文学批評 「山田詠美『風味絶佳』味読」

  「山田詠美『風味絶佳』味読」

 

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 山田詠美メルロ=ポンティに似たところがある。そう言ったら怪訝な顔をされるだろうか。早すぎた晩年に『見えるものと見えないもの』を残したメルロ=ポンティに、《人間のかもし出すそれ》を《体のすべての器官を使って、それに触れて味わおうとする》山田詠美が、だ。

 単行本『風味絶佳』(2005年刊)は『間食』、『夕餉』、『風味絶佳』、『海の庭』、『アトリエ』、『春眠』の六粒の短編からなる。山田はその「あとがき」に《日頃から、肉体の技術をなりわいとする人々に敬意を払って来た》と書いたが、この小説に登場する「肉体の技術をなりわいとする人々」とは、メルロ=ポンティが『知覚の現象学』の末尾に引用したサン=テグジュベリ『戦う操縦士』(堀口大学訳)のなかの「きみ」だろう。《きみの息子が炎に包まれていたら、きみはかれを救けだすだろう……もし障害物があったら、肩で体当たりをするためにきみはきみの肩を売りとばすだろう。きみはきみの行為そのもののうちに宿っているのだ。それがきみなのだ……きみは自分を身代わりにする……きみというものの意味が、まばゆいほど現れてくるのだ。それはきみの義務であり、きみの憎しみであり、きみの愛であり、誠実さであり、きみの発明なのだ……人間というのはさまざまな絆の結節点にすぎない、人間にとっては絆だけが重要なのだ。》

「絆(きずな)」を作家は小説世界に絡めあいたいと切に願った(「絆」という言葉が安売りされた「3.11」の6年前のことである)。肉体の技術をなりわいとする人々の姿形を借りて、絆を思う存分味わったその《後味に残ったのは、彼らの人生の余韻。私は、幸福に置いてけぼりを食った》という、やるせなさ、せつなさ、いたいけなさ、いとおしさ、とは昔のモラリストなら羞恥から隠しておきたいリリシズムに違いないとしても。

 しかしことさら「肉体の技術をなりわいとする人々」をキャッチ・コピーにすることなどなかった(マーケティングとしては別だが)。それが意味するものは「黒人」、「年齢」への偏見といったどうでもよいものと同じにすぎないからだ。ただ山田詠美にとって《普段、あまり接点のない仕事に携わる人々は、なかなか、私の世界にやって来てくれないのである》と吐露しているように、そしてまた別のところで、自分で取材――取材という言葉に如実なのだけれど――したのはひとつだけ(鳶職)、他は編集者が取材してくれたと語っていることが「敬意」という距離感になったのだろう。詠美もわかっていた。《敬意を払うだけでは駄目なのだ。とことん好きにならなくては。敬意だけでは恋にならない。》

一粒ずつ咀嚼してゆこう。

 

『間食』――こぼれる

 あまり誰も指摘しないのだけれど、それはきっと作品の生の強さに目をくらまされてなのだが、山田詠美はいつでも死にこだわっている。ふりかえればすぐに山田作品――観念的であったり、仮想であったりすればするほどそのモティーフの深層性がわかる――の登場人物たちが死を通過してきたかに気づく。『風葬の教室』のように題名に露出しているものさえある。モラリストはいつだって、パスカルにしろニーチェにしろ、あるいはジッドにしろロラン・バルトにしても、死を意識するところからはじまっているのだから当然であろう。

《死体の作り方なら、小さな頃から知っていたよ、と花は言う》と書きだしの一行に才を示して見せる。《昼寝をしている母親の顔に白い布巾をかけて遊んでいたのだそうだ。もうしない》の数行後にこそ作家の本質が見える。《それに本当に死んじゃったら困るでしょう? 本当に死んでしまったら困る人。彼女の言葉に彼は頷く。それでも、時折、そういう人の死を誰もが願う。》 カポーティめいた感情と機智の輪が『間食』の小説構造の要(かなめ)として末尾で機能するだろう。

 雄太の職業、鳶職というのがあからさまに死と直面しているのはもちろんだが、仕事の場面ではあえて死という語を使わない。死のかわりに少しだけ奇妙な愛がある。《雄太は高い足場から地面を見降ろす時、あそこに戻りたいと強烈に思う》の「あそこ」とかどこか。《ヘルメットの重みは、彼をのけぞらせ、広がる空を見せつける。すると、突然、恐さが消える。ホルダーに付いた釘袋が音を立てて彼をせかす。解っている、と彼は思う。早く行って可愛がってやるから。すると、漠然と彼を取り巻いていた空気は、はっきりとした感触を携えて皮膚に触れて来る。》 

 広がる空や空気を感じる。よしよしと汗を流して応える。空を愛でる。それこそ体のすべての器官による生の交感であろう。だからそれは喧嘩の話になって、《本当に恐いのは暴れない奴だ。その恐さは、見たこともない幽霊の話に背筋を震わせる、そういう類のものだ。触(さわ)れない人間は恐い。それが外側であっても、内側であっても》のように、モラルの手袋に手をとおさずにはいられない。

 まるで自分を消す術を習得したかのような鳶仲間の寺内に、新しく現場に来た暴走族上がりの若者が、殺されてぇのか、と凄む。寺内は言う。「殺したいんですか?」「もしそうなら。どうぞ」 若者は去る。「ああいう人たちって、死ぬとか殺すとかって言葉を、まるでスナック菓子みたいに使うね。安くていいや」 こんなことも雄太に言う。「きみは、人を殺したいと思ったことある?」「ぼくは、いつもそう思ってるから」「でも、世界じゅうの人を殺すのなんて、案外簡単なんだよ」

