文学批評 「ナボコフの蝶」(ノート)

  「ナボコフの蝶」(ノート)

 

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 ナボコフの翻訳書を買い漁り、英語や、ロシア語の原書までいくつか揃えたのは、かれこれ四半世紀も前のことになる。その後、ナボコフの翻訳書は、海外文学紹介の熱がこの国から冷めるのと同期して――私もまた、多くを古本屋に売り払ってしまっていた――絶版があいつぎ、すっかり忘れ去られてしまったと思っていたら、1999年ごろから――それはナボコフ(そしてボルヘスもなのだが)の生誕100周年ゆえなのか―一、あらたに見出された書物や交換書簡、伝記、短編全集、新たな翻訳、翻訳家たちのエッセイなどもでて、にわかに活況を呈してきた。

 それらを今また読んでみると、当時夢中になったほどにはのめりこめない自分がいるのだけれども、なにかの役にたつこともあろうかと、当時のメモをここに転記しておく。

 

  神は細部に宿る。画家の癖は、なにげない細部に露呈している。ボッティチェルリの習性は画家が描く女の足の爪の形に現れている。それと同じように作家の記憶は、ナボコフの原風景は、ヒロインの眼差しや小道具に書きこまれた。

『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』のニーナは、《彼女には人を一心に見つめるおかしな癖があった――といっても目ではなくて顔の下半分をだ。まるで拭いとらなければならないパン屑か何かがついているみたいに。》

『フィアルタの春』のニーナは、《彼女の日は唇を読むかのように私の顔の下半分をじっと見つめている。そしてちょっと考えてから(恋心を察するのは得意だ)、振り向くと・・・》

 どちらのニーナも長いシガレット・ホルダーをもてあそぶ。

 ナボコフの曾祖母コルフ男爵夫人NINAをナボコフはこう書いている。《彼女は美しく、情熱的だったが、残念なことに彼女の私的なモラルはドレスの衿が低くえぐられていることに対しての厳格な態度から想い浮かべるほどではなかった。》 そして、ナボコフの父方の祖母はMARIAだった。

 名前にこだわったプルーストの後継者ナボコフアナグラム

『キング、クィーン、そしてジャック』

 甥のフランツの下宿のベッドでフォックス・トロットを踊るMARTA。

『断頭台への招待』                                 

 結婚の最初の年から夫を裏切って二人の子を産むMARTHE。

『ADA』

 母であり、また避妊を忘れたばかりにアーダのいとこヴァンの母であつたMARINA。

『賜物』

 主人公フョードルの彼女ツィーナの母で、老人を家に引きずりこむのは、MARIANNA。

『記憶よ、語れ』

 15歳のTAMARA。

『時間のなかの笑い』

 MARGO。

『ベンド・シニスター

 MARIETTE。

『マーシェンカ』

 英語化したときナボコフが選択した名前はMARY。

 

《7月3日メアリー、リーダ、そしてニーナ、このあづまやで雷雨のために、雨やどりをする。》 MARY、LIDA、NINA。のちにLIDAはLOLITAとADAに分裂し、NINAはMARYほどではないが、男に愛の泉の水を分け与える女として、『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』、『フィアルタの春』に現れる。

“L"と“T”のスタッカート、インスピレーションとコンビネーション。

『記憶よ、語れ』

 ビアリッツでフロスという名の犬を連れていたのはCOLETTE。

『ADA』

 妹はLUCETTE。

 

 ニュー・イングランドの陽だまりのマットから半裸のまま膝をついて、サングラスでこちらを見つめる『LOLITA』。その中で、ホテル・ミラナを遠景に据えたリヴィエラの鋭く、細長いミモザの茂みでLEIGHは欲望を放出させる。

 瑣末なところでは、『記憶よ、語れ』で、コレットに出会う二年前、同じビアリッツの海岸で夢中になったセルビアの医師の娘の名前はZINAで、『賜物』のフョードルの恋人の名前と同じだった。

 

 リボン。片足だけのソックス。ストッキング。この三種の神器による精妙な美意識。

『記憶よ、語れ』のCOLETTE。

《枯葉が僕の記憶のなかで彼女の靴と手袋の皮革に混ざりあい、そこから、そのときガラスのおはじきのなかの虹色の螺旋を思いおこさせた彼女の装い(たぶん彼女のスコットランド帽についていたリボンか、ストッキングの模様だ)をこまごまと思いださせる。》

 同じく『記憶よ、語れ』のTAMARA。

《彼女は自分の色鮮やかな褐色の髪を、手に負えないし、そのうえうっとうしいと非難し、いっそのこと短く切ってしまいたいと言ってきかなかった、そして一年後には短く切ってしまった。それでも私はいつも初めて見たときのままに思いだす。彼女は太く一本に編んだ三編みを頭の後ろで丸く束ね、大きな黒い絹の蝶形リボンで留めていた。》

LOLITA』では、

《彼女はローだった、ただのローだった、朝、四フィート十インチの背の高さでソックスを片方だけはいて立っているときには》

《不安定で、不機嫌だったり、上機嫌だったり、ぎこちないし、仔馬のような十代初期の女の子の酸っぱいしとやかさで優美だし、頭から足の先まで(女流作家のペンにとつてはすべて処女地!)、黒い既製品の蝶形リボンと髪の毛を要所でとめたヘアー・ピンから、ラフな白いソックスのニインチ上にある、ひきしまったふくらはぎの下の小さな傷痕にいたるまで(ピスキーでローラー・スケーターに蹴られたときのものだ)、すべてが耐えられないほどに欲望をそそる。》

