文学批評 「谷崎『鍵』の「欲望の欲望」」

   「谷崎『鍵』の「欲望の欲望」」

 

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 谷崎潤一郎の、いわゆる「晩年三部作」は『鍵』、『瘋癲老人日記』、『夢の浮橋』を指す。第一作『鍵』は、数え年七十一歳になる谷崎が、昭和三十一年(1956年)の『中央公論』一月号および、五月号から十二月号に発表した作品で、連載時から、当時における「良俗紊乱」なスキャンダラス性と、おりからの「売春禁止法」国会審議にまで波及して「毀誉褒貶」まみれとなる始末だった。今となっては、賛否どちらにしろ、狭量な道徳感想批評をとりあげる必要はあるまい。

 しかし、その余波がいまだに残っているのか、現代にいたっても、『鍵』に関する批評は、「変態小説」という紋切型(ドクサ)から抜け出せないでいる。そのうえ、よくいわれる「谷崎の無思想性」という誤解もあいまって、谷崎がどれほどに現代思想の最先端を、(たとえ無意識であったにしても)谷崎得意の「預覚」によって、小説『鍵』に結実させたかが指摘されることはありえなかった。

 幸い、谷崎文学の優れた批評家である渡部直己河野多惠子が、批評のぶどうの苗木を植えてくれた。『春琴抄』『細雪』などについては、たわわな果実によって複雑な味わいをもったワインをもたらしてくれたのだが、こと『鍵』批評については十分とは言いがたい。そこで、二人の批評に、とりわけ渡部の批評の言葉にインスパイアされることで、何がまだ不足しているのか、その先には何があるのかを考察し、谷崎文学というテロワールから、さらに豊潤なワインを深く味わう悦びに酔いしれたい。

 考察する際、谷崎が『鍵』を書いたのとほぼ同時代の1950~60年代にクロソウスキージャック・ラカンが発表した諸作品との並行性がつねに頭をよぎった。だが、クロソウスキーにしろ、ラカンにしろ、解説の言葉をつくせばつくすほどするりと逃げてゆく。とりわけラカンは、『エクリ』や、セミネール録の『対象関係』『精神分析の倫理』などから部分を引用しても、用語解説しているうちに泥沼化し、そのうえ意味が腑に落ちない。あまたの解説書から孫引きしても、あえて難解さを目論み、難解さにこそ意味があるといったラカンの術中から逃れることができない。ラカン派の精神医でもある斎藤環が『関係の化学としての文学』のなかで、谷崎『鍵』をラカン用語(「シニフィアン」「鏡像段階」「象徴界想像界現実界」「対象a」「大文字の他者」など)を用いることなしに、しかし概念だけはうまく俎板にあげて考察しているので、この書を読解の導き手として、エキスを抽出、濾過した。

 この批評文が、あたかも「欲望の欲望」のような「読解の読解」であることを最初に宣言しておく。

 

<「マゾヒズムを書くには不向きな二元描写」>

 河野多惠子は、谷崎文学好きを公言しつづけた小説家で、『谷崎文学と肯定の欲望』(昭和五十一年、文藝春秋刊)と『谷崎文学の愉しみ』(平成五年、中央公論社刊)を刊行している。けれども、『春琴抄』を谷崎文学の最高傑作として称揚する河野の『鍵』に対する評価は決して高くない。『谷崎文学の愉しみ』から、その理由を紹介する。

 谷崎といえばマゾヒズム、と解説することが多いなかで、マゾヒズムを生涯のテーマとしてきた河野の谷崎批評は別格の高みであるものの、残念ながら『鍵』においてはズレが生じていると言わざるをえない。

《『春琴抄』を書き終えた後の時期こそ、谷崎にとって最大の危機であったと考える私には、その後の谷崎はその危機から根本的な脱出はなし得ていなかったと思われる。その間、恐らく谷崎自身の心底でも、行き詰まりの不安と焦りが点滅し続けていたことであろう。二十余年間そのような状態にあった自分の文学を積極的に前進させる野心と期待をもって試みられたのが『鍵』なのである。(中略)彼は純粋に心理的マゾヒズム文学である『盲目物語』『蘆刈』『春琴抄』において、マゾヒズムの基本心理そのものの象徴といえるほどの創造、殊に『春琴抄』に至っては、マゾヒズムの機能の生体解剖を想わせるほどの創造をなし遂げたものの、(中略)少なくともサディズム不在であっては、その可能性に限度があることになる。(中略)谷崎はサディズムを介在させることによって『卍』で果せなかった期待を実現し、サディズム不在であり、過去の最高峰である『春琴抄』を超える傑作を得て、自分の文学をはっきり拓こうと、『鍵』を構想したものと思われる。》

