演劇批評 南北『桜姫東文章』を巡って ――「「桜姫」の神話」と「理性の不安」

 

 

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 片岡仁左衛門の清玄/権助二役と坂東玉三郎の白菊丸/桜姫二役の配役による鶴屋南北桜姫東文章(さくらひめあずまぶんしょう)』が、人気コンビとして三十六年ぶりに、二〇二一年四月「上の巻」、六月「下の巻」に分れて歌舞伎座で上演され、観劇した人からは「事件」とまで騒がれている。「事件」とまで騒ぐのは、そもそも南北劇を初見なのではないか、と首をかしげもするし、実見した感想、および過去もふくめた劇評をながめると、本演目そのものが「名のみことごとし」である面も否めない。

 とはいえ、耳目を集める『桜姫東文章』は現在にふさわしい演目といえる。なぜふさわしいか?

 

 渡辺保『戦後歌舞伎の精神史』の「「桜姫」の神話」は、『桜姫東文章』の本質について過不足なく語っている。

鶴屋南北の傑作「桜姫東文章」は、文化十四年(一八一七)三月江戸河原崎座(旧森田座)で、名女形五代目岩井半四郎によって初演された。

 河原崎座木挽町で一軒芝居という地の利の悪さ、半四郎のほかには七代目市川団十郎しかスターのいない無人の一座であるにもかかわらず、記録的な大入りになった。しかも半四郎一代の当たり芸だったのに、その後再演されなかった。

 再演されたのは、昭和二年(一九二七)十月本郷座、三代目時蔵の桜姫。実に百十年ぶりであった。三年後には二代目市川松蔦(しょうちょう)の桜姫。しかしいずれも失敗に終わった。南北の字余りの特殊なせりふをうまくいうことができなかった。現代の歌舞伎役者にはそれだけ難しい芝居だったのである。

 なぜ難しいのか。それは南北のせりふの難しさだけでなく、そもそも従来のお姫さま役とは違う桜姫の設定にもある。(中略)

 大名の姫君から密通の上のさらし者、一度は物乞い同然の尼姿から貧乏な男の女房、さらに宿場女郎から殺人者、そしてもとの姫君。

 いくら鶴屋南北が奇想天外な劇作家でも、これほどの有為転変の人生は、彼の作品中でも珍しい。

 その数奇な運命がもっともよくあらわれているのは、大詰近くの山の宿権助内の場の、桜姫の言葉である。すなわち彼女は姫君の上品な言葉と宿場女郎の下品な言葉を混ぜて使う。たとえば「よしねえな、わっちゃァ一つ寝をする事はしみしんじつ嫌気だ、今夜は自らばかり寝所に行って、仇な枕の憂いものう、旅人寝(たびびとね)が気散じだよ」。現代語に訳せば「よしなさい、私はセックスはしみじみ嫌だ、今夜は自分だけ寝床へ行って、一人寝の仇な枕も鬱陶しいが、それでも自由気ままに寝たい」

 桜姫の設定の難しさは、この貴族の言葉と庶民の、しかも場末の娼婦の言葉を交互にいい廻す難しさである。言葉に現われているように、彼女は状況によって人格を引き裂かれている。だから単なるせりふ廻しの難しさだけでなく、桜姫のこの状況、この人格を表現するのが難しいのである。

 戦前の三代目時蔵の時はこの場はやむなくカットされ、二代目松蔦の時は上演したものの失敗した。

 そして戦後、昭和三十四年(一九五五)十一月、歌右衛門が桜姫を演じた。

 三島由紀夫監修、巌谷槙一補綴、久保田万太郎演出であるが、この時、歌右衛門はこのせりふ廻しに大いに苦労した(「桜姫」――「演劇界」三十四年十二月号)が、成功しなかった。

 その八年後、今度は南北に詳しい郡司正勝の補綴演出で国立劇場雀右衛門桜姫を演じたが、それでも成功しなかった。 

 一方その三年後の昭和四十五年(一九七〇)五月、すでにふれた鈴木忠志構成・演出の「劇的なるものをめぐってⅡ」が上演されて南北の言葉が舞台に蘇った。

 同じ年の九月には、太田省吾の主宰する転形劇場が「桜姫」をはじめて全編、もっとも原作に近い形で上演した。

 その五年後の昭和五十年(一九七五)六月雀右衛門の補綴演出を手掛けた郡司正勝の再度の挑戦で、玉三郎がはじめて桜姫を演じて爆発的な成功をおさめる。(中略)

 歌右衛門雀右衛門三島由紀夫久保田万太郎で失敗した「桜姫」が、郡司正勝玉三郎でなぜ成功したのか。

 そこに近代から現代への転換点があり、前近代の南北の神話への回帰があったからである。

 歌右衛門雀右衛門、そして三島由紀夫久保田万太郎、巌谷槙一らは、いずれも近代の合理主義のなかに育った人々である。

 彼らは、桜姫を一人の人間としてとらえようとした。統一された人格、個性、内面と外面との一致した心理的な人間として描こうとした。そうすると「桜姫東文章」は桜姫一人の「女の一生」になる。貴族の姫君が強姦され、密通の罪でさらし者から無頼漢の女房になって宿場女郎になる。高位の女が転落する女の一生。しかも彼女は、自分が白菊丸の生れ変りだということを知らない。知らぬままに本能のままに男を追い求める。それが近代的な感覚から見ればまさにエミール・ゾラの描く女のように見える。むろんこの時は、発端にあたる清玄と白菊丸との同性心中の場はカットされている。監修者である三島由紀夫が、絶筆になった「豊饒の海」四巻で輪廻転生の物語を描くのはさらに十年後のことである。それよりも文壇デビュー作「煙草」がフランス近代文学そのままであったことを思うべきだろう。近代フランス文学を学んだ三島由紀夫にとって「桜姫東文章」は転落する「女の一生」に他ならなかった。

 しかし南北の「桜姫東文章」は単なる転落の女の一生ではなかった。

 桜姫が白菊丸の生れ変りであるという大きなドラマの外枠はもとより、南北が書いたのは、桜姫という人間の物語ではなく、強姦によって世界を失った一人の女性が、自分の世界を探し求めてついには現実の世界を横断して行く物語であり、主人公は桜姫であるが、真の主人公はその桜姫を通して、あるいは桜姫を操っている世界そのものだったのである。桜姫は、その世界が変わるたびに高貴な姫君からさらし者へ、さらに娼婦へ、そしてまた姫君へと状況によって変わって行く存在であった。その象徴こそ山の宿の姫君と宿場女郎のチャンポンの言葉であり、姫の言葉はその失われた世界、女郎の言葉は今の現実であった。二つの役が二重になっている。それはさながら南北の傑作の一つ「お染の七役」で、半四郎が七つの役を変わって見せる作品の構造に似ている。

 近代的な合理主義からいえば、白菊丸の一件もチャンポンのせりふも到底受け入れることが出来ないだろう。しかしこれこそが江戸時代の歌舞伎のもつ、あえて言えば半四郎という名女形のもつ神話性でもあった。

 歌右衛門雀右衛門が成功しなかったのは二人が近代の女形だったからに他ならない。

 鈴木忠志が「劇的Ⅱ」によって開いたのは、そういう近代を超えて、南北の書いたせりふを空間に立ち上げることであり、南北の目の前にいた歌舞伎役者(たとえば五代目半四郎)の身体性を今ここで生き直すことであり、太田省吾によって開かれたのは「桜姫東文章」の世界全体の構造であった。

 郡司正勝は当然この南北の神話性を認識していたから、巌谷槙一版と違って発端の江の島白菊丸の心中事件を復活した。この時の白菊丸は玉三郎で、その玉三郎を見た三島由紀夫が、のちに「椿説弓張月」の白縫姫に抜擢した。

 郡司正勝再度の挑戦にもむろん発端があり、桜姫を初役で演じた玉三郎が二役で白菊丸を演じた。もっとも初演の白菊丸は半四郎ではなく岩井松之助であるから、郡司演出は初演よりもつよく神話の構図を強調したものといえるだろう。

