短歌批評 「鏡/くちびる/馬」

  「鏡/くちびる/馬」 

 

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 だいぶ前のことになる。豆ゆりという祇園舞妓の京舞を観た。舞妓になって二年めだという。一年めの舞妓はアイラインを入れず、上唇に紅を差さない、と細面の大人びた美しさを崩してはにかんだ。きっと一年めの舞妓は愛を与えるには幼すぎるので、愛を受けとるところだけに官能の印の紅を付けさせられるのだろう。紅を差した下唇はたっぷりと愛を受ける――愛という字は受けるという字に心を抱いている――、おそらくは数限りない視線の矢の愛を、そして二年めには、惜しみなく愛を与えるために上唇にも紅を差す。特定の男に目線を定めない井上流の舞妓の目は、同じ色の紅を瞼にも引いて愛の鏡となる。両目尻の紅と唇のぽってりとした紅との三角形に舞妓の美の危うさが秘められ、薄い瞼と唇の粘膜の装いにすぎないのに、見るものの心を三絃が切れるほどにかき鳴らす。

 それは今では中止されてしまったあるデパートの新春恒例の催しで、観終わってから同じフロアにある飲茶専門店で名物の小龍包を注文し、唇にあたる薄皮のぷるぷるした触感と、歯をたてたとたんに破れ溢れでる肉汁に口蓋と舌を焼く快感を満喫してから、電車を乗り継いで劇場に向かった。

 吉田蓑助、吉田玉男による近松文楽『冥途の飛脚』に、メイクアップ・デザイナーの千香を誘っていた。劇場入り口で姿を見つけ席に着くなり、千香が小脇に抱えていた雑誌が目にとまり、見せてもらうと短歌の商業誌だった。紅型(びんがた)のようにあでやかな小紋を着てきた千香にこんな趣味もあったのかと訝しく思いながら頁をめくると、新春特集ということで八首連作による有名歌人の競作が巻頭に組まれていたけれども、どれも独話(モノローグ)的なおめでたい歌ばかりで、あいも変らずだな、と興味なく返そうと思ったとき、『鏡より馬がすんなり』の八首が目に飛びこんできた。

  

   馬の腹しずかに撫でるように逢う、あなたが着いて夜がはじまる

   くちづけのくちびる四片(よひら)こもごもに思いだすべきものさぐりおり

   舌という妙な生きものは触れたがりくちづけすればすぐ触れあって

   一椀の葛湯のとろみに宥(なだ)められ芯のあたりのほのぼの潤む

   木枯らしの黒きたてがみ荒(すさ)びつつ街の表皮をひと夜傷つけし

   太り肉(じし)のクリムトが画布に閉じこめし女らの唇(くち)金箔の裏に

   ウィーン貴族その末裔の淫蕩はおまえで終わる、隈ふかきおまえ

   鏡より馬がすんなり出でくるを夜ごと眺めて痩せたり、真冬

 

「皮膚より深いものはない」というヴァレリーの言葉が浮かんだ。たとえばメイクアップとは、深いものを息づく皮膚の多孔質の孔から引きあげるという意味であって、決して覆い隠したり、塗りこんだり、作りあげたりということではないといつか千香が問わずがたりしていたように。それは深い肌の持ち主の魂を表層へと浮きあげ、逆に見るものを魂の深みへと引きずりこんでしまう悪魔めいた御業に違いない。この五感のアンサンブルで活けられた八輪の花のような歌のテーマは表層だろう。しかしそれはテーマのひとつにすぎず、花弁の奥からは表層を突き破る得体のしれない何か、大天使ガブリエルではなく堕天使ルシファーによるテロリズムのようなものが匂ってくる。おそらく皮膚という主語はすべての官能の述語を含んでいる。

 憂愁の隈を女との愛の澱のようにためこんだリルケにとって、エトランジェとしてのパリは繭に覆われた蛹のようであり、紡ぎだせば虹色の絹の光沢に輝く繭も、そのままでは人を拒む外被でしかない。リルケ『マルテの手記』の有名な場面はこうだったはずだ。《しかし、あの女はどうだったろう、あの女は。からだを二つに折り、顔を両手のなかへ埋(うず)め、物思いに沈んでいた。ノートル・ダム・デ・シャンの街角(まちかど)であった。僕はその姿を見ると、足音を殺して歩き始めた。貧しい人々が物思いに沈んでいるときは、それを乱してはならない。いい考えが浮かぶかもしれないからである。  街はがらんとして、静かすぎて退屈していたので、僕の足から足音をうばい、木靴(きぐつ)をはいているようにそれをあちこちへ反響させた。女はその音で驚いて、両手から顔を上げた。あまりに急激に上げたので、顔面が二つの手のなかに残った。僕は顔面のうつろな裏側が手のなかに残っているのを見ることができた。手からもぎ離された顔を見なくて、手に残った顔面だけを見ているのは、恐ろしい努力を要した。顔面の裏を見るのも恐ろしかったが、顔面がなくなったのっぺらぼうな顔を見るのは、もっと恐ろしかった。》

