文学批評 ボルヘスを斜めから読むための補助線 ――『タデオ・イシドロ・クルスの生涯(一八二九~一八七四)』/『エンマ・ツンツ』/『もうひとつの死』 

 

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・ミュージカル『エヴィータ』の人気に、実在のエヴィータエバ)のカリスマ性、神話性が寄与していることは否めないだろう。丸谷才一はエッセイ『私怨の晴らし方』で、『まねごと』におけるボルヘスの完璧な私怨の晴らし方を紹介してから、比較して鷗外『空車(むなぐるま)』は、武者小路実篤夏目漱石を賛美して鴎外を敬愛しないことへの揶揄であるという松本清張の解釈に賛同し、鷗外には「もともと詰まらぬことを根に持つて文を行(や)る癖(へき)があつた」と指摘し、「残念なことに出来が悪いし無内容である」と結んでいる。

ボルヘスの伝記を読んで、徹底したペロン嫌ひであることを知り、いささか衝撃を受けた。この作家があの軍人を尊敬してゐるとはまさか思つてゐなかつたけれど。

 もちろん彼があの大統領に反感を持つのは筋が通つてゐる。第一に彼は英米流の民主主義を奉じてゐて、独裁やファシズムは性に合はなかつた。第二にマチスモ(男性的権力意識)を敵視してゐて、ペロンはその代表みたいな男だつた。第三に彼は自分が図書館員の職から鶏と兎の検査官の職に左遷されたのはペロンの命によると信じてゐた(これはどうやら違ふらしい)。そんなわけだから、何かにつけて非難したつて、不思議はない。

 それなのにわたしがボルヘス伝を読んで、執念深いペロン攻撃に驚いたのには理由がある。彼のごく短い短編小説に、あの将軍を扱つた玲瓏(れいろう)珠のごとき名篇があるからだ。こんなに怨んでゐるくせに、愛憎を突き抜けた感じの、構えへの大きい小品が書ける。すごいものだなと敬服したのだ。

 しかし、とりあへずペロン夫妻の生涯を一筆がきして置かう。ペロンはアルゼンチンの軍人、政治家、大統領。イタリアに留学し、ムッソリーニに共鳴して帰国、一九四三年クーデターに参加。労働者に受けがよく、陸軍大臣、副大統領。反ペロン派のよつて幽閉されただ、労働者の大規模な抗議デモにより釈放された。四六年、金髪の夫人エバ(寒村の私生児として生れた声優、女優)の人気のせいもあつて大統領選で圧勝。五一年に再選されたが、五二年七月にエバが亡くなると、彼への支持も衰へて行つた。

 その短篇小説『まねごと』はこんな話だ。

 一九五二年七月、アルゼンチンのとある村に喪服の男が現れ、一軒の小屋を選び、棺に見立てた段ボールの箱に金髪の人形を納めたものを展示する。村人たちがやつて来て列を作り、男に向つて「将軍」と呼びかけてお悔やみを言ふと、男は握手をし、何か短く挨拶する。ブリキの箱に二ペソづつ銅貨が投げ入れられる。

 これは実話で、しかも役者と場所を変へてほうぼうでおこなはれた、と説明をつけてからボルヘスは書く。

「それは言わば、ある夢の影であり、『ハムレット』の劇中劇のようなものである。喪服の男はペロンではなく、ブロンドの髪の人形はその妻のエバ・ドゥアルテではなかった。しかし同様に、ペロンはペロンではなく、エバエバではなかった。」(鼓直訳)

 ボルヘスといふ果実からしたたり落ちた一滴。オリジナルとコピーは見事な一対となり、さらに、オリジナルなど存在せず、コピーとコピーの関係があるだけといふ認識が示され、ペロンとエバの人生は香具師(やし)と人形による奇妙な興行と当価値のもにされる。香具師と人形が一瞬のうちに神話化されると言つてもよい。皮肉な発想による完璧な仕上げの工藝品。ここには意趣返しなどといふ卑しい動機はまつたく見えず、ただボルヘスの世界観とそれを托するに打つてつけのラテンアメリカ的現実がある。いや、作家が私怨を晴らすときにはかう書けといふ模範、と見るべきか。》

 

・ レヴィ=ストロースは、社会学民族学の問題にとりくむ前に、ほとんどいつもマルクス『ルイ・ ボナパルトブリュメール十八日』を何ページか読んで、思考に活力を与えていたという。

 似たような意味あいで、二十世紀の二人の哲学者は、思想・哲学書の「序」にボルヘスを引用することによって、思考に活力ばかりか起点をも与えた。

 一つめはミシェル・フーコー『言葉と物』。

「序」がボルヘスのテクストの紹介(『続審問』の『ジョン・ウィルキンズの分析言語』の引用)から始まるのはよく知られたところだ。

《この書物の出生地はボルヘスのあるテクストのなかにある。それを読みすすみながら催した笑い、思考におなじみなあらゆる事柄を揺さぶらずにはおかぬ、あの笑いのなかにだ。いま思考と言ったが、それは、われわれの時代と風土の刻印をおされたわれわれ自身の思考のことであって、その笑いは、秩序づけられたすべての表層と、諸存在の繁茂をわれわれのために手加減してくれるすべての見取図とをぐらつかせ、<同一者>と<他者>についての千年来の慣行をつきくずし、しばし困惑をもたらすものである。ところで、そのテクストは、「シナのある百科事典」を引用しており、そこにはこう書かれている。「動物は次のごとく分けられる。(a)皇帝に属するもの、(b)香の匂いを放つもの、(c)飼いならされたもの、(d)乳呑み豚、(e)人魚、(f)お話に出てくるもの、(g)放し飼いの犬、(h)この分類自体に含まれているもの、(i)気違いのように騒ぐもの、(j)算えきれぬもの、(k)駱駝の毛のごく細の毛筆で描かれたもの、(l)その他、(m)いましがた壺をこわしたもの、(n)とおくから蝿のように見えるもの。」この分類法に驚嘆しながら、ただちに思いおこされるのは、つまり、この寓話により、まったく異った思考のエクゾチックな魅力としてわれわれに差ししめされるのは、われわれの思考の限界、《こうしたこと》を思考するにあたっての、まぎれもない不可能性にほかならない。(中略)

 このボルヘスのテクストは、ながいことわたしを笑わせたが、同時に、打ちかちがたい、まぎれもない当惑を覚えさせずにはおかなかった。おそらくそれは、彼のテクストをたどりながら、《唐突なもの》や適合しないものの接近によって生ずる以上に、ひどい混乱があるのではないか、そんな疑惑が生れたためだったろう。》

 これを端緒にフーコーは文化の諸コード、秩序、知の考古学、「エピステーメー」へと思考を展開してゆく。

 二つめはジル・ドゥルーズ『差異と反復』。

「はじめに」の最後で、哲学的表現の新しい手段の追求のために、哲学史は、絵画におけるコラージュの役割にかなり似た役割を演じるべきとして、ボルヘスで締めくくってゆく。

《周知のように、ボルヘスは、想像上の本を報告することにかけては卓越した力量をもっている。しかしボルヘスがもっと徹底してことにあたるのは、彼が、たとえば『ドン・キホーテ』のような実在する書物を、想像上の著者ピエール・メナール自身によって再生産された想像上の書物であるかのようにみなしておきながら、しかもこのピエール・メナールを今度は実在的な人物であるかのようにみなすときである。そのとき、もっとも正確でもっとも厳密な反復が、最高度の差異を相関項としているのである(「セルヴァンテスのテクストとメナールのテクストは、言葉のうえでは同一であるが、しかし後者のほうが、ほとんど無限に豊かである……」)。哲学史の諸報告は、テクストに関する、一種のスローモーション、凝固あるいは静止を表象=再現前化していなければならず、しかも、その諸報告が関係しているテクストばかりでなく(・・・・・・)、その諸報告がその内部に潜んでいる当のテクストまでも扱わなければならない。したがって、哲学史の諸報告は、或る分身的存在をもつのであり、そして、古いテクストとアクチュアルなテクストの相互間における(・・・・・・・)純然たる反復を、理想的な分身としてもつのである。(後略)》

 そもそもボルヘスの文学自体が「差異と反復」なのは、彼のキーワード、「時間」「無限後退」「永遠」「鏡」「不死」「迷宮」「図書館」をイメージすればすぐにわかる。

 

ボルヘスの本質について、ブランショが『来るべき書物』の中で述べている。

ボルヘスは、本質的に文学的な人物であって(これは彼が、つねに、文学によって許された理解の様式にしたがって理解しようとしているという意味だ)、彼は、この悪しき永遠性及び悪しき無限性とたたかっているが、法悦と呼ばれるあの輝かしい逆転に到るまでは、おそらくこの二つだけが、われわれの吟味しうるものである。書物とは、彼にとっては原理的に世界なのであり、世界とは一冊の書物である。まさしくこのことこそ、世界全体の意味に関して、彼を安心させることとなるようだ。なぜなら、世界全体が理性に貫かれているかどうかということについては、人は疑いを抱くことが出来るが、われわれが作る書物の場合、それも特に、たとえば探偵小説のように、まったく明確な解決がぴったりするまったくあいまいな問題として、たくみに構成された仮構物的な書物の場合、われわれには、それらが、知性に浸透され、精神というあの連結能力によって動かされていることがわかっている。だが、もし、世界が一冊の書物であれば、どんな書物もみな世界である。そしてこの無邪気な同語反復から、さまざまなおそるべき結果が惹き起こされるのである。》

 

・しかし、ボルヘスには『ブロディーの報告書』(一九七〇年)のように、ボルヘス曰く「簡潔で直截な」、「リアリスティック」な作品もある。それは土着的でマッチョな世界であり、七十歳の出版だから、それまでの作風から旋回したのかと思われがちだが、『伝奇集』(一九四四年)にも『エル・アレフ』(一九四九年)にも、アルゼンチンを舞台とした、「リアリスティック」風な、「土着的でマッチョな世界」がいくつか入っている。人によってはボルヘスの真髄であるにも関わらず敬遠しがちな「観念論」をも包含し、つまりは「ボルヘスのすべて」が凝縮、顕現している。

