文学批評 『花柳小説名作選』を読む(3) ――舟橋聖一『堀江まきの破壊』

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舟橋聖一『堀江まきの破壊』>

 

《追ひ追ひに、ものが復興してくる中に、却て、昔より一歩乃至(ないし)数歩をすゝめたと思はれるものもあれば、どうしても、昔のものに及び難い、どこかで、今一つ、気が足りないといふものもある。これは、作る側で、工夫が足りないといふよりも、受ける側で、どこまでも、最高のものでなければ承知しないといふ精神が不足してゐるために、その逆作用がはたらいて、作る側にも、それだけの気魄(きはく)が、こもらぬといふ結果になるからであらう。

 芸術作品などは、むろん、さうだが、芸術品でなくとも、日常品や実用品でも、それを使用する側の精神が、微妙に働くことを見逃すわけにはいかない。着るもの、食べるもの、なども同じ道理である。

 しかし、一方、破壊されてしまったものもある。もとへ戻る余地は、殆ど、ありえないといふ状態にまで。

 堀江まきも、破壊された一人であらうか。つい、最近、彼女を見かけたといふ人の話に、彼女は、もう五十に手がとゞくといふのに、二十三、四の、息子より若い程の、復員青年と恋におちて、裏長屋のやうな家で、暮してゐるといふことであつた。

 堀江まきの破壊といふことを、端的につかむには、丁度、歌舞伎の破壊といふやうな現象になぞつて考へてみるのが、近道のやうだ。といふのは、どんな歌舞伎の心酔者ですらが、歌舞伎の破壊には、一種の痛快感を否めないからである。

 それは、日本芸術の代表のやうにいはれ、絢爛(けんらん)たる劇場を独占し、多数の、しかも上流のファンに支持されてゐることへの反感といふ類(たぐひ)のものではない。実際は、あまりにも、現代からかけ離れたロマンチックな匂ひのするものを、一応、雛壇から引きおろし、戦争に負けた日本のリアリティの中で、それに耐へられるホンモノかどうかの気合ひをかけてみたいといふやうな一般的関心事の中に、それはある、からである。》

 

・『名作選』の丸谷才一野口冨士男の対談から。

丸谷 相撲買いの小説っていうのは、ないですね。

野口 ありませんね。相撲じゃ小説にならないのかな(笑)。

丸谷 舟橋聖一さんなんか、芸者の相撲買いを書いたら、面白かったんじゃないかな。

野口 舟橋さんは相撲が好きで、歌舞伎が好きで、女遊びも花柳界だったのに、花柳小説といえるものが少ないんですよね。これもぼくの不思議のひとつなんですが、あの人の場合は、良家の娘で淫奔な女の主人公みたいなのが多い。

丸谷 『堀江まきの破壊』を、ぼくは苦心の末に探し出したんです。これは前半が非常にいいですね。

野口 そうですね。舟橋さんは岩野泡鳴を尊敬していたんでしょうけど、共通点はどこかというと、二人とも小説のなかで演説をする(笑)。この短編も演説から始まっているでしょう。ほかの人なら描写から始めるところなんでしょうが、そこが舟橋さんなんですね。》

・ここで「破壊」という言葉の遣い方は、「歌舞伎の破壊」の例を読んでも端的につかみにくい。ただ、「負」の側面ではなく、ホンモノを目指しての「精算」「ゼロ・リセット」「白紙化」に近く、従って悲惨ではなく「痛快」である。

 

《堀江まきは、今から、三十何年前、葭町(よしちょう)から、小稲と名のって、半玉(はんぎょく)の披露目(ひろめ)をした。二流地の葭町でも、当時は躾(しつけ)がきびしく、御座敷で、お客様と一緒に、ものを食べたりしたら、どやされたものである。その代り、半玉のうちから、蔭をかせぐことを強要されたりはしないですんだ。行儀作法はやかましかつたが、商売上の苦労は、何もなく、九時をすぎると御座敷にゐても眠くなつて、こつくりさんが出る位だつた。大ていの御座敷が、みなお母さんの、お遊と一緒であつた。小稲だけ呼ばれることはなく、時に、さういふお名ざしでかゝることがあつても、用心して、ことわつてゐた。お遊は、押しも押されもしないこの土地の大姐(おほねえ)さん株で、常磐津(ときはづ)の地(ぢ)をひかしたら、新橋にも柳橋にも、歯の立つ者はゐないだらうと、いはれた。小稲は、恐らく最近まで、このお遊を、真実の母と思ひこんでゐたのだらうが、古いわけを知る者にきくと、お遊には子供がなく、小稲を藁(わら)の上から貰ひうけて育てたのだともいひ、又、お遊の旦那が、よそ土地の芸者と浮気をして出来た子を、三つの時に、引取つて、自分の子に直したのだともいふ。

 したがつて、堀江まきの出生は、誰にもわかつてをらない。

 しかし、たとへ義理の仲にしろ、小稲には、さうした大きな庇護と背景があるのだから、どんな時でも、お茶をひく心配はない。気ずゐ気まゝの商売で、二月八月の、霜枯れ、夏枯れには、熱海(あたみ)だの伊香保(いかほ)だのとお遊につれられて、長滞在をしても、別段に、カレコレいはれることはなかつた。看板のわるい家の子が、反感の目を向けるぐらゐのもので、それも、平然として、黙殺すれば、却て、相手を縮み上らせるだけである。

 小稲は、六歳の時から、藤間政弥について踊りを習つた。政弥おしよさんの教授ぶりは、厳格であつた。然し、小稲の芸はすく/\と伸びて、天才的なところがあつたから、この稽古所通ひも、小稲にとつては、大した苦でもなかつた。葭町へ出てからも、むろん、踊りの小稲で売り出してゐた。春秋の大ざらひにも、お遊の七光りも手つだつて、一幕出し物をさせて貰つた。十七の時、「紅葉狩(もみぢがり)」の更科姫(さらしなひめ)で、評判を取った。この時は、先代の梅幸が見に来てくれたので、よけい、騒ぎが大きかつた。

 又、新橋のさる待合で、小稲の更科姫を見た梅幸が、羽左衛門にその話をし、

「今の年であれだけ踊れば、さきが、面白い――」

 ともいつたといふ。それを聞いて、鬼の首を取つたやうに喜んで、さつそく、お遊のところへ注進に及んだのは、中洲(なかず)の方の大きな待合のおかみさんであつた。

 日本橋の通り何丁目かの、道具屋さんで、唐池(からいけ)といふ……もともとは、静岡辺の古道具屋の小僧上りだが、その時分は、れつきとした古物商で、東京でも、華族とか大富豪とか以外は出入りをしないといふ程の羽振りになつてゐたが、この唐池が、その中洲の待合のおかみの口で、何とか、小稲を手に入れようと、機会を待つてゐた……。

 半玉が、ある年頃になれば、一本になる。そのとき、いはゆる水揚げをされて、女にして貰ふ。その代償として、莫大な金を取るといふのは、花街の不文律で、珍しいことでも何でもない。然し、年季いくらで抱えた丸抱えの妓(こ)なればいざ知らず、小稲のやうに、義理にしろ、真実の母と少しも変らぬ母がゐて、何不自由のない朝夕を送つてゐながら、看板のわるい、不見転(みずてん)さん同様、ある年頃がくると、水揚げ代を取って、一本になるといふ花街の風習を、別段に怪しむこともなく実践するところが常識人には解し得ぬ点である。

