文学批評/オペラ批評  シラー/ヴェルディの『ドン・カルロス』について

  

 

<フリードリヒ・シラー>

 フリードリヒ・シラーのことは、世界史の教科書で、ゲーテと共に「シュトルム・ウント・ドランク

Sturm und Drang」(18世紀後半、啓蒙主義、理性に反発し、感情の優越を唱えてロマン主義へつながる)時代の人物と教えられたくらいで、ゲーテと違って作品は知らない、というのが大勢ではないか。

 しかし、ドイツやロシアでは違う。たとえば、ドイツのトオマス・マン、ニーチェ、ロシアのドストエフスキーはいろいろなところでシラーについて言及し、引用した。

 

 トオマス・マンの『トニオ・クレエゲル』の冒頭近く、

《「僕この頃ね、すばらしいものを読んだんだよ、そりゃ素敵なものを……」とトニオは言った。二人はミュウレン街のイイヴェルゼン雑貨店で、十ペンニヒ出して買ったドロップスを、歩きながら一緒に、一つ袋から食べている。「君ぜひ読んでみたまえよ、ハンス。それはね、シラアの『ドン・カルロス』なんだ。……もし読む気なら貸して上げるぜ……」

「いや、よそう」とハンス・ハンゼンは言った。「貸してくれなくてもいいよ、トニオ、そういうものは僕にゃ合わないんだもの。僕はやっぱり、いつもの馬の本がいいんだよ。そりゃ面白い挿画(さしえ)が入ってるんだぜ。今度僕の所へ来たとき見せてやろうね。それは早取写真でね、馬が早駈けをしたりギャロップをしたり、飛び上がったりしてるところが――つまり実際だとあんまり早すぎて、とても眼で見られないような、いろんな恰好(かっこう)をしてるところが分かるんだ……」

「いろんな恰好をしてるところが?」とトニオは丁寧に問うた。「なるほどそりゃ面白いね。だけど『ドン・カルロス』のほうはね、それこそだあれも想像がつかないくらいなんだよ。その中にはね、いいかい、非常にいいところがあってね、そこを読むと、ごつんと音でもするほどなぐられたような気がするんだ……」

「ごつんと音がするんだって?」とハンス・ハンゼンが問うた。「どうしてさ」

「たとえばね、こういうところがある。侯爵に欺だまされたもんで、王様が泣いたというところがね。……でも侯爵はただ、皇子のためを計って王様を欺しただけなんだぜ。分かった? その皇子のために、侯爵は自分を犠牲にしてるんだからね。そこで御居間から控えの間(ま)へ、王様が泣いたという知らせが伝わって来る。『泣かれたのか。国王が泣かれたのか』って、家来たちはみんなひどく驚くんだ。実際、それには誰でもしみじみと感じちまうんだよ。だってその王様は、恐ろしく頑固な厳格な王様なんだもの。だけど王様が泣いたわけは、実によく分かるんだ。だから本当をいうと、僕は皇子と侯爵とを一緒にしたより、もっと王様のほうがかわいそうだと思うよ。いつでもたったひとりぼっちで、誰にも愛されていないところへ、今やっと一人の人間を見つけたと思うと、その人が裏切りをするんだからな……」

 ハンス・ハンゼンは、横合いからトニオの顔を見た。するとこの顔の中の何物かが、確かに彼をこの話題にひき寄せたのであろう、彼は突然、再び自分の腕をトニオのと組み合わせて、こう尋ねた。

「一体どういう風にしてその人は王様に裏切りをするの、トニオ」

 トニオは昂奮(こうふん)し出した。

「あのね、こういうわけなんだ」と彼は言い始めた。「ブラバントやフランデルン行きの手紙がみんな……」》

 

 ニーチェはシラーを「ゼッキンゲンの道徳トランペット吹き」と当てこすってはみたが、『悲劇の誕生』でシラー的論調なだけではなく、数個所で言及し引用している。

ベートーヴェンの『歓喜』(訳註:シラーの作である『歓喜に寄す』(一七八五)をベートーヴェンが第九交響曲の最後の合唱に作曲している)の頌歌(しょうか)を一幅(いっぷく)の画に変えてみるがよい。幾百万のひとびとがわななきにみちて塵(ちり)にひれ伏すとき、ひるむことなくおのれの想像力を翔(か)けさせてみよ。そうすれば、ディオニュソス的なものの正体に接近することができるだろう。》

《シラー(・・・)は、自身にも説明はつかないが、まずは無難と思われる心理的考察によって、自分の詩作過程をわれわれに明らかにした。それによれば、詩作活動に先立つ準備状態として、彼が自己の前に、自己の中に持っていたものは、思想という秩序だった因果律を伴う一連の映像ではなく、むしろある音楽的な気分(・・・・・・)であったと告白している。

「感覚は私の場合、はじめは確定した明らかな対象をもたない。対象は、後になってはじめて形成される。一種の音楽的な情緒が先行し、そして私の場合、情緒の後にはじめて詩想が生まれるのである」

 そこで今、古代抒情詩全体を通じてもっとも重要な現象、抒情詩人(・・・・)と音楽家(・・・)との結合、むしろ同一性、――これは古代ではつねに自然のことと思われていたし、これと比較すれば近代の抒情詩のごときは頭のない神像のように思われるが――この重要な現象をここに加味して考えてみれば、われわれは抒情詩人というものを、先に述べた美的形而上学を土台にして、次のように説明することができるだろう。

抒情詩人は、まず第一にディオニュソス的芸術家である。彼は根源的一者と、そしてその苦痛や矛盾というものと、完全に一体となったものであり、そしてこの根源的一者の模像を、音楽という形で生産するものである。》

《オペラの発生にあたって二つの観念が影響をあたえたことを、私は以上において述べてきた。この二つの観念を、一概念でまとめてしまおうと思えば、われわれはオペラの牧歌的傾向ということばでも持ち出すしかなかろう。それにはシラーの表現と説明とを借りてくればよい。シラーは次のように述べている。――

 自然と理想とは、悲哀の対象であるか、それとも歓喜の対象であるか、そのいずれかである。自然が失われたものとして描かれ、理想が到達されえないものとして描かれるときには、これらはともに悲哀の対象である。両者が現実的なものとして考えられるときには、これらは歓喜の対象である。第一の場合は、比較的狭い意味における悲歌(エレギー)を、第二の場合はきわめて広い意味における牧歌をあらわす、と。》

