文学批評 モーリヤック『テレーズ・デスケイルゥ』とデュラス『モデラート・カンタービレ』

 

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 フランソワ・モーリヤック『テレーズ・デスケイルゥ』とマルグリット・デュラスモデラート・カンタービレ』に、プルーストの末裔としての、匂いとイメージの照応をみる。イメージは匂いに誘われたかのように薄暗がりから引き出される。

 

プルースト失われた時を求めて』>

 プルースト失われた時を求めて』の『スワン家の方へ』から、有名な「匂い」の場面をいくつかとりあげるが、匂いは淫蕩なイメージ、背徳的な行為に語り手を導く。エロチックな官能性だけでなく、神聖な宗教的イメージの残酷な冒瀆といった要素もある。

 

《すると火が、まるでパイ生地を焼くように、食欲をそそる匂いをこんがりと焼きあげる。その匂いが部屋の空気を練り粉にし、朝の、陽光をあびた湿った冷気で醗酵させて「膨らませる」と、火はその匂いを幾重にも折りかさね、皺をつけ、膨らませたうえ、こんがりと焼きあげ、目には見えないが感知できる田舎のパイ、巨大な「ショーソン」をつくりあげる。このショーソンでは、戸棚や整理ダンスや枝葉模様の壁紙など外側の、中よりはるかにパリパリした、より繊細で、ずっと評判のいい、それでいて味気ない風味を味わうと、すぐに私は、いつも密かな渇望をいだきつつ、中央に位置する花柄のベッドカバーの、べとべとして、むっとする、消化しにくいフルーティーな匂いにもぐりこむのだ。》

 

《教会を出る段になって祭壇の前にひざまづいた私は、立ち上った拍子に、ふとサンザシからアーモンドのような、ほろ苦く甘い匂いが漏れてくるのを感じた。そのとき花の表面に、はるかに濃いブロンド色をした小さな箇所がいくつもあるのに気づき、その下にこの匂いが隠されているにちがいないと想いこんだ。ちょうど焼けこげた部分の下にフランジパーヌ(筆者註:アーモンドパウダーを加えたケーキ用クリーム)の味が、また茶褐色のそばかすの下にヴァントゥイユ嬢の頬の味が隠されているにちがいないと思うのと同じだ。サンザシは音もなくじっとしているのだが、この間歇的な匂いは、さながらその強烈な生命力のつぶやきであり、それでもって祭壇がうち震えるように感じられるのは、あたかも元気のいい感覚の訪れをうけて震える田園の生け垣を想わせる。そんな感覚が想いうかぶのも、赤茶けた雄蕊をいくつか見ていると、それが春の毒を、きょうは花に変身しているが昆虫の人を刺す力をいまだに宿しているように思えるからであった。》

 プルーストはサンザシの匂いを、控えめに「アーモンドのような、ほろ苦く甘い匂い」と書いているが、実際のサンザシは、精液にも似た強烈な性的臭気を発することから同性愛的な連想もこびりつく。

 

《その小道は、サンザシの匂いでぶんぶん唸っていた。生け垣のつくる形はさながらひとつづきの小礼拝堂で、積み上げられて仮祭壇をつくる散華(さんげ)のような花のむこうに隠れている。花の下には、太陽が、あたかもステンドグラスを通過してきたかのように床に光の格子縞を落としている。サンザシの香りは、まるで私が聖母マリアの祭壇の前にいるかと思えるほど、粘っこく限定された形に拡がり、花はといえば、これまた着飾って、うわの空といったようすで、めいめいが輝くばかりの雄蕊(おしべ)の花束を手にしている。(中略)

 私は、サンザシの前にとどまり、目には見えないがそこを動くことのない匂いを嗅ぎ、その匂いをわが思考に差し出したが、思考にはそれをどうすべきかは判然としなかった。》

 

《それはコンブレーの家のてっぺんの、アイリスの香るトイレに入り、なかば開いたガラス窓の真ん中に天守閣の塔だけが見えていたときのことで、私としては、探検を企てる旅人や、絶望のあまり自殺する人のような悲壮なためらいを胸に、気が遠くなりつつ、わが身のなかで未知の、死にいたるかと思える道をかきわけるようにたどり、とうとうカタツムリの這った跡のような一筋の天然の跡を、そばに垂れ下がってきたカシスの葉につけたのである。》

 自涜である。

 

失われた時を求めて』のドイツへの紹介者、翻訳者でもあったベンヤミンは、卓抜なプルースト論『プルーストのイメージ』の最後で、イメージと匂いを結びつけた。

《もし生理学的文体論というものがあれば、それはプルーストの創作行為の核心へと導いてくれるであろう。そうすれば、追想が嗅覚のなかに保存されるときの(匂いが追想のなかに保存されるときの、では断じてなく)特別な耐久性を知っている者は、匂いに対するプルーストの敏感さを偶然だと見なすわけにはいかなくなるであろう。たしかに、私たちが探究する追想の大部分は、視覚イメージとして私たちのまえに立ち現われる。そして無意志的記憶(メモワール・アンヴォロンテール)の形成する、自由に浮かびあがるイメージも、まだそのかなりの部分は、謎めいたかたちでしか姿を見せない孤立した視覚イメージである。しかしまさにそれゆえに、プルーストの文学の最も内奥にある心の震えに意識して身を委ねるためには、この無意志的想起(アインゲデンケン)の特殊な層、その最深層に自分を移し入れねばならない。そこでは追想のもろもろの要素は、もはや孤立して、イメージとしてではなく、イメージをもたず形ももたず、はっきり規定されてはいないが重みをもって、ある全体について、私たちに知らせてくれるのだ。ちょうど、網の重さが漁師に、どれほど漁獲があったか知らせてくれるように。匂い、それは失われた時(タン・ペルデュ)という海に網を投げる者が得る、重さの感覚である。そして彼の文章は、知性の肉体が行なう筋肉運動の総体であり、この漁獲を引きあげるときのあらゆる労苦、名状しがたい労苦を含んでいる。》

 

<モーリヤック『テレーズ・デスケイルゥ』>

 クリステヴァは『プルースト 感じられる時』でモーリヤックに言及している。

プルーストの後では、フランス文学は、ブルトンアラゴンとともに狂気の愛を讃え、サルトルとともに哲学となり、マルローとともに政治となり、ブランショヌーヴォー・ロマンミニマリズムとともにフローベールの遺産に群がり、セリーヌとともに、情動のプルースト的な探究と競い合いながらも、「フランス=イデッシュ語」的な彼の文体と彼の性欲を拒否する徴候を見せる。(中略)この作品の無道徳を強調するのは、モーリヤックのように地獄の悦楽に好奇心を抱くカトリックモラリストであり、またバタイユのような、神秘的な体験の探求者である。一方はそれを嘆き、他方はそれを賛美することになるわけだが、どちらも驚嘆していることに変わりない。》

 

 辻邦生は、《モーリアックの小説世界の魅力は、息づまるような心理的拷問室のなかで感じる眩暈に似ている。》と述べ、菅野昭正は、《地方性、風土性の枠の上に、一般性、普遍性の枠を重ねあわせようとする。》、《幼い頃から培われた信仰が、ジャンセニスムふうの峻厳なものであったこと》、《人間の原罪の深さと、人間の心の底に宿る不安を厳しく意識すること、人間の魂に内在する悪をみつめる神の視線を懼れること――そういう信仰の芽は幼いときにすでにしっかり植えつけられていたのである。人間の不安や悪の問題に正面から向かいあったパスカルボードレールドストエフスキーが、モーリヤックにとって大きな意味をもつ存在となったのも、むろん信仰との関連においてである。》、《人間の俗悪な面へむかう下降性と、高邁な面へむかう上昇性との交点で成りたっている。といっても、小説のなかで、表面的に大きな部分を占めているのが「悪魔へむかうもの」であり、人間の下降性であることはいうまでもない。》と解説している。

 

 モーリヤックは、『パリ・レヴュー』のインタビューで、《小説を書きはじめる前に、私は、自分の内部に、その場所、環境、色彩、匂いを、ふたたび生きいきとえがきだしてみるんです。自分の内面で、少年時代、青年時代の雰囲気をふたたび生活してみるのです。――私は自分の作中人物となり、その世界となるんですよ。》と語るとともに、小説の危機について言及した。

