演劇批評 「おかるの恋と顔世(かおよ)の文(ふみ)(習作)」

  「おかるの恋と顔世(かおよ)の文(ふみ)(習作)」

 

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 ご存知『仮名手本忠臣蔵』、おかるは二度、顔世(かおよ)の文(ふみ)で恋を焚きつけられた。

 一度目は、「三段目 腰元おかる文使いの段」、武蔵守高(こうの)師直(もろなお)あての顔世御前の文を早野勘平(かんぺい)に届ける場面で、勘平への恋と、それが引きおこす「忠臣蔵」事件の悲劇として。

 二度目は、「七段目 祇園一力茶屋の段」、大星由良之助への顔世の密書を遊女となったおかるが覗き見る場面で、由良之助との「真(まこと)から出た皆嘘」の恋と、勘平になり代わっての敵討という、おかるにとってなんら価値のない哀しい茶番(ファルス)として。

 あたかも、マルクス『ルイ・ボナパルトブリュメール十八日』冒頭のかの有名な言葉、《ヘーゲルはどこかでのべている、すべての世界史的な大事件や大人物はいわば二度あらわれるものだ、と。一度目は悲劇として、二度目は茶番(ファルス)として、と、彼はつけくわえるのをわすれたのだ》のように。

 マルクスは続けている。《人間は自分自身の歴史をつくる。だが、思う儘にではない。自分でえらんだ環境のもとではなくて、すぐ目の前にある、あたえられた、持越されてきた環境のもとでつくるのである》、と。

 江戸元禄の『仮名手本忠臣蔵』の登場人物たちも、大星由良之助にしろ、おかる、勘平にしろ、「自分でえらんだ環境のもとではなくて、すぐ目の前にある、あたえられた、持越されてきた環境のもとで」ドラマティック・アイロニーを演じた。

 とにもかくにも、おかるは二度、顔世の文で恋を焚きつけられた。そのドラマを順に見てゆく。

(以下、丸本にほぼ忠実な文楽の床本と、歌舞伎の台本とで、各段の名前や、内容に異同があるのはよく知られたところだが、原作重視の姿勢から、文楽床本(国立劇場上演床本)を用いる。歌舞伎独自の「道行旅路の花聟」は『歌舞伎オン・ステージ 仮名手本忠臣蔵』からの引用とする)

 

<袂から袂へ入るる結び文>

「大序(だいじょ) 恋歌(こいか)の段」から。古川柳の「其(その)はじめいろから起る仮名手本」という事(こと)の発端である。

 

《あとに顔世はつぎほなく「師直さまは今しばし、御苦労ながらお役目をお仕舞あつて、お静かに。お暇の出たこの顔世、長居はおそれ、さらば」と立上る袖、すり寄つてじつと控へ「コレマアお待ち待ち給へ。けふの御用仕舞次第そこもとへ推参してお目にかけるものがある。幸ひのよいところ召し出された。直義公はわがための結ぶの神。ご存じの如く我れら歌道に心を寄せ、吉田の兼好を師範と頼み日々の状通。そのもとへ届けくれよと問合せのこの書状、いかにもとのお返事は、口上でも苦しうない」と袂から袂へ入るる結び文。顔に似合はぬ『様参る武蔵鐙(あぶみ)』と書いたるを、見るよりはつと思へども『はしたなう恥ぢしめてはかへつて夫の名の出ること。持ち帰って夫に見せうか。いや/\それでは塩谷殿、憎しと思ふ心から怪我過ちにもならうか』と、ものを言はず投げ返す。人に、見せじと手に取上げ「戻すさへ手に触れたりと思ふにぞ、わが文ながら捨ても置かれず。くどうは言はぬ。よい返事聞くまでは口説いて/\、口説きぬく。天下を立てうと伏せうともままな師直。塩谷を生けうと殺さうとも、顔世の心たつた一つ。なんとさうではあるまいか」と、聞くに顔世が返答も、涙ぐみたるばかりなり。》

 

 文芸から文芸を、という本歌取り、薀蓄が、二度、三度と波のように押しよせる。この態度は「三段目 殿中刀傷(でんちゅうとうしょう)の段」の、顔世から師直への返しの歌でも使われる。

「吉田の兼好を師範と頼み日々の状通」とは、「赤穂事件」の時代設定を、足利尊氏、直義(ただよし)のそれに移し変えたことから『太平記』の「世界」となるわけで、『太平記』巻二十一に、高師直塩冶高貞の妻に送る艶書を、『徒然草』で知られる吉田兼好に代筆させた話を持ち込んだもの。

「『様参る武蔵鐙(あぶみ)』」の「様参る」とは恋文の末尾の決り文句で、高師直が武蔵守であることから、『伊勢物語』十三段の、武蔵の国の男が京の女のもとに、「聞ゆればはづかし、聞えねば苦し(お便りすれば恥ずかしいし、お便りせずにいるのは苦しいし)と書いて、上書(うわが)きに「武蔵鐙(あぶみ)」と書いた話からきている。

「戻すさへ手に触れたりと思ふにぞ、わが文ながら捨てもかれず」とは、『太平記』巻二十一に、兼好の文では読んでもらえなかったので、薬師寺次郎左衛門公義(きんよし)が、師直に代わって、「返すさへ手やふれけんと思(おも)ふにぞわが文(ふみ)ながらうちも置(お)かれず」の一首だけを書いて仲介の者にもたせたことをふまえている。

