演劇批評 「『婦系図』ヒロイン菅子の凋落とお蔦の芝居」

 「『婦系図』ヒロイン菅子の凋落とお蔦の芝居」

   

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  はじめに、『婦系図(おんなけいず)』の作者泉鏡花の『新富座所感』から次の一文を紹介しよう(出典は明治四十一年十一月の「新小説」(『鏡花随筆集』岩波文庫))。

 明治四十年一月から四月まで「やまと新聞」に連載された原作小説が、早くも翌明治四十一年年九月に新富座で初演されたときのもので、《さて、これは、脚色を議したるにあらず、芸評ではない。劇評は当編輯(とうへんしゅう)春月君(しゅんげつくん)あり、ただ見物した所感なのである》と、いかにも鏡花らしい気配りを文末に忘れない。

《さて、喜多村のお蔦は申分がない。一体原作では、殆(ほとん)ど菅子が女主人公で、お蔦はさし添(ぞい)と云うのであるから、二人引受けるとなら格別、お蔦だけでは見せ場はなかろう、と思ったが、舞台にかけると案外で、まるでお蔦の芝居になつたり。(中略)お蔦が見えると、この役に連関した劇中の人物が残らず髣髴(ほうふつ)として影の如く舞台へ顕れ出る。これが、お蔦の芝居になつた所以(ゆえん)の一つであろうと思う。》

 しかしまだ、明治四十一年の段階では、菅子、お蔦、両名がヒロインの芝居だった。

それが、明治四十四年明治座を経て、喜多村緑郎の依頼で鏡花が新たに『湯島の境内』を書き加えた大正三年明治座公演となり、その後、いくたびも演じられて違う脚本が十冊以上あると言われているが、鏡花が『新富座所感』で序幕の富子を評したごとく、《舞台へ狂言の筋を通しに出るだけで、あとは投済(なげす)みの役者となる》というところまで菅子は貶められ、すっかりお蔦の芝居となって今日に至っている。

 そんな次第だから、いまや『婦系図』と聞けば誰しもが、早瀬主税(ちから)とお蔦の悲恋を思うであろう。

新派では喜多村緑郎河合武雄花柳章太郎といった女形水谷八重子波乃久里子、直近では女形市川春猿が、映画では田中絹代山田五十鈴山本富士子が演じたお蔦は、「通し」でなくとも、一幕ものとして演じられもする名高い「湯島の境内」、「めの惣」の場を一度でも見れば、容易に忘れられるものではない。

けれども、名のみ事々しくて手に取られない原作を「前篇」、「後編」読み通してみれば、ヒロインは二人(お蔦、河野菅子)、もしくは三人(加うるに、早瀬の師酒井俊蔵の娘で、実はお蔦の姉貴分の柳橋芸者小芳(こよし)との娘だった、純情可憐、心きれいな酒井妙子)いるのではないかと、素直に思えて来るだろう。(ここで妙子は、小説、芝居で相等しい比重と役回りで活躍しつづけているから、分散させないために論じない。)

 お蔦は、「前篇」巻頭でこそにぎにぎしく登場するものの、その後は、妙子の十分の一ほどの出番も、様子の活写もない。「後編」になっても、短い儚げな描写が死の床めざして細い一本の糸のように数か所あるのみだ。

それにひきかえ菅子は、「前篇」にこそ登場しないが、「後編」ははじめから終わりまで、独壇場といってよい活劇ぶりである。

 かわいそうなのは菅子である。

 初演時は、お蔦(喜多村緑郎)と菅子(坂東秀調)の二枚看板、「お蔦物語」と「菅子物語」が交錯していたのに、お蔦の人気が高まるや、お蔦の泣かせどころに集中させんがために、菅子はしだいに消されてゆく。初演からお蔦は喜多村がずっと演じつづけ(大正三年は河合武雄)、ようやく昭和二十六年に喜多村が小芳に廻って、お蔦を花柳章太郎に譲り、その後は、年齢とともに「妙子→お蔦→小芳」に代わりつつ、花柳、水谷八重子でお蔦を演じるのであって、出番の少ない菅子はすっかり中堅どころの脇となってしまう。

 さらに、初演時からすでに河野家の次女菅子は、長女道子(実は河野家の母豊子と馬丁貞造との不義の子)の宿命を背負って演じているのだけれども、「昭和四十八年国立劇場十月新派公演(泉鏡花生誕百年記念)」プログラムを開けば、「登場人物の紹介」欄には、「河野菅子=母親が馬丁と浮気して生れた秘密を持っているが、気位が高く、みんなから嫌われている」とは、あまりといえばあまりである。

 

<女たちの登場>

 お蔦の境遇と、悲恋の道筋は誰もが知っていることだから、前記プログラムの「登場人物の紹介」だけを案内しておく。「お蔦=柳橋の芸者。早瀬と世帯を持つが、義理に迫られて別れ、淋しく死ぬ。誠実で純情な女。」

 それにひきかえ菅子について劇中で知っていたとしても、あまりにも原作と違うから、ここで人物相関からはじめて、社交的で華のある魅力的な姿、ゆえに泣かせどころなく、悪役に仕立てられてしまった実像を、原作を引用しながら紹介しなければ話が進まない。西洋的な菅子が追放されてゆく物語から、日本精神分析することさえ可能であろう。

 早瀬主税の友人で、主税の師酒井俊蔵の娘妙子に縁談を申し込もうとする文学士河野英吉の妹が菅子である。理学士島山と結婚して、長女滝(たき)、長男透(とおる)の二児の母。静岡の河野家は、元軍医監河野英臣(ひでおみ)を長として、夫人豊子、長女道子、その女婿で河野病院を継いだ河野理順(りじゅん)、長男英吉、次女菅子、その下に福井県参事官(「前篇」では工学士)と結婚した三女辰子、四女操子(みさこ)、五女絹子、六女がいる。

 菅子は、「前篇」では英吉の口による河野家の自慢話で、嫁ぎ先と収入を語られるばかり(「新学士」、「一家一門」)で姿を見せない。

 ところが、「後編」ではいきなり、「貴婦人」の、主税が静岡へ落ちてゆく神戸行き急行列車食堂から出ずっぱりとなる。鏡花の筆は、菅子の華やかさ、社交と会話の妙を存分にあらわしていて、たちどころに読者を視覚、聴覚でヒロインにひきつける。菅子を、主税をたらしこむような悪い性格の女、その影か記号か表徴をちらとでも読者に暗示させるよう書いていないのがたちどころにわかるだろう。

《こなたの卓子に、我が同胞のしかく巧みに外国語を操るのを、嬉しそうに、且つ頼母(たのも)しそうに、熟(じっ)と見ながら、時々思出したように、隣の椅子の上に愛らしく乗(のっ)かかった、かすりで揃の、袷(あわせ)と筒袖の羽織を着せた、四ツばかりの男の児(こ)に、極めて上手な、肉叉(フォーク)と小刀(ナイフ)の扱い振(ぶり)で、肉(チキン)を切って皿へ取分けてやる、盛装した貴婦人があった。

 見渡す青葉、今日しとしと、窓の緑に降りかかる雨の中を、雲は白鷺(しらさぎ)の飛ぶごとく、ちらちらと来ては山の腹を後(しりえ)に走る。

 函嶺(はこね)を絞る点滴(したたり)に、自然(おのずから)浴(ゆあみ)した貴婦人の膚(はだ)は、滑かに玉を刻んだように見えた。

 真白なリボンに、黒髪の艶(つや)は、金蒔絵(きんまきえ)の櫛の光を沈めて、いよいよ漆のごとく、藤紫のぼかしに牡丹(ぼたん)の花、蕊(しべ)に金入の半襟、栗梅の紋お召の袷(あわせ)、薄色の褄(つま)を襲(かさ)ねて、幽(かす)かに紅の入った黒地友染の下襲(したがさ)ね、折からの雨に涼しく見える、柳の腰を、十三の糸で結んだかと黒繻子(くろじゅす)の丸帯に金泥でするすると引いた琴の絃(いと)、添えた模様の琴柱(ことじ)の一枚(ひとつ)が、ふっくりと乳房を包んだ胸を圧(おさ)えて、時計の金鎖を留めている。羽織は薄い小豆色の縮緬(ちりめん)に……ちょいと分りかねたが……五ツ紋、小刀持つ手の動くに連れて、指環(ゆびわ)の玉の、幾つか連ってキラキラ人の眼(まなこ)を射るのは、水晶の珠数を爪繰(つまぐ)るに似て、非ず、浮世は今を盛(さかり)の色。艶麗(あでやか)な女俳優(おんなやくしゃ)が、子役を連れているような。年齢(とし)は、されば、その児(こ)の母親とすれば、少くとも四五であるが、姉とすれば、九でも二十(はたち)でも差支えはない。

