林真理子『着物をめぐる物語』は十一の短篇からなり、うち八つは「語り」ものである。語りものの名手と言えば宇野千代だが、林のこの小説にも千代と同じ、語りの回想がある。しかし千代の語りが作者の人生遍歴を基とした作家の全存在を言葉の肌理(きめ)によって透けて見させるのに対して、林真理子の語りでは作者の存在は消え、かわって「所有」と「優劣(優越)」の勾配感情をめぐる物語が出現する。
回想の時間軸上で、着物の「所有」と「優劣(優越)」の感情が、復讐やルサンチマン(怨恨)をめぐって繰り広げられる。
まこと着物という魔物は、《所有が所有する(・・・・・・・)――所有が主人になって、所有者が奴隷になる》(ニーチェ『人間的、あまりに人間的』)の象徴である。

<その一 松の緑>
まずは、しんみりとさせる話から始まる。が、ここにも「父」との「比較」という物語がある。
《今でも父のことを思い出してくださる方がいるというのは、私にとって本当に嬉(うれ)しいことです。このあいだは着物の雑誌で「加賀友禅特集」という企画があり、その中にも父の名前がありました。昭和五十年の日本伝統工芸展に入賞した孔雀(くじゃく)サボテンの訪問着が、グラビアに撮られています。えらい評論家の先生が、
「くせのある南国の花を、力業でねじふせてしまい、明るくモダンにした力量はたいしたものだ」
というお誉めの言葉を寄せてくださっていました。
娘の私が言うのもおかしいですが、父のデッサン力と色の感覚というのはすごいものがありました。素材のかたちを実に面白く描き、はっとするような新鮮な色を使います。そしてその色を重ねることにより、布全体にリズムと深い陰影をつくり出していくのです。》
《あのまま元気で生きていれば、人間国宝は確実だったという人もいますがどうでしょうか。わたしの知っている父は、作家先生と呼ばれるよりも、職人と呼ばれる方がぴったりくる人でした。とにかく仕事が好きで好きでたまらなかったのです。
今でもはっきりと憶(おぼ)えている光景があります。夜中に便所に行こうとして起きると、父の仕事場から光が漏れているのです。そうっと襖(ふすま)を開けてみると、一心に筆を動かしている父と、その傍で染料を溶かしたり、筆を整えたりしている母がいます。父の頭は坊主(ぼうず)頭でした。髪を洗う時間がないと、ある日床屋へ行って頭をつるつるに剃(そ)ってきたのです。というと、昭和三十年代の半ばでしょうか、加賀友禅がにわかに脚光を浴び始めた頃です。父は着物専門商社の中で、一、二を争う稼ぎ頭と言われていました。父のつくるものは人気が高く、商社の人たちはやがて落款(らっかん)を欲しがるようになりました。それまで着物をつくる人間などというものは全くの匿名(とくめい)だったのに、いつしか画家のように名を記すようになったのです。
父の吹田完という名を彫った落款は、京都の有名な印鑑屋でつくらせたものと聞いています。父独特の大ぶりの字が刻まれたとてもよいものでしたが、母の強い希望で葬式の時に父の柩の中に入れました。あれからもう二十年たつのですね。》
《加賀友禅は、京友禅と違い、武士好みのきりっとした色彩が特徴です。自然の描写に忠実で、木の葉の虫喰いの跡も、模様のひとつとして描きます。京友禅とはっきり違いがわかるのは、花の中心を薄くし、外にいくほど濃くすることでしょうか。花の中心に向けて色が濃くなっていく京友禅は、ふっくらと華やかな印象ですが、加賀の方は締まった理智(りち)的な感じになります。加賀の方が黒留袖(とめそで)にした時に映えるといってくださる方も多いのですが、京の人は京の人で別の言い分があるでしょう。加賀友禅はそもそも、京友禅を創始した宮崎友禅斎が、晩年故郷の加賀に戻って拡(ひろ)めたものと言われています。私の父が戦前修行したところも、やっぱり京の友禅師でした。
京の人に言わせると、加賀友禅は野暮ったい、色気がない、写真映りが悪い、などということなのですが、私はむしろその野暮ったさが真骨頂ではないかと思っています。丁寧過ぎるほどに細かく色を重ね、花びらのひとつひとつも息を詰めて描きます。京友禅をまとった女の人というのは、その絢爛(けんらん)さに負けまいと競っているようなところがありますが、加賀友禅ならば、支えられるような気分になるはずです。体の奥の方から、女の美しさをじわじわとひき出してやるのが加賀友禅です。》
《父は生前一冊の作品集を残していますが、それを見るたびに、ああえらい人やったなとしみじみ思うのです。
父はそれまでの加賀友禅の殻を破った人とされていますが、虫喰いものの加賀友禅もそれはそれは見事です。特に黒留にぎっしりと菊を描いた「秋園」という作品などは、幾百という白菊、黄菊が立ちざわめき、息を吞(の)むような迫力があります。ページからも、強い香気が漂ってくるようです。生前よく父は、写生をしろ、とにかく写生をしろと言っていたものですが、この菊の花びらの重なり合い方というのは、父の眼の鋭さと表現力の賜物です。おそらく何百枚と描いてきた菊でしょうに、父は決して自分のイメージの中で、安易につくり上げることはなかったのです。》
《友禅の仕事なんか、お父さん一代で終わりにすればいいわ。
そんなことを口走って、母にたしなめられたことは、一度や二度ではありません。そうは言うものの、染料や色見本に囲まれている家に育ちましたから、短大はグラフィック科を選びました。女子短大でも金沢のそれは、お嬢さん芸ではなく、かなり本格的なことを教えてくれます。将来は広告デザイナーになりたいと考えたこともあるのですが、卒業を待って二十一歳の時に結婚しました。(中略)父親はこれといって何も言いませんでしたが、急なことで振袖も描けなんだ、と一言だけこぼしたそうです。おそらく花嫁衣裳(いしょう)は、自分の手によるものにしたかったのでしょう。
が、若い私はそんな父の気持ちに全く頓着(とんちゃく)せず、貸衣裳で式を挙げました。それからすぐに私は身籠(みごも)ったのですが、生まれてきた子どもは死産でした。(中略)
もう二度と子どもは出来ないと思っていたのですが、三年後に妊娠し、今度は自然分娩(ぶんべん)で女の子を生みました。夫もまわりの人たちも、よかった、よかったと喜んでくれ、これで私の心の傷も少しは癒(い)えたと思っていたようですが、そんなことはありませんでした。》
《北陸の冬は長く、太陽が出ない日々が暗く続きます。娘が生れたのは秋だったので、子育ては冬になりました。お襁褓(むつ)は全く乾わかず、石油ストーブのまわりに綱を張って干しました。(中略)
朝から晩までストーブの前でうずくまる私の姿はおそらく尋常ではなかったのでしょう。父が時々は昼間実家に来て、自分の仕事を手伝わないかと言ってくれたのです。そして娘を母に預け、父の工房に通うことになりました。父という立場と違い、今度は師ということになります。
友禅は、まず青花という、つゆ草でつくった染料で下絵を描きますが、そんなことは私にはやらせてくれません。ちょこっとここの花の色を染めてとか。色を溶かしてくれ、などといろんな細かいことを命じられます。当時はお弟子さんが十人ぐらいいましたが、彼らに頼みづらいようなことは全部私にくるのです。もうこの時の父の怖かったことといったらありません。何しとる、だらかほんまに、あほ、の罵声(ばせい)の連続です。(中略)
そんな時に母から打ち明けられました。父のガンがかなり深刻だということです。亡くなる二年前、父は精力的にいくつかの作品を展覧会に出品しましたが、おそらく自分の寿命をよく知っていたのでしょう。亡くなる前の父は立派でした。作品の整理をしただけではなく、弟子たちの今後の身の振り方も、ひとりずつ考えていったのです。そして父からあらたまった様子で言われました。もうじき独立することになっている弟子が何人かいる。奴(やつ)らのためにも、この工房を引き継いでくれんかいね。
何言ってるがねと、私は笑い話にしようとしました。
お父さんの工房じゃないかいね。私にはようめんどうみられんわいね。私は友禅一生やってく気にはまだならんもんね。
しかし今は、そのとおりになりました。》
《美津子さんの着物のことは、ずっと前から知っていました。美津子さんというのは、西の廓(くるわ)の芸者さんです。金沢には、東の廓、西の廓という二つの大きなお茶屋街があります。どちらも伝統ある花柳界なのですが、やや格式張っている東に比べ、西の方は昔から気楽に遊ばせてくれるところということになっています。芸どころ金沢の芸者たちですから、踊り手も唄(うた)い手も弾き手も、相当の名手が揃(そろ)っているのです。美津子さんは立方で西川流でもその人ありと知られた実力の持ち主だということです。
父が三十年前に、美津子さんに“出の衣裳”をつくったことは、今でも母や昔のお弟子さんから聞くことがあります。三十年前というと、五十代の父のいちばん脂がのっていた時期でしょう。
そりゃあ、見事なものだったよ。
あの頃、着物の納品を一手に引き受けていた母は言います。
お父さんがうんと気張ってつくったから、そりゃあ、そりゃあ素晴らしいもんやったわね。
この金沢では、友禅師と花柳界とは密接な関係があって、芸者さんは必ずといってよいほど加賀友禅をまといますし、友禅師たちもお茶屋さんで遊びます。といっても、友禅作家と呼ばれる人に、一点ものを注文できる芸者といったら、かなりの売れっ子でなくてはなりません。ましてや、正月や特別のときに着る“出の衣裳”は、芸者の第一礼装です。かなり高価なものでしょう。三十年前の父といったら、加賀きっての人気作家でした。とても生半可な金額ではなかったはずです。私は美津子さんという人に、一度会いたいと思ったのですが、女の身の上ではなかなかお茶屋に行くことはありません。》
《秋のある日のこと、私は岩見屋さんのご夫妻に招待され、食事を一緒にいたしました。岩見屋さんは金沢でも一番の格式と歴史を誇る旅館なのですが、私が親しくさせていただいているのは弟さんの方で、この方は東京の岩見屋の料亭やレストランを経営しています。(中略)このご夫妻が食事の後。私をなじみの西のお茶屋に連れていってくださったのです。(中略)その時、それが静かに開いて、年増の芸者さんが入ってきました。とっくりを盆に持っていましたし。化粧の薄い顔といい、つつましやかな様子といい、加賀友禅の訪問着をまとっていなかったら、仲居さんと間違えたかもしれません。
おお、美津子、久しぶりだったね。
岩見屋さんが明るく声をかけ、私ははっと顔を上げました。この人が美津子さんだったのです。(中略)
この人は吹田翠(みどり)さんといって、友禅を描いてる人。あの有名な完さんのお嬢さんだよ。
岩見屋さんが私を紹介してくださると、美津子さんも驚いたように目を見張ります。
ほうけえ、あんたさんが完先生のお嬢さんですけえ。私はずうっと昔、完先生に着物つくってもらったことがありますわね。
ええ、知っています。
次の言葉がすらりと出たのは、私にしてはお手柄というべきでしょう。
あの、父のつくった着物を一度見せてもらえないでしょうか。
お安い御用ですわね、と美津子さんはにっこり笑いました。》
《この頃死んだ父の存在が、私の中でだんだんと大きくなっていくのがわかります。真夜中、私は紙を拡(ひろ)げてあれこれ構図を考えます。絵師は、構図を決めるまでが地獄で天国といったのは父です。死ぬほどつらいが、無限に楽しいという意味でしょうが、私は楽しいという境地にはまだ達していません。何ヶ月もかかって、苦しみ抜くこともあります。そんな時「楽しい」と言った父に、私は妬(ねた)ましさと同時に凄(すご)さを感じるのです。死んだ子を忘れられないように、死んだ父親というものも忘れられません。ましてや私のように不貞の子どもで、同じ仕事に就いたらなおさらです。
約束の日、私はひとりで家を出て、西に向かいました。美津子さんはもう一人の芸者さんと一緒に待っていてくれました。おそらく地方さんでしょう。一目で鬘(かつら)とわかるたっぷりとした黒髪のお婆(ばあ)さんでした。
大事に大事に着たがやけど、裾(すそ)の方がすり切れて、もう着れんようになってしもたがやわいね。
美津子さんはそう言って、黄ばんだ畳紙(たとうし)を拡げます。そして着慣れた人の軽やかさで、それをさっと肩にかけました。それは「松の緑」と名づけられた出の衣裳です。松の芽をモチーフにするなどというのは、あの時代私の父以外にいったい誰が考えついたでしょう。黒い紋付の裾いちめんに、芽を吹き出した松が重なっています。萌葱(もえぎ)、若草、常盤(ときわ)色(いろ)、何色かの緑が、黒の地の上で踊っていました。大ぶりの絵です。どの線も力強く、若く元気な父の息づかいがここまで聞こえてきます。
写真がありましたから、持ってきました。
美津子さんが遠慮がちに、私に一枚のスナップ写真を差し出しました。古いカラー写真で、色が黄色っぽくなっていますが、島田に結い、この出の衣裳(いしょう)をつけ正装の美津子さんがいます。帯は金沢ではだらりの柳ではなく、しっかりお太鼓に結びます。だからこの衣裳のきりりとした印象は少しも損なわれません。若き日の美津子さんは本当に美しく可憐(かれん)でした。おそらくいい旦那(だんな)がついていたのでしょう。帯も金襴(きんらん)の立派なものです。
それにしても、この着物はどういったらいいでしょうか。これほど力強い美しい模様を私は見たことがありません。私はいつのまにか泣いていました。もう父への妬みや畏(おそ)れなど何もなく、ただただ父が懐(なつ)かしかったのです。
「松の緑」っていうご祝儀(しゅうぎ)ものがあるんです。どれ、それでも弾かせてもらいますかね。
地方の芸者さんがそんなことを言って立ち上がりました。》

<その二 形見>
これは信用できる「語り」手なのだろうか。「語り」は「騙(かた)り」でもあるのだから。林真理子の小説は、「優劣」「優越感」をエンジンとした感情の起伏であって、当然なことに復讐心にみなぎって、読者の俗な感情に迎合する。
《昔の銀座の話をしろっていうことだけれど、今の人にどのくらいわかってもらえるでしょうか。》
《春美の話なんて、それこそ気楽な世間話っていうもんだけど、るり子のことを話すのはつらいわ。銀座の女にはふた通りあるの。頭が悪くて不幸になるタイプと、純情すぎて不幸になるタイプよ。どっちも同じようなもんじゃないかって言われそうだけど、根本が違うわ。純情過ぎるっていうのはね、脳(のう)味噌(みそ)や心の中のあぶくが、あまりにも多く濃く出てくることを言うのよ。頭の悪い女っていうのは、泡ひとつ出やしない。脳のつくりが単純で平べったくなっているの。
るり子はね、女の私からみても本当に純で真っ白だった。私がホステスしていた時の同僚だったんだけど、とても仲よくしてた。(中略)るり子はね、三田の出来たばっかりの高級マンションに住んでいた。もちろん金持ちのスポンサーがついていたからよ。(中略)
その男の人は、るり子が働くのを許してくれたし、もちろん店に来て旦那(だんな)風を吹かせるようなこともなかったわ。着物だってどっさり買ってくれた。私はね、あの娘(こ)の部屋へ行っても本当に羨(うらやま)しかったのは、三棹(さお)の箪笥(たんす)にどっさりと入っている着物だったの。とても百枚じゃきかなかったでしょうね。まだ銀座じゃ着物が幅をきかせてた時代よ。洋服の子が一日の保証が一万円だったら、着物の子は一万五千円っていうふうに、お店の方も配慮してくれていたの。私もね、それまでのワンピースとかスーツじゃなくって、着物にするようにしていたんだけど、とにかく着物は高価(たか)いのよ。ママに紹介してもらった呉服屋さんはちょっと値引いてくれたし、支払いも待ってくれたりしたんだけど、若い身空で二十万、三十万の出費は痛かったわね。
昭和四十年代のあの頃、銀座ではね、やわらかなもんじゃなくて織りの着物が流行(はや)っていたのよ。ああいう固い着物を上手に着るとね、綸子(りんず)や縮緬(ちりめん)を着てるよりもふんわりとした色気が漂うのよ。その替わり、いろんなところに凝ったものよ。私の場合は、八掛(はっかけ)は必ず赤にして、袖口(そでぐち)から色がこぼれるようにした。泥大島にはっとするような黄色の帯を締めて、画家のお客様に誉(ほ)められたことがあったわ。大島と結城(ゆうき)、この二つをみんな競って買ったものだけれど、結城は当時から高かったわねえ。大島のざっと二倍はしたんじゃないかしら。大島だって亀甲(きっこう)の込んだものが欲しくなってくる。どんどん目が肥えてくると売れっ子の先輩たちと自分の着ている赤札の大島とは、やっぱり差があるってわかってくるもの。》
《絹ものをいじっている時の、るり子の眼つきを私はまだ忘れることが出来ないの。水商売の女のね、着るものに対する執着や思い込みの激しさっていうのは、男の人にはわかってもらえないかもしれない。この世界に入ったばっかりの女の子っていうのは、どんな美人でも最初は垢抜けないものよ。大金持ちのご令嬢がホステスにわけもないから、そこらで買ったようなものを着ておどおどしている。だけどね、ちょっと売れてきて、男の人がついてくると、もう着るものにてきめんに表れてくるわ。(中略)
それにしても、るり子の真剣なまなざしはちょっと普通じゃなかった。るり子がその時手にしていたものは、色の入った大島だったけれど、大きめの市松の中に細かい花を織り出したそれは、いったいどのくらいの年月をかけたもんだったんだろう。私はふと、意地悪な気持ちになったの。そしてこんなことを言ったのを憶(おぼ)えてる。
その大島、いつか私に頂戴(ちょうだい)ね。
るり子はちょっと驚いたようだったわ。私がそんなふうにものをねだるのは珍しかったから。
これはとっても気に入っているから嫌よ。
るり子はつんと肩をそびやかすようにした。あれは秋も終わりの頃だったのに、るり子は白っぽい浴衣(ゆかた)を着ていた。それが私には死人を連想させたわ。若いっていうのは怖しいことよね。思いついた言葉をやすやすと何のためらいもなく舌にのせたの。
それならば、るり子が死んだら、それを私への形見にしてね。
いいわよ。
るり子はあっさりと答えた。
もし私が死んだら、これをあんたに上げるようにちゃんと言い残しとくわ。
お願いね、ちゃんと遺書をつくっといてね。でもこの大島派手だから、婆さんになったら着られないかも。
だったらなるべく早く死ぬようにするわ。
