文学批評 「大岡昇平『黒髪』から溢れだすもの」

  「大岡昇平『黒髪』から溢れだすもの」

 

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《久子が南禅寺裏のその家に移ったのは、終戦後二年目の秋であった。戦争中ずっと世話になっていた或る政治評論家が、追放に引っかかった。前から自分が重荷なのはわかっていたことだった。別れてあげたいと思っていたところへ、到頭それを男の方から切り出させるのに成功して間もなく、砂糖の闇などをやっている今の男と偶然知り合った。その持家の留守番がわりに、住むことになったのである。

 家は南禅寺の北門を出て半町ばかり西へ、溝に沿って行ったところにある。低い建仁寺垣に囲まれた平屋は、もと西陣の織屋の隠居の妾宅だったということである。そんな年寄りの趣味らしく、茶室めいた造りの離れの四畳半に、彼女は少しくすぐったいような気持で、男を迎えるのである。

 この辺一帯は南禅寺の東を山沿いに北行する疏水から引いた水に、縦横に貫かれている。家の前の溝にも、常に豊かな水が、急に流れている。附近に多い富裕の家では、大抵水を庭に取り入れて、泉水の趣向を凝らしている。久子が寝る四畳半は、隣のそういう屋敷の一つに接しているから、絶え間のない水の音を枕の下に聞きながら、久子は眠り落ちるのである。

 種島久子は関西では、ちょっと有名な女である。彼女の十五年の愛の手帳には、京阪神地方の名を知られた画家、文士、大学教授、新聞記者が網羅されていた。七つの時父を失った彼女が、母の再縁先の山陰の町の、陰気な乾物問屋にいたたまれず、下京で小さな旅館を経営している叔母を頼って、家出して来たのは、十八の春だった。しかし自由に気儘に暮して行きたいという、当時のいわゆる「尖端娘」の一人であった彼女にとって、京都駅から吐き出される行商人を相手にするその旅館は、気持のいい住居ではなかった。そしてその頃京都のやはり尖端的な若者達によって組織された或る新劇団に、女優を志願したのが、彼女の恋愛の放浪の始まりであった。》

 大岡昇平『黒髪』の書き出しである。この簡潔で叙事的な文体を一応頭に入れたうえで、まず大岡のスタンダール論を読んでゆきたい。

 

<『愛するものについてうまく語れない』――スタンダールと私>

 大岡の数多いスタンダール論考、エッセイの、おそらくは最後の文章に、『愛するものについてうまく語れない――スタンダールと私(1)』がある。初出は『海燕』新年特大号(一九八九年一月一日、福武書店)(大岡昇平全集20 紀行・評論VII所収)で、文末に「(隔月または二ヶ月おきに発表します。著者)」とあるものの、著者急逝(一九八八年十二月二十五日)のため、(1)だけで未完となった。

『愛するものについてうまく語れない』という題名を目にすれば、ロラン・バルトスタンダールに関する有名な文章を思い浮かべるだろうが、まさにそのとおりで、翻訳者、批評家として出発した大岡は、終生、海外の最新のスタンダール研究、文学理論(昔で言えばジャック・リヴィエールなど)、思想関係(ドゥルーズプルーストシーニュ』、ジェラール・ジュネットラカン『エクリ』、など)への渉猟を怠らなかったから、ロラン・バルトについても例外ではない。奇しくも、バルトの『人はいつも愛するものについてうまく語れない』は、大岡急逝のほぼ十年前の一九八〇年の冬、バルトが事故で急死した時に、タイプ・ライターにセットされていた文章で、三月にミラノで開催される「国際スタンダール学会」で特別講演をするための清書原稿だった。

 大岡の文章を引用しながら、論旨を追ってみる。

《バルトの主旨はスタンダールが愛する「イタリア」についてどうどもりながら語っているかを、美しく指摘しているのだが、いま私にとって、それは問題ではない。愛するものについてうまく語れない――これは、私にとって、スタンダールその人について実感されることである。》

 六十歳になったら、予定の主題を書きつくし、まとまった「スタンダールの生涯と作品」に取りかかろうと思っていたが、テーマが次々と割り込んで来て、八十歳になって、書きはじめることになってしまった、と嘆いたあとで、