 婦人は、しきりに、その独語に巧妙な同胞の、鼻筋の通った、細表の、色の浅黒い、眉のやや迫った男の、少々(わかわか)しい口許(くちもと)と、心の透通るような眼光(まなざし)を見て、ともすれば我を忘れるばかりになるので、》

「鼻筋の通った、細表の、色の浅黒い、眉のやや迫った男」とは主税のことで、この段階では、二人は互いの名すら知らないが、菅子がハンサムな男に魅かれていると、気づくよう書かれている。師紅葉ばりの言文一致の美文であって、菅子は文明開化からはや四十年、江戸情緒を超えた明治近代美人とわかる。

 ここで、菅子の登場の仕方がお蔦とどのように違い、他の女性たちとはどうなのかをみておこう。

 まず、お蔦。お蔦については、あまりに着物、容色の描写が欠如しているので、その意味については別に考察したいが、巻頭「鯛、比目魚」、第一行の、出である。いきなり女の口唇という細部をアップして、聴覚、噂話、ものいい、立ち振る舞いで玄人から素人になったお蔦の飾り気のないさっぱりした性格、人となりを書きあらわす。

《素顔に口紅で美(うつくし)いから、その色に紛(まが)うけれども、可愛い音(ね)は、唇が鳴るのではない。お蔦(つた)は、皓歯(しらは)に酸漿(ほおずき)を含んでいる。……

「早瀬の細君(レコ)はちょうど(二十(はたち))と見えるが三だとサ、その年紀(とし)で酸漿を鳴らすんだもの、大概素性も知れたもんだ、」と四辺(あたり)近所は官員(つとめにん)の多い、屋敷町の夫人(おくさま)連が風説(うわさ)をする。

 すでに昨夜(ゆうべ)も、神楽坂の縁日に、桜草を買ったついでに、可(い)いのを撰(よ)って、昼夜帯の間に挟んで帰った酸漿を、隣家(となり)の娘――女学生に、一ツ上げましょう、と言って、そんな野蛮なものは要らないわ! と刎(は)ねられて、利いた風な、と口惜(くやし)がった。

 面当(つらあ)てというでもあるまい。あたかもその隣家(となり)の娘の居間と、垣一ツ隔てたこの台所、腰障子の際に、懐手で佇(たたず)んで、何だか所在なさそうに、しきりに酸漿を鳴らしていたが、ふと銀杏返(いちょうがえ)しのほつれた鬢(びん)を傾けて、目をぱっちりと開けて何かを聞澄ますようにした。》

 次いで、河野英吉の母豊子。長男英吉の縁談相手妙子のことを主税の住居に聞きだしに来た帰りの場面(「見知越」)。このさき妙子、小芳を紹介するが、菅子と同じような鏡花調、振付だ。

《黒の紋羽二重の紋着(もんつき)羽織、ちと丈の長いのを襟を詰めた後姿。忰(せがれ)が学士だ先生だというのでも、大略(あらまし)知れた年紀(とし)は争われず、髪は薄いが、櫛にてらてらと艶(つや)が見えた。

 背は高いが、小肥(こぶとり)に肥った肩のやや怒ったのは、妙齢(としごろ)には御難だけれども、この位な年配で、服装(みなり)が可いと威が備わる。それに焦茶の肩掛(ショオル)をしたのは、今日あたりの陽気にはいささかお荷物だろうと思われるが、これも近頃は身躾(みだしなみ)の一ツで、貴婦人(あなた)方は、菖蒲(あやめ)が過ぎても遊ばさるる。

 直ぐに御歩行(おはこび)かと思うと、まだそれから両手へ手袋を嵌(は)めたが、念入りに片手ずつ手首へぐっと扱(しご)いた時、襦袢(じゅばん)の裏の紅いのがチラリと翻(かえ)る。

 年紀(とし)のほどを心づもりに知っため(・)組は、そのちらちらを一目見ると、や、火の粉が飛んだように、へッと頸(うなじ)を窘(すく)めた処へ、

「まだ、花道かい?」

 とお蔦が低声(こごえ)。

「附際(つけぎわ)々々、」

 ともう一息め(・)組の首を縮(すく)める時、先方(さき)は格子戸に立かけた蝙蝠傘(こうもりがさ)を手に取って、またぞろ会釈がある。

「思入れ沢山(だくさん)だ。いよう!」

 おっとその口を塞いだ。声はもとより聞えまいが、こなたに人の居るは知れたろう。

 振返って、額の広い、鼻筋の通った顔で、屹(きっ)と見越した、目が光って、そのまま悠々と路地を町へ。(後略)》

 妙子。鏡花は、その出から明るい女学生らしく、軽やかな蝶のように描いている(「矢車草」)。

《「御免なさいよ。」

 と優(やさし)い声、はッと花降る留南奇(とめき)の薫に、お源は恍惚(うっとり)として顔を上げると、帯も、袂(たもと)も、衣紋(えもん)も、扱帯(しごき)も、花いろいろの立姿。まあ! 紫と、水浅黄と、白と紅(くれない)咲き重なった、矢車草を片袖に、月夜に孔雀(くじゃく)を見るような。

(中略)

 妙子の手は、矢車の花の色に際立って、温柔(しなやか)な葉の中に、枝をちょいと持替えながら、

「こんなものを持っていますから、こちらから、」

 とまごつくお源に気の毒そう。ふっくりと優しく微笑(ほほえ)み、

「お邪魔をしてね。」

「どういたしまして、もう台なしでございまして、」と雑巾を引掴(ひッつか)んで、

「あれ、お召ものが、」

 と云う内に、吾妻下駄(あずまげた)が可愛く並んで、白足袋薄く、藤色の裾を捌いて、濃いお納戸(なんど)地に、浅黄と赤で、撫子(なでしこ)と水の繻珍(しゅちん)の帯腰、向う屈(かが)みに水瓶(みずがめ)へ、花菫(はなすみれ)の簪(かんざし)と、リボンの色が、蝶々の翼薄黄色に、ちらちらと先ず映って、矢車を挿込むと、五彩の露は一入(ひとしお)である。》

 小芳ともなれば(「柏家」)、先生(酒井俊蔵)と主税の席への出は、

《「そうかい。」

 と……意味のある優しい声を、ちょいと誰かに懸けながら、一枚の襖(ふすま)音なく、すらりと開(あ)いて入ったのは、座敷帰りの小芳である。

 瓜核顔(うりざねがお)の、鼻の準縄(じんじょう)な、目の柔和(やさし)い、心ばかり面窶(おもやつれ)がして、黒髪の多いのも、世帯を知ったようで奥床しい。眉のやや濃い、生際(はえぎわ)の可(い)い、洗い髪を引詰(ひッつ)めた総髪(そうがみ)の銀杏返(いちょうがえ)しに、すっきりと櫛の歯が通って、柳に雨の艶(つや)の涼しさ。撫肩の衣紋(えもん)つき、少し高目なお太鼓の帯の後姿が、あたかも姿見に映ったれば、水のように透通る細長い月の中から抜出したようで気高いくらい。成程この婦(おんな)の母親なら、芸者家の阿婆(おっかあ)でも、早寝をしよう、と頷(うなず)かれる。

「まあ、よくいらしってねえ。」

 と主税の方へ挨拶して、微笑(ほほえ)みながら、濃い茶に鶴の羽小紋の紋着(もんつき)二枚袷(あわせ)、藍気鼠(あいけねずみ)の半襟、白茶地(しらちゃじ)に翁格子(おきなごうし)の博多の丸帯、古代模様空色縮緬(ちりめん)の長襦袢(ながじゅばん)、慎ましやかに、酒井に引添(ひっそ)うた風采(とりなり)は、左支(さしつか)えなく頭(つむり)が下るが、分けてその夜(よ)の首尾であるから、主税は丁寧に手を下げて、

「御機嫌宜(よ)う、」と会釈をする。

 その時、先生撫然(ぶぜん)として、

「芸者に挨拶をする奴があるか。」》

 