 六代目中村歌右衛門が、「顔世が悪かったらあなた、忠臣蔵(事件)は起きないんだからね(笑)」と語ったように(関容子『芸づくし忠臣蔵』)、塩谷(えんや)判官(はんがん)御台所(みだいどころ)顔世御前役の芸談からはじめる。なぜ芸談か、と問われれば、芸を極めたその当代の役者が、代々語り継がれた芸の「過去の亡霊どもをよびいだし、この亡霊どもから名前と戦闘標語(スローガン)と衣裳をかり」て演じることで摑んだ役の性根が、端的な言葉として顕したからだ。

 七代目沢村宗十郎芸談はこんなぐあいだった。

《大序の顔世御前を勤めます役者が、昔は素足で出ましたのは、女形の色気を見せるためでございましたろう。それを義太夫の文句に、〽馬場の白砂素足にて」と語りますところから、足袋を履いて出るのを反則のようにも申されますが、本文の文章は、履き物を履かないという意味であると承っております。顔世御前の役は、品格と色気とが大切でございます。(中略)しかし、顔世の演所(しどころ)としましては、師直に文を付けられたのを見まして、〽見るよりはっと思えども、はしたのう恥じしめては、かえって夫の名の出る事、持ち帰って夫に見しょうか、いや/\それでは塩谷(塩冶)殿、憎しと思う心から、怪我過(あやま)ちにもなろうかと」の所が、本来大事な所でございますから、昔は相当露骨なしぐさもいたしたのでしょうが、そこだけ際立ってしまいますので、内端にいたす事を心がけております。[昭和二十二年十一月東京劇場所演](「役者」昭和22.11)》

 この昭和二十二年十一月の公演は、GHQによる昭和二十年九月の「封建主義に基礎を置く忠誠、仇討を扱った歌舞伎劇は現代世界とは相容れない」という上演自粛勧告後の、初の『仮名手本忠臣蔵』解禁公演に他ならない。沢村宗十郎を贔屓とし、この公演も『芝居日記』に観劇記録を残した三島由紀夫が始めて見た歌舞伎は、やはり『仮名手本忠臣蔵』だった。歌舞伎好きの祖母は、しょっちゅう、母を連れて歌舞伎へまいり、家でもよく話題になることから、ずっと歌舞伎に憧れをいだいていた三島が、教育的配慮から遠ざけられていた歌舞伎座をようやく訪れることを許されたのは、十三歳のとき、昭和十三年十月だった。十五代目市村羽左衛門、六代目尾上菊五郎、七代目沢村宗十郎、七代目坂東三津五郎、十二代目片岡仁左衛門らによる『仮名手本忠臣蔵』を見た三島はすっかりとりこになってしまう。このときの感想には、三島がこだわり、しかしそれが失われてゆくことで離れてしまう歌舞伎の本質を、顔世を通して早熟な三島が生理的に直感した瞬間だったと言えよう。

《私は当時中学一年生ですから、弁当を食べたり、その他にもいろいろ食べるものもあるし、面白くてたまらない。さうすると、やがて芝居が始まり、花道から不思議な人が出て来た。これが顔世御前です。(中略)その素足の顔世御前が花道のすぐ目の前を通りました。それはもう皺(しわ)くちやでした。これがこの「忠臣蔵」といふ大事件を起こす発端になる美人だなんて、想像もつかない。で、いきなり声を出すので、私はびつくりしてしまつた。よく男でこんな声が出るもんだと、ただただ呆気(あっけ)にとられて見てをりますうちに、私は歌舞伎といふものには、なんともいへず不思議な味がある、何かこのくさや(・・・)の干物(ひもの)みたいな非常に臭いんだけれども、美味(おい)しい妙な味があるといふことを子供心に感じられたと思ふんです。》

 ついで、六代目尾上梅幸芸談だが、これは今でも主論であろう。

《この役は品格と色気で、品が七部に色気が三部というところでしょう。色気があるので、師直とのあんな事件が出来上がるのですから、ただ押し出しだけではいけません。別に演所(しどころ)もありませんが油断も出来ません。(『梅の下風』昭和五年刊)》

「色気が三部」を多いとみるか少ないとみるかよりも大事なのは、その色気の質にある。「別に演所(しどころ)もありませんが油断も出来ません」という役の難しさは、観客がなんとなく感じる、横恋慕の被害者顔世の、無意識の政治的加害者性ともいえる。

 

<こまづけ頼んで見ん/わたしはお前に逢ひたい望み/重きが上のさよ衣>

 まず「三段目 下馬先進物の段」、歌舞伎では「足利館門前進物の場」と呼ぶが、だいたいは省かれる。師直が、おかるを「恋の小間使い」として目をつけていることがわかる。それは、西洋演劇にもたびたび登場するキャラクターといえるが、おかる自身が、はじめから終わりまで、自分の「恋の小間使い」であるところが、『仮名手本忠臣蔵』の討入りと絡みあう、もう一本のストーリーである。

 

