文学批評 「宇野千代『おはん』の歓びの声」

  「宇野千代『おはん』の歓びの声」

  

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 鷲田清一に『「聴く」ことの力――臨床哲学試論』という本がある。ターミナル・ケアの現場で、「もうだめなのではないでしょうか?」という患者の言葉に対して、励ますこと、なぜと聞き返すこと、同情を示すことではなく、患者の言葉を聴き、受けとめる(だけの)行為を多くの精神科医は選ぶと冒頭近くに書かれている。ついで著者はメルロ=ポンティの言葉を借りて、臨床医学とは何かを説明してゆく。それは三つの「非―哲学」ないし「反―哲学」の視点に立っていて、第一に論じること、書くこととしての哲学ではなく、「聴く」といういとなみとしての哲学を模索する。第二に、普遍的な読者ではなく、だれかある特定の他者に向かってという特異性の感覚を重視する。そして第三に、一般的原則が一個の事例によって揺さぶられる経験としての哲学をとらえる。

 本のなかほどで、宇野千代の『生きて行く私、人生相談』のおもしろさが、詩人の佐々木幹郎――宇野千代について文庫本解説も書いている――の薦めをとおして紹介される。千代は相談者の言葉を、まるでおちょくっているかのようにそのまま反復する。しかしそれが相手にとっては、ああ私の言うことをどれひとつ省くことなく受けとめてくれた、という実感をともなった安心につながっているというのだ。相談者の言葉を「……、と言うのですね」のフレーズによってたっぷりと反復しつづけたあとで、「二人で一緒になって考えましょう」と相手だけに語りかけて締めくくる。おそらくはこのような態度こそ臨床哲学の実践に違いあるまい。

 その宇野千代の小説『おはん』(昭和三十二年刊)は、日本古典文学の伝統形式、語りものにつらなる名作だ。『人形師天狗屋久吉』(昭和十八年刊)で聞き書きした阿波徳島あたりの方言に、千代の故郷岩国訛りと関西訛りをまぜ合せた独特の語り口によって、「作りもの」――と千代はあとがきに書き添えている――のはずのおはんが動き出す。『おはん』の語り手である一人のどうしようもない男の繰言(くりごと)、その個人的な感覚の揺れを聴かせることで千代は透徹した普遍に近づいてしまう。

『おはん』という物語は磨きあげられた七つの肌理(きめ)で人を惹きこむ。

 

<第一の肌理――声の肌理>

 千代の語りにはテクスト(言表内容)だけでなく、テクスチュア(言葉の肌理)がある。

 声がふれる。声がとどく。

《ひい、といふような声あげたと思ひますと、その細い、糸みたやうなおはんの眼がつりあがつて、さつと顔から血の気がひきました。「離して、離してつかさんせ、」と身悶(みもだ)えして、息もとまるやうな声して申しました。》

 声の肌理でまわりの空気が変質する。

『おはん』をはじめから読んでゆこう。

《よう訊いてくださりました。私はもと、河原町(かはらまち)の加納屋(かなふや)と申す紺屋(こうや)の倅(せがれ)でござります。》

 人形浄瑠璃義太夫節の、ひとつの段のなかで舞台装置は変わらずに、大夫、三味線だけが入れ替わるヲクリのように、物語はすでにはじまっている。いきなり語りの声の肌理に胸を撫でられる。「か(、)はらまちのか(、)なふや」のカ音、「こうやのせがれ」の三拍子の律。それにつづく、人形浄瑠璃の床本一枚ほどのマクラに相当するところはこうだ。

《生れた家はとうの昔に逼迫(ひつぱく)してしまひ、いまではこのやうな人の家の軒さき借りて小商(こあきな)ひの古手屋(ふるてや)、もう何の屈託もない身の上でござりますのに、何を好んでいらぬ苦労するかと思ひますと、わが身の阿呆(あほう)がをかしうなりませぬ。》

 ところで、谷崎潤一郎は随筆『私の見た大阪及び大阪人』に、大阪人と東京人との肌合いの相違を彼らが話す「声」に強く感じて、《私にいわせると、女の声の一番美しいのは大阪から播州(ばんしゅう)あたりまでのようである。あれから西や南の方へ行くとまた変な訛(なま)りや濁音が這入(はい)って汚くなる》と書いた。『おはん』は、その西に位置する岩国あたりの濁音をあばれ者の平太叔父の「おどれエ」、(おのれの意)どの面さげてこの家の敷居またぎやアがつたぞ」と男言葉の一、二に残しただけだ。

 谷崎の言う《東京の女の声は、良くも悪くも、あの長唄の三味線の音色であり、また実にあれとよく調和する。キレイといえばキレイだけれども、幅がなく、厚みがなく、円みがなく、そして何よりも粘りがない。だから会話も精密で、明瞭(めいりょう)で、文法的に正確であるが、余剰がなく、含蓄がない。大阪の方は、浄瑠璃(じょうるり)乃至(ないし)地唄(じうた)の三味線のようで、どんなに調子が甲高くなっても、その声の裏に必ず潤いがあり、つや(、、)があり、あたたかな味がある》とは、千代の『おはん』の声の肌理を語っているかのようである。

 千代は故郷岩国にちなむ地名をくりかえしたたみかける――地名、そして方角、位置関係ばかりでなく、間取りを詳述することも多く、その俯瞰性は自己のなかの他者を冷静に視る人であったことと関連しているだろう――「鍛冶屋町」「大名小路」「新門前」「河原町」「鉄砲小路」「曲尺町」「本町」「新小路」など、どれもが城下町の名残といった情緒を醸しだす。それは「紺屋」「古手屋」といった店名にもあらわれ、「半月庵」「沖野屋」「吉田屋」「加納屋」「天狗屋」「唐津屋」などと語る音で、差しだされた座布団に沈みこんでゆく。

 ここには生涯千代がこだわりつづけた血筋に関わる「生れた家」「倅(せがれ)」といった語彙もある。《わが身の阿呆(あほう)がをかしうてなりませぬ》といった自尊心と背丈にみあった自嘲の声とのダイアローグが、他人の不幸話を聴きたいという物語の本質的欲望をのっけから刺激する。そのうえ、人を喜怒哀楽に誘う手練手管が、いかに千代の伝統を学んだ技巧に裏打ちされているかは、次の文にあきらかである。《へい、あの女(をなご)は、実は私の女房ではござりませぬ。いまから七年ほど前に、生れてはじめて馴染(なじ)みました町の芸者(げいこ)でござります。私より一つ齢上(としうえ)の卅三、名前はおかよと申します。》

 語られるうちに対象となる時間はどんどんさかのぼり、物語は、物を語るための軸としての時間をめぐって回想の響きと化してゆく。「へい、」の一語で話を急展開する術もさることながら、まずおはんではなく、おかよを先に登場させるところ(善の前に悪を)が世話物の常套手段である――たとえば、近松門左衛門心中天網島』の遊女小春が、身を引く女房おさんに先だって登場するように。無意識な決まりごとに従って聴かされることは陳腐ではなく、安心して空言(そらごと)の世界に入ってゆくための子守唄、神話のようなものだ。

 それにしても、『おはん』にはどれだけの「声」という語があることだろう。どの声も魅力があるけれど、特徴的な声をひろいあげてゆく。

 まずは、ほとんど声にならないおはんの声に、声とは音からなるものではないと気づかされる。声音にならない心の声さえ聞こえる。

《「へえ、この春から、もう学校へ行きよります。」やつと口の中で申すのでござります。》

《「誰やら向かうからきよる。早う行(い)き、」と申しますと、おはんははじめて顔あげて何やらものいひたそうな眼をしてちらつと私をみましたが、それなり、あとも見んと馳けていてしまうたのでござります。》

《片手を半纏の襟の下へ入れたまま、かう下むいてるときの様子といひ、ほうつと肩で息して、それからゆつくりとものいふときの癖といひ、もう七年前とそつくり同じでござります。》

 しかし、おはんが消えるような声でこたえるのがやっとのはかなげな様子だけであったのならば、それこそ人形のようであろう。千代がそこに生き血をかよわせたのは、生娘ではないおはんの声だった。古手屋の男と撚(より)を戻してから、十日もおかずにしげしげとやってくる女の声。

《「いま、お母(か)はんが風呂もらひに行かしやつた間(まア)にきました。ほんに、親にも嘘いうたりしてなア、」というて、袂をあてながら笑うたりするかと思ひますと、またときには、「誰にはばかるものもない、晴れて夫婦(めをと)であつたものが、人にかくれて、かうして媾曵(あひびき)みたよにせんならん。」というて嘆いたりするのでござります。(中略)これがあのおはんか、人にもの問われても、ろくに返答(へんと)もでけんやうな穏当なあのおはんかと思ひますと、別人のやうでござります。》

 その揺らぐむら気にかえって哀れを感じ、離したくない心がつのってしまう。

 お大師(だいし)さまの横手の家を二人して見に行った七夕あけの晩のおはんの、《「ほんに、かうして会うてもろてるだけでも、済まん済まん思てるのに、」といふおはんの声も、参詣のお人の、絶え間なしに鳴らしてる鈴の音に掻き消えて、あとは泣き声だけきれぎれに聞えました》というはかなさ。

源氏物語』でいえば、夕顔、女三宮、浮舟につながる細さの系譜は男心をとらえるものと千代は自身の体験からよく知っていた。一方おかよの、朧月夜、雲井の雁の一種庶民的ともいえる太さの系譜は、たとえば《「ふん、人力できたのやけど、そこの角で往なしたのや。なア、傘もつてこなんだら、あんた、どうする気やの? へえ? ほんに世話のやけるお人や。」》といった磊落な気取りなさゆえ同性に好かれる。