 玉三郎の桜姫が成功したのは、歌右衛門雀右衛門と違ってこの神話性を生きたからである。

 その証拠に玉三郎は、たとえば三つの箇所ですぐれた演技を見せた。

 一つは序幕二場の桜谷草庵の、権助とふたたびめぐり合って、権助に強姦されたあの夜のことを物語るところ。もう一つは三幕目の岩淵庵室で墨染の衣の尼姿からもとの赤姫の姿に戻るところ。そして最後に四幕目の山の宿権助の内で姫君の言葉と宿場女郎の言葉を交互にいい廻すところである。

 桜谷草庵の玉三郎がすぐれていたのは一人の人間が過去を回顧をするのではなく、事件の顛末を語る語り手と、その物語のなかの自分とがハッキリわかれていて、しかもそれが微妙に交錯していたからである。ここに玉三郎の特徴がある。桜姫は一人の人格ではなく、いわば二つの人格――語り手と語られる人格だったのである。その結果、草庵のなかに桜姫の人生を狂わせた運命的な事件の空間が成立した。近代的な人間では考えられぬ、前近代の物語の語りの手法が生きたのである。

 そしてそれはまた神話の主役である「世界」の崩壊のはじまりをも示していた。ここから桜姫の、自分の世界を探す旅がはじまるのである。

 二つ目の岩淵庵室は、さらし者から尼姿になった桜姫が偶然この庵室にあった、かつての自分の髪飾り、着物、うちかけを発見して、墨染の衣を脱いで昔の姫君の姿に着かえるところである。少しずつ変わって行く玉三郎の身体に、もう一度かつての桜姫の姿が戻って来る。ここがすぐれているのは、単に一人の女性が着替えをするのではなくて、そこに世界が復活するからであり、それが一つの見せ場になって、世界が主役であることを玉三郎が身体で示していたからに他ならない。

 三つ目の山の宿の姫君と宿場女郎の言葉の交錯が面白かったのは、この断片的な二つの人格を玉三郎が身体化したからである。すなわち南北の世界の構造を生きたせりふが、舞台に生きたからに他ならない。

 鈴木忠志が示したように、ここでは言葉が人間の内面にその根拠を持つのではなく、心理的なものでもなく、外側からやって来て、その外側の言葉を通して、その言葉が身体化されていたのである。

 以上三つの場面は、いずれも繋がって一つのことを示している。すなわち玉三郎の桜姫は一人の女というよりも、その局面によって様々に変化する多面的な存在なのである。ここが、断片化した世界において状況によって変化する関係性に生きる現代の人間像に合致している。そこが歌右衛門雀右衛門の桜姫と全く違うところであり、近代の女形と現代のそれとの分岐点であった。

 そこで現代の人間像と繋がった玉三郎は近代をこえて前近代の南北の構造の半四郎に繋がったのである。もっとも現代的なものが、古典劇としての原点に繋がった。これは近代によって否定された前近代の復讐でもあった。》

 

 以下、渡辺保の本文の背景を補足することで、南北『桜姫東文章』の思想的な意味あいを考察してゆきたい。

 

 四世鶴屋南北論および作品論は数多いが、南北の世界的同時代性や同時代人は誰だったか、に言及されることはほとんどない。

 それは十八世紀なかばから十九世紀はじめにかけてである。

 スウェーデンボルグ(一六八八~一七七二年)、ヒューム(一七一一~一七七六年)、ルソー(一七一二~一七七八年)、ディドロ(一七一三~一七八四年)、カント(一七二四~一八〇四年)、カサノヴァ(一七二五~一七九八年)、サド(一七四〇~一八一四年)、ラクロ(一七四一~一八〇三年)、ゲーテ(一七四九~一八三二年)、鶴屋南北(一七五五~一八二九年)モーツァルト(一七五六~一七九一年)、ナポレオン・ボナパルト(一七六九~一八二一年)、シャルル・フーリエ(一七七二~一八三七年)、ジェーン・オースティン(一七七五~一八一七年)。

 

 なかでも、モーツァルトが晩年の十年間に作曲したオペラは、初演順に、『イドメネオ』一七八一年、『後宮からの誘惑』一七八二年、『フィガロの結婚』一七八六年、『ドン・ジョヴァンニ』一七八七年、『コシ・ファン・トゥッテ』一七九〇年、『ティート帝の慈悲』一七九一年、『魔笛』一七九一年だった。

 

 一方、南北の主な歌舞伎は、初演順に、『時桔梗出世請状(ときもききょうしゅっせのうけじょう)』一八〇八年、『心謎解色絲(こころのなぞとけていろいと)』一八一〇年、『絵本合法衢(えほんがっぽうがつじ)』一八一〇年、『於染久松色読販(おそめひさまつうきなのよこうり)』一八一三年、『隅田川花御所染(すみだがわはなのごしょぞめ)』一八一四年、『桜姫東文章(さくらひめあずまぶんしょう)』一八一七年、『東海道四谷怪談』一八二五年、『盟三五大切(かみかけてさんごたいせつ)』一八二五年、という次第で、モーツァルトの一年前に生れ、その代表作品群はモーツァルト没後より後の作品だった。

 

 人は、カントとサドが同年代だったことに驚くであろうが、モーツァルトも同年代で、南北はそのすぐ後だ、ということに、さらに驚くであろう。しかし、その同時代性こそが重要である。

 

<カントとサド>

 まずカントとサドについて。柄谷行人が、十八世紀なかばから一九世紀はじめにかけて、フランス革命(一七八九~一七九五年)、リスボン地震(一七五五年)あたりを境界とする近世から近代への思想的状況について手短に紹介している。

《カントが『視霊者の夢』を書いた一七六〇年代には、ライプニッツ形而上学には埋めようのない亀裂があいていた。ライプニッツにおいて感性と理性が連続的な進化の段階にあるとしたら、この亀裂は、感性と悟性の間にある。(中略)

 この「亀裂」を具体的に象徴したのは、一七五五年十一月一日のリスボン地震である。ヨーロッパですべての聖人たちを祭るこの日、まさに信者が教会で礼拝していたときに起こったため、この地震は神の恩寵に対する疑いを巻き起こした。それは大衆的なレベルにとどまらず、文字どおり、全ヨーロッパの知的世界を震撼させた。たとえば、ヴォルテールは数年後に『カンディード』を書き、ライプニッツ的予定調和の観念を嘲笑し、ルソーも、地震は人間が自然を忘れたことへの裁きであると書いている。そのなかで、カントは地震に対して一切の宗教的な意味を与えることを拒絶し、その自然科学的原因と耐震対策を説いた。にもかかわらず、別の意味で彼がそれに揺すぶられたことは疑いがない。それは二つの面から言える。第一に、哲学を二度と瓦解しないような建築にしようとするカントのメタファー(建築術)はそこから来ているといってもよい。第二に、先に述べたように、この地震を予言した視霊者スウェーデンボルグの「知」に惹きつけられたことである。(中略)

 カントがこうした理性の欲動を見いだしたのは、『形而上学の夢によって解明されたる視霊者の夢』(一七六六年)においてである。これは、スウェーデンの視霊者スウェーデンボルグを論じた論文である。彼は基本的に、視霊という現象を「夢想」あるいは「脳病」の一種と見なしている。そこでは、ある思念が感官を通して外から来たかのように受けとめられている。だが、このヴィジョンはその鮮明さにおいて、知覚にあることがあるし、実際にそれらは区別できない。形而上学も同じことではないかと、カントはいう。なぜなら、形而上学は、なんら経験に負わない思念をあたかも実在するかのように扱っているからである。このエッセイは、その意味で「視霊者の夢によって解明されたる形而上学の夢」であるといってもよい。

 しかし、彼はスウェーデンボルグの「知」を否定すると同時に、それを否定することができない。霊という超感性的なものを感官において受けとることは、たんに想像(妄想)でしかないが、他方、霊が直観されるということは、構想力による錯覚が混じっているにせよ、それをもたらす霊の影響を推定することができないわけではない。しかし、カントは態度を決定できない。彼は、それを精神錯乱と呼んだにもかかわらず、「視霊者の夢」を真面目に扱わずにいられない。同時に、そのことを自嘲せずにもいられない。》(柄谷行人「探究Ⅲ」)

