文学批評 『花柳小説名作選』を読む(1) ――永井荷風『あぢさゐ』

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 『花柳小説名作選』(丸谷才一選。以下『名作選』と略す)から永井荷風『あぢさゐ』、徳田秋声『戦時風景』、舟橋聖一『堀江まきの破壊』の三作品を読む。

 荷風は別格として、徳田秋声舟橋聖一の二人はかつて大家でありながら今ではほとんど忘れられているものの、読めば『名作選』の中でも指折りの名作にふさわしい。

 荷風『あぢさゐ』が昭和六年、秋声『戦時風景』が昭和十二年、聖一『堀江まきの破壊』が昭和二十三年の発表だから、大正から昭和前半への花柳社会の衰退、下降を、作家たちの目が冷徹に見据えていたと知る。

 荷風『あぢさゐ』と秋声『戦時風景』に共通するものは男が「芸人・三味線ひき」なことであり、秋声『戦時風景』と聖一『堀江まきの破壊』に共通するのは『アンナ・カレーニナ』を読む女であり、聖一『堀江まきの破壊』と荷風『あぢさゐ』では「葭町(よしちょう)(芳町)」という場(ば)・空間である。

 

 なぜ「花柳小説」などをという向きがあるかもしれないので、『名作選』巻末の丸谷才一野口冨士男の対談から、丸谷の「にせの市民社会としての花柳界」という批評的文明論を紹介しておく。

丸谷 いろいろな種類の人間が出会ったり別れたり、愛したり憎んだりすることによってできる模様を書いて、それでなにかを表現する、というのがごく普通の西洋風の小説の考え方だろうと思います。

 ところが明治以降の日本の社会では、身分や階級、職業の違いなどにあまり関係のない市民社会というものができなかったせいで、男と男でも、なかなか自由に出会うことがなかった。まして男と女となると、出会う機会が、まことに少ない。娘たちは家の外へ出してもらえないし、奥さんもよその男と話をすることはめったにない。そういう種類のたいへん窮屈な、洗練されていない社会であった。

 そんなふうに垣根が幾つもあるような、洗練度の低い社会で小説を書くのは、非常に厄介なことだったと思うんですが、そういうなかで、人間と人間がわりに自由な感じで出会うことができる場所はわずかにあって、それが花柳界だったんですね。》

                ******

 永井荷風『あぢさゐ』>

 

駒込辺を散策の道すがら、ふと立寄つた或寺の門内(もんない)で思ひがけない人に出逢つた。まだ鶴喜太夫が達者で寄席へも出てゐた時分だから、二十年ぢかくにもならう。その頃折々家(うち)へも出入をした鶴沢宗吉といふ三味線ひきである。

「めづらしい処で逢ふものだ。変りがなくつて結構だ。」

「その節はいろ/\御厄介になりました。是非一度御機嫌伺ひに上らなくつちやならないんで御在ますが、申訳が御在ません。」

「噂にきくと、その後商売替をしなすつたといふが、ほんとうかね。」

「へえ。見切をつけて足を洗ひました。」

「それア結構だ。して今は何をしておいでだ。」

「へえ。四谷も大木戸のはづれでケチな芸者家をして居ります。」

「芸人よりかその方がいゝだらう。何事によらず腕ばかりぢや出世のできない世の中だからな。好加減に見切をつけた方が利口だ。」

「さうおつしやられると、何と御返事をしていゝかわかりません。いろ/\込入つたわけも御在ましたので。一時はどうしたものかと途方にくれましたが、今になつて見れば結句この方が気楽で御在ます。」

「お墓まゐりかね。」

「へえ、先生の御菩提所もこちらなんで御在ますか。」

「なに。何でもないんだがね。近頃はだん/\年はとるし、物は高くなるし、どこへ行つても面白くないことづくめだからね。退屈しのぎに時々むかしの人のお墓をさがしあるいてゐるんだよ。」

「見ぬ世の友をしのぶといふわけで。」

「宗さん。お前さん、俳諧をやんなさるんだつけね。」

「イヤモゥ。手前なんざ、唯もう、酔つて俳徊する方で御在ます。」

 話をしながら本堂の裏手へ廻つて墓場へ出ると、花屋の婆は既にとある石塔のまはりに手桶の水を打ち竹筒の枯れた樒を、新しい花にさしかへ、線香を手に持つて、宗吉の来るのを待つてゐた。見れば墓石もさして古からず、戒名は香園妙光信女としてあるので、わたしは何心もなく、

「おふくろさんのお墓かね。」

「いえ。さうぢや御在ませむ。」と宗吉は袂から数珠を取出しながら、「先生だからおはなし申しますが、実は以前馴染(なじみ)の芸者で御在ます。」

「さうかい。人の事はいへないが、お前さんも年を取つたな。馴染の女の墓参りをしてやるやうな気になつたかな。」

「へゝえ。すつかり焼きがまはりました。先生お笑ひなすツちやいけません。」と宗吉はしやがむで、口の中に念仏を称へてゐたが、やがて立上り、「先生、この石塔も実は今の嚊には内々(ないない)で建てゝやつたんで御在ます。」

「さうか。ぢや大分わけがありさうだな。」

「へえ。まんざら無いことも御在ません。親爺やお袋の墓は何年も棒杭のまゝで、うつちやり放しにして置きながら、頼まれもしない女の石塔を建てゝやるなんて、いゝ年をしていつまで罰当りだか、愛想がつきます。石がたしか十円に、お寺へ五円、何のかのと二拾円から掛つでゐます。」

「どこの芸者衆だ。」

「葭町の房花家(ふさはなや)といふ家にゐた小園(こその)といふ女で御在ます。」

「聞いたことのあるやうな名前だが。」

「いえ。とても旦那方の御座敷なんぞへ出た事のあるやうな女ぢや御在ません。第一看板がよくない家(うち)でしたし、芸もないし、手前見たやうなものでも、昼日中一緒につるんで歩くのは気が引けたくらゐで御在ましたからね。芸者の位といふものは見る人が見るとすぐわかるもので御在ますからね。」

 寺の門前に折好く植木屋のやうな昔風な家(や)づくりの蕎麦屋が在つたので、往来際の木戸口から小庭の飛石つたひ、濡縁をめぐらした小座敷に上つて、わたしは宗吉のはなしを聞いた。

     *         *         *         *  》

             

・『名作選』巻末の丸谷才一野口冨士男による「<対談解説>花柳小説とは何か」から、『あぢさゐ』に言及された会話を見ておこう。

野口 ぼくはこれ、どうして「あぢさゐ」って題名なんだろうと思っていたんですよ。そうしたらアジサイっていうのは、どんどんいろ(・・)が変るんですね。いろ(・・)というのは色彩ですけれども、情夫という意味もある。

 ふつうオーソドックスな花柳小説では、男が女をかえるのに、この場合は逆に、女が男をかえている。そういう意味でもこれは、大変な作品ですね。

丸谷 なるほど。たしかにそうですね。ぼくはアジサイの花の一種の頽廃感があるでしょう、花がだんだん崩れていく感じ……荷風はそういう感じを非常に愛していて、「あぢさゐや身を持崩す庵のぬし」という句を詠んだくらいですから、アジサイの花の崩れていく感じを、いろいろな男のせいでだめな女になっていく女主人公のなかに見てつけたのかと思っていました。

野口 それもあるでしょうけれど、戦前の東京では小さな貸家でも、陽の当らない猫の額ほどの庭があって、そこにアオキやヤツデ、イチジク、アジサイなんかを植えてあった。ところが、お妾さんの家にはアジサイを植えちゃいけなかったんですって。いろ(・・)がかわるといけないから(笑)。それを聞いたときに、あ、それで荷風のあれも『あぢさゐ』なのかと……。