 これから読む『タデオ・イシドロ・クルスの生涯(一八二九~一八七四)』、『エンマ・ツンツ』、『もうひとつの死』は、『エル・アレフ』からのそういった三作品である。

 知られているように、晩年のボルヘスは遺伝性眼疾の進行によってほぼ盲目だったが、朗読による読書、口述筆記、介添人の腕に頼っての世界旅行と、作家人生を精力的に生き抜いた。私たちもまた、ボルヘスを理解し感じとるために、闇夜の道標となる補助線があれば、たちまち夢とうつつの世界が現前するだろう。

 

<『タデオ・イシドロ・クルスの生涯(一八二九~一八七四)』>

     わたしはさがしている

      創世記の自分の顔を。

         イエイツ『螺旋階段』

 一八二九年二月六日、終日ラバジェ将軍の攻撃に悩まされながら、ロペス麾下の師団と合流すべく北進して来たガウチョの義勇兵の一隊は、ペルガミーノから二十キロばかり離れた、とある名も知らぬ牧場で休止した。明け方近く、男たちの一人が執拗な悪夢にうなされた。小屋の薄暗がりの中で、その男のうろたえた叫び声が、隣りに寝ていた女を目覚めさせた。彼が何を夢みたのかは知るよしもない。というのは翌日の午後四時頃、義勇兵たちは、スアレスの騎兵隊に五十キロも追われたあげく、夕闇迫る湿地の丈高い草の間で潰滅したからである。その男は、すでにペルーやブラジルの戦いに活躍したサーベルで頭蓋を割られ、溝の中で死んだ。例の女の名はイシドラ・クルスといった。生れた子供は、タデオ・イシドロと名づけられた。

 わたしの目的は、彼の全生涯を反復すようというものではない。その人生を構成した数々の昼と夜の中、私の関心を引くのはただ一夜である。残りの日夜については、その夜を理解するのに不可欠な場合にのみ、語ろうと思う。彼の冒険譚は有名な歌物語に詳しい。例の、ほとんど無尽蔵ともいえる変形、解釈、曲解が可能なために、今ではその材料が「すべての人には凡(すべ)ての人の状(さま)に従へり」(コリント前書第九章二十二節)という有様になってしまった物語である。タデオ・イシドロの物語について評釈した人びとは――これが又数多いのだが――彼の人格形成に及ぼした平原の影響を強調する。しかし、彼と全くよく似たガウチョの中にも、パラナ川沿岸の森林地帯や、ウルグアイの丘陵地帯に生れそして死んだ者もいるのである。なるほど彼が単調この上ない未開の世界に生きていたのは確かだ。一八七四年に天然痘で死ぬまで、彼は山もガスの火口も風車も目にしたことがなかった。又都会も見たことがなかった。一八四九年に、彼はフランシスコ・ザビエル・アセベードの牧場から、牛を追う旅でブエノス・アイレスへ行った。他の牛追いたちは、胴巻きを空にするために町へくり出した。が用心深いクルスは、家畜置場にほど近い安宿から遠くへは出なかった。そこで彼はたった一人、無言で数日を暮した。土間に眠り、マテ茶をすすり、夜明けと共に起き、夕べの祈りと共に床についた。彼は(言葉も、理性さえも届かぬところで)、その都会が自分には無縁であることを悟っていた。牛追いたちの一人が、酔っぱらって、彼をからかいはじめた。クルスは彼を無視した。しかし帰りの旅の途中幾夜も、焚火を囲んでいる時に、その男がからみ続けたので、クルスは(その時まで怒った顔も不快そうな顔も見せたことはなかったのに)、ナイフの一突きで彼をのばしてしまった。逃亡の途中、彼は湿地の茂みに身をかくす羽目になった。幾夜かたって、鷺(チヤハ)の叫びで警察に包囲されていることを知った。彼は草むらでナイフの刃をためし、足が草にもつれるのを避けるために拍車を外(はず)した。降伏するよりはあくまで戦う方をえらんだのだ。前腕と肩と左手に傷を負ったが、敵方の最も勇敢な連中に深傷(ふかで)を負わせた。指の間を血が流れ落ちると、なおいっそう獅子奮迅の勢いを増した。明け方近く、出血のために弱って、ついに武器をたたき落された。軍隊は、当時、一種の懲罰機関の役割を果していたから、クルスは北部国境の小堡に派遣された。一兵卒として内戦に参加し、ある時は故郷の州のために、ある時はそれを敵にまわして戦った。一八五六年一月二十三日、カルドーソの湿地帯で二百人のインディオと戦った、エウセビオ・ラプリーダ曹長麾下の三十人の白人部隊の中にも彼はいた。この時の戦闘で、彼は槍傷を受けている。

 彼の判然としない、勇敢な生涯には多くの空白がある。一八六八年頃、彼が再びペルガミーノにいることが知れる。結婚したか、同棲したか、一児の父となり、わずかな土地の所有者である。一八六九年には、土地の警察の巡査部長に任命された。すでに過去は清算されていた。そしてその頃は、自分は幸せだと思っていたにちがいない。心の奥底ではそうではなかったのだが。(その夜を、まだ未来に隠れて、根底から照らし出す啓示の一夜が待ちかまえていたのだ。ついに自分の本当の顔を見る夜、ついに自分の名を聞く夜が。真の意味を理解すれば、それは一夜にして彼の全生涯を尽くすことになるのだ。いやむしろ、その夜の一瞬が、その夜の一行為がといった方がよいだろう。なぜなら、行為こそわれわれの象徴だからだ。)およそ運命とは、いかに長く又複雑であろうとも、本質的には「ただ一瞬で」成り立っているものだ。その一瞬に、人は、決定的におのれの正体を知るのである。アレキサンダー大王は、アキレスの神話の中に自分の鉄の未来を見、スウェーデンのカール十二世は、アレキサンダー大王の伝記の中に自分の未来の反映を見たと言われている。読むことを知らなかったタデオ・イシドロ・クルスにとって、その啓示は書物によって与えられたのではない。彼は乱闘の中で、そして一人の男の中に、おのれ自身を見たのであった。その次第は次のとおりである。

 一八七〇年六月の末、彼は二人の男を殺害した無法者を逮捕せよとの命令を受ける。南部国境守備のベニート・マチャード大佐の部隊の脱走兵である。売春宿で酔っぱらったあげくの喧嘩で黒人を殺し、又ぞろ酒の上の喧嘩でロハス郡の住民を殺したという。彼がラグーナ・コロラーダの出身であることもその手配書には書き添えられていた。それこそ、四十年ばかり前にガウチョの義勇軍が、結局彼らの肉を禿鷹や野犬の餌食に供することとなった不運な戦いに出陣するために、終結した地点だったのである。それは、後にブエノス・アイレスのビクトリア広場で、その最後の叫びをかき消さんばかりに轟きわたる太鼓の響きの中で処刑された、マヌエル・メーサの出身地だった。それは又、クルスの父であり、ペルーとブラジルの戦場で活躍したサーベルに頭蓋を割られて溝の中で死んだ、あの無名の男と出身地でもあった。クルスはその地名をとっくに忘れていたのだが、軽い、しかし名状しがたい胸騒ぎと共に、今彼はそれを思い出した……

 警官たちに追われたお尋ね者は、馬を縦横に乗り廻して、長い迷路を織りなした。しかしついに、七月十二日夜、捜索隊は彼を追いつめた。彼は丈高い草の茂みに身をひそめた。ほとんど見とおしのきかぬ闇である。クルスとその部下は、足音をしのばせて、その真中に隠れた男が待ちかまえているか眠っているかしているはずの、かすかにゆらぐ茂みに向って進んで行った。鷺(チヤハ)が叫びをあげた。タデオ・イシドロ・クルスは、以前この瞬間を経験したことがあるような気がした。犯人は戦うために隠れ場所から出て来た。クルスはぞっとするような彼の顔を見分けた。のび放題の髪と半白のあごひげがその顔を蚕食しているように見える。ある明白な理由から、それに続く戦闘の模様を描写するのはやめることにする。ただ、逃亡者がクルスの部下の幾人かに重傷を負わせ、或いは殺したことだけを指摘すれば足りよう。闇の中で戦っている間に(暗の中で彼の肉体が戦っている間に)、彼は理解しはじめたのだ。一つの運命が他の運命よりよいなどということはあり得ない、しかし、誰も自分の内なるものを尊重する他はないのだ、ということを。自分の肩章や制服が今や邪魔になったということを。自分本来の運命は一匹狼であって、衆をたのむ犬ではないことを。あの相手こそ自分自身であることを理解したのだ。はてしない平原の夜が明けた。クルスは軍帽をかなぐり捨て、勇士を殺すような犯罪には加担出来ないと叫ぶや、自分の部下を向うにまわして戦いはじめた。逃亡者マルティンフィエロと肩をならべて。》

 

ボルヘスは『ボルヘスとわたし――自選短篇集』(原題 “The Aleph and other stories 1933-1969”)で本作を「著者注釈」している。

《この物語は野性の呼び声(・・・・・・)のアルゼンチン版である。これはまた、一八八二年にホセ・エルナンデス(アルゼンチンの作家、一八三四~八六)によって書かれた、ガウチョの多難な放浪の歌物語『マルティンフィエロ』に対するひとつの注釈(グロス)でもある。この歌物語》におけるクルスは、かつては命知らずのならず者だったが、改心して巡査部長にまでなり、脱走兵の殺人犯マルティンフィエロの捜索に行く警察隊の隊長となる人物である。そしてクルスは、おたずね者の勇気をまのあたりにして彼の側につき、自分の部下を数人殺して、昔の生活に戻っていく。この予期できない唐突な決断ゆえに、わたしはクルスをエルナンデスの作品中、最も興味深い、謎に満ちた人物であると思う。わたしの知る限りでは、敵方に転じた警官の奇妙な行動に驚嘆した読者はわたしだけのようだ。『マルティンフィエロ』はもはや古典となっているので、その中の出来事は何か当然のことと思われ、誰も新鮮な驚きを覚えないのだろう。

