演劇批評 「近松『女殺油地獄』についての二、三の事柄 ――折口信夫『実川延若賛』/坪内逍遥『近松之研究』/吉本隆明『最後の親鸞』の視点から」

近松女殺油地獄』についての二、三の事柄 ――折口信夫『実川延若賛』/坪内逍遥近松之研究』/吉本隆明『最後の親鸞』の視点から」

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                                        近松門左衛門女殺油地獄浄瑠璃本から歌舞伎・人形浄瑠璃へ脱落したもの、それは宗教・信仰である。よって『女殺油地獄』は個人の自我と心理のリアリズム、家族病理の悲劇として明治近代に復活し、現在に至る。

『名作歌舞伎全集 第一巻近松門左衛門集』中の『女殺油地獄』、戸板康二解説によれば、

《「オンナコロシ・アブラノジゴク」と読むのが正しい。享保六年七月十五日初日の竹本座に書き下ろされた浄瑠璃。作者は近松門左衛門である。実際にあった事件を脚色したもので、この作以前に歌舞伎ですでに、材料としてとり上げていたらしい。主役の河内屋与兵衛の性格は、放埓で、やや虚無的な所もあり、それは近代文学にも共通するので、明治に勃興した近松研究にたずさわる人々が、早くから注目した作品である。》

ここで言う「近松研究にたずさわる人々」とは、明治二十三年からはじまった坪内逍遥を中心とする「近松研究会」に他ならず、『女殺油地獄』を含む研究成果は、明治三十三年の坪内逍遥綱島梁川共編『近松之研究』(春陽堂)にまとめられた。これを受けて近松の世話物の復活上演があいつぐこととなる。

 戸板は来歴を紹介する。

《近年これを歌舞伎に脚色したのは三世河竹新七門弟の竹柴華七といわれる。(中略)明治四十二年、大阪朝日座で初演した時の配役は、二代目実川延若の与兵衛、中村成太郎(戦災で死んだ魁車)のお吉、尾上卯三郎の徳兵衛、嵐璃珏のお沢で非常な好評であった。そして翌四十三年これを東京へ持って来たのであるが、以後延若の当り役となり、大正十四年九月にも、本郷座で演じている。》

 次いで見どころを説明してゆく。

《延若は芸談で、この役をいがみの権太を白塗りにしているような心持といっているが、原作ではもう少しニュアンスのちがう人物に書けている。

与兵衛はひと口にいえば不良少年だが、近所に住むお吉には好意を持ち、いくぶん甘えてもいる。お吉もそれを内心うれしがっている。恋ではないが、まかりまちがえば「不義」に燃えるような気分が、この男女のあいだに存在することにして演じなければ、この芝居のほんとうの味は表現できまい。歌舞伎俳優は、本能的にそのへんの核心にせまることができたのである。

 この浄瑠璃のモデルになった実際の事件のあと、お吉と与兵衛のあいだを疑う虚説がいわれたのはじゅうぶん想像でき、近松はそれをわざと、この作品のように書いて見せたのかも知れない。(中略)

 戦後昭和二十四年二月に三越劇場勘三郎が演じた時は、川口子太郎が新しい台本を作り、近代味の濃い演出と演技で、もしほ時代の彼のある時期の出世作となった。与兵衛が和事だけでは表せない役だけに、上方芸の伝統には残らなかった。その代りに、明治以降に於て、独自の役柄として復興された。すなわちこれは特殊な作品である。》とは戸板の、伝統芸を重んじる立場から見た見解だ。初演以来途絶えていた(異説もあり)ものを、明治も後半になって復興、歌舞伎脚色するに際して、逍遥の「所感」を参考にしたに違いなく、少なくとも逍遥と同じ時代の気分に促されて脚色、演出したことは確かだろう。

 

折口信夫『実川延若賛』>

 明治四十二年大阪朝日座公演の思い出を、折口信夫が『実川延若賛』(昭和二十四年四月「演劇界」)の冒頭に書き残している。ここには、折口による歌舞伎の近代的解釈批判の一端が窺える。宗教・信仰の欠落に対する批判ではないが、近代的人間像による歌舞伎鑑賞への、ノスタルジックでロマンティックな異議申し立てが見てとれる。

 上方育ちの折口は、理屈以前に、大阪びとのこってりした、コクのある味わいが好きだった(東京山手の人間ではあったが、三島由紀夫の願望した「くさやの干し物の匂いのする歌舞伎」と通じるところがある)。

《「女殺(ヲンナコロシ)油( ノ)地獄」の芝居を、見て戻つた私である。一日、極度に照明を仄かにした小屋の中にゐて、目も心も、疲れきつてしまつた。思ひの外に、役者たちの努力が、何となく感謝してもよい心持ちを、持たしてくれたけれども、何分にも、先入主となつたものが、度を超えて優秀な技芸であつた為、以前見たその美しい幻影が、今見る役者たちの技術の上に、圧しかゝるやうな気がして、見てゐてひたすら、はかなくばかり見えてならなかつたのである。

 明治大正の若い時代(トキヨ)は、貴かつた。その劇も、音楽も、浄い夢のやうに虚空に消えて行つた。はじめて、この河内屋与兵衛を見たのは、今の実川延若の延二郎と言つた頃である。さるにても、この若い油売りの手にかゝるお吉のいとほしさ。中村成太郎――後魁車の、姿なら技術なら、今も冴えざえと目に残つて居る。二度目に見た時は、中村福之助がお吉を勤めてゐたが、此時既に、先の印象が、その後のお吉の感興を淡くしたことであつた。其ほど、魁車のお吉は優れていた、与兵衛の両親、同業油屋の徳兵衛。おさはに扮したのが、尾上卯三郎・嵐璃珏(りかく)であつた。この三人の深い憂ひに閉され、互に何人かに謝罪するやうに、額をあつめた謙虚な姿、まことに、こんなに人を寂しく清くする芝居もあるものか、としみじみ感に堪へたことであつた。

 もう此以上の感激はあるまい、とその時も思うた。其は今も印象している。而もそれに続く――向ひ家(ヤ)の老夫婦を送り出した心の、しみじみ清らかな油屋の女房へ、恐怖のおとづれびとが来るのであつた。好意を持つもの同士の間に、其でもくり返さねばならぬ疑ひ、拗(ネヂ)けごと。さうしてやがて、とり返されぬ破局への突進。人間の心と心とが、なぜかう捩(ネヂ)れ、絡み、又離ればなれになつて行かねばならないのだらう。人間はなぜ、人間の悲しみの最深きものに、直に同感し、直に共感する智慧を、持つことが出来ないのか。さう言ふ悔いに似た戦慄が、われ/\の心を、極度に厳粛にした瞬時の後、あはれ、謂はうやうない破局への突進。私は、再見ることもなからうと言ふほどの痛苦の感激を覚えて、呆としてゐた。其間に、舞台は頻りに進んで行く。私は、人間の滅亡を、唯傍視してゐるばかりであつた。若い代(ヨ)の延若もよかつた。魁車もよかつた。その為に生れて来た人たちだと言つても、誰が抗(アラガ)ふであらう。私は三越劇場の女殺しを眺めながら「とりかへすものにもがや」を、危く叫ばうとした。其程の至芸が、曾て廔これとほゞ同じ舞台に同じ年頃であつた人々によつて、発揚せられたのを思はずに居られなかつた。

 幸にして、今度の禍を免れた延若は、大阪宗右衛門町の浜側の防空壕の中で、孫を抱いたまゝ焼け死んだ、その時の相方の思ひ到ることがあるだらう。さう言う時、油地獄の殺しの場面を思ひ起して、魁車を惜しむこともないではあるまい。》(余談だが、折口は延若(えんじゃく)と同じくらい上方役者の魁車(かいしゃ)贔屓で『街衢の戦死者――中村魁車を誄す――』がある。)

 そして折口はどうしようもなく本質的なことをさらっと語る。

《まづそのことば(・・・)である。ことばの音色(ネイロ)やあくせんとに導かれて来る地方人の慣性、其を表現せなければ、与兵衛はない訣である。ことば(・・・)から来る大阪人の数理の上における俊敏性と、其裏うへ(・・・)にある愚痴・怯懦を表現することの出来るものでなければ、与兵衛の持つ特殊性は失はれるだらう。都市に慣れながら、野性を深く持つのが、大阪びとの常である。彼等は、江戸人の常誇りとする洗練を希ふことがない。所謂えげつなさを身につけてゐる。近松が書いた為に、京阪の見物の馴れによつたが為に、毛剃(けぞり)九右衛門さへ、柳町であんなに憶病なところを暴露させられてゐる。人間の強さの底を知ると共に、自分の弱さを、互に表現し合つて恥ぢとしない大阪びとの持つ普遍性なのであつた。こゝに力点を置かぬ性格描写は、恐らく近松の予想した役の性根とは違つて来るであらう。》

 

 また、折口は『女殺油地獄』における民俗学的顕れを『古代研究』の「民俗学編」で指摘している。『最古日本の女性生活の根柢』の「五 女の家」に、《近松翁の「女殺油地獄(おんなころしあぶらのじごく)」の下の巻の書き出しに「三界に家のない女ながら、五月五日のひと夜さを、女の家と言ふぞかし」とある。近古までもあった五月五日の夜祭りに、男が出払うた後に、女だけ家に残るという風のあった暗示を含んでいる語である。》

と書いたが(『偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道』の「九 少女のものいみ」にも同様言及がある)、大道具として庇(ひさし)の蓬(よもぎ)菖蒲(しょうぶ)がそれを象徴している。他に『女殺油地獄』の民俗学的な場面としてよく知られたところでは、「豊島屋(てしまや)油店の段」での女房のお吉(よし)が娘の髪をくしけずっているとき、櫛の歯が「一枚おれた」と不吉さを連想させる場面、掛取りからいったん戻った夫七左衛門が不吉な立酒をしようとしてお吉が注意する場面があって、季節と生活感をもたらす情緒として歌舞伎・人形浄瑠璃に残った。

