子兎と一角獣のタピストリ(12)「まれ男の「おかる勘平」」

  「まれ男の「おかる勘平」」

 

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 三年ぶりという團菊祭、豪華絢爛な『外郎売』の團十郎復活口上に胸熱くなりながら歌舞伎十八番バロックを愉しんだ。菊之助『保名』の清元に血が騒いだのは東京生れのせいか。海老蔵の『藤娘』、雀右衛門のプロンプター添揚巻に、したたかな松竹を味わいもしたけれど、菊五郎の系譜こそ元禄に言われた「まれ男」に違いない。

 ところで、《『桐の花』における白秋は『赤光』における茂吉よりも遥かに近代的でない》という中野重治斎藤茂吉ノオト』の断定がある。ゴッホ的な狂気や苦悩、きまじめな青年の懊悩を近代的な態度とするのならば、初期北原白秋の本質をとらえている。中野は「見ること」の深度を追いつめた。《対象をさがし、さがしあて、その上にしかと停まるという眼の機能は初手から拒否され、むしろそれは、怖れられ避けられているといえる。そこで眼は、本来の機能を回避しつつ歌としてあらわれ出るため、とめ度のない饒舌で身を装わねばならぬのである。》

 そうだろう。あの人妻松下俊子との姦通事件による収監でさえ、「身の上の一大事とはなりにけり紅(あか)きダリヤよ紅きダリヤよ」と『仮名手本忠臣蔵』七段目、おかるに手紙を読まれた由良之助の台詞「南無三、身の上の大事とこそはなりにけり」をふまえて朗らかな、金(きん)と赤との好きなロマンティストなのである。

『桐の花』だのヒヤシンスだの、ハーモニカだのから、『雲母集(きららしゅう)』のすずめだの、かきつばただのへの変化は、《雰囲気としての薄手な物質的西洋文化へのもたれ込みから、同じく雰囲気としての薄手な物質的日本文明もたれ込みへの推移に過ぎない。雰囲気をぬけての実質への近づきがない》という批判は、中村眞一郎が「てれくさい」と口にした《私たちの精神に何らの犠牲を要求しない》とか《抵抗が驚く程欠けている》とかの近代的自意識を恥じいらせる心理と通底している。

 折口信夫は『まれ男のこと立て』で《あて――上品――で、なまめい――はいから――て、さうして一部いろごのみの味ひを備えた姿を文章の上に作る事の出来る人は、この人をおいてさうさうはあるまい》とした白秋を、寂しさを滲ませ皮肉ってもいる。《白秋兄は、孤独・寂寥・悲痛に徹する新しい生活を展き相に見えた。だが、其朗らかな無拘泥の素質が、急に感謝の心境を導いた。苦患の後、静かな我として玆に在る。此が開放の為の力杖であつた。浄土に達する為の煉獄であつた。かう考えることが、他力の存在を感ぜしめないでは置かなかつた。梁塵秘抄の「讃歌」や、芭蕉の作品は、白秋さんの開発する筈の論理を逸れさせた。さうして悔しくも、東洋精神の類型に異訳させて了うた。》

 寺田透蒲原有明三好達治らに言及しながら詩集『邪宗門』と『思ひ出』を論じた。《そこに朔太郎の内面的な繊細さはなく、言葉というよりむしろ文字が幅をきかせて、あざとい輪郭と光度をもつイメージが眼をちかちかさせるということは本当だろう》という寺田は、ヴァレリーの研究者らしく白秋が表層から内面へと深化していったかに関心を示し、あるものへと近づく。《何かかれのうちには、かれが十分に現実化せずに終った恐怖を催させるもの、なんなら悪と言ってもいいものへの共感があったのではなかろうか。『思ひ出』には、死に近い乳母のあまりに深い情を恐れる幼児だった自分を喚起した作品もあるし、それを一例として、幼児のかれを取巻く、かれには諒解できなかった男女の肉のほてり、疼きが、何か味わい深い悪のように匂わせている作品もいくつかある。》

 寺田はまず『邪宗門』中の、赤子が水に落ちたのに何事もなかったかのような眼を紹介し、金魚を殺す童謡に及んだあと、艶冶な詩「おかる勘平」――風俗壊乱として同人誌『屋上庭園』は発禁、廃刊――を不条理な肉的思考、詩による性への関心の表明だったとしている。これはまた、「見る人」白秋が、初期の詩においては「触れる人」でもあったことの証左に違いない.

「おかる勘平」から少しだけ引用しておく――白秋は同い年で、近代的な写実の芸を取り入れた六代日菊五郎の勘平を観ただろうか。「やはらかな肌ざはりが五月ごろの外光のやうだつた、/紅茶のやうに熱(ほて)つた男の息、/抱擁(だきし)められた時、昼間の塩田が青く光り、/白い芹の花の神経が、鋭くなつて真蒼に凋れた。/顫へてゐた男の内股と吸わせた脣と、/別れた日には男の白い手に烟硝のしめりが沁み込んでゐた、」

 この触感が歌には空白となっている。『桐の花』の序文「桐の花とカステラ」にあるように、歌は古い小さい緑玉で水晶の函に入れて秘蔵され、静かに眺め入るべきものとされてしまう。一方、詩集『思ひ出』は触感に満ち溢れている.「夜」には「誰だか頸すじに触るやうな」というぬめるフレーズがあるし、「母」には「片手もて乳房圧し」「肌さはりやはらかに」がある。『わが生ひ立ち』などによれば、名高い造り酒屋の長男白秋は商家の忙しさゆえ母と肌の触れあいを持てなかったが、乳母(白秋のチブスが伝染って死んだ)に溺愛され、家で働く女達に囲まれて育った。「接吻」には「臭(にほひ)のふかき女きて/身体も熱くすりよりぬ」ともある――白秋と同じく思想の欠如を指摘された、六代目菊五郎好き谷崎が触覚の人であったことを、母の乳房との距離で分析することは興味深い。

 他にも詩に触感は無数にあるが、『桐の花』の歌には放埓の遊蕩や春を待つ間の美貌の人妻があらわれても「雪の夜の紅きゐろりにすり寄りつ人妻とわれと何とすべけむ」とじれったい。歌にはなんらかの抑制が働いて、「色に耽ったばっかりに」の触れあいは封印された。

 婀娜な俊子を身請けするように結婚し、貴種流離のごとく小笠原三界まで流れたすえ敗れ、二度目の妻章子からはコキュにされ、三度目の菊子とで家庭的幸福と社会的名誉を得た白秋は、ほとんど視力を失う死の際の歌集『黒檜』『牡丹の木』でようやく「触れる」歌の封印を切断し、色恋抜きの内面に深く届く歌を詠みはじめる。

 だが、離別から四半世紀を経ていた俊子に、「口述筆記」「家人清書」の木印さえ用意する白秋が病を連絡していて、しかし俊子は、現にてふたたび逢はむ人ならず、との歌を残していたと知るとき、勘平にも由良之助にもならなかったこの愛すべきまれ男の作品に、新たな問いをもって、見落していた徴候の何を見ることができよう。