文学批評) 『源氏物語 宇治十帖』のノワールな倒錯(ノート)

 

 

 


源氏物語』の新しい物語「宇治十帖」は、「橋姫」からはじまり、「椎が本」「総角(あげまき)」「早蕨(さわらび)」「宿り木」「東屋(あずまや)」「蜻蛉」「手習」と続き、「夢の浮橋」で終わる。

「光」の君の世界から、「夜」「闇」「漆黒」の薫り(薫中将=女三の宮と光源氏との子(実は女三の宮と柏木との不義の子))、匂い(匂宮=明石中宮と今上帝との子)の世界へ。

 宇治とは憂路(うじ)でもあろうか。また、ノワールな倒錯の巻物でもある。

 以下、『源氏物語』からの引用は、與謝野晶子『全訳 源氏物語』(角川文庫クラシックス)による。

 

<「橋姫」――濡れる薫の隙見(すきみ)>

「橋姫」は薫二十歳(匂宮二十一歳)から二十二歳まで。八宮は光源氏の弟宮で、かつて東宮候補にもされたが敗れてからは京から宇治に籠っていた。自分の出生に疑念を持つ薫は厭世的、宗教的だが、冷泉院に伺う阿闍梨から八宮が仏法に関心が深いことを知って、宇治に通うようになる。

 晩秋の頃、薫は宇治へ行く。婚期を逸している二人の娘(大君と中の君)がいる八宮は、山籠りをしていた。宇治に着くまでにすでにしとどに濡れそぼった薫の「隙見」がはじまる。視覚的欲望、窃視症。

 

《秋の末であったが、四季に分けて宮があそばす念仏の催しも、この時節は河(かわ)に近い山荘では網代(あじろ)に当たる波の音も騒がしくやかましいからとお言いになって、阿闍梨(あじゃり)の寺へおいでになり、念仏のため御堂(みどう)に七日間おこもりになることになった。姫君たちは平生よりもなお寂しく山荘で暮らさねばならなかった。ちょうどそのころ薫中将は、長く宇治へ伺わないことを思って、その晩の有明月(ありあけづき)の上り出した時刻から微行(しのび)で、従者たちをも簡単な人数にして八の宮をお訪ねしようとした。河の北の岸に山荘はあったから船などは要しないのである。薫は馬で来たのだった。宇治へ近くなるにしたがい霧が濃く道をふさいで行く手も見えない林の中を分けて行くと、荒々しい風が立ち、ほろほろと散りかかる木の葉の露がつめたかった。ひどく薫は濡(ぬ)れてしまった。こうした山里の夜の路(みち)などを歩くことをあまり経験せぬ人であったから、身にしむようにも思い、またおもしろいように思われた。

  山おろしに堪へぬ木の葉の露よりもあやなく脆(もろ)きわが涙かな

 村の者を驚かせないために随身に人払いの声も立てさせないのである。左右が柴垣(しばがき)になっている小路(こみち)を通り、浅い流れも踏み越えて行く馬の足音なども忍ばせているのであるが、薫の身についた芳香を風が吹き散らすために、覚えもない香を寝ざめの窓の内に嗅(か)いで驚く人々もあった。

 宮の山荘にもう間もない所まで来ると、何の楽器の音とも聞き分けられぬほどの音楽の声がかすかにすごく聞こえてきた。山荘の姉妹(きょうだい)の女王(にょおう)はよく何かを合奏しているという話は聞いたが、機会もなくて、宮の有名な琴の御音も自分はまだお聞きすることができないのである、ちょうどよい時であると思って山荘の門をはいって行くと、その声は琵琶(びわ)であった。所がらでそう思われるのか、平凡な楽音とは聞かれなかった。掻(か)き返す音もきれいでおもしろかった。十三絃(げん)の艶(えん)な音も絶え絶えに混じって聞こえる。しばらくこのまま聞いていたく薫は思うのであったが、音はたてずにいても、薫のにおいに驚いて宿直(とのい)の侍風の武骨らしい男などが外へ出て来た。こうこうで宮が寺へこもっておいでになるとその男は言って、

「すぐお寺へおしらせ申し上げましょう」

 とも言うのだった。

「その必要はない。日数をきめて行っておられる時に、おじゃまをするのはいけないからね。こんなにも途中で濡(ぬ)れて来て、またこのまま帰らねばならぬ私に御同情をしてくださるように姫君がたへお願いして、なんとか仰せがあれば、それだけで私は満足だよ」

 と薫が言うと、醜い顔に笑(え)みを見せて、

「さように申し上げましょう」

 と言って、あちらへ行こうとするのを、

「ちょっと」

 と、もう一度薫はそばへ呼んで、

「長い間、人の話にだけ聞いていて、ぜひ伺わせていただきたいと願っていた姫君がたの御合奏が始まっているのだから、こんないい機会はない、しばらく物蔭(ものかげ)に隠れてお聞きしていたいと思うが、そんな場所はあるだろうか。ずうずうしくこのままお座敷のそばへ行っては皆やめておしまいになるだろうから」

 と言う薫の美しい風采(ふうさい)はこうした男をさえ感動させた。

「だれも聞く人のおいでにならない時にはいつもこんなふうにしてお二方で弾(ひ)いておいでになるのでございますが、下人(げにん)でも京のほうからまいった者のございます時は少しの音もおさせになりません。宮様は姫君がたのおいでになることをお隠しになる思召(おぼしめ)しでそうさせておいでになるらしゅうございます」

 丁寧な恰好(かっこう)でこう言うと、薫は笑って、

「それはむだなお骨折りと申すべきだ。そんなにお隠しになっても人は皆知っていて、りっぱな姫君の例にお引きするのだからね」

 と言ってから、

「案内を頼む。私は好色漢では決してないから安心するがよい。そうしてお二人で音楽を楽しんでおいでになるところがただ拝見したくてならぬだけなのだよ」

 親しげに頼むと、

「それはとてもたいへんなことでございます。あとになりまして私がどんなに悪く言われることかしれません」

 と言いながらも、その座敷とこちらの庭の間に透垣(すいがき)がしてあることを言って、そこの垣へ寄って見ることを教えた。薫の供に来た人たちは西の廊(わたどの)の一室へ皆通してこの侍が接待をするのだった。

 月が美しい程度に霧をきている空をながめるために、簾(すだれ)を短く巻き上げて人々はいた。薄着で寒そうな姿をした童女が一人と、それと同じような恰好(かっこう)をした女房とが見える。座敷の中の一人は柱を少し楯(たて)のようにしてすわっているが、琵琶を前へ置き、撥(ばち)を手でもてあそんでいた。この人は雲間から出てにわかに明るい月の光のさし込んで来た時に、

「扇でなくて、これでも月は招いてもいいのですね」

 と言って空をのぞいた顔は、非常に可憐(かれん)で美しいものらしかった。横になっていたほうの人は、上半身を琴の上へ傾けて、

「入り日を呼ぶ撥はあっても、月をそれでお招きになろうなどとは、だれも思わないお考えですわね」

 と言って笑った。この人のほうに貴女(きじょ)らしい美は多いようであった。

「でも、これだって月には縁があるのですもの」

 こんな冗談(じょうだん)を言い合っている二人の姫君は、薫がほかで想像していたのとは違って非常に感じのよい柔らかみの多い麗人であった。女房などの愛読している昔の小説には必ずこうした佳人のことが出てくるのを、いつも不自然な作り事であると反感を持ったものであるが、事実として意外な所に意外なすぐれた女性の存在することを知ったと思うのであった。》

 

 薫は八宮に対面して姫君の後見を託される。薫は老女弁に対面して、かつて自分が仕えていた柏木と女三の宮との関係を告げられたうえ、二人の往復の手紙を渡される。

 

<「椎が本」――薫の隙見>

「椎が本」は薫二十三歳の春から二十四歳の夏まで。大君二十五歳、中の君二十三歳。匂宮は初瀬詣での途中、夕霧(筆者註:光源氏と葵上との子)が用意した宇治の山荘に中宿(なかやど)する。八宮は中の君を匂宮に縁付けたいと思っている。八宮は娘たちに宇治を離れるなと戒めていたが、山寺に籠って亡くなる。薫は大君を都の近くに迎え入れたいと申し出るが、中の君はそれを軽蔑する。匂宮は夕霧の六の君との縁談を勧められているが、中の君に恋慕している。

 夏になり、薫は宇治へ行く。

 

《その夏は平生よりも暑いのをだれもわびしがっている年で、薫も宇治川に近い家は涼しいはずであると思い出して、にわかに山荘へ来ることになった。朝涼のころに出かけて来たのであったが、ここではもうまぶしい日があやにくにも正面からさしてきていたので、西向きの座敷のほうに席をして髭侍(ひげざむらい)を呼んで話をさせていた。

 その時に隣の中央の室(へや)の仏前に女王たちはいたのであるが、客に近いのを避けて居間のほうへ行こうとしているかすかな音は、立てまいとしているが薫の所へは聞こえてきた。このままでいるよりも見ることができるなら見たいものであると願って、こことの間の襖子(からかみ)の掛け金の所にある小さい穴を以前から薫は見ておいたのであったから、こちら側の屏風(びょうぶ)は横へ寄せてのぞいて見た。ちょうどその前に几帳(きちょう)が立てられてあるのを知って、残念に思いながら引き返そうとする時に、風が隣室とその前の室との間の御簾(みす)を吹き上げそうになったため、

「お客様のいらっしゃる時にいけませんわね、そのお几帳をここに立てて、十分に下を張らせたらいいでしょう」

 と言い出した女房がある。愚かしいことだとみずから思いながらもうれしさに心をおどらせて、またのぞくと、高いのも低いのも几帳は皆その御簾ぎわへ持って行かれて、あけてある東側の襖子から居間へはいろうと姫君たちはするものらしかった。その二人の中の一方が庭に向いた側の御簾から庇(ひさし)の室越(まご)しに、薫の従者たちの庭をあちらこちら歩いて涼をとろうとするのをのぞこうとした。濃い鈍(にび)色の単衣(ひとえ)に、萱草(かんぞう)色の喪の袴(はかま)の鮮明な色をしたのを着けているのが、派手(はで)な趣のあるものであると感じられたのも着ている人によってのことに違いない。帯は仮なように結び、袖口(そでぐち)に引き入れて見せない用意をしながら数珠(じゅず)を手へ掛けていた。すらりとした姿で、髪は袿(うちぎ)の端に少し足らぬだけの長さと見え、裾(すそ)のほうまで少しのたるみもなくつやつやと多く美しく下がっている。正面から見るのではないが、きわめて可憐(かれん)で、はなやかで、柔らかみがあっておおような様子は、名高い女一(にょいち)の宮(みや)の美貌(びぼう)もこんなのであろうと、ほのかにお姿を見た昔の記憶がまたたどられた。いざって出て、

「あちらの襖子は少しあらわになっていて心配なようね」

 と言い、こちらを見上げた今一人にはきわめて奥ゆかしい貴女(きじょ)らしさがあった。頭の形、髪のはえぎわなどは前の人よりもいっそう上品で、艶(えん)なところもすぐれていた。

「あちらのお座敷には屏風(びょうぶ)も引いてございます。何もこの瞬間にのぞいて御覧になることもございますまい」

 と安心しているふうに言う若い女房もあった。

「でも何だか気が置かれる。ひょっとそんなことがあればたいへんね」

 なお気がかりそうに言って、東の室(ま)へいざってはいる人に気高(けだか)い心憎さが添って見えた。着ているのは黒い袷(あわせ)の一襲(かさね)で、初めの人と同じような姿であったが、この人には人を惹(ひ)きつけるような柔らかさ、艶(えん)なところが多くあった。また弱々しい感じも持っていた。髪も多かったのがさわやいだ程度に減ったらしく裾のほうが見えた。その色は翡翠(ひすい)がかり、糸を縒(よ)り掛けたように見えるのであった。紫の紙に書いた経巻を片手に持っていたが、その手は前の人よりも細く痩(や)せているようであった。立っていたほうの姫君が襖子の口の所へまで行ってから、こちらを向いて何であったか笑ったのが非常に愛嬌(あいきょう)のある顔に見えた。》

 

 薫は、当時の習慣としてはあり得なかった女の姿をその目で見て、大君への恋着が深まる。薫の窃視した視界の中で、それと知らずに行動する姉妹の性格描写が見事である。

 

<「総角」――薫が大君の髪を掻きやるも>

「総角」は薫二十四歳の秋から十二月まで。八宮の一周忌が近づき、宇治を訪れた薫は、部屋に入り込み、逃げようとする大君を掴まえて髪の毛をあげ、顔を見るが、添い臥しして語らうだけで実事には及ばない。

 

《仏間と客室の間の戸をあけさせ、奥のほうの仏前には灯を明るくともし、隣との仕切りには御簾(みす)へ屏風(びょうぶ)を添えて姫君は出ていた。客の座にも灯の台は運ばれたのであるが、

「少し疲れていて失礼な恰好(かっこう)をしていますから」

 と言い、それをやめさせて薫は身を横たえていた。菓子などが客の夕餐(ゆうげ)に代えて供えられてあった。従者にも食事が出してあった。廊の座敷にあたるような部屋(へや)にその人たちは集められていて、こちらを静かにさせておき、客は女王(筆者註:大君)と話をかわしていた。打ち解けた様子はないながらになつかしく愛嬌(あいきょう)の添ったふうでものを言う女王があくまでも恋しくてあせり立つ心を薫はみずから感じていた。この何でもないものを越えがたい障害物のように見なして恋人に接近なしえない心弱さは愚かしくさえ自分を見せているのではないかと、こんなことを心中では思うのであるが、素知らぬふうを作って、世間にあったことについて、身にしむ話も、おもしろく聞かされることもいろいろと語り続ける中納言(筆者註:薫)であった。女王は女房たちに近い所を離れずいるように命じておいたのであるが、今夜の客は交渉をどう進ませようと思っているか計られないところがあるように思う心から、姫君をさまで護ろうとはしていず、遠くへ退いていて、御仏(みほとけ)の灯(ひ)もかかげに出る者はなかった。姫君は恐ろしい気がしてそっと女房を呼んだがだれも出て来る様子がない。

「何ですか気分がよろしくなくなって困りますから、少し休みまして、夜明け方にまたお話を承りましょう」

 と、今や奥へはいろうとする様子が姫君に見えた。

「遠く山路(やまみち)を来ました者はあなた以上に身体(からだ)が悩ましいのですが、話を聞いていただくことができ、また承ることの喜びに慰んでこうしておりますのに、私だけをお置きになってあちらへおいでになっては心細いではありませんか」

 薫はこう言って屏風(びょうぶ)を押しあけてこちらの室(へや)へ身体(からだ)をすべり入らせた。恐ろしくて向こうの室へもう半分の身を行かせていたのを、薫に引きとめられたのが非常に残念で、

「隔てなくいたしますというのはこんなことを申すのでしょうか。奇怪なことではございませんか」

 と批難の言葉を発するのがいよいよ魅力を薫に覚えしめた。

「隔てないというお気持ちが少しも見えないあなたに、よくわかっていただこうと思うからです。奇怪であるとは、私が無礼なことでもするとお思いになるのではありませんか。仏のお前でどんな誓言でも私は立てます。決してあなたのお気持ちを破るような行為には出まいと初めから私は思っているのですから、お恐れになることはありませんよ。私がこんなに正直におとなしくしておそばにいることはだれも想像しないことでしょうが、私はこれだけで満足して夜を明かします」

 こう言って、薫は感じのいいほどな灯(ひ)のあかりで姫君のこぼれかかった黒髪を手で払ってやりながら見た顔は、想像していたように艶麗(えんれい)であった。何の厳重な締まりもないこの山荘へ、自分のような自己を抑制する意志のない男が闖入(ちんにゅう)したとすれば、このままで置くはずもなく、たやすくそうした人の妻にこの人はなり終わるところであった、どうして今までそれを不安とせずに結婚を急ごうとはしなかったかとみずからを批難する気にもなっている薫であったが、言いようもなく情けながって泣いている女王が可憐(かれん)で、これ以上の何の行為もできない。こんなふうの接近のしかたでなく、自然に許される日もあるであろうとのちの日を思い、男性の力で恋を得ようとはせず、初めの心は隠して相手を上手(じょうず)になだめていた。

「こんな心を突然お起こしになる方とも知らず、並みに過ぎて親しく今までおつきあいをしておりました。喪の姿などをあらわに御覧になろうとなさいましたあなたのお心の思いやりなさもわかりましたし、また私の抵抗の役だたなさも思われまして悲しくてなりません」

 と恨みを言って、姫君は他人に見られる用意の何一つなかった自身の喪服姿を灯影(ほかげ)で見られるのが非常にきまり悪く思うふうで泣いていた。

「そんなにもお悲しみになるのは、私がお気に入らないからだと恥じられて、なんともお慰めのいたしようがありません。喪服を召していらっしゃる場合ということで私をお叱(しか)りなさいますのはごもっともですが、私があなたをお慕い申し上げるようになりましてからの年月の長さを思っていただけば、今始めたことのように、それにかかわっていなくともよいわけでなかろうかと思います。あなたが私の近づくのを拒否される理由としてお言いになったことは、かえって私の長い間持ち続けてきた熱情を回顧させる結果しか見せませんよ」》

 

<「総角」――薫の禁欲>

 厭離的な薫には、眼の快楽に加えて、禁欲という名の快楽があるのだろうか。

 

《薫はそれに続いてあの琵琶(びわ)と琴の合奏されていた夜の有明月(ありあけづき)に隙見(すきみ)をした時のことを言い、それからのちのいろいろな場合に恋しい心のおさえがたいものになっていったことなどを多くの言葉で語った。姫君は聞きながら、そんなことがあったかと昔の秋の夜明けのことに堪えられぬ羞恥(しゅうち)を覚え、そうした心を下に秘めて長い年月の間表面(うわべ)をあくまでも冷静に作っていたのであるかと、身にしみ入る気もするのであった。薫はその横にあった短い几帳(きちょう)で御仏のほうとの隔てを作って、仮に隣へ寄り添って寝ていた。名香が高くにおい、樒(しきみ)の香も室に満ちている所であったから、だれよりも求道(ぐどう)心の深い薫にとっては不浄な思いは現わすべくもなく、また墨染めの喪服姿の恋人にしいてほしいままな力を加えることはのちに世の中へ聞こえて浅薄な男と見られることになり、自分の至上とするこの恋を踏みにじることになるであろうから、服喪の期が過ぎるのを待とう。そうしてまたこの人の心も少し自分のほうへなびく形になった時にと、しいて心をゆるやかにすることを努めた。秋の夜というものは、こうした山の家でなくても身にしむものの多いものであるのに、まして峰の嵐(あらし)も、庭に鳴く虫の声も絶え間なくてここは心細さを覚えさせるものに満ちていた。人生のはかなさを話題にして語る薫の言葉に時々答えて言う姫君の言葉は皆美しく感じのよいものであった。

 宵(よい)を早くから眠っていた女房たちは、この話し声から悪い想像を描いて皆部屋(へや)のほうへ行ってしまった。召使は信じがたいものであると父宮の言ってお置きになったことも女王は思い出していて、親の保護がなくなれば女も男も自分らを軽侮して、すでにもう今夜のような目にあっているではないかと悲しみ、宇治の河音(かわおと)とともに多くの涙が流れるのであった。そして明け方になった。薫の従者はもう起き出して、主人に帰りを促すらしい作り咳(ぜき)の音を立て、幾つの馬のいななきの声の聞こえるのを、薫は人の話に聞いている旅宿の朝に思い比べて興を覚えていた。

 薫は明りのさしてくるのが見えたほうの襖子(からかみ)をあけて、身にしむ秋の空を二人でながめようとした。女王も少しいざって出た。軒も狭い山荘作りの家であったから、忍ぶ草の葉の露も次第に多く光っていく。室の中もそれに準じて白んでいくのである。二人とも艶(えん)な容姿の男女であった。

「同じほどの友情を持ち合って、こんなふうにいつまでも月花に慰められながら、はかない人生を送りたいのですよ」

 薫がなつかしいふうにこんなことをささやくのを聞いていて、女王はようやく恐怖から放たれた気もするのであった。

「こんなにあからさまにしてお目にかかるのでなく、何かを隔ててお話をし合うのでしたら、私はもう少しも隔てなどを残しておかない心でおります」

 と女は言った。外は明るくなりきって、幾種類もの川べの鳥が目をさまして飛び立つ羽音も近くでする。黎明(れいめい)の鐘の音がかすかに響いてきた、この時刻ですらこうしてあらわな所に出ているのが女は恥ずかしいものであるのにと女王は苦しく思うふうであった。

「私が恋の成功者のように朝早くは出かけられないではありませんか。かえってまた他人はそんなことからよけいな想像をするだろうと思われますよ。ただこれまでどおり普通に私をお扱いくださるのがいいのですよ。そして世間のとは内容の違った夫婦とお思いくだすって、今後もこの程度の接近を許しておいてください。あなたに礼を失うような真似(まね)は決してする男でないと私を信じていてください。これほどに譲歩してもなおこの恋を護(まも)ろうとする男に同情のないあなたが恨めしくなるではありませんか」

 こんなことを言っていて、薫はなおすぐに出て行こうとはしない。それは非常に見苦しいことだと姫君はしていて、

「これからは今あなたがお言いになったとおりにもいたしましょう。今朝(けさ)だけは私の申すことをお聞き入れになってくださいませ」

 と言う。いかにも心を苦しめているのが見える。

「私も苦しんでいるのですよ。朝の別れというものをまだ経験しない私は、昔の歌のように帰り路(みち)に頭がぼうとしてしまう気がするのですよ」》

 

<「総角」――姉大君に供犠されかかる妹中の君>

 八宮の一周忌が過ぎる。大君は自分の形代として中の君を薫に添わせようと、弁に手引をさせて、姉妹二人が寝る部屋に薫を導くが、大君はひとり抜け出す。

 

《荒い風が吹き出して簡単な蔀戸(しどみど)などはひしひしと折れそうな音をたてているのに紛れて人が忍び寄る音などは姫君の気づくところとなるまいと女房らは思い、静かに薫を導いて行った。二人の女王の同じ帳台に寝ている点を不安に思ったのであるが、これが毎夜の習慣であったから、今夜だけを別室に一人一人でとは初めから姫君に言いかねたのである。二人のどちらがどれとは薫にわかっているはずであるからと弁は思っていた。

 物思いに眠りえない姫君(筆者註:大君)はこのかすかな足音の聞こえて来た時、静かに起きて帳台を出た。それは非常に迅速に行なわれたことであった。無心によく眠(ね)入っていた中の君を思うと、胸が鳴って、なんという残酷なことをしようとする自分であろう、起こしていっしょに隠れようかともいったんは躊躇(ちゅうちょ)したが、思いながらもそれは実行できずに、慄(ふる)えながら帳台のほうを見ると、ほのかに灯(ひ)の光を浴びながら、袿(うちぎ)姿で、さも来馴(な)れた所だというようにして、帳(とばり)の垂(た)れ布を引き上げて薫ははいって行った。非常に妹がかわいそうで、さめて妹はどんな気がすることであろうと悲しみながら、ちょっと壁の面に添って屏風(びょうぶ)の立てられてあった後ろへ姫君ははいってしまった。ただ抽象的な話として言ってみた時でさえ、自分の考え方を恨めしいふうに言った人であるから、ましてこんなことを謀(はか)った自分はうとましい姉だと思われ、憎くさえ思われることであろうと、思い続けるにつけても、だれも頼みになる身内の者を持たない不幸が、この悲しみをさせるのであろうと思われ、あの最後に山の御寺(みてら)へおいでになった時、父宮をお見送りしたのが今のように思われて、堪えられぬまで父君を恋しく思う姫君であった。

 薫は帳台の中に寝ていたのは一人であったことを知って、これは弁の計っておいたことと見てうれしく、心はときめいてくるのであったが、そのうちその人でないことがわかった。よく似てはいたが、美しく可憐(かれん)な点はこの人がまさっているかと見えた。驚いている顔を見て、この人は何も知らずにいたのであろうと思われるのが哀れであったし、また思ってみれば隠れてしまった恋人も情けなく恨めしかったから、これもまた他の人に渡しがたい愛着は覚えながらも、やはり最初の恋をもり立ててゆく障害になることは行ないたくない。そのようにたやすく相手の変えられる恋であったかとあの人に思われたくない、この人のことはそうなるべき宿命であれば、またその時というものがあろう、その時になれば自分も初めの恋人と違った人とこの人を思わず同じだけに愛することができようという分別のできた薫は、例のように美しくなつかしい話ぶりで、ただ可憐な人と相手を見るだけで語り明かした。》

 

<「総角」――薫の謀(はかりごと)による匂宮の中の君強姦>

 薫は中の君と匂宮とが結婚すれば、大君は自分と結婚するだろうと思い、匂宮を中の君へと導く。このあたり、光源氏をマメと色好みに二分割した双極的な薫と匂宮に、分身的な、二重人格的な、そして同性愛的な姿を見ることさえできる。

 モーツァルトのオペラ『コジ・ファン・トゥッテ』のような姉妹と二人の男との交換劇(モーツアルトと同時代人のマルキ・ド・サドの『ジュスチーヌ』『ジュリエット』の風味でもあって、さらにはやはり同時代人カントの倫理論をも喚起させる)。

 

《二十六日の彼岸の終わりの日が結婚の吉日になっていたから、薫はいろいろと考えを組み立てて、だれの目にもつかぬように一人で計らい、兵部卿の宮を宇治へお伴いして出かけた。御母中宮(ちゅうぐう)のお耳にはいっては、こうした恋の御微行などはきびしくお制しになり、おさせにならぬはずであったから、自分の立場が困ることになるとは思うのであるが、匂宮(におうみや)の切にお望みになることであったから、すべてを秘密にして扱うのも苦しかった。

 対岸のしかるべき場所へ御休息させておくことも船の渡しなどがめんどうであったから、山荘に近い自身の荘園の中の人の家へひとまず宮をお降ろしして、自身だけで女王たちの山荘へはいった。宮がおいでになったところで見とがめるような人たちもなく、宿直(とのい)をする一人の侍だけが時々見まわりに外へ出るだけのことであったが、それにも気(け)どらすまいとしての計らいであった。中納言がおいでになったと山荘の女房たちは皆緊張していた。女王(にょおう)らは困る気がせずにおられるのではないが、総角の姫君は、自分はもうあとへ退(の)いて代わりの人を推薦しておいたのであるからと思っていた。中の君は薫の対象にしているのは自分でないことが明らかなのであるから、今度はああした驚きをせずに済むことであろうと思いながらも、情けなく思われたあの夜からは、姉君をも以前ほどに信頼せず、油断をせぬ覚悟はしていた。取り次ぎをもっての話がいつまでもかわされていることで、今夜もどうなることかと女房らは苦しがった。

 薫は使いを出して兵部卿の宮を山荘へお迎え申してから、弁を呼んで、

「姫君にもう一言だけお話しすることが残っているのです。あの方が私の恋に全然取り合ってくださらないのはもうわかってしまいました。それで恥ずかしいことですが、この間の方の所へもうしばらくのちに私を、あの時のようにして案内して行ってくださいませんか」

 真実(まこと)らしく薫がこう言うと、どちらでも結局は同じことであるからと弁は心を決めて、そして大姫君の所へ行き、そのとおりに告げると、自分の思ったとおりにあの人は妹に恋を移したとうれしく、安心ができ、寝室へ行く通り路(みち)にはならぬ縁近い座敷の襖子(からかみ)をよく閉(し)めた上で、その向こうへしばらく語るはずの薫を招じた。

「ただ一言申し上げたいのですが、人に聞こえますほどの大声を出すこともどうかと思われますから、少しお開(あ)けくださいませんか。これではだめなのです」

「これでもよくわかるのですよ」

 と言って姫君は応じない。愛人を新しくする際に虚心平気でそれをするのでないことをこの人は言おうとするのであろうか、今までからこんなふうにしては話し合った間柄なのだから、あまり冷ややかにものを言わぬようにして、そして夜をふかさせずに立ち去らしめようと思い、この席を姫君は与えたのであったが、襖子の間から女の袖(そで)をとらえて引き寄せた薫は、心に積もる恨みを告げた。困ったことである、話すことをなぜ許したのであろうと後悔がされ、恐ろしくさえ思うのであるが、上手(じょうず)にここを去らせようとする心から、妹は自分と同じなのであるからということを、それとなく言っている心持ちなどを男は哀れに思った。

 兵部卿の宮は薫がお教えしたとおりに、あの夜の戸口によって扇をお鳴らしになると、弁が来て導いた。今一人の女王のほうへこうして薫を導き馴(な)れた女であろうと宮はおもしろくお思いになりながら、ついておいでになり、寝室へおはいりになったのも知らずに、大姫君は上手(じょうず)に中の君のほうへ薫を行かせようということを考えていた。おかしくも思い、また気の毒にも思われて、事実を知らせずにおいていつまでも恨まれるのは苦しいことであろうと薫は告白をすることにした。

兵部卿の宮様がいっしょに来たいとお望みになりましたから、お断わりをしかねて御同伴申し上げたのですが、物音もおさせにならずどこかへおはいりになりました。この賢ぶった男を上手におだましになったのかもしれません。どちらつかずの哀れな見苦しい私になるでしょう」

 聞く姫君はまったく意外なことであったから、ものもわからなくなるほどに残念な気がして、この人が憎く、

「いろいろ奇怪なことをあそばすあなたとは存じ上げずに、私どもは幼稚な心であなたを御信用申していましたのが、あなたには滑稽(こっけい)に見えて侮辱をお与えになったのでございますね」

  総角(あげまき)の女王は極度に口惜(くちお)しがっていた。

「もう時があるべきことをあらせたのです。私がどんなに道理を申し上げても足りなくお思いになるのでしたなら、私を打擲(ちょうちゃく)でも何でもしてください。あの女王様の心は私よりも高い身分の方にあったのです。それに宿命というものがあって、それは人間の力で左右できませんから、あの女王さんには私をお愛しくださることがなかったのです。その御様子が見えてお気の毒でしたし、愛されえない自分が恥ずかしくて、あの方のお心から退却するほかはなかったのです。もうしかたがないとあきらめてくだすって私の妻になってくださればいいではありませんか。どんなに堅く襖子は閉(し)めてお置きになりましても、あなたと私の間柄を精神的の交際以上に進んでいなかったとはだれも想像いたしますまい。御案内して差し上げた方のお心にも、私がこうして苦しい悶(もだ)えをしながら夜を明かすとはおわかりになっていますまい」

 と言う薫は襖子をさえ破りかねぬ興奮を見せているのであったから、うとましくは思いながら、言いなだめようと姫君はして、なお話の相手はし続けた。

「あなたがお言いになります宿命というものは目に見えないものですから、私どもにはただ事実に対して涙ばかりが胸をふさぐのを感じます。何というなされ方だろうとあさましいのでございます。こんなことが言い伝えに残りましたら、昔の荒唐無稽(こうとうむけい)な、誇張の多い小説の筋と同じように思われることでしょう。どうしてそんなことをお考え出しになったのかとばかり思われまして、私たち姉妹(きょうだい)への御好意とはそれがどうして考えられましょう。こんなにいろいろにして私をお苦しめにならないでくださいまし。惜しくございません命でも、もしもまだ続いていくようでしたら、私もまた落ち着いてお話のできることがあろうと思います。ただ今のことを伺いましたら、急に真暗(まっくら)な気持ちになりまして、身体(からだ)も苦しくてなりません。私はここで休みますからお許しくださいませ」

 絶望的な力のない声ではあるが、理窟(りくつ)を立てて言われたのが、薫には気恥ずかしく思われ、またその人が可憐(かれん)にも思われて、

「あなた、私のお愛しする方、どんなにもあなたの御意志に従いたいというのが私の願いなのですから、こんなにまで一徹なところもお目にかけたのです。言いようもなく憎いうとましい人間と私を見ていらっしゃるのですから、申すことも何も申されません。いよいよ私は人生の外へ踏み出さなければならぬ気がします」

 と言って薫は歎息(たんそく)をもらしたが、また、

「ではこの隔てを置いたままで話させていただきましょう。まったく顧みをなさらないようなことはしないでください」

 こうも言いながら袖(そで)から手を離した。姫君は身を後ろへ引いたが、あちらへ行ってもしまわないのを哀れに思う薫であった。

「こうしてお隣にいることだけを慰めに思って今夜は明かしましょう。決して決してこれ以上のことを求めません」

 と言い、襖子を中にしてこちらの室(へや)で眠ろうとしたが、ここは川の音のはげしい山荘である、目を閉じてもすぐにさめる。夜の風の声も強い。峰を隔てた山鳥の妹背(いもせ)のような気がして苦しかった。いつものように夜が白(しら)み始めると御寺(みてら)の鐘が山から聞こえてきた。兵部卿(ひょうぶきょう)の宮を気にして咳(せき)払いを薫(かおる)は作った。実際妙な役をすることになったものである。

「しるべせしわれやかへりて惑ふべき心もゆかぬ明けぐれの道

 こんな例が世間にもあるで と薫が言うと、と薫が言うと、

  かたがたにくらす心を思ひやれ人やりならぬ道にまどはば

 ほのかに姫君の答える歌も、よく聞き取れぬもどかしさと飽き足りなさに、

「たいへんに遠いではありませんか。あまりに御同情のないあなたですね」

 恨みを告げているころ、ほのぼのと夜の明けるのにうながされて兵部卿の宮は昨夜(ゆうべ)の戸口から外へおいでになった。柔らかなその御動作に従って立つ香はことさら用意して燻(た)きしめておいでになった匂宮らしかった。

 老いた女房たちはそことここから薫の帰って行くことに不審をいだいたが、これも中納言の計ったことであれば安心していてよいと考えていた。

 暗い間に着こうと京の人は道を急がせた。帰りはことに遠くお思われになる宮であった。たやすく常に行かれぬことを今から思召おぼしめすからである。しかも「夜をや隔てん」(若草の新手枕(にひてまくら)をまきそめて夜をや隔てん憎からなくに)とお思われになるからであろう。まだ人の多く出入りせぬころに車は六条院に着けられ、廊のほうで降りて、女乗りの車と見せ隠れるようにしてはいって来たあとで顔を見合わせて笑った。

「あなたの忠実な御奉仕を受けたと感謝しますよ」

 宮はこう冗談(じょうだん)を仰せられた。自身の愚かしさの人のよさがみずから嘲笑(ちょうしょう)されるのであるが、薫は昨夜の始末を何も申し上げなかった。すぐ宮は文(ふみ)を書いて宇治へお送りになった。

 山荘の女王はどちらも夢を見たあとのような気がして思い乱れていた。あの手この手と計画をしながら、気(け)ぶりも初めにお見せにならなかったと中の君は恨んでいて、姉の女王と目を見合わせようともしない。自身がまったく局外の人であったことを明らかに話すこともできぬ姫君は、中の君を遠く気の毒にながめていた。女房たちも、

「昨夜は中姫君のほうにどうしたことがありましたのでございましょう」

 などと、大姫君から事実をそれとなく探ろうとして言うのであったが、ただぼんやりとしたふうで保護者の君はいるだけであったから、不思議なことであると皆思っていた。宮のお手紙も解いて姫君は中の君に見せるのであったが、その人は起き上がろうともしない。》

 

 かくして匂宮は中の君と結婚するが、帝と中宮咎めを受け、雑事もあって容易に宇治を訪れることができない。

 

<「総角」――薫の大君への屍体愛(ネクロフィリア)>

 大君が病気になり、薫は看護するが、死に至る。ここぞとばかりに死にゆく大君を視姦する薫。

 

《もう意識もおぼろになったようでありながら女王は薫のけはいを知って袖(そで)で顔をよく隠していた。

「少しでもよろしい間があれば、あなたにお話し申したいこともあるのですが、何をしようとしても消えていくようにばかりなさるのは悲しゅうございます」

 薫を深く憐(あわれ)むふうのあるのを知って、いよいよ男の涙はとめどなく流れるのであるが、周囲で頼み少なく思っているとは知らせたくないと思って慎もうとしても、泣く声の立つのをどうしようもなかった。自分とはどんな宿命で、心の限り愛していながら、恨めしい思いを多く味わわせられるだけでこの人と別れねばならぬのであろう、少し悪い感じでも与えられれば、それによってせめても失う者の苦しみをなだめることになるであろう、と思って見つめる薫であったが、いよいよ可憐(かれん)で、美しい点ばかりが見いだされる。腕(かいな)なども細く細く細くなって影のようにはかなくは見えながらも色合いが変わらず、白く美しくなよなよとして、白い服の柔らかなのを身につけ夜着は少し下へ押しやってある。それはちょうど中に胴というもののない雛(ひな)人形を寝かせたようなのである。髪は多すぎるとは思われぬほどの量(かさ)で床の上にあった。枕(まくら)から下がったあたりがつやつやと美しいのを見ても、この人がどうなってしまうのであろう、助かりそうも見えぬではないかと限りなく惜しまれた。長く病臥(びょうが)していて何のつくろいもしていない人が、盛装して気どった美人というものよりはるかにすぐれていて、見ているうちに魂も、この人と合致するために自分を離れて行くように思われた。

「あなたがいよいよ私を捨ててお行きになることになったら、私も生きていませんよ。けれど、人の命は思うようになるものでなく、生きていねばならぬことになりましたら、私は深い山へはいってしまおうと思います。ただその際にお妹様を心細い状態であとへお残しするだけが苦痛に思われます」

 中納言は少しでもものを言わせたいために、病者が最も関心を持つはずの人のことを言ってみると、姫君は顔を隠していた袖(そで)を少し引き直して、

「私はこうして短命で終わる予感があったものですから、あなたの御好意を解しないように思われますのが苦しくて、残っていく人を私の代わりと思ってくださるようにとそう願っていたのですが、あなたがそのとおりにしてくださいましたら、どんなに安心だったかと思いましてね、それだけが心残りで死なれない気もいたします」

 と言った。

「こんなふうに悲しい思いばかりをしなければならないのが私の宿命だったのでしょう。私はあなた以外のだれとも夫婦になる気は持ってなかったものですから、あなたの好意にもそむいたわけなのです。今さら残念であの方がお気の毒でなりません。しかし御心配をなさることはありませんよ。あの方のことは」

 などともなだめていた薫は、姫君が苦しそうなふうであるのを見て、修法の僧などを近くへ呼び入れさせ、効験をよく現わす人々に加持をさせた。そして自身でも念じ入っていた。人生をことさらいとわしくなっている薫でないために、道へ深く入れようとされる仏などが、今こうした大きな悲しみをさせるのではなかろうか。見ているうちに何かの植物が枯れていくように総角(あげまき)の姫君の死んだのは悲しいことであった。引きとめることもできず、足摺(あしず)りしたいほどに薫は思い、人が何と思うともはばかる気はなくなっていた。臨終と見て中の君が自分もともに死にたいとはげしい悲嘆にくれたのも道理である。涙におぼれている女王を、例の忠告好きの女房たちは、こんな場合に肉親がそばで歎くのはよろしくないことになっていると言って、無理に他の室へ伴って行った。

 源中納言は死んだのを見ていても、これは事実でないであろう、夢ではないかと思って、台の灯(ひ)を高く掲げて近くへ寄せ、恋人をながめるのであったが、少し袖(そで)で隠している顔もただ眠っているようで、変わったと思われるところもなく美しく横たわっている姫君を、このままにして乾燥した玉虫の骸(から)のように永久に自分から離さずに置く方法があればよいと、こんなことも思った。遺骸(いがい)として始末するために人が髪を直した時に、さっと芳香が立った。それはなつかしい生きていた日のままのにおいであった。どの点でこの人に欠点があるとしてのけにくい執着を除けばいいのであろう、あまりにも完全な女性であった。この人の死が自分を信仰へ導こうとする仏の方便であるならば、恐怖もされるような、悲しみも忘れられるほど変相を見せられたいと仏を念じているのであるが、悲しみはますます深まるばかりであったから、せめて早く煙にすることをしようと思い、葬送の儀式のことなどを命じてさせるのもまた苦しいことであった。空を歩くような気持ちを覚えて薫は葬場へ行ったのであるが、火葬の煙さえも多くは立たなかったのにはかなさをさらに感じて山荘へ帰った。》

 

<「早蕨」>

「早蕨」は薫二十五歳の春。中の君は宇治から京の匂宮の二条院に移る。

 

<「宿り木」――妊娠した中の君の、薫の移り香に嫉妬し、昂奮する匂宮>

「宿り木」は薫二十四歳の春から二十六歳の夏まで。帝は藤壺女御が亡くなったので、その娘である女二の宮と薫の縁組を考える。匂宮は夕霧から娘六の宮の婿に望まれて婚約、魅了されて、中の君は夜がれが続く。懐妊した中の君は不安になり、薫に宇治へ行きたいと頼む。薫は中の君の部屋に押し入って添い臥しするが、実事はない。匂宮は中の君を訪れ、ふっくらと懐妊したお腹と腹帯に興奮し、また薫の残り香に二人の関係を怪しむことでさらに昂ぶる。翌日は二人とも遅くまで目が覚めずに、朝の支度を寝室まで運ばせる、という頽廃の極み。

 

《腹部も少し高くなり、恥ずかしがっている腹帯の衣服の上に結ばれてあるのにさえ心がお惹(ひ)かれになった。まだ妊娠した人を直接お知りにならぬ方であったから、珍しくさえお思いになった。何事もきれいに整い過ぎた新居においでになったあとで、ここにおいでになるのはすべての点で気安く、なつかしくお思われになるままに、こまやかな将来の日の誓いを繰り返し仰せになるのを聞いていても中の君は、男は皆口が上手(じょうず)で、あの無理な恋を告白した人も上手に話をしたと薫のことを思い出して、今までも情けの深い人であるとは常に思っていたが、ああしたよこしまな恋に自分は好意を持つべくもないと思うことによって、宮の未来のお誓いのほうは、そのとおりであるまいと思いながらも少し信じる心も起こった。それにしてもああまで油断をさせて自分の室の中へあの人がはいって来た時の驚かされようはどうだったであろう、姉君の意志を尊重して夫婦の結合は遂げなかったと話していた心持ちは、珍しい誠意の人と思われるのであるが、あの行為を思えば自分として気の許される人ではないと、中の君はいよいよ男の危険性に用心を感じるにつけても、宮がながく途絶えておいでにならぬことになれば恐ろしいと思われ、言葉には出さないのであるが、以前よりも少し宮へ甘えた心になっていたために、宮はなお可憐に思召され、心を惹(ひ)かれておいでになったが、深く夫人にしみついている中納言のにおいは、薫香(くんこう)をたきしめたのには似ていず特異な香であるのを、においというものをよく研究しておいでになる宮であったから、それとお気づきになって、奇怪なこととして、何事かあったのかと夫人を糺(ただ)そうとされる。宮の疑っておいでになることと事実とはそうかけ離れたものでもなかったから、何ともお答えがしにくくて、苦しそうに沈黙しているのを御覧になる宮は、自分の想像することはありうべきことだ、よも無関心ではおられまいと始終自分は思っていたのであるとお胸が騒いだ。薫のにおいは中の君が下の単衣(ひとえ)なども昨夜のとは脱ぎ替えていたのであるが、その注意にもかかわらず全身に沁(しん)でいたのである。

「あなたの苦しんでいるところを見ると、進むところへまで進んだことだろう」

 とお言いになり、追究されることで夫人は情けなく、身の置き所もない気がした。

「私の愛はどんなに深いかしれないのに、私が二人の妻を持つようになったからといって、自分も同じように自由に人を愛しようというようなことは身分のない者のすることですよ。そんなに私が長く帰って来ませんでしたか、そうでもないではありませんか。私の信じていたよりも愛情の淡(うす)いあなただった」

 などとお責めになるのである。愛する心からこうも思われるのであるというふうにお訊ききになっても、ものを言わずにいる中の君に嫉妬(しっと)をあそばして、

   またびとになれける袖(そで)の移り香をわが身にしめて恨みつるかな

 とお言いになった。夫人は身に覚えのない罪をきせておいでになる宮に弁明もする気にならずに、

「あなたの誤解していらっしゃることについて何と申し上げていいかわかりません。

  見なれぬる中の衣と頼みしをかばかりにてやかけ離れなん」

 と言って泣いていた。その様子の限りなく可憐(かれん)であるのを宮は御覧になっても、こんな魅力が中納言を惹(ひ)きつけたのであろうとお思いになり、いっそうねたましくおなりになり、御自身もほろほろと涙をおこぼしになったというのは女性的なことである。どんな過失が仮にあったとしても、この人をうとんじてしまうことはできないふうな、美しいいたいたしい中の君の姿に、恨みをばかり言っておいでになることができずに、宮は歎いている人の機嫌(きげん)を直させるために言い慰めもしておいでになった。

 翌朝もゆるりと寝ておいでになって、お起きになってからは手水(ちょうず)も朝の粥(かゆ)もこちらでお済ませになった。》

 

 薫は中の君から、異母妹である浮舟という女がいて、この夏、東国から上がってきたが、大君によく似ていると聞かされる。権大納言に昇進し、右大将を兼ねることになった薫は、宇治に出向いて、弁の尼から浮舟のことを聞き、仲立ちを頼む。中の君出産。薫は女二の宮の裳着(もぎ)の祝いに婿として招かれる。薫は中の君のもとに、男の子の五十日の祝いに訪ね、恋敵匂宮が産ませた若君に対面する。薫は女二の宮を邸に迎え、宇治に出向いて、初瀬の御寺に詣でた帰りの浮舟を覗き見し、生き写しのようと大君を思い出す。

 

<「東屋」――匂宮の浮舟強姦未遂>

「東屋」は薫二十六歳の八月、九月。浮舟の母中将の君は浮舟を中の君に預ける。匂宮は自分の邸にいる浮舟をたまたま見かけて、強姦しようとする。

 

《宮はそちらこちらと縁側を歩いておいでになったが、西のほうに見馴(な)れぬ童女が出ていたのにお目がとまり、新しい女房が来ているのであろうかとお思いになって、そこの座敷を隣室からおのぞきになった。間(あい)の襖子(からかみ)の細めにあいた所から御覧になると、襖子の向こうから一尺ほど離れた所に屏風(びょうぶ)が立ててあった。その間の御簾(みす)に添えて几帳が置かれてある。几帳の垂(た)れ帛(ぎぬ)が一枚上へ掲げられてあって、紫苑(しおん)色のはなやかな上に淡黄(うすき)の厚織物らしいのの重なった袖口(そでぐち)がそこから見えた。屏風の端が一つたたまれてあったために、心にもなくそれらを見られているらしい。相当によい家から出た新しい女房なのであろうと宮は思召して、立っておいでになった室(へや)から、女のいる室へ続いた庇(ひさし)の間あいの襖子をそっと押しあけて、静かにはいっておいでになったのをだれも気がつかずにいた。

 向こう側の北の中庭の植え込みの花がいろいろに咲き乱れた、小流れのそばの岩のあたりの美しいのを姫君は横になってながめていたのである。初めから少しあいていた襖子をさらに広くあけて屏風の横から中をおのぞきになったが、宮がおいでになろうなどとは思いも寄らぬことであったから、いつも中の君のほうから通って来る女房が来たのであろうと思い、起き上がったのは、宮のお目に非常に美しくうつって見える人であった。例の多情なお心から、この機会をはずすまいとあそばすように、衣服の裾(すそ)を片手でお抑(おさ)えになり、片手で今はいっておいでになった襖子を締め切り、屏風の後ろへおすわりになった。

 怪しく思って扇を顔にかざしながら見返った姫君はきれいであった。扇をそのままにさせて手をお捉(とら)えになり、

「あなたはだれ。名が聞きたい」

 とお言いになるのを聞いて、姫君は恐ろしくなった。ただ戯れ事の相手として御自身は顔を外のほうへお向けになり、だれと知れないように宮はしておいでになるので、近ごろ時々話に聞いた大将なのかもしれぬ、においの高いのもそれらしいと考えられることによって、姫君ははずかしくてならなかった。乳母は何か人が来ているようなのがいぶかしいと思い、向こう側の屏風を押しあけてこの室へはいって来た。

「まあどういたしたことでございましょう。けしからぬことをあそばします」

 と責めるのであったが、女房級の者に主君が戯れているのにとがめ立てさるべきことでもないと宮はしておいでになるのであった。はじめて御覧になった人なのであるが、女相手にお話をあそばすことの上手(じょうず)な宮は、いろいろと姫君へお言いかけになって、日は暮れてしまったが、