その後、私たちは顔を見合わせ、声を立てて笑った。あの時、るり子はもう作家のTとつき合っていたかもしれないわね。その娘の寿命を縮めた、あのいいかげんな男よ。》
《私からみると、Tなんていうのは物書き独特の自己顕示欲に溢(あふ)れていて、みるからにしんどそう。新劇の女優だった女房との間に、三人の子どもがいたから別れられるはずもない。(中略)だいたいね、ホステスが妊娠した時に、堕(お)ろしてくれって言わない男なんて、最低だと思うね。どんなに金を積んでも、土下座して泣いてでも、女に言わなきゃいけないの。オレには妻と子どももいる。君への気持ちも変わるかもしれない。とうてい責任をとれるはずがないんだ。だからどうか堕ろしてくれ。
それを女のつまんないロマンティシズムに合わせてやろうとするなんて、あのTというのはどこまで気取り屋だったんだろう。もしかしたら、世間のいうとおり、自分には本当にダンディズムが備わっていると信じていたんじゃないだろうか。
私、どんなことがあっても子どもを生むわ。こう私に告げた時、るり子はもう母親の顔をしていた。あれは着物をいじっている時と同じ眼だった。自分が持っているものは絶対に手放さないと身構えている目よ。
Oさんはどうするの。
私はスポンサーの名を口にしたけれど、それでもるり子はひるまなかった。
私ね、うまくやる自信があるのよ。いいえ、絶対にやってみせる。(中略)
今ならはっきりわかるのだけれど、るり子はパトロンの人のよさにつけ込もうとしたのよ。作家との子どもも絶対に欲しかったし、もうじき手に入る自分の店も失ないたくなかった。そしてるり子が考えたのが、妊娠をぎりぎりまで隠しておこうとする作戦だったの。
妊娠がわかってから、るり子は衿もとをゆったりと着つけるようになった。あの頃、銀座の女というのはまるで素人の女のように、衿元をかっきりと合わせ、もの堅く着つけていたものだったわ。だけどるり子は、もうじきせり上がってくる腹部を見こして、わざとだらしなく衿を抜くようにしたのね。
だけどそんなことは無理な話で、六ヶ月になった頃には、るり子の妊娠は誰の目にもはっきりとわかったわよ。(中略)どうやらるり子は方針を変えて、お腹の子どもはOさんの子どもということにしたらしい。(中略)
みんなの思惑の中、るり子の出産日が近づいてきた。それなのに馬鹿(ばか)なあの娘(こ)は、Tの車に乗って追突事故を起こされた。死んで生まれてきた子どもは女の子だったそうよ。るり子はそれから一年後、やっぱり車の事故で死んだわ。自転車でふらふらとトラックの前に出ていくなんて、クスリをやっていたんだって皆が言ったけれどたぶんそうでしょう。
あの形見に貰(もら)うはずの大島がどうなったかって。貰えるはずがないでしょう。もと青線のお女郎をしていたるり子の母親が、足袋の類(たぐい)まですべて持っていったわ。その凄(すさ)まじいがめつさといったら、あの着物をいじっていたるり子を思い出させた。
そしてるり子が突然逝(い)ってしまったものだから、困り果てたOさんは私に店をやらないかと持ちかけてきた。私はるり子の親友ということになっていたからよ。手形替わりに、Oさんと二、三度寝たけれど、はっきりとお金のやりとりをして、私はこの店を手に入れたのよ。いろいろ陰口たたかれたけど、何ら恥じることはないと思うわ。
この店がるり子の形見っていうわけ。まあ、大島よりずっとよかったわね。私はるり子よりもずっと頭がよかったから、本当に価値あるものを選んだというわけ。時々あの娘の着物をいじっていた顔を思いだすわ。もっと執着を持たなきゃいけないものは他にあったのに、あの娘って結局はカスをつかんだというわけよね。どんなに高い大島だって、三十年も着ればすり切れる。だけどこの形見は、あと二十年はいけるんじゃないかしら。》

<その三 唐子>
優越感を臆面もなく描くのがうまい。もちろんその比較の勾配感情は一筋縄では終わらないのが作者の技量の見せどころではある。
《昔の良家の娘というものは、みんな窮屈な生活をしていたように思われがちですが、そんなことはありません。
宮家や、華族の中でも古いお家柄の方はどうか存じませんが、私どものように明治から始まった家ですと、案外のびのびと育てられたものです。特に私の家の場合、祖父、父と二代にわたって英国に留学しておりましたから、自然に自由でハイカラな気風がつくられたのでしょう。
私は三人の兄が続いた後に、やっと生まれた女の子だというので、それはそれは大切に育てられた結果、とんでもないお転婆(てんば)さんになりました。
あれは私が十九歳になったばかりの頃です。「婦人公論」から頼まれて、写真を撮られることになりました。当時はよく、どこそこの令嬢というのが振袖(ふりそで)を着てグラビアを飾ったものです。》
《もちろん戦前の娘ですから、何かの折にはほとんど着物でまいりますし、箪笥(たんす)の中にはびっしりと衣裳(いしょう)が詰まっております。それでも私に着物をもっと着るようにと小言をいってからというもの、母のところには呉服屋がさらに頻繁にやってくるようになりました。三越、高島屋といったところも出入りしていましたが、母はひとりで荷を担(かつ)いでやってくるその呉服屋がいちばんの気に入りでした。京都に本店を持ち、いい職人を抱えているためこちらの注文どおりのものを実にうまくつくるというのです。》
《私の幼ない頃から、着るものはすべてこの母がみてくれていたのですが、例の「婦人公論」のグラビアの出来ごとの後、母に言われました。そろそろ自分の好きな着物を考えてごらん。娘というのは、多少派手で大胆なものでも若さで着こなしてしまう。だから多少変ったことを考えてもいいんですよ。いつまでも人のつくったものばかりまとっていては、本当の着物の楽しみなどわからないのだから。
そこで私が考えついたのは、市松の着物です。駒沢や朝霞(あさか)のゴルフ場に行くために、よく電車に乗るようになった私は、下町の女たちが着る市松の着物に惹(ひ)かれました。いかにもしゃっきりとして小粋(こいき)な感じです。私は簡単なスケッチを描き、呉服屋に渡しました。それは薄紫の市松で、白の部分に秋草を小さく飛ばすというものです。二日も考え抜いたこのスケッチは、母の大反対にあいました。市松の模様は品が悪い、まるで小商いの家の娘のように見えるというのです。(中略)すっかりふくれた私を見かねて、呉服屋が助け舟を出してくれました。
「若いお嬢さんというのは、一度は市松を着たいもんです。ほなら、こうしはったらよろしいのと違いますか」
彼は私のスケッチを、ちょっと拝借といって取り上げ、市松の縁を鉛筆でぼかしました。くっきりと四角い市松と違い、こうするととても品よくなるというのです。ぼやけた市松は、とたんに魅力が半減するような気がしましたが、私はそこで承知することにしました。これ以上強情を張っても、私に勝ち目がないことがわかっていたからです。(中略)
そして一ヶ月後に、その着物は出来上がってきましたが、それはそれは素晴らしいものになりました。京都の一流どころで染めさせたというだけあって、菫色とも藤色ともつかぬ微妙な紫がとても美しく、何より市松が長身の私にぴったりと映えたのです。市松をぼかしたのは呉服屋のお手柄です。》
《そして次に思いついたのが、唐子の着物だったのです。私は呉服屋にこう申しました。
「なるべく目立つような唐子にしてね。何かして遊んでいるようなところがいいわ。花摘みとか、追いかけっことかね」
これまた変わったことをと、母は小さなため息をつきました。(中略)
こうした時の、初老の呉服屋の仲裁のうまさというのはまさに名人級です。
「お嬢さま、唐子というのはほんに可愛らしいもんですけどな、柄っていうもんは何でも限度ちゅうものがありますな。やたら大きくしたら、せっかくの支那のお子さんも憎らしくなりますな。ここはひとつ私にまかせていただいたら、お嬢さんの気の済む大きさでパーッと描いて、しかもうんと可愛らしくいたします……」》
《本当に不思議に思うことがあるのですが、人の記憶というのは、ある時間、ある場面が、まるで氷詰めにしておいたように、当時のまま残っていることがあります。それがそれほど重要なことではないのですよ。とても嬉(うれ)しかったり、悲しかったりと、強い思いがあるからしっかりと憶(おぼ)えているかというと、そうでもありません。現に私は、終戦直前に主人の戦死を聞いた日のことは、すべて靄(もや)のようなものにおおわれています。はじめて子どもを生んだ日のことも、今となっては誰かが日いち日と遠いところへ記憶を動かしているような気がして仕方ありません。
それなのに、あの昭和十四年の秋の昼下がり、私の家の座敷で起こったことは、まるで昨日のように思い出すことが出来るのです。芝三田綱町の私の家は、父の好みで西洋式に建てられておりましたが、日本間もいくつかございました。南向きのあのこじんまりとした座敷は、母がごく親しい友人と集う時に使うもので、隣りの部屋は茶がたてられるように炉が切ってありました。床の間に飾られたススキと撫子(なでしこ)の花、渋好みだった母の錆鼠(さびねず)のお召し。呉服屋の男の指は滑稽(こっけい)なほど短かく、女のようにぽっちゃりとした肉がついていました。その男の指は実にしなやかに動き、反物をくるくると巻いたり、帳面に数字や柄を書いたりします。障子からは黄色がかった光が射(さ)し込み、陽が早くも傾いたことを告げています。
あの光の中での絹のぬめりや母の着物の色を、どうしてこれほど強くはっきりと心に刻んでいるのでしょうか。おそらく永遠にこうした日常が続くのだと信じていたあの時の私の稚(おさ)なさを、老いた私が嗤(わら)っているからではありますまいか。》
《また従兄(いとこ)にあたる倉重(くらしげ)俊太郎の美しさを、いったいどういう風に表現したらよいのでしょうか。後にも先にも、私はあれほどの美男子に会ったことはありません。
俊太郎は外交官の父と、アメリカ人の母との間に生まれた混血児でした。混血児ならば美貌(びぼう)で当然ではないかと思われるかもしれませんが、昨今のテレビで見るそういうタレントとは、品というものがまるで違います。(中略)
私の夫となった人は、俊太郎のことを嫉妬(しっと)したこともあったようですが、それは彼の思い過ごしというものです。あんな風に美しい男というのは、女の気持ちを重くしてしまうものです。傍にいたりすると、こちらの額に出来かけた面皰(にきび)が気になったり、鼻の頭に汗をかいたりしていないものかと、そわそわと落ち着かなくなってしまいます。幼な馴(な)じみの私でさえそう感じるのですから、他の娘たちだったらなおさらでしょう。俊太郎はいつも孤独だったような気がします。毎年出かける軽井沢では、男女のつきあいは大目に見られていて、毎晩のようにパーティーが開かれました。学習院では男子部と女子部に分けられていた私たちも、この避暑地では子どもに戻り、昔のような屈託のない口をきき合います。白樺林の中で、恋もいくつか芽生えたはずです。それなのに俊太郎は夜の集まりにやってくることがあまりありません。勉強好きの彼は、東京帝大の工学部に進み、飛行機の研究をしていました。幼ない頃、父親の赴任地のベルリンで、最新の飛行機を見たという俊太郎は、ずっと飛行機づくりの夢を持ち続けるのですが、それが後年の彼の不幸へと繋(つな)がっていったような気がします……。
しかし生来の美しさに、青年の知性が加わった俊太郎というのは、もはや完璧(かんぺき)といってもいいほどの存在になります。白麻のジャケットを着た彼がこれまた美男の誉高い某伯爵(はくしゃく)家の兄弟たちと、グランドピアノにもたれるようにして談笑しているさまは、もはや少女たちが近づけるものではありませんでした。》
《すでに日中戦争が始まっていて、新聞には重々しい文字が並ぶようになりましたが、まだ普通の暮らしはのんびりとしたものでした。今の方々にはなかなか理解していただけないかもしれませんが、太平洋戦争前夜、いや開戦になってからもしばらくは、東京には平穏な日常があり、品物が溢(あふ)れておりました。畳紙(たとうし)に収められて、私の唐子が出来上がってきたのもその頃です。黒地に子どもらが遊ぶさまを描いたその着物は、賛否両論といったところでしょう。(中略)
着物にも相性がありますが、唐子のいきいきと遊ぶさまと、若く丸顔の私との取り合わせととてもよかったらしく、若い人は必ずといっていいくらいこの着物を誉めてくれたものです。
あの俊太郎までが、私のこの着物を絶賛してくれたのは意外でした。けれどもどうして彼が私の家を訪れたのか、どうして私が唐子の着物に綴(つづれ)の帯というよそゆきの格好をして、家の中に居たのかどうしても思い出せないのです。兄たちのところへ遊ぶに来た子どもの時ならともかく、大人になってからの俊太郎というのは、ほとんど私に家に来ることはありませんでした。あの頃、倉重のおじさまと、彼の大好きなママとが赴任地フランスから帰っていらして、久しぶりで親子三人の生活が始まっていたはずです。
おばさまは何年ぶりかで会った愛(まな)息子を、かた時も離したくないようでしたが、俊太郎はそれを振り切るようにして、入隊を志願したということです。大学生は卒業まで徴兵を猶予されたのですが、それを振り払うようにして兵士になるのです。
私の家に来たのは、その報告のためだったかもしれません。(中略)
マントルピースの前に座っていた俊太郎が、こちらの方に視線を動かします。
「その着物、とってもいいね。雪ちゃんにぴったりだよ」
嬉(うれ)しさよりも驚きの方が先にきました。俊太郎が女の着物を誉めるなどということは考えもしなかったのです。
「そうお、どうもありがとう。でもちょっと、派手過ぎやしないかしら」
「そんなことはない。とっても可愛いよ」
そして彼は私の裾(すそ)の方に目をやりました。どうやら唐子を見ているらしいのですが、異性に体のどこかを見られるというのはとても恥ずかしいものです。私はかすかに身をよじります。
けれども彼の視線に、淫(みだ)らなものは何ひとつありません。まるで何かを探りあてようとするかのように、彼は私の裾を凝視しています。布に包まれた私の腰を見ているのではなく、彼は唐子をずっと観察しているのです。
「その唐子は、とってもいい顔だね。唐子は顔のよさで出来不出来が決まってしまうんだろ」
彼の女の着物についての知識は、私をさらに驚かせました。
「この唐子は、名のある人に描いてもらったの」
「そんなことはないわ。ただの京都の職人さんでしょう」
「でも、なんて可愛い顔をしているんだろう。丸顔でひき目で、すぐに支那(しな)の子どもだってわかるね」
人の顔というのは、こうしてうつむくと、顔の彫りというものがよくわかります。何か言いかけて、私ははっと息を呑(の)みました。スタンドに照らされた俊太郎の顔は、西洋人そのものだったからです。しばらく会わないうちに、すっかり痩(や)せ、精悍(せいかん)な男の顔になっていました。それがますます彼のアメリカ人の骨格を浮かび上がらせていたのでしょうか。それとも、帰国したエミリーおばさまとの生活が、彼のアメリカ人としての血を濃くしたのでしょうか。
「すぐに支那の子どもとわかる」という言葉に、彼の言おうとする意味が込められているような気がしましたが、私はそれ以上問うことはしませんでした。それが俊太郎を見た最後でした。》
《三年後、航空隊に配属されていた彼は、静岡の上空で敵に撃墜されましたが、運よくパラシュートで脱出しました。
降りたところはのどかな茶畑です。少々手傷を負ったとはいえ、俊太郎はどれほど安堵(あんど)したことでしょう。しかし惨劇(さんげき)が待っていました。
彼の顔を見て、村人たちは「アメリカ人だ」と騒ぎ始めたのです。
なぶり殺しにされた俊太郎の死体は、見るも無残なものだったと言います。息子の死の原因を聞き、エミリーおばさまは卒倒しました。そして二日間意識を失ないましたが、戻った時は、もう以前のおばさまではありませんでした。祖国と両親を捨ててまでやってきた日本。この日本で、日本人におばさまの愛する息子は殺されたのです。おばさまは決してこのことを許そうとはしませんでした。そしてほどなく、私の家も夫の家も焼け、夫も亡(な)くなり、やっと戦争が終わりました。私は夫も家も失(な)くしましたが、田舎に預けていた着物はすべて無事でした。湿気にもあわず、どれもいきいきした絹の色と感触を保っていました。その中に、あの唐子の着物もありました。私はいつのまにか、この着物が大嫌いになっていたのに、米に替わることもなく、この一枚だけは今も私の手元にあります。
「孫も着られる」と私の母は言いましたが、偏屈な一人息子はとうとう結婚しませんでしたから、孫娘もいるはずはありません。いずれ私のお棺の中に入れてもらうつもりですが、八十近い老婆(ろうば)には、この唐子、すっかり派手になってしまいました。》

<その四 お夏>
これは語りものではない。[この物語は、甲斐庄楠音をモデルにしたフィクションです]と断り書きがあるように、脇役として登場人物する甲斐荘は実在の甲斐庄(かいのしょう)楠音(ただおと)で、堀口監督は溝口健二である。溝口監督作品に、「お夏」の姿は、その『近松物語』『西鶴一代女』が近接しているものの寡聞ながら見あたらず、どうやらフィクションのようであるが、巧い。甲斐庄は男だが、そこには女の匂いがするように、この小説集は、たとえ男が登場して語り手となっても、主人公は女であって、林真理子は女を描くのが上手い作家なのである。
《気味の悪い男、というのが由美子の第一印象であった。
何という生地なのだろうか、ぬめるような光沢のあるものを着流して、畳地の草履をつっかけている。女もののような小さな足袋といい、古代裂(ぎれ)でつくった巾着(きんちゃく)といい、男の身につけているすべてのものは、凝りに凝った高価なものらしい。それは着物についてあまり知識のない由美子にもわかる。
男は、踊りを長年やっているのではないかと思われるほど綺麗(きれい)な撫(な)で肩をしていた。羽織の絹が男の肩をすべり、ぴたりとちょうどいいところでとまっている。》
《戦争の傷がようやく癒(いや)され始めている今、昭和二十九年、由美子はスタイル抜群の新人女優ということで売り出し中なのだ。会社の方針で、由美子はいつも品のいいワンピースを着せられてきたが、手袋をはめ、ハイヒールをはくと、こづくりの顔とあいまって舶来の人形そっくりになると人は言う。
