文学批評 「吉田健一『英国の近代文学』からの賜物」

  「吉田健一『英国の近代文学』からの賜物」

   

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 吉田健一の「英国三部作」は順に、『英国の文学』『シェイクスピア』『英国の近代文学』からなるが、成立時期はそれぞれが複雑な時間を持つ。まだ商業的な成功を得ていなかったことから、どれも書き下ろし単行本ではなく、文芸誌、英語雑誌、演劇誌、同人誌などに書いた小品を編集したもので、さらには刊行時または刊行後の改編、改訂によって今日の構成となっている。

 まず『英国の文学』は雄鶏社版(1949年)のあと、10年以上経過してから全面的に書き改められて垂水書房版(1963年)となる。『シェイクスピア』は池田書店版(1952年)のあと、増補されて垂水書房版(1956年)となった。『英国の近代文学』は「英国三部作」の掉尾の位置づけを一応はもつが、雑誌掲載作品と書き下ろし作品によって先に世に出た『近代文学』(垂水書房(1957年))から、「ボオドレエル」「ヴァレリイ」「ラフォルグ」を抜くなどの改編を経て刊行された(垂水書房(1959年))。

 ドナルド・キーンの「吉田健一と英国」(『吉田健一集成 1』月報)によれば、《「英国の近代文学」を発表した後だったと思うが、「もう自分の書くべき本は全部書いてしまった」というようなことを私にもらしたことがある。その後、ますます人気が出て、文学賞を受賞したので、私はからかう調子で、「書くべき本はまだ沢山あったようですね」と言ったら吉田さんはきびしい顔で、「いや、あの時言った通りだった」と答えた。》 ところが、丸谷才一の書評『遅く生まれて来た十八世紀人 吉田健一『ヨオロツパの世紀末』(岩波文庫)』(朝日新聞、1970.11.16)によれば、《ほぼ十年前、『文学概論』が刊行されるとき、これでもう書きたいことはみな書いてしまった、あとはくりかえしである、と吉田健一は記したやうに思ふ。》とある。キーンと丸谷のどちらが正しいかを詮索しても仕方のないことだが、『文学概論』(垂水書房(1960年))の「後記」によれば、《この本を書いた目的は、文学に就て概括的に論じるといふやうな中途半端なことよりも、自分にとつて文学といふものが何であるかをはつきりさせることだつた。その結果から言つて、少くとも自分にとつては、今まで自分が文学に就て持つてゐた考へがはつきりしたものになつた。》であり、さらには、このようなものを書くことを勧めてくれたのは出版社であることからも、吉田の心情としては『英国の近代文学』に「全部書いてしまつた」のであって、『文学概論』はその自己確認だったのではないか。

 とにかく、吉田の前半期の到達点、円熟、「書くべき」ことが『英国の近代文学』にあることは間違いないだろう。そのうえで、後半期の『ヨオロツパの世紀末』や『時間』『変化』といった評論・エッセイや、『金沢』『東京の昔』といった小説においても、単なる「くりかえし」だったか、それとも意味ある「くりかえし」、変奏、変化だったかは、『英国の近代文学』を精読すれば見えてくる。

 読みはじめれば、一冊の本の中で、テーマが「批評(家)論」から「詩論」、「小説論」へと大きく推移していると気づく。さきに本書の由来を簡単に記したが、目次構成を詳しく追うことでその理由がわかる。

吉田健一集成 1』の「解題」によれば、「Ⅰ ワイルド」は「文学界」一九五七年二月号に「近代文学論」の題で掲載され、「創造の中のもう一つの創造、『批評』について」の副題がある。

「Ⅱ シモンズ、ヒュウム」、「Ⅲ エリオツト」、「Ⅳ リチャアヅ、エムプソン、リイヴィス」、「Ⅴ ストレエチェイ」の四編は書き下ろされたものと見られ、「近代文学論」(垂水書房、一九五七年十月三十日刊)の形で出版された。

そして、「Ⅵ イエイツ」、「Ⅶ エリオツト」は「聲」(中村光夫大岡昇平福田恆存吉田健一三島由紀夫吉川逸治神西清をメンバーとする「鉢の木会」による季刊文芸誌)に「英国の近代文学」の題で一九五八年秋(第一号)、一九五九年冬(第二号)に、「Ⅷ ホツプキンス」、「Ⅸ トオマス、ルイス」は「英文学風景」に「英国の近代文学」と末尾に記されて一九五八年冬(第一冊)、一九五九年春(第二冊)に、「Ⅹ ロレンス」、「Ⅺ ジョイス」は「聲」に「英国の近代文学」の題で一九五九年春(第三号)に、「Ⅻ ウォオ」は「英文学風景」に「英国の近代文学」と末尾に記されて一九五九年夏(第三冊)に掲載されている。

 つまり、「文学界」に「Ⅰ ワイルド」の「創造の中のもう一つの創造、『批評』について」を「近代文学論」の入口として書いた後で、「Ⅱ シモンズ、ヒュウム」、「Ⅲ エリオツト」、「Ⅳ リチャアヅ、エムプソン、リイヴィス」、「Ⅴ ストレエチェイ」を「批評論」の時代史として書き下ろしで加え、その後、「聲」と「英文学風景」という二つの場で、「詩論」そして「小説論」へとテーマを移しながら書きついでいったとわかる。

『英国の近代文学』を評して篠田一士が、《痛快このうえないエッセイだが、ぼく自身としては、吉田氏の言説のひとつひとつには必ずしも賛同の意を表してばかりもいられないのである。》と留保してから、《それよりも、ここには、たしかにある肉声で語られた現代イギリス文学論があり、しかもその肉声の背後に、ひとつの文学的人格が確乎として存在することを、ぼくは改めて繰りかえしておきたいのである。》と論じたように、あるいは丸谷才一が《ジョイスが否定され、ヴァージニア・ウルフが無視されても別に困らない。ヘンリー・ジェイムズがゐないとかオーデンが姿を見せないとか、その他いろいろ評価が違つても閉口しない。むしろなるほどさういう見方もあるかとおもしろがる。》と述べたように、吉田の肉声に耳を傾け、おもしろがり、吉田の言葉と認識と思考をなぞる悦びに代りうるものは、この世にそうは多くない。

 

<「Ⅰ ワイルド」>

『英国の近代文学』は次の文章ではじまる。

《英国では、近代はワイルドから始る。一つの時代がいつから始るか、又それ以上に誰からか決めることは簡単ではないとも考へられて、それ故に例へば、ルネツサンスと中世期の区別に就て幾らも説を立てることが出来るのである。併し一つの時代の特徴が一人の文学者の作品に最初にはつきり現れるといふことはあつて、殊に近代のやうな決定的な時代は、その特徴がどういふ人間の仕事に認められるかは憶測の域に止るものではない。世界文学の上では、近代はポオから始つて、ボオドレエルがこれを受け継ぎ、それがフランスの象徴主義に発展して、最後にヴァレリイが近代といふものにその定義を与へた。》