「おまえ、女いないの?」「どんな女なんだよ」と聞かれて寺内は照れ臭そうに言った。「字の綺麗な人だよ」

 雄太は十五も年上の面倒見の良い、西瓜の種を取り除いてくれる世話好きな加代と同居している。もういい加減にしてくれ、沢山だ、出て行く、と立ち上がると、気を付けてね、と上着を渡す。新しい女の許から戻ると、疲れ切った彼の体の分だけ、いつでも空けられたベッドがある――こういった空間の私的な切り取りは見事だが、公的な土地の名は、この小説集でも特別な意味をもつ青梅線沿線以外はどこでもない場所、つまりはどこでものアトピックな設定とされている。とりわけこの小説集では《世界は明らかに、そのドア一枚で区切られている》といった恋する男女の閉じた空間がライト・モティーフとなっている。

 暴走族上がりの若者が仲間だった奴らの喧嘩に巻き込まれて死んでしまう。雄太と寺内は社長に頼まれて葬儀に出席する。呆気ないもんだよなー、と感傷的な雄太に寺内が言った。「いいじゃない。あんなに誰かれかまわず殺してやる、殺されてぇか、とか言ってたんだもの。念願が叶ったってことじゃない?」「彼の世界は失くなった。つまり、彼は、世界中の人を殺しちゃったのと同じでしょ?」「哲学の基本でしょ?」 寺内は無言で雄太を見詰める。こんな表情誰かもしてた。ようやく何かを捜し当てたとでもいうような確信に満ちた瞳。その焦点の結び方は、雄太を怖気づかせる。いつだって山田作品は探究の文学だ。

 葬儀場の外に出て、ビールでもと誘う雄太に首を左右に振った寺内は、彼女んとこでも行くのか、ほら字が綺麗とか言ってた、と聞かれて思い出すように答える。「母のこと? もう、とうに亡くなったよ。確かに遺書の字は綺麗だったけどね」 

 鷲田清一の『メルロ=ポンティ』によれば、味覚や嗅覚がその触覚的性格によって、つまり距離の不在ということによって、<美>的判断を構成しえぬ「低級感覚」とされてきた、とある。そういう意味で山田詠美は「低級感覚」たる口唇と鼻の人だろう。

 ロラン・バルトはブリヤ=サヴァラン『味覚の生理学』のなかの、美食家の麗人が目を輝かせ唇をつやつや光らせながらヤマウズラの手羽肉を囓る文章に、愛すべき快楽主義に加えて微量の野卑、攻撃性の指標を読みとっている。内的快楽は艶であって、艶とはエロティックな属性である。燃えると同時に濡れてもいて、恍惚感がかがやきをもたらし、快楽がなめらかさを生む。この艶は『間食』にそっくりだ。《つやつやと光るものをみたら、誰だって齧り付きたくなるだろう。雄太はそうなる。そして、花に、そうなった》、《見ると、半開きになった彼女の唇からは、もう唾液がこぼれている。指で拭ってやると、きゅんとすぼまる。ゆでた小海老のようだと、雄太は思う。おもしろくなって、いつまでもいじる。唇は条件反射のように指に吸い付き、音を立て、それを耳にすると、部屋に満ちて来た幸福の水位は上がる。しばらくの間、彼は、そこにたゆたう。自分の体の内から、何か温いものが絶えず湧いて、流れ出て行くのが解る。彼女に注いでも注いでも飽くことのないもの。》 こぼれる。拭う。すぼまる。いじる。吸い付く。湧く。流れ出る。注ぐ。つやつやとした動詞たち。

 パスカルは『パンセ』に、《われわれのうちで快楽を感じるものはなんだろう。それは手だろうか。腕だろうか。肉だろうか。血だろうか。それは何か非物質的なものでなければならないということがわかるだろう》と書いたが、山田詠美は物質的なそれらが低級ではない快楽であり、非物質的なものがあるとしても、それは物質としてのつやつやした液体に還元されてこぼれでると確信している。

 液体は隙間をなんなく埋めてしまう。《加代は雄太を隅から隅までいつくしむ。彼に何の不自由もないように、いつも心を砕いている。食べること。眠ること。セックスをすること。それらはもちろん、そこの隙間も細々とした世話で埋めて行く。》

 相反する行為の中からしか快楽は生まれない、とか、痛みと心地良さは似ている、とかいった三島由紀夫を連想させつつも、ラ・ロシュフーコーにみられるモラリストの軽妙なアフォリズム――その軽薄さを失うとき、ニーチェや芥川のような精神の病へと収斂してゆく――について論じるつもりはないが、《頭の中にそういう言葉が押し寄せる時、彼は射精して、いつのまにか精液は、西瓜の汁のように拭われている》といった色彩感のある動きをともなった文体は、作者から滴った言葉の汗である。

《雄太は、風呂場で花の髪を洗ってやるのが好きだ》、《ついでに体を隅々まで洗ってやる。一心不乱に花を磨いているのは楽しい。》 ここでも、快楽は「もの」それ自体から来る。やはり『パンセ』の《今ある快楽が偽りであるという感じと、今ない快楽のむなしさに対する無知とが、定めなさの原因となる》ゆえに、《自分は、ただ洗ってやれるものが欲しいのだ》となるに違いない。

夕張メロンは熟れていて、スプーンですくって口許に持って行ってやると、するりと唇の中に滑り込む。同じスプーンで彼も食べる。ふと思いついて、そのまま彼女に口づけると、当り前のように彼の口の中のメロンを啜り込むから、舌の上には甘味だけが残って頼りない。(中略)ここまでかぐわしい甘い塊で喉を詰まらせて死んだら、どんなに幸せなことだろう。》