 

 カント哲学研究者の坂部恵がカント『視霊者の夢』について論じている。

《『視霊者の夢』という著作の全体の題は副題を含めて正確に言うと『形而上学の夢によって解明された視霊者の夢』というものである。御覧の通り、ここには“夢”が二度登場する。標題だけをみても、この著作が、夢をもって夢を解明する、夢をもって夢を裁く、毒をもって毒を制する、といったかなり入りくんだ構造をもっていることがうかがえるだろう。

 十八世紀なかばというこの時代は、ヨーロッパ全般にわたって啓蒙主義の盛んな時代にあたり、一方には神、霊魂の不死等伝統的なキリスト教形而上学の内実を理性によって合理的に証明できるとする理神論風の形而上学があり、他方には、究極において物質的なもの以外の実在を認めない唯物論の風潮がおなじ啓蒙陣営のラディカル派として存在した。カントの理性批判の哲学は一言でいえばこれらの流れの影響を受けて、次のステップに向けての一つの新しい時代を開くという位置を占めることになる。そうした批判哲学の形成への準備段階にあって、カントはたまたまスウェーデンボリという視霊者に自分が並々ならぬのめり方をした経験をいわば自己解剖しながら、ことのついでに、みずからとみずからの時代の置かれた思想状況に一種の決着をつけようとする。具体的にいえば、視霊者の夢を形而上学の夢で批判することによって、いわば両成敗の形で両者にたいして一気に決着をつけてしまおうとする。(中略)

 このようにみてくると、この著作が、通常カントの主著とされる『純粋理性批判』以上によりユニークな、ある意味では現代の自我の心の底に巣くう分裂と不安を先取りするようなきわめてユニークな、したがって十八世紀という時代の中にあってきわめて先駆的な意味を帯びたものとして、ほぼ同時代に隣国フランスでは、ディドロの『ラモーの甥』やあるいはルソーの『対話。ルソー、ジャン・ジャックを裁く』などの著作があり、いずれも二十世紀の自我の分裂と不安を先取りするものとして再評価の気運があることは周知のところだが、私はすくなくとも個人的にはカントの『視霊者の夢』という著作はそういったものに匹敵する意味をもちうるとかねてからから考えている。》

 

 坂部は、その時代を「理性の不安」と捉える。

《「理性の時代」といえば、わたしたちは、ただちに、いわゆる啓蒙期を中心とする古典的近代の時代、すなわち、いいかえれば、ときに「理性の世紀」という名でよばれる十八世紀を中心として、それに先立つ十七世紀から、さらに十九世紀のはじめにかけての時期をおもい浮かべる。この時代にたいしてわたしたちのもつ端的なイメージが「光」のそれにほかならぬことはおそらく何びとも異論のないところだとおもわれる。「啓蒙」(illumination,Aufklärung)の時代とは、いいかえれば、まさに、「光」(lumen,lumière)としての「理性」の時代にほかならない。(中略)

 啓蒙《illumination,Aufklärung》期を中心とする古典的近代の時期が光(lumen,lumière)の時代であるとする見解をわたしたちがまだなにほどかうのみにしているかぎり、わたしたちは、まだそのかぎりにおいて、西欧のとりわけ近代以降の古典的理性の光をみずからのみちしるべとし、思考の基軸としているということになる。この光の支配力、たとえば、具体的な一つのあらわれとしては、ヘーゲル哲学史の基本的な枠組の支配力は、ちょっと考えるよりもはるかに根強く、わたしたちの時代にまでおよんでいる。古典的近代の哲学の基本的道具立ての解体の作業をおし進めるところから、哲学史とか思想史の理解の従来の基本的枠組そのものの解体と再編成への模索がはじめられたのは、まだ比較的あたらしいことにぞくするともいえよう。従来の哲学史、思想史の気本的枠組そのものへの反省のこころみとして、わたしたちは、たとえば、ハイデッガーを皮切りとして、エマヌエル・レヴィナスミシェル・フーコージャック・デリダと受けつがれる一つの流れを考えることができるだろう。

 たとえば、上に名をあげたようなひとびとの努力を一つの象徴的なあらわれとして、二十世紀に入って、それもとりわけ第二次世界大戦後になって、ようやく、ひとびとは、光の時代といわれた古典的近代の時代にも、ほんものの闇の部分がその根底にあること、古典的な人間理性そのもののうちに、それを解体にみちびく不安が巣食っていること、いわば自己同一的な理性主体としてのいわゆる近代的自我そのもののうちに、ほかならぬその自己同一的な主体の構成そのものをおびやかす不安定と不安そのものの契機が深くかくされていることにはっきりと気づくようになった。いわば、近代の古典的理性あるいは精神そのものの精神分析とでもいった、古典的理性あるいは精神を思考の基軸とするのではなく、かえってそれを全面的につきはなして対象化する「非中心化」(décentrement)的な思考が、これまでの正統的な哲学史、思想史に対して、ようやく市民権をえるようになったのである。》

ミシェル・フーコーは、『古典主義時代における狂気の歴史』において、サドの体現する「サディズム」という現象が、けっして、「エロスと同じだけ古い」ものではなく、まさに十八世紀のおわりという西欧の古典的理性の爛熟の時代に、「西欧的想像力のもっとも大きな転換の一つを構成する」集団的文化現象としてあらわれたのであること、すなわち久しく日常の理性的生活から隔離されいまや沈黙のうちに追いやられた「非理性」が、今度は世界のなかに姿をあらわす形象としてではなく、「ことばと欲望」(discours et désir)として、いいかえれば、「魂の錯乱、欲望の狂気、欲望の再現のない専横における愛と死との狂気じみた対話」としてふたたび姿をあらわしたものにほかならぬことをいい、(中略)ジャック・ラカンは、”Kant avec Sade”と名づけられた卓抜な小論において、カントの『実践理性批判』とその八年後に出されたサドの『閨房哲学』(La philosophie dans le boudoir)を対比させながら、『閨房哲学』は、まさに、『実践理性批判』の世界の底にかくされた「真実」を示すものにほかならぬこと、すなわち、カントの道徳の自律的主体を構成する一切対象にとらわれぬ形式的命法としての道徳法則は、サドのいわば主体なき思考としての幻想世界を生んだ果てしのない一種求道者的な欲望と、じつは、同一の欲望の変換過程の構造のなかに、表裏の関係をなすものとして位置づけうるものにほかならないことをあきらかにする。

 これらの見方は、いずれも、十八世紀のおわりといういわば光の時代、理性の時代ののぼりつめた頂点といってもよい時期におけるサドの存在がけっして偶然ではなく、むしろ、時代の必然的裏面あるいは陰画の部分にほかならぬことを示す点において、軌を一にするといってもよいだろう。》

 

 十九世紀まで俗悪なだけと言われてきたサドが二十世紀に入ると、アドルノ(『啓蒙の弁証法』)、クロソウスキー(『わが隣人サド』)、バタイユ(『エロティシズム』)、ブランショ(『ロートレアモンとサド』)、ボーヴォワール(『サドは有罪か』)、フーコー(「侵犯への序文」)、ラカン(「カントとサド」)、ドゥルーズ(『ザッフェル=マゾッホ紹介』)、パゾリーニ(『ソドムの市』)、バルト(『サド、フーリエロヨラ』)らによって評価が逆転したのは今さら説明するまでもない。

 そして、プルースト失われた時を求めて』のシャルリュスもアルベルチーヌも、何とプリズムのように多面的な分裂気質であることか、そしてジョイスユリシーズ』もカフカもまた。

 