 人形浄瑠璃床本《葺きなれし、年もひさしの蓬(よもぎ)菖蒲(しょうぶ)は家ごとに、幟の音のざわめくは男子児(おのこご)持(も)ちの印かや。娘ばかりの豊島屋は亭主は外の掛一まき、うちのしまひと小払ひと油売つたり舞うたりに、三人の娘の世話。「マア姉から」と櫛笥(くしげ)取出し解き櫛に、色香揉み込む梅花の油。〽女は髪より形より、心の垢を梳き櫛や 嫁入先は、夫の家里の住家も親の家、鏡の家の家ならで、家といふ物なけれども、たが世に許し定めけん。五月五日のひと夜さを女の家と云ふぞかし。身の祝ひ月祝ひ日になにごとなかれ、撫で付けて、髪引く湯津(ゆづ)の爪櫛の歯の「ハア悲し。一枚折れた」と呆れてとんと投げ櫛は、『別れの櫛とて忌むことを』と、口には言はず気にかゝる、なんぞのつげの小櫛かや 掛も十に七左衛門大方寄つて中戻り「アヽ思ひの外、早い仕舞ひ。うちの払ひもさらりと仕舞ひ。両替町の銭屋から灯油二升梅花一合、今橋の紙屋から通ひ持つて灯油一升、当座帳に付けておく。まあ洗足して早うお休み。明日は疾うから礼に出さしやんせ」「イヤ/\早う休まれぬ。天満の池田町へ往かねばならぬ」「フウ気疎(きようと)いもうよいわいの。池田町は北の果て。近所の掛さへ寄つたらば過ぎてのこと」「こな人何云やる。節季に寄らぬ銀の過ぎて寄つた例はない。けふ暮れてから渡さうと詞番ふた。つい一走り往て来う。この打飼に新銀五百八十匁、財布の銭も戸棚へ入れて錠下しや。やがて帰ろ」と立ち出づる。「申し/\、そんなら酒一つ、姉それ燗して進ぢや」と、立つて戸棚へ徳利からちろりへ移せば「アこりや/\。燗せいでも大事ない。肴も盃も入らぬ。中蓋添へて持つて来い。夜が短い気が急くそこから注げ」「あい」とは云へど十歳(とどし)では手も届かねば立ち上り、注ぐも受くるも立酒を、お吉見つけて「そりやなんぞ。忌々しい子供は頑是がないにもせい、立ち酒呑んで誰を野送り。アヽ気味わる」と、云はれて夫もちやつと腰掛け取り直し、「掛乞ひに行く門出にはか往の立ち洒。この世に残らぬ/\」と祝ふ程なほ哀れ、世の永き別れと出でて往く》

「河内屋内の段」浄瑠璃床本の冒頭に、《「掲諦(ぎやてい)々々波羅(はら)掲諦。波羅僧掲諦々々々々。波羅掲諦波羅僧掲諦。庵呼魯(おんころ)々々施茶利(せんだり)摩登枳(まとうぎ)。庵阿毘羅吽欠(おんなびらうんけん)」おん油仲間の山上講(さんじょうこう)、俗体ながら数度のお山、院号受けたる若手の先達、新客交り十二燈組、吹き出す法螺(ほら)もかひがひしげなる金剛杖、腰に腰当首に数珠、巾着替りの水呑み、河内屋徳兵衛店先に立寄り》とあるのも宗教・信仰というよりは民俗学的風習、大阪商人の講(こう)、株といった共同体的社会習俗に近いうえに、「山上講」の面々や追って登場する「山伏法印」の言説には、チャリ場のような社会諷刺、アイロニーがある。

 

 人形浄瑠璃での上演はどうだったのか。人形浄瑠璃としては江戸の昔からずっと続き、明治以降に歌舞伎として復興したものは多々あるが、こちらは歌舞伎復興がさきだった。ようやく戦後の昭和二十七年に「豊島屋油店(てしまやあぶらみせ)の段」が素浄瑠璃としてラジオ放送され、昭和三十七年に大阪道頓堀文楽座で「徳庵堤(とくあんづつみ)の段」と「河内屋内(かわちやうち)の段」を加えて人形浄瑠璃として上演、昭和五十七年に「逮夜(たいや)の段」を復活しての通し上演が実現したという。

 浄瑠璃本から脚色された歌舞伎台本は、理屈を通そう、因果を示そう、証拠を見せよう、という明治近代の科学意識の発現によって、様々に試行錯誤が行なわれて今日に至る。現在、歌舞伎では大詰「逮夜の段」まで演じることは滅多になく、「河内屋内の段」のお吉殺しで幕を閉じることがほとんどだが、一般に、より浄瑠璃本に付く原本主義を旨とする人形浄瑠璃では、「北の新地の段」は省略されるものの「逮夜の段」まで上演されることはそう珍しいことではない(なお「逮夜」の「逮」とは「およぶ」の意で、翌日の忌日、命日におよぶ前夜に親戚・知人が集まって追善供養を営む)。

 

 折口が『実川延若賛』で「私は三越劇場の女殺しを眺めながら」と書いた昭和二十四年二月三月三越劇場上演の芸談が楽屋での座談会形式で残っている(『幕間』昭和24年3月)。出席者は、与兵衛:中村もしほ(十七世中村勘三郎)、お吉:沢村訥弁(八世沢村宗十郎)、徳兵衛:中村吉之丞、小菊:市川松蔦(七世市川門之助)、七左衛門:二世中村又五郎、太兵衛:市川染五郎(八世松本幸四郎)、司会:大木豊。十六年ぶりの陽の目ゆえに、みなが初めて知った演目だと言い、脚本、面白いところ、演出、演技、装置、上方語、そして「大詰」についても語りあっている。

《大木 大体は延若流のいき方なんでしょう。

もしほ そうです。何しろ見たこともやったこともない役なので、不安でした。今度初めて与兵衛をやって感じた ことですが、三幕目の門口で父母の言葉をきいていて、粽といわれると、グッと来ますね。

又五郎 それはそうと、大詰は、ずいぶん問題になったっけねえ。

大木 あゝ、今度初めて出たという「花屋」の捕物ですね。

もしほ えゝ。はじめは「一紙半銭」もいわなかったんですが、大詰をもっとやってくれというんで延びたりして……。

又五郎 大詰は脚本のようにするか、いっそない方がいゝですね。勧善懲悪の意味で出すんでしょうが、殺しで終った方が、寧ろ後味があると思います。木村錦花さんの脚色で、猿之助さんがやられたときは、捕物がなかったそうです。

吉之丞 与兵衛は善人を殺したんですから、当然捕物かなにかがなくては気が悪いかもしれませんけど、今度やるときは考える余地があるのではないでしょうか。今のではつまりませんね。

もしほ いっそ出さない方が、いゝかもしれないな。

大木 何れにしても、大詰の扱い方は、なお今後残された問題というところにおちつくわけですね。》

とあって、その後の上演では、「いっそ出さない」という方向に収斂してしまうのだが、出さない理由としては「殺しで終った方が、寧ろ後味がある」という感覚であり、出す理由は「善人を殺したんですから、当然捕物かなにかがなくては気が悪い」という「勧善懲悪」であって、古典歌舞伎の思考の枠組みと近代意識との間で中途半端に揺らいだ。しかし、今はほとんど上演されなくなった大詰を近松は「勧善懲悪」で書いたのだろうか。それもあるだろうが、むしろ浄土真宗の「悪人正機」への問いかけだったのではないか、『歎異抄』に名高い「悪人なおもて往生す」がなされたのかなされなかったのか。このことは後に論じたい。

 

 浄瑠璃本『女殺油地獄』は上巻・中巻・下巻からなり、上巻が「徳庵堤の段」、中巻が「河内屋内の段」、下巻が「豊島屋油店の段」(「北の新地の段」)「豊島屋逮夜の段」に相当する。

 浄瑠璃本上巻「徳庵堤の段」の入りは、性的でエロティックな踊歌の川筋からはじまって、すぐに仏教用語の海に漕ぎ出る。

《舟は新造(しんぞ)の乗心サヨイヨエ。君と。我と。我と君とは。図に乗った乗って来た。しっとんとん/\しととん/\。しっとと逢瀬の波枕。盃は何處(どこ)行(い)た。君が盃いつも飲みたや武蔵野の。月の。月の夜すがら戯れ遊べ。囃し立てたる大騒ぎ。》

つづいて鯰(なまず)川から野崎観音に向かう「悪所」の客と女たち。

《北の新地の。料理茶屋。主なけれど咲く花や。後家のお亀が請込んで。客の替名は蠟(らふ)九とて生れは陸奥(みちのく)会津にて名代流さぬ金遣(かねづかひ)。此の比(ごろ)難波の里へ上り詰めたよ天王寺屋。小菊を思ひ。思はれたさに。鯰川よりゆら/\と。野崎参りの屋形船。卯月半(なかば)の初暑さ末の。閏に追繰(おひぐ)りてまだ肌寒き川風を。酒に凌ぎてそゝり行く。》

 そこから宗教・信仰が濃厚となって、天台宗に伝えられる念仏往生安心の偈文(げもん)が耳に響く。昔釈尊が霊山で法華経を説き、今は西方極楽で弥陀と称して衆生済度され、娑婆世界に観音が示現して、過去、現在、未来の三世に渡って衆生に利益を施される、とは『女殺油地獄』の隠れたテーマを冒頭から暗示しているのだ。一六五〇年前後から徳川幕府の統治政策として寺社奉行制が制定され、宗門改励行命令、諸宗寺院法度、新寺建立禁止令、宗門人別帳整備命令といった仏教制度の矢継ぎばやの統治強化、徹底が全国的に行なわれた。これによって生まれた時から宗旨と檀那寺が決っている「寺請檀家制度」が完成したが、『女殺油地獄』が書かれた享保六年(一七一二)にはそれから既に五十年あまりが過ぎ、信仰の形式化、空洞化が招来していた。一方で「法華経」、「往生要集」、「浄土和讃」、古浄瑠璃謡曲などから無意識に仏教用語が庶民の日常生活、会話に浸透し、もはや習俗として、仏教知識があろうとなかろうと、意識しようと無意識であろうと民衆を操っていた。