 女たちの自分の心に素直な、ある意味では本能的な声に比べて、古手屋の男の声は、まるで大夫のように様々な役を一人で演じてしまう。男は自らの声によって物語に陶酔してゆく。声が行為を後押しする。声が心にひとつを選ばせる。

《「いやか、こなな男は、しん底愛憎がつきたか、」というてます中に、まアあれが男の出来心と申すものでござりませうか。ついさきがたまで、も一度おはんの体に指ふれようなぞとは夢にも思うてはをりませなんだのに、わが身も女の身の上も、もうめちやくちやに谷底へつきおとしてしまひたいといふやうな、阿呆な心になつたのでござります》というしまつで、《「何いうてる。お前と俺とは子まででけてる仲やないか。今さら恐しいて、何のことがあるかい?」と私はわざとに声を荒うして申しました》とばかり、弱い心をいじくりまわしたあげくに罪を生む。

 子供の悟(さとる)を呼びとめ、《「な、坊(ぼん)、坊もおとなしうにしてゐたら、そのうち、おつさんが迎へに行てやるけにな、」と思はず言うてしまうたのでござります》といったあとさきを深慮しない一言が口から滑りでてしまうこの男は、おはんに、《「何いうてる、」と私は女の手をおさへ、おもはず大きな声して申しました。「そんで子供にすむか。悟を父(てて)なし子にして、そんでお前すむ気か。」》と偉ぶったあと、おはんが往くのとすれ違いに雨に濡れたおかよに呼びかけられると、《ついいまのさきおはんに対して大そうな口きつた、その舌の根も乾かぬ間に、私はこの酔うてる女の肩抱いて、「ほれ、こなに、肩も袖も濡れ鼠や、」とおのれの声とは思はれぬやさしい声して申しました》となめらかに使い分ける。

 けれど、色悪と言うほどのものでもない男を憎めないのを千代は心底知っている。だからこそ千代はおかよに、《「さア、往んで寝(ねよ)う。今日はうちの妓(こ)、どの妓もみなよう売れて、もどつて来よりやせん。あてら二人(ふたアリ)きりや。なア、これから往(い)んで飲みなほして寝う。早う、寝う、」と、はあ、はあ、まだ年若い女みたよに息はずませ、そのまま私の手(てエ)とらんばかりにして急きたてるのでござりました》といった熱い声の肌理で男を圧倒する。

 とりわけ『おはん』を十年かけて書きついだ当時の夫北原武夫からの影響として、ラファイエット夫人の『クレーブの奥方』を何十回と読みなおしたという千代の読みの深さは、次の文章だけでもあきらかである。龍江に転落して死んだ悟の葬式に賭けつけた男の、《「おはん、おはん、」と喚いてるおのれの声の、なにやら他人の声かと思へたのでござります》という自己の中に他者をみてしまう醒めた意識こそ、フランス心理小説に学んだ宇野千代モラリスト小説家としての性(さが)に違いない。しかし正確にいえば、もともと千代はモラリストだったのであって、それを文学的に表現し、自覚することをフランス文学から学び取ったということだろう。

 いささか性急に言いきってしまえば、『おはん』を読むとき、やはり千代が愛読したというコンスタン『アドルフ』(男の変節する心理を細やかに描写した)とかパスカルやアランを読むように読んでいる自分に気づく。

 きもののデザインを四十年もした宇野千代は、《私はデザインするとき一人ごとのように「私のきものはフランス文学」というのがくせなのですが、それというのも、あのフランス文学のような、知的で典雅でシックなデザインでなければと思うからです》と書いていて、実際のきもののデザインはもっと華やかであったとはいえ、本人の気分はそこにあった。

『おはん』の語りには、近松門左衛門心中天網島』の、あたかも心中未遂となった小春治兵衛後日譚を聴いているかのような、あるいはマルグリット・デュラス『愛人(ラマン)』の呟きを聴いているかのような魂の震えがある。その内へ内へと向かってゆく文体は『おはん』に続いて堰をきったように発表された佳品群、『或る一人の女の話』や『この白粉入れ』にあきらかだ。風景や人物の外形描写を削ぎ落し、反比例するかのように内面追求で彫琢されている。なかでも『或る一人の女の話』の吉野一枝は宇野千代その人と言ってもよいのだが、小説となることが目的ではなく結果にすぎないとき、私小説はモラリスティックになりうると教えている。

 いかに千代が幼くして声の肌理を体得していたかは『或る一人の女の話』の次の一節から知りえるだろう。こういうのはもって生まれた感性に違いない。小学生のころの思い出であろうか。

《夫婦というものがどう言う形のものか、考えることもなかった一枝は、若い母のことを頓馬と呼ぶ父のことを、或る避け難い現象として、甘受したのを忘れない。或る夜のことである。ふと眼のさめた一枝の耳に、眠っている筈の父の部屋から、母の泣く声がした。ああ、母が泣いている、と思ったとたんに、宛(あたか)もその母を宥(なだ)めてでもいるかのような、父の低い声が聞えた。それがあの、父の声かと怪しまれるほど、それは優しい声であった。》

 ここには法ともいえる父への近親相姦的な愛憎と、放蕩の血のエロティシズムがざわざわと粒だって『おはん』と血縁を結ぶ。

 ロラン・バルトが『第三の意味』で書いたように、肺だけでなく、舌、声門、歯、口内壁、鼻からきこえて来る。entendre――「聞く」は生理学的現象であり、e(、)couter――「聴く」は心理学的行為であるとバルトは論じたが、千代の声の肌理は「聞く/聴く」の絡みあう摩擦音の魔術である。

 

<第二の肌理――風の音>

 宇野千代は『おはん』のあとに、『風の音』を書いた。『それは木枯らしか』という題名のものもある。『幸福』の最後の一行は《風が出たのである》であり、『野火』の書きだしは《風が吹く。木々の葉裏が白く、波のように揺れる》だった。多くの小説は、風ではじまるか、風で終る。

 風の音は人形浄瑠璃の三業のひとつ、太棹三味線の音色の西洋音楽の音符におきかえられない精妙なニュアンスで、情・模様(情緒)・情景を表現している。

『おはん』では、はじめの出逢いから風の音が聴こえてこないか。

《町の寄合ひのくづれで、よそのお人と二三人あの臥龍橋の(ぐわりようばし)橋の上でええ心持になつて風にふかれてゐたのでござります。すると誰やら、白い浴衣(ゆかた)きた女がすうつと私のすぐ傍(ねき)をすりよつて通るのでござります。この広い橋の上をあなに近うに人の傍を通らいでもと、さう思うて顔みますと、別れた女房のおはんでござります。》

 ダンテ『新生』の、フィレンツェ、ポンティ・ヴェッキオ橋のたもとに白い衣装であらわれたヴェアトリーチェとはあまりに違って秋風のような女の、しかし「あまりに近う」だけでわかる秘かな情念。

 心の三絃を鳴らす風は、吹きあたるのではなく、吹きぬけてゆく。無常のごとく過ぎてゆくことで時が感じられる。通り過ぎてしまう風に千代の執着しない粋がある。

《川風が絶え間なしにさあアと藪の上をふきぬけてきましてなア、そのたんびに川向うの糸くり工場から女衆(をなごし)のうたてる唄が手にとるやうに聞えてくるのでござります。》

 唄声は千代の母のものだったろう。音はいつも遠くからきて、人を《をかしげな心持にしたと思うや》生を決定づける。

 迷う男はふらふらと、風が運んでくる音を聴く。

《寺の裏手をぬけて一二町もいきますと、もうすぐそこが学校でござりますので、風の具合で退(ひ)けどきの鐘と一しよにわやわやと子供たちの立騒いで戻つてくる声が、手にとるやうに聞えて来ることがござります。》

 その声の中に子供の悟がいるとは考えもせず、子供をつれたおはんがここへ寄るのではないかとしか思えなかった薄情な男が、偶然に悟が毬を買いにくるや、早鐘(はやがね)みたいに胸の動悸が高まって、翌日から学校に足を向けてしまう。

《あそこの薬屋と唐津屋(からつや)とのあはひに大きな椋(むく)の樹がござりますやろ、あの樹の後にかくれてますと、向ひの黍(きび)畑からびゆうつと寒い風が吹いてきましてなア、黍の枯れつ葉やら埃やらが一ぺんに頬げたにまひかかつて、もう眼も上げられんやうでござりましたが、ひよんなことに、それが何ともないのでござります》という男になってしまっている。

 ある日のこと、毬を子供の手にのせてやると悟はまぶしげな眼でにっと笑う。

《それは一ときの間のことか、ながい間のことやつたか分りませぬ。片側は竹藪の、もう昼中とも思へんほど冷つとしてます中で、風のたびに、ささ、ささ、と笹藪の鳴るのが聞えました。》

 竹藪の音は、千代の記憶の琴線を激しく掻き鳴らす。『或る一人の女の話』の、風の谷のように渡ってゆく音はいくつもの作品でくりかえされるが、少しもまたかと思わせない強さを持っている、《一枝の眼に、母を追うて泣いた自分の姿が見える。川下の家は竹藪の続いた堤の下にある。いまでも、竹藪のざわざわと鳴る音が聞える。一枝はこの竹藪のそばで泣いたのだと言う。》 別の作品では竹藪の音を、《もし、私が死んだら、もう、あの笹の鳴る音は聞こえなくなる》と思い、《死と言うものに対する恐怖が、ぞっと私の背中を吹き抜けた》と回想し、《九歳の子供の心に、死を怖れる人間最初の恐怖が、吹き抜けて行った》というその瞬間、自分を他者として見る意識が、チベット密教でいうところの風(ルン)となって千代の体内を吹き抜けて行ったのではないか。

