映画批評 小津安二郎『彼岸花』論

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    小津安二郎彼岸花』論

                       

<里見弴/小津安二郎

 映画『彼岸花』に白と赤の文字で「原作里見弴」と流れる。だが一緒に湯ヶ原に泊り込んで、テーマと人物設定を共通項に小津と相棒野田高梧が脚本を、里見が小説を書きあげたという。『文藝春秋』昭和三十三年六月号に小説『彼岸花』は発表され、早くも九月には映画が封切られている。

 小津的世界は尊敬した志賀直哉より、人情の機微をとらえた心理観察、会話のうまみ、骨董のような味わいから名人芸とされた里見に近い。

 

原節子山本富士子

 ヴェンダース吉田喜重蓮實重彦らに逆らって、小津作品はそれほど好きではないと発言することは危険である。そのうえ『晩春』における京の宿の月夜においてさえ、原節子に泥濘に浮く蓮の花のごとき美を感じられないから、と言ってしまえば身も蓋もないのだが、原は小津の娘といってもよい目鼻立ちではないか。

彼岸花』の魅力、それはひとえに二十七歳の山本富士子の大輪の花の華やぎ、茶目っ気による。

 

<『東京暮色』/『彼岸花』>

 成瀬監督作『浮雲』に感動してのメロドラマ、救いのない鬱勃とした『東京暮色』の失敗を厄払いするかのように、『彼岸花』は『夜の河』で演技開眼した大映の山本を三十五日間だけ松竹大船に借りてきて制作された。アドリブを許さない厳格なフォルマニスト小津が本来もっていたヒューモア・含蓄・遊び心が、「天下の美女」をえたハシャギとして小津初のカラー撮影でひき出される。

「山本君は非常にいい。さすがは大映の看板スターだ。演技の説明なんか口でいえるものではないので僕は黙っていたのだが、山本君はこちらの演出意図をすぐのみこんで僕のイメージに合った芝居をしてくれる。演技のカンがいいし、変なクセがなく素直だ。まだまだ伸びる人だね。僕はメロドラマのヒロインとしての山本君しかみたことがないが「彼岸花」では彼女から三枚目的なユーモラスな画をひき出してみようと試みたわけだ。これは成功したと思う。」

 

イーストマン/アグファ

 小説には《あのね、往きには気づかなかったんですけど、帰りの電車で、程ヶ谷へんからかしら、あっちこっち、真ッ盛りの彼岸花で》とあるが、映画では題名の由来がわからないほどだ。

 しかし赤が好きな小津は、構図上その色感が欲しいばかりに赤いケットルを文法を無視してショットごとに置きかえた。山本は赤色の帯、八掛、風呂敷包みで登場する。イーストマンの原色っぽいカラーを三度三度の天丼のようと嫌って、渋いアグフア・フイルムを採用した。

 

<「そうかい」/「もういいの」>

 たわいもないストーリーだ。後期作品で繰りかえされる複数の家族の交錯。

平山(佐分利信)、妻清子(田中絹代)と長女節子(有馬稲子)、次女久子。平山の京都での定宿の女将佐々木(浪花千栄子)と娘幸子(山本富士子)。平山の旧友三上(笠智衆)と家出した娘文子(久我美子)。節子は自分で選んだ谷口(佐田啓三)と結婚したいのに父が反対する。しかし母や幸子は理解し味方する。結局、父は説得されてしまう。

 監督いわく「親が自分の娘を嫁にやる場合、他人の娘の場合なら冷静になれるのに自分の娘となるといつまでも子供に思えて仕方がない……。つまり人生は矛盾の総和だといわれているが、そういった矛盾だらけの人生というものに焦点を合わせてみたい」

 小津はことさらのドラマを嫌っていたが『彼岸花』はホームドラマと名付けてよい。ゆえに日常些事のスナップ、社会的問題と無縁なブルジョア趣味との若手批判を受けるが、家族的エゴイズムを「そうかい」「もういいの」に象徴される反復とずれの連鎖のうちに人格へ作り上げたところにその成功があった。

 

フェルメールプルースト

 モーリス・パンゲ「小津安二郎の透明と深さ」から。

《小津の作品は、その透明さという点でフェルメールを想起させる。(中略)書きかけられた手紙、手に触れられた道具、開かれた窓、もっとも清澄なる形式の中で中断されたままであるそれらのイマージュは、我々の心の中に沈黙の涙を流し込む。我々の生は意味をもつのか、世界は現にあるがままで存在する価値があるのか。》

《小津にとって昭和の家庭は、より遠い目標に到達するための一手段であるにすぎない。彼が対象に執着するのは、あくまで対象それ自体が溶解していく深さを喚起するためなのだ。(中略)プルーストの作品と同じように小津の作品も、愛によって心が感ずるようになる時間の喚起である。》

 

<眼に見えるもの/音として響くもの>

 ドゥルーズ『シネマ2』の[ Sur  Ozu]から。

《小津は手法(モンタージュ=カット)の意味を変えてしまう。それは今や物語の筋の不在を証し立てるものとなる。すなわち映像=行為は消滅し、かわって、登場人物のあるがまま(・・・・・)の姿の純粋に視覚的な映像と彼が喋る(・・)事柄の音響的な映像、つまりシナリオの本質的部分をかたちづくる月並みきわまる人格と会話が現われることになる。(中略)視覚記号に非常に特殊な延長とは、このようなものである――時間を、思想を感知可能なものとすること、眼に見えるもの、音として響くものとすること。》

 

<「ほんま。筍、悪い方どすわ」/「トリックどすのや」>

 紅型に映える、声のよい山本のおきゃんな京都弁。

「ほんま。筍、悪い方どすわ」「違いまンなぁ京都とは。空の色まで……」「ギリギリギッチョン、ボ」「セングリセングリ妙なお婿さんばっかり探して来て」「今の話、みんな嘘どすのや。トリックどすのや」「へえ。一世一代の大芝居や。どうどす。うち、名優どっしゃろ」

 

<自分/人生>

 脚本・撮影・編集を論じきったドナルド・リチー小津安二郎の美学』はこう結ばれる。

《登場人物とひとときを過ごした私たちは、彼らと別れがたい思いにかられるのを知る。私たちは登場人物を理解し、その結果、愛するようになったのである。そしてこの理解によって私たちは自分をもっとよく知るようになり、そしてそのことによって、人生をもっとよく知るようになるのである。》

彼岸花』からわずか五年後の昭和三十八年、フリーを望んだ山本は五社協定大映を干されてテレビ・舞台ヘ移り、「芸術のことは自分に従う」をモットーとした小津は還暦を迎えた日に人生を終える。

 山本の出番の最終日、小津は里見邸で送別の宴を開いた。山本は小津に手紙を書く。

《皆様とお別れしまして京都に参る自動車の中で幸福感で一杯……温かなものが満ち溢れている様な……》

                               (了)

      *****引用または参考文献******

*モーリス・パンゲ『テクストとしての日本』竹内信夫他訳(「小津安二郎の透明と深さ」所収)(筑摩書房

*里見弴『初舞台・彼岸花』(講談社文芸文庫

蓮實重彦責任編集『季刊 映画リュミエール4』(ドゥルーズ「不変のフォルムとしての時間」松浦寿輝訳所収)(筑摩書房

ドゥルーズ『シネマ2 時間イメージ』宇野邦一他訳(法政大学出版会)

ドナルド・リチー小津安二郎の美学』山本喜久雄訳(フィルムアート社)

蓮實重彦『監督 小津安二郎 (増補決定版)』(筑摩書房

佐藤忠男小津安二郎の芸術(上下)』(朝日選書)