文学批評 「『ノルウェイの森』直子の夢の浮橋」

  「『ノルウェイの森』直子の夢の浮橋

 

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 直子は《僕の目をのぞきこむ。まるで澄んだ泉の底をちらりとよぎる小さな魚の影を探し求めるみたいに。》

 直子の顔が浮かんでくるまでの時間は《最初は五秒あれば思いだせたのに、それが十秒になり三十秒になり一分になる。まるで夕暮の影のようにそれはどんどん長くなる。》

 村上春樹ノルウェイの森』は、「直子」が登場したとたんに「まるで」の洪水になる。《まるで強風の吹く丘の上でしゃべっているみたいに》、《まるで探しものでもしているみたいに》、《まるでどこか狭くて細長い場所にそっと身を隠しているうちに》、《まるで魂を癒すための宗教儀式みたいに》、《まるでそこで突然時間が止まって動かなくなってしまったように》、《まるで僕の体温をたしかめるみたいに》、《まるで月光にひき寄せられる夜の小動物のよう》、《まるで魚のようにひらりと》、……。

 僕にとって直子は《小さな乳首や、へそのくぼみ、腰のくぼみや、腰骨や陰毛のつくりだす粒子の粗い影は、まるで静かな湖面をうつろう水紋のようにそのかたちを変えて》ゆく、《まるで夢のつづきを見ているような気持ち》の存在だった。どれほどに直子が「まるで」という香をくゆらせて思い出にあらわれ、夢路を通うかは、もう一人の現実的な恋人小林緑からは「まるで」がほとんど匂わないことと対比的だ。

 すでに多くの評論が指摘しているように、直子という固有名詞は村上にとって特別な意味をもつ。デビュー作『風の歌を聴け』のまだ名前をもたない仏文科の女の子は、次作『1973年のビンボール』ではっきりと直子という名前をもらい、『ノルウェイの森』の直子と同じく井戸(それは『ねじまき鳥クロニクル』でいっそう深く掘られる)について語ってやまない。そしてニーチェもしくはコクトーのテーゼからの《死は生の対極としてではなく、その一部として存在している》(モラリストかつユマニストとしての村上)をなぞるように、どの直子も死の淵へと自ら歩んでしまう。

 直子の耳は《やわらかな丸い形の耳たぶ》で美しく小さい。《目はどきりとするくらい深くすきとおって》いて、《いつも見当違いな言葉しか浮かんでこないの》と《顔を上げて僕の目を見つめた。》

《僕は直子について書いてみようと試みたことが何度かある。でもそのときは一行たりとも書くことができなかった》という文章は、『風の歌を聴け』、『1973年のビンボール』で直子を脇役としてしか書けなかった作者の個人的な悔恨の声でもあった。とうとう村上は『ノルウェイの森』で直子の魂の井戸に降りてゆき、直子は森で命を絶つ。その後、直子という名前はあらわれなくなる(けれども、15年後の『海辺のカフカ』の佐伯さんのなかにさえ直子の面影は生きている)。

《いつまでも忘れないさ》と僕は言った。《君のことを忘れられるわけはないよ。》 僕は記憶を辿りながら文を紡ぐ。《結局のところ――と僕は思う――文章という不完全な容器に盛ることができるのは不完全な記憶や不完全な想いでしかないのだ。そして直子に関する記憶が僕の中で薄らいでいけばいくほど、僕はより深く彼女を理解することができるようになったと思う。》

 直子が入った療養所のある京都の山奥――『源氏物語』宇治十帖で、薫と匂宮の二人の男に愛されたすえに入水し、横川の僧都に助けられた浮舟が世を捨てて移り住んだ比叡小野よりずっと北、美山あたりか――の草原で、直子は固くなった僕のペニスを手で握り、ゆっくりと指を動かしはじめる。

夢の浮橋』巻で浮舟は薫と対面することを拒む。男と女の愛のすれ違い。千年前と変わらぬ恋愛の主題がここにある。

「世の中は夢のわたりの浮橋かうちわたしつつものをこそ思へ(『源氏物語』奥入)」という誰しらぬものもなき出典もわからぬ古歌は、浮舟と薫のノヴェル・ノワールから『狭衣物語』の「見るを逢うにて」の屈折した心理ドラマ「はかなしや夢のわたりの浮き橋を頼む心の絶えもはてぬよ」をへて、『ノルウェイの森』の「まるで」の夢路に流れこむ。

 

<濡れる/濡れない>

《僕は三十七歳で、そのときボーイング747のシートに座っていた。その巨大な飛行機はぶ厚い雨雲をくぐり抜けて降下し、ハンブルク空港に着陸しようとしているところだった。十一月の冷ややかな雨が大地を暗く染め、雨合羽を着た整備工たちや、のっぺりとした空港ビルの上に立った旗や、BMWの広告板やそんな何もかもをフランドル派の陰うつな絵の背景のように見せていた。やれやれ、またドイツか、と僕は思った。》

ノルウェイの森』は飛行機が雨に濡れながら降下するところからはじまる。感じられる「濡れ」と、降下する「時間」としてはじまるのだ。いつか雨合羽は直子のそれを追憶させるだろう。ここには三十七歳にして、私ではなく「僕」という表記でしか自分をしっくりと語れない村上作品の主人公がいる。そして、井戸やエレベータと同じく、降下という現象で冒頭から読者を現実界から引き降ろし、魂をモラトリアムに放浪させる、いつもの手法がある。そのうえ、村上お得意の「やれやれ」まで、マスターが何気なく差しださすジャズ喫茶のカウンター・サービス精神だ。