『おはん』に戻る。

《遠い町から聞えてくる山車の囃しの音にまじつて、わあつといふ音のするたびに、眼の前の手摺(てすり)のかけた新しい手拭が、風になびいているのでござりまする。》

 風になびく手拭を見て、男の人生の車輪はガタリと廻る。

《どれがあとやらさきやら、わが心にも覚えがござりませぬが、去年の夏、おはんにめぐり合うてからの、言葉につくせぬかずかずの心の重荷が、なにやらすうつと軽うなるよな気がしましてなア。へい、私はこのとき、もう一度おはんと家もつて、わが子の悟そだてる決心をしてしまうたのでござりまする。》

 千代は小道具の使い方が実にうまい。手拭はのちにもう一度風にひらひらするだろう。

 心のすきまにすうっと入りこんでくる風。七夕のあけの日暮れ、おはんともう一度世帯をもつためのお大師さまの横手の借家を見に行くと、

《「あんさん、あて、嬉しうて、」というたきり、おはんは顔に袂をあてました。

「ふん、どなな家や知れん中に喜うだら損するわな、」と私は、なにやらぐづぐづと雪駄はき、それはいつもの癖でござりますが、暖簾の内から、おもてのあとさき見てますと、さアと涼しい夜風とともに、向かひの露路(ろぢ)のあはひから、蚊遣(かや)りの煙の立ちのぼるのが見えました。》

 と、男は《二人の女に挟まれて、心も空でゐてますので、何や、うとましうなりましてなア》とすたすた出て行ってしまう。コンスタンスが『アドルノ』できめ細かく分析し、言葉をつくして男心の移りかわりを文字にしたことを、千代はほんの一語か二語、《さアと涼しい夜風》、《何や、うとましうなりましてなア》で表現しつくしてしまうのだ。

 二人の女のあいだで迷う男を千代は、その人生において尾崎士郎東郷青児、北原武夫で経験した。自己意識としてのモラリスト文学者北原武夫の、男と女の自己救済されぬ世界には、この古手屋のような男がいくたりとなく登場しては去ってゆく。たとえば、ふと逃げだしたくなる男の意識は、『渇いた歳月』で子供を生ませた女に結婚を迫られ、《他人ごとのような観念》でいる自分に気づいてハッとし、《一刻も早く逃れ出て外の冷々とした空気の中を歩きたい》とただそれだけを考えるのに似てはいないか。また『霧雨』の男の女に対する愛というよりは未練の心は古手屋の男のそれである。

 借家で待っていたおはんがすうっと身を寄せてくる。

《そのときの私の心の中を何に喩へたらよかつたでござりませう。そや、俺アここでこの女と一しよにくらす約束したのやな、と思ひますと、この見知らぬ家の中の、埃くさい温気の中で、平気で女と腰かけてゐるわが身のほどが分りませぬ。》

 軽薄にみえる男が自己を見つめる眼をもっていること、モラルを破ることとモラリストであることは対立するどころかむしろ同じベクトルにあること、さらにはどうにも心の正体を見極められないことで普遍に到達している。

 千代が北原より読み手の情を震わすのは、心理小説では外形描写や風景描写を切り詰め、そのぶん心理を説明しがちなのに、千代は《埃くさい温気》といった感覚の肌理だけで心の襞をなでてしまうからである。谷崎潤一郎が言うところの《座談の相手には東京の女が面白く、寝物語には大阪の女が情がある》の前者は北原の文体であり、後者は千代のそれであった。

《どこやら暗い叢で喧(かしま)しう鳴いている虫の声、遠い在所のあちこちから風に乗つて聞えてくる盆踊りの稽古太鼓、その聞きなれた音までが、なにやら身の行く先を急きたてるよな心持でござりましてなア、すぐ傍(ねき)に腰かけてるおはんの、そのねつとりと汗かいたよな体のぬくみに、そりや、もう、遠い昔に忘れてしまうたはずの夢でござりますのに、われから好んで引き込まれる心になつたのでござります。》

 ここには千代に特徴的な「自分の感覚に従って生きる」(スタンダール)というコードが揃っている。遠くから風に乗ってくる音が血を騒がす。急きたてられ、いてもたってもいられなくなる(「駆け出しお千代」とあだ名されていた)。汗かいて濡れる女のぬくみ。放蕩のようなものと自覚しつつ堕ちてゆく。

 風のドラマは、風に揺らめく炎と生き物の鳴き声を背景として千代を襲う。自分の眼で見つくしたいと覚悟し、しかし自分から体を投げだしたと思って羞恥し、しかし狂気を装うという自己逃避を、忘れられない経験として『或る一人の女の話』に昇華した。

《近くの田圃で喧しく蛙(かえる)の鳴く声がする。何がこれから起るのか、一枝は知っていた。男は蒼(あお)い顔をしていた。ランプの灯がちらちらする。風が出て来たのだ。一枝は立って窓をしめようとした。そのとき、ふいに男の手が一枝の裾にかかった。足がすくわれ、そのまま一枝は莚の上に引き倒された。この板敷の間では、ついこの間まで蚕を飼っていた。機(はた)がおいてあった。莚と機の間の、その狭い間に一枝が倒れると、男はその上にとびかかった。一枝は声も立てなかった。男の手がその胴にかかるのを反射的にはねのけながら、一枝は自分で莚の上に転がった。強い蚕の匂いがした。帯がとけ、裸の背中が莚の編み目の上を転がった。》

 その触感は千代が処女を喪失したさいの、墓場まで持っていった表層の肌理であり、『おはん』の中にも風に乗ってやってくる。

《「どや、まだそこに一枚、莚が敷いてある、」と、そのままおはんの帯を手繰つて、暗がりの床の上に転がしました。》

 とりわけ川風は心を思いがけないところに運んでしまう魔だ。生は一回きりなのに、この瞬間は一度だけなのに、川を渡る風はそんなことにおかまいなしだ。『或る一人の女の話』で、小さな一枝は弟の手を引いて煮売屋まで父の酒の肴を買い出しに行く。途中の小川の石橋を渡るとき、いつでも、さっと風が吹き、幼い一枝は恐くて急いで渡った。野崎(尾崎士郎)と別れた一枝は湯ヶ島の川風の快さに、宿に新しく来た若い男の指の形が美しいというだけで草叢で抱かれる。

 松の枝に首くくった姿がながいことひっかかって風に揺られていた龍江の崖っ淵では、《山道を吹きぬける風の、ざあと音たてて水の面へ吹きつけるのでござります》という悪い予感があるが、それに気づかぬ二人は『おはん』の中でもっとも美しい風にでくわす。

《とうにから悟のために買うておいた小机を、そこここと抱え歩いたりしてます中に、にはかにざわざわと風の渡る音がしましてなア、みるみる遠い山肌の暗うなつたと思ひますと、ぽつりと背戸の池の面に、大粒の雨が落ちてきました。

 蝉の声が一時にひいて、咲きこぼれた白萩の、さつと池に散りしくのが見えました。

「おはん、雨やでエ、」と呼ぶ私の声も掻き消すほど凄じい音たてて、木立といはず緑といはず、叩きつけるよな勢で降つてきたのでござります。

 おはんは軒下に駆けり出ると、なにやらけたたましう声あげて雨戸を閉めはじめました。》

 咲きこぼれる白萩、風の音、雨音、蝉の声。あのろくにものも言えないおはんがけたたましい声で活き活きと動きだす様子に心ひかれずにいられようか。おはんの帯に手をかけて、そのまま奥の間へ引きこみ、《その暗がりに転うだまま、短い夢をむすびましたも、いまは人の身の上かと思はれます》という言葉は千代の経験と追憶の本質からきている。

 お灯火(ともし)のゆらゆらに、ふいに鍛冶屋町のおかよが思いだされ、呼びとめるおはんの声を聞き流し、逃げるように下駄はいて、背戸のくぐりを抜け、《冷(ひや)こい風に吹きなぶられ、杉垣の露路(ろうぢ)をあたふたと駆け出ますと、思はずそこに足とめて、ほうつと息をいたしました》とは、北原武夫の『渇いた歳月』にみえる孤独な魂の行為とうりふたつだろう。鍛冶屋町に戻れば、その朝抜けて出たわが家の《二階の手摺(てすり)にかけてある手拭の、何事もない風に、ひらひらしてるのを見ましたとき、なにやら夢から醒めたよな心持になりましてなア》といったしだいだった。

 もう一度おはんと家もって、と決意させたはずの風に揺れる手拭。『心中天網島』、遊女小春の帯で首に輪をかけ、《生瓢(なりひさご)風に揺らるるごとく》となった冶兵衛を思わせはするが、この古手屋の男も千代もあまりにも近代人であった。

 

<第三の肌理――濡れる>

『おはん』からは風の音のほかにさまざまな音が聴こえてくる。たとえば幸田文を思わす生活の音は、鷲田清一のいう相互浸透的な「ふれる」音であり、胸に届く音、脈にふれる音だ。《かたかたと勝手もとで女衆(をなごし)の働いてる音》、子供の《何やらばたばたと足で畳たたいてるやうな音》、《かた、という下駄の音》、築地の上を子供が《棒切れ引こずる音》、《人力の轍(わだち)の音》、《木履(ぽくり)の音》、《じやりじやりと表の砂ふむ人力の音》。お仙の鼻声をさくようにおかよの甲高い声がする。

 次の場面にどれだけの音があるか想ってみてほしい。そしてそれぞれの音が物理的というよりも心理的な効果でメロディーを奏でていることを感じて欲しい。

《「ほんに、かうして会うてもろてるだけでも、済まん済まん思てるのに、」といふおはんの声も、参詣のお人の、絶え間なしに鳴らしてる鈴の音に掻き消えて、あとは泣き声だけきれぎれに聞えました。

