短歌批評 「『茂吉への返事』と『アンジェリコへの親密な手紙』」

 「『茂吉への返事』と『アンジェリコへの親密な手紙』」

 

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《わたしはこゝで、駁論を書くのが、本意ではありません。そんなことをしては、忙しい中から、意見して下された、あなたの好意を無にすることに当りませう》ではじまる折口信夫の『茂吉への返事』は、大正七年六月の『アララギ』に掲載された。

 前年に『アララギ』編集同人に抜擢されたばかりの三十一歳の折口は、わずか五歳の年上ながらも、すでに歌集『赤光』を世に出し、ついで『あらたま』に結実する歌の数々によってアララギ中核となっていた斉藤茂吉の批判への返答としてこの一文を発表したわけだが、読んでゆくそばから、きっと茂吉は頭から湯気を立てて真赤になって怒ったに違いない、となんだかおかしくなってしまう。

《其に第一、お申し聞けの箇條は、大体に於て、わたしの意表外に出たことではありませんでしたから。といふと、何だかあなたの語を軽しめる様な、高ぶつた語気を含んでゐる様に、聞えるかも知れませんが、実の処、あなたのみならず同人の方々の、あゝいふ傾向の抗議のあることは、漠然と予期しながら、あの百首の発表をしたのですから、あわたゞしく弁解しようとも思ひません》。

 そして折口は、自分が生長の途中にあるので余裕ができていない、自分が上衆(ズ)にならなければならず、ゆえに毎号変ってゆくほどであって、固定するのを恐れている、だからといって試作などではなく、いかなる批評を受けても喜んで耳を傾けるだけの覚悟は持っています、とあれこれ慇懃無礼に弁解するポーズを示したあとで、核心に入る。

《同人諸兄、殊に、あなたと赤彦さんが、左千夫先生と議論を繰り返された歴史が、復あなたと私との上に循つて来たのだ、といふ気がします》の「不遜」な発言につづき、《此から暫らく、書き連ねる問題は、わたしとあなたとの質に於ける相違を申したい、と思ふのです。くどい様ではあるが、この点の考察を怠つては、総ての議論は空になります》こそが、近代短歌とは何であったのか、そしてその後の展開あるいは閉塞をへて、今ここにある現代短歌となったターニング・ポイントがどこにあったのかを示す口上であった。

 おそらく、近代短歌は折口がこれから述べる素朴雄勁さゆえに近世を乗り越えて出発することができ、それゆえにまた現代に乗り越えられる単純な近代として存在することになったに違いない。アララギにとっての「まれびと」折口は予言してみせたのだ。

《あなたは力の芸術家として、田舎に育たれた事が非常な祝福だ、といはねばなりません。この点に於てはわたしは非常に不幸です。軽く脆く動き易い都人は、第一歩に於て既に呪はれてゐるのです》。現代性(モデルニテ)と憂鬱を詩にもたらしたボードレーヌのように呪われた原罪を背負って折口はあらわれる。

《田舎人が肥沃な土の上に落ちた種子とすれば、都会人はそれが石原に蒔かれたも同然です。殊に古今以後の歌が、純都会風になつたのに対して、万葉は家持期のものですらも、確かに、野の声らしい叫びを持つてゐます。その万葉ぶりの力の芸術を、都会人が望むのは、最初から苦しみなのであります》。

 卑下しているかに見えて、ここには確信犯としての、既に『万葉集』の口約を刊行し、『源氏物語』をロシア人ネフスキーに講義しうる、学者、研究者の折口がいる。卒業論文に『言語情調論』という詩語の研究をとりあげて不可能性の領域に入りこみ、近代言語学ソシュール、パンヴェニストらによる構造主義言語学へ導かれていったのに対して、曖昧、暗示的、象徴性という「気分」の説に向かい、のちの生涯を費やして深めてゆく折口がいる。

 大阪人である折口は《趣味の洗練を誇る、すゐの東京》に比べて、《野性を帯びた都会生活、洗練せられざる趣味を持ち続けてゐる大阪》が《都会文芸を作り上げる可能性を多く持つてゐるかも知れません》と、《西鶴近松の作物に出て来る遊治郎の上にも、此野性は見られる》として自らを遊治郎(ゆうやろう)に通じる改革者と暗に自負している。