 クルスの行動に対するわたし自身の当惑が、わたしにこの物語を書かせたのだと思う。警官クルスの前半生は、エルナンデスの作品に詳述されている。そこで、この歌物語に親しんでいる読者に最後まで気づかれないように、背景となる情況を変える必要があった。クルスという名前には、タデオ・イシドロを冠した。また、エルナンデスの作品とは関係のないメサの処刑とか、二百人のインディオたちと戦ったラプリーダ麾下の三十人の白人の話のような歴史的エピソードを織りこんだ。付随的な詳細のうちには、わたし自身の先祖に由来するものも多い。例えば、冒頭で義勇兵ガウチョたちを潰走させてしまうスワレスなる人物は、わたしの曾祖父である。そして、クルスが働いていた農場は、これまた親族のフランシスコ・ザビエル・アセベード所有のものである。ついでに言えば、マヌエル・メサの最後の呪いの叫び声をかき消すために、太鼓を打ち鳴らすように命じたのはスワレスであった。しかしながら、この物語が単なるトリックで終ってしまわないように、わたしはそこにあるヒントや痕跡を残しておいた。物語の第二節で早くも、あの歌物語との関連が明かされる。そして物語の最後で、明らかな理由によって闘いの場面は描写しないとあるが、その理由とは、『マルティンフィエロ』の中でそれが詳細に述べられている、ということである。

 タデオ・イシドロ・クルスが自身の正体を見出し、マルティンフィエロと敵対することを拒絶するあの劇的な瞬間、そこには、意識されてはいなくとも根深いスペイン的なものがあるように思われる。わたしは、鉄の鎖で数珠(じゅず)つなぎにされて行く囚人たちを目にした騎士ドン・キホーテが、護衛の役人に彼らの釈放を要請する有名な一節を思い出す。「めいめいの者が犯した罪はあの世で償わせるがよい。悪人をこらしめ、善人を嘉(よみ)することをゆるがせにし給うことなき神が天にましますのじゃ。正しい人びとが他人の刑罰の執行人となることは決してほめた話ではない……。」》

 

清水徹が「ひとつのボルヘス入門」(一九八一年の講演記録の書き直し)で、「ボルヘスにおける地方性と国際性」と題して考察しているが、これら三つの作品に当てはまる。

《(前略)ボルヘスには中世英文学に関する著書などもあって、博識の権化のような作家、博識によって幻想をつくりだすような作家なのですが、じつはけっしてそれだけではない。彼の短編小説を読むと、ガウチョ(gaucho)つまりラプラタ河流域の大草原(パンパ)(pampa)で家畜の養育にあたる、いわばアルゼンチンにおけるカウボーイのような役どころである人間と、コンパドリート(compadrito)――都市の場末に住んでいるならず者で、独特のやや悪趣味な服装をして自分では伊達男のつもりでおり、傲然と他人を見下ろし、ナイフで自分の名誉を守ろうとするような人間、このふたつのタイプがよく出てきます。(中略)

 ボルヘスの著書『エバリスト・カリエゴ』(一九三〇、一九五五)によれば、この民衆詩人はボルヘスが幼時をすごしたパレルモ地区での隣人で、ならず者(コンパドリート)たちとつき合い、いつも黒づくめの服装で、肺を病んで血痰を吐きながら、タンゴの流れる場末街の魂をうたいつづけたという人物です。

 ボルヘスはこの本で、パレルモ地区の過去――「いちじくの木が土塀に影を落とし、落花生売りの頼りなげな角笛の音が夕暮れをまさぐり、シャボテンを無雑作に飾った石の壺が貧しい家に置いてある」ような地区、「目深にかぶったミトラ風の鰐広帽と田舎者じみたたっつけズボンの盗賊」が、気取ってわざわざ刃渡りの短いナイフをもって、警察に個人的な決闘を挑むような地区の話を書きながら、ブラウニングの「ここ、まぎれもなくここで、英国は私を救った」(Here and here did England help me)という一句を思い出し、「英国」を「ブエノスアイレス」と入れ換えてこう思う――「その詩句は、私にとって、孤独の夜の象徴であり、街の無限のなかをさまよう恍惚として終ることのない散策の象徴であった。というのも、ブエノスアイレスは果てしがなく、幻滅や苦悩のうつにある私が、その数ある通りへとはいりこんでゆくと、かならず思いもよらぬ慰めが得られたものである。その慰めとは、あるときは非現実の感覚だったり、あるときは中庭の奥から聞えてくるギターの調べだったり、またあるときは、生の交歓だったりしたのだが」(中略)

 ボルヘスは《ガウチョ》とか《コンパドリート》というアルゼンチンの土着的なものを、いわばその本質をなすと同時に人間にとって普遍的な要素でもあるものへと還元し、そのことによって透明化するのです。ガウチョやコンパドリートが伊達をつらぬいて、決闘でころりと死んでしまう、――ボルヘスはそういう物語をたくさん書いていますが、それらはアルゼンチンの土着的風俗を表現するための題材としてあるのではなく、人間の生と死をめぐる非常に単純素朴な、それゆえに生と死をめぐる根源的な謎がますますくっきりと浮かびあがるような状況として選ばれているのです。人間の生活のひどく単純な要素と、生と死とをめぐる根元的な不可能さ、時が過ぎ、それとともにいかなる人間的な夢も満たされぬまま過ぎ去って、非情な死が訪れるという現実を感じとるときの、あるエモーショナルなもの、総じて《時間》に関する独特な感覚――たしかにそれは、ガウチョやコンパドリートの風俗をふまえた、《アルゼンチン的悲哀》と名づけられるものではありますが、と同時にたんなる《地方性》といったものではなく、まぎれもなく《時間》というものに関する普遍的で根源的な情感でありましょう。そうした普遍的な情感が、パンパ、ガウチョ、コンパドリート、タンゴ、といった道具立において、じつにくっきりと浮かびあがる、といったふうなのです。(中略)

 アルゼンチンの「伝統的」な風俗、ブエノスアイレスの「地方的」な庶民性――それらもボルヘスの作品のなかに取り入れられたとき、「伝統的」とか「地方的」といった言葉に示されるところの、いわば《時間》の相の下において形成された「いま(・・)」「ここ(・・)」におけるものという性格を失なう。そして一方では、人間の生と死をめぐる根源的なものを浮かびあがらせるための舞台装置という役割にしりぞき、他方ではボルヘス独特の、一見詭弁とも思える時間論を形成してゆくのです。

 ボルヘスの巧智。――ボルヘスはここで、いかにも地方色そのものといった風物を点描しながら、場末街のひとりの民衆詩人を論じている。だが、そういうボルヘスの筆はいつのまにか、このカリエゴなる人物が《時間》のなかでもつ一回限りの個体性の輪郭を薄れさせてしまう。かわりに出現するのは、ある素朴な、それゆえに根元的な仕草を繰り返しているように見える人間たち、彼らひとりひとりの個体としてのはかなさと、個体の繰り返しとしての種の永遠との対比、そうした対比を認めるときににじみだす哀愁、そういったものなのです。》

 

<『エンマ・ツンツ』>

《一九二二年一月十四日、タルブーフ=レーヴェンタール織物工場から帰ったエンマ・ツンツは、玄関ホールの奥で、ブラジルの消印のある手紙を見つけた。それは、彼女の父の死を告げるものだった。最初は切手と封筒に目を欺かれた。それから見馴れぬ筆蹟に不安を覚えた。九行か十行の文字が、紙片一ぱいに書きなぐられていた。マイエル氏が誤ってヴェロナールを多量に服用し、今月の三日にバジェの病院で死亡した、とエンマは読んだ。父の下宿の友人の、フェインとかファインとかいうリオ・グランデの人が、亡くなった人の娘に宛てるものとも知らずに署名していた。

 エンマは紙片を取り落した。彼女の第一印象は、腹部と両膝の力が抜けた感じだった。次いで、何とも知れぬ罪悪感と、非現実感と、寒さと、恐怖に襲われた。それから、早く今日が終って明日になっていればよいのに、と思った。だが次の瞬間、その願いは無益であると悟った。なぜといって、父の死はこの世で一回限り起ることであり、しかも永遠に続くものだからである。彼女はその紙片を拾い上げて、自分の部屋へ行った。こっそりと彼女はそれを引き出しにしまった。どういう理由からか、その遠方の出来事をすでに知っていたかのように。多分、その事態をすでに推測しはじめていたのだろう。すでに未来の自分になっていたのだ。

 次第に濃くなる夕闇の中で、エンマはその日の終りまで、かつての幸せな日々にはエマヌエル・ツンツであったマヌエル・マイエルの自殺を嘆き悲しんだ。彼女はグワレグワイの近くの小さな農場で過した夏休みを思い出し、母親を思い出し(思い出そうとし)、競売にされたラヌスの小さな家を思い出し、黄色い菱形窓を思い出し、禁固刑の判決を、汚名を思い出し、「出納係の受託金横領」についての新聞記事と共に匿名の投書を思い出し、さらに(これは片時も忘れたわけではなかったが)父親が、最後の夜に、誓って盗んだのはレーヴェンタールだと彼女に言ったことを思い出した。レーヴェンタール、アアロン・レーヴェンタールは、以前はその工場の支配人だったが、今は所有者の一人になっていた。エンマは、一九一六年以来、この秘密を守って来た。誰にも明さず、親友のエルザ・ウルスタインにさえ言わなかった。恐らくひどい不信を買うことを避けたのだろうし、その秘密が自分と不在の父親を結ぶ絆になると信じたかったからだろう。レーヴェンタールは彼女が知っていることを知らなかった。エンマ・ツンツはこの些細な事実のために、優越感を抱いていた。

 その夜は一睡もせず、曙光が四角い窓を明るませた時には、彼女の計画はすでに出来上っていた。その日は彼女にとって無限に思われたが、いつもと変らぬように努めた。工場にはストライキの噂が流れていた。エンマはいつものように、あらゆる暴力に反対すると言明した。六時に仕事が終ると、エルザと一緒に、体育館とプールのある女性のクラブへ行った。自分たちの名前を署名した。彼女は名前と苗字をくり返し、一字ずつ綴りを言わなければならなかった。身体検査につきものの下品な冗談にも答えなければならなかった。エルザやクロンフス家の末娘と、日曜の午後はどの映画に行こうかと議論した。それから恋人の話になったが、誰もエンマが会話に加わるとは思わなかった。四月には十九になるというのに、男たちはまだ、彼女に病的といってよい程の恐怖をおこさせるのだった……家に帰ると、タピオカのスープと二、三の野菜を調理し、早目に食べ、床について何とか眠ろうとした。このようにして、骨の折れる、しかも平凡な十五日金曜日、つまりその前夜が過ぎて行った。