 あれは何といふまどひでござりませう。心も空に、おはんのその泣き声を聴いてます中に、そや、鍛冶屋町でもいまごろ、お灯明あげてるとこやな、と思ひますと、「お母(か)はアん、行つといでやアす、」と声はりあげ、おかよの人力(りんりき)のあとから、カチカチと火打石鳴らしてるお仙の様子がまざまざと眼に見えるのでござりました。》

 こんなふうにたくさんの音が息づいているが、風の音についで重要なのは雨の音である。

《何どきたつたやらわかりませぬ。春とはいへ、火の気のない炬燵の、蒲団ひき合うては肌よせてたのでござりますが、ぱらぱらと庭の木の葉にあたる雨の音がしたと思ふと、俄かにざあツと降つてきました。

 私はいまでも、あの雨の音を忘れることはできませぬ。》

 というのも雨の音もまた運命を方向づけるからだ。しかし本当のところは、音よりも、雨に濡れるということが特別な意味を持っている。やがて雨の小休(こや)みを待っておはんが往くと、銀杏の樹――『おはん』にはたとえば椋の樹、黍畑、桜、首縊り松、葱(ねぶか)の茎、夕顔、白萩、のような植物のイマージュがふんだんにあって、それらも濡れたがっている――のところで、おかよに呼びかけられる。

《暗い境内の、ぼうつと一面に雨霧のこめてる中に、頭髪といはず肩といはず、浴びたやうに桜の花びらつけて雨にぬれ、座敷着(ぎ)きたまま、大きな茶屋の傘さしてる女の姿が、ふいにまざまざと見えたのでござります。》

 すると男は、「ほれ、こなに、肩も袖も濡れ鼠や、」とやさしい声で言う。

《心も空な手つきして手拭とり、屈うだり立つたりして、雨にぬれている女の着物をふいてたのでござります。おかよは体そらして、私のするままになつておりましたが、

「ほ、着物の一枚二枚惜しうて、好きな男と寝られるかいな、」となにやら浮きうきと鼻唄みたよに節をつけ》の、「体そらして」で血がかよい、「浴びたように桜の花びらつけて」に千代の着物デザインの欲望が透けて見える。

 濡れる女は泣くのか。おかよは泣かない。おはんは泣く。

《「ふん、いややて? 一しよになるの、いややて?」とあとさきもなう声たてて言ひますと、おはんは、

「あんさん、何いうて、」と言うたかと見る間に、いきなり私の胸もとへ跳びかかつてまゐりました。そのまま顔よせて、ひーいイ、ひーいイと声たてて泣きはじめたのでござります。

 そのぬくとい、湯のやうな涙のわが内懐(うちふところ)を伝うては流れるのが、なにやら肝にしみるやうに思はれてきましてなア、

「はあ? うれしいか? うれしいと言うてくれ。おオ、泣け、泣け、」と私はおはんの背(せな)を抱いたまま、気が違ふやうになつて申しました。》

 千代自身は、湯のようなものが胸に溢れてきやすい女だったらしい。がしかし、おはんの泣く姿は千代がなりたくてなれなかった女の部分だった。『何故それはいつでも』にこうある。《私には人に抱かれてよよと泣いたと言う経験がなかった。感極まって決して泣くことのない女を、人はどう言う心で受けとめるものであろうか。人に訴えることの嫌いな女、或いは訴えたいと言う気持を持たない女、それが私の本性であるかと思われているのに、ほんとうはその反対であるとどうして言えようか》で吐露されているのは、創作上の方便ではなく、すなおに千代自身の内奥ととるべきだろう。

 千代にとって忘れられない雨が、ここでもやはり『或る一人の女の話』にあった。それは私小説の域を抜け出ているがゆえに、書かれている事象を実際にあったことと鵜呑みにすることは誤りかもしれないが、象徴される真実として読者に届く。小学校の同僚の教師篠田――その指さきは白墨の粉にまぶれていて細い(いくたび男の指に千代の物語の女たちは魅かれてしまうことか)――とのことだ。

《或る日、寒い雨が降った。一枝は自分で拵(こしら)えた昆布の煮〆(にしめ)を持って、篠田の家へ行った。夜になっても雨は止まなかった。暗いランプの下では、見馴れた篠田の顔が一そう慄(ふる)えているように見えた。(中略)ぴたぴたと屋根を叩く雨の音が聞える。「泊ってお往(い)きんされますか、」篠田は一枝を見てそう言った。そして、立って、押入から蒲団を出した。

 その夜のことは、のちになって、幾度となく一枝は思い浮べるのであった。》

  濡れることのいくつかのヴァリエテをみてゆこう。思いつくままに並べる。

《「ほれ、その手(てエ)あげて、チン、雨(あめエ)のオ、トン、降るウ日(ひイ)もオオ、雪のオ日も、」と聞えてくる、おかよの甲高(かんだか)い口三味線(くちじやみせん)の声》は、雨風の中を父と母の揃っているところに戻る途中、龍江で足をすべらせ溺死する悟の濡れた姿を予言しているだろう。

 千代の小説の舞台にはいつも生と死の境界のような川が流れていて、もののあわれは「濡れる」現象によってあちら側の世界とふれあう。外から濡れるだけでなく、内から濡れてゆく女。臥龍橋の上ですれちがったおはんは、《どこというて男の心ひくやうな女ではござりませねど、いつでも髪の毛のねつとりと汗かいてゐますやうな、顔の肌理(きめ)の細(こま)こいのが取柄(とりえ)でござりましたが、そこの板塀にはりつくやうな恰好して横むいてゐるのでござります。》

 七夕のあけの朝、おはんは川で髪を洗う――橋本多佳子「七夕や髪濡れたまま人にあう」との民俗学的共鳴。《おはんは白い浴衣いて、髪を一束にたばねたまま裏手からはいつてきました。あなたさまもご存じのやうに、七夕のあけの朝は、どこの女も川で髪を洗うて、その一日束ねたままでゐてますのが、ここいらの習慣(ならはし)でござります。》

 もっとも濡れてしまうのは子供の悟だった。

《「何やな、その足。早う足袋ぬがんと風邪ひく、」と、そなな風なこというて、わが手に子供の足ひきよせ、足袋ぬがして炬燵にいれてやりました》という悟の足は、納棺のとき、《ま新しい浴衣きた裾のあはひから、よう陽にやけた細(コうま)い足の、ちよこんとそとに出てますさまの哀(かな)しさ》となってしまう。

四十九日も済み、《秋になりまして時雨(しぐれ)の多い寒い日なぞ、ふつと家の前を、子供の駆けぬけて行く姿見たよな気がしましてなア、悟は傘もつて出たかいなと、死んでることも忘れたよに、思ふこともござります。そや、あの子はもうゐんのや、この世に生きてはゐんのやと思ひますと、にはかに足もとをすくはれたよな心持になりましてなア、浄瑠璃の玉手御前ではござりませねど、こななとき、迷うて会ひにきはせぬかと、雨戸のそと見ることもたびたびでござります》は、川泳ぎの戻りの悟が裸のまま、ずぶ濡れになって立っているのを店の中へ引き込み、子の褌をとったときの次の回想から逆流している。

《手(てエ)やら頭やら背中(せな)やらそれさへも分からずに、夢中になつて拭いてたのでござりますが、人並みに日に灼けた、その細い、痩せた手足のまま私に縋りついたと思ひますと、悟はなにやら涙声になつて、

「おつさんの嘘ばつかり……」と言ふのでござります。》

 さらにその小半年前、春の彼岸の中の日に、悟と二人で往還をみているときの、びしょびしょと雨の降ってる中を傘もささず濡れながら駆けぬけて行ったよその子供の姿と、「迎えに行てやるけにな」の言葉へと遡行してゆく。

 雨戸。「雨(あめエ)のオ、トン、降るウ日(ひイ)もオオ、雪のオ日も、」と甲高く口三味線するおかよは、人形芝居があるから早く起きるように言われて、《ゆるゆると雨戸をあけました。》

『おはん』にはいったいどれだけの雨戸が書割として読者のイマージュの出入り口になっていることか。内と外、生と死、恋と別離、人と人の往き来の、開かれであり閉ざしでもある雨戸。《雨戸のそとに身を寄せて》、《雨戸もあいたまま》、《雨戸を締めはじめました》、《見れば雨戸のあはひから》、《雨戸おしあけたのでござります》、《雨戸もそのまま露路(ろうジ)へ走り出ますと》、《雨戸のそと見ることもたびたびでござります》。

 雪。《「ほ、えらい雪、」というて、長襦袢一枚の、痩せて細(ほそ)こい体して袖かき合せて立つてゐるおかよの、科(しな)つくつて、なにやら安堵しきつてるその後姿を、私はいまでもえ忘れはいたしませぬ。》 千代は雪をある場面とともに絶対に忘れない。『或る一人の女の話』の雪の日のドラマは、他の作品でもくりかえし語られた彼女の人生のライト・モティーフといってよい。《父の死ぬ三日前に、雪が降った。南国のこの町では雪は珍しい。この雪を父は何と見たのだろうか。父の部屋に誰もいなかった束(つか)の間のことである。気がついたときには父は、店の間の上り框(かまち)から庭へ下り、往還ににじり出ていた。「ねきへ寄るな、ねきへ寄って怪我をするな。」と叫びながら、何かを振り廻していた。日の中に光るのは刃物であった。父の着物の裾から、汚物が流れ出ていた。》 この汚物にクリステヴァのいう穢(けが)れ(アブジェクション)を読みとってもよかろう。《あの体で、どうして台所から包丁(ほうちょう)が持ち出せたのだろう。雪はやんで、冬の日とも思えぬ強い日がぎらぎらと照っている。その雪の上に、父は夥しい血を吐いた。》

