子兎と一角獣のタピストリ(1)「『雪国』の官能の底」

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 『『雪国』の官能の底』

 

 川端康成はそれと語らないことで語る。

『雪国』の官能といえば、誰もがまず左手の人差指のエビソードを思い浮かべるが、作品のなかには《この指だけは女の触感で今も濡れていて》の具体となる愛撫の場面はもちろんのこと、なぜ左手なのかも語られていない。

 汽車の窓ガラスが鏡になる情景をはじめとして、夕景色の鏡や朝雪の鏡、牡丹雪の冷たい花びらや紅葉の山を写す鏡台の鏡は見る行為に人工的な虚構性を与える。それは蚕、蛾、蜂、羽虫といった昆虫たちが現れては見るまに死んでゆく描写や、鳥追い祭りの焚火、繭倉の火災の雪を照らす熱い光とともに登場人物たちをモノクロームの無限の色彩に染めてゆく。

 左手の人差指で窓ガラスに線を引かせる川端の表層への偏執は、雪に晒す縮(ちぢみ)の記述、白粉の語の頻出、足指の裏の窪みまできれいであろうと思われた》や《人間は薄く滑らかな皮膚を愛し合っているのだ》という文にあきらかだが、『雪国』では《夜の底が白くなった》《寒気の底へ寝静まっていた》《雪の底を泳ぎ歩く》《鏡の底》《天の河の底なしの深さ》《女の体の底まで食い入った言葉》といった悲しみと徒労のはての「底」という概念もまた重要である。

千羽鶴』『山の音』『眠れる美女』『虹いくたび』などで容易にみてとれるのだが、幼くして母を失ったからか川端には乳房願望が強く、この『雪国』でも「乳房」という生な言葉ではないものの柔らかなあたたかみに溺れる。

《駒子はそっと掌を胸へやって、「片方が大きくなったの。」「馬鹿。その人の癖だね、一方ばかり。」「(中略)両方平均にって、今度からそう言え。」「平均に?平均にって言うの?」と、駒子は柔らかに顔を寄せた》はまだしも、《彼がもとめる言葉には答えないで、女は両腕を門のように組んでもとめられたものの上をおさえたが(中略)島村の掌のありがたいふくらみはだんだん熱くなって来た》などは乳房憧憬を語ってやまない。

 黒い鉱物の重たい光のような冷たい黒髪とは対照的に、駒子は火の枕のように熱いものを持つ。根は麻のような涼しさがある駒子だが《そのためよけい駒子のみうちのあついひとところが島村にはあわれだった》のそれが解剖学的にどの部分なのか.語らないところに川端の凄みがある。そして《はじめからただこの女がほしいだけだ、それを例によって遠廻りしていたのだ》と思い知る島村と同じつくづくと嫌なものもまたある。

接吻についても省略の美はあきらかで《駒子の唇は美しい蛭の輪のように滑らかであった,「いや、帰して。」》だけで接吻と知れる。性愛はなおさらだ。

《酔いで半ば痺れていた。「私が悪いんじゃないわよ。あんたが悪いのよ。あんたが負けたのよ。あんたが弱いのよ。私じゃないのよ」などと口走りながら、よろこびにさからうためにそでをかんでいた。(改行)しばらく気が抜けたみたいに静かだったが(中略)今のことにはひとことも触れなかった。》

 まるで『源氏物語』を読むかのように、主語、目的語、名詞の省略を、時制や改行や代名詞への想像力でおぎなわねばならない。だがひとたび、改行の間もふくめて、その秘密の文体を読みとるや、今まですうっと読み過ごしていた「いい女」の文脈が《急に色気がこぼれて来》て底光りするだろう。

 抱き上げると、《轡虫が急に幾匹も鳴き出した。(改行)「いやねえ。」と、駒子は彼の膝から立ち上がった》は、すぐあとの《「煙草を止めて、太ったわ。」腹の脂肪が厚くなっていた。離れていてはとらえ難いものも、こうしてみると忽ちその親しみが還って来る》とともにどれほどのことを語っていることか。着物に隠された文体の肌理からどこまで悦びを味わいつくせるかを試されているのだ。

《あの美しく血の滑らかな唇は、小さくつぼめた時も、そこに映る光をぬめぬめ動かしているようで、そのくせ唄につれて大きく開いても、また可憐に直ぐ縮まるといぅ風に、彼女の体の魅力そっくりであった》はまるで志野茶碗を愛玩するような手触りで語られていて、その眼力(何かを見すぎることは何も見ていないことかもしれず、遺作『たんぽぽ』の人体欠視症と表裏なのだが)を共有できなくては川端文学の茶会に参加する資格を欠く。

《部屋へ戻ると急に駒子はしょんぼりして、火燵に深く両腕を入れてうなだれながら、いつになく湯にも入らなかった。(中略)「ううん、難儀なの。」「なあんだ、そんなこと。ちっともかまやしない。」と、島村は笑い出して、「どうもしやしないよ。」「いや。」「それに馬鹿だね、あんなに乱暴に歩いて。」(中略)「あんた、そんなこというのがいけないのよ。起きなさい。起きなさいってば。」と、口走りつつ自分が倒れて、物狂わしさに体のことも忘れてしまった。(改行)それから温かく潤んだ眼を開くと、「ほんとうに明日帰りなさいね。」と静かに言って、髪の毛を拾った。》

 細く高い鼻が少し寂しい難儀な女は生理だったに違いない。洗い立てのように清潔な女は禁忌を犯したあと、悦楽の死骸みたいな冷たい毛を拾う。

 言葉の余白で緻られた『雪国』の官能の底の「美しさ」に読みの人差指が届いて濡れることを小説家は求めている。