文学批評 多和田葉子とカフカ/ベンヤミン/ツェラン ――多和田『百年の散歩』を読むための引用モザイク

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多和田葉子カフカ(1883~1924年)、ベンヤミン(1892~1940年)、ツェラン(1920~1970年)を尊敬し、さまざまな刺激を受けている。

 ユダヤ系のドイツ語作家である三人は、それぞれチェコプラハ、ドイツのベルリン、旧ルーマニア領(現ウクライナ)のチェルノヴィッツで生れた。カフカは四十歳で結核死、ベンヤミンナチスに追われスペイン・フランス国境で自死、父母を強制収容所で失っているツェランセーヌ川に飛び込んだ。三人とも死後に名声を高める。

 

・ハンナ・アレントは『暗い時代の人々』のなかで、ベンヤミンの《最大の誇りが「大部分引用句から成る作品を書くこと――想像しうるかぎりの気ちがいじみた寄木細工の手法――」であり》と紹介している。

 この「引用」「寄木細工(断片、モザイク)」という多和田文学にもあてはまる方法論、思考で進めて行く。

 

・1961年、ツェランの「子午線 ゲオルク・ビューヒナー賞受賞の際の講演」でカフカベンヤミンツェランの三人の言葉と魂が出会う。

 ツェランは彼の数少ない詩論ともいえる講演の後半で、次のように語った。

《詩がおのれに出会うすべてのものに対してはらおうとする心づかいは、つまり細部とか輪郭とか構造とか色彩とか、さらには「こきざみなふるえ」とか「ほのめかし」とかに対する詩のひときわ鋭敏な感覚は、思うに、日々その完璧さの度合いを加えていく機器類と覇をきそう(あるいは鎬(しのぎ)をけずる)眼力の成果ではなくて、むしろわたしたちすべての日付を記憶しつづける集中力なのです。

「心づかい」――ここにヴァルター・ベンヤミンカフカ論からマールブランシュの言葉を引くことをお許しください――「心づかいとは魂のおのずからなる祈りである」》

 正確に言うと、マールブランシュの言葉は「魂のおのずからなる祈り」だけで、「心づかい」と結びつけたのはベンヤミンである。

 原典は、《マールブランシュが「魂の自然な祈り」とよんでいる、あのよく行き届いた心づかいこそ、いかにもかれにふさわしかった》(ベンヤミンフランツ・カフカ』(『ベンヤミン著作集』(晶文社))であるが、「心づかい(Aufmerksamkeit)」は、「注意深さ」とか、少し違ったニュアンスを感じさせる訳もある。

《「私が私のお祈り台に膝ついて/ほんのちょっぴり祈ろうとすると/せむしの小人がそばに立って/とめどなしに喋り出す/かわいい子供よお願いだから/せむしの小人にも祈っておくれ!」そう、この民謡は終わる。この民謡の深みにおいて、カフカは、「神話的に予感する知」[『万里の長城の建設にさいして』のブロートとの後記]も「実存的神学」も、彼に与えることのない基盤と触れあっている。それはユダヤの民衆の基盤であるのと同じくらい、ドイツの民衆のそれでもあるのだ。もしカフカが祈らなかったとすれば――実際のことはわれわれには知る術もないが――それでも彼にはマールブランシュ(一六三八~一七一五年。フランスの哲学者)が「魂の自然な祈り」と呼ぶものが最高度に身についていた。すなわち注意深さが。そして彼はそのなかに、聖者が祈りのなかに包みこむように、すべての被造物を包みこんだのである。》(ベンヤミンフランツ・カフカ』(『ベンヤミン・コレクション』)

 いずれにしろ、土星の徴の下に生れたようなメランコリーとアイロニーからなる三人の「心づかい」は多和田に深く影響している。

 

・「希望」という語の周りを三人は回遊していて、多和田の文学世界に道標の灯をともす。

《希望なき人びとのためにのみ、希望はわたしたちに与えられている。》(ベンヤミンゲーテの『親和力』』)

 しかし、その「希望」は屈折している。

《『訴訟』(筆者註:日本では『審判』名が流通)から読み取れるのは、この訴訟手続きはいつも被告人にとって希望がない、ということである――彼らに無罪宣告への希望が残されている場合でさえ、希望がないのである。カフカの被造物として唯一彼らにおいてのみ美を発現させるのは、この希望のなさなのかもしれない。この解釈は少なくとも、マックス・ブロート(一八八四~一九八六年。プラハのドイツ語作家。カフカの遺稿編者)によって伝えられたある短い会話と非常によく合致するだろう。「私が思い出すのは」、と彼は書いている、「今日のヨーロッパと人類の堕落というテーマに端を発した、カフカとのある会話のことである。『われわれとは』、そう彼は言った、『神の頭のなかに湧いてくる虚無的な考え、自殺でもしようかという思いつきなんだ』。この言い方は私に最初、グノーシス派の世界像を思い起させた。つまり、悪しき造物主デミウルゴスとしての神、この神の堕罪としての世界、である。『いやまさか』、と彼は言った、『われわれの世界はたんに神の不機嫌、調子の悪い一日にすぎないんだよ』。『それじゃわれわれが知っている、世界というこの現象形態の外には、希望があるというわけなのか』。彼は微笑んだ。『ああ、希望は充分にある、無限に多くの希望がある。――ただわれわれにとって、ではないんだ』」[「詩人フランツ・カフカ」一九二一年]。》(ベンヤミンフランツ・カフカ』)

 

ベンヤミンの遺筆には、収集、所有していたクレーの絵への言及がある。

《「新しい天使(アンゲルス・ノーブス)」と題されたクレー(一八七八~一九四〇年。ドイツ(スイス系)の画家、版画家)の絵がある。それにはひとりの天使が描かれていて、この天使はじっと見詰めている何かから、いままさに遠ざかろうとしているかに見える。その眼は大きく見開かれ、口はあき、そして翼は拡げられている。歴史の天使はこのような姿をしているに違いない。彼は顔を過去の方に向けている。私たち(・・・)の眼には出来事の連鎖が立ち現れてくるところに、彼(・)はただひとつの破局(カタストローフ)だけを見るのだ。その破局はひっきりなしに瓦礫のうえに瓦礫を積み重ねて、それを彼の足元に投げつけている。きっと彼は、なろうことならそこにとどまり、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せ集め繋ぎ合わせたいのだろう。ところが楽園から嵐が吹きつけていて、それが彼の翼にはらまれ、あまりの激しさに天使はもはや翼を閉じることができない。この嵐が彼を、背を向けている未来の方へ引き留めがたく押し流してゆき、その間にも彼の眼前では、瓦礫の山が積み上がって天にも届かんばかりである。私たちが進歩と呼んでいるもの、それがこの嵐なのだ。》(ベンヤミン『歴史の概念について(『歴史哲学テーゼ』)』)

 多和田は「身体・声・仮面――ハイナー・ミュラーの演劇と能の間の呼応」という批評で、《<過去を歴史的に関連づけることは、それを《もとあったとおりに》認識することではない。危機の瞬間にひらめくような回想を捉えることである。歴史的唯物論の問題は、危機の瞬間に思いがけず歴史の主体の前にあらわれてくる過去のイメージを、捉えることだ>》(ベンヤミン『歴史の概念について(『歴史哲学テーゼ』)』)を最初に掲げてから、ベンヤミンの「新しい天使(アンゲルス・ノーブス)」の文章から適宜引用しつつ論考しているが、多和田葉子『献灯使』の冒頭に登場する「無名(むめい)」は「新しい天使(アンゲルス・ノーブス)」に似ていないか。

《無名(むめい)は青い絹の寝間着を着たまま、畳の上にべったり尻をつけてすわっていた。どこかひな鳥を思わせるのは、首が細長い割に頭が大きいせいかもしれない。絹糸のように細い髪の毛が汗で湿ってぴったり地肌に貼りついている。瞼をうっすら閉じ、空中を耳で探るように頭を動かして、外の砂利道を踏みしめる足音を鼓膜ですくいとろうとする。足音はどんどん大きくなっていって突然止まる。引き戸が貨物列車のようにガラガラ走りだし、無名が眼を開くと、朝日が溶けたタンポポみたいに黄色く流れ込んでくる。無名は両肩を力強く後に引いて胸板を突き出し、翼をひろげるように両手を外まわりに持ち上げた。》

 

カフカ

・《「掟の前」(筆者註:「掟の門(前)」)という寓話のことを考えてみるがいい。この寓話を『田舎医者』のなかで読んだ読者も、おそらくはその内部にある雲のように摑(つか)みどころのない箇所に出くわしたことだろう。しかし彼はそのとき、カフカが自分で解釈を企てる場合にこの寓話から生じてくる、終わりの見えないあの一連の吟味に匹敵することをやってみただろうか。作者の解釈は『訴訟』のなかで僧の口を通して行なわれる。しかもそれは小説のなかの際立った箇所でなされるので、小説全体がこの寓話を展開したものにほかならないのだと、推測することさえできるほどだ。「展開する」という言葉には、しかし二重の意味がある。つぼみが展開して花開くとすれば、大人が子供にやり方を教える折り紙の船は、展開して平たい一枚の紙になってしまう。そしてこの「展開」の第二のあり方が寓話には本来ふさわしいのであって、寓話を平らにして、その意味を手のひらに乗せてしまうという、読者の楽しみに適うものなのだ。けれどもカフカの寓話は第一の意味において、すなわちつぼみが花になるように展開する。》(ベンヤミンフランツ・カフカ』)

 

・《カフカの小説にオドラデクのように全く未知の何かが突然登場するのはむしろ例外で、よく知っているつもりの物や情況が急にぶれだして、分からなくなる場合の方が多い。》(多和田のカフカ集(『ポケットマスターピース01 カフカ』(集英社文庫ヘリテージシリーズ))の解説「カフカ重ね書き」)