 この(、、)父は一枝の記憶の中で、いつでも時計の間に坐っていた。時計の間からは、家の外も中も凡てが見える。「一枝、」と呼ばれる。この父の声で、間髪を入れずに一枝は、時計の間の唐紙の前まで行く。父の言葉はいつでも命令であった。父の命令によって、何かをすると言うことは、苦痛ではなかった。判断を越えたことで、それは苦痛ではなかった。

 まるで一神教の神のような父。父の法は、時計の間にいることで、そしてその場所は凡てが見えるということで、時間も空間も支配する判断を越えた絶対者としての法であった。この父の放蕩無頼さが血の中に受けつがれていると娘は感じている。

 父の言葉をめぐっての濡れるエピソードがある。《学校に行くようになってからのことである。一枝はいつでも、藁草履を穿(は)いて行くのであったが、帰りに雨になることがある。裾を高く端折って、一枝は裸足(はだし)になる。「足は濡れても腐らんが、草履は腐るけえの、」と、いつか父の言ったのを覚えているからだ。冬になって、帰りに雪になるときも同じである。一枝は草履を手に持って、裸足になった。そして、雪の上を歩いて帰った。》 可哀そうに、と人に言われるのが一枝は好きではなった。一枝は可哀そうではないからだ。

 湯ヶ島で、ドイツ製の睡眠薬夢遊病者のようになった一枝は、川風の快さに、指の形が美しいだけの男に草叢の上へ押し倒されても抵抗しようとしなかった。まるで酔っているような熱っぽい体に、ひんやりとした草叢の感触が、むしろ快かったのを覚えている――千代らしい体温感覚がある。《「川の中で、体を洗いますか、」と男が訊いた。それは妊娠を防ぐためのことか。一枝は微かに首を振った。》 女は川の水で体を洗わなかったのか。首は横に振られたのか。これも自伝的な小説『この白粉入れ』では、《夏の夜でした。そばを流れている川で、体を洗いました》とある。

 

<第四の肌理――ふれあい>

 引越しのその日の朝まで鍛冶屋町の二階の間で、古手屋の男――男は名を与えられない――は、おかよと枕ならべて寝物語をしていると、

《枕許の屏風のかげから、すうつとうすら寒い風が忍び寄るよな気(きイ)がしましてなア、おかよは夜のあけあけから、薄い蒲団かきよせて、わざとのやうに足からませて来るのでござりました。

「あて、どないしよう。寒うなつて、何や心細うて、」と作り声して、私の懐の中まで顔さし入れるのでござります。》

 女の体は風に運命を直感する。

おかよは男より一つ年嵩な女であり――宇野千代は執筆当時、夫の北原武夫より十ほど年嵩であった――、《ことさらにお侠な娘みたよに振舞うてますのが癖でなア》とあるのをみて、おかよの中に千代を感じとる向きもあろうが、ことふれあいの距離感についていえば千代とはだいぶ違っている。

 宇野千代『何故それはいつでも』の次の文章に、母=娘=父の精神分析的構造を読みとることは罠にはまることなのか。

《母親によりそい、体をこすりつけて甘える、などと言うことは、それはないことであった。母親との間にも、体と体との間にも、いつでも或る間隔をおくのが習慣であった。体をこすりつけて甘える、などと言うことが出来るものだろうか。いつでも、或る間隔をおくと言うことがきまりであった。

 それは私の母親が私にとって継母であったから、甘えることが出来なかったのではなかった。私の生母は私の三歳のときまでしか生きてはいなかった。伝染すると言う病気で寝ていたから、自分の生んだ娘である私とも、体と体をくっつけて抱いたりすると言うことはなかった。》

 こういった逸話からメラニー・クライン『児童の精神分析』にみる「よい乳房」「悪い乳房」や、女の子が母親の乳房をあきらめて満足を与える対象として父親の男根に向かい、ついで父親と同一化する、という考察を適用することもできようが、ここでは深入りしない。

《夜、寝床で人と体を寄せ合っているときにでも、出来ることなら二人の間に、或る間隔をおきたい、と言う素振りを保った中でしか、私は安堵しては眠れないのであった。しかし、それはほんとうの気持であったろうか。実を言うと私には、或る間隔が保たれぬときに起る、あの激しい感情に耐えることが出来ないのであった。》

 いくらかは小説化のための作為があったにしても、千代が孤独のはてでふれあいを求めていたことは確かだろう。求めるふれあいは人肌の体温をもち、落ちてゆくという諦念をともなっていた。母と父、親と子、女と男の体温の温(ぬく)みと冷たさに敏感な愛のありかた。罪深さてと落ちてゆく――堕ちてゆく――感覚は父譲りであった。この逆説、この背反は、「神」とか「宗教」とかの世界ではおなじみのものであり、ゆえに宇野千代の精神世界は、ある種卑俗にして崇高と一体化する。

『おはん』のふれあいをみてゆく。『おはん』には「うまい菓子」「茶うけの摘み物」「亥の子の団子」「餅」「外郎(うゐろう)」といった、ふっくらした口あたりのふれあいの摘み物が案配されている。

《「そや、うまい菓子が買うてあつた。茶アいれてご馳走せう、」といひながら、そこにあつた茶盆の茶筒とらうと手(てエ)のばしたのと、おはんが茶碗とらうと手(てエ)あげたのとが、はつとあたりました。「おはん、」というて私は、思はずその手をとりました。 (中略)

「いやか、こなな男は、しん底愛憎(あいそ)がつきたか、」というてます中に、まアあれが男の出来心と申すものでござりませうか。ついさきがたまで、も一度おはんの体に指ふれようなぞとは夢にも思うてはをりませなんだのに、わが身も女の身の上も、もうめちやくちやに谷底へつきおとしてしまひたいといふやうな、阿呆な心になつたのでござります。 (中略) 昼間とも分らんやうな暗い家の中でござりますので、おはんのそのぽつてりとした体を抱いてます中に、なほのこと愚かな心がつのりましてなア、もう身も心ももみくちやに打ちくだいてやりたいと思ふばかりでござりました。》

 ふれることで落ちてゆくことを選んでしまう。それは近松の世話物の男女が、はたでみればよりによって何故にそんな狭い道につきすすんで破滅してゆくのかと思うのだが、当事者たちにとっては他の道は選びようがないのと似ている。

 おかよはいつも眼のさめるのといっしょに声かけてきて、ごてごてと寝床の中で話する。無盡講(むじんこう)がおちたら二人だけの座敷をこさえたいと、おかよはさっと体をよせ、

《「七年も一しよにゐてて、ただの一晩かて、気を許して寝たことない。なア、あて、どないしても、ここへ二階あげたる。四畳半ほどでええけに、床の間つけて、誰もはいつてこんやうに、よう鍵かけてなア、」というたかと思ひますと、いきなり、その冷こい手を背中(せな)にまはしながら、もう気の狂うたやうになつて顔つけてくるのでござります。

(中略)もう気の狂うたよになつて顔つけてくるおかよの、まアあの、いつものおかよとは違うて正月の髪結(かみゆ)うてますのんが、思ひもかけず、鬢(びん)つけの匂ひがして、なにやらぺたつと冷こいものが、はだけた私の胸もとにあたりました。はあつ、と私は声たてさうになつたのでござります。

 へい、あの大名小路の裏手の家で、人に隠れておはんと寝るやうになりましてから、まア私は、何をたよりに、この二人の女をだき分けてゐたのでござりませう。このぺたと冷こい、鬢つけの肌ざはりは、あれはおはんのものでござります。》

 人肌の濡れてしめって冷こい肌理にふれて伝わる女の芯の熱。この《犬畜生の姿して生きているもの》とおのれを卑下する男は、女の体を二度までもおしのけた。一度めはちょうどこのあとの、《私は息の根もとまつたやうな心持で、おかよの体をのけました》であり、いま一度はお大師さまの横手の借家で莚におはんを転がし、《猫みたよにくたくたとなつている女の体おしのけて、私は庭へ下りました》という場面であるが、思わず愛する人の体をおしのけるところに宇野千代の孤独な本質が見え隠れしていて、ふたたび『何故それはいつでも』に戻ればこうある。

《しかし、私の記憶の中に、人によりそったという記憶が皆無である、と言ったら嘘になる。私もまた、幾度か子供を生んだ経験がある。男と寄りそったことがなくて、どうして子供が生れるか。しかし、この私には、まるで人に寄りそわれるのを嫌悪でもしているのかと思われるような、そう言う素振りに思われることがあった。一緒に道を歩いているとき、人が私の方へ寄りそって来そうだと思われるとき、私は相手にそれとは気づかれないようにして、そっと、ほんの少し相手の体から自分の体を離すのであった。(中略)しかし、それは、その見える通りの、嫌悪しているかのようなのとは、まるで違っていた。私のほんとうの願望は、体と体を寄せ合い、しんに愛していることを伝えたいのであるかも知れなかった。それだのに私は、まるで反対の素振りしかしようとはしないのであった。》

 古手屋の男は、おかよに対してもおはんに対しても、この千代の態度そのまま、あまり寄りそってくると離れるのである。そしてまるで別のことをする。本当の願望はふれあいたいのに、思いもかけないことをしてしまうのである。

