演劇批評 渡辺保『歌舞伎 過剰なる記号の森』「物語 歴史の再生」に関するノート ――「実盛物語」の「未来による遡及的再構成」

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渡辺保『歌舞伎 過剰なる記号の森』「物語 歴史の再生」に関するノート

  ――「実盛物語」の「未来による遡及的再構成」

                             

渡辺保『歌舞伎 過剰なる記号の森』「物語 歴史の再生」から

《「源平布引滝(げんぺいぬのびきのたき)」の俗に「実盛(さねもり)物語」という芝居に奇妙な場面がある。小万(こまん)の息子太郎吉(たろきち)が、帰りかける実盛に「実盛やらぬ」というと、実盛がまた少年の太郎吉に向かって、

 

 四十近き某が、幼き汝に討たれなば、情と知れて手柄になるまい。若君と諸共に、信濃国諏訪へ立越え、成人して義兵を挙げよ、其時実盛討手を乞ひ受け、故郷へ帰る錦の袖、翻して討死せん。

 

 というのである。この若君とはこの場で生まれたばかりの赤ン坊にすぎない。この赤ン坊が太郎吉とともに実盛の指示通り、諏訪だか木曾だかで義兵をあげて木曾義仲となるのは、実に何十年か先の話である。なぜ何十年も先のことを実盛は予言できたのか。

 さらに太郎吉がいまここで勝負をしろというのに対して、実盛は戦場でお前に討たれてやるという。そうするとそばで聞いていた九郎助が、何十年もすぎてはあなたは白髪、皺だらけの老人になって太郎吉に見分けがつかないだろうという。そうすると実盛はこういう。

 

 其時こそ、鬢鬚(びんひげ)を墨に染め、若やいで勝負を遂げん、坂東声の首取らば、池の溜りで洗ふて見よ。戦(いくさ)の場所は北国篠原、加賀の国にて見参/\。

 互いに馬上でむんずと組み、両馬が間に落つるとも、老武者(おいむしゃ)の悲しさは、戦に仕労(しつか)れ、風にちぢめる古木の力も折れん。その時手塚、合点がてん、遂に首をも掻き落され、篠原の土となるとも、名は北国の巷(ちまた)に揚げん。

 

 占師でもない実盛が、なぜ何十年後の戦士の場所や状況まで、いま見てきたように語ることができるのか。自分一人が何十年後かにある場所へ行ってお前に討たれてやるというのならばまだしも、事態は戦争であり、実盛一人の力ではどうにもならぬ源平の合戦である。それを場所まで指定することがどうしてできるのだろうか。

 いうまでもなく北国加賀の篠原で齊藤別当実盛が手塚太郎光盛に討たれ、その白髪を墨で染めていたことが池の水で洗われてあきらかになったことは、何十年後かの歴史的な事実である。しかしその事実をなぜいま予言できたのか。

 これが実は歌舞伎の物語というものの力の秘密なのである。これを狂言綺語(きご)といい浄瑠璃作者の出鱈目荒唐無稽な遊びということは簡単であるが、決してそうではない。彼等はただ物語というものの力を信じていたにすぎぬ。物語の力とは、時空をこえて一つの事象をとりだして再現するものであり、再現によって歴史的な事実の裏側にひそむものの謎を解くものである。なぜ実盛は白髪を墨で染めて戦場へおもむいたのか。むろん歴史は、それが老人が老いをかくすためであったことを教えている。しかし浄瑠璃の作者はそんなことでは満足しない。その背後に何十年前かの琵琶湖のほとりの九郎助の住家でおこった秘密があるとする。そうなるといまここで上演されているドラマが篠原で白髪を染めて討死した事実の謎解きになる。歴史はただ再現できるものではなく、この謎解きの、真相の力によってはじめて再現可能になる。この時間空間を逆さまにした転倒こそが物語の力と私が呼ぶものである。

「実盛物語」を書いた作者の意識のレベルは、この転倒に示されている。》

 

《もっともこの一段が「実盛物語」と呼ばれる――つまり物語という通称が狂言名になった稀な例であるのは(このほかには「六弥太(ろくやた)物語」「藤弥太(とうやた)物語」位なものであろう)この件りにあるのではなく、実はその前の実盛が葵(あおい)御前に向かって前日の琵琶湖の湖上でおこった事件を物語るところから来ている。事件というのはほかでもない。平宗盛(むねもり)の竹生島参詣の御座船(ござぶね)が湖上を航行中に、湖を泳いでくる女とその女を追う船に出逢ったというのである。実盛は宗盛に随行して御座船に乗っていた。女はいずくのだれとも知れなかった(実は九郎助の養女で、瀬尾太郎の娘であり太郎吉の母小万であるが、その時はわからなかった)が、白旗をもっていた。源氏の旗である。かねて密(ひそ)かに源氏に心を寄せていた実盛は、この旗が平家の手に入っては一大事と考え、白旗をもつ女の片腕を水中へ切り落とした。腕も(むろん白旗も)、女は水中に没して後方が知れなくなったが、親子の縁によって、白旗を握った片腕は太郎吉の網にかかり、虫の息の女はこの家のそばの磯に打ち寄せられたというのである。

 実盛が語る「物語」の中味は大体右の通りだが、実盛が語るまでもなくこの事件の一部始終はすでに観客はこの前の場の御座船の場で見て知っているのである。

 歌舞伎の物語の双璧は、この「実盛物語」と「一谷嫩軍記」(あの「六弥太物語」をふくむ「一谷嫩軍記」である)の「熊谷陣屋」の熊谷次郎直実が一谷の合戦で無官大夫敦盛を討った経緯を語る「物語」であるが、この熊谷の物語もまた前段の「組打」で観客はすべて目のあたりにしているのである。

 むろん舞台の上の葵御前や九郎助夫婦、太郎吉は前段でなにがおこったか知らない。熊谷が物語を聞かせる相手の藤の方(敦盛の生母)や相模(敦盛の身替りになった小次郎直家の母)は一谷合戦の一部始終を知らない。知らないからこそ実盛や熊谷は語って聞かせるのだが、観客はすべて見て知っている。それをもう一度わざわざやってみせるのは一体なぜなのか。そこにドラマの大きな「物語」のなかに仕込まれたメタ物語ともいうべきものがつくられ物語のもつ力が示されているからであり、一方物語を語る芸といったものが成立しているからである。

 語りの芸を「話芸」と呼んだのは関山和夫氏であるが、この芸の伝統は歌舞伎よりもはるかに古く、もちろん人形浄瑠璃の語りもその芸の一つの流れのうちにある。実盛や熊谷の物語はその芸の流れの原型をのこしたものだ。だからこそ、実盛は白扇、熊谷は軍扇を使う。扇こそ物語に欠くことのできぬものであり、彼等が「物語らんと座を構え」るのは、そういう芸の伝統を意識しているからにほかならない(ついでにいえば人形浄瑠璃にかぎらず能狂言、唄、浄瑠璃の大夫たちはすべて扇をもつものである)。

 物語りがそういうものであるとして、しかし歌舞伎の物語はもう一つ別な意味をもった。それは実盛や熊谷の場合をみればよくわかる。実盛や熊谷は、扇をもって、床の義太夫の語りにさまざまな動きをみせるのである。つまり、せりふの語りだけではなく、そこに動の要素、もっといえば義太夫のリズムにのった音楽の要素というものが入ってきている。この要素が大事だと私には思われる。この要素はなにを意味しているのか。すなわち物語の、その語りからの解放であり、身体化というべきものである。歌舞伎の物語の本義はここにある。

 熊谷の型には、比較的写実な九代目団十郎団十郎型と、人形の動きをとり入れた様式的な四代目芝翫芝翫型と二つの型がある。団十郎型は始終見るのだが、芝翫型は松緑が一度やったのを見たきりである。この芝翫型が私には大変面白かった。心理だの状況を無視したというか超越した、派手で、様式的な動きがあって、パッと飛び上ったりするのである。それをみていて思ったのは、歌舞伎の物語のもつ面白さというものは、決してなにかを再現しようとするものではなくて、むしろその再現をいかに絵として身体化し、再構成してしまうかということであった。

 同じことは実盛にもいえる。実盛にも二つの型があり、一つは団蔵の家に伝わる型であり、もう一つは三代目三津五郎から五代目彦三郎へ伝わり、さらに五代目菊五郎が完成した菊五郎型である。団蔵型は動きも地味で、肚を主体としている。菊五郎型は動きが派手でしかも洗練されている。両方見たことがあるが、菊五郎型の方が状況や心理をこえて、観客を陶酔させる魅力をもっている。

 熊谷の芝翫型、実盛の菊五郎型というものには、あきらかにドラマを逸脱して、ということは事件の状況の再現をこえてしまったところに面白さがあり、そのこえてしまったところが、実は身体にある種の音楽的な憑依(ひょうい)のおこる瞬間なのである。そこが歌舞伎の物語の芸の面白いところである。》

 

《そこで私はあの実盛の何十年後かを予言した物語の力のことに戻りたい。なぜならば、何十年後の戦争の予言が予言でもなんでもなくて、すべて目の前のドラマは何十年後かの北国篠原の合戦の謎解きであったように、この実盛や熊谷の物語も実は前の幕で行なわれた事件の再現なぞでは決してなくて、実はいまここで物語られるもののために前段の事件があったという気がするからである。物語の力とは、やはりこの時空をこえた転倒のうちにある。たしかに前場ではそれがドラマであり、現実であったかも知れないが、熊谷や実盛が物語るのをみていると、この物語こそ真実であり、要するにあの現実は虚構ではないかという気さえするのだ。北国篠原の合戦や一谷の合戦や竹生島参詣というような歴史的な出来事には実は一片の真実もふくまれていない。すべては影にすぎない。影でないものはいまここで行なわれている物語のなかにある。もっといえばパッと飛び上がり、派手な動きをしたりする役者の身体のしぐさのなかにある。これは物語というものの、通常私たちが考えている概念の解体であり、歌舞伎の上での演劇的な再生なのである。(後略)》

  

<未来による遡及的再構成>

ボルヘス『続審問』「カフカとその先駆者たち」

《かつてわたしは、カフカの先駆者たちを調べてみようと思い立ったことがある。彼のことを初めのうちは、美辞を連ねて称賛されるあの不死鳥のように、類例を見ない独自の存在だと思っていたが、彼と少しばかりつきあっているうちに、様ざまな文学、様ざまな時代のテクストのなかに、彼の声、彼の癖を認めるような気がしたからである。》

 最初は、運動を否定するゼノアの逆説(パラドクス)である。飛んでいる矢は永遠に的に到達できない。アキレスは決して亀を追い越せない。この有名な命題の形式がまさしく『城』のそれと同じである。《運動する物体と矢とアキレスが文学における最初のカフカ的登場人物である。》

 第二のテクストは、類縁性とは形式と言うより語りの口調である。九世紀の唐の漢文作家韓愈が書いた寓意譚。我々は麒麟が超自然的存在であり、吉兆の動物であることは広く認められている。下々の女子供でも知っている。《しかし、この動物は家畜のなかに見当たらないし、たやすく見つかるものではないし、また分類に適さない。すなわちそれは馬や牛に似ていないし、狼や鹿にも似ていない。それゆえ麒麟を目のあたりに見ていながら、それが麒麟であることに確信がもてないようなことも起こりうるだろう。我々は鬣(たてがみ)のある動物なら馬であり、角の生えている動物なら牛であることを知っている。しかし、我々はどんな動物が麒麟であるかを知らない。」

 第三のテクストは、キュルケゴールのテクスト。《両作家の知的親近性は誰でも知っていることであるが、カフカと同じように、キュルケゴールにも、同時代の中産階級的主題に基づく宗教的寓話がたくさんあることは、わたしの知るかぎりまだ明らかにされたことはない。》一つは四六時中監視されながら、イングランド銀行紙幣を検査している贋金つくりの話である。もう一つは、デンマークの牧師たちが、北極へ探検旅行することは魂の救済にとって有益だろうと告げていたが、たぶん不可能であること、を認める。彼等は最後に、どのような旅行も、日曜ピクニックも、本物の北極探検になると宣言する。

第四の予示は、ブラウニングの物語詩「恐怖と疑念」である。《ある男が有名人の友達を持っている、あるいは持っていると思っている。彼はこの友人に一度も会ったことがないし、今までに助けてもらったこともない。しかし、友人は高潔な人格の持ち主だという評判だし、彼の書いた本物の手紙も出回っている。彼の立派な人柄に疑問を呈するものがあり、筆跡鑑定家たちは手紙を贋物だと言う。最後の行で男が問う――「もしもこの友が神だとしたら?」》

 二つの短編物語も含まれている。一つはレオン・ブロワの『不快な物語』にあるもので、《地球儀・地図帳・列車時刻表・トランクなどたくさん用意していながら、生まれた町をついに離れることなく生涯を終える人々を描いている。》もう一つは「カルカソンヌ」と題されたダンセイニ卿の物語である。《無数の戦士たちからなる軍団が巨大な城砦を出発し、数々の王国をたいらげ、多くの怪物を見、幾つもの砂漠と山岳を征服するが、ついにカルカソンヌに達することができない。一度この町を遠望したことがあったにもかかわらず。》(《第一の物語では、人々は町から離れないが、第二の物語では町に到達しない。》)

 ボルヘスは、わたしの間違いでなければ、列挙した異質のテクストは、どれもカフカの作品に似ているが、テクストどうしは必ずしも似ていない。この最後の事実は極めて重要である。《カフカの特徴はこれらすべての著作に歴然と現われているが、カフカが作品を書いていなかったら、われわれはその事実に気づかないだろう。すなわち、この事実は存在しないことになる。ロバート・ブラウニングの「恐怖と疑念」はカフカの物語の予告編になっているが、われわれがカフカを読んだことがあれば、この詩のわれわれの読みは著しく洗練され変更される。ブラウニングは自らの詩を、いまわれわれが読むようには読まなかった。「先駆者」ということばは批評の語彙に不可欠であるが、そのことばに含まれている影響関係の論争とか優劣の拮抗といった不純な意味は除去されねばならない。ありようを言えば、おのおのの作家は自らの先駆者を創り出す(・・・・)のである。彼の作品は、未来を修正すると同じく、我々の過去の観念をも修正するのだ。》

 

ジジェク『オペラは二度死ぬ』

《かつてボルヘスは、カフカについてふれながら、作家のなかには彼自身の先行者を生み出す力をもった者がいるといった。これは、新たなクッションの綴じ目 point-de-capiton の介入によって過去が遡及的に再構造化されるという論理である。真に創造的な行為は、未来の可能性という場を構造化しなおすだけではない。それは、先行する偶発的な痕跡を現在に向かう痕跡としてあらたに意味づけながら、過去をも構造化しなおすのである。》

(註:ポワン・ド・キャピトン point de capiton は、一般的に「クッションの綴じ目」と訳される。袋状にしたカバーのなかに羽毛や綿を詰めたクッションは、そのままでは、現実のように、不安定で非一貫的である(中身がすぐに偏ってしまう)。「クッションの綴じ目」は、この詰め物の偏りを防ぐためのものであり、クッションの中央にカバーの表から裏まで糸を通し、糸が抜けてしまわないようにボタンをつけたりする。このボタンは、かつまた主人のシニフィアン S1 とも呼ばれる。」

 

柄谷行人トランスクリティーク

《カントの第三アンチノミーにおける正命題は、スピノザの考え――すべてが原因によって決定されており、ひとが自由だと思うのは、原因があまりに複雑であるからだ――に帰着する。そうした自然必然性を超える自由意志や人格神は想像物であり、それこそ自然的、社会的に規定されている。ただしその原因はけっして単純ではない。そこではしばしば原因は結果によって遡及的に構成されている。》

 

中井久夫『徴候・記憶・外傷』「統合失調症の精神療法」

《過去を変えることは不可能であるという思い込みがある。しかし、過去が現在に持つ意味は絶えず変化する。現在に作用を及ぼしていない過去はないも同然であるとするならば、過去は現在の変化に応じて変化する。過去には暗い事件しかなかったと言っていた患者が、回復過程において楽しいといえる事件を思い出すことはその一例である。すべては、文脈(前後関係)が変化すれば変化する。》

 

・T・S・エリオット「伝統と個人的な才能」

《一つの新しい芸術作品が創造された時に起ることは、それ以前にあった芸術作品のすべてにも、同時に起る。すでに存在している幾多の芸術作品はそれだけで、一つの抽象的な秩序をなしているのであり、それが新しい(本当の意味で新しい)芸術作品がその中に置かれることによって変更される。この秩序は、新しい芸術作品が現われる前にすでに出来上っているので、それで新しいものが入って来た後も秩序が破れずにいる為には、それまでの秩序全体がほんの少しばかりでも改められ、全体に対する一つ一つの芸術作品の関係や、比率や、価値などが修正されなければならないのであり、それが、古いものと新しいものとの相互間の順応ということなのである。そしてこの秩序の観念、このヨーロッパ文学、及び英国の文学というものの形態を認めるならば、現在が過去に倣うのと同様に過去が現在によって変更されるのを別に不思議に思うことはない。しかしこれを理解した詩人は多くの困難と、大きな責任を感じなければならないことになる。》

 

ベンヤミン『歴史哲学テーゼ』

《歴史をテクストと見なしさえすれば、現代の一部の作家たちが文学的テクストについて述べていることを、歴史についても言うことができる。過去は歴史のテクストの中に、写真版上に保たれているイメージに譬えられるようなイメージを置いてきた。写真の細部がはっきりあらわれてくるような強い現像液を処理できるのは未来だけである。マリヴォー、あるいはルソーの作品にはところどころに、同時代の読者には完全に解読できなかった意味がある。》

 

スラヴォイ・ジジェクイデオロギーの崇高な対象』

ラカンはその著作の中で、時間のパラドックスに関連して、一度だけSFに言及している。すなわち最初のセミネールで、症候が「抑圧されたものの回帰」であることを説明するために、時間の逆行というノーバート・ウィーナーの隠喩を用いている――

 

  ウィーナーは、それぞれの時間的次元がたがいに逆向きに進行しているような、二人の人物を仮定する。たしかにこのことにはなんの意味もないが、こんなふうにして、なんの意味もなかったものが突如として何かを意味するようになるのだ――ただし、まったく異なる領域において。どちらか一方が他方に向けてあるメッセージ――たとえば四角形――を送ったとすると、逆方向に向かっている人物には、四角形が見える前にまず四角形が消えるところが見えるだろう。われわれもまたそれと同じものを見ているのだ。症候ははじめわれわれの前に一つの痕跡としてあらわれる。その痕跡はあくまで痕跡のままでありつづけ、分析がかなり先まですすみ、われわれがその意味を実現してしまったときにはじめて理解されるのである。(Lacan『フロイトの技法論』)

 

 したがって分析とは象徴化である。すなわち、意味のない想像界の痕跡を象徴界に統合することである。このような捉え方は、無意識が本質的に想像的(・・・)なものであることを示唆している。無意識は、主体の歴史の「象徴的発展に同化されえなかった想像的固着」からなるのである。したがって無意識とは、「象徴界の中で実現されるであろう何か、より正確には分析における象徴的発達がなされたときには実現されてしまっている(・・・・・・・・・・・)であろう何か」である(同上)。したがって、「抑圧されたものはどこから回帰するのか」という問いにたいするラカン的な答えは、逆説的ながら、「未来からである」ということになる。症候は意味のない痕跡であり、その意味は、過去の隠された深みから発掘、発見されるのではなく、遡及的に構成されるのだ。つまり、分析が真実を生み出すのである。真実とはすなわち、症候にその象徴的位置と意味をあたえるシニフィアンの枠組である。われわれが象徴秩序の中に入るやいなや、過去はつねに歴史的伝統という形であらわれ、それらの痕跡の意味はあたえられない。その意味は、シニフィアンのネットワークの変容にともなってつねに変化しつづける。歴史的断絶が起き、新しい支配的シニフィアンが出現するたびに、そのことが遡及的にあらゆる伝統の意味を変化させ、過去の物語を構造化し直して、その物語がまったく新しいふうに読めるようにするのである。

 だから、「なんの意味もなかったものが突如として何かを意味するようになるのだ――ただし、まったく異なる領域において」。われわれは「追越す」ことによって、他者の中に、ある知識――われわれの症候の意味に関する知識――が存在していることをあらかじめ仮定するが、「未来への旅」とはまさにこの追越しのことに他ならないのではあるまいか、したがって、転移(・・)そのもののことに他ならないのではあるまいか。その[われわれが他者の中に仮定する]知識は幻想である。なぜなら、それは実際には他者の中に存在しているわけでもないし、他者が実際にそれを所有しているわけでもない。その知識は、われわれの――主体の――シニフィアンの働きによって後から構成されたものである。だがそれは同時に、必要不可欠な幻想である。なぜなら、逆説的だが、われわれは、他者はすでにその知識を所有しており、われわれはそれを発見するだけという幻想によってのみ、その知識をつくりあげることができるのだから。

 もし――ラカンがいうように――症候において、抑圧された内容が過去ではなく未来から回帰してくるのだとしたら、転移――無意識の現実(リアリテイ)の実現――はわれわれを過去にではなく未来に移動させなければならない。だとしたら「過去への旅」とは、このシニフィアンそれ自体の徹底的で精巧な遡及的作業のことに他ならないのではあるまいか。この作業とはすなわち、われわれはシニフィアンの領域において、またその領域においてのみ、過去を変化させ完遂させることができるのだ、という事実をいわば幻覚的に演じてみせることである。

 過去は、シニフィアン共時的な網の中に取り込まれ、その中に入っていったときに、はじめて存在する。つまり、歴史的過去の織物=構造の中で象徴化されたときに存在する。だからこそ、われわれはつねに「過去を書き換えて」いるのである。つまり、一つ一つの要素を新しい織物=構造の中に取り込むことによって、それらの要素一つ一つに、それぞれの象徴的重みを遡及的にあたえているのである。この作業が、それらが「どのようなものであったことになる」のかを決定するのだ。オックスフォードの哲学者マイケル・ダメットの論文集『真理という謎』の中に、たいへん興味深い論文が二篇ある。「結果はその原因に先立ち得るか」と「過去を変える」である。この二つの謎にたいするラカン的な答えは「イエス」だ。なぜなら、「抑圧されたものの回帰」である症候はまさにそうした原因(症候の隠された核、その意味)に先行する結果であり、症候に取り組むことによって、われわれはまさに「過去を変えて」いるのだ。われわれは過去の象徴的現実(リアリテイ)、すなわち長い間忘れ去られていた外傷的な出来事を生み出しているのだから。

 だとすると、SF小説の描く「時間のパラドックス」は、象徴的プロセスの基本構造、いわゆる内的な、内側に反転された8の字が幻覚的に「現実界(リアル)の中に出現」したものではないか、と考えたくなる。その基本構造とは、一つの循環運動であり、いわば一つの罠である。なぜ罠かというと、われわれは転移の中でわれわれ自身を「追越し」、われわれがすでにいた地点にいるのを後になって発見するという方法によってしか前進することができないのだ。パラドックスは次のような事実の中にある。――この余計な回り道、つまり、われわれ自身を追越して(「未来への旅」)、それから時間の方向を逆転させる(「過去への旅」)という余分な罠は、たんにいわゆる現実(リアリテイ)の中でこれらの幻想とは関わりなく起きる客観的プロセスにたいする主観的幻想/知覚ではない。むしろこの余分な罠は、いわゆる「客観的」プロセスそのものの内的条件・内的構成要素である。この余計な回り道をすることによってのみ、過去そのもの、すなわち事物の「客観的」な状態は、遡及的に、それがつねにそうだったものになるのである。

 したがって、転移は幻想だが、肝心なのは、われわれはこの幻想を迂回して直接に達することはできない、ということである。真理そのものからして、転移に固有の幻想を通じて(・・・)構成されている。「真理は誤解から生まれる」(ラカン)のである。この逆説的な構造がまだよくわからないようなら、SF小説をもう一つ例にとろう。ウィリアム・テンの有名な短編「モーニエル・マザウェイの発見」である。二十五世紀の優秀な美術史家が、歴史的に有名な画家モーニエル・マザウェイを訪問し、じかに(・・・)研究しようと、タイムマシンにのって現代にやってくる。マザウェイは、今はまったく評価されていないが、後に再発見されて二十世紀最大の画家と称されることになる。二十五世紀の美術史家はマザウェイ本人に会うが、彼は天才などではなく、ただのペテン師で、誇大妄想狂で、美術史家からタイムマシンを盗んで未来へ逃げてしまい、おかげで哀れな美術史家は現代に取り残されてしまう。そこで彼は仕方なく、逃亡したマザウェイになりすまし、マザウェイの名で、彼が二十五世紀にいたときに見た傑作の数々を描いた……。彼が探していた不遇の天才とは彼自身のことだったのである。》

  

<「源平布引滝(げんぺいぬのびきのたき)」>

 人形浄瑠璃寛延二年(1749年)十一月大阪竹本座。歌舞伎、宝暦七年(1758年)九月大阪嵐座。並木千柳(宗輔)、三好松洛作。『平家物語』『源平盛衰記』から脚色された全五段からなる時代物。今では二段目切「義賢最期」と三段目「御座船(「竹生島遊覧」)」、「実盛物語」が上演される。

 平治の乱源義朝(みなもとよしとも)を討った平家方はその首を後白河法皇に届けるが、平家の躍進を危ぶむ法皇は手厚く葬るよう命じ、源氏の白旗を義朝の弟、木曾義賢(きそよしかた)に授ける。清盛の上使が来訪、源氏の白旗を差し出せと命じるが、義賢が知らぬと突っぱねると、兄義朝の髑髏を足で踏めと迫った。義賢は兄の敵長田(おさだ)を斬り捨てる。義賢は百姓九郎助(くろすけ)に懐妊中の葵御前、九郎助の娘小万(こまん)に白旗を託し、武具は不要と素襖大紋(すおうだいもん)を身に着けて平家相手に奮戦したが壮絶な最期を遂げた(「義賢最期」)。

 

 九郎助は葵御前を伴って琵琶湖畔の九郎助住居に帰りついたが、小万は平家に追われて矢橋の浦で琵琶湖に飛び込み泳いで逃げようとした。折から平宗盛の御座船が竹生島参詣に遊覧中、同船していた斎藤(さいとう)別当(べっとう)実(さね)盛(もり)は小万を発見して船に救い上げたが。追手の船から「女が源氏の白旗を持っている。取り返せ」との声が届いた。飛騨左衛門が白旗を奪おうとしたので、実盛はとっさに白旗を持っていた手を水中に切り落とした(「御座船」)。

 

 九郎助の女房小よしが綿を繰っているところへ甥の仁惣太がやってきて、この家に葵御前が匿われているだろうと探りを入れるが、小よしは追い返す。葵御前が行方知れずになった小万を案じるところへ九郎助が孫の太郎吉と戻ってきて、湖畔で見つけた白絹を握った人間の片腕を見せた。太郎吉が指を開くと、白絹は源氏の白旗。一同は小万の腕ではないかと不安を覚える。

 そこへ平家の武将斎藤実盛と瀬尾十郎兼氏が葵御前詮議のためやってきた。九郎助は知らぬと突っぱねるが、実盛は甥の仁惣太が訴人した事実、平家の威光には逆らえぬ、さらに生まれる子が女なら助かると諭した。九郎助も諦めて出産するまで待って欲しいと懇願するが、瀬尾は胎内まで詮議すると息巻いた。

 葵御前が出産したと、小よしが錦に包んだ水子を持ってきた。実盛が何とか子を助けようと思いながら包みを開くと、中には女の片腕が入っていた。実盛はその腕を見てハッとし、驚き怒る瀬尾に向かい中国の故事に同じためしもあると言いくるめ、申し訳は自分がすると言い切った。瀬尾は冷笑し、帰ると見せて裏に潜んだ。

 実盛は葵御前と九郎助夫婦に向かい自分は平家に仕えているが元は源氏、旧恩を忘れていない、片腕は自分が矢橋の船中で切り落とした覚えがあると言い、確か名は小万と言ったと、事の次第を語る(「実盛物語」)。

 宗盛公の竹生島詣での帰途、口に白絹を咥えて泳いでくる女を見付けて助けあげたが、同船していた飛騨左衛門が白旗を奪い取ろうとしたため、白旗が平家に渡れば源氏は埋もれ木になると思い、非情ながら女の片腕を湖水に斬り落としたと物語る。

 近所の衆が小万の死骸を運んでくる。一同の愁嘆を見た実盛は、甲斐甲斐しい女だから、まだ腕に魂が残っている筈だと、片腕に再び白旗を持たせて死骸に繋ぐと小万は蘇生し、白旗が御台葵御前の手に戻ったことを知って喜び、太郎吉に言いたいことが…と言ったきり息絶えた。九郎助は小万が言いたかったのは筋目のことだろうと察し、実は小万は夫婦の間の子ではなく拾い子で、懐には金刺という銘を彫付けた合口(あいくち)と平家某の娘という書付があったと語った。

 俄に葵御前が産気づき、若君が誕生した。父義賢の幼名を貰って駒王丸と名付けられた。後の木曽義仲である。九郎助は太郎吉を駒王君の家来にしてほしいと頼み、実盛は小万の手に因み手塚太郎光盛と名付けた。葵御前は小万の父は平家ゆえ清盛の子であるかも知れず、成人して一つの功をたてた上でのことと言う。瀬尾が戻ってきて、駒王君誕生を平家に報告する、この女が白旗を奪ったのが憎いと小万の死体を足蹴にした。それを見た太郎吉は母の形見の合口を手に瀬尾に向かうと、意外にも瀬尾はかわさず、瀕死の痛みを堪えながら葵御前に「太郎吉は平家譜代の侍瀬尾十郎を討ち取った功で若君の家来にして欲しい」と懇願した(瀬尾のモドリ)。おどろく一同に向かい、実は小万は自分が若い頃に捨てた子であると告白した。瀬尾は太刀を抜くと太郎吉に持たせて、自らの手で首をかき斬る。

 太郎吉は勇みたち、実盛に親の敵と詰め寄るが、実盛は今討たれては情と知れて手柄にならぬ、若君と共に信濃へ逃れ、成人してのち義兵を挙げよと諭し、家来に馬曳けと命じ、平家に注進すると駆けだした仁惣太を討ち取った。太郎吉も綿繰り機に跨り(「綿繰馬」)実盛に向かう。九郎助は太郎吉が成人した時には実盛は老人になっていると指摘すると、実盛は「髪を黒く染めて勝負を遂げる、坂東声の首を取ったら池の水で洗ってみよ、戦の場所は北国篠原」と未来の戦いを予見して去っていく。

 

 

         *****参考または引用文献*****

渡辺保『歌舞伎 過剰なる記号の森』(ちくま文芸文庫)

文楽床本「第一七五回文楽公演 源平布引滝(平成二十三年五月」(国立劇場

戸板康二他『名作歌舞伎全集第四巻 源平布引滝』(東京創元新社)

ボルヘス『続審問』中村健二訳(岩波文庫

スラヴォイ・ジジェク『オペラは二度死ぬ』中山徹青土社

中井久夫『徴候・記憶・外傷』(「統合失調症の精神療法」所収)(みすず書房

柄谷行人トランスクリティーク』(岩波書店

*T・S・リッオット『エリオット選集第一巻』(「伝統と個人的な才能」所収)吉田健一訳(弥生書房)

スラヴォイ・ジジェクイデオロギーの崇高な対象』鈴木晶訳(河出文庫

 

文学批評 「須賀敦子の『アルザスの曲りくねった道』を巡って」

  「須賀敦子の『アルザスの曲りくねった道』を巡って」

 

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 須賀敦子は、『ミラノ 霧の風景』(一九九〇年)、『コルシア書店の仲間たち』(一九九二年)、『ヴェネツィアの宿』(一九九三年)、『トリエステの坂道』(一九九五年)、『ユルスナールの靴』(一九九五年)の五冊を生前に出版している。数年にわたって雑誌に書いた作品を一冊にまとめたものであったり、書きおろしであったり、十二か月の雑誌連載であったり、さまざまである。

 他によく知られた『遠い朝の本たち』『時のかけらたち』『本に読まれて』『イタリアの詩人たち』『地図のない旅』『霧のむこうに住みたい』『塩一トンの読書』『こうちゃん』は、死後の一九九八年から二〇〇三年までに世に出たものだ。

 須賀は、イタリア文学の翻訳者としてさきに知られ、ナタリア・ギンズブルグ『ある家族の会話』『マンゾーニ家の人々』、アントニア・タブッキ『インド夜想曲』『遠い水平線』『供述によるとペレイラは』、イタロ・カルヴィーノ『なぜ古典を読むのか』、ウンベルト・サバウンベルト・サバ詩集』などを一九八五年から翻訳したが、その前の一九六三年から、谷崎潤一郎春琴抄』『蘆刈』、川端康成『山の音』、漱石、鴎外、一葉、鏡花などをイタリア語に翻訳出版していた。さらに遡れば一九五七年から一九六八年にかけて、限られたカトリック信者を読者とする『聖心(みこころ)の使徒』(日本祈祷の使徒会)という雑誌に、『シエナの聖女』『アッシジでのこと』などを執筆していた。

 作品は、しばしば「小説風の自伝的エッセイ」などと、たんなる「エッセイ」ですまない形容を重ねた表現で紹介されるが、その早すぎた晩年、須賀が小説を書こうとしていたのは知られるところだ。全集の詳細な年譜などによれば、死が三年後に来るとは知りえなかった一九九五年には『アルザスの曲りくねった道』を構想しはじめ、翌一九九六年四月にアンゲロプロス監督映画『ユリシーズの瞳』を観てすぐにアルザス取材を編集者鈴木力に相談、五月には「私にとってはじめての虚構の人たちをつくることに、怖さと愉しみが半々で、なんとなく浮き立っています」と鈴木宛ての手紙に認める。六月、『ミセス』に『旅のあいまに6 Z――』として、創作ノートの女主人公「オディール・シュレベール」をなぞるような「オディール・ゼラー」について、素描のような乾いた文章を発表。九月にアルザスを編集者鈴木力と歩き回り、十月には序章を書き始めた。しかし十一月に癌の告知を受け、年明け一九九七年一月に入院となって体調すぐれず、七月、草稿三十枚ほどを鈴木に手渡す。一九九八年二月、見舞いに来た松山巌に「書くべき仕事が見つかった。いままでの仕事はゴミみたいなもんだから」と語ったが、三月二十日に帰天。享年六十九歳。ついに小説『アルザスの曲りくねった道』を書き終えること叶わず、創作ノート1~7と未定稿約四十枚が残された。

 須賀の書かれなかった小説については、全集やムック本で解説されている。全集では第三巻(『ユルスナールの靴』『時のかけらたち』『地図のない旅』『エッセイ/1993~1969(「古いハスのタネ」収録)』)の堀江敏幸解説「夕暮の陸橋で」、第八巻(『書簡』『『聖心の使徒』所収エッセイほか』『荒野の師父らのことば抄』『ノート・未定稿(遺稿『アルザスの曲りくねった道』収録)』『年譜』)の松山巌解説「すべてが恩寵なら、あらゆる時代は、恩寵の時なのです」、他には湯川豊須賀敦子を読む』の「第六章 信仰と文学の間」、『考える人 特集 書かれなかった須賀敦子の本』の鈴木力「一九九六年九月、最後の旅」、池澤夏樹アルザスに着くまでの道」などがある。

 

アルザスの曲りくねった道』がどのような作品を目指していたかは、創作ノートからおおよそ窺える。

ノート1[太字は手書きで挿入された部分]

 アルザスのまがりくねった道

 アンゲロプロスの映画『ユリシーズの瞳』に漠然と着想を得たものです。旅、人間が生きるということ。(アンゲロプロスの他の映画も、もういちど、見なおしてみるつもりです)

 Zという一九八八年に七九歳で生涯を終えた、ひとりのフランス人修道女の、伝記を断片的につづりながら、彼女の歩いた道を、日本人の「わたし」がたずねるかたちで、書く。

「なんとなく」修道女になる道をえらんだZが、読書をはじめとするさまざまな経験を経て、宗教にめざめてゆく話。

 Zの肉体的特徴。性格。きれいな少女ではなかった。三人、年齢のはなれた姉がいた。一九一〇年代に少女であったということ。宗教的背景。土地の。家族の。

 (1909年生まれ。)→1920年に一一歳/黒ブチの眼鏡、白髪まじりのボッブ/スカートにブラウス/あるいはとっくりえりのセーターにカーディガン/パンプス? 猫背

 それを書いてゆく「わたし」。反戦の理論として、また、西洋に憧れて宗教をえらんだ「わたし」が、人間としての生き方に目ざめてゆくプロセス。

 彼女の生家をたずねてアルザスに行く「わたし」。アルザスの自然、政治的背景、それがたとえば先年のストラスブール文学者会議にかかわってもよい。タブッキの『ペレイラが供述したこと』

 それから彼女が修道女として送られたリヨンという都市、フランスのなかでの特異な歴史、絹をとおしての日本とのつながりがあってもいい、ローヌとソーヌ川の話、どこの山から、どういう平野を通って、どこの海に流れこむかということを書く。

 彼女の戦争時代のこと。「わたし」の戦争時代。

 戦後、日本に派遣された話。

「わたし」の戦後。

 日本という国について、それから日本から見たフランス。

 第一次世界大戦から、第二次世界大戦にかけて、さらにその後のカトリックについて。

 私が現実に知っていた彼女とはずらせて、たとえば、シモーヌ・ヴェイユを芯にして、つくってゆく。内面の彼女と、外面の彼女のずれ。

 彼女の読書。大学は出ていない。バカローレアだけ。とくに、ペギー。

 そこから、ムニエやエスプリの運動など。「わたし」がアッシジで出会ったダニエル。

 シモーヌ・ヴェイユの博学はないけれど、それから、たとえばユダヤ人に対する偏見などもあるのだが、Zはすこしずつ、日本に来たことで文化の相違などについて理解してゆく。

 そして、さいごに、ユリシーズのように、彼女も出発点にもどる。リヨン。

[欄外の手書きメモ]

 ジャン・リュック・ナンシー 朝日夕刊、2月3日 清水克雄インタビュー

歴史の背景をいくつかの本(たとえば、Flandreへの道とか――Claude Simon)から抜く

 負ける戦争の側から

 修道女たちが誰に(修練期に)指導されたかで、ほとんど生き方が変るということ。

 ほんとうはフランスのカトリシズムに惹かれるのだけれど、それはフランス人のためのものだということが(やや?)はっきりしている。フランスの若い人たちが腕を組んで足をひらいて、ミサにあずかっている姿勢を美しいと思うのだが――》

 ノート2、3、4にはヴェトナム(パリ大学で勉強していた頃、フランス植民地だったヴェトナム出身の女性が多くいた(『旅のあいまに』の『インセン In-seng』、『遠い朝の本たち』の『星と地球のあいだで』とエッセイ『マドモアゼル・ヴェ』に登場する聖心大学初級フランス語教師マドモアゼル・V(ヴィ)はサイゴンから来た人だった、『ヴェネツィアの宿』の『カラが咲く庭』にはヴェトナムのダラットの修道院にいたマリイ・ノエル院長と、精神の病気だったヴェトナム人修道女テレーズとのローマでの出会いが語られている)の記述。

 ノート4には、次の重要な言説がある。

《●CalvinoのBorges論にある、DanteのUgolinoの解釈

 現実

 宗教の答えは一本だが、文学の答えはsimultaneousに多岐であり得ることについて

 これを小説の芯にする》

 ノート5、6はZ=オディールのプロフィール確認、7は聖女オディール伝説について。

シモーヌ・ヴェイユを芯にして、つくってゆく」と「CalvinoのBorges論にある、DanteのUgolinoの解釈 宗教の答えは一本だが、文学の答えはsimultaneousに多岐であり得ることについて これを小説の芯にする」の二つの「芯」を胸に留めておきたい。

 残された「未定稿」は、序章のさらに序といったところで、あくまでも備忘録的なスケッチにすぎず、須賀らしい文体の香りをまだ纏っていない。

 

 須賀が『ヴェネツィアの宿』を他ならぬヴェネツィアからはじめたのには理由があるに違いない。しかもヴェネツィアの宿のベッドでのうつらうつらした回想からはじめたのは、時の水門を開くべく構想された「小説」としての妙があるからではないか。

 紅茶に浸したマドレーヌと同じように、ヴェネツィアサン・マルコ寺院の敷石を無意志的回想の舞台としたプルーストのそれがすぐに思い浮かぶ。須賀自身はプルーストの読書体験についてはわずかしか語っていない。森まゆみとの対談『夏だから過激に古典を』(『須賀敦子全集 別巻』)で、「日本の学校教育のせいだと思うけど、学生に『源氏物語』のことを聞くと、「読みました」って言う。でも、部分だけ。全部読むと、おもしろいと思うんだけど。学校の先生とかに、ここはこう読むんですと言われて読むのではね……。本というのは個人的な体験でしょう。間違えてもいいから、自分で読むことが大事なんです。そして、楽しみながらおもしろく読まなきゃ。プルーストもそう、本当に自由にここは好き、あそこは嫌、という感じで巻き込まれて読むのこそ、若い人の特権だと思うんですけどね」と語り、丸谷才一三浦雅士との鼎談『読書歓談・私が選ぶベスト3』(『須賀敦子全集 別巻』)で「いや、私はプルーストはすごく好きだし、あの人の文体というものにはある意味で影響されたと思うんですよ。それだけに、あまりベスト3に入れたくないというのかな」と発言したぐらいにすぎない。

 しかし須賀の書くことの出発点、文体の発見となったナタリア・ギンズブルグ体験というものがある。ギンズブルグはプルーストのイタリア語翻訳者であるだけでなく、ギンズブルグにおけるプルースト体験が、須賀におけるギンズブルグ体験だった。《彼女が訳したプルーストの『スワンの道』までも、つぎつぎと読んだが、いきいきとした彼女の文体に私はいつも魅了されるのだった》と『私のなかのナタリア・ギンズブルグ』に書いているが、『トリエステの坂道』の『ふるえる手』では、もう少し詳しく説明している。

《ナタリア・ギンズブルグの自伝的な小説『ある家族の会話』をはじめて読んだのはもう二十年もまえのことで、そのころ私はミラノで暮していた。日本の文学作品をイタリア語に訳す仕事をはじめてまもないころだったが、まだ自分が母国の言葉でものを書くことを夢みていた。ただ、周囲がイタリア語ばかりのなかでは、自分の中の日本語が生気を失って萎れるのではないか、そればかりが気がかりだった。こんなことでは、とても自分の文体をつくることなど考えられない。かといって、イタリア語でものを書くというのも、とても越えられない大きな壁のように見えた。ちょうどそのころ、書店につとめていた夫がナタリアの小説を持って帰ってくれた。表紙カヴァーにエゴン・シーレの絵がついた美しいエイナウディ社の本で、そのころ評判になっていた。第二次世界大戦に翻弄されながら、対ファシスト政府と対ドイツ軍へのレジスタンスをつらぬいたユダヤ人の家族と友人たちの物語が、はてしなく話し言葉に近い、一見、文体を無視したような、それでいて一分のすきもない見事な筆さばきだった。いったいこれはなんだろう。それまで読んだことのない本に思えた。

 あるとき、私は、著者が幼かったころ、プルーストに夢中になった彼女の母親が、医学者だった父親の「軟弱な」お弟子さんたちといっしょに、気に入った箇所を声を出して読んでいたという話をあたまの中で反芻していた。それまでにもその話をなんどか読んでいながら、私はプルーストに夢中になるお母さんやきょうだいがいたなんて、ずいぶんすてきな家族だぐらいにしか考えなかったことに気づいた。もしかしたら、これはただ恣意的に挿入されたエピソードなんかではなくて、彼女の文体宣言に代わるものではないか、そう思いついたとき、ながいこと、こころにわだかまっていたもやもやが、すっとほどける感じだった。好きな作家の文体を、自分にもっとも近いところに引きよせておいてから、それに守られるようにして自分の文体を練りあげる。いまこう書いてみると、ずいぶん月並みで、あたりまえなことのようなのに、そのときの私にとってはこのうえない発見だった。》

 須賀は、『ナタリア・ギンズブルグ 人と作品についての試論』(「イタリア学会誌」一九七〇年十月 イタリア学会)で「自伝的小説」という彼女の命名について語っている。

《なお、最初にこの作品を、小説ふうの自伝と書いたが、この「小説ふう」という少々曖昧でもある形容詞を、もう少し掘り下げて検討する必要があるように思われる。ギンズブルグのこの作品は、単に「自伝」と片付けてしまうには、文学的、創作的意図があまりにも明白であって、しかもそれが成功しているため、私は、なにか適当な形容詞をこれに付け加える必要にかられた。そして、作者は、自分自身のことより、自分の家族のこと、自分の周囲に生きた人びとのことを主として書いているのであるから(いろいろな事件がおきた時の、作者自身の感想、あるいは、その時、彼女がとった行動などについては、殆んどふれられていない)、この作品が自伝というジャンルに厳密にあてはまるかどうかも疑問なのである。「登場人物は、みな、実在の人たちで、私は何一つ、つくり事はこの作品に入れなかった」と序文の中で作者自身いっているが、またすぐその後で、「実際にあったことしか書かなかったのであるけれど、小説として読んでいただいてよいと思う」ともことわっている。私小説という日本文学固有の、トリヴィアルな告白体といったイメージを与える用語を、この地中海的な大らかな作品にあてはめることを私は意識的に避けながら、やはりこの『レッシコ・ファミリアーレ』は、小説ふうの自伝と定義されるのがふさわしいと思う。》

 これは須賀の作品、とりわけ『ヴェネツィアの宿』と同じではないのか。いっけん自分のことについて書いているような場面でも、作者自身のこと、作者自身の感想よりも、家族のこと、周囲に生きた人びとのことを主に書いていることに注意すべきである。

 

 須賀敦子と同じように、晩年に小説を書こうとしたが、不慮の交通事故死で世を去り(一九八〇年、六十五歳)、書き終えられなかった人として、ロラン・バルトがいる。

 ロラン・バルトに、『長いあいだ、私は早くから寝た』という一九七八年十月のコレージュ・ド・フランス講演録がある。

《この講演の題として私が掲げた文章がお分かりになった方もおられることでしょう。「長いあいだ、私は早くから寝た。ときには、蝋燭が消えると、すぐに目が閉じて、<眠るんだな>と思う間もないことがあった。そして、三十分後、そろそろぐっすり眠らなければならない頃だと考えては、目が覚める……」これは『失われた時を求めて』の冒頭です。ということは、私はプルースト<について>の講演をしようというのでしょうか? そうでもあり、そうでもない。こう言ってよければ、むしろ「プルーストと私」ということになりましょう。何という自惚れ!》といった諧謔からはじまって、書物を書きたいと思い、それに成功したプルーストについて語ってゆく。

《『失われた時』に先立って、一冊の書[『楽しみと日々』]、翻訳、論考など、数多くのものが書かれています。あの大作が本当に書き始められたのはようやく一九〇九年の夏のあいだのことですが、その時点からは周知のごとく、書物を未完の危険にさらしかねない死と闘いながらの脇目もふらぬ疾走となるのです。どうやらこの一九〇九年に(ある作品の開始時期を正確に特定しようとするのは無駄だとしても)、決定的な躊躇の時期があったようだ。実際プルーストは、二つの道、二つのジャンルの十字路にあって、二つの<方向>に引裂かれていたのであって、ちょうど話者(・・)が、ジルベルトとサン=ルーが結婚するまでの非常に長いあいだ、スワン家の方がゲルマント家の方に到達することを知らないのと同じで、両方向が一緒になるかもしれぬことなど知る由もなかった――その二つの方向とは、(批評の)評論(・・)の方向と小説(・・)の方向だったのです。》

 プルーストがこの迷いからどのような決意で抜け出したのか、またなぜ彼が根本的に『失われた時を求めて』へと没入していったのかは知る由もないが、

《彼が選びとった形式は分っている――『失われた時』の形式それ自体がそうだと。小説か? 評論か? そのどちらでもないし、その両方だとも言えよう。私はこれを、第三の形式(・・・・・)と呼びたい。》として、この三番目のジャンルについて考えみる。

《私がこの考察の冒頭に『失われた時』の最初の文章を据えたのは、それが五十ページばかりの挿話を開くもので、この挿話こそが、チベットのマンダラさながら、プルーストの作品全体を一望のもとに収めているからです。この挿話は何を物語っているのか? 眠りです。(中略)

 それは、時(・)の水門を開くことにある。時の論理(クロノロジー)が揺さぶられると、理知的なものであれ物語的なものであれ、さまざまな断章が、物語(・・)や論理(・・)がもつ父祖伝来の法則を免れたある脈絡を形づくることとなり、そしてこの脈絡が評論(・・)でも小説(・・)でもない第三の形式を無理なく産み出していく。その作品の構造は、文字通り、ラプソディ風(・・・・・・)、つまり(その語源からして)断章を織り継いだものとなるのです。》

 そして、バルトはプルーストから<私>のことへ移ろうとする。

《私がプルーストの作品・生涯から、小説(・・)と評論(・・)との矛盾を解消しうる――ともかくプルーストにはそれを解消することができた――新たな論理というテーマを取り出したのは、このテーマが私個人に関わるものだからです。なぜか? それをこれから説明したい。ですから、これからの話は<私>のことです。<私>とは、ここでは重く解されねばなりません。それは、一般読者の滅菌された代理人ではなく(代理とはすべて毒にも薬にもならぬ滅菌化だ)、良きにつけ悪しきにつけ何人とも置き換えることのできない者にほかならない。内なるものが私の内で語りたいと欲し、一般性や科学と対峙して、その内心の叫びを聞かせたいと願っているのです。》

 

 一九七九年にバルトが書いた、いっけん写真論にみえるが母の思い出を語った『明るい部屋』と日記風の『パリの夜』では、あきらかにロマネスクな物語が織りあげられている。母子家庭で、ずっと一緒に過ごしたバルトにとっての母と、捩じれがあったとはいえ父と母がいて、早くに家を出、海外に行ってしまった須賀にとっての母は、その母性の密着度があまりにも違うが、『明るい部屋』の写真をとおしてのバルトの母との思い出は、旅のむこうの声をとおしての須賀の母との思い出と通じあうものがある。バルト『明るい部屋』の第二部から、小説的なエクリチュールをごく一部となるが書きだしておく。

《ところが、母の死後まもない、十一月のある晩、私は母の写真を整理した。母を《ふたたび見出そう》と思ったのではない。《写真を見てある人のことを思い出すよりも、その人のことを考えるだけにしておくほうが、もっとよく思い出せる、そうしたたぐいの写真》(プルースト)に、私は何も期待していなかった。思い出すことができないという宿命こそ、喪のもっとも耐えがたい特徴の一つなのであるから、映像に頼ってみたところで、母の顔立ちを思い出すこと(そのすべてを私の心に呼びもどすこと)はもはや決してできないだろう、ということはよくわかっていた。(中略)

 かくして私は、母を失ったばかりのアパルトマンで、ただ一人、灯火のもとで、母の写真を一枚一枚眺めながら、母とともに少しずつ時間を溯り、私が愛してきた母の顔の真実を探し求め続けた。そしてついに発見した。

 その写真は、ずいぶん昔のものだった。厚紙で表装されていたが、角がすり切れ、うすいセピア色に変色していて、幼い子供が二人ぼんやりと写っていた。ガラス張りの天井をした「温室」のなかの小さな木の橋のたもとに、二人は並んで立っていた。このとき(一八九八年)、母は五歳、母の兄は七歳だった。少年は橋の欄干に背をもたせ、そこに腕を乗せていた。少女は、その奥のほうにいて、もっと小さく、正面を向いて写っていた。写真屋が少女に向かって、《もっとよく見えるように、もうちょっと前に出て》、と言ったらしかった。少女は、子供がよくやるように、片手でもう一方の手の指を無器用につかみ、両手を前で組み合わせていた。(中略)

 私は少女を観察して、ついに母を見出した。少女の顔の明るさ、その手の無邪気なポーズ、出しゃばるわけでもなく隠れるわけでもなく、ただ素直に身を置いたその位置、そして「善」が「悪」から区別されるように、彼女をヒステリックな小娘や大人のまねをしてしなをつくるかわいいだけの女の子から区別する、その表情、それらすべてが至高の純真無垢(・・・・)の姿を表わしていた(ここでは、この純真無垢(イノサンス)という語を、語源に従って、《人を傷つけることを知らない》という意味にとっていただきたい)。それらすべてが、この写真の少女のポーズを、ある維持しがたい逆説的な姿勢、母が生涯維持してきた姿勢に変えていた。すなわち、やさしさを主張するということ。この少女の映像から私は善意を見てとった。》

 

「私」と「母」以外に「固有名詞」をもった人物(川端風の『白い方丈』の竹野夫人、モラヴィア風の『レーニ街の家』のカロラ、グイード、キアラ)が登場することから、須賀の『ヴェネツィアの宿』は「短編小説集」と呼ばれても違和感がないだろう。

なかでも『カティアが歩いた道』は、パリ留学時代から、書かれた現在に近い時点までの、三十年以上の時をへだてての静かな再会の物語だが、須賀の内面の関心にもっとも近かった問題、「よりよく生きること」と「深さ」のテーマが扱われていて、のちに『ユルスナールの靴』『トリエステの坂道』の空間と時間を、「靴」と「道」に託した文章に続いて、『アルザスの曲りくねった道』に流れこむ精神がみてとれる。『アルザスの曲りくねった道』の大河的全体像を想像するために、『カティアが歩いた道』に類似形を見ておくことは可能だろう。

 キリスト教に関係して、エディット・シュタインについて多くのページがさかれ、シモーヌ・ヴェイユやトマス・アクイナス(「アクイナスのトマ」)の名も見える。キリスト者としての自分の立ち位置と、生き方という課題が、「オディール・シュレベール」と多重映像化するカティアを鏡にして、「歩くこと」を象徴に語らせつつも、街角の心象風景と労働司祭による講義の場面とともに、思想の言葉がストレートに文字となっている。なによりもここには、すでに小説のエクリチュールが、前半は自己省察的な明晰な文体で、後半は川端小説のような美しくも切ない抒情をともなって存在している。

 

 パリ、ベルナルダン街の寮に来て、七ヶ月のあいだに、部屋のルームメイトはめまぐるしく替ったが、ドイツのアーヘン(ドイツ最西部で、ベルギー・オランダの境界に位置し、フランスとの境に位置するアルザス=ロレーヌと文化的、歴史的複合性は似ている)から来た「カティア・ミュラー」は子供みたいに赤く上気した、丸い、しもぶくれの顔の、学生というよりは、元気なパン屋のおばさんという感じだった。

 ゆっくり本を読んだり、人生について真剣に考える時間がほしかったので、アーヘンの公立中学校の先生をやめてしまってフランスに来た、と言う。しばらくパリに滞在して、宗教とか、哲学とか、自分がそんなことにどうかかわるべきかを知りたい。いまここでゆっくり考えておかないと、うっかり人生がすぎてしまうようでこわくなったのよ。いきなり本題に突入したようだった。あの戦争をした私の国の人たちのものの考え方には、ついていけない事柄が多すぎるから、国をはなれたほうがいいと思った、と言う。十二、三歳うえ、そろそろ四十に手のとどく年頃らしかった。《戦争のなかで育って、「お上」がつくった「当局の方針」という人生のプログラムに知らず知らずのうちに組み込まれていた私の世代にくらべて、彼女たちには、戦争についてのなんらかの意見や選択の余地があったはずで、それだけに、苦しみも大きかったかも知れないのだが、戦争の年月をこの人はいったいどこですごしたのだろうか。ドイツを覆ったあの狂気とはどのように対決したのだろうか。それとも、私たちの大半がそうであったように、無力な沈黙を強いられていたのか。》

 同じ部屋に暮らしてみると、カティアは手ごたえのある同居人だった。《なによりも、自分だけの人生をもとめて故国をはなれ、一歩一歩手さぐりしながら歩いている彼女に、深い共感をおぼえた。おなじような感慨がカティアの側にあることも、おおよそ知れた。》

 カティアは「歩き靴」を持っていた。重たそうな革の、底の厚い編み上げ靴は、見とれるほどに、堂々としたりっぱなものだった。《あるまぶしさのようなものを覚えたのは、それが、歩くことを通して子供たちに土地のつながりの感覚をおぼえさせるという、ヨーロッパの人間が何世紀にもわたって大事にしてきた、文化の伝統の一端をまざまざと象徴しているように思えたからだった。》 「歩くこと」のテーマが、須賀らしく具体的な「物」を手がかりに語られてゆく。そのころ、私は自分にとって異質なこの街の思想や歴史を、歩くことによって、じわじわとからだのなかに浸みこませようとするみたいに、勉強のひまをみては、地図を片手に、よくパリの街を歩いた。詩人ネルヴァルが首をつって自殺したのは、このあたりだという、サン・ジャックの塔のそばを、つめたい雨の夜に通りすぎることもあった。

 カティアはほとんどいつも、夏までにエディット・シュタインの著作五巻を読破するのだといって、ぶあつい哲学書を読みふけっていた。一八九一年に、東部ドイツのユダヤ人の家庭に生まれたシュタインは、ゲッティンゲンやフライブルク大学で哲学をおさめ、現象学フッサールの助手をつとめるなどしたが、三十歳のとき、カトリックの洗礼をうけて高校の教諭になった。ナチスによるユダヤ人迫害がはじまると、同胞の救済を祈るために、カルメル会の修道女として生涯を捧げようと決心するが、迫害が波及しそうなのを知って、オランダの修道院に身をかくすも、ドイツ軍のオランダ侵攻とともに秘密警察に捕らえられ、一九四二年にアウシュヴィッツガス室で死をむかえた。五〇年代初頭に、シュタインの著作集がミュンヘンで刊行されると、高い学識と深い思索に裏づけられた劇的な生涯は、感動をもって内外のキリスト教徒に迎えられた。《彼女の名声が、カトリックの神学を現象学の立場から解釈しようとした哲学者としてよりも、ユダヤ人でありながらキリスト教をえらび、それでもなお、ユダヤの血をうけているために死ななければならなかったという悲劇性によって増幅された事実は、否定できない。やはりユダヤ人でキリスト教を求め、戦争中に病死したフランスの思想家シモーヌ・ヴェイユデマゴーグ性には欠けるかも知れないけれど、非キリスト教世界にむかって教会の門が開かれることを切実に望んでいた一部のキリスト教徒にとっては、シュタインも、時の流れを象徴するひとつの重い存在だった。》

 カティアがシュタインについて興味をもつようになったのは、靴なおしをしている女性の影響で、その人はもとシュタインとおなじ修道院にいたのだけれども、彼女があんなふうにして死んだあと、修道院の生活が無力におもえて、ふつうの人間の暮しをしながら、深い精神生活を生きられないかと、修道院を出たのだという。その人がカティアに、シュタインの本をおしえ、南フランスでおなじような生き方をしているグループの人びとを紹介してくれた。でも、私はまず、まっすぐに南仏には行かないで、ここでしばらく本を読みながら、自分の人生についてゆっくり考えてみたいと思ったの。須賀にとって、カティアを語ることは、シュタインを語ることでもあり、そしてまた自分を語ることへ螺旋のように戻ってくることでもあった。

《きょうは、何巻目を読み終る予定だといって、にこにこしているカティアの顔を見ると、私はなにかしなければとあせった。ヨーロッパに来たのは、文学の勉強をするためだけではないはずだった。戦後の混乱のなかで両親の反対をおして選びとったキリスト教を、自分のこれからの人生のなかでどのように位置づけるのか、また、ヨーロッパの女性が社会とどのようにかかわって生きるのか、学問以外にも知りたいことは山のようにあった。》

 毎週金曜日の夜、フォーブル・サン・ジャック街のドミニコ会修道院で、労働司祭がミサをおこなっていて、そのあと旧約聖書の勉強会があると、寮で学生の世話をしているシュザンヌが教えてくれた。行ってみたら、なにか、あなたの探しているものが見つかるかも知れないし、だれか話のできる人に会えるかも知れない。

 ここからはシンパシーと落胆、あせりと寂寥にみちている。昼間は工場などで働き、余暇の時間に司祭の責務をはたすという、戦時の対独レジスタンスから生まれ、戦後、欧米各国にひろまった労働司祭の運動が、ローマの教会当局の批判を浴びて全面的に禁止されたのは、ちょうどそのころだったが、ドミニコ会のおもだった神学者たちは、くじけることなく反抗的ともいえる立場をとっていた。そんな状況の中だったから、宗教的な意味をこえて、教会の方針に対する批判の行為でもあり、非合法的な政治集会に参加するのにも似た、ある精神の昂揚を感じて緊張した、とあるように立場を明示している。寮から目的地までの道のりを歩いていくことにしたが、迷ってはいないかと、なんども道の名を街燈の明りでたしかめ、足音が硬い石畳にはねかえるのを聞きながら、歩いたが、八時に出て、着いたのは九時を過ぎていた。よごれたシャツを着た労働司祭が、駅の待合室のように殺風景な部屋でひっそりとミサをあげていて、四、五人の参会者たちが石の床にひざまずいて祈っている。司祭が、今日の工場労働者をガリラヤのイエスのもとにあつまった群衆にたとえ、彼らの側に立つことの意味を説いた。《そして、なんの脈絡もなく、薔薇窓やステンド・グラスの華麗なカテドラルを造って、彼らの時代の歓喜にみちた信仰を美しいかたちで表現しようとした中世の職人たちのことが、こころに浮かんだ。》 ミサがすむと、聖書の講義があった。悲しみのなかで、神を信じつづけたヨブの歎きがその日のテーマだったが、科学的、歴史的方法を用いた講義は、従来の教会ばんざい式の感傷に流れない客観性に裏づけられていて、こころづよかった。寮から歩いてきた長い道の寒々とした暗さが、そのまま、人生のよろこびに見棄てられたヨブの悲しみに思えて、熱心にノートをとっている人たちをぼんやりと眺めていた。《帰りは地下鉄に乗ることにしたが、サン・ジャックという駅の名を見て、さっきミサのあった場所が、十三世紀の天才的神学者のアクイナスのトマが、ナポリからパリに来てソルボンヌで教えていたときに泊まっていた修道院に違いないことに気づいた。アリストテレス的な神学理論を展開して危険人物視されたトマは、これもイタリア人で、プラトン派の神学者だったボナヴェントゥラと、サン・ジャック街を夜っぴて行ったり来たりしながら論争したという話をどこかで読んだことがあった。彼らは、今夜会った労働司祭たちとはちがって、おそらく生気に溢れていたのだ。夜のミサには、その後、二、三度、通っただけでやめてしまった。》 

《一年近い時間をパリですごして、大学の硬直したアカデミズムに私は行きづまりを感じていた。教会のほうも、もっと新しい風潮にじかに触れられるかと期待していたのに、せいぜいがサン・ジャック街のミサぐらいだった。岩に爪を立てて登ろうとするのだが、爪が傷つくだけで、私はいつも同じところにいた。》

「歩き靴」といっしょにドイツから持ってきた、見るからに固そうな黒パンを朝食に食べていたカティアが、夏休みには、イタリアに行ってみようという考えにたどりついた私に、私もペルージャの外国人大学でイタリア語をならったことがあるからと、イタリア語の手ほどきをしてくれた。カティアにならった動詞活用のおかげで、ペルージャで初級をとばして、中級に編入されたが、夏休みが終ってパリに帰ると、カティアは旅に出たあとだった。だいぶ経ってから、絵はがきが南仏からとどいた。いつかあなたに話した、アーヘンの靴なおしをしている女性に紹介されたグループに自分は入ろうと考えている、と書いてあった。それきりカティアの音信はとだえた。

「まさかとは思いましたが、もしかすると先生のことかもしれないと思って」大学の廊下ですれちがった、フィリピンから帰ったばかりの若い同僚が言った、「そのドイツ人のおばさん、カティア・ミュラーっていうんです。ぼくのいた山の町の学校の校長先生です」 近辺の住民に尊敬されているそのドイツ人の先生は、南仏のミッションのグループからフィリピンに派遣されていて、パリでルームメイトだった日本人の「アツコ」にイタリア語を教えたことがあると聞いて、先生じゃないかと思ったんです。来週、ある国際機関に招かれてカティアが日本を訪問するという。予定がつまっている彼女の日本での最後の日の夕方、市ヶ谷の土手を、レセプションのあるホテルまで、東京の春を満喫してほしくて、歩いて送ることにした。

 カティアの髪は銀髪になって、もう、七十をいくつかすぎている勘定だった。フィリピンで事故にあった後遺症だといって、杖をついているのが痛々しかったが、彼女の白いスニーカーを見て、「歩き靴」が記憶の底にちらついた。「桜なんて、ほんとうはどっちでもいいのよ」カティアがひくい声でいった。「あなたに会えただけで、私は満足しているの」 カティアは、杖をついていないほうの手を私の肩にまわした。むかしとおなじ、産毛におおわれた、まるい、肉のやわらかい、ずっしりと重い手だった。

《四谷に近い女子高の塀がつづくあたりまで来ると、塀のむこうに、赤い大きな太陽がゆっくりと、沈みはじめた。

「ずっとフィリピンにいるつもり?」

 私がたずねると、カティアはふふっというように笑ってから、しずかな声でいった。

「神様のおぼしめしのまま、よ」

 粗末なワイン・カラーのじゅうたんを敷いたせまい部屋の小さな机にむかって、むさぼるように哲学書に読みふけっていたカティアの姿が目に浮かんだ。会うまでは、あれも話そう、これもたずねようと思っていたのに、会ってみると、ベルナルダン街の部屋で向いあって朝食を食べていたときとおなじぐらい、なにも話すことがなかった。カティアはカティアなりの道を選んで、いまはやすらいでいる。

 道がカーブになったあたりで土手に上ると、そこだけ樹木が密生していて、深い森に来たようだった。地面が湿っているのを敬遠してか、その辺りだけは花見客の姿が途だえ、紅白の幕もなかった。人影のない薄闇をとおして見ると、空気がさくら色に染まって、音のない音楽のなかを手さぐりで迷い歩いている気がした。地面に散り敷いた花が、あたりをぼんやり照らしている。

「もう時間がないわ」

 かすれたようなカティアの声にわれにかえると、花に呆けた私がおかしいのか、目じりにしわをよせて、笑っている。ちっとも変っていないね。すっかりやさしい老女になった彼女は、そう言うと、さもおかしそうにくつくつと笑いつづけた。》

 

 松山巌による年表(『須賀敦子全集 第八巻』)をみると、一九五三年の夏に須賀はパリに到着し、十一月、妹良子、結婚の記事のまえに、こんな記載がある。《この時期から、シャルル・ペギー、エマニュエル・ムニエなどの新しい神学をさらに学ぶ。シモーヌ・ヴェイユや、エディット・シュタイン、サン=テグジュベリの著作に親しむ。》 翌一九五四年四月には、聖週間に学生の団体旅行に参加し、ローマ、アッシジフィレンツェを訪れている。《四月末、冷たい雨の日の午後、アッシジへ行く。サクロ・コンヴェントの広場、サンタ・マリア・ミネルヴァ、サン・ルッフィーノなどを巡る。小さな聖キアラの庭に心を奪われる。夕刻にフィレンツェに向かう。》 三年後、パリから帰国後の一九五七年に、『アッシジでのこと』という一文を『聖心(みこころ)の使徒』に発表している。また、六月には、《シャルル・ペギーの呼びかけではじめられた、シャルトル大聖堂への学生巡礼に参加》とある。そして、七月には、ペルージャの外国人大学中級に入学し、九月末にはパリにもどったのは、この一篇のとおりであるが、同時期に並行して行われていた、エディット・シュタインを読むことと、イタリアのアッシジ訪問の件と、シャルトル巡礼の件は、見事なまでに、この一篇からは消えている。小説において、何を書くかはもちろん大切だが、何を書かないかも重要だという創作術を須賀はよく知っていた。それらを、このカティアをめぐる一連の文章に混ぜあわせれば、ドラマチックさは激減し、それ以上に、論理と感情の道筋は混乱するだろうから。シュタインはカティアだけに、イタリアはカティアにイタリア語を習って行くペルージャだけに集中させ、サン・ジャック街の労働司祭によるミサと講義は扱うがシャルトル巡礼には触れないのが文学的効果を生む、それは嘘をつくことではなく、読者に深くとどくためである、と須賀はわかっていた。こうして考えてゆくと、カティアという存在自体が、須賀の思いを語らせるために、カティアという虚構の名前で造形された小説の人物ではないのか、すべてはフィクションではないか、とさえ思われてくる。もはや、それが事実か勝手な妄想か、カティアは実在したのか、虚構の人物なのか、約三十年後の春に彼女は日本を訪問し、桜咲く四谷の土手を須賀といっしょに散策したのか、といった伝記的事実、時系列の正確性を詮索、探究することは意味がない。

 

 再度ロラン・バルトだが、遺筆となった『人はつねに愛するものについて語りそこなう』で、小説的な嘘について書いている。

《数週間前、私はイタリアにごく短期間の旅行をしました。夜、ミラノの駅は寒く、霧がかかり、薄汚れていました。列車が出ようとしていました。それぞれの車輛には黄色いプレートが掛けられ、《ミラノ―レッチェ》と記されておりました》からはじまって、スタンダールのイタリアは、彼にとって、一つの幻想(ファンタスム)だったが、そのイタリア旅日記は失敗に終っていると述べている。《イタリアへの愛を語ってはいるが、それを伝えてくれないこれらの「日記」(これは少なくとも私自身の読後感ですが)だけを読んでいると、悲しげに(あるいは、深刻そうに)、人はつねに愛するものについて語りそこなうと繰り返すのももっともだと思うでしょう。しかし、二十年後、これも愛のねじれた論理の一部である一種の事後作用により、スタンダールはイタリアについてすばらしい文章を書きます。それは、私的日記が語っていたが、伝えてはくれなかったこの喜び、あの輝きでもって、読者である私(私だけではないと思いますが)を熱狂させます。この感嘆すべき文章とは『パルムの僧院』の冒頭の数ページのことです。(中略)スタンダールは、若かった頃、『ローマ、ナポリフィレンツェ』を書いた頃、《……嘘をつくと、私はド・グーリ氏のようだ。私は退屈する》と書くことができました(RNF六四)。彼はまだ知らなかったのです。真実からの迂回であると同時に――何という奇跡でしょう――彼のイタリア熱の、ようやくにして得られた表現であるような嘘が、小説的な嘘があるということを。》

 しかし須賀敦子は、愛する父や母や知人を「小説的な嘘」をまじえて書くことによって、「愛するものについて語りそこなう」ことはなかった。『アルザスの曲りくねった道』の創作ノートには、なるほど「わたし」が頻出する。さきに引用したノート1だけでも、「彼女の歩いた道を、日本人の「わたし」がたずねるかたちで、書く」「それを書いてゆく「わたし」」「反戦の理論として、また、西洋に憧れて宗教をえらんだ「わたし」が、人間としての生き方に目ざめてゆくプロセス」「彼女の生家をたずねてアルザスに行く「わたし」」「「わたし」の戦争時代」「「わたし」の戦後」「「わたし」がアッシジで出会ったダニエル」。しかし、ここでの須賀の「わたし」は自伝的なそれとは違うし、「私小説という日本文学固有の、トリヴィアルな告白体といったイメージ」とも違うだろう。

 

 バルトは『長いあいだ、私は早くから寝た』でダンテを語ってから、<私>のことに戻ってくる。

《ダンテは(またも有名な冒頭、またしても決定的典拠ですが)その作品[『神曲』]をワレラガ(・・・・)人生ノ道(・・・・)ノ半バニシテ(・・・・・・)……」と書き始めています。一三〇〇年、ダンテは三十五歳でした(彼はその二十一年後に死去)。私はそれよりはるかに歳をとっていますし、私に残されている余生が生涯の半分になるということはもはや決してありますまい。そもそも「われわれの生涯の半ば」というのが算術上の地点でないことは明らかで、私がこうしてお話している時に、どうして私の人生の全体の長さを知って、それを二等分することなどできましょう? むしろこれは、意味上の地点であり、おそらくは遅きに失するのでしょうが、新たな意味づけへの呼びかけ、変身の欲求が――人生を変えたい、過去を絶って新たに創始したい、ダンテが偉大な先導者ウェルギリウスの導きで暗キ森(・・・)のなかへと入ったように、入門者として指導に服したいという欲求が(私にとって、少なくともこの講演のあいだ、先導者はプルースト)――不意に私の人生に生じる瞬間のことをいうのでしょう。年齢とは、肝に銘ずべきことながら――肝に銘じるべきだというのも、それほどまでに誰しも他人の年齢に無関心でいるからで――年代的与件、ひと続きの歳月であるというのはごく部分的なことにすぎません。実際にはさまざまな年齢の区分、仕切りがあって、われわれはいわば人生を水門から水門へと経巡っていき、その航路の何個所かには、いくつか閾、段差、衝撃がある。年齢とは、漸進的なものではなく、突然変化するものなのです。それゆえ自分の年齢を見つめることは、その年齢がかなりの年配である場合、[“まだまだお若いじゃありませんか”といった]好意的な抗議をひきおこすはずの愛嬌などではなく、むしろ自発的な責務であって、この年齢にあって奮い立たせようという現実の力は何なのか、と問うべきなのです。そんな問が最近になって突然現われ、それがために私には現在が「私の人生の道の半ば」に当たる気がするのです。》

(あまり知られていないが、須賀はダンテ『神曲』の講読会を数年続け、人知れず翻訳も試みていた。)

《なぜ今がそうなのか?

