文学批評 「三島由紀夫『女方』の「幻滅と嫉妬と破滅」」

  「三島由紀夫女方』の「幻滅と嫉妬と破滅」」

 

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《雪はコンクリートの暗い塀を背に、見えるか見えぬかといふほどふつてゐて、二三の雪片が樂屋口の三和土(たたき)の上に舞つた。

「それぢやあ」と万菊は増山に會釋をした。微笑してゐる口もとが仄かに襟巻のかげに見えた。

「いいのよ。傘は私がさしてゆくから。それより運轉手に早くさう言つて頂戴」

 万菊は弟子にさう言ひつけて、自分でさした傘を、川崎の上へさしかけた。川崎の外套の背と、万菊のモヂリの背が、傘の下に並んだとき、傘からは、たちまち幾片(いくひら)の淡雪が、はねるやうに飛んだ。

 見送つてゐる増山は、自分の心の中にも、黒い大きな濡れた洋傘が、音を立ててひらかれるのを感じた。少年時代から万菊の舞臺にゑがき、幕内(まくうち)の人となつてからも崩れることのなかつた幻影が、この瞬間、落した繊細な玻璃(はり)のやうに、崩れ去つて四散するのが感じられた。『俺はやつとここまで來て幻滅を知つたのだから、もう芝居はやめてもいい』と彼は思つた。

 しかし幻滅と同時に、彼はあらたに、嫉妬に襲はれてゐる自分を知つた。その感情がどこへ向つて自分を連れてゆくのかを増山は怖れた。》

 

 三島由紀夫女方』の末尾である。この場面は『女方』第一章の次の文章と照応するだろう。

 

《「妹背山」の御殿で、万菊の扮するお三輪が、戀人の求女(もとめ)を橘姫に奪はれ、官女たちにさんざんなぶられた末、嫉妬と怒りに狂はんばかりになつて花道にかかる。と、舞臺の奥で、「三國一の聟取り済ました。シャンシャンシャン。お目出たう存じまする」といふ官女たちの聲がする。床(ゆか)の浄瑠璃が「お三輪はきつと見返りて」と力強く語る。「あれを聞いては」とお三輪が見返る。いよいよお三輪が、人格を一變して、いはゆる疑着(ぎちやく)の相をあらはす件(くだ)りである。

 ここを見るたびに、増山は一種の戦慄を感じた。明るい大舞臺と、きらびやかな金殿(きんでん)の大道具と、美しい衣裳と、これを見守る數千の觀客との上を、一瞬、魔的な影がよぎる。それはあきらかに万菊の肉體から發してゐる力だが、同時に万菊の肉體を超えてゐる力でもある。彼のしなやかさ、たをやかさ、優雅、繊細、その他もろもろの女性的な諸力を具へた舞臺姿から、かうしたとき、増山は、暗い泉のやうなものの迸(ほとばし)るのを感じる。それが何であるかはわからない。舞臺俳優の魅力の最後のものであるあの不可思議な惡、人をまどはし一瞬の美の中へ溺れさせるあの優美な惡、それがその泉の正體だと増山は思ふことがある。しかしさう名付けても、それだけでは何も説き明かされない。

 お三輪は髪を振りみだす。彼女のかへつてゆく本舞臺には、彼女を殺すべき鱶七の刃が待つている。

「奧は豊かに音樂の、調子も秋の哀れなり」

 お三輪が自分の破局へむかつて進んでゆくあの足取には、同じやうに戦慄的なものがあつた。死と破滅へむかつて、裾をみだして駈けてゆく白い素足は、今自分を推し進めてゐる激情が、舞臺のどの時、どの地點でをはるかを、正確に知つてゐて、嫉妬の苦しみのなかで欣び勇みながら、そこへ向つて馳せ寄るやうに思はれた。そこでは苦悩と歡喜とが豪奢な西陣織の、暗い金絲の表と、明るい絲のあつまる裏面とのやうに、表裏をなしてゐたのである。》

 

 両者に共鳴する「幻滅と嫉妬と破滅」は、「美とナルシシスムと悪」という三つの要素の複合体と表裏を織りなす三島文学のエッセンスに違いない。

 

 昭和24年に『中村芝翫(しかん)論』を書きあげていた二十四歳の三島由紀夫(大正14年(1925年)1月14日生まれの三島由紀夫は、「昭和」とともに歩んだ人だった。なぜなら、翌大正15年は12月25日をもって昭和元年となり、正月を迎えるとすぐに昭和2年になったから、昭和の年数を数えること、それは三島の年齢を数えることに等しかった、少なくとも昭和45年までは)が、はじめて成駒屋本人に逢ったのは、昭和26年4月六世中村歌右衛門襲名の半年後の11月と遅かった。

 

<六世中村歌右衛門三島由紀夫対談>

『マクアイ・リレー対談――中村歌右衛門氏・三島由紀夫氏対談』(「幕間」昭和33年5月)というのがあって、三島の短編小説『女方』の複雑な感情の理解となる。

《 「お軽の扮装で初対面」

司会 先生の歌右衛門贔屓(びいき)というのは、有名ですけれども、いつ頃から。

三島 とにかく楽屋に伺うようになる前が随分長いんですよ。それで僕が芝居を初めて観たというのは、中学に入った十三の年なんです。羽左衛門(うざえもん)と六代目(菊五郎)の「忠臣蔵」の時。小学校の間は、芝居を観ると教育に悪いというので、観せてくれなかった。それで初めは俳優さんの名前もよく知らないし、歌右衛門さんのことも、余り印象に残っていないのですが、その後、例えば「鏡獅子」の“胡蝶”に梅幸さんと一緒に出ていらしたのなどは、拝見しているわけですよ。それでだんだん贔屓が出来て、いろいろ踊りの役なんかで、きれいだなと思っていた。いつから本当にファンになったのかしらね。やっぱり戦争が済んだ後の、東劇の「千本」(義経千本桜)の道行(みちゆき)かもしれないな。

歌右衛門 高麗屋さんの時ですか。

三島 そうそう、高麗屋さんの忠信(ただのぶ)でね。他には「寺子屋」とか、吉右衛門の「佐倉宗五郎」が出たでしょう、あの時の道行は一番決定的でしょうね。時代が転換して、本当に新らしい時代になって、みんなが華やかなものに憧れていた時に、パッと出たという感じがしたのが、あの道行の静(しずか)でしょうね。それからはもっぱら成駒屋さんを観に行くというふうにしていて、僕は初めは楽屋には絶対行かない、といっていたのですよ。舞台のイメージだけでね。そのうちにある時「文芸」という雑誌が「成駒屋さんに会ってくれ」「それなら扮装したところでお目に掛かりましょう」といって、道行のお軽の紫の矢絣(やがすり)着て、かつら付けたところに行って、歌右衛門さんと握手したかなんかだったな。