 古手屋の男が語る、《何をたよりに、二人の女をだき分けてゐたのでござりませう》とは、決して男の言葉ではなく、女を通して語られた言葉に違いない。千代は、東郷とも北原とも、二人の女を抱きわけた男の片われの女だった経験があった。けれども千代自身は、真に愛した二人の男を抱きわけたことはなく、愛した男から愛する男に移る――それも前の男をいともあっさり忘れさって――ことは繰りかえしても、同時に二人の男に抱かれたことはなかったという。それは男と女の差であったのか、千代の生来の潔癖さからきたのか。男は自省せずに抱きわける。「何をたよりに」などと不思議がってはみる。しかしそれでも女である作者が「あとがき」に、《話し手のあの男の気持も、自分の心中を描いたやう思はれます》と記したのは、宇野千代の小説家としての他者の眼によるだろう。

『おはん』のふれあいには体温をもったやわらかな肌理があって、語りを聴くものを引きこむ。たとえば、

《すぐ傍に腰かけてるおはんの、そのねつとりと汗かいたよな体のぬくみに、そりや、もう、遠い昔に忘れてしまうたはずの夢でござりますのに、われから好んで引き込まれる心になつたのでござります》や、《畳を這うては銭拾うてるおはんの、そのむつちりと露はな手つきに、われからふいに引き込まれる心持になりました》や、《ひいいい、いいと女の泣く声がして、なにやらへたへたとわが足もとに這ひ寄つたと思ひますと、にはかに温といものが膝にまつはりましてなア》の母性。

 そればかりか、おかよの姉の娘、十三になるお仙の、《顔洗ふ手拭とるにも下駄とるにも、稚い女の、柔こい手のぺたとわが身に触れるたびに》や、《まアどこの雛妓(こども)かと思ふよな態(なり)しましてなア、ぺたりと私の横手に膝つけて坐りました》にみられる思春期の娘の性を、ふれる感覚で表現している。

 ところで、このお仙の「十三」という歳は、千代にとっていわくありげだ。『或る一人の女の話』によれば、一枝は従兄の「十三の嫁」にわずか十日ほどだがなっていた。父に色黒と呼ばれた千代が白粉を刷いて変貌をとげたように、色の黒いお仙も紅白粉つけると、これがあの娘かと思うほど愛くるしくなる――名前や年齢には千代の思い入れがあり、同じ名前が違う作品にたびたびあらわれる。悟が七歳というのも、『この白粉入れ』における東郷の子供の《七つか八つの男の子でした。小さな、いたいけな子供でした。紺絣(こんかすり)の着物を着ていました》の面影の下にある。

 たしかに『おはん』は宇野千代の経験の賜物ではあったが、あたかも千代の作るきものが《古典的な感覚を生かしながら、しかも柄の配置や色感が全く新しくあること。これが私のデザインの一番大きな願望です》とあるように、できなりではない構想のもとに十年の歳月で磨かれた芸の達成であった。

 

<第五の肌理――時間(回想と予兆)>

『或る一人の女の話』にもっとも特徴的な語は、「この」という指示代名詞だ。「この母」、「この家」、「この一枚」、「このこと」といった身元から突き放した使い方は、単なる説明のための指示代名詞の働きではなく、さきの「ふれあい」にみた、ふれあうことの抑制に根ざしているだろう。

 つぎには、「ではない」という否定形、それも強意ではないゆるやかな否定と、「ないのか」という問いかけの畳みかける連続が目につく。《一枝の生れた家は、それほど大きな家ではない》、《案外、大きな家と思われていたのかも知れない》、《なぜ、店の間と言ったのか分らない》、《ほんとうの庭ではない》、《中学生の経一と女学生の一枝とが列んで歩くと言うことは、これはとんでもないことではないのか》、《それは死んだ父の、一番に禁じていたことではなかったか》、《誰かに見咎められては困ることを一枝はしていたのか》の内省化である。作者の内向する否定と自問が、ロラン・バルトのいう女性的なプンクトゥムとして読み手(聴き手)の心に針の穴を刺してしみこむ。

 しかし、もうひとつ頻出する表現を忘れてはならない。「のちになって」という語である。《のちになって一枝は、この譲二とのことを考えるたびに》、《一枝はのちになって、しばしば、この光景を思い出し》、《一枝はのちになって、この頃の自分が、果してどう言う気持で生活していたのかと、疑わずにはいられない》のように、走りながら後ろを振りかえりなどしない女は「のちになって」気づくばかりだった。

 それは折口信夫『国文学の発生』などでとりあげられた語りもの、あるいは説話体の形式が、行為をなした刹那には何も気づかず、「のちになって」振りかえれば罪がみえてきて罪業告白する自叙伝風の懺悔形式「さんげ」として罪穢を去る、の伝統に連なる。さんげ形式のひとつ近松門左衛門『五十年忌歌念仏』のお夏が姫路でなれのはてを見られたという話は、『おはん』の末尾の《お人の話によりますと、備中(びっちゅう)玉島の停車場(すてんしよ)の傍(ねき)で、たしかにおはんの立つてるを見たと言ひますけに》という文に捩れた姿で反映しているだろう。

 さんげもの『おはん』の話し手の男は、「のちになって」懺悔するに違いないのに、それしか選びようがないかのように自己を見つめる他者の眼を失っていて、しばしば立ちつくし、ごてごてとせわしい生活に(千代そのままに)逃げこんでしまう。忙しさによって客観の寂しさに直面することを避けるというのは、あのふれあいの願望と実際の行為との逆行に似ている。

 同じ寝床の中で温(ぬく)まっているおかよに縁切りの言葉が喉まで出かかるのに、なんという心のまやかしか、おかよの肩に手をかけて抱きおこし、

《私は、何ごとかといふやうに、勝手もとに走りでて弁当の仕度させたり、人力呼びにやりましたり、ごてごてとせからしう指図をいたしました。さよでござります。もうわれから弾んだやうになつてこまこまと用いひつけたり、そはそはとそこらの箪笥をあけたりいたしました。おかよをつれて人形芝居みせ、まアそんで女の心を喜ばせてやりたいと、しんからさう思うてたのでござりませうか。

 こなな私の心は、私にも合点がまゐりませぬ。》

けれども、おそらくは宇野千代が今読んでも古くさくも田舎くさくもなくモダンであるのは、この態度と関連しているに違いない。さきに述べた「或る間隔をおく」というふれあいの距離感が、現代的な悲劇をさきどりしていて、父親から来る厭人気質、生(なま)でない心が、泥くさくなく、異性にも同性にも好ましく感じさせる。

『何故それはいつまでも』のこんな文章、

《私にとっては、感情はそのまま現わすことの出来ないものであった。もし、感情をそのままに現わすことがあったとしたら、それはどんなに恥しいことか分らなかった。感情は隠さなければならなかった。しかし、そう言う私の中にも、人一倍の感情はあった。その感情のはけ口が見つからぬとき、私はまるで別のことをした。思いもかけないことをした》というのも一面であり、また一途なところも別の一面であったろう。

『おはん』は時間をめぐる物語だ。第一に回想の物語である。「あの臥龍橋」、「あの日暮れどき」、「あ女の話』の「この」とは違った男の口をとおして語られる時間の経過の心情で濾過されている。

 盆も間近かのある晩、夏の祇園祭、秋の恵比寿さま、正月、七草、春の彼岸の中の日、二百廿日のあけの日、権現(ごんげん)さまの秋祭、といった季節の語彙で回想は染まる。

《どれがあとやらさきやら、わが心にも覚えがござりませぬが、去年の夏、おはんにめぐり合うてからの、言葉につくせぬかずかずの心の重荷が、なにやらすうつと軽うなるよな気がしましてなア》とか、《あれは梅雨(つゆ)にはいつて間もなくのこと》、《あれはあの七夕のあけの日》や、《ほんに七年といふながい間、身を堅く守ってきたおはんにとりましては、それはまア、どのやうなことであつたかといふことも、あとになつて分つたことでござります》のように回想は回想をたぐり寄せる。

 感じられる時をめぐる物語は、第二に予兆の物語である。あのときのあれが、あのときにあれが、といちいち思いあたり、説話の時間は徴候によって多重映像と化す。また、自力ではない神仏(お天道さま)の他力によるドラマをはてしなく再生産してゆく――わが親の店ともしらずに悟はゴム毬を買い求めにやって来ることにはじまって――のであり、

《忘れもいたしませぬ。あれは去年の恵比寿さまのあとの、はじめておはんと忍び逢うた晩のこと、ちやうど今夜をそのままに、ほんの一ときの間の違ひでおかよの眼を逃れたときの、あの身の毛のよだつよな恐しさを。へい、のどもと過ぎたあの恐しさを、今夜はまたもう一度くりかへしたのであつたかと思ひますと、そこに立つてる足もわななきました》という一ときの間の違いを仏のお慈悲と思ってみたりもする。

 この男はのちになって、龍江の崖の、首縊り松の切株に悟の雑嚢の紐がひっかかっていたという声を聞くことになる。神仏の思召し、神仏の罰でなくて何であろうかと思いしるのだが、そこには予兆があった。

《龍江の崖っ淵を通りしな、ほんにおのれの足とられて、すんでのことに辷り落ちて死ぬとこやつたあのときに、あのときに俺ア今日のことを、わが子の悟の死ぬことを、思ひ知つてたはずやないかと、ひよんなこと思うたりしましてなア、篠つく昨日の雨の中を、山道ぬけて南河内から駆けもどつて来たこの子の姿が、眼に見えるよに思はれたのでござります》とは、耳の作家宇野千代が時間をめぐる映像を瞼の裏にだぶらせて見せることにも秀でていると教える。