 内面へ内面へと沈みこんでゆく詩人の眼差しにとって、顔は内と外との境界としての表層である、また、能の面(おもて)を照らす、面を曇らせる、というような微妙な光と翳りの心理描写が、無機的で硬質な面の表層で花ひらくということをどう考えるべきなのか、「鏡より馬がすんなり出でくる」とはどういうことなのか、ルイス・キャロル鏡の国のアリス』の家の鏡は、《ガーゼみたいに柔かくなって》と表現されたが、日本にはもっと精妙に溶けてゆくものがあって、たとえば表層そのものを摘みあげ、舌先で溶けることの至福を味わう生湯葉のような、そんなとりとめもないことを考えているうちに、拍子木の音で我に返った。

 口上に続いて『冥途の飛脚』、『淡路町(あわじちょう)の段』の語りがはじまった。

「みをつくし難波に咲くやこの花の、里は三筋に町の名も、佐渡と越後の間(あい)の手を通ふ千鳥の淡路町、亀屋の世継ぎ忠兵衛、今年二十(はたち)の上はまだ四年以前に大和(やまと)より、……」

 初観劇の演目がこれであり、もう三度めになるのでおおかたそらで覚えていて、なんだまだ二十歳だったのかと驚きつつ、心地よいままにさきほどの短歌を思い出す。

 

   馬の腹しずかに撫でるように逢う、あなたが着いて夜がはじまる

 

 折口信夫(釋迢空)の「人も 馬も道ゆきつかれ死にゝけり。旅寝かさなるほどの かそけさ」や、塚本邦雄の「馬を洗はば馬のたましひこゆるまで人戀はば人あやむるこころ」を引いて論じることは、月並みにすぎる。

 馬の腹しずかに撫でるように逢う

 あなたが着いて夜がはじまる

 分かちなおすだけで短詩形から溢れ、滲みだす。一行めの「しずかに」と「ように」の二つの二音と、二行めの「あなたが」と「夜が」のガ音の小気味よいギャロップに揺られながら、「逢う」と「あなたが」のア音で歩み、「逢う」と「はじまる」のウ音の韻で駆けだす。思えば、神をも恐れぬ血統という人工交配の術で磨き抜かれたサラブレッドの皮膚の薄さは、油と汗で黒光りし、血管が太く浮きでて脈打ち、あばらがうっすら透けるほど絞りこまれた腹の曲線は、奔馬となって心臓が張り裂けるまで狂い走る遺伝子を書きこまれた種族だけがなしうる。

 フロイトを引きあいに出すことをナボコフが忌み嫌ったように、五歳のハンス少年の、馬に噛まれる恐怖に怯えて「おちんちんをちょん切る」という脅しの言葉を思いおこすことは安易だろうか。ウィーンの人々は今日自動車を見るごとく馬を見ていて、それは不安神経症的な世紀末の人々の目の前で、そしてハンス少年が幼いからと気にするわけもなく、馬車だまりでペニスを屹立させ、口から泡を吹き、糸引く唾液をしたたらせて交尾する生きものだった。

「着く」、恋する人が着くことで動きだし、色合いが変化する時間があって、「着く」とは拡がりを含んだ言葉である。いつもと同じはずの夜が違った夜の名前をって時を刻みはじめ、はじまった夜のさきには夜しかない。

「撫でるように逢う」とは発情期の牝馬のビロードの皮膚に血のたぎりを感じるように逢うことで、指先ですべてを思いだすように触れれば、熱くも冷たくも、柔かくも硬くも、乾いても濡れてもなく、うつむいた女の背中のように夜を孕むジャンヌ・モローが演じた『モデラート・カンタービレ』のアンヌ・デパレードの、語らないもののなかにこそ真実があるような、俗怠に汗ばんだ手を触れることで傷口に塩がしみこむような、めらめらと肌の内側がこげてゆく青白い熾火の欲情である。

 馬には神話世界のなごりが宿り、人は馬を目にするとき神話的ドラマがはじまる予感にとらえられるから、「あなた」を待っているのは、アクタイオンが泉の淵に着くのを待っているディアーナのあざとさに違いない。腰から下が馬であるケンタウロスは人間の女に種馬のように精液をどくどくと注ぎこむからではなく、人間と親しすぎる善良さゆえにゼウスにとって危険だった。その善良さに感応したのか、 トリノのカルロ・アルベルト広場の宿を出たニーチェは、駅者が馬を虐待しているのを見て涙を流し、馬の首に抱きつくや昏倒、その後十年あまり、二度と正気を取り戻さずに世を去ったのだけれども、あの瞬間ニーチェはルー・ザロメに鞭打たれる馬だったのであり、その後の十年は無垢な馬として牧歌的な年月であったろう。

「表に馬の鈴の音

「コリャコリャ駄荷が着いたぞ、中戸(なかど)中戸」

と声高に、てんでに葛籠(つづら)担(かた)げ込む」

 それにしても『冥途の飛脚』の荷馬のなんとぞんざいなことか、『一谷嫩軍記(いちたにふたばぐんき)』の凛々しい馬の対極にある。

 符牒としての馬は姦通の先駆けのように男と女のあいだを罪などしらぬふりで駆け抜けてゆく。トルストイアンナ・カレーニナ』では、障害物レースで落馬したヴロンスキーは美しい牝馬フルフルの背中を折り死なせてしまい、カレーニン夫人アンナはヴロンスキーとの姦通のはてに汽車に身を投げ車輪に背を礫かれる。フローベールボヴァリー夫人』では、エンマ・ボヴァリーはロドルフに森への乗馬に誘われて早駆けを楽しむが、馬から離れて森の奥へ歩いたあと不安になって馬をつないだ場所に戻るやすぐに身をまかせ、夫以外のはじめての恋人に有頂天となり、これをきっかけに破滅へとひた走る。

