演劇批評 渡辺保『歌舞伎 過剰なる記号の森』「物語 歴史の再生」に関するノート ――「実盛物語」の「未来による遡及的再構成」

f:id:akiya-takashi:20190426200508j:plain

f:id:akiya-takashi:20190426200549j:plain f:id:akiya-takashi:20190426200607j:plain

 

渡辺保『歌舞伎 過剰なる記号の森』「物語 歴史の再生」に関するノート

  ――「実盛物語」の「未来による遡及的再構成」

                             

渡辺保『歌舞伎 過剰なる記号の森』「物語 歴史の再生」から

《「源平布引滝(げんぺいぬのびきのたき)」の俗に「実盛(さねもり)物語」という芝居に奇妙な場面がある。小万(こまん)の息子太郎吉(たろきち)が、帰りかける実盛に「実盛やらぬ」というと、実盛がまた少年の太郎吉に向かって、

 

 四十近き某が、幼き汝に討たれなば、情と知れて手柄になるまい。若君と諸共に、信濃国諏訪へ立越え、成人して義兵を挙げよ、其時実盛討手を乞ひ受け、故郷へ帰る錦の袖、翻して討死せん。

 

 というのである。この若君とはこの場で生まれたばかりの赤ン坊にすぎない。この赤ン坊が太郎吉とともに実盛の指示通り、諏訪だか木曾だかで義兵をあげて木曾義仲となるのは、実に何十年か先の話である。なぜ何十年も先のことを実盛は予言できたのか。

 さらに太郎吉がいまここで勝負をしろというのに対して、実盛は戦場でお前に討たれてやるという。そうするとそばで聞いていた九郎助が、何十年もすぎてはあなたは白髪、皺だらけの老人になって太郎吉に見分けがつかないだろうという。そうすると実盛はこういう。

 

 其時こそ、鬢鬚(びんひげ)を墨に染め、若やいで勝負を遂げん、坂東声の首取らば、池の溜りで洗ふて見よ。戦(いくさ)の場所は北国篠原、加賀の国にて見参/\。

 互いに馬上でむんずと組み、両馬が間に落つるとも、老武者(おいむしゃ)の悲しさは、戦に仕労(しつか)れ、風にちぢめる古木の力も折れん。その時手塚、合点がてん、遂に首をも掻き落され、篠原の土となるとも、名は北国の巷(ちまた)に揚げん。

 

 占師でもない実盛が、なぜ何十年後の戦士の場所や状況まで、いま見てきたように語ることができるのか。自分一人が何十年後かにある場所へ行ってお前に討たれてやるというのならばまだしも、事態は戦争であり、実盛一人の力ではどうにもならぬ源平の合戦である。それを場所まで指定することがどうしてできるのだろうか。

 いうまでもなく北国加賀の篠原で齊藤別当実盛が手塚太郎光盛に討たれ、その白髪を墨で染めていたことが池の水で洗われてあきらかになったことは、何十年後かの歴史的な事実である。しかしその事実をなぜいま予言できたのか。

 これが実は歌舞伎の物語というものの力の秘密なのである。これを狂言綺語(きご)といい浄瑠璃作者の出鱈目荒唐無稽な遊びということは簡単であるが、決してそうではない。彼等はただ物語というものの力を信じていたにすぎぬ。物語の力とは、時空をこえて一つの事象をとりだして再現するものであり、再現によって歴史的な事実の裏側にひそむものの謎を解くものである。なぜ実盛は白髪を墨で染めて戦場へおもむいたのか。むろん歴史は、それが老人が老いをかくすためであったことを教えている。しかし浄瑠璃の作者はそんなことでは満足しない。その背後に何十年前かの琵琶湖のほとりの九郎助の住家でおこった秘密があるとする。そうなるといまここで上演されているドラマが篠原で白髪を染めて討死した事実の謎解きになる。歴史はただ再現できるものではなく、この謎解きの、真相の力によってはじめて再現可能になる。この時間空間を逆さまにした転倒こそが物語の力と私が呼ぶものである。

「実盛物語」を書いた作者の意識のレベルは、この転倒に示されている。》

 