丸谷 面白いですね。たしかにたいていの花柳小説では男が女をかえる、つまり男性中心的な書き方ですね。

野口 芸者が役者買い、相撲買いをするといっても、普通は男の玩弄物ですよ。荷風の場合は女性の主人公に、非常に好色な女が多い。

丸谷 「腕くらべ」が役者買いの小説ですね。

野口 そうですよね。あのモデルは十五世の羽左衛門だといわれているわけですけれども……》

(ちなみに、『腕くらべ』の瀬川一糸のモデルは、十五世市村羽左衛門とも(相磯凌霜(あいそりょうそう)『腕くらべ余話』)、三世坂東(ばんどう)秀調(しゅうちょう)とも(吉田精一永井荷風』)言われるが、荷風は一人のモデルから作中人物の造形をしないことを自慢していたから、若いころ歌舞伎座作者部屋で働いたときの歌舞伎界の裏表の見聞を基に(荷風『書かでもの記』)、ちょうどそのころ荷風と結婚し、半年で離婚し、しかしその後も付き合いがあった新橋巴家(ともえや)の八重次(のちの藤蔭静枝)から艶聞を聞かされていたはずの羽左衛門、合評会などで交流があった秀調(彼の父金子翁と八重次とは親しかったので結婚式で八重次の仮親元となった。荷風『矢はずぐさ』)、作劇を依頼されたものの黙阿弥のようには上手く書けず苦しむことになったり、八重次との結婚では仲人を務めてもらうなど、生涯に渡って蜜のごとき親しさだった二世市川左団次近藤富枝荷風と左団次』)らの多重映像と考えるのが妥当で、これ以上にモデル探しをしても荷風の言葉どおり虚しい。)

・「問わずがたり」的な短編小説の構成、枠組みの技巧、工夫があって、話者に語らせる明治大正期の常套とはいえ、小説形式への美意識は、なにもジッド『贋金使い』の小説のなかの小説形式を用いた『濹東綺譚』に始まったわけではない。

・町や墓地を散策する「日和下駄」の荷風散人を思わせもする「先生」と呼ばれた旦那の、「~かね」「~だ」の無愛想、ぞんざいなのは脇役がうるさくならないためであるのと、対比して三味線ひき宗吉の「御在ます」「御在ます」という腰の低さに、社会的な芸人の地位、上下関係がみてとれる。

・「戒名は香園妙光信女」に、執筆当時に荷風が関係した女「園香」のうっすらとした刻印がある(荷風は登場人物にモデル等の名前を改変流用することはまずないが、それでも穿てば、三味線ひき「宗吉」に荷風こと本名永井壮吉の見果てぬ影がある)とは、荷風研究家秋庭太郎も指摘していた。

・《いえ。とても旦那方の御座敷なんぞへ出た事のあるやうな女ぢや御在ません。第一看板がよくない家(うち)でしたし、芸もないし、手前見たやうなものでも、昼日中一緒につるんで歩くのは気が引けたくらゐで御在ましたからね。芸者の位といふものは見る人が見るとすぐわかるもので御在ますからね。》に「葭町(よしちょう)」という場の位置づけと、芸者の格が表象されている。

  

《「もうかれこれ十四五年になります。手前が丁度三十の時で御在ました。始めて逢つたのは芳町ぢや御在ません。下谷のお化新道で君香といつて居りました。旦那の御屋敷へ御けいこに上つて御酒をいたゞいた帰りなんぞに逢引をした事が御在ました。その時分には、アノ、旦那もたしか御存じの通り、新橋に丸次といふ色がありましたが、然し何をいふにも血気ざかり。いくら向からやんや言はれても、いやに姉さんぶつた年上の女一人、後生大事に守つちやゐられません。御贔屓の御座敷や何かで、不時の収入(みいり)がありますと、内所で処かまはず安い芸者を買ひ散らしたもんで御在ます。一人きまつたのがあつて、それで方々遊び歩くのは、まづ屋台店の立喰といふ格で、また別なもんで御在ます。ネエ、先生。はじめて湯島天神下の小待合で君香を買つたのもそんなわけで御在ます。何しろ十時頃に上つて十二時過には家へ帰つてゐやうといふんですから、女のよしあしなんぞ択好(よりごの)みしちや居られません。何でも早く来るやつをと、時計を見ながら、時によると、女の来ない中から仕度をさせ、腹ばひになつて巻烟草をふかし、今晩はといつて手をつくやつを、すぐに取(とつ)つかまへるといふやうな乱暴なまねをした事もあります。その晩もまづさういつた調子です。暫くして座敷へ来たのを見ると思つたよりは上玉でした。何も彼も忘れずにおぼえて居ります。衣裳は染返しの小紋に比翼の襟が飛出してゐるし半襟の縫もよごれてゐる。鳥渡見ても、丸抱(まるがゝへ)で時間かまはずかせぎ廻される可哀さうな連中です。つぶしに結つた前髪に張金を入れておつ立てゝゐるので、髪のよくない事が却て目につきました。しかし睫毛の長い一重目縁の眼は愛くるしく、色の白い細面のどこか淋しい顔立。それにまた撫肩で頸が長いのを人一倍衣紋をつくつた着物のきこなしで、いかにもしなやかに、繊細(かぼそ)く見える身体つき。それに始終俯向加減に伏目になつて、あまり口数もきかず、どこかまだ座敷馴れないやうな風だから、いかにも内輪なおとなしい女としか思はれません。長くこんな商売をしてゐられる身体ぢやない。さぞ辛い事だらうと、気の毒な心持になつたのが、そも/\間違のはじまりです。人は見かけによらないといふ事がありますが、この女ほど見かけによらないのもまづ少う御在ます。」