 そうして折口は、《真淵の「ますらをぶり」も、力の芸術といふ意味でなく、単に男性的といふ事を対象としてゐるのではなからうか、と思ひます》と本音を洩らし、《質に於て呪はれている都会人なるわたしが、力の芸術運動に参加してゐる為に、あなた方の思ひもよられぬ苦悩を発想の上に積んでゐるといふことを知つて貰ひ、同時に今すこし長い目で、真の意味の万葉調、厳正なるますらをぶりの力を、完全に生み出す迄の、此陣痛の醜いのたうち廻る容子を見て頂きたい、と思ふからです》と、まるで『身毒丸』か『死者の書』の魔の声の偏執で業を語ってみせる。

 そこまで言ってみせたあとで、しかし折口は権力者茂吉に頭を垂れ、おどおどしてみせながらも、舌を出している。

《力の芸術といふ語は、あなたと、わたしとでは、おなじ内容を具へてゐないかも知れませぬ。わたしの「ますらをぶり」なる語に寓して考へた力は、所謂「たをやめぶり」に対したものです。人に迫る力がある。鬼神を哭かしめるに足るなど評せられる作品の中にも、「ますらをぶり」の反対なものも随分とあります。其も一種の力ではあります》ともっとも重要なことを述べておいて、《万葉に迷執してゐるわたしは、ますらをぶりに愛着を断つことができませぬ》と従順さを示し、その舌の根が乾かぬうちに、《が、玆に立ち入つて言ふと、わたしはあまり多くの人の歌を読み過ぎました。他人の歌に淫し過ぎました。為に、世間の美学者や、文学史家や、歌人などの漠然と考へてゐる短歌の本質と、大分懸けはなれた本質を握つてゐます。其為に、りくつ(・・・)としては、「たをやめぶり」も却けることが出来ませぬ。しかし一箇の情からすれば、断乎として撥ね反します。けれども其処に、あなた方程の純粋を誇ることの出来ぬ濁りが出て来ました》と言葉はしたしたと脣から滴り落ちる。

 折口は理と情とのあいだで揺れ動いているかのようだ。けれど、本質を握った折口の心はとっくに決っている。演技をともなった儀礼としての返事は、新古今的に多層の意味を担う。

《今度の歌にも、「たをやめぶり」に対する理会が、誘惑となつて働きかけてゐるのを明らかに見ることが出来ます。此は都人であり、短歌に於けるでかだんすとしてのわたしに当然起り相な事です。併し恥づべきことであります》と言ってみせ、《けれども安心して頂きませう。わたしは、其「たをやめぶり」をますらを(・・・・)の力に浄化する日が、来るに違ひないと信じてゐます》と優等生のように宣言してみせる、そのときの《ますらを(・・・・)の力》とは、茂吉たちのそれとあざとくもずれている。

 鏡像のようにこう言うべきかもしれない。「わたしは、其「ますらをぶり」をたおやめ(・・・・)の力に浄化する日が、来るに違ひないと信じてゐます」、と。

 

 さきほど折口の《真淵の「ますらをぶり」も、力の芸術といふ意味でなく、単に男性的といふ事を対象としてゐるのではなからうか、と思ひます》を紹介したが、この見識はさらっと書かれてはいるけれども、事の本質そのものである。このあたりを小林秀雄が『本居宣長』でどう論じているかに触れておきたい。

 宣長について論ずれば、はじめその師であり、のちに怒りをかってしまった真淵についても避けて通れないと知っていた小林は、真淵と「ますらを」について次のように書く。

《「万葉集の歌は。およそますらをの手ぶり也」(にひまなぶ)という真淵の説は、宣長の「物のあはれ」の説とともに、よく知られてはいるが、これも、宣長の場合と同じく、この片言は真淵の「万葉」味読の全経験を、辛くも包んでいるのであり、それを思わなければ、ただ名高いばかりの説になるだろう。「万葉」の歌にもいろいろあるのだから、無論「ますらをの手ぶり」にもいろいろある。宣長宛の書簡のうちから引けば、「風調も、人によりてくさぐさ也。古雅有、勇壮悲壮有、豪屈有、寛大有、隠幽有、高而和有、艶而美有、これら、人の生得の為まゝなれば、何れを得たる方に向ふべし」(明和三年九月十六日)という事になる》とし、真淵の『万葉集大考』を引用してから、《「ますらをの手ぶり」という真淵の言葉は、無論、知的に識別できる観念ではないのだから》と言ってのけた。