《昭和入口の昭和二年の谷崎潤一郎の時評的雑文『饒舌録』(二月―十二月)は、当時の文学の神様、志賀直哉芥川龍之介に逆って、筋の豊富な小説が面白いといって、いわゆる大衆小説の味方をした。中里介山大菩薩峠』を持ち上げた最も早い論文であった。海外小説では『パルムの僧院』と『カストロの尼』をあげた。

「小説の技巧上、嘘のことをほんたうらしく書くには――或いはほんたうのことをほんたうらしく書くのにも、――出来るだけ簡浄((ママ))な、枯淡な筆を用ゐるに限る。此れはスタンダールから得る痛切な教訓だ」(中央公論社版全集二十巻、一九六六、八一頁)。

 谷崎はモンクリッフの英訳を読んだのであった。

「『カストロの尼』のラスト『ウゴオネは、さうして戻つて来て、彼はエレナの死んでゐるのを発見した、匕首が彼女の心臓にあつた。』と纔(わず)か一行半で結んでいるところなど、支那の古典、例へば史記の文章の感じがある」

 日本の近代文学では源氏、近松以来の情緒纏綿、紆余曲折に富んだ文章と共に、一字一義の漢文または漢文脈の趣味が、戦前まであったことに注意すべきである。森鷗外永井荷風芥川龍之介、戦争末期の中島敦に到る。》

 そうして大岡は、自身の一九三三年の『パルム』の衝撃に到るまでの文学的経歴を『パルム』に即して語ったことがないので、《この感動と愛着が、私個人の内的事情と密着したものであることはわかっている。そこで、「スタンダールと私」という図々しい題で書きだしたわけだが」と続ける。

 一九二七年(昭和二年)にフランス語をはじめた大岡は、小林秀雄中原中也を識り、つまりはボードレーヌ、ランボーの冒険を知り、アンドレ・ジッド、ジャック・リヴィエールのNRFの衒学的モダニズムの影響下にあった。ヴァレリープルーストアポリネールコクトージョイス。大岡は新しい小説を夢み、京大の卒業(一九三二年)に当って論文にはジッド『贋金つかい』を選んだ。

《ジッドは「『贋金つかい』の日記」に書いている。

スタンダールでは、一つの句(フラーズ)が次の句を呼び出すということはない。句が前の句から生れることもない。各々の句は垂直にperpendiculairement事実または観念に対している。――シュアレスは見事にスタンダールについて語っている。これ以上うまくはやれない。」

 一九一九年八月十六日、彼は目標の純粋小説を書きあぐんでいた。しかしなぜスタンダールの句の垂直性なのか。これは魅力的な文章だが、『贋金つかい』制作と何の関係があるのか。

 垂直性と言う言葉は、セザンヌのタッチで日本人に人気があった。日本画には、例えば菱田春草の「落葉」のような垂直性を感じさせる作品がある。これも日本人の趣味に合う。

 リヴィエールが「セザンヌ」の垂直性について短文を書き、「降り切ってそこに配置された」と書いた。これはverticalite でジッドほど数学的でないけれど。文章やイメージに垂直性があるとはいずれにしても比喩である。》

 大岡にとっての『パルム』の衝撃は、《それはただ感動的で面白い小説であるだけではなく、『ユリシーズ』『失われた時を求めて』の小説の解体の問題に新しい視点を提供するものと私には映った。この即興の連続形式、物語が次々と現われ、統一がないようで、いわば一種の詩とでもいうほかない統一を持っている小説、垂直な文体で綴られた詩的小説――しかも五十三日で口述されたという伝説自体、価値を形成したのであった。》

 その魅力と感動の理由は、桑原武夫が教えてくれた「ジレッチとの格闘の「簡潔」な描写」、河上徹太郎のいう「ファブリスの無垢の系列」、冒険小説と見る小論を発表したこと、戦争中の暗い時期にあっての政治的平衡感覚、「物を食わす女」という母性など、論文を読み漁って謎を解けそうになるいくつかの機会があったものの、《私は依然『パルム』の感度を自ら納得できなかったが(中略)今日まで私の動揺している『パルム』の観念について語りながら、順挙するのが適当だろう》、と連載2回目以降に意欲を見せた。

『饒舌論』について大岡は別に、『「饒舌論」とスタンダール』を『谷崎潤一郎全集 第十巻』月報10(一九八二年 中央公論社)に発表しているから、こちらからも少し補っておく。芥川が「スタンダールの諸作に漲った詩的精神」と応答したことの種本に言及したあとで、

