短歌批評 穂村弘『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』――「恋文は返事を待っている?」

  

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『キャラクター小説の作りかた』(2003年)という大塚英志の本があった。その第四講「架空の「私」の作りかた」から少し長くなるが紹介したい。

《今、ぼくの手許には『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』という不思議な本があります。カバーはウサギ耳のロリータ少女が重そうなカバンを両手にぶら下げているイラストでちょっとアートっぽいのが気になりますがちゃんとエッチな感じがしてぼくは結構好きです。題名とカバーイラストをセットで見るとなるほど、これが手紙魔のまみという女の子で引っ越しの最中なのだな、と何となくわかります。

 さて、ではページをめくってみましょう。扉を過ぎた後の一行目を引用してみます。

 

  目覚めたら息まっしろで、これはもう、ほんかくてきよ、ほんかくてき

 

 さらに少し先のページの真ん中の辺りを引用してみましょう。

 

  『ウは宇宙船のウ』から静かに顔あげて、まみ、はらぺこあおむし

 

 と、こんな感じです。もう気がついたと思いますがこの本は実は短歌の本、歌集です。『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』の著者の名前を見てみましょう。穂村弘という人です。穂村弘さんが短歌の世界ではどういう存在なのかについてはここでは敢えて明しません。本の巻末の作者紹介には「一九六二年札幌生」とあります。もう四〇歳を超えた「おじさん」です。ここで何人かの読者はあれ、と不思議に思うはずです。(中略)歌集のあとがきには「手紙魔への手紙」という穂村弘が「まみ」に宛てたことになっている手紙が載っています。それによれば「まみ」は穂村さんに五九一通の手紙を送ってきた子で、彼女はある夏の日に妹のゆゆと黒ウサギのにんにを連れて上京してきたのだそうです。》

 大塚はこの歌集が「キャラクター小説」と同じ技法の「キャラクター短歌」の試みであると結論を引き寄せる。

 ところで「美少女は必ずペットを飼っている」という法則があるそうです。斉藤環が『戦闘美少女の精神分析』でひもといたように、いっとき社会現象となったTVアニメ『美少女戦士セーラームーン』(1992年)の美少女「月野うさぎ」は黒猫ルナを飼っていて、ウサギの耳のような髪型が特徴的でした。

 触覚のように刎ねた髪は1998年に誕生した「デ・ジ・キャラット」、通称「でじこ」と呼ばれたキャラクターの「萌(も)え」(原作の物語とは無関係にキャラクターのフラグメントな情報に入れこんでゆく消費行動はオタク自身によって「キャラ萌え」と呼ばれた)要素であって、しかもその名前が「うさだヒカル」と決定されたように、「ウサギ」という名前(記号)にはある種の神話が宿っている。

 ウサギともうちょっとだけ戯れてみよう。その多産性から豊饒性につながり(となれば神がかってくる)、女性の象徴としての月(ルナ)と結びついていったとも推測されるが、中沢新一は『野ウサギの走り』で、野ウサギは、こちらの世界とむこうの世界の両方に同時に足をかけ、たえずふたつの世界をいききしている、とそのトランス性に注目した(谷崎潤一郎細雪』で、神経衰弱となる娘悦子が飼ったウサギの耳の不吉さには、戦前の時代背景を背負ったリアリズムがある)。

 野ウサギはどこか女性的な感性に跳ねる。

《意味や価値やモラルでできたこちらの世界をささえているのは、男の世界である。女の性は、その世界のなかでは、境界の領域のほうに押し出されている。それは、女の性のほうがしなやかな流動物をもち、こ知ら側の生と世界とむこう側にひろがっている死と無の世界との境界膜上で、ふるふると振動しつづけていられるような生き方がしやすいせいだ》という中沢新一の能弁はまさに、『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』(2001年。以下、『手紙魔』と略)の死との臨界性であり、穂村弘の少女言葉はウサギによって表徴化されているわけである。

 大塚英志は『キャラクター小説の作りかた』にさきだつこと15年前、『システムと儀式』で俵万智の『サラダ記念日』(1987年)がコミックになったと紹介しているけれど、少女まんが誌『ぶーけ』に連載された竹坂かほり『花は幽かに……』のクライマックスのセリフ、《女「静かね」/男「静かだな」/(中略)(沈黙ののちに以下のセリフ)/女「へんなの/悲しいとか/つらいとか/いうんじゃないのにね……/そばにいてくれる人がいてね/静かだねっていったら静かだなっていってくれて……/それだけで……/なんか……」》からすぐに思いだす心象風景は俵万智の《「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ》であったと比較文学する。