「柄にもない。一杯食されたんだね。」

「まアさうで御在ます。後になつて見れば、女の方ぢや別にだまさうと思つてかゝつた訳でも無いんでせうが、実に妙な意地張りづくになつて、先生、わツしや全く人殺をしやうと思つたんで御在ます。思出すと今でもぞつといたします。ところが、わたしよりも一足先に殺した奴があつたんで、わたしは無事で助かりました。わたしの名前は好塩梅に出ませんでしたが、その事は葭町の芸者殺しといふんで新聞にも出ました。下谷から葭町へ住替をさせたのは、わたしが女から頼まれてやつた事で、其訳はこの女には〆蔵といふ新内の流しがついてゐました。地体浮気で男にほれつぼい女だとは知らないから、わたしも始めての晩、御用さへ済めば別にはなしのある訳もなし、急いで帰らうとすると、「兄さん、お願ひだから、もう一度お目にかゝらせてね。」と寝乱髪に憂(うれひ)のきく淋しい眼元。袖にすがつていきなり泣落しと来たんだから、こたへられません。全体座敷で口数をきかない女にかぎつて床へ廻つてから殺文句を言ふもんです。それから通ひ出して丁度一月ばかり。逢つた度数(かず)で申さうなら七八遍といふところ。お互に気心が知れ合つて、すつかり打解ながら、まだどこやらに遠慮があつて、お互にわるく思はれまい。愛想(あいそ)をつかされまいといふ心配が残つてゐる。惚れた同士の一番楽しい絶頂です。君香はきかれもしないのに、子供の時からいろ/\と身の上ばなしをした末に、新内語(しんないかたり)の〆蔵との馴れそめを打明け、あの人はお酒がよくないし、手慰みもすきだし、万一の事でもあると困るから、体好(ていよ)く切れたい。そのために一時この土地をはなれて、田舎へでも行かうかと言ひます。此方(こつち)はのぼせてゐる最中だから、この場合、「うむ。さうか。ぢやア行つてきねえ。」とは云へません。「お前の胸さへきまつてゐるなら、お前のからだはおれが引受けやう。そんな無分別な事をせずと、東京にゐてくれ。」と乗出さずには居られません。芸者の住替をする道は素人ぢやないから能く知つてゐます。周旋屋の手にかゝつて手数料を取られ、碌でもない処へはめ込められるより、わたし自身で道をつけてやる方が結句女の為めだと考へ、お参りからすぐに親里ヘドロンをきめさせ、借金もならう事なら今までの稼高だけでも負けさせて住替の相談をつけてやらうと考へました。君香の実家は木更津ださうで、親爺は学校か町役場の小使でもしてゐたらしい。兎に角悪い人ぢやないやうでした。わたしは一先当人を親里へ逃して置いて、芸者家へは当人から病気になつたから、二三日帰れないといふ手紙を出させ、陰に廻つて、そつと東京へ呼戻して、抱主との話がつくまで毎日逢つてゐやうと言ふんです。もと/\逢ひたい見たいが第一で、別に女を喰物にしやうといふ悪い腹は微塵もないんですから、逃す時にも当座の小遣銭(こづかひ)、それから往復の旅費、此方(こつち)へ呼もどしてから、本所石原町に知つてゐる者があつたので、その二階を借りるやら、荷物は残らず芸者家へ押へられてゐるから、さしづめ着がへの寝衣に夜具も買ふ。わたしの身にしては七苦八苦の騒ぎです。何しろ其時分は丸次の家の厄介になつてゐた身ですから、公然(おほぴら)余所(よそ)へ泊るわけには行きません。昼間か宵の中忍んで行くより仕様がないので、自然出稽古はそつちのけ、御贔屓のお客はしくじる。師匠からは大小言(おほこごと)。忽の中に世間は狭くなる。金の工面には困つてくる。さてさうなると、いよ/\つのるが恋のくせ。二度と芸者には出したくないやうな気がして来ます。いづれは住替と、話はきまつてゐるものゝ、一日でも長く此のまゝ素人にさして置きたいといふ気になつて、諸所方々無理算談をしながら、若しや、君香がそれと知つたら、済まないと思つて早く住替をしやうといふにちがひない。さう云ふ気にならせまいと、わたしは何不自由もしない顔をして、丁度夏の事でしたから、或日は明石縮一反、或日は香水を買つてやつた事もあります。貸二階にばかり引込んでゐても気が晴れまいからと、人目を忍んでわざ/\場末の活動へ連れて行き帰りには鳥屋か何かで飯をくふ。君香は何も知らないから嬉しがつて、「兄さん、わたしこの儘でかうして素人でゐられたら。」と言つて泣きます。昼間だけ逢つてゐるんぢや、もう、どうしても我慢ができない。一晩はお袋が病気だと、丸次の手前を胡麻化し、その次は時節柄さる御贔屓の別荘へお伴をすると云ひこしらへて、三日ばかりとまつて、何喰はぬ顔で新橋へ帰つて来ますと、イヤハヤ、隠すより顕るゝはなし。世間は広いやうでも狭いもの。丸次の家で使つてゐる御飯焚の婆の家(うち)が、君香のゐる家のすぐ二三軒先で、一伍一什(いちぶしじふ)すつかり種が上つてゐるとは夢にも知らないから、此方はいつもの調子で、「今更切れるの、別れるのと、そんな仲ぢやあるまい。冗談もいゝ加減にしな。」と甘く持ちかけたから猶更いけない。「宗さん。人を馬鹿にするにも程があるよ。」ときつぱり、丸次は長烟管で畳をたゝき、「お前さん、それほどあの女が恋しいなら、わたしも同じ芸者だよ。未練らしい事を云って邪魔立てはしないから、立派に世間晴れて添ひとげて御覧。憚りながらまだ男ひでりはしないからね。痩せても枯れても、新橋の丸次といへば、わき土地へも知られてゐる顔だよ。さう/\踏みつけにはされたくないからね。立派に熨斗をつけて進上するから、ねえ、宗さん、後になつていざこざのないやうに一筆書いておくんなさいよ。その代りこれはわたしの志(こゝろざし)さ。」と目の前につき付けたのは後で数へて見れば百円札が五枚。いくら仕がない芸人でも、女から手切を貰つて引込むやうな男だと、高をくゝられたのが口惜しいから、金は突返して、高慢ちきな横面(よこつつら)足蹴(あしげ)にして飛出さうと立ちかゝる途端、これさへあれば君香の前借も話がつくんだと、卑劣な考がふつと出たばかりに、何にも云はず、おとなしく証文をかいた時は、我ながら無念の涙に目がかすみ、筆持つ手も顫へました。わたくしが其後三味線引をやめたのも、芸人でなかつたらあの耻はかゝされまいと、その時の無念がわすれられなかつたからで御在ますよ。》

 

・やはり『名人選』の対談から、花柳界、芸者の「分類」と、『あぢさゐ』の眼目について。

丸谷 野口さんは前に荷風を論じたときに、芸者と客の関係を、宴席と平(ひら)の座敷と枕席の三つに分けて、荷風の書く芸者は、枕席だけの芸者である、と……。

野口 枕席だけになってしまえば、ヒロインが芸者である必要はないんで、しだいに女給を書き、密淫売を書き……というふうに移行していったんですね。「雪解」というのは、芸者から女給に移ろうとした最初の作品だと思うんですよ。

丸谷 なるほど。

野口 けれども、自分の父親が間借りしているところへ娘が来て、床の間にあった二合罎を見て「お父(とつ)さん、お上んなさいよ」とお燗つけるでしょう。あれね、やはり女給じゃないんだな。

丸谷 芸者っぽいですね。

野口 そうでしょう。女給に素材を移そうとしたけれども、筆が芸者になれている小説、という気がするんだな。もっとも当時のカフェとか女給というのは、そんなものだったのかも知れませんが……。

丸谷 その意味でも、芸者から女給への過渡期を示す短篇小説、ということになりますね。

野口 枕席だけの芸者といえば、話が前に戻りますが、『あぢさゐ』の主人公について、「箱無しの枕芸者」という言葉が出てくる。箱というのは三味線で、戦前は検番で三味線の試験があって、それを通って初めて芸者になれたくらいだから、箱は芸者の命なのに、箱なしの枕芸者となると、これはまったく芸がなくてただ寝るだけ、いわゆる不見転(みずてん)で、だれにでも買われる芸者なんだけれども、それでもやはり人間性というのがあって、好きな男ができて、いろが変って行く……というところが『あぢさゐ』の眼目ですね。

丸谷 それともうひとつの眼目は、芸人が新橋のちゃんとした芸者を色にしていながら、それよりはずっと格の低い、芸者といえないような芸者のために身を持崩していく、そういう男のなかにあるデカダンスへの傾斜……。

野口 それで殺してやろうと思ったら、ほかのやつが先に殺していた、と最後はちょっと黙阿弥の世界になるんだけれども……。

丸谷 とにかくこれは文章がうまくてね。いやになるほどうまい。芸人が急いで帰ったら、女が留守なんで、「一番怪しいのは新内の〆蔵だ。と思ふと二階へ上つてもぢつとしては居られません。何かの手がゝりをと其辺を探しても」云々とあって「それらしいもんは目につかないので、猶更(なおさら)いら/\してまた外へ出た」、この「外へ出た」がすごい。

 それまではずっと、どこかの旦那衆に話をしているわけだから、丁寧な口調でしゃべっていたのが、女を疑い始めたところで、「猶更いら/\してまた外へ出た」。いきなりざっくりした、ぞんざいな口のきき方に変る。そこで世界が事件の現場になるんですね。こうした言葉の遣い方の切れ味のよさは、大変なものですね。》

 

・丸谷の「デカダンスへの傾斜」という指摘は、次のような文章によるだろう。

《始めて逢つたのは芳町ぢや御在ません。下谷のお化新道で君香といつて居りました。旦那の御屋敷へ御けいこに上つて御酒をいたゞいた帰りなんぞに逢引をした事が御在ました。その時分には、アノ、旦那もたしか御存じの通り、新橋に丸次といふ色がありましたが、然し何をいふにも血気ざかり。いくら向からやんや言はれても、いやに姉さんぶつた年上の女一人、後生大事に守つちやゐられません。御贔屓の御座敷や何かで、不時の収入(みいり)がありますと、内所で処かまはず安い芸者を買ひ散らしたもんで御在ます。一人きまつたのがあつて、それで方々遊び歩くのは、まづ屋台店の立喰といふ格で、また別なもんで御在ます。ネエ、先生。はじめて湯島天神下の小待合で君香を買つたのもそんなわけで御在ます。何しろ十時頃に上つて十二時過には家へ帰つてゐやうといふんですから、女のよしあしなんぞ択好(よりごの)みしちや居られません。何でも早く来るやつをと、時計を見ながら、時によると、女の来ない中から仕度をさせ、腹ばひになつて巻烟草をふかし、今晩はといつて手をつくやつを、すぐに取(とつ)つかまへるといふやうな乱暴なまねをした事もあります。その晩もまづさういつた調子です。》(なぜか荷風は、「葭町」と「芳町」を混在して使っている。)