 土曜日、彼女は焦燥にかられて目をさました。それは焦燥であって不安ではなかった。さらに、ついにその日が来たという奇妙な安堵でもあった。も早計画したり想像したりする必要はない。数時間もすれば、事は単純に見えるだろう。彼女は「ラ・プレンサ」紙で、スウェーデンのマルメーの船《北極星号》が、その夜第三埠頭から出航するという記事を読んだ。電話でレーヴェンタールを呼び出し、他の女たちには内密で、ストライキに関することをお耳に入れたいとほのめかして、暮れ方に彼の事務所に寄ると約束した。彼女の声はふるえていた。だがそのふるえは、密告者にふさわしかった。その朝は、他にこれといったことは起らなかった。エンマは十二時まで仕事をし、それから、エルザやベルラ・クロンフスと日曜の散歩の細かい打合せをした。昼食後、目を閉じたまま横になって、すでに周到にめぐらした計画を再検討した。最後の一歩は最初の一歩ほど恐ろしくはないだろうし、きっと勝利と正義の味を味わわせてくれるだろうと思った。突然、ぎょっとして彼女は起き上がり、たんすの引き出しにかけ寄った。それをあける、とミルトン・シルスの写真の下に、前夜のまま、ファインの手紙があった。誰も見たはずはない。彼女はそれを読みはじめ、それから破りすてた。

 その午後の出来事を何らかの現実性をもって物語ることは、困難でもあろうし、また恐らく適切ではないだろう。地獄のような経験には非現実性がつきものである。この属性はその恐怖をやわらげもし、また多分一層つのらせもするように思われる。それを行った当人さえほとんど信じられないような行為を、一体どうすれば真実らしく見せることが出来るだろう? 今はエンマ・ツンツの記憶さえ否認し混同しているあの束の間の混沌を、どうすれば再現することが出来るだろう? エンマはリニエルス街のアルマグロに住んでいた。その午後、彼女が港へ行ったことは分っている。恐らくあのいかがわしいパセオ・デ・フリオ界隈で、幾重にも鏡に映り、灯りに身をさらして、飢えた視線に裸にむかれたのだろうが、それよりは、最初気づかれずに無関心な入り口からさまよい入ったと想像する方がまっとうだろう……二、三軒のバーにはいって、他の女たちのもの馴れた手練手管に目をとめた。最後に、彼女は《北極星号》の乗組員たちに出会った。その中の一人は非常に若く、甘い気分をかきたてられそうだったので、別の一人、多分彼女より背が低くて野卑な男をえらんだ。恐怖の純粋さを鈍らせぬためだった。その男は彼女をとある戸口へ連れて行き、それから陰気な玄関ホールへ、それから曲りくねった階段へ、それから控えの間(そこにはラヌスの家と同じ菱形窓があった)へ、それから廊下へ、それから一つの戸口へと進んでその戸を彼女の後で閉めた。重大な出来事は、時間の外でおこる。その直前の過去が、あたかも未来から切りはなされているように思えるからか、或いは、その出来事を構成する部分部分が、非連続に見えるからである。

 そういった時間の外の時間の間、その切れ切れのむごたらしい感覚がどうしようもなく乱れている間に、エンマ・ツンツは、この犠牲をうながした当の死者のことを、ただの一度でも考えただろうか? 彼女はたしかに一度は考えた、そしてその瞬間、その必死の計画を危くぶちこわすところだった、とわたしは信じる。今自分がされているような、ぞっとする程いやらしいことを父が母にしたのだ、と彼女は考えた(考えずにはいられなかった)。彼女はそのことを軽く驚きながら考え、それからす早く、めまいの中に逃避した。その男はスウェーデン人かフィンランド人か、とにかくスペイン語を話せなかった。彼女が彼にとって道具であったのと同じく、彼もエンマの道具であった。ただ、彼女は彼の快楽に奉仕し、一方彼は彼女の正義に奉仕したのである。

 ひとりになった時、エンマはすぐには目を開かなかった。ナイト・テーブルの上には、男がおいて行った紙幣があった。エンマは身を起して、前に手紙を破り棄てたように、それを粉々にちぎった。紙幣を破ることは、パンをすてるのと同じ不敬な行為である。エンマはとたんにそれを後悔した。傲慢な行為を、しかもその当日にしてしまうなんて……彼女の恐怖は、肉体の悲しみの中に、嫌悪感の中に消えてしまった。むかつきと悲しみとにがんじがらめになりながら、しかしエンマはゆっくりと起き上って、着物を着ていった。部屋の中には、もう明るい色は残っていなかった。夕闇が濃くなっていた。エンマは誰にも見られずに出て行くことが出来た。通りの角で、西へ行く市内電車に乗った。計画にのっとって、顔を見られないように、最前部の座席をえらんだ。恐らく、単調に動いて行く街並みの中で、さっき起ったことは何も汚しはしなかったのだと確認することで、自ら慰めていたのだろう。彼女は家並みのまばらになって行くくすんだ郊外を通過し、それらを見るそばから忘れて行って、やがてワルネスの一つの辻で降りた。矛盾した話だが、彼女の疲労が力となったのだ。なぜなら、疲労のために彼女はその冒険の細部に集中せざるを得なくなり、その根拠や目的を見失ってしまったからである。

 アアロン・レーヴェンタールは、真面目な男で通っており、親しい友人の間では吝嗇家とされていた。彼は、ひとりで、工場の上の階に住んでいた。それはさびれた町外れだったから、彼は泥棒を恐れていた。工場の中庭には大きな犬が飼ってあり、机の引き出しに連発拳銃が忍ばせてあることは誰知らぬ者もなかった。その前年に、彼は思いがけず妻――ガウス家の娘でかなりの持参金を持って来た!――を亡くして仰々しく悲しんでいたが、彼の本当の情熱は金にあった。内心赤面しながらも、彼は自分が金をもうける方よりは貯める方に向いていると心得ていた。彼は非常に信心深かった。そして祈禱や勤行とひきかえに、善行を積まなくてもよいという密約を神と交わしたのだと信じていた。禿げで、肥って、喪服を着け、いぶしガラスの鼻眼鏡をかけ、金色の髭をたくわえたその男は、窓のそばに立って、女工ツンツの密告を待ちかまえていた。

 彼女が鉄の門(彼がそれをあけておいた)を押して、うす暗い中庭を横切って来るのが見えた。鎖でつながれている犬が吠えた時、少し遠廻りするのが見えた。エンマの唇は、低い声で祈りを唱えている人のように、いそがしく動いていた。疲れながらも、それは、レーヴェンタール氏が死の直前に聞くはずの宣告をくり返していたのであった。

 事は、エンマ・ツンツの予想どおりには起らなかった。昨日の明け方以来、彼女は、断固として拳銃をつきつけてこの卑劣漢に卑劣な罪を告白させ、神の正義をして人間の正義に勝たしめるという大胆不敵な計略をあらわにする自分の姿を、何度も夢想していたのだ。(恐怖からではなく、自分が正義の手先であるという理由で、彼女は罰せられることを望まなかった。)それから、胸のど真中にぶちこむただの一発が、レーヴェンタールの運命を封印するだろう。ところが、事はそんな風には運ばなかった。

 アアロン・レーヴェンタールの前に出ると、何としても父の復讐をとげようという思いよりも、自分の受けた凌辱に罰を加えたいという気持の方を強く感じた。かくも綿密に準備された恥の後では、彼を殺さずにおくことは出来なかった。それに、大芝居をうつ暇もなかった。腰かけて、おずおずと、彼女はレーヴェンタールに弁解し、(密告者の特権として)口外しない約束の念をおしてから、いく人かの名前をあげ、なおその他の名前を匂わせ、それからまるで恐怖に負けたかのように口をつぐんだ。こうして、レーヴェンタールが水を一ぱい取りに行くようにし向けることに成功した。彼がその大げさな様子をいぶかりながらも大目に見て食堂から戻って来た時、エンマはすでに引き出しからずっしりした連発拳銃を取り出していた。彼女は引き金を二度引いた。かなり大きな体が、銃声と硝煙に打ち砕かれたかのようにくずおれ、水を入れたコップは砕け散り、驚きと怒りを浮べた顔が彼女を見まもり、その顔の唇がスペイン語イディッシュ語で彼女を罵った。その悪罵はいっこうに弱まらなかったので、エンマはもう一発射たねばならなかった。中庭で鎖につながれた犬が吠えはじめ、猥らな唇からどっと血が噴き出して髭と服を汚した。エンマはあらかじめ用意した告発をはじめた。(「わたしは父の復讐を果したのであり、誰もわたしを罰することは出来ないはずだ……」)しかし彼女は途中でやめた、というのもレーヴェンタール氏はすでに死んでしまったからだ。彼が理解し得たかどうかは、彼女にはついに分らなかった。

 激しい犬の吠え声が、まだ気をゆるめることは出来ないことを彼女に思い出させた。長椅子を乱し、死体の上衣のボタンを外し、ガラスのとび散った鼻眼鏡を取ってそれをファイルのキャビネットの上においた。それから受話器を取り上げて、後に同じ言葉や別の言葉でたびたびくり返すことになったことをくり返した。《信じられないことが起こりました……レーヴェンタールさんがストライキを口実にしてわたしを呼びつけたんです……彼はわたしを辱めました、わたしは彼を殺しました……》

 実際、その話は信じがたかったが、大筋のところは真実だったから、誰にも感銘を与えた。エンマ・ツンツの語調は真実だったし、その恥辱は真実だったし、その憎悪も真実だった。彼女が受けた凌辱もまた真実だった。ただ状況と、時間と、一つ二つの固有名詞だけが虚偽だった。》

 

ボルヘス作品には女性が主人公のものはほとんどない。男性、もしくは男性ではあるが、ほとんど性別はどうでもよいような普遍的人間からなる。たまに女性が登場しても脇役にすぎない。『ブロディーの報告書』の中の「老婦人」のハウレギ夫人も、「決闘」のフィゲロア夫人とマルタ・ピッサロの女二人も、女性性を刻印されていない。ボルヘス自身が女性に対して奥手であり、引っ込み思案であったことも関係しているのかもしれないし、たまたま論じる対象が男だっただけでジェンダーやセックスなどどうでもよいことだったのかもしれない。