《西の御門の見附の方『ハイ/\/\』といかめしく提燈照らし入り来るは、武蔵守高師直。権威をあらはす鼻高々、花色模様の大紋に、胸に我慢の立烏帽子。家来どもを役所/\に残し置き、しもべ僅かに先を払はせ、主の威光の召しおろし、鶴の真似する鷺坂伴内、肩ひぢいからし「もしお旦那。今日の御前表も上首尾/\。塩谷で候の、イヤ桃井での候のと、日頃はどつぱさつぱとどめしけど、行儀作法は狗(えのころ)を、屋根へあげたやうで、さりとは/\腹の皮。イヤそれにつき兼々塩谷が妻顔世御前、未だ殿へ御返事いたさぬ由。お気にはさへられな、/\。器量はよけれど気が叶はぬ。なんの塩谷づれと、当時出頭の師直様と」「ヤイ/\声高に口きくな。主ある顔世、たびたび歌の師範に事寄せ、口説けども今に叶へぬ。すなわちかれが召使、かるといふ腰元新参と聞く。きやつをこまづけ頼んで見ん。さてまだ取得がある。顔世が誠にいやならば、夫塩谷に仔細をぐわらりと打明ける、所を言はぬは楽しみ」と、四つ足門の片蔭に主従うなづき話あふ。》

 

 おかる役の芸談としては、五代目中村歌右衛門の、人口によく親炙した話がある。

《おかるは、三段目、六段目、七段目とも勤めましたが、これを一日にうまく勤め分けることが出来れば一人前と言われるのです。

 三段目は腰元、六段目は世話女房、七段目は遊女なんですから、六段目が出来ても七段目に不向きの人もあるという風で、相当に技倆がなければ出来ない役です。(「演芸画報」昭和13.11)》

 おかるが三種類の女に移り変わり、いわば一人でありつつ三人の女を生きてみせていることなのだけれども、はじめて観るものはいざしらず、二度、三度と観るものは、このさきのおかるを記憶の中で知っているわけで、三段目のおかるを見るとき、六段目のおかる、七段目のおかるの多重映像を心の目で見ている。

一人で三つの役柄ということでは、六代目尾上梅幸の口伝もあって、

 《父(五代目菊五郎)の話に、すべて移りかわりのある役はこのような用意がなければならない。

一、       六段目のおかるは腰元の意(こころ)でやる事。

一、       七段目のおかるは世話女房の意でやる事。

で芸者が急にお内儀さんになっても、チョイ/\元の芸者の地が顕れるというつまりです。(「梅の下風」)》

 見るものの記憶、時間の経過、イメージの残像。これもまた『失われた時を求めて』で、長い物語の最後の方になって話者の目の前に現れるオデット(男遍歴を重ねた元高級娼婦(ココット)だったがスワンの妻となり、スワンの死後はフォルシュヴィル伯爵と再婚して、フォルシュヴィル伯爵夫人となる)やジルベルト(スワンとオデットの娘で、話者の初恋の相手だったが、話者の親しい友人でゲルマント侯爵の甥のサン=ルー侯爵と結婚する)に、過去の彼女らの姿を見出してしまうのに似ている。

 それでも、おかるは、どんなに変わろうとも、「恋する女」という芯だけは変わらない軽薄さに唖然とさせられもする。

 ついで、「三段目 腰元おかる文使いの段」も、省略されることが多いが、このおかるの文使いによって殿中刀傷が起ったともいえるうえ、「おかる」の名のとおり、「軽」はずみな恋する女、恋の小間使いの役割がはっきりとでているので割愛すべきではない。

《奥の御殿は御馳走の、地謡の声播磨潟 √高砂の浦に着きにけり/\」謡ふ声々門外へ、風が持て来る柳蔭。その柳より風俗は、負けぬ所定の十八九、松の緑の細眉も、堅い屋敷に物馴れし、奇特帽子の後帯。供の奴が提灯は、塩谷が家の紋所。御門前に立休らひ「コレ奴殿。やがてもう夜も明ける。こなた衆は門内へは叶わはぬ。こゝから去んで休んでや」と、詞に従ひ「ナイ/\」と、供の下部は帰りける。内を覗いて「勘平殿はなにしてぞ。どうぞ逢ひたい用がある」と、見廻す折から、後影、ちらと見付け「おかるぢやないか」「勘平様逢ひたかつたに、ようこそ/\」「ムヽ合点のゆかぬ夜中といひ、供をも連れず只一人」「さいなア、こゝまで送りし供の奴は先へ帰した、私一人残りしは、奥様からのお使ひ。どうぞ勘平に逢うてこの文箱。判官様のお手に渡し、御慮外ながらこの返歌を御前のお手から直ぐに師直様へ、お渡しなされ下さりませと伝へよ。しかしお取込の中、間違ふまいものでなし。マア今宵はよしにせうとのお詞。わたしはお前に逢ひたい望み、なんのこの歌の一首や二首。お届けなさるゝほどの間のないことはあるまいと、つい一走りに走って来た、アヽしんどや」と吐息つく。「しからばこの文箱。旦那の手から師直様に渡せばよいぢやまで。どりや渡して来う待つてゐい」という中に門内より「勘平/\/\判官様が召しまする。勘平/\」」「ハイ/\/\只今それへ。エヽ忙しない」と袖振切つて行く後へ、どぜう踏む足付き鷺坂伴内(中略) 勘平後へ入替り「なんと今の働き見たか。伴内めが一杯喰うて失せをつた。俺が来て旦那が呼ばしやると言ふと、おけ古いとぬかすが面倒さに奴共に酒飲ませ、古いと言はさぬこの方便。まんまと首尾は仕おほせた」「サアその首尾ついでにな、ちよつと/\」と手を取れば「ハテ扨はづんだマア待ちやいの」「なに言はんすやら、なんの待つことがあろぞいなア。もうやがて夜が明けるわいな。是非に/\」是非なくも、下地は好きなり御意は善し「それでもこゝは人出入り」奥は謡の声高砂√松根に倚つて腰をすれば「アノ謡で思ひ付いた。イザ腰掛けで」と手を引合ひ、打ちつれてこそ》

