子兎と一角獣のタピストリ(18)「雪のうちに春はきにけり」

  「雪のうちに春はきにけり」

 

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 チューリップで有名な北国から手紙が届いた。里に帰って心のリハビリをしています、中国語の勉強をはじめました、わたし『夜来香(イエライシャン)』を歌えるの。

 一九四〇年ごろ大陸で李香蘭が歌った『夜来香』。 ♪那南風吹来清涼、那夜鶯啼聲凄愴、月下的花兒都入夢、只有那夜来香、……。

 その歌詞から『古今和歌集』の二条后作「雪のうちに春はきにけりうぐひすの氷れる泪いまやとくらむ」を思いだした。

伊勢物語』四段で「月やあらぬ春やむかしの春ならぬわが身ひとつはもとの身にして」と男に絶唱させ、三、五、六、七十六段にその男在原業平との入内前の艶聞を一代の語り草として書き伝えられた清和天皇女御にして陽成天皇の母、二条后藤原高子である。

 皇室の恋は万葉のいにしえから豊穣を司るシャーマン的性格の発露であり、文学的には『源氏物語』の藤壷と光源氏の「もののまざれ」がその極みであった。薩長政権は維新から二十年あまりかけて明治天皇をフレームアップしながら「近代日本の政治装置の中枢」(福田和也)とし、皇室に道徳範例を求める悪しき漢意をまとわせ(明治天皇の恋歌は全集から葬り去られた)、『皇室典範』の中に「やまとごころ」としての色好みも含めて人格を封印してゆく。他方、血統の維持、リプロダクションを最大の務めとしていることの宿痾としてか明治天皇の父孝明天皇の代から世継ぎがえられないという悲運がはじまった。

 鶯はおろか雁も魚も泪を流すのだから、どうして帝や皇太子の妃が涸を流さないということがあろうか。

 島田雅彦『美しい魂』は皇太子妃の恋を扱ったきわどい小説である(発表は雅子妃の出産を配慮して遅れた)。『新潮』誌上での島田と浅田彰の対談を透して『美しい魂』をみてゆこう。平成天皇夫妻は戦後民主主義の申し子みたいであり、その息子の皇太子はプロポーズのときに「全力でお守りしますから」と約束しておきながら実際は心身ともに雅子妃が追い詰められる結果になったのをみて、「雅子のキャリアや、それに基づく人格を否定する動きがあった」と宮内庁を通過せずに直接世論に訴えようという覚悟でSOS信号を発したと会話したうえで、

《浅田  そういう文脈で島田さんの『彗星の住人』『美しい魂』『エトロフの恋』という〈無限カノン〉三部作を読み直してみて、そのアクチュアリティにあらためて驚きました。(中略)たとえば『美しい魂』では、主人公のカヲルが将来の皇太子妃不二子に「空虚の森か。真っ暗だ。穴が開いているみたいだ。その森に暮らしている人はどんな夢を見ているんだろう?」と問いかけ、不二子が「気ままな旅人になって、誰の東縛も受けずに世界中を旅する夢を見ているんじゃないかしら」と応える場面がありますね。しかも、厳しい公務に耐えられなければ、「神経をすり減らし、容易に病に至る」とまで書いてある。

島田  そんなこと書いてました?》

 頭のいい女を煙たがる世論に対して宮内庁が急ごしらえした均質化されたロイヤル・スマイルが不意の感情で崩れた瞬間、人はそこに、「外国暮らしが長く有能な外交官で、しかも外務省スキャンダルに関わらずに皇室に嫁いでいるという辺りに、彼女の可能性が未来に向かって開けていてしかるべきなんですよ」とまでアイロニカルな島田雅彦に言わしめた雅子妃の「美しい魂」と、万人のためではない差異化された「人格」を見たに違いない。たとえば歌会始でロイヤル・スマイルを氷らせ唇をふるわせたとき、あるいはようやくに子をえてのインタヴューで言葉つまらせ潤む瞳で皇太子とともにはにかんだマサコ・スマイルに。

 西欧的近代は神=王=父が(実際にもしくは象徴的に)殺されるところからはじまつたが、この国の近代は神が(象徴的に)復活し、他力によって「人間宣言」させられるところからはじまった。R・バルトは東京という都市の中心は空虚であると見抜いたが、丸山眞男が「いかに実権が空虚化していても最高の正統性は皇室にありました」と日本政事(まつりごと)の執拗低音について語った禁域では「人権宣言」も「人格宣言」もいまだなされていない。

 雅子妃の「氷れる泪いまやとくらむ」という春風が吹くことを願いつつ『美しい魂』のさわりを紹介して筆を置こう。そして夜来香の花みたいに白く美しいあの人が鶯のように舞い戻り『夜来香』を歌うときが来ますように。

《――アンジュさんだったら、どうする?  英宮さまと結婚する?

――私には荷が重過ぎるわ。きっとノイローゼになってしまう。国連の仕事はほかに出来る人がたくさんいる。でも皇務が務まる人はいない。不二子さんは英宮さまのお眼鏡に適ったのよ。私も不二子さんなら、皇后になるにふさわしいと思う。英宮さまにとっては願ったり、叶ったりでしょう。

 まるで、皇室に嫁ぐことを勧めているかのアンジュの口ぶりに、カヲルは思わず口を差し挟む。

――自由を奪われるよ。逃げたほうがいい。二度と恋ができなくなる。

 アンジュはカヲルを無視して、続ける。

――自分の趣味も考え方も捨てて、形式を踏襲しなければならないのでしょうね。でも、お相手が英宮さまでなくとも、結婚は自由と引き換えになされるものなのかも。(中略)女たちが自分の意思で恋を愉しんだ官廷の伝統は、明治以来、途絶えて久しいから。もし、あなたが英宮さまのお妃になられたら、この国の女性たちのために、愛し合う男と女は、生活の上でも平等だということを示して欲しい。皇太子妃がなさろうとした皇室の改革を受け継ぐことができるのは、不二子さんだけよ。

(中略)不二子はアンジュの魂胆を理解してか、あるいは優雅にはぐらかすつもりでか、「あなたは『源氏物語』を現代に蘇えらせたいのね」といい、微笑んだ。(中略)

――不二子さん、あなたの味方をする女性は大勢いるはずよ。