文学批評 「瀬戸内寂聴『場所』 ――感じられる場所を求めて」 

 「瀬戸内寂聴『場所』 ――感じられる場所を求めて」

 

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 瀬戸内寂聴は少なくとも二度、自伝的作品を書いている。

 最初は五十一歳で出家する前の四十代半ば過ぎに瀬戸内晴美の名で『いずこより』を書いた。二度目は七十七歳にして、舞台となった土地を五十年余りから三十年ぶりに次々訪ね歩いて短編連作『場所』を書きあげた。

『いずこより』は「わたし」について語る自伝文学であり、多く仮名が用いられているのは小説の装いを纏わせずには、「わたし」とは何か、自分とは何者なのか、を自照、追究しきれなかったからであろうか。そこに自伝文学の虚実の薄膜があることだけは確かだ。

『場所』には、いわばレンズが二枚ある。一枚目は「わたしについて語る」レンズで『いずこより』およびその周辺にある『夏の終り』などのかつて書いた私小説とも言いうる作品群を凝視しているのだが、すでに「告白」のせっぱつまった感覚は薄れている。二枚目のレンズは単なる机上の回想ではなく、「わたしが何かを語る」レンズで、「わたし」がかつていた場所を訪ね、その場所に自分の足で立つことで感じられるものを語る。「わたし」について語った「わたし」を、時が経てから再び語る、それも「わたし」がその時に存在していたと感じられる場所で。主観客観の、遠近両用、複眼の視線を自在に操れるだけの齢と経験と、余生はそう長くはあるまいから、果さねばならないというある種の開き直りと義務感。「告白」ではなく「探究」の気持ちと、空白を埋めよ、書き残すことは許されない、と背中を押す神の手がある。

《人は誰も過ぎ去り、時は確実に通り過ぎてゆく。

 けれども、人の足の立った場所だけは、土地の記憶をかかえたまま、いつまでも遺(のこ)りつづけていくようだった。》

 という連作中の「油小路三条(あぶらのこうじさんじょう)」の結語は、失われた時だけではなく、失われた場所を求めるこの作品の、歌舞伎の見得(みえ)のような決め台詞になっているのかもしれない。

『場所』という作品をおおまかに見とおせば、「南山(なんざん)」では父の故郷を訪ね、「多々羅川(たたらがわ)」は母の故郷であるとともに母方の祖父の思い出、「中州(なかず)港」は幼年時の近所の様子、「眉山(びざん)」の椎の林は小学校での思い出であるだけでなく、観音寺にまで及ぶ涼太との恋の場所であり、「名古屋駅」は夫と娘を捨てての出奔劇、「油小路三条(あぶらのこうじさんじょう)」ではじめて自立した。「三鷹(みたか)下連雀(しもれんじゃく)」の下宿住い、「塔ノ沢」は小田仁二郎と逢引した温泉、「西荻窪(にしおぎくぼ)」、「野方(のがた)」での小田と涼太との奇妙な日常、「練馬高松町」で一人に戻って『かの子繚乱(りょうらん)』『夏の終り』を書き、「目白関口台町」では名を成して高級な目白台アパートに移り、「中野本町通」は土蔵の中での執筆の日々、「本郷壱岐坂(いきざか)」に至って本郷ハウスで、ある男を意識しつつ出家前の時間を過ごした。

 平成十三(二〇〇一)年の執筆時において何年ぶりの再訪だったのか、本文中に見える数字を列挙すれば、「南山(なんざん)」(五十数年)、「眉山(びざん)」(五十年余)、「油小路三条(あぶらこうじさんじょう)」(五十二年)、「三鷹(みたか)下連雀(しもれんじゃく)」(四十九年)、「塔ノ沢」(四十九年)、「西荻窪(にしおぎくぼ)」(五十年近く)、「野方(のがた)」(四十年)、「練馬高松町」(四十年近く)、「目白関口台町」(三十七年)、「中野本町通」(三十五年)、「本郷壱岐坂(いきざか)」(二十八年)となる。

 一応は時系列順であるが、すでに三十年から五十余年も経ち、十六年はひと昔の二倍、三倍ともなれば、『いずこより』のような物語が時間の層として重ね合わさる長編小説ではなく、短編連作として並置されて常に現在に戻ることによって、幾粒もの宝石が耀くネックレスのように夢のまた夢となって揺らめく。 

瀬戸内寂聴全集18』の「解題」には、それまであまり関心のなかった自分のルーツを訪ねることも含めて、本作品の成立裏話が紹介されている。

《出家以前、小説家として人事流転の渦中にあった著者の、身辺にいた人々が殆ど世から去っても関わりのあった場所に立てば、新たに聞えてくる声がある。著者はインタヴューで、

「当時(「場所」の舞台となった小説を書いていた三十代、四十代の頃)は渦中でカッカ、カッカしていますから、歳月を経て、『あんな行動も、本心はそうじゃなかったのじゃないか』などと思います。それもこれも、書いてみて初めて分かるんですね」(『京都新聞』平成13・7・8)と発言している。

 本全集が企画された初めの頃、著者自身が毎巻の解説として、昔書いた小説の場所についての感想を簡単に述べる予定であったが、その場に行ってみると、前掲のように昔とは違った見解も出てくる。「かきおき草紙」(本全集第二十巻所収)の中でも著者は詳述しているが、最初、自分の故郷と両親の出生地を訪ねたところ、「全く知らなかったことが次々わかって来て、毎月探偵小説でも書いているような面白さがつの」り、「そのうち、自分のかつて書いた小説の裏側を探っているような塩梅になってきて、昔、こうだと思いこんでいたものが、実はそうではなかったのではないかという疑いが次々生じてきた。人の心なども、勝手に憶測して、こうだと決めこんでいたのが、実は全くその反対かもしれないなどの発見も出てくる。(中略)いつのまにやら、解説なんかどうでもよくなり、十年に八回も引越していたような場所を、次々訪ね歩いていた」(『週刊新潮』平成12年11月9日号)。その結果、「『場所』は本当は小説としてではなく全集の解説として書き始めたのですが、とても手応えがあったんです。それでそれを小説として書いたらどうかと考え、……解説をきりかえて、『新潮』に連載しました」(『週刊読書人』平成14・2・8)という次第となった。》

「場所を、次々訪ね歩いていた」ことによって、「場所」という精霊を触媒として、「わたし」とは何かを探求する作家に新たな発見をもたらし、私小説とも随筆とも違う境地に「わたし」を誘う。このように思い出の場所をどこか一箇所(ならば星の数ほどもあろうが)ではなく次々と訪ね歩くという文学形式は、ほかにもたくさんあるように見えてそうでもない(なぜなら、第一に次々訪ね歩けるほどの引越し魔でなくてはならず、第二に移り住んだ土地ごとに物語的な生活を、それもできれば私小説的な現場として過ごしてこなければならず、第三に自在に書ける地位をえた老境の文学者となっていなければならない)。思い浮かぶものでは水上勉の『私版京都図絵』、『私版東京図絵』だが、海外文学では何があるのか浅学にしてすぐには思いあたらず、もしかしたら日本文学のひとつの有り様なのかもしれない。