カフカの書く会話には独特の緊張感がある。》(同前)

フロイトが記憶のメタファーとして注目したWunderblock(マジック・メモ)の場合は、表面のシートをボードから剥がすと書いた文字はシートからは消えるが、文字の圧力でできた微かな痕跡が下のボードに残り、光にかざしてよく見ると、無数の線が重なり合っているのが肉眼で見える。カフカの小説を読んでいると、このマジック・メモのボードを思い出す。いくつもの物語が重なって、編み目のようになっている。読者はその中から一つの層を読むのである。つまり、カフカはいろいろなモチーフをデザイン感覚で配置したわけではなく、いくつもの物語を一つの表面に重ね書きしたのである。》(同前)

《マジック・メモのボードを真剣に見つめるように熟読していると、奥から線が何本も浮かび上がってきて一つの映像を結ぶのだ。やっと分かった、と思って喜んでも、よく見るとどこかずれていて、ぴったりは重ならない。そのずれが、時の経過と共に揺れながら幅を広げ、もう一度読んでいると、別の像が浮かび上がる。しかも、それも思った像とはぴったりは重ならない。ずれが読者をひきつけては振り落とす。》(同前)

カフカの小説には必ずと言っていいほど、エロスの層がある。『流刑地にて』の場合は、多くの画家の手で美術史に残された聖セバスティアヌスの姿がちらつく。》(同前)

《わたしは『変身』にも禁じられた性の引き起こす罪と罰の層を見てしまう。グレゴール・ザムザが本当に愛しているのは妹だが、それは近親相姦という「汚れた」罪であるから罰せられなければならない。》(同前)

《けがれの感覚と罪の意識はカフカの小説のいたるところに彫り込まれ、そこにはいつも性の問題が絡んでいる、ただその絡み方が特殊なので、カフカはあまり色気のない作家であるように誤解されることが多い。『訴訟』も例外ではない。(中略)話はどこまでも逮捕の話から脱線して、性の領域にのめりこんでいく。逮捕された事件が主旋律で、女性関係が副旋律なのではない。Kは性欲を持つがゆえに有罪判決を受けそうになっているのだ。この判決は父的な神から降りてくるので、法律の力で無罪を証明するのは不可能である。カフカは、法律にふれていないのに逮捕されるKを小説に書くことで、性を有罪とする判決が全くのナンセンスであることをあきらかにしたとも言える。》(同前)

カフカの文学は、映像的であるという印象を与えながらも一つの映像に還元できないところに特色がある。『変身』のグレゴール・ザムザの姿も言語だけに可能なやり方で映像的なのであって、映像が先にあってそれを言語で説明しているわけではない。言語がその度に新しい映像を脳内に喚起するように描かれているのである。頭の中で自分なりの映像を思い浮かべるのは読書の楽しみの一つである。読む度に違った映像が現れては消え、それが人によってそれぞれ違うところが面白いのである。》(同前)

 

ベンヤミン

ベンヤミンの「パサージュ」的性格。

《わたしはパリでのある午後のことを考えている。その午後のおかげで、わたしは自分の人生に対する認識を得たのだが、認識は電光のように、霊感のような烈しさでわたしに襲いかかってきたのだった。人びとにたいするわたしの伝記的な関係が、わたしの友人・朋輩にたいする、恋人・愛人にたいする関係が、そのきわめて生々しく、隠微なからみ合いにいたるまで明らかになったのは、ほかならぬこの午後のことであった。わたしは自分につぶやく、それはパリのほかではありえなかったのだと。パリでこそ、壁や河岸が、停留所が、コレクションや瓦礫が、格子や四つ角の小さな広場が、路地[パサージュ]や新聞売場が比類のないことばを教えてくれる。だから、人間にたいするわたしの関係は、わたしたちがあの事物の世界に沈み込んで、まわりを孤独で包まれるために、一種の深い眠りの底にまで達するのだ。そこで待ちうけている夢の像が、それらの関係の真の相貌を啓示するのである。……さて、問題のその午後、わたしはサン・ジェルマン・デ・プレ近くのカフェ・デ・ドュー・マーゴの奥の部屋に腰かけて――誰だったかわすれたが――人を待っていた。そのとき突然、有無を言わせぬような力で、自分の生涯の図式を描こうという考えに捉えられたのである。》(ベンヤミン『ベルリン年代記』)

 自分の人生の図式は「迷宮」であって、入口はたくさんあり、ベンヤミンはそれをパサージュ(アーケード、通路、路地)と呼ぶ。

《これらの入口をわたしは知り合いの原型(ウベアカントシャフト)と呼ぼう。その入口のひとつひとつが……わたしの出会ったひとりの人間との知り合いの図形的象徴なのである。知り合いの原型の数だけ、迷宮へのさまざまの入口がある。……すなわちそれは、さまざまの年齢において繰り返しわたしを友人や裏切者や恋人や弟子や師へ導いてゆく通路なのである。それこそ、あのパリの午後にわたしの目前に現れたわたしの生涯の見取図が、教えていたものなのであった。こうして都会を背景にして、かつてわたしの周辺にいた人びとが、集まって図模様をつくるのである。……そこに事物の世界が同じように深い象徴となって凝縮したことがあった。》(同前)

 今村仁司によれば、《パサージュとは、さまざまの流れ・道・方向の凝集点であり、移行と分枝の場所である。》

 

・初期からの「モザイク」「迂回」「引用」「アレゴリー」への偏執。

《意図の連続するところにトラクタート(筆者註:スコラ哲学の入門的概念で、引用文に満ちた教育的な語り)の第一の特徴がある。思考は根気よくたえず新たに考えを起こし、まわりまわってふたたび事象そのものへもどっていく。このようにたえず息をつくことこそ、観想のもっとも本来的なあり方である。というのは、観想にとっては、同じひとつの対象を省察しながら異なった感覚段階を次々と踏んでいくことが、そのたえず新たなる開始の原動力となっていると同時に、その間欠的なリズムの正当性の根拠にもなっているからである。モザイクは、どのような勝手きままなやり方で細分しようとも、その尊厳が失われてしまうということもない。哲学的省察もまた、飛躍的高揚の喪失を恐れたりしないのである。モザイクも省察し、個々のもの、一つ一つ違ったものが寄り集まってできている。……思考細片は基本的構想でもって直接はかることが不可能であればあるほど、その価値はいよいよ決定的なものになり、そしてモザイクの光彩がガラスの溶塊の質に依存しているのとちょうど同じように、表現の生彩は、思考細片のこの価値にかかっている。事柄の細部にまで正確に沈潜してはじめて、真理の内容が完全にとらえられる。》(ベンヤミン『ドイツ悲劇の根源』)

 

・《シンボルにおいては、没落の聖化とともに、変容した自然の顔貌が、救済の光のもとで、一瞬みずからを啓示するのに対して、アレゴリーにおいては、歴史の死相が、凝固した原風景として見る者の眼の前にひろがっている。歴史に最初からつきまとっている、すべての時宜を得ないもの、痛苦に満ちたもの、失敗したものは、一つの顔貌、というより一つの髑髏の形を取って、はっきり現れてくる。このような髑髏には、たとえ表現の「シンボル」的な自由が一切欠けていようとも、また、形姿の古典的調和や人間的な要素がことごとく欠けていようとも、人間存在そのものの本来の姿ばかりでなく、個々の人間の伝記的な歴史性が、この自然に委ねられた最も荒涼たる形の内に、意味深長な謎として現れている。これがアレゴリー観照の核心であり、歴史を世界の受難史として見るバロックの世界解釈の核心である。世界は、その凋落の宿駅においてのみ意味を持つ。》(同前)

 

・《むしろ「閾」の上に、境界線の上にあって、どちら側にも完全に帰属することのできないものの、まさに岐路=危機(クリーゼ)的な存在のありようが、彼の心を捉えて放さないのである。》(川村二郎『アレゴリーの織物』)

《どこからどこまでを真実、どこからどこまでを虚偽と分ち得るような文章ではなく、真と偽は織り合せられて一枚のゴブラン織と化している。》(同前)

 

・《過去が伝統として伝えられるかぎり、それは権威を持つ。権威が歴史的に現われるかぎり、それは伝統となる。ヴァルター・ベンヤミンは、その生涯に生じた伝統の破産と権威の喪失との回復不能性を知り、過去を論ずる新しい手法を発見せねばならぬという結論に達した。過去の伝達不能性は引用可能性によって置き換えられること、そして過去の権威の代りに、徐々に現在に定着し、現在から「心の平和」、すなわち現状に満足する精神なき平和を奪い去る不思議な力が生じていることを発見したとき、かれは過去を論ずる新しい手法についての巨匠となったのである。》(ハンナ・アレント『暗い時代の人々』の「ヴァルター・ベンヤミン 一八九二~一九四〇」)

ゲーテ論以降、引用文はあらゆるベンヤミンの著作の中心をなしている。まさにこのことがかれの著述をあらゆる種類の学術的著述から区別している。学術的著述においては、引用文の機能は意見を表明し、証拠の文献を提示することであって、それゆえ引用文は注へと安全に追放される。こうしたことはベンヤミンにとっては問題外であった。かれがドイツ悲劇に関する研究をすすめていたとき、かれは「きわめて体系的かつ明瞭に配列された六〇〇以上の引用文」の収集を自慢にしている(『書簡集』第一巻、三三九ページ)。のちのノートと同様に、この収集も研究を書き表わしやすくする意図を持った抜き書きの寄せ集めではなく、作品の主要部分をなすものであり、そこでは書くことそのものは二次的な意味しか持っていない。主要な仕事となったのは、それらの文脈から断片を引き裂き、それらが相互に例証しあうように、またいわば自由に浮遊している状態においてそれらの存在理由を証明できるように新たな仕方で配列することであった。明らかにそれは一種のシュルレアリスムモンタージュである。完全に引用文だけから成る著作、すなわちきわめて巧妙に組み立てられているためいかなる本文をもつける必要のないような著作を作り出したいというベンヤミンの考えは、その極端さとさらに加えてその自己破壊性とにおいて、それに似た衝動から生じた同時代のシュルレアリスム的実験のどれよりも気まぐれなものとみえるかもしれないが、しかしそうではなかった。》(同前)