《衣裳は染返しの小紋に比翼の襟が飛出してゐるし半襟の縫もよごれてゐる。鳥渡見ても、丸抱(まるがゝへ)で時間かまはずかせぎ廻される可哀さうな連中です。つぶしに結つた前髪に張金を入れておつ立てゝゐるので、髪のよくない事が却て目につきました。》

・こういった遊びに関する、荷風らしい箴言、決め台詞なら、《一人きまつたのがあつて、それで方々遊び歩くのは、まづ屋台店の立喰といふ格で、また別なもんで御在ます。》をはじめいくつかある。《全体座敷で口数をきかない女にかぎつて床へ廻つてから殺文句を言ふもんです。それから通ひ出して丁度一月ばかり。逢つた度数(かず)で申さうなら七八遍といふところ。お互に気心が知れ合つて、すつかり打解ながら、まだどこやらに遠慮があつて、お互にわるく思はれまい。愛想(あいそ)をつかされまいといふ心配が残つてゐる。惚れた同士の一番楽しい絶頂です。》

  

《然し五百円をふところにして丸次の家を出ると、其場の口惜しさ無念さは忽ちどこへやら。今し方別れたばかりの君香に逢ひ借金を返すはなしをしたら、どんなに喜ぶことだらうと思ふと、もう矢も楯もたまりませむ。電車の来るのも待ちどしく、自動車を飛して埋堀(うめぼり)の家へかけつけて見ると、夏の夜ながら川風の涼しさ。まだ十二時前なのに河岸通から横町一帯しんとして、君香の借りてゐる二階の窓も、下の格子戸も雨戸がしまつてゐます。戸を敲くと下の人が、「お帰んなさい。」と上り口の電燈をひねつて、わたしの顔を見、「あらお一人。」といふから、「お君は。」と問ひ返すと、「御一緒だと思つたら、ほゝゝゝほ。」と何だか雲をつかむやうなはなし。いつものやうに君香は先刻(さつき)わたしの帰るのを電車の停留場まで送つて行き、それなり家へはまだ戻らないのだな。明日(あした)の昼頃までおれの来ないのを承知してゐるからは、事によると今夜は帰るまい。どこへ行きやアがつた。前々から馴染のお客もないことはあるまい。一番怪しいのは新内の〆蔵だ。と思ふと二階へ上つてもぢつとしては居られません。何かの手がゝりをと其辺をさがしても衣類道具は、まだ下谷の芸者家へ置いたまゝの始末だから、こゝには鏡台一ツなく、押入には汚れたメレンスの風呂敷づゝみが一つあるばかり。それらしいものは目につかないので、猶更いら/\してまた外へ出た。

 埋立をした河岸通は真暗で人通りもなく、ぴた/\石垣を甞める水の音が物さびしく耳立つばかり。御厩橋を渡る電車ももうなくなつたらしく、両国橋の方を眺めても自動車の灯が飛びちがふばかり。ひや/\する川風はもうすつかり秋だ。向河岸の空高く突立つてゐる蔵前の烟突を掠めて、星が三ツも四ツもつゞけざまに流れては消えるのをぼんやり見上げながら、さしづめ今夜はこれからどこへ行かう。新橋はもう縁が切れてゐる。こゝに持つてゐる五百円。あんなに耻をかゝされて、手出しもならず。押しいたゞいて貰つて来たのは、そも/\誰のためだ。玉子の殻がまだ尻ツペたにくつゝいてゐる不見点(みずてん)のくせにしやがつて、よくも一杯喰はせやがつたな。胸糞のわるいこんな札(さつ)びらは一層(いつそ)の事水に流して、さつぱりしてしまつた方がと、お蔵の渡しの近くまで歩いて来て、ぢつと流れる水を見てゐますと、息せき切つて小走りに行過る人影。誰あらう、君香です。

「おい。おれだ。どこへ行く。」と呼留めた声はたしかに顫へてゐました。

「あら。兄(にい)さん。」と寄り添ふのを突放して、「何が兄さんだ。こゝにおれが居やうとは思はなかつたらう。ざまア見ろ。男をだますなら、もうすこし器用にやれ。」

 女は砂利の上へ膝をついたまゝ立上らうともせず、両方の袂で顔をかくし、肩で息をしてゐるばかり。何とも言はないから、「おい、好加減にしな。」と進寄つて引起さうとすると、君香は何か手荒な事でもされると思つたのか、その儘わたしの手にしがみつき、

「兄さん。気のすむやうに、どうにでもして下さい。わたし本望なのよ。兄さんに殺されりやアほんとうに嬉しいのよ。どうせ、生きてゐたつて仕様のない身なんだから。」とまた土の上に膝をつき、わたしの袂に顔を押し当てあたり構はず泣きしづむ。

此方(こつち)はすこし面喰つて、「もういゝ。もういゝ。」と抱き起し背をさすれば、君香はいよ/\身を顫はし涙にむせび、「兄さん、みんなわたしが悪いんです。打(ぶ)たれても蹴られても、わたし決して兄さんの事を恨みはしないから、思ひ入れひどい目に会はして頂戴。ヨウヨウ。」と身を摺りつける様子の、どうやら気味わるく、次第に高まる泣声は河水に響渡るやうな気もしてくるので、始の威勢はどこへやら、此方からあべこべに、「おれがわるかつた。勘忍しなよ。」と気嫌を取り/\やつと貸間の二階へつれもどりました。

 一時狂気のやうに上づツた心持がすこし落ちついて来ると、乱れた鬢をかき直し、泣脹した眼をしばたゝいて、気まりわるげに、燈火(あかり)避(よ)けてうつ向く様子のいた/\しさも、みんな此方(こつち)の短気からと後悔すれば、いよ/\いとしさが彌増り、いたはる上にもいたはる気になりますから、女の方では猶更嬉しさのあまり、思出したやうに又しやくり上げる。イヤモウ、手放しの痴言放題(のろけはうだひ)、何とも申訳が御在ませんが、喧嘩するほど深くなるとは、まつたく嘘いつはりのない所で御在ます。

 君香は芸者家のはなしが大分むづかしくなつて、親元の方へ弁護士を差向けるとかいふはなしを聞き、以前世話になつた周旋屋の店が、すぐ河向の須賀町なので、内々様子をきゝに行つたのだと言ふので、「そんなら早くさう言やアいゝのに。」とわたしは百円札を並べて見せ、証文は丸抱の八百円といふのだから、これでどうにか一時話がつくだらうと、その夜は行末の事までこま/゛\と、抱(だ)き合ひしめ合ひ、語りあかして、翌日(あくるひ)の朝早く、わたしは新橋の方さへ遠慮がなくなれば世の中に怖いものはないのだから、えばつて、下谷の芸者家へ出かけ、きれいに話をつけて来ました。》

 

・このあたり「情痴小説」の体であるが、このまま流されない冷徹さこそ荷風荷風たるゆえんだ。

荷風は『断腸亭日乗』昭和十一年一月三十日の記に、深い関わりを持った女十六名を列挙し、簡潔な註をくわえていて、次のような調子だ。

《十三 関根うた  麹町冨士見町川岸家抱鈴龍、昭和二年九月壱千円にて見受、飯倉八幡町に囲ひ置きたる後昭和三年四月頃より冨士見町にて待合幾代という店を出させやりたり、昭和六年手を切る、日記に詳なればこゝにしるさず、実父上野桜木町〻会事務員》

《[欄外墨書]十四 山路さん子  神楽坂新見番藝妓さん子本名失念す昭和五年八月壱千円にて見受同年十二月四谷追分播磨家へあづけ置きたり昭和六年九月手を切る松戸町小料理家の女》

・帰朝依頼馴染を重ねたる女、列挙の十三番、関根うた(歌)は、荷風が生涯に愛した女のなかでは、若い頃に入籍した八重次を別にすれば、最も深く馴染んだ女で、珍しく四年間も関係が続いき、別れたあとも何度か会い、老いてなお慕い続けた。

