子兎と一角獣のタピストリ(8)「鈴の鳴るような」

  「鈴の鳴るような」

 

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 あれは小学二、三年のころ。母にお供してのSKD。すぐ左脇の通路を網タイツのレヴューの女たちが嬌声をあげ跳ねるように駆け抜けていった。春風に誘われて宝塚大劇場花組公演を観ていると、あのときの得も言われぬ幸福感が甦って来て、田辺聖子を読むとき頬をかすめる匂い、ときめきと同じと気づいた。これはもちろん私だけのものではなく、『田辺聖子全集』月報を読めば女性作家達がそれぞれの幸福感を語っていて愉しい。

 

――江國香織「こわさと火花」(全集2、月報)

《たとえば、田辺さんの小説にでてくる女たちは、しばしば男を甘やかす。気がまわりすぎたり、その男を好きすぎたり、それ以上に自分を好きだったりするからである。(中略)たとえば、赦したり赦されたりすることの、哀しみとこわさ、淋しさ。それにくらべれば、赦してあげられないことや、赦してもらえないことなどちっともこわくない。さらにたとえば、大切なものを失っても生きていかれることの、苦しさとこわさ、淋しさ。私は立ち竦む。》

 江國香織は自作短編集『号泣する準備はできていた』の一時間で溶けてしまう冷たいムース菓子の味わいを「田辺さん」と賞味している。

 

――小池真理子「いまがいちばん、いい」(全集5、月報)

《京都のはずれの仄暗い料理宿に漂う、しんじんと冷えこむ空気。食のあと、大庭という五十男に抱かれて、からだの芯から火照っている以和子の愛らしさ。四十六になるこの独身の女は、ふだんは目立たず、誰も気にもかけない「おばはん」に過ぎないのに、実はきちんと歯の手入れをし、株でもうけた金をしっかり預金している。結婚など考えもしない。 一人のびのび暮らしながら、いろいろな男と情事を繰り返し、今は大庭との情交に溺れている。そして「いまがいちばん、いい」と思うのである。いまがいちばん、いい……このセリフこそが、田辺さんの作品世界の底に流れているものを象徴しているのではないか、と私は思う。》

 小池真理子『欲望』は過ぎた愛恋に囚われた禁色の男女の話で、だからこそ「いまが」という時間の座標軸を滑り落ちる。

 

――川上弘美「こわい」(全集10、月報)

《女の視点で読んで、うかうかと安心していられるような、安易な小説ではなかったのだ。男の身勝手さを弾劾してくれているから痛快、と思っている場合でもなかったのだ。女の愛に安心しきって女をおろそかにする男に、目にもの見せてやったから爽快、という場合でもなかったのだ。結局、恋は、すべて、だめだということなのだ。どんなに思いやりをもって愛し合っても、どんなに上等な二人でも、無常からのがれることは、できない、ということだったのだ。》

 口唇的な川上弘美は『溺レる』で、寄るべない接吻のようなあわあわとした無常と睦み合っていた。

 

――小川洋子「彼女たちの賢い瞳」(全集12、月報)

《ふっくらとたき上がった高野豆腐、ガラス瓶の中で香りを放つ矢車草の空色、一針一針丁寧に縫われた「親指姫のボート」、西洋棟割り長屋のテラスでのお喋り、ブティック・ジュリーに並ぶ黒いベルベットのポシェット……。そうしたものたちを彼女らは心から慈しむ。たとえ夫の無理解や姑との行き違いに打ちひしがれても、ちょっとしたきれいなもの、美しいものを見つけるだけで、すぐさま自分を立て直すことができる。世界は小難しい論理などによって構成されているのではない。細部に宿る喜びの積み重ねこそが人生を支えているのだ。》

 病室の臭いがする小川洋子の、「博士の愛した数式』はイマジナリーな虚数のように美しく証明されたこの世とあの世のあいだの細部からなる。

 

――林真理子「“やわらやわら”の文学」(全集13、月報)

《虚子の発言や資料をこれでもか、これでもかと読者に提示し、そして結局、「虚子は久女がキライだった」とひと言にいいきる。(中略)そうなのだ。すべてのことはこれに過ぎないのだ。権力者というものは、人に好悪を持つことの快感を知っている。(中略)当然ながら田辺さんは、そういう人間の心の暗黒もちゃんとご承知である。そして暗黒と暗黒が重なっても、そこにあるのは絶望ではない。人間の心はまた自然に、正反対のものを求みていくのだ、という動きもきちんとわかっていらっしゃる。》

 見栄と嫉妬、征服と支配のゴシップ情熱力学をドラマ化して「うまいなあ」と感心させる林真理子も『女文士』で眞杉静枝をやわらやわらに書いた。

 

――山田詠美「人生のお金持ちのお酒」(全集16、月報)

《人を条件で選ぶ〈鈍感〉な人々なら、どうしてこんな男と? と思うかもしれない。けれどもモリにとってのレオは、とてつもなく好ましい男なのである。ここで〈鈍感ではない〉のを自認する読者であるなら、この好ましさ、解る! と思いきり領いてしまうことであろう。二人だけの共通言語を飴玉のように味わい、心も体もほかほかとさせる食べものを一緒に咀疇し、抱き合う。》

 モラリスト山田詠美の、やるせなさ、せつなさ、いとおしさからなる『風味絶佳』と同じ味わいではないか。

 

 みな田辺聖子を語るふりをしながら自分のことを語ってやまないのは決して批評精神が欠如しているからではあるまい。それだけ現代の閨秀作家というまるはな蜂は、田辺聖子が開墾した花園から蜜を運んでいるのだ。

 JR大阪駅から尼崎経由で宝塚に向かうと、ずっと周りは中小の工場地帯だった。南欧風な宝塚大劇場の広々とした入口で、この春音楽学校を卒業するうら若き乙女たちがきりっと伸びた背筋、つま先まで行き届いた「清く正しく美しく」の立ち姿で、八百円の幕間ランチを予約するおばはんたちに文化祭プログラムを案内していた。帰りは半円を書き足すように阪急で梅田に戻るとこぎれいな住民が乗り降りしてくる。その日一日、田辺文学に通じる多様性が、矛盾したものが共棲みできるそのこと自体が嬉しかった。きっと『田辺聖子全集』からどれか三つを選ぼうとして迷い、時間がたつのを忘れてしまうのは、レヴューの大階段をダチョウの羽根を揺らしながら男役や娘役のスターが次々と降りてくるのを見ていて、これが永遠に続けばいいと思ってしまうのと同じさまざまな幸福のカクテルライトを浴びているからだろう。

 豊かな語彙で難しいことを簡単に言ってのけ、市井の食文化、ハイ・ミス、おっさん、姥(うば)に文学的市民権を与え、カンボジア虐殺に筆鋒鋭い、娘時代に空襲を経験した昭和三年生れの田辺さんの魅力は持ち重りのする全集の装幀にあらわれている。七色ボンボンのような夢見色の布表紙、小倉遊亀(ゆき)による装画は大地真央真矢みきみたいに華があって、感覚的にも知的にも大胆、ガツンとくる。

 それにしても実物のお聖さんは、ご自身大好きなスヌービーのぬいぐるみみたいに大きなソファにはまりこんで、鈴の鳴るような声と同じほど「かわいい」のでした。