《小説の危機は、私の考えでは、形而上学的な性格のもので、人間に関するある種の概念と結びついています。心理小説に反対の見解は、本質的に、いまの世代のもっている人間に関する概念――それは一個の人間という全一像(・・・)を全面的に否認するものです。一個人に対するこのような変貌した見方は、かなり前からはじまっていました。プルーストの小説がそれを示しています。『スワン家の方』(これは完璧な小説です)と『見出された時』とのあいだで、私たちは作中人物が解体してしまうのを見ます。小説が進行するにつれて作中人物は消えさってゆくのです。(中略)『囚われの女』からあと、小説は、嫉妬についてのながい瞑想に入ってゆきます。アルベルティーヌはもはや肉体としては存在しません。小説の冒頭では存在していたように思われた人物――たとえばシャルリュスのような――は、彼らをむさぼりくう悪徳と一つにまじりあってしまうのです。

 小説の危機は、こういうわけで、形而上学的なものです。私たちより前の世代の人たちから、すでに、キリスト教的ではありませんでしたが、それでもその人たちは人間個人を信じており、それは魂を信ずるというのと同じことでした。私たちのめいめいが<魂>という言葉によって理解している内容は異なっています。しかしともかくある一定点のまわりに個人という全一像(・・・)がつくられているのです。

 神への信仰は多くの人々から失われています。しかしこの信仰が要求しているような価値が失われたのではありません。善は悪ではなく、悪は善ではなかったのです。小説の衰退はこの基本的な概念――善と悪の認知――の崩壊から由来しています。言語それ自体も、この良心への攻撃によって、意味内容の価値を失ってしまい、空虚になったのです。》

 

 モーリヤック『テレーズ・デスケイルゥ』で、夫を毒殺未遂した嫌疑から免訴となったテレーズは、家の名誉のため偽証し、事件を揉み消した夫ベルナールの待つ、ボルドー南部ランド地方の地のはてアルジュルーズまで、馬車と列車を乗り継ぐ。帰途の追想、イメージは匂いの官感とともにあらわれる。

《弁護士がドアをあけた。テレーズ・デスケイルゥは、裁判所の裏口に通じているこの廊下の中で、顔の上に霧を感じ、ふかぶかと、胸の奥に吸いこんだ。(中略)パン焼き場の匂(にお)いと霧の匂いは、テレーズにとって、もはや、小さな町の夕方の匂いというだけのものではなかった。ついに返してもらえた生活の匂いを、テレーズはそこに見つけた。眠りこんだ大地、草が生(お)いしげりしめっている大地の息吹(いぶ)きに、テレーズは眼をとじた。》

《古い馬車のあのかびくさい匂(にお)い、テレーズはそれが好きだった。まっくらな中でタバコをふかすのはきらいなので、タバコを忘れてきたことを、しまったとも思わず、あきらめた。(中略)もしも免訴にならずに、そのままだったら、判決の前夜にきっと襲われたに相違ない空想に、テレーズは身をまかせる。地震が起ってくれればいいという期待、テレーズは帽子をぬぎ、匂いの強い革に、しきりにゆれる鉛色の小さな顔を押しあて、車の動揺にからだをゆだねる。今夜というときまで、彼女は、追いつめられて、生きてきた。救いだされたいま、テレーズは自分の疲労の深さをはかる。くぼんだ頬(ほお)、とび出た頬骨、とがった唇(くちびる)、それから、ひろい、みごとな額、それが刑の宣告を受けた女の顔を作りだしている――そうだ、男たちはテレーズを有罪とは認定しなかったけれども――永久の孤独という刑の宣告を受けた女の顔を。》

《テレーズは、手さぐりで、駅長の家の庭を横ぎり、夜目には見えぬ菊の花の匂いをかいだ。一等室には誰もいなかった。それにいたとしても、かすかなあかりが一つ、テレーズの顔を照らすにもたりなかった。本を読むことはできない。だが、どんな物語がテレーズには色あせたものに見えないであろうか、おそろしい自分の生涯にくらべて? はずかしさのために、はげしい不安のために、悔恨のために、疲労のために、死ぬことがあるかもしれない、――しかし、たいくつのために死ぬことだけはないであろう。

 テレーズは車室の隅(すみ)に陣どり、目をつぶった。テレーズのような頭のいい女が、この悲劇を理解しうるものにすることがどうしてもできないとは、ありうることに思われるだろうか? そうだ、告白が終ると、ベルナールは彼女を抱き起すだろう。「平気でおいで、テレーズ、もう何も心配しなくてもいい。このアルジュルーズの邸(やしき)で、二人でいっしょに死を待とう。できてしまったことが、僕たち二人をへだてるなどということは、絶対にない。僕は喉(のど)がかわいた。お前自分で台所へ出てくれないか。オレンジエードを一杯こしらえておくれ。にごっていてもかまわない。一息に飲みほそう。その味が、昔の僕の朝のチョコレートを思いださせるとしても、それがなんだろう? ああ、お前おぼえているかい、あの吐き気のことを? お前のやさしい手が僕の頭をささえていてくれた。お前はその緑がかった液体から目をそらさなかった。僕の仮死状態はお前をおびえさせはしなかった。とはいえ、僕の足がなえて、無感覚になったことに、僕が気づいた晩、お前の顔のまっさおになったことといったら! 僕はがたがたふるえていた。お前おぼえているかい? それから、あのまぬけのドクトル・ペドメイが、口もきけないくらい驚いていたっけ、僕の体温がこんなに低くて、脈ばかりはやいのに……」

「ああ!」と、テレーズは考える。「あの人にはわからないだろう。すっかり初めから言いなおさなければならないだろう……」われわれの行為の始まりはどこにあるのか? われわれの運命は、われわれがこれを一つだけ切り離そうとすると、根をつけてひき抜くことのできない植物に似ている。テレーズが自分の子供のときまでさかのぼるだろうか? だが少女時代そのものが一つの終りである。到達点である。》

 菊の花の匂いに誘われたのか、テレーズの夢想、再会するベルナールへの虚しい願望のなかにオレンジエードが登場した。

 

 オレンジエードは『失われた時を求めて』に幾度もあらわれる。

 クリステヴァは『プルースト 感じられる時』で、

《あらゆる食物のなかで、変態を物質化しているもの――氷のように結晶と液体を兼ねているもの、かつて固体であったものを液体化したフルーツ・ジュースなど――は、逃げ去りやすい欲望のたどる気紛れな経路を表わすのにより適している。

 オデットとスワンのすでに消えかかっている関係を実体化しているオレンジエードもそうである。ヴァントゥイユの小楽節と並行して、オレンジエードは、スワンがフォルシュヴィルに抱く嫉妬、あるいはオデットが彼に与え始めている無関心を、きっぱりとした愛に変えるのに貢献している。その愛とは、語り手の不毛な分身alter egoであるユダヤ人の耽美家のかさついた精神を潤すことになる。チッポラの生き写しに対するものである。それ自体混合物であるオレンジエードはまた、となりにあるランプの光や間近にある肘掛椅子や愛する者の憂鬱な夢想をも吸い込んでいる。その味は広がっていく。拡張する感覚が、外と内、病的な辛辣さや意志的な甘美さを混ぜ合わせる場面全体を覆う。「そうした瞬間、彼女が彼らにオレンジエードをつくってやっている間に、突然、調整のきかない反射鏡が、はじめは壁のうえで一つの対象物のまわりにさ迷わせている幻想的な大きな蔭がやがて折り畳まれて、その対象そのもののうちに消えていくのと同じように、オデットについて彼が作り上げているあらゆる恐ろしい揺れ動く考えが消えていき、スワンが目の前にしている魅惑的な体に合流していくのであった。[……]スワンにそんなにも悲しく思われている自分の生活のあらゆる些細なものごとは、しかし、それが同時にオデットの生活の一部になっていたかもしれないのだから、もっとも親しみのあるものでさえ――このランプ、このオレンジエード、そんなにも夢を湛え、あれほどの欲望を物質化していたこの肘掛椅子のように――、どんなにあふれるほどの甘美さと神秘的な密度を持っていることになったことだろう」。》

 

 クリテヴァは言及していないが、最後の「見出された時」のゲルマント大公邸のパーティーで、オレンジエードとナプキンの感触は、熱いハーブティーに浸したマドレーヌの味覚と同じ作用を及ぼす。