 しかし、その思惑はうまくいかなかった、と河野は断定する。

《この作品のモチーフが、性愛の対象者に殺されたいマゾヒズムの願望であることは明らかである。そして、谷崎はこの作品では、純粋に心理的マゾヒズムのバリエーションから脱出して、夫のマゾヒズムに実際に関わる妻のサディズムを設定している。ところが、この作品では、サディズムを設定した収穫は得られていない。サディズムは機能していないのである、作者は、妻と木村との不倫によって、嫉妬という被虐にマゾヒズムの夫を与らせ、且つその刺激のもたらす性的無謀で、彼をサディストの妻に殺してもらったも同様の死に与らせるのである。作者はそのすべてをマゾヒストの夫に主宰させるのである。しかも、普通の意味での観念上、夫が主宰できたことにしてしまっているにすぎないのである。》

『鍵』の読者は、河野が申し立てるほどには、夫のマゾヒズムと妻のサディズムを感じないというのが本音だろう。たとえ夫にマゾヒズムの特徴であるフェティシズムや反復性や死(タナトス)への希求を認め、妻には夫を死に至らしめるサディズム的嗜虐性を認めたにしても、谷崎が書こうとしたことは、もう少し違ったことだったのではなかろうか、と感じるのが素直なところではないのか。

 いかにも河野は、自分の領域である心理的マゾヒズムに引き付け、拘泥しすぎているがゆえに、妻に共犯性、相互補足性としてのサディストの設定を見たててしまい、収穫がなかった、と断罪した。マゾヒズムサディズムを、「サド=マゾ」なる相互補足的な単位として信じることには曖昧さと安易さがあって、ドゥルーズは『マゾッホとサド』のなかで、《真のサディストは、マゾヒストの犠牲者を断じてうけつけないであろう(僧侶たちの犠牲に供された一人が『美徳の不幸』の中でいっている。「あの人たちは、自分が罪を犯せば必ず涙が流されねばならないと確信したがっています。自分から進んであの人たちの犠牲のなろうとするような女は、はねつけてしまうに違いありません」)。だが、マゾヒストとて真のサディストの拷問者をうけつけたりはしまい。たしかに、マゾヒストは女の拷問者に一定の性質がそなわっていなければならぬという。だがその「性質」をマゾヒストは調教し、訓育し、内奥に深く隠されたおのれの企てに従って説得しなければならず、またその企ては、サディストの女性との遭遇によって、ことごとく失敗に帰してしまうにちがいないものなのだ》と、対立概念の思い込みを難じているではないか。

 むしろ、夫のマゾヒズムにみえるものは、アレクサンドル・コジェーヴによるヘーゲル精神現象学』講義(1930年代後半のこの講義はのちに『へーゲル読解入門』として出版されたが、聴講者には、ジャック・ラカンジョルジュ・バタイユロジェ・カイヨワメルロ=ポンティアンドレ・ブルトンジャン・ポール・サルトルなどがいた)ののそれと、影響を受けたフランスの思想家たちがテーマとした「欲望」のあらわれではないのか。

 コジェーヴ『へーゲル読解入門』の「第一章 序に代えて」から抜粋すれば、遠まわしでわかりにくい表現ではあるが、《例えば、男女間の関係においても、欲望は相互に相手の肉体ではなく、相手の欲望を望むのでないならば、また相手の欲望欲望としてとらえ、この欲望を「占有」し、「同化」したいと望むのでないならば、すなわち、相互に「欲せられ」、「愛され」ること、あるいはまた自己の人間的な価値、個人としての実在性において、「承認され」ることを望むのではないならば、その欲望は人間的ではない》とか、《同様に、自然的対象に向かう欲望も、同一の対象に向かう他者の欲望によって「媒介され」ていなければ人間的ではない。すなわち、他者が欲するものを他者がそれを欲するが故に欲することが、人間的なのである。このようなわけで、(勲章とか敵の旗など)生物的な観点からはまったく無用の対象も、他者の欲望の対象となるから欲せられうる》などである。

