
<『美しい夏』書評:丸谷才一「少女が女に変容してゆく物語」から>
丸谷才一は、パヴェーゼ『美しい夏』を、まるで女流作家が書いたような「若い女の情感」があるにも関わらず、「硬質の叙情」、「抽象的な味わい」を持ち、それだけでなく、ファシズム政権下の見事な「社会小説」でもあると指摘した。
《訳者の解説によると、これは全篇、女言葉で書かれてゐて、男の小説家がどうしてかういふ具合に男言葉をちつとも使わずに小説を書くことができたのか、驚くしかないさうである。たしかにさうだらうと思ふくらゐ、ここには若い女の情感がみづみづしくとらへられてゐる――まるで女流作家が書いたやうに。(中略)
たとへばこの中編小説の書きだし。
あのころはいつもお祭りだった。家を出て通りを横切れば、もう夢中になれたし、何もかも美しくて、とくに夜にはそうだったから、死ぬほど疲れて帰ってきてもまだ何か起こらないかしら、火事にでもならないかしら、家に赤ん坊でも生まれないかしらと願っていた、あるいはいっそのこといきなり夜が明けて人びとがみな通りに出てくればよいのに、そしてそのまま歩きに歩きつづけて牧場まで、丘の向うにまで、行けばよいのに。
かういふ、夢見心地で、無鉄砲なくらゐ威勢がよくて、しかも幼い感想をいだくのは、十七歳のお針子ジーニアである。『美しい夏』はこの下層階級の少女が女に変容してゆく過程をたどる物語なのだが、特徴的なのは、まづ、この抒情がすぐれて硬質のものであることだらう。そこには一種の抽象的な味はひさへある。
そして第二の特徴は、その抽象的な味はひにもかかはらず、この作品が具体的な社会をしつかりととらへてゐることで、これはたしかにファシズム政権下のイタリアの社会のなかに、一人の、いたつて平凡な、しかしそのくせ魅力のある、美しい少女を生活させてゐる。これだけ見事な社会小説はさうざらにはないといふ気がするほどだ。》
《ジーニアは兄であるファシスト党員の労働者といつしよに暮らしてゐる。彼女は二十歳の娘、アメーリアと親しくなる。アメーリアは自分では画家のモデルになつてゐると言ふが、どうやら娼婦を兼ねてゐるらしい。ジーニアはアメーリアにあこがれ、一つにはアメーリアのやうになりたいといふ気持にそそのかされて、画家のグィードとの恋に陥る。しかしグィードは彼女が身を任せたのち、彼女を恋人としてではなくモデル女としてあつかふし、アメーリは梅毒になる。そしてグィードに捨てられたジーニアがアメーリアとの同性愛を意識するところで、この奇妙に健気な感じのする娘が女主人公である、さはやかでそのくせ極めて苦い、教養小説は終る。
現代イタリア文学の代表的作家、パヴェーゼの力量をあざやかに示す佳篇である。》
<『美しい夏』書評:堀江敏幸「きみは、夏じゃないんだ」から>
堀江敏幸は。「夢見る少女」と「夢を見てしまったかつての少女」の、鏡のように向かいあう「関係」の「力学」、ふたりの「空間」の「圧力と歪み」が、見切れないのに、魔法のような魅力で再読、反復せずにはいられなくさせる、と批評した。
《チェーザレ・パヴェーゼには、文字どおり青春の文学というイメージがつきまとう。けれど、二十歳そこそこで彼の作品を味読するのは難しいし、また、その倍の年齢になってもやはり容易なことではない。パヴェーゼの本を開くときはまず、睡眠をたっぷりとって体調を整えておく必要がある。少しでも眠りが足りないと、動きの鈍い世界のなかでたちまち現在地を見失って、いつの間にか、本を片手にうとうとしているような事態になりかねないからだ。登場人物の名前や身分が曖昧になり、いま読んでいるはずの物語が他の物語と溶け合って、意識がもどってもそれがどの作品と明示できず、ただパヴェーゼの本を読んでいた、としか言えなくなってくる。
そんなことを繰り返していれば、早々にあきらめて読みさしのままどこかへ片づけてしまうものだが、不思議なことに、パヴェーゼに関しては、この失敗の反復そのものが作品の核と深いところで共鳴しているように感じられて、何度途中で投げ出しても、一定の時間が経つとまたはじめから読みたくなる。画集を見るように、ゆっくり、丁寧に頁を繰って、なんとか最後までたどり着いた場合でも、いったいどこに魅了されていたのか、魔法の秘密はいっこうに掴めない。
たとえば「美しい夏」と題された中編を、私は何度読みそこねていることか。十六歳と二十歳という若い女性たちの、ある夏の日々を描いた作品だが、ぱっとしない生活からの脱出を密かに望んでいる二人の行動をじっくり追っていたはずなのに、読後は茫漠とした印象しか残らない。年下の方がジーニア。洋裁店で働き、配電工の兄と暮らしている。同年代の友だちの、悪く言えば幼稚さとうまく折り合いがつかなくて、現状から抜け出したいという目的のない焦りに苛まれ、それをどう処理していいのかわからなくなっている。そんなとき、ひとりだけ「別の生活をしている」年上のアメーリアに出会い、「何もかも知りつくしている者の陽気さで」ざっくばらんな口の利き方をする彼女と親しくなっていく。夜、二人は連れだって、アイスクリームを食べ、カフェで葡萄酒を飲み、丘の上のダンスホールで踊る。
アメーリアも、以前は洋裁店で働いていたのだが、いなは失業中で、ときどき画家のモデルをしている。それを知ったジーニアは、描かれているところを見たいと頼み込み、アメーリアの雇い主である老画家のもとへ出かけたりする。このあたりのジーニアの心の動きにはいくら同性愛的なところも感じられるのだが、やがて、以前にアメーリアと交わりのあったらしい画家ではあるけれども現在は兵役についているグィードという男に引き合わされて、ジーニアに変化が起きる。グィードに、望んでいた「夏」の可能性を見出すのだ。逆にアメーリアは、ジーニアの不器用な言動のなかに、自分がすでに失った大切ななにかを見出す。夢見る少女と、夢を見てしまったかつての少女が、ひとりの男を鏡にして、むこう側とこちら側に立つ。》
《作品の冒頭ですでに「あの」と過去のものとして明示されている夏は、すぐに終わってしまう。季節は夢のように移ろい、肌寒い秋の気配のなかでようやくジーニアはグィードと関係を持ち、アメーリアは奔放な暮らしがたたって性病に侵されていることを知る、だからというわけではないけれど、冬に入っても物語の余熱はいっこうに鎮まらない。グィードはジーニアの愛を「きみは、夏じゃないんだ」と謎めいた言葉で拒み、理想の「夏」を生き抜けなかった彼女は、一時、自殺さえ考えるのだが、自分は愚か者だし、このまま命を絶つだけの価値もない、そもそも女になろうとしたのは自分のほうだったのだ、「ただ、うまくなれなかっただけのことだ」と踏み留まって、アメーリアとともに夏を終える。
しかし、終わりを迎えるたびに私は、いつかまたこの小説を読み返すだろう、と思うのだ。ジーニアとアメーリアのどちらか一方にではなく、そして双方にでもなく、彼女たちの背中と背中のあいだの空間にかかる圧力とゆがみが、丘の上の強風に耐えるオリーブの枝のように身をかがめて胸を打つ。結局、なにかにつけて性急であろうとする少女と、彼女を操っているようでいながら逆に操られているその年上の友人に対する親近感よりも、ふたりの「関係」のほうに心を奪われているのだろう。その「関係」の力学が、何度読んでも見切れないのである。》
<『美しい夏』を読む>
1章:
《あのころはいつもお祭りだった。
A quei tempi era sempre festa.
家を出て通りを横切れば、
Bastava uscire di casa e traversare la strada,
もう夢中になれたし、
per diventare come matte,
何もかも美しくて、とくに夜にはそうだったから、
e tutto era cosí bello, specialmente di notte,
死ぬほど疲れて帰ってきてもまだ何か起こらないかしら、
che tornando stanche morte speravano ancora che qualcosa succedesse,
火事にでもならないかしら、家に赤ん坊でも生まれないかしらと願っていた、
che scoppiasse un incendio, che in casa nascesse un bambino,
あるいはいっそのこといきなり夜が明けて
e magari venisse giorno all'improvviso
人びとがみな通りに出てくればよいのに、
e tutta la gente uscisse in strada
そしてそのまま歩きに歩きつづけて牧場まで、丘の向うにまで、行ければよいのに。
e si potesse continuare a camminare fino ai prati e fin dietro le colline.
「あなたたちは元気だから、若いから」と人には言われた、
– Siete sane, siete giovani, – dicevano,
「まだ結婚していないから、苦労がないから、むりもないわ」
– siete ragazze, non avete pensieri, si capisce –.