<原作のヒロイン菅子>

「貴婦人」ではそのあと偶然に、互いが英吉の友人、妹と知るが、菅子の様子はとりたてて恨みがましい色調ではなく、会話は静岡に着くまで続く。

《「あら、河野は私(わたくし)どもですわ。」
 と無意識に小児(こども)の手を取って、卓子(テイブル)から伸上るようにして、胸を起こした、帯の模様の琴の糸、揺(ゆる)ぐがごとく気を籠めて、

「そして、貴下は。」

「英吉君には御懇親に預ります、早瀬主税(ちから)と云うものです。」

 と青年は衝(つ)と椅子を離れて立ったのである。

「まあ、早瀬さん、道理こそ。貴下は、お人が悪いわよ。」と、何も知った目に莞爾(にっこり)する。

 主税は驚いた顔で、

「ええ、人が悪うございますって? その女俳優(おんなやくしゃ)、と言いました事なんですかい。」

「いいえ、家(うち)が気に入らない、と仰有(おっしゃ)って、酒井さんのお嬢さんを、貴下、英吉に許しちゃ下さらないんですもの、ほほほ。」

「…………」

「兄はもう失望して、蒼(あお)くなっておりますよ。早瀬さん、初めまして、」

 とこなたも立って、手巾を持ったまま、この時更(あらた)めて、略式の会釈あり。

「私(わたくし)は英さんの妹でございます。」

「ああ、おうわさで存じております。島山さんの令夫人(おくさん)でいらっしゃいますか。……これはどうも。」

 静岡県……某(なにがし)……校長、島山理学士の夫人菅子(すがこ)、英吉がかつて、脱兎(だっと)のごとし、と評した美人(たおやめ)はこれであったか。

 足一度(ひとたび)静岡の地を踏んで、それを知らない者のない、浅間(せんげん)の森の咲耶姫(さくやひめ)に対した、草深の此花(このはな)や、実(げ)にこそ、と頷(うなず)かるる。河野一族随一の艶(えん)。その一門の富貴栄華は、一(いつ)にこの夫人に因って代表さるると称して可(い)い。

(中略)

 聞くがごとくんば、理学士が少なからぬ年俸は、過半菅子のために消費されても、自から求むる処のない夫は、すこしの苦痛も感じないで、そのなすがままに任せる上に、英吉も云った通り、実家(さと)から附属の化粧料があるから、天のなせる麗質に、紅粉の装(よそおい)をもってして、小遣が自由になる。しかも御衣勝(おんぞがち)の着痩(きやせ)はしたが、玉の膚(はだえ)豊かにして、汗は紅(くれない)の露となろう、宜(むべ)なる哉(かな)、楊家(ようか)の女(じょ)、牛込南町における河野家の学問所、桐楊(とうよう)塾の楊の字は、菅子あって、択(えら)ばれたものかも知れぬ。で、某女学院出の才媛である。》

 これは誰が見ても、立派なヒロイン、宝塚のトップである。早くも主税との物語を予感させる気配濃厚だ。

 しかし、この手の経済的に恵まれた地方名士の娘は、鏡花の筆致にたとえ嫌みなところがなくても、僻まれ、恨みを買うことに、少なくとも人気がないことに、この国の文芸、芸能ではなっている。

 静岡に着いた翌日、主税は草深町の、薄紅の雲のような合歓(ねむ)の花咲く菅子邸に招かれる(「草深辺」)。夫の島山理学士は九州へ出張中で、子供二人は乳母が連れて河野家へ出向いている。静岡で独逸語の塾を開くという主税の、「いの一番のお弟子人よ」とばかりに、読本(とくほん)を早くも買い求めている。「ギョウテの(ファウスト)だとか、シルレルの(ウィルヘルム、テル)……でしたっけかね、何年ぐらいで読めるようになるんでしょう」などと打ち解けたものいいをされれば、どうして気をひかれずにいられようか。

 菅子はさりげなく主税の髪を梳かし、主税の家探しに出かける二人は、あたかも『義経千本桜 道行初音旅』か『仮名手本忠臣蔵 道行旅路の花聟』のように華やいでいるが、神社の茶店で五十近の肺病病みに出逢い、陰湿な空間に迷いこむことによって、民俗的な闇と、どこか性的な匂いさえただよってくる(「二人連」)。

《部屋で、先刻(さっき)これを着た時も、乳を圧(おさ)えて密(そっ)と袖を潜(くぐ)らすような、男に気を兼ねたものではなかった。露(あらわ)にその長襦袢に水紅(とき)色の紐をぐるぐると巻いた形(なり)で、牡丹の花から抜出たように縁の姿見の前に立って、

(市川菅女。)と莞爾々々(にこにこ)笑って、澄まして袷を掻取(かいと)って、襟を合わせて、ト背向(うしろむ)きに頸(うなじ)を捻(ね)じて、衣紋(えもん)つきを映した時、早瀬が縁のその棚から、ブラッシを取って、ごしごし痒(かゆ)そうに天窓(あたま)を引掻(ひっか)いていたのを見ると、

「そんな邪険な撫着(なでつ)けようがあるもんですか、私が分けて上げますからお待ちなさい。」

 と云うのを、聞かない振でさっさと引込(ひっこ)もうとしたので、

「あれ、お待ちなさい」と、下〆(したじめ)をしたばかりで、衝(つ)と寄って、ブラッシを引奪(ひったく)ると、窓掛をさらさらと引いて、端近で、綺麗に分けてやって、前へ廻って覗(のぞ)き込むように瞳をためて顔を見た。

 胸の血汐(ちしお)の通うのが、波打って、風に戦(そよ)いで見ゆるばかり、撓(たわ)まぬ膚(はだえ)の未開紅、この意気なれば二十六でも、紅(くれない)の色は褪(あ)せぬ。

 境内の桜の樹蔭(こかげ)に、静々、夫人の裳(もすそ)が留まると、早瀬が傍(かたわら)から向うを見て、

茶店があります、一休みして参りましょう。」》

 静岡浅間神社茶店の婆さんが、よぼよぼ、蠢く、五十近の肺病の男と、芭蕉の葉煎じの効能話をしている。菅子と主税は、手巾と鳩とでじゃれあって、「その時義経少しも騒がず、落ちた菫(すみれ)色の絹に風が戦(そよ)いで」と時代めく。

裏町に懸ると寂寞(ひっそり)と陰に籠った辺りで、空家と思って隣の紺屋に菅子が声をかけると、その茅家(あばらや)は偶然にも貞造(元馬丁で長女道子の実父)の家と知れた(おそらくは鏡花がよくとりあげた部落ではないか)。菅子の思い切りに主税は驚き、帰り路、二人の手と手は付かず離れず、人目を忍ぶ色模様めく。

《「驚いたでしょう、可い気味、」

 と嬉しそうに、勝誇った色が見えたが、歩行(ある)き出そうとして、その茅家をもう一目。

「しかし極(きまり)が悪かってよ。」

「何とも申しようはありません。当座の御礼のしるし迄に……」と先刻(さっき)拾って置いた菫色の手巾を出すと、黙って頷(うなず)いたばかりで、取るような、取らぬような、歩行(ある)きながら肩が並ぶ。袖が擦合うたまま、夫人がまだ取られぬのを、離すと落ちるし、そうかと云って、手はかけているから……引込めもならず……提げていると……手巾が隔てになった袖が触れそうだったので、二人が斉(ひと)しく左右を見た。両側の伏屋(ふせや)の、ああ、どの軒にも怪しいお札の狗(いぬ)が……》

 主税は幾日もせがまれた末、菅子邸に泊まる(「貸小袖」)が、二児の母らしいところも見せて、たんなる淫婦ではない重層的な性格ゆえに小説のヒロインたりうる。

《「やっと寝かしつけたわ。」

 と崩るるように、ばったり坐って、

「上の児(こ)は、もう原(もと)っから乳母(ばあや)が好(い)いんだし、坊も、久しく私と寝ようなんぞと云わなかったんだけれども、貴下にかかりっきりで構いつけないし、留守にばっかりしたもんだから、先刻(さっき)のあの取ッ着かれようを御覧なさい。」》