 

  くちづけのくちびる四片(よひら)こもごもに思い出すものさぐりおり

 

 変奏すればこうなる。

 (夜がはじまる)

 くちづけのくちびる 四片(よひら)

 こもごもに

 思い出すべきものさぐりおり

 (舌という妙な生きものは)

「四片」とは、「こもごも」の語によって、<私―一あなた>の自他の関係、4=2×2を導くと同時に四弁の花に化身する。花こそ生殖器官であり、唇は生殖器官が進化したものなのか退化したものなのか、なるほど口唇と陰唇は横と縦の違いはあるものの類似している。「思い出すべきもの」であって、「思い出すべきこと」ではないがゆえに出来事ではなく、肉体の部位に絡みつく。

「くちづけのくちびる」とあえて「くち」を畳みかけ、ヅとビの濁音を挟んで、口ごもる小さな破裂音で吐き出された力行音の連なりは「こもごも」の隠国(こもりく)まで辿りつく。

 ゲーテ『若きウェルテルの悩み』のくちづけこそ、「さぐりおり」の教典かもしれない。《世界は消えうせました。ウェルテルはロッテのからだに自分の腕をまわし、ひしと胸に抱きしめました。そして、ふるえながら口ごもっているロッテの唇を、物狂おしい接吻でおおいました。「ウェルテル!」と、彼女は顔をそむけながら、息づまるような声で叫びました。》 ウェルテルはロッテにあてて手紙を書く、《こうしたことは、しょせん、消えていきます。しかし、ぼくがきのう、あなたの唇に味わった、そして、いまぼくの心に感じている、あの燃えるいのちは、どんな永遠も消し去ることはできないでしょう。ロッテがぼくを愛している! この腕があのひとを抱擁し、この唇があのひとの唇のうえでふるえ、この口があのひとの口もとで口ごもったのだ。ロッテはぼくのものだ! あなたはぼくのものだ!》

 くちづけるとは何かを考えるとき、メルロ=ポンティ『知覚の現象学』の《私が左手で右手に触れる際に、対象たる右手はまたそれ自身でも感覚するという独特な性質をもっている》の二重感覚は、くちづけする唇にはあてはまらないかもしれない。なぜなら自分の上唇と下唇はいつも触れあっているのにその触れあいを意識しておらず、しかし他者である恋人とくちづけするや、愛を与える上唇は下唇を探し求め、愛を受ける下唇は上唇を待ち遠しいと焦がれ、恋人の唇から離れても唇は思い出すべきものを記憶しているけれども、それを自分の唇で探りだせるかといえばかなわないからだ。

 割れた唇のエロティシズム。マリリン・モンローの口もとが視線をくぎづけにしたのは、ほどよい肉厚もさることながら、いつもほんの少し唇が半開きになっていて、いまにも愛液がこぼれでないかと見るものの唇をも開かせ、その魂を口移しのように吸いこんでしまうからに違いない。メルロ=ポンティによれば、《見る――見られる>の関係は、<触る――触られる>を介して真実に到達するものとされているけれども、「くちづけのくちびる」による絡みあい(キアスム)だけでは真実に到達したいという欲望は実らず、宙ぶらりん、引き延ばされた射精、オルガスムスの不在のままに時間は完了しない。

 ところで触覚器官と視覚器官はなぜ分離したのだろう。愛する女の瞳に舌で触れながら触れた舌の先端で女を見つくしたいのに、触れあう唇を見たいのに。光が皮膚に形成したシミが視神経へと変異、進化したとベルグソンは『創造的進化』に書いていたはずだが、後期平安朝文学のように、光りなき夜ならば顔を見ることもなしに、つぶつぶとしてまろやかな触感だけで「逢う」は愛に昇華しただろう、大蛇(おろち)のようにのたうつ黒髪をかきやり、香にむせる褥(しとね)で。

 プルースト失われた時を求めて』の延々とつづくくちづけの描写、《この肉でできた薔薇をこれからぼくは知ろうとしているのだ、と私が心につぶやいたのは、人間という生物、ウニより進化しているのはもとよりのこと、鯨と比較してもやはりいっそう進化しているこの生物が、それでもやはり依然としていくつかの本質的な器官を欠いており、とりわけ接吻のために役立つ器官を何ひとつ持っていないことを、これまで思ってもみなかったためだ。この欠けた器官を人間は唇で補っており、そのために、恋人を牙で愛撫しなければならない羽目に陥るよりは、たぶんいくらか満足のいく結果に到達しているのだろう。けれども唇は》はまだアルバルチーヌヘの頬へのくちづけという序奏にすぎないのに、すでにもう分裂症的プリズムによって快楽の対象としてのアルベルチーヌは十人もに多重映像化しつつある。

 

  舌という妙な生きものは触れたがりくちづけすればすぐ触れ合って

 

「触れたがり」と「触れ合って」のアンサンブルは魅惑的で、短歌は連用形や接続助詞で終えることを嫌うが、それは一首で閉じたがるからで、しかしこの歌は次の歌を求めて言葉の段を重ね、「くちづけすればすぐ」のサ行弦楽器でこすれ鳴きやまない。