 

<「南山(なんざん)」>

 短編連作『場所』の第一作「南山(なんざん)」は父の故郷の話、第二作「多々羅川(たたらがわ)」は母の故郷の話、と対になっているのだが、どちらも『いずこより』では、半ページの紙数で父母それぞれの出自として簡単に紹介されるだけで、筆は幼少時を過ごした「中州(なかず)港」での出来事にたっぷりとさかれてしまった。だから、「南山(なんざん)」と「多々羅川(たたらがわ)」は作者があえて踏み込んだ領域だった。父母の故郷ではあっても、本人が親の故郷で生活したというわけではないから、伝記的な体裁は整っておらず、幼いときに父または母に連れて行ってもらった断片的な遠い土地の記憶が、ふとよみがえる展開となる(第一作の「南山」は、まず「場所」(町)と家屋を示してそこに暮したおりの状況や心境を披歴、「そのあと」で実際に場所を訪れて感慨をつづるという『場所』の二部仕立ての基本構造において、「そのあと」のところに一行あけする形式の工夫がまだ施されていない)。

 初めの一段落。

《長い歳月、七十七歳になる今日まで、私は父の郷里を深い山の中の村だとばかり勝手に思いこんでいた。父は徳島県との県境に近い香川県引田(ひけた)町の黒羽(くれは)という在所に生れたと聞かされていた。》

場所と時間がすっきりと説明されて、《引田は瀬戸内海に面した静かなささやかな町で、ここの寺町の積善坊(しゃくぜんぼう)という旧(ふる)い大きな寺に瀬戸内家の墓がある。》と回想に続いてゆく。

 引田の墓には、十字架が彫られた下に、ヨハネ黙示録十四章十三節の「今より後主にありて死ぬる人は幸ひなり」という言葉が認められた。

《この墓を建てた瀬戸内イトは、父の大伯母に当る人だと聞かされていた。父の生家は三谷姓で、私は三谷豊吉とコハルの二女として生れている。五つちがいの姉の艶(つや)と二人姉妹だった。仲がよく、いつでもどこにでも姉の影のようにくっついて行動していた筈なのに、なぜかこの日の場面に姉の姿が思い浮ばない。

 あたたかな明るい初夏の陽ざしが、山の木々の葉と、墓を洗っている父の背に降りそそいでいた情景が、妙に鮮明に記憶されている。》

 鮮明な記憶ではあるが、そこに姉の姿が思い浮ばないのが、事実なのか、記憶の欠落なのかわかりようもないけれども、ところどころで出てくる姉との関係を暗示しているかのようだ。

《自分が七十代を迎えた頃から、私はあれほど溺愛(できあい)してくれた母より、生前、対話もほとんどなかった父を、よりいっそう思い出しているのに気づいた。

 姉に家業を継がせることに固執したのではなく、自分が継いでしまった瀬戸内の家系を守る義務感が強かったのではないかと、最近になって思い至った。すると、私が全く忘れていたある場面が、記憶の底からふいによみがえってきた。

 それがやはり引田の町であった。私は父と二人で凪(な)ぎ渡った瀬戸内海を目の前にして、引田の海辺の砂浜に腰を下していた。

 どうしてそこにそうしていたのか、思い出せない。父は珍しく洋服を着ていた。その時の私が女子大生で、すでに婚約が決っていたことだけは覚えている。結婚すると私は直ちに夫と北京に渡ることになっていた。》

 父の家系、親類一族へと口承文学のように話が拡がってゆく。

 十八歳で東京の女子大へ入り家を出て以来、ほとんど故郷に住んでおらず、父方の兄弟の家の冠婚葬祭にも無縁で暮してきたが、五十も半ばを過ぎてから、生家の冠婚葬祭にだけは出席するようになる。そこで父の兄弟たちの子孫に出逢うようになったけれども、どの家も孫の代になっていた。

《法事で度々積善坊を訪れるようになっても、世代の違ってしまった黒羽の三谷家の人々との間に共通の話題が見つからず、じっくり話しあったこともなかった。

 ところが今年、父の五十回忌の法事に出かけた時、思いがけない人が来ていた。積善坊での法要が終って、席を町の料亭の二階へ移した時であった。階段下のロビーの壁際(かべぎわ)に品のいい老婆がちょこんと腰を下していた。(中略)

「みっちえたん? みっちえたんなの?」

 私はその場で床に膝をついて老婆の膝(ひざ)を抱いた。しみも皺(しわ)も目立たない小さな瓜実顔(うりざねがお)に、切長な目と形のいい鼻に、人を振りむかせた昔の器量好(よ)しの面影が残っていた。

 小町娘と騒がれた美津江は、若い頃大阪で何年か暮し、いっそう美貌に磨きがかかっていた。なぜか私の五、六歳の頃、わが家に半年ほどいたので、私は覚えていた。その頃はやった白いヴェールを首に巻いた姿が、しゃれていて、子供心にも美しい人だと憧れた。私のいう片ことが呼名になって、誰もが「みっちえたん」と呼ぶようになっていた。》

 本家の九代目卓也の従兄弟に当る分家の雅弘の母の美津江なのだったが、美津江とも別れともない気がして、雅弘の運転する車に一緒に乗りこんで黒羽に向かうのだった。

《「ここが黒羽です」

「ここが黒羽ですか」(中略)

「どうして今まで黒羽に来なかったんでしょうね。私は引田はずっと遠い山の中だとばかり勝手に思いこんでいましてね。この年になって、もうすぐこの世にさよならする時になって、今更、ルーツでもないけど、父がどんな所に生れ、十二の歳(とし)まで暮したか、その土地の記憶が足の裏からじかに体に伝ってくるような気がするんですよ。一種のまじないかな」(中略)

 私は建物のぐるりをゆっくり廻った。土地の記憶をよびうながすように、こと更にゆっくりと土を踏みしめていた。幼い父の足跡を思った。》

 幕切れの過不足ない言葉。

《外に出ると、目の前に広がった田の彼方(かなた)にくっきり山が聳えていた。

 田んぼの中から背をのばした夫婦づれらしい農家の人が私を見て、首の手拭いを外し、

「これはこれは、ようお出でなさあんせ」

 と声をかけてくれた。私はその二人にお辞儀を返してから、二人の背の彼方にある山を指さして訊(き)いた。

「あの山は何という山ですか」

 幼い父が朝に夕に仰いだであろう山である。

 男は山を仰いだ視線を戻し、おだやかな声で告げた。

「へえ、あれは南山(なんざん)と申しとります」》

 特別な名前の山である必要はない。かつて父が立っていた場所にわたしが立つ。わたしの視線がかつての父の視線とひとつになって南山を仰ぐ。このあたりの力みのないおだやかな文章は、晩年の宇野千代幸田文の随筆を連想させる余韻と味わいが揺蕩い、年輪の功徳の賜物であろうか。