《ドイツ精神が、これまでの歴史で、ギリシア民族から学ぼうともっとも雄々しく苦闘したのはいつの時代のことであったか、そしていかなる人物たちにおいてであったか、そういう疑問は、他日、公正な審判者の目によって、判定されることがあるかもしれない。そしてわれわれは、もの無二の誉れを与えられるのはかならずやゲーテ、シラー、ヴィンケルマンのこのうえなく高貴な教養の闘争であろう、と、今は確信をもって仮定しているのではあるが、あの時代以来、あの闘争の直後にみられた若干の影響以来、彼らと同じ道をたどって教養とギリシア人に向かおうとする努力は、どういうわけか、しだいに衰弱していく一方であった。ともかくこの事実は、言っておかなければならないことである。》

 

 ロシアでいかにシラーがよく読まれたかは、ドストエフスキーにあたってみればわかる。

 井桁貞義『ドストエフスキイ 言葉と生命』にはこうある。

ドストエフスキイは最晩年、一八八〇年八月二十八日付オズミドフ宛ての手紙で次のように回想を語っている。

「美しきものは子供時代には必要欠くべからざるものです。十歳の時に私はモスクワでシラーの『群盗』を見ました。モチャーロフ主演でした。誓って申しますが、これは当時の印象のうち最も強いもので、私の精神面にとても有意義な作用を及ぼしました。」》

《兄ミハイルに宛てた手紙で十九歳のドストエフスキイは次のように言っている。

「兄さん、あなたはぼくにシラーを読んでいない、と書いていますね。とんでもないまちがいですよ。僕はシラーを暗記しました。彼の言葉で語り、彼によってうわごとを言っているのです。私の人生のうちで運命がこれほどのことをしてくれたことはありませんでした。つまり、僕の生活のああした時期にこの詩人をぼくが知るようになったとは、あの頃ほどよく彼(筆者註:学友であると言う)を見知り得る時期はなかったでしょう。シラーを彼と読みながら、彼に教えてもらって、高潔な炎のごときドン・カルロスも、ポーザ侯爵も、モルチメールも検証したのです。(後略)」》

《一八四四年四月の手紙で、ドストエフスキイは兄ミハイルにシラー『ドン・カルロス』の翻訳を提案している。(中略)この翻訳は同じ年の夏には完了したようで、弟ドスチエフスキイは兄のミハイルの訳にいろいろ注文をつけている。(中略)

「『ドン・カルロス』を落手しました。翻訳は非常に結構です。ところどころ驚くほどの出来栄えですが、あちこちに上出来とは言いかねる行がありますね。しかしそれは急いで訳したからです。でもまずいのは全体で五、六行くらいのものです。ぼくは多少手を入れて、詩の響きをよくしました。何より残念なのは方々に外国語を入れてあることです。<……>けれどもこうしたことは些細なことで、翻訳は驚くほどよく出来ています。」(一八四四年九月三十日付)

 翻訳は一八四八年にかなり検閲を受けた形で雑誌に掲載され、一八六四年、一八七七年と徐々に完訳に近い形で発表されてゆく。》

 ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟』において、

《『ドン・カルロス』に由来するプロットとしては、父と子が同じ一人の女性を間にして対立する、ということが挙げられよう。フョードルとドミートリイはグル―ションカを自分のものにしようと暗闘を続けるが、『ドン・カルロス』ではフェリペ二世とその息子カルロスがエリザヴェートをはさんで対立する。エリザヴェートはカルロス王子のフィアンセだったものをフェリペ二世が妃に迎えてしまう。第二幕第二場のおわりで、息子カルロスの目に一瞬殺意が走り、「おお、聖霊たちよ、いまこそおれを守ってくれ」と言う場面は、フョードルに手を上げようとする瞬間のドミートリ―を思い出させる。》

《イワン・カラマーゾフの大審問官伝説はおそらく確実にこの戯曲を材源としているといえよう。そのことは、イワンが大審問官伝説を語り始める直前に、シラーの詩「あこがれ」(一八〇一年)からの二行を引用していることで読者に告げられている。

  信ぜよ、心の語ることを

  天からの保証は何もない

ドン・カルロス』とイワンの詩劇とに共通なモチーフとして挙げられるのは、まずその設定が十六世紀のスペインであること。次に大審問官の像の共通性が挙げられる。『ドン・カルロス』ではその登場は次のようである。

「大審問官の枢機卿、九十歳の高令で盲目。杖にすがり、二人のドミニコ僧につきそわれて登場。一同の居並ぶ中を通るとき、貴族たちはその前にひざまづいて衣の裾にさわる。枢機卿、かれらに祝福を与える。」(北通文訳)

 一方イワンの詩劇では、大審問官が民衆の中に姿を現わすという点にドストエフスキイの独創を見ることができる。

「これはもうほとんど九十歳になろうという老人で、背が高く、躰はまっすぐで、その顔はやせこけ、目は落ちくぼんではいるが、両眼からは火花のような光が輝いていた。<……>群衆は一瞬にして、さながら一人の人間のように、額が土につくほどに深く老審議官におじぎした。老審議官は沈黙のまま民衆を祝福すると、彼等の間を通って行った。」》

《『ドン・カルロス』では、フェリペ二世および大審問官の側にあるのは静かな平和である。王はポーザに言う――「おれのスペインを見渡してみよ。雲ひとつない平和のうちに、人民の幸福が花咲いているではないか」――このスペインの幸福はイワンが描き出す「我々は彼等に静かなおとなしい幸福を授けてやろう」という老審問官の言葉へと響いてゆく。》 

 ドストエフスキーの蔵書には、アメリカの歴史家ウィリアム・プレスコット『スペインの王フェリペⅡ世の治世の歴史 』のロシア語訳があった。ドストエフスキープレスコットの『メキシコの征服』、『ペルー征服』、『フェリペⅡ世の治世の歴史』を高く評価し、青年たちにプレスコットを読むよう助言した。『ドン・カルロス』で、ドン・カルロスは残酷な父王によって婚約者を奪われた悲劇の主人公だが、プレスコットではドン・カルロスは英雄ではなく病弱で、独立運動に共感したのも情動的であり、スペインの異端審問については、レコンキスタイスラムから取り戻したスペインにカトリック国を維持するためにはやむを得なかったとしている。

 

 バフチンは『ドストエフスキー詩学』で、ドストエフスキーのカーニバルを説明するに際して、ドストエフスキーが『ドン・カルロス』に親しんでいたことをそれとなく教えてくれる。

《『詩と散文によるペテルブルグの夢』(一八六一年)の中でドストエフスキーは、彼が作家活動を始めたばかりの頃に経験した、生の独特にして鮮烈なカーニバル的感触について回想している。それは何よりも、ありとあらゆる激しい社会的なコントラストを伴った、《幻想的で魅惑的な夢想》のような、《夢》のような、現実と突飛な空想の境界線上に立っている何ものかのような、ペテルブルグの感触であった。(中略)ドストエフスキーはこうした都市、および都市の群衆に対する感覚を土台として、『貧しき人々』を始めとした初期の文学構想が発生する様子を、もっとずっと激しくカーニバル化された画面の中に納めようとしている。

