

多和田葉子は多和田編『ポケットマスターピース01 カフカ』で、《カフカの小説には必ずと言っていいほど、エロスの層がある》と解説している。
試みに、同書の『訴訟』からエロスの層を断片的に拾ってみよう。
ビュルストナー嬢とは、《彼はまた彼女の手首をつかんだ。彼女は今度はふりほどかず、その体勢のまま彼を扉まで連れていった。(中略)「すぐ出ます」とKは言い、走り出して彼女を抱きしめ、唇にキスをして、さらに顔中にキスを浴びせた。のどが渇いた獣が、やっと見つけた湧水を舌で舐め回すように。締めくくりに首にキスをした。のどのところに。長いこと、そこに唇を押しつけたまま、じっとしていた。》
廷吏(ていり)の妻とは、《「ここはつくづく汚いものばかりだな」とKは言った。女は、Kが本を手に取るより早く、エプロンでさっとぬぐった。せめて表面のホコリだけでも、ということか。Kは一番上の本を開いた。猥褻な絵が出てきた。男と女が裸でソファーに座っている。いやらしい絵を描こうとしているのは分かるが、下手すぎるので、男と女がいるだけにしか見えない。(中略)それ以上はページをめくる気も失せて、Kは次の本の扉を開いてみた。小説だった。タイトルは『ハンスのグレーテ調教日記』。(中略)――彼女は両脚を伸ばし、スカートを膝までめくり上げ、自分もじっとストッキングを見つめた――「きれいなストッキングだけど、でも上等すぎて、あたしには似合わないわよね」
突然、彼女は言葉を切り、落着かせようとするみたいに、Kの手に自分の手を重ねて、ささやいた。
「静かに。ベルトルトが見てるわ!」》
叔父の看護婦レニとは、《「誰が言ってたんだ?」とKは尋ねた。彼女の身体がぴったり胸に密着しているのを感じる。きっちり編んで頭に巻きつけた豊かな黒髪が、目のすぐ下に見える。(中略)
「うん、いい感じ」と彼女は言い、彼の膝の上で身づくろいした。スカートのしわを伸ばし、ブラウスの乱れを直す。それから彼女は両手で彼の首にしがみつき、体をのけぞらせ、長いこと彼を見つめた。
「じゃあ、ぼくが自白しなかったら、助けてくれないの?」と彼はためしに尋ねてみた。
おれの顔に、助けてくれる女の人募集中とでも書いてあるのかと彼は思い、不思議なくらいだった。最初はビュルストナー嬢、次は廷吏の女房、きわめつきはこの看護婦だ。よっぽどおれが気に入ったらしいな。おれの膝に座って、ここがあたしの特等席って態度だぞ!(中略)
「あら!」と彼女が目ざとく叫んだ。「あたしにキスしたでしょ!」
彼女は口を開けて、せかせかと両膝を使って彼の膝によじのぼった。Kは唖然(あぜん)として彼女を見上げた。こうして密着すると、彼女の身体からはスパイスのような刺激的な臭いが漂ってくる。彼女は彼の頭を抱えて上から覆いかぶさり、彼のうなじに歯を立て、キスをしてきたかと思うと、今度は髪の毛を口にくわえた。
「取り替えたわね」と彼女はときどき叫んだ。「ほら、やっぱりあたしと取り替えちゃった」
そのとき膝が滑り、彼女は小さくキャッと悲鳴をあげて絨毯の上に転げ落ちかけた。Kは彼女を抱き止めたつもりが、逆に引きずり下ろされた。
「あなたを手に入れたわ」と彼女は言った。
「これ、家の鍵だから。いつでも好きなときに来てね」》
多和田葉子は続ける。
《カフカの小説には必ずと言っていいほど、エロスの層がある。『流刑地にて』の場合は、多くの画家の手で美術史に残された聖セバスティアヌスの姿がちらつく。樹木に縛られ、裸の上半身に矢を何本も刺されて血を流している姿は三島由紀夫を引き合いに出すまでもなく性的陶酔を表している。カフカもまた、裸の男の肌に針を刺すところを夢想せずにはこの小説を書けなかっただろうし、読んでいて吐き気と同時に、ある種の快楽を感じさせるのは、拷問する側に作者が何らかのかたちで加担しているからだろう。
わたしは『変身』にも禁じられた性の引き起こす罪と罰の層を見てしまう。グレゴール・ザムザが本当に愛しているのは妹だが、それは近親相姦という「汚れた」罪であるから罰せられなければならない。グレゴールがいなくなれば、妹は晴れて結婚することができる。だからこの小説は妹の結婚の話で終わっている。妹への「不浄な」愛は罪状として、汚れた生き物に変身するという形でグレゴールの身体に書き込まれる。