《ずいぶん前からゲルマント大公に仕えている給仕頭が私のすがたを目にとめ、立食テーブルまで行かずにすむよう、私の通されていた書斎にまで、プチ・フールの盛り合わせと一杯のオレンジエードを持ってきてくれたので、私は渡されたナプキンで口を拭った。と、まもなく、あたかも『千夜一夜物語』の登場人物が、自分を遠くまで連れていってくれるが自分にしかすがたの見えない従順な守護神を出現させる儀式をわれ知らずやってのけたかのように、新たな紺碧の空の光景が目の前にあらわれた。》

 

 それは最初から始まっていた、むせるような息づまる匂いに閉ざされて。

《サン‐クレールのあの狭い教会の中での、息のつまるような婚礼の当日。婦人連のおしゃべりが、息の切れたオルガンの音をかき消し、彼女たちの香料と体臭が、ふりまかれる祭壇の香を圧したあの婚礼の式の当日、あの日こそ、テレーズが身の破滅を感じた日だった。彼女は夢遊病者のようにおり(・・)の中へはいった。》

 

 テレーズの追想の中、イタリア湖水地方への新婚旅行の帰路パリでのこと。

 アヌ(筆者註:ベルナールの妹で、結婚前の回想には同性愛的な雰囲気があった。アンヌとも表記される)からの三通の手紙には、ユダヤ人の血筋と言われるアゼヴェド家の、肺病やみと噂の息子ジャン・アゼヴェドとの恋と、家族の反対が書き連ねてある。

 硫黄の匂い、オーデコロンによる気付け。

《はやくも、この七月の朝、硫黄(いおう)の匂(にお)いのする暑さが、あたりを領していた。いぶった太陽が、バルコンのむこうに、死んだような家の正面をいっそうきたなく見せていた。ベルナールはテレーズのそばへ歩みよってきていた。しきりにこんなことを叫んだ。「いくらなんでも、ひどすぎる! アヌの奴、お前の友達だが、あんまりな奴だ。まるで妹の奴が……」》

 アヌからの手紙に、ダビデのごときジャン・アゼヴェドの写真が同封されていた。

《シャツの前が少しはだけている……「これが彼のいわゆる認められた最終限度の愛撫なの……」テレーズは目をあげ、鏡の中の自分の顔にびっくりした。食いしばっていた歯をゆるめ、唾(つば)をのみこむのに、すぐにはできなかった。オーデコロンで、こめかみを、額をこすってみた。「アヌがあの喜びを知っているって……じゃ、私は、どうなのだろう? え、私は? どうして、私が知らないというのか?」写真はテーブルの上におかれていた。そばにピンが一本光っていた……

「私があんなことをしたのだ。この私があんなことを……」くだり坂にかかったとみえて、速力のはやくなったゆれる汽車の中で、テレーズはくりかえす。「もう二年になる。あのホテルの部屋で、私はピンをとりあげ、この青年の写真の心臓の場所につきさした。――怒って夢中にさしたのではない。冷静に、まるであたりまえのことのようにしてさしたのだった、――便所の中へ、そうやって孔(あな)をあけた写真を捨てた。そして、水洗装置のひもをひいた」》

《彼は妻にむかって、金はかかるだけかかるだろうが、しかし、今度の旅行の最後の昼飯だから、どこかボワ(訳注 ブローニュの森)のレストランへ行くことにしよう、と言った。タクシーの中で、夫は、今度の解禁のときのために考えている計画のことを話題にした。バリヨンに言いつけて訓練させてあるあの犬をはやく使ってみたいというのだった。母親の手紙には、お灸(きゅう)のおかげで、牝馬(めうま)がもうびっこをひかなくなった、と書いてある……時刻が時刻だけに、このレストランには人影がまばらだった。ナイフやフォークの数がむやみに多いのが、いささか二人をおじけさせた。テレーズはあのときの匂(にお)いを思い出す。ゼラニウムと塩粕(しおかす)。ベルナールはライン産ブドウ酒を呑むのはこれが初めてだった。「こいつはうまい、しかし、さぞかし目の玉の飛び出るほど取るだろうな」が、毎日お祭り騒ぎをするわけではなし。ベルナールの肩がじゃまでテレーズは部屋の中を見渡すことができなかった。》

《テレーズは窓をあけた。この夜あけ前の時刻に、たった一台の砂利車ががらがら音をたてている石の深淵をのぞきこみながら、手紙をこまかくひきさいた。紙きれがひらひら舞い、下の方の階のバルコンの上にとまった。この若い人妻の吸いこんだ植物の匂いは、どこの田舎からこのアスファルトの砂漠まで運ばれてきたものであろう? 舗道の上にぐじゃぐじゃにつぶれている自分のからだが小さく見える。そのありさまをテレーズはまざまざと思いうかべた、――そして、そのまわりに、警官や群衆が右往左往する姿を……テレーズよ、自殺をするにはあまりに空想が多すぎるではないか。》

《どんなことをしても、アヌがドギレムとの結婚をはずしてはならない。部屋の中に立ちこめているチョコレートの匂いがテレーズをむかむかさせた。この軽い違和は、ほかのいくつかの徴候を確証するものだった。妊娠なのだ、もう。「はやいほうがかえっていいよ。すんでしまえば、それからはもう考えなくてすむ」とベルナールは言う。それから、彼は、尊敬の気持をこめて、数えきれぬ松の木のただ一人の支配者を胎内に宿している女を、つくづくながめた。》

 

 旅行から帰って来た。ゼラニウムの刺激的な匂い。

《庭で、テレーズは若い娘といっしょになった。去年の服がだぶだぶのいたましい娘。「どうだった?」仲よしのテレーズが近よってくるとすぐにアヌはこう叫んだ。庭の中の道の灰のような土、かわききってきしるような音をたてる草原、枯れたゼラニウムの匂(にお)い、それから、この八月の午後に、どんな植物よりもしおれているこの少女、どれ一つとして、テレーズの胸の底に、ありありと思いうかべられないものはない。》

 

《例のマノの大火事の当日だった。家じゅうの者が、大急ぎで昼飯を食べている食堂に、男たちがどやどやとはいってきた。火事はサン‐クレールからは非常に遠いらしいと断言する者もあり、早く警鐘を鳴らすべきだと言いはる者もあった。樹脂の焼ける匂(にお)いが、酷熱の日の空をみたし、太陽は薄ぎたなくよごれて見えた。テレーズはあのときのベルナールの姿をありありと見る。顔をわきにふりむけ、バリヨンの報告に聞きいっている姿を。毛だらけの大きな手がコップの上にかざされたまま、われを忘れ、ファウラー氏液の滴が水の中にしたたっていた。暑さにぼんやりしたテレーズが、薬の分量がいつもの倍だということを注意しようと思うひまもなく、夫は一息にコップの薬を飲みほしてしまった。みんな食卓を離れてしまっていた、――残ったのはテレーズ一人で、この悲劇には関心を持たず、いや、自分の悲劇以外のすべての悲劇に関心を持たなかったのであるが、ぼんやり、この騒ぎにはまるで赤の他人といった態度で、みずみずしいはたんきょう(・・・・・・)(筆者註:アーモンド)を割って食べていた。警鐘はまだ鳴らなかった。やっと、ベルナールが帰ってきた。「今度は、お前の勝ちだ。騒がなくてよかったよ。燃えているのはマノの方角だ……」彼はこうきいた。「僕は薬を飲んだっけね?」それから、返事も待たず、ふたたび、コップの中に垂らしはじめた。テレーズはめんどうくさくてだまっていた。むろん、疲れていたのである。この瞬間に、彼女は何を望んでいたろうか? 「初めから、だまっていようと思っていたなどということはありえない」

 とはいえ、その晩、吐いたり泣いたりして苦しんでいるベルナールの枕もとで、日中のできごと(・・・・)についてきいたドクトル・ペドメイにむかって、彼女は食卓で目撃したことを何一つ語らなかった。》

 

 ベルナールは世間体からテレーズをアルジュルーズに幽閉する。

《テレーズは、窓の前に立ちつくしていた。白い砂利が少し見え、柵(さく)で家畜の群れからまもられている菊の花の匂(にお)いが鼻をついた。そのむこうには、一かたまりの黒いかし(・・)の木が松林をかくしている。が、松脂(まつやに)の匂いが夜の闇(やみ)の中にいっぱい立ちこめている。目には見えぬが、すぐまぢかまで迫っている敵の軍勢といったかっこうで、松林が家をとりまいていることを、テレーズは知っている。この番人たち、その低い嘆きの声に彼女はじっと耳をすましているが、この番人たちは、彼女が幾冬をかさねて衰え、酷熱の日にあえぐのを、見るであろう。彼らはこの緩慢な窒息作用の目撃者となるであろう。》