《ところで種本主義は芥川だけではなく、谷崎にもあった。「饒舌録」のスタンダール賛の中の、

「……元来スタンダールと云ふ人はわざと乾燥な、要約的な書き方をする人で、それが(中略)却つて緊張味を帯び、異常な成功を収めてゐる」「筋も随分有り得べからざるやうな偶然事が、層々累々と積み重なり、(中略)かう云ふ場合、余計な色彩や形容があると何だか譃らしく思へるのに、骨組みだけで記録して行くから、却つて現実味を覚える」》

 大岡の急逝によって、2回目以降は書かれず、垂直性についての詳述や他の観念にどのようなものがあったかの順挙を目にすることはかなわなくなったが、少なくとも『パルムの僧院』の文体、「垂直性」から大岡が多くを学んだことは確かである。

 対談集『水 土地 空間 大岡昇平対談集』(河出書房新社、一九七九年)で、「小説を訳して小説を勉強なすったということはないわけですね」と丸谷才一に聞かれた大岡は、思い出しつつ、こんなふうに答えている。

《大岡 いや、バルザックの『スタンダール論』はほとんど『パルムの僧院』の要約ですから、全部ではないが、スタンダールのテキストもずいぶんやった。やはり『パルムの僧院』を翻訳したんで、僕の文章は出来上がったと思っていますよ。それはよけいなことを書かないということですね。ファブリスがワーテルローの戦場に向かって夜歩いていくところで、ある書き込みに、エクタン・ラ・シランス「静寂を聴きながら」とある。それは結局採用してないんですがね。それに註をつけて、「当時はこう書かなければ読者は読んでくれなかったものだ」と書いてる。静かなら音はなにもないわけだろう。静かさを聴くことはあり得ない。僕もだいたいその心得でやってきているつもりです。(後略)僕はあんまりたとえを使わないわけです。文学の魅力の源は隠喩にある、これはプルーストの論文にあって、なるほどそうだと思っていましたがね。

丸谷 でも、大岡さんの比喩の使い方が大変立派なものであるということは、僕が『文章読本』のなかで例文を引いて……。

大岡 いや、あれは例外で、昔の象徴派的表現のつもりだったけど。隠喩じゃないんですね。必ず「ように」と言ってる、とあなたに指摘されて、感慨無量だったな。(後略)》

「あれは例外」という『野火』があるにしても、スタンダールパルムの僧院』から学んだ文体で大岡は小説を書いてきた、もちろん『黒髪』もそうだった。

 その例は、冒頭の引用文を読むだけで一目瞭然だが、一つだけあげておく。

《朝日が画室の入口にさし込む頃、画家は漸く筆をおき、部屋の隅においてあるベッドにもぐり込む習慣であるが、或る朝、久子に着物を脱いでそばへ横になれとすすめた。彼女がためらっていると、彼はその痩せた体から、よくそんな声が出ると、びっくりするような人声で「ばか」と呶鳴った。その声を聞くと、彼女は昔死んだ父親に叱られた時のように、体がすくんでしまい、彼の言葉に従った。彼が彼女に月々くれる小遣いは、当時として法外な二百円という金額であった。その朝、彼が彼女の体に行ったのは、甚だ奇怪なことであった。

 半年経った。時々画家のところへ画集などを借りに来る、京大の美学研究室の若い助手が久子に求婚した。》

『黒髪』も入った『来宮心中』(集英社文庫)の解説で、水上勉が、《まことに、男にとっては寝てみたい魅力を失わぬいい女なのである。この女の魅力のひき出し方は絶妙といっていい》として上記の文章を引用して、《そういう女である》と、わかる人はわかるだろうとばかりに示したが、ここでは「甚だ奇怪なことであった」とだけ書き、再び言及するときも、「日本画家が彼女の体に何をしたかもぶちまけた」、「画家が前に彼女の体にしたことを思い出して、彼女はぞっとした」とだけで、それがいったい何だったのか「よけいなことは書かない」を実践した。

 

近松秋江『黒髪』論考>

 昭和三十六年に『黒髪』という題名で小説を書いた大岡は、その十四年前に『近松秋江『黒髪』』という論考を書いている。論じたうえで、あえて同じ題名で小説を書いたからには、なんらかの意志、思い入れが働いている、とみるのが素直だろう。