 

「袖振切つて行く後へ」とあるように、勘平はここでおかるを振り切つて門内に入り、あとの「三段目 殿中刀傷の段」の「最前手前の家来が貴公へお渡し申しくれよ、すなはち奥顔世方より参りし」とあるように文箱を渡す。

 そして勘平は、また門外に戻って、伴内を撃退してから、《下地は好きなり御意は善し「それでもこゝは人出入り」奥は謡の声高砂√松根に倚つて腰をすれば「アノ謡で思ひ付いた。イザ腰掛けで」と手を引合ひ、打ちつれてこそ》連れて行く。「こゝまで送りし供の奴は先へ帰した」という、はじめからわけしりのおかると「色に耽ったばっかりに」、主判官の一大事に居合わせないこととなってしまった、という「おかる・勘平」ストーリーの生臭くもある三段目の「腰元おかる文使いの段」が省略され、のちの「裏門の段」もまた省かれて、幕末に創作された所作事の「道行旅路の花聟」に収斂して上演されている(上方では原作通りに上演されることが多い)のはまことに惜しい。

この文箱は、「三段目 殿中刃傷の段」で、顔世からおかる、勘平を経由して師直に届く。受けとって文を読む師直の心理状態の二転、三転もまた見どころで、《ほどもあらさず塩谷判官。御前へ通る長廊下。師直呼びかけ「遅し/\。なんと心得てござる。今日は正七ツ時と先刻から申し渡したでないか」「なるほど遅なりしは不調法。さりながら御前へ出るはまだ間もあらん」と袂より文箱取り出し「最前手前の家来が貴公へお渡し申しくれよ、すなはち奥顔世方より参りし」と渡せば、受取り「成程々々。イヤそこもとの御内方は扨々心がけがごさるわ。手前が和歌の道に心を寄するを聞き、添削を頼むとある。定めてそのことならん」と押しひらき「さなきだに重きが上のさよ衣、わがつまならぬつまな重ねそ/\。フンハアこれは新古今の歌。この古歌に添削とはムヽヽヽ」と思案の中『わが恋のかなはぬしるし。さては夫に打ち明けし』と思ふ怒りをさあらぬ顔「判官殿。この歌ご覧じたでござらう」「イヤたヾいま見ました」「ムヽ手前が読むのを、アヽ貴殿の奥方はきつい貞女でござる。ちよつと遣はさるゝ歌がこれぢや。つまならぬつまな重ねそ。アヽ貞女々々。そこもとはあやかり者。登城も遅なはる筈のこと。家にばかりへばりついてござるによつて、御前の方はお構ひないぢや」とあてこする雑言過言。》で、「喧嘩場」となる。

「さなきだに重きが上のさよ衣、わがつまならぬつまな重ねそ」とは、さきの『太平記』巻二十一で、「重きが上の小夜衣」とだけ奥方から返事があったのを踏まえていて、その意味するところは、『新古今集』巻二十「釈教歌」の、「不(ふ)邪(じゃ)婬(いん)戒(かい)」と詞書した寂然法師の和歌「さらぬだに重きがうへの小夜衣わがつまならぬつまな重ねそ」(ただでも夜の衣は重いのに、そのうえに自分のものでない褄(妻)を重ねるな)から来ているわけだが、こういった古層は、観客の知性がどうであったかに関わらず、無意識に深層まで届いていたことだろう。

 なお、『歌舞伎オン・ステージ 仮名手本忠臣蔵』の服部幸雄脚注によれば、《現行の歌舞伎では、顔世からの文箱を判官が自身で持参して登場する型ではなく、別にここへ茶坊主を出して、「ハッ、塩冶様へ申し上げまする。御家来早野勘平、御内室顔世さまのお便りとして、これなる文箱持参つかまつり、歌道御執心の師直公へご覧に入れたしとの事ゆえ、持参つかまつってござりまする」と言って判官に手渡す演出(六代目尾上菊五郎の型)が多く行われる》とあるが、上方の十三代目仁左衛門は、絶対に判官が持って出るのがいい、という芸談を残している。

 

<もうかうなつた因果ぢやと思うて/〽落人も見るかや野辺の若草の>

「三段目 裏門の段」から。『仮名手本忠臣蔵』の「忠臣」というライト・モティーフを茶化す、おかるの道理、「反忠臣」というわけではなくて、単純なだけにある種の真実性を持つ、恋する男への価値の移動。組織集団への男たちの愛(のようなもの)と、勘平個人へのひとりの女の愛恋とが、チャリ場のようなおかしみのなかで比較対象されることで、観客はあまり気づくことなく劇の奥行きの中に引きずりこまれてゆく。

 