《昔在霊山名法華(しやくざいりやうぜんみやうほつけ)。今在西方名阿彌陀(こんざいさいはうみやうあみだ)。娑婆示現観世音(しやばじげんくわんぜおん)。三世の利益(りやく)。三年続き。去々年戊(つちのえ)亥(ゐ)の春は。裏屋背戸屋に罪深く。針櫛箱や。数珠袋。底に日の目も見ず知らぬ。一文不通の衆生まで。千手(せんじゆ)の御手の。掴取(つかみどり)。紫磨黄金の御膚に忽ち那智の観世音。去年は和州法隆寺聖徳太子の千百年忌。これ又救世の大悲の化身。続いて今年此の薩埵(さつた)。桜過ぎにし山里の。誰訪ふべくもなかりしに老若男女の。花咲きて。足をそら/\空吹く風に。散らぬ色香の伊達参り。大人童も謡ふを聞けば。行くもちんつ。帰るもちんつ。又来る人もちんつちりつて。チリテツテ。傳を頼みの乗合船は。借切るよりも徳庵堤。艫に舳を漕付けてよそも一つの舟の内。客は是見よ顔自慢。やゝともすれば痴話事の。それに委せた身の上も。人も恥し気詰りと。小菊は陸へ一飛びに。》

と新町の遊女小菊を登場させ、野崎の地理的重要性を語ったあと、聚福山慈眼寺野崎観音を想起させる法華経の一条によって観音と多重映像となったお吉が、油屋の油、吉野の桜と掛けて艶っぽく現れる。

《無量無辺の聚福閣慈眼視衆生念彼観音(じゆふくかくじめみしゆじやうねびくわんのん)。身得度者(しんとくどうしや)の御誓(ちかひ)。問ふも語るも行く舟も陸路(かちぢ)ひろふも諸共に迷ひを開く腰扇御堂(こしおふぎみだう)に。念珠を 繰返す 所を問へば。本天満町町の幅さへ細々の。柳腰柳髪とろり渡世も種油。梅花紙漉荏(こしえ)の油。 夫は。豊島屋七左衛門妻の野崎の開帳参り。姉は九つ三人娘 抱く手。引く手に。見返るも。子持とは見ぬ花盛。吉野の吉の字を取ってお吉とは誰(た)が名付けけん。お清は六つ中娘。母(かゝ)様茶が飲みたいも折節傍の出茶屋見世。爰(こゝ)借りますと休らひぬ。》

 ところが、これら語りが歌舞伎ではほとんどカットされるばかりか、人形浄瑠璃床本でもほぼ脱落している。明治に復活した歌舞伎台本は浄瑠璃本からの出入りが多く、出たものの最大は宗教・信仰だった。

 人形浄瑠璃床本で、さきの浄瑠璃本の文言がどう処理されているか。

《船は新造の乗り心サヨイヨエ。君とわれとは図に乗つた乗つて来た。しつとん/\、しつとんとん。卯月半ばの初暑さまだ肌寒き川風を、洒にしのぎてそゝり行く、野崎詣りの屋形船。徒歩路(かちじ)ひろふももろともに、開帳詣りの脹はしや。これも願ひを子供連れ、家は油屋本天満町、夫は豊島屋(てしまや)七左衛門、妻のお吉が参り道。「ちよつとこゝを借りますぞえ」》

 わずかこれだけにすぎない。

 近松が、まず野崎詣の遊蕩心をそそる歌から始めるとき、それを聞いた観客は、これから始まるのが信仰の縁起にかかわるエロティックな物語であり、観音と卑猥のないまぜが三絃の音曲とともに意識下にすりこまれるはずだが、これがないので、直後に登場する主人公与兵衛とお吉との茶屋での「不義」の疑いを色づける情緒的な思わせぶり(「二人帯解いて」)への通奏低音が弱い。続いてすぐに宗教・信仰の語りが続くのだが、歌舞伎・人形浄瑠璃では脱落しているから、野崎詣は信仰心の乏しい物見遊山にすぎなくなっている。

 これは『曾根崎心中』浄瑠璃本冒頭の、象徴的な三十三所の観音廻り、《げにや安楽世界より》が歌舞伎・人形浄瑠璃では、脱落し、いきなり「生玉社前(いくだましゃぜん)」から上演されるのに似ている。『曾根崎心中』観音廻りの道行は名調子で始まる。

《げにや安楽(あんらく)世界より。今この娑婆に示現(じげん)して。われらがための観世音(くわんぜおん) 仰ぐも高し高き屋に。のぼりて民の賑わひを。契り置きてし難波津(なにはづ)や。三つづゝ十(とを)と三つの里。札所(ふだしょ)々々の霊地霊物 廻れば。 罪も夏の雲あつくろしとて駕籠をはや。下際(おりは)の恋目(こひめ)三六(さぶろく)の 十八九なる貌佳(かほよ)花。今(いま)咲(さき)〽出しの。初(はつ)花に笠は着ずとも。召さずとも。照(てる)日の神も男(をとこ)神。よけて日まけはよもあらじ。頼み有りける順礼道。西国卅三所にも 向ふと。聞くぞ有りがたき。一番に天満(てんま)の。大融(ゆう)寺。この御寺(おんてら)の。名もふりし昔の人も。気の融(とおる)の。大臣(おとゞ)の君が。塩竈(しほがま)の浦を。都に堀江漕ぐ。潮汲舟(しほくみぶね)の跡絶えず。今も弘誓(ぐぜい)の櫓拍子(ろびようし)に。法(のり)の玉鉾(ぼこ) えい/\。大坂順礼胸に木札(ふだ)の。補陀落(ふだらく)や。大江の岸に打つ波に。白む夜明の。鳥も二番に長福寺。空にまばゆき久方の。光にうつるわが影の あれ/\。走れば走る これ/\又。止れば止る振のよしあし見るごとく。心もさぞや神仏。照す鏡の神明宮拝み廻りて法住寺。人の願(ねがひ)も我がごとく誰(たれ)をか恋の祈りぞと。あだの悋気や法界寺。(中略)廻りて 是れぞはや。三十番に。三津寺の大慈大悲を頼みにて。かくる仏の御手の糸。白髪町とよ黒髪は恋に乱るゝ妄執の。夢をさまさん博労の。爰(ここ)も稲荷の神社(かみやしろ)仏神水波(すゐは)のしるしとて 甍(いらか)ならべし新御霊。をがみ納まるさしも草(ぐさ)草の蓮葉な世に交り。卅三に御身を変へ色で。みちびき情(なさけ)でをしへ。恋を菩提の橋となし。渡して救ふ観世音誓ひは。妙(たへ)に 〽有りがたし。》

霊所めぐりを終えたお初は、生玉で思いかけず恋人の徳兵衛と出会うのだが、現在の上演では出会いの場からいきなり始まってしまうから、お初と観音とのダブルイメージという新古今和歌集で頂点に達した日本の芸術芸能文化の多重化、象徴化が薄っぺらな写実になってしまった。

 

 ただし人形浄瑠璃と歌舞伎のために弁解すれば、「不義」の疑いの仕込みとしての「徳庵堤の段」のエロティックな場面そのものは、浄瑠璃本の原型をほぼ留めている。

人形浄瑠璃床本《「どれお詣りしてかうか娘おぢや」と、子供の手を取り、笑顔残して別れ往く 跡見送つて与兵衛 弥五郎「物腰もどこやら、恋のある美しい顔で、さてさて堅い女房ぢや」「されば、年もまだ二十七、色はあれど数の子ほど子を産み、世帯染みて気が公道。見かけばかりで甘味(うまみ)のない、飴細工の鳥ぢやハハヽヽ」と笑ひける》

《「エヽ、呆れ果てた、そうれ見さんせ。最前云はぬことぢやない。親御達の気病みになるがいとしぼい。わしや、こちの人と待ちあわす約束でこゝまで戻つて来たが、向ひ同士の義理合ひ捨てもなるまい。茶屋の内借りて、振り濯いで進ぜましよ。顔も洗い、とつとゝ大坂へ帰つて、以後をきつと嗜ましやんせ。これお清。とゝさん見えたらかゝに知らしやや」と云ひ残し、ふたり葦簾(よしず)の奥長き、日影も昼に傾けり 『さぞや妻子が待ちつらん』と、弁当担げ七左衛門、急ぎ来かゝり茶屋の前「アレとゝ様か」と走り寄る清を 見るより「ヲヽお清。待ちかねたか。母はどこに」「かゝ様は、こゝの茶屋のうちに、河内屋の与兵衛様とふたり、帯解いて、ベゝを脱いでござんする」「ヤアなんぢや。与兵衛めと、帯解いて裸になつてぢやと」と聞くよりせき立つ七左衛門、顔色変はり、立ちはだかり「お吉も与兵衛もこれへ出よ。出ずばそこへ踏ん込む」と呼ばはる声に 走り出で「ヲヽ、こちの人か。子供がお昼の時分も忘れ、どこに何してゐさんした」と詞の後に 出る与兵衛「七左衛門殿面白ない、ふとした喧嘩に泥まぶれ、色々お内儀のお世話。忝い」と云う小鬢先(こびんさき)、髪も髷(まげ)も泥まぶれ、身は濡れ鼠の体たらく 腹立ちやら、おかしいやら、挨拶もせず「これお吉、人の世話もほど/\にせい。若い女が、若い男の帯解いて、人の疑ひどうするぞ。余所(よそ)のことは放(ほ)からかして、サア/\参らう、日が長ける」「ヲヽ、待ち遠しい、待つてゐました。詳しいことは道すがら話して往こ」と子供の手を引き、三人連れ 与兵衛も後にしを/\と群集わけてぞ》