 小林は続けて、《真淵の感情経験が、はっきりと「万葉」崇拝という方向を取ったのは、学問の目的は、人が世に生きる意味、即ち「道」の究明にあるという、今まで段々述べて来た、わが国の近世学問の「血脈」による》と提示する。この学問の目的としての「道」はまた、芸術の目的としての「道」とも重なるだろう。してみれば、真淵の「道」は、近代短歌の子規、左千夫、赤彦、茂吉らの「短歌道」と同じ血脈である。

 小林は真淵の心の底に分け入る。《真淵の意識を目覚めさした声も、何が「道」ではないかだけしか、彼に、はっきりと語らなかったらしい。「ますらをの手ぶり」とは思えぬものを「手弱女のすがた」と呼び、これを、例えば、「迮細(サクサイ)」にして「鄙陋(ヒロウ)」なる意を現すものとでも言って置けば、きっぱりと捨て去ることは出来たが、取り上げた「ますらをの手ぶり」の方は、これをどう処理したものか、真淵のダイモンは、口を噤んでいたようである》。真淵に口を噤んでいたダイモンは、折口にひたひたとすり寄って耳打ちしたのだ。

 いささか乱暴な言い方だが、同じように人麿賛美の形をとった茂吉を真淵とすれば、折口は源氏経験を通して宣長であった。

《もし真淵の「万葉」尊重が、「新古今」軽蔑と離す事が出来ないと言えるなら、宣長の「新古今」尊重は、歌の伝統の構造とか組織とか呼んでいいものと離すことが出来ないと言った方がよいのであり、「ますらをの手ぶり」「手弱女のすがた」という真淵の有名な用語を、そのまま宣長の上に持込む事は出来ない。歌の自律的な表現性に関し、歌人等の意識が異常に濃密になった一時期があったという歴史事実の体得が、宣長にあっては歌の伝統の骨格を定めている。和歌の歴史とは、詠歌という一回限りの特殊な事件の連続体であり、その始まりも終りも定かならず、その発展の法則性も、到底明らかには摑む事が出来ない》という文章は、折口の『歌の円寂する時』に流れこみ、もしかしたら、近代短歌の始まり(・・・)という発想の道理を否定しているのかもしれない。

 

 折口は『茂吉への返事』を書くことで、近代短歌に棘を刺した。その棘は『歌の円寂する時』、『女流の歌を閉塞したもの』へと、抜けずに膿をもたらしつづける。

 折口が『女人短歌序説』(昭和二十五年)で予言した《日本の文学の流れには、二つあった。文学性以外の要素を加へてゐたものがあつて、それが、今までに純文学派ともいふべき「男歌」に抑へられてゐたけれども、大正・昭和以後、文学としての内容だけの点になると、「女歌」にも「男歌」も変らぬやうになつて来た。ここで女流の歌が大いに興るだらう》は見事に的中した。

『女人短歌序説』の後半で折口は、五島美代子、生方たつゑなど五人の女歌を論じてみせたが、その内容は折口にしては儀礼的で、まがまがしさに欠け、よろしくない。

ここで、近代短歌と言われているものについて、一通りおさらいしておく。

 明治十五年の『新体詩抄』における、泰正の詩にならい、今の語を用いて周到精緻な詩を書くべきで、古の和歌は取るに足らない、に端を発し、坪内逍遥の『小説神髄』(明治十八年)、二葉亭四迷の『浮雲』(明治二十年)などの小説の改革、正岡子規の『芭蕉雑談』(明治二十六年)による俳句革新に遅れて、明治三十一年子規の歌論『歌よみに与ふる書』第二回の《貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候》の断言で、御歌所の歌人たち、旧派和歌といわれ、古今集の流れをくむ香川景樹の桂園派を打倒していったことが一般的な近代短歌の始まりとされる。