 そういう意味では、このエンマ・ツンツという女主人公は、処女を喪失する(セックスの場面もあるが、エロティシズムはない)ということで、まさしく女性として描かれた珍しい作品である。

 

柄谷行人は『批評とポスト・モダン』所収の『唐十郎の劇と小説』で、《滞米中、私はひとが現代の小説について話すのを聞いたことがなかった。例外的に話題になったのはボルヘスである。しかし、ボルヘスが話題になることと、小説が話題にならないこととは同じことである。小説とは、描写であり、風景であり、内部であり、つまるところ認識論的な遠近法であるが、ボルヘスにはそれが一切欠けている。彼の小説は、本についての注釈であり引用なのである。》と書いているが、この『エンマ・ツンツ』には、ボルヘスの小説には一切欠けているはずの《描写であり、風景であり、内部であり、つまるところ認識論的な遠近法》が書き連ねられている。

《ひとりになった時、エンマはすぐには目を開かなかった。ナイト・テーブルの上には、男がおいて行った紙幣があった。エンマは身を起して、前に手紙を破り棄てたように、それを粉々にちぎった。紙幣を破ることは、パンをすてるのと同じ不敬な行為である。エンマはとたんにそれを後悔した。傲慢な行為を、しかもその当日にしてしまうなんて……彼女の恐怖は、肉体の悲しみの中に、嫌悪感の中に消えてしまった。むかつきと悲しみとにがんじがらめになりながら、しかしエンマはゆっくりと起き上って、着物を着ていった。部屋の中には、もう明るい色は残っていなかった。夕闇が濃くなっていた。エンマは誰にも見られずに出て行くことが出来た。通りの角で、西へ行く市内電車に乗った。計画にのっとって、顔を見られないように、最前部の座席をえらんだ。恐らく、単調に動いて行く街並みの中で、さっき起ったことは何も汚しはしなかったのだと確認することで、自ら慰めていたのだろう。彼女は家並みのまばらになって行くくすんだ郊外を通過し、それらを見るそばから忘れて行って、やがてワルネスの一つの辻で降りた。矛盾した話だが、彼女の疲労が力となったのだ。なぜなら、疲労のために彼女はその冒険の細部に集中せざるを得なくなり、その根拠や目的を見失ってしまったからである。》

《彼女は引き金を二度引いた。かなり大きな体が、銃声と硝煙に打ち砕かれたかのようにくずおれ、水を入れたコップは砕け散り、驚きと怒りを浮べた顔が彼女を見まもり、その顔の唇がスペイン語イディッシュ語で彼女を罵った。その悪罵はいっこうに弱まらなかったので、エンマはもう一発射たねばならなかった。中庭で鎖につながれた犬が吠えはじめ、猥らな唇からどっと血が噴き出して髭と服を汚した。エンマはあらかじめ用意した告発をはじめた。》

《激しい犬の吠え声が、まだ気をゆるめることは出来ないことを彼女に思い出させた。長椅子を乱し、死体の上衣のボタンを外し、ガラスのとび散った鼻眼鏡を取ってそれをファイルのキャビネットの上においた。それから受話器を取り上げて、後に同じ言葉や別の言葉でたびたびくり返すことになったことをくり返した。《信じられないことが起こりました……レーヴェンタールさんがストライキを口実にしてわたしを呼びつけたんです……彼はわたしを辱めました、わたしは彼を殺しました……》》

 

・『エンマ・ツンツ』が「時間」と無縁かといえばそうではない。エンマの殺人行為は、分岐し続ける「時間」の内と外を往き来する。

《その午後の出来事を何らかの現実性をもって物語ることは、困難でもあろうし、また恐らく適切ではないだろう。地獄のような経験には非現実性がつきものである。この属性はその恐怖をやわらげもし、また多分一層つのらせもするように思われる。それを行った当人さえほとんど信じられないような行為を、一体どうすれば真実らしく見せることが出来るだろう? 今はエンマ・ツンツの記憶さえ否認し混同しているあの束の間の混沌を、どうすれば再現することが出来るだろう?》

《そういった時間の外の時間の間、その切れ切れのむごたらしい感覚がどうしようもなく乱れている間に、エンマ・ツンツは、この犠牲をうながした当の死者のことを、ただの一度でも考えただろうか? 》

《事は、エンマ・ツンツの予想どおりには起らなかった。昨日の明け方以来、彼女は、断固として拳銃をつきつけてこの卑劣漢に卑劣な罪を告白させ、神の正義をして人間の正義に勝たしめるという大胆不敵な計略をあらわにする自分の姿を、何度も夢想していたのだ。(恐怖からではなく、自分が正義の手先であるという理由で、彼女は罰せられることを望まなかった。)それから、胸のど真中にぶちこむただの一発が、レーヴェンタールの運命を封印するだろう。ところが、事はそんな風には運ばなかった。》

《実際、その話は信じがたかったが、大筋のところは真実だったから、誰にも感銘を与えた。エンマ・ツンツの語調は真実だったし、その恥辱は真実だったし、その憎悪も真実だった。彼女が受けた凌辱もまた真実だった。ただ状況と、時間と、一つ二つの固有名詞だけが虚偽だった。》

 

ドゥルーズが『シネマ2*時間イメージ』の第6章「偽なるものの力能」でボルヘスにまで言及した、可能と不可能の「共不可能性」という時間論は、殺すかもしれないし、殺されるかもしれないし、二人とも死ぬかもしれないし、等々……で、『エンマ・ツンツ』にあてはまる(さらには、後述する作品の『もうひとつの死』にもあてはまる)。

《思想史を振り返ると、時間はつねに真理という観念を危機にさらすものであったことがわかる。真理が時代によって変化するということではない。真理を危機にさらすのは、時間の単なる経験的な内容ではなく、時間の純粋な形態、あるいはむしろ純粋な力である。こうした危機は、古代にあってすでに「不慮の未来」という逆説において明らかになっている。海戦が明日起こりうる(・・)というのが真(・)であれば、次の二つの帰結のうちの一つをいかにして避ければよいのか。つまり、不可能が可能から生じる(というのは、海戦が起これば、もはや起こらなかったことはありえないから)、もしくは、過去は必ずしも真ではない(というのは、起こらないことが可能であったから)という二つの帰結である。この逆説を詭弁といってかたづけるのは容易である。これは逆説であるといっても、真理が時間の形態に対してもつ直接的な関係を考えることの難しさを示しており、真なるものを、実際に存在するものからは隔たった、永遠なるもの、あるいは永遠を模倣するもののうちに閉じ込めることを余儀なくさせる。この逆説に関して、最も巧妙な解決方法を手にするには、ライプニッツをまたなければならないが、彼の解決方法はまた、最も謎めいており、最も屈折したものでもある。ライプニッツによれば、海戦は起こることもありうるし、起こらないこともありうるが、それは同じ世界の中でのことではない。つまり、ある一つの世界では起こり、別の世界では起こらないのであり、この二つの世界は可能であるが、「ともに可能」ではない。それゆえ真理を救済しながらこの逆説を解決するためには、共不可能性(・・・・・)という美しい概念を捏造しなければならない(これは矛盾とはたいそう異なっている)。ライプニッツによると、可能なものから生じるのは、不可能なものではなく、共不可能なものである。そして、過去は必然的に真でなくても、真でありうる。しかし真理の危機はこうして解決されるというよりも、むしろ中断されるだけである。というのも、もろもろの共不可能性は同じ世界に属し、もろもろの共不可能な世界は同じ宇宙に属すると断言することを妨げるものは何もないからだ。「たとえば憑(ファン)は秘密を握っている。見知らぬ誰かがドアをたたく……。憑(ファン)は侵入者を殺すかもしれず、侵入者は憑(ファン)を殺すかもしれない。二人とも一命を取りとめるかもしれないし、二人とも死ぬかもしれないし、等々……。あなたは私のところにくる。でも、可能な様々な過去のうちの一つにおいては、あなたは私の敵であり、別の過去においては友である……」。これがライプニッツへのボルヘスの答えである。つまり、時間の力、時間の迷路としての直線はまた、分岐し、たえず分岐し続ける線でもあり共不可能的な現在(・・・・・・・・)を通って、必然的に真ではない過去(・・・・・・・・・)にもどってくる。》

 

・ところで、エンマ・ツンツもまたある種の悪党なのではないか。イシドロ・クルスや、『もうひとつの死』のダミアンのような、いわくありげな男たちではなく、女工の少女であっても。『まねごと』の、ペロンとエヴィータへの「完璧な仕上げの工藝品」のような私怨の晴らし方を、小説を書けない少女は、自らの処女性と銃とで暴力的に果たしたのだ。

 ボルヘス批評はどれも同じように、「時間」「無限後退」「永遠」「鏡」「不死」「迷宮」「図書館」といった惑星として軌道を廻り続けるのが常だが、ポール・ド・マンは「現代の文豪――ホルヘ・ルイス・ボルヘス」で、《ボルヘスは難解であり、どこに位置づけるべきかきわめて困難な作家なのだ。批評家が適切な比較事項をあれこれ捜し求めても、その試みは徒労に終わるのである。》としたうえで、「悪党」「暴力」という卓抜な惑星を発見する。

《とりわけ初期作品についていえることだが、ボルヘスは悪党のことを書いているのだという点は、誰もが認めるはずである。たとえば短篇集『汚辱の世界史』では、実に魅力的な悪漢が一堂に会している。しかしながらボルヘスは、悪党という主題が道徳的なものであるとは考えていない。ここに収録されている短篇群から示唆されるのは、いかなる意味においても社会や人間性、人間の運命といったものに対する告発などではないし、ジイドのニーチェ的主人公ラフカディア(『法王庁の抜け穴』に出てくる若者)のごとき気楽な観点でもない。彼の作品における悪党とは、審美学的、形式論的原理として機能しているものである。(中略)