 復員後、妻の疎開先の田舎町(明石から一つ先の大久保という小さな町)の貸本屋には、春陽堂版「明治大正文学全集」がほぼ揃っていて、《私はその貸本で初めて近松秋江の『黒髪』を読み、これが大正時代の傑作の一つであったことを了解すると共に、年少から文学に親しんで来た私が、どうして今までかかる作品を読まずにいられなかったのかといぶかった》とはじまり、創元選書版『黒髪』に寄せられた谷崎潤一郎宇野浩二の文章によって、この作品が異常な尊敬をもって遇せられていることを知り、《私も遅まきながら自分の感銘を語って見ようという気になった》、《『黒髪』は作品自体十分批評に堪える完璧さを具えているのである》と前置きがあってから論考に入るのだが、「自分の感銘」とはいっても称賛しているわけではなく、秋江文学の本質、小説『黒髪』の本質が、犀利に批評されている。

《いかにもここには普通人がいうを恥とする女への執着が臆面もなく語られてはいるが、一方作者は絶えず自己の痴愚を正当化しようとして事実を強いているばかりか、その痴愚の一点を除いては、自分をよくもののわかった非の打ちどころのない人物と見せたがっているのである。彼の告白が屢ゝ人に嗤われるのは、そこに描かれた痴愚が滑稽なためではなく、こういう作者の自己弁解がおかしいからである。》

《『黒髪』は「私」という近松秋江その人にほかならぬ主人公が、四年越しに惚れている女に京都へ来たところから始まっている》と、ひととおり『黒髪』の筋を追いつつ、批評は続く。

《しかし秋江の痴愚は決して「自然的に発生」したものではなく、彼が意志して求めたものである。惚れた女を思い切れないで愚行を演じる男の痴情は、一般に感情の「強さ」に起因すると解され勝ちであるが、実は感情にはこうした永続する人間の行為を支える力はないものである。少くとも意志が加わって、人間にその感情を保持することを命じ、絶えずそれを更新しない限りは。(中略)恋愛におけるこうした頭脳の干渉が見掛け以上に強いものであることは、あらゆる大恋愛の経験者が知っている。》

大岡は小説的魅力がどこにあるのか、京女の心の奥底もまた焙りだしてみせた。

《しかしこういう割り切れない主人公の態度にも拘らず、『黒髪』冒頭の情緒纏綿たる描写は惻々として人に迫る現実性を持っていて、この四十を過ぎた恋男が、細々した気苦労を荷ったあまり強壮ではない体軀を曳いて、うら悲しい京都の町を蹌踉と行く様が眼に浮かぶ様である。女の冷い態度もよく描けていて、彼が薦める食物を食べなかったり、執拗に同じ返事を繰返したり、また打って変って笑って彼を迎えたりする、相手をなめ切った女の態度が、何の説明もなく描き流されながら、その底にある娼婦の冷たさが自然に読者の胸に伝わって来る。》

「物静かな娼婦」と、封建的日本の最も平凡な理想型である「物静かな女」は、わが花柳界の兎角混同するところであり、それが一般的な共感を呼ぶのは普遍的な型に対する憧憬が現われているからであるとか、「愚人の煩悩」を描くと自称する秋江が、あまり自分を愚かとは思っていないのは確かである、などと、スタンダリアンとしての「ロマンチック・レアリスト」は、当然文明批評家でもあり、死を覚悟したフィリピンから復員した社会批評家でもあり、犀利なモラリストでもあるから、手厳しい。

 やがて破局が来て、田舎に女を追って行くという秋江のお家芸の一つがあって、一種叙事詩的なテンポがあり、男らしい簡潔な単純さに達して、何の変哲もない山の中の冬景色と、懊悩を下げてその中を行く「私」の姿が生々と描き出され、錯乱を錯乱として表すための立派な意識的な技巧が『黒髪』の基調をなしていて、むしろ「私」以外の人物はすべて、幻想的に取扱われているといってもいい位なのである、とはさすがの慧眼であるが、大岡こそ意識的な技巧をもって十四年後の自作『黒髪』に生かしたのに違いない。

 ところで、辻原登が批評的エッセイ『私の『黒髪』遍歴』、『大岡昇平の涙の水源』、およびそれらを小説仕立てにした『黒髪』で、大岡の『黒髪』と『近松秋江『黒髪』』を題材としている。