《もっともこの一段が「実盛物語」と呼ばれる――つまり物語という通称が狂言名になった稀な例であるのは(このほかには「六弥太(ろくやた)物語」「藤弥太(とうやた)物語」位なものであろう)この件りにあるのではなく、実はその前の実盛が葵(あおい)御前に向かって前日の琵琶湖の湖上でおこった事件を物語るところから来ている。事件というのはほかでもない。平宗盛(むねもり)の竹生島参詣の御座船(ござぶね)が湖上を航行中に、湖を泳いでくる女とその女を追う船に出逢ったというのである。実盛は宗盛に随行して御座船に乗っていた。女はいずくのだれとも知れなかった(実は九郎助の養女で、瀬尾太郎の娘であり太郎吉の母小万であるが、その時はわからなかった)が、白旗をもっていた。源氏の旗である。かねて密(ひそ)かに源氏に心を寄せていた実盛は、この旗が平家の手に入っては一大事と考え、白旗をもつ女の片腕を水中へ切り落とした。腕も(むろん白旗も)、女は水中に没して後方が知れなくなったが、親子の縁によって、白旗を握った片腕は太郎吉の網にかかり、虫の息の女はこの家のそばの磯に打ち寄せられたというのである。

 実盛が語る「物語」の中味は大体右の通りだが、実盛が語るまでもなくこの事件の一部始終はすでに観客はこの前の場の御座船の場で見て知っているのである。

 歌舞伎の物語の双璧は、この「実盛物語」と「一谷嫩軍記」(あの「六弥太物語」をふくむ「一谷嫩軍記」である)の「熊谷陣屋」の熊谷次郎直実が一谷の合戦で無官大夫敦盛を討った経緯を語る「物語」であるが、この熊谷の物語もまた前段の「組打」で観客はすべて目のあたりにしているのである。

 むろん舞台の上の葵御前や九郎助夫婦、太郎吉は前段でなにがおこったか知らない。熊谷が物語を聞かせる相手の藤の方(敦盛の生母)や相模(敦盛の身替りになった小次郎直家の母)は一谷合戦の一部始終を知らない。知らないからこそ実盛や熊谷は語って聞かせるのだが、観客はすべて見て知っている。それをもう一度わざわざやってみせるのは一体なぜなのか。そこにドラマの大きな「物語」のなかに仕込まれたメタ物語ともいうべきものがつくられ物語のもつ力が示されているからであり、一方物語を語る芸といったものが成立しているからである。

 語りの芸を「話芸」と呼んだのは関山和夫氏であるが、この芸の伝統は歌舞伎よりもはるかに古く、もちろん人形浄瑠璃の語りもその芸の一つの流れのうちにある。実盛や熊谷の物語はその芸の流れの原型をのこしたものだ。だからこそ、実盛は白扇、熊谷は軍扇を使う。扇こそ物語に欠くことのできぬものであり、彼等が「物語らんと座を構え」るのは、そういう芸の伝統を意識しているからにほかならない(ついでにいえば人形浄瑠璃にかぎらず能狂言、唄、浄瑠璃の大夫たちはすべて扇をもつものである)。

 物語りがそういうものであるとして、しかし歌舞伎の物語はもう一つ別な意味をもった。それは実盛や熊谷の場合をみればよくわかる。実盛や熊谷は、扇をもって、床の義太夫の語りにさまざまな動きをみせるのである。つまり、せりふの語りだけではなく、そこに動の要素、もっといえば義太夫のリズムにのった音楽の要素というものが入ってきている。この要素が大事だと私には思われる。この要素はなにを意味しているのか。すなわち物語の、その語りからの解放であり、身体化というべきものである。歌舞伎の物語の本義はここにある。

 熊谷の型には、比較的写実な九代目団十郎団十郎型と、人形の動きをとり入れた様式的な四代目芝翫芝翫型と二つの型がある。団十郎型は始終見るのだが、芝翫型は松緑が一度やったのを見たきりである。この芝翫型が私には大変面白かった。心理だの状況を無視したというか超越した、派手で、様式的な動きがあって、パッと飛び上ったりするのである。それをみていて思ったのは、歌舞伎の物語のもつ面白さというものは、決してなにかを再現しようとするものではなくて、むしろその再現をいかに絵として身体化し、再構成してしまうかということであった。