断腸亭日乗』昭和五年、《二月十四日。番街の小星(しょうせい)昨夜突然待合(まちあい)を売払ひ左褄(ひだりづま)取る身になりたしと申出でいろいろ利害を説き諭(さと)せども聴かざる様子なれば、今朝家に招きて熟談する所あり。余去年秋以来情欲殆(ほとんど)消磨し、日に日に老の迫るを覚るのみなれば女の言ふところも推察すれば決して無理ならず。余一時はこの女こそわがために死水(しにみず)を取ってくれるものならめと思込みて力にせしが、それもはかなき夢なりき。(中略)この日、午下(ごか)中洲に徃き牛門の妓家を過訪しれ帰る、名月皎々(こうこう)たり。》(ここで、「小星」とは、漢詩で「妾」の意だが、関根うたにおいては愛称的に使われている。)

・ここで「牛門の妓家」こそ、のちの昭和六年二月十二日の記にある、《園香初め牛門若宮小路にありや山子といひしなり。去年正月二十四日中洲病院の帰途尾沢薬舗裏の待合(まちあい)新春日といふ家にて始めて相知りしなり。》で、荷風は山路さん子(芸名園香。または山子)という女と馴染みになっていて、うたの深刻な相談にのったその日にも訪れたと知れる。(小説冒頭の「戒名は香園妙光信女」を邪推させる「園香」である。)

 さらに二月十六日には、《午下牛門若宮小路も妓家を訪ひ昼餉を食す、さん子と呼べる女の語りし稚きころの物語をきゝて短編小説の好資料を獲たり。》とあり、その短編小説こそ『悪夢』『紫陽花(あじさい)』(のちに『夢』『あぢさゐ』と改題)に他ならない。

断腸亭日乗』昭和五年、《十二月三十一日。晴。午後神楽坂(かぐらざか)田原屋に徃きて昼餉(ひるげ)を食す。園香髪結(かみゆい)の帰なりとて来るに逢ふ。いつもの如く鶴福に徃きて飲む。夜番街の小星を訪(と)ひ夜半家に帰る。車上除夜の鐘を聞く。今年夏過ぎてより世の中不景気の声一層甚しくなり、予が収入も半減の有様となれり。郵船会社の株は無配当となり、東京電燈会社の如きも一株金壱円の配当なり。されど予が健康今年は例になく好き方にて、夏の夜を神楽坂の妓家(ぎか)に飲み明かしたることもしばしばなりき。五十二歳の老年に及びて情癡(じょうち)猶青年の如し、笑ふ可く悲しむ可く、また大(おお)いに賀すべきなり。白楽天(はくらくてん)の詩に曰く老来多健忘惟不忘相思。》

《情欲殆(ほとんど)消磨し、日に日に老の迫るを覚るのみ》だった荷風を、《五十二歳の老年に及びて情癡(じょうち)猶青年の如し、笑ふ可く悲しむ可く、また大(おお)いに賀すべきなり》とさせた女園香にはしかし情夫があった。その情夫のことを荷風は昭和六年二月九日の日記に次のように書いている、《鍛冶橋外秘密探偵岩井三郎事務所を訪ひ、園香の客なる伊藤某といふ者の住所職業探索のことを依頼す、伊藤某は大木戸待合七福の女房と関係ある者のよし、去年来妓園香を予に奪はれたりと思ひ過り、之を遺恨に思ひ密に余が身辺に危害を与へんと企てゐる由、注意するものありし故、万一の事を慮り其身分職業をたしかめ置かむと欲するなり。》

 しかし荷風はその三日後に園香と会っていて、このあたりの探究心こそ作家荷風の凄みである(《されど歓情既に当初相見し時の如くならず》の飽きっぽさともども)。

断腸亭日乗』昭和六年、《二月十二日。晴。風やや暖なり、一昨年春頃執筆せし『榎物語』を訂正浄書す。午後三菱銀行に赴き、神楽坂中河亭に飲む。園香大木戸より来る。されど歓情既に当初相見し時の如くならず、悲しむべきなり。園香初め牛門若宮小路にありや山子といひしなり。去年正月二十四日中洲病院の帰途尾沢薬舗裏の待合(まちあい)新春日といふ家にて始めて相知りしなり。余この妓のためには散財も尠(すくなか)らざる次第なれど、久しく廃絶せし創作の感興再び起来りて、此頃偶然『悪夢』『紫陽花(あじさい)』など題せし短編小説をものし得たるはこの妓に逢ひしが為なり、一得あれば一失あるは人生の常なれば致方もなし。》

  

《さて一月二月は夢中でくらしてしまひましたが、これまでに諸所方々不義理だらけの身ですから、やがて二人とも着るものは一枚残らずぶち殺してしまつて、日にまし秋風が身にしむ頃には、ぶる/\布団の中で顫へてゐるやうになりました。二人相談づくといつたところで、お君はもともと箱無しの枕芸者ですから、わたし一人覚悟をきめ義太夫の流しとまで身をおとしました。

「お君、お前はよつぽど流しに縁があるんだ。新内と縁が切れたら今度は太棹ときたぜ。然し心配するな。その中先の師匠に泣きを入れて、どうにかするから、もう暫くの間辛抱してくれ。」と毎夜山の手の色町を流してゐる中風邪を引込んでどつと寝ついてしまひました。こゝでいよ/\切破(せつぱ)つまつて、泣きの涙でお君を手放す。お君は須賀町の周旋屋から芳町の房花家へ小園と名乗つて二度とる褄。前借はほんの当座の衣裳代だけで四分六(しぶろく)の稼ぎといふ話だつたが、病気が直つてから、会ひに行つて見ると大きな違ひで、前借は分(わけ)で七百円。しかも其金の行衛は、一体どうなつたんだときいて見ても、女の返事はあいまいで判然としない。わたしは内心こゝ等があきらめ時だ。長くこんな女と腐れ合つてゐちやア到底うだつが上らないと思ひながら、どうもまだ未練が残つてゐます。新橋の女からは其頃詫びの手紙が届いてゐながら、此方(こつち)は落目になつてゐるだけ、フム、人を安く見やアがるな。男地獄ぢやねえ。さんざツぱら耻をかゝして置きやがつて、今更腹にもない悪体をついたもよく言へたもんだ。それ程おれが可愛(かわい)けりや小色の一人や二人大目に見て置くがいゝ。姉さんぶつた面(つら)真平御免(まつぴらごめん)だと、ます/\ひがみ根性(こんじやう)の痩我慢。どうかしてもう一度お君を素人(しろと)にして見せつけてやりたいと意地張つた気になります。とは云ふものゝ、わたしは又時々、どうして、あんな働きもなければ、かいしよもない、下らない女に迷込んでしまつたんだらうと、自分ながら不審に思ふこともありました。

 年は丁度二十(はたち)、十四五の時から淫奔(いたづら)で、親の家を飛出し房州あたりの達磨茶屋を流れ歩いて、十八の暮から下谷へ出た。生れつき水商売には向いてゐる女だから、座敷はいつもいそがしく相応に好いお客もつくのだが、行末どうしやうといふ考もなく、慾もなければ世間への見得もなく、唯愚図々々でれ/\と月日を送つてゐる。どこか足りない処のあるやうな女です。それが却て無邪気にも思はれ、可哀さうにも見えて諦めがつきません。一口に言へばまづ悪縁で御在ます。仕様のない女だと百も承知してゐながら、さて此の女と一緒に暮してゐますと、此方までが、人の譏りも世間の義理も、見得も糸瓜もかまはぬ気になつて、唯茫然(ぼんやり)と夢でも見てゐるやうな、半分麻痺した呑気な心持になつて、一日顔も洗はず、飯も食はずに寝てゐたやうな始末。成らう事なら、此のまゝ二人乞食にでもなつたら、さぞ気楽だらうと云ふやうな心持になるので御在ます。

