文学批評 「G・グリーン『情事の終り』の終らない情事(ノート)」

 「G・グリーン『情事の終り』の終らない情事(ノート)」

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 ロラン・バルトは『恋愛のディスクール・断章』の「この書物はどのように作られているか」で、《すべては次のような原則から出発している。恋するものを単なる症候主体に還元するのではなく、むしろ、その声にあって何が現実ばなれしたものであるのか、何が手に負えぬものであるのかを聞きとれるようにすること》と宣言し、表紙裏に、《このような書物が必要とされるについては、恋愛にかかわるディスクール(言述)が今日、極度の孤立状態(・・・・・・・)におかれているという考察があった》と書いた。

『恋愛のディスクール・断章』の出典テクストは、ゲーテ『若きウェルテルの悩み』を主に、フランス、ドイツ、ロシア関係は綺羅星の如くあっても、イギリス関係は精神分析医のウィニコットぐらいしか見当たらず、したがってグレアム・グリーンの名前もない。バルトとグリーンの互いの男女関係はかけ離れているけれども、少なくともひとつの類似がある。イギリス国教会の国でグリーンはマイナーなカトリックになったが、バルトはカトリックの国フランスでプロテスタントだったことだが、グリーンというと付いてまわるカトリック文学についてここで考察するつもりがないのは、イーヴリン・ウォー、フランソワ・モーリヤック、アントニー・バージェス、デイヴィッド・ロッジ、V・S・プリチェット、テリー・イーグルトン、ハロルド・ブルームといった錚々たる作家、評論家たちが、グリーン文学の、神/悪/信仰/罪/救済/神の不在/カトリックプロテスタントイギリス国教会)などについて論じていて、それらに付け加えうるものなど何もないからである。

 恋愛にかかわるディスクール(それは、『若きウェルテルの悩み』が代表的なように、始まる前と始まった時が大事で、成就に到るまでのロマンティックな心理がそれに続き、しばしば成就しないことで気持ちが高まる)以上に、情事にかかわるディスクール(始まりもさることながら、成就してから終りへと向かうドラマティックな出来事が物語りとなる)はいっそう孤立状態なのではなかろうか。

 グリーン『情事の終り』を情事のディスクールの確認の場としてみたらどうだろうか、と読みはじめれば、情事のディスクールが、小説創作のディスクールと、あまり声高ではないものの時間のディスクールと三位一体となって、人間と神への愛憎のうちに告白されていることに気づく。とりわけ、情事をめぐる時間のディスクールには興味深いものがある。

 グリーンは『情事の終り』を書くにあたって、「時間」というものを意識していたに違いない。なぜなら小説の最後の方で、ある神父に聖アウグスティヌスの時間論をいかにもグリーンらしく、そっけなくも味わい深い諧謔のうちに語らせているからだ。

《「時間というのは不思議なものです」とクラムトン神父は言った。

「もちろんその子はこれが過去に書かれたとは知らないわけですからね」

「聖オーガスティン(筆者註:聖アウグスティヌス)が、時間はどこからくるかと問いました。まだ存在しない未来からきて、持続をもたぬ現在をとおって、すでに存在することをやめた過去にむかう。そう彼は言います。私たちが時間というものを子供よりもよく理解しているとは思われません」

「ぼくは別に……」》

 四世紀末のアウグスティヌス『告白』第十一巻「時間論」は、時間について「知っている」ということのアポリアを告白したうえで、「過去」・「現在」・「未来」のうち、体験される「現在」という時間に重きをおいたことに特徴があるが、二十世紀にはいってのフッサールイデーン』やハイデガー存在と時間』においても、アウグスティヌスの時間論を厳密化したうえで、「現在」における人間(ハイデガーにおける現存在)の存在の在り方を考察したものであって、その時間論を否定したものではない。

かくして、『情事の終り』から、アウグスティヌスの時間論を補助線に、情事のディスクールを聴きとってゆく。

  

<『情事の終り』のストーリー>

 

 第一部と第二部は、一九四六年一月からはじまって二月まで歩むが、主人公モーリス・ベンドリクスがその三年後に書いているこの小説では、物語りのはじまりの一九三九年初夏までを回想が振り子のように往き来する。

 第二次大戦後の一九四六年一月、ロンドン、雨の夜の公園で、小説家モーリス・ベンドリクスはヘンリ・マイルズと出会う。彼の妻セアラに愛と憎しみを抱くベンドリクスは、セアラが浮気しているのではないかとヘンリが不安を感じて探偵に調査させようか悩んでいることを知る。(以下、『情事の終り』からの引用は永川玲二訳(早川書房)(一部、改訳)。参考までに新潮文庫の田中西二郎訳ではサラァ、上岡伸雄訳ではサラ、原書ではSarah)

 一九三九年の初夏、ベンドリクスは小説の取材のために、高級官吏のヘンリが開いたパーティーでセアラと知り合った。彼女から夫の日常を聴きだすうちに恋に落ち、二人の情事は数年間つづいたけれど、一年半前に終っていたはずだった。

 セアラの浮気相手、第三の男Xが気になったベンドリクスは、ヘンリには内緒でセアラの調査を探偵に依頼する。子連れの探偵パーキスによって、紙屑入れから拾いあげた恋文を入手し、頬に痣のあるスマイスという反キリスト主義者の家に出入りしていることを知る。ベンドリクスが探偵に調査させたことをヘンリに告げた夜、ヘンリはようやく二人が恋人だったのではないかと思いあたる。

 一九四四年六月、二人はベンドリクスの部屋で恋を交わすが、ドイツのV1爆撃から避難するため地下室の様子を見に行ったベンドリクスは、爆発によって扉の下敷となってしまう。しばらくして部屋に戻った彼を、セアラは苦悩の表情でみつめ、逃げるように去って行った。

 第三部はパーキスが盗みだした一九四四年六月十二日から一九四六年二月十二日までのセアラの日記となる。ベンドリクスは日記から真実を知ることとなる。爆撃でベンドリクスが死んだものと思いこんだセアラは、ひざまずき、彼を助けてくれるなら情事を断ち切ると神に祈ったのだった。そうしてベンドリクスが無事だったと知ると、彼女は彼のもとを離れた。まるで病気にかかるか、恋におちるみたいに信仰におちてしまったセアラは神(第三の男X)との約束を守っていたのだったが、一年半ぶりにベンドリクスと再会することで、神とも夫ヘンリとも別れてベンドリクスのもとへ行こうと置手紙を用意する。ちょうどその夜、二人の過去の関係に気づいて愛の告白をしてきたヘンリに、別れないと二つめの約束をする。

 第四部、第五部と、時間はまっすぐ加速度的に進む。日記を読み、愛は終っていないと知ったベンドリクスは病床のセアラに電話したが、彼女はみぞれのなかを教会に向かう。追いかけてきたベンドリクスはセアラに復縁を迫るものの心身ともに弱っていることから、その場は立去る。待ちわびた八日後、ヘンリから電話があって、セアラが死んだと伝えてきた。