 同じことは実盛にもいえる。実盛にも二つの型があり、一つは団蔵の家に伝わる型であり、もう一つは三代目三津五郎から五代目彦三郎へ伝わり、さらに五代目菊五郎が完成した菊五郎型である。団蔵型は動きも地味で、肚を主体としている。菊五郎型は動きが派手でしかも洗練されている。両方見たことがあるが、菊五郎型の方が状況や心理をこえて、観客を陶酔させる魅力をもっている。

 熊谷の芝翫型、実盛の菊五郎型というものには、あきらかにドラマを逸脱して、ということは事件の状況の再現をこえてしまったところに面白さがあり、そのこえてしまったところが、実は身体にある種の音楽的な憑依(ひょうい)のおこる瞬間なのである。そこが歌舞伎の物語の芸の面白いところである。》

 

《そこで私はあの実盛の何十年後かを予言した物語の力のことに戻りたい。なぜならば、何十年後の戦争の予言が予言でもなんでもなくて、すべて目の前のドラマは何十年後かの北国篠原の合戦の謎解きであったように、この実盛や熊谷の物語も実は前の幕で行なわれた事件の再現なぞでは決してなくて、実はいまここで物語られるもののために前段の事件があったという気がするからである。物語の力とは、やはりこの時空をこえた転倒のうちにある。たしかに前場ではそれがドラマであり、現実であったかも知れないが、熊谷や実盛が物語るのをみていると、この物語こそ真実であり、要するにあの現実は虚構ではないかという気さえするのだ。北国篠原の合戦や一谷の合戦や竹生島参詣というような歴史的な出来事には実は一片の真実もふくまれていない。すべては影にすぎない。影でないものはいまここで行なわれている物語のなかにある。もっといえばパッと飛び上がり、派手な動きをしたりする役者の身体のしぐさのなかにある。これは物語というものの、通常私たちが考えている概念の解体であり、歌舞伎の上での演劇的な再生なのである。(後略)》

  

<未来による遡及的再構成>

ボルヘス『続審問』「カフカとその先駆者たち」

《かつてわたしは、カフカの先駆者たちを調べてみようと思い立ったことがある。彼のことを初めのうちは、美辞を連ねて称賛されるあの不死鳥のように、類例を見ない独自の存在だと思っていたが、彼と少しばかりつきあっているうちに、様ざまな文学、様ざまな時代のテクストのなかに、彼の声、彼の癖を認めるような気がしたからである。》

 最初は、運動を否定するゼノアの逆説(パラドクス)である。飛んでいる矢は永遠に的に到達できない。アキレスは決して亀を追い越せない。この有名な命題の形式がまさしく『城』のそれと同じである。《運動する物体と矢とアキレスが文学における最初のカフカ的登場人物である。》

 第二のテクストは、類縁性とは形式と言うより語りの口調である。九世紀の唐の漢文作家韓愈が書いた寓意譚。我々は麒麟が超自然的存在であり、吉兆の動物であることは広く認められている。下々の女子供でも知っている。《しかし、この動物は家畜のなかに見当たらないし、たやすく見つかるものではないし、また分類に適さない。すなわちそれは馬や牛に似ていないし、狼や鹿にも似ていない。それゆえ麒麟を目のあたりに見ていながら、それが麒麟であることに確信がもてないようなことも起こりうるだろう。我々は鬣(たてがみ)のある動物なら馬であり、角の生えている動物なら牛であることを知っている。しかし、我々はどんな動物が麒麟であるかを知らない。」

 第三のテクストは、キュルケゴールのテクスト。《両作家の知的親近性は誰でも知っていることであるが、カフカと同じように、キュルケゴールにも、同時代の中産階級的主題に基づく宗教的寓話がたくさんあることは、わたしの知るかぎりまだ明らかにされたことはない。》一つは四六時中監視されながら、イングランド銀行紙幣を検査している贋金つくりの話である。もう一つは、デンマークの牧師たちが、北極へ探検旅行することは魂の救済にとって有益だろうと告げていたが、たぶん不可能であること、を認める。彼等は最後に、どのような旅行も、日曜ピクニックも、本物の北極探検になると宣言する。

