評家の思考を活気づける否定的な運動から得られてきたように見える。それは暗黙の原理として、批評家の言語を言明された立場から連れ出し、彼の表明した見解を転倒・解消して、その内実が空洞化され、あたかも断定する可能性そのものが疑問視されるような地点にまで至らしめる。だが、正しく洞察と呼ばれてしかるべきものへと導くのは、こうした否定的で見たところ破壊的な活動にほかならないのだ。》

《奇妙なことにこれらの批評家たちはすべて、彼らが言おうとしたこととはまったく別なことを言ってしまう宿命になっているようだ。彼らの批評的立場――ルカーチの予言者的傾向、プーレの起源的コギトの力への信念、ブランショのメタ・マラルメ的な非個人性への要求――が、彼ら自身の批評の結果によってくつがえされてしまうのである。そして後に残るのは、文学言語の本性に対する透徹した、しかし困難な洞察だ。けれどもこの洞察がえられたのは、まさに批評家がそうした独特の盲目性にとらわれていたからなのである。彼らの言語がある程度まで手探りで洞察に向かって進みえたのは、まさに、彼らの方法論があくまでそうした洞察に気づきえなかったからにほかならない。そうした洞察は、読者にとってのみ存在する。読者は、著者の盲目性――自分が盲目かもしれないという問いは、著者には定義上問うことができない問いだ――を、それ自体意味のあるひとつの現象として見ることができるし、したがって言表と意味とを識別することができるという、特権的な立場にあるからである。読者のしなければならないことは、ある視覚のもたらす明示的な成果を解体することである。そうした視覚は、すでに盲目であり光の脅威を恐れる必要がなかったからこそ、光に向かって進むことができたわけだ。けれどもその視覚は、その旅の過程で自分が何を見てきたかを、正しく報告することができないのである。このように、批評家たちについて批評的に書くことは、盲目の視覚とでもいったものの逆説的な有効性について考察するための、ひとつの方法となるのであり、そうした視覚はみずからが意図せずにもたらした洞察の力によって矯正されなければならないのである。》

《批評家は作品が言っていないことを言うだけではなくて、自分自身が言うつもりのないことを言っているのである。(中略)批評家たちが、彼ら自身の批評的前提に関してもっとも盲目となる瞬間は、同時にまた彼らが最高の洞察に到達する瞬間でもある。トドロフが正しく述べているように、素朴でありながら批判的な読書とは、実は「エクリチュール」の現実的あるいは潜在的形態なのであり、読書が行われた瞬間から、新たに発生したテクストはオリジナルを無傷のままにしてはおかない。二つのテクストは、互いに闘争状態に入ることすらありうるのだ。》

 この「盲目」に津田の問題を見ることは可能であろうか。

 

《ルソーは、常に体系的に誤読されている一群の作家の一人である。わたしはこれまで、批評家たち自身の洞察にかかわる彼らの盲目性、彼らの述べた方法と彼らの感知したものとの隠された不一致について語ってきた。文学の歴史においてもその歴史編集においても、こうした盲目性はある特定の作家についての、くりかえし起こる異常な解釈のパターンという形をとることがある。このパターンは、高度に専門的な注釈家から、その作家を一般的な文学史の中に位置づけ分類するための曖昧な「通念(idées reçues)」にまで及んでいる。それは、その作家に影響を受けた他の作家たちを含むことすらある。もとの発話が両面的なものであればあるほど、その追随者や注釈家たちの一致した誤りのパターンは、画一的で普遍的なものになる。すべての文学言語、そしていくつかの哲学言語は本質的に両面的なものだという観念を、人は原則的にはあっさりと認めるにもかかわらず、ほとんどの文学の注釈や文学的影響に含まれている機能は、いぜんとしてこうした両面性を矛盾へと還元したり、作品の中の混乱を招く部分を隠蔽したり、あるいはもっと微妙な仕方で、テクストの内部で働いている価値づけの体系を操作することによって、何とかして両面性を払いのけようとしているのである。特にルソーの場合そうであるように、両面性がそれ自体哲学的命題の一部をなすときには、こうしたことは非常に起こりやすい。この点からみればとりわけルソー解釈の歴史は、彼が言っていないことを言ったかのようにみせるための多種多様な戦略と、そして意味を確定的に輪郭づけようとするこうした誤読の収束とに、満ち満ちているのである。それはまるで、ルソーが生前苦しんでいたと想像されるパラノイアが、彼の死後に現れて、敵も味方もこぞって彼の思想を偽装するという陰謀に駆り立ててでもいるかのようだ。(中略)ルソーの場合、そうした誤読にはほとんど常に、知的あるいは道徳的な優越性のニュアンスがつきまとっているということだ。あたかも注釈者たちは、いちばんましな場合でも、彼らの著者が取り逃がしてしまったものについて弁解したり、処方箋を出さなければならないかのように思っているのである。ある本質的な弱点のために、ルソーは混乱と背信と隠遁に陥ってしまったというのだ。と同時に、まるでルソーの弱点を知っていることが何らかの形で自分自身の強さを反映するかのように、判断を下す方は自信を回復していることが見てとれるだろう。彼は何がルソーを苦しめていたのかを正確に知っているから、あたかも自民族中心主義的な人類学者が原住民を観察したり、医者が患者に忠告するときのような、揺るぎない権威という立場からルソーを観察し、判断し、補助することができるのである。批評的態度は診断的なものとなり、ルソーはまるで、自分から助言を与えるよりも、むしろ助けを求めている存在であるかのように見なされる。批評家はルソーについて、ルソーが知りたいと望まなかった何かを知っているのである。》

 この「ルソー」は、完全に「漱石」に置換しうる。                                       

                             (了)

      *****引用または参考文献*****

水村美苗『続明暗』(新潮文庫

水村美苗『續明暗』(筑摩書房

夏目漱石『明暗』(解説 柄谷行人)(新潮文庫

水村美苗『日本語で書くということ』(『漱石と「恋愛結婚の物語」』、『「男と男」と「男と女」――藤尾の死』、『見合い恋愛か――夏目漱石『行人』論』、『ポール・ド・マン 読むことのアレゴリー』、『リナンシエイション(拒絶)』所収)(筑摩書房

水村美苗『日本語で読むということ』(『女は何をのぞんでいるのか――ジェーン・オースティン高慢と偏見』』、『自作再訪――『續明暗』』、『「野間文芸新人賞」受賞スピーチ』所収)(筑摩書房

辻邦生水村美苗『手紙、栞を添えて』(朝日新聞社

水村美苗ポール・ド・マン 読むことのアレゴリー』(『現代思想』1998年4月号所収)(青土社

水村美苗『リナンシエイション(拒絶)』堀口豊太訳(『現代思想』1986年9月号所収)(青土社

ポール・ド・マン『盲目性の修辞学』吉岡洋訳(『批評空間』1993年No.8所収)(福武書店

ポール・ド・マン『盲目と洞察』宮崎裕助、木内久美子訳(月曜社

ポール・ド・マン『読むことのアレゴリー――ルソー、ニーチェリルケプルーストにおける比喩的言語』土田知則訳(岩波書店

ポール・ド・マンロマン主義と現代批評 ガウスセミナーとその他論稿』中山徹、鈴木英明、木谷厳訳(彩流社

水村美苗『人生の贈物』(「朝日新聞(夕刊)」2014年8月11日)

*対談:高橋源一郎水村美苗『『續明暗』と小説の行為』(『すばる』1990年12月号所収)(集英社

*インタビュー『水村美苗氏に聞く 『續明暗』から『明暗』へ』聞き手・石原千秋(『文学』季刊1991年冬)(岩波書店

*対談:高橋源一郎水村美苗『最初で最後の<本格小説>』(『新潮』2002年11月号所収)(新潮社)

水村美苗私小説from left to right』(新潮文庫

水村美苗本格小説』(新潮文庫

辻邦生水村美苗『手紙、栞を添えて』(ちくま文庫

夏目漱石三四郎』(新潮文庫

夏目漱石『行人』(新潮文庫

夏目漱石二百十日』(新潮文庫

夏目漱石夢十夜』(新潮文庫

夏目漱石『文学論』(岩波文庫

蓮實重彦夏目漱石論』(青土社

大岡昇平『小説家 夏目漱石』(「明暗の結末」所収)(ちくま学芸文庫

江藤淳夏目漱石』(角川文庫)

加藤周一漱石に於ける現実――殊に『明暗』に就いて』(『加藤周一選集1 1937~1954』)(岩波書店

古井由吉漱石漢詩を読む』(岩波書店

谷崎潤一郎『藝術一家言』(谷崎潤一郎全集9(2017))(中央公論新社

柄谷行人『増補 漱石論集成』(『意識と自然』等所収)(平凡社ライブラリー

小島信夫小島信夫批評集成8 漱石を読む』(水声社

*『漱石研究18 特集『明暗』』(『[鼎談]加藤周一小森陽一石原千秋』等所収)(翰林書房

佐伯順子『「色」と「愛」の比較文化史』(岩波書店) 

演劇批評 南北『桜姫東文章』を巡って ――「「桜姫」の神話」と「理性の不安」

 

 

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 片岡仁左衛門の清玄/権助二役と坂東玉三郎の白菊丸/桜姫二役の配役による鶴屋南北桜姫東文章(さくらひめあずまぶんしょう)』が、人気コンビとして三十六年ぶりに、二〇二一年四月「上の巻」、六月「下の巻」に分れて歌舞伎座で上演され、観劇した人からは「事件」とまで騒がれている。「事件」とまで騒ぐのは、そもそも南北劇を初見なのではないか、と首をかしげもするし、実見した感想、および過去もふくめた劇評をながめると、本演目そのものが「名のみことごとし」である面も否めない。

 とはいえ、耳目を集める『桜姫東文章』は現在にふさわしい演目といえる。なぜふさわしいか?

 

 渡辺保『戦後歌舞伎の精神史』の「「桜姫」の神話」は、『桜姫東文章』の本質について過不足なく語っている。

鶴屋南北の傑作「桜姫東文章」は、文化十四年(一八一七)三月江戸河原崎座(旧森田座)で、名女形五代目岩井半四郎によって初演された。

 河原崎座木挽町で一軒芝居という地の利の悪さ、半四郎のほかには七代目市川団十郎しかスターのいない無人の一座であるにもかかわらず、記録的な大入りになった。しかも半四郎一代の当たり芸だったのに、その後再演されなかった。

 再演されたのは、昭和二年(一九二七)十月本郷座、三代目時蔵の桜姫。実に百十年ぶりであった。三年後には二代目市川松蔦(しょうちょう)の桜姫。しかしいずれも失敗に終わった。南北の字余りの特殊なせりふをうまくいうことができなかった。現代の歌舞伎役者にはそれだけ難しい芝居だったのである。

 なぜ難しいのか。それは南北のせりふの難しさだけでなく、そもそも従来のお姫さま役とは違う桜姫の設定にもある。(中略)

 大名の姫君から密通の上のさらし者、一度は物乞い同然の尼姿から貧乏な男の女房、さらに宿場女郎から殺人者、そしてもとの姫君。

 いくら鶴屋南北が奇想天外な劇作家でも、これほどの有為転変の人生は、彼の作品中でも珍しい。

 その数奇な運命がもっともよくあらわれているのは、大詰近くの山の宿権助内の場の、桜姫の言葉である。すなわち彼女は姫君の上品な言葉と宿場女郎の下品な言葉を混ぜて使う。たとえば「よしねえな、わっちゃァ一つ寝をする事はしみしんじつ嫌気だ、今夜は自らばかり寝所に行って、仇な枕の憂いものう、旅人寝(たびびとね)が気散じだよ」。現代語に訳せば「よしなさい、私はセックスはしみじみ嫌だ、今夜は自分だけ寝床へ行って、一人寝の仇な枕も鬱陶しいが、それでも自由気ままに寝たい」

 桜姫の設定の難しさは、この貴族の言葉と庶民の、しかも場末の娼婦の言葉を交互にいい廻す難しさである。言葉に現われているように、彼女は状況によって人格を引き裂かれている。だから単なるせりふ廻しの難しさだけでなく、桜姫のこの状況、この人格を表現するのが難しいのである。

 戦前の三代目時蔵の時はこの場はやむなくカットされ、二代目松蔦の時は上演したものの失敗した。

 そして戦後、昭和三十四年(一九五五)十一月、歌右衛門が桜姫を演じた。

 三島由紀夫監修、巌谷槙一補綴、久保田万太郎演出であるが、この時、歌右衛門はこのせりふ廻しに大いに苦労した(「桜姫」――「演劇界」三十四年十二月号)が、成功しなかった。

 その八年後、今度は南北に詳しい郡司正勝の補綴演出で国立劇場雀右衛門桜姫を演じたが、それでも成功しなかった。 

 一方その三年後の昭和四十五年(一九七〇)五月、すでにふれた鈴木忠志構成・演出の「劇的なるものをめぐってⅡ」が上演されて南北の言葉が舞台に蘇った。

 同じ年の九月には、太田省吾の主宰する転形劇場が「桜姫」をはじめて全編、もっとも原作に近い形で上演した。

 その五年後の昭和五十年(一九七五)六月雀右衛門の補綴演出を手掛けた郡司正勝の再度の挑戦で、玉三郎がはじめて桜姫を演じて爆発的な成功をおさめる。(中略)

 歌右衛門雀右衛門三島由紀夫久保田万太郎で失敗した「桜姫」が、郡司正勝玉三郎でなぜ成功したのか。

 そこに近代から現代への転換点があり、前近代の南北の神話への回帰があったからである。

 歌右衛門雀右衛門、そして三島由紀夫久保田万太郎、巌谷槙一らは、いずれも近代の合理主義のなかに育った人々である。

 彼らは、桜姫を一人の人間としてとらえようとした。統一された人格、個性、内面と外面との一致した心理的な人間として描こうとした。そうすると「桜姫東文章」は桜姫一人の「女の一生」になる。貴族の姫君が強姦され、密通の罪でさらし者から無頼漢の女房になって宿場女郎になる。高位の女が転落する女の一生。しかも彼女は、自分が白菊丸の生れ変りだということを知らない。知らぬままに本能のままに男を追い求める。それが近代的な感覚から見ればまさにエミール・ゾラの描く女のように見える。むろんこの時は、発端にあたる清玄と白菊丸との同性心中の場はカットされている。監修者である三島由紀夫が、絶筆になった「豊饒の海」四巻で輪廻転生の物語を描くのはさらに十年後のことである。それよりも文壇デビュー作「煙草」がフランス近代文学そのままであったことを思うべきだろう。近代フランス文学を学んだ三島由紀夫にとって「桜姫東文章」は転落する「女の一生」に他ならなかった。

 しかし南北の「桜姫東文章」は単なる転落の女の一生ではなかった。

 桜姫が白菊丸の生れ変りであるという大きなドラマの外枠はもとより、南北が書いたのは、桜姫という人間の物語ではなく、強姦によって世界を失った一人の女性が、自分の世界を探し求めてついには現実の世界を横断して行く物語であり、主人公は桜姫であるが、真の主人公はその桜姫を通して、あるいは桜姫を操っている世界そのものだったのである。桜姫は、その世界が変わるたびに高貴な姫君からさらし者へ、さらに娼婦へ、そしてまた姫君へと状況によって変わって行く存在であった。その象徴こそ山の宿の姫君と宿場女郎のチャンポンの言葉であり、姫の言葉はその失われた世界、女郎の言葉は今の現実であった。二つの役が二重になっている。それはさながら南北の傑作の一つ「お染の七役」で、半四郎が七つの役を変わって見せる作品の構造に似ている。

 近代的な合理主義からいえば、白菊丸の一件もチャンポンのせりふも到底受け入れることが出来ないだろう。しかしこれこそが江戸時代の歌舞伎のもつ、あえて言えば半四郎という名女形のもつ神話性でもあった。

 歌右衛門雀右衛門が成功しなかったのは二人が近代の女形だったからに他ならない。

 鈴木忠志が「劇的Ⅱ」によって開いたのは、そういう近代を超えて、南北の書いたせりふを空間に立ち上げることであり、南北の目の前にいた歌舞伎役者(たとえば五代目半四郎)の身体性を今ここで生き直すことであり、太田省吾によって開かれたのは「桜姫東文章」の世界全体の構造であった。

 郡司正勝は当然この南北の神話性を認識していたから、巌谷槙一版と違って発端の江の島白菊丸の心中事件を復活した。この時の白菊丸は玉三郎で、その玉三郎を見た三島由紀夫が、のちに「椿説弓張月」の白縫姫に抜擢した。

 郡司正勝再度の挑戦にもむろん発端があり、桜姫を初役で演じた玉三郎が二役で白菊丸を演じた。もっとも初演の白菊丸は半四郎ではなく岩井松之助であるから、郡司演出は初演よりもつよく神話の構図を強調したものといえるだろう。

 玉三郎の桜姫が成功したのは、歌右衛門雀右衛門と違ってこの神話性を生きたからである。

 その証拠に玉三郎は、たとえば三つの箇所ですぐれた演技を見せた。

 一つは序幕二場の桜谷草庵の、権助とふたたびめぐり合って、権助に強姦されたあの夜のことを物語るところ。もう一つは三幕目の岩淵庵室で墨染の衣の尼姿からもとの赤姫の姿に戻るところ。そして最後に四幕目の山の宿権助の内で姫君の言葉と宿場女郎の言葉を交互にいい廻すところである。

 桜谷草庵の玉三郎がすぐれていたのは一人の人間が過去を回顧をするのではなく、事件の顛末を語る語り手と、その物語のなかの自分とがハッキリわかれていて、しかもそれが微妙に交錯していたからである。ここに玉三郎の特徴がある。桜姫は一人の人格ではなく、いわば二つの人格――語り手と語られる人格だったのである。その結果、草庵のなかに桜姫の人生を狂わせた運命的な事件の空間が成立した。近代的な人間では考えられぬ、前近代の物語の語りの手法が生きたのである。

 そしてそれはまた神話の主役である「世界」の崩壊のはじまりをも示していた。ここから桜姫の、自分の世界を探す旅がはじまるのである。

 二つ目の岩淵庵室は、さらし者から尼姿になった桜姫が偶然この庵室にあった、かつての自分の髪飾り、着物、うちかけを発見して、墨染の衣を脱いで昔の姫君の姿に着かえるところである。少しずつ変わって行く玉三郎の身体に、もう一度かつての桜姫の姿が戻って来る。ここがすぐれているのは、単に一人の女性が着替えをするのではなくて、そこに世界が復活するからであり、それが一つの見せ場になって、世界が主役であることを玉三郎が身体で示していたからに他ならない。

 三つ目の山の宿の姫君と宿場女郎の言葉の交錯が面白かったのは、この断片的な二つの人格を玉三郎が身体化したからである。すなわち南北の世界の構造を生きたせりふが、舞台に生きたからに他ならない。

 鈴木忠志が示したように、ここでは言葉が人間の内面にその根拠を持つのではなく、心理的なものでもなく、外側からやって来て、その外側の言葉を通して、その言葉が身体化されていたのである。

 以上三つの場面は、いずれも繋がって一つのことを示している。すなわち玉三郎の桜姫は一人の女というよりも、その局面によって様々に変化する多面的な存在なのである。ここが、断片化した世界において状況によって変化する関係性に生きる現代の人間像に合致している。そこが歌右衛門雀右衛門の桜姫と全く違うところであり、近代の女形と現代のそれとの分岐点であった。

 そこで現代の人間像と繋がった玉三郎は近代をこえて前近代の南北の構造の半四郎に繋がったのである。もっとも現代的なものが、古典劇としての原点に繋がった。これは近代によって否定された前近代の復讐でもあった。》

 

 以下、渡辺保の本文の背景を補足することで、南北『桜姫東文章』の思想的な意味あいを考察してゆきたい。

 

 四世鶴屋南北論および作品論は数多いが、南北の世界的同時代性や同時代人は誰だったか、に言及されることはほとんどない。

 それは十八世紀なかばから十九世紀はじめにかけてである。

 スウェーデンボルグ(一六八八~一七七二年)、ヒューム(一七一一~一七七六年)、ルソー(一七一二~一七七八年)、ディドロ(一七一三~一七八四年)、カント(一七二四~一八〇四年)、カサノヴァ(一七二五~一七九八年)、サド(一七四〇~一八一四年)、ラクロ(一七四一~一八〇三年)、ゲーテ(一七四九~一八三二年)、鶴屋南北(一七五五~一八二九年)モーツァルト(一七五六~一七九一年)、ナポレオン・ボナパルト(一七六九~一八二一年)、シャルル・フーリエ(一七七二~一八三七年)、ジェーン・オースティン(一七七五~一八一七年)。

 

 なかでも、モーツァルトが晩年の十年間に作曲したオペラは、初演順に、『イドメネオ』一七八一年、『後宮からの誘惑』一七八二年、『フィガロの結婚』一七八六年、『ドン・ジョヴァンニ』一七八七年、『コシ・ファン・トゥッテ』一七九〇年、『ティート帝の慈悲』一七九一年、『魔笛』一七九一年だった。

 

 一方、南北の主な歌舞伎は、初演順に、『時桔梗出世請状(ときもききょうしゅっせのうけじょう)』一八〇八年、『心謎解色絲(こころのなぞとけていろいと)』一八一〇年、『絵本合法衢(えほんがっぽうがつじ)』一八一〇年、『於染久松色読販(おそめひさまつうきなのよこうり)』一八一三年、『隅田川花御所染(すみだがわはなのごしょぞめ)』一八一四年、『桜姫東文章(さくらひめあずまぶんしょう)』一八一七年、『東海道四谷怪談』一八二五年、『盟三五大切(かみかけてさんごたいせつ)』一八二五年、という次第で、モーツァルトの一年前に生れ、その代表作品群はモーツァルト没後より後の作品だった。

 

 人は、カントとサドが同年代だったことに驚くであろうが、モーツァルトも同年代で、南北はそのすぐ後だ、ということに、さらに驚くであろう。しかし、その同時代性こそが重要である。

 

<カントとサド>

 まずカントとサドについて。柄谷行人が、十八世紀なかばから一九世紀はじめにかけて、フランス革命(一七八九~一七九五年)、リスボン地震(一七五五年)あたりを境界とする近世から近代への思想的状況について手短に紹介している。

《カントが『視霊者の夢』を書いた一七六〇年代には、ライプニッツ形而上学には埋めようのない亀裂があいていた。ライプニッツにおいて感性と理性が連続的な進化の段階にあるとしたら、この亀裂は、感性と悟性の間にある。(中略)

 この「亀裂」を具体的に象徴したのは、一七五五年十一月一日のリスボン地震である。ヨーロッパですべての聖人たちを祭るこの日、まさに信者が教会で礼拝していたときに起こったため、この地震は神の恩寵に対する疑いを巻き起こした。それは大衆的なレベルにとどまらず、文字どおり、全ヨーロッパの知的世界を震撼させた。たとえば、ヴォルテールは数年後に『カンディード』を書き、ライプニッツ的予定調和の観念を嘲笑し、ルソーも、地震は人間が自然を忘れたことへの裁きであると書いている。そのなかで、カントは地震に対して一切の宗教的な意味を与えることを拒絶し、その自然科学的原因と耐震対策を説いた。にもかかわらず、別の意味で彼がそれに揺すぶられたことは疑いがない。それは二つの面から言える。第一に、哲学を二度と瓦解しないような建築にしようとするカントのメタファー(建築術)はそこから来ているといってもよい。第二に、先に述べたように、この地震を予言した視霊者スウェーデンボルグの「知」に惹きつけられたことである。(中略)

 カントがこうした理性の欲動を見いだしたのは、『形而上学の夢によって解明されたる視霊者の夢』(一七六六年)においてである。これは、スウェーデンの視霊者スウェーデンボルグを論じた論文である。彼は基本的に、視霊という現象を「夢想」あるいは「脳病」の一種と見なしている。そこでは、ある思念が感官を通して外から来たかのように受けとめられている。だが、このヴィジョンはその鮮明さにおいて、知覚にあることがあるし、実際にそれらは区別できない。形而上学も同じことではないかと、カントはいう。なぜなら、形而上学は、なんら経験に負わない思念をあたかも実在するかのように扱っているからである。このエッセイは、その意味で「視霊者の夢によって解明されたる形而上学の夢」であるといってもよい。

 しかし、彼はスウェーデンボルグの「知」を否定すると同時に、それを否定することができない。霊という超感性的なものを感官において受けとることは、たんに想像(妄想)でしかないが、他方、霊が直観されるということは、構想力による錯覚が混じっているにせよ、それをもたらす霊の影響を推定することができないわけではない。しかし、カントは態度を決定できない。彼は、それを精神錯乱と呼んだにもかかわらず、「視霊者の夢」を真面目に扱わずにいられない。同時に、そのことを自嘲せずにもいられない。》(柄谷行人「探究Ⅲ」)

 

 カント哲学研究者の坂部恵がカント『視霊者の夢』について論じている。

《『視霊者の夢』という著作の全体の題は副題を含めて正確に言うと『形而上学の夢によって解明された視霊者の夢』というものである。御覧の通り、ここには“夢”が二度登場する。標題だけをみても、この著作が、夢をもって夢を解明する、夢をもって夢を裁く、毒をもって毒を制する、といったかなり入りくんだ構造をもっていることがうかがえるだろう。

 十八世紀なかばというこの時代は、ヨーロッパ全般にわたって啓蒙主義の盛んな時代にあたり、一方には神、霊魂の不死等伝統的なキリスト教形而上学の内実を理性によって合理的に証明できるとする理神論風の形而上学があり、他方には、究極において物質的なもの以外の実在を認めない唯物論の風潮がおなじ啓蒙陣営のラディカル派として存在した。カントの理性批判の哲学は一言でいえばこれらの流れの影響を受けて、次のステップに向けての一つの新しい時代を開くという位置を占めることになる。そうした批判哲学の形成への準備段階にあって、カントはたまたまスウェーデンボリという視霊者に自分が並々ならぬのめり方をした経験をいわば自己解剖しながら、ことのついでに、みずからとみずからの時代の置かれた思想状況に一種の決着をつけようとする。具体的にいえば、視霊者の夢を形而上学の夢で批判することによって、いわば両成敗の形で両者にたいして一気に決着をつけてしまおうとする。(中略)

 このようにみてくると、この著作が、通常カントの主著とされる『純粋理性批判』以上によりユニークな、ある意味では現代の自我の心の底に巣くう分裂と不安を先取りするようなきわめてユニークな、したがって十八世紀という時代の中にあってきわめて先駆的な意味を帯びたものとして、ほぼ同時代に隣国フランスでは、ディドロの『ラモーの甥』やあるいはルソーの『対話。ルソー、ジャン・ジャックを裁く』などの著作があり、いずれも二十世紀の自我の分裂と不安を先取りするものとして再評価の気運があることは周知のところだが、私はすくなくとも個人的にはカントの『視霊者の夢』という著作はそういったものに匹敵する意味をもちうるとかねてからから考えている。》

 

 坂部は、その時代を「理性の不安」と捉える。

《「理性の時代」といえば、わたしたちは、ただちに、いわゆる啓蒙期を中心とする古典的近代の時代、すなわち、いいかえれば、ときに「理性の世紀」という名でよばれる十八世紀を中心として、それに先立つ十七世紀から、さらに十九世紀のはじめにかけての時期をおもい浮かべる。この時代にたいしてわたしたちのもつ端的なイメージが「光」のそれにほかならぬことはおそらく何びとも異論のないところだとおもわれる。「啓蒙」(illumination,Aufklärung)の時代とは、いいかえれば、まさに、「光」(lumen,lumière)としての「理性」の時代にほかならない。(中略)

 啓蒙《illumination,Aufklärung》期を中心とする古典的近代の時期が光(lumen,lumière)の時代であるとする見解をわたしたちがまだなにほどかうのみにしているかぎり、わたしたちは、まだそのかぎりにおいて、西欧のとりわけ近代以降の古典的理性の光をみずからのみちしるべとし、思考の基軸としているということになる。この光の支配力、たとえば、具体的な一つのあらわれとしては、ヘーゲル哲学史の基本的な枠組の支配力は、ちょっと考えるよりもはるかに根強く、わたしたちの時代にまでおよんでいる。古典的近代の哲学の基本的道具立ての解体の作業をおし進めるところから、哲学史とか思想史の理解の従来の基本的枠組そのものの解体と再編成への模索がはじめられたのは、まだ比較的あたらしいことにぞくするともいえよう。従来の哲学史、思想史の気本的枠組そのものへの反省のこころみとして、わたしたちは、たとえば、ハイデッガーを皮切りとして、エマヌエル・レヴィナスミシェル・フーコージャック・デリダと受けつがれる一つの流れを考えることができるだろう。

 たとえば、上に名をあげたようなひとびとの努力を一つの象徴的なあらわれとして、二十世紀に入って、それもとりわけ第二次世界大戦後になって、ようやく、ひとびとは、光の時代といわれた古典的近代の時代にも、ほんものの闇の部分がその根底にあること、古典的な人間理性そのもののうちに、それを解体にみちびく不安が巣食っていること、いわば自己同一的な理性主体としてのいわゆる近代的自我そのもののうちに、ほかならぬその自己同一的な主体の構成そのものをおびやかす不安定と不安そのものの契機が深くかくされていることにはっきりと気づくようになった。いわば、近代の古典的理性あるいは精神そのものの精神分析とでもいった、古典的理性あるいは精神を思考の基軸とするのではなく、かえってそれを全面的につきはなして対象化する「非中心化」(décentrement)的な思考が、これまでの正統的な哲学史、思想史に対して、ようやく市民権をえるようになったのである。》

ミシェル・フーコーは、『古典主義時代における狂気の歴史』において、サドの体現する「サディズム」という現象が、けっして、「エロスと同じだけ古い」ものではなく、まさに十八世紀のおわりという西欧の古典的理性の爛熟の時代に、「西欧的想像力のもっとも大きな転換の一つを構成する」集団的文化現象としてあらわれたのであること、すなわち久しく日常の理性的生活から隔離されいまや沈黙のうちに追いやられた「非理性」が、今度は世界のなかに姿をあらわす形象としてではなく、「ことばと欲望」(discours et désir)として、いいかえれば、「魂の錯乱、欲望の狂気、欲望の再現のない専横における愛と死との狂気じみた対話」としてふたたび姿をあらわしたものにほかならぬことをいい、(中略)ジャック・ラカンは、”Kant avec Sade”と名づけられた卓抜な小論において、カントの『実践理性批判』とその八年後に出されたサドの『閨房哲学』(La philosophie dans le boudoir)を対比させながら、『閨房哲学』は、まさに、『実践理性批判』の世界の底にかくされた「真実」を示すものにほかならぬこと、すなわち、カントの道徳の自律的主体を構成する一切対象にとらわれぬ形式的命法としての道徳法則は、サドのいわば主体なき思考としての幻想世界を生んだ果てしのない一種求道者的な欲望と、じつは、同一の欲望の変換過程の構造のなかに、表裏の関係をなすものとして位置づけうるものにほかならないことをあきらかにする。

 これらの見方は、いずれも、十八世紀のおわりといういわば光の時代、理性の時代ののぼりつめた頂点といってもよい時期におけるサドの存在がけっして偶然ではなく、むしろ、時代の必然的裏面あるいは陰画の部分にほかならぬことを示す点において、軌を一にするといってもよいだろう。》

 

 十九世紀まで俗悪なだけと言われてきたサドが二十世紀に入ると、アドルノ(『啓蒙の弁証法』)、クロソウスキー(『わが隣人サド』)、バタイユ(『エロティシズム』)、ブランショ(『ロートレアモンとサド』)、ボーヴォワール(『サドは有罪か』)、フーコー(「侵犯への序文」)、ラカン(「カントとサド」)、ドゥルーズ(『ザッフェル=マゾッホ紹介』)、パゾリーニ(『ソドムの市』)、バルト(『サド、フーリエロヨラ』)らによって評価が逆転したのは今さら説明するまでもない。

 そして、プルースト失われた時を求めて』のシャルリュスもアルベルチーヌも、何とプリズムのように多面的な分裂気質であることか、そしてジョイスユリシーズ』もカフカもまた。

 

 坂部の下記の文で、「サド」を「南北」を置換しても違和感はない(「祭り」は歌舞伎の「祝祭性」であろう)。

《サドと呼ばれる個人を根底からつきうごかし、徹頭徹尾倒錯したグロテスクな幻想の世界をかぎりなく生み出させているものは、まさに、安定した「ロゴス」あるいは「ラチオ」、すなわち「理性」、「関係」、「根拠」の徹底した崩壊と不在の感覚である無名あるいは非人称の不安そのものにほかならない。サドとは、まさに、自我の構成にとって欠くべからざる「他なるもの」が、理性とのたえざるふれ合いを通じて自我を分節せしめることがなく、絶対的孤独のうちにとじこめられた「倒錯」という相のもとにしかあらわれぬという病いを深く病む時代にあって、その「真実」を体現する不在と不安の場所の別名にほかならない。あらゆる種類の「倒錯」の破壊的な饗宴にほかならぬサドの幻想の世界は、「ロゴス」によって整然とおりなされた自然界と人間界の「コスモス」の定期的な更新にあたって原初の「カオス」が回帰する原始時代の「祭り」の世界の、孤独な「無意識」の冥府への逆説的な回帰にほかならない。》

 

 ラカンセミネールの『精神分析の倫理』で、「カントとサド」を取りあげた。

《ショックを与えて皆さんの目を開かせるために――そういうことは我々の進歩に不可欠ですが――ここでは次のことに注目していただくだけで結構です。つまり『実践理性批判』は『純粋理性批判』の初版の七年後、一七八八年に出版されましたが、その七年後の一七九五年、<テルミドール>(訳注:フランス革命期の一七九四年七月二七日(共和歴第二年テルミドール九日)にロベスピエール派を失脚させたクーデターのこと)の直後にもう一つの著作、『閨房哲学』と呼ばれる著作が出版されているということです。

 皆さんご存じのように、『閨房哲学』は様々な理由で有名なサド侯爵の著作です。彼のスキャンダラスな名声は、最初いくつかの不運に伴われていました。彼は二五年のあいだ囚われの身でしたから、彼に対しては権力が濫用されたと言うこともできます。(中略)サド侯爵の著作は、ある人々の目には一種の気晴らしの方法と見えるかも知れませんが、実はそれほど面白いものでもありませんし、最も評価されている部分などはきわめて退屈なものです。しかし、彼の著作が筋が通らないと言うことはできません。むしろそこではまさしくカントのクライテリアが、一種の反‐道徳とも言うべき立場を正当化するために強調されているのです。

 反‐道徳パラドックスは『閨房哲学』と題された作品においてきわめて筋の通ったやり方で擁護されています。ここにいらっしゃる方々を考慮すると、ここだけは是非ともお読みいただきたいのは、「フランス人よ、共和主義者たらんとせばいま一息だ」と題された部分です。

 この部分は、当時革命下のパリで暴れ回っていた小組織のパンフレットと考えられています。このアピールに続けてサド侯爵は、権威の失墜を考慮すれば――真の共和制の到来は権威の失墜からなるというのがこの著作の前提となっています――実現可能な一貫した道徳生活の最低限度とこれまで考えられてきたものとは正反対のものを我々の行動の普遍的格率とするように提唱しています。

 実際、彼はそれをなかなか見事に擁護しています。誹謗への賛辞が『閨房哲学』のこの部分の最初に見られるのも決して偶然ではありません。彼によれば、当然向けられるべきよりもさらに悪いものを誹謗は隣人に負わせるとしても、誹謗は決して有害なものではありません。というのは、誹謗は誹謗の企てに対して用心させてくれるからです。さらに彼は続けて、道徳的法則の基本的な命令を覆すことを徐々に正当化し、近親相姦、姦通、盗み、およびそれらに付け加えることのできるものすべてを褒めそやします。十戒が定めるあらゆる法の正反対を考えてみて下さい。そうすると首尾一貫したものが得られますが、それは最終的にはこうなります。「誰であろうと他者を我々の快楽の道具として享楽する権利を我々の行為の普遍的格率とすべし」。

 サドは、この法が普遍化されて、同意しようとしまいと、あらゆる女性を誰彼なしに自由に所有する権利をリベルタンに与えるとしても、逆にこの法は、文明化された社会が夫婦関係の中で課すあらゆる義務から女性たちを解放するのだということを、きわめて筋の通ったやり方で論証します。この構想は、サドが空想的に欲望の地平に措定している水門を全開にするものであり、誰もがその貪欲さを最大限に高め、実現することを要請されるということです。

 万人にこの解放がもたらされると、そこに現われるのが自然社会です。これに対する我々の嫌悪感は、カント自身が道徳的法則のクライテリアからは除外すると称したもの、つまり感情的な要素と見なすことができるでしょう。

 もし我々があらゆる感情的要素を道徳から除外し、我々を感情的に導くあらゆる案内を消去し失効させるなら、極限においてサドの世界は――たとえその裏面であり戯画であるとしても――あるラディカルな倫理、一七八八年に起草されたカントの倫理によって統治される世界の一つの可能な達成と考えることのできるものです。

 よろしいですか、リベルタンと呼ばれる人々が残した膨大な文献、快楽人間のそれに見いだすことのできる道徳の分節化のさまざまな試みにはカントの影響がはっきりと認められるのです。》

 

モーツァルト

 ムラデン・ドラー『オペラは二度死ぬ』によれば、カントとサドの同時代人モーツァルトの《ドン・ジョヴァンニフィガロとのあいだには、直接的な関係がある。この関係から生じるのは、モチーフを敷衍し極端なかたちに変えることによって起こる関係全体の転倒である。ドン・ジョヴァンニとは、伯爵がそうなりたいと思っていながら意気地がなくてなりきれないでいるものの総体である。おのれの欲望をすべて実現させた伯爵、それがドン・ジョヴァンニなのだ。(中略)いかなる欲望も断念せず、世のすべての女性を手中に収めることを望む大胆不敵な主人ドン・ジョヴァンニは、快楽原則の彼岸へと向かう契機を表わしている。それこそが彼のパラドクスである。彼は、快楽原則を断念することなく徹底的に追及することによって、この原則をその極限にまでもってゆく。つまり、この原則を、そのためになら命を懸けても惜しくないと思えるような倫理的姿勢に変えるのである。この倫理的姿勢は、既存の体制と、その道徳的原則および宗教的議論に反抗する主体の絶対的な自律性を示している(伝統的にドン・ファンは、女たらしとしてだけでなく――それだけであったなら、彼は最悪の人間とはされなかっただろう――無神論者としても描かれてきた)。彼は人間の道徳律と<神>の命令に背くだけではない。彼は、アンティゴネがいう意味での「神の掟」をも破っているのだ。すなわち、彼は、死者の埋葬、死者の不可侵性、死者の神聖さを規定する法を破るのであり、死者に割り当てられた象徴的な場所を踏みにじるのである。》

