文学批評 デュラス『愛人』とバルト『明るい部屋』――「存在しない写真」と「時間」

 

 

 

<デュラス『愛人』>

 よく知られているように、マルグリット・デュラス『愛人』(『ラマン』)は次の文章から始まる。

《ある日、もう若くはないわたしなのに、とあるコンコースで、ひとりの男が寄ってきた。自己紹介をしてから、男はこう言った。「以前から存じあげてます。若いころはおきれいだったと、みなさん言いますが、お若かったときよりいまのほうが、ずっとお美しいと思ってます、それを申しあげたかったのでした、若いころのお顔よりいまの顔の方がほうが私は好きです、嵐のとおりすぎたそのお顔のほうが」》

 

 一行空いて、「映像(イマージュ)」の話になる。

《わたしはよくあの映像(イマージュ)のことを考える、いまでもわたしの眼にだけは見えるあの映像(イマージュ)、その話をしたことはこれまで一度もない。いつもそれは同じ沈黙に包まれたまま、こちらをはっとさせる。自分のいろいろな像のなかでも気に入っている像だ、これがわたしだとわかる像、自分でうっとりとしてしまう像。》

 

《言いそえれば、わたしは十五歳半だ。

 メコン河を一隻の渡し船がとおってゆく。

 その映像は、河を横断してゆくあいだじゅう、持続する。

 わたしは十五歳半、あの国には季節のちがいはない。いつも、同じひとつの、暑い、単調な季節、ここは地球の上の細長い熱帯、春はない、季節のよみがえりはない。》

 

《まさにこの旅の途中で、あの映像(イマージュ)ははなれて浮かびあがったのであろう、あの映像(イマージュ)が全体から取り出されたのであろう。その像は現実に存在することができたかもしれない、写真を一枚撮るということがありえたかもしれない、ほかの場所、ほかの場合の写真はあるのだから。しかし、それは写真には撮られなかった。あまりにささやかで、写真を撮ろうという気持をそそらぬ対象だった。だれがそんなことを考えることができたろう。写真を撮るということがありえたとしたら、だれかが、わたしの人生におけるあの事件の重大さを、あの河の横断の重大さをその場で判断できた場合にかぎる。ところが、渡し船が河を横切ってゆくときには、そんな像が存在するということまでは、まだだれも知らなかった。知っているのは神だけだった。だからこそ、あの像は、――そう、そうでしかありえなかったのだ――あの像は存在しない。それは省かれてしまった。忘れられてしまった。それだけがはなれて浮かぶあがり、全体から取り出されることが現実にはなかった。この像がつくられることはなかったというこの欠如、まさにこの欠如態のおかげで、この像は独自の力、ある絶対を表現しているという力、まさしくこの像の産出者であるという力をもっている。》

 

 その映像(イマージュ)(写真)は存在しない、という。欠如ゆえの絶対、空虚、不在による現前性の強度、というのはデュラスの核心だ。

《あの日の娘の服装で、異様さ、途方もなさをなしているのは靴ではない。あの日のありようはというと、娘は縁(つば)の平らな男物の帽子、幅ひろの黒いリボンのついた紫檀色のソフトをかぶっている。

 あの映像の決定的な多義性、それはこの帽子にある。

 どんなわけでその帽子がわたしの手もとに辿りついたか、忘れた。だれからもらったのだろう、思いつかない。母が買ってくれたのだろうと思う、それもわたしのほうから頼んで。》

 

 写真に映っている母に何度か言及する。それは絶望の写真ではあっても、絶対の写真ではないだろう、存在しているがゆえになおさら。

《縁(つば)が平らで幅ひろの黒いリボンのついた紫檀色の帽子を買ってくれたのはこの女(ひと)、ある写真に映っている女(ひと)、わたしの母だ。もっと最近の写真もいろいろとあるけれど、この写真のほうがわたしにとってはずっと母らしい。場所はハノイの小湖(プチ・ラック)に面した家の中庭。家族全員がそろっている、母とわたしたち、つまり子供たち。わたしは四歳。母は中央にいる。母がどれだけ居心地が悪いか、微笑みもせず、はやく終らないかとどんなに待っているか、わたしには手にとるようにわかる。やつれた顔、身なりにうかがわれるある種のだらしなさ、眼差のけだるさから、この日が暑い日で、母が疲労困憊して気力をなくしている、とわかる。》