「英国では、近代はワイルドから始る」という吉田の断言は、いまでは有名になっているかもしれない。

 しかし、はじめに「近代」とはいったい何なのか、とりわけ、吉田が「近代」という言葉で指示した特徴とは何だったのかが気にならない、という読書はあり得ない。

 吉田はそれに応えるように、「近代」が、「時間(時代、年代記)」軸だけでなく、超時間的な「性格(様式的概念)」軸との二重螺旋で、撚るように語ってゆく。

《さうすると、先づ近代といふ一時代の性格を説明することから始めなければならない。そしてそれは混乱であると言へる。併しこの混乱は、凡てのものにその秩序を論理的に追求して発達して来たヨオロツパの文明が、それが遂に一つの秩序をなすに至るものであるかないかとは関係なしに追究を続けた為に陥つた混乱であつて、秩序を求める意志は初めから少しも変らず、たださうして開拓した個々の世界が各自の方向に従つて分離するばかりであることが解つたのであるから、その時に起つた状態は決定的なものだつた。それが解つたのが、近代だつた。》

《精妙な知識に裏付けられた無限の豊富といふことが、近代のもう一つの特徴である。》

《対象は無数にあつて、それぞれにその位置を占めさせる秩序がないとなれば、人間はその方向を定める手掛りを完全に取り上げられて、虚無の中に突き出されたのも同様の結果になるからである。併しこの時、人間の精神はどうなつたのだらうか。精神自体も、近代に至つて始めて精神の対象になつた。》

《不安や倦怠も、近代の特徴である。魂とか、心とかは、さういふことをもつと考慮に入れてゐる。》

「近代」をそのように語っておいて、話の水脈は文学の話へ流れこんでポオに戻るが、そこにあるのは学者風の文学史ではない。

《ポオに至つて始めてかういう特徴が文学に現れた。近代文学は彼からであつて、それが今から百数十年も前のことであるから、文学は多くの場合に時代に先駆するとも言へる。ポオがしたことは、文学を他のものの世界から切り離して文学の世界を独立させることだつた。例へば自然とか、科学とか、或は絵画、又は音楽の世界とは別箇の法則に従ふ言葉の世界を築くことだつたので、そしてそれは、言葉で世界を蔽ふといふことでもあつた。(中略)何れにしても、ポオは言葉で宇宙を説明しても、彼にとつては言葉でそれが出来るのは当然のことだつた。》

 そしてポオからペイタアを経て、ワイルドへ繋ぐ。

《英国では、ワイルドの前に近代文学の作品を書いたものは一人もゐない。(中略)それまでにラスキンの文体、或はカアライル、アァノルドなどの文体といふものはあつたが、自分の思想を意識的に言葉を用ゐて育てて行き(我々は観念ではなくて言葉で十四行詩を書き、又ものを考へるのである)、その思想を二つとない言葉で表す方法を身に付けることから生じた文体といふものは、ワイルド以前にはない。》

 ここから、ワイルドの「芸術家としての批評家」といふ対話を通しての「批評(家)論」という急所になるが、その通奏低音は「文学の仕事は言葉に始つて言葉で終るものである」という認識に他ならない。

《ワイルドは今日でもまだ寧ろ劇作家、又「ドリアン・グレイの肖像画」などを書いた小説家といふことで知られてゐる。併しワイルドに就て語るのに必要なのは「意向集」と題する論文集に収められた「芸術家としての批評家」といふ対話だけであつて、これがあれば彼が英国の近代文学の始祖であることを示すのに足りる。(中略)これは批評といふものの弁護、或は批評家といふものの立場に就ての一種の主張とも見られるが、批評と近代文学の結び付きは偶然のものではない。文学の問題を追及して行けば、そこには言葉があり、文学の仕事は言葉に始つて言葉で終るものであることが明かにされる他ない。》

 批評を「創造の中の創造」、「創造よりも創造的」であると言うワイルドの文章を吉田は引用してみせる。

《「芸術家としての批評家」で対話する人物の一人が、批評は本当に創造的な芸術なのだらうかと質問するのに対して、もう一人にかう答へさせてゐる。

 

 だつてさうぢやないか。先ず材料があつて、それに新しい、魅惑的な形式を与へる。詩に就てだつてそれ以上のことは言へないぢやないか。僕は寧ろ批評を、創造の中の創造と呼びたいんだ。と言ふのは、ホメロスアイスキュロスからシェイクスピア、キイツに至るまでの偉大な芸術家が直接に人生に材料を求めず、神話や伝説や昔話を種にして作品を書いたのと同様に、批評家も言はば他のものが彼の為に既に浄化して、想像力によつて色と形を与へた材料を扱つてゐる訳なのだ。僕は一歩進めて、最高の批評は個人的な印象の最も純粋な形なのだから、それは創造よりも創造的なのだと言ひたい。(後略)》

 吉田は、ワイルドの文章を十分に引用しながら説明してゆくが、「近代以後に文学の仕事をするものは批評家である」ということの背景に「近代の豊富と混乱」を見て、そこから「歴史の全量」、「近代文学と伝統の関係」という重要な視点を指摘する。

《つまり、文学といふのは、過去が我々に残した作品の凡てを含むものなので、これに親しんでそれに対する態度を決定する為にも、近代以後に文学の仕事をするものは批評家であることを強ひられる。ここにも、近代の無秩序を見るものがあるかも知れないが、作品はその一つ毎に文学といふものの姿を明確にするものである筈である以上、寧ろそこにあるものは近代の豊富である。(中略)文学の仕事をするものは文学のみならず、自分が生きてゐる時代に対しても自分の態度を決定する為に、先づその時代の性格を理解しなければならない。或は、仕事をする前にその仕事の性質と、自分が仕事をしてゐる時代を知る他なくするのが、近代といふ時代の性格なのである。近代の豊富と混乱といふことが、ここではその状態を見るに至つた歴史の全量といふことと一つになつてゐる。(中略)文学、或は寧ろ近代文学と伝統の関係を指摘して、それが不可分のものであることが近代文学の本質から来ることを我々に示した最初の作家はワイルドである。》

 そこには時空を越えた「近代」の定義としての「性格(様式的概念)」への言及、ヴァレリイを引き合いに出してのロオマとアレクサンドリア時代のギリシヤが挙がって来る。

《ワイルドが近代以前にも近代があることを知つてゐたことの方が、或は重要であるかも知れない。それは彼が近代といふものを本当に知つてゐた証拠になるからである。ここで我々は再びヴァレリイを引き合ひに出してもいい。ヴァレリイは近代と比較できる時代として、アントニウス系の皇帝達の治下にあつたロオマと、アレクサンドリア時代のギリシヤを挙げてゐる。我々が言ふ近代がヨオロツパ文明の一つの崩壊期であるならば、アントニウス系の皇帝達の治世も、アレクサンドリア時代も、ロオマとギリシヤといふ、やはりそれまでは一つの世界的な文明だつたものが爛熟した後に立ち至つた崩壊期であつて、なほその他に、近代以前の近代である状態がさう遠くない昔まで続いた日本や支那のことも我々は忘れてはならない。》

 吉田は、《文学の仕事は認識するといふことであり、認識することが存在することにならざるを得ない》として、ワイルドの後に来て、近代的な批評家の典型の一つに考えられているT・S・エリオットを対照とすることで、さらに論を進める。