 

<「多々羅川(たたらがわ)」>

《私の母コハルは、昭和二十年七月三日に米機の空襲によって焼死している。その日、米機は四国の県庁所在地、高知、徳島、高松、松山と一晩のうちに四ヵ所の爆撃を行い、四つの町はほとんど全焼に近い打撃を蒙(こうむ)った。

 徳島市でも多くの死傷者を出した。それでも私の家のある大工(だいく)町では避難が早く、ほとんどが近くの眉山(びざん)に逃げて、その夜爆死したのは、私の母と、母と一緒に防空壕(ごう)に入っていた母方の祖父、冨永和三郎の二人だけだった。》

 こんな田舎町にまで空襲があるような時は、もう日本の滅亡の時で、生きていても仕様がないというのが、町でいち早くパーマネントをかけ、サンガー夫人のバースコントロールについて、折につけ姉と私に話し、実行していた母の持論だった。

《町内会長をしていた父が、人々を避難させる作業に夢中になっていて、最後に、母を見かけなかったと気がつき、防空壕を覗(のぞ)いてみたら、母と祖父がいた。早く出ろとどなりつけて、手を引っ張ると、母はその手を強い力で振りほどいて、

「もうわたしはいい、お父さんは早う逃げて」

 と叫んだという。その後、どんな押し問答があったかなかったか。父はそれだけ言って口をつぐんでしまった。私もそれ以上訊かなかった。それをやっと伝えたぞという父のふっとゆるんだ表情を、私は忘れはしない。

私はこれまで、祖父がなぜ、そこにいたのか、誰にもたしかめたことがなかった。》

 再訪の時間にワープする一行あけ。わずか一行分の空白ではあるが無限の曼荼羅が横たわっている。

《その日は師走(しわす)というのに秋のように暖かく、空には雲一つなく玲瓏(れいろう)と晴れ渡っていた。

 従弟(いとこ)の冨永治の運転で、その兄の昌克と三人、私は母の故郷の家に向っていた。(中略)

多々羅川は水が澄み、小さな川だが、のどかな風情(ふぜい)を残していた。ところどころに白くなった薄(すすき)が揺れている。

 昔、私が母と眺めたのはこの辺りだったかと思い、車を止めてもらった。》

 幼い頃の私は、滲出性(しんしゅつせい)体質で悩まされていた。皮膚が極度に弱く、夜は全身が痒くて眠れない、今ならさしずめアトピーの診断を下されるところだろう。そんな頃、祖父がどこかから聞きこんできて、五月五日の未明、菖蒲(しょうぶ)の葉に宿る朝露で全身を撫でれば、体質が変ると言い出し、まだ眠りこけている私を背に負い、菖蒲の群生しているところへつれて行き、朝露で体を拭(ぬぐ)ってくれたのだった。

《それはひんやりと涼しく冷たく快かった。私は目を閉じうっとりして、全身を祖父に任せきっていた。祖父の掌(てのひら)は巨きく厚いのに、掌の腹は柔らかく、優しかった。

「ああ、きもちがええ」

 私がつぶやくと、祖父は、

「そうか、そうか」

 と答えながら、尚(なお)も草の露を掬(すく)いつづける。

 祖父と私の神秘な秘蹟(ひせき)は、何年つづいただろうか。学校に上るようになって、そういう行為が次第に恥かしくなったのか、祖父の生活環境が変ったのか、覚えもないままその行事は終っていた。》

 まるで『生写朝顔日記』の蛍狩のような甘露が滴る瑞々しい官能的な場所。

《その日、私と昌克兄弟は、車を更に飛ばして、和三郎の妻カツの里の佐那河内(さなごうち)まで足を延ばした。

 まだ、小学校の一年生ほどの頃、私は母に連れられて、一度だけ佐那河内を訪れた記憶がある。》

アルバムの「写真」が記憶を喚起し、かき乱す。

 治が車を止めたのは、山を背にした一軒の新築の家で、小川宏と晴美の当主夫婦がにこやかに迎えてくれた。《私はそこで旧(ふる)いアルバムを見せられ、その中の極めて美しい中年の女性に目をとめた。

「この人、覚えています。よくうちに来られていた」

「母です。キヌエです」

 宏が答えた。そこで私は全く思いがけない話を聞いた。和三郎は、終戦前、この家に引き取られて疎開(そかい)していたのだという。

「あの日、あなたの嫁入の荷物が婚家から大工町に預けられていたのを、ここへ持ってきて預るといって、車を引いて大工町へ出かけたんです。翌日すぐ戻る予定だったのに、風邪をこじらせて、一晩のばしたばかりに、あの空襲でやられてしまって。母が行かせるのでなかったとそれは残念がっていました」

 私は言葉を失った。突然、誰かの声がよみがえった。おじいちゃんが、年とってから佐那河内のキヌエさんをほんまに好きになってしもうてあそこで死にたいと言いだしたんだよ。姉の声か、叔母の声か。(中略)

「ここは星がさぞきれいでしょうね。蛍はでますか」

 ひとりごとのようにつぶやき、私は祖父の温かなやさしい掌の感触を思い出そうとしていた。》

 言葉を失い、突然、誰かの声がよみがえる、まるで黄泉の国からのように、真実なのか妄想なのか、誰の声なのかを特定できないが、年とって美しい女を好きになってしまったと噂された祖父の掌の感触が、この世と人との別れの調べを奏で、思い出そうと努める人の全身を音叉のように震わせる。

 

<「中州(なかず)港」>

《物心ついた時、私は新町川にかかった富田橋(とみだばし)の北側の通りに住んでいた。子供の目にはその通りは結構広く感じられた。わが家は道路の東側にあり、間口は狭いが、うなぎの寝床のように、奥に長い家だった。入口の土間が店で、つづいて板の間の仕事場があり、壁を背に両側に父の弟子たちが十人ほど並び、膝の前に長いあて板を並べて仕事をしていた。》

 小学校入学までの家と、家業に従事する人々と、近所の様子が活写される。この「中州(なかず)港」はとりたてて何も起こらないし、最後もドラマチックに閉じられず、そのさきに開かれたように終るのだが、母の乳房を巡って、母の「写真」と乳房から溢れだす「感官」の記憶(音、町の配置、空間)が表現されている。