 

《彼の文章は普通のかたちで生みだされるものとは思えない。互いにつながりをもらないのだ。それぞれの文が最初の一文か、最後の一文といった調子で書かれている。(『ドイツ悲劇の根源』のプロローグには、「著述家は文章ごとに立ち止まり、文章ごとに再出発しなくてはならない」という言葉がある)。心理の動き、歴史の動きもタブロー画として描かれる。思想は極限的なかたちで言い表わされ、視点がくるくる変わる。彼の思考と著述のスタイルは、アフォリズムなどという不正確な言いかたをしないで、ストップ・モーション風バロックと呼ぶほうがいいかもしれない。》(スーザン・ソンタグ土星の徴しの下に』)

 

ツェラン

ツェランの言葉。

《もろもろの喪失のなかで、ただ「言葉」だけが、手に届くもの、身近なもの、失われていないものとして残りました。

 それ、言葉だけが、失われていないものとして残りました。そうです、すべての出来事にもかかわらず。しかしその言葉にしても、みずからのあてどなさの中を、おそるべき沈黙の中を、死をもたらす弁舌の千もの闇の中を来なければなりませんでした。言葉はこれらをくぐり抜けてきて、しかも、起こったことに対しては一言も発することができないのでした、――しかし言葉はこれらの出来事の中を抜けて来たのです。抜けて来て、ふたたび明るい所に出ることができました――すべての出来事に「豊かにされて」。

 それらの年月、そしてそれからあとも、わたしはこの言葉によって詩を書くことを試みました――語るために、自分を方向づけるために、自分の居場所を知り、自分がどこへ向かうのかを知るために。自分に現実を設けるために。

 これは、わかっていただけると思います、出来事、試み、どこかへ行く道の途上にあること、でした。これは、方向を得ようとする試みでした。そして、その意味を問われるなら、その問いの中には時計の針の動く方向についての問いも含まれると答えざるを得ない気がします。

 というのも、詩は無時間のものではないからです。詩はたしかに永遠性を必要とします、しかし、詩はその永遠性に時間を通り抜けて達しようとします。時間を通り抜けて(・・・・・)であって、時をとびこえて(・・・・・)ではありません。

 詩は言葉の一形態であり、その本質上対話的なものである以上、いつの日にかはどこかの岸辺に——おそらくは心の岸辺に——流れ着くという(かならずしもいつも期待に満ちてはいない)信念の下に投げこまれる投壜通信のようなものかもしれません。詩は、このような意味でも、途上にあるものです——何かをめざすものです。

 何をめざすのでしょう?なにか開かれているもの、獲得可能なもの、おそらくは語りかけることのできる「あなた」、語りかけることのできる現実をめざしているのです。そのような現実こそが詩の関心事、とわたしは思います。

 そしてまた、このような考え方は、わたし自身ばかりでなくもっと若い世代の詩人たちの努力にも付き添っている考え方ではないかと思います。この努力とは、人間のこしらえものでしかない天の星々を頭上に頂いて、したがってこれまでに予想だにされなかった意味での無天幕(テント)状態の下を、つまり身の毛のよだつばかりの大空の下を、現実に傷つきつつ現実を求めながら、みずからの存在とともに言葉へ赴く者の努力のことです。》(ツェラン「ハンザ自由都市ブレーメン文学賞受賞の際の挨拶」(一九五八年))

 

・《わたしの最も尊敬するドイツ語詩人パウル・ツェランは、晩年ずっとパリに住んでいたが、ドイツ語でしか詩を書かなかった。(中略)ツェランは、当時ルーマニア領のチェルノヴィッツでドイツ語を話すユダヤ人の両親から生まれた。「詩人はたった一つの言語でしか詩は書けない」と言って、自ら命を絶つまでずっと、自分の母親や友人たちを殺害した人間たちの使っていた言語であるドイツ語でしか詩を書かなかった。語学の才能は優れていて、フランス語がよくできただけでなく、マンデリシタームの詩などもロシア語から訳している。いろいろな言語の聞こえてくる東欧的環境で、マイノリティの言語ドイツ語を主言語として成長していった環境は、プラハカフカとも通じるところがある。ツェランの「詩人はたった一つの言語でしか詩は書けない」という言葉は時々引用されるが、「一つの言語で」という時の「一つの言語で」というのは、閉鎖的な意味でのドイツ語をさしているわけではないように思う。彼の「ドイツ語」の中には、フランス語もロシア語も含まれている。外来語として含まれているだけではなく、詩的発想のグラフィックな基盤として、いろいろな言語が網目のように縒り合わされているのである。だから、この「一つの言語」というのはベンヤミンが翻訳論で述べた、翻訳という作業を通じて多くの言語が互いに手を取り合って向かって行く「一つの」言語に近いものとしてイメージするのが相応しいかもしれない。よく知られている例を一つ挙げると、ツェランの「葡萄酒と喪失、二つの傾斜で」で始まる詩では。「傾斜(Neige)」という言葉が出てきたかと思うと、突然「雪」が出てくる。意味的には、「傾斜」と「雪」は繋がらない。しかし、ドイツ語の「Neige(傾斜)」と全く同じスペルが、フランス語では雪という意味の単語になるので、両者は密接な関係にある。語源的には関係ないし、発音は全く違うが、見た目が同じなのである。わたしたちの無意識がどれほどこのような「他人のそら似」的な単語間の関係に支配されているかということは、フロイトの『夢判断』などを読めばよく分かる。(中略)

 ツェランを読めば読むほど、一つの言語というのは一つの言語ではない、ということをますます強く感じる。だから、わたしは複数の言語で書く作家だけに特に興味があるわけではない。母語の外に出なくても、母語そのものの中に複数言語を作り出すことで、「外」とか「中」とか言えなくなることもある。》(多和田葉子『エクソフォニー 母語の外に出る旅』の「パリ 一つの言語は一つの言語ではない」)

 言語論において、カフカベンヤミンツェランが出会っている。

 

・《『閾から閾へ』という詩集のタイトルにモンガマエがすでに二回も顔を出す。「閾」という字の場合には、「門」との意味的な繋がりは一目瞭然、門も閾も、ある境界を表わしている。しかし、その境界を越えようとしているのでないことは、この題名を見てもすぐに分かる。閾を越えるのではなく、ある閾から別の閾へと彷徨うのだ。

  詩集を開けると、最初の詩にすぐミンガマエの付く漢字「聞」が出てくる。「ぼくは聞いた」という詩で、こんな風に始まる。

  ぼくは聞いた、水の中には/石と波紋があると、/そして水の上方には言葉があって、/それが石のまわりに波紋を描かせていると。

「聞」という字では、門の下には耳がひとつ立っている。聞くというのは、全身を耳にして境界に立つということらしい。同じ詩の次の連では、境界のところに立ち止まらずに先へ進むポプラが出てくる。

  ぼくはぼくのポプラが水の中に降りて行くのを見た、/ポプラの手が水の奥をつか もうとするのを見た、/ポプラの根が空にむかって夜をねだっているのを見た。

 閾の向こう側に水の世界がある。「ぼく」はポプラが異質の世界に入っていくのを見ているが、ポプラの後をあわてて追って行きはせずに、観察者の位置に留まっている。

  ぼくはぼくのポプラのあとを追わなかった、/ぼくはただ地面から、きみの目のかたちと/気品をそなえたあのパンのかけらを拾っただけだ。/ぼくはきみの首から唱え言の鎖を外して、/パンのかけらがいまよこたわるテーブルの縁を飾った。

「ぼく」は水の中に入ってはいかず、閾のところに踏みとどまって、魔法の遊戯を始める。パンのかけらと鎖を使って、石と輪を描き、水の中の世界をテーブルの上に再現する。此の呪術的遊戯は、翻訳という作業と似ていないこともない。翻訳者は水の中に消えていく身体である。(中略)

「薔薇七つ分だけ遅れて」と名付けられた一連の詩は聴覚について語っていると言っていいほどで、耳をすまして聞くということが境界というものから切り離しては考えられない行為であることを何度も思い出させられる。日本語の中だけで、毎日漢字を使って暮らしていた頃、わたしは自覚はしていなかったけれども、それを当然のこととして了解していたような気がする。「門前の小僧、習わぬ経を読む」という諺があるが、門の中に入らずに門の前に立ってお経を聞いている小僧の姿が、なんだか「聞く」行為そのものを体現しているように思える。しかし、ドイツ語の中で暮らしていると、hören(聞く)は、むしろZugehören(所属する)に繋がり、耳をすませると、境界のところに留まっていることができなくなる。

 第三の詩「閃光」には、「閃」というやはりモンガマエの漢字が登場する。門の下に人がひとり立っている。それまで、わたしは、なぜ門の下に人が立つと、閃くものがあるのか、考えてみたこともなかった。もしかしたら、門の下、つまり境界に立っている人の目には、見えない世界から閃き現われてくるものが見えやすいのかもしれない。