 わたしはお君が葭町へ去つた後も、二人一緒に居ぎたなく暮した昨日(きのふ)の夢のなつかしさに、石原町(いしはらまち)の貸二階を去りかね、そのまゝ居残つて、約束通り、月に一度なり二度なりと、お君がおまゐりの帰りか何かに立寄つてくれるのを、この世のかぎりの楽しみにして、待ち焦れてゐました。尤も表向は手が切れた事になつたんで、中に人もはいり、師匠の方も詫が叶ひ、元通り稽古を始めましたから、食ふ道はつくやうになりました。》

 

・《お君は須賀町の周旋屋から芳町の房花家へ小園と名乗つて二度とる褄。前借はほんの当座の衣裳代だけで四分六(しぶろく)の稼ぎといふ話だつたが、病気が直つてから、会ひに行つて見ると大きな違ひで、前借は分(わけ)で七百円。しかも其金の行衛は、一体どうなつたんだときいて見ても、女の返事はあいまいで判然としない。わたしは内心こゝ等があきらめ時だ。長くこんな女と腐れ合つてゐちやア到底うだつが上らないと思ひながら、どうもまだ未練が残つてゐます。新橋の女からは其頃詫びの手紙が届いてゐながら、此方(こつち)は落目になつてゐるだけ、フム、人を安く見やアがるな。男地獄ぢやねえ。さんざツぱら耻をかゝして置きやがつて、今更腹にもない悪体をついたもよく言へたもんだ。それ程おれが可愛(かわい)けりや小色の一人や二人大目に見て置くがいゝ。姉さんぶつた面(つら)は真平御免(まつぴらごめん)だと、ます/\ひがみ根性(こんじやう)の痩我慢。どうかしてもう一度お君を素人(しろと)にして見せつけてやりたいと意地張つた気になります。とは云ふものゝ、わたしは又時々、どうして、あんな働きもなければ、かいしよもない、下らない女に迷込んでしまつたんだらうと、自分ながら不審に思ふこともありました。》あたりの男の心理を、語らせつつ冷厳に描く巧みさ。

・園香から聴きとった逸話と、男のデカダンスへの傾斜は、《年は丁度二十(はたち)、十四五の時から淫奔(いたづら)で、親の家を飛出し房州あたりの達磨茶屋を流れ歩いて、十八の暮から下谷へ出た。生れつき水商売には向いてゐる女だから、座敷はいつもいそがしく相応に好いお客もつくのだが、行末どうしやうといふ考もなく、慾もなければ世間への見得もなく、唯愚図々々でれ/\と月日を送つてゐる。どこか足りない処のあるやうな女です。それが却て無邪気にも思はれ、可哀さうにも見えて諦めがつきません。一口に言へばまづ悪縁で御在ます。仕様のない女だと百も承知してゐながら、さて此の女と一緒に暮してゐますと、此方までが、人の譏りも世間の義理も、見得も糸瓜もかまはぬ気になつて、唯茫然(ぼんやり)と夢でも見てゐるやうな、半分麻痺した呑気な心持になつて、一日顔も洗はず、飯も食はずに寝てゐたやうな始末。成らう事なら、此のまゝ二人乞食にでもなつたら、さぞ気楽だらうと云ふやうな心持になるので御在ます。》に表れる。

野口冨士男『わが荷風』「6 堤上からの眺望」「8 それが終るとき」から『あぢさゐ』に関するところを引用するが、『あぢさゐ』はプレ『つゆのあとさき』として考察されている。

《親がかりであった外遊前や外遊中は別として、明治四十一年に帰朝した荷風柳橋に遊び、新橋の妓に狎(な)れしたしんで、刺青をし合ったり、家へ入れるまでに至っている。そして、そういう遊蕩状況は大正五年ごろまで持続される。『新橋夜話』や『腕くらべ』がそうした体験のなかからうまれ、『夏すがた』から『おかめ笹』に至った文学的経路を私は前章で《麻布十番までの道》とよんで、彼の花柳小説をついに行き着くところまで行き着いたとみた。その先には『つゆのあとさき』、『ひかげの花』の世界しかなかったとのべたのであったが、もしここに代表作中心の荷風略年譜といったものを作製するとしたら、大正七年一月の『おかめ笹』から昭和六年十月の『つゆのあとさき』に至るまでの間にいかなる文学的業績をえらんでかかげるべきだろうか。

 ひとくちに大正七年から昭和六年までといっても、その期間は実に十四年間で、年齢的にいえば四十歳から五十三歳――中年から初老に至る、作家的には完成期に相当するもっとも貴重な歳月が空白ではないまでも、甚だしく充実を欠いている。四十歳にして過半の新進作家がようやく名を知られる現状に、この年齢をあてはめることはゆるされない。荷風は当時、すでに大家のひとりであった。昭和二年にみずからの生命を断った芥川龍之介がかぞえ年でも三十六歳であったといえば、思いなかばに過ぎるものがあるだろう。大正十年の『雨瀟瀟(あめしょうしょう)』にみられる陰々滅々たる心情がどこから生じているか、想像に難くない。

 こんど私は『つゆのあとさき』に多少ともかかわりのある大正十一年の『雪解』、十四年の『ちゞらし髪』(『ちゞれ髪』の改題)、翌十五年の『かし間の女』(『やどり蟹』の改題)、昭和三年の『カツフヱー一夕話』、同四年の『かたおもひ』、五年の『夢』、六年三月の『あぢさゐ』(『紫陽花』の改題)、五月の『榎物語』、八月の『夜の車』などを発表年代順にあらためてノートしながら読み直してみたが、そのあいだにも始終私の脳裡につきまとってはなれなかったのは『雨瀟瀟』にみられる次の一節であった。

《されば本業の小説も近頃は廃絶の形にて本屋よりの催促断りやうも無之儘(これなきまゝ)一字金一円と大きく吹掛け居候ものゝ実は少々老先心細くこれではならぬと時には額に八の字よせながら机に向つて見る事も有之(これあり)候へども一二枚書けば忽筆渋りて癇癪ばかり起り申候間まづまづ当分は養痾に事寄せ何も書かぬ覚悟にて唯折節若き頃読耽りたる書冊埒もなく読返して僅に無聊を慰め居候次第に御座候。》》

《柳新二橋に拮抗する赤坂を主舞台としている里見弴の『今年竹』などには、平の座敷で客と芸者が機知縦横に軽妙な会話をとりかわす情景が活写されていて、そこには花柳界に固有の華やいだ雰囲気が明るく繰りひろげられているのだが、荷風の花柳小説では新橋を取り上げている『腕くらべ』においてもほぼ枕席に終始していて、里見弴の表ないし明に対して、裏または暗の面が展開される。すなわち、荷風作中の芸者は歌舞音曲等の遊芸を表看板とする職業女性ではなく、公娼や私娼とさしてえらぶところのない春婦であって、極限すれば単なる肉塊に過ぎない。神楽坂をえがく『夏すがた』や、富士見町や白山をえがく『おかめ笹』に至って、その偏向はいよいよ顕著となる。内実はどうあれ、芸者は一応建前として芸と粋(いき)とが売りものである以上、《箱無しの枕芸者》(『あぢさゐ』)ばかりになっては、花柳小説の花柳小説たる特徴がうしなわれる。特徴をみずから放棄しては、ゆきづまらざるを得ない。『おかめ笹』が、花柳小説としての終着駅となったゆえんである。》

《それでは、どのようにして君江(筆者註:『つゆのあとさき』の女主人公)の性格は造出されたのであろうか。荷風自身、『正宗谷崎両氏の批評に答ふ』に先立つ、昭和六年十月二十二日付の谷崎潤一郎宛書簡のなかでのべている。

《五十歳を過ぎたる今日小生の芸術的興味を覚(おぼえ)るは世態人心の変化する有様を見ることにて昔の戯作者のなしたる事と大差なく従つて思想上之といふ抱負も無御座候(ござなくさうらふ) それ故自分ながら気魄の薄弱なるには慚愧(ざんき)致居候 モデルは別に之と定りたる女もなし実験の上三四人同じやうな性行の女をあれこれと取合せて作り上げしもの之はドーデが屡取りし方法に御座候》