 つまりは、男女間の欲望は、相手の肉体を手にいれても終わることがなく、むしろますます増進してしまう。なぜなら、欲望は、生理的、動物的に満たされるような単純なものではなく、他者の欲望を欲望する(・・・・・・・・・・)という構造を内に抱えているからである。相手を手に入れたあとも、その事実を他者に教えたい、欲望されたい(嫉妬されたい)と思う。また同時に、他者が欲望するものを知り、他者がそれを欲するがゆえに手に入れたいと思う(嫉妬する)。ゆえに、欲望はつきることがない。人間の欲望は本質的に他者を必要とし、媒介による欲望によってこそ、人間は動物と異なる。

 さらにコジェーヴの、《ところで、いかなる欲望も或る価値を目指した欲望である。動物にとっての至高の価値はその動物的生命であり、動物のすべての欲望は、究極的には、その生命を保存しようという動物の欲望に依存している。したがって、人間的欲望はこの保存の欲望に打ち克つ必要があるわけである。換言すれば、人間が人間であることは、彼が自己の人間的欲望に基づき自己の(動物的)生命を危険に晒さなければ「証明」されない》とは、コジェーヴの講義に出席していたバタイユがのちに主張したような、恍惚のうちに死に至る人間的な行為だったのではないのか。それをしも、夫のマゾヒズム、妻のサディズムが基底にあったと括ることは可能ではあろうが、それではすべてがその色に染まってしまうだろう。

 また、じしん優れた心理的マゾヒズム小説家でもあった河野は、創作の秘儀をつかんでいるかのように、様式も問題であったとする。

《谷崎が『鍵』で用いた、夫と妻の相互の日記体は、サディズム、ことにマゾヒズムを書くには不向きな二元描写でもあるために、作品の弱点はその様式に復讐され、拡大されねばならなかった。》

マゾヒズムを書くには不向きな二元描写」という指摘は、技法的な観点のつもりなのかもしれないが、夫と妻以外の他者を、第三者として浮き彫りにして示唆的である。これについては、のちほど取りあげる。

 

<「執拗に間接的たらざるをえぬ」>

 渡部直己の『谷崎潤一郎 擬態の誘惑』は、谷崎論を先に進めるための必読書といって間違いない。『鍵』に言及している箇所を検討してゆく。

《なるほど、たとえば『鍵』(昭31年)の夫は、『陰翳礼讃』の素朴な読者には即座に信じがたいほど直截な欲望に貫かれながら、「蛍光灯トフロアスタンドノ白日ノ下デ」、平素より日本的(・・・)な「女ラシサ」を身上とするその古風な妻を全裸にして横たえ、「臀ノ孔マデ覗イテ見」るだろう。同様に、『瘋癲老人日記』(昭37年)の主も、木製(・・)ならぬ「タイル張リノ」西洋風呂(・・・・)のなかで、息子の嫁と嬉々として戯れる。(中略)すなわち、かつての「光」と「闇」のあや(・・)は、いま、狂おしい「欲望」と、それをみたすには執拗に間接的たらざるをえぬ「老い」との関係に、そのまま転位され反復されている。》

 ここで重要なのは、人口に膾炙し、手垢のついた「陰翳」「闇」への反語ではない。「欲望」「執拗」「間接的」「転位」「反復」といった、単純とは言いがたい概念である。小説にあらわれる人物たちの欲望の関係性は、平面的なイメージで解釈できるものではなく、トポロジーにおける「クラインの壺」(参考図1)や「メビウスの輪」(参考図2)のような、内・外、表・裏が反転して自己に帰ってきてしまう柔らかな現代数学空間(それは現代思想空間でもある)をイメージするよう、谷崎『鍵』は要求している。

 

<「出来るだけ廻りくどく」>

 渡部は、<引用>の技法が、叙述の直線性を朧化し、屈折させ、「古典」への迂回(・・)を介して、語られるべき中心の登場を繰りかえし遅延(・・)させる方途であることは論をまたぬはずで、<引用>の頻繁な『吉野葛』と『蘆刈』とが、ともに「紀行」随筆風の体裁をもつことは偶然ではないのだ、といった論旨に続いて、