「野村由美子さんです。うちのホープですから、どうぞよろしくお願いいたします」
学徒出陣の生き残り組である助監督の村田は、こういう時いかにも律儀(りちぎ)に布の帽子を脱ぐ。年のわりには薄いと言われている髪が、汗のために少し光っている。薄物が終わり単衣(ひとえ)の季節であった。
「こちらは甲斐庄(かいのしょう)先生だ。衣裳(いしょう)の考証をしていらっしゃる。いろいろめんどうをおかけすることになると思うから、しっかりご挨拶(あいさつ)するように」(中略)
甲斐庄という老人も、唇を少々曲げてこちらを見る。なまじ整った顔立ちをしているだけに、ぞっとするほど意地悪な表情になった。
「こんな大女が、ほんまにお夏をやらはるのか」
外見から判断してかん高い声を出すような気がしたが、老人の声は意外に低くなめらかである。そしてそれはまっすぐに由美子の胸に突き刺さる。》
《いわば戦後世代の。等身大の娘を表現できる女優として重宝がられている自分の、いったいどこが気に入り、巨匠堀口監督が声をかけてくれたのか由美子はまだわからないでいる。しかも由美子が演じる女は、西鶴(さいかく)がつくりだした悲劇の女、但馬屋(たじまや)お夏だ。時代劇に出るのも初めてならば、京都撮影所にやってくるのも初めての由美子は、まだとまどいと怯(おび)えの中にいる。オムニバス映画の他の部分に出演している俳優たちは、誰もが当代きっての名優と呼ばれ、しかも「堀口組」の一員とされる人々である。助監督はもちろんのこと、照明、結髪にいたるまで堀口の崇拝者で固まっているこの撮影所は、由美子にとっては驚きの連続である。まだ撮影は始まらず、新人に近い由美子は村田に連れられてあちこち案内してもらっているのであるが、どこへ行っても由美子は、自分の体をなめまわすような露骨な視線を感じる。いや、露骨というのは性的なにおいも含まれているが、撮影所の人々から受け取るのはそうしたむき出しの欲望の無邪気ではない。プロの職業人として、中身をじっくりと確かめる陰湿さである。
「この娘はん、ほんまに堀口さんの映画(しゃしん)に出はるんやろか」
しかしはっきりとそれを口に出したのは、この老人が初めてである。》
《甲斐庄という男のことを、いち早く詳しく教えてくれたのは、結髪のお峰さんである。どこの撮影所でも、結髪の女たちは新人女優の慰撫(いぶ)役であり情報担当でもあるのだ。
「山田五十鈴(いすず)はんもな、田中絹代はんもな、カイさんの着付けやないと承知しまへんのや。細い紐(ひも)何本か使うだけでな、そら、うまく着せるんやで。女の体、どうしてそんなに知ってはるのか、おかしな話や」
ここで彼女は卑猥(ひわい)な含み笑いをしたが、意味がわからぬ。
「それって、あんまり女の人とつき合ったことがないっていうことかしら」
「つき合ったことがないというよりも、女よりも男はんの方がずうっと好きっていうことやろな」》
《秋の陽が次第に早く落ちていくようになり、由美子が暮らす下鴨(しもがも)の旅館に小さな手焙(てあぶ)りが入れられた日、由美子は電話で呼び出された。(中略)
いくらか得意になっていた由美子であるが、座敷に入るなり、「あかん、あかん」というつぶやきで迎えられた。床の間を背にして、堀口監督と脚本の山口が座っている。その横に結城と思われる対を着た甲斐庄がいた。「あかん、あかん」という声は、甲斐庄から漏れているのである。
「お夏はん、演(や)らはるのやろ。そしたら普段も着物着て、慣れとかんとどうにもならん。あんた、そんな洋装で、大股(おおまた)で歩かはったら、お夏はんがどこかへ逃げてしまいますがな」
「まあ、そこへ座りなさい」
よく学者のような、と表現される監督の口調である。京訛(なま)りもなく、その静かなもの言いで、
「もう一度演ってください」
を繰り返すために、ある有名女優などは神経衰弱寸前に追い込まれたという。
「今日、カイさんに野村君の分の衣裳を見てもらったんだが、全部気にくわないって言うんだよ」
堀口は自分の恋人の我儘(わがまま)を告げるように薄く笑う。まるでこうなることを予感していたかのようである。
「カイさんは忙しい人だし、とても野村君のめんどうまでみてもらえないと思ってた。だけど自分が全部引き受けると言ってくれたんだ」
「そら、そうどすわ。お夏はんといったらな、大店(おおだな)のお嬢さんどす。しかも呉服屋という設定ですわ。そしたら、凝りに凝ったもんを着せられるのはあたり前の話ですわな」
甲斐庄は小さな壺(つぼ)のようなものを取り出した。それが矢立てだということを由美子は知っている。終戦の次の年に八十一歳で死んだ祖父が、やはり矢立てを使っていたからである。甲斐庄はさらさらと画帳に女の絵を描く。女の髪は島田や丸髷(まるまげ)ではなく、もっと古い時代の兵庫というものらしかったが、彼は張り出した髷まで全く難なく見事に再現していく。お峰さんの言う元絵描きだったという話は本当なのだと由美子は思った。
「この時代は、友禅が発明される前ですけどな、呉服屋の娘はんならいい絵羽(えば)手に入れてたはずや。姫路に住んではっても、柄は上方風やろな。だから花をぎょうさん入れて……」
菊とも梅ともつかぬ花を描き入れていった。》
《どうして彼が監督の隣りに座り、あれこれ指図出来るのか知っている者は誰もいない。アメリカとの戦争が始まった年、気がつけば堀口の隣りにあの男がぴったり座っているようになったと大道具のシゲさんが言う。
「最初の頃、先生もあっちの趣味があるんやろかと皆で噂(うわさ)したもんさ。だけどね、先生は知ってのとおりの女好きや。じゃ、あのおっさん何だろうっていうことになったんやけど、カイさんは人が悪くない。監督とのことを笠(かさ)に着て、わしらに命令したり、いばったりすることもないお人や。それに何というたかて、着物のことをあんなに知ってる人はいないで。王朝もんから大正もんまで、女と着物のことならあんなに知り抜いてる人、まずいないやろなあ。由美ちゃんも幸せと思わんといかん。何しろ山田五十鈴はんが、東京へ連れていきたいというたカイさんなんや。あの人が着つけるとな、女の体はほっそり見えて、なんとものう姿がようなる。それに品がようてな、女郎はんの着付けしはっても、そんなに汚ならしくならへんや。そこが先生にも気に入られたんやろな。由美ちゃんも京都にいる間に、あの人にいろいろ聞いたらええ。いつか大女優さんにならはるんやったらな、着物が似合わないとあかんよしな」》
《由美子が行く時間までに、甲斐庄は反物やこまごまとした小物を取り揃(そろ)えておくのが常である。
「どうえ、どうえ、この友禅ええやろ」
彼がはしゃいで、ふわりと由美子の肩にのせた布がある。大胆な御所車と、撫子(なでしこ)をあしらった柄だ。
「ほら、シーン14で、お夏はんが清十郎はんと初めて逢い引きするとこあるな。あそこ但馬屋の庭ということになっている。大店のお庭や。後ろで虫が鳴いている。それでこれを着てお夏はんは歩いてくるんや」
女のような姿(しな)をつくった。この男はやはり踊りをやっていると由美子は確信を持つ。
「この友禅な、四条河原町のえり庄さんがな、戦争が終わるまでずうっと蔵の中に入れといたものなんや。職人の出来が今とはまるで違う。戦争からこっち、職人の気質が変わってしまったからな。今はどんなもんつくっても、やたら売れるやさかい、手を抜くとこは手を抜くで。昔の職人はそんなことせえへんかったからな、この花びらの描き方というたらすごいもんや。こういうのはな、映画(しゃしん)の中にはっきりあらわれるんやで。白と黒しか出んからこそ、色の美しいものを選ばんとあかんのや。この絹のしっとりしたとこを見てみい。いつ陽の目をみるんやろうか、ほんまに戦争は終わるんやろうかと、人間と同じように蔵の中でずうっと耐えてきた絹や。いい艶(つや)が出てきましたやろ」
これは小袖(こそで)に仕立てまひょと、甲斐庄は歌うように言った。
「わしが撮影の日まで、うんといい帯を見つけたるわ。緞子(どんす)か繻子(しゅす)で黒がええなあ。お夏はんの頃はな、お太鼓なんて野暮な結び方はしてまへん。広幅のもんをな、後で可愛(かい)らしう結びましたんや。歌舞伎の役者でな、吉弥っていうのがいましてな、そりゃあいい男だったそうでっせ。その役者はんがな、舞台に出る時に帯を締めてはったそうやけど、その結び目がしんなり垂れてて、そりゃいい形やったそうや。なんであんなにええ格好なんやろいうて、女たちが調べたら、両端に鉛入れてはったんやて。それで吉弥結びが大流行や。女だったら誰もが、後で結んでたらっとさせてたんや。これはお夏はんが死んだずっと後のことやけどな、わしは、やっぱりお夏はんに吉弥結びさせたいんやわ……」(中略)
由美子の肩に反物をかけようと、甲斐庄が由美子に近づいてくる。由美子は身を固くする。老人の乾いた体臭と、旧家の蔵の黴(かび)くささを同時にかいだような気がしたからだ。
「なんや、あんた、棒のようにつっ立って。女なら、こういう時かたちをつくらなあかん」
甲斐庄は呆(あき)れたように声を上げたが、怒っているというよりも、目の前の若い女をどこか面白がっている風であった。
「あんた、着物を着たことないのんか」
「ええ。私たちは学童疎開(そかい)で。芋のツルをくわえていた世代です。戦争終わって女学校に入った頃は、完全なタケノコ生活で、うちに着物なんてまるっきりありませんでした。ごくたまに母が昔着てたものに、袖をとおしてたぐらいです」
「日本の女子(おなご)もおしまいやな」
甲斐庄は今度は本気で深いため息をついた。
「あんたなあ、女やったらこういう綺麗(きれい)なおべべ着られて嬉しいと思わんか。見てみい、この絹の艶のいいこと。いい絹はな、まとうとさらさらと鳴くんやで。何かの拍子にな、指がこうして胸のところに触れる。するとなあ、やわらかい絹にあたるんや。そうすると指が痺(しび)れるみたいに嬉しくなるわ。花をいっぱい描いた絹にくるまれて紐(ひも)で縛られる。女としてこんなに幸せなことはないやろ」
甲斐庄の筋の浮いた手が、絹の上を上下する。まるで言葉どおり布から何かを吸い取ろうとするかのようであった。老人の目が次第に熱を帯びていくのを由美子は信じられないもののように見る。なんなんだろう、この老人はいったい何を欲し、何を訴えようとしているのだろうか。
「あんた、女やろ」
彼は突然、野太い声を出した。それはまさしく男が他人を励まそうとしている声で、その唐突さに由美子は息を呑(の)んだ。
「あんた、女ならもっとしっかりせなあかんで。あのな、男と女やったら女の方が百倍も千倍も得なんや。神さまがそういうふうにおつくりになったんやから」
「そうでしょうか、今まで日本の女はずうっと虐(しいた)げられてきたんじゃないでしょうか。良妻賢母というものを強いられて、自分の幸福なんていうものはほとんどなかったはずです」
「阿呆(あほ)らし」
甲斐庄は吐き捨てるように言った。(中略)
「まあ、ええわ。お互いそんなに嫌いにならんとこ、仕事終わるまでな。さあ、これ、もう一回肩にかけてみい」
心より体がすうっと素直に動いていた。身をかがめて由美子はその絹を肩に受け止める。さっきよりもはるかに軽く、ふわりと肩に落ちた。
「ええわ、ほんまによう映るわ」
甲斐庄は祈るように掌を合わせ、それを斜めに倒して胸の上にあてた。
「ええわあ、ほんまに、ええわあ」》
《由美子のお夏は、ベテラン女優が居並ぶ中、その初々(ういうい)しい演技が評判となった。堀口監督の思いきった起用は成功をおさめたと評にも書かれたものだ。しかしどういうわけか堀口はその後、二度と由美子を使うことはなかった。
由美子は東京へ戻り、その後何本かの現代劇に出演する。一時は大女優へのコース間違いなしと言われていた由美子であったが、この世界はそれほど甘くなかった。(中略)
二十四年後の六月、由美子は明治座に出演していた。人気演歌歌手が座長をつとめる、いわゆる「歌芝居」というやつである。楽屋で何気なく新聞を拡(ひろ)げた由美子は、「異色の画家・甲斐庄楠音(ただおと)氏死亡」という小さな記事を見つける。八十三歳の彼は、ガードマンをしている若い恋人のアパートで、急に具合が悪くなりそこで急死したのである。
「ふうーん」と由美子は新聞を畳んだ。全く何の感慨もない。ただかなりの老人だと思っていた甲斐庄が、あの頃まだ若かったということにちょっと驚いただけだ。
「あのおじさん……」
由美子は浴衣(ゆかた)をもろ肌脱ぎにして水白粉を塗り始める。中年の肌は細かい皺が寄っているから、たたきつけるようにしなければならない。鏡に向かってつぶやいていた。
「女は得だ、得だって言ってたけど、そんなことありはしない」
開演十五分前と、スピーカーから乾いた声が聞こえてきた。》

<その五 歌舞伎座の幽霊>
歌舞伎座の幽霊という話は、どこかで聞いたことのあるものだが、それを女形の着物愛と結びつけたところに妙がある。語り手は男だが、女形の幽霊ということで、これも女の心理、とりわけ三階さんという階級(優劣)の物語に違いない。
《ええ、歌舞伎(かぶき)座には幽霊が出ますよ。
私は確かにこの目で見ましたからね。
あれは十月興行の夜の部が終わった時のことです。まだまだ元気だった仁左衛門(にざえもん)が、「新口村(にのくちむら)」の忠兵衛(ちゅうべえ)をつとめ人気を集めていました。
松島屋というのは、息子の孝夫を見てもおわかりのように、姿の滅法いい役者ですから、忠兵衛の衣裳(いしょう)がそりゃよく似合っていました。どっしりと重い黒縮緬(ちりめん)に、松竹梅の裾(すそ)模様は決まりとしても、京屋との比翼の紋がめったにない感じに染め上がっていました。
私はそれを衣裳部屋に運び手入れをいたします。芝居の衣裳というのは、一回着るだけでとても汚れるものです。(中略)
夜の十一時近い歌舞伎座の楽屋というのは、静かなものです。残っているのは頭取さんか、そうでなかったら明日の旦那(だんな)の出番のために化粧前を整えている三階さんぐらいです。白い蛍光灯の下、各楽屋の前はご贔屓(ひいき)さんからの色とりどりの暖簾(のれん)がかかり、それはぴくりとも揺れない。
そして私は見たんですよ、階段の陰にひとりの女形が立っているのをね。鬘(かつら)をちゃんとつけ、顔もこさえてありました。だけど不思議なことに簪(かんざし)はひとつも差していない。その女形は俯(うつむ)いてじっと立っています。
男の着物は、黒地に藤の房がどっさりと垂れています。帯にもしつこいほどの藤の刺繍(ぬい)がしてある。そう、「藤娘」の衣裳なんですよ……。》
《初めて三階の大部屋に行った日のことを、よく憶(おぼ)えてますよ。毎日毎日アイロンかけ、それも炭火のアイロンかけばかりさせられていた私は、先輩からこう命令されたんですよ。
「おい、昼から歌舞伎座へ行け、大部屋に行ってな、いろいろ教わりながら何とかまとわりついてこい」
人にまとわりついてこいや、っていうのはいい言葉だと思いませんか。私は言われたとおり、さっそく歌舞伎座の三階にある大部屋へと向かいました。
ここを楽屋とする脇役たちのことを三階さんと呼ぶわけですが、これは軽い感じが込められているかもしれませんね。実際のところ、三階さんと呼ばれて嫌がる人たちもいます。(中略)
私がお話したいと思っている三階さんというのは、養成所上がりのちゃんと教育を受けた人たちではありません。芝居小屋が「悪所」とささやかれた頃のにおいを身につけていた人たちのことなんです。
狭い階段を上がり、大部屋へたどりついた私の目の前に広がっていたのは、生まれて初めて見る異様な世界でした。入り口のところには、役に使うのでしょうか、何十足という草履が並んでいます。後でよく見ると大きな部屋なのですが、隙間(すきま)なく鏡が置かれているのと、ハンガーにかかっている着物やタオルのせいで大層狭く汚なく見えました。
鏡台の前では、浴衣姿の男が四人カルタに興じています。立て膝(ひざ)をしている男のすね毛が綺麗に剃られているのを、若い私は目ざとく見てしまいました。(中略)
「このたび入社いたしました脇村と申します。今日は皆さま方の着付けのお手伝いにあがりました。どうか何でもお言いつけ下さい」
先輩から教えられたとおりの口上を言っても、男たちは私を見ようともしません。(中略)
あたりには甘い匂いが漂っています。会社ではアイロンがけをしている時にも、よくこれと同じにおいをかいだものですが、ここではそれが一層濃く迫ってきて、私はむせそうになりました。女など一人もいないのに、この部屋は白粉と鬢(びん)つけ油のにおいが占領しているのです。》
《それにしても、二十二歳になったばかりの男が、ああした世界を見てよかったのだろうかと今でも思うことがありますよ。極彩色の文字通り芝居絵の世界を、この目で見たのですから。女形と立役とが、とっくみ合いの喧嘩(けんか)をしているのをまのあたりにした時は、それこそ小便を漏らすような心持ちになったものです。桃色の腰元の衣裳(いしょう)をつけ、さっきまで優美に歩いていた女形が、出を間違えた、いやお前がはめたんだろうと、黒衣の立役と罵(ののし)り合い、挙句の果てはお互いの胸元をつかみます。(中略)
いろいろな人がいました。ええ、あきらかにあの筋と思うような人も、昔はたくさんいましたよ。もし歌舞伎の世界に来なかったら、二丁目の方へ行っていただろうと思うような男たち。
ですけれどもね、私らのような新入りの裏方に奢(おご)ってくれるのは、女形だけです。立役はさっぱりです。女形の方が親切で、やはり女らしいのだと油断したらいけません。
「いつもよくやってくれるから、おいしいものをご馳走(ちそう)するわ」
などと連れていかれたところは、人形町の小料理屋の、二階の個室なんていうことがあります。私はそこで初めて男に手を握られましたよ。(中略)
二年、三年たつうちにはわかってきましたがね、三階さんというのは本当に人がいいんです。こすっからくて、下卑たところだってそりゃあ多少はありますがね。根は善良で清くって、心の底から芝居が好きだという連中ばっかりなんです。そりゃあそうでしょう。好きでなけりゃ、あんな理不尽なことに耐えられるはずもない。三階さんは脇役の俳優であると同時に、誰かの弟子でもあるわけですからこちらの仕事も大変です。黒衣をまとって後見をつとめたり、着替えを手伝ったりと、しなきゃいけないことは山のようにある。しかも彼らが旦那(だんな)として仕える人気役者たちは、それこそ我儘が衣裳まとって芝居をしているような人たちです。中には穏やかな人も何人かはいますがね。たいていは門閥の中、子どもの時から坊ちゃん、坊ちゃんって若さまのように育てられてきた人たちです。そりゃあ我儘にできている。(中略)