 坂部の下記の文で、「サド」を「南北」を置換しても違和感はない(「祭り」は歌舞伎の「祝祭性」であろう)。

《サドと呼ばれる個人を根底からつきうごかし、徹頭徹尾倒錯したグロテスクな幻想の世界をかぎりなく生み出させているものは、まさに、安定した「ロゴス」あるいは「ラチオ」、すなわち「理性」、「関係」、「根拠」の徹底した崩壊と不在の感覚である無名あるいは非人称の不安そのものにほかならない。サドとは、まさに、自我の構成にとって欠くべからざる「他なるもの」が、理性とのたえざるふれ合いを通じて自我を分節せしめることがなく、絶対的孤独のうちにとじこめられた「倒錯」という相のもとにしかあらわれぬという病いを深く病む時代にあって、その「真実」を体現する不在と不安の場所の別名にほかならない。あらゆる種類の「倒錯」の破壊的な饗宴にほかならぬサドの幻想の世界は、「ロゴス」によって整然とおりなされた自然界と人間界の「コスモス」の定期的な更新にあたって原初の「カオス」が回帰する原始時代の「祭り」の世界の、孤独な「無意識」の冥府への逆説的な回帰にほかならない。》

 

 ラカンセミネールの『精神分析の倫理』で、「カントとサド」を取りあげた。

《ショックを与えて皆さんの目を開かせるために――そういうことは我々の進歩に不可欠ですが――ここでは次のことに注目していただくだけで結構です。つまり『実践理性批判』は『純粋理性批判』の初版の七年後、一七八八年に出版されましたが、その七年後の一七九五年、<テルミドール>(訳注:フランス革命期の一七九四年七月二七日(共和歴第二年テルミドール九日)にロベスピエール派を失脚させたクーデターのこと)の直後にもう一つの著作、『閨房哲学』と呼ばれる著作が出版されているということです。

 皆さんご存じのように、『閨房哲学』は様々な理由で有名なサド侯爵の著作です。彼のスキャンダラスな名声は、最初いくつかの不運に伴われていました。彼は二五年のあいだ囚われの身でしたから、彼に対しては権力が濫用されたと言うこともできます。(中略)サド侯爵の著作は、ある人々の目には一種の気晴らしの方法と見えるかも知れませんが、実はそれほど面白いものでもありませんし、最も評価されている部分などはきわめて退屈なものです。しかし、彼の著作が筋が通らないと言うことはできません。むしろそこではまさしくカントのクライテリアが、一種の反‐道徳とも言うべき立場を正当化するために強調されているのです。

 反‐道徳パラドックスは『閨房哲学』と題された作品においてきわめて筋の通ったやり方で擁護されています。ここにいらっしゃる方々を考慮すると、ここだけは是非ともお読みいただきたいのは、「フランス人よ、共和主義者たらんとせばいま一息だ」と題された部分です。

 この部分は、当時革命下のパリで暴れ回っていた小組織のパンフレットと考えられています。このアピールに続けてサド侯爵は、権威の失墜を考慮すれば――真の共和制の到来は権威の失墜からなるというのがこの著作の前提となっています――実現可能な一貫した道徳生活の最低限度とこれまで考えられてきたものとは正反対のものを我々の行動の普遍的格率とするように提唱しています。

 実際、彼はそれをなかなか見事に擁護しています。誹謗への賛辞が『閨房哲学』のこの部分の最初に見られるのも決して偶然ではありません。彼によれば、当然向けられるべきよりもさらに悪いものを誹謗は隣人に負わせるとしても、誹謗は決して有害なものではありません。というのは、誹謗は誹謗の企てに対して用心させてくれるからです。さらに彼は続けて、道徳的法則の基本的な命令を覆すことを徐々に正当化し、近親相姦、姦通、盗み、およびそれらに付け加えることのできるものすべてを褒めそやします。十戒が定めるあらゆる法の正反対を考えてみて下さい。そうすると首尾一貫したものが得られますが、それは最終的にはこうなります。「誰であろうと他者を我々の快楽の道具として享楽する権利を我々の行為の普遍的格率とすべし」。

 サドは、この法が普遍化されて、同意しようとしまいと、あらゆる女性を誰彼なしに自由に所有する権利をリベルタンに与えるとしても、逆にこの法は、文明化された社会が夫婦関係の中で課すあらゆる義務から女性たちを解放するのだということを、きわめて筋の通ったやり方で論証します。この構想は、サドが空想的に欲望の地平に措定している水門を全開にするものであり、誰もがその貪欲さを最大限に高め、実現することを要請されるということです。

 万人にこの解放がもたらされると、そこに現われるのが自然社会です。これに対する我々の嫌悪感は、カント自身が道徳的法則のクライテリアからは除外すると称したもの、つまり感情的な要素と見なすことができるでしょう。

 もし我々があらゆる感情的要素を道徳から除外し、我々を感情的に導くあらゆる案内を消去し失効させるなら、極限においてサドの世界は――たとえその裏面であり戯画であるとしても――あるラディカルな倫理、一七八八年に起草されたカントの倫理によって統治される世界の一つの可能な達成と考えることのできるものです。

 よろしいですか、リベルタンと呼ばれる人々が残した膨大な文献、快楽人間のそれに見いだすことのできる道徳の分節化のさまざまな試みにはカントの影響がはっきりと認められるのです。》

 

モーツァルト

 ムラデン・ドラー『オペラは二度死ぬ』によれば、カントとサドの同時代人モーツァルトの《ドン・ジョヴァンニフィガロとのあいだには、直接的な関係がある。この関係から生じるのは、モチーフを敷衍し極端なかたちに変えることによって起こる関係全体の転倒である。ドン・ジョヴァンニとは、伯爵がそうなりたいと思っていながら意気地がなくてなりきれないでいるものの総体である。おのれの欲望をすべて実現させた伯爵、それがドン・ジョヴァンニなのだ。(中略)いかなる欲望も断念せず、世のすべての女性を手中に収めることを望む大胆不敵な主人ドン・ジョヴァンニは、快楽原則の彼岸へと向かう契機を表わしている。それこそが彼のパラドクスである。彼は、快楽原則を断念することなく徹底的に追及することによって、この原則をその極限にまでもってゆく。つまり、この原則を、そのためになら命を懸けても惜しくないと思えるような倫理的姿勢に変えるのである。この倫理的姿勢は、既存の体制と、その道徳的原則および宗教的議論に反抗する主体の絶対的な自律性を示している(伝統的にドン・ファンは、女たらしとしてだけでなく――それだけであったなら、彼は最悪の人間とはされなかっただろう――無神論者としても描かれてきた)。彼は人間の道徳律と<神>の命令に背くだけではない。彼は、アンティゴネがいう意味での「神の掟」をも破っているのだ。すなわち、彼は、死者の埋葬、死者の不可侵性、死者の神聖さを規定する法を破るのであり、死者に割り当てられた象徴的な場所を踏みにじるのである。》

ドン・ジョヴァンニは、「欲望に対して妥協しないこと」(のちにふれるように、これはキルケゴールが知っていたことである)というラカンのスローガンに則して読むことが可能であるような倫理的立場をとっている。彼に関してわれわれを当惑させるのは、彼が膨大な数の女性と関係をもったということではなく――それぐらいのことは貴族ならあたりまえだろう――彼が快楽の追求を倫理原則のレヴェルにまで、それを断念するくらいなら死んだほうがましだという次元にまで高めたことである。

 ドン・ジョヴァンニにとって、和解や慈悲は存在しない。『フィガロ』のフィナーレと比べると、状況が逆転している。(中略)ドン・ジョヴァンニのなかには二つのものが凝縮されている。一方において、彼は旧体制の典型である。これは伯爵と共通するが、ただしドン・ジョヴァンニのほうは本心を隠したりせずに、欲望の実現に向けて突っ走る。彼は絶対的な特権、初夜権ius primae noctisだけでなく、すべて夜の権利を要求する。慈悲と寛容を隠れ蓑にしなければならない主人とは対立する、あるいはそれよりも情けない、自分から赦しを求めなければならない主人とは対立する本物の主人――彼は、そうした古風な主人のイメージとして登場するのである。したがって彼は、啓蒙主義運動の敵ともいうべき、旧体制の特権的な権利を具現している。また他方において彼は、啓蒙主義の土台である自律的な主体を具現している。彼は自らを立法者とし、ただ自分の欲望だけに付き従ってゆく。結局彼は、ブルジョア主体にはとうてい真似できないほど根源的=急進的なやり方で旧体制に反抗しているのである。『フィガロ』は自由、平等、友愛の精神をもって幕を閉じる。それに対して、ドン・ジョヴァンニにとっての自由は、平等と自由を超えたところに、そして平等と自由に対立するものとして設定されている。自由は、純粋な自由が邪悪な悪と一致する場所に置かれているのである。》

