子兎と一角獣のタピストリ(2)「ポマールのみだらな香り」

  ポマールのみだらな香り

 

 ホテル・ニューグランドのレストラン〈ル・ノルマンディ〉に女を誘った。

 ブリヤ=サヴァラン『味覚の生理学』にあるように、美食家の麗人が目をかがやかせ唇をつやつや光らせて肉をかじる姿を見るほど楽しいことはない。

 ベイ・プリッジの夕暮れ、華ある麗人、シャンバン、神戸牛、ビアノ演奏がそろい、あとはワインを選ぶばかり。ブルゴーニュの赤で熟成したものをとソムリエに所望したところ、ポマールを薦められた。

 その宵のポマールのエロティシズムは、芳醇なアロマを味わう女の気高い鼻、ポマールのルビー色に濡れた唇、大桟橋を映す瞳とだぶって忘れがたい。

 ポマールといえば、ノルマンディを舞台に多くの小説を書き残したマルグリット・デュラスの『モデラート・カンタービレ』(ブルジョワの女アンヌ・デバレードと失業者ショーバンは、偶然目撃した情痴事件について男が女を殺害した海辺のカフェで毎日ワインを飲みながら語り合い、夢想するうち――女が男に自分を殺してくれとせがんだのではないか――しだいに狂おしい熱情(パッシオン)に昇りつめてゆく。映画ではジャンヌ・モローがアンヌを演じた)のアンヌの家の晩餐会――鴨肉のオレンジソース添え、木蓮のむせる香、ポマール――を思いだす。

《アンヌ・デバレードは絶えず飲んでいる。今宵このポマールは通りにいる男のまだ触れたことのない唇の、すべてを忘れさせてくれる味がする。》(田中倫郎訳、河出書房新社

《アンヌ・デバレードは、眼をなかば閉じながら、またグラスの酒を一杯全部飲む。彼女はもはやそうする以外何もできなくなっている。彼女は飲むことによって、これまでの隠微な欲求の正体を確認し、この発見に言語道断な慰めを見出す。》

《アンヌ・デバレードは満たされたばかりのグラスをもう一度取って飲む。彼女の妖女のような腹は、人とはちがって酒の火気によって養われるのだ。両側から重い花を囲む重い胸は、うって変わった憐れな花の姿に疼き、彼女は悲痛な思いを抱く。声には出さないが一つの名前を一杯にふくんだ彼女の口の中を酒が流れる。 この無言の出来事のため腰が割れるように痛む。》

 アンヌ・デバレードは愛する男に殺された女になりたいと願う。殺されたいという欲望をショーバンに投影する。ラカン的な他者の欲望の投影。

《「怖いわ」とアンヌ・デバレードはつぶやいた。

 ショーバンはテーブルに体を寄せて彼女を求め、求めながらやがて諦めた。

「だめだ」

 その時彼女が、彼のなし得なかったことをやってのけた。彼女は、二人の唇が接するくらいの近さまで彼の方へ体を乗り出した。二人の唇は重なり合った。先刻、彼らの冷たい震える手が行ったのと同じ死の儀式にのっとり、触れあわねばならぬという意志のもとに、彼らの唇はそのままの姿勢を続けた。儀式は成就された。》

 儀式は成就されないだろう。成就するための仲立ちが必要とされている。愛の交わりの証人がアンヌには不在だ。子供はその役を果たせない。

《「あなたは死んだ方がよかったんだ」とショーバンが一言った。

「もう死んでるわ」とアンヌ・デバレードは言った。》

『愛人』の少女は自分より成熟した肉体をもち、まるで愛撫されるために生まれてきたような級友エレーヌ・ラゴネルを中国人の愛人に抱かせたいと夢みる。

《そうすればきっと、エレーヌ・ラゴネルの身体という回り道をへて、彼女の身体を横切って、悦楽があのひとからわたしへとやってくるだろう、そのときにこそ決定的に。そこで死んでしまうくらいたっぶりと。

『ロル・V・シュタィンの歓喜』のロルは婚約者と人妻アンヌ=マリ・ストレッテルがひと目で恋に落ちたのを目撃して魂を奪われる。十年後ロルは親友タチアナの不倫相手に愛をうちあけておいてタチァナとその男が逢いびきする部屋の窓を凝視することで燃えあがる。     倒錯のトライアングル。狂気向かって歩む静かな熱情。

 ポマールに酔った私たちはランドマーク・タワーまで人気のない海岸通りを歩き、ロイヤルパークホテルの英国調バー〈ロイヤルアスコット〉で冷えたビールをたてつづけに二杯飲みほす。

 ノルマンディの彼方にはドーバーを越えて英国があり、彼の国にはグレアム・グリーン『情事の終り』の、神とトライアングルを結んだサラァがいたではないか。

 デュラスは語った。

「私たち女は、男たちと同じ場所では決して書かない。もし女たちが欲望の場所で書かないのなら、書かないことと同じ。瓢窃しているのよ」

 書くこと(エクリチュール)のみだらさ。その覚悟をもつ女。

 

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ポマールはまだ触れたことのない唇の、すべてを忘れさせてくれる千の香りで女をみだらさへつれてゆく。