《「なるほど裏門合点。表御門は家中の大勢早馬にて寄り付かれず、喧嘩の様子は何と/\」「喧嘩の次第相済んだ。出頭の師直様へ慮外致せし利によつて、塩谷判官は閉門仰付けられ、網乗物にてたつた今帰られし」と聞くより「ハア南無三宝、お屋敷へ」と走りかゝつて「イヤ/\/\閉門ならば舘へはなほ帰られじ」と行きつ戻りつ思案最中。腰元おかる道にてはぐれ「ヤア勘平殿、様子は残らず聞きました。こりや何とせうどうせう」と取付き嘆くを取つて突退け「エヽめろ/\とほえ面、コリヤ勘平が武士はすたつたわやい。もうこれまで」と刀の柄。「コレ待つて下され。こりやうろたへてか勘平殿」「オヽうろたへた。これがうろたへずにをられやうか。主人一生懸命の場にも在り合わさず、あまつさへ囚人同然の網乗物お屋敷は閉門、その家来は色に耽りお供にはづれしと人中へ、両脇差し出られうか。こゝを放せ」「マヽヽヽ待つて下さんせ。もつともじや道理ぢやが、その狼狽武士には誰がした。皆わしが心から死ぬる道ならお前より私が先へ死なねばならぬ。今お前が死んだらば誰が侍ぢやと褒めまする。こゝをとつくりと聞き分けて私が親里へひとまづ来て下さんせ。父様も母様も在所でこそあれ頼もしい人、もうかうなつた因果ぢやと思うて女房の言ふ事も聞いて下され勘平殿」とわつとばかりに泣き沈む。「さうぢやもつともそちは新参なれば、委細の事は得知るまい。お家の執権大星由良助殿、今だ本国より帰られず、帰国を待つてお詫びせん。サア一時なりとも急がん」(中略)「エヽ残念々々、さりながら彼奴をばらさば不忠の不忠。ひとまず夫婦が身を隠し、時節を待つて願うて見ん」もはや明六ツ東がしらむ横雲にねぐらを離れ飛ぶ烏かはい/\の女夫連れ、道は急げど後へ引く、主人の御身いかがと案じ行くこそ》

 

「マヽヽヽ待つて下さんせ。もつともじや道理ぢやが、その狼狽武士には誰がした。皆わしが心から死ぬる道ならお前より私が先へ死なねばならぬ。今お前が死んだらば誰が侍ぢやと褒めまする。こゝをとつくりと聞き分けて私が親里へひとまづ来て下さんせ。父様も母様も在所でこそあれ頼もしい人、もうかうなつた因果ぢやと思うて女房の言ふ事も聞いて下され勘平殿」とは、ほとんど道理の体をなさずに「道行」を決め込んで、はやくも「女房」気取りである(相対する勘平もまた、「お家の執権大星由良助殿、今だ本国より帰られず、帰国を待つてお詫びせん。サア一時なりとも急がん」、「ひとまず夫婦が身を隠し」とはおかるにのせられて「夫婦」になりきるいい加減なものだ)が、それを六代目尾上梅幸はこう語った。

《おかるくらい『忠臣蔵』で通った役はありますまい。御奥の使いの帰りに色男の勘平と道行をきめ込んで山崎へ帰り、勘平が金の工面に困ると言えば女郎に身を売り、由良之助が「三日添うたら暇やろう」と言えば操などのことを考えず大喜びでこれに応じます。お軽の腹の中には御主君も御家老も親もない。色男の勘平のことばかり思っているのですから、今のモダンガールとか言うのでしょうネ。(『梅の下風』)》

 因果なおかるは、遊女に身を売ったり、由良之助と三日添うことさえ、勘平への恋である、いっとき操を捧げることは、恋する男への不貞ではない、むしろ忠臣のようなものである、ということを的確に言い当てている。おかるは、権力構造に対して、なんら罪の意識もなく、義理もなく、神も仏も頼まない。勘平においても、はじめこそ罪の意識があったが、おかるに道行を薦められると、とたんにあっけらかんとしたものなのは、見てきたとおりだ。

 しかし、幕末の天保四年に創作初演された「道行旅路の花聟」では違う。この裏門の場面をほぼそのまま戸塚山中(鎌倉から京、山崎なら、まず大船へ出て、東海道を西へ向うから、東の戸塚は通るはずもないのだが、そこに本来の事件があった江戸から落ちるという匂いが、作者にも観客にも暗黙の了解としてあったのだろうか)に移して創作されたもので、台本は床本との類似点が多いが、大事なのは、同じところよりも違う箇所、差異である。すでに、二人は道行の最中、戸塚の宿近くで、清元と勘平、おかるの口から裏門の場面のいきさつ、対話が語られてゆくのだが、そこには「三段目 裏門の段」にはなかった罪の意識が、はっきりでてきている。

 そもそも曲の略称が「落人」である。「〽落人も見るかや野辺の若草の」とは、近松門左衛門『冥途の飛脚』由来の「梅川」の文句「〽落人のためかや今は若草の」から来ていて、それは封印切の追われる罪人だった。

 そして、《勘平「そうであろう。昼は人目を憚(はばか)るゆえ、幸いこゝの松陰で、しばしが内の足休め。」 かる「ほんに、それがよいわいなあ。」》の「足休め」は、情事の意味をも含むことから、「三段目 腰元おかる文使いの段」の最後の濡れ事を入れこんでいるが、時も場所も緊張度を欠く移動で、キレイごとに成りはてている。

 続く清元のおかるのクドキでは、はっきりとおかるに罪科の意識を持たせている。家の大事なのに恋に心を奪われたとは罪である、という近代的な意識を持つ女、恋の順位の低い女に変えてしまっているのは問題だ。

