映画批評 溝口健二『近松物語』論ノート

 

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映画批評 溝口健二近松物語』論ノート

<「『近松物語』の物語」>

溝口健二監督『近松物語』(1954)の脚本家、依田義賢の『依田義賢 人とシナリオ』「シナリオ 近松物語」は、溝口健二(1898~1956)の人間的な気性、理不尽さと、監督が求める狙い、水準の高さを、重要場面の誕生秘話とともに描写して申し分ない。いわば「『近松物語』の物語」だ。長くなるが転載する。

(溝さん=溝口健二、川口さん=川口松太郎。辻君=辻久一)。

《溝さんは永田社長に呼ばれて東上し、もっと、何かこれと言ったものはないかとたずねられたようです。

近松のものをやってみてはどうだろうかとその時、話が出たらしいのです。溝さんは『堀川波鼓』をやってみたいと、社長に言ったということが、すぐ京都にしらされまして、まだあの作をよく知らなかったわたしは、すぐに読みましたが、この姦通ものは面白いので、わたしは賛成したいと思って、溝さんの帰りを待っていました。溝さんが帰って来て、川口さんと企画部長の服部君、企画者の辻君たちと早速、検討しましたが、どうも子持ちのかみさんの話では地味だというのがみんなの意見でした。それに武家というのが、溝さん自身も少々、荷厄介なようでした。他になにかあるかいと問われて、わたしは、近松の作品で現代性に通ずるものは『女殺し油地獄』がいちばんだと言ったのですが、皆の賛同を得られません。姦通ものでもいいが、他になにがあるかというので、すぐに溝さんの口をついて出たのが『大経師昔暦』でした。(中略)

 ところが、『近松物語』のシナリオづくりがまたまた大騒動でした。はじめ、川口さんが本を書くということになりまして、それが出来てきますと、私の手にわたります。がっちりと芝居は組まれて、申し分がありません。(中略)本読みをしました。溝さんはむっつりして容易に感想を述べません。

「これでやれとおっしゃるならやりますよ。しかし、こんなものでいいのですか。」

と言う。

「どこが気に入らないんだ。」

川口さんがききます。

「芝居はちゃんとできてますよ、しかし、これでは困るのですがね。」

そう言うだけで、一向にその理由がわからない。

「わたしは西鶴のおさん茂右衛門の方をもっと、とり入れてほしいのです。」

 聞いていて、わたしは、あっと思った。近松の『大経師昔暦』をというので、仕事がすすんでいたのでしたが、これはお玉という女中が中心となっているのです。それでは、おさん茂兵衛が立たない。いや茂兵衛の長谷川一夫さんが立たないということを、溝さんは考えているのです。溝さんはそれを口にのぼせませんでしたが、川口さんもそこに気がついたにちがいありません。

「それなら、そうとはじめから言ってくれよ、後は君たちでやってくれ。」

と、そこでわたしと辻君に新しい稿がまかされました。

 おさんと茂兵衛が駈落するまでのところは、近松は実によく事情が組んであってまず動かぬところだから、駈落してからの後半を直すことになります。

 つまり、お玉が二人の罪をかぶって、処刑されるにいたるくだりを、おさん茂兵衛の運命を追いつめてゆくことになるわけです。西鶴の『好色五人女』の巻三にあるおさん茂右衛門の話について、詳しく述べるのははぶきますが、この不義におちるまでのいきさつは、たわいない誤ちによっています。たわいないというのはくだらないというのではなく、女中のりんに思慕をよせる奉公人の茂右衛門が純情に思いをかきつづる恋文を読んだおさんが、影待の酒の酔いについいたづらごころをおこし、女中の寝床に入って、恥入らせ、こらしめてやろうというのが、疲れて眠ってしまって誤ちを犯したという、追いつめられたようなものでないのです。自然さ、ありそうなことといえば、この方がよいので、近松の方は如何にも、しぐみ、こしらえあげたという感じで、ふとした誤ちが苛酷な運命を誘うというのはなかなか見事なものです。わたしなどは、西鶴のこの事情の方が好きなのですが、こういう展開では溝さんは承知しません。世間の仕組み、封建の世の枷(かせ)というものを、強く組み合わせて描くことを求める人ですから、この点で、前半の方は近松をとりたいというのはわかっていました。二人が家を立ち退いて後のことについては、実は溝さんは、このシナリオにかかる前に、わたしに西鶴のあのところのくだりの文章の見事な美しさはたまらない、あんな美しい文章はちょっとありませんよとしきりに言っていたのです。わたしはそれを聞いていたにもかかわらず、近松の方を土台にこの話がすすめられていましたし、それを追ってゆけば、女中お玉の運命を辿るのが構成の自然の展開と見、川口さんも同様に思われたのでしょう。近松のよいところ西鶴のよいところをとりあげ、ないまぜてという風には考えなかったわけです。あるいは、今から思いかえしてみますと、近松の作をまとめられた川口さんの作に対して、大きく改変することは悪いと気がねしたということもありました。なにはともあれ、西鶴の作を辿って後半を構成しました。あらましは、京をのがれて近江に出て、湖に身をおえようとしたが、生きて年月を送ろうと、丹波の奥の茂右衛門の親もとをたずねる。ここでは律儀な親の怒りを買い、追われてゆくうちに京よりの追手がかかり、遂に、捕らえられて、粟田口に処刑のため町を引きまわされてゆくというのです。》

 苦心をして、二度目の本読みです。

《溝さんは、むっとして、口を開きません。

「気に入らないのか。」

「いや。」

溝口さんは、肩をそびやかし、

「そんなことじゃないんです。いったい、これは何を描こうというんです。わたくしはそれを、おたずねしたいのです。テーマはなんですか。」

 辻君は、

「封建下の男女の悲恋でしょう。」

といいましたかどうか、とにかく才走った彼だからもっと巧みに話したと思います。その時どんな言葉を溝さんが言ったか忘れてしまいましたが、

「そんなものが描かれていますか。こういっちゃ失礼だが、そんなものは描けているとは認めません。ただ、苦労して、つかまって死んだというだけの話じゃありませんか。」

 いや、そんな言葉じゃなかったようです。

「この題材がだめなんですかね。近松西鶴がだめなんですかね。」

 というようなことも言われた気がします。(中略)

辻君のほうも、

「もう一度考えてみましょう。ですから先生の御意見を。」

「どうしたらいいか、それは君たちが考えて下さらなきゃ困るじゃないですか。しかし、言ったってむだでしょ。」

「たとえばどうなんだよ」と川口さん。

 溝さんはかっととりのぼせたような顔で、

「大経師のような家は体面がある筈です。心中してくれては困る筈です。そうでしょう。」

「死ぬことも出来ないということですね。」

 わたしが言う。

「そうですよ。そこを考えればいろいろあると思うんだ。不義ものを出した大経師のような家は闕所(けっしょ)になる筈です。」

(大経師とは伊勢神宮よりの暦を神祇官より最初に受けて版行する名家)なるほどそれはさすがに、溝さんらしい考え方、とわたしはすぐに感心して、されば、と思って、ようしという気になりました。》