第四の予示は、ブラウニングの物語詩「恐怖と疑念」である。《ある男が有名人の友達を持っている、あるいは持っていると思っている。彼はこの友人に一度も会ったことがないし、今までに助けてもらったこともない。しかし、友人は高潔な人格の持ち主だという評判だし、彼の書いた本物の手紙も出回っている。彼の立派な人柄に疑問を呈するものがあり、筆跡鑑定家たちは手紙を贋物だと言う。最後の行で男が問う――「もしもこの友が神だとしたら?」》

 二つの短編物語も含まれている。一つはレオン・ブロワの『不快な物語』にあるもので、《地球儀・地図帳・列車時刻表・トランクなどたくさん用意していながら、生まれた町をついに離れることなく生涯を終える人々を描いている。》もう一つは「カルカソンヌ」と題されたダンセイニ卿の物語である。《無数の戦士たちからなる軍団が巨大な城砦を出発し、数々の王国をたいらげ、多くの怪物を見、幾つもの砂漠と山岳を征服するが、ついにカルカソンヌに達することができない。一度この町を遠望したことがあったにもかかわらず。》(《第一の物語では、人々は町から離れないが、第二の物語では町に到達しない。》)

 ボルヘスは、わたしの間違いでなければ、列挙した異質のテクストは、どれもカフカの作品に似ているが、テクストどうしは必ずしも似ていない。この最後の事実は極めて重要である。《カフカの特徴はこれらすべての著作に歴然と現われているが、カフカが作品を書いていなかったら、われわれはその事実に気づかないだろう。すなわち、この事実は存在しないことになる。ロバート・ブラウニングの「恐怖と疑念」はカフカの物語の予告編になっているが、われわれがカフカを読んだことがあれば、この詩のわれわれの読みは著しく洗練され変更される。ブラウニングは自らの詩を、いまわれわれが読むようには読まなかった。「先駆者」ということばは批評の語彙に不可欠であるが、そのことばに含まれている影響関係の論争とか優劣の拮抗といった不純な意味は除去されねばならない。ありようを言えば、おのおのの作家は自らの先駆者を創り出す(・・・・)のである。彼の作品は、未来を修正すると同じく、我々の過去の観念をも修正するのだ。》

 

ジジェク『オペラは二度死ぬ』

《かつてボルヘスは、カフカについてふれながら、作家のなかには彼自身の先行者を生み出す力をもった者がいるといった。これは、新たなクッションの綴じ目 point-de-capiton の介入によって過去が遡及的に再構造化されるという論理である。真に創造的な行為は、未来の可能性という場を構造化しなおすだけではない。それは、先行する偶発的な痕跡を現在に向かう痕跡としてあらたに意味づけながら、過去をも構造化しなおすのである。》

(註:ポワン・ド・キャピトン point de capiton は、一般的に「クッションの綴じ目」と訳される。袋状にしたカバーのなかに羽毛や綿を詰めたクッションは、そのままでは、現実のように、不安定で非一貫的である(中身がすぐに偏ってしまう)。「クッションの綴じ目」は、この詰め物の偏りを防ぐためのものであり、クッションの中央にカバーの表から裏まで糸を通し、糸が抜けてしまわないようにボタンをつけたりする。このボタンは、かつまた主人のシニフィアン S1 とも呼ばれる。」

 

柄谷行人トランスクリティーク

《カントの第三アンチノミーにおける正命題は、スピノザの考え――すべてが原因によって決定されており、ひとが自由だと思うのは、原因があまりに複雑であるからだ――に帰着する。そうした自然必然性を超える自由意志や人格神は想像物であり、それこそ自然的、社会的に規定されている。ただしその原因はけっして単純ではない。そこではしばしば原因は結果によって遡及的に構成されている。》

 

