子兎と一角獣のタピストリ(3)「まるで直子は夢の浮橋」

  「まるで直子は夢の浮橋

 

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 直子は「僕の目をのぞきこむ。まるで澄んだ泉の底をちらりとよぎる小さな魚の影を探し求めるみたいに」。

 直子の顔が浮かんでくるまでの時間は「最初は五秒あれば思いだせたのに、それが十秒になり三十秒になり一分になる。まるで夕暮の影のようにそれはどんどん長くなる」。

 村上春樹ノルウェイの森』は「直子」が登場したとたんに「まるで」の洪水となる。

「まるで強風の吹く丘の上でしゃべっているみたいに」「まるで探しものでもしているみたいに」「まるでどこか狭くて細長い場所にそっと身を隠しているうちに」「まるで魂を癒すための宗教儀式みたいに」「まるでそこで突然時間が止まって動かなくなってしまったように」「まるで僕の体温をたしかめるみたいに」「まるで月光にひき寄せられる夜の小動物のよう」「まるで魚のようにひらりと」……。

そうなのだ。「僕」にとって直子は「小さな乳首や、へそのくぼみ、腰のくぼみや、腰骨や陰毛のつくりだす粒子の粗い影は、まるで静かな湖面をうつろう水紋のようにそのかたちを変えて」ゆく、「まるで夢のつづきを見ているような気持ち」の存在だった。

 どれほどに直子が「まるで」という香をくゆらせて僕の思い出にあらわれ、夢路を通うかは、もう一人の現実的な恋人、小林緑からは「まるで」がほとんど匂わないことと対比的だ。

 すでに多くの評論が指摘しているように、村上春樹にとって「直子」という固有名詞は特別な象徴である。デビュー作『風の歌を聴け』のまだ名前をもたない仏文科の女の子は、次作『1973年のビンボール』ではっきり直子という名前をもらい、『ノルウェイの森』の直子と同じく「井戸」(心のイド(井戸)を暗示し、『ねじまき鳥クロニクル』でいっそう深く掘られる)について語ってやまない。

 ニーチェもしくはコクトーの言葉からの「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」(モラリストまたはユマニストとしての村上)をなぞるように、どの直子も死の淵へと自ら歩む。

 直子の耳は「やわらかな丸い形の耳たぶ」で美しく小さい。その「目はどきりとするくらい深くすきとおって」いて、「いつも見当ちがいな言葉しか浮かんでこないの」と「顔を上げて僕の目を見つめた」。

 村上春樹の小説では「指」という記号が想像界の喪失、快楽の未達成のメタファー隠喩となっている。たとえば『風の歌を聴け』の小指のない女の子、『ノルウェイの森』の突然小指が動かなくなるピアニストのレイコ。

ノルウェイの森』も「直子の十本の指がまるで何かを――かつてそこにあった大切な何かを――探し求めるように僕の背中の上を紡復っていた。(中略)その夜、僕は直子と寝た」。直子が入った療養所のある京都の山奥(『源氏物語』で、薫と匂宮の二人の男に愛されたすえに入水し、横川の僧都に助けられた浮舟が、世を捨てて住んだ比叡小野よりずっと北)の草原で、直子は固くなった僕のベニスを手で握る。「あたたかい」と直子は言った。(中略)そしてやわらかいピンク色の乳房にそっと唇をつけた。直子は目を閉じ、それからゆっくりと指を動かしはじめた」。

 僕もまた、螢が飛びたったあとの「闇の中に何度も手をのばして」みるが「指は何にも触れなかった。その小さな光はいつも僕の指のほんの少し先にあった」。あちら側の曼茶羅のような世界(異界)に深く混乱した直子はいってしまう。だから「肩から背中へ、そして腰へと、僕はゆっくりと何度も手を動かして彼女の体のやわらかさを頭の中に叩きこん」で直子を決して忘れまいとするのだった。

「僕は直子について書いてみようと試みたことが但度かある。でもそのときは一行たりとも書くことができなかった」という文章は、『風の歌を聴け』『1973年のビンポール』で直子を脇役としてしか書けなかった村上春樹自身の悔恨の声でもあった。とうとう村上は『ノルウェイの森』で直子の魂の「井戸」に降りてゆき、直子は「森」(精神世界、深層心理、脳のメタフアー隠喩)で命を絶つ。その後、直子という名前はあらわれなくなる(けれども十五年後の『海辺のカフカ』の佐伯さんの中にさえ直子の面影は生きている)。

「「いつまでも忘れないさ」と僕は言った。「君のことを忘れいれるわけがないよ」」。僕は記憶を辿りながら昔の恋人についての文章を書く。「結局のところ――と僕は思う――文章という不完全な容器に盛ることができるのは不完全な記憶や不完全な想いでしかないのだ。そして直子に関する記憶が僕の中で薄らいでいけばいくほど、僕はより深く彼女を理解することができるようになったと思う」。

『ノルウェィの森』が「100%の恋愛小説」であるとすれば、それは次の言葉ゆえだろう。「もちろん直子は知っていたのだ。僕の中で彼女に関する記憶がいつか薄らいでいくであろうということを。だからこそ彼女は僕に向って訴えかけねばならなかったのだ。「私のことをいつまでも忘れないで。私が存在していたことを覚えていて」と。そう考えると僕はたまらなく哀しい。何故なら直子は僕のことを愛してさえいなかったからだ」。

夢の浮橋』巻で浮舟は薫と対面することを拒む。男と女の愛のすれ違い。浮舟のような直子をめぐって千年前と変わらない恋愛の主題がここにある。

 直子を喪失したことを受け入れ、新たな生を生きようと決意した僕に電話の向うから緑が静かな声で言う。「あなた、今どこにいるの?」「僕は今どこにいるのだ? (中略)僕の目にうつるのはいずこへともなく歩きすぎていく無数の人々の姿だけだった」。

  はかなしや夢のわたりの浮き橋を頼む心の絶えもはてぬよ(『狭衣物語』)