 過大な謙遜は割引きして読むほかはないとして、君江のモデルは実際に複数者の合成人物であったのだろうし、誰と誰の合成か、そんなことはかりにつきとめられるとしても知る必要のないことである。なぜなら、荷風は『つゆのあとさき』の執筆にのぞんでにわかに君江という人物を造型したのではなくて、君江の原型ともいうべき性格づくりを、恐らくはまだ『つゆのあとさき』などという作品の構想がカケラほども念頭になかったはずの数年前から、すでに着々とこころみていたことが、われわれにはわかっているからなのである。大正十五年の『かし間の女』、昭和五年の『夢』、六年の『あぢさゐ』などがそれであって、そうしたかずかずの試行錯誤のはてに把握した性格を具象化したのか『つゆのあとさき』の君江に相違あるまい。むしろ執筆の時点では、モデルなどあって無きにひとしかったほどであろう。》

《また、『あぢさゐ』は下谷の枕芸者におぼれた三味線ひきが多情な女のしうちに殺意をいだくが、それより早く女は他の男に殺されるという筋立ての小篇で、《年は丁度二十(はたち)、十四五の時から淫奔(いたづら)で、親の家を飛出し房州あたりの達磨茶屋を流れ歩いて、十八の暮から下谷へ出た。生れつき水商売には向いてゐる女だから、座敷はいつもいそがしく相応に好いお客もつくのだが、行末どうしやうといふ考もなく、慾もなければ世間への見得もなく、唯愚図愚図でれでれと月日を送ってゐる。》という点などが、やはり濃密に君江と共通している。

 いったい『つゆのあとさき』は女給ものの集成とよばれて、それが定説化している模様だし、私なども今回あらためてやや系統的に関連作品を読み返してみるまでは、ただうかうかと流説を鵜呑(うの)みにしていたのであったが、こうしてつぶさに検討してみた結果、かならずしも女給ものの系譜の上に立っているわけではないことに気づかされた。

 そこで以上の記述をざっと整理してみると、『雪解』のお照は職業が女給だというだけで『つゆのあとさき』の君江の性格とは無縁である。『カツフヱー一夕話』のお蔦もまた然りで、君江に直線的なつながりをもつ『かし間の女』の菊子はカフエーに出入りすることのない私娼であり、『夢』の《女》は芸者、『あぢさゐ』の君香もまた芸者なのだから、『つゆのあとさき』が女給ものの集成だという見方はもはや撤回されるべきだろう。そして、芸者という職業女性にはおさめきれなくなって、芸者からはみ出るものを女給のなかに盛りこんだ作品が『つゆのあとさき』であったとみるべきなのである。》

《お雪は魔窟で春をひさぐプロスティチュート(売春婦の意)であっても『夏すがた』の千代香や、『かし間の女』の菊子や、『あぢさゐ』の君香や、『つゆのあとさき』の君江や、『ひかげの花』のお千代のような淫獣ではない。娼婦でありながら、≪わたくし≫にとっては≪消え去つた過去の幻影を再現させてくれる≫媒体として取扱われているために、ほとんど肉体を感じさせないほどである。だから、彼女が身を置いている現実の玉の井は淫靡で不潔な場所であっても、お雪は、そして『濹東綺譚』はひたすら美しいのである。》

 しかし、野口に「淫獣」と極言された君香(小園)にしてから、どこか憎めず、美化されていないだろうか。

  

《お君はその後二三度尋ねて来て、わたしが気をもむのもかまはず、或晩とまつて、翌朝(あくるあさ)もお午頃まで居てくれた事がありましたが、それなりけり。一月たち二月たち、三の酉も過ぎて、いつか浅草に年の市が立つ頃になつてもたよりが有りません。忘れもしない。其年十二月二十日の夕方、思ひがけない大雪で、兜町の贔屓先へ出稽古に行つた帰り道.。寒さしのぎに一杯やり、新大橋から川蒸汽で家へ帰らうと思ひながら、雪の景色に気が変り、ふら/\と行く気もなく竈河岸(へつつひがし)の房花家をたづねますと、小園(こその)を入れて三人ゐる筈の抱はもう座敷へ行つたと見えて、一人もゐない。亭主もゐなければ女房同様の姉さんの姿も見えず、長火鉢の向に二重廻を着たまゝ煙草をのんでゐるのは、お君の小園をこゝの家へ入れた周旋屋の山崎といふ四十年輩の男。その節顔は見知つてゐるので、

「その後(ご)は。」と此方(こつち)から挨拶すると、周旋屋は猫を追ひのけ、主人らしく座布団をすゝめて、

「おいそがしう御在ませう。わるいものが降り出しました。師匠。実はちいツと御相談しなくちや、成らない事があるんで、この間からお尋申さうと思ひながら、今夜もこの雪でかじかんでしまひました。」と薄ツペらな唇からお獅子のやうな金歯を見せて世辞笑ひをする。

「ぢや丁度好い都合だ。御相談といふのは何かあの子のことで。」

「はい。小園さんのことで。丁度誰も家にはゐないさうですから、今の中御話をしてしまひませう。」と切り出した周旋屋山崎のはなしを聞くと、お君は房花家へ抱へられると早々、どつちから手を出したのか知らないが、今では主人の持ものになり、ごたつき返した末女房同様の姉さんは追出されてしまつた。就いてはどうにとも師匠の気がすむやうにしやうから、綺麗に小園さんを下さるやうにと、主人から依頼されてゐるのだと云ふ。事の意外にわたしは何とも言へず山崎の顔を見詰めてゐると、

「師匠、お察し申します、恥を言はねば理が聞えない。実はあの子にかゝつちや、手前も一杯くつてゐるんで御在ますよ。」

「何だ。お前さんも御親類なのか。」

「手前は、あの子がまだ房州にゐる時分の事で、その後(ご)は何のわけも御在ませんが、何しろ十六の時から知つてゐますから、あの子の気質はまんざら分らない事も御在ません。どうせ、長続きのしつこは無いから、御亭(ごてい)の言ひなり次第、取るものは取つて、一時話をつけておやんなすつたらどうでせう。まづ来年も、桜のさく時分まで続けば見ものだと、わたしは高をくゝつてゐますのさ。」

「お前さん、御存じだらう。〆蔵の方は一体どうなつてゐるんだ。」

「こゝの大将は師匠の事ばかり心配して、〆蔵さんの事は何も言はないから、手前も別にまだ捜つても見ません。あれはまづ、あれツきりで御在ませう。」

「小園はお座敷かしら。」

「二三日前から遠出をしてゐるさうで。外の抱は二人ともあの子が姉さんになるのなら、わきへ住替へるといふんで、一人は昨日(きのふ)この土地ですぐに話がつきました。もう一人は手前の手で、年内には大森あたりへまとまるだらうと思つてゐます。」

「あゝさうかね。実は一度逢つた上でと思つたが、さうまで事が進んでゐちやア愚図々々云ふ程此方の器量が下るばかりだから、何も云はずに引下りませう。後の事はよかれ悪しかれ、お前さんへおまかせしやう。その中一度石原の方へも来て御くんなさい。」

 わたしは穏に話をして、まだ降り歇まぬ雪の中を外へ出た。周旋屋と話をしてゐる中、いつともなく覚悟がついてしまつたので御在ます。もと/\承知の上で二度芸者をさせた女の事。好いお客がついて身受になるといふのなら、いかほど口惜しくつても指を啣へてだまつて見てゐやうが、抱主の云ふがまゝになつて、前借も踏まず、長火鉢の前に坐つて姉さんぶらうと云ふからには、もう此のまゝにはして置けない。人形町の通へ出ると直ぐに目についた金物屋の店先で、メス一本を買ひ、雪を幸今夜の中にどうかして居処をつきつけたいと、手も足も凍つてしまふまで、其辺をうろついてゐましたが、敵(かたき)の行衛がわからないので、一先石原の二階へ立戻り、翌日からは毎日毎夜、つけつ覗(ねら)ひつしてゐましたが姿は一向見当りません。感付かれたと思つたから、油断をさせやうと、二三日家に引込んでゐますと、其年もいつか暮の二十八日。今夜こそはと、夜店をひやかす振りで様子をさぐりに、灯(ひ)のつくのを待つて葭町の路地といふ路地、横町といふ横町は残りなく徘徊したが、やツぱり隙がない。よく/\生命(いのち)冥加な尼(あまつ)ちよだと、自暴酒(やけざけ)をあふつて、ひよろ/\しながら帰つて来たのは、いつぞや新橋から手切を貰つて突出された晩、お君に出会つた石原の河岸通。震災後唯今では蔵前の新しい橋がかゝつてゐるあたりで御在ます。人立ちがしてゐますから、何気なく立寄つて見ると、身投の女だといふもあり、斬られて突落されたのだと云ふもあり、さうぢやない、心中で、男ばかり飛込み女は巡査につかまつたのだと云ふもあり、噂はとり/゛\。訳はさつぱり分りませんが、何やら急に胸さわぎがして来ましたので、急いで家へ帰って見ますと、稽古につかふ五行本(ごぎやうぼん)の上に鉛筆でかいた置手紙。