 もう、徐々(そろそろ)失礼しましょう、と恐しく真面目に言う主税に、

《「いいえ、返さない。この間から、お泊んなさいお泊んなさいと云っても、貴下が悪いと云うし、私も遠慮したけれど、可(い)いわ、もう泊っても。今ね、御覧なさい、牛込に居る母様(かあさま)から手紙が来て、早瀬さんが静岡へお出(いで)なすって、幸いお知己(ちかづき)になったのなら、精一杯御馳走なさい、と云って来たの。嬉しいわ、私。(中略)

「母様(かあさん)が可い、と云ったら、天下晴れたものなんだわ。緩(ゆっく)り召食(めしあが)れ。そして、是非今夜は泊るんですよ。そのつもりで風呂も沸(わか)してありますから、お入んなさい。寝しなにしますか、それとも颯(さっ)と流してから喫(あが)りますか。どちらでも、もう沸いてるわ。そして、泊るんですよ。可(よ)くって、」

 念を入れて、やがて諾(うん)と云わせて、

「ああ、昨日(きのう)も一昨日(おととい)も、合歓の花の下へ来ては、晩方寂(さみ)しそうに帰ったわねえ。」》

 さきの「二人連」の「芭蕉の葉」、「義経」が「合歓」の花と結びついて、芭蕉奥の細道」の有名な一句を「象潟(きさかた)や雨に西施(せいし)がねぶの花」を喚起させる。西施とは、中国の春秋時代、戦に敗れた越王勾践(こうせん)から戦勝国呉王夫差(ふさ)に差し出された絶世の美女(中国四大美女の一人)で、狙い通り夫差は西施に溺れたがために越に滅ぼされる、傾国の美女。同じイメージ、役割を、主税に対する菅子に荷わせているとする説は、鏡花文学本来の、重層的で、アイロニカルな、文学から文学を作る態度(例えば、主税を《奥様連は、千鳥座で金色夜叉を演(す)るという新俳優の、あれは貫一に扮(な)る誰かだ、と立騒いだ》と茶目っ気を盛り込んだり、戯曲『湯島の境内』で余所事(よそごと)浄瑠璃として、歌舞伎の直次郎と遊女三千歳(みちとせ)の忍び逢いの清元「三千歳(みちとせ)」)を用いたり)からして、あながち的外れではあるまい。

 湯上りに用意された浴衣は仕立て上がりで、「むざむざ新しいのを」と主税が袖を引張ると、「いいえ、私、今着て見たの、お初ではありません。御遠慮なく、でも、お気味が悪くはなくって。ちょいと着たから、」と言う。帯は「これを上げましょう。」とすっと立って、上緊(うわじめ)をずるりと手繰った、麻の葉絞の絹縮(ちぢみ)。目を見合せ、「可(い)いわ、」とはたと畳に落して、「私も一風呂入って来ましょう。今の内に。」の菅子のいじましさ。

 そして、婢(おさん)が来て、ぬいと立つと、「いつも何時頃にお休みだい。」と親しげに問いかけながら、口不重宝な返事は待たずに、長火鉢の傍(わき)へ、つかつかと帰って、紙入の中をざっくりと掴んで、「一個(ひとつ)は乳母(ばあや)さんに、お前さんから、夫人(おくさん)に云わんのだよ。」とは、主税こそが色悪のようではないか。

 湯上りのあと、かれこれ一時まで二人は話し飽かない。ギョウテの(エルテル)を直訳的になど語りあううちに、《お酌が柳橋のでなくっては、と云う機掛(きっかけ)から、エルテルは後日(ごにち)にして、まあ、題も(ハヤセ)と云うのを是非聞かして下さい、酒井さんの御意見で、お別れなすった事は、東京で兄にも聞きましたが、恋人はどうなさいました。厭だわ、聞かさなくっちゃ、と強いられ》、早瀬は悉(くわ)しく懺悔(ざんげ)するがごとく語った。

 ここではじめて、「お蔦物語」と「菅子物語」の、主税の声を通しての交錯が生じた。

《それぎり、顔も見ないで、静岡へ引込(ひっこ)むつもりだったが、め(・)組の惣助の計らいで、不意に汽車の中で逢って、横浜まで送る、と云うのであった。ところが終列車で、浜が留まりだったから、旅籠(はたご)も人目を憚(はばか)って、場末の野毛の目立たない内へ一晩泊った。

(そんな時は、)

 と酔っていた夫人が口を挟んで、顔を見て笑ったので、しばらくして、

(背中合わせで、別々に。)

 翌日、平沼から急行列車に乗り込んで、そうして夫人(あなた)に逢ったんだと。……》

 この、「背中合わせで、別々に」の、次の場面の色事を予兆させる婀娜っぽさ。

 菅子は、「気の毒だ、可哀相に、と憐愍(あわれみ)はしたけれども、徹頭徹尾、(芸者はおよしなさい。)……この後たとい酒井さんのお許可(ゆるし)が出ても、私が不承知よ。」で、さてもう夜が更け、「うつらうつら」で、とうとう二人は結ばれる。

 ここでは、鏡花本来の幻想文学作者としての技量が、怪奇とまでは溢れださないけれど文体に発揮されている(もう一か所は、「おとずれ」のお蔦幻影と守宮(やもり)毒薬死の場面があるのみで、いったいに鏡花は花柳小説に徹した)。

《やおら、手を伸して紫の影を引くと、手巾はそのまま手に取れた。……が菫には根が有って、襖の合せ目を離れない。

 不思議に思って、蝶々がする風情に、手で羽のごとく手巾を揺動かすと、一寸(すん)ばかり襖が……開(あ)……い……た。

 と見ると、手巾の片端に、紅(くれない)の幻影(まぼろし)が一条(ひとすじ)、柔かに結ばれて、夫人の閨(ねや)に、するすると繋(つなが)っていたのであった。

 菫が咲いて蝶の舞う、人の世の春のかかる折から、こんな処には、いつでもこの一条が落ちている、名づけて縁(えにし)の糸と云う。禁断の智慧(ちえ)の果実(このみ)と斉(ひと)しく、今も神の試みで、棄てて手に取らぬ者は神の児(こ)となるし、取って繋ぐものは悪魔の眷属(けんぞく)となり、畜生の浅猿(あさま)しさとなる。これを夢みれば蝶となり、慕えば花となり、解けば美しき霞となり、結べば恐しき蛇となる。

 いかに、この時。

 隔ての襖が、より多く開いた。見る見る朱(あか)き蛇(くちなわ)は、その燃ゆる色に黄金の鱗(うろこ)の絞を立てて、菫の花を掻潜(かいくぐ)った尾に、主税の手首を巻きながら、頭(かしら)に婦人の乳(ち)の下を紅(くれない)見せて噛(か)んでいた。

 颯(さっ)と花環が消えると、横に枕した夫人の黒髪、後向きに、掻巻の襟を出た肩の辺(あたり)が露(あらわ)に見えた。残燈(ありあけ)はその枕許にも差置いてあったが、どちらの明(あかり)でも、繋いだものの中は断たれず。……

 ぶるぶる震うと、夫人はふいと衾(ふすま)を出て、胸を圧(おさ)えて、熟(じっ)と見据えた目に、閨の内を眗(みまわ)して、矒(ぼう)としたようで、未だ覚めやらぬ夢に、菫咲く春の野を徜徉(さまよ)うごとく、裳(もすそ)も畳に漾(ただよ)ったが、ややあって、はじめてその怪い扱帯(しごき)の我を纏(まと)えるに心着いたか、あ、と忍び音に、魘(うな)された、目の美しい蝶の顔は、俯向けに菫の中へ落ちた。》

 ここまではロマンスだが、つつましい長女道子が登場する「道子」を経て「私語(さざめごと)」になるとメロドラマの醜い部分、河野家をめぐる二人の考え方の根本的な相違がぶつかり、菅子が身をまかせた理由を主税が執拗に問うことになる。ここにきて主税がそのような質問、疑念が発すること自体に、鏡花が菅子を急に悪者に仕立てたか、これまでにまったく伏線を示すのを怠っていたか、どちらにせよ、早急な物語の解決策に走った感は否めない。

 菅子ははっきりと答えられず、しかし、菅子がたとえ主税の指摘のような気持ちを意識的にせよ(そのようには読めないが)、無意識にせよ(育ちからして河野家の存続・発展が頭脳の第一にあったというのは納得しうる)持っていたにしても、邪悪とまでは言いがたく、自ら犯罪に手を染めたわけでもない。