《片方だけのソックスとお守りのブレスレットだけを身につけた裸の彼女が、私の媚薬を飲んでベッドの上に翼をひろげた鷲のように横たわる――そんなふうに私は予見した。ベルベットのヘアー・リボンはまだ彼女の手に握りしめられ、ほんのしるしばかりの水着の陰画のように白い像が日焼けした肌に描かれている蜂蜜色の裸身は、淡いつぼみのような乳房を私にさしだす。》

『ADA』では、

《洗面器のまわりに巻きついた磁器製の太った蛇、その爬虫類とヴァンとが、立ち止まって真横からイヴとそのつばみのような乳房の柔らかな揺れを見つめたとき、彼女の手から大きな濃い赤紫色の石鹸が滑り落ちた。そして、彼女の黒いソックスをはいた片足が、恥かしさによる不快感のしるしというより石鹸が大理石の台にぶつかってたてたバンという反響音とともにドアの鍵をかけてしまった。》

《アーダは野の花をきちんと束ねずに一束持ってきた。彼女は白いドレスに黒いジャケットを着て、長い髪を白い蝶形リボンでゆっていた。》

『マーシェンカ』(『メアリー』)では、

《ガーニンは縁がちょっとすり切れている黒い蝶形リボンをつけた褐色の髪の一房をめざしてじっと視線を注いでいた、そして彼の目はこめかみのあたりの黒くてなめらかな少女らしい髪の光沢を愛撫していた。》

《メアリーは暗く、さわさわと音のたつ小道を走っていった。彼女の黒い蝶形リボンは巨大なキベリタテハ蝶が飛んでいるように見える。突然メアリーは立ち止まり、ガーニンの肩につかまると、片足をあげて砂まみれの靴をこう片方の脚のストッキングにこすりつけはじめ、だんだんと上のほうへ青いスカートのふちの下まで上ってくる。》

『断頭台への招待』のエミーは、市松模様のソックスをはき、上体をかがめてボールを拾いあげると同時に片方のソックスを引っぱりあげる。

『フィアルタの春』のニーナは、結婚指輪のきらめきが透けてみえる絹手袋の手で、ストッキングの生地を調べている。

 蝶形リボン。アカタテハ蝶RED ADMIRABLEの学名はVANESSA ATLANTA。

『青白い炎』のなかの詩、

《わが暗黒のVanessa、その真紅の縞模様、祝福せし/見事な蝶よ!》

LOLITA』で、リーの母の名は、Vanessa van Ness。

『賜物』から、

《雪は、斜面から消えて、谷間に潜む、/そしてペテルブルクの春は/歓喜アネモネの花/いち早い蝶たちに満ちる。/だが私は去年のVanessaを望まない、/越冬で色あせた蝶など、/また疲れはてた黄蝶でもない、/透けてみえる森を飛びかうような。/私の思いは、そう、探しだすこと/四枚の愛らしい薄羽を持つ/世界でもっとも優雅なシャクトリ蛾を/羽を水平に広げてとまっているまだらに淡い樺の本の幹に》

『ADA』では、

 クリームに手をのばしたアーダの手を調べてみると、われわれの掌の上で一瞬しっかりと羽を閉じて横たわり、そして突然手からかき消えてしまうキベリタテハ蝶を思い浮かべる。      

《変態したばかりの一匹のNymphalis Carmenから褐色をおびた琥珀色とレモン色の羽を格子から射しこむ陽光の断片に広げていたが、あっけなくも、狂気するとともに無情でもあつたアーダのすばやい指先のひとひねりで死んでしまった。》

《いやらしい?  いやらしいですって? この昆虫は新しく記録された、空想的なほど珍しいタテハ蝶Nymphalis danaus Nav.なのよ》とアーダは立腹した。

『記憶よ、語れ』の標本箱、

 ビアリッツでCOLETTEに出会った年、バスク語で蝶をMisericoleteaと言うと教わった(少なくともそんなふうに聞こえた)。タマーラを知った年は秋が早く、黒いベルベットのようなキベリタテハCambewell Beautyが森の空地を飛び去った。そのキベリタテハは冬眠で緑が脱色し、傷ついた黒い羽を陽にさらしてアレクサンドロフスキー公園のベンチの背にとまっていた。

 蝶のための第六章の言葉、《告白するが、私は時間の存在を信じない。魔法の絨毯は使ったあと、ひとつの模様が他の模様と重なりあうように折り畳みたいのだ。来客がつまずいても仕方がない。私が時間の非存在を最高に楽しむのは――でたらめに選んだある風景のなかで――珍しい蝶とその食樹のあいだに立っているときだ。これこそエクスタシー、そのエクスタシーの背後には説明しがたい何かがある。それは私が愛するすべてに襲いかかる瞬間的な真空状態みたいだ。》

 タテハ蝶はNymphalidae。女性の色情狂、淫乱症をNymphomaniaという。

 蝶の名のなかに、ナボコフが偏愛した記憶のなかで群れ飛ぶ女の名のアナグラムのすべてがある。

                          (了)