「だれだと言ってくれない間はあちらへ行かない」

 と仰せになり、なれなれしくそばへ寄って横におなりになった。宮様であったと気のついた乳母は、途方にくれてぼんやりとしていた。

「お明りは燈籠(とうろう)にしてください。今すぐ奥様がお居間へおいでになります」

 とあちらで女房の言う声がした。そして居間の前以外の格子はばたばたと下(お)ろされていた。この室は別にして平生使用されていない所であったから、高い棚(たな)厨子(ずし)一具が置かれ、袋に入れた屏風なども所々に寄せ掛けてあって、やり放しな座敷と見えた。こうした客が来ているために居間のほうからは通路に一間だけ襖子があけられてあるのである。そこから女房の右近という大輔(たゆう)の娘が来て、一室一室格子を下ろしながらこちらへ近づいて来る。

「まあ暗い、まだお灯(あかり)も差し上げなかったのでございますね。まだお暑苦しいのに早くお格子を下ろしてしまって暗闇(くらやみ)に迷うではありませんかね」

 こう言ってまた下ろした格子を上げている音を、宮は困ったように聞いておいでになった。乳母もまたその人への体裁の悪さを思っていたが、上手に取り繕うこともできず、しかも気がさ者の、そして無智(むち)な女であったから、

「ちょっと申し上げます。ここに奇怪なことをなさる方がございますの、困ってしまいまして、私はここから動けないのでございますよ」

 と声をかけた。何事であろうと思って、暗い室へ手探りではいると、袿姿(うちぎすがた)の男がよい香をたてて姫君の横で寝ていた。右近はすぐに例のお癖を宮がお出しになったのであろうとさとった。姫君が意志でもなく男の力におさえられておいでになるのであろうと想像されるために、

「ほんとうに、これは見苦しいことでございます。右近などは御忠告の申し上げようもございませんから、すぐあちらへまいりまして奥様にそっとお話をいたしましょう」

 と言って、立って行くのを姫君も乳母もつらく思ったが、宮は平然としておいでになって、驚くべく艶美な人である、いったい誰なのであろうか、右近の言葉づかいによっても普通の女房ではなさそうであると、心得がたくお思いになって、何ものであるかを名のろうとしない人を恨めしがっていろいろと言っておいでになった。うとましいというふうも見せないのであるが、非常に困っていて死ぬほどにも思っている様子が哀れで、情味をこめた言葉で慰めておいでになった。

 右近は北の座敷の始末を夫人に告げ、

「お気の毒でございます。どんなに苦しく思っていらっしゃるでしょう」

 と言うと、

「いつものいやな一面を出してお見せになるのだね。あの人のお母さんも軽佻(けいちょう)なことをなさる方だと思うようになるだろうね。安心していらっしゃいと何度も私は言っておいたのに」

 こう中の君は言って、姫君を憐(あわ)れむのであったが、どう言って制しにやっていいかわからず、女房たちも少し若くて美しい者は皆情人にしておしまいになるような悪癖がおありになる方なのに、またどうしてあの人のいることが宮に知られることになったのであろうと、あさましさにそれきりものも言われない。

「今日は高官の方がたくさん伺候なすった日で、こんな時にはお遊びに時間をお忘れになって、こちらへおいでになるのがお遅(おそ)くなるのですものね、いつも皆奥様なども寝(やす)んでおしまいになっていますわね。それにしてもどうすればいいことでしょう。あの乳母(ばあや)が気のききませんことね。私はじっとおそばに見ていて、宮様をお引っ張りして来たいようにも思いましたよ」

 などと右近が少将という女房といっしょに姫君へ同情をしている時、御所から人が来て、中宮が今日の夕方からお胸を苦しがっておいであそばしたのが、ただ今急に御容体が重くなった御様子であると、宮へお取り次ぎを頼んだ。

「あやにくな時の御病気ですこと、お気の毒でも申し上げてきましょう」

 と立って行く右近に、少将は、

「もうだめなことを、憎まれ者になって宮様をお威(おど)しするのはおよしなさい」

 と言った。

「まだそんなことはありませんよ」

 このささやき合いを夫人は聞いていて、なんたるお悪癖であろう、少し賢い人は自分をまであさましく思ってしまうであろうと歎息をしていた。

 右近は西北の座敷へ行き、使いの言葉以上に誇張して中宮の御病気をあわただしげに宮へ申し上げたが、動じない御様子で宮はお言いになった。

「だれが来たのか、例のとおりにたいそうに言っておどすのだね」

中宮のお侍の平(たいら)の重常(しげつね)と名のりましてございます」

 右近はこう申した。別れて行くことを非常に残念に思召されて、宮は人がどう思ってもいいという気になっておいでになるのであるが、右近が出て行って、西の庭先へお使いを呼び、詳しく聞こうとした時に、最初に取り次いだ人もそこへ来て言葉を助けた。

「中務(なかつかさ)の宮もおいでになりました。中宮大夫もただ今まいられます。お車の引き出されます所を見てまいりました」

 そうしたように発作的にお悪くおなりになることがおりおりあるものであるから、嘘(うそ)ではないらしいと思召すようになった宮は、夫人の手前もきまり悪くおなりになり、女へまたの機会を待つことをこまごまとお言い残しになってお立ち去りになった。

 姫君は恐ろしい夢のさめたような気になり、汗びったりになっていた。乳母は横へ来て扇であおいだりしながら、

「こういう御殿というものは人がざわざわとしていまして、少しも気が許せません。宮様が一度お近づきになった以上、ここにおいでになってよいことはございませんよ。まあ恐ろしい。どんな貴婦人からでも嫉妬(しっと)をお受けになることはたまらないことですよ。全然別な方にお愛されになるとも、またあとで悪くなりましてもそれは運命としてお従いにならなければなりません。宮様のお相手におなりになっては世間体も悪いことになろうと思いまして、私はまるで蝦蟇(がま)の相になってじっとおにらみしていますと、気味の悪い卑しい女めと思召して手をひどくおつねりになりましたのは匹夫の恋のようで滑稽(こっけい)に存じました。お家(うち)のほうでは今日もひどい御夫婦喧嘩(げんか)をあそばしたそうですよ。ただ一人の娘のために自分の子供たちを打ちやっておいて行った。大事な婿君のお来始めになったばかりによそへ行っているのは不都合だなどと、乱暴なほどに守はお言いになりましたそうで、下(しも)の侍でさえ奥様をお気の毒だと言っていました。こうしたいろいろなことの起こるのも皆あの少将さんのせいですよ。利己的な結婚沙汰(ざた)さえなければ、おりおり不愉快なことはありましてもまずまず平和なうちに今までどおりあなた様もおいでになれたのですがね」

 歎息をしながら乳母はこう言うのであった。

 姫君の身にとっては家のことなどは考える余裕もない。ただ闖入者(ちんにゅうしゃ)が来て、経験したこともない恥ずかしい思いを味わわされたについても、中の君はどう思うことであろうと、せつなく苦しくて、うつ伏しになって泣いていた。》

 

 匂宮の母の中宮が重態になったとの使いが来て、匂宮は参内し、中の君は浮舟を慰める。浮舟の母は強姦未遂を知って、三条の小家に浮舟を隠す。

 

<「東屋」――薫に抱きかかえられる浮舟>

 薫は雨に濡れながら隠れ家(東屋)を訪問し、一夜を過ごす(ようやく実事あり)。夜明けに往来を通りかかる行商人の声の描写には、プルースト失われた時を求めて』の『囚われの女』の物売りの声の描写に似たものがある。薫はまさに囚われの女浮舟を人形(ひとがた)、形代(かたしろ)のように抱きかかえて宇治へ向かう。

 

《夜の八時過ぎに宇治から用があって人が来たと言って、ひそかに門がたたかれた。弁は薫であろうと思っているので、門をあけさせたから、車はずっと中へはいって来た。家の人は皆不思議に思っていると、尼君に面会させてほしいと言い、宇治の荘園の預かりの人の名を告げさせると、尼君は妻戸の口へいざって出た。小雨が降っていて風は冷ややかに室(へや)の中へ吹き入るのといっしょにかんばしいかおりが通ってきたことによって、来訪者の何者であるかに家の人は気づいた。だれもだれも心ときめきはされるのであるが、何の用意もない時であるのに、あわてて、どんな相談を客は尼としてあったのであろうと言い合った。

「静かな所で、今日までどんなに私が思い続けて来たかということもお聞かせしたいと思って来ました」

 と薫は姫君へ取り次がせた。どんな言葉で話に答えていけばよいかと心配そうにしている姫君を、困ったものであるというように見ていた乳母が、

「わざわざおいでになった方を、庭にお立たせしたままでお帰しする法はございませんよ。本家の奥様へ、こうこうでございますとそっと申し上げてみましょう。近いのですから」

 と言った。

「そんなふうに騒ぐことではありませんよ。若い方どうしがお話をなさるだけのことで、そんなにものが進むことですか。怪しいほどにもおあせりにならない落ち着いた方ですもの、人の同意のないままで恋を成立させようとは決してなさいますまい」

 こう言ってとめたのは弁の尼であった。雨脚(あめあし)がややはげしくなり、空は暗くばかりなっていく。宿直(とのい)の侍が怪しい語音(ごいん)で家の外を見まわりに歩き、

「建物の東南のくずれている所があぶない、お客の車を中へ入れてしまうものなら入れさせて門をしめてしまってくれ、こうした人の供の人間に油断ができないのだよ」

 などと言い合っている声の聞こえてくるようなことも薫にとって気味の悪いはじめての経験であった。「さののわたりに家もあらなくに」(わりなくも降りくる雨か三輪が崎(さき))などと口ずさみながら、田舎(いなか)めいた縁の端にいるのであった。

  さしとむるむぐらやしげき東屋(あづまや)のあまりほどふる雨そそぎかな

 と言い、雨を払うために振った袖の追い風のかんばしさには、東国の荒武者どもも驚いたに違いない。

 室内へ案内することをいろいろに言って望まれた家の人は、断わりようがなくて南の縁に付いた座敷へ席を作って薫(かおる)は招じられた。姫君は話すために出ることを承知しなかったが、女房らが押し出すようにして客の座へ近づかせた。遣戸(やりど)というものをしめ、声の通うだけの隙すきがあけてある所で、

「飛騨(ひだ)の匠(たくみ)が恨めしくなる隔てですね。よその家でこんな板の戸の外にすわることなどはまだ私の経験しないことだから苦しく思われます」

 などと訴えていた薫は、どんなにしたのか姫君の居室(いま)のほうへはいってしまった。

 人型(ひとがた)としてほしかったことなどは言わず、ただ宇治で思いがけぬ隙間(すきま)からのぞいた時から恋しい人になったことを言い、これが宿縁というものか怪しいまで心が惹(ひ)かれているということをささやいた。可憐(かれん)なおおような姫君に薫は期待のはずれた気はせず深い愛を覚えた。

 そのうち夜は明けていくようであったが、鶏(とり)などは鳴かず、大通りに近い家であったから、通行する者がだらしない声で、何とかかとか、有る名でないような名を呼び合って何人もの行く物音がするのであった。こんな未明の街(まち)で見る行商人などというものは、頭へ物を載せているのが鬼のようであると聞いたが、そうした者が通って行くらしいと、泊まり馴(な)れない小家に寝た薫はおもしろくも思った。宿直(とのい)した侍も門をあけて出て行く音がした。また夜番をした者などが部屋(へや)へ寝にはいったらしい音を聞いてから、薫は人を呼んで車を妻戸の所へ寄せさせた。そして姫君を抱いて乗せた。家の人たちはだれも皆結婚の翌朝のこうしたことをあっけないように言って騒ぎ、

「それに結婚に悪い月の九月でしょう。心配でなりません、どうしたことでしょう」

 とも言うのを、弁は気の毒に思い、

「すぐおつれになるなどとは意外なことに違いありませんが、殿様にはお考えがあることでしょう。心配などはしないほうがいいのですよ。九月でも明日が節分になっていますから」

 と慰めていた。この日は十三日であった。尼は、

「今度はごいっしょにまいらないことにいたしましょう。二条の院の奥様が私のまいったことをお聞きになることもあるでしょうから、伺わないわけにはまいりません。そっと来てそっと帰ったなどとお思われましても義理が立ちません」

 と言い、同行をしようとしないのであったが、すぐに中の君に今度のことを聞かれるのも心恥ずかしいことに薫は思い、

「それはまたあとでお目にかかってお詫(わ)びをすればいいではありませんか。あちらへ行って知っている者がそばにいないでは心細い所ですからね。ぜひおいでなさい」

 と薫はいっしょにここを出ていくように勧めた。そして、

「だれかお付きが一人来られますか」

 と言ったので、姫君の始終そばにいる侍従という女房が行くことになり、尼君はそれといっしょに陪乗(ばいじょう)した。姫君の乳母(めのと)や、尼の供をして来た童女なども取り残されて茫然(ぼうぜん)としていた。

 近いどこかの場所へ行くことかと侍従などは思っていたが、宇治へ車は向かっているのであった。途中で付け変える牛の用意も薫はさせてあった。河原を過ぎて法性寺(ほうしょうじ)のあたりを行くころに夜は明け放れた。若い侍従はほのかに宇治で見かけた時から美貌(びぼう)な薫に好意を持っていたのであるから、だれが見て何と言おうとも意に介しない覚悟ができていた。姫君ははなはだしい衝動を受けたあとで、失心したようにうつ伏しになっていたのを、

「石の多い所は、そうしていれば苦しいものですよ」

 と言い、薫は途中から抱きかかえた。》

 

<「浮舟」――薫の声色を使って浮舟を姦淫し、逗留する匂宮>

「浮舟」は薫二十七歳の春。薫が宇治に浮舟を囲っていることを薫の家司(けいし)(執事)仲信(なかのぶ)の婿大内記(だいないき)から聞き出した匂宮は、薫を装って関係したうえ、翌朝引き揚げる習慣の禁忌をも犯して逗留する。

 

《物詣(ものもう)でに行く前夜であるらしい、親の家というものもあるらしい、今ここでこの人を得ないでまた逢いうる機会は望めない、実行はもう今夜に限られている、どうすればよいかと宮はお思いになりながら、なおじっとのぞいておいでになると、右近が、

「眠くなりましたよ。昨晩はとうとう徹夜をしてしまったのですもの、明日早く起きてもこれだけは縫えましょう。どんなに急いでお迎いが京を出て来ましても、八、九時にはなることでしょうから」

 と言い、皆も縫いさした物をまとめて几帳(きちょう)の上に懸(か)けたりなどして、そのままそこへうたた寝のふうに横たわってしまった。姫君も少し奥のほうへはいって寝た。右近は北側の室へはいって行ったがしばらくして出て来た。そして姫君の閨(ねや)の裾(すそ)のほうで寝た。眠がっていた人たちであったから、皆すぐに寝入った様子を見てお置きになった宮は、そのほかに手段はないことであったから、そっと今まで立っておいでになった前の格子をおたたきになった。右近は聞きつけて、

「だれですか」

 と言った。咳払いをあそばしただけで貴人らしい気配(けはい)を知り、薫(かおる)の来たと思った右近が起きて来た。

「ともかくもこの戸を早く」

 とお言いになると、

「思いがけません時間においでになったものでございますね。もうよほど夜がふけておりましょうのに」

 右近はこう言った。

「どこかへ行かれるのだと仲信(なかのぶ)が言ったので、驚いてすぐに出て来たのだが、よくないことに出あったよ。ともかくも早く」

 声を薫によく似せてお使いになり、低く言っておいでになるのであったから、違った人であることなどは思いも寄らずに格子をあけ放した。

「道でひどい災難にあってね、恥ずかしい姿になっている。灯(ひ)を暗くするように」

 とお言いになったので、右近はあわてて灯を遠くへやってしまった。

「私を人に見せぬようにしてくれ。私が来たと言って、寝ている人を起こさないように」

 賢い方はもとから少し似たお声をすっかり薫と聞こえるようにしてものをお言いになり、寝室へおはいりになった。ひどい災難とお言いになったのはどんな姿にされておしまいになったのであろうと右近は同情して、自身も隠れるようにしながらのぞいて見た。繊細ななよなよとした姿は持っておいでになったし、かんばしいにおいも劣っておいでにならなかった。嘘(うそ)の大将は姫君に近く寄って上着を脱ぎ捨て、良人(おっと)らしく横へ寝たのを見て、

「そこではあまりに端近でございます。いつものお床へ」

 などと右近は言ったのであるが、何とも答えはなかった。上へ夜着を掛けて、仮寝をしていた人たちを起こし、皆少し遠くへさがって寝た。

 薫の従者たちはいつでもすぐに荘園のほうへ行ってしまったので、女房などはあまり顔を知らなんだから、宮のお言葉をそのままに信じて、

「深いお志からの御微行でしたわね。ひどい目におあいになったりあそばしてお気の毒なんですのに、お姫様は事情をご存じないようですね」

 などと賢がっている女もあった。

「静かになさいよ。夜は小声の話ほどよけいに目に立つものですよ」

 こんなふうに仲間に注意もされてそのまま寝てしまった。

 姫君は夜の男が薫でないことを知った。あさましさに驚いたが、相手は声も立てさせない。あの二条の院の秋の夕べに人が集まって来た時でさえ、この人と恋を成り立たせねばならぬと狂おしいほどに思召した方であるから、はげしい愛撫(あいぶ)の力でこの人を意のままにあそばしたことは言うまでもない。初めからこれは闖入(ちんにゅう)者であると知っていたならば今少し抵抗のしかたもあったのであろうが、こうなれば夢であるような気がするばかりの姫君であった。女のやや落ち着いたのを御覧になって、あの秋の夕べの恨めしかったこと、それ以来今日まで狂おしくあこがれていたことなどをお告げになることによって、兵部卿(ひょうぶきょう)の宮でおありになることを姫君は知った。いよいよ羞恥(しゅうち)を覚えて、姉の女王がどうお思いになるであろうと思うともうどうしようもなくなった人はひどく泣いた。宮も今後会見することは不可能であろうと思召(おぼしめ)されるためにお泣きになるのであった。

 夜はずんずんと明けていく。》

 

<「浮舟」――穢(けが)れ「物忌」と偽って浮舟と愛欲に耽る匂宮>

 母親が浮舟を初瀬の観音に参詣させるため迎えに来るが、右近は偽って、浮舟が「物忌」(生理)になったと御簾に張って断る。匂宮は浮舟に美しい男女の抱擁図(偃息(おそく)図(ず)、枕絵)を描き見せたり、薫との様子を聞き出そうとしたりして、愛欲に耽る。

 

《八時ごろになって格子などを上げ、右近が姫君の居間の用を一人で勤めた。その室の御簾(みす)を皆下げて、物忌(ものいみ)と書いた紙をつけたりした。母夫人自身も迎えに出て来るかと思い、姫君が悪夢を見て、そのために謹慎をしているとその時には言わせるつもりであった。

 寝室へ二人分の洗面盥(せんめんだらい)の運ばれたというのは普通のことであるが、宮はそんな物にも嫉妬(しっと)をお覚えになった。薫が来て、こうした朝の寝起きにこの手盥で顔を洗うのであろうとお思いになるとにわかに不快におなりになり、

「あなたがお洗いになったあとの水で私は洗おう。こちらのは使いたくない」

 とお言いになった。今まで感情をおさえて冷静なふうを作る薫に馴(な)れていた姫君は、しばらくでもいっしょにいることができねば死ぬであろうと激情をおおわずお見せになる宮を、熱愛するというのはこんなことを言うのであろうと思うのであったが、奇怪な運命を負った自分である、このあやまちが外へ知れた時、どんなふうに思われる自分であろうとまず第一に宮の夫人が不快に思うであろうことを悲しんでいる時、恋人が何人(なにびと)の娘であるのかおわかりにならぬ宮が、

「あなたがだれの子であるかを私の知らないことは返す返すも遺憾だ。ねえ、ありのままに言っておしまいなさいよ。悪い家であってもそんなことで私の愛が動揺するものでも何でもない。いよいよ愛するようになるでしょう」

 とお言いになり、しいて訊きこうとあそばすのに対しては絶対に口をつぐんでいる姫君が、そのほかのことでは美しい口ぶりで愛嬌(あいきょう)のある返辞などもして、愛を受け入れたふうの見えるのを宮は限りなく可憐(かれん)にお思いになった。

 九時ごろに石山行きの迎えの人たちが山荘へ着いた。車を二台持って来たのであって、例の東国の荒武者が、七、八人、多くの僕(しもべ)を従えていた。下品な様子でがやがやと話しながら門をはいって来たのを、女房らは片腹痛がり、見えぬ所へはいっているように言ってやりなどしていた。右近はどうすればいいことであろう、殿様が来ておいでになると言っても、あれほどの大官が京から離れていることはだれの耳にもはいっていることであろうからと思い、他の女房と相談することもせず手紙を常陸(ひたち)夫人へ書くのであった。

 昨夜からお穢(けが)れのことが起こりまして、お詣(まい)りがおできになれなくなりま  したことで残念に思召(おぼしめ)すのでございましたが、その上昨晩は悪いお夢を御覧になりましたそうですから、せめて今日一日を謹慎日になさいませと申しあげましたのでお引きこもりになっておられます。返す返すお詣りのやまりましたことを私どもも残り惜しく思っております。何かの暗示でこれはあるいは実行あそばさないほうがよいのかとも存ぜられます。

 これが済んでから右近は常陸家の人々に食事をさせたりした。弁の尼のほうにもにわかに物忌(ものいみ)になって出かけぬということを言ってやった。

 平生はつれづれで退屈で、かすんだ山ぎわの空ばかりをながめて時のたつのをもどかしがる姫君であるが、時のたち日の暮れていくのを真底からわびしがっておいでになる方のお気持ちが反映して、はかなく日の暮れてしまった気もした。ただ二人きりでおいでになって、春の一日の間見ても飽かぬ恋人を宮はながめてお暮らしになったのである。欠点と思われるところはどこにもない愛嬌(あいきょう)の多い美貌(びぼう)で女はあった。そうは言っても二条の院の女王には劣っているのである。まして派手はでな盛りの花のような六条の夫人に比べてよいほどの容貌ではないが、たぐいもない熱情で愛しておいでになるお心から、まだ過去にも現在にも見たことのないような美人であると宮は思召した。姫君はまた清楚(せいそ)な風采(ふうさい)の大将を良人(おっと)にして、これ以上の美男はこの世にないであろうと信じていたのが、どこもどこもきれいでおありになる宮は、その人にまさった美貌の方であると思うようになった。

 硯(すずり)を引き寄せて宮は紙へ無駄(むだ)書きをいろいろとあそばし、上手(じょうず)な絵などを描(か)いてお見せになったりするため、若い心はそのほうへ多く傾いていきそうであった。

「逢いに来たくても私の来られない間はこれを見ていらっしゃいよ」

 とお言いになり、美しい男と女のいっしょにいる絵をお描(か)きになって、

「いつもこうしていたい」

 とお言いになると同時に涙をおこぼしになった。

「長き世をたのめてもなほ悲しきはただ明日知らぬ命なりけり

 こんなにまであなたが恋しいことから前途が不安に思われてなりませんよ。意志のとおりの行動ができないで、どうして来ようかと苦心を重ねる間に死んでしまいそうな気がします。あの冷淡だったあなたをそのままにしておかずに、どうして捜し出して再会を遂げたのだろう、かえって苦しくなるばかりだったのに」

 女は宮が墨をつけてお渡しになった筆で、

  心をば歎かざらまし命のみ定めなき世と思はましかば

 と書いた。自分の恋の変わることを恐れる心があるらしいと、宮はこれを御覧になっていよいよ可憐にお思われになった。

「どんな人の変わりやすかったのに懲りたのですか」

 などとほほえんでお言いになり、薫(かおる)がいつからここへ伴って来たのかと、その時を聞き出そうとあそばすのを女は苦しがって、

「私の申せませんことをなぜそんなにしつこくお訊ききになりますの」

 と恨みを言うのも若々しく見えた。そのうちわかることであろうと思召しながら、直接今この人に言わせて見たいお気持ちになっておいでになるのであった。》

 

<「浮舟」――雪の中、匂宮は浮舟を抱いて舟で小嶋へ幽閉する>

 二月の十日に内裏で詩会があったあと、雪降る宿直所で薫が「衣かたしき今宵もや」とつぶやくと(『古今集』読み人知らず「さ筵(むしろ)に衣片敷きこよひもや我を待つらむ宇治の橋姫」の引用)、匂宮は嫉妬し、翌日雪の中を宇治の浮舟のもとへ行き、舟で小嶋へ幽閉して、謹慎日と偽った二日間を色恋に戯れる。

 

《山荘では宮のほうから出向くからというおしらせを受けていたが、こうした深い雪にそれは御実行あそばせないことと思って気を許していると、夜がふけてから、右近を呼び出して従者が宮のおいでになったことを伝えた。うれしいお志であると姫君は感激を覚えていた。右近はこんなことが続出して、行く末はどうおなりになるかと姫君のために苦しくも思うのであるが、こうした夜によくもと思う心はこの人にもあった。お断わりのしようもないとして、自身と同じように姫君から睦(むつ)まじく思われている若い女房で、少し頭のよい人を一人相談相手にしようとした。

「少しめんどうな問題なのですが、その秘密を私といっしょに姫君のために隠すことに骨を折ってくださいな」

 と言ったのであった。そして二人で宮を姫君の所へ御案内した。途中で濡れておいでになった宮のお衣服から立つ高いにおいに困るわけであったが、大将のにおいのように紛らわせた。

 夜のうちにお帰りになることは、逢いえぬ悲しさに別れの苦しさを加えるだけのものになるであろうからと思召した宮は、この家にとどまっておいでになる窮屈さもまたおつらくて、時方(ときかた)に計らわせて、川向いのある家へ恋人を伴って行く用意をさせるために先へそのほうへおやりになった内記が夜ふけになってから山荘へ来た。

「すべて整いましてございます」

 と時方は取り次がせた。にわかに何事を起こそうとあそばすのであろうと右近の心は騒いで、不意に眠りからさまされたのでもあったから身体がふるえてならなかった。子供が雪遊びをしているようにわなわなとふるえていた。どうしてそんなことをと異議をお言わせになるひまもお与えにならず宮は姫君を抱いて外へお出になった。右近はあとを繕うために残り、侍従に供をさせて出した。はかないあぶなっかしいものであると山荘の人が毎日ながめていた小舟へ宮は姫君をお乗せになり、船が岸を離れた時にははるかにも知らぬ世界へ伴って行かれる気のした姫君は、心細さに堅くお胸へすがっているのも可憐に宮は思召された。有明(ありあけ)の月が澄んだ空にかかり、水面も曇りなく明るかった。

「これが橘(たちばな)の小嶋でございます」

 と言い、船のしばらくとどめられた所を御覧になると、大きい岩のような形に見えて常磐木(ときわぎ)のおもしろい姿に繁茂した嶋が倒影もつくっていた。

「あれを御覧なさい。川の中にあってはかなくは見えますが千年の命のある緑が深いではありませんか」

 とお言いになり、

  年経(ふ)とも変はらんものか橘の小嶋の崎(さき)に契るこころは

 とお告げになった。女も珍しい楽しい路(みち)のような気がして、

  橘の小嶋は色も変はらじをこの浮舟ぞ行くへ知られぬ

 こんなお返辞をした。月夜の美と恋人の艶(えん)な容姿が添って、宇治川にこんな趣があったかと宮は恍惚(こうこつ)としておいでになった。

 対岸に着いた時、船からお上がりになるのに、浮舟(うきふね)の姫君を人に抱かせることは心苦しくて、宮が御自身でおかかえになり、そしてまた人が横から宮のお身体(からだ)をささえて行くのであった。見苦しいことをあそばすものである、何人(なにびと)をこれほどにも大騒ぎあそばすのであろうと従者たちはながめた。

 時方の叔父(おじ)の因幡守(いなばのかみ)をしている人の荘園の中に小さい別荘ができていて、それを宮はお用いになるのである。まだよく家の中の装飾などもととのっていず、網代(あじろ)屏風(びょうぶ)などという宮はお目にもあそばしたことのないような荒々しい物が立ててある。風を特に防ぐ用をするとも思われない。垣(かき)のあたりにはむら消えの雪がたまり、今もまた空が曇ってきて小降りに降る雪もある。そのうち日が雲から出て軒の垂氷(つらら)の受ける朝の光とともに人の容貌(ようぼう)も皆ひときわ美しくなったように見えた。宮は人目をお避けになるために軽装のお狩衣姿であった。浮舟の姫君の着ていた上着は抱いておいでになる時お脱がせになったので、繊細(きゃしゃ)な身体つきが見えて美しかった。自分は繕いようもないこんな姿で、高雅なまぶしいほどの人と向かい合っているのではないかと浮舟は思うのであるが、隠れようもなかった。少し着馴(な)らした白い衣服を五枚ばかり重ねているだけであるが、袖口から裾のあたりまで全体が優美に見えた。いろいろな服を多く重ねた人よりも上手(じょうず)に着こなしていた。宮は御妻妾でもこれほど略装になっているのはお見馴れにならないことであったから、こんなことさえも感じよく美しいとばかりお思われになった。侍従もきれいな若女房であった。右近だけでなくこの人にまで自分の秘密を残りなく見られることになったのを浮舟は苦しく思った。宮も右近のほかのこの女房のことを、

「何という名かね。自分のことを言うなよ」

 と仰せられた。侍従はこれを身に余る喜びとした。別荘守(もり)の男から主人と思って大事がられるために、時方は宮のお座敷には遣戸(やりど)一重隔てた室まで得意にふるまっていた。声を縮めるようにしてかしこまって話す男に、時方は宮への御遠慮で返辞もよくすることができず心で滑稽(こっけい)のことだと思っていた。

「恐ろしいような占いを出されたので、京を出て来てここで謹慎をしているのだから、だれも来させてはならないよ」

 と内記は命じていた。

 だれも来ぬ所で宮はお気楽に浮舟と時をお過ごしになった。この間大将が来た時にもこうしたふうにして逢ったのであろうとお思いになり、宮は恨みごとをいろいろと仰せられた。夫人の女(にょ)二(に)の宮(みや)を大将がどんなに尊重して暮らしているかというようなこともお聞かせになった。宇治の橋姫を思いやった口ずさみはお伝えにならぬのも利己的だと申さねばならない。時方がお手水(ちょうず)や菓子などを取り次いで持って来るのを御覧になり、

「大事にされているお客の旦那(だんな)。ここへ来るのを見られるな」

 と宮はお言いになった。侍従は若い色めかしい心から、こうした日をおもしろく思い、内記と話をばかりしていた。浮舟の姫君は雪の深く積もった中から自身の住居(すまい)のほうを望むと、霧の絶え間絶え間から木立ちのほうばかりが見えた。鏡をかけたようにきらきらと夕日に輝いている山をさして、昨夜の苦しい路(みち)のことを誇張も加えて宮が語っておいでになった。

  峰の雪汀(みぎは)の氷踏み分けて君にぞ惑ふ道にまどはず

「木幡(こばた)の里に馬はあれど」(かちよりぞ来る君を思ひかね)などと、別荘に備えられてあるそまつな硯(すずり)などをお出させになり、無駄(むだ)書きを宮はしておいでになった。

  降り乱れ汀(みぎは)に凍(こほ)る雪よりも中空(なかぞら)にてぞわれは消(け)ぬべき

 とその上へ浮舟は書いた。中空という言葉は一方にも牽引(けんいん)力のあることを言うのであろうと宮のお恨みになるのを聞いていて、誤解されやすいことを書いたと思い、女は恥ずかしくて破ってしまった。

 そうでなくてさえ美しい魅力のある方が、より多く女の心を得ようとしていろいろとお言いになる言葉も御様子も若い姫君を動かすに十分である。

 謹慎日を二日間ということにしておありになったので、あわただしいこともなくゆっくりと暮らしておいでになるうちに相思の情は深くなるばかりであった。右近は例のように姫君のためにその場その場を取り繕い、言い紛らして衣服などを持たせてよこした。次の日は乱れた髪を少し解かさせて、深い紅の上に紅梅色の厚織物などの取り合わせのよい服装を浮舟はしていた。侍従も平常(ふだん)用の裳(も)を締めたまま来ていたのが、あとから送ってこられたきれいなものにすべて脱ぎ変えたので、脱いだほうの裳を宮は浮舟にお掛けさせになり手水を使わせておいでになった。女(にょ)一(いち)の宮(みや)の女房にこの人を上げたらどんなにお喜びになって大事にされることであろう、大貴族の娘も多く侍しているのであるが、これほどの容貌(きりょう)の人はほかにないであろうと、裳を着けた姿からふとこんなことも宮はお思いになった。見苦しいまでに戯れ暮らしておいでになり、忍んでほかへ隠してしまう計画について繰り返し繰り返し宮はお話しになるのである。それまでに大将が来ても兄弟以上の親しみを持たぬというようなことを誓えとお言いになるのを、女は無理なことであると思い、返辞をすることができず、涙までもこぼれてくる様子を御覧になり、自分の目前ですらその人に引かれる心を隠すことができぬかと胸の痛くなるようなねたましさも宮はお覚えになった。恨み言も言い、御自身のお心もちを泣いてお告げになりもしたあとで、第三日めの未明に北岸の山荘へおもどりになろうとして、例のように抱いて船から姫君をお伴いになるのであったが、

「あなたが深く愛している人も、こんなにまで奉仕はしないでしょう。わかりましたか」

 とお言いになると、そうであったというように思って、浮舟がうなずいているのが可憐(かれん)であった。右近は妻戸を開いて姫君を中へ迎えた。そのまま別れてお帰りにならねばならぬのも、飽き足らぬ悲しいことに宮は思召した。》

 

 薫の用意した京の邸へ移る支度をしている宇治に匂宮と薫の双方から手紙が来て、浮舟は当惑する。薫は女二の宮に浮舟を引き取ることを求めて邸を調えるが、そのことを匂宮は知る。浮舟は憂悶するばかりだが、薫は文使いと随身の挙動から、匂宮が浮舟と関係を持ったと突き止める。右近と侍従が、東国で二人の情人、二心を持った女が原因で殺害に及んだ話を浮舟にする。侍従は浮舟に匂宮を勧め、右近は宇治に住まわせたいと言うが、死を決意した浮舟は匂宮の手紙を整理する。匂宮は返事が来ないので宇治へ出かけるが、薫による警護が厳重で会えない。

 

<「蜻蛉」――薫のフェティシズム

「蜻蛉」は薫二十七歳。いきなり浮舟が失踪してしまっている。

 浮舟が死んだと聞いた匂宮は時方を宇治に派遣し、浮舟の母も宇治に着いて右近から説明を受ける。浮舟の衣服などを見つからない遺骸の代わりに火葬する。薫は母の病気で石山寺に参籠中だったが、遅れて事情を知り、懊悩する。匂宮は朦朧と病の床につき、見舞った薫は皮肉、嫌味を言う。当初二人は誠実に悲しんでいたものの、四十九日の法要が過ぎると、薫は小宰相の君と会いたいとか、女二の宮とともに女一の宮ももらえばよかったと思い、覗き見た女一の宮が着ていた薄物と似た単衣を、氷に濡れた女二の宮に着せ、同じように氷を持たせて、悦に入る。匂宮は亡くなった式部卿宮の娘の宮の君を薫と争う。

 

《日々の多くの講義に聞き疲れて女房たちも皆部屋(へや)へ上がっていて、お居間に侍している者の少ない夕方に、薫の大将は衣服を改めて、今日退出する僧の一人に必ず言っておく用で釣殿(つりどの)のほうへ行ってみたが、もう僧たちは退散したあとで、だれもいなかったから、池の見えるほうへ行ってしばらく休息したあとで、人影も少なくなっているのを見て、この人の女の友人である小宰相などのために、隔てを仮に几帳(きちょう)などでして休息所のできているのはここらであろうか、人の衣擦(きぬずれ)の音がすると思い、内廊下の襖子(からかみ)の細くあいた所から、静かに中をのぞいて見ると、平生女房級の人の部屋(へや)になっている時などとは違い、晴れ晴れしく室内の装飾ができていて、幾つも立ち違いに置かれた几帳はかえって、その間から向こうが見通されてあらわなのであった。氷を何かの蓋(ふた)の上に置いて、それを割ろうとする人が大騒ぎしている。大人(おとな)の女房が三人ほど、それと童女がいた。大人は唐衣(からぎぬ)、童女は袗(かざみ)も上に着ずくつろいだ姿になっていたから、宮などの御座所になっているものとも見えないのに、白い羅(うすもの)を着て、手の上に氷の小さい一切れを置き、騒いでいる人たちを少し微笑をしながらながめておいでになる方のお顔が、言葉では言い現わせぬほどにお美しかった。非常に暑い日であったから、多いお髪(ぐし)を苦しく思召すのか肩からこちら側へ少し寄せて斜めになびかせておいでになる美しさはたとえるものもないお姿であった。多くの美人を今まで見てきたが、それらに比べられようとは思われない高貴な美であった。御前にいる人は皆土のような顔をしたものばかりであるとも思われるのであったが、気を静めて見ると、黄の涼絹(すずし)の単衣(ひとえ)に淡紫(うすむらさき)の裳(も)をつけて扇を使っている人などは少し気品があり、女らしく思われたが、そうした人にとって氷は取り扱いにくそうに見えた。

「そのままにして、御覧だけなさいましよ」

 と朋輩(ほうばい)に言って笑った声に愛嬌(あいきょう)があった。声を聞いた時に薫は、はじめてその人が友人の小宰相であることを知った。とどめた人のあったにもかかわらず氷を割ってしまった人々は、手ごとに一つずつの塊(かたまり)を持ち、頭の髪の上に載せたり、胸に当てたり見苦しいことをする人もあるらしかった。小宰相は自身の分を紙に包み、宮へもそのようにして差し上げると、美しいお手をお出しになって、その紙で掌(て)をおぬぐいになった。

「もう私は持たない、雫(しずく)がめんどうだから」

 と、お言いになる声をほのかに聞くことのできたのが薫のかぎりもない喜びになった。まだごくお小さい時に、自分も無心にお見上げして、美しい幼女でおありになると思った。それ以後は絶対にこの宮を拝見する機会を持たなかったのであるが、なんという神か仏かがこんなところを自分の目に見せてくれたのであろうと思い、また過去の経験にあるように、こうした隙見(すきみ)がもとで長い物思いを作らせられたと同じく、自分を苦しくさせるための神仏の計らいであろうかとも思われて、落ち着かぬ心で見つめていた。ここの対の北側の座敷に涼んでいた下級の女房の一人が、この襖子(からかみ)は急な用を思いついてあけたままで出て来たのを、この時分に思い出して、人に気づかれては叱(しか)られることであろうとあわてて帰って来た。襖子に寄り添った直衣(のうし)姿の男を見て、だれであろうと胸を騒がせながら、自分の姿のあらわに見られることなどは忘れて、廊下をまっすぐに急いで来るのであった。自分はすぐにここから離れて行ってだれであるとも知られまい、好色男らしく思われることであるからと思い、すばやく薫は隠れてしまった。その女房はたいへんなことになった、自分はお几帳(きちょう)なども外から見えるほどの隙(すき)をあけて来たではないか、左大臣家の公達(きんだち)なのであろう、他家の人がこんな所へまで来るはずはないのである、これが問題になればだれが襖子をあけたかと必ず言われるであろう、あの人の着ていたのは単衣(ひとえ)も袴(はかま)も涼絹(すずし)であったから、音がたたないで内側の人は早く気づかなかったのであろうと苦しんでいた。

 薫は漸く僧に近い心になりかかった時に、宇治の宮の姫君たちによって煩悩(ぼんのう)を作り始め、またこれからは一品(いっぽん)の宮(みや)(筆者註:女一の宮)のために物思いを作る人になる自分なのであろう、その二十(はたち)のころに出家をしていたなら、今ごろは深い山の生活にも馴(な)れてしまい、こうした乱れ心をいだくことはなかったであろうと思い続けられるのも苦しかった。なぜあの方を長い間見たいと願った自分なのであろう、何のかいがあろう、苦しいもだえを得るだけであったのにと思った。

 翌朝起きた薫は夫人の女二の宮の美しいお姿をながめて、必ずしもこれ以上の御美貌(びぼう)であったのではあるまいと心を満ち足りたようにしいてしながら、また、少しも似ておいでにならない、超人間的にまであの方は気品よくはなやかで、言いようもない美しさであった。あるいは思いなしかもしれぬ、その場合がことさらに人の美を輝かせるものだったかもしれぬと薫は思い、

「非常に暑い。もっと薄いお召し物を宮様にお着せ申せ。女は平生と違った服装をしていることなどのあるのが美しい感じを与えるものだからね。あちらへ行って大弐(だいに)に、薄物の単衣(ひとえ)を縫って来るように命じるがいい」

 と言いだした。侍している女房たちは宮のお美しさにより多く異彩の添うのを楽しんでの言葉ととって喜んでいた。いつものように一人で念誦(ねんず)をする室(へや)のほうへ薫は行っていて、昼ごろに来てみると、命じておいた夫人の宮のお服が縫い上がって几帳(きちょう)にかけられてあった。

「どうしてこれをお着にならぬのですか、人がたくさん見ている時に肌(はだ)の透く物を着るのは他をないがしろにすることにもあたりますが、今ならいいでしょう」

 と薫は言って、手ずからお着せしていた。宮のお袴(はかま)も昨日の方と同じ紅であった。お髪(ぐし)の多さ、その裾(すそ)のすばらしさなどは劣ってもお見えにならぬのであるが、美にも幾つの級があるものか女二の宮が昨日の方に似ておいでになったとは思われなかった。氷を取り寄せて女房たちに薫は割らせ、その一塊(ひとかたまり)を取って宮にお持たせしたりしながら心では自身の稚態がおかしかった。絵に描かいて恋人の代わりにながめる人もないのではない、ましてこれは代わりとして見るのにかけ離れた人ではないはずであると思うのであるが、昨日こんなにしてあの中に自分もいっしょに混じっていて、満足のできるほどあの方をながめることができたのであったならと思うと、心ともなく歎息の声が発せられた。》

 

<「手習」>

「手習」は薫二十七歳から二十八歳まで。比叡山の横川(よかわ)の僧都(そうず)の母が僧都の妹尼と初瀬観音に詣でた帰り、宇治で病になり、それを聞いて宇治へ下山した僧都は宇治院の裏で濡れ泣く若い女を見つけ、小野へ連れ帰る。入水し救われた浮舟は記憶喪失なのか、何も語らないが、僧都の加持によって物の怪は調伏され意識を取り戻す。僧都が女一の宮の祈祷に赴く途中に浮舟のもとに立ち寄ると、浮舟は懇願して出家してしまう。一方、僧都は祈祷の折に、明石の中宮(匂宮の母)に一部始終を語る。浮舟の一周忌が過ぎて、薫が明石の中宮に悲しい気持を打明けると、中宮は小宰相に、僧都から聞いた話を薫に語るよう命じる。聞いて薫は愕然とするが、浮舟との再会を企てる。

 

<「夢の浮橋」>

夢の浮橋」は薫二十八歳。薫が横川に僧都を訪ねて事情を聞くと、僧都は薫の様子を見て、浮舟の望みのままに出家させてしまったことを悔み、環俗をほのめかす手紙を浮舟の弟の小君(こぎみ)に託す。薫に遣わされた小君は小野に訪ね行くが、浮舟は対面を許さず、小君は落胆して京へ帰った。薫は茫然とし、誰かに囲われているのだろうかと疑ったのは、自分が宇治に浮舟をほうっておいた経験からと、本には書いてあるとやら。

                             (了)

      *****引用又は参考文献*****

*與謝野晶子『全訳 源氏物語』(角川文庫クラシックス

谷崎潤一郎『潤一郎訳 源氏物語』(中公文庫)

大野晋丸谷才一『光る源氏の物語』(中央公論社

*神田龍身『源氏物語=性の迷宮へ』(講談社選書メチエ

吉本隆明源氏物語論』(ちくま学芸文庫

藤井貞和源氏物語入門』(講談社学術文庫

三谷邦明『入門源氏物語』(ちくま学芸文庫

三田村雅子、河添房江、松井健児編集『源氏研究1 特集「王朝文化と性」』(三田村雅子「黒髪の源氏物語――水の感覚・水の風景」、橋本ゆかり「抗う浮舟物語――抱かれ、臥すしぐさと身体から」、他所収)(翰林書房

三田村雅子、河添房江、松井健児編集『源氏研究2 特集「身体と感覚」』(三田村雅子「濡れる身体の宇治――まなざしと手触りから」、他所収)(翰林書房

*小嶋菜温子編『王朝の性と身体 [逸脱する物語]』(吉井美弥子「物語の「声」と「身体」 薫と宇治の女たち」、小林正明「逆光の光源氏 父なるものの挫折」、他所収)(森話社

 

文学批評) 『源氏物語 宇治十帖』のノワールな倒錯

 

 

 


源氏物語』の新しい物語「宇治十帖」は、「橋姫」からはじまり、「椎が本」「総角(あげまき)」「早蕨(さわらび)」「宿り木」「東屋(あずまや)」「蜻蛉」「手習」と続き、「夢の浮橋」で終わる。

「光」の君の世界から、「夜」「闇」「漆黒」の薫り(薫中将=女三の宮と光源氏との子(実は女三の宮と柏木との不義の子))、匂い(匂宮=明石女御と冷泉院との子)の世界へ。

 宇治とは憂路(うじ)でもあろうか。また、ノワールな倒錯の巻物でもある。

 以下、『源氏物語』からの引用は、與謝野晶子『全訳 源氏物語』(角川文庫クラシックス)による。

 

<「橋姫」――濡れる薫の隙見(すきみ)>

「橋姫」は薫二十歳(匂宮二十一歳)から二十二歳まで。八宮は光源氏の弟宮で、かつて東宮候補にもされたが敗れてからは京から宇治に籠っていた。自分の出生に疑念を持つ薫は厭世的、宗教的だが、冷泉院に伺う阿闍梨から八宮が仏法に関心が深いことを知って、宇治に通うようになる。

 晩秋の頃、薫は宇治へ行く。婚期を逸している二人の娘(大君と中の君)がいる八宮は、山籠りをしていた。宇治に着くまでにすでにしとどに濡れそぼった薫の「隙見」がはじまる。視覚的欲望、窃視症。

 

《秋の末であったが、四季に分けて宮があそばす念仏の催しも、この時節は河(かわ)に近い山荘では網代(あじろ)に当たる波の音も騒がしくやかましいからとお言いになって、阿闍梨(あじゃり)の寺へおいでになり、念仏のため御堂(みどう)に七日間おこもりになることになった。姫君たちは平生よりもなお寂しく山荘で暮らさねばならなかった。ちょうどそのころ薫中将は、長く宇治へ伺わないことを思って、その晩の有明月(ありあけづき)の上り出した時刻から微行(しのび)で、従者たちをも簡単な人数にして八の宮をお訪ねしようとした。河の北の岸に山荘はあったから船などは要しないのである。薫は馬で来たのだった。宇治へ近くなるにしたがい霧が濃く道をふさいで行く手も見えない林の中を分けて行くと、荒々しい風が立ち、ほろほろと散りかかる木の葉の露がつめたかった。ひどく薫は濡(ぬ)れてしまった。こうした山里の夜の路(みち)などを歩くことをあまり経験せぬ人であったから、身にしむようにも思い、またおもしろいように思われた。

  山おろしに堪へぬ木の葉の露よりもあやなく脆(もろ)きわが涙かな

 村の者を驚かせないために随身に人払いの声も立てさせないのである。左右が柴垣(しばがき)になっている小路(こみち)を通り、浅い流れも踏み越えて行く馬の足音なども忍ばせているのであるが、薫の身についた芳香を風が吹き散らすために、覚えもない香を寝ざめの窓の内に嗅(か)いで驚く人々もあった。