 快楽と死はいつだって手をつなぎたがる。もはや花はとろとろだ。牛肉を食べても鮪を食べても「やわらか~い」「とろけちゃう」とコメントすることが最高の褒め言葉と勘違いしている向きと同じように、愛情もまた「やわらか~い」「とろけちゃう」へと液化してゆく。

《溢れちゃいそうな気がする。そんなことを腕の中で呟くものだから、何が? と雄太は尋ねた。あたしに注いでくれる雄太の愛情のことだよ。》 だが花は表情を運びもするが、ぽいと捨てられもする饅頭みたいな間食にすぎなかった。いやなところもいっぱいある男をクールに書く。

 葬儀から汗だくになり疲れ切って家に戻ると、加代が薄暗い部屋の中で昼寝していた。冷蔵庫に西瓜を見つけ、かぶり付く。《たれた汁を拭おうとポケットを探る。白いハンカチがある。葬式用に加代が用意したものだ。口に当てた後、ふと思いついて、広げて、彼女の顔にかけてみた。そして、ながめる。長いこと、ながめる。付いたばかりの赤い染みが、寝息と共に、いつまでもいつまでも上下している。》

 雄太も作り方を知った。願う人の。

 

『夕餉』――尽くす

 かねてから山田詠美宇野千代が好きだった。そうだろう、宇野千代は北原武夫にフランス・モラリスト文学を教わる前から、はじめからずっとモラリストだったのだから。

 私は以前から宇野さんの小説の大ファンだったんですよ、と丸谷才一相手に語りだす。

《丸谷 男に尽くすでしょう。非常に尽くすけれど……

山田 でも、尽くし方が違うって感じ。

丸谷 うん、そうでしょう。別に犠牲になるわけじゃないんだね。

山田 自分がやりたいから尽くして、相手の喜ぶ顔を見るのが快楽でやってるという感じで、犠牲的精神というのがないんですね。》

 そして山田詠美はこんなことも発言してゆく。

《やっぱり、尽くしている自分が好きだったのよ、という感じが完全にキリッと書いてあるんで、いいなと思うんですけど》、《いっぱい嫌なこともあるっていうのを文学的なもので濾過して、すごく美しいものだけ残しているんだと思うんですよね》、《全然偏見とか、もうそういうばかばかしいことっていうのが抜きなんですよね。人が人にひかれるとか、この人を守ってあげたいとか、それだけしか書いてないって話で》と、これはもう、宇野千代を語って、ありたい自分を語っているとしか思えない。さらに対談はこんなふうに続く。

《山田 「この人と出会って損したわ」って書く人ってすごく多かったと思うんですけど、宇野さんの場合って、人と出会うことは得することなんだよって、はっきり書いた人だと思うんですよね。

丸谷 うん。だから、人を元気づける文学なんです。何か人を励ますという感じは、そこから出てくるんですよね。人生の応援歌みたいな感じが非常に強くなってくる。倫理というものをあれだけ排除したあげくに非常に倫理的になっていく。

山田 教科書で教わるようなタイプの倫理じゃなくて、宇野さん自身が作り出した倫理というのに共感する人が多いと思いますね。》

 ここでも「倫理」は「モラル」と言い換えてよいだろう。ひところあった山田詠美作品の教科書採用問題とは、『源氏物語』における、まったくつまらない若紫と小雀の場面の教科書採用と同じ程度のモラルにすぎない。そのことから柄谷行人による『北原武夫全集』の解説に思い至る。柄谷によれば、北原氏が『モラリストの文学』で強調しているのは、モラリストが目ざすのは「人間の探求」であり、それを「私」自身の内省によってなし、とりわけそれを「男と女の世界」を考察することによって果たす、ということだったとレジメするが、北原のこともさることながら本居宣長もしかりであった。

《最近私は本居宣長の『源氏物語玉の小櫛』を読んだのだが、そのとき感じたのは、宣長がいかに“モラリスト”であるか、さらに彼によって理解される『源氏物語』の作者がいかに“モラリスト”であるかということである。(中略)「物のあはれは恋にこそきはまれる」というとき、宣長儒教・仏教の観念では不倫にほかならない恋において、「道(モラル)」を見きわめようとしていた。すなわち彼は、あらゆる人為的観念を洗いおとして、あるがままの人間的「事実」をみようとしたのである。》

 これは宇野千代山田詠美と同じ態度にほかならない。しかも、千代も詠美も「尽くす」と「道(モラル)」が、北原のような思想をまとったり、私小説道に似ているなどと主客転倒せずに、ダンディにすっきり一致している。

『夕餉』という小説が料理を食べる快楽ではなく、料理を作るという尽くす快楽からなりたっていることにもあらわれる。山田詠美らしいところは次のような言葉にある。《私は男に食べさせる。それしか出来ない。私の作るおいしい料理は、彼の血や肉になり、私に戻ってくる。》 だが、「私に戻ってくる」とは千代なら言わせない。宇野千代ならば古風にもそのような言葉をはっきりとは語らず、ずっと孤独に、「でしょうか」「でしょうか」と弱い疑問形を重ねていって、あげくすべてが是となる救いの宗教に近づいてしまう。千代の、着物が似合う懐(ふところ)深い性(さが)がそこにあった。一方、詠美には、せつなさがあってもそれはタイト・スカートのスリットの、のうのうとした自己主張であろう。