「残された日が数えられる」、緩やかとはいえ不可逆な秒読みが始まる、そんな時間がやって来る(それこそ意識の問題だ)。自分が(・・・)死を免れないことは知っていた(・・・・・)(聞く耳をもった時から皆にそう言われてきた)が、突然、自分がそうなのだと感じる(・・・)(これは決して自然な感情ではない、自然なのは自分が死ぬことはないと思い込んでいることで、そこからあれほど多くの軽率な事故が起きている)。この明々白々たることが、それが身に滲みて体験された途端に、辺りの様相を一変させてしまう。何としても自分の仕事にひと区切りつけなければならないのだが、その仕切りの輪郭は、不確かとはいえ、もう出来上がっている(・・・・・・・・・・)ことが分かっていて(ここが新たな意識)、最後の仕切りなのだ。いやむしろ、仕切りは出来上がっていて、もはや<仕切りの外>はないというわけで、自分がそこに入れこもうとしている仕事がいわば厳粛なものに思えてくる。死に脅かされていた(あるいは、そう信じていた)病身のプルーストさながら、われわれは『サント=ブーブに反対する』のなかに概略引用されている聖ヨハネの言葉を見出すことになるのです――「まだ光のあるうちに仕事をせよ」と。

 それにまた(前のと同じ時期ながら)、自分のしてきたこと、仕事、著述が、同じことの繰返しとなる運命に思える時期がやって来る。何たること、相も変らず死ぬまで、私はさまざまな<主題>について論文を書き、講義や講演をしていくのか、その主題がほんの僅かに変わるだけで!(この<について>というのが私はいやなのです)。こんなことを感じるのは残酷なもので、私にはあらゆる新たなもの(・・・・・)、さらに言えば(・・)冒険(私は<突如として起こる>こと)への権利喪失を宣せられるに等しいからです。私の未来が、死に至るまで、まるで同じものをつなげた<ひと続きの列>に見えてくる。》

(バルトは当時六十二歳、二年後の一九八〇年三月に交通事故による不慮の死を遂げた。)

《最後に、ある事件(もはや単なる意識ではない)に遭遇することもあり、それが少しづつ堆積した土砂のような仕事に目印をつけ、切り込みを入れ、分節化し、そして私が「人生の半ば」と呼んだあの突然の変身、様相の一大転換を決定づけることになる。(中略)プルーストにとっての「人生の半ば」とは、生活の変革、新たな作品の創始がなされたのは更に数年後のことにすぎないとしても、間違いなく母親の死(一九〇五年)だった。残酷な喪、唯一の、何ものにも還元できないものとしての喪、私にはそれがプルーストの語っていた「個人の頂き」を形成しうるものに思えるのです。遅まきながら、このような喪が私には人生の半ばになることでしょう。おそらく「人生の半ば」とは、死がもはや単に恐ろしいというのではなく、現実であるということを発見する瞬間以外の何ものでもないのです。》

(バルトの母は、この講演の一年前、一九七七年十月に亡くなっている。)

《こうして辿ってくると、突然つぎのような明白な事実を思い知らされます。一方で、私にはもはやいくつもの人生を試みる時間がない。私の最後の人生、新たな人生(五十一歳にして二十歳の娘と結婚し、博物誌の新たな著作を書かんとしていたミシュレが言ったのは「新生(ヴィタ・ノーヴァ)」)を選ばなくてはならない。他方で私は、同じことの繰返しによる仕事の磨滅と喪失とによって立ち至らされているこの闇の状態(中世神学でいう修道士の鬱(・)状態)を選ばなくてはならない。ところで私には、ものを書く人間、書くことを選んだ者にとって、新たな書き方の実践を発見する以外に<新たな生>はありえないと思えるのです。教養、理論、哲学、方法論、信条を変えることは、華々しく見えるが、実際にはごくありふれたことで、そうするのは息をするようなもので、熱中し、熱が冷め、また再び熱中するだけで、知性が世間の驚嘆を気にかけるかぎり、理知的改心は知性の衝動そのものにほかならない。しかし、新たな形式を探求し、発見し、実践すること、これこそは私がその決定的要因を挙げた新生(・・)に見合うものだと、私は考えるのです。》

 

 バルトは、自身の「新生(ヴィタ・ノーヴァ)」への望みを語ったあと、トルストイ戦争と平和』とプルースト失われた時を求めて』のある挿話を読み返すという読書体験と、それによる教訓の話をする。

《この、私の道半ばにして、この私という個人の頂きにあって、二つのテキストを再読する機会がありました(実は、あまりにしばしば読み返すために何時のことだったか申し上げられないのですが)。ひとつは、残念ながらもはや書かれることはないほどの大小説、トルストイの『戦争と平和』を読み返したこと。ここでは作品についてではなく、ある深い感動のことをお話しします。この感動が私にとって頂点に達したのは、ボルコンスキイ老公爵の死に際して、彼が娘のマリヤにかける最後の言葉のところ、愛の弁舌(駄弁)を振うこともなく愛し合っていたこの二人の胸を死の間際になって引き裂く愛情の迸りのところです。二つ目は『失われた時』のある挿話を読み返した(ことでこの作品がここで出てくるのは、この講演の冒頭とは全く別の次元のことで、私が今ここで自分を一体化させようというのは話者(・・)の方にであって、作家にではない)、それは祖母の死の条りです。これはすみずみまでも純粋な物語である。私が言いたいのは、ここでは苦痛が(『失われた時』の他の挿話と異なり)何ら註釈の対象とならず、永遠の距離を生む、到来する死の残忍さが、間接的な事象や出来事(シャンゼリゼのあずま屋への立ち寄りや、フランソワーズの振う櫛の下で揺れる哀れな頭)を通してのみ語られているだけに、苦痛がここでは純粋であるということです。》

須賀敦子の場合は、シモーヌ・ヴェイユ体験、ダンテ『神曲』の講読会、『ユルスナールの靴』に結実したユルスナールの読書(『ハドリアヌス帝の回想』における「霊性の闇」「老い」、『黒の過程』の「異端者」「求道者」「放浪者」)、戦火のバルカン半島が舞台のアンゲロプロスの映画『ユリシーズの瞳』に「自分さがし」「ヨーロッパ」「地つづき」「共通言語へのひりつくような渇き」を観たことだったに違いない。)

《この二つの読書体験、それらがいつも私の内に掻き立ててくれる感動から、私は二つの教訓をひき出した。まず確認したのは、これらの挿話を私が<真実の瞬間>として受けとっていることであり(そうとしか言いようがない)、突然、文学が(ほかでもない文学が)身を切られるような別離の悲哀、ある<叫び>と、完全に重なり合うのです。愛する者から遠く離れて、思い出なり予測なりで、別離を味わっている読者の肉体に、じかに、超越的なものが触れるわけで、まさにいかなる悪魔(ルユシフエール)が愛と死とを同時(・・)に創り出したのかと問いたくなる。この<真実>の瞬間は<レアリスム>とは何の関係もない(そもそも真実の瞬間など、どんな小説理論のなかにも見当たらない)。(中略) 第二の教訓、私が小説とのあの熱っぽい接触からひき出した第二の勇気と言うべきもの、それは書くべき作品が(こう言うのも、私が自分のことを<書きたいと思っている者>と見なしているからだが)、ある感情をそうとは述べずに(・・・・・・・・)積極的に提示するのを認めるべきだということです。》

小説が持つ能力を――情愛あふれる、愛する力を――発展させ、果たしてもらいたい三つの任務を説明した後でバルトは、《ニーチェ流の類型学からすれば、小説(・・)は芸術(・・)の側に位置するのであって、司教職(・・・)の側に身を置くのではないのです》と述べ、《そしてここでまた私は、最後になりますが、方法論に行き当たるのです。私が実際、もはや何かについて(・・・・)語る者の立場ではなく、何かをつくる(・・・)者の立場に身を置く――生産物を研究するのではなく、生産そのものを担いたい。言述についての言述は廃棄したい。世界は、もはや対象という形ではなく、書くという形、つまり実践という形で私のところにやって来ることになる》と言う。

 バルトの「世界は、もはや対象という形ではなく、書くという形、つまり実践という形で私のところにやって来ることになる」に、須賀の言葉「書くべき仕事が見つかった。いままでの仕事はゴミみたいなもんだから」が、「小説(・・)は芸術(・・)の側に位置するのであって、司教職(・・・)の側に身を置くのではない」という信頼で重なりあう。

 

 ここで、創作ノートの「シモーヌ・ヴェイユを芯にして、つくってゆく」と「宗教の答えは一本だが、文学の答えはsimultaneousに多岐であり得ることについて これを小説の芯にする」を思い起こしたい。

 一九七〇年ごろのシモーヌ・ヴェイユ体験について書かれた『本に読まれて』の『世界をよこにつなげる思想』(初出はヴェイユ『カイエ4』月報(一九九二年))にはこんな文章がある。

《一九七二年に出版された筑摩叢書の、リースというイギリス人の書いた『シモーヌ・ヴェーユ』(山崎庸一郎訳)は、刊行年からみて、私が夫の死後イタリアから帰って、もういちど生活の方向をたてなおそうとしていた時代に読んだらしい。ポスト・イットなどという、糊のついた便利なしおりがまだ市販されていなくて、じぶんで細く切った白い紙に、要点やら感想を書きいれたのが、降伏の旗のようにあちこちにはさんである。「多くのものが教会のそとにあります。わたしが愛していて棄てたくないと考えている多くのもの、また神の愛する多くのものがそのそとにあります。わたしが愛するのでなければ、それらのものは存在しないはずだからです。最近の二十の世紀をのぞいて、過去の巨大な拡がりをなす、すべての世紀、有色人種の住むすべての国々、白人の国々におけるすべての世俗的な生活、その国々の歴史のなかで、マニ教やアルビジョワ派のように異端として非難されるすべての伝統、ルネサンスから出て、あまりにもしばしば堕落しているとしても、全然無価値とは言いがたいすべてのもの、そういうものが教会のそとにあります」

『神をまちのぞむ』からのこの引用は、このしるしをつけた二十年まえから今日にいたるまで、そしておそらくは私の生のつづくかぎり、ずっと私のなかで、ヴェイユに大きく呼応するはずの部分である。教会の中か、そとか、というような性急な選択をすることはない、いまの私にはそんなふうに思える。それを決めるのは、おそらくは、私ではないはずだとさえ思える。》

 

 アッシジと言えばヴェイユ『神をまちのぞむ』の有名な一節を思い起こすのが、ヴェイユを知る者なら自然だろう。ユダヤ人迫害を激化するナチス・ドイツ支配下のフランスを逃れたいという両親の嘆願を受入れ、アメリカへ渡る前に、ヴェイユ自ら「霊的自叙伝」と呼んだ、ペラン神父への長い手紙の一節にこうある、《一九三七年には、アッシジで素晴らしい二日間を過しました。サンタ・マリア・デリ・アンジェリの十二世紀のロマネスクの小聖堂に、その類のない清純な素晴しさの中に、ひとりでおりましたとき、そこは聖フランチェスコがたびたびお祈りしたところですが、わたくしは何か自分よりも強いものに強いられて、生まれてはじめてひざまずきました。》

 しかし、ヴェイユは丘を降りて行き、最後まで洗礼を受けず、教会の入口にとどまって、聖職者となることを拒んだ。

 一九五七年に須賀が『聖心(みこころ)の使徒』に掲載した『アッシジでのこと』には、若い須賀に決定的ともいえる影響を与え、次のイタリア留学の熾火になったに違いないアッシジ訪問が、硬く、息の短い、体言止めまである文体、回想の過去時制ではなく現在時制で断定されがちな若い文体ではあるけれども、熱く素直に語られている。

《雨が降っていた。聖週間にパリをたち、御復活祭をローマにむかえてまもないころだった。ポルティウンコラに近い、アッシジの駅から、四キロへだてた丘のうえに、サクロ・コンヴェルトの印象的な、白い廻廊が、灰色の空を背に長くつらなってみえた。それが、私の、はじめてのアッシジだった。(中略)

 サン・ルフィーノを出て、小さな坂道を降ると、サンタ・キアラに出る。この街にはめずらしい感じの、堂々としたゴチック建築。(中略)旅行者の「私」は、いつの間にか、ややほんとうに近い「私」に席をゆずっていた。どうしてか私にはわからない。けれども私は、たしかに、サン・ダミアノには、今でも聖(サン)フランチェスカと聖(サン)キアラが、まだそっくりあの時のままの生活をふたりしてつづけているとしか思えない。(中略)

 ふたりのよろこびは自らを包みきれなくなって、いわゆる、「聖キアラの庭」で昇華する。案内の若い修道士(フラテ)はうれしそうに云われた。ここで聖フランチェスカが太陽の讃歌をつくられたのだということです、と。

 庭とは名ばかり、三方を高い石の壁にかこまれた一坪ほどの細長い空間である。(中略)

 この小ささ、そしてこの豊けさ。一週間まえあとにしてきた勉強が、パリの美しさ全部が、私の頭の中で廻転しはじめ、淡い音をたてて消えてしまった。力づよい朝の陽光にたえられず、橙々色にしぼんでしまう月見草の花のように。講義、図書館、音楽会、展らん会、議論。私にとってあれはみな、幻影にしかすぎぬものなのではなかったのだろうか。私の現実は、ひょっとすると、このウムブリアの一隅の、小さな庭で、八百年もまえに、あのやさしい歌をうたった人につよくつながっているのではないだろうか。私も、うたわなければならぬのではないだろうか。

 しばらくやんでいた雨が、またぱらつきはじめた。案内の修道士(フラテ)が、金魚の水溜りに浮んでいた二三枚の葉をとりのけてやりながらつぶやいた。雨だよ、たくさんあたっておたのしみ。》

 須賀は恥らいから秘すかのようにヴェイユのことに触れない。一行空けて、後半が待っている。

《丘を降りて汽車にのってからも、あれから三年たった今も、私には、あの時の時分のおどろきがわすれられない。(中略)夏休みも半ばをすぎ、パリに帰る日が近づいたある夕方、私は、カムパアナ家の人たちと、おわかれにアッシジの丘をのぼった。四月の雨の日の訪問からかぞえて八度目であった。私への名残りを惜しむかれらにくらべて、しかし、私の心は、もっと複雑だった。アッシジの町の後にそびえる、ロッカ・マジョオレの城跡のくずれかかった石の間を跳んで歩きながら、私は、ほんとうはどうすればいいのかわからないと思っていた。(中略)星が野が、町がこたえた。私たちのフランチェスコも、丘を降りて行った。だれでも一度は丘を降りなければならない。おまえのいのちは、この夏、ウムブリアの野にうまれた。うまれたばかりだから、わたしたちは大切にそだてた。しかし、もういいだろう。おまえにも丘をおりる時がきたのだ、と。月が登りはじめた。ひえびえとした九月の夜風が、荒れた城跡を白く吹きぬけて行った。もうあれから三年になる。あれ以来、まだ私はアッシジをたずねていない。私が丘を降りてからのはなしを、かれらは風のたよりにきいているかもしれない。そして、ひょっとしたら、いつ私が帰ってくるかも、知っているかもしれないのだ。》

 一九五七年の「いつ私が帰ってくるかも、知っているかもしれないのだ」は須賀の内部の深くにタネとして宿りつづける。実際、須賀はその後も何度かアッシジを訪ねている。創作ノートに「「わたし」がアッシジで出会ったダニエル」と記された一九六〇年三月のアッシジ行きは、(二年後に結婚する)ペッピーノ・リッカ宛書簡(岡本太郎訳、『須賀敦子全集 八巻』)で読むことができる。当時の須賀の人柄、自己省察、自覚、さまざまな思い、関心、感受性、悩み、苦しみ、愛の対象を見出せるので、長くなるが引用する(偶然にもダンテについて研究していたダニエルについては『コルシア書店の仲間たち』にも時系列に差異はあるものの「共同体」について語り合った場面がある)。須賀ははじめから「二つの道、二つのジャンルの十字路にあって、二つの<方向>に引裂かれていた」のであり、それをどう乗り越えるかが長年の宿題だった。

 

三月八日 ローマ

 親愛なるペッピーノ、

 お手紙ありがとう、アッシジで受けとりました。

 さて、それではアッシジの滞在記です。私は三月二日、火曜日の夜に着きました。前に(たしか)あなたにお話ししたように、この町に行こうと決めた理由の一つは、シャルル・ド・フーコー神父の友愛会の精神についてさらに知り、理解を深めたかったからでした。そして「イエスの小さい姉妹の友愛会」があることを知っていたので、できれば彼女たちに会いたかったのです。(中略)

 夕食のテーブルで私は若いフランス人女性のダニエルと知り合ったのですが、彼女はパリの高等師範学校の学生で、ダニエル―神父の友だちで、今は「神曲」におけるダンテの愛の概念についての論文を書くためにローマに滞在中なのです。私たちはすぐに話はじめました。ああペッピーノ、私が心を開いて話のできるフランス人に出会うのはそうそうあることではないこと、おわかりでしょう。ひどい返事をしたり、いいかげんなことをたくさんいってしまうことがよくあるのですが、それも、彼らの、ある種の優越感に支えられた過度の好奇心に苛立たされるからなのです。でもダニエルとはまるでそんなことはありませんでした。夕食のあいだじゅう打ちとけて話ができたのです。私たちはおやすみのあいさつをいって、私はこの思いがけない出会いにうれしくなっていました。

 ダニエルにとってアッシジに来るのははじめてでした。そこで翌日私は案内役を買ってでたのです。私たちは一緒にサン・ダミアーノ教会に向かいました。小さい姉妹会のことをいってみますと、彼女も直接会ったことはなく、訪ねてみたいということでした。二人でなら思い切ってやってみられるかもしれません。

 大切なペッピーノ、ここで、アッシジに発つ数日前に起きた不思議な体験のことをお話ししたいと思います。体験、と私は呼んでいるものの、実際はただの夢なのですけれど。

 あたりはもうすっかり春です。どの丘も鮮やかな緑におおわれていて、桃の甘い花はまるでうれしさのあまり泣いているかのようです。私はひとり満ち足りた思いで歩いていました。

 すると突然、丘の上のひどく貧しい小屋が目に入りました。その脇には鶏小屋がありました。

 私はたずねました――あそこには誰が住んでいるかしら? 声が答えました――小さい兄弟たちだよ。

 私にはまるでショックのようなものでした。土の匂いを、鶏小屋や、桃の花や、草の匂いと一緒に感じたような気がします。そしてそういった一切が、彼らの生活の素朴さ、質素さのイメージであり、その根源的なかたちであるかのように私には思えたのです。それと同時に彼らの貧しさと、私の傲慢さを、私の自分自身の粉のような乏しさにもかかわらず、常にあらゆるものを批判しようとしてきた、どうしようもなく尊大な態度をはっきりと思い知ったのです。

 それでもこの自覚は不愉快なものではありませんでした。むしろ私はうれしく感じていました。こうしたことをすっかり理解することができてうれしかったのです。私は泣きだしました。苦い涙ではなかったことをよく覚えています。まるで胸を張って泣いているようでした。この、アッシジの平野を流れる小川のひとつのように。そしてあまりにもひどく泣いたおかげで目が覚めてしまいました。

 姉妹たちのもとでの冒険にもどりましょう。私たちは一時間ばかりいたように思います。時間を無駄にさせてしまってとても恥ずかしく感じていました。でも同時にすっかり魅了されてしまっていて、いとまを告げられずにいたのです。

 昼食の時間に間に合うように急いで道を上ってゆかなければなりませんでした。歩きながらダニエルはいいました。

 ねえ、あなたも彼女たちみたいになってみたいという気にならなかった? あんな純粋な生活を送ってみたいって?

 ええ、たしかに。でもね、小さい姉妹会の生活をそのまま送るというのは私のするべきこととは少しちがうように思うの。彼女たちの精神性は私になにか決定的なものをもたらしているのはたしかなのだけれど、私が生きるべき世界は彼女たちのとは少しちがうように思えるのよ。ダニエル、あなたはどう?

 私もよ。(中略)

 ダニエルは間違いなく、今までに私が会った若い女性の中でも、もっとも聡明な一人です。彼女の論理の明快さ、考える筋道の厳格さには本当に感心させられましたし、しかもとても気持ちの良い人なのです。それに私は彼女のうちに、あらゆる凡庸なことどもを乗り越えて、真の神聖さにたどり着こうとする大きな思いがあることに気づきました。私はローマに帰って来ましたが、数日のうちには彼女ももどってくるはずです。私たちはできるだけ会って、一緒に勉強をしようと約束しました。あなたもいつか彼女に会って、多くのことを理解できるように手を貸せるのではないでしょうか。(中略)

 大切なペッピーノ、私に良きアッシジ滞在を願ってくれた、心から感謝します。たしかに、たくさん人に会ったりせずに、もっとゆっくり過ごすつもりでした。でもごらんのとおりまったくちがう結果になりました。でも、本質的なことは、私が再度、自分の毎日の歩みの方向を確認できたということなのです(ダニエルには、やっと生きはじめたように思う、といいました……)。(後略)

 またのお便りお待ちしています。あなたの、               敦子》 

 

 そして四十年後、アッシジという場所ではないが、より文化、宗教、戦争、ネーション=ステートが混淆したアルザスという「はざま」の地に、「あらゆる凡庸なことどもを乗り越えて、真の神聖さにたどり着こうとする大きな思い」で、「自分の毎日の歩みの方向を確認できた」成熟を芯に、白いハスの花を咲かせるために帰って来た。

 

《●CalvinoのBorges論にある、DanteのUgolinoの解釈

 現実

 宗教の答えは一本だが、文学の答えはsimultaneousに多岐であり得ることについて

 これを小説の芯にする》の「宗教の答えは一本だが、文学の答えはsimultaneousに多岐であり得ることについて これを小説の芯にする」とは、須賀が翻訳したイタロ・カルヴィーノ『なぜ古典を読むのか』で、カルヴィーノが、ダンテ『神曲』の「地獄篇」に登場するウゴリーノを論じたボルヘスの文章を次のように論じたことから来る。

《現実の時間や歴史の時間のなかで、いくつかの選択肢のまえに立たされたとき、人は、そのひとつを選び、他の可能性を排除して、これを失う。だが、希望や忘却の時間に類似する芸術の曖昧な時間においては、そんなことはない。そういった時間のなかにいるハムレットは、精神が正常であると同時に狂人でもある。飢餓の搭に幽閉されたウゴリーノは、愛する息子たちの遺骸を食し、同時に食さない。揺れうごくこの不確かさ、この不安が、ウゴリーノの本質なのである。そこで、ふたつの可能な苦悩にさいなまれるウゴリーノを、ダンテは夢に描き、これからの何世代もが夢みるのだ。》

 雑誌「新潮」一九九六年一月号にぽつんと掲載された『古いハスのタネ』は、ダンテから十九世紀英国詩人ホプキンズへと、「宗教と文学」の関係をヴェイユ『カイエ』を思わす断章で並置してゆく、須賀には稀な難しい文章だ。

 ダンテについては、《ダンテの『神曲』は、巨大な天幕のようにキリスト教が<普遍的な宗教>として、西欧人の思想と生活のすべてを蔽(おお)っていた時代に書かれた、西欧中世を代表する文学(・・)作品だ。作者は、人間とはどういうものか、なにを追究して生きるか、というテーマを、比類ない力づよさ、写実性をもって描きあげる。だが、ダンテがあまりなんでもないふうに宗教の話をするので、後世の読者は、いや、学者さえも、おもわず文学と現実、詩と宗教をとりちがえて混同することがある》から始まる。

《枠組はどっぷり中世的、キリスト教的であっても、知識の分化が行なわれなかった時代に生きたダンテが、なによりも野心をあおられ、興味をそそられたのは、百科辞典的な知識の集成を物語に織りこむことだった。同時に、人間そのものを、また人間の知識や欲望を根底でささえているエネルギーについての話を、物語誌としてどのようにまとめ、どのような詩形式に表現すればよいか、といった巨視的な意図に、彼は支えられていた。

                      *

 ダンテが、彼の分身を最後には神の実在に沈潜させるというかたちでこの作品を結んでいるのも、知識の総合性を重んじた中世らしい発想だ。断片性を価値としてみとめる慣習は、近代になって生れた。

 それでも、あの有名な神秘の薔薇の白光に照らされ、歌にみちた<神によみせられるものたち>の幸福は、人類がかつて想像しえた、最高の歓喜の表現であることに変りはない。》

 須賀は、さきのウゴリーノの逸話を、トスカーナ育ちの友人が幼い頃、老農夫から語って聞かされた話として織りこみ、《現在の私たちが詩と呼び、宗教と呼ぶものが、ダンテの時代とは比べられぬほど、部分的で断片的であることに、私たちは気づく》、《一見、キリスト教にすべてが括られていたようなイタリアの中世に書かれたのではあっても、『神曲』は、すでに言葉の世界が、それとは別の山として、ひとり歩きをはじめたことを物語っている》という、自分の現在の思いに引きつけた重要な断章の後に、以下の一節と内心の吐露で結ぶ。

《『神曲』の地獄篇第二十六歌で、旅人ダンテはオデュッセウスに出会う。ダンテのオデュッセウスは、私たちの知っているホメロスの、ついには息子や妻のもとに帰りついてほっとするイサカの英雄ではなくて、道に迷ったまま、<老いて気も萎えた>オデュッセウスで、彼と彼の仲間たちを乗せた船はとうとう、<世界の果て>と中世人が信じていた、ジブラルタルの岩にさしかかる。(中略)

 それにしても、人間に許される以上を知ろうとした罪、その冒険に仲間を誘いこんだ罪で、地獄の最下層に閉じ込められているオデュッセウスと、宗教のみちびきとは別々に、太陽の光が射さない詩の世界にさまよい出たダンテとの相似性は見逃せない。ジブラルタルの岩の向こう側こそが、ダンテの文学がはじまる場であるように、私には思える。

                      *

 文学と宗教は、ふたつの離れた世界だ、と私は小声でいってみる。でも、もしかしたら私という泥のなかには、信仰が、古いハスのタネのようにひそんでいるかもしれない。》

 

 そして唐突に、吉行淳之介の短編小説『樹々は緑か』が紹介される。

《数日まえ、吉行淳之介の『樹々は緑か』を学生たちと教室で読んだ。あまり知られていない短編で、こんなふうに始まっている。

<陸橋の上で、伊木一郎は立止って、眼下に拡がっている日暮の街に眼を向けた>

 なんてやわらかな始まりだろう、疲れていたのだろうか。夕方の授業で、三十人ほどの学生がいて、そのなかの、五、六人はいつもいっしょうけんめい聴いていて、それがかえって私を不安にする。聞かれても、聞かれなくても、教師は不安だ。

 さて、伊木は三十三歳で、夜間高校の教師をしている。たぶん下町を見下ろすらしいその橋のうえで、彼は自分の気持を測っている。街を覆う靄のなかに、とても降りて行けない気分か、それともちょっと勇ましく降りて行ける気分か。私も、しじゅう、ふたつのあいだを揺れている。行けばいいのか、行かないほうが彼にとって無事で済むのか。(中略)

 小説がその先、どういう展開になったのか、鮮明な記憶はない。なんとなく終ってしまったような気もするが、私はほとんど泣きふしたいほどの感動につつまれた。そのとき、なんの脈絡もなくダンテの神秘の白い薔薇があたまに浮かんだ。

 これといった筋もないまま、思いの揺れだけで進行するこの作品の底に重く置かれた性の孤独――それはとりもなおさず生の孤独なのだが――に、私はいきなり突き刺された感じだった。古いハスのタネのせいかもしれない。

 もしも、いま、宗教といってよいものがあるとすれば、この小説に似ているのではないだろうか。橋のうえで、どうしようかと靄のかかった街を眺めている伊木一郎に、私はかぎりなくなぐさめられていた。》

 

 創作ノートに「アルザスの自然、政治的背景、それがたとえば先年のストラスブール文学者会議にかかわってもよい」と、[欄外の手書きメモ]「ジャン・リュック・ナンシー 朝日夕刊、2月3日 清水克雄インタビュー」がある。

「先年のストラスブール文学者会議」とは、一九九三年の、アルザスストラスブールで「世界の叫び」という題の下に開催されたシンポジウムで、ジャン=リュック・ナンシースーザン・ソンタグジャック・デリダサルマン・ラシュディらが参加している。

「ジャン・リュック・ナンシー 朝日夕刊、2月3日 清水克雄インタビュー」とは、一九九七年二月三日朝日新聞夕刊の文化面、「未来へ! 二〇世紀の「知性」に聞く」のインタビュー記事「喪失感の時代越え 目覚める人類の自己意識」のことだ。須賀は、「ストラスブール文学者会議」の司会者だったアルザス育ちのジャン=リュック・ナンシー(スロラスブール大学教授)の声に、かねてからの「文学と宗教」への関心に加えて、戦争、希望、現実、神の不在に感応し、歴史的十字路であったアルザスを舞台に、「断片」を超えて「人間の尊厳」の下で総合的に書かれるべき、自らの小説の姿を野心的にだぶらせたのだろう。

《――科学文明への期待で幕を開けた二十世紀は、実際には戦争と強制収容所の世紀でした。民族紛争や貧困の問題も残されたままで、未来に希望が見えない状況があります。

「今世紀は破壊的で恐ろしい時代でした。教訓は、破壊や悲劇が未来のユートピアをめざすイデオロギーや、社会問題を解決しようとする計画によって起きたことでした。夢は破局に終わり、いまではだれも未来を信じなくなっています。その結果、私たちは二十世紀を幸福な時代として懐かしむことも、二十一世紀を夢見ることもできない状況におかれています。過去も未来も失ってしまった二重の喪失感があるのです」

――それが現在の人類の危機につながっているのですか。

「ヨーロッパでは、ローマ帝国が滅亡した時にも、ひとびとに大きな喪失感がありました。振り返ってみると、それは大きな歴史の一つの過程にすぎなかったのです。古い世界の秩序が崩れようとしているという意味では、現在も危機の時代といえますが、それは次の新しい世界が生まれる過程でもあるのです」

――新しい世界に希望を描くことはできますか。

「私は楽観主義者だとは思っていません。しかし、人類の将来については希望をもっています。人間が二十世紀の歴史から何も学ばなかったはずはないからです。ボスニアの戦争は確かにひどいものでした。しかし、民族浄化の危険に気づくことができたのは歴史に学んでいたからです。責任の追及は十分とはいえないが、ナチのホロコーストが見過ごされた時とは違っていたのです」(中略)

――現実の世界では、民族や宗教の違いをめぐる争いや暴力的な混乱が続いています。

「大きな時代の変化への恐れから、自分たちだけの狭い世界に戻ろうとする動きがあるのは確かです。平等や博愛といった言葉が中身のない空疎なものになっていることにも見られるように、危険な動きに対抗する思想がないという問題もあります。しかし、たとえば、民族にとらわれない開かれた歴史教育をめざす動きはフランスでも広がっています。二十一世紀の世界は開かれた方向に向かうと私は確信しています」

――新しい生きた思想や哲学が生まれないことには、知識人も責任があるのではないですか。

「もちろん責任はありますが、特権的な知識人が真理を教えるという時代は、間違った夢を信じた二十世紀の知識人とともに終わってしまったのです。新しい思想は、ひとがともに生きている現実に目を向ける中から生まれるはずです。それは知識人だけの役割ではないのです」

――新しい思想や哲学が生まれる可能性はあるのでしょうか。

「二十世紀の一番大きな出来事は、神が本当に死んだことだと私は思っています。神の死は十九世紀に宣告されていたけれど、影は残っていました。人間を超えた絶対的な神の不在は、人間の存在も変えてしまうのかもしれません。フロイトは人間は生まれていくものだと言っていますが、人間に代わる何かは、すでに生まれているのかもしれません」》

 

 プルーストには「決定的な躊躇の時期があったようだ。実際プルーストは、二つの道、二つのジャンルの十字路にあって、二つの<方向>に引裂かれていたのであって、ちょうど話者(・・)が、ジルベルトとサン=ルーが結婚するまでの非常に長いあいだ、スワン家の方がゲルマント家の方に到達することを知らないのと同じで、両方向が一緒になるかもしれぬことなど知る由もなかった――その二つの方向とは、(批評の)評論(・・)の方向と小説(・・)の方向だったのです」とバルトは考察した。

須賀は、『アルザスの曲りくねった道』を書き始めることを念頭に、鈴木力への手紙に「ながいこと私のたゆたい・試行錯誤に、たぶんあきれながらもおつきあい下さりここまで待って下さったことについては、力さんをはじめ新潮社の方たちのご寛容に感謝の気持でいっぱいです。」と書き送った。

「文学と宗教は、ふたつの離れた世界だ、と私は小声でいってみる。でも、もしかしたら私という泥のなかには、信仰が、古いハスのタネのようにひそんでいるかもしれない」と言い、「教会の中か、そとか、というような性急な選択をすることはない、いまの私にはそんなふうに思える。それを決めるのは、おそらくは、私ではないはずだとさえ思える」と言う。

 バルトの「書きたいという欲求(・・・・・・・・・)」「内なるものが私の内で語りたいと欲し、一般性や科学と対峙して、その内心の叫びを聞かせたいと願っている」と同じく、右足にダンテ、左足にヴェイユという「歩き靴」を履いた須賀は、秘めた「生の孤独」のうちに時の天命が熟すのをずっと待ち、「さいごに、ユリシーズのように、彼女も出発点にもどる」。

「揺れ動く不確かさ」「思いの揺れ」「たゆたい・試行錯誤」を肯定的にとらえた須賀の白いハスの花『アルザスの曲りくねった道』は、ダンテの「神秘の薔薇の白光」と同じ輝きを放って「ジブラルタルの岩の向こう側」を照らすはずだった。

                          (了)

            *****参考または引用文献*****

*『須賀敦子全集 全八巻および別巻』(河出書房新社

*ナタリア・ギンズブルグ『ある家族の会話』須賀敦子訳(白水社

ロラン・バルト『長いあいだ、私は早くから寝た』吉田一義訳(『現代詩手帖 一九八五年十二月臨時増刊 ロラン・バルト』(思潮社))

ロラン・バルト『明るい部屋 写真についての覚書』花輪光訳(みすず書房

ロラン・バルト『人はつねに愛するものについて語りそこなう』(『テクストの出口』沢崎浩平訳(みすず書房))

湯川豊須賀敦子を読む』(新潮社)

湯川豊篇『新しい須賀敦子』(集英社

*『三田文学 2014冬 特集須賀敦子』(三田文学編集部)

*『考える人 特集 書かれなかった須賀敦子の本』(新潮社)

*『文學界 平成11年5月号 没後1年特別企画「須賀敦子の世界」』(文藝春秋

松山巌須賀敦子の方へ』(新潮社)

イタロ・カルヴィーノ『なぜ古典を読むのか』須賀敦子訳(みすず書房

シモーヌ・ヴェイユ『神を待ちのぞむ』渡辺秀訳(春秋社)

リチャード・リース『シモーヌ・ヴェーユ』山崎庸一郎訳(筑摩書房

*『朝日新聞 夕刊、一九九七年二月三日』(「未来へ! 二〇世紀の「知性」に聞く」「喪失感の時代越え 目覚める人類の自己意識」)

文学批評  「『ヴェネツィアの宿』でひらかれる須賀敦子の小説」

 「『ヴェネツィアの宿』でひらかれる須賀敦子の小説」

    

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 須賀敦子は、生前五冊の本を出版している。

 六十一歳で刊行した『ミラノ 霧の風景』(一九九〇年)からはじまって、『コルシア書店の仲間たち』(一九九二年)、『ヴェネツィアの宿』(一九九三年)、『トリエステの坂道』(一九九五年)、『ユルスナールの靴』(一九九五年)である。これらは、数年にわたって雑誌に書いた作品を一冊にまとめたものであったり、書きおろしであったり、十二か月の雑誌連載であったり、さまざまである。

 他によく知られた『遠い朝の本たち』『時のかけらたち』『本に読まれて』『イタリアの詩人たち』『地図のない旅』『霧のむこうに住みたい』『塩一トンの読書』『こうちゃん』は、死後の一九九八年から二〇〇三年までに世に出たものだ。

 須賀敦子は、イタリア文学の翻訳者としてさきに知られ、ナタリア・ギンズブルグ『ある家族の会話』『マンゾーニ家の人々』、アントニア・タブッキ『インド夜想曲』『遠い水平線』、イタロ・カルヴィーノ『なぜ古典を読むのか』、ウンベルト・サバウンベルト・サバ詩集』などを一九八五年から翻訳出版している。しかしもっと評価されるべきなのは、ずっとはやくの一九六三年から、谷崎潤一郎春琴抄』『蘆刈』、川端康成『山の音』、漱石、鴎外、一葉、鏡花などをイタリア語に翻訳出版することで日本文学を彼の地に知らしめたことだろう。さらに遡れば、一九五七年から一九六八年にかけて、限られたカトリック信者を読者とする『聖心(みこころ)の使徒』(日本祈祷の使徒会)という雑誌に、『シエナの聖女』、『アッシジでのこと』などのエッセイを書くことから、執筆活動は地味ながらスタートしていたといえる。

 須賀の作品は、しばしば「小説風の自伝的エッセイ」などと、たんなる「エッセイ」ですまない形容を重ねた表現で紹介されるが、その早すぎた晩年、須賀が小説を書こうとしていたのは知られるところだ。全集に収められた松山巌による詳細な年譜によれば、死が三年後に来るとは知りえなかった一九九五年ごろ、その意思、構想を知人に相談し、創作メモも残している。翌一九九六年九月には小説の舞台となるアルザス地方を歩き回り、十月には序章を書き始めた(未定稿が、創作メモとともに全集に収められている)。しかし、すぐに体調悪化、年明け一九九七年一月に入院となって、体調すぐれず、一九九八年二月には見舞いに来た松山巌に「書くべき仕事が見つかった。いままでの仕事はゴミみたいなもんだから」と語ったけれども、三月二十日に帰天。享年六十九歳、ついに小説『アルザスの曲がりくねった道』を書き終えること、叶わなかった。

 

<『ヴェネツィアの宿』/プルースト

ヴェネツィアの宿』は、文芸誌『文學界』に一九九二年から一年間にわたって連載発表された『古い地図帳』に加筆訂正、単行本として一九九三年に刊行された。

十二篇からなり、『ヴェネツィアの宿』『夏のおわり』『寄宿学校』『カラが咲く庭』『夜半のうた声』『大聖堂まで』(初出時は『待っている人』)『レーニ街の家』『白い方丈』『カティアが歩いた道』『旅のむこう』『アスフォデロの野をわたって』『オリエント・エクスプレス』である。エッセイとして読むと、どうにもまとまりなくばらばらにみえるが、旅の宿、父のこと、母のこと、親戚のこと、少女時代のこと、留学時代のこと(ローマ、パリ)、キリスト者としての体験、修道女のこと、自分を探すこと、京都での不思議な話、知人との出会い、音楽、歌声、などのテーマが、夫・家族・親しい知人の死とともにあらわれては消え、父の逸話が円環構造になっていたりと、決して一本調子ではなく、建築に興味があった人らしく構造的なのがわかる。読み進めれば、物理的時間の流れのとおりではなく、場所もあちこちに飛ぶ。作品それぞれの中でもまた追憶に向かいがちだ。過去時制を多用した文体で時間、空間が自在に往き来する回想小説と思って読めば、その構成の美意識がわかろうともいうものだ。

 どういう文体で、どういうふうに書けばよいのかをつねに考え、口にしてきた須賀の文章は、あらすじを書いても抜け落ちるものが多すぎるので、なるべく文章そのものを引用しつつ、文体の考察を主に魅力の秘密を解く鍵を探しながら、読解を試みたい。

 

冒頭の『ヴェネツィアの宿』は本の全体と結末をよく構想したうえで、細部のエピソードにいたるまで意図をもって書きこまれ、のちのいくつかテーマを予兆している。人物の登場のさせ方がさりげないうえ、ときにドラマチックさも計算されているのは、連載時の題名が、本の最後の最後に登場する父の「古い地図帳」からとってきていることからも、あきらかだ。

 書きだしは、《シンポジウムが開催されるヴェネツィアの空港に着いたのは、正午ちょっとまえだった。》 現在に近い過去であるにも関わらず、遠い昔のように過去時制の末尾を持つ、柔らかなひらがなを織り込んだ息の長い回想の文体が紡ぎだされてゆく。フェニーチェ劇場の広場に面した宿に向かうが、その夜は歌劇場の創立二〇〇周年を祝うガラ・コンサートで、入れなかった人たちのために、スピーカーから舞台の音が中継されている。《デイバッグを背負ったままで、男の子の胸に頭をもたせて聞きほれている少女》、《頭をあげたままうずくまる金色の髪の青年》、《用意よく小さな金属製の折りたたみ椅子にこしかけている夫婦らしい白髪の男女》、《四、五人つらなっている女子学生ふうの一群》のいきいきした描写に続いて、早くも光と音による追想がはじまる。

《そのうえを光と音がゆっくりと流れていて、まるで、どこか遠いところの川底で夢を見ているようだった。

 魔法のように目前にあらわれたその光景と、それを包んでいる音楽が、忘れかけていた古い記憶にかさなった。ある夏の夕方、南フランスの古都アヴィニョンの噴水のある広場を友人と通りかかると、ロマランの茂みがひそやかに薫る暮れたばかりのおぼつかない光のなかで、若い男女が輪になって、古風なマドリガルを楽器にあわせて歌っていた。》

 しかし、客観と自己省察の人は、ただ甘いだけの思い出に流れこんではゆかない。身なりはヒッピー風だったが、歌声はしっかりした音程だった。《あ、中世とつながっている。そう思ったとたん、自分を、いきなり大波に舵を攫われた小舟のように感じたのだった。ここにある西洋の過去にもつながらず、故国の現在にも受け入れられていない自分は、いったい、どこを目指して歩けばよいのか。ふたつの国、ふたつの言葉の谷間にはさまってもがいていたあのころは、どこを向いても厚い壁ばかりのようで、ただ、からだをちぢこませて、時の過ぎるのを待つことしかできないでいた。とうとうここまで歩いてきた。ふと、そんな言葉が自分のなかに生まれ、私は、あのアヴィニョンの噴水のほとりから、ヴェネツィアの広場までのはてしなく長い道を、ほこりにまみれて歩きつづけたジプシーのような自分のすがたが見えたように思った。》

 中世とつながった時間の糸。アヴィニョンの噴水からヴェネツィアの広場までの長い時間、そして、ヴェネツィアの広場からこれを書くまでの長い時間。須賀作品は、ぶつりぶつりと断片化された時間の物語ではなく、それらがすべて一本の時間の糸でつながっていて、自在にたぐりよせられる。空間もあちこちに、「歩きつづける」場面が、時空をかえては、この本のテーマのひとつとしてあらわれるだろう。

 音楽に身をまかせたい気がしたが、いつにない疲れを覚え、五階の船室ふうの屋根裏部屋まで登る。暑気で部屋はなまぬるく、せまいベッドの、つめたい麻のシーツに身をよこたえたが、からだがほてって、だるい。アスピリンを一錠のんでから、正方形の小窓をあけると、音楽が、待っていたようにどっと流れこんできた。《ずっと、自分は音楽には入りこめない、音楽がこちらを向いてくれない、と思いこんできた。いや、音楽のもってくる感動があまり純粋で、言葉にも色にも形にもすることができないのを、ひたすら恐れていたのかもしれない。》 この先も音楽と歌のテーマはしばしば顔をのぞかせるだろう。

 すこしとろとろとすると、教会の鐘の音で目がさめる。あらしのような拍手が追いかけた。私はもうひとつの音楽会のように、白いシーツのなかで目をとじて聴いていた。やがて、劇場の横の路地を通る人々の人声と靴音が窓を通して部屋にはいってきた。《私も音楽会帰りの群衆のひとりになって窓の下を歩いている、そう思えてしまうほどに、興奮した声のピッチが、キャビン・ベッドの周囲を跳ねまわった。》

 そうして、プルーストの小説冒頭のコンブレーのように記憶が「ピッチの声」とともによみがえり、反抗心もともなって父が記憶の門をあけて入ってくるのだった。

《パリで学生だった四十年ちかくもまえに、生活費をきりつめて、つぎつぎに出かけたピアノ演奏会の記憶が、満月の光だけの小部屋にひとつひとつ戻ってきた。若いサンソン・フランソワショパンを聞いて、楽屋まで会いに行ってしまった夜。(中略)帰り道には、私もこんなピッチの声で友人と印象を語りあったのだろうか。都心からカルチエ・ラタンの学生寮まで、凍りつく冬の夜を頬をほてらせて歩いて帰ったこともあった。父に手紙でその興奮を伝えると、二枚きりの、いつもの大きな字で書いた返事がきた。音楽もよいけれど、勉強はしているのだろうか。すこしはしゃぎすぎてるように思う。それを読んで、かなしかった。寒い毎日の図書館通いや、聞きとるだけでも大変な大学の講義のことは、心配かけまいと思ってわざと書かなかったのに。自分こそ、ヨーロッパ旅行をしたときは、それこそぜいたく三昧で遊びほうけていたくせに。》

 そこから、一九三五年の父のヨーロッパからアメリカにかけての一年近い大旅行の説明となって、ヴェネツィアに来たときは、どんな豪華なホテルに泊まったのだろうかとか、ベネチア、と彼はこの海の都の名を発音していて、ムラーノとか、ブラーノとかのガラス工場をたずねた話を聞いたことなどを思いだした。《レース編みをする女たちを見て、日本で待っている母を億っただろうか。家では子供がうるさくていつもいらいらしていたくせに、旅に出ると、私たちのことがなつかしかったのだろうか。三十歳になったばかりの父は、一時的にせよ大家族の家長の座から解放されて、ただ有頂天だったのではなかったか。》

 四角い小窓からは音が伝わらなくなって、枕がひんやりと頬にふれてほっとする感覚があった。大旅行中に、母を億っただろうか、とか、うるさい子供のことから解放されたのではないか、といった微笑ましいひとつの家族、幸福に結びついた家庭の話題を卓袱台返しするかのような思い出が、たった一行の空白で、戻ってくる。

《父がふたつの家庭をもっているのを知ったのは、私がはたちのときだった。いろいろ話したいことがあるから、帰ってきてください。戦後はずっと病身だった母から東京の大学の寮に手紙が来て、私は十一月のはじめの短い休暇に帰省した。》

 母も登場してくる。「私」が東京の大学の寮にいること、実家は夙川(しゅくがわ)であることもさりげなく語られてゆく。

《夕食のあと、ふたりだけになるのを待って、母がぽつりと言った。パパが家を出ちゃったの。会社にも出てないらしい。いやだなあ、と思った。(中略)病気だったの? 私は訊ねた。京大病院のお医者にかかってたみたい。(中略)こんどばかりは、はっきり、うらぎられちゃったみたい。そう言って母は小さな笑い声を立てた。》

 うまくひらがなを織りこんでの会話(とりわけ母の会話には、ひらがなと「……みたい」を甘いオブラートのように響かせて)を地の文にとけこませる文体は、須賀がギンズブルグを翻訳することや、『源氏物語』、谷崎から学んだことだが、文体については、のちほど詳しく論じたい。

 数日後、「私」は父が入院しているかもしれない京大病院を訪ねてみる。京都までひとりで行くのは、はじめてだった(年譜に拠れば、現実にはひとつ下の妹と一緒だったが、一人で行ったことにするほうがドラマチックな効果がでるのを狙っての表現にちがいない)。名を言うと、勘があたったが、病室に行くとベッドはからっぽで、看護婦さんが、いまお散歩に出られました、と言った。庭に降りると、広々としたポプラの並木道に出た。むこうから父が来た。ここからの文章は、いくらでも「私小説」の愁嘆場として告白調で書けるのに、じめじめせず、トスカーナの空のように澄んで乾いている。いつも自分の内面をあからさまには語らず、他の人の描写でそれを代弁するが、ここでは冷静な観察眼と洞察力をもった「私」が前面に出ての矜持さえあって、自分と他者との距離感が心地よい。

《すきとおるような秋のひかりのなかを、さっさっときもののすそをひるがすようにして、父が女の人とこっちにやってくる。休日に私たちと出かけるときとおなじように白足袋をはいた父の足もとがまぶしかった。(中略)

 こんなところで、なにをしているんだ。父がこわい声で言った。遠くからは元気そうにみえたのに、向いあってみると、ひげがのびて、目がくぼんでいた。パパこそ、そう言うのがやっとだった。泣いてはだめだ、と思いながら、つけくわえた。パパを探しに来たんです。(中略)

 病気だったらうちで寝てればいいのに。それに大阪にだって病院はあるでしょう。父にむかってそう言いながら、私は彼の肩に半分かくれて、ちょっと膝を曲げたような姿勢で立っている女をにらんだ。背のたかい父とほとんど肩をならべるくらい彼女は上背があって、面長な色白の顔も、骨太な体格も、小柄で肌が小麦色の母とはすべてが対照的といってよかった。くすんだ色合いの彼女のきものは、すこしくたびれていて、うぐいす色の地に竹のもようのある羽織をはおっていた。》

 彼女はからだつきも着るものも、ほとんどすべての面で母とは違っているのに、どこか共通するものがあって、母とおなじように父のほうを向いて生きているうちに、父の好みに染まってしまったからではないか、と気づく。その人は、言葉づかいも、ものごしも、まっとうで、そのことがまた意表をついていた。《彼女が、そのときまで漠然とあたまに描いていた「いやらしい女」でなかったことに私は救われる思いだったけれど、自分がそう考えたことを、母には言えないとも思った。》

 須賀は、いつも結末がうまいが、ここでも最後の、「見送った」でも「見送らなかった」でもない、記憶をたぐり寄せながらの「見せ消ち」のような否定形が、深い余韻を残す。

《父は苦々しげに言った。よくも京都まで。子供なんかの来るところじゃない。

 ママのところに、はやく帰ってください。そう言って、私は父と別れた。ふりかえって、愛人といっしょに病棟の方に歩いていった父のうしろ姿を見送ったかどうかは、憶えていない。》

 

 他ならぬヴェネツィアからはじめたのには理由があるのではないか。しかもヴェネツィアの宿のベッドでのうつらうつらした回想からはじめたのは、須賀自身が十分に意識的だったかどうかはともかく、時の水門を開くべく構想された「小説」としての妙があるからではないのか。

 紅茶に浸したマドレーヌと同じように、ヴェネツィアサン・マルコ寺院の敷石を無意志的回想の舞台としたプルーストのそれがすぐに思い浮かぶ。須賀自身はプルーストの読書体験についてはわずかしか語っていない。たとえば、森まゆみとの対談『夏だから過激に古典を』(『須賀敦子全集 別巻』所収)で、「日本の学校教育のせいだと思うけど、学生に『源氏物語』のことを聞くと、「読みました」って言う。でも、部分だけ。全部読むと、おもしろいと思うんだけど。学校の先生とかに、ここはこう読むんですと言われて読むのではね……。本というのは個人的な体験でしょう。間違えてもいいから、自分で読むことが大事なんです。そして、楽しみながらおもしろく読まなきゃ。プルーストもそう、本当に自由にここは好き、あそこは嫌、という感じで巻き込まれて読むのこそ、若い人の特権だと思うんですけどね」と語り、あるいは、丸谷才一三浦雅士との鼎談『読書歓談・私が選ぶベスト3』(『須賀敦子全集 別巻』所収)で「いや、私はプルーストはすごく好きだし、あの人の文体というものにはある意味で影響されたと思うんですよ。それだけに、あまりベスト3に入れたくないというのかな」と語ったていどだ。

 しかし須賀の書くことの出発点、文体の発見となったナタリア・ギンズブルグ体験というものがある。ギンズブルグはプルーストのイタリア語翻訳者であるだけでなく、ギンズブルグにおけるプルースト体験が、須賀におけるギンズブルグ体験であった。《彼女が訳したプルーストの『スワンの道』までも、つぎつぎと読んだが、いきいきとした彼女の文体に私はいつも魅了されるのだった》と『私のなかのナタリア・ギンズブルグ』に書いているが、『トリエステの坂道』の『ふるえる手』では、もう少し詳しく説明している。

《ナタリア・ギンズブルグの自伝的な小説『ある家族の会話』をはじめて読んだのはもう二十年もまえのことで、そのころ私はミラノで暮していた。日本の文学作品をイタリア語に訳す仕事をはじめてまもないころだったが、まだ自分が母国の言葉でものを書くことを夢みていた。ただ、周囲がイタリア語ばかりのなかでは、自分の中の日本語が生気を失って萎れるのではないか、そればかりが気がかりだった。こんなことでは、とても自分の文体をつくることなど考えられない。かといって、イタリア語でものを書くというのも、とても越えられない大きな壁のように見えた。ちょうどそのころ、書店につとめていた夫がナタリアの小説を持って帰ってくれた。表紙カヴァーにエゴン・シーレの絵がついた美しいエイナウディ社の本で、そのころ評判になっていた。第二次世界大戦に翻弄されながら、対ファシスト政府と対ドイツ軍へのレジスタンスをつらぬいたユダヤ人の家族と友人たちの物語が、はてしなく話し言葉に近い、一見、文体を無視したような、それでいて一分のすきもない見事な筆さばきだった。いったいこれはなんだろう。それまで読んだことのない本に思えた。

 あるとき、私は、著者が幼かったころ、プルーストに夢中になった彼女の母親が、医学者だった父親の「軟弱な」お弟子さんたちといっしょに、気に入った箇所を声を出して読んでいたという話をあたまの中で反芻していた。それまでにもその話をなんどか読んでいながら、私はプルーストに夢中になるお母さんやきょうだいがいたなんて、ずいぶんすてきな家族だぐらいにしか考えなかったことに気づいた。もしかしたら、これはただ恣意的に挿入されたエピソードなんかではなくて、彼女の文体宣言に代わるものではないか、そう思いついたとき、ながいこと、こころにわだかまっていたもやもやが、すっとほどける感じだった。好きな作家の文体を、自分にもっとも近いところに引きよせておいてから、それに守られるようにして自分の文体を練りあげる。いまこう書いてみると、ずいぶん月並みで、あたりまえなことのようなのに、そのときの私にとってはこのうえない発見だった。》

 ところで、ギンズブルグ『ある家族の会話』(原題『Lessico famigliare(レッシコ・ファミリアーレ)』須賀敦子訳、白水社)には、須賀が「自伝的小説」と名づけた内実に相当する作者の「まえがき」がある。

《この本に出てくる場所、出来事、人物はすべて現実に存在したものである。架空のものはまったくない。そして、たまたま小説家としての昔からの習慣で私自身の空想を加えてしまうことがあっても、その箇所はたちまちけずりとらずにはいられなかった。

 人名もそのまま用いた。この本を書くにあたり、私は架空の介入をまったく許容できなかった。本名を変えなかったのはそのためであり、また本人たちと彼らの名を切りはなして考えることが私にとって不可能だったからでもある。これを読んで自分の名が出てくることに反撥を感じる人はあるかもしれない。その人たちには申しわけない、としか私には言えない。

 また私は自分が憶えていたことだけしか書かなかった、したがってこの本をひとつの年代記として読む人は、多くの脱落を非難するだろう。だから題材は現実に即してはいても、やはり小説として読んでいただきたい。すなわち、小説が読者に提供することのできるもの以上、あるいは以下のいずれをも要求することなく読んでいただければさいわいである。

 それから、自分で憶えてはいてもわざと書かなかったこともたくさんある。とくに私自身にかかわることについては、省略した。

 自分についてはあまり書きたくなかったからである。というのも、いろいろな欠落、省略はあっても、この本は私についてのものがたりではなく、私の家族の歴史として書かれたものだからだ。最後にもうひとつ。私は幼いころ、さらに少女時代を通じて、当時私の周囲で共に暮していた人たちについて本を書きたいと思い続けてきた。部分的にはこの本がそれである。ただしそれは部分的でしかない。というのも記憶は時の経過についにあらがい得ず、しかも現実を土台にした本は、しばしば作者が見聞きしたすべてのことの、ほのかな光り、小さな破片でしかないからである。》

 須賀は、『ナタリア・ギンズブルグ 人と作品についての試論』(「イタリア学会誌」一九七〇年十月 イタリア学会)で「自伝的小説」という彼女の命名について語っている。

《なお、最初にこの作品を、小説ふうの自伝と書いたが、この「小説ふう」という少々曖昧でもある形容詞を、もう少し掘り下げて検討する必要があるように思われる。ギンズブルグのこの作品は、単に「自伝」と片付けてしまうには、文学的、創作的意図があまりにも明白であって、しかもそれが成功しているため、私は、なにか適当な形容詞をこれに付け加える必要にかられた。そして、作者は、自分自身のことより、自分の家族のこと、自分の周囲に生きた人びとのことを主として書いているのであるから(いろいろな事件がおきた時の、作者自身の感想、あるいは、その時、彼女がとった行動などについては、殆んどふれられていない)、この作品が自伝というジャンルに厳密にあてはまるかどうかも疑問なのである。「登場人物は、みな、実在の人たちで、私は何一つ、つくり事はこの作品に入れなかった」と序文の中で作者自身いっているが、またすぐその後で、「実際にあったことしか書かなかったのであるけれど、小説として読んでいただいてよいと思う」ともことわっている。私小説という日本文学固有の、トリヴィアルな告白体といったイメージを与える用語を、この地中海的な大らかな作品にあてはめることを私は意識的に避けながら、やはりこの『レッシコ・ファミリアーレ』は、小説ふうの自伝と定義されるのがふさわしいと思う。》

 これは須賀の作品、とりわけ『ヴェネツィアの宿』と同じではないのか。いっけん自分のことについて書いているような場面でも、作者自身のこと、作者自身の感想よりも、家族のこと、周囲に生きた人びとのことを主に書いていることに注意するべきである。

 

<『夏のおわり』/谷崎潤一郎細雪』論>

《夏になると、鬼藤の伯母を思い出す。(中略)どうして夏にばかり鬼藤の伯母を思い出すのか考えてみると、なんのことはない。子供のとき東京にいた私たちにとって、神戸に近い岡本という住宅地に住んでいたこの伯母に会うのが、夙川(しゅくがわ)の祖母のところに一家そろって「帰省」する夏休みと決まっていたからにすぎない。》

 時系列的に、京大病院に入院している父を訪れたことを母に報告する様子をつづいて語ることはせず、時間は「私が十六」という昭和二十年にまで遡るのだが、そこには父と母の馴れ初めや、トーマス・マン『ブッデンブローク家の人々』を読んで感激したという「家族」のテーマがある(丸谷才一三浦雅士との鼎談『読書歓談・私が選ぶベスト3』で、須賀「『魔の山』を皆さんはおっしゃるけれども、私はブッデンブロークのあの家族というもののすごいのと、それから彼の文体、私はイタリア語で読んだんですけれども、構成というか、そういうものにとても感激したのがやっぱり『ブッデンブローク家の人々』だったんです。」)。