《この屈折にみちた緩慢さこそが、旅にあっても作品にあっても等しく(ちょうど、『鍵』の夫婦が「途中にいくつもの堰を設け、障害を作って、出来るだけ廻りくどく」したがるように、また、『瘋癲老人日記』の主が、「イロ/\ノ変形的間接的ナ方法デ性ノ魅力ヲ感ジ」たがるように)、その目的=中心への期待(・・)をいっそうつのらせる事実を銘記しておけばよい。》

 重要なのは、「迂回」「遅延」「緩慢」という概念で、これらこそが谷崎というと口の端にあがる「マゾヒズム」の本質には違いなく、とりわけ「母恋し」の谷崎ではあるが、フロイト的な「父・母・子」の原因探究に滞留することはせず、ここでも「迂回」「遅延」「緩慢」とは、「時間」を媒介とする人間的な欲望であることを気にとめて先に進む。

 

<「夫が妻を、娘が母をともに木村に譲渡し」>

《かかる譲渡の主題が、この昭和初年から「晩年三部作」にまでさらに濃密に引き継がれ、それが谷崎的マゾヒズムの一斑を豊かに鼓吹する点も容易に確認しうる事実である(『鍵』では、夫が妻を、娘が母をともに木村に譲渡し、『夢の浮橋』では、父が妻を子に譲り、『瘋癲老人日記』では逆に、子が妻を、老いた父の「間接的ナ楽シミ」のなかへ差し出

「譲渡」は重要な概念である。その理由はなにも、谷崎が佐藤春夫とのあいだで妻千代子の「妻譲渡事件」を起こしたからでも、小説『蓼喰う蟲』のなかに妻譲渡事件がでてくるからでもない。「譲渡」とはつまり、「交換」「贈与」のように、社会関係を作る人間の欲望のありようだからだ。

 ここから、ラカニアン斉藤環の『関係の化学としての文学』を援用することとする。

 

<「欲望の媒介項=メディア」>

 斎藤環『関係の化学としての文学』で、桐野夏生が『鍵』について語った部分と斎藤の分析を、とっかかりとして引用する。

《本書の端緒をもたらし通奏低音のひとつを奏でる桐野夏生もまた、「最も好きな小説」として『鍵』を挙げている(「婚姻を描く谷崎」『文豪ナビ 谷崎潤一郎新潮文庫)。桐野はその魅力について、次のように述べる。

「婚姻制度の中の男と女の捻れが一層際だっている。性の享楽を得るために、互いの日記を盗み読む夫婦。妻の郁子は、『夫のために「心ならず」もそのように「努めて」いるのであると、自らを欺いていた』。郁子は、あたかも夫の言いなりになることが「貞女の亀鑑」であるかのように装っているが、実際は、夫の欲望からとっくにはみ出すほどの、大きな欲望を密かに育てている。夫の仕掛けた遊びに渋々入ったかに見えて、本当はその遊びを楽しんでいるのだ。(中略)谷崎は一貫して貞女を書かなかった。むしろ、女の欲望を肯定し、女の欲望によって男が変貌する様を書いた。そのことによって、男としての谷崎は、より大きく深い存在となっていくのである。しかし、谷崎の書く物語の外枠は意外に健全だった」(前掲書)。

 ここで重要なのは、桐野が、キャラクターの欲望が関係性を通じてキャラクターそのものを変化させ、その変化がさらには作家自身にまで及ぶという再帰的過程を無造作に指摘している点である。》

 ここまでは、まずは穏当な解釈である。夫と妻という二元関係における、互いの欲望の反映であって、他者は夫にとっての妻、妻にとっての夫、という二次元平面にすぎないからだ。

 