 大岡の論考の、《例えばこの場合秋江が女に惚れているのは疑いないが、彼は女の気持について全然思いやりがない。自分の容貌、才智、身分、金等、要するに娼婦にとって(或いは恋愛一般にあっても)男性の魅力をなす全体について少しも反省していない。一途に自分が真心こめて惚れているから、女も自分に惚れずにはいられない筈だと考えたがるのであるが、これほど自分勝手な、不自然な考えはないのである。そして彼がこうして平気で自分の一方的な感情を主張できるのも、要するに心の底では相手を色を稼業とする女と馬鹿にしているからである以上、相手が彼を数ある金蔓の一つとして扱っても、別に不服をいう筋はないはずである。(中略)しかもなお彼がここでひたすら自己の真心に訴え、女の不実を怨むをのみこととしているとすれば、それは明らかに自己の下心と、身の到らないところを知っている「自己」を欺いていることになる》から、辻原は大岡の理智的な決意を推定する。

《ここに僕は昇平のふたつの決意を読みとる。一、色を稼業とする女を馬鹿にしない視点から、いつか小説を書く。二、秋江に限らず「私小説」における「自己を欺く」一人称の「私」との戦い。

 この論考(昭和二十二年十一月)からちょうど十四年後の昭和三十六年十月、昇平は「黒髪」を発表する。小説の場合は秋江と同じ京都。秋江の「黒髪」で「私」が追いかける女は祇園の芸妓だった。昇平の「黒髪」のヒロインももちろん身を売る女。しかし、昇平はここで先に挙げたひそかな二つの決意を実行する。色を売る女を馬鹿にしない視点からヒロイン久子を描くこと。自己を欺く一人称「私」でなく、つまり、読者に対して隠したいところは語り手・書き手たる「私」の背中で隠すやり方、秋江の欺瞞の方法でなく、「私」の霧を払って、三人称で、ヒロインの身に寄り添いつつ、広い眺望の中にヒロインを生々と開示する方法を採用すること。》

 辻原の言うとおりで、大岡は『黒髪』の久子を、色を稼業とする女を馬鹿にしない視点から書き、自己を欺く一人称「私」でなく三人称で、ヒロインを生々と開示する方法を採用した。

 愛らしい久子の矜持を示すのと対照的に、まるで秋江の「私」を纏ったような男たちが醜態を露わにする情景が、谷崎のいう「筋も随分有り得べからざるやうな偶然事が、層々累々と積み重なり」ながら交錯する。

《下京の叔母の家へ帰ると、母と叔母は無論たいして金のない政治評論家より、插絵画家が好きで、柏木と別れろと言った。そこに甲子園のダンス教師が、約束を破って下京の家へ押しかけて来る。日本画家も来る。柏木の友人の歴史学者も来て、「きみみたいなひどい女はない。柏木の将来のためを思って、身を引いてくれ」などと言う。久子が不意に死んでしまおう、と思ったのはその時である。

 彼女がそう思ったのは、結局二人の五十すぎた女を背負い込まされる将来が面倒になったからだが、少し柏木が気の毒になったからでもある。彼を愛しているかどうか、白分にも分らなかったが、とにかく彼女が気の毒だと思った男は、柏木がはじめてだった。その後終戦まで、彼を離れないだけの理由はあったのである。

 死んでしまおうと思ったのは、ずっと前、母親に叱られて、山陰の町の白い河原を歩き廻って以来、この時がはじめてだったが、ダンスホールにいる間に、客の医学生から、或る種の毒薬を手に入れていたのは、ただの好奇心からだけではなかったかも知れない。自分を汚すよろこび、自分をこわすよろこびは、家出した時から、ずっと続いていたとも言える。

 或る秋の夜更け、彼女の持っている中で、一番いいスーツを着て、奥の蒲団部屋で、それを嚥んだ。三時間後、便所に起きた母親が呻き声を聞きつけた。体をやぶかれるような苦しみに堪えながら、彼女は母が胸にのしかかって、「あて残して、ひとり先行って、どないするつもりぞい」と言うのを聞き、どうしても死んでしまいたい、決して生き返りたくない、と思った。そんな言葉を聞きながら、死んで行かねばならぬ自分を哀れんだが、急の知らせを受けた柏木の世話で駆けつけた医者は、不幸にして名医であった。彼は彼女の腎臓に傷をつけ、そこに集っていた毒を抽出するという面倒な手術を手際よくやってのけた.あとで、この医者も彼女の愛の名簿に載る光栄に浴したが、彼がある晩彼女の腰の二つの傷痕を撫ぜながら、「この傷のお蔭で、僕は博士になり、いま世に又とない宝を手に入れることが出来たんや」と言ったので、そのまま部屋から追い出してしまった。》