 アルベルチーヌの舌は「生きもの」にほかならず、《そして毎晩夜ふけに私のそばを離れるとき、彼女はその舌を私の国のなかにそっと滑りこませ、それがまるで日々のパンのように、また滋養ゆたかな食べ物のように思われたこと、また同時にそれは、私たちに与えた苦しみによって一種の精神的な甘美さを帯びるに至ったすべての肉体の、ほとんど神聖ともいえる性格を備えているように思われたこと》のように、「触れたがり」、「触れ合う」のは表層の戯れ、とめどない愛戯の放射に違いなく、戯れはときに俗と聖とのはざまで呪わしい結果を生みだしてしまい、たとえば王女サロメは予言者ヨカナーンの唇を欲し、ついにヨカナーンの斬首された頭を手にするが、そのとき予言者のたてがみのような髪は血にまみれ、なびいていたことだろう。

 ロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』は、この退廃の繊細な官能と意味とのせめぎあいであり、《ウェルテルの指がうっかりとシャルロッテの指に触れ、二人の足先がテーブルの下で出会う。ウェルテルは、こうした偶然のもつ意味など考えずにすますこともできたはずだろう。かすかな接触地帯に肉体的な注意を集中し、あたかもフェティシストのごとく、相手の反応のことなど気にもかけず(・・・・・・・・・・・・・・・・)(フェティシストとは、神――それが語源なのだ――のごとく、答えを返すことのないものである)、そうした指の一部、動かぬ足先の一部を享楽することもできたはずであろう。ところが、ウェルテルはまさしく倒錯者でない。彼は恋をしているのだ。そこで彼は、たえず、いたるところで、まったくなんでもないものについてまで意味を創り出す。そして、そうした意味こそが彼を戦慄せしめているのである。彼は意味の炎につつまれている。恋する者には、あらゆる接触が、答えやいかにとの問いを惹起する。肌には答えを返すことが要請されているのだ。》

 日本文学の、あるいは世界文学の触覚の第一の作家は谷崎潤一郎であるとしてもそう異論はあるまいが、『盲目物語』を読めば、触覚は視覚と同化し、読み進める視線はひらがなを撫でつつ、語りのくぐもりとともにお市の方のぬめぬめとした肌をすべり、それはレヴィナス『全体性と無限』における《愛撫は探しもとめ、発掘する。愛撫とは開示する志向性ではなく、探しもとめる志向性である。愛撫とは見えないものへの歩みなのである。愛撫はある意味では愛を表出(・・)しているけれども、愛を語ることの不能に苦しんでいる》のであって、『盲目物語』の《そのにくづきのふっくらとしてやわらかなことと申したら、りんずのおめしものをへだてて揉んでおりましても、手ざわりのぐあいがほかのお女中とはまるきりちがっておりました》、《それに、おんはだえのなめらかさ、こまやかさ、お手でもおみあしでもしつとり露えおふくんだようなねばりを持っていらっしったのは、あれこそまことに玉の肌(はだえ)と申すものでござりましょうか》にあらわだ。

 舌が触れたがるのは『アベラールとエロイーズ』のアベラール第一書簡の告白のように、真理の説明のためではなく、愛の心臓につながる舌で見合いたいためなのだ、《教育という口実のもとに我々は全く愛に没頭した。学問研究という名目が愛に必要な離れた室を与えてくれた。本は開かれてありながら学問に関するよりは愛に関する言葉が多く交わされ、説明よりは接吻が多くあった。》

 舌は肉体のなかで一番最初に死が表徴される部分らしく、エンマ。ボヴァリーがネズミが出て眠れないから駆除したいと言いわけして入った薬局の倉庫で、青い瓶に手をつっこんで取り出した白い粉をじかに食べれば、えがらい味がして、《舌の上になにか非常に重いものでも乗っかっているように、たえず口をあけつつ、苦しそうにそっと頭を横にふっていた》が、それは砒素(ひそ)だった。臨終近くエンマは塗油を受ける、《つぎには口に、嘘をつくために開かれ、また高慢のゆえに歎き、みだらな喜びに叫んだ口に》、そうして、ついにもっとも凄惨な一行がやってくる。《舌はだらりと口からたれた。》

 

  一椀の葛湯のとろみに宥(なだ)められ芯のあたりのほのぼの潤む

 

 触れることができる可視的な現実世界と触れえない知的抽象との境界を、二項対立にならずに言葉を紡ぐことで許されたいと願えば、表層としての界面は微熱の火照りによって熱力学第二法則に従うように拡散するが、しかしいつの間にか混沌からの秩序を生みだそうと揺らぎの模様、紋を描きだす。

 谷崎『陰翳礼讃』の黒うるしの吸物椀、その漆器の暗い底に盛られた葛湯、椀をとおして掌に伝わる温もりと意外な重み。もし和菓子に葛という素材がなかったらどれほどその味わいも見ための美しさも貧しくなることか、餡(あん)が肉ならば葛は皮膚であり、熱の上げ下げで菓子職人に自在にあやつられた葛は、あるときは慈しくくるまれた包皮となり、ときに虐げられてひねられ、型に流しこまれたり、刻まれたり、匂いのない薄い肌は内部を透かしつつ光を奪ってほの淡く灯り、ぷよぶよした肌理(きめ)は半透明に曇る、ときに指先の痕跡を淫靡に残してぽってりと窪み、おぼろな霞みのあちこちに星くずのような気泡をきらめかせたり、型の平滑さを映しだして鏡のように照り輝き、あるいは細工された葛の紐は冷え固まれば舌に抗い、切り刻まれた細片は餡からばらけて舌の上で弾ね遊び、ひねられた襞は舌を奥へと誘い、盛られたとろとろの葛湯は熱を運ぶ。様々な位相を葛という材料が密度を変えながらいとも簡単に飛び越えてしまうことは奇跡ともいえよう、口中に流しこまれるというより、すくいとられて甘やかな思い出を舌にコーテイングする。