そういう旦那に誠心誠意仕えながら、しかも自分の番になったら、たとえ馬の足でも一生懸命こなす。これが三階さんたちなんですよ。芝居の魔に取り憑かれている連中ですからね。どんなことがあっても辞めやしない。私は以前、縛り絵というのを見たことがあります。裸にひんむかれた女が、ぐるぐる縄で縛られ、縄は肉に喰い込んでいる。苦し気な顔をしているんだが、唇はうっすらとゆるんでいる。三階さんにとって、芝居の世界は縄かもしれませんね。喰い込んでくればくるほど逃れられないような思いになるんでしょう。》
《三階さんの着る衣裳はたいていが捕手に腰元、決して目立ってはいけないようにつくられている。主役が舞台で演じる際、お客さまの関心が背景の腰元にいかないように、脇役は地味なものを同じ色で着ています。個というものをいっさい捨て、主役をひきたたせる背景にいかにうまく埋まっていくか、これが三階さんの美学というものでありましょう。だからこそ彼らは、衣裳にもの狂おしく執着します。ちょっと役がついて、仲間たちと違ったものを着ようものなら大変ですよ。早々と着つけて舞台の袖(そで)で待っています。そうはいっても、あっと言う間に通り過ぎる役ですが、嬉(うれ)しくて嬉しくてたまらないらしい。廊下の鏡を見ては「くっくっ」と、十五の女の子のように笑っていますよ。》
《地方巡業と聞くと、三階さんは喜びます。少なくとも私の知っている人は皆そうです。歌舞伎座に出ている時よりも、はるかにいい役を与えられるからです。(中略)
明日が千穐楽(せんしゅうらく)という日、私たちは会場となった文化会館の一室に、ビールとつまみを持ち込みました。こういう時の楽しさといったらありません。役者というのは皆隠し芸などそりゃあうまい。大幹部たちの声色が得意で、これで金を取れるだろうというほどの者もいます。ある女形は、彼らの踊りの癖をそっくりに真似(まね)られるのだからたいしたものです。
「次は成駒屋をやるわよ」
女形にもふたとおりあって、普段は男と全く変わらない者、普段からそれらしく振るまっている者とがいますが、彼は後者の方でした。
「ねえ、脇村さん、あれを借りられないかしらね」
彼が望むものはわかっていました。我々が酒盛りをしているのは、衣裳部屋として割りあてられた文化会館の大会議室です。八畳ほどのウナギの寝床のような歌舞伎座の衣裳部屋とはまるで違い、十人近い男たちが中に座ることが出来ました。
「熊谷(くまがい)陣屋」と「藤娘」の衣裳がハンガーにかけられ、ぐるりと我々を囲んでいます。役者だったら、いっぺん袖を通してみたい藤娘の衣裳は、私の先輩が京都をさんざん手こずらせて染め上げた梅幸茶です。地味な色合いがかえってしみじみとした色気をつくり出しています。
「ねえ、脇村さん、いいでしょう……」
私の膝にやわらかい手が触れます。男の手だからこそそれは面積が広く、私の皮膚に吸いつくようです。私が頷(うなず)いたのは、その手のためではありません。地方巡業の時、本当に無礼講として、こういうことが行われると聞いたことがあるからです。これは私だけが胸の中にしまっておけばよいのです。衣裳方の裁量で、彼らを喜ばせるということは、私にとってとても大きな善意のような気がしたのです。
「まあ、いい刺繍(ぬい)だこと……。まあ、重いわ」
彼はわざとよろめくふりをし、藤娘の衣裳をすばやく肩にかけます。私は細紐(ほそひも)を四本使って、うまく着つけてやりました。
「若紫に十返りの、花をあらわす松の藤浪」
仲間のひとりが立唄を始めます。
「そこじゃなくて、“男心”からよ」
「男心の憎いのは、他の女子に神かけて、粟津(あわづ)と三井のかねごとも、堅い誓いの石山に、身は空蝉(うつせみ)の唐崎(からさき)や、待夜をよそに比良(ひら)の雪、解けて逢瀬の、あた妬(ねた)ましい……」》
《女形は最初のうち、成駒屋の癖をわざと誇張して、皆を笑わせようとします。が、途中から誰の真似でもない踊りに入っていきます。それはそれは美しい衣裳でした。藤の花は重苦しいほど、いくつもいくつも刺繍(ししゅう)されています。女形は美しい衣裳をまとう恍惚(こうこつ)に、いつしか目を閉じているのです。
名題下が集まって自主公演をする時代ではありませんでした。彼が藤娘の衣裳をつけて踊ったのはそれが最初で最後でした。その女形はその後、胃癌(いがん)であっけなくこの世を去ります。ですから私の見た幽霊は彼だったということも考えられるのですが、あの時、まだ病院で元気にしていたと言う者もおります。入院中ちょっと気分がよくなったんで、歌舞伎座に顔を出した。折しも歌右衛門が素晴らしい藤娘をやっていた。たまらなくなったあの三階さんは、この世のなごりに衣裳部屋にしのび込み、藤娘の振袖をまとった……。
まさかそんなことはありますまい。なぜなら私の見た幽霊は大層美しくて、あの四十過ぎの小太りの女形とはまるで違っていたからです。出てきたのは、別の三階さんの幽霊でしょう。おそらく生前彼についていた衣裳方は意地が悪く、私のようにたわむれにふんわりと主役の衣裳をかけてやることはなかったのでしょう。三階さんたちがいちばん憎むのは、旦那ではなく、実は衣裳を扱う私らかもしれません。》

<その六 姉妹>
女心の悪意、妬みを書かせたら、林真理子は当代一であろう。ここにも信用できない語り手がいるし、優越感、劣等感、復讐、ルサンチマンに充ちている。
《私の姉の写真をご覧になったんですか。
そりゃあ、縹緻(きりょう)よしでございましょう。今ではあちらも七十半ばのお婆(ばあ)さんですから見る影も無いでしょうが、昔は近所でも評判の美人でした、正月に髪を島田の結い、見合い写真を撮った時には、写真館の主人に乞われてその写真がしばらくウィンドウに飾られていたはずです。(中略)姉は幼ない頃から、皆に容姿を誉(ほ)められ、大層高慢な女になっていきました。いえ、妹の私が言うのですから本当のことでございますよ。
父の商売がそれに拍車をかけたといってもよいでしょう。私の父は戦前化粧品の問屋を経営していました。卸すだけではあきたらず、自分でも化粧品をつくったところこれが案外評判を呼んで、麗美堂の白粉粉といえば、今でも憶えていてくださる方がいるかもしれません。
化粧品屋ですから、家の中には舶来のサンプルもたくさんありました。あの頃珍しかったコティの口紅なども好きなように使えたのですよ。こうした化粧品を使い、姉は毎日飽きることなく肌の手入れをし、髪型もあれこれ工夫していました。その執念たるや大変なものでした。》
《姉は子どもの時から勉強が大嫌いで、成績は見るも無残なありさまだったのです。戦前も受験勉強というのは厳しく、母は姉のために家庭教師をつけましたが、受験した女学校はすべて滑ってしまいました。府立は無理としても、まさか近所の人から「テイノー女学校」と陰口を言われていた私立さえ落ちるとは考えてもみなかったのでしょう。両親は大層ショックだったようです。が、まさか女の子に浪人をさせるわけにもいかず、近くの和裁学校に通わせることになりました。勉強や本を読むという、根を詰めることは苦手の姉でしたが、なぜか針を持つことだけは嫌いではなかったのです。実習だからといって、浴衣(ゆかた)はもちろん家中の単衣(ひとえ)ぐらいはすぐ縫ってくれるようになりました。(中略)
和裁の学校に通っていたものの、姉はそのうち着物を注文する楽しさを知るようになりました。自分よりもはるかに上手(うま)い縫い手が、望み通りのものを仕立ててくれる方がはるかに楽で嬉(うれ)しいものだということがわかったのです。
といっても、たかだか従業員が二十人ほどの商売人の娘です。どこかの令嬢のように、三越の呉服部というわけにはいきません。私たちはその頃根津というところに住んでおりましたが、近所に気のきいた店がございました。当時、まあまあの暮らし向きの家の娘で、正月と盆に一枚か二枚、何かちょっとしたものを新調してもらうのがせいぜいです。後は娘が年頃になるにつれ、親の方で少しずつ着物を箪笥の中に増やしていくのです。ところが、姉ときたら、この店で毎月のように着物を注文し始めたのです。》
《三つ違いの私はといえば、これは府立の女学校に合格したばかりで、姉の着物への執着を、それこそ軽蔑(けいべつ)しておりました。私は姉と違い子どもの頃からまめに勉強する方で、特に本を読むのが大好きでした。本をさらに読みたい、本箱をいっぱいにしたいと思う心こそ正しく清潔なもので、自分の身のまわりを飾り立てたいと騒ぐ姉を、本当に見苦しいと思っていました。
外見も私は平べったい地味な顔で、姉とは較(くら)べものになりません。だから申し上げるわけではありませんが、頭が悪くただ容姿だけがすぐれた娘が、衣裳だ、化粧だと心を尽くすのは大層見苦しいことではないでしょうか。見映えよく生まれた娘こそ、心の修養に努めさせ、学問好きにすることが肝心だと思うのですが、残念なことに私の両親は教育が無い人でした。特に父親は何も申しませんでしたが、娘の着物道楽を目尻(めじり)を下げて見ていたところがあります。》
《姉は足繫(しげ)く呉服屋に通っているうち、売っている反物だけではつまらなくなったのでしょう、自分の意匠であれこれつくるようになりました。桜の花の形に匹田で染めさせた羽織、流水に鯉をあしらった夏のよそ行きなど、姉のこさえた着物が何枚か目に浮かんできます。(中略)
昭和十五年といえば、ちょうど紀元二千六百年を迎え、各地でさまざまな催しがありました。支那(しな)との戦争も三年目を迎えていましたが、世の中はまだまだ軍需景気が続いていた頃です。「興亜生活運動」などといって、お上はことあるごとに質素倹約を勧めていましたが、贅沢(ぜいたく)な毛皮や着物が飛ぶように売れたと言われています。
姉の正月着はすべて新調したものでした。足袋も帯揚げも帯締めも、暮れのうちに買い整えていたものです。娘盛りの綺麗さに、新品の晴れがましさが加わるのですから、その日の姉の様子は、道行く人がふり返るほどでした。そんな自分の様子がよほどじまんだったのでしょう、姉は私に意見がましく言いました。
「あんたの格好は、まるで山出しの女中みたいだよ。お正月ぐらい、少しはおしゃれすればいいのに」(中略)
そして戦争が激しさを増すにつれ、私が永遠に変わるはずがないと思っていた多くのものが、音をたてていちどきに崩れていきました。まず昭和十九年に父の工場が閉鎖になり、すぐにわが家も強制疎開(そかい)させられることになりました。空襲の時に火が拡(ひろ)がるというので、通りごと家を壊していくのです。幸い父の取引先の方が、本郷の一軒家を貸してくださることになりました。(中略)例のラジオ放送は、この家の座敷で聞いたのです。
この時両親も、兄嫁も私も皆泣きましたが、姉だけが妙に晴れ晴れとした表情をしていたのを今でもはっきりと憶えています。そして姉のこんなつぶやきも私はしっかりと聞きました。
「これでもう大丈夫っていうことなんでしょう。私は着物が焼かれなくて、本当に運がよかったわ……」
北支に行ったきりの兄の生死もまだわかっていません。日本が戦争に負けたことを知ったのならば、まず出征した人のことを案じるのはあたり前のことではありませんか。》
《姉の縁談は一時期、それこそ降るごとく持ち込まれたことがありましたが、どれも不首尾に終わりました。いつのまにか姉は、女学校も出ていない癖に、権高い選り好みをする娘という噂(うわさ)が立ったようなのです。しかし昭和十九年になり、まわりから若い男性がいなくなると、さすがに両親や本人が焦(あせ)り出しました。そして決まりかけたのが岡村という証券会社の社員でした。彼は大学こそ出ていませんでしたが、このあたりでは評判のいい商業学校を卒業しています。すぐに結納ということになった時、彼に召集令状が届きました。彼は既に兵役は済ませているから、赤紙は来ないという触れ込みだったのです。
普通だったら慌(あわただ)しく式を挙げ、夫を戦地に送りだす手はずになったはずです。(中略)無事にお帰りになるまで許嫁(いいなずけ)という形で待たせていただきたいと岡村に申し出て、姉にのぼせていた彼はそれを受け入れたのですから驚いた話です。(中略)親にやいのやいの言われ結婚を承諾したものの、気持ちは全く乗っていなかったのです。だから赤紙が来たのをこれ幸い、結婚を先に延ばしたのです。そしてこの事実は、姉のあくどい計画に使われることになります。》
《戦争中も大変でしたが、多くの男たちが復員してきた後の、すさまじい食糧難というのは、おそらく今の人にはわかっていただけないでしょう。(中略)ある時私は母に呼ばれて、これから買い出しに行く時は、箪笥の中のものを私たちが持っていかなくてはならないと教えられたのです。(中略)
「東京からお前たちみたいなのがいっぱい来るがな、うちには米なんかありゃせんわ」
「それじゃ、お芋だっていいんですよ。お芋を少し分けてくださいな」
「駄目だ、駄目だ。わしが勝手なことをすればな、嫁に叱(しか)られてしまう」
「そのお嫁さんのモンペにぴったりの、いい木綿があるんですよ」
母はあっという間に風呂敷の結び目を解きます。そのいちばん上に母がよく着ていた丹波木綿の着物がありました。丹波木綿は本当のしゃれ者が着る高級なものと言われています。老人にもそのよさがわかるのでしょうか、ふんと鼻を鳴らしながらも、右手をつっと伸ばし、その地厚さを確かめようとします。(中略)
木綿ものを二枚引き取って、結局老人が私たちに渡してくれたものは、ボストンバッグが半分埋まるほどのサツマ芋でした。が、それでは少し気がひけたのでしょうか、白米を二合ほど中に入れてくれました。(中略)
私と母はしばらく二人して買い出しに出歩くようになりましたが、暮れに大変なことが起こりました。石鹸を売り尽した後、父は昔の仲間と化粧品のバイヤーのようなことをしていたのですが、無理がたたって新宿駅のホームで倒れてしまいました。戦争前からの心臓病がすっかり悪化してしまったのです。八方塞(ふさが)りというのはこういうことを言うのでしょうか。復員してきた兄は寝たり起きたりの生活が続き、兄嫁はその看病と幼い姪(めい)の世話で、とても買い出しどころではありません。(中略)私の兄嫁というのはよく出来た人で、自分が嫁入りの時に持ってきた衣裳(いしょう)を私の前に差し出しました。
「いいものが何もなくて恥ずかしいけれど、これをお米に替えてきて頂戴(ちょうだい)」
女の着物というのは娘が親から貰った財産ですから、嫁ぎ先の者がいじることは出来ません。だから兄嫁は自分から着物を差し出してくれたのです。》
《戦争のさ中にも、姉はよくひとりで着物をいじっておりました。帯と着物を組み合わせ、小物をあれこれあてていく遊びは何時間していても飽きないと言うのです。絹は温(ぬく)いと聞いたことがあります。寒い朝、何の暖房もない時は箪笥(たんす)を開け、着物と着物の間に掌をすべり込ませる。するとじんわりと絹が暖めてくれるというのです。
こういう着物を手放すのが、姉はほとほと嫌だったと見えます。何枚かの着物を出した後、
「もうこれでいいでしょう。後は触らないで。私だって少しはないと困るから」
とっておきの十数枚を行李(こうり)の中にしまい込んでしまいました。私も女ですから、その中にあるものを諳(そら)んじていえます。薬玉(くすだま)模様の友禅の振袖(ふりそで)、錦紗(きんしゃ)ちりめんの椿(つばき)の着物、亀甲(きっこう)の込んだ大島、絽(ろ)のよそいき、そして絞りの好きな姉が、細かく指示して染めさせた紫の振袖、日頃着物に興味をおぼえない私でさえ、一枚一枚よく記憶しています。これを手放すのは、思い出を失うようなものかもしれません。けれども着物などというものは、平和なときが来たらすぐにまたいくらでも買えます。いつまでも自分の着物にしがみつく姉は、このうえなく利己的で忌(いま)わしいものに私には思えていくのです。
そんなある日、すっかり顔見知りになったお百姓さんから相談を受けました。娘が披露宴の時に着るものが何かないだろうかと言うのです。私はすぐに姉の振袖のことを思いつきました。押入れの奥にしまい込んだ行李ですが、出すのはわけないことです。その中から勝手に一枚取り出しても、何も悪いことはないはずです。姉は一人前の月給取りのような顔をしていますが、その間つらい買い出しをするのは私なのです。長女でありながら一家の問題には出来るだけかかわり合いを持とうとしない姉のことが本当に憎くなりました。そのこらしめのためにも、いや、一家の米のために振袖が何だというのでしょう。私は姉の着物をこっそりと取り出しました。温いという感触はなく、ひやりとしたものだけが指に残りました。姉の振袖はいつもよりもずっと重たい米をもたらしてくれたはずです。
その後、姉は泣きました。私をぶちながらぽろぽろと大粒の涙を流したのです。
「もうじきあの着物を着られる日が来ると思っていたのに……。許せない、畜生」
最後は女とは思えないうめき声となりました。本当に殺されるかと思ったほどです。》
《そして父の遠縁のひとりから縁談を持ち込まれました。私にではありません、姉が欲しいということです。一度か二度、白米食べたさにたまたま買い出しに従(つ)いてきた姉を、地元の男が見染めたというわけです。ついこのあいだの農地改革で土地の大半を失くしたというものの、昔の地主らしい屋敷やかなりの畑も残っている家でした。
当時何とかして一家を食べさせたいばかりに、また本人もひもじいのが嫌なため、都会の娘が百姓家へ嫁ぐという例がいくつもありました。(中略)姉は一度ぐらい家の犠牲になるべきなのです。ところが姉は意外なことを言い出しました。
「私には婚約者がいる」
岡村のことです。しかし昭和二十二年が暮れようとしている時、南方へ行ったという彼が帰ってくるはずがありません。が、姉の策略を知らない先方は、それだったら妹さんはどうかと打診してまいりました。私はもちろん断わるつもりでした。すると姉はこんな風に言ったのです。
「あんたは私の大切な着物を、勝手に処分してしまった。あの着物を私がどんなに大切にしていたか、あんただって知っていたはずよ。その償いのために、あんたはあの家へ嫁(い)くべきなのよ」