でも娘たちのひとりの、
Eppure una di loro,
びっこになって病院から出てきて家にはろくに食べ物もなかったあのティーナ、
quella Tina che era uscita zoppa dall'ospedale e in casa non aveva da mangiare,
彼女でさえわけもなく笑った、
anche lei rideva per niente,
そしてある晩などは、小走りにみなのあとをついてきたのが、
e una sera, trottando dietro gli altri,
急に立ち止まって泣き出してしまった、
si era fermata e si era messa a piangere
だって眠るのはつまらないし楽しい時間を奪われてしまうから。
perché dormire era una stupidaggine e rubava tempo all'allegria.》
★「あのころ」:書き出しから、追憶の詩、「時間」の文学であると宣言する。
★★「歩きつづけて」:「歩きつづける」ことに、生の欲望、未知への希求がある。帰郷、帰還、脱出でもあるだろう。
《しかしついに両手で帽子をととのえながらジーニアが洋裁店から出てくる日がきた、しかもそこの入口でローザにばったりと出会ってしまった。「どうしたの?」「工場から逃げてきちゃったの」ふたりはいっしょに歩道を市電まで歩いたが、ローザは話そうとしまかった。ジーニアは、いらだちながら、言うべき言葉を知らなかった。市電を降りて、家が近づいたときに、はじめてローザが弱々しくつぶやきながら言った、あたし妊娠したかもしれないの。ジーニアは彼女を愚かもの呼ばわりして、ふたりは街角で言い争った。それからそのことはそれまでになった、というのもローザがただ取り乱してそういう状態になったとわかったから、しかしその間ジーニアの心のほうが彼女よりも騒いでいた、ほかの者たちが楽しんでいるあいだ子供あつかいにされ騙(だま)されていたみたいな気がしたからだ、それも野心のひとかけらさえないように振舞っていたあのローザにまで。《あたしはもっと価値があるのよ――とジーニアは心のなかで言った――十六歳では早すぎるわ。自分を浪費したいというのならしかたないけれど》そうは言ったものの思い返すたびに屈辱は湧(わ)いてきた、なぜなら、彼女はひとりで生活していたから、男の手に触れられただけでも胸が激しく動悸(どうき)した、それなのにほかの女の子たちはそれをおくびにも出さずにみな草原へ行っていたのだ、そう思うと息が詰まった。》
★「洋裁店」「工場」:パヴェーゼはアメリカ文学(メルヴィル、ドス・パソス、スタイン、スタインベック、ケイン、フォークナーなど)の影響、翻訳、評論をとおして、イタリア文学にはない下層階級の人物を登場させるとともに、普遍的かつ日常口語的な書き言葉、語り手の言語、文体に挑んだ。
★★「帽子」:下層から上層、下位から上位への社会階層的、権力的な、階級上昇の欲望と選別の象徴としての帽子。
★★★「子供あつかい」:「十六歳では早すぎる」、子供から大人へ、娘から女への、引け目、気負い、背伸びといった、孤独な女たちの「あいだ」の空気感を、まるで女になりきった繊細な心理描写で描く。
2章:
《ただアメーリアだけは別の生活をしていることがわかった。兄は工員だったが、彼女のほうはあの夏の夕べに、ときどきしか姿をあらわさなかった、そして誰にも心のなかを打ち明けずに誰に対しても笑顔を向けた、それも彼女が十九か二十歳(はたち)になっていたからだ。ジーニアは彼女ぐらいの背丈になりたかった、何しろアメーリアの脚には、薄いストッキングがとてもよく似合ったから。けれども、水着姿になると、アメーリアは腰のまわりがとび出して、見た感じが少し馬みたいだった。「あたし失業しているのよ」ある晩、彼女の服を眺めていると、ジーニアに言った。「あたし一日じゅうひまだから自分に似合うスタイルの服装を研究しているの。あなたみたいに洋裁店で働きながらあたし裁ちかたを覚えたのよ。あなたも裁てるんでしょ?」人に作らせるほうがすてきなのに、と彼女は心のなかで思ったが、口には出さなかった。そのかわり、その晩はいっしょに歩きまわった。(中略)
彼女らは町の中央に向った、ふたりとも帽子をかぶらずに、さわやかな街路から街路を抜け、まず手はじめにアイスクリームを買って、それをなめながら往き交う人びとを眺めては笑った。アメーリアといっしょにいれば何もかもはるかに容易だった、そして何ごともたいしたことではないかのように心から楽しみを味わえたし、その晩はいろいろなことが起こるような気さえした。もう二十歳になって、平気であたりを見まわしながら歩けるアメーリアがいっしょだから、ジーニアは安心していられた。暑ければ、アメーリアはストッキングもはかなかった。》
★「ストッキング」:帽子と同じように、社会階層、大人、裕福さ、都会性の象徴として機能するが、さらには「脱ぐこと」によって脚をさらけだす裸体性、官能性も纏っている。
4章:
《アメーリアは――褐色の肌(はだ)をしていたが――汚れたみたいで、見ているのが辛かった。彼女はソファーに腰をおろし、両手を椅子の背にかけて顔は隠していた。そして片脚を腰から踵(かかと)まで、また片方の脇腹から腋(わき)の下までを、すっかり露わにしていた。
少したつと、ジーニアは退屈した。ちょびひげ(・・・・・)が消してはまた画き直すのを眺めたり、その熱中する額を見たり、アメーリアと微笑みを交わしたりしたが、やはり退屈だった。アメーリアがはじめて立ちあがって伸びをして、ソファーから落ちた肌着をひろいあげたとき、彼女の胸はまた激しく鼓動した、しかしそれは彼女らだけでいたとしても感じたにちがいない無意味な動悸だった、それはあたしたち女がみな同じようにつくられていて、アメーリアの裸を見た人がいれば、自分が見られたも同じだと気づいたときの、あの動悸だった。彼女の心はもう落ち着かなかった。
片腕の上に頭をもたせかけたまま、アメーリアが言った、「チャオ、ジーニア」このひとことが彼女の心をひきたて、気を鎮めさせた。ほんの少しまえから、アメーリアの踝(くるぶし)が赤くなっているのに気づいた、それで自分も、脱がなければならなくなったら、あれと同じようなしるしがつくのだろうか、と彼女は思った。》
★「裸」:少女は自らの「裸」を恋人に見せる、晒すという罪深さを通過して大人、女へと変身して行く。「見る」と「見せる」の欲望と怖れ。しかし、モデルという職業、物のように扱われてはならなかった。
★★「動悸」:少女はちょっとしたこと、異性との触れあい、裸を見ること、見られることで、激しく動悸する。
★★★「踝(くるぶし)が赤くなっている」:叙事的象徴性。傷痕、聖痕。
7章:
《グィードは真顔とも笑顔ともつかぬまま、彼女を見つめた。もう日暮れになっていたので、相手の表情は測りかねた。ジーニアはひとつの言葉を待っていたが、それはついにこなかった。長い沈黙ののちにグィードが言った。「ぼくはきみが好きだよ、ジネッタ(可愛いジーニア、の意味)。ねえ、きみが好きなのはタバコをすわないからだよ。タバコをすう娘はみな複雑な心をもっているんだ」
「ここは絵かきさんのお家のようにニスの匂いがしないわね」と、そのときジーニアは言った。
グィードは立ちあがって上衣に袖をとおしはじめた。
「テレビン油だよ。あれは良い匂いだ」ジーニアにはわけがわからなかったが、目の前に彼が見え、その片手がうなじにかすかに触れてきた。彼女は白痴のように目を見ひらいて、テーブルに腰をぶつけた。火のように真赤になりながら、彼女はグィードに抱き寄せられ、彼の言葉を聞いていた。「きみの腋の下のほうがテレビン油よりも良い匂いだよ」
ジーニアは彼を突き放し、ドアが開いているのを見て、走り出た。ようやく止まったのは市電に乗るときだった。夕食後、その日の午後のことは二度と考えるまいとして、映画に行った。》
★「匂い」:いろいろな場面で匂い、臭覚が重要な役割を果し、物語は転回する。
★★「映画館」:かつて映画館こそが庶民の娯楽の空間だった。
10章:
《いまでは仕事をするのが楽しかった、一日じゅうアトリエのことを考え、夕方を待ち望んでいた。《あたしはモデルより上よ――とジーニアは心のなかで言ってみた――あたしたちは友だちなんですもの》アメーリアが憐れに見えたのは、グィードの絵のなかの美しいものが何か、それさえ彼女にはわかっていなかったからだ。しかし二時に、彼女が誘いにきたとき、ジーニアにはひとつだけたずねたいことがあった。しかしどうやって切り出したらよいかわからなかった。それをグィードにたずねてみる勇気はなかった。
「もう誰かに会ってきたの?」と彼女に言った。
アメーリアは肩をすくめた。(中略)
「ロドリゲスを愛しているの?」とジーニアはたずねた。
アメーリアは溜息をついてから言った。「心配しなくていいのよ。あたしは金髪の男は好きじゃないの。どうしてもというときには、金髪の女を選ぶわ」