 茂兵衛という人間の肉体感、実在性、奉公人としての立場、思いを明確にしようと、人物を紹介するところで境遇や人間性がずばりと出る方法がないか。信頼されている、誠実で律儀な人柄を表現しようと、辻君と相談して、風邪でもひいて寝ているということにし、彼でなければ出来ない表具をせかされて病中を押してやる、ということになった。さらに、姦通した男女は不義の刑として磔刑にあうということを前に出して置く必要があるだろうということで、まだ互いに何の思いもないおさん、茂兵衛が引きまわしを見ることによって、二人の運命の暗示だけでなく、そのような社会なのだと裏付けられ、不義ものを出した家は闕所になることが強く了解できる。そう考えて全部書き直し、溝さんと東上して、社長に本読みした。

《社長はきいて満足のようでしたが、

「どうや、これで」ときくと、溝さんは、まだむっとしています。

「総体に芝居が出来てないんですね。」

 きいたわたしは、なんという言い方だろうと、ほんとうに情けなくなりました。

「例えば、どういうことや。」

 社長がききますと、

「宿で、二人ができるのは困ります。それから琵琶湖で死のうというのではだめですよ。二人は死のうと思ってゆくんです。舟にのって死のうとしたときに、二人の気持が出るんだと思います。すると急に死ぬのが惜しくなるんです。芝居というものはそういうものだと思います。総体にそういうところがないんです。」

 なるほど、これはやられたと思いました。》

 溝口健二の『堀川波鼓』、『女殺油地獄』も見たかった、との思いを禁じえないのは私だけではあるまい。

武家というのが、溝さん自身も少々、荷厄介なようでした」というのは、戦前の国策映画『元禄忠臣蔵』(1941、42)の苦労が頭にあるからだろう。「世間の仕組み、封建の世の枷(かせ)」と言っても、あくまでも圧迫される庶民のそれをマゾヒスティックなまでに絞り上げての美であった。翌年の『楊貴妃』(1955)における貴族階級も遠い世界だったから、楊貴妃京マチ子)と玄宗皇帝(森雅之)とを無理やり繁華街にお忍び散策させ、苦肉の庶民風俗を撮った。

 

西鶴の作を辿って後半を構成した、とはいっても、実際西鶴の作に当ってみれば、お玉は舞台を去り、琵琶湖で死のう、という題材はそのとおりだとしても、荒唐無稽な雑音は割愛されて、丹波の茂兵衛の父との別れの場、一度捕まっておさんだけが実家に戻されて母に諭されるが、また二人して逃げ出す場など、溝口監督の言う「芝居」作り、「封建の世の枷」の主旨を十分に組み込んでの、相当に改変した脚本を作ったと判る。

近松を採ったという前半にしたところで、近松『大経師昔暦』では、礼を言おうとお玉の部屋に忍び込んだ茂兵衛は、以春を懲らしめるために代わりに床に入っていたおさんと互いに知らずにできてしまう。しかも近松は閨房の場を卑猥に表現した。

《屏風そろ/\押遣(や)りて夜着(よぎ)にひっしと抱(いだき)付き。ゆり起(おこ)しゆり起し。ゆり起されて驚きの今目のさめし風情(ふぜい)にて。頭(かしら)を撫づれば縮緬頭巾サア是こそと頷(うなづ)けば。男は今日(けふ)の一礼の聲を立てねば詞なく。手先に物をいわせては伏拝(ふしおが)み/\心の。たけを泣く涙。顔にはら/\落ちかゝる其の手を取って引寄せて。肌と/\は合ひながら心隔たる屏風の中。縁(えん)の始(はじめ)は身の上の仇の始と成りにける。既に五更(かう)の八聲の鳥門の戸険(けは)しくとん/\/\。旦那お帰り。はっと消入る寝(ね)所に汗は湖水を湛へたり。やい/\戻った明けやいと。呼(よば)はるは以春の聲。助右衛門目をさまし。どいつらも大ぶせりと提(さ)げて出でたる行燈(あんどう)の光。顔を見合す夜着の内。ヤアおさん様か。茂兵衛か。はあはあゝ》

 逃亡後に「宿で、二人ができるのは困ります」どころではない。水上勉は『近松物語の女たち』「おさん――『大経師昔暦』」で、本当に二人は人違いと気づかずに肌と肌を合わせたのか、「湖水を湛え」るまでに、といらぬ邪推をし、心理分析を執拗にしているが、映画では慎ましいまでに行儀よい。結ばれは、後ろへ後ろへと先延ばし、遅延される。伏見の船宿では床をのべに来た女中が二つ枕を用意するのを茂兵衛が見とがめると、おさん(香川京子)「茂兵衛、一人で心細い。ここに居てて」、茂兵衛(長谷川一夫)「めっそうもない、お家さまと、同じ部屋になど」の会話に続いて、茂兵衛は美しい所作で布団を捲りあげ、一つ残された枕を整えてから奉公人らしく引き下がる。そして、舟の上での「死ぬのはいやや、生きていたい。茂兵衛!」でおさんがしがみつく。前面に漁師小屋を配した湖上の舟に人影が見えないショットで、ようやく結ばれたことを表徴した。

 

・撮影宮川一夫が残した台本によれば、

《舟のシーンに続いて、「水辺:水際に、二人の乱れた足跡が続いている。辿ってゆくと、小さな、漁師小屋に続いている」というト書きがある。このショットはあまり語られることはないものの、実は完成したフィルムにも残存している。ところが、この後、撮影台本の挿入ページには漁師小屋の内部で事を終えたおさん茂兵衛の描写があった。ト書きには二人は「放心したように抱き合い」「衣服に乱れが見え」とあり、茂兵衛がおさんの手を取って想いを遂げた幸せを述べ、彼女は頬を寄せる。しかし、この場面には宮川による絵コンテの書き込みはなく、実際に撮影されたとは考え難い。》(木下千花溝口健二論 映画の美学と政治学』)

 かくして、実亊は湖上の小舟の上で行なわれたとも、漁師小屋で行なわれたとも、溝口健二は両義的な解釈を見るものに与えた。

 

