文学批評 「『いとしい』くちびる ――川上弘美の口唇論」

 「『いとしい』くちびる ――川上弘美の口唇論」

 

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 川上弘美に誘われて散歩に出る。本の川原に行くのである。

 唇が震える音が聞こえてくる。「ふくふく」「ぼわぼわ」、甘い匂いがしてきて、何か食べたくなり、とりとめもなく幸せな気分になって、わけもなく接吻したい。けれど寄るべなく、境いめがないみたいで不安になる。

 川上の小説の短編でも長編でも、たまたま手にとったひとつを批評してやろうと意気ごむと肩透かしにであい、長く伸びている川上の髪が首に絡みつく。ぐいぐいと締めつけてきて悦楽が訪れる。

 川上弘美の小説世界は、はっきりと口唇的だ。ここでフロイト『性欲論3篇』に立ちかえる気はないが、口唇は境いめであり、周縁部である、というラカンの言説だけは思いおこしておきたい。

 さて、口唇的な四つの視点で川上を読み進めてゆく。どの作品からも引用しうるのだけれど、あえてどれか一冊、『いとしい』に集中してみる。

 第一に、擬声語・擬態語の愛用。「ふわふわ」「ひりひり」「ずんずん」などのことだ。

 第二に、匂い。何ものかは匂いとともに現れる、とりわけ甘い匂いとともに。匂いは臭覚なのにどうして口唇的なのだと問われれば、ブリア・サヴァランの「臭覚と味覚は結局のところ一つの感覚にほかならない」をあげておこう。

 第三に、食の場面が数ページおきにあり、しかも日常的であること。

 第四に、接吻を好む。

 ロラン・バルトは『<味覚の生理学>を読む』で、これら四つが一つのことだとあたりまえのように書いている。《ギリシアに文字をもたらしたカドモスは、もともとシドンの王の料理人であった。言語とガストロノミーとをつなぐ関係のたとえとして、ギリシア神話中のこのしるしをあげておこう。言語能力にせよ食行為にせよ、いずれ同一の器官にかかわるものではないか? 生産的と評価的のちがいはあるが、広くいうなら同一の道具立て――ほお、口蓋、鼻孔――にかかわるものではないか? これらの器官は味覚の役割をつかさどると同時に美しい歌をもたらしてくれるものでもある。食べる、話す、歌う(接吻する、もつけ加えるべきか?)、これらは身体の同一箇所を起源にもつ営みである。》

 

擬声語・擬態語>

 声が聞こえてくる。

 ステロタイプ化されがちな擬声語・擬態語だが、内なる声音が口蓋からもれでるとき、個人を越えた秘密、呪術(シャーマン)的なもの、クロソフスキー『バフォメット』の言霊(ことだま)の吹きこみの生あたたかさ、『チベット死者の書』の再生を避けるために胎をとざそうとするうごめきのようなものが押しよせてくる。

 川上の小説の登場人物はみなゆるい。けだるい。間(ま)のなかにいる。在るのに、不在めいている。けれども唇だけは顫動しつづける。だから、擬声語・擬態語は肉感的で触覚的な音と、ひらがなのABAB形によって読み手に催眠術をかける。

以下、すべて断りがないかぎり、『いとしい』からの引用である。

《「ばか」と言って姉の足の裏をふたたびくすぐると、姉はひゅうひゅういう笑い声をあげてますます汗を垂らした。》

《聞き入る姉の輪郭は、ふるふると揺れているように感じられた。》

《ひやひやしたものが私の中にこみあげてくる。鈴本鈴郎の発散するひやひやしたものの千倍くらいひやひやしたものが、私の中で私をこおりつかせた。》

《赤ん坊の頭でも撫でるように、赤ん坊の頭のてっぺんの、あのゆるいぶかぶかした部分をおそるおそる撫でるように、ていねいに撫でた。》

《音は近づき、居間の扉を開き、見れば新たなものが扉のこちら側に佇んでいるのだった。新たなものは白くふくふくと輝いていた。ふくふくと輝きつつ、ほほえみを湛えていた。》