 山田双葉というまんが家だった小説家山田詠美の『ベッドタイムアイズ』や、吉田秋生の少女まんがに似た鷺沢萌の『川べりの道』、吉本ばななの「(小女まんが的な)批評性」を代表として。《コミック的な感受性がどうやら文学サイドの人々が現在の文学に欠けているものと一致してしまうという奇妙な状況があることはもはや誰も否定はできないはずである》とし、《小説を書こうとするぐらいに感受性の強い一〇代の女の子がむしろ吉田秋生も含めた少女まんがの強い影響下にない方がむしろ奇妙なのである》としごくあたりまえなことを導きだす。

 ここで「小説」を「短歌」と置き換えてもよいだろう。しかし大塚が紡木たくの『ホットロード』という才能を生み出した少女まんがの水準に対して俵万智の少女まんが的感性は10年遅れていた、と揶揄したことを忘れてはなるまい。

 少しばかり時間を溯ってみる。1968年から72年にかけていわゆるポストモダンが兆候としてあらわれていた。『赤頭巾ちゃん気をつけて』(1968年)で時の人となった庄司薫はエッセイ『狼なんかこわくない』(1971年)で《ぼくは結局なにもしないまま、「総退却」という名の永久待機によって、消極的だけれど明らかな「加害者」としての機能をつとめながらその一生を終るのではあるまいか?》と和製サリンジャーの甘ったるい一人称の語りくちによって政治の季節という「大きな物語」を喪失した若者の心をとらえ、そのうえ庄司自身シナリオどおりさっさと隠棲してしまう見事さだった。

 80年代になると浅田彰が『逃走論 スキゾキッズの冒険』(1984年)の書きだしで、《男たちが逃げ出した。家庭から、あるいは女から。どっとにしたってステキじゃないか。(中略)この変化を軽くみてはいけない。それは一時的、局所的な現象じゃなく、時代を貫通する大きなトレンドの一つの現われなのだ》とパラノ・モラリストたちをあざ笑った。浅田はスキゾ・カルチャーの到来とばかりに、《スキゾ的な面に注目するとき、最近の子供たちの表現力には驚くべきものがある。自分自身を含むありとあらゆるものをやすやすとパロディー化してしまう軽やかさ。パラノ的な問いをあざやかにはぐらかし、総合から逃れ続けるフットワークのよさ。重々しい言葉を語っているつもりで、その実うすっぺらな言葉を逆手にとっていわばオブジェとして使いこなし、次々に新たな差異を作り出しては軽やかに散乱させる子どもたちの能力の方が、はるかに大きな可能性をもっている》とアジテーションして、ドュルーズとガタリリゾーム・モデルをブームにさえした。

 ところが、70年前後の男たちが「逃げる」ことを一人称の「ぼく」的パラノ・エリート意識のまま消極的待機の加害者に置きかえ、80年代になってスキゾ風に「逃げ」宣言したとき、女たちはとおくにそんなことを「かわいい」というキーワードでいとも軽々とずらしてみせていたのだ。

 ふたたび大塚の『「彼女たち」の連合赤軍 サブカルチャー戦後民主主義』によれば、「かわいい」という言葉は70年代にピンクハウスのデザイナーだった金子功とその夫人が『アンアン』の表紙ネガを前に盛んに口にした言葉であって、「かわいいカルチャー」は「乙女ちっく」少女まんが誌『りぼん』から花開いていったという。

《この新たな「かわいい」の語法は女性たちの口から発せられた瞬間逆に眼前のあらゆる事象をこの「かわいい」の一言で包括してしまうものとして現われる。女性を支配することばとしてあった「かわいい」が、逆に女性たちが彼女たちをとりまく世界を「かわいい」一言で支配し直してしまうことばへと変容していったのである。》

 それはサンリオやソニプラ、マクドナルドとともに、ボードリヤール『消費社会の神話と構造』のいわゆる記号的価値を証明するかのように、記号としてのモノを費消してゆく80年代消費社会のあり方と通底した心性だった。