 普通、水揚げをして、そのまゝ、旦那におちつくのもあれば、水揚げは水揚げで、金を取り、旦那をつくるのは、そのあとで、ゆつくりといふのもある。そこで、水揚げ専門のお客さんもゐるわけだ。花街の女の処女性を奪ふのだけが趣味で、処女さへ手に入れゝば、あとは別に、心を残さないのである。花街にも、次ぎ次ぎと、若い妓が出てくるのだから、生れた時は、誰にしろ処女である以上、花街にだつて処女のないわけはない。待合のおかみさんいたのんでおいて、時々出る新品を狙(ねら)ふ。ところが、中には、たちのよくないのがゐて、古品を新品と称して、二度も三度も、商売をさせることもあるから、花街の処女は眉唾ものだといふ人もある位だが、普通には、水揚げは一回こつきりである筈だ。つまり、小稲のやうな、別段、処女を売らねばならぬ必要のない家の、いはゞ、お嬢ちやん芸者である人でも、やはり、相当の年頃になると、どこからともなく、水揚げの話が出てくる。その時、小稲に、自意識が発達してゐて、生活に困つてもゐないのにどうして、水揚げといふやうな野蛮な売春行為をしなければならぬのか。それは、怪しからんではないか、といふ風に考へて、自分から、積極的に反対し、お遊の心に訴へるところがあつたら、お遊も、さういふ花街の悪習に、気がついたかもしれない。然し、小稲は、つとめて、芸者子供、芸者人形たるべく養はれてきたのであるから、近代の自意識なぞのあらう筈もないのである。お遊にしても可愛い娘なのに、水揚げを狙つてくるやうな、下司(げす)な男に、小稲の処女性を売るといふ行為が、いかに非人間的な営(いとな)みかといふ点を、はつきり、懐疑してかかることを知らない。たゞ、漠然と、さういふ風習のあり方を信用してかゝつてゐる。昔から、さうであり、他の連中もさうなのだから、いくらお遊の子でも、小稲だけを、特別扱ひもなるまい位にしか考へてゐない。それが、そんな悪いことなら、今までにしろ、お上(かみ)でおさしめとなる筈だ。又、悪いことをすれば祟りがあるが、水揚げをしたからといつて、祟(たた)りがあつたといふ話はきいてゐないから、大したことはないだらう――いや、それよりも、あんまり、いつまでも、水揚げをしないで、ねんねでおいたのでは、小稲ちやんは、片輪ださうだ、ぐらゐのデマがとびかねない。そんなことになれば、小稲の将来は、台なしである。

 それより、大金を出して、小稲を女にしてやらうといふお客さまがあれば、適当にその人にまかせて、娘を元服させてやるのが、母のつとめが位に考へてゐる。幸ひにして、引きつゞき、お世話になれば、それもいい。が、お金の高が多くつて、人にうしろ指をさゝれさへしなければ、水揚げは水揚げだけのお客に願ふのも、分別といふものである。安いのはごめんだ。それは何も、お金を貪(むさぼ)らうといふのではない。高い金を取れば取る程、小稲に箔(はく)がつくのだから、せいぜい、出して貰ひたいのである。そして、葭町一の水揚げといはれた。

 それが別に金に困らない、菊喜美(きくきみ)の家(や)の看板の強みといふものであつた。

 お遊は、平凡に、古風にさう考へてゐる。小稲は、更に、平凡も古風もない。いや、考へるといふことを知らない。たゞ、毎日が、現象としてくりかへされる。そこに、風習がうまれゝば、すべてが、鵜呑(うの)みになつて、批判といふものを許されない。風習こそが、絶対無上の権威である。その風習に背くことは、どんな小さなことですら、異分子であり、もぐりであつた。》

 

・昭和二十三年発表の舟橋聖一『堀江まきの破壊』はいつの時代の話か、それとなくしか書かれていない。しかし、「復員青年」と恋に落ちたときには、「もう五十に手がとゞくといふのに」とあり、また「今から、三十何年前、葭町から」とされている。唐池は水揚げしたまきのことを第一次大戦(一九一四年=大正三年)の興隆資本主義の波に乗っていた備善の耳に入れなかったし、まきの人生の転回点となった井伊掃部守暗殺をテーマとする歌舞伎の上演は大正九年七月であろうから、話のほとんどはすっぽり大正時代と言ってよかろう。

丸谷才一舟橋聖一『ある女の遠景』(講談社文庫)に解説「維子の兄」を書いている。

《鷗外最上の傑作が晩年の史伝三編であることは今さら述べるまでもないが、論じるに価するのはやはり、『澀江抽斎』『伊沢蘭軒』『北條霞亭』がなぜあれほどの高さに達し得たかといふ問題であらう。もちろん理由は一つ二つにとどまるものではあるまい。複雑きはまる条件が寄り集つて、あの賛美と完成と豊饒とを形づくつたことは明らかである。しかしそのうち最も重要な因子としては、鷗外が江戸末期の文明に寄せてゐた郷愁のやうな思慕の情をあげなければならない。(中略)

 鷗外の場合の江戸末期に当るやうな、理想ないし憧れの対象としての過去の文明の型は、自然主義に対立した作家の場合には、多かれ少なかれ見られるものである。舟橋聖一の場合、それは大正文明であつた。彼は大正改元の年に八歳、昭和改元の年に二十二歳であつたが、幼少時の文明の型は彼の資質をあざやかに規定してゐるし、その文明の本質を追求することこそ彼の生涯の主題となつたやうに見受けられる。

 これは彼の作中、大正時代へと寄せる郷愁に端を発したものが数多いといふ事情から見ても明らかだらう。名作『悉皆屋康吉』で「康吉の考案した若納戸という色気が(中略)花柳界はもとより、山の手の家庭にも、大はやりをした」のは「震災前の東京」である。(中略)そして長編小説『とりかへばや秘文』に至つては、大正十年、水沢一俊男爵が中学生、清田彰太郎を伴つての箱根ゆきにはじまり、(中略)大正時代の世相をゆつたりと描いたものである。特に終曲が、「およそ十五年の歳月が流れて、昭和十五年三月……」とはじまることは、大正時代への挽歌とも言ふべきこの作品の性格を何よりもよく證してゐるやうに思はれてならない。》

・唐池の古物商に、康吉の悉皆屋と似た世界がみえる。

 

《然し、お遊とすれば、金はともかくも、唐池では、役不足といふ気もした。政治家なら大臣級、お医者なら、北里さん級、実業家なら、三井岩崎でなくとも、せめて、古河さんあたりから、声がかゝつても、をかしくはないといふ自信だつた。然し、そこは二流地の悲しさで、お遊の理想も実現は困難であつた。

 唐池は、古河と並び称せられた銅山王、中杉の当主、備善によつて、こゝまで引立てられてきた男である。中杉備善は、先代とちがつて、放埓(ほうらつ)の行ひが多かつたが、道具に目のきくことは先代以上といはれた。先代の奥方が、駿府(すんぷ)詰(づめ)の払方役人の娘であつた縁から、唐池も、静岡の古物商の手代をふり出しに、出世の蔓(つる)をつかみ、先代奥方の歿後は、中杉家の土蔵の中は、誰よりも、唐池が知つてゐるといふありさまであつた。その長持ちには何が入つてをり、その唐櫃(からびつ)には、何の何がしまつてあるといふことを、そらんじてゐるのは、唐池一人であつた。

 備善のお伴(とも)で、日本全国はおろか、朝鮮、満州から、台湾、上海(シャンハイ)、南京(ナンキン)と歩き廻つては、金にあかして買ひあつめる道具を、備善は、持前の淡泊さから、掘出しものでも何でも、気がむけば、唐池にくれてやることもあり、時には、唐池自身も、山をあてゝ帰ることもあるので、唐池の身代は長い旅行に出るたびに、太つていつたといふ。

「そりやアね、お遊さん。唐池さんには、位はない。けれど、あの人は、普通のお茶坊主ぢやアありませんよ。今を時めく銅山王の、奥方でさへ知らないお尻の毛まで、チヤンと見ぬいてゐる人だ。中杉備善さまが、首(くび)つ丈(たけ)で、上海くんだりまで、お伴につれていくのは、唐池さんを措(お)いてないとまでいはれる人です。わたしが、すゝめるからは、お遊さんや小稲ちやんの、不ためになるやうなことをする筈がないぢやありませんか」

 と、中洲の待合のおかみ、お梶(かぢ)には、それ相当の、胸算段のあつてのことなのであつた――。

 で、お優も納得(なっとく)した。お遊さへうんといへば、小稲には、拒否権はないのであるから、あとはすべて筋書通りに運ぶことになる。いよ/\、その当日、内箱のお初に、

「小稲ちやん。大人になれば、みんな、さうなるものなんだから、今日から、あんたも、唐池さんに教へて頂いて、大人にして貰ふんですよ。素人(しろうと)のお嬢さんがお嫁にいくのと同じことなんですから、ちつとも、心配しないで、唐池さんのいふ通りに、音無(おとな)しく、してゐればいいの。何はいやの、かにはいやのといつて、唐池さんに、さからつて、却て、大人になり損(そこな)つては、大変ですよ。唐池さんは、小稲ちやんも知つての通り、親切な小父ちやんだし、お金も、そのために、どつさり払つていらつしやるんだから、唐池さんの親切を無にするやうなことでは困りますからね。それに、こんどのことでは、お梶さんも、ずゐ分、骨を折つてくれたんだから、あんたが、こゝで、駄々をこねたりすると、お梶さんの顔をつぶすことになりますよ」