 

《ベルナールは、その日は外出しなかった。テレーズはタバコをふかしていたが、吸殻を投げ捨てると、階段の踊り場の上に出てみた。夫が、階下の一室から別の部屋へ歩きまわっている足音が聞えた。パイプでくゆらすタバコの匂(にお)いが、部屋の中まで流れこんできて、テレーズのふかすブロンド・タバコの匂いを消した。彼女は昔の自分の生活の匂いを認めた。雨の季節の第一日……火の消えかかっているこのだんろの片隅(かたすみ)で、どれだけ、こうして、日を送らなければならないのだろうか?》

 

 アヌの婚礼を待ってベルナールはテレーズを放してくれる、パリの深い底へ沈めるように。

婚礼の直後、世間体を思ったベルナールはテレーズについてパリまで来てしまったが、はやく南部行きの汽車に乗ってランドに帰りたい。

《彼女は人間の流れをじっとながめた。彼女のからだがぶつかってゆくと、開き、まきこみ、ひっぱってゆくに相違ない、この生きたもののかたまり。もう何もすることはない。ベルナールはまた時計を出して見た。

 ――十一時十五分前か、これからホテルへよればちょうど……

 ――旅行をなさるのに暑すぎなくていいわね。

 ――それどころか、今夜あたり、自動車の中では、外套(がいとう)でも着なくては。

 テレーズは、頭の中で、彼が車を走らせてゆく街道を思いうかべた。冷たい風が自分の顔をなでるような気がした。沼の匂いのする風、樹脂の匂いのする木くず、草を焼く火、薄荷(はっか)、霧。彼女はベルナールをながめた。そして例の微笑をうかべた。昔、ランドの婦人たちに、「あの人を美しいと言いきるわけにはゆきませんよ。けれども、まあ、じつにすばらしい魅力ですね」と言わせた微笑を。もしもベルナールが「許す、いっしょにおいで……」と言っていたなら、彼女は立ちあがって、いっしょについていったであろう。が、一瞬、心をゆり動かされたことにいらだったベルナールは、それが過ぎるともう、なれない動作にたいする嫌悪(けんお)、毎日習慣的にかわしている言葉とは別の言葉にたいする反撥(はんぱつ)を、感じるばかりだった。ベルナールは、彼の馬車と同じように、「道幅に合わせて作られた」人間である。彼はわだち(・・・)を必要とする。》

 

 匂いの役割は、いつしか料理、飲み物に変化してゆくかに見えるが、クリステヴァプルーストにおいて、《口による快楽と、それが引き金になって現れる溢れんばかりの回想とを思い起こしてみるとよい。感覚能力の原初的(アルカイック)な投錨である飲み物と食べ物は、語り手と登場人物たちの欲望の中心的な場所を占めている。》といったことはなく、小説の舞台ランド地方のように不毛だ。

 保存食ともいえる油づけ(コンフィ)、冷製の肉は死体のようでもある。

 出てくるブドウ酒(ワイン)は、ボワでのライン産もそうだったが、忌避するかのように地元ボルドー産以外である。

 

《あかつきの鶏が、小作地の人々をめざめさせる。サン‐クレールの教会の鐘が東風に乗って鳴っている。テレーズのまぶたがやっととじる。と、また、男のからだが動く。彼は、大急ぎで、百姓の着物を着る(冷たい水にそそくさと顔をつけただけで)。彼は犬のように台所へ飛んでゆく。台所の戸棚(とだな)の中の残りものに鼻を鳴らしながら。ほんの一口、大急ぎで食べる。冷たい鶏の油づけを一切れか、それともブドウの一房か、にら(・・)いりのパイ、一日のうちでの彼のいちばんのごちそう! 彼は、あごを鳴らしているフランボとディアーヌにもわけてやる。霧はまるで秋の匂(にお)いがする。ベルナールがもはや苦しまなくなる時刻、ふたたび身うちに、全能の若さを感じる時刻である。》

《田舎では、たくさんの女が産褥(さんじょく)で死ぬ。テレーズは、自分も母親と同じようにして死ぬだろう、たしかに、母親と同じ運命が自分を待っていると断言して、クララ伯母を何度も泣かせた。テレーズはそのたびに、「いいわ、死んだって、平気よ」とつけ加えることを忘れなかった。それはうそだった! このときほど、彼女が、生きることをはげしく願ったことはなかった。それに、また、ベルナールも、このときくらい心づかいを見せてくれたこともない。夫は私のことを気にかけてくれたのではない。私がおなかの中に持っていたものを心配していたのだ。あのぞっとするような声で、くどくどと夫のくりかえしたことを、私は一度だって実行したことがない。「野菜の裏ごしを食べなくちゃだめだよ……魚を食べちゃだめだ……今日はもう散歩は十分じゃないか……」乳の質がいいためにだいじにされる赤の他人の乳母(うば)以上に、私はこれらの言葉から心を動かされなかった。》

《アルジュルーズ以外の場所では生きてゆけないという理由で、クララ伯母は、私の枕もとに侍ることを承知しなかった。そのかわり、たびたび、どんなお天気のときでもおかまいなしに、例の「道幅に合わせた」二輪馬車を飛ばして来てくれ、私が子供のころには好きだった砂糖菓子、いまでも好きだと伯母の思っている砂糖菓子、を持ってきてくれた。裸麦の粉と蜂蜜をかためた例の灰色の玉でミックと呼ばれるもの、フーガスとかルーマジャドとか呼ばれる菓子、を持ってきてくれた。》

《クララ伯母は、息を切らしながら、燭台(しょくだい)を片手に、階段をあがった。

 ――お前たち寝ないのかね? テレーズは疲れているだろうに。部屋にスープとひなどり(・・・・)の冷肉がそろえてありますよ。

 が、夫婦は、ひかえ間の中につっ立ったまま、動かなかった。》

《七時ごろ、バリヨンの女房が、ハム・エッグを一皿持ってきたので、彼女は食べることをこばんだ。脂(あぶら)の匂いがむかむかしてやりきれないというのに! いつでも、油づけかハムばかり。バリヨンの女房は、これ以上のさしあげられるものがない、と言う。ベルナール様が家禽(かきん)の料理をすることをさしとめなされたので。》

《その日は、とうとう床を離れず、身じまいもしなかった。タバコが吸いたいばかりに、鶏の油づけを二口三口食べ、コーヒーを飲んだ(食べものがはいっていないと、彼女の胃はタバコを受けつけなかった)。夜のあいだのあの空想のいとぐち(・・・・)をもう一度見つけようとこころみた。それに、アルジュルーズでは、昼でも夜以上に物音がしない。午後はほとんど夜以上に暗くないとは言えなかった。一年でいちばん日の短いこのごろ、間なしに降りしきる雨が、時を一様化し、すべての時間をとけあわさせる。一つの薄あかりが動かぬ沈黙の中に別の薄あかりに追いつく。が、テレーズは不眠症になり、彼女の夢は、ますますはっきりした形をとってきた。順序をたてて、彼女は、自分の過去の世界から、忘れていた顔や、遠くから好もしく思った唇や、不意のめぐりあいや、夜偶然にすれちがったというような事実が、罪を知らぬ彼女の肉体に近づけたおぼろな肉体を、捜し求めた。テレーズは幸福を構成し、歓喜を発明していた。一つの不可能な恋愛を無からつくりだしていた。

 ――寝たきりだよ。油づけもパンも残してばかりいてさ――と、それからしばらくして、バリヨンの女房がバリヨンに言った。――だけんど、ブドウ酒のびんをきれいにあけることといったら、びっくりするから。あの女ときたら、やるだけ、いくらでも飲んでしまうて。それにまた、タバコで敷布に焼けこがしをこしらえてさ。いまに、きっと火事を出してしまうから。》