 いったい宥められたたかぶりとは何だったのか。そして「芯のあたり」というあいまいな表徴は、子官か卵巣か女の内部生殖器官を連想させるが、葛湯には催淫効果さえあって、漢方薬の葛根湯はその名のとおり葛の根から成るもので消炎効果を示し、風邪に葛湯を飲む民間療法は、保温効果に加えてイソフラボノイドという化学物質が痛みをやわらげるという麻痺作用ともいえる。葛湯の懸濁と過剰でも怪しまれない甘美と、京における生姜の味付けは臭みも消すため、きっと政争の具として暗躍しただろう。たとえば攘夷主義者にして公武合体を進めた孝明天皇は風邪を召して疱瘡にかかったおり、葛湯とともに典医が調合した疱瘡の薬を飲んでいたが、容態が急変、紫の斑点が顔にあらわれ、血を吐いて崩御してしまうのだけれども、それはあのエンマの死にそっくりである。

 忠兵衛は羽織が脱げ落ちてもわからないほど梅川に惚れている。

「「ヤッパリおいてくれうおいてくれうおいてくれうおいてくれうおいてくれうか、いて退けうかおいてくれうおいてくれうおいてくれうエイ往きもせい」と、一度は思案三度は不思案三度飛脚、戻れば合はせて六道の冥途の飛脚と」

拍手をさえぎるように幕が引かれ、二十五分間の休憩となった。

「アイスクリームでも舐めたいわ」と千香が紅梅色の化粧ポーチを手に席をたつ。

 

「えいえいえい烏がな、鳥がな、浮気烏が月夜も闇も首尾を求めて逢はう逢はうとさ

 青編笠(あおあみがさ)の、紅葉(もみじ)して、炭火ほのめくタベまで思ひ思ひの恋風や、恋と哀れは種一つ、梅芳(かんば)しく松高き、位は、よしや引き締めて哀れ深きは見世女郎」

『封印切(ふういんきり)の段』、吉田簑助の梅川は着物の襟も胸もともざっくりと見世女郎らしく男の目を引こうとふくらんで、色ある女の肩は両肩遣いといわれるように右と左のふたつが別々な生きものとしてなまめき、観客の視線が華やぐ梅川をぐるりと巡って螺旋を描くや、左肩を落して身構える女の首筋と顎の上げ下げこそが男を天国へ昇らせる悦楽の道と教え、そのバロックのきわどい肩の傾きと自在な捩れは、これ以上押し進めれば壊れて現ではなくなる瀬戸際で踏みとどまり、細い首にかろうじて支えられた梅川の白い顔はエクスタシーに細かく震え螺旋は冥途への下降でもあったかと涙を誘う。

 一方、忠兵衛はといえば玉男の抑制を裏切るかのように梅川の限りない愛しみゆえにかえって冥途ヘと一目散にきりもみしてゆくのだった。

「傾城に誠なしと世の人の申せども、それは皆僻言(ひがごと)訳知らずの詞ぞや、誠も嘘ももと一つ、例えば命擲(なげう)ち如何に誠を尽くしても」

 左腕を帯の下の背の割れめから差しこみ、女から気持ち離れてすっくと伸びた主遣いの背筋、女の腰にぴったり寄り添う左の下腹、一瞬女のうなじを見る主遣いの眼差しは動きを確かめているようで閨房の女をいらうようにそのさきの官能をどう演出しようか見定める荷風『腕くらべ』の男の目の冷徹さであり、《おのれと云う男性の力のもとに女が寧ろ死を叫ぶまで総身の快感に転々悶々する其の裸体と其の顔其の表情とをはつきりと隈なく熟視しやうと思つたのである》、そうして《腕ばかりでは抱き〆めかねて男は身を海老折(えびをり)に両腿を曲げて支へれば、云ひがたい菊千代の肌身はとろとろと飴のやうに男の下腹から股の間に溶け入つて腰から背の方まで流れかゝるやうな心持》とは、梅川のさわりの身の悶えではないか。簑助ほどの遣い手ともなる梅川のうなじなど見なくともおのれの人差し指と中指でどれほど悦んでいるかが文字どおり手にとるようにわかり、ほんのかすかな手首の傾きと捩りとに反ってくるもので、どれだけよがっているか感じとって、あろうことか女の悦楽の姿を観客という他者の目にさらけだしてみせつけるのだが、それこそが芸能というものの原初に違いなかった。

 しかしなぜ主遣いはおおかたの利き腕である右手ではなく左手で人形を遣うのだろう。きつとそれは

 主遣いの心臓を人形に近づけるためではないのか、心音とともに娘の首(かしら)をもつ梅川の背を割って不浄の

 左手がぬうっと挿しこまれ、指先が人形の心と身体の糸をかき鳴らす。

 

  木枯らしの黒きたてがみ荒(すさ)びつつ街の表皮をひと夜傷つけし

 