 穂村弘の『手紙魔まみ』は「かわいい」を越えたところの「こわカワ」(こわくてカワイイ)の気分を醸している。がしかし、これとても原点は『新世紀エヴァンゲリオン』(1995年)の綾波レイというキャラクターや岡崎京子『Pink』(1989年)であらわになったものの10年遅れにすぎず、「一度目(俵万智)は悲劇として、二度目(穂村弘)は茶番(ファルス)として現われる」というそれにすぎないのではないか。

 さてここからはしばらく東浩紀の『動物化するポストモダン』(2001年。以下『動物化』と略)の文脈にそって論を進める。

 まずはいまさらのことだが、理解を共有化し、誤解をとくために東と同様にオタクの定義、その位置からはじめる。東によれば、コミック、アニメ、ゲーム、パーソナル・コンピュータ、SF、特撮、フィギュアそのほか、たがいに深く結びついた一群のサブカルチャーに耽溺する人々の総称をオタクという。この一群のサブカルチャーをオタク系文化と呼んで、次のように論じた。

《オタク系文化は、いまだに若者文化としてイメージされることが多い。しかし実際には、その消費者の中心は一九五〇年代後半から六〇年代前半にかけて生まれた世代であり、社会的に責任ある地位についている三〇代、四〇代の大人たちである。彼らはもはやモラトリアムを楽しむ若者ではない。この意味でオタク系文化はいまや日本社会のなかにしっかりと根を下ろしている。》

 つまり1962年生まれの、40歳をすぎた「おじさん」、当時ソフト会社の管理職だった穂村弘がオタクであってもなんら不思議ではない(けれども、穂村は「薄い」オタク、オタクになりきれなかった「オタクもどき」にすぎない)。

 オタクという言葉は連続幼女誘拐殺人事件のMによって負のバイアスがかかってしまったが、もともとは慶応幼稚舎出身の熱烈なSFファンたちが使いはじめた、情報交換の必要性から初対面の人と話すさいの軽い敬称としての「お宅」であったという。

 オタクは人間本来のコミュニケーションが苦手で、自分の世界にヤドカリのように閉じこもりやすい人々だという理解がいまだに一般的だが、ある調査によればオタクたちは一般人よりも数倍異性の友人が多いという。そもそもオタクはすぐれた「動体視力」、クロスオーバーな「レファレンス力」、「飽くなき向上心と自己顕示欲」をもっている(岡田斗司夫オタク学入門』)のだから、多様なメディアで自在にコミュニケーションできる能力と欲望をあわせもっているといえよう。

 1995年の『新世紀エヴァンゲリオン』のヒットなどでオタク系文化に社会的、文化的な注目が集まるようになり、オタクたちが表面に出はじめても、《権威あるマスメディアや言論界ではいまだにオタク的な行動様式に対する嫌悪感が強く、オタク系文化についての議論は、内容以前にそのレベルで抵抗にあうことが多い。(中略)他方で、どちらかといえば反権威の空気が強いオタクたちには、オタク的な手法以外のものに対する不信感があり、アニメやゲームについてオタク以外の者が論ずることそのものを歓迎しない》といった構造は今もって続いているといってよいだろう。

 この構造は短歌と文芸評論の関係に似ている。90年代以降の文芸評論は、テーマ批評を経たうえで、ラカン精神分析脱構築(ディコンストラクション)やカルチュラルスタディーズ系といったアカデミズム批評と、多様なメディアを舞台とした挑発的なジャーナリスティック批評に二極化して現在に至っているが、そのどちらの陣営も短歌などはとりあげず、一方で短歌村の村人たちは短歌実作者以外のまれな批評があったとしても、けなげな村民互助活動と誠実な歌作の奥義をしらぬよそものの感想として相手にしないからだ。

 話をさきに進めるため『動物化』の文脈に戻ろう。オタク系文化のポストモダン的な特徴のひとつは、「二次創作」の存在であり、もうひとつは「虚構重視」の態度であるという。

「二次創作」とは原作を読みかえて制作、売買される同人誌や同人ゲーム、フィギュアなどのことであり、ポストモダンの社会ではオリジナルとコピーの区別が弱くなって、そのどちらでもない「シミュラークル」という中間形態が支配的になるというボードリヤールの予見のとおりである。しかも消費者ばかりでなく、制作者自身がシミュラークルとして陰に陽に二次創作してしまうことがオタク系文化では当然となっている。