<視線/音>

・小説家阿部和重は映画専門学校出身だけあって、キャメラと役者を転倒させた解釈で溝口を評した。溝口の映画の主要なキャラクターたちは、「必ずどこかに行きたがる」、「立ち去ってしまったり」、「その場を離れたり」、「定住しない」、「とどまらない」。「ある抑圧」、「権力者のような人たちから強制され、追い出されてしまう」、「社会的なルールやシステムに従うように強制されて居場所を失う」のは、なるほど『雨月物語』も『西鶴一代女』も『山椒大夫』も、「浪華悲歌(エレジー)」も、勿論『近松物語』もそうで、許しがたいまでに追いかけまわす、執拗なストーカーぶりである。

阿部和重 とにかく逃げ回るわけですね。逃げて、隠れようとする。溝口の映画では、役者がフレームアウトすることがわりと多いような気がするのですが、彼らはとにかく逃げようとしています。それは「視線」から逃げようとしているわけで、言ってみれば、溝口のキャラクターというのは他者の視線を内面化したような存在ではないか、と思えるのです。こうなると役者というか作中人物たちは逃げ回ってしまうわけですから。撮る側としてはキャメラを移動させてそれを追いかけなければなりませんよね。というわけで、移動ショットの必要性というものが出てきたのではないでしょうか。》(『国際シンポジウム溝口健二 没後50年「MIZOGUCHI2006」の記録』、「シンポジウム 日本における溝口」)

 

・小津作品は対話する相手をまっすぐ見つめあい、切り返しショットで繋ぐが、溝口作品は視線と視線が絡み合わない(よって切り返しショットなどありえない)。溝口の作中人物の視線とキャメラとは決して重なり合わない。視線は放射する。

 蓮實重彦は「翳りゆく時間のなかで 溝口健二近松物語』論」で、自由な恋愛を謳歌する稀な時代劇、西欧的なラブ・ロマンスであるどころか、結ばれるまでのおさんと茂兵衛の心理は曖昧で、愛の心理というものが念入りに描かれてはいない(おさんも茂兵衛も恋心を匂わす仕草、表情をまったく見せないのは、茂兵衛に惚れている女中お玉の演技と対称的)、メロドラマをまぬかれている、としたうえで、「見つめあうこと」を代理する「音」、「触感」について次のように論じた。

・《『近松物語』の男女は、多くの溝口的存在がそうであるように、あたかも何かを見ているかのような位置キャメラにおさまることはまずないといってよい。おさんと茂兵衛は、たがいに相手を見つめるという動作を初めから禁じられた存在なのだ。(中略)

 では、見つめあうことを禁じられた恋人たちは、いかにして愛を確かめあうのか。すでに指摘しておいたように、茂兵衛が熟達した経師職人であることを示すにあたり、溝口は、その巧みな手さばきを視覚的に描くことを排し、もっぱら道具類の音を夜の闇に響かせるという方法を選ぶ。その事実は、廊下での金策の場面に豊かな情感を漂わせるものが、画面には写っていないおさんの声であったことと無縁ではなかろう。低く抑えられてはいても厳しさとは無縁の、ほとんど性的な誘惑を思わせさえする呼びかけに茂兵衛が「へえ」と応ずる瞬間に、笛の音が高まる。彼女が廊下の奥の薄暗がりに衣裳を鈍く光らせて姿を見せるのは、そうした音の戯れに導かれてである。(中略)

 事実、一つの誤解から始まる逃避行は、表面で触れ合うもののたてるひそかな物音を背景として進んでゆく。おさんを背負って賀茂川を渡る茂兵衛の裸足の足の裏が、川瀬の浅い流れに触れてたてる湿った音の魅力はどうだろう。また、心中を思い立って琵琶湖にこぎ出す舟が、水面と触れあってたてる冷たい音の繊細さはどうか。おそらく世界映画史で最高の技術的達成といえようこうした音響的世界は、拭いたり擦り合わせることで始まったこの映画の主題的な統一を誇示しながら、また同時に、それと意識されることなく配置されていた愛の映画的な記号に、ここでぴたりと重なり合ってしまうのだ。》

 徹夜明けの茂兵衛が休もうとすると、画面オフから聞えてくる、か細いおさんの「茂兵衛、茂兵衛」という声が、落ちて行く二人の運命を暗示する。溝口作品についてまわる金銭の話が、おさんの実家の兄、当代岐阜屋道喜(田中春男)からおさんへ、おさんから茂兵衛へと伝えられ、発端となる。茂兵衛はおさんに頼まれた五貫目を用立てるため、白紙手形に大経師以春(進藤英太郎)の判を持ちだして押すところを、手代の助右衛門(小澤栄)に見とがめられる。ここでも助右衛門の声が画面オフから入る。オフの声こそ不吉な運命の合図に違いない。

 

・蓮實は、おさんの素晴らしい視線と声の官能的なハーモニーに感嘆する。

《『近松物語』の終り近く、われわれは素晴らしい視線に出会う。実家につれ戻されたおさんが、母親と兄から大経師のもとに戻るよう説得される場面である。庭に面した部屋で障子がなかば開かれている。家族の言葉を聞き入れようとしない彼女は、逃れるように縁側に立ち、障子に手をそえて力なくすわり込む。夜で、あたりには暗さがたれこめている。と、そのとき、何ごとか物音を耳にして、闇夜の庭に瞳を向ける。それに続く無人の庭のショットが素晴らしい。凝視する瞳と、その視線の対象とが一つに結ばれるという例外的な編集がこれほどの情感を漂わせうることに人は深い驚きを覚える。丹波の山奥では不安を漂わせていたおさんの目は、いま、愛に湿って官能に震えている。そして闇の中の黒々とした塀と、その右はしの木戸のあたりに定かならぬ人影が揺れるのが見えるとき、この映画での唯一の主観的ショットの暗く奥深い拡がりを、心から美しく思う。これこそ、映画のみが可能にする愛の空間ともいうべきものだからである。思わず「茂兵衛」と口にして庭に駈け出してゆくおさんの姿を痛ましい思いで見つめながら、この声こそ、かつて廊下の薄暗がりの中で職人を呼んだ女主人の声にほかならぬことを理解する。》(蓮實重彦「翳りゆく時間のなかで 溝口健二近松物語』論」)

 

秋山邦晴は「「近松物語」の一音の論理」で、映画音楽の前衛性について解説した。

早坂文雄はこの映画に、歌舞伎で使われる下座音楽(げざおんがく)を主体として用いた。(中略)

 タイトルは、拍子木、大拍子(太鼓)、しめ太鼓、笛などの伝統楽器による音楽である。開幕を暗示する横笛、しめ太鼓の一声があって、やがて横笛が鋭く、しかも揺れるようにうごき、それに太鼓が漸増のリズムをくりかえしていく。能、歌舞伎の開幕の音楽の“型”をとりいれているといってもよい。(中略)不義のためハリツケ刑となり、刑場へと馬でひかれていく男女の行列が街中を通っていく場面。横笛が哀調をおびてきこえる。すると間をおいて、ズーン、ズーンと地鳴りのように大太鼓のひびきが画面を圧する。(中略)

