「見るという不埒(隙見(すきみ))」(メモ)
見るという不埒を犯したものはその報いを受ける。受けねばならない。見られるものは挑発する。見られたものは禁を犯したものの死を神託のように正当化する。ディアーナとアクタイオンの神話はそのように悦楽にけりをつけた。見ることをそそのかすだけのものもまた罰せられる。
ヘロドトス『歴史』の巻頭にカンダウレス王の話がある。
王はあらゆる女のなかで妻こそが最高の美女だと信じていた。近習の一人ギュゲスに妃の容色を吹聴する。「わが妃の美しさについて話しても信用しないのだな。人は目ほどには耳を信用しないという。妃が服を脱いだ姿を見るがよい」とそそのかす。ギュゲスは「主君であるお妃さまの肌を見ろとはあまりなお言葉です。女とは肌着とともに恥じらい」をも脱ぎ捨てるものでございます。私どもが従わねばならない名言の一つに「おのれのもののみを見よ」というのがございます」と大声で辞退する。だがカンダウレスはギュゲスを閨房に連れ込み、開けたてたドアの後ろに潜ませる。ギュゲスは妃が部屋に入って服を脱ぐのを覗き見る。妃がベッドに向かって歩み、彼に背を向けると隠れ場所から抜け出て室外へと去った。
しかしこの覗き見は気づかれていたのだ。妃の目には出てゆくギュゲスの姿が映っていた。妃はそれが夫の仕業であると気づいていたが、復讐を誓って気づかぬふりをした。翌朝、妃はギュゲスを呼んで二つの道を示す。このようなことを企んだ夫カンダウレス王を殺して妃と王国をわがものとするか、または妃の肌を見るという不埒を犯したギュゲス自らが死ぬか。いずれかが死なねばならぬと。妃はギュゲスに短剣を渡す。あのときと同じドアの後ろに潜ませる。王がベッドに横になる。ギュゲスは王を刺し、妃と王国とをわがものとした。
わがものとした王国とは見えるものすべてのことなのだ。
ジョイス『ユリシーズ』の第十三挿話『ナウシカア』。黄昏の海辺。ブルームは打上げ花火を見上げている乙女達の一人、ガーテイ・マクダウェルのモスリンのズロースと青い靴下留めを覗き見ながら手淫する。見知らぬ女ガーティは彼の視線をあきらかに感じている。
プルースト『失なわれた時を求めて』の覗きの場面はどれも有名だ。亡きヴァントゥイユ氏の肖像写真の前で、喪服のヴァントゥイユ嬢は女友達と瀆聖にふける。シャルリュスとジュピアンのまるはな蜂と花のたとえの場面、シャルリュスの男娼の館における鞭打ちの情景、など。
旧約聖書『サムエル後書』にいわく。《ここに夕暮れにダビデその床より起きいでて王の家の屋根のうへに歩みしが屋根より一人の女の体を洗うを見たりその女は観るに甚だ美しダビデ人を遣わして女を探らしめしに或人いふ此はエリアムの娘バテシバにてヘテ人ウリアの妻なるにあらずやと ダビデすなわち使いを遣わしてその女を取る 女彼に来りて彼(かれ)女と寝たりしかして女その穢れを清めて家に帰りぬ かくて女孕みければ人をつかはしてダビデに告げていひけるは我(われ)子を孕めりと》
ダビデはウリアを激しい戦の最前線に出して戦死させ、喪があけるとバテシバを妻とした。男子が生まれが主の怒りに打たれて息絶える。英雄は、貴種は、ただ一度の交わりで神のように女を孕ませた。
『伊勢物語』初段はこう始まる。《むかし、男、うひかうぶりして、平城の京、春日の里にしるよしして、狩に往にけり、その里に、いとなまめいたる女はらから住みけり。この男、かいまみてけり。》
『源氏物語』こそ、見ること、とりわけ垣間見の可能性を極めた小宇宙だ。源氏亜流になると類型化してしまう覗き見がここではいきいきとしたヴァリエーションで息づいている。覗き見は身代わりを求める欲望で物語を構造化し、関係は合わせ鏡のように転写される。
『空蝉』 光源氏は空蝉が継娘の軒端萩と碁を打つ様子を覗き見る。白い薄物の単衣襲から胸をはだけた軒端萩のだらしない姿を見る。それは性的な興味ではなく庶民の姿を見たという社会的な興味にしかすぎないだろう。この時代、庶民の女のはだけた乳房にエロティシズムなどは感じていない。あるとすれば高貴な女の白い羅に透ける乳首の桜色にであろう。
『若紫』で源氏が幼い若紫を小柴垣から覗き見る場面は名高い。広がりをもった遠景が尼へ、若紫へと収斂してゆく視線と意識の集中化はカメラワークめいている。私たちは見るともなしに見ている。けれども、ひとたび欲望の対象に焦点を結ぶや、刺すように見る。見られた何ものかは針で刺された袋から砂金が零れ落ちるように目を眩ませ、そのとき私は見初める。が、人は見たいようにしか見ない。
『榊』より。源氏は藤壺中宮のもとへと忍びこむ。細めに開いた戸から中宮の横顔を見て、その美しさに感激する。契っても顔を見ることのない暗闇の中の愛。指先のつぶつぶとしてまろやかな肉感と指のあいだに絡みつく黒髪の感触こそが美を規定している。絹の手触りとたきしめた香りが相手の高貴さの証である。香りがイマージュを分類する。手触りが階級の暴力を容認する。