「閃光」に当たるドイツ語の単語leuchtenは、この漢字と深い関わりがあるように思える。この単語を発音してみると、一瞬だが真ん中にich(わたし)という単語が聞こえる。Ichという単語の出てこないこの詩の中で、「わたし」は、閃光の中にほんの一瞬、壊れかけた形で現われるだけである。(中略)

 五番目の詩「斧をもてあそびながら」の最初の一行にはStundenという単語が出てくるが、これを訳してみると、「時間」となり、またモンガマエが現われる。「間」という字のモンガマエの中には、昔は太陽ではなく月があったそうだ。門からのぞいて見たら、月の光が見えたというのが、「間」の感覚なのかもしれない。

 ツェランの詩は、ひとつの閉じられた空間に閃光が保存してあるような詩ではなく、門のような詩なのだという気がしてきた。しばらくして、ショーレムの「宗教的権威と密教」の中で、やはり「門」のイメージに出くわした。彼に言わせれば、聖典密教的解釈は厳密になればなるほど、それまでに姿を変えたテキストが言葉の意味そのものにおいて価値を認められ続けるチャンスは大きくなるわけだが、その際、言葉の意味は門を形成し、神秘家はその門をくぐり抜けて進むが、門は常に開いたままにしておくのである。

  ツェランの詩は入れ物ではなく門である。わたしたちは読む度に門をひとつ通り抜けていく。門はいつも開いているのか。そう思って見ると、「開」という漢字も出てくる。(中略)

  ひとつの言葉を記述することは、ひとつの門を開くことかもしれない。漢字のような文字を読むということは、言葉(Wort)を読むことに繋がり、文章(Satz)を読むことではない。(中略)

 ツェランの言葉が門のようだと思った時に、ベンヤミンが「言葉に忠実な翻訳」をアーケード(筆者註:パサージュ)と比較していたことを思い出した。本当の翻訳というものは、光を通すもので、原文を隠したり、原文に当たる光を遮ったりするのではなく、言葉自身の媒介によってより強くなり、原書に純粋言語を投げかけると言うのである。これは、言葉に忠実に訳すことによって可能になるのであり、文ではなく単語が翻訳の原点となる要素であるということになる。なぜなら、文は原書の言語の前に立ち塞がる壁であり、ひとつひとつの単語への忠実さはアーケードを形作るのであるから。ツェランの詩はアーチの連なる通路のようなものかもしれない。

「薔薇七つ分だけ遅れて」の最後の門を潜り抜けようと思う。モンガマエの付く七つ目の漢字は「闇」で、これは「暗闇から暗闇へ」と「客」という二つの詩に出てくる。この字は考えて見ると不思議な字で、門の下に音があるとどうして闇になるのかわからない。ツェランの詩を読んでいるうちにやっと、この漢字が理解できたような気がした。

  きみは目を見開いた――ぼくは自分の暗闇がよみがえるのを見る。/ぼくは暗闇の奥を見る――/そこもぼくのもの、そこもよみがえる。(一行空)

  このような暗闇は彼岸へ渡るだろうか? 覚めたままで?/誰の光がぼくの後を、渡し守の見つかるところまで、ついて来てくれるだろうか?

 この詩を読んでから、「闇」という字について次のように考えるようになった。言葉では表わせない闇は、門の向こう側にあるように思えるが、門の下に音が立っているのが邪魔になって、門の向こうに何があるのか見ることはできない。しかし、その音という媒介が消えてしまえば、向こう側と繋がっているものがなくなってしまう。音は門を塞ぐと同時に、こちらとあちらを繋ぐ媒介でもある。耳を澄ませば音が聞こえて見えない向こう側に繋がる。(中略)

 モンガマエという主部が、この場合、翻訳が文学としての身体を有していることを目に見えるようにしてくれている。翻訳は原文を真似して作った模造人間ではない。翻訳の中で原文が新しい身体を授かるということかもしれない。原文の中に隠されたある意味が翻訳可能性によって目に見えるようになる、という「翻訳者の使命」の中にあるベンヤミンのことばも思い出される。(訳は、パウル・ツェラン『閾から閾へ』飯吉光夫訳、思潮社、一九九〇年より)》(多和田葉子『カタコトのうわごと』の「「翻訳者の門――ツェランが日本語を読む時」」)

                                                              

・多和田には、ほぼ同じ内容の文章があるが、「暗闇から暗闇へ」を受けての結びが違う。

《闇は、門や閾のところに立った音と関係あるのであって、光の欠乏ではない。わたしたちはいつか(過去のある時点とは限らないある門を抜けて、<ここ>に来てしまって、それ以前に自分がいたところを思い出そうとして振り返っても、それが見えない。門の下に音が経っているので、それが邪魔になって、その向う側が見えない。だからと言って音を邪魔者とばかり見做すのは間違っている。その音が媒介となって、わたしたちは向う側とつながっている。だから、門のところへ行って、その音に触れれば何か向う側のことが表現できるような気がする。もちろん、その音は音楽など具体的な音とは限らない。映像と出会う前の、もしかしたら胎内に出現してから外界で目を開くまでの世界と通じる何かかもしれない。その音に触るためには、闇が必要になってくる。でもそれは、理性を無くす必要があるという意味ではない。光が闇の反対ではない限り、理性が<向う側>の敵であるという風には思えない。

 この闇と関わっている時、わたしは詩と関わっている気がする。(この関わるという字にももちろんモンガマエが付いている)相手がいわゆる小説でも、わたしにとっては、詩であることがある。わたし自身は、いわゆる詩を書きたいと思ったことはなかった。読む方も、昔は詩を読むより、長編小説を読むのが好きだった。ところが、ドイツに来た時、言葉がばらばらになってしまって、断片を書き記していくしか表現の方法がなくなった。この急変した自分の言葉の状況を、わたしは詩と呼んだ。日本語という暗闇から、ドイツ語という暗闇に飛行する途中、わたしは翻訳者になることができず、じぶんの身体をばらばらにしてしまった。身体と切り離せない言葉も当然ばらばらになってしまった。それがわたしの今の仕事の出発点だったため、そのうち、いわゆる小説ばかり書くようになってからも、自分では詩を書いているつもりのことが多い。》(「モンガマエツェランとわたし」(『現代詩手帖 特集現代詩と現代詩以後(1994年5月号)』))

 

・「門」といえば、カフカ『訴訟(審判)』および短篇集『田舎医者』の中の「掟の門(前)」を思わずにはいられない。ここでもカフカベンヤミンツェランの三人が門の閾で出会う。

《「(前略)もう彼は余命いくばくもなかった。死を前にしたとき、彼の頭の中では、今まで長いあいだの経験が全部集って、これまでまだ門番にたずねたことのない一つの問いとなった。硬直してゆく体をもう起こすことができなかったので、彼は門番に合図をしてみせた。門番は男のほうにふかく身をかがめなければならなかった。というのも背丈のちがいがこの男にとってたいへん不便な状態に変ってしまっていたからである。『おまえは今さら何を知りたいのだ?』と番人がたずねた、『よくもまああきないものだな』『みんな掟を求めているというのに』と男は言い、『この長年のあいだわたしのほかにはだれひとりとして、入れてくれといってこなかったのは、いったいどうしたわけなのでしょうか?』 すでに臨終が迫っているのを見てとった門番は、消えてゆく聴覚にもとどくように、大声でどなった、『ここはおまえ以外の人間の入れるところではなかったのだ。なぜなら、この門はただおまえだけのものときめられていたのだ。さあわしも行って、門をしめるとしよう』」》カフカ『審判』)

 

多和田葉子

多和田葉子『百年の散歩』(初出二〇一四年六月号~二〇一六年十月号(「新潮」))を読むために。

 

・《編集部 先生の文学創作活動において、カフカはどのような意義をもつのでしょうか。

多和田 カフカの文学では言語そのものの魔術性と超現実主義的な要素がお互いに作用しあっていて、ドイツ語文学の中では例外的な存在だと思います。カフカは中学生の時から好きでしたが、後にヴァルター・ベンヤミンのおかげで、再発見することができました。わたしは世界各国を旅してきましたが、カフカはいろいろな文化圏で若い人に読まれています。日本やアメリカだけでなく、中国やイスラム圏でも熱心なカフカの読者と出会うことができました。

(中略)

編集部 先生の創作活動は詩、エッセイ、散文、戯曲、放送劇と幅広く、ピアニストの高瀬アキさんと一緒にベルリン日独センターでデュオ・パフォーマンスの公演をされたこともあります。一番好きな創作ジャンルを特定することは可能でしょうか。そして、文学者として最も大きな影響を受けたのは、どのジャンルでしょうか。

 多和田 戯曲を読むのは昔から好きで、シェイクスピアチェーホフギリシャ悲劇から始まって、クライスト、ビューヒナー、ハイナー・ミュラー など読みました。でも詩や散文などを読んだり書いたりするのも戯曲と同じくらい好きです。 どのテキストも自分に合った形式を見つける 必要があります。だからいろいろなジャンルで創作するのです。》(ベルリン日独センターでの多和田葉子書下ろし舞台劇『カフカ開国』公演に向けてのインタビュー)

 

・《多和田 私はどちらかというと、実際の土地そのものを現実に映し出すことができるとは思っていないほうで、その土地の名前とか、そこで生まれた物語とか、そういうものが言葉のレベルでつなぎあわされて、編みあわされて、それでできた都市というのが、どうしても頭の中にまた別に出来てしまう。》(多和田葉子インタヴュー「両国のモザイク細工――皺からの文学」(ききて堀江敏幸))

 