司会 いつ頃ですか。

三島 襲名してからですね。「新歌右衛門丈と会う」ということだったから……。それまで盛んにワイワイ観ていたのが、三越劇場時代です。それからだんだん親しくしてもらって、「地獄変」なんか書いたでしょう。「鰯売(いわしうり)」とかね。僕としてはあくまでファンの気持でというのが建前で、楽屋に行っても、ためにするために楽屋に行きたいとは思わないな。いわゆる劇作家としてでなく、全くファンの気持で部屋にも行かしてもらったし、友達にもしてもらう、将来もその気持で付合いたいのです。

司会 先生はやっぱり舞台のイメージを壊したくないという……。

三島 そういう気持だったのですがね。というより、歌舞伎の楽屋というものに、世間の人が持つような恐怖心があったから。つまりどういう不思議なところか、どういう特殊なところか、とても恐いような気がしていたのです。成駒屋さんに限って、そういうイメージが裏切られるということはなかった、と思っていますがね。僕が「中村芝翫(しかん)論」を書いたのは、なんという雑誌だったかな、今は勿論ない雑誌だけれども、あんたの芝翫時代でしたね。》

 中村歌右衛門は大正6年(1917年)1月20日生まれなので、三島の八歳年上であるにも関わらず、この昭和33年の対談時には、三島が歌右衛門を「あんた」と呼ぶ関係になっている(歌右衛門が三島を「先生」と呼んでいるのは歌舞伎台本を書き、演出していたからであろう)。

「お軽の扮装で初対面」のあと、小説『女方』の演出の場面を連想させる「大時代な本読み」があり、「鏡花作品は楽しみ」「武智鉄二の仕事」「愛着は「大内実記」に」、そして「歌右衛門 女の人に近ければ近い程、私は魅力がないと思うの。歌舞伎である以上、女の人になるべく近付こうとする演出やお化粧なら、私はしない方がいいと思うの」「三島 勿論、そう。戦後の若い女形の間違いというのは、そこから来ていると思うんだ。」と女形の魅力について二人の意見が一致する「女と女形」があって、「飽くまでファンの立場」と対談は続く。

 出会いをお膳立てした「文芸」に発表した短文『新歌右衛門丈のこと』(「文芸」昭和27年1月)を読むことができる。

《日ごろさしもの鉄面皮の僕が、歌右衛門丈の前に出て初対面の挨拶をすると、体は固く、言葉は自在を欠くやうに思はれた。僕は丈の年来のひいきであり、時花(はやり)言葉でいふと、一辺倒のファンである。今まで何度か人に丈の楽屋へ誘はれたことがあるが、その舞台上の幻影がほんのわずかでも崩れるのがおそろしさに、つい対面の折を逸して来た。今度は扮装のままといふことだつたので、やうやく丈を訪ねる勇気が出たのである。

 さう言ふと、ばかに勿体(もつたい)ぶつてゐるやうにきこえるが、僕は丈の雪姫や八重垣姫や墨染を、この世ならぬ美、歌舞伎の妖精(えうせい)だと考へつゞけてゐたかつたのである。

 逢つてみる。決して幻影は崩れない。

 それから五日たつた。却(かへ)つて幻影は鞏固(きようこ)になり、正確になつた。僕があの短かい逢瀬のあひだ、失礼ながら丈の内部に想像したものは、今は滅びた壮大な感情のかずかず、婦徳や嫉妬や犠牲や懊悩や怨恨の、今の世に見られない壮麗な悲劇的情熱のかずかずであつた。》

 どこにでもいる世間のファンの気持が汲みとれるが、にも拘らず三島は「決して幻影は崩れない」と「壮麗な悲劇的情熱」の二つともを卑俗に否定した複雑な感情を題材に『女方』を仕立てあげたというわけだ。

 

 三島の『女方』執筆前後の、歌右衛門をめぐる歌舞伎関連を年譜で整理すれば、芝翫歌右衛門)論を発表後、楽屋で初対面、その後は松竹の依頼を受けて歌右衛門に当てたいくつかの歌舞伎を書き、演出もし、舞台上演している。

中村芝翫論』(昭和24年、「季刊 劇場」)。

『新歌右衛門のこと』(昭和26年4月、「六世中村歌右衛門襲名 歌舞伎座プログラム」)。

 歌舞伎座楽屋で初対面(昭和26年11月、「忠臣蔵 道行」お軽の扮装のままの歌右衛門と)

地獄変』(昭和28年12月、歌舞伎座)。

『鰯売恋曳網(いわしうりこいのひきあみ)』(昭和29年11月、歌舞伎座)。

『熊野(ゆや)』(昭和30年2月、歌舞伎座)。

『芙蓉露大内実記(ふようのつゆおおうちじつき)』(昭和30年11月、歌舞伎座)。

小説『女方』(昭和32年1月、「世界」)。

『むすめごのみ帯取池(おびとりのいけ)』(昭和33年11月、歌舞伎座)。

 豪華本写真集『六世中村歌右衛門三島由紀夫編、『六世中村歌右衛門序説』所収(昭和34年9月、講談社)。

 四世鶴屋南北作『桜姫東文章(さくらひめあずまぶんしよう)』の復活台本監修(昭和34年11月、歌舞伎座)、歌右衛門の桜姫。

 最後の歌舞伎作品『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』(昭和44年11月、国立劇場)は歌右衛門のためではなかった。

 

<小説『女方』>

女方』は、「世界」昭和32年1月の初出で、翌昭和33年に、『橋づくし』『施餓鬼舟』『急停車』『博覧』『十九歳』『女方』『貴顕』の六編からなる短編集『橋づくし』として刊行された。

「あとがき」には、三島らしく韜晦の滲む注文がある。《「女方」は俳優の分析であり、「貴顯」は藝術(げいじゆつ)愛好家の分析である。前者の主人公は女性的なディオニュソスであり、後者の主人公は衰退せるアポロンである。この二篇はいはば對(つい)をなしてをり、一雙(さう)の作品として讀(よ)まれることを希望する。》 