《表現が認識の為であり、認識が存在の形式であることに掛けて、ヨオロツパの近代文学は東洋に接続してゐる。そしてこの考へを追つて行けば、ワイルドが言ふ通り、文学の目的は(或は、文学の目的も)、「なす」ことであるよりは「ある」こと、そして「ある」ことよりも「なる」ことにある他なくなる。(中略)例えば彼は、エリオツトよりも二十数年前に、批評するのには正確で該博な知識が必要であることを言つてゐる。一つの時代に属することを扱ふ場合、その時代に関する知識は勿論であるが、過去が近代では現在と同時に存在する状態にある以上、一つの時代に対してそれ以前のことも頭になければならず、どこまで前ですむといふこともない。「ハムレツト」に就て語るのに、原始時代に祭典が持つた意味を知つて置くのも無駄ではないのである。》

 吉田は、ワイルドの文章を引用して、核心を説明する。

《併しワイルドが、近代文学で批評家に出来る仕事の一つの型を最も見事な言葉で描いてゐるのは、次の一節である。

 

  勿論、批評家の創造的な作品は、彼を最初に創造的に駆つた作品に或る程度は似てゐるに違ひない。併しその類似は自然と、人体、或は風景を扱つた画家の作品との間に認められるやうなものよりも、寧ろ自然と装飾的な芸術家の作品の間に見出される種類のものに近いのだ。(中略)孔雀などゐないのに、ラヴェンナのその驚嘆すべき教会堂の蒼穹天井が孔雀の羽の金色と緑と紺碧に豪奢に彩られてゐるのと同様に、批評家は彼が批評してゐる作品を決して模倣的にではなく、却つて少しでも似てゐることを避ける所に魅力があると言へる風に再現し、さうすることによつて美といふものの意味だけでなく、その不可解さまでを我々に提示し、この方法で凡ての芸術を文学に変換して、芸術の統一といふ問題を一挙に解決してゐるのだ。》

 こうして吉田の思考は、晩年の仕事(『金沢』『時間』『変化』など)を予感させる展望と深み、形式に収斂してゆく。

《そしてここで気付くことは、批評家の仕事がさういう形式を取るものであるならば、仕事の発端は一つの作品でなくても、例えば光線の特殊な差し方や、一系列の思想や、人間が昔から住んでゐる一つの地域でも構わないといふことである。ヴァレリイはこのことに即して、地中海を批評した。》

 そこから、批評と詩の関係を論じて行くのだが、これほどにワイルドと同じように「批評」を顕彰した文章はそうはなく、『英国の近代文学』の全体像を示唆するものとなっているが、「近代」と「認識」から当然導き出されたものと言える。

《批評と詩は近代文学では殆ど混同される位に密接な関係に置かれてゐるが、批評では、散文を黙読することによつて始めて得られる言葉の微妙な効果が詩と同じく強烈に肉体的な印象を与へることがあるので、微妙であることに掛けて詩は批評に及ぶものではない。詩から受ける印象は、それを我々が更に批評する時に微妙になる。そして詩は、それが近代詩であつても、音読してその効果が生じるのが建前であつて、批評すれば微妙と認められるものも含む一切の手段を通して我々の精神に、直接に詩の姿を示すものでなければならない。一篇の詩とそれに対する批評が何れも文学作品として両立し、場合によつては批評の方が優れてゐることもあり得る理由がそこに見出される。》

 ついで、小説について論じられるのだが、それは小説の運命、凋落の予告となる。

《近代といふものの性格から言つて、認識の方も微妙にならざるを得ない。そして微妙に認識するといふのは、豊かに存在することなのである。ワイルドはその対話で、このことから小説の将来の問題にも次の一節で触れてゐる。

 これから小説で我々の興味を惹かうとするものは、何か全然新しい背景を考へ出すか、でなければ、人間の魂の最も内奥の部分の働きを我々に示す他ない。(中略)これはプルウストの仕事を予想してゐるだけでなくて、プルウストが現れた後の小説の運命も適切に言ひ当ててゐる。人間の魂の奥底を探ることは、人間が解体する一歩手前の所までプルウストがやり遂げた。(中略)従つてプルウストの後では、彼が行つた所まで人間を分析しなければ充分に分析したことにならず、それ以上のことをやれば小説ではなくなるといふ結果を生じた所に、彼の作品の特徴があるとも考へられる。》

 結論(のようなものがあるとすれば)にむかって、吉田は、近代から現代への文学の推移、近代の後に来た現代という時代はどのような性格のものかに触れる前に、ワイルドからもう一節だけと断って、対話からギリシヤ人の芸術に対する態度を論じたものを引用する。

《彼等は最高の芸術は、無限の変化に富んでゐる人間といふものをなるべく完全に映し出すものでなければならないといふ事実に基いて、単に文学の素材として見た言語の批評を発達させ、論理や感情の上で強調することを必要とする箇所を強く発音するといふやうな我々の語法では、到底及び難い所まで行つてゐた。(中略)印刷術が普及して、英国でも中層、下層階級のものが本を読むやうになつて以来、文学は益々眼に訴へ、耳に訴へるものではなくなつて来た。……所がギリシヤ人は、書くことを単に記録する為の方法と見做してゐた。彼等の場合は語られた言葉と、そこから生じる音楽とか、韻律とかの問題が常に文学の基準になつてゐた。肉声が表現の手段で、耳がそれを批評する器官だつた。》

 吉田はワイルドが語った「肉声」の重要性について強調する(深入りしないが、ジャック・デリダプラトンパイドロス』のエクリチュール論で、西洋思想における「ロゴス中心主義」「音声中心主義」、エクリチュールに対するパロールの優位性を論じたことに通じる問題意識である)。ここにあるのは、ある種のヒューマニズムと高度なヒューモアであって、吉田の文章を読む心地よさはそこから来ているのではないだろうか。

近代文学の作品の中でかういふことを語つたのはワイルド一人であり、そしてそれを彼に語らせたものは近代文学だつた。文学を追究して行けば、言葉に突き当り、その言葉が一つの抜け道を教へることもある。そして対象が言葉でなくて人間の場合は、その通りには行かなくて、近代は確かに人間の解体に向つた時代だつた。(中略)近代が一種の人間喪失の時代だつたならば、それは今度の戦争で終つて(これはそれまでの文化の破壊といふ面からも立証出来る筈である)、その後は如何に足を引き摺つてであつても、我々は現代といふ人間再建の時代に向ひつつあるのだと考へなければならない。それは、肉声で言葉を発する人間の時代である。(中略)彼は人間の肉声を忘れもしなければ、又、忘れようともしなかつた人間であつて、彼がその最も重要な批評を対話体で書いたことも注目に値する。そしてこのことに就て我々は彼のうちに、そこでもヴェレリイと同様に、一箇の古典学者を認めることが出来るが、彼が古典学者であることを止めなかつたのは、彼の場合は英国の文学の伝統というものを我々に思はせる。英国では、人間は自分を見失ふ前に自分の骨を、又その骨が何れは土になることを意識する。ワイルドの近代精神を支へてゐたものは、英国人の肉体だつた。》