 菅子と主税の言い合いは引用しだすときりがないので、菅子の言葉の核心、とくに私の「身体」に言及した会話を取り出す。「お蔦―主税―菅子」という「女―男―女」の三角関係は、お蔦が芸者の出で、しかも離れていりことから「主税―菅子―島山理学士」の「男―女―男」の三角関係となり、これでますます自ら動いた中心の女は共感を誘いにくくなる。

《「そのかわりまた、(あの安東村の紺屋の隣家(となり)の乞食小屋で結婚式を挙げろ)ッて言うんでしょう。貴下はなぜそう依怙地(いこじ)に、さもしいお米の価(ね)を気にするようなことを言うんだろう。

 ほんとうに串戯(じょうだん)ではないわ! 一家の浮沈と云ったような場合ですからね。私もどんなに苦労だか知れないんだもの。御覧なさい、痩(や)せたでしょう。この頃じゃ、こちらに、どんな事でもあるように、島山(理学士)を見ると、もうね、身体(からだ)が萎(すく)むような事があるわ。土間へ駈下りて靴の紐を解いたり結んだりしてやってるじゃありませんか。

 跪(ひざまず)いて、夫の足に接吻(キッス)をする位なものよ。誰がさせるの、早瀬さん。――貴下の意地ひとつじゃありませんか。

 ちっとは察して、肯いてくれたって、満更罰は当るまいと、私思うんですがね。」》

《「どっちが水臭いんだか分りはしない。私はまさか、夜(よる)内を出るわけには行(ゆ)かず、お稽古に来たって、大勢入込(いれご)みなんだもの。ゆっくりお話をする間も無いじゃありませんか。

 過日(いつか)何と言いました。あの合歓の花が記念だから、夜中にあすこへ忍んで行く――虫の音や、蛙(かわず)の声を聞きながら用水越に立っていて、貴女があの黒塀の中から、こう、扱帯(しごき)か何ぞで、姿を見せて下すったら、どんなだろう。花がちらちらするか、闇(やみ)か、蛍か、月か、明星か。世の中がどんな時に、そんな夢が見られましょう――なんて串戯(じょうだん)云うから、洗濯をするに可いの、瓜が冷せて面白いのッて、島山にそう云って、とうとうあすこの、板塀を切抜いて水門を拵(こしら)えさせたんだわ。》

《「あんな恐い顔をして、(と莞爾(にっこり)して。)ほんとうはね、私……自ら欺(あざ)むいているんだわ。家のために、自分の名誉を犠牲(ぎせい)にして、貴下から妙子さんを、兄さんの嫁に貰おう、とそう思ってこちらへ往来(ゆきき)をしているの。

 でなくって、どうして島山の顔や、母様の顔が見ていられます。第一、乳母(ばあや)にだって面(おもて)を見られるようよ。それにね、なぜか、誰よりも目の見えない娘が一番恐いわ。母さん、と云って、あの、見えない目で見られると、悚然(ぞっと)してよ。私は元気でいるけれど、何だか、そのために生身を削られるようで瘠(や)せるのよ。可哀相だ、と思ったら、貴下、妙子さんを下さいな。それが何より私の安心になるんです。……それにね、他(ほか)の人は、でもないけれど、母様がね、それはね、実に注意深いんですから、何だか、そうねえ、春の歌留多(かるた)会時分から、有りもしない事でもありそうに疑(うたぐ)っているようなの。もしかしたら、貴下私の身体(からだ)はどうなると思って? ですから妙子さんさえ下されば、有形にも無形にも立派な言訳になるんだわ。ひょっとすると、母様の方でも、妙子さんの為にするのだ、と思っているのかも知れなくってよ。顔さえ見りゃ、(私がどうかして早瀬さんに承知させます。)と、母様が口を利かない先にそう言って置くから。よう、後生だから早瀬さん。」》

《「貴下はまるッきり私たちと考えが反対(あべこべ)だわ。何だか河野の家を滅ぼそうというような様子だもの、家に仇(あだ)する敵(かたき)だわ。どうして、そんな人を、私厭でないんだか、自分で自分の気が知れなくッてよ。ああ、そして、もう、私、慈善市(バザア)へ行かなくッては。もう何でも可いわ! 何でも可いわ。」》

 この最後の「もう、私、慈善市(バザア)へ行かなくッては。もう何でも可いわ!」を菅子のいい加減さ、逃亡と捉えるのは、菅子悪女説に囚われ、主税贔屓なのではないか。むしろ、「どうして、そんな人を、私厭でないんだか、自分で自分の気が知れなくッてよ」に、恋する女のやるせなさ、人間としての苦悩をみるべきではないのか。自分でもよく分らない恋心を無視する主税こそが、女の心しらず、義のためにお蔦を捨て、病床のお蔦のもとへ駈けつけもしない(小説ではそうだ)身勝手でさもしい男に違いない。

 そうして最終の「隼」では、河野一族の悪事の暴き(といっても刑事事件になりそうなのは母豊子による主税への毒殺未遂ぐらいで、民事すら起こしておらず、ただただ道義的、階級的な悲憤、八つ当たりばかりである)、復讐劇、日蝕に狂気をかきたてられたかのような弾劾によって、久能山で、河野一族の英臣、豊子はピストルで自栽し、菅子と道子は、《抱合って、目を見交わして、姉妹(きょうだい)の美人(たおやめ)は、身を倒(さかさま)に崖に投じた。あわれ、蔦に蔓(かずら)に留(とど)まった、道子と菅子が色ある残懐(なごり)は、滅びたる世の海の底に、珊瑚(さんご)の砕けしに異ならず。》

 主税もまたお蔦の黒髪を抱きながら毒を仰ぐのだが、『嵐が丘』のヒースクリフのごとき暗い情念や魂の叫びがあるわけでもなく、近代日本にありがちな独りよがりの正義感は、ある種のストーカー行為、偏執狂でなくてなんであろうか。

哀れ、菅子よ、と小説の最後に歎かずにいられない。だが、菅子への仕打ちは、このあと作者鏡花の手を離れて演劇化されるにあたって、まずは型にはまった悪役へ、そして徐々に脇役へ、端役へと凋落してしまったことの方がより悲惨だった。その様子を次に見てみよう。

 

新富座初演の菅子>

 明治四十一年新富座初演の脚色家は柳川春葉(しゅんよう)。鏡花と同じ尾崎紅葉門下の弟弟子にあたる。芝居番付に「幕」と「登場人物」配役がある。

 

(明治四十一年十一月新富座

・序満来「早瀬主税の住宅」

・二幕目「神楽坂毘沙門縁日」

・仝返し「柳橋芸者小芳宅」「仝座敷」「仝門口」

・三幕目「湯島天神境内」

・四幕目「酒井俊蔵宅庭前」「仝主人居間」「仝庭前」

・五幕目「八丁堀め組惣助の宅」

・六幕目「河野病院」「久能山上」「早瀬私塾」

・大津目「め組惣助の宅」

 お蔦:喜多村緑郎、菅子:坂東秀調、妙子:木村操

 

 その「婦系図概要」の「発端」には、登場人物の紹介・物語の背景と劇の狙いが書いてある(漢字はすべてフリガナつきだが、引用にあたって特に必要なもの以外は省略)。

《然るに河野英吉の姉に菅子といふのがあつて、弟の切なる希望に煩悶するを見兼ね、自分の貞操を犠牲にして早瀬を薬籠中のものとせんとする、早瀬も亦河野家の門閥癖を打破して苦痛を與へんと互に暗闘する。そして全編波瀾萬丈、悲喜交々到りて見る人の腸(はらわた)を剜(えぐ)るのが此の劇の要領である。》

 菅子の役どころもふくめ、三つのことを言える。

 第一に、はやくも菅子は「自分の貞操を犠牲にして早瀬を薬籠中のものとせんとする」という悪女のステレオタイプにさせられている。妹なのに、「英吉の姉」としているのは、姉道子を登場人物にせず、馬丁貞造と母豊子との不義の結晶役として演じさせるがためだった。

 第二に、「早瀬も亦河野家の門閥癖を打破して苦痛を與へんと互に暗闘する」という復讐劇であって、原作「後編」を重んじている。師酒井が早瀬を罵倒し折檻して遂に手を切らせ、原作にはない「湯島天神境内」を三幕目に設けて、《早瀬と蔦吉は血を吐くやうな辛い悲しい思ひをして別れて仕舞つた》という悲恋ドラマだけではない、総合劇だった。