「木枯らし」を「黒きたてがみ」の喩で受け、「荒びつつ」は変貌の形容として「表皮」と「傷つけし」の先駆けとなり、「街」はある都市の名と結びつき、「ひと夜」という語は夜毎の反語として一回性を記憶に刻みこんで、というように、ひとつひとつの語句と音素が一首のなかで照応し、そのうえ八首連作と蜘蛛の巣状に絡みついている。

「表皮」がフェティシズムの対象になるのは、胎児のときの羊膜の記憶か出生時の腟圧の感覚が無意識にはりついているのか、それは女の慎みの底にも沈んでいて、『O嬢の物語』、モンソオ公園あたりで車に乗せられたO嬢はガードルとパンティーをとつてシートにじかに腰をおろすように命じられ従うが、《シートはレザー張りで、すべすべして軟い感じだったが、レザーが腿にぴったりはりつく感触は、なにかゾッとするような気持だった。》

「語るを聞けば梅川も、悲しいといとしいと身の傷さをかき交ぜて、胸引き裂ける忍び泣き

「アヽ刃物がな鋏(はさみ)でも、舌を切つて死にたい」

と悶え伏したる苦しみを」

 キリストのわき腹の傷口に不信の指をこわごわと差しこむ聖トマスとは異なり、簑助の指は自信みなぎる所作で悶えの襞を織る。それはまるでベルニーニの彫刻『聖テレーズの法悦』の布襞のエロティックな陰影で身体を覆い隠され、のけぞったテレーズの咽をめざす黄金の矢のように情念の矢を観客に向けて幾本も放つのだった。

「情けなや忠兵衛さん、なぜそのやうにのぼらんす」

 この世とあの世の境いめは薄い表皮にしかすぎず、虚実の境界の柔肌に、なさぬ恋人たちは刃をあて、ためらい、しかしついには刳(く)り、抉(えぐ)る。

 同じく近松『曾根崎心中』、お初に徳兵衛は、《脇差(わきざし)するりと抜き放(はな)し。「さアただいまぞ南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」と。いへどもさすがこの年月(としつき) いとし可愛(かはい)としめて寝し。肌(はだ)に刃(やいば)があてられうかと。眼(まなこ)も暗(くら)み手も震(ふる)ひ 突くとはすれど切先(きつさき)は。あなたへはづれ こなたへそれ。二三度ひらめく剣(つるぎ)の刃(は)。「あつ」とばかりに咽笛(のどぶえ)に。ぐつと通るが「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」と。くり通しくり通す腕先も。弱るを 見れば両手を伸(の)べ。断末魔(だんまつま)の四苦人苦。あはれと いふもあまりあり。》

 やはり近松『心中天の網島』、小春に治兵衛は、《われからさきに目もくらみ刃(やいば)の立所(たてど)も泣く涙。「アア急(せ)くまい急くまい早う早う」と女が勇むを力草(ちからぐさ)。風誘ひくる念仏はわれに勧(すす)むる「南無阿弥陀仏」。弥陀の利剣とぐつと 指され引き据ゑてものり反り。七転八倒(しつてんばつたう) こはいかに切先(きつさき)咽(のど)の笛をはづれ。死にもやらざる最期の業苦ともに乱れて。苦しみの。気を取り直し引き寄せて。鍔元(つばもと)まで指し通したる一刃(ひとかたな)。刳(え)ぐる苦しき暁の 見果てぬ夢と消え果たり。》

 覚悟を決めた男女の動線近松浄瑠璃の七五調をときに破って太夫を泣かせる。

 

  太り肉(じし)のクリムトが画布に閉じこめし女らの唇金箔の裏に

 

クリムト」と聞けば、ユーゲント・シュティール風のカフェが立ち並び、店内に足を踏み入れると壁面を古びた鏡が覆って、男たちが自分だけのスザンナを鏡の奥に妄想しつつ厳粛な顔つきで新間の政治欄と株式欄に読みふけっていたウィーンの世紀末が思い浮かぶ。いかにもボヘミア地方の農家出身彫金師の息子といった風貌のクリムトに対して「太り肉」とは適格であるが、その肉の重みは人間臭くふとぶととして生涯独身とはいえ愛人も多く、発狂した母のおもかげがどの絵にもあるようで、狂ってしまった母と同じ性をもつ女たちのおぞましくも魅惑的な肌をメイクアップに耽るかのごとく、静脈や柔肌の火照りを浮きあがらせようと細かいブラシに青やピンクや黄緑をつけてしずかにしずかに撫で、指の腹で淡くのばし、画家は愛する女を囚われの女として幽閉しようと金箔の裏側に封じこめるが、たとえ十人の女たちを愛しんでも決して一人の女にたどりつけはしなかった。金箔の奥行きを排した平面性は琳派の好むところであつたが、クリムトの金は前期ルネッサンスのいまだ素朴さの残る神の光の輝きではなくビザンチン美術の豪奢な装飾性に通じていて、空白を恐れるかのように曼茶羅のはてしなさで不安増殖してゆく。その絵のなかで『ユーディット』、『サロメ』、『ダナエ』といった聖にして悪なる女が惜しげもなく肌をさらしていて、また崖上の男女の『接吻』という題の絵も名高い。