・《この映画は、引用というかけらから成り立っている。ここで言う引用とは、自分の正しさを証明するためにすでに権威を認められている人の言葉を借用する引用のことではない。この映画に姿を現わす引用は、同じひとつのものの中にある<違い>を示す役割を果たしている。同じひとつのドイツの中に東と西があり続けるように、ヘーゲルのひとつの文章の内部にもいくつもの文章が存在する。翻訳という作業がその事実を目に見えるように、あるいは耳に聞こえるようにしてくれる。同じバッハの音楽の中にも、異質な音楽がいくつも含まれている。だから、BACHという名前の綴りが、B、A、C、H、という四つの音としてばらばらになった時、それらを統合する絶対の法則があると思い込み続けることができなくなる。バッハもお互いに調和し合わない要素が集まって構成されているのであって、その一部は全体から解き放されて引用されることで、輝きを増す。

 引用が引用であり続けるためには、作者が一度口の中でよく噛んでから、自分の言葉にして吐き出してしまったのではいけない。それぞれの文章、音楽、場面が別々の世界からやってきたものであることが強調されなければいけない。だからこの映画では、いろいろな書物の表紙がしつこいほど映し出される。ブランデルブルク門の下で売られる本、図書室に並ぶ本、二か国語で朗読されるヘーゲル、地面に落ちた本、そしてホテルの部屋に備え付けの聖書。》(多和田葉子『カタコトのうわごと』の「「新ドイツ零年」と引用の切り口」(「新ドイツ零年」はゴダール監督映画(1991年))。

 

・《いろいろなイメージが混ざり合って別のイメージに発展していくのは当然だけれども、全体の統一ということを重視しすぎて、その結果、作品があまりにも「滑らかで」「自然な感じ」になってしまったのではもったいない、といつも思う。もともと別々だったイメージや物の見方がぶつかりあって作品が出来上がっていったのだから、その衝突の際についた傷跡があるはずで、そういう傷跡、縫い目、破れ目、ちぐはぐ、不調和などが残っていなければ、文学として面白くない。それが全く残っていないのを「完成度が高い」と言って満足するのはアサハカ。すらすらと読めてしまえる作品、矛盾を感じさせない作品、それがいろいろな過程を経て「書かれた」ものであることを感じさせない作品を読んでいるとタイクツ。》(多和田葉子『カタコトのうわごと』の「筆の跡」(ドイツで活躍する韓国出身の画家、宋賢淑の絵を鑑賞して))

 

・《ここでは何か裏話を話すそうなのですけれど、私は裏表の無い人間なので、全部表の話になります。私は3年前にハンブルクからベルリンに引越しまして、ベルリンと言えばプロイセン、今はもうプロイセンではありませんけれども、昔プロイセンだったわけで、そのプロイセン文化といえばやはり秩序を重んじ責任感を大切にして、笑ったりおいしいものを食べている文化ではなくて、非常に厳しい軍国主義的な文化でもあったわけです。でも、そういうイメージも消えて、今のベルリンは若いアーチストたち、ダンサーとか、それから小説家もたくさん集まって住んでいます。この前ノーベル文学賞をもらったヘルタ・ミュラーもそうですが、いろいろな国から作家が集まって住んでいる非常に楽しい町になりました。ドイツはイギリスやフランスと比べても遅れて慌てて近代化したわけで、そういうことでお手本にしやすいということで、日本の近代化のお手本になったところだと思います。私が日本を離れて非常に感じることは、江戸時代から明治維新に向かってのギャップというか、そこを飛び越えるとき、人々はどうやって飛び越えたんだろうか、それが非常に気になってくるわけです。その間の谷間というか狭間、江戸文化と明治の文化は非常に深いものなのではないか。そういう時に小説の言葉を新しく創り出していくということが、どれだけ難しいことだったのかということを、何度も思いました。

 そういうことを考えているときに今度坪内逍遙大賞をいただけるということで、100年前に早稲田の大学出版部から出たシェイクスピアの『ハムレット』の逍遙訳をちょっと読んでいたんですけども、その訳を読んで、少し驚きました。その出だしの部分がこんな感じです。「何者じゃ、あいや、そのものこそ。待て、名宣らしめ。今上万歳。バーナードどのか。なかなか。」これを読んでいると、演劇の言葉というのは、翻訳ですけれども、小説の言葉がバッタリと途切れてしまって新しい言葉を生み出さなければならなかったのと比べて、もしかしたらもうちょっと持続性があるんじゃないか、近代が来てからも江戸時代の演劇の言葉をある程度活かして、またそれが何かその流れが続いているんじゃないか、という演劇の言葉と小説の言葉のあいだの違いを感じたわけです。ということは、小説の言葉もまた演劇の言葉から学ぶところが多いということと、外国の演劇を訳す試みを通して、今の日本の小説の言葉を生み出すことが出来るかも知れないというのが、今の私の考えていることです。そういうことを考えながら、去年チェーホフの『桜の園』の翻訳ではなく翻案を作ったのですけれども、それがまた来年シアターカイで11月に上演されることになりました。私と演劇とのつながりは割に深いというか長いもので、私の両親も実はこの早稲田大学の文学部を出ているので、二代目早稲田なのですが、私が三歳のときに、これは私の父と母の話ですから本当かどうかわかりませんけれども、サルトルの『凶器と天才』の芝居を観に行こうということになって、私を連れて行ってくれました。連れて行ったといっても、子供を預かってくれる場所が劇場にあって、そこに預けるつもりで連れて行ったけれども、私はそこに行くのはいやだと言って、芝居をじーっと、何を考えているか分からないけれども、観ていたということです。翌日、ひどい熱を出して幼稚園を休んでしまったのですが、それが私のはじめての演劇体験でした。(後略)》(「第二回早稲田大学坪内逍遙大賞祝賀会(2009年11月13日)」【受賞者挨拶】【大賞】多和田葉子

                     

・《  最近の文学の「フラットな空間」

キャンベル 最近の文学作品には、教室であったり、グラウンドであったり、トラックが何台も走っている郊外の幹線道路の橋の下であったりというような〝白い〟空間がよくあります。ディテールに入り、そこから敷衍していくようなことが少ない気がするんですね。白い透明な中に人々は自分の状況に不安を募らせ、関わり、離散する。

 でも、多和田さんの小説に現れるのはディテールです。看板、外国語、隣の席のちょっと声のいがらっぽい中年女性の声というようなもの。

多和田 コラージュみたいな方法なんです。断片の集まりを滑らかにミックスするのではなく、個々の材質をそのまま残す感じです。

キャンベル 乗り物にたとえればニューヨークの地下鉄みたいな感覚ですね。

多和田 今ある関係性をはずして、個々のディテールを切り取ってきて一つの面に並べて貼ったとき、異質なものたちが同じ平面で隣り合わせになります。都市ってそういう場所じゃないですか。そういう都市のかたちはすでに百年くらい前には基礎ができていたと思うんですが、大戦とか冷戦とかがあってベルリンの場合、長い間、見えにくくなっていた。それが今新たにコラージュとして現れていると思うのですが、シュールリアリズム時代のコラージュとは違って、ネットによる平板化時代のただ中で接触面のない無数のミクロの集まりみたいな感じもあります。

キャンベル 『百年の散歩』の表紙がそうですね。

多和田 フランス語で話している人たち、トルコ語の看板、ロシア語の新聞などが目や耳に飛び込んでくる。同質ではないものが共存しているのに、グローバル化とかインターネットの普及のせいで、そのままでは必ずしもデコボコな感じがしない。立体性があるはずなのに、のっぺりしているように見えてしまう今の時代。先ほどの白い空間というのは、いろんな人がいるのに、ボコボコしていない空間ではないですか。

キャンベル 平坦に調整されている。

多和田 私の作品はその逆です。もちろん調整しないわけではないんですが、異質感が出る方向に調整していくんです。

キャンベル 多和田さんのいくつもの小説の基本的な姿勢にもつながるお話ですね。『百年の散歩』の主人公は歩くことを通していろんなことが視界に入り、そこにちょっとした気づきやこだわりを得る。「遊歩者」という言葉を僕は用いますが、なぜ散歩を描くことにしたのでしょうか。

多和田 散歩していると、たとえその街に住んでいても、なんだか自分が旅人みたいな気がしてくることがありますよね。「大都市の散歩者」は「家族の一員」であることを一時やめている、と考えてもいいかもしれません。一般に、小説には家族を描いたものが多いですね。家族の一員として親との葛藤、子どものこと、パートナーとの関係などを描く。でも都市で暮らす人の半数以上は一人暮らしです。しかもベルリンという街は、人々が家族代々暮らしてきた街ではなく、移民たちが流れ込んできてはまた流れて出ていく街です。だからベルリンに祖先のお墓がある人も少ないです。日本でも大都市はそうだと思います。ところが福島に三度ほど行ってみて分かったのは、原発事故がなければ、祖先のお墓のすぐ側に暮らし続けていた人たちがたくさんいる、ということです。江戸時代からお墓とか家とか田んぼとかを守ってきて、それが当たり前だったのに、急に知らない土地に引っ越さなければならなくなったことがどれだけショックだったかが私にもだんだん分かってきました。お墓ごと引っ越す人がいるという話や、お墓が流されたことで鬱病になってしまった、という話も聞きました。

キャンベル 位牌もですね。

多和田 そうです。つまり死者の存在が自分の存在の基盤になっているわけですね。私はもちろん祖先のお墓のようなものがベルリンにあるわけではありません。でもベルリンの街を散歩していると、街の死者たちがよみがえってくる気がすることがあります。ベルリンは特に第二次世界大戦や冷戦の痕跡が多く残っていて、その頃生きていた人たちの亡霊がその辺をさまよっている。私などは遠い国から来た人間ですが、死者たちとの関係においてベルリン人だという気がしてきたんです。ドイツは街というものを記憶や歴史の書き込まれた書物のように考えているので日常的に歴史をふりかえるようにできるんですね。有名なのは「躓きの石」といわれる金色の四角い小さなプレートで、戦時中にユダヤ人が住んでいた家の前の歩道に一人につき一枚、はめ込んであるんです。プレートにはその人の名前、生まれた年、強制収容所の場所と連行された年、死んだ年などが刻まれています。近所を散歩しているとその数の多さに驚きます。もし日本でこれに相当するプロジェクトを始めたら、日本で暮らしている人たちの歴史観に大きな変化が起きるんじゃないかな。