 ロラン・バルト『明るい部屋』の温室での母の写真のように、<それは(・・・)=かつて(・・・)=あった(・・・)>という絶対。

 三十代の母は髪が豊かで丸髷がよく似合い、私は五つすぎまで毎晩母の乳房をしゃぶらないと寝つけなかった。昼間は忙しくかまう閑がないのを不憫に思って、いつまでも乳離れしない甘えをゆるしたのかと長年思っていたが、それには別の意味があったようだ。

《それを知ったのは、私が女学生になってからだったように思う。何かの必要があって、その時私はわが家のアルバムを繰っていた。その中に珍しく母が一人で写っている写真があった。大島の着物を着て、ひさし髪に結った母が、写真館の森のような絵を描かれた壁を背景にして立ち、緊張した表情でこちらを見つめている。右手が傍らにわざとらしく置かれた花台のようなものの上に乗せられ、その手にしっかりとハンカチを握りしめている。見馴(みな)れた母より痩(や)せていて、正面を見据えた目が妙に昏(くら)い。それまでにもその写真を私は何度か見ている筈だったが、母の目の昏さに気づいたのは、その時がはじめてであった。私の生れた家ではなく、父がはじめて買い取った、もと質屋だった大工町の家でのことだ。神仏具天になっていた店の番をしながら母は編物をしていた。

 私に見せられた写真をちらっと見ると、視線は編棒の方に置いたまま、

「それはもう死ぬと思うて、あんたらに形見に遺(のこ)すつもりで写したんだよ」

 と、私の問いに答えた。淡々とした口調だった。

「死ぬって、何で?」

「あんたはまだ小(こ)まかったから覚えとらんけんど、お母さんその頃肺病になって、三年くらい患(わず)ろうとったんよ」

 この写真をとった頃、父がどこかから聞きこんできて、すっぽんの生血が肺病に効くといい、手を尽して運ばせて、母に呑(の)ませたのだそうだ。鰻(うなぎ)の肝もよく食べさせられたとか。

 生後、誕生日も迎えない私に伝染させてはいけないと、ほとんど抱かないようにしたという。叔母が赤ん坊の私の面倒を見てくれ、貰(もら)い乳につれていってくれたそうだ。それが不憫で、病気が治ってからは毎晩私を抱いて寝て、五、六歳まで乳をなぶらせていたのだと話した。》

 母の乳房の感触が誘う感官としての音と、そこから溢れ出た感じられる空間、幼い私の遊び場所。

《母のすべすべした柔らかな乳房の感触を想(おも)い出すと、その感触の伴奏のように聞えてくるものがある。家からさほど遠くない中洲(なかず)の波止場から響いてくる汽船の船出の汽笛の音だった。夜を引き裂くような切なげな声を絞りあげて、それは波止場から真直ぐ、私の家族の枕元まで駆け寄ってくる。(中略)港は幼い私にとっては恰好の遊び場になっていた。》

 家の南隣の悉皆屋、庭の奥の材木置き場、靴屋、下駄屋、パン屋、駄菓子屋、通りの向いのインマヌエル教会、魚市場、波止場。

 一年に、一、二度ほど、商用で大阪や京都へ出かけて行くインパネスを着て、中折帽をかぶり、手にバスケットをさげた父を母と姉と見送る。もしかしたら、これっきり父は帰って来ないのではないかと言う不安が軀じゅうをめぐり、わっと泣き出しながら、母の腰にしがみつき、「お父さんが、往(い)てしまう」と言いたいのに涙で咽喉(のど)がつまって声が出ない。

《もしかしたら、あれが、この世にはさけられない人との別れがあるということを予感し、漠然と怖れた最初の記憶であったのだろうか。》

『場所』の通奏低音が「別れ」であることを作者は自覚している。

 戦災で焼ける前の昭和十年代の徳島の地図が入手できずに代りに届いた明治三十九年の地図、しかし実に見易かったモノトーンの地図を片手に町を再訪する。

《帰省してもあわただしく、ゆっくり町を歩くことなどできなかったが、今度は旧い地図と現在の地図を持って、一人で歩いてみた。東西も南北も、端から端まで歩いて一時間ほどだった町は、埋立地なども増え、昔より広くなった感じがした。しかし道幅に削られた分、覚えのある道に面した家々が狭くなっているようだった。》 

 子供の頃の記憶と比較して広さの感覚は、一般的には狭く感じるものだが、小気味よく裏切るところに真実味がある。

《富田町や新栄町は色町で、芸者の置屋や料理屋が並んでいて、昼間から三味線の稽古(けいこ)の音が聞えていたことを思い出した。私の通った眉山の真下の新町尋常小学校は。武原はん女と、中原淳一と、私の出身校だが、商店街と色町に近いせいで、どのクラスにも芸者の子供が二、三人はいた。(中略)その子とよく行った新富座や稲荷座(いなりざ)という芝居小屋の跡もたどったが、建ち並んだビル街にかき消されていて、道行く人に聞いても誰も首を横に振るばかりだった。考えてみたら、私の同年輩の子供の頃の旧友は、もうほとんどがあの世に渡っている。》

 場所をあちこち巡るという行為は、この世とあの世を再認識させるダンテ『神曲』やゲーテファウスト』のような地獄・煉獄・天国めぐり、悪魔のささやきの様相を帯びてくる。

富田橋を渡ってすぐだったと記憶していた茶色のインマヌエル教会のエキゾチックな建物も新築され、見覚えのないものになっていた。庭と建物の位置が逆になり、樹(き)もない庭は殺風景で、ブランコも柳の木も幻だった。教会の中に入り、私は床に坐って祈りの姿勢をとった。薄暗い空間もほのかにゆらめく燈明もなく、栗色のオルガンの柔らかな音も聞えて来なかった。

 私は、妙にわびしい気分で教会を出て、もう引き返そうかと道端で立ち止まった時、道の向う側の家の軒下から手を振る人を認めた。間口の広い家の屋根下に竹輪製造の看板がかかっている。はっと思い当るものがあった。

 その人の方へ、私は道を横切り駆け寄っていた。

「ようお帰えんなさい」

 四十代に見える小肥りの、血色のいい女が、白い木綿のネッカチーフで頭を包み、にこにこ笑っていた。何か探しているのかと問われ、私は自分の生家の跡を見たいのだといった。そのとたん、私はこの辺りに昔から竹輪の製造を家業にする家があったのをありあり思い出した。》

 突然、ありありと思い出させてくるのは、場所と人が一体となって現れた時だった。

 