 穂村弘は『手紙魔まみ』のマーケティング的成功(オタク系の手法であるイラスト、短歌、あとがきの「フラット」な組合せによる)のあと、『ラインマーカーズ』(2003年)に「手紙魔まみ、意気地なしの床屋め」と「手紙魔まみ、イッツ・ア・スモー・ワールド」をリミックスした。また、季刊誌『短歌ヴァーサス』2号(2003年)に雪舟えまが『まみからの手紙』というまみになりきっての詩手紙をリリースしたが、残念ながらそれ以上の余波はなかった。まみ、ゆゆ(まみの分身?)、にんに(まみの分身??)のキャラ萌え的二次創作が自然発生しないのは、短歌の私性と短歌業界が「コミケ」(二次創作によるコミックマーケットの略で、マーケットと呼びうる規模)ほど商業的下地がないからだろう。

 つぎに「虚構重視」の態度だが、今さらここに寺山修司の「アカハタ」や折口信夫『文学に於ける虚構』の芭蕉「恋の座」をもってきて復讐する気はない。ただ注意を喚起しておきたいのは、オタクたちが趣味の共同体に閉じこもるのは社会性を拒否しているからというよりも、別の価値規範を創作する必要に迫られているからである。そして「虚構重視」という特徴がポストモダン的なのは、単一の大きな社会的規範が有効性を喪失してバラバラの小さな規範たちに取ってかわられるという、リオタールが指摘した「大きな物語の凋落」に対応していることだ。

 たとえば映画『マトリックス』や類似したSFXを見た目と脳は、9・11のビル崩壊や新たな「帝国」物語を夢見るイラク戦争、3・11津波実況をTV画面で見せつけられても、もはや現実/虚構、本物/偽物の区別がつけがたく、そのうえ物語の大/小すら判断できなくなっている。

 東は大塚英志『物語消費論』を参照しながらポストモダンの世界像を提示する。

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ポストモダンの到来の前、大きな物語が機能した近代とはだいたい図3aのようなツリー・モデル(投射モデル)で世界が捉えられていた時代である。一方には、私たちの意識に移る表層的な世界があり、他方にその表層を規定している深層=大きな物語がある。したがって近代では、その深層の構造を明らかにすることこそが学問の目的だと考えられてきた。》

 ところがポストモダンの到来でツリー型の世界像は崩壊し、深層が消滅して表層の記号だけが多様に結合してゆくリゾーム・モデルが提唱されたが、東はさらに進めて図3bのようなデータベース・モデル(読み込みモデル)を提示する。データベース・モデルの分りやすい例がインターネットである。

《そこには中心がない。つまり、すべてのウェブページを規定するような隠れた大きな物語は存在しない。しかしそれはまた、リゾーム・モデルのように表層的記号の組み合わせだけで成立した世界でもない。インターネットにはむしろ、一方には符号化された情報の集積があり、他方にはユーザーの読み込みに応じて作られた個々のウェブページがある。この二層構造が近代のツリー・モデルと大きく異なるのは、そこで、表層に現れた見せかけ(個々のユーザーが目にするページ)を決定する審級が、深層にではなく表層に、つまり、隠れた情報そのものではなく読み込むユーザーの側にあるという点である。近代のツリー型世界では、表層は深層によって決定されていたが、ポストモダンのデータベース型世界では、表層は深層だけでは決定されず、その読み込み次第でいくらでも異なった表情を現す。》

 この図式を適用すると、穂村は『手紙魔まみ』に真の成功を感じてはいるまい。というのも、雪舟えまからの詩手紙を別にして、制作者の穂村自身が仮想ユーザーとなることで二層構造としてのまみをめぐるデータベースを作成し読み込んでいる状態で、不特定多数のユーザー・アクセスがないからだ。しかし、この状態は遷移期であって、私はこれを「データベース・モデル・AKB風」と名づけたい。