 なぜ「またドイツか」の理由はここに書かれていない。なぞをそこかしこに仕掛け、残すのは村上がおそらくはギリシア演劇から学んだ手法だが、なぜ主人公がドイツのハンブルクに着陸しようとしているかへの言及はとうとう最後まであらわれない。記憶の物語は円環のように閉じることなく、ただそれっきりである。「ノルウェイの森」のメロディーを聴かせるためだけなら、なにもハンブルクは必要ないはずなのだ。簡単なことなのだが、十八年前の僕にドイツは結びついている。

 十八年前に僕は大学でドイツ語の授業をとっていて、京都まで直子を訪れたさいにはトーマス・マン魔の山』を持参し、緑の実家小林書店ではヘッセ『車輪の下』を拝借し、寮の先輩永沢さんの外務官僚としての赴任地はボンだった、というドイツづくしの予兆としての「やれやれ」であるのか。

《十八年という歳月が過ぎ去ってしまった今でも、僕はあの草原の風景をはっきりと思いだすことができる。何日かつづいたやわらかな雨に夏のあいだのほこりをすっかり洗い流された山肌は深く鮮やかな青みをたたえ、十月の風はすすきの穂をあちこちで揺らせ、細長い雲が凍りつくような青い天頂にぴたりとはりついていた。》 秋雨に濡れた記憶は言葉にされることを待っていた。《僕は何ごとによらず文章にして書いてみないことには物事をうまく理解できないというタイプの人間なのだ。》 そうして、十七歳の秋に死んだ友達キズキの恋人だった直子が、草原で井戸の話をしたことを思いだし、さらにその二年前、ほぼ二十年前の学生寮での出来事に、話は瓢箪鯰みたいに逃げてゆく。

 そこからの時間の流れに従って、「濡れる」現象を見てみよう。濡れることで『ノルウェイの森』は『源氏物語』を、とりわけ宇治十帖をインター・テクスチュアリティとする。彼一流の韜晦に踊らされてはいけない。村上が自分の文体を作り上げたと言い、翻訳まで出していて、『ノルウェイの森』のなかでも主人公に――作者当人ではないにしても――《僕が当時好きだったのはトルーマン・カポーティジョン・アップダイクスコット・フィッツジェラルドレイモンド・チャンドラーといった作家たちだった》と言わしめ、『グレート・ギャッツビー』を最高の小説とするアメリカ文学ではなく、巧妙に正体が隠されているものにこそ深く本質的なものがあるのだから。

 それは海外文学でいえばギリシア演劇とドイツ文学であり、日本文学においては『雨月物語』や『源氏物語』に違いない。やがて村上は『海辺のカフカ』で表だってそれらについて言及し、主人公の十五歳の少年にはいささか難しい谷崎源氏を(与謝野源氏ではなく)読ませてしまう。谷崎は住吉、夙川、岡本、魚崎、蘆屋といった阪神間に移り住んだが、その地こそ村上が高校次代をすごして、初期小説の舞台とし、そして『ノルウェイの森』でも、神戸は、僕、キズキ、直子の三人の出身地とされている。また村上は、かえって反撥したとはいえ京大出の国語教師の一人息子であったから、人よりは『源氏物語』は身近であっただろう。六条御息所もののけにみる離人症や生き霊の姿――自我が外被の裂けめから外界に浮遊する――は、村上にとってライト・モティーフともいえる世界である。

 さて『ノルウェイの森』において濡れることの外因は雨であり、内因は涙か性的官能である。ときにそれらは手を携えてやってきて自我表現を求める。

《直子の誕生日は雨だった。》 直子の二十歳の誕生日は「濡れる/濡れない」が交錯する時間だった。ケーキを少し食べ、ワインを飲みながらいつになくしゃべりつづけた直子の言葉のきれはしがふっと消える。《彼女の目から涙がこぼれて頬をつたい、大きな音を立ててレコード・ジャケットの上に落ちた。最初の涙がこぼれてしまうと、あとはもうとめどがなかった。彼女は両手を床について前かがみになり、まるで吐くような格好で泣いた。(中略)彼女は僕の腕の中でぶるぶると震えながら声を出さずに泣いた。涙と熱い息のせいで、僕のシャツは湿り、そしてぐっしょりと濡れた。》

《その夜、僕は直子と寝た。》 そうすることが正しかったのかどうか、二十年近く経った今でもわからない、たぶん永遠にわからないだろうと思う僕は、間違いなくジェンダー性の希薄な薫の同類だろう。あるいは友人柏木亡きあと、その妻落葉の宮に恋した夕霧のようである。《暖かい雨の夜で、我々は裸のままでも寒さを感じなかった。(中略)彼女のヴァギナはあたたかく濡れて僕を求めていた。》 濡れると表徴はやわらかく開く。

《全てが終ったあとで僕はどうしてキズキと寝なかったのかと訊いてみた。でもそんなことは訊くべきではなかったのだ。》 あたりまえであるが、訊くべきではなかったと内省してしまうことこそ、光源氏から夕霧、そして薫へと小ぶりに落ちてゆく卑小な欲望の証左である。僕とキズキには、源氏と頭中将、夕霧と柏木、薫と匂宮に連なるにつれて軽身が失われ、鬱へと向かった同性愛的親密さまであった。

 直子は浮舟のように涙にくれる。《直子は僕の体から手を離し、また声もなく泣きはじめた。僕は押入から布団を出して彼女をそこに寝かせた。そして窓の外を降りつづける四月の雨を見ながら煙草を吸った。》

 その年の秋、京三条からバスで一時間もかかる辺境の地――そこまでの道のりの自然描写は『橋姫』巻で薫が宇治に向かう通い路を想わせる――で再会した直子は、《「ねえ、あなたあのときどうしてキズキ君と寝なかったのかって訊いたわよね? まだそのこと知りたい?」》と髪を下げたり上げたりする。《「全然濡れなかったのよ」》と直子は小さな声で言った。《「私、あの二十歳の誕生日の夕方、あなたに会った最初からずっと濡れてたの。そしてずっとあなたに抱かれたいと思ってたの。抱かれて、裸にされて、体を触られて、入れてほしいと思ってたの。そんなこと思ったのってはじめてよ。どうして? どうしてそんなことが起こるの? だって私、キズキ君のこと本当に愛してたのよ」》