 厖大なるボルヘスの文学作品群を構成している短篇小説は、カフカの作品とは違い、道徳的寓話などではないのである。ボルヘスカフカと比較されることが多いが、それは誤りであろう。ボルヘスの作品が心理分析を試みたものであるはずがない。一番近い文学上の類比でいうならば、彼は実体験ではなく知的命題を再提出=表象しているという点で、十八世紀の「哲学的短編小説」の系譜に近いといえるだろうか。『カンディード』[ヴォルテール作・一七五九年]と『ボヴァリー夫人』[フロベール作・一八五六年]から、同種の心理洞察や直接的個人体験を期待するのは間違っていよう。そしてボルヘスの作品は、一九世紀小説よりヴォルテールを読む際に似た期待を抱きながら読むべきものなのだ。(中略)

 おそらくボルヘスが才気溢れる作家であるため、彼の創り出した鏡の世界には、常にアイロニカルではあるが、深遠なまでに無気味な雰囲気が漂うのであろう。『汚辱の世界史』のようにきな臭さの漂うものから、のちの『伝奇集』における暗く荒れ果てた世界まで、恐怖の影にはさまざまあるが、『創造者』では暴力がいっそう荒涼かつ陰鬱なものになっている。ボルヘスが生まれ育ったアルゼンチンの雰囲気に近づいてきているのであろうか。(中略)彼の初期作品における鏡の技法には、時間が無限という無形の空虚の中に永久(とわ)に没入するのを堰き止めんとする意図が表象されていた。すなわち文体とは、哲学者の思索と同様、不死を求める営みなのだ。だがこの試みは、失敗に終わらざるを得ない。ボルヘスがお気に入りの作品であるトマス・ブラウンの『壺葬論』(一六五八年)から引用するならば、「物事を仮初(かりそ)めにしか惟(おもんみ)ぬ、時間という阿片の解毒剤などないのである」。だがこれは、先にも述べた、詩人が現実に対して用いているトリックと同じものを、ボルヘスの神が詩人に仕掛けているからということではない。神とは実は、人を永遠という幻想に騙し導く悪党の頭(かしら)であった、ということではないのである。邪(よこしま)な詐術にひそむ詩的衝動とは、人のみぞ有している、人をして本質的に人間なのだということを指し示すものなのだから。しかしながら神は、詩が失敗に終わったことの証しとなる死という形をとり、現実そのものを支配する権力としての舞台に登場する。それこそが、ボルヘスの全作品に暴力という主題があまねく窺われる奥深い理由なのである。》

 

<『もうひとつの死』>

《たしか二年ほど前、(その手紙はなくしてしまったが)ガノンがグワレグワイチュの農場から、ラルフ・ウォルドー・エスマンの『過去』という詩篇の、恐らく最初のスペイン語訳を送るという手紙をよこし、追伸に、わたしも多少は覚えているはずのドン・ペドロ・ダミアンが、数日前の夜肺充血で死亡したと書き添えてあった。熱に浮かされたその男は、譫妄状態の中で、マソリェールの戦いの血なまぐさい一日を再び生きたという。その知らせは何ら驚くにあたらなかったし、異常とも思えなかった。なぜなら、ドン・ペドロは、十九か二十の頃から、アパリシオ・サラビアの旗の下に馳せ参じていたからだ。一九〇四年の革命が勃発した時、彼はリオ・ネグロかパイサンドゥの農場で作男として働いていた。ペドロ・ダミアンはエントレ・リーオス州のグワレグワイチュの出身だったが、仲間について行き、彼ら同様無知で向う意気が強かったから、叛乱軍に加わったのである。彼は一、二度小ぜり合いを経験してから、最後の戦闘に加わった。一九〇五年に帰郷すると、謙虚に黙々と、再び野良仕事に精を出した。わたしの知る限り、彼は二度と故郷の州を出ていない。そして死ぬまで三十年というもの、ニャンカイから十キロばかりの一軒家に住んでいた。その人里はなれた所で、一九四二年頃、わたしは一夕彼と会話をまじえた(一夕彼と会話をまじえようとした)。彼は無口で無教養な男だった。マソリュールの戦いの喧騒と怒号が、彼の一生を使い切ってしまった。だから、死の時にそれを再び生き直したと聞いても私は驚かなかったのだ……もう二度とダミアンに会えないと知って、わたしは彼を思い出そうとした。が、わたしの視覚的記憶は余りに薄かったので、わずかに思い出すことが出来たのは、ガノンが撮った一枚の写真の面影だけであった。彼に会ったのは一九四二年の初頭に一度限りであり、写真の方は何度も見ていることを考えれば、この事実には何の不思議もない。ガノンがその写真を送ってくれたのだが、それもなくしてしまったし、今となっては探す気もない。もし出くわすことがあれば、恐怖を感じるだろう。

 第二のエピソードは、数か月後モンテビデオで起る。ドン・ペドロの高熱と苦悶が、マソリェールの敗戦にもとづく幻想物語をわたしに思いつかせた。その概況を聞いたエミール・ロドリゲス・モネガルが、その戦闘に参加したディオニシオ・タバーレス大佐に紹介状を書いてくれた。大佐はある日の夕食後にわたしを迎えた。彼は中庭の揺り椅子に坐って、前後の脈絡なく、しかし往時をいとおしみながら思い出を呼びおこした。ついに届かなかった弾薬のこと、疲れきって到着した騎兵隊のこと、埃だらけで半分眠りながらじぐざぐの迷路を織りつつ行進する兵士たちのこと、モンテビデオにはいることも出来たはずなのに、「ガウチョは都市をこわがるから」という理由で進路を変えたサラビアのこと、首をちょん切られた男のこと、わたしには両軍の激突というよりは牛泥棒や山賊の夢のように思える内戦のこと。イリュスカス、トゥパンバエ、マソリェールといった戦場の名前が続いた。彼はそれを実に効果的な間をとって眼前に彷彿とさせるので、同じことを何度もくり返し語ったにちがいないことが分り、その言葉の裏には、真実の記憶がもはやほとんど残っていないのではないかとさえ思われた。彼がちょっと息をついた時、わたしはどうにかダミアンの名をはさむことが出来た。

「ダミアン? ペドロ・ダミアンかね?」と大佐は言った。「あれはわしの部下だったよ。ちっこい混血でね、みなはダイマンと呼んでいた――川の名にちなんでな。」大佐はいきなり大声で笑い出し、それから、又急に笑いやんだが、そのぎこちなさは、真実のものかみせかけのものか分らなかった。

 ここで声の調子を改めた彼は、戦争というものは女と同じで、男にとっての試金石となるのだから、戦火をくぐるまでは、自分が何者なのか誰にも分りはしないのだ、と言った。自分は臆病だと思っていた者が、実際は勇敢だったり、又その逆に、白人を示す白リボンをひめらかして酒場あたりをのし歩いていたくせに、後になってマソリェールでは、腰抜けを暴露したあのあわれなダミアンのような者もある。常連との撃ち合いの時は男らしく振舞ったが、いざ軍隊同士が真正面からぶつかって砲撃がはじまり、誰もが、まるで5千人の敵兵が自分一人をめがけて殺到して来るような気がする戦場では、全く別問題になる。あわれな雑種さ。それまでずっと農場で羊を消毒液に浸ける仕事をして暮して来たのが、突然あんな激烈な行動に引きずりこまれたんだから……

 馬鹿げたことに、タバーレスの話を聞いている中、わたしは居心地の悪い思いがして来た。もっとちがった風にことがおこってほしかったと内心望んでいたのだろう。無意識の中に、何年も前に一夕会ったきりの老ダミアンから、わたしは一種の偶像を仕立て上げていたのだ。タバーレスの話はそれを打ち砕いた。突然、ダミアンが孤立し、頑なに自分の殻に閉じこもっていた理由が読めた。それはつつましさからではなく、恥ずかしさから来たものだったのだ。卑怯な行為をしたという悔恨に責められている男の方が、単に向こう見ずな男よりずっと複雑で興味があるものだ、とわたしはむなしく自分に言いきかせた。ガウチョのマルティンフィエロより、ロード・ジムやラズーモフの方が、より心に残る。そのとおりだ、とはいえ、ダミアンは、ガウチョとして、マルティンフィエロとなるべきだったのだ――とりわけ、ウルグワイのガウチョたちの前では。タバーレスの言葉の表裏に、いわゆるアルティギスモの野趣が感じられた。即ち、ウルグワイの方がわがアルゼンチンより素朴であり、したがってより勇猛であるという(恐らく論駁しがたい)信念が……その夜、わたしたちは、いささか誇張した親愛の情をこめて、別れの挨拶を交したのを覚えている。

 その冬、わたしの幻想物語(それはどういうものかなかなか体をなさなかった)に、一、二の状況が必要だったので、再びタバーレス大佐の家を訪ねることになった。彼はもう一人同年輩の紳士と一緒だった。バイサンドゥから来たフアン・フランシスコ・アマーロ博士とかいう人物で、彼もまたサラビア将軍の革命に参加したという。当然、話はマソリェールのことになった。アマーロは二、三の挿話を語ってから、ゆっくりと、声に出して考えている者の調子でつけ加えた。

「サンタ・イレーネで夜営をしたのを覚えていますが、そのあたりの男が数人、われわれに合流しました。その中に、戦闘の前夜に死んだフランス人の獣医と、エントレ・リーオス出身の、ペドロ・ダミアンとかいう若い羊毛刈り(エスキラドール)がいましたな」

 わたしは鋭くさえぎって口をはさんだ。「ええ、知ってます。弾丸の前でおじけづいたアルゼンチンの男でしょう」

 わたしは言葉を切った。二人が当惑したようにわたしを見ていたからだ。

「それはちがいますよ、あなた」としばらくしてアマーロが言った。「ペドロ・ダミアンは、男なら誰でもうらやむような死に方をしました。午後の四時頃でした。正規軍の歩兵部隊が丘の上の塹壕にたてこもっているところを、わが軍が槍で攻撃したんです。ダミアンは喊声(かんせい)をあげて先頭を切りました。その時、一発の弾丸が胸のどまんなかを貫いたんですよ。彼はあぶみにつっ立ち雄叫びを終えるや、どうと地面に転げ落ち、多くの馬蹄にかけられました。そしてマソリェールの最後の総攻撃は、彼の屍を踏みこえて行われたのです。それほど大胆不敵な奴でした。しかも二十(はたち)そこそこでね」