それで、ジーニアは微笑みを浮かべ、もう何も彼女に言わなかった。そうやってアメーリアといっしょに歩いていることに、またふたりの気持ちが一致したことに、満足していた。》
★「たずねたい」:たずねたいことをたずねられないでいる少女の心理の揺らぎ、アメーリアとの微妙な力関係の空気感。
★★「金髪」:グィードは金髪の男、ジーニアは金髪の女(アメーリアは栗毛)であり、「レスビアン小説」としての読解もありえる。
《話しあいたかったし、いろいろなことを彼に言いたかった。しかし、グィードがドアを開けて最初にしたのは、彼女を抱くことだった。ガラス窓から、まだ少し光が射しこんでいた。ジーニアは彼の肩に顔をうずめた。シャツをとおして、肌のあたたかさが感じられた。ソファーの上にふたりは腰をおろした。するとジーニアは何も言わずに泣き出した。
泣きながら彼女は思った。《グィードも泣いてくれればいいのに》そして胸のなかに全身をとかしてゆく灼(や)けつく痛みを感じていた、気を失っていくみたいだった。しかし、すぐに彼女の支えが失われた。グィードが立ちあがったからだった、それで彼女は目をひらいた。(中略)
「うれしくて泣いてしまったの」そっとジーニアが言った。
「それならいいんだけれど」とグィードが言った、「このつぎには、すぐにそう言うんだよ」
そうやってあの半時間が過ぎた。ジーニアは彼にたくさんのことをたずねたかった、アメーリアのことや彼のこと、彼の絵のこと、また夜は何をしているのか、そして彼女が好きか、と。しかしジーニアには勇気がなかった。そして少しでも光があれば、人に見られているような気がするので、カーテンのかげに行こうと、それだけを言い張った。そこで口づけを交わしながら、きのうは叫び声をあげたいほど痛かった、とジーニアは言った。するとグィードはやさしくなり、彼女を励ましては、何度も愛撫(あいぶ)した。そして彼女の耳にささやいた。「すぐに終るよ、すぐに。痛むかい?」それから、あのわずかな温もりのなかに、ふたりで横たわって、彼はいろいろなことを説明した。そして彼女みたいな娘は大切にしておきたい、安心していていいのだ、と言ったりした。それでジーニアは、暗がりのなかで、彼の手をとって口づけをした。》
★「カーテン」:「少女」と「女」、「隠す」と「晒す」、「見る」と「見られる」、「精神生活」と「セックス」、「内面」と「外面」、そして境界、閾、越えるべき、流れ過ぎ去る時間の象徴としての「カーテン」。『美しい夏』ははじめ『カーテン』という題名だった。
《例の女流画家との話はまとまったの、と彼女にたずねた(筆者註:女流画家が、抱きあっているふたりの女の絵を画くために、いっしょにポーズをとってもらいたい、というアメーリアの提案をジーニアは断っていた)。アメーリアはびっくりして、もういいのよ、と言った。「いいえ、よくないわ」ジーニアが言った。「あなたは、どう思っているの? あたしは、ポーズをしなかったけれども、あなたが仕事をなくしてしまったことには、すまないと思っているの」「もうやめて」とアメーリアが言った、「あなたは、この何日かで恋人を見つけたものだから、みなをばかにしているんだわ。あなたはいいでしょう。でも、あたしがあなたの立場にいたら、もっと気をつかうわ」
「なぜ?」とジーニアがたずねた。
「セヴェリーノ(筆者註:同居しているジーニアの兄、夜勤の配電工で、黒ずくめの服装からファシスト党員とわかる)は何て言っているの? 義理の弟が気に入るかした?」アメーリアは笑いながら言った。
「なぜ、あたしが気をつかわなければいけないの?」とジーニアがたずねた。
「あたしの大切な画家を、あたしから奪っておいて、その上まだあたしにたずねるの?」
そのときジーニアは心臓をえぐられる思いがした。そして歩きながら、アメーリアの目を痛いように感じていた。
「あなたはグィードにポーズをしたことがあるの?」と彼女にたずねた。
アメーリアは彼女の腕をとって言った。「じょうだんよ、いまのは」そしてしばらく黙りこんでから言った。「散歩に行っても、まえみたいにすばらしくはないわね、あたしたちはもうふたりとも女になってしまって、それがわかっているのだから。それなのに、女の子がどういうものか、わかったためしのない無作法な男たちと、血を汚しあうなんて。あの連中ときたら、最初に目にとまった女の子に言い寄るだけじゃない?」
「でも、あなたはロドリゲスとうまくいっているんでしょ」と、ジーニアが言った。
アメーリアは肩をすくめて、《ふん!》と言った。「ひとつだけ教えてちょうだい。少なくともグィードは、あたしに気をつかっているかしら?」
「わからないわ」と、ジーニアは言った。
アメーリアは彼女の顎をつかまえて、立ち止まらせた。そして、「あたしの顔をちゃんと見なさい」と言った。ふたりは、ちょうど建物の入口の暗がりにいた。ジーニアは逆らわなかった、なぜなら話がグィードのことだったから。すると彼女の口もとにアメーリアがすばやい接吻をした。》
★「気をつかう」:青春の心理描写の基底にあるのは、「気をつかう」か「気をつかっていないか」の微妙な都会性、野蛮性の葛藤と愛憎と嫉妬の揺らぎであろう。
11章:
《「あなたが色を使って画くときには、見せてね?」と、ジーニアは彼の手を握りしめながら言った。
「もしもまだぼくにできるものなら、この軍服を脱いだときに。そう、以前は仕事をしたものだ。毎週一枚ずつ画いたりした。あの生活は刺激的だったからなあ。美しい時は去ったんだ」
「あたしは何の役にもたたないの?」とジーニアが言った。
するとグィードは彼女を腕に抱きよせた。「きみは、夏じゃないんだ。絵を画くのがどういうことかきみは知らないんだ。ぼくはきみを愛さなければいけないのだろう、賢くなるためには。しかし、そうすればぼくは、時を失うだろう。きみは知らなければいけないよ。男は自分を理解してくれる友だちをもっているときにだけ、仕事をするんだ」
「あなたはいちども恋をしたことがないの?」と、彼の顔を見ずに、ジーニアは言った。
「きみたち女の子とかい? ぼくにはひまがないんだ」》
★「夏じゃないんだ」:いったいどういう意味なのか、この小説を読み切れないのは、何度でも読み直してしまうのは、こういったわかったようでわからない詩的象徴性にもよる。物語詩、詩物語、あるいは神話詩。
《その晩、ジーニアは家に入ると、すぐドアに鍵をかけて、鏡のまえで服を脱いだ。そしてグィードのうなじの色と比べながら、心配そうに自分を眺めた。いまでは、あの痛みはすっかり消えていた。彼女には何の傷痕(きずあと)も残っていないのが不思議でならなかった。グィードの前でポーズをしている自分を想像しながら、ちょびひげ(・・・・・)のアトリエであの日アメーリアがしたように、椅子に腰をおろした。どれだけたくさんの娘たちを、グィードは見てきたのかしら。彼がまだよく見ていない、ただひとりの娘は彼女だった。ジーニアはそれを思うだけで、胸の動悸を感じた。栗色の髪ですらりとして無表情なアメーリアみたいな女に、不意になれたら、どんなにかすばらしいだろう。いまのままでは、裸の自分をグィードに見せることはできなかった。そのまえに、結婚しなければならない。
しかしジーニアはどれだけ彼を望んでいても、けっして彼と結婚することはないだろうとわかっていた。彼のために自分をむなしくした、あの夜から、とうにそれに気づいていた。彼女といっしょにカーテンのかげに行くために、これいじょう仕事の手を休めるほど、グィードはお人好しではなかった。彼と逢いつづけることが許されるのは、彼のモデルになったときだけだった。さもなければ、いつか、グィードは別の娘をつれてくるだろう。
鏡の前で、ジーニアは寒けを感じた。そして鳥肌だった露わな腰に、コートをかけた。《きっとこうなるんだわ、ポーズをすれば》と、自分に言いきかせた。すると、もう恥かしさを知らないアメーリアが、羨ましかった。》
★「傷痕(きずあと)」:肉体的なばかりでなく精神的にも。
12章:
《日曜日がきた、しかしグィードのいない日曜日を過ごすのはやりきれなかった。アメーリアが彼女をさがしにきた、しかしジーニアはもう彼女がこわくなかったから仕合わせだった、それに考えるべきグィードがあったので、彼女をまともにとりあう必要はもうなかった。彼女に勝手におしゃべりをさせ、そのあいだは自分の秘密を考えていた。かわいそうに、アメーリアは彼女よりもさらにひとりぼっちだった。
アメーリアでさえどこへ行ったらよいのかわからなかった。それは日脚の短い冷たい午後で、何もかも霧に濡(ぬ)れ、競技場へサッカーの試合を見に行く気にすらなれなかった。アメーリアは彼女にコーヒーをいれさせ、ソファーに寝そべっておしゃべりでもしながら、家のなかに閉じこもっていたかった。しかしジーニアは帽子をかぶり、彼女に言った。「出ましょうよ。丘に行ってみたいの」