 しかしこれとて、2017年に上演された杉本文楽は、与兵衛とお吉の帯解き場面の「徳庵堤の段」を演じることなく、いきなり「河内屋内の段」からはじまって「豊島屋油店の段」の陰惨な殺戮場面に焦点を合わせて見せつける、滴るようなエロティシズムも脱落した、通り魔的怪奇ホラー仕立てとなった。本来の豊饒な歌舞伎・人形浄瑠璃女殺油地獄』を見たことのなかった観客は、親不孝者が借金返済の為に犯した、昨日今日の隣町の殺人事件と同じものだった、と記憶に残すのであろう。

 

坪内逍遥近松之研究』>

 坪内逍遥綱島梁川共編『近松之研究』のうち、『女殺油地獄』に関しては、他作品のような数人による批評文併記、合評とは違って、坪内逍遥による研究のみが掲載されている。表題は「『女殺油地獄』を読みて所感を記す」。

 与兵衛の継父徳兵衛に対する逍遥の見解は近代西欧的視点から手厳しい、《彼れは実(〇)に偏(かたよ)りて虚(〇)を忘れ一個人(インヂビヂユアル)、一身(パルソナル)の義理に拘らひて社交(ソシヤル)、世間(ウオル、ドリ)の義理を忘れ、忠僕(〇〇)としての本分に身を委ねて人の親(〇〇〇)としての本分を忘れ、主恩に報いざる可らざる(〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇)を知りたれど報いすべき方法(〇〇〇〇〇〇〇)を誤りたり》、《要するに徳兵衛は「正直」の実に偏(かたよ)りて権(けん)を知らず、平等の理義(〇〇〇〇〇)に拘らひて差別の理義(〇〇〇〇〇)に昏く、主恩の忘るべからざるを感銘したれど親となりては別に尽すべき大任あるを忘れたり、彼れの旧主に対する尊敬はほとほと偶像崇拝の程度に達せり》

 与兵衛に対しては、《実の母(〇〇〇)に対する(・・・・)孝子(〇〇)の(・)分(ぶん)をだに知らず(・・・・・・)豈義父(〇〇)に対する義子(〇〇)の本分を知らんや、況んや、商人の務をや、況んや人間の本分をや、彼れの世を渡るは蛮人の欲に駆られて去就し、禽獣の餌を求めて往来し蝸牛(でゝむし)の日陰にしたがひて流元(ながしもと)を這(は)ひ廻(まは)るに似たり》と人間扱いせず、《いつそのこと我と「不義に成りてかして下され」と強談す、是れ無法の骨頂の骨頂也(〇〇〇〇〇〇〇〇〇)、但し与兵衛はしか思はず何となれば彼れは世に我と義父との難儀のいとつらきを意識したれど不義といふ名義の他人(〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇)といふもの(・・・・・)にとりていかばかり難渋なるべきかを感ぜざれば也返る金ならば貸してもよさそうなもの(・・・・・・・)と思へり》と嘲笑う。

 

《与兵衛がお吉に於ける同情は殆ど常人が犬猫(〇〇)に於ける同情に類す「心で御念仏(おねぶつ)南無あみだ」とは人を殺す時の言葉にあらず》と強く非難し、お吉を殺してからの与兵衛の様子を、自家薬篭中のシェークスピアマクベス』と比較する。

「豊島屋油店の段」の幕切れを逍遥は引用して、

《日頃の強き(も)死貌見てぞつと我から心もおくれ(・・・・・・・・・・・)膝節がた/\がたつく(・・・・・・・・・・)胸を押下げ/\ささげたる鍵をおツトツて窺けば蚊屋のうちとけて寝(ね)たる子供の貌付きさへ我を睨むと身も顫(ふる)へばつれてがらつく鍵の音頭(かうべ)の上(うへ)に鳴神の落ちかゝるかと肝にこたへ戸棚にぴつたり引き出すうちがい上銀五百八十目宵に聞いたる心(こゝろ)当てねぢ込みねじこむ懐(ふところ)の重さよ足も重(おも)くれて薄氷を踏む火焔(くわえん)踏む此の脇差はせんだの木の橋から川へ沈む来世は見えぬ沙汰(・・・・・・・・・・)此の世の果報の付(つけ)時と内をぬけ出で一散に足に任せて》の最後の《沈む来世は見えぬ沙汰(・・・・・・・・・・)》に与兵衛の浄土への無関心、無信仰が如実なのだが、逍遥に「来世」という宗教・信仰の言葉はことさらの意味を届けない。

《与兵衛とマクベツスとを比べば其意識上(・・・)に大きなる相違あり、マクベツスは君臣の義を解し我弑虐の大罪たることを意識して其君を弑虐す故に其怖るゝや意識(〇〇)の中より無意識(・・・)に生じたる恐怖なり与兵衛は然らず人情を知らず義理を知らず人を殺すことの大罪たるを知らざるにはあらぬも其何故に非なるかは明かに知らず故に彼れの怖るゝや死貌を見たる自然の刺撃なり(・・・・・・・)即ち無意識(〇〇〇)の中より生じたる恐怖也》、マクベツスは《怖るゝ所無形の大逆(〇〇〇〇〇)にある故に一滴の鮮血だに此大逆罪の符合となりてマクベツスの全身を震蕩するに足るなり、与兵衛は然らず、彼れの怖れは無意識の刺撃なり(・・・・・・・・)有形(〇〇)の死貌の怖ろしきを見つる果なり、故に閾の外にいづれば恐怖已に其半を減ず、彼れは無形を怖るゝものにあらず(〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇)「沈む来世は見えぬ沙汰(〇〇〇〇〇)此世の果報付時と内をぬけいで一散」とあるを見ても知るべし》と、ひたすら現世における「意識」・「無意識」、「無形」(心)・「有形」(物)のデカルト的自我心理を探求する。

 

 浄瑠璃本《一生不孝放埒の我なれども。一紙半銭盗みといふことつひにせず。茶屋傾城屋の払ひは一年半年遅(おそ)なはるも苦にならず。新銀一貫匁の手形借り。一夜過ぐれば親の難儀。不孝の科(とが)勿体なしと思ふばかりに眼(まなこ)付き。人を殺せば人の嘆(なげき)。人の難儀といふことに、ふっつと眼つかざりし。思へば廿年来の不孝無法の悪業が。魔王と成って与兵衛が一心の眼を昏(くら)まし。お吉殿殺し金(かね)を取りしは河内屋与兵衛。仇も敵も一つ悲願南無阿弥陀仏》という与兵衛の最後の台詞が本心からなのか、与兵衛は改心したのかが、長らく議論になってきたが(もっとも、歌舞伎のように「豊島屋油店の段」のお吉殺しの場面で幕を閉じて「豊島屋逮夜の段」を演じなければ問題にすらあがらない)、これに対しては、《憐むべし是は彼れがはじめて人間に我の外に人あるを知り義理人情の止みがたきを知り善悪の流行因果応報の怖るべきを知れる時の言葉也》と評して、改心による本心説を押した。それは逍遥の、無意識よりも意識で人間は動くという信念から来るいて、「性格」、「意匠」、「修辞」を重視したシェイクスピア劇の翻訳家にして専門家の坪内逍遥が、近松門左衛門の時代物よりも世話物を評価したのは、個性の尊重、自我の確立をめざした明治という時代の申し子であったことから当然の帰結だった。

 

女殺油地獄』の歌舞伎復活に際して、原作の浄瑠璃本に対して、出て行った宗教・信仰を補完するように入ったのは具体的にどのようだったかをみることで、明治近代精神の質がわかる。序幕「徳庵堤の段」で、「入れごと」はことさら念入りに「仕込み」された。

 実川延二郎(二世延若(えんじゃく))が明治四十二年に大阪朝日座で初演し、翌四十三年に東京新富座へ持って来たときの芸談は「河内屋与兵衛――明治四十三年五月新富座所演――」となっているが、大阪朝日座での公演への思いと捉えてよいだろう。延若は、改作の理由を大阪人の性向に合せるためと説明しているが、結果に対する原因の明示、因果関係の仕込みが認められる。明治も半世紀近く経てば、九世市川團十郎の「精神的」で「内面」重視、「写実的」な欧化精神が、折口が讃えた《都市に慣れながら、野性を深く持つのが、大阪びとの常である。彼等は、江戸人の常誇りとする洗練を希ふことがない。(中略)人間の強さの底を知ると共に、自分の弱さを、互に表現し合つて恥ぢとしない大阪びとの持つ普遍性なのであつた》の代表格延若とその周辺にまで無意識に浸透していたのだ。

《久しぶりのお目通りゆえ、何か斬新な狂言をと種種考案の末、やはりもとへ逆戻りをして、近松が晩年の傑作だという『油地獄』を上場することになりました。一体、この狂言はいわゆる当時の三面記事を取り仕くんだもので、従って写実と自然には富んでおります。勢い目先が穢ないのでなるべく原作を変更せぬ主義ではございますが、序幕なぞは原本がとかく単調であるので、渡辺先生ともご相談をして大分派手に改めました。というのが東京ならばともかくも、大阪と申すところは土台しぐさに重きを置くところなのと、蛇足のようでもその人間を一度御見物の脳裡へ入れて置かないと、どうも人情が薄いように考えられるからなのでございます。