 昭和43年の文庫自選短編集『花ざかりの森・憂国』では、著者「解題」として、《『女方』に扱った役者の世界の、壮大な卑俗と自分本位》とアイロニカルなコメントを残している。別の文庫自選短編集『真夏の死』に収められた『貴顕』については、《歴然たるモデルがあり、作中に明示しているように、私の少年時代の思い出のモデルを、できるかぎり抽象化して、ウォルター・ペイターのイマジナリイ・ポートレイトの技法に倣って、描き出そうとした短編である》としているが、『女方』については「役者」のモデルについての言及はない。

 いったい、「役者」のモデルが六世中村歌右衛門であることがあからさまな『女方』はどういう作品なのだろうか。歌右衛門を想定して歌舞伎台本を書いていた三島が、いくら小説という文芸作品のなかとはいえ、揶揄したとしか思えない『女方』を発表した。しかし、それを歌右衛門が怒ったという徴候が、いくつかの対談(三島、歌右衛門、演劇人によるさまざまな対談)にあたっても見当たらないばかりか、そもそも『女方』という小説などどこにも存在しない幻であるかのように誰の口の端にも上らない。

 ここで、小説『女方』の筋立てを、なるべく原文を引用する形でみてゆく。というのは、『女方』の文体そのものが女形万菊の存在そのもの、肌触りだからである。

(だがその前に、「女方」なのか「女形」なのか、表記の混乱を解いておきたい。渡辺保『歌舞伎のことば』によれば、《今は女形と書くが、古くは女方と書く。この「方(かた)」は立方(たちかた)(踊り手)、地方(ぢかた)(伴奏者)、囃子(はやし)方(鼓や太鼓、笛の演奏者)、あるいは道化方(三枚目の役者)の「方」と同じで、その部署を担当する者という意味である。すなわち女方といえば、女性の役を担当する役者という意味になる。それがいつ頃から女形になったのかはよくわかっていない。しかしどうしてそうなったのかは興味深い。女形の歴史のなかで「方」(機能)から「形」(フォーム)への変化があったに違いないからである》とあり、戸板康二も同様である。三島が「女形」ではなく「女方」を使用した理由はわからないが、ここでは、一般表記としては「女形」を用い、引用文の表記が「女方」の場合はそれに従うこととする。)

 

(一)増山は佐野川万菊の藝に傾倒してゐる。國文科の學生が作者部屋の人になつたのも、元はといへば万菊の舞臺に魅せられたからである。高等學校の時分から増山は歌舞伎の虜(とりこ)になつた。佐野川万菊は今の世にめづらしい眞女方(まをんながた)である。花やかではあるが、陰濕であり、あらゆる線が繊細をきはめてゐる。力も、權勢も、忍耐も、膽力も、智勇も、強い抵抗も、女性的表現といふ一つの關門を通さずしては決して表現しない人である。ただやみくもに女を眞似ることで得られるものではない。たとへば「金閣寺」の雪姫などは、佐野川屋の當り役で、増山は一ト月興行に十日も通つた記憶があるが、何度重ねて見ても彼の陶酔はさめなかつた。佐野川屋の舞臺には、たしかに魔的な瞬間があつた。その美しい目はよく利いたので、花道から本舞臺を見込んだり、本舞臺から花道を見込んだり、あるひは「道成寺」でキッと鐘を見上げたりするときの目には、目づかひ一つで觀衆の全部に、情景が一變したかのやうな幻覺を起させることがよくあつた。「妹背山」の御殿で、万菊の扮するお三輪が、戀人の求女(もとめ)を橘姫に奪はれ、官女たちにさんざんなぶられた末、嫉妬と怒りに狂はんばかりになつて花道にかかる。いよいよお三輪が、人格を一變して、いはゆる疑着(ぎちやく)の相をあらはす件(くだ)りである。お三輪は髪を振りみだす。彼女のかへつてゆく本舞臺には、彼女を殺すべき鱶七の刃が待つている。死と破滅へむかつて、裾をみだして駈けてゆく白い素足は、今自分を推し進めてゐる激情が、舞臺のどの時、どの地點でをはるかを、正確に知つてゐて、嫉妬の苦しみのなかで欣び勇みながら、そこへ向つて馳せ寄るやうに思はれた。

 

(二)増山が作者部屋の人となつたのは、歌舞伎の、わけても万菊の魅惑に依ることは勿論だが、同時に、舞臺裏に通暁することなしには、この魅惑の縛しめからのがれられないと思つたためでもあつた。人ぎきに舞臺裏の幻滅をも知つてゐて、一方では、そこに身を沈めて、この身一つに本物の幻滅を味はひたいと思つたためでもあつた。しかし幻滅はなかなか訪れなかつた。舞臺の万菊に魅せられたのは、増山は男であるから、あくまで女性美に魅せられたのであることはまちがひない。が、この魅惑が、樂屋の姿をまざまざと見たのちも崩れないといふのはふしぎである。それは、それ自體としてグロテスクであるかもしれない。が、増山の感じた魅惑の正體、いはば魅惑の實質はそこにはなく、從つてそこでもつて彼の感じた魅惑が崩壊する危険はなかつた。舞臺の女方の役のほてりが、同じ假構の延長である日常の女らしさの中へ、徐々に融け消えてゆく汀のやうな時、その時、もし万菊の日常が男であつたら、汀は斷絶して、夢と現實とは一枚の殺風景なドアで仕切られることになつたであらう。假構の日常が假構の舞臺を支へてゐる。それこそ女方といふものだと増山は考へた。女方こそ、夢と現實との不倫の交はりから生れた子なのである。

 

(三)万菊が人にものをたのむときの、尤もそれは機嫌のよいときのことであるが、鏡臺から身を斜(はす)にふりむいて、につこりして軽く頭を下げるときの、何とも云へぬ色氣のある目もとは、この人のためなら犬馬(けんば)の勞をとりたいとまで、増山に思はせる瞬間があつた。さういふと万菊自身も、自分の權威を忘れず、とるべき一定の距離を忘れてゐないながらも、明瞭に自分の色氣を意識してゐた。これが女なら、女の全身の上に色氣の潤んだ目もとが加はるわけであるが、女方の色氣といふものは、或る瞬間の一點の仄(ほの)めきだけが、それだけ獨立して、女をひらめかせるものであつた。万菊は軽く會釋(ゑしやく)をして、弟子を連れて、先に廊下へ出て、増山のはうへ斜(はす)かひにふりむいて、につこりしながら、もう一度會釋をした。目尻に刷いた紅(べに)があでやかに見えた。増山が自分を好いてゐることを、万菊はよく承知してゐると増山は感じた。