 80年代「おニャン子クラブ」の発展形である「モーニング娘。」、そしてさらなる過剰反復による「AKB」の頻繁なメンバー入れ替えとユニットのスクラップ・アンド・ビルドは、ファンの欲望のデータベースを日々先読みし、参加させ、小さな物語をシミュラークルし、話題の線香花火がねずみ花火の暴走と化して、いまや制御棒がコントロール不能にさえなりかかっている、セルフ読み込みデータベース・モデルだからである。このとき、データベースは仮想消費者(ここでは制作者)の脳に先読みされ、フィードバックされるというアフォーダンス複雑系となっている。

 短歌商業誌『短歌研究』の『うたう☆クラブ』での、メールのやりとりによる穂村の作歌コーチングにみるのは、仮想読者を想像する、やさしき心遣いで、ひたすら表層的データベース読み込みを、「データベース・モデル・AKB風」に作者に推敲させ、歌がフラグメントな修辞の喜びで改作されてゆく実況中継に他ならない。

 一例はこんなふうだ(2003年10月号)。

 hisae(47歳)のメール投稿、「すでに猫は闇にすべてを投げ出してソファーに墜ちた半分の月」。

《上句がいいですね。「ソファーに墜ちた半分の月」はややわかりにくいですが、猫の瞳のことでしょうか。このままでもまとまっているのですが、できれば上句の官能性を生かして一首をまとめたいですね。「猫」「闇」「月」だと少しまとまりすぎの感がありますので、例えば下句をもう少し<私>の日常感覚に寄せる形で改作できないでしょうか。  穂村弘》には、すでにいくつかのキーワードがみえる。「まとまりすぎ」「<私>」「日常感覚に寄せる」をひとまず覚えておこう。

 さっそくhisaeは改作してくる。

《改作1:すでに猫は闇にすべてを投げ出して月のかたちにソファーにくぼむ

改作2:―――わたしのくぼみに抱かれるかたち  改作3:―――眠りゆくやや熱おびながら  改作4:―――眠りに堕ちてゆくのは誰と

下句は、グレーの猫の眠る姿が半月に見えたのです。改作3、4はなんとか<私>に引き寄せたのですが、日常感覚が鈍いような……眠りにおちる墜落感と浮遊感をうたいたいのですが。》

 対して穂村は、

《どれも悪くないのですが、原作をはっきり超えているという手ごたえが弱いように思います。「猫なのか、私の内面を覗くのか、もっと具体性がいるのか、解らなくなってきました」という分析はとても的確ですね。おっしゃっているのは(いずれも即興例ですが)、

  • すでに猫は闇にすべてを投げ出してながれはじめる爪も瞳も

のように焦点を猫にあわせるか。あるいは、

  • すでに猫は闇にすべてを投げ出して私は時計を耳にあてている

のように下句で転換して<私>に引き付けるか、ということかと思います。

どちらかといえば<私>にひきつけて具体的に記述したほうが道がみえるように思います。時計を耳にあてるとか冷蔵庫をあけるとかスリッパをかさねるとか、そんなことですね。自分の感覚にぴったりくるものを、いろいろ試してみつけてください。  穂村弘

 ここにみられるのはフラットな並列関係だ。投稿者の「猫なのか、私の内面を覗くのか、もっと具体性がいるのか、解らなくなってきました」にみる価値観の階層性の見失い、コーチにおける「時計を耳にあてるとか冷蔵庫をあけるとかスリッパをかさねるとか、そんなこと」のヒエラルキーのない同義性。それは「いろいろ試してみつけてください」という気配りフィードバックとなる。

 投稿者は「あくなき向上心」から改作を増殖する。すでにはまっている。

《先生の改作例「時計を耳に……」を拝見して、見ている世界の色がパッと変わるショックを受けました。このパワーが消えないうちにと、改作しました。

改作5:すでに猫は闇にすべてを投げ出して私は地図の駅(街)をみている  改作6:―――私は指で羽の絵をかく  改作7:―――私は指で輪郭たどる  改作8:―――硝子コップの氷重なる  改作9:―――私は鳥のゼンマイを巻く  改作10:私は時計の心臓探る  改作11:―――私はメモに「ふくろう」と書く

下句はもっと具体的な記述にしてイメージはのせてはいけないのでしょうか? これからどこを重心と思えばいいのでしょうか?>

 ほとんどもう夢分析かカルトに近づきつつある投稿者に対して、決定的な言葉が授けられるだろう。

《言葉の着地点を求めていくときの実感としてよくわかります。初めの構想が大きく変っていくときは、独特のこわいような手応えがありますよね。基本線はそのこわさがふくらんでいくなかで、それでも手探りで一番書きたいことを書くということですが、逆に自分が読者なら、何を読みたいか考えるのもいいと思います。改作5は「闇」なのに、「みている」ところにやや違和感がありますね。「闇」には触覚か聴覚を置いたほうが自然に決まるように感じます。

>下句はもっと具体的な記述にしてイメージはのせてはいけないのでしょうか?