 火葬か埋葬かのクラムトン神父との議論(イギリス国教会は火葬、カトリックは埋葬)、火葬場への列席とセアラは二歳のとき密かにカトリックの洗礼を受けていたという母の打明け話、パーキスの子どもの重い腹痛がセアラの手が触れたことで治り、スマイスの頬の痣が一晩で消える秘蹟のような事があって、……

  

<始めと終り>

 

「時間の三つの相違」(アウグスティヌス『告白』第十一巻、第十四章)

《それでは、時間とはなんであるか。だれもわたしに問わなければ、わたしは知っている。しかし、だれか問うものに説明しようとすると、わたしは知らないのである。しかもなお、わたしは確信をもって次のことを知っているということができる。すなわちなにものも過ぎ去るものがなければ、過去という時間は存在せず、なにものも到来するものがなければ、未来という時間は存在せず、なにものも存在するものがなければ、現在という時間は存在しないであろう。わたしはそれだけのことは知っているということができる。しかし、それではかの二つの時間、すなわち過去と未来とは、過去はもはや存在せず、未来はまだ存在しないのであるから、どのようにして存在するのであろうか。また、現在もつねに現在であって、過去に移りゆかないなら、もはや時間ではなくして永遠であるであろう。それゆえ、現在はただ過去に移りゆくことによってのみ時間であるなら、わたしたちはどうしてそれの存在しないことにあるものを存在するということができるであろうか。》

 

《物語りというものには始めもなければ終りもない。語り手がただ勝手に人生のひとつの瞬間をえらんで、そこからうしろを振りかえったり前をながめたりする。「えらぶ」と言ったが、これはぼくのような職業作家――たまに、まともに問題にされても技巧ばかり褒められている職業作家の、不正確な自尊心だ。いったいぼくが自分の意志でわざわざあんな瞬間を選ぶだろうか――あの暗い湿っぽい夜、そしてあの公園、一九四六年一月。どしゃぶりの雨のなかを突っきってゆくヘンリ・マイルズの影。むしろ、あのイメージがぼくをえらんでしまったのではないか。》

 グリーンという作家は、章の書き出しを気の利いた警句で始めて一気に心をつかむのが巧みだが、『情事の終り』では、小説冒頭で、いきなり主題を響かせる。まるで、探しあぐねた重要な手紙が目立つ場所に無造作に置かれているのに、かえって見過ごされてしまうようにさりげなく。

 まずここには、「始め」と「終り」という時間の観念が現れている。すぐに語り手の「ぼく」は、技巧ばかり褒められている職業作家と知れる。

「むしろ、あのイメージがぼくをえらんでしまったのではないか」とは、「自分の意志」の及ばない存在(以後の主旋律に成長してゆく神のイメージ)を早くも暗示している。暗い湿っぽい夜、公園、どしゃぶりの雨という、この小説全体の諧調のうち、とりわけ雨は情事の相手の死に結びつく。

 選ばれたのは重苦しいイメージばかりでなく、流れる時間のなかの一九四六年一月でもあった。

 物語りには始めも終りもないと断定しておいて、愛と情事の定義を、始めと終りの有り無しで語りはじめるだろう。それは、主人公ベンドリクスが、情事の当事者として、また小説家として、終りというものに収拾をつけられなくなっているからに違いない。

 

《幸福でさえあればひとはどんな苦行にも堪えることができる。仕事の習慣をこわしてしまったもの、それは不幸だった。ぼくたちが喧嘩したり、ぼくが神経のいらだちを彼女にぶつけたりすることがどんなに多いかに思いあたったとき、ぼくははじめてぼくたちの愛の運命を意識した。愛はひとつの情事――始めと終りとのある情事になってしまった。それが始まった瞬間をぼくは正確に覚えているし、やがては最後の時間を正確に指摘できるときがくるにちがいない。》

 この小説は、情事に終りはあっても、愛に終りはない、とりわけ神への愛に終りはない、というようなお目出度さ、説教くさい教室的要約で成り立っているわけではない。一義的な決めつけは、イギリス文学、とりわけグリーンの文学からもっとも遠いところだ。

 過去にいつづける「始め」は容易に指摘できるだろう。始まりは詩的に語れる。けれども、「終り」は、すでに過去のものとなった記憶なのか、現在知覚しているのか、未来に期待しているのかを、そう簡単に指摘できないのは、指摘する人間の魂が絡むからである。

 終りたくないという欲望と、終りにしてしまいたいという絶望とが、男にも女にも、その志すところは全く違うのに、同じようにまだら模様に移りゆく。移りゆくのは時間とともに人間の魂である。

 愛と情事が始めと終りの有り無しによって違うのだとして、では情事とは、愛ではなくて、恋なのか、不倫なのか。

 習慣は時間の継続の姿であって、習慣をこわすということは運命に杭を打つことになる。

 

《彼女はよく本当のことを言ってぼくをまごつかせた。ぼくたちが愛しあっていたころ、ぼくはよく真実以上のことを彼女に言わせようとした――ぼくたちの恋愛はいつまでも終らないとか、いつかぼくたちは結婚するだろうとか。そんな言葉をぼくは信じないだろうが、彼女の口からはそれを言わせたかった。》

 だから、愛はいつまでも終らない、と信じなくても語ってみたくなる。空虚な言葉でも、声にすると、たちまち記憶と化す。発話され音になることで信じこむ。

 自分で語ることがそらぞらしいならば、相手に語らせて信じてみたくなる。愛ならばそれもよい、しかし終りがあるに違いない、あるいは終りを無意識に欲望している情事においては、相手に語らせて確認することで、かえってその空しさがあぶり出されかねない。

 

《ぼくがもし小説を書いているのならここで終りにするだろう。小説というものにはどこかに終りがある、とぼくは考えていたけれども、ぼくのリアリズムは何年もまえからいつも誤っていたのだ。いまではぼくはそう信じている。人生においては何事も終らないらしいではないか。化学者たちは物質が完全に破壊されることはありえないと言うし、数学者たちは、一歩ごとに歩幅を半分にちぢめながら歩けば、部屋の向う側の壁に行きつくことはけっしてないという。だとすれば、話がここで終ってくれると思ったぼくは何という楽天家だろう。》

 愛に終りはないのに、情事には終りがあるから、終りのある小説は情事のようなものだとでも言うのか、あるいは情事が小説のようだ、ということか。

 小説家の頭のなかでは終っても、現実は物語りを紡ぎだしつづけ、移りゆく。情事の片方ではなく、両方が死ぬまで、終わりはないだろう。

 何事も終らない(到達しない)とは、古代ギリシアのエレア派のゼノンの「アキレスと亀」のパラドックスで、数学的、哲学的な命題だが、これは何も時間だけのことではないだろう。情事のさなかの男と女、人間と神との関係もまた、そうであるに違いない。