 耳と眼が渾然一体となって感覚を震わせる文体が「子供の名(なア)」に絡んだ予兆と回想として、「そのときの」と「あのときの」にあらわれる。

《「あんさん」と声あげて、おはんの、片手を後へ引くやうな振りしましたのと一しよでござります。女の帯に手(てエ)かけて、そのまま奥の間へ引き込うだのでござります。

「悟が、悟がいんま戻るけに……」といふおはんの声も、そのときの私には、ただ一ときの言ひ逃れに、子供の名(なア)あげてるのやと思はれたのでござります》は、ま新しい浴衣をきて祭にでも行くような姿で横たわった悟を見たとき、ちょうどあの日の暮れどき、逃げまどうおはんの手をおさえて無理強いに帯とかせた時間と一体化し、

《「悟が、……悟がいんま戻るけに、」と言うて身をちぢめながら、いつの間にやら私の傍(ねき)に寄り添うて、呼吸(いき)つめてる女のさまのをかしさに、「へえ、こなな暗うなつて悟がもどるげな、」とわが子の名を呼うで女をかまふ(揶揄(からか)ふの意)つもりでゐてましたあのときに、ちやうどあのときに悟は死んだのでござります。へい、あの同じときに悟は死んで、こなな哀しい姿して、いまこの眼の前にゐてるのでござります》となってしまう。

 この千代の時間の感じかた、回想と予兆で自在に往き来する時間の肌理の手ざわりには千代の書き方が影響しているだろう。千代の手によって時間がほぐされる。時間の肌理が伝わってくる。

宇野千代全集1』の月報に、作家小山いと子の『手が書く』というエッセイが載っている。千代がいと子に電話してくる。

《「今書いてるの?」「いいえ」「何してた?」「庭の手入れしてたわ、菊が……」「なぜ書かないのよ」「構想中なんだもの」「だめッ、菊なんかで遊んでちゃだめよ。いい? 頭が書くんじゃない、手が書くのよ。そういったでしょ。頭でいくら考えてもダメ。今すぐ手で書きなさい。雨が降っていた、とまず一行書く。そこから次々とほぐれてゆく。私は何十年もそれでやって来たんだからほんとうのことよ」》

 千代のきものデザインも手仕事の延長といえる。手仕事ということを考えてみるときW・ベンヤミンの『物語作者』が参考になる。

 ベンヤミンは、物語る技術が終焉に向かいつつあって、その原因のひとつは経験の相場が下落してしまったことによるという。一方、物語に聞きいる者が我を忘れていればいるほど、聞いたことは彼の心深く煮刻みこまれるが、それこそが手仕事のリズムであるという。手仕事の圏域の精神的イメージがA・ヴァレリーによって表現された、瑕のない真珠や熟成したワインといった時間の積み重ね、透明な層を幾重にも重ねていく作業のイメージと結びついているが、そこにある永遠という思想は強力な源泉を死の中にもっていて、だからこそ物語はいつでも死をめぐって語られる、と論じた。『おはん』という物語にも悟の死があった。千代の自伝的小説も父の死がその役を演じることで「物語」に達している。

さらにベンヤミンは『物語作者』でこう語っている。《物語るという行為は、その感覚的な面からすれば、決して声だけの業(わざ)ではない。真の語りのうちには、むしろ、手の働きが大きく関わっている。手は、仕事の経験のなかで熟練した仕草によって、声となって聞えてくるものを実にさまざまに支え続けるのだ。(中略)物語作者がその素材、すなわち人間の生に対してもっている関係は、それ自体が手仕事的な関係ではないか? 物語作者の課題とは、経験という生(なま)の素材を――他人のであれ自分自身のであれ――手堅く、有益で、一回限りのやり方で加工すること、まさにこのことにあるのではないか?》

 これらの言葉はみな『おはん』の時間を紡いだ手仕事を言いあてている。

 

<第六の肌理――日暮れの光>

 おはんはいつも日暮れにあらわれる。あるいは、おはんとすごすひとときはいつしか暮れてゆく。日が落ちるとき、おはんに引きつけられた男は陰翳に包まれる。

『おはん』のどの一節も、モノクローム映画のような光と影をふくんで饒舌な色彩を語ってくる。七年ぶりに臥龍橋ですれちがったのは、《盆も間近かのある晩のことでござりました。》 くらい板塀のところで待っていたおはんに、「一ぺんあひに来てんか」といい、「誰やら向うからきよる、早う行(い)き、」とせきたてると、《おはんの白い浴衣きた後姿が藪堤の一本道をずうつと向うの方へだんだんと小さうなつて、たうとう曲尺町(さしものちやう)の露地(ろオぢ)の方へ見えんやうになつていてしまふまで、私はそこにたつてゐたのでござります》には、日暮れの光の主影が遠近法の手法で表現されていて、すぐつぎの文章、《あと追いかけていこか、いやいかんとこ、とその間中、迷うてゐたのでござりますが、まアいうたら私の、これが心の迷ひのはじまりでござりました》が活きてくる。

 夏の祇園祭もすんで、秋の恵比寿さまも間近いというのに、おはんのやってきそうな気配はない。半月ばかりすぎたある昼すぎ、店さきの石燈籠の蔭におはんが立っている。おもての明るい中はどうしてもはいってはこれず、日の暮れるのをまってから、思いきって鍛冶屋町の家の前までいき、いったり来たりしたことも二度や三度ではないおはんだった。

 男はおはんをつれて座敷へ上る、谷崎潤一郎のあの『陰翳礼讃』のごとき古典的な光と影が男の心を女のほうへすべりこませてしまう。《町中の家のことでござりますので、部屋の中は昼でも日の目が見えず、おや、と思ふほどに暗うござります。まア、その家の中の暗さでやつと心が落ちついたのやろと思ひます。おはんはガラス障子の傍(ねき)にすりよつて、おづおづと坐つてをりました。

(中略)うす暗がりの中に、そのおはんの顔のぼうつと白う浮いてるのを見てますと、七年前、あの河原町の昔の家で、泣いて別れたときのことが思ひだされます。》

 光と影の肌理が回想を愛撫するのだ。昼間とも分らないような暗い家の中で、そのぽってりした体を抱かれたおはんは、日のある表を挨拶もよくせずに小腰(こごし)をかがめて、軒したに身をかくすようにして行ってしまうのだった。

 はばかり気もなく寄り添ってくるおかよが「痩せて細(ほそ)こい体」をしていて、ろくに返答もできないおはんが「ぽってり」といったドクサへの裏切りが、人物造形に厚みを与えているのだけれど、おはんは細(コウ)まい声で――『おはん』には「細(コウま(こま))い」がたくさんでてきて繊細さに人を誘う――「お晩で、」と言って裏木戸をあける。

《「おはんか、」といひながら障子をあけますと、ちやうど木戸のあはひから、河原町の堤のあたりであげてるのでござりませう、揚げ花火の夜空にあがつてぱちぱちとはじけたと見る間に、雨戸のそとに身を寄せて、おどおどとお高祖頭巾(こそづきん)の紐といてるおはんの姿が、その明るいあかりの中に、ぱつと照らしだされたのでござります。あ、というておはんは顔をかくしました。》

 この美しさと哀しみはどこからくるのだろう。暗闇の底の白い顔が赤、青、緑の閃光に一瞬染まり、なにもなかったかのようにまた闇に沈んでゆく。『合邦』玉手御前のようなお高祖頭巾は何色だったのだろう。赤紫? お高祖頭巾のおはんの姿を描くとき、千代はやさしかった継母のことを思っている。

 それは父が死を迎えるときのことである(『或る一人の女の話』)。『その夜、母は伯母の家へ行った。父の病気の間、一枝の戻って来ているのを断りにであったが、庭の土間の暗がりに見た、お高祖頭巾(こそずきん)を冠ったその母の姿を、一枝は美しいと思ったのを忘れない。』

 忘れられない美しさはおはんの姿をかりてよみがえった。さらには一枝も風の中へと母のように出てゆく。『或る一人の女の話』の最後はこうだ。《露路のそとは暗かった。闇の中に、遠い町の灯が見える。一枝は立ち停った。前後を見廻した。そして、肩かけで頬を包むとそのまま、一散に暗い道を駆け出した。》

 私が伝えたいのは、これら美しい思い出がみな日暮れの光の中にあることなのだ。ほかにも『おはん』には光が散乱している。それは、光に満ちている。光が溢れていると表現しうる哲学的あるいは地中海的な意味をきらめかせた透徹した光ではなく、湿度の高い情の光である。暗闇に遠くのぞむ光、闇から洩れでた光の輪である。《掛け行燈の暗い灯》、《雨戸のあはひからさしこむ陽ざし》、《背戸の植込のあたりまで、低うに雲が下りてなア、その雲のあはひから、くるめくやうな陽が出てたのでござります》、《雨上りの山の端に、思ひもかけぬまるいお月さまが出てる》、《見れば雨戸のあはひから、お堂の前のお燈火(ともし)の、ゆらゆらと風にはためいてゐるさままで、ついそこに見えるのでござります》の光の滲み。

 千代の日暮れの光への偏愛はどこから来るのだろう。きっと宇野千代にあって、M・デュラスにないもの、それは風と暮れてゆく光だろう。二人にはいくつかの共通点と異同があった。デュラス『愛人(ラマン)』の少女は、男物の帽子でまるで違う女、男たちの眼差しの意のままの姿になるが、一枝は白粉を刷いただけで変貌を遂げて男を捕える。デュラスの母は狂おしい情熱に生きたが、千代の父の生きざまも狂気と呼んでおかしくないほどだった。『愛人(ラマン)』の少女は中国人の愛人に水甕の水で洗われたが、千代の女たちは雨に濡れた。デュラスは河を愛した。千代は川だ。デュラスの河はゆったりと大海にそそぐ音のない水だが、千代のは川風が吹き抜けるせせらぎの川だった。『愛人(ラマン)』の少女の、寮の共同寝室の窓という窓は大きく開かれているのに、そよとも風が流れない。黄昏は一年じゅう同じ時刻に落ちてきて、とても短く、荒々しい。夜にはものの影がくっきりと映り、千代の日暮れ、しっとりとした陰翳の中の光のちらつきとはあまりに違った。