 オスカー・ワイルドを通して「批評」について論じることで、「近代」とは、「近代文学」とは、「英国の近代文学」とは、を問いかけていて、これを語りたいがために『英国の近代文学』を書きはじめたのではないか。それほどにワイルドの批評へのオマージュに満ちていて、この先を読み進めればすぐに気づくのだが、一気の頂上のあとはだらだらとした下り坂が待っている。

 

<「Ⅱ シモンズ、ヒュウム」>

 吉田は、ワイルドの意味する近代文学の次には、アァサア・シモンズの「象徴主義文学運動」を挙げなければならないが、この作品もワイルドの「芸術家としての批評家」と同様に、英国では殆ど無視されて今日に至っていることは注目に価する、と睨んで次のような論旨を展開する。

 英国の文学では、十九世紀末の文学が、浪漫主義が取った最後の形と見られていて、ビアズレイの挿し絵が入った雑誌や、実際の作品よりも頽廃的な生活が代表的なものと考えられ、ワイルドやシモンズの批評もそのような時代相の一部として片付けられた。そこには英国特有の事情があることを認めて差し支えなく、英国では近代が崩壊であり、崩壊に処して自分の秩序を探す時代であることを英国人は理解する前に恐れ、先ず秩序を、対策を求めることから始めた。例えばエリオットは世界の背景に宗教を持ってきている、といった英国の近代文学の批評家の特徴を述べてから、シモンズ「象徴主義文学運動」の批評について、ワイルド論では語りたりなかった「批評論」を補填する。だから、ここではシモンズについて文学史的にどうこうよりも、シモンズを出汁に使っての吉田の「批評論」を読みとるべきだろう。

 シモンズの「象徴主義文学運動」が英国の近代文学の批評で必ず取り上げなければならないものになっているのは、それまで近代文学の主流をなしていたフランスの象徴派の詩を英国の文学の領域に加へたからである、という説明の後で、批評を「作品」と見なしうるかということが焦点となる。

《これが明かに一つの作品であつて、説明でも、解釈でも、主張でもないこと、或は、さういふ解釈や主張も単に一つの作品の実体を作り出すのに用ゐられてゐるに過ぎないことも、その後に書かれた多くの英国の批評と違つてゐる点では注目されていい。シモンズの次にはその種類の、或ることに就て自分の立場を明かにしたり、読者に教へたりするのが目的で書かれた幾つかの、厳密には作品と呼べるものかどうか解らない批評に就て語らなければならなくて、確かに英国の所謂、近代文学の批評は必ずしも近代文学の批評ではないもので始つてゐる。》

 そういった不甲斐なさのおかげで、立ち位置を「批評(家)論」から「詩論」、「小説論」へと移してゆかざるを得なくなるのだけれども、まだシモンズからはいろいろ導き出せて、例えば次の文章は、文学作品が作者と読者の両方からなるものであることを、フランスの批評家ロラン・バルトなどによる「テクスト論」を持ち出すことなく説明している。

《一般に文学作品といふものに就ては誤解されてゐることが一つあつて、それは例へばホメロスの「イリアス」ならば、「イリアス」といふ作品が我々とは無関係に常に存在してゐると考へることである。何某の不朽の名作といふ風な言ひ方が、一層その作品がどこかにいつまでも残つてゐるやうな印象を強めるのであるが、本当は、文学作品は物品ではないのであつて、我々の意識がそれに対して働かなくては存在しないのであり、それもただ意識を働かすだけでそれまでなかつたものが、急にそこにあることになるといふものではない。我々の精神のうちに作品が生きる時にその作品が存在するので、凡ての作品は作者と読者の合作であつて見れば、我々のうちに作品がその姿を現すこの作用が本を読むといふことであり、そしてそれが批評でもあつて、多くの批評が批評の体をなしてゐないのは、作品を自分の批評と離れて初めからそこにあるものと考へる手軽な態度が取られてゐることに原因してゐる。》

 こういった逸脱気味に感じられる箇所にこそ吉田の、「全部書いてしまった」という感慨の証拠があるので、そういった細部を読みこまずに吉田の作品を読む悦びも意味もない。次の文章も批評のあり方に関する普遍的な手引となっている。

《シモンズの「象徴主義文学運動」はさういふ近代文学の作品に就て英国人が書いた最初の近代文学の批評だつた。例へばシモンズがここでランボオに就て語る時、我々はシモンズの言葉よりも、ランボオの作品を読んでゐる気がする。そしてランボオの作品を読むといふことは、そこにある既にランボオのものでも、特定の誰のものでもない、人間一般の問題に出会ひ、ランボオが開拓したその幾つかの面に対して新たに眼を開かれることであり、シモンズがこれに与へた表現が更に別な面に、又その奥に我々の意識を引き入れる。(中略)この場合に行はれるのは、繰り返しではなくて更新であり、内容はその性質から言つて、別な表現を得る毎により精密に、従つて豊富になつて行く。(中略)シモンズはランボオの作品を分析してゐるのではなくて、作品に自分を、従つて人間を分析させてゐるのであり、言はばこの普遍に達するのでなければ、或る作品に就てその批評といふ別な作品を書くことは意味をなさない。》

 これこそまさに吉田の批評が目指した正統であって、『英国の近代文学』及び、その後の作品を象徴している。

 

 シモンズの次に現れたT・E・ヒュウムについては手厳しく、殆ど凡てが駄作である、と断罪している(十八世紀スコットランドの思想家で、イギリス経験主義を代表する「人間本性論」の著者デイヴィッド・ヒュウムと混同するなかれ)。批評家ではなく限界がはっきりしている思想家にすぎない、という結論だけを引用しておく。

《ここに、ヒュウムの批評の致命的な欠陥が見られる。(中略)このヒュウマニズムと浪漫主義を理由に、ルネツサンス以後のヨオロツパの文化を全面的に否定し、ミケランジェロの作品も、そこからやがてはグルウズのサロン風の絵が芽生える要素を含んでゐるから賛成しないと論じるに至つては、彼が批評を主張と混同してゐることが余りに明かになる。神と人間と物質の世界がそれぞれ違つてゐるといふのは、一つの事実を指摘したものである。併しこれを主張することに気を取られて、神の世界に属することを人間の世界に持ち込み、自分の態度を信じることから、その態度の適用を誤つた発言の性格も疑はなかつたことは、彼が理解することに凡てを賭けなければならない批評家であるよりは、限界がかなりはつきりしてゐる思想家だつたことを意味する。》

 

<「Ⅲ エリオツト」「Ⅳ リチャアヅ、エムプソン、リイヴィス」>

 詩人エリオットではなく、批評家エリオットを論じている。その「伝統と個人的な才能」で言っていることは、ワイルドの批評で説き尽くされているのと同じことを指しているが、あえて言えば、次のようになる。

《ワイルドの時代には秩序とか、伝統とかの観念が実際には既に崩れてゐても、まだそれまであつたものが大部分の批評家の間では通用してゐるといふ約束が残つてゐたのに対して、「伝統と個人的な才能」が書かれた一九一九年には、その前の年に第一次世界大戦が終り、秩序や伝統の観念のみならず、混乱は一切のものに及んでゐることが、英国でももう知らずにゐることが許されない事実になつてゐた。つまり、エリオツトの批評に就て認めなければならないのは、他の多くのものがこの機会に古い観念や形式の打破を主張して、これを作品を書く上で実行したと信じた時に、文学の伝統に古いも新しいもなくて、文学そのものが一つの伝統であり、過去の作品に新しい作品が加へられることでそれが豊かにされて行く事実に、エリオツトが正確な表現を与へたといふことである。》