  

<過去・現在・未来>

 

「どのようにして過去と未来とは現に存在するのであるか」(『告白』第十一巻、第十八章)」

《もしも未来と過去とが存在するなら、それらがどこに存在するかをわたしは知りたいと思う。それらがどこに存在するかを知ることができなくても、しかもわたしはそれらがどこに存在しようと、それはそこにおいて未来または過去であるのではなく、現在であるということを知っている。それらは、もしもそこにおいても未来であるなら、まだそこに存在しないのであり、またもしもそこにおいても過去であるならば、もはや存在しないからである。それゆえ、存在するすべてのものは、どこに存在しようとも、ただ現在としてのみ存在する。しかしわたしたちが過去を真実に語るとき、記憶から過ぎ去った事物ではなく、それらの事物の心象から考えられた言葉が取り出されるのである。それらの心象は、事物が過ぎ去るときに感覚によっていわば心のうちに痕跡として残されたものである。じっさい、もはや存在しないわたしの少年時代は、過去という時間のうちにあって、その過去はもはや存在しないのであるが、しかしその心象は、わたしが少年時代を回想して語るとき、現在という時間において見られるのである。心象はわたしの記憶のうちに存在するのである。つぎに未来を予言する場合にもこれと同じわけなのであろうか。まだ存在しない事物も、その心象はすでに存在して予知されるのであろうか。わたしの神よ、わたしは告白する。わたしはそれを知らないのである。しかしわたしはつぎのことを確かに知っている。わたしたちは多くの場合未来の行為を予想し、その予想は現存するのであるが、しかしわたしたちが予想する行為は未来のものであるから、まだ存在しない。しかし、わたしたちがその行為にとりかかり、予想していたことを始めるとき、そのときかの行為は存在するようになるであろう。それはそのとき未来ではなくして、現在であるからである。》

 

《ぼくのこの小説がまっすぐな道を進もうとしないのは、ぼくが未知の領域で迷っているためだ。ぼくには地図がない。ときには、ぼくがここに書いていることのなかにひとつでも事実があるかどうかさえ判らなくなる。あの日の午後、彼女がとつぜん、聞きもしないのに、「あたしはいままで誰のことも、どんなものも、あなたを愛しているようには愛さなかった」と言ったとき、ぼくは完全にそれを信じた。食べかけのサンドイッチを手に椅子に坐っているそのときの彼女は、その五分まえに固い床板の上にいたときとおなじくらい完全に自我を抛棄していた。ぼくたちの大部分はこれほど無条件なものの言いかたをためらう。ぼくたちは過去を思い、未来を思い、そして疑う。彼女は疑うことがなかった。現在の瞬間だけが問題だった。永遠とは時間の延長ではなく時間の不在だというが、ぼくにはときどき彼女の自己抛棄が、無限というこの不思議な数学的な一点、幅もなく面積もないこの一点に接しているような気がする。時間などが一体何であろう――過去のすべても、彼女が時々(また時という言葉がでてくる)知ったであろうほかの男たちも、あるいはすべての未来も、これから彼女がおなじ気持を、おなじ真実をこめて何回言うとしても、それがいったい何であろう。彼女にむかって、ぼくも君とおなじくらい愛していると答えたとき、ぼくの言葉は嘘だったけれども、彼女のはちがう。ぼくは時間の意識からはなれることができないのだ。ぼくにとって、現在はけっしていまここにはない。それはいつも去年の、あるいは来週のことだ。》

『情事の終り』はグリーンにとってはじめての一人称の技法で、伝記的事実がこの小説に類似し、献辞の「C」がその女性キャサリンの頭文字だからといって、ここに日本文学の私小説的なものを読みとりたがるのは馬鹿げている。

 ここにあるのは、「現在の瞬間だけが問題」なセアラと、「現在はけっしていまここにはない。それはいつも去年の、あるいは来週のことだ」というベンドリクスという、時間に対する女と男の代表である。女は現在だけを生きる。現在のなかにいる魂にとって、記憶の過去、期待の未来という時間は存在しない。一方、男は現在のなかに魂がない。

 

《人間と人間との関係のなかで、憎むという大げさな言葉を使ってもいいとすれば、ぼくはヘンリを憎んでいた。彼の妻セアラをやはりぼくは憎んでいた。それに、あの晩のことがあってからは、ヘンリもぼくを憎んだにちがいない。彼だってときには自分の妻を憎んだり、もうひとつの存在を憎んだりすることもあったはずだ――あのころぼくたちは幸いにして、まだその存在を信じていなかったけれども。だからこれは愛の物語りというより憎しみの記録なのだ。》

 この瞬間の「ぼく」は一九四六年一月の再会時の「ぼく」なのか、それとも二月に日記でセアラの真実を知ったときの「ぼく」なのか、はたまた物語りがすっかり終って、職業作家として表現している三年後の(第一部II章に、ヘンリと出会った雨の夜からの七日目か二十一日目かについて、「三年後の今になって、ぼくにはあいまいな記憶がのこっている」とあるから、一九四九年に執筆している)「ぼく」なのか。グリーンはあえて二つの記憶の過去と現在の時間を錯綜させて書いているきらいがある。情事の記憶は、振り子のように過去と現実を往き来するからだ。

 愛は物語りで、憎しみは記録というのはどういうことか。物語りは主観的で、記録は客観的だから、この憎しみは客観的な第三者の眼差しの下にあるとでも言いたいのか、そして第三者とは誰なのか。

「愛と憎しみ(love and hate)」という言葉が繰りかえされるが、愛と憎しみが表裏一体であることをグリーンは生涯、書き続けたといえよう。

 

《できることならぼくは、あの過ぎさった時間をそっとしておきたかった。こうして一九三九年のことを書いていると、自分のあらゆる憎しみがよみがえってくるような気がする。憎しみは愛とおなじ血管を通って作用するらしい。そして、結果としても同じ行動をおこさせるのだ。ぼくたちがもしキリスト受難の物語りの解釈を教えこまれていないとすれば、ペテロやユダの行動だけから判断することができるだろうか――嫉妬ぶかいユダと臆病なペテロと、どちらがほんとうにキリストを愛していたか?》

 愛は過去になることによって、つまりは記憶の心象になることによって、憎しみへと変身しうる。そもそも愛と憎しみが表裏であることは、ユダとペテロを見ていてもわかることではないか。彼らがのちの受難の物語り化、解釈によって決定されてしまった役割であるように、男も女も、物語りの解釈を纏いたがる。

 情事の記憶は、泥炭のように過去という記憶の意識下でちろちろと蒼白く燃えくすぶっていて、希望の酸素に触れるや、未来に向かって再燃する。

 