あまりメルヘン的にならない方がいいと思います。上句で充分に世界は広がっていますから、「私は歯磨き粉をひからせる」とか「私は氷に熱湯そそぐ」とか日常の範囲で心をのせられる記述が望ましいかと思います。改作に関してとても的確な把握をされていると思うので、この機会にもうひとがんばりしてください。    穂村弘

 つまりは「逆に自分が読者なら、何を読みたいか考えるのもいいと思います」の精神に尽きよう。悪くいえば「受けねらい」であるが、喜ばせたいというサービス精神ととってあげるべきだろう。仮想読者のために、下句ははてしなくフラグメントな<私>に日常についてゆく。

 的確な把握をする改作者は、

《改作12:すでに猫は闇にすべてを投げ出して私は氷水を飲み干す  

改作13:―――私はうすい氷をかじる  改作14:―――私は右耳時計にあてる  改作15:―――私の手にはせっけん光る  改作16:―――私は冷たい蛇口に近づく

時分としては、ゴク、ガリッ、カチッ、とか伝わって欲しいと思ってます。》

《改作13がいいですね。「氷水」のまっすぐさも捨てがたいけど、闇が匂うような感覚が一番つよくあるようです。このかたちで最終形としましょう。下句で思い切って<私>にひきつけてから世界が鮮やかになったと思います。  穂村弘

 穂村の非凡さは「うすい氷をかじる」に匂いを感じるところで、その思いがけなくもシュールにして日常の俳諧的切断が若者の共感を呼ぶのだが、それはやはり「データベース・モデル・AKB風」戦略の成功ということに違いない。

 高橋源一郎穂村弘との討論『明治から遠く離れて』(『群像』2001年8月号)でこう発言している。

《多分穂村さんも書いていらしたと思うんですが、ああいうサブカルチャー的な現代短歌というのは、言文一致以降の言葉が生んだ芸術表現》のどん詰まりなんです。浮遊しているイメージをつかみ取ってきてパッと言葉にする。最後はそういうところまで行っちゃったわけです。》

 ついで、80年代半ばに出てきた吉本ばなな次のように総括してしまうが、みな同じ穴の貉(むじな)ではないのか。

《純文学を読んで、その否定で出てきたんじゃなくて、全然別のジャンルのホラーを読んだり漫画を読んだりして出てきた。非歴史的な選択の結果なんですよね。(中略)水平に、ジャンル横断的に、あるいは任意に自分の好きなものをとってくるということ。それは結局、浮遊しているイメージをとってくることと同じになったんですね。イメージには歴史性がない。たまたまそこにあるというだけなんです。》

 東浩紀は「大きな物語の凋落」を補うためにイデオロギーから虚構へというのが70年代から80年代までであったが、90年代にははじめから世界をデータベースとしてイメージする世代、つまりは全体を見渡す世界視線を必要とせず、したがってサブカルチャーとして捏造する必要すらない世代が現れた、と捉える。

 インターネットを中心にデヴューしてきた女性歌人たち、たとえば飯田有子、盛田志保子、加藤千恵などはその一員に違いなく、現代短歌のニッチな面々が周回遅れを挽回したわけだ。

 

  奈落の奈に美人の美です髪型はまんまコッカースパニエルです  (飯田有子)

 

  口に投げ込めばほどけるすばらしきお菓子のような疑問がのこる  (盛田志保子)

 

  傷つけるための言葉を探してる 絶対二度と忘れないやつ  (加藤千恵

 