「梅川『ハツ』と震ひ出し声も涙にわなわなと

 「それ見さんせ、常々云ひしはこゝのこと、なぜに命が惜しいぞ、ふたり死ぬれば本望、今とても易いこと分別据ゑて下んせなう」

 梅川の小さな唇の紅が冥途への灯となってちらちら震え心弱い男を道案内する。

 

  ウィーン貴族その末裔の淫蕩はおまえで終わる、隈ふかきおまえ

 

 初句「ウィーン貴族」を中欧の空高く放り投げて「おまえで終わる」の四句まで息を引きのばし、オ音の重苦しさを断ち切る造形の句読点、さらなる「おまえ」がオスマン・トルコ軍防衛のために築かれた城壁の跡を整備して造られたリング通りの凍てつく石畳で輪舞を踊る、「貴族」、「末裔」、「淫蕩」の硬玉を揺らして。

『封印切の段』の幕が引かれ、すぐに『道行相合(みちゆきあいあい)かご』の段となった。

「翆帳紅閨(すいちょうこうけい)の枕並べし閨(ねや)の内、馴れし衾(ふすま)の夜(よ)すがらも、四つ門のあと夢もなし、……冷えたる足を太腿に、相合炬燵相輿(あいごし)の膝組み交はす駕籠の内、狭き局(つぼね)の睦言(むつごと)の過ぎしその日が思はれて、いとゞ涙のこぼれ口」

 駕籠の内に閉じこもった罪ある男と女、男の冷え切ったふくらはぎが女の火照った太腿をすべり、女の氷のような足先が男のひかがみに触れるエロティシズムは芯に直結しているが、その芯の病は表皮に、官能の第一、罪深き視覚器官である目の周縁に「隈」となって現れてしまうのは、《なぜいわゆる性感帯は縁という構造によって特徴づけられるような部分においてしか認められないのでしょうか》、《眼脂のついた瞼の縁も耳も暦も、同じように縁であり、それらすべては性愛(エロティシズム)というこの機能の中にある、と言えるでしょう》とラカンが『精神分析の四基本概念』で語ったとおりであろう。

「ウィーン貴族」はハプスブルクという名に結びつく。政略結婚によってスペイン、イギリス、ネーデルラントヘと拡がり、汎ヨーロッパとなったハプスブルク家に特徴的な長い鼻はヴェラスケス作『ラス・メニーナス』の鏡の中の君主夫妻にもあらわれていて、かつてプラド美術館ではこの絵の前に実物の鏡を置いたといい、『言葉と物』冒頭でフーコーが分析した、エピステーメーの表徴としての鏡と視覚の構造は、監獄、狂気、臨床医学、性の考古学へと拡がるが、フーコーは一貫して、<閉じこめ>のシステム化を語ったのだった。

<閉じこめ>はいたるところにあり、神聖ローマ帝国の血をひき、多様な文化の周縁が重なりあったオーストリア=ハンガリー帝国、襞の折り畳まれた陰唇のような中心都市ウィーン、円環をなすギャザーにして括約筋としてのリング通り、そこから分娩されたクリムトエゴン・シーレの美術、シュニッツラーやホフマンスタールの文学、マーラー交響曲フロイト精神分析学、ウィトゲンシュケインの哲学らが、<閉じこめ>との愛憎劇であったのは間違いない。爛熟し腐ってゆく言葉、語りえぬものについては沈黙する言葉、表現不能という絶望と不信感のはて、第一次世界大戦によって帝国は地図から消え、かわって産褥熱によるかのように一貧乏学生による第二帝国が勃興したのだった。

「あなた」からなんと遠いところまで来てしまったことか、「おまえ」は祖先がオーストリア貴族で自分はその末裔であると信じたがったリルケの目の隈のように暴力的に突っかかってくる。

「「ナウ何云はんすぞ忠兵衛さん、いろで逢ひしは、はや昔、今は真身(しんみ)の女夫合(みやうとあ)ひ、恋は今生さきの世まで、冥途の道をこのやうに、手を引かうぞや」

と、また取り交はし泣く涙、空に霙(みぞれ)のひと雲、霰(あられ)交じりに吹く木の葉、袖の凍りと閉ぢあへり」

いつしか紙吹雪がひらひらと舞い降りてくる。梅川の細い鼻すじをしじみ蝶の乱舞のように雪片が滑り落ち、唇の紅を濡らす。

 

  鏡より馬がすんなり出でくるを夜ごと眺めて痩せたり 真冬

 

「鏡」の表(おもて)が一瞬くぼむ。内側から突き出る何ものか。羊膜のように薄く透ける、みるみるふくらみシャボン玉のように虹色の光彩が渦巻く、音もなく破裂してゆっくり後退しながら開かれてゆく。「馬」の力強い頭が長い首が前肢が、とうとう胸が現れる。成熟した黒い馬、羊水を浴びたように黒光り巻きあがった馬の腹を女が静かに撫でると、不吉なもの、恐ろしいもの、死を運ぶものの象徴としての馬は、ホフマンスタール『騎兵物語』、『第六七二夜のメルヘン』、『バッソン・ピエール元帥の体験』の中へと疾駆する。

 いったい、鏡の表面とは厚さ何ミクロンなのか、表面に厚さという概念がありえるのならば、その厚さだけを剥がしてみたい。

 鏡と文学、または美術への言及は限りなくバルトルシャイテスやホッケによって狩猟されつくしているが、ほとんどの文脈はラカンが十一年めのセミネールで引用したアラゴン『エルザに狂いて』の『対旋律』と題された短い詩に反映されている。