《ぼくが眠れないままに横たわって、つぎつぎに記憶をたぐりよせていると、記憶のひとつひとつが憎しみと欲望の棘でぼくを傷つける。寄木細工の床に投げだされた彼女の髪、そして階段の軋り。ある日郊外で道路からは見えない溝のなかにぼくたちが横たわったとき、固い地面に乱れかかる彼女の髪をすかしてかがやいていた霜。決定的な瞬間にすぐ横をトラクターが通って行ったが運転手はふりむきもしなかった。憎しみはなぜ欲望を殺さないのだろう。》

 成就しなかった情事は、過去へと追いやられたとき、オセロ・ゲームのように感情の盤面を白から黒に劇的に裏返し、愛は憎しみに変わってしまう。憎しみは欲望を殺さないどころか、むしろかきたてる。愛と情事との違いは、憎しみが欲望をかきたてるか否かかもしれず、憎しみが欲望をかきたてるのが情事、かきたてないのが愛という定義すら可能であり、それは固い地面の上の女の方が、柔らかいベッドの上の女よりも欲望をかきたてるのに似ている。

 憎しみと愛は絡みあい、終りがどこにあるのかわからないという無間地獄に二人を追いやる。

「ある日郊外で道路からは見えない溝のなかにぼくたちが横たわったとき、固い地面に乱れかかる彼女の髪をすかしてかがやいていた霜。決定的な瞬間にすぐ横をトラクターが通って行ったが運転手はふりむきもしなかった」にみる映画のようなカメラワーク、スピード感を持って走り去る照明、描写の動的視覚性はグリーンの真骨頂だ。

 

《最初にぼくは一九四四年六月の、すべてが終ったあの日を見たいと思った。あのことの理由がわかったら、次にたくさんのほかの日を見たいと思った。あのことの理由がわかったら、次にたくさんのほかの日付をぼく自身の日記と照合すれば、彼女の愛がどうして衰えて行ったかを正確につかむことができるだろう。ぼくは、この日記をひとつの事件――パーキス向きの事件の資料として扱いたかったのだが、それだけの冷静さがもてなかった。というのは、日記をひらいたとき、そこに書かれていたのはぼくが予想したことではなかった。憎悪と疑いと嫉妬とに長くひきまわされていたぼくは彼女の言葉をまるで見知らぬ他人からの愛の告白のように読んだ。彼女に不利なたくさんの証拠をぼくは予想していた――かつてぼくは何度も彼女の嘘を摘発したではないか――そして、彼女が言ったことは信じなくても、書いたことならぼくには信じられるのだし、ここには完全な回答がある。ぼくはまずその最後の数頁を読み、全体を読んだあとで、確かめるためにもう一度そこを読んだ。自分が愛されていたことを発見し、それを信じるというのは不思議なものだ。親か、それと神以外には、ぼくたちの愛の対象がないことはわかりきっているのに。》

 物語りは過去から未来に向かうが、記録は過去から現在を照射し、未来を暗示する。書き残されたセアラの日記のなかに真実があるなどという保証はない。「すべてが終ったあの日」など見ることができようか。それは彼女の記録ではなく、彼女の物語りなのだから。日記は現在を書いているようで、一瞬ごとに過ぎ去った過去を書いている。正確な記録ではなく、そこに物語りが入りこむ。「親か、それと神以外には、ぼくたちの愛の対象がないことはわかりきっているのに」の、なんとアイロニカルなことか。

 パーキスという探偵がコミカルに描かれているように、そう多い登場人物ではないが、さまざまな階層の人々(高級官吏とその妻、訳知り顔の探偵事務所長、人の好い探偵とその子供、連れ込みホテルの女支配人、レストランの給仕、ヘンリの上役、防衛団長、狂信的な反キリスト主義者とその姉、文芸評論家と弟子の女性、ずっと不在だったセアラの母、無愛想な神父)が自然に出入りする社会小説であって、ロンドンの地理案内、社会風俗描写ともなっている。

 

《「そのほかに何か、うかがっておいて役立ちそうなことがございますか?」とサヴィジ氏が言ったのをぼくは覚えている。小説家とおなじように探偵にとっても、ただしい手がかりをみつけるまえにたくさんの些細な材料をあつめることが大切なのだろう。しかし、ただしい手がかりにたどりつくこと――ほんとうの主題をつかみ出すことは何という困難な作業だろうか。外的な世界の厖大な圧力が身動きもできないほどぼくたちのうえにのしかかっている。こうして自分自身の物語りを書いていても問題の性質にかわりはないし、困難はむしろいっそう大きい――さまざまな事実を頭のなかでつくりあげる必要はないかわりに、事実があまりにも多すぎるのだ。》

 現在という時間に生きる私たちはあまりに多くの事実に囲まれていて、情事のなかの男女にとってもそれは同じはずで、情事が記憶のなかの過去となったとき、どうでもよい細かい記号だけが篩にかけられたかのように残るのか、それともはじめから見たくないものは存在しなかったのか。

《ぼくは細かいことだけはよく憶えている。女支配人がぼくにお泊りですかと訊ねたこと、短い休息はその部屋だと十五シリングだったこと、電気メーターの穴にはシリング貨しか入らないのにぼくたちはどちらも一枚も持っていなかったこと。しかし、それ以外のことはなにひとつ記憶にない――はじめセアラがどんな表情をしたか、ぼくたちがなにをしたか。ただ、ふたりとも神経がたかぶって、不手際な恋をしたことはたしかだが、そんなことはどうだっていい。ぼくたちの恋ははじまったのだし、それだけが大切なことだ。ぼくたちの前途には全人生が横たわっていた。》

 始まりという記念すべき時には、恋に盲目ゆえに、かえって細かいことだけしか記憶に残らないということはよくあることで、過去は細部に宿る、ということになる。恋に盲目というのは、相手に対してだけではなく、全世界の存在に対してである。

「前途には全人生が横たわっていた」という未来は、オフェーリアのように水に流されてゆくだろう。

 シリング貨という小道具が効果的に使われていて、しかも反復されることで、ペーソスとグリーン的みじめさ(pity)を喚起する。

《復讐だの嫉妬だのと、ぼくはただ芝居を演じているにすぎない。それで気をまぎらせて、彼女の死という絶対の事実を忘れたいのだ。一週間まえなら彼女にむかって、「ぼくたちが逢った最初のとき、電気メーターに入れる一シリングがなかったのを覚えてるかい?」と言えば、それでもうぼくたちふたりの前で舞台がひらく。いまではそれがぼくひとりの舞台になった。彼女はぼくたちの思い出すべてを永久に失ったのだし、死によって彼女はぼく自身の一部をぼくから奪い去ったにひとしい。ぼくはぼくの個性を失いつつある。これはぼく自身の死の第一段階なのだ。記憶がまるで壊疽にかかった手足のように、ひとつずつ切りおとされてゆく。》