 どうだろうか。

 穂村は『手紙魔まみ』で手紙という形式をフレームアップしてみせたのだけれども、東は『郵便的不安たち』(1999年)で次のように語った。

《しかし90年代も終りかけているいま、若者文化の全体を見渡せるという幻想は、もはや広告代理店的にも適用していないと思います。あちこちで面白いことをやっているひとはいて、それぞれカルト的なファンを作っているのかも知れませんが、みなバラバラに勝手にやっているから、その情報を集めるのはきわめて難しい。こういう状況だと逆に人々は、自分のところに届いた情報――デリダ的に言えば「手紙」――がどこから発せられたのか、配達の途中でどのように歪められたのか、また自分の投函した情報がどこに届くのか、そのようなことに非常に意識的たらざるをえない。つまり九〇年代の文化消費者は、いつも郵便的不安(・・・・・)に取り憑かれていると思うんです。》

 いわゆるゼロ年代(2000年代)に入ると、人々は「手紙」をフェイクと知ったうえで受けとるか、「手紙」を受けとれないところに引きこもるかする。

 あの『美少女戦士セーラームーン』を監督した幾原邦彦は、最近の若い子はすごく近いこととすごく遠いことしか分からず、恋愛問題や家族問題のようなきわめて身近な問題と世界の破滅のようなきわめて抽象的な話とが彼らの感覚ではペタッとくっついてしまっていると語った。

 次のような歌をケース・スタディーすればどうなるだろう。

 

  たすけて枝毛姉さんたすけて西川毛布のタグたすけて夜中になで回す顔  (飯田有子)

 

  ヘリコプター海にキスする瞬間のめくるめく操縦士われは  (盛田志保子)

 

 そして、やはり『手紙魔まみ』にも、すごく近いこととすごく遠いことが、自我のカタツムリとなって手術台の上でぬめぬめしている。

 

  出来立てのにんにく餃子にポラロイドカメラを向けている熱帯夜

 

  神様、いま、パチンて、まみを終わらせて(兎の黒目に映っています)

 

 東は解説する。

《幾原の指摘をラカンの言葉で言い換えれば、非常に遠い抽象的なこと、世界の破滅の問題というのは「現実界(ル・レエール)」の出来事になります。ひとは誰でも、無意識的には、世界が消滅する可能性[自分が死ぬ可能性]に怯えています。けれどいまの若い子は、その可能性をとりわけ強く、しかも意識的に感じている。逆に近いこと、肉親や恋人との人間関係、つまりはほとんど肉体関係に還元されるような世界は、ラカンの言葉でいえば「想像界(リマジネール)」の出来事です。つまり今の若い子には、リアルなものとイマジナリーなものしかないんですね。》

 これは何を意味することになるかといえば、ラカン思想における3つの「界」の残りひとつ、「象徴界(ル・サンボリック)」が抜け落ちているということになる。

《「象徴界」とは、言語的コミュニケーションを成立させる場のことであり、具体的には社会的制度や国家のことです。それゆえ象徴界の力が衰えているというのは、言語=シンボルによるコミュニケーションが弱体化しているということ、そして、そのコミュニケーションをかつて保証していた「社会」というまとまりが解体してきていることを意味します。》

 カワイイもそうだったのだけれども、「ありえない」「ちょうxx」「うそでしょ」「うざったい」といった符号の氾濫。高精細化するデジタル・イメージでわかった気になってしまう。言葉の力は衰弱してゆく。

 ところで『手紙魔まみ』には「ひかるもの」「渦巻」「脳」「眼」という言葉がいたるところに散乱しているが、これらは「現実界」との通信のあらわれだろう。

 

  夢の中では、光ることと喋ることはおなじこと。お会いしましょう

 

  東京のカタツムリってでっかくて、渦、キモチワルキレイ、熱帯!

 

  眼ってのは外に出てきた脳なんですってね。感心しました、脳か。

 

 兎の眼を通じてまみのSEXが宇宙に実況中継される

 

 また、「お尻」「口」「生理」といった肛門欲望や口唇欲望に通じる言葉は、クリスティヴァの「穢れ(アブジェクシオン)」としての「母(性)」の問題を穂村の歌から強迫的なリフレインとともにあぶりだす。

 

  整形前夜ノーマ・ジーンが泣きながら兎の尻に挿すアスピリン

 

  ぬいぐるみの口のなかに宝石がいっぱい詰まっている夏の朝

 

  まみの生理を食べている怪物が宇宙のどこかに潜んでいるわ

 

  まみの子宮のなまえはスピカ。ひらがなはすぴか。すぴか。すぴか。すぴかよ。

 