 しかし二人とも他者も自己も冷静に見つめて文学にするという技術を鍛えていた。その愛よりは恋のような才能は、短編から中編までの長さで発揮される。

《ものすごくまずい給食だった。皆、残した。豚の餌になるんだよと誰かが言っていた。その残飯の中には、ジャムのスプレッドの袋が混じっていて、餌と一緒に飲み込んで喉に詰まらせた豚たちが何匹も死んでしまったそうだ。でも、ごめんなさい、私は、豚を思いやることは出来ない。まい泉カツサンドを崇めることは出来るけど。》 都会の人間にとって抽象的な豚が、具体的なまい泉のカツになることで崇められるとは、驕りではなく正直な感嘆のモラルと言えないか。

《コンドームをかぶせられたズッキーニは、困りもののごみになって、新江東や豊島の工場へ行った。そして、私は、ここにいる。》 料理の具材としてのズッキーニと、私は、同列にこの世にある。あやういが、しかし、私は、ここにいる、という尊厳。

《ペットの死骸が、ごみとして出されることは珍しくないそうだ。供養ぐらいしてやりゃいいのに、と彼は顔をしかめる。でも、私は知っている。世の中には。供養から、あらかじめ見離されている生きものが沢山いることを。それらは、息を詰まらせて、叶わない自由を夢見て、少しずつ死んで行く。》 料理の滓、生活の滓、そして生きてゆくことそれ自体の滓には、安っぽい泣かせではない死の執拗低音があるだろう。

銀シャリのシャリって、舎利って書くんだよ、仏さまの骨のことだよ。焼くと粉々になって、お米みたいになるから、そう呼ぶんだよ。ある時、そう教えてあげたら、喉に詰まらせながら、上目づかいで、私を睨んだ。》 料理はなにものかの死によって生を養うことだが、それは原罪でも生贄でもない。どうってないことである。輪廻の可逆性のもと、死/生の二項対立の境界がはじめからないところに山田詠美の、隠しようもないその顔と同じ東洋があった。

 本当は料理されたいのは自分なのだ。《私の腕の中の空気は馥郁(ふくいく)としている。まるで餡パンの中の隙間みたいだ。天然酵母の香りに酔っ払いながら、私は焼き上がる》、《別れてしまったか、死んでしまったかした女になった私は、彼の舌の上で再会する。つきまとう。いつだって、舌は過去に掌握されている。》 わかるようでいて、わからないようでもある裏漉しされた決め句の不確実性。

 集積場所にごみを持っていって、清掃車で作業をしていた紘と知り合った。美々は正確ではないごみの集積時刻のために、毎日、息を潜めていた。待つということにこそシンプルな恋がある。

《憐れみに肉体が加わると恋になる》、《私は、始まりに便乗して、彼は、終わりに便乗する。そんな利用の仕方を続けていたら、愛情に近付いちゃうよ。》

《紘は、相変らずコトレッタ・アッラ・ミラネーゼにソースをかけている。その無粋は許す。このソース、なんでこんなちびちびしか出ねぇの? と不平を言う。でも、リー・アンド・ペリン。この銘柄だけは譲れない。》

「許す」「譲れない」のペーソス、句読点が現代風にアレンジされての、近代日本文学が苦手としてきたアイロニカルな大人のユーモア小説ではある。

《ソファの赤が目に痛い。これを手離さないために、今度こそ、私は私を捨てに行く。》

『夕餉』は清掃作業員の話ではない。恋する女の、捨てる、という行為をめぐっての、実生活に根ざしたモラルの形而上学に他ならない。それはたぶん、宇野千代が嫌がる男を深追いはしない、いわゆる恋愛の武士道だな、と表現した前近代性を抱えつつ、無私であることで近代を超越してしまう。

《食べないの? 美々ちゃん。目の前の男は、私の決意などものともせずに、頬を膨らませて、仏さまの骨を咀嚼するばかりだ。》 いつだって小説の終わりがスタイリッシュな山田詠美だが、この「咀嚼するばかりだ」は、清掃車のテールゲイトの下の緊急停止バーを蹴り回転板を止めることで恋物語がはじまったように、終結させるようで物語を未来へ廻す見得(みえ)である。

 

『風味絶佳』――滲む出る

 小説に誘われて「森永ミルクキャラメル」を買ってみる。なるほど、なんともあたたかなミカン色の箱には「滋養豊富」「風味絶佳」とレトロな字体で印刷されていることにはじめて気づいた。やはり人は見たいものしか見ないのだった。誰かにそれと気づかされるまで網膜を刺激しているはずの光は意味へと結像しない。「ミルクキヤラメル」と大文字の「ヤ」が箱の表にはあるのに、開け口には小文字の「ャ」があり、ほのぼのとええかげんである。「森永謹製」の作為的なたたずまい。「不都合品はお取り替えいたします」であって、「不良品はお取り替えいたします」でないところがなんともいえない。

 本の表題にもなったこの一編こそが山田詠美らしい、赤いカマロに乗るグランマの不二子が魅力的だわ、と誉める女性は多いようだ。実は山田のファンは圧倒的に女性が多い。女子プロレスのファンが男性よりも女性に多い――同性愛的というよりも、なれない私がなりきっているヒロインにおくる応援歌、カタルシスらしい――のに似た構造だろう。私の心の痛みに気づいてくれているお姉さまでもある。

 東京下町育ちの松浦寿輝がある文芸誌で、村上龍の『限りなく透明に近いブルー』が出てきたときに、遅れてきた田舎臭いビートニク小説という感想しか抱けなかった、と発言しているが、山田詠美にもその臭いがする。

 はたして石原慎太郎との対談でこう喋っている。

《石原 風俗がらみでいえば村上龍というのは、やっぱり地方出身でダサイよね。

山田 私も実家が地方にあるんですけど、都会的なものに関して一生懸命敏感になって、無意識なところで、それを自然に見せようとしてやってるっていうような、そういう感じで。》