 そこからは諧謔的な反論に満ちているのだが、十七世紀の形而上学派詩人達の位置を上げたのは彼の「形而上学派の詩人達」という論文によるところではあると少し持ち上げておいて、シェイクスピアに対する批評は無条件に認めない。

《彼の世界は宗教、そして又それが彼の場合はキリスト教に支へられたものであつて、文学はその宗教に支へられた人間の世界の一部をなすものに過ぎない。といふことは、彼が例へばハムレツトをただシェイクスピアの作品に出て来る一箇の人物として受け取ることが出来なくて、兔に角、ハムレツトが人間である以上、それもこの人物が人間的であればある程、これは宗教、といふのは、エリオツトにとつてはキリスト教に支へられた人間の世界に住む人間である筈だと考へることなのであり、彼がシェイクスピアの詩句にいかに惹かれても、この人間観をハムレツトに当て嵌めて見て不満に思ふことは免れない。何故なら、彼がヨオロツパ文学を結局はキリスト教の伝統の上に立つものと説いてゐるにも拘らず、ハムレツトはキリスト教的な人間ではないからである。》

 

 リチャアヅ、エムプソン、リイヴィスの三人の「ケンブリッジ」派の批評家達への攻撃も辛辣だ。おのおの「近代」に絡むところだけ紹介する。

 リチャアヅについては、主著「文芸批評の原理」にある彼の価値論を取り上げている。

《I・A・リチャアヅは批評も科学の一部門であるといふ立場から書いてゐる。或は少くとも、人間の精神も科学の対象になり得るものであり、文学は人間の精神の活動に属することであるから、人間の精神の構造が科学の方法で明かにされれば、文学の仕事とそれが読者に及ぼす作用に就ても、科学的に分解して見せることが出来ないものは何一つなくなるといふ考へに基いて文学を理論付けようと試みてゐる。》

 というところから始って、科学的に説明することの失敗に言及し、ついては科学の近代的な性格、および科学についての批評となる(枝葉的に思えるところが、実は枝葉ではなく土台の太い根っ子であるところが吉田の批評の真髄であって、「文明批評」とか「思想」と揶揄されもするが、一般に日本の文芸に不足している拡がり、深さに対する良い意味での形容として用いるべきだ)。

《彼がこれだけの労作を通して何一つ結論らしいものを引き出すことに成功してゐなくて、結論であつてもいいものに科学的な事実の裏付けを与へる努力をするのに止つてゐるのは、事実の方が不足してゐることによるのであつて、それは彼がさうして立証したい命題の凡てが間違つてゐるからでもなく、彼が科学的な事実を扱ふのに馴れてゐないからでもなくて、科学自体に丁度さういふ性質の事実が欠けてゐるのである。(中略)これは、科学の近代的な性格が近代に至つて漸くはつきりしたのだとも言へる。その方法の特徴はかうなれば、実証よりも分析にあつて、実証に裏付けられた分析は際限なく進められて行くが、それによつて世界の知識に寄与する望みが捨てられてから既に久しい月日がたつてゐる。そこにあるものは科学の世界、或はもつと詳しく言へば、科学者にとつて各自の専門の世界であつて、例へば生化学と生物学も二つの世界であり、科学の各部門に属する知識を全部合せて見ても、そこには科学的な意味でさへも一つの世界像は得られない。》

 

 ついで、リチャアヅ門下の、「曖昧の七つの型」で知られるエムプソンだが、彼は科学についてリチャアヅのような夢を持ってはいないものの、文学に対する態度が根本的には似ていることから、文学に動かされることに対して不信を抱いていて、もっと一般に通用する理性の保証を求めている、と指摘する。

《エムプソンが文学上の表現に見られる曖昧の型を、例へば表現の或る部分が幾つかの違つた具合に同時に有効であるものとか、二つの意味が融合して一つになつてゐるものとか、以下これを七種類に分けてその一つ一つに就て詳細に説明しても、それは文学の作用を文学の作用と認めることの他に、その作用に就て我々に実質的に更に何かを教へてくれるものではない。》

 

 F・R・リイヴィスはその著書の一つ「英国の詩の新しい方向」で、近代の世界は詩に用がなく、それだけに批評家には詩の必要を説く役目があって、近代が複雑である為に、近代人の意識に表現を与える詩人の仕事も困難なものにならざるを得ない、又、読みやすい詩などは近代詩ではないが、一時代の文化は詩に結集しているのであるから、批評家が優れた詩人を指摘し、その作品の性質を解明して読者の獲得に努めることは、時代の要請である、と説いたけれども、吉田は冷たくあしらう。

《かういうリイヴィスの態度は一応尤もであるが、優れた文学作品を読むといふこととは違つた意味で近代詩が殊に読み難いものかどうか、書く方も近代人ならば、読む方も近代人ではないのか、といふ種類の疑問よりも、詩をこれ程言はば、大真面目に扱ふのは何か妥当ではないやうに思はれる。一つの時代が詩に用がないならば、詩に用がないのであつて、批評家がその必要を説いた所で詩が前よりも読まれ出す訳のものではない。》 

 

<「Ⅴ ストレエチェイ」>

《ヒュウムからリイヴィスに到るまでの英国の批評家に就て一応書いたのは、その方面ではこの数人が英国の近代文学で先ず挙げられる人々だからで、それは必ずしも彼らがした仕事が近代文学に属するものであることでも、又彼等が批評家であることでさへもない。》

 ヒュウムからリイヴィスまで、あえて書き下したはずの英国の批評家を突きはなして批評論を離れ、英国とフランスとの、文学史近代文学のあり方、言葉の構造、散文の成熟度の違い、差を語ってから、英語の散文論と近代文学論に移ってしまう。

近代文学では古典主義文学以上に表現が正確であることが必要であつて、それは古典主義文学ではそれが主に無駄を嫌ふ精神から来てゐることであるが、近代文学の場合は不正確な表現で精密に分析することは許されないからである。つまり、近代文学が出現するまでの英国の文学には、詩を除いては近代文学の要素が全く欠けてゐたと言へるのであつて、そこにワイルドやシモンズの仕事が殊に英国の散文になした寄与、及びこれに続いて英国に近代文学が確立されたことの意味があるとも見られるのであり、それは英国の近代文学に至つて漸く英国の散文が完成したといふことに他ならない。(中略)近代文学が英国で大体、確立されたと考へられる一九二〇年以後の散文ならば、その殆どどれでもを取り上げて英国の近代批評の一例に示すことが許されるのであるが、その典型的なものにストレエチェイがした仕事を挙げなければならない。》

 ここからストレエチェイとギボンを比較し始めるのだが、具体的に近代性とは何かが感じられてわかりやすい。ここまでの数人に比べて彼に対しては好意的で、吉田自身が文章を書く時の心構えを素直に反映している。