中井久夫『徴候・記憶・外傷』「統合失調症の精神療法」

《過去を変えることは不可能であるという思い込みがある。しかし、過去が現在に持つ意味は絶えず変化する。現在に作用を及ぼしていない過去はないも同然であるとするならば、過去は現在の変化に応じて変化する。過去には暗い事件しかなかったと言っていた患者が、回復過程において楽しいといえる事件を思い出すことはその一例である。すべては、文脈(前後関係)が変化すれば変化する。》

 

・T・S・エリオット「伝統と個人的な才能」

《一つの新しい芸術作品が創造された時に起ることは、それ以前にあった芸術作品のすべてにも、同時に起る。すでに存在している幾多の芸術作品はそれだけで、一つの抽象的な秩序をなしているのであり、それが新しい(本当の意味で新しい)芸術作品がその中に置かれることによって変更される。この秩序は、新しい芸術作品が現われる前にすでに出来上っているので、それで新しいものが入って来た後も秩序が破れずにいる為には、それまでの秩序全体がほんの少しばかりでも改められ、全体に対する一つ一つの芸術作品の関係や、比率や、価値などが修正されなければならないのであり、それが、古いものと新しいものとの相互間の順応ということなのである。そしてこの秩序の観念、このヨーロッパ文学、及び英国の文学というものの形態を認めるならば、現在が過去に倣うのと同様に過去が現在によって変更されるのを別に不思議に思うことはない。しかしこれを理解した詩人は多くの困難と、大きな責任を感じなければならないことになる。》

 

ベンヤミン『歴史哲学テーゼ』

《歴史をテクストと見なしさえすれば、現代の一部の作家たちが文学的テクストについて述べていることを、歴史についても言うことができる。過去は歴史のテクストの中に、写真版上に保たれているイメージに譬えられるようなイメージを置いてきた。写真の細部がはっきりあらわれてくるような強い現像液を処理できるのは未来だけである。マリヴォー、あるいはルソーの作品にはところどころに、同時代の読者には完全に解読できなかった意味がある。》

 

スラヴォイ・ジジェクイデオロギーの崇高な対象』

ラカンはその著作の中で、時間のパラドックスに関連して、一度だけSFに言及している。すなわち最初のセミネールで、症候が「抑圧されたものの回帰」であることを説明するために、時間の逆行というノーバート・ウィーナーの隠喩を用いている――

 

  ウィーナーは、それぞれの時間的次元がたがいに逆向きに進行しているような、二人の人物を仮定する。たしかにこのことにはなんの意味もないが、こんなふうにして、なんの意味もなかったものが突如として何かを意味するようになるのだ――ただし、まったく異なる領域において。どちらか一方が他方に向けてあるメッセージ――たとえば四角形――を送ったとすると、逆方向に向かっている人物には、四角形が見える前にまず四角形が消えるところが見えるだろう。われわれもまたそれと同じものを見ているのだ。症候ははじめわれわれの前に一つの痕跡としてあらわれる。その痕跡はあくまで痕跡のままでありつづけ、分析がかなり先まですすみ、われわれがその意味を実現してしまったときにはじめて理解されるのである。(Lacan『フロイトの技法論』)

 

 したがって分析とは象徴化である。すなわち、意味のない想像界の痕跡を象徴界に統合することである。このような捉え方は、無意識が本質的に想像的(・・・)なものであることを示唆している。無意識は、主体の歴史の「象徴的発展に同化されえなかった想像的固着」からなるのである。したがって無意識とは、「象徴界の中で実現されるであろう何か、より正確には分析における象徴的発達がなされたときには実現されてしまっている(・・・・・・・・・・・)であろう何か」である(同上)。したがって、「抑圧されたものはどこから回帰するのか」という問いにたいするラカン的な答えは、逆説的ながら、「未来からである」ということになる。症候は意味のない痕跡であり、その意味は、過去の隠された深みから発掘、発見されるのではなく、遡及的に構成されるのだ。つまり、分析が真実を生み出すのである。真実とはすなわち、症候にその象徴的位置と意味をあたえるシニフィアンの枠組である。われわれが象徴秩序の中に入るやいなや、過去はつねに歴史的伝統という形であらわれ、それらの痕跡の意味はあたえられない。その意味は、シニフィアンのネットワークの変容にともなってつねに変化しつづける。歴史的断絶が起き、新しい支配的シニフィアンが出現するたびに、そのことが遡及的にあらゆる伝統の意味を変化させ、過去の物語を構造化し直して、その物語がまったく新しいふうに読めるようにするのである。