「急におはなしをしたい事があつて来ましたけれど、あいにくお留守で今夜はいそぎますから、お待ち申さずに帰ります。三十日の晩に髪結さんの帰りにまたお寄り申します。おからだ御大事に。君より。」

其のまゝ息をきつて警察署へ馳けつけ様子をきくと、殺されたのは、やつぱり虫の知らせにたがはず、お君でした。うしろから背中を一突刺されて川の中へのめり落ち、救上げられたものゝ息はもう切れてゐました。わたしの懐中にメスが在つたので、申訳ができず、御用にならうといふ時、派出所の巡査が自首した男だと云つて連れて来たのは新内流しの〆蔵だ。其の申立によると、〆蔵はお君がわたしと一緒に暮らしてゐた時分にも、二三度逢引をした事もあつたとやら。殺意を起したわけはわたしの胸と変りは御在ません。抱主の持物になつて姉さん気取りで納(をさま)らうとしたのが、無念で我慢がしきれなかつたと云ふのです。

 お君は実際のところ、さういふ量見で房花家の亭主と好い仲になつたのか、どうだか、死人に口なしで、しかとはわかりません。わたしへの手紙から見れば、さういふ考でした事だとも思はれない。口説かれると、見境ひなく、誰の言ふ事でもすぐきくのが、あの女の病ひでもあり又徳でもあり、其のためにとう/\生命(いのち)をなくした。それにつけても、お君はあの晩わたしの家へ寄りさへしなければ、〆蔵に突かれはしなかつたらう。わたしが家にゐて、一緒に帰りを送つて行つたら無事であつたにちがひはない。それとも〆蔵のかはりに、わたしがとんだお祭佐七になつたかも知れませぬ。人の身の運不運はわからないもので御在ます。

 その後(ご)あの辺(へん)もすつかり様子が変つて、埋堀(うめぼり)御蔵橋(みくらばし)もあつたものぢや御在ません。今の女房を持つて大木戸へ引込んだはなしも一通り聞いていたゞきたいと思ひますが、あんまり長くなつて御退屈でせうから、いづれその中、お目にかゝつた時にいたしませう。」》

 

・ところで、殺しがあった時代はいつなのだろう。作品発表は昭和六年、園香とのことも昭和五年から六年のことではあるが、なにしろ三味線ひき宗吉は《もうかれこれ十四五年になります。手前が丁度三十の時で御在ました。》と回顧し、小園の死体があがったのは、《石原の河岸通。震災後唯今では蔵前の新しい橋がかゝつてゐるあたりで御在ます》と言うのだから、大正十二年の関東大震災以前、大正五年頃のことであろうか。

・《お君はその後二三度尋ねて来て、わたしが気をもむのもかまはず、或晩とまつて、翌朝(あくるあさ)もお午頃まで居てくれた事がありましたが、それなりけり。》の「それなりけり」の巧さは、丸谷が言う「猶更いら/\してまた外へ出た」のいきなりざっくりした、ぞんざいな口のきき方に変る、と同じ凄みである。

・黙阿弥の世界ということでは、「「つゆのあとさき」を読む」で荷風のカムバックを讃えた谷崎潤一郎の『お艶殺し』もそうだったように、大川(墨田川)端が舞台であることが、ドラマティックな人生を川の流れでイメージさせて重要だ。『お艶殺し』は久保田万太郎脚色で歌舞伎化されているが、『あぢさゐ』もまた万太郎によって新派の花柳十種となっている。

《然し五百円をふところにして丸次の家を出ると、其場の口惜しさ無念さは忽ちどこへやら。今し方別れたばかりの君香に逢ひ借金を返すはなしをしたら、どんなに喜ぶことだらうと思ふと、もう矢も楯もたまりませむ。電車の来るのも待ちどしく、自動車を飛して埋堀(うめぼり)の家へかけつけて見ると、夏の夜ながら川風の涼しさ。まだ十二時前なのに河岸通から横町一帯しんとして、君香の借りてゐる二階の窓も、下の格子戸も雨戸がしまつてゐます。》

《埋立をした河岸通は真暗で人通りもなく、ぴた/\石垣を甞める水の音が物さびしく耳立つばかり。御厩橋を渡る電車ももうなくなつたらしく、両国橋の方を眺めても自動車の灯が飛びちがふばかり。ひや/\する川風はもうすつかり秋だ。向河岸の空高く突立つてゐる蔵前の烟突を掠めて、星が三ツも四ツもつゞけざまに流れては消える》

《其年十二月二十日の夕方、思ひがけない大雪で、兜町の贔屓先へ出稽古に行つた帰り道.。寒さしのぎに一杯やり、新大橋から川蒸汽で家へ帰らうと思ひながら、雪の景色に気が変り、ふら/\と行く気もなく竈河岸(へつつひがし)の房花家をたづねますと》

《今夜こそはと、夜店をひやかす振りで様子をさぐりに、灯(ひ)のつくのを待つて葭町の路地といふ路地、横町といふ横町は残りなく徘徊したが、やツぱり隙がない。よく/\生命(いのち)冥加な尼(あまつ)ちよだと、自暴酒(やけざけ)をあふつて、ひよろ/\しながら帰つて来たのは、いつぞや新橋から手切を貰つて突出された晩、お君に出会つた石原の河岸通。震災後唯今では蔵前の新しい橋がかゝつてゐるあたりで御在ます。》

《その後(ご)あの辺(へん)もすつかり様子が変つて、埋堀(うめぼり)も御蔵橋(みくらばし)もあつたものぢや御在ません。》

『あぢさゐ』では、川の西側には小説発端の駒込、宗吉の現在の芸者屋四谷大木戸、花街の下谷湯島天神下、葭町、新橋と贔屓先の兜町があり、川の東側には当時の宗吉の住まい本所石原町と近場の埋堀、河岸通、御蔵橋、蔵前があり、そして両者を結ぶ御厩橋、両国橋、新大橋、川蒸汽が登場する。

・最後の《わたしがとんだお祭佐七になつたかも知れませぬ。》はまさに、対談で野口が洩らした《それで殺してやろうと思ったら、ほかのやつが先に殺していた、と最後はちょっと黙阿弥の世界になるんだけれども……。》で、四代目鶴屋南北『心謎解色絲(こころのなぞとけたいろいと)』のお祭佐七と小糸の色と殺しは、黙阿弥の弟子三代目河竹新七『江戸育お祭佐七』に換骨奪胎される。鉄火な佐七が愛想尽かしから芸者小糸を土手で殺し、しかし小糸の書置きでことの真相を知る世界は黙阿弥的で、さすが若い頃ひとときとはいえ歌舞伎台本見習いに手を染め、後年紫陽花にちなんだ句「紫陽花や瀧夜叉姫が花かざし」を残した荷風らしい。

 

                             (了)

       *****引用または参考*****

*『花柳小説名作選』(集英社文庫

永井荷風『花火・来訪者』(『あぢさゐ』『夢』所収)(岩波文庫

野口冨士男『わが荷風』(岩波現代文庫

永井荷風断腸亭日乗』(岩波書店

松本哉『女たちの荷風』(ちくま文庫

磯田光一永井荷風』(講談社

*『久保田万太郎全集8』(戯曲『あぢさゐ』所収)(中央公論社