「風がちがうのよ」と編集者に語ったという阪神間の雰囲気が幸せな気分で書かれている。

《電車から見ていても、おなじ沿線の芦屋や夙川では、春を告げるのがミモザの黄色い花枝だったり、五月の垣根をいちめんにおおうのが白やピンクの蔓薔薇だったりして、とかく西洋ふうが目立ったのに比べると、岡本あたりでは、秋の日にすずなりの柿が夕陽に照っていたり、冬の終りに見事な梅の大木が咲き誇っていたりするのが、他の住宅地にはないちょっと古風な気品をそえていて、そのことがなんとなく、鬼藤の伯母たちの、どこかで時間のとまったような、それでいて、ふんわりした懐かしさを誘う暮しぶりによく合っていた。》

 この鬼藤の伯母という人は、九人きょうだいの末から二番目だった母の長姉で、十五歳ほどのひらきがあった。父と母がはじめて会ったのが、この伯母の家でだった。父方の祖父が設立した建築設備の会社の東京支店をまかされた鬼藤の伯父の結婚相手が母の姉で、長男が生まれたばかりの伯母を手伝いに鬼藤家に行っていた母を、父が見初めた。

 鬼藤家の長男の欣一兄さんは学徒動員で兵隊にとられ、私たち親子も空襲の激しくなった東京をあとにして夙川に移ったのだが、その後まもなく、会社の定年をむかえた伯父夫婦が播州平野のはずれにある小野という小さな町にあった鬼藤家代々の屋敷に引っこんでしまった。戦争が激化して、西宮の旧市街が爆撃され、夙川もあまり安全とはいえなくなった昭和二十年の三月の声をきくと、母は妹と弟を連れ、小野の伯父の屋敷に身を寄せた。私が十六、妹は十五歳で、弟が十一歳の小学校五年生だった。私は、父と、父の妹にあたる若い叔母といっしょに夙川に残り、療品廠という海軍の医薬品を扱う部門で働くことになっていて、月一回の休日には、神戸から電車やバスを乗りついで小野の母たちを訪ねる。小野の田舎ぐらしの描写がある。伯父を知るようになって驚いたのは、鬼藤の伯母らしいと思っていた彼女の動作や仕草の多くが、ほとんど伯父の敷き写しだったことだ

(男の敷き写しの女は、母、父の愛人についで三人目となる)。座敷に姿勢を正して正座し、けっして声を荒げることがない伯父の人となりが、鴎外の『ぢいさんばあさん』も引きあいにだされてほのぼのと語られる。

 しかし、そこから悲しい話に一転する。《いとこの子のかずちゃんが、もうすこしで二歳の誕生日をむかえるというときに小野で死んだのも、あの昭和二十年の夏だった。》

 鬼藤家の欣一兄さんの年子の妹で、名古屋にお嫁にいっていた奈緒姉さんは、夫を戦地に見送ったあと、小野の両親のところに一粒だねのかずちゃんを連れて帰ってきていた。妹はかずちゃんを溺愛した。そのかずちゃんが、消化不良とか疫痢とかいわれていた病気で死んだ。

 戦争が終った。もうすぐ九月というとき、母が原因不明の熱病にかかって何日も熱がさがらなかった。重態だとお医者に告げられても、私も妹もどうしてよいのかわからなかった。母の熱がさがりはじめて、伯父が、よかった、ほんとうに心配した、と言ったとき、何日も伯父の声を聞いていなかったような気がした。

 九月も半ばをすぎたころ、母のいちばんのお気にいりの甥だった鬼藤の欣一兄さんがフィリピンで戦病死したという公報がとどいた。九月の終りには奈緒姉さんも戦争から帰った夫に連れられて名古屋にひきあげたが、あんたの大事な跡取りを、とんでもないことしてしもうて、と伯父は両手をついて奈緒姉さんのつれあいにあやまったという。その冬、伯父は病気という病気もないままひっそりと亡くなった。

《伯父が死んで、鬼藤の伯母は、戦争中に夫をなくした末の妹を小野に呼びよせて、ふたり仲よく暮していたが、その叔母が五十そこそこで他界すると、伯母もあとを追うように死んでしまった。昭和二十八年のことで、留学中の私はフランスで伯母の訃報をきいた。二年後、日本に帰ってきたとき、母は私に伯母の最期について話をしてくれた。伯母さんは、あの広い家にひとり残されて、どうしていいか、わからなくなったのよね。そう話をむすんだ母は、戦争の末期、アメリカ軍が本土にも上陸するかも知れないという噂がひろまったとき手に入れた青酸カリを、伯母が大切にしまっていたのを憶えていた。》

 他の須賀作品もみなそうなのだけれども、『ヴェネツィアの宿』は追想の書であるとともに追悼の書でもある。その最初の、しかしあまりにもいくつもの死のはじまりがこの『夏のおわり』だった。

 はっきりとは書かずに省略するのが、都会人の控え目な流儀でもある(この「省略の文体」については、あらためて後述する)し、谷崎潤一郎細雪』の「ものがたり」としての終り方に学んだものでもあったろう。それは須賀作品の、とりわけ『ヴェネツィアの宿』の秘密を解く鍵になる。

 

 須賀の数ある書評のうちで、もっとも優れたものといっていいのが、『作品のなかの「ものがたり」と「小説」』(『国語通信』1991年4月 春号、筑摩書房)という谷崎潤一郎の『細雪』論だ。この書評は『ヴェネツィアの宿』と同じように、書きだし(母と戦争で婚期のおくれていた叔母が帯がキュウキュウ音を立てるという箇所を読みあって、男の谷崎の気づきに感嘆していた)と末尾(いよいよ結婚のきまった叔母の文机のうえに、谷崎の『盲目物語』を見つけて、こんなにうつくしい本があるのかと息をのんだ)を私的な思い出で額縁のように封じるという構造的美意識をもつ。

《『細雪』をつらぬく主題は、これまでも指摘されてきたように、いろいろな意味での「逝く春を惜しむこころ」であり、雪子を惜しむこころであろう。しかし、私が、とくに興味をおぼえるのは、この主題を展開するにあたって作者がもちいた、語りの様式についての工夫である。

 谷崎が『文章読本』(一九七三)において「和文のやさしさを伝え」る文章と「漢文のカッチリした味を伝え」る文章(「源氏物語派と非源氏物語派」)、さらに西洋と日本の文章の性格の区分をおこなっていることに野口武彦」は注目し、このような「物語風」とナレーションが用いられた「古典回帰」時代の語り口について言及されるわけだが、『文章読本』の執筆から十余年を経て完成される『細雪』には、「文章」を超えた、ジャンル様式の面での、画期的な工夫がこらされているように、私には思える。というのは、この作品のなかで作者は、雪子と妙子のふたりの対照的な人物のストーリーを並行あるいは交差させるにあたって、「文章」の域をこえて、ストーリーの物語的な展開と、小説的なそれを、並行、交差させているからである。

 このような二重構造、すなわち、西欧の伝統的な「小説」のプロット的展開の構造と、『源氏物語』などを基点とする「ものがたり」風の展開は、いうまでもないが、「ものがたり」的、「日本人」「特有」の性格をもつ雪子と、その「反対」である「西洋人」のような妙子というふたりの人物のうえに築かれている。(中略)

 雪子についての叙述が、ドラマ性のうすい、日常のこまごました出来事や人物をとりかこむ事象の、どちらかというと平凡な浮沈(「繰り返し」の手法と秦恒平氏が谷崎の『芸談』、『陰翳礼讃』を引いて指摘した)を主とする平坦ともいうべき「ものがたり」的作法にしたがって話がはこばれる反面、妙子については、男から男への遍歴につれて変容し、水害、板倉の死、赤痢、出産につづく赤ん坊の死という、不可避的な時間のうえに設定される、高低の多い、ドラマ性を核とした構成がみられる。この二つの作法をないまぜにして物語を進行させている点に、私は谷崎の非凡な構築の才能を見るのである。》

 須賀は、以上のことをこころにとめて『細雪』の上、中、下の三巻を詳細に分析してゆく。

《妙子のプロットの結末が、彼女の出産、赤ん坊の死、という劇的な話題でしめくくられるのに対して、雪子の「ものがたり」は、彼女と貞之助夫妻の出発の、あっけないほどの幕切れで終る。このあっけなさを私は「小説」的な結びを周到に回避した作者の意図によるものと解したい。(中略)人生に挑んだ西洋的な妙子と、生の流れに身をゆだねる日本的な雪子という昭和初期に生きた対照的な姉妹の姿を、ストーリーの展開を単に異質な二つの性格描写といった安易な手法にゆだねることなく、西洋的な小説作法にのっとった「小説」的なプロットと、日本古来の「ものがたり」的な話の運びをないまぜにして織りあげるといった、構築力とふところの深さに、私はつよい感動をおぼえる。》

ヴェネツィアの宿』は、あえて分類すれば、冒頭と最後の父のことの二篇(『ヴェネツィアの宿』『オリエント・エクスプレス』、そのあいだにはさまれた、母のことの二篇(『夜半のうた声』『旅のむこう』)、少女時代の一篇(『夏のおわり』)、修道会と留学に関わることの四篇(『寄宿学校』『カラが咲く庭』『大聖堂まで』『カティアが歩いた道』)、イタリア時代の二篇(『レーニ街の家』『アスフォデロの野をわたって』)、京都での一篇(『白い方丈』)からなり、それらが時系列的にはあらわれないから、とりとめないような、曲がりくねった道のどこを歩いているのかわからないような気がしてくるものだが、母のことの二篇、少女時代の小野での一篇、京都での不思議な一篇が「日本人」の性格をもつ日本的な「ものがたり」で、父のことの二篇、留学と修道会に関わることの四篇、イタリア時代の二篇が「西洋人」との西欧的な「小説」ともいえ、それらを並行あるいは交差させている。けれども、『細雪』が最後に、妙子の「小説」的なものが雪子の「ものがたり」的なものに吸収されて終ったのに対して、『ヴェネツィアの宿』は、生の流れに身をゆだねる母や鬼藤の伯母の「ものがたり」的なものが、人生に挑んだ父や修道女たちや「私」が「小説」的なものへと収斂するのであって、逆であることの現代的な強さ、構築力と深さにこそ人は感動をおぼえるのに違いない。

 

<『寄宿学校』/会話の文体>

『寄宿学校』は修道会と留学に関わることの四篇(『寄宿学校』『カラが咲く庭』『大聖堂まで』『カティアが歩いた道』)のうちのひとつである。作品の時間は『夏のおわり』の戦争終結をひきついだ少女時代であるが、舞台は東京のカトリック学校の寄宿学校に移り、外国人修道女が登場してくることによって、西洋小説のような雰囲気にかわる。そして最後は、半世紀後の雑司ケ谷墓地となる。

《Lord,lord,L-o-r-d,LORD.

 もう一時間もこれだけだ。何十回、繰り返したことだろう。四時、午後のお茶の時間のあと、上演の日が近づいた英語劇のリハーサルで、出演予定者が講堂にあつめられたのだが、そのあと私だけがシスター・フォイにつかまって、発音の練習をさせられている。(中略)ああ、できた。かんぺきです。ふいにシスター・フォイが歓声をあげ、あっという間に私は外国の匂いのする彼女の胸もとに抱きしめられている。できたじゃありませんか。もう大丈夫。さあ、もう一回、Lord,lord,lord.》

「私」が学校とどう関わってきたか、学校の母体はどういうものかがかっちりと説明される。寄宿学校の様子がどんなふうかは数人の修道女や寄宿生とのやりとりを、これまでは間接話法一辺倒だったのを直接話法も交えた会話で活写することで、このさきの何篇かのカトリックのテーマの背景が自然に理解されることとなる。

《六歳で入学し、やがて関西から東京へと移り、また、戦争で東京から関西にもどっても、ずっと同じ修道会が経営するカトリック学校に通いつづけた私は、戦争の終始とともに親元をはなれ、東京のキャンパスにある専門学校の英文科に入学した。両親は疎開をつづけるかたちで関西に残ったから、十六歳の私は、焼け残った校舎での寄宿舎生活をおくることになった。》

《学校の母体である修道会は、十九世紀のはじめにフランスで創立されたあと、時代の要請と修道女たちの献身にささえられて、まもなく世界各国にひろまり、日本には明治のおわりごろ、オーストラリアから派遣されたシスターたちが学校をはじめたのが起りである。》

 シスターたちとのエピソードをひとつひとつとりあげる紙数はないから、名前だけでもあげれば、英語劇の監督をする中年のオーストラリア人のシスター・フォイ、小柄だけど歩き方のきれいな生徒係のシスター・ヘレナ、「古典をお読みなさい。ホーマーとか、ダンテとか、シェクスピアとか。『風と共に去りぬ』はそれからでじゅうぶん」とつよいドイツなまりの英語で話すドイツ人のマイヤー院長、生粋のアイルランド人で聖歌隊の指揮をするがっしりと骨っぽい短気なシスター・フレンチ、レクリエイションにベースボールを導入して物議をかもしたアメリカ人のシスター・ダナム、修道院の事務や会計をとりしきっている金縁眼鏡の副院長シスター・シッケル、聖堂係のシスター・グテレス。

 神父さんだったお兄さんが、戦争中にユダヤ人をかばってヒトラー強制収容所にいれられ、そこで亡くなったという話をシスター・ヘレナから聞いたマイヤー院長と寄宿生との会話のたくみな表現だけ紹介しておこう。たとえば、この音楽の話。

《ある日、彼女は開口一番、ちょっときびしい声でたずねた。

「今日、十六番の教室で四時から五時までピアノを弾いていたのはだれですか?」

 私たちは顔をみあわせた。中学生がおそるおそる手をあげた。「はい、わたくしです」

 ふぉっふぉっふぉっと笑ってから、マイヤー院長は言った。

ショパン、すきですか?」

「はい」その子は、ピアノを弾いていたことを叱られるのではないと知って、ほっとした声でこたえた。しかし、油断は禁物、あっという間にマイヤーさんの顔から笑いが消えた。

ショパンばっかり弾いてると、音楽はわからない」きびしい声だった。「バッハを勉強なさい。バッハに音楽をならいなさい」

 どうして、ショパンではだめで、バッハでなければならないのか。ドイツ人どうしだからかな、と思ってみたりしたが、マイヤーさんはそういうことは超越しているように思えた。》

 副院長シスター・シッケルと聖堂係のシスター・グテレスに聖堂の準備室の鍵を紛失したのではないかと疑われて、修道院の焼け跡で、あるはずのない鍵を一時間も探させられ、《あれから半世紀近い時が過ぎたいまも、あの鍵がどうしてなくなったのか、あのあと見つかったのか、それならいったいどこにあったのか、とうとう私は知らずじまいだ》のあと一行あいて、その半世紀後の三月も終りに近いある日の午後、東京にながく住んでいるイタリアの友人と雑司ケ谷の墓地を荷風のお墓をたずねる場面となる。めざす荷風の墓碑はなかなか見つからなくて、迷いつづけたあげく、ふと、小さな鉄門のついた墓所と門についた紋章を見て、はっとした。それは、六歳のときから十六年間、なんだかんだと不平を言いながら勉強した学校の紋章だった。日本に来て、ふたたび故国に帰ることなく生涯を終えた修道女たちの墓所にちがいなかった。

《きいっと心をえぐるような音をたてる小さな鉄門をあけて私は中に入った。(中略)葬られた修道女の名と生年月日、そして亡くなった年と月日と、それぞれの故国の名がきざまれていた。親しかった人の名もあり、知らない名もあった。おもわず姿勢をただしたのは、畏敬の気持からというのとは、すこしちがっていた。しゃんと背をのばしなさい。修道女たちがそういって注意する声がきこえそうだったのだ。まっすぐに立って、私たちの顔を見てはっきり挨拶なさい。

「おーい、そんなところでなにしてるの。荷風はこっちだったよ」

 友人の呼び声に、また、ここにはいつかひとりで来よう、と思いながら、私は暗い小径を声の方角に歩いていった。》

 読者の情感の門も、きいっと心をえぐるような音をたててひらかれ、また、ここにはいつかひとりで来よう、と思う作者の孤独な追悼のありかたに共感をおぼえずにはいられない。

 

 さて、フランス文学者の清水徹との対談『人生の時間 文学の時間』(一九九五年収録)(『須賀敦子全集 別巻』所収)で、清水は、どうして書き始めたのか、と会話文の使い方を話題とした。

 清水は、須賀が七十年代の終りごろからギンズブルグ『ある家族の会話』の翻訳を雑誌に連載し、本が刊行されたと同時に、同じ雑誌に『ミラノ 霧の風景』の連載を始めたのが八五年末だから、作家がどうして書き始めたのかがいつも気になる自分にとって、外側のデータだけから類推すると、「ギンズブルグを翻訳したということが、須賀さんのエクリチュールの誕生を促したという結論になる」と指摘した。

 須賀は「そうと思います」と答えてから、だいたい自分のなかにある書く材料を、どういう文体で、どういうふうに書けばよいのかをギンズブルグを訳すことで発見があったうえ、そのころから文体論に興味をもちはじめ、七〇年代に『源氏物語』を原文で読みとおして、この物語はこの文体でしか書かれ得なかったと思って、ずいぶんほっとしました、「あの会話をふくめたまま動いていく長いセンテンスの魅力に感動したと思います。それまでは、漠然と一葉の文章が好きだったり、谷崎潤一郎の小説も好きだったりしました。彼も文体を探して歩いた時代がありますね。そんなものが、いろいろ混ざったのかもしれません」と答えている。続いて、

《清水 僕は須賀さんの書かれたもの面白いと感じた一つは、会話の使い方なんです。つまりフランス語で言うと、直接話法、間接話法、自由間接話法、最近は自由直接話法まで出てきています。日本語では自由間接話法はうまく書けなくて、自由直接話法はみんなが書いている。しかし大衆小説などの自由直接話法はずいぶんルーズなものなんですが、須賀さんのはそうじゃない自由直接話法なんですね。読んだ上では一見とても均質な文章なんですけど、描写の文章と作者の感想と会話の部分というのが、実は織り糸がそれぞれ違っているにもかかわらず、それら全体を巧みに流しこんだ文章だなと思ったんです。これは面白いと感じたんですが、その後ギンズブルグを読みまして、ハハァーと思ったんです。

須賀 ギンズブルグと『源氏物語』とがうまく合ったのかもしれません。谷崎もいわゆる『春琴抄』などの古典時代の作品では、会話の使い方を工夫しています。それと関西弁に魅せられている。私ももとは関西ですから、自分のなかに何か惹かれるものがあったんだと思います。」》

この『寄宿学校』と、前出の『ヴェネツィアの宿』『夏のおわり』に会話の文体の具体的な例があるのは、すでに引用したとおりである。

 

<『カラが咲く庭』/言葉で通じあうこと>

《部屋で手紙を書いていると、だれかがそっとドアをノックした。こんなおそくに、いったいだれだろうと開けてみると、韓国人のキムさんが、暗い廊下にぽつんと立っている。どうぞ、はいってください、と言うと、ちょっとだけね、もうこんな時間だから、とことわりながら、それでもうれしそうににっこりした。》

 こんな魅力的な文章ではじまる『カラが咲く庭』は、キムさんのノックの半年前、一九五八年の冬にローマからの奨学金の話に乗ることで、フランス留学から帰って三年間つづけた放送局の仕事をすっぱりやめ、日本をはなれることにしたからだった。

 ちょっと自嘲的な調子で自分のことや、寮の待遇の不満を強い口調で言うが、ほんとうは淋しがりやで、人に話しかけられるのを待っているような三十代の半ばをすこしすぎた、高校の歴史の先生をしていたというキムさんは、このごろイタリア語を聞こうとすると、頭が痛くなるのよ、とせつなそうにしながら、午前一時をまわるまで、二時間話しこんでいった。翌朝、四年前に二ヶ月半、ペルージャの外国人大学で勉強したとき下宿させてもらったカンバーナ家の人たちに誘われてフレジェーネ(ローマ北西部の海岸線の別荘地)の海の家に行き一週間、遊びほうけて帰ってみると、キムさんが神経科の病院にはいったという。さっそく、シスターたちにかけあって、ヴィラ・フィオリータ(「花ざかりの家」)という神経科の病院に、キムさんと同室だったチョイさんと見舞いに行ったが、薬で眠らされ、もうろうとして、あんまりかわいそうだった。学生寮に帰って、修道女たちと彼女を故国に送り返す交渉をはじめたが、そうですね、ばかりでまったくらちがあかない。以前、留学していたときに会ったことのあるアノージュさんというフランス人の神父が日本大使館で顧問をしているので相談すると、大使館の人たちが韓国の出先機関に連絡をとって、キムさんは無事にローマを発っていった。

なにをするにも修道女の監視の目がひかっている学生寮を出ようと、アノージュさんに相談すると、大学の近くで女子学生の寮を経営しているフランス人の修道女を紹介してくれた。院長のマリ・ノエルさんがすぐに会ってくれ、来週からいらっしゃいね、となった。朝、起きてすぐ、早く逃げ出すに限ると奨学金の寮をとび出してきたものの、新しい学生寮の受付でいわれた午後の時間まで、モダンなローマ終着駅、スタツィオーネ・テルミニの切符売り場のまえの白いベンチに腰かけた私は、ハンドバッグを抱えこみ、膝のまえに大きなスーツケースを置いて、ひたすら時間の経つのを待っている。

『カラが咲く庭』は、意志を通じあうことの不可能と可能がテーマに違いなく、また他の作品よりも、「私」の意見や感想が周囲の人物を通してではなく「私」を通して語られる。これまでの「私」のイメージを壊すように、自分の話をすると、激しい口調になったり、言葉が迸りもするが、「私=須賀敦子」と限定してしまう自伝にも回想にもエッセイにもとどまっていないことは、五つに分たれ、巧みに計算された構成、とりわけ最初と最後の情景によってあきらかだ。普遍的な問題である、言葉、会話、声によって意志を通じあうこと、他者を受容すること、西洋の個人主義を見きわめ折りあいをつけること、などの、よりよく生きることの核心におずおずと触れはじめている「私」がそこにいる。

《となりにすわっていた、先のとがった茶の靴をはいた痩せぎすの男が話しかけてきたが、なまりが強くて、これからシチリアパレルモに帰るところだ、というくらいしかわからない。いいかげんにあいづちをうっていると、コーヒーをおごるから、どこかに行こうと言いだした。じろじろとこちらのからだを見られると、それだけで、なにかを盗られたような気分になる。そんな、大きな荷物をもって、かわいそうに、と同情してみせる。ぼくが持ってあげよう。》 けっこうです、と邪険に答えたことさえ、まずかったと気づいて、返事をしないことにすると、あきらめて立って行った。

 かわりに、大きな籠をさげた、体格のいいおばさんがどしんと腰をおろす。「あんた、なに待ってるの?」すわった途端に話しかけてくる。こんどの相手は田舎っぽいおばさんだから、ひどい悪党ということでもないだろうと質問に答え、イタリア人じゃないわねえ、と言われて、日本人です、と応じて、「おばさんは、何を待ってるんですか?」と攻めに出ると、「アプリリアまで帰るところよ」と彼女はつづけた。

《「近いわよ。一時間とかからない。あんた、私といっしょに、うちに来ない? 駅のすぐ近くだから、私といっしょに十時半の電車に乗れば、うちでお昼を食べて、すぐにローマに帰っても、約束に間にあう」

 え、と私は驚いて彼女の顔を見た。駅で出会った見ず知らずの、しかも「生まれてはじめて」実物に接した日本人だというのに、いきなり自分の家の食事にさそうって、いったいどういう神経なのだろう。》 庭には花がいっぱいだし、いい家よ、あんたに見せたいの。「娘の部屋が空いてるから、あんたよかったら、うちに下宿しない?」 出会って十分も経たないうちに、途方もないところまでエスカレートしてしまう。たよりない顔をして、行きたいけれど、ここで待つことにすると返事をすると、そそくさと席を立ってしまった。

 あたらしい学生寮の生活は快適だった。中世神学の研究所に週二回の講義を聞きに行くほかは、個室で本を読んだり、手紙を書いたりした。薬学部の学生のルチャーナ、文学部のアレッサンドラやクラウディアと、夜おそくまで暗いテラスでしゃべることもあった。寮生は主流が南部または中部イタリアから来ている大学生で、外国人は、アメリカ人のジェーン、ポーランド人のタデウシュカ、フランス人のシャンタルと、ヴァチカン勤務のマリ・アンジュ、東洋人はジャワ生まれの中国人のサンサンと私のふたりだった。

 入寮前、すくない寮費のうめあわせに、ちょっとした仕事をしてもらうことになるかもしれないと、マリ・ノエル院長がほのめかしていたのに、いっこうはっきりしないので、私に仕事をください、と申し出ると、でもあなたはもう仕事をしています、といってつづけた、「アジアとかアフリカの、高い教育をうけた女の人がこういった寮にいてくれるだけで、イタリアの女子学生にとって、新しい世界がひらけることになります」

 納得のいかない顔をしているのを見て、「一週間に二度、一時間ずつ、私のところにきて、日本のことや、あなたがヨーロッパについて考えていることをしゃべってくれませんか。レッスンのようにして。あなた自身のことだっていい。それがあなたの寮費の一部になる」という、ちょっと変った提案をした。こうしてローマにいた二年足らず、週に二回ずつ会っては、じつにいろいろなことを話しあった。とくに熱を入れて話したのは、これからの西欧と非西洋世界がどういうふうに関わっていくかについてで、マリ・ノエルは西洋はあまりにも自分たちの文明に酔いしれていると言って、かなしそうな顔をした。

《私が自分の話をすることもあったが、そんなとき、思わず激しい口調になった。自分のなかに凍らせてあったものが、マリ・ノエルのまえにいると、あっという間に溶けていった。どうして、仕事をやめてまでローマに来たか、何が東京で不満だったのか。本を読んだりものを書いたりすることが人間にとってなにを意味するのか。

「そんなことが知りたくてまたヨーロッパに来たんです」「それはわかるけれど」とマリ・ノエルがいった。「あなたがいつまでもヨーロッパにいたのでは、ほんとうの問題は解決しないのではないかしら。いつかは帰るんでしょう?」

「もちろんです。もう、どこにいても大丈夫って自分のことを思えるようになれば」》

フランス人の個人主義を、彼女はきびしく批難することがあった。生まれつきのジャンセニストなので自分にきびしいあまり、他人までも孤立させてしまう、と。

《「でも」反論せずにはいられなかった。「あなたはフランス人だから、そんなふうに個人主義を平然と批判できるのだと思います」

 私の意志を超えて言葉が走った。

「あなたには無駄なことに見えるかも知れないけれど、私たちは、まず個人主義を見きわめるところから歩きださないと、なにも始めたことにならないんです」

 こちらのけんまくにのまれて、マリ・ノエルはすこし茫然としている。開けはなした窓から、庭で遊んでいる幼稚園児の子供たちの声がとびこんできた。》

「開けはなした窓から、庭で遊んでいる幼稚園児の子供たちの声がとびこんできた」の内から外へ、外から内へ、と場面と情緒の転換が同期するうまさ。それは、この作品のラストで如何なく発揮される。

 二年目の冬に、テレーズという名の、木彫り人形を思わせる小柄なヴェトナム人の修道女が、からだが丈夫でないために、パリの修道院からあたたかいローマの寮に配属されてきた。イタリア語ができないので、いつもだまって、胸当てのついた、白くてすその長い、ごわごわした木綿のエプロンをつけてかいがいしく働くすがたが可憐だった。フランス語も、できるというほどではなくて、私と目があうと、溶けるような笑顔で笑ってみせたが、それが私にはつらくて、ヴェトナム語をぺらぺらしゃべる夢を見たりした。春になって、テレーズが病気になった、結核かもしれないという噂が広まったが、マリ・ノエルは暗い表情で首を横にふった。「神経の病気なの。ぜんぜん、口がきけなくなってしまったのよ」

 キムさんは、彼女の故郷の町には、いい神経科の病院がなくて、自宅の一室にとじこめられていると、チョイさんは話してくれた。西洋になんかやるんじゃなかった、とキムのおかあさんは、髪をかきむしって悲しんだとも聞いた。

《ある日の夕方、食事に行こうとして、修道院の庭に出ると、カラの花が濃いみどりの葉のかげに蒼白く咲いている噴水のそばに、小柄なヴェトナム人修道女のテレーズが、こっちを向いて立っていた。思わずフランス語で、よくなったの、と言いかけて、やめた。口がきけなくなった、とマリ・ノエルが話していたのを思い出したからだ。はたして、答えも、あの溶けるような笑顔も返ってこないで、テレーズは、私の視線を避けるように、つと横を向くと、そのままじっと、暗い木蔭に立ちつくしていた。修道衣の喉をおおう白い布だけが、夕方の光のなかでぼんやりと明るかった。》

 

<『夜半のうた声』/川端康成「そこから小説がはじまるんです」>

《やっぱりそうだったのねえ。その日、私が京都から帰って、父の愛人に会ってしまったことを話すと、病床の母はそう言って、淋しそうに笑った。どうもあの人はうそをついてると感じてはいたんだけれど、信じたくなかったのよね。》

 書きだしの一節でわかるように、一作目の『ヴェネツィアの宿』の後半部分、京大病院で父とその愛人に出会ったところの続きに他ならず、家に帰って母に報告するところからはじまる。『夏のおわり』『寄宿学校』『カラの咲く庭』の三篇をはさんで、ふたたび戻って来たことになる。

 母に、女の人のこともぜんぶ話してしまった夜から、母のとなりの座敷で寝ることにした。しゃべっていれば、せめてそのあいだだけでも母の気がまぎれると、妹と私は、せっせとばか話にせいをだした。廊下ですべってころんだ飼犬のベンのこと、戦後のヤミ市の時代に神戸から食料品を売りにきた台湾人のリンさんが山手に家を買って悠々自適なこと、それを知らせてくれた神戸で小さな洋装店をかまえている田口さんのところで、春になったら、またなにかいい洋服をつくってもらうといいわ、と母は言ってから、また父のことを思い出したのか、顔をかげらせて、だまってしまった。

 妹や弟が寝にいってしまうと、「背はどれくらいだった?」ふいに母がたずねた。「高い。パパと歩いていても、小さくみえなかった。どうして?」「うん、ちょっと……。骨太っていう感じ?」「わからない。まあ、そうかな。背の高い骨太の人なら、ママ、心あたりあるの?」「そういうこともないけれど」

《話がとぎれると、もう夜中なのに、母はときどき小さな声で歌をうたった。どの歌というのでもない、細い声のメロディーだけだったが、聞いていて私はこわくなった。こうしてうたっているときに、ひょいとわけがわからなくなったらどうしよう。

「ママ」と呼んでみた。「なにうたってるの」

 返事はなくて、母はうたいつづけた。まくらに顔をぴったりとつけて、私は声がやむのを待った。手が汗ばんでいるのがわかった。

 むすめのころ、わたしは歌が上手だったのよ、母はよくそう言って自慢した。》

 こうして、母の歌の話になる(ヴェネツィアの宿で聞いた音楽、アヴィニョンの歌声と通底しているだろう)のだけれども、麻布の家での幸福な歌の回想はたびたび父のことに戻って、母と父のいきさつを説明的ではなく語っていく。すこしは落着くかも知れないと祖母や大叔父が考えついた父の世界一周旅行から帰って二年、仕事はますますうわの空、責任の重い仕事をさせたらやる気を出すかもしれないというので、東京支店に勤務が決まった。関西の家から麻布に越してきたのは、私が九歳のときだった。

《三人の子供がそろってはしかだというのに、母はうれしそうに歌をうたいながら、ステップを踏んで畳のうえをくるくるまわっている。母の腕のなかの弟は、熱があるにもかかわらず、カンガルーの息子みたいにぬくぬくと幸福そうだった。(中略)

 イッツァロングウェイ、トゥティッペラリィ

 イッツァロングウェイ、トゥゴォ

 発疹が風にあたるといけないというので、すっぽり毛布にくるまれた三歳の弟はごきげんで、リィとかゴォという語尾のところだけ、口をとがらせて母にあわせる。そのたびに母は、いやあね、この子はパパに似て音痴だわ、といって笑う。(中略) 

 それ、いったいなんの歌なの? とたずねても、返事はいつも、パパに教えてもらったの、イギリスの古い歌ですって、欧州大戦のときの、と言うだけだった。》

シューベルトの子守歌は日本語だったので、意味がわかった。

 ネームレー、ネームレー

 ハーハーノームーネェーニィー

 ではじまったが、ハーハーノームーネーというところの、まるくのびる節まわしそのものが、ちっちゃな森の動物が母親の胸に抱かれているようで居心地がよかった。》

 母は天井に顔をむけたまま、話しつづけた。どうしても結婚しようって、あんまり熱心に頼むから、結婚してしまったのがまちがいだったのよ。わたしは三つも年うえだし、家のしきたりも違いすぎるから結婚はいやだっていったのに。あの人は、がんらいわがままなのよ。エゴイストなのよ。おばあちゃんに気ばかりつかって、いいことなにもなかったわ。毎晩のようにダンス・ホールに行こう行こうって、うるさくて困った時期があったのよ。自分たち親子だけで暮らしたい、と言いつづけた母の希望が麻布の家に移ることでやっと叶えられたのは、結婚して十年目だった。とうとう自分たちだけの生活を手に入れたのに、母は病気ばかりしていた。そのころの私にとって、父は気むずかしい暴君だったが、それでも、うっとうしい雲がすっと晴れたような瞬間が、ときにあった。父が朝の食卓で母をからかっている。おまえに値段がついているなんて、知らなかったなあ。子供たちのまえで「ママの醜態」をぶちまけてしまうと、母はまんざらでもなさそうに、いやあね、と笑って聞いている。父の帰りを待つあいだ、こたつで家計簿をつけていて、そのノートに顔をのせていねむりをしたものだから、数字がひたいに写ってしまったのだった。父がお酒を飲んでいる。母に長火鉢で燗をさせて。あら、あなた、よっぱらってるのね、と母が明るい声をあげる。自分のお酌で夫が酔ったことにうっとりしている。

 父が家を出て二年目になると、母も私たちも、そろそろがまんの限界に達していた。いちど、あの二人を会わせてしまおう、と決心して、まず、母を説得することからはじめた。「わたしの見たところでは、パパはほんとうにいやがってるんじゃない。帰るきっかけほしいんだと思う」 父がいなくなってから、親は甘える対象ではなくて、甘えられるものになってしまって、そのことが重かった。妹にも加勢をたのんだ。ちょっと無理をしないと、あの夫婦は相手が折れてくるのを永遠に待ってるだけなんだから。

 東京から母を迎えに行って、目黒にいた母の姉のところに一泊し、その夜は京都から出てくる父が麻布に泊まるはずなので、翌朝、父がでかけないうちに、母を麻布に連れてゆこう、という計画だった。子供のころ、妹といっしょに毎朝歩いて学校に通った道が秋の陽にかがやいていているのをタクシーの窓から眺め、横に座った母の着物の絹地が手にふれると、ひんやりした、という感覚の冴え。ここからの文章は、視覚と聴覚、行動と会話が、地に流しこんだ文体のなかでフーガを奏でている。リアリズムで、四畳半的湿っぽさがなく簡潔、突き放すようにそっけなく、私小説的告白から遠く離れているが、情緒は饒舌でもある。

《右手でドアのノブをまわして、三十センチほど開けると、いつものように、パジャマの上に和服を着て新聞を読んでいた父が、私の顔を見て、おう、と声をかけた。母はまだ私のうしろにいた。その母の肩を私は左手で抱くようにして、部屋に押しこんだ。父が小さな声をあげて、立ち上がった。なんだ、これはいったい。どういうことだ。

 パパ、おこらないでね。ドアのノブに手をかけたまま、私が言った。ママとふたりでお話なさってください。これはパパとママの問題ですから。

 なにかを投げつけてくるかと身構えた私を、父は一瞬、口惜しそうに睨んだが、あきらめたようにソファにくずれこんだ。外からドアをしめると、そのまま、中はひっそりしていた。》

 すぐこれにつづいて、夜半の母のうた声と響きあうような母の手紙からの数行でこの作品は閉じられる。

《とうとうパパが帰ってきました、と母から手紙がきたのは翌年の一月だった。十一月に麻布の家で母と話してから二ヶ月目だった。

 七日の昼に会社から電話をかけさせて、夕方、なんでもなかったように、ふつうの顔して、家にかえってきました。あきれたものです。でも、かたちだけだって、ぜんぜんないよりはましなのでしょう。》

 母への愛情に満ちている表現なのはもちろんのこと、父のことは悪く書いているようでも、心の底はそうではない、ということが、あからさまに言葉に書かず、書かないことでむしろ伝わってくる文章である。

 須賀が、なぜこのような文体で、およそ四十年前のことを書くことができたのかを考えるうえで、次の文章が糸口になるのではないか。それは、『小説のはじまるところ 川端康成『山の音』』(「ちくま日本文学全集」『川端康成』解説、筑摩書房)からである。

 

 一九六八年の冬の日に、ノーベル賞の授賞式をおえてイタリアに寄せられた川端夫婦と夕食のテーブルをかこんでいた。ミラノの出版社から依頼されて『山の音』をイタリア語に翻訳させていただけないかとお願いに行ったのを、大使館の方が夕食にさそってくださったのだった。食後、スウェーデンの気候、イタリアでの日本文学の読まれ方などを話しているうちに、話題が一年前に死んだ私の夫のことにおよんだ。

《あまり急なことだったものですから、と私はいった。あのことも聞いておいてほしかった、このこともいっておきたかったと、そんなふうにばかりいまも思って。

 すると川端さんは、あの大きな目で一瞬、私をにらむように見つめたかと思うと、ふいと視線をそらせ、まるで周囲の森にむかっていいきかせるように、こういわれた。それが小説なんだ。そこから小説がはじまるんです。

 そのあとほぼ一年かけて『山の音』を翻訳するあいだも、数年後に帰国して、こんどは日本語への翻訳の仕事をするようになっても、私はあのときの川端さんの言葉が気になって、おりにふれて考えた。「そこから小説がはじまるんです」。なんていう小説の虫みたいなことをいう人だろう、こちらの気持も知らないで、とそのときはびっくりしたが、やがてすこしずつ自分でものを書くようになって、あの言葉のなかには川端文学の秘密が隠されていたことに気づいた。ふたつの世界をつなげる『雪国』のトンネルが、現実からの離反(あるいは「死」)の象徴であると同時に、小説の始まる時点であることに、あのとき、私は思い到らなかった。(中略)

 川端が長編を仕上げるのにながい時間をかけたのは、論理的な構想に欠陥があるためではなくて、抒情の連想がじゅうぶんなふくらみをもつのに必要な、内的な時の流れを作者が必要としたからなのだ、と。まず最初に、ひとつの章が書かれ、そのあとは、つぎつぎと連想をバネにして書きつがれていく。そして、川端の作品に時として見られる書きだしと結末の可能なずれは、連歌俳諧の運び方を見ればわかるだろう。日本古来の座の文学においては、これに参加した詩人たち自身も、最後の句がどのようになるかは、発句が詠まれた時点ではわからない。連想が詩のながれをどのように変えていくかを、ただ待つ以外に知る手だてはない。川端の場合も、これに似たことがいえる。作品にとりかかった時点では、その結末がみえていないことが多いのが、論理の必然性ではなく、「連想」のふくらみぐあいを待たなければならない作家にとって、これはほとんど当然といえよう。》

 須賀の『ヴェネツィアの宿』は長い年月をかけて書きあげたものではなく、一年間の連載だったし、発句にあたる『ヴェネツィアの宿』を書いた時点で、確実に最後の『オリエンタル・エクスプレス』を意識している西洋的な論理的構想による作品だが、しかし、書きはじめるまでの長い年月が同じような役を果たしたとは言えまいか。『夜半のうた声』の出来事からの、およそ四十年という時間が、待たなければならなかった年月に相当する。あるいは、須賀が『ミラノ霧の風景』を書きはじめるのが一九八五年で、これが書かれるのが一九九三年であるから、作家として書いてゆくことを意識した八年間という年月がある。控えめにみれば、須賀が家族のことを、とりわけ父と母のことを、自分とは何者かを探求する限りは書かないわけにはゆくまいと意識した時点から、さらにはずっとずっと、あり得ないほどに控えめにみて、第一作の『ヴェネツィアの宿』を書いてから、その続編ともいえる『夜半のうた声』までの連載三回分、逡巡のまわり道のような三か月が、「抒情の連想がじゅうぶんなふくらみをもつのに必要な、内的な時の流れ」だったのではないか。その「ふくらみ」こそが芳醇な文体の秘密であり、「内的な時の流れ」こそが客観性と距離感をもつ作品の「深さ」に到ったのに違いない。

 

<『大聖堂まで』/教会建築>

 パリ留学時代の二篇(『大聖堂まで』『カティアが歩いた道』)のうちのひとつで、これらはキリスト者としての「私」の経験に深く関わっている。雑誌連載時の原題は『待っている人』、題名の意味はラスト・シーンでわかるのだけれど、これだけが本にされるとき題名を変えられているのは、考えがあってのことだろう。たしかに、ここでも回想が、小さな波と大きな波で押しよせてきて、過ぎた時間がある種の主役ではあるけれども、「待っている」という受け身は、気持から少しずれていたか、真意にそぐわないと思ったのだろう。

 一九七一年と一九五四年というふたつの時間があらわれ、それとなく対比されているともいえよう。ひとつはミラノからパリへの八〇〇キロの車での移動とノートル・ダム大聖堂、もうひとつはパリからシャルトルまでの八十キロの徒歩での巡礼とシャルトル大聖堂

 

 アルプスとジュラというふたつの山脈を越えるけれど、距離的にはミラノ―パリ間は八〇〇キロあまり、地図を見ながら走れば、なんということはないはずだった。モンブランの長いトンネルをすぎて、シャモニからジュネーブを抜け、フランスに入ったころには疲れが出て、ドールで一泊した。ディジョンで昼食をとると三時をまわっていて、はじめて車で行くパリには暗くならないうちに入りたいので、あわてて高速道路に乗って、パリ市内にさしかかると、ほどなく、リュクサンブール公園の横を走っているのに気づいた。学生のころ、この辺りに住んでいたリュ・デゼコルで車をとめて見まわすと、道をわたったところにオテル・ド・ラ・カリフォルニーがあった。《毎日その前を歩いて大学にかよった、なんの変哲もない学生街の安宿だが、貧乏学生のつめたいパリの日々に、カリフォルニアという名が、陽光にあふれる土地への郷愁をさそって、毎日その前を歩いて大学に通い、なんどか泊まってみたいなあと思ったことがある。》 そうだ、今夜の宿はここにしよう。行きあたりばったりに決めてはいっていくと、《カウンターにいた白髪のおばさんはちょっと帳簿をしらべただけで、にこりともしないで言った。運のいいひとねえ、あなたは。これが最後の空き部屋ですよ、マダム。屋根裏だけど、なにしろ観光シーズンですからね。聞きながして、荷物をひきずりながらとにかく無事に最上階にたどりついた。》

 このあたりの文章は、聞きながすまでに変化した今の「私」と、学生時代のパリでの感情の澱を、さりげなく細やかな形容で表現、対比している。

《旅行者の多いこの季節にすんなりと寝るところが決まったのは、受付のおばさんの言ったとおり、ひどくありがたいことだったから、私はすっかり気をよくして、靴をはいたままベッドの上うえに体を投げだすと、そのまま目をつぶった。

 一九七一年の七月で、秋にはいよいよ日本に帰ることが決まっていた。いったん引きあげてしまったら、いつまたヨーロッパに来られるかわからないから、出発までにフランスだけはもういちど見ておきたい。そう思っていたときに、ちょうどパリに住んでいる友人が来ないかとさそってくれたので、決心してミラノを出てきたのだった。(中略)

 とろとろとねむったのかも知れない。どこかの部屋で水を流す音に気がついて時計をみると、八時をすぎていた。》

 サン・ミシェル大通りに行き、簡単な夕食を手ばやにすませると、夏の観光客がごったがえす賑やかな大通りに出た。《つい、きのうまでミラノにいたのが、うそのように思えるいっぽう、パリにいるという実感がそれほど湧かないのは、どうしたことだろう。むかし、ソルボンヌの学生でこの道を急ぎ足に歩いていた自分と、十三年にわたったイタリア暮しをきりあげて、とうとう日本に帰ろうとしているいまの自分をへだてる時間のなかで、パリがかすかに変質したのではないだろうか。あす十六年ぶりで会うことになっている友人は、どんな顔をして迎えてくれるだろう。》

 ホテルに戻ると、部屋の空気が澱んで、変に重かった。ベッドのうえに立ち上がると、両手でいきおいよく窓をあけた。ここから、ノートル・ダムについての美しい文章になる。

《すぐそこ、といっていい距離に、白くかがやくパリの大聖堂ノートル・ダムが、まだ昼間の青が残った夜空を背に、溢れるような照明の光をあびて、ぽっかり宙に浮かんでいた。それも、セーヌ河沿いの花やかな南面を惜しげもなくこちらに向けて。後陣にちかいトランプセプト(袖廊)の突出部の中央に位置した薔薇窓の円のなかには、白い石の繊細な枠ぐみにふちどられた幾何もようの花びらが、凍てついた花火のように、暗黒のガラスの部分を抱いたまま、しずかにきらめいている。宇宙にむかって咲きほこる、神秘の白い薔薇。トランセプトとネフ(身廊)の屋根の稜線が十字に交差する点にしっかりと植え込まれたように、天を突いて屹立する、細身の、鋭い尖塔。精神の均衡と都会的な洗練の粋をきわめるパリの大聖堂が目の前にあった。

 なんでもないふつうの窓と思いこんで、力まかせにあけたものだから、その分だけ驚きは大きかった。ついさっきまで暮れなずんでいた背景の空には、もう暗い夜がいっぱいにひろがって、光のなかの薔薇窓は神秘に酔いしれて、いちだんとまばゆくきらめいた。十六年目のノートル・ダムは、もったいないほど美しかった。》

 東京で大学生だったころ、ヒルデブラント神父の「教会建築史」がいちばんの愉しい講義で、いつか自分もヨーロッパに行って、ゴシックのカテドラルをたずねて歩こう、と思ったとあかされる。

 パリ留学の望みが思いがけなく叶って、セーヌ河畔の大聖堂のまえに立ったのは。一九五三年の八月も半ばすぎたころだった。初めてパリで迎えた朝、早い時間に寮を出て、大聖堂をめざした。

《それまで自分のなかではぐくみそだててきた夢幻のカテドラルと、目のまえに大きくそびえわだかまる現実のカテドラルとが、きらきらとふるえる朝の光のなかで、たがいに呼びあい、求めあって、私の内部でひとつに重なった。腕に鳥肌がたったのは、あきらかに冷たい空気のせいだけではなかった。

 その日から、それはたいてい、よろこびではなくて、悲しいこと、がまんできないことのほうがだんぜん多かったのだが、自分ひとりで持ちきれない荷が肩にのしかかるのを感じると、私はその重さを測りに橋をわたってノートル・ダムに出かけた。》

 大聖堂がようやく自分にとって日常の風景になろうとしていた一年後(一九五四年)の六月の半ば、高校生と大学生をまじえた三万人のパリの学生のシャルトル大聖堂への巡礼に、父がフランス人、母が中国人で、ヴェトナム育ちのモニックにさそわれて、参加した時のことだ。二十世紀の教会史に大きな足跡をのこした詩人、シャルル・ペギイが呼びかけたシャルトルへの巡礼にならったもので、ペギイに流れを発したフランスのカトリック左派のデマゴジックな表現のひとつでもあった。《日本での学生時代にその運動の輪郭を手さぐりしていた私は、この巡礼に参加することで、いよいよ本物の「象」の表情ぐらいは摑めるかも知れないと期待は大きかった》とあるように、日本での学生時代からキリスト教左派の運動に関心を寄せていた「私」の姿が大きく前面にでてくる。つらく、重い希求とともに。

《はじめてのヨーロッパは、日本で予想していたよりずっときびしかった。言葉の壁はもちろん私を苦しめたが、それよりも根本的なのは、この国の人たちのものの考え方の文法のようなものへの手がかりがつかめないことだった。自分とおなじくらいの年齢で、自分に似た知的な問題をかかえているフランス人との対話が、いや、対話だけでなく、出会いさえが、パリの自分にはまったく拒まれているように思えて、私はいらだっていた。大学での比較文学の講義の愉しみとはべつに、こればかりは自分の手でさぐりあてなければ、どうしようもない。シャルトルへの巡礼は、そんな気持のなかで、ひとつの抜け道になるかも知れなかった。》

 パリ大司教のミサと、ドミニコ会の司祭の説教のあと、五十キロ先のランブイエまで列車で行き、翌朝、シャルトルまでの三十キロの道を歩きだす。歩きながら、そのときどきにあたえられたテーマ、どういう選択をしてここにいるのか、キリスト者は自分たちにとって、どんな意味をもっているか、を討論するが、自分のフランス語ではとても討論にはついていけないことに気づいた。いつのまにかみんなの議論からは遠いことを考えて歩いていた。

 東京で大学院にいたころ、ふたりのカトリックの女ともだちと毎日のように話しあった。話題はいつも、女が女らしさや人格を犠牲にしないで学問をつづけていくには、あるいは結婚だけを目標にしないで社会で生きていくには、いったいどうすればいいのかということに行きついた。はやく嫁に行け、いやなら修道院にはいればいい、と先輩に言われても、そんなんじゃないという気がした。《自分で道をつくっていくのでなかったら、なんにもならない。そのころ読んだ、サン=テグジュペリの文章が私を揺りうごかした。「自分がカテドラルを建てる人間にならなければ、意味がない。できあがったカテドラルのなかに、ぬくぬくと自分の席を得ようとする人間になってはだめだ」シャルトルへの道で、私は自分のカテドラルのことを考え、そして東京にいるふたりの友人はどうしているだろうと思った。》

 含羞の人、須賀敦子にしては、生で直接的な言葉が飛び跳ねているのは、パリ留学時代の経験がそれだけ、つらく、重かったことの反動だったのだろう。

 ピクニックとお祭り騒ぎが一緒になったような巡礼の夜は、農家の納屋の乾草の山にもぐりこんで寝た。二日目には、南仏や、ノルマンディからのグループも合流してくる。三時を過ぎたころ、なだらかな地平線に、針のような尖塔のてっぺんが、見えてきて、一歩、一歩、シャルトルに近づいて行った。驚いたことに、私たちのグループがシャルトルに着いたときには、ミサはもうはじまっていて、カテドラルはすでに超満員で、扉の外にいるしかなかった。やっとシャルトルまで来たというのに、大聖堂に入れてもらえないとは、いったいどういうことなのだろう。天井の音楽のように美しいといわれるステンド・グラスも見られない。帰りの列車に乗りはぐれてしまうので駅に行こうと決めたとき、聖者たちの像を熱心に見ていたモニックが、長いひげを波のようになびかせ、口をすこしあけて、ほとほと弱ったという表情で、壁のくぼみに立っている洗礼者ヨハネ像を見つけ、気落ちして口をきく気もしない私を元気づけるように、「あの顔が、いまの私たちには、なによりもぴったりよねえ」と明るい声で言った。ヨハネは苦行しながらキリストが世に出るのを待ちわびたという。

《考えようによってヨハネは、生きることの成果ではなくて、そのプロセスだけに熱を燃やした人間という気がしないでもない。

 二日間、歩きつづけて大聖堂に入れなかった仲間たちといっしょに、駅への暗い坂道をおりていきながら、私は、待ちあぐねただけの聖者というのもわるくない、と思っていた。》

 

 さきに、ヒルデブラント神父の「教会建築史」がいちばんの愉しい講義で、いつか自分もヨーロッパに行って、ゴシックのカテドラルをたずねて歩こう、と思ったというところがあった。なるほど、そこに書かれたカテドラルの詩学をもって須賀の作品は、いわば建築されるように書かれたと気づくのはそう難しいことではない。須賀の精神、および職人気質的な作品の構造と文体と装飾の堅固な土台になっているので、長くなるが引用したい。

《スライド写真で見たフランスやドイツのゴシックの教会建築が、激しい力で私を捉え、ヨーロッパをつくりあげた精神や思考の構造の整然とした複雑さに私は魅せられ、すっぽりのめりこんだ。日本人の自分にとってなじみのうすい石という素材を。まるで重量をもたない物体のように、縦横に使って組み立てていく。いくつもの層を重ねていきながら、底によこたわる思索の流れをすこしずつずらしていくことの愉楽。あるいは、繰り返しの遊びへの誘惑。威厳にみちた王たち、ながい髪を足までたらした聖女たち、悲しげな表情でキリストの降誕を待ちわびる旧約の聖者たちがいならぶ彫像のギャラリー。華麗であるだけの、繊細な柱廊のミニアチュア。ひとつひとつの秘密をさぐりたくて、私は図書室にこもり、大聖堂のファサードの写真を何日もかかって鉛筆で模写した。かたちを手でたどることによって、これを造った人たちの感覚が身につたわるかも知れない。なにがこんなに自分を駆りたてているのか、自分にもさっぱり摑めないまま、私はカテドラルの詩学を自分なりの方法で理解しようとした。線をヴォリュームに、平面を重みに変えるとは、いったいどういうことなのか。石で模様をつくるとは。このようなカテドラルをもった中世とはどんな時代だったのか。ひとびとはどんなことを考えていたのか。なにを信じてこんなものを造ったのか。そして、自分の目で見たとき、これらの建造物は、いったい、どんな力で迫ってくるものなのか。手で触ったら、どんな質感を伝えてくるのか。いつかきっと、自分もヨーロッパに行って、ゴシックのカテドラルをたずねて歩こう。ファサードを、内部空間の緊張を外から支えるというアルク。ブゥタン(飛び梁)を、人の手で切り出され、運ばれ、積み重ねられた石を、製法が職人といっしょに絶えてしまったというステンド・グラスの青を、どうしても自分の手でふれ、自分の目でたしかめなければ、その先のことがなにも見えないと思いこむほど、カテドラルが私を捉えた。》

 

<『レーニ街の家』/『白い方丈』>

 これら二作は小説として差しだされれば何の不思議も抱かないだろう。どちらも、登場する「私」は補助線にすぎない。しかし、二作の性格はだいぶ異なる。『レーニ街の家』はフィレンツェとミラノを舞台にしている。『白い方丈』は京都が舞台である。舞台の違いによる以上に、『レーニ街の家』では、イタリアの小説家アルベルト・モラヴィアのような西洋小説を書いてみせ、『白い方丈』では谷崎か川端のような日本の小説(ものがたり)を書いてみせている。

 

『レーニ街の家』のあら筋を紹介しよう。

《その夏、私は、期日までに済ませなければならない仕事もなく、いつもよりはゆとりのある休暇をすごしたくて、フィレンツェに行くことを思いついた。》 東京に帰って十五年、ずっと働きづめだった私は、知人の紹介でフィレンツェのアパートメントを八月いっぱいの約束で借りることができ、時計の存在を忘れたような気ままいっぱいの毎日をおくっていた。そんなある日、十年来親しくしていた女ともだちのラウレッタと大聖堂のまえで待合せ、かねて探していた、手で刺繍したリネンの手拭きを求めてふたりで専門店をまわったが見つからない。あと一軒だけまわってみようと中央駅に通じる人通りの多い道を歩いていると、声をかけられた。十五年以上もまえ、ミラノにいたころ親しくつきあっていた友人のカロラ・ディ・フィディオだった。彼女とひんぱんに往き来していたのは、私が夫を亡くして、暗闇しか見えないような時期だった。都心をはずれたレーニ街の、神経質な夫のグイード、小さなふたりの娘たち。ミラノの音楽院で勉強しているルイーザのヴァイオリンのレッスンに通ってきたところだという。カロラのうしろには、黒いちぢれ髪を肩のあたりまでのばした。色白で華奢なからだつきの美しい少女が、まるでおこっているように、とがった目つきでこちらを見ていた。会えてよかったわ、ミラノにもう来ないの、そうたずねるカロラに、あんなによくしてくれたのにミラノを離れてから手紙一本書いていない私は、ことばをにごした。あのころのことを思い出すのがいやだから、とまでは説明しなかった。「それで、キアラは元気なの。」「キアラはね、死んだの。」 カロラはもういちどにっこりしようとしたが、くちもとがゆがんだ。目だけが必死に笑おうとしていた。「事故だったの?」「病気。それからね、わたし、グイードとも別れちゃったのよ」 こんどはほんとうに彼女の顔がゆがんだ。「ごめん。おそくなるから、もう行くね。さよなら」 それだけだった。そそくさと抱擁をかわすと、彼女のおくれ毛の感触が頬にのこった。手拭きはけっきょく見つからず、ラウレッタとも別れて、アルノの河沿いの道をゆっくりと歩いた。キアラがいなくなったことで、カロラとグイードの結婚がだめになったのは、ごく自然な成行きのような気がしないではなかった。

 カロラは画家、グイードは彫刻家で、美術学校時代の同級生だった。夫とふたりで、はじめてカロラたちの一戸建てに招かれたのは寒い冬の夜で、キアラが七歳ぐらい、ルイーザが二、三歳だった。グイードは南のプリア地方出身で、政治的なことばをふんだんに織りこんでしゃべるグイードが食卓ではいばっていて、ルイーザが金きり声をあげると、グイードがカロラをにらんで、どうにかならないのか、と低い声でなじった。若い芸術家にしては、オリーブ農夫が題材のネオ・レアリズム的な作風だった。たずねると、おやじさんだとつぶやいた。きみたち北の人間にはわかりっこないよ、という言葉の苦々しさが、アトリエの裸電球の下で、黒い目と黒い髪の暗さをいっそう濃くしていた。今でも部屋に飾って大切にしているのは、イデオロギーの露出過多といった彫刻作品にくらべて、骨太な、彫刻家らしい立体性のある、子供がふたり描かれたデッサンだった。ふたりの女の子のうち、ヴェネツィアの名家に生まれ、ブロンドで背が高い、のんびり屋のカロラに似ているのは、おっとりしたブロンドのキアラのほうで、黒い髪のルイーザは、癇がつよくて気むずかしく、やきもちやきのところまでグイードに似ていた。

 夫が死んだあとも、散歩の感覚で行ける距離にあったこともあって、よく出かけた。彼らの家の居心地よさは、ものごとを理詰めにしない、口数のすくないカロラのゆったりした性格ゆえだった。

 ある日、夕食にいらっしゃい、と電話があって、その時間に行ってみると、カロラの姿がみえない。ピアノを弾いているとキアラが胸をはっていった。ピアノ上手なの、ママは。いまでも気分がくしゃくしゃすると、ママはピアノを弾くの。その夜、夕食にありついたのは、ニワトリがなかなか煮えなかったために二時間はすぎてからで、でも彼女がお米をぶちこんでつくったリゾットはおいしくて、パン切れをしゃぶっているうちに眠りこんでしまったルイーザも、ほっぺたに涙のあとをつけたまま、大きすぎるスプーンを口に運びはじめた。もうそのころから政治運動に巻き込まれてうわの空だったグイードは食事に帰らないことが多くて、カロラは、いいのよ、あのひとは、アトリエで寝るんだから、とあきらめる表情をした。

 八月の午後の街を二時間以上も歩きつづけ、サンタ・クローチェ教会まえの広場のベンチで休むことにすると、鳩の群れを、すそいっぱいにフリルのついた、目のさめるようなピンクのよそゆきを着た、髪の黒い、二歳ぐらいの女の子が、まるで雪かきでもするような格好で追いかけてくる。おどろいた鳩がいっせいにとびたつと、広場のすみのベンチにいる、母親らしい、黒いもめんのスカートに洗いざらしのTシャツを着た、くたびれた表情の女の顔をみてべそをかく、というのをくりかえしている。ぎっしり中味のつまった紙の袋を三つほど乗せた買物用カートをベンチに立てかけた女はときどき広場に通じる細い道に目をやっている。あわてていたせいで、カロラにキアラの死についてくわしくたずねなかったことを悔やんでいた。持病だった糖尿病が悪化したのだろうか。あたし、自分で注射できるの。あっけらかんと自慢するキアラの声が聞こえてきそうだった。グイードは、この娘のなかに知り合ったころのカロラを想い描いているのではないかと考えてしまうほど大切にしていた。そのキアラが死んだいま、グイードがカロラと別れるのは、当然の結末なのだろうとも思えたし、もうすこしカロラが辛抱できなかったのかという気もした。グイードは、いったいどこでなにをしているのだろう。太陽がかたむいて、広場に直接光が射さなくなったころ、肌のあさぐろい、痩せた、上背のある男が、十二、三ぐらいに見える半ズボンをはいた男の子を連れて広場にやってきた。男の子は両手に、いっぱいにつまった紙袋を持ち、父親らしい男は、ファイバー製の大きなスーツケースと、ロープでしばった重そうなボール箱を提げている。ベンチのまわりは、そのまま、まずしげな家の内部といってよかった。日焼けした男の顔や黒い髪から考えると、南イタリアから仕事をもとめて出て来た人たちなのだろうか。《光が徐々にうすらいでいくサンタ・クローチェの広場で、女の子のピンクの晴れ着だけが、ひらひらと舞っていた。》

 ラスト・シーンの「女の子のピンクの晴れ着だけが、ひらひらと舞っていた」の文章だけからでもわかるように叙情性にすぐれた文章である。だが、それだけにとどまることなく、イタリアの南北問題、貧困、階級、夫婦とふたりの娘という家族の愛情関係の線と密度と距離感、喪失、苦さが、薄明かりの下、明快なプロットをもって、醒めたリアリズムといきいきした会話で描かれている。

 

 次の『白い方丈』は、いかにも、よくできた「ものがたり」で、語りくちのうまさが魅力となっている。ひらがなこそ多用していないけれど、谷崎潤一郎蘆刈』を想わす息の長いやわらかな文体は幻想的で、禅寺の方丈の老師の時の流れを忘れ去った全宇宙を内在しているような存在そのものや、禅問答のような会話の受け応え、夢なのか現なのか、理解しようとする不条理な想像力を感じとるには原文を読むしかないので、ところどころ、そっくり引用する。

 京都の竹野よし子という聞いたことのない名の人から手紙をもらったのは、そろそろミラノの生活にも慣れてきた一九六〇年代の半ばごろだった。手紙の主は、私が数年まえにローマで知りあった商社員の名のKをあげ、戦前、伏見ではちょっと知られた造り酒屋だった実家に大学生のKさんが下宿していたので、と前置きしてから、手紙はこう結ばれていた。「じつは私、近々、そちらに行くことになるかもしれなくて心細く思っていましたところ、あなた様というお方がミラノにお住いとうかがい、いろいろとおたずねしたり、おねがいしたいことがございます。もしや、近々、日本にお帰りになるようなことがおありではございませんか。その節はどうぞどうぞおしらせいだきとうございます」 まるで谷崎の小説のなかから届いたような風情もあって、書き手である竹野夫人という人について、好奇心があおられた。谷崎の小説、と思ったのは、まったくの的外れではなかった。追うように、Kさんから手紙がとどいた。勝手に住所を教えたことをあやまったあと、夫人についての簡単な紹介をそえていた。伏見では名のとおった造り酒屋の跡とり娘で、親が選んだ滋賀の在の旧家の三男坊と、はたちになったばかりで結婚させられたが、平凡な夫とのあいだには子供はなく、戦後しばらくして、ちやほやしてくれた両親が亡くなると、自分の生活が空虚にみえて、心のやり場がない、適当に相手になってあげてください、未知の都会にいるあなたを想像して、子供みたいに愉しんでいるのです。

 ちょうどその年の秋に、日本に帰る予定を竹野夫人に知らせると、その節は京都をご案内したいと返事があった。帰国して、父に話すと、自分の車を運転手ともども貸してやるから、と勝手に決めてしまった。

 伏見の竹野家は、近所でひときわ目立つ黒く塗った門をもち、入ると農家の庭先のような、白砂を敷きつめた空間で、そのむこうの左半分が高いところに窓のある酒蔵で、右手の板塀で仕切られた中がこれといって特徴のない木造の和風建築だった。男衆だろうか老人が出てきて、名を告げると、へえ、お待ちでございますとだけいって、ひっこんでしまったが、ひっそりとして、この家にはだれも住んでいないのではないかと思えるほどだった。かなり経ってから、竹野夫人があらわれた。年格好は私より十ほど多い四十台の半ばぐらい、お召とはいってもかなりくたびれた着物すがたで、足もとの白足袋もきれいにつくろってあったけれど、洗いざらしだった。髪はひっつめて結っていて、女学校出のインテリふうだったが、ととのった面長の顔立ちだが、片方の目がかなり強度の斜視なのが表情を暗くしていて、戦争中に結核をわずらって死んだ父の妹を思い出した。

 夫人は大座敷に招じいれ、手早く薄茶を立てながら、自分がミラノに行くことになったいきさつを話しはじめた。ミラノの若いおじょうさんが、だれか禅の話をしに、イタリアに来てくれるような人を知らないか、と探していて、Kさんが、私にたのんで来られたのだと言う。うちのお寺の老師さんにと申されて、有名な禅宗の寺の名を口にした。それにしても、このいっぷう変った計画の仕掛人になりたがっている、ミラノの若いおじょうさんというのは、いったいだれのことだろう、格式のある禅寺の老師を竹野夫人といっしょに招待するというからには、かなりな財力がある人にちがいない、という私の疑問を察したのか、夫人がするりと答えてくれた。「ティルデさん、そのおじょうさんは、ティルデ・ドネリさんというお方どす。」 名を聞いて、私はおどろいて夫人の顔を見つめた。ティルデはローマにいたころ、大使館のレセプションなどでなんども会ったことのある女性だった。年齢は夫人とほとんどおなじくらいで、物事をいったん思いこむとゆずらない頑固なところがあって、人に好かれるというたちではなかった。日本の男性、とくに外交官となると、人をえらばずに好きになり、ひどく癇のつよい性格で、気に入らないことがあると、人前だろうとかまわずに泣きわめくというような噂があって、大使館員たちは慇懃に敬遠していた。のめりこまないほうがいい、と私は言いたかった。他人のことを考えて行動するような人柄とはとても思えなかった。全額負担の招待など、話がうますぎて、うさんくさかったし、長年イタリア人とつきあった経験が、実現する種類の話ではないとささやいていた。それをいま説明したところで、夫人は耳をかたむけないだろう。この人にとって大切なのは、この話が信頼できるものかどうかではなくて、自分が決めたことを、強引に実現にもっていくことなのだ。お点前がすんでほっとしたところで、竹野夫人が、当尾(とうのお)の浄瑠璃寺まで足をのばしてはどうだろうと、提案した、せっかく、お父さまのお車でおいでやしたんどす、すこし遠出をしてみてはいかがどすやろ。辺鄙なところ、と聞くと、その寺をみたくなったので、夫人にすべてをまかせることにした。夫人は、ちょっと用意がありますので、しばらくお待ちくださいますか、と座敷から出ていった。いまさらのように、まるで池の底にいるようなしずかさが気になった。お待たせして、とふたたび姿をあらわした夫人は、さっきと同じ着物、足袋もふだんのままだった。来週には、丹波から杜氏が到着する、仕込みのあいだは気苦労が多くて心配ばっかりといって胸もとに手をあてて軽く叩いた。車に乗り込むとき、運転手が彼女に、おっしゃったように、お荷物はトランクに入れました、と言うのをなにげなく聞きながしたが、その「荷物」があの風がわりな昼食につながろうとは思ってもみなかった。