 だから、「なんの意味もなかったものが突如として何かを意味するようになるのだ――ただし、まったく異なる領域において」。われわれは「追越す」ことによって、他者の中に、ある知識――われわれの症候の意味に関する知識――が存在していることをあらかじめ仮定するが、「未来への旅」とはまさにこの追越しのことに他ならないのではあるまいか、したがって、転移(・・)そのもののことに他ならないのではあるまいか。その[われわれが他者の中に仮定する]知識は幻想である。なぜなら、それは実際には他者の中に存在しているわけでもないし、他者が実際にそれを所有しているわけでもない。その知識は、われわれの――主体の――シニフィアンの働きによって後から構成されたものである。だがそれは同時に、必要不可欠な幻想である。なぜなら、逆説的だが、われわれは、他者はすでにその知識を所有しており、われわれはそれを発見するだけという幻想によってのみ、その知識をつくりあげることができるのだから。

 もし――ラカンがいうように――症候において、抑圧された内容が過去ではなく未来から回帰してくるのだとしたら、転移――無意識の現実(リアリテイ)の実現――はわれわれを過去にではなく未来に移動させなければならない。だとしたら「過去への旅」とは、このシニフィアンそれ自体の徹底的で精巧な遡及的作業のことに他ならないのではあるまいか。この作業とはすなわち、われわれはシニフィアンの領域において、またその領域においてのみ、過去を変化させ完遂させることができるのだ、という事実をいわば幻覚的に演じてみせることである。

 過去は、シニフィアン共時的な網の中に取り込まれ、その中に入っていったときに、はじめて存在する。つまり、歴史的過去の織物=構造の中で象徴化されたときに存在する。だからこそ、われわれはつねに「過去を書き換えて」いるのである。つまり、一つ一つの要素を新しい織物=構造の中に取り込むことによって、それらの要素一つ一つに、それぞれの象徴的重みを遡及的にあたえているのである。この作業が、それらが「どのようなものであったことになる」のかを決定するのだ。オックスフォードの哲学者マイケル・ダメットの論文集『真理という謎』の中に、たいへん興味深い論文が二篇ある。「結果はその原因に先立ち得るか」と「過去を変える」である。この二つの謎にたいするラカン的な答えは「イエス」だ。なぜなら、「抑圧されたものの回帰」である症候はまさにそうした原因(症候の隠された核、その意味)に先行する結果であり、症候に取り組むことによって、われわれはまさに「過去を変えて」いるのだ。われわれは過去の象徴的現実(リアリテイ)、すなわち長い間忘れ去られていた外傷的な出来事を生み出しているのだから。

 だとすると、SF小説の描く「時間のパラドックス」は、象徴的プロセスの基本構造、いわゆる内的な、内側に反転された8の字が幻覚的に「現実界(リアル)の中に出現」したものではないか、と考えたくなる。その基本構造とは、一つの循環運動であり、いわば一つの罠である。なぜ罠かというと、われわれは転移の中でわれわれ自身を「追越し」、われわれがすでにいた地点にいるのを後になって発見するという方法によってしか前進することができないのだ。パラドックスは次のような事実の中にある。――この余計な回り道、つまり、われわれ自身を追越して(「未来への旅」)、それから時間の方向を逆転させる(「過去への旅」)という余分な罠は、たんにいわゆる現実(リアリテイ)の中でこれらの幻想とは関わりなく起きる客観的プロセスにたいする主観的幻想/知覚ではない。むしろこの余分な罠は、いわゆる「客観的」プロセスそのものの内的条件・内的構成要素である。この余計な回り道をすることによってのみ、過去そのもの、すなわち事物の「客観的」な状態は、遡及的に、それがつねにそうだったものになるのである。