   都市の散歩者のゆううつ

キャンベル 一九二〇年代のモダニズムの時代、ヴァルター・ベンヤミンの友人でもあったフランツ・ヘッセルという人がいました。裕福なユダヤ人として生まれたヘッセルは、常に歩いている。その記録として戦前の一九二九年に『Spazieren in Berlin(ベルリンの散歩)』を記しました。都会に溶け込めない無名者として都会を歩き、微細な変化を舐めるように観察していきます。

 少し紹介します。〈ひとごみで賑わう街をゆっくり歩くことはとくに愉しい〉と書き出した上で、〈しかし、私の敬愛するベルリン市民は、(略)散歩者にとても厳しい〉といいます。それはなぜかというと、〈どんなに器用に人々を避けようとしても、散歩者は謹厳実直な彼らから冷たいまなざしを向けられる〉からです。〈まるで私がスリであるかのような〉、つまり犯人であるかのような目で見られている。この街では〝しなければならない〟ことと〝してはいけない〟ことの二択しかない。で、散歩というのはそのどちらでもないのに、〈どこかに向かって歩く。でなければ歩いてはいけない〉狭間に散歩者は置かれているわけです。いかがでしょうか。時代を超えて『百年の散歩』の語り手にも通じるようなところがあるように思います。

 ヘッセルと同時代の日本は昭和初期、関東大震災を経て昭和五年ぐらいまでに首都は復興を遂げたと言われています。その東京を舞台にたくさんの小説が書かれますが、多和田さんのベルリンとはかなり違う。経験し、描いている主体のあり方から違うのです。

 一つの例として、丹羽文雄の昭和九年の短篇小説「海面」を紹介します。主人公は銀座にある店のママのヒモのような状態で暮らす若い物書きで、精神のバランスを崩します。明治末期から「銀ブラ」は文学のテーマとしてあるのですが、主人公・周一は銀座通りを南北に何度も、何時間もかけて歩くわけです。ひたすら歩いている場面の描写が続き、自分に言い聞かせるように周一は言います。「歩くんだ、歩くんだ。何でもいい、歩き殺してしまうんだ」。三人称ですけれども、限りなく一人称に近い、主人公に寄り添った描写が続きます。自分の肉体と精神がだんだん遊離していくのを人々に揉まれながら感じている。

(中略)

キャンベル 「海面」は、復興に賑わう銀座という、新奇な建築や色鮮やかな飾り窓が並ぶ通りを歩いているはずなのに、ひとつとして描写されません。

 対して『百年の散歩』には、今日何度も触れますが、ディテールに神なのか悪魔なのかいろんなものが潜んでいて、それこそ丁寧に一つずつ封筒を開いていくと、たくさんの感動や疑問を投げかけてきます。この連作短篇小説は、章ごとに通りの名前がついています。つまり地域によって章立てがなされているわけですけど、カール・マルクス通り付近を歩きながら、ある店の前に足を止めるんですね。その箇所を読んで頂けますか。

多和田(朗読) 《トルコ料理屋の看板が何軒か視界に入る。これだけ数があると競争も激しいだろう。ドイツ語ではあまり使われない「Y」、ドイツ語でもよく使われはするけれど一つの単語の中で繰り返されることはない「Ü」が次々現れて、視界を覆う。ニンニクと串焼き羊肉の焼ける匂いに混ざって神経を刺激する。羊、筆字、イスラムのラム。お腹はすいたけれど、展覧会を観たあとであの人といっしょに食事するのが楽しみなので我慢する。食べるつもりはなくてもメニューというのは読んでいて面白いものだ。》

キャンベル 一種の心内語といいましょうか、ここで主人公が後に振り返っているのか、そのとき感じているのか。圧倒的なディテール描写です。その直後にイギリス人観光客風のミス・マープルみたいな女性が、「このランチ、よさそうね」と英語で話しかけてくる。ちょっと困って通り過ぎてから振り返ると、ミス・マープルは人が通る度に声をかけていた。実はあの女はお店の人なんじゃないかという、ちょっと意地悪な主人公の読みが。

多和田 でも、これは本当にあったことなんですよ。もう絶対にお店の人だと思いました。だから私は、ノンフィクション作家なんです(笑)。

 ただ、本当のことは毎秒無数に起こっているし、その中からごく少数のことを選ばなければ、文章を書くことはできません。人によって解釈の異なることもたくさん起こっている。私は自分が面白いと思う方向に極端な解釈をしてしまう傾向があって、誰かと一緒に同じ状況を目にして、あとでその時の話をするとあまりにも違うので驚くことがあります。だから、ノンフィクションであっても常にフィクションであるとも言えます(笑)。》(【対談】「「半他人」たちの都市と文学」多和田葉子ロバート・キャンベル

                                                                                                                                                                

・《沼野 多和田さんは初期から一貫して言葉遊びを追求しておられましたが、今回ベルリンを舞台にした『百年の散歩』は、特に顕著だと思います。言葉についての小説という側面が強いですね。

多和田 そうですね。それは舞台であるベルリンが人の移動の多い大都市であることにも関連しています。小さな村なら、そこに住んでいる人のことはみんな知っている。そこにたまにふらっとどこかから謎の人物がやってくる、という小説はありますが、それはせいぜい一人、二人です。でも都市を散歩している時は、右にいるのも左にいるのもみんな知らない人ばかり。しかも、たとえば私がベルリンを歩いていたら、日本語をしゃべっている人とすれ違う可能性は大変低い。いろいろな言語が飛び交うなかで理解できない会話もたくさん耳に入ってくるし、フランス語がドイツ語に聞こえたり、ロシア語が日本語に聞こえたり、という混乱も起こる。広告やポスターなどが自分の知らない言語で書かれていることもある。すると文字そのものに妙に存在感が出て来る。》

沼野 『百年の散歩』では、いろんな通りの名前がほとんど主人公のように各章のタイトルになっていて、それらの通りを散策するなかで「わたし」は「あの人」と呼ばれる誰かをいつも待っているんですね。待ちながら散歩をしてレストランやカフェに入ったりしている。そういう意味ではフラヌール(遊歩者)小説とも言えるんじゃないでしょうか。その一方でやはり言葉が主体という面もあって、ドイツ語がそのまま出てきたり、ドイツ語から日本語の連想が始まったりする。読者はついていけるのかな、と心配になる箇所もあるくらいです。例えばさくらんぼはドイツ語でキルシェンですが、このキルシェンからキルヒェ(教会)という言葉を連想して、さらに日本語の意味が付加されて「桜教会」という言葉が出てきちゃうとかね。これも、言葉の好きな人にとってはとても面白い話ですね。

多和田 全部説明してあるわけではないので、読者にとっては謎の言葉遊びもあるかもしれません。でも、散歩をしている私にも、町で目に入るトルコ語などは全く分からないわけですから、小説を読む時も、分からない部分があってもいいんじゃないかな。謎は穴ですよね。新しいアイデアが浮かんできたり、時には自分自身の記憶が蘇ってくることもあるんじゃないかと。だから、理解できないということを私の場合、楽しく感じてしまうのではないかと思います。》

多和田 ナボコフは自分にとって重要な作家だと感じたのは『賜物』を読んだ時です。『賜物』ももちろん今回のコレクション(筆者註:ロシア語原典を底本に新訳された新潮社刊「ナボコフ・コレクション(全5巻)」)に収録されるんでしたね。これも、文字に注目し、言葉遊びしながら目の前の光景と記憶が入り交じる都市空間散歩文学ですが、その中でもすごく好きな場面がひとつあるので、ここで読んでみます。

「ちょうどそのとき、引っ越し用トラックから目もくらむような平行四辺形の白い空が、つまり前面が鏡張りになった戸棚が下ろされるところで、その鏡の上をまるで映画のスクリーンを横切るように、木々の枝の申し分なくはっきりした映像がするすると揺れながら通り過ぎたのだった」(『賜物』)。

 つまり引っ越し屋のトラックから、前面が鏡張りになった戸棚が下ろされて、その鏡に空や樹木が映っているわけですよね。戸棚が動くと、樹木が鏡の中を飛んでいくように見える。空は映画のスクリーンみたいに四角く切り取られていて、一体移動しているのは何なのか分からなくなる。そういった複雑な移動の感覚を、ごく日常的な場面で捉えている。これは私自身もすごくやってみたいことで、ナボコフを読んでいていいなあと思うのは、そういうところです。》([対談]「言語を旅する移民作家」多和田葉子沼野充義

 

・《「今回は私が元々好きな、特に人の名前が付いている通りを選んで、本人の作品を見たり読んだりしながら歩いてみようかなと思って。例えば普通は20秒も見れば見た気になる美術館の絵が3分後にはまた違って見え、さらに15分粘ると全然違うものが見えたりするでしょ。そんな風に自分が空っぽになるまで粘りに粘り、住み慣れた町で目にしたものを全て小説化したらどうなるかという、一つの実験です」》

《〈わたしは、黒い奇異茶店で、喫茶店でその人を待っていた〉〈店の中は暗いけれども、その暗さは暗さと明るさを対比して暗いのではなく、泣く、泣く泣く、暗さを追い出そうという糸など紡がれぬままに、たとえ照明はごく控えめであっても、どこかから明るさがにじみ出てくる〉……。

