子兎と一角獣のタピストリ(10)「きものは魔物」

  「きものは魔物」

 

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 京に遊ぶ昼下がり、祇園切通し〈権兵衛〉の親子丼か、〈おかる〉のカレーうどんでご飯たべすると、きまって芸妓か舞妓が前を行く。抜き衣紋から凛と零れた襟足に吸い込まれるように花見小路へ追いながら、ああ、男衆(おとこし)になりたかった、とため息が出る。男衆は東京では箱屋と呼ばれ、花柳界にいて女たちの着付け、世話を生業としている。

 男の生理をよくしる瀬戸内晴美の『祇園の男』は、《祇園の女に手えつけたらあかん》いう御法度を破った男衆の語りからなる。

 はじめて受け持たされた舞妓美津代の水揚げの長襦袢は《燃えたつような緋色に、満開のしだれ桜が白と桃色で染めぬかれ》た〈ゑり萬〉の持重りがするぼってりした縮緬だった。(瀬戸内『京まんだら』にも登場する祇園縄手通新橋角の〈ゑり萬〉は、一見緊張を強いる店構えだが、入れば客の顔を見ながら商品を出す座売りで、物腰の軟らかな対応に京の老舗の、能から派生した京舞井上流に通じる絶妙の間と洗練された型を感じ、すがすがしい。定番の帯揚の飛び絞りの朱は、成駒屋の遊女の裾よけ、海老蔵助六の襦袢はこの店の朱でなくては格が出ないとされる深さだ。) そのごりごりした縮緬がやわらかい生娘の肌をつつむ初夜の衣装を、男衆は屋形(東京でいう置屋)の定紋入りの大風呂敷に包んでお茶屋へ運ぶ。翌朝着替えを届けに行く役目を果たしてこそ一人前とされた。

 お茶屋の女将(おかみ)が教える。「このお襦袢の赤い色なあ、これをよう見て覚えておきやす。明日の朝、あんさんがこれを取りに見えた時、もういっぺん見とみやす。この赤の色がなあ、 一晩で褪せるんどっせ。」

 その晩男は水揚げの祝儀で宮川町――南座から履物〈ない藤〉を横目に下れば、団栗橋から五條まで狭く長い路地に色里の風情が京で一番よく残っている――の年増の娼妓を買う。翌朝、着替えを届けにお茶屋へ出かけて、昨夜見たしだれ桜の緋の長襦袢を受取った。

《緋の絹にはまだ、美津代の体温がなまあたたかく残っていたのです。思わず、それをかき抱いて、顔を埋めてしまいました。美津代の匂いが襦袢の中から匂うてきます。着物を着せてやる時、男衆は妓の真正面へ廻り、ぐっと帯を背から廻す時もあります。妓は袖を両手にとって腕をひらき、男衆は妓の胸に頭をよせて、背に腕を廻し力をいれます。外から見ると、妓が男衆に力いっぱい抱きしめられてるように見えます。着物を着せる途中でそこへ来る度、わては息がつまりそうになりました。美津代は、小さく、うんというような声をだして、足をふんばり、締められるのに耐える表情をするのです。その無心の表情が何とも可愛らしく、思わず、帯ごと、美津代を力のかぎり抱きしめたいと何度思うたことでひょう。(中略)その時、長襦袢が確かに昨夜の鮮やかさから見るとどこか色あせた感じを受けました。灯の光を吸うた紅(くれない)と、朝のほの暗い部屋の中で見る紅の色感がちがうのは当り前かもしれません。そやけどたしかにその瞬間は、紅の色がさめたなと思いました。その上、長襦袢にはありありと、昨夜のしるしの汚れが、おされていたのどした。あわててそれをかくすように褄をよせあわせ、袖を折ろうとしましたら、その間から、使ったきずきの紙がこぼれ落ち、それは口紅をふいたあとのように、美津代の処女のしるしがうつされていたのどす。わては思わず涙をこぼしてしまいました。》

 女心の勘所を撫であげる林真理子の『着物をめぐる物語』集中の『箱屋』は、四十になって脂気が抜け紅絹(もみ)がしっとりと手に馴じんできた箱屋の語りだ。

《「柳腰」という言葉があるぐらい、芸者姿の要は、そのほっそりとした腰にあるわけです。あたしは自分なりの工夫をいたしまして、緋の伊達締を巻きつける時、芸者に動いてもらいます。本来ならば着付ける方がぐるぐると巻きつけていくのですが、あたしは反対に芸者にまわってもらいます。この方が遠心力でぎゅっと固く締まるのです。(中略)あたしの指の中にある伊達締は、女をたぐり寄せるための調教の糸のようです。しゅっしゅっと絹の音がしたかと思うと、あっという間に女の体はあたしの手元にあります。この時必ずといってよいほど、女は薄く唇を開け歯を見せています。》

 芸者は正月の出の衣装の時、簡単には帯を解かないのに、男の片手でたやすく解けるよう箱屋は心を尽くす。

《とても若くて愛らしい芸者がいました。(中略)その年の彼女の出の衣装も見事なものでした。大津絵からとった人形やおもちゃが刺繍と染めとで描き出されています。黒は生地のよし悪しがはっきりとわかりますが、西陣で染めたに違いないどっしりとしたちりめんです。》 ここは銀座〈志ま亀〉のこっくりしたそれを思い浮かべればよい。伊達締をきりりと締めるために〈くるくるまわる際、おどけて姿(しな)をつくったので、あたしとまるで道行のように向かい合うことになりました。喉のあたりがごくんと鳴ったのが自分でもわかりました。》

 夜の十一時もまわった頃、電話がかかってきた。今すぐ目立たないように二階の座敷まで来てくれという。

《若い芸者は帯を解かれ、すっかり着崩れて途方に暮れていたのです。男の姿はありませんでした。「このままじゃ帰れないから……」 きゅっと唇をかみしめている様子は、到底照れているとかはじらっているというのではありません。衣装は芸者にとって商売道具であり、精神まで及ぶ大切なものです。(中略)いくら旦那とはいえ、なんという野暮なみっともないことをするのだろうかと、私は手荒く帯に手をかけます。それをすっかり解き、着物も脱がせました。あたしがしっかりと巻きつけた伊達締はそのままでした。けれどもあたしはすべて最初からやり直さないと気持ちがすみません。しゅるしゅると解いていきました。あたしはあの時、金を持ちこういうところに来る男たちを本当に憎んだのです。あたしが大切に締め、巻き、折って形づけていく絹の数々を、ただ解いていくだけの男たちを許せないと思ったのです。お恥ずかしい話をいたしました。あたしが大層若い時のことです。もしかするとあたしの緋の伊達締を持つ私の手はあの時汗ばんでいたかもしれません。》

 女の情念がしみこんだ絹は、男の涙と汗をも美の肥料(こやし)としてしまうに違いない。