 村上龍山田詠美とも、フリーターやニートではいられない、ある種きまじめな、何かせずには気がすまない、生き方指南してしまう、ストイックさが似ているではないか。

 それよりもユーモアの質。《若い頃、基地のオフィサークラブでカクテルウェイトレスをしていた祖母は、客のアメリカ人の男と大恋愛をして、結局、相手に逃げられたそうだ。大恋愛というのは、祖母談で、逃げられたというのは、父談である。恋の痛手を抱える妙齢の憂いをたたえた美女に夢中になった祖父は彼女に求婚し、志郎の父が生まれた(祖母談)。捨てられた憐れな女を放っておけずに情けをかえている内に女は妊娠してしまい罠にかかった祖父は結婚する羽目になってしまった(父談)という説もあるが。》 イギリス小説を読むような味わいがあるのは、風俗とゴシップとユーモアが、シュガー・アンド・スパイスをまぶした視点でミックスされているからだ。

 山田は大好きな田辺聖子を読むとき、《しめしめ、これで、また人間が好きになれそう》、《私の心を柔く解きほぐす素敵なものが沢山詰まっている》という気持が溜まってくるというが、田辺聖子の『姥ざかり』の大阪文化に柔くもみしだかれた歌子にくらべ、不二子はいかにカントリーなことか。「必需品」(山田の好きなフレーズ)という若い恋人を引き連れた七十歳のグランマが「そんなこと言っちゃいかーん!」「ビー ア ジェントルマン!」などと開拓民みたいにコミカルに力んでみせるのは淋しさの裏返しのようでもあり、他にも《石の上にも三年って言うだろ》とか《男は、タフで優しくなければ生きられない》とか、ステレオ・タイプさは、案外茶化しているようで本音のリズムが聞きとれる。それに、ガススティションで働く志郎が、顔を見たくもない女ができることで大人になってゆくという設定自体が相当に御目出度いのだが、しめしめ、でもあるのだろう。

「一日に一度は寂しいと思うことって、人を愛するこつだろう?」、「たったひとりにだけ、いたといいいは同じ意味になるんだよ」 モラルは古典的な言葉の汁となって俗から滲み出し、聖なる前衛となってしまうことがある。

《乃里子は、小鉢に入った高野豆腐の含め煮を箸で押した。ほとびた高野豆腐から、出汁が溢れて来る。彼女は、それを口に入れて目を細める。「ゆっくりと手間をかけて煮含めたものっておいしいねえ」》、《しかし、女というのは、何故、自分の恋愛の進行状況を他人に話したがるのだろう。》 ガールズトークとやらは、女から滲みでる文体(思想)なのだ。《彼女の体には何が染み込んでいるんだろう。柔くて甘いもの。昔、祖母が作ってくれたフレンチトーストを思い出す。噛み締めるとミルクとバターが滲み出た。》

 聞く耳を持っているということ。嘘を語る小説家が嘘を語らないということ。視点にこだわる山田詠美は抜き差しならないプライドのアクセルを強く踏む。ある日、志郎はグランマの必需品になぐられる。「この人が、これまで、何人の顔も見たくない奴を過去に残しているのか知ってるのか? おまえが馬鹿すぎて可哀相にすら思うよ。孫だってことで甘えて、何も見ていない」 志郎はグランマに訊ねる。「そんなに顔も見たくない人、沢山いるの?」「いるよ」

「いるよ」のたった一言が、この小説を臭い駄作からかろうじて救う。短編集の中ほどにアレンジされた口なおしのアソート。

 

『海の庭』――掬い取る

 もともと山田詠美は距離感に敏感だ。人と人との関係の距離感、恋愛の男と女の距離感、大人と子供のそれ、肉体と心の距離のずれ、いつだってそれらが物語を生む。小説の視点へのこだわりも、距離感を確かめるための手さぐりだろう。唇と唇、手と手の触覚の距離感にクールでホットな情感を塗りこむことができる作家はそう多くない。

 見えるものと見えないものへの考察とは、触れられるものと触れられないものへの考察でもある。だが、この『海の庭』における距離感は、そういったものとは微妙に違う。時間の距離とでも呼ぶべきか。記憶の中の、時のへだての距離感と名づけてもよい。それを小説にでてくる母の幼な友達、作並くんの引っ越し作業員という仕事が象徴している。引っ越しの時に母が持って行くべきか迷ったデキャンタの役割に似ているのかもしれない。取り除かれるワインの滓とは時間の滓であり、物質化した時間の結晶を分離することがデキャンタージュという行為である。

 離婚してマンションを出てゆく母の荷作りがのろいので、おまかせパックにすればよかったのに、と娘の日向子(ひなこ)は言うが、「人に触られたくないものがいっぱいあったんだろ」と作並くんが言う。実家に戻るのだ。トラックが母の実家に到着した時の作並くんは《視界に入るすべてのものを見ているようでもあり、また、目を見開きながら何も見えていないようでもあった。》

 時間は濾された。距離が量からクオリアに昇華する。純粋さは淫靡さへ変質する。《あの庭から彼を引き離したいという気持が、いつのまにか芽生えていた》、《だって、あの庭を出れば、私は母より、はるかに彼に近い。》

「大人が初恋やり直すって、いやらしくて最高だろ?」 その言葉に日向子は照れた。「ママとキスしたことある?」 答えようとしないので何度もせがんだ。「答えないと死ぬ」「一度だけあるよ」「どこで?」「あの庭の離れで。それからもう、あの庭には行ってない」 三十年も前のことなのだ。今の日向子がその時の母の年齢であれば、どうして日向子が離れでキスをしてはいけなかろう。作並くんはわけしり顔に言う。「もう離れに人がいなくなるのを見計らってた頃のがきじゃない」 がきだよ。日向子は心の中で呟いた。そう、男はいつだって恋愛に関して、どうしようもなくがきだ。

