短歌批評 「『くわんおん(観音)』の恋」(習作)

  「『くわんおん(観音)』の恋」(習作)

 

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 水原紫苑の歌集『くわんおん(観音)』から「恋」という語のある歌を読んでみる。「恋」という語がなくても恋の歌はあるし、恋と愛との使い分けは曖味だから、「愛」という語のある歌も恋の歌と解すべきものがあるかもしれないけれど、ここでは「恋」という語をとりわけ意識した歌をとりあげる。

『くわんおん(観音)』は約三百首からなる。うち二十首あまりが「恋」の歌である。その数は水原の以前の三歌集に比べて格段に多くなっている。恋の歌ではあるが相聞歌といえるのか、相手とはどういう関係性か、などという疑間は読み進めるうちに、とにかくさまざまな恋の舞台があることだけはたしかだという思いに変わっていった。

 かくして恋する者のようにあてどなく読みはじめる。

 

 ひさかたの月を抱(いだ)きしをのこらの滅びののちにわが恋あらむ

 

「ひさかたの」の枕詞で古典の感覚を呼び覚まし、「月」とくるのは流れとして、「月を抱きし」となると淡い混乱が生じる。「月を抱きしをのこら」とはどのような意味か。「月」は衛星としての月であるばかりでなく、霊的で魔術的な冷たい恋の記憶である。月の白さにこだわる作者の、恋する女の記憶。幾世代もの女たちとの恋の薄明かりを抱いた男たち、その男たちの「滅びののち」にこそ「わが恋あらむ」とは、つまり虚構の恋にかけるということであろう。

「をのこら」は意識の奥でモノと化し、モノに月を抱かせることで魂を吹き込んでゆく。そしてふたたび滅ぼすことでモノに回帰しつつありえない恋としてみせる。

 底なしの淵に沈む恋、のようだ。

 

 恋ひ恋ひて石の睫毛のふるへしをわが告げし時ひとは舞ひにき

 

「恋ひ恋ひて」で抑えた地謡の声が聴こえてくる。「石の睫毛のふるはじ」とは石に睫毛を見ることであろうか、睫毛に石のきらめきの喩を感じることであろうか。ふるえるのであって、しばたたくのではない。誰に告げたのか。

「人は舞ひにき」の「ひと」とは誰なのだろう。「ひと」はいつ訪れ、客人(まらうど)なのか。結句は初旬と円環をなし、「ひとは舞ひにき恋ひ恋ひて」と呪文めく。「寄石恋」としてモノが生物に変化するばかりでなく、生物がモノとの境界を失って交感する。袖口や衿の布地と肌のように挑発しあう。

 舞に託す不在の恋。

 

 病葉(わくらば)の直ぐなるこゑのさびしさは逃がれむかたなし恋の耳にて

 

「恋の耳」は病の床になるものが聴覚ばかりを研ぎすましてゆくように、手に負えない感覚を持てあます。

 逃げ去った恋人を想うプルーストの話者のごとく、恋の変質の濁音を逃さない。

 

 さくら啼くさびしき夜なりしろがねの母はこがねの父に恋ひずも

 

 サ行音の擦音が、闇夜に風で笹の葉が囁きあうように通り抜けてゆく。母の父への恋であるから、「恋ひずも」とはいいながらも寄り添う。

 共謀の恋、にしかない。

 

 恋ほしき人の血を引く貌(かほ)を次々に夢に見たりき月匂ひしか

 

 本人は決して登場せず、血を引く者だけを次々と夢に見る。顔や面ではなく「貌」の表記を好む。水面を渡るように現れては消えてゆく浮遊感がある。月に匂いがあるのならば静脈の血の臭いか、経血の女の匂いか。

 初句七音の破調で演劇空間が出現し、「夢に見たりき」で昇りつめておいて、「月匂ひしか」と突き放す。結句での列的展開や情景効果や心理的技巧に滋れる心。

 悪魔はらいが必要な恋。

 

 ひと恋ふる三日月ならむひそやけく繊(ほそ)き四肢見ゆあくがれつるに

 

 二句、四句切れで、ふたつのイメージのぶつかりあいがくっきりしている。いや、初旬、三句で切れているのか、あるいはすべての句でぶつぶつと切れているような思いさえしてくる。ウ音の断絶は一歩誤れば散逸しがちとなるのだが、高みを保ちながら間欠的なエロティシズムとして滑らかに詠われている。裏でハ行音の鋭さが追走していることも一因だろう。

 ここでも「ひと」とは誰か。特定のきみでも彼でもない、具体を避け、普遍に到達したいという形而上学的なものへの憧れ。「三日月」、「ひそやけく」、「繊き四肢」の同義的ともいえる繊細な感覚は、「ひと」への恋がかぼそく消えいるものであり、実は はじめから何もなかったのではないかという疑念さえ生じさせる。

 形而上への憧れが古典意識に惹かれてゆく。それは、みだらな恋。

 