 

 モーツァルトラカンの「欲望に対して妥協しないこと」にそって則して読むことが可能なように、ラカンが「カントとサド」で指摘した《あらゆる義務から女性たちを解放するのだということを、きわめて筋の通ったやり方で論証します。この構想は、サドが空想的に欲望の地平に措定している水門を全開にするものであり、誰もがその貪欲さを最大限に高め、実現することを要請される》、《もし我々があらゆる感情的要素を道徳から除外し、我々を感情的に導くあらゆる案内を消去し失効させるなら、極限においてサドの世界は――たとえその裏面であり戯画であるとしても――あるラディカルな倫理、一七八八年に起草されたカントの倫理によって統治される世界の一つの可能な達成と考えることのできるものです》の世界に、ドラーが『ドン・ジョヴァンニ』で指摘する《死者の埋葬、死者の不可侵性、死者の神聖さを規定する法を破るのであり、死者に割り当てられた象徴的な場所を踏みにじる》(南北劇に埋葬と墓と幽霊は特徴的)世界に、南北の桜姫と清玄は生きている。

 そしてまた、南北劇の終りは、モーツァルトフィガロの結婚』、『ドン・ジョヴァンニ』、『コシ・ファン・トゥッテ』と同じように、登場人物がみな登場して、「和解と慈悲」のテーマ、結論を宙ぶらりんの不安のままに、あっけらかんと投げかけるや、「先ず今日はこれ切り」で幕となることを思い出そう。

 

<南北『桜姫東文章』>

――歌右衛門の「一人の女」/玉三郎の「見えつ隠れつ」

 渡辺保が指摘した《歌右衛門雀右衛門三島由紀夫久保田万太郎で失敗した「桜姫」が、郡司正勝玉三郎でなぜ成功したのか》の原因は、歌右衛門芸談にはっきりと現われている。

芸談 桜姫 六代目中村歌右衛門」(昭和三十四年十一月歌舞伎座三島由紀夫監修、巖谷槇一補綴、久保田万太郎演出、「演劇界」昭和34年12月号)によれば、

《何しろ初めて手がけたのですから、まだ見当が付きません。でも、なか/\楽しみの多い役で、見せ場はあり、変化もあって、『女清玄』より面白いと思いますし、又、していて楽しみでもある役です。

 姫としてどの程度の格の役だと仰有るんですか。そうですね、ハッキリとは云えませんけれども、兎に角大きい役だとは思います。まア『玉三』の桂姫だの、『菊畑』の皆鶴姫などよりは全体的に大きく、三姫、まず雪姫位には準じる役と云っていゝと思われます。これは『女清玄』の花子の前もそうで、勿論、両方共、丸本物の姫役と形式や味は違いますから、すべてを同列に云うわけには行きませんが、とに角、初菊程度のつもりで演ったら面白くないでしょうし、これは山の宿の件だけでなく、姫の所でもその式では出来ません。丸本物と違い、お家狂言風のものでもありますしね。

 全体を順々に申しますと、序幕の桜谷庵室は、純然とした姫姿の件りですから、大体前にお話し致した様な風で致します。

 三囲は一つの風情と云ったものを本意として致します。実は最初この芝居を致す話が出た時、この三囲を出すとか出さないとか、いろ/\論があったのですが、私は絶対に出すべきだと主張したのです。

 していて大変に気持がよく、これは『女清玄』の川中の件りも同様でして、していて本当にいゝ風情を感じます。

 清玄の庵室の場では、花櫛のない吹輪の頭で長襦袢の姿が、作者の一つの趣向だと思います。恐らく、こんな姿の姫というのは他にないでしょうね。(中略)

 この場の桜姫は、芝居としては、さして取上げていう程の事はありません。唯、あの装で出て来て、姫としての格を失わない様にと心がける事ぐらいなものでしょう。ほかには、髪梳きと云ってもどれ程の事もなく、まァ、簪を自分で挿すのが珍らしい位なものですね、それと、若松屋(先代松蔦)さんはすっかり普通の姫の姿に着替えられたそうですけれど、私は帯をしめず、前帯にしています。

 山の宿はやっぱり、姫になったり、バラガキ(筆者註:茨掻き。イバラのように触れると怪我をする、みだりがわしい乱暴者、ここでは女郎)になったりの芝居が中心ですが、これは非常に難かしいと思います。この、姫とバラガキの言葉の変化については、まだ/\考える余地があると思われるのです。

 たゞ、姫とバラガキをガラリと変えるだけではいけないと思います。バラガキになっても姫の気持ち、姫の感じでいう時もある。それでなければ具合のわるいものがあると思うんです。例えば「幼き者が欲しくばの、自らの生み落せし――あるじゃァねえか」は姫の気持で云いますが、そうした所の方が客席からも何か響きが感じられ、ガラリと変る様な所で、こんな所には響きがあるのではないかと思うと、存外そうではないんですね。そして、これは私の件りだけでなく、芝居全体に就いて云っても同じなんです。

 そんな風に、バラガキな言葉をいう時姫の心で云うのとは逆に、姫の言葉の時にも、フッとバラガキな気持ちでいるという時もあるべきだと思いますが、併し、どうしても、つい、その言葉の時にはその心持ちになって了いがちで、こんな所はもっと考える余地がありましょう。どうも、変る時にはフッと前の心持が途切れて了いがちでしてね。……とに角、ガラリと変っていけず、そこに何か、あるものがなければならないのだと思います。

 それから、権助が酔っていろ/\な事を云うのを聞いている中に公卿の姫に返り、あとは全く姫の気持です。》

 さすが歌右衛門は、この歌舞伎の重要な場は、観客が固唾をのむ「桜谷草庵」の濡れ場ではなく、「山の宿」の《姫になったり、バラガキになったりの芝居》と摑んでいて、そのうえで姫とバラガキとの交錯に関して近代人である役者の躊躇を正直に吐露している。

 

京鹿子娘道成寺』において、歌右衛門の「一人の女」というよく知られた言葉、解釈がある。

 渡辺保歌右衛門 名残りの花』の「白拍子花子」の「くどき三段」から。

《たった一度だけ歌右衛門にインタビューに行った。そのとき、開口一番こういわれた。

「あなたにお目にかかったらば、どうしてもいいたいことがあるの」「え?」「この間、テレビで『娘道成寺』の解説をなすったでしょう」「ええ」「そのとき、くどきは三人の女だとおっしゃいましたね」「ええ」

 たしかに私はテレビで「恋の手習」にはじまる「道成寺」のくどきは、一人の女に見えるが実は三人の女の唄が組み合わさっているといった。これは私の新説ではない。国文学者佐々醒雪(ささせいせつ)の指摘したことである。「恋の手習つい見習いて、だれに見しょとて紅かねつきょうぞ、みんな主への心中立て、おおうれし」というのが第一段。第二段が「末はこうじゃにな、さうなる迄はとんと言わずに済まそぞえと、誓紙さえ偽りか、嘘か誠か、どうにもならぬほど逢いに来た」。第三段が「ふっつりりん気せまいぞと、たしなんでみても情なや」から「恨み/\てかこち泣き、露を含みし桜花、さわらば落ちん風情なり」まで。