けがれの感覚と罪の意識はカフカの小説のいたるところに彫り込まれ、そこにはいつも性の問題が絡んでいる。ただその絡み方が特殊なので、カフカはあまり色気のない作家であるように誤解されることが多い。『訴訟』も例外ではない。無罪なのにある日逮捕された男の話、ということになっているが、わたしはヨーゼフ・Kが実は「有罪」で、そのことは本人が一番よく知っているのではないかと思う。それはヨーゼフ・Kのおかしな行動に表れる。まず、取り調べに来た男たちが同じアパートに住むビュルストナー嬢の私物を触ったことをひどく気にする。触ったのは自分ではないと言うために、わざわざ相手が帰宅するのを夜中まで待ち伏せ、強引に部屋の中にまで入り込む。女性の私的な領域に入って触りたいのがK自身ではないのかと読者のわたしに疑われても仕方ない。また、ビュルストナー嬢は身持ちが悪いと大家のグルーバッハ夫人に言われると腹をたて、大家を懲らしめるためにビュルストナー嬢と二人でこの家を出て行くところを想い描く。このとんでもない飛躍に、ニュルストナー嬢に娼婦的であってほしい、娼婦と駆け落ちしたい、などのKの願望が感じられる。また、法廷はうらぶれた路地にある売春宿のような建物で、待たされている間に法律書をひらくと卑猥な挿絵があったり、廷吏の妻がKを誘惑してきていつの間にか嫉妬劇が展開したりと、話はどこまでも逮捕の話から脱線して、性の領域にのめりこんでいく。逮捕された事件が主旋律で、女性関係が副旋律なのではない。Kは性欲を持つがゆえに有罪判決を受けそうになっているのだ。この判決は父的な神から降りてくるので、法律の力で無罪を証明するのは不可能である。カフカは、法律にふれていないのに逮捕されるKを小説に書くことで、性を有罪とする判決が全くのナンセンスであることをあきらかにしたとも言える。》
ハンナ・アーレントは『暗い時代の人々』の「ヴァルター・ベンヤミン――一八九二~一九四〇」で、《ショーレムが、当時の作家のなかでは、ベンヤミンはプルーストについでカフカに対し個人的親近感を強く感じていたと述べているが、それはまったく正しい》と書いている。
ベンヤミンの批評的エッセイ「フランツ・カフカ」(初出一九三四年『ユダヤ展望』掲載)にはこうある。
《役所と家庭の状況は、カフカにおいていく重にも重なりあっている。城山の麓(ふもと)の村では、この点を照らし出してくれる言い回しが知られている。「『当地にはこんな決まり文句がありますが、もしかしたらあなたもご存知でしょう。お役所の決定は若い娘っこのように内気だ、というのです』。『それはみごとな観察ですね』とKは言った、……『みごとな観察です。お役所の決定には、ほかにも娘っこと共通の性質があるのかも知れませんね』」〔『城』第一五章〕。そのなかでも最も注目に値するのはたぶん、誰にでも簡単に身をゆだねる、という性質だろう。Kが『城』や『訴訟』で出会う内気な娘たちはそうであって、彼女たちは家族の懐(ふところ)のなかで、まるでベッドのなかにいるように淫(みだ)らな行為に身を任せる。Kは行く先々の到るところで彼女らを見出す。見出した後のことは、あの酒場の娘〔『城』の登場人物フリーダ〕をものにするときのように、ほとんど手間はかからない。「二人は抱きあった。小さな肉体がKの手のなかで燃えた。彼らは我を忘れて床の上を転がり、Kはこのありさまからたえず逃れ出ようとしたが無駄だった。さらに何歩か転がり、鈍い音をたててクラムの部屋のドアにぶつかると、そのままビールの小さな水たまりや、床を被っている他の汚物のなかに横たわった。その状態で何時間も過ぎていった。……Kはその間ひっきりなしにこんな気がした。自分は道に迷っている。あるいは自分の前にはどんな人間も来たことがないような、遠い異郷の地に来ている。そこでは空気でさえ、故郷の空気とはまったくちがっていて、なかにいると異質性のあまり窒息しそうだが、けれどもこの異郷の途方もない誘惑のなかでは、進み続け迷い続けること以外なにもできない」〔同前、第三章〕。この異郷のことを、われわれはまた後に聞くことがあるだろう。が、いま注目されるのは、こうした娼婦のような女たちが、決して美しいものとしては現れないということである。》