 星の刃にこころを研ぎしうたびとのひさしき恋をわが恋とせむ

 

「うたびと」とは藤原定家であり式子内親王であり釋迢空であり葛原妙子であるだろう。「うたびと」たちの重層の恋の記憶を「わが恋とせむ」と「うたびと」水原紫苑に転移しているのか。あるいは「うたびと」水原の恋を「うたびと」にあらざる水原が欲望しているのか。星の刃にこころを研ぐうちに、こころは鋭くなりすぎて、ついに磨り減ってしまうこともあるだろう。

「ひさしき恋」にはついにかなわぬ恋という響きがある。占有したき恋なのに。

 

 死のごとく恋ほしも蝶のみだれとぶ光彩のうちに能舞台みゆ

 

 恋が死と親しいのはしれたこと。「死のごとく恋ほしも」は微妙な表現だろう。死にいたるごとくと読むのだろうが、死そのもののごとくとも読める。「光彩のうちに」であり、光彩のはてにではないから能舞台はすぐ間近にある。日の前にあるにも関わらず、死のようにてふてふと橋懸に消失してゆく。みだれ飛ぶ蝶はつかみとれない現実の断片であり、その残像だ。

「光彩」の笛の音のような高音に心浮きたつ脱現実の恋。

 

 太陽をわが墓としてあゆみつつ馬上の恋にこころいそぐも

 

「馬上の恋」とは騎乗した者どうしの馬の背の高みのときめく恋であろうか。一頭の馬に同乗しての艶めいた恋の行為でもおもしろいし、馬を男と見立てることも可能だろう。しかしここでは一人恋こがれているだけの逸る恋といったところに違いない。

「わが墓」とあるのに明るい死のイメージなのは「太陽」の輝きと「あゆみつつ」、「こころいそぐ」、「馬上」という躍動感ある表現による。

 否定ではなく肯定の恋である。

 

 ひと恋ふるちからは北の黒冷(こくれい)の花よりいづときみ告げよかし

 

「恋ふる」にはあえて「ちから」を必要とせねばならないから、告げよではなく「告げよかし」なのだ。その「ちから」は「ひと」と「きみ」の関係に戯れつつも「花」から生まれる。この「花」に性的幻想の投影をみるのは安易にすぎよう。

 太陽より月、赤より白、ひまわりより椿、猫より大を好む精神には、幻視は南ではなく北、暑ではなく冷から訪れる。

 振り絞る恋。

 

 寒月を割りて生まれしますらをは母に恋ひずも青のみ恋ふる

 

「寒月」、「割」、「青」の象形の硬質の共犯に、「母」のなまぬるさ、乳くささは許し難い。

 変身譚としての「ますらを」は毒を求めて、困惑の恋にふける。

 

 きみはいま光の椿きさらぎの海やまの恋ひたに祈りて

 

 一瞬にして「きみ」が「椿」となる。屹立した長い蕊をもつ椿は冬の光を内包し、沈みこんだはずの光が蕊から黄の花粉となって零れる。野生の山椿なら猛々しい。何を「ひた祈りて」か。恋すること自体をか、恋の成就をか。海があり、山があり、それと同列に恋がある。

 イ音とア音の韻律の雪崩。ひとめばれの恋かもしれない。

 

 ひと恋ふる夢の中にて拾ひたる小石ま白く溶けゆきしかな

 

 読みくだすとおりに映像が展開してゆく。「て」と「かな」によって説話的であるため、澱んだり、 屈折したりするところがない。

 小石は悦楽を象徴しているのか。眠り薬のような言葉の錠剤は泡立ちながら白く溶けてゆき、夢の中で夢をみはじめる。

 素直なところが怖くなる嫉妬の恋。

 

 ともしびの色をまとへばかへり来る前の世の恋みずと浮きふね

 

 どこからどこへ還ってきてしまうのだろう。「ともしびの色」とは影の色か。前の世の恋はあるが死後の恋はない。うつつへなのか。『源氏物語』の『浮舟』から『夢の浮橋』の古層をみるのは当然として、句またがりで「恋みず」と<見せ消ち>の美学を連想するのはうがちすぎだろうか。

 ひたひたとした時間の波に濡れる、哀借の恋。

 

 客人(まらうど)のそびら恋ひつつひるがへる旗をおもへり夜も昼もなき

 

 正面からではなく背後からしか恋をしかけられない。ひとは「客人」なのだ。魂を吹き込まれてモノも「客人」として現れる。それは神として訪れるまれびとであり、そのひとに向って伸ばされた指先はその背に深く喰いこむことを夢みられた。告白したい、告自の快楽にひたりたいと恋の舞台から声がする。

『くわんおん(観音)』のおおいなる心によって救われたいのにハ行音が矢のように突き刺さる。

「ひと」「きみ」「客人」の三位一体への思いが、吹きやむことのない北風となって「恋ほする者」を記号の旗として翻弄する。

 破滅へといたる告自の恋。

                       (了)