 この、《「だって私、キズキ君のこと本当に愛してたのよ」》がいつの時点のことなのかが問題だ。僕に抱かれたときにもまだ死んだキズキのことを愛していたのに、なぜキズキとは濡れずにそのときだけ濡れてしまったのか、という罪深さ。二人の男に愛されて気持ちが揺らいだ浮舟よりももっと業の深い死者への愛とそれを裏切る身体との絡みあいという悲劇。

 おそらくは大君が形代としての中の君を、その中の君は大君の形代として浮舟を薫に近づけようとしたごとく、僕も直子も緑もレイコもみなが形代を探し求めていて、ついに形代でなくては癒せなくなってしまう。そこに魂のリリシズムが生まれ、一人一人は閉じた世界で情の襞を濡らしつつ、救済を求める。

 十七歳のキズキの突然の死によって人を愛するということがどういうことなのかわからなくなっていた直子は、身体が濡れることが心を裏切ることもあるのを知り、そのような手に負えない自我に混乱した。

《彼女はテーブルの上のワイン・グラスをとろうとしたが、うまくとれずにワイン・グラスは床に落ちてころころと転がった。ワインがカーペットの上にこぼれた。僕は身をかがめてグラスを拾い、それをテーブルの上に戻した。もう少しワインが飲みたいかと僕は直子に訊いてみた。彼女はしばらく黙っていたが、やがて突然体を震わせて泣きはじめた。直子は体をふたつに折って両手の中に顔を埋め、前と同じように息をつまらせながら泣いた。》 いつもワインが涙を誘う。カーペットを濡らしてしまったワインを見て直子は言葉を失う。適切な言葉を自我が探している沈黙の時間ののちに直子は外界に向かって軋(きし)む。

 翌日は夜になってから雨の匂いがおりてくる。宇治十帖はいつも雨か露で濡れていた。『橋姫』巻では宇治を訪ねる薫に散りかかる木の葉の露が冷たく、『椎が本』巻で匂宮が雨空の宇治に使わせた男は暗く恐ろしい道を馬で早打ちに走り、ひどく服を濡らす。『総角』巻の薫と匂宮は冷たい雨が降りそそぐなかを衣服を湿らせて宇治山荘に向かい、大君が病になれば時雨(しぐれ)が降る。『東屋』巻での浮舟は匂宮に押さえこまれ、恐ろしい夢のさめたような気になって汗びっしょりになるばかりか、せつなく苦しく、うつ伏せになって泣く。『浮舟』巻では大降りの雪をついて宇治山荘を訪ねるという愛を示して匂宮は濡れることでひときわ匂いたつ。そして『手習』巻で入水にも命をとりとめて見出された浮舟は白い綾(あや)の服を宇治川の水と涙に濡らしていたことだろう。

 ついで『ノルウェイの森』でもっとも美しい雨の情景がやってくる。《直子はソファーに座って本を読んでいた。脚を組み、指でこめかみを押さえながら本を読んでいたが、それはまるで頭に入ってくる言葉を指でさわってたしかめているみたいに見えた。もうぽつぽつと雨が降りはじめていて、電灯の光が細かい粉のように彼女の体のまわりにちらちらと漂っていた。》

 雨は人を内省へと向かわせる。《そして我々は雨の音を聴きながら葡萄を食べた。「こんな風に雨が降ってるとまるで世界には私たち三人しかいないって気がするわね」と直子が言った。「ずっと雨が降ったら、私たち三人ずっとこうしてられるのに」》

 雨は人をひとつの感情に閉じこめる。それは孤独であったり恋であったりするが、まるで宇治の姉妹たちの琵琶と琴との音の官能のようにレイコさんのギターの音色は物語のBGMとなる。

 雨の匂いは陰鬱の底で人を懐かしい気分にさせる。《十二時少し前に寝室のドアがそっと開いて直子がやってきて僕のとなりにもぐりこんだ。(中略)闇と雨音がやわらかく僕らをくるんでいた。》 直子がベッドから出てゆくと、《雨の音を聴きながら、僕は静かな眠りについた。》 翌朝も細い秋雨で、直子はフードのついたビニールの黄色い雨合羽を着て鳥小屋の世話をする。

 冬休みになると雪靴をはいて京都まで再び出向いた《僕は直子を抱き寄せ、下着の中に指を入れてヴァギナにあててみたが、それは乾いていた。直子は首を振って、僕の手をどかせた。我々はしばらく何も言わずに抱きあっていた。》

 濡れないことが二人の言葉を失わせる。

《「どうして私濡れないのかしら?」と直子は小さな声で言った。「私がそうなったのは本当にあの一回きりなのよ。四月のあの二十歳のお誕生日だけ。あのあなたに抱かれた夜だけ。どうして駄目なのかしら?」 「それは精神的なものだから、時間が経てばうまくいくよ。あせることないさ」 「私の問題は全部精神的なものよ」と直子は言った。》

 森で縊死してしまう前夜、直子はまたもワインを飲みながら、いつになく僕とのセックスについてくわしくしゃべりだしたと、のちにレイコさんが話して聞かせる。そこには時間の不可逆性の無常さと、魂の救済は簡単にはありえないと宇治十帖のごとく教えてくれる。感じられるということは、他人が自己のなかに入りこみ、乱すことを全面的に受け入れることであり、少しでもそのことに違和感を覚えれば濡れない。

