子兎と一角獣のタピストリ(9)「谷崎からみる桐竹勘十郎の顔」

  「谷崎からみる桐竹勘十郎の顔」

 

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 三世を襲名するばかりのとき、桐竹勘十郎虎ノ門のレストランでお話する機会をえた。十三歳から三十七年あまり親しんだ吉田簑太郎という名前とも二月公演が最後かと思うと感じるものがあります、と神妙に話しはじめた。舞台姿からは気づかなかったが、九月公演『夏祭浪花鑑』での、義父を殺めた団七が裸になって井戸水で血を洗い流す場面の祭囃子にのった大きく骨大な演技、あたかも遊牧民が羊を巧みに捌くように自在に関節を操る術がこの小柄な体から繰り出されていたのかと思うといまさらのように驚いてしまった。

「ブラジル公演はいかがでしたか」と声をかけると、丁寧に折り畳まれたハンカチで額の汗を押さえながい「三十時間も乗ってましたさかい、もうくたくたでしたわ」と目をくるくるさせ、ブルゴーニュの赤をいっきに飲み干す。天丼をむいたおおぶりな鼻は「病んでからはどんどん痩せてしまって」と懐かしむ二世の父桐竹勘十郎にうりふたつである。そのでんと座った鼻に梅川の前で見栄を張る忠兵衛やお軽に諌められる勘平の鼻を見た。首の一つ、孔明の鼻である。

 谷崎潤一郎はそれを「面魂」と呼んだのではないか。あまり多くはない随筆に谷崎は幾度となく文楽のことを書き残した。『饒舌録』『いわゆる痴呆の芸術について』『浄瑠璃人形の思い出』をはじめとし、「恋愛及び色情」『私の見た大阪及び大阪人』『大阪の芸人』『初昔』が続く。その魅惑の絶頂にあった昭和三年には小説『蓼喰う虫』の中心に文楽をおきさえした。谷崎は文楽の擁護者であるとともに、物語作者という視点からは『刺青』『お艶殺し』にみる悪魔主義の血をもっていながらも寺小屋や勘平切腹の残虐性、近松以外の三流作者による筋立ての荒唐無稽さを「徳川時代の日本人の頭の悪さ」と繰りかえし批難した。「因果と白痴ではあるが、器量よしの、愛らしい娘である」文楽に谷崎は愛憎を抱いていたのだ。

 東京人の谷崎が大阪の郷土芸術文楽にどのように親しんでいったかをみてゆく紙数はないが、はじめはその残虐性に辟易したのに阪神沿線に住むうち、いつしかその魅力から抜け出せなくなっていったという(谷崎はすぐれて耳の人であったけれど(ゆえに)、義太夫を聴くことよりも人形を見ることを好んだ。《私は元来義太夫というものは嫌いであった。

 なぜ嫌いかというと、あの語り方がいかにもキタナラしい太い、不自然な声を出して、熱して来ると顔じゅうへぎらぎら脂汗を浮かし、鼻だの口だのを減茶苦茶に歪めて、見台を叩いたり仰け反ったり、七転八倒の暴れ方をする》《が、此の無作法は一面確かに大阪人の強味であって、長唄にしろ、常磐津清元にしろ、江戸の浄瑠璃は大阪の義太夫ほどのネバリもなければ、ガッシリとした、前後一貫した組み立てもない》といったぐあいだ。

『艶容女舞衣』お園のうしろぶりを演じてみせたかと思うと一転、じっと動かぬお園に目を開じて寄り添う勘十郎の顔に見てしまうものは大阪人のネバリであり、ガッシリとした組み立てである。谷崎は大夫の顔についてさらに書き立てる。 それは今でも大夫のほとんどみなにあてはまる形容の数々で、《「無智」といつては悪いか知れないが何か恐ろしく時代錯誤的な、それでいてへんに脂っこい、執拗い情熱のようなものが、その皮膚の色にも鼻や顔骨や順の線や、異常に太くなっている頸の周りなどにも、むくつけく澱んでいるのが感じられる》とさすがに文豪の筆である。

 勘十郎は語りをする大夫ではないから発声器官にまつわる肉体的特徴はおのずと違っているが、それでもやはり赤銅色に鞣されたような皮膚、重そうでいてくるりと見開かれる目蓋、ヘの字に結ばれた肉厚の唇が、あの執拗い情熱のような鼻を囲んで、これが文楽の顔だと毒々しく声をあげている。

 ところで主遣いの顔は見えてしまうこと自体で毀誉褒貶の的となるのだが、それにも谷崎ははっきり意見を述べていて主遣いへの最高のオマージュとなっている。《小春は文五郎の内体から派出した美しい枝であり花である。花を賞でるには花と一緒に幹をも見なければいけないように、人形の面白味は人形使いと人形との一体になったところにある。人形使いは単に人形に依るのみでなく、自分の全身の運動を通して人形の心持ちを表現する。此の関係が私には非常に面白い。だから人形を見ると共に人形使いを見た方がいゝ》。お園を遣う勘十郎の顔を見てイイのである。しかし谷崎は次のようにも書いてぃる。《梅幸福助のはいくら巧くても「梅幸だな」「福助だな」という気がするのに、この小春は純粋に小春以外の何者でもない》。

 つまり「勘十郎だな」ではいけない。見せ消ちで人形が生きてくる。

 さらには、《驚くのはあの人形の顔である。あの、 一見グロテスクのような顔をつくづく眺めると、日常私が付き合っている土地の人の誰かに似ていることを、ふと想い出す。(中略)それから孫右衛門、宗岸型の老人、八右衛門型の町人、治兵衛型の若旦那、みな知人の中にその類型を求められる》のとおり、人形は大阪の市井の人に似ている。三百年も人形のなかに大阪の面魂が生きつづけていると大阪人のほうが入形に似てくる。それは有名人を実際に見てテレビと同じだと思うのと同じ感覚だろう。テレビで見た人間国宝の二世は三世桐竹勘十郎にそっくりで、大阪人の三世の顔は文楽人形のそれに似ている。

「襲名で少しでも自分なりのものを付け加えられたら」と勘十郎が挨拶をしたところ、歌人らしく松平盟子が「襲名とは、名を襲うという怖ろしい字を書くのですわよ」と合いの手を入れた。簑太郎は語源の意味にとまどいをみせる。

 私は思った。襲名とは名を襲うかわりに、面魂に襲われるのかもしれない。それゆえ、《いったい名人といわれる程の芸人の顔は取りどりに一と癖あって、聴衆の脳裏に強い印象をとどめるものである》に向かって、すでに半癖もつ勘十郎の顔に、先代に宿った人形の面魂があと半癖を付け加えてくれるに違いないと。