「汚物のなかに横たわった」「決して美しいものとしては現れない」という表現が示唆するように、ここにはクリステヴァのいう、倒錯(頽廃)と類縁関係をもつ「アブジェクト(棄却すべき、おぞましきもの)」、一神教、なかでもユダヤ教において、(食物とかその他の)排除またはタブーとして存続する「アブジェクション(棄却行為、おぞましさ、穢れ)」がある。
クリステヴァは『恐怖の権力 <アブジェクション>試論』で、「聖なるものから離れた所で、アブジェクトは書かれる」として、《西欧近代の特質からして、またキリスト教の危機のために、アブジェクションは文化上罪以前の、より古層に共鳴し、その位相は聖書、さらに下って原始社会の穢れにまで引き戻される。<他者>が崩壊した世界においては審美的な努力――象徴機構の基盤に向けての下降――は、語る存在の不安定な境界領域の線を、語る存在の始源のもっとも間近に、つまりいわゆる原抑圧の底知れぬあの《起源》の淵近くに引き直すことに払われる。そうはいえ、<他者>に支えられているこの芸術的経験においては、《主体》と《客体》は排斥し合い、対決し、共に崩壊する。そして互いに分かち難く、汚染し合い、断罪されて、同化し得るもの、考え得るものの限界、つまりアブジェクトの境界領域に戻ってゆく。現代の偉大な文学、ドストエフスキー、ロートレアモン、プルースト、アルトー、カフカ、セリーヌ等の文学が繰り広げられるのは、まさにこの領域である。》というように、カフカはアブジェクトの境界領域の作家であった。
ドゥルーズ+ガタリは『カフカ マイナー文学のために』(一九七五年)の「第七章 連結器」で、カフカにつきまとい、Kが『城』でも『訴訟』でも出会う若い女のタイプについて考察している。
《それでは、黒く悲しげな眼をした若い女はどういうタイプなのか。彼女たちは、しどけなくくびのあたりをあらわにしている。彼女たちはあなたに呼びかけ、あなたに身をすり寄せ、あなたのひざに坐り、あなたの手を取り、あなたを愛撫し、また愛撫され、あなたを抱き、あなたに歯形を残し、あるいは反対にあなたの歯形を残し、あなたを暴行し、あなたに暴行され、ときにはあなたを押さえつけあなたを殴りさえし、暴君的である。しかし彼女たちは、あなたが立ち去るままにしており、あるいはあなたを立ち去らせさえし、あなたを永久にほかの場所へ送ることによって、あなたを追い払う。レーニ(筆者註:『訴訟』に登場する看護婦)は、動物への変化の名残りとして、水かきのある指を持っている。しかし彼女たちは、もっと特殊な混交を示している。つまり彼女たちは、一部は姉妹であり、一部は女中であり、一部は娼婦である。彼女たちは、結婚生活・家庭生活に反対であって、そのことはすでにカフカの物語に見えている。(中略)「訴訟」と「城」は、妹・女中・娼婦の性質を、さまざまな資格で統合するこのような女たちを増加させている。城の使用人たちの娼婦であるオルガなど。ことさらにマイナーであることを望み、そこから、揺れ動かす力を得ている文学の企図のなかでの、マイナーな人物たちのマイナーな性質。
このような三つの性質は、逃走の線の三つの構成要素と、運動の自由、言表の自由、欲求の自由という自由の三段階に対応している。(1)妹たち(・・・)。家族に属し、家族の機械を逃走させようとする最大の気持を持っているのは彼女たちである。(中略)(2)女中(・・)、若い女の使用人たち(・・・・・・・・)など。すでに彼女たちは、官僚制の機械のなかに捉えられて、その機械を逃走させようとする最大の気持を持っている。(中略)(3)娼婦たち(・・・・)。おそらくカフカにとっては、彼女らは家族・結婚生活・官僚制のあらゆる機械が交叉するところにあり、そういうものを彼女たちがさらに逃走させる。