 したがって、転移は幻想だが、肝心なのは、われわれはこの幻想を迂回して直接に達することはできない、ということである。真理そのものからして、転移に固有の幻想を通じて(・・・)構成されている。「真理は誤解から生まれる」(ラカン)のである。この逆説的な構造がまだよくわからないようなら、SF小説をもう一つ例にとろう。ウィリアム・テンの有名な短編「モーニエル・マザウェイの発見」である。二十五世紀の優秀な美術史家が、歴史的に有名な画家モーニエル・マザウェイを訪問し、じかに(・・・)研究しようと、タイムマシンにのって現代にやってくる。マザウェイは、今はまったく評価されていないが、後に再発見されて二十世紀最大の画家と称されることになる。二十五世紀の美術史家はマザウェイ本人に会うが、彼は天才などではなく、ただのペテン師で、誇大妄想狂で、美術史家からタイムマシンを盗んで未来へ逃げてしまい、おかげで哀れな美術史家は現代に取り残されてしまう。そこで彼は仕方なく、逃亡したマザウェイになりすまし、マザウェイの名で、彼が二十五世紀にいたときに見た傑作の数々を描いた……。彼が探していた不遇の天才とは彼自身のことだったのである。》

  

<「源平布引滝(げんぺいぬのびきのたき)」>

 人形浄瑠璃寛延二年(1749年)十一月大阪竹本座。歌舞伎、宝暦七年(1758年)九月大阪嵐座。並木千柳(宗輔)、三好松洛作。『平家物語』『源平盛衰記』から脚色された全五段からなる時代物。今では二段目切「義賢最期」と三段目「御座船(「竹生島遊覧」)」、「実盛物語」が上演される。

 平治の乱源義朝(みなもとよしとも)を討った平家方はその首を後白河法皇に届けるが、平家の躍進を危ぶむ法皇は手厚く葬るよう命じ、源氏の白旗を義朝の弟、木曾義賢(きそよしかた)に授ける。清盛の上使が来訪、源氏の白旗を差し出せと命じるが、義賢が知らぬと突っぱねると、兄義朝の髑髏を足で踏めと迫った。義賢は兄の敵長田(おさだ)を斬り捨てる。義賢は百姓九郎助(くろすけ)に懐妊中の葵御前、九郎助の娘小万(こまん)に白旗を託し、武具は不要と素襖大紋(すおうだいもん)を身に着けて平家相手に奮戦したが壮絶な最期を遂げた(「義賢最期」)。

 

 九郎助は葵御前を伴って琵琶湖畔の九郎助住居に帰りついたが、小万は平家に追われて矢橋の浦で琵琶湖に飛び込み泳いで逃げようとした。折から平宗盛の御座船が竹生島参詣に遊覧中、同船していた斎藤(さいとう)別当(べっとう)実(さね)盛(もり)は小万を発見して船に救い上げたが。追手の船から「女が源氏の白旗を持っている。取り返せ」との声が届いた。飛騨左衛門が白旗を奪おうとしたので、実盛はとっさに白旗を持っていた手を水中に切り落とした(「御座船」)。

 

 九郎助の女房小よしが綿を繰っているところへ甥の仁惣太がやってきて、この家に葵御前が匿われているだろうと探りを入れるが、小よしは追い返す。葵御前が行方知れずになった小万を案じるところへ九郎助が孫の太郎吉と戻ってきて、湖畔で見つけた白絹を握った人間の片腕を見せた。太郎吉が指を開くと、白絹は源氏の白旗。一同は小万の腕ではないかと不安を覚える。

 そこへ平家の武将斎藤実盛と瀬尾十郎兼氏が葵御前詮議のためやってきた。九郎助は知らぬと突っぱねるが、実盛は甥の仁惣太が訴人した事実、平家の威光には逆らえぬ、さらに生まれる子が女なら助かると諭した。九郎助も諦めて出産するまで待って欲しいと懇願するが、瀬尾は胎内まで詮議すると息巻いた。