 例えば序幕でも野崎参りというところから松風を船に乗せてお染に、妹おかちを駕篭にのせて久松の駕篭を利かして登場させ、二幕目の勘当になる伏線の筋を売ること》の妹おかちの登場という入れ事は、二幕目「河内屋油内の段」の人形浄瑠璃床本にある《妹堪へかね「エヽあんまりなコレ兄様。なんにも知らぬわしをつかまへ、『死霊の憑いた顔をして今のやうに言うてくれ。そんなら以後は商売に精も出し、親達へも孝行尽し逆らふまい』と誓文立てゝ言うたゆゑ、それが嬉しいばつかりに病みほうけたこのなりで、怖い恐しい死人の真似して嘘つかせ》と与兵衛がおかちに誓文立てゝ言いくるめた場面を、原本にはない徳庵堤に設定して筋道を通す。

 また、大詰「豊島屋逮夜の段」では、鼠が反古の「野崎の割付け(書附)」を蹴落とすことによって与兵衛の悪事が発覚するのだが、浄瑠璃本では、ここまでいっさい登場していなかった「野崎の割付け」が血に染まっていきなり現われて証拠の品だと騒ぐ。これは一体何なのだ、なぜ証拠になるのだ、なぜ血に染まって豊島屋にあるのだ、と腑に落ちないのだけれども、その説明のため「入れごと」が念入りに仕込まれ、観客にこれ見よがしに見せつけられた。因果の科学的説明、個人の心理の変化への納得感を観客に時系列で与える近代精神に他ならない。延若の芸談は愚直なまでに正直だ。

《証拠となる書附は品物が小さいだけに、御見物に勤めてお目には入るようにと演じますのと、続いてこの書附を搬ぶ順序に苦心をいたしました。蛇足のようでございますがお話いたせば、この書附は序幕に友達と野崎帰りに北ノ新地で遊ぶつもりで、見積もりをした書附を無心で紐に結びつけます。実際ならば財布の中へ入れるべきですが、それでは御見物のお目に止まりませんからこういたしまして、勘当のところで、結び忘れた心で花道で金銭の勘定をする時になるべく、この書附が結びつけてあることをうるさいようにお目にかけ、殺して初めて刀を拭うとき何か無かろうかと、無心に胸のところへ手がゆき紐に結びつけた書附を取って、うっかり拭い捨てましたのを、いつか鼠が咥えて天井へ引上げ、五七日の当日思わずもその夫七左衛門の手に入って露顕するという、お話にすればこれだけですが、この書附の搬びにどのくらい苦心をいたしたか知れません。》

 こういう近代精神の下では、宗教・信仰のテーマなどは、時代物同様に無体な荒唐無稽として排除されたに違いない。もっとも、行き過ぎた「入れごと」もまた、戦後復活した人形浄瑠璃の原本主義に揺り戻されたのか、あまりにあざとく説明的と感じられたのか、上演を重ねるうちに消えた。

 

 人形浄瑠璃床本《「おのれ、如何なればこそ情ない。ヤイ木で造り土でつくねた人形でも、魂入るれば性根がある。耳あらばよう聞け。この徳兵衛は親ながら主筋と思ひ、手向ひせず存分に踏まれ蹴られても堪へたが、現在産みの母親に手をかけ打つはなんの様。脇から見る目も勿体なうて身が顫(ふる)ふ。今おのれを打つたはな、わしであつてわしではない。先(せん)徳兵衛殿が冥途より、手を出してお打ちなさるゝと知らぬかやい。妹のおかちに入聟取るといふのも跡方もない偽り言ぢや。妹に名跡継がせると云へば、口惜しいと恥入り、男の一分根性も直らうかとひと思案しての方便。コリヤ妹は他へ嫁入らすのぢや。他人同士親子となるはよく/\他生の重縁と、可愛さは実子一倍。母に手をかけ父を踏み往く先々の偽り騙ごと。その根性が続いてはわが家の門柱は思ひもよらず、末は千日獄門柱と、親はそれが悲しいわい」と『ワツ』と叫び、入りければ、「エヽもどかし徳兵衛殿、口で云うて聞く奴か。エヽ出て失せい。うぢ/\すれば町中寄せて追ひ出すぞ。」とまた押つ取つて突つ張る朸 「エヽ、モ、きり/\失せう」と突き出され、越ゆる敷居の細溝も、親子別れの涙川、(振向きもせず出でゝ行く。徳兵衛つくづく姿を見送りて、「あいつが顔つき、背恰好、成人するに従い、死なれた旦那に生写し。あれあの辻に立つたるなりを見るにつけ、与兵衛めは追出さず、旦那を追い出す心がして、勿体ない」『憎い/\』も裏の裏、)嗜む涙目に堪へ、母は見ぬふり父親は伸び上り/\、見れどもよその絵幟(のぼり)の影に隠れて》

においても、《他人どし親子となるはよく/\他生の重縁と、可愛さは実子一倍。母に手をかけ父を踏み行く先々の偽り騙ごと》の語りの途中に浄瑠璃本では、《疱瘡(はうそう)した時日親(しん)様へ願かけ。代々の念仏捨て。百日法華(ほっけ)に成る是程萬(よろづ)面倒見て》という、本来は浄土真宗なのに疱瘡快癒を願って一時日蓮宗の法華信徒になる「百日法華」の逸話が挟まれる。大阪生玉(いくだま)の日蓮宗高僧日親を開祖とする日親堂への願かけは、歌舞伎・人形浄瑠璃とも、説明が要る辛気臭い宗教・信仰の話ゆえか脱落しているが、実はこういった細部にこそ日本独特の宗派仏教の融通無碍と、大阪商人の悪く言えば御都合主義ではあるものの、商人たちのリアルな合理主義が宿り、社会風俗描写の膨らみが増すというのに。

 

吉本隆明『最後の親鸞』>

女殺油地獄』がいかに浄土真宗親鸞の仏教的背景にあるかは、すでに諏訪春雄、沙加戸弘、正木ゆみ等が取り上げていて、正木の「お吉と与兵衛の「救い」のゆくえ――近松女殺油地獄』と親鸞――」に詳しい。

 正木は、《お吉の三十五日の逮夜に、与兵衛のお吉殺しが露見したところへ、与兵衛が何食わぬ顔で豊島屋に弔いに訪れる。逃れようとする与兵衛を、役人が捕らえる。与兵衛は、「覚悟の大音上げ」(『女殺』下之巻)、次のような悔悟の言葉を語って、捕縛され、最後は、与兵衛の死罪を示唆する文で締めくくられる。

一生不孝、放埒の我なれども。一紙半銭盗みといふことつひにせず。茶屋、傾城屋の払ひは、一年、半年遅なはるも苦にならず。新銀一貫目の手形借。一夜過ぐれば親の難儀。不孝の咎、勿体なしと思ふばかりに眼まなこつき。人を殺せば人の嘆き。人の難儀といふことに、ふつゝと眼(まなこ)つかざりし。思へば二十年来の不孝、無法の悪業が。魔王となつて、与兵衛が一心の眼をくらまし。お吉殿殺し、銀を取りしは河内屋与兵衛。仇も敵も一つ悲願、南無阿弥陀仏(『女殺』下之巻)》

という与兵衛の悔悟の言葉が、本心からのものか否かで議論が重ねられてきた、としたうえで、

諏訪氏は、『女殺』下之巻の、お吉の三十五日の逮夜の場面が、「変成男子の願を立て、女人成仏誓ひたり。願以此功徳平等施一切、同発菩提心往生安楽国」と、女人成仏を説く『浄土和讃』(親鸞作)と、浄土真宗の回向文で始まっていることに注目し、次のように述べている。

 お吉の成仏を祈る浄土和讃で始まり、回向文へと続く冒頭は、この場面の主調を宗教色で塗りつぶしていく。(中略)つねに浄土真宗、その開祖である親鸞上人、更には仏の信仰へ享受者の心情が回帰するように浄瑠璃は綴られていく。最後の与兵衛の捕われと悔悟は予定調和として準備されていたのである。

 諏訪氏は、お吉の逮夜の場における浄土真宗の「宗教色」を、与兵衛の悔悟の伏線と考えている。》

 浄瑠璃本の《母の袷(あわせ)の懐より、板間へくゎらりと落ちたは何(なん)ぞ。粽(ちまき)一把(は)に銭五百。なう情なや恥(はづか)しとわが身を掩(おほ)ひ押隠し声を上げ。徳兵衛殿真平許して下され。是は内の掛の寄り与兵衛めに遣りたいばかり。わしが五百盗んだ。廿年添ふ中隔心(きやくしん)隔てのあるやうに情ない。たとへあの悪人めお談義に聞くやうな。周利槃特(しゅうりはんどく)の阿呆でも阿闍世(あじゃせ)太子(たいし)の鬼子でも。母の身でなんの憎からう。いかなる悪業悪縁が胎内に宿つてあのとほりと思へば。不憫さ可愛さは父(てゝ)親の一倍なれども。母が可愛い顔しては隔てた心に。あんまり母があいだてない》

について、

《沙加戸氏は、「与兵衛にとっては、お吉三十五日の逮夜が仏の名を称する場であった。(中略)(与兵衛の悔悟は 正木注)やること為すこと全て裏目裏目と出る緊迫した地獄の様相の上に開かれてきた与兵衛の救いである」と結論づける。また、氏は、母のおさわが、お吉に与兵衛への愛情を語る際、「たとへあの悪人め、お談義に聞くやうな。周利槃特の阿呆でも、阿闍世太子の鬼子でも。母の身でなんの憎からう」(『女殺』下之巻)と、与兵衛を阿闍世にたとえていることにも注目している。

 阿闍世は、親不孝者の代名詞であり、親不孝者を描く話において、阿闍世になぞらえることはよく見られることであるが、「仇も敵も一つ悲願、南無阿弥陀仏」と語る与兵衛の悔悟は、確かに、『びんばしやらわう』第五などに見える阿闍世の悔悟を意識したものである可能性は高い。