私の後ろめたい心を、姉はうまく利用したのです。が、私の心の中で白いご飯をお腹(なか)いっぱい食べたいという気持ちが芽ばえていたのも事実です。美人の姉でも到底不可能なこと、それは好きなだけご飯を食べるということでしょう。私はそれをすることで優越感にひたろうとしました。(中略)都会育ちの私が、農家の嫁になるのは大変でしたが、今では孫が六人もいて、これといった不自由は何もなく暮らしております。が、私のこの手を見てください。私はこれを見るたびに終戦直後、着物をいじりまわしたお百姓さんの指を思い出してしまいます。土色で皺が多いとあの時はぞっとしてしまいましたが、今は私も同じ手になりました。私は百姓の手を持つ農家の婆(ばあ)さんとして、このまま死んでいくことでしょう。
姉はどうしたかですって。姉はあの後すぐ大学出の会社員と結婚しました。車をつくる会社の人だったので、その後大発展し、姉はアメリカで支店長夫人としてしばらく暮らしたこともあります。
一枚の着物が私の運命を変えました。が、そんなことはあの時代いくらでもあったことです。一椀の米、一びんの酒が人の運命を確かに変えたのです。
姉とはもう何十年も会っていません。あちらももう年ですから、さぞかしきたなくなったことでしょう。本当に嫌な女でしたよ。》

<その七 織り姫さま>
江戸時代(明和から天保)の作者鈴木牧之(ぼくし)の『北越雪譜』の越後上布に関する「越後縮」「苧績(をうみ)」「織婦(はたおりをんな)」「縮を曬(さら)す」の記述を思い浮かべる。林真理子の場合は、「語り」よりもこういう三人称描写の方が、声の肌理(きめ)が細やかなようである。
《夫の初七日はやはり雪が降った。それも横なぐりの強い雪である。この地方では、冬の葬儀にまつわることは、出来るだけ簡略に行うことになっているから、人々は振るまい酒もそこそこに会館を出てマイクロバスに乗り込んだ。
今日は積もりそうだというので家に寄る親戚(しんせき)もいず、石見佐和子はそのことにほっとしてすぐ喪服を脱いだ。案の定、裾(すそ)がぐっしょりと濡(ぬ)れている。(中略)
「お義母(かあ)さん……」
思いついて佐和子は立ち上がる。七十四歳の姑(しゅうとめ)の秀(ひで)は、高齢ということで出来るだけ雪の中を歩かせないようにした。バスに乗る際も、親戚の誰かが傘でずっと庇(かば)っていたはずだ。けれども姑の喪服も雪で濡れているに違いない。秀は体もしゃんとしていて、たいていの身のまわりのことは自分で出来る。しかし脱いだ喪服の手入れは、今日の彼女にはつらいことであろう。死んだ隆(たかし)はひとり息子である。
一昨年、腰のあたりが痛いと言って整形外科に出かけた隆は、すぐに精密検査を受けるように勧められた。新潟の病院で調べたところ、大腸癌(がん)があちこちに転移していた。半年の命と言われたが、四十八歳の隆は頑張り抜いて一年と二ヶ月生きたのである。(中略)
「お義母さん……」
佐和子は廊下に出るドアを開けながら、もう一度声を上げた。年よりもずっと元気な秀であるが、三年前から耳が遠くなっている。ドアや襖(ふすま)を急に開けるなと何度も叱(しか)られたので、佐和子は「近づいていますよ」という合図として、出来るだけ大きな声で呼びかけるのである。
佐和子はその時、木を打つ音を聞いた。それは秀が機(はた)を織る音である。息子が死んで七日め、夕暮れというものがなく、昼の陽ざしからすぐに夜の闇(やみ)へと向かう冬の日、姑は機織りを始めたのである。》
《秀はこのあたりでも有名な織り手である。十三の頃から祖母に機織りを習ったというから、もう六十年以上布を織っていることになる。
今はもうさすがに行くことはないが、八年前まで越後上布の技術保存協会で講師をしていたこともあるのだ。秀の織る越後上布は大層薄く、ひんやりとしていると人々は言う。真夏でも気温よりもずっと低く、冷たい感触を持つのが越後上布の特徴なのであるが、上手い織り手が仕上げると、布はまるで雪の記憶を蓄(たくわ)えているようになおひんやりとするものだという。
といっても、佐和子は越後上布を着たことがないからわからぬ。佐和子ばかりでなく、この町のたいていの女が、越後上布を着たことがないに違いない。(中略)
遠い江戸の時代、二十万反という越後上布が織られたというが、現在では二百反がせいぜいというところであろう。その分値段は空おそろしいものになっている。ここで織られた越後上布が、銀座の呉服屋のウィンドウに飾られると、手の込んだ品で三百万から四百万円の値段がつけられるのだ。
絹の訪問着や留袖でもこの値段のものはなかなかない。それなのに決してよそゆきにはならない麻の夏着が、車一台買えるほどの金額になってしまう。
馬鹿馬鹿(ばかばか)しいといえば確かに馬鹿馬鹿しいが、越後上布もこれまた馬鹿馬鹿しいほどの手間と人手がかかっているのである。
越後上布の原料となる麻糸は会津の山の中でつくられるのであるが、これは原始的といっていいほど昔と変わらぬ方法だ。苧麻(ちょま)を育て、せっかくの新芽をいったん焼く。これは均等に芽吹かせるためである。大切に育てられた苧麻は夏に刈り取られ、清水にさらされる。やがて皮がそがれ、繊維だけが取り出され、乾燥させられる。ここまでが会津の仕事で、この原麻はトラックに積まれ、新潟へと運ばれるのだ。
越後の町では苧(お)績(う)みの名人の女たちが待ち構えている。麻の繊維を爪(つめ)を使って裂き、舌で湿らせながら細い糸にするというのはそれこそ気の遠くなりそうなほど時間のかかる作業だ。三、四人がかりで一反の糸をつくるのに三ヶ月かかり、季節は秋から冬へ移っていくのである。
この糸は、煮たり、晒(さら)されたり、糊(のり)をつけられたりと幾つもの工程を経て、染色工場に運ばれる。図案に沿った染めをつけるために、糸は長くぴんと張られ印をつけられていくのだ。この後もさらに十幾つかの作業があり、糸が織り手のところに運ばれてくるのは、膝(ひざ)まで積もった雪の中、それでも人々が新年の挨拶(あいさつ)にかけまわっている頃だ。
越後上布を織るのは、これまた昔ながらの居座機(いざりはた)である。この機の形は、奈良時代からあまり変わっていないと言われている。あまりにも古風な形の機であるから、一日二十センチ織るのがせいぜいだ。植物の繊維からつくり出した糸はあまりにも繊細なために、現代的な工程や道具はいっさい拒否するのである。
越後上布というのは、理不尽なほど間尺(ましゃく)に合わない贅沢(ぜいたく)なものだ。まず音を上げたのが女たちで、今や苧(お)績(う)みや機織りの作業を続けているのは、七十歳以上の老婆(ろうば)となっている。高価な着物といっても、儲かるのは問屋か東京の業者である。織り子たちに支払われるのは、決して多くない手間賃であった。それでも越後上布を織ってきたおかげで、隆を地元の大学に入れてやることが出来、家を改築することも出来たというのが姑の秀の自慢であった。》
《小地主の息子に生まれた隆の父は、農地改革で貧しくなった家と米づくりを徹底的に嫌った。東京に出稼ぎに出かけてはそのまま何年か行方不明になり、またふらっと帰ってくるような生活をずっと続けていたのである。
「お袋は冬が来るのが嬉(うれ)しかったっていうもんな。春や夏の間はそれこそ朝から晩まで働かされてたろも、冬の間は機(はた)の前に座れる。あれこれ用事を言いつけられることもない。オレたちは初雪の時、がっかりしたり、せつねえ気持ちになるじゃねえか。だろも雪を見ると、お袋は嬉しくて嬉しくて跳ねまわりたいような気分になったやて」
ひとりっ子で、しかも父親はいないに等しかった。こんな家に育った隆は当然のことながら大層母親への情愛が強い。が、これといって大きな軋轢(あつれき)も争いもなく、二十三年間を一緒に過ごしてこれたのは、この二人が極めて静かな母子だったからであろう。》
《夫の初七日の日から始まった秀の織りの音は、次の日も次の日も途絶えることはなかった。それは早朝から深夜まで続き、佐和子はさすがに姑の体を案じた。もしかすると息子の死のショックで、呆(ぼ)けがきたのではないかと思ったほどだ。
ニュースは新潟の北部に、多量の雪を降らせる重い雲が停滞していると告げた。昼になっても雪はひどくなるばかりだ。あたりはただ白くなる。何もかも見えなくなる。佐和子はデパートから送られてきたカタログを眺めていたところだ。香奠(こうでん)返しを早く決めなくてはいけないのであるが、葬式後の忙しさにかまけてなかなか手をつけていなかった。(中略)
幾つかの品物を選び出し、ひと息ついたところで佐和子は台所へ立った。改築した時、夫は仕事柄最新の暖房設備を選んだ。居間から台所にかけては床暖房である。一ヶ月の電気代に最初は不機嫌になった佐和子であるが、暖かさがまるで違う。下からふんわりと漂ってくる暖かさなのである。(中略)
けれども秀は、その極楽のようだと表現する暖房の部屋にいることはほとんどない。アンカと膝かけだけで、他は火の気のない自分の部屋に入ったきりだ。越後上布は乾燥を何よりも嫌う。雪の湿気の中で織らなくては、細い糸はすぐに切れてしまうのだ。(中略)
秀は首に毛糸の衿(えり)巻(ま)きをし、橙色(だいだいいろ)のネルの割烹(かっぽう)着(ぎ)をつけている。なぜか割烹着は機を織る女の作業服なのだ。秀の前には居座機(いざりはた)が置かれている。持ち主の肌のようによく使い込まれて黒光りしている機だ。上布を織る時は足を前後させ、水で濡らした糸を入れていくのである。まず強く打ち込み、そして筬(おさ)を使って軽く押すようにする。この世でいちばん巧緻(こうち)なジグソーパズルのように、横の糸と縦の糸が組み合わさって、やがて少しずつ井桁(いげた)の模様が出来上がっていくのを、佐和子はぼんやりと見つめている。いつものことであるが、姑の機織りは何か信じられないものをが、目の前でおこなわれているような気分だ。こげ茶色の細かい皺が寄った手が動くと、そのすぐ真下に美しい模様の布が完成していく。佐和子は幼い頃夢中になったリリアン編みをふと思い出した。この布というのは、ああした作業のそのずっと先にあるものだろうか。
「ちゃんと話さんけばならんと思ってたんだろも」
不意に言った。
「お前のこれからのことだろも。隆があんげんことになってしまって、お前はこれからもこの家にいるかや、それとも実家(いえ)へ帰るかや。おれは機が織れなくなったら、老人ホームにでも入ろうと思ってる。だからおれのことは何も心配せんで、お前の好きなようにしていいんだよ」
こうしている最中も、秀の手が止まることはない。トントンと乾いた音がして、嫌なことを一刻も早く片づけようとしているようにも見えた。
「ばあちゃん、私はずっとここにいるよ」
“いていいかね”と尋ねようとしたのであるが、こちらの言葉の方がすらりと出た。
「実家っていっても親ももういないし、兄がいるだけだ。私だって四十六歳だし、今頃帰ってこられても困ると思うし。だから私はずっとここにいて、ばあちゃんのめんどう見させてもらうろも。それでいいかね」
「ふうん」
秀はつまらなそうな声を出したが、あきらかに安堵(あんど)しているのは、その手つきでわかった。さきよりも力を入れている証拠に、筬を持つ秀の血管が少し浮き出ている。
「この糸を見ろ」
秀は相変わらず手を止めないまま、顎(あご)をしゃくり上げるようにした。
「苧(お)績(う)みするのが、ばあさんばっかりだってすぐにわかるわ。繊維を裂いて唾(つば)をつけて糸にしていくんだろも、若い女の唾ならもっと艶(つや)が出てくるがね、この糸はさっぱりしたもんだ。きっとおれみたいな七十、八十の婆さんばっからろうね。そうだこって、そうだ。こんげに手間のかかるようなことを、今の若いもんがするはずがないがね。越後上布っていうんは、結局間尺に合わんことばっかする年寄りが、力を合わせてつくってるもんだわ。おれは、糸が運ばれるたびに思うんだて。この糸は何人の年寄りの手がかかったもんだろうかね」
そして小さな声でつけ加えた。
「年寄りの数だけ嫁がいて、みんな苦労してるんだね」》
《佐和子に機織りを勧めたのは、越後上布技術保存協会の会員で、問屋の専務でもある横田であった。今年六十二歳になる彼は、若い頃からこの家に出入りして、秀と取り引きをしているのである。
「せっかくこれだけの名人が横にいるんだから、機織りを習ったらどうらね。秀さんの技がこのまま消えていくのはもったいないよ」
そうでなかったら協会が主催している講習会にやってこないかと言う、ここは前に秀が教えていたところで、百日の講習が終わると単色の上布を織れるぐらいまでにはなる。いずれは後継者として育てようという目論(もくろ)みなのであるが、そのまま織り子になる女は何人もいないという。横田がそのことを愚痴ると、秀が珍しく、はっきりと言葉で制した。
「横田さん、そんげんなことを言っても無理だてね。おれは他に何の楽しみないだんが機を織ってるろも、今の若いもんは他に楽しいことがいっぱいあるんだ」(中略)
「奥さんが織り子になってくれたら楽しいねえ。旦那(だんな)さんは亡(な)くなったし、子どももいまいし、毎日が暇でしょう。上布を織ると気も紛れるしいいよ」
横田は時々ひどく無神経な言い方をする。
「秀さんに習ってもいいし、うちの方の講習会に来てくれてもいいし。奥さんみたいな人が織ってくれんけば、上布は本当にすたれてしまうよ。重要無形文化財に選ばれた町の名産がなあ」(中略)
「佐和子、あのおじさんの言うことなんて気にしんでいいよ。このあいだ新聞に、織り子の平均年齢が七十歳を越した、なんて出てからやたら焦(あせ)り出して、おっかしいたらありゃしない。おれたちだってそうすぐに死ぬわけでもないがにね」
秀が何気なく口にした“死ぬ”という言葉が、佐和子の胸の中に大きな波をたてた。死というものは、いかに気安く、のんびりとした感じですぐ近くに寄ってくることか。元気で働いていた夫は、まだ四十代の身で逝(い)ってしまったではないか。七十四歳の秀が、これほど無造作に“死”を否定する方がむしろ不思議だ。佐和子はふと、すべてのことをふりほどいて、うち捨ててしまいたいような衝動にかられた。》
《次の週、横田は二人の男を連れて再び訪れた。彼らは市の教育委員会に勤めている。越後上布のつくり手たちは、どの工程を取り出しても大変な高年齢化が進んでいるという。高度な技術が、後継者が育つ前に廃(すた)れてしまうことも充分考えられるというのだ。
「そのためにもの、今度保存協会と教育委員会が一緒になってね、記録ビデオやパンフレットを作ろうっていうことになってさ。やっぱり町いちばんの織り子の秀さんに、協力してもらおうと思ってさ」
佐和子は姑の顔を見た。人前に出ることや派手なことをいっさい嫌う秀のことだ、承諾するはずがないと思ったのだ。ところが秀はむしろ嬉し気に大きく頷(うなず)くではないか。
「おれが映画に出るあんかね。なんだか俳優さんになったような気分だね」
「そうだよ、秀さんが主役の映画だよ」
調子にのった横田はおかしそうに笑う。
「だから頑張っていい布を織ってもらわんとね。この映画のクライマックスは、秀さんが織った上布を、雪晒(ざら)しにしてパアッと拡(ひろ)げるとこらんだね」
雪晒しというのは、織り上がった上布を早春の雪の上にしばらく広げておくことをいう。二週間ほどかけて雪に晒しておくと、色が落ち着き、白いものはますます白く冴(さ)えてくるのである。麻の茎をしごいて糸をつくり出すところから始まる上布は、最後も全く昔ながらの方法で仕上げにかけるのである。
「いいねえ、いい映画だねえ。雪晒しは綺麗(きれい)らんだね」》
《習うことはしないが、この頃佐和子は秀の部屋にいることが多い。横田たちが何日か写真を撮り続けていたので、何くれとなくめんどうをみているうちに、あの床暖房の部屋に戻ることが少なくなった。秀が今織っているのは、濃いグリーン地に市松が入り、その市松の模様の中に花菱(はなびし)が入っているという非常に手の込んだものだ。(中略)この布を二月中に織り上げないことには、晒すための三月のやわらかい雪に間に合わなくなってしまう。一日二十センチ織り上げればよいとされる上布を、二十一センチ、二十二センチにするために秀は夜遅くまで機の前を立とうとしない。
「お義母さん、あんまり無理しん方がいいよ」
「何にも無理はしてないよ。おれの娘の時はね、食べる時間も寝る時間ももったいなくて、握り飯を持ってきてもらってここで食べて、夜は座布団(ざぶとん)だけでうたたねしたもんだよ。初めて月のものを見たのも機の前だったね。おれは何も知らん娘だったから、けがをしたと思ってそりゃあたまげた」
佐和子は姑の昔話に不吉なものを感じる。こんな話をする姑は、死を間近に見ているような気がするのだ。
「ああ、嬉しいねえ」(中略)
「おれはいらいことを何もしなかった金もないただのばあさんだがね。だろも布を残せるんだよね、つくったもんがちゃんと世の中に残るんだね」
姑の目は年のために少し青味がかかっている。それが興奮のためにちかちかと光る。
「ああ有難いねえ、嬉しいねえ……」
自分は姑のことを本当にいとおしく思っているのだろうか。佐和子にはわからない。ただ姑の生命が重くのしかかっていることだけは確かなのだ。ものを創り出すことに出来る老人の生命は嵩(かさ)高い。少しずつ老いていく自分に、それを受け止めてやることが出来るのだろうかと佐和子は考えている。
そうしている間にも機は動いていた。》

<その八 箱屋>
男衆(おとこし)は東京では箱屋と呼ばれ、花柳界にいて女たちの着付け、世話を生業としている。男の生理をよく知る瀬戸内晴美の『祇園の男』は、《祇園の女に手えつけたらあかん》いう御法度を破った男衆の語りからなる。
はじめて受け持たされた舞妓美津代の水揚げの長襦袢は《燃えたつような緋色に、満開のしだれ桜が白と桃色で染めぬかれ》た〈ゑり萬〉の持重りがするぼってりした縮緬だった。(瀬戸内『京まんだら』にも登場する祇園縄手通新橋角の〈ゑり萬〉は、客の顔を見ながら商品を出す座売りで、物腰の軟らかな対応に京の老舗の、能から派生した京舞井上流に通じる絶妙の間と洗練された型を感じさせ、定番の帯揚の飛び絞りの朱は、成駒屋の遊女の裾よけ、海老蔵の助六の襦袢はこの店の朱でなくては格が出ないとされる深さだ。) そのごりごりした縮緬がやわらかい生娘の肌をつつむ初夜の衣装を、男衆は屋形(東京でいう置屋)の定紋入りの大風呂敷に包んでお茶屋へ運ぶ。翌朝着替えを届けに行く役目を果たしてこそ一人前とされた。