ドン・ジョヴァンニは、「欲望に対して妥協しないこと」(のちにふれるように、これはキルケゴールが知っていたことである)というラカンのスローガンに則して読むことが可能であるような倫理的立場をとっている。彼に関してわれわれを当惑させるのは、彼が膨大な数の女性と関係をもったということではなく――それぐらいのことは貴族ならあたりまえだろう――彼が快楽の追求を倫理原則のレヴェルにまで、それを断念するくらいなら死んだほうがましだという次元にまで高めたことである。

 ドン・ジョヴァンニにとって、和解や慈悲は存在しない。『フィガロ』のフィナーレと比べると、状況が逆転している。(中略)ドン・ジョヴァンニのなかには二つのものが凝縮されている。一方において、彼は旧体制の典型である。これは伯爵と共通するが、ただしドン・ジョヴァンニのほうは本心を隠したりせずに、欲望の実現に向けて突っ走る。彼は絶対的な特権、初夜権ius primae noctisだけでなく、すべて夜の権利を要求する。慈悲と寛容を隠れ蓑にしなければならない主人とは対立する、あるいはそれよりも情けない、自分から赦しを求めなければならない主人とは対立する本物の主人――彼は、そうした古風な主人のイメージとして登場するのである。したがって彼は、啓蒙主義運動の敵ともいうべき、旧体制の特権的な権利を具現している。また他方において彼は、啓蒙主義の土台である自律的な主体を具現している。彼は自らを立法者とし、ただ自分の欲望だけに付き従ってゆく。結局彼は、ブルジョア主体にはとうてい真似できないほど根源的=急進的なやり方で旧体制に反抗しているのである。『フィガロ』は自由、平等、友愛の精神をもって幕を閉じる。それに対して、ドン・ジョヴァンニにとっての自由は、平等と自由を超えたところに、そして平等と自由に対立するものとして設定されている。自由は、純粋な自由が邪悪な悪と一致する場所に置かれているのである。》

 

 モーツァルトラカンの「欲望に対して妥協しないこと」にそって則して読むことが可能なように、ラカンが「カントとサド」で指摘した《あらゆる義務から女性たちを解放するのだということを、きわめて筋の通ったやり方で論証します。この構想は、サドが空想的に欲望の地平に措定している水門を全開にするものであり、誰もがその貪欲さを最大限に高め、実現することを要請される》、《もし我々があらゆる感情的要素を道徳から除外し、我々を感情的に導くあらゆる案内を消去し失効させるなら、極限においてサドの世界は――たとえその裏面であり戯画であるとしても――あるラディカルな倫理、一七八八年に起草されたカントの倫理によって統治される世界の一つの可能な達成と考えることのできるものです》の世界に、ドラーが『ドン・ジョヴァンニ』で指摘する《死者の埋葬、死者の不可侵性、死者の神聖さを規定する法を破るのであり、死者に割り当てられた象徴的な場所を踏みにじる》(南北劇に埋葬と墓と幽霊は特徴的)世界に、南北の桜姫と清玄は生きている。

 そしてまた、南北劇の終りは、モーツァルトフィガロの結婚』、『ドン・ジョヴァンニ』、『コシ・ファン・トゥッテ』と同じように、登場人物がみな登場して、「和解と慈悲」のテーマ、結論を宙ぶらりんの不安のままに、あっけらかんと投げかけるや、「先ず今日はこれ切り」で幕となることを思い出そう。

 

<南北『桜姫東文章』>

――歌右衛門の「一人の女」/玉三郎の「見えつ隠れつ」

 渡辺保が指摘した《歌右衛門雀右衛門三島由紀夫久保田万太郎で失敗した「桜姫」が、郡司正勝玉三郎でなぜ成功したのか》の原因は、歌右衛門芸談にはっきりと現われている。

芸談 桜姫 六代目中村歌右衛門」(昭和三十四年十一月歌舞伎座三島由紀夫監修、巖谷槇一補綴、久保田万太郎演出、「演劇界」昭和34年12月号)によれば、

《何しろ初めて手がけたのですから、まだ見当が付きません。でも、なか/\楽しみの多い役で、見せ場はあり、変化もあって、『女清玄』より面白いと思いますし、又、していて楽しみでもある役です。

 姫としてどの程度の格の役だと仰有るんですか。そうですね、ハッキリとは云えませんけれども、兎に角大きい役だとは思います。まア『玉三』の桂姫だの、『菊畑』の皆鶴姫などよりは全体的に大きく、三姫、まず雪姫位には準じる役と云っていゝと思われます。これは『女清玄』の花子の前もそうで、勿論、両方共、丸本物の姫役と形式や味は違いますから、すべてを同列に云うわけには行きませんが、とに角、初菊程度のつもりで演ったら面白くないでしょうし、これは山の宿の件だけでなく、姫の所でもその式では出来ません。丸本物と違い、お家狂言風のものでもありますしね。

 全体を順々に申しますと、序幕の桜谷庵室は、純然とした姫姿の件りですから、大体前にお話し致した様な風で致します。

 三囲は一つの風情と云ったものを本意として致します。実は最初この芝居を致す話が出た時、この三囲を出すとか出さないとか、いろ/\論があったのですが、私は絶対に出すべきだと主張したのです。

 していて大変に気持がよく、これは『女清玄』の川中の件りも同様でして、していて本当にいゝ風情を感じます。

 清玄の庵室の場では、花櫛のない吹輪の頭で長襦袢の姿が、作者の一つの趣向だと思います。恐らく、こんな姿の姫というのは他にないでしょうね。(中略)

 この場の桜姫は、芝居としては、さして取上げていう程の事はありません。唯、あの装で出て来て、姫としての格を失わない様にと心がける事ぐらいなものでしょう。ほかには、髪梳きと云ってもどれ程の事もなく、まァ、簪を自分で挿すのが珍らしい位なものですね、それと、若松屋(先代松蔦)さんはすっかり普通の姫の姿に着替えられたそうですけれど、私は帯をしめず、前帯にしています。

 山の宿はやっぱり、姫になったり、バラガキ(筆者註:茨掻き。イバラのように触れると怪我をする、みだりがわしい乱暴者、ここでは女郎)になったりの芝居が中心ですが、これは非常に難かしいと思います。この、姫とバラガキの言葉の変化については、まだ/\考える余地があると思われるのです。

 たゞ、姫とバラガキをガラリと変えるだけではいけないと思います。バラガキになっても姫の気持ち、姫の感じでいう時もある。それでなければ具合のわるいものがあると思うんです。例えば「幼き者が欲しくばの、自らの生み落せし――あるじゃァねえか」は姫の気持で云いますが、そうした所の方が客席からも何か響きが感じられ、ガラリと変る様な所で、こんな所には響きがあるのではないかと思うと、存外そうではないんですね。そして、これは私の件りだけでなく、芝居全体に就いて云っても同じなんです。

 そんな風に、バラガキな言葉をいう時姫の心で云うのとは逆に、姫の言葉の時にも、フッとバラガキな気持ちでいるという時もあるべきだと思いますが、併し、どうしても、つい、その言葉の時にはその心持ちになって了いがちで、こんな所はもっと考える余地がありましょう。どうも、変る時にはフッと前の心持が途切れて了いがちでしてね。……とに角、ガラリと変っていけず、そこに何か、あるものがなければならないのだと思います。

 それから、権助が酔っていろ/\な事を云うのを聞いている中に公卿の姫に返り、あとは全く姫の気持です。》

 さすが歌右衛門は、この歌舞伎の重要な場は、観客が固唾をのむ「桜谷草庵」の濡れ場ではなく、「山の宿」の《姫になったり、バラガキになったりの芝居》と摑んでいて、そのうえで姫とバラガキとの交錯に関して近代人である役者の躊躇を正直に吐露している。

 

京鹿子娘道成寺』において、歌右衛門の「一人の女」というよく知られた言葉、解釈がある。

 渡辺保歌右衛門 名残りの花』の「白拍子花子」の「くどき三段」から。

《たった一度だけ歌右衛門にインタビューに行った。そのとき、開口一番こういわれた。

「あなたにお目にかかったらば、どうしてもいいたいことがあるの」「え?」「この間、テレビで『娘道成寺』の解説をなすったでしょう」「ええ」「そのとき、くどきは三人の女だとおっしゃいましたね」「ええ」

 たしかに私はテレビで「恋の手習」にはじまる「道成寺」のくどきは、一人の女に見えるが実は三人の女の唄が組み合わさっているといった。これは私の新説ではない。国文学者佐々醒雪(ささせいせつ)の指摘したことである。「恋の手習つい見習いて、だれに見しょとて紅かねつきょうぞ、みんな主への心中立て、おおうれし」というのが第一段。第二段が「末はこうじゃにな、さうなる迄はとんと言わずに済まそぞえと、誓紙さえ偽りか、嘘か誠か、どうにもならぬほど逢いに来た」。第三段が「ふっつりりん気せまいぞと、たしなんでみても情なや」から「恨み/\てかこち泣き、露を含みし桜花、さわらば落ちん風情なり」まで。

 佐々醒雪は「三段三首の小唄」で「前後関係なき別々の唄を組み合わせたもの」(『俗曲評釈』)といっている。しかも第一段が「普通の小唄」、第二段が「騒ぎ唄」、第三段が「女の痴態を唄」っているという。佐々説は三つの唄といったので三人の女といったわけではない。しかしこの説をふまえて文句をよく読むと第一段は「娘」、第二段は誓紙をかわしても会わぬというのだから「遊女」、第三段はいうまでもなく夫の浮気に悩む「人妻」という風に思える。そのことを私はテレビでしゃべった。そのときの素材は歌右衛門の「道成寺」だから、当然それを見たのだろう。そうして私が来るのを待っていたに違いない。

 仮に一人の女だとして、その女が娘、遊女、人妻を体験することだってあるのではないか。私はそういった。

「そりゃあそうかも知れませんが、踊る人間は一人でなけりゃあ踊れません」

 歌右衛門は断固としていう。

 踊る側としての歌右衛門の主張もわからぬわけではない。歌右衛門の表情には一人の女になりきって千数百回も踊ってきた人間の確信があふれていた。》

 

 一方、玉三郎はどうか。NHK番組「伝心 玉三郎かぶき女方考 京鹿子娘道成寺」で玉三郎が語るところによれば、「クドキ」ではなく、出の「道行」の役の捉え方への言及ではあるが、

「道行きは(清姫の過去への)回想ということはなくていいんじゃないでしょうか」、「娘が本当に道中をしてくる」、「僕なりの表現かも知れませんけれど、『科なき鐘を恨みしを』といった時は、この道行の女が恨んでるってことはできないのね。魂だけが、そこで、ふっと、すぐもう、道行の女に戻ってる」、「だから、見えつ隠れつ」。

(ナレーション)「白拍子清姫は完全に重なっているのではなく、白拍子の中に清姫の魂がふと現われるにすぎない」。

 玉三郎は、はっきりとは語っていないが、統一された近代的な「一人の女」ではなく、「見えつ隠れつ」の、非連続な、連関性のない分裂的な、統合されない「多面的な女」が、「完全に重なっているのではなく」「魂がふと現われる」を意識しているのではないか。

 

――近代人漱石

 小林恭二は『新釈 四谷怪談』に、《廣末氏は四谷怪談の生まれた化政時代(筆者註:化政時代とは、文化(一八〇四~一八一八年)・文政(一八一八~一八三一年))を未曾有の崩壊の時代であるとの認識のもとに、お岩さま像を構成しました(筆者註:廣末保『四谷怪談――悪意と笑い』(岩波新書))。ある意味でそれもまた事実です。だって実際にその何十年後かに幕府は滅びているのですから。しかしわたしは化政時代を江戸末とはとらえず、むしろ近代の黎明期と考え、四谷怪談にも人間の開放性といった意識が反映されているという立場で本書の執筆に臨みました》と但し書きしたが、なるほど、(近世の)崩壊期とも(近代の)黎明期とも捉えられる二面性、転換点であることこそが、洋の東西を問わずカント、サド、モーツァルト、そして南北の世界を「コペルニクス的転回」のごとく産み出したのだろう。

             

 坪内逍遥渥美清太郎による『大南北全集』(全一七巻)は一九二五(大正一四)~一九二八(昭和三)年制作で、いわば「南北ルネッサンス」である第一次南北ブームは、大正~昭和初期の二代目左団次劇団による一連の復活上演(『桜姫東文章』など)を指し、戦後の一九七〇年代(昭和四五~五五年頃)には第二次南北ブームと言われて、新劇・アングラ演劇で上演された。前者は芥川龍之介が「将来に対する唯ぼんやりとした不安」から自裁した時期(大正デモクラシーを引き裂く関東大震災からファシズム、敗戦へ向かう)、後者は戦後の高度経済成長を経て反体制運動が盛り上がり、沈潜した時期で、どちらも「理性の不安」の時代だった。

 

 近代人漱石の反応を見れば、歌舞伎がいかに荒唐無稽かがわかる。漱石は南北劇の感想を残していない(光秀の「馬盥」への言及があるが、有名な南北『時桔梗出世請状(ときもききょうしゅっせのうけじょう)』ではなく、『絵本太功記』の「馬盥」のようである)が、見ていればどんな言葉を残したか、およそ想像がつく。

 漱石はイギリス留学中、「修行の為」と称して、日記に記されただけでも十回以上は観劇(パントマイム、コメディ、宗教劇、シェイクスピア十二夜』など)に足を運び、シェイクスピア研究家のウイリアム・クレイグから個人授業も受けていた。帰国後の小説では、歌舞伎座を見合いの場所としてよく使った。『それから』では、代助は嫂(あによめ)と姪の縫子と歌舞伎に行き、縫子が代助に向かって『絵本太功記』について素人質問をするので嫂に苦笑され、『明暗』でも歌舞伎での見合いが登場する。                  

 明治四十二年、漱石高浜虚子とともに明治座へ雨を冒して歌舞伎観劇に出かけ、「丸橋忠弥」、「御俊伝兵術」、「油屋御こん」などを午後の一時から夜十一時まで観て、日記に《御俊伝兵衛と仕舞のおどりは面白かった。あとは愚にもつかぬものなり。あんなものを演じていては日本の名誉に関係すると思う程遠き過去の幼稚な心持がする。まず野蛮人の芸術なり。あるいは世間見ずの坊っちゃんのいたずらから成立する世界観を発揮したものなり。徳川の天下はあれだから泰平に、幼稚に、馬鹿に、いたずらに、なぐさみ半分に、御一新までつづいたのである》と綴った。

明治座の所感を虚子君に問われて」では、《彼らのやっている事は、とうてい今日の開明に伴った筋を演じていないのだからはなはだ気の毒な心持がした》、《極めて低級に属する頭脳をもった人類で、同時に比較的芸術心に富んだ人類が、同程度の人類の要求に応じるために作ったもの》、《まるで野蛮人の芸術である。子供がまま事に天下を取(と)り競(くら)をしているところを書いた脚本である。世間見ずの坊ちゃんの浅薄愚劣なる世界観を、さもさも大人ぶって表白した筋書である。こんなものを演ぜねばならぬ役者はさぞかし迷惑な事だろうと思う》と書いた。続けざまに虚子と「太功記」、「きられ与三郎」、「鷺娘」などを観た感想「虚子君へ」でも、《僕は芝居は分らないが小説は君よりも分っている。その僕が小説を読んで、第一に感ずるのは大体の筋すなわち構造である。筋なんかどうでも、局部に面白い所があれば構わないと云う気にはとてもなれない。したがって僕がいかほど芝居通になったところで、全然君と同じ観察点に立って、芝居を見得るかどうだか疑問であるが、その辺はどうだろう。――話は要領を得ずにすんでしまったが、私にはやッぱり構造、譬(たと)えば波瀾、衝突から起る因果(いんが)とか、この因果と、あの因果の関係とか云うものが第一番に眼につくんです。ところがそれがあんまり善(よ)くできていないじゃありませんか。あるものは私の理性を愚弄(ぐろう)するために作ったと思われますね。太功記(たいこうき)などは全くそうだ。あるものは平板のべつ、のっぺらぽうでしょう。楠なんとかいうのは、誰が見たってのっぺらぽうに違ない。あるものに至っては、私の人情を傷(きず)つけようと思って故意に残酷に拵(こしら)えさしたと思われるくらいです》と断じている。

 もっとも、漱石はごりごりの合理的リアリストというわけではなく、夢幻的なものへの理解(『夢十夜』など)を含めて懐は深かったが、歌舞伎の前近代性、痴呆性(谷崎潤一郎も愛憎あいまって指摘している)に物足りなさを感じていたことは確かだろう。

 

――三島由紀夫の「舞台の上に生きる」/橋本治の「無意識過剰」

 昭和三十四年十一月の歌舞伎座「芸術祭十一月大歌舞伎」筋書の三島由紀夫「桜姫と権助」で、さすがに三島は『桜姫東文章』の肝を捉えている。

《「桜姫東文章」は南北の傑作と云つてよい。今度監修の仕事をたのまれて通読してみたがどこと云つて削らねばならぬところがないのにおどろいた。昔の合作の台本には冗漫なのが多いが、「東文章」はよく引締つており、もし時間にはかまわず丸ごかしに忠実に上演しても、面白く見られること請合いである。

 プロローグの児ヶ淵の衆道の心中を出せば、一層古劇の情趣が深まるであろうが、二重の因果話で、筋を追いにくくする危険もある。今度の台本で序幕になつた草庵の場は、後段の有名な「庵室」とつかぬように、序幕らしく派手な舞台に変えられるであろう。

 今日のわれわれの感覚から見て、やはり重点となるのは、大詰の権助住居の場である。お姫様が女郎に売られ、化物を背負つて歩くというので廓から帰されて、さて恋しい亭主のもとへ帰つてくるが、廓言葉と御殿言葉がチャンポンにまざつて、どうにも収拾のつかないあたり、南北ならではの、様式化に堕さぬ大胆でリアルでユーモラスで酒脱で一脈奇怪な、えもいはれぬ面白味を出しているが、演ずる俳優の側から云つても、お定まりの時代世話ではない、独自の工夫と味が要求されるところである。

 又、白塗りの恋人同士ばかりの歌舞伎劇に、お姫様と釣鐘権三という、奇抜な一組の取り合せは、タフガイばやりの今日、かえつて現代の顧客には、それらしい実感を与えるかもしれない。

 その桜姫の歌右衛門権助・清玄二役の幸四郎という好配役は、監修者自らが今からたのしみにしている舞台である。》

 

 また三島は、昭和四十二年三月国立劇場「四回三月歌舞伎公演 桜姫東文章」の筋書に「南北的世界」という一文を寄せて、バロック劇の本質、とりわけ南北のそれを言いあてている。

《今度はめづらしい稚児(ちご)ヶ淵(ふち)からの上演で、この作品の頽唐味(たいたうみ)が増すであらうし、後代の十六夜(いざよひ)清心(せいしん)にまで及ぶ心中の生残りの原形が呈示され、しかも生き残った清玄が十七年後に又同じやうに心中を迫るといふ因果の設定に、ただの因果といふよりは、つねに破滅的な形でエロスにつながることをくりかへす、こりずまの人間性が示される。》と指摘した後、

《女主人公の桜姫は、なんといふ自由な人間であらう。彼女は一見受身の運命の変転に委(ゆだ)ねられるが、そこには古い貴種流離譚(りゆうりたん)のセンチメンタリズムなんかはみごとに蹴飛ばされ、最低の猥雑さの中に、最高の優雅が自若として住んでゐる。彼女は恋したり、なんの躊躇もなく殺人を犯したりする。南北は、コントラストの効果のためなら、何でもやる。劇作家としての道徳は、ひたすら、人間と世相から極端な反極を見つけ出し、それをむりやりに結びつけて、怖ろしい笑ひを惹起することでしかない。登場人物はそれぞれこはれてゐる。手足もバラバラのでく(・・)人形のやうにこはれてゐる。といふのは、一定の論理的な統一的人格などといふものを、彼が信じてゐないことから起る。劇が一旦進行しはじめると、彼はあわててそれらの手足をくつつけて舞台に出してやるから、善玉に悪の右足がくつついてしまつたり、悪玉に善の左手がくつついてしまつたりする。

 こんなに悪と自由とが野放しにされてゐる世界にわれわれは生きることができない。だからこそ、それは舞台の上に生きるのだ。ものうい春のたそがれの庵室には、南北の信じた、すべてが効果的な、破壊の王国が実現されるのである。》と、舞台の上ならではのバロックの王国を説明した。

 ここには《一定の論理的な統一的人格などといふものを、彼が信じてゐない》となって、《こんなに悪と自由とが野放しにされてゐる世界にわれわれは生きることができない。だからこそ、それは舞台の上に生きるのだ》とばかりに、舞台上の自死(昭和四十五年十一月)を意識する三島がいる。

 それは三島『豊饒の海』の最終巻『天人五衰』末尾で、月修寺門跡となって本多の前に六十年ぶりに姿をあらわしたいまなお美しい聡子の言葉に繋がるだろう。清顕のことで最後のお願いにここへ上りましたとき、御先代はあなたに会わせて下さいませんでした、と本多が言うと紫の被布の門跡は同じ言葉を繰り返す。「その松枝清顕さんといふ方は、どういふお人やした?」 《本多は、失礼に亙らぬやうに気遣ひながら、多言を贅して、清顕と自分との間柄やら、清顕の恋やら、その悲しい結末やらについて、 一日もゆるがせにせぬ記憶のままに物語つた。(中略)「えらう面白いお話やすけど、松枝さんといふ方は、存じませんな。その松枝さんのお相手のお方さんは、何やらお人違ひでつしやろ」》 門跡は本多の則(のり)を超えた追求にも少しもたじろがず、声も目色も少しも乱れずに、なだらかに美しい声で語った。《「記憶と言うてもな、映る筈もない遠すぎるものを映しもすれば、それを近いもののやうに見せもすれば、幻の眼鏡のやうなものやさかいに」 「しかしもし、清顕君がはじめからゐなかつたとすれば」と本多は雲霧の中をさまよふ心地がして、今ここで門跡と会つてゐることも半ば夢のやうに思はれてきて、あたかも漆の盆の上に吐きかけた息の曇りがみるみる消え去つてゆくやうに失はれてゆく自分を呼びさまさうと思はず叫んだ。「それなら、勲もゐなかつたことになる。ジン・ジャンもゐなかつたことになる。……その上、ひよつとしたら、この私ですらも……」 門跡の目ははじめてやや強く本多を見据ゑた。「それも心々(こころごころ)ですさかい」》

 

 南北のバロックについては、河竹登志夫『歌舞伎美論』における「歌舞伎のバロック的性格」論がよく知られるところで、バロック劇としての、西のシェイクスピア劇と東の歌舞伎の似たところを、《どちらも市民劇で、成立年代もおなじであること、女方使用のこと、流血場面そのほか構造や表現の形に共通点が多いこと》などとしたうえに、舞台の構造(セリやスッポンといった垂直性(下降と上昇という二つのベクトルによって組織されるバロックの一大特徴)、回り舞台というスペクタクル性)、悲劇と喜劇、厳粛な場面と卑俗な場面とが、ひとつの芝居のなかにしばしば交互に混在していることなどをあげる。

 河竹は自身の説に加えて、丸谷才一「出雲のお国」から小説家の空想(丸谷曰く)も紹介していて、その丸谷の原文は、《出雲のお国やその夫の狂言師三十郎は、どこかの町のイエズス会の教会か学校にもぐりこんで、イエズス会劇を見物し、それに強烈に刺激されてお国歌舞伎を創始したのではないか。(中略)能の古典主義から歌舞伎のバロック性への移行、革命的な転換を決定づけたものは、ヨーロッパのバロック芸術の綜合としての演劇を海路はるばる伝へた、教会の催し物であったらう》。さらに丸谷は『文学のレッスン』や山崎和夫との対談『日本史を読む』などで、歌舞伎とバロック劇との類縁性(南北『心謎解色絲(こころのなぞとけていろいと)』とシェイクスピアロミオとジュリエット』の比較対照など)を嬉しそうに語っている。

 付け加えれば、モーツァルトドン・ジョヴァンニ』のドン・ジョヴァンニ、従者レポレッロ、騎士団長、ドンナ・アンナ、ドン・オッターヴィオに、南北『四谷怪談』の民谷伊右衛門、中間直助、四谷左門、お岩、佐藤与茂七を見立てることも可能かもしれない。

 

 橋本治は『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』の「第一章『豊饒の海』論」、「三 『暁の寺』のジン・ジャン――あるいは、「書き割り」としての他者」で、『暁の寺』のジン・ジャンに関する部分には種本がある、インスパイアされたと公言している『浜松中納言物語』とは別の種本で、四世鶴屋南北による『桜姫東文章(さくらひめあずまぶんしょう)』がそれであると言っている。『桜姫東文章』の、「清玄は本多茂邦、桜姫はジン・ジャン、そして旧華族の令嬢であると思しい久松慶子が釣鐘権助に相当する」としている。

 橋本治らしい独創性に満ちた着想で、頷けるところもある。つけ加えれば、桜姫の腕の彫物は、清顕の三つの黒子に相当するともいえよう。しかし久松慶子は、釣鐘権助が桜姫を犯したように、ジン・ジャン姫をたぶらかし、肉をもてあそんではいるけれども、慶子と本多の関係は悪くなく、見立てにはやや無理がある。

 本多の好意はジン・ジャンに裏切られ、邪険にされるというところは確かにそうだとはいえるが、驕慢な女性の思わせぶりにのせられつつも、終のところで邪険にされる失恋構造は三島作品における一つの型でもあって、『仮面の告白』の主人公の初恋、アフェアーもそれだった(伝記的に言えば、三島自身も似た経験をしている)。『愛の渇き』の悦子と園丁三郎との関係性、『金閣寺』の内翻足の柏木と生け花の師匠(=南禅寺で搾乳を垣間見た将校の寡婦)との関係性もまた、「男は上淫を好み、女は下淫を好む」の応用系であり、『春の雪』の清顕は決して下賤な身分ではなかったけれども、皇室に嫁ぐことになった聡子を犯すことで禁忌の恋に向かう。ついでに言えば、『仮面の告白』の「汚穢屋の若者」への上淫憧憬は、「女は下淫を好む」に同性愛的に繋がる。

 

 むしろ橋本なら、『演劇界』の「特集 桜姫東文章の魅力」(2004年8月)に掲載した「小気味のいいエゴイスト達」という一文が、「理性の不安」の世界を指摘して重要だ。

《桜姫が平気で切見世女郎の「風鈴お姫」でもあるように、権助は、「下品な兄ちゃん」でありながら、同時に「頼もしいタフガイ」なのである。

 この矛盾を恐れてはいけない。「行き当たりバッタリでも大丈夫」という快感が、この作品を支えているのである。だから、女郎になった末に人殺しまでしてしまった出産経験ありのお姫様は、最後結局、平気で「お姫様」のままなのである。「そうだといいなァ」という、人間の都合のよさが全部この舞台の上には登場してしまう。だから、「後腐れがなくて小気味がいい」になるのである。そうあるために、役者達は、この矛盾に満ちてエゴイスティックな登場人物達を、丁寧に造形するのである。こんなにも「歌舞伎的な造形」を必要とする登場人物ばかりが登場するドラマも珍しいだろう。桜姫や権助や、局の長浦やその愛人の残月はもちろんとして、一番すごいのは、清玄である。

 昔、團十郎の清玄が清水の石段を下りて来るのを見て、ぶっ飛んだ記憶がある。異様に生々しく肉感的で、当人がそのことをまったく自覚していないのだ。「あの稚児ヶ淵の事件はどうなったの?」という文学的な疑問を撥ねのけて、「その後の清玄」は、ぬけぬけとなまめかしく、しかも当人は「インテリだ」と思い込んでいるのである。「そうか、江戸時代の坊主って、こういうものでもあったんだ」と思って、うなってしまった。桜姫が「無意識過剰」なら、清水の階段をしずしずと下りて来る「美しく立派な中年僧」の清玄もまた、「無意識過剰」なのである。「そうか、美しい中年男って、こんなにへんなものなのか」と、ついでにその時に思った。

 桜姫に狂う清玄に、「人間としての実質」なんてものはなくてもいいのである。清玄は、「悩める青年僧」で、「なんにも考えない中年僧」で、その後もやっぱり、なんにも考えていないのである。だから、幽霊になって出ても、桜姫から、「ホントにもう、商売の邪魔なんだからァ」と一蹴されてしまうのである。その、なんにもない清玄の情けなさが、リアルなのである。このリアルなところが、とんでもなくむずかしい。

 考えてみればこの芝居、登場人物のキャラクターだけで出来上がっているのである。私なんかは、それこそがすごいと思い、これこそが歌舞伎かとも思う。》

 

 見て来たように、三十六年ぶりの仁左衛門玉三郎による『桜姫東文章』は、コロナ禍という「理性の不安」の時代に相応しい上演である。 

                               (了)

       *****引用または参考文献*****

鶴屋南北『歌舞伎オン・ステージ 桜姫東文章』廣末保編著(「芸談 桜姫 六世中村歌右衛門」等所収)(白水社

国立劇場監修『国立劇場歌舞伎公演記録集 桜姫東文章 昭和42年3月上演』(ぴあ株式会社)

*『演劇界 (特集)桜姫東文章の魅力 2004年8月』(橋本治「<桜姫東文章>のをんなとおとこ 小気味のいいエゴイスト達」所収)(演劇出版社

*筋書『第四回三月歌舞伎公演 桜姫東文章 昭和42年3月』(郡司正勝「演出の言葉 鶴屋南北との出會」、三島由紀夫「南北的世界」、堂本正樹「燃える鏡の密室 南北と現代の契約」、鈴木重三「南北物と浮世絵」等所収)(国立劇場

*筋書『芸術祭十一月大歌舞伎 昭和34年11月』(三島由紀夫「桜姫と権助」所収)(松竹株式会社演劇部)

*『国立劇場上演資料集<425> 「通し狂言 桜姫東文章」2000.11』(郡司正勝「「桜姫東文章」演出ノート」(「かぶき袋」)等所収)(国立劇場芸能調査室)

渡辺保『戦後歌舞伎の精神史』(講談社

郡司正勝鶴屋南北』(中公新書

野口武彦『「悪」と江戸文学』(朝日選書)

橋本治『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』(新潮文庫

*『GS・たのしい知識2(特集)POLYSEXUAL――複数の性』(出口逸平「機巧(からくり)の性 鶴屋南北桜姫東文章』を繞って」所収)(冬樹社)

*中村恵『桜姫の純情と貞節鶴屋南北桜姫東文章』より』(九州大学国語国文学会)

鶴屋南北『歌舞伎オン・ステージ 東海道四谷怪談』諏訪春雄編著(白水社

小林恭二『新釈 四谷怪談』(集英社新書

渡辺保『江戸演劇史』(講談社

*諏訪春雄『鶴屋南北』(ミネルヴァ書房

*廣末保『四谷怪談――悪意と笑い――』(岩波新書

河竹登志夫『歌舞伎美論』(東京大学出版会

丸谷才一丸谷才一全集8』(「出雲のお国」所収)(新潮社)

丸谷才一、(聞き手・湯川豊)『文学のレッスン』(新潮文庫

丸谷才一山崎正和『日本史を読む』(中央公論社

渡辺保歌右衛門 名残りの花』(マガジンハウス)

夏目漱石夏目漱石全集10』(「明治座の所感を虚子君に問われて」、「虚子君へ」所収)(ちくま文庫

夏目漱石『定本漱石全集20 日記(下)』(岩波書店

三島由紀夫豊饒の海 天人五衰』(新潮社)

三島由紀夫豊饒の海 暁の寺』(新潮社)

郡司正勝編集『鶴屋南北全集6』(三一書房

柄谷行人「探究Ⅲ」第十八回(「群像」1996年3月号に所収)(講談社

坂部恵坂部恵集1 生成するカント像』(「『視霊者の夢』の周辺」所収)(岩波書店

坂部恵坂部恵集2 思想史の余白に』(「理性の不安――サドとカント――」所収)(岩波書店

ジャック・ラカン精神分析の倫理』ジャック=アラン・ミレール編、小出浩之他訳(岩波書店

スラヴォイ・ジジェク、ムラデン・ドラー『オペラは二度死ぬ』中山徹訳(青土社

岡田暁生『恋愛哲学者モーツァルト』(新潮社)

アッティラ・チャンパイ、ディートマル・ホラント編『名作オペラブックス モーツァルト ドン・ジョヴァンニ』竹内ふみ子、藤本一子訳(音楽之友社

中井久夫分裂病と人類』(東京大学出版会

木村敏分裂病と他者』(ちくま学芸文庫

 

 

文学批評/オペラ批評 シェイクスピア『オセロー』からヴェルディ『オテロ」へ――穢れ(アブジェクト)の忌避/浄化

 

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『オセロー』から『オテロ』へ、脱落するもの、それは穢れ(アブジェクト)である。かわって強化されたもの、それはロマンティシズムである。穢れ、おぞましさは、忌避/浄化される。

 

 作曲家ヴェルディと台本(リブレット)作者ボーイトの共作によるオペラ『オテロ』(1887年初演ミラノ・スカラ座)において、シェイクスピア『オセロー』(1604年初演ロンドン)の第一幕が省略され、その第二幕からオペラの幕が開くことに穢れの脱落が顕著に表れている。

(以下、『オセロー』、「オセロー」表記はシェイクスピアの戯曲と主人公を、『オテロ』、「オテロ」はヴェルディのオペラとタイトル・ロールを指す。オセロ/オセロー、シェイクスピアシェークスピア、イアーゴー/イアーゴ/イヤーゴー/ヤーゴ、デズデモーナ/デズデーモナなど表記に揺れがあるが、統一せず引用原典のままとした。)

                        

 加藤浩子は『ヴェルディ オペラ変革者の素顔と作品』の「第十四章 シェイクスピアが開いた新しい道――晩期作品」で、《《オテッロ》および《フォルスタッフ》。アッリッゴ・ボーイトという優秀な台本作者を得て、生涯の目標だったシェイクスピア作品のオペラ化を《マクベス》以来四十年ぶりに実現。劇と音楽が徹底的に連動したドラマティックなオペラを創り、イタリア・オペラのひとつの頂点を築いた》とし、『オテロ』は、《かつてヴェルディがオペラ化を考えた『リア王』に比べれば短く、シンプルで、オペラ化しやすい題材でもあった。オペラ化に当たってヴェルディとボーイトは、内容や登場人物をさらに切り詰めて簡潔にし、人物に関しては象徴化に近いことまでしている。五幕で構成されている原作の第一幕はカットされ、重要人物のひとりだったデスデーモナの父ブラバンショーも削られた。さらに作者たちは、「天使」のようなデスデーモナ、「悪魔」のようなヤーゴを強調するために性格的なソロを書き加えている(ヤーゴの<クレード>と、デスデーモナの<アヴェ・マリア>)。それゆえ、本作が、ヴェルディが口にしていた「シェイクスピアの精神」を具現しているかどうかについては、意見が分かれるところだろう》と書いている。

 また島田雅彦は『オペラ・シンドローム』の「主役を操る悪役~ヴェルディオテロ』」で、《私はロッシーニ的な、スーパーフラットに登場人物が書き割りされる能天気な作品にも魅力を感じます。でも、やはり陰影の濃い人物像が表現されるロマンチックな作品、とりわけ『オテロ』に心が躍ります。それは、たんに複雑な物語だからよいという理由からではありません。シェイクスピアの原作は言葉の洪水であり、その言葉数の多さによって、複雑な人間の心理を観客に伝達しました。音響効果も照明効果もなかったころの芝居ですから、それは当然です。しかし、オペラでは、言葉を八割がた削り、そのぶんの描写は音楽が請け負ってきた。つまり、オペラの構造の柱となるのは物語だとしても、そこに音楽的リアリティが十分に組み合わされなければ、物語は伝わらないのです。

 たとえば第一幕のラストで、夫婦の愛が高らかに歌われつつも、どこか不安が観客の胸に募ってくるのは、セリフとはべつのニュアンスが音楽を通して伝わってくるからに他なりません。あるいは、イアーゴが巧みな口車を弄(ろう)しても、音楽がそれを嘘だと告げている。物語の流れや、個々のキャラクターも、音楽の起伏がシミュレーションしていくのです。そうした、矛盾しあうダブル、トリプルのメッセージを発信できること。これがオペラのメリットであり、最大の魅力です。それを改めて気づかせてくれたのが、『オテロ』という作品なのです》と書いた。

 加藤と島田の意見には賛成だが、オペラ化によってシェイクスピア劇のかなりの部分が削ぎ落とされてしまったのもまた事実で、の最も象徴的な「穢れ」の忌避と浄化を考察してゆきたい。

 

 ここで、穢れ、おぞましさというアブジェクト(abject)は、クリステヴァ『恐怖の権力 <アブジェクション>試論』の、《おぞましきものに化するのは、清潔とか健康の欠如ではない。同一性、体系、秩序を攪乱し、境界や場所や規範を尊重しないもの、つまり、どっちつかず、両義的なもの、混ぜ合わせである。言い換えれば、良心にあふれた裏切者や嘘つきや犯罪者、人助けだと言い張る破廉恥な強姦者や殺人者……。およそどんな犯罪でも、法の脆さを目立たせるので、アブジェクトとなる。だが計画的な犯罪、狡猾な殺人、偽善に満ちた復讐はなおさら法の脆さを人前に晒すために、より一層アブジェクトである》、《おぞましきもの(アブジェクト)は倒錯[頽廃]と類縁関係をもっており、私が抱くおぞましさ(アブジェクション)の感情には超自我に根差している。アブジェクトは倒錯的[頽廃的]だ。なぜならそれは禁止や法則や掟に見切りをつけることも引き受けることもせずに、その向きを変え、道を誤らせ、堕落させるからである》にはイアーゴーの姿が重ね合わさるが、それだけではすまない。

 

<『オセロー』第一幕の削除>

 シェイクスピア『オセロー』の第一幕は三場からなる。場所はヴェニス

 ヴェニス公国に仕える北アフリカ出身のムーア人傭兵将軍オセローは、元老院議員ブラバンショーの娘デズデモーナと愛し合い、ひそかに結婚する。オセロの旗手を務めるイアーゴーは、オセローが自分を差し置いてキャシオーを副官にしたことや、妻エミーリアを寝取った噂があることなどからオセローに恨みを持っていた。イアーゴーはデズデモーナに片思いを寄せていたロダリーゴーをそそのかし、一緒にブラバンショーの自宅に来て押し寄せ、露骨で卑猥な言葉で告げ口する。