 記憶を抹殺するのは、死なのだ。しかし、死んだ者から記憶が失われたということであって、残された者から消え去ってしまうわけではないのは、プルースト失われた時を求めて』で話者が祖母を思いだす場面を思い浮かべるがよい。グリーンとプルーストなど遠い関係と思われるかもしれないが、時間をとおして近親関係となる。

 現実の喪は、愛する人の存在が停止したことを示すが、情事の終りの喪は、対象そのものは死なず、情事のイメージの死を知らせるだけで、存在は停止しないために、過去の記憶の墓場から何度でも甦る。

 

《あのころはどちらが欲望をおこしたかなどということは問題にならなかった。ぼくたちはともに欲望のなかにあった。ヘンリは緑のガウンを着て二つの枕のあいだで半身をおこし、自分の食事をしている。その下の部屋の固い床板のうえで、ただ一つのクッションを敷きドアに鍵もかけずに、ぼくたちは恋をした。時がきたとき、ぼくは手でそっと彼女の口をふさいで、あの不思議な悲しみと怒りをこめた抛棄の叫びを押しころさねばならなかった。頭のうえでヘンリが聞きつけるかもしれなかった。》

「時がきたとき(When the moment came)」こそ、現在の瞬間であって、小さな死とも言われる。セアラの自己抛棄という小さな死は、現在に身も心を投じているから可能なのだ。

 情事のなかにある二人の欲望は、プラトン『饗宴』のなかのアンドロギュノスのように一体化し、どちらのものともわからなくなっているのは、その瞬間に二人の思考の時間が停止して、永遠の感覚の現在となっているからに違いない。

 

《二十年以上のあいだ、ぼくは大体、一日に五百語、一週五日を平均にしてきた。それで一年に小説が一つ書けるし、原稿を直したりタイプ原稿に手を入れたりするゆとりもある。(中略)ぼくが自分に課したこの規律をこわすにはセアラを必要とした。戦争初期の昼間爆撃から一九四四年のV1号までのあいだ、爆弾を落とすにはいつも夜が好都合だったらしいが、セアラにぼくが会えるのは午前中だけのことが多い。午後になると彼女の友だちが買物を終えて、日暮れの警報までおしゃべりをしにやってくる怖れがあった。ときには彼女は買物の行列のあいまにぼくのところへ寄る。そして、ぼくたちは、八百屋と肉屋とのあいまに恋をすることになった。》

 小説創作の流儀、方法を明かす小説内小説の手法で、空爆下のロンドンの風俗を、現実の背後にある市民社会の堅固さと危機と、しかし平時と変わることなき時間の流れを、淡々と描写しているのは、主人公にして作家のベンドリクスでもある。

情事の最中の二人にとっては、一日の午前中でも、午後でも、八百屋と肉屋との「あいま」でも、現在という時間しか存在しない。「あいま」という時間の長さが、共通の密かな空間のように情事を封鎖する。

 

《「セアラはどうしてる?」訊ねなければ不自然にみえるからぼくは訊ねたけれども、もし彼女が病気で、不幸で、死にかけているとでも聞けば、ぼくにとってそんなうれしいことはなかっただろう。そのころぼくは考えていた――彼女がなにか苦しみを背負えば、その分だけ自分は楽になるだろうし、彼女が死ねばぼくは解放される。ぼくのようなみっともない立場におかれた人間が想像しないではいられないあらゆることを、ぼくはもう想像しなくなるだろう。》

 人はかように、無責任な未来を期待することさえある。予兆が現実になったときには耐えがたいものになると、知っていても、知らなくても。セアラが死ねば解放されるなどということは、キリストの死によっていっそうに解放されなかったように、ありえないのに。愛したものには、過去の刻印を、現在、未来から消し去ることはできないという意味で、魂は未来から現在、過去へ流れ去るのではなく、過去から現在、未来に逆流する。

 

《ヘンリはいかにも心配そうにつけ加えた。「ずぶぬれじゃないか、セアラ。そんなことをしてると君は風邪で死ぬよ」

 こんな諺めいたきまり文句が、なにげない会話のなかでときには運命の響きを伝えることもあろう。しかし、彼の言葉が的中することをそのときすでに知っていたとしても、ぼくたちの苛立ちと不信と憎しみとの壁をやぶって、ほんとうに彼女のことを気づかう気持が湧いてきたかどうか、疑わしかったとぼくは思う。》

 予言的な力。未来はいつか現在になる。ある意味で自嘲的、アイロニカルな自己評価はイギリス文学の特徴でもある。哀愁と滑稽は自分にも向かう。

 セアラの死は、自ら望んだ死、ゆるやかな自殺とも考えうるのだが、多くの評論はそのことに触れない。姦通の女主人公の死から、キリスト教的な解釈を読みとるか否かは別にして、日本における姦通の女主人公は近世江戸文学では道行となり、近代文学では花柳小説の相手でしかなく、姦通の枠を外しても女主人公たち(夏目漱石『それから』、有島武郎或る女』、泉鏡花婦系図』、林芙美子浮雲』、大岡昇平『黒髪』、村上春樹ノルウェイの森』など)の死(もしく死への近づき)は宗教的なものからは遠く、むしろ『源氏物語』の浮舟の入水や、源氏亜流物といった中古平安文学まで遡るとき、共通の感情が支配的となる。

 

《私はときどき、愛している、いつまでも愛していると彼に納得させるのに疲れてしまう。まるで検察官のように彼は私の言葉にとびかかって、それをねじまげる。私たちの愛がもし終れば、そのとき彼のまわりにひろがる砂漠のことを彼が怖れているのはよくわかるけれども、私だってまったくおなじ気持なのに、それを彼は理解しない。彼が口に出して言うことを、私は黙って心で思ったり、ここに書いたりしている。砂漠にいったい何が建てられるかしら? ときどき、何度も恋をした一日がおわったあとで、私は考えてしまう。性の終りに行きつくことがあるものかしら、と。彼もやはりおなじことを考え、砂漠がはじまるその一点をおそれている――私にはそれがわかる。もしおたがいを失ったら、砂漠のなかで私たちはどうすればいいのかしら? それからはどうして生きて行けばいいのかしら?》

 セアラの日記から。追う女と追われる男、といういつものグリーンの構造と逆になっている。追うベンドリクスと追われるセアラ。グリーンの小説においては、男が追われるきっかけは裏切りなのだが、ここでセアラがベンドリクスに追われる理由は情事ゆえであるが、セアラの内面には、神を裏切ることになる、神は見ている、神に追われている、という葛藤と強迫観念があった。

 セアラには、母と父の問題もあったと最終第五章でわかる(最終章は、付け足しのように思えるかもしれないが、ここにこそ市民小説、中産階級小説としてのイギリス文学の伝統がある)のだが、グリーンの伝記的事実と類縁性があったと知っていても知らなくても、小説に重層性と拡がりを与えていることだけは確かだ。

