子兎と一角獣のタピストリ(7)「おはんの喜びの声」

  「おはんの喜びの声」

 

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 鷲田清一に『「聴く」ことの力 臨床哲学試論』という本がある。ターミナル・ケアの場で、「もうだめなのではないでしょうか?」という患者の言葉に対して、励ますこと、なぜと聞き返すこと、同情を示すことではなく、患者の言葉を聴き、受けとめる(だけの)行為を多くの精神科医は選ぶと冒頭に書かれている。ついで著者はメルロ=ポンティの言葉を借りて臨床哲学とは何かを説明してゆく。それは二つの「非―哲字」ないし「反―哲学」の視点に立っていて、第一に論じること、書くこととしての哲学ではなく、「聴く」といういとなみとしての哲学を模索する。第二に、普遍的な読者ではなく、だれかある特定の他者に向かってという特異性の感覚を重視する。第三に、一般的原則が一個の事例によって揺さぶられる経験としての哲学をとらえる。

 本のなかほどで宇野千代の『生きて行く私、人生相談』のおもしろさが紹介される。千代は相談者の言葉をまるで、おちょくっているかのように反復する。しかしそれが相手にとっては、ああ私の言うことをどれひとつ省くことなく受けとめてくれた、という実感をともなった安心につながっているというのだ。

 相談者の言葉を「……、と言うのですね」のフレーズでたっぷりと反復したあと、「一人で一緒になって考えましょう」と相手だけに語りかけて締めくくる。このような態度こそ臨床哲学の実践に違いない。

 その宇野千代の『おはん』は、日本古典文学の伝続的形式、語りものにつらなる名作だ。阿波徳島あたりの方言に、千代の故郷岩国訛りと関西訛りをまぜ合した独特の語り口によって、作りもののはずのおはんが動きだす。『おはん』の語り手である一人のどうしようもない男の繰言、その個人的な感覚の揺れを聴かせることで千代は透徹した普遍に近づいてしまう。

 この千代の語りにはテクスト(言表内容)だけでなくテクスチュア(言葉のきめ)がある。かつて愛した人の顔はもう想い浮かべることが難しいのに、あの人の声の肌理(きめ)だけはありありと蘇ってくるという経験はないだろうか。『おはん』にはそのようなテクスチュァがある。声がふれる。声が届く。《ひい、といふやうな声あげたと思ひますと、その細い、糸みたやうなおはんの限がつりあがつて、さつと顔から血の気がひきました。「離して、離してつかさんせ、」身悶えして、息もとまるやうな声して申しました。》

『おはん』は回想の物語である.夏の祇園祭、秋の恵比寿さま、正月、七草、春の彼岸の中の日、桜、七夕のあけの朝といった季語で回想は染められ、《どれがあとやらさきやら、わが心にも覚えがござりませぬが、去年の夏、おはんにめぐり合うてからの、言葉につくせぬかずかずの心の重荷が、なにやらすうつと軽うなるよな気がしましてなア》と内省化する千代は救いの作家だ。

『おはん』は迷いの物語である。近松心中天網島』冶兵衛に似て《店の商ひも手につかず、 一日炬燵にむきあうて、もういつまでももの言わんとじつとしてゐたこともござります)というこの古手屋(ふるてや)の男、おさん小春を思わすおはんおかよの二人の女に魅かれてしまうこの紺屋(こうや)の倅(せがれ)はしかし、《わが身も女の身の上も、もうめちやくちやに谷底へつきおとしてしまひたいといふやうな、阿呆な心になつたのでござります》という放蕩さにおいて宇野千代だ。

『おはん』は予兆の物語である。あのときのあれが、あのときにあれが、といちいち思いあたり、時間は多重映像化して劇的さをはてしなく再生産する。《へい、ちやうどあの日暮れどき、まだ家移りの荷も解かぬ板敷の中で、逃げまどふおはんの手おさへ、無理強ひに帯とかせましたは私でござります。「悟が、……悟がいんま戻るけに、」と言うて身をちぢめながら、いつの間にやら私の傍(ねき)に寄り添うて、呼吸(いき)つめてる女のさまのをかしさに、「へえ、こなな暗うなつて悟がもどるげな、」と、わが子の名を呼うで女をかまふ(揶揄ふの意)つもりでゐたりしてましたあのときに、ちやうどあのときに悟は死んだのでござります。》

『おはん』はふれあいの物語りである。ふれた女の体温が移ろう。《このぺたと冷やこい、鬢つけの肌ざわりは、あれはおはんのものでござります》のはかなげさ、《おかよは夜のあけあけから、薄い蒲団かきよせて、わざとのやうに足からませて来るのでござりました》の温もりは、孤独な千代の因果なそれであろう。

 風の音。雨の音。日暮れ時の光.。裏のおばはん、子供の悟、娘のお仙、あばれ者の平太叔父といった脇役の出入りのうまいこと)何もかも『おはん』は舞台で演じられるために作られている。

 久保田万太郎の演出で歌右衛門がおはんを演じたそうだが、千代の眼にはよくなかったという。そうだろう。聖と俗を往き来する千代の文学は人形浄瑠璃こそがふさわしいし、千代もまたその上演を望んだ。昭和三十二年の初演を訪米のため見逃した千代だが、それから三十一年後の再演には大阪文楽劇場まで足を運ぶことができた。開演前、住大夫に「女の人形の裸の足が見えるところがあるのですが、これは文楽始まって以来の演出なのですよ」と教えられ九十一歳の千代はどきどきしてしまう。

 幕が開いた。簑助のおはん。千代の言葉を引こう。《『おはん』は何と運の好い作品であつたらうか。おはんが家うつりをして、片付けものをしてゐると、古手屋の男が来て、二人で抱き合ふところで、きものの裾の間から、おはんのはだかの足が見えた。これだな、と思つたのか、観客は何となくざわめいていた様子であつた。耳の遠い私には、そのざわめきがおはんの喜びの声に聞こえたのである。》

 宣長は「情」と書き「こヽろ」と読ませた。情(ココロ)が風にそよぐような三味線のヲクリに導かれ、大夫の語りで動きだすおはんの裸の足の体温をこの眼で感じてみたいと願うのは私だけだろうか。そして、おはんの喜びの声を。