アメーリアは、奇妙なことに、言われるままになった。その日、彼女は懶(ものう)げだった。少しでも早く着こうと市電に乗ったが、なぜかは彼女らにはわからなかった。ジーニアは語り、歩きつづけ、道から道を選び、まるで何か目当てがあるみたいだった。坂道にとりついたとき、霧雨が降りはじめた。アメーリアは泣き言を並べたててもう嫌(いや)だと言った。「霧が降ってきただけじゃないの」とジーニアが言った、「なんでもないわよ」すでに、公園の木立ちの下に入っていた。人気のない並木道はまるでこの世の果てみたいで、溝を走る水音だけが聞こえた。背後では、遠くに、ときどき市電の音がひびいた。やがて洗い流された風を吸いこむようになり、寒さよりも、落葉の腐ったにおいが鼻をついた。アメーリアは少しずつ気をとり直し、ふたりは腕を組みあってアスファルトの上を小走りに進んだ。夢中にならなければだめね、恋人どうしだってこんなお天気に丘へ行ったりしないわ、と彼女は笑いながら言った。》
★「霧」「丘」:トリノは霧の街であり、ポー河を挟んで丘が拡がる(ナタリア・ギンズブルグの「ある友人の肖像」を参照のこと)。
★★「木立ち」:その遠近法。落葉の腐ったにおいの頽廃。
★★★「丘」:街から丘へ、丘から丘へ、パヴェーゼの登場人物たちは、孤独を忘れるために、あるいは死を畏れるかのように、いつまでも渡り歩くのだが、そこには官能的な陶酔がある。
15章:
《グィードが微笑みながら、ドアを開けてくれた。《どなた?》と奥から、若い女の声がたずねた。グィードは片手を差し出して、彼女にお入りと言った。
青ざめた光の下で、カーテンを背に、ひとりの娘がレインコートの前を通していた。帽子はかぶっていなかった。が、まるで女主人みたいに、上から下まで彼女を眺めた。「仲間のひとりなんだよ」と、グィードが言った。「ジーニアっていうんだ」
その女は窓ぎわに行き、唇(くちびる)を嚙みながら、黒いガラスに自分の姿を映していた。アメーリアと同じ歩き方をした。その女とグィードとを、ジーニアは見くらべた。
「さあどうぞ、ジーニア」とグィードが言った。
やっとその娘は出ていった。ドアのところで、最後にまたうさんくさそうに、こちらを見つめた。大きな音をたてて扉(とびら)がしまり、足音が遠ざかっていった。
「あれはモデルだよ」とグィードが言った。》
★「モデル」:帽子をかぶっていないこと、モデルであることへの蔑み、忌避。
《こうして彼女のほんとうの恋がはじまった。なぜなら、グィードと裸になっている姿を見てしまったいまでは、すべてがちがって彼女には見えたから。いまはもう新妻と同じで、しかもひとりだったから、彼女を見つめたときの、彼の目を思い出すだけで、もはや自分がひとりでないと感じられた。《結婚するというのは、こういうことなのね》ママもこういうふうにしたのかしら。しかし彼女には、この世のなかのほかの誰かが、自分と同じあの勇気をもっていたとはどうしても思えなかった。どんな女も、どんな娘も、自分がグィードを見たように、裸の男を見たはずはなかった。あんなことが二度と起こるわけがない。
しかし、ジーニアは愚かでなかったから、どの娘も同じことを自分に言いきかせているにちがいないとわかった。》
★「こういうふうにしたのかしら」:「ほんとうの恋」と、「無垢」「愚かさ」「自省」のトライアングル。
16章:
《コップはすでに満たされ、絵のことが話あわれていた。グィードは画きたいと思っている丘について語った。彼は横たわって陽射しを乳房に受けたひとりの女のように、丘を画いてみたかった。そして丘には、女だけのものである、あの流れる線と味わいとを、与えたかった。
ロドリゲスが言った、「もう画かれたことだよ。やめな。もう画かれたことだよ」
そのとき彼らはそういう絵がすでに誰かに画かれたかどうか激しく言いあった、そして栗を食べては、暖炉のなかに皮を投げ入れた。アメーリアは皮を床に散らかしていた。しばらくたってから、グィードが言った。「いた、そんなことはない。ふたつのことをいっしょになしとげた人間はいないんだ。ぼくはひとりの女をとらえて、きみのまえに描き出してみせる、虚空に横たわる丘のように」
「象徴の絵画。それでも、女を描けば丘は描けない」と、ロドリゲスが腹を立てながら言った。
ジーニアはすぐには気づかなかった。が、しばらくしてから、アメーリアがグィードのためにポーズをすると申し出て、グィードがそれを断らないでいるのだ、と思い当った。
「この寒いのに?」とジーニアがたずねた。
彼女には返事もせずに、その場合には光線と火の照り返しとを調和させるためソファーをどの辺に置いたらよいか彼らは議論をはじめた。
「でも、アメーリアは病気なのよ」と、ジーニアが言った。
「だからどうなの?」アメーリアがさえぎった。「あたしの仕事は身体を動かさないことなのよ」
「さぞかし、道徳的な絵になるだろうよ」とロドリゲスが言った、「この世で最も道徳的な絵になるだろう」
彼らは笑い、さまざまに言いあった。それまで用心して飲まなかったアメーリアが、とうとう一杯のぶどう酒を求めた。あとで水と石けんで洗いさえすればいいのよ、と彼女は説明した。家でもそうしているの、と言った。そして例の医者がする治療をグィードに説明した。冗談まじりに注射のことが話題になると、肌は正常だから安心していいわよ、とアメーリアが言った。ジーニアは復讐するつもりで彼女にたずねた。乳房の炎症はまだ残っているの、と。するとアメーリアは怒って、あなたのよりずっと美しいわよ、と言い返した。グィードが言った、「見ようじゃないか」みなは顔を見合わせて笑った。アメーリアはブラウスの前をひらき、ブラジャーをはずして、両手に乳房を支えながら、出してみせた。明りがつけられた。そっとのぞいたジーニアの視線を、勝ち誇った、意地悪そうな、アメーリアの目が捕えた。
「きみのも見ようじゃないか」と、ロドリゲスが言った。しかしジーニアは必死に首を振って、グィードの視線の下で目を伏せた。長い一瞬が過ぎた。そしてグィードは何も言わなかった。
「さあ」とロドリゲスが言った、「きみの乳房に祝杯をあげよう」
グィードは相変わらず黙っていた。ジーニアは暖炉のほうに顔をそむけた。《ばかな娘だ》と言いあう声がした。》
★「丘」「乳房」:「丘」と「乳房」の、母性的な神話の象徴性。パヴェーゼは、勤務していたエイナウディ出版社で、フレイザー、エリアーデなどの宗教学、民俗学、神話学の著作のイタリア語訳出版を手掛け、自らも大いなる関心を抱いていた。
《翌日、十時に、彼女はアトリエにとびこんだ。ドアのところで、お店は休んできたの、とグィードに言った。
「なんだ、ジーニアか」と部屋に向かって、グィードが言った。
窓の外には屋根に雪が見えた。アメーリアは裸になって、火をたいた暖炉の前で、縦に置いたソファーに腰かけていたが、肩をすくめながら、はやくドアを閉めて、と頼んだ。
「きみは見にきたかったんだね」そう言いながら、グィードはイーゼルにもどった。「だれを妬(ねた)んでいるんだい?」
ジーニアは不機嫌そうな顔で、火のそばにうずくまった。アメーリアのことも見ず、またグィードのそばにも寄らなかった。グィードが新しい薪を炎の上に投げ込みにきた。すると、ほんとうに裸でいられるように、炎が映えた。彼は通りがかりに、ひらいた手で、彼女のうなじを軽く叩いた。ジーニアが頭をめぐらすと、まるで炎に触れるようにして、アメーリアの膝をやさしく撫でた。アメーリアは仰向けになり、脇腹を火のほうに向けて、窓ぎわにグィードがもどるのを待ってから、しわがれた声でささやいた。
「あたしを見にきたの?」
「ロドリゲスは、出かけたの?」と彼女に、ジーニアはたずねた。
グィードが窓ぎわから大声で言った。「もう少し片膝をあげて」
そのとき、ジーニアは思い切って振りかえり、羨ましそうにアメーリアを見た。そして炎の照り返しがあまりにも激しいので、身を引き離した。グィードはときどきイーゼルから彼女らふたりに視線を投げた。そのすばやい視線は、すぐにまた紙にもどった。
しまいに彼が言った。「服を着ていいよ、終ったから」アメーリアはすわり直して、肩からコートをはおった。
「できたよ」彼は笑いながらジーニアに言った。ジーニアは、おそるおそる、イーゼルに近寄った。細長い紙の上に、木炭の切れはしで、アメーリアの身体の輪郭がつけてあった。どれも非常に単純な線で、ときどき、それらが入り組んでいた。アメーリアが水に溶けてそのまま紙の上を流れたみたいだった。「どう、気に入ったかい?」とグィードが言った。ジーニアはうなずきながら、アメーリアを見分けようとしていた。グィードはひとりで笑いつづけた。
そのとき、胸を高鳴らせながら、ジーニアが言った。
「あたしも画いてみて」
グィードは目をあげた。「きみが、ポーズをするの?」と言った。
「裸になるの?」
アメーリアを見てから、ジーニアは言った。「ええ」
「聞いたかい? ジーニアが裸でポーズをしたいんだって」と、大声でグィードが言った。
アメーリアは笑い声で答えた。彼女は跳びおりると、コートに身をくるめたまま、カーテンに向って走った。「そこで、お脱ぎなさい、火のそばで。あたしは服を着るから」