 情事には、体系としての孤独な宿命がある。「始めと終り」があるのではないかという思いは、「終りのあと」の砂漠に恐怖を抱かせるが、しかし「終りのなさ」によって苦しめることにもなる。いったい「終り」はあるのか、ないのか、「終り」を望んでいるのか、望んでいないのか。「終り」のあとには何かあるのか、何もないのか。

 

 <反復・持続・永遠>

 

「わたしたちは魂によって時間を測る」(『告白』第十一巻、第二十八章)

《しかしどうしてまだ存在しない未来のものが減じたり、なくなったりするのであるか。またどうしてすでに存在しない過去のものが増すのであるか。それはこのようなことをなす魂のうちに三つのものが存在するからではなかろうか。すなわち、魂は期待し、知覚し、記憶する。そして魂が期待するものは、知覚するものを経て記憶するものに移ってゆくのである。それゆえ、だれが未来のまだ存在しないことを否定するであろうか。しかしそれにもかかわらず、未来のものの期待はすでに魂のうちに存在するのである。また、だれが過去のすでに存在しないことを否定するであろうか。しかしそれにもかかわらず、過去のものの記憶はなお魂のうちに存在するのである。また、誰が現在という時間が一瞬のうちに過ぎ去るのであるからそれが長さを持たないということを否定するであろうか。しかしそれにもかかわらず、知覚は持続し、それを経て将来存在するものがもはや存在しないものとなるのである。》

《わたしはいま、自分の知っているある歌を誦してみようと思う。私が誦し始めるまえ、わたしの期待はその全体にわたっているが、わたしが誦し始めるとき、その期待のうちからとって過去のものとなしたかぎりのものはわたしの記憶にひろがっている。このわたしの活動の作用は、わたしが誦したものについての記憶とわたしが誦するであろうところの期待との両方にむかっているが、しかしわたしの記憶は現存して、それを経て、未来であったものは過去のものとなるように、引き渡されるのである。》

 

《メイドン・レインを歩いて行く途中の左側にある建物の入口と格子蓋のまえを、ぼくたちはひとことも言わずに通りすぎた。はじめて彼女と一緒に食事してヘンリの日常のことをいろいろ訊ね、ぼくの関心のおかげで彼女の心がほぐれた帰りみち、地下鉄にむかう途中で、ぼくはこの場所で彼女にかなり無器用にキスをした。なぜそんなことをしたかよくわからないが、鏡にうつったあの彼女の姿がぼくの頭にあったのかもしれない。彼女と恋をするつもりはなかったのだし、別の日にまた彼女を呼びだそうというはっきりした意図さえなかった。近づけそうだという予感がぼくを刺激するには、彼女はあまりにも美しかったのだから。》

「ひとことも言わずに」通りすぎた時間は、一九四六年一月の一年半ぶりの再会の一週間後、レストラン・ルールへ向かう場面だが、「はじめて彼女と一緒に食事して」というのは、一九三九年初夏の記憶のことだ。

 二人にとっては格子蓋が重要な場所となるが、ここには一度目と三度目とがある。これから引用する文章は、「格子蓋」で繰りかえされるキスの場面で、繰りかえし、反復は、リズムを持って、男女を情事に落下せしめる合図となる。

フランケンシュタイン』の作者メアリー・シェリーが一八三一年版の序文に書き加えた「『ドン・キホーテ』のなかのサンチョ・パンサのことばを借りるならば、何ごとにも始まりというものがなくてはならず、その始まりはそれに先立つものと結びついていなくてはならない」が正しいならば、「はじめて彼女と一緒に食事して」のときには「彼女と恋をするつもりはなかった」と書いていても(なにしろ、そう書いているのは小説家としてなのであるから)、すでに意識下で「それに先立つものと結びついて」いたはずで、となると、「それが始まった瞬間をぼくは正確に覚えている」というのも怪しいこととなる。

《言い寄るとか口説くとかいうことはまるでなかった。ぼくたちはいいステーキを半分皿にのこし、クラレットの壜を三分の一のこして、おなじ意図をいだいてメイドン・レインに出た。正確にまえとおなじ場所、入口と格子蓋のところで、ぼくたちはキスをした。ぼくは言った。「愛している」

「あたしも」

「家へは帰れない」

「ええ」》

 一九三九年の初めてのぎこちないキスの一週間後のことだから、二度目の格子蓋の上でのキスとなる。恋に落ち、魂を奪われるとき、「おなじ意図」をいだいて、「おなじ場所」で、離れた時間がひとつの時間に重なる。

《ぼくは彼女に近づいて行った。靴の底に格子蓋の感触があった。「セアラ」と私は言った。彼女ははげしく顔をそむけたが、あれは誰かが来はしないか、その時間があるかどうかを確かめようとしたのだろうか……しかし彼女が向きなおったとき、咳がふたたび彼女をおそった。彼女は入口で体を二つに折って、咳に咳をつづけた。彼女の眼はそのために赤くなった。毛皮の外套を着て、彼女はまるで追いつめられた小動物のように見えた。》

 靴の底の格子蓋の感触は、あたかも『失われた時を求めて』における、ヴェネチアサン・マルコ寺院の不揃いな敷石の感覚のようにキスを回想させるのだが、これは無意志的回想というよりは意志的回想で、それを期待している。

 ルールへ向かうところでは、「ひとことも言わずに」通りすぎたのだが、食事のあとの格子蓋は、三度繰り返すどころか、四度目であり、情事では反復が催眠術のように効果的だ。

 セアラの日記によれば、

《私たちはルールで食事をし、私はただ彼といっしょにいることで幸福だった。ちょっとだけ不幸だったのは、あの格子蓋のうえでさよならを言ったとき、こんども私にキスするだろうと思って、私は待ちのぞんでいたのに、ちょうど咳の発作がおこって機会は過ぎてしまった。歩き去りながら彼はいろいろありもしないことを考え、そのために傷ついていたにちがいないし、彼が傷ついたことで私も傷ついていた。》

 ベンドリクスによる「彼女ははげしく顔をそむけたが、あれは誰かが来はしないか、その時間があるかどうかを確かめようとしたのだろうか……」という推定と、セアラの「こんども私にキスするだろうと思って、私は待ちのぞんでいたのに」との相違に、男女の感情と思考のすれ違いを見てとれる。

 

《とつぜん、ほんの二分ばかりのあいだ、画面は思いがけない精彩を放った。ぼくは自分の書いた物語りであることを忘れ、このときばかりは自分の書いた対話であることも忘れて、安っぽいレストランの小場面にほんとうに心を動かされた。男がステーキと玉葱を注文すると、女は一瞬玉葱を食べるのをためらう。彼女の夫は玉葱の匂いが嫌いなのだ。男は傷つけられ、腹をたてる。彼はためらいの背後にあるものを見ぬいて、そこから、帰宅後に彼女を待っている避けられない抱擁のことを考えてしまう。この場面は見事だった。熱情の感覚を、ありふれた単純な挿話によって、言葉や行動のレトリックなしに伝達したいとぼくは考えていたが、それが成功したのだ、数秒間ぼくは幸福だった。ものを書くというのはこれだ。》