お茶屋の女将(おかみ)が教える。「このお襦袢の赤い色なあ、これをよう見て覚えておきやす。明日の朝、あんさんがこれを取りに見えた時、もういっぺん見とおみやす。この赤の色がなあ、一晩で褪(あ)せるんどっせ。」
その晩男は水揚げの祝儀で宮川町の年増の娼妓を買う。翌朝、着替えを届けにお茶屋へ出かけて、昨夜見たしだれ桜の緋の長襦袢を受取った。
《緋の絹にはまだ、美津代の体温がなまあたたかく残っていたのです。思わず、それをかき抱いて、顔を埋めてしまいました。美津代の匂いが襦袢の中から匂うてきます。着物を着せてやる時、男衆は妓の真正面へ廻り、ぐっと帯を背から廻す時もあります。妓は袖を両手にとって腕をひらき、男衆は妓の胸に頭をよせて、背に腕を廻し力をいれます。外から見ると、妓が男衆に力いっぱい抱きしめられてるように見えます。着物を着せる途中でそこへ来る度、わては息がつまりそうになりました。美津代は、小さく、うんというような声をだして、足をふんばり、締められるのに耐えました。いつでもその瞬間、瞼を閉じ、耐える表情をするのです。その無心の表情が何とも可愛らしく、思わず、帯ごと、美津代を力のかぎり抱きしめたいと何度思うたことでひょう。(中略)その時、長襦袢が確かに昨夜の鮮やかさから見るとどこか色あせた感じを受けました。灯の光を吸うた紅(くれない)と、朝のほの暗い部屋の中で見る紅の色感がちがうのは当り前かもしれません。そやけどたしかにその瞬間は、紅の色がさめたなと思いました。その上、長襦袢にはありありと、昨夜のしるしの汚れが、おされていたのどした。あわててそれをかくすように褄(つま)をよせあわせ、袖を折ろうとしましたら、その間から、使ったきずきの紙がこぼれ落ち、それは口紅をふいたあとのように、美津代の処女のしるしがうつされていたのどす。わては思わず涙をこぼしてしまいました。》
女の情念がしみこんだ絹は、男の涙と汗をも美の肥料(こやし)としてしまうに違いない。
《あたしはもうじき四十歳になります。
普通の世間だったら中年の男と呼ばれる年齢ですが、女を相手にしているこの世界では、四十代というのは好ましい年代に入っていくことを意味します。三十代の時はまだぎらついていたものが、脂(あぶら)気が次第に抜けていくからでしょう。そういえばこの頃、紅絹(もみ)がしっとりと手に馴(な)じむようになりました。あたしは決して脂手でもなかったし、汗っかきというわけでもありません。けれどもこの頃、手の按配(あんばい)がとてもよくなったというのでしょうか、適度に乾わいたあたしの手は、前よりも一層きりりと女たちの帯を締め上げるのです。
箱屋という職業をご存知でしょうか。花柳界に居て女たちの着付けをするのを生業(なりわい)とします。昔だったら、各花柳界に数十人いると言われたこの箱屋も、今はほとんど姿を見かけることがありません。箱屋というのは男の職業です。どっしりと重たい丸帯を納めるのには、どうしても男の手を必要としたからです。が、今どきの芸者が、ひきずるような衣裳(いしょう)や丸帯をつけることはありません。髪は美容院で結ってもらうとしても、訪問着や付け下げは自分で着ます。
男手を必要とするのは正月の時ぐらいです。“出の衣裳”といって、黒い裾引(すそひ)きの衣裳に、だらりの帯を締めます。鬘(かつら)をかぶり稲穂の簪(かんざし)をさすのもこの時です。場所によって小さな差異はあるでしょうが、素人の方々が芸者と聞いてまず思い浮かべるあの格好だけです。この芸者の正装は、たいていの場合一月二十日ぐらいまで続きます。この期間だけでは、着付けの商売が成り立つわけもなく、東京の花柳界から箱屋はほとんど姿を消してしまったわけです。》
《幇間(ほうかん)と箱屋は道楽息子の成れの果て、などと言われているようですが、あたしは道楽などというものとは全く縁の無いうちに育ちました。千葉県は成田に近いところで生まれ、親父(おやじ)は固いサラリーマンでした。小さなメーカーの部長代理で終わった親父は、芸者はおろか料亭というところに行ったこともなかったに違いありません。(中略)
今でもそうでしょうが、当時日本舞踊を習う男の子などというのは、よっぽど特殊な家の子に限られていました。舞踊家か役者の子ども、そうでなかったら料亭や置き屋の子どもというところでしょうか。サラリーマンの家の男の子が、日本舞踊を習うなどというのは聞いたこともないと父と母も申しました。けれども結局は泣いてわめいて、あたしは思いをかなえたのです。(中略)お師匠さんは将来花柳の中でかなりの踊り手になれると言ってくれ、東京のもっと大きな名を持つ師匠を紹介してくださいました。ここに通いながら、大学は日大の芸術学部演劇学科日舞コースに進んだわけです。あたしはここで着付けに特別の才能を発揮しました。(中略)何の門地もなく、後ろで支えてくれる財産もない。こんなあたしが踊りを続けたとしても、いい未来が開けるはずはありません。結局大学は四年で中退し、その後ある呉服会社に入りました。(中略)嫌なごたごたがあって、二年ほどで会社は辞めてしまいました。その後は素人(しろうと)さんの温習会を手伝ったり、呉服のパンフレットをつくったりと半端な仕事をしている時に、今の置き屋のおかみさんと知り合ったわけです。(中略)気がつくと皆から「田村ちゃん 田村ちゃん」と重宝がられ、この花柳界で暮らし始めて十三年になります。昔で言えば「男衆(おとこし)さん」とか「内箱(うちばこ)さん」と呼ばれる立場でしょうか。父親は七年前に亡(な)くなりましたが、成田で元気にしている母親からは、女の着物を着させるために大学までやったのではないと未(いま)だに嘆かれています。
中途半端といえば、同性愛者でもない癖にこの年まで独身でいるあたしは、本当にどっちつかずということになるでしょう。が、あたしの意見を言わせてもらうと、箱屋といわず、検番の事務員、料亭の下足番などといったここで働く男たちの中で、女好きに噂(うわさ)が立った者はまずいないような気がいたします。廓(くるわ)内の恋愛はご法度(はっと)ということもあるでしょうが、あたしの紅絹(もみ)をいじる手が早くから脂気が抜けていったように、花柳界の男たちの精は、どんどん薄くなってしまうような気がいたします。それは毎日美しい女たちに囲まれる世界で、何とかつつましく生きていくための自衛手段といったものかもしれません。》
《あたしは箱屋ですから、旦那のいるいないはまずお着物でわかります。特にお正月の出の衣裳は、美容院に集う若い芸者(こ)たちより饒舌(じょうぜつ)です。芸者たちが綺羅(きら)を競い合う正装の衣裳は、本当に美しいものです。黒の地に鶴や竹といっためでたいものを描く芸者もいれば、意匠を凝らして斬新な模様を染めてもらう芸者もいます。この出の衣裳というのは、長年の知恵が集ったものですから、隅々まで女が綺麗に見えるように工夫されています。衿(えり)や裾(すそ)に実に効果的に赤が使われているのです。衿元から細くのぞく赤が、女の喉元(のどもと)の白さを引き立て、ぞくっとするような色気をかもし出すのです。ですからお正月に会った旦那が、ついむらむらとするのもわかります。下品な話ですが、こうう時のために“こぶ巻き”とか“孔雀(くじゃく)”といった体位があるわけですね。いったん帯を解いたら後でめんどうなことになりますし、着物を汚されたりしたら大変なことになります。といっても大切な旦那の気分を損じたくはない……といった芸者の知恵でしょう。
あたしはこの出の衣裳を着付けるのが大好きです。これは下着の時からいくつかの赤を使いますが、伊達締(だてじめ)もそのひとつです。「柳腰」という言葉があるぐらい、芸者姿の要は、そのほっそりとした腰にあるわけです。あたしは自分なりの工夫をいたしまして、緋の伊達締を巻きつける時、芸者に動いてもらいます。本来ならば着付ける方がぐるぐると巻きつけていくのですが、あたしは反対に芸者にまわってもらいます。この方が遠心力でぎゅっと固く締まるのです。長襦袢(ながじゅばん)姿の芸者たちは、みんな踊りの振りのように腰にやや力を入れ、くるりくるりとまわりながらこちらに近づいてきます。あたしの指の中にある伊達締は、女をたぐり寄せるための調教に糸のようです。しゅっしゅっと絹の音がしたかと思うと、あっという間に女の体はあたしの手元にあります。この時必ずといってよいほど、女は薄く唇を開け歯を見せています。
あたしはこの時、確かに欲情をしているのです。それはもちろんほんの短かい時間、何かが光ったぐらいの時間ですから、あたしの箱屋としての矜持(きょうじ)を傷つけるものではありません。すぐにあたしは、うまく伊達締を巻いたことに満足しながら、重たい衣裳を女たちの肩にかけています。
そしてほんの時たま、こうして着付けていった何十人という女たちのことを思い出します。あたしは彼女たちを抱いたことはおろか、唇に触れたことさえもありません。それなのにあたしは、彼女たちの肉づきから腰のくびれまではっきりと知っています。肌の白さやうなじのおくれ毛の様子まではっきりと知っているのです。
ご存知かどうか知りませんが、芸者の帯というのは片手で簡単に解けるようになっています。おかしなことに着物はあれほどきりりと締め上げていくのに、帯は男の片手ですぐに解けるように締めていくのです。何度も申し上げたように、芸者は出の衣裳の時、簡単に帯は解きません。そんなことをする男は野暮とさえ言われているのです。それなのに帯はたやすく解けるように箱屋は心を尽くすのです。》
《あれは何年前になるでしょうか。とても若くて愛らしい芸者(こ)がいました。気立てはいいのだけれど、おとなし過ぎて座持ちがいまひとるだということでしたが、ある時からいい旦那がついて、それこそ見違えるようになりました。金離れのいい旦那がつくとまず着物が違ってきます。それまで量販店で売っていたようなものを着ていた芸者(こ)が、銀座の老舗(しにせ)の凝ったものに変るのです。その年の彼女の出の衣裳も見事なものでした。大津絵からとった人形やおもちゃが刺繍(ししゅう)と染めとで描き出されています。黒は生地のよし悪(あ)しがはっきりとわかりますが、西陣で染めさせたに違いないどっしりとしたちりめんです。置き屋が貸してくれた古い衣裳とは比べものになりません。彼女も新しい出の衣裳が得意だったのでしょう。くるくるまわる際、おどけて姿(しな)をつくったので、わたしとまるで道行のように向かい合うことになりました。喉のあたりがごくんと鳴ったのが自分でもわかりました。(中略)
その芸者(こ)からの電話がかかってきたのは、夜の十一時もまわった頃です。
「ねえ、田村ちゃん、お願いがあるの、信田屋(しのだや)さんの二階のお座敷に今すぐ来てくれないかしら。目立たないようにね」
あたしは着付けに必要な紐(ひも)や糸を懐(ふところ)にしのばせて、料亭の裏口から入っていきました。二階のそのあたりは、仲居さんも出入りせずひっそりしていました。声をかけて襖を開けます。予想どおりでした。若い芸者は帯を解かれ、すっかり着崩れて途方に暮れていたのです。男の姿はありませんでした。
「このままじゃ帰れないから……」
きゅっと唇を嚙(か)みしめている様子は、到底照れているとかはじらっているというものではありません。衣裳は芸者にとって商売道具であり、精神まで及ぶ大切なものです。それを知らないはずはないだろうに、この無体さは何ということでしょう。料亭のおかみさんや仲居さんに対して、死ぬほど恥ずかしい思いをしなくてはならないのです。いくら旦那とはいえ、なんという野暮なみっともないことをするのだろうかと、私は手荒く帯に手をかけます。それをすっかり解き、着物も脱がせました。あたしがしっかりと巻きつけた伊達締はそのままでした。けれどもあたしはすべて最初からやり直さないと気持ちがすみません。しゅるしゅると解いていきました。
あたしはあの時、金を持ちこういうところに来る男たちを本当に憎んだのです。あたしが大切に締め、巻き、折って形づけていく絹の数々を、ただ解いていくだけの男たちを許せないと思ったのです。
お恥ずかしい話をいたしました。あたしが大層若い時のことです。もしかするとあたしの緋(ひ)の伊達締を持つ手はあの時汗ばんでいたかもしれません。》

<その九 美装室>
阿修羅のような着物をめぐる女たちの復讐。
《ホテルの地下駐車場の定位置に、美枝子は愛車のゴルフを停めた。両脇(わき)に黒塗りのハイヤーが置かれているにもかかわらず、一回でうまく滑り込ませることが出来た。
この行為の滑らかさで、美枝子は今日一日の吉兆を占うところがある。そうでなくても婚礼の美容師という職業柄、半月分ぐらいの暦は諳んじていえるぐらいだ。(中略)
外車から降りてきた着物姿の初老の女に、若いカップルが、不思議なものを見るような不躾(ぶしつけ)な視線を走らせる。美枝子は今年還暦を迎えるが、ぜい肉のない背筋の伸びた体に、ショートカットがよく似合っている。今でもよく人から「五十代前半にしか見えない」と言われるが、まんざらお世辞でもないだろう。
が、歩き方は颯爽(さっそう)というのとは少し違う。美枝子は五歳の時、小児麻痺(まひ)を患(わずら)ったことがあるのだ。その年、美枝子は伯母と正式に養子縁組をしていたから、母になったばかりの伯母は大変な責任と負い目を感じてしまったのであろう、それこそ常軌を逸したように金と手間をかけ、最高の治療を受けさせてくれた。(中略)
三十年近くここで働いていれば、ホテルの従業員はすべて顔馴(な)じみである。ロビーで立ち働いている若いポーターたちも、美枝子の姿を見ると笑顔を見せる。(中略)
「飯田美装室」。これが美枝子の店の正式な名前である。美枝子の伯母にあたり、戸籍上には母にあたる飯田歌子は、十二年前に七十五歳で亡(な)くなった。その時代美容師を志す女は、例外なく高い自立意識を持ったハイカラガールということになるが、歌子もまさにそのひとりであった。美枝子の実母の長姉にあたる彼女は、親が決めた相手と結婚したものの、二年たらずでさっさと離婚してしまったぐらいだ。(中略)
当然のことながら、美枝子は義母の職業を引き継ぐべき娘として育てられた。(中略)高校時代は洋裁をやってデザイナーになると言い張ったこともある。しかし結局は義母の言うとおり美容の専門学校に進んだのは、家業を継がなくてはという思いもさることながら、足の悪い娘は一生結婚できない、そのために手に職をつけるならやはりよく知っている道でという美枝子の計算が働いたに違いない。全くどうしてあのように思いつめていたのだろうかと美枝子は思うことがある。六十歳になってみれば、美枝子と同じ程度の障害で結婚し、子どもを生んでいる女などいくらでもいる。(中略)
何年か前から、髪の方はすっかり従業員に任せ、美枝子は着付けを専門にしている。といっても、着付けが出来る女は他に四人いるから、美枝子は紹介者がいて特別扱いしなくてはならない花嫁のみ自分の手で行なう。後は忙しい際に手を貸すぐらいであろうか。
しかし「飯田美装室の先生の着付け」というのは、この業界では広く知れわたっているのだ。着物の着つけのよし悪(あ)しは、花嫁の着心地はもちろん、写真に撮るとはっきりと表れる。美枝子が着つけた花嫁衣装(いしょう)は、衿(えり)の線がふっくらとしていて、決して折り紙のように見えないはずだ。衣裳には“陽”と“陰”というものがある。その陽を表に見えるようにしていけば、美しい着付けは自然に出来るものだと美枝子は義母から教わった。今でも「飯田先生に着せて欲しい」という名指しは大層多い。(中略)
結婚というものは、とにかく完璧(かんぺき)を目指さなくてはいけないといいうのが美枝子の信念である。小さな綻びをつくれば、その綻(ほころ)びは次第に大きくなり、やがて収拾がつかぬところまでいってしまう。結婚式をきちんとやりとおすことが出来れば、その後の生活も続くはずである。》
《その時美枝子は廊下に飛び出してくる人影を見た。着付け主任の巻田美子(よしこ)である。(中略)
「先生、ちょっと……」
彼女の金壺(かなつぼ)眼が、困惑のためにさらに深い位置に直った。(中略)
「いったいどうしたのよ」
「前田さんがいらしてるんでしょ。前田美也さん、ほら、あの……」
美子の“ほら”という言葉で、すべてを思い出した。こんな風に哀れみの籠(こ)もった感嘆詞を入れられる花嫁は何人もいない。
「いったい何しにいらしたの」
不吉なことをいろいろと想像したが、美子の答えはそのどれでもなかった。
「ご予約なしで突然いらしたんですけれども、来月の末にまたここでご婚礼を挙げられるそうなんです。それでまた、先生にお世話になりたいと……」
美子は婚礼に携わるものとしては禁句の“また”を連発したが、美枝子の方もそれを咎(とが)めるどころか、言ってはならぬ言葉をつぶやいた。
「まさか、そんなこと。正気だとは思えないわね」
「でしょう」(中略)
事務室のドアを開け、美枝子は歩き出す。一年半前のあの日、美子がやはり駆けつけてきて、自分はこんな風に部屋を出た。そう、忘れはしない、あれは四月の大安の日であった。花嫁の数は十二人、みんな花が溢(あふ)れるような打ち掛けを選び出していた。》
《美子の通報で、控え室に駆けつけた時。美也は背を丸めて椅子(いす)に腰かけていた。傍にはピンクのカクテルドレスを着た娘が立っていた。彼女の右手には、花模様のハンカチが握られていた。おそらくすぐに手渡せるようにしているのだろう。
けれども美也は泣いてはいなかった。ただひどく青ざめていた。花嫁の顔は不自然なほど白く塗られているが、内からの高揚と喜びで、すぐにしっとりと潤(うるお)ってくるものである。けれども美也の肌は、白粉(おしろい)が固く凍りついたままであった。こうなってくると、さっき美枝子の美装室でたんねんに塗られた赤い口紅が浮き上がってくる。(中略)
二十年近くこういう商売をしていれば、思いもよらぬ事件が起きるものだ。美枝子は過去二回、花婿に逃げられた娘に立ち合ったことがある。一度めはあきらかに結婚詐欺(さぎ)で、二度目は男の親族ごと現れなかった。どうやら男の方の両親が、最後まで結婚に反対していたらしい。(中略)
バタバタと草履を叩(たた)きつけるような音が近づいてきたかと思うと、扉が外から大きく開けられた。目が完全に吊(つ)り上がった花嫁の母だ。さっき美枝子の美装室で着付けたばかりの黒留の胸元がはだけ、白衿がとび出している。美枝子の姿は目に入っていないようで、