 早坂文雄が下座音楽を時代劇の雰囲気をつくりだすために使用したのではなく、むしろ現代劇にみられるような人間の心のうごきの表現として使っているということである。(中略)

 おさんと茂兵衛の「道行」のシーン、おさんをおぶって川を渡る場面では、水音とともに、笛とゆっくりとした四連音の太鼓の音を遠くきかせている。そして宿屋の場面では大太鼓のしずかにゆっくりと打ちつづける連続音を遠く聞かせながら、ときどき三味線が8連音をかきならすひびきをくわえる。

 おなじ「道行の旅」で、疲れたおさんの歩くシーンに、太棹の三味線の音楽をきかせる。映像のうごきとともに、ときにはその音はクローズ・アップされ増幅されて演出されている。太棹三味線の独特の深い音色が、実に効果的に映像への表現力として働きかけている。

 おさんの実家に立ち寄る場面では、つけ板の鋭く乾いた音色としめ太鼓が画面いっぱいに増幅されて、すばらしい迫力で迫っている。(中略)

 この映画のラスト・シーンは、おさんと茂兵衛のふたりが不義の罪に問われ、捕われて、馬にのせられ、刑場へとひかれていく。音楽はファースト・シーンとおなじように、あの大太鼓の音がまた不気味にひびいている。ところが、この音とともに、太棹と胡弓の音がそれにくわわっていく。胡弓の不安定な音程が不安なものを感じさせながら、この不条理な悲劇の暗く重くやりきれない状況と、人間の悲しさをいやというほどつきつけながらひびいていくのである。》

 

<怪物と怪物>

・助監督田中徳三は、「怪物と怪物との壮絶なバトル」で、溝口健二長谷川一夫に負けた、と発言する。

《田中 私は溝口さんから呼ばれて、「長谷川君に『この役は丹波の山奥で生まれて、米の飯なんて見たことない、粟ばっかり食ってた男が、京都の大経師という非常に位のある家に丁稚奉公に行って、それが手代にまで出世というか、上り詰めた男だ』と伝えてくれ」と言われたんですよ。長谷川一夫はあの通り二枚目ですね。要するにいつもの長谷川一夫さんの、二枚目では困るというわけなんですよ。だから、ちゃんと長谷川さんに、いや、長谷川君ですわ、溝口さんに言わせると――長谷川君に言っておきたまえと。これはチーフのお前の責任だと言われて。だいたいね、芝居については監督が言うものでしょう(笑)。何も助監督の僕がのこのこ行って、天下の長谷川さんに言えと言われてもねえ。それはしょうがないから行きましたけど。》

 溝口健二に言われた通り伝えると、長谷川一夫は「うんうんうん」、「ああ徳さん、わかったよ」と言ってそこはそれで終わりだったが、

《田中 それで初日を迎えたわけですが、最初の撮影は、長谷川さんの茂兵衛が風邪を引いて、二階の隅っこで寝ているというシーンでした。そこに、どうしてもあの手代の仕事でないと困るというご贔屓(ひいき)の客が来てるから起きてくれと言われ、茂兵衛はしょうがないから起き上がるわけです。それまで長谷川さんは横を向いて寝ているから、よくわからなかったんですが、すっと起き上がったら、これはもう天下の二枚目の長谷川一夫なんですよ(笑)。

 宮川さんもそれまでの経緯を知っておりましたので、僕ら二人で顔を見合わせて、「えらいこっちゃで」とか、「今日はもうワンカットも回らんで」なんてことを話してたんですが、ところが溝口さんは長谷川さんの顔を見ても何にも言わないんですね。ともかくその日の撮影は終わったんですが、それから三日ほど経っても、長谷川さんは自分のスタイルを絶対に壊していないわけですよ。すると、「徳さん、徳さん」と長谷川さんが僕を呼ぶわけです。お弟子さんが近寄ってきて、「先生が呼んではる」と言うので行ったら、「徳さん、あんたいろんなこと言うたけど、先生は何にも言わはらないやないか」と、「これでええんやろ、これでいくで」ということになって、こっちは三枚目ですよ。》

 溝口監督は何にも言わない、どうしてでしょう?と山根貞男に聞かれて、

《田中 さあ、どうしてなんでしょうねえ。(中略)表現は悪いけれども、怪物と怪物との壮絶なバトルなんですよ、あの作品は(笑)。それで結局は、長谷川ペースで終ってしまったんですが、できあがりはすごい作品で、長谷川さんもいつもの長谷川一夫じゃなしに、抑えた芝居をされている。もう亡くなられて五十年だから、いまここで言うても大丈夫だと思いますけど(笑)、「ああ、溝口さん負けたな」というふうに思いましたね。これは僕だけの思いなんですが。》(『国際シンポジウム溝口健二 没後50年「MIZOGUCHI2006」の記録』、田中徳三「助監督の証言」)

 

・しかし、蓮實重彦山根貞男は、溝口監督は負けてはいない、と合わせる。

《蓮實 シンポジウムのなかで田中監督は、『近松物語』では、長谷川一夫に溝口さんが負けたのだということをおっしゃっていましたが、私は溝口はやはり負けていないと思います。溝口は、『近松物語』ではじめていわゆる長谷川一夫的な、立役ではない二枚目に触れたわけではありません。それ以前に、花柳章太郎主演の『残菊物語』(一九三九)でやっているわけです。ですから、彼は長谷川一夫をどう使えばいいかということを、頭ではよくわかっていたはずです。確かに当時長谷川一夫大映の大スターで、その辺の事情はいろいろあっただろうけれど、決して溝口は「この人はこの程度でいいや」と思ったわけではない。溝口が長谷川一夫に負けた、ということに関しては絶対に違う、と思います。山根さんはどう思いますか?