彼女たちが与えるエロチックな窒息または喘息は、けっして長続きしない彼女たちの圧力または重みからだけ由来するのではなく、非領域化の線上で、彼女たちとともにはまりこむものからも由来する。(中略)――しかし、これらの要素はいずれもそれだけでは価値を持たない。カフカが夢みる異郷的な結合が作られるためには、できれば同じ人物においてそれらの三つの要素が同時に必要である。すなわち、その女を女中として考えなくてはならないが、しかしまた、妹としても、娼婦としても考えなくてはならない(原注:階級闘争は、女中と使用人のレヴェルで、すでにカフカの家庭と店を横断していた。それは「父への手紙」の主要なテーマのひとつである。カフカの妹のひとりは、カフカが女中たちに好意を寄せ、田舎の生活を好むことを非難する気持だった。カフカが初めてフェリーツェ(筆者註:五歳年長のカフカと五年にわたり交際し、二度の婚約と婚約破棄を繰り返した)に会ったとき、彼女は《むきだしの頸》、《うつろな顔》、《ほとんどひしゃげてしまった鼻》で、大きな金歯を入れていた。カフカは彼女を女中だと思っていた(Journal,P245)。しかし、妹であるとも、娼婦であるとも思っていた。彼女はそのいずれでもなく、カフカ自身のようにすでに事務所で重要な地位にあり、やがて女支配人になる。カフカは官僚制の歯車または分節が適合することのなかに秘密の快楽を得るだろう)。》
《カフカは、精神分析の書物に書かれているようなマゾヒズムとは何のかかわりもない。十九世紀と二〇世紀初めの精神医学による観察の方が、マゾヒズムについてのもっと正しい臨床的な見方を与えている。だから、おそらくカフカはマゾヒズムの実際の見取図、そしてザッヘル・マゾッホそのひとと何か共通のものを持っている。この見取図とマゾッホそのひととのテーマは、現代的な解釈のなかでは消されているにせよ、多くのマゾヒストにおいて見出される。偶然にまかせて引用してみよう。悪魔との協約、婚約と対立してそれを厄払いするマゾヒストの《契約》、吸血鬼的な手紙への好みとその必要(或るばあいにはマゾッホが管理する手紙、或るばあいにはちょっとした新聞広告、マゾッホ=ドラキュラ)、動物への変化(たとえば、マゾッホにおける熊への変化または毛皮。これは父または母とはいかなる関係もない)、女中と娼婦への好み、牢獄の苦しい現実(このことは単にマゾッホの父が刑務所長だったことだけからではなく、子どものころのマゾッホが囚人たちを見たり、彼らをしばしば訪れていたことからも説明される。最大限の遠隔性、または、過度の隣接性を得るために、マゾッホ自身が囚人になる)、歴史的投資(マゾッホは、抑圧の長い歴史を自分の存在の仕方に関して再び取り上げるか集中させることによって、世界史の円環または分節を書こうとした)、決定的な政治的意図。つまり、ボヘミヤの出身であるマゾッホは、チェコのユダヤ人であるカフカと同様に、オーストリア帝国の少数派と結びついている。ポーランド、ハンガリーにおけるユダヤ人の状況に対する、マゾッホの極度の関心、女中たちと娼婦たちは、家族と結婚生活での内部の必要に応じて、これらの少数派、これらの階級闘争に依存している。マゾッホもまた、彼の生活そのものであるマイナーの文学、少数派の政治的文学を作る。》
カフカと同じチェコ人であるミラン・クンデラは批評的エッセイ集『裏切られた遺言』(一九九三年)で、フランツ・カフカの遺言の執行者マックス・ブロートによるカフカ像(カフカ学)を批判している。
《ブロートはカフカの日記を公刊したが、すこしばかり検閲した。彼は売春婦への言及ばかりでなく、性に関するところをすべて削除したのである。カフカ学はつねにこの男性としての能力に疑義を発し、不能の殉教者について嬉々として駄弁を弄してきた。その結果カフカは、ずっと前から神経症、神経衰弱、食欲不振、発育不全の者たちの守護聖人、ひねくれ者、滑稽な気取り屋、ヒステリーたちの守護聖人になっている(オーソン・ウェルズにおいて、Kはヒステリックに叫ぶが、カフカの小説は全文学史上もっともヒステリックではないものなのだ(筆者註:オーソン・ウェルズ監督『審判』、出演者:アンソニー・パーキンス、ジャンヌ・モロー、ロミー・シュナイダー、オーソン・ウェルズ))。