 

《あのころのわたしは、縁(つば)の平らな同じような帽子をかぶり、編んだお下げを身体のまえに垂らしているインドシナの女たちの出てくる映画を見たことが一度もなかった。あの日はわたしも編んでお下げにしているが、いつもやるようにその三つ編みを上にはあげなかった、といっても映画のなかのインドシナの女たちのとはちがう。(中略)わたしの髪は重たく、しなやかで、悲しげだ、腰まで届く赤銅色の集積(マッス)。それがわたしの一番きれいなところだとよく言われるけれど、それはつまりわたしが美人ではないという意味だと自分では理解している。この注目に価した髪を、わたしは二十三歳のときパリで切ってしまうことになるだろう、母と別れて五年後に。》

 

渡し船の上では、ごらんなさい、まだ髪を長くしている。十五歳半。すでにわたしはお化粧をしている。トカロン・クリームを塗り、頬骨のあたり、眼の下にある雀斑を隠そうと努める。》

 

《ソフト帽の娘は、大河の泥のような光のなかで、ただひとり渡し船の甲板に立ち、手すりに肱をついている。男物の帽子が情景全体を薄い紫檀色に染める。色彩はそれだけだ。靄をとおして大河に照りつける陽光のなかで、暑い陽光のなかで両岸は消え、河はまるで地平線とつながっているように見える。》

 

《だれがあの絶望の写真を撮ったか、わたしは知らない。ハノイの家の中庭での写真。もしかしたら父が最後に撮った一枚か。数か月後には父は健康上の理由でフランスに帰国させられるだろう。》

 

《映像は、手すりに倚る白人の娘に男が言葉をかけるよりまえに、男が黒塗りのリムジンから降りたときから始まる、男が娘に近づきはじめ、娘のほうでは男が怯じけづいていると気がついていたときから。》

 

《ときどき母は宣言する、明日、写真屋に行くわよ。値段が高いとこぼすが、それでもやっぱり家族の写真のために出費を惜しまない。写真、みんなはそれをしげしげと見る、たがいにしげしげと見ることはないが、写真はしげしげと見る、ひとりひとり別々に、註釈(コメント)などひとことも加えずに、それでもじっと見ている、自分たちの姿を見ているのだ。》

 

『愛人』は最初、「絶対の写真」(photo absolue)と名づけられていた。

 訳者清水徹の「解説――『愛人』とデュラスの世界」にもあるように、作品発表直部に受けた「ヌーベル・オプセルヴァトゥール」誌によるインタビューで、『愛人』のテクストは、はじめ「絶対の写真」(photo absolue)(または「絶対の映像」(L’image absolue))と名づけられて、デュラスの写真を集めたアルバムにつけるためのものだった、と発言していることはよく知られる。版元から依頼されたもので、本来は写真に対する註釈(コマンテール)となるはずだった、と。

 つづけて、『愛人』に変遷する経過についてデュラスは語る。

《「あの映像、写真には撮られることのなかった、絶対の写真が本の中に入ってきました。それは、渡し船による川の横断と関わるものだったのかもしれません。この中心的な映像は、おそらくもはや存在してはいない。あの渡し船と同じように、破壊されてしまったあの風景、そしてまた、あの国と同じように、私以外の誰も知ることのないものであり、私によってしか、私が死ぬことによってしかなくなることはありません。しかし、それは存在し、目にみえるままであり続けるのかもしれません。その存在、「網膜的な」永続は、そこに、本の中に、とどめられたままでいるのかもしれません。」》

 