 ここで想起されるのは、浄土真宗の開祖、親鸞聖人(一一七三~一二六二)が、「王舎城の悲劇」に対し、強い関心を寄せていたことである。『浄土和讃』「観経意(くわんぎやうのこころ)」九首では「王舎城の悲劇」の内容を詠み込み、浄土真宗聖典教行信証』(元仁元年[一二二四]頃成立)信巻において、『大般涅槃経』巻十一の阿闍世の説話を大量に引用しながら、阿闍世のような五逆・十悪を犯した人間が、「慙愧を懐」き「阿耨多羅三藐三菩提心を発(おこ)」したことを示し、五逆・十悪の人間の往生を保証する根拠とした。

『女殺』では、与兵衛に阿闍世のイメージが投影され、お吉の逮夜の場は、『浄土和讃』(親鸞作)で始まる。ここでようやく、諏訪氏が十分に説明していなかった、お吉逮夜における浄土真宗の「宗教色」が、与兵衛の悔悟に展開していく理由が、明確になってくる。すなわち、近松は、お吉逮夜の浄土真宗の「宗教色」が、阿闍世の説話を根拠に説いた五逆・十悪を犯した人間に関する親鸞の教えを観客に想起させ、それが、「悪人」と母に称された与兵衛の悔悟の伏線となるように、周到に計算して描き出している可能性がある。》

 五逆・十悪(「五逆罪」とは父殺し・母殺し・阿羅漢(聖人)殺し、仏を傷つけ出血させる、教団を内部分裂させるの五つのこと、「十悪」とは殺生・偸盗(ちゅうとう)・邪淫・妄語・綺語・悪口・両舌・貧欲・瞋恚(しんに)・愚痴の十のこと)を犯した悪人の往生に対する親鸞の教えを、近松や当時の観客がどのように受容していたのか、正木は悪人往生に関する親鸞の教えについて論を進める。

《近世、近松の時代の頃には、『教行信証』は出版されていた。しかし、一般の信者には、浄土真宗中興の祖である蓮如(一四一五~一四九九)以来、朝夕の勤行で使用された「正信念仏偈」(『教行信証』行巻の詩編を抜き出したもの)や親鸞作の『浄土和讃』(宝治二年[一二四八]成立)・『浄土高僧和讃』(同前)、および、蓮如が、門徒などに書き与えた教えを開板した『御文章(御文)』などによって、五逆・十悪を犯した悪人の往生に関する親鸞の教えが流布したと考えられる。さらにそれらの教えが、近世初期から、近松の時代にかけて上演された浄土真宗系の古浄瑠璃にも取り入れられていく。》

《『女殺』が上演された大坂には、北御堂(御堂筋本町の北に建てられた津村別院の俗称。京都西本願寺系の寺)と南御堂(御堂筋久太郎町に建てられた難波別院の俗称。京都東本願寺系の寺)があり、大坂の観客が親鸞の教えに親しんでいたことが推測される。

 そのようななかで、近松は、『女殺』で、お吉逮夜の浄土真宗の「宗教色」を強調し、阿闍世になぞらえられる「悪人」与兵衛の悔悟を描いた。したがって、与兵衛の悔悟は、『びんばしやらわう』の阿闍世が「安楽国に、往生」できたのと同様、与兵衛の「往生」=「救い」を示唆するものであると、観客に予想させる。》

 補足すれば、蓮如の布教によって浄土真宗が盛んな近江を祖とする船場商人のほとんどは真宗門徒であり、御堂の鐘の音が聞こえる御堂筋界隈で商いをした。マックス・ヴェーバーは、プロテスタンティズム真宗の類縁性を指摘しているが、「自利利他円満」「勤労公正」「三方よし(売手よし、買手よし、世間よし)」を旨として商業資本家(伊藤忠、丸紅など)となった。河内屋、豊島屋の油屋の様子や会話にも「自利利他円満」「勤労公正」「三方よし」の精神が、近松の観察眼と筆致で容易に見てとれる(河内屋徳兵衛の律義さ、豊島屋七左衛門の掛(集金)乞いの勤勉さ、お吉が与兵衛の樽に油二升を貸す場面での「貸し借りせいでは世が立たぬ」など)。一方で、真宗の謹厳な教えや同行衆の寄り集まりは、息苦しい社会監視機能としての働きも持つから、与兵衛は反動、反逆者という捉え方もできる。

 お吉と与兵衛の「本願往生」をめぐって、

《『女殺』下之巻、お吉逮夜の場では、女人成仏を詠う『浄土和讃』の一節と、浄土真宗の回向文に続き、「同行中の老体、帳紙屋五郎九郎」が弔いに訪れ、悲しみに暮れる、お吉の夫七左衛門に、次のようなセリフを語って慰める。

(お吉殿は)二十七を一期として不慮の横死。平生の心だて人にすぐれ。上人の御恩徳、報謝の心も深かりし。この世こそ剣難の苦しみはあるとも、未来はもろ/\の業苦を除き、本願往生疑ひはよもあるまじ。この御催促に心驚き。いよ/\一遍の称名も、喜んでお勤めなされ。必ず嘆かせらるな七左殿。殺し手もそのうち知れませう。たゞご息女の介抱が第一。先立つ人もそれをこそ満足

 従来、この五郎九郎のセリフについては、注目されておらず、諏訪・沙加戸両氏も特に触れていない。しかし、このセリフは、お吉が親鸞聖人を深く信仰していた女性であることを初めて観客に明かすとともに、お吉の「本願往生」(全ての衆生を救おうとする阿弥陀如来の誓いによって往生できること)=「救い」を保証するものとして看過できないと考える。

 ここで重要なのは、お吉が「不慮の横死」を遂げたという点である。前節の(6)(筆者註:古浄瑠璃『しんらん記』)などには、悪人や女人が往生するためには、念仏を称えることが重要だということが説かれている。では、「不慮の横死」を遂げたお吉はどうであったか。お吉が与兵衛に惨殺されようとする場面を次に引用する。

 今死んでは年端もいかぬ三人の子が流浪する。それが可愛い、死にともない。金も入る程持つてござれ。助けて下され与兵衛様」「オヽ死にともない筈。尤も/\。こなたの娘が可愛い程、おれもおれを可愛がる親仁がいとしい。金払うて男立てねばならぬ。諦めて死んで下され。口で申せば人が聞く。心でお念仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と引寄せて

 お吉自身は、三人の子ども達への思いを語って、必死に与兵衛に助命を訴えながら殺されてしまい、死を前に念仏を称えることができなかった。代わりに、お吉を殺そうとする与兵衛が、心の中で念仏を称えている。

 このように、自身では、死の直前に念仏を称えることができなかったにもかかわらず、お吉の「本願往生疑ひはよもあるまじ」と五郎九郎が語るのは、お吉が、「平生」から「上人」、つまり親鸞聖人の「御恩徳」に対する「報謝の心」が「深か」ったためという。》

《「仇も敵も一つ悲願、南無阿弥陀仏」とお吉とともに、自らも往生したいと願う与兵衛の場合はどうであろうか。与兵衛が悔悟の言葉を語った後の本文を、作品の結句まで引用してみる。

「(前略)仇も敵も一つ悲願、南無阿弥陀仏」と言わせもあへず、(役人が)取つて引つ敷き。縄三寸(罪人を縛る時の縄のかけ方)に締め上ぐれば。はや町中が駆けつけ/\。すぐに引つ立て引き出だす。果ては千日(「千日寺」も掛ける。与兵衛がやがて大坂の千日寺のそばにあった刑場で死罪になることを示唆)、千人聞き。万人聞けば十万人、残る方なく世の鑑、伝へて君が長き世に、清からぬ。名や残すらん。

『女殺』が、殺人を取り上げた作品であるため、他の犯罪物の世話浄瑠璃と同様、結句は、「清からぬ。名や残すらん」という「浮名評判型」となっており、主人公与兵衛の「本願往生」を保証する本文は一切記されていない。ここに、『びんばしやらわう』で、悔悟し、「往生」した阿闍世との大きな違いが浮かび上がって来る。

 そして、死の直前に念仏を称えられなくても「本願往生」=「救い」を保証されたお吉と、悔悟して称名したにもかかわらず、「本願往生」=「救い」を保証されない与兵衛の対比が、実は、親鸞の教えと重なってくるのである。》

 正木は、従覚編による『未燈鈔』第一書簡の一節から《来迎は諸行往生(修行や善行を積んで往生を願うこと)にあり。自力の行者なるがゆゑに。臨終といふことは、諸行往生の人に言ふべし、いまだ真実の信心をざるゆゑなり。また十悪五逆の罪人の、初めて善知識に会ふて、勧められる時に言ふことなり。真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに、臨終待つことなし、来迎頼むことなし。信心の定まる時往生また定まるなり。来迎の儀式を待たず。》を、唯円による語録『歎異抄』第十四条から《(前略。十悪・五逆の罪人が、日頃念仏を唱えないのに、善知識の教えによって、死の直前に一度の念仏を申すと、滅罪して往生する、という教えは、まだ、自らが信じるところではない。「一念発起」して往生を保証された位に達し、如来が我々をお救い下さるという)悲願ましまさずは、かかる、あさましき罪人、いかでか、生死を解脱すべきと思ひて、一生の間申すところの念仏は、皆、悉く、如来大悲の恩を報じ、徳を謝すと思ふべきなり。(中略)摂取不捨の願をたのみたてまつらば、いかなる不思議ありて、罪業を犯し、念仏申さずして終るとも、すみやかに往生を遂ぐべし。(中略)罪を滅せんと思はんは、自力の心にして、臨終正念と祈る人の本意なれば、他力の信心なきにて候なり。》と要約を交えて引用し、次のように結論する。