<「眉山(びざん)」>

眉山は徳島の町のほとんどの場所から望めた。眉(まゆ)のようななだらかでやさしい稜線(りょうせん)は、遠くから見ても近くで眺めても人の心を和ませた。

 幼い頃、中洲(なかず)の波止場や、一年に一度、どこかから来るサーカスの一座が小屋掛けする原っぱで独り遊びしている時、ふり剥けばそこに眉山があった。(中略)その年の春から通った新町尋常小学校眉山の山懐(やまふところ)にあり、広い皇帝の背後の壁のように眉山が聳(そび)えていた。(中略)運動場の隅から、眉山から流れる渓川(たにがわ)沿いに細いけこの道がついていて、その小径を少し上ると、椎(しい)の林があるのを私は見つけた。》

 と、これまでの時系列の延長で小学生時代の秘密の遊び場が眉山の椎の林という場所に紐づけられて牧歌的に語られるのだが、いきなり、もう一つの眉山が現れる。

《それから二十年近い歳月が流れ、私は本当の秘密を心に包むようになっていた。

 三歳の娘を持つ引揚者の私は二十五歳だった。男は二十一歳だった。夫が北京(ペキン)へ外務省留学生として渡燕(とえん)する前、一年ほど勤めた商業学校の教え子だった。

 夫は職を探すため、私と娘を徳島に残し単身上京していた。すべてはその留守に起った。起したのは私だった。》

 いよいよ瀬戸内の私小説的作品でおなじみの、夫の教え子だった涼太が、この「眉山(びざん)」から頻繁に登場してくるのだが、夫と涼太との三角関係のいきさつ、ごたごたについてここで筋を追い、説明することはしない。それは他で幾度も書かれ、この作品でもまた変奏、追求されているからであり、あくまで感じられる場所について論じる。

(『いずこより』には作者が結婚してすぐに渡った中国、北京での日々のことが書かれているが、『場所』には書かれていない。瀬戸内は、新潮社の『瀬戸内寂聴全集』完結記念インタビューでこう語っている。《「釈迦」を書きあげて、八月にテレビの仕事で半月北京へ行って、「いずこより」で描いた当時住んでいた場所や記憶にある土地を歩いて来ました。こんなに変化の激しい中国で、これまで何度行ってもわからなかった大切な場所がまだ残っていてびっくりしました。「場所」を連載中は北京へ行けなかったので、改めて「場所・北京篇」が書けそうです。》 約束通り、のちに『風景』の中の「絆」に結実した。)

 以降、「三鷹(みたか)下連雀(しもれんじゃく)」あたりから主テーマとなる小田仁二郎と涼太との、小田の妻も含めての四角関係についての説明も省く。これもまた『夏の終り』、その他で書き尽くされているからである。もっとも、若い同性の小説家にすすめられて読んだアニー・エルノー『シンプルな情熱』に魅惑されて、彼女のパッションと自分のパッションの異同を感じた作者によれば、《私は、涼太をまた身近に思いおこしていた。涼太だけに心が今も疼(うず)くのは、まだ彼について書ききれていないからだと感じていた》と告白していて、書き切ろうとする努力の証がこの『場所』の後半部であることは確かだが、それは決して完了することのないシジフォスの神話のような尽きることのない労苦(にして密かな悦び)でありつづけるはずだ。

 この章はこれまでの、回想しておいて再訪するという二部仕立てではなく、過去と現在を盛んに行き来する。その過去は一つのまとまった時間ではなく、小学生の頃のノスタルジックな幸福の時間と、二十年近い後の情熱的な涼太との逢い引きの時間との二つの過去の時間となって迫ってくる。

《仕事をかねて久しぶりに帰郷した私は、用件をすますと、予定を一日のばして久しぶりで新町小学校の校庭に立った。母と祖母を焼いた戦災で、母校の校舎も全焼していた。(中略)私ははじめからの予定の行動を取った。昔、登った渓川沿いの小径(こみち)をたどり、けもの道を昇って、椎の林に行ってみたかったのだ。

 山は焼かれていないので、七十年前の椎の林が、そこに昔のままにあっても当然のように思えた。

 ところが、渓川は枯れていて、落葉がつもり、校庭の縁をめぐっていたのに、途中で消えてしまっている。

 それでもあきらめきれず、乱雑に生い茂った灌木や丈の高い猛々しい雑草を掻きわけ、何とかがけを背にした細い径をたどろうとしたが、小径は昔の半分ほどの幅もなくなっていて、とうてい通ることは不可能だった。

 その先には小さな滝があり、清水が小川になって渓にそそぎこんでいた筈であった。

 その滝の前を左に山の中へ入れば、椎の林が拡がっていた。

 椎の林を人目をさける涼太との逢引の場所として教えたのは私だった。》

 再訪時の感じられる場所が、小学生の時の思い出ではなく、許されぬ恋の方に結ばれてしまうところに、恋というものの力と、人が死ぬまで抜け切ることができない業があるだろう。

《ロープーウェイで眉山の頂上まで登ってみた。(中略)

 ビルが立ち並んでいるものの、川の流れや橋の位置は昔のままだったし、街に浮んだ小島のような城山の姿もそのままだった。

 眉山に沿った町並を目で追う私に、ふいに熱いものがこみあげてきた。

 それはもう、何年も立ち騒ぐことのなかった心の水面に石を投じられたように、さざなみ立ってきた波紋であった。》

 それは高熱のために眉山の椎の林に出て来られない涼太の家まで、逢うことだけに心せいて、国府(こう)町字観音町へと狂ったように自転車のパダルを踏みつづけ、寄りそって支えあうように四、五軒並んでいるしもた家から浴衣姿で出てきた彼に出逢うというときめきの記憶であった。作者の情熱はいっこうに衰えていない。

《展望台から探すと鮎喰川が光りながら流れていた。

 まるでそれが始めからの予定のように、私はドライヴウェイの終点の空地でたむろしていたタクシーを拾う。

国府の観音寺まで」(中略)

 車を駐車場で待たせ、形ばかりに本堂で手を合すと、私は山門を出て往来に出た。来た道と反対側の道をうろ覚えにたどるうち、私の足が釘(くぎ)づけになってしまった。まさかと思ったが、あの二階屋の四軒並びの家がそこにあった。どの家も、人が住めないほど荒廃しつくしていたが、二階の硝子(ガラス)戸(ど)に、部屋の中のダンボールの山などがぼんやり映っている家もあった。