 千代の始原の光は『或る一人の女の話』の次のような逸話にみてとれる。《母が死ぬときに、一枝はやっと歩ける、と言う頃だった。赤い提灯(ちようちん)に灯をつけたのを持って、母の寝ている蒲団のぐるりを、よちよちと歩いていた。「この子のことが気にかかってのう、」と言って、母が泣いたと言うのである。》

このエピソードをどうして疑えようか。

 千代にあっては、とりわけ性愛のとき、愛と死、陶酔と覚醒のせめぎあいのきわに、きまって暮れてゆく闇の彼方にちらちらと鬼火が揺れ、心も揺さぶられる。日暮れの光の肌理としかたとえようがないぞくぞくした感触。一枝が莚の上に転がった夜、風が出て来る。ランプの灯がちらちらする。小学校の同僚教師は篠田といった。その指は細長く、暗いランプの下、蒼ざめた顔で慄え、一枝を抱いた。篠田との恋愛問題から身を引くように朝鮮へ行った一枝は、男からのもう連絡をくれるなというくどくどしい手紙に自分を制しきれず下の関へと戻る。途中で小刀を買って、篠田の家へと走ったのは日暮れだ。谷川の音が聞える。雨戸の隙き間から灯が見えた。がらっと雨戸があき、篠田が立ちはだかった。ランプの灯を背にして、咄嗟にその顔は見えなかった。雨戸は日暮れの光と家の灯との境界なのだろう。

 あのときの一枝もそうだった。あの川風の快さに、指の形が美しいというだけで草叢に倒されて抱かれた湯ヶ島の夜、暗い野原の向うには、どこかの宿の灯がちかちかと見えた。

 肩かけで頬を包む一枝は、闇の中に、遠い町の灯を見た。光を望む一枝は、千代であり、そしてまたおはんに違いなかった。

 

<第七の肌理――心の襞>

 この古手屋の男は「心」という言葉をしきりと口にする。ほとんど毎ページといってよい。「心」を中心に世界は廻っている。

《どこというて男の心ひくやうな女ではござりませねど》、《おはんの心をしづめたい》、《これが心の迷ひのはじまり》、《わが心ひとつにつつんでおくのが切なうて》、《その家の中の暗さで心が落ちついたのやろと思ひます》、《まアあれが男の出来心と申すもので》、《なほのこと愚かな心がつのりましてなア、もう身も心ももみくちやに打ちくだいてやりたいと》、《離しともない心がつのつてまゐりました》、《ただおはんの心つなぎたいばつかりに》、《そなな薄情な心でゐたものが、まアようも、かうして人並の親心もつて泣いたり笑うたりすると思ひますと、わが心ながらをかしうてなりませぬ》、《わが思ひにばつかり心をとられてをりませなんだら》、《こなな私の心は、私にも合点がまゐりませぬ》、《私の心の中に灼(や)きついて生涯消えることはないやろ》、《なにやら心の急きたてられる思ひがしましてなア》、《言葉につくせぬかずかずの心の重荷が》、《もう何のはばかりもない心で見ることができる》、《心も空な手つきして》、《おのれの女々しい心から》、《われから好んで引き込まれる心になつた》、《二人の女に挟まれて、今日はかうと決心をきめながら、その心の下からまたかうと、日毎に惑ふ心の中のあさましさも、おのれの心の弱さゆゑ誰知るはずもないものと》、……

 男はこれと同じほど「心持」という言葉を口にする。《夢見るやうな心持》、《眼に見えるやうな心持》、《呆れるほどの心持》、……

 きりがないのでこれくらいにしておくが、しかし実のところは、「心」とか「心持」などという直栽な語を口にしないとき宇野千代は心の襞の肌理を危うくさらしてしまう――といっても、子供のときから生の魚を食べず、食べるものと言えば、火を通したものばかりという千代は、心を生にさらけだすようなことは気質としてできなかった。それは文楽人形遣いが、人形の左右の肩の上げ下げと捩れぐあいによって、もしくは傾げる首の角度の妖しいきわどさによって愛のはての死を覚悟させてみせる、その名人芸に似ている。

《「へえ、こなな暗うなつて悟がもどるげな、となにやら揶揄(かま)ふよに言うてる間も、そのおのれの胸の中は、どなな鬼の棲家となつてましたやら、思ひもかけなんだことでござります。

 へい、その暗がりに転うだまま、短い夢をむすびましたも、いまは人の身の上かと思はれます。

 ざわざわと風の鳴る音がして、お大師さまのお看經(かんきん)の声が、手にとるやうに聞えます。見れば雨戸のあはひから、お堂の前のお燈火(ともし)の、ゆらゆらと風にはためいてゐるさままで、ついそこに見えるのでござります。》

『おはん』の肌理のさまざまを散りばめて心の襞をなでる千代の代表的な文体といってよいだろう。その肌理は谷崎が『陰翳礼讃』に綴った、ふっくらと光線を中へ吸い取る和紙のそれである。手ざわりがしなやかで、折っても畳んでも音を立てない。漆器のように手ざわりが軽く、柔かで、汁の重みの感覚と、生あたたかな温みが伝わってくる。北原武夫がフランス的な質の硬い明澄な磁器のスタイルであったのとは根源的に違う人肌の文体だった。

《店の商ひも手につかず、一日炬燵(こたつ)にむきあうて、もういつまでももの言はんとじつとしてゐたこともござります》というこの古手屋の男は、近松心中天網島』冶兵衛の末裔として、おさん小春を思わす、おはんおかよの二人の女に魅かれてしまうのだ。またこの紺屋(こうや)の倅(せがれ)の《たつたいままでこの女に、もう花も実もある男やと思はれてゐたその甲斐(かひ)が、一どきになうなつてしまふのやと思ひますと、それが恐しいのでござります》という見栄張りは近松『冥途の飛脚』の忠兵衛の性根でもある。

『おはん』の末尾で、おはんからの文(ふみ)をがたがたと足を顫わせて読むこの男の、《なんでただの一言(こと)でも、恨(うら)めしうに言うてはくれんのやと思ひますと、いまここに、この眼の前に、あのおはんの体ひき据ゑて、逆恨(さかうら)みに打つて打ちすゑてやつたらばと、まア、どうぞお笑ひなされて下さりませ》という阿呆な男の未練はやはり近松世話物の男たちの風に違いなかった。

 

 いつもあたふたとしている世話好きな裏のおばはん、子供の悟、娘のお仙、あばれ者の平太叔父といった脇役の出入りのうまいこと。どうしたって『おはん』は舞台で演じられるために作られている。

 久保田万太郎の演出で歌右衛門がおはんを演じたそうだが、千代の眼にはよくなかったという。そうだろう。聖と俗を往き来する千代の文学は歌舞伎よりも「ノリつつ醒め、醒めつつノル」の人形浄瑠璃文楽こそがふさわしい。『人形師天狗屋久吉』を書いた千代は文楽上演を望んだのだ。

 昭和三十二年の初演をアメリカ旅行のために見逃した千代だが、それから三十一年後の再演には大阪文楽劇場まで足を運ぶことができた。開演前、竹本住大夫に「女の人形の裸の足が見えるところがあるのですが、これは文楽始まって以来の演出なのですよ」と教えられた九十一歳の千代はどきどきしてしまう。

 幕があいた。吉田蓑助のおはん。千代の言葉を引こう。「『おはん』は何と運の好い作品であつたらうか。おはんが家(や)うつりをして、片付けものをしてゐると、古手屋の男が来て、二人で抱き合ふところで、きものの裾の間から、おはんのはだかの足が見えた。これだな、と思つたのか、観客は何となくざわめいた様子であつた。耳の遠い私には、そのざわめきがおはんの喜びの声に聞えたのである。」

 宣長は「情」と書き「こゝろ」と読ませた、と小林秀雄は『本居宣長』で源氏の「物のあはれ」を論じつつ注意を喚起する。「人の情(ココロ)のあるやう」が物語という「そら言」によって開かれるのは、『源氏物語』も『おはん』もなんら変わるところがない。

 情(ココロ)が風にそよぐような人形浄瑠璃の三味線のヲクリに導かれ、大夫の語りで動きだすおはんの裸の足の温もりをこの眼で感じてみたい、その情(ココロ)の音に迷ってみたい、七つのさまざまな肌理をなぞってみたいと願うのはこの私だけだろうか。そしておはんの喜びの声を聴きたいと。

                              (了)

   ****主な引用または参考作品****

*『おはん』宇野千代新潮文庫

*『或る一人の女の話』宇野千代(新潮社)

*『私の作ったきもの』宇野千代(海竜社)

*『何故それはいつでも』宇野千代新潮文庫

*『この白粉入れ』宇野千代講談社文芸文庫

*『宇野千代全集1』(中央公論社

*『聴くことの力――臨床哲学試論』鷲田清一(阪急コミュニケーションズ)

*『私の見た大阪及び大阪人』谷崎潤一郎岩波文庫

*『心中天網島近松門左衛門(新潮社)

*『第三の意味』ロラン・バルトみすず書房

*『渇いた歳月』ヴァルター・ベンヤミンちくま学芸文庫

*『愛人 ラマン』マルグリット・デュラス河出書房新社

*『国文学の発生』折口信夫(中公文庫)

*『本居宣長小林秀雄新潮文庫