「うちにはいないわよッ」
母親は娘を怒鳴りつけた。
「あっちのお父さんはさ、あちこちの警察に電話してるわよ。来る途中で交通事故に遭ったんじゃないかってさ……。無駄なことだと思うけど」(中略)
母親は出て行きがけに、くるりと花嫁の方を向いた。まるで捨てゼリフのように早口で言う。
「だから言ったじゃないの。あの男は駄目だって。あっちのお母さんが泣いてたわよ。たぶんあの女が悪いんだって。きっと息子を引き止めているんだろうって。全く最低の男よね。そんなのとうにわかってたことじゃないの」(中略)
そろそろ美枝子の出番であった。花嫁の衣裳を脱がせなくてはならない。
「お嬢さま……」
美枝子は花嫁に近づいた。自分でもうまく出来たと思う暖かみのある低い声が出た。こうした時、決して高いきんきんとした声をたててはいけない。もはや母親や親戚の女たちは限界ともいえる昂(たか)ぶった声になっているはずだ。そういう女たちとは違う、自分は救うことが出来る女だということを表わすためにも、美枝子は低い落ち着いた声を出さなくてはいけなかった。
「もう少しお待ちになる?」
花嫁は黙って大きく頷(うなず)いた。気の強い娘だと美枝子は思った。これなら大きく取り乱すこともあるまい。
「でもね、お疲れになるからいったんお脱ぎになったらどうかしら」
男はもう現れるはずがない。だから衣裳を脱げといったら、娘の皮膜はたちまち破れてしまうに違いない。だが「疲れるだろうから」と言えば、娘の誇りも保たれることになる。
今度ははるかに小さな角度であったが、再び美也は頷いた。(中略)
美枝子はまず美也の鬘(かつら)をはずした。奇妙な坊主頭となった女の顔が、鏡の中でゆがんでいる。
「お嬢さま、お疲れだったでしょう」
美枝子は後ろにすわり花嫁の打ち掛けを脱がせた。それは格天井の四季の花々と鳳凰(ほうおう)を織り出したものだ。川島織物の最新作で、隣りの衣裳室の自慢の一着であった。たくさんの衣裳の中からこれを選び出した娘に、美枝子は好感を持ったものだ。最近は結婚衣裳にさえも、振袖(ふりそで)などに見られるおかしな色合いのものを好む娘がいる中で、美也は極めて古典的なものを選んだのだ。(中略)
打ち掛けを脱がすと、今度は美枝子は花嫁の前にまわった。帯に手をかける。
「ねえ、お疲れだったでしょう?」
つらかったでしょう、という言葉の替わりに、美枝子は先ほどから疲れたでしょうと問いかけているのだ。美枝子は娘の目をのぞき込む。
どさりと絹の固まりが美枝子に崩れ込んできた。娘の背の高さと美枝子のそれとはほとんど同じであったから、美枝子は体ごと美也を受け止めることになった。
「大丈夫、大丈夫……」
美枝子は娘の背を撫(な)でた。娘は激しく泣き続けている。今まで張り詰めていたものが、打ち掛けを脱がせたとたんいっぺんに壊れてしまったようだ。娘の首筋からは強い脂粉のかおりがした。やわらかい女の体は、嗚咽(おえつ)のために大きく波うっている。今日まっさきにこの体を抱くのは花婿でなければならなかった。しかしその男はどこかへ消えて、娘の体を抱き締めているのは初老の美容師である。》
《ヘアサロンの一角にあるソファセットに美也は座っていた。一年半ぶりに見た彼女は、変わっているようでもあり、全く変わっていないようでもあった。藤色のスーツを着ていたが、それは嫁ぐ日が近い娘にまことにふさわしいものであった。美枝子の姿を見ると、美也は立ち上がり頭を下げた。
「先生、ごぶさたしております。その節はすっかりお世話になりました」
「まあ、まあ、お久しぶりね。さ、お座りになってちょうだいよ」
美枝子はわざとぞんざいに言った。ひどく自分が照れていることに気づいたのである。義母が教えてくれたマニュアルの中にも、このような対応の仕方はなかった。花婿に逃げられた花嫁が、二度目の着付けと衣裳(いしょう)を頼みに来るなどということが、本当にあり得るのだろうか。
「あれからいろんなことがありまして……」
美也はそこで口をつぐんだ。(中略)
「おかげさまで私もやっと立ち直って、いい人を見つめることが出来ました。ひいては先生にまたお世話いただけたらと思ってまいりました……」
美也は何かを暗誦しているかのようであった。おそらく何度も繰り返し練習してきたに違いない。しかしそれほどまでに気を遣わなくとも、結婚式の式場はいくらでもあるだろうと美枝子は思う。普通あんなことがあった後で、同じ場所や美容院は二度と使わないものだ。縁起をかつぐということ以上に親たちも反対したはずだ。
「でも私、あの時の先生のご親切が忘れられないんです。また結婚出来る時があったら、やっぱり先生に着付けていただこうと思っていました」
それからと美也は言った。
「あの打ち掛けが着たいんです。私、あれがとっても気に入っているんです。いろんなものを見ましたけど、やっぱりあれがいちばん綺麗なんですもの」
若い娘の無知と大胆さに美枝子はすっかり呆(あき)れ返ってしまった。同じ結婚式場で挙げるというのも非常識なら、同じ衣裳を着たいなどというのは、もはや異常な行為といっていいだろう。それとも最近の若い娘というのは、しんからドライなのだろうか。
「先生、私まだ衣裳室の方にうかがってないんですけど、あの打ち掛け、あるでしょうか」
「あると思いますよ」(中略)
畳を敷いた着付け室の方に二人は移動した。もうそこには衣裳室から箱に入った打ち掛けが届けられている。
美枝子はそれを拡(ひろ)げた。
「ちょっと着てごらんになる」
「ええ、お願いします」
美也はスーツのジャケットを脱いだ。薄いセーターの下で、胸が大きく張っている。前より太ったようだとちらっと思った。
後ろにまわり美枝子は打ち掛けを着せかけた。前を合わせるようにしてやる。その時美枝子の指は確かな感触をとらえた。いけない、と思いながら美枝子の指は美也の腹部にとどまった。子どもを生んだことのない美枝子だが、これにはたくさんの記憶がある。
「四ヶ月なんです」
美也は誇らし気に言った。
「ですから着付けの方、よろしくお願いします」
謎が解けたと美枝子は思った。再びここに来ることにより、美也は美也なりに彼女の意地を通したのであろう。それは自分を捨てた男を見返す行為でもあった。
「こんな体ですし、披露宴は本当に身内だけでやりますけど、この打ち掛け、どうしても着たかったんです」
美枝子はしばらく返事が出来ない。何か得体の知れないものに圧(お)されようとしていることだけがわかった。ようやく美枝子の口から言葉が漏れた。
「おめでとうございます」》

<その十 着物熱>
何にでも首をつっこみ、口をはさむ林真理子の業界取材は、読者の卑俗な興味をかきたてる。着物の「所有」をめぐる物語。
《死んだ母はよく、女のべべを扱う仕事ぐらいしんどいものはない、と申しておりました。
日常着だった頃と違い、今や着物は一部の限られた女たちの贅沢(ぜいたく)なものとなっています。私のような商売のものがこんなことを申してはいけないのですが、金持ちの女は概して我儘(わがまま)で気分屋なものです。そういう人たちを相手に高価なものを扱う苦労というのは、並たいていのものではありません。
「私は六十歳になったら引退さしてもらうさかいに。そうしたら店なんかいっさい出えへんえ」
母は私と二人きりになると、こぼす話の前置きとして必ずこうつぶやいたものです。そんなことを言っておきながら、母は七十過ぎても店頭に立ち、京訛(なま)りの早口でお客さんと楽し気に喋(しゃ)べっていたのです。(中略)
私の祖父という人は、なかなか目端のきく人で、ややこしい流通を整理し、着物を廉価(れんか)で売ることに成功したそうです。おかげで店は繁栄を見たわけですが、狭い京都の、しかも呉服商の中で人と変わったことをしてうまくいくはずはありません。祖父は子供たちの中でいちばん目をかけていた長女、つまり私の母に金と婿をつけて、東京へ進出することを託しました。これが東京「加々美屋」のはじまりなのです。祖父は先見の明があったということなのでしょうか、京都の本店は、伯父の代であっさりと潰れてしまったのですが、東京の店は今日まで何とか続いております。》
《こんなことを言っては不謹慎かもしれませんが、父が死んでから母は一層美しくなり、商売も磨きがかかるようになりました。(中略)問屋から仕入れるだけでなく、自分で意匠を凝らしたオリジナル着物をいくつかつくり出したのもこの頃です。
有名な女優がその着物を気に入ってくれ、雑誌などでしきりに吹聴(ふいちょう)してくれるようになりました。呉服屋というのは不思議なもので、男運に恵まれない女主人というのは決してマイナスにはなりません。私も離婚をしているからはっきりとわかりますが、女客たちはむしろ心を開いてくれるのです。
店は以前にも増して、いい客がつくようになりました。有名料亭の女将(おかみ)、梨園(りえん)の奥さん、そして大きな製薬会社の社長夫人といった人たちが始終店に出入りするようになったのです。(中略)
「私はあんたより人を見る目を持ってるつもりやけど、ま、今のあんたにいろいろ言うても聞くはずないやろ」
別れた夫とのことで、母にはどれほど迷惑をかけたことでしょう。彼はすぐにうだつの上がらぬ会社員生活よりも、「加々美屋」の若主人となることを選んだのです。いろんなことがありました。大切なお客さまから受け取ったお金が帳簿に載っていないこともあったし、得体の知れない会社と組んで、和装地でつくったインテリアを開発するのだと息まいていたこともあります。
そうしたことの後始末をひとつひとつしてくれ、最後に私の気持ちを聞き、弁護士を依頼してくれた母の愛情を、私は忘れることはないでしょう。》
《八年前に母が死んだとき、私は思いきって店を縮小しました。幸い母は店を小さなビルにしてくれていましたので、一階の店を半分の大きさにし、もう半分はテナントに貸すことにしたのです。五人いた従業員のうち、番頭格の男性と女性一人だけを残し、後は辞めてもらいました。(中略)
従業員のために売り上げを増やそうと、しょっちゅうDMを送ったり、展示会を開いたりするぐらいなら、小さな店で自分の好きなものを売りたい。少々格好よすぎる言葉かもしれませんが、これが母を亡(な)くした再出発に際し、私が考え実行したことです。(中略)
学生の頃は、わざと日本画やデザインを避け油絵を専攻した私ですが、やはり根っからの呉服屋の娘だったのでしょう。やがて古典の資料の本を眺めながら、あれこれ図案を考えるのが何よりの楽しみになりました。私の考案する着物は、昔ながらの着物には飽き足らないが、そうかといって最近の奇抜なものはどうしても受け付けない、といった方々に評判になります。母の生きていた頃よりも値段を抑え気味にし、礼装よりも、ちょっとした訪問着、付け下げといったものを中心に品揃(しなぞろ)えするようになりました。これはいちばんセンスを要求される分野ですが、私のオリジナルを気に入ってくださった着物の雑誌が、よく特集を組んでくれるようになりました。おかげで呉服の「加々美屋」というよりも、「着物デザイナー新田(にった)久仁子(くにこ)の店」といった方がとおりがよいのです。(中略)
本当にここだけの話にしていただきたいのですが、着物を買う女の人というのはやはり普通の方とは違います。一枚数十万円からのものを、迷いながらも買う方は、お金を持っていることももちろん、その心根もやはり普通の方とは違うのです。
うちにもよくお金持ちの奥さまがいらっしゃいますが、あの方たちのいざとなった時の人の見下し方というのは、それはもう空怖(そらおそろ)しいものがあります。お納めした着物の色が、注文したものと違っているとさんざん叱(しか)られることは何度もありました。色見本をお見せしたり、近い色の着物で確認を取っているのですが、ご自分のイメージしたものと違っているとおっしゃるのです。こういう時、呉服屋は黙って品物を持ってひき退(さ)がるしかありません。それなのに「いいかげんだ」「技量がない」というようなことを言われるのは本当に口惜(くちお)しいものです。》
《今年は二月の初めから春のような陽気で、桜の開花も平年よりずっと早いだろうとニュースが告げた午後、私を訪ねてきた女性がいました。
「『加々美屋』さんですね」
どこか身構えたような様子で、着物を買いに来た方ではないとひと目でわかりました。
「わたし、田崎妙子の娘ですけれど……」
「あ、田崎さまのお嬢さんですか」
私がうわずった声になるのには理由があります。田崎さんというのは、うちの顧客中の顧客でした。お得意さまというのは、年間五百万円以上使ってくれる人のことを言いますが、一時期、田崎さんがうちに落としてくれたお金は、ゆうに一千万円を超えていたのではないでしょうか。といってもこの方は、決して大富豪の奥さんではありません。伊東にある干物(ひもの)屋のおかみさんなのです。苦労の甲斐(かい)あって、静岡でも指折りの水産加工店に成長し、会社組織になっても、毎日店頭に立ち、観光客たちにアジの干物を勧めていたのです。
田崎さんの唯一(ゆいいつ)の楽しみは、月に一度上京し、私のところで着物を誂(あつら)えることでした。いや多い時は二度のこともありましたし、買うものも一枚では済みません。この方は自分の好きな着物を見つけると、ぽうっと頬が染まっていきます。もう七十近いお齢(とし)だったはずなのに、少女のような愛らしさでした。(中略)
田崎さんはうっとりと衣桁(いこう)にかけられた訪問着に目をやります。それは茄子紺(なすこん)の地に、滝に散っていく桜を染めたものです。
「品があって、本当にいい桜。でもね、私もう桜の着物だけで十何枚持っているのよ。着ていくところもないし、これ以上桜の着物を増やしても困るような気がするの。だけども、これはつくっといた方がいいかしら。ねえ、どう思う」
どうしたらいい、ねえどう思うと、しつこく私に尋ねるのが彼女の癖でした。そして私の答えも決まっています。
「それじゃ、田崎さま、今回はやめておきましょう。来年はもっといい桜が出るかもしれませんよ」
するとたちまち、田崎さんは子どもが泣きべそをかくような顔になります。
「久仁ちゃん、そんなむごいことを言わないでよ。着物を買うことだけが、私の生き甲斐なんだから。ここでいい着物を買おうと思うから、私は仕事を頑張れるのよ」
何のてらいもなく、素直にそんなことをおっしゃる田崎さんのことを私は大好きでした。もしかすると若くして未亡人になった母の姿を、どこかで重ねていたのかもしれません。》
《昨年、体の具合が悪くて入院された時も、何度か手紙を出しました。一度お見舞いに行きたいと申し出た時、受話器の向こう側から聞こえてきたのは、事務的であきらかにこちらを歓迎していない声でした。
「お見舞いなんて結構ですよ。もうじき退院いたしますから」
その一点張りです。おそらく目の前にいるお嬢さんは、あの時電話で話した長女の方でしょう。(中略)
「あの、田崎さまのお加減はいかがなんでしょうか。私、忙しさにかまけてお見舞いにも……」
私の言葉を娘さんが遮ります。
「亡(な)くなりました。先月のことになります」
「えっ、そんな前に」
私は怒りと悲しみのあまり、頬が一瞬冷たくなりました。行きつけの呉服屋に知らせることはないと思ったのでしょう。けれどもこの娘さんにはわからないでしょうが、着物を真中に置いて、あれこれ言葉を交すというのは、もうそれだけで深い縁が出来たということなのです。さまざまな秘密を知ることにもなります。着物を買うということは、大根やハンカチを買うというのとはまるで違うのです。(中略)
「お母さまには本当にお世話になりました……」
私は懐(なつ)かしい思い出話に持っていこうと思いました。田崎さんは目が肥えてくるにつれ、我儘(わがまま)もたくさん言うようになり、こちらが困り果てたり、腹が立ったことも一度や二度ではありません。けれども母の代からの二十年近いお客さまなのです。お嬢さんにお話ししたいこともたくさんあるのです。
「このお店を可愛(かわい)がっていただいて、私もいろんなことを教えていただきました」
「そうみたいですね」
お嬢さんはぶっきら棒におっしゃいます。
「遺品を整理していたら、着物が箪笥(たんす)に、それこそ五つも六つもありました。私は着物を着ませんし、本当に困っているんです」
お客様が亡くなった後、よく家族の方から相談を受けます。大量の着物をどうしたらいいのかというのです。そしてその方たちがお聞きになることはいつも同じです。田崎さんのお嬢さまもそうでした。
「どこか着物を引き取ってくれる古着屋さんはないでしょうかね。あの、こちらで下取りしていただくわけにはいかないんですか」
「いえ、電器屋さんじゃありませんから、呉服屋はそういうことをいたしません」
皮肉のひとつも言いたくなります。着物を着ない女の無知と厚顔さに、私は時々呆(あき)れることがありました。着物は女と一緒です。一回袖(そで)を通すと必ずわかります。二、三回着たものを新品と称し、躾(しつけ)糸をつけ直して売っているところがありますが、そんなものはすぐ見抜かれます。一回でも女の肌の湿気を吸った絹物は、ぐにゃりとやわらかく練れてくるものなのです。(中略)
「古着屋さんというのは、それこそ買い叩(たた)きますよ。ひと山いくら、という感じで値段をつけるはずです」
「あら、そうですか」
娘さんの瞳が狡猾(こうかつ)そうに動きます。(中略)
「もうじきお嬢さんが着られるようになりますよ。田崎さんもお孫さんに着ていただくのがいちばん嬉(うれ)しいと思います」
「だけどうちの娘、いま高校生ですけど、テニスだ、スキーだって年中真っ黒気。とても着物に興味を持つような子じゃありません」
「ですけれども、着物好きというのは絶対に遺伝で伝わります。そのお子さんは興味を持たなくても、お孫さんが好きになります」
私はいつしか香具師(やし)のような口調になりますが必死です。田崎さんの着物は数百枚あるはずです。呉服屋というのは記憶力が命ですから、私はほとんどを空で言うことができます。
「この大島、ほら、おととし買ってくださった匹田模様の名古屋と合わせると、よく合うと思いますよ」