最後に屋根の上の雪をみつめてから、ジーニアはつぶやいた。「どうしても、しなければいけないのかしら?」
「さあさあ」と、グィードが言った。「みんな知っている仲なんだから」
それでジーニアは、ゆっくりと、火のそばで脱いだ、激しく騒ぐ胸に身体を震わせながら。アメーリアが服を着に行って、彼女が見ていないことに、心の底で感謝していた。グィードはイーゼルから紙をはずすと、別のをとめた。ジーニアは着ていたものを一枚ずつソファーの上に置いた。グィードは火を掻きたてにきた。「急いで」と彼女に言って、「薪ばかりかかってしまうからね」「さあ、勇気を出して」と、カーテンのかげからアメーリアが言った。
ジーニアが裸になると、グィードはにこりともせずに輝く目でゆっくりと彼女を眺めわたした。彼女の手をとり、床に毛布のはしを落としてやった。「この上に乗るんだよ、そして火のほうを見るんだ」と言った。「立っている姿を画くからね」
アメーリアはもうあのかげから出てきたかしら、そう思いながら、ジーニアは炎を見つめた。炎の反映が肌を金色に染め、肌を嚙んでくるのがわかった。それで、首を動かさずに、屋根の上の雪を盗み見た。
「身体を隠さないように。両手を上にあげて、バルコニーにつかまるようにして」と、グィードの声が言った。》
★「炎」:パヴェーゼの長篇小説『月とかがり火』にあるように、「火」「炎」は死と再生の神話的世界を喚起する力がある。「屋根の上の雪」とのコントラストの妙。
17章:
《微笑みながらジーニアは炎を見つめた。一瞬、背中を寒けが走った。アメーリアの軽い足音が聞こえて、窓際のグィードの脇に、ベルトを整えながら彼女が姿をあらわした。彼女のほうは見ずに微笑んだ。
しかしソファーの近くで別の足音がした。
「自然にして」と、グィードが言った。
「まあ、顔色が悪いわ」と、アメーリアが言った。「何も考えないのよ」
その瞬間、ジーニアには何もかもわかった。そして恐ろしさのあまりに振りかえることもできなかった。そのあいだじゅうずっと、カーテンのかげに、ロドリゲスはいたのだ。そしていま彼は部屋の真中に進み出て、彼女を見つめていた。彼の息づかいが聞こえるような気さえした。愚かな娘みたいに炎をじっと見つめて、身体の奥底から彼女はおののいていた。しかし、振りかえることはできなかった。
長い沈黙が過ぎた。手を動かしているのは、グィードだけだった。「寒いわ」声もたてずにジーニアがつぶやいた。
「あっちへ行って、服を着たまえ」とようやくグィードが言った。
「かわいそうに」アメーリアが言った。
そのときジーニアは振りかえって、一瞬、口を開けたままのロドリゲスを見た。そして身体を覆いながら、自分の服をつかんだ。ソファーに片膝をついて、前かがみになっていたロドリゲスが、《ふーっ》と魚みたいに溜息をついた。そして顔をしかめてみせた。「悪いことはないだろう」と、いつもの声で、彼女に言った。(中略)
しばらくまえから彼女は泣きつづけていた。そしていつのまにか我を忘れていたとき、突然、カーテンがひらいて、ロドリゲスが彼女に靴を差し出した。ジーニアは何も言わずにそれを受けとり、彼の顔とアトリエのなかを垣間(かいま)見た。その瞬間、自分が愚かなまねをしてあまりにおびえたので、いまではもう誰も笑わなくなってしまったことがわかった。カーテンの前にロドリゲスがじっとしているのに気づいた。
そのとき、グィードが近づいてきて、容赦なく彼女に恥をかかせるのではないか、という恐怖に襲われた。《グィードは農民の出だから、きっとあたしを手荒にあつかうわ。なんていうことをしてしまったのかしら、あたしは笑えばよかったのに》と、彼女は思った。ストッキングをはき、靴をはいた。
外に出たとき、ロドリゲスの顔は見なかった。誰の顔も見ないようにした。イーゼルのかげにグィードの顔がかすかに見えた、それから屋根の上の雪が見えた。アメーリアは微笑みながらソファーから立ちあがった。ジーニアはソファーからコートを奪い取り、残る手に帽子をつかむと、ドアを開けて、逃げ出した。
雪のなかで、ひとりになってからも、まだ裸でいるみたいな気がしてならなかった。街路はみな虚ろで、どこへ行ったらよいかわからなかった。お店でも自分はそれほど必要な人間ではなかったから、そんな時間に姿をあらわしても、誰も驚かなかった。彼女が待ち望んでいた夏は、二度と帰ってこないだろう、そう思って彼女は心をまぎらせた。(中略)
しかしジーニアはまだほんとうには絶望できなかった。彼女には自分が愚かだったとわかっていた。午前中はそれでも自殺を考えていた。いや、せめて肺炎にでもかかればよいのにと思った。そうすれば、あの人たちのせいになるし、あの人たちも悔んでくれるだろう。が、このまま自殺するだけの価値はなかった。女になろうとしたのは彼女のほうだった。うまくなれなかっただけのことだ。これでは、ぜいたくなお店に入ったために自殺するのと同じことになってしまうだろう。自分が愚かだと気がついたときに女は家に帰る。《あたしは、ひとりのみじめな女に過ぎないんだわ》ジーニアは、壁をさすりながら、そう言ってみた。》
★「靴」:裸足でいることは、裸体を曝け出すよりも、なにかイブの楽園追放のような原初的罪深さがある。「ストッキングをはき、靴をはいた」という場面では、愛の裏切りから逃走する装いともいえる。
★★「農民」:幼少期こそ丘陵地帯の農村で過ごしたものの、トリノに移り住んだ都会人パヴェーゼにとって、農村は失われた故郷、自然、喪失、回帰の源泉であり、たくましい農民には複雑な感情がある。
★★★「愚か」:ジーニアは、最後には「自分が愚かだ」と気づくだけの理性、自己省察力がある。
★★★★「自殺」:パヴェーゼには『自殺』という題名の短篇小説がある。パヴァ―ゼ自身の自殺についてはナタリア・ギンズブルグの「ある友人の肖像」を参照のこと。
《ふとした瞬間に、道の途中で、ジーニアは立ち止まることがあった。夏の夜の香りが不意に漂ってきて、さまざまな色彩が、物音が、鈴懸の木立ちの影が、よみがえってくるからだ。ぬかるみや雪のなかでもそのことを思い、胸をつまらせて街角に立ち止まった。《きっとくるわよ、季節はめぐっているんですもの》しかしいまみたいにひとりぼっちだと、それはありえないことのように思えた。《あたしは年をとったんだわ、それだけのことよ。美しい盛りは終ったのね。》(中略)
ほかでもない、その晩、アメーリアがやってきた。ドアを開けても、ジーニアにはまだ信じられなかった。しかし、アメーリアはいつものように入ってきて、セヴェリーノはいるかとたずねた。そしてソファーに歩み寄って腰をおろした。
ジーニアはタバコをすうことが思い出せなかった。いま自分たちがしていることをゆっくりと、ただその場のつなぎに、話した。アメーリアは帽子をとり、脚を組んでいた。ジーニアは低くおろした電灯のそばで、テーブルによりかかったまま、彼女の顔を見ないようにした。アメーリアが言った、「おかげで風邪をひいちゃったわ、今朝」
「まだ、治療を受けているの?」とジーニアがたずねた。
「なぜ? あたし変った?」
「わからないわ」と、ジーニアが言った。
アメーリアがタバコを求めた。テーブルの上にタバコの箱があった。「あたしもすうのよ」と、ジーニアが言った。
火をつけあっているあいだに、ジーニアは答えなかった。アメーリアは自分のタバコを見つめてから、言った。「大丈夫だと思っていたわ」
「あそこへ行くことある?」ジーニアが小声で言った。
「たいしたことじゃないわ」と、脚を投げ出して立ちあがりながら、アメーリアが言った。「映画に行きましょうか?」
ふたりともタバコを吸い終るころには、アメーリアが笑いながら言った。
Mentre finivano la sigaretta, Amelia disse ridendo:
「あなたはロドリゲスにすごい一撃を与えたのよ。あたしがあなたを好きかどうか知りたがっていたわ。
- Hai fatto colpo su Rodrigues. Voleva sapere se mi piaci.
グィードはいまでは彼を妬んでいるわ」
Guido adesso e` geloso di lui -.
そしてジーニアが微笑もうとすると、彼女がつづけた。
E mentre Ginia cercava di sorridere, continuo`:
「あたしは嬉しいの、この春には病気が治るから。
- Sono contenta perche' questa primavera saro` guarita.
例のあなたのお医者さんが、何とか間に合ったって、言ってくれたの。
Quel tuo medico dice che mi ha preso in tempo.
ねえ、ジーニア、映画へ行っても、あまり楽しいことないわね」
Senti, Ginia, al cinema non c'e` niente di bello.