 子規が『俳句問答』(明治二十九年)で「新俳句」と「月並俳句」の区別とした五ヶ条のその第一、《我は直接感情に訴へんと欲し、彼は往々知識に訴へんと欲す》や、与謝野鉄幹『東西南北』(明治二十九年)の序文、《小生の詩は、誰を崇拝するにもあらず、誰の糟糠を嘗むるものにもあらず、言はば、小生の詩は、即ち小生の詩に御座候布》にみるごとく、近代という時代を象徴する「我」の自我の烙印をくっきりと焼きつけることこそが近代短歌の始まりといえる。のちに、四季の写生に向かおうが、鉄幹のロマンに向かおうが、疑いようのない幸福な「我」を土台とし(ちなみにフロイトが『夢判断』を発表したのは明治三十三年(一九〇〇年)である)、「我」の力に回帰していった。となれば、「我」が多用された『万葉集』の自意識を求道したのは当然であって、文化の洗練により公的性格をおびた『古今和歌集』から離れてゆくのは自然であった。

 あの真淵が「高く直きこゝろ」「をゝしき真ごゝろ」「天つちのまゝなる心」「ひたぶるなる心」と呼んでみたのに瓜二つな「ますらをぶり」という北を磁針は差し、宣長が『新古今和歌集』を《此道ノ至極セル処》と言った、意識化された「たをやめぶり」からは離れてゆく。まして、学問からも知識からも遠ざかり形骸化していた旧派和歌では、近代の浪漫的自然主義の相手にはなりえなかった。

 真淵の「ますらをぶり」の手袋を宣長は「もののあはれ」で裏返してみせた。子規らは旧派和歌の衰弱した「たをやめぶり」を明治近代という時代の幸福な力による「ますえらをぶり」で表に反してしまう。それをまた女流の歌が裏返した近代短歌の「たをやめぶり」が昔の「たをやめぶり」であるはずがない。近代的自我の崩壊による「我」の心もとなさを知り、度重なる手袋の表裏のひっくり返しによって情も知も鞣された現代短歌の秀でた歌人の歌は、そうなるはずもない。

 

 二〇〇二年十月の朝日新聞に掲載された、松平盟子の八首連作『アンジェリコへの親密な手紙』を読んでみる。

  少年は銀の枝葉を持てる性、秋霖の中すぅいと立って

  芒原(すすきはら)のかなたの光 多摩川はアルノ川へと溶け入りて海へ

  今日からは真珠をしまう箱として私を見てほしいフラ・アンジェリコ

  アンジェリコすなわち天使のような者もういちど受胎告知受けたし

  現(うつ)し世よりきっと温か瑠璃色の宗教画の夜の続くほうがいい

  祈りとは肩やわらかく立つひととき わたしの息子をかえしてください

  十月のカンナの緋(ひい)を手折りゆき懐胎のあの日々まで歩む

  金木犀匂えば微熱ほにゅうるいの哀しみをもて熱に浸れり

 八首一連を読みくだすだけで、植物的なイマージュが金属質の輝きをおびつつ水のイマージュに水平に溶けだし、青と赤の色彩、過去と現在の時間が天上的な光と闇、熱の交感に揺らぎ五感が浸されてゆくのをおぼえる。

 短歌の五七律を守り、三十一字の定型に収斂されてはいるけれど、たとえば一首を二行に分かち書きしてみれば、十六行からなる詩とさえ言えそうだ。あるいは八場(八段)からなる劇とみることも可能であろう。小説ではもどかしく短歌という形式を求めたのか、しかしながらはじめに長歌があり、なのかもしれない構成意識が一連にはある。いずれにしろこの現代短歌には。情と詞による詩(ポエジー)がある。

一首ずつ読みこんでゆこう。

  少年は銀の枝葉を持てる性、秋霖の中すぅいと立って

永遠について考えぬいた西脇順三郎の詩集『Ambarvalia』を想った。たとえば『太陽』という詩。「カルモヂインの田舎は大理石の産地で/其処で私は夏をすごしたことがあつた。/ヒバリもゐないし、蛇も出ない。/ただ青いスモゝの藪から太陽が出て/またスモゝの藪へ沈む。/少年は小川でドルフィンを捉えて笑つた。」