 葵御前が出産したと、小よしが錦に包んだ水子を持ってきた。実盛が何とか子を助けようと思いながら包みを開くと、中には女の片腕が入っていた。実盛はその腕を見てハッとし、驚き怒る瀬尾に向かい中国の故事に同じためしもあると言いくるめ、申し訳は自分がすると言い切った。瀬尾は冷笑し、帰ると見せて裏に潜んだ。

 実盛は葵御前と九郎助夫婦に向かい自分は平家に仕えているが元は源氏、旧恩を忘れていない、片腕は自分が矢橋の船中で切り落とした覚えがあると言い、確か名は小万と言ったと、事の次第を語る(「実盛物語」)。

 宗盛公の竹生島詣での帰途、口に白絹を咥えて泳いでくる女を見付けて助けあげたが、同船していた飛騨左衛門が白旗を奪い取ろうとしたため、白旗が平家に渡れば源氏は埋もれ木になると思い、非情ながら女の片腕を湖水に斬り落としたと物語る。

 近所の衆が小万の死骸を運んでくる。一同の愁嘆を見た実盛は、甲斐甲斐しい女だから、まだ腕に魂が残っている筈だと、片腕に再び白旗を持たせて死骸に繋ぐと小万は蘇生し、白旗が御台葵御前の手に戻ったことを知って喜び、太郎吉に言いたいことが…と言ったきり息絶えた。九郎助は小万が言いたかったのは筋目のことだろうと察し、実は小万は夫婦の間の子ではなく拾い子で、懐には金刺という銘を彫付けた合口(あいくち)と平家某の娘という書付があったと語った。

 俄に葵御前が産気づき、若君が誕生した。父義賢の幼名を貰って駒王丸と名付けられた。後の木曽義仲である。九郎助は太郎吉を駒王君の家来にしてほしいと頼み、実盛は小万の手に因み手塚太郎光盛と名付けた。葵御前は小万の父は平家ゆえ清盛の子であるかも知れず、成人して一つの功をたてた上でのことと言う。瀬尾が戻ってきて、駒王君誕生を平家に報告する、この女が白旗を奪ったのが憎いと小万の死体を足蹴にした。それを見た太郎吉は母の形見の合口を手に瀬尾に向かうと、意外にも瀬尾はかわさず、瀕死の痛みを堪えながら葵御前に「太郎吉は平家譜代の侍瀬尾十郎を討ち取った功で若君の家来にして欲しい」と懇願した(瀬尾のモドリ)。おどろく一同に向かい、実は小万は自分が若い頃に捨てた子であると告白した。瀬尾は太刀を抜くと太郎吉に持たせて、自らの手で首をかき斬る。

 太郎吉は勇みたち、実盛に親の敵と詰め寄るが、実盛は今討たれては情と知れて手柄にならぬ、若君と共に信濃へ逃れ、成人してのち義兵を挙げよと諭し、家来に馬曳けと命じ、平家に注進すると駆けだした仁惣太を討ち取った。太郎吉も綿繰り機に跨り(「綿繰馬」)実盛に向かう。九郎助は太郎吉が成人した時には実盛は老人になっていると指摘すると、実盛は「髪を黒く染めて勝負を遂げる、坂東声の首を取ったら池の水で洗ってみよ、戦の場所は北国篠原」と未来の戦いを予見して去っていく。

 

 

         *****参考または引用文献*****

渡辺保『歌舞伎 過剰なる記号の森』(ちくま文芸文庫)

文楽床本「第一七五回文楽公演 源平布引滝(平成二十三年五月」(国立劇場

戸板康二他『名作歌舞伎全集第四巻 源平布引滝』(東京創元新社)

ボルヘス『続審問』中村健二訳(岩波文庫

スラヴォイ・ジジェク『オペラは二度死ぬ』中山徹青土社

中井久夫『徴候・記憶・外傷』(「統合失調症の精神療法」所収)(みすず書房

柄谷行人トランスクリティーク』(岩波書店

*T・S・リッオット『エリオット選集第一巻』(「伝統と個人的な才能」所収)吉田健一訳(弥生書房)

スラヴォイ・ジジェクイデオロギーの崇高な対象』鈴木晶訳(河出文庫