  こうした僕が目を凝らして見始めると、突然、何だか奇妙な人々がいるのに気づい た。彼らは誰もかも、奇妙で不思議な、まったく散文的な連中で、ドン・カルロスとかポーサではさらさらなく、どう見たって九等官のようでもあった。誰かがこの空想的な一団の陰に隠れていて、僕に向かってしかめっ面を見せながら、糸かぜんまいのようなものを引っ張ると、それら一団の人形が動くといったあんばいで、そいつがげらげら笑うと、みんなもげらげら笑うのであった!(後略)》

 

 

ポリフォニー

 ミハイル・バフチンは『ドストエフスキー詩学』の「第一章 ドストエフスキーポリフォニー小説および従来の批評におけるその解釈」を次のように始める。

ドストエフスキーに関する膨大な文献を読んでいると、そこで問題にされているのは長篇小説や短篇小説を書いた一人の作家=芸術家のことではなくて、ラスコーリニコフとかムィシュキンとかスタヴローギンとかイワン・カラマーゾフとか大審問官とかいった、何人かの作家=思想家たちによる、一連の哲学論議なのだという印象が生まれてくる。文学批評家の頭の中では、ドストエフスキーの創作は、彼の主人公たちが擁立するそれぞれ別個の、相互に矛盾した哲学体系に分裂してしまっているのである。作者自身の哲学思想は、そこではけっして中心的な位置を占めているわけではない。ドストエフスキーの声は、ある研究者にとっては彼のあれこれの主人公たちの声と融け合っており、別の者にとってはそれらすべてのイデオロギーの声を独特に総合したものであり、さらに別の者にとっては、結局はただ他の者たちの声によってかき消されてしまうのである。》

 これは、シラー『ドン・カルロス』にもあてはまらないだろうか。ふつうシラーは、初期(前期)のいわゆる「シュトルム・ウント・ドランク」を背景にして、二項対立、二極化、二律背反の人として理解されがちであるが、初期の最後に創作された『ドン・カルロス』は、はみ出している。それは『ドン・カルロス』創作の遅延、紆余曲折、およびシラー自身の迷い(そこから創作活動を中断しての歴史研究、カント読解につながってゆくのだが)によって発生したものではないのか。

 そしてまた、シラー『ドン・カルロス』を原典としたヴェルディのオペラ『ドン・カルロス』の(六人にも)分裂した主人公たち(ドン・カルロス、ポーザ候(ロドリーグ)、エリザベート、エボリ公女、フェリペ二世、大審問官)においても。

 

 バフチンは続ける。

それぞれに独立して互いに融け合うことのないあまたの声と意識、それぞれがれっきとした価値を持つ声たちによる真のポリフォニーこそが、ドストエフスキーの小説の本質的な特徴なのである。彼の作品の中で起こっていることは、複数の個性や運命が単一の作者の意識の光に照らされた単一の客観的な世界の中で展開されてゆくといったことではない。そうではなくて、ここではまさに、それぞれの世界を持った複数の対等な意識が、各自の独立性を保ったまま、何らかの事件というまとまりの中に織り込まれてゆくのである。実際ドストエフスキーの主要人物たちは、すでに創作の構想において、単なる作者の言葉の客体であるばかりではなく、直接の意味作用をもった自らの言葉の主体でもあるのだ。したがって主人公の言葉の役割は通常の意味の性格造形や筋の運びのためのプラグマチックな機能に尽きるものではないし、また(バイロンの作品におけるように)作者自身のイデオロギー的な立場を代弁しているわけでもない。》

 

 バフチンは同時代のドストエフスキー論を批判的に検討してゆくなかで、「劇」のポリフォニーについても言及している。

グロスマンの理解は、ドストエフスキーの対話を劇的な形式として捉え、あらゆる対話化がすなわち劇化であると捉えることを特徴としている。(中略)戯曲における劇的対話および物語形式における劇化された対話は、常に確固不動のモノローグ的な枠に収められたものなのである。劇においてはこのモノローグ的な枠はもちろん直接言葉では表現されないが、しかしまさに劇においてこそこの枠はとりわけ強固なものとして存在するのだ。劇の対話の応酬は、描かれた世界を分断することも多次元化することもない。それどころか対話が本当に劇的であるためには、描かれる世界が一枚岩の同一性を備えていることが必要なのである。劇においては世界は単一の素材からできあがっていなければならない。世界の同質性が少しでも緩むと、それだけ劇的性格は減退してしまう。劇の主人公たちが対話的に出会うのは、作者、舞台監督、観客それぞれの単一な視野の中においてであり、背景となるのは単一構造の世界なのである。あらゆる対話的な対立を解消してゆく劇の事件の概念も、純粋にモノローグ的な性格のものである。本物の多次元構造は劇を破壊してしまうだろう。なぜなら劇の事件が世界の単一性に依拠している以上、それは複数の次元を結びつけることも許容することもできないだろうからである。》

 と、劇そのもののポリフォニーについては否定的な見解である。さらにはルナチャルスキーが、ポリフォニーの分野におけるドストエフスキー先行者としてシェークスピアを提起しているとして、

シェークスピアポリフォニーについて彼は次のように述べる。

思想的傾向性を持たない(少なくとも非常に長いことそうみなされてきた)シェークスピアは、極度にポリフォニー的である。シェークスピアの優れた研究者、模倣者もしくは崇拝者たちは、彼が自分自身とは関係のない人物像を創造する能力を持つこと、しかもその人物像が信じられぬほどに多様であり、それぞれの人格が際限のない輪舞の中で見せるすべての発言や行動が、驚くべき内的な論理性を備えていることに対して、まさに驚嘆の念を表明してきた。彼に関するそのような言説は枚挙に遑(いとま)がないほどである。(略)

 シェークスピアに関しては。その戯曲が何らかの命題を証明することに捧げられたものだとは言えないし、またその劇世界の巨大なポリフォニーに導入された複数の「声」が、劇の構想や構成のために、それ自体としての価値を失っているとも言えないのである。

 ルナチャルスキーによれば、シェークスピアの時代の社会的条件もドストエフスキーの時代のそれと類似している。

  シェークスピアポリフォニーに反映された社会的事実とはどのようなものであっ たか? そう、それは無論のところ、ドストエフスキーの描いた現実と本質的に同じものだったのである。シェークスピアとその同時代の劇作家たちが生まれた時代には、ルネッサンスは多彩にきらめく無数の破片となって飛び散っていたが、それは無論、比較的穏やかな中世イギリス世界に資本主義が乱入した結果に他ならない。そこでもまったく同様に、大規模な崩壊、大規模な変動が生じ、それまでけっして相互に触れ合うことのなかった複数の社会生活様式や意識形態が、思いがけずも衝突し合うことになったのである。》