《テレーズはふたたび目をあける。ベルナールが彼女の前に立っている。コップを手に持っていて、こんなことを言う。「ぐっと飲んでごらん。スペインのブドウ酒だよ。とても力がつくから」それから、この男は、いつでもやろうときめたことは実行するので、台所へはいってゆき、いきなりどなりたてる。きんきん声のバリヨンの女房の方言を聞きながら、テレーズは、こんなことを考える。「ベルナールは心配になったのだ。きっとそうだ。何を心配したのか?」ベルナールはひきかえしてくる。(中略)テレーズは、自分の正面に腰をおろしてだんろの火をいじっている夫を、じっと見まもる。が、彼女は、夫の大きな目がほのおの中に見ている姿を、『プチ・パリジャン』紙の赤と緑の二色ずりの付録「ポワチエの女囚」(筆者註:1900年頃、ポワチエでおきた事件。家族の反対する恋愛のために二十五年間幽閉されていた女が、著名の手紙の告発で救出された。同じように世間から告発されることをベルナールは怖れた)の絵を、おしはかるよしもない。》

 

 モーリヤックは『テレーズ・デスケイルゥ』執筆と並行して評論『ジャン・ラシーヌの生涯』を著したが、「古典主義作家ではラシーヌパスカルの他に師はいない。二人が師なのは、彼らに自分の兄弟を見出すからである」と序文に記している。

 なるほど『テレーズ・デスケイルゥ』には、ラシーヌ『フェードル』の影がある。

 ロラン・バルトは『ラシーヌ論』の作品論で次のように指摘したが、テレーズはフェードルの分身、同族、末裔である。

《冒頭からフェードルは、自分が罪深いことを知っている。彼女が罪ある身だということが問題なのではなく、彼女が沈黙していることが問題なのだ。そこにこそ、彼女の自由もかかっている。フェードルはこの沈黙を、三度破る。すなわち、エノーヌの前で(一幕三場)、イポリットの前で(二幕五場)、テゼーの前で(五幕七場)。この三回の沈黙の破棄は、段階的に重みを増す。その度ごとに、フェードルは、言葉の一層純粋な状態に近づく。》

《事物は、まさにそれが隠された瞬間から、罪あるものとなる。ラシーヌ悲劇の人間は、自分の秘密を解き明かさない、これが彼の苦しみ=悪である。あからさまに病気と同一視すること以上に、罪過の外面的(・・・)=形式的(・・・)性格を証すものはない。フェードルの客観的な有罪性(不倫、近親相姦)とは、結局のところ、秘密による苦しみに自然の姿を与え、外的形式を内容へと有効に変形するために、後から付け加えられた、人為的な構造物にすぎない。この逆転は、ラシーヌ悲劇の構築全体を成立させている運動にほかならない、より一般的な運動と合致する。すなわち、《悪》は、それが空虚である度合いに比例して恐るべきものであり、人間はただ形式によって苦しむのである。これこそラシーヌが、フェードルにとっては罪そのものが罰であると語るとき、フェードルについて極めて適切に言い表わしたことなのである。フェードルの努力のことごとくは、おのが罪過を満たす(・・・)ことにある、つまり、《神》を免罪することにあるのだ。》

『テレーズ・デスケイルゥ』では、第二章の、裁判所からニザン街道を行く馬車のかびくさい匂いの中で、

《すべてを言おうと決心したことだけで、事実、テレーズには、すでに一種のえも言われぬこころよい身うちのゆるみを知るのに十分だった。「ベルナールに全部うちあけよう、全部言ってしまおう……」

 何を夫に言おうというのか? どういう告白から始めるか? 欲望と決意と予見不可能の行為との混沌(こんとん)とした奔流をせきとめるのに、言葉だけでたりるだろうか? みんな、どんなふうにするのだろうか、己(おの)れの罪を知っているすべての人たちは?……「私は、自分の罪を知ってはいない。人が私に着せている罪を、自分は犯すつもりはなかった。自分が何をするつもりだったのか、自分にはわからない。自分の身うちに、それからまた自分の外に、あのがむしゃらな力が、何をめざして働いていたのか、一度も自分にはわからなかった。その力が、進んでゆく途中で、破壊したもの、それには、自分自身うちひしがれ、びっくりしたではないか……」》

 テレーズが弁解の言葉を用意するなかで、ベルナールのことを、《若者としては、彼は決してそんなに醜いほうではなかった。このできそこないのイポリット(訳注:ギリシャ神話・テゼ王の息子。義母フェードルに求愛された)(筆者註:モーリヤックはラシーヌ『フェードル』を意識している)は――若い娘よりは、ランドに追いつめる兎(うさぎ)のほうに、よけい気をとられている若者は……》と作者モーリヤックは揶揄する。

 

 テレーズの「告白」はなされずに最終十三章まで来る。パリのカフェ・ド・ラ・ペのテラスで。

《――テレーズ……一つききたいことがあるのだ……

 ベルナールは目をそらした。この女の視線をささえることは、どんな場合でも、彼にはできないことだった。それから、大急ぎで、

 ――知っておきたいのだ……例のことは、例のことは、僕を憎んでいたからなのかい? 僕がおそろしかったからか?

 彼は、自分自身の言葉に聞きいりながら、驚きをおぼえ、いらだたしさを感じる。テレーズはにっこり笑い、それから、まじめな顔でじっと夫を見つめた。とうとう! ベルナールが彼女に問いをかけた。もしもテレーズが、ベルナールの位置に立ったとしたなら、まっさきに彼女の頭にうかんだに相違ないその問いを! ニザン街道を走っているあいだじゅう、馬車の中で、それからサン‐クレール行きの軽便鉄道の中で、長い時間をかけて用意したあの告白、あの探究にあかした夜、しんぼう強いあの探索、自分の行為の源泉にさかのぼるためのあの努力、――つまり、あのしんの疲れる自分自身への帰還、それが、ことによったら、むくいられるときに達したのだ。(中略)

 ――私は、どんなに、全部あなたに知っていただきたいと思ったか知れませんわ。私がどんな苦しみに身をまかせたか、あなたがごぞんじだったら、ただ、はっきり見たいということのために……でも、あなたに聞いていただけるようなすべての理由は、私の口から出るともう、うそっぱちなものに思えそうなのですもの、ほんとにわかっていただけるかしら……

 ベルナールはいらだった。

 ――とにかく、一度は、お前が決心をした日があったのだろう……お前が行動に訴えた日が?

 ――ええ、そうよ、マノの大火事の日ですわ。

 二人は額をよせ、声をひそめてしゃべっていた。このパリの十字街で、この軽快な太陽の下で、外国タバコの匂(にお)いが流れ、黄と赤の窓かけのあおられている、少し涼しすぎるこの風の中で、あの酷熱の午後を、煙でいっぱいの空を、くろずんだ青空を、焼けた松かさの放つあの鼻をつくたいまつ(・・・・)のような匂いを、――そしてしだいに罪が形をなしていった眠っていたあのときの彼女自身の心を、思いうかべることが、テレーズには、ふしぎな気がする。

 ――どういうふうにしてああなったか、これから申しますわ。正午でもあいかわらず薄暗い、あの食堂にいたときでした。あなたは何かしゃべっていらっしゃいました。少しバリヨンの方をふりむいて、コップの中にたらしている薬の滴の数を数えることを忘れながら。

(中略)

 ――聞いてちょうだい、ベルナール、私の言っていることは、私の無実をあなたに思いこませようというためではありません。まるでちがいますわ!

 彼女は自分に罪をおわせるのにふしぎな情熱をつぎこむ。このように夢遊病者のような行動に出たことは、テレーズの言うことを聞いていると、彼女が、何ヵ月も前から、罪深い考えを養い、心の中に迎えていたと解さなければならぬ。それに、最初の動作をすましてしまうと、じつに明晰(めいせき)な熱烈さで、彼女は自分のくわだてを遂行したではないか! そして、なんという執拗(しつよう)さで!