 宮の山荘にもう間もない所まで来ると、何の楽器の音とも聞き分けられぬほどの音楽の声がかすかにすごく聞こえてきた。山荘の姉妹(きょうだい)の女王(にょおう)はよく何かを合奏しているという話は聞いたが、機会もなくて、宮の有名な琴の御音も自分はまだお聞きすることができないのである、ちょうどよい時であると思って山荘の門をはいって行くと、その声は琵琶(びわ)であった。所がらでそう思われるのか、平凡な楽音とは聞かれなかった。掻(か)き返す音もきれいでおもしろかった。十三絃(げん)の艶(えん)な音も絶え絶えに混じって聞こえる。しばらくこのまま聞いていたく薫は思うのであったが、音はたてずにいても、薫のにおいに驚いて宿直(とのい)の侍風の武骨らしい男などが外へ出て来た。こうこうで宮が寺へこもっておいでになるとその男は言って、

「すぐお寺へおしらせ申し上げましょう」

 とも言うのだった。

「その必要はない。日数をきめて行っておられる時に、おじゃまをするのはいけないからね。こんなにも途中で濡(ぬ)れて来て、またこのまま帰らねばならぬ私に御同情をしてくださるように姫君がたへお願いして、なんとか仰せがあれば、それだけで私は満足だよ」

 と薫が言うと、醜い顔に笑(え)みを見せて、

「さように申し上げましょう」

 と言って、あちらへ行こうとするのを、

「ちょっと」

 と、もう一度薫はそばへ呼んで、

「長い間、人の話にだけ聞いていて、ぜひ伺わせていただきたいと願っていた姫君がたの御合奏が始まっているのだから、こんないい機会はない、しばらく物蔭(ものかげ)に隠れてお聞きしていたいと思うが、そんな場所はあるだろうか。ずうずうしくこのままお座敷のそばへ行っては皆やめておしまいになるだろうから」

 と言う薫の美しい風采(ふうさい)はこうした男をさえ感動させた。

「だれも聞く人のおいでにならない時にはいつもこんなふうにしてお二方で弾(ひ)いておいでになるのでございますが、下人(げにん)でも京のほうからまいった者のございます時は少しの音もおさせになりません。宮様は姫君がたのおいでになることをお隠しになる思召(おぼしめ)しでそうさせておいでになるらしゅうございます」

 丁寧な恰好(かっこう)でこう言うと、薫は笑って、

「それはむだなお骨折りと申すべきだ。そんなにお隠しになっても人は皆知っていて、りっぱな姫君の例にお引きするのだからね」

 と言ってから、

「案内を頼む。私は好色漢では決してないから安心するがよい。そうしてお二人で音楽を楽しんでおいでになるところがただ拝見したくてならぬだけなのだよ」

 親しげに頼むと、

「それはとてもたいへんなことでございます。あとになりまして私がどんなに悪く言われることかしれません」

 と言いながらも、その座敷とこちらの庭の間に透垣(すいがき)がしてあることを言って、そこの垣へ寄って見ることを教えた。薫の供に来た人たちは西の廊(わたどの)の一室へ皆通してこの侍が接待をするのだった。

 月が美しい程度に霧をきている空をながめるために、簾(すだれ)を短く巻き上げて人々はいた。薄着で寒そうな姿をした童女が一人と、それと同じような恰好(かっこう)をした女房とが見える。座敷の中の一人は柱を少し楯(たて)のようにしてすわっているが、琵琶を前へ置き、撥(ばち)を手でもてあそんでいた。この人は雲間から出てにわかに明るい月の光のさし込んで来た時に、

「扇でなくて、これでも月は招いてもいいのですね」

 と言って空をのぞいた顔は、非常に可憐(かれん)で美しいものらしかった。横になっていたほうの人は、上半身を琴の上へ傾けて、

「入り日を呼ぶ撥はあっても、月をそれでお招きになろうなどとは、だれも思わないお考えですわね」

 と言って笑った。この人のほうに貴女(きじょ)らしい美は多いようであった。

「でも、これだって月には縁があるのですもの」

 こんな冗談(じょうだん)を言い合っている二人の姫君は、薫がほかで想像していたのとは違って非常に感じのよい柔らかみの多い麗人であった。女房などの愛読している昔の小説には必ずこうした佳人のことが出てくるのを、いつも不自然な作り事であると反感を持ったものであるが、事実として意外な所に意外なすぐれた女性の存在することを知ったと思うのであった。》

 

 薫は八宮に対面して姫君の後見を託される。薫は老女弁に対面して、かつて自分が仕えていた柏木と女三の宮との関係を告げられたうえ、二人の往復の手紙を渡される。

 

<「椎が本」――薫の隙見>

「椎が本」は薫二十三歳の春から二十四歳の夏まで。大君二十五歳、中の君二十三歳。匂宮は初瀬詣での途中、夕霧(筆者註:光源氏と葵上との子)が用意した宇治の山荘に中宿(なかやど)する。八宮は中の君を匂宮に縁付けたいと思っている。八宮は娘たちに宇治を離れるなと戒めていたが、山寺に籠って亡くなる。薫は大君を都の近くに迎え入れたいと申し出るが、中の君はそれを軽蔑する。匂宮は夕霧の六の君との縁談を勧められているが、中の君に恋慕している。

 夏になり、薫は宇治へ行く。

 

《その夏は平生よりも暑いのをだれもわびしがっている年で、薫も宇治川に近い家は涼しいはずであると思い出して、にわかに山荘へ来ることになった。朝涼のころに出かけて来たのであったが、ここではもうまぶしい日があやにくにも正面からさしてきていたので、西向きの座敷のほうに席をして髭侍(ひげざむらい)を呼んで話をさせていた。

 その時に隣の中央の室(へや)の仏前に女王たちはいたのであるが、客に近いのを避けて居間のほうへ行こうとしているかすかな音は、立てまいとしているが薫の所へは聞こえてきた。このままでいるよりも見ることができるなら見たいものであると願って、こことの間の襖子(からかみ)の掛け金の所にある小さい穴を以前から薫は見ておいたのであったから、こちら側の屏風(びょうぶ)は横へ寄せてのぞいて見た。ちょうどその前に几帳(きちょう)が立てられてあるのを知って、残念に思いながら引き返そうとする時に、風が隣室とその前の室との間の御簾(みす)を吹き上げそうになったため、

「お客様のいらっしゃる時にいけませんわね、そのお几帳をここに立てて、十分に下を張らせたらいいでしょう」

 と言い出した女房がある。愚かしいことだとみずから思いながらもうれしさに心をおどらせて、またのぞくと、高いのも低いのも几帳は皆その御簾ぎわへ持って行かれて、あけてある東側の襖子から居間へはいろうと姫君たちはするものらしかった。その二人の中の一方が庭に向いた側の御簾から庇(ひさし)の室越(まご)しに、薫の従者たちの庭をあちらこちら歩いて涼をとろうとするのをのぞこうとした。濃い鈍(にび)色の単衣(ひとえ)に、萱草(かんぞう)色の喪の袴(はかま)の鮮明な色をしたのを着けているのが、派手(はで)な趣のあるものであると感じられたのも着ている人によってのことに違いない。帯は仮なように結び、袖口(そでぐち)に引き入れて見せない用意をしながら数珠(じゅず)を手へ掛けていた。すらりとした姿で、髪は袿(うちぎ)の端に少し足らぬだけの長さと見え、裾(すそ)のほうまで少しのたるみもなくつやつやと多く美しく下がっている。正面から見るのではないが、きわめて可憐(かれん)で、はなやかで、柔らかみがあっておおような様子は、名高い女一(にょいち)の宮(みや)の美貌(びぼう)もこんなのであろうと、ほのかにお姿を見た昔の記憶がまたたどられた。いざって出て、

「あちらの襖子は少しあらわになっていて心配なようね」

 と言い、こちらを見上げた今一人にはきわめて奥ゆかしい貴女(きじょ)らしさがあった。頭の形、髪のはえぎわなどは前の人よりもいっそう上品で、艶(えん)なところもすぐれていた。

「あちらのお座敷には屏風(びょうぶ)も引いてございます。何もこの瞬間にのぞいて御覧になることもございますまい」

 と安心しているふうに言う若い女房もあった。

「でも何だか気が置かれる。ひょっとそんなことがあればたいへんね」

 なお気がかりそうに言って、東の室(ま)へいざってはいる人に気高(けだか)い心憎さが添って見えた。着ているのは黒い袷(あわせ)の一襲(かさね)で、初めの人と同じような姿であったが、この人には人を惹(ひ)きつけるような柔らかさ、艶(えん)なところが多くあった。また弱々しい感じも持っていた。髪も多かったのがさわやいだ程度に減ったらしく裾のほうが見えた。その色は翡翠(ひすい)がかり、糸を縒(よ)り掛けたように見えるのであった。紫の紙に書いた経巻を片手に持っていたが、その手は前の人よりも細く痩(や)せているようであった。立っていたほうの姫君が襖子の口の所へまで行ってから、こちらを向いて何であったか笑ったのが非常に愛嬌(あいきょう)のある顔に見えた。》

 

 薫は、当時の習慣としてはあり得なかった女の姿をその目で見て、大君への恋着が深まる。薫の窃視した視界の中で、それと知らずに行動する姉妹の性格描写が見事である。

 

<「総角」――薫が大君の髪を掻きやるも>

「総角」は薫二十四歳の秋から十二月まで。八宮の一周忌が近づき、宇治を訪れた薫は、部屋に入り込み、逃げようとする大君を掴まえて髪の毛をあげ、顔を見るが、添い臥しして語らうだけで実事には及ばない。

 

《仏間と客室の間の戸をあけさせ、奥のほうの仏前には灯を明るくともし、隣との仕切りには御簾(みす)へ屏風(びょうぶ)を添えて姫君は出ていた。客の座にも灯の台は運ばれたのであるが、

「少し疲れていて失礼な恰好(かっこう)をしていますから」

 と言い、それをやめさせて薫は身を横たえていた。菓子などが客の夕餐(ゆうげ)に代えて供えられてあった。従者にも食事が出してあった。廊の座敷にあたるような部屋(へや)にその人たちは集められていて、こちらを静かにさせておき、客は女王(筆者註:大君)と話をかわしていた。打ち解けた様子はないながらになつかしく愛嬌(あいきょう)の添ったふうでものを言う女王があくまでも恋しくてあせり立つ心を薫はみずから感じていた。この何でもないものを越えがたい障害物のように見なして恋人に接近なしえない心弱さは愚かしくさえ自分を見せているのではないかと、こんなことを心中では思うのであるが、素知らぬふうを作って、世間にあったことについて、身にしむ話も、おもしろく聞かされることもいろいろと語り続ける中納言(筆者註:薫)であった。女王は女房たちに近い所を離れずいるように命じておいたのであるが、今夜の客は交渉をどう進ませようと思っているか計られないところがあるように思う心から、姫君をさまで護ろうとはしていず、遠くへ退いていて、御仏(みほとけ)の灯(ひ)もかかげに出る者はなかった。姫君は恐ろしい気がしてそっと女房を呼んだがだれも出て来る様子がない。

「何ですか気分がよろしくなくなって困りますから、少し休みまして、夜明け方にまたお話を承りましょう」

 と、今や奥へはいろうとする様子が姫君に見えた。

「遠く山路(やまみち)を来ました者はあなた以上に身体(からだ)が悩ましいのですが、話を聞いていただくことができ、また承ることの喜びに慰んでこうしておりますのに、私だけをお置きになってあちらへおいでになっては心細いではありませんか」

 薫はこう言って屏風(びょうぶ)を押しあけてこちらの室(へや)へ身体(からだ)をすべり入らせた。恐ろしくて向こうの室へもう半分の身を行かせていたのを、薫に引きとめられたのが非常に残念で、

「隔てなくいたしますというのはこんなことを申すのでしょうか。奇怪なことではございませんか」

 と批難の言葉を発するのがいよいよ魅力を薫に覚えしめた。

「隔てないというお気持ちが少しも見えないあなたに、よくわかっていただこうと思うからです。奇怪であるとは、私が無礼なことでもするとお思いになるのではありませんか。仏のお前でどんな誓言でも私は立てます。決してあなたのお気持ちを破るような行為には出まいと初めから私は思っているのですから、お恐れになることはありませんよ。私がこんなに正直におとなしくしておそばにいることはだれも想像しないことでしょうが、私はこれだけで満足して夜を明かします」

 こう言って、薫は感じのいいほどな灯(ひ)のあかりで姫君のこぼれかかった黒髪を手で払ってやりながら見た顔は、想像していたように艶麗(えんれい)であった。何の厳重な締まりもないこの山荘へ、自分のような自己を抑制する意志のない男が闖入(ちんにゅう)したとすれば、このままで置くはずもなく、たやすくそうした人の妻にこの人はなり終わるところであった、どうして今までそれを不安とせずに結婚を急ごうとはしなかったかとみずからを批難する気にもなっている薫であったが、言いようもなく情けながって泣いている女王が可憐(かれん)で、これ以上の何の行為もできない。こんなふうの接近のしかたでなく、自然に許される日もあるであろうとのちの日を思い、男性の力で恋を得ようとはせず、初めの心は隠して相手を上手(じょうず)になだめていた。

「こんな心を突然お起こしになる方とも知らず、並みに過ぎて親しく今までおつきあいをしておりました。喪の姿などをあらわに御覧になろうとなさいましたあなたのお心の思いやりなさもわかりましたし、また私の抵抗の役だたなさも思われまして悲しくてなりません」

 と恨みを言って、姫君は他人に見られる用意の何一つなかった自身の喪服姿を灯影(ほかげ)で見られるのが非常にきまり悪く思うふうで泣いていた。

「そんなにもお悲しみになるのは、私がお気に入らないからだと恥じられて、なんともお慰めのいたしようがありません。喪服を召していらっしゃる場合ということで私をお叱(しか)りなさいますのはごもっともですが、私があなたをお慕い申し上げるようになりましてからの年月の長さを思っていただけば、今始めたことのように、それにかかわっていなくともよいわけでなかろうかと思います。あなたが私の近づくのを拒否される理由としてお言いになったことは、かえって私の長い間持ち続けてきた熱情を回顧させる結果しか見せませんよ」》

 

<「総角」――薫の禁欲>

 厭離的な薫には、眼の快楽に加えて、禁欲という名の快楽があるのだろうか。

 

《薫はそれに続いてあの琵琶(びわ)と琴の合奏されていた夜の有明月(ありあけづき)に隙見(すきみ)をした時のことを言い、それからのちのいろいろな場合に恋しい心のおさえがたいものになっていったことなどを多くの言葉で語った。姫君は聞きながら、そんなことがあったかと昔の秋の夜明けのことに堪えられぬ羞恥(しゅうち)を覚え、そうした心を下に秘めて長い年月の間表面(うわべ)をあくまでも冷静に作っていたのであるかと、身にしみ入る気もするのであった。薫はその横にあった短い几帳(きちょう)で御仏のほうとの隔てを作って、仮に隣へ寄り添って寝ていた。名香が高くにおい、樒(しきみ)の香も室に満ちている所であったから、だれよりも求道(ぐどう)心の深い薫にとっては不浄な思いは現わすべくもなく、また墨染めの喪服姿の恋人にしいてほしいままな力を加えることはのちに世の中へ聞こえて浅薄な男と見られることになり、自分の至上とするこの恋を踏みにじることになるであろうから、服喪の期が過ぎるのを待とう。そうしてまたこの人の心も少し自分のほうへなびく形になった時にと、しいて心をゆるやかにすることを努めた。秋の夜というものは、こうした山の家でなくても身にしむものの多いものであるのに、まして峰の嵐(あらし)も、庭に鳴く虫の声も絶え間なくてここは心細さを覚えさせるものに満ちていた。人生のはかなさを話題にして語る薫の言葉に時々答えて言う姫君の言葉は皆美しく感じのよいものであった。

 宵(よい)を早くから眠っていた女房たちは、この話し声から悪い想像を描いて皆部屋(へや)のほうへ行ってしまった。召使は信じがたいものであると父宮の言ってお置きになったことも女王は思い出していて、親の保護がなくなれば女も男も自分らを軽侮して、すでにもう今夜のような目にあっているではないかと悲しみ、宇治の河音(かわおと)とともに多くの涙が流れるのであった。そして明け方になった。薫の従者はもう起き出して、主人に帰りを促すらしい作り咳(ぜき)の音を立て、幾つの馬のいななきの声の聞こえるのを、薫は人の話に聞いている旅宿の朝に思い比べて興を覚えていた。

 薫は明りのさしてくるのが見えたほうの襖子(からかみ)をあけて、身にしむ秋の空を二人でながめようとした。女王も少しいざって出た。軒も狭い山荘作りの家であったから、忍ぶ草の葉の露も次第に多く光っていく。室の中もそれに準じて白んでいくのである。二人とも艶(えん)な容姿の男女であった。

「同じほどの友情を持ち合って、こんなふうにいつまでも月花に慰められながら、はかない人生を送りたいのですよ」

 薫がなつかしいふうにこんなことをささやくのを聞いていて、女王はようやく恐怖から放たれた気もするのであった。

「こんなにあからさまにしてお目にかかるのでなく、何かを隔ててお話をし合うのでしたら、私はもう少しも隔てなどを残しておかない心でおります」

 と女は言った。外は明るくなりきって、幾種類もの川べの鳥が目をさまして飛び立つ羽音も近くでする。黎明(れいめい)の鐘の音がかすかに響いてきた、この時刻ですらこうしてあらわな所に出ているのが女は恥ずかしいものであるのにと女王は苦しく思うふうであった。

「私が恋の成功者のように朝早くは出かけられないではありませんか。かえってまた他人はそんなことからよけいな想像をするだろうと思われますよ。ただこれまでどおり普通に私をお扱いくださるのがいいのですよ。そして世間のとは内容の違った夫婦とお思いくだすって、今後もこの程度の接近を許しておいてください。あなたに礼を失うような真似(まね)は決してする男でないと私を信じていてください。これほどに譲歩してもなおこの恋を護(まも)ろうとする男に同情のないあなたが恨めしくなるではありませんか」

 こんなことを言っていて、薫はなおすぐに出て行こうとはしない。それは非常に見苦しいことだと姫君はしていて、

「これからは今あなたがお言いになったとおりにもいたしましょう。今朝(けさ)だけは私の申すことをお聞き入れになってくださいませ」

 と言う。いかにも心を苦しめているのが見える。

「私も苦しんでいるのですよ。朝の別れというものをまだ経験しない私は、昔の歌のように帰り路(みち)に頭がぼうとしてしまう気がするのですよ」》

 

<「総角」――姉大君に供犠されかかる妹中の君>

 八宮の一周忌が過ぎる。大君は自分の形代として中の君を薫に添わせようと、弁に手引をさせて、姉妹二人が寝る部屋に薫を導くが、大君はひとり抜け出す。

 

《荒い風が吹き出して簡単な蔀戸(しどみど)などはひしひしと折れそうな音をたてているのに紛れて人が忍び寄る音などは姫君の気づくところとなるまいと女房らは思い、静かに薫を導いて行った。二人の女王の同じ帳台に寝ている点を不安に思ったのであるが、これが毎夜の習慣であったから、今夜だけを別室に一人一人でとは初めから姫君に言いかねたのである。二人のどちらがどれとは薫にわかっているはずであるからと弁は思っていた。

 物思いに眠りえない姫君(筆者註:大君)はこのかすかな足音の聞こえて来た時、静かに起きて帳台を出た。それは非常に迅速に行なわれたことであった。無心によく眠(ね)入っていた中の君を思うと、胸が鳴って、なんという残酷なことをしようとする自分であろう、起こしていっしょに隠れようかともいったんは躊躇(ちゅうちょ)したが、思いながらもそれは実行できずに、慄(ふる)えながら帳台のほうを見ると、ほのかに灯(ひ)の光を浴びながら、袿(うちぎ)姿で、さも来馴(な)れた所だというようにして、帳(とばり)の垂(た)れ布を引き上げて薫ははいって行った。非常に妹がかわいそうで、さめて妹はどんな気がすることであろうと悲しみながら、ちょっと壁の面に添って屏風(びょうぶ)の立てられてあった後ろへ姫君ははいってしまった。ただ抽象的な話として言ってみた時でさえ、自分の考え方を恨めしいふうに言った人であるから、ましてこんなことを謀(はか)った自分はうとましい姉だと思われ、憎くさえ思われることであろうと、思い続けるにつけても、だれも頼みになる身内の者を持たない不幸が、この悲しみをさせるのであろうと思われ、あの最後に山の御寺(みてら)へおいでになった時、父宮をお見送りしたのが今のように思われて、堪えられぬまで父君を恋しく思う姫君であった。

 薫は帳台の中に寝ていたのは一人であったことを知って、これは弁の計っておいたことと見てうれしく、心はときめいてくるのであったが、そのうちその人でないことがわかった。よく似てはいたが、美しく可憐(かれん)な点はこの人がまさっているかと見えた。驚いている顔を見て、この人は何も知らずにいたのであろうと思われるのが哀れであったし、また思ってみれば隠れてしまった恋人も情けなく恨めしかったから、これもまた他の人に渡しがたい愛着は覚えながらも、やはり最初の恋をもり立ててゆく障害になることは行ないたくない。そのようにたやすく相手の変えられる恋であったかとあの人に思われたくない、この人のことはそうなるべき宿命であれば、またその時というものがあろう、その時になれば自分も初めの恋人と違った人とこの人を思わず同じだけに愛することができようという分別のできた薫は、例のように美しくなつかしい話ぶりで、ただ可憐な人と相手を見るだけで語り明かした。》

 

<「総角」――薫の謀(はかりごと)による匂宮の中の君強姦>

 薫は中の君と匂宮とが結婚すれば、大君は自分と結婚するだろうと思い、匂宮を中の君へと導く。このあたり、光源氏をマメと色好みに二分割した双極的な薫と匂宮に、分身的な、二重人格的な、そして同性愛的な姿を見ることさえできる。

 モーツァルトのオペラ『コジ・ファン・トゥッテ』のような姉妹と二人の男との交換劇(モーツアルトと同時代人のマルキ・ド・サドの『ジュスチーヌ』『ジュリエット』の風味でもあって、さらにはやはり同時代人カントの倫理論をも喚起させる)。

 

《二十六日の彼岸の終わりの日が結婚の吉日になっていたから、薫はいろいろと考えを組み立てて、だれの目にもつかぬように一人で計らい、兵部卿の宮を宇治へお伴いして出かけた。御母中宮(ちゅうぐう)のお耳にはいっては、こうした恋の御微行などはきびしくお制しになり、おさせにならぬはずであったから、自分の立場が困ることになるとは思うのであるが、匂宮(におうみや)の切にお望みになることであったから、すべてを秘密にして扱うのも苦しかった。

 対岸のしかるべき場所へ御休息させておくことも船の渡しなどがめんどうであったから、山荘に近い自身の荘園の中の人の家へひとまず宮をお降ろしして、自身だけで女王たちの山荘へはいった。宮がおいでになったところで見とがめるような人たちもなく、宿直(とのい)をする一人の侍だけが時々見まわりに外へ出るだけのことであったが、それにも気(け)どらすまいとしての計らいであった。中納言がおいでになったと山荘の女房たちは皆緊張していた。女王(にょおう)らは困る気がせずにおられるのではないが、総角の姫君は、自分はもうあとへ退(の)いて代わりの人を推薦しておいたのであるからと思っていた。中の君は薫の対象にしているのは自分でないことが明らかなのであるから、今度はああした驚きをせずに済むことであろうと思いながらも、情けなく思われたあの夜からは、姉君をも以前ほどに信頼せず、油断をせぬ覚悟はしていた。取り次ぎをもっての話がいつまでもかわされていることで、今夜もどうなることかと女房らは苦しがった。

 薫は使いを出して兵部卿の宮を山荘へお迎え申してから、弁を呼んで、

「姫君にもう一言だけお話しすることが残っているのです。あの方が私の恋に全然取り合ってくださらないのはもうわかってしまいました。それで恥ずかしいことですが、この間の方の所へもうしばらくのちに私を、あの時のようにして案内して行ってくださいませんか」

 真実(まこと)らしく薫がこう言うと、どちらでも結局は同じことであるからと弁は心を決めて、そして大姫君の所へ行き、そのとおりに告げると、自分の思ったとおりにあの人は妹に恋を移したとうれしく、安心ができ、寝室へ行く通り路(みち)にはならぬ縁近い座敷の襖子(からかみ)をよく閉(し)めた上で、その向こうへしばらく語るはずの薫を招じた。

「ただ一言申し上げたいのですが、人に聞こえますほどの大声を出すこともどうかと思われますから、少しお開(あ)けくださいませんか。これではだめなのです」

「これでもよくわかるのですよ」

 と言って姫君は応じない。愛人を新しくする際に虚心平気でそれをするのでないことをこの人は言おうとするのであろうか、今までからこんなふうにしては話し合った間柄なのだから、あまり冷ややかにものを言わぬようにして、そして夜をふかさせずに立ち去らしめようと思い、この席を姫君は与えたのであったが、襖子の間から女の袖(そで)をとらえて引き寄せた薫は、心に積もる恨みを告げた。困ったことである、話すことをなぜ許したのであろうと後悔がされ、恐ろしくさえ思うのであるが、上手(じょうず)にここを去らせようとする心から、妹は自分と同じなのであるからということを、それとなく言っている心持ちなどを男は哀れに思った。

 兵部卿の宮は薫がお教えしたとおりに、あの夜の戸口によって扇をお鳴らしになると、弁が来て導いた。今一人の女王のほうへこうして薫を導き馴(な)れた女であろうと宮はおもしろくお思いになりながら、ついておいでになり、寝室へおはいりになったのも知らずに、大姫君は上手(じょうず)に中の君のほうへ薫を行かせようということを考えていた。おかしくも思い、また気の毒にも思われて、事実を知らせずにおいていつまでも恨まれるのは苦しいことであろうと薫は告白をすることにした。

兵部卿の宮様がいっしょに来たいとお望みになりましたから、お断わりをしかねて御同伴申し上げたのですが、物音もおさせにならずどこかへおはいりになりました。この賢ぶった男を上手におだましになったのかもしれません。どちらつかずの哀れな見苦しい私になるでしょう」

 聞く姫君はまったく意外なことであったから、ものもわからなくなるほどに残念な気がして、この人が憎く、

「いろいろ奇怪なことをあそばすあなたとは存じ上げずに、私どもは幼稚な心であなたを御信用申していましたのが、あなたには滑稽(こっけい)に見えて侮辱をお与えになったのでございますね」

  総角(あげまき)の女王は極度に口惜(くちお)しがっていた。

「もう時があるべきことをあらせたのです。私がどんなに道理を申し上げても足りなくお思いになるのでしたなら、私を打擲(ちょうちゃく)でも何でもしてください。あの女王様の心は私よりも高い身分の方にあったのです。それに宿命というものがあって、それは人間の力で左右できませんから、あの女王さんには私をお愛しくださることがなかったのです。その御様子が見えてお気の毒でしたし、愛されえない自分が恥ずかしくて、あの方のお心から退却するほかはなかったのです。もうしかたがないとあきらめてくだすって私の妻になってくださればいいではありませんか。どんなに堅く襖子は閉(し)めてお置きになりましても、あなたと私の間柄を精神的の交際以上に進んでいなかったとはだれも想像いたしますまい。御案内して差し上げた方のお心にも、私がこうして苦しい悶(もだ)えをしながら夜を明かすとはおわかりになっていますまい」

 と言う薫は襖子をさえ破りかねぬ興奮を見せているのであったから、うとましくは思いながら、言いなだめようと姫君はして、なお話の相手はし続けた。

「あなたがお言いになります宿命というものは目に見えないものですから、私どもにはただ事実に対して涙ばかりが胸をふさぐのを感じます。何というなされ方だろうとあさましいのでございます。こんなことが言い伝えに残りましたら、昔の荒唐無稽(こうとうむけい)な、誇張の多い小説の筋と同じように思われることでしょう。どうしてそんなことをお考え出しになったのかとばかり思われまして、私たち姉妹(きょうだい)への御好意とはそれがどうして考えられましょう。こんなにいろいろにして私をお苦しめにならないでくださいまし。惜しくございません命でも、もしもまだ続いていくようでしたら、私もまた落ち着いてお話のできることがあろうと思います。ただ今のことを伺いましたら、急に真暗(まっくら)な気持ちになりまして、身体(からだ)も苦しくてなりません。私はここで休みますからお許しくださいませ」

 絶望的な力のない声ではあるが、理窟(りくつ)を立てて言われたのが、薫には気恥ずかしく思われ、またその人が可憐(かれん)にも思われて、

「あなた、私のお愛しする方、どんなにもあなたの御意志に従いたいというのが私の願いなのですから、こんなにまで一徹なところもお目にかけたのです。言いようもなく憎いうとましい人間と私を見ていらっしゃるのですから、申すことも何も申されません。いよいよ私は人生の外へ踏み出さなければならぬ気がします」

 と言って薫は歎息(たんそく)をもらしたが、また、

「ではこの隔てを置いたままで話させていただきましょう。まったく顧みをなさらないようなことはしないでください」

 こうも言いながら袖(そで)から手を離した。姫君は身を後ろへ引いたが、あちらへ行ってもしまわないのを哀れに思う薫であった。

「こうしてお隣にいることだけを慰めに思って今夜は明かしましょう。決して決してこれ以上のことを求めません」

 と言い、襖子を中にしてこちらの室(へや)で眠ろうとしたが、ここは川の音のはげしい山荘である、目を閉じてもすぐにさめる。夜の風の声も強い。峰を隔てた山鳥の妹背(いもせ)のような気がして苦しかった。いつものように夜が白(しら)み始めると御寺(みてら)の鐘が山から聞こえてきた。兵部卿(ひょうぶきょう)の宮を気にして咳(せき)払いを薫(かおる)は作った。実際妙な役をすることになったものである。

「しるべせしわれやかへりて惑ふべき心もゆかぬ明けぐれの道

 こんな例が世間にもあるで と薫が言うと、と薫が言うと、

  かたがたにくらす心を思ひやれ人やりならぬ道にまどはば

 ほのかに姫君の答える歌も、よく聞き取れぬもどかしさと飽き足りなさに、

「たいへんに遠いではありませんか。あまりに御同情のないあなたですね」

 恨みを告げているころ、ほのぼのと夜の明けるのにうながされて兵部卿の宮は昨夜(ゆうべ)の戸口から外へおいでになった。柔らかなその御動作に従って立つ香はことさら用意して燻(た)きしめておいでになった匂宮らしかった。

 老いた女房たちはそことここから薫の帰って行くことに不審をいだいたが、これも中納言の計ったことであれば安心していてよいと考えていた。

 暗い間に着こうと京の人は道を急がせた。帰りはことに遠くお思われになる宮であった。たやすく常に行かれぬことを今から思召おぼしめすからである。しかも「夜をや隔てん」(若草の新手枕(にひてまくら)をまきそめて夜をや隔てん憎からなくに)とお思われになるからであろう。まだ人の多く出入りせぬころに車は六条院に着けられ、廊のほうで降りて、女乗りの車と見せ隠れるようにしてはいって来たあとで顔を見合わせて笑った。

「あなたの忠実な御奉仕を受けたと感謝しますよ」

 宮はこう冗談(じょうだん)を仰せられた。自身の愚かしさの人のよさがみずから嘲笑(ちょうしょう)されるのであるが、薫は昨夜の始末を何も申し上げなかった。すぐ宮は文(ふみ)を書いて宇治へお送りになった。

 山荘の女王はどちらも夢を見たあとのような気がして思い乱れていた。あの手この手と計画をしながら、気(け)ぶりも初めにお見せにならなかったと中の君は恨んでいて、姉の女王と目を見合わせようともしない。自身がまったく局外の人であったことを明らかに話すこともできぬ姫君は、中の君を遠く気の毒にながめていた。女房たちも、

「昨夜は中姫君のほうにどうしたことがありましたのでございましょう」

 などと、大姫君から事実をそれとなく探ろうとして言うのであったが、ただぼんやりとしたふうで保護者の君はいるだけであったから、不思議なことであると皆思っていた。宮のお手紙も解いて姫君は中の君に見せるのであったが、その人は起き上がろうともしない。》

 

 かくして匂宮は中の君と結婚するが、帝と中宮咎めを受け、雑事もあって容易に宇治を訪れることができない。

 

<「総角」――薫の大君への屍体愛(ネクロフィリア)>

 大君が病気になり、薫は看護するが、死に至る。ここぞとばかりに死にゆく大君を視姦する薫。

 

《もう意識もおぼろになったようでありながら女王は薫のけはいを知って袖(そで)で顔をよく隠していた。

「少しでもよろしい間があれば、あなたにお話し申したいこともあるのですが、何をしようとしても消えていくようにばかりなさるのは悲しゅうございます」

 薫を深く憐(あわれ)むふうのあるのを知って、いよいよ男の涙はとめどなく流れるのであるが、周囲で頼み少なく思っているとは知らせたくないと思って慎もうとしても、泣く声の立つのをどうしようもなかった。自分とはどんな宿命で、心の限り愛していながら、恨めしい思いを多く味わわせられるだけでこの人と別れねばならぬのであろう、少し悪い感じでも与えられれば、それによってせめても失う者の苦しみをなだめることになるであろう、と思って見つめる薫であったが、いよいよ可憐(かれん)で、美しい点ばかりが見いだされる。腕(かいな)なども細く細く細くなって影のようにはかなくは見えながらも色合いが変わらず、白く美しくなよなよとして、白い服の柔らかなのを身につけ夜着は少し下へ押しやってある。それはちょうど中に胴というもののない雛(ひな)人形を寝かせたようなのである。髪は多すぎるとは思われぬほどの量(かさ)で床の上にあった。枕(まくら)から下がったあたりがつやつやと美しいのを見ても、この人がどうなってしまうのであろう、助かりそうも見えぬではないかと限りなく惜しまれた。長く病臥(びょうが)していて何のつくろいもしていない人が、盛装して気どった美人というものよりはるかにすぐれていて、見ているうちに魂も、この人と合致するために自分を離れて行くように思われた。

「あなたがいよいよ私を捨ててお行きになることになったら、私も生きていませんよ。けれど、人の命は思うようになるものでなく、生きていねばならぬことになりましたら、私は深い山へはいってしまおうと思います。ただその際にお妹様を心細い状態であとへお残しするだけが苦痛に思われます」

 中納言は少しでもものを言わせたいために、病者が最も関心を持つはずの人のことを言ってみると、姫君は顔を隠していた袖(そで)を少し引き直して、

「私はこうして短命で終わる予感があったものですから、あなたの御好意を解しないように思われますのが苦しくて、残っていく人を私の代わりと思ってくださるようにとそう願っていたのですが、あなたがそのとおりにしてくださいましたら、どんなに安心だったかと思いましてね、それだけが心残りで死なれない気もいたします」

 と言った。

「こんなふうに悲しい思いばかりをしなければならないのが私の宿命だったのでしょう。私はあなた以外のだれとも夫婦になる気は持ってなかったものですから、あなたの好意にもそむいたわけなのです。今さら残念であの方がお気の毒でなりません。しかし御心配をなさることはありませんよ。あの方のことは」

 などともなだめていた薫は、姫君が苦しそうなふうであるのを見て、修法の僧などを近くへ呼び入れさせ、効験をよく現わす人々に加持をさせた。そして自身でも念じ入っていた。人生をことさらいとわしくなっている薫でないために、道へ深く入れようとされる仏などが、今こうした大きな悲しみをさせるのではなかろうか。見ているうちに何かの植物が枯れていくように総角(あげまき)の姫君の死んだのは悲しいことであった。引きとめることもできず、足摺(あしず)りしたいほどに薫は思い、人が何と思うともはばかる気はなくなっていた。臨終と見て中の君が自分もともに死にたいとはげしい悲嘆にくれたのも道理である。涙におぼれている女王を、例の忠告好きの女房たちは、こんな場合に肉親がそばで歎くのはよろしくないことになっていると言って、無理に他の室へ伴って行った。

 源中納言は死んだのを見ていても、これは事実でないであろう、夢ではないかと思って、台の灯(ひ)を高く掲げて近くへ寄せ、恋人をながめるのであったが、少し袖(そで)で隠している顔もただ眠っているようで、変わったと思われるところもなく美しく横たわっている姫君を、このままにして乾燥した玉虫の骸(から)のように永久に自分から離さずに置く方法があればよいと、こんなことも思った。遺骸(いがい)として始末するために人が髪を直した時に、さっと芳香が立った。それはなつかしい生きていた日のままのにおいであった。どの点でこの人に欠点があるとしてのけにくい執着を除けばいいのであろう、あまりにも完全な女性であった。この人の死が自分を信仰へ導こうとする仏の方便であるならば、恐怖もされるような、悲しみも忘れられるほど変相を見せられたいと仏を念じているのであるが、悲しみはますます深まるばかりであったから、せめて早く煙にすることをしようと思い、葬送の儀式のことなどを命じてさせるのもまた苦しいことであった。空を歩くような気持ちを覚えて薫は葬場へ行ったのであるが、火葬の煙さえも多くは立たなかったのにはかなさをさらに感じて山荘へ帰った。》

 

<「早蕨」>

「早蕨」は薫二十五歳の春。中の君は宇治から京の匂宮の二条院に移る。

 

<「宿り木」――妊娠した中の君の、薫の移り香に嫉妬し、昂奮する匂宮>

「宿り木」は薫二十四歳の春から二十六歳の夏まで。帝は藤壺女御が亡くなったので、その娘である女二の宮と薫の縁組を考える。匂宮は夕霧から娘六の宮の婿に望まれて婚約、魅了されて、中の君は夜がれが続く。懐妊した中の君は不安になり、薫に宇治へ行きたいと頼む。薫は中の君の部屋に押し入って添い臥しするが、実事はない。匂宮は中の君を訪れ、ふっくらと懐妊したお腹と腹帯に興奮し、また薫の残り香に二人の関係を怪しむことでさらに昂ぶる。翌日は二人とも遅くまで目が覚めずに、朝の支度を寝室まで運ばせる、という頽廃の極み。

 

《腹部も少し高くなり、恥ずかしがっている腹帯の衣服の上に結ばれてあるのにさえ心がお惹(ひ)かれになった。まだ妊娠した人を直接お知りにならぬ方であったから、珍しくさえお思いになった。何事もきれいに整い過ぎた新居においでになったあとで、ここにおいでになるのはすべての点で気安く、なつかしくお思われになるままに、こまやかな将来の日の誓いを繰り返し仰せになるのを聞いていても中の君は、男は皆口が上手(じょうず)で、あの無理な恋を告白した人も上手に話をしたと薫のことを思い出して、今までも情けの深い人であるとは常に思っていたが、ああしたよこしまな恋に自分は好意を持つべくもないと思うことによって、宮の未来のお誓いのほうは、そのとおりであるまいと思いながらも少し信じる心も起こった。それにしてもああまで油断をさせて自分の室の中へあの人がはいって来た時の驚かされようはどうだったであろう、姉君の意志を尊重して夫婦の結合は遂げなかったと話していた心持ちは、珍しい誠意の人と思われるのであるが、あの行為を思えば自分として気の許される人ではないと、中の君はいよいよ男の危険性に用心を感じるにつけても、宮がながく途絶えておいでにならぬことになれば恐ろしいと思われ、言葉には出さないのであるが、以前よりも少し宮へ甘えた心になっていたために、宮はなお可憐に思召され、心を惹(ひ)かれておいでになったが、深く夫人にしみついている中納言のにおいは、薫香(くんこう)をたきしめたのには似ていず特異な香であるのを、においというものをよく研究しておいでになる宮であったから、それとお気づきになって、奇怪なこととして、何事かあったのかと夫人を糺(ただ)そうとされる。宮の疑っておいでになることと事実とはそうかけ離れたものでもなかったから、何ともお答えがしにくくて、苦しそうに沈黙しているのを御覧になる宮は、自分の想像することはありうべきことだ、よも無関心ではおられまいと始終自分は思っていたのであるとお胸が騒いだ。薫のにおいは中の君が下の単衣(ひとえ)なども昨夜のとは脱ぎ替えていたのであるが、その注意にもかかわらず全身に沁(しん)でいたのである。

「あなたの苦しんでいるところを見ると、進むところへまで進んだことだろう」

 とお言いになり、追究されることで夫人は情けなく、身の置き所もない気がした。

「私の愛はどんなに深いかしれないのに、私が二人の妻を持つようになったからといって、自分も同じように自由に人を愛しようというようなことは身分のない者のすることですよ。そんなに私が長く帰って来ませんでしたか、そうでもないではありませんか。私の信じていたよりも愛情の淡(うす)いあなただった」

 などとお責めになるのである。愛する心からこうも思われるのであるというふうにお訊ききになっても、ものを言わずにいる中の君に嫉妬(しっと)をあそばして、

   またびとになれける袖(そで)の移り香をわが身にしめて恨みつるかな

 とお言いになった。夫人は身に覚えのない罪をきせておいでになる宮に弁明もする気にならずに、

「あなたの誤解していらっしゃることについて何と申し上げていいかわかりません。

  見なれぬる中の衣と頼みしをかばかりにてやかけ離れなん」

 と言って泣いていた。その様子の限りなく可憐(かれん)であるのを宮は御覧になっても、こんな魅力が中納言を惹(ひ)きつけたのであろうとお思いになり、いっそうねたましくおなりになり、御自身もほろほろと涙をおこぼしになったというのは女性的なことである。どんな過失が仮にあったとしても、この人をうとんじてしまうことはできないふうな、美しいいたいたしい中の君の姿に、恨みをばかり言っておいでになることができずに、宮は歎いている人の機嫌(きげん)を直させるために言い慰めもしておいでになった。

 翌朝もゆるりと寝ておいでになって、お起きになってからは手水(ちょうず)も朝の粥(かゆ)もこちらでお済ませになった。》

 

 薫は中の君から、異母妹である浮舟という女がいて、この夏、東国から上がってきたが、大君によく似ていると聞かされる。権大納言に昇進し、右大将を兼ねることになった薫は、宇治に出向いて、弁の尼から浮舟のことを聞き、仲立ちを頼む。中の君出産。薫は女二の宮の裳着(もぎ)の祝いに婿として招かれる。薫は中の君のもとに、男の子の五十日の祝いに訪ね、恋敵匂宮が産ませた若君に対面する。薫は女二の宮を邸に迎え、宇治に出向いて、初瀬の御寺に詣でた帰りの浮舟を覗き見し、生き写しのようと大君を思い出す。

 

<「東屋」――匂宮の浮舟強姦未遂>

「東屋」は薫二十六歳の八月、九月。浮舟の母中将の君は浮舟を中の君に預ける。匂宮は自分の邸にいる浮舟をたまたま見かけて、強姦しようとする。

 

《宮はそちらこちらと縁側を歩いておいでになったが、西のほうに見馴(な)れぬ童女が出ていたのにお目がとまり、新しい女房が来ているのであろうかとお思いになって、そこの座敷を隣室からおのぞきになった。間(あい)の襖子(からかみ)の細めにあいた所から御覧になると、襖子の向こうから一尺ほど離れた所に屏風(びょうぶ)が立ててあった。その間の御簾(みす)に添えて几帳が置かれてある。几帳の垂(た)れ帛(ぎぬ)が一枚上へ掲げられてあって、紫苑(しおん)色のはなやかな上に淡黄(うすき)の厚織物らしいのの重なった袖口(そでぐち)がそこから見えた。屏風の端が一つたたまれてあったために、心にもなくそれらを見られているらしい。相当によい家から出た新しい女房なのであろうと宮は思召して、立っておいでになった室(へや)から、女のいる室へ続いた庇(ひさし)の間あいの襖子をそっと押しあけて、静かにはいっておいでになったのをだれも気がつかずにいた。

 向こう側の北の中庭の植え込みの花がいろいろに咲き乱れた、小流れのそばの岩のあたりの美しいのを姫君は横になってながめていたのである。初めから少しあいていた襖子をさらに広くあけて屏風の横から中をおのぞきになったが、宮がおいでになろうなどとは思いも寄らぬことであったから、いつも中の君のほうから通って来る女房が来たのであろうと思い、起き上がったのは、宮のお目に非常に美しくうつって見える人であった。例の多情なお心から、この機会をはずすまいとあそばすように、衣服の裾(すそ)を片手でお抑(おさ)えになり、片手で今はいっておいでになった襖子を締め切り、屏風の後ろへおすわりになった。

 怪しく思って扇を顔にかざしながら見返った姫君はきれいであった。扇をそのままにさせて手をお捉(とら)えになり、

「あなたはだれ。名が聞きたい」

 とお言いになるのを聞いて、姫君は恐ろしくなった。ただ戯れ事の相手として御自身は顔を外のほうへお向けになり、だれと知れないように宮はしておいでになるので、近ごろ時々話に聞いた大将なのかもしれぬ、においの高いのもそれらしいと考えられることによって、姫君ははずかしくてならなかった。乳母は何か人が来ているようなのがいぶかしいと思い、向こう側の屏風を押しあけてこの室へはいって来た。

「まあどういたしたことでございましょう。けしからぬことをあそばします」

 と責めるのであったが、女房級の者に主君が戯れているのにとがめ立てさるべきことでもないと宮はしておいでになるのであった。はじめて御覧になった人なのであるが、女相手にお話をあそばすことの上手(じょうず)な宮は、いろいろと姫君へお言いかけになって、日は暮れてしまったが、

「だれだと言ってくれない間はあちらへ行かない」

 と仰せになり、なれなれしくそばへ寄って横におなりになった。宮様であったと気のついた乳母は、途方にくれてぼんやりとしていた。

「お明りは燈籠(とうろう)にしてください。今すぐ奥様がお居間へおいでになります」

 とあちらで女房の言う声がした。そして居間の前以外の格子はばたばたと下(お)ろされていた。この室は別にして平生使用されていない所であったから、高い棚(たな)厨子(ずし)一具が置かれ、袋に入れた屏風なども所々に寄せ掛けてあって、やり放しな座敷と見えた。こうした客が来ているために居間のほうからは通路に一間だけ襖子があけられてあるのである。そこから女房の右近という大輔(たゆう)の娘が来て、一室一室格子を下ろしながらこちらへ近づいて来る。

「まあ暗い、まだお灯(あかり)も差し上げなかったのでございますね。まだお暑苦しいのに早くお格子を下ろしてしまって暗闇(くらやみ)に迷うではありませんかね」

 こう言ってまた下ろした格子を上げている音を、宮は困ったように聞いておいでになった。乳母もまたその人への体裁の悪さを思っていたが、上手に取り繕うこともできず、しかも気がさ者の、そして無智(むち)な女であったから、

「ちょっと申し上げます。ここに奇怪なことをなさる方がございますの、困ってしまいまして、私はここから動けないのでございますよ」

 と声をかけた。何事であろうと思って、暗い室へ手探りではいると、袿姿(うちぎすがた)の男がよい香をたてて姫君の横で寝ていた。右近はすぐに例のお癖を宮がお出しになったのであろうとさとった。姫君が意志でもなく男の力におさえられておいでになるのであろうと想像されるために、

「ほんとうに、これは見苦しいことでございます。右近などは御忠告の申し上げようもございませんから、すぐあちらへまいりまして奥様にそっとお話をいたしましょう」

 と言って、立って行くのを姫君も乳母もつらく思ったが、宮は平然としておいでになって、驚くべく艶美な人である、いったい誰なのであろうか、右近の言葉づかいによっても普通の女房ではなさそうであると、心得がたくお思いになって、何ものであるかを名のろうとしない人を恨めしがっていろいろと言っておいでになった。うとましいというふうも見せないのであるが、非常に困っていて死ぬほどにも思っている様子が哀れで、情味をこめた言葉で慰めておいでになった。

 右近は北の座敷の始末を夫人に告げ、

「お気の毒でございます。どんなに苦しく思っていらっしゃるでしょう」

 と言うと、

「いつものいやな一面を出してお見せになるのだね。あの人のお母さんも軽佻(けいちょう)なことをなさる方だと思うようになるだろうね。安心していらっしゃいと何度も私は言っておいたのに」

 こう中の君は言って、姫君を憐(あわ)れむのであったが、どう言って制しにやっていいかわからず、女房たちも少し若くて美しい者は皆情人にしておしまいになるような悪癖がおありになる方なのに、またどうしてあの人のいることが宮に知られることになったのであろうと、あさましさにそれきりものも言われない。

「今日は高官の方がたくさん伺候なすった日で、こんな時にはお遊びに時間をお忘れになって、こちらへおいでになるのがお遅(おそ)くなるのですものね、いつも皆奥様なども寝(やす)んでおしまいになっていますわね。それにしてもどうすればいいことでしょう。あの乳母(ばあや)が気のききませんことね。私はじっとおそばに見ていて、宮様をお引っ張りして来たいようにも思いましたよ」