などと言えるか言えないかで、呉服屋の信頼度はまるで違ってくるからです。私は今、伊東の干物屋の二階で眠っているだろう、たくさんの着物を思い出しました。私と同じように、田崎さんもやわらかなものが好きな人でした。水仙を数多くなく、加賀友禅作家に描いてもらったあの訪問着、人間国宝の江戸小紋、紅花染め、水浅黄の色が大層美しい絽(ろ)の小紋……。私の頭の中で、箪笥が音をたてて開けられていきます。その時の値段はおろか、職人の顔、畳紙を開いた時の田崎さんの顔まで浮かびます。私は必死です。
「これからお嬢さんが成人式、ご結婚を迎える時に、着物をおつくりになるでしょう。その時、お祖母(ばあ)さまの着物をとっといてよかったと思われますよ。着物は仕立て直すことも出来ますし、染め直すことも出来ますもの。私の方でどんなご相談にも応じますよ」
「そうですねえ……。女の子はこれからいろいろ物入りですものね……」
私は娘さんにこのように提案しました。
「私が拝見して、お孫さんに残すものは残す。形見分けに差し上げるものは取り分ける、その後でいらないものは古着屋に処分する。こうしたらいかがでしょう」
娘さんはあきらかに態度を変えました。ぜひそうして欲しいと、下手に出てきたのです。私が思うにおそらく膨大な着物の処理に、ほとほと困り果てていたのでしょう。》
《田崎さんのおたくは、海に面した国道沿いにありました。ドライブ・インを兼ねた大きなお店で、私が行った時も大型バスが三台止まっていました。田崎さんはこの店の二階に自分の部屋をつくり、娘さん夫婦とも別居していたといいます。(中略)
日本間はいちばん大きな部屋で、十二畳はゆうにあったでしょう。壁にびっしりと七棹の箪笥が置かれていました。田崎さんが自分の大切な着物のために、春日部の職人に特別につくらせたものです。
居間の方からかすかに線香のにおいがしてきます。私は七棹の箪笥の前にひざまずき合掌しました。そしていちばん上の引き出しを開けます。ふわりと樟脳(しょうのう)のにおいがしました。たいていの女は、この上の段にいちばん大切な着物をしまうものなのです。見憶(みおぼ)えのある色留が出てきました。道長取りの金箔(きんぱく)に、源氏物語絵のカルタを染めたものです。そしてその下からは、結城(ゆうき)の訪問着が出てきました。まだこの織りの訪問着が珍しかった頃に、しゃれたものをと、田崎さんが私に言ってきたものです。そして下の段を開けます。黒地に宝尽くしの総模様が出てきました。そして白地に茄子紺の匹田の訪問着、刺繍で梅の模様をつけた付け下げ、緋(ひ)の長襦袢(ながじゅばん)、泥大島、白結城……。ありとあらゆる絹が、色が私をめがけて流れ込んできます。
私は次の引き出しを開けます。黒に絞りで梅を染め出した羽織、桜小紋の付け下げ、きんぽうげの訪問着……。これほどあらゆる色、柄、手触りの絹が、すべて着物というものに集約されるのは不思議でした。
作業を終えた私はその晩高熱を発し、一週間近く寝ついてしまいました。その前の時もそうでした。女の体を美しく飾ったものは、なぜか別の女を呪(のろ)おうとするのです。発熱や吐き気といったものを与え、肉体を苦しめようとします。
全く不思議な話ですが、すべて本当の話です。呉服屋ならば必ず体験していることでしょう。私はけれどこの奇怪な現象を心のどこかで喜んでいるのです。こんなことがセーターやスーツで起こるでしょうか。着物だけが女を呪う力を持つのです。着物だけが怖(おそろ)しい執念を宿すのです。もしかすると私は、母と同じぐらいの年になるまで、着物を売り続けるかもしれません。》

<その十一 路地>
林真理子は上流階級から下流階級まで、それぞれの下劣な熱情を着物にからめて書きわけることができる。ここにも「所有」と「譲渡」「交換」をめぐる人生の哀歌がある。
《このあいだは全く大変なめにあいました。
真夜中にせい子姐(ねえ)さんが、食べたものを吐いて苦しみ出したのです。村田先生に来てもらおうかと思ったのですが、それよりも救急車の方がよいと絹枝さんが言うものですから、生まれて初めて一一九番というところに電話をしました。すぐに東陽町の病院に運ばれたのですが、先生のお見立ては何か消化の悪いものでも食べたのではないかということでした。
せい子姐さんときたら、こちらをさんざん心配させておきながら、一晩入院したらけろっとしたものです。(中略)
三年前にせい子姐さんの息子さん、そして絹枝さんたちが話し合って財産相続のことをいろいろ決めたのですが、息子さんはこの家を譲ることにあっさりと同意したといいます。叔母さん、つまり絹枝さんがこの家を相続出来るようにしたのです。ちょっと聞くと美談のように思われるかもしれませんが、結局は母親のめんどうと、三十坪足らずの家とを秤(はかり)にかけて、気楽な方を取ったということでしょう。(中略)
あれはもう十数年前のことになるでしょうか、木場が遠いところに移って以来、私たち芸者の仕事もさっぱりになりました。私と絹枝さんは二人で相談し、芸者を辞めて小料理屋を出すことにしたのです。やはり廃業する置屋さんがあったので、そこを改造して小さなカウンター割烹(かっぽう)の店を始めました。が、いろいろなことがあって、店はすぐに潰(つぶ)れてしまいました。その後は元手のかからない麻雀(マージャン)屋にしたのですが、今どき卓を囲む人は何人もいません。それでも近くの商店主の親父(おやじ)さんなどがぽちぽち来ては、牌(パイ)をかきまわしていきます。私と絹枝さんは、小料理屋時代の残った器に、ちょっとした肴(さかな)や煮物を盛ってお客さんに出します。これが案外好評で、場所代よりもビールの売り上げの方がずっと多いのです。
まだまだ元気なつもりですが、私も絹枝さんももうじき七十に手が届く年で、めっきり体が動かなくなりました。》
《地下鉄を門前仲町で降り、大通りから一本入ったこの路地を、口の悪いうちの客たちは「ばあさん通り」と呼んでいます。猫とばあさんがやたら目立つというのです。けれどもよく見れば、そのばあさんたちは誰もが肌が綺麗(きれい)でちょいと垢(あか)ぬけした年寄りだということがすぐにわかるはずです。
このあたりは深川きっての花街で、昔は料理屋や置屋が軒を連ねていたところです。江戸時代は城との方角から辰巳(たつみ)芸者と呼ばれ、吉原と並び称される深川でしたが、今は見る影もありません。戦前までは三百人いたのに、残った芸者はたった七人で、しかもばあさんばかりで休業中というのでは、ほぼ消滅したといってもいいのでしょう、若い妓(こ)も揃(そろ)えて景気がいい近くの向島とはえらい違いです。
木場が移転して、材木屋の旦那(だんな)衆が来なくなったというのがいちばん大きな理由ですが、それに加えて深川の辰巳芸者の気質もやはり時代とそぐわないものでした。
羽織を許され、一年中裸足でいることを意地とした辰巳芸者は、とにかく気っぷのいいのが売りでした。他の花街(まち)の芸者たちのことは詳しく知りませんが、やはり女らしく美しくお客さまに接していたことでしょう。それなのに私たち辰巳芸者は、お侠(きゃん)をやたら気取っていたのです。この花街では、大酒飲みだったり、口が悪い芸者がことの外喜ばれる風がありました。やはり木場の男の方を相手にしていたせいでしょう。なよなよしていることを好まず、色ごとも淡泊だったような気がします。(中略)辰巳芸者は身持ちが固いので有名でした。大昔は女郎さんと同じように客をとることも出来る二枚鑑札の芸者が多かったということですが、私の時代にはそんなこともなく、何人もの仲間が子どもを産みました。芸者が子どもを産めるということは、いかに旦那さんに信用があるかという証拠でしょう。しょっちゅう浮気をする芸者に、男が自分の子どもを産ませるはずがありません。まるで夫婦のように一人の男を大切にし、その人の子どもを一生懸命育てたのが辰巳芸者でした。
が、そんな気性がこのご時勢裏目に出たような気がします。財界の人がほとんど出入りしない深川でしたが、その気になれば男の人からまとまったものは貰(もら)えたはずです。それなのに辰巳芸者で、ビルを建てた、大地主になった、などという話を聞いたことがありません。(中略)
今この路地は廃業した芸者たちが、それぞれ小商いをしながら仲よく暮らしています。桃若姐さんのところほど大きくなくても、ちょっとした料理屋、カラオケスナック、うどん屋といった店はほとんど私の仲間の経営です。》
《私は八王子の出ですが、兄が死んでからというものもう二十年近く帰っていません。今ではせい子姐さんや絹枝さんのことを本当に身内と思っているのです。
料理屋が失敗した時、私はアパートの家賃も払えないほどでした。そんな時にせい子姐さんは、
「絹枝もうちに帰ってくるというから、あんたも一緒に暮らそう」
と言ってくれたのです。この三十坪の家は、せい子姐さんの旦那さんが置屋にでもするようにと昔買ってくれたものです。茅場町(かやばちょう)のえらい人だった旦那さんとの間に、せい子姐さんは二人子どもを産むのですが、まあその後の苦労ときたら、小説でも書きたいようだと笑って言います。(中略)
大正生まれにしては背が高く、目も口も大きいせい子姐さんは立役で、男の踊りが得意でした。茅場町の旦那さんとは戦前からの仲だったのですが、二人の仲があまりにもしっくりと長く続いたために、本妻さんが本気で怒りました。旦那さんが癌(がん)に倒れた時は、
「あちらでめんどうを見てもらうように」
と老いた夫を放り出したのです。それから二年間というもの、お姐さんは旦那さんの看病を必死でやり遂げました。どこそこの漢方がいい、ゲルマニウムが効くといえば、遠いところも厭(いと)わず出かけていったものです。とことん尽くし、旦那さんの下の世話までしたというのに、病院で息をひきとったとたん、あちら側の正妻さんと子どもたちがやってきました。お姐さんは妾(めかけ)呼ばわりで、とうとう葬式にも呼んでもらえなかったのです。(中略)
「胤(たね)がいいから芸者の子は出来がよい」
という言葉がありますが、せい子姐さんの息子さんもお嬢ちゃんも子どもの時から成績は抜群でした。確か息子さんは大学は慶応へ行ったはずです。お嬢ちゃんは下から青山学院へ進んだと記憶しています。いわばせい子姐さんの自慢の子どもだったのですが、二人とも母親の職業を嫌って早くから家を出ていきました。お嬢ちゃんの方はアメリカ人と結婚して、いまサンフランシスコに住んでいます。息子さんの方は一流企業を停年退職した後、小さなタクシー会社の役員になっているようです。住んでいるところは都内だというのに、高齢の母親のところへほとんどやって来ないというのは、おそらく奥さんの差し金でしょう。
若い時は旦那の本妻さん、老いてからは息子の嫁さんと、芸者というのは妻という女に意地悪されるものだとつくづく思います。》
《せい子姐さんがおかしくなっていると聞いたのは、入院騒ぎから二週間ほどたった頃でした。こういう兆(きざ)しというのは、身近に居る者より、ある程度距離を置いた人の方がはっきりと見えるようです。
「おととい私の家にやってきてね、このあいだ貸してやった帯を返して頂戴(ちょうだい)っていうのよ」
教えてくれたのは、讃岐(さぬき)うどん屋を経営している染香さんです。野暮ったい格好とずんぐりした体型とでずっと老(ふ)けて見える女です。この人は昔から器量が悪いうえに座持ちがへたで、旦那がまるっきりつきませんでした。やっと出来た旦那が高松の人で、うどん屋を開いたのもおそらくその縁でしょう。(中略)
「目がすわっているっていうのかしら、尋常じゃないもの。私の母親が八十四で逝(い)った時、やっぱりあんな風だったわよ。帯返して、帯返してって、同じことを繰り返すんですもの」
私はその夜、夕食の席でさりげなくせい子姐(ねえ)さんに尋ねました。(中略)
せい子姐さんは、好物の鯵(あじ)の骨を器用に抜きながら言いました。
「私がどうして染香なんかに帯を貸してやるものか。それどころか、私はあの妓に何本かやったもんだよ。あれは戦争が終わってすぐの頃だよ、ほら、絹枝も憶(おぼ)えてるだろ」
それは私も知っている物語です。戦争中、せい子姐さんは例の茅場町の旦那の世話で、衣裳を信州に預けました。売れっ妓の姐さんの衣裳は大したもので、箪笥(たんす)五棹(さお)にびっしりありましたが、それは全部無事に残ったのです。戦争が終わり、花街が復活しましたが、芸者の明暗はくっきり分かれていました。御存じのとおり、下町のやられ方はすごいもので、ほとんどの人たちは丸裸になっていたのです。呉服屋がそれとばかりに、戦争中匿(かく)していた着物を持ってきましたが、焼け出された芸者にそれが買えるはずはありません。そんな時、せい子姐さんは自分の着物や帯を気前よく仲間に分けてやったのです。(中略)
「私は染香に帯をくれてやったことはあるけど、貸してやったことなんかないさ。あのしみったれた女は、そんなことを言ってるのか。本当にイヤになるねえ……」
その口調がいつもの伝法なものなので、私はほっと胸を撫(な)でおろしました。やっぱり染香さんが勘違いをしているのだ……。けれどもその時、ぱたりと音がしました。せい子姐さんがいきなり箸(はし)を置いた音です。
「私はねえ、染香に犬を貸してやってるのさ。セントバーナードの大きいやつさ。ほら、昨日陸軍さんのお座敷に呼ばれただろう。そこでね、私は犬を貰ったんだよ……」
その後、犬だよ、犬だよとせい子姐さんは繰り返し言います。私と絹枝さんは顔を見合わせました。その時の絹枝さんの目をどういったらいいでしょうか。まざまざと恐怖に満ちていました。畏れていたことが本当に起こっていたという目です。おそらく私も同じような表情をしていたに違いありません。(中略)
「明日にでも、忠男(ただお)ちゃんの会社に電話をして、こちらにきてもらおうと思ってるの」
忠男というのは、せい子姐さんの息子さんのことです。けれどもどう考えても、あの息子が呆け始めた母親のことを優しく看病するとは思えませんでした。》
《姉妹といっても、二人は父親が違います。浅草の建具屋をしていた人が絹枝さんの父親ですが、せい子姐さんの父親は大工さんだったといいます。ですから、二人の顔はまるで違っていました。せい子姐さんの目が、五月人形のような大きなふた皮目なのに比べ、絹枝さんの目は睡(ねむ)たげなひと重です。若い頃はその瞼(まぶた)に紅を刷(は)くと、ほんのりした色気が出たものですが、正直言って売れた芸者ではありません。(中略)
「そうはいってもねえ、やっぱり忠男ちゃんに相談してね……」
絹枝さんは座布団(ざぶとん)をいじくりまわします。その派手な梅模様は、昔絹枝さんのお座敷着でした。料理ばかりでなく、手先の器用な絹枝さんは、自分の着物をせっせとほどいて座布団やかけ布団に仕立てました。その中にはまだ十分着られるものがあり、私がもったいないと言いますと、珍しくきつい顔になります。
「いいんだよ。私はあんたと違って芸者時代にいい思い出なんか何もない。この着物を買うために、どれだけ嫌な思いをしただろうって、それだけだもの……」
着物をほぐし、鋏(はさみ)を入れ、小物をつくっていくのは絹枝さんなりの復讐(ふくしゅう)というものかもしれません。確かに絹枝さんは旦那(だんな)運が悪い人でした。せい子姐さんの勧めでいやいや世話になった人は事業が失敗し、しかも脱税のごたごたで絹枝さんまで取り調べを受けたほどだったのです。次にめんどうをみてもらった人は羽ぶりのいい不動産屋でしたが、他の花街の若い妓(こ)に乗り替えられてしまうということがありました。
黒地の座布団をいじる絹枝さんの手はまだ白くなめらかで、やわらかい肉がぽっちゃりとあります。女の生命がそこだけは小さな炎(ほむら)を上げているようでした。忘れようとしても忘れられない記憶が甦(よみがえ)ってきます。万事におとなしく地味な絹枝さんが、初老と呼ばれる年で、初めて男に狂った時のことです。しかもそれは私たちの小料理屋の板前でした。自分より二十以上若い男に、絹枝さんはすっかり入れ込んで、やがて相手からなめられるようになります。帳場の金を抜き、仕入れを誤魔かすというということを男が始めても、絹枝さんは見て見ないふりをしました。それどころか男を庇(かば)うために、自分でもいろいろな操作をしたのです。小さな店が潰(つぶ)れるのはわけもないことでした。》
《「だけどお姉ちゃんの呆け方には、それなりにまっとうなところがあるかもしれない」
絹枝さんがふっと思い出し笑いをします。
「陸軍の上の方のえらい人とね、戦争中お姉ちゃんはわけありだったのよ」
「そうなの。初めて聞くわ。谷沢さんがいたのにね」
谷沢さんというのは長年めんどうをみてもらった茅場町の旦那さんです。
「そんなことは関係ないわよ。お姉ちゃんはあの軍人さんに夢中で、私なんかよく口実に使われたものよ。軍人さんの支那(しな)土産の布で、お姉ちゃんは帯つくって得意がってたわ」
「そうなの、私ちっとも気づかなかったわ」
「染香ちゃんの帯だってね……」
絹枝さんはここでくっくっと笑いました。薄く白粉(おしろい)をはたいて口紅をつけていますが、身だしなみのいい老女というものは、時としてとても怖く見えるものです。こんな風に蛍光灯の下で、独り笑いをしたりする時です。
「あんたはあの頃、この花街(まち)を離れていたから知らなかったでしょうけどね、お姉ちゃん、あれで相当がめつかったのよ。困っている芸者にね、帯や着物を分けてやるでしょう。するとね、その代償に客をとらせたのよ」
「まさか……」
「本当よ。染香ちゃんもそのひとりよ。あの頃景気が戻ってきて、芸者をいっぺん抱いてみたいっていう地方の成金がいくらでもいたのよ。お姉ちゃんはうまくそっちの方も捌(さば)いていたっていうわけ。あの頃さ、惚(ほ)れた軍人さんは、戦争終ってすってんてん。ブローカーみたいなことやっていて、金が入り用だったのよ。
時計がぼーんと十二時をうちました。もう寝ようかと絹枝さんは立ち上がります。
「だからね、忠男ちゃんにお姉ちゃんのめんどうをみてもらうのもいいと思ってるのよ。忠男ちゃんも、もういい大人だ。あの人だって、昔のことはひとつひとつ忘れていかなきゃならないさ。都合の悪いことはなかったことにする。そうしなきゃ人間なんて生きていけないことがわかってると思うよ。人間なんか、そうして何とかやってけるんだからさ」
本当にそうねと私は言いました。そしてもう一度座布団を見ます。私たちがこんな着物を着た日が本当にあったのでしょうか。私もどうやらいろんなことを忘れつつあるようです。》
(了)
*****引用または参考文献*****