(中略)

 ――私が何を望んでいたかですって! 私が何を望まなかったかを言うほうがむろんやさしいでしょうよ。》

 

 小説は、ともかくも次のように終わる。

《テレーズは、ベルナールの杯の底に残ったポルトのしずくを、長いこと見つめた。それから、ふたたび、通行人の顔をつぎつぎにながめた。(中略)空腹をおぼえたので、立ちあがって、オールド・イングランド(筆者註:パリ、オペラ・ガルニエ広場のカフェ・ド・ラ・ペからほど近い英国風紳士服店)の鏡の中に、自分の姿である若い女をながめた。ぴったりからだについた旅行着がよく似合っていた。が、アルジュルーズ時代のなごりで、顔だけはまだむしばまれたようなあとがとれなかった。とびでた頬骨(ほおぼね)、肉の落ちた鼻。テレーズはこんなことを考えてみる。「私の顔は年がわからない」彼女は(たびたび夢想の中でしたように)ロワイヤル街で昼食を食べた。帰りたくないのに、なぜホテルへ帰るのか? プイイ(筆者註:ブルゴーニュ・ワイン)の小びんのおかげで、ぽっと身うちのほてるまんぞく感がわいてきた。タバコをたのんだ。隣のテーブルにいた若い男が、ライターをすって彼女の方にさしだした。(中略)

テレーズは少し飲み、たくさんタバコをふかした。みちたりた女のように一人で笑った。念いりに、頬と唇のべに(・・)をひきなおした。それから、往来に出ると、あてもなく歩き出した。   (了)》

 

 モーリヤックの「インタビュー集」から。

《◇もしよければ、あなたの最も重要な作品のひとつ『テレーズ・デスケィルー』(一九二七)に話題を移しましょう。もしテレーズを定義しなければならないとしたら、どのような表現でなさいますか。

⇒彼女は、存在の困難さそのものの体現です。それは、ひとりの女性のなかにある不適応性の物語なのです。(一九六六)》

《◇あなたの映画のなかで、アンヌはもっとも重要な人物であるとお思いになりませんか。実際、テレーズにベルナールとの結婚が失敗だったとわからせたのは、アゼヴェドに対するアンヌの恋なのですから。

⇒アンヌ、あれは試金石です。テレーズのドラマとは、「道のない土地」に住んでいることです。同じような土地に住んでいる人たちの数は、今も変わっていません。テレーズ・デスケィルーは、人生の犠牲者です。彼女の居場所は、この地上にはありません。ランド地方が今もそうであるように、がっしりとした階級制度でかためられた土地に生きてきたのです。そこに悲劇が起こりました。わたしの言うのは、むろん、一九二〇年のランド地方のことです。テレーズ・デスケィルーのドラマは、当時、ほとんどすべての家庭で起こっていました。女の子は、裕福な家庭の出身である場合、サクレ=クール女学院で教育を受け、そうでない場合は、小作農の生活を送っていたのです。当時、既婚女性のある人たちの犠牲的な生活は、今日では想像を絶するものでした。(一九六二)

◇テレーズ・デスケィルーは、今日もまた存在するとお考えでしょうか。

⇒もちろんですとも。条件は変わりましたが、テレーズ・デスケィルーは生き残っています……。毒を盛った女は、復活します。彼女は夫に砒素を盛ったのです。我慢のならなかったでっぷり肥えた夫ベルナールに。とはいえ、他の男よりも悪いというわけではないのですが。この小説は――映画もですが――、人なみすぐれた女性を犯罪へと押しやるこの嫌悪の物語です。その女性の敗北とわが身に受ける罰の物語なのです。(一九六二)

◇このようなタイプの女性が「生き残って」いるとどうして言い切れるのですか。テレーズ・デスケィルーのような女性は、怪物なのでしょうか。

⇒テレーズ・デスケィルーが怪物ですって。小説の序文にはそのように書きましたが、当時としては必要であった慎重さ、警戒心のためでした。実際には、全面的にこの女性の味方です。わたしにとって怪物性とは、行為にあるのではなく、魂の不在にあるのですから……。(一九六二)》

 

『パリ・レヴュー』誌のインタビューで、モーリヤックは小説の技法論として、

《『テレーズ・デスケールー』のなかでは無声映画からヒントを得た方法――つまり前もって行う説明の省略、突然の情景提示、フラッシャ・バックなどを用いました。それは、当時では、斬新で、意表をついた方法だったのです。》と答えているが、ここにはデュラスの映画的手法と共通項がある。

 

<デュラス『モデラート・カンタービレ』>

 デュラスの『モデラート・カンタービレ』で、ブルジョワの女アンヌ・デバレードと失業者ショーヴァンは、偶然目撃した情痴事件について男が女を殺害した海辺のカフェで毎日ワインを飲みながら語り合い、夢想するうち――女が男に自分を殺してくれとせがんだのではないか――、しだいに狂おしい熱情(パッシオン)に昇りつめてゆく。

 7章と最終8章は匂いと料理からなるが、その前の3章から伏線がある。

 木蓮の匂いの記憶とともに、男が女を殺した心理についてのアンヌの詮索がはじまる。

 

 デュラスの小説に登場する女の特徴として、エレーヌ・シクススはミッシェル・フーコーとの対談で、

《デュラスの作品でとても美しい言回しがあると思うと、それはきまって受動態、つまり誰かが(・・・)見つめられている(・・・・・・・・)、といった文章なんです。《彼女は》見つめられ、見つめられているのを知らない。ここで視線は主体の上に投げかけられているんですが、主体は視線を受けとっていない。》と指摘したように、アンヌもまた「見つめられる」人である。モーリヤックのテレーズが「見る」人だった(たとえばマノの大火の日、ベルナールが薬の量を間違えるのを見とどける)のに対して。

 

 匂いとイメージ。

《彼女はつとめて話題を探し出した。

「わたしは海岸通りの一番端に住んでるの、町の終わる最後の家よ。ちょうど砂丘の真前にあたるの」

「お宅の庭の柵の、左の角にある木蓮(マグノリア)は満開ですね」

「ええ、ちょうど今頃はあまり花が多いので、夢にまで出てきて、その翌る日一日じゅう気持ちが悪くなるくらいよ。とてもたまらないので窓を閉めておくの」

「今から十数年前に結婚なすったのもあの家ですか?」

「ええあの家よ。わたしの部屋は二階の左手にあって海に面してるの。この前あなたは、あの男が女を殺したのは、女にそう頼まれたからだ、要するに女の気にいるためだっておっしゃったわね?」

 彼は質問に答えず手間取っていたがようやく彼女の肩の線を見やった。

「今頃窓を閉めておいたら、さぞかし暑くて寝苦しいでしょう」と彼は言った。

 アンヌ・デバレードは、話題のうわべの必要度以上に真剣になった。

木蓮の匂いってすごく強いのよ、わかるかしら」

「わかりますよ」

 彼は彼女の肩の直線から視線をはずし、彼女から眼をそらした。

「二階には長い廊下がありませんか、あなたやお宅のほかの人たちが行ったり来たりして、みんなを結びつけると同時に切り離す役目をする非常に長い廊下がないですか?」

「そういう廊下があってよ」とアンヌ・デバレードは言った。「しかもあなたの言った通りよ。お願いだから言ってくださらない、どうやってあの女が、ああすることこそ男に対して自分が望んでいたことなんだって発見するようになったのか、どうやって彼女が男に対する欲求をあそこまで悟ったのか」

 彼の眼が、いささか凶暴性をおびて、ふたたび彼女の眼をじっと見つめた。

「ぼくの想像では」と彼は言った。「ある日、暁方かなんかに突然、彼女は男に対する自分の欲求を悟ったんですよ。自分の欲求が何であるかを男に打ち明けるくらい、すべてが彼女にとって明瞭になった。そうした種類の発見には、ぼくが思うに説明は不可能ですよ」》

 

 匂いと料理とワイン。

《三代がかりで購入したという銀の皿に乗せられて、一匹まるごと冷やした鮭が出る。宮中の小姓よろしく、黒い服に白の手袋をはめた一人の男がそれを運び、晩餐開始の沈黙のうちにそれぞれの客に差出してゆく。それを話題にとりあげないのがたしなみというものである。

 庭園の北のはずれでは、木蓮がその香を発散し、それは砂丘から砂丘をわたって消えてゆく。今宵、風は南風である。一人の男が海岸通りをさまよい歩いている。一人の女がそれを知っている。

 鮭は儀式的に手から手へ渡されてゆく。この儀式を乱すものといえば、各人の胸に秘めた危懼――これほどの完璧さが、あまりにも明白な一人の非常識のために、にわかに破壊され傷つけられるのではないかという危懼の念をのぞいて、何もない。外では、初春の夕闇のうちに、庭園の木蓮が、その葬儀ともいうべき開花に精を出している。

 吹き行き吹き来り、町の中の障害物にぶつかってはまた吹きぬけてゆく風の波にのって、その香は、男に届いたり彼から離れたり交互にそれを繰り返している。

 台所では女たちが、額に汗をうかべ、腕によりをかけて次の料理を仕上げ終わり、オレンジの経帷子に覆われた鴨の死体を剥いでいる。そうしているうちにも、大洋の広々とした水からあげられた、バラ色の、蜜のような味のする鮭は、ほんのわずかな時間の経過のうちに醜く変わり、完全なる消滅に向かって避けることのできない歩みを続けている。また一方、鮭の消滅に伴うこの儀式に、何か失態が生じるのではないかという懸念も次第に雲散霧消してゆく。(中略)