 字面が小動物のようにちょこまかする。川上はその動きのリズムで読み手を「うそばなし」に引きずりこむ。 こういった文体は稚拙さや猥雑さと隣り合わせなので、よほど肩の力が抜けて知的に熟れていないと書けるものではない。三島由紀夫は品がなくなるから絶対に使わないと力説したのだが、使えない自意識の悲劇であったともいえる。カーニヴァルなのだ、これらのステップは、バフチンカーニヴァルの哄笑と生と死の、軽みのポリフォニーの。

 不気味でさえある。かろやかでメルヘンチックと思いこんでいた擬声語・擬態語が、おどろおどろと古層から長い黒髪のように絡みつき、不安を醸しだす。六道輪廻に絡めとられる、蛇の皮のぬめりの感触。万物の霊が宿る言の葉の響でもある。

 川上は何を聞きとろうとしているのだろうか。もののけはいか。どうやら折口信夫が説くところのまれびとが訪れているらしい。折口が『国文学の発生』になんども稿をあらためては書いた《まれびとは古くは、神を斥(さ)す語であつて、とこよから時を定めて来り訪ふことがあると思はれて居たことを説かうとするのである》のそれである。まれびとは《意義不明なほとほととのへいことことなど言う簡単な唱へ言をして、家々の門戸を歴訪し、中には餅銭などを貰ひ受け、或は不意の水祝ひを受けて、還るのもある》のごとく、「まじなひ」みたいに「こと(言)ほぐ」のだ。折口『日本文学の発生』での《ものゝべものが、霊魂であることに疑問はない》とか、『文学と饗宴と』の「子持ちの神女」の三輪の神の話や羽衣伝説の話とかはみな川上の物語世界におなじみの型であり通底音だ。川上の擬声語・擬態語は、ある種の囃子詞のようであり、『異人と文学と』で引用した「まれびと」うたげの夜の催馬楽、神歌の《たうたうたらり、たらりあがりら、らりたう》という笛の譜や、《あげまきや。とうとう。ひろばかりやとうとう》に繋がるだろう。

 それはときにねとつくほど甘ったるい触感で文体そのものを蕩かす。その水に濡れた感覚は折口『死者の書』の水の垂れる音「した した した」や、「こう こう こう」「つた つた つた」「はた はた ゆら ゆら」と響きあう。

 川上の口唇的な音を耳にする(目にする)たびに、ロラン・バルト『テクストの快楽』の断章がぽうっと浮かんでは消える。《そのテクストを書く時、書き手は乳呑み児と同じ言語活動を行うのだ。命令的で、無意識的で、愛情のこもらない言語活動、吸打音の連続だ(注目すべきイエズス会士ファン・ヒネケンが文字と言語活動の間に設けたあの乳臭い音素である)。それは対象もなしに吸いつく運動であり、食欲と言語活動の快楽を生む口唇性とは区別される未分化の口唇性の運動である。》

 川上の擬声語・擬態語をくりだす唇はバルトの言う声の粒の発生機械であろう。川上は自分という存在の器の肌理を確かめたがっている。そこはかとした存在はどうすれば拠り所を確かめられるのか。存在を皮膚で感じ、感覚を声の粒として聞きとることで安心したがっている。

 その擬声語・擬態語は、四百年近く前に聖テレサが語ったという《言葉には魂(ソウル)に準備をさせ、用意を整えさせ、それを優しさ(テンダネス)へと動かすのです》に類するものであるに違いない。

 

<匂い>

『いとしい』は、あまたの生きものとの交感がまず匂いによってはじまることを教える。それは人の心を支配してしまう、恋のように。川上は二人という関わりを繰りかえし書く。それが男と女の話であれば、愛恋の話となり、女と女、女と生きものであっても、愛恋の話になるのかもしれない。