《お前の面影(イマージュ)は空しく私に会いにやって来て/私の中に入ろうとするが、私はただお前の面影(イマージュ)を映し出しているだけ/お前は私の方に向き直るが、そのときお前が私の眼差しの壁の上に見つけるのは/私が夢見ているお前の影、ただそれだけ/私はまるで鏡のような不幸者/映し返すことはできても、見ることはできない/私の目は鏡のように空き家で/お前の不在に取り憑かれ、何も見えない》、ならば鏡を開いてしまえばよい。ラカンは続ける、《なぜなら、無意識は我われに裂け目を示しており、その裂け目を経由して神経症は一つの現実を――この現実はもちろん決定されえませんが――繋ぎ合わされるからです。》

 忠兵衛のふところの封印は激情と見栄で切られるためにそこにある。鏡は割られるため、裂かれ、開かれるためにある。

 鏡はオルフェがそこを通り抜けて冥界へ降りてゆくためだけにあるのではなく、宮川淳が『鏡・空間・イマージュ』で引用した清岡卓行『石膏』の、《石膏の皮膚をやぶる血の洪水/針の先で鏡を突き刺すさわやかなその腐臭》のように生きている。

「鏡より馬がすんなり出で来る」と「鏡から馬がすんなり出で来る」を比較してみれば緊張感は歴然としていて、イ音のキラキラした響きはラリックのカットグラスの光の散乱のようだ。

 ボルヘス『トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス』にあるような、《性交と鏡とは忌わしいものだ。百科事典にはこうある。霊的認識をもつ者にとっては、可視の宇宙は幻影か(より正確にいえば)誤謬である。鏡と父とは、その宇宙を繁殖させ、拡散させるがゆえに忌わしいものである。》

 ウィーンの人、フロイトの待合室にはフュースリ作『夢魔』が掛っていたが、夢魔に襲われた女の足もとにホフマンスタールの小説に現れたのと同類の恐ろしい馬が暗闇からぬうっと顔を出している。西欧における王子や騎士を待つ白雪姫伝説は、夢みるものの欲望が馬に乗って現れるわけだが、日本においても『浮舟』巻で匂官は馬で宇治山荘に現れ、観世音菩薩は自馬となって地獄に落ちた人を、馬頭観音修羅道に落ちた人を救おうと降りてゆく。

 ロラン・バルトが『記号の国』で日本について繰りかえし書いたことは、空虚な中心、意味の中断、解釈の不可能性、器用な精緻性とひきかえの形而上学の欠如であり、それらは来日中の鑑賞から引き出された文楽にも適用されて、せせらぎのように語られた。《それは、はかなさ、慎みぶかさ、華麗さ、このうえない陰影、あらゆる下品さの廃絶、動作を旋律で句切ることであり、ようするに古代神学が栄光の身体にたいして夢みていた美点そのもの、すなわち平静さ、明晰さ、軽やかさ、繊細さなどである。これこそが文楽(・・)が実現していることであり、このようにしてフェティシズムとしての身体を愛すべき身体に変えるのである。》

「振りさけみれば人にはあらで妻恋鳥の羽音(はおと)にも、怖(お)ぢる身となる落人(おちうど)の、身を忍ぶ道、恋の道、こゝの旅籠(はたご)、かしこの宿り、三日四日はいつかさて、命のかねの佗(わ)びしくも、消ゆる心の細々道、我から狭き憂世の道、野越え山くれ里々越えて、往くは恋ゆゑ捨つる世や、哀れ拶き次第なれ」

つられて拍手しながら隣の千香を見れば、バルチュスの少女みたいに左手の手鏡に見入ってルージュが落ちていないかを調べている。

 あの豆ゆりという舞妓は日常性を一瞬たりとも外部の裂け日にのぞかせなくなったとき、祗園に名を残す妓となるだろう。そのとき模倣ではなく感覚的な抽象化そのものと化した顔は道行く梅川のように深い面(おもて)を見せ、螺釦の手鏡の中のルージュは舞妓の上唇、冥途の道を行く梅川の紅(くれない)、「くちづけのくちびる」となる。

(了)

   ***主な引用または参考***

*『鏡より馬がすんなり』松平盟子(『短歌』2002年1月号、角川書店

*『冥途の飛脚』床本(日本芸術文化振興会

*『マルテの手記』リルケ、望月市恵訳(岩波書店

*『若きウェルテルの悩み』ゲーテ、井上正蔵訳(旺文社)

*『知覚の現象学メルロ=ポンティ、中島盛大訳(法政大学出版局

*『失われた時を求めてプルースト、鈴木道彦訳(集英社

*『恋愛のディスクール・断章』ロラン・バルト、三好郁郎訳(みすず書房

*『全体性と無限』レヴィナス熊野純彦訳(岩波書店

*『ボヴァリー夫人フローベール生島遼一訳(新潮社)

*『アベラールとエロイーズ』畠中尚志訳(岩波書店

*『O嬢の物語レアージュ、鈴木豊訳(講談社

*『近松門左衛門集』新潮古典集成(新潮社)

*『精神分析の四基本概念』ラカン、小出浩之、新宮一成、他訳(岩波書店

*『伝奇集』ボルヘス篠田一士訳(筑摩書房

*『記号の国』ロラン・バルト石川美子みすず書房