「あなたの好きなところへ行くわ」とジーニアが言った、「あたしをつれて行って」
- Andiamo dove vuoi, - disse Ginia, - conducimi tu.》
★「タバコ」:7章でグィードが、「きみが好きなのはタバコをすわないからだよ」と言ったことを、ジーニアはやすやすと乗り越えてしまっている。
★★「行く」:こうして、ジーニアはアメーリアの跡を追って、グィードとの恋と裏切りを追体験して来た。その通過儀礼のような「反復」から「再生」へ向かって「行く」。
<パヴェーゼの思い出:ナタリア・ギンズブルグ『ある家族の会話』から>
《冬も終わり近いころ、レオーネ・ギンズブルグ(筆者註:ナタリアは、反ファシスト運動家のレオーネと結婚する)が刑期を終えてチヴィタヴェッキアの刑務所からトリノに帰って来た。つんつるてんの外套を着て、くたびれた帽子をかぶっていた。くろぐろとした髪のうえに、その帽子は少しゆがんでのっていた。両手をポケットに入れてゆっくり歩いた。くろい、なにもかも見透かすようなあの目であたりを注意深く観察しながら。唇をぴったりと閉じて、額にしわをよせ、黒いべっこうの眼鏡をあの高い鼻のうえに少しずらせてかけていた。
妹さんとお母さんの三人でレオーネはフランス通りの近くに家をかまえた。彼は特別の監視下に置かれていた。そのため日没とともに帰宅するよう義務づけられていて、毎晩刑事が家に帰っているかどうか確かめに来た。
夕食後の時間をレオーネはいつもパヴェーゼといっしょにすごした。ふたりはずっと前から友だちだった。パヴェーゼも流刑地から帰ったばかりだった。不幸な恋をして破れたばかりの彼はそのころひどくふさいでいて、夜になるとレオーネのところにやってきた。外套掛けにリラ色の襟巻と背バンドのついた外套をかけると、食卓の前の椅子にすわった。レオーネは片ひじを壁につけて体を支える姿勢でソファーに腰かけていた。
ここに来るのは、べつに勇気があるからってわけじゃない、とパヴェーゼは言った。「ぼくは勇気なんてない。ましてや犠牲的精神を発揮してやってくるのでもない。夜になるとほかにすることがないからここに来る」
ひとりで夕食後の時間をすごすのがパヴェーゼには耐えられなかったのだ。
政治の話を聞きに来るんじゃない、とも彼は言った。政治なんて、ぼくは「どうでもいいよ」
ときによっては、始めから終わりまで、ひとことも口をきかずに、ただパイプをふかしていることもあった。指先に髪の毛をくるくると捲きつけながら、自分の身辺の雑事について話すこともあった。
ひとの話を聞いてあげる能力に関するかぎり、レオーネははかりしれない永遠の忍耐力の持ち主だった。他人の身辺の雑事について、熱心に身をいれて聞いてあげる特技を彼はもっていた。たとえ耳をかたむけていると同じ熱心さで同時に自分自身について思いをめぐらせていることはあっても。
やがてレオーネの妹さんが紅茶を運んでくる。この妹さんとお母さんがパヴェーゼにロシア語で「ワタクシハ、コウチャニ、サトウトレモンヲイレマス」というセンテンスを教えた。
十二時になるとパヴェーゼは外套掛けから襟巻をつかみとって手早く首にまいた。つぎに外套をつかみとる。そして蒼白な顔でフランス通りを帰っていく。背の高いうしろ姿。外套のえりを立て、頑丈そうな白い歯のあいだに火の消えたパイプを噛みしめ、大股に、足早に、肩をいからせて歩いていった。(中略)
社長とレオーネがパヴェーゼの入社を要請することに決めた。パヴェーゼは最後まで抵抗した。
「ぼくはどうでもいいよ!」というのが反対の理由だった。「ぼくは給料なんていらない。扶養家族がいるわけでなし。日にスープ一杯と煙草を買う金があれば充分だ」
彼は高等学校の代用教員をしていた。給料はわずかだったが、彼にはそれで充分だった。
そのほかに英語の翻訳をしていた。すでに『白鯨(モービィ・ディック)』の訳があった。訳したのは自分の楽しみのためだけだと言っていた。当然翻訳料は支払われたが、あの本なら彼は無報酬でも訳しただろう。それどころかお金を自分で払ってでも訳したいと言っただろう(筆者註:パヴェーゼはトリノ大学で、ホイットマンの都会と田舎、放浪と帰郷、文明と原始、といったテーマに関心を抱き(卒論は『ウォルト・ホイットマン研究』)、『白鯨(モービィ・ディック)』の著者の「ハーマン・メルヴィル」論やパヴェーゼの小説の通奏低音ともなっている)。
彼は詩を書いていた。パヴェーゼの詩には息の長い、引きずるような、間のびしたようなリズムがあって、なにかうらみのこもった哀歌のようなところがあった。彼の詩の世界はトリノであり、ポー河であり、丘陵と町はずれの居酒屋であった。
とうとうパヴェーゼは納得して、レオーネといっしょにその小さな出版社で働くことになった。
いったん入社すると、彼は一徹でくそまじめな社員になった。社長とレオーネはひる近くに出社し、三時頃に食事のために家に帰ってしまったが、彼はそれが不満だった。自分だけは別の就業時間を守り、朝早く出社して午後一時きっかりに社を出た。というのもいっしょに暮していたお姉さんが一時きっかりにスープを食卓に運んだからである。》
《何日か前からの予想どおりムッソリーニが宣戦を布告した。その夜、乳母はひまをとって帰った。私は階段のうえから制服をぬいで木綿の黒い服を着た彼女の広い肩を、ほっとして見送っていた。やがてパヴェーゼが来てくれた。もうしばらく会えないだろうと思いながら、私たちは彼に別れの挨拶をした。パヴェーゼは人に別れを告げるのが大きらいで、その日も帰りしなにいつもと同じあの気難しげな、指を二本さしだすだけの挨拶しかしなかった。
あの年の春、パヴェーゼは私たちの家に来るときはいつもさくらんぼを食べながら来た。出はじめの小さな水っぽいさくらんぼが彼は好きで、「天の味」がすると言っていた。窓から見ているとあの背の高い姿が道のむこうにあらわれ、急ぎ足で近づいてくる。さくらんぼを食べながら、通りの家の背にぴしゃっといきおいをつけて種を投げる。私はフランスの敗北をいまでもあのさくらんぼと切り離して考えることができない。うつに来るとパヴェーゼはあの気難しげな手でポケットからさくらんぼを、さも惜しそうにひとつひとつ取り出しては私たちに味見をさせてくれた。》
《社長は自分の部屋にレオーネの写真をかけていた。うつむき加減で、眼鏡が鼻のうえで少しずれていて、黒くて濃い髪、頬には深いえくぼのきざまれた、女性のような手をした彼の写真であった。レオーネはドイツ軍占領下の凍てつくような二月のある日、ローマのレジナ・チェリ刑務所のドイツ棟で亡くなったのだった。
ドイツ軍がフランスを占領したあの春が、私があの三人、レオーネと社長とパヴェーゼがいっしょにいるのを見た最後であった。いちどだけ、レオーネと私がイタリア参戦直後に送られた流刑地から帰ったときを除いては。私たちは数日間の許可をもらって流刑地から戻り、その機会にパヴェーゼと社長と当時出版社で頭角をあらわしはじめていた何人か、そしてミラノやローマから企画やアイデアを持って集まってきた人たちとしばしば食事を共にした。バルボはそのとき不在だった。当時アルバニア戦線に出征中だったのである。
パヴェーゼはほとんどレオーネについて話さなかった。そこにいない人、死んだ人たちのことを話すのが彼はきらいだった。彼はそれをはっきり言っていた。「どこかに行ってしまった人や死んだ人のことをぼくは考えないようにしている。つらい思いをするのがいやだから」
そうは言っても、パヴェーゼがレオーネを失ったことを悲しんでいなかったのでは決してない、と私は思う。レオーネは彼のいちばんの親友だったのだ。彼を失ったことを、たぶん彼の心を蝕んでいたいくつかのことどもの中に数えていただろうと、私は思う。あんなふうに言ってはいたが、つらい思いを避けきることなど彼にできたはずがないのだ。だれかも愛してしまうたびに、あの世にもみじめな、むごい苦しみにとりつかれた彼である。
まるで熱病のようにパヴェーゼは恋をわずらった。一年か二年それが続く。そして回復する。しかしそのあとは、重病後にやっと床あげした病人のように、気もそぞろで憔悴しきっていた。》
《パヴェーゼの誤謬は私たちのそれよりも重大だった。というのもわれわれのあやまちは衝動や軽率さ、無智や純粋さに由来するものだったが、パヴェーゼのは慎重さや抜け目なさ、計算、理性などから生まれたものだったからである。この種のあやまちほど危険なものはない。彼にとってそうだったように、それは死にいたることがある。(中略)
パヴェーゼはある夏、私たちがだれもトリノにいないときに自殺した。彼は自分の死に関連する諸状況を、まるで散歩の道すがら、またはパーティーの計画をたて用意をととのえる人のように、こまかく準備し計算した。その散歩の道すがら、またはパーティーの席で、不測のあるいは偶然の事故が起こってはならないと彼は考えた。以前、彼と私とバルボ夫妻と社長が郊外の山歩きに行ったときなども、彼は自分が準備したとおりに事が運ばないと、たとえばだれかが時間におくれたり、不意にわれわれが予定を変更したり、だれか予期しない人が加わったり、たとえば道で偶然会った知人にさそわれてパヴェーゼがかねてえらんであったレストランでなく、その人の家で食事に呼ばれることになったりすると、彼はひどくいら立った。不測の出来事は彼をひどく当惑させた。不意をつかれるのを彼は忌み嫌った。