 と、くどかれた。お初のいひ方は、今までにないシヤンとしたいひつぷりであり、事の仔細はわからぬが、その重大性だけは、小稲にもわかるやうな気がした。それに、お座敷でも、水揚げといふ言葉は、度々、きかされてゐて、漠然とでも、その意味を悟つてゐないことはないので、小稲としても、突然の宣告に色を変へて、騒ぐ程のことはなかつた。大体、順応主義であり、この世界に棲む以上、男のしたい放題であつて、今更、泣いても笑つても、仕方がないのであつた。たゞ、唐池といふ男を、好きでもきらひでもないことが、何か、物足らぬ思ひをさせた。が、さうかといつて、外に、好きな男もゐなかつた。半玉でも水揚げをする年になると、大ていは、一人や二人の岡惚れをこしらへて騒ぐものだが、小稲は、さういふ相手が一人もゐない。

 それをお遊も、内々は心配し、又、お遊のごま(・・)をする連中も、小稲にさういふ浮いた噂のないことを、自慢ばかりはしてゐられないといふ風であつた。

 すると、お梶などは、それを又、宣伝の具にして、

「唐池さんの果報者。あの子はね、岡惚れ一人ゐないといふ、真正真銘の無垢(むく)ですよ」

 と、しきりに、お土砂をかけたものだといふことだ。》

 

・「古河」財閥、足尾銅山の翳。

《然し、お遊とすれば、金はともかくも、唐池では、役不足といふ気もした。政治家なら大臣級、お医者なら、北里さん級、実業家なら、三井岩崎でなくとも、せめて、古河さんあたりから、声がかゝつても、をかしくはないといふ自信だつた。然し、そこは二流地の悲しさで、お遊の理想も実現は困難であつた。

 唐池は、古河と並び称せられた銅山王、中杉の当主、備善によつて、こゝまで引立てられてきた男である。》という銅山王古河の名前が出て来るが、古河と舟橋聖一はおおいに因縁がある。

舟橋聖一『文藝的な自伝的な』の第一章には、舟橋の二つの源泉がある。

一つは耽美の世界。

《わたしの人生は縮緬(ちりめん)の肌ざわりからはじまった。

 五ツ六ツの頃から、祖母近藤ひろ子のお供で、芝居を見に行き、お化けが出るのが怖ろしく、同行の女客の膝に顔をうつ伏せた時、一越(ひとこし)縮緬や紋縮緬の感触が、子供心にも、得も言われぬ魅惑だった。》

 もう一つは古河財閥足尾銅山をめぐる翳。

《わたしの生れる少し前に、足尾銅山鉱毒事件が、世間を深憾させる社会的話題になったことは誰れ知らぬ者もなかった。しかも事件に直接関係のあった足尾銅山の所長が、わたしの祖父近藤陸三郎だと言うのだから、それをわたしがどんな風に考えたか、または考えさせられていたのか、これはわたしの一生に思い翳となった。》

 

 

《はじめは、唐池も、ほんの水揚げだけのつもりだつたらしい。が、そのうちに、いつまでたつても、離しさうにもないので、やうやく、世間にもパツとしてきた。然し、何分、唐池は、身上(しんしやう)があるといつても、一代分限(ぶげん)だから、根にしつかりしたところがあり、小稲の旦那になつたからとて、とくに、披露目をするわけでなし、ごく、内輪にふるまつてゐるので、ほかのお座敷の邪魔になるといふ程ではなく、一本になつてからの小稲は、却て、玉代があがる位であつた。それで、お遊もすつかり安心し、お梶やお初にも、たんまり祝儀をはずんだといふ話であつた。

「小稲――おまへさんは仕合せもんだよ。いくら大臣だ頭取だのつて、名前ばかりはあつても、芸者を虫けらのやうにあつかふ人もある。さういふ人の手にかゝつて、大人にして貰つても、その時は、パツとして派手かもしれないが、あと味のわるいものさね。そこへいくと、唐池さんは、存外、情(じょう)のふかい人だ。お金はあつて、情もあつて、その上、男つぷりだつて、そんなに悪かないもの、三拍子揃つてるとは、あの人のことだよ」

 と、すつかり宗旨をかへてゐた。小稲は、別段、それにさからふ様子もなく、さりとて、唐池さんから貰ひがかゝつても、これといつて嬉しさうな表情もないのだつた。

 その頃から、小稲は、本を読むのが好きになつた。いや、目立つやうになつた。むろん、芸者と小説本はつきものだが、小稲の読むのは赤本でなく、「カラマゾフの兄弟」とか、「アンナ・カレーニナ」とか「女の一生」とか、さうかと思ふと、古今集のやうなものを読んでゐることもあつた。

 誰の影響といふことは、わからなかつた。小稲の部屋の本棚には、背皮に金文字の厚表紙の本がズラリと並んで異彩を放つてゐたが、お遊も、これには手を焼くだけであつた。まさか、唐池の指図であるわけもないが、さうかといつて、唐池以外に、しんねこ(・・・・)で、呼んでくれるお客の中に、その方面の人はゐなかつた。御座敷以外で、こつそり、逢ひ引きをしてゐる様子は、むろん、無い。

 けれども、さういふむづかしい本を読んだからといつて、変に、理屈つぽくなつたり、一々、批判的になつたりする様子はないので、お遊も少しづゝ、安心した。たゞ、読んでるだけなら、別条はあるまいし、それに、ソロ/\、好きな人の一人や半分をこしたへても不足のない年になつて、神妙に、唐池だけの機嫌気褄(きづま)を取つてゐる風なら、娘としては、大出来の部といへるのであつた。

 ところで、唐池は、小稲のことだけは、備善の耳へ入れなかつた。その頃の備善は、第一次大戦の興隆資本主義の波にのつてゐるのだから、腕をこまぬいてゐても、株価は上り、資産はふえ、大ていの無理は、いふ目が出るといふ風であつたので、連日連夜の馬鹿遊びに、折花攀柳(せつくわはんりう)の数のみを誇つてゐたが、今夜はたまに、河岸(かし)をかへて、葭町(よしちやう)はどうだといつても、唐池は即座に、

「あすこは、二流地でござんすから、ごぜんのお遊びになるところではございません」

 といつて、同意しない。随分、一人勝手の備善が、唐池のいふことだけは、よくきくのもふしぎだつた。それといふのも、備善が自分でも無理と思ふやうなのに目をつけて、是非、あれをどうかしてくれといひ出すと、その交渉を引うけて、必ず何とか、仕出(しで)かしてくるのが、唐池であつたからにもよる。丁度、あの、光源氏の、無理難題の色あそびに、必ずお伴を仰せつかる惟光朝臣(これみつあそん)にも似てゐるのが唐池で、むろん、源氏が源氏なら、惟光も惟光で、主人が主人なら、家来も家来、おたがひに、持ちつ持たれつの仲だつたとはいへ、小稲に関する限り、唐池の口には、ぴつたりと、大戸が立つてゐたのである。》

 

三島由紀夫に読書遍歴を問われて(対談「私の文学鑑定」)、舟橋は誰の影響を受けたかを素直に語るが、「押しの強さ」「六代目の生世話」あたりに谷崎との通奏低音が聴こえる。

《最初からいえばやっぱり紅葉ですよ。紅葉の「伽羅枕(きゃらまくら)」「不信不語」「心の闇」「三人妻」というのは、愛読耽読(たんどく)した。ぼくの生れた年は明治三十七年ですから自然主義が風靡してくるころですが。三十九年が大体自然主義の黄金期とみて、やっぱり小学校のときから田山花袋や「あらくれ」「爛(ただれ)」(徳田秋声)などというものを読んだ影響がありますね。泉鏡花もむろんだけども、案外ぼくはそう花柳物なんて読まなかったし、そんなに興味もなかったですよ。むしろ紅葉の作品のもっている押しの強さみたいなものに興味をもった。そして比較的にノーマルに成長してきたんだけれども、やっぱり谷崎潤一郎ですね。谷崎さん以来かわっちゃった。たいへんな変り方をしたわけですよ。だからぼくの少年期を過ぎて青年期以後に影響を与えたものは「春琴抄」と「蓼(たで)喰ふ虫」、ラディゲの「ドルジェル伯の舞踏会」、それから梶井基次郎、この三者によってぼくの今日はかなりできてきたわけです。それまでは尾崎紅葉とか、小栗風葉とか村上浪六(なみろく)とかそういうようなものを雑然と読み、それから歌舞伎に陶酔したわけだ。歌舞伎といっても殊に六代目(菊五郎)の生世話(きぜわ)に陶酔した。》