 おりしもトルコ海軍が、ヴェニス公国領のキプロス(サイプラス)島を侵略したとの知らせを受けて、ヴェニス元老院では議員たちが深夜の会議を開いていた。ブラバンショーは、オセローを連れてその場に駆けつけ、娘のデズデモーナをたぶらかしたオセローの罪を裁いてくれるよう申し出る。トルコ軍に対抗するにはオセローの指揮を必要とするヴェニスの支配階級はオセローを断罪することをためらう。魔法によって娘を惑わしたに違いないと非難するブラバンショーに対して、オセローは歴戦の冒険譚を語ることでデズデモーナの愛を得たと雄弁に語り、イアーゴーに連れて来られたデズデモーナも、オセローへの愛を証言すると、フラバンショーも諦め、結婚を認めるしかなかった。

 キプロス島行きを命じられたオセローに、デズデモーナも同行を願い、ヴェニス大公たちも戦地への妻の同伴を認めた。ロダリーゴーは失望するが、人種、年齢(オセローは四十歳近く、デズデモーナは恐らく十代)、出自、育ちも違う二人が続くはずがない、とイアーゴーに説得されてキプロス島へ向かう。

 

『オセロー』第一幕をオペラでカットした意味あいには次のようなもの考察がある。

 シュテファン・クンツェ「英雄の没落」から。

《たとえば、イアーゴーの側からすれば、身をもって味わわねばならなかった冷遇(オテロが自分の女房を寝とったのではないか、という疑いは払拭されることがなかった)、オテロの側からすれば、デズデモーナを誘惑しかどわかしたがために背負いこむことになった罪、はてまたデズデモーナの側からは、父親ブラバンショ―を欺いたこと、つまりは彼女の不幸な頑固さ、これらがその動機となる。シェークスピアは、何といっても、以上の動機や人間関係をくり広げるために、ヴェネツィアを背景とする第1幕をまるごと必要としたのだ。芝居において重要でありながら、オペラにおいてはまったく表に出てこない動機は、オテロアウトサイダーであった、ということである。オテロはその膚の色ゆえに蔑視される成上り者であり、結果として彼は不信に傾く。そのうえ、オテロとデズデモーナは、すでにその年齢の差からして不釣合な組合せなのである(第2幕、四重唱を見よ)。これらすべては、オペラでは副次的な意味しかもっていない。ボーイトとヴェルディが、シェークスピアの第1幕を削除したのも、偶然のことではないのだ。オペラは、シェークスピアの第2幕から始まる。残ったのは、結局のところ、イアーゴーのずる賢く悪魔的な態度と、オテロの破滅である。オテロ、あるいはデズデモーナの測ることのできる罪は――今上に挙げたモティーフはすべていっしょに響き合っているにもかかわらず――まじめにとりあげられず、イアーゴーの筋の通った動機もまたしかりである。》

 

 エドガー・イステル「ヴェルディシェークスピアの《オテロ》」(1917年)から。

《前史が簡単であればあるほど、導入部が短ければ短いほど、ひとつの題材が音楽的(・・・)表現にとって価値あるものとなるのだ。そしてまたここにひとつ、シェークスピアの作品は五幕だが、第1幕以外はいずれの幕も不可欠である、という事情が加わってくる。じっさいこの第1幕のさまざまな事件が切り離されてみると、五幕物のオペラにだんだん耐えられなくなっているわれわれの感性にとっては、この幕を削除することの絶対的必要性が既定のものとなってしまう――もちろん、導入部のきわめて重要なポイントを取り出し、つづく幕のうちへとうまくそれらを有機的に編み入れてゆくことがその前提である。これを成しとげうるのは作劇法を踏まえた第一級の劇作品であるだろうが、ボーイトはじっさいにそれをやってのけたのだ。ボーイトはハンスリックに一度こう語ったという(《音楽写生帳》)。「自分の頭とヴェルディの頭を悩まして、オペラを長くすることなしに、シェークスピアのこの第1幕をどうやって救済すべきかを考えた」(原註:ヴェルディは1889年3月11日、ロンドンにいるボーイトにあてて次のような手紙を書き送った。このオペラを作った者たちはシェークスピアの祖国において、第1幕を削除したことで避難されるでしょう。(筆者註:ロンドン初演は1889年7月4日、リュケイオス劇場))。(中略)

 第1幕を削除した結果、公爵、ブラバンショー、グラシアーノ、そして二人の議員が消えてしまった。これらのうちシェークスピアにおいてあとでふたたび現れるのはグラシアーノだけであるが、ボーイトは、シェークスピアにおいてヴェネツィアの使者として重要な役割を演じるロドヴィーコとこのグラシアーノをじつに効果的に一体化する。(中略)こうして、ボーイトの台本においては、オテロの結婚の前史や家族の反対(これはすでにジラルディの話(筆者註:種本になった1565年ヴェニス刊のジラルディ・チンティオ『百話集』)で述べられていた)について、デズデモーナがオテロを愛したのはその冒険譚のゆえであり、逆にオテロは同情ゆえにデズデモーナを愛するようになったということしか知らされないことになる。つまり<罪>、父親に対してデズデモーナが背負いこんだ<罪>、そしてイアーゴの復讐の根拠のうちでひとつの役割を果すことになる<罪>(筆者註:妻エミーリアがオテロと同衾したとの噂を指すであろう)もまた完全に省かれている。デズデモーナはシェークスピアにおけるよりもさらに汚れなき者として現れ、真の天使となり、この天使に対置させられるのがイアーゴに現れる人間の姿をした悪魔(たとえばたんに悪魔的人間というのでなく)なのである。このようにしてボーイトはまたイアーゴをも無傷のままに救い出し、シェークスピアにあるいくぶんか安っぽい仕返しは放棄する。悲劇の登場人物の性格はそのままに保たれているが、エミーリアだけは例外で、上品になって現れてくる。》

 

 シェイクスピア『オセロー』の第一幕には喜劇的要素(ロマンティック・コメディ)があり、若い恋人たちに叩き起こされる老父といったコメディア・デラルテの伝統や、ミハイル・バフチンラブレー的祝祭(カルニバル)、「グロテスク」が溢れ返っているから、削除によって他にもイアーゴーのスカトロジー、猥褻さが薄まっている。

 

<『シェイクスピアはわれらの同時代人』>

 ヤン・コット『シェイクスピアはわれらの同時代人』の「『オセロー』の二つの逆説」は鋭い指摘が多く、とくに戯曲にあってオペラに欠落するものをみれば、ヴェルディのオペラがいかに「穢れ」を忌避/浄化させたかがわかる。

 ただし、コットの『オセロー』論はシェイクスピアの演劇論であり、オペラに対する理解、関心は心もとない。また、デズデモーナのハンカチに対する探究が欠落している。ハンカチに関しては後述するとして、オペラ理解の不十分さは次のような記述から推定される。

 コットは、《オペラの第二幕では、キプロスの島民たちのコーラスがデズデモーナをたたえて歌う。また第三幕のフィナーレにはバレーの踊り手たちを含む全登場人物が現われる。シェイクスピアの全作品の中で、『オセロー』は大がかりな上演に最も適していた。この嫉妬深い東洋人についてのバレー付きオペラは、しだいに歴史的スペクタクルとして上演されるようになり、舞台上のヴェニスは《ほんもののように》されるのであった。》と書いているが、第三幕のバレー場面は、1894年のパリ・オペラ座でのフランス語初演のために、バレー付のグランド・オペラを好むフランスの観客のためにヴェルディが作曲して特別に加えたもので、今でもまずは上演、演出されない。また、オペラでは戯曲第一幕のヴェニスの場面は上演されないので、ボーイトが拘った舞台上の場所の一致、キプロス島の場面だけである。

 

 ヤン・コットの論考は次の文章で始まる。

《『オセロー』という劇にはわれわれ現代人にとって不快なところがたくさんある。》

 これこそが、シェイクスピア『オセロー』の本質である。正しくは『ヴェニスムーア人オセローの悲劇(The Tragedie of Othello,the Moore of Venice)』との題名を持つこの劇は、白/黒、男/女、上/下、規範/逸脱、キリスト教/回教(ムーア人、トルコ)、淑女/娼婦、貴族階級/軍人、異性愛/同性愛、内部/外部といった、現代まで続く歴史的で普遍的な二項対立の不快さに満ちている。

 ただし「不快」という感想は月並でもある。漱石は「作物の批評」で、《オセロは四大悲劇の一である。しかし読んでけっして好い感じの起るものではない。不愉快である。(今はその理由を説明する余地がないから略す)もし感じ一方をもってあの作に対すれば全然愚作である。幸にしてオセロは事件の綜合(そうごう)と人格の発展が非常にうまく配合されて自然と悲劇に運び去る手際(てぎわ)がある。読者はそれを見ればいい。》と言っている。

 問題は、「不快」「不愉快」を、戯曲からオペラを作るにあたって、いかに処理したのかであり、そこに逆説的に「不快」の回避の本質が透けてくる。

 

《この舞台の上では『ハムレット』や『リア王』の場合のように、世界の関節が外れ、混沌が戻り、自然の秩序そのものがおびやかされるのである。》

 オペラでは関節が嵌められ、混沌はなく、自然の秩序が乱れることはない。そうでなければ、物語の流れをたやすく理解して心地良く音楽に身を委ねることがかなわない。

 

<イアーゴーの注釈/獣性/ひきがえる/蝿>

《イアーゴーは批評家たちにとってはいつも最も厄介な存在であった。ロマン派の批評家たちにとっては、彼は要するに悪の天才なのであった。だがメフィストフェレスといえども、その行動には理由がなければならない。とりわけ劇場ではそうだ。イアーゴーはオセローを憎むが、そもそも彼はあらゆる人間を憎んでいる。彼の憎悪にはどこか打算を離れたところがあることに、批評家たちは早くから気づいていた。イアーゴーはまず憎み、その後初めて憎悪の理由を考え出すように見える。この点についてコールリッジの「無動機の悪意についての動機捜し」という言葉は急所を突いている。妨げられた野望、自分の妻についての嫉妬、デズデモーナについての嫉妬。あらゆる男や女についての嫉妬、――こんなふうに彼の憎悪はたえずそれをふくらませる餌にうえており、けっして満たされることがない。(中略)

 悪魔的なイアーゴーというのはロマン派が作り出した虚像である。》

 台本作者ボーイトは「《オテロ》登場人物の注釈」を書きとめていて、中でもイアーゴーとデズデモーナに関する注釈が興味深い。イアーゴーについて、《この邪悪な力を演じようと取り組む出演者がつい陥りやすい、ひどい間違い、いちばん安易な思い違いは、イアーゴを人間の形をした悪魔と想定し、メフィストファレス的な仮面をつけさせ、サタンの目付きをさせてしまうことだ。そのような演者は、シェークスピアもこのオペラも、どちらも理解していないということを立証しているようなものだ。イアーゴの言葉はどれもひとりの人間から――不逞のやからではあるが、ともかくひとりの人間から――発せられるのだ》と演者に注意を与えているにも関わらず、彼が造形したオペラのイアーゴーはマキャベリ主義者でもユダでもなく「悪魔」に昇華している。また、デズデモーナへの注釈で、《決して色目を使わぬこと、胴体と腕を使った身振りをしないこと、大股でそっくり返って歩かないこと、いわゆる<効果(うけ) Wirkungen>を追い求めないこと》と書いているが、こちらは台本の目論見どおりに、聖母マリアから天使になるよう指示している。

 

《オセローの価値の世界は、彼の詩や言葉といっしょに崩壊してゆく。というのは、この悲劇にはもう一つ別の言葉、別のレトリックがあるからだ。それは、イアーゴーのものだ。イアーゴーの台詞の意味論的世界において際立っているのは、物や動物の名で嫌悪や恐怖や不快感を起こすものが、挑発的な言葉や重要な手がかりになる言葉として使われていることである。イアーゴーの台詞には、にかわ、餌、網、毒、薬、浣腸、ピッチや硫黄、悪疫といったものが出てくる。(中略)

 これよりもさらに際立っているのは、イアーゴーの台詞に現われる獣性への言及だ。たとえば、弱く無力な動物(「身投げだと! そいつは猫や盲の子犬に任せておきな!」(第一幕第三場)、愚かさや醜さの象徴ないし寓話としての動物(めんどり、ひひ)、肉欲や好色の象徴として(「……山羊のように好色で、猿のように淫乱で、さかりのついた狼のように催していて」(第三幕第三場)といった例がある。(中略)

 今やオセローは、女郎買いや繁殖、火や硫黄、紐、ナイフ、毒といったことをあげて、のべつ幕なしにわめくことになる。彼はイアーゴーと同じように獣性に関する言葉を使うのだ。(中略)彼はイアーゴーのもっていた固定観念をすべて引き継ぐ。それはあたかも、彼自身が猿や山羊や雑種犬やさかりのついた雌犬などのイメージをほんの片時もふり切ることができないかのようだ。「……おれを山羊ととりかえる」と彼はいう。(第三幕第三場) 威儀を正してロドヴィーコを迎えている時でさえ、彼は自らをおさえることができない――「サイプラスへようこそ。山羊や猿同然だ!」(第四幕第一場)(中略)

リア王』には虎やはげたかのようや猪のように堂々たる猛獣が現われる。『オセロー』に現われるのは爬虫類や昆虫だ。この悲劇の事件は、少なくとも激情で時を計るかぎり、長い二夜の間に起こる。主要人物たちがしだいに奥深く吸い込まれてゆくこの劇の内的風景は――すなわち、彼らの夢や性的固定観念や恐怖の中に現われる風景は――闇の風景なのである。太陽も星も月も見えぬ大地、蜘蛛やとかげや蛙がたくさんいる土牢――そういう風景である。

    ……おれはいっそひきがえるになって、土牢の湿気を吸って生きていたい。(第三幕第三場)

 さらにまた――

    その泉、おれの命の流れを豊かにするもからすもただその泉のまま、そこから投げ出されてしまうのか、それともそこを汚ならしいひきがえるが交わって子をふやす水たまりにしておくのか。(第四幕第二場)》

 好色な女性を表現するのに、「膣に張り付くひきがえる」「膣に食らいつくひきがえる」といった好色、色欲を暗示する図像がある。オペラにこのような人間を貶める不快感、嫌悪感に満ちた身の毛もよだつおぞましい比喩表現の歌詞はなく、清潔に漂白されている。

                                                                         

《   こちとらの網は小さいが、生捕りにするのはキャシオーという大きな蝿さ。(第二幕第一場)

 これはこの悲劇の中でいちばん意味深長なイメージである。蝿と蜘蛛、蜘蛛と蝿。キャシオーもロダリーゴもオセローも、イアーゴーにとってはみな蠅である。大小の差はあっても要するに蝿だ。白いデズデモーナもまた、黒い蝿になってしまうのである。オセローはイアーゴーのもっている固定観念をすべて引き継ぐのである。

   デズデモーナ 私の貞潔はおわかりでしょうね。

   オセロー ああ、わかっている、屠殺場の蝿さながら、卵を生んだらたちまちはらむ、そんな貞潔ぶりだ。(第四幕第二場)》

 

「蝿」について、河合祥一郎は『新訳 オセロー』の「訳者あとがき」で「穢れ」に絡めて解説している。

《オセローは、デズデモーナを「美しい本」「純白の紙」などと形容する一方で、彼女が犯したとされる罪の穢れを蛙や蝿を引き合いに出して糾弾する。そのとき「夏の屠畜場の蝿」という表現が出てくるが、これに対しても注釈が必要だろう。肉食の歴史の長いイングランドにおいて、食肉の小売販売をする「肉屋」(butcher)という語には「動物を屠(ほふ)る者」の意味もあった。肉を売るものは自ら食肉解体作業を行っていたのである。特別な設備などはなく、戸外で行うために、特に夏場は蝿が群がった。その蝿に対する嫌悪感を表明しているのである。

 当時の衛生事情は劣悪であった。下水設備も整備されておらず、排便にはおまるが用いられ、その中身の処分もいい加減で、家の外にまき散らすことすらあったという。ロンドンの街には蝿やネズミや蚤(のみ)が繁殖し、ペストが蔓延して、膨大な数のロンドン市民がばたばたと倒れていた。「穢れ」に対する恐怖や憎悪は、命に関わるものとして今日より遙かに切実であったことは想像に難くない。

 白いデズデモーナの美しさは外見だけのもので、なかは穢れて腐っているのだと思い込んだオセローの心のなかに、当時の悪臭を放つ穢れの強烈なイメージが入り込むのである。》

 

<穢れたデズデモーナ>

《彼女は登場する前からすでに人々の話題になっている。彼女は黒人と駆け落ちしたと皆が叫んでいる。ここですでにこの女のイメージは動物的なエロティシズムの世界において示されているのである――

    ……年とった黒い雄羊が、お宅の白い雌羊の上に乗っかってますぜ。(第一幕第一場)

『オセロー』の導入部は荒々しいものである。イアーゴーとロダリーゴーはブラバンシオーを怒らせようとしている。だがこれだけでは、動物の比喩があれほどしつこく使われることは説明できない。こういう比喩は明らかに意図して使われているのだ。オセローとデズデモーナが結ばれるのは、最初から動物の交尾として表現される。

    ……お宅ではお嬢さんにアフリカ産の馬を乗っからせるんですな。お孫さんにはいななくやつ、親類縁者には駿馬や子馬がほしいんですな。(第一幕第一場)

 オセローは黒く、デズデモーナは白い。ヴィクトル・ユゴーは、先に引用した一節の中で、黒と白、昼と夜の対照のもつ象徴性について書いていた。だがシェイクスピアはロマン派の詩人たちよりも具体的であった――もっと物質的であり肉体的であった。『オセロー』に現われる肉体は苦しめられるだけでなく、互いに惹きつけ合いもするのである。

    ……お宅のお嬢さんとムーアとが、背中の二つある獣になってるところだ。(第一幕第一場)

 白と黒と二つの背中をもった獣というイメージは、性行為の表現としては、およそ荒々しく激しいものである。だが同時にここには現代的なエロティシズムの雰囲気が漂っている。すなわち純粋な動物性への憧れや、性的タブーの打破や、あらゆる変態行為への執着がこの劇にもある。そしてこういう特徴をもつ現代的エロティシズムの世界が、これほどしばしば黒と白の関係を軸にしているのは当然である。》

 差別問題はオペラでも「回教徒」「ムーア人」という台詞が単発的な単語として語られはするが、「野蛮人の分厚い唇」(第一幕第一場)という台詞以外はあからさまな侮蔑、肉体性に乏しく、まして交尾する動物の比喩などない(せいぜいが、第二幕第五場のオテロ「とぐろを巻きつつ、蛇は私にからみついている」と、第三幕第五場のイアーゴ「こは蜘蛛の巣、そこにお前の心は落ちては嘆き、捕われては死ぬる」だがありふれた比喩に過ぎない)。

 また、ヴェルディが「父と娘」というテーマに拘ったのは有名で、『シモン・ボッカネグラ』『リゴレット』『ルイーザ・ミラー』、そして『ラ・トラヴィアータ(椿姫)』(フィナーレで、今際の際のヴィオレッタに恋人アルフレードの父ジェルモンが「娘のあなたを胸に抱くために来たのです」と約束を果たす)に容易に見てとれるが、ヴェルディはオペラ『オテロ』ではデズデモーナの父ブラバンショーを抹消することで、見事なまでに「父と娘」のテーマを消した(斜め裏返しに見ると、シェイクスピア劇にもオペラにも「母の不在」が顕著だ)。

 

《ハイネは、デズデモーナが湿った手をしているという点を気にしていた。彼は、湿った手をした女は多情だとイアーゴーが考えたのはおそらくある程度正しかったのだと思って、悲しくなったことがあると書いている。(中略)

 デズデモーナは性的な意味でオセローのとりこになっているが、一方、男という男は――イアーゴーもキャシオーもロダリーゴーも――デズデモーナのとりこになっているのである。彼らはこの女が発散させる官能的雰囲気の中にとどまっているのだ。

   (イアーゴー)……あの女が飲む葡萄酒といえども、要するにただの葡萄酒でできているだけさ。もしあれが祝福された女なら、ムーアになど惚れるわけがないよ。……キャシオーの手のひらをいじくりまわしてたのを見なかったのかい。……二人とも唇を近づけてたから、息と息とが抱き合うほどだったぜ。(第二幕第一場)》

 戯曲『オセロー』では、デズデモーナの湿った手は、オセローがデズデモーナに、ハンカチはどこにやった、母親がエジプトの女から貰ったもので魔法が織り込んである、と告げる直前に現われる(第三幕第四場)。

デズデモーナ 御気分はよろしくて?

オセロー 大丈夫だ。(傍白)心を偽るのは、こうもつらいものか! デズデモーナ、おまえは?

デズデモーナ 元気でしてよ。

オセロー 手を。掌(てのひら)が湿っているな。

デズデモーナ まだ若いのですもの、それに憂いも知りませんし。

オセロー 気前がよく、ものにこだわらぬ気質を現しているのだ、温い、温くて、そして湿っている。この様子では、人を遠ざけて内に籠(こも)り、精進潔斎、断食苦行、ひたすら神の御前に祈り勤めねばなるまい。それ、ここに年若い多情の悪魔がひそんでいる、そいつが往々謀叛を起すのだ。いい手をしている。人見知りをしない手だ。》

 穢れを感じさせない表現だからか、オペラ『オテロ』でもデズデモーナの湿った手が、同じ状況設定で登場する。

デズデーモナ 気が晴れていらっしゃいますの、私の心の気高き夫よ。

オテロ ありがとう、妻よ、お前の象牙のように白い手をお寄こし。

しっとりとしたあたたかさが甘美な美しさを滲ませているね。

デズデーモナ この女はまだ苦しみの跡も、歳の轍(わだち)も知らないのですわ。

オテロ だが、ここには無分別なおとなしい悪魔が巣くうているのだ、

そいつが愛らしい象牙のような小さな爪を輝かしているのだ。

やさしい態度で祈ったり、敬虔な情熱を示したりしながら……》(第三幕第二場)

 ハンカチに関して後に詳述するが、女性は男性より「湿っぽく」(watery)、液体(分泌物)を「漏らし」、恥ずべき液体を身体から出すことをデズデモーナの不貞にからめて仄めかしている。

 

「湿った手」のように、表層的には穢れを感じさせず、ドラマ上はひとつのクライマックスである(観客の覗き見、盗み聞き欲望を満足される)ことからオペラでも残った場面として、オセローがイアーゴーの手引きで、キャシオーがハンカチを持っているという不貞の確証を得る第三幕第四/五場(劇では第四幕第一場)がある。

 イステルの解説を引用すれば、《最初は大きな声でデズデモーナのことを、次に小声でビアンカ(筆者註:キャシーの愛人で娼婦。劇ではこの場面に登場するが、オペラでは会話の話題にのぼるだけで顔を見せない処理が施されているから、煩くはならない代わりに、デズデモーナがオセローから罵られた「娼婦」問題の不徹底さともなる)のことを話すというイアーゴの策略も同じである。ハンカチの話はしかしシェークスピアよりもはるかにうまく構想されている。ビアンカのことは完全に覗き、ハンカチの模様を写しとるという小説的モティーフも同様に省かれる。イアーゴはこっそりとカッシオのところにハンカチを置いておき、カッシオは何も知らずにそれをイアーゴに見せる。イアーゴは様子をうかがうオテロの眼に当然はいるような位置にハンカチをもちあげる。オテロはこっそりと近づき、柱の陰からごく間近に見て、それが自分の与えたハンカチであることを確信する。元大尉のカッシオが新しい恋人を手に入れることについてイアーゴが口にする戯れ言葉、そしてカッシオのうわついた笑い、それらがオテロの怒りをさらに増す。》

 しかし、覗き見、窃視は観客にとっても心地良い穢れなだけで、穢れが窃視と緊密なことは、いみじくもクリステヴァが指摘している。《恐怖症はしばしば窃視症へと脱線してゆく。窃視症は対象関係の構成にとって構造的に不可欠であり、対象がアブジェクトの方向へ揺れ動いてゆくたびに現われる。それが真の意味の倒錯となるのは、主体/客体の不安定さを象徴化する作業に失敗した場合に限られる。窃視症はアブジェクションのエクリチュールの同伴者である。》

 なお、この場面には、オセローが窃視、盗聴から「不貞」「証拠」の記号を次々と綴じてゆく、臨場感に満ちたラカンの「クッションの綴じ目」的な面白さがある。つまりクッションの綴じ目 point-de-capiton の介入によってただのつまらぬ会話が「不貞の証拠」に再構造化される。偶発的な痕跡を意味づけながら、特定の意味(ここでは「不貞」「証拠」)で構造化しなおすのである(筆者註:ポワン・ド・キャピトン point de capiton は、一般的に「クッションの綴じ目」と訳される。袋状にしたカバーのなかに羽毛や綿を詰めたクッションは、そのままでは、現実のように、不安定で非一貫的である(中身がすぐに偏ってしまう)。クッションの綴じ目は、この詰め物の偏りを防ぐためのものであり、クッションの中央にカバーの表から裏まで糸を通し、糸が抜けてしまわないようにボタンをつけたりする。ここでは、現実はイアーゴとカッシオの戯れ言葉、うわついた笑い、ボタンは不貞、証拠)。

 

<「かつてアレッポで」>

《オセローはデズデモーナを殺すことによって、道徳の秩序を維持し、愛と信頼とを回復しようとする。彼はデズデモーナを殺すことによって、彼女を許しうる状態になる。その結果、善悪の結着がつき、世界は平衡のとれた状態に戻るのである、もはやオセローは口の中でものをいうような煮え切らないことはしない。彼は必死になって人生の――彼の人生の――意味を、いやおそらくは世界の意味を、保とうとしている。

    それからまたこのこともお伝えを、かつてアレッポで、ターバンを巻いたトルコ人が、不当にもヴェニスの市民に手をかけ、御政体を悪しざまに申しました時、私はこの外道の犬めののど首をつかみ、打ちすえてやったのです――これ、こんなふうに(第五幕第二場)》

『オセロー』原文をもう少し遡ってみよう。

オセロー ……ただどうしてもお伝えいただきたいのは、愛することを知らずしえ愛しすぎた男の身の上、めったに猜疑に身を委ねはせぬが、悪だくみにあって、すっかり取りみだしてしまった一人の男の物語。それ、話にもあること、無知なインディアンよろしく、おのが一族の命にもまさる宝を、われとわが手で投げ捨て、かつてはどんな悲しみにも滴(しずく)ひとつ宿さなかった乾き切ったその目から、樹液のしたたり落ちる熱帯の木も同様、潸然(さんぜん)と涙を流していたと、そう書いていただきたい――それからもう一言、いつであったか、アレッポの町で、ターバンを巻いたトルコの不頼漢が、ヴェニス人に暴行を働き、この国に悪罵の限りを尽しているのを見かけたことがあるが、そのとき、この手で、その外道の犬(circumcised dog)の咽喉(のど)もとを引きつかみ、こうして刺し殺してやったと。(みずからを刺す)》(circumcised dog :ユダヤ人と回教徒のトルコ人は「割礼(circumcision)」を受けるので、ここではトルコ人を割礼を受けた「外道の犬」と呼んだ)

 この一節は『オテロ』では完全に欠落している。オセローの自己の意義付、物語化、当時の政治・宗教的正義感、偏見、「割礼された犬」であるトルコ/ユダヤ/ムーア(さらにはインディアン)という「他者」の排除。最後に、本来は偏見によって排除される「他者」のはずなのに内部に変質、混合したオセローは、混濁した自分を刺すことで、己に割礼を施す。メビウスの輪のように捩れたオセローに、観客は己も捩れた意識も持主、存在ではないかと思い当たる。婚礼の衣裳のシーツが、黒人の割礼の血によって苺のような赤い血で染まり、白人の女の経帷子となる、という「不快さ」。

 T・S・エリオットはこの台詞を引用して、《私には、オセロがこの台詞で自分を元気付けよう(・・・・・・)としているのだとしか思えない。彼は現実から逃れたいので、この時はもうデズデモナのことは忘れて自分のことだけを考えているのである。人間の美徳の中で、謙譲ということが一番達し難いものなのであり、自分のことをよく思いたいという欲望ぐらい、根強いものはない。それでオセロは、倫理的ではなくて美的(・・)な態度を取り、その時の環境に基いて芝居をすることで自分を悲壮な人物に仕立てているのである》と論じたが、「かつてアレッポで……」と語り自刃するオセローの姿には、クリステヴァの、《アブジェクト[唾棄すべき、おぞましきもの]が主体を要請すると同時に粉砕もするのが事実なら、主体が自己の外に自分を認知しようとする空しい試みに疲れはて、自分自身のうちに不可能性を発見する場合に、言い換えれば、主体が自分自身アブジェクト以外ではありえぬ(・・・・)のを発見して、不可能性とは自分の存在(そんざい)そのものであるのを悟る場合に、アブジェクトは最高度に経験されることが分かる。自己のアブジェクション[棄却行為、おぞましさ]とは、主体のある経験、つまり彼の対象がことごとく、彼の固有な存在の基礎となっている発端の喪失にしか根拠を置いていないことが主体に暴露されるような、そういった経験の最高の形態なのであろう》が重なる。

 八割がた削られたシェイクスピアの台詞の複雑さには、ナボコフの短編小説『いつかアレッポで』(『かつてアレッポで』)の多重に錯綜した味わい、という文学の核心があったが、オペラでは多層化を嫌い夾雑物に過ぎないと削除された。

 

<デズデモーナの白いハンカチ>

 十七世紀の終りに、イギリスの批評家トマス・ライマーが『悲劇管見』(1693年)で、《この劇の教訓は確かに非常にためになるものである。第一にこれは、あらゆる良家の子女に対して、両親の許しもえずに黒人のもとへ走ったりするとどんなことになるか、警告を与えるものである。第二にこれは世の良妻すべてに対して、ハンカチによく気をつけるようにという注意を発している。第三にこれは世の夫たちに、悲劇を生むような嫉妬をいだく前に、科学的な証拠をつかめと教えている。……だが悲劇的な部分は、味も香もない血なまぐさい笑劇以外の何ものでもない》と揶揄し、「ハンカチの悲劇(the Tragedy of the Handkerchief)」と一笑に付したのはよく知られている。

 

 まず、デズデモーナのハンカチが、シェイクスピア『オセロー』でどのように登場するかを見ておく。

イアーゴー ……ただお伺いしておきたいことが一つ、お気づきにならなかったでしょうか、苺の模様のあるハンカチーフ(a handkerchief Spotted with strawberries)をよく奥様がお使いになっているのを?

オセロー それなら、おれがやったやつだ、初めての贈物がそれだった。

イアーゴー  そこまではぞんじません。ただそのハンカチーフが――あれは確かに奥様のものに違いありません――実はそれで、きょうキャシオーが髯(ひげ)を拭いているのを見たのです。》(第三幕第三場)

 

(以下は、石井美樹子「『オセロ』――デズデモーナの白いハンカチ」論による(引用に際しては適宜、簡略化した)。)

聖母マリアと処女王エリザベス>

 そもそも、白いハンカチの象徴するものは何だったのか。

ルネサンス期のフランドルの絵画「受胎告知」のなかに、錫製のケトルや手洗い盆の横に、リネンのタオルが描きこまれている作品がある(例・祭壇画「受胎告知」の中央、一四二五~一四三〇年、ロベルト・カンピン作、ニューヨーク、メトロポリタン美術館蔵/三翼の祭壇画「犠牲の子羊」の左翼背後の「受胎告知」。一四三二年、ヴァン・エイク作、ゲント、サン・パヴィオン大聖堂蔵)。

「受胎告知」のなかの真白なリネンのタオルは、水差しやケトルの水で手を清めたあと、手を拭くための日用品であるが、罪なくして子をみごもり、罪なくして子を出産した聖母マリアの処女性、純潔を象徴している。出産後、聖母マリアは、生まれたばかりの赤子を白いリネンでくるみ、授乳する。さらに、ふっくらとした幼児に成長したイエスを抱き授乳する聖母マリアの膝にしばしば白いリネンが広げられている。(例・「聖母子の肖像を描くルカ」、一四五〇年頃、ロヒール・ヴァン・ウェイデン作、ミュンヘン、アルテ・ピナコテーク蔵/「聖ヨセフのいる聖家族」、一五一三年頃、ヨース・ヴァン・クレーヴ作、ニューヨーク、メトロポリタン美術館蔵)。聖母の処女性と純潔を象徴する白いリネンは、赤子を包む布となり、授乳のときの布になり、十字架にかけられた命を断たれたイエスの遺骸を包む聖骸布となる。白い布で覆われたマリアの膝は、白い布で覆われた祭壇にほかならず、ここには、ミサの聖体拝領が暗示されているという。》

 

エリザベス女王の側近たちが誇らしげに見せびらかす白いハンカチはエリザベス女王のエンブレムのようだ。詩人たちが処女王を賛美する恋愛詩を書いて女王に捧げたように、画家が聖母マリアのシンボルを女王の肖像画に描きこみ女王への崇敬の念を表わしたように、女王の臣下たちは白いハンカチを持つ自分の肖像画を描かせて処女王を賛美し、女王への忠誠を誓っているのであろう。エリザベスは年齢を経るごとに、結婚から遠ざかるほどに、真珠やサファイヤや不死鳥やペリカンや太陽といった聖母マリアのシンボルを自分の肖像画にちりばめ、ヴァージン・クイーン、処女王としてのイメージを強めてゆく。女王の肖像画のなかで、女王に添えられたモノ、女王が手にするモノは女王のシンボルである。(中略)プロテスタントの信仰を国教としたイギリスから聖母像は姿を消したが、エリザベス女王は聖母の象徴を肖像画に描き込ませ、聖母像の喪失で空虚になった人民の心のなかに、聖母マリアの成り代わりとして入りこみ、かつて聖母が信者に熱愛されたように、国民の敬愛を集めようとした。(中略)聖母マリアのシンボルはエリザベス女王のなかで生き続けており、貴族たちのみならず、民衆もまた、白いハンカチが処女王エリザベスを象徴していることを知っていたのだ。このイメージ作戦は成功し、処女王の伝説が広く宣伝され、統治のための最高の策となった。》

《ハンカチは一五三〇年頃にはじめてイギリスにおめみえし、エリザベス女王の時代に大流行した。ハンカチは結婚や婚約に際して、しばしば男性から女性に贈られた。(中略)エリザベス女王時代のハンカチは入念に織り上げられた生地に繊細な刺繍がほどこされ、ときには真珠などの宝石が縫い込まれた高級品である。ロンドンのヴィクトリア・アルバート博物館には、一六〇〇年頃の、縁が絹糸で刺繍され、その縁がさらに銀糸のボビン・レースで縁どりされた白いリネンのハンカチが所蔵されている。》

 

<漏れやすい女性の身体>

《ハンカチには処女性や清らかさと反対の意味も含まれていた。ハンカチは身体から出る汗、鼻汁、血液などをぬぐう機能を持つ。女性は男性より「湿っぽく」(watery)、液体(分泌物)を「漏らし」、恥ずべき液体を身体から出す。「女性の身体は液体が漏れやすく」、したがって女性は信頼できないとする社会通念がまかりとおり、女性はさまざまな恥ずべき液体を身体から漏らし、女性はそれを制御できない、そのために一族の家系や地位や名誉を傷つける危険な存在になりかねないと考えられていた。》

 デズデモーナの不貞を疑うオセローは、彼女の手を「湿っている」(miost)と表現し、そこに「年若い多情の悪魔」(a young and sweating devil)を見て、デズデモーナの身体を「漏れやすい器」へと還元し、デズデモーナは、淫らな、穢れた女性に変貌し、ついには《汚ならしいひきがえるが交わって子をふやす水たまり》と化す。

 

<異文化への興味/新婚初夜の血染めのハンカチ/「額の角」/「名誉殺人」>

シェイクスピアが生きた時代のイギリスでは、イタリアで発祥したルネサンスが遅ればせながら花開き、商業演劇の勃興と隆盛を招き、大航海の成功が異文化と外国人への興味をかきたてた。(中略)アラビア語とイタリア語で書かれたレオ・アフリカーヌス著『アフリカの地理史』の英訳版が出版されたのは一六〇〇年だった。レオ・アフリカーヌスはムーア人ムーア人を主人公にした『オセロ』は、イギリスの異文化への興味が高揚するただなかで創作され、上演された。レオ・アフリカーヌス著『アフリカの地理史』はシェイクスピアが読んだと思われる地誌書のひとつである。このなかで、あるアフリカ部族の結婚にまつわる風習が紹介されている。(中略)

 このなかで言及されている血痕のついたナプキンは無論、花嫁の純潔の証拠である。このような慣習は古くからの伝統で、ナプキンの代わりに、血痕のついた白いシーツを花嫁の純潔のあかしとする風習の国や地方もある。》

 オセローがデズデモーナに、「額の辺りが痛むのだ」と言い、デズデモーナがハンカチを取りだして額に当てようとすると、オセローが「そのナプキンでは小さすぎる」とハンカチを振り払い、落ちたハンカチが、侍女エミーリアが拾い上げる印象的な場面(第三幕第三場)は、『オテロ』の第二幕第四場にも生かされている。

 シェイクスピアの時代の観客は、「額の辺りが痛むのだ」(a pain upon my forehead here)に、妻を寝とられた夫の額には角がはえ、頭痛に苦しむ、を読みとった。『オセロー』第四幕第一場でも、イアーゴーがオセローに「額がお痛みになりませんか?(have you not hurt your head? )」と問うと、オセローは妻に不義をされて角が生えるという意味を持たせたと思い、「おれをからかう気か?」(Dost thou mock me?)と返す。

「寝とられ男の額の角」という概念は、地中海一帯にあった「名誉殺人」という風習と一体だ。オセローはアフリカ北西部モーリタニア出身のムーア人で、当時の文化先進国、植民国家ヴェネツィア共和国の傭兵将軍になり、キリスト教に改宗、ヨーロッパ化した。しかしイアーゴーの奸計にひっかかり、妻を疑い始めるや、ヨーロッパ化の下地から、スペインや北アフリカなどの地中海地域の原初的な部分が滲み出てくる。家族の女性の貞潔さに基づく「名誉」観念であり、「たとえ事実がなくても」妻が不貞の噂を立てられたら男は妻を殺してもいい、穢された名誉は名誉を穢した女性の血でのみ雪(そそ)がれる「名誉殺人」の風習による悲劇が発生する。

 