 記憶は水に揺らぐ。ほうせんか、おしろいばな、つゆくさ、いろいろもっと、の色水に染められた記憶が寄せてはかえる器官には、海馬と「海」の字があてられているではないか。『海の庭』には層流、乱流、上昇といった動的なイメージ群ではない秋の海のような静けさが澱んでいる。もはや発見すべき風景などはない。

《鳳仙花で爪を染めていたよね》、《白粉花の蜜を吸ったのを覚えている?》、《露草を洗面器の水の中でつぶして色水を作った》、《それ、飲んじゃったの? と私が口をはさんだら、二人は同時に、飲まないままだった、と呟いた。》 

 水羊羹を――ここは陰翳礼讃な水羊羹でなくてはならない――祖母が運んでくる。作並くんは《ガラス窓がくもると手で水滴を拭う。濡れた手は作業ズボンにこすり付ける。ハンカチを忘れた男子の正しい仕草だ。》 作並くんは「男子」である。いたるところ水のイメージ。《引っ越しは、おれらにとって毎日の仕事だけど、お客さんにとっては人生のでかいイベントだから、きっちりと掬い取ってやんなきゃな、と作並くんは言う。》 日常の側が、いかに非日常の一回性を掬い取れるかが、プロの腕のみせどころではないか。

 戻りたい場所とか、離れてゆくこと、といった距離感もまた地理的というより心理的ロマンであり、ロマンティシズムとモラリストの関係はモンテーニュの時代からあやうい。

《仕事上がりのビールの代わりに、昔作った露草の、甘い色水を、今、飲んでいる。掬い取られたのは母なのか、それとも彼だったのか。私は、ただ傍観するばかり。その色水のお裾分けは、たぶん、永遠にない》、《あの海にいた私に過去も未来もなかった。その時に見ているもの、触れているもの、感じているものだけが、すべてだった。瞬間瞬間に、それらは私をとりこにしていた。》 永遠とか追憶にはいつもの死の影が寄り添っている。飼い猫は弱って庭に落ちて来た蟬をいたぶる。作並くんは言う。母が蜥蜴(とかげ)の尾っぽを切ってるの、おれ、見たことあるよ、また生えて来るっていうから平気だって。蛞蝓(なめくじ)に塩をかけてたのも知ってんだぞ。

《与えられるのが、あらかじめ決まっていたとは、もう思わない。庭も海も、その人だけが作るものなのだ。塩辛さも甘さも自分で味つけをする自由がある。母と作並くんには露草で作った青紫の水があり、私には、ある夏の一日に飲むことを覚えた紺色の海の水がある。それが私の中に停まって、私だけの庭になる。》 処女の短い短いビルドゥングス・ロマン。繊細で残酷な感情。山田の好きなフランソワーズ・サガン『悲しみよ こんにちは』の十七歳の少女セシルの海につながっている。

 山田の田辺聖子に向けた『おせいさんへのラブレター』にこうある。《人を心地良くさせる感情とうのは、とても、ふわふわとしている。うんと悲しいとか、うんと嬉しいというよりも、その中間のせつないとか、なんだか幸せというようなあいまいなものである。それは人生を厳しく見詰める子供の時期をとおり越した大人だけが味わえる感情である。そして、その感情を味わえる小説が、私にとっての大人の小説であり、私の心が得をする小説なのである。》

 

『アトリエ』――満たす

 もちろんこれは造形作家の話ではなく汚水槽の清掃作業員祐二の話である。しかし、《私は、汚物のために美しい居場所を作る芸術家なのです。汚されるのを待ち望む完璧な空間の提供者なのです。》 だから、『アトリエ』という題名がついた。

 水道工事や下水に関連して、液体は流れ、伝わり、満ちる。供給と貯蔵の流体力学がある。量と速度と抵抗のエネルギー学でもある。爾来、よく水を治める者は国を治める者となった。治水には神のごとき能力と奇跡を必要とした。たとえば讃岐の潅漑(かんがい)で名をあげた空海。言葉の天才としての弘法大師空海はいかがわしくなかったか。一方、ベルヌーイは流体を数式化することでアカデミーから疎まれた。現代でも、エントロピーの法則を覆すかのようなプリコジーヌの散逸構造には美と魔術の匂いがする。パリやウィーンの地か下水道は社会の内蔵のようなものだ。必需にして隠すべきもの。死に似ている。だから流体を自在にあやつる者は呪術師にして芸術家、神の代理人といえよう。

 まだ少女と呼んで良いような薄い体と笑顔の予測のつかないとぼしい表情の麻子は、シュークリームの中身を口にすると、おいしくって眠くなるう、と目を細める。《麻子が言うことには、甘くてとろりとしたものの旨さは、量に関係しているとのことです。少量を口にしても駄目らしいのです。息が詰まるくらいがいい》、《プリンをすくったスプーンを口許に持って行った時には、見る間に顔じゅうの筋肉が緩み、だらしない表情になるのです。私は、それが見たくてたまらなかった。だらしない幸せは、憂鬱を流してしまう作用があると思うのです。》 谷崎潤一郎『猫と正造と二人の女』の正造と猫のリリーとのような官能。

 文体的には無用の意味を背負いやすい「ですます」調の一人称で、「語り」というわけでもなく、内面を告白するというわけでもなく、つれづれなるままの流れのイメージがふんだんにある。