・小稲はトルストイアンナ・カレーニナ』を読む女だった。しかし、因縁や勿体をつけずにさらりと書くところが舟橋らしい。

・《惟光朝臣(これみつあそん)にも似てゐるのが唐池で》には、後の舟橋歌舞伎『源氏物語』(昭和二六年(一九五一年)3月歌舞伎座初演、九代目海老蔵による光源氏)につながるものがある。

 

《中杉家で、宴会があるといへば、誰よりも、唐池が宰配(さいはい)をふる。前の日からつめかけ、お花いけ、お掛物、香炉香合の類はもとより、ちがひ棚、飾り棚の置き物、お火鉢、小几帳(こぎちやう)、衝立(ついたて)などまで、すべて、唐池の指図をまたなければならない。時には、お台所にも顔を出し、食器、お器(うつは)の類も、特別、価の高いものを使ふときは、唐池が世話をする。むろん、お茶道具一式は、唐池の領分であり、この前の宴席に使つたものを、二度使ふのは、気のひけるものであるから、なるべく、客に目新しさを感じさせるやうの、こまかく気を使ふ。それには、どうしても、記憶にたよる以外はない。唐池は、中杉家の年中行事、悉(ことごと)く、一冊の手帖に書きしるしてあつて、その閻魔帖(えんまてふ)を以て、その都度(つど)のプランを立てるのであつた。

 備善は、いはゆる殿様であつて、鷹揚(おうやう)にかまへてゐるとはいへ、さういふ饗宴に、少しでも、ソツのあるのは、大きらひであるから、唐池でなければ、夜も日もあけない。といふのは、奥方はむろんのこと、愛妾(あいせふ)といふべき人も、一人や二人ではない筈なのに、女の仕事は、どこかで尻が割れてゐるので、どうしても気に入らぬのであつた。奥方の竜子も、はじめのうちは、唐池が指図がましく出てくるのを、面白からぬやうに見えたが、そのうちには、却て、何でも唐池にやらせておく方が、一つには重宝なり、一つには、備善の機嫌にもかなふので、妙な感情を插むのを、やめにした。それでます/\、唐池が、中杉家の家政の中軸に参画するやうになり、時には、唐池次第で、中杉家はどうにでもなると思はれるやうな場面さへ出てきたのである。

 この時代が、いはゞ、唐池の全盛時代でもあつたのであるが、たゞ、その中で、一つの不自由は、小稲との関係を、ひし隠しにかくしてゐるために、矛盾や衝突のおこる場合が少くなかつたことである。

 唐池が、たまに小稲と、二三日、温泉へでも行かうとしてゐると、備善が新橋の誰それをつれて箱根へいくから、一緒に来いといふやうな話になるので、唐池としても、砂を噛むやうな、宮仕への苦々しさを味ふのである。然し、小稲は、いざ出かけるといふ矢先きに、唐池から、ことわりの電話がかかつてきても、別に、苦情一ついふではなく、自分一人で、さつさと身軽に、温泉宿へ出かけていつて、二日でも三日でも、約束通り、一人で遊んでくる。むろん、鞄のなかには、「トルストイ全集」を何冊か入れていくのだから、退屈する筈はない。

「ほんたうにすまないね。若(も)し、うまく、ごぜんをまいたら、すぐ、とんでいくよ。待つてゐておくれ」

 などと、唐池に甘いことをいはれても、小稲とすれば、二日でも三日でも、遠出にしてくれて、お遊の目のないところで、好きな本をよまして貰ふのは、このうへない極楽なのであつた。

 さうかといつて、本にばかり夢中になつて、唐池に冷く当るかといふと、さうでもない。要するに、熱くもないが、冷くもないといふ、ぬるま湯のやうな小稲だつたので、唐池としてもはり合ひもない代り、扱ひ憎いところは一つもない。それに彼は何しろ忙しい毎日だから、ほんたうの遊び人のやうに、女をとろ/\にするやうな性の技巧にふけつてゐる余裕がなかつたのか。

 そういう空気を、お梶たちも、それとなく察していて、

「一体、どうなの、小稲ちやんは――」

 などと、突つこんでくることもある。

「別に、どうつてこともないさ」

「そんならいいけれど、お遊さんも、少し心配してるんですよ。家にゐると、本ばかり、読んでるんですつて、さ。どうも、小稲は、おく(・・)の方ぢやないかつて」

「ふーん」

「でも、唐池さんが離さないところを見ると、おく(・・)でもないだらうつて――」

「ばか――」

「みんな、ふしぎがつてるわ」

「何を?」

「唐池さんの箒(はうき)さんが、すつかり宗旨がへをしたつて」

「この頃は、いそがしいんだよ」

「お忙しいのは、結構だけれど、あんた方ときたら、いつまでたつても、遠慮がとれないみたいね。どういふんでせう」

「さういふのを、他人の疝気(せんき)を頭痛に病むといふんだよ」

 さういつて、唐池は軽く一蹴したが、内心は、痛いところを、ピツタリといひ当てられた思ひをしてゐるのであつた。

 或日、備善がいつた。

「蘭五堂。お前は、葭町は二流地だといつて、いつも、けなしてゐるが、あすこにも、なか/\、評判のがゐるさうではないか」

 唐池は、ヒヤリとした。

常磐津ではお遊。荻江(をぎえ)では、民枝など、新橋にも負けないさうだし、そのお遊の子に、筋のいい立方(たちかた)がゐるさうだね」

「へい、よくご存知で。誰が申しましたでせう」

「その子と同じ、政弥について、踊りを稽古してゐる新橋の若いのに聞いた」

 誰がしやべつたのだらう。あんなに固く、口どめをしておいたのに、おしやべり雀! と、唐池は、頭の中に、新橋藤間の若手の顔をずらりと並べて見た。

 然し、備善の話はそれつきりであつた。別に、その子に逢ひたいといふのでもなかつた。お遊の子といふだけで、小稲といふ芸名も知つてゐないのは、一安堵(ひとあんど)であつた。が、油断はならなかつた。》

 

・「唐池さんの箒(はうき)さんが、すつかり宗旨がへをしたつて」の「箒」とは、次々と女と関係する浮気性の男のこと。

・《二流地の葭町でも、当時は躾(しつけ)がきびしく、御座敷で、お客様と一緒に、ものを食べたりしたら、どやされたものである。その代り、半玉のうちから、蔭をかせぐことを強要されたりはしないですんだ。》とあるように「葭町」は一流ではないにしても、お遊、小稲のいる葭町の家は荷風「あぢさゐ」ほど落ちてはいないが、「蔭をかせぐことを強要されたり」という世界もあったことが匂わされている。

・丸谷は「維子の兄」で、一種の社会小説である『とりかへばや秘文』の政治という局面以外の、六代目菊五郎小山内薫横綱大錦、帝国ホテルのグリル、市川猿之助など華やかな文明の別の局面を紹介してから、

《しかしここで芝居や相撲以上に逸してならないのは、

   たとへば、のちに初代花柳寿美として、押しも押されもしない舞踊家になつた新橋芸者小奴は、当時三越の常務だつた朝吹さんの寵愛するところ、同じく君太郎は六代目菊五郎の彼女で、後に正夫人となつたし、桂太郎にしても、原敬にしても、また渋沢、大倉、馬越、根津(嘉)、岩田(宙)、久原の愛妓愛妾のことは、大小と泣く、他人の目に触れ……

とあることでも判るやうに藝者である。今の引用が語るやうに、縉紳(しんしん)ことごとく藝者を好み、そして世間はそれを許すだけではなく、その好尚をまたみづからの好尚として憧れたのが大正といふ時代であつた。その文明においては藝者は女性の典型であり、藝者の艶(あで)すがたはこの時代の様式美の基本であつたと言つてもよからう。おそらく舟橋の女性像の原型はこれによつて定まつたのである。》

 舟橋『文藝的な自伝的な』は、小学校低学年ながら芸者がごく自然に周りにいて、すでに「にせの市民社会」を頭で知らずとも肌で感じていたと教える。

 母の実家だった本所区《番場町の家では主人陸三郎が、古河合名会社の一等支配人として、殆んど隔日ぐらいに、客を接待したので、女中だけでは間に合わず、給仕役に柳橋の芸者を呼ぶのを例とした。そのため祖母は、料亭の女将のように、芸者たちをもてなしてやらなければならなかった。陸三郎は下戸だったが、客のうちには酔っぱらうものもあって、賑やかな宴会となり、三味線も鳴り、芸者の手踊りなどもあった。わたしは廊下の遠方から、そっと覗いていたものだ。