 

(四)増山の属する劇團は、十一月、十二月、正月と、同じ劇場に居据ることになり、正月興行の演目が、早くから取沙汰された。その中に或る新劇作家の新作がとりあげられることになり、この作家は若さに似合はぬ見識家で、いろいろな條件を出し、増山は作家と俳優との間のみならず、劇場関係の重役との間をも、複雜な折衝を通じてつないでゆくことで多忙を極めた。劇作家の出した條件の一つに、彼の信頼してゐる新劇の或る若い有能な演出家に、演出を擔當させるといふ一條があり、重役もそれを呑んだ。新作は「とりかへばや物語」を典據にした平安朝物で現代語の脚本であつたが、重役はこの新作については奧役(おくやく)に委ねることをしないで、若い増山に一任すると言つた。演出家の川崎は定刻に遅れた。年若な俳優の多い新劇畑で育つたものは、素顔で並ぶと堂々たる貫禄の年輩の俳優ばかりの歌舞伎役者に、馴染んでゆくのが容易ではない。事實、打合せ會に並んだ大名題(おほなだい)の役者たちは、無言の、慇懃な態度で、どことはなしに川崎に對する軽侮の氣持を漂はせてゐた。万菊は、矜(ほこ)りを秘めてつつましく控へ、侮る様子がさらになかつた。

 

(五)抜き稽古がはじまつてみると、果して川崎は、西洋人が紛れ込んで來たやうなものであることが、みんなにわかつてしまつた。川崎は歌舞伎のかの字も知らなかつた。そばで増山が歌舞伎の術語の一つ一つを説明してやらなければならない。かういふことから、川崎は大そう増山をたよりにするやうになつた。十二月興行の千秋樂のあくる日から、いよいよ顔を揃へた立稽古がはじまつた。川崎と俳優たちの間にはしばしば火花が散つた。「ここは、どうも、立上れないところですがね」「何とかして立上つて下さい」 苦笑ひをしながら、川崎の顔は、みるみる矜(ほこ)りを傷つけられて蒼ざめてくる。「立上れつて仰言つたつて無理ですな。かういふところは、じつと肚に蓄(た)めて物を言ふところですから」 そこまで言はれると、川崎は、はげしい焦躁をあらはして、黙つてしまふ。しかし万菊のときはちがつてゐた。川崎が坐れと言へば坐り、立てと言へば立つた。水の流れるやうに、川崎の言葉に從つた。万菊が、いかに氣の入(はひ)つてゐる役だとはいへ、いつもの稽古のときと可成ちがふのを増山は感じた。右手の壁ぎはに万菊が端坐してゐる。目がいかにも和(な)いで、やはらかな視線が、川崎のはうへ向いて動かうともしない。……増山は軽い戦慄を感じ、入らうとしてゐた稽古場に入りかねた。

 

(六)「さうでせうか。川崎さんがあんまりやりにくさうでお氣の毒だわ。××屋さんも△△屋さんも、すこしかさにかかつた言ひ方をなさるもんだから、私、ひやひやして。……おわかりでせう。私、自分でかうしたいと思ふところも、川崎さんの仰言るとほりにして、私一人でも、川崎さんがなさりいいやうに、と思つてゐるのよ。だつて他の方々に、私から申上げるわけに行かないし、ふだんやかましい私が大人しくしてゐれば、他の方々も氣がつくだらうと思ひます。さうでもして、川崎さんを庇つてあげなければ、折角ああして、一生けんめいやつていらつしやるのに、ねえ」 増山は何の感情の波立ちもなしに、万菊のこの言葉をきいてゐた。万菊自身が、自分の戀をしてゐることに氣づいてゐないのかもしれなかつた。彼はあまりにも壮大な感情に馴らされてゐた。そして増山はといへば、万菊の中に結ぼほれた或る思ひは、いかにも万菊にふさはしくないやうに思はれた。舞臺稽古の前日になると、川崎の焦躁は、傍目(はため)にもいたいたしかつた。稽古がすむ。待ちかねてゐたやうに、増山を酒に誘ふ。「どうしてです。あの人のどこがいいんです。僕は稽古中に、ごてて言ふことをきかなかつたり、いやに威嚇的に出たり、サボタージュをしたりする役者には、あんまり腹も立たないけれど、万菊さんは一體何です。あの人が一等僕を冷笑的に見てゐる。腹の底から非妥協的で、僕のことを物知らずの小僧ッ子だと決めてかかつてゐる。そりやああの人は、何から何まで僕の言ふとほりに動いてくれる。僕の言ふとほりになるのはあの人一人だ。それが又、腹が立つてたまらないんだ。『さうか。お前がさうしたいんならさうしてやらう。しかし舞臺には一切私は責任はもてないぞ』とあの人は無言のうちに、しよつちゆう僕に宣言してるやうなもんだ。あれ以上のサボタージュは考へられんよ。僕はあの人が一等腹黒いと思ふんだ」増山は呆れてきいてゐたが、この青年に今眞相を打明けることは憚られた。 

     

(七)年が明けて、曲りなりにも、初芝居の初日はあいた。万菊は戀をしてゐた。その戀はまづ、目ざとい弟子たちの間で囁かれた。たびたび樂屋へ出入りをしてゐる増山にも、これは逸早(いちはや)くわかつたことだが、やがて蝶になるべきものが繭の中へこもるやうに、万菊は自分の戀の中へこもつてゐた。彼一人の樂屋は、いはばその戀の繭である。世間普通の役者なら、日常生活の情感を糧にして、舞臺を豊かにしてゆくだらうが、万菊はさうではない。万菊が戀をする! その途端に、雪姫やお三輪や雛衣(ひなぎぬ)の戀が、彼の身にふりかかつてくるのである。それを思ふと、さすがに増山も只ならぬ思ひがした。増山が高等學校の時分からひたすら憧れてきたあの悲劇的感情、舞臺の万菊が官能を氷の炎にとぢこめ、いつも身一つで成就してゐたあの壮大な感情、……それを今万菊は目(ま)のあたり、彼の日常生活のうちに育(はぐく)んでゐるのである。そこまではいい、しかし、その對象は、才能こそ幾分あるかもしれないが、事(こと)歌舞伎に関しては目に一丁字もない、若い平凡な風采の演出家にすぎない。

  