《『でも駄目なのよ、レイコさん』って直子は言ったわ。『私にはそれがわかるの。それはやって来て、もう去っていってしまったものなの。それは二度と戻ってこないのよ。何かの加減で一生に一度だけ起ったことなの。そのあとも前も、私何も感じないのよ。やりたいと思ったこともないし、濡れたこともないのよ』》 それから直子はしくしく泣きだしたそうだ。暑い夜で直子は汗やら涙やらでぐしょぐしょに濡れ、翌朝六時にレイコが目を覚ましたとき彼女はもういなくて、森を探したのだった。

 濡れるという語は直子ばかりでなく、緑をも濡らす。緑とその父親を病院に見舞った翌週末の朝、緑から電話が来る。《冷たい雨が音もなく降っていた。お父さんさっき死んじゃったの、と小さな静かな声で緑が言った。》

 髪型が変ったのに気づいてくれなかったからと緑は口をきかなくなり、ようやく二ヶ月後に講義のあとでとなりに座ってくる。《窓の外には雨が降っていた。梅雨どき特有の、風を伴わないまっすぐな雨で、それは何もかもをまんべんなく濡らしていた。》 緑に誘われて日本橋高島屋の食堂に行くと、店内には雨の匂いが漂っている――人は匂わず、雨ばかりが匂う村上の世界。《「これからどこに行くの?」と僕は訊いてみた。「デパートに来て食堂でごはん食べたんだもの、次は屋上に決ってるでしょう」と緑は言った。》

ノルウェイの森』のなかで僕はただの一度でさえ、自分から先になって動くということをしない――最後にレイコさんと交わるときでさえ、《「ねえワタナベ君、私とあれ(・・)やろうよ」》で《「僕も同じこと考えていたんです」》だ。それこそ僕が薫の人物造形の鋳型である由縁に違いない。そして中の君も浮舟も心が弱ってくると薫に惹かれたように、僕も女たちを惹きつける。しかし薫も僕も女を深く愛しきれないばかりか、いったい誰を自分は愛したいのかさえわからないといったしだいで、それは源氏亜流といわれる『狭衣物語』や『夜半の寝覚』にひきつがれる気質で、パラノイアとスキゾフレニーを一人の人間が揺れ動いてしまうといった現代的な精神の闇の先駆なのだった。

 雨の屋上に人は一人もいなかった。そこで僕は緑に、彼と別れたと告白されるが、まるで薫がいつも感情移入しきれなかったのと同じように緑の言葉に感情移入してゆかない。《我々はゲーム・コーナーの裏手で傘をさしたまま抱きあった。彼女の髪にも、ジーンズのジャケットの襟にも雨の匂いがした。(中略)僕は彼女の体を抱き寄せて口づけした。「そんな下らない傘なんか持ってないで両手でもっとしっかり抱いてよ」と緑は言った。「傘ささないとずぶ濡れになっちゃうよ」 「いいわよ、そんなの、どうでも。今か何も考えずに抱きしめてほしいのよ。私二ヶ月間これ我慢してきたのよ」 僕は傘を足もとに置き、雨の中でしっかりと緑を抱きしめた。高速道路を行く車の鈍いタイヤ音だけがまるでもやのように我々のまわりをとり囲んでいた。雨は音もなく執拗に降りつづき、それは僕らの髪をぐっしょりと濡らし、涙のように頬をつたって落ち、彼女のジーンズの上着と僕の黄色いナイロンのウィンド・ブレーカーを暗い色に染めた。》

 川を泳いで渡ってきたみたいな二人は緑のアパートでシャワーを浴びてから、彼女の指の動きに導かれて、緑が自ら脱いだパンティーを精液で濡らす――村上春樹の小説の多くは妊娠とは無縁で、マスターベーションか、さもなくば膣外射精の不毛さからなる、ゆえにたった一夜の契りで懐妊してしまう平安文学のなかでは異色の妊娠しない浮舟のような虚の世界なのだ。

 宇治十帖では登場人物みなが雨や露に濡れてしまうのだが、そればかりでなく意識的に濡れる場面まであって、いわば濡れづくしとなっている。『蜻蛉』巻で、こがれる一品の姫君を薫はのぞきみるが《白い羅(うすもの)を着て、手の上に氷の小さい一切れを置き、騒いでいる人たちを少し微笑をしながらながめておいでになる方のお顔が、言葉では言い現わせぬほどにお美しかった。(中略)小宰相は自身の分を紙に包み、宮へもそのようにして差し上げると、美しいお手をお出しになって、その紙で掌をおぬぐいになった。》(与謝野源氏より) 翌朝薫は一品の姫宮の妹にあたる夫人の女二の宮に手ずから薄物の単衣(ひとえ)を着させ(ここには衣をめぐる形代(かたしろ)の儀式がある。折口信夫が述べたように、かつて衣を贈るという行為は魂の分割であった。直子は手袋やセーターを僕に贈ってよこしたが、ついには「洋服を全部レイコさんにあげてください」と遺書を残し、だからこそ僕は直子のシャツとズボンと上着を着たレイコさんと過去をとりもどすかのように四回も交わったのに違いない)、肌の透くのをおもしろがる。《氷を取り寄せて女房たちに薫は割らせ、その一塊を取って宮にお持たせしたりしながら心では自身の稚態がおかしかった》とは、僧に近い内省心をもつ男の煩悩と物思いであったが、なんと僕に似ていることだろう。

 

<髪/耳>

 ハンブルク空港のルフトハンザ機のなかで思いだす。《風は草原をわたり、彼女の髪をかすかに揺らせて雑木林に抜けていった。》 

 今では時間をかけてやっと思いだすために《さらりとした手ざわりのまっすぐなきれいな髪や、やわらかな丸い形の耳たぶやそのすぐ下にある小さなホクロ》などのイメージをひとつひとつ積みかさねていくことで、ふっと彼女の顔が浮かびあがってくる。とりわけ髪と耳が直子を思いださせる記憶の羊の烙印なのだ。