《〽空定めなき花曇り、暗きこの身の繰言(くりごと)に、恋に心を奪われて、お家の大事と聞いた時、重きこの身の罪科(つみとが)と、歎き涙に目もうるむ。》

 天保になっての歌舞伎創作だから、時代か作者か観客の求めるところだったのだろうか。

 この振りの直後に、勘平の「主人一生懸命の場にも在り合わさず、あまつさへ囚人同然の網乗物お屋敷は閉門、その家来は色に耽りお供にはづれしと人中へ、両脇差し出られうか。こゝを放せ」(歌舞伎では《勘平「よく/\思えば、後先(あとさき)の弁(わきま)えなくこゝまで来たけれども、主君の大事をよそに見て、この勘平はとても生きては居(い)られぬ身の上。そなたはいわば女子(おなご)の事、死後の弔(とむら)い頼むわ。おかる、さらば。」》に対して、おかるが「マヽヽヽ待つて下さんせ。もつともじや道理ぢやが、その狼狽武士には誰がした。皆わしが心から死ぬる道ならお前より私が先へ死なねばならぬ。今お前が死んだらば誰が侍ぢやと褒めまする」(歌舞伎では《かる「あれまたそんな事を言わしゃんすか。私(わたし)故にお前の不忠、それが済まぬと死なしゃんしたら、私(わたし)も死ぬるその時は、アレ二人(ふたり)心中じゃと、誰(たれ)がお前を褒めますぞえ。」》が、道行の最中に語られると、事後の反省の色調、人目をはばかる忍び旅、となってしまうし、おかるのあっけらかんとした性格が常識に向って歩んでしまう。

 ついで、おかるに「こゝをとつくりと聞き分けて私が親里へひとまづ来て下さんせ。父様も母様も在所でこそあれ頼もしい人、もうかうなつた因果ぢやと思うて女房の言ふ事も聞いて下され勘平殿」(歌舞伎では《かる「サヽ、こゝの道理を聞きわけて、一(ひと)まず私(わたし)が在所へ来て下さんせ。父(とと)さんも母(かか)さんも、それは/\は頼もしいお方、もうこうなったが因果じゃと諦めて、女房の言う事もちっとは聞いてくれたがよいわいなア。」》と同じような台詞となって、勘平も納得する(歌舞伎では《勘平「成程、聞き届けた。」》のは同じだが、道行の前ではなく、すでにしてしまっているゆえに、罪の匂いが纏わりつく。

 

<もとの起りはこの顔世/気もわさわさと見えにける>

「四段目 花籠の段」から。四段目は、丸本でははじめに「花籠の段」、歌舞伎では「花献上」と呼ばれる件りがある。文楽ではときたま上演されるものの、歌舞伎では普通は省略されている。しかしここには、塩谷判官切腹という悲痛な場面の前の、ひとときのはなやかな風情のなかでの、御台所顔世御前の重要な言葉がある。自責のそれだ。

 

《なだむる御台「二人とも争ひ無用。このたび夫の御難儀なさるもとの起りはこの顔世。いつぞや鶴が岡で饗応の折柄、道知らずの師直、主のあるみづからに無体な恋を言ひかけ、さまざまと口説きしが、恥を与へ懲りせんと判官様にも露知らさず、歌の点に事よせ、さよ衣の歌を書き恥ぢしめてやつたれば、恋のかなはぬ意趣ばらしに判官様に悪口。もとより短気なお生れつき、え堪忍なされぬはお道理でないかいの」と語りたまへば、郷右衛門、力弥もともに御主君の御憤りを察し入り、心外面にあらはせり。》

 

 思い返せば、「三段目 腰元おかる文使いの段」で、おかるが顔世の言葉を織りこんで語った、「どうぞ勘平に逢うてこの文箱。判官様のお手に渡し、御慮外ながらこの返歌を御前のお手から直ぐに師直様へ、お渡しなされ下さりませと伝へよ。しかしお取込の中、間違ふまいものでなし。マア今宵はよしにせうとのお詞。わたしはお前に逢ひたい望み、なんのこの歌の一首や二首。お届けなさるゝほどの間のないことはあるまいと、つい一走りに走って来た」という「しかしお取込の中、間違ふまいものでなし。マア今宵はよしにせうとのお詞」を「わたしはお前に逢ひたい望み、なんのこの歌の一首や二首。お届けなさるゝほどの間のないことはあるまいと、つい一走りに走って来た」おかるのしたことを、顔世は迷いはしたがお軽の言葉にしたがったのか、黙認したのか、おかるが勝手に先走ったのか、横恋慕された被害者顔世に無意識の加害者性はあったのか、など議論があってもよいところで、なるほど『仮名手本忠臣蔵』には、あれだったのか、これだったのか、という謎がいたるところに仕掛られていて、それこそが見飽きぬ魅力であろう。

 おかるの「軽」い性格は、「六段目 身売りの段」にも端的だ。

 