 ストレエチェイも指摘している通り、ギボンは一人で資料を処理して「ロオマ帝国衰亡史」という古典主義的に均斉が取れた作品世界を築きあげた。千年に亙る混沌に彼の手で秩序が与えられ、大小の事件は占める場所を指定され、彼が切り開いた道によってロオマ史の輪郭が確認されて古典主義的な美が生じた。しかし、個々の事件や人物の秘密に立ち入ることは読者にも許されず、ギボンも狙ってなくて、彼の目的は処理することにあって理解することではなかった、と吉田は重要な指摘をする。

《ギボンがロオマ史全体を批評することから出発したならば、ストレエチェイはこれとは逆の態度を取つてゐる。近代人にとつては全体の秩序といふものがない以上、全体と部分といふのは単に便宜的な名称に過ぎず、我々はどんなことでも兔に角、我々に具体的に理解出来ることから始めなければならない。自明なことといふものはなくて、我々に理解出来たことが次の目標を我々に示し、かうして何か一つの全体をなすものの姿が次第に明確になつて行く。仮に初めから一つの全体が頭にあつても、その意味ではその一部から仕事に掛らなければならないのであつて、従つて対象が一つの文学作品、或は文学上の問題であるならば、その作品、或は問題に認められる限りの可能性を含めた一つの世界がそこに現れて、それが一箇の人物であれば、その人物とともにその時代が浮び上つて来る。確かにその時代にその人物がゐたからで、この場合、その何れを理解するのも同じことなのである。

 かういふ方法で書かれたストレエチェイの伝記や歴史の特徴は、一般に文学に就ての近代批評と同様に、我々をその場に連れて行くことにある。といふのは、表現が説明の役割を果して、我々はそこに描写されてゐる現実によつてその現実を知ることとなる。》

 吉田の文章、とりわけ『英語と英国と英国人』に所収されたエッセイ(散文)は特に、「我々をその場に連れて行くこと」が魅力であり、それは「表現が説明の役割を果して、我々はそこに描写されてゐる現実によつてその現実を知ることとなる」からに違いない。

 

<「Ⅵ イエイツ」「Ⅶ エリオツト」「Ⅷ ホツプキンス」「Ⅸトオマス、ルイス」>

「近代詩論」。しかし近代における詩の理論的説明に多くは割かれておらず、詩そのもの、及び詩の読みに重点がおかれている。なるべく近代に関するところを拾って行くこととするが、例えば次の文章などは、吉田が意味するところの

「近代」の、詩を通しての再定義となっているだろう。

《近代詩に就て語る時、これを複雑といふことと結び付ける必要はない。それが歌つてゐる筈の近代精神は複雑なものではなくて、これは複雑な近代に生きてゐる精神なのである。このことから注意を逸らせてはならない。それ故に、言葉の動きを詩人がどこまで見守つてそれを通してそれ以外のものを眺めてゐるかが、近代詩を決定する。従つて又、その先で詩が複雑と呼んでいいものであるかないかは本質と関係がなくて、複雑であることも詩を表現することによつて単純に統一されてゐなければならず、同じ効果は素朴と考へることが許される体裁でも得られる。又我々は近代以前にも近代があつたことを何よりも詩の分野で摑む筈であり、例へば謡曲の詩句にも近代詩を感じることがある。或はもつと広く言つて、詩人といふものの存在そのものに近代が成立する場所を仮定し、といふのは、詩に近代人が当然浮べる一つの文学上の形式を認めることさへ出来るのであるが、ここでは我々は英国の近代詩に就て考へて見なければならない。》

 こうして吉田が高く評価するイエイツの、長編詩「アシインの放浪」がホメロスの作品と比較され、次いで、「一つの幻想」という本の内容、《これは死後、そしてまだ次の地上で一生を始めてゐない霊達が人間と人間に内在する世界の関係や、天体と人間の行動の交渉を彼に示す為にしたこと》が説明され、さらには、「クウルの野生の白鳥」という詩や、「ヘレナが生きてゐた頃」、「レダと白鳥」、「ビザンチウムへ船出する」などの詩が批評される。

 

 詩人エリオットについては、批評家としてよりもずっと好意的だ。英国の詩人の中では、普通に近代詩人というものについて持っている観念によく当て嵌り、都会人であったことも近代的ということに結びつくと考えられる。有名な「J・アルフレッド・プルフロックの恋歌」から詩が三行引用されて、「近代的な感じ」と注釈されているが、近代人の感覚がどのように働くかの実例として、すっきりと素晴らしい解説になっているので、少し長くなるが引用したい。

《Let us go then, you and I,

  When the evening is spread out against the sky

  Like a patient etherized upon a table;

 

夕方が空に向かつて、手術台の上で麻酔を掛けられた

  患者になつて横たはつてゐる時、

  貴方と私とでどこかに行かうではないか。

 

 この手術台といふ言葉から近代的な感じを受けたりしてはならない。もしさういふことがあるならば、それは翻訳の都合から来た誤解であつて、tableは手術台でもあり、ただの卓子でもあるので、それが手術台の意味に使はれてゐるこの場合でも、ただの卓子を指す時にこの言葉が与へる印象の方が強くて、卓子といふ簡単な言葉に示されてゐる一つの静かな調子が、この作品全体のものになつてゐる。奇異に感じられる表現はどこにもなくて、僅かに夕方が空に向かつてspread out、拡げられてゐるといふ言ひ方や、それが手術を受けるので麻酔を掛けられた患者に喩へられてゐることが、かういう普通の言葉を用ゐるのにその程度の手加減が加へられてゐる点で、少しばかり変つてゐるといふ風に受け取れるに過ぎない。そしてそれで我々は満足する。といふのは、苛立つた神話は言葉の様子が期待したのと違つてゐるだけで一時は平静に引き戻され、そこに言葉に素直に従ふ余地が生じるのであつて、この方が、夕方が空の下に拡がつてゐるといふ観察が的確なので我々を動かすといふ種類の解釈よりも大切である。

 近代人の感覚はそのやうに働く。それは贅沢の限りを尽した挙句に淡泊を好むといふことでもなくて、或は、その淡泊そのものが贅沢の限りなのである。》

 エリオットが、いかに大陸、とりわけフランスの近代詩の伝統に浸って仕事をしたかが、さきの「プルフロツクの恋歌」を始めとして、「ジェロンティオン」、「荒地」、「四つの四重奏」の詩とともに、フランスのジュール・ラフォルグを引用しながら丁寧に比較、解説される。

 

 ホプキンスについてはポオの理論との関連、韻律の技巧論が扱われ、ディラン・トオマスとC・D・ルイスについては英国の詩人紹介の一頁といった趣に過ぎないので、近代論としても詩人論としても、とくに立ち止まる必要もあるまい。

 

<「Ⅹ ロレンス」「Ⅺ ジョイス」>

 最後に、《小説といふのは、他の文学の形式と比べていつも少し後から来るものであることを忘れてはならない》という「近代小説論」が来る。

《小説も言葉の力で読ませる点では文学であつても、我々が言葉の為に小説を読むといふことは殆どない。結局は言葉なのであるが、我々はそれよりもその言葉が指してゐると思はれる事件や登場人物を追つて読み、例へば、かういふ人物はあり得ないなどと考へる。又それが、小説といふものが成功した所以でもあつて、人間は誰でも人間の世界に住み、そこでの出来事を身近に感じて暮してゐるから、文学に興味がないものでも、小説は読む。そして小説家がそこでどれだけ独自な見方や、清新な表現をしても、この根本的な事実に変りはなくて、それが小説といふものの約束なのである。》