 一人は別の一人を求めあい、プラトンのアンドロギュノスでありたがる。匂いはプルースト的な通時を示しもするが、川上にとってはむしろ空間を超えて、あまたの生きものに通う夢の浮橋のようである。

《茂みはへんな匂いがした。なつかしいようなぴりぴりするような物思いにふけりたくなるような匂いがしていました。カナリアの腹はこんな匂いかもしれないと思いながら、僕はいつもその灌木の中に座っていた。》

 実のところは、匂いよりは吐く息の濃度が大切なのだ。もののけとは、ものの気配である。

《その夜は眠りが浅く、それはきっと母や姉や私の吐く息がいつもより濃いからなのだった。三人の吐く息は家じゅうを満たし、そのまま細い流れをつくって出ていったにちがいない。濃密な私たちの息は、夜に住むあまたの生きものの眠りをも浅くしたにちがいない。》

 私という固体のようなものが、吐き出す気体に昇華し、すきまを満たしてゆく。すきまがあっては不安なのだ、宇宙はエーテルで満たされていると考えたアリストテレスやスコラ哲学者のように。

 川上にとって初の長編小説となった『いとしい』には、彼女のエッセンスが充満してわんわん唸っている。四つの口唇性はいうまでもなく、他にもいくつかのモティーフが散見できる。

 数に対する偏執。川上はサド、フーリエロヨラの義妹なのだ。整序する。対比し、ある秩序のもとに置く。系統化し、分類したがる。

《ガラスの赤い風鈴がちりりと鳴り、ちりりを十二回まで数えたところで私は眠った。数をかぞえるのは私の習いで、歩くときには電信柱の数をかぞえるし、洗濯物をたたむときにはたたみ曲げる回数をかぞえるし、映画を見るときには画面にあらわれる犬の数をかぞえる。かぞえるものがなくなって手持ち無沙汰(ぶさた)になれば、指を使って二進法の勘定をする。》

 スキゾとパラノイアックは対立するわけではない。どちらも淋しさの変異であろう。

《二番目の父の最初の奥さんは動物好きで、結婚してから飼いはじめた猫が一代目タマ、二代目タマは文鳥で三代目タマは犬だった。三代目タマの寿命が尽きるのとほぼ同時に最初の奥さんも重い病を得、奥さんが亡くなったのち、淋しさをまぎらわすために、二番目の父は四代目タマを飼いはじめたのであった。》

 命名せずにはいられない。タグをつけることで安堵する。それは数や整序の前戯である。

《「これはね、『ひよどり越え』、こっちは『うしろやぐら』」 姉と一緒に眺めてはあれこれ言っていると、二番目の父が背後から来て説明してくれることがあった。わざわざ組みかたに名前をつけるなんて、酔狂だねえ。そんなことを言いながら、二番目の父はていねいに画をめくってはつぎつぎに名前をそらんじた。》

 命名し分類したがるのに、サドやフーリエのように結合し、組み立て、合成することはしない。名前でさえもが境いめが希薄で構造化される前にどろりと溶ける。ここは水の国で百科全書の国ではない。登場人物は数珠のように連鎖するが、それはサド的人間関係の系図でもある。

 マリエの母はチダさんと愛しあい、マリエの姉ユリエはチダさんとセックスしたいと思いこみ、マリエの教え子ミドリ子はチダさんといきいきしたセックスを持ち、ミドリ子の兄紅郎はメリエを抱き、マリエとユリエは絡みあい、紅郎はミドリ子に接吻する。

 名前はつねに交換可能なのだ。交換可能であることの不安からか、近親相姦的感情、ときに同性愛的なそれは父や母ではなく兄や姉に向かう。双生児か分身か多重人格の片われか、スキゾ的エロティシズムが、相互的な交情ではなく一方的な行為としてあらわれる。カフカ『変身』のグレゴール・ザムザと妹の近親相姦的匂い、逃走というよりも出口を求めてのかけずりまわりに似ている。