 竹野夫人は、鄙びた浄瑠璃寺のこれも時の流れに忘れられたような池の端に立つと、しばらくあちこち見まわしていたが、やがて岬のようにまるく水際につきだした場所をえらぶと、手ばやく雛まつりのような緋もうせんを敷いてその上に私をすわらせ、自分も腰をおろした。紅葉のさかりをすぎた楓のまばらな枝のあいだから見上げると、淡い水色の空に白い雲がとぎれとぎれに走っていた。木の根が張っていて地面がでこぼこなうえに、池にむかってゆるく傾斜していたから、すわり心地はよくなかったが、せめてその感触が私を現実につなぎとめていたのかも知れない。山あいの空気は、もう冬の棘をふくんでいて、私は、軽いウール地のジャケットの下で肩をすぼめていた。奈良や京都市内の名所ならともかく、山ふかいここ当尾のあたりまで足をのばす人はめったになかったのか、あたりはしんとしずまりかえっていて、色とりどりの落葉が浮かぶ緑青(ろくしょう)色に濁った水面に、ときどき浮かび上がってはぷつんとはじける泡の音が聞えそうだった、緋もうせんの上には、ふたり分のおべんとうにちょうどよい大きさの、みごとな蒔絵の三段がさねのお重がひろげられ、その段のひとつひとつには、ていねいに面取りをした目のさめるような赤さの京人参や小芋や椎茸や湯葉、高野豆腐などのお煮しめ、みりんで照りつけ、梅酢漬けのはじかみ生姜をそえた甘鯛の西京漬け、ふんわりとレモン色に焼きあげた出し巻などが配色よくつめられ、三の重には、あの関西ふうの、黒ごまをふった指先ほどの小さい俵形のおにぎりの白が、正午をすぎたばかりの秋の陽をうけて、つやつやと光っていた。

「つめとおすけど、こんなん召しあがりますかしら。うちの蔵のをすこしだけ持ってまいりました」

 そう言って竹野夫人が、赤い縮緬の袱紗につつんだ、ぱちんと閉まる小さなふたのついた錫の銚子を取り出して冷酒をすすめるのを、私は夢のなかの出来事のように、ぼんやりと眺めていた。》

 有名な九体仏を見て、浄瑠璃寺をあとにし、老師のいる今日の禅寺にむかった。勝手を知りつくしたという感じの竹野夫人のあとから、黒光りのするつめたい廊下を何回も曲り、渡り廊下をこえ、部屋のひとつの、ふすまのそとで立ち止まった。夫人が声をかけると、中から、おう、というような返事がきこえた。

《夫人がゆっくりふすまをあけると、六畳ほどだろうか、日本間にしては変則的に横長な部屋のなかには、障子ごしに射しこむ白い陽光が洪水のようにあふれていて、その奥に、黒い、ちろちろと燃える燠のようによく動く老人の目が、白い羽二重のふとんをかけた炬燵のむこうから、さぐるようにこっちを見ていた。小柄な体を包んだ着物も白の羽二重で、まるで、ときならぬ雪景色のなかに迷いこんだようである。袖口からにゅっと突き出した、手首の骨がまるく盛り上った白い手が、炬燵の上に行儀よくそろえておかれている。

 初対面の挨拶をする私を見て、老師さんはあはは、というように、歯のない口をあけて笑ったかと思うと、まるで古くからの友人に対しているような、気易い声で言った。

「あんたか」

「はい」

 つられて笑いながら答えると、老師さんは、愉快そうに私をにらんでから、炬燵の上に頭をさげて見せた。

「なんやら、ご厄介になるようだな」》

八十をすぎた老師の小さなからだから出る、精力にあふれた笑い声に圧倒されて、私は、竹野夫人といっしょに、白い陽光にあふれた方丈を辞去した。

 ミラノに帰って一年が経ったが、なんの音沙汰もなかった。周囲の知人に、日本から老師が禅につて講演する話を聞いたことがあるかと訊ねてみたが、だれもがきょとんとしていた。夢を見ていたのかと思うほどに遠いことに思えはじめたある日、竹野夫人から手紙が来て、ティルデさんからなかなかはっきりした返事が来ないと思っていたら、先週、ふいに手紙が来て、いったん白紙にもどしてほしいといってきたのだけれど、どうしてとつぜん中止になるのか、手紙に書いてきた理由が納得できないので、私の意見をうかがいたく、筆をとった、ということだった。それによると、ティルデは日本の若い留学生と恋をして、家族の大反対にあい、老いた両親は、娘をドイツの女子修道院に二、三年のあいだ、閉じこめることに決めてしまった、というのである。ティルデの話はとてもほんとうとは考えられません、と私はすぐに返事を書いた。ティルデの精神状態が正常でないからとまで書いて、ぜんぶのイタリア人が彼女みたいではない、例外です、とイタリアを擁護したがっている自分が滑稽でもあった。

 夫が死んで二か月後に、こんどは母が大病をして一時、日本に帰っていた。何週間も母の危篤状態はつづいて、疲労の極にあった。ある晩のこと、電話が鳴って、私が出た。もしもし、もしもし、と聞きなれない声が呼びつづけ、もしもしというばかりでいやになって、受話器を置こうとしたとたん、相手の声がとびこんできた。「こちらは伏見の竹野と申しますが」「今朝の新聞で、あつこさんが日本文学の翻訳について書かれたエッセイを読ませていただいて、ご主人をなくされたことを知りましたが、ほんとうでございますか」「はい」 そう返事をしておいてから、私はいそいでつけくわえた。「ほんとうです、私、本人でございますが」「あっ」と小さな叫び声が受話器のむこうで聞こえたかと思うと、電話はぷっつり切れた。その後も、電話はかかってこなかった。どうして、なにも言わないで電話を切ってしまったのか、ずっとあとになっても、理解できなくて、気がめいることがあった。

《もしかしたら、電話に出た私が、本人ですと答えたあの瞬間まで、私は夫人の空想のなかでだけ生きつづけた、うつつを離れた存在にすぎなかったのではないか。遠い外国の都会に住む私という人間のイメージから芽が出て葉をしげらせ、枝がつぼみをむすんで、いくつかの物語が彼女のなかでつぎつぎと花をひらかせた。たとえば、あの夢のような浄瑠璃寺への遠出。彼女にとっておあつらえむきなことに、私までが父からの贈物やらぴかぴかのメルセデス・ベンツやらお抱え運転手という時代ばなれした小道具にかこまれて登場したものだから、夫人は完全に現実から遊離してしまう。彼女がおさないころ両親に連れられて観た南座の芝居の一場面を、あるいはかつて両親と遊んだ幸福にみちた紅葉狩りの場面を、私をなかに入れて再現してみたかったのではなかったか。青い池の水を顔に反射させて、黙々とお煮しめを口にはこぶ夫人の顔が目に浮かんだ。》

 そして、ミラノの美女、スフォルツェ城の近辺に住むティルデの物語が、夫人の夢をいやがうえにもかきたてたのだろう。夫人からのサインを彼女は敏感に受けとめて、禅の講義やミラノへの招待やらを発信し、ゲームをもりあがらせる。ディルデのドイツ修道院にとじこめられるという中世めいた物語は、京都製といった感じが濃厚な気もした。空想やら嘘や虚構が入りまじった果てに、私の夫が亡くなったと知り、お悔やみの電話をかけることにした。ところが、家族のだれかれではなく、ミラノにいるはずの私が電話口に出て、いきなり本人だと名のった。

《竹野夫人のゲームの軽やかな進行にとって、死の事実はどうみても重すぎる現実にちがいない。それまで快適にふくらんでいた夫人の想像の風船が、ナマの私の声を聞いた瞬間、パチン、と小さな音をたてて破れた。

「あはは」

 老師さんの笑い声が白い方丈にひびくのが、遠い廊下のむこうから聞えてきそうだった。》

 

<『カティアが歩いた道』/キリスト者

 この本のなかで、もっともエッセイらしい作品かもしれない。回想形式ではないが、パリ留学時代から、書かれた現在に近い時点までの、三十年以上の時をへだてての静かな再会の物語となっているとはいえ、須賀の内面の関心にもっとも近かった問題、「よりよく生きること」と「深さ」のテーマが扱われている。キリスト教に関係して、エディット・シュタインについて多くのページがさかれ、シモーヌ・ヴェイユやトマス・アクイナス(「アクイナスのトマ」)の名も見える。キリスト者としての自分の立ち位置と、生き方という課題が、カティアを鏡にして、「歩くこと」を象徴に語らせつつも、街角の心象風景と労働司祭による講義の場面とともに、思想の言葉がストレートに文字となっている。

 

 前の年の夏にパリ、ベルナルダン街の寮に来て、七ヶ月のあいだに、せせこましく混みあった部屋のルームメイトは日本人のユキ、フランス人のカトリーヌ、ギリシア人のエレーヌとめまぐるしく替った。こんどはドイツのアーヘンから来た、子供みたいに赤く上気した、丸い、しもぶくれの顔の、学生というよりは、元気なパン屋のおばさんという感じだったから、ひとまずはほっとした。「カティア・ミュラーです。たぶん、秋までパリにいるつもり」 ブロンドの長い髪のカティアの登場の仕方と、ささいな挙動で垣間見せる性格描写はたくみだ。

 ゆっくり本を読んだり、人生について真剣に考える時間がほしかったので、アーヘンの公立中学校の先生をやめてしまってフランスに来た、と言う。しばらくパリに滞在して、宗教とか、哲学とか、自分がそんなことにどうかかわるべきかを知りたい。いまここでゆっくり考えておかないと、うっかり人生がすぎてしまうようでこわくなったのよ。いきなり本題に突入したようだった。あの戦争をした私の国の人たちのものの考え方には、ついていけない事柄が多すぎるから、国をはなれたほうがいいと思った、と言う。十二、三歳うえ、そろそろ四十に手のとどく年頃らしかった。《戦争のなかで育って、「お上」がつくった「当局の方針」という人生のプログラムに知らず知らずのうちに組み込まれていた私の世代にくらべて、彼女たちには、戦争についてのなんらかの意見や選択の余地があったはずで、それだけに、苦しみも大きかったかも知れないのだが、戦争の年月をこの人はいったいどこですごしたのだろうか。ドイツを覆ったあの狂気とはどのように対決したのだろうか。それとも、私たちの大半がそうであったように、無力な沈黙を強いられていたのか。》 作者には珍しく、あの戦争についての意見が口にされている、自分の国への批判精神と、ドイツの人びとへの精神的な探求をもって。

 同じ部屋に暮らしてみると、カティアは手ごたえのある同居人だった。《なによりも、自分だけの人生をもとめて故国をはなれ、一歩一歩手さぐりしながら歩いている彼女に、深い共感をおぼえた。おなじような感慨がカティアの側にあることも、おおよそ知れた。》

 カティアは「歩き靴」を持っていた。重たそうな革の、底の厚い編み上げ靴は、見とれるほどに、堂々としたりっぱなものだった。《あるまぶしさのようなものを覚えたのは、それが、歩くことを通して子供たちに土地のつながりの感覚をおぼえさせるという、ヨーロッパの人間が何世紀にもわたって大事にしてきた、文化の伝統の一端をまざまざと象徴しているように思えたからだった。》 「歩くこと」のテーマが、須賀らしく具体的な「物」を手がかりに語られてゆく。そのころ、私は自分にとって異質なこの街の思想や歴史を、歩くことによって、じわじわとからだのなかに浸みこませようとするみたいに、勉強のひまをみては、地図を片手に、よくパリの街を歩いた。詩人ネルヴァルが首をつって自殺したのは、このあたりだという、サン・ジャックの塔のそばを、つめたい雨の夜に通りすぎることもあった。

 カティアはほとんどいつも、夏までにエディット・シュタインの著作五巻を読破するのだといって、ぶあつい哲学書を読みふけっていた。一八九一年に、東部ドイツのユダヤ人の家庭に生まれたシュタインは、ゲッティンゲンやフライブルク大学で哲学をおさめ、現象学フッサールの助手をつとめるなどしたが、三十歳のとき、カトリックの洗礼をうけて高校の教諭になった。ナチスによるユダヤ人迫害がはじまると、同胞の救済を祈るために、カルメル会の修道女として生涯を捧げようと決心するが、迫害が波及しそうなのを知って、オランダの修道院に身をかくすも、ドイツ軍のオランダ侵攻とともに秘密警察に捕らえられ、一九四二年にアウシュヴィッツガス室で死をむかえた。五〇年代初頭に、シュタインの著作集がミュンヘンで刊行されると、高い学識と深い思索に裏づけられた劇的な生涯は、感動をもって内外のキリスト教徒に迎えられた。《彼女の名声が、カトリックの神学を現象学の立場から解釈しようとした哲学者としてよりも、ユダヤ人でありながらキリスト教をえらび、それでもなお、ユダヤの血をうけているために死ななければならなかったという悲劇性によって増幅された事実は、否定できない。やはりユダヤ人でキリスト教を求め、戦争中に病死したフランスの思想家シモーヌ・ヴェイユデマゴーグ性には欠けるかも知れないけれど、非キリスト教世界にむかって教会の門が開かれることを切実に望んでいた一部のキリスト教徒にとっては、シュタインも、時の流れを象徴するひとつの重い存在だった。》

 カティアがシュタインについて興味をもつようになったのは、靴なおしをしている女性の影響で、その人はもとシュタインとおなじ修道院にいたのだけれども、彼女があんなふうにして死んだあと、修道院の生活が無力におもえて、ふつうの人間の暮しをしながら、深い精神生活を生きられないかと、修道院を出たのだという。その人がカティアに、シュタインの本をおしえ、南フランスでおなじような生き方をしているグループの人びとを紹介してくれた。でも、私はまず、まっすぐに南仏には行かないで、ここでしばらく本を読みながら、自分の人生についてゆっくり考えてみたいと思ったの。須賀にとって、カティアを語ることは、シュタインを語ることでもあり、そしてまた自分を語ることへ螺旋のように戻ってくることでもあった。

《きょうは、何巻目を読み終る予定だといって、にこにこしているカティアの顔を見ると、私はなにかしなければとあせった。ヨーロッパに来たのは、文学の勉強をするためだけではないはずだった。戦後の混乱のなかで両親の反対をおして選びとったキリスト教を、自分のこれからの人生のなかでどのように位置づけるのか、また、ヨーロッパの女性が社会とどのようにかかわって生きるのか、学問以外にも知りたいことは山のようにあった。》

 けっきょく、カトリック信者、ミッションの人、須賀敦子は「戦後の混乱のなかで両親の反対をおして選びとったキリスト教」のいきさつと内実をどこにも書き残さなかったのだが、そこには須賀の矜持、強い意志があるだろう。語らなかったが、その後、母も父も生前洗礼するのだから、須賀の説得力と生き方がどのようであったかは想像しうる。

 毎週金曜日の夜、フォーブル・サン・ジャック街のドミニコ会修道院で、労働司祭がミサをおこなっていて、そのあと旧約聖書の勉強会があると、寮で学生の世話をしているシュザンヌが教えてくれた。行ってみたら、なにか、あなたの探しているものが見つかるかも知れないし、だれか話のできる人に会えるかも知れない。

 ここからはシンパシーと落胆、あせりと寂寥にみちている。昼間は工場などで働き、余暇の時間に司祭の責務をはたすという、戦時の対独レジスタンスから生まれ、戦後、欧米各国にひろまった労働司祭の運動が、ローマの教会当局の批判を浴びて全面的に禁止されたのは、ちょうどそのころだったが、ドミニコ会のおもだった神学者たちは、くじけることなく反抗的ともいえる立場をとっていた。そんな状況の中だったから、宗教的な意味をこえて、教会の方針に対する批判の行為でもあり、非合法的な政治集会に参加するのにも似た、ある精神の昂揚を感じて緊張した、とあるように立場を明示している。寮から目的地までの道のりを歩いていくことにしたが、迷ってはいないかと、なんども道の名を街燈の明りでたしかめ、足音が硬い石畳にはねかえるのを聞きながら、歩いたが、八時に出て、着いたのは九時を過ぎていた。よごれたシャツを着た労働司祭が、駅の待合室のように殺風景な部屋でひっそりとミサをあげていて、四、五人の参会者たちが石の床にひざまずいて祈っている。司祭が、今日の工場労働者をガリラヤのイエスのもとにあつまった群衆にたとえ、彼らの側に立つことの意味を説いた。《そして、なんの脈絡もなく、薔薇窓やステンド・グラスの華麗なカテドラルを造って、彼らの時代の歓喜にみちた信仰を美しいかたちで表現しようとした中世の職人たちのことが、こころに浮かんだ。》 ミサがすむと、聖書の講義があった。悲しみのなかで、神を信じつづけたヨブの歎きがその日のテーマだったが、科学的、歴史的方法を用いた講義は、従来の教会ばんざい式の感傷に流れない客観性に裏づけられていて、こころづよかった。寮から歩いてきた長い道の寒々とした暗さが、そのまま、人生のよろこびに見棄てられたヨブの悲しみに思えて、熱心にノートをとっている人たちをぼんやりと眺めていた。《帰りは地下鉄に乗ることにしたが、サン・ジャックという駅の名を見て、さっきミサのあった場所が、十三世紀の天才的神学者のアクイナスのトマが、ナポリからパリに来てソルボンヌで教えていたときに泊まっていた修道院に違いないことに気づいた。アリストテレス的な神学理論を展開して危険人物視されたトマは、これもイタリア人で、プラトン派の神学者だったボナヴェントゥラと、サン・ジャック街を夜っぴて行ったり来たりしながら論争したという話をどこかで読んだことがあった。彼らは、今夜会った労働司祭たちとはちがって、おそらく生気に溢れていたのだ。夜のミサには、その後、二、三度、通っただけでやめてしまった。》 須賀はトマス・アクイナスについても理解は深かった。

《一年近い時間をパリですごして、大学の硬直したアカデミズムに私は行きづまりを感じていた。教会のほうも、もっと新しい風潮にじかに触れられるかと期待していたのに、せいぜいがサン・ジャック街のミサぐらいだった。岩に爪を立てて登ろうとするのだが、爪が傷つくだけで、私はいつも同じところにいた。》

「歩き靴」といっしょにドイツから持ってきた、見るからに固そうな黒パンを朝食に食べていたカティアが、夏休みには、イタリアに行ってみようという考えにたどりついた私に、私もペルージャの外国人大学でイタリア語をならったことがあるからと、イタリア語の手ほどきをしてくれた。カティアにならった動詞活用のおかげで、ペルージャで初級をとばして、中級に編入されたが、夏休みが終ってパリに帰ると、カティアは旅に出たあとだった。だいぶ経ってから、絵はがきが南仏からとどいた。いつかあなたに話した、アーヘンの靴なおしをしている女性に紹介されたグループに自分は入ろうと考えている、と書いてあった。それきりカティアの音信はとだえた。

「まさかとは思いましたが、もしかすると先生のことかもしれないと思って」大学の廊下ですれちがった、フィリピンから帰ったばかりの若い同僚が言った、「そのドイツ人のおばさん、カティア・ミュラーっていうんです。ぼくのいた山の町の学校の校長先生です」 近辺の住民に尊敬されているそのドイツ人の先生は、南仏のミッションのグループからフィリピンに派遣されていて、パリでルームメイトだった日本人の「アツコ」にイタリア語を教えたことがあると聞いて、先生じゃないかと思ったんです。来週、ある国際機関に招かれてカティアが日本を訪問するという。予定がつまっている彼女の日本での最後の日の夕方、市ヶ谷の土手を、レセプションのあるホテルまで、東京の春を満喫してほしくて、歩いて送ることにした。

《透明な蜜を流したような四月の夕方だった。》 カティアの髪は銀髪になって、もう、七十をいくつかすぎている勘定だった。フィリピンで事故にあった後遺症だといって、杖をついているのが痛々しかったが、彼女の白いスニーカーを見て、「歩き靴」が記憶の底にちらついた。「桜なんて、ほんとうはどっちでもいいのよ」カティアがひくい声でいった。「あなたに会えただけで、私は満足しているの」 カティアは、杖をついていないほうの手を私の肩にまわした。むかしとおなじ、産毛におおわれた、まるい、肉のやわらかい、ずっしりと重い手だった。

《四谷に近い女子高の塀がつづくあたりまで来ると、塀のむこうに、赤い大きな太陽がゆっくりと、沈みはじめた。

「ずっとフィリピンにいるつもり?」

 私がたずねると、カティアはふふっというように笑ってから、しずかな声でいった。

「神様のおぼしめしのまま、よ」

 粗末なワイン・カラーのじゅうたんを敷いたせまい部屋の小さな机にむかって、むさぼるように哲学書に読みふけっていたカティアの姿が目に浮かんだ。会うまでは、あれも話そう、これもたずねようと思っていたのに、会ってみると、ベルナルダン街の部屋で向いあって朝食を食べていたときとおなじぐらい、なにも話すことがなかった。カティアはカティアなりの道を選んで、いまはやすらいでいる。》

 足音が硬い石畳にはねかえるパリの対極のような、湿って、音のない、川端の小説のような美しくもせつない情景となるが、そこには会ってみると「なにも話すことがなかった」ふたりの、互いの歩いてきた道を認めあう何ものかがあって、幻影かもしれないが幸福のさくら色に染める。

《道がカーブになったあたりで土手に上ると、そこだけ樹木が密生していて、深い森に来たようだった。地面が湿っているのを敬遠してか、その辺りだけは花見客の姿が途だえ、紅白の幕もなかった。人影のない薄闇をとおして見ると、空気がさくら色に染まって、音のない音楽のなかを手さぐりで迷い歩いている気がした。地面に散り敷いた花が、あたりをぼんやり照らしている。

「もう時間がないわ」

 かすれたようなカティアの声にわれにかえると、花に呆けた私がおかしいのか、目じりにしわをよせて、笑っている。ちっとも変っていないね。すっかりやさしい老女になった彼女は、そう言うと、さもおかしそうにくつくつと笑いつづけた。》

 

 伝記批評をするつもりはないが、松山巌による年表(『須賀敦子全集、第八巻』)をみると、一九五三年の夏に須賀はパリに到着し、十一月、妹良子、結婚の記事のまえに、こんな記載がある。《この時期から、シャルル・ペギー、エマニュエル・ムニエなどの新しい神学をさらに学ぶ。シモーヌ・ヴェイユや、エディット・シュタイン、サン=テグジュベリの著作に親しむ。》 翌一九五四年四月には、聖週間に学生の団体旅行に参加し、ローマ、アッシジフィレンツェを訪れている。《四月末、冷たい雨の日の午後、アッシジへ行く。サクロ・コンヴェントの広場、サンタ・マリア・ミネルヴァ、サン・ルッフィーノなどを巡る。小さな聖キアラの庭に心を奪われる。夕刻にフィレンツェに向かう。》 三年後、パリから帰国後の一九五七年に、『アッシジでのこと』という一文を『聖心(みこころ)の使徒』に発表している。また、六月には、《シャルル・ペギーの呼びかけではじめられた、シャルトル大聖堂への学生巡礼に参加》とある。そして、七月には、ペルージャの外国人大学中級に入学し、九月末にはパリにもどったのは、この一篇のとおりであるが、同時期に並行して行われていた、エディット・シュタインを読むことと、イタリアのアッシジ訪問の件と、シャルトル巡礼の件は、見事なまでに、この一篇からは消えている。小説において、何を書くかはもちろん大切だが、何を書かないかも重要だという創作術を須賀はよく知っていた。それらを、このカティアをめぐる一連の文章に混ぜあわせれば、ドラマチックさは激減し、それ以上に、論理と感情の道筋は混乱するだろうから。シュタインはカティアだけに、イタリアはカティアにイタリア語を習って行くペルージャだけに集中させ、サン・ジャック街の労働司祭によるミサと講義は扱うがシャルトル巡礼には触れない、のが文学的効果を生む、それは嘘をつくことではなく、読者に深くとどくためである、と須賀はわかっていた。こうして考えてゆくと、カティアという存在自体が、須賀の思いを語らせるために、カティアという名前で造形された小説の人物ではないのか、すべてはフィクションではないか、あの『白い方丈』のような、とさえ思われてくる。そして、それが事実か勝手な妄想か、カティアは実在したのか、ロマネスクな人物なのか、約三十年後の春に彼女は日本を訪問し、桜咲く四谷の土手を須賀といっしょに散策したのか、といった伝記的事実を詮索することは、小説であろうがエッセイであろうが、思いを伝えることを第一義に考えるならば、必要ないのはもちろんのことである。

 上記の『アッシジでのこと』から、ごく一部分だけ引用してみたい。若い須賀に決定的ともいえる影響を与え、次のイタリア留学の熾火になったに違いないアッシジ訪問が、硬く、息の短い、体言止めまである文体、回想の過去時制ではなく現在時制で断定されがちな、成熟していない文体ではあるけれども、カティアが見まもっていたパリの時間と比較して、熱く素直に語られているからだ。

《雨が降っていた。聖週間にパリをたち、御復活祭をローマにむかえてまもないころだった。ポルティウンコラに近い、アッシジの駅から、四キロへだてた丘のうえに、サクロ・コンヴェルトの印象的な、白い廻廊が、灰色の空を背に長くつらなってみえた。それが、私の、はじめてのアッシジだった。(中略)

サン・ルフィーノを出て、小さな坂道を降ると、サンタ・キアラに出る。この街にはめずらしい感じの、堂々としたゴチック建築。(略)旅行者の「私」は、いつの間にか、ややほんとうに近い「私」に席をゆずっていた。どうしてか私にはわからない。けれども私は、たしかに、サン・ダミアノには、今でも聖(サン)フランチェスカと聖(サン)キアラが、まだそっくりあの時のままの生活をふたりしてつづけているとしか思えない。(中略)

 ふたりのよろこびは自らを包みきれなくなって、いわゆる、「聖キアラの庭」で昇華する。案内の若い修道士(フラテ)はうれしそうに云われた。ここで聖フランチェスカが太陽の讃歌をつくられたのだということです、と。

庭とは名ばかり、三方を高い石の壁にかこまれた一坪ほどの細長い空間である。(中略)

 この小ささ、そしてこの豊けさ。一週間まえあとにしてきた勉強が、パリの美しさ全部が、私の頭の中で廻転しはじめ、淡い音をたてて消えてしまった。力づよい朝の陽光にたえられず、橙々色にしぼんでしまう月見草の花のように。講義、図書館、音楽会、展らん会、議論。私にとってあれはみな、幻影にしかすぎぬものなのではなかったのだろうか。私の現実は、ひょっとすると、このウムブリアの一隅の、小さな庭で、八百年もまえに、あのやさしい歌をうたった人につよくつながっているのではないだろうか。私も、うたわなければならぬのではないだろうか。

 しばらくやんでいた雨が、またぱらつきはじめた。案内の修道士(フラテ)が、金魚の水溜りに浮んでいた二三枚の葉をとりのけてやりながらつぶやいた。雨だよ、たくさんあたっておたのしみ。(後略)》

 

<『旅のむこう』/ロラン・バルト

 母の両親の地、豊後竹田を汽車で通過する娘の新婚旅行のひとこまではじまり、その新婚旅行からミラノへ翌日に帰ってしまう母の歎きの声で閉じるこの一篇については、趣を変えて、あら筋ではなく、母の声を野暮な人情解説ぬきで紹介することとしたい。母についての娘の思い出は、母が思い出を娘に語って聞かせることで、遡って娘が母を生きなおしているような様相さえ帯びてくるのは、《だれにも守ってもらえない婚家での苦労を一時でも忘れようとして、母は、つらい分だけ、まるで編み棒の先からついとすべり落ちた編目を拾うように、あるいはやがて自分自身をとじこめることになる繭のために糸を吐きつづける蚕のように、いまは透明になった時間の思い出を子供たちに話して、自分もそれに浸った。思い出をたどるときだけ、母は元気だったので、私たちは、母の思い出にそだてられた》からだろう。

 

《微禄だったけど、竹田の殿さんのおさむらいだったのよ。ママのうちは。

 それは、商家に嫁いで、なにもかも見当ちがいでとまどいつづけ、しゅうとめや、自分をかまってくれない夫への不満を、面とむかっては一言もいえない気弱な母が、二階の六畳間に来て私たち姉妹にだけ打ち明けるとき、まるで魔法のことばを口にのぼせて窮地を逃れる女の子みたいに繰り返すフレーズだった。これだけは奪うことができない、というように。》

《がむしゃらに母と母の兄たちを説きふせて結婚した父が、天にも登る心地で選んだ新婚旅行の目的地が、やはり別府だったからだ。黒っぽいコートを長めに着て、手袋をはめようとしている。耳かくしに結った母のスナップ・ショットがある。背景は山で、あ、私の写真なんて、というような羞じらいとほのかな媚びのまざった笑いを口もとに浮かべた表情がういういしい。ママ、きれい。すると、母は、ちょっとなつかしそうに目をつぶって笑う。

「いやあね、新婚旅行のときの写真よ。パパが撮ったのよ、別府で」》

《ほんの幼いころ、母は三度、悲しい思いをした。まず、四十になったばかりの父親をなくした。母は小学校の一年生で、先生に呼ばれて家に帰ると、お父さんはもう死んで、ふとんに寝かされていた。悲しかったわ。母はそう言った。(中略)

 明治天皇の死は三番目の悲しみで、そのまえに、もうひとつ、胸がはりさけそうだった、と彼女がくりかえした大きな悲しみがあった。それまで住んでいた川っぷち(大阪の、どの川だったのだろう)の官舎を出て、父がいつか母と口論したときに子供たちのまえで「場末」と呼んだ、遠い町の狭い家に越したからである。そのまえに、ながいこと家にいたスエという名の女中が、いとまをとって、ぽんぽん蒸気に乗って行ってしまった。

「ママの家はお父さんが死んで、貧乏になったから、スエはいられなくなったのよ」

 母は言った。

「ちぎれるように手をふって、スエは泣いてた。悲しくて、わたしも、姉さんたちも、おいおい泣いたわ」

 まるで、自分が泣いているのを、どこかで見ていたように、そのときの話をした。おそらくは、あとになって、姉たちや母親に聞いたことをとりまぜて、脚色を加えたのだろう。》

《どうして、ここの家の人たちは冗談をいわないのかしら。結婚したころ、わたしは、毎日がつまらなくて、どうしていいかわからなかったわ。そう母は言って嘆いた。母にとって、冗談は、おいしいものを食べるのとおなじぐらい、大切なのだった。そういえば、母の兄弟たちは、ひとりのこらず食いしんぼうで、季節ごとに祖母が漬けこむ野菜の話や、九州の人たちならだれでも好きだというメンタイコの話や、家がケガレルからと祖母がいやがるので、兄たちが庭で煮たというイノシシ料理の話などをすると、母の声は高くはずんだ。話してしまってから、母は、しまったというように首をすくめて、おばあちゃんには、こんな話をしてはだめよ、と、食べ物の話をきらう姑に私たちがしゃべるのを警戒して、注意した。》

《母は、もっとびっくりするようなことを言った。シナ語、とくに北京語は日本語よりもうつくしい、というのである。フランス語も日本語よりきれいなの? と私がたずねると、もちろん、と自信ありげだった。「どこの言葉がいちばんうつくしいか」など、私はそれまで考えてみたこともなかったのだが、「なんでも世界一」というふうにそのころ教えこまれていた日本の私たちが話している言葉より、もっとうつくしいものが世界にあると聞いて、いったいこれはどうしたことかと、衝撃をうけたが、まず、言葉がうつくしい、というのがどんなことなのか、私には意味がわからなかった。

「大きくなったら、フランス語をならおうかな」

 私がそう言うと、すぐになんでも熱中してしまう私を、母は心もとなさそうに見すえて言った。

「なにも、フランス語でなくたっていいのよ。北京語もすてきなんだから、どっちか勉強するといいわ」》

《私がだれかに写真をとってもらうとき、そばにいると、かならずといってよいほど、こう注意した。

「笑わないで、ちゃんとお口をしめて」

 それは、にこにこして相手に迎合したり、「女らしさ」によりかかろうとする私より、まじめな表情をした私のほうが、私らしいという考えに通じていたようで、私はながいこと、あの気弱でひっこみ思案の母が、そんなふうに世間いっぱんとは違ったものの考え方を大事にしているのを、理解できないでいた。》

《「洗礼をうけたら、悩みがなくなるなんて、私にはとてもしんじられない」(中略)

 母は、およそ母らしくないフランスの聖女の洗礼名にもらって、日曜日には、教会に行くようになったが、その後もときどき、ねえ、おまえたち、ほんとうに神さまのことを信じているの、などとたずねて、私たちをあわてさせた。

「なにも信じないよりはましだって、そう思って、わたしは洗礼をうけることにしたんだから」(中略)

「終点にだれもいないより、神さまがいたほうがいいような気もするわ」》

《二階の六畳間に行くと、たんすのまえにすわった母は私にもすわりなさいと言ってから、低い声でたずねた。

「フランスまで行ったのは、おまえ、どういうことだったの?」

 いつになく鋭い母の矛先を私はありきたりの冗談でかわそうとしたが、母は笑わないでつづけた。

「このところ、自分の生き方をサボってるみたいなおまえを見ていると、わたしはなさけなくなるわ」母は言った。「そんなために、おまえをフランスまで行かせたのではない気がするのよ」

 そして母はとどめを刺すように、こうつけくわえた。

「一日も早く、東京に行くなりなんなりして、自分の考えていたような仕事を見つけてちょうだい」》

《どうなだめても、母はメルセデス・ベンツで旅行するぐらいなら、家でお留守番する、と言いはった。いたたまれない気持で、私が妥協案を出した。ママと私は高山まで汽車で行く。高山から上高地までだけ、車にすればいい。母はやっと折れた。(中略)

 わっと思っていると、またトンネルを出る。小さな白いハンカチを口にあてた母のおかしそうに笑っている顔が、煙のなかから、出てくる。そして、また、消える。

「煙のなかから出てくるたびに、おまえの顔がすこしずつ、まえよりすすけているの。おかしかったわ」

 母はずっとあとまで、この旅行を思い出しては声をたてて笑った。

「おまえがふたつのときに、東京へ連れていったときから、ふたりだけで旅行したのは、あれがはじめてだったわね」》

《三週間の滞在はあっという間に終って、あしたは出発という日の夜に、横文字の苦手な母のためにいつもしたように、ミラノの家の住所を書いた封筒を一束、居間に持っていくと、母はその宛名をじっと見つめながら、言った。

「ミラノなんて、おまえは、遠いところにばかり、ひとりで行ってしまう。」》

 

 須賀敦子と同じように、晩年に小説を書こうとしたが、不慮の交通事故死で世を去り(一九八〇年、六十五歳)、書き終えられなかった人として、ロラン・バルトがいる。

ロラン・バルトに、『長いあいだ、私は早くから寝た』(吉田一義訳(『現代詩手帳 臨時増刊 ロラン・バルト』一九八五年十二月、現代思潮社))という一九七八年十月の講演記録がある。ここには、小説を書くとはどういうことか、書こうとした小説とは何か、という問題がある。

《この講演の題として私が掲げた文章がお分かりになった方もおられることでしょう。「長いあいだ、私は早くから寝た。ときには、蝋燭が消えると、すぐに目が閉じて、<眠るんだな>と思う間もないことがあった。そして、三十分後、そろそろぐっすり眠らなければならない頃だと考えては、目が覚める……」これは『失われた時を求めて』の冒頭です。ということは、私はプルースト<について>の講演をしようというのでしょうか? そうでもあり、そうでもない。こう言ってよければ、むしろ「プルーストと私」ということになりましょう。何という自惚れ!》といった諧謔からはじまって、書物を書きたいと思い、それに成功したプルーストについて語ってゆく。長くなるが、できるだけかいつまんで引用する。

《『失われた時を求めて』に先立って、一冊の書[『楽しみと日々』]、翻訳、論考など、数多くのものが書かれています。あの大作が本当に書き始められたのはようやく一九〇九年の夏のあいだのことですが、その時点からは周知のごとく、書物を未完の危険にさらしかねない死と闘いながらの脇目もふらぬ疾走となるのです。どうやらこの一九〇九年に(ある作品の開始時期を正確に特定しようとするのは無駄だとしても)、決定的な躊躇の時期があったようだ。実際プルーストは、二つの道、二つのジャンルの十字路にあって、二つの<方向>に引裂かれていたのであって、ちょうど話者(・・)が、ジルベルトとサン=ルーが結婚するまでの非常に長いあいだ、スワン家の方がゲルマント家の方に到達することを知らないのと同じで、両方向が一緒になるかもしれぬことなど知る由もなかった――その二つの方向とは、(批評の)評論(・・)の方向と小説(・・)の方向だったのです。(中略)

 彼が迷っている二つの<方向>は、ヤコブソンによって明らかにされた対立の二項、暗喩(メタフォール)と換喩(メトニミー)との対立にあたる。暗喩は、「それは何なのか? それは何を意味しているのか?」という問を提示するあらゆる言述を支えており、これはあらゆる評論(・・)が問うところのものである。換喩の方は反対に、また別の、「私が述べているこれの後には何が続きうるのか? 私が物語っている挿話は何を産み出しうるのか?」という問を出すのであって、こちらは小説(・・)が問うところなのです。ヤコブソンは、子供たちが「ヒュッテ」という語にどんな反応を示すかを調べた、ある教室での実験のことに注意を喚起していました。ある子供たちは、ヒュッテとは小さな小屋だ(暗喩)と答え、他の子供たちは、それは焼けてしまった(換喩)と答えたという。プルーストは、ヤコブソンの述べる教室の子供たちがそうであったように、分裂した主体だったとも言えましょう。人生のひとつひとつの出来事は、それに注釈(解釈)を加えるか、それとも、物語る際のその前(・)と後(・)を示したり想像させるような筋立をつくるか、そのどちらかの機会になるとは、彼も承知しているところです。》

 そして、プルーストがこの迷いからどのような決意で抜け出したのか、またなぜ彼が根本的に『失われた時』へと没入していったのかは知る由もないが、

《彼が選びとった形式は分っている――『失われた時』の形式それ自体がそうだと。小説か? 評論か? そのどちらでもないし、その両方だとも言えよう。私はこれを、第三の形式(・・・・・)と呼びたい。》として、この三番目のジャンルについて考えみる。

《私がこの考察の冒頭に『失われた時』の最初の文章を据えたのは、それが五十ページばかりの挿話を開くもので、この挿話こそが、チベットのマンダラさながら、プルーストの作品全体を一望のもとに収めているからです。この挿話は何を物語っているのか? 眠りです。(中略)

 それは、時(・)の水門を開くことにある。時の論理(クロノロジー)が揺さぶられると、理知的なものであれ物語的なものであれ、さまざまな断章が、物語(・・)や論理(・・)がもつ父祖伝来の法則を免れたある脈絡を形づくることとなり、そしてこの脈絡が評論(・・)でも小説(・・)でもない第三の形式を無理なく産み出していく。その作品の構造は、文字通り、ラプソディ風(・・・・・・)、つまり(その語源からして)断章を織り継いだものとなるのです。》

 ここからはプルーストの作品の伝記的解体を考察した後、ダンテ『神曲』の「ワレラガ人生ノ道ノ半バニシテ(・・・・・・・・・・・・・・)……」を引用してから、バルト自身の「新生(ヴィタ・ノーヴァ)」への望み、読書体験とそれによる教訓から、小説が持つ能力を発展させ、三つの任務を果たしてもらいたいと思う。

《一つは、私が自分の愛する人達のことを語ることができるようにしてもらいたいということで(サドは――そう、あのサドが、小説の本領は自分が愛する人達を描くところにあると述べていた)、私がその人達に愛していると言うことができることではない(それなら文字通り抒情詩の企てになってしまう)。私は小説にいわば自己中心主義の超克を期待しているのであって、それは、自分の愛する人達のことを語ることが彼らが<無駄>に生きた(そして大ていの場合、苦しんだ)のではないことを証言することになるからです。(中略)

 第二の任務は、私に情愛の提示を十全に、だが間接的に、可能にしてくれることにある。(中略)

 最後に、そして特に、小説は(不確かでまるで規準に当てはまらない形式を指して私がそう言うのも、私がこの形式を着想しておらず、それを思い出すか、望んでいるだけだからだが)、その書き方が媒介的である以上(小説はさまざまな介在者を通じてのみ思想や感情を提示する)、他者(読者)に圧力をかけることがない。その審理は、感情の真実を問うのであって、思想の真実を裁くものではない。》

 翌年の一九七九年にバルトが書いた、いっけん写真論にみえるが母の思い出を語っている『明るい部屋』と日記風の『パリの夜』には、あきらかにロマネスクな物語が織りあげられている。母子家庭で、ずっと一緒に過ごしたバルトにとっての母と、捩じれがあったとはいえ父と母がいて、早くに家を出、海外にも行ってしまった須賀にとっての母は、その母性の密着度があまりにも違いはするが、『明るい部屋』の写真をとおしての母の思い出は、『旅のむこう』の声をとおしての母の思い出と通じあうものがあるだろう。バルト『明るい部屋』(花輪光訳、みすず書房)の第二部から、小説的なエクリチュールをごく一部となるが書きだしておく。

《ところが、母の死後まもない、十一月のある晩、私は母の写真を整理した。母を《ふたたび見出そう》と思ったのではない。《写真を見てある人のことを思い出すよりも、その人のことを考えるだけにしておくほうが、もっとよく思い出せる、そうしたたぐいの写真》(プルースト)に、私は何も期待していなかった。思い出すことができないという宿命こそ、喪のもっとも耐えがたい特徴の一つなのであるから、映像に頼ってみたところで、母の顔立ちを思い出すこと(そのすべてを私の心に呼びもどすこと)はもはや決してできないだろう、ということはよくわかっていた。(中略)

 かくして私は、母を失ったばかりのアパルトマンで、ただ一人、灯火のもとで、母の写真を一枚一枚眺めながら、母とともに少しずつ時間を溯り、私が愛してきた母の顔の真実を探し求め続けた。そしてついに発見した。

 その写真は、ずいぶん昔のものだった。厚紙で表装されていたが、角がすり切れ、うすいセピア色に変色していて、幼い子供が二人ぼんやりと写っていた。ガラス張りの天井をした「温室」のなかの小さな木の橋のたもとに、二人は並んで立っていた。このとき(一八九八年)、母は五歳、母の兄は七歳だった。少年は橋の欄干に背をもたせ、そこに腕を乗せていた。少女は、その奥のほうにいて、もっと小さく、正面を向いて写っていた。写真屋が少女に向かって、《もっとよく見えるように、もうちょっと前に出て》、と言ったらしかった。少女は、子供がよくやるように、片手でもう一方の手の指を無器用につかみ、両手を前で組み合わせていた。(中略)

 私は少女を観察して、ついに母を見出した。少女の顔の明るさ、その手の無邪気なポーズ、出しゃばるわけでもなく隠れるわけでもなく、ただ素直に身を置いたその位置、そして「善」が「悪」から区別されるように、彼女をヒステリックな小娘や大人のまねをしてしなをつくるかわいいだけの女の子から区別する、その表情、それらすべてが至高の純真無垢(・・・・)の姿を表わしていた(ここでは、この純真無垢(イノサンス)という語を、語源に従って、《人を傷つけることを知らない》という意味にとっていただきたい)。それらすべてが、この写真の少女のポーズを、ある維持しがたい逆説的な姿勢、母が生涯維持してきた姿勢に変えていた。すなわち、やさしさを主張するということ。この少女の映像から私は善意を見てとった。(後略)》

 

<『アスフォデロの野をわたって』/「回想=省略の文体」>

 須賀敦子のイタリア文学論のひとつ、『ナタリア・ギンズブルグの作品Lessico famigliareをめぐって』(「イタリア語 ことばの諸相」一九九二年、イタリア書房)は、須賀の作品に大きな影響を与えたギンズブルグのLessico famigliare、すなわち『ある家族の会話』を、文体という視点から具体的に論じたものだ。二つの語りの様式が、この作品には仕掛けられていて、一つは「家族用語」によって話が運ばれる「言葉の記憶=饒舌の文体」、もう一つは「回想」の叙述における「回想=省略の文体」であると論じられている。前者の、「家族用語」によって話が運ばれる「言葉の記憶=饒舌の文体」については、母の声による『夜半のうた声』に活かされている。ここでは後者の、「回想」の叙述における「回想=省略の文体」についてとりあげてみたい。

《ナタリアが「女のよく陥る自叙伝風の」エクリチュールを極力回避しようとしたのは、自己を中心とした、心理の吐露にかまけた作品としての回想記であり、自叙伝であったと考えられるが、このように言葉によって触発される記憶の詩法は、そのために、もっとも効果的な手法であった。作者がかつて退けた「女性」的要素が、ここで逆転して作品の大きな魅力となったのである。彼女の避けたのが、女性らしさそのものではなくて、くだくだしい心理描写をともなうような文体であったことが、これで理解される。要するに、感傷的で、自己顕示欲のあらわな表現が彼女には耐えられなかったのだ。

 しかし、それだけではない。彼女の文体には、もうひとつの強力な工夫がかくされている。それを、仮りに省略の詩学と呼んでみよう。すなわち、饒舌の対極に、彼女は省略/忌避による沈黙を置く。その例として、回想のなかでもっとも痛みに満ちていてよいはずの、夫レオーネの死を告げる箇所を読んでみよう。

 最初、彼の死は、戦後ナタリアが働きはじめたエイナウディ出版社主のジュリオの託して語られる。

(引用されたイタリア語原文、略)

 レオーネの肖像を壁にかけたのはジュリオ・エイナウディであって、彼女自身ではない。そんなところに、ナタリアの忌避が読みとれるだろう。そして、淡々と、彼の無惨な死が告げられるのだが、この文章が読者の心を打つのは、最後の”un gelido febbraio”という換喩的な表現によってである。作者は、そのこと自体ではなくて、彼が死んだ朝の冷たさをつけくわえることによって、彼女自身の恐ろしさを告げ、この文章を抒情的にむすぶのである。

 もうひとつ例をあげよう。ふたたびレオーネの死に関するものである。

(引用されたイタリア語原文、略)

 アブルッツォの流刑地から、たいへんな苦労をして子供たちといっしょに、「私」は、レオーネの待っているローマに着く。その「ほっとした」(tirai il fiato)から”felice”という形容詞を経て、ローマの緊迫した生活を語ったあと、作者は「彼には二度と会わなかった」(e non lo rividi mai piu)という、これ以上みじかくなり得ない表現で、夫との永劫の別れを読者に告げている。わずかに、しかし、決定的に感情を伝えるのは、feliceに対しておかれた、最後の”mai piu”という絶望的な副詞句で、あとはすべて、「行動で構築」され、感情のはげしさは、「省略」で表現されている。夫との再会のよろこびは、わずかに”tirai il fiato”にとどまり、彼が収容されたレジナ・チェリ刑務所への言及も、拷問のすえの酷たらしい死についても、まったく触れられていない。そして、直後におかれた段落は、大きく息を吸って、泣き声にならないのを確認したうえでのように、つぎの言葉ではじまる。

“Mi ritrovai con mia madre a Firenze.”

 省略が、他のどのような抒情的形容よりも、深い悲しみと強い衝撃を表明しうることを、ギンズブルグは知っていた。(中略)

 省略が用いられるのは、しかし、かならずしも喪失をあらわすためだけではない。つぎのような例はどうであろうか。

 兄たちは、彼ら自身の言動によることもあるが、通常、母親あるいは父親の言葉をとおして「私」の記憶にとどまる。しかし、それだけではない。たとえば、作者がレオーネと結婚することになった過程は、彼女あるいはレオーネの心理に関するかぎり、すべて省略されている。いや、読者にはほとんどなにも知らされないで、その代りに、父母による彼についてのコメントが置かれるのである。(中略)

「自分のことをくだくだと他人にしゃべらない」というナタリアの北イタリア人らしい控え目な(羞恥心に根ざした)表現を基底にもつ省略ということができる。》

 ギンズブルグを考察した「回想=省略の文体」を頭に入れたうえで、阪神間に生まれ育った人らしい控え目な(羞恥心に根ざした)表現を基底にもつ人だった須賀の『アスフォデロの野をわたって』を読みすすめる。『旅のむこう』は母についてだった。これは夫のことである。そして、先回りして言えば、最後となる次の『オリエント・エクスプレス』は父のことだ。

 

《昼さがりの風がレモンの葉裏をゆっくり吹きぬけると、濃い緑のところどころが季節はずれの淡い黄色で染め抜かれた木立にかすかなざわめきが走る。見上げると、光が乱反射して暗さを感じさせるほど青い七月の空の切れはしが、ちらちらと葉のあいだに揺れている。庭に面した隣家の窓からポンとぶどう酒の栓を抜く音が小さくひびいて、昼食のテーブルをかこんだ家族の会話がぱらぱらと聞こえてくる。》 南イタリア、地中海の光がきらめく、幸福な詩情で『アスフォデロの野をわたって』ははじまる。しかし、すぐ二、三行さきで、そこはかとした、とりとめない不安の影が、前作『旅のむこう』で、日本への新婚旅行で登場してきた、「窓側の席にすわった夫にそうささやくと、彼はだまってうなずいた」、「握手しないで、ただ笑って会釈しただけだった」夫ペッピーノに対して宿る。

《いいよ、ぼくはここのほうが落着く。そう言って三階の部屋で午睡に溺れているペッピーノのほうが正解だったかもしれない。二日まえの午後おそく、ソレントに近いこのペンションに着いて以来、彼はひまさえあれば額にうっすらと汗をかいて眠っている。

 こんなに眠ってばかりいるのは、ただ疲れているだけなのだろうか。私の知らないところで、からだのどこかが蝕まれているのではないか。四年前の秋にペッピーノと結婚したときから、日々を共有するよろこびが大きければ大きいほど、なにかそれが現実ではないように思え、自分は早晩彼を失うことになるのではないかという一見理由のない不安がずっと私のなかにわだかまりつづけていて、それが思ってもいないときにひょいとあたまをもたげることがあった。》

 この不吉な予感は、まるきり根も葉もないわけではなく、彼のひとつ違いの兄は二十一歳のとき結核で死に、妹も、兄の死んだ翌年、おなじ病気で逝った。さらに二年も経たないうちに父親が死んだ。ペッピーノ自身、決して丈夫なほうではなかった。彼はこれらを隠そうとしなかったし、彼の結婚をおくらせていた原因のひとつであることもうすうす感じていたが、過去の悲しみをいっしょに担うことになれば、人生を変えられるはずだと私たちは信じようとして、結婚に向って走った。友人たちは口をそろえて結婚して彼が明るくなったといった。はじめて知りあったころは、ぼくはあんまり食べ物には興味がないんだ、とつまらなそうな顔をした彼が、いろいろ台所に註文をつけるようになって私をよろこばせ、しばらく会わなかった友人が、結婚してずいぶん元気そうになったじゃないか、などと言ってよろこんでくれたりすると、私はやはりあの不安は杞憂なのかもしれないとほっとするのだった。ソレントで十日間も夏休みをすごすことに決めたとき、仲間たちは彼が「変った」ことを祝福してくれた。ナポリ大学で政治学科の無給助手をしながら、アルバイトのほかに南北問題などの記事を新聞や雑誌に寄稿して生計をたてているロサリオは、ペッピーノが共同経営しているコルシア書店の地方にちらばったカトリック左派の協賛者のひとりで、北にやってくるとかならず書店に立ち寄ってあたらしい情報を仕入れ、また自分たちの近況を伝えて、帰って行った。

そのロサリオに、「夏ぐらいは、人間らしく休みなさいよ」と真剣な顔でさそいかけられると、平穏な生活から遠ざかるのが苦手な夫が、どういう風の吹きまわしだったか、すなおにうんと言った。ロサリオの見つけてくれたペンションは小ウィーンという、ソレントらしくない名だったが、清潔で静か、居心地はよかった。

 ロサリオの友人のモーターボートで遠出をしたとき、エレナというながい金髪の娘がいっしょに来て、婚約者なの、とロサリオにたずねると、うれしそうに白い歯をみせて笑った。彼女はコルシア書店に来たことがあるそうで、ロサリオとおなじナポリ大学の政治学科の学生だった。若い仲間のひとりが銛で仕とめたサン・ピエトロという聖者の名がついた魚に舌つづみをうちながら、教会論がとびだし、キリスト教民主党の批判に飛火して、ひとしきりの政治談議になった。陽にあたると疲れると言って、帰り道、ペッピーノはほとんど口をきかなかった。目だけはいつものように終始笑っていたけれど。ある日、ソレントの浜辺で、ずっと沖に見える島ともいえない岩山まで泳いで行こうということになって、私も泳げるので参加することにした。水がきらいだから、とまったく興味を示さないペッピーノは浜辺に残ったが、戻ってきて波打ち際にいる彼の姿が目にはいったとき、私は一瞬、胸をつかれて立ちつくした。わずか二、三日のうちに真っ赤に日焼けした、このところすこし肉のついた上体を波の動きにつれてゆらゆらと揺らせながら、ながながと水のなかに横たわっている。両手をひじのところで折って胸にあてて、上をむいた頭だけをこころもち上げて、しかもめがねをかけたままで。そばに行くと彼は私を見上げて笑った。赤ん坊じゃあるまいし、を追いかけるように、もうひとつのフレーズがあたまを駆けぬけた、死人じゃあるまいし。

 今日は、すこし遠いけれどペストゥムの遺跡を見に行こうとロサリオたちに言われて、なんとなく重い気持で車に乗った。ポンペイのようなヴェスビオ火山の噴火で埋まったローマ時代の遺跡のひとつだろうと思いこんでいたからだ。火山灰に埋まって命を落した人々の無惨な石膏の人形(ひとがた)はぜったいに見たくなかった。子供のときも、病院の裏口では死者が運び出されると聞いて目をあけないようにして通ったし、キリストの磔刑のさし絵のあるページが目にとびこんでこないように糊で貼りつけてしまって学校で物議をかもしたし、戦争のときも、米軍機の機銃掃射をうけて逃げまわった空襲のあとでさえ、私は死者の姿が目に入らないよう細心の注意を払うのを忘れなかった。《死は、なにがあっても目をそむけるべきもので、一生、死に手を触れないで済ませられるのなら、私はそのほうがよかった。》 車のなかでそんな話をすると、みんなが笑って、教えてくれた。ペストゥムは紀元前にはポセイドニアと呼ばれる、海神にささげられたギリシアの植民地で、いくつかの神殿をふくむ建築物がすばらしく、古代ギリシアの建物としてはどこよりもよく保存されていて、アテネのパルテノンに比べても、勝るとも劣らない、という。古い町の名が、ホメロスの詩への郷愁をさそった。

 ここからの二段落は、『ヴェネツィアの宿』のライト・モティーフのひとつ、「時」についての、詩的であることが哲学的でもある、情景と精神の融合した文章で、この描写がラストの省略の文体の、無言の背景になっている。

《ペストゥムの遺跡の夏枯れの野に、私はひとりで立っていた。着いて車を降りると、なんとなくみながそれぞれの方向に散ってしまったのだった。ゆっくりと傾きはじめた太陽がふいに速度をはやめて森のむこうの海に沈む時間で、オレンジをしぼったような光が、ふたつの神殿のうち他を圧して一段と高くみえるポセイドンの神殿をすっぽりと包み、言葉を失って立ちつくす私も同じ柑橘類の色に染まっていた。ギリシアの神殿に接するのはこれが最初だったが、完全なものがいつもそうであるように、しばらくのあいだはその偉大な調和がかもしだす静謐が、ほとんど人間の手を経ることなくそこに存在していると思わせるほど巧妙な錯覚の網で私をすっぽりと包みこんだ。

 私が見上げているのは、まぼろしの屋根を支える巨大なドリア様式の円柱列に抱かれた、たぐいまれな神々の空間で、明晰という言葉から人間が想像しうる最高の表現と思われるものが夕陽をいっぱいに受けてかがやいていた。柱の一本一本に並行して刻まれた垂直の縦溝が、時間と気候と人の手が刻んだ大小の傷に被われながらも、今日も海に落ちようとしている太陽の光線を、最後の微片にいたるまで逃すことなく荒廃した石の肌に吸いとろうと、根づよい生命のエネルギーのすべてを傾けていて、石に封じこめられた息づまるような精神の集中のとくとくと脈うつ鼓動が聞こえるようだった。》

 ロサリオの声がずっと遠くで聞こえて、廃墟のどこかにはペッピーノも、おなじ光のなかに佇立しているはずだった。みんなのところに行こう。それにしてもペッピーノはどこに行ってしまったのだろう。大きな大理石のかたまりの上によじのぼって、ロサリオはエレナと海を見ていた。ペッピーノは? と訊くと、なんだ、いっしょじゃなかったのか、という。ぼんやりとあたりを見まわした。なんの関連もなく、好きな「オデュッセイア」の一節があたまに浮かんだ。《アキレスは、アスフォデロの野を どんどん横切って行ってしまった》 「アスフォデロ」という言葉の意味が知りたくて、いくつか辞書を引いたが、いろいろな説があって、忘却を象徴する草ということだけわかった。ペッピーノの友人が訳したエイナウディ社の対訳版では、「忘却の野」と形容名詞になっていた。「アキレウスは、忘却の野をすたすた去って行った」

ほんの短い時間、ペッピーノの姿がみえなくなったことで、ロサリオがあわてたぐらい、私はとりみだし、《いわれのない不安に追われるようにして、廃墟に散らばる大小の石に足をとられながら、失くしものを探す子供のように、私は彼を探し歩いた。十日間の休暇は避暑客でごったがえすソレントについてほとんど縁のないままに終って、私たちは愉しかった日々のざわめきを陽焼けした皮膚にとどめただけで、また「人間らしくない」ミラノの日常にもどった。》 ペッピーノを探し歩いた結果を省略している。

学生運動のニュースが伝わってくるようになって、コルシア書店の将来をめぐって仲間たちの意見が対立しはじめた。ペッピーノは慣れているはずの書店のなかで転んで怪我をしたり、大切な用件を忘れたりすることがあって、自分でもふしぎがった。もうすぐクリスマスというある夜、ロサリオがエレナと連れだってメキシコに行ってしまったという報せをもってきた。メキシコの大学で仕事がみつかったんだよ、と言ったが、腑に落ちないのでさらに訊ねると、エレナはほかの男と結婚してたんだ、とぽつんと言った。これからの南イタリアについていっしょうけんめい論議していたロサリオが、大学でのキャリアと南部問題に明るい光を求めようとする情熱をなげうって、エレナといっしょになるだけのためにメキシコに行ってしまったのは、どう考えても彼らしくなかった。そして、翌年の三月の霧のたちこめた夜、ペッピーノがこんどはもっと思いがけない報せをもってかえってきた。ロサリオの訃報だった。心臓の発作で急死したという。それを聞いて、三十をすぎたばかりのロサリオの、なにか生きいそいでいたようなやり方がすこし理解できたように思った。

 ここまでもそうだったが、いっそうの「回想=省略の文体」が、抒情的なむすびとともに、痛々しいほどに生かされている。

《それからまた三か月経つか経たないうちにペッピーノが死んだ。ひと月まえから肋膜炎で床についていたのだったが、その病名を知ったときから。私は夜も昼も、坂道をブレーキのきかない自転車で転げ降りていくような彼をどうやってせきとめるか、そのことしか考えなかった。

 死に抗って、死の手から彼をひきはなそうとして疲れはてている私を残して、あの初夏の夜、もっと疲れはてた彼は、声もかけないでひとりで行ってしまった。

 がらんとしてしまったムジェロ街の部屋で朝、目がさめて、白さばかりが目立つ壁をぼんやりと眺めていると、暮れはてたペストゥムの野でどこかに行ってしまったペッピーノを、石につまずきながら探し歩いている自分が見えるような気のすることがあった。

 アスフォデロが花の名だったのか、ただ単に忘却を意味する普通名詞なのかは、いまだにはっきりしない。》

 

<『オリエント・エクスプレス』/愛するものについて語る>

 場所は、ロンドン、エディンバラミラノ中央駅、そして最後はオリエント・エクスプレスと東京。それぞれ、一行あけて四つに分たれている。時は、一九五九年のこと、書かれた時点から三十四年溯るとはいえ、ロンドンから東京まで、ところどころで父(「彼」とか「あの人」とか、客観的に名づけられもする)の回想が混じりつつも、直線的に流れる。これまでとはちょっと違った、前へ前へと、せっつかれるように時計が進む構成となっているのは、『ヴェネツィアの宿』の円環構造を閉じる大団円だからだろう。

 これ一篇を独立して読むことは、父のヨーロッパからアメリカにかけての一年近い大旅行のいきさつや、父のふたつの家、母の父への思い、父にまつわるあれこれを順に読んできた者にとってはすでに難しく、これまでのさまざまな父に関する言述が堆積した頭と心で、この『オリエント・エクスプレス』を読むことになる。

 

《「朝、九時にキングズ・クロス駅から『フライング・スコッツマン』という特急列車が出ているはずです。それに乗ってエディンバラまで行ってください。パパもおなじ列車でスコットランドへ行きました。エディンバラでは、ステイション・ホテルに泊まること」

 行ってください、という一見、おだやかでていねいな口調とはうらはらな「泊まること」という命令のほうが父の本音だということぐらいは、すぐにわかった》という文章で、父の人となりはおおよそわかるが、これにつづく次の文章で、来し方の娘の父への感情が明言される。それを書いておいて、実は、というところが、この一篇の勘所である。

《フライイング・スコッツマン、空飛ぶスコットランド男、たぶん、父はなによりもその列車の名が気にいっていたのだろう、自分に似て旅の好きな娘をそれに乗せて古い北方の首都まで行かせる。一見、唐突にもとれる手紙だったが、いかにも彼らしいロマンがそこには読みとれて、父への反抗を自分の存在理由みたいにしてきた私も、こんどばかりはめずらしくすんなりと彼の命令を受け入れる気持になった。》 「父への反抗を自分の存在理由みたいにしてきた私」なのである。

 留学先のローマから友人をたずねて、ほんの二週間ほどの予定でイギリスに渡ったところ、ヴィクトリア駅の近くに快適なフラットをきた。それはよかった、金のことなら心配ないから、できるだけ長くロンドン生活を愉しみなさい、という、考えていたよりもはるかに機嫌のいい手紙だった。父からの航空便はどれも、《自分もかつてひと月あまり滞在したことのあるロンドンに娘がいること、しかもその旅行の費用は自分がすべて支えていることへの深いよろこびに文章が踊っていた。》 父の便りは、リージェント・ストリートかなにかの、足がすくむような専門店でワイシャツを買って送れだったり、ロンドン塔に行くまえに漱石を読んでおけと何冊かの岩波文庫が届いたり、《私自身も徐々に父の昂奮に巻き込まれたかたちで、父の手紙とローマから持って来た旅行案内とをハンドバッグに入れて、せっせと父のロンドンを歩きまわった。》 「父の昂奮に巻き込まれた」、「父のロンドン」という表現がせつない。《エディンバラに行ってください、という手紙が届いたときは、以前から自分でも行ってみたいと思っていた場所だったこともあって、私はたちまち素直なロボットみたいに家をとび出した。そしてキングズ・クロス駅で、おどろいたことに父の言ったとおりの列車が言ったとおりの時間に出るのを知ってほとんど無力感におそわれながらも、さっそく三等車の切符を求めると、八月十八日の出発を心細さと期待のまざった気持で待ちわびた。》 「三等車」、「八月十八日」を記憶の片隅にとどめておこう。

 東京―大阪とほぼおなじくらいの距離と思えたエディンバラの駅に到着したのは、午後のおそい時間だった。父に勧められた「ステイション・ホテル」の場面となる。前方にStation Hotelという赤いネオンのしるしがあるのが見え、ネオンの下まで行ってみると、薄暗い、トンネルのような通路が口を開いていて、ちょっと不安になった。《ほんとうにだいじょうぶなのかしら、という気持は、でも、すぐに、いや、そんなはずはない、あの人が泊まったホテルなんだから、という確信に払いのけられて、私は荷物を片手にその細い通路を歩きはじめた。》

 いきおいよくドアをあけると、豪奢なルネッサンスの宮廷のような、美しいシャンデリアが燦いていた。いまさら後戻りするわけにもいかず、赤い絨毯の海を渡り、フロントのカウンターのまえに立つと、でっぷりふとった、盛装した白髪の老バトラーがにこやかに近づいてきた。《キングズ・クロスの駅を離れてからずっと、往年の父の優雅な旅をあたまのなかで追ってきた私が、そのとたん、貧乏旅行しかしたことのない戦後の留学生に変身した。》 「三十年まえ、このホテルに泊まった父にいわれて、駅からまっすぐこちらに来たのですが」そういうと、はてな、という表情が一瞬、老バトラーの顔をよこぎったが、身をのりだすようにして耳をかたむけてくれた。「どうも、私の予算にくらべて、こちらはりっぱすぎるようです」「それで?」「こちらでいちばん高くない部屋はいくらぐらいかしら?」 当然とはいえ、どれも私の予算をはるかに超えたものだった。「ほんとうにもうしわけないけれど……」もういちどくりかえした。「あまり遠くないところで、こちらほど上等でなくて、でもしっかりしたホテルを教えていただけないかしら。父に言われていたので、ここに泊まることだけを考えて来たものだから」 老バトラーの糸のように細くなり、贅沢な用箋に別のホテルの名を書きつけ、ウィンクしながら背のびしている私に差し出した。「正面のドアを出て、通りを渡ったところです。ちゃんとしたホテルだから、安心なさってだいじょうぶです。では、おじょうさん、よいご旅行を」

《それにしても、ステイション・ホテルがどういった格の宿なのか、説明もしてくれないなんて。薄暗い朝のあたたかいベッドのなかで、私は、父がうらめしかったが、同時に、三十そこそこで、そんな贅沢旅行をやってのけた若い父親の姿には、どこかいとおしささえ覚えた。高すぎるカウンターのまえで、あの立派な体格のバトラーに言い分をうまく伝えたいと、大汗をかいていた自分を思い出すとちょっとみじめな気もしたが、それでも、この話をしたら、きっとあの人はよろこぶだろう。そうも思った。女のくせに、そんなはずかしい真似をして、と口では叱りながら。》 「口では叱りながら」のあとは、あえて言葉にしない。

 バトラーにいわれたホテルに荷物をおき、街に出た。北国の八月はロンドンよりもっと日が長く、雨もよいのせいだろうか、いつまでも夜になりきれないでいるようにみえた。肩のはった骨太で背の高い男女が、幅のある歩調で、薄暮のなかをゆっくりと歩いて行く。八月というのに重たげな、でも質のいい毛織のジャケットをはおり、がんじょうな靴をはいて闊歩する人々の流れにまじって歩きながら、まるで声のない街にとじこめられたような気がしていた。《父はいったい、どんな顔をしてこの道を歩いたのだろう。私は、少し猫背な彼のうしろ姿が、人びとの群れにまじっているような気がした。》

 エディンバラ城の容姿を、遠くからでもいいから、日が暮れてしまわないうちに視覚におさめておきたかった。《エディンバラのお城のそばで、と父はなんども私たちに話してくれた。ちょうどおまえたちぐらいの年齢の、学校の制服を着た女の子が、十人ほど、若い、きれいなシスターに連れられて遊びに来ていた。犬ころみたいに、芝生のうえをころがりまわっていて、なんだ、スコットランドまで来ても子供はおまえたちとおんなじだと思った。

 パパたちがお城の見物をして出てくると、ちょうどシスターも子供をあつめて帰るところだった。どうもひとり、人数が足りないらしい。その子の名をたてつづけに呼んでいた。透きとおった、きれいな声で。

 メアリーという名だったぞ。父は、これだけは忘れてない、といわんばかりに、力をこめて、言った。目をとじて、すこし音痴な声をはりあげ、メアリー、メアリーと若い修道女の声色をまねて、私たちを苦笑させることもあった。》 六ケ月にわたる父の外遊の思い出話のなかには、子供の出てくることがあった。ふと日本でミッション・スクールに通っている娘たちを思い出したのだったろうか。《どんなお天気だったの、その日は。そう訊いておけばよかった。プリンセス・ストリートを西に向って歩きながら、私は思った。》

 突然あらわれた岩山はただ奇異としかいいようがなかった。地図によると、たしかにエディンバラ城の方角だったが、城砦なのか、ただの岩山なのか、判断がつかない。あれはほんとうにエディンバラ城だったのだろうか。山も岩もすべてが魔性のものに思えて、そのまま散歩を打ち切ってホテルに帰ったのだった。《それにしても、のどかな一幅の絵のような父のエディンバラ城と、私の見た霧のなかの岩山の、なんという隔たりだろう。》

 翌朝は、ガイド・ブックどおりに、いくつかの城をたずね、教会を見学し、美術館をおとずれたが、着いた日の夕方の奇怪な岩山の印象があまりに圧倒的だったので、なにもかもが色褪せてみえた。

 場面は変わり、十一年の時が流れている。

 一九七〇年の三月のある日、ミラノ中央駅にいそいだ。パリ発―イスタンブール行きの国際列車が、入るはずだった。「父上からのおことづけですが」そういって、父の会社の人と名のる会ったことのない人物からの電話が、ローマからミラノの家にあった。二年前に手術をうけた父の癌が、昨年の秋に再発して、もう手のほどこしようのないところまで来ていると、弟がつぎつぎと書いてくる手紙で知っていた。「近々お見舞いに日本に帰られるとのことで、お父様はたいへんおよろこびです」知らない人の声はいった。「それで、おみやげを持って帰ってほしいとおっしゃって、お電話するようお頼まれしたのですが」 十年に二、三度にすぎなかったが、日本に帰るたびに、みやげなんか持って帰るな、と叱り、すなおにありがとうといってくれない父が、こんどはおみやげを持って帰れとことづけする。しかも、父がほしいというのが、かつてそれに乗って旅をした、ワゴン・リ社の客車の模型と、オリエント・エクスプレスのコーヒー・カップが欲しいのだという。模型は玩具店ですぐに見つかったが、コーヒー・カップを手に入れる方法がわからないでいると、あちこち探すよりも、じかに列車まで行ったほうが、手っとりばやくないかな、と友人が提案してくれたので、取るものも取りあえず中央駅に出てきたのだった。乗客でもない者に、頒けてくれるのだろうか、と思うと、構内アナウンスが到着を告げたとき、喉がからからになって、息ぐるしいような気がした。《私がこうしているあいだにもひとり死に向っている父に、いましてあげられることは、これだけしかないのだ。夫が死んでふた月後の夏に、母の危篤で帰国したとき、父はすでに一回目の胃の手術を受けたあとだった。母の病状が一応、落着いたあと、父の看護をするために日本にとどまるべきか迷う私に、父はきっぱりいった。おれのために、いまさら、おまえの選んだ生き方を曲げるな。ミラノへ帰れ。》

 「ヨーロッパに行ったら、オリエント・エクスプレスに乗れよ」と、はじめてフランスに留学することがきまったとき、父は上気した声でくりかえしたけれど、夢のような列車の名は、あたまのなかを素通りしただけだった。生涯でたった一度になった父の外遊のみやげに、まだ幼かった息子のために買ってきたのは、ドイツのメルクリン社の電気機関車一式で、弟は座敷いっぱいに敷いたレールに、客車と機関車を走らせるのに夢中になって、父をよろこばせた。そのなかには、ワゴン・リ社の、青と金色の車体の寝台車もまじっていて、父は、なつかしそうに国際列車の話を、私たちに話して聞かせた。オリエント・エクスプレスには、若いときに旅をつづけた時間と空間への深い思いがこめられていて、その記憶が、大波のいくつかを乗り越えるうちにようやく仕事に自信をもつようになった父の晩年を、どこかで支えていたに違いない。《会社がひまになったら、とイタリアから私が帰るたびに、父はくりかえした。もう一回、ヨーロッパに行くぞ。》

 列車が停止した。凝縮されたヨーロッパそのものを見るようなうつくしい人々が降り立つ。客車の入口の黒い蝶ネクタイをつけた車掌長に出会った。「少々、おかしなお願いがあるんですけど」「なんなりと、マダム、おっしゃるとおりにいたしましょう」 威厳たっぷりだが人の好さがにじみでている、恰幅のいいその車掌長に、日本にいる父が重病で、若いとき、一九三六年に、パリからシンプロン峠を越えてイスタンブールまで旅したこと、そのオリエント・エクスプレスの車内で使っていたコーヒー・カップを持って帰ってほしいと、たのんで来たことなどを手みじかに話した。ひとつだけ、カップだけでいいから、頒けていただけるかしら、とたずねると、はじめは笑っていた顔をだんだんとかげらせたかと思うと、「わかりました。ちょっとお待ちいただけますか」と低い声でいって、車内に消えた。まもなく大切そうに白いリネンのナプキンにくるんだ包みをもってあらわれた。《ありがとう。そう言った私の声はかすれていた。お代は、とたずねる私に、彼は包みを開いて、白地にブルーの模様がはいったデミ・タスのコーヒー茶碗と敷皿を見せてくれながら、まったくなんでもないように、言った。

「こんなで、よろしいのですか。私からもご病気のお父様によろしくとお伝えください」

 羽田から都心の病院に直行して、父の病室にはいると、父は待っていたようにかすかに首をこちらに向け、パパ、帰ってきました、と耳もとで囁きかけた私に、彼はお帰りとも言わないで、まるでずっと私がそこにいていっしょにその話をしていたかのように、もう焦点の定まらなくなった目をむけると、ためいきのような声でたずねた。それで。オリエント・エクスプレス……は?