 四ツ谷駅で降りて歩きはじめた《僕は直子の一メートルほどうしろを、彼女の背中とまっすぐな黒い髪を見ながら歩いた。彼女は茶色の大きな髪どめをつけていて、横を向くと小さな白い耳が見えた。時々直子はうしろを振り向いて僕に話しかけた。》 それから二人はほとんど毎週会って、歩きまわった。あてどない心の地図をめぐる営為である。《直子はいろんなかたちの髪どめを持っていて、いつも右側の耳を見せていた。僕はその頃彼女のうしろ姿ばかり見ていたせいで、そういうことだけを今でもよく覚えている。直子は恥かしいときにはよく髪どめを手でいじつた。》

 あきらかに髪よりは耳に偏執している。髪に目線が向うのに、最後には耳に滞留する。たとえばヘア・スタイルが変わっていたので誰なのかわからなかった緑――なんとたびたびヘア・スタイルを変え、気づいてもらいたがる女の子だろう――に横を向いてみさせ、《「うん、とても良く似合ってると思うな。きっと頭のかたちが良いんだね。耳もきれいに見えるし」》とつけ加えずにはいられない。

 これほどチャーム・ポイントとして耳を描写することは現代の小説でも珍しいが、『源氏物語』ではどうかといえば、少なくとも一か所、それも読者の記憶にくっきりと残る耳がある。夕霧の妻雲井雁が髪を耳のうしろにはさみこむことで耳をあらわにしている様子は、泣きやまぬ赤子のために胸をあけひろげにしていることと同レベルの庶民的はしたなさの記号として扱われた。けれども、もちろん直子のそれは愛すべきフェティッシュな耳であって、欲望の対象に相違ない。

 直子はよく指で髪をすく。まるで髪をすくことで言葉をしぼりだすかのように。あるいは言葉の連なりを形にした髪にすがりつくかのように。直子と緑は世代が違うほどに性格――とりわけ言葉への対処――が離れているかのようでいて、無意識のうちに髪に固執しているところが姉妹のようである。阿美寮で僕の前にあらわれた直子はまるで小学生の女の子のようなさっぱりとした髪型をしていた。《髪どめを外し、髪の毛を下ろし、指で何度かすいてからまたとめた。蝶のかたちをした髪どめだった。》 その後も、直子は髪どめをはずしては手の中で蝶のかたち――蝶はギリシア語のプシケーで、魂という意味を併せもつ――をした髪どめをもてあそび、また髪を上げ、髪どめでとめた。まるで魂をひきとめるかのように。

 よく知られているように『源氏物語』の世界では、髪に魂が宿るのであり、男が女の髪に触れ顔を見るという文章があれば、それは性愛があったことを暗示している。たとえば、気のきかない真面目男夕霧が友人柏木亡きあとで、その妻落葉の宮に言いより、途巡のすえにとうとう蔵にこもった宮の髪をすき、顔を見たという記述にたどりついた読者は、ここで実事があったことを知る。だからこそのちに薫が大君の髪に手を触れ、顔を見たのに契らなかったことにかえって異常性をかぎとってしまうのであり、それは僕が直子や緑の指の導きだけで我慢することと同じ禁欲の質であろう。

 その夜、ソファー・ベッドの足もとにあらわれた直子は生き霊かもののけのようである。《髪の外側を例の蝶のかたちをしたピンでとめていた。そのせいで彼女のきれいな額がくっきりと月光に照らされていた。妙だなと僕は思った。彼女は寝る前には髪どめを外していたのだ。》 髪どめを村上は記事として読者に供している。翌朝の直子は何もなかったかのようで、《何のかざりもないシンプルなヘアピンで髪をとめていた。》 冬に再び来たとき、直子は指で僕を射精させたあと、《じゃあ、これも覚えていてね》と言って、体を下にずらし、僕のペニスにそっと唇をつけ、それからあたたかく包みこみ、舌をはわせた。直子のまっすぐな髪が僕の下腹に落ちかかり、彼女の唇の動きにあわせてさらさらと揺れた。そして僕は三度めの射精をした。》 直子の髪が下腹をリズミカルに撫で、書かれてはいないけれども、きっとちらちらとほのみえた透けるように白い耳が赤く上気していることに我慢できなかったのだろう。

 宇治十帖が浮舟による自己および他者の救済の文学であるように『ノルウェイの森』も救済をめぐる文学である。救済に成功したかではなく、救済を求めつづける魂の震えを言葉にしたことである。どちらの作品も閉じきれずに物語はとうとつに終わる。物語は新たな救済をめぐって展開をみせると予兆させ、ついに作者はテクストとして抽出できずに暗示するのみだ。救済の主題は沈黙の領域にまでひろがっている。《まだ黙して語らない経験をこそ、その経験自身の意味の純粋な表現へともたらさねばならない。》(フッサール)にこそ、村上が求めてやまない不可能性がある。

 

<指/言葉>

 意味の結びめ。それが指ではないのか。もしかしたら指は触れるものを求めているのではなく、自我表現としての言葉を求めている。たとえば射精を導く指は、身体と世界、自我と外界との含みあいや感覚の絡みあいの結びめとして言葉をとめどなく求めつづけている。

五月半ばの日曜日、駒込の駅近くでそばを食べ終った直子の指は言葉をさぐりはじめる。《彼女はテーブルの上の灰皿をとくに意味もなくいじりまわしていた》からはじまって、《彼女はトレーナー・シャツの両方の袖を肘の上までひっぱりあげ、それからまたもとに戻した》につづき、《彼女はため息をついて目を閉じ、髪どめをいじった》まで直子は指を動かすことでうまく説明できない思いを表現しようと、悪魔と戦う天使ヤコブのように格闘していたのだ。