《「オヽ娘、髪結ひやつたか。美しうよう出来た。イヤもう、在所はどこもかも麦秋時分で忙しい。今も藪隙で若い衆が麦かつ歌に、『親父出て見やばゝん連れて』と唄ふを聞き、親父殿の遅いが気に掛り、在口まで行たれど、ようなう影も形も見えぬ」「サイナ、こりやまあどうして遅い事ぢや。わし、一走り見て来やんしよ」「イヤノウ、若い女子一人歩くは要らぬ事。殊にそなたは小さい時から在所を歩くことさへ嫌ひで、塩谷様へ御奉公にやつたれど、どうでも草深い処に縁があるやら戻りやつたが、勘平殿と二人居やれば、おとましい顔も出ぬ」「オヽかゝ様のそりや知れた事。好いた男と添ふのぢやもの、在所はおろかどんな貧しい暮らしでも苦にならぬ。やんがて盆になつて、『とさま出て見やかゝんつ、かゝん連れて』といふ唄の通り、勘平殿とたつた二人、踊り見に行きやんしよ。かゝさん、お前も若い時覚えがあろ」と、差し合ひくらぬぐわら娘、気もわさわさと見えにける、気もわさわさと見えにける。「イヤノウ、なんぼその様に面白をかしう言やつても、心の中はの」「イエイエ、済んでござんす。主のために祇園町へ勤め奉公に行くは、かねて覚悟の前なれど、年寄つて父さんの世話やかしやんすが」》

 

「差し合ひくらぬぐわら娘、気もわさわさと見えにける」ほど、おかるの性分を言いあらわしている表現もないだろう。「差し合ひくらぬ」「ぐわら(がら)娘」とは、さしさわりがある(母の面前で自分たちの色事の話をする)のを遠慮することもない、おてんば娘、の意で、「気もわさわさと」は陽気に、といったところだからだ。

 

<余所の恋よと羨ましく>

「七段目 祇園一力茶屋の段」から。『古今いろは評林』(元明五年)で「おかる役」は《一体の此(この)狂言一日のつもりして見ては、恋をするものは師直と勘平ばかりなり。堅(かた)い狂言といえども、趣向に愛(あい)を持って、七ツ目の和らかみに、恋なくて恋の情をふくみてのみ、恋の有無を覚えぬばかりの出来狂言なり》という、「恋なくて恋の情をふくみて」という和らかみは、全体にとってかけがえのないものだ。

 六代目尾上梅幸芸談、《お軽は御台様から敵の様子を書いた手紙が由良之助へ届いても別に何の感じもなく読んでいる方が、お軽の性格にも叶っているだろうと存じます。お軽はお主(しゅう)も敵(かたき)も考えていないのですから、勘平が死んだと聞いて自暴自棄になり、さあ殺して下さいと兄さんに申し出るのです。あの手紙を読んで、共にお主のために死ぬという考えなぞ起こさない方が良いのです。(「梅の下風」)》は、もっともなことである。

 

《折に二階へ、勘平が妻のおかるは酔ひ醒まし、早廓馴れて吹く風に、憂さを晴らしてゐる所へ。「ちよと往て来るぞや。由良助ともあらう侍が、大事の刀を忘れて置いた。つい取つて来るその間に、掛物も掛け直し、炉の炭もついで置きや。アヽそれそれ、こちらの三味線踏み折るまいぞ。これはしたり、九太はもふ去なれたさうな」(父よ母よと泣く声聞けば、妻に鸚鵡のうつせし言の葉、エヽ何ぢやいなおかしやんせ)辺り見廻し由良助、釣燈篭の明りを照らし、読む長文は御台より敵の様子細々と、女の文の後や先、参らせ候ではかどらず、余所の恋よと羨ましく、おかるは上より見下ろせど、夜目遠目なり字性も朧ろ、思ひ付いたる延べ鏡、出して写して読み取る文章、下屋よりは九太夫が、繰り下ろす文月影に、透かし読むとは、神ならず、ほどけかゝりしおかるが簪(かんざし)、バツタリ落つれば、下には『ハツ』と見上げて後へ隠す文、縁の下にはなほ笑壷、上には鏡の影隠し、「由良さんか」「おかるか。そもじはそこに何してぞ」「アイ、わたしやお前に盛り潰され、あんまり辛さの酔ひ醒まし。風に吹かれてゐるわいな」「ムウ、ハテなう。よう風に吹かれてぢやの。イヤかる、ちと話したい事がある。屋根越しの天の川でこゝからは言はれぬ。ちよつと下りてたもらぬか」「話したいとは、頼みたい事かえ」「マアそんなもの」「廻つて来やんしよ」「アヽイヤイヤ、段梯子へ下りたらば、仲居が見つけて酒にせう。アヽどうせうな。アヽコレコレ、幸ひこゝに九つ梯子、これを踏まへて下りてたも」と、小屋根に掛ければ、「この梯子は勝手が違うて、オヽ恐。どうやらこれは危いもの」「大事ない、大事ない。危ない恐いは昔の事、三間づゝまたげても赤膏薬も要らぬ年輩」「阿呆言はしやんすな。船に乗つた様で恐いわいな」「道理で、船玉様が見える」「エヽ覗かんすないな」「洞庭の秋の月様を、拝み奉るぢや」「イヤモ、そんなら降りやせぬぞえ」「降りざ降ろしてやろ」「アレまだ悪い事を、アレアレ」「喧しい、生娘か何ぞの様に、逆縁ながら」と後より、ぢつと抱きしめ、抱き降ろし。「何とそもじは、御覧じたか」「アイ、いいえ」「見たであろ、見たであろ」「何ぢややら面白さうな文」「アノ、上から皆読んだか」「オヽくど」「アヽ身の上の大事とこそはなりにけり」「ホヽヽヽ、何の事ぢやぞいな」「何の事とはおかる、古いが惚れた、女房になつてたもらぬか」「おかんせ、嘘ぢや」「サ嘘から出た真でなければ根が遂げぬ。応と言や、応と言や」「イヤ、言ふまい」「なーぜ」「サお前のは嘘から出た真ぢやない。真から出た皆嘘」「おかる、請け出さう」「エヽ」「嘘でない証拠に、今宵の中に身請けせう」「イヤ、わしには」「間夫(まぶ)があるなら添はしてやろ」「そりやマアほんかえ」「侍冥利。三日なり共囲うたら、それからは勝手次第」「エヽ嬉しうござんす、と言はして置いて、笑おでの」「イヤ、直ぐに亭主に金渡し、今の間に埒させう。気遣ひせずと待つてゐや」「そんなら必ず待つてゐるぞえ」「金渡して来る間、どつちへも行きやるな。女房ぢやぞ」「それもたつた三日」「それ合点」「エヽ忝うござんす」「どりや、金渡して来うか」(世にも因果な者ならわしが身よ、可愛い男に幾瀬の思ひ、エヽ何ぢやいなおかしやんせ。忍び音に鳴く小夜千鳥)》