 死にのぞんで、父はまだあの旅のことを考えている。パリからシンプロン峠を越え、ミラノ、ヴェネツィアトリエステと、奔放な時間のなかを駆けぬけ、都市のさざめきからさざめきへ、若い彼を運んでくれた青い列車が、父には忘れられない。私は飛行機の中からずっと手にかけてきたワゴン・リ社の青い寝台車の模型と白いコーヒー・カップを、病人をおどろかせないように気づかいながら、そっと、ベッドのわきのテーブルに置いた。それを横目で見るようにして、父の意識は遠のいていった。

 翌日の早朝に父は死んだ。あなたを待っておいでになって、と父を最後まで看とってくれたひとがいって、戦後すぐにイギリスで出版された、古ぼけた表紙の地図帳を手わたしてくれた。これを最後まで、見ておいででしたのよ。あいつが帰ってきたら、ヨーロッパの話をするんだとおっしゃって。》 

 雑誌連載時の題名、『古い地図帳』は、最後のこの場面からきた。

 

 うつくしくも、抑制された文章による感動的なクライマックスに水を差すつもりはないが、エディンバラのホテルから父に宛てた手紙を『須賀敦子全集 第8巻』で読むことができる。旅行に相当する部分を、抜き書きしておく。ユーモアに富んだ人柄が偲ばれる。

《十月十日 エジンバラ Royal British Hotel,Princes St.,Edinburgh,Scotland(父宛航空書簡

 ロンドンでは家の近くのトマス・クックで汽車の切符を買って、(もうヨーロッパには三等がないので二等です。それでも、往復七ポンドでした)昨日、一号車ですゝだらけになって旅行しました。(中略)エヂンバラについたのは、ちょうど六時半、クックできいてゐた、ノース・ブリティッシュ・ホテル(ステーションホテル)に行ってみると、いやなんだか立派なので、まづいな、と思って、とにかく値段をきくと47シリングが最低、とても贅沢すぎるので困るといふと、それではお向ひにいゝホテルがございますといふので、ほんたうにいゝホテルですかと念をおして、なるほどこれもなかなか立派なホテル(ロイヤル・ブリティッシュ)の三十七シリングの部屋におちついたわけです。

 エヂンバラはなるほど美しい町です。といっても何か、マクベスとか、あのまほうつかいの婆さん共が祖先といふだけあって、今でも、なんとなく妖怪的な要素あり。今朝、お城の丘にのぼって、霧が吹きよせてくる中で、全く全くふしぎな町だとおもひました。とても廿世紀後半とは思へません。女の人は、ロンドンでびっくりしていたら、いやもう、こゝでは、男の一間で消えてなくなったやうなもので、店の陳列棚も、タータンチェック以外の着るものは、あげるといって追っかけられてこられても必死になって逃げだしたいやうなものばかり。お城の半分は兵営になっていて、チェックのズボン(キルトではなく)をはいた兵隊がたくさん番してましたが、安物のゴム人形のやうな表情ではなはだ興ざめ。(後略) 敦子》

 父への手紙に書いてあることが事実だとするならば、『オリエント・エクスプレス』に書かれた旅行記には、いくつかの言い換え、誇張、修飾、逆にあえて書かなかったことなどがありそうだ。八月、三等車、老バトラーとの会話、人びとの服装、着いた夕方にエディンバラ城に向ったのか、などである。おそらくは、オリエント・エクスプレスのコーヒー・カップの入手、死に際の父の様子にも、多少とも嘘や脚色があるだろう。『ヴェネツィアの宿』十二篇のそこかしこに、それらはあるに違いない。しかし、それがどうしたというのか。

 ふたたびロラン・バルトだが、彼は遺筆となった『人はつねに愛するものについて語りそこなう』(『テクストの出口』、沢崎浩平訳(みすず書房))で、その秘密を説いている。奇しくもそれはミラノ中央駅から書きはじめられる。《数週間前、私はイタリアにごく短期間の旅行をしました。夜、ミラノの駅は寒く、霧がかかり、薄汚れていました。列車が出ようとしていました。それぞれの車輛には黄色いプレートが掛けられ、《ミラノ―レッチェ》と記されておりました》からはじまって、スタンダールのイタリアは、彼にとって、一つの幻想(ファンタスム)だったが、そのイタリア旅日記は失敗に終っていると述べている。《イタリアへの愛を語ってはいるが、それを伝えてくれないこれらの「日記」(これは少なくとも私自身の読後感ですが)だけを読んでいると、悲しげに(あるいは、深刻そうに)、人はつねに愛するものについて語りそこなうと繰り返すのももっともだと思うでしょう。しかし、二十年後、これも愛のねじれた論理の一部である一種の事後作用により、スタンダールはイタリアについてすばらしい文章を書きます。それは、私的日記が語っていたが、伝えてはくれなかったこの喜び、あの輝きでもって、読者である私(私だけではないと思いますが)を熱狂させます。この感嘆すべき文章とは『パルムの僧院』の冒頭の数ページのことです。(中略)スタンダールは、若かった頃、『ローマ、ナポリフィレンツェ』を書いた頃、《……嘘をつくと、私はド・グーリ氏のようだ。私は退屈する》と書くことができました(RNF六四)。彼はまだ知らなかったのです。真実からの迂回であると同時に――何という奇跡でしょう――彼のイタリア熱の、ようやくにして得られた表現であるような嘘が、小説的な嘘があるということを。》

 須賀敦子は、愛する父や母のことを「小説的な嘘」をまじえて書くことによって「愛するもの」について語りきったのに違いない。

                                   (了)

             *****参考または引用文献*****

 *『須賀敦子全集、全八巻および別巻』(河出書房新社

*ナタリア・ギンズブルグ『ある家族の会話』、須賀敦子訳(白水社

ロラン・バルト『長いあいだ、私は早くから寝た』、吉田一義訳(『現代詩手帖 一九八五年十二月臨時増刊 ロラン・バルト』(思潮社))

ロラン・バルト『明るい部屋 写真についての覚書』、花輪光訳(みすず書房

ロラン・バルト『人はつねに愛するものについて語りそこなう』(『テクストの出口』、沢崎浩平訳(みすず書房))

湯川豊須賀敦子を読む』(新潮社)

*『三田文学 2014冬 特集須賀敦子』(三田文学編集部)

*『文學界 平成11年5月号 没後1年特別企画「須賀敦子の世界」』(文藝春秋

文学批評 「丸谷才一『笹まくら』、橋姫、七夕」

  「丸谷才一『笹まくら』、橋姫、七夕」

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 丸谷才一の長編小説のなかで『笹まくら』(1966年)が最高傑作である、と考える読者はかなりいるのではないだろうか。おそらくその人は、処女長編の『エホバの顔を避けて』(1960年)を著者が習作と呼んでいたとは思わずにすぐれた作品だと感嘆し、対(つい)であるかのように、ほぼ10年ごとに発表された『たつた一人の反乱』(1972年)はまだしも、それ以降の『裏声で歌へ君が代』(1982年)、『女ざかり』(1993年)、『輝く日の宮』(2003年)、『持ち重りする薔薇の花』(2011年)は、モダンな技芸と文明批評との融合によって脳が活性化し、うまい、と膝を打っても、胸高ならすものは感じなかったに違いない。評論、書評、エッセイストとしての丸谷の言うことはいつも正鵠を射るものであるだけに、模範解答、表現形態である小説がつまらないとは言いだしにくい、というのが本音という人もいよう。

 没後も含めて、そう多くはない丸谷才一論を読み進めれば、著者の心情に反して『エホバの顔を避けて』の評判はおおむね高く、『笹まくら』に至ってはいっそうの高みにある。かといって、中後期の長編小説群が失敗作と評されることはまずないが、小説を読む面白さが、夢みるような、身につまされるような経験にあるのだとすれば、少なくとも後者が物足りない。『笹まくら』は二度、三度と読み直すことで、味わいが幾重にも響いてくるのに対して、それら諸作品は再読の気分を起させない。いや、それは、丸谷が生涯にわたって認識していたことで、読者の文化・文明の成熟レベルが追いつかないと知りつつの「たった一人の反乱」、啓蒙活動であったのだ、とも言いうるのだけれど。

 そういった感想を抱いてしまう理由を、はからずも松浦寿輝が、2013年の『エホバの顔を避けて』復刻版(KAWADEルネサンス)の巻末文『栄光ある孤立――『エホバの顔を避けて』』で代弁してくれている。

《わたしは丸谷才一のあらゆる作品の何にもまして『エホバの顔を避けて』を愛さずにはいられない。この異形の長編の著者は、その完成の後、これはもう衆目の一致するところの掛け値なしの傑作と呼ぶほかない長編『笹まくら』を書く。(中略)わたしは『エホバの顔を避けて』を偏愛し、『笹まくら』を心から賞嘆してやまない者だが、ただし正直なところ、第三長編の『たつた一人の反乱』以降、『裏声で歌へ君が代』『女ざかり』『輝く日の宮』『持ち重りする薔薇の花』と続く――先に述べた表現を繰り返すなら――上質な「市民小説」の系譜に属する丸谷の諸作には、あまり心が震えたためしがない。》

 松浦は続ける。《実際、彼自身は『エホバの顔を避けて』を習作でしかないと考え、彼なりの「近代市民小説」の試みの方を自身の本領として、それに自信と矜持を持っていたようだ。》《ところで、因果なことにわたしは、冗談にも雑学にもゴシップにも何の興味も抱けない人間なのである。そんな男にはひょっとしたら「市民」の資格はないのだろうか。そうかもしれないが、それならそれでいっこう構わない。本音をいうならわたしは、「市民」も「市民社会」も、けったくその悪い何かだとしか思っていないからである。事実、『エホバの顔を避けて』には、「文明」的な「社交」を楽しむ「近代的市民」など、ただの一人も登場していないではないか。》

 ところで、因果なことにわたしは、冗談にも雑学にもゴシップにも何の興味も抱けない人間ではないけれども、感じるところはほぼ一緒なのである。さらに言えば、「国家」「戦争」「反乱」はあっても「市民からの逃走」が、「近代市民」「祝祭・呪術論」はあっても「前近代的土着」がなくなったことが理由であるに違いない(この国の総理大臣や経団連会長の顔を思い浮かべるとき、丸谷はパロディストとして、騎士物語に対するセルバンテスのような批評意識によって『ドン・キホーテ』のように書いたとしか思えない)。

 しかし、あまり結論めいたことを急がないで、『笹まくら』の多様な魅力を解きほぐしてゆくべきだろう。

『笹まくら』(1966年夏)執筆以前に、ジェイムズ・ジョイスユリシーズ』の共訳やグレアム・グリーン『不良少年(ブライトン・ロック)』などの英語文学の翻訳があった。処女小説にはその作家のすべてがあるというのと同じように、これまで発表してきた評論をまとめて刊行した処女文芸評論集『梨のつぶて』(1966年秋)に評論家としてのすべてがあることは、目次を見るだけで一目瞭然である。

 文明論としての「未来の日本語のために」「津田左右吉に逆らって」「日本文学のなかの世界文学」「実生活とは何か、実感とは何か」、日本論としての「舟のかよひ路」「家隆伝説」「吉野山はいずくぞ」「鬼貫」「空想家と小説」「菊池寛の亡霊が」「梶井基次郎についての覚書」「小説とユーモア」、西欧論として「「嵐が丘」とその付近」「サロメの三つの顔」「ブラウン神父の周辺」「若いダイダロスの悩み」「西の国の伊達男たち」「エンターテインメントとは何か」「グレアム・グリーンの文体」「父のいない家族」である。

 これから、丸谷および『笹まくら』を論じるにあたって、思いつくまま順不同にあげれば、①国文学、②英文学、③パスティーシュ、④言葉と文体、⑤意識の流れと内的独白、⑥サスペンスとミステリー、⑦スリラーと逃亡、⑧小説と時間、⑨名前、⑩官能的なもの、⑪徴兵忌避と国家論、⑫ユーモアとアイロニー、⑬エンターテインメント、⑭精神風俗、⑮近代と前近代、⑯市民社会と社交と市民小説、⑰モダニズム、⑱神話、⑲祝祭と呪術と御霊信仰、⑳座としての連歌、などの様々な鏡にくるくると万華鏡のように映しだすことは容易であるけれども、丸谷が嫌った月並みな態度は避け、いくつかの重要な言葉を言霊(ことだま)のように「選択」し、丸谷の批評の言葉を「引用」し、「編集」するという「アンソロジスト丸谷才一にならった態度で『笹まくら』の雲母のような多層な煌めきを剥がしてみたい。

 

<『笹まくら』の粗筋>

『笹まくら』の粗筋を、物理的時間軸(ストーリー)のとおりに知ってどうにかなるものではないのだけれど、一応の最低限として共有しておく。

小説の時間(プロット)は「人間的時間」とでもいったもので、はじめに元恋人阿貴子の死亡通知を受け取る現在がある。猥雑に主人公を押し流す現在の時間に、無意識的記憶の過去が一行空けもなく不意に湧きあがったかと思うと、いくども交錯し、クラゲのように揺らぎ、たゆたい、また不安であったり甘やかであったりするスリリングな過去が紡ぎだされては、目の前の社会は容赦なく先へと進み、ときには記憶の過去のなかでさえ思い出は時間の流れに翻弄される笹舟のように行きつ戻りつ、サスペンスの組紐のような物語が織られてゆく。

 

 神道系の私立大学職員で、若い妻陽子のいる平穏な市民浜田庄吉のもとへ、二十年前に恋人だった年上の女阿貴子の死亡通知が四国宇和島から届く。浜田は、東京青山の町医者の息子で、旧制の官立高等工業学校を卒業して無線会社に勤務していた二十歳の昭和十五年秋から五年間、徴兵忌避者だった。

 杉浦健次と名前を変えた徴兵忌避者は、はじめはラジオや時計の修理、ついで砂絵師となって、九州から奥羽、伊豆、北陸、山陰、朝鮮、北海道、和歌山、山陽、四国まで各地を転々とした。憲兵に怯えつつも、隠岐での阿貴子との恋と官能もある、不安でスリリングな「笹まくら」の日々は、阿貴子の実家がある宇和島での八月十五日の終戦で幕を閉じる。その日を境に杉浦健次は浜田庄吉に戻り、後妻に行くと告げる阿貴子との別れの後、浜田は東京へ戻って大学職員に社会復帰した。

 一方、戦後二十年がたち、日本社会の変化を映すように反動化しはじめた学内で、浜田は過去の逃亡の陰口をきく声を耳にしたり、あるいは逆に政治的に利用しようとする動きがあったり、課長への昇進話と高岡の付属高校への左遷話といった学内政治の波に翻弄されたりで、小心翼々、希望と絶望のあいだを揺れ動き、内面は現在と過去を頻繁に往き来する。

 そんなある日、万引きで逮捕された妻陽子を引き取って家に帰る途中で浜田は、泣き寝入る妻の自由な顔に魅惑されて自由(・・)という観念に、悲しい心の高揚を感じていた。徴兵忌避者として家族にも友人にも知らせずに家を出て、東京駅から宮崎へ向かう自由な反逆者。さようなら。しかしそれが何に対する、どれほどの決定的な別れの挨拶(あいさつ)なのかは、二十歳(はたち)の若者にはまだよく判(わか)っていなかった。

 

 小説は、プルースト失われた時を求めて』のように円環を形成して、ウロボロスのような螺旋を描く。ドラマチック・アイロニーのうちに、あれがそうだったのか、あれはどうだったか、とスリリングな時間を構成しなおせ、プロットとストーリーを合体させてミステリアスを解消し、カタルシスを完成させよ、とばかりに再読を促す。

 

<西の国の伊達男たち>

 のちに評論集『梨のつぶて』に収録される『西の国の伊達男たち』で丸谷は、T・S・エリオットについて、『荒地』の詩の一行の重層的な読み方からはじめて、ジェイムズ・ジョイスフィネガンズ・ウェイク』の多言語的方法との影響関係を論じ、もっとも有名な評論『伝統と個人的な才能』の言わんとするところを述べ、ジョイスユリシーズ』についての評論(『ユリシーズ、秩序、神話』)における、ホメロス叙事詩とのパラレリズム(並行的使用)についての《現代史といふ空虚と混乱にみちた広大な展望を支配し、秩序づけ、意味と形式とを与へる手段》という重要な考察をとりあげた。

 ついで、ジョイスと典型的な文学的流浪者(エグザイル)であったエズラ・パウンドも加えての、ヨーロッパの西(アメリカ、アイルランド)から来た三人が、《真のアヴァンギャルドは古典主義者だといふ命題の正しさを身をもつて證しすることができた。そして彼らの作品は、世紀末から第一次世界大戦を経て、西欧の没落を意識してゐるヨーロッパの、あらゆる不安とあらゆる願ひの、最も正確で最も美しい表現となることができたのである》と伊達男たちを顕彰した。

 ここで、エリオットの『伝統と個人的な才能』から重要な箇所を引用する。

《この歴史的な感覚は、過去が過去であるというだけでなくて、過去が現在に生きているということの認識を含むものであり、それは我々がものを書く時、自分の世代が自分とともにあるということのみならず、ホメロス以来のヨーロッパ文学全体、及びその一部をなしている自分の国の文学全体が、同時に存在していて、一つの秩序を形成していることを感じさせずには置かないものなのである。この歴史的な感覚は、時間的なものばかりでなくて、時間を越えたものに対する感覚であり、そして又、時間的なものと時間を越えたものを一緒に認識する感覚でもあって、それがあることが文学者に伝統というものを持たせる。そしてそれは同時に、時間の流れの中で彼が占めている位置と、彼自身が属している時代に対して、彼を最も敏感にする者なのである。》

『笹まくら』はそういった歴史的な感覚による表現であって、さらには、現在と過去との人間的な「時間」をめぐる構造となっているのは、エリオットの《時間的なものばかりでなくて、時間を越えたものに対する感覚であり、そして又、時間的なものと時間を越えたものを一緒に認識する感覚でもあって、それがあることが文学者に伝統というものを持たせる》ということの果実となっている。

 さて、「西の国の伊達男たち」が活躍したのは二十世紀初頭だが、その八~十世紀もの昔、ヨーロッパの西のアメリカ、アイルランドの反対側、ユーラシア大陸の東の日本に「東の国の伊達な男たち」がいた。いや驚嘆すべきことに多くの女たちもいたのだから、「東の国の伊達男・伊達女たち」がいたと言い直さなければなるまい。それがどういった男と女たちだったかは、これから名前をあげてゆく。

 

<「笹まくら」>

 まず、俊成卿女(しゆんぜいきようのじよ)。

『笹まくら』という小説の題は、フランス語教師の桑野助教授が読んでいた『新訂俊成卿女家集(しゆんぜいきようのじよのかしゆう)』の和歌から来る。

「嫌いなのは『万葉集』。戦争中、はやりすぎたのの反動かもしれないけれど」と応じた桑野は、「これは鎌倉時代?」と問う浜田に、「ええ。新古今時代。藤原俊成の養女。一名、越野禅尼ともいって、十二世紀から十三世紀にかけての歌人です」と、ボードレール学者はまるで文学辞典の項目のように答えた。浜田はページをめくり、目にとまった一首を、声を出して読んでみた。

《「これもまたかりそめ臥(ぶ)しのさゝ枕(まくら)一夜の夢の契(ちぎ)りばかりに。むずかしい歌ですね」》

 桑野は、そうむずかしくはない、刈り、節、笹と竹づくしになっていて、笹枕というのは草枕とおんなしで、旅寝、寝ると言っても、旅さきでのかりそめの恋、万葉時代なら、実際に、笹の密生しているところに頭を置いて寝たのかもしれませんね、とおしゃべりする合間に、浜田が口をはさんで、「かさかさする音が不安な感じでしょうね。やりきれない、不安な旅……」と、笹の音から不安な旅を連想し、戦争中の徴兵忌避者としての体験がこもったまずいことを言ってしまい、和歌山で馬上の憲兵に遭遇した記憶へと運ばれていく。

(なお、俊成卿女の代表作といえば、『新古今和歌集』や『千五百番歌合』の、「下燃えに思ひ消えなむ煙だにあとなき雲のはてぞかなしき」「おもかげの霞める月ぞやどりける春やむかしの袖の涙に」「橘の匂ふあたりのうたた寝は夢も昔の袖の香ぞする」「梅の花あかぬ色香も昔にておなじかたみの春の夜の月」「風かよふねざめの袖の花の香にかをる枕の春の夜の夢」の複雑精妙な艶麗があげられよう。)

 丸谷は『新々百人一首』の「はしがき」で、「百人一首」との縁からはじまって、「笹まくら」という題との関係を回想している。

 もともとの『百人一首』との縁が、姉たちの取る歌がるた、父の詠みあげる読み札だったのは、たいていの日本人に共通する文学の初体験かもしれないが、わたしがいささか違うのは、中学二年生か三年生のころ萩原朔太郎の詩に夢中になって、とりわけ次の詩に夢中になっていたことである、と言う。

《       旅よりある女に贈る

 

山の頂上にきれいな草むらがある、

その上でわたしたちは寝ころんで居た。

眼をあげてとほい麓の方を眺めると、

いちめんにひろびろとした海の景色のやうにおもはれた。

空には風がながれてゐる、

おれは小石をひろつて口にあてながら、

どこといふあておなしに、

ほうぼうとした山の頂上をあるいてゐた。

 

おれはいまでも、お前のことを思つてゐるのだ。》

 後年そのことを思い出して、あれは詩人が大弐三位(だいにのさんみ)の「有馬やま猪名(いな)の笹原かぜ吹けばいでそよ人を忘れやはする」の影響下に書いたものではないか、そして幼いわたしもまた、大弐三位の作と萩原朔太郎の作とを二重写しにして文学的感銘を受けていたのではないか、と思う。十代のころ、日本文学史を縦断するものとしての藤原定家詩学を漠然と感じ取っていて、やがて『日本文学史早わかり』に結集するような勅撰集重視の考え方を抱懐するようになったのだし、『別冊 百人一首』のような書を編むことになったのだろう、

《いや、もつとさかのぼつて言へば、ごく初期の長編小説に版元の反対を押し切つて『笹まくら』といふ題をつけたのもこれと関係があるに決まつてゐる。すべては猪名の笹原の風にはじまる》との述懐だ。

 萩原朔太郎が伊達男だったことに異論ある者はまずいないだろう。

 桜咲く隠岐の島を舞台にした阿貴子との逢いびきを、隠岐へ流された貴種後鳥羽院との二重写しで描いたことは『後鳥羽院』の「あとがき」に書いてある(《わたしが国学院大学をやめた年の春、彼一流の優しいいたわり方で、野坂昭如が山陰へ連れ出してくれたとき、皆生の宿で、とつぜん隠岐へゆこうという話になったのである。(中略)あの島でわたしがいちばん感動したのは、陵の隣りの、後鳥羽院を祀る隠岐神社の花ざかりにたまたま出会ったことである。あの満開の桜は「ながながし日もあかぬ」と言いたいくらいきれいだった。わたしはこの景色を『笹まくら』に取入れることにして、徴兵忌避者と家出娘とに隠岐神社で花見をさせたのだが、あとで気がついてみると、野坂も『受胎旅行』のなかで、どうしても子供を授からない夫婦にこのお宮の花を眺めさせていた。》)が、坂を登ったところの景観と新枕は、朔太郎も加えての(さらには本歌どりによる大弐三位をも加えての)多重写しで腕を振るったことは間違いあるまい。

隠岐(おき)神社の桜は美しかった。ひろびろとしていて開放的な神域も、隠岐造りと呼ばれる端正ですっきりした様式の本殿その他も、そして銅ぶきの本殿がせおっている低い山の縁も、みなこの白い桜のためにあるような気がしてくる。

「いいお宮ですね」と杉浦は言った。「こういう商売をしてますから、ずいぶんたくさん、ほうぼうのお宮を見ましたが、ここがいちばん気に入ったな。何かこう……」と露天商らしい言葉を探したが、それがどうしてもみつからないので仕方なく、「晴れやかで悲しくて」》

 この「晴れやかで悲しくて」は丸谷の声であろうが、後鳥羽院の歌の、晴れやかで悲しくて官能的な調べであるとともに、朔太郎の草むらの詩のそれでもある。二人は、桜に堪能してから、三郎岩を見に行った。坂を一里ばかり歩かなければならない。砂利を敷いた道は途中でなくなり、あとはもう放牧の牛たちが五六十頭、草を食べたり、間の抜けた声で鳴いたりしている山のなかの径(みち)を登るしかない。これを登れば、海と岩を臨む地点に達することができる。三郎岩の眺めは大したことはなかったが、見晴らしのきく平らなところに坐(すわ)ってぼんやりと、ずいぶん長いあいだ休んだ。立上り、牛たちのいるほうへ降りて行くと、黒と白の斑(まだ)らの大きな牛が不意に出て来て、阿貴子が両手で顔を覆(おお)いながらよろめき、牛はただのそのそと通り過ぎて行った。

《女の白い顔は男の顔のすぐそばにあった。二つの顔が近づき、二つの口が逢(あ)い、男の左腕は女の枕(まくら)となった。(中略)童貞の男は処女でない女の指図に従い、すべてはうまく行った。女がもう一度、しかし前よりも激しく言葉にならない言葉を言った。思いがけなく近いところで、のんびりと牛が鳴いた。一匹が、また一匹が。牛たちにおそらく見まもられながら、青い四月の天の下で、彼は牡牛(おうし)になり彼女は牝牛(めうし)となる。》

  

<『後鳥羽院』の「あとがき」>

 実は、『後鳥羽院』の「あとがき」は、挨拶やいきさつであるとともに、丸谷の文芸批評の見取り図のような趣さえある。『笹まくら』の舞台となった神教系の大学のモデルは、断るまでもなく国学院大学だが、桑野助教授などを思わす錚々たる同僚(1960~70年ごろに海外文学を翻訳、紹介、批評した気鋭の文学者たち)がいて興味深い。少し長くなるが、ここに出てくる固有名詞は新旧の伊達男列伝でもあるので、紹介する。

《これはひょっとすると、わたしと国学院大学との関係を記念するために書かれた本かも知れない。(中略)一つには、何といっても故菊池武一教授の寛容な人柄のせいで、外国語研究室に数多くの優れた同僚がいたためである。そこにはたとえば安藤次男さんがいた。故橋本一明がいた。中野孝次がいた。菅野昭正がいた。清水徹がいた。飯島耕一がいた。これに加うるに、まえまえからの知りあいである篠田一士や川村二郎や永川玲二がいた。(中略)しかし、わたしが『新古今』に熱をあげることになったのは、今となっては遠い昔のある日、何かの用で菊池さんのお宅に伺った際、書架にあった「日本歌学大系」の端本を見て、借りて帰ったのがきっかけのような気がしてならない。そのなかの「東野州聞書」に書きとめてある、

     藤原定家

 生駒山あらしも秋の色に吹く手染の絲のよるぞ悲しき

の正徹の分析にたちまち心をとらえられたのである。それは当時わたしが、永川玲二、高松雄一小池滋、沢崎順之助、その他の同僚たちと一緒にジョイスの『フィネガンズ・ウィイク』を読みながら、主として彼らのおかげで発見することができた『フィネガンス・ウェイク』解読の方法と何一つ変るところがないように感じられた。このときわたしは日本の中世文学を理解し、それと同時に西欧の二十世紀文学を理解したのではないだろうか。あるいは、明治維新以後百年の文学の歪みを知ったのではなかろうか。エリオットの言う「伝統」という概念の真の理解は、まことに奇妙なことに、あるいは当然なことに、わたしの場合「日本歌学大系」によってもたらされたのである。わたしは夢中になって中世の歌論を読み、『新古今』を読んだ。あるいは、ジョイス=エリオットの方法によるものとしての『新古今』を読んだ。わたしがホメロス以後、ないし柿本人麿以後の文学の正統に近づくためには、ただこの態度しかなかったのである。(中略)図書館の書架でたまたま手にした『後鳥羽院御百首』の室町期の古注によって、小学教科書で教わって以来、久しいあいだ疑問としていた、

                     後鳥羽院

  我こそは新じま守よ沖の海のあらき浪かぜ心してふけ

の謎がとけたのも、このころだったような気がする。そしてこの歌にこだわることは、必然的に、折口信夫の学問へとわたしを導いて行ったし、『女房文学から隠者文学へ』というかけ値なしの傑作はわたしと『新古今』との関係をいっそう深いものにしてくれた。それは日本文学史全体のなかに後鳥羽院と定家とを据えることによって、実は彼らを世界文学のなかにまことに正しく位置づけていたのである。》

 

<貴種流離>

「笹まくら」という枕詞と折口信夫『女房文学から隠者文学へ』と「徴兵忌避」から、当然のように、折口の学説であるヤマトタケル在原業平光源氏源義経などの「貴種流離」が連想されるだろう。丸谷は『後鳥羽院』の「隠岐を夢みる」で、折口は自分を後鳥羽院になぞらえていたのではないかと言う。第一に、この帝が和歌に長けていたこと、詩人として優れ、批評家として有能で、文学運動の指導者として成功した。第二に、宮廷にあって宴遊を楽しみ歓楽にふけったこと(折口も門弟たちを集めて君主のように振る舞って喜んでいたと聞く)、もともと彼には王権への憧れがあって、少年時代、母が実の母かどうかを疑って悩んでいたというのは、むしろ父母が実の父母ではなくてほしいという願望の抑圧された表現だろうし、貴種流離譚という学説は、自分が漂泊の王子でありたいという渇望を核にして生れたものだろう。そして第三に、折口が最も憧れたものは後鳥羽院承久の乱後における、国王から囚人への没落、孤島に配流されてついに都に帰ることのない悲劇的境遇であった。

 ヤマトタケルにおけるオトタチバナヒメ義経における静御前のような救いの女阿貴子を登場させ、後鳥羽院を祀る隠岐神社に二人を向かわせて結ばせたのは、貴種流離めいた小説を書き続けた丸谷の思い入れだったのだろう。それに、杉浦が阿貴子に庇護されたのが四国の宇和島だったのは、蛮社の獄で収監され、脱獄して各地を転々とした高野長英が伊予宇和島藩主の第八代伊達宗城(むねなり)(後妻に行くと阿貴子が告げた「天赦園」を建造したのは宗城(むねなり)の養父七代伊達宗紀(むねただ)(春山))の庇護を受けた地であったことも作用したかもしれないし、さらにこれは深読みにすぎるだろうが、流離の人物と土地の名として種田山頭火(短編小説『横しぐれ』に登場する)の松山や尾崎放哉の小豆島も思い浮かべたかもしれない。

 さて、ここでは、流離を「追われる者」という視点から考えてみたい。

 知られるように、英文学者としてスタートした丸谷は、小説執筆前にグレアム・グリーンの小説『不良少年(ブライトン・ロック)』(1952年)、『負けた者がみな貰う』(1956年)、『ここは戦場だ』(1958年)を翻訳していて、さらに、『エンターテインメントとは何か』(『近代文学』3月号)と『グレアム・グリーンの文体』(『英文法研究』1959年11月号)というグレアム・グリーン論を書いている(どちらも『梨のつぶて』に収録)が、『エンターテインメントとは何か』をみてゆく。

 書き出しの三行で読者を引き付けるのは、丸谷才一の「書評三原則」の一つだった、と鹿島茂は回顧している(『書物の達人』)が、書評ばかりではなく、評論にも適応していたらしい。

グレアム・グリーンがその長編小説をノヴル(novel)とエンターテインメント(entertainment)とに分けていることは周知の事実だが、この国の人々はほとんど、ノヴルはまじめな純文学、エンターテインメントは大衆向けの娯楽読物と考えて、それで安心しているらしい。》 

 ところがこのさき、丸谷にしては珍しく、論旨が定まらず、もやもやしている。実際、最終章に来て、《だが、ここまで記してきても、ぼくはまだ語り終えたという気持になれない。たぶん問題はそれほど錯綜しているのだろうし、グリーンがそれほど韜晦しているのだろう》と呟いているくらいだ。だからここでは、「追われる者」についての部分に限定してとりあげることとするが、それでも、丸谷がグリーンから学んだ躊躇、揺れ動く苦悩、人間性の把握は、丸谷の内面の声のようでもあるだけに、のちにノヴルでもエンターテインメントでもある『笹まくら』に高い次元で活かされたことは間違いない。

 初めの三行を受け、欧米の批評家たちは見解を異にし、ノヴルとエンターテインメントとを同一の次元において、この作家の世界を認識し、鑑賞し、分析することに、丸谷はおおむね賛成し、《エンターテインメントと銘打たれているグリーンの作品群が、ノヴルと銘打たれている彼の作品群と比較して、いくぶん異った味わいを漂わせていることはたしかだが、しかし決定的な品質の相違はぼくには見出し得なかったからである。ましてこの国のいわゆる中間小説のような愚劣さ低級さなど、彼のエンターテインメントのどの一篇にもなかった。(中略)第一、ノヴルにもスリラー的な要素、探偵小説的な技法が極めて多く用いられていることは言うまでもないし、エンターテインメントにもノヴルの場合と同じように、観念が追及され、主題が展開され、文学的一世界が構築されていることは、すこし注意して読めば誰にだって判るはずだ》としている。

 ハイネマン版でエンターテインメントと銘打たれている作品のなかでは、『恐怖省』が最もすぐれている。戦時下のロンドン、妻を殺して獄に送られ、特赦によって世間に出た主人公アーサー・ラウは、何者かが自分を殺そうとしていると確信し、私立探偵レニット氏の事務所へとおもむく。説明を聞いた探偵は一笑に附す。ラウが苛立って、「あなたは今まで、探偵としての生涯で、殺人とか殺人者とかにかかわりあったことは一度もないんですか?」と訊ねると、「率直に申しまして、ないんですよ。一度もありません」とレニット氏は答えてから、けだるそうにたしなめた。「ねえ、人生ってものは探偵小説とは違うんですよ」

 丸谷は、手さぐりで、自分に言い聞かせるような口調をもって続ける。

《ぼくはこの対話を、いわばグリーンの方法への鍵ともなるべき重要なものだと考えたい。グリーンは、人生は探偵小説とは違うということを知っている。しかもグリーンは、レニット探偵の単純で楽天的な知り方とはずいぶん異り、はるかに高い次元でそのことを知っているのである。もしそうでないならば、こういうスリラー仕立ての発端は彼にとって可能だったろうか? この作家は、探偵小説が読者たちに提供する人生のイメージが究極的には偽りのものにすぎぬということと同時に、ぼくたちの人生はある意味で探偵小説と酷似しているということをも知っているのだ。》

《彼は幼いころにマジョリー・ボウエンの長編小説『ミラノの蝮(まむし)』を読み、そこから、人間とは他人から隔絶された孤独な存在であるということ、人間性は白地に黒(ブラツク・アンド・ホワイト)ではなくて灰いろ地に黒(ブラツク・アンド・グレイ)であるということを、学んだ。この少年は、悪に憑かれた暗澹たる人間存在を、一女流作家の通俗的な作品を契機として発見したのである。そして、そのような状況を鋭く追及することによっての、そこからの脱出――それが彼の文学の宿命となったのだし、幼児におけるそのような認識は、彼の主題を決定するとともに、方法をある程度まで規定するようになったと思われる。彼は、極めてスリラー的、探偵小説的な作風を選んだ。》

《彼は、探偵小説の虚偽を――つまり人生は探偵小説とは違うことを――最初から見抜いていた。それは、コナン・ドイルからアガサ・クリスティーにいたる数多くの探偵小説作家に共通する誤謬なのだが、人間悪という重要な事実を、ストーリーのための単なる道具立てとしてしか利用せず、そこから出発してその巨大な課題を究明しようとする文学的努力を、いささかも試みなかったことに起因している。(中略)探偵小説におけるこのような虚偽と欺瞞を、グリーンは批判しようとしたのだ、とぼくは考える。つまり彼は、『シャーロック・ホームズ』に代表されるヴィクトリア時代ふうの娯楽読物(エンターテインメント)に対し、痛烈なパロディを投げつけたのである。(中略)パロディストであるグリーンの批評の方法は、観念的にはたえず神の存在を意識しながら制作することであり、技法的には、探偵小説の定跡である追う者(探偵)に視点を置いた構成に叛逆して、追われる者(犯罪者)に視点を置くこととなる。それは当然、いわゆるスリラーの色彩を濃くもつことになるのだが、このような視点の設定が、人間悪を自己の内部の存在としてとらえるために最適なものであることは、論ずるまでもあるまい。そして、そのような作品のなかのあるものに、エンターテインメントという高度に逆説的な、皮肉きわまる命名をおこなうことは、グリーンのような韜晦癖のある作家の場合、むしろ極めて自然なことだろう。》

 繰り返すようだが、「この作家」とは丸谷才一のことでもあり、グリーンと同じような批評的方法と追われる者に視点を置く構成によって書かれた小説が『笹まくら』だ。

 加えるに、流離というと普通は空間的な土地をめぐる流離をイメージするが、『笹まくら』においては、グリーンも『ブライトン・ロック』などで技法的に用いたように、時間的をめぐる流離でもあることは、小説のページを数度繰るだけでわかる。そういった時間の流れの感覚は、さきにエリオット『伝統と個人的な才能』から引用したとおりである。

 

<橋姫>

 岩国の錦帯橋で、杉浦は阿貴子に自分が徴兵忌避者であることを告白する。いったいに『笹まくら』は阿貴子との逃避行の場面場面が、せつなくもスリリングで美しい。映像美に溢れた雨の錦帯橋の場面の後ろには、おそらく「橋姫」の影が控えているだろう。

 隠岐で結ばれた二人は、隠岐からまず松江へゆき、憲兵特高がこわいので下関へはゆかず、津和野(つわの)、山口、宇部(うべ)。阿貴子のせいで子供たちがよく集まり、砂絵の売れ行きは増したが、杉浦は、ゆきずりに拾った恋人が穿鑿しなくなったこと(本当の名前が杉浦とは違うのではないか、ずっと東京の人だったような気がする、砂絵師にしては言葉がインテリくさい)にかえって怯(おび)えていた。

《岩国は雨だった。小雨がつづいた二日目の朝、二人は宿屋から傘を借りて錦帯橋を見に行った。錦川の水は青みがかった灰いろで、槍倒(やりこか)しの松はもう死に絶えそうになっており、約三百年も前に造られた木の橋は、その極端な人工性によって自然とのあいだに調和を作ろうと、今も懸命に努めている。意外なことに、橋を通る人は誰もいない。彼はそのことに驚きながら、今をのがしたらもう機会はないと考えた。二人は中央の反橋(そりばし)で欄干によりかかり、下流のほうを眺めた。男は不意に別れ話をはじめ、女は、あたしが嫌いになったのかと問い返し、いや、そうじゃないという答えを得た。じゃあ、どうしてなの? 男はさまざまの理由を並べ、一つ一つしりぞけられた。たとえば、砂絵なんてものはせいぜい一人分の生活費しか稼げないし、宮崎の婆さんに仕送りもしなくちゃならない、という理由は、このところ砂絵はよく売れているし、それにあたしの分はあなたに金を出させていないはずだ、というふうに。女は、もうしばらくいっしょにいたいと言って涙を浮べ、番傘の黄いろい光に染められた憂(うれ)い顔が彼の心を激しくゆすぶった。そして彼はとつぜん、告白している自分に気がついたのである。》

 丸谷は『後鳥羽院』のなかで、「橋ひめのかたしき衣さむしろに待つ夜むなしきうぢの曙」後鳥羽院(『新古今和歌集』冬歌)から「橋姫」を論じ、「七夕説話」との共通点にも言及している。

 橋姫は『新古今』時代の代表的な題材で、宇治の女を詠む流行は、たくさんの名歌を残している。たとえば、「さむしろや待つ夜の秋の風ふけて月をかたしくうぢの橋ひめ」藤原定家、「はしひめの袖の朝霜なほさえてかすみふきこす宇治の川風」俊成卿女、などいくらでもあげられる。

 発生的には古代信仰にかかわる話なので、民俗学のほうを調べなければなるまいということで、《柳田国男によれば、「橋姫といふのは、大昔我々の祖先が街道の橋の袂に、祀ってゐた美しい女神のことで」、宇治橋に限らず、諸国の数々の橋に橋姫がいた痕跡があるし(たとえば甲斐の国玉(くだま)の大橋、近江の瀬田橋、青梅街道の淀橋、伊勢の神宮宇治橋)》というふうにあたってゆく。『新古今』時代の歌人たちは、何よりも『古今』の「さむしろに衣かたしき今宵もや我を待つらん宇治の橋姫」読人しらず、に魅せられたらしい。また、『源氏物語』の「総角(あげまき)」の「中絶えしものならなくに橋姫の片敷く袖や夜半に濡らさん」という匂宮の歌を介して、「宇治十帖」の世界が寄り添っていた気配がある。

 さらに丸谷は「宇治」と「憂(う)し」との言葉の重層性に言及したあと、モダニズムの定義を展開して「七夕説話」と「橋姫」の共通点に到る。

《二十世紀のヨーロッパに広く見られる現象だが、文学者たちは写実主義から脱出する手がかりを神話に求め、競ってさまざまの神話を枠組としながら彼らの世界を表現した。(中略)歴史主義という近代の病患に犯されぬ限り、人間は常に普遍的なものを尊んできたし、それゆえ神話はこれほど久しいあいだ、何千年の昔から人間の魂をとらえてきたのだ。二十世紀文学の神話的方法は、こういう健全な人間観を再認識し、健全な文学観を再建するための試みにすぎない。

 とすれば、わが王朝の歌人たちが一種の神話的方法を採用したのはいささかも驚くに当らない話だろう。その最も代表的なものは七夕説話で、『古今集』の歌人はたとえば織女の心になって、

  ひさかたの天の河原の渡し守きみ渡りなば梶かくしてよ

と詠み、そして『新古今集』の歌人はたとえば、表むき七夕の歌と見せかけながら、

  七夕のと渡る舟のかぢの葉にいく秋かきつ露の玉づさ

という実は恋歌を詠んだ。そしてわたしの見たところ、『新古今』歌人たちが七夕説話に次いで重んじたものは橋姫伝説にほかならない。

 当然、七夕と橋姫という二つの神話の共通点を探しだすのが必要な手つづきになるわけだが、これは至って易しい。いずれも恋愛神話であり、いずれも悲劇的な設定であると答えればそれで要は尽しているのである。》

 それから丸谷は、第三の共通点として、いっしょに暮している男女ではなく、ときどき逢う仲だという風俗的な視点も考察し、高群逸枝の「擬制婿取婚」と平安後期の白拍子・遊女好みの影響にまで及んでいて、橋の女には複合的、多層的なイメージであって、それはまた、《変転の諸相を隈なく探ることによって普遍的な人間を捉えるという神話的方法の精髄なのである》とした。なるほど阿貴子もそのような女だった。

 

<七夕>

「笹まくら」という言葉、あるいは「橋姫」「七夕」という言葉の力については、村上春樹丸谷才一の短編小説『樹影譚』を論じるなかで、「呪文=ただの言葉」が人の運命を変え、存在を揺るがし、あるいは命さえも奪ってしまう、言霊(ことだま)とでも言うべきそれは、丸谷才一のライトモチーフのひとつなのかもしれない、と語っている(『若い読者のための短編小説案内』)。

《「笹まくら」にしても、徴兵忌避者・杉浦の逃避行が、仮寝の「笹まくら」という言葉に凝縮されてしまうことによって、そこにほとんど圧倒的と言ってもいいような、前近代への吸収作用が生まれでてくる。明治維新(もちろん徴兵制もそこには含まれています)という一見して堅く地均(じなら)しされた土壌のすぐ下に、我々の精神の影の原風景が息づいていることを、たったひとつの言葉の響きから、我々ははっと気づかされることになります。その吸収のすさまじいダイナミズムは、すでに意味を終了してしまったかとも思えていた戦争中の浜田庄吉→杉浦健次の神話的変身譚を、今はさえない中年の主人公・浜田が大学の事務員を勤めている現代まで、さあっと一気に敷衍してしまうことになる。》

 夫婦で出かけた網代の寮で、妻の陽子が七夕の折り紙を買って来たこと(それは小説の最後で、これもまた万引きしたものではなかったのかという浜田の疑念の対象になる)から回想が灯火管制の七夕に溶けこむ。昭和二十年七月の宇和島の七夕を祝う場面には、匂やかでせつない耳の快楽が奏でられていて、こんな小さな宇宙にも夢と現実の天の川が流れている。

 阿貴子が町で短冊紙(たんざくがみ)をようやくみつけてきて、「七夕のとわたる舟のかぢの葉に いく秋かきつ 露の玉づさ」と書き、「しちせきの……」と読んだ。「たなばたの、じゃないかな?」「しちせきの、と読むのよ。母さんにそう教わったんですから」。杉浦は『古今集』か何かの歌だろうな、誰の歌なんだろう、阿貴子はしゃしゃあと「読み人しらず」と答える。夕食が終ってしばらくすると、阿貴子の母が、そろそろ七夕様をしようかと言った。窓際(まどぎわ)に机が置かれて、西瓜や瓜や、空の丼(どんぶり)や小鉢が並べられ、阿貴子が薬罐から水をついだ。

《そよ風が渡るにつれて竹の葉が揺れ、糸で吊(つる)した色紙や短冊や紙の果物が揺れる。砂絵の砂のこぼれ落ちる音が聞こえるようでもある。空の明るさを背景にする黒い笹や黒い紙を見ながら、そしてかすかな音を聞きながら、三人は西瓜を食べた。蚊取線香は机の下で焚(た)いてあるのだが、ときどき蚊の音がする。西瓜の匂いのせいだろうか、竹の葉の匂いのせいだろうか、今朝の阿貴子の肢体の思い出がなまなましく迫ってくる。今夜は城山のサイレンが鳴らなければいいが、と阿貴子の母が言った。杉浦が、この部屋にも置いてあるラジオのスイッチを押し、小さな音で聞えるようにした。ラジオのダイヤルの灯りが洩(も)れぬよう、阿貴子が風呂敷をかぶせた。ラジオ・ドラマがとぎれ、アナウンサーが沈痛な声で言った。どうやら今夜は仙台と宇都宮の番らしい。阿貴子の母は、北の方でよかったと呟いた。ラジオ・ドラマがまたはじまった。母に催促されて、阿貴子が丼や小鉢の水を捨て、新しい水をついだ。これは牽牛(けんぎゅう)・織女が渡りやすいように天の川の水をきれいにするという意味なのか、どうか、杉浦は訊ねたかったが、我慢して口には出さない。去年、同じことを質問して、そういうしきたりなのだとしか答えてもらえなかったことを思い出したからである。真桑瓜を一きれ食べると、阿貴子の母はもうやすむことにすると言って下へ降りて行った。杉浦は瓜を食べるのをやめ、阿貴子の乳房を服の上から触り、乳首が硬くなってくるとスナップをはずした。白い顔がそばに寄って来て、息をはずませながら彼の唇を探す。》

 丸谷は『新々百人一首』で「七夕のとわたる舟の梶の葉にいく秋かきつ露のたまづさ」を詳しく論じている。もちろん丸谷才一は杉浦健次ではないから、「読み人しらず」でも「しちせき」でも『古今集』でもなく、「藤原俊成(ふじわらのとしなり)」であり「たなばた」であり『新古今和歌集』である。秋は男女がはじめて関係する季節であったらしいこと、日本の七夕祭について書くことは民俗学的方法が手に余る難しいことで、折口信夫の説を紹介しながら、中国の乞巧奠(きこうでん)の移入というだけでは説明のつかない要素が多いことをあげている。一首は華麗な縁語的世界、天の川の系列の天界の層(「七夕」「門(と)」「渡る」「舟」「梶」「露」)と恋文の系列の地上・人間の世界の層(「梶の葉」「書く」「露」)の二層によって形づくられていて、久保田淳が『新古今集』の部立では秋歌になっているが「この歌、実は恋の歌」と説くのは正しいとしている。

 折口の説を後押ししようと『笹まくら』で描写された宇和島の七夕の習慣についても紹介している。

《たとへば四国の宇和島では、いくつかの盥(たらひ)に洗面器に水を張って、一晩ぢゆうしきりに水を取替へる。これをするのはたいてい女である。こんなことは中国ではどうもしないらしいし、すくなくともわたしの探した範囲では見つからなかつた。宇和島のこの習俗は、普通、星を水に映して祭るのだと考えられてゐるやうだが、そのためなら水を取替へるのはをかしい。ところがこれはミソギに奉仕する水の女には符合するのである。》

 ついで丸谷は、折口信夫が『たなばた供養』のなかで言う、七夕には衣を貸すという風俗に言及したあと、小南一郎の『中国の神話と物語り』と西村享の『王朝びとの四季』をあげながら、オージー(祭、乱痴気騒ぎ)によるカーニヴァル的な祝祭、七夕の日に男女相会う、性の解放という習俗が平安朝以前からあったのではないかと考え、さらには柳田国男盂蘭盆会の笹竹からはじまって、ジョイスフィネガンズ・ウェイク』の世界と「死と再生」へ、モダニズム的思考によって歩んでゆく。

《なほ、日本の七夕祭の古層としては、これは柳田国男の説だが、盂蘭盆会(うらぼんえ)の古形の一環として死者の霊を迎へるといふ気持があつたらしい。これでゆけば、笹竹を飾るのは魂の依代(よりしろ)といふことになるわけだ。死者の霊を祭ることと性の解放とが同じ日におこなはれるのは、近代人の意識から言へば不思議な話だが、「死と再生」が古代人にとつて最も重要な図式であつたことを考へれば、ある程度、納得がゆくかもしれない。ずいぶん遠いところから、しかも時代としてはついこのあひだのところから、例を引くことになるけれど、たとへばアイルランドの通夜(ウエイク)では、死者の棺のかたはらで種々の猥褻なゲームがおこなわはれ、さらには贋の司祭(藁の服を着て縄のストラをかけてゐる)が贋の結婚式を司る。そしてマライア・エッジワース(一七六七~一八四九)によれば、通夜(ウエイク)ののち関係する男女は「婚礼によつて関係する男女よりも多い」といふ(エバンズ『アイルランドの習俗』)。このことは、折口、西村、柳田、小南の説を参照しながら原始のころの日本の秋のはじめを想像するに当り、いろいろと参考になるだろう。》

 七夕における「死と再生」。『笹まくら』がなぜ香奠の話、阿貴子(恋のはじまる秋(アキ)子)の死の知らせからはじまり、浜田庄吉の自由な生への逃走、杉浦健次への再生で終るのかはすでにあきらかであろう。

『笹まくら』には、東と西の伊達男・伊達女たちによる、伝統と個人的才能、方法と主題との、幸福な婚姻がある。

                                     (了)

            ******参照または引用文献******

*『丸谷才一全集 第一巻~十二巻』(文芸春秋

丸谷才一『エホバの顔を避けて』(KAWADEルネサンス)(巻末文、松浦寿輝栄光ある孤立――『エホバの顔を避けて』』)(河出書房新社

丸谷才一『新々百人一首』(新潮社)

丸谷才一『梨のつぶて』(晶文社

*『書物の達人 丸谷才一』菅野昭正編、川本三郎湯川豊岡野弘彦鹿島茂、関容子(集英社新書

村上春樹『若い読者のための短編小説案内』(文春文庫)

*『エリオット選集 第一巻』(『伝統と個人的な才能』吉田健一訳、所収)(彌生書房)

鶴見俊輔高野長英』(朝日選書)

グレアム・グリーン『ブライトン・ロック』丸谷才一訳(早川書房

文学批評 「『万延元年のフットボール』にあらわれた御霊(ごりょう)曾我兄弟」

「『万延元年のフットボール』にあらわれた御霊(ごりょう)曾我兄弟」

 

 

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<四国の森の兄と弟>

 四国の森と谷間を舞台とした大江健三郎の初期小説では、「僕=兄」と「弟」が定型のように現れ、「地形学的(トポグラフィック)な構造」空間のなかで行動をともにする。

 短編小説『飼育』(一九五八年)の冒頭はこうだ。

《僕と弟は、谷底の仮説火葬場、灌木の茂みを伐り開いて浅く土を掘りおこしただけの簡潔な火葬場の、脂と灰の臭う柔らかい表面を木片でかきまわしていた。谷底はすでに、夕暮と霧、林に湧く地下水のように冷たい霧におおいつくされていたが、僕たちの住む、谷間へかたむいた山腹の、石を敷きつめた道を囲む小さい村には、葡萄色(ぶどういろ)の光がなだれていた。僕は屈めていた腰を伸ばし、力のない欠伸(あくび)を口腔いっぱいにふくらませた。弟も立ちあがり小さい欠伸をしてから僕に微笑みかけた。》

 中編小説『芽むしり仔撃ち』(一九五八年)でも、『飼育』同様に、兄の暴力と庇護、弟の恭順と柔和のもと、「僕ら」という仲睦まじさが基底に流れている。

《出発の日まで二週間の余裕があり、その間に親もとへ引取りを要請する最後の手紙が出され、院児たちは激しい期待をそれにかけた。一週間目に、かつて僕を告発した僕の父が軍靴をはき徴工用の帽子をかぶって、弟をつれてあらわれた時、僕は歓喜におそわれた。しかし父は、弟を疎開するための土地を探しあぐねて、そのあげく感化院の集団疎開に弟を便乗させることを考えついたというわけだった。僕は失望にうちひしがれた。それでも父が帰って行ったあとでは僕は弟とかたく抱きあったのだ。

 弟は僕ら少年の犯罪者たちの間へ入り、その服装を着せられたことで、始めの二三日、好奇心と喜びに異常なほど興奮していた。》

 十年後の長編小説『万延元年のフットボール』(一九六七年)には、「僕=兄」蜜三郎と、「弟」鷹四が登場するが、少年ではなく、青年を経て壮年になりつつある。すでに「戦争直後の数年間僕が弟にもっていた絶大な影響力」は懐かしみとなり、反撥、対抗意識、敵意の関係のはざまで、荒ぶる暴力的な弟と、和やかな傍観者の兄という対照で登場する。

《「いま、蜜(・)が東京でやっているすべてのことを放棄して、おれと一緒に四国へ行かないか? それは新生活のはじめ方として悪くないよ、蜜(・)!」と鷹四は、僕がたちどころにそれを拒否するのではないかという率直な懸念を示しながらも、結局は誘惑する力をこめていった。》

 これら三篇とも、小説の終局になると、兄と弟は死の匂いに浸りながら、解離したうえで、さらなる融合を目指そうとする。

『飼育』では、弟の掌の下で深く引きこむ眠りの中へ入って行った僕は、昼すぎに目ざめ、町役場の書記の橇による事故死を見とどけてから、弟を捜すために草原をおりて行った。

『芽むしり仔撃ち』では、疫病に罹っている愛犬を撲殺された弟は駆け去って行き、帰って来なかったが、洪水があった谷の岩の間で携帯品袋が発見される。

万延元年のフットボール』では、弟鷹四は自栽するが、兄蜜三郎はそのことから気づかされて新たな生へ向かう。

 

<小説の物語>

 いちおう『万延元年のフットボール』のあら筋を紹介しておくことにするが、その前に大江のエッセイ『小説の神話宇宙に私を探す試み』から、少しだけ引用しておきたい。ここで、「二人の人物」とは蜜三郎と鷹四、「二つの作品」とは『飼育』と『芽むしり仔撃ち』のことだ。

《一九六七年に書いた『万延元年のフットボール』では、いわば二人の人物に分割された私自身が、さきの二つの作品によってかたち作られ始めた、森の中の集落の地形学的な構造のなかに帰って行き、その「場所」をあらためて認識してゆきます。そして集落がやはり洪水によって下方の村や町、小都市から切り離されている期間に、二人ながらに――兄弟の兄は傍観者として、弟は東京でなしとげえなかった革命的な達成をパロディ的にやりなおす行動者、あるいは演技者として――ひとつの悲劇を生きる過程が、小説の物語です。》

 さてあら筋である。

 

「僕」こと根所(ねどころ)蜜三郎は、脳に障害のある息子を養護施設に預け、野生動物の記録の翻訳を仕事にしている。妻菜採子(なつこ)はウィスキー依存となっていて、子供ができてから夫婦の性交渉はなくなっている。蜜三郎の大学時代の友人が、顔と頭を朱に塗りつぶして、肛門に胡瓜をさしこみ、素裸で縊死してしまう。死んだ友人の祖母が、サルダヒコのような、と言った。

 蜜三郎の弟鷹四は、一九六〇年の政治行動(日米安保条約改訂闘争)に参加した学生による転向劇の座員としてアメリカに渡ったが、放浪生活を切りあげて帰国する。鷹四は蜜三郎を新生活に導くため、二人の生まれ故郷の四国へ誘う。

 兄弟の曾祖父は谷間の村の庄屋であり、百年前の万延元年(一八六〇年。日米修好通商条約に調印した大老井伊直助、桜田門外の変で暗殺。批准のため遣米使節団派遣される)の一揆で、曾祖父と騒動を組織した弟が対立し、曾祖父が弟を銃で殺すことで騒動を治めたという噂があった(鷹四はこれを信じた)。また別の噂として、曾祖父が騒動の後で弟を高知に逃がし、弟は維新政府の高官になったというのもあった(蜜三郎はこちらを信じた)。

 蜜三郎と妻はバスで四国の森へ入るが、洪水で橋が壊れたままになっている。ずっと家を管理させていた、むかし鷹四の子守娘だった痩せ型のジンが、大食病によって体重百三十二キロの「日本一の大女」になっていた。

 鷹四は曾祖父の弟と、敗戦直後に復員して来たS次兄さんが朝鮮人集落と村の若者たちとの衝突で撲殺されたこととに自己同一性を求め、谷間の若者たちを組織して、フットボール・チームを作る。一方、蜜三郎は傍観者を自認している。村は「スーパー・マーケットの天皇」と呼ばれる朝鮮人のスーパーに経済的に支配されているが、鷹四はフットボール・チームの若者や村人を扇動して、万延元年の一揆に重ねあわせた、スーパーの略奪という「想像力の暴動」を実行する。

 曾祖父やその弟、S兄の「御霊」の扮装をした念仏踊りがある。鷹四は兄の妻菜採子と性交渉を持ったうえに、谷間の村の肉体派の娘を強姦しようとして殺害する(もしくは罪を背負う)。さらには、「本当の事を言おう」と、かつて白痴の妹が自殺した原因は、貴種流離譚を作りあげ、曾祖父とその弟以来の家系にひどく拡大した誇りを抱いていた自分との近親相姦による妊娠、堕胎、不妊手術のせいだと告白し、猟銃で頭を柘榴のように撃って自殺してしまう。