山根 僕も溝口が負けたとはいえないと思いますね。田中さんは、チーフ監督の立場から見て、溝口さんの負けですということをおっしゃったのでしょうが、長谷川一夫自身も自分が溝口に勝ったとは絶対に思っていないはずです。結局のところ溝口監督の目指す方向にうまく自分が使われたと、彼も感じていたのではないですか。もちろんそれはお互いさまということになるでしょうが、最終的に溝口は長谷川一夫のいいところを撮ってしまったと思いますね。蓮實さんがおっしゃったように、溝口の望む水準がとても高いところにある。だから長谷川一夫も知らず知らずのうちに、そこにいかざるを得なかったんだと思います。そうでなければ、あれほどいい茂兵衛にはならないはずです。

蓮實 長谷川一夫が「林長二郎」時代からずっと持っていた、やや女性的で稚児風のものとはまったく違う男にしてしまったわけですよね。

山根 僕はカタログ用に香川京子さんにインタビューした際に、『近松物語』の浅瀬を渡るシーンで、おさんが濡れないようにと、茂兵衛がおさんをおぶって渡る印象深い動作について尋ねたのですが、あの独特の背負い方は長谷川一夫が持っていた型だとおっしゃっていました。溝口監督が、こういうときはこういうふうにやるものだと指示したわけではない。にもかかわらず、すばらしい動作をすっとやってしまう、あるいは、やらせてしまう、という二人の関係なんですね。溝口映画における監督と俳優の関係が象徴されていると思います。》(『国際シンポジウム溝口健二 没後50年「MIZOGUCHI2006」の記録』)

 

・茂兵衛がおさんをおぶるシーンは、お家さんの肉体に触れないがための主従関係の見事な表出、型でもあるが、内弟子を任じる宮嶋八蔵は「溝口健二監督の映画作法 近松物語」で、勝負は五分五分と回顧した。

《茂兵衛がおさんを担いで河を渡る場面のロケ地は嵐山の東公園です。ライテングの為に助監督がおさんと茂兵衛の代わりのスタンドインをしたのです。先輩助監督の土井茂さんの背中に私は子供が背負われるようにおぶさっていました。本番では長谷川さんは見事に美しく斜め背負いをしたのです。土井助監督と私は思わず「いかれたねぇ。みごとやねぇ。けれどあの抱えはきつい力がいるでぇ。」この場面は一回でOKとなりました。美しさにおいては、長谷川さんの勝。リアリズムの先生もクソリアリズムではないと思いました。どんな芝居でも品位と形の奥にある心情を大切にされる溝口先生の勝でもあります。勝負は五分五分でしょうか。》

 

・《香川京子 とにかく監督さんは何もおっしゃらないし。ただ一番多く言われたことは、今でしたら「リアクション」という言葉で言いますけれども、溝口監督は独特の「反射してください」というふうにおっしゃったんですよね。「反射してください」「反射してますか」ということは、ずいぶん言われました。それはつまり、芝居というのは自分の台詞を言う番が来たから言うのではなくて、相手の言葉とか動作によってはじめて自分の芝居が生まれるというようなことだったんだと思います。

 ですから「セットに入ったときに、その役のそのときの気持ちになっていれば自然に動けるはずです」とおっしゃるんですね。それをまた私がボーッとしていて、よく摑んでいないものだから、それで動けなかったんだと思うんですけれど、それはもう本当に芝居の基本だと思いますね。それをあの作品一本で叩き込まれたというか、若かったし、すごく吸収できたと思うんです。ですからこうやって長く仕事をさせていただけているのも、あの溝口監督のご指導があったからだと、本当に今改めてありがたく思っているんです。

山根貞男 でも「反射してください」という言葉は、突然言われたら意味がわからないですよね。

香川 そうですね(笑)。たとえば一度二人で逃げて、引き離されて私だけ自分の家に戻されますね。そして、お母さんやお兄さんから側でいろいろ言われます。そのときに私は、鏡の前でお母さんに乱れた髪を梳(くしけず)ってもらっていたんですね。それで「ああ、このあとの芝居はどうやったらいいのかなあ」って目をつぶって考えていたんです。そうしたら監督さんが「そういう感じがよいです」っておっしゃるんです。「あなたはお母さんやお兄さんにそういうことを言われてそこにじっと坐っていられますか?」というふうにおっしゃるわけです。「ああ、そうだなあ。これを聞いているのはとってもつらくて聞いていられない」と思って、それで障子の方に逃げていくようにしました。そのときに茂兵衛が入ってくるのを見つけて、最初はだれかわからないのですが、おさんにだけはわかるわけです。「あ、茂兵衛だ」ということが。それで茂兵衛に縋(すが)り付いていく、というシーンでした。そこのところなんかもよく覚えていますね。

蓮實重彦 あのシーンは本当にすばらしいですね。おそらく世界映画史の上でもあんなにすばらしいシーンはそんなにないと思います。

香川 やはり溝口監督のお力はすばらしいですね。でも私は、お恥ずかしいことにこういう演技にしようとかまったく計算がないんですね。「どうしよう、どうしよう」ってなるばっかりで。先ほど上映された『近松物語』の船のシーンでも、あれはセットで撮ったんですけれども、水槽に水がいっぱい張られてそこにすーっと船が現れてきますね。そこで茂兵衛に告白されるわけですけれども、その船がすーっと動いているあいだ「ああ、どうやったらいいんだろう」「どうやったらいいんだろう」ってそればっかり考えていたんです(笑)。

 今、振り返ってみると、溝口監督という方は、そういうふうに苦しめて苦しめてそこまで追い詰めて、そこで何か自分で考えて出てくるものを待っていらしたというか、そういう感じがするんです。》(『国際シンポジウム溝口健二 没後50年「MIZOGUCHI2006」の記録』、香川京子「女優の証言」)

 

・この裏庭のシーンは次のような観点から見ることもできる。

《裏庭の入口は薄暗くて裏庭は離れの光がこぼれている。というようなライテングでした。裏木戸から茂兵衛が羽織を被り物のように頭上を被って入ってくるのです。その時はシルエットのようですが離れ座敷の漏れた灯りの処でパラリと被り物を外します。すると、綺麗な長谷川さんが現れたのです。思わず助監督の土井さんと私が顔を見合わせたのです。「又、長谷川さんが現れた。いかれたねぇ。」あの汚い小屋にいて、山道を歩いて来てこんなに奇麗なはずはありません。茂兵衛がおさんと会う強烈な再会の恋情が爆発するのですが、監督の文句は何もありませんでした。これから後の芝居も音楽も歌舞伎の下座音楽風に変わります。》(宮嶋八蔵「溝口健二監督の映画作法 近松物語」)

 

<琵琶湖舟上/愛宕山山中>

・「もう、あの家に居とうないのや」と嘆くおさんの逃避行だったが、次々と迫る追っ手に嫌気をさしてしまい、生きて恥をさらすのは嫌や、といっそ死のうと決意する。茂兵衛は宥め、止めつつも、「参りましょう、お供いたします」と付いてゆく。溝口の「宿で、二人ができるのは困ります。それから琵琶湖で死のうというのではだめですよ。二人は死のうと思ってゆくんです。舟にのって死のうとしたときに、二人の気持が出るんだと思います。すると急に死ぬのが惜しくなるんです。芝居というものはそういうものだと思います。総体にそういうところがないんです。」に従って書き直された、琵琶湖への死出の舟の漕ぎ出し(『瀧の白糸』(1933)、『残菊物語』(1939)、『名刀美女丸』(1945)、『歌麿をめぐる五人の女』(1946)、『お遊さま』(1951)、『雨月物語』(1952)、『山椒大夫』(1953)など、途切れることなく何らかの形で出現する、溝口作品になくてはならない舟のシーン)は、いまだ主従関係が持続した道行だった。

《茂兵衛 おさんさま。おかくごはよろしゅうございますか。

(おさん、帯を茂兵衛に渡す)(茂兵衛は帯で膝上を幾重にも縛ってゆく)

おさん 私のために、お前をとうとう死なせるようなことにしてしもうて。許しておくれ。

茂兵衛 何をおっしゃいます。茂兵衛は、喜んでお供するのでございます。いまわの際なら、罰もあたりますまい……この世に心が残らぬよう、ひとことお聞き下さいまし。(茂兵衛が結び目を作る)茂兵衛は……、茂兵衛はとうから、あなたさまを、お慕い申しておりました。(おさんの膝を抱きしめる)

おさん ええっ。私を?