 などと右近が少将という女房といっしょに姫君へ同情をしている時、御所から人が来て、中宮が今日の夕方からお胸を苦しがっておいであそばしたのが、ただ今急に御容体が重くなった御様子であると、宮へお取り次ぎを頼んだ。

「あやにくな時の御病気ですこと、お気の毒でも申し上げてきましょう」

 と立って行く右近に、少将は、

「もうだめなことを、憎まれ者になって宮様をお威(おど)しするのはおよしなさい」

 と言った。

「まだそんなことはありませんよ」

 このささやき合いを夫人は聞いていて、なんたるお悪癖であろう、少し賢い人は自分をまであさましく思ってしまうであろうと歎息をしていた。

 右近は西北の座敷へ行き、使いの言葉以上に誇張して中宮の御病気をあわただしげに宮へ申し上げたが、動じない御様子で宮はお言いになった。

「だれが来たのか、例のとおりにたいそうに言っておどすのだね」

中宮のお侍の平(たいら)の重常(しげつね)と名のりましてございます」

 右近はこう申した。別れて行くことを非常に残念に思召されて、宮は人がどう思ってもいいという気になっておいでになるのであるが、右近が出て行って、西の庭先へお使いを呼び、詳しく聞こうとした時に、最初に取り次いだ人もそこへ来て言葉を助けた。

「中務(なかつかさ)の宮もおいでになりました。中宮大夫もただ今まいられます。お車の引き出されます所を見てまいりました」

 そうしたように発作的にお悪くおなりになることがおりおりあるものであるから、嘘(うそ)ではないらしいと思召すようになった宮は、夫人の手前もきまり悪くおなりになり、女へまたの機会を待つことをこまごまとお言い残しになってお立ち去りになった。

 姫君は恐ろしい夢のさめたような気になり、汗びったりになっていた。乳母は横へ来て扇であおいだりしながら、

「こういう御殿というものは人がざわざわとしていまして、少しも気が許せません。宮様が一度お近づきになった以上、ここにおいでになってよいことはございませんよ。まあ恐ろしい。どんな貴婦人からでも嫉妬(しっと)をお受けになることはたまらないことですよ。全然別な方にお愛されになるとも、またあとで悪くなりましてもそれは運命としてお従いにならなければなりません。宮様のお相手におなりになっては世間体も悪いことになろうと思いまして、私はまるで蝦蟇(がま)の相になってじっとおにらみしていますと、気味の悪い卑しい女めと思召して手をひどくおつねりになりましたのは匹夫の恋のようで滑稽(こっけい)に存じました。お家(うち)のほうでは今日もひどい御夫婦喧嘩(げんか)をあそばしたそうですよ。ただ一人の娘のために自分の子供たちを打ちやっておいて行った。大事な婿君のお来始めになったばかりによそへ行っているのは不都合だなどと、乱暴なほどに守はお言いになりましたそうで、下(しも)の侍でさえ奥様をお気の毒だと言っていました。こうしたいろいろなことの起こるのも皆あの少将さんのせいですよ。利己的な結婚沙汰(ざた)さえなければ、おりおり不愉快なことはありましてもまずまず平和なうちに今までどおりあなた様もおいでになれたのですがね」

 歎息をしながら乳母はこう言うのであった。

 姫君の身にとっては家のことなどは考える余裕もない。ただ闖入者(ちんにゅうしゃ)が来て、経験したこともない恥ずかしい思いを味わわされたについても、中の君はどう思うことであろうと、せつなく苦しくて、うつ伏しになって泣いていた。》

 

 匂宮の母の中宮が重態になったとの使いが来て、匂宮は参内し、中の君は浮舟を慰める。浮舟の母は強姦未遂を知って、三条の小家に浮舟を隠す。

 

<「東屋」――薫に抱きかかえられる浮舟>

 薫は雨に濡れながら隠れ家(東屋)を訪問し、一夜を過ごす(ようやく実事あり)。夜明けに往来を通りかかる行商人の声の描写には、プルースト失われた時を求めて』の『囚われの女』の物売りの声の描写に似たものがある。薫はまさに囚われの女浮舟を人形(ひとがた)、形代(かたしろ)のように抱きかかえて宇治へ向かう。

 

《夜の八時過ぎに宇治から用があって人が来たと言って、ひそかに門がたたかれた。弁は薫であろうと思っているので、門をあけさせたから、車はずっと中へはいって来た。家の人は皆不思議に思っていると、尼君に面会させてほしいと言い、宇治の荘園の預かりの人の名を告げさせると、尼君は妻戸の口へいざって出た。小雨が降っていて風は冷ややかに室(へや)の中へ吹き入るのといっしょにかんばしいかおりが通ってきたことによって、来訪者の何者であるかに家の人は気づいた。だれもだれも心ときめきはされるのであるが、何の用意もない時であるのに、あわてて、どんな相談を客は尼としてあったのであろうと言い合った。

「静かな所で、今日までどんなに私が思い続けて来たかということもお聞かせしたいと思って来ました」

 と薫は姫君へ取り次がせた。どんな言葉で話に答えていけばよいかと心配そうにしている姫君を、困ったものであるというように見ていた乳母が、

「わざわざおいでになった方を、庭にお立たせしたままでお帰しする法はございませんよ。本家の奥様へ、こうこうでございますとそっと申し上げてみましょう。近いのですから」

 と言った。

「そんなふうに騒ぐことではありませんよ。若い方どうしがお話をなさるだけのことで、そんなにものが進むことですか。怪しいほどにもおあせりにならない落ち着いた方ですもの、人の同意のないままで恋を成立させようとは決してなさいますまい」

 こう言ってとめたのは弁の尼であった。雨脚(あめあし)がややはげしくなり、空は暗くばかりなっていく。宿直(とのい)の侍が怪しい語音(ごいん)で家の外を見まわりに歩き、

「建物の東南のくずれている所があぶない、お客の車を中へ入れてしまうものなら入れさせて門をしめてしまってくれ、こうした人の供の人間に油断ができないのだよ」

 などと言い合っている声の聞こえてくるようなことも薫にとって気味の悪いはじめての経験であった。「さののわたりに家もあらなくに」(わりなくも降りくる雨か三輪が崎(さき))などと口ずさみながら、田舎(いなか)めいた縁の端にいるのであった。

  さしとむるむぐらやしげき東屋(あづまや)のあまりほどふる雨そそぎかな

 と言い、雨を払うために振った袖の追い風のかんばしさには、東国の荒武者どもも驚いたに違いない。

 室内へ案内することをいろいろに言って望まれた家の人は、断わりようがなくて南の縁に付いた座敷へ席を作って薫(かおる)は招じられた。姫君は話すために出ることを承知しなかったが、女房らが押し出すようにして客の座へ近づかせた。遣戸(やりど)というものをしめ、声の通うだけの隙すきがあけてある所で、

「飛騨(ひだ)の匠(たくみ)が恨めしくなる隔てですね。よその家でこんな板の戸の外にすわることなどはまだ私の経験しないことだから苦しく思われます」

 などと訴えていた薫は、どんなにしたのか姫君の居室(いま)のほうへはいってしまった。

 人型(ひとがた)としてほしかったことなどは言わず、ただ宇治で思いがけぬ隙間(すきま)からのぞいた時から恋しい人になったことを言い、これが宿縁というものか怪しいまで心が惹(ひ)かれているということをささやいた。可憐(かれん)なおおような姫君に薫は期待のはずれた気はせず深い愛を覚えた。

 そのうち夜は明けていくようであったが、鶏(とり)などは鳴かず、大通りに近い家であったから、通行する者がだらしない声で、何とかかとか、有る名でないような名を呼び合って何人もの行く物音がするのであった。こんな未明の街(まち)で見る行商人などというものは、頭へ物を載せているのが鬼のようであると聞いたが、そうした者が通って行くらしいと、泊まり馴(な)れない小家に寝た薫はおもしろくも思った。宿直(とのい)した侍も門をあけて出て行く音がした。また夜番をした者などが部屋(へや)へ寝にはいったらしい音を聞いてから、薫は人を呼んで車を妻戸の所へ寄せさせた。そして姫君を抱いて乗せた。家の人たちはだれも皆結婚の翌朝のこうしたことをあっけないように言って騒ぎ、

「それに結婚に悪い月の九月でしょう。心配でなりません、どうしたことでしょう」

 とも言うのを、弁は気の毒に思い、

「すぐおつれになるなどとは意外なことに違いありませんが、殿様にはお考えがあることでしょう。心配などはしないほうがいいのですよ。九月でも明日が節分になっていますから」

 と慰めていた。この日は十三日であった。尼は、

「今度はごいっしょにまいらないことにいたしましょう。二条の院の奥様が私のまいったことをお聞きになることもあるでしょうから、伺わないわけにはまいりません。そっと来てそっと帰ったなどとお思われましても義理が立ちません」

 と言い、同行をしようとしないのであったが、すぐに中の君に今度のことを聞かれるのも心恥ずかしいことに薫は思い、

「それはまたあとでお目にかかってお詫(わ)びをすればいいではありませんか。あちらへ行って知っている者がそばにいないでは心細い所ですからね。ぜひおいでなさい」

 と薫はいっしょにここを出ていくように勧めた。そして、

「だれかお付きが一人来られますか」

 と言ったので、姫君の始終そばにいる侍従という女房が行くことになり、尼君はそれといっしょに陪乗(ばいじょう)した。姫君の乳母(めのと)や、尼の供をして来た童女なども取り残されて茫然(ぼうぜん)としていた。

 近いどこかの場所へ行くことかと侍従などは思っていたが、宇治へ車は向かっているのであった。途中で付け変える牛の用意も薫はさせてあった。河原を過ぎて法性寺(ほうしょうじ)のあたりを行くころに夜は明け放れた。若い侍従はほのかに宇治で見かけた時から美貌(びぼう)な薫に好意を持っていたのであるから、だれが見て何と言おうとも意に介しない覚悟ができていた。姫君ははなはだしい衝動を受けたあとで、失心したようにうつ伏しになっていたのを、

「石の多い所は、そうしていれば苦しいものですよ」

 と言い、薫は途中から抱きかかえた。》

 

<「浮舟」――薫の声色を使って浮舟を姦淫し、逗留する匂宮>

「浮舟」は薫二十七歳の春。薫が宇治に浮舟を囲っていることを薫の家司(けいし)(執事)仲信(なかのぶ)の婿大内記(だいないき)から聞き出した匂宮は、薫を装って関係したうえ、翌朝引き揚げる習慣の禁忌をも犯して逗留する。

 

《物詣(ものもう)でに行く前夜であるらしい、親の家というものもあるらしい、今ここでこの人を得ないでまた逢いうる機会は望めない、実行はもう今夜に限られている、どうすればよいかと宮はお思いになりながら、なおじっとのぞいておいでになると、右近が、

「眠くなりましたよ。昨晩はとうとう徹夜をしてしまったのですもの、明日早く起きてもこれだけは縫えましょう。どんなに急いでお迎いが京を出て来ましても、八、九時にはなることでしょうから」

 と言い、皆も縫いさした物をまとめて几帳(きちょう)の上に懸(か)けたりなどして、そのままそこへうたた寝のふうに横たわってしまった。姫君も少し奥のほうへはいって寝た。右近は北側の室へはいって行ったがしばらくして出て来た。そして姫君の閨(ねや)の裾(すそ)のほうで寝た。眠がっていた人たちであったから、皆すぐに寝入った様子を見てお置きになった宮は、そのほかに手段はないことであったから、そっと今まで立っておいでになった前の格子をおたたきになった。右近は聞きつけて、

「だれですか」

 と言った。咳払いをあそばしただけで貴人らしい気配(けはい)を知り、薫(かおる)の来たと思った右近が起きて来た。

「ともかくもこの戸を早く」

 とお言いになると、

「思いがけません時間においでになったものでございますね。もうよほど夜がふけておりましょうのに」

 右近はこう言った。

「どこかへ行かれるのだと仲信(なかのぶ)が言ったので、驚いてすぐに出て来たのだが、よくないことに出あったよ。ともかくも早く」

 声を薫によく似せてお使いになり、低く言っておいでになるのであったから、違った人であることなどは思いも寄らずに格子をあけ放した。

「道でひどい災難にあってね、恥ずかしい姿になっている。灯(ひ)を暗くするように」

 とお言いになったので、右近はあわてて灯を遠くへやってしまった。

「私を人に見せぬようにしてくれ。私が来たと言って、寝ている人を起こさないように」

 賢い方はもとから少し似たお声をすっかり薫と聞こえるようにしてものをお言いになり、寝室へおはいりになった。ひどい災難とお言いになったのはどんな姿にされておしまいになったのであろうと右近は同情して、自身も隠れるようにしながらのぞいて見た。繊細ななよなよとした姿は持っておいでになったし、かんばしいにおいも劣っておいでにならなかった。嘘(うそ)の大将は姫君に近く寄って上着を脱ぎ捨て、良人(おっと)らしく横へ寝たのを見て、

「そこではあまりに端近でございます。いつものお床へ」

 などと右近は言ったのであるが、何とも答えはなかった。上へ夜着を掛けて、仮寝をしていた人たちを起こし、皆少し遠くへさがって寝た。

 薫の従者たちはいつでもすぐに荘園のほうへ行ってしまったので、女房などはあまり顔を知らなんだから、宮のお言葉をそのままに信じて、

「深いお志からの御微行でしたわね。ひどい目におあいになったりあそばしてお気の毒なんですのに、お姫様は事情をご存じないようですね」

 などと賢がっている女もあった。

「静かになさいよ。夜は小声の話ほどよけいに目に立つものですよ」

 こんなふうに仲間に注意もされてそのまま寝てしまった。

 姫君は夜の男が薫でないことを知った。あさましさに驚いたが、相手は声も立てさせない。あの二条の院の秋の夕べに人が集まって来た時でさえ、この人と恋を成り立たせねばならぬと狂おしいほどに思召した方であるから、はげしい愛撫(あいぶ)の力でこの人を意のままにあそばしたことは言うまでもない。初めからこれは闖入(ちんにゅう)者であると知っていたならば今少し抵抗のしかたもあったのであろうが、こうなれば夢であるような気がするばかりの姫君であった。女のやや落ち着いたのを御覧になって、あの秋の夕べの恨めしかったこと、それ以来今日まで狂おしくあこがれていたことなどをお告げになることによって、兵部卿(ひょうぶきょう)の宮でおありになることを姫君は知った。いよいよ羞恥(しゅうち)を覚えて、姉の女王がどうお思いになるであろうと思うともうどうしようもなくなった人はひどく泣いた。宮も今後会見することは不可能であろうと思召(おぼしめ)されるためにお泣きになるのであった。

 夜はずんずんと明けていく。》

 

<「浮舟」――穢(けが)れ「物忌」と偽って浮舟と愛欲に耽る匂宮>

 母親が浮舟を初瀬の観音に参詣させるため迎えに来るが、右近は偽って、浮舟が「物忌」(生理)になったと御簾に張って断る。匂宮は浮舟に美しい男女の抱擁図(偃息(おそく)図(ず)、枕絵)を描き見せたり、薫との様子を聞き出そうとしたりして、愛欲に耽る。

 

《八時ごろになって格子などを上げ、右近が姫君の居間の用を一人で勤めた。その室の御簾(みす)を皆下げて、物忌(ものいみ)と書いた紙をつけたりした。母夫人自身も迎えに出て来るかと思い、姫君が悪夢を見て、そのために謹慎をしているとその時には言わせるつもりであった。

 寝室へ二人分の洗面盥(せんめんだらい)の運ばれたというのは普通のことであるが、宮はそんな物にも嫉妬(しっと)をお覚えになった。薫が来て、こうした朝の寝起きにこの手盥で顔を洗うのであろうとお思いになるとにわかに不快におなりになり、

「あなたがお洗いになったあとの水で私は洗おう。こちらのは使いたくない」

 とお言いになった。今まで感情をおさえて冷静なふうを作る薫に馴(な)れていた姫君は、しばらくでもいっしょにいることができねば死ぬであろうと激情をおおわずお見せになる宮を、熱愛するというのはこんなことを言うのであろうと思うのであったが、奇怪な運命を負った自分である、このあやまちが外へ知れた時、どんなふうに思われる自分であろうとまず第一に宮の夫人が不快に思うであろうことを悲しんでいる時、恋人が何人(なにびと)の娘であるのかおわかりにならぬ宮が、

「あなたがだれの子であるかを私の知らないことは返す返すも遺憾だ。ねえ、ありのままに言っておしまいなさいよ。悪い家であってもそんなことで私の愛が動揺するものでも何でもない。いよいよ愛するようになるでしょう」

 とお言いになり、しいて訊きこうとあそばすのに対しては絶対に口をつぐんでいる姫君が、そのほかのことでは美しい口ぶりで愛嬌(あいきょう)のある返辞などもして、愛を受け入れたふうの見えるのを宮は限りなく可憐(かれん)にお思いになった。

 九時ごろに石山行きの迎えの人たちが山荘へ着いた。車を二台持って来たのであって、例の東国の荒武者が、七、八人、多くの僕(しもべ)を従えていた。下品な様子でがやがやと話しながら門をはいって来たのを、女房らは片腹痛がり、見えぬ所へはいっているように言ってやりなどしていた。右近はどうすればいいことであろう、殿様が来ておいでになると言っても、あれほどの大官が京から離れていることはだれの耳にもはいっていることであろうからと思い、他の女房と相談することもせず手紙を常陸(ひたち)夫人へ書くのであった。

 昨夜からお穢(けが)れのことが起こりまして、お詣(まい)りがおできになれなくなりま  したことで残念に思召(おぼしめ)すのでございましたが、その上昨晩は悪いお夢を御覧になりましたそうですから、せめて今日一日を謹慎日になさいませと申しあげましたのでお引きこもりになっておられます。返す返すお詣りのやまりましたことを私どもも残り惜しく思っております。何かの暗示でこれはあるいは実行あそばさないほうがよいのかとも存ぜられます。

 これが済んでから右近は常陸家の人々に食事をさせたりした。弁の尼のほうにもにわかに物忌(ものいみ)になって出かけぬということを言ってやった。

 平生はつれづれで退屈で、かすんだ山ぎわの空ばかりをながめて時のたつのをもどかしがる姫君であるが、時のたち日の暮れていくのを真底からわびしがっておいでになる方のお気持ちが反映して、はかなく日の暮れてしまった気もした。ただ二人きりでおいでになって、春の一日の間見ても飽かぬ恋人を宮はながめてお暮らしになったのである。欠点と思われるところはどこにもない愛嬌(あいきょう)の多い美貌(びぼう)で女はあった。そうは言っても二条の院の女王には劣っているのである。まして派手はでな盛りの花のような六条の夫人に比べてよいほどの容貌ではないが、たぐいもない熱情で愛しておいでになるお心から、まだ過去にも現在にも見たことのないような美人であると宮は思召した。姫君はまた清楚(せいそ)な風采(ふうさい)の大将を良人(おっと)にして、これ以上の美男はこの世にないであろうと信じていたのが、どこもどこもきれいでおありになる宮は、その人にまさった美貌の方であると思うようになった。

 硯(すずり)を引き寄せて宮は紙へ無駄(むだ)書きをいろいろとあそばし、上手(じょうず)な絵などを描(か)いてお見せになったりするため、若い心はそのほうへ多く傾いていきそうであった。

「逢いに来たくても私の来られない間はこれを見ていらっしゃいよ」

 とお言いになり、美しい男と女のいっしょにいる絵をお描(か)きになって、

「いつもこうしていたい」

 とお言いになると同時に涙をおこぼしになった。

「長き世をたのめてもなほ悲しきはただ明日知らぬ命なりけり

 こんなにまであなたが恋しいことから前途が不安に思われてなりませんよ。意志のとおりの行動ができないで、どうして来ようかと苦心を重ねる間に死んでしまいそうな気がします。あの冷淡だったあなたをそのままにしておかずに、どうして捜し出して再会を遂げたのだろう、かえって苦しくなるばかりだったのに」

 女は宮が墨をつけてお渡しになった筆で、

  心をば歎かざらまし命のみ定めなき世と思はましかば

 と書いた。自分の恋の変わることを恐れる心があるらしいと、宮はこれを御覧になっていよいよ可憐にお思われになった。

「どんな人の変わりやすかったのに懲りたのですか」

 などとほほえんでお言いになり、薫(かおる)がいつからここへ伴って来たのかと、その時を聞き出そうとあそばすのを女は苦しがって、

「私の申せませんことをなぜそんなにしつこくお訊ききになりますの」

 と恨みを言うのも若々しく見えた。そのうちわかることであろうと思召しながら、直接今この人に言わせて見たいお気持ちになっておいでになるのであった。》

 

<「浮舟」――雪の中、匂宮は浮舟を抱いて舟で小嶋へ幽閉する>

 二月の十日に内裏で詩会があったあと、雪降る宿直所で薫が「衣かたしき今宵もや」とつぶやくと(『古今集』読み人知らず「さ筵(むしろ)に衣片敷きこよひもや我を待つらむ宇治の橋姫」の引用)、匂宮は嫉妬し、翌日雪の中を宇治の浮舟のもとへ行き、舟で小嶋へ幽閉して、謹慎日と偽った二日間を色恋に戯れる。

 

《山荘では宮のほうから出向くからというおしらせを受けていたが、こうした深い雪にそれは御実行あそばせないことと思って気を許していると、夜がふけてから、右近を呼び出して従者が宮のおいでになったことを伝えた。うれしいお志であると姫君は感激を覚えていた。右近はこんなことが続出して、行く末はどうおなりになるかと姫君のために苦しくも思うのであるが、こうした夜によくもと思う心はこの人にもあった。お断わりのしようもないとして、自身と同じように姫君から睦(むつ)まじく思われている若い女房で、少し頭のよい人を一人相談相手にしようとした。

「少しめんどうな問題なのですが、その秘密を私といっしょに姫君のために隠すことに骨を折ってくださいな」

 と言ったのであった。そして二人で宮を姫君の所へ御案内した。途中で濡れておいでになった宮のお衣服から立つ高いにおいに困るわけであったが、大将のにおいのように紛らわせた。

 夜のうちにお帰りになることは、逢いえぬ悲しさに別れの苦しさを加えるだけのものになるであろうからと思召した宮は、この家にとどまっておいでになる窮屈さもまたおつらくて、時方(ときかた)に計らわせて、川向いのある家へ恋人を伴って行く用意をさせるために先へそのほうへおやりになった内記が夜ふけになってから山荘へ来た。

「すべて整いましてございます」

 と時方は取り次がせた。にわかに何事を起こそうとあそばすのであろうと右近の心は騒いで、不意に眠りからさまされたのでもあったから身体がふるえてならなかった。子供が雪遊びをしているようにわなわなとふるえていた。どうしてそんなことをと異議をお言わせになるひまもお与えにならず宮は姫君を抱いて外へお出になった。右近はあとを繕うために残り、侍従に供をさせて出した。はかないあぶなっかしいものであると山荘の人が毎日ながめていた小舟へ宮は姫君をお乗せになり、船が岸を離れた時にははるかにも知らぬ世界へ伴って行かれる気のした姫君は、心細さに堅くお胸へすがっているのも可憐に宮は思召された。有明(ありあけ)の月が澄んだ空にかかり、水面も曇りなく明るかった。

「これが橘(たちばな)の小嶋でございます」

 と言い、船のしばらくとどめられた所を御覧になると、大きい岩のような形に見えて常磐木(ときわぎ)のおもしろい姿に繁茂した嶋が倒影もつくっていた。

「あれを御覧なさい。川の中にあってはかなくは見えますが千年の命のある緑が深いではありませんか」

 とお言いになり、

  年経(ふ)とも変はらんものか橘の小嶋の崎(さき)に契るこころは

 とお告げになった。女も珍しい楽しい路(みち)のような気がして、

  橘の小嶋は色も変はらじをこの浮舟ぞ行くへ知られぬ

 こんなお返辞をした。月夜の美と恋人の艶(えん)な容姿が添って、宇治川にこんな趣があったかと宮は恍惚(こうこつ)としておいでになった。

 対岸に着いた時、船からお上がりになるのに、浮舟(うきふね)の姫君を人に抱かせることは心苦しくて、宮が御自身でおかかえになり、そしてまた人が横から宮のお身体(からだ)をささえて行くのであった。見苦しいことをあそばすものである、何人(なにびと)をこれほどにも大騒ぎあそばすのであろうと従者たちはながめた。

 時方の叔父(おじ)の因幡守(いなばのかみ)をしている人の荘園の中に小さい別荘ができていて、それを宮はお用いになるのである。まだよく家の中の装飾などもととのっていず、網代(あじろ)屏風(びょうぶ)などという宮はお目にもあそばしたことのないような荒々しい物が立ててある。風を特に防ぐ用をするとも思われない。垣(かき)のあたりにはむら消えの雪がたまり、今もまた空が曇ってきて小降りに降る雪もある。そのうち日が雲から出て軒の垂氷(つらら)の受ける朝の光とともに人の容貌(ようぼう)も皆ひときわ美しくなったように見えた。宮は人目をお避けになるために軽装のお狩衣姿であった。浮舟の姫君の着ていた上着は抱いておいでになる時お脱がせになったので、繊細(きゃしゃ)な身体つきが見えて美しかった。自分は繕いようもないこんな姿で、高雅なまぶしいほどの人と向かい合っているのではないかと浮舟は思うのであるが、隠れようもなかった。少し着馴(な)らした白い衣服を五枚ばかり重ねているだけであるが、袖口から裾のあたりまで全体が優美に見えた。いろいろな服を多く重ねた人よりも上手(じょうず)に着こなしていた。宮は御妻妾でもこれほど略装になっているのはお見馴れにならないことであったから、こんなことさえも感じよく美しいとばかりお思われになった。侍従もきれいな若女房であった。右近だけでなくこの人にまで自分の秘密を残りなく見られることになったのを浮舟は苦しく思った。宮も右近のほかのこの女房のことを、

「何という名かね。自分のことを言うなよ」

 と仰せられた。侍従はこれを身に余る喜びとした。別荘守(もり)の男から主人と思って大事がられるために、時方は宮のお座敷には遣戸(やりど)一重隔てた室まで得意にふるまっていた。声を縮めるようにしてかしこまって話す男に、時方は宮への御遠慮で返辞もよくすることができず心で滑稽(こっけい)のことだと思っていた。

「恐ろしいような占いを出されたので、京を出て来てここで謹慎をしているのだから、だれも来させてはならないよ」

 と内記は命じていた。

 だれも来ぬ所で宮はお気楽に浮舟と時をお過ごしになった。この間大将が来た時にもこうしたふうにして逢ったのであろうとお思いになり、宮は恨みごとをいろいろと仰せられた。夫人の女(にょ)二(に)の宮(みや)を大将がどんなに尊重して暮らしているかというようなこともお聞かせになった。宇治の橋姫を思いやった口ずさみはお伝えにならぬのも利己的だと申さねばならない。時方がお手水(ちょうず)や菓子などを取り次いで持って来るのを御覧になり、

「大事にされているお客の旦那(だんな)。ここへ来るのを見られるな」

 と宮はお言いになった。侍従は若い色めかしい心から、こうした日をおもしろく思い、内記と話をばかりしていた。浮舟の姫君は雪の深く積もった中から自身の住居(すまい)のほうを望むと、霧の絶え間絶え間から木立ちのほうばかりが見えた。鏡をかけたようにきらきらと夕日に輝いている山をさして、昨夜の苦しい路(みち)のことを誇張も加えて宮が語っておいでになった。

  峰の雪汀(みぎは)の氷踏み分けて君にぞ惑ふ道にまどはず

「木幡(こばた)の里に馬はあれど」(かちよりぞ来る君を思ひかね)などと、別荘に備えられてあるそまつな硯(すずり)などをお出させになり、無駄(むだ)書きを宮はしておいでになった。

  降り乱れ汀(みぎは)に凍(こほ)る雪よりも中空(なかぞら)にてぞわれは消(け)ぬべき

 とその上へ浮舟は書いた。中空という言葉は一方にも牽引(けんいん)力のあることを言うのであろうと宮のお恨みになるのを聞いていて、誤解されやすいことを書いたと思い、女は恥ずかしくて破ってしまった。

 そうでなくてさえ美しい魅力のある方が、より多く女の心を得ようとしていろいろとお言いになる言葉も御様子も若い姫君を動かすに十分である。

 謹慎日を二日間ということにしておありになったので、あわただしいこともなくゆっくりと暮らしておいでになるうちに相思の情は深くなるばかりであった。右近は例のように姫君のためにその場その場を取り繕い、言い紛らして衣服などを持たせてよこした。次の日は乱れた髪を少し解かさせて、深い紅の上に紅梅色の厚織物などの取り合わせのよい服装を浮舟はしていた。侍従も平常(ふだん)用の裳(も)を締めたまま来ていたのが、あとから送ってこられたきれいなものにすべて脱ぎ変えたので、脱いだほうの裳を宮は浮舟にお掛けさせになり手水を使わせておいでになった。女(にょ)一(いち)の宮(みや)の女房にこの人を上げたらどんなにお喜びになって大事にされることであろう、大貴族の娘も多く侍しているのであるが、これほどの容貌(きりょう)の人はほかにないであろうと、裳を着けた姿からふとこんなことも宮はお思いになった。見苦しいまでに戯れ暮らしておいでになり、忍んでほかへ隠してしまう計画について繰り返し繰り返し宮はお話しになるのである。それまでに大将が来ても兄弟以上の親しみを持たぬというようなことを誓えとお言いになるのを、女は無理なことであると思い、返辞をすることができず、涙までもこぼれてくる様子を御覧になり、自分の目前ですらその人に引かれる心を隠すことができぬかと胸の痛くなるようなねたましさも宮はお覚えになった。恨み言も言い、御自身のお心もちを泣いてお告げになりもしたあとで、第三日めの未明に北岸の山荘へおもどりになろうとして、例のように抱いて船から姫君をお伴いになるのであったが、

「あなたが深く愛している人も、こんなにまで奉仕はしないでしょう。わかりましたか」

 とお言いになると、そうであったというように思って、浮舟がうなずいているのが可憐(かれん)であった。右近は妻戸を開いて姫君を中へ迎えた。そのまま別れてお帰りにならねばならぬのも、飽き足らぬ悲しいことに宮は思召した。》

 

 薫の用意した京の邸へ移る支度をしている宇治に匂宮と薫の双方から手紙が来て、浮舟は当惑する。薫は女二の宮に浮舟を引き取ることを求めて邸を調えるが、そのことを匂宮は知る。浮舟は憂悶するばかりだが、薫は文使いと随身の挙動から、匂宮が浮舟と関係を持ったと突き止める。右近と侍従が、東国で二人の情人、二心を持った女が原因で殺害に及んだ話を浮舟にする。侍従は浮舟に匂宮を勧め、右近は宇治に住まわせたいと言うが、死を決意した浮舟は匂宮の手紙を整理する。匂宮は返事が来ないので宇治へ出かけるが、薫による警護が厳重で会えない。

 

<「蜻蛉」――薫のフェティシズム

「蜻蛉」は薫二十七歳。いきなり浮舟が失踪してしまっている。

 浮舟が死んだと聞いた匂宮は時方を宇治に派遣し、浮舟の母も宇治に着いて右近から説明を受ける。浮舟の衣服などを見つからない遺骸の代わりに火葬する。薫は母の病気で石山寺に参籠中だったが、遅れて事情を知り、懊悩する。匂宮は朦朧と病の床につき、見舞った薫は皮肉、嫌味を言う。当初二人は誠実に悲しんでいたものの、四十九日の法要が過ぎると、薫は小宰相の君と会いたいとか、女二の宮とともに女一の宮ももらえばよかったと思い、覗き見た女一の宮が着ていた薄物と似た単衣を、氷に濡れた女二の宮に着せ、同じように氷を持たせて、悦に入る。匂宮は亡くなった式部卿宮の娘の宮の君を薫と争う。

 

《日々の多くの講義に聞き疲れて女房たちも皆部屋(へや)へ上がっていて、お居間に侍している者の少ない夕方に、薫の大将は衣服を改めて、今日退出する僧の一人に必ず言っておく用で釣殿(つりどの)のほうへ行ってみたが、もう僧たちは退散したあとで、だれもいなかったから、池の見えるほうへ行ってしばらく休息したあとで、人影も少なくなっているのを見て、この人の女の友人である小宰相などのために、隔てを仮に几帳(きちょう)などでして休息所のできているのはここらであろうか、人の衣擦(きぬずれ)の音がすると思い、内廊下の襖子(からかみ)の細くあいた所から、静かに中をのぞいて見ると、平生女房級の人の部屋(へや)になっている時などとは違い、晴れ晴れしく室内の装飾ができていて、幾つも立ち違いに置かれた几帳はかえって、その間から向こうが見通されてあらわなのであった。氷を何かの蓋(ふた)の上に置いて、それを割ろうとする人が大騒ぎしている。大人(おとな)の女房が三人ほど、それと童女がいた。大人は唐衣(からぎぬ)、童女は袗(かざみ)も上に着ずくつろいだ姿になっていたから、宮などの御座所になっているものとも見えないのに、白い羅(うすもの)を着て、手の上に氷の小さい一切れを置き、騒いでいる人たちを少し微笑をしながらながめておいでになる方のお顔が、言葉では言い現わせぬほどにお美しかった。非常に暑い日であったから、多いお髪(ぐし)を苦しく思召すのか肩からこちら側へ少し寄せて斜めになびかせておいでになる美しさはたとえるものもないお姿であった。多くの美人を今まで見てきたが、それらに比べられようとは思われない高貴な美であった。御前にいる人は皆土のような顔をしたものばかりであるとも思われるのであったが、気を静めて見ると、黄の涼絹(すずし)の単衣(ひとえ)に淡紫(うすむらさき)の裳(も)をつけて扇を使っている人などは少し気品があり、女らしく思われたが、そうした人にとって氷は取り扱いにくそうに見えた。

「そのままにして、御覧だけなさいましよ」

 と朋輩(ほうばい)に言って笑った声に愛嬌(あいきょう)があった。声を聞いた時に薫は、はじめてその人が友人の小宰相であることを知った。とどめた人のあったにもかかわらず氷を割ってしまった人々は、手ごとに一つずつの塊(かたまり)を持ち、頭の髪の上に載せたり、胸に当てたり見苦しいことをする人もあるらしかった。小宰相は自身の分を紙に包み、宮へもそのようにして差し上げると、美しいお手をお出しになって、その紙で掌(て)をおぬぐいになった。

「もう私は持たない、雫(しずく)がめんどうだから」

 と、お言いになる声をほのかに聞くことのできたのが薫のかぎりもない喜びになった。まだごくお小さい時に、自分も無心にお見上げして、美しい幼女でおありになると思った。それ以後は絶対にこの宮を拝見する機会を持たなかったのであるが、なんという神か仏かがこんなところを自分の目に見せてくれたのであろうと思い、また過去の経験にあるように、こうした隙見(すきみ)がもとで長い物思いを作らせられたと同じく、自分を苦しくさせるための神仏の計らいであろうかとも思われて、落ち着かぬ心で見つめていた。ここの対の北側の座敷に涼んでいた下級の女房の一人が、この襖子(からかみ)は急な用を思いついてあけたままで出て来たのを、この時分に思い出して、人に気づかれては叱(しか)られることであろうとあわてて帰って来た。襖子に寄り添った直衣(のうし)姿の男を見て、だれであろうと胸を騒がせながら、自分の姿のあらわに見られることなどは忘れて、廊下をまっすぐに急いで来るのであった。自分はすぐにここから離れて行ってだれであるとも知られまい、好色男らしく思われることであるからと思い、すばやく薫は隠れてしまった。その女房はたいへんなことになった、自分はお几帳(きちょう)なども外から見えるほどの隙(すき)をあけて来たではないか、左大臣家の公達(きんだち)なのであろう、他家の人がこんな所へまで来るはずはないのである、これが問題になればだれが襖子をあけたかと必ず言われるであろう、あの人の着ていたのは単衣(ひとえ)も袴(はかま)も涼絹(すずし)であったから、音がたたないで内側の人は早く気づかなかったのであろうと苦しんでいた。

 薫は漸く僧に近い心になりかかった時に、宇治の宮の姫君たちによって煩悩(ぼんのう)を作り始め、またこれからは一品(いっぽん)の宮(みや)(筆者註:女一の宮)のために物思いを作る人になる自分なのであろう、その二十(はたち)のころに出家をしていたなら、今ごろは深い山の生活にも馴(な)れてしまい、こうした乱れ心をいだくことはなかったであろうと思い続けられるのも苦しかった。なぜあの方を長い間見たいと願った自分なのであろう、何のかいがあろう、苦しいもだえを得るだけであったのにと思った。

 翌朝起きた薫は夫人の女二の宮の美しいお姿をながめて、必ずしもこれ以上の御美貌(びぼう)であったのではあるまいと心を満ち足りたようにしいてしながら、また、少しも似ておいでにならない、超人間的にまであの方は気品よくはなやかで、言いようもない美しさであった。あるいは思いなしかもしれぬ、その場合がことさらに人の美を輝かせるものだったかもしれぬと薫は思い、

「非常に暑い。もっと薄いお召し物を宮様にお着せ申せ。女は平生と違った服装をしていることなどのあるのが美しい感じを与えるものだからね。あちらへ行って大弐(だいに)に、薄物の単衣(ひとえ)を縫って来るように命じるがいい」

 と言いだした。侍している女房たちは宮のお美しさにより多く異彩の添うのを楽しんでの言葉ととって喜んでいた。いつものように一人で念誦(ねんず)をする室(へや)のほうへ薫は行っていて、昼ごろに来てみると、命じておいた夫人の宮のお服が縫い上がって几帳(きちょう)にかけられてあった。

「どうしてこれをお着にならぬのですか、人がたくさん見ている時に肌(はだ)の透く物を着るのは他をないがしろにすることにもあたりますが、今ならいいでしょう」

 と薫は言って、手ずからお着せしていた。宮のお袴(はかま)も昨日の方と同じ紅であった。お髪(ぐし)の多さ、その裾(すそ)のすばらしさなどは劣ってもお見えにならぬのであるが、美にも幾つの級があるものか女二の宮が昨日の方に似ておいでになったとは思われなかった。氷を取り寄せて女房たちに薫は割らせ、その一塊(ひとかたまり)を取って宮にお持たせしたりしながら心では自身の稚態がおかしかった。絵に描かいて恋人の代わりにながめる人もないのではない、ましてこれは代わりとして見るのにかけ離れた人ではないはずであると思うのであるが、昨日こんなにしてあの中に自分もいっしょに混じっていて、満足のできるほどあの方をながめることができたのであったならと思うと、心ともなく歎息の声が発せられた。》

 

<「手習」>

「手習」は薫二十七歳から二十八歳まで。比叡山の横川(よかわ)の僧都(そうず)の母が僧都の妹尼と初瀬観音に詣でた帰り、宇治で病になり、それを聞いて宇治へ下山した僧都は宇治院の裏で濡れ泣く若い女を見つけ、小野へ連れ帰る。入水し救われた浮舟は記憶喪失なのか、何も語らないが、僧都の加持によって物の怪は調伏され意識を取り戻す。僧都が女一の宮の祈祷に赴く途中に浮舟のもとに立ち寄ると、浮舟は懇願して出家してしまう。一方、僧都は祈祷の折に、明石の中宮(匂宮の母)に一部始終を語る。浮舟の一周忌が過ぎて、薫が明石の中宮に悲しい気持を打明けると、中宮は小宰相に、僧都から聞いた話を薫に語るよう命じる。聞いて薫は愕然とするが、浮舟との再会を企てる。

 

<「夢の浮橋」>

夢の浮橋」は薫二十八歳。薫が横川に僧都を訪ねて事情を聞くと、僧都は薫の様子を見て、浮舟の望みのままに出家させてしまったことを悔み、環俗をほのめかす手紙を浮舟の弟の小君(こぎみ)に託す。薫に遣わされた小君は小野に訪ね行くが、浮舟は対面を許さず、小君は落胆して京へ帰った。薫は茫然とし、誰かに囲われているのだろうかと疑ったのは、自分が宇治に浮舟をほうっておいた経験からと、本には書いてあるとやら。

                             (了)

      *****引用又は参考文献*****

*與謝野晶子『全訳 源氏物語』(角川文庫クラシックス

谷崎潤一郎『潤一郎訳 源氏物語』(中公文庫)

大野晋丸谷才一『光る源氏の物語』(中央公論社

*神田龍身『源氏物語=性の迷宮へ』(講談社選書メチエ

吉本隆明源氏物語論』(ちくま学芸文庫

藤井貞和源氏物語入門』(講談社学術文庫

三谷邦明『入門源氏物語』(ちくま学芸文庫

三田村雅子、河添房江、松井健児編集『源氏研究1 特集「王朝文化と性」』(三田村雅子「黒髪の源氏物語――水の感覚・水の風景」、橋本ゆかり「抗う浮舟物語――抱かれ、臥すしぐさと身体から」、他所収)(翰林書房

三田村雅子、河添房江、松井健児編集『源氏研究2 特集「身体と感覚」』(三田村雅子「濡れる身体の宇治――まなざしと手触りから」、他所収)(翰林書房

*小嶋菜温子編『王朝の性と身体 [逸脱する物語]』(吉井美弥子「物語の「声」と「身体」 薫と宇治の女たち」、小林正明「逆光の光源氏 父なるものの挫折」、他所収)(森話社

 

文学批評 村上春樹の短篇小説『納屋を焼く』、『レーダーホーゼン』を読む ――「優れたパーカッショニストは一番大事な音を叩かない」

  

                   

<『納屋を焼く』>

 村上春樹の短篇小説『納屋を焼く』は、短篇小説集『蛍・納屋を焼く・その他の短篇』(1984年刊)に収められ、『全作品第1期』第3巻(1990年刊)に収録される際に加筆訂正されている。

 下記引用元は、その加筆訂正された『全作品第1期』第3巻をもとに、アメリカのクノップフ社から1993年に発行された短篇小説集”The Elephant Vanishes”を村上春樹自身が日本語に翻訳した『象の消滅 短篇選集1980-1991』(新潮社)に収録されたものである。

 ところどころ省略しながらも、原文の細部を生かして引用する。

                 *

 彼女とは知りあいの結婚パーティーで顔を合わせ、仲良くなった。三年前のことだ。僕と彼女はひとまわり近く歳が離れていた。彼女は二十歳で、僕は三十一だった。彼女はそもそもの最初から歳のことなんて考えもしなかった。僕は結婚していたが、それも問題にならなかった。

 彼女はなんとか(・・・・)という有名な先生についてパントマイムの勉強をしながら、生活のために広告モデルの仕事をしていた。とはいっても彼女は面倒臭がって、エージェントからまわってくる仕事の話をしょっちゅう断っていたので、その収入は本当にささやかなものだった。収入の足りない部分は主に彼女の何人かのボーイフレンドたちの好意で補われているようだった。

 そしてそのあけっぴろげで理屈のない単純さがある種の人々をひきつけたのだ。彼らはその単純さを目の前にしているうちに、自分たちが抱えている込み入った感情を、そこにあてはめてみたくなるのだ。

 もちろんそんな作用がいつまでもいつまでも続くというものではない。そんなものが永遠に続くとしたら、宇宙の仕組みそのものがひっくりかえってしまう。それが起り得るのは、ある特定の場所、ある特定の時期だけだ。それは「蜜柑むき」と同じことなのだ。

 最初に知りあった時、彼女は僕にパントマイムの勉強をしているの、と言った。「蜜柑むき」というのは文字どおり蜜柑をむくわけである。彼女はその想像上の蜜柑をひとつ手にとって、ゆっくりと皮をむき、ひと粒ずつ口にふくんでかす(・・)をはきだし、ひとつぶんを食べ終えるとかす(・・)をまとめて皮でくるんで右手の鉢に入れる。その動作を延々と繰り返す。しかし、実際に目の前で十分も二十分もそれを眺めているとだんだん僕のまわりから現実感が吸いとられていくような気がしてくるのだ。昔アイヒマンイスラエルの法廷で裁判にかけられた時、密室にとじこめて少しずつ空気を抜いていく刑がふさわしいと言われたことがある。どんな死に方をするのか、くわしいことはよくわからないけれど、僕はふとそのことを思い出した。

「君にはどうも才能があるようだな」と僕は言った。

「あら、こんなの簡単よ。才能でもなんでもないのよ。要するにね、そこに蜜柑がある(・・)と思いこむんじゃなくて、そこに蜜柑がない(・・)ことを忘れればいいのよ。それだけ」

 僕と彼女はそれほどしょっちゅう会っていたわけではない。だいたい月に一回、多くて二回くらいのものだった。

 彼女と二人でいると、僕はのんびりと寛ぐことができた。やりたくもない仕事のことや、結論の出しようもないつまらないごたごたや、わけのわからない人間が抱くわけのわからない思想のことなんかをさっぱりと忘れることができた。彼女にはなにかしらそういう能力があった。僕が求めていたのは、ある種の心持ちだった。少なくとも理解や同情ではなかった。

 二年前の春に、彼女の両親が心臓病で死んで、少しまとまった額の現金が入ってきた。その金でしばらく北アフリカに行くという話になった。どうして北アフリカなのか理由はよくわからなかったけれど、ちょうど僕は東京のアルジェリア大使館に勤めている女の子を知っていたので、彼女に紹介した。

「本当に日本に帰ってくるんだろうね?」僕は冗談で訊ねてみた。

「もちろん帰ってくるわよ」と彼女は言った。

 三ヵ月後に彼女は日本に帰ってきた。出かけた時よりも三キロやせて、まっ黒に日焼けしていた。そして新しい恋人をつれていた。僕の知る限りでは、彼女にとってはその男が最初の、きちんとした形の恋人だった。

 彼は二十代後半で、背が高く、すきのない身なりをして、丁寧な言葉づかいをした。幾分表情には乏しいが、まあハンサムな部類に属するし、感じも悪くなかった。手が大きく、指は長い。

 どうしてその男のことをそんなにくわしく知っているかというと、僕が空港まで二人を出迎えに行ったからだ。飛行機が着くと――飛行機は悪天候のために実に四時間も遅れて、そのあいだ僕はコーヒー・ルームで週刊誌を三冊読んだ――二人が腕を組んでゲートから出てきた。二人は感じの良い若夫婦みたいに見えた。彼女が僕に男を紹介した。我々は殆んど反射的に握手をした。

 貿易の仕事をしているんです、と彼は言った。しかし仕事の内容についてはそれ以上何も言わなかった。

 それから何回か彼と顔を合わせることになった。彼はしみひとつない銀色のドイツ製のスポーツ・カーに乗っていた。僕は車のことは殆んど何も知らないので詳しい説明はできないけれど、なんだかフェデリコ・フェリーニの白黒映画に出てきそうな感じの車だった。普通のサラリーマンの持てるような車ではない。

「貿易の仕事?」

「彼がそう言ってたよ。貿易の仕事をしてるんだってさ」

「じゃあ、そうなんでしょ。でも……よくわかんないのよ。だってべつに働いているようにも見えないんだもの。よく人に会ったり電話をかけたりはしてるみたいだけど」

 まるでフィッツジェラルドの『グレート・ギャッツビイ』だなと僕は思った。何をしているのかはわからない、でも金は持っている謎の青年。

 

 十月の日曜日の午後に、彼女から電話がかかってきた。妻は朝から親戚の家にでかけていて、僕一人だった。よく晴れた気持の良い日曜日で、庭のくすの木を眺めながらりんごを食べていた。僕はその日だけでもう七個もりんごを食べていた。ときどきそういうことがある。病的にりんごが食べたくなるのだ。あるいはそういうのは何かの予兆なのかもしれない。

「今、おたくのわりと近くにいるんだけれど、これから二人で遊びにうかがっていいかしら?」と彼女は言った。

 彼らは二時過ぎにやってきた。家の前でスポーツ・カーの停まる音が聞こえた。

「来たわよ」とにこにこしながら彼女が言った。彼女は乳首の形がくっきりと見えるくらい薄いシャツを着て、オリーブ・グリーンのミニ・スカートをはいていた。

 彼はネイビー・ブルーのブレザー・コートを着ていた。以前会った時と少し印象が違うような気がしたが、それは少なくとも二日間はのばした不精髭のせいだった。

「ごはん持ってきたわよ」と彼女が言って、後部座席から白い大きな紙袋をとり出した。

 我々は家の中に入って、テーブルの上に食料品を広げた。なかなか立派な品揃えだった。ロースト・ビーフ・サンドウィッチとサラダとスモーク・サーモンとブルーベリー・アイスクリーム、量もたっぷりあった。