 バフチンは、シェークスピアの戯曲の中に、ポリフォニーの何らかの要素、その契機や萌芽を見出すことは可能であるが、一貫した目的を持って完成されたポリフォニーであるとみなすことは、次のような意味で不可能であるとした。

《その理由は第一に、劇というものがその本性からして、本当の意味のポリフォニーとは異質なものであるということだ。劇は多次元的ではあり得ても、多世界的ではありえない。すなわちただ一つの計量システムを許容するばかりで、複数のそれを許容できないのである。

 第二に、十全な価値を持つ複数の声の共存ということは、シェークスピアの創作全体に関しては言えるが、個々の戯曲には当てはまらないのである。個々の戯曲において十全な価値を持つ声は本来一つしか存在しない。しかるにポリフォニーが成立するためには、一つの作品の中に複数の十全な価値を持つ声が存在しなければならないのである。そのような条件が満たされたときに初めて、ポリフォニー的な全体の構築の原理が成立するからである。

 第三に、シェークスピアにおける複数の声は、ドストエフスキーにおけると同じ程度にそれぞれの世界への視点を表現してはいない。シェークスピアの主人公たちは、完全な意味におけるイデオローグではないのである。》

 と、バフチンポリフォニーの定義に厳格なあまり、ドストエフスキー崇拝のような堂々巡りの反論となっている。もう少し柔軟に、それこそ多面的に適用してもよいのではないか。それに、ドン・カルロス(1545~1568)が生きた時代はシェークスピア(1564~1616)の時代と隣接し、シラー(1759~1805)が作劇した「シュトルム・ウント・ドラング」の時代も、ヴェルディ(1813~1901)が作曲した時代(イタリア統一運動)もまた、大規模な崩壊、変動が生じ、複数の様式、形態が衝突し合っていた。

 

 ポール・ド・マンは『美学イデオロギー』に収められた「カントとシラー」講演で、カントの『第三批判』(『判断力批判』)受容をめぐり、カントの原典のもつ鋭さをわかりやすく説明し、敷衍しようと試行を企てることで、シラーのテクストのような退行がつねに存在する、とシラーを難じる。

《シラーの『美的教育にかんする書簡』のようなテクストや、カントに直接言及しているシラーの他のいくつかのテクスト、これらが母胎となって、ドイツにおいて――さらにはドイツ以外のところでも――一つの伝統が完全なかたちで誕生したのです。その伝統とは美的(エステティック)なものを強調し再評価するという方法にほかなりません。つまり美的なものを、範例的なものとして、範例的なカテゴリーとして、統合化のカテゴリーとして、教育のモデルとして、さらには国家のモデルとして掲げるわけです(筆者註:ド・マンは本講演をナチスゲッペルスの演説で結んでいる)。実際、シラーに特徴的な論調というのは、ドイツにおいて一九世紀をつうじて一貫して認められる論調となっています。たしかにそれはまず最初にシラー自身のうちに認められる論調でしょうが、しかしその後、ショーペンハウァーや初期のニーチェ――『悲劇の誕生』は論調その他の点で純粋にシラー的です――、さらにはある点でハイデガーのうちにも認められる論調でしょう。そうした論調とはつまり、芸術についてある種の価値評価を行うこと、芸術にア・プリオリに価値を認めることです。》

 

 シラーの二極対立について、ド・マンは、

《そこでは一組の二極対立、さまざまな二極対立がくっきりと印(マーク)され、たとえば<自然>と<理性>といった二極対立のように、二極のそれぞれが厳格に対立させられています。崇高が論じられる章節においては、二極対立の一方の極は<恐怖>、すなわち怯えること、<恐怖>におののくことに関わり、もう一方の極は<恐怖>とは正反対のもの、すなわち<平静>に関わることになるでしょう。(中略)恐ろしいものになりうるというのが<自然>の属性であり、平静であるというのが<理性>の属性です。<自然>がいつでも恐ろしいものであるとは限りませんが、しかし崇高な自然にかんするかぎり、恐ろしいものになりうるという点は<自然>の一つの属性、しかも必要不可欠な属性なのだ、といってよいでしょう。実際シラーは、崇高な自然は恐ろしいものでなければならないということを、とくに強調して論じています。》

《シラーの場合、われわれはむしろ鮮明な二極対立から出発することになります。つまり、シラーいうところの二つの「衝動」Triebeが、はっきりと真っ向から対立する関係に置かれている、ということです。この「衝動」という言葉は――Triebe〔衝動・欲動〕はフロイトでお馴染みの言葉でしょう――カントにはそれほど出てきません。カントは法Gesetzeについては語りますが、Triebeについて語ることはほとんどありません。しかしシラーではこの言葉は何度も繰り返し登場します。シラーが対置させる二つの衝動というのは、認識しようとする衝動、表象しようとする衝動(そしてシラーによれば、世界を変え自然を変えようとする衝動)と、事物を維持・保存しようとする衝動、事物が変化してもなおそれを変わらないままにしておこうとする衝動のことです。維持しようとする第二の衝動の例となるのは、自己保存をめざす欲望でしょう。人は死にたいとは思わない――つまり、人は自己保存によって自分自身を守り、事物を現状のままにとどめておこうと欲するものです。他方、認識しようとする衝動のほうは、変化と関係した衝動ということになります。》

ドン・カルロス』で言えば、戯曲第三幕第十場(オペラ第二幕第二場)でフィリップ二世王に熱弁をふるうポーザ候は、<自然>の極に立って、理想の実現を実践する変革行為(自己犠牲をもいとわない)によって<恐怖>を引き起こす存在である。一方、戯曲第五幕第十場(オペラ第四幕第一場)で、語り合う王と大僧正は<理性>の極にあって、<平静>を維持してきたと自負してみせる。

 

 シラー『ドン・カルロス』はシラーのカント研究以前の作品なので、カントからの影響は及んでいなかったことになるものの、ド・マンの次のような指摘は、カントに惹かれてゆく劇作家シラーの創作心情、実践的な信条を表現していて、カントの哲学的な企てに対するシラーの実践的・実用的な現実主義はド・マンの揶揄へと至る。