 河合祥一郎は「寝取られ幻想」、「男性性の喪失」でオセローとイアーゴーの行為を次のように解読しているが、さらには北ヨーロッパとは異なる地中海一帯の「名誉殺人」という概念で強化されるだろう。

シェイクスピアは、『ウィンザーの陽気な女房たち』、『から騒ぎ』、『シンベリン』、『冬物語』などの他の作品においても、妻が不倫を働いたという、あらぬ疑いを抱いて苦しむ夫たちを描いている。

「寝盗られ幻想」とでも呼ぶべきこの妄想は、当時の男性中心主義的な文化に蔓延していた一種の病だった。英語で「寝盗られ亭主」のことをcuckoldと呼ぶが、これは他の鳥の巣に卵を産みつける習性のある鳥のカッコウ(cuckoo)に由来する。知らないあいだに妻に浮気をされて他の男の子供を宿しても、寝盗られ亭主は自分の子供だと思って育てることになるためだ。『から騒ぎ』第一幕第一場で、ヒアローの父親である知事レオナートは「こちらが娘さんですか」と尋ねられると、「これの母親が、わしが父親だと何度も申しておりました」と答えるが、これなども、寝盗られたかもしれない可能性を踏まえての発言である。

 どうしてエリザベス朝の夫たちは、妻に不貞を働かれるのではないかと、そこまでおびえなければならなかったのかと驚くほど、この「寝盗られ幻想」はさまざまな言説に蔓延していた。シェイクスピア以外のエリザベス朝劇作家の戯曲でも、「寝盗られ亭主」は多数描かれており、寝盗られ亭主の額には角が生えるという迷信が広く信じられていた。『お気に召すまま』のような恋愛喜劇においてさえ、結婚すれば夫は角を生やすものなどと、結婚生活が必ずしも幸せなものにならないことが揶揄されている。

 エリザベス朝時代の男性がそのような強迫観念に悩まされていた原因を推察すれば、当時の社会では男性に過度の男性性が求められていたためであろう。身分のある男性は帯剣し、いつでも剣を抜いて自らの男ぶりを証明しなければならなかった。強い男性性の発露が求められるあまり、結婚とは、妻を完全に従属させることだという発想が生まれ、自分は妻を完全に従属させ得ていないのではないかという不安からそうした幻想が生まれたと考えられる。》

《なぜイアーゴーはエミーリアを殺してしまうのか(筆者註:オペラでは殺されない)。それは、彼が口封じのために自分の女房さえ殺すことをなんとも思わない悪党にすぎないからだというのが、これまでの一般的な理解だった。あるいはまた、卑劣で残虐な悪の権化に、なぜそんなひどいことをするのかと尋ねても仕方ないとも考えられてきた。しかし、そのように「悪」というレッテルを貼ってしまっては、イアーゴーの心の内は見えない。その複雑な心理を丁寧に考えてみることにしよう。

〈正直な軍人〉と〈悪党〉という二つの仮面を持つこの男は、仮面の背後に、ひた隠しに隠してきた素顔を持っている。それは、「絶対的男性性を失った男」としての醜くも情けない顔だ。他人の目を欺く〈正直な軍人〉という仮面の背後にあるのは、確かに〈悪党〉という眼光鋭い顔であるが、それも結局のところ素顔ではなく、自分の目を欺くために我知らず着けている仮面にすぎない。彼は社会のみならず自分に対しても嘘をつき、自分の男性性は完璧だと思い込もうとしているのだ。ところが、エミーリアが自分を裏切ろうとしたとき、虚勢は足元から崩れる。「悪魔の神学」を気取る〈悪党〉なら、女房も思いどおりに操るぐらいでなければならないが、自分の女房に裏切られても仕方のない「男性性を失った男」としての素顔が露見してしまうのだ。そして、素顔をさらけ出した彼は、自分を裏切る妻を暴力によって否定しようとする。女房は夫に属するものであるという父権制の思い込みに基づいて、彼は妻の不忠に対して、発作的に、絶対的男性として振る舞う――それが、エミーリア殺害である。》

 

「男性性の喪失」は、イアーゴーだけのことではなく、自害するオセローも含めて、ヴェニス公国の有り様、とくには軍隊の同性愛的傾向が底流にあるだろう。

 イステルは、オペラでは同性愛描写が控えめになったと指摘している。

《この場(第二幕第五場)はかなり忠実にシェークスピア(第三幕第三場)に従っている。(中略)オテロが証拠を要求するので、イアーゴはカッシオの夢の話――音楽的に見てヴェルディの傑作である――を、今日われわれが礼儀と考えているものに適合するかたちで語って聞かせる(シェークスピアにおいては、いくぶんリアルに過ぎセクシャルな細部にわたり過ぎている)。》

 持って回っているが、具体的には男世界の軍隊にありがちな「いくぶんリアルに過ぎセクシャルな細部にわたり過ぎている」同性愛的問題をオペラは「礼儀と考えているものに適合するかたちで」忌避しているというわけだ。もっと言えば、実はイアーゴーはオセローへの同性愛的嫉妬からデズデモーナを排斥させたとの解釈もある。

 戯曲『オセロー』では、

イアーゴー ……眠っていながら、こんなことを申しました、「デズデモーナ、気をつけなければいけない、二人のことはだれにも知られないように。」そのうち、わたしの手を取り、強く握りしめて、「ああ、かわゆくてたまらぬ!」と叫んだかと思うと、いきなり強く私に接吻するではありませんか。それがまるでわたしの唇にはえている接吻を根こそぎ捥(も)ぎとろうとでもするような激しさでした。それから自分の脚をわたしの太腿の上に乗せて、深い溜息をもらし、またもや接吻です。かと思うと、急に大声をあげて、「おまえをムーアの手に委ねた運命が呪わしい!」と罵(わめ)き出す始末です。》

 オペラ『オテロ』では、

イアーゴ ……夜のことでございました。カッシオは眠り、私は彼の傍におりました。

とぎれとぎれの声が内心の喜びを伝えてくれたのです。

唇は熱っぽい夢に身をゆだねて、ゆっくり、ゆっくり動きました。

そうして言ったのです、悲しげな音調をひびかせて;

“やさしいデズデモーナ! 私たちの愛は誰にも知れておりません。

中尉深く用心を重ねましょう! 天上の恍惚がわが身すべてにあふれています”と。

やさしい夢がなおさだかならず続きました。けだるい不安をもって;

心に描く像(すがた)に口づけするかのように、彼はそれから言いました;

“あのムーア人にお前を与えた不実な運命を私は呪う”と。》

 

<苺が刺繍されたハンカチ>

シェイクスピアが種本にしたイタリアのジラルディ・チンティオの『百話集』(一五八五年)の第三巻第七話にある小品では、ムーア人が妻に贈るハンカチには「ムーア風」の装飾が施されていると記されているだけである。それを、シェイクスピアは意図的に苺の装飾に変えている。この変化は劇の意味を決定的に変える。

『イメージ・シンボル事典』によると、苺(薔薇科に属する)は、薔薇と同様に、愛の神と聖母マリアのエンブレムである。三枚の葉に白い花をつけ、熟すと赤くなる苺の実は聖母マリアのシンボルにふさわしい。白は純潔の、赤は神の愛の色だからである。苺は熟していないときは冷えて乾いているが、熟したときには汁が多くみずみずしい。キリスト教の解釈では、苺は正義のシンボル、聖母マリアはしばしば、苺が刺繍された衣服をまとって描かれた。

 オセロが「愛と記念の誓い」としてデズデモーナに贈ったハンカチは、デズデモーナの手を離れるやいなや、デズデモーナの不貞のあかしとしてイヤゴーに利用され、オセロはデズデモーナ殺害に突っ走る。ハンカチは不可思議な意味あいと魔法の力を強めながら、まるでブラックホールのように、ハンカチに関わった人たちを飲み込んでゆく。その一方で、赤い苺の刺繍のあるハンカチは、血痕のついたナプキンと同様に、デズデモーナの貞節を訴えつづける。》

 ところが、ヴェルディオテロ』では英語の「苺(strawberries)」がイタリア語の「花(fior)」に変質してしまう。

イアーゴ 時折ごらんになりまするか、

デズデモーナ様のお手に、

花のふちどりをしたヴェールよりも織物を(un tessuto trapunto a fior e più sottil d'un velo)?

オテロ それは私があれに与えたハンカチじゃ、愛のはじめてのしるしとして。

イアーゴ そのハンカチを、昨日、

(それは確かですぞ)カッシオが手にしているのを見ましたので。》(第二幕第五場)

 さらには、デズデモーナのハンカチでキャシオー(カッシオ)が髯(男性性のシンボル)を拭いている、とまでは歌われない。

 

<魔法>

 オセローは「風邪をひいたらしい、洟(はな)が出て仕方がない。ハンカチを貸してくれ」と言うが、デズデモーナはオセローから贈られたハンカチを出すことができず、今は「ここにない」と答える。

オセロー なんということだ。あのハンカチーフはおれの母親があるエジプトの女から貰ったものだ。その女は魔法使で、よく人の心を読みあてたものだが、それが母にこう言った、これが手にあるうちは、人にもかわいがられ、夫の愛をおのれひとりに縛りつけておくことができよう。が、一度それを失うか、あるいは人に与えでもしようものなら、夫の目には嫌気(いやけ)の影がさし、その心は次々にあだな思いを漁(あさ)り求めることになろう、と。母はそれを今はの際(きわ)におれに手渡し、ましさいわいにして妻をめとるときがきたなら、その女に与えるようにと言いのこしていったのだ。おれはそのとおりにした。大事にしてくれなければ困る、そのおのれの目のように大切に扱ってもらいたい。無くしたり、人にやってしまったりしようものなら、それこそ取返しがつかぬ、この上ない禍(わざわい)が起るのだ。

デズデモーナ 本当にそのような?

オセロー 本当なのだ。あれには魔法が織りこんである。二百年の齢(よわい)を重ねた巫女(みこ)が、神のお告げを語る恍惚夢遊(こうこつむゆう)の間に、その縫取りをしたという、それだけではない、蚕を神前に浄めて、その糸を吐かしめ、さらにそれを、特別の秘法をもって乙女の心臓より絞りとった薬液に漬けて染めあげたものだ。》(第三幕第四場)

第一幕で、デズデモーナの父ブラバンショーに、ムーアが魔法で娘をたぶらかし、結婚を強要した、とオセローは言いがかりをつけられたにも関わらず、ここでオセローは魔法の逸話を持ち出してデズデモーナを不安にさせる。

オペラでは、シェイクスピアのように鼻風邪ではなく、ふたたび持病の頭痛を口実にして、額を巻くためのハンカチを貸してくれと言う。貰ったハンカチは持ち合わせていない、とデズデモーナが答えると、

オテロ デズデモーナ、それを失くしたのなら承知せぬぞ! おい!

ある力をもった魔女が神秘な糸で織り出したもので、

そこには不思議な力をもった高い呪いがひそんでいるのだ。

注意するのだぞ! 失くしたり、あるいは人にくれたりするとひどい目に会うのだぞ!》(第三幕第二場)

 ここには、魔女は出てきても、苺模様の糸を染めた乙女の心臓の血は登場しないから、処女性を象徴するところまではいかない。

 

 以上みてきたように、ヴェルディとボーイトはシェイクスピアの穢れの不快感を浄化した。加藤浩子がヴェルディの『オテロ』について、《「シェイクスピアの精神」を具現しているかどうかについては、意見が分かれるところ》と保留しつつも、ヴェルディ・オペラの魅力を一言で言いきった、《襟首を摑まれてドラマのなかに投げ込まれる快感が、初めから終わりまで驚異的な緊張感とともに続くのだ》は、穢れの削除によってこそ成り立ったとも言えよう。

 もっとも、不快感の忌避、浄化をヴェルディとボーイトに責を負わせることはできない。歴史的に宮廷文化観賞としてオペラが不快感を与えるわけがなく、不快感を躊躇わず、逆に売りもののように前面に出したオペラは、1920年代のベルク『ヴォツェック』やショスタコーヴィッチ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』まで待たねばならなかった。『オテロ』が1887年ミラノ初演であり、『ヴォツェック』が1925年ベルリン初演、『ムツェンスク郡のマクベス夫人』が1934年レニングラード(現ペテルスブルク)初演であったことを考えると、第一次世界大戦を挟んだ19世末から20世紀前半の文化・思想の、なんと破壊的、飛躍的であったことか

                               (了)

       *****引用または参考文献*****

シェイクスピア『オセロー』福田恆在訳(新潮文庫

アッティラ・チャンパイ、ディートマル・ホラント編『名作オペラブックス17 ヴェルディ オテロ』(リブレット対訳、シュテファン・クンツェ「英雄の没落」、「ヴェルディとボーイトの往復書簡より 《オテロ》についての手紙」、エドガー・イステル「ヴェルディシェイクスピアオテロ》」、ボーイト「《オテロ》登場人物の注釈」等所収)大津陽子、檜山哲彦訳(音楽之友社

石井美樹子「『オセロ』――デズデモーナの白いハンカチ」(神奈川大学人文学会誌2007.9.24)

*八鳥吉明「服飾と身体の交錯――Othelloにおけるハンカチ再考」(名古屋大学英文学会2010.3.30)

シェイクスピア『新訳 オセロー』河合祥一郎訳(角川文庫)

*加藤浩子『ヴェルディ オペラ変革者の素顔と作品』(平凡社新書

*ヤン・コット『シェイクスピアはわれらの同時代人』蜂谷昭雄、喜志哲雄訳(白水社

島田雅彦『オペラ・シンドローム』(「主役を操る悪役~ヴェルディオテロ』」所収)(日本放送出版協会

*芝紘子『地中海世界の<名誉>観念』(岩波書店

河合祥一郎ハムレットは太っていた』(白水社

*本橋哲也『本当はこわいショイクスピア <性>と<植民地>の渦中へ』(講談社選書メチエ

ナボコフナボコフの一ダース』(「いつかアレッポで」所収)中西秀男訳(サンリオ文庫

*T・S・エリオット『エリオット選集2』(「シェイクスピアに対するセネカの克己主義の影響』吉田健一訳所収)(彌生書房)

吉田健一吉田健一集成1』(「シェイクスピア」所収)(新潮社)

リッカルド・ムーティリッカルド・ムーティ、イタリアの心ヴェルディを語る』田口道子訳(音楽之友社

*『夏目漱石全集10』(「作物の批評」所収)(ちくま文庫

ジュリア・クリステヴァ『恐怖の権力 <アブジェクション>試論』枝川昌雄訳(法政大学出版局

*フランソワ・ラロック『シェイクスピアの祝祭の時空』中村友紀訳(柊風舎)

*ジョージ・スタイナー『悲劇の死』喜志哲雄、蜂谷昭雄訳(ちくま学芸文庫

*ロナルド・ノウルズ『シェイクスピアカーニヴァル バフチン以後』岩崎宗治、加藤洋介、小西章典訳(法政大学出版局

岡田暁生『オペラの運命 十九世紀を魅了した「一夜の夢」』(中公新書

スラヴォイ・ジジェクイデオロギーの崇高な対象』鈴木晶訳(河出文庫

 

文学批評 多和田葉子とカフカ/ベンヤミン/ツェラン ――多和田『百年の散歩』を読むための引用モザイク

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多和田葉子カフカ(1883~1924年)、ベンヤミン(1892~1940年)、ツェラン(1920~1970年)を尊敬し、さまざまな刺激を受けている。

 ユダヤ系のドイツ語作家である三人は、それぞれチェコプラハ、ドイツのベルリン、旧ルーマニア領(現ウクライナ)のチェルノヴィッツで生れた。カフカは四十歳で結核死、ベンヤミンナチスに追われスペイン・フランス国境で自死、父母を強制収容所で失っているツェランセーヌ川に飛び込んだ。三人とも死後に名声を高める。

 

・ハンナ・アレントは『暗い時代の人々』のなかで、ベンヤミンの《最大の誇りが「大部分引用句から成る作品を書くこと――想像しうるかぎりの気ちがいじみた寄木細工の手法――」であり》と紹介している。

 この「引用」「寄木細工(断片、モザイク)」という多和田文学にもあてはまる方法論、思考で進めて行く。

 

・1961年、ツェランの「子午線 ゲオルク・ビューヒナー賞受賞の際の講演」でカフカベンヤミンツェランの三人の言葉と魂が出会う。

 ツェランは彼の数少ない詩論ともいえる講演の後半で、次のように語った。

《詩がおのれに出会うすべてのものに対してはらおうとする心づかいは、つまり細部とか輪郭とか構造とか色彩とか、さらには「こきざみなふるえ」とか「ほのめかし」とかに対する詩のひときわ鋭敏な感覚は、思うに、日々その完璧さの度合いを加えていく機器類と覇をきそう(あるいは鎬(しのぎ)をけずる)眼力の成果ではなくて、むしろわたしたちすべての日付を記憶しつづける集中力なのです。

「心づかい」――ここにヴァルター・ベンヤミンカフカ論からマールブランシュの言葉を引くことをお許しください――「心づかいとは魂のおのずからなる祈りである」》

 正確に言うと、マールブランシュの言葉は「魂のおのずからなる祈り」だけで、「心づかい」と結びつけたのはベンヤミンである。

 原典は、《マールブランシュが「魂の自然な祈り」とよんでいる、あのよく行き届いた心づかいこそ、いかにもかれにふさわしかった》(ベンヤミンフランツ・カフカ』(『ベンヤミン著作集』(晶文社))であるが、「心づかい(Aufmerksamkeit)」は、「注意深さ」とか、少し違ったニュアンスを感じさせる訳もある。

《「私が私のお祈り台に膝ついて/ほんのちょっぴり祈ろうとすると/せむしの小人がそばに立って/とめどなしに喋り出す/かわいい子供よお願いだから/せむしの小人にも祈っておくれ!」そう、この民謡は終わる。この民謡の深みにおいて、カフカは、「神話的に予感する知」[『万里の長城の建設にさいして』のブロートとの後記]も「実存的神学」も、彼に与えることのない基盤と触れあっている。それはユダヤの民衆の基盤であるのと同じくらい、ドイツの民衆のそれでもあるのだ。もしカフカが祈らなかったとすれば――実際のことはわれわれには知る術もないが――それでも彼にはマールブランシュ(一六三八~一七一五年。フランスの哲学者)が「魂の自然な祈り」と呼ぶものが最高度に身についていた。すなわち注意深さが。そして彼はそのなかに、聖者が祈りのなかに包みこむように、すべての被造物を包みこんだのである。》(ベンヤミンフランツ・カフカ』(『ベンヤミン・コレクション』)

 いずれにしろ、土星の徴の下に生れたようなメランコリーとアイロニーからなる三人の「心づかい」は多和田に深く影響している。

 

・「希望」という語の周りを三人は回遊していて、多和田の文学世界に道標の灯をともす。

《希望なき人びとのためにのみ、希望はわたしたちに与えられている。》(ベンヤミンゲーテの『親和力』』)

 しかし、その「希望」は屈折している。

《『訴訟』(筆者註:日本では『審判』名が流通)から読み取れるのは、この訴訟手続きはいつも被告人にとって希望がない、ということである――彼らに無罪宣告への希望が残されている場合でさえ、希望がないのである。カフカの被造物として唯一彼らにおいてのみ美を発現させるのは、この希望のなさなのかもしれない。この解釈は少なくとも、マックス・ブロート(一八八四~一九八六年。プラハのドイツ語作家。カフカの遺稿編者)によって伝えられたある短い会話と非常によく合致するだろう。「私が思い出すのは」、と彼は書いている、「今日のヨーロッパと人類の堕落というテーマに端を発した、カフカとのある会話のことである。『われわれとは』、そう彼は言った、『神の頭のなかに湧いてくる虚無的な考え、自殺でもしようかという思いつきなんだ』。この言い方は私に最初、グノーシス派の世界像を思い起させた。つまり、悪しき造物主デミウルゴスとしての神、この神の堕罪としての世界、である。『いやまさか』、と彼は言った、『われわれの世界はたんに神の不機嫌、調子の悪い一日にすぎないんだよ』。『それじゃわれわれが知っている、世界というこの現象形態の外には、希望があるというわけなのか』。彼は微笑んだ。『ああ、希望は充分にある、無限に多くの希望がある。――ただわれわれにとって、ではないんだ』」[「詩人フランツ・カフカ」一九二一年]。》(ベンヤミンフランツ・カフカ』)

 

ベンヤミンの遺筆には、収集、所有していたクレーの絵への言及がある。

《「新しい天使(アンゲルス・ノーブス)」と題されたクレー(一八七八~一九四〇年。ドイツ(スイス系)の画家、版画家)の絵がある。それにはひとりの天使が描かれていて、この天使はじっと見詰めている何かから、いままさに遠ざかろうとしているかに見える。その眼は大きく見開かれ、口はあき、そして翼は拡げられている。歴史の天使はこのような姿をしているに違いない。彼は顔を過去の方に向けている。私たち(・・・)の眼には出来事の連鎖が立ち現れてくるところに、彼(・)はただひとつの破局(カタストローフ)だけを見るのだ。その破局はひっきりなしに瓦礫のうえに瓦礫を積み重ねて、それを彼の足元に投げつけている。きっと彼は、なろうことならそこにとどまり、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せ集め繋ぎ合わせたいのだろう。ところが楽園から嵐が吹きつけていて、それが彼の翼にはらまれ、あまりの激しさに天使はもはや翼を閉じることができない。この嵐が彼を、背を向けている未来の方へ引き留めがたく押し流してゆき、その間にも彼の眼前では、瓦礫の山が積み上がって天にも届かんばかりである。私たちが進歩と呼んでいるもの、それがこの嵐なのだ。》(ベンヤミン『歴史の概念について(『歴史哲学テーゼ』)』)

 多和田は「身体・声・仮面――ハイナー・ミュラーの演劇と能の間の呼応」という批評で、《<過去を歴史的に関連づけることは、それを《もとあったとおりに》認識することではない。危機の瞬間にひらめくような回想を捉えることである。歴史的唯物論の問題は、危機の瞬間に思いがけず歴史の主体の前にあらわれてくる過去のイメージを、捉えることだ>》(ベンヤミン『歴史の概念について(『歴史哲学テーゼ』)』)を最初に掲げてから、ベンヤミンの「新しい天使(アンゲルス・ノーブス)」の文章から適宜引用しつつ論考しているが、多和田葉子『献灯使』の冒頭に登場する「無名(むめい)」は「新しい天使(アンゲルス・ノーブス)」に似ていないか。

《無名(むめい)は青い絹の寝間着を着たまま、畳の上にべったり尻をつけてすわっていた。どこかひな鳥を思わせるのは、首が細長い割に頭が大きいせいかもしれない。絹糸のように細い髪の毛が汗で湿ってぴったり地肌に貼りついている。瞼をうっすら閉じ、空中を耳で探るように頭を動かして、外の砂利道を踏みしめる足音を鼓膜ですくいとろうとする。足音はどんどん大きくなっていって突然止まる。引き戸が貨物列車のようにガラガラ走りだし、無名が眼を開くと、朝日が溶けたタンポポみたいに黄色く流れ込んでくる。無名は両肩を力強く後に引いて胸板を突き出し、翼をひろげるように両手を外まわりに持ち上げた。》

 

カフカ

・《「掟の前」(筆者註:「掟の門(前)」)という寓話のことを考えてみるがいい。この寓話を『田舎医者』のなかで読んだ読者も、おそらくはその内部にある雲のように摑(つか)みどころのない箇所に出くわしたことだろう。しかし彼はそのとき、カフカが自分で解釈を企てる場合にこの寓話から生じてくる、終わりの見えないあの一連の吟味に匹敵することをやってみただろうか。作者の解釈は『訴訟』のなかで僧の口を通して行なわれる。しかもそれは小説のなかの際立った箇所でなされるので、小説全体がこの寓話を展開したものにほかならないのだと、推測することさえできるほどだ。「展開する」という言葉には、しかし二重の意味がある。つぼみが展開して花開くとすれば、大人が子供にやり方を教える折り紙の船は、展開して平たい一枚の紙になってしまう。そしてこの「展開」の第二のあり方が寓話には本来ふさわしいのであって、寓話を平らにして、その意味を手のひらに乗せてしまうという、読者の楽しみに適うものなのだ。けれどもカフカの寓話は第一の意味において、すなわちつぼみが花になるように展開する。》(ベンヤミンフランツ・カフカ』)

 

・《カフカの小説にオドラデクのように全く未知の何かが突然登場するのはむしろ例外で、よく知っているつもりの物や情況が急にぶれだして、分からなくなる場合の方が多い。》(多和田のカフカ集(『ポケットマスターピース01 カフカ』(集英社文庫ヘリテージシリーズ))の解説「カフカ重ね書き」)

カフカの書く会話には独特の緊張感がある。》(同前)

フロイトが記憶のメタファーとして注目したWunderblock(マジック・メモ)の場合は、表面のシートをボードから剥がすと書いた文字はシートからは消えるが、文字の圧力でできた微かな痕跡が下のボードに残り、光にかざしてよく見ると、無数の線が重なり合っているのが肉眼で見える。カフカの小説を読んでいると、このマジック・メモのボードを思い出す。いくつもの物語が重なって、編み目のようになっている。読者はその中から一つの層を読むのである。つまり、カフカはいろいろなモチーフをデザイン感覚で配置したわけではなく、いくつもの物語を一つの表面に重ね書きしたのである。》(同前)

《マジック・メモのボードを真剣に見つめるように熟読していると、奥から線が何本も浮かび上がってきて一つの映像を結ぶのだ。やっと分かった、と思って喜んでも、よく見るとどこかずれていて、ぴったりは重ならない。そのずれが、時の経過と共に揺れながら幅を広げ、もう一度読んでいると、別の像が浮かび上がる。しかも、それも思った像とはぴったりは重ならない。ずれが読者をひきつけては振り落とす。》(同前)

カフカの小説には必ずと言っていいほど、エロスの層がある。『流刑地にて』の場合は、多くの画家の手で美術史に残された聖セバスティアヌスの姿がちらつく。》(同前)

《わたしは『変身』にも禁じられた性の引き起こす罪と罰の層を見てしまう。グレゴール・ザムザが本当に愛しているのは妹だが、それは近親相姦という「汚れた」罪であるから罰せられなければならない。》(同前)

《けがれの感覚と罪の意識はカフカの小説のいたるところに彫り込まれ、そこにはいつも性の問題が絡んでいる、ただその絡み方が特殊なので、カフカはあまり色気のない作家であるように誤解されることが多い。『訴訟』も例外ではない。(中略)話はどこまでも逮捕の話から脱線して、性の領域にのめりこんでいく。逮捕された事件が主旋律で、女性関係が副旋律なのではない。Kは性欲を持つがゆえに有罪判決を受けそうになっているのだ。この判決は父的な神から降りてくるので、法律の力で無罪を証明するのは不可能である。カフカは、法律にふれていないのに逮捕されるKを小説に書くことで、性を有罪とする判決が全くのナンセンスであることをあきらかにしたとも言える。》(同前)

カフカの文学は、映像的であるという印象を与えながらも一つの映像に還元できないところに特色がある。『変身』のグレゴール・ザムザの姿も言語だけに可能なやり方で映像的なのであって、映像が先にあってそれを言語で説明しているわけではない。言語がその度に新しい映像を脳内に喚起するように描かれているのである。頭の中で自分なりの映像を思い浮かべるのは読書の楽しみの一つである。読む度に違った映像が現れては消え、それが人によってそれぞれ違うところが面白いのである。》(同前)

 

ベンヤミン

ベンヤミンの「パサージュ」的性格。

《わたしはパリでのある午後のことを考えている。その午後のおかげで、わたしは自分の人生に対する認識を得たのだが、認識は電光のように、霊感のような烈しさでわたしに襲いかかってきたのだった。人びとにたいするわたしの伝記的な関係が、わたしの友人・朋輩にたいする、恋人・愛人にたいする関係が、そのきわめて生々しく、隠微なからみ合いにいたるまで明らかになったのは、ほかならぬこの午後のことであった。わたしは自分につぶやく、それはパリのほかではありえなかったのだと。パリでこそ、壁や河岸が、停留所が、コレクションや瓦礫が、格子や四つ角の小さな広場が、路地[パサージュ]や新聞売場が比類のないことばを教えてくれる。だから、人間にたいするわたしの関係は、わたしたちがあの事物の世界に沈み込んで、まわりを孤独で包まれるために、一種の深い眠りの底にまで達するのだ。そこで待ちうけている夢の像が、それらの関係の真の相貌を啓示するのである。……さて、問題のその午後、わたしはサン・ジェルマン・デ・プレ近くのカフェ・デ・ドュー・マーゴの奥の部屋に腰かけて――誰だったかわすれたが――人を待っていた。そのとき突然、有無を言わせぬような力で、自分の生涯の図式を描こうという考えに捉えられたのである。》(ベンヤミン『ベルリン年代記』)

 自分の人生の図式は「迷宮」であって、入口はたくさんあり、ベンヤミンはそれをパサージュ(アーケード、通路、路地)と呼ぶ。

《これらの入口をわたしは知り合いの原型(ウベアカントシャフト)と呼ぼう。その入口のひとつひとつが……わたしの出会ったひとりの人間との知り合いの図形的象徴なのである。知り合いの原型の数だけ、迷宮へのさまざまの入口がある。……すなわちそれは、さまざまの年齢において繰り返しわたしを友人や裏切者や恋人や弟子や師へ導いてゆく通路なのである。それこそ、あのパリの午後にわたしの目前に現れたわたしの生涯の見取図が、教えていたものなのであった。こうして都会を背景にして、かつてわたしの周辺にいた人びとが、集まって図模様をつくるのである。……そこに事物の世界が同じように深い象徴となって凝縮したことがあった。》(同前)

 今村仁司によれば、《パサージュとは、さまざまの流れ・道・方向の凝集点であり、移行と分枝の場所である。》

 

・初期からの「モザイク」「迂回」「引用」「アレゴリー」への偏執。

《意図の連続するところにトラクタート(筆者註:スコラ哲学の入門的概念で、引用文に満ちた教育的な語り)の第一の特徴がある。思考は根気よくたえず新たに考えを起こし、まわりまわってふたたび事象そのものへもどっていく。このようにたえず息をつくことこそ、観想のもっとも本来的なあり方である。というのは、観想にとっては、同じひとつの対象を省察しながら異なった感覚段階を次々と踏んでいくことが、そのたえず新たなる開始の原動力となっていると同時に、その間欠的なリズムの正当性の根拠にもなっているからである。モザイクは、どのような勝手きままなやり方で細分しようとも、その尊厳が失われてしまうということもない。哲学的省察もまた、飛躍的高揚の喪失を恐れたりしないのである。モザイクも省察し、個々のもの、一つ一つ違ったものが寄り集まってできている。……思考細片は基本的構想でもって直接はかることが不可能であればあるほど、その価値はいよいよ決定的なものになり、そしてモザイクの光彩がガラスの溶塊の質に依存しているのとちょうど同じように、表現の生彩は、思考細片のこの価値にかかっている。事柄の細部にまで正確に沈潜してはじめて、真理の内容が完全にとらえられる。》(ベンヤミン『ドイツ悲劇の根源』)

 

・《シンボルにおいては、没落の聖化とともに、変容した自然の顔貌が、救済の光のもとで、一瞬みずからを啓示するのに対して、アレゴリーにおいては、歴史の死相が、凝固した原風景として見る者の眼の前にひろがっている。歴史に最初からつきまとっている、すべての時宜を得ないもの、痛苦に満ちたもの、失敗したものは、一つの顔貌、というより一つの髑髏の形を取って、はっきり現れてくる。このような髑髏には、たとえ表現の「シンボル」的な自由が一切欠けていようとも、また、形姿の古典的調和や人間的な要素がことごとく欠けていようとも、人間存在そのものの本来の姿ばかりでなく、個々の人間の伝記的な歴史性が、この自然に委ねられた最も荒涼たる形の内に、意味深長な謎として現れている。これがアレゴリー観照の核心であり、歴史を世界の受難史として見るバロックの世界解釈の核心である。世界は、その凋落の宿駅においてのみ意味を持つ。》(同前)

 

・《むしろ「閾」の上に、境界線の上にあって、どちら側にも完全に帰属することのできないものの、まさに岐路=危機(クリーゼ)的な存在のありようが、彼の心を捉えて放さないのである。》(川村二郎『アレゴリーの織物』)

《どこからどこまでを真実、どこからどこまでを虚偽と分ち得るような文章ではなく、真と偽は織り合せられて一枚のゴブラン織と化している。》(同前)

 

・《過去が伝統として伝えられるかぎり、それは権威を持つ。権威が歴史的に現われるかぎり、それは伝統となる。ヴァルター・ベンヤミンは、その生涯に生じた伝統の破産と権威の喪失との回復不能性を知り、過去を論ずる新しい手法を発見せねばならぬという結論に達した。過去の伝達不能性は引用可能性によって置き換えられること、そして過去の権威の代りに、徐々に現在に定着し、現在から「心の平和」、すなわち現状に満足する精神なき平和を奪い去る不思議な力が生じていることを発見したとき、かれは過去を論ずる新しい手法についての巨匠となったのである。》(ハンナ・アレント『暗い時代の人々』の「ヴァルター・ベンヤミン 一八九二~一九四〇」)

ゲーテ論以降、引用文はあらゆるベンヤミンの著作の中心をなしている。まさにこのことがかれの著述をあらゆる種類の学術的著述から区別している。学術的著述においては、引用文の機能は意見を表明し、証拠の文献を提示することであって、それゆえ引用文は注へと安全に追放される。こうしたことはベンヤミンにとっては問題外であった。かれがドイツ悲劇に関する研究をすすめていたとき、かれは「きわめて体系的かつ明瞭に配列された六〇〇以上の引用文」の収集を自慢にしている(『書簡集』第一巻、三三九ページ)。のちのノートと同様に、この収集も研究を書き表わしやすくする意図を持った抜き書きの寄せ集めではなく、作品の主要部分をなすものであり、そこでは書くことそのものは二次的な意味しか持っていない。主要な仕事となったのは、それらの文脈から断片を引き裂き、それらが相互に例証しあうように、またいわば自由に浮遊している状態においてそれらの存在理由を証明できるように新たな仕方で配列することであった。明らかにそれは一種のシュルレアリスムモンタージュである。完全に引用文だけから成る著作、すなわちきわめて巧妙に組み立てられているためいかなる本文をもつける必要のないような著作を作り出したいというベンヤミンの考えは、その極端さとさらに加えてその自己破壊性とにおいて、それに似た衝動から生じた同時代のシュルレアリスム的実験のどれよりも気まぐれなものとみえるかもしれないが、しかしそうではなかった。》(同前)

 

《彼の文章は普通のかたちで生みだされるものとは思えない。互いにつながりをもらないのだ。それぞれの文が最初の一文か、最後の一文といった調子で書かれている。(『ドイツ悲劇の根源』のプロローグには、「著述家は文章ごとに立ち止まり、文章ごとに再出発しなくてはならない」という言葉がある)。心理の動き、歴史の動きもタブロー画として描かれる。思想は極限的なかたちで言い表わされ、視点がくるくる変わる。彼の思考と著述のスタイルは、アフォリズムなどという不正確な言いかたをしないで、ストップ・モーション風バロックと呼ぶほうがいいかもしれない。》(スーザン・ソンタグ土星の徴しの下に』)

 

ツェラン

ツェランの言葉。

《もろもろの喪失のなかで、ただ「言葉」だけが、手に届くもの、身近なもの、失われていないものとして残りました。

 それ、言葉だけが、失われていないものとして残りました。そうです、すべての出来事にもかかわらず。しかしその言葉にしても、みずからのあてどなさの中を、おそるべき沈黙の中を、死をもたらす弁舌の千もの闇の中を来なければなりませんでした。言葉はこれらをくぐり抜けてきて、しかも、起こったことに対しては一言も発することができないのでした、――しかし言葉はこれらの出来事の中を抜けて来たのです。抜けて来て、ふたたび明るい所に出ることができました――すべての出来事に「豊かにされて」。

 それらの年月、そしてそれからあとも、わたしはこの言葉によって詩を書くことを試みました――語るために、自分を方向づけるために、自分の居場所を知り、自分がどこへ向かうのかを知るために。自分に現実を設けるために。

 これは、わかっていただけると思います、出来事、試み、どこかへ行く道の途上にあること、でした。これは、方向を得ようとする試みでした。そして、その意味を問われるなら、その問いの中には時計の針の動く方向についての問いも含まれると答えざるを得ない気がします。

 というのも、詩は無時間のものではないからです。詩はたしかに永遠性を必要とします、しかし、詩はその永遠性に時間を通り抜けて達しようとします。時間を通り抜けて(・・・・・)であって、時をとびこえて(・・・・・)ではありません。

 詩は言葉の一形態であり、その本質上対話的なものである以上、いつの日にかはどこかの岸辺に——おそらくは心の岸辺に——流れ着くという(かならずしもいつも期待に満ちてはいない)信念の下に投げこまれる投壜通信のようなものかもしれません。詩は、このような意味でも、途上にあるものです——何かをめざすものです。

 何をめざすのでしょう?なにか開かれているもの、獲得可能なもの、おそらくは語りかけることのできる「あなた」、語りかけることのできる現実をめざしているのです。そのような現実こそが詩の関心事、とわたしは思います。

 そしてまた、このような考え方は、わたし自身ばかりでなくもっと若い世代の詩人たちの努力にも付き添っている考え方ではないかと思います。この努力とは、人間のこしらえものでしかない天の星々を頭上に頂いて、したがってこれまでに予想だにされなかった意味での無天幕(テント)状態の下を、つまり身の毛のよだつばかりの大空の下を、現実に傷つきつつ現実を求めながら、みずからの存在とともに言葉へ赴く者の努力のことです。》(ツェラン「ハンザ自由都市ブレーメン文学賞受賞の際の挨拶」(一九五八年))

 