「カント通り」の書き出しである。「なく」「いと」など、音たちは文字に定着するまでに自由な浮遊を許され、また、目の前の事物を言葉に置き換えると、そこには当然、ズレが生じた。

「周囲の音を完璧に記述することはほぼ不可能ですよね。でもそれを書いた瞬間、それは自分の世界になるし、どこまでが頭の中でどこからが外界かわからなくなる感じも含めて、私はものを書く行為だと思うのです」

 さて、その喫茶店であの人を待つわたしは、壁際に座る女性客を勝手に〈ナタリー〉と名付け、注文したグリーンピースのスープを眺めては、同名の自然保護団体から指弾される日本の捕鯨について考えたりする。そんな時、耳に飛び込んできたのが、〈しぇるしぇ〉というフランス語だ。〈脳の正面にいるゴールキーパーの手をすり抜けて、入ってきたこの「しぇるしぇ」をどうしていいのかわからないまま、わたしはスープを食べた〉

「ベルリンにいると、東京より多くの言葉が耳に入ってくる気がします。まず店で大声を出すのを恥じる日本人と何でもタブーなく話すベルリン人では声量が違う(笑い)。ほかにもベルリンが東京と違う点として、町なかには大戦が昨日終わったのかと思うほど歴史の跡が残され、人名の付く通りが多い。それは、銅像よりは日常的に名前を口にするとか、さりげない想い方がよしとされるから。

 そもそもベルリン自体が歴史に翻弄された町なので、移民排斥的な空気も比較的薄い。人に何か言われる前に口を噤むようになったら、町も人もお終いです」》

マルティン・ルター通りやローザ・ルクセンブルク通りで夢想はなおも続き、彼女と違って山や森の生活に憧れるあの人が、結局、姿を現わすことはなかった。

〈森の中を散策していても、言葉が浮かんで来ない〉〈町はわたしの脳味噌の中そっくりで、店の看板に書かれた言葉が連想の波をたえず引き起こし、おしゃべり好きの通行人のぺらぺらがオペラになり〉〈言葉は本当は世界とは何の関係もないんだというしらじらとした妙に寂しい気持ち〉〈傷つく必要なんてない。何度ふられても町には次の幸せがそこら中にころがっているのだ〉

 そんな彼女のやせ我慢が、多くのモノや言葉に囲まれながら何一つ手に入らない都会人の孤独を浮かび上がらせて胸に迫り、秀逸だ。

「作物を育てている実感の中を生きている農村の真っ当さから切り離された都会人は、給料はここからもらう、トマトはあそこで買う、と生産の実感すらない。その何でもあって何もない虚しさの一方には町特有の楽しさもあって、常に揺らぎ、移ろう、町という運動体全体を小説ともつかない形でとらえようとした私は、線を引くことに何の意味があるのかと思うわけです。

 そもそもフランスやドイツという国以前にパリやベルリンといった町が屹立し、点と点が緩やかに連携するのがヨーロッパの理想で、線と対立は何も産みません。

私自身、1982年の渡独当時は日本とドイツという国に囚われていましたが1989年にベルリンの壁が崩壊。EUへと動く中、21世紀は町や村の時代だと確信するに至った。日本も韓国や中国や台湾や、北朝鮮とだって連携するに越したことはなく、お隣同士が線を引き、喧嘩することほど、危険でつまらないことはないんです」》(【著者に訊け】多和田葉子氏 連作長編『百年の散歩』(構成橋本紀子))

 

・《松浦 古井さんの作品に『楽天記』というものがありますが、楽天という言葉自体、幾重にも屈折したアイロニーが畳み込まれたように感じます。一種の楽天主義というものが日本人の心にあって、吊橋も道路を歩いているような感覚でスタスタ歩いてしまっているところがあるのかもしれないですね。

 多和田さんの『地球にちりばめられて』や『献灯使』も、破局のあとの世界を描いているわけだけど、多和田さんの想像力は吊橋の先にあるところまで行っていて、そこから振り返ってリアリズムを持って描いているような気がしたんです。ただ、そうした世界を描きながらも、悲壮感はおろか、案外明るい感じで描いていらっしゃる。

多和田 危機が非常に大きくなってくると、人間のドラマみたいな枠を超えちゃうんですよね。

松浦 多和田さんの作品は暗い状況を描いているはずなのに、人を元気づけるような、非常に生命力にあふれているところがあります。》(トークイベント「危機の時代、文学の言葉」佐伯一麦多和田葉子松浦寿輝古井由吉(「群像」講談社主催))

 

多和田葉子の小説冒頭はとっつきにくい。例えば『百年の散歩』の最初に位置する「カント通り」の冒頭、《わたしは、黒い奇異茶店で、喫茶店でその人を待っていた。/店の中は暗いけれども、その暗さは暗さと明るさを対比して暗いのではなく、泣く、泣く泣く、暗さを追い出そうという糸など紡がれぬままに、たとえ照明はごく控えめであっても、どこかから明るさがにじみ出てくる。お天道様ではなく、舞台のスポッとライトでもなく、脳から生まれる明るさは、暗い店内を好むのだ。》のように、安易なわかりやすさを求める読者は、言葉と思考の滑らかさの関節をあえて外す多和田の仕掛けに躓きがちだ。だから、《多和田葉子カフカの『変身』を「変身(かわりみ)」とルビを振って訳している(すばる)。かつて「理想の教室」(みすず書房)シリーズで、野崎歓カミュの『異邦人』を「よそもの」と訳し、合田正人サルトルの『嘔吐』を「むかつき」と訳したときにはどこか腑(ふ)に落ちるような感じがあったが、「変(かわり)身(み)」には違和感しかなかった。「かわりみ」という言葉の持つ語感と小説とが一致しないからだ。第一文を読んで、これはもうまともな日本語ではないと思った。まともでない小説をまともに乱れた日本語で読みたいと思うのは、贅沢な望みなのだろうか。》などと文芸時評(「産経新聞(2015年5月号))する近代国文学者さえいて、「まとも」とは文学に受験国語の模範解答を求める気分からか、と問いたい。

 

・以下、『百年の散歩』の10の連作から引用する。なるべく、上記対談に現れなかったベルリン(《ユグノー派の人々がフランスから逃れてこの土地にやってきた時には、まだBerlinという都市があったわけではなく、いくつかの村が集まっていただけだった、と楽しーの運転手は語り始めた。まるで最近の出来事を語るような口調だけれども、実際はもう三百年も前の話だ。「Berlinを都市にしたのはフランス人ですよ。今でもベルリン人の五人に一人にはフランスの血が流れている。わたしのようにね」と言った》(「カント通り」))のモザイクを。

 

・《カント通りに足を踏み入れる時、わたしは期待に満ちている。ツォー駅をバス停のある側に出て右に曲がり、二つ目の通りがカント通りだ。大手デパートのスポーツ用品館が左手にあるせいか、通りをはさんで向かい側にあるショーウインドウの前を通る時、そこに飾ってある色とりどりのプラスチックのオブジェがすべてスポーツ用品に見えてしまう。握って振りまわしたり、上下に動かしたりするためのミニ・ダンベルのように見えるその商品は、実は身体に入れたり出したりして遊ぶために製造された品であることを遅くともパステルカラーのペニスがずらりと並び、黒い革の下着を着たマネキン人形が乳房を鎖に押しつけているところまで来ると思い出す。あ、そう、そう、これは有名なお色遊びのお店でした。そのすぐ隣が「ベッド院」ではなく「FUTON」という名前のベッド屋で、ここで売られているのは、分厚い布団がマットレスの代わりに入っている高さ十五センチの家具で、ドイツでは広く普及している。布団なのに、「バルセロナ」とか「ボローニャ」という名前のついたものばかりが並んでいるので、せめて一つくらい日本の地名はないものかと、別に日本が恋しいわけでもないのにむきになって捜していくうちにやっと見つけた。「Hokkaido」。北海道は、布団の名前として、ふさわしいだろうか。なんだか冷えてきた。わたしはカント通りに向かって伸び始めた期待の芽を鋏で截ち切り、まわれ右して、反対側にある動物園に向かって歩きはじめた。》(「カント通り」)

 

・《住宅のように見える建物の中でも、どうやら「営業」が行われているらしい。扉の前に立って煙草を吸っている女がいる、主婦が自分の家の前で煙草を吸うはずがない。この人は、禁煙の職場で働いているのだ。視線は煙に乗って、ぼんやり夢見るようにその場を離れる。鴉色のマスカラがばたばた羽ばたいて、バルカン半島をめざして飛び立っていった。煙草が燃え尽きると休憩時間も終わって、女は建物の中に戻っていった。》(「カール・マルクス通り」) 

 

 ・《ガラスの壁を覆いつくすように紫色の蘭が飾ってあった。全く同じ色とかたちの蘭だけがこれだけたくさんあると、ぞっとする。同じ顔のクローンが何十人も並んでいるある映画の一場面を思い出した。一つとして同じ色とかたちの見当たらない店内だから余計不気味に見えるのかもしれない。紫色の蝶が身をよじって悶えているようにも見える蘭。プラスチックでできているのかなと思って近づいていくと、ある距離まで来たところで、ふいに死にゆくものの湿り気が感じられ、本物だということがわかった。》(「マルティン・ルター通り」)

 

・《伝記物は、幼年時代という一枚の色褪せた写真から始まることが多い。正装した両親の間に立ってカメラのレンズを見つめる子供を包む音のない世界。ところがこの伝記は子供時代など後まわしにして、いきなり1937年に飛び込む。レネーの作品が国立ギャラリーで差し押さえをくらった、と書いてある。政府自体が犯罪者になっていく。そんな時代にレネーは一体どんな絵を描いていたのだろう、と思って拾い読みしていくと、画家ではなく彫刻家だった、と書いてある。レネーが半分ユダヤ人であったことには驚かなかったが、彫刻家というのは予想外で、忙しくページをめくる指の動きがとまった。何かかさばるものが明確な形をとらないまま、わたしの行く手をふさいだ。作品の写真はないのかと五百ページ以上もある厚い本の中をめくって探すと、ブロンズの子馬が載っていて、その隣にベルリン映画祭のトロフィーになっている黄金の熊がいた。》(「レネー・シンテニス広場」)