 いまここでシャーマンめいた音楽の意味に深入りすることはしないが、リビドーの周縁的開口部や排出器官に対するキタナイキレイな関心は、先に引用した飯田らにも共通するテーマとなっている。

 

  女子だけが集められた日パラシュート部隊のように膝を抱えて  (飯田有子)

 

  傷口を瘡でふさがれ体内を行き場のない詩が循環している  (盛田志保子)

 

  欲しいもの言いかけてみた唇を唇でふさがれてしまった  (加藤千恵

 

 歌人の栗木京子は『先端で世界にさわる』(『短歌ヴァーサス』2号)という評論で、メルロ=ポンティの「絡みあい(キアスム)」を思わす「さわる」ことの感覚面から穂村を論じてみせたが、最後に《わからないなあ。とつぶやきながら結論に替えたい》とつい本音をもらした。それは吉本隆明が『マス・イメージ論』(1984年)で少女まんがに言及してみせた、時代の先端に無理をしてでも関与してゆこうという、ある種カワイイ姿勢との対比を思わせる。

 穂村の《「フレミングの左手の法則憶えてる?」「キスする前にまず手を握れ」》の上句と下句、表層と深層の構造をデカルト的ツリー・モデルで解こうとしてため息をつく理学部出身の栗木。穂村短歌を「修辞が細かすぎる」「表層の切り取りかたこだわりすぎる」「世界と対峙するのを回避」「女の子ごころ」「荒唐無稽なようだけれど、反面ものすごくリアル」と読みこむのはさすがだが、穂村のそれらはみなこれまで紹介してきたオタクの視線、ポストモダンな「象徴界」の欠落の、たくみにして醒めた技巧派表出にすぎない。

 解を導く方程式はツリー・モデルではなく、「データベース・モデル・AKB風」であると気づくには、そして吉本隆明が娘を「吉本ばななマクドナルドのハンバーガーである」と語ったように、「穂村弘は回転寿司の玉子焼きと鮪にはさまれたプッチン・プリンである」とでもうそぶくには、栗木は誠実にすぎるのだろう。

 いまさら「象徴界」が強度をまして「大きな物語」が再興するとは思えない。そのようなところまで来てしまった私たちは「小さな物語」たちをトランスするような言葉を、言葉の肌理(きめ)といったもので相手に届けつづけるべきではないのか。そのとき言葉は恋文のような「手紙」となるだろう。それはここに紹介した歌のように、一見自分のことばかりを語っていることになるかもしれないけれど、それを「わがまま」といった教育者言葉でくくったりすればコミュニケーションは内に閉じ、「象徴界」はいっそうフェイドアウトし、東がまとめてみせたように、コジェーブのいう日本的「スノビズム」(あえて内容とは切り離された形式的価値に生きる)や「動物化」(欠乏―満足という単純な欲求回路で動く)にはまってしまうだろう。

 最後に、ロラン・バルト『恋愛のディスクール』(三好郁朗訳)から断章「恋文」を引用してみたい。

《メルトュイユ侯爵夫人はこう書いている、「おわかりでしょう、どなたかにお手紙を差し上げるのは、その方のためであって自分のためではないのです。ですから、あなたが何を考えていらっしゃるかよりも、その方の気に入ることを書くようになさるべきなのです。」 メルトュイユ夫人は恋をしていない。彼女が述べているのは、手紙(・・)一般についての考え方なのだ。おのれの立場を守り、征服を確かなものにするための、戦略的企てのことなのだ。(中略)しかしながら、恋をしている者にとっての手紙は、そのような戦略的価値をもっていない。純粋に自己表出的なものなのだ。》

 空虚なもの(コード化されたもの)ではあっても、恋文のような言葉で私と相手のあいだに関係をもたせること。トランスする言葉の肌理の力を信じること。

 バルトは「フロイトの引用によるゲーテ」と注をして、すてきなことを教えてくれているではないか。

《どうしてまた文学などに頼ろうとするのでしょう/いとしい人よ、そのように問いつめないでください/実を言えば、あなたに申し上げることなどなにもないのです/でも、いとしいあなたの手が、ともかくも/この手紙を受けとってくださるのですから》

 恋文は返事を待っている。

 

 

                            (了)