《十悪五逆の罪人が、善知識の教えによって、死の直前に一度の念仏を称するだけでは、減罪も往生は保証されない。それは、「自力の心」である。それに対し、「一念発起」して自らを救って下さる「如来大悲」の恩徳に報謝する心、つまり「他力の信心」によって、「一生の間」念仏を称えれば、たとえ思わぬことで、罪業を犯してしまったり、念仏を称えずに臨終を迎えるようなことがあっても、すぐに往生ができるのだ、ということが説かれる。

歎異抄』第十四条の傍線部に描かれるような、「他力の信心」を持つ人の姿こそは、「不慮の横死」に遭い、死の直前に自ら念仏を称えられなかったが、「平生」「上人の御恩徳、報謝の心も深」かったために「本願往生」が保証されたお吉の姿と合致する。一方、死罪を覚悟した場で初めて、お吉を「善知識」として「仇も敵も一つ悲願、南無阿弥陀仏」と、阿弥陀如来に自身の往生を願い、念仏を称したにもかかわらず、結局「本願往生」を保証されなかった与兵衛は、「自力の行者」(『未燈鈔』第一書簡)に相当するのではないだろうか。》

 

 おそらく正木の指摘は的確であろう。それら宗教・信仰を脱落させてしまった現行の歌舞伎・人形浄瑠璃の貧相さを嘆いたうえで、正木の良識的な推論を超えて、近松には<知><善>による理解を超えたさらなる境地、<非知><愚><悪>の世界が兆していたようにも思える。

 長寿といってよい七十二歳の生涯に書いた世話物二十四曲中の二十三曲目『女殺油地獄』は「最後の近松」ともいえる作品だ。ひとつ前の作品は世話物の最高傑作のひとつ『心中天網島(てんのあみしま)』で、あとには世話物『心中宵庚申(よいこうじん)』と、時代物七十曲中最後の『関八州繋馬』があるばかりだ。とりわけ『心中宵庚申』は、姑が勝手に嫁を追い出す「姑去(しゆうとめざ)り」にあったあげく、浄土宗に入れこんで大阪中の寺々を参詣して廻る寺狂いになって、ことあるごとに「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」と唱える義父母と一つ家にいられなくなった若夫婦が心中する、いう信仰の揶揄、解体が感じられる。

 近松門左衛門当人は日蓮宗徒であったにも関わらず、浄土宗や浄土真宗を篤く信仰する大阪商人を主人公とする世話物を書き続けて『女殺油地獄』に辿りついた「最後の近松」には、吉本隆明が『最後の親鸞』で思考した「最後の親鸞」に似た姿、近松親鸞の「同行二人」のような《本願他力の思想を果てまで歩いていった思想の恐ろしさと逆説》の到達点が透けて見えはしないかる。

 吉本は『最後の親鸞』を、『歎異抄(鈔)』は信用ならない、という大方の説に異を称えるところからはじめるが、いきなり思想の本質、<知>に対する重要な心構えが説かれる。

《『歎異鈔』は、唯円によって集められた語録とされ、『未燈鈔』は、従覚の編となっている。なかに真偽の確かでない章もふくめれているというのが大方の説である。この種の語録が、編者の主観にそって排択される運命にあることは疑うことができない。最後の親鸞にとって、最後の親鸞は必然そのものだが、他者にとっては、遠い道程を歩いてきた者が、大団円に近づいたとき吐き出した唇の動きのように微かな思想かもしれない。わたしには親鸞の主著『教行信証』に、親鸞の思想が体系的にこめられているという考え方は、なかなか信じ難い。一般にこういう考え方の底に流れている<知>の処理法に、親鸞自身の思想が満足したかどうか、疑わしいとおもわれるからだ。『教行信証』は、内外の浄土門の経典から必要な抄出をやり、それに親鸞の註釈をくわえたものである。註釈と引用に親鸞の独自性をみつけるほかないが、かりにそれがみつかったとしても、経典の言葉に制約されている。この制約に親鸞をみようとすれば、浄土門思想の祖述者としての親鸞がみつかるだけである。そして、事実そういったものとしかわたしには読めない。最後の親鸞は、そこにはいないようにおもわれる。〈知識〉にとって最後の課題は、頂きを極め、その頂きに人々を誘って蒙をひらくことではない。頂きを極め、その頂きから世界を見おろすことでもない。頂きを極め、そのまま寂かに〈非知〉に向って着地することができればというのが、おおよそ、どんな種類の〈知〉にとっても最後の課題である。この「そのまま」というのは、わたしたちには不可能にちかいので、いわば自覚的に〈非知〉に向って還流するよりほか仕方がない。しかし最後の親鸞は、この「そのまま」というのをやってのけているようにおもわれる。横超(横ざまに超える)などという概念を釈義している親鸞が、「そのまま」<非知>に向うじぶんの思想を、『教行信証』のような知識によって<知>に語りかける著書にこめたとは信じられない。

 どんな自力の計(はから)いをもすてよ、〈知〉よりも〈愚〉の方が、〈善〉よりも〈悪〉の方が弥陀の本願に近づきやすいのだ、と説いた親鸞にとって、じぶんがかぎりなく〈愚〉に近づくことは願いであった。愚者にとって〈愚〉はそれ自体であるが、知者にとって〈愚〉は、近づくのが不可能なほど遠くにある最後の課題である。》

 与兵衛が本心から改心したのか否かの果てしない議論は、近松が<知>よりも<愚>、<善>よりも<悪>の領域に足を踏み入れたからではないのか。近松が意識して、知っていてそれを行っていたかは問題ではない。吉本が言う、《〈知識〉にとって最後の課題は、頂きを極め、その頂きに人々を誘って蒙をひらくことではない。頂きを極め、その頂きから世界を見おろすことでもない。頂きを極め、そのまま寂かに〈非知〉に向って着地することができればというのが、おおよそ、どんな種類の〈知〉にとっても最後の課題である。この「そのまま」というのは、わたしたちには不可能にちかいので、いわば自覚的に〈非知〉に向って還流するよりほか仕方がない。しかし最後の親鸞は、この「そのまま」というのをやってのけているようにおもわれる》の「そのまま」を「最後の近松」にも見ることができる。

 

 ちょうど殺人に関する『歎異鈔』の言葉があって、『女殺油地獄』の善と悪について問いかけてくる。

《 また、あるとき「唯円房は、わたしのいうことばを信ずるか」と云われたので、「おおせのとおり信じます」と申しましたところ「それならわたしの云うことに背かないか」と、再度云われましたので、つつしんでおおせの主旨をうけたまわる旨申し上げましたところ「たとえば人を千人殺してみなされや、そうすれば往生は疑いないだろう」と云われましたが、「おおせではありますが、一人でさえもわたしのもっている器量では、人を殺せるともおもわれません」と申し上げました。すると、「それならば、どうして親鸞の云うことに背かないなどと云ったのだ」と申され、「これでもわかるだろう。何ごとでも心に納得することであったら、往生のために千人殺せと云われれば、そのとおりに殺すだろう。けれど一人でも殺すべき機縁がないからこそ殺すことをしないのだ。これはじぶんの心が善だから殺さないのではない。また逆に、殺害などすまいとおもっても、百人千人を殺すこともありうるはずだ」と申されましたのは、わたしたちの心が善であるのを「よし」とおもい、悪であるのを「わるい」とおもって「弥陀は、その本願の思量できない力によって、わたしたちを助けられるのだ」ということを知らない、ということを云われたかったのである。(『歎異鈔』一三)[私訳]

 話の筋は似ていても、新約書の主人公のように、一切誓うなと云っているのでもなければ、おまえたちは明日の 暁方、にわとりが鳴くまえに三度わたしを裏切るだろうと弟子たちに云いたかったのでもない。人間は、必然の<契機>があれば、意志とかかわりなく、千人、百人を殺すほどのことがありうるし、<契機>がなければ、たとえ意志しても一人だに殺すことはできない、そういう存在だと云っているのだ。それならば親鸞の云う<契機>(「業縁」)とは、どんな構造をもつものなのか。ひとくちに云ってしまえば、人間はただ、〈不可避〉にうながされて生きるものだ、と云っていることになる。もちろん個々人の生涯は、偶然の出来事と必然の出来事と、意志して撰択した出来事にぶつかりながら決定されてゆく。しかし、偶然の出来事と、意志によって撰択できた出来事とは、いずれも大したものではない。なぜならば、偶発した出来事とは、客観的なものから押しつけられた恣意の別名にすぎないし、意志して撰択した出来事は、主観的なものによって押しつけた恣意の別名にすぎないからだ。(中略)ほんとうに観念と生身とをあげて行為するところでは、世界はただ〈不可避〉の一本道しか、わたしたちにあかしはしない。》

 近松の冷徹な目は、与兵衛が本心から悔悟、改心したとしても「本願往生」をかなえさせなかった、という教訓譚よりも、与兵衛をお吉殺しという<不可避>の<契機>の一本道に放りこんだこと、それ自体にあって、坪内逍遥が《与兵衛がお吉に於ける同情は殆ど常人が犬猫(〇〇)に於ける同情に類す「心で御念仏(おねぶつ)南無あみだ」とは人を殺す時の言葉にあらず》と非難した主観的近代解釈から遠く離れた極北で輝く。

 

《念仏をとなえれば、一念も多念もおなじく、また、善も悪もおなじく浄土へゆくことができる、というイデオロギー浄土真宗のものであり、いわば、その領内に属している。ところが、このイデオロギーはすぐに、逆に浄土へゆくためには(・・・・)、善人も悪人もともに一遍でも念仏をとなえればよいのだ、という転倒した考え方を生み出すことになった。この倒錯した考え方は、念仏をとなえるという行為と、浄土へゆくという救済の<契機>を、単純に因果的に結びつけたところからやってくる。一種の変質、堕落とみなすことができる。しかし、親鸞がかんがえた現世と浄土を結ぶ<契機>はひとつの構造であり、けっして因果関係ではなかった。念仏をとなえれば、浄土へゆけるという考え方は、親鸞にとって最終的には否定さるべきものであった。なぜならばここには、個々人の「御計(おんはからい)」の微かな匂いがたちこめているからである。念仏をとなえるという行為のなかに、微かな自力の目的意識が働いているからこそ、称名念仏と浄土とが、単純に因果の糸で結びつけられてしまう。》