《シラーが次に取りかかるのが価値評価です。彼は実践的なものを理論的なもの以上に高く価値づけようとします。彼は理論的崇高について正しく理解していたはずなのに、それを完全に犠牲にするようなかたちで実践的崇高だけを論じようとするようになる。こうして彼はもともとカントにはなかったものをカントに付け加え、そのうえで自分が後から付け加えたものをカントに実際にあったものよりも重要なものとして価値づけることになるわけです。このような価値評価はいくつかの段階に分かれて出てきています。シラーを引用しておきましょう。「理論的崇高というのは、表象をめざす欲望、認識をめざす欲望と相反することを主張し、実践的崇高というのは、自己保存をめざす欲望と相反することを主張する。第一の場合には、われわれのもつさまざまな認識力が唯一のしかたで顕現させられることにたいして、異議が唱えられている。ところが第二の場合には、認識力がいかなるかたちで顕現するにせよ、そうした顕現を支える究極的な根拠となっている生存そのものが、攻撃の対象となっているのである」。(中略)

 シラーはこうした価値評価をさらに続けます。「それゆえわれわれの感性は、無限な存在物などよりも、脅威をもたらす存在物のほうにはるかに直接的に関わっていることになる」。――無限なものというのは理論的崇高のことでした――「(中略)すなわち、恐怖というのは美的(エステティック)な表象において無限よりもいっそう生き生きと快活にわれわれを動かすはずであり、したがって感動する力という点では実践的崇高は理論的崇高よりもかなり優位に立っている、ということである。これは経験によって確証されることでもある」。

 こうした一連の件りについて印象的なのは、それがじつに説得的であり、心理学的・経験的にきわめて理にかなったものである、ということです。しかし劇作家としてのシラー自身の関心に即してこうした件りを考えてみれば、これはもっともなことでもあります。つまり、「想像力という能力の構造とはなにか?」という哲学的な問題を問うのではなく、「どうやって私は受けのよい芝居(プレイ)を書いてゆくのか?」という実践的な問題を問うてみればよい、ということです。こうした問いが相当程度シラーの関心だったのです。実際それは無理もないことでした。無限のように舞台の上で容易には再現〔表象〕できない抽象観念を用いるよりも、恐怖を用いた方が、すなわち恐ろしい光景を用い、<自然>が直接的に脅威となるような光景を用いた方が、観衆により大きな効果がもたらされるだろう、というわけです。このように、驚くほど素朴で子供じみたことですが、シラーには超越論的な関心が完全に欠如しています。哲学的な関心が驚くほど欠如しているのです。》

 

 

<シラー『ドン・カルロス』>

 シラーがこの戯曲に着手することを決断したのは1783年3月、初めて完成をみたのが1787年2月であるから、構想から完成まで四年をかけている。

戯曲を書くにあたってシラーが最初に参考としたのは、主要資料であるサン・レアル『ドン・カルロスの歴史、スペインの王フィリップ二世の息子』で、ドン・カルロスとエリザベートとの近親相姦的な恋愛悲劇、フェリペ二世との家庭愛憎劇でもあった。次いで、ワトソン『スペインの王、フィリップ二世の王国の歴史』からはフェリペ二世の人間性と歴史事実を学んでいる。

 この初めの構想は四年の間に変化する。カルロスへの好感がポーザ候に移行し、家庭劇が政治劇へと変化したとされ、これは家庭劇か政治劇かの議論を長くまきおこすこととなった。

 エーミール・シュタイガーは『フリードリヒ・シラー』で、

《筋の展開はまことに停滞的であり、主人公は優柔不断である。執筆しているシラー自身もまたそうである。(中略)最初の三幕はいぜんとして、動きのない同じ状況のまわりを堂々めぐりしている。ポーザ候が手近な目標に注目していこうとついに決意するところからわかるように、彼の術策はじつに狡猾で手が込んでいる。したがってわれわれは繰り返し訝しい思いを抱くことになり、二人の親友の間で一体なにが起こっているのかを理解するには苦労がいる。最初の三幕は、シラー自身が『ドン・カルロスに関する書簡』で認めているように(二二―一三八)、実際、あとの三幕が見せるのとは違った展開を予想させる。詩人の気持のなかで、カルロスの株は下がり、ポーザ候の株は上昇する。それも『書簡』によれば、ポーザ候のほうがカルロスよりも成熟した人物像であるからというばかりではなく、無気力な大衆を動かし、つとに気の熟した行動への活力を吹き込むことができるからでもある。》

《初期作品ではシラーは、偉大によって卑小なるものを圧倒し絶滅することができるとまだ信じている。厭わしい現実においてではなく、劇場のなかで、つまりおのれの専制的な芸術が無理やりかきたてる、おそらくは一時的にしかすぎない急激な興奮のなかでは、それが可能である。その力をシラーは疑いはじめる。シラーはかつての情熱をもはや感ずることがないと、繰り返し嘆いている。そしてさらに困ったことには、一体なにが重要なのか彼はもはやわからなくなったようである。彼は唖然としている人々にもっぱらおのれ自身を押しつけるには齢(とし)をとりすぎているし、他方、おのれの人格だけに根拠づけられるわけではない文学のより高い意味を確実に掴むにはまだ自分にとらわれすぎている。それゆえ彼は、途方にくれてあちこち手探りで進み、憂鬱に沈み込むかと思うと、思いがけず奮い立つが、それとても、真に力溢れてというよりはむしろ発作的である。こうしたすべてが『ドン・カルロス』に反映している。作者自身が不統一の原因と見なしているその長い成立史にも(二二―一三八)、登場人物たちにもそれが現れている。たとえば王子は「シェイクスピアハムレットの魂」をもっているが、箍(たが)のはずれた世界を旧に復さねばならないとは思ってもいないし、ポーザ候はおのれの人生をすべての人々の政治的自由のために捧げつつも、すべての行動を全能の宗教裁判に監視され、その崇高な精神的高揚において無力である。王妃は美しき魂の自由を守ろうと努めながらも、手ずから陰謀の網の目を編むのに加担し、王は、猜疑の目で人間を見ていながらも、信頼を抱いて迎え入れたただ一人の人間が自分の信頼を悪用して手ひどく騙した後では、むろん、シラーの意思に反して、正しかったとされる。》

《たしかに『ドン・カルロス』は、出来事の徹底した動機づけ、ならびに筋の目標指向性という二つの基本的要請をどちらも満たしてはいるが、しかし第一の要請は作品の前半部においてしか満たされておらず、第二の要請は作品の後半部においてしか満たされていない。》

 シラーの不統一な状況、意思が思いがけずもポリフォニー的な劇を創造させてしまったのに違いない。

 

ヴェルディドン・カルロス』>

 ヴェルディのオペラ『ドン・カルロス』はフリードリヒ・フォン・シラー(1759~1805)の初期戯曲『ドン・カルロス』が原作である。

シラーは『群盗(ヴェルディ『群盗』の原作)』(1781)、『たくらみと恋(ヴェルディ『ルイーザ・ミラー』の原作)』(1783)、『ドン・カルロス』(1783~87)といった、いわゆる「シュトルム・ウント・ドランク」期(前期/初期)を過ごすと、『ドン・カルロス』執筆に触発されての歴史研究(『オランダ独立史』、『三十年戦争史』)及び1791年から3年間に及ぶカント研究(『優美と品位について』、『美的教育に関する書簡』、『素朴文学と情感文学について』など)に力を注いだ。