茂兵衛 はい。さあ。しっかり、しっかりつかまっておいでなされませ。さあ。(二人して立ち上がる)おさんさま。どうなされました。お怒りになりましたのか。(茂兵衛はしゃがみこむ)悪うございました。

おさん (かがみこんで)お前の今の一言(ひとこと)で、死ねんようになった。

茂兵衛 今さら、何をおっしゃいますか。

おさん 死ぬのはいやや、生きていたい。茂兵衛!(おさん、茂兵衛にしがみつく)》

 

・撮影の裏話として、溝口監督は長谷川一夫にも遠慮することなく、「形芝居は駄目」、「反射して」と注文していたと知る。

《茂平がおさんと小舟の中で心中しょうとするところ、いまわの水際の恋情の打ち明けでおさんもそれに感動して愛の爆発となる。芝居の動きが激しくなるから船も揺れるだろう、その揺れを助けようと水の中へ入ると監督が腕を掴んで「いらん!」と言われました。監督は俳優に「君ッ… 茂兵衛ですよッ。形芝居は駄目です!反射して下さい。気持ちが爆発するんだよ!胸が突き当たるんだ!」 NG本番……そして二人は狂気のようにぶつかり抱き合ったまま舟底に転げる。OKとなる。当然舟は抱き合いと転倒の衝撃で強烈に揺れていました。(おさんの方が先に茂兵衛の胸に飛び込んでいたのです。)》(宮嶋八蔵「溝口健二監督の映画作法 近松物語」) 

 

・琵琶湖で結ばれてから最初におさんと茂兵衛が登場するシーンは山の中だ。茂兵衛の実家がある丹波へと向かう愛宕山の峠の貧しい茶屋で、茂兵衛はおさんのくじいた足を濯ぐ。老婆が薬を塗ろうとして漏らす「土の上を踏んだこともないような足やな」との声に、おさんは眉を曇らせる。おさんの手当てをした茂兵衛は、嵯峨村の高札でお上が探しているのは茂兵衛だけであり、自分だけ逃げるか、お縄になれば、おさんは大経師の内儀に戻ることができると考えて、一人離れる。

 茶屋の老婆が外を眺めながら「連れさんはどうしたんや」と尋ねると、おさんは「えっ!」とばかりに同じ方向を向く。おさんの強い眼差しが、初めての自立を現わすようで素晴らしい。おさんは足を引きずりながら「茂兵衛!」、「茂兵衛!」と叫んで斜面を駈け下り、茂兵衛を追う。斜面を下りきった茂兵衛は炭焼小屋に隠れ、耳を塞いで苦悶する。おさんが倒れるや、茂兵衛は飛び出してきておさんの足首をさすり、口づけする。

《おさん 私は、お前なしで生きていけると思うてるのか。お前はもう、奉公人やない。私の夫や。旦那様や。

茂兵衛 悪うございました。悪うございました。もうお側を離れません。離れません。……》

 二人は抱き合って転がり、おさんが上になって悦びに嗚咽する。はじめて主従の逆転が起こった。

 木下千花は『溝口健二論 映画の美学と政治学』の註に、《この演出[ミザンセヌ]はまさに溝口システムの精髄を示す。香川京子によると、「何度もテストを繰り返すうちに私、疲れて、走っていてバッターンと倒れちゃった。わざとでなく。そしたらカーッと気持ちが高揚してきましてね、夢中でぶつかっていったら、監督さんが、「はい、本番いきましょ」って」。(香川京子『愛すればこそ――スクリーンの向こうから』勝田友巳編(毎日新聞社)) 一方、長谷川一夫はこの場面についてこう証言している。「……おさんが足に怪我して、茂兵エがその血を吸ってやるところがありましたね。あれは茂兵エの情熱の発露でしょうが、実はあそこに歌舞伎の型が入ってるのです。あの場合、まともに女の足をもちあげちゃ醜悪ですからね、うしろへ廻ってにじりよって、ふくらはぎの方から、そっともちあげるようにしてやったわけです。溝口さんのはロングのワンカットだから、切返しがない。此方がキャメラの方へもって行くしかない。あの演技も溝口さんの注文で工夫したものですけれど、形から入ってリアルな感情を出すラヴシーンをねらったつもりです」。(長谷川一夫依田義賢「「芸」について」『時代映画』一九五五年五月号) つまり、まったく異なったタイプの演技術が溝口システムによって引き出され、結合されたのである。》

 ここで長谷川一夫が、接吻ではなく、足の怪我の血を吸っている、と語っているのはどうしたことだろう。

 

<愛死>

・内儀おさんと使用人茂兵衛が不義密通の疑いで逃亡したことによって、結局は大経師の家は取りつぶし、闕所(けっしょ)となる。冒頭に繁盛している店の様子が俯瞰され、最後には廃墟となってゆく店内が映し出される。大経師以春と手代助右衛門は、お取潰しを気にするだけで、おさんと茂兵衛の関係そのものには、ほとんど頓着していない。そもそも以春の怒りは、執心していた女中お玉(南田洋子。当初の企画では、香川京子がお玉で、木暮実千代がおさんだった)に袖にされ、しかもお玉と茂兵衛が通じているのではないかとの疑念による。『近松物語』は家が潰れることに右往左往する以春と助右衛門、岐阜屋道喜と母おこう(浪花千栄子)の悲喜劇でもある。

おさんと茂兵衛はおさんの母に、大経師の家だけでなく実家の岐阜屋までつぶしてしまうのか、と諭されてはじめて、「家」に思いをはせる。大経師を取り巻く高い階層の人物たち(鞠小路侍従(十朱久雄)、公卿の諸太夫(荒木忍)、院の経師以三(石黒達也)、)も、おさんの実家(岐阜屋道喜、おさんの母おこう)もみな、『浪華(なにわ)悲歌(エレジー)』撮影時に溝口が発した「かんきつ(・・・・)」という奇妙な語の面々である。