<「酔ったふり(・・)、卒倒するふり(・・)、夢うつつの境で」>

 渡部に戻る。《妻の「脳貧血」から一事が本格化し、夫の「脳溢血」で終熄にむかうといった首尾の綾を印象づけながら、『鍵』はまず、『蓼喰ふ蟲』のいわば反転された異文(・・・・・・・)として展開する。共通の人物設定(肌合いの悪い夫婦と妻の恋人)より発しつつ、要と美佐子が互いにいたわり信じあうそのあかしとして肌を離しつづけるのとは逆に、『鍵』の夫婦は、欺しあい疑いあうことではじめて、深ぶかと互いの肌に溺れてゆくことになる。(中略)谷崎的な愛欲風土の住人として、夫はここで、妻が装う(・・)「女ラシサ」と旧套すぎる実直さ(・・・)(「義」)との紐帯を真先に咎めているのだ。要と美佐子の不仲が如実に逆照していたように、この風土では、擬態はすべからく「不義」と結び、そこに深ぶかとした愛欲を誘致せねばならない。》

 夫が従来の禁を破り、「夫婦生活ニ関スル記載」を小説冒頭の「一月一日」の日記から書き留めはじめたことに、《妻は即座に反応する。酒に酔って風呂場に倒れ、居合わせた木村という夫の後輩の目に全裸をさらし、人事不省のまま運ばれた寝室で、結婚以来はじめて煌々とした光のもと、「執拗イ、恥カシイ、イヤラシイ、オーソドツクスデハナイトコロノ痴戯の数々」を夫に許すという、それじたいがすでになかば装われた偶然(・・・・・・)の一夜を奇貨に、彼女は一変する。以後、木村が遊びにくるたびに、彼女は最初の晩と同じ仕草を(今度は明らかに意図的に)なぞりながら、酔ったふり(・・)、卒倒するふり(・・)、夢うつつの境で夫と木村を混同するふり(・・)、意図的な「譫言(うはごと)」などを繰りかえしては夫を狂喜させると同時に、一連のその淫らな擬態を通してはじめて、じしんの貪婪さを満たすことになる。彼女はさらに、出来事を記す夫の日記を見て見ぬふり(・・)をし、また、読まれていることを承知のうえで、じぶんの日記のはしばしに「虚言」を紛れこませながら、より効果的に「木村ト云フ刺激剤」を夫と共有する。同様にしてむろん、夫の日記にも、妻とのこの新たな「情熱」を維持するためのさまざまな「虚言」が仕掛けられるだろう。》

 ここでは、「反応」「ふり(・・)」「夢うつつの境」「混同」「共有」が重要だ。夫と妻という二元描写が「反応」と「ふり(・・)」によって溢れだし、木村という他者が媒介として登場し、「夢うつつの境」という幻想と現実との境界が「共有」出現する。

 

<「疑いが刺激する想像的なもの(・・・・・・)」>

 ふたりが日記によって、《欺くこと(・・・・)それじたいはしかし、この場でさほど大きな意義を与えられていない。(中略)万事はいちはやく深い黙契(・・)にささえられてあるかにみえる。一篇の新面目はそこにあるはずで、実際、互いに互いの日記を読まぬふり(・・)にせよ、卒倒にはじまる一連の「半睡半醒」の仕草にせよ、擬態はここで、欺くためではなく、主として疑い(・・)を育てるために反復されようとするのだ。疑いこそ嫉妬(・・)の最大の糧であるからだ。》

 ここで重要なのは、「黙契(・・)」「反復」「疑い」「嫉妬(・・)」であるが、「疑いこそ嫉妬(・・)の最大の糧である」について、渡部は次のように論考を発展させる。

《大切なのは、それを露骨に隠すことでも、あらわに告白することでもなく、なかば隠しなかば示すことである。》

《虚言と使嗾にみちた夫の日記にたいするいわば最良の読解者(・・・)でもある妻は、擬態をめぐるこの第二の要求の真意をも誤たず読みとる。》

《ここでもっとも切実なのは、「本当のヿ」が掻きたてる嫉妬ではなく、それへの疑いが刺激する想像的なもの(・・・・・・)であった。夫がかりに別種の(いわばより初歩的(・・・・・)な)マゾヒストであったなら、彼は、妻と木村との「本当ノ」場面をじかに目撃することを望み、その方向にふたりを誘導しえたかもしれない。だが、一篇の主人公として彼が欲するのは刺激の間接性(・・・)にはかならず、このとき、人生の(・・・)ではなくまさに作品の良き伴侶(・・・・・・・)として、彼の妻に課せられた「最後の一線」とはつまり、夫の目前には終始不在のまま横たわる「本当ノ」場面と、彼の腕のなかでみずから演ずる痴態とのあいだに差しわたされているのだ。