・《わたしの最も尊敬するドイツ語詩人パウル・ツェランは、晩年ずっとパリに住んでいたが、ドイツ語でしか詩を書かなかった。(中略)ツェランは、当時ルーマニア領のチェルノヴィッツでドイツ語を話すユダヤ人の両親から生まれた。「詩人はたった一つの言語でしか詩は書けない」と言って、自ら命を絶つまでずっと、自分の母親や友人たちを殺害した人間たちの使っていた言語であるドイツ語でしか詩を書かなかった。語学の才能は優れていて、フランス語がよくできただけでなく、マンデリシタームの詩などもロシア語から訳している。いろいろな言語の聞こえてくる東欧的環境で、マイノリティの言語ドイツ語を主言語として成長していった環境は、プラハカフカとも通じるところがある。ツェランの「詩人はたった一つの言語でしか詩は書けない」という言葉は時々引用されるが、「一つの言語で」という時の「一つの言語で」というのは、閉鎖的な意味でのドイツ語をさしているわけではないように思う。彼の「ドイツ語」の中には、フランス語もロシア語も含まれている。外来語として含まれているだけではなく、詩的発想のグラフィックな基盤として、いろいろな言語が網目のように縒り合わされているのである。だから、この「一つの言語」というのはベンヤミンが翻訳論で述べた、翻訳という作業を通じて多くの言語が互いに手を取り合って向かって行く「一つの」言語に近いものとしてイメージするのが相応しいかもしれない。よく知られている例を一つ挙げると、ツェランの「葡萄酒と喪失、二つの傾斜で」で始まる詩では。「傾斜(Neige)」という言葉が出てきたかと思うと、突然「雪」が出てくる。意味的には、「傾斜」と「雪」は繋がらない。しかし、ドイツ語の「Neige(傾斜)」と全く同じスペルが、フランス語では雪という意味の単語になるので、両者は密接な関係にある。語源的には関係ないし、発音は全く違うが、見た目が同じなのである。わたしたちの無意識がどれほどこのような「他人のそら似」的な単語間の関係に支配されているかということは、フロイトの『夢判断』などを読めばよく分かる。(中略)

 ツェランを読めば読むほど、一つの言語というのは一つの言語ではない、ということをますます強く感じる。だから、わたしは複数の言語で書く作家だけに特に興味があるわけではない。母語の外に出なくても、母語そのものの中に複数言語を作り出すことで、「外」とか「中」とか言えなくなることもある。》(多和田葉子『エクソフォニー 母語の外に出る旅』の「パリ 一つの言語は一つの言語ではない」)

 言語論において、カフカベンヤミンツェランが出会っている。

 

・《『閾から閾へ』という詩集のタイトルにモンガマエがすでに二回も顔を出す。「閾」という字の場合には、「門」との意味的な繋がりは一目瞭然、門も閾も、ある境界を表わしている。しかし、その境界を越えようとしているのでないことは、この題名を見てもすぐに分かる。閾を越えるのではなく、ある閾から別の閾へと彷徨うのだ。

  詩集を開けると、最初の詩にすぐミンガマエの付く漢字「聞」が出てくる。「ぼくは聞いた」という詩で、こんな風に始まる。

  ぼくは聞いた、水の中には/石と波紋があると、/そして水の上方には言葉があって、/それが石のまわりに波紋を描かせていると。

「聞」という字では、門の下には耳がひとつ立っている。聞くというのは、全身を耳にして境界に立つということらしい。同じ詩の次の連では、境界のところに立ち止まらずに先へ進むポプラが出てくる。

  ぼくはぼくのポプラが水の中に降りて行くのを見た、/ポプラの手が水の奥をつか もうとするのを見た、/ポプラの根が空にむかって夜をねだっているのを見た。

 閾の向こう側に水の世界がある。「ぼく」はポプラが異質の世界に入っていくのを見ているが、ポプラの後をあわてて追って行きはせずに、観察者の位置に留まっている。

  ぼくはぼくのポプラのあとを追わなかった、/ぼくはただ地面から、きみの目のかたちと/気品をそなえたあのパンのかけらを拾っただけだ。/ぼくはきみの首から唱え言の鎖を外して、/パンのかけらがいまよこたわるテーブルの縁を飾った。

「ぼく」は水の中に入ってはいかず、閾のところに踏みとどまって、魔法の遊戯を始める。パンのかけらと鎖を使って、石と輪を描き、水の中の世界をテーブルの上に再現する。此の呪術的遊戯は、翻訳という作業と似ていないこともない。翻訳者は水の中に消えていく身体である。(中略)

「薔薇七つ分だけ遅れて」と名付けられた一連の詩は聴覚について語っていると言っていいほどで、耳をすまして聞くということが境界というものから切り離しては考えられない行為であることを何度も思い出させられる。日本語の中だけで、毎日漢字を使って暮らしていた頃、わたしは自覚はしていなかったけれども、それを当然のこととして了解していたような気がする。「門前の小僧、習わぬ経を読む」という諺があるが、門の中に入らずに門の前に立ってお経を聞いている小僧の姿が、なんだか「聞く」行為そのものを体現しているように思える。しかし、ドイツ語の中で暮らしていると、hören(聞く)は、むしろZugehören(所属する)に繋がり、耳をすませると、境界のところに留まっていることができなくなる。

 第三の詩「閃光」には、「閃」というやはりモンガマエの漢字が登場する。門の下に人がひとり立っている。それまで、わたしは、なぜ門の下に人が立つと、閃くものがあるのか、考えてみたこともなかった。もしかしたら、門の下、つまり境界に立っている人の目には、見えない世界から閃き現われてくるものが見えやすいのかもしれない。

「閃光」に当たるドイツ語の単語leuchtenは、この漢字と深い関わりがあるように思える。この単語を発音してみると、一瞬だが真ん中にich(わたし)という単語が聞こえる。Ichという単語の出てこないこの詩の中で、「わたし」は、閃光の中にほんの一瞬、壊れかけた形で現われるだけである。(中略)

 五番目の詩「斧をもてあそびながら」の最初の一行にはStundenという単語が出てくるが、これを訳してみると、「時間」となり、またモンガマエが現われる。「間」という字のモンガマエの中には、昔は太陽ではなく月があったそうだ。門からのぞいて見たら、月の光が見えたというのが、「間」の感覚なのかもしれない。

 ツェランの詩は、ひとつの閉じられた空間に閃光が保存してあるような詩ではなく、門のような詩なのだという気がしてきた。しばらくして、ショーレムの「宗教的権威と密教」の中で、やはり「門」のイメージに出くわした。彼に言わせれば、聖典密教的解釈は厳密になればなるほど、それまでに姿を変えたテキストが言葉の意味そのものにおいて価値を認められ続けるチャンスは大きくなるわけだが、その際、言葉の意味は門を形成し、神秘家はその門をくぐり抜けて進むが、門は常に開いたままにしておくのである。

  ツェランの詩は入れ物ではなく門である。わたしたちは読む度に門をひとつ通り抜けていく。門はいつも開いているのか。そう思って見ると、「開」という漢字も出てくる。(中略)

  ひとつの言葉を記述することは、ひとつの門を開くことかもしれない。漢字のような文字を読むということは、言葉(Wort)を読むことに繋がり、文章(Satz)を読むことではない。(中略)

 ツェランの言葉が門のようだと思った時に、ベンヤミンが「言葉に忠実な翻訳」をアーケード(筆者註:パサージュ)と比較していたことを思い出した。本当の翻訳というものは、光を通すもので、原文を隠したり、原文に当たる光を遮ったりするのではなく、言葉自身の媒介によってより強くなり、原書に純粋言語を投げかけると言うのである。これは、言葉に忠実に訳すことによって可能になるのであり、文ではなく単語が翻訳の原点となる要素であるということになる。なぜなら、文は原書の言語の前に立ち塞がる壁であり、ひとつひとつの単語への忠実さはアーケードを形作るのであるから。ツェランの詩はアーチの連なる通路のようなものかもしれない。

「薔薇七つ分だけ遅れて」の最後の門を潜り抜けようと思う。モンガマエの付く七つ目の漢字は「闇」で、これは「暗闇から暗闇へ」と「客」という二つの詩に出てくる。この字は考えて見ると不思議な字で、門の下に音があるとどうして闇になるのかわからない。ツェランの詩を読んでいるうちにやっと、この漢字が理解できたような気がした。

  きみは目を見開いた――ぼくは自分の暗闇がよみがえるのを見る。/ぼくは暗闇の奥を見る――/そこもぼくのもの、そこもよみがえる。(一行空)

  このような暗闇は彼岸へ渡るだろうか? 覚めたままで?/誰の光がぼくの後を、渡し守の見つかるところまで、ついて来てくれるだろうか?

 この詩を読んでから、「闇」という字について次のように考えるようになった。言葉では表わせない闇は、門の向こう側にあるように思えるが、門の下に音が立っているのが邪魔になって、門の向こうに何があるのか見ることはできない。しかし、その音という媒介が消えてしまえば、向こう側と繋がっているものがなくなってしまう。音は門を塞ぐと同時に、こちらとあちらを繋ぐ媒介でもある。耳を澄ませば音が聞こえて見えない向こう側に繋がる。(中略)

 モンガマエという主部が、この場合、翻訳が文学としての身体を有していることを目に見えるようにしてくれている。翻訳は原文を真似して作った模造人間ではない。翻訳の中で原文が新しい身体を授かるということかもしれない。原文の中に隠されたある意味が翻訳可能性によって目に見えるようになる、という「翻訳者の使命」の中にあるベンヤミンのことばも思い出される。(訳は、パウル・ツェラン『閾から閾へ』飯吉光夫訳、思潮社、一九九〇年より)》(多和田葉子『カタコトのうわごと』の「「翻訳者の門――ツェランが日本語を読む時」」)

                                                              

・多和田には、ほぼ同じ内容の文章があるが、「暗闇から暗闇へ」を受けての結びが違う。

《闇は、門や閾のところに立った音と関係あるのであって、光の欠乏ではない。わたしたちはいつか(過去のある時点とは限らないある門を抜けて、<ここ>に来てしまって、それ以前に自分がいたところを思い出そうとして振り返っても、それが見えない。門の下に音が経っているので、それが邪魔になって、その向う側が見えない。だからと言って音を邪魔者とばかり見做すのは間違っている。その音が媒介となって、わたしたちは向う側とつながっている。だから、門のところへ行って、その音に触れれば何か向う側のことが表現できるような気がする。もちろん、その音は音楽など具体的な音とは限らない。映像と出会う前の、もしかしたら胎内に出現してから外界で目を開くまでの世界と通じる何かかもしれない。その音に触るためには、闇が必要になってくる。でもそれは、理性を無くす必要があるという意味ではない。光が闇の反対ではない限り、理性が<向う側>の敵であるという風には思えない。

 この闇と関わっている時、わたしは詩と関わっている気がする。(この関わるという字にももちろんモンガマエが付いている)相手がいわゆる小説でも、わたしにとっては、詩であることがある。わたし自身は、いわゆる詩を書きたいと思ったことはなかった。読む方も、昔は詩を読むより、長編小説を読むのが好きだった。ところが、ドイツに来た時、言葉がばらばらになってしまって、断片を書き記していくしか表現の方法がなくなった。この急変した自分の言葉の状況を、わたしは詩と呼んだ。日本語という暗闇から、ドイツ語という暗闇に飛行する途中、わたしは翻訳者になることができず、じぶんの身体をばらばらにしてしまった。身体と切り離せない言葉も当然ばらばらになってしまった。それがわたしの今の仕事の出発点だったため、そのうち、いわゆる小説ばかり書くようになってからも、自分では詩を書いているつもりのことが多い。》(「モンガマエツェランとわたし」(『現代詩手帖 特集現代詩と現代詩以後(1994年5月号)』))

 

・「門」といえば、カフカ『訴訟(審判)』および短篇集『田舎医者』の中の「掟の門(前)」を思わずにはいられない。ここでもカフカベンヤミンツェランの三人が門の閾で出会う。

《「(前略)もう彼は余命いくばくもなかった。死を前にしたとき、彼の頭の中では、今まで長いあいだの経験が全部集って、これまでまだ門番にたずねたことのない一つの問いとなった。硬直してゆく体をもう起こすことができなかったので、彼は門番に合図をしてみせた。門番は男のほうにふかく身をかがめなければならなかった。というのも背丈のちがいがこの男にとってたいへん不便な状態に変ってしまっていたからである。『おまえは今さら何を知りたいのだ?』と番人がたずねた、『よくもまああきないものだな』『みんな掟を求めているというのに』と男は言い、『この長年のあいだわたしのほかにはだれひとりとして、入れてくれといってこなかったのは、いったいどうしたわけなのでしょうか?』 すでに臨終が迫っているのを見てとった門番は、消えてゆく聴覚にもとどくように、大声でどなった、『ここはおまえ以外の人間の入れるところではなかったのだ。なぜなら、この門はただおまえだけのものときめられていたのだ。さあわしも行って、門をしめるとしよう』」》カフカ『審判』)

 

多和田葉子

多和田葉子『百年の散歩』(初出二〇一四年六月号~二〇一六年十月号(「新潮」))を読むために。

 

・《編集部 先生の文学創作活動において、カフカはどのような意義をもつのでしょうか。

多和田 カフカの文学では言語そのものの魔術性と超現実主義的な要素がお互いに作用しあっていて、ドイツ語文学の中では例外的な存在だと思います。カフカは中学生の時から好きでしたが、後にヴァルター・ベンヤミンのおかげで、再発見することができました。わたしは世界各国を旅してきましたが、カフカはいろいろな文化圏で若い人に読まれています。日本やアメリカだけでなく、中国やイスラム圏でも熱心なカフカの読者と出会うことができました。

(中略)

編集部 先生の創作活動は詩、エッセイ、散文、戯曲、放送劇と幅広く、ピアニストの高瀬アキさんと一緒にベルリン日独センターでデュオ・パフォーマンスの公演をされたこともあります。一番好きな創作ジャンルを特定することは可能でしょうか。そして、文学者として最も大きな影響を受けたのは、どのジャンルでしょうか。

 多和田 戯曲を読むのは昔から好きで、シェイクスピアチェーホフギリシャ悲劇から始まって、クライスト、ビューヒナー、ハイナー・ミュラー など読みました。でも詩や散文などを読んだり書いたりするのも戯曲と同じくらい好きです。 どのテキストも自分に合った形式を見つける 必要があります。だからいろいろなジャンルで創作するのです。》(ベルリン日独センターでの多和田葉子書下ろし舞台劇『カフカ開国』公演に向けてのインタビュー)

 

・《多和田 私はどちらかというと、実際の土地そのものを現実に映し出すことができるとは思っていないほうで、その土地の名前とか、そこで生まれた物語とか、そういうものが言葉のレベルでつなぎあわされて、編みあわされて、それでできた都市というのが、どうしても頭の中にまた別に出来てしまう。》(多和田葉子インタヴュー「両国のモザイク細工――皺からの文学」(ききて堀江敏幸))

 

・《この映画は、引用というかけらから成り立っている。ここで言う引用とは、自分の正しさを証明するためにすでに権威を認められている人の言葉を借用する引用のことではない。この映画に姿を現わす引用は、同じひとつのものの中にある<違い>を示す役割を果たしている。同じひとつのドイツの中に東と西があり続けるように、ヘーゲルのひとつの文章の内部にもいくつもの文章が存在する。翻訳という作業がその事実を目に見えるように、あるいは耳に聞こえるようにしてくれる。同じバッハの音楽の中にも、異質な音楽がいくつも含まれている。だから、BACHという名前の綴りが、B、A、C、H、という四つの音としてばらばらになった時、それらを統合する絶対の法則があると思い込み続けることができなくなる。バッハもお互いに調和し合わない要素が集まって構成されているのであって、その一部は全体から解き放されて引用されることで、輝きを増す。

 引用が引用であり続けるためには、作者が一度口の中でよく噛んでから、自分の言葉にして吐き出してしまったのではいけない。それぞれの文章、音楽、場面が別々の世界からやってきたものであることが強調されなければいけない。だからこの映画では、いろいろな書物の表紙がしつこいほど映し出される。ブランデルブルク門の下で売られる本、図書室に並ぶ本、二か国語で朗読されるヘーゲル、地面に落ちた本、そしてホテルの部屋に備え付けの聖書。》(多和田葉子『カタコトのうわごと』の「「新ドイツ零年」と引用の切り口」(「新ドイツ零年」はゴダール監督映画(1991年))。

 

・《いろいろなイメージが混ざり合って別のイメージに発展していくのは当然だけれども、全体の統一ということを重視しすぎて、その結果、作品があまりにも「滑らかで」「自然な感じ」になってしまったのではもったいない、といつも思う。もともと別々だったイメージや物の見方がぶつかりあって作品が出来上がっていったのだから、その衝突の際についた傷跡があるはずで、そういう傷跡、縫い目、破れ目、ちぐはぐ、不調和などが残っていなければ、文学として面白くない。それが全く残っていないのを「完成度が高い」と言って満足するのはアサハカ。すらすらと読めてしまえる作品、矛盾を感じさせない作品、それがいろいろな過程を経て「書かれた」ものであることを感じさせない作品を読んでいるとタイクツ。》(多和田葉子『カタコトのうわごと』の「筆の跡」(ドイツで活躍する韓国出身の画家、宋賢淑の絵を鑑賞して))

 

・《ここでは何か裏話を話すそうなのですけれど、私は裏表の無い人間なので、全部表の話になります。私は3年前にハンブルクからベルリンに引越しまして、ベルリンと言えばプロイセン、今はもうプロイセンではありませんけれども、昔プロイセンだったわけで、そのプロイセン文化といえばやはり秩序を重んじ責任感を大切にして、笑ったりおいしいものを食べている文化ではなくて、非常に厳しい軍国主義的な文化でもあったわけです。でも、そういうイメージも消えて、今のベルリンは若いアーチストたち、ダンサーとか、それから小説家もたくさん集まって住んでいます。この前ノーベル文学賞をもらったヘルタ・ミュラーもそうですが、いろいろな国から作家が集まって住んでいる非常に楽しい町になりました。ドイツはイギリスやフランスと比べても遅れて慌てて近代化したわけで、そういうことでお手本にしやすいということで、日本の近代化のお手本になったところだと思います。私が日本を離れて非常に感じることは、江戸時代から明治維新に向かってのギャップというか、そこを飛び越えるとき、人々はどうやって飛び越えたんだろうか、それが非常に気になってくるわけです。その間の谷間というか狭間、江戸文化と明治の文化は非常に深いものなのではないか。そういう時に小説の言葉を新しく創り出していくということが、どれだけ難しいことだったのかということを、何度も思いました。

 そういうことを考えているときに今度坪内逍遙大賞をいただけるということで、100年前に早稲田の大学出版部から出たシェイクスピアの『ハムレット』の逍遙訳をちょっと読んでいたんですけども、その訳を読んで、少し驚きました。その出だしの部分がこんな感じです。「何者じゃ、あいや、そのものこそ。待て、名宣らしめ。今上万歳。バーナードどのか。なかなか。」これを読んでいると、演劇の言葉というのは、翻訳ですけれども、小説の言葉がバッタリと途切れてしまって新しい言葉を生み出さなければならなかったのと比べて、もしかしたらもうちょっと持続性があるんじゃないか、近代が来てからも江戸時代の演劇の言葉をある程度活かして、またそれが何かその流れが続いているんじゃないか、という演劇の言葉と小説の言葉のあいだの違いを感じたわけです。ということは、小説の言葉もまた演劇の言葉から学ぶところが多いということと、外国の演劇を訳す試みを通して、今の日本の小説の言葉を生み出すことが出来るかも知れないというのが、今の私の考えていることです。そういうことを考えながら、去年チェーホフの『桜の園』の翻訳ではなく翻案を作ったのですけれども、それがまた来年シアターカイで11月に上演されることになりました。私と演劇とのつながりは割に深いというか長いもので、私の両親も実はこの早稲田大学の文学部を出ているので、二代目早稲田なのですが、私が三歳のときに、これは私の父と母の話ですから本当かどうかわかりませんけれども、サルトルの『凶器と天才』の芝居を観に行こうということになって、私を連れて行ってくれました。連れて行ったといっても、子供を預かってくれる場所が劇場にあって、そこに預けるつもりで連れて行ったけれども、私はそこに行くのはいやだと言って、芝居をじーっと、何を考えているか分からないけれども、観ていたということです。翌日、ひどい熱を出して幼稚園を休んでしまったのですが、それが私のはじめての演劇体験でした。(後略)》(「第二回早稲田大学坪内逍遙大賞祝賀会(2009年11月13日)」【受賞者挨拶】【大賞】多和田葉子

                     

・《  最近の文学の「フラットな空間」

キャンベル 最近の文学作品には、教室であったり、グラウンドであったり、トラックが何台も走っている郊外の幹線道路の橋の下であったりというような〝白い〟空間がよくあります。ディテールに入り、そこから敷衍していくようなことが少ない気がするんですね。白い透明な中に人々は自分の状況に不安を募らせ、関わり、離散する。

 でも、多和田さんの小説に現れるのはディテールです。看板、外国語、隣の席のちょっと声のいがらっぽい中年女性の声というようなもの。

多和田 コラージュみたいな方法なんです。断片の集まりを滑らかにミックスするのではなく、個々の材質をそのまま残す感じです。

キャンベル 乗り物にたとえればニューヨークの地下鉄みたいな感覚ですね。

多和田 今ある関係性をはずして、個々のディテールを切り取ってきて一つの面に並べて貼ったとき、異質なものたちが同じ平面で隣り合わせになります。都市ってそういう場所じゃないですか。そういう都市のかたちはすでに百年くらい前には基礎ができていたと思うんですが、大戦とか冷戦とかがあってベルリンの場合、長い間、見えにくくなっていた。それが今新たにコラージュとして現れていると思うのですが、シュールリアリズム時代のコラージュとは違って、ネットによる平板化時代のただ中で接触面のない無数のミクロの集まりみたいな感じもあります。

キャンベル 『百年の散歩』の表紙がそうですね。

多和田 フランス語で話している人たち、トルコ語の看板、ロシア語の新聞などが目や耳に飛び込んでくる。同質ではないものが共存しているのに、グローバル化とかインターネットの普及のせいで、そのままでは必ずしもデコボコな感じがしない。立体性があるはずなのに、のっぺりしているように見えてしまう今の時代。先ほどの白い空間というのは、いろんな人がいるのに、ボコボコしていない空間ではないですか。

キャンベル 平坦に調整されている。

多和田 私の作品はその逆です。もちろん調整しないわけではないんですが、異質感が出る方向に調整していくんです。

キャンベル 多和田さんのいくつもの小説の基本的な姿勢にもつながるお話ですね。『百年の散歩』の主人公は歩くことを通していろんなことが視界に入り、そこにちょっとした気づきやこだわりを得る。「遊歩者」という言葉を僕は用いますが、なぜ散歩を描くことにしたのでしょうか。

多和田 散歩していると、たとえその街に住んでいても、なんだか自分が旅人みたいな気がしてくることがありますよね。「大都市の散歩者」は「家族の一員」であることを一時やめている、と考えてもいいかもしれません。一般に、小説には家族を描いたものが多いですね。家族の一員として親との葛藤、子どものこと、パートナーとの関係などを描く。でも都市で暮らす人の半数以上は一人暮らしです。しかもベルリンという街は、人々が家族代々暮らしてきた街ではなく、移民たちが流れ込んできてはまた流れて出ていく街です。だからベルリンに祖先のお墓がある人も少ないです。日本でも大都市はそうだと思います。ところが福島に三度ほど行ってみて分かったのは、原発事故がなければ、祖先のお墓のすぐ側に暮らし続けていた人たちがたくさんいる、ということです。江戸時代からお墓とか家とか田んぼとかを守ってきて、それが当たり前だったのに、急に知らない土地に引っ越さなければならなくなったことがどれだけショックだったかが私にもだんだん分かってきました。お墓ごと引っ越す人がいるという話や、お墓が流されたことで鬱病になってしまった、という話も聞きました。

キャンベル 位牌もですね。

多和田 そうです。つまり死者の存在が自分の存在の基盤になっているわけですね。私はもちろん祖先のお墓のようなものがベルリンにあるわけではありません。でもベルリンの街を散歩していると、街の死者たちがよみがえってくる気がすることがあります。ベルリンは特に第二次世界大戦や冷戦の痕跡が多く残っていて、その頃生きていた人たちの亡霊がその辺をさまよっている。私などは遠い国から来た人間ですが、死者たちとの関係においてベルリン人だという気がしてきたんです。ドイツは街というものを記憶や歴史の書き込まれた書物のように考えているので日常的に歴史をふりかえるようにできるんですね。有名なのは「躓きの石」といわれる金色の四角い小さなプレートで、戦時中にユダヤ人が住んでいた家の前の歩道に一人につき一枚、はめ込んであるんです。プレートにはその人の名前、生まれた年、強制収容所の場所と連行された年、死んだ年などが刻まれています。近所を散歩しているとその数の多さに驚きます。もし日本でこれに相当するプロジェクトを始めたら、日本で暮らしている人たちの歴史観に大きな変化が起きるんじゃないかな。

   都市の散歩者のゆううつ

キャンベル 一九二〇年代のモダニズムの時代、ヴァルター・ベンヤミンの友人でもあったフランツ・ヘッセルという人がいました。裕福なユダヤ人として生まれたヘッセルは、常に歩いている。その記録として戦前の一九二九年に『Spazieren in Berlin(ベルリンの散歩)』を記しました。都会に溶け込めない無名者として都会を歩き、微細な変化を舐めるように観察していきます。

 少し紹介します。〈ひとごみで賑わう街をゆっくり歩くことはとくに愉しい〉と書き出した上で、〈しかし、私の敬愛するベルリン市民は、(略)散歩者にとても厳しい〉といいます。それはなぜかというと、〈どんなに器用に人々を避けようとしても、散歩者は謹厳実直な彼らから冷たいまなざしを向けられる〉からです。〈まるで私がスリであるかのような〉、つまり犯人であるかのような目で見られている。この街では〝しなければならない〟ことと〝してはいけない〟ことの二択しかない。で、散歩というのはそのどちらでもないのに、〈どこかに向かって歩く。でなければ歩いてはいけない〉狭間に散歩者は置かれているわけです。いかがでしょうか。時代を超えて『百年の散歩』の語り手にも通じるようなところがあるように思います。

 ヘッセルと同時代の日本は昭和初期、関東大震災を経て昭和五年ぐらいまでに首都は復興を遂げたと言われています。その東京を舞台にたくさんの小説が書かれますが、多和田さんのベルリンとはかなり違う。経験し、描いている主体のあり方から違うのです。

 一つの例として、丹羽文雄の昭和九年の短篇小説「海面」を紹介します。主人公は銀座にある店のママのヒモのような状態で暮らす若い物書きで、精神のバランスを崩します。明治末期から「銀ブラ」は文学のテーマとしてあるのですが、主人公・周一は銀座通りを南北に何度も、何時間もかけて歩くわけです。ひたすら歩いている場面の描写が続き、自分に言い聞かせるように周一は言います。「歩くんだ、歩くんだ。何でもいい、歩き殺してしまうんだ」。三人称ですけれども、限りなく一人称に近い、主人公に寄り添った描写が続きます。自分の肉体と精神がだんだん遊離していくのを人々に揉まれながら感じている。

(中略)

キャンベル 「海面」は、復興に賑わう銀座という、新奇な建築や色鮮やかな飾り窓が並ぶ通りを歩いているはずなのに、ひとつとして描写されません。

 対して『百年の散歩』には、今日何度も触れますが、ディテールに神なのか悪魔なのかいろんなものが潜んでいて、それこそ丁寧に一つずつ封筒を開いていくと、たくさんの感動や疑問を投げかけてきます。この連作短篇小説は、章ごとに通りの名前がついています。つまり地域によって章立てがなされているわけですけど、カール・マルクス通り付近を歩きながら、ある店の前に足を止めるんですね。その箇所を読んで頂けますか。

多和田(朗読) 《トルコ料理屋の看板が何軒か視界に入る。これだけ数があると競争も激しいだろう。ドイツ語ではあまり使われない「Y」、ドイツ語でもよく使われはするけれど一つの単語の中で繰り返されることはない「Ü」が次々現れて、視界を覆う。ニンニクと串焼き羊肉の焼ける匂いに混ざって神経を刺激する。羊、筆字、イスラムのラム。お腹はすいたけれど、展覧会を観たあとであの人といっしょに食事するのが楽しみなので我慢する。食べるつもりはなくてもメニューというのは読んでいて面白いものだ。》

キャンベル 一種の心内語といいましょうか、ここで主人公が後に振り返っているのか、そのとき感じているのか。圧倒的なディテール描写です。その直後にイギリス人観光客風のミス・マープルみたいな女性が、「このランチ、よさそうね」と英語で話しかけてくる。ちょっと困って通り過ぎてから振り返ると、ミス・マープルは人が通る度に声をかけていた。実はあの女はお店の人なんじゃないかという、ちょっと意地悪な主人公の読みが。

多和田 でも、これは本当にあったことなんですよ。もう絶対にお店の人だと思いました。だから私は、ノンフィクション作家なんです(笑)。

 ただ、本当のことは毎秒無数に起こっているし、その中からごく少数のことを選ばなければ、文章を書くことはできません。人によって解釈の異なることもたくさん起こっている。私は自分が面白いと思う方向に極端な解釈をしてしまう傾向があって、誰かと一緒に同じ状況を目にして、あとでその時の話をするとあまりにも違うので驚くことがあります。だから、ノンフィクションであっても常にフィクションであるとも言えます(笑)。》(【対談】「「半他人」たちの都市と文学」多和田葉子ロバート・キャンベル

                                                                                                                                                                

・《沼野 多和田さんは初期から一貫して言葉遊びを追求しておられましたが、今回ベルリンを舞台にした『百年の散歩』は、特に顕著だと思います。言葉についての小説という側面が強いですね。

多和田 そうですね。それは舞台であるベルリンが人の移動の多い大都市であることにも関連しています。小さな村なら、そこに住んでいる人のことはみんな知っている。そこにたまにふらっとどこかから謎の人物がやってくる、という小説はありますが、それはせいぜい一人、二人です。でも都市を散歩している時は、右にいるのも左にいるのもみんな知らない人ばかり。しかも、たとえば私がベルリンを歩いていたら、日本語をしゃべっている人とすれ違う可能性は大変低い。いろいろな言語が飛び交うなかで理解できない会話もたくさん耳に入ってくるし、フランス語がドイツ語に聞こえたり、ロシア語が日本語に聞こえたり、という混乱も起こる。広告やポスターなどが自分の知らない言語で書かれていることもある。すると文字そのものに妙に存在感が出て来る。》

沼野 『百年の散歩』では、いろんな通りの名前がほとんど主人公のように各章のタイトルになっていて、それらの通りを散策するなかで「わたし」は「あの人」と呼ばれる誰かをいつも待っているんですね。待ちながら散歩をしてレストランやカフェに入ったりしている。そういう意味ではフラヌール(遊歩者)小説とも言えるんじゃないでしょうか。その一方でやはり言葉が主体という面もあって、ドイツ語がそのまま出てきたり、ドイツ語から日本語の連想が始まったりする。読者はついていけるのかな、と心配になる箇所もあるくらいです。例えばさくらんぼはドイツ語でキルシェンですが、このキルシェンからキルヒェ(教会)という言葉を連想して、さらに日本語の意味が付加されて「桜教会」という言葉が出てきちゃうとかね。これも、言葉の好きな人にとってはとても面白い話ですね。

多和田 全部説明してあるわけではないので、読者にとっては謎の言葉遊びもあるかもしれません。でも、散歩をしている私にも、町で目に入るトルコ語などは全く分からないわけですから、小説を読む時も、分からない部分があってもいいんじゃないかな。謎は穴ですよね。新しいアイデアが浮かんできたり、時には自分自身の記憶が蘇ってくることもあるんじゃないかと。だから、理解できないということを私の場合、楽しく感じてしまうのではないかと思います。》

多和田 ナボコフは自分にとって重要な作家だと感じたのは『賜物』を読んだ時です。『賜物』ももちろん今回のコレクション(筆者註:ロシア語原典を底本に新訳された新潮社刊「ナボコフ・コレクション(全5巻)」)に収録されるんでしたね。これも、文字に注目し、言葉遊びしながら目の前の光景と記憶が入り交じる都市空間散歩文学ですが、その中でもすごく好きな場面がひとつあるので、ここで読んでみます。

「ちょうどそのとき、引っ越し用トラックから目もくらむような平行四辺形の白い空が、つまり前面が鏡張りになった戸棚が下ろされるところで、その鏡の上をまるで映画のスクリーンを横切るように、木々の枝の申し分なくはっきりした映像がするすると揺れながら通り過ぎたのだった」(『賜物』)。

 つまり引っ越し屋のトラックから、前面が鏡張りになった戸棚が下ろされて、その鏡に空や樹木が映っているわけですよね。戸棚が動くと、樹木が鏡の中を飛んでいくように見える。空は映画のスクリーンみたいに四角く切り取られていて、一体移動しているのは何なのか分からなくなる。そういった複雑な移動の感覚を、ごく日常的な場面で捉えている。これは私自身もすごくやってみたいことで、ナボコフを読んでいていいなあと思うのは、そういうところです。》([対談]「言語を旅する移民作家」多和田葉子沼野充義

 

・《「今回は私が元々好きな、特に人の名前が付いている通りを選んで、本人の作品を見たり読んだりしながら歩いてみようかなと思って。例えば普通は20秒も見れば見た気になる美術館の絵が3分後にはまた違って見え、さらに15分粘ると全然違うものが見えたりするでしょ。そんな風に自分が空っぽになるまで粘りに粘り、住み慣れた町で目にしたものを全て小説化したらどうなるかという、一つの実験です」》

《〈わたしは、黒い奇異茶店で、喫茶店でその人を待っていた〉〈店の中は暗いけれども、その暗さは暗さと明るさを対比して暗いのではなく、泣く、泣く泣く、暗さを追い出そうという糸など紡がれぬままに、たとえ照明はごく控えめであっても、どこかから明るさがにじみ出てくる〉……。

「カント通り」の書き出しである。「なく」「いと」など、音たちは文字に定着するまでに自由な浮遊を許され、また、目の前の事物を言葉に置き換えると、そこには当然、ズレが生じた。

「周囲の音を完璧に記述することはほぼ不可能ですよね。でもそれを書いた瞬間、それは自分の世界になるし、どこまでが頭の中でどこからが外界かわからなくなる感じも含めて、私はものを書く行為だと思うのです」

 さて、その喫茶店であの人を待つわたしは、壁際に座る女性客を勝手に〈ナタリー〉と名付け、注文したグリーンピースのスープを眺めては、同名の自然保護団体から指弾される日本の捕鯨について考えたりする。そんな時、耳に飛び込んできたのが、〈しぇるしぇ〉というフランス語だ。〈脳の正面にいるゴールキーパーの手をすり抜けて、入ってきたこの「しぇるしぇ」をどうしていいのかわからないまま、わたしはスープを食べた〉

「ベルリンにいると、東京より多くの言葉が耳に入ってくる気がします。まず店で大声を出すのを恥じる日本人と何でもタブーなく話すベルリン人では声量が違う(笑い)。ほかにもベルリンが東京と違う点として、町なかには大戦が昨日終わったのかと思うほど歴史の跡が残され、人名の付く通りが多い。それは、銅像よりは日常的に名前を口にするとか、さりげない想い方がよしとされるから。

 そもそもベルリン自体が歴史に翻弄された町なので、移民排斥的な空気も比較的薄い。人に何か言われる前に口を噤むようになったら、町も人もお終いです」》

マルティン・ルター通りやローザ・ルクセンブルク通りで夢想はなおも続き、彼女と違って山や森の生活に憧れるあの人が、結局、姿を現わすことはなかった。

〈森の中を散策していても、言葉が浮かんで来ない〉〈町はわたしの脳味噌の中そっくりで、店の看板に書かれた言葉が連想の波をたえず引き起こし、おしゃべり好きの通行人のぺらぺらがオペラになり〉〈言葉は本当は世界とは何の関係もないんだというしらじらとした妙に寂しい気持ち〉〈傷つく必要なんてない。何度ふられても町には次の幸せがそこら中にころがっているのだ〉

 そんな彼女のやせ我慢が、多くのモノや言葉に囲まれながら何一つ手に入らない都会人の孤独を浮かび上がらせて胸に迫り、秀逸だ。

「作物を育てている実感の中を生きている農村の真っ当さから切り離された都会人は、給料はここからもらう、トマトはあそこで買う、と生産の実感すらない。その何でもあって何もない虚しさの一方には町特有の楽しさもあって、常に揺らぎ、移ろう、町という運動体全体を小説ともつかない形でとらえようとした私は、線を引くことに何の意味があるのかと思うわけです。

 そもそもフランスやドイツという国以前にパリやベルリンといった町が屹立し、点と点が緩やかに連携するのがヨーロッパの理想で、線と対立は何も産みません。

私自身、1982年の渡独当時は日本とドイツという国に囚われていましたが1989年にベルリンの壁が崩壊。EUへと動く中、21世紀は町や村の時代だと確信するに至った。日本も韓国や中国や台湾や、北朝鮮とだって連携するに越したことはなく、お隣同士が線を引き、喧嘩することほど、危険でつまらないことはないんです」》(【著者に訊け】多和田葉子氏 連作長編『百年の散歩』(構成橋本紀子))

 

・《松浦 古井さんの作品に『楽天記』というものがありますが、楽天という言葉自体、幾重にも屈折したアイロニーが畳み込まれたように感じます。一種の楽天主義というものが日本人の心にあって、吊橋も道路を歩いているような感覚でスタスタ歩いてしまっているところがあるのかもしれないですね。

 多和田さんの『地球にちりばめられて』や『献灯使』も、破局のあとの世界を描いているわけだけど、多和田さんの想像力は吊橋の先にあるところまで行っていて、そこから振り返ってリアリズムを持って描いているような気がしたんです。ただ、そうした世界を描きながらも、悲壮感はおろか、案外明るい感じで描いていらっしゃる。

多和田 危機が非常に大きくなってくると、人間のドラマみたいな枠を超えちゃうんですよね。

松浦 多和田さんの作品は暗い状況を描いているはずなのに、人を元気づけるような、非常に生命力にあふれているところがあります。》(トークイベント「危機の時代、文学の言葉」佐伯一麦多和田葉子松浦寿輝古井由吉(「群像」講談社主催))

 

多和田葉子の小説冒頭はとっつきにくい。例えば『百年の散歩』の最初に位置する「カント通り」の冒頭、《わたしは、黒い奇異茶店で、喫茶店でその人を待っていた。/店の中は暗いけれども、その暗さは暗さと明るさを対比して暗いのではなく、泣く、泣く泣く、暗さを追い出そうという糸など紡がれぬままに、たとえ照明はごく控えめであっても、どこかから明るさがにじみ出てくる。お天道様ではなく、舞台のスポッとライトでもなく、脳から生まれる明るさは、暗い店内を好むのだ。》のように、安易なわかりやすさを求める読者は、言葉と思考の滑らかさの関節をあえて外す多和田の仕掛けに躓きがちだ。だから、《多和田葉子カフカの『変身』を「変身(かわりみ)」とルビを振って訳している(すばる)。かつて「理想の教室」(みすず書房)シリーズで、野崎歓カミュの『異邦人』を「よそもの」と訳し、合田正人サルトルの『嘔吐』を「むかつき」と訳したときにはどこか腑(ふ)に落ちるような感じがあったが、「変(かわり)身(み)」には違和感しかなかった。「かわりみ」という言葉の持つ語感と小説とが一致しないからだ。第一文を読んで、これはもうまともな日本語ではないと思った。まともでない小説をまともに乱れた日本語で読みたいと思うのは、贅沢な望みなのだろうか。》などと文芸時評(「産経新聞(2015年5月号))する近代国文学者さえいて、「まとも」とは文学に受験国語の模範解答を求める気分からか、と問いたい。