「さあ食べちゃいましょうよ。すごくおなか減ったわ」と例によって腹を減らせた彼女が言った。

 彼はどれだけ飲んでも顔色ひとつ変えなかった。僕もビールならかなり飲める。彼女もつきあって何本か飲んだ。結局一時間足らずのあいだにビールの空き缶が机の上にずらりと並んだ。ちょっとしたものだ。彼女はレコード棚から何枚か選んでオートチェンジのプレイヤーにセットした。マイルス・デイヴィスの「エアジン」が聞えてきた。

 しばらくオーディオの話をしたあとで、彼はちょっと口をつぐんだ。それから「グラスがあるんだけど、よかったら吸いませんか?」と言った。

 僕はちょっと迷った。というのは、僕は一ヵ月前に禁煙したばかりでとても微妙な時期だったし、ここでマリファナを吸うことがそれにどう作用するのかよくわからなかったからだ。でも結局吸うことにした。とても質の良いマリファナだった。我々はしばらくのあいだ何も言わずにそれを一口ずつ吸っては順番にまわした。マイルス・デイヴィスが終って、ヨハン・シュトラウスのワルツ集になった。不思議な選曲だったが、まあ悪くない。

 一本吸い終った時、彼女が眠いと言った。寝不足のうえにビールを三本飲んで大麻煙草を吸ったせいだった。彼女は本当にすぐに眠くなるのだ。僕は彼女を二階につれていって、ベッドに寝かせた。

 我々は二本めのマリファナを吸った。まだヨハン・シュトラウスのワルツがつづいていた。僕はどういうわけか小学校の学芸会でやった芝居のことを思い出した。僕はそこで手袋屋のおじさんの役をやった。子狐が買いにくる手袋屋のおじさんの役だ。でも子狐の持ってきたお金では手袋は買えない。

「それじゃ手袋は買えないねえ」と僕は言う。ちょっとした悪役なのだ。

「でもお母さんがすごく寒がってるんです。あかぎれもできてるんです。おねがいです」と子狐は言う。

「いや、駄目だね。お金をためて出なおしておいで。そうすれば

                         「時々納屋を焼くんです」

 と彼が言った。

「失礼?」と僕は言った。ちょっとぼんやりしていたもので、聞きまちがえたような気がしたのだ。

「時々納屋を焼くんです」と彼は繰り返した。

 僕は彼の方を見た。彼は指の爪先でライターの模様をなぞっていた。

「納屋の話を聞きたいな」と僕は言った。

「どうして納屋なんて焼くんだろう?」

「変ですか?」

「わからないな。君は納屋を焼くし、僕は納屋を焼かない。そのあいだにはいわば歴然とした違いがあるし、僕としてはどちらが変かというよりは、まずその違いがどういうものなのかをはっきりさせておきたいんだ。それに納屋の話は君が先に持ち出したんだよ」

 彼はしばらくぼんやりしていた。彼の意識はゴム粘土みたいにくねくねとしているように見えた。あるいはくねくねとしていたのは僕の意識の方だったのかもしれない。

「もちろんそうです。他人の納屋です。だから要するに、これは犯罪行為です。あなたと僕が今こうして大麻煙草を吸っているのと同じように、はっきりとした犯罪行為です」

「つかまりゃしませんよ」と彼はこともなげに言った。「ガソリンをかけて、マッチをすって、すぐに逃げるんです。それで遠くから双眼鏡でのんびり眺めるんです。つかまりゃしません。だいいちちっぽけな納屋がひとつ焼けたくらいじゃ警察もそんなに動きませんからね」

「それで彼女はそのことを知ってるの?」と僕は指で二階の方を指しながら訊いた・

「何も知りません。実を言えば、このことはあなた以外の人間には話したことはありません。誰彼かまわずしゃべれるような類いのことじゃありませんからね」

「どうして僕に?」

「あなたは小説を書いている人だし、人間の行動のパターンのようなものに興味があるんじゃないかと思ったんです。それに僕はつまり小説家というものは何かの物事に対して判断を下す以前に、その物事をあるがままのかたちで楽しめる人じゃないかと思っていたんです。もし楽しめる(・・・・)というのがまずければ、あるがままに受け入れられるというべきかな。だからあなたには話したんです。話したかったんですよ、僕としても」

「こういう言い方は変かもしれないけれど」、と彼は顔の前で両手を広げ、それをゆっくりとあわせた。「世の中にはいっぱい納屋があって、それらがみんな僕に焼かれるのを待っているような気がするんです。海辺にぽつんと建った納屋やら、たんぼのまん中に建った納屋やら……とにかく、いろんな納屋です。十五分もあれば綺麗に燃えつきちゃうんです。まるでそもそもの最初からそんなもの存在もしなかったみたいにね。誰も悲しみゃしません。ただ――消えちゃうんです。ぷつん(・・・)ってね」

「でもそれが不必要なものかどうか、君が判断するんだね」

「僕は判断なんかしません。それは焼かれるのを待っているんです(・・・・・・・・)。僕はそれを受け入れるだけです。わかりますか。そこにあるものを受け入れるだけなんです。雨と同じですよ。雨が降る。川があふれる。何かが押し流される。雨が何かを判断していますか? いいですか、僕は何もアンモラルなことを志向しているわけではありません。僕は僕なりにモラリティーというものを信じています。それは人間存在にとって非常に重要な力です。モラリティーなしに人間は存在できません。僕はモラリティーというのはいうなれば同時存在のかねあい(・・・・)のことじゃないかと思うんです」

「同時存在?」

「つまり僕がここにいて、僕があそこにいる。僕は東京にいて、僕は同時にチュニスにいる。責めるのが僕であり、ゆるすのが僕である。たとえばそういうことです。そういうかねあい(・・・・)があるんです。そういうかねあい(・・・・)なしに、僕らは生きていくことはできないと思うんです。それはいわば止めがねのようなものです。それがないことには僕らはほどけて文字どおりばらばらになってしまいます。それがあればこそ、僕らの同時存在が可能になるんです。

「つまり君が納屋を焼くのは、モラリティーにかなった行為であるということかな?」

「正確にはそうじゃありませんね。それはモラリティーを維持するための行為なんです。でもモラリティーのことは忘れた方がいいと思います。それはここでは本質的なことじゃありません。僕が言いたいのは、世界にはそういう納屋がいっぱいあるということです。僕には僕の納屋があり、あなたにはあなたの納屋がある。本当です。僕は世界のほとんどあらゆる場所に行きました。あらゆる経験をしました。何度も死にかけました。自慢しているわけじゃありません。でももうやめましょう。僕はふだん無口なぶん、グラスをやるとしゃべりすぎるんです」

 体が弛緩して、細部の動きがよく把握できなかった。でも僕は僕の体の存在そのものを観念としてくきりと感じることができた。それはたしかに同時存在的と言えなくはなかった。考えている僕がいて、その考えている僕を見守っている僕がいた。時間はひどく精密にポリリズムを刻んでいた。

「次に焼く納屋はもう決まっているのかな?」

 彼は目と目のあいだにしわを寄せた。それからすうっという音を立てて、鼻から息を吸いこんだ。「そうですね。決まっています」

 僕は何も言わずにビールの残りをちびちびと飲んだ。

「とても良い納屋です。久し振りに焼きがいのある納屋です。実は今日も、その下調べに来たんです」

「ということは、この近くにあるんだね」

「すぐ近くです」と彼は言った。

 五時になると彼は恋人を起こし、僕の家を突然訪問したことわびを言った。ずいぶんな量のビールを飲んだはずなのに、完全に素面だった。彼は裏庭からスポーツ・カーを出した。

 

 僕は次の日、本屋に行って僕の住んでいる町の地図を買ってきた。僕の家は郊外にあり、まわりには農家がまだ数多く残っている。したがって納屋の数もけっこう多い。全部で十六の納屋があった。

 それから僕は十六の納屋の状態のひとつひとつを丁寧にチェックした。結局五つの納屋が残った。五つの焼くべき納屋だ。あるいは五つの燃え差支えない納屋だ。それから直角定規と曲線定規とディバイダーを用意し、うちを出てその五つの納屋を巡り、また家に戻ってくる最短コースを設定した。翌朝の六時、僕はトレーニング・ウェアにジョギング・シューズをはいて、そのコースを走ってみた。走るのに要した時間は三十一分三十秒だった。一ヶ月間、そんな風に僕は毎朝同じコースを走りつづけた。しかし、納屋は焼けなかった。

 時々僕は彼が僕に納屋を焼かせようとしているんじゃないかと思うことがあった。つまり納屋を焼くというイメージを僕の頭の中に送りこんでおいてから、自転車のタイヤに空気を入れるみたいにそれをどんどんふくらませていくわけだ。たしかに僕は時々、彼が焼くのをじっと待っているくらいなら、いっそのこと自分でマッチをすって焼いてしまった方が話が早いんじゃないかと思うこともあった。

 十二月がやってきて、秋が終り、朝の空気が肌を刺すようになった。納屋はそのままだった。白い霜が納屋の屋根におりた。世界は変ることなく動きつづけていた。

 

 その次に僕が彼に会ったのは、昨年の十二月のなかばだった。クリスマスの少し前だった。乃木坂のあたりを歩いている時に、僕は彼の車をみつけた。品川ナンバーで、左のヘッド・ライトのわきに小さな傷がついている。車は喫茶店の駐車場に停まっていた。もっともその車は以前見たときほどぴかぴかと鮮やかに輝いてはいなかった。その銀色はこころなしかくすんで見えた。でもそれは僕の錯覚かもしれなかった。僕は自分の記憶を都合よく作りかえてしまう傾向があるのだ。僕はためらわずに店の中に入った。

 僕は少し迷ったが、やはり声をかけることにした。それから我々は軽い世間話をした。話はあまりはずまなかった。もともとあまり共通の話題がないうえに、彼は何か別のことを考えているように見えたからだ。

「ところで、納屋のことはどうなったの?」と僕は思い切って訪ねてみた。

 彼は唇のはしで微かにほほえんだ。「ああ、あのことをまだ覚えていたんですね」と彼は言った。そしてポケットからハンカチをとりだし、口もとを拭ってまたもとに戻した。「もちろん焼きましたよ。きれいに焼きました。約束したとおりね」

「僕の家(うち)のすぐ近くで?」

「そうです。ほんとうのすぐ近くです」

「いつ?」

「この前、おたくにうかがってから十日ばかりあとです」

 僕は地図に納屋の位置を掻きこんで一日に一回その前をランニングしてまわった話をした。

「だから見落とすはずはないんだけれどね」と僕は言った。

「ずいぶん綿密なんですね」と彼は楽しそうに言った。「綿密で理論的です。でもきっと見落としたんですよ。そういうことってあるんです。あまりに近すぎて、それで見落としちゃうんです」

「よくわからないな」

 彼は立ちあがって。煙草とライターをポケットに入れた。

「ところであれから彼女にお会いになりました?」と彼が訊ねた。

「いや、会ってないな。あなたは?」

「僕も会ってないんです。連絡がとれないんです。アパートの部屋にもいないし、電話も通じないし、パントマイムのクラスにもずっと出てないんです」

「どこかにふらっとでかけちゃったんじゃないかな。これまでにも何度かそういうことはあったからね」

「一文なしで、一ヵ月半もですか? 生きていくということに関しては、彼女にはそれほどの才覚はありませんよ」

 彼はコートのポケットの中で何度か指を鳴らした。

「僕はよく知っているんだけれど、彼女はまったくの一文なしです。友だちらしい友だちもいません。住所録はぎっしりいっぱいだけど、そんなものはただの名前です。あの子には頼れる友だちなんていないんです。いや、あなたのことは信頼してましたよ。これは別に社交辞令なんかじゃありません。あなたは彼女にとっては特別な存在だったと思います。僕だってちょっと嫉妬したくらいです。本当ですよ、僕がこれまで嫉妬したことなんてほとんどない人間なんですけどね」彼は軽い溜め息をついた。そしてもう一度時計に目をやった。「僕はもう行きます。どこかでまた会いましょう」

 僕は肯いた。でもうまくことばは出てこなかったいつもそうなのだ。この男を前にするとことばがうまく出てこないのだ。

 僕はそれから何度も彼女に電話をかけてみたのだけれど、電話は料金未払いのために回線を切られていた。僕はなんとなく心配になって、彼女のアパートまで行ってみた。彼女の部屋は閉ったままだった。僕は手帳のページを破って「連絡してほしい」というメモを作り、名前を書いて、郵便受けの中に放り込んでおいた。でも連絡はなかった。

 その次に僕がそのアパートを訪れた時には、ドアには別の住人の札がかかっていた。それで僕はあきらめた。一年近く前の話だ。彼女は消えてしまったのだ。

 

 僕はまだ毎朝、五つの納屋の前を走っている。うちのまわりの納屋はいまだひとつも焼け落ちてはいない。どこかで納屋が焼けたという話もきかない。また十二月が来て、冬の鳥が頭上をよぎっていく。そして僕は年をとりつづけていく。

 夜の暗闇の中で、僕は時折、焼け落ちていく納屋のことを考える。

                 *

 村上春樹の短篇小説は批評されることが少ないのだが、それでも探してみればいくつかあり、『納屋を焼く』の解釈は大きく二つに分類される。

 一つは、村上が『全作品第1期』第3巻付録「『自作を語る』――短篇小説の試み」で、「僕はときどき「こういうものすごくひやっとした小説を書いてみたくなる」と書いたように、彼女は失踪したのではなく、納屋(=彼女)として焼かれた(=殺された)のであるという推論、読解。

 二つめは、彼女の「蜜柑むき」パントマイムにおける《そこに蜜柑がある(・・)と思いこむんじゃなくて、そこに蜜柑がない(・・)ことを忘れればいいのよ》や、彼が説明した「同時存在」がほのめかす現実の世界と非現実(想像)の境界線、「パラレルワールド」の曖昧さである。そして、「モラリティー」に関する考察や、分析としてはフォークナーの小説“Barn Burning”や、新美南吉作『手袋を買いに』とのインターテキスチャーを論じたものなどが見出される。

 

<『レーダーホーゼン』>

 村上春樹の短篇小説『レーダーホーゼン』は、短篇小説集『回転木馬のデッド・ヒート』(1985年刊)の序文「はじめに・回転木馬のデッド・ヒート」に続いて書き下ろされた。「はじめに・回転木馬のデッド・ヒート」はこの短篇小説集の枠組みを説明している。

《ここに収められた文章を小説と呼ぶことについて、僕にはいささかの抵抗がある。もっとはっきり言えば、これは正確な意味での小説ではない。

 僕が小説を書こうとするとき、僕はあらゆる現実的なマテリアル――そういうものがもしあればということだが――を大きな鍋にいっしょくたに放りこんで原形が認められなくなるまでに溶解し、しかるのちにそれを適当なかたちにちぎって使用する。(中略)

 しかしここに収められた文章は原則的に事実に即している。僕は多くの人々から様々な話を聞き、それを文章にした。もちろん僕は当人に迷惑が及ばないように細部をいろいろといじったから、まったくの事実とはいかないけれど、それでも話の大筋は事実である。》

 おそらくこれは、村上のエルサレム賞受賞スピーチにおける「小説家はうまい嘘をつくことによって、本当のように見える虚構を創り出すことによって、真実を別の場所に引っ張り出し、その姿に別の光をあてることができるからです。」に相当する拡張的な嘘であろう。

 村上は『全作品第1期』第5巻付録「『自作を語る』――補足する作品群」で、「いちばんよく書けているんじゃないかと思う」と発言しているが、それは『レーダーホーゼン』が村上春樹の短篇小説の特徴、彼の小説技法を巧く表現しきれたからだろう。

 村上は短篇小説を発表したあとで何度も書き直すが、ここに引用する『レーダーホーゼン』も『納屋を焼く』と同じく短篇小説集”The Elephant Vanishes”を村上春樹が日本語翻訳した『象の消滅 短篇選集1980-1991』からのものではあるものの、少々事情が複雑だ。巻頭すぐの「アメリカで『象の消滅』が出版された頃」によれば、《アルフレッド・バーンバウムが雑誌の意向を受けてオリジナル・テキストに手を入れて短くして訳した。アメリカの雑誌ではよくこのように編集の手が入ることがある。文化の違いもあり、読者の好みも異っているので、いたし方ない部分もある。しかし結果的にはこのアルフレッド短縮版は、作品としてなかなか悪くなかった。そういうわけで、今回そのアルフレッド版をテキストにして、僕が自ら日本語に訳してみた。本書にはその「逆輸入ヴァージョン」が収録されている。》

引用元は、前述したように、村上春樹象の消滅 短篇選集1980-1991』に収録された『レーダーホーゼン』で、ところどころ省略しながらも、原文の文体を生かして引用する。

                  *

「うちのお母さんはお父さんを捨てたの」と妻の女友だちがある日、僕に言う。「半ズボンがその原因だった」

 僕は質問しないわけにはいかない。「半ズボン?」

「妙な話に聞こえることはわかっているんだけど」と彼女は言う。「でもね、そもそもが妙な話なわけ」

 

 彼女は女性としては大柄なほうだ。仕事はエレクトーンの教師だが、自由になる時間の大半を、水泳やスキーやテニスにあてている。仕事のない日には、朝のランニングをすませてから、近くのプールに行ってひとしきりラップ・スイミングをする。午後の二時になるとテニスをして、そのあとはエアロビクスという段取りである。

 彼女は攻撃的な性格でもないし、偏狭なところがあるわけでもない。ただ、彼女の身体は――そこに付随する精神もきっと似たようなものなのだろうが――休むことなくせわしなく働きまわっている。

 彼女が結婚をしないのは、そういうことと何か関係しているのかもしれない。もちろんこれまでつきあった相手は何人かいた。大柄ではあったけれど、なかなか美人だったから。求婚され、もう少しで華燭の典というところまで行ったことも何度かあった。しかしいざ結婚式が近づいてくると、必ず何か予期せぬ問題が持ち上がって、結婚は急遽中止ということになった。

「運が悪いのよ」と僕の妻は言う。

「そうらしいね」と僕もいちおう同情する。

 でも僕は、必ずしも妻の意見に同意しているわけではない。たしかに運不運というのは、僕等の人生の多くの局面を左右するし、それは時として我々のまわりに黒々とした影を落とすことになる。でも僕は思うのだけれど、もしプールを30往復し、20キロを走ることができるほどの意志の力を持ち合わせているなら、たいていの障害はなんとかして乗り越えていけるものではあるまいか? 彼女は本当は結婚なんかしたくなかったのだ、というのが僕の推論である。

 

 日曜日の雨の午後だ。彼女は予定より二時間早くうちにやってくる。妻は買い物に出ている・

「テニスをする予定だったんだけど、それがこの雨で流れて、おかげで二時間ほど余っちゃったの。家に一人でいてもつまらないし、だからちょっと早い目に来させてもらったんだけど――ねえ、あなたのお仕事の邪魔をしちゃったかしら?」

 いや、ぜんぜん、と僕は言う。あまり仕事をする気分になれなかったので、猫を膝に抱いて、のんびりビデオを見ていたところだった。そして二人でコーヒーを飲みながら、「ジョーズ」の最後の20分を見る。

 映画が終わって、エンド・クレジットが出る。しかし妻が戻ってくる気配はない。だから僕らは適当に話をする。なんというか、僕はこの女性に対して好感のようなものを持っていると思う。しかし一時間ばかり彼女と会話を続けて、その結果明らかになったのは、僕らのあいだには共通の話題と言えるようなものはとくにないという事実だった。結局のところ、彼女はうちの奥さんの友だちであって、僕の友だちではないのだ。

 でもそのとき彼女が出し抜けに、両親の離婚の話を持ち出したわけだ。どうして急にそんな話になってしまったのか、僕にはぜんぜん理解できない。というのは、泳ぐことと、彼女の父母が離婚したこととのあいだには――少なくとも僕の思考体系の中においてはということだが――関連性らしきものは見いだせないからだ。でもそこにはきっと何らかの理由があったのだろう。

 

「正確に言えば、それは半ズボンじゃないの」と彼女は言う。「レーダーホーゼンなわけ」

「あの、ドイツ人がはいている、アルプス風の革ズボンのこと? ストラップで肩にとめるようになっているやつ」

「そう、それのこと。うちのお父さんはお土産にレーダーホーゼンがほしいって言った」

「お母さんの妹がドイツに住んでいて、一度来ないかって前から誘われていたの。もちろんお母さんはドイツ語なんてしゃべれないし、生れてから外国に行ったこともなかった。でもずっと英語の先生をしていたものだから、海外に行くことに興味はあったの。もうずいぶん長いあいだその叔母に会っていなかったしね。だからお母さんはお父さんを誘った。一緒に二人で十日ばかりドイツを旅行しないかって。でもお父さんはどうしても仕事を休むことができなかった。それでお母さんは一人でドイツに行くことになったわけ」

 彼女の両親はどちらかといえば仲が良い方だった。夜通し言い争いをしたりすることはなかったし、父親が荒々しく家を飛び出して、そのまま数日間帰ってこないというようなこともなかった。父親がよそで浮気をして、それで家庭が不和におちいったことが、以前には幾度かあったらしいが、今ではそういうこともなくなっていた。

「悪い人じゃないのよ。仕事はちゃんとするし。でもね、すぐに女の人に手を出しちゃうタイプだったわけ」、彼女はあっさりとそう言う。まるで他人事みたいに。

「でもその頃にはお父さんも、もうすっかり落ち着いていて、面倒なことは起こさないようになっていた」

 しかし話はそう簡単ではない。十日後には戻ってくる予定だったのに、母親は結局一ヵ月半もドイツに滞在することになった。それについて家にほとんど一言の連絡もなかった。そしてようやく日本に帰国しても、彼女は東京の家には戻らず、大阪にいるもう一人の妹のところに行ってしまった。

 それ以前、夫婦のあいだに不和が生じたときにも、母親はいつもただじっと苦境に耐えていた。その我慢強い様子を目にしながら、この人にはひょっとして想像力ってものがないのかしら、と彼女はよく考えたものだった。母親にとっては家庭というものがまず第一であり、何があろうとも娘を守らなくてはならなかった。だから母親が家に帰ってもこないし、電話ひとつかけてこないというようなことは、二人にとってはまさに青天の霹靂だった。

 しかしある日、突然母親は自分から電話をかけてきて、夫に向かって「離婚に必要な書類を送りますから、サインして送り返してください」と言った。「どんなかたちでも、どんなやり方でも、もうあなたに対して愛情が持てなくなったんです」。そこには話し合いの余地みやいなものはないのかな、と父親は尋ねた。「ありません。申しわけないとは思うけれど、もうすっかり終わったんです」

「それは私にとっても、すごく大きなショックだった」と彼女は僕に言う。「離婚そのものがショックだったんじゃないの。両親がいつか離婚するかもしれないということは、まったく予想しないわけではなかった。だから心理的には、そういう事態に対する覚悟はある程度できていたの。もし二人がごく普通に、わけのわからない経緯抜きで、ただあっさり離婚していたとしたら、私はそれほど混乱しなかったと思う。問題はお母さんがお父さんを捨てたということじゃないのよ。彼女は私のこともひとまとめ(・・・・・)にして捨てたの。私にとってはそれがずいぶんきつかったのね」

 僕は頷く。

 彼女が母親に再会したのは、三年後のことである。親戚の葬儀の席だった。その頃には娘は自立して一人で暮らしていた。両親が離婚したとき、大学二年生だった彼女はそのまま家を出た。それから大学を卒業しエレクトーンの教師の職に就いた。一方母親は、受験予備校で英語を教えていた。

 私が、あなたに何も説明することができなかったのは、いったい何をどのように説明すればいいのか、さっぱり見当がつかなかったからなの、と母親は打ち明けた。「いったい何が持ち上がっているのか、それすら私にはよくわからなかったの」と母親は言った。「でもそもそものきっかけは、あの半ズボンだったと思う」

「半ズボン?」と彼女は――僕がそうしたのと同じように――びっくりして聞き返した。もう母親とは一生口をきかない、と彼女は心を決めていた。しかし好奇心が彼女を捉えることになった。彼女は何はともあれ、この短い物語(というべきか)をひととおり聞かないわけにはいかなかったのだ。

 

 レーダーホーゼンを売る店は、ハンブルクから一時間ばかり行った、小さな町にあった。

 そこで母親は列車に乗って、夫のお土産のレーダーホーゼンを買うべくその町まで行った。列車のコンパートメントで、中年のドイツ人夫婦と同席した。彼女はその店の名前を教えた。ドイツ人夫婦は声を揃えて言った。「それはよろしい。ヤー、その店なら大丈夫です」。それを聞いて母親は満足した。

 心地よい初夏の午後だった。町はこじんまりとして、昔風のたたずまいを保っていた。店の猫と遊んでいると、カフェの主人がやってきて、どのようなご用向きでこの町に見えたのでしょうと尋ねた。レーダーホーゼンを買いにきたのだと彼女が答えると、主人は紙を一枚とって、その店までの地図を描いてくれた。

 一人で旅行するというのはなんて楽しいのだろう、彼女は丸石敷きの小道を歩きながらそう思った。考えてみれば、五十五歳の今に至るまで、一人旅をしたことなんて一度もなかったのだ。ドイツを旅行している間、彼女はただの一度も寂しいとも怖いとも思わなかったし、退屈もしなかった。目を捉えるすべての光景が新鮮であり、新奇なものだった。旅先で出会った人々はみんな親切だった。ひとつひとつの体験が、彼女の中にそれまで手つかずで埋もれていた生き生きとした感情を呼び起した。それまで彼女がいちばん近しく、大事に感じていたものは――夫と家庭と娘は――地球の反対側にあった。それらはもう頭に浮かばない。

 レーダーホーゼンを売る店はすぐに見つかった。古くて小さな、いかにも職人風の店だった。ツーリスト向けの派手な看板は出ていないが、店の中にレーダーホーゼンがずらりと並んでいるのが見えた。彼女はドアを開けて、中に入った。

 店の中では二人の老人が仕事をしていた。彼らはひそひそと囁くように話しながら、寸法を測り、ノートブックにそれを書き留めていた。

「Darf ich Ihnen helfen,Madame?(何かをお求めでしょうか、マダム)」、二人の老人のうちの大柄な方が母親に尋ねた。

「私はレーダーホーゼンを買いにきました」と母親は英語で言った。

「それはちっと問題を作ります」と老人は苦労して言葉を選びながら言った。「私たちは実在しないお客さまのために品物を作らんのです」

「私の夫は実在しています」と母親はきっぱりと言った。

「ヤー、ヤー、あなたの夫は実在する。もちろん、もちろん」、老人はあわてて言った。「私の英語が悪くて失礼だった。しかし私どもが言いたいのは、ここに存在しない人のためにレーダーホーゼンをお売りはできんということです」

「どうしてですか?」と母親は面食らって質問した。

「それが私どもの方針なのです。Ist unser Prinzip.お客様が私どものレーダーホーゼンをおはきになり、それをこの目で見ます。どんな具合か見ます。それから私どもはとてもじょうずに寸法を直します。そこで初めてお売りできます。私どもは当地で百年以上にわたって商売をしております。この方針で、私どもは店の評判を築いてきたのです」

「でも私は半日かけて、わざわざハンブルクからここまでやってきたんですよ。あなたのお店でレーダーホーゼンを買うために」

「申し訳なく思います」と老人は本当に申し訳なさそうに言った。「しかし例外は作れません。この世界はとびっきり不確かな場所でありました、信用を築き上げるのには時間がかかりますが、それを壊すのはわずかな間です」

 母親は戸口に立ったままため息をついた。そしてどうすればこの窮状を打開できるものか、懸命に頭を働かせた。

「それでは、こういうのはどうでしょう?」と母親は提案した。「私の夫と同じくらいの体型の人を見つけて、ここに連れてきます。その人に実際にレーダーホーゼンをはいてもらって、あなたがその寸法を直します。そして私にそのレーダーホーゼンを売る」

「しかしマダム、それは方針に背きます。レーダーホーゼンをはく人は、あなたの夫ではない。その事実を私どもは知っております。それは無理な相談です」

「事情を知らないふりをしていればいいんです。あなたはただレーダーホーゼンをその人に売ります。その人は私にレーダーホーゼンを売ります。そうすれば、おたくの信用に傷はつきません。そうでしょう?お願い。ほんの少しだけ目をつぶってください。私はもう二度とドイツには来られないかもしれません。そうしたら、一生レーダーホーゼンを買うこともできなくなってしまいます」

「ふうん」。老人はむずかしい顔をした。そしてしばらく頭をひねっていたが、もう一人の老人の方を向いて、早口のドイツ語でなにやらまくしたてた。二人はひとしきりあれこれ言い合っていた。それからやっと大柄な老人が母親の方に向き直った。そして言った、「わかりました、マダム。これは今度だけの例外です――例外中の例外ですぞ。そのことはご理解くださいませ。私どもは何ひとつ知らんということにします。日本からわざわざレーダーホーゼンを買いにみえる方が、数多くいらっしゃるわけではありません。そして私どもドイツ人も、救いなく頭が固いわけではありません。あなたのご主人になるべくそっくりの背格好の人を捜してきてください。兄も、それでかまわないと申しております」

「ありがとう」と彼女は言った。それからお兄さんに向かってドイツ語で言った。「Das ist so net von Ihnen.(ご親切を感謝します)」

「それから、どうなったの?」僕は結末を知りたくて、先を促す。

「お母さんは外のベンチに座って、お父さんと同じような体型をした男の人を探したわけ。そこにまさにぴったりの人が通りかかった。お母さんは説明もなしに、ほとんど無理矢理に――というのは相手は英語がぜんぜんしゃべれなかったからなんだけど――その人をレーダーホーゼンの店までひっぱっていった」

「店の人に前後の事情を説明され、その男の人は、わかりました、そういうことならと言って、快くお父さんのかわりをつとめてくれた。彼はレーダーホーゼンをはいて、老人たちはそのあちこちを短くしたり、詰めたりした。そしてそのあいだ三人は和気あいあいとしてドイツ語で冗談を言い合っていた。作業は30分ほどで終わった。そしてその作業が終わるころには、お母さんはもう離婚しようと心を決めていたの」

「ちょっと待って」と僕は言う。「もうひとつよくわからないんだけど、その30分のあいだに何か特別なことが起こったわけ?」

「いいえ、べつに何も起こらなかった。三人のドイツ人がただにこやかにおしゃべりをしていただけ」

「じゃあいったい、何がお母さんに離婚の決心をさせたんだろう?」

「お母さんにもそれはわからなかった。そのときにはね。いったい何がどうなっているのか自分でもつかめなくて、すっかり頭が混乱してしまった。彼女にわかるのは、そのレーダーホーゼンをはいた男の姿を眺めているうちに、耐えがたいほどの嫌悪感が自分の中にわき起こってきた、ということだけだった。父親に対する嫌悪感がね。そしてそれをどこかに押しやることは、彼女にはできなかった。そのレーダーホーゼンをはいた男は、肌の色を除けば、父親にほとんどそっくりだったの。脚のかたちから、お腹の出具合から、髪の薄くなり方まで。彼は新しいレーダーホーゼンを試着しながら、とても楽しそうだった。意気揚々として、得意げだった。まるで小さな子供みたいに。そこに立って、その男の様子を見ているうちに、これまで彼女の中でぼんやりとしていたいくつかのものごとが、すごくありありとかたちをとり始めた。そこで彼女にはやっとわかったの。自分が今では夫を憎んでいるんだってことが」

 妻が買い物からやっと戻ってきて、二人は女同士のおしゃべりを始める。

「それで、君はもうお母さんに腹は立てていないの?」、妻が席を外したときに、彼女にそう尋ねてみる。

「そうね。元通り仲良くなれたっていうわけじゃないのよ。でも少なくとも腹は立てていないと思う」

「それはレーダーホーゼンの話を聞かされたから?」

「たぶん。その話を聞いたあとでは、私の中にあった母親に対する激しい怒りみたいなものは、消えてしまっていた。どうしてそうなってしまったのか、一口では言えない。でもそれは、私たちが女どうしだってことと関係しているのかもしれないわね」

「でもさ、もしそこにレーダーホーゼンが出てこなかったら――つまり女の人が一人旅をして、そこでこれまでになかった自分を発見して――というような話だけだったとしたら、君はお母さんのことを許せたと思う?」

「もちろん許せなかったでしょうね」と彼女は躊躇なく答える。「重要なのはレーダーホーゼンなのよ。わかる?」

 その身代わりのレーダーホーゼンを、お父さんは受け取りさえしなかったのだ、と僕は思う。

                 *

レーダーホーゼン』のよくある読解としては、「女性性の語り」「矛盾を抱えた女性の自立」というフェミニズムの観点から、試着されるレーダーホーゼンというもの自体に、母が父のかつての愛人たちの表象を感じとってしまうというものだ。その拡張として、あちこち短くしたり、詰めたりしたレーダーホーゼンに、父に弄ばれた母の女性器という記号を読み取ってしまうことまで推し進められもする。

そして、母の自立物語に、セットとして娘の女性としての自立物語の反復を読みとることがついてくる。

 

 

<「偏見のない読書なんてものはたぶんどこにもない」>

『若い読者のための短編小説案内』の「文庫本のための序文」で村上は、次のように力説した。

《往々にして、僕はその作品について自分なりの仮説を立ち上げて、その仮説をもとに推論を進めていくことになります。もちろん「これは仮説ですが」と前もって断ってありますが、とにかくそこでは僕は、その作家のはいていた靴に自分の足を入れていきます。そしてその作家の目で、そこにあるものを見てみようとしています。その仮説や推論はあるいは間違っているかもしれません。書いたご本人からすれば、「俺はそんなこと思ってねえよ」ということになるかもしれません。あるいは事実と異なっていることがあるかもしれません。しかし僕としては、それはそれでかまわないのではないかと思うのです。読書というのはもともと偏見に満ちたものであり、偏見のない読書なんてものはたぶんどこにもないからです。逆な言い方をするなら、読者がその作品を読んで、そこにどのような仮説(偏見の柱)をありありと立ち上げていけるかということに、読書の喜びや醍醐味はあるのではないかと僕は考えるのです。》

 

<「自我にはほとんど興味がないかもしれない」>

『みみずくは黄昏に飛びたつ』(――:川上未映子/訊く、村上春樹/語る)から。

《――もう少し、村上さんの物語と自己の関係について、詳しくお伺いしたいんです。村上さんは、今回のこの本(筆者註:『職業としての小説家』)の中でも、「物語を語るというのは、言い換えれば、意識の下部に自ら下っていくことです。心の闇の底に下降していくことです」と書いておられます。それと同時に、興味深いと思うのは、村上さんはあるインタビューで「僕は、地上における自我というものにはまったく興味がない」っておっしゃっているんですよね。

村上 まったく、ということはないけれど、そういう種類の自我にはほとんど興味がないかもしれない。

 ――ほとんど興味がない。それについて、もう少し伺えますか。

村上 僕は例えば、いわゆる私小説作家が書いているような、日常的な自我の葛藤(かっとう)みたいなものを読むのが好きじゃないんです。自分自身のそういうことに対しても、あまり深く考えたりしない。何かで腹が立ったり、落ち込んだり、不快な気持ちになったり、悩んだり、そういうことってもちろん僕自身にもあるんだけど、それについて考えたりすることに興味がない。

 ――それらについて、書いたりしたい気持ちも……。

村上 ないと思う。それよりは、自分の中の固有の物語を探し出して、表に引っ張り出してきて、そこから起ち上がってくるものを観察する方にずっと興味があるんです。だから日本の私小説的なものを読んでると、全然意味が分からない。》

 

《――それは「生き生きとした、実際的な性を書けているか」というような意味の話だけでもないんです。例えば、さきほどの話の中で、女性というものが巫女(みこ)的(てき)に扱われる、巫女的な役割を担わされるということに対する……。

村上 手を引いてどこかに連れていくという話ね。

 ――ええ。主人公を異化する。異化されるための入口というか契機として、女性が描かれることが多い。

村上 うん、そういう要素はあるかもしれない。

(中略)

村上 でも、こう言ってしまったらなんだけど、僕は登場人物の誰のことも、そんなに深くは書きこんでいないような気がするんです。男性であれ女性であれ、その人物がどのように世界と関わっているかということ、つまりそのインターフェイス(接面)みたいなものが主に問題になってくるのであって、あの存在自体の意味とか、重みとか、方向性とか、そういうことはむしろ描きすぎないように意識しています。前にも言ったけど、自我的なものとはできるだけ関わらないようにしている。男性であれ女性であれ。》

 

<「乖離というか、落差みたいなものの中に、自分の影が存在している」/「現実の側だけから物語を解釈しちゃうと、ただの絵解きになっちゃいます」>

《――村上作品に対する批評や分析といったものとの距離みたいなことを伺いたいなと思います。(中略)アンデルセンが書いた「影」という小説を引用されていて(筆者註:アンデルセン文学賞受賞スピーチ)、小説家にとって大事なのは影で、その影をできるだけ正確に書くことだとおっしゃっています。その影から逃げることなく、論理的に分析することなく、一部として受け入れることで、内部に取り込んでそれを書く、その過程を経験することを共有することが小説家にとって決定的に重要な役割を持つと。(後略)

村上 僕は正直なところ、分析というのはあまり好きじゃないです。もちろんまったく分析をしないというんじゃなくて、これまでに分析みたいなことを、僕なりにちょくちょくやってきました。でもあとから思うと、だいたい間違っていた(笑)。取り入れるファクターがひとつ多かったり少なかったりしたら、分析の結果なんてがらっと変わってしまいます。もうこれ以上そういうつまらない間違いを犯したくない、というのが僕の正直な気持ちです。

(中略)

 ジョセフ・コンラッドがどこかで書いていました。作家は、自分ではすごくリアリスティックに物語を書いているつもりでいて、いつの間にか幻想的な世界を書いてしまっていることがある、と。つまりそれはどういうことかというと、コンラッドにとって、「世界を幻想的に非論理的に神秘的に描くということ」と、「世界は神秘的で幻想的であると考えること」はまったく別のものなんだということなんです。そういう自生的な乖離(かいり)がある。

(中略)

 その乖離というか、落差みたいなものの中に、自分の影が存在しているんじゃないかと僕は思っています。だからこそ、乖離というものが僕にとってはとても大事な意味を持ちます。僕が小説を書くときにやっているのは、僕のまわりにある世界を少しでもリアリスティックに、写実的に描こうという、それだけのことです。

(中略)

 ――なぜこのような飛躍が、リアルな現実の自分と、自分が書いた物語世界との間に違いが出てくるんだろうか。そのことに気づく瞬間もまた、影に関係してくる。でも気をつけなければいけないのは、なぜ村上さんが書くと飛躍が生れるんだろう、というときの、「飛躍」の部分は、あくまで現実の側の理論から解釈しないことなんですね。

村上 そう、それが大事なことです。現実の側だけから物語を解釈しちゃうと、ただの絵解きになっちゃいます。あるいは専門家の知的ゲームみたいに、僕の小説に関して、よく分析的批評みたいなことがされているみたいですが、僕はそういうのは読まないですね。それはそれとして、自立した知的戦略としては面白いのかもしれないけど、作家である僕の本来の意図とはあまり関係のないことだから。》

 

 こういった村上の言葉を真に受ければ(作家とは嘘つきだ、ともどこかで語っていたが)、彼女は焼かれたという現実解釈や、自我を規範とするフェミニズム批評は、「もちろん」自由だが、少し的を外れているに違いない。

 

<「無意識下における意外性」>

 レイモンド・カーヴァー『ぼくが電話をかけている場所』村上春樹訳(中公文庫)の「訳者あとがき」で、

《カーヴァーの短篇の最大の魅力は「無意識下における意外性」と言ってもいいと思う。》と書いている。

村上春樹の『納屋を焼く』、『レーダーホーゼン』にもあてはまるだろう。

 

<「優れた作家はいちばん大事なことは書かないものです」>

 村上春樹『若い読者のための短編小説案内』で、語る。

《語られなかったことによって何かが語られている、というひとつの手応えのようなものがあります。優れた作家はいちばん大事なことは書かないものです。優れたパーカッショニストがいちばん大事な音は叩かないのと同じように。》

 

作者村上は『納屋を焼く』では、地図を見せて、どの納屋を焼いたのかを訊ねることを避けてとおる、デタッチメントに終始し、従って大事なことを削ぎ落し、あえて書かない。

レーダーホーゼン』では、《「重要なのはレーダーホーゼンなのよ。わかる?」 その身代わりのレーダーホーゼンを、お父さんは受け取りさえしなかったのだ、と僕は思う。》と、彼女と僕は共犯関係のように了解しあって、「わかる?」を読者にわからせるという、いちばん大事な理由を空白にして説明しない。

 

<「理解というものは、つねに誤解の総体に過ぎない」>

 村上春樹は、「理解というものは、つねに誤解の総体に過ぎない」(『スプートニクの恋人』)という言葉を、短篇小説『かえるくん、東京をすくう』で、「理解とは誤解の総体に過ぎないと言う人もいますし、ぼくもそれはそれで大変面白い見解だと思うのですが、残念ながら今のところぼくらには愉快な回り道をしているような時間の余裕はありません」とかえるくんに繰り返させた。

 

<「村上春樹は、常に体系的に誤読されている一群の作家の一人である」>

 ポール・ド・マンは『盲目と洞察』の「盲目性の修辞学」で下記のように書いているが、「ルソー」という語は「村上春樹」に置換しうる。

《ルソーは、常に体系的に誤読されている一群の作家の一人である。わたしはこれまで、批評家たち自身の洞察にかかわる彼らの盲目性、彼らの述べた方法と彼らの感知したものとの隠された不一致について語ってきた。文学の歴史においてもその歴史編集においても、こうした盲目性はある特定の作家についての、くりかえし起こる異常な解釈のパターンという形をとることがある。このパターンは、高度に専門的な注釈家から、その作家を一般的な文学史の中に位置づけ分類するための曖昧な「通念(idées reçues)」にまで及んでいる。それは、その作家に影響を受けた他の作家たちを含むことすらある。もとの発話が両面的なものであればあるほど、その追随者や注釈家たちの一致した誤りのパターンは、画一的で普遍的なものになる。すべての文学言語、そしていくつかの哲学言語は本質的に両面的なものだという観念を、人は原則的にはあっさりと認めるにもかかわらず、ほとんどの文学の注釈や文学的影響に含まれている機能は、いぜんとしてこうした両面性を矛盾へと還元したり、作品の中の混乱を招く部分を隠蔽したり、あるいはもっと微妙な仕方で、テクストの内部で働いている価値づけの体系を操作することによって、何とかして両面性を払いのけようとしているのである。特にルソーの場合そうであるように、両面性がそれ自体哲学的命題の一部をなすときには、こうしたことは非常に起こりやすい。この点からみればとりわけルソー解釈の歴史は、彼が言っていないことを言ったかのようにみせるための多種多様な戦略と、そして意味を確定的に輪郭づけようとするこうした誤読の収束とに、満ち満ちているのである。それはまるで、ルソーが生前苦しんでいたと想像されるパラノイアが、彼の死後に現れて、敵も味方もこぞって彼の思想を偽装するという陰謀に駆り立ててでもいるかのようだ。(中略)ルソーの場合、そうした誤読にはほとんど常に、知的あるいは道徳的な優越性のニュアンスがつきまとっているということだ。あたかも注釈者たちは、いちばんましな場合でも、彼らの著者が取り逃がしてしまったものについて弁解したり、処方箋を出さなければならないかのように思っているのである。ある本質的な弱点のために、ルソーは混乱と背信と隠遁に陥ってしまったというのだ。と同時に、まるでルソーの弱点を知っていることが何らかの形で自分自身の強さを反映するかのように、判断を下す方は自信を回復していることが見てとれるだろう。彼は何がルソーを苦しめていたのかを正確に知っているから、あたかも自民族中心主義的な人類学者が原住民を観察したり、医者が患者に忠告するときのような、揺るぎない権威という立場からルソーを観察し、判断し、補助することができるのである。批評的態度は診断的なものとなり、ルソーはまるで、自分から助言を与えるよりも、むしろ助けを求めている存在であるかのように見なされる。批評家はルソーについて、ルソーが知りたいと望まなかった何かを知っているのである。》 

                                             (了)

          *****引用または参考文献*****

村上春樹象の消滅 短篇選集1980-1991』(『レーダーホーゼン』『納屋を焼く』所収)(新潮社)

村上春樹短篇集『蛍・納屋を焼く・その他の短篇』(『納屋を焼く』所収)(新潮社)

村上春樹『全作品第1期 第3巻』(『納屋を焼く』、付録「『自作を語る』――短篇小説への試み」所収)(講談社

イ・チャンドン監督映画『バーニング 劇場版』

村上春樹短篇集『回転木馬のデッド・ヒート』(『初めに・回転木馬のデッド・ヒート』『レーダーホーゼン』所収)(講談社

村上春樹『全作品第1期 第5巻』(『レーダーホーゼン』、付録「『自作を語る』――補足する作品群」所収)(講談社

川上未映子/訊く、村上春樹/語る『みみずくは黄昏に飛びたつ』(新潮文庫

村上春樹『若い読者のための短編小説案内』(文春文庫)

加藤典洋村上春樹の短篇を英語で読む 1979~2011』(講談社

レイモンド・カーヴァー『ぼくが電話をかけている場所』村上春樹訳(中公文庫)

ポール・ド・マン『盲目と洞察』(『盲目性の修辞学』、他所収)宮崎裕介、木内久美子訳(月曜社

文学批評) 白洲正子『十一面観音巡礼』を読む ――「境界/中間領域/過渡期」への眼差し

 

 

 昭和四十四年に『かくれ里』を、昭和四十七年に『近江山河抄』を「芸術新潮」に連載した白洲正子は、昭和四十九年一月から『十一面観音巡礼』を一年半連載する。

 紀行文のようでもあるが、昨今はやりの「食」「宿」などへの雑文的言及は厳しく排して、十一面観音に集中している。

《私の経験からいっても、十一面観音は、必ず山に近いところ、もしくは山岳信仰と関係のある寺に祀ってあり、あまり方々でお目にかかるので、自然に興味を覚えるようになった。何より驚くのはその数の多いことと、美しい作が沢山あることで、興味というより不思議に感じたのがはじまりである。が、そんなことはいくらいってみた所で仕方がない。学者なら学問の方から近づくことも出来ようし、坊さんなら信仰に感得する所もあるに違いない。が、素人の私はどうすればいいのか。とにかく手さぐりで歩いて、なるべく多くの十一面観音に会ってみる以外に道はない。巡礼というのも大げさで、歩いている中に何かつかめるかも知れないし、つかめなくても元々である》と呟いたり、《何度か「おこもり」もしてみた。が、何もつかめないのは依然として同じことである。だから魅力もあるというもので、わかってしまったら私は書かないであろう》と宣言してもいる。

 白洲は、初期の『能」に関する文章から彼岸と此岸の「境界」、世阿弥「修羅物」の中有(ちゅうう)にさまよう幽霊の重要性に着眼しているが、そこには折口信夫「まれびと」概念への共鳴もあっただろう。晩年の『両性具有の美』でも日本の文化、芸能における中間的表現を多面的に紹介し、「中間領域」の「美」に囚われ、時間という軸においては「過渡期」に終生魅力を感じ続けた。

 それはこの『十一面観音巡礼』においても明かである。『十一面観音巡礼』を読みながら、「境界/中間領域/過渡期」といったテーマに関する白洲正子の言葉の見出しをつけながら読んでみよう。くだくだしい説明は不要だ、白洲正子の文章が十全に語っているのだから。

 

1.「聖林寺から観音寺へ」

1-1.手さぐり

《はじめて聖林寺をおとずれたのは、昭和七、八年のことである。当時は今とちがって、便利な参考書も案内書もなく、和辻哲郎氏の『古寺巡礼』が唯一の頼りであった。写真は飛鳥園の先代、小川晴暘氏が担当していた。特に聖林寺の十一面観音は美しく、「流るる如く自由な、さうして均整を失はない、快いリズムを投げかけてゐる」という和辻氏の描写を、そのまま絵にしたような作品であった。聖林寺へ行ったのは、それを見て間もなくの事だったと記憶している。(中略)

