子兎と一角獣のタピストリ(14)「来ないものを待つ」

  「来ないものを待つ」

 

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 小池昌代の詩から歩く速さで声が聞こえて来る。

 詩集『永遠に来ないバス』(1997)。《八月は、金魚売り。/湯気の立つ/アスファルトの上を/小柄な老人の金魚売りがいく/路地の端から端にわたるだけの/淡いささやかな声を上げて》(「ゆれている水」より)の生活の陰翳の声は《風鈴の短冊も/金魚のおひれも/妹の前髪もゆれていたのだ/あらゆる面はゆれている/「かくじつなものなどひとつもないのだよ」/老人は不安をかたちに運びながら/本の台車をゆっくり/牽いていく》(同前)の頭上からの声となって降りて来る。

《家のなかから私の声があがる/私はその声を往来で聞く》(「交歓」より)の妖しく醒めた意識、《空豆はすぐにゆであがり/わたしは「待って」と言った/湯をこぼして/「食べていって」/流しのステンレスが、ぽこん、と鳴った/それなのに/行ってしまったのは。/なによ/それで》(「空豆がのこる」より)の絡みあえなさ。 《どんな声をもっているかわからない生徒たち/知らない同士がすれ違うたび/小さくて固い乳首はとがり/金属のような涼しい音をたてる/「屋内プールの水を見ていました。もらるがくずれ、もう、なにをしてもいい、という気持ちになったんです。」》(「机上の汚水」より)のノワールは都会の少女のスカートのベルトをべっとり甘くした。

 メルロ=ポンティは「哲学が表現に導こうとするのは、物そのものであり、しかも物が沈黙しているその深みからである」(『見えるものと見えないもの』)と思考したが、詩人もまた哲学者のように沈黙のものの深みからあるものが来るのを不安のうちに待つ。

『もっとも官能的な部屋』(1999)で小池は声をたよりにあるものへ近づく。メルロ=ポンティの「記述することが問題であって、説明したり分析したりすることは問題ではない」、「哲学とはおのれ自身の端緒がつねに更新されてゆく経験である、……また、哲学は一にかかってこの端緒を記述するところに在る」(『知覚の現象学』)の詩的なあらわれだ。《目に飼う馬/うま、と口に出し言い終える前に/あなたから飛び出してくるいっとうの馬が見える》(「馬のこと」より)の目に見える声のかたち。《(ほら、見てみな)/(さわってみな)//そのとき/女の手がのびるかわりに/私のなかから手がのびて/なにかとてもあたたかいものに指が触れた/ほの暗く/どこよりも深い、人間の股》(「Penis from Heaven」より)の根源的な声はどこから来てどこへいくのか。

 鷲田清一は、「メルロ=ポンティの思考には〈存在〉をめぐる深い喪失感と信頼とが表になり裏になって交差しており、それらが感覚の濃やかな襞の一つ一つにしみ込んでゆくようなまなざしのしなやかさと一つになって、奥行きのある独特の思考宇宙を構成している」のであり、「世界にはほとんど職人芸とでもいうべきある表現のスティル(文体)によってのみ近づけるような位相がある。スティルがはじめて可能にする視線というものがあるのだ。そしてそれのみが近づきうる存在の秘密とでもいうべきものが、あるいは存在のプロフイールが」と解説した。

 経験をその〈内部〉から探求し「知覚そのもののうちに身を置く」小池の詩のスティルは、メルロ=ポンティの「つねに経験のなかから〈意味〉が生まれでるその場面に立ち会おうとしてきた。その意味をその「生まれいずる状態」でとらえるという要請をわれわれはここに読み込むことができる」と重なりあう。

《茹蛸になり/途中でざばりとあがろうとすれば/「肩まで!」と怒声が飛ぶ/そのあとふいに/「あと二十数えて出ておいで」/といなくなってしまうのだった/いま/ひとりで/広い銭湯の湯に沈めば/いち/に/さん/し/ご/と声がわく》(「数」より)は存在の秘密をつかむ瞬間に違いない。

『夜明け前十分』(2001)になると声があふれだす。「声」、「ある声」、「きょう、ゆびわを」、「東北沢」、「小さな林檎」、「接触」といった詩の、生と死を厳しく問う孤独な声。《長い旅の途中/アメリカ、サンタ・フェのバスルームで/あけがた/長い長い静かな放尿の音をたてていると/世界に/私とこの音しかいないような気がしてくる/この音といったって自分がたてているのに/それは奇妙にも外側から聞こえて/私をなぐさめてくれているようなのだ/(中略)/これがわたし、わたしなのか/見えない輪のかたちに残された生の温度/おまえはいたのか/そこにいたのか/わたしはいた/生きていた/問う声が届く、そのずっとまえに》(「あけがたの短い詩」より)。

 メルロ=ポンティがくりかえし引用したフッサールの言葉は、「……まだ黙して語らない経験をこそ、その経験自身の意味の純粋な表現へともたらさねばならない」(『デカルト省察』)だった。たえざる辛苦によって、詩集『地上を渡る声』(2006)はスピノザ幾何学的美しさへと結晶化した。はじめから小池の詩には量や奥行き、位相や嵩への関心があった。そくりょう、距離、数、無限、存在、欠如、中心、垂直。深み、光、影、流れ、くぼみ、かたち。詩集全体をさまざまな声が渡り、読者もまた待っていたものがおのれに来るのを知る。

《数えるな/しゃがれた声は再び言った/日々を数えるな/生きた日を数えるな/ただ そこに在れ/そこにあふれよ》(「3」より)。 《見えない家族のまだ来ない一日目を思って、わたしのこころは、不思議にざわつく。湯気よ、立て。茶碗よ、響け。そして、揺れているカーテンを通過して、柔らかい光よ、床をあたためよ。/不意の声が、通過していった。誰のものでもない、祈りのように。》(「16」より)。

 とりわけ最後の一編が魅力的だ。貴船神社、新年一日。 《あたっていってください、というやわらかい声も、首のあたり、耳のうしろに、ぬくもってまるまって、残っている。ああ火とは、おくりものであった。わたしは炭のような地味なものになって、心になんのよどみも持たず、ひたすら澄みきって石段を降りていく。何が焼かれたのか。心の暗黒をじりじりと焦がされて、炭になったあと、灰になったあと、吹き飛ばされて、わたしはいなくなる。階段を下りていく、この身体は誰のもの。//火にあたっていってください、どうぞ火に――》(「34」より)。