 佐々醒雪は「三段三首の小唄」で「前後関係なき別々の唄を組み合わせたもの」(『俗曲評釈』)といっている。しかも第一段が「普通の小唄」、第二段が「騒ぎ唄」、第三段が「女の痴態を唄」っているという。佐々説は三つの唄といったので三人の女といったわけではない。しかしこの説をふまえて文句をよく読むと第一段は「娘」、第二段は誓紙をかわしても会わぬというのだから「遊女」、第三段はいうまでもなく夫の浮気に悩む「人妻」という風に思える。そのことを私はテレビでしゃべった。そのときの素材は歌右衛門の「道成寺」だから、当然それを見たのだろう。そうして私が来るのを待っていたに違いない。

 仮に一人の女だとして、その女が娘、遊女、人妻を体験することだってあるのではないか。私はそういった。

「そりゃあそうかも知れませんが、踊る人間は一人でなけりゃあ踊れません」

 歌右衛門は断固としていう。

 踊る側としての歌右衛門の主張もわからぬわけではない。歌右衛門の表情には一人の女になりきって千数百回も踊ってきた人間の確信があふれていた。》

 

 一方、玉三郎はどうか。NHK番組「伝心 玉三郎かぶき女方考 京鹿子娘道成寺」で玉三郎が語るところによれば、「クドキ」ではなく、出の「道行」の役の捉え方への言及ではあるが、

「道行きは(清姫の過去への)回想ということはなくていいんじゃないでしょうか」、「娘が本当に道中をしてくる」、「僕なりの表現かも知れませんけれど、『科なき鐘を恨みしを』といった時は、この道行の女が恨んでるってことはできないのね。魂だけが、そこで、ふっと、すぐもう、道行の女に戻ってる」、「だから、見えつ隠れつ」。

(ナレーション)「白拍子清姫は完全に重なっているのではなく、白拍子の中に清姫の魂がふと現われるにすぎない」。

 玉三郎は、はっきりとは語っていないが、統一された近代的な「一人の女」ではなく、「見えつ隠れつ」の、非連続な、連関性のない分裂的な、統合されない「多面的な女」が、「完全に重なっているのではなく」「魂がふと現われる」を意識しているのではないか。

 

――近代人漱石

 小林恭二は『新釈 四谷怪談』に、《廣末氏は四谷怪談の生まれた化政時代(筆者註:化政時代とは、文化(一八〇四~一八一八年)・文政(一八一八~一八三一年))を未曾有の崩壊の時代であるとの認識のもとに、お岩さま像を構成しました(筆者註:廣末保『四谷怪談――悪意と笑い』(岩波新書))。ある意味でそれもまた事実です。だって実際にその何十年後かに幕府は滅びているのですから。しかしわたしは化政時代を江戸末とはとらえず、むしろ近代の黎明期と考え、四谷怪談にも人間の開放性といった意識が反映されているという立場で本書の執筆に臨みました》と但し書きしたが、なるほど、(近世の)崩壊期とも(近代の)黎明期とも捉えられる二面性、転換点であることこそが、洋の東西を問わずカント、サド、モーツァルト、そして南北の世界を「コペルニクス的転回」のごとく産み出したのだろう。

             

 坪内逍遥渥美清太郎による『大南北全集』(全一七巻)は一九二五(大正一四)~一九二八(昭和三)年制作で、いわば「南北ルネッサンス」である第一次南北ブームは、大正~昭和初期の二代目左団次劇団による一連の復活上演(『桜姫東文章』など)を指し、戦後の一九七〇年代(昭和四五~五五年頃)には第二次南北ブームと言われて、新劇・アングラ演劇で上演された。前者は芥川龍之介が「将来に対する唯ぼんやりとした不安」から自裁した時期(大正デモクラシーを引き裂く関東大震災からファシズム、敗戦へ向かう)、後者は戦後の高度経済成長を経て反体制運動が盛り上がり、沈潜した時期で、どちらも「理性の不安」の時代だった。

 

 近代人漱石の反応を見れば、歌舞伎がいかに荒唐無稽かがわかる。漱石は南北劇の感想を残していない(光秀の「馬盥」への言及があるが、有名な南北『時桔梗出世請状(ときもききょうしゅっせのうけじょう)』ではなく、『絵本太功記』の「馬盥」のようである)が、見ていればどんな言葉を残したか、およそ想像がつく。

 漱石はイギリス留学中、「修行の為」と称して、日記に記されただけでも十回以上は観劇(パントマイム、コメディ、宗教劇、シェイクスピア十二夜』など)に足を運び、シェイクスピア研究家のウイリアム・クレイグから個人授業も受けていた。帰国後の小説では、歌舞伎座を見合いの場所としてよく使った。『それから』では、代助は嫂(あによめ)と姪の縫子と歌舞伎に行き、縫子が代助に向かって『絵本太功記』について素人質問をするので嫂に苦笑され、『明暗』でも歌舞伎での見合いが登場する。                  

 明治四十二年、漱石高浜虚子とともに明治座へ雨を冒して歌舞伎観劇に出かけ、「丸橋忠弥」、「御俊伝兵術」、「油屋御こん」などを午後の一時から夜十一時まで観て、日記に《御俊伝兵衛と仕舞のおどりは面白かった。あとは愚にもつかぬものなり。あんなものを演じていては日本の名誉に関係すると思う程遠き過去の幼稚な心持がする。まず野蛮人の芸術なり。あるいは世間見ずの坊っちゃんのいたずらから成立する世界観を発揮したものなり。徳川の天下はあれだから泰平に、幼稚に、馬鹿に、いたずらに、なぐさみ半分に、御一新までつづいたのである》と綴った。

明治座の所感を虚子君に問われて」では、《彼らのやっている事は、とうてい今日の開明に伴った筋を演じていないのだからはなはだ気の毒な心持がした》、《極めて低級に属する頭脳をもった人類で、同時に比較的芸術心に富んだ人類が、同程度の人類の要求に応じるために作ったもの》、《まるで野蛮人の芸術である。子供がまま事に天下を取(と)り競(くら)をしているところを書いた脚本である。世間見ずの坊ちゃんの浅薄愚劣なる世界観を、さもさも大人ぶって表白した筋書である。こんなものを演ぜねばならぬ役者はさぞかし迷惑な事だろうと思う》と書いた。続けざまに虚子と「太功記」、「きられ与三郎」、「鷺娘」などを観た感想「虚子君へ」でも、《僕は芝居は分らないが小説は君よりも分っている。その僕が小説を読んで、第一に感ずるのは大体の筋すなわち構造である。筋なんかどうでも、局部に面白い所があれば構わないと云う気にはとてもなれない。したがって僕がいかほど芝居通になったところで、全然君と同じ観察点に立って、芝居を見得るかどうだか疑問であるが、その辺はどうだろう。――話は要領を得ずにすんでしまったが、私にはやッぱり構造、譬(たと)えば波瀾、衝突から起る因果(いんが)とか、この因果と、あの因果の関係とか云うものが第一番に眼につくんです。ところがそれがあんまり善(よ)くできていないじゃありませんか。あるものは私の理性を愚弄(ぐろう)するために作ったと思われますね。太功記(たいこうき)などは全くそうだ。あるものは平板のべつ、のっぺらぽうでしょう。楠なんとかいうのは、誰が見たってのっぺらぽうに違ない。あるものに至っては、私の人情を傷(きず)つけようと思って故意に残酷に拵(こしら)えさしたと思われるくらいです》と断じている。

 もっとも、漱石はごりごりの合理的リアリストというわけではなく、夢幻的なものへの理解(『夢十夜』など)を含めて懐は深かったが、歌舞伎の前近代性、痴呆性(谷崎潤一郎も愛憎あいまって指摘している)に物足りなさを感じていたことは確かだろう。

 

――三島由紀夫の「舞台の上に生きる」/橋本治の「無意識過剰」

 昭和三十四年十一月の歌舞伎座「芸術祭十一月大歌舞伎」筋書の三島由紀夫「桜姫と権助」で、さすがに三島は『桜姫東文章』の肝を捉えている。

《「桜姫東文章」は南北の傑作と云つてよい。今度監修の仕事をたのまれて通読してみたがどこと云つて削らねばならぬところがないのにおどろいた。昔の合作の台本には冗漫なのが多いが、「東文章」はよく引締つており、もし時間にはかまわず丸ごかしに忠実に上演しても、面白く見られること請合いである。