 案内を乞うと、年とったお坊さまが出て来られた。十一面観音を拝観したいというと、黙って本堂の方へ連れて行って下さる。本堂といっても、ふつうの座敷を直したもので、暗闇の中に、大きな白いお地蔵さんが座っていた。「これが本尊だから、お参りください」といわれ、拝んでいる間に、お坊さまは雨戸をあけて下さった。さしこんでくるほのかな光の中に、浮び出た観音の姿を私は忘れることが出来ない。それは今この世に生れ出たという感じに、ゆらめきながら現れたのであった。その後何回も見ているのに、あの感動は二度と味えない。世の中にこんな美しいものがあるのかと、私はただ茫然とみとれていた。

 観音様は本尊の隣の部屋に、お厨子(ずし)ともいえない程の、粗末な板がこいの中に入っておられた。その為に膝から下は見えず、和辻さんが賛美した天衣の裾もかくれている。が、そんなことは少しの妨げにもならなかった。私が呪縛されたように動かずにいるのを見て、住職は後の縁側の戸を開けて下さった。

 くずれかけた縁へ出てみると、後側からは全身が拝めた。私はおそるおそる天衣の裾にさわってみて、天平時代の乾漆の触感を確かめてみた。それは私の手に暖く伝わり、心の底まで深く浸透した。とても鑑賞するなどという余裕はなく、手さぐりで触れてみただけである。それが十一面観音とのはじめての出会いであった。(中略)そうして四十年の年月が流れた。》

 

1-2.動き出そうとする気配/人間と仏の中間/過渡期の存在/爛熟と頽廃のきざし/女躰でありながら、精神はあくまでも男/悪神は善神に転じ

《新築のお堂の中で眺める十一面観音は、いくらか以前とは違って見えた。明るい自然光のもとで、全身が拝める利点はあったが、裸にされて、面映ゆそうな感じがする。前には気がつかなかった落剝が目立つのも、あながち年月のせいではないだろう。いくら 鑑賞が先に立つ現代でも、信仰の対象として造られたものは、やはりそういう環境において見るべきである。またそうでなくては、正しい意味の鑑賞も出来ないのではないか。

 だが、そういう利点だか欠点だかを超越して、なおこの十一面観音は気高く、美しい。後世になると、歴然とした動きが現れて来るが、ここには未だそうしたものはなく、かすかに動き出そうとする気配がうかがわれる。その気配が何ともいえず新鮮である。蕾の蓮華で象徴されるように、観世音菩薩は、衆生済度のため修行中の身で、完全に仏の境地には到達していない、いわば人間と仏との中間にいる。そういう意味では過渡期の存在ともいえるが、この仏像が生れた天平時代は、歴史的にいっても律令国家が一応完成し、次の散りかかろうとする危機もはらんでいた。そういう時期に出現したのが十一面観音である。だから単に新鮮というのは当らない。そこには爛熟と頽廃のきざしも現れており、泥中から咲き出た蓮のように、それらの色に染みながら、なおかつ初々しいのがこの観音の魅力といえる。一つには、乾漆という材質のためもあると思うが、どこか脆いようでいて、シンは強く緊張している、女躰でありながら、精神はあくまでも男である。その両面をかねているのが、この観音ばかりでなく、一般十一面観音の特徴といえるかも知れない。

 もともと十一面観音には、そうなるべき素質と過去があった。後藤大用氏の『観世音菩薩の研究』によると、生れは十一荒神と呼ばれるバラモン教の山の神で、ひと度怒る時は、霹靂(へきれき)の矢をもって、人畜を殺害し、草木を滅ぼすという恐ろしい荒神であった。そういう威力を持つものを遠ざける為に、供養を行なったのがはじまりで、次第に悪神は善神に転じて行った。しまいにはシバ神とも結びついて、多くの名称を得るに至ったが、十一面の上に、千眼を有し、二臂(ひ)、四臂、八臂など、様々の形象で現わされた。日本古来の考え方からすれば、荒御魂(あらみたま)を和(にぎ)御魂に変じたのが、十一面観音ということになり、そういう点で理解しやすかったのかもしれない。印度から中国を経て日本へ渡ったのは、六世紀の終りごろで、現存するものでは、那智発掘の金銅十一面観音(白鳳時代)がもっとも古いとされている。》

 

1-3.甘美なロマンティシズムと、流れるようなリズム感/品定めでない

聖林寺の観音と、いつも比較されるのは、山城の観音寺の本尊である。正しくは息長山普賢寺といい、京都府綴喜(つづき)郡田辺にある。(中略)

 庭前の紅葉と、池水の反射をうけて、ゆらゆらと浮び出た十一面観音は、私が想像したよりはるかに美しく、神々しいお姿であった。といって、写真がぜんぜん間違っていたわけでもない。宝瓶を持つ手は後補なのか、ぎこちなく、胸から腰へかけてのふくらみも、天衣の線も、硬い感じを与える。が、学者によっては、聖林寺の観音より優れていると見る人々は多い。落剝が少く、彫りがしっかりしているからだが、素人の私には、まさしくその長所が欠点として映る。ひと口にいえば、頽廃の気がいささかもないのが、甘美なロマンティシズムと、流れるようなリズム感から遠ざけている。それはたとえば力強い支那陶器と、やわらかい志野や織部を比較するようなもので、殆んど意味のないことだろう。私はそんなことがいいたい為に巡礼をしているのではない。では何の為に、と聞かれると返答に困るが、少くとも十一面観音の品定めでないことは確かである。》

 

1-4.御霊/記憶/外来人/祟り

観音堂に向って左側に、ささやかな地主神社が建っている。元は東北の山中にあったそうで、御霊神社とも呼ばれ、祭神は継体天皇である。東北といえば、筒城の宮のあったあたりで継体天皇を祀ったのはわかるが、「御霊」と呼ばれたことは不思議である。越前から出たこの天皇には、不可解な点が多く、河内の樟葉から山城の筒城、同じく山城の弟国(乙訓)へと、落着くひまもなく遷都し、大和へ入るのに二十年近くかかっている。のみならず、『日本書記』には、『百済本記』をひき、「日本(やまと)の天皇及び太子(ひつぎのみこ)・皇子、俱に崩薨(かむさ)りましぬ」という記事をのせており、その頃朝廷内に重大な事件がおこったことを暗示している。(中略)

 御霊信仰が発生したのは大分後のことだが、筒城の宮跡に天皇の御霊を祀ったのは、当時の記憶が残っていたのではあるまいか。『書記』がかくそうとした事件の真相を、土地の人々は知っていたに違いない。まして、ここは大和に近く、外来人の根拠地でもある。彼らにとっても、忘れることの出来ない痛恨事であったろう。そういう記憶は長く尾をひくもので、百済人の子孫である良弁が、天皇一族の鎮魂の為に、十一面観音を祀ったのは、あり得ることだと私は思う。木津川は、この頃でもよく氾濫するが、古代の人々はその度に、天皇の怒りを思い出し、祟りを畏れたのではあるまいか。》

 

2.「幻の寺」

2-1.法華寺/歩み出そうとする気配/遍歴することによって衆生を救う

《久しぶりにお目にかかる十一面観音(筆者註:奈良の法華寺)は、やはりすばらしい彫刻であった。観光が盛んになって以来、方々で写真に接するが、どれもこれも気に入らない。太りすぎて、寸づまりに写るからである。しかいには、それがほんとうのような気がして来て、写真の力というのは恐ろしいものだと思う。

「皆さんそう仰しゃいます。実物をごらんになって、びっくりなさいます」

 と尼さんもいわれるが、しょせんレンズは肉眼とは違う。発達すればする程、よけいなものまで写してしまうに違いない。たしかにこの観音は太り肉ではあるが、ほのかな光の元で見る時は、嫋々(じょうじょう)とした感じで、右手の親指でそっと天衣の裾をつまみ、やや腰をひねって歩み出そうとする気配は、水の上を逍遥するといった風情である。

 近江の石道寺(いしどうじ)の十一面さんも、右足の親指をちょっとそらせており、それが大変媚かしく見えると、私は前に書いたことがあるが、気がついてみると、この観音も爪先をそらせている。それだけのことで、全体の調子に動きを与え、遍歴することによって衆生を救うという、観音の本願が表現されている。蓮の葉巻の光背は後補と聞くが、やや凝りすぎのきらいがある。写真にとると、よけいうるさい。肉眼で見たような写真がないかと思って、入江泰吉氏にうかがってみると、この観音様はお厨子の中に入っている為、撮影するのがむつかしく、ライトを使うとどうしても強く写ってしまうというお話であった。まともに見るのも憚かられるように造られたものを、写真にとるのがそもそも無理な注文なので、巧く行かないのは当り前のことかも知れない。》

 

3.「木津川にそって」

3-1.水の信仰

《伊賀の山中に発する木津川は、南山城の渓谷を縫いつつ西へ流れる。笠置、加茂を経て平野に出ると、景色は一変し、ゆるやかな大河となって、北上する。その川筋には、点々と、十一面観音が祀られている。それは時に天平時代の名作であったり(観音寺)、藤原初期の秘仏であったり(観菩薩寺)、路傍の石仏だったりする。漠然とそういうことには気づいていたが、今度歩いてみて、それらの寺が互いに関聯すること、水の信仰と密接に結びついていること、特に東大寺の造営に大きな役割を果した事実を知ることができた。》

 

3-2.海住山寺密教的な重苦しさ/山岳修行者/生みの苦しみ

《山門(筆者註:海住山寺)から少し登ると、左手の方に、美しい五重塔が見えて来る。この前来た時は修理中だったが、朱の色もしっとりと落ついて、松林を背景に瀟洒な姿を現している。塔と文殊堂の間に本堂が建ち、十一面観音はその中に安置してある。良観時代のしっかりした彫刻で、どことなく天平の残り香がただよっているように見える。が、何事か一心に思いつめた表情で、はれぼったい眼で凝視する姿は、密教的とでもいうのだろうか、やや重苦しい印象をうける。肩をはっている為に、首が落ちこんでいるのも、窮屈である。別にこの本尊にかぎるわけではない、有名な室生寺の十一面観音でも、山間に祀られている仏像には、みな共通の特徴がある。カゼにのって、虚空から舞い降りたような軽快さは失せ、かわりに大地に根をはった力強さが現れる。聖林寺の甘美な詩も、法華寺の官能的な魅惑も、もはやここにはない。美術史の上では、どう分類するのか知らないが、おそらく官寺の仏師ではなく、山岳修行者のたぐいが造ったものに相違ない。といって、素人の作とは思えず、まったく別の系統の仏師がいたとしか考えられない。それは単に時代や技術の差だけではなく、発想の仕方が根本的に違う。こういうことを言葉で言い現すのはむつかしいが、しいて言うなら、その暗く鬱々とした表情に、私は「生みの苦しみ」といったようなものを感じる。》

 

3-3.お水取

天平勝宝三年(七五一)、良弁僧正の高弟、実忠和尚は、千手窟に籠って、都卒の内陣に遊び、聖衆が集まって、十一面観音悔過(げか)法を修するのを見たという。都卒天というのは、弥勒菩薩の浄土で、実忠は夢さめて後、その修法を拡めようとしたが、肝心の本尊がない。そこで直ちに難波津におもむき、西海に向って祈っていると、その満願の日に、身の丈七寸の十一面観音が、閼伽(あか)器に乗って浮いて来た。「銅(アカガネ)ノ像ニテ暖カナルコト人ノ膚ノ如クナリ」と、『元享釈記』は伝えている。翌天平勝宝四年二月一日、東大寺の羂索院に、この像を安置し、十一面悔過の修法を行なった。これが東大寺の修二会(しゅにえ)、すなわち「お水取」のはじまりである。

 今のその霊像は「小観音(こかんのん)」と称して、二月堂に祀ってある。二月堂にはもう一つ本尊があり、この方は「大観音(おおかんのん)」と呼ばれるが、両方とも絶対の秘仏なので、見た人はいない。が、難波の海で、七寸の銅(あかがね)の像を得たというのは、外国から将来された金銅仏が、そういう説話となって伝わったのであろう。》

 

3-4.土俗の信仰と混交/官能的で娼婦的な性格

《古代の仏教は、土俗の信仰と、実に様々な形で入交っている。中国の観音は、女媧や玉女と混交し、陰陽を司る女神となった。「暖カナツコト人ノ膚の如クナリ」という二月堂の本尊は、もともと大変官能的な仏なのである。男女の別などある筈のない菩薩が、時に妖しいまでに蠱惑(こわく)的な姿に造られたのは、そういう過去を持っている為に他ならない。平安朝の白拍子や遊女が、観音とか千手、熊野などという名前を持ち、下って徳川時代太夫の道中が、來迎のお練りに見立てられたのも、皆そのような伝統による。観音が与える現世利益、あえていうならその娼婦的な性格が、どれ程民衆をひきつけたことか。民衆ばかりでなく、信仰は強ければ強い程、生身の観世音の魅惑には、抵抗することができなかったであろう。美しい吉祥天を恋した僧が、夢の中で交わる話、性空上人が、室の津の遊女に、普賢菩薩を感得した話など、いずれも広大無辺な仏の智慧を語る逸話だと思う。

 山間に祀られている十一面観音が、出来不出来は別として、一様に重苦しい姿でいるのは、そういう所からぬけ出そうとする、創造の苦しみを現しているのではなかったろうか。》

 

4.「水神の里」

4-1.室生寺/呪術的な暗さ/中国文化の影響をいかにして骨肉化するか/醒めることの苦悩と緊張

室生寺をおとずれたのは、二月の半ばであった。凍てついた河原に、ときどき風花が舞うような夕暮で、境内には人影もなかった。「女人高野」の碑をすぎて、山門に入ると、道は自然に右へ折れ、ゆるやかな石段の上に金堂の屋根が見えて来る。この寺はせまい山地を実にたくみに利用して造られているが、登るにつれてなだらかな屋根の線が、次第に現れて行く景色は、いつ眺めても美しい。春は石楠花(しゃくなげ)の甘い香りがただよい、秋は燃えるが如き紅葉に彩られる。が、おまいりするなら寒い季節がいい。心身ともにひきしまった気分になる。

 金堂は西側の扉から入るようになっており、入った所に十一面観音が立っていられた。お堂の中は暗くて、殆んど何も見えないが、ほのかな斜光の中に、観音様だけが浮び上り、思いなしか今日はことさら尊く見える。多くの十一面観音の中でも、この仏像は特に有名で、翻波(ほんぱ)式と呼ばれる衣文の彫りも、彩色も、貞観時代の特徴をよく止めている。が、私にいわせればやはり山間の仏で、平野の観音の安らぎはない。両眼をよせ気味に、一点を凝視する表情には、多分に呪術的な暗さがあり、まったく動きのない姿は窮屈な感じさえする。平安初期の精神とは、正しくこういうものであったに違いない。長年にわたって受けついだ中国文化の影響を、いかにして骨肉化するか、桓武天皇平安京に遷都し、弘法大師高野山に籠り、伝教大師が叡山を開いたのも、一にそのことにかかっていた。こういう仏像を眺めていると、彼等の祈りの声が聞こえて来るような気がする。甘美な天平の夢は醒める時が来た。醒めることの苦悩と、緊張を、この観音は身をもって示していると思う。》

 

4-2.龍神信仰

《金堂へ登る右手の木立の中に、ささやかな鎮守社が建っている。人は気がつかずにすぎて行くが、これこそ室生の寺の前身で、その方角を東へ遡った室生川のほとりに、「龍穴神社」が鎮座している。昔は車も通わぬ山道だったが、今は舗装になっていて、寺の門前から川にそって登ると、五、六分で行ける。が、この神社も後に造られたもので、ほんとうの「龍穴」は、更にその奥の谷間にある。今度行ってみて驚いたのは、ここにも道がついていたことで、急な坂を登った所に、「龍穴」と書いた立札があり、そこで車を捨て、崖を下ると河原へ出る。河原には清らかな水が流れており、向う岸の切立った岩のさけ目に祠があって、注連縄(しめなわ)がはりめぐらしてある。みるからに龍が住んでいそうな恐ろしげな洞窟で、室生の山の奥の院といった感じがする。

 光仁天皇宝亀年間、皇太子(後の桓武天皇)の病気平癒の為、ここで祈祷が行われた。》

 

5.「白山比咩の幻像」

5-1.白山信仰

《白山は越前、加賀、美濃の三国にまたがる霊山で、養老年間に、泰澄大師によって開かれた。泰澄は白鳳十一年(六八三)六月、越前麻生津(あそうづ)に誕生したが、夏であるのに、その日は白雪が積ったという。幼い頃から「神異の童」と呼ばれ、不思議な霊力を持つ少年であったが、十四歳の時、越智山にこもって、十一面観音を念じ、みずから髪を剃って比丘となった。麻生津も、越智山も、福井県の西側にあり、そこからは白山の全景がくまなく見渡される。(中略)泰澄は三年の間白山にこもり、修行をつんで「越の大徳」と呼ばれ、元正天皇が病になられた時は、祈祷のために平城京に招かれた。まだ東大寺ができる以前のことで、十一面観音の信仰は、彼にはじまるといっても過言ではあるまい。太古から崇拝された神の山は、仏教の衣裳によって荘厳され、その信仰は日本全国に拡まって行った。東北地方で有名な「おシラ様」は、場所によっては「シラヤマ様」と呼ばれていると、柳田国男氏は書いていられるが、祭りの時に「シラヤマ」という作り物をしつらえ、氏子がその中にこもるという話も読んだことがある(原初的思考―宮田登)。》

 

5-2.本地垂迹

《ここ(筆者註:横蔵寺)から北へ遡ると、越前の境の能郷白山へ達するが、そこにも「権現山」と称する神山があり、白山信仰はそれらの峯伝いに、山岳仏教聖達によって拡められたのであろう。日本の信仰は、山と川によって発展したといっても過言ではない。十一面観音は、たしかに仏教の仏には違いないが、ある時は白山比咩、またある時は天照大神、場合によっては悪魔にも龍神にも、山川草木にまで成りかねない。そういう意味では、八百万の神々の再来、もしくは集約されたものと見ることも出来よう。

 本地垂迹という思想は美しい。が、完成するまでには、少くとも二、三百年の年月がかかっている。はたして私達は。昔の人々が神仏を習合したように、外国の文化とみごとに調和することが出来るであろうか。》

 

6.「湖北の旅」

6-1.渡岸寺/見ることによって受ける感動と仏を感得する喜び

《早春の湖北の空はつめたく、澄み切っていた。それでも琵琶湖の面には、もう春の気配がただよっていたが、長浜をすぎるあたりから、再び冬景色となり、雪に埋もれた田圃の中に、点々と稲架(はさ)が立っているのが目につく。その向うに伊吹山が、今日は珍しく雪の被衣(かずき)をぬいで、荒々しい素肌を中天にさらしている。南側から眺めるのとちがって、険しい山が見えて来て、高月から山側へ入ると、程なく渡岸寺の村である。

 土地ではドガンジ、もしくはドウガンジと呼んでいるが、実は寺ではなく、ささやかなお堂の中に、村の人々が、貞観時代の美しい十一面観音をお守りしている。私がはじめて行った頃は、無住の寺で、よほど前からお願いしておかないと、拝観することも出来なかった。茫々とした草原の中に、雑木林を背景にして、うらぶれたお堂が建っていたことを思い出す。それから四、五へんお参りしたであろうか。その度ごとに境内は少しずつ整備され、案内人もいるようになって、最近は収蔵庫も建った。が、中々本堂を移さなかったのは、村の人々が反対した為と聞いている。大正時代の写真をみると、茅葺屋根のお堂に祀ってあったようで、その頃はどんなによかったかと想像されるが、時代の推移は如何ともなしがたい。たしかに収蔵庫は火災を防ぐであろうが、人心の荒廃を妨げるとは思えない。せめて渡岸寺は、今の程度にとどめて、観光寺院などに発展して貰いたくないものである。

 お堂へ入ると、丈高い観音様が、むき出しのまま立っていられた。野菜や果物は供えてあるが、その他の装飾は一切ない。信仰のある村では、とかく本尊を飾りたてたり、金ピカに塗りたがるものだが、そういうことをするには観音様が美しすぎたのであろう。湖水の上を渡るそよ風のように、優しく、なよやかなその姿は、今まで多くの人々に讃えられ、私も何度か書いたことがある。が、一年以上も十一面観音ばかり拝んで廻っている間に、私はまた新しい魅力を覚えるようになった。正直いって、私が見た中には、きれいに整っているだけで、生気のない観音様が何体かあった。頭上の十一面だけとっても、申しわけのようにのっけているものは少くない。そういうものは省いたので、取材した中の十分の一も書けなかった。昔、亀井勝一郎氏は、信仰と鑑賞の問題について論じられ、信仰のないものが仏像を美術品のように扱うのは間違っているといわれた。それは確かに正論である。が、昔の人のような心を持てといわれても、私達には無理なので、鑑賞する以外に仏へ近づく道はない。多くの仏像を見、信仰の姿に接している間に、私は次第にそう思うようになった。見ることによって受ける感動が、仏を感得する喜びと、そんなに違う筈はない。いや、違ってはならないのだ、と信ずるに至った。それにつけても、昔の仏師が、一つの仏を造るのに、どれほど骨身をけずったか、それは仏教の儀軌や経典に精通することとは、まったく別の行為であったように思う。》

 

6-2.まだ人間の悩みから完全に脱してはいない/悪の表現の方に重きをおいた/天地の中間にあって、衆生を済度する/自分の眼で見たもの/一人の方法、一人の完成/ものを造るとは、ものを知ること

《それは近江だけでなく、日本の中でもすぐれた仏像の一つであろう。特に頭上の十一面には、細心の工夫が凝らされているが、十一面観音である以上、そこに重きが置かれたのは当たり前なことである。にも関わらず、多くの場合、単なる飾物か、宝冠のように扱っているのは、彫刻するのがよほど困難であったに違いない。十一面というのは、慈悲相、瞋怒(しんど)相、白牙上出相が各三面、それに暴悪大笑相を一面加え、その上に仏果を現す如来相を頂くのがふつうの形であるが、それは十一面観音が経て来た歴史を語っているともいえよう。印度の十一荒神に源を発するこの観音は、血の中を流れるもろもろの悪を滅して、菩薩の位に至ったのである。仏教の方では、完成したものとして信仰されているが、私のような門外漢には、仏果を志求しつづけている菩薩は、まだ人間の悩みから完全に脱してはいず、それ故に親しみ深い仏のように思われる。十一面のうち、瞋面、牙出面、暴悪大笑面が、七つもあるのに対して、慈悲相が三面しかないのは、そういうことを現しているのではなかろうか。

 渡岸寺の観音の作者が、どちらかと云えば、悪の表現の方に重きをおいたのは、注意していいことである。ふつうなら一列に並べておく瞋面と、牙出面を、一つずつ耳の後まで下げ、美しい顔の横から、邪悪の相をのぞかせているばかりか、一番恐ろしい暴悪大笑面を、頭の真後につけている。見ようによっては、後姿の方が動きがあって美しく、前と後と両面から拝めるようになっているのが、ほかの仏像とはちがう。暴悪大笑面は、悪を笑って仏道に向わしめる方便ということだが、とてもそんな有がたいものとは思えない。この薄気味わるい笑いは、あきらかに悪魔の相であり、一つしかないのも、同じく一つしかない如来相と対応しているように見える。大きさも同じであり、同じように心をこめて彫ってある。してみると、十一面観音は、いわば天地の中間にあって、衆生を済度する菩薩なのであろうか。そんなことはわかり切っているが、私が感動するのは、そういうことを無言で表現した作者の独創力にある。平安初期の仏師は、後世の職業的な仏師とはちがって、仏像を造ることが修行であり、信仰の証しでもあった。この観音が生き生きとしているのは、作者が誰にも、何にも頼らず、自分の眼で見たものを彫刻したからで、悪魔の笑いも、瞋恚(しんい)の心も、彼自身が体験したものであったに違いない。一説には、泰澄大師の作ともいわれるが、それは信じられないにしても、泰澄が白山で出会った十一面観音は、正しくこのとおりの姿をしていたであろう。十一面観音は、十一面神呪経から生れたと専門家はいうが、自然に発生したものではあるまい。一人一人の僧侶や芸術家が、各々の気質と才能に応じて、過去の経験の中から造りあげた、精神の結晶に他ならない。仏法という共通の目的をめざして、これ程多くの表現が行われたのを見ると、結局それは一人の方法、一人の完成であったことに気がつく。源信も、法然も、親鸞も、そういう孤独な道を歩んだ。渡岸寺の観音も、深く内面を見つめた仏師の観法の中から生れた。そこに、儀軌の形式にそいながら、儀軌にとらわれない個性的な仏像が出現した。その時彼は、泰澄大師と同じ喜びをわかち合い、十一面観音に開眼したことを得心したであろう。ものを造るとは、ものを知ることであり、それは外部の知識や教養から得ることの不可能な、ある確かな手応えを自覚することだと思う。》

 

6-3. 鶏足寺(けいそくじ)から石道寺(いしどうじ)へ/遊び足

《渡岸寺から高時川を遡って行くと、古橋という集落の高台に、与志漏(よしろ)神社が建っている。その裏手に新しい収蔵庫があって、もと己高(こたかみ)山にあった鶏足寺(けいそくじ)の仏像が集っている。己高(こたかみ)閣とも呼ばれ、収蔵庫が本堂のようになっているが、本尊は平安初期の十一面観音で、渡岸寺の観音とはまた別の趣がある。いかにも田舎の仏らしく、おっとりした風貌で、ほのかな彩色が残っているのが美しい。(中略)

 己高山は古くから信仰された神山で、渡岸寺と同じく、泰澄大師が開き、伝教大師が再興したと伝える。湖北の古い寺は、どこでも同じような伝承を持っているが、それは近江に浸透していた白山信仰が、叡山に吸収されて行ったことを示していると思う。鶏足寺の神像でも、十一面観音(白山)と猿(日吉)が入交っており、湖北は両者の接点であったことがよくわかる。地形的にいっても、山伝いに行ける白山の方が、湖水をへだてた比叡山より、身近に感じられたのではないか。養老年間に、越前から大和へ上った泰澄は、湖北から、湖南の岩間寺、宇治田原の金胎寺へ、点々と足跡を遺している。(中略)

 鶏足寺から石道寺(いしどうじ)へ、雑木林の中を縫って行く小道には、湖北らしいしっとりとした趣がある。左手には、雪を頂いた己高山がそびえ、落葉を踏んで行くと、やがてその麓の山あいに、石道(いしみち)の集落が見えて来る。お堂はそこから少し登った岡の上の、桜並木の奥にあり、ここにも平安時代の可憐な十一面観音が、村の人々に守られて鎮まっている。

「一木造りの等身大の藤原彫刻は、まことに古様で、美しい。微笑をふくんだお顔もさることながら、ゆるやかに流れる朱(あけ)の裳裾の下から、ほんの少し右の親指をそらし気味に、一歩踏み出そうとする足の動きには魅力がある。法華寺室生寺の十一面観音も、同じように足指をそらせているが、多くの人々の心をとらえるのは、あの爪先の微妙な表現にあるのではないか」

 と、『近江山河抄』の中に私は書いているが、今度気がつくと、鶏足寺の観音も、足の親指をそらせており、当時の彫刻家が、十一面観音の「遊び足」の表現に、それぞれ苦心したことが窺える。その動きは、やがて来迎の思想を生む源泉となった。次第に絵画が彫刻にとって変り、二十五菩薩来迎の図や、山越の弥陀や観音の上に、自由に表現されて行く。こんなに数多く造られた十一面観音が、平安時代を最後に、突然衰微するのは、彫刻をはみ出すものがあったに違いない。厳密にいえば、それは奈良時代から、二百年足らずの間で、仏教が日本人のものとなる為に、大きな役割をはたしたといえよう。》

 

 

「あとがき」にこうある。

《十一面観音の巡礼を、私にすすめて下さったのは、仏教学者の真鍋俊照氏であった。旅は好きだし、歩くことにも未だいくらか自信はあるので、私はとびついたが、ほんとうは誰かにそう言って貰うことを期待していたのかも知れない。というのは、私にとって、十一面観音は、昔からもっとも魅力のある存在であったが、恐ろしくて、近づけない気がしていたからである。巡礼ならどんな無智なものにでも出来る。信仰の有無も問わないという。真鍋さんは、たぶんそういうことを考えた上で、私にすすめて下さったのであろう。

 手ぶらで歩けるということは、私の気持をほぐし、その上好きな観音様にお目にかかるということが、楽しみになった。が、はじめてみると、中々そうは行かない。回を重ねるにしたがい、はじめの予感が当っていたことを、思い知らされる始末となった。私は薄氷を踏む思いで、巡礼を続けたが、変化自在な観世音に眩惑され、結果として、知れば知るほど、理解を拒絶するものであることをさとるだけであった。

 私の巡礼は、最後に聖林寺へ還るところで終っているが、再び拝む天平の十一面観音は、はるかに遠く高いところから、「それみたことか」というように見えた。私は、そういうものが、観音の慈悲だと信じた。もともと理解しようとしたのが間違いだったのである。もろもろの十一面観音が放つ、目くるめくような多彩な光は、一つの白光に還元し、私の肉体を貫く。そして、私は思う。見れば目がつぶれると信じた昔の人々の方が、はるかに観音の身近に参じていたのだと。》

                           (了)                                                     

     *****引用または参考文献*****

白洲正子『十一面観音巡礼』(講談社文芸文庫

白洲正子『近江山河抄』(講談社文芸文庫

白洲正子『かくれ里』(講談社文芸文庫

白洲正子『私の古寺巡礼』(講談社文芸文庫

和辻哲郎『古寺巡礼』(岩波文庫

*『別冊太陽 白洲正子 十一面観音の旅[京都・近江・若狭・信州・美濃篇]』(平凡社

*『別冊太陽 白洲正子 十一面観音の旅[奈良・大和路篇]』(堀江敏幸「暴発の気配」所収)(平凡社

*『白洲正子著作集1 能』(青土社

白洲正子『両性具有の美』(新潮文庫

白洲正子謡曲平家物語』(講談社文芸文庫

文学批評/オペラ批評) シラー『マリア・ストゥアルト』/ドニゼッティ『マリア・ストゥアルダ』/ツヴァイク『メリー・スチュアート』 ――「王の二つの身体」をめぐって

 

 

 

 シラーの戯曲『マリア・ストゥアルト(“Maria Stuart”ドイツ語)』からドニゼッティのオペラ『マリア・ストゥアルダ(“Maria Stuarda”イタリア語)』へ、脱落するもの、それはエリザベス(エリザベッタ、エリーザベット)女王がメリー・スチュアート(マリア・ストゥアルト、マリア・ストゥアルダ)の死刑宣告書へ署名することの怖れ、逡巡と処刑直後の女王の保身である。ツヴァイクの評伝『メリー・スチュアート(原作は”Maria Stuart”ドイツ語だが、日本語翻訳表記に従う)』からシラー『マリア・ストゥアルト』へ、脱落するもの、それはメリーの全生涯と、その死後の息子ジェームズ6世(イングランド王としてジェームズ1世)のイングランド王位継承のエピソードである。

 

ドニゼッティマリア・ストゥアルダ』>

 1542年生まれのメリー・スチュアートは、スコットランド王、父ジェームズ5世の死により、生後6日にしてスコットランド女王として即位した。1548年フランス王太子フランソア2世と婚約して、フランスで養育され、1558年に結婚しフランス王妃となる。1561年フランソワ2世の病死後に帰国、1565年ダンリー卿と再婚したが、別居状態で夫は殺される。1567年夫殺しの容疑者ボズウェル伯と夫の死後3ヶ月で再々婚したが、スコットランドの政争で夫殺害首謀者として疑われて国内諸侯の反乱にあい、王位をダンリーとの子ジェームズ6世に譲る。1568年、単身イングランドに逃亡して、いとこ(正確にはエリザベス女王の父ヘンリー8世の姉マーガレットがメアリーの祖母)のエリザベスに保護を求めた。彼女の滞在は新教であるイングランド国教会(エリザベスの父ヘンリー8世アン・ブーリンとの再婚のために創生した)に烈しく反目するカトリック勢力側によるエリザベス廃位の陰謀を引き起こすことから幽閉される。1586年にはバビングトン陰謀事件が起こり、文通からメリーの陰謀参加が疑われ、1587年断首刑に処せられる。 

 ドニゼッティのオペラ『マリア・ストゥアルダ』は、シラーの戯曲『マリア・ストゥアルト』(1800年ワイマールの劇場で初演)のメリーの最後の三日間という設定を基に、1835年ミラノ・スカラ座で初演されている。

 

19年間におよぶメリー幽閉を経て、エリザベスの腹心セシル卿はメリーの処刑を提案する。戯曲とオペラでは、史実においては生涯一度として相まみえなかったエリザベスとメリーの二人の女王の対決シーンを、三角関係のフィクションの下でハイライトへ導く。エリザベスは恋人のレスター伯爵ロベルト・ダドリーがメリーを愛していると気づき、嫉妬に燃える。メリーを救いたいロベルトは、エリザベスにメリーとの面会を提案、エリザベスはメリーが幽閉されているフォザリング城を訪れる。ロベルトの勧めに従って許しを請うメリーがエリザベスに向って「私を跡継ぎに」と口走ると、エリザベスはメリーを、男たちを惑わせる「夫殺し」と断罪する。逆上したメリーはエリザベスを「私生児」(ヘンリー8世の2番目の妻となったアン・ブーリンはエリザベスを出産するものの、男子の王位継承者が欲しいヘンリー8世はアンの女官ジェーンと3度目の結婚をするため、アンに不貞の濡れ衣を着せ、国王との婚姻は無効と宣言されて処刑される(この逸話を基にしたオペラがドニゼッティアンナ・ボレーナ』))と罵ってしまう。メリーの処刑を躊躇うエリザベス(躊躇いは、オペラではほとんど感じられないほど小さい)だが、ロベルトがなおもメリーを擁護するので嫉妬にかきたてら、セシル卿が差し出す死刑執行書に署名する。牢獄のメリーは夫殺しを黙認した罪を懺悔するが、反逆には加わっていないと語る。メリーは威厳をもって断頭台へ向い、差し出した首に処刑人の斧が振り下げられようとするところで幕が降りる。

 シラー『マリア・ストゥアルト』では、第五幕第十場の末尾でレスター伯が断頭を聴覚的に認識する描写のあとに、第十一場~十四場、終結の場が続く。メリーを処刑した罪を避ける政治的老獪さ(死刑宣告書に署名はしたが、執行すると指示しない曖昧性と自己弁護の発信)が表現されているのだが、オペラではドラマチックな幕切れにそぐわないゆえカットされたのであろう。

 

ツヴァイクメリー・スチュアート』 第二十二章エリザベス対エリザベス 一五八六年八月――一五八七年二月>

 ツヴァイクメリー・スチュアート』はヒトラー政権成立後の1934年、イングランドへ一時亡命中のロンドンで、たまたまメリー・スチュアートの歴史的記録を読んだツヴァイクが興味を覚えて1935年に書き上げたものだ。

メリー・スチュアート』から、エリザベスの死刑宣告書署名に対する怖れ、逡巡を引用する。

《ついに目的はかなえられた。メリー・スチュアートはわな(・・)にかかった。彼女は「同意」(consent)を与え、自分を有罪にしてしまった。いまやエリザベスは、ほんとうになにも気にする必要はなくなった。彼女にかわって、裁判所が決定し行動するのである。二十五年間の戦いは終り、エリザベスは勝利をえた。ロンドンの通りで、どよめき熱狂しながら、自分たちの女王が殺害の危険からのがれたことや、新教の形成の勝利を祝っている民衆のように、彼女は、こおどりして喜んでもよかったであろう。しかし、すべて、ことが成就したときには、つねに、にが味がひそかにまざっているものである。うちかかることができるいまとなって、エリザベスの手はふるえる。無思慮な女を没落へ誘いこむことは、無抵抗にわな(・・)にかかった女を殺すよりも、いく千倍も容易だった。もしエリザベスがその厄介な囚人を強引に片づけたいと思ったならば、目立たない方法でそれをやる可能性が、とうに百回ほども与えられていた。すでに十五年前に、議会は、斬首の斧でもってメリー・スチュアートへの最後の警告とすべし、と要求したことがあったし、ジョン・ノックス(筆者註:スコットランド新教会の宗教的狂信牧師)は、その臨終の床からなおもエリザベスに、「もしあなたが根を絶たないならば、枝はふたたび芽をつけるでしょう。しかもそれは、想像しうる以上に早く起るでしょう」と切願している。だが、いつでも彼女は、「蒼鷹(あおたか)にねらわれ、助けを求めて逃げてきた鳥を、殺すことはできません」と返答してきた。だがいまは、めぐみかもしくは死か、そのどちらかを選ぶしかもはやないのである。彼女はその選択のまえに、つまり、いつもはわきへおしやられているが、やはり延期することはできない決定のまえに、追いつめられて立っている。エリザベスはその決定のことを思うと身がふるえる。彼女は、自分の判決がどんなにそら恐ろしい、そしてほとんど見わたすこともできないほどの厄介ごとを含んでいるのかを、知っているのである。今日のわれわれには、あの決定の重大性、革命性を、もはやほとんど感じとれない。それは、当時世界のあらゆる正当な位階制度にショックを与えた決定であった。というのも、神聖な女王を手斧の下に押しつけるということは、とりもなおさず、君主といえども裁かれうる、処刑されうる人間であり、けっして不可侵のものではないことを、これまで隷属してきたヨーロッパの民衆に示すことであって――従って、エリザベスの決意には、ひとりの人間のではなく、ひとつの理念の問題がかかっている。かつて王侯の首が断頭台の上に落ちたことがあるという、先例となる決定は、この世のすべての王に、いく百年にわたって警告として働きかけるにちがいない。スチュアートの孫のチャールズ一世の処刑(筆者註:ピューリタン革命による1649年の処刑)は、この例を引きあいに出すことなしには処刑されなかったし、ルイ十六世とマリー・アントワネットもまた、チャールズ一世の運命なしには処刑されなかったであろう。その将来を見とおす眼力と強い人間的な責任感とをそなえたエリザベスは、自分の決定のとり消しがたさをいくぶん予感する。彼女は、ためらい、尻ごみし、動揺し、ひきのばし、延期する。そしてふたたび、今度はまえより熱情的に、彼女のうちに理性の感情に対する抗争、エリザベス対エリザベスの闘争がはじまる。》

 

《ふしぎにも、そしてすべての予期に反して、この十年間の戦いの最後の日に、二人の役割は転倒してしまった。すなわち、メリーは、死刑の判決を受けて以来、自分に安心と自信とを感じているのである。死の書類を受けとったとき、彼女の心臓は、それに署名しなければならなかったエリザベスの手ほどにはふるえない。メリー・スチュアートの、自分が死ぬことについての不安は、エリザベスの、彼女を殺すことについての不安より少いのである。(中略)

 そしてフォーザリンゲーにおける有罪を宣告された女性の、この落ち着いた威厳にみちた平静さに対して、きわめて大きくコントラストをなす姿がある。それは、ロンドンにおけるエリザベスの不安、はなはだしい神経過敏であり、あらあらしい、怒りっぽい、とほうにくれた姿である。メリー・スチュアートは決然としており、エリザベスは、はじめて自分の決断と格闘する。彼女は、メリー・スチュアートを完全に自分の手中におさめたいまほど、その敵対者のために苦しんだことはなかった。エリザベスはこの数週間眠れなくなってしまい、いく日も不機嫌な沈黙を固執しているので、死刑判決に署名すべきか、それを執行させるべきかという、このたったひとつの、たえがたい想念に、彼女が心をわずらわされているということが、いつでも感じられる。(中略)

 理性の声に従うべきか、人間性の声に従うべきかという、エリザベス対エリザベスのこの内面の闘争は、三ヵ月、四ヵ月、そして五ヵ月と、ほとんど半年ものあいだ続く。それゆえに、このような神経のたえがたい過度の緊張にあっては、決断がある日突然爆発したようにくだされることは、しごく当然のことだといえる。》

《一五八七年二月一日水曜日、書記官長デーヴィソンは――ウォールシンガム(筆者註:警務長官)は、この日幸いにも、あるいは賢明にも病気になっている――グリニジの庭で、突然ハワード提督から、ただちに女王のもとにおもむいて、メリー・スチュアートの死刑判決に署名をしてもらうようにと要求される。デーヴィソンは、セシル自身の手で作成された書類を持ってきて、同時にそれを他の一連の書類とともに女王にさしだす。だが、奇妙なことに、大女優であるエリザベスは、突然、それに署名することに全然熱心でないかのようなふりをする。(中略)彼女は大急ぎで次から次へと署名してゆく。言うまでもなくそのなかにはメリー・スチュアートの死刑判決書もはいっている。察するところ彼女は、あたかも自分がなげやりな気持でやったために、なにも知らずにほかの書類に署名しているうちに、死刑の書類にも署名してしまったかのようにふるまうことを、はじめからもくろんでいたのである。(中略)善良なデーヴィソンはだんだん不愉快になってくる。彼がはっきりと感じるのは、女王は行為したくせに、それについてなんらの関係も持ちたがらないということである。(中略)エリザベスは、自分の道徳的威信を保つために、メリー・スチュアートの処刑を招来したのは、あたかも自分であるかのようなふうの外見を避けようとしているのだということである。女王は、アリバイを手に入れるために、実行された事実によって世界の眼のまえで「びっくり」させられたがっているのである。従ってこの喜劇に共演し、うわべは女王の意志に反するかのようなふうをして、ほんとうに女王の望んでおられることを遂行するのが、女王の臣下たるものの義務となるのである。》

 

<シラー『マリア・ストゥアルト』 第四幕第八場~十一場>

 その第四幕第八場~十一場が、前記のエリザベス(エリーザベット)とデーヴィソン(デヴィズン)との遣り取りに相当する。

(第八場)《エリーザベット (思い決しかねて悶えつつ)これ、そなた達、いま私の聞いているのが、果して、全国民、全世界の真の声であるかどうかを、私に告げてくれる者はいないだろうか。ああ、私が心から恐れているのは、もし私がいま多数の希望に従った暁に、今度は全く違った声が起ってくるのではなかろうかということです――その上、いま無理矢理に私を駆りたてて事を行わせようとしているその同じ声が、事の終ったのちには、かえって私を非難しやしないかと心配なのです。》

 

(第十一場)《エリーザベット ――署名せよとのことであった。だからそれをしたのです。一枚の紙だけで事が決定するわけでなく、署名が人を殺すものでもありません。

(中略)

デヴィズン この死刑の宣告書はいかが取計らえばよろしいのですか。 

エリーザベット ――その署名が物を言います。

デヴィズン では即刻、執行せよとの仰せでございまするか。

エリーザベット (ためらいつつ)そうはいいません、考えただけでも身震いがする。

デヴィズン これを私がお預かりしておればよろしいのですか。

エリーザベット (速やかに)危険を覚悟してね。その結果はそなたが、責任を持つのです。

デヴィズン 私が? 真平御免です!――女王様、どうぞ御心のあるところを仰しゃって下さいまし。

エリーザベット (じれったそうに)私は、この不吉な問題がもう人の記憶にのぼらなくなって、結局、永久に問題とする必要のなくなることを望んでいるのです。》

 

ツヴァイクメリー・スチュアート』 第二十三章「わが終りにわが始めあり」 一五八七年二月八日>

《En ma fin est mon commencement(わが終りにわが始めあり)、その当時はまだ完全には理解のいかないこの言葉(筆者註:メリーの死ののち、息子ジェームズ六世がエリザベス女王の後のイングランド王ジェームズ一世としてスチュアート朝を継ぎ、その後のハノーヴァー朝(ジェームズ一世の外孫ゾフィーの息子ジョージ一世から)、ウィンザー朝と現代に到るまでメリーの血筋が続く)を、メリー・スチュアートは数年前に、刺繡細工のなかに縫いこんだことがあった。いま彼女の予感は真実となる。彼女が悲劇的な死をとげてはじめて彼女の名声の始まりがあるのであり、死だけが後世の人たちの眼のまえで彼女の青春の負い目を消しさり、彼女のあやまちを浄めるであろう。》

 この後に続く、処刑へと向かうメリーの叙述は、戯曲やオペラにもよく表現されていて、そこには英雄的な態度がある。

 

ツヴァイクメリー・スチュアート』 第二十四章エピローグ 一五八七年――一六〇三年

 エリザベスの自己保身の部分を引用する。

《知らないふりを装っているひとに、そのひとの「愛する妹」(dear sister)の処刑を報告する憂うつな仕事は、セシルの肩にふりかかってくる。その仕事は彼には愉快な気持のするものではない。二十年来、これに似たような機会に、この定評ある助言者の頭上には、いろんな雷が落ちてきたものである。かんかんに怒ったほんとうの雷だとか、政略的に装われた雷だとかが。今度もまた、処刑完了を公式に知らせるために、女王の接見室へはいって行くまえに、冷静で、まじめなこの男は、内心特別の沈着さで武装する。だが、そこで突然はじまった場面は、前例のないものである。エリザベスは叫ぶ。なんですって? 私の知らないうちに、私のはっきりした命令もなく、あなたがたがあえてあえてメリー・スチュアートを処刑したというのですか? 考えられないことです! 合点のいかないことです! 外国の敵がイングランドの地に踏みこんでもこないかぎり、自分はけっしてこんな残酷な処置をもくろんだりはしなかったでしょうに。私の勢望、私の名誉は、この不誠実な、陰険な行いによって、全世界の眼前でどうしようもないほど汚されてしまいました。ああ、私のかわいそうな妹、あの人はひどい誤解、卑劣な、恥しらずな行為のために犠牲となったのです! エリザベスはすすりあげ、絶叫し、そして狂ったもののように床をふみ鳴らす。》

 

《おそらくエリザベス自身は、メリー・スチュアートの処刑はけっして命令によるものでもなく、自分がそれを欲したこともないと内外に声明し断言したとき、自分は自分自身を正しいと感じていたのであろうと思われる。なぜならば、その行為を欲しなかったなかばの意志は、ほんとうに彼女のうちにあったからで、そこでこの欲しなかったということの記憶が、いまや、彼女が陰険にも欲していた行為に自分自身関係していた事実を、しだいに押しのけてしまうのである。》

 

<シラー『マリア・ストゥアルト』 第五幕終結の場>

 最後の第五幕終結の場が、エリザベス(エリーザベット)とセシル(バーリ)の接見に相当する。

終結の場)《バーリ (女王の前に片膝を屈して)陛下のご万歳をお寿ぎ申上げます。そしてこの島国のあらゆる仇敵が、あのストゥアルト様の如く果てまするように!

    (シュルーズベリ、面を蔽い、デヴィズンは絶望の状を示して手を擦り合わせる)

エリーザベット 一寸ききますが、そなたは死刑の宣告文を私の手から、受取って行ったのですか。

バーリ いいえ、女王様、私はあれをデヴィズンから受取ました。

エリーザベット デヴィズンはそれを、私の名代としてそなたに渡したのですか。

バーリ いいえ! 別にそれは――

エリーザベット なのにそなたは私の意向を確めもせずに、慌てて刑の執行をしてしまったのですね。あの判決は正当であって、世の非難をうける道理はありません。けれども、私の慈悲の心を勝手に阻むというのは、そなたとしてあるまじき仕業です。――その罪によって、そなたは以後目通りを禁じます!