《「うまくしゃべることができないの」と直子は言った。「ここのところずっとそういうのがつづいてるのよ。何か言おうとしても、いつも見当ちがいな言葉しか浮かんでこないの。見当ちがいだったり、あるいは全く逆だったりね。それでそれを訂正しようとすると、もつと余計に混乱して見当ちがいになっちゃうし、そうすると最初に自分が何を言おうとしていたのかがわからなくなっちゃうの。まるで自分の体がふたつに分かれていてね、追いかけっこをしてるみたいなそんな感じなの。まん中にすごく太い柱が建っていてね、そこのまわりをぐるぐるとまわりながら追いかけっこしているのよ。ちゃんとした言葉っていうのはいつももう一人の私が抱えていて、こっちの私は絶対にそれに追いつけないの」》

 夏休みが終って秋がやってきて、その秋が終り冷たい風が町を吹き抜けるようになると、彼女はときどき僕の腕に体を寄せた。《彼女は僕の腕に腕を絡めたり、僕のコートのポケットに手をつっこんだり、本当に寒いときには僕の腕にしがみついて震えたりもした。でもそれはただそれだけのことだった。(中略)彼女の求めているのは僕の腕ではなく誰かの腕なのだ。彼女の求めているのは僕の温もりではなく誰かの温もりなのだ。僕が僕自身であることで、僕はなんだかうしろめたいような気持になった。》 このとき腕は指の延長であろう。分裂しそうな自我が表現の不可能性としての徴候を示すことを、指や言葉でつなぎとめようとする登場人物たちがいる。誰か(・・)をキズキと特定することは間違っているのかもしれない。誰かとしかいいようのない、もしかしたら自分そのものかもしれない、ニーチェ的な永劫のとりとめなさがそこかしこにある。

 冬が深まるにつれて直子の目は透明さを増し、何かを探し求めるように僕の目の中をじつとのぞきこんだ。《まなざしとは、手触りの注目すべき一つのヴァリエーションと言える》(メルロ=ポンティ)であり、目の底から言葉の肌理(きめ)を見出そうと必死なのだ。

《たぶん彼女は僕に何かを伝えたがっているのだろうと僕は考えるようになった。でも直子はそれをうまく言葉にすることができないのだ、と。いや、言葉にする以前に自分の中で把握することができないのだ。だからこそ言葉が出てこないのだ。そして彼女はしょっちゅう髪どめをいじったり、ハンカチで目もとを拭いたり、僕の目をじっと意味もなくのぞきこんだりしているのだ。(中略)そんなわけで僕らはあいもかわらず東京の町を歩きつづけ、直子は虚空の中に言葉を探し求めつづけた。》 そんな素直な直子を誰がいとおしくならずにいられよう。しかもその素直さに直子自身が反乱しているのだから助けの手を差しのべたくなるではないか。

 僕もまた自分の気持を直子に話そうとするけれども、《それを表現するための言葉がみつからなかつた。》そうして、《土曜の夜になると僕は電話のある玄関ロビーの椅子に座って、直子からの電話を待った。(中略)いったい俺は何を求めてるんだろう?  そしていったい人は俺に何を求めているんだろう?  しかし答らしい答は見つからなかつた。僕はときどき空中に漂う光の粒子に向けて手を伸ばしてみたが、その指先は何にも触れなかった。》 触れえない虚脱感と徒労感に、何事も意識的な村上には珍しく「俺」という語を使ったヒリヒリとした感覚が、生(なま)な文の裂けめから覗いている。

 僕の指先は求めても何にも触れない、いや、むしろ心の底で触れたくないから触れない。直子の指はずっと必死に求めていた。直子の二十歳の誕生目をいっしょに祝った夜、《彼女は話したくないことをいくつも抱えこみながら、どうでもいいような事柄の細かい部分についていつまでもいつまでもしゃべりつづけた。》ふと気がついたとき、《言葉のきれはしが、もぎとられたような格好で空中に浮かんでいた。》 そして彼女はまるで吐くような格好で泣く。きっと心の底に澱んだ言葉を吐きだしたかったのだろう。僕はそっと手をのばしてぶるぶると小刻みに震える彼女の肩に触れた。《直子の十本の指がまるで何かを――かつてそこにあった大切な何かを――探し求めるように僕の背中の上を彷徨っていた。僕は左手で直子の体を支え、右手でそのまっすぐなやわらかい髪を撫でた。》

 その夜僕は直子と寝た。《僕と直子は暗闇の中で無言のままお互いの体をさぐりあった。僕は彼女にくちづけし、乳房をやわらかく手で包んだ。直子は僕の固くなったペニスを握った。彼女のヴァギナはあたたかく濡れて僕を求めていた。》 全てが終り、また声もなく泣きはじめた彼女を寝かせた。《朝になると雨はあがっていて、彼女の唇は一切の言葉を失い、その体は凍りついたように固くなっていた。》

 直子が神戸に帰ったとわかった七月の終りに、寮の同居人が瓶に入った蛍をくれた。僕は瓶のふたを開けて蛍をとりだし、いつまでも待ちつづけた――待ちつづける男としての僕。蛍が飛びたったのはずっとあとのことだった。《蛍が消えてしまったあとでも、その光の軌跡は僕の中に長く留まっていた。目を閉じたぶ厚い闇の中を、そのささやかな淡い光は、まるで行き場を失った魂のように、いつまでもいつまでもさまよいつづけていた。僕はそんな闇の中に何度も手をのばしてみた。指は何にも触れなかった。その小さな光はいつも僕の指のほんの少し先にあった。》 まるで言葉のような光に触れることのできない指。それは『源氏物語』の『蛍』巻の玉鬘の歌《声はせで身をのみこがす蛍こそ言ふよりまさる思ひなるらめ》の無常観である。