 あるいは、後に大岡が自伝的小説『少年』で、母が芸妓上りと知って書いた、《私の小説に出て来る女性は、必ず複数の男と性的交渉を持たねばならず、しかも決して男を愛してはならない。性的経験から無疵で出て来なければならないのである》がエコーのように木霊しつつ、

《久子を知るまでは、謹直な学者肌の人間だったから、一度溺れ出すときりがないのだという人もあった。感情の傾斜に脆いのだとも言われたが、久子の知ってるところでは、彼は決してわれを忘れる人ではなかった。結局彼女を愛しているというよりは、彼女を得るため越えなければならなかった障害、そういう状況から来る感情の昂りから自ら困難を求めたと思える節がある。「あんたはあたし自身より、むつかしさの方が好きなんやわ 」と或る日彼女は言った。柏木は少しいやな顔をして、返事をしなかったが、彼の愛撫に自己陶酔めいたところがあるのを彼女は知っていた。しかしそれだから彼が彼女に溺れていないということはやはり言えない。

 彼は自分が痴情のとりこになっていることを知っていたが、それを表に出さなかったにすぎない。彼女がそれほど自分を愛していないのは知っていたが、同時に彼女が誰にも本気で惚れるたちの女でないことも知っていたから、嫉妬しなかった。彼は最初彼女を弄んだ日本画家のために、普通男の胸で女の感じる快楽を感じなくなったのだ、と思っていた。従って男の幸福を自分の幸福とすること、いわゆる情が移るということが、彼女にはないのだと思っていた。

 彼女の抱擁のとめどのなさは、そこにさして快楽を感じないからであった。彼女は恋の囁きでも声を変えなかった。それは彼女が自分に忠実で、男を欺す気はないからだ、とあくまで彼女に溺れていた柏木は考えた。》

 あるいは、女の心の綾、凄まじさをみせる女でもある。

《朝、木戸に紙片が插んであるので、読んでみると学生の筆で、すまない、責任を取る。あなたを愛している、駆落してくれと書いてあった。その日の午後、村井が来て、学生は彼の河原町の出張所に来て、彼女を譲ってくれ、承知しなければ、彼の違法行為を警察に知らせると言ったという。彼は警察にはとっくに渡りをつけてある、笑わせるなと言って、用心棒に突き出させてしまったが、こう不始末が重なっては、いっしょにいるわけには行かない。二、三日中にアパートの部屋を世話するから、ここを出て行って貰いたいと言い、札束をおいて帰って行った。

久子は最初から村井とはこんな別れ方をするような気がしていたが、それがあんまり早く実現してしまったのがおかしかった。ぼんやりしていると、学生が泣きじゃくりながら飛び込んで来たので、彼女は大声で隣の奥さんを呼んだ。そして奥さんが開けた木戸からなお泣き続ける学生を送り出し、二、三日中に引越すから御安心下さい、と言った。》

 

<ロマネスク>

「二、三日中に引越すから御安心下さい、と言った」久子は外へ出て、疏水に沿って歩きだす。

大岡昇平集5』(岩波書店、一九八二年)には、『黒髪』の他に、『花影』、『来宮心中』、『逆杉』、『沼津』などが収められ、「作者の言葉」もある。

《私の主な仕事は戦争にありますが、一方に『武蔵野夫人』から始まる男女関係を扱った系列があります。それらは中編『花影』を中心とする諸作品、また説話の書き直し、推理小説などを含む、ロマネスクの世界であり、それは戦争もの間にまじって交替の形で書かれて来ました。一巻に集めてみると、女部屋の匂いのようなものを感じます。しかし私にはこういうものを書きたいという衝動は、常にありました。その理由を知るためには分析をしてみる必要があるらしいので、そんな作業を評論の方でしたことがあります。しかし真の理由はいわゆる自伝、意図、「あとがき」など部分ではなく、これらの作品のテクストのそのものの中にあるかもしれないとも思います。》

 ここで、丸谷才一が『水のある風景 大岡昇平』で批評したバシュラールを参考にしての、「水のイメージ」、「母」、「オフィーリア」、「うつろいやすさ」、「水源を求める恋人たち」、「髪」をテーマに『黒髪』をテクスト読解しても特につけ加えることはない(ちなみに、大岡自身も『小説家 夏目漱石』の『水・椿・オフィーリア』や『明暗』に関する批評で丸谷と同じテーマをもって漱石を論じている)。