    (デヴィズンにむかい)

与えられた権利を無法にも踏み越えて、神聖な委託物を勝手に行使したそなたは、もっと厳しい法の裁きを待たねばなりません。誰かこの男を塔へ引立ててお出で! 私は死刑に当る罪として告発したらいいと思います。》

 

ツヴァイクメリー・スチュアート』 第二十四章エピローグ 一五八七年――一六〇三年>

《道徳と政治とは、別の道を歩むものである。それゆえに、ひとつの事柄をヒューマニズムの観点から評価するか、それとも政治的利益の観点から評価するかに応じて、つねにそれをまったく異った平面から判断していることになる。道徳的には、メリー・スチュアートの処刑は、どうしても許すことのできない行為であることにかわりない。あらゆる国際法に反して、平和状態のただなかにあって隣国の女王を逮捕し、ひそかにわな(・・)をかけて、卑劣なやりかたで彼女の手にそのわな(・・)をはめたのである。だが同様に、国家政治的観点から見れば、メリー・スチュアートを片づけることがイングランドにとって正当な処置であったことは否定できない。なぜならば政治においては――残念ながら!――処置をとるさいに決定的なものとして働くのは、正義ではなく、結果だからである。そしてメリー・スチュアートの処刑にあっては、結果が政治的意味において、あとから殺人を是認するのである。というのも、その結果がイングランドとその女王にもたらすものは、不安ではなく平安だからである。セシルとウォールシンガムとは、現実的な勢力関係を正しく見積っていたのである。》

 

 スコットランド王ジェームズ六世について。

メリー・スチュアートのむすこ(・・・)に対しては、もちろん、つらい忍耐の試練がなおあとあとのためにとっておかれた。つまり彼は夢みていたように一足飛びにはイングランドの王座には登れないし、彼が望んでいたようには、そんな早急に、彼の売り物である忍耐強さにたいする代金を支払ってはもらえないのである。名誉欲の強い彼にはきわめてつらい苦しみであるが、彼は待たなければならない。待ちに待たなければならない。十五年間、それは彼の母がエリザベスに監禁されていたのとほとんど同じくらいの長い期間であるが、彼はついに老女王の冷えた手から王笏が落ちるまで、エディンバラですることもなくぼんやりと待ちに待つのである。(中略)三十七年まえ、メルヴィル卿がエディンバラからロンドンへ、メリー・スチュアートがむすこ(・・・)を生んだことをエリザベスに知らせるために飛ばしたときとまったく同じ烈しさで、いま別の使者がエディンバラの彼女のむすこ(・・・)のところへ、エリザベスの死が彼に第二の王冠を授けるということを彼に知らせるために飛び帰える。というのは、スコットランドのジェームズ六世は、このときようやく同時にイングランド王、つまりジェームズ一世となったからである。メリー・スチュアートのむすこ(・・・)において二つの王冠は永遠にひとつのものとなり、いく世代にもわたる不幸な戦いは終った。歴史はしばしば暗い、曲りくねった道を歩むが、しかし、つねに最後には歴史の意味は実現されるものであり、結局はいつも必然なことがらがその権利を強行するのである。》

 

《ジェームズ一世は、その母の遺体を、それが除け者のように孤独に埋葬されていたピータバロの墓地から移して、盛大に松明の光をかかげて列代の王の納骨堂、ウェストミンスター寺院に納める。メリー・スチュアートの肖像が石に刻まれて安置され、エリザベスの肖像も石に刻まれて彼女の像の近くに置かれる。いまや昔の不和は永遠におさまったのであり、もはや一方が他方に対して権利や席次を争うこともない。そして生涯互いに敵をもって避けあい、互いに相まみえることをしなかった二人ではあるが、いまようやく姉妹のように隣り合って並んで、同じ不死の聖なる眠りのうちにやすらっている。(完)》

 

カントーロヴィッチ『王の二つの身体』>

 エリザベス女王のメリー処刑への怖れ、逡巡と自己保身は、カントーロヴィチ『王の二つの身体』をもとに考察できる。ここでは、「王の二つの身体」という概念を、カントーロヴィチの著書によって解説した大澤真幸『<世界史>の哲学 近世篇』でみてゆく。

 

《西洋の王権は、中世から近世にかけて、独特の政治神学を形成してきた。王は、二つの身体をもつとする教説である。二つの身体とは、自然的身体と政治的身体だ。自然的身体とは、普通の人間の肉体のことであり、苦しんだり、病んだり、死んだりすることもある。つまり、これは、経験の担い手となる身体だ。政治的身体は、不死の持続する身体である。

 今、国王二体論を西洋の王権が作り上げたと述べたが、これを、十分に完成させ、永続的で一般的な法思想に浸透させたのは、イングランドだけである。しかし、イングランドの水準の完成度にまでは至らなかったとしても、他のヨーロッパの諸王権も、同じ方向を目指していた。つまり、首尾一貫性や体系性の程度は、まちまちだが、ヨーロッパの多くの王権で、近世の初期までには、王の内に二つの身体が宿っているとする見解をもつに至ったのである。

 この教説に関して最も成熟した考察を展開したイングランドの法学者にとって、最も重要な先駆者にあたるのが、十四世紀のイタリアの法学者バルドゥスである。バルドゥスは、王の中に個人的人格(≒自然的身体)と威厳Dignity(≒政治的身体)という二つのものが共存するという事実を指摘し、そして、「威厳」は、ある種の知性上の存在で、物体的な様態ではなく、神秘的な仕方で永遠に存続する何かである、と論じている。加えて、彼は、次のように書いている。

  「王の人格〔自然的身体〕は、知性によって捉えられるもう一つ別の公的な人格〔威厳、政治的身体〕の機関であり道具である。」

  「行為を主として惹き起こすのは、叡智的かつ公的な人格(すなわち威厳(・・))である。なぜならば、道具の力よりも、行為ないし主体の力へと注意は向けられるからである。」》

 

《国王二体論が、政治的・法的な現場でどのように働くのか。まず具体例を見ておこう。カントーロヴィチはイングランド女王エリザベス一世(在位一五五八―一六〇三年)の統治下に集大成されたエドマンド・プラウドン判例集から次のようなケースを引用している。それは、ランカスター家の王たち(貴族たち)が私有財産として所有していたランカスター公領をめぐる訴訟である。訴訟は、エリザベス女王治下の四年目に起こされた。裁判では、先王のエドワード六世とランカスター家との間に結ばれた契約の有効性が争われた。エドワード六世は、ランカスター公領内の土地を、ランカスター家に貸していた。難しい問題は、賃貸していた期間、エドワード六世が未成年だったことにある。ランカスター家側は、賃貸契約は法的に無効だ、と主張した。つまり、領地は、王から借りているのではなく、自分たちのものなのだ、と。

王座(クラウン)の法律家たちは、集まって議論したが、全員一致で、ランカスター家の言い分を斥けた。その論拠が重要である。王がまさに王としての資格で遂行したことは、王が未成年であるという理由によっては無効にはならない、なぜならば、王は自らのうちに自然的身体と政治的身体をもつからだ……そのように説明される。幼少だったのは、エドワード六世の自然的身体である。しかし、賃貸契約を結んでいるのは、彼の政治的身体の方だ。政治的身体に関しては、幼少であるとか、逆に老齢であるとか、といったことは意味をなさない。

 このケースでもよく示されているように、自然的身体と政治的身体は対等ではない。政治的身体の方が優越した身体である。通常は、二つの身体は統合されている。たとえば、エドワード六世が統治しているとき、彼自身の自然的身体とは独立したところに政治的身体があるわけではない。しかし、一方の身体が他方の身体から分離することもある。どんなときか。王が死んだときである。だが、このときも政治的身体の方は死ぬことはない。「王の死Death of the King」という語は、本来、意味をなさない。それゆえ、王の死に対しては、そしてそのときにのみ、”Demise”が使われる。(中略)”Demise”の文字通りの意味は、「分離して置くこと」「引き離して別のところに移すこと」となる。王の死に際して、政治的身体が一つの自然的身体から離れ、別の自然的身体へと運ばれるからだ。》

 

カントーロヴィッチの見るところ、シェイクスピアの戯曲は、国王二体論を正確に踏まえている。とりわけ、『リチャード二世』は、国王二体論の解説、「王の二つの身体」の悲劇と言ってもよいほどの作品になっている。一五九五年頃に書かれたと推定されているこの戯曲は、一応、現実のリチャード二世(プランタジネット朝イングランド王、在位一三七七―九九年)の生涯をモデルにしてはいる。しかし、われわれの目的にとっては、リチャード二世が実際にどうであったということにこだわらない方がよい。シェイクスピアがこれをどのように作品化したか、ということだけが、ここでは重要である。

『リチャード二世』の主題は、リチャード二世からヘンリー四世(ボリングブルック)への王の交代である。リチャード二世は愚かで、卑しい人物として描かれている。彼は、理不尽な理由で、従兄弟のヘンリー・ボリングブルックをイングランドから追放した。その後、リチャード二世は、ボリングブルックの財産を不当に没収したり、貴族から言いがかりのような事由で罰金を徴収したり、民衆に重税を課したりしたため、完全に人望を失ってしまう。そのため、ボリングブルックが財産の返還を求めてイングランドに帰還したときには、ほとんどの貴族がボリングブルックの側についた。結局、イングランドはボリングブルックに制覇され、リチャード二世は、王位をボリングブルックに譲渡せざるをえなくなる。ウェストミンスター寺院で、王冠がリチャード二世からボリングブルックへ譲られ、ボリングブルックがヘンリー四世として即位した。リチャード二世は、ポンフレット城に幽閉され、最後に、ヘンリー四世の部下の騎士エクストンに殺される。われわれが注目すべきことは、次第に劣勢になっていく中でリチャード二世に生ずる変化、つまり王位を奪われつつある王の身体が被る変容である。

 ボリングブルックの反逆の報せを受けたときには、リチャード二世は、未だ強気である。彼は、こう語る。

  荒海の水を傾けつくしても、神の塗りたもうた聖油を/王たるこの身から洗い落とすことはできぬ、/まして世のつねの人間どもの吐くことばごときで/神の選びたもうたその代理人を廃位させることはできぬ。/わが黄金の王冠にこしゃくにも刃向かわんとして/ボリングブルック〔ヘンリー四世〕がかき集めた兵士一人にたいし、/神は選びたもうたリチャード二世のために天使お一人を/お送りくださるだろう。天使たちが戦ってくださるのだ、/弱い人間は敗れるほかない、天はつねに正義の味方なのだ。

この台詞が表現しているのは、リチャード二世自身による自分の身体の自己崇高化である。ここで、彼は、自分自身の政治的身体を指し示しているのである。たとえば「神の選びたもうたその代理人」は、政治的身体の言い換えである。彼は、自分を助けるための天使の軍隊が派遣されるとまで確信している。

しかし、戦況が苦しいことが次第に明らかになってくる。するとリチャード二世は、家臣たちにたとえば次のように語るようになる。そこで表現されているのは、痛々しい自己憐憫である。

 さあ、みんなこの大地にすわってくれ、そして/王たちの死の悲しい物語をしようではないか、/退位させられた王、戦争で虐殺された王、/自分が退位させたものの亡霊にとりつかれた王、/妻に毒殺された王、眠っていて暗殺された王の物語を。/みんな殺されたのだ、なにしろ、死すべき人間にすぎぬ/王のこめかみをとりまいているうつろな王冠のなかでは、/死神という道化師めが支配権を握っており、/王の威光をばかにし、王の栄華をあざ笑っておるのだ。

 ここでまず、リチャード二世は、王の自然的身体について語っている。王もまた「死すべき人間」である、と。さらに次のように言うことで、リチャード二世は、自分自身をその自然的身体の中に加えている。

  おまえたちはこれまでおれを見まちがえていたらしい、/おれもおまえたち同様、パンを食って生き、飢えを感じ、/悲しみを味わい、友を求めておる。そのような欲望の/臣下であるおれが、どうして王などと言えようか?

 このように、『リチャード二世』は、王の身体の急激な変質について語っているのである。政治的身体が優位にあった状態から、自然的身体へと一元化している状態への、ほとんど瞬時と言ってよいような、短時間の変質である。

 王冠が、リチャード二世からボリングブルックへと移される場面では、リチャード二世は、独特の論法で自分自身を告発する。

  だが、いくら塩からい水が目を曇らせても、/ここに謀反人どもの群れがいることだけは見えておる。/いや、目を転じて自分を見れば、この私自身、/ほかのものと同じく謀反人だということがわかる、/なにしろ私は、栄華を極めて王のからだから/……

 ここで、自然的身体としての王は、政治的身体としての王(栄華を極めた王のからだ)にとって謀反人だという認識が示されている。カントーロヴィチは、ここに、一六四九年(筆者註:ピューリタン革命でチャールズ一世(メリー・スチュアートの孫)が処刑された)の予告を、つまり王Kingに王Kingを対立させる(筆者註:ピューリタンのスローガン的な叫びは「王Kingを護るために王Kingと闘う」)告発の予告を見ている。もっとも、この段階では、別の人物(ボリングブルック)があらためて王Kingとして指定されることになるのであって、ピューリタン革命の逆説(筆者註:結局、王政そのものを否定し、共和制に移行した)へと至る徹底性はまだ見られない。

 政治的身体を喪失していくリチャード二世の悲劇と狂気は、このすぐ後、「威厳を失った王の顔を見たい」として、鏡を要求する場面でピークに達する。鏡を求めるときには、リチャード二世は、その言葉とは裏腹に、まだ一抹の期待をもっている、と解釈すべきだろう。鏡を覗き込んだとき、そこに映っている自分の顔に、なお威厳の痕跡が認められるのではないか、という期待を、である。だが、実際には、鏡の中の顔に、威厳の欠片も認められない。だから、リチャード二世は憤慨して、鏡を叩き割らざるをえなくなるのだ。》

 

《もちろん、王が殺されることはよくある。リチャード二世も殺された。しかし、たとえ殺害の目標がダメな王だとしても、殺害者の側には、一般に非常な躊躇がある。ハムレットは、叔父であり王でもあるクローディアスを殺すにあたって、どうしてあれほど迷い、ためらったのか? ハムレットは、その気になれば、いつでも簡単にクローディアスを殺せたはずなのに、なかなか踏み切ることができない。どうしてなのか?

 それは、政治的身体が自然的身体との間にもつ両義的な関係のゆえであろう。政治的身体は、まさに身体であることによって、自然的身体のうちにある。しかし、同時に、自然的身体に還元できない、それ以上のものでもある。とすれば、「それ」に正確に命中するように、一撃を加えることなど、できるのだろうか。王殺しが非常に困難で、必要な場合でも人がなかなかそれに踏み切れないのは、このような不安のためである。》

 シェイクスピアマクベス』でダンカン王を殺して、スコットランド王になったマクベスの不安にも「王の二つの身体」の影がある。

 

《『リチャード二世』のボリングブロックは、ハムレット以上に憶病である。彼が、ヘンリー四世として真の王になるためには、幽閉した先王のリチャード二世を速やかに殺さなくてはならない。しかし、彼にはそれができない。この逡巡を乗り越えるために、ボリングブロックは、最後に策を弄する。それが、この戯曲の整合性を壊しているのではないか、としばしば批判されてきた結末につながる。ボリングブロックは、臣下の一人、騎士のエクストンに、謎をかけるような仕方で、つまり間接的な言い回しで、リチャード二世の殺害を命令する。ボリングブルックの真意を読み取ったエクストンは、当然、リチャード二世を殺した。ボリングブルックはエクストンを賞賛しただろうか。察しよく、最もめんどうな仕事をしたエクストンにボリングブルックは報いたか。違う。まったく逆である。ボリングブルックは、エクストンを、命令なしに勝手にリチャード二世を殺害したとして、つまり反逆者として処罰したのだ。(中略)

 だが、ボリングブルックにとって、リチャード二世は、一方では、殺したい、殺さなくてはならない他者だが、他方では、どうしても殺すことができない他者、攻撃しようにも肝心な部分をどうしても逸してしまう他者である。この二律背反に近い極端な両義性だけが、可能な関係だったのである。なぜそうなのかと言えば、それード二世暗殺は、この両義性を否定するがゆえに、ボリングブルックにとっては裏切りにあたるのだ。エクストンを呪った後、ボリングブルックが突然、聖地に向かう十字軍に参加すると宣言して、芝居は終わる。エクストンの「裏切り」がもたらした「罪」を贖うためには、新王は聖地――つまりはキリストが殺され復活したエルサレム――に行かなくてはならないからだ。》

 このあたりは、シラー『マリア・スチュアルト』の第四幕第十一場および第五幕第十四場、終結の場や、ツヴァイクメリー・スチュアート』の「第二十二章エリザベス対エリザベス」「第二十四章エピローグ」のエリザベスの挙動そのままではないか。

 

 カントーロヴィチは次のように書いている。

《『リチャード二世』は、常に政治劇と考えられてきた。廃位の場面は、一五九五年の初演以降、何回も上演されていたにもかかわらず、エリザベス女王が死去するまで活字にされることがなく、あるいは活字にすることが許可されなかった。史劇は一般的にイングランドの人々の間で人気があり、特にアマルダ〔スペイン無敵艦隊〕の壊滅に引き続く時代においてそうであった。しかし、『リチャード二世』に対する人々の関心は、尋常なものではなかった。これは他の理由もあるが、特にエリザベスとエセックス伯(筆者註:二代エセックス伯(ロバート・デヴロー)は、母レティスと初代エセックス伯(ウォルター・デヴロー)との息子だが、母の再婚相手(継父)はドニゼッティマリア・ストゥアルダ』に登場するレスター伯(ロベルト・ダドリー)だった。彼の後援で宮廷デビュー、ハンサムな容貌でエリザベス女王の寵愛を受けるが、アイルランド反乱鎮圧失敗後に反目し、反逆罪で斬首(ドニゼッティ「女王三部作」の掉尾を飾る『ロベルト・デヴェリュー』となる)との争いが、シェイクスピアの時代の人々にとって、リチャードとボリングブルックの争いのように映ったからである。一六〇一年、――結局は不首尾に終わった――女王に対する反乱の前日に、エセックス伯が、自分の支持者とロンドン市民の前で『リチャード二世』をグローブ座で特別に上演することを命じた事実は、よく知られている。エセックス伯に対する裁判の過程で、この上演の事実が王座の裁判官――このなかには、当時の二人の偉大な法律家、クックとベイコンがいた――によって少しばかり立ち入って議論されたが、彼らは、この劇の上演が現状への暗示を意図したものであることに気づかないはずはなかった。また、エリザベスがこの悲劇に対し、きわめて強い嫌悪の念を抱いていたことも、同様によく知られている。エセックス伯に対する刑執行の当日、彼女は、「この悲劇が街なかや建物のなかで四十回も上演されてきた」と苦情を述べ、自らを劇の主人公と同一視するあまり、「私がリチャード二世なのだ。おわかりにならぬか」と叫んだほどである。

『リチャード二世』は政治劇であり続けた。それは、一六八〇年代の、チャールズ二世(筆者註:ピューリタン革命で処刑されたチャールズ一世の子で、王政復古によって一六六〇年チャールズ二世として即位)の治下において上演禁止となった。その理由は、この劇がおそらくあまりにも露骨にイングランド革命史のごく最近の出来事を、すなわち、当時聖公会祈祷書で記念すべき日とされた「祝福された国王チャールズ一世殉教の日」を例証するものと考えられていたからである。王政復古は、このような事実や、これに類似の他の事実を記憶から抹殺しようとし、したがって、キリストの荷姿たる殉教王の概念と同時に、王の二つの身体の暴力的な分離という、きわめて不愉快な概念をもテーマにしたこの劇を好まなかったのである。》

 

 エリザベスによるメリー・スチュアート処刑(1587年)もまた、シェイクスピア『リチャード二世』(1595年初演)が映し出した「王の二つの身体」の反復された映像であり、後にシラー『マリア・ストゥアルト』/ドニゼッティマリア・ストゥアルダ』/ツヴァイクメリー・スチュアート』へと「王の二つの身体」のテーマが、合わせ鏡のように多重映像化されているのは明らかである。

                              (了)

      *****引用または参考文献*****

ツヴァイクメリー・スチュアート』(『ツヴァイク全集18』)古見日嘉訳(みすず書房

*シラー『マリア・ストゥアルト』相良守峯訳(岩波文庫

ドニゼッティマリア・ストゥアルダ』ディドナート、デン・ヒーヴァー、ポレンザーニ他、ベニーニ指揮、マクヴィカー演出(メトロポリタン歌劇場、2013年)

https://www.operaonvideo.com/maria-stuarda-met-2013-didonato-van-den-heever-polenzani/

ドニゼッティマリア・ストゥアルダ』デヴィ―ア、アントナッチ、メーリ他、フォグリアーニ指揮、ピッツィ演出(ミラノ・スカラ座、2008年)

https://www.operaonvideo.com/maria-stuarda-milan-2008-devia-antonacci-meli/

*E・H・カントーロヴィッチ『王の二つの身体 中世政治神学研究』小林公訳(ちくま学芸文庫

大澤真幸『<世界史>の哲学 近世篇』(講談社

シェイクスピア『リチャード二世』小田島雄志訳(白水uブックス

*加藤浩子『オペラでわかるヨーロッパ史』(平凡社新書

文学批評) 志賀直哉『暗夜行路』論(引用ノート)――非「多孔的な自己」/両義性/偶数性/ネガティヴ・ケイパビリティ

 

 

小林秀雄志賀直哉論』(昭和13年(1937))>

 志賀直哉は「続創作余談」(新潮文庫『暗夜行路』(昭和12年(1936年))の「あとがき」)の最後に、《『暗夜行路』を恋愛小説だと云った小林秀雄河上徹太郎両氏の批評がある。私には思いがけなかったが、そういう見方も出来るという事はこの小説の幅であるから、その意味では嬉しく思った。所謂恋愛小説というものには興味がなく、恋愛小説を書きたいとは少しも思わなかったが、『暗夜行路』が若し恋愛小説になっているとすれば、それも面白い事だと思った》と書き残している。該当する小林秀雄志賀直哉論』を一読すれば、《威勢がよくて歯切れがよくて、気持ちがいいけれど、しかし何を言っているのかがはっきりしない(丸谷才一『文学のレッスン』)》うえに、文学批評というよりもモンテスキューばりの人生論、処世訓めいているが、主人公の「極めて排他的な幸福の探求」という倫理の指摘は、小林秀雄特有のアイロニーだった感は否めない。

 

《「暗夜行路」は傑(すぐ)れた恋愛小説である。通読して幾年ぶりでほんとうの恋愛小説に出会ったろうと思ったが、それほど現代では恋愛小説と呼ぶ事の出来るものが払底(ふってい)している。だが恋愛という大きな事実が払底しているわけではないのだから、小説家は恋愛に触れないで小説を書く事は依然として困難なのである。従って恋愛小説めいた恋愛小説は無論、沢山あるわけだ。だがそういう作家の唯一の口実、現代人は恋愛めいた恋愛しかしないという口実は、あまり当てにならない。寧(むし)ろ恋愛めいた恋愛しかしない少数の人は恋愛小説の影響下にある。

恋愛という烈(はげ)しい粗野な情熱は、万人に平等だ。僕等は機会あるごとに野蛮人に立還っている。現代小説家のペンは、もはや其処まで下って来る事を止めて了った。何処にも根を下す事が出来ない様な恋愛的心理の葛藤は、非常に多く描かれているが、恋愛の本質的な幸福や不幸は、新聞の三面記事が、これを引受けている有様だ。もともと恋愛は文学的なものではない。人々が考える様に文学に翻訳し易いものではない。古来、恋愛文学の氾濫は、それだけに駄作も亦非常な数に上る事を語っているとも言える。(中略)

「暗夜行路」には、恋愛の戯画に類する様なものの片鱗(へんりん)さえない。登場する男女の間に、心理上の駆引なぞ一切見られない。すべては性慾という根本的なものに根ざし、二人が、言わば行為によるその理想化に協力する有様が、熱烈な筆致で描き出されている。恋愛とは、何を置いても行為であり、意志である。それは単に在るものでなく、寧ろ人間が発見し、発明し、保持するものだ。だから、恋愛小説の傑作の美しさ、真実さは、例外なく男女が自分等の幸福を実現しようとする誓言に基くのである。そこから「暗夜行路」の強い倫理的色彩が発する。志賀氏のモラリストとしての素地は、この作品で初めてその全貌(ぜんぼう)を現した観がある。(中略)

 世の中には、外部の物が傷つけ様もない内の幸福があり、何物も救い様のない深い不幸がある事を僕等は知っているし、そういう幸不幸を識るのには、又別の智慧(ちえ)が要る事も知っている。別の智慧と言っても、少しも格別な智慧ではない。生活の何たるかを生活によって識った者には、誰にでも備わった確かな智慧だ。「暗夜行路」は、この確かな智慧だけで書かれている。だから、この主人公が、極めて排他的な幸福の探求から始めて、幸福とは或る普遍的な力だという自覚に至るまでの筋道を理解するのにどのような倫理学も必要としない。それほどこの筋道はごく自然な筋道であり、この主人公の掴んだものは、恐らく深い叡智(えいち)だが、その根は一般生活人の智慧のうちにある。》

 

中村光夫志賀直哉論』(昭和28年(1953))>

 中村光夫は、極端に男性を中心にしか感受性の働かない作家が男女間の倫理の問題を扱うのは、それ自身無意味なことで、相手の人間のエゴをみとめない志賀直哉には、この一番大切な前提が欠けている、と論理明快に批判的である。その「主題」として倫理的言辞を弄し、謙作がなにか求道者めいた印象を与えていても、どんな倫理的思想を求め、行動しているかというと、そこには何もないと手厳しい。作者はいつも謙作と重なりあって、彼の感受性を通じて、彼の立場から対象を描くだけである。この小説で内面の働きを持つのは、彼だけであり、他の人々は彼から外観を観察されるだけで、ここには小説の本来である人間対人間の葛藤も、それにもとづく主人公の内的な発展もなく、主人公の「気分」しかない、と西洋(とりわけフランス)文学に通じた中村らしく、世界文学的には常識的な指摘で、当時まだ根強かった「私小説」作家としての志賀直哉の高評価を墜落させた。

 最近の「ケアの倫理」からすると、『暗夜行路』の主人公時任謙作は「排他的で世俗的な人間主義」そのものである。他者との間に回路が通じているのが共鳴しやすい「多孔的な自己」であるとするなら、他者から閉ざされた近代的な自己、「緩衝材に覆われた自己」、つまりは非「多孔的な自己」の代表格であって、直子はその所有物、犠牲者といってもよい。

 

《では実際主人公に、父の外遊中に母と祖母との間に生れた子といふ、異常な出生をあたへることで、何を意図したかといふと、彼はそれについて次のやうに云ひます。

「主題は女の一寸したさういふ過失が、――自身もその為に苦しむかも知れないが、それ以上に案外他人をも苦しめる場合があるといふ事を採りあげて書いた。仏蘭西とかウヰーンの小説が人妻のさういふ事を余りに気楽に扱つてゐる。読者は自身を姦通の対手の男の立場に置いて鑑賞するから、さういふ不道徳も中々魅力があるわけだ。『クロイツェル・ソナタ』のやうな小説もあるが、シュニッツレルなどをさういふ意味で若し面白いと感ずるなら、恥づべき事であり、少し馬鹿げてゐると思った。主人公は母のその事に祟られ、苦しみ、漸くそれから解脱したと思つたら、今度は妻のその事に又祟られる――それを書いた。」(続創作余談)

 これはいろいろな意味で興味ある言葉です。》

 

《いまひいた「続創作余談」も作者のもつともらしい顔付にだまされずによく読んでみれば、いはば小説の筋書にすぎないので、倫理思想の外観はしてゐても内容は思想として意味をなしてゐません。

 女の過失がどれほど男を苦しめるかといふ問題は、そこからひとつの倫理をひきださうとすれば、同様な男の過失が女をどんな風に苦しめるかといふ設問に必ずぶつかる筈です。むろん同じやうに苦しむと考えなくとも、まるで違つた苦しみ方をするとも考へられるし、あるひはまつたく苦しまないとしても、もしそれが事実から得られた結論ならかまひませんが、ともかくこの設問なしに、今云つた事実から、ひとつの倫理をつくりあげることはできない筈です。

 なぜならどんな倫理も人間対人間の規約である以上は双務的であり、ことに友人家族恋人などの間ではそれがはつきりしてゐるからです。(中略)

 正常な考への道筋から云へば、「女の過失のために男が苦しむ」の「反対の場合」は、「男の過失のために女が苦しむ」である筈です。ところが志賀直哉の場合は、まったく自然に(・・・)この命題が彼の心に浮んで来ないのです。(中略)

 かういふ極端に男性を中心にしか感受性の働かない作家が男女間の倫理の問題を扱ふのは、それ自身無意味なことです。彼がエゴイストだからなどといつても事態は同じことです。なぜならエゴイストにとつて倫理的思索の第一歩は相手の人間のエゴをみとめることにあるのですが、志賀直哉には――そして時任謙作にも――男女間の問題を生活に即して考へる(・・・)限り、この一番大切な前提が欠けてゐるのです。

「暗夜行路」は、作者がその「主題」として倫理的言辞を弄してゐるにもかかはらず、また一般には謙作がなにか求道者めいた印象をあたへてゐるにもかかはらず、では彼がどんな倫理的思想を求め、あるいはそれによつて行動してゐるかといふと、そこにはまつたく何もないのです。前篇の第一部第九章にある地球と人類の将来をめぐる謙作の考察、また同じく第二部第十一章から第十三章にかけて栄花の半生に対して述べられた同情的意見など、謙作の生活の実際から浮きあがつたたんなる感想の域を出ないものであることは、やがて謙作が気附く通りです。》

 

《人間に対する独自な見解と、既存の芸術への批判がなければ、作家の独創とは空言にすぎない筈ですし、それゆゑ彼の個性に根ざす倫理と美学とは、広大な精神の世界における彼の位置を示す経度と緯度の役目を果します。

 ところが、ここでも彼の「意図」は思想として吟味するにたへない内容しか持ちません。

仏蘭西とかウヰーンの小説が人妻のさういふ事を余りに気楽に扱つてゐる。読者は自身を姦通の対手の男の立場に置いて鑑賞する」といふ言葉も、「仏蘭西やウヰーンの小説」の実物と照らしあはせて見ると、ほとんど滑稽な誤解です。シュニッツラーはともかくとして、フランスの姦通を扱つた代表的な小説である「ボヴァリー夫人」や「赤と黒」について考へれば、それがまつたく的を外れてゐることは明らかです。

 エンマやレナール夫人が「気楽」に「さういふ事をしてゐる」とはよほど神経が異常な読者でなければ思へぬ筈です。むしろ逆に「さういふ事」を真面目にとりすぎ、それに人生的な意味をあたへすぎたところにこれらの小説の女主人公たちの欠点があるとも云へるのです。彼女達にとつて結婚後の恋愛は、「過失」どころではなく、その人生の唯一の歓びの源であり、結果として生命を犠牲にしても悔いないことなのです。

 エンマは現代人の眼で見れば、馬鹿で感傷的で、好色な女かも知れませんが、彼女が「気楽」に生きていたら、あのやうな「悲しい醜悪」な事件の結末は来なかつた筈です。

 次に、「読者は自身を姦通の対手の男の立場に置いて鑑賞する。」というのも、姦通小説の読みとしては、特殊な例外です。なぜなら一般に姦通を主題とした小説は、ことにフランスでは、女性が主人公の立場に立つのが通例であり、したがつてもし「さういふ不道徳に魅力」を感ずるやうな弊害があるとすれば、それは主として女性の読者におこることなのです。小説が女性の寝室から起り、女性を対象として発達したのは、ヨーロッパの近代小説全体の歴史として云へることです。

 したがつて作家が「姦通の対手の男」を主人公にしたり、また彼を直接に内面から描くやうな場合はむしろ例外なのですが、さういふ時にでも、ジュリアン・ソレルやウロンスキーの心理描写を読み、彼等の真似を「気楽」にしたいと思ふ読者はゐない筈です。(中略)

 彼がヨーロッパ小説からうけた影響が、多くの大正期の作家と同様に(あるひは彼等のうちでもとくに)対象の真の性格とはまつたく無縁な得手勝手といふ意味で自己中心のものであり、その「独創」も既成の作品あるひは伝統との断絶といふ意味での消極的な性格に限定されてゐることが、「暗夜行路」の制作にあたつてもはつきり示されてゐるのは興味のあることで、この芸術的孤立はさきにふれた内容の倫理的空白と相呼応するものです。すなはち「暗夜行路」といふ題名は、美学の上から見ても象徴的なのです。(中略)

 志賀直哉の思想がつねに彼の感情と合体し、その肉体を越えぬ「気分」が家族の間でしか倫理の役割を果さなかつたと同様に、彼に「暗夜行路」の「主題」をあたへたのは、「仏蘭西やウヰーン」から輸入された小説よりも、彼が生活を通じて接触し、皮膚に感じられた文壇の空気であると考へる方が自然です。》

 

《「主人公謙作は大体作者自身。自分がさういふ場合にはさう行動するだろう、或ひはさう行動したいと思ふだらう、或ひは実際さう行動した、といふやうな事の集成と云つていい。」と作者は「続創作余談」に云ひますが、このやうな自己理想化を作者が主人公との臍の緒のつながりを断ち切らない形で行ふとき、一方においては自分の社会的地位を主人公の生活の背景としてそのまま読者におしつけるとともに、他方もし本来の私小説ならば生活それ自体によって限度を與へられる筈の自己美化が、手放しで行はれる結果を生むのは当然です。(中略)

作者はいつも謙作と重なりあつて、彼の感受性を通じて、彼の立場から対象を描くだけです。この小説で内面の働きを持つのは、彼だけであつて、他の人々は彼から外観を観察されるだけです。

 したがってここには小説の本来である人間対人間の葛藤も、それにもとづく主人公の内的な発展もなく、ただ対象のうつりかわりと同じリズムをくりかへす主人公の心の呼吸の連続しかありません。》

 

《「もういい。実際お前の云ふ事は或る程度には本統だらう。然し俺から云ふと総ては純粋に俺一人の問題なのだ。今、お前がいつたやうに寛大な俺の考へと、寛大でない俺の感情とが、ピッタリ一つになつて呉れさへすれば、何もかも問題はないんだ。イゴイスティックな考へ方だよ。同時に功利的な考へ方かも知れない。さういふ性質だから仕方がない。お前といふものを認めてゐない事になるが、認めたつて認めなくたつて、俺自身結局、其所へ落ちつくより仕方がないんだ。何時だつて俺はさうなのだから……」

 後篇の終り近く、伯耆の大山に登る前に謙作は直子にかう云ひます。おそらくこれが全篇を通じて謙作の唯一の素直な告白であり、彼が結婚によつて彼なりに成熟したことを示す言葉と思はれます。

「総ては純粋に俺一人の問題」であり、「お前といふものを認めてゐない事になるが、……仕方がない」のは、何も直子の場合に限つたことでなく、誰に対しても謙作がとつて来た態度です。そしてかうした態度に自分で気附くのに、直子の存在を要したとすれば、直子は微かながら、彼にとつての唯一の外界とも云へます。この長篇の末尾で謙作の病床を見舞ふ直子の心理がただ一箇所だけ内面から描写され、この二三枚がいはば謙作だけを通して描かれた千枚ちかい長篇の構成上、唯一の例外をなしてゐるのは、この意味で興味あることです。

「そして、直子は、『助かるにしろ、助からぬにしろ、兎に角、自分は此人を離れず、何所までも此人に隋いて行くのだ』といふやうな事を切りに思いつづけた。」といふ章句で、この長篇が結ばれてゐるのは、ほとんど象徴的な重味を感じさせます。

 直子はここに登場するすべての人物のなかで、独立の内面を興へられた唯一の存在であり、彼女がそれを興へられることで、この長篇は終るのです。》

 

《思想としては幼稚な妄想しか抱けず、精神に「発展」はなく、ただ環境の変化にもとづく「移転」があるだけのこの青年も、かうした内面の空白と表裏する肉欲の衝動の生々しさにかけては、我国の近代小説に比類のない存在です。(中略)

 徳川時代以来、遊里文学の長い伝統を持つ我国の小説に、これほど野暮で健康な性欲が、正面から堂々と、しかも自然現象を扱ふやうに冷静な手附きで表現されたことはかつてなかったので、「暗夜行路」にくらべれば、「蒲団」の主人公の恋ははるかに精神的なのです。「志賀直哉氏の眼は、自然主義作家の眼より尚一層センチメンタルな分子を含んでゐない」といつた広津和郎の言葉は、性欲を描く態度にもあてはまります。彼はそれを「少しも逃げる態度でなしに、同時に力んだ気持もなしに」扱ひます。ここで僕等は彼がその下端に属してゐた特殊な階級の性的羞恥心の欠除を思ひあはせるべきかも知れません。

 谷崎潤一郎志賀直哉の文体にまづ粘り強い腰と強靭な肉体を感ずると云つてゐるのは、彼の態度の自然さにくらべれば、自分の性欲小説がいかに観念的誇張にみたされてゐるかを知つての言葉と思はれます。

 たしかバーナード・ショウが結婚前の娘にはすべて「チャタレー夫人の恋人」を読ませるべきだと云つたそうですが、それと同じ意味で、「暗夜行路」も未婚の娘たちに「男性」とは何かを教へる最上の教科書です。男といふものが、どんなに真面目ではにかみ屋で精神的には潔癖な青年でも、彼等だけの世界では何をしてゐるか、あるひは少なくとも何をなし得るか、そしてどういふ気持でそれをするかを、この小説ほどはつきりと真正面から教へる書物はありません。》

 

《「暗夜行路」はひとりの男が動物から人間になる経過を「主題」としてゐるとも考えられます。人間になることはむづかしく、ほとんど不可能なのです。何故なら倫理のない社会で人間は動物として生きるほかはなく、西洋から輸入された明治の文明は、まづ男性の倫理を壊してしまつたからです。》

 

柄谷行人私小説の両義性――志賀直哉と嘉村磯多』(昭和47年(1972))>

 柄谷行人は、志賀直哉の世界が「他者」の欠落ばかりでなく、「私」もまた欠落していて、ただ「気分」がすべてを支配していると指摘する。「不快」にはじまり「調和的気分」に終るという自己完結性は、彼がいかなる意味でもこの「世界」から外に出なかった結果である、と指摘する。志賀の小説の狭さは、彼が身辺事実を素材にしたからではなく、意識の狭さであって、自己にとって疎遠(そえん)な観念や現実が入る余地がなく、彼の「世界」はあまりにも明確であり閉じられていて、曖昧(あいまい)なものが入るすきまがなかったのである。そして、志賀直哉に対する評価がつねに両義的であらざるをえないのは、彼がこの意識の狭さ・貧しさにもかかわらずではなく、逆にそのためにこそ(・・・・・・・)確固たるものを実現しえたというところにある、と論じる。

 

《ほとんどすべての作品が徹頭徹尾「主人公の気持」あるいは「気分」でつらぬかれているのである。むしろこういうべきではないだろうか、主人公の「気分」が書かれているのではなく、「気分」が主人公なのだ、と。

 これは言葉の綾(あや)ではない。実際に志賀直哉の小説では、「気分」が主体なのである。そこでは「気分」はたしかに私の「気分」ではあるが、私が所有するものではなく、どこからかやってきて私を強いるものである。こういえば、私小説とは私を書くものでありエゴセントリックで他者を欠如した世界だという定説(ていせつ)に背反(はいはん)するようにみえるかもしれない。だが背反はしない。志賀直哉の世界では明らかに「他者」が欠落しているが、「私」もまた欠落しているので、ただ「気分」がすべてを支配しているというまでである。》

 

《愛するためには他者が自己とはっきりと区別された者として意識されていなければならないが、彼の愛は自己愛と対象愛がまだ未分化な段階にある。もう一つ、これと関連していえるのは、志賀の小説の主人公がこのような「気分」で動くのは、他者と自己が未分化な「家」というものの範囲内(はんいない)において、あるいは家族と似たような交友範囲内においてであり、実際志賀はその外に出たことはない、というようなことである。

 たぶん右の見方はまちがっていない。一言でいえば、それは志賀直哉の幼児性ということになる。》

 

《重要なのは、彼の恣意に属さない「気分」が判断においても知覚においてもある絶対性をもってつらぬいているということだ。そこでは彼はけっして自由ではない。(中略)

 木村敏は『自覚の精神病理』や『人と人との間』で、この「気」がドイツ語でいうes、すなわち非人称主体と同じものではないかと言っている。この意見には私も同感である。たとえば、周知のように、ハイデッガーは”Es ist einen unheimlich”(気味が悪い)という日常的表現から、彼の現存在分析の主要な部分を展開している。彼は、非人称判断の主語esを、主観と客観という認識論的レベルに先立つものとして、つまりより基礎的なものとしてとりだしたのである。このことは、言葉とは別個に、心理学的に対象化しうる感情や感受性があるのではなく、逆に心理学的こそ実は言葉にもとづくのだということを意味している。》

 

《彼の小説は「不快」にはじまり「調和的気分」に終る。この自己完結性は、彼がいかなる意味でもこの「世界」から外に出なかった結果である。白樺派としては、彼はせいぜい武者小路実篤エピゴーネンであり、「近代的自我の確立」などという主題とは本質的に無縁であった。しかし、われわれはそれを批判しても意味がない。志賀直哉志賀直哉でしかありえなかったところに、むしろ積極的な意味を見出すべきである。

 志賀の小説の狭さは、彼が身辺事実を素材にしたからではない。その狭さは、彼の意識の狭さである。彼には、自己にとって疎遠(そえん)な観念や現実が入る余地がなかった。それらは無駄なものであり剰余(じょうよ)にすぎないようにみえたのである。彼の「世界」はあまりにも明確であり閉じられていて、曖昧(あいまい)なものが入るすきまがなかったのである。キリスト教もまた彼には禁欲思想にすぎなかった。だが、彼は抽象的煩悶に縁がなかったとしても、この禁欲思想に文字通り苦しんだことは疑いがない。そしてまた、彼が「不快」というものに圧しつぶされるほどに苦しんだことも疑いがないのである。》

 

《したがって、想像力・思想性の欠如がそれ自体問題なのではない。むしろ志賀直哉は、虚構や観念を書こうとした多くの他の作家よりも、はるかに作家たるべき本質を固有していた。彼を作家たらしめたのはあの「不快」であり、彼自身が自覚するしないにかかわらず一つの直観的な思想にほかならなかったあの「気分」なのである。他の凡庸(ぼんよう)な作家には、いかに奔放(ほんぽう)な構想力に恵まれていたとしても、あるいは頭でおぼえこんだ社会認識をもっていたとしても、志賀を作家たらしめた本能はなかった。無論彼の“本能”は動物的でも原始的でもなく、ただ彼自身が本質的に存在するか否(いな)かに関する直観的な識別力(しきべつりょく)にほかならなかったのである。

 志賀直哉に対する評価がつねに両義的であらざるをえないのは、彼がこの意識の狭さ・貧しさにもかかわらずではなく、逆にそのためにこそ(・・・・・・・)確固たるものを実現しえたというところにある。一つをとって他を捨てることはできないし、無いものねだりをすることもできないのだ。》

 

《彼ら(筆者註:志賀直哉と嘉村磯多)は「私」を書いたが、その「私」は「世界」に閉じこめられたものであり、そこには恣意性がありえない。驚くべきことは、彼らが私についてだけ書きながら、恣意性をまぬかれていたということだ。自己を客観化し世界を客観的に対象化しようとする精神は、必ず恣意性(主観性)につまずかざるをえない。客観性とは一つの神話であり、われわれは「世界像」を世界ととりちがえているにすぎない。志賀や嘉村にはかかる世界像による混乱や錯誤がまったくなかった。彼らは確実なものを、あそらくは確実なものだけを見た、あるいは見させられた。》

 

蓮實重彦『廃棄される偶数 志賀直哉『暗夜行路』を読む』(昭和49年(1974))>

 蓮實重彦は「上昇=下降」「快=不快」「緊張=弛緩」「双極性」「類似」「比較」「選択」「反復」「二」「偶数性」といった語彙を巡る「主題(テーマ)」批評を蓮實的な言葉によって戯れてみせ、《いかにも弛緩しきったその総体的な印象にもかかわらず、実は細部のイメージや挿話のかずかずがいかにも意義深い有機的な共鳴関係をかたちづくり、志賀に先行する世代や同世代の長編作家にはとても可能であったとは思えないほどの緊密な小説的な構造体として、読む意識を不断に刺激しつづけているという事実》を指摘した。

最後の場面は、病いのなかで、必要とされているのは、二者択一ではなく、偶数原理そのものを解消させること、偶数的世界を統禦していた「選択」原理の崩壊の歓喜の表明にほかならないのだが、それはジョン・キーツのいう「ネガティヴ・ケイパビリティ(negative capability)」(筆者註:「短期に事実や理由を手に入れようとはせず、不確かさや、神秘的なこと、疑惑のある状態の中に人が留まることができるときに表れる能力」を示すが、価値判断を保留する、あるいは二つの価値基準の間で宙づりになることという意味でもある(小川公代『世界文学をケアで読み解く』))に他ならない。

 

《『暗夜行路』は長篇としての緊密な構成をそなえてはおらず、作中人物の表情もまた、有機的な成長や複雑な葛藤の跡を残しながら、それにふさわしい時間の重みを担いうるものともなってはいない。短篇的な細部がおさまるこの鮮明な輪郭は、だから時間を超えて遥かに反響し、共鳴しあうべき別の挿話を見いだしえぬまま、そのつどそこに置きざりにされてしまう。(中略)この作品が、いかにも弛緩しきったその総体的な印象にもかかわらず、実は細部のイメージや挿話のかずかずがいかにも意義深い有機的な共鳴関係をかたちづくり、志賀に先行する世代や同世代の長編作家にはとても可能であったとは思えないほどの緊密な小説的な構造体として、読む意識を不断に刺激しつづけているという事実を改めて確認すべく、あえて二つの舶来煙草(筆者註:「サモア」と「アルマ」)の挿話に執着せずにはいられなかったのだ。》

 

《『暗夜行路』にあっては、男はきまって「上」におり、「女」は一貫して下に位置している。しかも、二つの性を一つに結ぶ垂直軸にそった上昇(・・)=下降(・・)の運動を始動せしめるのは、必ずといっていいほど、「快」=「不快」の「双極性」を伴っている。まず、その事実をたしかな感触のもとにまさぐっておかねばならない、登喜子の存在によって全身のこわばりが快くほどけてゆくのを感じる引手茶屋の二階座敷、あるいは「豊年だ!豊年だ!」の叫びがもれるいかがわしい娼家の二階座敷などがそうであるように、謙作は一貫して「上」に位置しながら、「下」からの女の出現を待っているのだ。》

 

《あまたの断片的な記憶の中で何故かとりわけ鮮明な輪郭におさまっているのは、「母と一緒に寝て居て、母のよく寝入つたのを幸ひ、床の中に深くもぐつて行つた(・・・・・・・・・・・・・)といふ記憶」である。理由もそれと知れぬまま恥かしさの印象のみが残っているその思い出には、双極性の軸として母の肉体がまぎれもなく重要な役を演じている。兄の手紙によって母の過失を知らされた謙作に甦ってくるのは、屋根に登った時の記憶であり、同時に、母の床に深くもぐって行った時の事だからである。実際、彼が緩慢な時の流れを耐えながら身をさらしているのは、不断に反復される上昇=下降運動であり、それにつれて拡がりだす「快」=「不快」、「緊張」=「弛緩」の双極的世界なのだ。》

 

《母がそうであったように、妻の直子もまた不義を犯すという物語の展開ぶりには、「比較」から「反復」へと伸びる「二」の「主題」体系が介入している。しかも直子の不祥事それ自体が、従兄の寝ている二階への階段を登るという上昇運動に操作されているのだから、志賀的双極性の性的側面がそこにあからさまに示されているといえようが、そのことで垂直性の深淵を極め尽したと思っている謙作の周辺には、飛行機までが墜落してその感慨を検証する。だから、走りかけた列車のデッキから直子が突き落されても、誰ももう驚くことのない「主題」論的な一貫性が、謙作を完璧に閉じこめているのである。志賀は、謙作の行為を「発作的」だと書いているが、いまやわれわれは、これほど「発作」から遠い身振りを想像することができないまでに、この「作品」の「主題」系列と親しく戯れ切っているのだ。妻の直子は、階段を登って地上を離れたことで罪を犯した以上、再び地表へと押し戻されねばならない。》

 

《謙作との結婚生活をはじめたばかりの直子は、その夫に向って、自分が文学的な教養をまったく欠いていることを素直に告白している。謙作も謙作で、その事実をむしろ快く思ってさえいるようだ。「文学が解つたり、風流が解つたりすると云ふ事は一種の悪趣味だ」と宣言する彼の言葉に、「妙なお説ね。私、それも解らないわ」と応じて、彼女は無邪気な笑い声をたてる。だが、『暗夜行路』の後篇は、まさに、この何もわからない(・・・・・・・)直子が、何かをわかってしまう瞬間に到達するまでの、残酷にして困難な教育的な歩みなのだ。》