「少年」という語が「性」といういわくある語と寄り添えば、少年愛もしくは、メラニー・クラインのディック少年の病んだ心を思いださせてしまう。「銀の枝葉」は、性こそ入れかわってしまうが、水の精ダフネがアポロに触れられた瞬間、川の神である父によって月桂樹に姿を変える神話とベルニーニの彫像にイマージュを導き、しかし「秋霖」の細い雨の中に濡れて立つのは、目をこらせば「少年」のペニスではなかったか。「すぅい」のオノマトペと「銀」の魔術が「性」の生臭さを消し去ってしまう。

 はじめの一首に八首全体が巧妙に隠されている。

  芒原(すすきはら)のかなたの光 多摩川はアルノ川へと溶け入りて海へ

「すぅい」のス音の余韻を響かせた「芒原(すすきはら)」で谷崎の『蘆刈』を連想した。後鳥羽院の「見わたせば山もとかすむみなせ川ゆふべは秋となにおもひけむ」(『新古今和歌集』)の水無瀬殿に出かけ、香川景樹の「をとこやま峰さしのぼる月かげにあらはれわたるよどの川舟」などと唇にのぼらせるうちに、葦のあいだからあらわれた影法師のような男が、「風のおとにぞおどろかれぬるといひすだれうごかし秋のかぜ吹くといふ。あゝいふ古歌のほんたうの味がわかつてくるのはわれ/\のとしになつてからです」と語りだし、ついでお遊様の物語を触感的に紡ぐ。

 一字あけて、ちょうどタマちゃん騒動でかしましかった「多摩川」の名があらわれるが、「玉川にさらす手づくりさらさらに昔の人の恋しきやなぞ」(『拾遺和歌集』読みびと知らず)の「さらに昔の」が追憶の調べを誘いだす。ダンテが『新生』で白い服のベアトリーチェに出会ったフィレンツェの「アルノ川」が、下句の不思議な語順に迷いこませつつ音と光の影像のフーガとなって拡がる。

  今日からは真珠をしまう箱として私を見てほしいフラ・アンジェリコ 

「海」ならば「真珠」。月の滴とも称される「真珠」が、貝という生きものでも、子宮という有機体でもなく、「箱」という無機の造形物にしまわれるという喩に思いがけなさを感じる。「私を見てほしい」の欲望のままに呼びかけられる固有名詞は、フィレンツェのサン・マルコ修道院二階壁面で出会える「フラ・アンジェリコ」であって、その名を聞くだけで人はもう『受胎告知』の大天使ガブリエルと聖母マリアの姿を思い浮かべている。プラド美術館にある同じ作者の『受胎告知』に見る左端に楽園追放の図が描かれたものではなく、静謐なそれ。

 この「私」は作者その人であろうか。「フラ・アンジェリコ」の前に立つすべての女性が「私」にありうる。携帯電話やインターネットのホームページによる、饒舌でミニマルな「私」、バーチャルな帝国に自己顕示と自己執着のウェブを送りつつも、自己否定してみせる「私」ではなく、孤独で真摯な探究者としての「私」に気づかせる力が「フラ・アンジェリコ」の作品にはあり、同じような力を短歌ももちえる。

  アンジェリコすなわち天使のような者もういちど受胎告知受けたし

 前の歌の結句をくりかえす。黙読されるようになった短歌のエクリチュールに対して、《聴いてください》《声のきめによって、私に触れてください、私が存在することを知ってください》とパロール復権をはかっている。声の粒、子音の錆、母音の官能、一首のなかでさえ「ような者もういちど」とモ音を連ねてみたり、「受けたし」のウ音を残響として次の歌に手渡す技巧がほどこされているのだ。人形浄瑠璃の大夫の語りで聴く段と段との切れ方、つながり方に似ていて、独立しつつもドラマとしてのリエゾンを生みだす結びの言葉の、ある種の宙ぶらりんによる期待。

「もういちど」ではっきりと過去に向かう通時的な詩学の視線が発生し、静謐なうちにも驚いているマリアは告知を望んでいた。「私」のなかに「私」でないものがしまわれるとき、「私」でない他者の存在を知って誰でもない「私」は語りえないことを語りだす。