 第三に、「全編波瀾萬丈、悲喜交々到りて見る人の腸(はらわた)を剜(えぐ)る」という物騒で威勢のいいピカレスク・ロマンだと宣言した。

 つぎに、各幕の解説を読み進めると、およそ二つのことがわかる。

 第一に、「第六段(その一)河野病院病室(これは毒薬)」は、原作の「貸小袖」「うつらうつら」(先に引用した菅子邸での菅子との交情)と「廊下づたい」(病に冒された主税を看病する道子との病室での交情)を菅子のもとに合成・合体した脚色となっている。

《静岡に独逸語の私塾を開いた早瀬主税は病に冒されて河野病院の病室に呻吟して居る、眼醒めて四邉(あたり)を見廻はすと、島山理学士夫人菅子は自分の良人(おつと)を介抱せん斗(ばか)りに看病をして居た、早瀬は其の病院に来て居る事を菅子より聞き人事不肖に陥つたのを菅子の盡力で此處に来た事を説いた、頓(やが)て茲(ここ)へ菅子の良人島山理学士が来て菅子を見て先づ嫉妬の情に駆られて烈火の如く怒つて不義の関係を罵つた。》

「介抱せん斗りに看病をして居た」という程度だから、「不義の関係」というわりには穏当で、これが検閲対象となって「蔦子物語」に集中していったという説は、一因ではあったかもしれないが主因とは同意しがたい。

 第二に、「第六段(その三)早瀬主税の私塾(親子の邂逅)」には、《頓て島山夫人菅子来りて弟の為めに自分の貞操を犠牲にして早瀬に従ひたる事を具(つぶ)さに語りて妙子を嫁に貰ひ呉と依頼する、主税は先づ菅子に向つて真の父ある事を話して不義の結晶なりし事をいふ、菅子は事の意外に驚く、特に萬太は病中の貞造を負ひ来りて菅子に合はしむ、茲に親子の対面となつて悲喜交々両人の肺腑を貫く》とあるとおり、理由(わけ)あって日陰の身に別れた親子の邂逅という『婦系図』のメインテーマ(旧派の歌舞伎の基本形で、「誰それ、実は誰々」と「親子の別れ/邂逅」という泣かせどころを、新派においても「小芳(実母)―妙子(娘)」、「貞造(実父)―道子(菅子)(娘)」をセットにして強調)が、不道徳な河野家にもあったので、都合よく菅子に割りあてた、ということ。

新富座所感』に戻って、菅子について鏡花がどういう思いを持ったかを見てゆこう。「所感」といいつつも、かなり細かい感想、注文を残しているのは、思い入れが強かったからに違いあるまい。

 原作『婦系図』を劇化するさいの基本問題として横たわっていたのは、「お蔦物語」と「菅子物語」のパラレルな進行と展開、両者のバランス、六幕ていどにするための幕・場面の選択、登場人物の絞り込みと出し入れだったろう。もちろん劇の見せどころ、要点をどこに置くかからそれらは来る。

 初演にあたって、師紅葉門下の弟弟子にあたる柳川春葉(引用中「おじさん」と表記)が、いかに苦労したのか鏡花には痛いほどわかったうえで、「が、慾を云ってあとねだりをすれば」と言いのけた怖い所感ではあった。

《(前略)原作の我がままものを今度の脚色には、彼方此方(あちこち)お手心(てごころ)の骨折(ほねおり)が見えて居る。が慾(よく)を云ってあとねだりをすれば、四幕目の酒井俊蔵(さかいしゅんぞう)の書斎が引返(ひっかえ)しに成って、お妙(たえ)の部屋に成る。ここへ学校ともだちの紹介で、嶋山夫人菅子(すがこ)が透(とおる)と云う小児(こども)をつれて遇(あ)いに来る。意(こころ)はそれとなく兄英吉が嫁に望むお妙の容子(ようす)を下見と云う筋。開場前にも打合せがあって、此処(ここ)に一寸(ちょっと)菅子と云う人物を出して置かないと、静岡へ行ってからの早瀬との連絡がつかぬというので、おじさんも名趣向でないのは分ってるが、舞台の都合と、時間の経済のため、仕方がない間に合わせに菅子の顔だけ見せて置くつもりとの事。話で聞いた時は何でもなかった。扨(さ)て舞台へ顕(あらわ)れたのを、見物人になって見ると、何(ど)うも甚(はなは)だ調和が悪い。》

 以下、その改善提案だ(異常なほど潔癖症で生ものを口にしなかった鏡花は「腐」の字を嫌って「豆府」とここでも書いている)。

《これで時間の遣繰(やりく)りをつけて新橋の停車場(ステエション)が欲しい。(中略)め組が、何構わねえ、で、これから飯田町のお蔦(つた)との所帯を畳んだいきさつ、出入りの八百屋(やおや)豆府屋(とうふや)までが、車座で呻って掏摸(すり)ばんだいを一(ひと)わたり饒舌(しゃべ)り立てる処へ、菅子とその母親の富子を出して、ここで早瀬と菅子を逢わせる、英吉等(ら)二人も出る。何か話のキッカケに煙草(たばこ)を買いか何かに一寸(ちょっと)早瀬が立違(たちちが)ったあとを、ヒソヒソ話しで英吉が、菅子にその手腕を以(もっ)て早瀬を籠絡(ろうらく)するよう頼む、母親も内々(ないない)承知で頷(うなず)く。菅子がずっとハイカラに心得込んで、私の外交を御覧なさいか何か云う。》

「新橋の停車場(ステエション)が欲しい」は、実際に明治四十四年上演で具体化されて今日に至っている。

「英吉が、菅子にその手腕を以て早瀬を籠絡するよう頼む、母親も内々承知で頷く。菅子がずっとハイカラに心得込んで、私の外交を御覧なさいか何か云う」には、原作小説ではそこまで策略に満ちた女に描いていないにもかかわらず、そのような性向にしたほうがメリハリがつく、主税との対決の構図がわかりやすくなる、と劇を見て引っぱられたのか、はじめからそう考えていたのか、あるいは両方に揺らぐ深層心理だったのか、核心ではあるが鏡花本人のみ知るところだろう。

 ついで、六幕目の菅子の中途半端さ、折衷への不満である。鏡花の本心では、もっと菅子を艶に働かせたかったのだ。

《其処で次の場へ、静岡の菅子の邸(やしき)を一場出す。この場を出すかわりに、後の早瀬私塾と云う処を省略しても可(よ)かろうと思う。で、此処は派手な、媚(なま)めかしい、且(か)つ艶(えん)な、女俳優(おんなやくしゃ)に見紛(みまご)うと云う、尤(もっと)も夫、嶋山理学士は旅行中の留守なる、菅女(すがじょ)部屋(べや)の誂(あつらえ)で、思う状(さま)菅子と早瀬に働かせる、無論恁(こ)うするには、菅子に扮するのが喜多村(きたむら)でなければならぬ。(中略)

 処で、菅子は母(おっか)さんの御免(おゆるし)の美的外交で、早瀬を服従させようとする。思う壺と、早瀬はその術に乗りながら、自分の思(おもい)を果そうとする。

 衣桁(いこう)にかけた扱帯(しごき)ぐらいはしめさせる言などあり、邪魔に成らぬだけに小児(こども)もつかい、乳母(うば)と女中を出す、麦酒(ビール)も出す。菅子が湯に入ったあとで、一つは乳母(ばあや)さんに、奥さんに言わんのだよ、と早瀬が女中に心附(こころづけ)をポンと出すあたりで幕として。

 それから病院へ筋を続ける。》

 これはつまり、道子との病院の「廊下づたい」と合成することなく、さきに少し引用した原作の「貸小袖」と同じような筋立て、ぞくぞくさせる

 エピソードをもって、菅子には艶にやって欲しいと願っていたのである。次の「うつらうつら」は肉慾に傾きすぎて肉感的であるから、その直前で「幕として」にしまうにしても。

 しかし、この提案だけは、残念ながら新派『婦系図』において実ることはなかった。

 

<菅子の凋落>

 明治四十四年十一月明治座公演の辻は次のとおりである。

 