《そのうちに姉も私の足の裏をくすぐりはじめ、巴の紋のようにお互いを追いかけるかたちになった私たちは、しばらくお互いの足の裏をさわりあいながら笑いころげた。》

 登場人物はしばしば逃げる。社会から土地から人から、ときには自分からも逃げて違う名をまとう。逃げるが閉じこもるためではない。

《紅郎と私が出会って以来四回めの引っ越しを、紅郎は先週行ったばかりだった。最初の引っ越しから四十日後に二回めの引っ越しがあり、百五日後に三回め、それから十二日後に四回めの引っ越しがあったのだ。》

 登場人物は、とりわけ恋人はときに暴力的になり、凌辱をはたらくのだが、蹂躙されることに被虐的な悦びさえ覚えるかのようなのだ。確かめることにきりがない哀しさかもしれない。

《新聞紙に一つ一つ注意深く包んだガラスの容器を部屋の片側に並べてから、新しい部屋ではじめてのセックスを行った。紅郎はいつもよりほんの少しだけ乱暴だった。いったい私はこのように乱暴なものを望んでいるのだろうかそれともなにも考えずに紅郎の思うままに鋳型のようにふるまっているのだろうかというようなことをちらと考えながら、負けずに私も乱暴にふるまった。》

 沈みこむ感覚にエクスタシーを覚える。天上に浮遊するのではなく、六道に落ちてゆく奇妙な心地よさ。

《「あのね、あたしのからだが沼に沈んでいくとき、あたしすごくうっとりした。チダさんとセックスするよりも、沼に沈むほうがずっと気持ちいいことなんだなと思った。このまま長く沈んでいたいって思ってた」》

 非科学的な嘘話を書き連ねているようでいて、川上はデカルトパスカルのように世界を数式化したいと本気で思っているし、リンネかフンボルトのようにあるべきところにあるべきものをはめこみたがる。

《姉は持っていた『材料化学II』を取り出して――それしか持っていなかったので――長柱にかんする実験式を説明してから、演習問題を三問解いてみせた。》 ふと、理科室の匂いがあるのだ。

 

<食>

 ふたたびバルト『<味覚の生理学>を読む』、の夢の章に思い至る。

《食欲は夢と似たところがある。記憶と幻覚とを兼ねそなえているからである。その意味ではむしろ、食欲はファンタスム(幻覚妄想)に近いというべきかもしれない。(中略)夢をさそう食品としては、黒い肉、うさぎ肉、アスパラガス、セロリ、トリュフ、ヴァニラなど。これらの食品は強く、香りがあり、催淫的(アフロディジアック)である。》

カフカと川上とを比較文学してみるとき、「変身」とか「寓話」をキーワードにするほど、もう愚直にはなれない。ドゥルーズガタリは『カフカ マイナー文学のために』でカフカの『断食芸人』に触れつつ、食べることと話すことの相容れなさを提示したが、川上は、食べることと聞くことの相容れなさを書きつらねる。ドュルーズ/ガタリはこう論じた。《食べることと話すこと、そしてさらに、外見にかかわりなく、食べることと書くことのあいだには何らかの分離がある。おそらく、食べながら書くことは、食べながら話すよりももっと容易にできる。しかし書く行為は、ことばを食物と競合できる物に変形する。これは内容と表現の分離である。語ること、そして特に書くことは、断食することである。カフカは食物――それは特に動物または肉であるが――と、肉屋・歯、汚ない歯または金メッキの歯に対するたえまない偏執を示している。》

 けれども川上の偏執は違う対象に向かう。歯で噛むのではなく、吸うか飲むであり、皮への偏執がある。

《ミドリ子は牛乳の膜を匙(さじ)ですくって、しばらく眺めたあとで食べた。「栄養になるんだ、これ」》

 口唇的なものは、表層そのものである膜で覆われた袋という形にたどりつく。『いとしい』のオトヒコくんは半透明の膜のようなものに包まれて静かに寝息を立て、休眠してしまう。オトヒコくんとの会話が姉によみがえる。