  現(うつ)し世よりきっと温か瑠璃色の宗教画の夜の続くほうがいい

 文明の利器でグローバルに24時間つながった私たちなのに、不特定多数とつながればつながるほど、心の底深く、特別なあの人とつながらないやるせなさが滞積し、「現(うつ)し世」ではない異界に魂はさまよいだす。

「瑠璃色の宗教画の夜」のエキゾチズム。「瑠璃色」は図像学的(イコノロジー)には信仰の色で、聖母マリアがまとう色のひとつである。

 ここにはもう、あの近代の「我」の単純明快さはないかわりに内省的な「私」がある。

  祈りとは肩やわらかく立つひととき わたしの息子をかえしてください

「肩やわらかく立つ」姿に、『アベラールとエロイーズ』の愛すべき情熱のエロイーズの美しい背を見る。アベラールとのあいだに生まれた子供をアベラールの妹に託して、修道女となったエロイーズからアベラールへの手紙の文体は、第二、第四書簡では熱いエロティシズムで肩いからせているのに、第六、第九書簡ともなれば、「肩やわらかく立つ」祈りの文体に変じている。そのぶん魅力は減じているのだが、それにしてもこの下句をどの程度力をこめて声を発するべきか、読み人それぞれの思いで変化しうる。

 短歌を一人称の文学、歌の背後に作者の私性が見えていることを前提とするならば、これは作者の息子ということで閉じるが、たとえばゴルゴダの丘でのキリスト磔刑、キリスト降架における聖母マリアの祈りとも読み開けるし、サン・マルコ修道院の絵の前に立つ名もなき女の祈りとも想像しうるし、前述のエロイーズの祈りとでも読みとれるし、それらの多重映像からなるポリフォニックな歌としてこの「わたし」は投げだされているに違いない。

  十月のカンナの緋(ひい)を手折りゆき懐胎のあの日々まで歩む

『受胎告知』の花といえば白百合だが、ここでは発表された秋にちなんだのかカンナの「緋(ひい)」が強烈だ。緋色は図像学的(イコノロジー)には慈愛の色であって、聖母マリアはいつも緋色で幼な子を包みこむ。緋色の「カンナ」はペニスのような屹立感をもってそこに在るが、その存在を手折るとは何を象徴しているのか。

「歩む」とは哀しくも前向きな追憶の行為であり、ここにはフィクションとか、オマージュといった概念も横たわっている。

  金木犀匂えば微熱ほにゅうるいの哀しみをもて熱に浸れり

 初句、二句とも体言止めという危うさは、三句以降の息つぎのない読みくだしの酸素欠乏で失神しそうになる。

金木犀」は橙黄色の小花を地面にまき散らす。匂いに「微熱」を感じてしまう女性ならではの生理。おそらくは「哀しみ」という感情は「ほにゅうるい」だけの特権ではなく、「金木犀」の「哀しみ」の証が橙黄色の小花の涙の滴りとなって地に零れ、甘やかな芳香を放っているのかもしれない。

 花という固体から匂いたつ眩むような気体が、浸るという液体感覚に相変化し、現実界想像界象徴界と交感しあうテクスト。

 不意に、あのアゴヒゲアザラシの哀しげに濡れた瞳が脳裏に浮かび、他ならぬ「私」もまた「ほにゅうるい」であったと、けだるい「微熱」にエクスタシーを感じながら、歌を読む悦びに溺れる。

 

 どうだろう。

 あえて作品の読解に「ますらをぶり」「たをやめぶり」という表現を用いなかったが、東京でも大阪でもなく、その中間地の不安定さと前衛さに揺らぐデカダンスな都会人松平盟子は、「わたしは、其「たをやめぶり」をもますらを(・・・・)の力に浄化する日が、来るに違ひないと信じてゐます」を証明してみせてくれたのではないか。もっとはっきり言おう。折口が心の底でつぶやいていた、《わたしは、其「ますらをぶり」をもたおやめ(・・・・)の力に浄化する日が、来るに違ひないと信じてゐます》を作品で証明してみせた、と。

                                    (了)

       ***主な引用と参照***

*『折口信夫全集、第廿七巻、評論1』折口博士記念古代研究所(中公文庫)(漢字は原則として新字体に改めた)

*『本居宣長小林秀雄新潮文庫