 

・以下、『百年の散歩』の10の連作から引用する。なるべく、上記対談に現れなかったベルリン(《ユグノー派の人々がフランスから逃れてこの土地にやってきた時には、まだBerlinという都市があったわけではなく、いくつかの村が集まっていただけだった、と楽しーの運転手は語り始めた。まるで最近の出来事を語るような口調だけれども、実際はもう三百年も前の話だ。「Berlinを都市にしたのはフランス人ですよ。今でもベルリン人の五人に一人にはフランスの血が流れている。わたしのようにね」と言った》(「カント通り」))のモザイクを。

 

・《カント通りに足を踏み入れる時、わたしは期待に満ちている。ツォー駅をバス停のある側に出て右に曲がり、二つ目の通りがカント通りだ。大手デパートのスポーツ用品館が左手にあるせいか、通りをはさんで向かい側にあるショーウインドウの前を通る時、そこに飾ってある色とりどりのプラスチックのオブジェがすべてスポーツ用品に見えてしまう。握って振りまわしたり、上下に動かしたりするためのミニ・ダンベルのように見えるその商品は、実は身体に入れたり出したりして遊ぶために製造された品であることを遅くともパステルカラーのペニスがずらりと並び、黒い革の下着を着たマネキン人形が乳房を鎖に押しつけているところまで来ると思い出す。あ、そう、そう、これは有名なお色遊びのお店でした。そのすぐ隣が「ベッド院」ではなく「FUTON」という名前のベッド屋で、ここで売られているのは、分厚い布団がマットレスの代わりに入っている高さ十五センチの家具で、ドイツでは広く普及している。布団なのに、「バルセロナ」とか「ボローニャ」という名前のついたものばかりが並んでいるので、せめて一つくらい日本の地名はないものかと、別に日本が恋しいわけでもないのにむきになって捜していくうちにやっと見つけた。「Hokkaido」。北海道は、布団の名前として、ふさわしいだろうか。なんだか冷えてきた。わたしはカント通りに向かって伸び始めた期待の芽を鋏で截ち切り、まわれ右して、反対側にある動物園に向かって歩きはじめた。》(「カント通り」)

 

・《住宅のように見える建物の中でも、どうやら「営業」が行われているらしい。扉の前に立って煙草を吸っている女がいる、主婦が自分の家の前で煙草を吸うはずがない。この人は、禁煙の職場で働いているのだ。視線は煙に乗って、ぼんやり夢見るようにその場を離れる。鴉色のマスカラがばたばた羽ばたいて、バルカン半島をめざして飛び立っていった。煙草が燃え尽きると休憩時間も終わって、女は建物の中に戻っていった。》(「カール・マルクス通り」) 

 

 ・《ガラスの壁を覆いつくすように紫色の蘭が飾ってあった。全く同じ色とかたちの蘭だけがこれだけたくさんあると、ぞっとする。同じ顔のクローンが何十人も並んでいるある映画の一場面を思い出した。一つとして同じ色とかたちの見当たらない店内だから余計不気味に見えるのかもしれない。紫色の蝶が身をよじって悶えているようにも見える蘭。プラスチックでできているのかなと思って近づいていくと、ある距離まで来たところで、ふいに死にゆくものの湿り気が感じられ、本物だということがわかった。》(「マルティン・ルター通り」)

 

・《伝記物は、幼年時代という一枚の色褪せた写真から始まることが多い。正装した両親の間に立ってカメラのレンズを見つめる子供を包む音のない世界。ところがこの伝記は子供時代など後まわしにして、いきなり1937年に飛び込む。レネーの作品が国立ギャラリーで差し押さえをくらった、と書いてある。政府自体が犯罪者になっていく。そんな時代にレネーは一体どんな絵を描いていたのだろう、と思って拾い読みしていくと、画家ではなく彫刻家だった、と書いてある。レネーが半分ユダヤ人であったことには驚かなかったが、彫刻家というのは予想外で、忙しくページをめくる指の動きがとまった。何かかさばるものが明確な形をとらないまま、わたしの行く手をふさいだ。作品の写真はないのかと五百ページ以上もある厚い本の中をめくって探すと、ブロンズの子馬が載っていて、その隣にベルリン映画祭のトロフィーになっている黄金の熊がいた。》(「レネー・シンテニス広場」)

 

・《広場のまわりを走る歩道にはところどころ、リボンのように文章が置かれている。置かれているというより埋め込まれている。どれもローザ・ルクセンブルクが書いたものだ。他に読んでいる人がいないので気恥ずかしいが、こっそり横目で読むわけにはいかない。一行がとても長いので、行に沿ってじりじりと歩を進め、おろおろと二行目の頭に戻るしか読みようがない。しかも、テキストは通りに対して斜めに配置されているので、通行人の流れに対して斜めに身を置くことになる。仕事から帰って買いものに行く人、ジムに行く人、食事に行く人、そんな人たちがお金を動かしながら一つの大きな経済運河になって流れていく。立ち止まって歩道に刺青された文章を読もうとしている極道のわたしに通行人が次々ぶつかり、流れが乱れる。わたしが最初に読むことになった文章の中でローザが批判している相手はベルンシュタインという名前。資本主義のにがい海に白ワインを一滴注ぐだけで社会主義の甘い海に変貌するとベルンシュタインが思っているのは舌音痴だ、とローザは言いたいのだ、とわたしは勝手に理解したが、なにしろ半分以上が工事現場の木の板の下敷きになって読めないので、そこは想像で補うしかない。》(「ローザ・ルクセンブルク通り」)

 

・《わたしはあわてて後を追った。揺れる巻き毛が石の色から栗毛に変わり、栗毛から今度はどんどん明るい金髪になっていって、それに合わせてふっくらしていた腕や脚がひきしまって、筋肉がもりもり育った頃には、わたしたちはもう公園を出て並木道を走っていて、自転車を追い抜かし、ベンツを追い抜かし、少女の脚になまめかしい曲線が見え始めた頃には駅前を走り抜け、キオスクの前でビールを飲んでいた男たちがはっと目を見張るのが見え、赤信号を無視して渡ったところから少女の金髪が白髪に変わり、それでも現在を目指して走り続ける少女はやがてプーシキン通りの終わるところまで来て、冷戦時代は撃たれずには越えることのできなかった橋をいともやすやすと渡り、ふくらはぎに青い筋が浮き上がって、踵の肌がすりきれてきたのに速度を落とさず、皺の刻まれた額から汗が流れているのに、笑いながら、あえぎながら、七十五歳になった少女はクロイツベルク区に駆け込んでいった。》(「プーシキン並木道」)

 

・《噴水に一番近い正面の席に腰かけた。すると女性の姿は視界から消えて、わたしと水だけになった。水は浅い。もしもライン川の深さが一ミリしかなくなったら、そこに生きる人魚たちもプランクトンみたいに小さくなるだろう。オペラグラスではなくて顕微鏡で観るオペラがあってもいい。》(「リヒャルト・ワーグナー通り」)

 

・《コルヴィッツは胸をかきむしり、額を地面に打ちつけて、うめき声をあげた。冷たくなった息子の亡骸を膝の上に抱き上げ、自分の身体をかぶせて体温で暖めようとした。死体の胸に耳を押し当て戻らない鼓動をいつまでも待った。天を仰ぎみてごうごうと泣き、声がかれて出なくなるとただ身体をふるわせ続けた。このまま彫刻になってしまいたい。これまでデッサンや版画をたくさん仕上げてきたが、本来自分は絵描きではなく彫刻家であるという自覚が若い頃からあった。彫刻になってしまう以外に苦しみから逃れる道はない。

 気がつくと十字架からおろされたイエスを慈悲で包むマリアの像に変身していた。マリアはイエスの死には責任がない。十字架からおろされたイエスの死体を無限無条件の慈悲で包み込むだけだ。マリアになることでコルヴィッツはやっと自分自身を責めるのをやめることができた。そのかわり、それはもう一人の人間の一回きりの仕草ではなく、たとえば「ピエタ」という一言でかたづけられてしまうかもしれない。》(「コルヴィッツ通り」)

 

・《自分は孤独だと認めてしまうのは気持ちがいい。春だからこそできること。孤独だなんて最悪の敗北宣言ではあるけれど、友だちが見つからなかった、恋人が見つからなかった、家族が作れなかった、仕事がない、住むところがない。そうなっても誰もじろじろ見たりしないから、平気で歩きまわれるのが大都市だ。》(「トゥホルスキー通り」)

 

・《町は官能の遊園地、革命の練習舞台、孤独を食べるレストラン、言葉の作業場。未来みたいな町の光景に囲まれていれば、未来はすぐに手に入るものだと思いこんでしまう。人を激しく待つ時は特にそうなのだ。待ち合わせをしてうまく会えたとしても、それからもちょろちょろと流れ続けていく時間を忍耐強く生きなければならないことなど念頭にない。今すぐ、ごっそりと全部欲しいのだ。傷つくことなど全く恐れていない。身体ごと飛びついていく。はねつけられたら、さっと離れていけばいい。傷つく必要なんてない。何度ふられても町には次の幸せがそこら中にころがっているのだから。》(「マヤコフスキーリング」)

 

 そして最後に、ナボコフ『賜物』をも連想させるモザイク。

・《それにしてもマヤコフスキーがガラス板の向こう側に立っているのが不思議だった。写真だから仕方ないのか。二次元世界の住人なのか、三次元世界の住人なのか、はっきりしない。よく見極めようとして一歩あゆみ寄ると、見たことのない顔が向こう側から私を観察していた。それは詩人の顔ではなく、ガラスに映ったわたし自身の顔だった。睫を震わし、唇をかすかに開けて苦しげに呼吸する人間の顔だった。わたし以外の人間はここにはいない。》(「マヤコフスキーリング」)

                              (了)

       *****引用または参考文献*****

多和田葉子『百年の散歩』(新潮社)

多和田葉子『カタコトのうわごと』(「翻訳者の門――ツェランが日本語を読む時」「身体・声・仮面――ハイナー・ミュラーの演劇と能の間の呼応」「「新ドイツ零年」と引用の切り口」「筆の跡」所収)(青土社

多和田葉子『エクソフォニー 母語の外へ出る旅』(「パリ 一つの言語は一つの言語ではない」所収)(岩波書店

*『新潮(2018年4月号)』([対談]「「半他人」たちの都市と文学」多和田葉子ロバート・キャンベル所収)(新潮社)

*『新潮(2018年1月号)』([対談]「言語を旅する移民作家」多和田葉子沼野充義所収)(新潮社)

*『文藝(1999年春号)』(多和田葉子インタヴュー「両国のモザイク細工――皺からの文学」(ききて堀江敏幸)所収)(河出書房新社

*『週刊ポスト(2017年5月19日号)』(【著者に訊け】多和田葉子氏 連作長編『百年の散歩』、構成橋本紀子所収)(小学館

*「文芸時評 ファイアウォールとしての文学」石原千秋(「産経新聞(2015年5月号))

トークイベント「危機の時代、文学の言葉」佐伯一麦多和田葉子松浦寿輝古井由吉(「群像」講談社主催、文:吉川明子)(2019年4月)

*「第二回早稲田大学坪内逍遙大賞祝賀会(2009年11月13日)」【祝賀会 受賞者挨拶】

*『ポケットマスターピース01 カフカ』(多和田葉子解説「カフカ重ね書き」)多和田葉子編・他訳(集英社文庫ヘリテージシリーズ)

カフカ『審判』辻瑆訳(岩波文庫

モーリス・ブランショカフカからカフカへ』山邑久仁子訳(書肆心水)      

*『現代詩手帖 特集現代詩と現代詩以後(1994年5月号)』(多和田葉子「モンガマエツェランとわたし」所収)(思潮社

ヴァルター・ベンヤミンベンヤミン・コレクション』浅井健二郎編訳(ちくま学芸文庫

ヴァルター・ベンヤミンベンヤミン著作集』野村修、川村二郎、高木久雄、小寺昭次郎他訳(晶文社

*川村二郎『アレゴリーの織物』(講談社

ヴァルター・ベンヤミン『ドイツ悲劇の根源』川村二郎、三城満禧訳(法政大学出版局

*『現代思想 ベンヤミン 生誕100年記念特集(1992年12月臨時増刊)』(今村仁司ベンヤミンにおける歴史の概念」等所収)(青土社

今村仁司ベンヤミンの<問い> 「目覚め」の歴史哲学』(講談社選書メチエ

*野村修『ベンヤミンの生涯』(平凡社ライブラリー

*ハンナ・アレント『暗い時代の人々』(「ヴァルター・ベンヤミン 一八九二~一九四〇」所収)阿部齊訳(ちくま学芸文庫

スーザン・ソンタグ土星の徴しの下に』(晶文社

鹿島茂『『パサージュ論』熟読玩味』(青土社

パウル・ツェランパウル・ツェラン詩文集』(「「ハンザ自由都市ブレーメン文学賞受賞の際の挨拶」「子午線 ゲオルク・ビューヒナー賞受賞の際の講演」所収)飯吉光夫編・訳(白水社

*『ユリイカ 特集ツェラン(1992年1月号)』(青土社

*平野嘉彦『土地の名前、どこにもない場所としての ツェラーンのアウシュヴィッツ、ベルリン、ウクライナ』(法政大学出版局

ウラジーミル・ナボコフ『賜物』(「ナボコフ・コレクション」)沼野充義訳(新潮社)

 

オペラ批評 ドニゼッティ『アンナ・ボレーナ』とホルバイン『大使たち』――「切れた絃」と「歪んだ髑髏」

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 2011年4月、ウィーン国立歌劇場初演となるドニゼッティ作曲のオペラ『アンナ・ボレーナ』は、各国に生中継された。ソプラノ、アンナ・ネトレプコにとってタイトル・ロールのデビューであり、メゾ・ソプラノ、エリーナ・ガランチャ演じる侍女ジョヴァンナ・セイモーとの、人気、美貌、実力を兼ね備えた歌姫(ディーヴァ)たちの共演だった。

 この1830年初演のオペラはドニゼッティ出世作だったにも関わらず、その後ほとんど上演されなくなっていた(ウィーン歌劇場もMETも2011年が初演)のを、1957年4月にミラノ、スカラ座でのルキノ・ヴィスコンティ演出によるマリア・カラス初演で再び脚光を浴びるようになり(カラスはベルカントの技術と演技力によって、同じくドニゼッティの『ランメルモールのルチア』やベッリーニ『ノルマ』などの復活に貢献した)、その後レイラ・ジェンチェル、モンセラート・カバリェ、レナータ・スコットエディタ・グルベローヴァ、マリエラ・デヴィーアなどによる「ドニゼッティルネサンス」が興隆して今日に至る。

 半年後の2011年9月、ニューヨーク、メトロポリタンオペラ(MET)の2011~2012年シーズン・オープニングを飾ったのも『アンナ・ボレーナ』だった。ウィーンで評判だったネトレプコとガランチャによる再演予定だったが、ガランチャが第二子懐妊のため降板、エカテリーナ・グバノヴァがジョヴァンナを演じている。

 このとき、メトロポリタンオペラとメトロポリタン美術館とが、” Anna Bolena & Hans Holbein:MET MEETS MET”と銘うって、『アンナ・ボレーナ』をテーマとしたレクチャーを開催している。メトロポリタン美術館のキュレーター、アインズワースがハンス・ホルバイン(一時期、ヘンリー8世の宮廷画家だった)の肖像画を基に、ヘンリー8世の2番目の王妃アン・ブーリン(イタリア語名アンナ・ボレーナ、以下同)、その侍女で3番目の王妃となるジェーン・シーモア(ジョヴァンナ・セイモー)、ヘンリー8世(エンリーコ)らが登場する16世紀イングランドテューダー朝の歴史的背景を解説したあと、本プロダクションの衣裳担当ティラマーニがホルバインの肖像画、スケッチ、デッサンから素材の質感など細部にこだわって作り上げた舞台衣裳のレクチャーだった。

 しかし、フランス王フランソワ1世がヘンリー8世とアン・ブーリンとの再婚を容認すると伝えるとともに、宗教改革を穏便にするようイギリスの教会を説得するために派遣したフランス大使をホルバインが描いた『大使たち』への言及はなかったようだ。

 

ドニゼッティテューダー朝(女王)三部作』>

 傍系にも関わらず、不当に悪名高いリチャード3世から権力を奪取して薔薇戦争終結させたヘンリー7世(在位1485~1509年)に始まるテューダー朝は、イギリス・ルネサンスに相当する。国内外の政治権力闘争に宗教改革が錯綜し、王冠後継者を切望する王の結婚と離婚、世継ぎ生産機械としての王妃のすげかえ、愛憎の色恋、女王の誕生、側近・寵臣たちの権力闘争と失脚のドラマ、が幾多の残虐非業の死とともに生起したが、文化的に遅れていた二流の島国が世界に冠たる大英帝国へと飛翔する大変換の時代でもあった。

 ヘンリー8世(在位1509~1547年)は、早逝した兄アーサーの妃としてスペイン王室から嫁いでいたキャサリン・オブ・アラゴンを、父ヘンリー7世の命で王妃として迎えた。だがキャサリン男児を産まないと、フランス宮廷から帰国してキャサリンの侍女になっていたアン・ブーリンを寵愛し、キャサリンと離婚して王妃にしようとした。ここで理解しておかなくてはならない日本との違いが三つある。一つめは、愛人、側室の子である庶子に王位継承権はなく、あくまでも正式の「妻」が産んだ嫡子でなくては後継者になれないことだ。現にアンの姉(妹説もあり)メアリー・ブーリンはヘンリーの愛人として男子と女子を生んでいた(小説・映画『ブーリン家の姉妹』)が継承権はなかった。アンは妻となれない限りは愛人としての肉体関係をも拒んで、かえって王を焦らしたとされる。二つめは、カトリック信者にとって「離婚」は容易なことではなく、ましてカトリック教徒イギリス王の離婚をローマ教皇が簡単に許すはずはなかった(兄嫁だったキャサリンとは「婚姻無効」だったという申し出を教皇にしたのだが、かつて父ヘンリー7世が特別赦免で認めてもらった結婚を、今度は息子が同じ理由で赦免取消を要請した)。三つめは、王位継承権は男に限られてはおらず、女(及び女系)にも可能なことである(しかしヘンリー8世は、まだ権力基盤が確固としていなかったテューダー朝の安定のために男の世継ぎを望んでいた)。

 ローマ教皇が離婚を許さないと、アンと密かに結婚(1533年)し、教皇に破門されるや国家ごとローマ・カトリック教会から離脱して、イギリス国教会が成立する(1534年)。

 ところが再婚したアンは、のちのエリザベス女王を産んだ(1533年)もの、その後は流産、死産つづきで(魔術のせいともされ、のちにアンの罪状の一つとされた)、ヘンリー8世の心は、「反復」するかのようにアンの侍女ジェーン・シーモアに移ってしまう。1536年、アンは五人の男との不貞(兄(弟説もあり)のジョージ・ブーリンも含まれる)という濡れ衣を着せられて断頭台に送られる(映画『1000日のアン』)。

 3番目の妻となったシーモア王太子エドワードを出産するが産褥死、ヘンリー8世はさらに3人の妻を迎えた。5番目の妻キャサリン・ハワードはアンの従妹だったが、やはり姦通罪で処刑されている。

 ヘンリー8世(晩年の肥満した肖像画のイメージと、6度妻を娶った好色性、残虐さのみ言いたてられるが、若いころは長身で非常にハンサムであり、エラスムスが聡明で活発な精神を持ち、万能な天才である、と称賛したように、ルネサンス国王としての内政・外交の統治能力は高かったという評価もある)の後継者となったエドワード6世(在位1547~1553年)はわずか15歳で病没してしまい、最初の妻キャサリンが産んだ王女がメアリー1世(1553~1558年)となる。メアリー1世はカトリック教徒であり続け、プロテスタント化が進んでいたイングランドカトリックに引き戻した(プロテスタントへの苛酷な弾圧から「ブラディ(血まみれ)メアリー」(真っ赤なトマトジュース・ベースのカクテル名でもある)と呼称される)が、在位5年で病没し、アン・ブーリンが産んだ王女がエリザベス1世(在位1558~1603年)となる。王冠は過去の愛憎を嘲笑うかのように「斜め交差」で引き継がれていった。ヘンリー8世によるローマ・カトリック教会からの離脱によって、これまでのようにカトリック国フランス、スペインから王家の血縁を求めることが好ましくなくなり、プロテスタント系の神聖ローマ帝国、ドイツから迎えることで、のちのハノーヴァー朝、そして血統的にはほとんどドイツ系といえる現在のウィンザー朝に連なっていったという意味でも一つの変曲点だった。

 

 イタリアの作曲家ガエターノ・ドニゼッティ(1797~1848年)には、この時代を描いた「テューダー朝(女王)三部作」と呼ばれるオペラがある。『アンナ・ボレーナ』、『マリア・ストゥアルダ』、『ロベルト・デヴェリュー』がそれで、根幹となるのはエリザベス女王の一生(3歳時に姦通罪で処刑された母アン・ブーリン王妃、ライバルのスコットランド女王メアリー・スチュアートへの死刑執行、処女王エリザベスの寵臣とのメロドラマ)である。

 

 以下、METのHPの”Synopsis”と、加藤浩子『オペラでわかるヨーロッパ史』の「あらすじ」から(適宜変更しつつ)引用する。

 

<『アンナ・ボレーナ』>

 原作:イッポリート・ピンデモンテ『エンリーコ8世、またはアンナ・ボレーナ』及びアレッサンドロ・ペポリ『アンナ・ボレーナ

 台本:フェリーチェ・ロマーニ

 初演:1830年12月26日、ミラノ、カルカーノ劇場

 イングランド、1536年。政治的および宗教的激変の10年ののち、ヘンリー8世(イタリア語名エンリーコ、以下同)は最初の妻キャサリン・オブ・アラゴンを除くことに成功し、女王として長年の愛人、アン・ブーリンアンナ・ボレーナ)を戴冠した。 しかし、アンは王女エリザベス(エリザベッタ)の誕生後、流産、死産を繰り返し、男子の王位後継者を産むことができないでいた。

第一幕

 1536年、イングランドウィンザー城。宮廷の人々が国王夫妻の噂話をしている。エンリーコ(ヘンリー8世)の心が他の女に移って、アンナ(アン)王妃への愛情が薄れているらしい。王妃の信頼厚い女官(侍女)ジョヴァンナ・セイモー(ジェーン・シーモア)が入ってくる。続いて王妃が現れ、悩みがあることをジョヴァンナに打ち明ける。王妃は皆を元気づけようと、小姓(宮廷楽士)のスメトン(実在の人物マーク・スミートン)に歌わせる。その歌詞は、幸せな想い出に彩られた初恋を思い出させた。それはヘンリーと結婚するために諦めたペルシーとの恋だった。

  実は、ジョヴァンナこそが王の新しい愛人だった。彼女は王妃を裏切っているという良心の呵責にさいなまれ、一人寝室で悶々としていた。そこへ王が現れて情熱的に愛を語り、結婚と栄誉を約束する。ジョヴァンナは、王がアンナ王妃を陥れようとしていることを知って動揺するが、今さら後戻りできないところまで来てしまっていることに気づく。

 アンナ王妃の兄(弟説もあり)ロシュフォール卿(ロッチフォード、実名ジョージ・ブーリン)がウィンザー公園でばったりリッカルド・ペルシー卿(リチャード・パーシー)に会って驚く。彼はアンナの昔の恋人で、エンリーコ王に追放を解かれて戻ったばかりだった。アンナの苦悩を噂に聞いていたペルシーは、ロシュフォールに彼女の様子を尋ねるが、ロシュフォールは答えをはぐらかす。ペルシーは、アンナと別れて以来、つらい人生を歩んできたことを打ち明ける。王の狩りの一行がやって来る。アンナ王妃と女官たちも到着する。王は王妃を冷たい態度で迎え、ペルシーに向かって、恩赦の礼なら王妃に述べよと言う。実は、王は王妃に罠を仕掛けるためにペルシーを呼び戻したのだった。そして再会の挨拶を交わす二人の気持ちが揺れる様子を観察して、残忍な楽しみに浸った。王は二人を見張るよう部下のエルヴィに命じる。

 王妃に恋をしている小姓のスメトンは、以前に盗んだ彼女の小さな肖像画を王妃の居室に戻しに来た。アンナ王妃が兄ロシュフォールと共にやって来たので、スメトンは姿を隠す。兄のたっての願いとあって、王妃はペルシーに会うことを承諾してしまう。ペルシーが現れて、今でも愛していると告白する。アンナは自分が王に憎まれていることは認めるものの、毅然とした態度でペルシーの求愛を拒み、彼の愛情を受けるにふさわしい女性を見つけてほしいと懇願する。それなら自殺すると言ってペルシーが剣を抜いたところへ、突然、王が現れる。スメトンが出てきて姿を現し王妃の身の潔白を訴えるが、隠し持っていた王妃の肖像画をうっかり落としてしまうと、王はここぞとばかりに奪い取る。王はそれこそ王妃とスメトンの不倫の証拠ではないかと言い立てる。アンナ、ペルシー、スメトンは逮捕される。 

第二幕

 アンナ王妃はロンドン塔に幽閉されている。ジョヴァンナが訪ねて来て、王が再婚できるようにすれば、処刑は免れられると言う。そのためには、ペルシーを愛していることを認め、自分が罪を犯したと認めればよいと勧める。しかし、王妃は彼女の意見を退け、自分の後釜に座ろうとしている女に対する憎しみを露わにする。ジョヴァンナが、自分がその愛人であることを明かすと、王妃はショックを受けて彼女を拒絶するが、ジョヴァンナの必死の訴えを聞き入れ、責められるべきは王であると言って彼女を許す。

 スメトンは、王妃の愛人だと証言すれば王妃の命を救える、と信じ込まされて、虚偽の自白をするが、かえって王妃を窮地に追い込む結果となる。アンナ王妃とペルシー卿が裁判の場に引き出される。王妃は「死ぬ覚悟はできているが、裁判にかけられる屈辱を与えないでほしい」と王に懇願する。さらに王と対峙したペルシーは、王妃になる前、アンナはもともと自分の妻だったと主張する。王はその言葉を信じないが、それなら王妃の座には、もっとふさわしい女が就くだろうと勝ち誇る。ペルシーとアンナは連れて行かれる。ジョヴァンナが王妃の命乞いをするが、王は耳を貸さない。裁判の判決が出た。国王夫妻の婚姻は解消され、アンナならびに共犯者は死刑に処されることになった。

 アンナ王妃は錯乱状態に陥っている。彼女の意識は嫁いだ日に戻って、少女時代のペルシーへの想いを語る。共に処刑されるペルシー、ロシュフォール、スメトンが連れて来られる。スメトンは自分のせいで王妃が死ぬことになったことを悔いる。エンリーコ王が新しい王妃ジョヴァンナを迎えることを知らせる鐘と大砲の音が響くと、アンナはふと正気を取り戻す。そして王と新王妃に対する激しい言葉を口にしながら処刑場へ向かう。》

 

<『マリア・ストゥアルダ』>

 原作:フリードリヒ・シラーの戯曲『マリア・ストゥアルト』

 台本:ジュゼッペ・バルダーリ

 初演:1835年12月30日、ミラノ、スカラ座

あらすじ

《一六世紀末のイングランド。亡命してきたスコットランド女王マリア・ストゥアルダメアリー・スチュアート)は、イングランド女王エリザベッタ(エリザベス)により、フォザリンゲイ城に幽閉されていた。母国で政争に敗れたマリアは、父のいとこにあたるエリザベッタの庇護を求めてイングランドに渡ったのだが、エリザベッタにしてみれば、イングランドの王位継承権を持ち、宗教上もプロテスタントの自分と対立しているカトリックを信奉しているマリアは危険な存在だった。さらに悪いことには、かつての寵臣レイチェステル(レスター)伯はいまやマリアに恋いこがれており、彼女を助け出そうと、エリザベッタにマリアとの会見を提案する。

 エリザベッタの訪問を知らせるためフォザリンゲイ城を訪れたレスター伯は、マリアとの再会を喜ぶが、マリアは不吉な予感にとらわれる。続いて現れたエリザベッタは、あからさまにマリアを見下すので、自制していたマリアも怒りを爆発させ、エリザベッタを「私生児」と罵る。憤激したエリザベッタは復讐を決意し、側近のセシル卿の勧めもあってマリアの死刑執行令状に署名。マリアの命乞いをするレスターに、嫉妬をつのらせるエリザベッタは、恋人の処刑に立ち会うようレスターに命じる。マリアはエリザベッタを許すと告げ、処刑台に向かうのだった。》

 

<『ロベルト・デヴェリュー』>

 原作:フランソワ・アンスロの戯曲『英国のエリザベッタ』

 台本:サルヴァトーレ・カマラーノ

 初演:1837年10月28日、ナポリ、サン・カルロ歌劇場

あらすじ

《一六世紀末のロンドン。女王エリザベッタ(エリザベス)は、アイルランドの反乱を平定するために恋人のロベルト・デヴェリュー(ロバート・デヴルー)を派遣したが、ロベルトは命令に反して和睦を結び、反逆罪に問われていた。エリザベッタはロベルトを救おうと彼と面会し、万一の場合の身の安全を保障する指輪を与えるが、彼の心が自分から離れていることに気づいて嫉妬する。

 果たしてロベルトにはサラという恋人がいた。しかし彼女は、ロベルトのアイルランド戦役中に、女王の命令でロベルトの友人でもあるノッティンガム公爵に嫁いでいた。人目を忍んで再会したサラとロベルトはもう会わないことを誓うが、ロベルトは愛の証に女王から贈られた指輪をサラに渡し、サラは愛の告白を刺繍したハンカチをロベルトに贈る。

 議会はロベルトに、反逆罪で死刑を言い渡した。逮捕されたロベルトの持ち物からサラのハンカチが発見され、嫉妬のあまり逆上したエリザベッタは死刑執行令状に署名する。ロベルトの助命を願い出たノッティンガム公爵も妻の心を知って衝撃を受け、妻が女王のもとへロベルトの助命を乞いに行くのを妨げる。絶望し、処刑台へ曳かれていくロベルト。

 苦悶するエリザベッタのところに、指輪を手にしたサラが現れた。エリザベッタは処刑を中止させようとするが時すでに遅く、処刑を告げる大砲の音が聞こえる。狂乱するエリザベッタは、苦悶の果てに、メアリー・スチュアートの息子のジャコモ(ジェームズ)に王座を譲ることを宣言する。》

 

<ホルバイン『大使たち』>

 以下、ホルバイン『大使たち』を所蔵するロンドン、ナショナル・ギャラリーHPの紹介文を補記する。

 

 ハンス・ホルバインは1497~8年の冬にドイツ南部のアウクスブルクで生まれ、父であるハンス・ホルバイン(父)から手ほどきを受けた。1519年にバーゼルの芸術家ギルドのメンバーになり、多くの旅をして、ルツェルン、北イタリア、フランスに足跡を残している。板絵だけでなく、木版画フレスコ画も制作した。デューラーが究めた科学的遠近法を習得し、文化都市バーゼルの富裕な市民をパトロンとして、宗教画や肖像画を手がけていた。しかしプロテスタントによる聖像破壊運動が激しくなると教会からの注文がなくなり、バーゼル市民で『痴愚神礼讃』を著したエラスムスの紹介でイギリスに渡り、『ユートピア』の著者で人文主義者のトマス・モアの知遇をえて、肖像画家として成功するが、さまざまな分野の熟練したアーティストとして、ジュエリーや金属細工もデザインしている。

 イギリスで2つの期間(1526~28年と1532~43年)を過ごし、テューダー宮廷の貴族たちを描いた。有名なヘンリー8世の肖像画や『大使たち』は2度目の時期にあたる。大法官(総理大臣に相当)トマス・モアはヘンリー8世の離婚問題に反対したため斬首刑となってしまう(映画『わが命つきるとも』)が、1536年、国王の側近トマス・クロムウェルが宮廷画家に取り立て、欧州各国の宮廷に派遣して妃候補の肖像画を描かせた。王はドイツのユーリヒ=クレーフェ=ベルク公ヨハン3世の娘アン・オブ・グレーブスを、肖像画の美しさから花嫁に迎えたが、実際に到着したアンが肖像画とあまりに違うので激怒した。1540年1月に行われたこの結婚は6ヵ月で離婚(王との実際の床入りがなかったことが婚姻無効の離婚理由となりえた)となり、クロムウェルは保守派との確執もあって失脚、斬首のうえ、トマス・モア同様にロンドン橋に首が晒された。不興を買ったホルバインは追放となり、1543年にロンドンのペストで亡くなった。

 

『大使たち』

 16世紀の最も熟練した肖像画家ホルバインによる2人の肖像画は、描かれた人物たちの富と地位を誇示するだけではない。それはヨーロッパの宗教的激変の時に描かれた。ヘンリー8世の最初の妻キャサリン・オブ・アラゴンとの結婚を教皇が無効にしないため、王はローマ・カトリック教会と訣別した。絵の中央、テーブルの上のさまざまなオブジェクトは、政治情勢の複雑さをほのめかしている。絵の具によるさまざまなテクスチャは、ホルバインの卓越した技術の見せどころでもある。

 ホルバインは署名の下に日付を記入したので、1533年に取り組んでいたと知ることができる。当時のアーティストは絵に署名しなかったが、ここでの署名は彼がこの作品を特に誇りに思っていたことを示唆している。

 肖像画が描かれたのと同じ年に、ヘンリー8世は2番目の妻となるアン・ブーリンと結婚した。王はローマ教皇の権力を回避し、イングランド国教会をローマから独立したものに確立して、国教会の長ともなった(「上告禁止法」、「首長令(国王至上法)」)。

 しかし、フランス国王フランソワ1世にとっては、カトリック・ヨーロッパの宗教的および政治的関係の崩壊は心配の種だった。左の人物は、その状況についてフランソワ1世に報告することを任された大使ジャン・ド・ダントヴィル (Jean de Dinteville)で、最も信頼できる廷臣の1人である彼は、フランソワ1世の代理で結婚式に出席している。これは彼のイギリスへの2回目の外交使節であり、さらに3回イギリスを訪れて君主間でメッセージを伝えた。右の人物は彼の親友であるラヴァールの司教、ジョルジュ・ド・セルヴ (Georges de Selve)で、彼もまた外交使節団の一員だった。 4年前、彼は神聖ローマ皇帝カール5世がカトリックプロテスタントを和解させようとしたシュパイアーの国会に出席している。描かれたとき、ダントヴィルの剣の鞘のラテン語の碑文と、セルヴが寄りかかっている本の側面から、それぞれ29歳と25歳であることが見てとれる。

 ダントヴィルは、6月のアン・ブーリン戴冠式と、9月の娘エリザベスの誕生のためにロンドンに滞在する必要があった(フランソワ1世はエリザベスのゴッドファーザーだった)。残された通信記録は、ダントヴィルが長期の滞在に不満だったことを明らかにしているが、この肖像画はセルヴとの友情とイギリスでの任務を記念している。

 ルネサンス肖像画には、楽器、硬貨、本、花などのオブジェクトが含まれていることが多く、趣味、知性、文化、婚姻状況、宗教的情熱をほのめかして、描かれた人物の描写を豊かにした。これらのオブジェクトは、16世紀半ばのヨーロッパの宗教的および政治的混乱に関する視覚的な表象として解釈されてきたが、音楽、数学、地理学、天文学のいずれかに関係し、これら4つの学科は、中世の大学で「四学」 (quadrivium) を構成するもので、2人の高度な教養、知性を表現するために描かれたものと考えられる。

 一番上の棚には、時間、高度、星やその他の天体の位置を測定するために使用される機器が表示されている。左端には天球儀があり、星や惑星の位置を表示している。各面に文字盤が付いた多面的な箱のようなオブジェクトは、多面体文字盤と呼ばれ、日時計の一種である。このようなオブジェクトは、ヘンリー8世付きの王室天文官ニコラス・クラッツァーによって作成された(クラッツァーが多面体の文字盤を作成していることを示すホルバインの肖像画は、パリのルーブル美術館にある)。技術的な機器類は非常に貴重であり、数学と科学に対する人物たちの理解力を示している。

 下の棚は主に音楽に捧げられている。リュートの11本の絃のうち、1本が切れている。リュートの隣りにフルートのセットがある。「音楽をよくしない限り教養ある人士とは、少なくともフランス人とは見なされなかった」ことを思えば、楽器が画面中央に鎮座しているのも不思議はない。ホルバイン(あるいはダントヴィル)がなぜ絃の1本を切らせたか、の最も一般的な見方は「被造物の沈黙(即ち死)を象徴する」というものであろう。あるいは切れた1本の絃は「あらゆる音階が響き止む、という意味での死」を象徴するばかりでなく、同時に政治的な象徴をも含むものであるという説もある。1本の絃でも切れた時は、その1本のために(ちょうど音楽がそうであるように)外交というものは台なしになってしまう、という象徴だともされる。

 左端には、地球儀が置かれており、その前の方で半開きになっている書物は、天文学者であり地理学者でもあったペトルス・アピアヌスによる “Kauffmanns Rechnung” (1527年)である。

 右隣で両開きになっている書物は、ヨハン・ワルター作曲の讃美歌集 “Geystlich Gesangk Buchleyn” (1524年)で、讃美歌集には、マルティン・ルターの讃美歌および十戒パラフレーズが一字一句克明に写されている。「Mensch willtu leben seliglich und bei Gottheit bliben ewiglich,sollte du halten die Zehn Gebot die uns gebent unser Gott(我らの主が与え給うた十の戒めを守るならば、我らは幸多く生き、永遠に神の御許にとどまるであろう)」。(3年後に、アンが十戒のひとつの「姦淫するなかれ」を破ったとして生を絶たれたことを想えば、アイロニカルな予言となっている。)