 そういう芸者や半玉(はんぎょく)が先に来て、陸三郎の帰宅や客の来訪を待っているあいだ、手持無沙汰にかこつけて、わたしを相手に隠れんぼや鬼ごっこをしたりするのは、多くは半玉か、一本になりたての若い妓(こ)であった。》

  

《丁度、その頃、歌舞伎座で、井伊掃部守(かもんのかみ)が尊王攘夷派の浪士に暗殺される話を仕組んだ新作ものが上演されたことがある。市川左団次が井伊に扮し、水戸の烈公を、先代市川八百蔵が、やつた。生憎(あいにく)なことに、その日、唐池は、お梶にたのまれて、平土間を二桝(ます)ほど取り、小稲も一緒につれていくつもりで、葭町連を誘ひ合せてゐたところが、突然、古河家からの招待で、備善が歌舞伎座へ出かけることになり、唐池はその随行を命じられたのであつた。

 唐池はすぐ、小稲に電話をかけ、古河家の席は、東の桟敷(さじき)の四と五をぶつこぬいたところだから、おまへたちは、なるべく、目立たぬやうにして、平土間で見物してゐなさい。茶屋は、古河家は武田屋からだから、そのつもりで、あまり仰山(ぎやうさん)に、二階の方をふり仰いだりしないやうにと、注意をあたへ、それから、芝居がはねたら、おそくも十時までには、いつもの家へ行くから、そこで待つてゐるやうにと、念を押した。

 その頃の歌舞伎座は、まだ椅子席ではなく、二階両桟敷のほか、下に、うづら、高土間、新高が、両花道のそとにあつて、平土間は四人一桝。桝の上を、出方(でかた)がひよい/\と、お茶や弁当を持つて歩いた。幕間(まくあひ)には、役者の名前を筆太に書いた引幕が次ぎ/\と引かれた。

 唐池が、備善のうしろについて、武田屋の案内で桟敷へ入つていくと、舞台はもうあいてゐて、頼三樹三郎(らいみきさぶらう)に扮した市川猿之助が、唐丸籠(たうまるかご)で、江戸へ護送される場面らしく、いはゆる安政の大獄が、この芝居の筋になつてゐるものと思はれた。縄目にかけられた頼は、悲痛な声で、自作のらしい詩を吟じた。

 やがて、幕になつた。新作物は、場内の電燈を暗くしてあるので、幕になるとパツと、一斉に、灯がついた。と見ると、東の仮花道のすぐ傍に、小稲の顔が見えた。殆ど、ま正面に見えるので、唐池はドキリとした。お遊もゐる。民枝もゐる。あんなに注意しておいたのに、若い妓ならいざ知らず、お遊までが、こちらを見上げて、何か、噂でもしてゐるらしい様子。これでは、備善の目にとまるのも、当り前であつた。

 果して、備善はすぐ気がついた。

「蘭五堂」

「へい」

「あすこに、大分、ゐるな」

「へい」

「どこの連中だ。見かけない顔だな」

「へい――」

「一番手前にゐるのは、きれいな子ではないか」

「へい」

 小稲のことであつた。

「あとで、聞いてみてくれ。どこの何つて子か」

「へい」

 唐池はげんなりした。こんなことになりはしないかといふ予感はしないでもなかつたのである。

 然し、綸言(りんげん)は汗の如しである。一度、備善の口から出た以上、再び戻ることは、あり得ない。

 次の幕は、井伊が、その愛妾と、ギヤマンのコップで、赤い南蛮の酒をのむ場面であつた。市川左団次の得意とするリリカルなエロキューションは、こゝでも、観客に受けてゐる風である。愛妾に扮したのは、坂東秀調であつた。

 幕が下りると、備善は、外へ出ようといつた。

 二人は、茶屋へ通ずる橋廊下の袂(たもと)にある喫茶室へ入つた。

「わかつたか」ときかれる。

「葭町の婆さん連中ださうでござんす」

「若いのは?」

「やつぱり、同じで」

「だから、名前は何といふんだ」

「へい。では調べさせませう」

「何だ。蘭五堂は、よつぽど、葭町ぎらひと見えるな。では、もう頼まん」

「いえ、さういふわけぢやござんせん。では何ですか。ごぜんは、あゝいふのが、お好きで――」

「うん。ちよつとした代(しろ)ものだな。今夜、さつそく、遭つてみたいね。呼んで貰はう。瓢屋(ひさごや)がいいだらう――」

「へい」

 かしこまりました、といはざるを得ないのである。が、備善のことだ。たゞ、逢ふだけで承知する筈はない。

 唐池として、致命的なエラーであつた。彼は、次の幕を見る勇気を失つたが、その間に、お梶を呼出して、

「とんだことになつてしまつたよ」

 と、備善の無理難題を、ありのまゝに、つたへた。お梶も顔色をかへた。

「それで、旦那の肚(はら)はどうなの?」

「困つたよ」

「いえさ、どうでも、小稲ちやんを出してくれるな、つて仰言(おつしや)られゝば、あの子には、若い役者衆に、いい人があつて、そつちへのぼせ上つてゐるから、とか何とか、あきらめて頂くやうにする手は、あるわ」

「ところが、ごぜんときたひ(・)には、そんな、甘口には、のらない」

「さうかしら」

「一にも二にも金で、テキパキ、片づけていくんだからたまらない」

「駄目よ、そんなに、悲観しちや」

「いや、ごぜんに見こまれては、百年目だと思つてゐたのが、たうたう、来てしまつた」

「そんなに、参らないで、いつそ、あれは、自分のですつて、打明けておしまひなさいな――さうしたら、いくら、ごぜんだつて、旦那のもとものまで、欲しいとは、仰言りますまい」

「ところが、悪いお癖で、人のもちものほど、欲しがんなさる」

「困つたね」

「いや、殿様なんてそんなものさ。もう、何もかも、したいことはみな、しつくしてしまつた方だ。あとは、棒鼻をちぎることしかない。人のものを、取る外ない。主(ぬし)のない花なんか、かへりみようともなさらないんだ」

「それで旦那は、小稲ちやんを、見せまい見せまいとなすつたのね」

「さうなんだよ。だから、弱るんだ」

 唐池は、さういふ備善の手癖をよく知つてゐる。それは旅きなどで、一夜の遊びに呼ぶ芸者などにしても、一度、唐池の女にきめてから、それをよこせといふ風な悪趣味がある。又、主人側の寵妓と知れてゐる女を、無理に欲しがる癖があつて、中へ插まつて、唐池が冷汗をかくことは、一再でない。だから、小稲が、唐池のものだとわかつても、それに遠慮して、心猿意馬をおさへようとする備善ではないどころか、むしろ、さう聞くことによつて、却て、野望を燃え上らせる結果になることは知れてゐる。

「お梶さん――わしや、仕方がない。あきらめるよ」

 と、唐池はいつた。

「へえ?――あきらめるつて、旦那。それぢや小稲さんを――」

「見つかつたのが、そもそも、不運だ。いくら、あがいても、もう駄目。その位なら、何もいはずに、目をつぶつて、進呈してしまはう」

 唐池の額には、さすがに、青筋がピク/\してゐた。》

 

・二人とも幼少時の虚弱体質、祖母の溺愛と御供による歌舞伎愛好が共通している舟橋聖一三島由紀夫(舟橋は三島の母倭文重(しづえ)と西片町の誠之(せいし)小学校で同級だと、その時は知ずじまいだったが後年三島と親しくなってから聞く)の対談「舟橋聖一との対話」(初出「昭和24年3月文学界」だから『堀江まきの破壊』と同時期)から、舟橋の性向、文学の本質が婉曲にだが理解できる。それは「原型と変型」、そして「エロ」。