(八)「とりかへばや物語」の世評はよかつた。正月も七日のことである。増山は万菊の樂屋に呼ばれた。「……今夜ハネたら、御一緒にお食事をしたいんですけど、あなたから御都合を伺つていただけない? 二人きりで、いろいろお話したいつて」「はあ」「わるいわね。あなたにこんな用事をおねがひして」「いや……いいんです」 そのとき万菊の目はぴたりと動きを止(や)めて、ひそかに増山の顔色を窺つてゐるのがわかつた。増山の動搖を期待して、たのしんでゐるやうに感じられた。「ぢやあ、さう申し傳へてまゐりますから」 と増山はすぐ立上つた。川崎は花やかな廊下に似合はぬ身装(みなり)をしてゐた。増山は彼を廊下の片隅へ連れて行つて、万菊の意向を傳へた。「今さら何の用があるんだらう。食事なんてをかしいな。今夜は暇だから、全然都合はいいけど」「何か芝居の話だらう」「チェッ、芝居の話か。もう澤山だな」 川崎は、やつてきて、外套のポケットに両手をつつこんだまま、ぶつきらぼうな挨拶をした。「それぢやあ」と万菊は増山に會釋をした。微笑してゐる口もとが仄かに襟巻のかげに見えた。「いいのよ。傘は私がさしてゆくから。それより運轉手に早くさう言つて頂戴」 万菊は弟子にさう言ひつけて、自分でさした傘を、川崎の上へさしかけた。川崎の外套の背と、万菊のモヂリの背が、傘の下に並んだとき、傘からは、たちまち幾片(いくひら)の淡雪が、はねるやうに飛んだ。見送つてゐる増山は、自分の心の中にも、黒い大きな濡れた洋傘が、音を立ててひらかれるのを感じた。少年時代から万菊の舞臺にゑがき、幕内(まくうち)の人となつてからも崩れることのなかつた幻影が、この瞬間、落した繊細な玻璃(はり)のやうに、崩れ去つて四散するのが感じられた。『俺はやつとここまで來て幻滅を知つたのだから、もう芝居はやめてもいい』と彼は思つた。しかし幻滅と同時に、彼はあらたに、嫉妬に襲はれてゐる自分を知つた。その感情がどこへ向つて自分を連れてゆくのかを増山は怖れた。

 

<『中村芝翫論』と『六世中村歌右衛門序説』>

 三島は、祖母と母の影響によって、十三の年から歌舞伎を見はじめ、「丸本をもって行って、役者の型を舞台を見つめながら鉛筆だけうごかして、メモした」(「僕の『地獄変』」)劇評ノートは、のちに『芝居日記』として刊行されているが、作家としてデヴューするや、戸板康二を通じて歌舞伎に関する評論を発表する機会を得、昭和24年に『中村芝翫論』を「季刊 劇場」に発表した。

 現在でも揺るぐことなき六世中村歌右衛門論である『中村芝翫(しかん)論』の美学は、昭和26年に芝翫が六世中村歌右衛門を襲名したさいの歌舞伎座プログラム中の『新歌右衛門のこと』においても、あるいは昭和34年に三島が編者となって世に出した『六世中村歌右衛門』写真集の巻頭を飾る『六世中村歌右衛門序説』においてさえもまったく変化していない。すぐに、昭和32年の小説『女方』の雪姫、お三輪の劇評にほぼそのまま使われていることに気づく。

中村芝翫論』の核となる文章はこうだ。

中村芝翫の美は一種の危機感にあるのであろう。

 金閣寺の雪姫が後手に縛(ばく)されたまま深く身を反らす。ほとんどその身が折れはしないかと思われるまで、戦慄的な徐(ゆる)やかさで、ますます深く身を反らす。その胸へ桜が繚乱と散りかかる。

 妹背山(いもせやま)のお三輪がいじめの官女たちにいじめられる。裾(すそ)を乱し、身もだえし、息も絶えんばかりに見える。そのたおやかさが、今にも崩(くず)折(お)れそうな迫力を押しだす。 かごつるべの見染めで八ツ橋が花道へかかる。八文字(はちもんじ)を踏みはじめる合図に、男衆の肩で右手を立てて、本舞台を見込んで嫣然(えんぜん)とする。踏み出す足に華麗な衣裳がグラグラと揺れる。

 こうした刹那(せつな)刹那に、芝翫のたぐいなく優柔な肉体から、ある悲劇的な光線が放たれる。それが舞台全体に、むせぶようなトレモロを漲(みなぎ)らす。妖気に似ている。墨染や滝夜叉が適(かな)うのは当然である。》

芝翫のお三輪や墨染や滝夜叉には、たおやかな悪意が内にこもって、その優柔な肉を力強く支えている。人はそれを陰性という。しかしただの陰性にこのような力はない。彼の演技の中心は、人間の理性をも麻痺させるような力強い・執拗な感性の復讐にあるように思える。》

 歌舞伎座プログラム中の『新歌右衛門のこと』でも次のように踏襲されている。

《今度の歌右衛門の特徴というべきは、あの迸(ほとばし)るような冷たい情熱であろう。芝翫の舞台を見ていると、冷静な知力や計算のもつ冷たさではなくて、情熱それ自身の持つ冷たさが満溢(まんいつ)している。道成寺のごとき蛇身の鱗(うろこ)の冷たさがありありと感じられ、氷結した火事を見るような壮観である。芝翫の動くところ、どこにも冷たい焔がもえあがり、その焔は氷のように手を灼(や)くだろうと思われる。》

『六世中村歌右衛門』写真集の『六世中村歌右衛門序説』では、前記『新歌右衛門のこと』全体をまるごと引用しているうえに、歌右衛門と楽屋で逢い、歌舞伎台本を書き、時代な本読みをはじめ、嫌気を起させた演出の苦労(三島歌舞伎についての文献にあたれば、いくつものエピソードが見つかる)も踏まえての、三島らしい逆説の形而上的論理を展開している。このナルシシスム論こそが、小説『女方』を読み解くうえでの重要なキーである。

《私はかねて俳優という芸術家の、ナルシス的創造過程に深い興味を寄せて来たが、女方というものについては、一そうその興味の深まるのを感じる。何故なら女方のナルシシスムとは、いわば自分でない者へのナルシシスム(・・・・・・・・・・・・・・)であり、彼の鏡の映像と彼自体とは、あの希臘(ギリシヤ)の美少年のような同一の姿をとらないからである。