《「皮の儀式?」 「そう、皮の儀式。皮を捧(ささ)げるんだよ」 「皮って、何の皮」 「ひらきにした魚を焼くでしょ。表面が固くほどよく焼ける、焼けたその表面をひらりと剥がすと、背骨全体と表面のほどよく焼けた身が一緒にとれる、それを皮っていう」  「じゃ、ほんらいの魚の皮じゃないのね」 「そう。身だけどね、皮って言うことにする」 「その皮で何の儀式?」 「いちばんおいしい部分だからね、捧げるんだ、最愛の人に」》

 メルロ=ポンティ『見えるものと見えないもの』における『絡み合い――キアスム』の文は川上の深層に触れていないか。《わたしの手が、自分の触れるものの間で場所を占め、触れられるものの一つとなる。わたしの手は自分がその一部をなす<触れられるものの存在>の世界へと開くのである。わたしの手において、<触れるもの>と<触れられるもの>がこのように交差することで、手に固有の動きは、それが問い掛ける宇宙と一体化し、その宇宙と同じ地図の上に描き出されるようになる。》

 上唇と下唇も似たような関係にある。お互いを意識することなく触れあって、おのずと何かを受け容れるべく開いてゆく。受け入れるもの、それは名前であろう。川上はあきらかに名前にこだわっている。食の「おしながき」がレパートリーに富んでいるのは、少しでも多くのものを名づけたいからであり、よって名前の重複を慎重に避けている。すべてのものに名前を与えるものを一神教の神とすれば、すべてのものにあらかじめ名前があって、それゆえに名前が絶対的ではなく、交換可能でさえあるものを多神教の神とするならば、川上の唇は後者のために開かれている。

 宮崎駿千と千尋の神隠し』のアニミズムとの類縁性はここにある(千尋は湯婆婆に名前を奪われて千という名で支配されそうになる)。一方、違いはといえば、千尋の父と母がむさぼり食いつつ豚に変身してしまうことや、カナオシがご馳走を食い荒らしては吐き出すといった、内臓的感覚を喰い尽くそうとする資本の論理への風刺があるのに対して、川上のそれは表皮的感覚であり、社会風刺的なコノテーション、メッセージを背負おうとはしていない。

 ミドリ子が匙ですくった牛乳の膜をあっさり食べてしまうように、川上には食へのおぞましさ(アブジェクシオン)がみうけられない。クリステヴァ『恐怖の権力』の、《食物への嫌悪は、棄却作用(アブジェクシオン)の形態のうちでも一番基本になる、最も原初的(アルカイック)なものであろう。たばこの巻き紙のように薄く、爪の切り屑のようにろくでもない、ミルクの表面に張った無害な薄膜が眼にふれ、唇に触れたとたん、声門が、いやまだもっと下方の胃や膜や内臓がひとつ残らず痙攣し、そのために身体は引きつり、涙と胆汁がこみ上げてきて心臓は動悸を打ち、額と手に玉のような汗が滲み出る》というようなことはない。アブジェクシオンとはつまり、クリステヴァが『聖書を読む』で指し示したように《主体の境界の不確実(自我/他者、内/外)を表明している恐怖症や精神病の症候は、母に対するこの攻撃的な魅力を含んでいる》という意だが、境界の不確実性はあらわだが、母には向かわない。境界性の欠如は食へ及び、混ぜごはんを食べさせたがる。

《しかしそういえば姉は小さいころから何でもごはんに混ぜて食べるのが好きだった。 醤油。しらすぼし。おかか。バター。マヨネーズ。皿に残った肉汁。長くたってしなしなになったサラダの具。鍋物の翌日の残りつゆ。みそ汁。みそ汁の実だけ。ごま。もみのり。豆。卵の黄身。木の実。ときどきは庭に咲いている花のはなびら。そんなものを大事にとっておいて、熱いごはんに混ぜて食べる。》