三島 歌舞伎はこの頃御覧になりますか。

舟橋 たまには見ますけどね。

三島 舟橋さんなんか江戸ッ子でいらっしゃるから、宗十郎なんかお嫌いでしょう。

舟橋 僕は宗十郎、絶対嫌いですよ。

三島 僕は好きです。

舟橋 僕の考えは、あなたと違うかも知れませんよ。つまり歌舞伎の一番本質的なものがあるということで宗十郎を認めてるということでしょう。例えば塩谷(えんや)判官ですね、六代目(菊五郎)と宗十郎を比べたら、塩谷判官の原型は宗十郎にあるわけですね。しかしだね、それは基本なのであって、いろんな変型が行われるわけですよ。芸術、殊にああいう型の芸術だから、われわれみたいな創造の芸術とは違って、まず型を基本にして、そこに変型が行われて来るわけだ。型破りはいけない世界なんだ。――われわれのはしょっちゅう型破りですがね。――だから、宗十郎の塩谷判官が塩谷判官の原型であるということは認めるんですよ。だけども、見物人にアッピールするのは、六代目の演出にあるわけなんだ。その六代目を見ちゃうと、それじゃ宗十郎のは原型に過ぎない、ということになっちゃうんだ。つまり標本室の標本に過ぎない。われわれが現代にアミーバとして動くならば、六代目のほうに深く惹(ひ)きつけられる、ということになるんだな。

三島 それが今の大衆にはわからないんじゃないかしらん。しかしこれからの友右衛門(ともえもん)とか何とかでは、そういう意味で原型の役者が出て来ないと思うんです。そういう意味で宗十郎は希少価値を持って来てると思うんです。

舟橋 そういうことですよ。だから、僕はいつでも原型を愛して、それを進歩させるものを愛してるんだ。いつでもそうですよ。つまり小手投げなら小手投げの原型を愛してますよ。しかし、その原型を更に進歩させる人を更に愛してるな。だけど、原型主義者には判らない。あいつは邪道だと言いたくなるんだな。ここに問題があると思うんだ。そうそう僕はこないだ古靱太夫の「伊勢音頭」を聴いてね、これはもうすっかり感心したな。

三島 聴きたかったな。

(中略)

舟橋 これは六代目の落し葉梨のように言われてるけど、忠臣蔵のお軽は戸塚へ来るまでの間に勘平と何遍寝たか。それによって演出が違って来る。一遍しか寝てないのか、三遍寝てるのか。それまで六代目は考えてるんです。

三島 僕は日本の文学もそういう所を通さなければ、西洋文学との交流なんていうこともあり得ないと思うんです。それをみんなやらないんですよ。

 

舟橋 ラディゲの「ドルジェル伯の舞踏会」で、腋の下へちょっと肘が触れる所があるでしょう。あれはエロティックだけど、それはまだ関係してないからエロティックなんだ。だから非常なエロですよ。だけども、十遍も二十遍も寝た女の二の腕がちょっと触ったって、ちっともエロじゃない。これがわからなければしようがないんだ。あの描写はエロだと思うな。

三島 非情なエロです。

舟橋 だから、必ずしも寝室を描かなければエロでないということはない。われわれの現実生活だってそうでしょう。惚(ほ)れた女ならちょっと顔を見合しただけでホルモンが湧きますからね。そういうことが批評家にわかってもらいたいんだけどね。

三島 今の日本じゃわかりません。絶対にわかりません。(後略)》

 三島の他に折口信夫宗十郎贔屓で、舟橋の他に谷崎が六代目贔屓だったのも、通じるところがある。舟橋は彼が語ったような意味合いで、小説家としての「六代目」、寝室を描かない「エロ」である。

  

それでも、その晩は、月の障(さは)りと申し立てゝ、備善の追求をまぬがれたが、小稲も、すべての行がかりをそれとのみこめる程度には、カンをはたらかした。十二時近く、中洲へ帰つてきた小稲は、こんどは、あらためて、唐池にくどかれる番であつた。

「小稲。おまへは、どう思ふ?」

「はい」

「ごぜんの肚を、鏡にかけて見ると、何もかも、承知のうへで、おまへをくどいてゐるとしか思へないんだ」

「はい」

「むろん、わたしのものといふことも、御存知と思へる。ごぜんは、あの癖がまだ、なほらない。何アに、ずつと前から、ごぜんは、おまへのことは知つてゐて、見ぬ恋に、憧れてゐなすつたんだ。それが今日――まつたく、千慮の一失とは、このことだ」

「芝居なんぞに、参らねば、よろしかつたのでございますね」

「ほんたうだ。が、後悔は先きに立たずだから、今更、ぐちを云つてもはじまらない。ごぜんも、芝居なぞを、ジツとして見てゐる方ではないんだが、今日は、何しろ、古河男爵のお招きといふんでね――そこで、小稲。おまへは、ごぜんのやうな方は、好きかい?」

 と唐池はきいた。

「好きでもきらひでも、ございません。何とも思ひません」

「ふーん。では、若し、ごぜんが、たつえ、おまへを可愛いから、と仰言つた場合、死んでもいや、といふ程のことはないのだね」

「…………」

 彼女は答へなかつた。

「実は、それが、若しではなく、はつきりと、さういふお望みなのだ。それで、お梶も困り、わしも弱つた。何しろ、わしにとつては、大事な殿様だし、こゝで御機嫌を損じては、今までの苦労が、全部、水の泡だから」

「…………」

「むろん、現在、おまへを世話してゐるわしから、こんな、バカなことは、いへた義理ではない。然し、相手がごぜんでは、わしも、策の施しやうがないのだ。わしは苦しい。苦しいが、絶体絶命のやうにも思はれる。おまへといふものを、あきらめるよりほかにないのではないかと思つたのだ」

「わかりました」

 と、小稲は、澄みきつた清水のやうな声でいひ、それから、あらたまつて、手をついて、今まで、長い間、世話をして貰ひ、お蔭で、大過なく、朝夕を送つてこられたことの礼をのべた。そして、帰らうとすると、お梶が、今夜は最後のお勤めだから、お勤めしておいきなさいといふので、又、それにも特にさからふといふのでなしに、音無(おとな)しく、

「はい。さうですか」

 と、返事をしたのださうである。お梶も、これには、ホト/\、感心して、鬼の目にも泪といふが、思はず、いぢらしさに、胸が一杯になつたといふ。

 然し、考へやうによつては、個性も何もない温室育ちの花だといつて、批難すればする人もあるわけである。正直な話、小稲に、一言の未練も愚痴もいはれずに、別れ話がまとまつたことでは、唐池としても、薄気味のわるい思ひだつた。

 あとでお梶に、

「小稲は、どうだらう。怒つてるのかしら」

 ときいた。お梶の方でも、それは唐池の胸を叩いて見たいところだつたので、

「それは、旦那にききたいと思つてたんですよ」

「それが、わからないんだ。まア、条理をといてきかすと、わかりました、と、すんなり、返事をしたゞけだ。それで、何もかも、胸に入つたといふんだらうか、それとも、わかつたといふのは反語で、わからないといふ意味なのか。旦那みたいな、わからない人は、いやです。仰言る通り、別れませうと、啖呵(たんか)を切るところを、たゞ、あの子らしい淑(しと)やかさで、わかりました、と、ツンとして見せたのか」

「ツンとしたんですか?」

「それもわからない。大体、ツンとしたりすることのない子だからね。ツンとしたり、プン/\したり、すぐ、メソ/\したり、さういふ下司(げす)なことはしない人だ」

「ほんとに、素直つて、あんな素直な子、見たことがありませんよ」

「それで、バカではないんだ。何しろ、外国物の小説を、パリ/\、読んでるさうだ」

芯(しん)が利口なのね。そのくせ、利口ぶらないんですよ」

「恐ろしく、出来た子だ。お遊の仕込みかね?」

「とんでもない。お遊さんつてのは、あれでひどいヒステリーでね。すぐ、ギヤン/\、はじめるんですよ。あの人の子にしては、まつたく、出来すぎてる。鳶(と)ん鷹(たか)の方でせうね」

「さうかもしれないね」

「それで、帰るつていふから、それでは、今までの御恩に対して、水臭いから、つていふと、音無しく、はいつて云つて、旦那のところへいくんですからね。どうでした?」

「何が」

「何がはないでせう。最後のお勤め振りのことよ」

「あゝ、さうか。いや、ふだんと、変らなかつたよ。最後だからといつて、特に、念も入れない代り、あとは野となれといふ風な、投げたところも見えないんだ――」

「小稲ちやんらしい」

「然し、わしの方は、最後だと思つたんで、力が入つたがね――」

「まア、好かん。そんなこと、聞いてやしません――でも旦那も、気の毒な。これが、ほんにいふ、鳶に油げですよ」

「十七の秋からだよ」

「さうですね。惜しい気がするでせうね」

「そりやア惜しい。いや、勿体(もったい)ないよ。大事に、大事に、育てた花を、アツといふ間に、二百十日の風に、ふき折られたといふ奴でね――」

 と、唐池は、胸の芯が、ジワツとあつくなつてくるのを覚えながらいつた。こんな風に、今頃、人に奪(と)られる程なら、もつと、あの手この手を使つて、女の肉体を荒してやればよかつたといふ気もした。あんまり大事にしすぎて、外側から鑑賞してばかりゐたので、女の肉体に、はつきり、蘭五堂の落款(らくくわん)を捺(お)しておかなかつたことも、不覚の一つである。それがあれば、小稲も、あの程度の説明で、備善の所望に応ずべき筈はなかつたのではないか。然し、唐池は、やがて時のたつにしたがつて、すべては上手の手から水が洩つたのだと、あきらめてゐた――。》