 

 密書の中味を知ったおかるを殺すつもりで身請けする、と由良之助の本心を察したおかるの兄平右衛門は、同じことなら討入りの共に加わる手柄にも、と妹おかるを手にかける覚悟を決める。おかるも父与市兵衛と夫勘平の悲劇的な最後を知って死を決意するが、由良之助に止められる。事情を知った由良之助は、師直と内通する床下の斧九太夫を、おかるに刀で突かせて勘平の代りに仇討ちさせ、平右衛門は東(鎌倉)への仇討ちの共に加える。

 七段目については、坂東玉三郎のステキな話が紹介されている(関容子『芸づくし忠臣蔵』)。

《ずっと以前、玉三郎さんにお会いしたとき、七段目のおかるを見ることは、日本人が四季折々を楽しむことと似てないかしら、と言った言葉が心に残っている。遊女になり切ったはずのおかるが、兄平右衛門に会った途端にあの草深い萱葺屋根に暮していたころの妹の顔になる。素朴な田舎娘に戻ったおかるが、後光が射すようだ、と兄に褒められて悦に入り、また廓の女の顔になる。兄に刃を向けられると、わたしには勘平さんという夫もあり、と急に妻の顔になる。一人の女がこの一幕でパラッパラッパラッと、四季の移ろいのような顔を見せるのが面白い、ということだった。》

 目の前の女の多重映像、多面性は、やはり『失われた時を求めて』におけるアルベルチーヌ(バルベックの「花咲く乙女たち」の一人で、話者が同棲した女だったが、突如逃げ去った女となって、落馬して死ぬ)に似ていて、話者は、囚われのアルベルチーヌに口づけする時ですら、同一性を与えることができなかった。

 

 本当のところは、マルクスが言いたかったのは、この先の文章だった。《死せるすべての世代の伝統が悪夢のように生ける者の頭脳をおさえつけている。またそれだから、人間が、一見、懸命になって自己を変革し、現状をくつがえし、いまだかつてあらざりしものをつくりだそうとしているかにみえるとき、まさにそういった革命の最高潮の時期に、人間はおのれの用をさせようとしてこわごわ過去の亡霊どもをよびいだし、この亡霊どもから名前と戦闘標語(スローガン)と衣裳をかり、この由緒ある扮装と借物のせりふで世界史の新しい場面を演じようとするのである》であったから、このような史観、歴史的繰り返しは、「討入」を「革命」と変換しえないこともない由良之助はともかく、まさに「すぐ目の前にある」恋だけで生きたおかるには無縁な世界といえよう。

それでも人はおかるを、悲劇を招いた「ひどい女」とだけ見ることができるのに、「可愛い女」と感じてしまうのは、ギリシア悲劇や、ラシーヌ劇、シェークスピア劇のヒロインのような、「恋する女」という「過去の亡霊どもをよびいだし、この亡霊どもから名前と戦闘標語(スローガン)と衣裳をかり」た女の悲劇の形而上的でもある真理を感じとるからだろう。しかもそればかりでなく、プルースト失われた時を求めて』のオデットやジルベルト、アルベルチーヌさえ彷彿とさせるおかるの、人間諸相と人間観察の「新しい場面を演じようとする」リアルな現代性に魅了されるからに違いない。

                                  (了)

  *****引用または参考文献*****

*『仮名手本忠臣蔵 床本集』(平成十四年十二月)(平成十八年九月)(国立劇場

服部幸雄編著『歌舞伎オン・ステージ 仮名手本忠臣蔵』(白水社

カール・マルクス『ルイ・ボナパルトブリュメール十八日』伊藤新一、北条元一訳(岩波文庫)(漢字は新字体に改めた)

*関容子『芸づくし忠臣蔵』(文藝春秋

三島由紀夫「講演「悪の華――歌舞伎」」、三島由紀夫全集36巻(新潮社)

三島由紀夫『芝居日記』、三島由紀夫全集26巻(新潮社)(新潮社)

*竹田出雲『仮名手本忠臣蔵  附 古今いろは評林』(岩波文庫

渡辺保忠臣蔵――もうひとつの歴史感覚』(中公文庫)

丸谷才一忠臣蔵とはなにか』(講談社文芸文庫

*『太平記』日本古典集成(新潮社)

*『伊勢物語』日本古典集成(新潮社)

*『新古今和歌集新日本古典文学大系岩波書店