 いちいち引用はしないけれども、村上は『1973年のビンボール』でも『土の中の彼女の小さな犬』でも『ねじまき鳥クロニクル』でも、指を失ったり、手を眺める癖があったり、といった精神的な外傷と抑圧が指に固着した女をくりかえし登場させているが、直子が髪どめをいじるのも知覚と習慣と運動に裂けめが生じている症例のひとつであろう。

 ところで、直子が探しだした言葉のひとつに「公正」がある。直子が送ってきた七枚の便箋の《最初の何行かを読んだだけで、僕のまわりの現実の世界がすうつとその色を失っていくように感じられた。》 直子との世界はモノクロームで、だからこそ対照としての緑(その姉はピンクがにあう桃子)という名がある。そこにはこう書いてあった。《私はあなたに対し、もっときちんと人間として公正に振舞うべきではなかったのかと思うのです。(中略)たぶん何が美しいかとかどうすれば幸せになれるかというのは私にとってはとても面倒でいりくんだ命題なので、つい他の基準にすがりついてしまうわけです。たとえば公正であるとか、正直であるとか、普遍的であるとかね。》 四ヶ月間なんども考えたといい、《こういう分析が世界を単純化しようとしているのか細分化しようとしているのか私にはよくわかりません》と書きつける指は、自ら探したカント道徳学的な硬質の言葉に傷つきバラバラになりそうだ。

 そして、《私はあなたのように自分の殻の中にすっと入って何かをやりすごすということができないのです。あなたが本当はどうなのか知らないけれど、私にはなんとなくそう見えちゃうことがあるのです》とはまさに薫を見た宇治の姉妹たちの内省的な目と同じ本質を見抜く眼力である。

 秋になって京都の山奥の阿美寮まで直子にあいにゆくと、直子は死んだキズキとのことを指で髪をすきながら話しだす。十一時になってレイコさんがソファーをベッドにしてくれる。《「夜中にレイプしにくるのはいいけど相手まちがえないでね」とレイコさんが言った。「左側のベッドで寝てるしわのない体が直子のだから」 「嘘よ。私右側だわ」と直子が言った》というところなどは『総角』巻で大君と中の君の二人が寝ているところへ薫が大君に逢いたくて忍び入り、気づいた大君が中の君を残して帳台を出てゆく場面を連想させる。

 その夜、目を覚ました僕のソファー・ベッドの足もとに直子がぽつんと座っていた。《僕が手をのばして彼女に触れようとすると、直子はすっとうしろに身を引いた。唇が少しだけ震えた。それから直子は両手を上にあげてゆっくりとガウンのボタンを外しはじめた。ボタンは全部で七つあった。僕は彼女の細い美しい指が順番にそれを外していくのを、まるで夢のつづきを見ているような気持で眺めていた。》 指が蛹の殻のような心の外被をひらいてゆくのだが、そこにあらわれたのは僕の欲望としての、『源氏物語』の美しいもののけたちのような幻影の直子にすぎなかったのかもしれない。

 翌日、何もなかったかのような直子はウサギ小屋の掃除と餌やりをしてから、耳をぴくぴく震わせた子ウサギを抱きあげ頬ずりし、指でウサギの頭を撫で、僕の顔を見てにっこり笑った。直子とレイコは農場に行き、僕は爪切りを借りて手の爪を切った――こういった細部に村上の性格造形の巧みさが光る。

 昼食をとってから急な坂道を上り、広い放牧場に出て、丸いかたちの草原で二人きりになると、時空を超えていくつもの手が、指が、語りえぬことを語りあおうと求めあう。《僕は直子の肩に手をまわして抱き寄せた。「まるでキズキ君が暗いところから手をのばして私を求めているような気がするの。おいナオコ、俺たち離れられないんだぞって。そう言われると私、本当にどうしようもなくなっちゃうの」》それから《僕は直子の体をゆっくりと草の上に倒し、抱きしめた。直子の体はやわらかくあたたかで、その手は僕の体を求めていた。》 直子は寝たいかとたずねる。待てるかと言う、固くなってるか、つらいかと訊く。

《「いいわよ」と直子はにっこりと微笑んで言った。そして僕のズボンのジッパーを外し、固くなったペニスを手で握った。「あたたかい」と直子は言った。直子が手を動かそうとするのを僕は止めて、彼女のブラウスのボタンを外し、背中に手をまわしてブラジャーのホックを外した。そしてやわらかいピンク色の乳房にそっと唇をつけた。直子は目を開じ、それからゆっくりと指を動かしはじめた。》

 また歩きはじめた直子は自殺した姉の話を、あなたには話しておいた方がいいと思うからと話しはじめる。《直子は話しながら無意識に指先ですすきの穂をほぐし、風にちらせていた。全部ほぐしてしまうと、彼女はそれをひもみたいにぐるぐると指に巻きつけた。》 指という肉体の先端にぐるぐるとひもみたいに巻きつける無意識の行為は《お姉さんが死んでるのをみつけたのは私なの》という首つりのひもの手ざわりに通じる。

 その夜の『ノルウェイの森』を象徴する一節はこうだ。《直子はソファーに座って本を読んでいた。脚を組み、指でこめかみを押さえながら本を読んでいたが、それはまるで頭に入ってくる言葉を指でさわってたしかめているみたいに見えた。》 雨が降りはじめ、夜十二時少し前に直子がやってきて僕のとなりにもぐりこんだ。《直子の乳房の形がくっきりと胸に感じられた。僕は彼女の体をガウンの上から手のひらでなぞった。肩から背中へ、そして腰へと、僕はゆっくりと何度も手を動かして彼女の体の線ややわらかさを頭の中に叩きこんだ。》

