子兎と一角獣のタピストリ(17)「よるべなさ」

  「よるべなさ」

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 ロラン・バルトを読むこと――それも繰り返し読むこと――の快楽は「よるべなさ」をともにすることにある。『恋愛のディスクール・断章』にしても、『明るい部屋  写真についての覚書』『サド、フーリエロヨラ』『テクストの快楽』『神話作用』『ミシュレ』『ラシーヌ論』『彼自身によるロラン・バルト』、やや学術的な『S/Z』『モードの体系』にしても、然り。挑発的でエレガンスなのに、定めない。

 中国訪間でついには観光バスから降りようともしなくなったバルトだが、日本には異常なまでの興味をしめし、三度来日したばかりか『記号の国』という本さえ残している。西欧文化に対して、内部が外部を規定しない表象的な日本文化への共感を俳句、文楽などを素材に考察しているが、ここでは日本料理に関するバルトの声の粒にくすぐられ、こすられてみよう。

――中心のない食べもの

《材料がなまのままで、大皿に盛られて運ばれてくる(なまではあるが、皮をむかれて洗われて、春の服のように美しく輝き、色あざやかで調和のとれた裸体をすでにまとつているので、「色彩、繊細さ、筆触、効果、調和、妙味など、すべてがある」とディドロなら言っているところだろう。》《食用の葉物、野菜、白滝、白い豆腐の角切り、生卵の黄身、赤い肉と白い砂糖。》 白い砂糖に関東の人間ならギョッとするが、バルトは中京(なかぎょう)の寺町三条下ル、健啖家谷崎も愛した〈三嶋亭〉ですきやきを、八角形の鉄鍋に白砂糖を大さじ二杯まいて、その上に厚く大きな特上牛肉をのせ、炒つて(はじめからわりしたで煮るのではない)食べているのだ。

《煮えたばかりの断片を箸の先でいくつか取りだすと、それに応じてべつのなまの材料がかわりに入れられる。この行き来を取りしきっているのが、補佐役の女性であり、あなたの少し後ろに位置して、長い箸を持ち、鍋に材料を入れたり、会話をはずませたりする。(中略)あなたは「なまものの黄昏」を目のあたりにしているのである。》 下足番に履物を預けて〈三嶋亭〉の急な階段を昇れば、東京の中心が天皇の住む禁域の皇居という空虚からなるとの指摘によって、日本の政治思想的本質を言いあてていると深読みされた主体なき黄昏にひたれる。

《日本の料理では、すべてがべつの装飾をまた装飾するものとなっている。》《この料理が――これこそ独自性なのだが――調理する時間と食べる時間とをただひとつの時間のなかで結びつけていることである。すきやきは、作るのにも、食べるのにも、そしていわゆる「語りあう」のにも、果てしなく長い時間のかかる料理であるが、それは調理が技術的にむずかしいからではない煮えるはしから食べられてなくなってしまうので、それゆえ繰り返されるという性質を持っているからである。(中略)ひとたび「始まる」と、もはや時間も場所もはっきりとしなくなってしまう。中心のないものとなってしまう。とだえることのないテクストのように。》 『源氏物語』と『細雪』の類似点はそこにあるし、『仮名手本忠臣蔵』『義経千本桜』『菅原伝授手習鑑』など、いわゆる丸本物の中心のなさこそが永遠の人気の秘密であり、近松心中物がつい最近まで上演されなかったのは、ラシーヌ悲劇の「三単一の規則」に典型的な、戯れなき中心性に他ならない。

――すきま

穴子は(あるいは野菜や海老などの断片)は、ザルツブルクの小枝のように揚げ油のなかで結晶化して、すきまだらけの小さなかたまりか、透かし模様の集まりになってしまう。》 バルトが天ぷらをどこで食べたのか知らないが江戸前とはいいがたい。けれども富小路通り御池下ルの料理旅館天ぷら〈吉川〉で艶な女将に世話されて小さなコの字カウンターに坐り、白大豆油と京野菜の天ぷらを味わえばおのずとわかる。

《油に入れられると金色に変化するその乳液は、とても淡いので、食べものの断片を完全には包みこまずに、海老の素材のばら色や、ピーマンの緑色、ナスの褐色などをのぞかせている。そんなふうにして、西欧の衣揚げの特徴となっているもの、すなわち表面の覆いや外皮や濃密さなどが、日本の揚げ物からは取り去られているのだった。》 これは「身体の中で最もエロティツクなのは衣服が口を開けている所ではなかろうか・・・ちらちら見える肌の間歌、誘惑的なのはこのちらちら見えることそれ自体である(『テクストの快楽』)と同じではないか。

《彼が客の目のまえで調理をするのは、その料理が高貴な精密さと純粋さをもっていることを客に目撃させるため(だけ)ではない。その仕事ぶりがまさに書画家のようだからである。彼は食物を書画の素材にしてしまう。調理台は書画家の机のように配置されている。(中略)彼は、食品のたどる過程を物語っているのであるが、それは、完成したものだけが何らかの価値をもつような(フランス料理の場合がそうである)仕上がった製品としてではない。意味は最終的なかたちにあるのではなく、すこしずつ変化して、作りだす行為が終わったときには、いわばなくなってしまっているような生産物としてあるのだった。》

 中心のなさといい、すきまといい、あるいは箸づかいといいよるべないが、それら定めなさにこそバルトは知的対象というよりも快楽の対象を、祝祭のような魅力を感じたのだ。だから中心なく三業(太夫、三味線、人形遣い)に分離して演じられ、主遣いのちらちら見える顔をゼロとしたうえで、語りの声、音楽の情緒、動作の内容を観客が統合化して意味を読みこみ、幻想を生成する文楽に、劇評家でもあったバルトが『記号の国』の三章も割いたのは自然なことであった。

 パリの夜。カフェ<フロール>で半熟卵とボルドー・ワインをとり、パスカルの『パンセ』を繰りかえし読むバルトの倦怠(アンニュイ)、退屈。コレージュ・ド・フランスで『小説の準備』という題の講義をもち、『VITA NOVA(新生)』という小説のノートが死後見い出されたバルト。不慮の事故が彼を襲ったカルチエ・ラタンに、クリュニュー中世博物館がある。その至宝は「味覚」「聴覚」「視覚」「嗅覚」「触覚」「我が唯一の望みに」の六枚からなる『貴婦人と一角獣』のタピスリーだが、幻想の一角獣のまわりをたくさんの小兎が飛び回っている。小兎たちは快楽の象徴なのか、よるべなきさまざまな快楽の。遺稿『人はつねに愛するものについて語りそこなう』で、スタンダールにおけるイタリアがそれだったと論じたバルトは、愛するプルーストについて語ることを抑えたのに、なぜ日本をこれほど語ったのだろう。

 宵の祇園。割烹<なか一>で、目の前で切り盛られたオパールのように美しいこりこりした明石鯛と、疋田絞りの裂みたいな皮の湯引きを舌先で味わう女の着物の、中心のなさとすきまに魅入っていると不意に『パンセ』の一節が口をついた。「今ある快楽が偽りであるという感じと、今ない快楽のむなしさに対する無知とが、定めなさの原因となる。」