 もし美が存在しえず、社会がその存在を否定するならば、彼自身が美とならなければならないが、この背理を犯すには、鏡のなかの美しい映像が、彼自身であってしかも彼自身ではないということは、何という有効な条件であろう! 又、何という巧みな詐術であろう。その鏡裡の像の存在は、正しく彼自身によって保証されているのであるが、他ならぬ彼自身こそ、その存在を否定する者であるということは、何という微妙な逆説であろう。

 女方のナルシシスムとは、かくて、理不尽な、やみくもな、すべてを背理に押し包んでしまう、暴力的な熱病の如きものである。それは怖ろしい否定的なナルシシスムであり、現代社会の否定を彼がものともしないのは、彼自身が(楽屋に於て)全社会に先立っての否定者であり、否定者としてのナルシスだからである。このようなナルシシスムこそ、永遠に不敗であり、無敵である。従って六世中村歌右衛門は不敗なのである。》

 さらに三島は表現を変えて称揚した。

《一人の俳優の中で、美とナルシシスムと悪がいかに結びつき、いかに関わりあうか、それはおそらく俳優の天分と価値とを決定する基本的な条件である。美は存在の力である。客観性の保証である。悪は魅惑する力である。佯(いつ)わりの、人工と巧智の限りをつくして、人を魅し、憑(つ)き、天外へ拉(らつ)し去る力である。そしてナルシシスムは、彼自身のなかで、美と悪とを強引に化合させる力である。すなわち、彼自体であるところのものと、彼自体ではないもの、すなわちあらゆる外界を、他人を、他人の感動と情緒とを、一つの肉体の中に塗り込めて維持する力である。こうしてはじめて俳優は、一時代の個性になり、魂になる。私は六世歌右衛門にこの三つの要素の、間然するところのない複合体を見るのである。》

 

<美しい女形と美しくない女形

折口信夫全集 かぶき讃』に収録されている『役者の一生』(昭和17年)は、四世沢村源之助の一生を振り返りながらの女形論ともいえるものだが、さきの『マクアイ・リレー対談――中村歌右衛門氏・三島由紀夫氏対談』における「女と女形」の二人の意見と同一の見解が述べられている。碩学折口信夫の口から語られた女形の「幻想」と「記号」こそが、小説『女方』の「幻滅と嫉妬と破滅」の源に違いない。

女形に美しい女形と美しくない女形とがある。立役・女形を通じて素顔の真に美しい人の出て来たのは、明治以後で、家橘・栄三郎のような美しい役者は今までなかった、と市川新十郎が語っていたくらいである。これは明治代の写真を見ればわかる事で、それには写真技術の拙さという事もあろうけれど、一体に素顔のよくない女形が多かった。岩井半四郎などは美しかったというけれども、どの程度だったかについては、多分に疑問が残ると思う。(中略)

 この頃は女形が大体美しくなった。併し美しいということは芸の上からは別問題で、昔風に言えば軽蔑されるべきものなのである。最近故人になった市川松蔦など、生涯娘形で終るかと思われるくらい小柄で美しい女形であった。だが松蔦の美しさは、素人としての美しさに過ぎなかったのである。こうした美しさは、鍛錬された芸によって光る美しさではなく、素の美しさで、役者としては寧、恥じてよい美しさである。(中略)
要は、芸によって美しく見えるということが、平凡でも肝腎なことなので、女形がそれ自身純然たる女を思わせるということに対しては、条件をつけて考えねばならぬと思う。歌舞妓芝居に於ては、女形も女らしい女ではいけない。立役にしてからが、自体、世間普通の男とはどこか違った男である。そうした芝居の世界の男に相応した女でなければならず、現実の世界の女であってはならないのである。それだからこそ、松蔦のような女形では、そぐわないことになる訣である。梅幸なども時代が遅れていたからよいけれど、あれがもっと前だったら、素の美しさを感じ、舞台の男に調和する女の美しさが感じられなかったであろう。
 東京の女形は、明治以後、早くから女らしい美しい女形になった。亡くなった(五世(著者註))歌右衛門が、小杉天外の「はつ姿」か「こぶし」かの女学生を演じて、舞台で上半身肌脱ぎになって化粧する場面を見せたなどは、芝居の方からは謂わば邪道である。歌右衛門がその天賦の麗質によほどの自信があったからでもあるが、それを又人々が喜んだのだった。思えば女形としては突拍子もないことであるが、歌右衛門はこのように、素に持っていた美しさを、芸と一所くたにして見せた。この点、彼は実に錯覚を起させた役者である。彼は余りに美しく、己もその美しさに非常な自信を持って居り、その自信の重さが、彼の芸の重々しい質を作ったので、一つは晩年体も次第に利かなくなったことにもよるが、とにかく動きの少い役をする事になった。だから歌右衛門という役者は、死ぬまで本道に上手下手がわからずにすんだと思う。梅幸も美しい女形であって、その唯一つの欠点は下唇の突き出ている事だけだが、これが又一つの彼の舞台美でもあったのである。つまり醜のある強調から生ずる美である。こうして美しい東京の女形は、女優にだんだん近いものになってしまった。
 だが大阪には今に、きたない女形がいる。近代の大阪の女形で一番美しいのは、何といっても今の中村梅玉であろう。(中略)

 これほど美しい女形は大阪にはない。もと成太郎といって、沢村源之助の四十年代の芝居によく女形をした中村魁車になると、素顔はそれほどでないが、舞台顔は今でもよい。併しこれ以外に近代の大阪に美しい女形はない。この梅玉・魁車、更にさかのぼって雀右衛門あたり以上に古くなると美しい女形というものはまるで見当らない。私の見た時代は女形凋落時代で、大概みんな化け猫女形ばかりであった。又歌舞妓芝居には、見物にとって舞台に出て来る役者は、一種の記号のようなもので、美しい顔をしていようが汚い顔していようが、ともかく舞台で役者が動いていればよいので、あとは見物がめいめい勝手に幻想のようなもので、いろいろに芝居を作ってしまうようなところがある。》

 いみじくも折口信夫が指摘したように女形は、「現実の女であってはならない」「一種の記号のようなもの」「幻想のようなもの」であることを慧眼なロラン・バルトも見抜いた。バルト『記号の国(表徴の帝国)』の文楽についての論考はよく知られるところだが、女形についても短いながら本質をついた批評を残している。それはバルトが、学生時代にギリシャ演劇グループで活動し、長じてはブレヒト劇を論じ、かの『ラシーヌ論』で歴史に残る論争を引き起こした劇評家でもあったことから来たものに違いない。