 その中断期を越えて、『ヴァレンシュタイン(ヴァインベルガー『ヴァレンシュタイン』の原作)』(1799)、『マリア・スチュアルト(ドニゼッティ『マリア・スチュアルダ』の原作)』(1800)、『オルレアンの少女(チャイコフスキー『オルレアンの少女』、ヴェルディ『ジョヴァンナ・ダルコ』の原作)』(1801)、『メッシーナの花嫁』(1803)、『ヴィルヘルム・テルロッシーニウィリアム・テル』の原作』(1804)を制作した(後期)。

 ほとんどの戯曲作品がのちにオペラ原作となっていて、上演頻度にばらつきはあるもののオペラ向きであることがわかる。シラーについて触れたことがないという人も、もしオペラ・ファンならば知らずに原作のオペラを楽しんでいたことになる。

ドン・カルロス』の経緯について、高崎保男『ヴェルディ全オペラ解説③』は、

《1864年夏、パリ・オペラ座の総監督に復帰したエミール・ぺランEmile Perrinからこの劇場のためにグランド・オペラの作曲を依頼されたヴェルディの最初の返答は「ノー」だった。「オペラ座は(音楽の)大きな百貨店にすぎない」とかねて悪口をいっていたヴェルディは、とくにこの劇場の運営能力のルーズさと上演機能の不備に我慢がならなかったらしい。「オペラ座に欠けているのは、Rhythm(リズム)とEnthusiasm(熱狂)なのだ」(パリの出版社エスキュディエ宛の書簡、1867)。(中略)

 ヴェルディが当時最も意欲を抱いていたのは、彼が十数年前からずっとあたためつづけてきたシェイクスピアの悲劇『リア王』のオペラ化だったが、オペラ座に要求される充分にスペクタキュラーな効果を満たし得る材料とは思えなかった。「『リア王』は崇高な主題であり、私の熱愛してやまぬ悲劇ですが、そこにはスペクタクルが欠けています。それに、歌い手をそろえることが難しい。とくに、コーデリアの役を歌うすぐれたソプラノを見出すことは不可能に近いでしょう」(1865年7月、ぺランへの手紙)。その他、フローベールの小説『サランボー』などいくつかの候補が次々に消えていったあげく、前記の『ドン・カルロス』がヴェルディの関心を強く惹きはじめる。「これは力強いドラマだと思います。あるいはいささかスペクタクル的な要素が不足しているとしても。最後の幕切れのところに、カルロス五世が出現するというのは、すばらしいアイディアです。フォンテーヌブローの場もおもしろい。私はシラーの原作と同様に、フィリップと大審問官(盲目で非常な高齢の老人)の短い対決のシーンとか、フィリップとポーザ候のシーンがたいへん気に入っています」(同)。》

 詩人ジョゼフ・メリーは《「できる限りシラーの原作に忠実に、ただスペクタクルとして必要な要素を充分に加える」という条件でリブレットの完成にとりかかる。メリーはイタリア音楽の深い理解者で、「イタリアこそ神の音楽院」といっていたほどの人だったが、それから間もなく、老齢と病気のために世を去ってしまった。残された仕事を引き継いで完成させたのは、メリーの秘書をつとめ、また自らもジュール・デュプラのオペラのためにシラーの戯曲『コリントの花嫁』Die Braut von Korinthをもとに台本を書いた経験をもつカミーユ・デュ・クロールであった。》

 原作との大きな違いということになると、

《原作では最後の結末(サン・ジュスト修道院ではなく、王妃の居室)は、エリザベートドン・カルロスが最後の別れを告げたとたんに、国王フィリップ二世が入ってきて、カルロスの腕をつかみ、大審問官に向って冷然と「私は私の義務を果した。あなたもその義務を果されたい」と述べて息子を引き渡し、王妃はそのまま絶命するところで終っている。オペラではそれを、先帝カルロス五世の霊によってドン・カルロスが救われるかのように改められた。

 この超現実的な結末に関しては、さまざまな解釈の余地があるが、メリーとデュ・ロークルは、グルック以来フランス・オペラでしばしば愛用されてきたDeus ex machina(機械仕掛の神、の意。複雑にもつれあったドラマを一挙に解決に導くような、思いがけない出来事の出現を指す)の手法を応用したと考えるのが最も自然だろう。ヴェルディ自身はこの超現実的な結末がたいへん気に入っていたことは、数多い彼の書簡からもうかがえる(第Ⅲ幕フィナーレできこえる「天の声」は、いわばこの超現実的結末のための伏線に当る)。》

 

 よく知られているように、オペラ『ドン・カルロス』は主として上演時間が長すぎるという問題から、さまざまな改訂・変更が加えられて、諸エディションが存在することとなった。

①5幕フランス語版(1867年版)

②5幕イタリア語版(1872年版、ナポリ版)

③「フォンテーヌブローの森の場」などを削除した4幕イタリア語版(1883年版、ミラノ版)

④③に「フォンテーヌブローの森の場」を加えて構成した5幕イタリア語版(1886年、モデナ版)

現在、多くは③もしくは④が演奏されるが、もともとの旋律がフランス語にあっていることから①も演奏されるようになっている。ここでは、①の5幕フランス語版をもとに戯曲とのおおまかな異同を考察する。

 

 オペラではスペクタクルの観点からいくつかの場面が追加され、わかりやすさから(政治的な観点の希薄化、停滞していると指摘されたポーザ候、エボリ公女の手紙による騙し合いの簡略化)原作の場面を前後させ、統合化している。

・オペラ第1幕 フォンテーヌブローの森  (「 」はアリア)