 ゆんちゃん。《麻子が自分をそう呼ぶたびに、彼女の中から何かが流れ出て来るような気がします》、《得体の知れない力が、体じゅうに注ぎ込まれて、胸を高鳴らせてしまうのです》、《沈んだ彼女の心は浮子(うき)が付けられたように軽くなるのです。》

 この『アトリエ』の麻子も、『間食』の花も、『海の庭』の母も、オフェーリアのように表層を流れ去り、しかもとりとめなく、ふわふわ、ぷよぷよと、現実味のなさが不気味に思えてくる。暗くて、愛想がなくて、不器用な麻子。麻子に性的虐待をするアル中の父、そのことをなじる母が半殺しにあっているのを止めようとあやまって父を刺し殺した弟、悲観して弟を締め殺した母は首を吊って死んでいた、という苦労話を、なんの理由もないのに、心の中が重くて仕方がない自分自身に納得させるための、これ、願望なんです、と麻子は語ったことがあった。ほんとうのことを語っているのか、ほんとうのことは心の中のこと。

《麻子は、私にされるままになりながら、頼りなく笑いました。その瞬間に半開きになった唇に、私は舌を差し入れ、唾液を流し込みました。出来る限り沢山。唾液は、後から後から湧いて来て、彼女の顔を濡らして行きました。顔じゅうが唾液だらけになってしまったので、今度は、彼女の体じゅうに口を付け、あらゆるところを濡らして行きました。空っぽで落ち着かないのなら、自分の水を入れておいてやろうと思いました。「もう、隙間、ないよ。あたし、ゆんちゃんでいっぱいになってるよ」》 「空っぽ」とか「隙間」とか、読みながら内面へ問いを発してしまう巧みな文章。《夢見るのは、二人だけのために完璧に準備された空間。それを作り上げたいのだと。そこでは、私たちのたてる音以外聞こえない。互いの体しか見えない。他人のまき散らす雑菌など入り込む余地もない。》

 祐二は心のアトリエで作業する。貯水槽のような閉じられた内面を二人で作り上げた気になる。《汗も、唾液も、おれから流れ出るものは、すべて、おまえのものだから。そう伝えて射精した時、私は、ひとつの完璧を作り上げたような気分で、大きく溜息をつきました。》 まだ力の抜け切ったままの麻子をトイレに連れて行っておしっこをさせる。ほうら、二人の水。これは、水質が、とても良い。

 だが、「二人きりの」「二人だけの」「二人の」は、見事に二人のものではなかった。甘くとろんとした生活が、麻子が妊娠した日を境に変調する。「来年の夏まで、おなかん中に何か入れてるなんて重くて気持悪いよお」、《「可愛いに決まってる」 私はそう言いました。綺麗な水に包まれて育つのです。間違いない。私は、自分に言い聞かせました。けれども、封印せざるを得ない何かを感じずにはいられませんでした。》

 おかしな言動が、あまりに多すぎる、と母が小声で教える、お義父さんはアル中だ。お義兄さんがお義父さんを殺しに来ますから戦わなくちゃ。お義母さん、首吊ったらやだもん。「でも、心配することないよ。竹刀の匂い嗅いでたら触ったもん。おなかの中にいるのは、やっぱり、ゆんちゃんだったよ。死んだカラスなんかじゃなかったよ」

 違った角度から読めば、クリステヴァのいう穢れ(アヴジェクション)、清浄/不浄、内部/外部、母なるもの/母になること、といった分離、統合の問題があるだろう。それは前作『海の庭』で内向化していた心と身体の隙間から、精神分析的に顕在化してきたといえるが、いっけんわかりやすそうな、トラウマ、多重人格、パラノイア統合失調症といった過剰な説明で、その「何か」を説明しなかったことで、かえって読者に満ちて来るものがある。

 

『春眠』――絡み合う

 この小説は次のように終わる。《錯覚かと目をこらした瞬間、章造は、昔書いた作文を唐突に思い出して、おかしくなる。やはり、妹の言うように自分は嘘つきだった。けれども、何故だろう、その冒頭の一文を書き直す気が、どうしても、起きないのだった。》

 偏見を持たれがちな火葬場の作業員としての父親。短編集『風味絶佳』は、『間食』の《死体の作り方なら、小さい頃から知っていたよ》で開かれ、『春眠』の淡い恋心を抱いていた大学の同級生弥生と再婚してしまった父親が拾骨するエピソードで閉じる。どれもそうなのだが、とりわけこの短編の死は暗くない。誠実な礼儀正しさといった趣がある。そこにまた章造の複雑な気持ちが存在しうる。

《母の葬儀の日のことは覚えている。父が、斎場の作業員に挨拶した時の様子も、鮮明に記憶に残っている。でも、妹のようには感じなかった。啜り泣く親族の中で、彼だけが礼儀正しく振る舞った。自分は、それを、まるで裏切りのように思ったのだ。この人は死に慣れている。その他大勢の人々の死と母の死を同じように扱おうとしている。今、拾った骨は特別な骨だったんだぞ! そう叫びたいのをこらえ続けて苦しかった。》 非日常は仕事となるとき日常となり、日常はいつでも裏切るものなのだ。

 人は自分の身体のどこに骨を感じるだろうか。それはきっと指。いくつもの骨が透けて感じられる指。結んだり開いたりしてみればわかる。弥生も父も、骨を芯とした指で何かを伝えあっている。システィーナ礼拝堂正面、ミケランジェロによるフレスコ画の、アダムとデウスの指のあいだの距離がこの世のすべてであるような永遠の可視化。《自分が何か重大なものを見逃しているように思えて来る。父と弥生が魅かれ合う元になった何か。男女の関係以前に、もう既に存在していた何か。二人は共有している。自分には到底理解出来ない代物を。》 この「代物」、「何か」こそが『春眠』のみならず『風味絶佳』の問いかけの真骨頂なのだ。