  「キハドケレダキハドイ程ヨイ」。》

 これらを読むと、谷崎の『鍵』が、作家/(ニーチェ、サドの)批評家/画家/神学者/翻訳者/である(画家バルチュスの兄)ピエール・クロソウスキーによる『ディアーナの水浴』(1956年)、『歓待の掟(ロベルトは今夜)』(1965年)との共通性に気づかずにはいられない。

ディアーナの水浴』は、狩りの名手アクタイオーンは処女神ディアーナ(アルテミス)がニンフたちと水浴している姿を覗き見るが、怒ったディアーナがアクタイオーンを牡鹿に変身させてしまい、鹿の姿となったアクタイオーンは自分の猟犬たちに噛み殺されてしまう、というギリシャ神話である。それに対して、クロソウスキーは、女神アルテミス(ディアーナ)は人間にすぎないアクタイオーンの欲望をなぞるようにあらわれたのではないか、よってアルテミスはあらかじめすべてを知っていた、アクタイオーンが自分を欲望していることを、その欲望のなかで自分を裸にし、さまざまな姿態をとらせていることも知っていた、それらを知ったうえで、むしろその欲望を鏡とし、その欲望のかたちを自分自身に反映させるようにして、アルテミスは顕現(エピファニー)として、美しい裸身を人間にさらしたのではないか、と解釈した。

『歓待の掟』は、それまでに発表された三つの小説『ナントの勅令破棄』(1959年)(ロベルトとその夫オクターブの交互日記形式という『鍵』によく似た形式)、『ロベルトは今夜』(1953年)、『プロンプター』(1960年)を纏めた作品(日本では、前二作を『ロベルトは今夜』という題で翻訳出版してもいる)である。神学者オクターブは、貞潔の誉れ高い古代ローマの美女ルクレティアがタルクイニウスに襲われる場面は、ルクレティウスが夫に操をたてるために自刃したと伝えられてはいるが、絵の中の彼女の手に、拒みつつ誘う堕落への同意を読みとる。そこで、愛する妻のロベルトにもその役を演じさせようと、家を訪問する男を近づけて不倫の関係を結ばせ、客人のもてなしに供するという「歓待の掟」を実践するのだが、ロベルトは、夫からもまわりを取り巻く男たちからも欲望の視線で見つめられ、しかしその視線に応えて自分を与えてしまう。

 ここにおいて、他に『わが隣人サド』『ニーチェの悪循環』なども発表し、最大限の影響を思想界に与えたクロソウスキーが、『鍵』に近接したテーマを扱っているにも関わらず、ではどうして谷崎文学が、たしかにキリスト教神学問題は欠如しているにしても、あえて「無思想」と標榜、卑下されなくてはならないのか。

(谷崎の足フェティシズムに対して、クロソウスキーは手フェティシズムである。この違いは、福音書の「我に触れるな(ノリ・メ・タンゲレ)(Noli me Tangere)」というイエス・キリストの手によって「触れる」行為の有り無しが大きいだろう。ユダヤキリスト教世界において、「触れる」こと、「触覚」の重要性は、メルロ=ポンティレヴィナスジャン=リュック・ナンシージャック・デリダといった哲学者たちによって、繰り返し議論されている。)

 

<「模倣しあう」「書き(・・)かつ読む(・・)」>

 渡部は、《『鍵』において、読む(・・)ことが、『瘋癲老人日記』に数倍して強く誰の目にも明らかな特権的主題(註7)をなしていたことは、すでに記すにも及ぶまい。作品のいっさいは、夫婦が互いに互いの「日記」を読みあうというその基本的な仕草に支えられていたのである》と書いたが、ここでは(註7)が重要なので、裏から表に出す。