 それは脳の記憶の森に深く刻みこまれ、一人になって《目を閉じるとその乳房のやわらかなふくらみを胸に感じ、囁き声を聞き、両手に体の線を感じ取ることができた。暗闇の中で、僕はもう一度直子のあの小さな世界へと戻って行った。僕は草原の匂いをかぎ、夜の雨音を聴いた。(中略)そして僕は勃起したペニスを握り、直子のことを考えながら射精した。》 自らの手で射精することは混乱した世界に根源的な言葉をまるごと吐きだすことだった。指の記憶は時間を排することさえできた。秋から冬へと変化していっても《草原のまん中で僕を射精へと導いてくれた直子の指の感触は僕の中に何よりも鮮明に残っていた。》

 指と言葉の含みあいは最後まで終らない。冬休みに京都の阿美寮を再訪すると、宮田という奇妙な医者がテーブルにやってきて、《どうして手の中指は人さし指より長く、足の方は逆なのか》を教えてくれる――まるでカフカの小説世界を思わす静かな不条理。

《レイコさんが用事を作ってどこかに行ってしまうと、僕と直子はベッドの上で抱きあった。僕は彼女の首や肩や乳房にそっと口づけし、直子は前と同じように指で僕を導いてくれた。射精しおわったあとで、僕は直子を抱きながら、この二ヶ月ずっと君の指の感触のことを覚えてたんだと言った。そして君のことを考えながらマスターベーションしてた、と。》 それから《僕は直子を抱き寄せ、下着の中に指を入れてヴァギナにあててみたが、それは乾いていた。直子は首を振って、僕の手をどかせた。我々はしばらく何も言わずに抱きあっていた。》 ここにはあの雨の夜の読書の場面の、指/言葉/濡れる、の美しさの裏返しとしての、指/言葉/濡れない、の悲しさがある。

 翌1970年春になるとレイコさんから手紙が来た。そこには《直子はあなたに返事を書こうとずっと悪戦苦闘していたのだが、どうしても書きあげることができなかった》とあって、《考えてみれば最初の徴候はうまく手紙が書けなくなってきたことでした。(中略)彼女は今、日常会話するのにもかなりの困難を覚えています。言葉が選べないのです。それで直子は今ひどく混乱しています。》 メルロ=ポンティの《言葉は自身と他との媒介を不断に更新するがゆえに、意味というものは、あらゆる意味を超えでるような、さしあたっては暴力的な運動によってしか存在しない》といった《言葉がおのれ自身を追い越してゆく》、その過剰さに自らを不完全な人間としてとらえる直子の心の絃は耐えられないのだ――宇治十帖の姉妹たちが琵琶や琴といった絃楽器をかきならして薫をひきよせ、レイコさんがギターを奏でて直子を癒すのは、指の旋律として音の言葉を届けているからだろう。

ノルウェイの森』のなかで指と手はさまざまな変奏をみせる。ピアニストだったレイコさんの小指は突然動かなくなり、十三歳の女の子の細くてやわらかな指がレイコさんの芯をぐしょぐしょに濡らす。僕は手のひらをガラスで深く切って血を流し、永沢さんの恋人ハツミさんとビリヤードをして手の傷をうずかせてハツミさんに包帯をとりかえてもらうが、そこには手をむきだしにし、血を見ることによって死に触れることを忌避する感覚がある――ハツミさんは永沢さんがドイツに行ってしまった二年後に他の男と結婚し、その二年後に剃刀で手首を切って自らの生命を絶った。僕は――そして村上作品では――死に顔を直接見ることも死の現場に直面することもなく、死は周辺でおこり、主人公の耳に伝えられるだけだ。死ですらも中心を喪失している。

 緑の父を見舞った病院で、誰よりも短いスカートをはいた緑の手もまた、《何か道に落ちていたものでも拾うみたいに僕の手をとって、自分の膝の上に置いた。僕の手の半分はスカートの布地の上に、あとの半分は太腿の上にのっていた》というメッセージを送りつける。デパートの屋上で雨に濡れながら抱きあってから、緑のアパートで唇をかさね、ありとあらゆる話をした。《「どれくらい好き?」と僕は訊いたが、彼女は答えなかった。そして答えるかわりに僕の体にぴったりと身を寄せて僕の乳首に唇をつけ、ペニスを握った手をゆっくりと動かしはじめた。僕が最初に思ったのは直子の手の動かし方とはずいぶん違うなということだった。どちらも優しくて素敵なのだけれど、何かが違っていて、それでまつたく別の体験のように感じられてしまうのだ。「ねえ、ワタナベ君、他の女の人のこと考えてるでしょ?」 「考えてないよ」と僕は嘘をついた。》

 水仙の花を好む僕――女三の宮の身代りとして猫を寵愛した柏木のように、「かもめ」という名の猫を撫で、桜の花を眺めながら直子の肉体を思う男―一は、直子に、《「これまで誰かを愛したことはないの?」》と訊かれて、《「ないよ」》と答え、永沢さんには《「ワタナベも俺と同じように本質的には自分のことにしか興味が持てない人間なんだよ」(中略)「親切でやさしい男だけど、心の底から誰かを愛することはできない。いつもどこか覚めていて、そして渇きがあるだけなんだ」》とハツミさんの前で言いきられても黙っている。

ノルウェイの森』の最後で、僕は緑に、君と会って話したい、と電話をかける。《緑は長いあいだ電話の向うで黙っていた。まるで世界中の細かい雨が世界中の芝生に降っているようなそんな沈黙がつづいた。》 緑に対してはじめて使われた「まるで」。ここではじめて緑も直子と同じ「まるで」の夢幻の女になったのだ。

《「あなた、今どこにいるの?」と彼女は静かな声で言った。》

                      (了)