《「かんきつ(・・・・)だよ。かんきつ(・・・・)な人間を描いてもらいたいんだよ。かんきつ(・・・・)、みんなえげつない奴ばっかりだよ、この世の中は」と、しきりに、この「かんきつ」という言葉をいうのです。辞書をひいてみればわかったのでしょうが、奸譎という字であろうと思っただけで、後に正しくはかんけつと読むことを知りましたけれど、ねじけた、いつわりの多いという意味でわたしは、溝さんが歯をかむようにしていう語気からして、油断のならない、腹黒な、あるいは、手きびしい、非人情な世界という人間を書けという風に受けとりました。》(依田義賢依田義賢 人とシナリオ』)

 

木下千花は『溝口健二論 映画の美学と政治学』で「閉域と性愛」と題して、『近松物語』の閉塞的社会と性愛による解放について論じた。

《『近松物語』の「閉域」は大経師の屋敷であるとさしあたり述べた。しかし、おさん茂兵衛にとって屋敷からの脱出は「解放」として機能しない。この映画の中盤の息詰まる緊張感は、二人の道行きを常に追っ手に脅かされながらの逃避行として構築することによって生み出されている。おさん茂兵衛のシークェンスには、伏見の船宿で二人の間を勘ぐる女中、街道筋で通行人を詮議し二人を捜す所司代の役人たち、堅田の宿での役所への通報、と常に二人を監視し脅かす者の存在がある。さらに、伏見の船宿と街道の間には大経師の屋敷での初暦の売り出し、おさんの実家である下立売の岐阜屋のシークェンスをはさむことで、二人を捜し、追う側の対応も克明に伝えている。おさん茂兵衛の動向は大経師に伝えられて新たな戦略に帰結し、下立売りに送った金と手紙は届いて兄の感謝と母の心配の念を引き起こす、というように、二人は屋敷を出奔しても交換と承認のネットワークに絡め取られたままなのだ。すなわち、大経師の屋敷内に空間化されていた権力関係としがらみの閉域には、その実、「外部」などなかったのである(中略)

 負債と贈与のネットワークと封建的社会関係が出奔した後でもおさん茂兵衛を縛り続けるという構想は、原作や歴史学というよりは、明らかに溝口のものであった。『近松物語』の偉業は、あくまで映画の時空間の語りと演出(ミザンセヌ)によって、それが生み出す物語世界全体をさながら「閉域」に転換したことにある。

 このように物語世界全体が閉域と化してしまったとき、どこに脱出が、「外部」がありうるだろうか。性愛と死のなかに、というのが『近松物語』の明快な回答である。桑原武夫の『近松物語』論からは、この回答が同時代においてはっきりと認知されていたことが見て取れる。

「寝床の入れかわりでの結ばれが、湖上の小舟までもちこされ、そこで死ぬ前ならといって茂兵衛が以前からの愛着を告白する。その告白が劇の転回点となるのだが、あの発言は偶然ではなくて必然なのである。

 必然によって、愛するものは追手をよそに湖上に契る。何という大胆さ。しかし宿命であれば他に道はないのだ。そして、その契りを契機としておさんに新しい世界がひらける。それは愛慾ひとすじの世界と見えるが、しかも恋愛至上主義ではない。むしろ必死の生活至上主義とでもいおうか。二人は生きようとするのだが、あのさい生きるとは愛撫以外ではありえぬだけである。そうした生への意欲によって、二人は封建社会を批判する――捕えらえて刑場への引きまわしの場面で、しばられた馬上で茂兵衛と堅くにぎり合うおさんの手と、その明るい顔が封建の暗さにスポットライトをあて、その究極的批判となっている。」》

 

松浦寿輝は、『祇園囃子』(木暮実千代若尾文子)にフォーカスして、「横臥と権力――溝口健二」論を書いたが、その構造は『近松物語』にも適用しうる。

《虐げられた女たちに視線を向けることを彼が好んでいたとわれわれが言うとき、それは何も、異性が苦しむところを見ることに快感を覚えるサディストだったという意味ではない。ただ、権力に刺し貫かれた非対称的な人間関係を劇として造型することが溝口の情熱だったのであり、溝口映画の偉大さはひとえにこの情熱の強度にかかっているという点を確認しておきたいのだ。溝口映画が弱者に対する不正や抑圧を告発しているなどというのはジャーナリズムの建前論にすぎない。不均衡と非対称の視覚化に捧げられたこうした情熱にとっては、誰もが同じ権利を均等に分かち持つ平等社会など、劇的葛藤の強度を殺してしまう退屈このうえもない環境としてもっとも忌み嫌うところだったはずだからである。溝口の徹底的に反=民主主義的な視線によって権力の磁場が物質的に露呈する。彼の造型する空間には、非対称的な力の関係が絶えずぴりぴりと張りつめているのだ。(中略)

 彼の関心は、広い意味で封建的と形容されうるだろう権力の戯れにある。性別や生まれの貴賤や親から受け継いだ遺産の多寡であらかじめ振り分けられてしまっている強者と弱者とが繰り広げる葛藤の、誰も免れようのない残酷さと、その残酷さゆえの官能的な戦慄にある。彼が現代劇よりは時代劇を多く撮り、封建時代の権力者を描くことを好んだのは、このことのゆえである。「女の哀れ」が溝口の主題だったというのも、それがこうした意味での政治空間の一要素をなすかぎりにおいてのことだったにすぎない。溝口が執着するのは、『赤線地帯』の場合であろうと、性ではなくあくまで権力である。性は、金銭と同じく、溝口においては権力を露呈させるための口実でしかない。彼は、トリュフォーのように女をひたすら愛の対象として描きたかったのではなく、権力空間で必ず弱者の地位に置かれる力学的存在としての女に関心を持ったにすぎない。芸妓や娼婦のような、肉体を金銭に縛られた女性たちの自由と不自由、主体性と隷属の葛藤の主題へのあれほどの執着も、ここから来るものだ。そして、それが女だろうが男だろうが、個人の意思と肉体が無慈悲な権力の磁場に絡め取られ、抜き差しならぬ闘いに疲れてゆるやかに敗北してゆくとき、溝口健二の映画的感性は、そこに官能的な、いやほとんど性的な戦慄を覚え、残酷な興奮にうち震える。》

 ラストシーンの引きまわしを見ながら、大経師の元使用人たちは、「お家さんのあんな明るいお顔を見たことがない。茂兵衛さんも晴れ晴れした顔色で。ほんまに、これから死なはるのやろか」と噂するが、二人の顔、頭の作りは非リアリズムな歌舞伎舞台の美しさに仕立てられていて、「個人の意思と肉体が無慈悲な権力の磁場に絡め取られ、抜き差しならぬ闘いに疲れてゆるやかに敗北してゆくとき、溝口健二の映画的感性は、そこに官能的な、いやほとんど性的な戦慄を覚え、残酷な興奮にうち震える」明るい二人を、「愛死」に他ならないと噂する群衆を、下座音楽とともに表現しつくしている。