 

・中村吉蔵作『井伊大老の死』は大正九年(一九二〇年)七月、歌舞伎座初演、井伊掃部守は二代目左団次。

《次の幕は、井伊が、その愛妾と、ギヤマンのコップで、赤い南蛮の酒をのむ場面であつた。市川左団次の得意とするリリカルなエロキューションは、こゝでも、観客に受けてゐる風である。愛妾に扮したのは、坂東秀調であつた。》のように、愛妾お静の方が登場する。

 舟橋は『文藝的な自伝的な』で、大正九年十二月の、舟橋曰く「震災前の歌舞伎演劇のピークを飾る」師走狂言の観劇(演目は『一谷嫩軍記』『色彩間刈豆』『彦山権現誓助剣』『浄瑠璃物語』『与話情浮名横櫛』『二人道成寺』)を数ページにわたって劇評的に書いているが、七月の『井伊大老の死』についての言及はない。

・舟橋といえば昭和二十七~八年の毎日新聞連載『花の生涯』を、昭和三十八年にNHKが二代目尾上松緑を主役にしての記念すべき大河ドラマがよく知られるところだが、井伊大老と同じくらいに正室昌子の方(八千草薫)、側室・愛妾秋山志津(香川京子)、侍女村山たか(淡島千景)が活躍した。

・知られているように舟橋には戦前から芸者出身の女性がいて、のちには妻妾同居で叩かれもされた。実情は娘の舟橋美香子『父のいる遠景』に詳しく、その女性の性格や同居の日常生活は情緒纏綿としたところがあって、この小説のまきを思わせもするけれども、舟橋は妻以外の女性、愛妾が登場する多くの小説を書いたが、私小説的に書いたことはなく、ロマネスクとして昇華している。

・「月の障り」といえば、丸谷《舟橋には生理と病気についての持続的な関心があつて、それはむしろ一つの偏愛にすらなつてゐる。》と書いている。

・《こんな風に、今頃、人に奪(と)られる程なら、もつと、あの手この手を使つて、女の肉体を荒してやればよかつたといふ気もした。あんまり大事にしすぎて、外側から鑑賞してばかりゐたので、女の肉体に、はつきり、蘭五堂の落款(らくくわん)を捺(お)しておかなかつたことも、不覚の一つである。それがあれば、小稲も、あの程度の説明で、備善の所望に応ずべき筈はなかつたのではないか。》といった、具体表現としては控えめながらもエロティックな連想をさせるところは同時期の『雪夫人絵図』(昭和二十三年)と同じ世界だ。

  

《アツといふまに、よその庭に、移し植ゑられた小稲は、それで、商売も引き、中杉備善の何番目かの、側室となつたまゝ、かといつて、とくべつの変化もあらはれる模様はなかつた。

 備善の熱は、段々高く燃えてゆき、一時は、ほかの妾たちを、かへりみる余裕もない程であつた。その烈しさを、まともには、受けかねてか、小稲の希望で、箱根・強羅(がうら)の別荘に、住むことになつた。そこは、木立の古い、しまつた黒土の崖の中腹に立つてゐて、庭の中へ、自然の流れを取り入れ、その水が渡殿(わたどの)の下を、ちろ/\と音立てゝ、流れてゐた。渡殿には、檜(ひのき)丸太(まるた)のてすりがあつて、その水に、のぞんで、酒をくむことが出来た。

 部屋は表座敷、裏座敷、別殿、御寝所などにわかれてゐて、お風呂は、タイルと檜が、二風呂。べつに自然木の根株をくりぬいたものが一つあつて、温泉は昼夜のわかちなく、涌(わ)きこぼれた。

 備善は、小稲を住まはせてからといふものは、箱根にばかり出かけて、一日の予定が三日になり、三日の予定が一週間とのびがちであつた。時とすると、蘭五堂をお伴につれた。

 唐池は、口を拭(ぬぐ)つてゐた。

 備善と小稲のまきが寝る御寝所と、廊下一つへだてた裏座敷へ、唐池は泊るのだが、彼はスヤ/\と、寝息を立てた。その寝息は、備善の耳にも入つてきた。

「蘭五堂は、寝つきのいい男だ。もう、寝たらしい」

 と、備善はいつた。

 唐池は、朝も早く起きた。そして、寝所の前の、苔(こけ)の青い庭の落葉を掃いたりして、二人の起きるのを待つた。

 或る朝、唐池が、箒の手を休めて、山の鳥の鳴くのに耳を立てゝゐると、寝所の杉戸があいて、鴇(とき)色のしごきを前で結んだ寝間着姿のまきが、あらはれたことがある。

 さすがのまきも、ハツとした風で、軽く、ためらひの色をうかべたが、次の瞬間、無感動の、いつものまきに戻つてゐて、縮緬(ちりめん)の褄(つま)を蹴出(けだ)しながら、手水鉢(てうづばち)の前へ出た。

「お早うございます」

 と、唐池は丁寧にあたまをさげ、いそいで柄杓(ひしゃく)を取つて、彼女の白魚のやうな手に、山の清水をかけた。

「はゞかりさま」

「山の朝は、気分が爽かでございますね」

「落葉が、すぐ、たまるんですよ」

「あんまり強く掃くと、せつかくの苔をいためますもんですから。美事な苔でございますなア」

「御先代が丹精なすつたものださうですわ」

「ごぜんはお目ざめになりましたか?」

「今、起きて、お床の中で煙草を喫(の)んでいらしやいます」

「けふは、おくさまの御点前(おてまえ)を拝見しようと思ひまして、お茶席の方に、お釜をわかしておきました」

 と、唐池は腰をかゞめ、縁側のてすりに、手を靠(もた)れて云つた。誰が見ても聞いても、昔の女と口をきいてゐるけぶりもなかつたといふ。また、まきの方も、すつかり、山荘の女主人の板についてゐて、どぎまぎしたところのないのは、いかにも、美亊であつた。

 又、鳥が鳴いた。

「あの鳥の声をききますと、夜中に三味線の転手(てんじゆ)がゆるんで、三の絃(いと)が、キキツと一度にほどける音によく似てをりますね」

 と、唐池がいつた。それは昔、中洲の待合に泊つた晩、おそくまで三味線をひいてゐて、そのまゝ、床脇に立てゝ寝たのが、どうしたのか、ま夜中に、転手がゆるみ、三の絃が、その鳥の声のやうな音を立てゝ鳴つたことがある。そして、その時、目をさまして可怕(こは)いといつて、小稲の手が、唐池の胴をまいたのだ。それにかけて、唐池は、洒落(しゃれ)言葉をいつたわけで、その洒落は、まきでなければ、とけない謎で。それを、そらとぼけて、馬鹿丁寧な調子で、唐池はしやべつたのである。

 その時、御寝所で手が鳴つた。まきは、褄をかへした。唐池は、掃きよせた落葉を、塵取りに、掻いた。》

 

・丸谷《舟橋の小説は歌舞伎的・浮世絵的な様式に富んでをり、しかも一方、尾籠なことがそのすぐ前、ないし後に控へてゐるのである。》と関連して、「御不浄」とは書かれていないが、次の描写は尾籠でエロティックな連想をさせる。

《或る朝、唐池が、箒の手を休めて、山の鳥の鳴くのに耳を立てゝゐると、寝所の杉戸があいて、鴇(とき)色のしごきを前で結んだ寝間着姿のまきが、あらはれたことがある。

 さすがのまきも、ハツとした風で、軽く、ためらひの色をうかべたが、次の瞬間、無感動の、いつものまきに戻つてゐて、縮緬(ちりめん)の褄(つま)を蹴出(けだ)しながら、手水鉢(てうづばち)の前へ出た。

「お早うございます」

 と、唐池は丁寧にあたまをさげ、いそいで柄杓(ひしゃく)を取つて、彼女の白魚のやうな手に、山の清水をかけた。

「はゞかりさま」》

  