 あの時でさえ焼け残った家が、更に五十年余も経(た)って、まだ遺(のこ)っていたことが不気味であった。

 私は目を閉じ、音を立てそうな勢いで、それを見開いてみた。

 それはたしかにあの夏の夜、浴衣姿の涼太が出てきた家にちがいなかった。

 明日取り壊されても不思議ではないその家の無残な様から目をそらしながら、私はゆっくり観音寺に向かって引き返していた。

 涼太に肩を押えられ坐(すわ)らされた石の台座がそのままあったことを、私はさっき門に入った瞬間、はっきり視野に捕えていた。

 ふいに両脚の太腿(ふともも)に、涼太の泪の熱さがよみがえってきた。

 私に近づいては、過ぎ去って行ったすべての男たちの後ろ姿が、誰かの振る遍路鈴の中に、累々(るいるい)と立ち顕(あら)われては遠ざかるようであった。》

 この最後の一行が、『場所』連作後半のライト・モティーフになってゆく。

 

<「名古屋駅」>

 名古屋は主人公が住んだ土地ではない。夫と娘を捨てて、涼太と落ち合うはずの岡山へ向けて東京から身ひとつで出奔した列車の名古屋駅での音の記憶、あるいは音をきいた時の心情、出来事の記憶にまつわる。結局、主人公は名古屋駅で降りて、東京へ引き返してしまう。感じられた音は、列車の中の子供の泣き声と「な、ご、や、あ、な、ご、や、あ」というアナウンスの声だった。

《その時、後方の席で、子供の泣き声がした。女の子の声で、赤ん坊ではなかった。

 夢にうなされでもしたのだろうか、泣き声は火のついたように次第に激しくなり、母親が泣きつづける子供をデッキの方へ連れ去っていった。

 泣き声はしばらくして止(や)んだが、私の耳にはいつまでもその声が響きつづけていた。それまで私は残してきた娘をつとめて思い出すまいとして、心を他へばかり向けていた。泣き声は娘の私を呼ぶ絶叫に聞えた。

 北京の産院から始まって、あらゆる日々の、娘の表情やしぐさのすべてが、記憶によみがえり、私を圧倒した。(中略)

 それでもうとうとしていたのだろうか。次は名古屋だというアナウンスの声が夢を切りさいた。その瞬間、また耳一杯子供の泣き声が響いてきた。夢の中でも、それを聞きつづけていたのかもしれなかった。(中略)

「な、ご、や、あ、な、ご、や、あ」》

 私はプラットホームに辛うじて飛び降り、膝をついて倒れこんだ姿勢のまま、すぐには起き上がれなかった。

《そこからすぐ、東京行の列車に乗り込むまで、記憶は完全に空白である。二十五歳の秋の終りであった。》

 以下に語られることも、再訪と呼ぶべきなのか。

《あれから五十三年もの歳月が流れ去っているとは。

 それでも私は今になっても、列車で名古屋を通過する時、

「次は名古屋です」

 というアナウンスの声に、胸を突かれる。

 さすがに昔のように顔色の変るのは忘れてしまったが、その駅名が私の記憶の中に、抜き忘れた虫歯の痛みのような疼きを呼び覚す。

 いつまでも私の中に存在しつづけようとするこの記憶の痛みの執拗(しつよう)さに、私は時たま、ほとんど憎しみと嫌悪(けんお)を覚えることがある。その一方、万一、私の記憶の中から、「な、ご、や」という響きのもたらす何ものもなくなった時を想像すると、いたたまれない不安を感じる。

 もしかしたら、このかすかな痛みを死ぬまで何とか忘れまいと、ひそかな努力をしているのは、私自身なのかもしれなかった。》

 忘れることへの怖れ、忘却を無意識に否定するフロイト的な抑圧、強迫観念を人はどうすることもできない。

 

<「油小路三条(あぶらのこうじさんじょう)」>

《油小路三条上(あが)ルという京都中京の町名が、ずっと心に懸っていた。

 昔関わりのあった場所に行き、昔と今の状態を自分の目で確かめる時、その土地が抱きつづけてきた記憶が、なまなましく顕ち表われて、不思議な力で自分に迫ってくるという現象を、信じるようになったのは、いつの頃からだっただろう。

 京都は、東京の夫の家を出奔して、すぐ住みついた土地であり、三年後、上京してどうやら小説家ののれんをかかげて暮すようになってから、再び京都に舞い戻り、ずっと京都市民として税金を納めつづけてきて、三十四年にもなるだろうか。

 その間、私は前期京都在住の時の棲居(すまい)や勤務先を、つとめて訪れないようにしてきた。

 故意にさけて通るという言葉がふさわしいほど、私はそういう場所をいつでも素通りしてきたのだった。

 その近くを通る時、なつかしいという感情よりも、何となく怖ろしいという不可解な感じの方が先立つのだった。

 何もその場所で、私は悪事を働いた覚えはないし、人に危害を加えられた記憶もない。ただその前期京都住いの期間が、私の生涯の中で最も不安定で、貧しく、客観的に見れば、惨(みじ)めな時期に当っていたようだ。一応定住していながら、心理的には放浪とか流浪(るろう)という言葉がぴったりする歳月であった。

昭和二十三(一九四八)年二月、厳冬の未明、着のみ着のままで京都にたどりついた私は、その夜から北白川平井町にある友人の下宿に転がりこんだ。》

滝田という、部屋数の多さを利用して、未亡人になった主婦が始めた下宿屋だった。そして、自立のために油小路三条上ルにある大翆(だいすい)書院という小さな出版社で働き始めたのだった。

《あれから五十二年後の五月のある日、私は思い立って、油小路へ出かけてみた。玉手箱やパンドラの箱を開くような恐ろしさもあったが、さけて通ったところで、もう余生も少なくなった私に何ほどのことがあろう。(中略)

 遠い記憶を呼びもどしながら、私は二、三回、油小路三条上ルと表示されたあたりを往きつ戻りつしていた。

「どこかお探しですか」

 立ち止まって一軒の建物を見上げている私に、声がかけられた。》

 さっきから、何となく心惹かれていた建物がそうとわかる。当時の席の配置もありありとよみがえり、なつかしさがこみあげてきて、しつこいほど古色蒼然とした黄色い建物を仰ぎつづけた。

《何かに背を押されるように気持になり、私は待たしてあった車で、北白川平井町へ走っていた。

 五十二年、その近所に幾十度となく車を走らせながら、一度も立ち寄ってみようとしなかった界隈(かいわい)であった。》 見つからず、あきらめかけた時、家はすっかり真新しくなって、しゃれた今風の洋館になっていたが、表札の文字に大きく滝田とあった。女主人はとうに他界しているだろう、あの頃養女で、にきびに悩んでいた少女も六十をとうに過ぎているのでは。

《私はそこから引きかえし、近くの通りへ出て、息がつまりそうになった。まさかと思っていた小さな店屋がそこには昔のままに並んでいたのだ。看板さえ、昔のままのものがあった。「やぐら食堂」の看板の店は、今は小ぎれいな食堂になっているが、当時は学生相手の外食券食堂だった。(中略)