 プロローグの児ヶ淵の衆道の心中を出せば、一層古劇の情趣が深まるであろうが、二重の因果話で、筋を追いにくくする危険もある。今度の台本で序幕になつた草庵の場は、後段の有名な「庵室」とつかぬように、序幕らしく派手な舞台に変えられるであろう。

 今日のわれわれの感覚から見て、やはり重点となるのは、大詰の権助住居の場である。お姫様が女郎に売られ、化物を背負つて歩くというので廓から帰されて、さて恋しい亭主のもとへ帰つてくるが、廓言葉と御殿言葉がチャンポンにまざつて、どうにも収拾のつかないあたり、南北ならではの、様式化に堕さぬ大胆でリアルでユーモラスで酒脱で一脈奇怪な、えもいはれぬ面白味を出しているが、演ずる俳優の側から云つても、お定まりの時代世話ではない、独自の工夫と味が要求されるところである。

 又、白塗りの恋人同士ばかりの歌舞伎劇に、お姫様と釣鐘権三という、奇抜な一組の取り合せは、タフガイばやりの今日、かえつて現代の顧客には、それらしい実感を与えるかもしれない。

 その桜姫の歌右衛門権助・清玄二役の幸四郎という好配役は、監修者自らが今からたのしみにしている舞台である。》

 

 また三島は、昭和四十二年三月国立劇場「四回三月歌舞伎公演 桜姫東文章」の筋書に「南北的世界」という一文を寄せて、バロック劇の本質、とりわけ南北のそれを言いあてている。

《今度はめづらしい稚児(ちご)ヶ淵(ふち)からの上演で、この作品の頽唐味(たいたうみ)が増すであらうし、後代の十六夜(いざよひ)清心(せいしん)にまで及ぶ心中の生残りの原形が呈示され、しかも生き残った清玄が十七年後に又同じやうに心中を迫るといふ因果の設定に、ただの因果といふよりは、つねに破滅的な形でエロスにつながることをくりかへす、こりずまの人間性が示される。》と指摘した後、

《女主人公の桜姫は、なんといふ自由な人間であらう。彼女は一見受身の運命の変転に委(ゆだ)ねられるが、そこには古い貴種流離譚(りゆうりたん)のセンチメンタリズムなんかはみごとに蹴飛ばされ、最低の猥雑さの中に、最高の優雅が自若として住んでゐる。彼女は恋したり、なんの躊躇もなく殺人を犯したりする。南北は、コントラストの効果のためなら、何でもやる。劇作家としての道徳は、ひたすら、人間と世相から極端な反極を見つけ出し、それをむりやりに結びつけて、怖ろしい笑ひを惹起することでしかない。登場人物はそれぞれこはれてゐる。手足もバラバラのでく(・・)人形のやうにこはれてゐる。といふのは、一定の論理的な統一的人格などといふものを、彼が信じてゐないことから起る。劇が一旦進行しはじめると、彼はあわててそれらの手足をくつつけて舞台に出してやるから、善玉に悪の右足がくつついてしまつたり、悪玉に善の左手がくつついてしまつたりする。

 こんなに悪と自由とが野放しにされてゐる世界にわれわれは生きることができない。だからこそ、それは舞台の上に生きるのだ。ものうい春のたそがれの庵室には、南北の信じた、すべてが効果的な、破壊の王国が実現されるのである。》と、舞台の上ならではのバロックの王国を説明した。

 ここには《一定の論理的な統一的人格などといふものを、彼が信じてゐない》となって、《こんなに悪と自由とが野放しにされてゐる世界にわれわれは生きることができない。だからこそ、それは舞台の上に生きるのだ》とばかりに、舞台上の自死(昭和四十五年十一月)を意識する三島がいる。

 それは三島『豊饒の海』の最終巻『天人五衰』末尾で、月修寺門跡となって本多の前に六十年ぶりに姿をあらわしたいまなお美しい聡子の言葉に繋がるだろう。清顕のことで最後のお願いにここへ上りましたとき、御先代はあなたに会わせて下さいませんでした、と本多が言うと紫の被布の門跡は同じ言葉を繰り返す。「その松枝清顕さんといふ方は、どういふお人やした?」 《本多は、失礼に亙らぬやうに気遣ひながら、多言を贅して、清顕と自分との間柄やら、清顕の恋やら、その悲しい結末やらについて、 一日もゆるがせにせぬ記憶のままに物語つた。(中略)「えらう面白いお話やすけど、松枝さんといふ方は、存じませんな。その松枝さんのお相手のお方さんは、何やらお人違ひでつしやろ」》 門跡は本多の則(のり)を超えた追求にも少しもたじろがず、声も目色も少しも乱れずに、なだらかに美しい声で語った。《「記憶と言うてもな、映る筈もない遠すぎるものを映しもすれば、それを近いもののやうに見せもすれば、幻の眼鏡のやうなものやさかいに」 「しかしもし、清顕君がはじめからゐなかつたとすれば」と本多は雲霧の中をさまよふ心地がして、今ここで門跡と会つてゐることも半ば夢のやうに思はれてきて、あたかも漆の盆の上に吐きかけた息の曇りがみるみる消え去つてゆくやうに失はれてゆく自分を呼びさまさうと思はず叫んだ。「それなら、勲もゐなかつたことになる。ジン・ジャンもゐなかつたことになる。……その上、ひよつとしたら、この私ですらも……」 門跡の目ははじめてやや強く本多を見据ゑた。「それも心々(こころごころ)ですさかい」》

 

 南北のバロックについては、河竹登志夫『歌舞伎美論』における「歌舞伎のバロック的性格」論がよく知られるところで、バロック劇としての、西のシェイクスピア劇と東の歌舞伎の似たところを、《どちらも市民劇で、成立年代もおなじであること、女方使用のこと、流血場面そのほか構造や表現の形に共通点が多いこと》などとしたうえに、舞台の構造(セリやスッポンといった垂直性(下降と上昇という二つのベクトルによって組織されるバロックの一大特徴)、回り舞台というスペクタクル性)、悲劇と喜劇、厳粛な場面と卑俗な場面とが、ひとつの芝居のなかにしばしば交互に混在していることなどをあげる。

 河竹は自身の説に加えて、丸谷才一「出雲のお国」から小説家の空想(丸谷曰く)も紹介していて、その丸谷の原文は、《出雲のお国やその夫の狂言師三十郎は、どこかの町のイエズス会の教会か学校にもぐりこんで、イエズス会劇を見物し、それに強烈に刺激されてお国歌舞伎を創始したのではないか。(中略)能の古典主義から歌舞伎のバロック性への移行、革命的な転換を決定づけたものは、ヨーロッパのバロック芸術の綜合としての演劇を海路はるばる伝へた、教会の催し物であったらう》。さらに丸谷は『文学のレッスン』や山崎和夫との対談『日本史を読む』などで、歌舞伎とバロック劇との類縁性(南北『心謎解色絲(こころのなぞとけていろいと)』とシェイクスピアロミオとジュリエット』の比較対照など)を嬉しそうに語っている。

 付け加えれば、モーツァルトドン・ジョヴァンニ』のドン・ジョヴァンニ、従者レポレッロ、騎士団長、ドンナ・アンナ、ドン・オッターヴィオに、南北『四谷怪談』の民谷伊右衛門、中間直助、四谷左門、お岩、佐藤与茂七を見立てることも可能かもしれない。

 

 橋本治は『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』の「第一章『豊饒の海』論」、「三 『暁の寺』のジン・ジャン――あるいは、「書き割り」としての他者」で、『暁の寺』のジン・ジャンに関する部分には種本がある、インスパイアされたと公言している『浜松中納言物語』とは別の種本で、四世鶴屋南北による『桜姫東文章(さくらひめあずまぶんしょう)』がそれであると言っている。『桜姫東文章』の、「清玄は本多茂邦、桜姫はジン・ジャン、そして旧華族の令嬢であると思しい久松慶子が釣鐘権助に相当する」としている。