《歳月がたつた。お遊が死んでゐた。

 そのうちに、備善は、又、外に増す花が出来たのか、箱根詣りも、ポツ/\になり、稀に来ても、その日のうちに、小田原へ下りたりした。

 或時、お梶が来ての話に、唐池が、後悔して、逢へば必ず、まきさんのことが出る。こんど、東京へお出になつたら、一度、ゆつくり逢つてやつてくれないか。昔話をするだけでも、さぞ生きのびる思ひでせうと、持ちかけるやうにいつたが、堀江まきも、こんどは、知らん顔をしてゐた。

 年と共に、まきの美しさは、古い陶器のやうに、時代がついて、渋く、みがいた光沢を放ち、古典的(クラシツク)な色香を、匂はせるやうになつた。手垢もつかず、皺もよらず、いつまでも水々しいなかに、重みといふか、威といふか、しつとりとした翳(かげ)がかゝつて、ます/\、その値を高くしたと見られた。備善が遠のいたのも、まきの深さについていけなかつたのではないかと見てをり、その頃のまきを知る者は、うつかりは、口もきけないやうなものを感じたといふ。

 たとへば、いはゆる功成つた芸術家などに見られる一種の精神家のやうな風丰(ふうぼう)が、いつの頃からか、堀江まきにも備はつてきて、それが、しまひには、非情を思はせるに至つたとも、解しえられる。

 本箱の本も、追ひ追ひに、特殊のものが並べられた。それは、独学の勤行(ごんぎやう)にも似て、一冊、一冊、おのれの心で選び、取り、積み、蓄へたものであらうか。それとも、全く、余人の知らぬところに、彼女の指南番たる人がゐて、見えぬ糸をたぐり、ひそかに、夜深く、彼女の奥殿に、参ずるところがあつたのか。――それは、つひに、誰もあきらかにしてをらない。

 そのうちに、備善が死んだ。長患(ながわづら)ひではなく、十日程、病んだきりであつた。死ぬと、奥方が棺の側に付添つたまゝ、他の側室の一人をも近づけしめなかつたという。

 側室たちは、大方、その邸から追はれた。備善の突発的な死は、中杉家の革命にも似てゐた。然し、堀江まきの場合だけは、強羅の別荘が、すでに、十年も以前から、まきの名儀に書きかへられてゐたので、竜子も手のつけやうがなかつた。まきは、自分の知らぬまに、それだけのことをしてくれた備善の誠意には胸をうたれたが、然し、死目に逢ふにも逢へなかつた自分の分際(ぶんざい)については、あきらめてゐた。竜子によつて、追放の命にあへば、当然、山を下らうと所期してゐた。

 唐池も追はれる組の一人であつた。然し、彼は、彼として、吸ひとれるだけのものは、吸ひつくしたあとだといふ噂で、同情はうすかつた。然し、彼は、最後の啖呵のつもりで、

「強羅のお邸だけは、ごぜんの最愛の方だから、あすこまで、手をつけるやうなら、わしにも覚悟がある」

 といつて、竜子を相手にいきまいたのが、土壇場でものをいひ、強羅だけは、ソツとしておくことになつたのだとも、取沙汰された。

 

 唐池が、死んだのは、松江の地震であつた。備善の死後、とかく、商売の調子も思ふやうにいかないのを、一気に挽回しようとして、出雲(いづも)方面へ出かけていつての遭難であつた。その頃のまきは、唐池の死には、些(いさゝ)か心の動揺を禁じ能はなかつたか、知らせを受けてから、三日の間は、一間にこもつて、香をたやさなかつたといはれた。

 そのうちに、戦争が悪化し、空襲がはじまると、本宅の奥方から、強羅の一室へ疎開したいといふ申入れがあり、むろんのこと、堀江まきは、喜んで、竜子を迎へ入れた。そして、戦争が終るまで、まきの心境は、秋空のやうに澄んでゐて、微塵(みじん)のゆるみも、紊(みだ)れも、頽(すた)れも、見られなかつたのであるのに、敗れた日から、いくばくもなくして、突然、彼女は過去を破壊し、その古い山荘を下つて、年下の、まるで、息子のやうな復員青年と二人で、はじめて人間的生活に入つたことが、誰からともなくいひふらされた。

 山荘の標札は、堀江でも中杉でもなく、全然別の、第三者によつて、はりかへられた。その当座は、彼女について、説をなす者も多かつたが、終戦後三年の今日となつては、もはや、古きものの権威は、あらかた、潰(つひ)え去つてしまつたので、取り立てゝ堀江まきの行方を追はうという奇特者もゐなくなつた。

 そしてそれは、前にのべた通り、堀江まき女の脱皮として一種の痛快でもあるが、又、何とはなしに、儚(はかな)くいぢらしい、らく葉の音をきくやうな気もするのであつて、時と場合の感じによつて、そのどちらもが、真実であるのではないか。》

 

・「歳月がたつた」の簡潔に、『とりかへばや秘文』で丸谷が指摘した、《特に終曲が、「およそ十五年の歳月が流れて、昭和十五年三月……」とはじまることは、大正時代への挽歌とも言ふべきこの作品の性格を何よりもよく證してゐるやうに思はれてならない。》と同じ技術が使われている。

・「松江の地震」とは昭和十八年の死者千人を数えた鳥取地震のことであろうか。               

・『アンナ・カレーニナ』を読む女であったことがこの件でじわり(・・・)と効いてくる。

講談社文芸文庫『芸者小夏』の解説で、松家仁之が『堀江まきの破壊』に筆が及んで、さすが的確に指摘している。

《『雪夫人絵図』と同じ年に発表された『堀江まきの破壊』は、旦那におとなしく従ってきた妾が、旦那の死をきっかけに人生の舵を切り、若い男をみずから愛するようになる変身を描いている。朝日新聞の連載小説『花の素顔』(一九四九年)では、銀座洋装店の女店主を主人公に、画家との婚外恋愛と、そこから引きおこされる夫との軋轢を、現在進行形の最新風俗を盛りこみながら描いた。

 彼女たちはまず男に主導権を握られ、受け身で生きる姿をみせながら、どこかで風向きの変わる瞬間をじっと待っている。そして何らかの潮目が訪れたとたん、そこから先は、人生を自分自身で選びとろうとする気配が満ちてゆく。動き、判断し、最終的に選びとるのはつねに女性の側なのだ。そして、この女性たちはその選択を間違うことがない。

 舟橋聖一の小説にあるもうひとつの特性は、社会性であり、経済だろう。登場人物の女性たちの生きる場所にはかならず社会がある。温泉芸者の社会があり、医学研究所という社会があり、銀座という社会がある。社会は彼女たちの立場や身の処し方を観察し評価する者として厳然とそこにある。世の中の価値観があり、生き方や信条を認められる前提には、生活が成り立つかどうかを否応なく決定する経済がある。

 妾であれ、芸者であれ、職業婦人であれ、舟橋聖一の描く恋愛は、社会のなかで位置づけられた女性たちのプラトニックならぬプラグマティックな恋愛なのだ。どのように生活を成り立たせ、社会のなかでどのように位置づけられているか、明確な輪郭をもつ男女の押し引き。どれほど官能的でも、閉じられた世界でのファンタジーが描かれることはない。

 その意味において、人柄だけでなく家柄や財産を見定めたうえで天秤にかける結婚や、遺産相続による境遇の変化が物語の骨格と展開をかたちづくる、十九世紀のイギリスでしきりに読まれた一群の小説と、構造的には相似形をなしているといってよい。

 敗戦が女性たちの解放の節目であったとするならば、つぎつぎと惜しみなく世の中にさしだしていったのだ。小説家としての資質と、時代の要請がみごとなまでに一致することで、舟橋聖一はまぎれもない流行作家になった。》

 こういう指摘からも、谷崎をより健康的にした「六代目」を感じるのである。

 

                               (了)

        *****引用または参考*****

*『花柳小説名作選』(舟橋聖一『堀江まきの破壊』所収)(集英社文庫

舟橋聖一『芸者小夏』(松家仁之解説所収)(講談社文芸文庫

*『丸谷才一批評集5』(「維子の兄」所収)(文藝春秋)        

*舟橋美香子『父のいる遠景』(講談社

舟橋聖一『文藝的な自伝的な』(幻戯書房

*『決定版 三島由紀夫全集39』(「舟橋聖一との対話」「私の文学鑑定」所収)(新潮社)