  ドン・カルロスとエリザベートのめぐり逢い、「フォンテーヌブロー 広大な寂しい森」⇔原作なし

・第2幕第1場 サン・ジュスト修道院の内部

  修道士登場(先帝カルロス5世の声)⇔原作なし

  ドン・カルロスの嘆き、「永遠に失ってしまった」⇔原作なし

  ドン・カルロスとポーザ候の再会、「友情のテーマ」⇔原作第1幕第2場、第9場  

・第2幕第2場 修道院の前庭

  エリザベート王妃、ポーザ候、エボリ公女の会話⇔原作第1幕第4場    

  王妃とドン・カルロスの出会い⇔原作第1幕第5場

  フィリップ二世王の登場と王妃の嘆き、「泣かないで友よ」⇔原作第1幕第6場

  王とポーザ候の対話⇔原作第3幕第10場

・第3幕第1場 王宮の庭園

  ドン・カルロスとエボリ公女の会話⇔原作第2幕第8場

  ポーザ候の割り込み⇔原作第4幕第17場

  ドン・カルロスとポーザ候の手紙の受け渡し⇔原作第4幕第5場

・第3幕第2場 聖堂の前の広場

  異端者たちの処刑⇔原作なし

  ドン・カルロスとフランドルの使者たちによる直訴、「私が生き返る時が来たのです」⇔原作なし

  王の命でポーザ候がドン・カルロスを逮捕させる⇔原作第4幕第16場

  天よりの声⇔原作なし

・第4幕第1場 王の書斎

  王の苦悩、「ひとり寂しく眠ろう」⇔原作第3幕第1場

  王と大審問官(大僧正)の対話、「わしは王の前におるのか」⇔原作第5幕第10場

  宝石箱を奪われた王妃の訴え⇔原作第4幕第9場

  エボリ公女の懺悔、「呪わしき美貌」⇔原作第4幕第19場、第20場

・第4幕第2場 ドン・カルロスのいる牢獄

  ドン・カルロスの牢獄へポーザ候が来るが狙撃され、「わが最後の日」⇔原作第5幕第1場~第3場

  王はドン・カルロスに剣を返す、暴動が起きる⇔原作第5幕第4場、第5場

  大審問官を前にして暴徒はひれ伏す⇔原作なし

・第5幕 サン・ジュスト修道院

  王妃の嘆き、「世のむなしさを知る神」⇔原作なし

  ドン・カルロスと王妃の密会⇔原作第5幕第11場(大詰め)

  王と大審問官の登場⇔原作第5幕第11場(大詰め)

  修道士(カルロス5世の亡霊)がドン・カルロスを引きずって行く⇔原作なし

 

 重要なのは、シラー『ドン・カルロス』第5幕第10場と、ヴェルディドン・カルロス』第4幕第1場の差異、改変である。大審問官がかねてからポーザ候を監視していたという台詞が削除されてしまった。

 シラーでは、

《 第十場

 王。大僧正。 (長き間)

大僧正  わしは陛下の御前(ごぜん)にたっているのか。

  そうじゃ。

大僧正  こういう時が来ようとは、わしは思いがけなんだが。

  己はフェリーペ王子の昔に返って、師の坊の助言が求めたいのじゃ。

大僧正  こなたの父者(ててじゃ)のカルル殿もわしの教え子であったが、わしに助言を求めたことはなかったがのう。

  それだけお仕合わせであられたのじゃ。大僧正。実は己は、殺人の罪を犯して、心の安まる時がないのじゃ――。

大僧正  なんでまた殺人などをなさったのか。

  前代未聞の詐欺のためじゃ――

大僧正  それはわしが知っている。

  どういう事をご存知なのか。何時(いつ)。誰の口から。

大僧正  何年も前からじゃ。こなたが漸く日の入りから知られた事を。

  (不信気に。)それでは、あの男のことをこなた方は前から知っておられたのか。

大僧正  あれの生涯の一部始終は、サンタ・カサ(訳注:宗教裁判所本部)の黒表の中に載せてあるのじゃ。

  それでも、あれが自由の行動をしておったのは。

大僧正  なに。綱の先を飛び廻っていたに過ぎぬ。あれにつけて綱は長かったが、決して切れぬものであったのじゃ。

  彼奴は早くに己の領国外に出ておったが。

大僧正  どこにおろうと、そこにはやはりわしもおったのじゃ。》

 それから大僧正は王が異端者ポーザ候を宗教裁判所の手に委ねる前に勝手に殺害してしまったことを詰(なじ)る。ついで王は謀反を企てているカルロス王子を手に掛けても信仰に背かないか、救われるか問いかける。

 

 一方、ヴェルディでは、ドン・カルロス王子を殺しても免罪してくれるかを問いかけた後に、

大審問官  ではわしから話そう 王よ!

この美しい国では これまで異端者が支配したことはない

だが一人の男が 神の館を侵そうとしておる

そ奴は 王の友にして忠実な腹心であるが

王を深みへと引き込む誘惑の悪魔なのじゃ

あなたがなじっておる王子の企みなど

そ奴の罪に比べればまるで子供のいたずらじゃ

そしてこのわしは 審問官として振り上げてきたのだが

異端の罪人どもの上に この剣を持った手を

この世の権力者に対しては わが怒りを忘れて そ奴を

のうのうと見逃しておったようだ…そしてあなたもじゃぞ!》

とあって、かねてから監視していないばかりか、「のうのうと見逃しておったようだ」という体たらくだ。そして大審問官はポーザ候を自分たちに引き渡すよう要求する。

 これにともなって戯曲からオペラでは、全体を統一化、秩序化していた神のごとき視線・眼が、大審問官(大僧正)による宗教(神)からカルロス5世の亡霊へと変幻してしまう。

 

 また、シュタイガーは『フリードリヒ・シラー』で次のようにも指摘した。

《しかし、詩人の念頭に浮かび、かつ詩人が無口な言葉で聴衆に注ぎ込む術を心得ている主人公のこの究めがたさに対応するのが、われわれが王子とともに入っている不透明な世界である。われわれは彼の敵対者たちをどう評価してよいのか、決して正確にはわからない。(中略)アルバ公は恐ろしい人物ではあるが、恐れを知らぬ非の打ちどころのない騎士であり、フィリップ王は玉座の高みにありながら寒さに震えている人物である。大審問官さえも、われわれは戦慄と少しばかりの憐憫と尊敬の混じった眼差しで眺めるのだが、それは彼自身が職務の強要する恐ろしい業を知っており、それに耐えているからである。(中略)

 こうした登場人物に相対すると、われわれは判断を差し控えてしまう。そして、それを許すことに傾きがちである。われわれが許すのは、彼らを理解するからであり、理解するのは、もはやおのれ自身ばかりに依拠せずに、その出自と環境の刻印を多様なかたちで受けている人物像を認めるからであり、また、荘厳でもあり、かつまた息苦しくもあるほとんど克服しがたい伝統というものが、いたるところで同時に作用しているからである。すなわち、スペイン王国の位階制度であり、その背後には教会があり、起居動作の一切を洩れなく規定するばかりか、それとともに感情をも規定する儀式典礼である。換言すれば、これらの登場人物、そして彼らの行動や振舞いは、いまや徹底的に動機づけられているのである。》

さらには、戯曲における王と大審問官への理解と同情を呼び起しもした台詞を、歴史上も政治的にも最重要な人物アルバ公をオペラでは完全に消し去ったように、歌詞から削除した。