 

・《広場のまわりを走る歩道にはところどころ、リボンのように文章が置かれている。置かれているというより埋め込まれている。どれもローザ・ルクセンブルクが書いたものだ。他に読んでいる人がいないので気恥ずかしいが、こっそり横目で読むわけにはいかない。一行がとても長いので、行に沿ってじりじりと歩を進め、おろおろと二行目の頭に戻るしか読みようがない。しかも、テキストは通りに対して斜めに配置されているので、通行人の流れに対して斜めに身を置くことになる。仕事から帰って買いものに行く人、ジムに行く人、食事に行く人、そんな人たちがお金を動かしながら一つの大きな経済運河になって流れていく。立ち止まって歩道に刺青された文章を読もうとしている極道のわたしに通行人が次々ぶつかり、流れが乱れる。わたしが最初に読むことになった文章の中でローザが批判している相手はベルンシュタインという名前。資本主義のにがい海に白ワインを一滴注ぐだけで社会主義の甘い海に変貌するとベルンシュタインが思っているのは舌音痴だ、とローザは言いたいのだ、とわたしは勝手に理解したが、なにしろ半分以上が工事現場の木の板の下敷きになって読めないので、そこは想像で補うしかない。》(「ローザ・ルクセンブルク通り」)

 

・《わたしはあわてて後を追った。揺れる巻き毛が石の色から栗毛に変わり、栗毛から今度はどんどん明るい金髪になっていって、それに合わせてふっくらしていた腕や脚がひきしまって、筋肉がもりもり育った頃には、わたしたちはもう公園を出て並木道を走っていて、自転車を追い抜かし、ベンツを追い抜かし、少女の脚になまめかしい曲線が見え始めた頃には駅前を走り抜け、キオスクの前でビールを飲んでいた男たちがはっと目を見張るのが見え、赤信号を無視して渡ったところから少女の金髪が白髪に変わり、それでも現在を目指して走り続ける少女はやがてプーシキン通りの終わるところまで来て、冷戦時代は撃たれずには越えることのできなかった橋をいともやすやすと渡り、ふくらはぎに青い筋が浮き上がって、踵の肌がすりきれてきたのに速度を落とさず、皺の刻まれた額から汗が流れているのに、笑いながら、あえぎながら、七十五歳になった少女はクロイツベルク区に駆け込んでいった。》(「プーシキン並木道」)

 

・《噴水に一番近い正面の席に腰かけた。すると女性の姿は視界から消えて、わたしと水だけになった。水は浅い。もしもライン川の深さが一ミリしかなくなったら、そこに生きる人魚たちもプランクトンみたいに小さくなるだろう。オペラグラスではなくて顕微鏡で観るオペラがあってもいい。》(「リヒャルト・ワーグナー通り」)

 

・《コルヴィッツは胸をかきむしり、額を地面に打ちつけて、うめき声をあげた。冷たくなった息子の亡骸を膝の上に抱き上げ、自分の身体をかぶせて体温で暖めようとした。死体の胸に耳を押し当て戻らない鼓動をいつまでも待った。天を仰ぎみてごうごうと泣き、声がかれて出なくなるとただ身体をふるわせ続けた。このまま彫刻になってしまいたい。これまでデッサンや版画をたくさん仕上げてきたが、本来自分は絵描きではなく彫刻家であるという自覚が若い頃からあった。彫刻になってしまう以外に苦しみから逃れる道はない。

 気がつくと十字架からおろされたイエスを慈悲で包むマリアの像に変身していた。マリアはイエスの死には責任がない。十字架からおろされたイエスの死体を無限無条件の慈悲で包み込むだけだ。マリアになることでコルヴィッツはやっと自分自身を責めるのをやめることができた。そのかわり、それはもう一人の人間の一回きりの仕草ではなく、たとえば「ピエタ」という一言でかたづけられてしまうかもしれない。》(「コルヴィッツ通り」)

 

・《自分は孤独だと認めてしまうのは気持ちがいい。春だからこそできること。孤独だなんて最悪の敗北宣言ではあるけれど、友だちが見つからなかった、恋人が見つからなかった、家族が作れなかった、仕事がない、住むところがない。そうなっても誰もじろじろ見たりしないから、平気で歩きまわれるのが大都市だ。》(「トゥホルスキー通り」)

 

・《町は官能の遊園地、革命の練習舞台、孤独を食べるレストラン、言葉の作業場。未来みたいな町の光景に囲まれていれば、未来はすぐに手に入るものだと思いこんでしまう。人を激しく待つ時は特にそうなのだ。待ち合わせをしてうまく会えたとしても、それからもちょろちょろと流れ続けていく時間を忍耐強く生きなければならないことなど念頭にない。今すぐ、ごっそりと全部欲しいのだ。傷つくことなど全く恐れていない。身体ごと飛びついていく。はねつけられたら、さっと離れていけばいい。傷つく必要なんてない。何度ふられても町には次の幸せがそこら中にころがっているのだから。》(「マヤコフスキーリング」)

 

 そして最後に、ナボコフ『賜物』をも連想させるモザイク。

・《それにしてもマヤコフスキーがガラス板の向こう側に立っているのが不思議だった。写真だから仕方ないのか。二次元世界の住人なのか、三次元世界の住人なのか、はっきりしない。よく見極めようとして一歩あゆみ寄ると、見たことのない顔が向こう側から私を観察していた。それは詩人の顔ではなく、ガラスに映ったわたし自身の顔だった。睫を震わし、唇をかすかに開けて苦しげに呼吸する人間の顔だった。わたし以外の人間はここにはいない。》(「マヤコフスキーリング」)

                              (了)

       *****引用または参考文献*****

多和田葉子『百年の散歩』(新潮社)

多和田葉子『カタコトのうわごと』(「翻訳者の門――ツェランが日本語を読む時」「身体・声・仮面――ハイナー・ミュラーの演劇と能の間の呼応」「「新ドイツ零年」と引用の切り口」「筆の跡」所収)(青土社

多和田葉子『エクソフォニー 母語の外へ出る旅』(「パリ 一つの言語は一つの言語ではない」所収)(岩波書店

*『新潮(2018年4月号)』([対談]「「半他人」たちの都市と文学」多和田葉子ロバート・キャンベル所収)(新潮社)

*『新潮(2018年1月号)』([対談]「言語を旅する移民作家」多和田葉子沼野充義所収)(新潮社)

*『文藝(1999年春号)』(多和田葉子インタヴュー「両国のモザイク細工――皺からの文学」(ききて堀江敏幸)所収)(河出書房新社

*『週刊ポスト(2017年5月19日号)』(【著者に訊け】多和田葉子氏 連作長編『百年の散歩』、構成橋本紀子所収)(小学館

*「文芸時評 ファイアウォールとしての文学」石原千秋(「産経新聞(2015年5月号))

トークイベント「危機の時代、文学の言葉」佐伯一麦多和田葉子松浦寿輝古井由吉(「群像」講談社主催、文:吉川明子)(2019年4月)

*「第二回早稲田大学坪内逍遙大賞祝賀会(2009年11月13日)」【祝賀会 受賞者挨拶】

*『ポケットマスターピース01 カフカ』(多和田葉子解説「カフカ重ね書き」)多和田葉子編・他訳(集英社文庫ヘリテージシリーズ)

カフカ『審判』辻瑆訳(岩波文庫

モーリス・ブランショカフカからカフカへ』山邑久仁子訳(書肆心水)      

*『現代詩手帖 特集現代詩と現代詩以後(1994年5月号)』(多和田葉子「モンガマエツェランとわたし」所収)(思潮社

ヴァルター・ベンヤミンベンヤミン・コレクション』浅井健二郎編訳(ちくま学芸文庫

ヴァルター・ベンヤミンベンヤミン著作集』野村修、川村二郎、高木久雄、小寺昭次郎他訳(晶文社

*川村二郎『アレゴリーの織物』(講談社

ヴァルター・ベンヤミン『ドイツ悲劇の根源』川村二郎、三城満禧訳(法政大学出版局

*『現代思想 ベンヤミン 生誕100年記念特集(1992年12月臨時増刊)』(今村仁司ベンヤミンにおける歴史の概念」等所収)(青土社

今村仁司ベンヤミンの<問い> 「目覚め」の歴史哲学』(講談社選書メチエ

*野村修『ベンヤミンの生涯』(平凡社ライブラリー

*ハンナ・アレント『暗い時代の人々』(「ヴァルター・ベンヤミン 一八九二~一九四〇」所収)阿部齊訳(ちくま学芸文庫

スーザン・ソンタグ土星の徴しの下に』(晶文社

鹿島茂『『パサージュ論』熟読玩味』(青土社

パウル・ツェランパウル・ツェラン詩文集』(「「ハンザ自由都市ブレーメン文学賞受賞の際の挨拶」「子午線 ゲオルク・ビューヒナー賞受賞の際の講演」所収)飯吉光夫編・訳(白水社

*『ユリイカ 特集ツェラン(1992年1月号)』(青土社

*平野嘉彦『土地の名前、どこにもない場所としての ツェラーンのアウシュヴィッツ、ベルリン、ウクライナ』(法政大学出版局

ウラジーミル・ナボコフ『賜物』(「ナボコフ・コレクション」)沼野充義訳(新潮社)