 何度めかに訪れた涼太が、この食堂で食べたいと言った。いつもの娘が山盛りに盛ってくれた茶碗飯(ちゃわんめし)を涼太の前に押しやると、涼太の涙が、ふいに山盛り飯のてっぺんに落ちていった。

「こんなところで、こんな食事をさせて」

 涼太の切なそうな声までが、耳によみがえってきた。

 人は誰も過ぎ去り、時は確実に通り過ぎてゆく。

 けれども、人の足の立った場所だけは、土地の記憶をかかえたまま、いつまでも遺(のこ)りつづけていくようだった。》

 

<「三鷹(みたか)下連雀(しもれんじゃく)」「塔ノ沢」「西荻窪(にしおぎくぼ)」「野方(のがた)」「練馬高松町」「目白関口台町」「中野本町通」「本郷壱岐坂(いきざか)」

もう十分だろう。

《人は誰も過ぎ去り、時は確実に通り過ぎてゆく。

 けれども、人の足の立った場所だけは、土地の記憶をかかえたまま、いつまでも遺りつづけていくようだった。》

で終ってもよかった。その後は、

《京都の生活を切りあげ、東京へ舞い戻ったのは昭和二十六(一九五一)年五月であった。》

となって、「三鷹(みたか)下連雀(しもれんじゃく)」から「塔ノ沢」「西荻窪(にしおぎくぼ)」へは小田仁二郎との関係劇となり、「野方(のがた)」で涼太が亡霊か芝居のように再登場して、そこから「目白関口台町」「中野本町通」まで三者の複雑な関係がつづく。最後の「本郷壱岐坂(いきざか)」で「あの男」(井上光晴という実名を避けている)が出現し、出家に至る時間が書かれて本作品は終るのだが、そういった関係劇のいきさつは、《「当時(「場所」の舞台となった小説を書いていた三十代、四十代の頃)は渦中でカッカ、カッカしていますから、歳月を経て、『あんな行動も、本心はそうじゃなかったのじゃないか』などと思います。それもこれも、書いてみて初めて分かるんですね」》というとおりの力みの抜けた表現上の達成と諦念、哀感があったにしても踏み込まない。

 東京へ戻ってからの「場所」への再訪は、記憶も新しいからか、何度も語られた男女関係ゆえか、回想も再訪時の感情の動きもいまだ生臭く感じる。詫び住いではなくなって、高級アパートメントとしての、今でも存在を誇示する「目白関口台町」の目白台アパートメント(現、目白台ハウス)と「本郷壱岐坂(いきざか)」の本郷ハウスを別とすれば、あたりのあまりの変貌に茫然となるが、どうにか見つけて感慨にふけるという物語構造が、たとえ温泉地「塔ノ沢」のつぶれた温泉宿であっても、なつかしくもよそよそしい惰性、デジャヴとなって幻燈のように廻りつづける。涙を誘う場面がいくつかあるにしても、想像しうるステレオタイプな情景にすぎない。

 このあたりの自伝(自叙伝)的記述には、ポール・ド・マンが『ロマン主義のレトリック』の「摩損としての自叙伝」で論じた、書き手と語り手の虚実混同、鏡像関係が適用されるのではないか。ド・マンによれば、

《自叙伝は虚構よりも単純な形で、現実の、潜在的に実証可能な出来事に依存しているように見える。それは、指示性、再現、解釈のより単純な様式に属しているように見える。自叙伝は多くの幻想や夢想を含んでいるかもしれないが、そういった現実からの逸脱も、固有名詞の明白な読解可能性によってその身元を確定された一つの主体に依然として根ざしているのである。例えばルソーの『告白』の語り手は、ルソー自らがそう公言する『ジュリー』の場合よりも普遍的な形で、ルソーの名とその署名によって規定されているように見える。しかし、写真が被写体に、(写実的な)絵がその題材に依存しているように、自叙伝は指示性に依存するものであると、それほど確信できるだろうか。私たちは、行為がその結果を産むように人生が自叙伝を〈産む〉と考えているが、同様の正当性をもって、自叙伝という企図のほうが人生を産み、決定することもあるし、書き手の〈行う〉ことはすべて、実は自己描写のための技術上の要請に支配され、したがって全面的にそのメディウムの資質によって決定づけられているのだと言えないだろうか。》

 瀬戸内が《涼太だけに心が今も疼(うず)くのは、まだ彼について書ききれていないからだと感じていた》と嘆かずにはいられないのは、そして《そのうち、自分のかつて書いた小説の裏側を探っているような塩梅になってきて、昔、こうだと思いこんでいたものが、実はそうではなかったのではないかという疑いが次々生じてきた。人の心なども、勝手に憶測して、こうだと決めこんでいたのが、実は全くその反対かもしれないなどの発見も出てくる。》という発言を創作現場の裏側から読み解けば、《私たちは、行為がその結果を産むように人生が自叙伝を〈産む〉と考えているが、同様の正当性をもって、自叙伝という企図のほうが人生を産み、決定することもあるし、書き手の〈行う〉ことはすべて、実は自己描写のための技術上の要請に支配され、したがって全面的にそのメディウムの資質によって決定づけられているのだと言えないだろうか。》という鏡像ゆえに、瀬戸内の作品を虚構として読むにしても自叙伝として読むにしても、永遠に涼太の人生に、ゼノンのパラドックスの「アキレスと亀」のごとく到達しえない。

 

<失われた場所/感じられる場所を求めて>

 ジョルジュ・プーレ『プルースト的空間』は、プルーストの『失われた時を求めて』における空間(場所)の重要性について論じた名著だが、そこに次のような文章がある。

《「わたしがどこにいるのかを知ろうとして……。」こうして物語の最初の時点から――また最初の場所(・・)からとほぼ言えるであろう――プルーストの作品はただ失われた時間だけではなく、失われた空間の探索としてあらわされていることは明かなのである。》

失われた時を求めて』の名高い「スワン家の方へ」冒頭、《長いあいだ、私は早く寝るのだった》のすぐあと、アダムの肋骨からイヴが生れたようにという比喩による快楽の素描に続いて、

《眠っている人間は自分のまわりに、時間の糸、歳月とさまざまな世界の秩序を、ぐるりとまきつけている。目ざめると人は本能的にそれに問いかけて、自分の占めている地上の場所、目ざめまでに流れた時間を、たちまちそこに読みとるのだが、しかし糸や秩序はときには順番が混乱し、ぷつんと切れることもある。(中略)そのとき精神は、眠りこんだ場所がどこだったかも忘れてしまい、こうして私が真夜中に目ざめるときは、自分のいるところが分からないので、最初は自分がだれなのかさえ明らかでない。私はただ、動物の内部で震えているような存在感覚をごく単純な形で備えているにすぎず、穴居人以上に無一物だ。しかしそのときに思い出が――それは私の現在いる場所ではなくて、かつて住んだことのある場所、これまでに行ったかもしれないいくつかの場所の思い出だが――天の救いのようにやってきて自分一人では抜け出せそうになかった虚無から私を引き出してくれる。》