 それよりも、たしかに大岡は『黒髪』を、スタンダールパルムの僧院』から学んだ叙事的で簡潔な垂直性の文体で書き進めてきたが、最後の場面でテクストから溢れだしてしまっている。また、大岡は『黒髪』の久子に、自己を欺く一人称「私」でなく三人称で、ヒロインを生々と開示する方法を採用したが、これも最後に溢れだしている。

 ここまで引用してきた垂直な文体で綴られた詩的小説が、最後の場面で水平に変化する、あたかも《隧道から出た水が、扇を拡げたように拡がって、渦巻いている。開放された水は一斉に速度をゆるめ、渦巻きつつ、立ち直って、ゆるやかに下の方の出口に収斂されて行く》かのように。

 また、三人称が、一人称の「私」とまではいかなくとも、久子の心理が、心理小説的に探究されすぎることなく、あわあわと織りまぜられて、すべてが幻想のように読者とともに歩む。

 もともと大岡文学には常に、何人かの批評家によって語られてきたように、「女人救済」、「女人往生」、「鎮魂」、「無垢」への希求があった。『少年』の時期から聖書を読んだことの他には本人の口からほとんど語られなかったが、宗教的なもの、聖母マリアおよびマグダラのマリアへの密かな思慕があったに違いない。それら、スタンダールの「ロマンチック・レアリスム」の浄瑠璃版ともいうべきロマネスクが、「こういうものを書きたいという衝動」で愛すべき久子にのり移る。しかも、明晰な意識のもとで。

『黒髪』の小説の時間は、プルーストのそれのように円環構造となって、冒頭の時間に戻った。少し長くなるが、力強い最後まで引用する。

《あたりが静かになった。それではもうこの床下に水の流れる家ともお別れかと思うと、急にこの家がいとおしくなった。片づけものを始めようと思ったが、なんとなく億劫である。お茶を入れ直して、奥の四畳半に坐っていると、秋だというのに、水音はなおも高まる気配である。彼女はせき立てられるように、立ち上った。鏡の前で軽く顔を直し、普段着のまま外へ出た。

 家の前の溝にも、今日は水嵩が増していた。上の疏水の放水の都合らしく、澄んだ水が溝のふちに溢れるばかりいっぱいになって、音を立てて走り去る。彼女は引越してから、まだ行ったことのない、疏水に沿う道まで上ってみようと思った。

 道は南禅寺の塀に沿った道と交り、それを越してから、急に狭い坂道となる。溝の水音が一際高くやかましく耳について来る。片側は近所の寺の経営する新制高校で、放課後の校庭に十七、八の生徒が、バレーボールをしていた。

 それは彼女が山陰の町の母の家を出て来た年頃だった。そのころ彼女は養父の冷たい目と母のエゴイズムに反抗するのに精一杯だった。自分の過去にこんな呑気な時がなかったのを、いまさらのように思い出した。

 十月の終りで校庭を取り巻く木々は、すべて紅葉していた。上るにつれて、傾いた秋の陽に的礫(てきれき)と光る京都の屋根の眺めが拡がって来る。遠く西山が陰になって、青く霞んだ輪郭を連ねている。

 坂を上り切ったところは、南禅寺の裏山を隧道で貫いて来た水が、一間ほどの水路にひしめき合い、ゆるやかにカーヴして流れて行く。その水の早い動きを見ていると、久子はいつの間にか自分が興奮しているのに気がついた。村井と別れたってこわいことがあるもんか、と改めて力んだ気持になった。

 小さい時、死のうと思って山陰の町の河原を一人でうろついた時も、こんな気がした。丸い玉のようなものが、胸元からこみ上げて来るような気がする。いつか柏木に書いてやったように、鏡の前に坐って、髪をすいている時も、そんな気がした。伸ばした黒髪はそれから切っていない。彼女はそれを無造作に引っつめて、うしろに束ねてある。

 彼女はふとこの水に随いて行ってみようと思った。この疏水が、京都盆地の水流の方向と逆に山際に沿って銀閣寺まで北流し、迂回して北白川から上賀茂一帯の田畠をうるおしているのを知っていた。