彼は何年も前から自殺すると言い続けていたので、もうだれもそれを本気にしていなかった。私とレオーネのところにさくらんぼを食べながら来ていた、フランスがドイツの占領下にあったあのころ、彼はすでにそれを口にしていた。その理由はフランスのせいでもドイツのせいでもなく、イタリアを巻きこもうとしていた戦争のせいでもなかった。彼は戦争を恐れてはいたが、そのために自殺するほどではなかった。それでも戦争をこわがり続けていたことはたしかで、その恐怖は戦争がとっくに終わってからもまだ続いていた。それはしかし、私たちにしても同じだった。というのも戦争が終わった途端に私たちは次の戦争を恐れはじめ、戦争について絶えず考えるのがくせになってしまった。そしてわれわれの仲間で次の戦争をだれよりも恐れていたのは彼だった。彼の恐怖は私たちのよりも大きかった。彼にとってそれは不測と不可知の渦を意味し、彼の明晰な思考にそれは戦慄すべきものと映ったからである。それは彼の人生の淋しい岸辺に押し寄せる、暗い渦を巻く毒を含んだ高波だったのである。
要するに、彼が死ななければならぬ理由はひとつもなかった。しかし、いくつかの理由をでっちあげて組み合わせ、一瞬のうちにその合計を正確に計算し、もう一度組み合わせてみると答が同じだったので、彼はあの悪意にみちた微笑をうかべてこれが正確な答だという結論に到達した。それから自分の人生の行く末を、またわれわれの未来を見渡し、自分の作品について、さらに自分を記憶する人びとがどのようにふるまうだろうかを考えた。人生を愛してこれを離れたがらず、死を思いながらもほんとうは死でなく生を頭に描き続ける人びとと同じように、彼も自らの死の彼方を見渡した。しかしその人たちと根本的にちがっていたのは、彼が人生を愛していなかったことである。だから彼が自らの死の彼方を眺めやったのは生を愛するゆえの行為ではなく、状況をつかむための素早い計算によるものにすぎなかったのである。それは自分が死んだあとまでも、不測の出来事に翻弄されないためであった。》
<パヴェーゼの思い出:ナタリア・ギンズブルグ「ある友人の肖像」から>
《私たちの友人が愛した町は今も昔も変わらない。多少は変わったところもあるけれど、とりたてて言うほどの変化ではない。トロリーバスが走るようになり、地下道が何か所かできたくらいだ。新しくできた映画館もないし、昔の映画館が名前もそのままに残っている。昔ながらの名前を繰り返しつぶやいていると、青春と子ども時代が蘇ってくる。私たちは今、別の町に住んで、なにもかもすっかり別ものの、もっと大きな都会で暮らしている。私たちは会えば故郷を話題にするけれど、その町を離れたことを悔やむ気持ちは少しもない。あの町ではきっともう暮らせないもの、などと言っている。でも、いざもどってみると、駅のコンコースを横切って並木道の霧のなかを歩いただけで、わが家にいる気持ちになる。それでいながら、もどるたびに悲しみがよぎるのは、わが家と感じながら、同時に、ここにはもはや留まる理由がないとかんじてしまうからなのだ。私たちの家、私たちの町、私たちが青春をすごしたこの町には、命あるものがもはやほとんど何も残されていない。私たちを迎えるのは、群れつどう記憶と影たちでしかない。
加えて私たちの町は、風土そのものが陰鬱だ。冬の朝には、駅と煤のあの独特のにおいが、表通りから路地のすみずみにまで立ち込める。到着するのが朝だと、目の前に現れるのは駅と煤のにおいに包まれた灰色の霧の町なのだ。ときには、かすかな陽の光が霧を突き抜けて、雪の塊と葉の落ちた木の枝をピンクや薄むらさきに染めることもある。表通りや路地では、シャベルでかき集めた雪が小さな山をなしているが、公園は、ふんわりした手つかずの分厚い雪化粧に埋もれたままだ。だれもいないベンチと噴水の縁に、指一本ほどの高さに雪が積もっている。馬場の時計は、いつからかもう思い出せないほどの昔から、ずうっと十一時十五分前で止まっている。川の対岸に位置する丘も雪化粧。白のところどころに低木が赤みがかったシミをつけている。丘のてっぺんに聳えるオレンジ色の円形の建物は、旧バリッラ全国事業団の建物だ。かすかに日差しがあると、自動車展示場のガラス張りの丸屋根がきらきら輝き、川も緑色にきらめきながら大きな石橋の下を流れていく。そんなときには、ほんの束の間とはいえ、この町が、にこやかで愛想よい町に見えることもある。でも、そんな印象も瞬時にして消え失せる。町の本質は陰鬱なのだ。川がかなたにぼんやりうすれ、水平線らしきすみれ色の靄に紛れてどこへともなく姿を消すさまは、昼日中でありながら黄昏どきを思わせる。いたるところに、働いていますと言わんばかりの煤の、あの陰気なにおいが充満し、そして列車の汽笛が聞こえてくる。
今にして思えば、この町は私たちが亡くした友人によく似ている。友人はこの町が大好きだった。町も彼に似て働き者だ。眉間に皺をよせて頑なに仕事に熱を入れる。そうかと思うと、やる気が起こらなければ、いつなんどきでもサボって夢想にふける。友人にそっくりなこの町では、どこの片隅に足を踏み入れても、いたるところに彼の姿が蘇る気配を感じる。角という角を曲がるたびに、色の暗いハーフベルトつきのコートの襟で顔を隠し、帽子を目深にかぶったひょろ長い姿がひょっこり現れそうな気がする。友人は、意固地でひとりぼっちで、測量でもするかのように大きな歩幅で町を闊歩した。たばこの煙がもうもうと立ちこめる、人知れぬカフェにこもると、コートと帽子はさっさと脱いでも、冴えない色の悪趣味な短いマフラーは首に巻きつけたままでいた。茶色の髪の長めの毛を指にからませているかと思うと、いきなりはげしく髪をくしゃくしゃにする。手をすばやく走らせて紙を何枚も大きな文字で埋め尽くしては、それをまた乱暴に消していく。そんなふうにしながら、詩のなかで、彼はこの町に賛辞を送っていた。
きょうは、霧が川から立ちのぼり
草原と丘にかこまれた美しい町に流れ込んで
町を追憶のようにぼかしてゆく日……(訳注:詩集『働きつかれて』所収)
この町にもどるとき、あるいは町に思いを馳せるとき、私たちの耳のなかに彼の詩がこだまする。本人の肉声ではじめて朗読を聞いたはるかな青春の日々そのもののイメージであり、すっかり私たちの一部となっているので、果たして美しい詩なのかどうかすら、もう分からない。あのときは、灰色で重たくて詩情とはおよそ相容れない私たちの町がこんなふうに詩に変身するのを知って、ひどくびっくりしたものだ。》
《ひたすら苦しい方へと思考を向けるものだから、晩年は、額に深い皺が刻まれ頬はこけていた。それでも容姿には、最後まで少年の優美さが保たれていた。晩年になって、彼は作家として名を成した(訳注:一九五〇年六月、長編三部作『美しい夏』『丘の上の悪魔』『孤独な女たち』で、イタリアの最も権威ある文学賞のひとつ、ストレーガ賞を受賞した)。しかし、著名作家になったからといって、何ひとつ変わるところはなかった。とっつきの悪さも、控えめな地味さかげんも、日々の仕事に取り組む細心で誠実な姿勢も、以前と同じだった。有名になって嬉しいかと尋ねると、偉そうにフンと笑いながら、こうなるのは前からずっと分かっていたと言った。ときどきこんなふうにずるそうに、高飛車なせせら笑いを見せることがあった。ピカっと光ってはすぐに消える、子どもっぽくて意地の悪い笑いだった。それにしても、こうなるのがずっと前から分かっていたとはすなわち、目標が達成された今、歓びを感じるものがもう何もないということだ。欲しかったものが手に入るや、彼は、その味を噛みしめることも愛でることもできなくなってしまうのだ。自らの芸術を奥の奥まで知り尽した今、もはや秘められたものがなくなった。秘密の香りがどこにもないのでは、さらなる興味を駆り立てられることもないと言う。彼の友人である私たちについても、もう秘密がないからかぎりなく退屈なのだそうだ。退屈させているとはおあいにくさまだが、こちらだっておもしろくない。あなたのどこが間違っているか私たちにはよく分かっている、と言ってやりたかった。あなたの間違いは、いつも同じように流れて表向きは秘密などないように見える日々の生活の流れを、そのまま素直に愛そうとしない頑固なところにあるのだと言いたかった。彼に残された課題はつまるところ、日常の現実をしっかり自分のものとして手中に収めることなのだから。しかし、日常の現実を、焦がれるほどに求めながら同時に憎悪する彼にとって、それは摑みとることのできない禁断の木の実だった。果てしないかなたから、ただじっと見つめているしかなかったのだ。》
《彼は夏に亡くなった(筆者註:一九五〇年八月)。私たちの町は夏になると、がらんどうでだだっ広く見える。音響のよい明るい広場のようだ。空は澄んでいるけれど、青みを帯びた乳白色で輝きはない。川は波も立てず道路のようにのっぺりと流れ、湿気をもたらさない代わりに、心地よい涼風を吹き込むこともない。並木道から土煙が激しく舞い上がる。川の方から砂利を積んできた大型の荷車が通る。アスファルトの道に撒かれた砂利が、タールと混ざって日にさらされる。カフェの屋外に設置された縁飾りつきパラソルの下で、客のいないテーブルが熱く焼ける。
私たちはだれもいなかった。彼が自らの死のために選んだのは、そんな暑さにむせ返る八月の、いつでもよいある日だった。選んだ場所は、駅に近いホテルの一室。自分のものであったその町で、よそ者として死ぬことを彼は望んだのだ。何年も何年も遠い昔に書いた詩のなかに、彼は自らの死を、こんなふうにイメージしていた。