『記号の国』の女形の写真のキャプションにはこうある。

《東洋の女装男優は、「女性」を模倣するのではなく、記号化する。》

「書かれた顔」という章では、次のように書いている。

《歌舞伎の女形は(女性の役は男性によって演じられる)、女装した少年が微妙なニュアンスや、真実らしい外観や、犠牲をはらっての偽装などを駆使して演じるのではない。女形とは純然たるシニフィアンであり、その下にあるもの(・・・・・・・・)(真実)は秘されておらず(用心ぶかく隠されているのではなく)、ひそかに示されているのでもない(西欧の女装男優が、豊満な胸のブロンド女に扮しても、その下品な手や大きな足によって、女性ホルモンによる胸ではないことをかならず露見させてしまうようなときに、実体の男性的な特徴にたいして道化的な目くばせがなされるのだが)。真実はただ不在化されている(・・・・・・・・)のである。俳優は、その顔において女性をよそおっているのではなく、まねているのでもなく、ただ女性を意味しているだけだ。マラルメの言ったように、もしエクリチュールが「観念の身ぶり」から生みだされるのだとすれば、日本の女形とは女らしさの身ぶりなのであって、剽窃ではない。だから、五〇歳の男優(非常に高名で尊敬されている)が、恋をしておどおどしている若い女の役を演じるのを見ても、まったく驚くことではなくなる。つまり、目だった(・・・・)ことではないのである(西欧では信じられないことだ。女装男優それ自体がすでに、よく思われておらず、あまり許容されてもおらず、まったく反良識的な存在となっているからである)。なぜなら歌舞伎においては、女らしさとおなじように若さも、その真実を必死で追いもとめるべき自然な本質ではないのだった。規範の洗練やその正確さ――生体の類型(若い女性の現実の身体を思わせるもの)を模倣しつづけることにはいっさいかかわりない――は、女性的な現実すべてをシニフィアンの微妙な回折のなかに吸収して消し去ってしまうという効果――正しい結果――をもたらしている。「女性」は、意味されているが表現されておらず、ひとつの観念になっている(ひとつの性質ではない)。そのようなものとして、「女性」は、分類の戯れのなかへと、そして純然たる差異という真実のなかへと帰着してゆく。西欧の女装男優はひとりの女性であろうとしているが、東洋の女形は「女性」の記号を組み合わせてゆくこと以外には何も求めていない。》

 ここには、「女形とは純然たるシニフィアン」であり、「日本の女形とは女らしさの身ぶりなのであって、剽窃ではない」、「女形は「女性」の記号を組み合わせてゆくこと以外には何も求めていない」といった「記号の国」日本らしい「女形」に悦び、愛した、バルトの姿が見てとれる。

 

アポロンディオニュソス

 三島作品のほとんど、『仮面の告白』『愛の渇き』『金閣寺』『午後の曳航』『春の雪』『暁の寺』などは、『女方』と同じ構造の下にある。折口やバルトが女形に見抜いた「幻想のようなもの」「シニフィアン」「記号」(対象は、あるときは同性の同級生、あるときは若い園丁、あるときは金閣、あるときは母の恋人、あるときは宮家と婚約した幼なじみ、あるときはタイの姫君、そしてあるときは女形)には、決して到達できない、いや到達してはならない「絶対」であるという構造。妄想によって強化された「幻想(幻影)」に焦がれる悲劇の構造は、空無の、虚無の「絶対」への愛恋でもある(天皇も同じ位置づけ)。不可能な幻想への欲望ゆえに、ついに幻滅し、嫉妬し、はては死という破滅にむかう、美とナルシシスムと悪の三位一体。「幻滅と嫉妬と破滅」とは、なにも三島の病理的なものではなく、ギリシャ悲劇、ラシーヌ劇、歌舞伎にみられる、古典的であるからこそ現代的でもある病理、深層心理に裏打ちされたもので、それゆえに歌右衛門は魅力的であったし、同じく三島文学もまた魅力的なのである。

 さきに引用したように、三島は『六世中村歌右衛門序説』に、《私はかねて俳優という芸術家の、ナルシス的創造過程に深い興味を寄せて来たが、女方というものについては、一そうその興味の深まるのを感じる。何故なら女方のナルシシスムとは、いわば自分でない者へのナルシシスム(・・・・・・・・・・・・・・)であり、彼の鏡の映像と彼自体とは、あの希臘(ギリシヤ)の美少年のような同一の姿をとらないからである》と書いたが、それこそが『女方』において、《増山が作者部屋の人となつたのは、歌舞伎の、わけても万菊の魅惑に依ることは勿論だが、同時に、舞臺裏に通暁することなしには、この魅惑の縛しめからのがれられないと思つたためでもあつた。人ぎきに舞臺裏の幻滅をも知つてゐて、一方では、そこに身を沈めて、この身一つに本物の幻滅を味はひたいと思つたためでもあつた》という増山への三島の仮託だったろう。

 しかし本心では三島は、増山ではなく万菊(歌右衛門)に、つまりは「俳優」「女形」を、自身を意味する「作家」に置き換えたいと欲望していたのではないか。すると、「私はかねて作家という芸術家の、ナルシス的創造過程に深い興味を寄せて来たが、作家というものについては、一そうその興味の深まるのを感じる。何故なら作家のナルシシスムとは、いわば自分でない者へのナルシシスム(・・・・・・・・・・・・・・)であり、彼の鏡の映像と彼自体とは、あの希臘(ギリシヤ)の美少年のような同一の姿をとらないからである」と欲望したが、鏡の映像は、美とはほど遠い貧弱な肉体をもった自分そのものであることに絶望しつづけたのではないか。

 三島は歌右衛門のような、《もし美が存在しえず、社会がその存在を否定するならば、彼自身が美とならなければならないが、この背理を犯すには、鏡のなかの美しい映像が、彼自身であってしかも彼自身ではないということは、何という有効な条件であろう! 又、何という巧みな詐術であろう。その鏡裡の像の存在は、正しく彼自身によって保証されているのであるが、他ならぬ彼自身こそ、その存在を否定する者であるということは、何という微妙な逆説であろう。

 女方のナルシシスムとは、かくて、理不尽な、やみくもな、すべてを背理に押し包んでしまう、暴力的な熱病の如きものである。それは怖ろしい否定的なナルシシスムであり、現代社会の否定を彼がものともしないのは、彼自身が(楽屋に於て)全社会に先立っての否定者であり、否定者としてのナルシスだからである。このようなナルシシスムこそ、永遠に不敗であり、無敵である。従って六世中村歌右衛門は不敗なのである》という存在には、いくら肉体美を得ようとも「鏡のなかの美しい映像が、彼自身であってしかも彼自身ではない」存在には、舞台で演じる女形とは違って、作家はなりえないのだった。