 

《この「過失」の主題は、とうぜんのことながら「類似」から「選択」へと進む「二」の主題体系によって導きだされるものだ。それは、結婚当初の謙作が直子に語る「償罪」をめぐる二つの姿勢の「比較」の中に姿をみせている。人はいかにして犯された罪を懺悔するかという点をめぐって、彼は、いまは芸者をしている「栄花」という女義太夫と「蝮のお政」という旅役者を例に引き、「現在、罪を犯しながら、その苛責の為め、常に一種張りのある(・・・・・・・)気持(・・)を続けてゐる栄花の方が、既に懺悔し、人からも赦されたつもりでゐて、其実、心の少しも楽しむ事のないお政の張りのない気持(・・・・・・・)よりは、心の状態として遥かにいいものだと思ふ」という。かつて「栄花」と呼ばれた女義太夫は、嬰児殺しをしてまで男と別れようとはしない「芸者の中でも最も悪辣な女」として知られ、「蝮のお政」は、男を殺した自分の過去を芝居に仕組んで、日々、罪ある過去を悔いながら各地を巡業して歩くという女である。(中略)「懺悔と云ふ事も結局一遍こつきりのものだから」という謙作が「蝮のお政」の中に認めているのは、過去を物語として提示しつつ現在を回避することの安易さであり、「懺悔もいつそ懺悔しなければ悔悟の気持も続くかも知れない」と考える謙作が「栄花」の中に感じとっているのは、過去を現在へと不断に投影しつつ生きることが開示する物語の困難である。(中略)「そんなら、どうすればいいの」という直子の問いに、謙作は無言で応じるしかない。だが彼は、そのときの自分の欠語を、母親の不義の記憶に触れたためだと思っている。ところがその真の理由は、謙作が幽閉されている偶数的世界そのもののうちに存在するのだ。たがいに類似した「栄花」と「蝮のお政」とを比較し、その一方を選ぶという二者択一の姿勢こそが自分から言葉を奪っている事実に、彼は気づいてはいない。それが彼自身に明らかにされるのは、妻の不倫という「過失」が現実のものとなった瞬間であるにすぎない。

 謙作は、直子の罪を許そうとして許すことができない。だが『暗夜行路』という長篇の独創性は、この内面の葛藤という精神分析的な状況を、いささかも心理的な側面からは描こうとしていない点に存している。許すということ、それは自分が「蝮のお政」の悔恨芝居の素直な観客になることだ。許さないこと、それは「栄花」の悪辣さを小説に書こうとすることだ。そして、いま謙作に必要とされているのは、その二者択一ではなく、そうした偶数原理そのものを解消させることにほかならない。》

 

《ほんの短い終りの数行ほどだが、「作品」には直子の意識だけが書きつけられており、夫の存在は、その対象でしかなくなっている。だがそれを、主人公の二重化と理解してはならない。主人公という一つの役割の中で、夫と妻が一つに融合したのである。

 ことによったらもう死んでしまうのかもしれないと思われた夫の顔を、「直子は引き込まれるやうに何時までも」見つめている、そしてこう心の中でつぶやく。

  「助かるにしろ、助からぬにしろ、兎に角、自分は此人を離れず、何所までも此人に隋いて行くのだ」

 この感慨は、日本女性としては典型的なあの自己犠牲の精神といったものとはまったく無縁の場でつぶやかれたものと考えなければならない。それは、「作品」の構造から自分が排除されてはおらず、夫とともにその磁力を蝕知しうる自分を確認しえたものが、偶数的世界を統禦していた「選択」原理の崩壊を身をもって生きる瞬間の歓喜の表明にほかならぬのだ。》

                              (了)

        *****引用または参考文献*****

志賀直哉『暗夜行路』(新潮文庫

柄谷行人『意味という病』(「私小説の両義性――志賀直哉と嘉村磯多」所収)(講談社文芸文庫

蓮實重彦『「私小説」を読む』(「廃棄される偶数 志賀直哉『暗夜行路』を読む」所収)(講談社文芸文庫

中村光夫志賀直哉論』(筑摩書房)(漢字は新字に置きかえた)

小林秀雄志賀直哉論』(『小林秀雄全作品10』に所収)(新潮社)

安岡章太郎志賀直哉私論』(文藝春秋

阿川弘之志賀直哉(上)(下)』(岩波書店

*町田栄編『志賀直哉『暗夜行路』作品論集』(クレス出版

平川祐弘鶴田欣也編『『暗夜行路』を読む 世界文学としての志賀直哉』(新曜社

*小川公代『世界文学をケアで読み解く』(朝日新聞出版)

*キャロル・ギリガン『もうひとつの声で――心理学の理論とケアの倫理』川本隆史山辺恵理子、米典子訳(風行社)

*チャールズ・テイラー『世俗の時代』千葉眞監訳、木部尚志、山岡龍一、遠藤知子訳(名古屋大学出版会)

文学批評 村上春樹『海辺のカフカ』のカラマーゾフ的ポリフォニー

 

 

 村上春樹スコット・フィッツジェラルドグレート・ギャツビー』の「訳者あとがき」に書いている。

《もし『これまでの人生で巡り会ったもっとも重要な本を三冊あげろ』と言われたら、考えるまでもなく答えは決まっている。この『グレート・ギャツビー』と、ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟』と、レイモンド・チャンドラーロング・グッドバイ』である。》

 

 さて、村上春樹世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の終盤39章に『カラマーゾフの兄弟』への言及がある。

《「あなたは自分の人生についてどんな風に考えているの?」と彼女は訊いた。彼女はビールには口をつけずに缶の上に開いた穴の中をじっと見つめていた。

「『カラマーゾフの兄弟』を読んだことは?」と私は訊いた。

「あるわ。ずっと昔に一度だけだけど」

「もう一度読むといいよ。あの本にはいろいろなことが書いてある。小説の終りの方でアリョーシャがコーリャ・クラソートキンという若い学生にこう言うんだ。ねえコーリャ、君は将来とても不幸な人間になるよ。しかしぜんたいとしては人生を祝福しなさい」

 私は二本めのビールを飲み干し、少し迷ってから三本めを開けた。

「アリョーシャにはいろんなことがわかるんだ」と私は言った。「しかしそれを読んだとき僕はかなり疑問に思った。とても不幸な人生を総体として祝福することは可能だろうかってね」

「だから人生を限定するの?」

「かもしれない」と私は言った。》

《私は目を閉じて『カラマーゾフの兄弟』の三兄弟の名前を思い出してみた。ミーチャ、イヴァン、アリョーシャ、それに腹違いのスメルジャコフ。『カラマーゾフの兄弟』の兄弟の名前を全部言える人間がいったい世間に何人いるだろう?》

《太陽がフロント・グラスから射(さ)しこんで、私を光の中に包んでいた。目を閉じるとその光が私の瞼(まぶた)をあたためているのが感じられた。(中略)宇宙の摂理は私の瞼ひとつないがしろにしてはいないのだ。私はアリョーシャ・カラマーゾフの気持がほんの少しだけわかるような気がした。おそらく限定された人生には限定された祝福が与えられるのだ。》

 

  村上は2008年にスペイン誌のインタビューで、《十四歳か十五歳のときは一晩中、ロシアの古典を読んで過ごしました。今でも『戦争と平和』をむさぼり読んだときの幸福感を覚えています。今までに『カラマーゾフの兄弟』は四回読みました》と答え、ロシアの読者からの質問に、《僕は、自分の小説の最終的な目標を、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』においています。そこには、小説が持つすべての要素が詰め込まれています。そしてそれは、ひとつに統一された見事な宇宙を形成しています。僕はそのようなかたちをとった、現代における「総合小説」のようなものを書きたいと考えています。それはずいぶん難しいことかもしれないけれど》と応じてはいるものの、『カラマーゾフの兄弟』が村上の小説に具体的にどのような影響を与えたのかは曖昧なままだ。

 チャンドラーやフィッツジェラルドについては繰り返し語っている(文章のリズム、比喩、リアリティー、都市小説、”seek and Find”などであり、チャンドラー『ロング・グッドバイ』の「訳者あとがき」には《小説というものを書き始めるにあたって、僕はチャンドラーの作品から多くのものごとを学んだ。技法的な部分でも具体的に学ぶべきことは多々あった(なにしろ彼は名にしおう名文家だから、学ぶべきことは実に数多くある)。しかし僕が彼から学んだ本当に大事なことは、むしろ目に見えない部分である。緻密な仮説ディテイルの注意深い集積を通して、世界の実相にまっすぐに切り込んでいくという、そのストイックなまでの前衛性である。その切り込みのひとつひとつの素早い挙動と、道筋の無意識な確かさである》と書いている)のと比べてほとんど何も語っていない。

 あるとしても、《この前、久し振りにドストエフスキーの『悪霊』を読み返してみたんです。いやぁ、やっぱりいいですねぇ。小説としては、そんなに完全な小説ではないというか、『カラマーゾフの兄弟』に比べれば、構成としてはいくぶん落ちる小説だと思うんですが、読んでいて、この振り回され方というのはやはりすさまじいものだなと思いました》といった遠まわしの表現にすぎないからだろう。

 

<現実と非現実の境界/悪と暗闇>

 村上は『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』の「『海辺のカフカ』を中心に」((初出:『文學界』2003年4月号)でこんなことを語っている。

《『雨月物語』なんかにあるように、現実と非現実がぴたりときびすを接するように存在している。そしてその境界を超えることに人はそれほどの違和感を持たない。これは日本人の一種のメンタリティーの中に元来あったことじゃないかと思うんですよ。それをいわゆる近代小説が、自然主義リアリズムということで、近代的自我の独立に向けてむりやり引っぱがしちゃったわけです。個別的なものとして、「精神的総合風景」とでもいうべきものから抜き取ってしまった。》

《僕の場合は、物語のダイナミズムというよりは、むしろそういう現実と非現実の境界のあり方みたいなところにいちばん惹かれるわけです。日本の近代というか明治以前の世界ですね。たとえば『海辺のカフカ』にもギリシャ神話とかオイディプスの問題が出てくるんだけど、もちろん西洋文化というのは、一つが『聖書』、一つが古代ギリシャというのが二つの大きな源流になっていて、とにかくギリシャ世界においては異界とこの世界というふうに分かれているんですが、日本の場合は自然にすっと、こっち行ったりあっち行ったり、場合に応じて通り抜けができるんだけれど、ギリシャ神話なんかの場合は、本当に自分の考え方とか存在の在り方の組成をガラッと転換させないと向こう側の世界に行けない。》

《たとえば、『海辺のカフカ』における悪というものは、やはり、地下二階(筆者註:村上は「『海辺のカフカ』を中心に」で比喩を用いて説明する、《人間の存在というのは、二階建ての家だと僕は思ってるわけです。一階は人がみんなで集まってごはん食べたり、テレビ見たり、話したりするところです。二階は個室や寝室があって、そこに行って一人になって本を読んだり、一人で音楽聴いたりする。そして、地下室というのがあって、ここは特別な場所でいろんなものが置いてある。(中略)その地下室の下にはまた別の地下室があるというのが僕の意見なんです。それは非常に特殊な扉があってわかりにくいので普通はなかなか入れないし、入らないで終わってしまう人もいる。ただ何か拍子にフッと中に入ってしまうと、そこには暗がりがあるんです。(中略)その中に入っていって、暗闇の中をめぐって、普通の家の中では見られないものを人は体験するんです。それは自分の過去と結びついていたりする、それは自分の魂の中に入っていくことだから。でも、そこからまた帰ってくるわけですね。あっちに行っちゃったままだと現実に復帰できないです。(中略)いわゆる日本の近代的自我というのは、下手するとというか、ほとんど地下一階でやっているんです、僕の考え方とすれば》)の部分。彼が父親から遺伝子として血として引き継いできた地下二階の部分、これは引き継ぐものだと僕は思うんですよ。多かれ少なかれ子どもというのは親からそういうものを引き継いでいくものです。呪いであれ祝福であれ、それはもう血の中に入っているものだし、それは古代にまで遡(さかのぼ)っていけるものだというふうに僕は考えているわけです。(中略)そこには古代の闇みたいなものがあり、そこで人が感じた恐怖とか、怒りとか、悲しみとかいうものは綿々と続いているものだと思うんです。(中略)根源的な記憶として。カフカ君が引き継いでいるのもそれなんです。それを引き継ぎたくなくても、彼には選べないんです。それが僕はこの話のいちばん深い暗い部分だというふうに思うんです。》

《だから僕が読者に伝えたかったのは、カーネル・サンダーズみたいなものは実在するんだということなんです。彼は必要に応じて、どこからともなくあなたの前にすっと出て来るんだ、ということ。それこそタンジブル(筆者註:蝕知できる、手触り感がある)なものとして、そこにあるんです。手を延ばせば届くんです。僕は彼を立ち上げて、彼について書くことを通して、そういう事実を読者に伝えたいわけです。》

 

 村上春樹はかつて河合隼雄にこんな質問を向けたことがある。

《村上 あの源氏物語の中にある超自然性というのは、現実の一部として存在したものなんでしょうかね。

河合 どういう超自然性ですか?

村上 つまり怨霊とか…

河合 あんなのはまったく現実だとぼくは思います。

村上 物語の装置としてではなく、もう完全に現実の一部としてあった?

河合 ええ、もう全部あったことだと思いますね。だから、装置として書いたのではないと思います。》

 

<「seek and Find」>

ユリイカ チャンドラー特集 1982年7月号』「川本三郎村上春樹 対話R・チャンドラーあるいは都市小説について」で、

《村上 僕の場合はチャンドラーの方法論というのを、まあ変な言葉だけど、いわゆる純文学の土壌に持ち込みたいというのが最初にあるわけです。どうすりゃ持ち込めるかっていうところで、ずっと模索して来たという感じですね。

川本 チャンドラーの方法論というと、何かいきなり大きな話になっちゃうけど。

村上 早すぎますか? (笑)僕は、チャンドラーのひとつのテーマというのは、英語で言うと「seek and Find 」という「探し求めて、探し出す」という……。でもfindした時にはseekすべきものは変質しているというようなことがテーマだと思うんです。それが仮に、ミステリーという形態をとったにすぎないんじゃないかという風に捉えちゃうわけですね。僕の場合も、どうしても「seek and Find」というように行っちゃうんです。『1973年のピンボール』の場合もそうだったし、今度書いたのはもっとそうなんです。そういう意味で、チャンドラーのやってたことを、ハードボイルドとは別の形で、自分なりに持ち込みたいというのがテーマなんです。》

 

海辺のカフカ』もまた「seek and Find」に違いなく、17章、《「背反性といえばね」と大島さんは思いだしたように言う。「最初に君に会ったときから、僕はこう感じているんだ。君はなにかを強く求めているのに、その一方でそれを懸命に避けようとしているって。君にはそう思わせるところがある」

「求めるって、どんなものを?」

 大島さんは首を振る。バックミラーに向かって顔をしかめる。「さあ、どんなものだろう。僕にはわからない。ただの印象をただの印象として述べているだけだ」

 僕は黙っている。

「経験的なことを言うなら、人が何かを強く求めるとき、それはまずやってこない。人がなにかを懸命に避けようとするとき、それは向こうから自然にやってくる。もちろんこれは一般論に過ぎないわけだけれどね」》

 

ミハイル・バフチンドストエフスキー詩学』>

 バフチンは『ドストエフスキー詩学』の「結語」で、《ドストエフスキーは、ヨーロッパの芸術的な散文の発展における《対話路線》を継承しながらも、小説というジャンルに新しいバリエーションを一つ追加したのである。それがポリフォニー小説であり、本論考ではその斬新な特性を明らかにしようとしたのだった。ポリフォニー小説の創造は、小説という芸術的散文の発展、つまり小説という軌道上におけるあらゆるジャンルの発展にとってのみならず、人類の芸術的思考全般の発展にとっても、大いなる前進の一歩であったとみなすことができよう。すなわちこれは、小説というジャンルの枠を超えた、ある特殊なポリフォニー的芸術思考そのものとして論ずることのできる問題だと思われるのである。そうした思考こそが、ノローグ的な立場からは芸術的に捉えることが不可能な人間の諸側面、とりわけ思考する人間の意識とその対話的存在圏を把握することができるのである》とした。

 

ポリフォニー

ドストエフスキー詩学』の「第一章 ドストエフスキーポリフォニー小説および従来の批評におけるその解釈」で、《それぞれに独立して互いに融け合うことのないあまたの声と意識、それぞれがれっきとした価値を持つ声たちによる真のポリフォニーこそが、ドストエフスキーの小説の本質的な特徴なのである。彼の作品の中で起こっていることは、複数の個性や運命が単一の作者の意識の光に照らされた単一の客観的な世界の中で展開されてゆくといったことではない。そうではなくて、ここではまさに、それぞれの世界を持った複数の対等な意識が、各自の独立性を保ったまま、何らかの事件というまとまりの中に織り込まれてゆくのである。実際ドストエフスキーの主要人物たちは、すでに創作の構想において、単なる作者の言葉の客体であるばかりではなく、直接の意味作用をもった自らの言葉の主体でもあるのだ。したがって主人公の言葉の役割は、通常の意味の性格造形や筋の運びのためのプラグマチックな機能に尽きるものではないし、また(バイロンの作品におけるように)作者自身のイデオロギー的な立場を代弁しているわけでもない。主人公の意識は、もう一つの、他者の意識として提示されているのだが、同時にそれは物象化され閉ざされた意識ではない。すなわち作者の意識の単なる客体ではないのである。この意味でドストエフスキーの主人公の形象は、伝統的な小説における普通の客体的な主人公像とは異なっているのである。》

 

「第二章 ドストエフスキーの創作における主人公および主人公に対する作者の位置」では、《主人公がドストエフスキーの関心を引くのは、一定の確固たる社会的タイプや個人的性格のしるしを持った、社会の一現象としてでもなければ、《彼は何者か?》という問いに全体として答えることのできるような、一義的で客観的な特徴から形成された、一定の人物像としてでもない。主人公がドストエフスキーの関心を引くのは、世界と自分自身に対する特別の視点としてであり、人間が自身と周囲の現実に対して持つ意味と価値の立場としてである。ドストエフスキーにとって大切なのは、主人公が世界において何者であるかということではなく、何よりもまず、主人公にとって世界が何であるか、そして自分自身にとって彼が何者なのかということなのである。

 これは主人公の捉え方としてはきわめて重要かつ本質的な特殊性である。視点としての主人公、世界と自分に対する視線としての主人公という存在は、それを解明し芸術的に性格づけるためには、まったく特殊な方法を必要とする。つまりそこで解明し性格づけるべきものは、主人公という一定の存在、彼の確固たる形象ではなく、彼の意識および自意識の総決算、つまりは自分自身と自分の世界に関する主人公の最終的な言葉なのである。》

 

<イデエ>

ドストエフスキー詩学』の「第三章 ドストエフスキーのイデエ」で、《ドストエフスキーにおいて人間が自らの《物質性》を克服して《人間の内なる人間》となるためには、まず純粋な完結し得ないイデエの領域に参入して、いわば私心のないイデエの人間になることが前提となるとも言えるからである。ドストエフスキーの主導的人物、つまり大きな対話に参加する主人公たちは、すべてそうした人間なのである。

 その意味ではゾシマ長老がイワン・カラマーゾフの人格に与えた定義が、主導的人物の全員に当てはまる。ゾシマの定義はもちろん教会関係者の言葉で、つまり自らがそこで生きているキリスト教イデエの領域の概念で語られているのだが。これに関してゾシマとイワンとの間で交わされる、いかにもドストエフスキーらしい、互いの心に染み透る対話の断片を引用しよう。

「するとあなたは、魂の不死に対する人々の信仰の念が涸渇するとそのような結果に至るのだと、本気で信じていられるのですか?」

不意にゾシマはイワン・フョードロヴィッチに尋ねた。

 「はい、私はそう確信しています。もし不死がなければ、善もありません。」

 「もしそう信じておられるなら、あなたは幸いな方です。いや大変に不幸な方かもしれない。」

 「なぜ不幸だと?」

  イワン・フョードロヴィッチはにっこりと笑った。

 「なぜなら恐らくあなたご自身が、自らの魂の不死も、それから教会や教会問題についてお書きになったことさえも、信じておられないからです。」

 「多分おっしゃる通りでしょう!……しかしそれでも私はまったくの冗談のつもりで申したのでは……」

  突然イワン・フョードロヴィッチは急速に顔を赤らめ、奇妙な調子で告白した。

 「まったくの冗談のつもりでおっしゃったのでないことはその通りでしょう。その思想はまだあなたの心の中で解決がついておらず、心を苦しめているのです。しかし苦しんでいる人間も、時に自分の絶望を気晴らしの種にしたくなるものです。あるいはそれも絶望のなせる業かもしれません。いまのところあなたは絶望に身を任せて、雑誌に論文を書いたり世間で議論をしたりして気晴らしをしている。ただし自分の議論を自分でも信じておられず、心の痛みを隠しながら秘かにほくそ笑んでいる……この問題はまだあなたの内で解決されていません。そしてそこにこそあなたの大きな悲哀があるのです。なぜならそれは解決を求めてやまないからです……

 「でもそれが私の内で解決されることがあり得るでしょうか? 肯定の方向に解決されることが?」

  イワン・フョートロヴィッチは相変わらずいわく言いがたい笑みを浮かべて長老を 見つめながら、奇妙な口調で質問を続けた。

 「もし肯定の方向に解決されないとしたら、決して否定の方向にも解決されません。そうしたご自分の心の特徴はご自身で知っておられるでしょう。そこにこそあなたの心の苦悩のすべてがあるのです。しかしそのような苦悩を苦しむことのできる高き心を授かったことに対して、造物主に感謝されるがよい。『高きものに心を馳せ、高きものを求めよ。我らが住処(すみか)は天井にあればなり。』どうか神のお恵みにより、あなたがまだ地上におられるうちに心の解決があなたを訪れますように、そして神があなたの行く手を祝福されますように!」[『カラマーゾフの兄弟』第一部第二編第六章]

 これと同様な定義を、もっと世俗的な言葉で、アリョーシャがラキーチンとの会話において、イワンに対して与えている。

 「ああミーシャ、彼(イワン――バフチン)の魂は荒れ狂っている。理性がとらわれているのだ。彼の内には大きな、未解決の思想がある。イワンは百万の金よりも、思想の解決を必要とするような大きな人間なのだ。」[同、第一部第二編第七章]》

 

海辺のカフカ』でも、カフカ少年と大島さんの心に染み透る対話は、イデエをめぐって、高きものに心を馳せ、高きものを求めてなされている。ベートーヴェンの「大公トリオ」に目覚めてゆく肉体労働者の星野青年も、《「ことばで説明しても正しく伝わらないものは、まったく説明しないのがいちばんいい」と言う大島さんの兄でサーファーのサダさんも。

 

<「冒険小説」>

海辺のカフカ』は、15歳の主人公による「冒険小説」であり、またドストエフスキーがときに揶揄されもした「探偵小説」でもある。

ドストエフスキー詩学』の「第四章 ドストエフスキーの作品のジャンルおよびプロット構成の諸特徴」で、《だが何のためにドストエフスキーは冒険小説的世界を必要としたのだろうか? それは彼の芸術的構想の中でどのような機能を担っているのか?

 この問いへの答えとして、グロスマンは冒険小説的プロットの三つの基本機能を挙げている。第一に、冒険小説的世界の導入によって、読む者を魅了する話の面白みが生まれ、哲学理論や様々な人物像や複数の人間関係が一つの小説の中に詰め込まれた迷宮世界をたどってゆく読者の苦労が軽減される。第二に、ドストエフスキーはフェリエトン(筆者註:世相風刺)小説の中に「乞食が幸運に恵まれたり、捨子が救われたりといった珍しい話の背後に常に感じられる、虐げられ辱められた人間たちへの同情の火花」を見出した。最後に、そこにはドストエフスキーの創作の「根源的な特徴」が現れている。それはすなわち「例外的なものをきわめて日常的なものの真っただ中に放り込み、ロマン主義原理に則って、崇高なものとグロテスクなものを一つに結びつけ、日常の現実的な人物像や現象に目立たぬように手を加えて、ほとんど幻想的なものに変えてしまおうとする意志」である。(中略)

 グロスマンが指摘した機能は副次的なものであって、本質的なもの、重要なものはそこにはない。(中略)

 冒険小説のプロットは、ドストエフスキーにおいては深淵で先鋭な問題提起性と結びついている。それどころかそれはそっくりイデエに奉仕する使命を持っているのである。プロットが人物を例外的な状況に置き、彼の内面を開示し挑発して、異常で思いがけないシチュエーションの中で彼を他の人物たちと出会わせ、衝突させる。それはみなイデエおよびイデエの人間、すなわち《人間の内なる人間》を試練にかけることを目的としているのである。そのおかげで冒険小説が、一見それとは無縁な告白や伝記その他のジャンルと、結びつき得るのだ。》

 

<カーニバル>

ドストエフスキー詩学』の訳者望月哲男による「解説」を引用すれば、《バフチンは、ドストエフスキー文学のジャンル上の源を求めて、はるか文学史の古代まで遡ってゆく。バフチンはここで小説一般のジャンル的な源泉の一つとして、叙事詩、弁論術と並んで、「カーニバル文学」というカテゴリーを設定している。それはカーニバル的世界の諸特徴――異質な人間同士の無遠慮な接触、常軌を逸した振舞い、蘇りを促す笑いやパロディーなどの要素――を反映したジャンルである。カーニバル文学は、古代における《ソクラテスの対話》《メニッポスの風刺》といった「真面目な笑話」として生まれ、中世の世俗文学や宗教文学に受け継がれ、ルネッサンス期のエラスムスラブレー、セルヴァンテスなどにおいて自在に展開された。そして近代のヴォルテールディドロ、スターン、ホフマンなどにもその反響が見られる。この系列に文学においては、聖と俗、真面目さと不真面目さ、高級な文体と卑俗な文体といった諸レベルでの混交を通じて社会の規範が相対化されると同時に、様々な極限状況の中で思想が試みられる。》

ドストエフスキー詩学』の「第四章 ドストエフスキーの作品のジャンルおよびプロット構成の諸特徴」で、《彼の創作世界に生息するものはすべて、自らの対立物との境界線上に立っているのである。愛は憎悪との境界線上に生息し、憎悪を知り、理解しているのであり、一方憎悪は愛との境界線上に生息し、同じように愛を理解しているのである(ヴェルシーロフの愛憎、カテリーナ・イワーノヴナのドミートリー・カラマーゾフに対する愛がそうであり、ある程度はイワンのカテリーナ・イワーノヴナへの愛やドミートリーのグルーシェンカへの愛もそうである)。また信仰は無神論との境界線上に生息して、無神論の中に映る自分の姿を見、無神論を理解するのであり、一方無神論は信仰との境界線上に生息し、信仰を理解するのである。崇高や高潔は、堕落や卑劣との境界線上に生息している(ドミートリー・カラマーゾフ)。生に対する愛は自己消滅の欲望に隣接している(キリーロフ)。純粋無垢と賢知は背徳と肉欲を理解しているのである(アリョーシャ・カラマーゾフ)。》

 

 村上は「『海辺のカフカ』を中心に」で、《異界に生きてるものです。ジョニー・ウォーカーカーネル・サンダーズも、やはり同じで、暗闇の中から現れる「演者」なんです。》、《あのカーネル・サンダーズとジョニー・ウォーカーという二つのアイコンがなかったらあの物語はうまく進まなかっただろうなあと思います。》と語っているが、彼らはカーニヴァルの一員であろう。

 

 バフチンは、《カーニバル的世界感覚はまた、「哲学に遊女のけばけばしい衣装をまとわせる」ことも可能にしたのだった。》と述べたが、『海辺のカフカ』28章、《カーネル・サンダーズは路地を抜け、信号を無視して大きな通りを渡り、またしばらく歩いた。それから橋を渡り、神社の中に入っていった。(中略)15分後に女が現れた。カーネル・サンダーズが言ったとり、素晴らしい体つきの美人だった。(中略)風呂の中で彼の身体をきれいに洗い、舐(な)めまわし、それから見たことも聞いたこともないような超弩級(どきゅう)の芸術的なフェラチオをした。星野青年は何も考える余裕もなく射精してしまった。(中略) 

「でも気持ちよかったよ」

「どれくらい?

「過去のことも未来のことも考えられないくらい」

「『純粋な現在とは、未来を喰っていく過去の捉えがたい進行である。実を言えば、あらゆる知覚とはすでに記憶なのだ』」

 青年は顔をあげ、口を半分あけて、女の顔を見た。「それ、何?」

「アンリ・ベルグソン」と彼女は亀頭に唇をつけ、精液の残りを舐めてとりながら言った。「うっひふほひおふ」

「よく聞こえない」

「『物質と記憶』。読んだことないの?」

「ないと思う」と星野青年は少し考えてから言った。(中略)

ヘーゲルはおすすめよね。ちっと古いけど、ちゃんちゃかちゃん、オールディーズ、バット・グディーズ」

「いいね」

「『<私>は関連の内容であるのと同時に、関連することそのものでもある』」

「ふうん」

ヘーゲルは<自己意識>というものを規定し、人間はただ単に自己と客体を離ればなれに認識するだけでなはなく、媒介としての客体に自己を投射することによって、行為的に、自己をより深く理解することができると考えたの・それが自己意識」

「ぜんぜんわからないな」

「それはつまり、今私があなたにやっていることだよ、ホシノちゃん。私にとっては私が自己で、ホシノちゃんが客体なんだ。ホシノちゃんにとってはもちろん逆だね。ホシノちゃんが自己で、私が客体。私たちはこうしてお互いに、自己と客体を交換し、投射しあって、自己意識を確立しているんだよ。行為的に。簡単に言えば」

「まだよくわからないけど、なんか励まされてる気がする」

「それがポイントだよ」と女は言った。》

 

<「そそのかし」/「分身」/田村カフカ(カラスと呼ばれる少年)≒イワン・カラマーゾフ(悪魔)/ナカタさん≒スメルジャコフ>

ドストエフスキー詩学』の「第五章 ドストエフスキーの言葉」で、《悪魔はイワン・カラマーゾフの耳にイワン自身の言葉を叫び立てながら、法廷で自白しようという彼の決心に愚弄嘲笑的な解説を加え、彼の秘中の秘である思想を他者の調子で反復するのである。(中略)ここではとりあえず、その対話のすぐ後にイワンが興奮しながらアリョーシャに語る叙述を引用することにしよう。(中略)

 「確かにそうだが、あいつは腹黒いんだ。あいつは図々しい奴なんだよ、アリョーシャ」とイワンは、悔しさに身を震わせながら呟いた。「だが、あいつはこの僕を中傷したんだ、あれやこれやと中傷したんだ。面と向かってこの僕に言いがかりをつけやがったんだ。『おお、お前は美徳の偉業を成し遂げるつもりなんだろう、父親を殺したんです、下男が自分にそそのかされて父親を殺したんですって宣言するつもりなんだろう』……」[『カラマーゾフの兄弟』第四部第十一編第一〇章](中略)

 しかしもちろん、このイワンの自意識の完全な対話化は、ドストエフスキーにおいてはいつでもそうであるようにして、主人公の意識と発話の中に忍び込んでゆくのである。すなわちそれは、あるときはモノローグ的な自信に満ちた発話の中の休止があるべきではない場所での休止の形で、またあるときはフレーズの腰を折る他者のアクセントの形で、またあるときは自らの異常に高揚し誇張された調子かあるいはヒステリックな調子の形で、等々といった具合に忍び込んでゆくのである。(中略)

 他者の声によってアクセントを変えられた主人公自身の言葉が彼の耳にささやかれ、その結果一つの言葉、一つの発話の中で様々な方向性を持った言葉と声がきわめて独特な形で絡み合い、一つの意識の中で二つの意識が切り結ぶという現象は、その形式、程度、イデオロギー傾向の差はあれ、ドストエフスキーの作品すべてに固有の現象である。》

《イワン・カラマーゾフはまだ全面的にドミートリーの有罪を信じている。しかし心の奥底では、まだ自分自身からほとんど隠したままで、自分自身の罪について自問している。彼の心の中の内的闘争は、極度に緊張した性格を帯びている。これから引用するアリョーシャとの対話がやりとりされるのは、まさしくそういう瞬間においてである。

 アリョーシャはドミートリーの有罪を断固否定する。

 「お前の考えでは、いったい誰が殺したんだい?」何だか冷ややかな様子でイワンは尋ねたが、その語調には何か横柄な感じが響いていた。

 「誰かってことは、あなた自身が知ってます」アリョーシャは静かに、心に染み透るような声で言った。

 「誰なんだい? あの頭のいかれた白痴の癲癇(てんかん)持ちだっていう作り話のことかい? スメルジャコーフの話のことかい?」

  アリョーシャは突然、全身が震えているのを感じた。

 「誰かってことは、あなた自身が知ってます」彼の口から力のない声が漏れた。彼は息が詰まりそうだった。

 「だから誰さ、誰なんだ?」もはやほとんど凶暴な声でイワンは叫んだ。堪忍袋の緒が突然ぷつりと切れてしまった。

 「僕が知ってるのはたった一つです」相変わらずささやくようにして言った。「父さんを殺したのはあなたじゃないってことです。」

 「『あなたじゃない(・・・・・・・)』だって! あなたじゃないとはどういうことなんだ?」イワンは棒のように立ち尽くしてしまった。

 「父さんを殺したのは、あなたじゃない、あなたじゃないんです!」アリョーシャはきっぱりと繰り返した。三十秒ほど沈黙が続いた。

 「そうさ、俺自身だって、自分じゃないことぐらい知ってるさ、熱に浮かされてでもいるのか?」青ざめた、歪んだ薄笑いを浮かべて、イワンは言った。彼の目はまるでアリョーシャに吸い込まれてしまったかのようだった。二人はまた街灯の近くに立っていた。

 「いいえ、イワン、あなた自身が何度か自分に言ったんですよ、あなたが殺したんだってね。」

 「俺がいつ言った?……俺はモスクワにいたんだぞ……俺がいつ言ったというんだ?」イワンはすっかり途方に暮れて呟いた。(後略)[『カラマーゾフの兄弟』第四部第一一編第五章]》

 

ドストエフスキー詩学』の「第五章 ドストエフスキーの言葉」には、ドストエフスキー『分身』への言及がある。《ドストエフスキーは『分身』を《告白》として(もちろん、個人的な意味の告白ではなく)つまり自意識の枠内で生起する出来事の描写として考えていた。『分身』――それはドストエフスキーの創作における最初の劇化された告白なのである。》、そして《イワンの内的発話と交錯し合うアリョーシャの言葉は、イワンの言葉と思想をこれまた反復する悪魔の言葉と比較してみる必要がある。(中略)悪魔はイワンのように話しもするが、また同時にイワンのアクセントを悪意的に誇張し、歪めてしまう《他者》としても話すのである。「お前は俺だ、俺自身なんだ、ただ面(つら)が違うだけなんだ」[『カラマーゾフの兄弟』、第四部第一一編第九章]――イワンは悪魔にそう言っている。》

 

海辺のカフカ』にも「カラスとよばれる少年」がカフカ少年の「分身」のように現れる。33章でカフカ少年は佐伯さんに、《「はぐれたカラスとおなじです。だから僕は自分にカフカという名前をつけた。カフカとはチェコ語でカラスのことです」》と話す。11章でさくらさんに、《「頭がかっとすると、まるでヒューズが飛んじゃったみたいになる。誰かが僕の頭の中のスイッチを押して、考えるより先に身体が動いていってしまう。そこにいるのは僕だけど、僕じゃない」》と、27章では大島さんに《「でもときどき自分の中にもうひとりべつの誰かがいるみたいな感じになる。そして気がついたときには、僕は誰かを傷つけてしまっている」》と告白する。

 そして、46章と47章に挟まれて、「カラスと呼ばれる少年」がジョニー・ウォーカーを襲い、両目を執拗に攻撃して穴の様にからっぽにして、舌を引きずりだす。

 

海辺のカフカ』21章、《「おとといの新聞だよ。君が山の中にいるあいだに出た記事だ。それを読んで、そこにある田村浩一というのは、ひょっとして君のお父さんじゃないかと思った。考えてみればいろんな状況がぴたりと合っているからね。ほんとうは昨日見せるべきだったんだろうけれど、君がまずここに落ちついてからのほうがいいと思ったんだ」

 僕はうなずく。僕はまだ目を押えている。大島さんは机の前の回転椅子(いす)に座り、足を組み、こちらを見ている。なにも言わない。

「僕が殺したわけじゃない」

「もちろんわかっているよ」と大島さんは言う。「君はその日、夕方までこの図書館にいて本を読んでいた。それから東京に帰ってお父さんを殺して、その足でまた高松に戻ってくるのは、どうみても時間的に不可能だ」

 でも僕にはそれほど確信がもてない。父が殺されたのは、頭の中で計算してみると、ちょうど僕のシャツにべったりと血がついていた日なのだ。(中略)

「ねえ大島さん、父親が何年も前から僕に予言していたことがあるんだ」

「予言?」

「このことはまだほかの誰にも話したことがないんだ。正直に話しても、たぶん誰も信じてはくれないと思ったから」

 大島さんはなにも言わずに黙っている。でもその沈黙は僕を励ましてくれる。

 僕は言う。「予言というよりは、呪(のろ)いに近いかもしれないな。父は何度も何度も、それを繰りかえし僕に聞かせた。まるで僕の意識に鑿(のみ)でその一字一字を刻みこむみたいにね」

 僕は深く息を吸いこむ。そして僕がこれから口にしなくてはならないものごとをもう一度確認する。もちろん確認するまでもなく、それはそこにある。それはいつだってそこにある。でも僕はその重みをもう一度測ってみなくてはならない。

 僕は言う。「お前はいつかその手で父親を殺し(・・・・・・・・・・・・・・・)、いつか母親と交わることになる(・・・・・・・・・・・・・・)って」

 それをいったん口に出してしまうと、あらためてかたちある言葉にしてしまうと、僕の心の中に大きな空洞のような感覚が生まれる。その架空の空洞の中で、僕の心臓は金属的な、うつろな音をたてている。大島さんは表情を変えずに、長いあいだ僕の顔を見ている。

「君はいつか君の手でお父さんを殺し、いつかお母さんと交わることになる――そうお父さんが言ったわけだね」

 僕は何度かうなずく。

「それはオイディプス王が受けた予言とまったく同じだ。そのことはもちろん君にはわかっているんだろうね?」

 僕はうなずく。「でもそれだけじゃない。もうひとつおまけがある。僕には6歳年上の姉もいるんだけど、その姉ともいつか交わることになるだろうと父は言った」

「君のお父さんはそれを君に向かって予言したんだね?」

そうだよ。でもそのとき僕はまだ小学生で、交わる(・・・)という言葉の意味もわからなかった。それが理解できたのは何年もあとのことだった」(中略)

 大島さんは言う。「君のお父さんの作品をこれまで何度か実際に見たことがある。才能のある優れた彫刻家だった。オリジナルで、挑戦的で、おもねるところがなく、力強い。彼の造っているものはまちがいなく本物だった」

「そうかもしれない。でもね、大島さん。そういうものをひっぱりだしてきたあとの残りかすを、毒のようなものを、父はまわりにまきちらし、ぶっつけなくちゃならなかったんだ。父は自分のまわりにいる人間をすべて汚して、損なっていた。父が求めてそうしていたのかどうか、僕は知らない。ただそうしないわけにはいかなかったということなのかもしれない。もともとそういうふうにつくられていたということなのかもしれない。でもどっちにしても父はそういう意味では、とくべつななにか(・・・)と結びついていたんじゃないかと思うんだ。僕の言いたいことはわかる?」

「わかると思う」と大島さんは言う。「そのなにか(・・・)はおそらく、善とか悪とかいう峻別を超えたものなんだろう。力の源泉と言えばいいのかもしれない」

「そして僕はその遺伝子を半分受け継いでいる。母が僕を置いて出ていったのも、そのせいかもしれない。不吉な源泉から生まれたものとして、汚れたもの、損なわれたものとして僕を切り捨てたんじゃないのかな」(中略)

 僕は黙って自分の手を広げ、それを眺める。夜の深い闇の中で、真っ黒な不吉な血にまみれていたその両手を。

「正直なところ僕にはそれほど確信が持てないんだ」と僕は言う。

 僕は大島さんにすべてをうちあける。その夜、図書館からの帰りに何時間か意識をうしなって、神社の森の中で目を覚ましたとき、僕のシャツにはべっとりと誰かの血がついていたこと。その血を神社の洗面所で洗い流したこと。数時間分の記憶がまったく消えてしまっていること。話が長くなるので、その夜にさくらの部屋に泊まったところは省く。大島さんはときどき質問し、細かい事実を確認し、頭の中に入れていく。でもそれについての意見は口にしない。

「その血を僕がどこでつけてきたのか、それが誰の血なのか、まったくわからない。僕にはなにも思いだせない」と僕は言う。「でもね、メタファーとかそんなんじゃなく、僕がこの手でじっさいに父を殺したのかもしれない。そんな気がするんだ。たしかに僕はその日東京には戻らなかった。大島さんが言うようにずっと高松にいた。それはたしかだよ。でも『夢の中で責任が始まる』、そうだね?」

「イェーツの詩だ」と大島さんは言う。

 僕は言う、「僕は夢をとおして父を殺したかもしれない。とくべつな夢の回路みたいなのをとおって、父を殺しにいったのかもしれない」》

 

海辺のカフカ』14章、《ジョニー・ウォーカーはくすくすと笑った。「人が人ではなくなる」と彼は繰り返した。「君が君ではなくなる。それだよ、ナカタさん。素敵だ。なんといっても、それが大事なことなんだ。『ああ、おれの心のなかを、さそりが一杯はいずりまわる!』、これもまたマクベスの台詞だな」

 ナカタさんは無言で椅子から立ち上がった。誰にも、ナカタさん自身にさえ、その行動を止めることはできなかった。彼は大きな足取りで前に進み、机の上に置いてあったナイフのひとつを、迷うことなくつかんだ。ステーキナイフのような形をした大型のナイフだった。ナカタさんはその木製の柄を握りしめ、刃の部分をジョニー・ウォーカーの胸に根もと近くまで、躊躇なく突き立てた。》

 

海辺のカフカ』42章、《「わかっています。いろんなものをあるべきかたち(・・・・・・・)に戻すためですね」

 ナカタさんはうなずいた。「そのとおりです」

「あなたにはその資格がある」

「ナカタには資格ということがよくわかりません。しかし、サエキさん、いずれにせよそれは選びようのないことでありました。実を申しますと、ナカタは中野区でひとりのひとを殺しもしました。ナカタはひとを殺したくはありませんでした。しかしジョニー・ウォーカーさんに導かれて、ナカタはそこにいたはずの15歳の少年のかわりに、ひとりのひとを殺したのであります。ナカタはそれを引き受けないわけにはいかなかったのであります」》

 

<「復活」/田村カフカ≒アリョーシャ・カラマーゾフ

カラマーゾフの兄弟』第三部第七編第四章「ガリラヤのカナ」の最後に美しい場面がある。

《アリョーシャ(筆者註:卒業まで一年を残して中退し、三等車で故郷に戻っていた)は三十秒ほど、棺を、棺のなかでマントに覆われ、動かずにまっすぐ身を横たえている亡骸(筆者註:ゾシマ長老)を見つめた。胸に聖像をいだき、頭部にはギリシャ十字架のついた頭巾が被せられていた。アリョーシャはさっきその人の声を耳にしたばかりで、その声がまだ耳元で鳴りひびいていた。彼はなおも耳を傾け、声がひびくのを待っていた……が、いきなり身を翻すと、そのまま彼はふっと庵室を出て行った。(中略)

 微動だにしない、すがすがしい、静かな夜が大地を覆っていた。寺院の白い塔や、金色の円屋根が、サファイア色の空に輝いていた。建物のまわりの花壇では、豪奢な秋の花々が、朝までの眠りについていた。地上の静けさが、天上の静けさとひとつに溶けあおうとし、地上の神秘が、星たちの神秘と触れあっていた……アリョーシャは立ったまま、星空を眺めていたが、ふいに、なぎ倒されたように大地に倒れこんだ。(中略)

 そう、彼は、歓びにわれを忘れて泣いていたのだ。天蓋から彼にむかってささやく「自分のそうした有頂天を恥じてはいなかった」これらすべての、数限りない神の世界から伸びる糸が、彼の魂のなかでひとつに結びあい、「異界と触れ合うことで」魂全体が震えていたのだった。(中略)

 彼は、地面に倒れたときにはひよわな青年だったが、立ち上がったときには、もう生涯かわらない、確固とした戦士に生まれ変わっていた。歓びの瞬間に、彼はふいにそのことを意識し、感じとったのだ。そしてアリョーシャはその後、生涯にわたってこの瞬間を、けっして忘れることができなかった。「あのとき、だれかがぼくの魂を訪ねてきたのです」と、彼はのちに、自分の言葉へのしっかりとした信念をこめて、話したものだった……。

 三日後、アリョーシャは修道院を出たが、それは、今は亡き長老が命じた「俗世で生きるがよい」との言葉にも適(かな)っていた。》

 

 それに似た心象風景がある、メタファーのような。

海辺のカフカ』47章、《「さよなら、田村カフカくん」と佐伯さんは言う。「もとの場所に戻って、そして生きつづけなさい」

「佐伯さん」と僕は言う。

「なあに?」

「僕には生きるということの意味がよくわからないんだ」

 彼女は僕の身体から手を離す。そして僕の顔を見あげる。手を伸ばして、僕の唇に指をつける。

わけには

 彼女は去っていく。ドアを開け、振り向かずに外に出る。そしてドアを閉める。僕は窓辺に立ち、彼女の後姿を見おくる。(中略)

 眠っていた蜂が目を覚まし、僕のまわりをしばらく飛びまわる。そしてやがて思いだしたように、開いた窓から外に出ていく。太陽は照りつづけている。僕は食卓に戻り、椅子に腰掛ける。テーブルの上の彼女のカップには、まだ少しハーブ茶が残っている。僕はカップには手を触れず、そのままにしておく。そのカップは、やがて失われるはずの記憶の隠喩(いんゆ)のように見える。》

 

 続くソリッドな情景としての『海辺のカフカ』最終49章、《「君はこれからどうするつもりなんだい?」と大島さんは質問する。

「東京に戻ろうと思います」と僕は言う。

「東京に戻ってどうする?」

「まず警察に行って、これまでの事情を説明します。そうしないとこれから先ずっと警察から逃げまわることになるから。そしてたぶん学校に戻ることになると思います。戻りたくはないけれど、なんといっても中学校は義務教育だから、戻らないわけにはいかないと思う。あと何ヵ月か我慢すれば卒業できるだろうし、いったん卒業してしまえば、あとは好きなようにできる」

「なるほど」と大島さんは言う。目を細めて僕の顔を見る。「たしかにそれがいちばんいいかもしれない」

「そうしてもかまわないような気が、だんだんしてきたんです」

「逃げまわっていての、どこにも行けない」

「たぶん」と僕は言う。

「君は成長したみたいだ」と彼は言う。》

 

                              (了)

      *****引用または参照文献*****

村上春樹海辺のカフカ』(新潮文庫

ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟亀山郁夫訳(光文社古典新訳文庫

ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟原卓也訳(新潮文庫

ミハイル・バフチンドストエフスキー詩学』望月哲男・鈴木淳一訳(ちくま学芸文庫

スコット・フィッツジェラルドグレート・ギャツビー村上春樹訳(中央公論新社

レイモンド・チャンドラーロング・グッドバイ村上春樹訳(早川書房

村上春樹『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』(『文學界』2003年4月号「『海辺のカフカ』を中心に」聞き手湯川豊・小山鉄郎、他所収)(文藝春秋社)

村上春樹河合隼雄村上春樹河合隼雄に会いにいく』(岩波書店

*『文學界1985年8月号』(川本三郎との対談「「物語」のための冒険」)(文藝春秋社)

*『ユリイカ チャンドラー特集 1982年7月号』「川本三郎村上春樹 対話R・チャンドラーあるいは都市小説について」(青土社

*ドストエフスキー『分身』江川卓訳(『ドストエフスキー全集1に所収』(新潮社)