ベッドを離れるには及ばないだろう。
夜明けがひとりで虚ろな部屋に入ってくる。
窓があれば、あらゆるものを、まるで灯りのような
おだやかな薄明かりで包み込み
仰向けの顔の上に、やせ細った影を落とすはずだ。
記憶たちは影のかたまりとなって、
時を経た炭火のように暖炉のなかに身を潜め、きのうはまだ
光をなくした瞳のなかで疼いていた炎となるだろう。(訳注:同前)
彼が亡くなって間もなく、私たちは丘に行った。道路沿いに居酒屋が並び、赤く色づいたブドウ棚、ボッチェ(訳注:ペタンク)の遊具、積み上げられた自転車があった。トウモロコシ畑の傍らで刈り取った草を袋の上で干す農家があった。彼が愛した、町はずれの秋の入口の風景だ。草の茂った川岸と耕された畑の上に九月の夜が昇ってくるのを私たちは眺めた。私たちはみんなとても親しかった。何年も前からお互いを知っていた。つねに仲間としてともに働き、ともに考えた。愛されながらとつぜんつき放された人によくあるように、私たちは今こそ、これまで以上に愛し合い、互いを気遣い、支えあおうとしていた。彼が、彼なりの不思議なやり方で私たちのことを気にかけ、守ってくれていたことが、ひしひしと身に染みた。町はずれのあの丘の上に、彼の存在を、このときほど強く感じたことはなかった。
もどってくる眼差しにはどれも、草の味わいと
黄昏の浜辺の夕陽に染まった残り香がある。
海の吐息が潜んでいる。
古の不安と戦慄を伴うこの漠たる影は
まるで空をかすめる夜の海のように、
夜ごともどってくる。死んだ声たちは
あの海の、砕け散る波音に似ている。(訳注:同前)》
<スーザン・ソンタグ「模範的苦悩者としての芸術家」から>
英訳されている小説からパヴェーゼの美質は、繊細さ、簡潔さ、抑制にあるようで、文体は平坦で、乾いた、激情抜きのものであり、ひとは小説の冷たさに気づくが、それは作品が対象にしているのが、語り手の慎重な自閉する態度にあるからなのだ、と評したスーザン・ソンタグは、一九三五年から一九五〇年(この年にパヴェーゼは四十二歳で自殺した)までのパヴェーゼの日記が英訳出版されたことを受けて、
《この日記には<登場人物>がふたりいるということができそうだ。人間パヴェーゼと批評家兼読者のパヴェーゼ。あるいは、言い方をかえれば、未来を考えるパヴェーゼと、過去を回顧するパヴェーゼのふたりがいる、と。おのれの感情、おのれの計画に対する自責と自戒がある。その省察の焦点となるのは、おのれの才能である――作家として、女たちの恋人として、未来の自殺者としての。さてそれから、あらゆる回顧的な評言がなされる。完成した書物の若干についての分析、それらが彼の仕事のなかで占める位置、読書ノートなど。パヴェーゼの生活の《現在》が日記のなかにいやしくも忍びこんでくる場合があるとすれば、それは主として、彼の能力と将来に関する考察のかたちをとってである。
ものを書くことを別にすれば、パヴェーゼがたえず帰ってゆく将来計画は、二つある。ひとつは自殺の見込みであり、これは早くは(彼のふたりの親友が自殺した)大学時代にまで遡ることができる誘惑であり、彼の日記のほとんど各ページに見られるテーマである。もうひとつは、ロマンティックな愛とエロティックな失敗とである。パヴェーゼは深刻な性的不能感にさいなまれる者としておのれを示し、性愛の技巧、愛の絶望、性の戦いに関するあらゆる種類の理論で守備を固めようとした。女性の捕食性や搾取性に関する寸評には、パヴェーゼ自身が女を愛することができなかったこと、女に性愛の満足をあたえることができなかったことの告白が混じっている。パヴェーゼ自身は、生涯結婚しなかった男だが、日記のなかで、いくたの長期にわたる情事や束の間の性経験に関する反応を記録している、たいていは、いまにももめごとになりそうな時点か、またはそれらの関係が実際こわれてしまったあとで。その相手の女性たちは決して描写されていないし、ふたりの関係の成りゆきは、触れられてさえもいない。
この二つのテーマは、パヴェーゼ当人が体験したように、密接に結びついている。彼の生涯の終わりの数ヵ月、アメリカのある映画女優との不幸な情事のただなかで、彼はこう書いている。「ひとは女へのあいのために自殺したりなどはしない。そうではなく、愛――どんな愛でも――が、われわれの姿を、裸身のままに、その悲惨さのままに、その弱さのままに、その無のままに開示するからこそ自殺するのである……深く、深く降(お)りさがって、このすばらしい情事が舞うままに捉えようとはすまい。……ぼくの昔の思想に立ちもどらせようとして――ぼくの積年の誘惑……あのことをもう一度思いかえすための言い訳を手に入れようとして。愛と死を。こいつは遺伝的なパターンだ。」あるいはまた、いささかイロニーをこめて、パヴェーゼは次のように言う。「ちょうど死のことを考えないのと同じように、女について考えないことは可能である。」女たちと死とは、同じくらい不安に病的に、パヴェーゼを魅惑してやまないものであったと思われる。女の場合も死の場合も、彼にとって主要な問題は、いったい自分はこの機会にふさわしい者であるかどうかということにあったのだから。
パヴェーゼが愛について言いたかったことは、ロマンティックな理想化の、あのおなじみのもうひとつの面だったのだ。スタンダールとともにパヴェーゼも、愛が本質的にはフィクションであることを発見する。愛がときとして失敗するからではなく、本質的に愛とは誤謬だからである。他者への執着と考えられているものも、孤独な自我の舞踏を重ねるたびに、その正体は暴露される。(中略)報いられない恋の誘惑は、パヴェ―ゼが《完全な行為》と呼ぶものにあり、強力で絶対的に孤立した、冷たい自我の在り方にある。「完全な行為は完璧な冷たさから生まれる」と、パヴェーゼは一九四〇年の日記に書いている。「われわれに冷たくするひとをいつも狂おしく愛するのは、たぶんこのためである。彼女は<スタイル>を代表し、<階級>の魅惑である。望ましいもののすべてである。」(中略)
両性間の愛について、われわれヨーロッパ人は古代ギリシアや東方のひとたちとは違った、もっと愛に強調をおく見方をもっていることを、知らない者はいない。また、このような近代の愛の見方は、いかに稀釈され俗化されたものであっても、キリスト教精神の延長であるということも。だが恋愛崇拝は、ルージュモンが主張するような、キリスト教の<異端>ではないのだ。キリスト教は、そもそものはじまり(パウロ)から、ロマンティックな宗教だった。ヨーロッパの恋愛崇拝は苦悩崇拝のひとつの側面なのだ――真摯(しんし)さの至上の証拠としての苦悩(十字架の範型)の崇拝の。古代ヘブライ人、ギリシア人、東方の人たちのあいだでは、愛にこれと同じ価値をあたえているものが見当たらないのも、これらの地域では苦悩におなじ積極的な価値をあたえていないからである。苦悩は真摯さを証明する折紙ではなかった。むしろ真摯さは、苦悩という刑罰を回避し超越する能力によって測られたのであり、平静と平衡を達成する能力によって測られたのだ。これと対照的に、われわれが受けついできた感受性は、精神性と真摯を狂乱、苦悶、受難と同一視する。二千年間にわたって、キリスト教徒とユダヤ教徒のあいだでは、苦痛のなかにあることが精神的に粋なこととされてきた。こう考えてくると、われわれが過大評価するのは愛ではなくて苦悩――もっと的確に言えば、苦悩の精神的美質と精神的利益であることがわかる。
このキリスト教的感受性に対する近代の貢献は、芸術作品の制作と性愛の冒険とが、二つの最も精妙な苦悩の源泉であることを発見したことにある。作家の日記のなかにわれわれが求めるものは、まさにこれであり、パヴェーゼはこれを、読む者を動揺させずにおかないほど夥(おびただ)しくあたえてくれる。》
(了)
*****引用または参考文献*****
*チェーザレ・パヴェーゼ『世界の文学14 パヴェーゼ』(『美しい夏』『丘の上の悪魔』『流刑地』『三人の娘』『自殺』『丘の上の別荘』『麦畑』『川の対話』『ヌーディズム』河島英昭訳、『月とかがり火』米川良夫訳、所収)(集英社)
* Cesare Pavese ”La bella estate” (Einaudi, 1966)
*チェーザレ・パヴェーゼ『パヴェーゼ文学集成1 鶏が鳴く前に』(『流刑』『丘の中の家』所収)河島英昭訳(岩波書店)
*チェーザレ・パヴェーゼ『パヴェーゼ文学集成2 美しい夏』(『美しい夏』『丘の上の悪魔』『孤独な女たちと』所収)河島英昭訳(岩波書店)
*チェーザレ・パヴェーゼ『パヴェーゼ文学集成6 詩と神話』(『詩集 働き疲れて』『異神との対話』所収)河島英昭訳(岩波書店)
*チェーザレ・パヴェーゼ「ハーマン・メルヴィル」(『世界批評大系7 現代の小説論』所収)米川良夫訳(筑摩書房)
*ナタリア・ギンズブルグ『ある家族の会話』須賀敦子訳(白水Uブックス)
*ナタリア・ギンズブルグ「ある友人の肖像」(『須賀敦子の本棚3 小さな徳』ナタリア・ギンズブルグ 白崎容子訳所収)(河出書房新社)
*丸谷才一「少女が女に変容してゆく物語 チェーザレ・パヴェーゼ/河島英昭訳『美しい夏』」(『快楽としての読書[海外篇]』所収)(ちくま文庫)
*堀江敏幸「きみは、夏じゃないんだ」(『彼女のいる背表紙』所収)(マガジンハウス)