しかし、《売春婦への言及ばかりでなく、性に関するところをすべて削除した》というのは誤認、もしくは自説を強化するための誇張なのは、ブロート編によるカフカ『日記』の、カフカとブロートとの旅日記「ルガーノ――パリ――エルレンバッハへの旅」のパリでの記述を読めば一目瞭然である。
《合理的に整備された女郎屋。家中の大窓に清潔な鎧戸が下ろしてある。門番室には男のかわりに、見苦しくない服装の、どこの家庭にもいそうな女がいる。すでにプラークで、ぼくはいつも女郎屋のアマゾン族的な特徴のことは簡単に書いていた。それがここではもっと著しい。女門番は電鈴(ベル)を鳴らし、遊び終った客がちょうど階段を下りてくることが知らされたと言って、ぼくたちを彼女の部屋に引き留める。上で二人(どうして二人なのだろう?)見苦しくない女がぼくたちを迎える。隣室で電燈のスイッチをひねる。なかには暗がりもしくは薄明りのなかに、まだ客のつかない娘たちが座っている。彼女らは四分の三の円(ぼくたちが加わってそれを完全な縁にする)をなしてぼくたちを囲んで真直ぐ立ち、美点を生かすためのポーズをとる。選ばれた娘が大股に進み出る。マダムの握手。それで彼女はぼくを促しているのだが、ぼくの方は出口の方へ引っ張られているような気がしている。》
このさきは、W・G・ゼーバルト『カンポ・サント』のなかの小編「スイス経由、女郎屋へ――カフカの旅日記によせて」に日記が引用されているので、そこから紹介するとしよう。ゼーバルトは少なくとも3つのカフカに関するエッセイ的な小説を書いた。『カンポ・サント』には他に「映画館のカフカ」もあり、『目眩まし』には「ドクター・Kのリーヴァ湯治旅」がある。
「スイス経由、女郎屋へ――カフカの旅日記によせて」から、パリの女郎屋までの経緯を要約すると、
《先だって知り合いのオランダ人女性が、前年の冬プラハからニュルンベルクまで電車の旅をしたと話してくれた。その旅のあいだ、カフカの日記を読みながら、ときおり眼をあげて窓のむこうを飛びすぎる雪にながながと見入っていたという。古風な食堂車は、襞の入ったカーテンと赤っぽい光を放つテーブルランプが、ボヘミアの小さな売春宿を思わせた。(中略)この話がきっかけで、私は久しぶりにカフカの日記をひもとくことになった。一九一一年の八月から九月にかけて、マックス・ブロートとともにプラハを発ち、スイスと上部イタリアを経由してパリに旅したときに、カフカがつけていたものである。それはまるで私自身が登場人物のひとりではないかと思えるほどに、すみずみに現実感があった。<マックス>(ゼーバルトの通称でもある)がたびたび登場したせいもあるのかもしれない。(中略)十五年前に私がいくつかの面妖な冒険をしたミラノで、マックスとフランツ(このふたり組はフランツの創作ではないかとすら思えてくる)は、イタリアでコレラが発生したことを知って、パリに行くことに決める。ミラノのドーム広場の小さなカフェで、ふたりは仮死と心臓刺胳について喋る。仮死も心臓刺胳も、形骸化し数十年前からもはや死に体になっていたハプスブルク帝国にあって、人々の心に取り憑いていた特殊な観念であったのにちがいない。カフカは、マーラーも心臓刺胳を望んだ、と書いている。マーラーはそのわずか数か月前、一九一一年五月十八日にレーヴ・サナトリウムで没していた。ベートーヴェンの臨終のときと同様、街を雷雲が覆って土砂降りの雨が降ったときだった。》
ここから、パリである。
《パリの数日、ふたりはやや沈鬱な気分でいろいろな観光をしてから、恋の幸福を求めて、「合理的な調度」で「電鈴」を備えた売春宿に行く。そこではすべてがさっさと進行し、気がつけば、あっという間にもとの往来に立っている。カフカは書いている――「あそこで女たちをじっくり眺めるのは難しい。(…)記憶に残っているのは、ちょうど真ん前にいた女だけだ。歯がところどころ欠けていて、背伸びをして、恥部のあたりにこぶしを丸めて服をとりつくろい、大きな眼と大きな口を同時にすばやく開けたり閉じたりした。ブロンドの髪はくしゃくしゃだった。痩せていた。帽子を取ってはいけないことを忘れるのではないかと心配。手を帽子のつばからもぎ取らなければならない」。女郎屋にもそれなりの作法(コム・イル・フォー)があるのだ。「孤独な、長い、無意味な帰路」という言葉で締めくくられている。マックスは九月十四日にプラハに戻る。カフカはその後一週間にわたりチューリッヒのエルレンバッハ自然療法療養所に滞在する。》