 彼が話したのは、疑いもなく、別のダミアンのことだ。が、わたしはふと、その若者は何と叫んでいたのかと訊く気になった。

「悪態だよ」と大佐が言った。「突撃の時はそういうもんだ」

「多分ね」とアマーロが言う、「しかし、奴はこうも叫んでいましたよ、《ウルキーサ万歳!》とね」

 わたしたちは黙りこんでしまった。がようやく大佐がつぶやいた。「どうもわれわれは、マソリェールではなくて、百年も前に、カガンチャかインディア・ムエルタで戦ったような気がしますな。」彼は心底困惑した様子でつけ加えた。「わしはあの部隊の指揮をとっていたんだが、そのダミアンとかの話を聞くのは誓ってはじめてなんだ」

 大佐にダミアンのことを思い出させることはづしても出来なかった。

 彼の記憶喪失がわたしにひきおこした驚愕は、その後ブエノス・アイレスでもう一度くり返されることになった。ある午後、英語の本を扱うミッチェル書店の地階で、エマスンの作品集の喜ばしい第十一巻をぱらぱらとめくっていると、パトリシア・ガノンに出会ったのである。わたしは『過去』の翻訳のことをたずねた。すると、そんな翻訳は考えてもいない、大体スペイン文学だけでうんざりなので、エマスンなぞはよけいなことだと言うのだ。わたしは、彼がダミアンの死を知らせてくれた同じ手紙で、翻訳を送ると約束したことを思い出させようとした。すると彼は、ダミアンとは誰だと訊く。いくら話しても無駄だった。彼がひどく怪訝な顔つきで聞いているのに気がつくと、恐怖の念がきざして来たので、わたしは、あの不幸なポーよりもはるかに複雑で技巧的で、明らかにずっと独特な詩人エマスンを誹謗する人びとを話題にした文学談義に逃げこんだ。

 いくつかの事実をつけ加えておかねばなるまい。四月に、ディオニシオ・タバーレス大佐から手紙を受取った。彼の記憶の霧がはれて、マソリェールの攻撃の先鋒となりその夜丘の麓に埋葬された、エントレ・リーオス出身の若者を、今ははっきり覚えているという。七月、わたしはグワレグワイチュを通った。ダミアンの小屋は見当らなかったし、彼を覚えている者も今はないようであった。ダミアンの死を看取った牧場番人のディエゴ・アバローア自身も冬のはじめに亡くなっていた。わたしは何とかダミアンの容貌を思い出そうとしてみた。数ヵ月後、古いアルバムをくっていた時、わたしが喚起しようとしていたあの浅黒い顔は、実はオセローを演じている有名なテノール歌手、タンベルリークのそれだったことに気がついた。

 さて、ここでいくつかの推測に移るとしよう。最も容易だが、同時に最も不満足な推測は、二人のダミアン――一九四六年頃エントレー・リーオスで死んだ臆病者と、一九〇四年にマソリェールで死んだ勇士――を想定することである。しかし、この推測の欠陥は、タバーレス大佐の記憶の奇妙な変動、それほど短時日に、あの戦闘の生き残りの姿どころか名前まで拭い去った健忘症という、全く謎めいた事実を説明出来ない点にある。(第一の男がわたしの夢想だったという、より単純な可能性は、受入れることが出来ないし、受入れたいとも思わない。)それよりもっと奇妙なのは、ウルリーケ・フォン・キュールマンが考えた超自然的推測である。ウルリーケによれば、ペドロ・ダミアンはその戦闘で戦死した、が、息を引き取る時に、エントレ・リーオスに返して下さいと神に祈った。神はその願いを聞き届ける前に一瞬ためらわれた。その間にその男は死んでしまい、倒れるところを人に見られた。神は、過去を作り変えることは出来ないが、過去のイメージを変えることは出来るので、ダミアンの非業の死というイメージを、失神のそれに切りかえたのだ。こうしてエントレ・リーオスの若者の霊が故郷に帰ったのである。帰ったにはちがいない、が、霊の身であったことを忘れてはならない。それは、女もなく友もない孤独の中に生きた。それはあらゆるものを愛し所有した、しかし距離をおいて、あたかも鏡の向う側からのようにそうしたのである。ついにそれは「死んだ」、そしてその希薄なイメージは、水が水に溶けるように消失してしまった。この推測には誤りがある。しかし、多分これがわたしに真実の仮説(今わたしが真実と信じている仮説)を暗示したのだ。それはより単純であると同時に、より前代未聞のものであった。まるで魔法のように、わたしはそれをピエトロ・ダミアーニの論文『全能について(デ・オム・ニポテンテイア)』の中に発見したのだが、そこに至る契機は、正しくダミアーニの自己証明の問題が提起されている『天国篇』第二十一歌の二行を読んだことにあった。その論文の第五章で、ピエトロ・ダミアーニは――アリストテレスやトゥールのフレデゲールに反して――神はかつて存在したものを存在しなかったものにすることが出来る、と主張している。こうした昔の神学論争を読んでいる中に、わたしはドン・ペドロ・ダミアンの悲劇的生涯を理解しはじめたのである。

 わたしの解答はこうである。ダミアンはマソリェールの戦場で臆病者のような振舞いをした。そこで余生をその恥ずべき怯懦を修正することに捧げた。エントレ・リーオスに戻った。誰に対しても手をふりあげず、誰一人傷つけず、勇士の名誉も求めず、ただニャンカイの僻地に住んで、茨や野生の牛と格闘しておのれを鍛えた。確かにそれとは気づかずに、奇蹟を準備していたのだ。彼は心の奥底で、「もし運命がもう一度おれを戦場にかりたてるなら、今度こそ堂々と戦うぞ」と誓っていた。四十年というもの、秘かな希望を抱いて彼は待ちに待った。そしてようやく臨終(いまわ)の際に、運命は戦いをもたらしたのだ。それは譫妄状態をとって訪れた、というのも、ギリシア人が夙に知っていたように、われらは夢の影に過ぎないからである。断末魔に、彼はあの戦闘を再び生き、男らしく振舞い、最後の総攻撃の先鋒を切っている時、胸の真中に弾丸を受けた。かくして、一九四六年、長い艱難辛苦の後にペドロ・ダミアンは、一九〇四年の冬から春への間に起きたマソリェールの敗戦において死んだのである。

神学大全』には、神が過去を作り変えることは不可能とされているが、原因と結果との錯雑した連鎖関係については言及がない。その関係はあまりにも広くまた密接であるために、たとえとるに足らぬと思えるたった一つの(・・・・・・)昔の事実も、現在を無効にすることなく抹消するのは不可能だろう。過去を修正することは、ただ一つの事実を修正することではない。それは、無限に及ぼうとするその事実の結果を抹消することになる。換言すれば、それは二つの世界史を創ることになるのだ。たとえてみれば第一の歴史においては、ペドロ・ダミアンは一九四六年にエントレ・リーオスで死に、第二の歴史においては、一九〇四年にマソリェールで死んだのである。われわれが今生きているのはこの第二の歴史の方だが、第一の方の抹消がすぐに行われなかったために、これまで述べて来たような奇妙な矛盾が生じたのであった。ディオニシオ・タバーレス大佐の脳裡には、さまざまな局面が継起した。最初、彼はダミアンが腰抜けのように振舞ったことを思い出した。次に、全く記憶を失った。それから、その壮烈な死を思い出したのである。牧場番人アバローアの場合も納得がゆく。思うに、彼はドン・ペドロ・ダミアンについて天地にも多くの記憶を保持していたが故に、死ななければならなかったのだ。

 わたし自身に関しては、同様の危険を冒しているとは思わない。なるほどわたしは、人間の理解を絶する推移、理性の中傷とでもいうべきものを推測し記録して来た。しかし、わたしのこのような特権行使のはらむ危険は、ある情況によって弱められている。現在のところ、わたしは常に真実を書いて来たという保証をもたない。わたしの物語の中には、いくつかの記憶違いがあるのではないかと思う。ペドロ・ダミアンは(もし実在するとして)、ペドロ・ダミアンという名ではなかったのではないか、さらにわたしが彼をその名で記憶しているのは、いつの日か、この物語全体がピエトロ・ダミアーニの論文によって暗示されたものだと信ずるためではなかったのか、と思われるのだ。似たようなことが、冒頭に言及した、過去の改変不能をうたった詩についてもあてはまる。今から数年後の一九五一年頃には、わたしは一個の幻想物語を作り上げたと信じているだろうが、その実、実際に起った出来事を記録したことになるだろう。丁度、二千年ほど前に、何も知らないヴァージルがある男の誕生を記録したと信じながら、キリストの誕生を予告していたように。

 哀れなダミアン! 二十歳の時に、悲劇的でしかも世に知られぬ戦争の局地戦で、死が彼を連れ去った。しかし、彼は心底から望んでいたものを手に入れたのだ。手に入れるまでには長い時間がかかったとはいえ、恐らくこれにまさる幸福はあり得ない。》

  

・この作品も『ボルヘスとわたし』にあって「著者注釈」を読める(なにもボルヘスの「著者注釈」に限ったことではないが、小説作品そのものより面白くないのは、冗長だからか、説明的であることによって詩、秘儀が凡庸に切り下がり、決して読みを深めをしないのは、ある種の定理ともいえる)。

《すべての神学者が、神による一つの奇蹟――過去を取り消すという奇蹟――を否定していた。ところが、十一世紀の大司教ピエトロ・ダミアーノは、ほとんど想像し難いその力を神に与えている。これからヒントを得たわたしは、卑近なやり方で同様の離れ業を試そうとする科学者についての物語を書いたことがある。彼は二個の黒い球を上段の引出しに、そして三個の黄色い球を下段の引出しにしまい、長年の苦行の末、それらの球が場所を変えているのを見出すというのである。わたしはすぐに、こんな単純な奇蹟など意味がないと思うようになり、何かもっと劇的なことを考え出さねばならなかった。そして、まさに死に直面して、無意識のうちに、そのような奇蹟に到達することになる平凡な男を思いついた。アパリシオ・サラビア(ウルグアイの軍人、政治家、一八五五~一九〇四)の革命は子供のころからわたしの空想をかきたてていたので、僻地におけるその内乱を背景として利用し、基本的美徳としてのガウチョ的な勇気とわたしの形而上学的な意図を結合する方法を考え出した。こうして生まれたのがこの物語であり、これは当初、『贖(あがない)』と題されていた。