 と続く。プーレはこの目覚めの部分を解説して、「失われた空間」(プーレが「空間」と言う時、地誌的な「場所」を指したり、三次元的拡張性をもった空間を示したりする)の探索もまた重要であると結論づけた。

なるほど、瀬戸内が第一章「南山(なんざん)」、第二章「多々羅川(たたらがわ)」と書いて来て、《最初、自分の故郷と両親の出生地を訪ねたところ、「全く知らなかったことが次々わかって来て、毎月探偵小説でも書いているような面白さがつの」り、》書き継いだのは、興であるばかりではなく、《そのときに思い出が――それは私の現在いる場所ではなくて、かつて住んだことのある場所、これまでに行ったかもしれないいくつかの場所の思い出だが――天の救いのようにやってきて自分一人では抜け出せそうになかった虚無から私を引き出してくれる》と直感したからに違いあるまい。

 さらにプーレは、コンブレーでの散歩とヴェルデュラン夫人邸での音楽から、

《失われた場所をふたたび見出すこと、それは同じことではないにしても、少なくとも失われた時間をふたたび見出すことときわめてよく似た事実なのである。記憶の奥底で、過去のあるイメージがぼんやりと意識にあらわれると、意識はある働きを果さなければならない。それは、プルーストの言葉にしたがうならば、「どのような特定の状態、過去のどの時期にかかわっているのかを知ろうとする」働きなのである。こうした働きには名称がつけられており、場所感覚(・・・・)とよばれている。》

と論じたが、それは「スワン家の方へ」の、

《私たちをとりまいている事物の不動性は、ひょっとすると、その事物がそれであって他のものではないという信念、つまりそれらを前にしたときの私たちの思考の不動性によって、事物に押しつけられているのかもしれない。ともあれ、こうして私が目ざめるとき、精神は私のいる場所を知ろうともがくのだが、なかなかうまくゆかず、周囲ではすべてが、物、土地、歳月が、闇のなかをぐるぐるまわっているのだった。(中略)普通私はすぐまた眠ろうともせずに、かつてコンブレーの大伯母の家で、バルベックで、パリで、ドンシエールで、ヴェネツィアで、あるいはまたその他のところで、家の者の送った生活を思い起こし、それらの場所、そこで知った人びと、その人びとについて見たことや聞いたことなどを思い浮かべて、夜の大半を過ごすのであった。》

から導かれたのであり、『場所』を連載していた時期の作者は、場所感覚に酔いしれていたことだろう。

 プーレは前述に続いて、

《ところで、精神は時間のなかに想起されたイメージの位置を定めるのと同様に、空間においてもその位置を定める。プルースト的人間が紅茶の茶碗から流れでてくるものとして見ているものは、たんに幼少のある時期だけではない。それはある部屋、教会、街などの、もはやさまようこともなく、揺らめくこともない、確固とした地誌的な全体なのである。》

としたが、同じく「スワン家の方へ」の、

《ちょうど日本人の玩具で、水を満たした瀬戸物の茶碗に小さな紙切れを浸すと、それまで区別のつかなかったその紙が、ちょっと水につけられただけでたちまち伸び広がり、ねじれ、色がつき、それぞれ形が異なって、はっきり花や家や人間だと分かるようになってゆくものがあるが、それと同じように今や家にあるすべての花、スワン氏の庭園の花、ヴィヴォンヌ川の睡蓮、善良な村人とそのささやかな住居(すまい)、教会、全コンブレーとその周辺、これらすべてががっしりと形をなし、町も庭も、私の一杯のお茶からとび出してきたのだ。》

 という有名な喩から導かれたものだ。「南山(なんざん)」「多々羅川(たたらがわ)」「中州(なかず)港」にはそのめくるめく匂いと映像が濃厚である。

 また、『失われた時を求めて』の最終巻「見出された時」には、

《ところで知合いになった女たちの場合、この風景は少なくとも二重だった。めいめいが私の人生の碁盤目のように埋めている夢の風景の一つ、そこに私が彼女を想像しようとつとめた風景のまっただなかにおり、ついで回想の方に姿をあらわして、私が彼女と知り合った景色に囲まれ、そこにいつまでも結びついて私にその景色を思い出させるからだ。というのも、私たちの人生が放浪を繰り返すとしても、記憶は動かないもので、たとえ私たちが絶えず別の場所に飛び出して行っても、回想は私たちが離れ去る場所に釘づけになって、相変らずそこに引きこもったままの生活をつづけるためだ。》

とあるが、ここで「女たち」「彼女」を「男たち」「彼」に変換すれば、「三鷹(みたか)下連雀(しもれんじゃく)」「塔ノ沢」「西荻窪(にしおぎくぼ)」「野方(のがた)」「練馬高松町」「目白関口台町」「中野本町通」「本郷壱岐坂(いきざか)」に当て嵌まるだろう。

 最後に、プルースト「囚われの女」の断章を引用しよう。

《愛、それは心に感じられるようになった時間と空間のことだ。》

 瀬戸内寂聴『場所』が人を感動させるのは、心に感じられるようになった時間と場所が、なによりも変らぬ愛がそこにあるからに違いない。

                                  (了)

          *****参考または引用文献*****

瀬戸内寂聴『場所』(新潮文庫

*『瀬戸内寂聴全集18』(『場所』所収)(新潮社)

*『「波」2002年10月号』(『瀬戸内寂聴全集』完結記念インタビュー所収)(新潮社)

*『群像』(2001年9月号)(川上弘美「書評 花園を出て 瀬戸内寂聴「場所」」所収)(講談社

瀬戸内晴美『いずこより』(新潮文庫

*ジョルジュ・プーレ『プルースト的空間』山路昭、小副川明訳(国文社)

ジュリア・クリステヴァプルースト 感じられる時』(筑摩書房

マルセル・プルースト失われた時を求めて1 スワン家の方へⅠ』鈴木道彦訳(集英社文庫

マルセル・プルースト失われた時を求めて10 囚われの女Ⅱ』鈴木道彦訳(集英社文庫

マルセル・プルースト失われた時を求めて13 見出された時Ⅱ』鈴木道彦訳(集英社文庫

ポール・ド・マンロマン主義のレトリック』山形和美、岩坪友子訳(法政大学出版局

ロラン・バルト『明るい部屋 写真についての覚書』花輪光訳(みすず書房

水上勉『私版京都図絵』(福武文庫)

水上勉『私版東京図絵』(朝日文庫