 言われてみれば、その通りとしか言いようのない正しさである。

《小説がさういふものである時、何が近代小説であるかを決めるのは困難である。》と、あっさり宣言されて、《ただ登場人物が近代人であることを読者に説明するとか、形式の上で工夫を加へることとかに止つてゐるものは近代小説ではないならば、英国で最初に近代小説を書いたのはロレンスであると言ふことになる。》

そこで、ロレンス「息子と恋人」についての批評が始まるが、吉田は、「近代」と「近代人」と「近代小説」との関係について、言葉で書きながら思考する。

《ロレンスは、言葉で近代が築いた言葉の壁を突き崩さうとしてゐたのだと見て構わない》、《言葉に歪められても、その為になくなりはしない、言葉が本来は指す筈の具体的な人間の世界をその作品で表現することが出来れば、それで目的は達せられたのだつた》と語った後、《近代詩や近代批評がその根本の形式からして近代といふ一つの時代と直接に関係があるのに対して、それと同じ意味で近代小説と呼べるものはないといふことでもある。》とか、晩年に書いた「チャタレイ夫人の恋人」について、《彼は、性の解放などといふことは言つてゐなくて、それは近代の産物である。》と今までのロレンス評価の奇妙さを指摘し、《併し彼は、その性行為がさうして人間にとつて本質的なものと直接に結び付いてこれを揺り動かさなければ、それが一つの行為である限りでは成立しない所に特色がある性慾といふものの働き方に着目して、その向こうに人間を見た。》という具合に、どうにかして意味を表現しようとあれこれ言葉を尽すのだが、批評の言葉は壁の周りをぐるぐると巡り続けているかのようで、その手探りの感触を味わえるかどうかで、吉田の文章にのめりこむか離れるかの分かれめ

となる。

 

 ジョイスは厄介だという。

ジョイスといふ小説家は、近代文学の中に入れる以外に分類の方法がない。それは、他の時代に属してゐる筈の人間が何かの間違ひで近代に生れて仕事をしたと考へるには、それではその他の時代といふのがどれであるか見当が付かないからで、近代とか、近代文学とかいふものの特徴は必ずしもジョイスの作品に求められず、ジョイスが書いたものにはさういふ厄介な性格がある。》

 再び近代論になり、ジョイスについてはそういう見方もあるな、という切りとり方をしてみせる。

《科学の万能が信じられたのは十九世紀であり、そこから進歩の観念が生じて一時はヨオロツパ人の精神を支配した。又、物質の価値が認められて、それがどういふ論理によるのか、進歩の観念と結び付いた一種の理想主義を主張することを妨げなかつた。ジョイスと関係あることだけを拾へば、それまでは神の観念が一般のヨオロツパ人の頭にあつたのに対して、科学の理想主義的な色彩が濃い受け入れ方がこれに取つて代り、科学と両立しないものといふ意味で、この科学を過信する風潮の一部は逆に芸術に偏することにもなつた。(中略)併し神に取つて代つた科学と対立する芸術が、ジョイスの考への中心を占めてゐたことが「ユリシイズ」を読んで感じられる。》

 吉田はもう一つ違った角度から批評の刃先を入れる。

《もう一つ明かなのは、彼が大人になつて一般のアイルランド人彼の宗旨であるロオマ公教会から離れた後も、その影響が残つて、それが彼の場合は物質とか、現実の世界とかいふものを彼に積極的に嫌悪させる方向に働いたことである。彼の小説では我々、或は少くとも、我々の肉体が塵であつて、塵に戻るものであるといふロオマ公教会の教義に即した態度が一つの底流をなしてゐるのみならず、寧ろそれ以上に、我々の肉体や現実の世界といふものに触れば汚れるのを恐れる感情が全体を強く彩つてゐる。それ故に現実を描くといふのは、その泥に塗れることで、同時に又、泥でないものは現実ではなかつた。》から、現実の世界が泥であることを示すために、自分の文体を持つのとは別な、手の込んだ表現の方法を取ることになり、登場人物の意識の記録や様々な戯文、劇形式、独白といった文体が使われた、と考察する。

 十八世紀のイタリイの哲学者ヴィコの学説、「新しい知識」を利用して最後の大作「フィネガンのお通夜」を書いた(Finneganという語にはFinn again、(アイルランドの伝説にある英雄)フィンの再来という意味が掛けてある)が、この作品を書くのに当って、新たに言葉を作りに掛かり、多言語を基とした新造語による文章で書く仕事に苦労を重ねた。

《彼は芸術の働きを信じた果てに、表現とか再現とかいふことを創造に取り違へるまでに至つたとしか思へない。フィンの再来などといふことは、それが実際に起つてこそ意味があるので、芸術は、といふのは、ここでは文学は生命にその表現を与へ得はしても、生命を作ることは出来ない。そこにジョイスの痛ましい錯覚がある。彼はその為に遂に言葉そのものまでを崩しに掛り、後に残つたのは彼が考へてゐたのとは違つた意味での泥沼だつた。ただ一つ、彼がその結果、小説といふものの型に嵌つた型を事実、崩してしまつたことは認めなければならない。彼にもし功績があるとすれば、それはこの破壊的な面である。》

 さきの、《我々が言葉の為に小説を読むといふことは殆どない》という指摘からすればもっともな評価だが、そこに痛ましさを感じ、破壊的な功績を認めるところに吉田の懐の深さがある。

 

<「Ⅻ ウォオ」>

《既に近代小説といふものに確実に近代小説と呼べる形式がないならば、ロレンス、ジョイスを扱つた後で次に誰を挙げるかは、一つの必然に従つて決ることではないやうに思われる。(中略)ただ一つ、近代にしか書けなかつたと思はれる意味で間違ひなく近代小説であり、至る所に近代を感じさせ、この今は過去の一時代の記憶を甦らせて、これこそ近代小説といふものではないかといふ錯覚さへ起させるものに、イィヴリン・ウォオの「ブライヅヘツド再訪」がある。》と前置きされて、自身が翻訳も手がけたウォオが登場する。

 それは嫌々ではなく、《近代小説といふものを認めて、その典型を探すならば、それはプルウストの「失わはれた時を求めて」である他ないが、このプルウストの小説と色々な点で直接に比較することが出来ることも、「ブライヅヘツド再訪」の特徴の一つに数へられていい。何れも上流社会、或はそれに近い人々の生活を扱つたもので、それよりも更に注意すべきは、両方とも回想の形で書かれてゐることである。》と、「回想」という「時間」の概念が登場してきて、「時間」こそが後期吉田の中心テーマであったことからも、《現在といふ途方もなく複雑になつた一つの状態の実感を得るには、それが過去になつてから或る距離を置いてこれを眺める他ないのである。》という言葉には、「心理」と「思考」へ向かう意志が感じられる。