 アンヌ・デバレードは絶えず飲んでいる。今宵このポマール(訳註:ブルゴーニュ産の赤ぶどう酒)は通りにいる男のまだ触れたことのない唇の、すべてを忘れさせてくれる味がする。(中略)

 木蓮の花弁はなめらかで、つるつるした穀粒のような感触である。彼女の指は、穴があくまで花弁をもみくちゃにし、それからはっと狼狽して中止し、テーブルの上に置き直され、待機の姿勢で、さりげない体裁を整えようとするがそれも空しい。なぜなら向かいの男が彼女の指に気づいたから。アンヌ・デバレードはほかにすることがなかったんだという意味の言訳の微笑をうかべようとするが、酔いが廻って、その顔は酩酊の度合いを、羞恥の色もなく、あからさまに表にあらわしている。重苦しい視線がじっと彼女にそそがれているが、その視線は感覚反応を失っている。さんざん煮え湯を飲まされて、その視線はすでにどんなことにも驚かなくなってしまっているのだ。こんなことになるだろうと、とうから予測していたのだ。

 アンヌ・デバレードは、眼をなかば閉じながら、またグラスの酒を一杯全部飲む。彼女はもはやそうする以外何もできなくなっている。彼女は飲むことによって、これまでの隠微な欲求の正体を確認し、この発見に言語道断な慰めを見出す。(中略)

 アンヌ・デバレードは料理をことわったところだ。しかし彼女の前にはまだ皿が置かれたままである。極めて短い時間だが顰蹙(ひんしゅく)を買う時間だ。彼女は辞退の申し出を繰り返すため、教わった通り手を上げる。それ以上に無理に押しつけられない。テーブルの彼女のまわりは沈黙に陥った。

「みなさんに悪いんですけど、わたしは食べられそうにないんです」

 彼女はもう一度、花の高さに手を上げる。花は胸の間で萎れかけ、その香は庭園を越えて海にまで達する。

「おそらくその花のせいじゃないか?」と突っ込まれる。「その匂いはひどく強いから」

「いいえ、この花にはなれてます、なんでもないんですの」(中略)

 アンヌ・デバレードは満たされたばかりのグラスをもう一度取って飲む。彼女の妖女のような腹は、人とはちがって酒の火気によって養われるのだ。両側から重い花を囲む重い胸は、うって変わった憐れな花の姿に疼(うず)き、彼女は悲痛な思いを抱く。声には出さないが一つの名前を一杯にふくんだ彼女の口の中を酒が流れる。 この無言の出来事のため腰が割れるように痛む。》

 

《アンヌ・デバレードは、モカのアイスクリームを、干渉を避けるために少し食べるだろう。》

 クリステヴァは『プルースト 感じられる時』で、《アイスクリームは、『囚われの女』の有名なページのなかで、語り手とアルベルチーヌとの愛を、象徴するというよりも、実現し、あるいは受肉させ具現化している。オレンジエードと同じように、アイスクリームは、アルベルチーヌの愛とアルベルチーヌに対する愛の、媒体であると同時に実在(・・・・・・・・・・・)となっている。渇望、貪欲さ、なめらかさ、溶けかかった姿、消滅、束の間の快楽、凍るように冷たい欲望、抵抗力のある岩、難攻不落の山、体にも温泉源の火があることを知ることのないよう運命づけられた恋人たちの幻想(ファンタスム)の岩盤。口唇の欲望の激しさを含意として示しているアイスクリームは、感度のよい繊細な口蓋palaisに結びつけられている。豪奢な宮殿palais、ヴェネチアまたはホテル・リッツ。アイスクリームはまた、記念碑の如く聳えるゼリー、宙吊になっていて、凝結しているだけにいっそう艶かしい欲望と不可能性との壮麗なゼリーでもあるだろう。主人公がそれを食べたいと思うまさにその瞬間に溶けだすかもしれないが。》と論じたが、アンヌはあまりにそっけない。

 

 アンヌ・デバレードは子供を取り上げられる。

《「今週からね、わたし以外のほかの者があの子をジロー先生のレッスンへつれてゆくことになったのよ。わたしの代わりをほかの者がやることを、承知したの」》

《アンヌ・デバレードが言った。

「あの子はね、あなたに話す暇がなかったけど……」

「知ってます」とショーヴァンが言った。

 彼女はテーブルの上から手を引っ込め、相変わらずそこに置かれているショーヴァンの手をじっと見つめた。彼の手は震えていた。それから彼女はおだやかな口調で、堪(こら)えきれなくなった歎きを訴え始めたが――ラジオの音に消され――それは彼にしか聞き取れなかった。

「時々あの子は」と彼女は言った。「わたしの想像の世界に生きているような気がして……」

「お子さんのことはわかっています」ショーヴァンがにべもなく言った。》

『テレーズ・デスケイルゥ』でも、夫ベルナールは娘マリをテレーズから引き離した。

《――マリは?

 ――マリはあす、女中といっしょに、サン‐クレールへやる。それからお母さんに南仏へつれていってもらう。健康のためという理由にすればいい。まさか、あの娘(こ)を手もとにおかせてくれなどとは言わないだろう? あの娘だって、安全をはかっておいてやらなければならん! 俺がいなくなった後は、あの娘が二十一になれば、財産はあの娘のものだからな。ご亭主のつぎは、子供がねらわれる番だ……ないとは言えないだろう。》

 

 理解することの不可能性。

《「彼があの女に会うまでは、いつか自分があんな欲望を抱くようになろうとは、夢にも思っていなかったでしょうね」

「彼女は彼の意向にすっかり同意したわけね?」

「感嘆したくらいですよ」

 アンヌ・デバレードはショーヴァンの方にうつろな視線をあげた。彼女の声はかぼそくなり、子供の声のような感じを与えた。

「いつかはああなりたいというその欲望が、なぜそんなにすばらしいものに思われてきたのかしら、そこのところをすこし知りたいわ」

 ショーヴァンは依然として彼女の方を見なかった。彼の声は、落ち着いた、響きのない声で、よく通らなかった。

「知ろうとしても無駄ですよ。そんなところまで理解することは不可能です」

「こういったことは、放っておくほかはないっていうわけ?」

「そういうことですね」

 アンヌ・デバレードの顔は生気を失い、ほとんど間抜けのような表情になった。彼女の唇は蒼白さを通りこして灰色になり、泣き出す前のように震えていた。

「男の意志をさまたげるために何かしようとするような気持ちは彼女に全然ないのね」と彼女は小声で言った。

「ないでしょうね。もうすこし飲みませんか」

 彼女は前と同じようにちびちび飲んだ。それから彼も飲んだ。彼の唇もまた、グラスの上で震えていた。》

 

 小説はこう終わる。『テレーズ・デスケイルゥ』のテレーズのように、あてもなくアンヌが歩き出して。

《「怖いわ」とアンヌ・デバレードはつぶやいた。

 ショーヴァンはテーブルに体を寄せて彼女を求め、求めながらやがて諦めた。

 その時彼女が、彼のなし得なかったことをやってのけた。彼女は、二人の唇が接するくらいの近さまで彼の方へ体を乗り出した。二人の唇は重なり合った。先刻、彼らの冷たい震える手が行なったのと同じ死の儀式にのっとり、触れ合わねばならぬという意志のもとに、彼らの唇はそのままの姿勢を続けた。儀式は成就された。(中略)

「わたしはあんな風になれそうもないわ」と彼女はつぶやいた。

 それはもはや、彼の耳にはいらなかったかもしれない。彼女は上着の前を合わせ、ボタンをかけ、体をきつく締めあげ、またしても荒々しい呻き声をあげた。

「とてもだめだわ」と彼女は言った。

 それはショーヴァンの耳にはいった。

「もう一分」と彼は言った。「そしたらぼくたちもああなれるかもしれない」

 アンヌ・デバレードはその一分を待った。そして椅子から立ち上がろうとした。ようやくの思いで彼女は立ち上った。ショーヴァンは他所(よそ)を見ていた。男たちはなお、この姦婦に眼を向けるのを避けた。彼女は立っていた。

「あなたは死んだ方がよかったんだ」とショーヴァンが言った。

「もう死んでるわ」とアンヌ・デバレードは言った。(中略)