 女形歌右衛門は不敗であったが、作家三島は、《『俺はやつとここまで來て幻滅を知つたのだから、もう芝居はやめてもいい』と彼は思つた。しかし幻滅と同時に、彼はあらたに、嫉妬に襲はれてゐる自分を知つた。その感情がどこへ向つて自分を連れてゆくのかを増山は怖れた》のように、幻影のはてで「幻滅と嫉妬と破滅」すること、「記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまった」(遺作『豊饒の海 天人五衰』末尾)ことで必敗なのであり、むしろ必敗の美学の芸術家として生きたのだった。

「あとがき」の、《「女方」は俳優の分析であり、「貴顯」は藝術(げいじゆつ)愛好家の分析である。前者の主人公は女性的なディオニュソスであり、後者の主人公は衰退せるアポロンである。この二篇はいはば對(つい)をなしてをり、一雙(さう)の作品として讀(よ)まれることを希望する》とは、ときに正直すぎる人三島が真正直に心中を吐露したものだろう。

 ニーチェは『悲劇の誕生』で、芸術は、夢の世界としてのアポロン的なものと、陶酔の世界としてのディオニソス的なものの対立を軸として発展してきて、しかもアポロン的なものディオニュソス的なものとの二重性に結びついているということを指摘した。早くからニーチェに心酔し、理解していた明晰な三島は、アポロン的なものディオニソス的なものを軸として、しかも二重性を忘れることなく、たくみに仮面の裏表を操る芸術家として数々の作品を世に出してきたが、幼いころから自己の暴力的で血の滴るディオニソス性の不足をはっきりと感じていた。衰退せる近代人としてのアポロン的な夢みる三島は、自分もまた、歌右衛門のようなディオニソス的な陶酔の悲劇の主人公であることを望んだが、ついぞかなわなかった。『女方』は万菊こと歌右衛門を揶揄した小説ではなく、増山であり川崎である三島自身を揶揄した小説なのだ。

 しかしそれでも、《一人の俳優の中で、美とナルシシスムと悪がいかに結びつき、いかに関わりあうか、それはおそらく俳優の天分と価値とを決定する基本的な条件である。美は存在の力である。客観性の保証である。悪は魅惑する力である。佯(いつ)わりの、人工と巧智の限りをつくして、人を魅し、憑(つ)き、天外へ拉(らつ)し去る力である。そしてナルシシスムは、彼自身のなかで、美と悪とを強引に化合させる力である。すなわち、彼自体であるところのものと、彼自体ではないもの、すなわちあらゆる外界を、他人を、他人の感動と情緒とを、一つの肉体の中に塗り込めて維持する力である。こうしてはじめて俳優は、一時代の個性になり、魂になる。私は六世歌右衛門にこの三つの要素の、間然するところのない複合体を見るのである》との頌は、そのまま作家三島由紀夫にあてはめることができよう。

「一人の作家の中で、美とナルシシスムと悪がいかに結びつき、いかに関わりあうか、それはおそらく作家の天分と価値とを決定する基本的な条件である。美は存在の力である。客観性の保証である。悪は魅惑する力である。佯(いつ)わりの、人工と巧智の限りをつくして、人を魅し、憑(つ)き、天外へ拉(らつ)し去る力である。そしてナルシシスムは、彼自身のなかで、美と悪とを強引に化合させる力である。すなわち、彼自体であるところのものと、彼自体ではないもの、すなわちあらゆる外界を、他人を、他人の感動と情緒とを、一つの作品の中に塗り込めて維持する力である。こうしてはじめて作家は、一時代の個性になり、魂になる。私は三島由紀夫にこの三つの要素の、間然するところのない複合体を見るのである。」

 

 昭和45年(1970年)の三島没から四半世紀以上、歌右衛門は三島が嫌悪した老いを、『女方』に描かれた「役者の世界の、壮大な卑俗と自分本位」をもって生き抜いた。容色が大事な女形ゆえになおさら、忍び寄る老いの醜と孤独に闘い、内面と外面の拮抗によって芸は円熟し、醜の美とでもいった奇蹟を生んだ。「美とナルシシスムと悪」に、老いと孤独と醜を加えて、七十九歳の最後の舞台、平成8年(1996年)8月の舞踊『関寺小町』まで歌右衛門は、『女方』に描かれた「女性的なディオニュソス」として陶酔を観客に与え続けたと知る時、三島が『女方』の万菊に、晩年の孤高の残光に揺らめく「夢と現實との不倫の交はりから生れた」女形歌右衛門の未来の幻影までも織り込んでいたことに気づくのはそう難しいことではない。

                                     (了)

               ****参考または引用文献****

 *三島由紀夫女方』(日本ペンクラブ 電子文藝館、講談社「日本現代文学全集」)

*『マクアイ・リレー対談――中村歌右衛門氏・三島由紀夫氏対談』(「幕間」昭和33年5月)

戸板康二三島由紀夫対談『歌右衛門の美しさ』(劇評別冊「六世 中村歌右衛門」昭和26年4月)

*木谷真紀子『三島由紀夫と歌舞伎』翰林書房

*『三島由紀夫研究⑨ 三島由紀夫と歌舞伎』松本徹ほか(鼎書房)

*『決定版三島由紀夫全集』(新潮社)

三島由紀夫自選短編集『花ざかりの森・憂国』(『女方』所収)(新潮文庫

三島由紀夫自選短編集『真夏の死』(『貴顕』所収)(新潮文庫

中村歌右衛門『「三島歌舞伎」の世界』聞き手 織田紘二(『芝居日記』所収、新潮社)

*『折口信夫全集22 かぶき讃(芸能史2)』(中央公論社

ロラン・バルトロラン・バルト著作集7 記号の国』石川美子訳(みすず書房

渡辺保女形の運命』(岩波現代文庫

渡辺保歌右衛門伝説』(新潮社)

渡辺保(文)、渡辺文雄(写真)『歌右衛門 名残の花』(マガジンハウス)

渡辺保『歌舞伎のことば』(大修館書店)

*フリードリッヒ・ニーチェ悲劇の誕生』塩屋竹男訳(ちくま学芸文庫

橋本治『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』(新潮社)