マックス・ブロートへの誤審はさておき、クンデラは「カフカは性の実存的な様相を開示した」「性の悲しみの喜劇性を描いた最初の人間」と指摘している。
《私はカフカの性生活についてはこのようなことしか言えない。彼の時代の(あまり容易ではなかった)エロティックな生活は私たちのものとはあまり似ていなかった。当時の娘たちは結婚前にはセックスをしなかったので、独身者にとっては二つの可能性しか残されていなかった。良家の既婚婦人か下層階級の女たち、つまり売り子、女中、そしてもちろん売春婦たちであったと。(中略)
十九世紀の小説は、恋のあらゆる戦略を見事に分析できたが、性と性行為そのものは隠蔽したままにしておいた。今世紀の最初の数十年間に、性はロマンティックな情熱という霧の外に出てくる。カフカは(たしかにジョイスとともに)小説のなかで性を発見した最初の作家のひとりなのである。彼は性を、(十八世紀流に)放蕩者たちの小サークルのための遊戯の領域としてではなく、各人の平凡かつ根本的な現実として開示した。カフカは性の実存的(・・・)な様相を開示したのである。すなわち、愛に対立する性、性の条件、制約としての他者の異質性、ひとを興奮させると同時に反発させる側面といった性の両義性、その恐るべき力がいささかも衰えないのに、なんとも途方もない性の無意味さ等々。》
《若いカール・ロスマン(『アメリカ』(筆者註:近年は『失踪者』と翻訳され、短篇「火夫」はその第一章に相当)の中心人物)は、女中との不幸な性的出来事のせいで父の家から追い出され、アメリカに送られる。その女中が「彼を父親にしたのだ」。性交の前に、「カール、おお私のカール」と女中が叫ぶが、「彼のほうは自分のために彼女がわざわざ積みあげてくれたらしいその温かい寝具のなかで居心地わるく感じていた……」。やがて彼女が「彼を揺すり、彼の心臓の鼓動を聴き、同じように自分のを聴くようにと胸を差し出した」。それから彼女は「じつに厭らしいやり方で彼の脚のあいだをまさぐったので、カールはもがきながら、寝具のそとに頭と首を出した」。そして「彼女は何度も自分の腹を彼に押しつけた。カールは彼女が自分の一部であるような気がした。そしてたぶんそのせいで、ぞっとするような悲哀に浸されたのだった」。
このようなぱっとしない性交が、この小説であとにつづくいっさいの事柄の原因なのである。私たちの運命がまったくつまらないものを原因としていると自覚するのは、気の滅入ることである。しかし予期せぬつまらなさのどんな啓示も、それと同時に喜劇の源泉になる。セイコウノアトデハ、スベテノドウブツハカナシクナル。カフカはその悲しみの喜劇性を描いた最初の人間なのだ。》
《『アメリカ』のエロスの至宝はブルネルダである。彼女はフェデリコ・フェリーニを魅了した。フェリーニは久しく『アメリカ』を映画化することを夢み、『インテルヴィスタ』のなかで、その映画の夢のキャスティングの光景を私たちに見せてくれる。(中略)
この太った醜女の素描において新しいのは、この醜女には索引力があることだ。病的な索引力、滑稽な索引力、しかしともかく索引力があるのだ。ブルネルダは嫌悪と興奮との境界にいる性の怪物なのであり、男たちの感嘆の叫びは喜劇的であるばかりでなく(もちろん、それは喜劇的である(・・・)、性は喜劇的であるのだ(・・・・・)!)それと同時にまったく真実なのである。》
《カフカが書いたもっとも美しいエロティックな場面は、『城』の第三章にある。Kとフリーダとの性交の場面である。初めてその「つまらない小柄のブロンド女」に会ったあと、一時間もしないうちに、Kはカウンターのうしろの「ビールの水たまりや、その他の汚い物が床を覆っているなかで」彼女を抱きしめる。汚さ、それは性、性の本質と不可分なものなのだ。