『野分』 風の激しさに御簾が吹き上げられた拍子に、夕霧は継母紫の上を目にする。その美しさに感じいる。美しさが罪を生む原動力となりかねないと源氏はおのれの経験から警戒していたのに。見るという行為はそれほどに危い行為なのだ。禁忌を経て死へと至りかねないおののきがここにはある。見ることは逢うことをこえて犯すことへとつながってしまう。夕霧がつぎに紫の上を見たのはその限りなく美しい死に顔だった。
『若紫(上)』 猫が御簾を引き上げてしまうことで柏木は女三宮を垣間見てしまう。猫は柏木の欲望を現実化した。夢の中の猫は不義の子を運んでくる。源氏は柏木を冷酷な眼差しで殺す。おのれの罪の行為に復讐する罪の子、薫。薫を抱きかかえて原罪の意識を植えつけてしまう源氏の射すような眼差し。
『橋姫』より。薫は宇治山荘の大君と中君姉妹の楽の音に誘われて透垣から透き見し、見定める。耳から目への欲望の奔流と、姉妹の品定めは後の源氏亜流物語でライト・モティーフのように繰り返される。
『椎が本』でも薫は炎暑の山荘で大君、中君の姉妹を覗く。襖子の掛け金の小さな穴から喰入るように見る。姉妹の性格を、隠れようとする、あるいは隠れようとしない仕草から読みとらせる描写の巧みさ。
『東屋』で匂宮は襖子の細めに開いたところから浮舟を見出す。そのまま手ごめにしようとし、しかし未遂に終わる。垣間見からしか男女の出逢いはないほどにすでに頽廃している。押し入ることなくしては契りに至らないほどに儀式を省略して危うさを求めている。恋する主人公になりきろうと恋するものは物語を模倣して生きずにはいられない。
『蜻蛉』でもまた襖子の細く開いたところから覗き見る。薫は長らくあこがれていた女一の宮の白い羅を着た美しさに見入る。魅入るとは見入るであろう。まことに襖子の開閉の中途半端さは罪作りである(西洋の建屋では窓か、ドアの影かしかないので、聴き耳の重要度が増す)。閉じられているようで開け放たれることを心待ちにしている。開かれているようで封じこめようと身構えている。それは、開かれて、閉じられるためにある。その身分の高さゆえに、その心弱き性格ゆえに押し入ることができず、妻である女二宮に羅の単衣を着せて悦にいるという薫の倒錯性。
『手習』 端役の中将が、尼となった浮舟を透き見する。端役にこれほどの紙数を費やした理由は何だろう。書き残された続編が存在したのか。あるいはこれは誰かの付け足しなのか。覗く男の品格は世代が廻るごとに低下し、ついにここでは何ものでもないものにまでなってしまっている。それとも尼という禁忌さえ犯させるための伏線だったのだろうか。
次いで、源氏亜流へと移る。ここでは覗きはポルノグラフィーのように類型化してしまっている。心理描写は恋と欲望の細部をさまよい、登場人物はパラノイアックかスキゾフレニーかに分極してとめどない。
『狭衣物語』 楽の音に誘われて女二宮と女三宮とを覗く。女二宮に心惹かれて我を忘れてしまう。なぜいつも、まず姉の方に惹かれるのか。女二宮を奥の御座にとらえて契る。そして懐妊。
『夜(半)の寝覚』 琴の弾き人、中の君(寝覚めの君)を萩のもとから垣間見る。軽々しい振舞いと自覚しつつ思いを鎮めがたく、契る。すなわち懐妊。近代的な自意識を持ちつつも欲望は鎮めがたいがゆえに、ただ一度で懐妊させる呪力を持つ。
『とりかえばや物語』 中納言(実は男装の姫)の妻である右大臣の四女を、宰相中将は琴の音に惹かれて透き見する。うつつ心をなくして忍び入り、あさましい振舞いに及ぶ。度々の逢瀬によって四女は懐妊する。のちに宰相中将は中納言を女と見破り、孕ませてしまう。音楽に導かれた垣間見は懐妊させずには終わらない。悦楽の証として子を宿し、増殖し、複数性へとナルシスティックに拡散してゆく。
女は見られるばかりだ。覗かない。立聞きなら女の領分なのに。たとえば『源氏物語』、『東屋』での匂宮レイプ未遂騒動での女房たちの立聞きのそれ。しかしどこにでも例外はある。例外は禁忌につながる。身分の低い男の強靭な肉体へ視線は注がれる。
『小柴垣草子』 後白河法皇の手も入ったと伝えられる。伊勢斎宮済子内親王は男を垣間見る。伊勢に渡る前の潔斎の場、野宮の斎宮御所で、警護にあたる滝口の武者平致光を御簾をずらせて垣間見る。色好みに美男子を待ちこがれる斎宮。稚拙な春画描写ながら、小柴垣のかたわらで斎宮済子は、堂上の気品はそのまるまるとした肌触りと豊かな髪に宿っているとばかりに、好色な目に白い肌を開き、黒髪を波打たす。この愛欲は衆知されるところとなり、伊勢行きは中止となった。警護にあたるはずの男の暴力に頬ずりして足を絡め、弓を引く太い指を処女の秘部へといざなう。
時代が下るごとに情熱は醜悪な形而下へと堕落する。
『太平記』 巻二十一より。塩冶判官の妻に横恋慕した高師直は、襖の隙間からその湯上り姿を覗き見る。紅梅の衣に練絹の小袖をはおり、濡れ髪を長く垂らした容姿に夢心地となる。師直は塩冶判官を戦場で憤死せしめる。しかし、恋に落ちたとは言いがたい師直はダビデのような神に見いだされたものにはなれない。悪行を積み重ねる師直はこれをきっかけに滅び去り、のちには『仮名手本忠臣蔵』においてまで揶揄されつづける。
『好色一代男』 巻一。九歳の世之介は菖蒲湯で行水しながら自慰をする仲居を遠眼鏡で覗く。
ああ、なんと恋から遠いところに来てしまったことか。
(了)