 谷間の村の象徴的存在だった根所家の倉屋敷が、鷹四から買いとったスーパー・マーケットの天皇の手で解体されると、地下倉が発見される。万延元年の一揆後、曾祖父の弟は、殺されも逃亡もせず、失敗した一揆の指導者の責任をとって、地下倉に三十年間、兄と手紙のやりとりをしながら非転向のままに、自己幽閉していたとわかる。そして、万延元年から十一年後の明治四年の廃藩置県のさい、大参事を自殺に追い込み、処罰はなしという成功裡の騒動で、「頑民総代」として官憲と交渉したひとりの猫背の大男の指導者は、曾祖父の弟が、突然地上に再現した姿に違いない、と推定させた。

 曾祖父の弟と鷹四は、自分たちの地獄を確認し、「本当の事」を叫んだ。自分のidentityを確かめて、自己統一をとげたのだ、と気づかせ、僕に新しい生き方を発見させる。

 

<「外部」と「歴史」>

 再び、大江のエッセイ『小説の神話宇宙に私を探す試み』に戻る。

「歴史」について詳しく見てゆきたいのだが、その前段階として「外部」という重要概念を説明しているので、注意しておこう。

《『飼育』において、森のなかの村に突然入り込んで来たのは、戦っている敵国の、日本人とはあきらかに皮膚の色も違う異邦人の兵士でした。それは集落の「外部」の人間を、アレゴリー的にまで徹底している人物です。『芽むしり仔撃ち』では、都市の空襲による被害から逃げ出して来た、少年院に収容されていた少年たちが、「外部」からの人間としてやって来た者たちでした。》

 続いて『芽むしり仔撃ち』から『万延元年のフットボール』に入り込んで来たもの、それは「歴史」である。

《ところが『万延元年のフットボール』には「歴史」が荒あらしく入り込んで、この地形学的な構造のなかで起る出来事を二重構造にしたのです。万延元年(一八六〇)と一九六〇年とが百年をへだてて照応しあって、お互いに意味を喚起し続けるのです。》

《さて、「歴史」を『万延元年のフットボール』のなかへみちびき込むことをさせたきっかけ(・・・・)は、私がずっと耳にして生きて来た、土地の民話なのでした。小説の舞台のみならず、その主題にも浸透している集落の地形学的構造が、私の幼少時の目にうつる環境であったのに対して、私はそれらの民話を耳からとりいれる環境の構造として、成長してきたのです。それは『万延元年のフットボール』を書いている時点で、当の私にふたつのレヴェルで把握しなおされていたのでした。》

 そうして土地の民話的伝承と、祝祭的な踊りの歌とが説明されてゆく。

《第一は、祖母と母に聞かされて育った、この土地の民話的伝承です。『万延元年のフットボール』を書いた時、私はそのなかでも、ほぼ百年前に起った二度の百姓一揆を語りつたえるものに、とくに関心を集中していました。

 祖母は幼少女期に、この出来事に実際に関わった人々と同じ社会に生きました。したがって彼女の語る民話には、実際に会った人々についてのエピソード的な思い出話がつねに加えられるのでした。祖母には独特なナラティヴの才能があり、彼女は自分の人生で経験されたすべてのことを、かつて聞き覚えた民話のナラティヴのまま語ることができました。それは新しい民話を創造することでもあり、それとの結びつきにおいて、この地方に伝わって来た、もっと古い民話を再創造することにもなりました。

 しかも彼女は語り手(祖母)と聞き手(私)とがともにそのなかで生きている集落の地形学的な構造に、その民話のそれぞれを具体的に位置づけて語ったのです。それは祖母のナラティヴにリアリティーをあたえました。また、それは集落のいちいちに、民話的=神話的意味を確認しなおすことでもありました。》

 ついで、祝祭の踊りの音頭の「もどき」が語られる。

《もうひとつの動機は、一九四五年の敗戦の直後、戦中には自粛されていた秋祭りが、農民たちによって回復されたことに直接根ざしています。それを運営したもっとも活動的なメムバーは、軍隊から復員してきた若者たちで、かれらは農村の日常生活にあらためて入り込み適応してゆくよりも、まず非日常的な祝祭の気分で、一種の休暇を楽しもうとしていたのでした。

 さて、そのようにして小学校の校庭で行なわれた秋祭りの踊りで、屋台に上った農民の歌い手が、「もどき」と呼ばれる音頭を歌ったのです。それはこの地方に起った二度の百姓一揆の物語を叙事詩的に語るもので、特徴として、集落を囲む森の、また集落のなかの地名を、一揆の行列の進み具合にそくして、いちいち歌い込んでいました。「もどき」は、私にとって、まず集落の地形学的な構造の物語であり、祖母から聞いてきた民話的=神話的な物語の、祝祭的なナラティヴによるパフォーマンスでもあったのでした。》

 二つが統合されて、新生を吹き込んだ。

《私はこの二つの契機によって、『万延元年のフットボール』の、東京に出て行った兄弟をあらためて集落に呼び戻し、一九六〇年代の物語と百年前の物語とを、その地形学的な構造のなかで結びつける方法に辿りついたのでした。それは私にとって、作家としての再出発を意味していました。》

 この兄弟は、谷間の村という「場所」の内部で生まれ育ち、都市へ向けて出て行ったが、再び「外部」から訪れるものとして、「民話=神話的伝承」を祝祭のうちにとり戻して行く。

 

柳田国男折口信夫

 森をめぐる物語は、『万延元年のフットボール』(一九六七年)に続いて、ほぼ十年ごとに書かれた『同時代ゲーム』(一九七九年)、そして『M/Tと森のフシギの物語』(一九八六年)および『懐かしい年への手紙』(一九八七年)になると、ブレイク、イェーツ、ダンテなどの西洋的な物語を援用することで、「村=国家=小宇宙」の螺旋階段を地獄めぐりのように降りくだってゆくことになるのだけれど、『万延元年のフットボール』においては、柳田国男折口信夫の影響が大きい。小説の中で宣言されている。

 まず柳田国男については、第3章「森の力」で、僕と妻の菜採子が、迎えに来た鷹四のジープで森の谷間の村に入る時に、妻が「私もバスに乗って以来、この森の力は増大していると感じつづけていたの。私はその森の力に圧迫されて気が遠くなりそうだったもの」と言いだすと、鷹四が「森の恐怖をそのように敏感に感じとる人間は、発狂して森に逃げこむ人間と対極をなすかといえば、それはそうではなくて、むしろこのふたつの人間は、心理的にはひとつのタイプだと思うよ」と言ったことからである。

《僕は発狂した妻が森の奥へ駈けこむ光景を思いえがこうとして連想の鎖をたちきったのである。僕は柳田国男の《裸にして腰のまわりだけに襤褸を引き纏い、髪の毛は赤く、目は青くして光っていた》女について書いた文章を想起しつつあったのである。《山に走り込んだという里の女が、しばしば産後の発狂であったことは、事によると非常にたいせつな問題の端緒かもしれぬ》》

 これは柳田国男遠野物語』で提起された「山人」の、その後の「山人論」考察の成果である『山の人生』の「五 女人の山に入る者多き事」からである。何といっても森は狂気の場所なのだ。「産後の発狂」云々には妻菜採子の産後の精神不安からの連想があるうえ、のちに「御霊」となる鷹四の子を身籠ることへのおどろおどろしい予見さえ臭ってくる。

 第7章「念仏踊りの復興」では折口信夫の説がでてくる。妻が僕に、谷間の盂蘭盆会(うらぼんえ)の風習について説明をもとめたので、念仏踊りについて説明する。

《外部からこの窪地を襲って災厄をもたらす邪悪なものの典型がチョウソカベであり、それは谷間の民衆から絶対に拒否される敵であるが、窪地には、それとは異なったもう一種の邪悪なもの乃至は、邪悪をなすものが訪れる。しかもそれは谷間の人間にとって、それを拒否し外部へ押し戻すだけでは解決できない性格をもった存在である。なぜなら、もともとそれは谷間の民衆に属するものたちだからである。毎年、盂蘭盆会にそれらは森の高みから敷石道をつたう一列の行列をなして谷間に戻り、生きている人々に敬意をこめてむかえられる。僕は、折口信夫の論文によって、森から戻ってくるところのものが、すなわち森=他界から谷間=現世に働きかけて害をなすことのある「御霊」であることを教えられた。谷間に執拗な洪水が荒れたり、イモチが猖獗をきわめたりすると、それは「御霊」によるとされて、かれらを慰めるためにその盂蘭盆会に人々は熱情を燃やす。(中略)毎年、森から一列になって降りてくる盂蘭盆会の行列は、僕の家の前庭に辿りついて円陣を作って踊り、最後には倉屋敷に上りこんで座敷ボメをすませた後飲み食いしたので、盂蘭盆会の行列を見物することに限っていえば、僕は谷間のすべての子供たちのうち特権的な位置にあった。》

念仏踊りは万延元年の一揆を起点としてできあがった風習なの?」と妻が問う。僕は折口を援用した説明を加える。

《「いや、そういうことはない。それ以前から念仏踊りはおこなわれていたし、『御霊』は谷間に人間が住みはじめた時以来、存在しつづけてきただろう。一揆後、数年あるいは、数十年は曾祖父さんの弟の『御霊』もS兄さんの『御霊』同様に、行列のびりっかすのあたりでシゴかれる初歩的な『御霊』にすぎなかったにちがいない。折口信夫は、この新しい『御霊』のことを新発意(シンボチ)と呼んで、念仏踊りをつうじておこなわれる、そうした新入生の訓練を拷(シオ)りと定義していた。扮装をつけて激しく動きまわる念仏踊りは相当な重労働だから、『御霊』自身の訓練は別の話にしても、それに扮した村の若者にとっては確かに、充分シゴかれて訓練されることになるにちがいない。」

折口信夫の論文」というのは、折口最晩年の『民族史観における他界観念』であろう。僕の説明に直接該当する部分の前後も重要なので、長くなるが引用しておく。

「荒ぶる霊」という章には、「御霊」に関する折口論が集約されている。

《(前略)御霊は、――古くは――宮廷及び京師の市民に祟る悪霊の称であって、事実から言えば、神化していない人間の悪執である。霊気(リヤウケ)即、やや新しく、知識的な言い方だが、普通はもののけである。執念を、個人又は、ある一家・一族に持つものが其であって、此れの範囲が拡り、禍が一般的になったものが御霊(ゴリヤウ)である。古い歴史を持ったまま継続した「御霊」は、奈良から平安時代にかけて起ったものだから、奈良京・平安京の持ち主とも言うべき宮廷への怨念を、宮廷直轄の地とも言うべき京師の民・作物に表現したものである。人間或は物品に寄せて、悪念のなす所を示すことが、たたるの語義である。(中略)邪霊の、とりわけ人間死者のなす所と解せられるものは、皆御霊(ゴリヤウ)と謂われるようになった。多く土地百姓に祟り、疫病を行い、農業を妨げ、稲虫を生ぜしめた。必しも善人の不幸に横死したものばかりではなかった。却て多く凶悪・暴戻な者が、死んで農村・産業を災したものが数えきれない程である。近世まで之を御霊と言ったり言わなかったり、いろいろしているが、その傾向のものは、後から後から頻りに出た。御霊の類裔の激増する時期が到来した。戦争である。戦場で一時に、多勢の勇者が死ぬると、其等戦没者の霊が現出すると信じ、又戦死者の代表者とも言うべき花やかな働き主の亡魂が、戦場の跡に出現すると信じるようになった。そうして、御霊信仰は、内容も様式も変って来た。戦死人の亡執を表現するのが、主として念仏踊りであって、亡霊自ら動作するものと信じた。それと共に之を傍観的に脇から拝みもし、又眺めもした――芸能的に――のである。》

 ついで、「念仏踊り」の章が続くが、谷間の念仏踊りに瓜ふたつと言えよう。そして、宗教行事であると共に芸能演技である、霊魂を攻め虐げて完成させようとする目的と合致するという考察は、この小説の核ともなっている。

《村を離れた墓地なる山などから群行して、新盆の家或は部落の大家の庭に姿を顕す。道を降りながら行う念仏踊りは、縦隊で後進する。家に入ると、庭で円陣を作って踊ることが多い。迎えられて座敷に上ることもあり、屋敷を廻って踊ることもあり、座敷ぼめ・厩ぼめなどもする。(中略)一方、古戦場における念仏踊りは、念仏踊りそのものの意義から言えば、無縁亡魂を象徴する所の集団舞踊だが、未成霊の為に行われる修練行だと言えぬこともない。なぜなら、盆行事(又は獅子踊)の中心となるものに二つあって、才芸(音頭)又は新発意(シンボチ)と言う名で表している。新発意は先達(センダチ)の指導を受ける後達(ゴタチ)の代表者で、未完成の青年の鍛錬せられる過程を示す。ここで適当な説明を試みれば、未完成の霊魂が集って、非常な労働訓練を受けて、その後他界に往生する完成霊となることが出来ると考えた信仰が、こういう形で示されているのだ。若衆が鍛錬を受けることは、他界に入るべき未成霊が、浄め鍛えあげられることに当る。》

 

<曾我物語>

「御霊」といえば、平将門菅原道真崇徳院とともに、曾我十郎(兄)・五郎(弟)の曾我兄弟の御霊はまず外せないところだ。『曾我物語』をもとに書かれた曾我物、曾我狂言として歌舞伎、能、謡曲で演じられてきたのは知られるところで、江戸時代の流行は去ったとはいえ、今でもよく初春興行される『寿曾我対面(ことぶきそがのたいめん)』はつとに名高い。

万延元年のフットボール』で兄蜜三郎は次のような認識者としての言葉を寺の若い住職に発する。

《僕は根所家の人間のうちで、万延元年の事件から勇壮な暗示を受けとることを拒む側のタイプの血をうけついでいるんです。見る夢にしても、曾祖父さんのヒロイックな弟に自分を同一化するかわりに、恐れおののいて倉屋敷に閉じこもっているばかりか、曾祖父さんのように鉄砲を撃つほどのこともしない臆病な傍観者として惨めな夢を見る始末ですよ》

 曾我狂言における和事(わごと)の曾我十郎は兄蜜三郎ほどに臆病な傍観者ではないものの、『寿曾我対面(ことぶきそがのたいめん)』での十郎の性根は、「立騒いで尾籠な弟」を「ジッと辛抱しやいのウ」といい留めるところにある。五郎が派手で、弟鷹四のようにヒロイックで仕所がある役のようにみえるのは荒事(あらごと)ゆえである。坂田藤十郎に代表される上方風の優雅で女性的な色男の表現で演じる和事と、市川團十郎に代表される江戸風の男性的で烈しい祭祀的な信仰の力と情念で演じる荒事の対照は、興行的な利点もさることながら、演劇的なバロックの美意識ともいえよう。

 もとになった『曾我物語』を紹介しておく。

 

 工藤大夫祐隆は後妻の連れ子と通じて子を産ませ、養子伊東祐継として伊東庄(いとうのしょう)を継がせた。嫡孫の河津次郎祐親は、箱根権現の別当に祐継を調伏させ、病に倒れた祐継を見舞って後事を託される。その死後、伊東庄に入って、姓を伊東に改め、祐継の子、工藤祐経に自分の娘を嫁がせたうえ、京の平重盛に仕えさせることで所領を奪った。

 工藤祐経は母の死にさいし、父の形見の譲り状によって、伊東庄が河津(伊東)次郎祐親のものではなく、自分の所有だと気づく。そのうえ、祐親の娘だった祐経の妻は実家に引取られてしまう。妻と領地とを奪われた祐経は、年来の家臣、大見の小弥太と八幡の三郎に、怨みを晴らしてくれまいかと持ちかけた。このころ伊藤の館には流人の身の源頼朝(佐殿(すけどの))がいたが、退屈を慰めようと三日三夜の宴ののち天城のあたりで狩りに興じた。二人の刺客は狩の帰りの河津三郎祐重(祐親の長男)を射る。祐重は首謀は工藤祐経であり、家臣の大見と八幡を見かけたと言い残して落命する。

 祐親には男の子が三人いた。兄は五歳の一万(後の十郎)、弟は三歳の箱王(後の五郎)、そして父の死の翌日に生れた御坊(後の伊東禅師)である。彼らの母は尼になる覚悟を固めていたが、舅の祐親の諭しで曾我太郎に長男、次男を連れて縁づく。

 その後、娘に通って子をなした頼朝を夜討ちにしようとした祐親は、頼朝が関東に覇権を唱えてのち討たれ、頼朝の誘いを断って平家方に加わった河津(伊東)一族は零落した。一方、工藤祐経は、頼朝の寵臣となって、伊東庄ほかの領地を賜わる。

 曾我兄弟は継父、曾我太郎の下で育ったが、九つと七つの年に、実の父を恋い、仇敵の工藤祐経を討つことを誓いあう。三年後、工藤祐経は、頼朝の行く末の仇となるべき者が二人いる、それは伊東入道(祐親)の孫たちである、と述べたため、幼い一万と箱王は由比の浜辺で斬られることになったが、梶原景季和田義盛畠山重忠らの命乞いで事なきをえた。

 兄の一万は十三の年に元服して曾我十郎祐成となった。弟の箱王は、やがて僧になるために箱根権現の別当に預けられた。翌年、頼朝が箱根権現に参詣する。箱王は工藤祐経に近づこうとしたが、祐経に気づかれて優しい言葉をかけられ、刀一振を与えられる。

 箱王は箱根を下りて、兄とともに北条に向かい元服することとした。北条時政烏帽子(えぼし)親(おや)となって、曾我五郎時致を名のらせた。十郎は情報を集めるために大磯の廓に通い、虎という遊女と親しむ。五郎もまた化粧坂の下の遊君に通う。

 頼朝の狩りの催しを聞いて兄弟は、浅間、三原野、那須と追うが、よい折りにめぐりあえない。頼朝が、富士野の狩場で盛大な狩りを催す。最後の夜、十郎は祐経の屋形に招じ入れられ、二人の遊女、手越の少将と黄瀬川の亀鶴が今様を歌って舞う。十郎と五郎は従者の鬼王・道三郎兄弟に形見を預け、曾我に帰らせた。曾我兄弟は祐経の寝所に押し入る。兄弟は二人の遊女を衣に包んで畳から引きおろすと、十郎が祐経を起こして名のりをあげ、祐経を斬った。庭に出て名のりをあげ、五十余人を斬ったあげく、十郎は討たれ、五郎は女装した五郎丸に召し捕られた。頼朝の前に据えられて、直接に事情を訊ねられたが、頼朝は祐経の子らに怨みを繰りかえさせないためにと五郎を斬らせた。

 大磯の虎は供養で曾我に現れ、兄弟の母と共に泣いた。箱根に登って仏事をいとなみ、善光寺へと旅立つ。

 

 丸谷才一は『忠臣蔵とは何か』で、《『曾我物語』を読んだ人など、専門家ならともかく普通の読者には滅多にゐないのも、当然のことである。そこで、とりあえず『曾我物語』の紹介からはじめることにしよう。忠臣蔵論なのになぜそんな道草を喰ふのかと怪しまれるかもしれないが、わたしの考へでは、あの事件はもともと江戸の曾我ばやりのせいで起つたものだつた》と言っているが、万延元年の一揆が曾我兄弟のせいで起ったとまで言うつもりはないものの、蜜三郎・鷹四兄弟に曾我十郎・五郎兄弟の影をみることはできよう。

 丸谷は筋を数ページにわたってかなり丁寧に紹介した後、《筋をたどっても、『曾我物語』を紹介したことにはならないだろう。大事な要素はこぼれ落ちてしまふのである。その肝要なものをいささか書き添へて見る》と言って、四つあげている。

第一に故事を引いた部分がすべてはぶいてある。第二に『曾我物語』の文体は美しい。第三に頼朝(体制一般)への怨みが見えがくれする。第四に『曾我物語』は御霊(ごりょう)信仰の物語である。

 ここで、『万延元年のフットボール』にも共通してくるものが、第四の御霊信仰と第三の体制への怨み、であることは言うまでもない。

 はじめに第三の怨みから片付けてしまえば、一揆も一九六〇年の政治的闘争もスーパー・マーケットの略奪という「想像力の暴動」も、体制、権力者への憎しみと悪意から生れた謀反であるということにつきる。

 第四の御霊信仰に関しては、次の説明で十分だろう。

《そして第四に、これは柳田国男折口信夫によつて説かれて以来、次第に浸透して、今ではもう定説となつた考へ方だが、宗教論的な層で言へば、『曾我物語』は御霊(ごりょう)信仰の物語である。御霊信仰の定義づけはむづかしいけれど、ここではとりあへず、非業の最期をとげた者、殊に政治的敗者の怨魂がたたつて疫病その他の災厄をもたらすといふ日本の古代信仰、と言つて置かう。アメリカの宗教学者ロバート・J・スミスが御霊をvengefulgod(復讐神)と訳してゐるのは、わかりやすくていいかもしれない。そして、死霊が怒つて禍をもたらすと考へる以上、それを何とかなだめようと企てるのは当然のことだつた。(中略)この信仰がそののちいつこうに衰へず、むしろ盛んになつたことは、菅原道真平将門後鳥羽院などの例によつて明らかである。(中略)

 曾我兄弟はまさしく後鳥羽院の同時代人だが、箱根権現の僧が『曾我物語』ないしその原型を作つたとき、自分で明確に意識してゐた(そして社会からも公認されてゐた)動機は、これによつて兄弟の死霊を慰め、世を災異から救いたいといふ願ひだつたらう。比丘尼(びくに)たちや瞽女(ごぜ)(鼓を手に曾我伝説を語った盲女)たちが語り歩いたのもこのためである。そのことは『曾我伝説』のほうぼうに痕跡をとどめてゐる。》

 果して若い兄弟の怨恨はたたる。このことを耳にした頼朝は兄弟を神に祀るが、本当のことを言えば頼朝の祀り方は足りなくて、十郎と五郎の霊はやがて源氏をたやしてしまうわけだが、『曾我物語』の作者は口をつぐんでいても、大衆は、

《ここには何か異様なものがあると思ったからこそ、曾我伝説に魅了されたのである。その異様なものの正体は、仇討といふ呪術的な儀式による一王朝の滅亡にほかならない。

 ここで思ひ出されるのは、ゴロウといふ名がゴリヨウと近いためますます尊崇されたといふ柳田国男の説である。これは説得力に富む意見だと言はなければならない。一般に呪術的な心理においては語呂合せが強力に作用するし、それに、鎌倉権五郎とか大人弥五郎とか、ゴロウといふ名の神を祀る習俗が全国に多い(柳田国男氏神と氏子』その他)からである。》

 

<曾我兄弟の首>

 驚いた事に、富士の裾野から遠く離れた四国の「地形学的な構造」の森に、「曾我十郎首塚」があるのだった。大江健三郎が生まれ育った旧大瀬村(現内子町)の成屋から小田川の渓谷を1.5キロほど東にのぼった乙成という集落の北側に「曾我十郎首塚」なるものが確かにあって、「乙成に伝わる曾我伝説」という看板が掲げられている。

《幼い時(兄五才弟三才)に父を討たれ数奇な運命を生きた曽我十郎五郎の兄弟の仇討ちは日本三大仇討ちの一つとして有名である。領地争いのため、伯父工藤祐経に父河津三郎祐泰を殺された兄弟が満二十二才満二十才になった一一九三年冨士の裾野で巻狩りをする御陣へ二人だけで忍び込み、仇の工藤を見事に討つ事が出来た。しかし、その直後多数の家来に囲まれ勇敢に戦ったものの討死した。

 曽我十郎の家来だった宇和島出身の鬼王は主人の首を故郷へ持ち帰り弔ろうとしたが、瀬戸内海を渡る時、しけに会い上灘に漂着し中山町、程内を通って乙成(椎木駄馬)まで来た。しかし追っ手が伸びまた首も痛み臭いを放し出したため持ち帰る事をあきらめ、この地へ首を埋め石を積み塚を作った。

 塚石の表には「曽我十郎祐成首塚」、裏には「建久四年癸丑五月二八日於冨士野御狩場殺父之敵工藤祐経干時以公命仁田四郎忠常仇之臣宇和島産鬼王者持帰其首埋干此」と記されている。

 乙成地区住民は先祖よりこの曾我十郎神社をお詣りし、地域の文化遺産として守っている。

 首塚ということで首から上の病はお祈りすれば治ると伝えられ、信者も多く、そのお礼に小さな絵馬が多数奉納されている。》

 また、『愛媛県史 民俗』(愛媛県生涯学習センターHP データベース「えひめの記憶」)に、こういう記事もある。

《五月二八日に降る雨を「虎が雨」「虎御前の涙雨」といっている。この日、曽我十郎祐成が富士の裾野で仇討の本懐を遂げ、討死した。それを十郎の愛人である大磯の虎御前が悲しんで流した涙が雨になったのだというのである。伊予郡中山町や北宇和郡では「虎御前の涙雨」、喜多郡長浜町東宇和郡では「曽我兄弟の涙雨」といっており、喜多郡肱川町では「五郎十郎の涙雨」といい、この日は大なり小なりの雨が降るものと信じている。ともかくこの日は仕事を休んで雨を待望するむきがあるが、本県では、南予地域にのみある伝承である。『大洲旧記』大瀬村の条に曽我五郎十郎首塚のことが見え、「五月二十八日には、其塚より霊出て雨ふり出し、此国中雨ふらずと言事なし。当年より十年程は雨降らずとも有。」とある。曽我の首塚伝説は『大洲随筆』にも見えており、「曽我五郎時宗、同十郎祐成共に河野三郎祐泰が子也。祐泰かって工藤左衛門尉祐経が為にはかられ死す。兄弟孤と成りて曽我太郎祐信が家に養育せられ、成長して敵祐経をねらふ。時に建久四年、将軍頼朝富上野に狩し給ひ、此時兄弟御陣へ打入り敵祐経を打取りし事曽我物語及び東鑑などにも見えて人の知る所也。御所を騒がせし罪に依りて兄弟共に生捕られ終に首を刎られたり。その亡骸を富士の裾野に埋めて神霊と号す。此時、曽我の忠臣に鬼王といふ者有り。宇和島鬼ケ城の者也。兄弟討死の後再び本国へ帰へらんと志しが、此時十郎の首を盗取りて帰り、此所に埋めしとぞ。その塚は大瀬村字井山といふ所に有り。往還より十丁ばかり上りて谷間の中に二つ建てり。(下略)」とある。大瀬乙成の椎木駄馬の首塚がそれであるが、以前には盛大な祭りが行われていたし、とくに首から上の病気に霊験があるというので祈願者も多かったそうである。》

 ここで、鬼王(おにおう)といえば、『寿曾我対面(ことぶきそがのたいめん)』では、源氏の重宝友切丸(ともきりまる)という名剣を持って駆けつける実事(じつごと)役だ。また、明治時代の河竹黙阿弥作による実録風歴史劇『夜討曾我狩場曙(ようちそがかりばのあけぼの)』では、曾我旅宿の場は「かたみ送り」といわれ、討入りの伴を願う忠僕の鬼王(おにおう)・団三郎(どうさぶろう)兄弟を母への形見を持たせて国へ帰すのだが、兄弟の忠誠心で泣かせる。

 富士の裾野から四国愛媛とは、遠いといえば遠いが、『平家物語』、『義経記』、『源平盛衰記』などを読めば、北は平泉から関東、北陸、紀伊、四国、中国地方、南は九州、奄美王島、硫黄島まで空間的な拡がりをもっているのだから、旧大瀬村乙成に十郎の首が運ばれたというのはあながち荒唐無稽ではあるまい。それよりも重要なのは、事実か否かよりも、首が「外部」から来たということ、雨乞いにせよなんにせよ、そのような「御霊」が所望されて「首塚」という形を成し、多くの信者を得て今に伝えられている、ということに違いない。

 先に引用した折口信夫『民族史観における他界観念』に、図らずも「曾我兄弟」の名前が出てくる。「他界と 地境と」という章で、賽(サイ)ノ河原(カハラ)が在る所に関しての余談としてではあるが、「曾我十郎首塚」のある人里離れた場所についての示唆となるだろう。

《賽ノ河原は、地獄の所属で、鬼・羅刹がここに、出没する。時として地蔵尊の示現があり、小い霊魂が、その庇護を蒙ると言う風に考えるのが普通で、如何にも、中世人の空想の近世にかけて育ったものらしく思われて来ている。而も現実の賽ノ河原と称するものが、処々にあることが、却て単純な、昔びとの虚構らしく思わせて、何の為に、こんな笑いを誘う値もないものを残したかと、気の知れなさを感じることもある。

 或は山中に在ることも、人離れた海岸などに在ることもある。稀には、人里近く寺の境内にあるものすらある。とりわけ甚しいのは、大和長谷寺の本堂脇にあるもので、そこには曾我兄弟の亡魂の現れたことなども説いている。思いつき易いことよりも、思いより難いことを考えた古人の思想が、寧不思議なのである。数多い賽ノ河原が、申し合せた様に、寂しい水浜・山陰にあって、相当の距離ある、ある部落と次の部落との間の空地――普通村境と言うべき所にあることが、常である。》

 大江は、ほぼ十年後に書いた『同時代ゲーム』で、「曾我十郎首塚」に筆を伸ばしている。メキシコの闘牛場で、胸と尻とを揺さぶりながら宙をにらみすえて歩いている女を見たとき、自分の幼・少年期のさかいめに、われわれの土地をひとりの三十女が震撼した日のことを思い出す。

《子供ら仲間とともに、僕は女が五挺の猟銃を持って立てこもった「杉十郎首塚」を偵察に行った。妹よ、僕はそのように記憶にとどめるのだが、しかしあの現場へは、とくに子供らの接近こそが禁じられていたものなのだ。(中略)女は撃ちつづけ、最初の獲物として谷間の駐在所の巡査を倒す。それはわれわれの土地の人間が、他所者(よそもの)の巡査にむけて、おまえの立っている所は「杉十郎首塚」から見て恰好の狙い場所だと、教えてやることをしなかったからだ。むしろ谷間と「在」の野蛮な復員兵どもは、この出来事の祭のような性格を盛りあげるために、巡査を犠牲羊としたのだといまの僕は思う。

 それに加えて僕が過去にむけて読みかえうることをいえば、「杉十郎首塚」は、われわれの土地におけるそれを他の土地の伝承にひきつけて考えるかぎり、曽我十郎首塚というべきものであろう。そして僕自身、子供心にすでに、杉と曽我とのふたつの言葉を二重うつしにしていたように思うのである。この窪地には、われわれの土地の創建期に植えられた杉の巨木がそびえて、その蔭には古い石塚があったのだ。

 そしてやはり子供の時分から僕が父=神主にスパルタ教育されたわれわれの土地の神話と歴史に対比して違和感を持っていたのが、この「杉十郎首塚」の並はずれた古さなのであった。それを僕が、曽我十郎の首が本当におさめられている塚だと思っていたというのではないが、それはやはり曽我伝説の時代にさかのぼる石塚のようには感じられて、そうだとすれば、石塚はやはりこの地帯の先住者によって建てられたものかと疑われたからだ。そのあとで創建者たちがやって来て、塚の脇に杉を植え、「杉十郎首塚」として意味づけの置き換えをはかったのだとすれば、この場所には先住者の問題が、永い間、谷間と「在」の人びとの意識のかげで生きていたのだ。

 そのように考えすすめると、あの猟銃によって武装した、絶望し忿怒した三十女は、人びとの心やましさの底流を表にひきずりだし、われわれの土地の全成員にそれを投げかえすことをめざして、「杉十郎首塚」に立てこもったのだと想像される。(中略)首塚の石積みからミイラになった躰を起し、女の背後によりそって立つ杉十郎。その巨大さは、夕暮の杉の巨木の眺めにかさなっているが、なによりそれは瀕死の「大猿」どもの族長のミイラであり、血筋の暗渠(あんきょ)をつうじて忿怒し絶望した女につらなる祖先のものなのであった……》

 この背後の巨大さは御霊ゆえであろう。

 

 ところで、『万延元年のフットボール』にも、アレゴリカルな劇中劇のように、兄ではなく「弟の首」ではあるけれども「首」が登場している。戦争のはじまった年の秋、小学生の蜜三郎が弟鷹四と、生れたばかりの妹をおぶったジンとその三人の子供たちと一緒に学芸会を見ているうちに、引きつけをおこして気絶したというエピソードだ。僕(蜜三郎)は、酔った妻の内部に起るべき疑惑(「ジンは、赤ん坊の異常が蜜(・)をつうじての遺伝じゃないかといったの」)の増殖を惧れて、突然襲いかかった悪霊の正体について、細心の注意を払って妻に話した。

《われわれの一米前に教壇をふたつ繋ぎあわせた舞台が作られて、高等科の生徒たちがそこで芝居をする。はじめ頭を手拭いで包んだ生徒たちが(それは谷間の高等科の数から推測すれば、ほんの十四、五人であった筈だが、子供の僕には小規模の群衆に見えた)田畑を耕作していた。すなわち、かれらは昔の百姓である。そのかれらが鍬を棄てて斧や鎌の類を武器に、戦う訓練をはじめる。指導者が出現する。かれは谷間の若者のひとりで子供の眼にもまことに美しい男である。かれの指揮のもと、武装した農民たちは、藩の実力者の首を取る訓練の練習をする。黒い包みが首に見たてられていて、二群にわかれた農民たちが、「贋の首」を奪いあう訓練をするのである。二幕目ではひとりの立派な装束の男があらわれて、農民たちに実力者の首をとってはならないと訓戒するが、猛りたった農民たちはそれを受けつけない。そこで男は、農民たちにそれでは実力者の首は自分が取るという。暗いところで待ちうけている農民たちの前を覆面の男が通りかかるのへ、立派な装束の男はやにわに斬りかかる。覆面の男の役は、ひとりの生徒が頭から黒い布をすっぽりかぶり、その上に黒い球をくくりつけているので、普通の子供たちより一段と背が高く見える恐しげな存在である。斬りつけられた男の「本当の首」が、鈍く重い大きな音をたてて舞台に転がり落ちると、斬りつけた男は隠れている農民たちに向って怒鳴るように、

 ――それ、弟の首ぞ! と叫ぶ。覆面を開いて死んだ若い指導者の首を認めた農民たちは恥じて激しく泣く……

 その筋書についてはジンが前もって教えてくれた上に、稽古の段階でこの芝居をたびたび見ていたので、からくりを熟知していたにもかかわらず僕は、石をつめた竹籠でつくられた「本当の首」が落ちた瞬間か、

 ――それ、弟の首ぞ! と怒鳴る声に驚かされた瞬間かに、あるいは僕の記憶の世界の実情にそのままそくしていえば、まさにそのふたつが合成されたもっとも危機的な瞬間に、恐怖にかられて泣き喚きながら床に墜落して、引きつけをおこし気を失った。そして再び意識を回復した時僕はすでに家に運びこまれていて、枕もとの祖母が母に、

 ――曾孫でも血のつながりは恐しいものですが! といっているのを聴きながら、恐怖心のあまりになお眼をつむり躰をこわばらせて気絶したままのふりをしていた。》

 この学芸会の台本は、郷土史の研究をしていた谷間の小学校の教頭が書いたものと小説中であかされているが、「曾我十郎首塚のある」土地の伝説の曾我十郎の首が、荒事の曾我五郎のようにヒロイックに振る舞った曾祖父の弟の首に転移したのではないか。それは、一教師の創作による御霊幻想というよりも、森の谷間の村の願望にかなった物語、いわばラカン精神分析の〈大文字の他者〉、〈象徴界〉の表徴化でもあったに違いない。

 歴史は、神話的構造を保ったまま繰り返されて物語をつづける。背後の巨大な御霊ゆえに、弟鷹四は、万延元年一揆の通奏底音ともいえる曾我伝説に自分を重ねあわせ、荒ぶる弟曾我五郎として祭祀のごとく暴れたのではないか。そして兄蜜三郎もまた和やかな兄曾我十郎として無意識に認識者を演じたのではないか。

                                   (了)

            **参考または引用**

 *大江健三郎『飼育』(新潮文庫

大江健三郎『芽むしり仔撃ち』(新潮文庫

大江健三郎万延元年のフットボール』(講談社

大江健三郎同時代ゲーム』(新潮社)

大江健三郎『M/Tと森のフシギの物語』(岩波書店

大江健三郎『懐かしい年への手紙』(講談社

大江健三郎『小説の神話宇宙に私を探す試み』(『大江健三郎・再発見』大江健三郎/すばる編集部編(集英社))

*『柳田国男全集4「山の人生」』(ちくま文庫

*『柳田国男全集11「妹の力」』(ちくま文庫

*『柳田国男全集14「氏神と氏子」』(ちくま文庫

柄谷行人『遊動論 柳田国男と山人』 (文春新書)

折口信夫『民族史観における他界観念』(『折口信夫 天皇論集』安藤礼二編(講談社文芸文庫))

折口信夫『古代研究 民族編』(中央公論社

*『曽我物語(新編日本古典文学全集)』(小学館

丸谷才一忠臣蔵とは何か』(講談社文芸文庫

渡辺保『歌舞伎 過剰なる記号の森』(ちくま学芸文庫

渡辺保『増補版 歌舞伎手帳』(角川ソフィア文庫

郡司正勝『かぶき』(ちくま学芸文庫

*『助六由縁江戸桜 寿曽我対面 (歌舞伎オン・ステージ)』諏訪春雄編(白水社

*『曽我十郎五郎首塚』(旅南予協議会HP)

*『愛媛県史 民俗』(愛媛県生涯学習センターHP データベース「えひめの記憶」)

ジャック・ラカン精神分析の四基本概念』ジャック・アラン=ミレール編、小出浩之他訳(岩波書店

 

文学批評 「辻邦生『夏の砦』の変容と共鳴(レゾナンス)」

  「辻邦生『夏の砦』の変容と共鳴(レゾナンス)」

                                       

 

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《私が書いた長編小説のなかで最も苦しかったのは、一九六六年河出書房新社の「書き下ろし長編小説」叢書の一つとして刊行された『夏の砦』(文春文庫)である。この作品は前回で紹介させていただいた『廻廊にて』につづく、私の二番目の小説で、アンドレ・ドーヴェルニュやマーシャと同じように、主人公支倉(はせくら)冬子(ふゆこ)はいまも私の心のそばに生きている。》

 

<「『夏の砦』の支倉冬子……心ひかれる女性のアルバム」>

 辻邦生は雑誌「婦人之友」連載のひとつ、「『夏の砦』の支倉冬子……心ひかれる女性のアルバム⑧」を冒頭に引用した文章ではじめた。『夏の砦』が世に出てからほぼ三十年後の1995年11月のことで、四年後の1999年7月に思いがけない死が待ちうけているとは知る由もない。

 つづいて、ほぼ三年半の時日を要して《苦労の末にようやく誕生した人物であるという理由からも、なかなか忘れられない女性である》と前置きしてから、あたかも「作者解題」のように、作品成立の経緯・舞台裏(《冬子の生活内容のかなりの部分に、妻(辻佐保子)から提供された素材が使われているからだ。(中略)それらの多くは折にふれて妻が話す子供の頃の思い出で、とくに浜名湖畔の別荘地弁天島の夏の記憶と、少女時代に過した屋敷の雰囲気は、いつか何かの形で書いておきたいと思うほど、詳細な、忘れがたいディテールに満ちていた》)と小説作法(1958、9年ごろ、パリでメモした《それをそのまま小説に書くという意図はなかった。「物語・挿話は、小説のなかで何らかの効果を発揮する作用物だ」》)の緒言のあとで、荒筋と主題が紹介される。

《そんなわけで、支倉冬子はまず主題の要求からおのずと生れてきた人物だった。彼女は織物や染色に打ち込む工芸家だが、心のなかでは「<美>とは何か」をつねに求めている。冬子ははじめ絵を描いているが、それだけではどうしても満足することができない。「絵を描くとは、人間の生活のなかでどういう意味を持つのか」がだんだん分らなくなってくる。絵を描いて「これが美だ」と叫んでも、美だと思っているのは、その当人だけかもしれない。人間がもし多くの人に役立つ仕事をしなければならないとしたら、自分だけ美しいものを作っても意味がないのではないか。冬子はそう考えると、とても絵を描きつづける気がなくなる。そして人に役に立っていることがはっきり分かるもの(たとえば着物、帯、ショールなど実用品としての布地)を作る仕事に変ってゆく。》

《こうして冬子は織物工芸の勉強に北欧の都会に留学する。そしてそこでマリーとエルスというギュルデンクローネ男爵家の姉妹に出会う。この北欧の都会は冬子にとって夢のなかの都会と同じように現実感を持たない。その浮遊感に似た状態のなかで、冬子はながいこと忘れていた幼年時代の、至福に満ちた生活を思い出してゆく。》

 ここまでが、『夏の砦』の「第一章」から「第三章」までの要約に相当するのだが、つづいて幼年時代の暮らしの細部の感覚的な映像、「序章」を占める冬子のこまごました生活の位置づけについて、辻はさらっとだが重要なことを言葉にしている。

《この序章が外面的に見られ、思い出が内面的に見られるという相違は、実は『夏の砦』の大切な主題の一つになっている。》

 すぐにはピンと来ないかもしれないが、「序章」では記憶をなぞっただけの独白の記録のような、本人によって外面的に見られたぼやけた浮遊する記憶の映像であったものが、思い出をほとんど忘れた女性として登場し、時々ちょっとした暗示で過去が揺らめき出そうになってはすぐ消えてしまう「第一章」から「第三章」までの経験と苦悩と成熟を経て、「第四章」以降の、自発的で意識的な「思い出」は、内面的に「見る行為」から「心の行為」へ時間とともに「変容」を遂げていったことを表現している。

《『夏の砦』全体の構成を単純化していえば、北欧の都会とギュルデンクローネ男爵家の城館での経験が(とくにその城館での火事が)、徐々に冬子のなかに、この幸福だった過去の姿を呼び戻す。それが完全に恢復されたとき、ながいこと失っていた<美>が戻ってくる。それは北欧の都会の美術館にある「グスターフ候のタピスリ」と呼ばれる壁掛けが一つの象徴的出来事の役割を果たす。たとえば支倉冬子がはじめてその壁掛けを見たときには、単なる中世風の作品だとしか思えないが、こうした過去の思い出を発見したあとでは、そこに<この世というただ一回きりの生>が――両手で抱きしめ、しみじみと味わうべき存在が織りこまれていることが理解される。》

「こういう思い出の一つ」として、手燭の蠟が鉄製の甕の水のなかに沈むイメージが「第四章」から引用されるが、それは後に見てゆくこととしよう。

《「幼い眼(まな)ざしは、あらゆる移りゆくものの姿のなかに、何か永遠の陰に似たものを認めることができた」が、人は、大人になるにつれて、そうしたことを一切忘れてゆく。その忘却のなかには、幼少期の出来事だけではなく、至福も含まれている。大人になるとは、至福に包まれていた世界を忘れることではないか。》

 すぐ思いあたるように、プルーストの『失われた時を求めて』冒頭の「スワン家の方へ」の至福の回想への共感がここにはあるだろう。

 そうして辻は、「第七章」に満ちている、この作品のタイトルでもある夏の海辺のエピソードを引用する。それもまた、後ほど見てゆくこととするが、なるほど辻は、ここまで紹介した荒筋や主題解説では小説の魅力を到底伝えきれないと考えて、プルースト的な幼少期の思い出の文章を、少し長いとはいえ二つほど引用して、読者の感覚、官能に訴えでたのだ。

《支倉冬子が苦しみ悩み求めたのは、こうして無感覚、無感動になった心をいかにしたら高揚させこの世の素晴らしさに覚醒することができるか、ということだったともいえる。冬子は親友エルスとともに北欧の海で遭難する。だが、その生涯にどこか完成した姿を感じられるのは、生とは刻々に過ぎてゆくが、その刻々はつねに永遠であるという真実を、それが語っているからではないだろうか。》

 最後の一文で辻が言いたかったことは、プルースト失われた時を求めて』やトーマス・マン『ブッデンブローク家の人びと』やリルケ『マルテの手記』が、《最後に来るべき「死」から出発し、そこから遡(さかのぼ)って「生」を見る視点》(水村美苗)(辻邦生水村美苗『手紙、栞を添えて』より)で描かれた物語であるように、『夏の砦』もまた死の視点から生を描いた物語であることだったに違いあるまい。

 

<『薔薇の沈黙 リルケ論の試み』>

 1994年から95年まで『ちくま』に掲載された十二回の連載を基本として、佐保子夫人の編纂によって没後の2000年1月に刊行された『薔薇の沈黙 リルケ論の試み』(以下、『薔薇の沈黙』と略す)は、辻邦生の遺作と呼んでもおかしくない作品だろう。辻のリルケへの関心と変化は、本書の第一回に書かれているように、1957年から61年までのパリ留学の最初期からはじまっているが、辻邦生『パリの手記』を読めば、プルーストトーマス・マンスタンダールリルケハイデッガーを忍耐強く繰りかえし持続的に読みこみ、思索しつづけていることに驚かされる。その後の、生涯にわたるリルケとのさまざまな関わりは、講演、大学講義・ゼミ、リルケゆかりの地への旅行、エッセイ、短編小説執筆、そして『薔薇の沈黙』の納得ゆく完成を目指して死の間際までたゆまず持続されていたことが、夫人による「夢のなかのもう一つの部屋――あとがきにかえて――」によって痛々しいほど読みとれる。

 ここでは、『薔薇の沈黙』の前半部分、『マルテの手記』に関して考察した第一回から第五回を主に取りあげる。それらが『夏の砦』と共鳴(レゾナンス)しているからである。

 

<『薔薇の沈黙』――「変容(へんよう)すること」>

『薔薇の沈黙』の第一回は「変容(へんよう)すること」と題されている。

「変容」、それは辻文学の本質であり、『夏の砦』はリルケへのオマージュ、「変容」の物語であることから、辻のリルケ論の本質を押えておくことが『夏の砦』解読の肝となる。

《もし一九五七年当時パリに森有正がいなかったら、私がリルケの作品とあれほど真剣に出会うことになっただろうか。》からはじまり、

《しかし森さんが時おり話すリルケは、どうも東京で考えていた詩人とは違っていた。森さんはリルケのことを「パリの孤独を徹底的に経験し、それに耐え、それを乗り超えていった詩人」というふうに話した。(中略)そしてリルケはドイツ語で読むか、すくなくとも仏訳で読むように、と言ってモーリス・ベッツ訳の『マルテの手記』と『フィレンツェ日記』を差し出した。》

 ここからは、「たえず書く人」(辻佐保子『たえず書く人辻邦生と暮らして』)だった辻自身の小説に対する態度と、さきに辻が「心ひかれる女性のアルバム」で解説したヒロイン支倉冬子の彷徨と苦悩を語るうえでの大事な主題と重なる。

森有正は当時西欧文化をいかに自分の感覚の底面に刻みこむかに苦闘していた。それは『バビロンの流れのほとりにて』に精緻に描かれているように、ただ知識としてヨーロッパを学ぶのではなく、そうした西欧文化(文学、思想から絵画、音楽、建築、制度まで)という形体で表現された全精神内容を、もう一度自分で経験し、それがおのずと、そのような形で外に表われ出るまで、成熟深化させてゆこうという途方もない試みであった。森さんは日本人が文化の上澄みをすくい取って、それで文化摂取ができたと思い込む態度に絶望感を抱いていた。文化は、結果ではなく、結果に至る全経験が大事なのだ。それを飛び越して、ただ結果だけを日本に持って帰っても、そんなものは文化でも何でもない――森さんはつねにそう考えていた。リルケを読む場合も同じで、リルケが経験したパリの孤独を徹底的に経験してゆく。そして彼が『マルテの手記』という形で定義したものが、自分の中で析出されてくるまで待ちつづける。リルケを理解するにはそれしかない。》

 パリに留学したばかりの辻と共鳴(レゾナンス)した。

《森さんのこうした話を聞いているうち、私が漠と感じていた問題と、それがどこかで響き合うのを感じた。私は何とか美の意味をフランスにいる間に摑みたいと思っていた。美の意味が摑めず、その根拠がはっきりしないために、どうしても小説が書けなかった。小説の不可能性――それが当時私の前に立ちはだかっていた壁であった。それを乗り越え、小説の可能性の端緒が摑めるのだったら、どんな苦労も厭わない。私はそう思って、不能感にとらわれる前に没頭したトーマス・マンをもう一度取りあげたり、プレイヤード版でプルーストをくる日もくる日も読みつづけたりした。しかしながら、それは知識を集めたり、感覚を楽しませたりするためではなく、そうした知的営為を経験することによって、自分自身が、前とは違った自分に変容することが問題だった。もちろん一と月やふた月でそんな変化が起るわけはない。だが、自分が変り、何か別のものが見えてくるのでなかったら、いくら物知りになっても意味がなかった。小説を書くこと――それは自分がまず変容することだった。》

 それはまた、『夏の砦』で、北欧に留学して来た支倉冬子の心境と都会彷徨とに多重映像化することとなる。

リルケは『マルテの手記』を一九一〇年に出版するが、それはマルテ体験を得た最初のパリ滞在からは八年後のことである。『マルテの手記』の稿のかたわらで書いた『ロダン論』第二部(講演原稿)のなかに、すでにロダンがいかに<生命(ラ・ヴイ)>を愛したかを的確に描いている。(中略)

 ロダンを彫刻へ駆り立てるものは何か――ロダンを近くから見ていた若きリルケは、それは<生命>だ、と答えるのである。<生命>は万物の中に遍在し、万物に<歓喜>を与える。しかしそれはロダンが自らの世界に実現している大いなる営みである。リルケのほうはその外に立ち、ただそれを理解しているにすぎない。だが、思えばこの<歓喜>の遍在する世界こそ、晩年のリルケが、オルフォイスという形象によって透視した<世界内面空間>ではなかったか。

 としたら、ロダンのそばで働いていた若きリルケは、それを<理解>という形ではすでに摑んでいた。ということになる。事実、摑み、認識していた。しかしそれはあくまで言葉のレヴェルであって、それが創造の母体となるためには、沈黙の形まで、経験の領域まで、深められなければならなかった。》

 この辺りは、支倉冬子の恢復期に反映している。

 

<『薔薇の沈黙』――「<固有の死>を失うこと」>

『薔薇の沈黙』の第二回は「<固有の死>を失うこと」である。

《『マルテの手記』の冒頭は次のような有名な言葉で始まる。

 

  So,also hierher kommen die Leute,um zu leben,ich würde eher meinen,es stürbe sich hier.

  なるほど、この都会にも人々は生きるためにやってくるが、ぼくには、人々が死ぬためにくるとしか思えないのだ。

 

 この一行は『マルテの手記』という一大変奏曲の唯一の主題と見ていいものだ。マルテがパリの街々で見る産婦、乳母車の中の赤ん坊、サルペトリエール病院の病人たち、舞踏病患者、壁に残る取り壊された家の痕跡、それに絶えず襲う敗残者意識などは、すべてパリに澱む死の臭いを象徴する。しかもこの死には<掛けがえのないその人の死>という尊厳も崇高さも深い意味もない。》

 それは支倉冬子が北欧の都会の人々に感じた暗く澱んだ死の臭いと重複するし、冬子が幼年期の記憶の暗がりに抱え込んでいる度重なる死という過酷な思い出(祖母の、母親の、知恵遅れの子供駿(すぐる)の、老犬クロの、池の亀ヒューロイの、砂丘の数百、数千羽の鳥の、死)と繋がっている。ただ、『夏の砦』のあいつぐ「死」は、<掛けがえのないその人の死>ではあったのだけれども、過去に蓋をしなければいけない、過去に未練を持つんじゃない、と抑圧されたこともあって、尊厳も崇高さも深い意味もないものへ失墜してしまっていたのだった。

《『マルテの手記』の<誰のでもない死>は、ロダンを求めてパリにきたリルケの前に現前した<近代>という現実の姿であり、この<近代>を知ることがなければロダンの力業(ちからわざ)の真意も分らないことになる。

 ハイデッガーリルケを「乏しい時代の詩人」として描き出した論文のなかで、この<誰のでもない死>について次のように書いている。「時代が乏しい状態をつづけているのは、神が死んだからというばかりではなく、死すべき人間たちが自らの死すべき定めをほとんど知らず、ほとんど実践できずにいるからである。いまだに人間はその本質の所有に達していないのである。死は歪曲されて謎めいたものになっている」(手塚富雄高橋英夫訳)と述べている。(中略)彼は全力をあげて<誰のものでもない死>と戦い、<一つの死>、一つの<固有の死>を創造し、パリと対決しなければならなかった。『マルテの手記』はかかる<死>の創造によって「<誰のものでもない死>=近代のニヒリズム」を越えようとする渾身の力をかけた試みなのであった。》

 ここにおいて、<誰のものでもない死>とは動物的な「死」だけではなく、冬子の場合で言えば「グスターフ候のタピスリ」を前にしての精神的な「無感動」をも象徴していた。そしてまた、先を急ぐようだが、ハイデッガーの《死すべき人間たちが自らの死すべき定めをほとんど知らず、ほとんど実践できずにいるからである》という近代のニヒリズムを越えて、冬子は「無感動」を克服して、「その本質の所有に達し」、一つの<固有の死>を創造しえたのではないか。

 

<『薔薇の沈黙』――「物語が崩壊するとき」>

『薔薇の沈黙』の第三回は「物語が崩壊するとき」となっている。

《ここで注目すべきは、リルケがこの作品を<物語の地平>で展開しようとした点である。リルケは当初、マルテの日記と遺稿を手に入れた語り手が、それをもとに、一人の少女にマルテの生涯を語るという計画を立てていたという。しかし少女がマルテの日記と遺稿を直接見たがったあたりから、リルケの筆は進まなくなった。リルケがその後『新詩集』や『鎮魂歌』などの詩集のかたわら、『マルテ』の原稿を書くのに呻吟し、精根を使い果たしたという伝記的事実を知っているわれわれにとって、なぜ物語形式で書き出された作品が、次第に困難なものになっていったのか、想像してみるのも無駄なことではないだろう。》

この回は、少し視点を変えて、『夏の砦』の小説構造・構成を考えるうえでの参考になる。

《なぜリルケは聞き手の存在も、物語の形も、ともに放棄し、ついに現在あるようなマルテの日記、回想、遺稿を、語り手の介在なしに直接提示する形式をとったのか。

一つにはマルテのなかに、リルケが考えていた以上の実存的課題が含まれていて、あらためてそれを考えぬくことを要求されたこと。もう一つには、人物や出来事の展開を<物語の地平>で取り扱うのが不可能になったことが主要な理由だったように思われる。

 この<物語の地平>における話法の特色は、物語主体の一段と高い全能の視点にあるが、さらに物語的展開をする人物、挿話、出来事が<過去形>であること、したがってそれらの一つ一つが明確な中心と輪郭を持つ完結した形象として摑まれていること、また物語主体は認識主体と異なり、物語世界に合一化し、それを唯一的なものとして把えていること、などが挙げられる。》

 次いで辻は、リルケが『マルテの手記』の物語叙述を断念した時期には、トーマス・マンジョイスプルーストが物語形式の解体を経験しながら新しい小説の可能性を追究していたという、時代を支配する反物語的な精神状態が働いていたこともあるとしたうえで、小説世界が社会の全体を象徴するごとき関係が、<近代>の疎外・断片化が進むにつれて崩壊に向かっていったことによるとしている。

『夏の砦』には一応の語り手、編集者として冬子と一時期知り合いだったエンジニアが介在するにしても、『マルテの手記』と同じように単純な物語形式をとっていないのは、辻がリルケに託して論じた理由からであろう。

 なお、支倉冬子が留学した北欧がどこの国で、なんという都市なのかは明確に書かれていないが、文脈から類推するにデンマークが有力で、リルケがマルテ・ラウリツ・ブリッゲというデンマークの作家を創造し、主人公に選んだことと心理的に繋がっているに違いない(付け加えれば、辻が執拗に読みこんだトーマス・マン『ブッデンブローク家の人びと』の舞台リューベックバルト海沿岸に近い北の地であった)。

 

<『薔薇の沈黙』――「セザンヌからの死」>

『薔薇の沈黙』の第四回は「セザンヌからの死」。

 幼年時代における<もの>たちとの親密感と、生のプロセス・内実としての「仕事」についての言及が、冬子の思い出や、最終章の冬子の手紙における島の織り女の織物に感じたこと、再び見て感動した「グスターフ候のタピスリ」の織匠の仕事への考察に反映される。

 まず前者は、

リルケロダンの場合と同じように、セザンヌからも現実の本質を見つめるきびしい見方を学ぶ。ロダンは日常的現実の覆いをはぎ取って、生命を失った<もの(デイング)>から、本質存在の輝きを取り戻すことだった。『ロダン論』の第二部はこの<もの(デイング)>についての考察からはじまる。

 

 <もの>――このことばを口に出すと、ある静寂が生れます、<もの>の周りにある静寂が。あらゆる運動は止み、輪廓となり、過去と未来の時から一つの永続するものがその輪を閉ざす。すなわち空間が、無へ追いつめられた<もの>の大きな安静が。(生野幸吉訳)

 

 しかしこうした<もの>の静寂は深いニヒリズムに冒されている<近代>の日常的現実からは失われている。せいぜい幼年時代に人々が経験した<もの>たちとの親密感のなかに追想されるにすぎない。リルケは人々にこうした幼年時代を思い出させながら、ロダンが創る<もの>を理解させようとする。それは「ともに滅亡することのない、永続するもの、一段と高次なもの、すなわち一個の<もの(デイング)>を作ろうとする試み」であり<近代>が実用価値の追求のなかで、無用の存在として追放した<もの>の意味(・・)の恢復なのである。》

 後者は、

《というのは<近代>社会において意味を持ち価値があるとされるのは、行為の主体的意味ではなく、その結果だからだ。「木はその実によって知らる」という聖書の言葉を典型的に実現しているのはこの<近代>なのである。かつて仕事は、仕事の成果とともに、そこに打ち込む生のプロセス・内実として意味を持った。ロダンが芸術家でなく職人の尊さを讃え、徒弟時代が失われたのを嘆いたのは、職人にあっては、成果だけではなく、成果を挙げてゆく生の過程の充実が生きる意味だったからだ。》

 

<『薔薇の沈黙』――「<愛する女>の肖像」>

 承前として、第五回は「<愛する女>の肖像」という題で、考察が展開される。

《この<近代>の空虚化・疎外化する生を克服するとは、リルケ=マルテにとって、生の内実・プロセスを、内側から充たすという形による恢復に他ならない。(中略)リルケはこの反転の契機をロダンセザンヌから学んでゆく。(中略)そこに湛えられているのは「神さまから、永遠のむかし、わたしにつくれと命ぜられた甘美な<蜜>」なのである。この二人は<近代>の空虚化の圧力に抵抗し、心の内部をかかる<生命>の<蜜>で満たしながら、それを孤独な仕事を通して、内から外へ実現する(レアリザシオン)してゆく。リルケが『マルテの手記』のなかでマルテと同化しながら一つの典型として示すのは、この<内から外へ>を純粋に徹底してなし遂げた人間たち――すなわち<愛する女>たちなのである。その意味では<愛する女>とは芸術家の原型といってもよく、<近代>が歪める以前の、人間の本源の在り方といってもいいものなのだ。それはハイデッガーが「元初の能力、それぞれのものをそれ自身へ集中する能力」と呼んだものであり、「存在者はすべて、存在者として意志の中にある」と規定した「意欲するもの」の根源の姿なのである。

「アベローネ。おまえは愛せられる女ではなく、<愛する女>だ」マルテは『手記』第一部の終りにこう書いて彼女に一角獣の壁掛のゴブラン織を示す。「アベローネ、僕はおまえといま一緒に立っているような気持がする。アベローネ、おまえはこの気持がわかってくれるだろうか。僕はぜひこれがわかってくれなければならぬと思うのだ」

――『マルテの手記』第一部はこの言葉で終り、第二部は「女と一角獣」の壁掛と呼ばれたこのゴブラン織の細かい描写から始まる。なぜなら、こうしたゴブラン織に織り込まれた女たちは何よりも<愛する女>だからである。》

 支倉冬子もまた<愛する女>となって蘇った、たとえ愛する対象が男ではなく、十五、六歳の若い娘エルサであったにしても。そして、冬子は再び「グスターフ候のタピスリ」の前に立つ。

 

<『薔薇の沈黙』――「見ることの果て」>

 リルケが『マルテの手記』を書き終えたのちの『ドゥイノの悲歌』、『転向』、『オルフォイスに寄せるソネット』を引用しながら論じた第六回から十三回までの題は、「夢のなかの部屋」、「天使のプロフィール」、「天使の現れる場所」、「委託を果たす者」、「遠ざかる死者たち」、「見ることの果て」、「大戦のなかの孤独な島」、「<開かれた空間>の声」であるが、ここでは『夏の砦』に関わる二つの文章を「見ることの果て」から引用して、『薔薇の沈黙』との共鳴(レゾナンス)の終りとしよう。

《『転向』で言われているのは物を見る(世界を見る)ことの内部で突然起った方向転換なのだ。リルケは端的に「もはや眼の仕事はなされた/いまや 心の仕事をするがいい」と歌ったが、まさしく見ることはここで異質の働きに変ったのである。》

 このことは冬子が北欧の地で「グスターフ候のタピスリ」を見る時の、第一回目が「眼の仕事」だったとすれば、最後に見た時には「心の仕事」に変っていたことに対応しているだろう。

 次いで、『夏の砦』全体の、冬子の幼年時代の回想、思い出、死(時間の否定)の記憶、人形のエピソードの重要性、魔術性と、それらを超えての内から外への恢復、眼から心への転向、時間の否定を超える永遠を象徴するかのような文章がやってくる。

《「第四の悲歌」では、「天使と人形」の合体から突然終曲ともいうべき部分に入り、存在の全的肯定を阻む否定(死)がふたたび現れる。しかしこんどはその否定(死)は逆手にとられて、存在を超えるものとして世界を捉える契機になってゆく。

 

 死へあゆみつつある人間よ、

 われらがこの世でしとげるすべてのことは、

 いかに仮託にみちているかを、われらは思い知るべきではないか。そこではいっさいが

 それみずから(・・・・・・)ではない。おお幼年時代の日々よ。

 そのときわたしたちの見たもろもろの形象の背後には単なる過去

 以上のものがあり、また、わたしたちの行手をおびやかす未来もなかった。

 (…)

 けれど、わたしたちがひとりで道を行くときには、

 過去も未来もない持続をたのしみ、世界と

 玩具とのあいだにある中間地帯の、

 太初から、純粋なありかたのために設けられた

 ひとつの場所に立ったのだ。

 

 リルケにおける幼年時代の重要性は後期にいたるまで変らなかったが、ここでもすべてがそれみずから(・・・・・・)存在するのではない幼年期の魔術性が出現する。「過去も未来もない持続」という形で、死(時間の否定)を超える可能性の暗示として、世界と玩具のあいだに設けられた幼年の王国が描かれる。そこでは人間は決して単なる物として見られることはない。リルケはその体験を内側から遡って、<もう一つの地>(「より高次のレアリテ」)を見出してゆく。時間の否定を超える永遠が現れるのもまさしくこの地平である。》

 

<『夏の砦』――「序章」>

 辻邦生追悼特集(「新潮」1999年10月号)に丸谷才一が「『夏の砦』のことなど」と題して文章を寄せていて、辻文学の本質をある意味、残酷なまでによく表現している。

プルーストの弟子としての辻は、イメージのあつかひ方にはすこぶる長けてゐて、殊に簡勁な描線がまるで院展系の日本画の大家たちのやうに美しく、効果的で、息を呑むばかりである。ただし観念のあいらひ方といふ点では、さほどの卓越を示さないし、とりわけ作者の精神のあり方が健全に過ぎて頽廃味が薄いため、いささか物足りない感じが残る。しかし小児となれば観念がややこしくなくて自然だし、頽廃が乏しくても別におかしいことにはならない。そのせいもあつて、『夏の砦』の幼女期の回想にはあれだけ堪能することができるのかもしれない。》

 辻は『安土往還記』を書いてから、もっぱら長編歴史小説を世に出すようになり、それはそれで素晴らしい作品群なのだが、いささか物足りない感じを持たせられたのは、作者の精神のあり方の健全性、頽廃味が薄いからである、と言葉にされれば、なるほどそのとおりである。しかしながら、『夏の砦』の幼女期の回想、思い出は、丸谷の指摘を超えて、作者の精神のあり方が健全に過ぎるということはなく、十分に観念がややこしく、トーマス・マンヴェニスに死す』のように頽廃が充ちてさえいるのだから、堪能できたのは当然であった。

 竹西寛子による新潮文庫の『夏の砦』解説(1975年2月刊行)には、成人になってからの思考、形而上的思惟も含めての、冬子という女の言語表現への言及がある。

《女の意識の領域に、日本の男の作家にここまで立ち入られたかという思いは、相変らず健在である。女の無意識とのかかわり方を通して、在りようの独自をみせた男の作家というなら、すぐにでも谷崎潤一郎川端康成の名をあげることはできる。それならば、女の意識との、形而上的思惟との、と考えて口ごもらざるを得なかったのは、『夏の砦』が出るまでのことだ。

 感性の活用は、むろん人間だけの行為ではない。しかし、活用の自覚が言葉で行われるとき、人は一般動物と区別される。この、自覚するものとしての人間が、男性だけに限られる必要はないだろう。強弱の度合は明らかでも、女もまた感性の活用を自覚することはできる。表現の素材となった女のこのような自覚が、思考が、さらには形而上的思惟が、少なくとも不自然ではないものとして女らしさのうちに納得されるには、彼女の感受性の幅広い活用が言葉で行われることが望ましい。『夏の砦』の女主人公支倉冬子は、そのような女性として現われる。読者はただ、冬子のあとを追って、枝を張った樟のざわめきを聞き、蛇の卵を見、松の花粉の匂いを嗅げばよい。森や沼を、城館や壁飾りを、あらしの近い島の夜明けを見ればいいのである。乾草の匂いを、百合の香りを嗅げばいいのである。》