しかし、その直後の同じパラグラフのなかで、カフカは私たちに性のポエジーを聞かせる。「そこで時間が去って行った、一つになった息、一つになった心臓の鼓動の時間、そのあいだKがたえず、自分はさまよっているのだ、あるいは自分より前のどんな人間よりも遠く異郷の世界に、空気さえも故郷の空気のどんな成分ももたず、あまりの異郷感に息が詰まってしまうにちがいないのに、無分別な誘惑の只中で、ただ行きつづけるほか、さまよいつづけるほか、なにもできない世界のなかにいるのだという感情をもっていた時間が」。
性交の長さが異郷の空の下で歩行という隠喩に変わる。しかしながら、この歩行は醜さではない。それどころか、私たちを惹きつけ、私たちをもっと先に行くよう誘い、私たちを陶然とさせる。それは美なのだ。》
《第三章全体が思いがけないことの渦だと言ってよい。比較的せまい時空間のなかで、このようなことが次々と起こる。宿屋でのKとフリーダとの最初の出会い、第三者(オルガ)がいるために偽装された異様に現実的な誘惑の対話、事務机のうしろで眠っているクラムをKが見るドアの覗き穴のモチーフ(平凡だが、経験的な本当らしさからは逸脱するモチーフ)、オルガと踊る使用人たちの一隊、笞で彼らを追い払うフリーダのびっくりするような残酷さと、彼らが従う際に示すびっくりするような恐怖。宿の亭主が到着するいっぽうで、Kのほうはカウンターのしたに長々と横たわって隠れる。フリーダが到着して床に横たわっているKをみつけるが、宿の亭主にはKはいないと言う(そう言いつつも、彼女はKの胸を愛撫する)。ドアのうしろで目覚めたクラムの呼び声によって中断される性交、クラムにたいして、「私は測量師と一緒なの!」と叫ぶフリーダの驚くほど勇気ある振る舞い、それからこんな絶頂(ここでは、経験的な本当らしさから完全に逸脱してしまう)、つまりふたりの助手が彼らの上方のカウンターに座って、そのあいだずっと彼らを見守っていたということだ。》
(了)
*****引用または参考文献*****
*多和田葉子編『ポケットマスターピース01 カフカ』(「変身(かわりみ)」多和田葉子訳、「訴訟」「火夫」川島隆訳、他所収)(集英社文庫)
*『世界文学大系58 カフカ』(「城」「判決」原田義人訳、他所収)(筑摩書房)
*マックス・ブロート編『カフカ全集03 決定版 田舎の婚礼準備・父への手紙』(「罪、苦悩、希望、真実の道についての考察」「八つ折り判ノート・八冊(短篇小説、断章、スケッチ等)」「断片-ノートおよびルース・リーフから」他所収)飛鷹節訳(新潮社)
*マックス・ブロート編『カフカの日記 新版 1910-1923』(「ルガーノ―—パリ――エルレンバッハへの旅(一九一一年八月~九月)」他所収)谷口茂訳(みすず書房)
*『ベンヤミン・コレクション2 エッセイの思想』(「フランツ・カフカ」西村龍一訳)(ちくま学芸文庫)
*ジュリア・クリステヴァ『恐怖の権力 <アブジェクション>試論』枝川昌雄訳(法政大学出版局)
*J・コーン編『アーレント政治思想集成1 組織的な罪と普遍的な責任』(「フランツ・カフカ 再評価――没後二〇周年に」山田正行訳所収)(みすず書房)
*ハンナ・アーレント『暗い時代の人々』(「ヴァルター・ベンヤミン――一八九二~一九四〇」)阿部齊訳(ちくま学芸文庫)
*W・G・ゼーバルト『カンポ・サント』(「スイス経由、女郎屋へ――カフカの旅日記によせて」「映画館のカフカ」所収)鈴木仁子訳(白水社)
*W・G・ゼーバルト『目眩まし』(「ドクター・Kのリーヴァ湯治旅」所収)鈴木仁子訳(白水社)
*モーリス・ブランショ『カフカからカフカへ』山邑久仁子訳(書肆心水)
*エリアス・カネッティ『もう一つの審判 カフカの『フェリーツェへの手紙』』小松太郎/竹内豊治訳(法政大学出版局)
*ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『カフカ マイナー文学のために』宇波彰、岩田行一訳(法政大学出版局)