それは、戯曲では王と大僧正との会話であり、

大僧正  一体あれがこなたの何者であったのか。あれがなんぞ変った事でもこなたの目に掛けたのか。あれたちの改革熱というものが、こなたにはそのように珍しいものであったのか。世界を改善するとか言うて咆える詞が、こなたの耳にはそのように聞き慣れぬものであったのか。こなたの信念の建物が、詞ぐらいでぐらついてしまうなら、――一体こなたは、数万の血迷うた者どもを、それも只事にではない、火炙りの薪の上に載せようとする宣告書に、どのような顔をして署名さるる。それを聞かせてもらおう。

  己は人間が一人(ひとり)欲しかったのじゃ。己の周囲(まわり)におるドミンゴその他の輩は――

大僧正  なんのために人間が。人間はこなたに取っては、ただ数じゃ。そのほかには何ものでもない。わしは頭(かしら)に霜を置く教え子に、王者の術を復習させんではならぬのか。地上の神というものは、手に入り兼ねる惧(おそれ)のあるものは欲しがらぬことを覚えねばならぬものじゃ。――こなたがおめおめと人の情を欲しがっては、自分と対等の人間が世の中におることを白状することとなるのじゃ。対等の人間に向って、王者の威をどうして示すおつもりか。

  (どっかと長椅子に座す)己は小さい人間じゃ。それは己がよう感じている。――こなたは造られた者に向って、造り主でなければできぬような事を望んでおいでなさるのじゃ。

大僧正  いや、陛下。そうではない。わしの目は誰にも昏まされぬ。こなたの胸中もわしが見抜いている。こなたはわしらの手を脱れようとなさったのであろうが。宗教裁判の鎖をこなたは重荷にして、それを脱れて、憚るもののない一人者(いちにんしゃ)になろうとなさったのであろうが。(中略)――今日(きょう)、もし、わしがこなたの前に立たなんだら、神に誓うて、明日(あす)はこなたがわれらの前に立つようになったであろう。

  怪しかるお詞じゃ。大僧正。少し仰しゃることをお控えなされい。あまりといえば己を蔑(なみ)するお詞じゃ。》

 地上の人間は「数」として地上の神たる王(カントローヴィチ『王の二つの身体』の、感情に動かされる自然的身体を捨てた、民を統治する政治的身体)に監視され、その王は神の代理人たる大審問官(大僧正、宗教裁判長)に監視されている。

 

 戯曲では「大詰め」に王の次の台詞をもって幕となる。

  (冷やかに、徐ろに大僧正に向い)大僧正。己の用は果した。今度はこなたの用を果されい。

(入る。)                      (幕)  》

 

 しかしオペラでは、その後に修道士(カルロス(シャルル)5世の亡霊)が現れる(高崎保男によれば、《〔フィナーレ Final〕最後に、ドン・カルロスを救出する人物も、Le Moine(修道僧)ではなく、カルロス五世Charles-Quint(Le Moine)とスコアに明記されて、よりリアルな扱いになっている。現行版では「修道僧」だが、最後のト書の部分で、ヴェルディ自身のペンでLe MoineをCharles Vと書き直している。》)。

 この場面は、常にプロダクション毎にさまざまな演出が施され、多様な解釈(先帝の亡霊による救済/冥界に引きずり込まれる/等々)を生み出している。

 王によっても、大審問官によっても、世界は二項対立的に閉じられることなく、カルロス5世の亡霊が出現することで、いっそうのポリフォニーとして幕が下りる。

ドン・カルロ  (絶望して)ああ!神が私の復讐をするだろう!

血にまみれし審問所は神の手で打ち破られるのだ!…

ドン・カルロスは身を守りつつシャルル五世の墓の方に戻って行く すると扉が開き 修道士が現れる

ドン・カルロスを彼の腕の中に引き寄せマントで覆い隠す)

修道士  息子よ この世の苦しみは

この場所にまでも追って来る

そなたの望んでおる平安は

神によってのみ与えられるのだ!

大審問官  皇帝の声だ!

合唱  あれはシャルル五世だ!

フィリップ  (おののいて)わが父上が!

エリザベート  ああ神さま!

(修道士は回廊の中を気を失ったドン・カルロスを引きずって行く)

修道士の合唱  (チャペルの中で)シャルル五世 かの偉大な皇帝も

今や灰に 塵になりぬ   

                      (幕)  》

                             (了)                                        

      *****引用または参考*****

*シㇽレル『スペインの太子 ドン・カルロス』佐藤通次訳(岩波文庫

*トオマス・マン『トニオ・クレエゲル』実吉捷郎訳(岩波文庫

ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟原卓也訳(新潮文庫

*『ドストエフスキー全集20 書簡1(父母兄弟への手紙)』工藤精一郎訳(新潮社)

*『ドストエーフスキイ全集18 書簡 下』米川正夫訳(河出書房新社

ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟亀山郁夫訳(光文社古典新訳文庫

ミハイル・バフチンドストエフスキー詩学』望月哲男、鈴木淳一訳(ちくま学芸文庫

*井桁貞義『ドストエフスキイ 言葉の生命』(群像社

*オペラ対訳プロジェクト「ドン・カルロス」(フランス語5幕版)https://w.atwiki.jp/oper/pages/357.html

*オペラ対訳プロジェクト「ドン・カルロス」(イタリア語5幕版)https://w.atwiki.jp/oper/pages/951.html

*加藤浩子『オペラでわかるヨーロッパ史』(平凡社新書

*高崎保男『ヴェルディ全オペラ解説③』(音楽之友社

*オットー・ランク『文学作品と伝説における近親相姦モチーフ 文学的創作活動の心理学の基本的特徴』前野光弘訳(中央大学学術図書)

*エーミール・シュタイガー『フリードリヒ・シラー』神代尚志、森良文、吉安光徳、他訳(白水社

*ランケ『ドン・カルロス 史料批判と歴史叙述』祇園寺信彦訳(創文社

*梅澤知之他編『仮面と遊戯 フリードリヒ・シラーの世界』(鳥影社・ロゴス企画)

*ジョゼフ・ペレス『ハプスブルク・スペイン黒い伝説 帝国はなぜ憎まれるか』小林一宏訳(筑摩書房

*2020/2021シーズンオペラ・プログラム『ドン・カルロス』(小畑恒夫、岸純信、伊東直子、加藤浩子、丸本隆、他)(新国立劇場

*青木敦子『シラーの「非」劇 アナロギアのアポリアと認識論的切断』(哲学書房)

ニーチェ悲劇の誕生西尾幹二訳(『世界の名著 ニーチェ』に所収)(中央公論社

ポール・ド・マン『美学イデオロギー上野成利訳(「カントとシラー」所収)(平凡社

*E・H・カントローヴィチ『王の二つの身体』小林公訳(ちくま学芸文庫