『夏の砦』の主題や荒筋は「心ひかれる女性のアルバム」で辻自身が説明していることから、ここで繰り返すことは避けて、丸谷や竹西が堪能した、プルーストの弟子としてのイメージと言葉を読むこととしよう。さらに、幼年期の回想、思い出に加えて、北欧の都会で鬱屈してゆく冬子の様子は恢復期の健全さとは違って、パリの町をさまようマルテのようにイメージ描写にすぐれ、頽廃味に澱んでいるので取りあげたい。

 

「序章」は、いきなり独白のような文章が二十ページ以上も延々と続く。現在の『夏の砦』は第三稿にあたるが、第一稿、第二稿とも、現在あるような語り手は存在せず、全編すべて女主人公の一人称独白だったという。古いタイプの編集者(河出書房新社の編集者坂本一亀)などは不満を抱いたようだが、福永武彦の七五〇枚を一人称だけで通すのは最初の書き下ろし小説としては不利だろう、もうちょっと主題を明確にしてダイナミックな形にした方がいいんじゃないか、という意見を受けて第三稿を書き、埴谷雄高に合格点をもらうなどもあって、全体として完全稿のような形式になったという(「「夏の砦」まで埴谷雄高辻邦生」(辻邦生作品全六巻―2 月報1))。

 前置きはともかく、『夏の砦』の冒頭部分はこうだ。

《私はながいこと、この屋敷以外の世界を知らなかったし、学校にゆくようになり、新しい友だちができても、私の世界は格別に拡がったようにも思われなかった。学校で私がぼんやり放心することが多いと、最初の父兄会で母が注意され、それを父と母が話しあっていたのを、私はひどく心外な気持できいていた。私の気持では、学校で自分が放心していたのではなく、この古い沼に似た広い家の細々した出来事が、睡ったあと夢のなかまで侵入してきたように、学校にいるあいだにも私のこころを奪いさっていて、若い、顔色のわるい、痩せた女の先生の言葉など耳に入らなかったにすぎないのだ。しかし、それを私が放心しているといって非難するとは、なんという間違いだろうと、小さかった私は、ひどく腹立たしい気持で考えたものだった。私が教室の窓の外の大木やその梢の上を流れてゆく雲を見ていたのは、ただぼんやりそうしていたのではなかった。池の隅に暮している亀(この亀は兄のと一緒に若い叔父が買ってきてくれたのだが、兄のは、どこかへ逃げていったため、兄は私の亀を自分のだと言いはったので、私は、それを水槽から奥の築山のある庭の池に移して、そこでひそかに飼っていたのだ)や、池の橋の下に沈めた絆創膏の空罐のなかの秘密の宝や、前の晩、時やが読みさしのまま置いていった本――あの蒼黒い顔をした靴屋の話などのことを気にするなといっても、それはまったく無理なことだった。教室で若い痩せた女の先生の話をきくことができるのは、亀のヒューロイや池の中の空罐の冷蔵庫を持ったことのない生徒たちだけなのだ。私には、ヒューロイがいま岩の上を這いだして、石橋の上で日なたぼっこをしていて、兄に見つかりはしまいか、気が気ではなかったし(もちろん私の方が先にかえるのだから、そんなことはなかったが、それでも時おり気まぐれから兄は早退することもあったのだ)それに先生がどんなに面白い話をしてくれたって、ミカエルの靴屋の話ほどに面白いものがあるだろうか。ミカエルは、いったいあんな蒼い顔をして倒れていたんだろうか。ほんとにこのミカエルの靴屋の話は、それまで読んだどの話よりも面白かった。馬車の喇叭がひとりでに歌いだす法螺男爵の話だって、それは面白かったけれど、ミカエルの頭の上でざわざわゆれた大木はうちの樟のようだわ、と私はつぶやいた。》

 森有正は「早春のパリから初秋の東京まで――辻邦生著『夏の砦』をめぐって――」(「文藝」1967年9月号)と題して、《この作品が自分の中にのめり込んで来る、と書いた。その意味は、『夏の砦』を読んでいると自分の心の奥底にある何ものかがそれに感応して共鳴する、ということである。だから本当はこの作品が私の中にのめり込んで来る、とうのはやや不正確で、むしろ、この作品は自分の中に深いレゾナンスを惹き起す、と言った方がよいかも知れない。》と前置きしてから、自分が生まれ育った淀橋浄水場の近くにあった日本の樫の木のある家の思い出を語りつつ、さきに引用した冒頭部分を自身が集中的に思考していた「経験」の問題に引き寄せて展開した。

《支倉冬子のこの独白のような記録はこの小説の構成そのものである。原初の接触は明らかに意識を、それと言わずに支配し、構成している。と同時に原初的接触を起しえないものもその意識の中に侵入し、そこにやがて来るべき葛藤を予測させる。ミカエルの靴屋の話は、時空の制限を超えて行く自由を語る。それからもっと大切なことは、この「序章」冒頭の導入部とも言うべき部分に、主人公の経験の質が鮮やかに出ていることである。それは感度の鋭い圏の表示であり、私はそれをその人の本質圏と呼びたいと思うが、それは冬子の孤独でしかもその圏をあくまで追求する姿勢を剰すところなく示していることである。それは一人の個人を定義する経験なのだ。こういう経験は、何か外側から操作出来る経験、あるいは体験ではない。独白はそれが内側から外側に伝えられる唯一の道である。》

 引用した冒頭の一節が「私の世界」、「私の気持」、「私のこころ」というように、「私の**」という小さかった私の内なる世界から外に出ないことに注意すべきだが、それはまた、辻が「心ひかれる女性のアルバム」で注意を促した《この序章が外面的に見られ、思い出が内面的に見られるという相違は、実は『夏の砦』の大切な主題の一つになっている》という言葉において、内なる世界に閉じこもっているにも関わらず「外面的」に見られていることに気づくべきだろう。あとで「第四章」以降の「思い出」のなかから引用することになるが、そちらでは内と外を往き来することによってかえって「内面的」に見られるという逆説が成立している。

冬子の回想は「匂い」の官能に満ちていて、異なる匂い(負のイメージのときは「臭い」)は魅惑的であると同時に分離、断絶を予感させるものだった。ここには丸谷が指摘した「作者の精神のあり方が健全に過ぎて頽廃味が薄い」ということはない(小説の後半で、恢復した冬子が若い娘エルサに引きつけられる酩酊感は、このときの「裏のお嬢ちゃん」との性向と関係しているに違いないのだが、それを強調しないところなどは辻の健全さ、物足りなさの一端だろう(例えば、エルスには匂いがないし、肉体的な交感もつつましくも表現されない))。

 しかし何よりも、プルーストにおけるアイリスの香のような、匂いにまつわる感官を記憶の暗がりから救い出す文体の細やかな肌理(きめ)を味わうべきだ。

《果してその翌日、私が学校にゆくのを渋ったかどうか、私にはまったく記憶はないのだけれど、それから何年かたって、卒業するまで、私は学校にも学校友達にもさして強い関心が生れなかった。それだけ、私には、この屋敷のなかにこもっている重い、よどんださまざまな匂い――土蔵の湿(し)っけた黴の匂い、誰も使わないままに障子の閉めきってある書院の匂い、五月の終り、築山のある奥の庭にこもる松の花粉の匂い、渡り廊下の雨の日の匂い、西日のあたる女中部屋の匂いなど――が、それなしには呼吸できないような、ある離れがたい存在として感じられていたのだ。(中略)

 それは私が小学校に入って、二年か三年たったある初夏のことだったと思う。ぶらんこのある裏庭のつづきに木塀でへだてて私たちの家の借家があり、そこに、そのころ、ある仲買人の一家が引越してきていて、婆やたちが「裏のお嬢ちゃん」と呼んでいる顔色のわるい娘が一人いた。(中略)私がその子からある種の体臭を感じたとしても、もちろんそれは、乾いた日なたの草ほどの匂いであって、果して体臭などと言えるものだったかどうかわからない。あるいは子供特有の何かそうした匂いだったのかもしれない。しかし私は何よりもまずその匂いに女の子の髪や肌や洋服を感じた。私は女の子と会うとまず眼をつぶって、その髪や肌の匂いを嗅いだ。その乾草のような匂いは、ある異質の、どことなく馴染にくい不透明な抵抗となって、私にさからった。それはちょうど夏の海で泳いでいるうち、突然、冷たい潮の流れにぶつかるようなものだった。表面を見ただけでは同じものに見えながら、そこには異なった二つのものが相接しているという感じ――驚きと好奇心と嫌悪とを含みながら、同時に、その異なったもののおかげで、自分というものが逆にはっきりと浮かびあがってくる感じ――いわば油のなかに混った水滴が、周囲の黄色く澱んだ油質を感じるゆえに、かえって自らの透明な水の特質を自覚するという感じ――そうした感じを、私は、この女の子の乾草に似た匂いのなかに感じたのだった。(中略)私はよくその子の背中に顔をつけて、その汗ばんだ匂いを深く吸いこんだ。その子は私が何をしているのか理解できなかった。私が、百数えるまでこうしていさせて、と頼むと、はじめのうち、じっと私のするままに数をかぞえてゆくが、しまいに、急に不安になってくるらしく、ね、何しているの、もうやめてよ、と半ば嘆願するような調子で言って、身をもがくのだった。》

 プルーストの小説の主人公が女中や祖母、叔母によって自分以外の人たちという存在と社会、階層を発見したように、臭いが後ろ暗い感覚へ誘い、<もの(デイング)>たちとの原初的な親密感が生じる。

《このような自分以外の人たちがいるという事実――祖母や両親や兄などが自分と一つのものであるとすれば、はっきりそれと異なった感じの人々がいるという事実――の発見は、内玄関から中(なか)の土蔵へゆく途中の広い女中部屋に、ある特別な臭いを感じるようになったとき、はじまっていたと言ってよかった。この臭いを私がいつごろから自覚しはじめたものかわからない。しかし中のお蔵の前の大部屋が、私たちとは違った人たちの住むところ、私たちの家の中に設けられた特別の領域だという気持は、このなじめない、異種の臭いから生れていたように思う。今でも女中部屋のことを思いだすと、その汗臭い、すえた、甘ずっぱい匂いとともに、西日のさしこむ格子戸や、縁のない赤茶けた畳や、部屋の隅にある小さな鏡台や、壁にかかっていた着物や、家では決して見たことのない婦人雑誌や娯楽雑誌(それも表紙がめくれたり、破れたり、とれたりして、口絵には、色刷の天皇一家の写真や名士令嬢のグラビア写真などがむきだしになっていた)が鮮やかに眼の前に浮かびあがるが、この装飾もなにもない、貧しい裸の壁だけの部屋には、また、何か私の感覚を異常に刺激するものがあったのも事実なのだった。それが、その当時の私に快感をあたえたのか、嫌悪をあたえたのか、それはわからないけれど、私はただこうした奇妙な異質感を味わうためにだけ、よくその女中部屋に入ったことを憶えている。私は、そこに何か後ろ暗いような、自分では知ってはならぬような、説明のつかぬものが隠されているような気がして、そのすえた甘ずっぱい匂いを、小さな鼻孔をふくらませて、深々と吸いこんだものであった。そこには浅黒い脂肌の若い女中たちの体臭とともに、乾いて埃りっぽい老人じみた婆やの臭いもまじっているような気がした。足のうらにはりつく畳の冷たく平たい感触、細格子のはまった硝子窓に書かれた落書(これは若い叔母たちがまだ子供だったころに書いた落書で、鉛筆や色鉛筆で、自分の名前、兄妹、友だちの悪口、親戚じゅうの名前、いたずら書き、へのへのもへじ、などが、あたりかまわず書きこんであったのだ)、小さな鏡台の引出しの中のすり切れたブラシ、かけた櫛、使い古した化粧道具、夕方になるとつくニクロム線の赤くW形に光る暗い電球、土蔵から細い黒い流れになって吹きすぎてゆく隙間風、土間につづく板の間の滑らかな冷たい一段低まった感じ――こうしたものを、私はなんという不思議な陶酔感をもって味わっていたのであろう。》

 ついで、女中の時やの漁村の家に連れて行かれたときの回想と、絆創膏の空罐のなかの蛇の卵をめぐる裏の女の子との諍いが暗く描かれる。

 

<『夏の砦』――「第一章」>

 留学当初の冬子の眼で見られた北欧の街は、マルテの眼で見られたパリの街と同じように、分裂病統合失調症)すれすれの神経症的徴候に揺らぐ。しかし、リルケの文章が自覚的であることから病理性が認められないように、冬子のノートのそれも自我の崩壊の危機が迫ってはいたが自覚的に書かれているという点で健全であり、リルケ(=マルテ)がそうだったように認識の訓練の通過儀式だった、とも言える。都合六冊ある冬子のノートの第一冊目の半ばほどに書かれていた異様さを示す記述はいくつかあるが、一つだけ引用する。

《この頃、ふと気がついてみるといつか自分で独り言を言っている。まるで言葉に出さないと、ものが考えられないみたい。部屋にじっとしていると、壁や天井から脂汗のようなものが流れてくるような気がして、なるべくせっせと工芸研究所に通っている。それでもユール先生はフランス語を話して下さるので、先生とお目にかかれた日は心が晴ればれする。街を歩いていても、フランス語か英語で(この都会の暗い響きの言葉はまるで喋れないから)誰かれとなく話しかけてしまう。先日もS**街の古物商の店の前を通ったら、こんなことがあった。そこは、ひっそりした狭い通りで、店のなかは暗く、鉄の甲冑が光っていたり、花瓶や壜が古家具の上にのっていたり、造花や風景画が壁にかかっていたり、各種の楽器が天井から吊りさがっていたりして、その奥に、いつも店の主人が坐って新聞か何かを読んでいた。私は研究所からの帰り、よくそのガラス扉に顔をくっつけるようにして店内をのぞいたが、一度も入ったことはなかった。ところが今日、いつものように店のなかをのぞくと、ふだん店の主人が坐っているところに、蝋人形が置いてあった。若い男の人形で、はにかんだような微笑を浮かべ、いくらかうつ向き加減で、着ている洋服はどこかこの地方の風俗衣裳のように見えた。私はそれがちょっと面白かったので、なかへ入ってみようという気になった。ドアの鈴の音がして、店の奥から小肥りの若い陽気な娘が出てきた。私がフランス語で話すと「あら、フランス語を話しますの?」と言って、フランス語で何が欲しいかとか、この絵はどうだとか、話しだした。私は、いつもこの店を通るのだということ、そして店の主人がふだんは帳場に坐って本か何かを読んでいるのを見かけていることなどを話した。

「今日はご主人はいらっしゃらないの?」

私はその蝋人形を眼で指しながら言った。小肥りの娘はちょっと驚いた顔をして、

「ご主人ってパパのこと?」

と叫んだ。

「ええ。年配の方よ。少し髪の薄くなった……」

「あ。じゃパパね。あなた、パパをご存知でしたの? ああ、可哀そうなパパ。あのパパは五年前になくなりましたの。」

 私はしばらく娘の顔を見ていたが、黙って頭をふると、後ろも振りかえらず店を出てしまった。なんだかそのあとで、ひどく頭が痛み、早く床についた。そして翌日になってもいやな感じが黒ずんで身体のなかに残っているみたいだった。》

 ノート全体を読んだ編集者であるエンジニアは、第三冊目のノートの大半を埋めている冬子の街区遍歴の記録を《彼女の不安の克服法の一つの方法》と解釈し、《彼女が執拗に感覚の細部を詳細精密に定着しようと意識していて、外界が曖昧になり欠落してゆくのを言語によって凝集し、固定しようとしているのではあるまいか》と推測して、《喪失した場所を恢復しようという無意識の欲求》という<オデュッセイ的遍歴>の特徴を示す出来事を紹介している。そこには思考が、形而上的思惟が不自然ではない女らしさのうちに表現されている。

《まだB**広場から戻ってくるようなときにも、よく道をまちがえた初めのころ(それはある雨の夕方だった)美術館から帰ってくる途中、自分の家がどうしても見つからなかったことがあった。私は、もう一度、B**広場に戻ってみようと思ったのは、かなり歩きまわったあとなので、後戻る道すじさえわからなくなっていたのだった。どの通りにも見覚えがなく、同じような形の暗い階段や扉や窓が、雨のなかに並んでいた。こうして通りから通りへ歩きつづけたあげく、とある町角で、彫刻や浮彫りに飾られた重々しいアーケードの玄関のある大きな建物の前に出た。それは官庁か、学校か、病院か、ともかくそういう公共の建物であることには間違いなかった。しかし私の住むP**街の付近には、こうした大建築は見当たらなかった。(私はP**街付近ならよく歩いたので、そう確信できた)自分が見当ちがいの街にまぎれこんでいるのにちがいないと思った。私はそこで町角を通りがかったタクシーをとめて、運転手に、私の住所を見せた。すると彼は早口で何か言った、私はわからないという身振りをすると、わざわざ雨の中を車からおりて、私の先に立って歩きだした。数メートル先の次の町角で、彼は私の住所と町の標識をくらべ、それだけで行ってしまった。それはたしかに私の住むP**街の標識だった。(中略)私はふと、耳の痛いまでに静まりかえるこの都会特有の濃い深い沈黙のなかで、何度となく繰りかえし現われてくるあの重厚な大学の建物を思いえがくのだった。なぜ私はその軒蛇腹の浮彫りや、正面の上の盾と、波と、文字を書いたリボン状の旗とを組合せた紋章や、擬古典的な女神石像などを、はじめのうち、見なかったのであろうか――私の思いはかならずこの一点に戻ってくる。そんなとき私はこう思った。「私は浮彫りや大きな窓や紋章などを眼にしてはいたのだ。そうしたものは私の網膜に映ってはいたのだ。しかし、ぼんやりしていた私にとって、それは眼に映っているだけで、本当に、浮彫りなり窓なりの形として意識されていなかったのだ。」》

 彼女は書く行為、表現することによって、現実を自分のものにしてゆこうとしていたのだが、「大学を認める」ということは、まだそれと気づかぬがかすかに泡立ってきた「幼年期の思い出を認める」ことの予兆であり、認める/認めない、は「眼の仕事」から「心の仕事」への現れては消えるかすかな胎動だったのだろう。

 

<『夏の砦』――「第二章」>

 雨に打たれて肺炎になり、入院した冬子はビルギットという看護婦に癒される。第四冊目のノートは恢復期に特有の軽々した新鮮な感じにみたされている。ようやくベッドを離れて部屋の端ぐらいまで歩けるようになった頃に見た夢は、プルースト的な回想の場面で、失われた空間が、失われた時を誘って、ざわざわという遠い音とともに浮上してくる。

《そういうある夜明け、私はめずらしく祖父の建てた樟の大木のある家の夢をみた。その樟の枝々は母屋のうえを覆いつくすように腕をひろげていて、風のある夜、ざわざわとまるで川でも傍を流れているような音で葉を騒がせた。夢のなかでも楠の大枝は、かつて私が夜ごと怯えたと同じ音をたてて鳴りつづけていて、重い潜戸(くぐりど)も玄関につづく砂利道も植込みの奥の築地塀も夢とは思えない鮮やかさでよみがえってきたのだった。私はそこで母だったか、祖母だったか、あるいは別の誰かに、今までこんなながいあいだどこへ行っていたのかと訊ねられ、家ではみんなが大へん心配していたところだ、というようなことを言われた。(中略)

 私は自分の涙で目をさました。目がさめてからも悲しみの発作はまだつづいていた。枕が涙で湿っていた。しかし目がさめて後、悲しみの発作は急に実体をうしなって、なにか感情の虚像のようなものに変っていた。その夢のなかで会った人物が母なのか祖母なのかはっきりしないのに、潜戸の重い鎖や。砂利道を踏む感覚や、植込みの奥の築地塀の雨に濡れて変色した壁土の色などは、異様な鮮明さで思いおこされた。その瞬間、私は思わず声をあげそうになった。樟の大枝がその時いっせいにざわざわと鳴りわたったのを耳にしたからだった。すると突然あの黒ずんだ影が次第に明確な姿となっていった。私は息をのんで、それを見つめた。それは今しがたの夢で途切れたばかりの祖父の家の暗い森閑とした気配であり、姿だった。「あんなにもしばしば私のそばを走りぬけていた感覚、私が仮りに黒ずんだ影のようなものと呼んでいた感覚とは、実は、私の身体に蓄積され、その都度、さまざまな触発を受けて喚びおこされようとしながら、記憶の表面にまで、ついに浮かび上らず、意識の下層をかすめて消えたこの祖父の家の記憶だったのか。」私は呆然として突然現われたその暗い静かな家の隅々を、あたかも現実の家でも見るように、眺め入ったのである。(中略)すると不意に、築山につづく一枚岩の橋で死んだ亀のことを思いだした。亀を私は飼っていたことがあったっけ――なにか信じられない出来事のように私はその思い出を驚いて見つめた。それはもう遙か遠い過去に忘れ去られ、葬り去られていた事柄だった。なんていろいろのことがあったのだろう。そしてなんと多くのことを私はこんなながい間、忘れ果てていたのだろう。そう思う間もなく、死んだ亀の墓を一緒につくってくれた色白の女中の時やのことが思いだされた。そうだった、時やと最後に会ったのは小学校の三年の頃だった。ああ、憶いだしてくる、時やがお嫁にいって、本当にあの人は仕合せだと言われていたのに、その翌々年だったかに、亡くなったのだ。私は時やの家にいったこともある。海のそばの寂しい、ランプのついた暗い家だった。いつも黙って坐っていた老婆がいたっけ。時やのそばに寝ると、波の音が枕のそばで聞えたのだ。「時や、時や、波が近くなってくるよ。私たち。溺れるようなことはないだろうね。だって波が家のすぐそばで鳴っているんだもの。」私がそう叫ぶと、時やは「夜は潮が差してくるんです。こわいことなんかありませんわ。さ、お嬢さま、時やがこうして持っていてあげますからね、安心してお休みなさいませ。」と言って、冷たい湿った手で私の手をしっかり握ってくれた。冷たい湿ったやさしい手。そうだった。突然、私は我にかえって身ぶるいした。あの冷たい湿った感触は、時やの手の感触だったのだ。私は病院にきてずっと不思議とビルギットの手の感触に心が和んでいたのも、それが時やの手であると思っていたからだったのだ。(中略)その時、突然、記憶の奥の暗闇から、昨日のことのような鮮やかさで、一つの場面が浮かびあがった。それは裏の借家に住んでいた髪の薄い、蒼い顔をした女の子の姿であり、私がその子を何か残忍な強暴な力で突き倒している情景だった。その前後のことは思いだせなかった。ただ、思いだしたその瞬間にでも、息苦しくなるような残忍な憎悪の感覚がその記憶にこびりついていた。(中略)ところがたまたま私が飼っていた亀のことを考えていたとき、何の脈絡もなく不意にその憎悪の原因がよみがえってきたのだ。私がその子と一枚岩の橋の上で争ったこと、そして怒りの発作にかられてその子を池のなかへ突き落したこと、その後で土蔵のなかで泣いたこと、泣きながらもう誰にも愛して貰えない人間になったと感じたこと、涙が乾くと、自分は誰かを愛そうとすると拒まれる人間なのだと思いこんだこと、それをひどく寂しいと思ったことなどを、私は一挙におもいだしたのである。》

 そのあとには、隣りの寄宿学校から病院に忍び入ってきた十五、六歳の少女、長い栗色の髪をくしゃくしゃにした、燃えるような眼のエルス・ギュルデンクローネとの、親和力の働きのような不思議な出会いの場面が来る。エルスの姉で市立図書館司書のマリーとの友情の記録がノートから書きだされる。

 第四冊目のノートの最後のエピソードとして、ふたたび制作へ激しい意欲を感じはじめた冬子が、市立図書館にマリーを訪ねて、図書館所蔵の**黙示録写本を見せてもらった日記が示される。一葉の挿絵では、白馬にまたがる天使ミカエルが槍をかまえて、赤い龍の方を眺めていた。十何葉かの挿絵頁が終って、写字僧の書いた本文がはじまる第一頁、その左上の冒頭のAの花文字が驚きを与える。

《花文字Aは単なるAをあらわしているのではなく、むしろ複雑にからむ花茨から、まるで牧羊神が時ならぬ顔をあらわすように、不意にAの字体が出現して、蔓が相互に、いっそう解けがたくもつれあってしまった感じがした。(中略)しかし花文字Aはまぎれもなく、あの魔法使いの靴、先端のそりかえった細長い靴をはいていた。靴の各々の末端は蔓文様にまぎれていた。しかしそのとき、その夏の光のなかにまぎれこんでいったのは、蔓文様ではなくて、私自身だったといえないだろうか。私の見たのは、あの樟のざわめく祖父の家とともに焼けてしまった、ゴシック体の花文字を金箔で、深紅色の地に打ちだした、あのミカエルの物語――青い天使と赤い天使がステンド・グラスの太い輪郭にはめこまれて表紙をかざっていた、手あかによごれ、すりきれたあの本だった。私が見ていたのは、封建時代のグスターフ候の書庫におさめられた**黙示録写本などではなかったのだ。私はすでに、あの噴水のある広場の飾り窓のなかでその複製を見たときから、自分が何を見ようとしていたのか、ひそかに知っていたと言えないだろうか。いや、むしろ私がそれを眼にしたとき、不意に私のなかの何者かが、かつて忘れはてたある姿を、ある物影を、そこに感知していたというべきだったかもしれない。たしかに私は、あのとき、そこに何者かがゆらめき通りすぎたのを見たのだ。私はその影のあとを追って、ひたすらこの暗鬱な、巨大な墓窖に似たグスターフ候の城館へとまぎれこんだのだ。私はそこで祖母が長い廊下を歩くあの、とっちん、とっちん、という音を聞いたようにも思い、樟の大枝が私の耳のなかでざわめきつづけていたようにも思ったのだ。……》

 

<『夏の砦』――「第三章」>

 支倉冬子がマリーとともにエルスの待つギュルデンクローネの城館(男爵のほかには、執事の無口なマーゲンス、寡婦で大女のビルギット、ビルギットの後からよちよち歩いてくる哀れな白痴の小人ホムンクルス、それに森番と庭師だけ)で生活した夏の、ギュルデンクローネ日記と呼んでいいノートからなる。冬子は、夜風に森がざわめくのを聞いて、楠の大木におおわれた祖父の家にいるような気になり、健康で生命にみちたエルスといると、自然のなかに融けこんでゆく調和感を感じて、能動的な熟考を重ねる。

《だが、なぜ私が樟の大木のざわめくあの家にいていけないのであろうか。なぜ母が機を織っている音を夢うつつに聞いていたり、祖母が廊下を通ってゆく足音を聞いていたりしてはならないのか。いま誰かが来て、お前はまだ幼いままの冬子なのだと言ったとしたら、そのままそれを素直に信じこんでしまうだろう。

 しかしそれ以上に辛く苦痛なのは、私をここへ運びこんできた宿命を考えることだ。いまから思えば、それは、幼年期と現在との間に挿入された大きな挿話のような気もしてくる。だがなぜそんな挿話が私に必要だったのだろうか。そうだ。そのことだけは、自分にはっきりさせなければならない。そうでなければ、あの病気のあと、なぜ私が徐々に制作力を取り戻していったか、なぜ調和した甘美な感覚を味わえるようになったか理解できないばかりでなく、現在それを保っているかに見える調和感やこの歓びも、幼年期をいつか喪っていったように、また見失ってゆかないともかぎらない。この意味でもギュルデンクローネの館での一日一日は、私にとって、二度と得られない貴重な日々なのだ。なぜならここには私の幼年期がそのまま残されているだけではない。私はエルスのなかに失われた私自身を見るような気がするからなのだ。》

 辻が「心ひかれる女のアルバム」に《『夏の砦』全体の構成を単純化していえば、北欧の都会とギュルデンクローネ男爵家の城館での経験が(とくにその城館での火事が)、徐々に冬子のなかに、この幸福だった過去の姿を呼び戻す。それが完全に恢復されたとき、ながいこと失っていた<美>が戻ってくる。》と解説した火事の場面、それに先立つ仮装舞踏会の準備(仮想衣装選びや、舞踏会のあとの行楽に使えるものがあるか調べるために屋根裏で調べていると、ばらばらになった操り人形が出てきて、胸のしめつけられるような、妙に不安な気持になったこと)や当日の様子が書かれ、冬子は美は物狂いのなかだけに姿を現わすものであることを摑む。

 厩舎の火事について冬子は、日記に次のように書いているだけだった。

《おそろしい焔。なんという鮮やかな色で燃え落ちたことか。哀れな白痴のホムンクルス。ああ、それは昔のこと。何から何まで同じではないか。》

 

<『夏の砦』――「第四章」>

 《多くの人たちは、記憶のなかの物ごとを、霧に包まれたように、ぼんやりした姿しかもたず、それに反して、現実に経験する姿は、はっきり確実な形をもつと言うけれど、この北方の古い異国の都会(まち)での生活は、しばしばそれと全く反対のことを私に教えるように思う。たとえば街の飾り窓の冷たい反射がそのまま祖父の家の応接間のガラス戸の反射になり、ギュルデンクローネ家の廊下が、いつかあの書院へ曲る樟の家の廊下につづいているようなとき、現実から、過去を憶いだすというのではなく、現実と過去の閾口に立って、同時にその両方の世界を生きていたと言えないだろうか。

 とはいえ、私は誰にその古い屋敷の物語をすべきであったろうか。》

あたかもここから小説がはじまるかのような正統的で格調高い文体による問いかけの先は冬子自身である。ギュルデンクローネの館で書き継がれた回想は、辻が解説した《この序章が外面的に見られ、思い出が内面的に見られるという相違は、実は『夏の砦』の大切な主題の一つになっている。》の「内面的に見られる」思い出に相当している。

 祖父が亡くなってから後の家に漂いはじめた、暗い、空虚な、沈んでゆく気分、没落する雰囲気なり徴候は、辻が精読したトーマス・マン『ブッデンブローク家の人びと』の影の下にあって、リルケ『マルテの手記』経験やハイデッガー哲学研究による<もの>についての考察が次のような場面と共鳴(レゾナンス)している。

《私は、庭での遊びに飽きると、家のなかをさまよって、何か面白いものはないかと捜しながら、奥の書院に入りこんだのだったが、そこは昼でも、ながい廊下にそったガラス戸にカーテンが閉まっていて、後には雨戸をたてきったままになっていた。(中略)普通なら、人間たちによって使われる部屋、人間たちの開けたてする襖、人間が光をとる書院窓、人間の眼をよろこばす違い棚の彫刻や人形などが、ながいこと、誰もここを使わないうちに、もう人間への従属を忘れてしまって、めいめいが独立し、自分の権利を主張しはじめているような気がした。床柱も掛軸も額も天井も透し彫りも、自分たちがはじめからそこにいて、人間などまるで知らないというような顔をしていた。私は、こうした物たちのもつ無愛想、よそよそしさ、傲慢さには腹がたったが、同時に、物たちがお互い同士では、何とも言えない親密さで話をしたり、目くばせを交わしたり、うなずき合ったりしているのに気がついた。(中略)そのうち、物たちのうちの誰かが、ふと、私のいることに気がつくのだ。急にみんなは黙りこくり、ひそひそと私のことを囁きはじめる。(中略)すると、そのとき、誰かが、「どうだ、この子をひっとらえては。」と言うのを聞いた。突然、物たちはざわめきたち、意見をかわしているようだったが、そのうち、「そうだ、この子をひっとらえてしまえ。」という声が圧倒的になっていって、みんながいっせいに私にむかって飛びかかろうと身構えた。私はぞっとして、夢中になって部屋からとびだすと、ながい廊下を息せききって走りながら、今にも後ろから床柱や天井や壁が長い手をのばして、声をあげて私につかみかかってくるのを感じた。》

 「物たちのなかに沈んでゆく感じ」、「ある種の恍惚と陶酔」は、放心のようで、《太陽の甘い光に愛撫されて豊潤に成熟してゆく葡萄の実のように、子供たちの魂のなかに、外から計算したり、推しはかったりできない何か全一の成長が約束されていたのだったのかもしれない。》 

 過去の思い出の一つとして、辻が「心ひかれる女性のアルバム」に紹介した部分が、プルースト失われた時を求めて』の日本の水中花を思いださせる次の引用文で、丸谷才一が《イメージのあつかひ方にはすこぶる長けてゐて、殊に簡勁な描線がまるで院展系の日本画の大家たちのやうに美しく、効果的で、息を呑むばかりである》ことを証明している。

《私はよく母とともに、中のお蔵に、夜、のぼっていったことがあるが、母が手燭をかかげて捜しものをするあいだ、私は私で、別の手燭をもって、土蔵の二階の四隅に置いてある大きな鉄製の甕の上に、身をのりだしてみるのだった。龍の浮彫りのある鉄甕のなかには、口まで、なみなみと水が張ってあって、手燭のうえでゆれている蠟燭の暗い焔の、ゆらゆらと照らしだす私の顔が、その鏡になった水面にうつっていた。水の底は暗く、沼のように深い感じで、その鏡になった水面の下に、何か別の世界があるようだった。で、私は手燭をかかげて、自分の顔をその水面に近づけたとき、一滴の蠟がかすかな音をたてて、水のなかに沈み、白い花びら模様にひろがって、まるで暗い池に浮かぶ睡蓮のように、また夜の運河に散り漂う桜の花びらのように、ひらりと、浮かび上ってくるのだった。私は思わず息をのんで、この妖しい花の白さを見つめていたが、やがて、手燭を傾けると、もう一度、一滴、蠟を水面に落してみた。蠟はぽとりと暗い水面に沈み、やがて、同じ白い花びらに軽やかに開くと、まるで重さのないものが暗い空間をただよってでもいるように、夢のように、ゆらりと浮かびあがってくるのだった。蝋燭の暗い焔に照らされた水面は、鏡になって光っていて、白い花びらは、そこに映る私の顔の奥から、遠近感をうしなったはかない透明なゆらめきで漂いのぼってくるように見えた。

 私は半ば息をこらして、蠟の白さの凍りついた水中花をじっとみていると、いつの間にか、それがまるで遠い暗い夜空から舞いおりてくる雪片のように感じられて、透明な自分の顔の上に降りつもってくるような気持になったのだ。》

 ギュルデンクローネの館で胸のしめつけられるような、妙に不安な気持にさせた原因となる、兄の人形劇のエピソードがはじまるが、この挿話もまたプルースト失われた時を求めて』冒頭の幻燈のシーンを彷彿とさせる。

《青い幕があくと、舞台は森の中の場面だった。深いみどりの森に、日の光が差しこんで、光がゆらゆらと躍っていた。そこに一匹の狐(私ははじめ狼だと思っていた。頭は茶色で、うちのシェパードのクロに似ていた。しかし兄の説明で、それが狐なのだということはすぐわかった)が、ひどく、ふわふわと、あたかも空中に漂っているかのように、その森の中にやってきたとき、私のよろこびは胸の痛くなるほどに高まって、手で口をいっそう強く押さえなければならなかった。(中略)

 あかりがつき、兄のまっ赤になった、照れくさそうに笑った顔が、舞台の後ろに表われた。従兄妹たちは人形芝居のまわりに集まり、狐や猟師や栗鼠を持ったり、動かしたり、着物の裏をのぞいてみたりした。明るい電燈の下で、みんながとりかこんでいる舞台からは、暗闇のなかで、照明されていたときの、あの不思議な神秘さは消えていた。父の大机のうえに蜜柑箱に似た木箱があって、そこに泥絵具で描いた書割が貼りつけてあるだけだった。二つの尖塔をもつ城も、城壁の白い輪郭をとった煉瓦も、青い幕も、つい今しがた見た通りのものにちがいなかったが、それは、この部屋の他のもの、椅子や本立や地球儀や花瓶などとまるで同じただの物にすぎなかった。乾いて埃りのかかった剥製のふくろうや棚の上に置き忘れた電気スタンド、動かなくなった置時計などと大して変らない、当り前の木箱であり、青い端布であり、ボール紙の絵であった。私は、はじめは、自分の放心から急に醒めることができず、いくらかぼんやりと、兄や従兄妹たち、叔父叔母たちが舞台をとりまいて、賞賛したり、驚いたりしているのを見ていた。それから、ふと、さっき見ていたものと今眼にしているものとの信じがたい差異に気がついて、胸をつかれるような気持になった。やがて、それが私を新しい放心のなかに投げこんだ。「それでは、これで終りなのだろうか。そうなのだ。もうそれは終ってしまったのだ。もう森もなければ、狐もいなければ、猟師もいない。いまみんなが触っているのは、さっきの人形劇とは何の関係もないものなのだ。この人形や舞台を使ってあの話を上演したにはちがいない。でも、今こうしてここに力なく横になっているのは、ただの物なのだ。」》

 冬子は女学校に入ってからも、この昔の人形芝居を土蔵の二階で見つけて、兄がしたのと同じように、この世界とは関係のない、別のもう一つの世界、夏の光が耀く舞台を、何度か上演してはみたものの、《それが終ったあとの空虚さは、幻影が生命にみちていればいるだけ、いっそう深かった。》

 

<『夏の砦』――「第五章」>

 どこへゆくにも持っていった叔母から貰った人形を紅葉の枝に逆さにぶらさげ、雨に打たれ、風にさらされて、最後にはただ白っぽいしみ(・・)となってこびりついていた情景、蛇のひげ(・・・・)のうえで冷たくなって死んだ老犬クロの物悲しい眼、女中の末の息子で白痴の駿(すぐる)に亀のヒューロイの甲羅を割られて殺された出来事、叔母の流産、無気力な若い叔父と兄の自分のなかで暮す態度、毎朝ひたむきに読経していた祖母の死と葬儀の記憶、新しい意匠の布地を織る母の佇まい、かいまみる大人たちの世界としての書斎の父の姿などが走馬灯のように流れ、それらを通って幼時というものから決定的に離れてゆく。ここでは祖母の死を、やはり祖母の死を描いたことのあるプルーストのような息の長い、比喩をもちいた文章を引用するが、リルケ『マルテの手記』の「固有の死」に連なる経験の質として、その後の北欧での冬子を変容させる原因の一つにもなるのだった。

《しかしそれらに較べても一段と鮮明で、忘れがたく心に刻まれているのは、翌日の早朝、私が洗面所で歯をみがいていると(なぜか、そのときの洗面所の湿っぽい木の匂いや、石鹼や髪油の匂い、小窓の外に葉を繁らせているもみじ(・・・)の色と一緒になって)蒼い、沈んだ顔をした母が、私に、祖母が明け方に亡くなったので、食事の前に、お別れに離屋にくるように言ったこと、香や線香の匂いの立ちこめる離屋の冷んやりとほの暗い、樟の葉の青さのただよう祖母の部屋で、白い布をかけられた祖母の姿を見たとき、その一枚の白布の異様な気配、まるでこの世のすべてから、その一枚の白布がそこに横たわる人を切りはなし、覆いつくしているような、重く、厳粛で、妙に虚しい気配を感じたこと、父の手で静かにあげられたその白布のしたから、祖母の、眼を閉じた、いくらか残念そうな表情の顔があらわれてきたとき、私は、その黒ずんだ蒼さ、なんとも名状しがたい蒼白い硬さ、人間でありながら、もはや一個の物体でしかなくなった、一種の紫を帯びた灰暗色に、ほとんど肉体的な嫌悪と恐怖を覚えたこと、そして母に手をとられて、その白くなった祖母のかさかさの唇に水を湿さなければならなかったとき、その水を含んだ綿から、一滴の水が祖母の唇から顎をつたわって流れるのを見て、私は思わず祖母が冷たかろうと思い、その一瞬、はじめて祖母は死んでいて、そんな冷たさなど感じないのだと思いかえし、我にもあらずぞっとしたこと、などである。

 この蒼白い硬い祖母の顔の印象は、死というものの具体的な姿として、その後、眠れない夜とか、樟の大枝がざわめく夜半などに、ふと記憶のなかに浮かびあがって、私は思わず頭をふり、その陰気な映像をはらいのけようとしたが、なるほどそうした祖母の、眼を残念そうに閉じた顔は消えたとしても、そのとき感じた、物体の硬い冷たい肌ざわりに似たある感触は、ちょうど冷血動物の湿って冷んやりした肌に触れたあとのように、いつまでも私のなかから消えなかった。それは言ってみれば、それまで生きていた祖母の生命が、枯れて、音もなく折れた、その灰暗色の断面のようなものであり、祖母の死と言うより、何か死そのものの姿を、そこに感知したとも言えるものだった。》

 

<『夏の砦』――「第六章」>

「第六章」には「グスターフ候年代記」と称する文章が収録されている。この地方伝承のサーガの形式をもち、古雅簡朴な散文で書かれている原文を、マリーが仏訳したものから、夏のあいだに冬子が古雅な味わいを残して日本語に訳したものであって、「グスターフ候のタピスリ」に関係のある十字軍に関した部分及びとくに冬子の興味を示した死神遊戯の挿話(七話)からなる。十字軍に参加した信仰あつい領主グスターフ候は、《神を求めて海路千里、聖地へ赴きしも、神も御顔はついにあらわれなかった》。失望、落胆し、帰還してからも憂悶去りやらず、七夜にわたって死神と闘うことで《死を知らんとて追いもとめしも、死はいまだに正体を示すことはなかった》が、森で、禁猟を犯した罰に従い、自分みずから絞首台の木を切る男に出会う。グスターフ候がいろいろ問うも、猟師はお裁きに従うと答え、候は聞きおえると、瞑想にふけりながら帰ってゆく。「一、グスターフ候、森にて木を切る男に出会う事、及びその問答の詳細」から一部引用する。

《それはあたかも、一夏の生命を終えんとする蜂や蝶のごとくである。数日のはかない生命を咲きほこる薔薇ははじらいの深い莟のなかで、その開花の純粋、無償な行いについて、短かい生命の輝きについて、思いまどうであろうか。蝉は一夏を鳴きあかして、やがて固い殻となって林間の空地に転がるのであり、輝く美しさで咲きほこる花は季節の空しさを嘆くことも知らず、ただ生命のままに散りはてるのである。されば、などて人のみが己れの死について思いなやむのであろうか。(中略)かの賤が猟師のごとく、ありしままの宿命を引きうけることはできないであろうか。われらの望むのはただ己れ自身であり、また己れの未来だけである。》

 冬子は「グスターフ候の年代記」の遍歴、絶望、死、経験、探究、宿命、啓示、再生、変容といった物語に共鳴(レゾナンス)して翻訳をしたのであり、「第六章」に挿入される構成によって、『夏の砦』全体を象徴する凝縮された雛型として、読者をもまたマトリョーシカのような果てることのない共鳴(レゾナンス)に誘う。

 

<『夏の砦』――「第七章」>

 辻は「心ひかれる女性のアルバム」に、《『夏の砦』の第七章は、この作品のタイトルでもある夏の海辺でのエピソードで満ちている。》として、次の文章を引用したが、感官が全開した美しいイメージ描写の妙に魅かれずにはいられない。

《私たちは貝殻集めに飽きると、また浮き袋につかまって泳ぎ、波に巻きこまれて悲鳴をあげた。鬼ごっこをしたり、水しぶきをたてたり、歌をうたったり、子供同士で相撲をとったりした。そしてまた思いだしたように砂の城に戻ってきて、厚い城壁をつくったり、濠を掘って湧きだす海水を汲みだしたり、広い内囲いを築いたのだ。その内囲いのなかは子供がひとり寝られる広さがあり、私たちはかわるがわるそこで仰向けに横たわった。私が最後にそこに横になってじっと目をつぶると、絶え間ない波の音と、遠くで騒いでいる子供たちの叫び声が、どこか円天井にでも反響するように微かに聞えていた。微風がかすめ、時どき外航船の汽笛などがそれにまじっていた。眼をひらくと、その青い空の奥に雲が眩しく光り、ほとんど動くとも見えなかった。そこには深い、はてしない休息があるような気がした。私はふたたび目をとじ、ながく深々と息を吸った。爽やかな潮の匂いがあらためて私を幸福な感情でみたした。そうやって仰向いたまま、私には、こうした瞬間がいつまでもつづかないのがなぜか信じられないような気がした。鷗の声、波の音、子供たちの叫び、そしてたっぷりと過ぎてゆく夏の時間が、いつか私たちから奪いさられるということが、信じられないことに思えたのである。》

 兄と二人で、砂丘に露出する岩に数百羽、数千羽の鳥が白骨となって横たわっているのを発見し、海岸線のつづきの難破船の残骸を見つけ、上にのって、大洋に乗りだしてゆく様を空想していると、迎えが来て、「坊ちゃん、さ、急いで帰らなければいけません。お母さんの容体がお悪いんですよ。」と兄に向かって言うのだった。

《ああ、なんとその船頭の言葉が口にされる前には、仕合せなことがみちわたっていたのであろうか。その言葉が口に出ると、そこには乗りこえることのできない仕切りが生れていた。それ以前のことは、どんどん過去のなかに繰りこまれ、手をのばしても、もうつかむことはできなかった。ああ、どうして、もう一度、その前の状態にかえることができないのか。そのとき突然、悲しみの発作がこみあげてきた、あの静かでやさしかった母、いつも機屋に坐って庭の青木に降りそそぐ雨を見ていた母、つい先日まで島の家にいて、私たちと一緒に歩いていた母――その母が死んだのだ。もう二度と会うことができないのだ。もうどこにもいないのだ。船頭の背におぶわれて、ゆらゆら砂洲の背をこえてゆくあいだ、私はひたすら泣きつづけた。(中略)

 こうして私たちは夏と別れをつげた。母の葬儀が終り、祖母の死のとき以上に樟のざわめく家がひっそりしたとき、私の感じたのは、すぎさったのは夏だけではなくもっと大切な何かだったということであった。しかしそれが何であるか当時の私には理解することはできず、ただ季節の喪失感だけが心にいつまでも空白な映像となって残っていた。》

 夏の海辺の難破船の残骸の情景は、女中の時やの父が海で溺れ死んだ挿話ともども冬子の未来を予感させるイメージとして機能している。

 

<『夏の砦』――「最終章」>

 最後に、冬子の手紙(エンジニアの私宛のもの)が示される。私がギュルデンクローネの城館にあてて出しておいた手紙の返事として、彼女がエルスとともに、S**諸島からフリース島へヨット周航に出かける前、そこで書いたものである。

 島の織り子(こ)たちの図柄や色彩についての清新な感想、島にきてはじめて眼のあたりにした生活に密着した感情の動き、神を喪った時代の芸術の在りようについての思考などが繰りひろげられるが、祖母の死によって苛酷な事実というものを教えられた冬子は、事実からはずれたこと、事実に匹敵しないものを無価値なものと見なす習慣を育んでいったこと、母が自殺してから、父と二人で暮らすようになった戦争末期、ちょうどその頃、港に近い地区から焼け出された末が白痴の子供の駿ともども家に住むようになっていた。戦争の終る年の青葉の季節のある夜、いつもとは違う空襲で一面焼け野原となり、家が焼けてしまうばかりか、地下室で寝ていた駿が焼け死んでしまう。

《やがて私たちの家が遠望できるあたりで足をとめたとき、父はふと誰に向かって言うともなく、こう言いました。

「いや、あれでいいのだ。あの家は焼けたほうがいいのだ。駿が焼け死んだことは気の毒だった。しかしあの家は焼けたほうがよかったのだ。あの家が焼けて、私たちはやっとあれから自由になれたのだ。」それから私を振りかえると、「冬子。私たちはもうこうした過去に蓋をしてしまおうね。私たちは過去に未練を持つんじゃないよ。いいかい。」と言うのでした。(中略)

 私がこの苛酷な事実を自分の生き方の基準にしたのは、家が焼けるより以前のことでしたが、家が焼けたことによって、それがさらにいっそう徹底したものになっていったのです。こうした生き方の結果がどんなものだったか、私は、あなたに、織物の制作が次第に困難になり、不可能になっていった過程に触れながら、たしかお話し申しあげたと存じます。そうなのです。私は自分の過去を見すてることによって前に進みでたわけですが、この過去とは、多くの場合、前へ進む力を汲みだす深い豊かな源泉であることがあり、それに私は気がつかなかったのでした。

 この事実に気がついたのは、「グスターフ候のタピスリ」を見にここの都会へ来てからでした。とくに私がマリーやエルスと知り合い、ギュルデンクローネの館(やかた)で暮すようになってからでした。

 すでに新聞でご存知のことと思いますが、この夏、ギュルデンクローネ家の仮装舞踏会の夜、思いがけぬ偶然から、火事が起り、その火事で、ある憐れな白痴の小人が焼け死んだのでした。その瞬間、私は自分が炎と熱気に吹き倒される思いで、突然、あの樟のおおった祖父の家の燃えあがる姿を思いだしたのです。白痴の駿まで、私ははっきりと思いだしたのでした。

 そうなのです。その瞬間、私はあの父の言葉の呪縛から解かれたのを感じました、私の前に過去は蓋をひらき、どっとあふれでてきたのでした。同時に私は、この古い都会やギュルデンクローネ家において、かつて無益なもの、無意味なものとして、自分の中から棄てさっていったものが、かえって人々の中で愛しまれ、保存されて、生きつづけているということを見いだしたのでした。それはいわば私の喪った過去と出会うのに似ていました。あの澱んだ、ひっそりした、人の気配のないような空気、もの(・・)にじっと囲まれて生きている老人たち、沼の底のように、枯葉が積み重なり、朽ちてゆく閉じられた部屋部屋――そうした気分こそ、私がずっと以前に身近かに持っていて、すこしずつ、自分から脱落させ、焼失させていったものに他ならなかったのです。》

島に来ることが決った初夏のある夕方、冬子は灼けつくような激しさで、「グスターフ候のタピスリ」を見にゆきたくなった。タピスリの前に立つ冬子の精神の働きには、プルーストの筆致に似て、フェルメールの「デルフトの眺望」を前にしたベルゴットや、システィーナ礼拝堂ボッティチェルリフレスコ画を見るスワンのような精神の深みがある。

《私は息をつめて春の農耕図を見つめました。以前、そこに優美な中世風の様式を感じていましたが、いまこの種まき、耕作、飼育の三つの動作をする農民の男女を、後景から前景に開くようにして配列した構図を見ていると、そこに同じような線のつよさ、簡潔さ、いくらかのこわばりを感じました。その人物たちは写実風というより、ギニョールの人形のように眼も大きく、様式化され、それだけに、どこかおどけた様子、誇張された表情が感じられました。それだけにこの雄大で素朴な気分にふさわしく、煩雑な細部を無視した単純さのなかに、私は、後の時代の、写実風で、ただ優美さを狙った農耕図よりは、ずっと生活の本質に近い、瞑想的な、深い、暗い、重苦しいものを感じました。それは色彩版や写真版でみていたときに感じたゴシック国際様式風に優雅にまとめられた作品ではなく、織りの荒さ、粗野な生活の匂いのじかに残るかたい手ざわり、つまり石造の農家の裏の機(はた)屋で、生活の合間合間に織られた無意識の作品なのでした。もちろんそこには巨匠の手腕を感じます。無意識といっても、決して無技巧だというのでありません。(中略)

 夏の図では、私は、何よりも光への讃歌を感じます。汗と労働と休息がここでは生活の歓ばしい律動となっています。まるで牧畜という地を這う困難な仕事ではなく、太陽とたわむれ、大地の香りにむせびながら、羊たちの生殖や出産、成長や繁殖のなかにおのずと現われる変転する自然の生成に歓喜している姿として、それはえがかれているのです。秋の図でも冬の図でも、何よりもこの単純な、瞑想的な、内面の生活感情、自然感情を表現しようとする態度は変っておりません。私はそこに人間の生の輪郭を感じます。(後略)》

 そして冬子の手紙は、リルケに共鳴(レゾナンス)する、魅惑的な謎めいた言葉で変容の果てを締めくくった。

《いま、この白い硬い岩におおわれたS**諸島で風の音と波の音を聞きながら、私の感じているのは、こうした自分の世界とのめぐりあいの歓びです。かつて私は、夏、母や兄と島の家で、長い休みを送りました。時間のとまったような、甘美な遠い幸福な日々でした。その日々が、いま、厳しい、ほの暗い、この北の海の孤島で、戻ってきたような気がします。

……私はまだこの秋からの仕事について十分に考えぬいておりません。プランも図柄も何もかも投げだしたままにしてあります。

 いま私の書いている窓の外で、いつか夜が明けようとしています。風が港の帆柱に鳴り、はしけのぶつかり合う音や、波が突堤に打ちあげられる音が聞えます。

ずいぶん長いお手紙になりました。やがて夜明けの光が、差しこんでくる時間です。でも私には、これからどのような夜明けがくるのかわかりません。ただ私には、自分がこれから本当の意味で制作の時に入るだろうことがわかっているだけです。

 私の手紙がこうして終ったとすると、いったいまたどういう夜があるのでしょうか――それはわかりませんが、私はこの手紙を書き終えたら、真昼の永遠の光の下で眼をさますために、深いねむりに入りたいと今はそれだけを考えているばかりです。》

 もはや冬子が、遭難したか、自殺したか、失踪したか、などあれこれ憶測、穿鑿することに何の意味があろうか。小説末尾の美しい文章は、「序章」や「ギュルデンクローネ年代記」と同じほどに、『夏の砦』の世界全体と打ちつけては砕ける白い波のように共鳴(レゾナンス)してやまない。

《私はその最後の捜索船に乗ってフリース島付近まで行ってみたのである。舟にはマリー・ギュルデンクローネも一緒だった。私たちは捜索というより、冬子やエルスが最後に見た海をこの眼で見て、それに別れを告げたいと思ったのである。(中略)

「もうエルスも冬子も帰ってきませんね。ここにきて、やっとそんな納得できる気持です。」

 私は海面を見つめているマリーにそう言った。」

「本当にそうですわ。私もいまそんなことを考えていましたの。でも二人は何か一つのもので結ばれていましたのね。そのことも、ここへ来て、よくわかりましたわ。二人は同じものを愛していたのです。それを見つめたら、もう二度とこの世へ帰って来られないなにかを。」

 私はマリーの言葉をどうとっていいものかよくわからなかった。その言葉から私は、あの手紙に或る「深いねむり」という言葉を思いだした。私はポケットに押しこんだままの冬子の最後の手紙をとりだした。マリーになんとなくそれを話して聞かせたい気持がした。しかし私の手はそのままとまった。というのは私はなぜかその言葉にはふれてはならないものをふと感じたからである。

 私たちの船は島の周囲をゆっくりとまわり、汽笛を低く鳴らした。その音に驚いた海燕の群れが黒くいっせいに空を暗くして舞い立たち、海面すれすれに不気味な旋回をつづけた。私は手紙をしまうと、そのまま、しばらく烈しい風のなかに立って、冬子の中を通っていったもののことを考えながら、島に波が白く砕けるのを眺めていた。その波は激しく身もだえしながら、岩に白く砕けていた。それはあたかも何か告げられぬ思いをそこに打ちつけては砕いている空しい努力のようにも見えた。私は最後の汽笛を鳴らして島を離れていく船から、その波の白さをいつまでも眺めつづけた。しかしそれもやがて、飛びかう海燕の群れとともに灰色の空の下に遠ざかり、孤島のようなフリース島もまもなく私たちの視野からその姿を消していった。》

                          (了)

            *****引用または参考文献*****

*『辻邦生作品全六巻――2 『夏の砦』』(河出書房新社

辻邦生「『夏の砦』の支倉冬子……心ひかれる女性のアルバム⑧」(「婦人之友」1995年11月号)(婦人之友社

辻邦生『薔薇の沈黙 リルケ論の試み』(筑摩書房

*『辻邦生全集 20 アルバム・雑纂・年譜・書誌 ほか』(竹西寛子「夏の砦」、森有正「早春のパリから初秋の東京まで――辻邦生著『夏の砦』をめぐって――」、丸谷才一「『夏の砦』のことなど」、菅野昭正「『夏の砦』をめぐって」所収)(新潮社)

辻邦生『パリの手記』(河出書房新社

辻邦生『夏の砦』(文春文庫)

辻邦生水村美苗『手紙、栞を添えて』(ちくま文庫

*辻佐保子『「たえず書く人」辻邦生と暮らして』(中公文庫)

*辻佐保子『辻邦生のために』(中公文庫)

リルケ『マルテの手記』望月市恵訳(岩波文庫

トーマス・マン『ブッデンブローク家の人びと』望月市恵(岩波文庫

プルースト失われた時を求めて』鈴木道彦訳(集英社文庫

オペラ批評 「モーツァルト・オペラの思想的考察(引用ノート)――カントとサドとモーツァルト」

モーツァルト・オペラの思想的考察(引用ノート)――カントとサドとモーツァルト

  

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スウェーデンボルグ(一六八八~一七七二)、ヒューム(一七一一~一七七六)、ルソー(一七一二~一七七八)、ディドロ(一七一三~一七八四)、カント(一七二四~一八〇四)、カサノヴァ(一七二五~一七九八)、サド(一七四〇~一八一四)、ラクロ(一七四一~一八〇三)、ゲーテ(一七四九~一八三二)、モーツァルト(一七五六~一七九一)、ジェーン・オースティン(一七七五~一八一七)。

 

モーツァルトが晩年の十年間に作曲した七つのオペラ。初演順に、『イドメネオ』一七八一年、『後宮からの誘惑』一七八二年、『フィガロの結婚』一七八六年、『ドン・ジョヴァンニ』一七八七年、『コシ・ファン・トゥッテ』一七九〇年、『ティート帝の慈悲』一七九一年、『魔笛』一七九一年。

 

・《われわれの世紀(筆者註:二十世紀)は、歴史上で最も忌み嫌われる世紀となろうが(もちろん今世紀で今後の歴史が中断してしまわなければ、やがてそれを憎む者が現れる、としての話だが)、こういう肩書きをもっている――それはモーツァルトを認めた世紀である、と。》(ブローフィ『劇作家モーツァルト』p1)

  

<カント>

――『視霊者の夢』/啓蒙主義ロマン主義の「間」/自嘲

・《カントが『視霊者の夢』を書いた一七六〇年代には、ライプニッツ形而上学には埋めようのない亀裂があいていた。ライプニッツにおいて感性と理性が連続的な進化の段階にあるとしたら、この亀裂は、感性と悟性の間にある。(中略)

 この「亀裂」を具体的に象徴したのは、一七五五年十一月十一日のリスボン地震である。ヨーロッパですべての聖人たちを祭るこの日、まさに信者が教会で礼拝していたときに起こったため、この地震は神の恩寵に対する疑いを巻き起こした。それは大衆的なレベルにとどまらず、文字どおり、全ヨーロッパの知的世界を震撼させた。たとえば、ヴォルテールは数年後に『カンディード』を書き、ライプニッツ的予定調和の観念を嘲笑し、ルソーも、地震は人間が自然を忘れたことへの裁きであると書いている。そのなかで、カントは地震に対して一切の宗教的な意味を与えることを拒絶し、その自然科学的原因と耐震対策を説いた。にもかかわらず、別の意味で彼がそれに揺すぶられたことは疑いがない。それは二つの面から言える。第一に、哲学を二度と瓦解しないような建築にしようとするカントのメタファー(建築術)はそこから来ているといってもよい。第二に、先に述べたように、この地震を予言した視霊者スウェーデンボルグの「知」に惹きつけられたことである。

 しかし、以後の長い沈黙のあとに発表された『純粋理性批判』には、一見してこうした「問題」は消えている。それをむしろ後退として見るべきだろうか。もしこの本が、ライプニッツ的な合理論とロック的な経験論への批判として書かれたと読むなら、そう見えるだろう。しかし、彼はそれとは違った文脈に生きていたはずである。たしかにカントは、経験論と合理論の「間」に立っていた。彼は合理論者から見れば経験論的であり、経験論者から見れば合理論者である。むろん、誰もがいうように、彼はそのいずれでもない。しかし、むしろ注目すべきことは、彼が啓蒙主義ロマン主義の「間」にも立っていたことである。

 カントの芸術論(『判断力批判』)は、美を主観性において見いだすことにおいてロマン主義的であり、事実、ロマン主義美学の基盤を与えている。しかし、厳密には、彼は古典主義とロマン主義の「間」に立っている。それは、ゲーテが古典主義的であると同時にロマン主義的であるといわれるのと、或る意味で似ているだろう。しかし、カントが古典主義とロマン主義の「間」に立っていたと私がいうのは、彼がそれらの過渡期に生きていたという意味ではなく、それらのいずれをも「批判」する視点に立っていたという意味である。

 カントが啓蒙主義ロマン主義の「間」に立っていたというのも、同じ意味である。彼がロマン主義者から見れば啓蒙主義者であり、啓蒙主義者から見ればロマン主義者と見えることは疑いがない。》(柄谷行人「探究Ⅲ」)

・《カントがこうした理性の欲動を見いだしたのは、『形而上学の夢によって解明されたる視霊者の夢』(一七六六年)においてである。これは、スウェーデンの視霊者スウェーデンボルグを論じた論文である。彼は基本的に、視霊という現象を「夢想」あるいは「脳病」の一種と見なしている。そこでは、ある思念が感官を通して外から来たかのように受けとめられている。だが、このヴィジョンはその鮮明さにおいて、知覚にあることがあるし、実際にそれらは区別できない。形而上学も同じことではないかと、カントはいう。なぜなら、形而上学は、なんら経験に負わない思念をあたかも実在するかのように扱っているからである。このエッセイは、その意味で「視霊者の夢によって解明されたる形而上学の夢」であるといってもよい。

 しかし、彼はスウェーデンボルグの「知」を否定すると同時に、それを否定することができない。霊という超感性的なものを感官において受けとることは、たんに想像(妄想)でしかないが、他方、霊が直観されるということは、構想力による錯覚が混じっているにせよ、それをもたらす霊の影響を推定することができないわけではない。しかし、カントは態度を決定できない。彼は、それを精神錯乱と呼んだにもかかわらず、「視霊者の夢」を真面目に扱わずにいられない。同時に、そのことを自嘲せずにもいられない。(中略)

 この『視霊者の夢』に、カントの「批判」の先駆を見いだせることはいうまでもない。すでに、ここで、彼は、主観によって構成された外部(現象)とそうでない外部(物自体)の区別について語っている。あるいは、恣意的な空想と、ヌーメナルなものを感性的に把握する構想力との区別――それはのちに、自由と自然を媒介するものとして「判断力」を措定することにつながるだろう。しかし、『視霊者の夢』を特徴づけるのは、たとえば、スウェーデンボルグを肯定すると同時に、肯定する自分を嘲笑するというような書き方である。坂部恵は、ここに、このエッセイに固有の「二義的」な態度を見いだし、次のように述べている。

 みずからのぎりぎりの信念に対しても、「心があらかじめ偏して」いる可能性を留保し、したがって、みずからのどんな「正当化の根拠」をも警戒することを止めない、というこの著作をいろどる二義性の究極の底にある態度は、けっして批判前期の過渡的なものとして割り切ってしまえるものではなく、むしろ、批判期には「実践理性の要請」とか、「実践的定説的形而上学」とかいう形でただちに普遍的なものとしてドグマ化されることによって、失われてしまった、きわめて積極的な貴重な本来の「知恵」あるいは、みずからをみずからたらしめる ratio(理性‐根拠)をもあえて疑問に付し、夢とうつつの区別すらさだかでなくなる無定形な不安のうちにたゆたうことをあえてする、最もラディカルな思考のあらわれと見なされるべきではないのか。これ以上の判断は、わたしは、カントにならって、読者にゆだねることにしたい。(坂部恵「『視霊者の夢』の周辺」)

 私はこの判断に同意する。》(同上)

・《私の『トランスクリティーク――カントとマルクス』という著作は、『視霊者の夢』からカントの可能性を見る坂部氏の本なしにありえなかった、といっても過言ではない。しかし、最初に『理性の不安』を読んだとき、私はむしろそれを文学評論として読んだのである。というのも、坂部氏は、カントの『視霊者の夢』に関して何よりも、「自己を嘲笑する」ことから始めるカントの書き方に注目していたからである。氏はそこに、ディドロやスターンの文学との共時的な類似を見出している。十八世紀の小説では、サタイヤや書簡体など多種多様な表現形式がとられたが、十九世紀に「三人称客観」の手法が確立したとき、それらは未熟な形式として抑圧されてしまった。

「三人称客観」の視点は仮構であるが、それはカントでいえば、「超越論的主体」という仮構に対応するものである。逆にいうと、カントが超越論的主体を仮構した時点で、小説に生じたのと同じことが哲学におこった。坂部氏がとらえたのはそのような変化である。『視霊者の夢』に見られるカントの「理性の不安」や多元的分散性は、『純粋理性批判』では致命的にうしなわれてしまった、と坂部氏はいう。カントの柔軟な思考と文体は、「学校の文体といわば妥協し、伝統的形而上学の枠どりに何らかの程度復帰して、自己の防衛と自己の思考の社会化に乗り出すと同時に、必然的に捨て去られることになる」(坂部恵「カントとルソー――時代に先駆けるものの喜劇と悲劇――」)。

 とはいえ、坂部氏は、『純粋理性批判』よりも『視霊者の夢』のほうが重要だといっているわけではない。坂部氏がいいたいのは、『純粋理性批判』あるいは「批判哲学」は、それよりも前の『視霊者の夢』から見るとき、別の可能性、つまり、近代哲学を超える可能性をもちうるということである。すなわち、坂部氏は、近代批判の鍵を、近代以前にさかのぼるかわりに、十八世紀半ば、すなわち、啓蒙主義ロマン主義の境目の一時期に求めたのである。そこでは、もはや啓蒙的合理性が成り立たなくなっている。にもかかわらず、そこであくまで啓蒙的スタンスを維持しようとするならば、「自己嘲笑」的なスタイルによってしかありえない。カントが『視霊者の夢』でとった文体は、そのような苦境が強いたものである。》(柄谷行人「近代批判の鍵」)

  

<サド>

――『閨房哲学』と『実践理性批判

・《ミシェル・フーコーは、『古典主義時代における狂気の歴史』において、サドの体現する「サディズム」という現象が、けっして、「エロスと同じだけ古い」ものではなく、まさに十八世紀のおわりという西欧の古典的理性の爛熟の時代に、「西欧的想像力のもっとも大きな転換の一つを構成する」集団的文化現象としてあらわれたのであること、すなわち久しく日常の理性的生活から隔離されいまや沈黙のうちに追いやられた「非理性」が、今度は世界のなかに姿をあらわす形象としてではなく、「ことばと欲望」(discours et désir)として、いいかえれば、「魂の錯乱、欲望の狂気、欲望の再現のない専横における愛と死との狂気じみた対話」としてふたたび姿をあらわしたものにほかならぬことをいい、(中略)ジャック・ラカンは、”Kant avec Sade”と名づけられた卓抜な小論において、カントの『実践理性批判』とその八年後に出されたサドの『閨房哲学』(La philosophie dans le boudoir)を対比させながら、『閨房哲学』は、まさに、『実践理性批判』の世界の底にかくされた「真実」を示すものにほかならぬこと、すなわち、カントの道徳の自律的主体を構成する一切対象にとらわれぬ形式的命法としての道徳法則は、サドのいわば主体なき思考としての幻想世界を生んだ果てしのない一種求道者的な欲望と、じつは、同一の欲望の変換過程の構造のなかに、表裏の関係をなすものとして位置づけうるものにほかならないことをあきらかにする。