 ベンドリクスの小説を映画化したものを見ていて、これから引用する「玉葱」に関係した文章には小説内小説といった趣があるのだが、ここにも反復の、しかも日常的な材料を用いてのイギリス文学らしくひねった諧謔の表現がある。

《あとで――ぼくたちはルールの店にいて、ステーキがきたばかりだった――セアラは言った。「ひとつだけあなたのお書きになった場面があったわ」

「そう」

「玉葱のところね?」

「そう」そしてちょうどそのとき、玉葱の皿が食卓に置かれた。ぼくは彼女に言った――その晩彼女に欲望をもつなどとは、ぼくはまだ夢にも思わなかった――「ヘンリも玉葱はいやがるほう?」

「ええ。大嫌いなの。あなたはお好き?」

「好きだな」彼女はぼくの皿に玉葱をつけ、自分にもつけた。

 玉葱の皿の前で恋におちることは不可能だろうか? ありそうもないぼくは恋におちたのはその瞬間だったと断言できる。もちろん原因は玉葱ばかりではなかった。個性のあるひとりの女性、というあの突然の感覚。ぼくはテーブル掛けの下で手をのばし、彼女の膝においた。彼女の手がおりてきて、そこでぼくの手を握った。ぼくは言った。「いいステーキだな」――そして、彼女の返事をまるで詩のようにきいた。「こんなおいしいステーキははじめて」》

 さきほどの映画の状況が再現されているが、セアラは映画のなかの女とは反対の行動をとってみせる。

《ぼくたちの部屋の出口(三十分後にはそれはもう「ぼくたちの部屋」だった)で、ぼくがもう一度セアラにキスをして、これから君がヘンリのところへ帰ると思うとやり切れない、と言うと、彼女は、「大丈夫よ。あのひと未亡人のことで手が一杯だから」と言った。

「彼が君にキスをするだけでもいやだ」

「しないでしょう。玉葱の匂いがなにより嫌いですもの」》

 なんと魅力的な女性だろう。小説の魅力の半分は登場人物の魅力であるならば、ベンドリクスとヘンリはともかくとして、セアラは大役を果たしている。

「彼女はよく本当のことを言ってぼくをまごつかせた」にはシニカルなこのユーモアも数え上げることができるだろう。男は、わずか三十分前にはじめて愛しあったばかりだというのに、あらゆる競争相手の価値を低めようとしている、対人関係を禁じようとしている、耐えられずに。

《ぼくは暗号をひとつおぼえている――「玉葱」これはぼくたちの手紙のなかで、ひそかに熱情をあらわす言葉になっていた。愛は「玉葱」だったし、愛の行為そのものさえ「玉葱」だった。「もうわたくしはあなた以外のどんなひとも、どんなものも投げ棄てたい」――あなたと、そして玉葱――ぼくは憎しみをもって考えた。玉葱。ぼくのときは玉葱だった。》

 そうして、「玉葱」は情事の合言葉となった、『失われた時を求めて』のスワンとオデットとの「カトレア(をする)」のように。

 

《公園を彼女の家の側まで送って行った。ヘンリの書斎のドアの下からあかりが洩れていたが、ぼくたちは二階へあがった。居間で、ぼくたちは互いの胸に手をおいたまま、離れられなかった。「彼が上ってくるかもしれない」とぼくは言った。「不意に」

「足音が聞こえるでしょう」そして、彼女は、怖ろしい明快さをもってつけ加えた。「階段に一ヵ所いつも軋るところがあるの」》

「いつも」という言葉に傷つくベンドリクス。「いつも」に群がる、見えない無名の男たちへの嫉妬。しかし、セアラの夫ヘンリへの嫉妬は、国内安全省(Ministry of Home Security)を家内安全みたいだと笑いの種にさえする、戯画化された契約上の夫への見下しの感情である。

 キリスト教作家フランソワ・モーリヤックを愛読した遠藤周作は、同じくキリスト教作家であるグリーンについて『G・グリーンの魔』というエッセイで、「モーリヤックの場合と同じように一人の人間の心の奥の奥には何が隠れているのかわからない」と「その魔」について、意味深な指摘を残している。「この小説を読んだ時から私は気になることがひとつあった。それはグリーンの(もしくは主人公である作家の)女性の夫への見かたである。その男は小説では議員になっているが、いつも泣いたあとのように眼(め)のふちの赤い善良そのものの男である。主人公である作家はこの男の凡庸さや善良さに残酷なまでの軽蔑(けいべつ)心と嘲(あざけ)りとも持っている。それはフローベールが『ボヴァリー夫人』の夫である善良なシャルルを描いた筆遣い以上の冷酷な筆づかいだ。(中略)弱い者への憐憫はグリーンの世界の主人公たちの行動の動機になる重要な感情だ。にもかかわらず、さきほどの『情事の終り』には憐憫は出てこない。主人公の作家は自分がその妻を奪った善良な夫にたいし、うしろめたさも恥ずかしさも感じないで、逆に彼と親しげに握手し、友好的な会話をかわし、そのくせ内心では残酷な快感と嘲笑(ちょうしょう)しか持っていない。」

 

《セアラに会えるかもしれないと希望を抱いてぼくは地下鉄にのり、部屋に帰れば椅子に坐って、いまにも電話が鳴るかと死ぬほど待ちこがれながら、会える望みがまた消えて行くのを見た。今日は駄目かもしれない。五時にぼくはダイヤルであの番号を廻したが、呼び出しの音がきこえるとすぐに受話器をおろした。ヘンリが早めに帰っているかもしれないし、いまぼくはヘンリと話したくない。セアラがぼくを愛し、セアラが彼とわかれたがっているのだから、いまはぼくが勝利者なのだ。しかし、時間のかかる勝利はときには引き延ばされた敗北とおなじくらい神経にこたえる。》

 未来という残酷な時間。未来への期待というのは魔法にかけられたような時間だ。勝利を確信して待つことが、なかなか勝利の瞬間が到来しないことによって苦痛になる。引き延ばされた敗北のほうがゆるやかな鎮静効果をもつのは、これもまた時間の長さは魂によって測られるからで、時間の長さに関する人間らしい要素はそれによって生じる。

 このあたりもまた『失われた時を求めて』のスワンとオデット、話者とアルベルチーヌの恋と重なりあうが、ならば、この時間感覚は情事の時間感覚ではなく恋愛の時間感覚ではないか、ということになりそうだが、むしろ『失われた時を求めて』のなかの恋愛が、終りを意識しつづける情事に近いのではないだろうか。

 