 彼女は、カウンターにたむろする男たちを通り過ぎ、その日の終わりを示す赤い光線を浴びて西日に向かい合った。

 彼女が去ってしまうと、女主人はラジオのヴォリュームをあげた。幾人かの男が、音が大きすぎると不平を言った。   (了)》

 

 デュラスはインタビューで、

《「他の視線と絶えず交差し、そして他の視線へと吸いこまれるひとつの視線。視線は、それによって登場人物と物語の現実が明らかにされる真の認識手段にとどまっています。たがいに重なり合う視線。登場人物のひとりひとりがだれかを見つめ、そのだれかから見つめられる。(中略)男女一組のあいだに情熱が燃えあがるのを目撃する、第三の人物の絶えざる存在という仮説を確認したいかのようですね。」》と訊かれて、次のように答えている。

《「わたしはつねに、愛は三人で実現すると考えていました。一方から他方へと欲望が循環するあいだ、見つめているひとつの目。精神分析は、原風景の執拗な繰り返しについて語ります。わたしは、ひとつの物語の第三の要素としての書かれた言葉(エクリチュール)を語るでしょう。だいいち、わたしたちは、自分がしていることと完全に一致することは決してありません。わたしたちは自分がいると信じているところに完全にいることはない。わたしたちとわたしたちの行動のあいだには、隔たりがある。そしてすべてが起こるのは外部において(・・・・・・)なのです。登場人物たちは、自分たちの眼前でさらにもう一度、展開する「原風景」から除外されていると同時に、そのなかに包含され、自分もまた見られるためにそこにいることを知りながら、見るのです。」》(『私はなぜ書くのか』)

 デュラスは答える。

《「アンヌ・デバレードの生きている世界はまだわれわれと同じ世界です。そこからどうにかして離れるために、彼女は個人的体験を仲介とするほかなかった。詩的、情熱的興奮が彼女には必要だった。知的、精神的、政治的経験というのは彼女には手が届きません。ブルジョワジーの大半の女性に特有な澱みのなかで硬直していたからです。でも彼女は、パッション熱情に関しては、すばらしい天分をさずかっていたし、熱情というものは、知性よりもその動きを抑制しにくいものなのです。それが彼女にとっての唯一の通路だったのです」》(インタビュー「テレラマ」)

《「アンヌ・デバレードというのは、突如として別のものを感じ、見てしまうブルジョワ女性です。厳密にいえばとうてい生きてはゆけない社会環境の中で、彼女は熱情―殉教(パッシオン)の剽窃を通して死ぬことになるのです。彼女の受ける変化は不可逆的なものですが、そのあと、彼女にはなにひとつ提供されません。子供まで取りあげられてしまったのです。」》(インタビュー「ル・モンド」)

《「彼女にはもはやなにひとつ残されていません。私の考えでは、彼女はおそらく狂気に向かって歩いて行くのです。」》(インタビュー「ル・モンド」)

 

 ピーター・ブルック監督の映画『モデラート・カンタービレ』について、デュラスは女主人公を演じたジャンヌ・モローへインタビューしながら自らも語っている。

撮影現場とされたジロンド川は『テレーズ・デスケイルゥ』の舞台ボルドーを貫くガロンヌ川下流域名である。とっさにデュラスがでっちあげたアンヌの少女時代はテレーズのそれをイメージさせないか。

《――(ジャンヌ)『モデラート』のときには、死んだも同然でしたね、女主人公がそうだったように。『ジュールとジム』のときも同じでした。

(デュラス)わたしは『モデラート』が撮影されていたとき、毎日ジャンヌに会っていた。だから役を「自分のものにする」ために、彼女がいかなる知識、いかなる決意を込めるか知っている。

 撮影の直前、彼女がわたしたちから離れざるをえないその危機的な時期に、映画が撮影される予定のジロンド川河口べりの小さな町ブレーに彼女は住みこんだ。そこは藺草(いぐさ)の町で、鴨、チョウザメ、グラ―ヴ岬の赤ぶどうで知られている。

――(ジャンヌ)一週間、わたしはブレーじゅうをほっつき歩きました。あの町が頭のなかだけではなく足にも叩き込まれるまでね。すこしづつわたしはブレーの住民になっていったのです。

(デュラス)いつも彼女は、自分が演じる予定のヒロイン、アンヌ・デバレードについていっそう知りたがった。アンヌの青春について、少女時代について、わたしに絶えず情報を求めた。もっと、もっと。撮影台本のなかでは検討されていないこれこれの状況においてアンヌならばどうしたか知ろうとした。ある日わたしは彼女のためにアンヌの素性をでっちあげた。「あなたはリモージュの近郊で生まれたのよ。お父さんは公証人でした。三人の兄弟がいたの。あなたは孤独で夢見がちな少女時代を過しました。毎年秋に行っていたソローニュ地方で、ある日、猟をしていて、あなたはやがて夫になるデバレード氏に遭ったのです。二十歳の時でした。等々」ジャンヌは驚嘆していた。「そのとおりよ……まったく……。なぜもっと早く言ってくれなかったの?」わたしは彼女のために、彼女を助けるために、たったいまでっちあげたのだと白状した。》(『アウトサイド』)

 いや、デュラスがでっちあげた少女時代だけでなく、アンヌ・デバレードとテレーズ・デスケイルゥは、まるでラカン「二人であることの病い」のパパン姉妹のような鏡像に違いない。                                              

                                   (了)

          *****引用または参考文献*****

*モーリヤック『テレーズ・デスケイルゥ』杉捷夫訳(新潮文庫

*モーリアック『テレーズ・デスケルウ』遠藤周作訳(講談社文芸文庫

*モーリヤック『テレーズ・デスケルー』福田耕介訳(上智大学出版)

*『筑摩世界文学大系55 ジイド、モーリヤック』(「解説」菅野昭正所収)(筑摩書房

*『モーリヤック著作集1~6』遠藤周作高橋たか子他訳(月報「小説家の意識と在り方」辻邦生所収)(春秋社)

*キース・ゴシュ編『フランソワ・モーリヤック インタビュー集 残された言葉』田辺保・崔達用訳(教文社)

*『作家の秘密 14人の作家とのインタビュー』(「フランソワ・モーリアック辻邦生訳所収)(新潮社)

*クロード・エドモンド・マニー『現代フランス小説史』(「第五章 静寂主義の小説家――フランソワ・モーリヤック」若林真訳所収)(白水社

*『グレアム・グリーン全集2 神・人・悪魔 八十のエッセイ』(「フランソワ・モーリアック」所収)前川祐一訳(早川書房

サルトル『シチュアシオンⅠ』(「フランソワ・モーリヤック氏と自由」所収)小林正訳(人文書院

遠藤周作『私の愛した小説』(新潮社)

*『遠藤周作文学論集』(講談社

遠藤周作カトリック作家の問題――現代の苦悩とカトリシズム』(早川書房

マルグリット・デュラスモデラート・カンタービレ』田中倫郎訳、解説(河出文庫

*『マルグリット・デュラス 生誕100年愛と狂気の作家』(吉田喜重「モラルと反モラルのはざまで」、郷原佳以「三角関係の脱臼――書くことと愛、ブランショとデュラス」他所収)(河出書房新社

*『ユリイカ 増頁特集 マルグリット・デュラス』(ミッシェル・フーコー/エレーヌ・シクスス「外部を聞く盲目の人デュラス」、ジャック・ラカンマルグリット・デュラス賛――ロル・V・シュタインの歓喜について」、瀬戸内寂聴「デュラス、愛と孤独」他所収」(青土社

*デュラス『愛人 ラマン』清水徹訳(河出文庫

*デュラス『私はなぜ書くのか』聞き手レオポルディーナ・パッロッタ・デッラ・トッレ、北代美和子訳(河出書房新社

*デュラス『アウトサイド』(「ジャンヌ・モローの静かな日常」所収)佐藤和生訳(晶文社

プルースト失われた時を求めて吉川一義訳(岩波文庫

*『ベンヤミン・コレクション2 エッセイの思想』(『プルーストのイメージ』久保哲司訳所収)(ちくま学芸文庫

ジュリア・クリステヴァプルースト 感じられる時』中野知律訳(筑摩書房

ロラン・バルトラシーヌ論』渡辺守章訳(みすず書房

ジャック・ラカン『二人であることの病い パラノイアと言語』宮本忠雄、関忠盛訳(講談社学芸文庫)