 ホルバインの信じられないほどの技術的スキルも見ることができる。ダントヴィルのピンクのサテン・チュニックの光沢はまばゆいばかりで、その滑らかさは彼の黒いマントの裏地にある濃厚で密度の高いオオヤマネコの毛皮と対照的である。ホルバインは、その周縁に一本一本の毛を描き、贅沢で柔らかな質感を与えている。ダントヴィルの短剣の鞘からぶら下がっている金のタッセルは、金メッキ技術を使用して作成された。彼は個々の紐を茶色がかった色で塗り、油媒染剤(接着剤のように機能する粘着性の物質)の層で覆い、次に金を固定した。

 ルネサンス肖像画は、人生の弱さ、または「Memento mori」(死を忘るな)を思い出させるためにしばしば依頼された。2人が立っている床のモザイク模様は、ウェストミンスター寺院の内陣のそれを模写したものであるとされる。男の足の間に浮かんでいるように見える歪んだ細長いオブジェクトは、右下隅から絵を見上げた場合にのみ正しく見ることができて、その形は大きな髑髏(頭蓋骨)であることがわかる。これはanamorphos(歪像(アナモルフォーシス))と呼ばれる効果で、ロンドンのナショナル・ポートレート・ギャラリーにあるヘンリーの息子エドワード6世の珍しい肖像画にも見られる。画の左上に同じように隠されているのは、緑のダマスク織のカーテンに固定された十字架の磔刑像で、キリストの犠牲、人類の贖罪を通じての救いの普遍的な希望を表現しているのかもしれない。

 

<「髑髏」>

「髑髏(頭蓋骨)」に関する千足伸行「ホルバインの《大使たち》」の解説(「西洋美術館年報」(発行年1968-03-01))を紹介する。

《むしろより妥当と思われるのはこれを古くからあるモットー「Memento mori」(死を忘るな)、あるいは「Vanitas」(生の空しさ)を造型化した一連の作品の中で、イコノグラフィックな意味での傍系のひとつと見ることである。もしこの頭蓋骨が現在のようなanamorphoseとしてでなく、正常な形で他の様々な静物的なモチーフと同列に描かれていたとしたらこれは明らかにやがて17世紀のオランダ静物画で盛行を見ることになるいわゆるVanitas Still-lifeの系列に属するものと言える。一般論として、当時のドイツ人に限らずひろく「ルネサンス人は生そのものの中にVanitas的な観念を浸透させていた」が、特に北ヨーロッパではHans BaldungやDürer、N.M.Deutschなどが死を擬人化することにより、生の空しさないしは死の勝利という観念をその芸術の前面におし出している。このような芸術的風土に加えてすでにのべたようにホルバイン自身も《死の舞踏》をテーマとした従来の数ある絵画や彫刻の中でも「ある意味では最も完璧な表現」と言われる木版の連作をバーゼル時代に手がけている(ただしここでも従来の聖書的、キリスト教的死生観にもとづいた《死の舞踏》とは異なった、ホルバイン一流の世俗性と、風刺的、警世的傾向の勝った表現が目立っている)。Waetzoldtによればホルバインの死に対する態度は《偶者の船》(Das Narrenschiff)におけるSebastian Brant、あるいは《偶神礼賛》におけるエラスムスのそれに近かったということであるが、たしかにホルバインは死そのものを直接的に描くというより死を通じて何かを語ろうとするかのようである。彼は(少くとも《死の舞踏》で見る限り)いわば死を自己の人生観、社会観あるいは宗教観を語り伝えるスポークスマンとしている。《大使達》における「死」の精神にしても、(たとえばバーゼルにある1521年の《墓の中のキリスト》のような)恐怖や苦痛、終局などの観念と結びついた凄惨な死の形相を伝えることにあるのではなく、むしろ上述の《死の舞踏》の延長線上にあるようである。しかもこのVanitas的イメージ、奇嬌な頭蓋骨を中にして立つダントヴィル、セルヴの両名は当時それぞれ29歳と25歳、人生の春ともいうべき時期にあった。青春、あるいは美、力、豊かさなどのイメ一ジと死のイメージとの際立ったコントラスト、これはいわばVanitas的なイコノグラフィーの常識である。(中略)ここには他のこの種の作品には見られない何かユニークな象徴性がひそんでいるのではないだろうか。これについて思い出されるのはD.Piperの次のような言葉である。「それ(問題の頭蓋骨)はあたかも(絵を見る)我々と(絵の中の)二人の人物の間にさしかけられて(・・・・・・・)(suspended)いるかのようである。」死は常に我々に「さしかけられて」ありながら我々はこれを直視しえない、あるいはすることを忘れている、という事実をこの一見しただけではにわかには識別し難い頭蓋骨は語っていないだろうか。すべてがホルバイン特有の明晰で客観的な描写を得、それぞれがいわば自己の世界、自己の空間に定着している中にあって、この謎のような頭蓋骨のみは絵の中の世界からも、絵の外の世界からも浮き立ったもうひとつの世界に漂っているかのようである。このようなanamorphose的な表現を与えられてこそ、この頭蓋骨は「正常な」頭蓋骨のもつ「静物」的な物質性をはなれ、非物質化されたひとつの象徴的存在、「死を忘るな」(Memento mori)の象徴的、暗喩的な表象にまで高められてはいないだろうか。ここに注文主ダントヴィル、当時ロンドンの気候が体に合わず、病み勝ちで、「かつていた大使の中でも最も憂欝な」とみずからを語ったダントヴィルの指示がどの程度まで入っていたか、あるいはここではすべてがホルバインの創意だったのかこれらについては客観的には知る由もない。ただここで思い出したいのはダントヴィルの帽子の内べりにつけられた小さな頭蓋骨のバッヂである。「死を忘るな」あるいは「生の空しさ」とはおそらくこの「憂欝な」貴族外交官のモットーであったに違いない。こうした観点に立てば、二人の間の台架の上の日時計も単に学術用の日時計という以上に世の無常、移ろい易さという象微性をおびてくるように思われる(周知のようにこうした場合普通は日時計よりも砂時計が好んで用いられる。ホルバインの《死の舞踏》でもこれはいわば「死」のアトリビュートのようにしばしば現われる)。こうした見方をさらに発展させれば、画面の中の地球儀は地上の(政治的)権力を、天球儀は天上(=神)、すなわち教会の権力の象徴ともとれる(これには政治家ダントヴィルと高僧セルヴへの含みもあったかも知れない。またこれら天球儀と地球儀、そして死あるいは無常の象徴としての頭蓋骨が構図的に見てほぼ同一垂直線上にある、ということもこの際注意したい)。》

 

<「狂乱の場(Mad scene)」>

アンナ・ボレーナ』(1830年)には、聖書の解釈をめぐってヘンリーと議論さえできた知的なアン・ブーリンと、ルネサンス王ヘンリー8世(作曲し、リュートも弾きこなした)が担っていた政治的、宗教的、人文芸術的な要素はほとんどなく、わずかにリュート演奏の場面に、のちのエリザベス女王の宮廷で音楽が花開いた萌芽を見てとれるくらいだ。そこにあるのは、本作が初演された1830年頃のフランス7月革命、イタリア統一運動(リソルジメント)のロマン派的な「死と愛」「死へのあこがれ」という芳香の兆しである(わずか数年後ではあるが、『ランメルモールのルチア』(1835年)のルチアの「狂乱の場」、『ロベルト・デヴェリュー』(1837年)のエリザベス女王の狂乱ではロマン派色がより強くなる)。

アンナ・ボレーナ』のロマン派的な香り、いわゆる「狂乱の場」に戻ろう。ここで、スメトンの「arpa」(イタリア語でハープ)という歌詞が登場するが、舞台演出ではテューダー朝当時に流行した(その後、急激に廃れ、ハープに代わっていった)ルネサンスリュートをスメトンに弾かせるように、時代考証的には「リュート」の意と了解してよいだろう(英語字幕も「lute」)。

 

第二幕第3場:ロンドン塔

 衛兵たちに付き添われたペルシーとロシュフォール卿。王の部下エルヴィが、国王は寛大にも2人を助命すると告げる。しかし、アンナが処刑されると知ったペルシーは、「罪のない彼女が死んで、罪ある私が生きる事を望むほど私が卑劣な男だと思っているのか!」と叫び、赦免を拒否する。ペルシーは、君は生きるのだ、とロシュフォールにすすめるが、ロシュフォールも死を選び、2人は兵士たちに囲まれ退場する。

 アンナが閉じ込められた牢獄で侍女たちはアンナが錯乱してしまったと嘆いている。

 獄中からアンナが現れ、深い物思いにふける。侍女たちが周りを取り囲むと、錯乱のうちに過去を想い、歌う(「あなたたち泣いているの?」Piangete voi? と「優しかったあの場所に連れて行って」Al dolce guidami)。

 人々が嘆き悲しんでいると、エルヴィと廷臣たちがやってくる。アンナは正気を取り戻し、「何というときに私は錯乱から覚め正気に戻ったの!」と嘆く。

 牢獄から、ロシュフォール、ペルシー、スメトンが連行されてくる。

 スメトンは、国王の甘言に乗せられて、不埒な欲望の虚偽告白をしてしまった私を呪ってください、と打ちあけると、アンナは、

「スメトン!…こちらにいらっしゃい… 立ちなさい、何してるの? ハープの調弦はしないの? 一体誰がその絃を切ってしまったの?」

と語りかけ、また幻想の世界に入ってゆく。

「深く暗い響きが 断ち切られた呻き声のように…響いてくるわ…消え去る命のつぶやき…それは私の傷ついた心、天に最後の祈りを強く求める私の心の…みなさん、聞こえるでしょ…」

「天よ、私の長い苦悩に 最期の休息を与えください、 そして、この最期の鼓動が せめて希望に結びつきますように!」

 遠くの方から何発かの号砲と鐘の音が聞こえてくることで次第に正気に戻ったアンナは、ジョヴァンナの戴冠の祝宴、民衆の歓迎の騒ぎと知ると、

「黙りなさい…止めなさい! これからです!ああ!今からです!罪を成就する アンナの血は、これから流されるのです!」

「邪悪な夫婦よ、最初で最後の復讐は 今この恐ろしい瞬間に成就される事はない… 口を開けて私を待つ墓場に  唇に許しを携えて降りてゆくのです… 慈悲深い神の御前で、和の心が 寛大で恵み深い気持ちを持てるように…」(「邪悪な夫婦よ」 Coppia iniqua」)と歌いながら、処刑に向かう(幕)。

 

 MET公演のインタビューでネトレプコは、「狂乱の場」のアンナは本当には狂ってはいないと思って歌っている、と語っている。最後の歌詞は、再婚する王エンリーコと侍女ジョヴァンナを「邪悪な夫婦」と呪いつつも、しかし神の前で寛大な気持を持てるように許すかのごとき言葉で処刑へ向かうが、音楽は罪を成就するアンナが流すだろう血の燃える憤怒と自尊心で力動し、ドニゼッティ音楽は心はやる四重唱、五重唱ばかりでなくアリアもまた凄みがあると教える。2009年のMETでネトレプコが演じたドニゼッティランメルモールのルチア』の「狂乱の場」のルチアは、よりロマン派色が強く出て、完全に物狂いとなっているが、『アンナ・ボレーナ』のアンナが自身を処刑台の死へと追い詰めてゆくのは、「狂乱」というよりも、誇り高さと、自分はこのように生きてきたのだ、というルネサンスの女の知的でいきいきとした勇気によって、音楽が言葉を裏切って錯乱にみせるのであり、中世から近世へと向かう変曲点そのものだった女の自我が漲り、「死への欲動」ではあっても「狂乱の場」と名づけるのは誤りに違いない。

 

<ホルバインの予言性>

 アン・ブーリンの死の3年前に描かれたホルバインの『大使たち』は、『アンナ・ボレーナ』の最後のアンナ(アン)の死を表象している。それはリュートの「切れた絃」による生の断絶と不調和、「歪んだ髑髏」による死への欲動に象徴されている。

 ジャック・ラカン(『精神分析の四基本概念』)によると、『大使たち』(『使節たち』)に描かれた奇妙なモノは、絵を鑑賞し終えてから振り返ったとき視ることのできるもので、

《先回「虚栄vanitas」との共鳴や繋がりを指摘したこの絵(タブロー)、着飾り凍りついたように立ちつくす二人の人物の間に、当時の見方からすれば、技芸と科学の虚栄を思い出させるあらゆる物を配したこの魅惑的な絵(タブロー)、この絵(タブロー)の秘密が示されるのは、この絵(タブロー)から少し離れてもう一度振り返ったときだからです。そのとき、この浮かんでいる不思議な対象が何を意味しているかが解ります。この対象は髑髏という形で我われ自身の無を映し出すのです。》

 

 スラヴォイ・ジジェクは『ラカンはこう読め』で、『大使たち』の歪像(アナモルフォーシス)(anamorphose)に関連して論じる。

《この欲望の対象=原因の状態は、歪像(アナモルフォーシス)と同じ状態である。絵のある部分が、正面から見ると意味のない染みにしか見えないのに、見る場所を変えて斜めから見ると、見覚えのある物の輪郭が見えてくる。それが歪像だ。だがラカンの言わんとしていることはもっと過激だ。すなわち、欲望の対象=原因は、正面から見るとまったく見えず、斜めから見たときにはじめて何かの形が見えてくる。文学におけるその最も美しい例は、シェイクスピアの『リチャード二世』の中で、戦に出陣する不運な王を心配している女王を慰めようとする、家来ブッシーのセリフの中にある。

 

  悲しみは、ひとつの実体が二十の影をもっています。

  それは影にすぎないのに、悲しみそのもののように見えます。

  というのも、悲しみの眼は涙に曇っているため、

  ひとつの物がいくつもの物体に分かれて見えるのです。

  正面から見るとただの混沌しか見えないのに、

  斜めから見るとはっきりと形が見えてくる、

  そんな魔法の鏡のように、お妃さまも

  国王陛下のご出陣を斜めからご覧になっているので、

  実際には存在しない、悲しみの幻影を見てしまわれるのです。[第二幕第二場]

 

 これが<対象a>だ。それは物質としてのまとまりをもたない実体であり、それ自身は「ただの混沌」であって、主体の欲望と恐怖によって斜めにされた視点から見たときにはじめて明確な形をとる。「実際には存在しない幻影」として。<対象a>は奇妙な対象で、じつは対象の領野に主体自身が書き込まれることにすぎない。それは染みにしか見えず、この領野の一部が主体の欲望によって歪められたときにはじめて明確な形が見えてくる。絵画史における最も有名な歪像の例であるホルバインの『大使たち』の主題が死であったことを思い出そう。絵の下のほう、虚飾にみちた人物たちの間に長く延びている、染みのようなものを脇のほうから見ると、頭蓋骨が見えてくる。ブッシーの慰めの言葉は、後のほうのリチャードの独白と並べて読むことができる。リチャードはそこで、王冠の真ん中の空洞には<死神>がいるという。その<死神>は隠れた主人=道化で、それがわれわれに王を演じさせ、われわれの威厳を楽しみ、最後にはわれわれの膨れあがった体を針で刺して、われわれを無にしてしまう。

 

  死すべきひとりの人間にすぎない

  王のこめかみを取り巻いている中空の王冠の中では

  死神という道化師が支配権を握り、

  王の威厳を馬鹿にし、王の栄華を嘲笑っているのだ。

  束の間の時を与えて、一幕の芝居を演じさせる。

  王として君臨し、畏れられ、睨むだけで人を殺し、

  城壁のように命を守っているこの肉体が、

  難攻不落の金属の壁であるかのように思い込み、

  むなしいうぬぼれに膨れあがっていると、

  さんざんいい気分にさせておいた死神は、小さな針でその城壁に穴を開け、

  王よ、さらば、というしだいだ。[第三幕第二場]

 

 ふつうは以下のように言われる。すなわち、リチャードは、「王の二つの身体」(筆者註:「自然的身体」と「政治的身体」。「自然的身体」は普通の肉体のことで、衰え、過ちも犯す。「政治的身体」は不可視の抽象的身体で、愚行も失敗も犯さず、政体の持続性や威厳を代表する)の区別を受け入れること、そして王のカリスマを奪われたただの人間として生きることが、どうしてもできないでいるのだ、と。しかしこの劇の教訓は、この作業が、ごく簡単なように見えるが、じつは究極的には実行不可能だということである。簡単にいえば、リチャードは自分が王であることを歪像、つまり「実体のない影」がもたらした効果だということに気づきはじめる。しかし、この実体のない幽霊を追い払った後に、生身のわれわれという単純な現実が残るわけではない。つまり、カリスマの歪像と実体のある現実とを単純に対置することはできない。すべての現実は歪像、すなわち「実体のない影」の効果であり、正面から見るとただの混沌しか見えない。だから象徴的同一化を奪われ、「王の座から追われ」た後には何ひとつ残らない。王冠の中にいる<死神>はたんなる死ではなく、無へと還元された主体自身であり、それは、王冠を譲り渡せというヘンリー(筆者註:のちのヘンリー4世)の要求に対して、要するに「私はそれをする『私』を知らない」と答えるときのリチャードの立場に他ならない。

 

  ヘンリー・ボリングブルック 王冠譲渡に同意されるのですね。

  王リチャード2世 ああ、いや。ない、いやある。私はもはや無にすぎぬ。

  だから「ない」はない。あなたに譲ることにしよう。

  さあ、よく見るがいい。私が私でなくなるさまを。

  私の頭から、この重い冠をとって、さしあげよう。

  私の手から、この厄介な錫杖をとって、さしあげよう。[第四幕第一場] 》

 

 1533年、ホルバインは『大使たち』を描きあげ、3年後の1536年のアンの斬首を「切れた絃」と「歪んだ髑髏」(そして左上に隠された「キリストの磔刑図」も)で予言した。

 300年後の1830年、ドニゼッティは『アンナ・ボレーナ』で予言を音楽と言葉で舞台化した。

 アンナは自分が王妃であることを歪像、つまり「実体のない影」がもたらした効果だということに気づいていた。すべての現実は歪像、すなわち「実体のない影」の効果であり、正面から見るとただの混沌しか見えない。だから象徴的同一化を奪われ、「王妃の座から追われ」た後には何ひとつ残らない。王妃の王冠の中にいる<死神>はたんなる死ではなく、無へと還元された主体自身であり、王冠を譲り渡せというヘンリー8世の要求に対して、「私はそれをする『私』を知らない」と答えた「王の二つの身体」のリチャード2世とは違っている。

 2011年、ウィーン歌劇場のプロダクション(演出エリック・ジェノヴェーズ)でネトレプコは、「邪悪な夫婦よ」 Coppia iniquaの最後のハイを歌い終えながら黒髪をかきあげ、背を向けて段を上り、観客に頭を向けてあおむけに横たわると、自ら血を象徴するかのような赤いショールを首から頭にふわりと被せる。と、幼いエリザベス王女が奥から歩み寄り、上から斧の刃のような黒い扉がゆっくりと首のあたりに下りてきて幕となる。METのプロダクション(演出デイヴィッド・マクヴィカー)では、アンナが黒髪を巻いて力強い襟首を晒し、舞台奥で頭(こうべ)を垂らすというよりも、ぐいと差し出す。と、舞台上部に剣を持った処刑人の姿が現れて、赤い横断幕が舞うようにひらりと垂れ落ちる。

 アンナは、「私はそれをする『私』を知っていた」。

                                                                              (了)

         *****引用または参考文献*****

*『対訳 アンナ・ボレーナ』河原廣之訳(おぺら読本出版)

*『Donizetti: Anna Bolena [Blu-ray] 』Anna Netrebko、Elīna Garanča (Deutsche Grammophon)

*『Donizetti: Anna Bolena [HD] 』Anna Netrebko、Ekaterina Gubanova (MET)

*「METライブビューイング 《アンナ・ボレーナ》 インタビュー」

https://www.youtube.com/watch?v=Cj9anDe3doo

*Synopsis:Anna Bolena, ”The Metropolitan Opera” HP

https://www.metopera.org/user-information/synopses-archive/anna-bolena

*Synopsis:Maria Stuarda, ”The Metropolitan Opera” HP

https://www.metopera.org/user-information/synopses-archive/maria-stuarda

*Synopsis:Roberto Devereux, ”The Metropolitan Opera” HP

https://www.metopera.org/user-information/synopses-archive/roberto-devereux

*”The Ambassadors” , Hans Holbein the Younger, ”The National Gallary” HP

https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/hans-holbein-the-younger-the-ambassadors

千足伸行「ホルバインの《大使たち》」(「西洋美術館年報」(発行年1968-03-01))

*海津忠雄『ホルバインの生涯』(慶應大学出版会)

*加藤浩子『オペラでわかるヨーロッパ史』(平凡社新書

*香原斗志「これぞ究極の愛憎物語! 劇的すぎる英国王室の史話はオペラで楽しめる」(GQ)

https://www.gqjapan.jp/culture/article/20200910-elisabeth

*グリエルモ・バルブラン、ブルーノ・ザノリーニ『ガエターノ・ドニゼッティ ロマン派音楽家の生涯と作品』高橋和恵訳(東成学園昭和音楽大学

ジャック・ラカン精神分析の四基本概念』小出浩之他訳(岩波書店

スラヴォイ・ジジェクラカンはこう読め』鈴木晶訳(紀伊國屋書店

*フィリッパ・グレゴリー『ブーリン家の姉妹(上)(下)』加藤洋子訳(集英社文庫

石井美樹子『イギリス・ルネサンスの女たち』(中公新書

石井美樹子『薔薇の王朝 王妃たちの英国を旅する』(知恵の森文庫)

石井美樹子『図説 エリザベス1世』(ふくろうの本、河出書房新社

*指昭博編『ヘンリ8世の迷宮 イギリスのルネサンス君主』(昭和堂

*キャロリー・エリクソン『アン・ブリンの生涯』加藤弘和訳(芸立出版)

*ヒラリー・マンテル『ウルフ・ホール(上)(下)』宇佐川晶子訳(早川書房

*ヒラリー・マンテル『罪人を召し出せ』宇佐川晶子訳(早川書房

*エルンスト・H・カントローヴィチ『王の二つの身体』小林公訳(平凡社

大澤真幸『<世界史>の哲学 近世編』(講談社

 

文学批評 ナボコフと『アンナ・カレーニナ』の「リョーヴィン―キティ」銀河を見る

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《形象を注意深く見守り、思想の積み重ねは放っておくことにしよう。言葉、表現、形象こそが、文学の真の機能である。思想ではない(・・・・・・)。》

 こう主張するナボコフロシア文学講義』の『アンナ・カレーニナ』論(ナボコフは、「アンナ・カレーニナ」表記は誤りで、「アンナ・カレーニン」であると強く主張しているが、ここでは、ナボコフの文章からの引用では「アンナ・カレーニン」のママとし、地の文では一般的な「アンナ・カレーニナ」を用いる)は、文学に対する態度の基本的な指南書でもある。

 国語義務教育と受験国語で、作品の「あらすじ」を書け、「作者の言いたいことは何か」を述べよ、に洗脳されてしまった私たちは、ナボコフの忠告に耳を傾け、コペルニクス的転回によって、『アンナ・カレーニナ』を読みなおさねばならない。とりわけ、思想性と神秘的宗教性ゆえに疎んじられがちなリョーヴィンと、健気なキティとの「リョーヴィン―キティ」エピソード(ナボコフは「銀河」と形容した)を幸福な気分に照らされながら仰ぎ見よう。

 

 ナボコフによれば、

《伯爵レオ(ロシア語でレフ、またはリョフ)・トルストイ(一八二八~一九一〇)は、休息を知らぬ頑健な男で、生涯にわたって自分の官能的な気質と極端に傷つきやすい良心との間で引き裂かれていた。彼のなかの放蕩者が都会の肉欲の喜びを求めるのと同じ程度に情熱的に、彼のなかの禁欲主義者は静かな田園の道を歩もうとしたが、欲望はともすれば道を踏み誤らせるのだった。

 青年時代に、この放蕩者は更生の機会をつかんだ。その後、一八六二年に結婚してから、トルストイは家庭生活に暫くの平安を見出し、財産のぬかりない管理と――ヴォルガ地方に豊かな土地を持っていた――自分の最良の執筆とに二股をかけた。巨大な『戦争と平和』(一八六九)や不滅の『アンナ・カレーニン』を生み出したのは、この六〇年代と七〇年代前半のことである。更に七〇年代末以後、四十歳を越してから、彼の良心が勝利をおさめた。倫理が美学や個性を圧倒し、そのあげくには、妻の幸福や、平和な家庭生活や、高度の文学的成果などをいけにえとして、彼が道徳的必然性と考えたものに捧げることとなる。道徳的必然性とはすなわち、合理的なキリスト教道徳に従って生きること――個人主義的な芸術の色鮮やかな冒険ではなくて、人類一般の簡素な厳しい生活である。》

 ナボコフは、《私は偉大な作家たちの尊敬すべき生涯をいじくりまわすのは嫌いだし、それらの生活を垣根ごしに覗き見するのも嫌いだ。いわゆる「人間的良心」というやつの俗悪さも嫌いだし、時の回廊から聞えるスカートの衣擦れや忍び笑いも嫌いなのだ。どんな伝記作者も私の私生活の片鱗すら捉えることはできないだろう》と断っている。

 どこかの図書館で「ロシア文学」の書架を眺めれば、ドストエフスキー関連に比べて、トルストイ関連は十分の一もあるかどうかで、しかもその内容は、「伝記」と「人生論」ばかりというところに、トルストイの読まれ方の偏りがある。

 ナボコフは講義冒頭から、トルストイを擁護しながら、断言する。

イデオロギーの毒は、つまり、いかさま改革者が発明した術語を使うならば、「メッセージ」は、前世紀(筆者註:19世紀)の中葉からロシアの小説に影響を与え始め、今世紀(筆者註:20世紀)の中葉に至ってそれを殺した。一目見た限りでは、トルストイの小説はその教義にひどく侵されているように見えるかもしれない。だが、実のところ、トルストイイデオロギーはたいそう穏やかで、漠然としていて、現実政治から遠く、一方、トルストイの芸術は非常に強力で、猛烈に輝かしく、独創的かつ普遍的であるから、お説教をたやすく乗り越えてしまう。長い目で見るなら、思想家としてのトルストイが関心を抱いたのは生と死の問題であった。とどのつまり、どんな芸術家もこの問題を扱うことを避けるわけにはいかない。》

 ナボコフは続ける。

《けれども、これだけは言っておかなければならない。人々にたいするドストエフスキーの自己満足的な憐れみ――虐げられた人々への憐れみは、純粋に情緒的なものであって、その一種特別な毒々しいキリスト信仰は、彼がその教義から遙かにかけ離れた生活を送ることを決して妨げはしなかった。一方、レオ・トルストイはその分身のリョーヴィンと同じように、自分の良心が自分の動物的性情と取引することをほとんど生理的に許せず――その動物的性情がより良き自己にたいしてかりそめの勝利を収めるたびに、ひどく苦しんだのである。》

 

《多くの人は矛盾した感情を抱いてトルストイに接する。人はトルストイのなかの芸術家を愛するが、同じ人間のなかの説教者にはひどく退屈するのである。しかしそれと同時に、芸術家トルストイから説教者トルストイを分離することはむずかしい――どちらも同じゆったりとした深い声、どちらも同じ、たくさんの幻影あるいは想念を担う頑健な肩なのだから。人はできることなら、トルストイの草履(サンダル)がけの足の下の名誉ある説教台を蹴とばして、数ガロンのインク、何千枚もの原稿用紙と一緒に、彼を石の小屋か無人島に――アンナの白いうなじにかかるカールした黒い髪を観察するトルストイの邪魔になるような、倫理的・教育的なことどもから遠く離れた場所に、閉じこめてしまいたいと思う。だが、それはできない相談なのだ。トルストイは均質であり、単一の存在であって、片や、美しい黒土を、白い肌を、青い雲を、緑の野を、紫色の雷雲を満足げに眺める男と、片や、小説は罪深いものであり、芸術は不道徳なものであるという意見をあくまで主張する男、この両者のあいだに、殊に晩年において繰りひろげられた戦いは、やはり同一人物の内部での戦いなのである。事物を描く場合であろうと、説教をする場合であろうと、トルストイはあらゆる障害を押し切って、真理に到達しようと奮闘した。》

 ナボコフは、戦争や結婚生活や、作者の倫理的・宗教的見解について、《生まじめな作者が噛んで含めるように説明する重苦しい時間》は、トルストイの魔力が消え失せ、《私たちのすぐそばに座って、私たちの生活に参加していた親しい人物たちは別の部屋に連れて行かれて》しまい、《アンナやキティの感情や動機のもつ永遠のスリルはない》と認めてはいる。

小説『アンナ・カレーニナ』の映画やドラマ、あるいはバレエでは、「ヴロンスキー―アンナ」エピソードのドラマチックな姦通の悲劇にだけ集中し、トルストイの良心の分身ともいえるリョーヴィンの説教臭さに関わりたくないゆえに、「リョーヴィン―キティ」エピソードの幸福な結婚への道は画にならないとばかりに省略してしまいがちだが、ナボコフはその安易で単純な潔さを戒めてはいないか。

「ヴロンスキー―アンナ」エピソードと「リョーヴィン―キティ」エピソードは、『アンナ・カレーニナ』という偉大なロマネスク建築の重厚な屋根を支える左右の太い梁であり、左右から均等にもたれあう力こそが神の天空のような天井を支えているのだ。

 

 ナボコフはアンナを次のように紹介する。

《世界文学において最も魅力的な女主人公の一人、アンナは、若く、美しく、基本的に善良な、そして基本的に破滅を運命づけられた女性である。非常に若かった頃、善意の伯母の口ききで、すばらしい経歴をもつ将来有望な役人と結婚したアンナは、ペテルブルクの社交界でも最も活気のある交際範囲のなかで、満足した生活を送っている。小さな息子を熱愛し、二十歳年上の夫を尊敬し、もちまえの生き生きとした楽観的な性質で、生活のもたらす表面的な楽しみのすべてを味わっている。

 モスクワへ旅行したときに出逢ったヴロンスキーに、アンナは激しい恋をする。この恋は彼女のまわりのすべてを変えてしまう。見るもののすべてが違った光のなかで見える。ペテルブルクの鉄道駅での有名な場面では、モスクワから帰って来る彼女を迎えに来たカレーニンを見て、その巨大で不恰好な耳の大きさやかたちにアンナは突然気がつく。それまで夫を批判的に見たことがなかったから、その耳にも気づかなかったのである。》

 ナボコフの「註釈」によると、キティの目に映るアンナは、《肉の引き締った頸筋と真珠[ジ(・)ェームチュク]の首飾りも魅惑的なら……生気[オジ(・)ヴレーニエ]にあふれた美しい顔も魅惑的だったが、その魅惑にはどことなく残酷[ジ(・)ェストーコエ]で、恐ろしい[ウジ(・)ャースノエ]ところがあった。この「ジ」の繰返し(音声学的にはpleasureのsと一致する)――アンナの美しさの不吉な、蜂のようにぶんぶん唸る特質》とは、いかにも『Lolita』(“Lolita,light of my life,fire of my loins.My sin,my soul.Lo-Lee-ta:the tip of the tongue taking a trip of three steps down the palate to tap,at three,on the teeth.”にみるlとtの愛らしい響き)の作者らしい言語との戯れに違いない。

 

《ちょっと見たところ、アンナは夫以外の男と恋に落ちたから社会によって罰せられた、というふうに見えるかもしれない。そのような「道徳」はもちろん全く「非道徳」的であり、ついでに言うなら全く非芸術的である。なぜなら同じ社会の上流夫人たちは好きなだけ、但しこっそりと、黒いヴェールをかぶって情事を楽しんでいたからである(エンマがロドルフと遠乗りをするときの青いヴェールを、レオンとルーアンで媾曳(あいびき)をするときの黒いヴェールを思い出してみるといい)。だが率直で不幸なアンナは、このたぐいの偽りのヴェールを身につけない。社会の掟は仮初であって、トルストイの関心は永遠の道徳的要請というところにあった。ここでトルストイが伝えようとする本当の教訓の要点が明らかになる。すなわち、愛がもっぱら肉体的愛であるということはあり得ない。なぜならその場合、愛は利己的であり、利己的であることによって、愛は何かを創造する代りに破壊するのだ。従って、そのような愛は罪深い。そしてこの要点を芸術的にできるだけ明瞭に示すため、トルストイは驚くべき形象の流れのなかで、二つの愛を描き分け、生き生きとしたコントラストをつけて並べてみせた。片方にはヴロンスキー―アンナの肉体的愛(官能性豊かな、しかし不吉で、精神的に不毛な情緒のただなかでの戦い)、他方には、リョーヴィン―キティの(トルストイの用語によるなら)真正のキリスト教的愛。ここにも豊かな官能性はあるが、それは責任とやさしさと真実と家族の喜びという純粋な雰囲気のなかで、バランスがとれ、調和している。》

 

「ヴロンスキー―アンナ」エピソードについてはたくさん書かれてきたから、ここでは「リョーヴィン―キティ」エピソードの魅力をとりあげたい。

 

トルストイのこの小説は八つの「編」から成り、どの編も平均して三十の章から成る。いずれも四ページ前後の短い章である。作家は主な仕事として二つの線を――リョーヴィン―キティの線と、ヴロンスキー―アンナの線を追うが、二次的、中間的な第三の線、すなわちオブロンスキー―ドリーの線がある。これはさまざまな方法によって二つの主要な線を結びつけるための線であるから、この小説の構造のなかでは独特な役割を演じる。(中略)

 この小説に描かれた事件の始まりは一八七二年二月であり、終りは一八七六年七月――全部で四年半という時間の流れである。小説の舞台はモスクワからペテルブルクへ移り、四つの田舎の領地を転々とする。(中略)

 八つの編の最初の編の主要主題は、オブロンスキーの家の揉めごと(そこから小説がはじまる)であり、第二主題は、キティ―リョーヴィン―ヴロンスキーの三角関係である。

 この二つの主題、二つの拡大されたテーマ――オブロンスキーの浮気と、ヴロンスキーへののぼせ上りがアンナのために断ち切られたときのキティの傷心と――は、悲劇的なヴロンスキー―アンナの主題への序奏である。ヴロンスキー―アンナの主題は、オブロンスキー―ドリーの揉めごとやキティの傷心のようには滑らかには解決されないだろう。ドリーが五人の子供たちのために気紛れな夫を間もなく赦してしまうのは、彼女が夫を愛しているからであり、またトルストイが、子供をもつ夫と妻は神の掟によって永遠に結ばれていると考えるからである。キティは、ヴロンスキーに失恋してから二年後にリョーヴィンと結婚し、トルストイの考える完璧な結婚生活を始める。だが、十ヵ月の説得ののちにヴロンスキーの情夫となったアンナは、自分の家庭生活の崩壊に直面し、物語の始まりから四年経って自殺するのである。》

  

 この講義で最も重要な言葉は、リョーヴィンの信仰誕生の場面で、ふと目にした青い甲虫の動きに目を凝らしてのものだろう。その場面は後述するが、

《作品のなかの形象の魔力と比べれば、思想など何ほどのものでもない。ここで私たちを引きつけるのは、リョーヴィンの考えや、レオ・トルストイの考えではなくて、その考えの曲り目や、転換や、表示などをはっきりと跡づける、あの小さな甲虫なのである。》

 

 ならば、《形象を注意深く見守り、思想の積み重ねは放っておくことにしよう。言葉、表現、形象こそが、文学の真の機能である。思想ではない(・・・・・・)。》に従って、ナボコフが引用した形象の妙を順に見てゆこう。

 この考え方の対極にあるのが、ナボコフが教訓的メッセージと嫌ったトーマス・マンは、『アンナ・カレーニナ論』で、作品の周りを、リョーヴィンの批判的精神、良心と異端的頑固さ、モラル、肉体的なもの、ルソー主義、思想の動き、民衆の教育、十九世紀の科学とイデー、人生の意義、神、真理、善の問題、といった概念の衛星で周回し続ける。

 

<「マフに落ちた細い霜の針」>

 第一編第九章のスケートの場面は詩的比喩の宝庫だ。(この講義でナボコフが引用する文章は、この小説のガーネット訳にナボコフが手を加えたものであり、教室での朗読に適するよう、多少省略したり、言い換えたりしてある――編者。なお、ナボコフはガーネット訳をきわめて貧弱だとし、ところどころで誤りを指摘、訂正している。[ ]はナボコフの註記)。

 

《[リョーヴィンは]小道をスケート場へ向って歩きながら、自分に言い聞かせるのだった。《興奮してはいけない、落着いていなければ。何をそわそわしているんだ。どうしたというんだ。黙れ、この馬鹿者め》と、自分の心に向って叫んだ。そして落着こうとすればするほど、ますます息苦しくなってきた。だれか知人が向うからやって来て声をかけたが、リョーヴィンはそれが誰なのか見分けすらつかなかった。橇滑りの山に近づくと、橇を上げ下ろしする鎖ががらがら鳴り、滑り落ちる手橇の音がかしましく、陽気な人声が響きかわした。更に何歩か歩くと目の前にスケート場がひらけ、滑っている人びとの中に、すぐ彼女の姿が認められた。

 心臓をしめつける歓喜と恐怖の思いから、彼女がそこにいることはすぐ知れたのである。彼女は一人の婦人と話を交しながら、スケート場の向う端に立っていた。その身なりにも、姿勢にも、どこといって少しも変ったところはなかった。しかしリョーヴィンにとっては、この群衆の中から彼女を見つけることは、刺草(いらくさ)の中からばらの花を探すように、いとも容易だった……》

 

《キティの従兄(いとこ)のニコライ・シチェルバツキーは、短いジャケツに細いズボンという恰好で、スケート靴のままベンチに腰を下ろしていたが、リョーヴィンの姿を見つけると大声で呼びかけた。

「よう、ロシア一のスケーター! いつ来たんです。すばらしい氷ですよ、さあ、早くスケートをお着けなさい」

「ぼく、スケートがないんですよ」リョーヴィンは答え、彼女の前でそんなに大胆かつ無造作な態度をとるニコライにびっくりしながらも、彼女のほうは見ずに、しかも一刻たりとも彼女の姿を視界から見失わなかった。太陽が近づいて来るのが感じられた。(中略)彼女の滑り方は全く危なげであった。彼女は紐でつるした小さなマフから両手を出して、万一に備えていたが、リョーヴィンの方を向いて、彼の姿を認めると、自分の臆病を恥じるような笑みを見せた。カーブが終ると、弾力のある片足で一蹴りして、まっすぐに従兄の方へ滑りこんで来た。そして従兄(いとこ)の手につかまると、笑顔でリョーヴィンに会釈した。彼女はリョーヴィンが思っていた以上に美しかった……だが、予期せぬことのようにいつも彼を驚かすのは、彼女のつつましい、落ち着いた、誠実そうな目の表情だった……