(明治四十四年十一月明治座

・序幕「私立照陽塾運動会」「早瀬主税の住居」

・二幕目「小石川新坂下縁日」「柳橋柏家小芳宅座敷」「同家裏口薄暮

・三幕目「湯島天神社境内」

・四幕目「酒井俊造宅奥座敷」「新橋停車場待合室」「待合嬉し野座敷」

・五幕目「八丁堀魚屋惣助宅」

・六幕目「静岡早瀬主税私塾」「安東村馬丁貞造貧家」

・大詰「魚屋惣助内おつた臨終」

 おつた:喜多村緑郎、すが子:丸山久雄、妙子:酒井信一

 

 明治四十一年初演との差異として、もっとも目につくのは、六幕目から「河野病院」「久能山上」という「菅子物語」が消えていることだ。

 さらに、すぐ目につくのは、四幕目に鏡花提案の「新橋停車場待合室」が加わったことと、新たに妙子がレイプされそうになって危うく救出される「待合嬉し野座敷」が加わったが、これらは「お蔦物語」の強化に他ならない。

「早瀬私塾」が「静岡早瀬主税私塾」「安東村馬丁貞造貧家」になったが、これは二つに分割されただけとも言える。縁日が「神楽坂毘沙門縁日」から「小石川新坂下縁日」になり、序幕に「私立照陽塾運動会」を設定するといった遣り繰りの異同がある。

 重要なのは、「菅子物語」の凋落、追放が、大正三年の鏡花書き下ろし戯曲『湯島の境内』によるお蔦人気から来たのではなく、すでに明治四十四年の段階からはじまっていたことだ。

 初演を観劇した鏡花「所感」の、「菅子物語」への艶なる思い入れは、あっさりと無視され、《一体原作では、殆(ほとん)ど菅子が女主人公で、お蔦はさし添(ぞい)と云うのであるから、二人引受けるとなら格別、お蔦だけでは見せ場はなかろう、と思ったが、舞台にかけると案外で、まるでお蔦の芝居になつたり》は、ここに本当にその通りになってしまった。

 ついで、その鏡花書き下ろし戯曲『湯島の境内』を入れ込んだ大正三年九月明治座公演の辻はどうだったかと言えば、次のとおりだ。

 

(大正三年九月明治座

・序幕「早瀬主税住居」

・二幕目「本郷四丁目縁日」「柳橋柏家小芳宅」「同く柏家裏口」

・三幕目「湯島天神境内」

・四幕目「酒井俊蔵宅書斎」「品川停車場待合室」「嬉野亭奥座敷

・五幕目「八丁堀魚屋惣助宅」

・大詰「静岡早瀬主税私塾」「安東村馬丁貞造貧家」「惣助宅お蔦病床」

 おつた:河井武夫、菅子:石川新水、妙子:木村操

 

 六幕ものへと集約され、「新橋停車場待合室」が「品川停車場待合室」に、「小石川新坂下縁日」が「本郷四丁目縁日」に、といった地理的な御都合主義があったにしても、ここでも、菅子邸はおろか河野病院さえも存在しない。脇道に外れる「菅子物語」はなくなって、お蔦の芝居がはっきりと確立された。

 残るは「安東村馬丁貞造貧家」をめぐる河野家の血の不義の話だけであるが、それだけは「茲に親子の対面となつて悲喜交々両人の肺腑を貫く」泣かせどころとしてかろうじて残った。

「お蔦物語」が「菅子物語」を追放し、お蔦の悲恋をより純化させるために西施菅子、主税の復讐を外す構造は、脚色・演出が柳川春葉、小島孤舟、そして喜多村緑郎から久保田万太郎、大江良太郎、川口松太郎、大場正昭へと移っても変ることなく、ますます新派としてこれでもかと強めていったというのが正しいだろう。

 それは例えば、残った「安東村馬丁貞造貧家」さえも、昭和四十八年十月国立劇場婦系図』プログラムに川口松太郎が「脚色・演出のことば」で書いているように、《従来は静岡の貞蔵小屋という場面があったが、舞台も陰気で芝居が脇道へ外れてしまう危険があるので新しく書き直した。婦系図を通して見ると各幕にヤマがあって誠に面白く出来ているが、貞蔵小屋だけは従来も感心しなかった》(貞蔵=貞造)とあるような扱いを受けて、次のような幕割となる。

 

(昭和四十八年十月国立劇場

・序幕「飯田町の井戸端」「飯田町早瀬主税宅」

・二幕目「本郷の薬師縁日」「柳橋の柏家」「柏家の裏手」

・三幕目「湯島の境内」

・四幕目「本郷真砂町酒井邸」「新橋ステーション」「烏森の嬉し野」

・五幕目「八丁堀のめの惣」

・大詰「静岡の早瀬寓居」「めの惣の二階座敷」

 お蔦:水谷八重子、菅子:安倍洋子、妙子:波乃久里子

 

<お蔦の芝居へ>

 川口松太郎は「脚色・演出のことば」に次の言葉も残している。

《今度は新しく脚色するに当って改めて泉先生の原作を読んでみたが、あの原作をよくもこんな芝居に仕組んだものと脚色のうまさに驚いてしまった。そういっては怒られるかも知れないが、婦系図に関する限りは原作よりも芝居の方が面白く仕組まれている。》

 さすがに川口は、「仕組まれている」と旨い表現をする。この芝居は原作から、あれこれを出入りさせて「仕組んだ」ものに違いあるまい。

 同プログラムには、戸板康二のエッセイ「「婦系図」の記憶」もある。この文章が、「お蔦の芝居」のなんたるかを著わしてあますところがない。それは「菅子の芝居」ではなくなった由縁をも示している。

《(前略)愛人をそばにおいて、弟子に女と別れろと厳命する酒井先生は、暴君のように見えるという若者もいる。

 しかし、それだからこそ、お蔦の純情がきわ立って美しく見えるので、原作の描写よりも、ぼくなぞは、新派の古典の中に立体化されたお蔦に、日本の女のすぐれた特徴をしみじみと見るのである。

 芝居としても、酒井先生と主税の詰め開き、主税とお蔦の別れ話、小芳と妙子の晴れて名のれぬ母子の対面、お蔦の病死というように、たたみかけて観客を緊張させ、泣かせる場面が、じつによく用意されている。》

 さきに、お蔦については、あまりに着物、容色の描写が欠如しているので、その意味については別に考察したい、と書いたが、ようやくここで詳述できる。

 巻頭「鯛、比目魚」の出の《素顔に口紅で美(うつくし)いから、その色に紛(まが)うけれども、可愛い音(ね)は、唇が鳴るのではない》の後も、お蔦の出番はとても少ない。

婦系図』を通して、お蔦のはっきりとした出番は十ほどもないのではないか、それも鏡花の筆は短い筆致で絡みつくのみで、他の女たちの細部への、今となっては時代がかった華麗かつ饒舌な表現、文体との落差には驚くばかりだ。

 巻頭の引用文のあとも、魚屋のめの惣、女中お源とのいなせなやりとりによって、お蔦の性格描写がなされるだけだ。

《例によって飲(き)こしめした、朝から赤ら顔の、とろんとした目で、お蔦がそこに居るのを見て、

「おいでなさい、奥様(おくさん)、へへへへへ。」

「お止(よ)しってば、気障(きざ)じゃないか。お源もまた、」

 と指の尖(さき)で、鬢(びん)をちょいと掻(か)きながら、袖を女中の肩に当てて、

「お前もやっぱり言うんだもの、半纏着た奥様(おくさん)が、江戸に在るものかね。」》

《「何だって、日蔭ものにして置くだろう、こんな実のある、気前の可(い)い……」

「値切らない、」

「ほんによ、所帯持の可い姉さんを。分らない旦(だん)じゃねえか。」

「可いよ。私が承知しているんだから、」

 と眦(まなじり)の切れたのを伏目になって、お蔦は襟に頤(おとがい)をつけたが、慎ましく、しおらしく、且つ湿(しめ)やかに見えたので、め(・)組もおとなしく頷(うなず)いた。》 

 その後もお蔦は、主税宅に河野豊子、英吉、妙子といった客がつぎつぎ来訪すれども、なにしろ姿を見られないよう隠れてしまうのだから、描写のしようがないともいえる。現われたと思うと、この程度である。

《お蔦は湯から帰って来た。艶やかな濡髪に、梅花の匂馥郁(ふくいく)として、繻子(しゅす)の襟の烏羽玉(うばたま)にも、香やは隠るる路地の宵。格子戸を憚(はばか)って、台所の暗がりへ入ると、二階は常ならぬ声高で、お源の出迎える気勢(けはい)もない。》