 文学的配慮のため、この物語では奇蹟は四十有余年の歳月を待って実現される。ペドロ・ダミアンの過失は、彼がアルゼンチン兵士としてただ一人、ウルグワイ人たちの間にいたがゆえに、その体面上、いっそう屈辱的な耐え難いものであった。しかし最後にダミアンは、久しく渇望していたように、攻撃の先鋒を(・・・・・・)切っている時に(・・・・・・・)胸を撃たれて死ぬ(・・・・・・・・)。もしこれが現実に起ったことだとしたら、兵隊仲間は、一兵士の死といった小さな事実に留意することなどなかったであろう。

 冒頭でエマソンの詩に言及したのは、主として二つの理由による。第一には、単にわたしがその美しさを称賛しているからであり、第二には、もし読者がその詩を手にするような時――その詩は過去の変更不可能性を強く表現したものだから――この物語との関連あるいは対照に思いをはせていただくためである。

 友人の本名を虚構の中にとり入れるのは、わたしの大好きな手口(・・)である。もう一つの死」の中には、ウルリーケ・フォン・キュールマン、パトリシオ・ガノン、そしてエミール・ロドリーゲス・モネガルなどの名前が見られる。》

 

ボルヘス『語るボルヘス』の「不死性」から。

《われわれにとって自我というのは取るに足りないものであり、自意識など何の意味もありません。私が自分をボルヘスだと感じ、あなた方がそれぞれ自分自身をA、B、あるいはCだと感じたとしても何の違いがあるでしょう。違いなどありません。そうした自我というのはわれわれ全員が共有していて、何らかの形ですべての被造物のうつにあるものなのです。したがって、個人のそれではなく、もうひとつのあの不死性は必要不可欠なものだと言えるでしょう。たとえば、ある人が自分の敵を愛したとすると、その時キリストの不死性がよみがえってきます。その瞬間、その人はキリストになるのです。われわれが、ダンテ、あるいはシェイクスピアの詩を読み返したとします。その時、われわれは何らかの形でその詩を創造した瞬間のシェイクスピア、あるいはダンテになります。ひとことで言えば、不死性は他人の記憶の中、あるいはわれわれの残した作品の中に生き続けることなのです。その作品が忘れ去られたとしても、気にすることはありません。》

《最後に、私は不死を信じていると申し上げておきます。むろん個人のそれではなく、宇宙的な広がりをもつ広大無辺の不死です。われわれはこれからも不死であり続けるでしょう。肉体的な死を越えて、われわれの行動、われわれの行為、われわれの態度物腰、世界史の驚くべき一片は残るでしょう。しかし、われわれはそのことを知らないでしょうし、知らない方がいいのです。》

 

ボルヘス『語るボルヘス』の「時間」から。

《時間をどうしても無視できないのは、それが本質的な問題だからだ、と私は言いたいのです。われわれの意識は絶えずある状態から別の状態へと変化していきますが、それが継起、つまり時間なのです。時間は形而上学のもっとも肝要な問題である、と言ったのはたしかアンリ・ベルクソンだと思います。もしこの問題が解決されていたら、おそらくほかのすべての問題も解決されていたことでしょう。しかし、幸いなことにこの問題が解決される気遣いはないようですから、今後もこの問題に取り組むことができそうです。《時間とは何か、そう訊かれなければ、何であるか分かっているのに、人から尋ねられたとたんに分からなくなってしまう》と聖アウグスティヌスは言っていますが、われわれはこれからもこの言葉を繰り返し使うことができると思います。

 時間に関してはこれまで二十世紀、あるいは三十世紀にわたって考察が続けられてきましたが、大きな進歩があったとは思われません。私は決まって、「人は二度同じ川に降りていかない」という言葉に戻っていくのですが、この言葉を書いた時、ヘラクレイトスはどれだけ困惑を覚えたことでしょう。今でもわれわれは、時間の問題について思索を巡らせると、あの古代の哲学者と同じ思いにとらわれます。なぜ人は二度同じ川に降りていかないのでしょう? ひとつは川の水が絶え間なく流れ去っていくからであり、もうひとつはわれわれ自身もまた川、つまり移ろい、変化していく存在だからです――この考えは、形而上学的な意味でわれわれの心を打ち、畏怖の念を起させるもとになります。時間の問題とはそのようなものなのです。つまり、逃れ去っていくものの問題であり、時は移ろっていくのです。ここで思い出されるのが、ボワロー(ニコラ・ボワロー=デプレオー、一六三六~一七一一.フランスの詩人)の「何かが自分から遠ざかった瞬間に、時は流れる」という美しい詩句です。》

 

ボルヘスと親交のあったアルゼンチンの作家エルネスト・サバトは、評論集『作家と亡霊たち』の『二人のボルヘス』で、辛辣な批評を展開した。なにもサバトの文学観、予言を尊重する必要はないが、ここにあげた三作品は、下記に一部引用するサバトの批判と求めを乗り越えて、「後世に残るボルヘス」に違いない。

《そしてボルヘス、肉体と感情を持ち、肉体のもろさを劇的なまでに痛感していたボルヘスは、多くの芸術家(それに多くの若者)と同じく雑踏のなかで秩序を、不安のなかで安らぎを、不幸のなかで平和を求め、プラトンの手を借りて絶対的宇宙に近づこうとした。そして作品のなかで菱形の部屋や図書館や迷宮に住む亡霊たちを時間から切離し、そこに言葉を通してしか生きることも苦しむこともない世界――苦しみとは時間と死に他ならない――を作り上げたのである。ボルヘスの作品は現実の向こうにある大理石の世界を象徴する。時として彼は、偉大な文学にふさわしいのは純粋精神の領域だけであると考えているように見える。実際には偉大な文学の名に値するのは、不純な精神、すなわちプラトン的天上世界に生きる亡霊ではなく、このヘラクレイトス的混沌の世界に生きる人間を扱った作品に他ならない。人間の特性は純粋精神などではなく、暗闇に引き裂かれた心の部分、人間の存在にとって最も重大なことが起こるこの領域なのである。愛、憎しみ、神話、フィクション、希望、夢、どれ一つとして厳密な意味で精神に属するものではなく、すべて思想と血、意識的な力と盲目な衝動が暗い色で熱く混ざりあったものである。苦悩に満ちた曖昧な心は肉体と理性に引き裂かれ、死すべき肉体の情熱に囚われながらも、精神の永遠を求めることをやめず、相対と絶対、堕落と不死、悪魔と神の間を常にさまよい続ける。芸術と詩はその混乱した領域から、他ならぬ混乱を土台に生れてくる。神は小説を書かない。

 だからこそ ボルヘスプラトン的アヘンは役に立たない。すべてが遊び、まやかし、子供じみた逃避に見えてしまう。哲学や科学があの理想世界こそ本物だといくら言い張っても、我々にとっては現世だけが不幸と幸せを与えてくれる本物の世界なのである。我々の肉体と、唯一本物の精神、つまり肉体を伴った精神が日々生き抜いているのは、血と火と愛と死でできたこの現実世界以外にはないのである。》

《時間の進行を否定した後でボルヘスは(美しく感動的に)こんなことを書く。「それでも、それでも……時間の経過や自己、そして宇宙の存在を否定することは、一見絶望のように見えても実はひそかな慰めを伴う……私は時間で出来ている。時は私を押し流す川だが、私もまた川である。私を噛み砕く虎だが、私もまた虎である。私を焼き尽くす火だが、私もまた火である。不幸にも世界は本当に存在するし、不幸にも私はボルヘスなのである。」

 この最後の告白をするボルヘスこそ我々の求めるボルヘスであり、真に作家の名に値するボルヘスだ。ブエノス・アイレスの黄昏や幼児期の中庭、場末の通りといった貧相ではかないが極めて人間的なことを詠った詩人、これが(予言してもいい)後世に残るボルヘスなのだ。信じてもいない哲学や神学を軽々しく弄んだ後、輝きには欠けるが確かなこの世界、誰もが生まれ、苦しみ、愛し、死ぬこの世界へと戻ってくるボルヘス、記号でしかないレッド・シャルラッハ(筆者註:ボルヘス『死とコンパス』の殺し屋)が幾何学的に罪を犯す任意の町Xではなく、我々が生きて苦しむ愛憎にまみれた町、薄汚れてくすんだ、この本物のブエノス・アイレスに生きるボルヘスなのである。》

 

                               (了)

        *****引用または参考*****

*『筑摩世界文学大系81 ボルヘスナボコフ』(『伝奇集』、『エル・アレフ』、『ブローディーの報告書』篠田一士訳所収)(筑摩書房

*J・L・ボルヘス『創造者』(『まねごと』所収)鼓直訳(岩波文庫

*J・L・ボルヘスボルヘスとわたし――自選短篇集』牛島信明訳(ちくま文庫

*J・L・ボルヘス『続審問』中村健二訳(岩波文庫

*J・L・ボルヘス『語るボルヘス木村栄一訳(岩波文庫

*J・L・ボルヘスエバリスト・カリエゴ』岸本静江訳(国書刊行会

*『ボルヘスの世界』(清水徹「ひとつのボルヘス入門」所収)(国書刊行会

野谷文昭編『日本の作家が語る ボルヘスとわたし』(岩波書店

*『すばる』1999年9月号(ポール・ド・マン「現代の文豪──ホルヘ・ルイス・ボルヘス」橋本安央訳所収)(集英社

ミシェル・フーコー『言葉と物――人文科学の考古学』渡辺一民佐々木明訳(新潮社)

*G・ドゥルーズ『差異と反復』財津理訳(河出文庫

*G・ドゥルーズ『シネマ2 時間イメージ』宇野邦一他訳(法政大学出版局

*ジェイムズ・ウッダル『ボルヘス伝』平野幸彦(白水社

モーリス・ブランショ『来るべき書物』粟津則雄(ちくま学芸文庫

丸谷才一『無地のネクタイ』(『私怨の晴らし方』所収)(岩波書店

エルネスト・サバト『作家とその亡霊たち』(『二人のボルヘス』所収)寺尾隆吉訳(現代企画室)