 弥生が言った、「人生って、ままならないもんだねえ」でもあれば、《二人の指の間には。もう既に拾い上げたものがある》でもあれば、《人は誰でも死んだら灰だ。父はつねづねそう言っていた。人間の灰について熟知している彼の言葉には、あまりにも説得力があった。けれども、もしかしたら、灰になっても死なないものを、そこに見ていたのかもしれない》でもある。内省を促す「何か」の多義性、不確実さが、魂(ソウル)の小説を成立させる。

 父、弥生、妹、章造の四人で温泉旅行にでかける。《「今度、またお墓参り行こ! 今日楽しかったこと報告しよ?」 弥生はそう言いながら、父の盃に徳利を傾けた。浴衣の袖から伸びた白い腕に血管が透けている。酌を受ける父の指は骨折り黒ずんで太く、つまみ上げられた猪口が小さな玩具のように見える。青磁に似合わない手だ。それを認めた瞬間、章造の内でずっと抑えていたものが口を突いて出た。「みっともねえ」》 しかし、それは誰に向かう矢なのか。父は、紺のブレザーを着て、白い手袋で仕事する人である。

 メルロ=ポンティの、《身体は世界の前にまっすぐに(・・・・・)立っており、世界はわたしたちの身体の前に立っていて、両者のあいだにあるのは、抱擁の関係である。そして、これら垂直的な二つの存在のあいだにあるのは境界ではなく、接触面なのである》とは父のたたずまいのことであると、もちろん章造は気づきはじめている。自分は接触を避けて、境界を作っていることも。

 妹から、弥生は生まれつき心房中隔が欠けていて、死がいつも隣にあったのではないか、と教えられる。旅行以来の気まずさを引きずっていたある日、弥生から電話がある。遺体の中の取り出し忘れていたペースメーカーが爆発して、作業員が怪我をしたという。おとうちゃん死んじゃう!! もしそうなったら、私も死ぬから。駆けつけてみると、腕に包帯を巻いた父が笑っていた。章造は脱力感に身をまかせたままだった。《父と弥生は、そんな章造を気づかうでもなく、その場に自分たちしか存在しないかのように、指を絡ませ合っていた。》

 弥生は「生きる」を引き受けている。この短編集には頼りなげな、摑みどころのない女たちが沢山でてくるが、語り手を裏切るだけの自我をもった他者として小説を横断する。《他者の身体でも自己の身体でも、人間の身体というものを認識するためには、これを<生きる>しかない――これを貫くドラマを自らのものとして引き受け、それと渾然一体になるしかないのである。だからわたしは、文化によって形成されたものをもつ限りで、わたしの身体である。逆にわたしの身体は、自然的な主体であり、わたしの全体の存在のかりそめの素描である》とメルロ=ポンティが言うように、《このように自己の身体の経験は、反省的な態度の運動とは対立する。反省的な態度では、対象を主体から分離し、主体を対象から分離する。》 山田詠美の文学は「反省的」な文学からは遠い。それは「反省的」な態度と対立し、性悪説ではなく性善説からなる。

 父の郷里では骨を「ほにゃあ」と呼ぶ。これまで郷里の言葉など使ってみせたことがなかった父が退行してゆくかのように弥生に言う。「おめえが死んだら葬儀に出んといけんけえのう。ほにゃあ焼いてやれんどう。それが、ぼっけえ、つれえとのじゃのう」 《もういい。章造は、溜息をついた。あんたたちで好きにすればいい。呆れてしまって言葉もない。一刻も早くここを立ち去りたい、と感じた。いとまを告げようと、顔を上げると、包帯から出た父の指と弥生の指が絡み合うのが、またもや目に入る。芽ぶいたばかりの木々の隙間から落ちる春の陽の下、二人の指の間には、もう既に拾い上げたものがある。》 その物質的かつ非物質的なものの絡み合いこそ、パスカルによる《哲学を馬鹿にすることこそ哲学である》から見えてくるものに違いあるまい。

 

 メルロ=ポンティはゴルトシュタイン『失語症の分析と言語の本質』を、『表現としての身体と言葉』の中に引用した。《人間が言語を使って、自分や仲間たちとの間に生きた関係を構築しようとすると、言語はもはや道具ではなくなる。それは一つの手段ではなく、内密の存在を、わたしたちと世界や仲間たちを結びつける心的な絆を表明し、あらわにするものとなる。》

「きみ」に恋することで、自分なりの「きみ」となった山田詠美は、内密の存在を、心的な絆を、「何か」を、もはや道具ではない言葉と肉体の技術によって、なりわいのごとくあらわにしようと、探究しつづける。

                                (了)

   ***主な引用または参考***

*『現代思想冒険者たち メルロ=ポンティ鷲田清一講談社

*『見えるものと見えないもの』メルロ=ポンティみすず書房

*『知覚の現象学メルロ=ポンティみすず書房

*『メルロ=ポンティ・コレクション』(みすず書房

*『バルト、<味覚の生理学>を読む』ロラン・バルトみすず書房

*『世界の名著 パスカル』(中央公論社

*『大いに盛りあがる 丸谷才一対談集』(立風書房

*『山田詠美対談集 メンアットワーク』(幻冬舎

*『AMY SHOWS』山田詠美(新潮社)

*『北原武夫全集3』柄谷行人解説(講談社

*『悲しみよ こんにちは』フランソワーズ・サガン(新潮社)