 食べることはただそれだけで悦びであると教えてくれる、何ひとつ出来事らしいことが起きなくても食が読む悦びを与えてくれる。それは芭蕉のいくつかの食の句に通じるだろう。たとえば、「梅若葉鞠子(まりこ)の宿のとろろ汁」、「木のもとに汁も鱠(なます)も桜」かな」、「水無月(みなづき)や鯛(たひ)はあれども塩くじら」、「蒟蒻(こんにゃく)のさしみもすこし梅の花」の軽みとともに。

 食についても『いとしい』は象徴的であり、ときにサドのリベルタンたちの食のように数にとらわれて放蕩かつ怪物となる。

《一回めは夜明けと共に、二回めは家の人たちの朝食と一緒に、三回めは給食の時間に、四回めは学校から帰るとすぐさま、五回めは家族の夕食にあわせて、六回めは真夜中の十二時に。》

 川上の食の描写、筆致は読む人の記憶に働きかけて、読む人ひとりひとりの思いのままに勝手きままな情景をかもしだしているだけ(のはず)である。じっと見ているようで見ていないという感覚は、川端康成を連想させる。川端のあのぎょろりとした眼は箸で突き刺すように対象を見ているようで、実は何も見ておらず、鏡の中の虚像としての男のイマージュにしかすぎないと言われる。川端もまた輪郭や境界のけじめが不在であるとともに、宙ぶらりんな関係の不可能性とその無常の美について繰りかえし書かずにはいられなかった。晩年の内容の空疎さ、見すぎた人間は見ないことで生を続行し、その結末は未完成となった『たんぽぽ』の人体欠損症で象徴化された。

 しかし川端が「一人でいざるをえない」生き方であり、骨董を見るような、白磁に近い、モノ=フェティッシュであるのに対し、川上は「二人でいたい」と淋しがり、織部に近い、ぬくもりの形代(かたしろ)とともにある。

 そしてふたたびメルロ=ポンティ『見えるものと見えないもの』の美しい考察は、川上の食の、写実的ではないにもかかわらず私たちが見てしまう現象のたたずまいに違いない。

《わたしたちの回りにある見えるものは、それ自体で安らいでいるように見える。わたしたちの視覚は、こうした事物の核心で形成されるかのようであり、見えるものからわたしたちに向かって、海と汀のような親しいつき合いが形成されるかのようである。それでいて、わたしたちが見えるものに溶け込むことも、見えるものがわたしたちのうちに移ってくることもできない。そうなれば、見る者が消滅するか、見られるものが消滅してしまい、視覚はそれが生まれると同時に姿を消してしまうだろう。》

 

<接吻>

 接吻がとめどない。接吻のためにセックスはあり、接吻ではじまり、接吻で終わる。苦行めく。もともと口唇愛は果てがなく、きりがなく、到達、獲得、支配、同一化の不可能性のそのさきを接吻に要求している。

 死にいたる狂気の匂いさえあるかのようだ。

《「これでも満足できないの」オトヒコくんが恋人を胸に抱き寄せて静かに接吻しても、恋人は、 「まだまだまだ」をやめません。 「どうすればいいの」オトヒコくんはため息混じりで聞きました。 「わからない」恋人は半分泣きそうになりながら答えます。》

 川上は接吻で境いめを失くしたいのか。理科の実験の時間、でんぷんとヨードで紫に染色された植物の二つの細胞が触れあって、境いめの膜が破裂するように溶け、一つの細胞になってしまう瞬間を視たように、あるいは卵子精子が突入した受胎の瞬間の映像のような、まぐわう接吻。