 橋本治らしい独創性に満ちた着想で、頷けるところもある。つけ加えれば、桜姫の腕の彫物は、清顕の三つの黒子に相当するともいえよう。しかし久松慶子は、釣鐘権助が桜姫を犯したように、ジン・ジャン姫をたぶらかし、肉をもてあそんではいるけれども、慶子と本多の関係は悪くなく、見立てにはやや無理がある。

 本多の好意はジン・ジャンに裏切られ、邪険にされるというところは確かにそうだとはいえるが、驕慢な女性の思わせぶりにのせられつつも、終のところで邪険にされる失恋構造は三島作品における一つの型でもあって、『仮面の告白』の主人公の初恋、アフェアーもそれだった(伝記的に言えば、三島自身も似た経験をしている)。『愛の渇き』の悦子と園丁三郎との関係性、『金閣寺』の内翻足の柏木と生け花の師匠(=南禅寺で搾乳を垣間見た将校の寡婦)との関係性もまた、「男は上淫を好み、女は下淫を好む」の応用系であり、『春の雪』の清顕は決して下賤な身分ではなかったけれども、皇室に嫁ぐことになった聡子を犯すことで禁忌の恋に向かう。ついでに言えば、『仮面の告白』の「汚穢屋の若者」への上淫憧憬は、「女は下淫を好む」に同性愛的に繋がる。

 

 むしろ橋本なら、『演劇界』の「特集 桜姫東文章の魅力」(2004年8月)に掲載した「小気味のいいエゴイスト達」という一文が、「理性の不安」の世界を指摘して重要だ。

《桜姫が平気で切見世女郎の「風鈴お姫」でもあるように、権助は、「下品な兄ちゃん」でありながら、同時に「頼もしいタフガイ」なのである。

 この矛盾を恐れてはいけない。「行き当たりバッタリでも大丈夫」という快感が、この作品を支えているのである。だから、女郎になった末に人殺しまでしてしまった出産経験ありのお姫様は、最後結局、平気で「お姫様」のままなのである。「そうだといいなァ」という、人間の都合のよさが全部この舞台の上には登場してしまう。だから、「後腐れがなくて小気味がいい」になるのである。そうあるために、役者達は、この矛盾に満ちてエゴイスティックな登場人物達を、丁寧に造形するのである。こんなにも「歌舞伎的な造形」を必要とする登場人物ばかりが登場するドラマも珍しいだろう。桜姫や権助や、局の長浦やその愛人の残月はもちろんとして、一番すごいのは、清玄である。

 昔、團十郎の清玄が清水の石段を下りて来るのを見て、ぶっ飛んだ記憶がある。異様に生々しく肉感的で、当人がそのことをまったく自覚していないのだ。「あの稚児ヶ淵の事件はどうなったの?」という文学的な疑問を撥ねのけて、「その後の清玄」は、ぬけぬけとなまめかしく、しかも当人は「インテリだ」と思い込んでいるのである。「そうか、江戸時代の坊主って、こういうものでもあったんだ」と思って、うなってしまった。桜姫が「無意識過剰」なら、清水の階段をしずしずと下りて来る「美しく立派な中年僧」の清玄もまた、「無意識過剰」なのである。「そうか、美しい中年男って、こんなにへんなものなのか」と、ついでにその時に思った。

 桜姫に狂う清玄に、「人間としての実質」なんてものはなくてもいいのである。清玄は、「悩める青年僧」で、「なんにも考えない中年僧」で、その後もやっぱり、なんにも考えていないのである。だから、幽霊になって出ても、桜姫から、「ホントにもう、商売の邪魔なんだからァ」と一蹴されてしまうのである。その、なんにもない清玄の情けなさが、リアルなのである。このリアルなところが、とんでもなくむずかしい。

 考えてみればこの芝居、登場人物のキャラクターだけで出来上がっているのである。私なんかは、それこそがすごいと思い、これこそが歌舞伎かとも思う。》

 

 見て来たように、三十六年ぶりの仁左衛門玉三郎による『桜姫東文章』は、コロナ禍という「理性の不安」の時代に相応しい上演である。 

                               (了)

       *****引用または参考文献*****

鶴屋南北『歌舞伎オン・ステージ 桜姫東文章』廣末保編著(「芸談 桜姫 六世中村歌右衛門」等所収)(白水社

国立劇場監修『国立劇場歌舞伎公演記録集 桜姫東文章 昭和42年3月上演』(ぴあ株式会社)

*『演劇界 (特集)桜姫東文章の魅力 2004年8月』(橋本治「<桜姫東文章>のをんなとおとこ 小気味のいいエゴイスト達」所収)(演劇出版社

*筋書『第四回三月歌舞伎公演 桜姫東文章 昭和42年3月』(郡司正勝「演出の言葉 鶴屋南北との出會」、三島由紀夫「南北的世界」、堂本正樹「燃える鏡の密室 南北と現代の契約」、鈴木重三「南北物と浮世絵」等所収)(国立劇場

*筋書『芸術祭十一月大歌舞伎 昭和34年11月』(三島由紀夫「桜姫と権助」所収)(松竹株式会社演劇部)

*『国立劇場上演資料集<425> 「通し狂言 桜姫東文章」2000.11』(郡司正勝「「桜姫東文章」演出ノート」(「かぶき袋」)等所収)(国立劇場芸能調査室)

渡辺保『戦後歌舞伎の精神史』(講談社

郡司正勝鶴屋南北』(中公新書

野口武彦『「悪」と江戸文学』(朝日選書)

橋本治『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』(新潮文庫

*『GS・たのしい知識2(特集)POLYSEXUAL――複数の性』(出口逸平「機巧(からくり)の性 鶴屋南北桜姫東文章』を繞って」所収)(冬樹社)

*中村恵『桜姫の純情と貞節鶴屋南北桜姫東文章』より』(九州大学国語国文学会)

鶴屋南北『歌舞伎オン・ステージ 東海道四谷怪談』諏訪春雄編著(白水社

小林恭二『新釈 四谷怪談』(集英社新書

渡辺保『江戸演劇史』(講談社

*諏訪春雄『鶴屋南北』(ミネルヴァ書房

*廣末保『四谷怪談――悪意と笑い――』(岩波新書

河竹登志夫『歌舞伎美論』(東京大学出版会

丸谷才一丸谷才一全集8』(「出雲のお国」所収)(新潮社)

丸谷才一、(聞き手・湯川豊)『文学のレッスン』(新潮文庫

丸谷才一山崎正和『日本史を読む』(中央公論社

渡辺保歌右衛門 名残りの花』(マガジンハウス)

夏目漱石夏目漱石全集10』(「明治座の所感を虚子君に問われて」、「虚子君へ」所収)(ちくま文庫

夏目漱石『定本漱石全集20 日記(下)』(岩波書店

三島由紀夫豊饒の海 天人五衰』(新潮社)

三島由紀夫豊饒の海 暁の寺』(新潮社)

郡司正勝編集『鶴屋南北全集6』(三一書房

柄谷行人「探究Ⅲ」第十八回(「群像」1996年3月号に所収)(講談社

坂部恵坂部恵集1 生成するカント像』(「『視霊者の夢』の周辺」所収)(岩波書店

坂部恵坂部恵集2 思想史の余白に』(「理性の不安――サドとカント――」所収)(岩波書店

ジャック・ラカン精神分析の倫理』ジャック=アラン・ミレール編、小出浩之他訳(岩波書店

スラヴォイ・ジジェク、ムラデン・ドラー『オペラは二度死ぬ』中山徹訳(青土社

岡田暁生『恋愛哲学者モーツァルト』(新潮社)

アッティラ・チャンパイ、ディートマル・ホラント編『名作オペラブックス モーツァルト ドン・ジョヴァンニ』竹内ふみ子、藤本一子訳(音楽之友社

中井久夫分裂病と人類』(東京大学出版会

木村敏分裂病と他者』(ちくま学芸文庫