 水に沿った道を、水の流れに送られるように歩いて行く。水はどんどん彼女を追い越して行くので、前に歩きながら、後ずさりしているような錯覚に囚われる。》

 水上勉は「声をあげて読んでみたいような、風景と心理のからまった音楽である」と解説したが、黙って首肯くことのほかに何ができよう。

 《その水が渦まいて、再び隧道に落ち込む上は若王寺の墓地である。小径を登って、段々になった墓の間を抜けながら、彼女はあれから母や叔母の墓に参ったことがなかったのを思い出した。すまないと思うよりは、自分がそのうちこんな石の下に入ってしまっても、だれにも来てほしくないという考えが先に来た。骨を四国の父方の寺に入れて貫えるかどうかさえたしかではない。県庁の役人をしている伯父とはずっと音信不通になっている。自分の死を知らせてやる者は誰もいない。しかしこうして天地の間にぶら下ったような気持で、生きて行く自分にはそれで沢山だ。いつでも自殺してみせると、彼女は三十二になっても、十歳の時の山陰の小さな町の古い家の押入に隠れ、泣きじゃくった時の気持を持ち続けているのである。

 墓地を越えて、再び疏水の面に降りると、そこは隧道から出た水が、扇を拡げたように拡がって、渦巻いている。開放された水は一斉に速度をゆるめ、渦巻きつつ、立ち直って、ゆるやかに下の方の出口に収斂されて行く。

 岸の崖の雑木が、あたりが明るくなるほど紅葉して、水面に影を映している。落葉がまばらに水面に浮かび、動く水の速度を示して、艦隊のように移って行く。オナガのような長い尾をつけた鳥が一羽降りて、尾を水につけ、飛び去った。

 久子は大きく吐息をした。静かに涙が溢れて来た。なんのための涙か、わからなかった。不意に豊かな髪が解けて、肩にかかった。彼女は髪も涙もほどけるに任せて、歩き続けた。

 閘門を出ると水路はずっと広くなる。水の流れはゆるくなる。下から斜に上って来た広い道が、流れに沿い出す。

 対岸が崖になって迫り、形のいい岩が露出して、造園されたような整然たる風景を形づくったところがある。流れに小橋を渡して、真竹の中にちんまりした屋根門がのぞいている家がある。左の方には、低い吉田山が迫り、真如堂の塔が、針のように、森から突き出している。》

 地誌的な風景描写は大岡の得意とするところで、これも『パルムの僧院』のコモ湖をめぐる魅惑的な自然描写から学んだことだ。

《彼女は歩き続ける。一人の小柄な僧形の人が、彼女がその道で会ったはじめての人間であった。眼を伏せたまますれ違って行ったその人が、彼女と同じ性であることに、彼女は気が付いた。

 疏水を渡すやや広い橋があり、粗末な山門があった。尼僧はそこから出て来たものらしかった。

 静かな境内に久子は足速に入って行った。本堂の右手の庫裡の玄関にかかると、そこにも僧形の人がいた。彼女は式台に膝をつき、黒髪を床板に垂らして、おじぎをしながら、

「尼さんになるのは、どうしたらいいんでしょうか」と訊いた。》

 

 夢みるような風景と心理描写の美しさは、同じ時期に書かれた『花影』の次の名文と、やはり愛すべきヒロインで最後に自死してしまう銀座の女葉子とに、せつなく響きあっている。

《目前の風景とはなんの関係のない、吉野の桜の映像が不意に浮んだのは、なぜだったろうか。三年前の春、京都大阪へ講演旅行をした帰りに、奈良で待ち合せて、寺を見て廻り、翌日吉野まで足を延した。

 それが葉子のいっしょの、たった一度の旅行らしい旅行だった。中の千本が満開な頃で、大勢の酔客も気にならぬくらい美しかった。奥の西行庵まで行って、降りて来た時は、風が落ち、夕闇が迫っていた。花見客の散った後の閑散な山上の道は、花の匂いでむせるようだった。

「吉野へ行ったってことは、行かなかったよりいヽわ」

と、葉子はいったことがある。自分を忘れることはあっても、吉野は忘れないであろう。

 二人で吉野に籠ることは出来なかったし、桜の下で死ぬ風流を、持ち合せていなかった。花の下に立って見上げると、空の青が透いて見えるような薄い脆い花弁である。

 日は高く、風は曖かく、地上に花の影が重って、揺れていた。

 もし葉子が徒花なら、花そのものでないまでも、花影(かえい)を踏めば満足だと、松崎はその空虚な坂道をながめながら考えた。》

『黒髪』から溢れだすもの、それは大岡のロマネスクだった。

                                    (了)