《上流社会といふことも、このことと関係がある。それは要するに、余裕があるといふことと、それが一つの伝統になつてゐるといふことであつて、近代のやうな時代の場合、その厄介な性格を知る余裕があつてそれが自分の生活にも影響し、そこに自分の時代を見出すことになるのであり、一日を過すのにも困つてゐれば、人間は普通の人間の状態に止つてゐられる。(中略)従つて、プルウストも、ウォオも、近代が個々の人物に及ぼした作用ではなしに、近代そのものを一篇の小説に仕立てるのが目的だつたと言へて、何れの小説を読んでも、ここに近代があるといふ感じがする。(中略)近代は、それが自分の時代だつた当時の人間の精神風景にあつて、ウォオやプルウストの小説がこの一時代の描写として成功してゐるのは、結局はその何れもが優れた心理小説であり、又もしこの言葉が誤解されないならば、思想小説だからである。》

 そうして吉田は、ウォオの一節を引用して、近代について書きたかったことをヴァレリイも援用しながら批評して行くのだが、これを書きたかったがために近代小説家としてウォオを取り上げた、或は近代の「批評論」、「詩論」でとめおかずに「小説論」にまで筆を伸ばしたように思われる。長くなるが、ヴァレリイからの引用文も含めて省略せずに転記する。

《前に挙げたウォオの一節は、こんな風に続く。

 

……そこの道幅が広い、ひつそりした街路には、ニュウマンの時代と同じやうな恰好をした学生が歩いてゐたり、立ち話をしたりしてゐて、秋の霞や、灰色をした春や、――丁度その日もさうだつたが、――栗の花が咲いて町の建物の切妻や円屋根の上を教会の鐘の澄んだ音が響いて来る、極めて稀にしかない晴れ渡つた夏の日は、何世紀にも亙つてここに人々の青春が過されたことから生じる柔かな空気に息づいてゐた。この僧院の中にゐるのに似た静寂が我々の笑ひ声を反響させて、それを辺りの雑音を越えてどこまでも明るく伝へて行くのだつた。……

 

 ここに書いてあることに、我々が装飾と普通呼んでゐるものはない。それが大切なことであつて、ニュウマンの時代とか、千年間の学識とか、或は辺りが静かなので笑ひ声が他の音を越えて伝はつて行くとかいふことは、それが何かを形容してゐるやうであつても、これに相当する事実を直接に描いたものなので、近代の空気ではニュウマンの生涯も、オックスフォオド大学の歴史も、静寂と音の或る特殊な関係と同様に人間の精神のうちに具体的にその位置を占めてゐるのであり、過去は過去なりに現在に生き、現在は耳に達する音響の効果まで含めて成立してゐるのである。この状態を更に説明するのに、次に、ヴァレリイの「レオナルド・ダ・ヴィンチ方法論序説」の「ノオト、及び雑説」からの一部を引用して見る。

 

 人間の特徴は意識にある。そして意識の特徴は、その中に現れる凡てのものを不断に汲み涸らし、これから休みなく洩れなく超脱することにある。それはそこに現れるものの質、並に量とは別個の、尽きることがない行為であり、その行為によつて精神の所有者は遂に、何しろ何か或る特定のものになることを飽くまで拒否する所まで意識的に到達する。

 かうして凡ての現象は言はば、同一の拒否によつて撥ね返され、常に同じ身振りによつて排斥されて、それは或る一種の平衡の下に置かれることになり、又、感情や思想も、この均一な閉阻の中に包括されるのであるが、この作用は知覚することが出来る凡てのものに及ぼされるのである。そしてここで大切なことは、何ものもこの厳密な排除を免れないといふことなのであつて、ただ注意さへすれば、我々のうちにある最も親しい運動も各種の外的な事件や対象物と同列に扱ふことになる。といふのは、さういふ運動も我々の観察の対象になり得る以上、それは観察される凡ての事柄の一部に過ぎなくなるのである。――例へば色彩と苦悩、思ひ出と期待と驚愕、この眼前の木とそのざわめき、又、四季がこの木に起させる変化、その原形と同様に実在するその影、木の姿や位置に認められる偶然の特徴。又この木が私の放心に抱かせる最も掛け離れ た種々の思想、――それは凡て同等なのである。――凡てのものは互に他のものを置き換へる。――これこそものの定義ではないだらうか。

 

 ここにプルウストやウォオがその小説で扱つてゐる現実が描かれてゐる。そして凡てのものがかうして相等しく同時に存在する状態がウォオの小説にもある為に、人物の行動も単に行動であるだけでなくなつて、といふことは、その心理が複雑で、何をしてゐるのか彼等自身のみならず我々には解らないといふことでなしに、その行動にも影が出来て、それが行動とその背景の繁りを浮び上らせ、ここで背景と言ふ時、それには行動する人物その他、凡てのものが含まれてゐる。何をしてゐるのか解らないとか、或は人物にはつきりした行動を取らせると、これが遊離した感じになつてその人物の行動にならないとかいふのは、この下地に対する習熟が欠けてゐるからであつて、小説などを書くことを考へる前からかうして我々の内部に、又、我々の周囲にあるものの重荷を知つてゐるのでなければ、その人間を近代人と呼ぶことは許されなくて、近代人でないものにその世界は描けない。》

 さらに吉田は、恋愛と、近代の執着の一つである神の問題との争いを扱うが、ここで詳述することもあるまい。

 

 こうしてワイルドからウォオまで見て来ると、『英国の近代文学』を含む「英国三部作」は勿論のこと、その後に書かれた『文学概論』『文学の楽み』『ヨオロツパの世紀末』は、吉田による「近代批評」に他ならなかったことが自ずと知れる。

 そればかりか、晩年近くで吉田が書いた「心理小説」、「思想小説」である『金沢』『東京の昔』や、「形而上的エッセイ」ともいえる『時間』『変化』が、ウォオの小説に似た「近代小説」の様相を帯びていると感じられるのは、回想と、余裕がある登場人物たちの話だからでもあるが、それよりも最後にウォオの一節とヴァレリイを引用して説明したように、現実を言葉で表すことに成功した世界があって、その《凡てのものがかうして相等しく同時に存在する》世界を描ける吉田が近代人であったからに違いない。

 たしかに吉田は『英国の近代文学』で、書きたいこと、書くべきこと、を書きつくしたのかもしれないが、その後、シモンズ論で力説した、《繰り返しではなくて更新であり、内容はその性質から言つて、別な表現を得る毎により精密に、従つて豊富になつて行く》によって後期批評の円熟を実らせた。そのうえ私たちは、吉田自身の言葉による「小説」と「形而上的エッセイ」を、吉田との合作として読む悦びも得た。それらが吉田健一による『英国の近代文学』からの賜物でなくて、何であろうか。

                                 (了)

  *****引用または参考文献*****

*『吉田健一集成 1~8、別巻』(『英国の近代文学』を引用)(新潮社)

吉田健一『英語と英国と英国人』(講談社文芸文庫

*『世界批評大系2 詩の原理』(ワイルド「芸術家としての批評家」(吉田健一訳)所収)(筑摩書房

篠田一士吉田健一論』(筑摩書房

*『丸谷才一全集 10』(「近代といふ言葉をめぐつて」所収)(新潮社)