《「私もそう」彼女の声はひどく低かったから、もしはじめてだったらこの文句はぼくに聞きとれなかったかもしれない。しかしこれは、パディントンのホテルでの最初の逢いびき以来、ぼくたちの結びつきのなかで絶えず主旋律のように鳴りひびいてきた言葉だ。孤独のとき、悲しみのとき、失望のとき、よろこびのとき、そして絶望のとき、「私もそう」はあらゆることをわかち合う意思表示だった。》

 恋愛の言葉の喪失。「私もそう」という不完全な文章がもつ魔力が、ある種の憐れみの感覚とともにある。

 ところで、「私もそう」と言うセアラには夫ヘンリに対する姦淫の罪の意識がない。セアラの罪の意識は、ステレオタイプなまでに善良な結婚相手(セアラの死後のことだが、結婚という契約の神の前での有効、無効についても、葬儀の在り方と対比する形で、それとなく言及されている)の夫を哀しくさせることになる、という憐れみの感覚、申しわけなさにすぎない。罪の意識のなさは姦通小説の代表作、『ボヴァリー夫人』のエンマでもそうなのだが(エンマが自死したのは姦淫の罪のゆえではなく、借金が原因だ)、『情事の終り』が姦通小説と言われないのは、シャルルに比べてヘンリがいわゆる大人だからなのか、セアラが姦通にスリルを求めず、嫉妬せず、夫も大事だと思っているからなのか、神が登場するからか。ただ、エンマと違ってセアラにあきらかなのは、自分の欲望を、他人や本から借りてくることなく、自分自身の心の奥底から引き出していることだ。

 

この曖昧な数日あるいは数週間のあいだ、ぼくはしきりにセアラの夢を見た。ときには苦しい気持、ときには楽しい気持になって目がさめてしまう。昼のあいだずっとひとりの女のことで頭がいっぱいになっているのに、夜になってまでその夢をみなければならないのだろうか。ぼくは本を一冊書こうとしていたが、どうしてもうまくいかない。毎日五百字ずつは書いても、登場人物がちっとも生きてこなかったのだ。ものを書く仕事は、日々の生活の表面的な部分に大きく左右される。買物をしたり納税申告を書いたり誰かと話したり、そんなことに専念しているときも潜在意識の流れは相変らず動きつづけ、問題を解決し、さきの計画をたてているのだ。不毛の状態で意気阻喪して机についていても、とつぜん、降って湧いたように言葉が出てくる。》

 忘れるという不覚を怖れているのか。持続することは苦痛にもなりえるというのに。

作家は無意識のなかでいつも書いている。その無意識のなかに罪と救いの母胎がある。情事のさなか、恋する人は無意識のなかでいつも恋をしていて、その無意識のなかにも罪と救いの母胎がある。

 三島由紀夫は、デボラ・カー主演の映画『情事の終り』(1955年)に対して、「試写のかへりにも話し合つたが、神の在る国は、芝居を作るのに便利だと思ふ。神が介在するので、三角関係が、同時に四角関係になるのである。」と書いているが、それは三島が好んだラシーヌ劇や頓挫した歌舞伎劇を念頭においての、神なき国における劇作の困難さへの歎きだったに違いない。

 

《ときにはぼくは思った――永遠というものはやはり存在するのではないだろうか――死の瞬間の無限の持続というかたちで。そうだとすれば、それこそは当時のぼくにとって願ってもいない瞬間だったのだし、現在でも、彼女が生きていれば、それはやはりぼくにとって最上の瞬間だろう。完全な信頼と完全な歓びの瞬間。考えることが不可能だから言い争いもできなくなる瞬間。》

 永遠とは、現在の瞬間の持続であり、セアラの現在とは、禁じられている自死を願う小さな死の瞬間だった。死の瞬間の無限の持続という永遠の時に、ベンドリクスも彼女との恋のなかで没入したいと願う記念碑的な時間。

 登場人物たちの二重人格性。自分のなかにいる二つの存在が、情事においても、神との関係においても、友情においてもつきまとい、死を願うかと思えば、生きていればとも思う、きれいはきたない、きたないはきれいの、グリーン文学のライト・モティーフである。

 

《はじめに、ぼくはこれが憎しみの記録だと書いておいたが、夕方のビールをもとめて公園をヘンリとならんで歩きながら、冬の情緒にふさわしいひとつの祈りがぼくの頭にうかんだ――おお、神よ、あなたはすでに十分にやりとげたのです、ぼくから十分に奪ったのです、ぼくは年をとって疲れてしまった、もうこれから愛を身につけることはできない、永久にぼくを放っておいてください。》

 聖書の一節をあからさまに引用することはなかったが、最後の最後に、憎しみと復讐によって、神から奪うはずだったベンドリクスの頭に、「おお、神よ、あなたはすでに十分にやりとげたのです、ぼくから十分に奪ったのです、ぼくは年をとって疲れてしまった、もうこれから愛を身につけることはできない、永久にぼくを放っておいてください」という祈りが、「夕方のビールをもとめて公園をヘンリとならんで歩きながら、冬の情緒にふさわしい」という、成熟してはいるが不可解ともいえる人間関係と、時間の流れの無常観とともにうかんでくる。

 他者による記録なら終ることができた。小説は終ることができない。自分自身の恋愛物語を終りまで構成できない、完結もできない。物語る時間と物語られる時間の蝮(まむし)のような絡みあい。情事は終りを意識し、終ることと終らないことを永久に欲望しつづける。

                                     (了)

           *****参考または引用文献*****

グレアム・グリーン『情事の終り』永川玲二訳(早川書房

グレアム・グリーン『情事の終り』田中西二郎訳(新潮文庫

グレアム・グリーン『情事の終り』上岡伸雄訳(新潮文庫

*Graham Greene “The End of the Affair”(PENGUIN BOOKS)

*『グレアム・グリーン全集1~25』(早川書房

アウグスティヌス『告白』服部英次郎訳(岩波文庫

フッサールイデーン―純粋現象学現象学的哲学のための諸構想 』渡辺二郎訳(みすず書房

ハイデガー存在と時間熊野純彦訳(岩波文庫

ポール・リクール『時間と物語』久米博訳(新曜社

*マイケル・シェルデン『グレアム・グリーン伝 内なる人間』山形和美訳(早川書房

*ウィリアム・キャッシュ『グレアム・グリーンと第三の女』山形和美訳(彩流社

*『遠藤周作文学全集13』(「G・グリーンの魔」所収)(新潮社)

*『決定版 三島由紀夫全集28』(「『情事の終り』10の指摘」所収」(新潮社)

*トニー・タナー『姦通の文学 契約と違犯ルソー・ゲーテフロベール高橋和久御輿哲也訳(朝日出版社

フローベールボヴァリー夫人生島遼一訳(新潮社)

プルースト失われた時を求めて』鈴木道彦訳(集英社

*メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』芹澤恵訳(新潮文庫

ロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』三好郁郎訳(みすず書房