《(7) 夫の目に物が「二重ニナツテ見エ」るという挿話を機に、『鍵』のなかで執拗に反復される二重性(・・・)の主題に留意しよう。木村と敏子のカップルが、夫婦のかげで(・・・)彼らとよく似た(・・・・)腹の探りあいに嗾けあいを演ずること、娘の下宿でも再演される「卒倒」の真似。夫婦が互いに互いの動作をなぞりあい(盗み読みの予防にまつわる同じ仕草、妻の「寝タフリ」と夫の空鼾、ともに装われた「譫言」)、時あって互いの「日記」中にそっくり模倣しあうこと。「日記」帳を二冊(・・)に分ける妻と、二度目(・・・)の発作で(しかも「五月二(・)日の午前二(・)時過ぎ」に)死ぬ夫、等々。――こうした類似=反射的な照応はここで、「日記」をめぐり一篇をつかさどる根本的な二重性(書き(・・)かつ読む(・・))への一連の隠喩と化しながら、『鍵』に色濃くたちこめる既視感をさらに強く助長するだろう。》

 ここでは、「執拗に反復」「二重性(・・・)」「なぞりあい」「模倣しあう」「書き(・・)かつ読む(・・)」「既視感」が重要だ。

斎藤は先の文につづいて解釈を加えているが、下記の「しかしひとたび」からは「反復」が重要な理由の説明にもなっている。

《ストーリーについては、さきほどの桐野夏生によるコメントでさしあたり十分だろう。ただし描かれるのは夫婦だけではなく、彼らの娘・敏子と、郁子の(夫公認の)愛人である木村という四人であることを付記しておく。

 たとえば郁子は、木村が来訪するたびにブランデーを飲んでは風呂場で失神することを繰り返す。常識的に考えるなら、これほど結末があきらかな飲酒行為を、誰一人止めようともしないのは現実的とは言えない。少なくともホームドクターとおぼしい児玉医師が、郁子に禁酒を勧めないのはあきらかに不自然だ。

 しかしひとたび、この物語における主要な動因である「互いの欲望を想像し合う」というダイナミズムに注目するなら、「郁子の失神」は避けようのない必然なのである。裸の郁子を風呂場から寝室に運ぶ時、それを手伝う木村の欲望はどのように喚起されているか。朦朧として「木村さん」と呟く郁子の欲望を、夫はどのように聞いたのか。木村へと向かう郁子の欲望を知ることで、夫の欲望はいかに刺激をうけるのか。

 そう、「郁子の失神」は、自然主義的リアリズムとは乖離しながらも、物語における構造的必然としては強く要請されるアクシデントだ。ここでは「小説というメディア」こそが「郁子の失神」という必然を招き寄せるのだ。》

なまなましく「反復」する動作の繰り返し、あたかもデルフィの神託巫女、シャーマン、恐山イタコのような、そのリズムと既視感による時間の倒錯魔術によって、小説は、どこか遠いところにある「静物」ではなく、谷崎が愛した「生物」、猫のように近くにすり寄って来て、読者を舐めまわし、いつしか他者と自己は一体化してゆく。

 

<「あらかじめすべてを読み知っているがごとくに(・・・・・・・・・・・・)彼らはふるまう」>

 ふたたび渡部だが、《木村はなぜ、夫婦の秘密をすべて知悉しているかのように彼らに近づいては、妻に「ブランデー」を勧め、夫に「ポーラロイド」を貸すことになるのか。(中略)両親の「秘戯」が序盤の活況を呈しかけたころ下宿に移った娘の敏子も、なぜ、それが父親の切実な願いであることを見透したように、自分の交際相手であるはずの木村と母の接近をみずから取り持つことになるのか。(中略)発作に倒れた父に代わって母親の「日記」を探し出し、これを彼に取りついでいたようだが》、などについて、《妻による結末部の謎解き(・・・)めいた記述には、これらについて、敏子が両親の寝室を「夜な/\隙見して」、その光景を木村に「報告」していたらしいこと、木村をひそかに愛している彼女は「先ず母を取り持つておいて徐ろに策を廻らすつもりでゐた」らしいことなどが、なお訝しさの残る原因として推測され、「日記」の一件にかんしては、夫の指示によるものかと記されてはいる。が、原因(・・)はここでも当然、もっと近くに(・・・・・・)探りあてられねばなるまい。木村と敏子がすべてを知悉しているかのようにふるまうのは、われわれとともに彼らもまた、ふたりの「日記」を読んで(・・・)いるからではないのか。むろん、論述の穏当さを尊ぶなら、主客を転じて、あらかじめすべてを読み知っているがごとくに(・・・・・・・・・・・・)彼らはふるまうとでも記すほうが賢明だろう。が、結局は同じことだ。》