「もうずっと前から来ていらして?」キティは彼に手を差しのべながら言った。「あら、すみません」と付け足したのは、マフから落ちたハンカチを彼が拾って渡したのだった[トルストイは作中人物を鋭く監視する。作中人物を喋らせ、動かすが、その言葉や行動は、作者が作った世界のなかでそれ自体の反応を生み出す。このことがお分りだろうか。よろしい]。

「あなたがスケートをなさるなんて、知りませんでした。とてもお上手ですね」

 キティは注意深く彼の顔を見つめたが、それはなぜ相手がどぎまぎしたか、その原因を見きわめようとするふうだった。

「あなたにほめていただくなんて、光栄ですわ。だって、こちらでは今でも、あなたがすばらしいスケーターでいらしたという評判ですもの」黒い手袋をはめたかわいい手で、マフに落ちた細い霜の針を払いおとしながら、キティは言った[再びトルストイの冷徹な目]。

「ええ、昔はずいぶん夢中になって滑ったものでした。なんとか完璧を期そうと思いましてね」

「あなたは何事も夢中になってなさるのね」キティは微笑しながら言った。「お滑りになるところを、ぜひ拝見したいわ。さあ、スケートをおつけになって。ご一緒に滑りましょうよ」

《一緒に滑る? そんなことがあっていいものだろうか》リョーヴィンはキティの顔を眺めながら思った。

「すぐ、はいて来ます」彼は言った。

 そしてスケートをつけに行った。》

 

 この「マフに落ちた細い霜の針」こそ、ナボコフが重視した形象の「細部」である。ナボコフは「注釈ノート」(第一編しかないが、全編に渡って残して欲しかった)に、「(40)スケート場」の註釈に続いて、次の註釈を加えた。

《(41)雪の重みで巻毛のような枝をすべて垂らしている庭園の白樺の老樹は、新しい荘重な袈裟で飾り立てられたように見えた。

 すでに述べたように、トルストイの文体は、実用的(「寓意的」)比喩が豊富である一方、主として読者の芸術的感覚に訴える詩的直喩や隠喩がふしぎなほど見あたらない。この白樺の木は例外である(少し先に「太陽」や「ばら」の比喩が出てくる(筆者註:《太陽が近づいて来るのが感じられた》、《リョーヴィンにとっては、この群衆の中から彼女を見つけることは、刺草(いらくさ)の中からばらの花を探すように、いとも容易だった》)。これらの老樹はまもなくキティのマフの毛皮の上に少量の輝かしい霜の針を落すだろう。

 リョーヴィンが求婚の最初の段階でこの象徴的な白樺の老樹を意識したことは、この小説の最後の部分で激しい夏の嵐に悩まされる別の白樺の林(それについて最初に語るのは兄のニコライである)と比較してみれば、たいそう興味深い。》

 

<「白い腕が透いて見えるレースの袖」>

 アンナのレースは印象的だった。

 舞踏会の場面、《アンナは、キティがあれほど望んでいた紫の衣装ではなく、胸を大きくあけた黒いビロードの衣装をつけ、古い象牙のように磨きあげられた豊かな肩や、胸や、手首のほっそりと、きゃしゃな、丸みをおびた腕をあらわにしていた。この衣装はすべてベニス・レースで縁取りがしてあった。その頭には、少しの入れ毛もない黒々とした髪に、三色すみれの小さな花束がさしてあり、それと同じ花束が、黒リボンのベルトの上にもとめてあって、白いレースのあいだからのぞいていた。》

 夜汽車の席についてイギリス小説のページを切っても、《ほかならぬ自分自身が生きて行きたい思いでいっぱいだった》アンナは身が入らない。ヴォロゴヴァ駅で停車した汽車から、脱いだばかりのケープとプラトーク(ショール)を身につけて吹雪のプラットホームに出る。そこでアンナはあとを追って乗車していたヴロンスキーから《心の中で願いながらも、理性で恐れていたまさにそのことを》聞くが、このプラトークはきっと白いカシミア・レースだったろう。

 駆け落ちから首都に戻って、劇場に出かけたアンナは《パリで仕立てた、ビロードをあしらった、明るい色の胸あきのひろい、絹の衣装を着て、高価な白いレースの髪飾りをつけていたが、それは顔をくっきり浮きださせて、そのきわだった美貌を、さらに効果的にしていた。》 遅れて入ったヴロンスキーは桟敷を見まわす。《それはレースで縁どられた、日のさめるほど美しい、傲然とほほえんでいる顔であった。》 けれども偽善的な社交界は人目につく女にさらし者の気持を味わわせるのだった。

 最後の一日のジョイスに先立つ「意識の流れ」にも一瞬レースが点減する。アンナはプラットホームを歩きながら、自分に苦しみを強いる何ものかにたいして語りかける。

《小間使いふうの二人の女が振り返ってアンナを眺め、その衣装について何やら声高に品定めをした。「本物よ」と、二人はアンナが身につけていたレースのことを言った。》

 ささいなものと普遍的なもの、精神的愛情と肉体的情熱のあいだを往き来する本物の女。と、貨物列車が入って来た。手首から赤い手提を外すのに手間取るアンナ。膝をつく。《ここはどこ? 私は何をしている? なんのために?》

 

 ローマン・ヤコブソンが、「トルストイはアンナの自殺を描こうとして、主に、その手提について書いている」と換喩的方法の例としてあげたアンナの赤い手提の描写は、細部の力による喚起力を示している。

《細部の組合せは官能的な火花を発するが、その火花なしでは一冊の書物は死んだも同然である》と語った。

 ナボコフは、 一八七〇年代の夜行寝台車の内部をスケッチして見せ、赤い手提に注目する。片方が破れた手袋、マフに落ちた細い霜の針、分娩に邪魔なイヤリング、白い毛糸の目をひと目ひと目ひろうきゃしゃな手首、などトルストイはどんな仕草も見逃さず(しかも作者の姿を見せず神のごとく偏在して)素晴らしい細部を物語に織りこんだ。

《アンナの赤い手提は、トルストイがすでに第一篇第二十八章で描写している。「玩具のような」「ごく小さな」と形容されたその手提は、しかし次第に大きくなる。ペテルブルクへ帰る日、モスクワのドリーの家を出ようとして、アンナは奇妙な涙の発作におそわれ、上気した顔を小さな手提に押しあてる。このとき手提に入れたのは、ナイトキャップや、バチストのハンカチなどである。この赤い手提を再び開くのは鉄道の車輛に落ち着いてからで、そのときは小さな枕や、イギリスの小説や、そのページを切るためのペーパーナイフなどを取り出し、そのあと、赤い手提はかたわらでうたたねする女中の手に預けられる。四年半後に(一八七六年五月)アンナが汽車に跳びこんで命を絶つとき、この手提は彼女が最後に投げ捨てる品物であり、そのときは手首から外そうとして少し手間どるほどの大きさである。》

 

 ナボコフは、アンナだけでは不公平とばかりに、第一編第二十二章の舞踏会のために着飾ったキティのレースについてこそ言及しなかったが(代わって引用すれば、《その化粧をはじめ髪の結い方や、その他さまざまな舞踏会のしたくは、キティにとってひじょうな努力と苦心のたまものだったにもかかわらず、今彼女がばら色の衣裳に細かい網目のチュール・レースを重ね、おおらかな気どりのない態度で舞踏会へはいって行くのを見ると、こうしたリボンの花飾りや、レースや、さまざまなしたくのはしばしにいたるまで、なにもかも、本人や家人たちにとっては少しも苦心を要するものではなく、彼女は初めからこの高い髪型を結い、二枚の葉のついたばらをさし、チュール織りのレースをまとってこの世に生れでたのではないかと思われるほどだった》)、トルストイらしいグルメな場面のキティのレースを嬉しそうに訳しなおした。

 

《さて、リョーヴィンがキティに振られてから二年経ち、ここはオブロンスキーが手配した夕食会の席である。まず、つるつる滑る茸(きのこ)についての短い一節を訳し直してみよう。

 

「熊をお撃ちになったんですって?」キティは、つるつる滑って言うことを聞かぬ茸をフォークで突き刺そうと、一所懸命試みながら、白い腕が透いて見えるレースの袖を震わせて訊ねた[偉大な作家の輝かしい視線は、作家に生きる力を与えられた人形たちのしぐさを、いつも注意深く追うのである]。「お宅の近くにはほんとに熊がいますの?」魅力的な小さな頭を半ば彼の方へ向けて、にこやかに言い足した。(第四編、第九章)》

 

 次に、食事後の有名なチョークの場面を引用してから、コメントを残している。

《この場面はどうも少しやりすぎである。もちろん愛は奇蹟を生み出し、心と心のあいだの深淵に橋を架け、かずかずの優しいテレパシーを実現するとはいえ――これほど詳細にわたる心の読み取りは、ロシア語の原文においれさえ大して説得力をもつものではない。それにしても、この二人のしぐさは魅力的であり、この場面の雰囲気は芸術の立場から見て真実である。》

 そう、「芸術の立場から見て真実である」ことが大切なのだ。

 

<「イヤリングをはずして」>

 キティのお産の場面は作品の偉大な章のひとつで、さりげない「細部」描写の見事さに感嘆せずにはいられない。

トルストイは自然な生活を信奉していた。自然――又の名は神――の掟として、人間の牝はお産のとき、例えば豚や鯨よりも大きな苦痛を味わわなければならない。従ってその苦痛を軽減することにトルストイは断然反対だった。(中略)

 少量の阿片(それも大して役に立たなかったのだが(筆者註:アンナは情緒不安定のため、最後の方では日常的に阿片(モルヒネ)を使用していた))以外には、当時、出産の苦痛をやわらげるための、いかなる麻酔剤も使用されていなかった。時は一八七五年であり、全世界の女性は二千年前と同じやり方で子供を産んでいたのである。トルストイのテーマはここでは二重になっていて、一つは自然のドラマの美しさということ、もう一つはリョーヴィンの目から見た同じドラマの神秘と恐怖ということである。入院だの、麻酔だのといった現代的出産風景は、この偉大な第七編第十五章の成立を不可能にしただろうし、自然な苦痛をやわらげることはキリスト教徒としてのトルストイの目には間違いと映るに相違ない。キティはもちろん自宅でお産をし、リョーヴィンはその間、家のなかをうろうろ歩きまわる。

  

 もう遅い時刻なのか、まだ早いのか、彼には見当がつかなかった。ろうそくはもうすっかり燃えつきていた。……リョーヴィンは腰を下ろし、医者の話を聞いていた……とつぜん、なんとも形容のしがたい叫び声が起った。その叫び声はあまりにも恐ろしかったので、リョーヴィンは飛びあがることもできず、じっと息を殺したまま、おびえたような、もの問いたげなまなざしで医者の顔を見た。医者は小首をかしげて、聞き耳を立て、これでよしというような微笑を浮べた。何もかもあまりに異常だったので、リョーヴィンはもう何事にも驚かなかった……彼は爪先立ちして寝室へ駆けて行き、産婆[エリザヴェータ]とキティの母親のうしろをまわって、枕許の自分に決められた場所に立った。叫び声は静まったが、今度はなにやら様子が変っていた。何が変化したのか、彼は見もしなければ、分りもせず、見たいとも分りたいとも思わなかった……汗ばんだ頬や額に乱れた髪がねばりついて、腫れぼったい、疲れきったキティの顔は、夫の方へ向けられ、彼の視線を探していた。持ちあげた両手は、彼の手を求めていた。汗ばんだ両手で、キティは夫の冷たい手をつかむと、それを自分の顔に押しあて始めた。

「行っちゃいや、ねえ、行っちゃいや! 私こわくないわ、そう、こわくなんかないわ! ママ、イヤリングをはずして。じゃまだから……」[これらのイヤリング、ハンカチ、手袋についた霜の針など、この小説の初めから終りまでにキティがもてあそぶ小さな品々の目録を作ること]。それからキティは突然、夫を自分のそばから押しのけた。

「だめ、ああ、たまらない! 死にそうだわ、死にそうだわ!」キティは叫んだ。

 リョーヴィンは頭をかかえて、部屋の外へ走り出した。

「大丈夫、なんでもないわよ、何もかもうまくいってるわ!」ドリーがうしろから声をかけた[ドリー自身はこれを七回も経験したのだ]。

 しかし、みんながなんと言おうとも、彼は今こそもう何もかもお終いだと思った。彼は戸口の柱に頭をもたせかけ、隣の部屋に突っ立ったまま、今までついぞ聞いたこともないような叫びと咆哮を聞いていた。そして、これはかつてキティであったものが叫んでいるのだということも知っていた。もうとうに彼は赤ん坊などどうでもよくなっていた。いや、今ではその赤ん坊を憎んでいた。それどころか、もう妻の命さえどうでもよかった。ただこの恐ろしい苦痛が終ってくれることだけを願っていた。

「先生! これは一体どうしたんです。ねえ、どうしたんです。ああ、たまらない!」出てきた医者の手をつかんで、リョーヴィンは言った。

「もう終りですよ」医者は言った。医者の顔つきは非常に真剣だったので、リョーヴィンは終り(・・)という言葉を、死ぬという意味にとった[もちろん医者の言葉は、「もうじきすむ」という意味である]。

 

 ここから、この自然現象の美しさを強調する部分が始まる。ついでながら注目していただきたいのは、文学的フィクションの全歴史を一つの発展過程として見るとき、それは次第に生命のより深い層へとメスを入れて行く作業だったということである。例えば紀元前九世紀のホメロス、あるいは紀元後十七世紀のセルバンテスが、このようにすばらしい分娩の細部を描くということは全く考えられない。問題は、ある種の出来事や感情が何らかの道徳や美学に適合するかどうか、ということではないのだ。私が言いたいのは、芸術家も科学者と同じように、芸術や科学の発展過程のなかにあって、つねに探究をつづけ、先行者と比べて、より多くを理解し、より鋭く明るい目でいっそう奥まで見通すということである。それこそが芸術の成果なのだ。》

 

<「燭台に灯る小さな炎」>

アンナ・カレーニナ』は生と死の大河であるからには、「出産小説」でもある(対称的に、リョーヴィンの兄ニコライの敬虔な臨終場面がある、そしてもちろんアンナの死も)。

 まず、ふたりの死んだ子供を数えれば七人の子持ちのオブロンスキーの妻ドリーが、夫の浮気騒動(和解させようと、オブロンスキーの妹アンナがペテルブルクからモスクワに汽車でやってきたのが、物語の始まりだった)の二ヶ月後に出産する(第二編第二章)が、その様子は、《先日やっと産褥(さんじょく)を離れたばかりなのに(冬の終りに女の子を生んだのである)》だけと極めてあっさりしている。

 次いで、アンナがヴロンスキーとの子供を出産する(第四編十七章)が、出産の場面こそないものの、主治医に、産褥熱で百のうち九十九までは助からない、と言われるほど重篤となる場面のドラマを、ナボコフはカレーニンの人物像の一端として簡単に紹介している。《アンナがヴロンスキーの子供を産んだあと、ひどく具合が悪くなって、臥せっているその枕許で、差し迫った彼女の死を覚悟した(そうはならないのだが)カレーニンは、ヴロンスキーを赦すと言い、真のキリスト教徒の卑下と寛容の気持をこめて彼と握手する。あとではいつもの冷ややかで不愉快な人格に戻るのだが、このときばかりは差し迫った死がこの場を照らし出し、アンナは無意識のうちにヴロンスキーとこの男を同じように愛していると思う。どちらもアレクセイという名の二人の男は、二人とも愛する配偶者として彼女の夢のなかで共存するのである。》

 そして、キティの出産の臨場感ある描写だ。

《我を忘れて、リョーヴィンは寝室へ駆けこんだ。彼が最初に見たものは産婆の顔だった。その顔は前よりもっと気むずかしく、きびしい表情を浮べていた。キティの顔はそこにはなかった。さっきまでキティの顔があった場所では、見るも恐ろしい何か別のものが切迫した表情を浮べ、すさまじい音を発していた[いよいよ美の局面の始まりである]。心臓が今にも張り裂けるような気がして、リョーヴィンはベッドの木枠に顔を押しあて、突っ伏した。恐ろしい叫び声はやまなかった。それはますます恐ろしくなっていったが、やがて恐怖の頂点に達したかのように、突然ぴたりとやんだ。リョーヴィンは自分の耳が信じられなかったが、疑うことはできなかった。叫び声は確かに静まり、静かなざわめきと、衣ずれの音と、あわただしい息づかいが聞えた。それから、とぎれがちではあるが、生き生きとした、優しい幸福そうなキティの声が、静かに「すんだわ」と言った。

 彼は顔をあげた。異様に美しい、おだやかな顔をした妻が、両手をぐったりと掛けぶとんの上に投げ出して、無言のまま彼を見つめ、ほほえもうとして、ほほえめずにいた。

 と、急にリョーヴィンは、この二十二時間を過してきた精神的な、恐ろしい、この世ならぬ世界から、たちまち元の住みなれた世界へ、しかし、今や新しい耐えがたいほどの幸福の光に輝いている世界へ、舞い戻ってきたような気がした。張りつめていた絃はすっかり断ち切られた、思いもかけなかった喜びの呻きと涙が猛烈な力で彼の身内にわき起り、その全身を震わせた……彼はベッドの前にひざまずいて、握りしめた妻の手を唇に引き寄せ、幾度となくそれに接吻した。するとその手はかすかに指を動かして、夫の接吻に答えるのだった。[この章全体はすばらしい形象の連鎖である。わずかな比喩表現があるとしても、それは直接的な描写に溶けこんでいる。さて、このあとは直喩による最終弁論といったところだろうか]。そのあいだもベッドの裾の方では、産婆の器用な手の中で、ちょうど燭台にともる小さな炎のように、一個の人間の生命が揺れ動いていた。それはこれまで全く存在していなかったものであるが、これからは……生きつづけ、自分に似た人間を産み出すだろう。(第七編、第十五章)

 

 のちにアンナの自殺の章で、彼女の死に関連して炎のイメージを私たちは見るだろう。死とは魂の解放(分娩)である。従って、子供の出産と魂の出産(死)とは、同じ神秘と恐怖と美の言葉によって表現される。この点でキティのお産とアンナの死とが結びつくのである。》

 

 ここでナボコフはアンナの自殺とキティの出産という、死と生を、炎のイメージで照応させている。こういった照応は、先に述べたスケート場の「白樺」に関する註釈や、後に出てくる森の「雷」による樫の梢の変形と競馬でのフルフルの背骨の変形との比較要請に、繊細な芸術家としての食指が動いている。

 

<「青い甲虫」>

《次に、リョーヴィンにおける信仰の誕生を、信仰誕生の苦痛を見てみよう。

 

 リョーヴィンは自分の思いに、というよりむしろ、それまで一度も味わったことのない精神的状態に耳をすましながら、広い道を大股で歩いていた。

[その前に一人の百姓との会話があり、その百姓が別の百姓について、あいつは自分の腹を肥やすことばかり考えていると言い、人は自分の腹のためではなく、真理のために、神のために、自分の魂のために生きなければいけないと言ったのである]。

《果しておれはすべての解決を見出したのだろうか、おれの悩みはもう終ってしまっただろうか》と、埃っぽい街道を歩きながらリョーヴィンは考えた……興奮のあまり息が切れ、歩きつづける気力がなくなったので、街道をそれて森へ入り、やまならしの木陰の、まだ刈られていない草の上に腰を下ろした。汗ばんだ頭から帽子をとり、片肘をついて、瑞々しい大きな葉をひろげている森の草の上に身を横たえた[ガーネット夫人はこの草を偏平足で踏みつけてしまった。「羽毛のように軽い草」ではない]。《そうだ、頭をはっきりさせて、よく考えてみなければ》と彼は考えながら、目の前のまだ人に踏まれていない草をじっと見つめ、かもじ草の茎をのぼって行く途中で、エゾボウフウの葉に行手をさえぎられている青い甲虫の運動に目を凝らした。《初めから順序立てて考えよう》[自分の精神状態について]彼は心のなかで呟き、小さな甲虫の邪魔にならぬようエゾボウフウの葉をとりのけ、甲虫が先へ進めるように別の葉を折り曲げてやった。《おれを喜ばせるものは何か。おれは何を発見したか》……《おれはただ自分でも知っていたことをはっきり認識しただけなのだ……おれは虚偽から解放されて、ほんとうの主人を見出したのだ》。(第八編、第十二章)

 

 しかし、私たちが注目しなければならないものは、そのような思想(・・)ではない。何はともあれ銘記すべきは、文学作品とは思想(・・)のパターンではなくて形象(・・)のパターンであるということなのだ。作品のなかの形象の魔力と比べれば、思想など何ほどのものでもない。ここで私たちを引きつけるのは、リョーヴィンの考えや、レオ・トルストイの考えではなくて、その考えの曲り目や、転換や、表示などをはっきりと跡づける、あの小さな甲虫なのである。》

 

 虫ということでは、第四編第五章で「蛾」が飛び交う。ナボコフ研究家でもある若島正が、『知のたのしみ 学のよろこび』という大学生向けの本のなかの、「蛾をつかまえる――『アンナ・カレーニナ』を読む」で紹介している。

《ここは離婚を決意したカレーニンが、ペテルブルグにある有名な弁護士(名前は与えられていない――ここも巧みなところで、つまり弁護士はカレーニンにとってあくまで「弁護士」でしかないのである)の事務所に相談にやってくる場面だ。したがって、この章はカレーニンの視点で始まる。待合室は客で満杯で、自分から見れば身分下の人間たちとこうして恥ずかしい相談事のために同室しているのが、カレーニンのいらだちをつのらせる。(中略)

 そのとき、読者にとってはまったく予期しないことが起こる。突然、部屋の中に蛾が飛ぶのだ。

 

「どうぞお掛け下さい」弁護士は書類が積まれた書物机のそばにある肘掛椅子を指さして、机の後ろに陣取ると、短い指に白い柔毛がはえている小さな両手をもみ合わせて、首を傾げた。しかし彼が落ち着く間もなく、一匹の蛾が机の上に飛んできた。弁護士は、思ってもみないすばやさで、両手で蛾をつかまえてから、また前の姿勢に戻った。

 

(中略)この時点から、カレーニンと弁護士との力関係が微妙に変化する。そしてそれと同時に、視点もカレーニンから弁護士へと微妙に移動する。カレーニンの目から見る限り、離婚をめぐるごたごたは悲劇でしかないが、弁護士の目から見ればむしろ喜劇である。そこでこの第四部第五章は、トルストイにしては珍しく、彼の喜劇的才能を充分に発揮する方向へ進んでいく。その喜劇的な舞台まわしを務めるのが、この章で部屋の中をなんと三度も飛ぶことになる蛾なのだ。

 

 愉快でたまらないという表情を見せると依頼人が感情を害するかと思い、弁護士はカレーニンの足に視線を落とし、鼻先に飛んできた蛾を見て、つかまえようと手を出しかけたが、カレーニンの身分に対する遠慮から思いとどまった。

(中略)

「料金は値切りませんからとあの女に言っておけ!」と彼は言って、またカレーニンに戻った。

 ふたたび席に着く前に、彼はこっそり蛾をつかまえた。「この分じゃ、夏までにはおれのビロードもだいなしになるぞ!」と彼は眉をしかめながら考えた。

(中略)

 弁護士はうやうやしくお辞儀をしながら依頼人を送り出し、一人きりになると、愉快な気分にひたった。そしてひどく上機嫌になったおかげで、主義に反して、値切ろうとしたご婦人に料金をまけてやったし、蛾をつかまえるのもあきらめた。今度の冬になったら、シゴーニンのところみたいに、家具をフラシ天に張りかえようとついに決心したのである。

 

 われわれ読者はカレーニンの視点に立ってこの弁護士事務所に入っていったのだが、知らないうちに、出ていくときには、これで家具の張り替えができるとすっかりご満悦の弁護士の視点に立っている。これが蛾の効果だ。》

 

 そして若島はこう締めくくった。《小説を語るときには、細部を具体的に語ること。その心がけは、わたしがつねづね実践しようとしているもので、その意味では、神の存在に始まって世の中のほとんどすべての観念を信じない、リョーヴィンに似たわたしにとって、それが唯一信じられる生きた<思想>だと言えるのかもしれない。

 たとえ『アンナ・カレーニナ』のあらすじをすっかり忘れてしまったとしても、私は弁護士事務所の部屋の中を飛んでいた蛾のことをけっして忘れはしないだろう。そして、たとえその記憶だけを墓の中へ持っていったとしても、『アンナ・カレーニナ』が偉大な小説だったという思いは消えはしないだろう。》

 

<「雷」>

《いよいよ私たちはリョーヴィンの物語の最終部分――リョーヴィンの最終的な回心――にさしかかったが、ここでも形象を注意深く見守り、思想の積み重ねは放っておくことにしよう。言葉、表現、形象こそが、文学の真の機能である。思想ではない(・・・・・・)。

 リョーヴィンの領地で、客をまじえた家族一同が遠足に出掛ける。やがて帰りの時刻になる。

 

 キティの父親と、リョーヴィンの異父兄セルゲイは、荷馬車に乗って、帰ってしまった。残りの人たちは足を速めて、徒歩で家路に向った。

 しかし雨雲は白くなったり黒くなったりしながら見る間に頭上に迫って来たので、雨にならぬうちに家まで帰り着くには、もっと足を速めなければならなかった。煤をまぜた煙のようにまっ黒な低く垂れこめた先頭の雲は、恐ろしい速さで空を走っていた。家まであと二百歩ばかりのところで、一陣の風がまき起り、今にも驟雨が来そうな気配になった。

 子供たちはこわさと嬉しさがまじりあった叫び声をあげながら、先に立って駆け出した。ドリーは足にまといつくスカートと苦闘しながら、子供たちからいっときも目を放さずに、もう歩くというより駆け出していた。男たちは帽子を抑えながら大股に歩いていた。一行がやっと入口の階段のところまで来たとき、いきなり大粒の雨が鉄樋の端にあたって飛び散った。子供たちと、それにつづいて大人たちは、にぎやかな話し声を響かせながら、屋根びさしの下へ駆けこんだ。

「キティは?」頭巾や膝掛けなどを持って玄関の控え室で一行を出迎えた家政婦に、リョーヴィンは訊ねた。

「ご一緒だとばかり思っておりましたが」と老婆は答えた。

「じゃ、ミーチャは?」

「きっと森でございましょう、婆やと一緒に」

 リョーヴィンは膝掛けをひったくると、森めざして駆け出した。

 このわずかな間に、雨雲は完全に太陽を呑みこみ、あたりは日蝕のように暗くなった。風はあくまで己れを主張するかのように、執拗にリョーヴィンを立ち止まらせ[アンナの夜汽車の場面と同じ、風についての情緒的思いこみ。だが直接的な形象はまもなく比喩に変化するだろう]、菩提樹の葉や花をひきちぎり、白樺の枝を醜く異様なまでにあらわにし、アカシヤも、草花も、ごぼうも、雑草も、木々の梢も、何もかも一様に一方へ押し倒そうとした。庭で働いていた女中たちは金切声をあげながら、下男部屋のひさしの下へ逃げこんだ、降りそそぐ豪雨の白い帷(とばり)は、はやくも遠くの森と近くの畑の半分を覆って、見る見るうちにキティのいる森へと迫った。細かい雫に砕け散る雨の湿気が、大気の中に感じられた。

 頭をかがめ、頭巾をむしりとろうとする風と戦いながら[情緒的思い込みはまだつづいている]、リョーヴィンは走りつづけて森に近づき、樫の大木の蔭に何か白いものを認めたと思った。その瞬間、不意にあたりがぱっと明るくなって、地面が燃えあがり、頭上で空の丸天井が音を立てて裂けたかと思われた。一瞬くらまされた目をあけて、リョーヴィンはぞっとした。自分と森とを隔てている厚い雨の帷を透して、まっさきに見えたのは、森の中央の馴染み深い樫の青々とした梢だが、その位置が奇妙に変ってしまっているのである[競馬場で、障害物を跳び越えた馬が背骨を折ったとき、ヴロンスキーが「自分の姿勢が崩れた」と感じる、あの場面と比較せよ]。(第二編、第二十章)

《雷にやられたのかな》リョーヴィンが思う暇もなく、樫の梢はみるみる落下の速度を速めながら、ほかの木立の蔭に隠れた。と、ほかの木々に倒れかかる巨木のめりめりという轟音が耳に達した。

 稲妻と、雷鳴と、冷水を一瞬身に浴びたような感じは、リョーヴィンの中で恐怖という一つの印象に溶け合った。

「ああ神さま! あれたちの上に落ちませんように!」彼は口走った。

 すでに倒れてしまった樫の木の下敷きに妻子がならないようにという願いが、どんなに無意味なものかということはすぐ気づいたが、リョーヴィンはこの無意味な祈りのほかになすべきことを知らず、もう一度その言葉を称えた。……

 森の向う端にある古い菩提樹の木蔭から、妻子はリョーヴィンを呼んでいた。黒っぽい服(それはさきまで薄い色の服だった)を着た二つの人影が、何かの上にかがみこむようにしていた。それがキティと婆やだった。リョーヴィンが二人のそばへ走り寄ったときには、雨はすでに小降りになり、空は明るくなり始めていた。婆やの服は裾だけが濡れずにいたが、キティの服はずぶ濡れで、ぴったりと体にはりついていた。雨はもうやんだのに、二人はまだ雷が落ちたときと同じ姿勢で、緑色の幌をかぶせた乳母車の上にかがみこむように立ちすくんでいた。

「生きているんだね? 無事なんだね? ああ、よかった!」と彼は言い、水の入った、脱げそうになる靴で、水たまりの中をぴちゃぴちゃと駆け寄った……[彼は妻に腹を立てる]。二人は赤ん坊の濡れたおしめを集めた[雨に濡れたのか? その点ははっきりしない。神の怒りを思わせる豪雨が可愛い赤ん坊の濡れたおしめへと変形されてしまったことに注意せよ。自然の力は家庭生活の力に屈伏した。情緒的思いこみは幸福な家族の微笑みに席をゆずった]。(第八編、第十七章)》

 

 ナボコフトルストイの「時間」の扱いの素晴らしさを繰りかえし顕彰した(そればかりか実際の時間的データさえも解説して見せる)が、この場面のリョーヴィンは、下記の《トルストイの散文は私たちの脈搏に合せて歩み、その作中人物は、私たちがトルストイの本を読んでいるとき、窓の下を通りすぎる人たちと同じ歩調で歩きまわる》のとおり、美しく巧みな自然描写と雷の下で、はっきりと目の前を、私の時間、時計に合わせて早すぎも遅すぎもなく、動きまわっているではないか。

《この作家が発見したことの一つで、不思議にも従来批評家たちが決して気づかなかったことがある。その発見というのは――トルストイはもちろん自分の発見を意識しなかったのだが――私たちの時の概念と非常に快適かつ正確に一致する生活描写の方法ということである。私の知る限りでは、トルストイは自分の時計を読者たちの無数の時計に合せた唯一の作家なのだ。(中略)トルストイの散文は私たちの脈搏に合せて歩み、その作中人物は、私たちがトルストイの本を読んでいるとき、窓の下を通りすぎる人たちと同じ歩調で歩きまわる。(中略)してみれば年輩のロシア人たちが夜お茶を飲みながら、トルストイの作中人物のことをまるで実在の人物のように語るのも、もっともなことであろう。トルストイの主人公たちは、彼らにしてみれば、自分たちの友人に似ている人物であり、あたかも本当にキティやアンナと踊ったことがあるかのように、あるいは例の舞踏会でナターシャと出会ったかのように、あるいは行きつけのレストランでオブロンスキーと食事をしたかのように、はっきりと目の前に見える人物たちなのである。》

 何より心に留めおくべきなのは、そこに一緒にいるかのように幸せな気分が醸し出されることであろう。

 トルストイは、《他の作家たちのように遠くを通りすぎるのではなく、いつも私たちに歩調を合わせてくれる》のであり、《このことに関連して興味深いのは、トルストイが絶えず自分の個性を意識し、絶えず作中人物の生活に踏みこみ、絶えず読者に語りかけるにもかかわらず、彼の最高傑作のなかの何章かでは、作者の姿が見えなくなっているということである。つまりフロベールがあれほど激しく作家に要求した理想的に冷静な作者のあり方――決して姿を見せず、この世界の神のごとく遍在すること――に到達しているのである(筆者註:『アンナ・カレーニナ』はフロベールボヴァリー夫人』の二十年後に書かれた)。こうして私たちはしばしば、トルストイの小説が独りでに書かれているような感じを味わう。》

 その感じを味わってほしい。

 

<「銀河」>

 続いてナボコフは、キティが赤ん坊にお湯を使わせる場面(第八編第十八章)と、リョーヴィンが子供部屋を出て、一人きりになると、テラスに立ち止まって、暗い空を眺めながら思索するラストシーン(第八編第十九章)を引用する。

 ここに一ヵ所だけあげれば、

《リョーヴィンは、庭の菩提樹から規則正しく落ちる雫の音に耳を傾けながら、馴染み深い三角形の星座と、そのまんなかを通っている銀河とその多くの支流を眺めていた。[ここで一つの喜ばしい比喩が現れる。愛と洞察力に満ちた比喩である]。稲妻がひらめくたびに、銀河ばかりか、明るい星までが見えなくなるが、稲妻が消えると、まるで狙い誤たぬ手に投げ返されでもしたように、また元の場所に現れるのだった[この喜ばしい比喩がお分りだろうか]。(中略)

「あら、まだいらっしゃらなかったの」同じテラスを通って客間へ行こうとしていたキティの声が不意に耳に入った。「どうなさったの、何かいやなことでも?」キティは星明りで夫の顔をじっとのぞきこみながら言った。

 しかしそのとき稲妻が再び星の光を隠し、彼を照らさなかったら、キティは夫の顔をはっきり見分けることはできなかっただろう。稲妻の光で夫の表情を見きわめ、それが幸福そうな静かな表情であることを見てとると、キティはにっこり笑った[これがさきほど注目した喜ばしい比喩の実用的な後続効果である]。》

 ナボコフは、またしても神秘性と宗教性に接近する小説末尾の、《しかし今やおれの生活は、全生活は、おれにどんなことが起ろうと、それとは一切無関係に、生活の一分一分が、以前のように無意味でないばかりか、疑う余地なき善の意義をもっているのだ。おれにはその善の意義を生活に与える力があるのだ!》まで引用してから、

《こうして小説は終るが、この神秘的な調子はトルストイが創った作中人物の、というよりもむしろ、トルストイ自身の日記の一節のように私には見える。リョーヴィン―キティの家庭生活の物語は、この作品の背景であり、この作品のいわば銀河なのである。》と締めくくる。

 

 プルーストが「銀河」の「星や空」について言及している。短い「トルストイ」論のはじめで、《いまやバルザックトルストイの上に持ち上げられている。沙汰の限りだ。(中略)バルザックはやっとのことで大作家の印象を与えている、トルストイにあってはすべてがごく自然に大きい、山羊のかたわらの象の糞のように。》とバルザックを揶揄した後で、

《『アンナ・カレーニナ』の穫り入れ、狩猟、スケート等の大きな情景は、専用の大きな表面のようなものであり、残余に間隔をあけ、さらに広大な印象をもたらしている。ウロンスキイの二つの会話にはさまれた夏じゅう、見渡すかぎり刈りこまなければならない緑の牧草地であるかのようだ。この宇宙のなかの別のものを、もっとも個別的な諸情景を、競馬に出場する騎手の感情を(おお!、わが美女、わが美女)、窓ぎわの賭博マニアの感情を、野営地のにぎやかさを、狩猟好きの小地主の生活のにぎやかさを、ドイツの都会にいてロシヤの領主の結構な生活について語っている老シチェルバーツキイ公爵のにぎやかさを(遅く起床する、水のほとりの章、等)、『戦争と平和』における貴族の浪費家(ナターシャの兄)のにぎやかさを、老ボルコンスキー公爵のにぎやかさを、人々はこもごもに賞翫することになる。この作品は観察のではなく知的構築の作品である。観察によって決まったそれぞれの特徴は、小説家が明らかにしたひとつの法則、合理的もしくは非合理的法則の外装、証拠、実例にすぎない。力強さと生動感の印象は、まさしく、それが観察されたものではなく、それぞれのしぐさ、ことば、行為はひとつの法則の意味であるがゆえに、人びとは多数の法則のただ中に活動していると感じていることに由来しているのである。(中略)無尽蔵と見えるかような創造のなかで、ともかくトルストイは同じことを繰り返し、ごくわずかなテーマだけを、手を変え品を変え、別な小説のなかでは同じ形で、自家薬篭中のものにしたかに見える。レーヴィンがひとつの定点として注目している星や空は、ピエールが見た彗星、アンドレイ公爵の青い大空といくぶんかは同じものである。》

 そして記憶の作家プルーストは投げかける。《しかし、それにもまして、はじめはウロンスキイのために遠ざけられ、のちにキティーによって愛されたレーヴィンは、ピエールの兄のためにアンドレイ公爵から離れるものの、また元のさやに納まるナターシャを彷彿とさせる。馬車に乗って過ぎてゆくキティーと戦線の車中のナターシャにとって、同一の思い出が「ポーズを取って」いたのではあるまいか。》

 プルーストもまた『アンナ・カレーニナ』の「リョーヴィン―キティ」銀河を見ていたのだった。

                               (了)

         *****引用または参照文献*****

ウラジーミル・ナボコフナボコフロシア文学講義』小笠原豊樹訳(河出文庫

ウラジーミル・ナボコフ『ヨーロッパ文学講義』小笠原豊樹訳(河出文庫

トルストイアンナ・カレーニナ木村浩訳(新潮文庫

*『世界文学大系37 トルストイ』(トーマス・マンアンナ・カレーニナ論』大山定一訳所収)(筑摩書房

トルストイアンナ・カレーニナ』望月哲男訳・解説(光文社古典新訳文庫

京都大学文学部編『知のたのしみ 学のよろこび』(若島正「蛾をつかまえる――『アンナ・カレーニナ』を読む」所収)(岩波書店

若島正「霜の針、蝋燭のしみ――『アンナ・カレーニナ』を読みなおす」(Chukyo English literature (25), 1-16, 2005-03-1)

*『プルースト全集15』(「トルストイ」所収)(筑摩書房

*『ロシア・フォルマリズム文学論集1』(ローマン・ヤコブソン「芸術におけるリアリズムについて」北岡誠司訳所収)(せりか書房

*『河上徹太郎全集2』(「アンナ・カレーニナ」所収)(勁草書房

*『小島信夫批評集成5 私の作家遍歴Ⅱ』(「目を細めるアンナ」等の『アンナ・カレーニナ』論所収)(水声社