「前篇」末尾は、新橋停車場でのお蔦の出現で終わるが、この描写がお蔦の描き方を端的に示している。

《主税は窓から立直る時、向うの隅に、婀娜(あだ)な櫛巻の後姿を見た。ドンと硝子戸(がらすど)をおろしたトタンに、斜めに振返ったのはお蔦である。

 はっと思うと、お蔦は知らぬ顔をして、またくるりと背(うしろ)を向いた。

 汽車出でぬ。》

「前篇」のお蔦はもうこれだけなのである。途中、二、三カ所、主税の意識の流れのような前衛的ともいえる文章の中で、妙子をめぐるお蔦の意見、態度が泛んでは消え、するものの、原作には「湯島の境内」の「たっぷり」は今も昔も存在しない。

「後編」になると、「貸小袖」で主税が菅子に懺悔するごとく語ったお蔦との恋物語があるけれども、本人が登場するわけではなく、語りの中でのお蔦にすぎない。

《義理から別離(わかれ)話になると、お蔦は、しかし二度芸者(つとめ)をする気は無いから、幸いめ(・)組の惣助(そうすけ)の女房は、島田が名人の女髪結。柳橋は廻り場で、自分も結って貰って懇意だし、め(・)組とはまたああいう中で、打明話が出来るから、いっそその弟子になって髪結で身を立てる。》

 その後のお蔦は、もう病いの床にあるから哀れで、後れ毛を掻上げるというお決まりの儚いポーズ。派手やかな描写にはなりえないし、泣かせるシーンの連続となる。以下、お蔦が小説の中で演じる、ほとんどすべてのはずだ。

《枕についた肩細く、半ば掻巻(かいまき)を藻脱けた姿の、空蝉(うつせみ)のあわれな胸を、痩(や)せた手でしっかりと、浴衣に襲(かさ)ねた寝衣(ねまき)の襟の、はだかったのを切なそうに掴(つか)みながら、銀杏返しの鬢(びん)の崩れを、引結(ひきゆわ)えた頭(かしら)重げに、透通るように色の白い、鼻筋の通った顔を、がっくりと肩につけて、吻(ほっ)と今呼吸(いき)をしたのはお蔦である。》

《お蔦は急に起上った身体(からだ)のあがきで、寝床に添った押入の暗い方へ顔の向いたを、こなたへ見返すさえ術(じゅつ)なそうであった。

 枕から透く、その細う捩(よ)れた背(せな)へ、小芳が、密(そっ)と手を入れて、上へ抱起すようにして、

「切なくはないかい、お蔦さん、起きられるかい、お前さん、無理をしては不可(いけな)いよ。」

「ああ、難有(ありがと)う、」

 とようよう起直って、顱巻(はちまき)を取ると、あわれなほど振りかかる後れ毛を掻上げながら、

「何だか、骨が抜けたようで可笑(おかし)いわ、気障(きざ)だねえ、ぐったりして。」

 と蓮葉(はすは)に云って、口惜(くや)しそうに力のない膝を緊(し)め合わせる。》

《その時お蔦も、いもと仮名書の包みを開けて、元気よく発奮(はず)んだ調子で、

「おお、半襟を……姉さん、江戸紫の。」

「主税さんが好な色よ。」

 と喜ばれたのを嬉しげに、はじめて膝を横にずらして、蒲団にお妙が袖をかけた。

「姉さん、」

 と、お蔦は俯向(うつむ)いた小芳を起して、膝突合わせて居直ったが、頬を薄蒼う染(そむ)るまでその半襟を咽喉(のど)に当てて、頤(おとがい)深く熟(じっ)と圧(おさ)えた、浴衣に映る紫栄えて、血を吐く胸の美しさよ。

「私が死んだら、姉さん、経帷子(きょうかたびら)も何にも要らない、お嬢さんに頂いた、この半襟を掛けさしておくれよ、頼んだよ。」

 と云う下から、桔梗(ききょう)を走る露に似て、玉か、はらはらと襟を走る。》

《お蔦は蓐(しとね)に居直って、押入の戸を右に開ける、と上も下も仏壇で、一ツは当家の。自分でお蔦が守をするのは同居だけに下に在る。それも何となくものあわれだけれども、後姿が褄(つま)の萎(な)えた、かよわい状(さま)は、物語にでもあるような。直ぐにその裳(もすそ)から、仏壇の中へ消えそうに腰が細く、撫肩がしおれて、影が薄い。》

《お妙が奈良漬にほうとなった、顔がほてると洗ったので、小芳が刷毛(はけ)を持って、颯(さっ)とお化粧(つくり)を直すと、お蔦がぐい、と櫛を拭(ふ)いて一歯入れる。》

《芸妓(げいこ)島田は名誉の婦(おんな)が、いかに、丹精をぬきんでたろう。

 上らぬ枕を取交えた、括蒲団(くくりぶとん)に一(いち)が沈んで、後毛(おくれげ)の乱れさえ、一入(ひとしお)の可傷(いたまし)さに、お蔦は薄化粧さえしているのである。

 お蔦は恥じてか、見て欲(ほし)かったか、肩を捻(ひね)って、髷(まげ)を真向きに、毛筋も透通るような頸(うなじ)を向けて、なだらかに掛けた小掻巻(こがいまき)の膝の辺(あたり)に、一波打つと、力を入れたらしく寝返りした。》

《トつかまろうとする手に力なく、二三度探りはずしたが、震えながらしっかりと、酒井先生の襟を掴(つか)んで、

「咽喉(のど)が苦しい、ああ、呼吸(いき)が出来ない。素人らしいが、(と莞爾(にっこり)して、)口移しに薬を飲まして……」

 酒井は猶予(ため)らわず、水薬を口に含んだのである。

 がっくりと咽喉を通ると、気が遠くなりそうに、仰向けに恍惚(うっとり)したが、

「早瀬さん。」

「お蔦。」

「早瀬さん……」

「むむ、」

「先(せ)、先生が逢っても可いって、嬉しいねえ!」

 酒井は、はらはらと落涙した。》

これっきり、隠れていること、控えめなことで、かえって読者の想像力は自分の心の色に膨らむ。

 小説の華麗な文体の欠如、空白は、逆に言えば、すでに演劇のすっきりとした文体となっていることを意味する。つねに登場人物たちとの関係の中で、地の長々とした説明文ではなく、会話と、ト書のようなそこはかとした動作表現だけからなる文体で、お蔦にだけは戯曲台本を書きあげていた。

 原作小説にはなくとも初演からこしらえられた「湯島天神境内」の場を、鏡花の腕前で『湯島の境内』戯曲、一齣(こま)として書き加える(書き換える)ことは、自身にとって願ってもないことだったに違いない。でなければ、どうしてあれほどの名場面が書かれよう。

 この場に、余所事(よそごと)浄瑠璃として、これも喜多村緑郎の提案のようだが、黙阿弥歌舞伎『天衣紛上野初花(くもにまごううえののはつはな)』六幕目の、直次郎と遊女三千歳(みちとせ)の忍び逢いで唄われる清元の「忍逢春雪解(しのびあうはるのゆきどけ)」(「三千歳(みちとせ)」)が巧みに使われる。

 幕あきの、

「〽 冴え返る春の寒さに降る雨も、暮れていつしか雪となり、」から、中程の、

「〽 一日逢わねば千日の、思いにわたしゃ煩うて、針や薬のしるしさえ、泣きの涙に紙濡らし、枕を結ぶ夢さめて、いとど思いのますかがみ」を経て、幕切れの、

「〽 実(げ)に寒山のかなしみも、かくやとばかりふる雪に、積る・・・・

〽 思いぞ残しける」まで、

 名台詞「月は晴れても心は暗闇(やみ)だ」、

「切れるの別れるのって、そんな事は、芸者の時に云うものよ。・・・・私にゃ死ねと云って下さい。蔦には枯れろとおっしゃいましな」、

「静岡って箱根のもっと先ですか」とともに、お蔦、主税につかずはなれず纏綿と情緒を掻きたてる。

 その名調子はますますもって『婦系図』をお蔦の芝居にしてゆき、哀れ菅子は忘れられてゆくのだった。

                                   (了)

  *****参考または引用***** 

泉鏡花集成」(ちくま文庫筑摩書房