「が、結局は同じことだ」ではないはずだ。重要なのは、読んでいるか読んでいないかといった、探偵めいた謎解きではなく、《木村も、敏子も作中さかんに「図星を指し」ながら、別にいえば、読みつつあるわれわれの裡に育まれる予期や願望を物語の推移に滑らかに導入する媒介として、彼らはここに身を処すのだ。われわれのいわば露骨な分身として互いの「日記」を読みあう夫婦と、彼らにくらべればいくらか秘められた読者として存在する木村と敏子》、と自分でも書いているように、ここで重要なのは、「主客を転じて」、「あらかじめすべてを読み知っているがごとくに(・・・・・・・・・・・・)彼らはふるまう」作者と読者と登場人物の世界であって、「読みつつあるわれわれの裡に育まれる予期や願望を物語の推移に滑らかに導入する媒介として」「秘められた読者として存在する木村と敏子」だ。読者である我々もまた欲望のトポロジー空間に参加しているということに違いない。

 いみじくも斎藤は先の文章に続いて、渡部のこの文章の一部を引用している。

《「木村と敏子がすべてを知悉しているかのようにふるまうのは、われわれとともに彼らもまた、ふたりの「日記」を読んで(・・・)いるからではないのか。むろん、論述の穏当さを尊ぶなら、主客を転じて、あらかじめすべてを読み知っているがごとくに(・・・・・・・・・・・・)彼らはふるまうとでも記すほうが賢明だろう」(『谷崎潤一郎 擬態の誘惑』新潮社)

 この点はまた、次のようにも記される。「物語の全体が《いま・ここ》で書かれ(・・・)(読まれ(・・・))つつあることじたいに由来するようなより貪婪な(・・・・・)関係性」(前掲書)と。ここで「書く」主体としては作家自身と作中人物が、「読む」主体としては読者と作中人物が、それぞれ二重写しになっている。》

 

<「・・・・・・・・・」>

『鍵』のラストの「・・・・・・・・・」ほど怖ろしい終わり方はない。この一節に書かれていることは、いったいどういう意味なのだろうか、このさきどうなるのだろうか、と最後の最後におよんで悪酔いしそうな不安にかられる。あとに残された「郁子―木村―敏子」の「欲望の三角形」に読者を加えて「欲望の四角形」を作りあげるにとどまらず、「クラインの壺」のようなトポロジカルで限りない「他者の欲望」「欲望の欲望」の奈落の深い穴に、読む者を突き落してしまう。

《木村の計画では、今後適当な時期を見て彼が敏子と結婚した形式を取って、私と三人でこの家に住む。敏子は世間体を繕うために、甘んじて母のために犠牲になる、と、云うことになっているのであるが。・・・・・・・・・》

                                     (了)

 

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      「クラインの壺」          「メビウスの輪

 

             ****参考または引用文献****

谷崎潤一郎『鍵・瘋癲老人日記』(新潮文庫

河野多惠子『谷崎文学と肯定の欲望』(文藝春秋

河野多惠子『谷崎文学の愉しみ』(中公文庫)

ジル・ドゥルーズマゾッホとサド』蓮實重彦訳(晶文社

*アレクサンドル・コジェーヴ『へーゲル読解入門 『精神現象学』を読む』上妻精ほか訳(国文社)

東浩紀動物化するポストモダン』(講談社現代新書

渡部直己谷崎潤一郎 擬態の誘惑』(新潮社)

斎藤環『関係の化学としての文学』(新潮社)

*『文豪ナビ 谷崎潤一郎桐野夏生ほか(新潮社)

ジャック・ラカン『エクリ』佐々木孝次ほか訳(引文堂)

*ジャック=アラン・ミレール編『ジャック・ラカン 対象関係』小出浩之ほか訳(岩波書店

*ジャック=アラン・ミレール編『ジャック・ラカン 精神分析の倫理』小出浩之ほか訳(岩波書店

ピエール・クロソウスキー『ロベルトは今夜』遠藤周作・若林真訳(河出書房新社

*『ユリイカ クロソフスキーの世界(1997年7月号)』兼子正勝ほか(青土社

ジャック・デリダ『触覚、ジャン=リュック・ナンシーに触れる』松葉祥一ほか訳(青土社