 これらの見方は、いずれも、十八世紀のおわりといういわば光の時代、理性の時代ののぼりつめた頂点といってもよい時期におけるサドの存在がけっして偶然ではなく、むしろ、時代の必然的裏面あるいは陰画の部分にほかならぬことを示す点において、軌を一にするといってもよいだろう。》(坂部恵『理性の時代――サドとカント――』p189)

・《ショックを与えて皆さんの目を開かせるために――そういうことは我々の進歩に不可欠ですが――ここでは次のことに注目していただくだけで結構です。つまり『実践理性批判』は『純粋理性批判』の初版の七年後、一七八八年に出版されましたが、その七年後の一七九五年、<テルミドール>(訳注:フランス革命期の一七九四年七月二七日(共和歴第二年テルミドール九日)にロベスピエール派を失脚させたクーデターのこと)の直後にもう一つの著作、『閨房哲学』と呼ばれる著作が出版されているということです。

 皆さんご存じのように、『閨房哲学』は様々な理由で有名なサド侯爵の著作です。彼のスキャンダラスな名声は、最初いくつかの不運に伴われていました。彼は二五年のあいだ囚われの身でしたから、彼に対しては権力が濫用されたと言うこともできます。(中略)サド侯爵の著作は、ある人々の目には一種の気晴らしの方法と見えるかも知れませんが、実はそれほど面白いものでもありませんし、最も評価されている部分などはきわめて退屈なものです。しかし、彼の著作が筋が通らないと言うことはできません。むしろそこではまさしくカントのクライテリアが、一種の反‐道徳とも言うべき立場を正当化するために強調されているのです。

 反‐道徳パラドックスは『閨房哲学』と題された作品においてきわめて筋の通ったやり方で擁護されています。ここにいらっしゃる方々を考慮すると、ここだけは是非ともお読みいただきたいのは、「フランス人よ、共和主義者たらんとせばいま一息だ」と題された部分です。

 この部分は、当時革命下のパリで暴れ回っていた小組織のパンフレットと考えられています。このアピールに続けてサド侯爵は、権威の失墜を考慮すれば――真の共和制の到来は権威の失墜からなるというのがこの著作の前提となっています――実現可能な一貫した道徳生活の最低限度とこれまで考えられてきたものとは正反対のものを我々の行動の普遍的格率とするように提唱しています。

 実際、彼はそれをなかなか見事に擁護しています。誹謗への賛辞が『閨房哲学』のこの部分の最初に見られるのも決して偶然ではありません。彼によれば、当然向けられるべきよりもさらに悪いものを誹謗は隣人に負わせるとしても、誹謗は決して有害なものではありません。というのは、誹謗は誹謗の企てに対して用心させてくれるからです。さらに彼は続けて、道徳的法則の基本的な命令を覆すことを徐々に正当化し、近親相姦、姦通、盗み、およびそれらに付け加えることのできるものすべてを褒めそやします。十戒が定めるあらゆる法の正反対を考えてみて下さい。そうすると首尾一貫したものが得られますが、それは最終的にはこうなります。「誰であろうと他者を我々の快楽の道具として享楽する権利を我々の行為の普遍的格率とすべし」。

 サドは、この法が普遍化されて、同意しようとしまいと、あらゆる女性を誰彼なしに自由に所有する権利をリベルタンに与えるとしても、逆にこの法は、文明化された社会が夫婦関係の中で課すあらゆる義務から女性たちを解放するのだということを、きわめて筋の通ったやり方で論証します。この構想は、サドが空想的に欲望の地平に措定している水門を全開にするものであり、誰もがその貪欲さを最大限に高め、実現することを要請されるということです。

 万人にこの解放がもたらされると、そこに現われるのが自然社会です。これに対する我々の嫌悪感は、カント自身が道徳的法則のクライテリアからは除外すると称したもの、つまり感情的な要素と見なすことができるでしょう。

 もし我々があらゆる感情的要素を道徳から除外し、我々を感情的に導くあらゆる案内を消去し失効させるなら、極限においてサドの世界は――たとえその裏面であり戯画であるとしても――あるラディカルな倫理、一七八八年に起草されたカントの倫理によって統治される世界の一つの可能な達成と考えることのできるものです。

 よろしいですか、リベルタンと呼ばれる人々が残した膨大な文献、快楽人間のそれに見いだすことのできる道徳の分節化のさまざまな試みにはカントの影響がはっきりと認められるのです。》(ラカン精神分析の倫理』(上)p117)

  

<オペラ>

――近代哲学/空想

・《オペラは「エキゾチックで不合理な気晴らし」であるというジョンソン博士の有名な見解は、オペラはもっとも高度な芸術形式であるギリシア演劇のもっとも低俗なカリカチュアであるというシェリングの主張とともに、オペラに関する通説となっていた。オペラが三世紀にわたって試みてきたのは、魅惑すること、想像的なものを使って誘惑すること、空想によって魔法をかけることであった。それに対して哲学の仕事は、このオペラの幻想と魔法からひとびとを目覚めさせること――その幻想と魔法を脱構築すること――であった。オペラと近代哲学が、十七世紀から二〇世紀にいたる同じ歴史的時間を生きてきたとは、なんと皮肉なことだろうか。

 オペラが哲学者とは相容れないものであるとすれば、ルソー、キルケゴールニーチェは、この一般論における例外である。二つの精神をもった男ルソーは自分でもオペラを書いており、彼のオペラ『村の占い師』は、今日でもときどき上演されている。キルケゴールはオペラに心底魅了されており、そのため彼にとってオペラは、美学的で官能的な魅惑を引き起こすパラダイムとなっていた。しかし、だからこそ彼は、倫理的なもの、宗教的なものへと上昇することによって、最終的にそのパラダイムを首尾よく乗り越えることができた。そしてニーチェは長いあいだ、自分の哲学はワーグナーのオペラにおいて実現されていると実際に考えていたのだが、最終的には、この誤信を仰々しく(別種のオペラ、ビゼーの『カルメン』に依拠しながら)撤回してみせたのである。》(ドラー『オペラは二度死ぬ』p14)

・《オペラは三世紀ものあいだ、神話的共同体という空想を上演するための特権的な場所であった。そしてこの上演によって(ベネディクト・アンダーソンのいう)「想像の共同体」は、「現実の」共同体のなかにあふれ出していった――はじめは絶対君主制を支える空想として、そのあとは国民国家の基盤となる神話として。宮廷オペラは「国家オペラ」へと発展したのである。神話的共同体は、現実の共同体を構成するうえで必要な、糧となる空想――単なる現実の共同体の代替物やその神話的な写像ではなく、その原動力としての空想――を提供することができたのである。》(同上p18)

・《オペラの世界に入ったわれわれが扱わねばならないのは、哲学が取り組むにはあまりに馬鹿げてくだらないもの、しかし精神分析がみずからの課題として掲げてきたものである。つまりそれは、空想の論理である。そしておそらく、オペラの没落と精神分析の出現が時期的に一致しているのは偶然ではないのだ。》(同上p20)

・《オペラが誕生した世紀(筆者註:一七世紀。モンテヴェルディが一六〇七年に初演した『オルフェオ』)の変わり目は、二つの時代のあいだの、きわめて劇的な移行を表してもいる。音楽および芸術全般におけるルネサンスバロックのスタイルの違いは、比較的マイナーな問題にみえるかもしれない。というのも、その時代はガリレオデカルトの時代(ちなみにガリレオの父、ヴィンチェンツォ・ガリレオは音楽家であり、モノディの創設者のひとり、つまり古代悲劇の再生という思想の担い手のひとりでもあった)、すなわち近代科学が誕生し、近代的主体の基盤となる構造が出現し、ブルジョア社会の創始と勃興――そのもととなる要素は数世紀前につくられていた――が集中的かつ顕著に現れた時代であるからだ。オペラは、この時代の支えとなった新たな空想を提供したのであり、その途方もない力が一般的に理解されるまであまり時間はかからなかった。劇場という空想のメカニズムは、その単純さゆえに強烈な力をもつわけだが(実際、舞台とは、ラカンのいう「空想の窓」のフレームを形成する必要最小限の身ぶり以外の何であるというのか)、それは音楽という要素、世俗を超えた世界へじかに上昇していく要素によって、超越性やユートピア的な和解の場へと祭り上げられる。音楽は、あらゆる芸術のなかでもっとも時間に縛られたものであると同時に、レヴィ=ストロースが書いているように、神話のような「時間を抑圧する機械」でもある。》(同上p23)

 

――オペラ・セリアとオペラ・ブッファ

・《モンテスキューによれば、君主は最高位の審判者になるべきではない。そうではなく、君主は、真の<他者>という比類なき存在としなければ機能できない。しかし君主は、法の上に位置する最後の審級である。彼はひとつの例外という位置を占めており、だからこそ、みずからも例外的行為を行えるのである。オペラ・セリアが目指しているのは、まさにそうした崇高の瞬間、愛という次元が開かれる瞬間である。慈悲の行為は、法を超えた愛の証となる。慈悲の行為は、その見返りに愛を要求する。そして愛の真の媒体となるのは音楽なのである。》(ドラー『オペラは二度死ぬ』p50)

・《オペラ・セリアは、主体と<他者>、社会とそれを超越したものとのあいだの距離を基盤にしている。オペラは、この二つのものが象徴的に交換される空間を舞台にしてはじまり、両者の距離が慈悲の行為を通じて崇高なかたちで保証されたときに終わる。民主主義的なジャンルであるオペラ・ブッファは、一般的な人間社会に枠を限定したうえで平等という視点を提示する。オペラ・ブッファの武器は、個人としての人間性とその社会的地位とのあいだに齟齬がある人物、一般的な人間社会の仲間入りをする資格のない人物を嘲笑することである。確かに、これは両者の対立のおおざっぱな、図式的な記述にすぎない。》(同上p59)

 

 モーツァルト

――多様性/フィナーレと二つの世界

・《彼(筆者註:モーツァルト)の一七八〇年八月二六日の日記の断片(正確には、彼が妹の日記帳に書いたメモ)を引用することにしよう。

post prandium la sig'ra Catherine chéf uns. Wir habemus joué colle carte de Tarock. Á sept heur siamo andati spatzieren in den horto aulico. faceva la plus pluchra tempestas von der Welt.

 昼食のあと、カテリーヌ夫人がやってきた。ぼくらはずっとタロックカードをして遊んだ。七時に庭に出た。この世で稀に見る素晴らしい大あらしだった。

 この断片のもつ圧倒的なユーモアと魅力は、ひとつの文を構成する単語一語一語に、ドイツ語、イタリア語、フランス語、ラテン語といった異なる言語が使われているという単純な事実からきている。モーツァルトは、正式な教育を受けなかったにもかかわらず、三ヵ国語を流暢に使いこなし、その三ヵ国語を駆使して巧みな言葉遊びをすることができた。そうした彼の瞠目すべき余裕と感受性にまさるものは、彼の音楽的才能だけであった。

 この引用の狙いは、モーツァルトの音楽全体、とくに彼のオペラはこの断片と同じように解釈されるべきであるという仮説、すなわち、それは種々多様な伝統――イタリア・オペラ、ドイツのジングシュピール、フランスのギャラント様式、ローマ・カトリックの教会音楽――の組み合わせ、より合わせとして解釈されるべきであるという仮説を提示することである。》(ドラー『オペラは二度死ぬ』p61)

・《モーツァルトはそれぞれのオペラ作品において、異なる伝統同士の衝突だけでなく、それらの伝統におけるイデオロギー的、構造的前提をも緻密に提示していった。この変化を考察するうえでもっとも示唆的な要素は、オペラの最後の瞬間、つまりフィナーレである。それこそは、二つの論理がぶつかり合う場である。(中略)オペラの結末になると、主要人物は一堂に会し、プロット上の緊張は高まり、オペラのテンポは上ってゆく。しかし、結末に向かって出来事が次々に起こってゆくさなかにあっても、すべての人物はアイデンティティを保っており、明確に見分けがつくようになっている。そのようなフィナーレを可能にした装置、それはアンサンブルであった。

 音楽は、モーツァルトのアンサンブルにおいて新しい機能を獲得する。それは、もはや<他者>に向けられた悲嘆として歌われるアリアではないし、感情表現の瞬間、つまりアクションの一時的な停止状態でもない。それは、以前からあった二重唱(あるいは、稀ではあるが三重唱や四重唱)のような二重化されたアリアでもなく、全体的な共鳴状態をつくりだす合唱、個を超えた共同体という媒介物でもない。アンサンブルの発明によってもたらされたのは新しい共同体であり、そこでは、すべての人物が自分の個性、自分のモチーフ上のアイデンティティ、自分のリズムとメロディを保持しながら、なおかつひとつのアンサンブルにおいて他者と向かい合い、他者と対立するが、しかし同時にこの対立をアンサンブルを通じて解決する。そしてその際には、全体の調和も維持されるのである。》(同上p65)

・《モーツァルトのフィナーレを概括的にとらえるうえで有効な第二の要素は、モーツァルトが、伝統によって提示された前提条件同士の対立をいかに解決しているかということである。モーツァルトの全作品は明らかに啓蒙主義に属しており、オペラ・ブッファの主題もまたそうである。その論理は、上からの慈悲という崇高な行為に起源をもつもの、共同体を超えた超越的な審級に基礎づけられたものとはまったく対照的である。したがって、この特異な歴史的、音楽的契機は、二つの哲学、二つの社会理論、さらにいえば「二つの存在論」の出会いと対立を表している。個人はすでに(啓蒙化された)主体であるにもかかわらず、慈悲という枠組みは、依然として一般的な参照枠として維持されているのである。》(同上p69)

・《モーツァルトのオペラには、二つの世界が共存している。ひとつは、みずからの勝利にうかれている、いままさに創造されつつある世界。もうひとつは、いまなお完全には消滅しきっていない世界である。後者の世界は、その実質を失ってはいるものの、依然としてその輝かしい形式を保持している。モーツァルトのオペラにおいて、この二つの世界およびその基本となる二つの原理は、音楽によって支えられたユートピア的な和解を達成しているようにみえる。モーツァルトのオペラが舞台上で描き出すのは、ブルジョア的世界が非全体主義的な共同体のなかで神話的なものを出発点にして勃興してくる様であり、そしてもちろん、それ本来のあり方からずらされた慈悲の論理――これは前者と結合あるいは共存し、穏やかな調和を形成しているようにみえる――これは、ヨーロッパ史におけるユートピア的な一時代であった。そこでは啓蒙主義と伝統とのあいだの、二つの存在論、二つの社会理論のあいだのどっちつかずの調和が可能であったように思われるのである。しかし、それと同時にモーツァルトのオペラは、この調和の限界を提示している。彼のオペラは、みずからの価値を評価し、みずからの矛盾した前提条件を指摘しているのである。》(同上p161)

 

 <『フィガロの結婚』>

――啓蒙主義と封建主義/慈悲と放蕩、和解と赦し

・《『フィガロ』のプロット全体は、主人と従僕の境界線を破ることに関わっている。

 伯爵の置かれた立場は二重である。一方において彼は――ハーレムという専制君主的な権利を彼に保証するあらゆる特権の源泉、つまり初夜権を含む――自分の特権を公的かつ形式的に無効にしたいと思っている。それによって彼は、慈悲に満ちた寛大な行為を通じて自己を正当化できるからである。実際、第一幕において臣下たちは、合唱によって伯爵の寛大さに謝意を表すのである。だが、他方において彼は、特権を維持すること――公的な慈悲と私的な放蕩を両立すること、封建主義的かつ(・・)啓蒙主義的な主人になること――を密かに望んでいる。伯爵の適役であるフィガロの社会的身分は、当然ながら伯爵よりも低い。しかし、彼は最終的に、従僕という役割においてまさに主人を打ち負かすのである。和解は身分差の解消を通じてはじめて達成される。(中略)しかし、もっとも重要なのは、最後の和解が古典的な慈悲の行為によって成し遂げられるのではないということである。和解のメカニズムは根本的な変容を遂げ、文字通り逆転されている。それはもはや、神によって与えられるgrazia(慈悲)、君主や貴族によって示されるclemenza(寛大な措置、雅量)、臣下が請い求めるpietà (同情、慈悲)とは関係がない。それはむしろ、perdono(寛容pardon、赦しforgiveness)に関わっているのだ。赦しとは人間的な慈悲であり、そこではもはや[赦しを与える側と受ける側を隔てる]距離が保たれる必要はない。それは、ひと同士のつながりを作り出すこと、[超越性ではなく]内在性を肯定することに基づくのである。赦しは、世俗化された慈悲、人間が人間に対して示す慈悲である。赦しこそが、[『フィガロ』の終わりで形成される]共同体を平等の共同体にするのである。》(ドラー『オペラは二度死ぬ』p79)

・《「みなこれで満足できよう」――これはブルジョア的共同体の、驚くべき強度をもったユートピア的瞬間であり、和解と平等の瞬間、自由、平等、博愛の瞬間である。革命はすでにはじまっている。侍女に変装した伯爵夫人が伯爵に赦しを与えたとき、主人はすでにその地位から転落し、共同体の一員になっているのである。『フィガロ』の三年後に起きたフランス革命は、ただ主人の抜け殻を処理するだけでよかった。主人はすでに舞台の上で、みんなに見守られながら死んでいたのだ。殺されるのではなく、赦しを与えられたことによる死。それによって主人の死は、なおいっそう確かなものになるのである。そしてバスチーユはすでにその力を失っていた。ナポレオンは「フィガロの結婚はそれ自体ですでに革命の実践である」といい、また、自分が統治しているかぎり、ボーマルシェは監獄で一生を終えることになると断言したわけだが、それはすこしも不思議なことではない。》(同上p81)

・《オペラにおける哲学について語ること――ここには、その最高の例がある。ヘーゲルの『精神現象学』、とくにそのなかの精神を扱った章には、この赦しの瞬間に対応するものがある。その章はこの作品の中心となる章であり、「良心――『美しい魂』、悪、悪の赦し」というセクションで結ばれている。ここにおいて赦しは、精神の最高次の現れ、精神の最高段階としてとらえられている。ヘーゲルの考えでは、赦しにはUngeschehenmachenの力、つまり「[あること]をなかったことにする」力が備わっている。それゆえに「精神の傷は癒え、傷跡も残らないのである」。共同体をまとめる力と分解する力との弁証法が、赦しを通じて、共同体をまとめる新しい力に生まれ変わるという事態は――私はここで哲学用語を散発的に用いている――ヘーゲルの『精神現象学』のこの部分に見出すことができる。そしてこの事態は、『フィガロ』のフィナーレにおいて、これみよがしに音楽化されているのである。》(同上p82)

 

――セクシュアリティ/ケルビーノ

・《『フィガロ』にはもうひとつの軸、ジェンダーの軸があり、そこからは、モーツァルトのオペラにおけるセクシュアリティ構造と政治学の問題が出てくる(モーツァルトのオペラにおいては、すべての政治学が性の政治学であることを銘記しよう。それは、支配関係とも交叉するオペラのロマンティックな筋立てを背景にして展開されている)。伯爵とフィガロは、主要人物として対立しあう存在であるかもしれないが、その対立の解決は、第二の軸――それは伯爵夫人とスザンナとの関係によって規定される――を通じてはじめて可能になる。(中略)すべての糸を操っているのは、結局のところ女たちなのである。音楽的にもドラマトゥルギー的にも、モーツァルトの心は女の側にある。伯爵夫人は、赦しという崇高な行為を行う主体であるだけではない。彼女は、紋切り型と化したオペラ的な失望の身振りに頼ることなく、あらゆる面において威厳を保ち続ける人物でもある。またスザンナは、最大の共感をもって描かれている。(中略)また『フィガロ』のフィナーレは、和解の行為と主人の没落は女を通じて実現するという要点を提示している。主人の没落を引き起こしたのは、小賢しい反抗的な従僕ではなく、女である。したがって、従者であり女でもあるスザンナは、このオペラの中心に位置する存在である。女性的要素が、共同体全体のあり方を決めるひとつの特徴として全体を媒介する要素とならなければ、共同体は生み出されないのである。》(ドラー『オペラは二度死ぬ』p86)

・《オペラ全体のセクシュアリティ構造は、ケルビーノという人物によって複雑になっている。二組のカップルが四角形を形成しているときに(そして仕上げにバルトロとマルチェリーナのカップルがこれに加わるときに)、まったく存在する必要のない、それでいながら話の展開の中心にいるこのケルビーノという人物がこの四角形に付け加えられる意図は何かという疑問、それがここで浮上するのである。(中略)このように、一方においてケルビーノは――フロイトの言葉でいえば――Störer der Liebe(恋路をじゃまする者)、ロマンティックな計画を妨害する厭わしい要素である。また他方において彼は、クピド(キューピッド)とアモルのイメージ、セクシュアリティの卓抜な象徴でもある。彼は、相手が伯爵夫人だろうと、スザンナだろうと、バルバリーナだろうと、同じように言い寄ってゆく。対象を差異化しない彼の性的欲望は、女性という類そのものに向けられているのである(のちにキルケゴールは、ケルビーノのなかに「若き日のドン・ファンの肖像」を見出すことになる)。彼は、セクシュアリティの世界に足を踏み入れながら、子供と大人の閾に立っているが、それと同時に男と女の境界線の上にも立っている。彼の役が女性歌手――ドイツ語でいうズボン役Hosenrolle(ズボンをはいた女)――のために書かれているというだけではない。物語を急展開させる重要な契機は、彼の女装――『ヴィクター/ヴィクトリア』の十八世紀版のような、女の格好をした男を演じる女――によってもたらされるのである。彼のキャラクターは、クピドと(ケルビーノの親愛のこもった指小辞として用いられる)ケルビムが奇妙なかたちでひとつに圧縮された状態を表している。つまり、彼においては、性的欲望が純粋なナルシシズムと一致するように(フィガロは彼のもっとも有名なアリアのなかで、ケルビーノをナルキッソスアドニスになぞらえている)、性とは無関係の天使とセクシュアリティそのものの象徴が一致するのである。セクシュアリティの目覚め、セクシュアリティの神話的起源、性と性のない状態とのあいだの境界、男と女のあいだの境界――彼は、そうしたフェティッシュの凝縮状態の生きた事例なのである。また、それと同時に彼は、セクシュアリティそのもの、セクシュアリティの本質を具現するだけでなく、主人の誘惑行為の成功を妨げるセクシュアリティにおける障害、躓きの石を具現してもいる。ここに変装という要素を加えれば、精神分析においてファルスの要素を定義する上で必要なものは、すべてそろうのである。》(同上p88)

・《私は拙著“地獄への黒い船”の中で、キューピッドは男根崇拝の最も集約的な象徴なので、彼のサイズについての伝説の不確かさは、そのこと自身、勃起と膨張の力を象徴している、と主張した。ケルビーノの胸さわぐアリア<もうわからない>(non so più)は、いわばペニスの独白である。「ぼくはなにものか、なにをしているのか、もうぼくにはわからない。一瞬、火と燃えるかと思えば、次の瞬間には氷となる。女と見ればぼくの色は変わり、ぼくの胸は騒ぐ」(一幕第六番アリア)》(ブローフィ『劇作家モーツァルト』p132)

・《第一幕でケルビーノは大胆にも、伯爵夫人、スザンナ、そして城館のすべての女たちに彼が作った小唄が披露されるように求め、感極まって彼の心は乱れに乱れる。この聴覚を通じた接触によって、彼の心は高鳴る。未来の歌の希望は恋心で満ち溢れる状態であり、アジタートへ道をひらく。「ぼくはもう分からない、自分が何か、何しているのか」(Non so più cosa son,cosa faccio)……あたかも即興で作ったかのように、この歌は奇跡的な剰余を響かせるのだが、そこでは肉体と物体にとどまることなどありえないエネルギーが消費されまた新たに息を吹き返すのだ。激情に駆られてはるか遠くの空間めがけて飛翔する愛の欲望は、最終的には自分自身に立ち戻るのだが、それは逃げ去るものの彼方にある目標に到達する必要があるからなのだ。》(スタロバンスキー『オペラ、魅惑する女たち』p108)

 

――逸脱と回帰/階層と変装

・《回帰。再認。昔ながらの作劇法の法則が見出される。だが音楽という名のもう一つの時間芸術についても同じことが当てはまる。ディドロによれば、作曲は一連の逸脱と回帰の法則によって統括されなければならない。モーツァルトはこのオペラの幕ごとの調性およびオペラ全体の調性に関して、そのとおりのやり方で臨んだのである。新たな愛の幻に翻弄されたあげく、伯爵は本当の妻の足元にひれ伏す。不貞の罠にはまり、鳥刺し(uncelatore)は自分で鳥かごのなかに入ってしまう。そして混乱のきわみに達したあげく、最後には秩序が戻る。伯爵が欺かれたとしても、それは召使やお小姓のせいではない。自分の欲望の対象そのものによって欺かれたのである。ニ長調は岸辺であって、いったんそこから離れたとしても、最後にまた上陸する陸地でもあるのだ。

 このように時間は軽々とした足取りで走り去り、そのあいだに気紛れと取り違えの増殖をたえず絶体絶命の状況に引き込んでゆく。瞬間が瞬間を次々と消し去り、捉えがたい未来に向かってゆく加速度的で密な展開にあって、見出された秩序はそれじたいが偶然の出来事でしかなく、サスペンスのための余地もまた用意されている。》(スタロバンスキー『オペラ、魅惑する女たち』p88)

・《ダ・ポンテとモーツァルトはたとえ登場人物の数を原作の十六人から十一人に減らしても、さまざまな社会的身分からなる一世界、種々の情念の広い音域を動かす余地をちゃんと残しておいた。

 彼らはボーマルシェが登場人物を動き回らせる空間をそのまま利用した。庭師から伯爵にいたるまで、あいだには医者(バルトロ)や裁判官(ドン・クルツィオ)、フィガロや「黒い帽子、僧衣と長いマント」(それによってボーマルシェオルガニストに多少なりとも聖職者風の雰囲気をあたえている)といういでたちの音楽教師バジリオを挟んで、さまざまな社会階層の人々がじつにみごとに表現されている。貴族は伯爵だけであり、バスからソプラノまで、自分の声を明確に聞き届かせる民衆(合唱)に対峙する。第三身分、僧侶、貴族、すなわち一七八九年の三部会の役者がすべて出揃って、陽気な無意識のなかで舞台稽古をしようというわけだが、その役割とは、大革命の幕が上がる際には、まったく違った獲得目的のために再び彼らが演じるはずのものだったのである。

 誰も自分本来の居場所に留まろうとはしていない。誰もが快楽のため、金銭のため、城館の階段を上ったり降りたりする。ケルビーノの場合には飛び降りたりもする。伯爵とケルビーノは恋敵として庭師の娘の部屋に出入りする。彼らは庭師の姪であるスザンナの部屋でも鉢合わせをする。庭師が踏み潰されたナデシコを手にして主人たちが住まう城館の一角に飛び込んでくる。伯爵の伝言を携えたバジリオは何も見逃さない。世の中の動きを窺い見ることに慣れてしまった彼は自分でも経験十分と思い込み、やがて「哲学者」ドン・アルフォンゾがそうするように、「すべての美しい女たちはこうしたもの」(Cosí fan tutte le belle)と口にする。小さな「蛇」、「悪魔のようなお小姓」、小悪魔(demonietto)すなわちケルビーノはといえば、うまい具合に偶然も味方に引き入れ、どこであろうとも、巧みに身を滑り込ませる。彼は最初の場面が始まる以前に暇を出されているのだが、こっそり舞い戻り、衣裳をとっかえひっかえ段々と近くに姿をあらわし、騒動を起こし、皆を困らせ、彼が通り過ぎたあとには、じつに独特な苛立ちが生じる。ケルビーノのうちに見るべきは、特定の対象に密着できず、宇宙全体に向かう、定まった居場所をもたぬエロスの姿であって、彼が登場すれば厄介事が生じ、彼の接吻は夜の闇の混乱にまぎれる。(中略)この城館では跨ぎこしてはならない敷居というものがない。どの人物も、必要とあれば、役柄を取り替えることができる。ケルビーノの場合は男女の性を取り替え、マルチェリーナの場合は結婚相手から母親へと役柄を変える。》(同上p93)

 

――欲望の代数学

・《誰もが自分なりに恋心を燃やし、愛の姿は一様ではないが、それに見合った音楽を得ている。複数の形態をもつ欲望のイントネーション、そしてまたありとあらゆる種類の情念のアクセントに場は自由にひらかれている。あらゆる状態の愛のかたちから出発して、陽気さ、メランコリー、色欲、恐れ、抜け目なさ、虚栄心、後悔、赦しなどがそれぞれ場を得るのである。

 われわれは眼と耳をもって感情の小宇宙が回転するのを体験する。奇跡とも思われるようなかたちで、この小宇宙は独自の律動、響き、音色を見出すのである。伯爵の貴族としての怒りは、フィガロの場合の反逆の怒りとは別の感情の領域に位置していて、心の痛みと恨みを深くとどめている。モーツァルトがただひたすら待ち受けていたのは、このように自分にしなわっていると彼が意識していた表現能力をことごとく作品に投入する機会だった。》(スタロバンスキー『オペラ、魅惑する女たち』p96)

・《幕が開いた瞬間から、序曲の躍動はフィガロが歌う「五……十……二十……三十……三十六……四十三……」(Cinque…dieci…venti…trenta…trentasei…quarantatre…)の最初の音符にすでに伝わっていた。みごとな律動によってもたらす陶酔が認められる。上昇音階はそのことをみごとに表現している。それは欲望の代数学であり、数によって象徴される男性的欲望なのである。すべては計算に始まる。それは計算可能な現実への従属というよりも愛の快楽への期待、愛の膨張によって運ばれる計算を意味しているのだ。モーツァルトにあっては力動感が何と強まっていることだろう。ボーマルシェの原作の冒頭にあらわれる無味乾燥な「二十六ピエ☓十九ピエ」と比べると何と違いが際立つことか。》(同上p98)

 

――フェティッシュな表象

・《夢の出来事のように、女性の化粧(ボードレールの表現によるならばmundus muliebris)に関係する品物のすべてが、沸き立つような全体の動きのなかで置き換えを引き起こす。「オレンジの花の小さな冠」(ボーマルシェ)もしくは白の縁なし帽、つまり最初の小二小節で歌われるスザンナが結婚式のために作る帽子(モーツァルトとダ・ポンテ)は午後の儀式の際には伯爵の手でもってスザンナの頭の上に置かれることになるだろう(第三幕第十四場)。それらは夜の闇のなかで伯爵夫人がかぶることになるだろう。花に誘われる蝶のように(第四幕第十一場)、ケルビーノは取り違えてしまうし、伯爵もまた同様だ。それは舞台の明るい中心点をなしている。

 これとは別の女物の装身具にリボンがある。もともとは伯爵夫人の持ち物なのだが、ケルビーノはこれをスザンナの手から奪い取る。お小姓はこのリボンを腕に巻き、引っかき傷のせいで出た血がそこに染みをつくる。伯爵夫人がよく理解したように、貴重な接触であり、彼女はその回帰を願う。でなければ、なぜ伯爵夫人は第二幕で、他のリボンと交換するという口実のもと、躍起になってこのリボンを取り戻そうとするのだろうか。ケルビーノは伯爵夫人と間接的に肉体の接触があるのを望んでいたわけであり、伯爵夫人は彼女の代子のようなケルビーノが流した知の滴にわが身で触れていたいと思うのである。指標は雄弁に語り、魔術の伝染力をおびた官能の儀式は無言のうちに執り行われる。》(スタロバンスキー『オペラ、魅惑する女たち』p101)

・《化粧小部屋に閉じ込められたケルビーノを伯爵は剣でもって威嚇するわけだが、女性陣のほうは剣ではなくてピンで応じる。切っ先には切っ先をもってというわけだ。ピンの刺し傷は、周知のように、「甘美な痛み」であり、事細かに痛みのある箇所がわかる。(中略)第一幕第五場のレチタティーヴォで、ケルビーノは伯爵夫人の衣裳と髪の世話をするスザンナの特権をうらやむ。「なんと幸せなんだろう[……]朝は彼女の身繕いのお手伝いをし、夜は夜で衣裳を脱ぐお手伝いをする、ピンやら刺繍レースをつけてあげたりする」(Ferice[…]che la vesti il mattino,che la sera la spogli,che le metti gli spilloni,I merletti)。(中略)婚礼の宴が最高に盛り上がった瞬間、このピンは不実な夫を突き刺すことになるだろう。(中略)伯爵はスザンナの頭に処女のあかしの帽子をかぶせてやろうとすると、密会の手紙を滑り込ませようとするスザンナの手にそのとき触れる。伯爵の指に刺し傷ができる。そして彼はすぐに相手が自分を待っているのだと理解する。「女たちはどこでもピンを用いるわい……ああ、ああ、わかったぞ目論見が」(Le donne ficcan gli aghi in ogni loco…Ah! Ah! Capisco il gioco)。》(同上p103)

  

<『ドン・ジョヴァンニ』>

――「欲望に対して妥協しないこと」

・《ドン・ジョヴァンニフィガロとのあいだには、直接的な関係がある。この関係から生じるのは、モチーフを敷衍し極端なかたちに変えることによって起こる関係全体の転倒である。ドン・ジョヴァンニとは、伯爵がそうなりたいと思っていながら意気地がなくてなりきれないでいるものの総体である。おのれの欲望をすべて実現させた伯爵、それがドン・ジョヴァンニなのだ。(中略)いかなる欲望も断念せず、世のすべての女性を手中に収めることを望む大胆不敵な主人ドン・ジョヴァンニは、快楽原則の彼岸へと向かう契機を表わしている。それこそが彼のパラドクスである。彼は、快楽原則を断念することなく徹底的に追及することによって、この原則をその極限にまでもってゆく。つまり、この原則を、そのためになら命を懸けても惜しくないと思えるような倫理的姿勢に変えるのである。この倫理的姿勢は、既存の体制と、その道徳的原則および宗教的議論に反抗する主体の絶対的な自律性を示している(伝統的にドン・ファンは、女たらしとしてだけでなく――それだけであったなら、彼は最悪の人間とはされなかっただろう――無神論者としても描かれてきた)。彼は人間の道徳律と<神>の命令に背くだけではない。彼は、アンティゴネがいう意味での「神の掟」をも破っているのだ。すなわち、彼は、死者の埋葬、死者の不可侵性、死者の神聖さを規定する法を破るのであり、死者に割り当てられた象徴的な場所を踏みにじるのである。》(ドラー『オペラは二度死ぬ』p90)

・《ドン・ジョヴァンニは、「欲望に対して妥協しないこと」(のちにふれるように、これはキルケゴールが知っていたことである)というラカンのスローガンに則して読むことが可能であるような倫理的立場をとっている。彼に関してわれわれを当惑させるのは、彼が膨大な数の女性と関係をもったということではなく――それぐらいのことは貴族ならあたりまえだろう――彼が快楽の追求を倫理原則のレヴェルにまで、それを断念するくらいなら死んだほうがましだという次元にまで高めたことである。

 ドン・ジョヴァンニにとって、和解や慈悲は存在しない。『フィガロ』のフィナーレと比べると、状況が逆転している。(中略)ドン・ジョヴァンニのなかには二つのものが凝縮されている。一方において、彼は旧体制の典型である。これは伯爵と共通するが、ただしドン・ジョヴァンニのほうは本心を隠したりせずに、欲望の実現に向けて突っ走る。彼は絶対的な特権、初夜権ius primae noctisだけでなく、すべて夜の権利を要求する。慈悲と寛容を隠れ蓑にしなければならない主人とは対立する、あるいはそれよりも情けない、自分から赦しを求めなければならない主人とは対立する本物の主人――彼は、そうした古風な主人のイメージとして登場するのである。したがって彼は、啓蒙主義運動の敵ともいうべき、旧体制の特権的な権利を具現している。また他方において彼は、啓蒙主義の土台である自律的な主体を具現している。彼は自らを立法者とし、ただ自分の欲望だけに付き従ってゆく。結局彼は、ブルジョア主体にはとうてい真似できないほど根源的=急進的なやり方で旧体制に反抗しているのである。『フィガロ』は自由、平等、友愛の精神をもって幕を閉じる。それに対して、ドン・ジョヴァンニにとっての自由は、平等と自由を超えたところに、そして平等と自由に対立するものとして設定されている。自由は、純粋な自由が邪悪な悪と一致する場所に置かれているのである。》(同上p92)

 

 <『コシ・ファン・トゥッテ』>

――当惑と不信感

・《『フィガロ』のフィナーレは、ブルジョア体制の喜びにみちたユートピア的なはじまり、君主の退位、音楽におけるフランス革命、新たな共同体における和解を提示しながら、「これでみな満足できよう」と請け負ってみせる。しかし、それからわずか一年後、『ドン・ジョヴァンニ』のフィナーレは、新しい局面を提示する。つまり、旧体制のあらゆる特権を体現する放蕩者との和解は不可能であるという局面を。この放蕩者にとっては、慈悲や赦しは存在しない。彼のもつ絶対的な自律性、社会の基本的な価値観を疑問に付す彼のラディカルな身振り、彼のみせる倫理的な姿勢――こうしたものと和解することは不可能なのである。彼は、旧体制の放蕩とジャコバン急進主義とを合わせもった人物である。共同体は、超越的なものの回帰によって、父性的な人物の家父長的な権威や<彼岸>からの報復が復活することによって、はじめて救済される。この結末は、共同体を救済するというよりは、むしろ破壊する。輝かしい未来には、暗雲が立ちこめるのである。

 モーツァルトの次の作品、『コシ・ファン・トゥッテ』は、まちがいなく彼の全オペラ作品のなかでもっとも奇妙な作品である。過去二世紀のあいだ、この作品はつねに見る者を当惑させてきた。》(ドラー『オペラは二度死ぬ』p112)

・《不信感の理由は、はっきりしている。この作品は心理学的な信憑性を欠いており、不自然な偏った作り方がなされている――それが第一の理由である。二人の女性は、なるほどまぬけで愚かなのかもしれない。しかし、彼女たちがアルバニア人の男に偶然会ってから数時間しかたっていないのに彼らに身をあずけ、お粗末な策略にはまってしまうというのは、いささかやりすぎだろう。(中略)『コシ』は、オペラにとって都合のよい、遠く隔たった何らかの神話的な時空間に舞台が設定されていない(とくにオペラ史の初期における)数少ない作品のひとつである。またそこには、神も君主も登場しない。作品の舞台は完全に同時代に置かれているのだ。アクションは、ナポリ風のアパート、庭、カフェといったブルジョア的な舞台で起こっている。この作品にかぎっては、観客は自分たちと何ら変わらない人物を目にするのである。『コシ』が不自然であるという印象は、二組のカップルが対称的な関係にあること、そしてオペラ全体が対称を意識した構成になっていることによって強まっている。(中略)『コシ』が話題にされなかった第二の理由は、物語のあからさまな不道徳性にあった。『フィガロ』と『ドン・ジョヴァンニ』が、すくなくとも表面的には、軽薄な放蕩者を非難し罰するのだとすれば、『コシ』のほうは、いかがわしい行為を容認しているようにもみえる。この作品が証明しようとしているテーゼは、愛、貞節、忠誠といった高尚な、不可侵の価値観を疑問に付してしまう。(中略)三つ目の躓きの石は、近年出てきたものであり、作品がつくられた当時は、そこから多くの問題が発生するようなことはおそらくなかっただろう。『コシ』には、女は本質的に不義を犯すものであり、その貞節も疑わしいという反フェミニズム的な視点が盛り込まれている。》(同上p114)

 

――人間機械論/贈与から交換へ

・《哲学者(筆者註:ドン・アルフォンソ)は、単なる快楽主義を超えたその先にあるものを見ており、ラ・メトリの『人間機械論』に代表される、一八世紀哲学の唯物論的、決定論的思考をみずからの足場にしている。決定論は、自由と表裏一体の関係にある。熱烈な賞賛をもって迎えられた自律性の背後には、無機的な機械がひそんでいる。自律性というもっとも崇高な感情は、機械的に生み出される。つまり、経験的に、人工的に喚起されるのである。自由を熱烈に賛美した一八世紀が、その反面で機械的なものに魅了されていたということ――すこしだけ例をあげていえば、帽子をかぶったデカルトの自動人形と、知らず知らずのうちに精神をもって動いているパスカルの自動人形からはじまって、ラ・メトリとヴォーカソンに移り、最後にホフマンのオリンピアにいたる流れ――は、きわめて逆説的な事態にみえるかもしれない。機械仕掛けの人形は、自律的な主体性の隠喩であり、また自律的な主体と対比されるものでもある。(中略)そして過去二世紀のあいだ、『コシ・ファン・トゥッテ』の批評としてもっとも頻繁にいわれてきたのは、まさに『コシ』の主要人物は単なる人形にすぎない、ということなのである。》(ドラー『オペラは二度死ぬ』p119)

・《『コシ・ファン・トゥッテ』は、マリヴォーがややもすれば曖昧に提示しがちであったメッセージを過激なかたちで押し出している。それは、愛はすべてを打ち負かすのではなく、むしろ簡単にうち破られる、というメッセージである。愛を操作するのに手間はかからない。少々のねたみ、わずかな懐疑、受け入れないわけにはいかない愛の告白、ちょっとしたお世辞、自分の身を犠牲にするふり――こうしたものがあれば十分なのである。第一幕の終わりで、二人の将校は、みずからの愛が報われないことを理由に自殺するふりをする。すると二人の婦人は、彼らを哀れに思うことしかできなくなり、結局、策略におちてしまう。愛のなかには、予測しえない感情の集合というよりも、むしろ機械に近い何かが存在している。愛は実験によって誘発されるものであり、愛の発生は機械論的に予測可能なのである。》(同上p120)

・《策略をしたつけは払わなければならない。彼らは、自分たちでは制御できない装置をつくり、それに捕らえられてしまうのである。ここにあるのは、啓蒙主義にかかわる、もうひとつの大きな主題である。それは、自尊心、つまり自己愛に対する批判という、パスカルラ・ロシュフコーにはじまる長い系譜をもった主題である。自尊心は、現代的ないいかたでいえばナルシシズムへの一撃とでも呼びうるものを経験しなければならない。人間の本性を正しく理解するためには、自然のうちに発生する自己欺瞞を取り除かねばならない。愛とは、この自己欺瞞を隠蔽するための、いまひとつの仮面である。そして[『コシ』における]反フェミニズム的な視点は、その裏の面を表に出す。二人の若い男は、女たちの不貞を証明するためにみずからのナルシシズムを破壊しなければならない、つまり、おのれの自我を傷つけねばならないのである。彼らは、偶像としての、また特権化された愛の対象としての自分の地位がいかに造作なく崩壊するかということを経験するのである。ロココ的な悪巧みは、突然、苦痛と欺瞞をもたらす結果におわる。》(同上p121)

・《平等というスローガンは、『コシ』においては予期せぬ結果をもたらしている。平等とは、人同士の交換が可能であることを意味する。ひとりの女は他の女に等しく、ひとりの男は他の男に等しい。あらゆるひとは、他のひとに置き換えることができる。ここには、特権化された愛の対象も存在しない。「男はどれも同じもの、値打ちのあるひとなんかいやしませんもの」とデスピーナ(筆者註:侍女)はいっている。このひともあのひとも変わりはない、どちらも価値なんてないんだから、というわけだ。》(同上p124)

・《変装は、『フィガロ』の最終幕にも、『ドン・ジョヴァンニ』の第二のフィナーレにも出てくる。変装という、この遍在する複雑な操作の背後には、確固とした啓蒙主義的な考え方が存在している。それは価値観の見直しである。これは要するに、主人と従僕が社会的地位を交換するには、彼らの服を交換するだけでよい、ということである。人間を作るのは服である。疎外状況にある社会体制において基準となるのは、イメージであって、内在的な価値ではない。(中略)たとえば、ドン・ジョヴァンニはレポレッロと、伯爵夫人はスザンナと服を交換する。しかし、『コシ』にいたって状況は変化する。服装交換は、同じ身分の二人の主体のあいだで起こるのである。イタリア人にしてアルバニア人でもある二人の将校のあいだに、身分の差はない。彼らの変装は、ただ彼らの人間としての個性だけに、愛し愛される者としての彼らの特権的な地位だけにかかわっている。》(同上p125)

 

――「否定の否定」/倒錯と享楽

・《この哲学者は、冷笑家というよりも、むしろ道徳家である。みずからがもたらした最後の和解において、彼は、もともとの秩序を擁護している。その秩序がまったく恣意的なもので、二番目の秩序(筆者註:交換された恋人たち)をより良いというわけではないことが遡及的に明らかになったにもかかわらず、である。あるいはむしろ、にもかかわらず、ではなく、まさに(・・・)それゆえに、といったほうがよいだろう。哲学者という立場にふさわしく、彼は否定の否定を擁護する。つまり、最初の立場は、それと対象をなし、且つそれを逆転させた否定性(アンチテーゼ)と、すなわち、みずからの鏡像のような限定された否定性と出会うのである。(中略)既存の秩序はまったく恣意的なものであり、物語はその恣意性を明示してみせる。しかし、まさにそのかぎりにおいて、その既存の秩序は、みずからに対する自己否定となっている。そして、この恣意性に対する唯一の対処法は、その恣意性を無条件に受け入れることである。このようにしてドン・アルフォンソは、一方の手をラ・メトリに、もう一方の手をヘーゲルに差し出すのである。》(ドラー『オペラは二度死ぬ』p128)

・《『フィガロ』においては、無垢な者は、罪を犯した者を赦すことにおいてみずからの寛大さを示していた。しかし、『コシ』においては、誰も無垢ではない。モーツァルトが崇高の瞬間を、欺瞞のもっとも高まる場面のただなかに置かねばならなかったのは、そして最後の身振りを曖昧なままにしておかねばならなかったのは、おそらくそのためである。『コシ』における和解には、Ungeschehenmachen(物事を遡及的に無化すること)の力――それは、乾杯の場面においては、まやかしの徴候としてぼんやりと現れていた――が備わっていない。フィナーレは支離滅裂であり、説得力も欠いている。つまり、それはアンチクライマックス[漸降法]になっているのである。》(同上p129)

・《哲学者は、<他者>の、普遍的知の代理として行動している。彼は、普遍的なテーゼを証明するために科学的な実験をはじめるのだ。しかし、この実験には、どこかしらいかがわしいところがある。すなわちそれは、彼の悪意に満ちた中立性(「それはあなた自身の誤りです。私はそういったはずです」)、彼はあえて可視化しようとしている人間の欠陥に関する、見た目だけ客観的な観察である。彼は、自分は人間本性に関する普遍的法則の単なる道具にすぎない、という姿勢をとっている。しかし彼の享楽ぶりや笑いは、この姿勢をうさんくさいものに変える。「さ、四人とも笑いなさい/これまでの私のように、そしてこれからの私のように」。彼はこれまでも笑ってきたし、これからも笑いつづける。なぜなら、彼は人間的な情念や弱さを超越しているからである。ただし彼は、最悪の、もっとも陰険な情念ないし弱さだけは超越していない。それは、人間の弱さを見せ物として享受することである。彼は、中立的な立場にたつ普遍性の代理人であるだけでなく、<他者>の眼差しと享楽の代行者、つまり、舞台で演じられるこの人間の欠陥をめぐるスペクタクルの観客として想定された主人の、不在の眼差しでもあるということ――彼のいかがわしさは、最終的にこの点に存するのである。人形は主人の享楽のために存在する。そして哲学者は、最終的にはこの享楽の代行者であり、また、密かにこの享楽に奉仕している。このような構造をもった立場は、まさしく、精神分析における倒錯の定義と一致する。》(同上p130)

・《自由に使えるということと、分かりやすいということは、『コシ』における操り人形がもつ主要な特徴でもある。ここからパノプティコン[一望監視施設]の空想までは、つまり、誰もがその場所に立つことのできる、この<他者>の普遍化された眼差しまでは、ほんの一歩であるということ――それが、フーコーがいわんとしている要点である。》(同上p135)

・《ヘーゲルの『精神現象学』における啓蒙主義の分析を思い出そう。そこにおいて啓蒙主義は、あらゆるものを有用性Nützlichkeitへと、つまり主体にとっての利用しやすさへと還元することとみなされている。そしてここから啓蒙主義が取りつかれていたもうひとつの大きな主題までは、ほんの一歩である。その主題とは、計算されるべきものとしての享楽という主題、享楽の計算le calcul des jouissancesという主題である。このようにして、この空想――その核には、その掛け金enjeuとなる<他者>の眼差しと享楽が備わっている――は、わずかな変更を加えるだけで、その機能を完全に変えることができた。モーツァルトにおいてわれわれが目にすることができるのは、この空想の、消滅しかかった背景である。そこにおいてこの空想は、依然として、衰えゆく旧体制を下支えすることができた。しかし、それは同時に、新たな時代の前兆になることもできたのである。モーツァルトとは、この重大な分岐点であったのだ。》(同上p135)

 

――反復

・《『ドン・ジョヴァンニ』が(キルケゴールが、『あれかこれか』においてこのオペラを詳細に分析しながら論じていたように)美的なものを具現しているとすれば、『コシ・ファン・トゥッテ』の教義は倫理的である。なぜか。オペラの冒頭で二組のカップルを結びつけている愛は、アルバニア人の将校に扮装したパートナーに対する二人の姉妹の愛――これは哲学者アルフォンソの策略によって生まれた愛であり、その際の男女の組み合わせは互い違いになっている――と同様に人工的であり、機械的に生み出されているということ、それが『コシ』の要点である。この二つの愛においてわれわれは、操り人形と化した主体が盲目的に従うメカニズムを扱っている。ここには、ヘーゲルのいう「否定の否定」がある。最初われわれは、アルフォンソの操作によって生まれた人工的な愛は冒頭の真正な愛と対立していると考える。だが、その後われわれは、その二つの愛のあいだに差異はないということに突然気づく。つまり、二つの愛の価値に差はないのであり、それゆえに、カップルは最初に決まっていた結婚の段取りにもどることができるのである。(中略)この意味で倫理的なものは、象徴的なものとして反復の領域である。美的なものにおいては、ひとはひとつの特異性をもった瞬間をとらえようと努めるのだとすれば、倫理的なものにおいてひとつの事物は、反復されることによってはじめてその事物そのものとなるのである。》(ジジェク『オペラは二度死ぬ』p279)

・《モーツァルト一世一代の到達点といってよい、『コシ・ファン・トゥッテ』第二幕においては、フィオルディリージの卓絶したロンド‐アリア「お願い、ゆるして、恋人よ」の場面――それは、アルバニア人の格好をしたフェルランドに対する欲望を、彼女がひっしに抑えようとする最後の場面である――が、真の心理的キャラクターの現れる瞬間となっている。ここでは次の二点が決定的に重要である。第一に、「お願い」はフィオルディリージにとって、誘惑に断固抵抗するための二回目(・・・)の試みであるということ。一回目の試みは第一幕の「岩のように」であり、そこで彼女は、自分の非凡さは、彼が常套的な反復の論理(一度目は深刻な悲劇として、二度目は喜劇として)を転倒している点に求められる。最初のアリア(「岩のように」)は、感傷的な、誇張された喜劇性を示す典型的な例である。それに対し「お願い」は、悲劇本来の誇張を表現している。二点目は、フィオルディリージが完全な主体化を果たすのは、つまり完全なキャラクターとして出現するのは、自らを圧倒する抗しがたい情動を正面から受け入れることにおいてではなく、この情動の爆発を抑えようと必死に努力する過程においてであるということ。主体性が本来もっている深みには、内的な緊張が、心の内奥にひそむ欲望との戦いが備わっているのである。したがって、フィオルディリージは、『コシ』における唯一の(・・・)真のキャラクターである――それ以外の人物たちは、深みのないステレオタイプの集団にすぎない――という主張は、ある意味において正しい。たとえば、デスピーナは世俗的で日和見主義的な使用人であり、ドラベッラはわがままな恋多き女である。》(同上p403)

 

――「カントとサド」

・《モーツァルトの『コシ・ファン・トゥッテ』にでてくる二人の男は、自分のフィアンセに彼女たち自身が屈辱をうけるところを想像させたいのである。ポイントは、単にフィアンセの貞節を試すことではなく、人前でみずからの不貞行為に向き合わせることによって彼女たちを困惑させることである(フィナーレを思い出そう。[彼らのフィアンセと]二人のアルバニア人が婚約したあと、二人の男は彼ら本来の服装で再登場し、アルバニア人に変装していたのは自分たちであったことをフィアンセに教える)。ここで得体が知れないのは、女の欲望(それは堅忍不抜なものなのか、かりそめのものなのか)ではなく、男の欲望である。女性にそうした残酷な試練を受けさせる、二人の若い男の天邪鬼な心理とは、いったいいかなるものなのか。なぜ彼らは、平和で牧歌的な恋愛関係を混乱におとしいれるように強いられるのか。彼らは明らかに、フィアンセとよりを戻したいと思っている。しかし、彼らはあくまで、女性的欲望がはらむ虚栄心に直面してからでなければ、そうしないのである。このようにして彼らは、厳密な意味で、サド的倒錯者の立場にいる。彼らの目的は、欲望する主体の分裂を<他者>(犠牲者)の側に置き換えることである。つまり、あわれなフィアンセたちは、みずからの欲望に嫌悪感をおぼえるという苦痛を引き受けなければならないのである。》(ジジェク『オペラは二度死ぬ』p206)

・《エドワード・サイードは、一七九〇年九月三〇日以降にモーツァルトが妻コンスタンツェに宛てた書簡への注意を喚起しています。それはまさに、彼が『コシ・ファン・トゥッテ』を作曲している時期に当たります。近いうちに妻と再会する悦びを綴ったモーツァルトは、「もし誰かが私の心の裡を覗きこむようなことがあれば、私は恥じ入らねばならないだろう」と書き継ぎました。この一文に、明敏なサイードは感じ取るのです。人びとはこの一文にある種の汚れた私的秘密(モーツァルトが妻に再会するに当たって行うであろうことについての性的なファンタジーなど)の告白を感じ取るだろう、と。ですが、手紙は続きます。「私にとってすべてが冷たいのです――まるで氷のように」と。まさにここで、モーツァルトは「カントとサド」という不気味な領域、性(セクシュアリティ)がその情熱に溢れ、張り詰めた特性を失い、冷たい距たりに処刑された快楽のもとでの「機械的な」行為というその対極に転化する領域、情熱に溢れる(パソロジカル)いかなる関与も欠いて義務の実効を担うカント的な倫理主体にも似た領域に、這入り込むのです。

 これが『コシ・ファン・トゥッテ』の根底にある考え方ではないでしょうか? 主体がその情熱(パトス)に溢れる関与ではなく、そうした情熱を規制する盲目のメカニズムによって規定されるような世界ではないでしょうか? 『コシ・ファン・トゥッテ』と「カントとサド」の領域との間に平行関係を打ち立てることを私たちに強いるのは、その権限によってその徴候をすでに仄めかされている普遍的な次元にほかなりません。「人びとはみな(・・)、同じことをしている」。同一の盲目のメカニズムによって決められている、と。約めて言えば、『コシ・ファン・トゥッテ』における変更された同一性のゲームを組織し操作する哲学者アルフォンソは、放蕩という技法のもとで自分の若き弟子たちを教育するサド的な教師(ペダゴーグ)という形象をめぐる一箇の解釈なのです。ですから、この冷たさを「道具的理性」の冷たさと考えるのは、あまりに単純にすぎ、不適切です。

コシ・ファン・トゥッテ』のトラウマの核芯は、パスカル的な意味におけるその根源的な「機械的唯物論」なのです。つまり、信仰をもたない者への助言――「あたかも信じているかの如くに振る舞い、跪き、儀式に随え。そうすれば、信仰はおのずと到来するであろう!」――です。『コシ・ファン・トゥッテ』はこの論理を愛に適用しています。愛の内的感情を外に向けて表出することとはまったく異なり、愛の儀式と身振りが、愛を生みだす(・・・・)のです。つまり、恋に落ち、手続きを踏んだかの如くに行為せよ。そうすれば、愛はおのずと出現するだろう。》(ジジェクワーグナー反ユダヤ主義、「ドイツ観念論」――後書き」p276)

・《モーツァルトは「盲目的なロマンティックな愛」を信じていないため、「それを容赦なく茶化す」ことまでおこなっている(その最たるものが『コシ・ファン・トゥッテ』である)。しかしステプトーが引用する『コシ』作曲時の書簡群は、もっと複雑な物語に関係している。ある手紙のなかでモーツァルトはコンスタンツェに、君と再会できると思うと心躍ると書き、こう付け加えている――「もし誰かがわたしの心のなかを覗きこむようなことがあれば、わたしは恥ずかしくてほとんど赤面するだろう」と。そこでわたしたちとしても、このあとモーツァルトが煮えたぎる情念や官能的な妄想について一言あるものと期待するかもしれない。ところが彼はこうつづけるのだ――「すべてが冷たい――氷のように冷たい」と。そして彼はこう記す、「すべてがとても空虚だ」と。それにつづく手紙、これまたステプトーが引用している手紙のなかで、モーツァルトはふたたび「感情」について、「わたしをひどく傷つける、一種の空虚感――、決して満たされることのない、決して止むことのない、つねに残存する、いやむしろ日々大きくなる一種の憧憬――」について語っている。モーツァルトの書簡には、ほかにもこれと同様のものがあって、静まらぬエネルギー(空虚感や、増大するいっぽうの満たされぬ憧憬ということを言わんとしているらしい)と冷静な制御とが一対になってあらわれる。こうした特徴は、モーツァルトの生涯と全作品における『コシ』の位置ととりわけ重要な関連があるように、わたしには思われる。》(サイード『晩年のスタイル』p107)

・《アルフォンソの立場とは、ただたんに幻滅しうんざりして夢や理想を失った世俗の男というだけでなく、みずからの思想を徹底して説いてまわる教師でもある。自分の思想を実証するために人間と空想を必要としているかにみえて、その実、自分がお膳立てする余興は、珍しくもなんともないことをあらかじめ知っている。そんな人物なのだ。余興はわくわくするような面白いものかもしれないが、彼にはうんざりするほどわかっていることを、ただ確証するだけなのである。

 この点でドン・アルフォンソは、彼とほぼ同時代の人間であるサド侯爵の、やや控えめなヴァージョンといえなくもない。このリベルタンについて、フーコーは、つぎのような印象的な記述を残している――

   欲望のあらゆる空想に、また欲望の猛威のひとつひとつに身をゆだねながら、[このリベルタン]は欲望のほんのわずかな動きにも、明晰かつ用意周到に準備された表象によって、光をあてることができるし、またそうしないではいられないのだ。リベルタンの人生を統御する厳格な秩序が存在する。あらゆる表象は、欲望の生きた肉体のなかでただちに生命を付与されなければならないし、あらゆる欲望は表象的言説[このオペラでいえば、第二幕における愛の言語あるいは言説]の純粋な光のなかで表現されねばならない。ここから「場面」の厳密な連続が生れる(サドにおけるこの場面は、表象の秩序に従属した放蕩である)、そして場面の内部で、肉体の結合と理由づけの集合との間に入念に配慮された均衡が生まれるのである。(筆者註:フーコー『言葉と物』)

(中略)『コシ』のプロットは、場面の厳密な連続であり、そのすべてがアルフォンソと、彼と同じように冷笑的な援助者デスピーナによって操作され、性的欲望は、フーコーが示唆しているように、表象の秩序に従属した放蕩となる――ここでいう表象は、恋人たちが甘い幻想を失くしつつも、それでも胸躍る恋を通して教訓を学ぶことを示す演劇物語のことだ。そのゲームがフィオルディリージとドラベッラに明かされたとき、彼女たちは、自分たちが経験したことの真実を受け止める。そしてその韜晦的な両義性によって解釈者や演出家を困らせてきた結論部において、彼女たちは理性と喜びの歌をうたうのだが、ふたりの女性とふたりの男性がもとの恋人といっしょになるのかどうか確証となるものをモーツアルトは何も示していないのである。

 このような結論部は、やっかいな未来の可能性を垣間見せることになる。いかなる絆もアイデンティティも、いかなる安定性もしくは思想堅固の概念も、無傷のまま残ることはない以上、さらなる恋人の入れ替えや混乱があってもおかしくないからだ。フーコーは、こうした文化的契機について次のように語る。すなわち、言語は名づける能力を維持するが、それは「必要最低限の正確さにまで切りつめられる堅苦しい虚礼において」のみ可能になるとともに、言語は「その能力を際限なく拡張する」のだ、と。つまり恋人たちは、他のパートナーを探しつづける、なぜなら愛のレトリックと欲望の表象は、存在の本源的に不変の秩序にみずからをつなぐ錨を失ったということだからだ。「わたしたちの思惟はきわめて断片的となり、わたしたちの自由は隷属化され、わたしたちの言説は繰り返しとなる……わたしたちは、足もとの影の広がりが、実際には底なしの海であるという事実に直面せねばならないのだ」。》(同上p108)

・《ここでわたしたちは、モーツァルトがこのオペラ作曲時に語っていた孤独な憧憬と冷たさの異常な感覚を思い出してもいい。『コシ』をめぐってわたしたちが感銘を受けるのは、もちろんその音楽である。それはモーツァルトが奏でようと用意した状況よりも、不釣合いなほど興味ぶかいものに思われる。例外は(とりわけ第二幕において)四人の恋人たちが、高揚、悔悟、恐怖、激怒といった複雑な感情を表現するときだが。しかし、そのような瞬間ですら、フィオルディリージの「岩が不動であるように」にみられる信頼と献身の主張と、彼女が巻き込まれる心底とるに足らぬゲームとの不一致は、彼女から発せられる高貴な心情吐露とその音楽とを歪曲してしまい、音楽を、ありえないほど粉飾的でありながら、同時に扇情的なほど美しいものにしてしまう――この組み合わせは。満たされぬ憧憬と冷徹な支配とが混在するモーツァルトの感情に照応しているのである。アリアに耳を傾け、真摯な要素と滑稽な要素とが舞台で角突き合わせる騒動を観ながら、わたしたちは思弁にも絶望にも迷い込むことなく、ただモーツァルトの厳格な音楽の完璧な統治ぶりを追うことしかできない。》(同上p121)

                            (了)

           ******主な引用または参考文献*****

柄谷行人「探究Ⅲ」第十八回(「群像」1996年3月号に所収)(講談社

柄谷行人「近代批判の鍵」(『坂部恵集1 生成するカント像』月報に所収)(岩波書店

坂部恵坂部恵集1 生成するカント像』(「『視霊者の夢』の周辺」所収)(岩波書店

坂部恵坂部恵集2 思想史の余白に』(「理性の不安――サドとカント――」、「カントとルソー――時代に先駆けるものの喜劇と悲劇――」所収)(岩波書店

ジャック・ラカン精神分析の倫理』ジャック=アラン・ミレール編、小出浩之他訳(岩波書店

ミシェル・フーコー『言葉と物』渡辺一民佐々木明訳(新潮社)

ミシェル・フーコー『狂気の歴史――古典主義時代における』田村俶訳(新潮社)

スラヴォイ・ジジェク、ムラデン・ドラー『オペラは二度死ぬ』中山徹訳(ドラー「音楽が愛の糧ならば」、ジジェク「私はその夢を、見たくて見たのではない」「昼が考えたよりも深い」「共同体永遠のアイロニー」「走れ、イゾルデ、走れ」所収)(青土社

*ジャン・スタロバンスキー『オペラ、魅惑する女たち』千葉文夫訳(みすず書房

エドワード・W・サイード『晩年のスタイル』大橋洋一訳(岩波書店

アラン・バディウワーグナー論』(スラヴォイ・ジジェクワーグナー反ユダヤ主義、「ドイツ観念論」――後書き」所収)長原豊訳(青土社

*ブリジット・ブローフィ『劇作家モーツァルト』高橋英郎、石井宏訳(東京創元社

*ミヒャエル・ハンペ『オペラの学校』井形ちづる訳(水曜社)

*ミヒャエル・ハンペ『オペラの未来』井形ちづる訳(水曜社)

岡田暁生『恋愛哲学者モーツァルト』(新潮社)

岡田暁生『オペラの運命』(中央公論新社

河上徹太郎ドン・ジョヴァンニ』(講談社

*ゼーレン・キルケゴールドン・ジョヴァンニ』浅井真男訳(白水社

大岡昇平大岡昇平全集16 評論Ⅲ』(「ケルビーノ礼賛」所収)(筑摩書房

カール・バルトモーツァルト』小塩節訳(新教出版社

アッティラ・チャンパイ、ディートマル・ホラント編『名作オペラブックス モーツァルト フィガロの結婚』畔上司訳(音楽之友社

アッティラ・チャンパイ、ディートマル・ホラント編『名作オペラブックス モーツァルト ドン・ジョヴァンニ』竹内ふみ子、藤本一子訳(音楽之友社

アッティラ・チャンパイ、ディートマル・ホラント編『名作オペラブックス モーツァルト コシ・ファン・トゥッテ田中純訳(音楽之友社

*『ユリイカ 総特集モーツァルト<没後200年記念>(1991年8月臨時増刊)』(小林康夫「『フィガロの結婚』と様々なる衣裳」、千葉文夫「『コシ・ファン・トゥッテ』の曖昧さ」、大澤真幸「荘厳と透明――転換期のモーツァルト」、等所収)(青土社

マルキ・ド・サド『閨房哲学』渋沢龍彦訳(河出書房新社

イマヌエル・カント実践理性批判中山元訳(光文社)

イマヌエル・カント『視霊者の夢』金森誠也訳(講談社学術文庫

モーツァルトモーツアルトの手紙――その生涯のロマン』柴田治三郎編訳(岩波文庫