そこにあるのは、「普遍性」、「真実の生」に違いなく、J=L・ゴダールエリック・ロメールは、溝口健二への敬意を捧げた。

 

ゴダールは、「エキゾチズムという、魅力的だが低次元の段階を決定的に乗り越えて、より高い水準に達している」(ジャン=ジョゼ・リシュ『カイエ・デュ・シネマ』40号)との溝口評を引用してから、溝口の「偉大な映像作家の特質」である「効果と表現の簡潔さ」に感嘆した。

《溝口の撮る映画には、その各瞬間、各ショットの詩があらわれる。(中略)彼のヒロインたちはみんな同一人物であって、トマス・ハーディのアーバーヴィル家のテスに不思議と似通っている。彼女たちの身に、最悪の不幸がつぎつぎにふりかかる。溝口は、ラルフ・アビブ(訳注:通俗的な中級作品が多い)が少しばかりましな衣装をまとった程度の監督にすぎない黒澤とは違って、娼家に特殊な愛着を示しているが、美的なもののまやかしの魅力に閉じこもるようなことは決してしない。彼は、古い日本を再現する時、逸話や安っぽいけばけばしさを越えて、たとえば「フランチェスコ・神の道化師」(訳注:ロッセリーニ監督作品)のなかにしか見出せないような素晴らしく冴えた技巧で、われわれになまの真実を解きはなつ。今まで一度も、われわれは、中世がこれほど強烈な雰囲気をもって存在しているのを、この目で見たことはなかった。(中略)

 溝口健二の芸術は、「真実の生は別のところにある」、しかし生は、みずからの不思議な輝かしい美のなかにこそある、という二つの事柄を同時に証明してみせる点にある。》(J=L・ゴダール「簡潔さのテクニック」)

 

ロメールは、《「近松物語」の監督が日本人のなかでも最も日本人的な人間であるか否かはわたしたちにとってどうでもいいことだ。というのも、そうしたことにもかかわらず――あるいは、そうしたことゆえにこそ――彼は最も普遍的な監督であるからだ。彼がわたしたちにとってきわめて近い存在に感じられるとしたら、それは彼が西洋の文化を剽窃したからではなく、はるかかなたの遠い地点からやって来て、わたしたちと同じ本質の概念にたどり着いたからだ。それを抽象化と呼ぼうが、総合化と呼ぼうが、表現主義と呼ぼうが、そうした名称はどうでもいいことだ》に続けて、

《十八世紀の有名な作家である近松の戯曲をもとにしたこの映画(「近松物語」)の主題は、どこかトリスタンとイゾルデを思わせる。裕福な経師の妻が、夫が女中に言い寄っている現場を押さえようとして、不運の連続で、逆に使用人の茂兵衛と不実を働いていると夫から非難されるはめになる。彼女は、その忠実な使用人に付き添われて、両親のもとに身を隠そうと、家を出る。だが、この時代に、姦通は法によって厳罰に処せられることになっていた。姦通した男女には磔の刑が待っているし、夫には妻とその愛人を告発することが義務づけられていた。そこで夫は逃げたふたりを密かに捜させ、わたしたち観客はふたりが山や森のすばらしい景色のなかを逃げまどうさまを見ていくことになる。許されないはずの愛をたがいが告白するのはこの逃避行の最中においてなのだ。一方、傲慢で放蕩者の経師は周囲に敵をつくってしまっていた。当局に通報がなされてしまい、逃げたふたりは捕まって磔にされ、夫の財産は没収されることになる。こうして続けざまに避けようもなく襲ってくる不幸――悪いほうへとばかり向かう偶然の一致と信じがたいような不手際によって引き起こされる不幸――は、わたしたちを鼻白みさせかねないところだが、そうしたものは並のものではない犠牲精神、そして、たがいの魂はあの世でまた再会できるのだから愛は死を乗り越えるのだという観念を称揚するためのものにすぎないのだ。》(エリック・ロメール「才能の普遍性」)

                             (了)

      *****引用または参考文献*****

*『国際シンポジウム溝口健二 没後50年「MIZOGUCHI2006」の記録』(蓮實重彦山根貞男阿部和重井口奈己柳町光男山崎貴「シンポジウム 日本における溝口」、香川京子若尾文子「女優の証言」、田中徳三「助監督の証言」、蓮實重彦「言葉の力 溝口健二『残菊物語』論」他所収)(朝日新聞社

*『ユリイカ 特集 溝口健二あるいは日本映画の半世紀(1992.10)』(J=L・ゴダール「簡潔さのテクニック」保苅瑞穂訳、エリック・ロメール「才能の普遍性」谷昌親訳所収)(青土社

*『季刊リュミエール4 日本映画の黄金時代』(蓮實重彦「翳りゆく時間のなかで 溝口健二近松物語』論」所収)(筑摩書房

松浦寿輝『映画 1+1』(「横臥と権力――溝口健二」所収)(筑摩書房

四方田犬彦編『映画監督 溝口健二』(新曜社

木下千花溝口健二論 映画の美学と政治学』(法政大学出版局

溝口健二、佐相勉『溝口健二著作集』(キネマ旬報社

新藤兼人『ある映画監督 溝口健二と日本映画』(岩波新書

佐藤忠男溝口健二の世界』(平凡社ライブラリー

依田義賢溝口健二の人と芸術』(田畑書店)

依田義賢依田義賢 人とシナリオ』(「シナリオ 近松物語」所収)(日本シナリオ作家協会

ドゥルーズ『シネマ1 運動イメージ』財津理、齋藤範訳(法政大学出版局

*前田晃一「《レポート》映画講座 万田邦敏監督による「溝口健二論」」(神戸映画ワークショップ)

*宮嶋八蔵「日本映画四方山話」(「溝口健二監督の映画作法 近松物語」)

香川京子『愛すればこそ スクリーンの向こうから』勝田友巳編(毎日新聞社

*『桑原武夫全集3』(「映画論 「近松物語」の感動」所収)(朝日新聞社

*『キネマ旬報特別編集 溝口健二集成』(秋山邦晴「「近松物語」の一音の論理」所収)(キネマ旬報社

文楽床本『おさん茂兵衛 大経師昔暦』(国立劇場

*廣末保『近松序説』(未来社

水上勉近松物語の女たち』(「おさん――『大経師昔暦』」所収)(中公文庫)

*『日本古典文学大系 近松浄瑠璃集(上)』(「大経師昔暦」所収)(岩波書店

*『川口松太郎全集14』(「おさん茂兵衛」所収)(講談社

井原西鶴好色五人女』(「巻三 中段に見る暦屋物語」所収)(角川ソフィア文庫