『曾根崎心中』や『心中天網島』の道行に現われた《念仏をとなえれば、浄土へゆけるという考え方は、親鸞にとって最終的には否定さるべきものであった。なぜならばここには、個々人の「御計(おんはからい)」の微かな匂いがたちこめているからである》と同じく、『女殺油地獄』の近松は《称名念仏と浄土とが、単純に因果の糸で結びつけられてしまう》わかりやすさを避けた。

 近松は前作『心中天網島』の道行「名残(なごり)の橋づくし」の最後で、心中する小春(こはる)と治兵衛を「南無阿弥陀仏」の念仏と「有縁無縁乃至法界(うえんむえんないしほふかい)」、「成仏得脱(じょうぶつとくだつ)」といった仏語で見送った(歌舞伎・人形浄瑠璃ではこれまたほぼ完全に脱落している)。浄瑠璃本《風誘来(かぜさそひく)る念仏は我にすゝむる南無阿弥陀仏。弥陀の利剣(りけん)(筆者註:弥陀の名を称えればあらゆる罪障が除かれることは、鋭利な剣で断ち切るごとく)とぐっと刺され引据ゑても伸返り。七転八倒こはいかに切先(きっさき)咽の笛をはづれ。死にもやらざる最後の業苦(ごふく)床に乱れて。苦しみの。気を取直し引寄せて。鍔元(つばもと)まで刺通したる一刀。刳(えぐ)る苦しき暁の 見果てぬ夢と消果てたり。頭北面西右脇臥(づほくめんさいうけふぐわ)(筆者註:釈迦入滅の姿)に羽織打着せ死骸をつくろひ。泣いて盡きせぬ名残の袂(たもと)見捨てて抱(かゝへ)を手繰寄せ。首に罠を引掛くる寺の念仏も切回向(えこう)。有縁無縁乃至法界(うえんむえんないしほふかい)(筆者註:仏縁の有る無しに関わらず平等の利益(りやく)を受けしめる)。平等の声を限に樋(ひ)の上より。一蓮托(れんたく)生南無阿弥陀仏と踏外し 暫(しばし)苦しむ。成瓢(なりひさご)風に揺らるゝ如くにて。次第に絶ゆる呼吸の道息せきとむる樋の口に。此の世の縁は 切果てたり。朝出の漁夫が網の目に見付けて死んだヤレ死んだ。出合へ/\と声々にいひ広めたる物語。すぐに成仏得脱(じょうぶつとくだつ)(筆者註:煩悩を解脱(げだつ)して仏果(ぶつか)を得ること)の誓(ちかひ)の網(あみ)島心中と目毎(めごと)に。涙をかけにける》の「南無阿弥陀仏」の宗教・信仰の海から、『女殺油地獄』はどれだけ切断されていることか。

 

《しかし結局は、親鸞の理解によれば、本願他力なるものは絶対他力にまでゆくよりほかない。そして、絶対他力にゆくためには、〈知〉と〈愚〉とが本願のまえに平等であり、〈善〉と〈悪〉もまた平等であるというところから、〈愚〉と〈悪〉こそが逆に本願成就の〈正機〉であるというところまで歩むほかなかった。(中略)浄土へ往生する易行道は、ただ念仏することだという『大経』の第十八願、念仏すれば浄土へゆけるといった単純な因果律に倒錯してしまうことから免れている存在は、〈愚〉と〈悪〉とである。なぜなら、死んだあとは浄土へゆきたいというような信心を、じぶんからはけっしておこさない非宗教的な存在だからである。いいかえれば、宗教の領土の外にある存在だからである。最後の親鸞の思想的な課題は、この悪人正機、愚者正機を、どのように超えるかというところにおかれた。(中略)

 悪人正機、愚者正機をさらにどう超えるか? この課題は最後の親鸞にとって、たぶん二つの形であらわれた。ひとつは、<称名念仏>と<浄土>へゆくという<契機>を、構造的に極限までひき離し解体させることである。いいかえれば、念仏することによって浄土へと往生できるという因果律から、第十八願を解き放つことであるこれを解き放てば、当然、称名念仏するものはかならず浄土へと包摂してみせるという弥陀の第十八願の意趣もまた、相対化され解体せざるをえない。

  このうえは、念仏をえらびとり信じ申すのも、また棄ててしまわれるのも、皆さまの心にまかせるほかありません。(『歎異鈔』二)[私訳]

  念仏はほんとうに浄土へ生れる種子であるのだろうか、また地獄に堕ちるような業であるのだろうか、そういうことは与り知らないことです。(『歎異鈔』二)[私訳]

  なにが善であり、なにが悪であるか、というようなことは、おおよそわたしの存知しないことである。なぜなら如来の心によって善しとおもわれるほど徹底して知っているのならば、善を知っているともいえようし、如来が悪しとおもわれるほど徹底して知っているのなら、悪を知っているともいえようが、煩悩具足の凡夫、火宅無常のこの世界は、すべてのことがみなそらごと、たわごとで、真実あることなどないのだが、ただ念仏だけがまことである。(『歎異鈔』後序)[私訳]

(中略)<念仏>が浄土へゆくよすがとなるのか、地獄へ堕ちる種子かは、わが計(はから)いに属さないと云うとき、如来への絶対帰依が語られていると同時に、親鸞自身の思想にとっては、<浄土>と<念仏>との因果律を断ちきって、ある不定な構造に転化していることを意味している。(中略)さらに解体の<契機>を深化してゆけば、「この上は念仏をとりて信じたてまつらんともまた棄てんとも面々の御計(おんはからひ)なりと、云々。」(『歎異鈔』二)のように、<念仏>という浄土真宗の精髄を、信ずるか否かも、心のままであるという徹底した視点があらわれてくる。》

 意識と自我の人逍遥が見ようともしなかった「沈む来世は見えぬ沙汰(〇〇〇〇〇)此世の果報付時と内をぬけいで一散」の与兵衛は、悪人正機、愚者正機をさらに超えて、《「この上は念仏をとりて信じたてまつらんともまた棄てんとも面々の御計(おんはからひ)なりと、云々。」(『歎異鈔』二)のように、<念仏>という浄土真宗の精髄を、信ずるか否かも、心のままであるという徹底した視点》で、虚と実(じつ)の皮膜(ひにく)の境界を駆けてゆく。

 

《最後の親鸞を訪れた幻は、<知>を放棄し、称名念仏の結果にたいする計(はから)いと成仏への期待を放棄し、まったくの愚者となって老いたじぶんの姿だったかもしれない。

  「思・不思」というのは、思議の法は聖道自力の門における八万四千の諸善であり、不思というのは浄土の教えが不可思議の教法であることをいっている。こういうように記した。よく知っている人にたずねて下さい。また詳しくはこの文では述べることもできません。わたしは眼も見えなくなりました。何ごともみな忘れてしまいましたうえに、人にはっきりと義解を施すべき柄でもありません。詳しいことは、よく浄土門の学者にたずねられたらよいでしょう。(『未燈鈔』八)[私訳]

 眼もみえなくなった、何ごともみな忘れてしまった、と親鸞がいうとき、老もうして痴愚になってしまったじぶんの老いぼれた姿を、そのまま知らせたかったにちがいない。だが、読むものは、本願他力の思想を果てまで歩いていった思想の恐ろしさと逆説を、こういう言葉にみてしまうのをどうすることもできない。》

 ここで、《本願他力の思想を果てまで歩いていった思想の恐ろしさと逆説を、こういう言葉にみてしまうのをどうすることもできない》とは親鸞のことだけでなく、書いた吉本隆明のことでもあるのだが、更に進めて近松門左衛門のことでもあった。

                                 (了)

         *****引用または参考文献*****

*『名作歌舞伎全集第一巻 近松門左衛門集』山本二郎、戸板康二、利倉幸一、河竹登志夫郡司正勝監修(東京創元新社)

*『日本古典文学大系49 近松浄瑠璃集(上)(下)』(岩波書店

*『折口信夫全集22 かぶき讃(芸能史2)』(中央公論社

*『折口信夫全集3 古代研究(民俗学編2)』(中央公論社

戸板康二折口信夫坐談』(中央公論社

坪内逍遥近松之研究』(「『女殺油地獄』を読みて所感を記す」所収)(春陽堂

*『女殺油地獄 上演資料集<179>第16回歌舞伎鑑賞教室1980.7』(二世実川延若芸談「河内屋与兵衛――明治四十三年五月新富座所演――」、「中村もしほ(十七世中村勘三郎)、二世中村又五郎など「「油地獄」をめぐる座談会――昭和二十四年二月三月三越劇場所演――」所収)(国立劇場芸能調査室)

*『文楽床本集 女殺油地獄』(第一五二回文楽公演(平成十七年九月)(国立劇場営業部)

*諏訪春雄『近松世話浄瑠璃の研究』(笠間書院

*『日本文学 No.697 特集・インターテクスチュアリティの中世』(正木ゆみ「お吉と与兵衛の「救い」のゆくえ――近松女殺油地獄』と親鸞――」所収)(日本文学協会)

吉本隆明『最後の親鸞』(ちくま学芸文庫

富岡多恵子近松浄瑠璃私考』(筑摩書房

*『廣末保著作集第一巻 元禄文学研究』(影書房

*内藤莞爾『日本の宗教と社会』(「宗教と経済倫理―浄土真宗近江商人」所収)(御茶の水書房

*R・N・ベラー『徳川時代の宗教』池田昭訳(岩波文庫