《部屋に行かなくなると、いだきあうこともなくなる。ものかげで、すばやく接吻を交わすことはなかったが、からだの輪郭がなくなってお互いが混じりあっていくような、あのやすらかな時間を持つことは、久しくなくなっていた。》

 接吻は見ることと対立している。見る者でなくなる時、接吻に没頭できる。プルーストの、あのアルベルチーヌへの接吻の描写はそのことの長い解析であった。だが、肉体の細部をプルーストの話者のようには解剖学的に見ない川上であるから、目をつむって思う存分に接吻すればよいのに、名づけなくては恐怖を覚えるゆえか、登場人物は窃視するかのように目を見開いたまま接吻する。

《特別で、と言ってから、チダさんはミドリ子に接吻しはじめた。紅郎がはじかれたように立ち上がる。鈴本鈴郎がひゅうとはえたように立ち上がる。 「こつですよ、これが」 さらに接吻する。ミドリ子は目を大きく開いたままだった。接吻が終わらない。》

 ときには薄目したまま。

《降りそそぐような接吻の合間に、私は一度目を開けた。紅郎は薄く目を開けていた。 見つめあうというのとはちがう様子で、私と紅郎は薄目したまま接吻を交わした。やめる機会を失い、いつまでも私たちはお互いの顔に接吻を降らせあった。薄目したまま。》

 そのさきに進めない接吻は、時間を忘れさせ、乳児のおしゃぶりのように必死である。また、接吻そのものが目的になるとき、同性愛的傾向に流れる。男/女の境いめとて確固としたものではないのだから。

 いまさらのことだが、接吻は口という周縁部が他者の周縁部を求める行為である。境いめまでゆき、もがく。川上の口唇性も、ラカンの《性感帯は縁という構造によって特徴づけられるような部分においてしか認められない》や、《新生児にならんとしている胎児を包む卵の膜が破れるたびごとに何かがそこから飛び散るとちょっと想像してみてください。卵の場合も人間、つまりオムレット、薄片の場合も、これを想像することはできます》や、《薄片は、性感帯に、つまりは身体の開孔部の一つに付着することになります。それはつまり、これらの開孔部が無意識の裂け目の開閉に結びついているからです》といった言葉とつながっていて、見ることや言葉による救済や幻覚をこそ欲望しているといったラカン的解釈とトポロジカルに結びついてゆき、川上の壺の深い闇に気づかされる。

『いとしい』以後の作品、『センセイの鞄』や『龍宮』では、唇が乳房を指向しはじめている。それもまたラカンの《口唇欲動へ移りましょう。これは何でしょうか。食い尽すこと、つまり自らを(に)食わせる》という幻想のことが言われます。これは口唇欲動の愛他主義化された用語であり、これがありとあらゆるマゾヒズム的な意味合いと境を接していることは誰もが知っています。しかし、なぜもっと追い詰めないのでしょう。我われは乳児と乳房のことを念頭においているのであり、授乳とは吸うことなのですから、口唇欲動とはまさに「自らに(を)吸わせること」、つまり吸血鬼です》の乳房へと到らせる。

 乳を激しく吸うというよりも歯で噛みさえする。そうして排泄行為すらあらわれる、まるで肛門欲動がはじまったかのように。川上弘美はどこに向かってゆくのだろうか。

                                  (了)

 ***主な引用または参考作品***

ロラン・バルト『<味覚の生理学>を読む』(みすず書房

ロラン・バルト『サド、フーリエロヨラ』(みすず書房

ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリカフカ マイナー文学のために』(法政大学出版局

*モーリス・メルロ=ポンティ『絡みあい――キアスム(『見えるものと見えないもの』)から』(筑摩書房

ジュリア・クリステヴァ『恐怖の権力<アブジェクシオン>詩論』(法政大学出版局

ジュリア・クリステヴァ『聖書を読む』(『現代思想』1983.5 青土社

ジャック・ラカン精神分析の四基本概念』(岩波書店