<バルト『明るい部屋』>

《結局のところ――あるいは、極限においては――写真をよく見るためには、写真から顔を上げてしまうか、または目を閉じてしまうほうがよいのだ。《映像の前提条件となるのは、視覚である》と、ヤノーホがカフカに言うと、カフカは微笑してこう答えたという。《いろいろなものを写真に撮るのは、それを精神から追い払うためだ。私の小説は目を閉じる一つのやり方なのである》と。》

 

《ところで、母の死後まもない、十一月のある晩、私は母の写真を整理した。母を《ふたたび見出そう》と思ったのではない。《写真を見てある人のことを思い出すよりも、その人のことを考えるだけにしておくほうが、もっとよく思いだせる、そうしたたぐいの写真》(プルースト)に、私は何も期待してはいなかった。思い出すことができないという宿命こそ、喪のもっとも耐えがたい特徴の一つなのであるから、映像に頼ってみたところで、母の顔立ちを思い出すこと(そのすべてを私の心に呼びもどすこと)はもはや決してできないだろう、ということはよくわかっていた。いや、私は、ヴァレリーが母親の死に際して心から願ったように、《ただ自分だけのために、母を偲ぶささやかな本を書こう》と思ったのだ(印刷されることによって、母の思い出が、せめて私自身の名が知られているあいだだけでも消えずにいるように、おそらく私はいつかそうした本を書くだろう)。それにまた、私の手許にある母の写真は、どれも私の好きな写真であるとは言いがたかった。ただ、私がすでに公表した一枚の写真だけは別だった。そこには、ランド地方の砂浜を歩いている若い母が写っていて、私は母の歩き方や健康や明るさを《ふたたび見出す》――が、しかし顔は、遠すぎてはっきりしない。私は母の写真にじっと眺め入ることもなく、我を忘れて没入することもなかった。つぎつぎに手にとって見たが、どれも本当に《良い》写真であるとは思われなかった。写真としての出来ばえも良くないし、愛する母の顔を生き生きとよみがえらせてもいない。いつか友人たちに見せるような機会があっても、それらの写真が彼らに語りかけるかどうか疑問だった。》

 

「温室の写真」を見出す。

《かくして私は、母を失ったばかりのアパルトマンで、ただ一人、灯火のもとで、母の写真を一枚一枚眺めながら、母とともに少しずつ時間を遡り、私が愛してきた母の顔の真実を探し求め続けた。そしてついに発見した。

 その写真は、ずいぶん昔のものだった。厚紙で表装されていたが、角がすり切れ、うすいセピア色に変色していて、幼い子供が二人ぼんやりと写っていた。ガラス張りの天井をした「温室」のなかの小さな木の橋のたもとに、二人は並んで立っていた。このとき(一八九八年)、母は五歳、母の兄は七歳だった。少年は橋の欄干に背をもたせ、そこに腕を乗せていた。少女は、その奥のほうにいて、もっと小さく、正面を向いて写っていた。(中略)

 私は少女を観察して、ついに母を見出した。少女の顔の明るさ、その手の無邪気なポーズ、出しゃばるわけでもなく隠れるわけでもなく、ただ素直に身を置いたその位置、そして「善」が「悪」から区別されるように、彼女をヒステリックな小娘や大人をまねてしなをつくるかわいいだけの女の子から区別する、その表情、それらすべてが至高の純真無垢(・・・・)の姿を表していた(ここでは、この純真無垢(イノサンス)という語を、語源に従って、《人を傷つけることを知らない》という意味にとっていただきたい)。それらすべてが、この写真の少女のポーズを、ある維持しがたい逆説的な姿勢、母が生涯維持してきた姿勢に変えていた。すなわち、やさしさを主張するということ。この少女の実体をただちに、そして永久に形づくったところのものであるが、少女はそれを誰から受けついだわけでもなかった。かかる善意が、彼女をろくに愛しもしなかった不出来な両親、つまり要するに、ある家系から、どうして生ずることがありえよう? 彼女の善意はまぎれもなく例外だった。(中略)《正しい映像などはない、ただの映像があるだけだ》、とゴダールは言った。しかし私の悲しみにとっては、正しい映像、正当でかつ正確な映像が必要だった。ただの映像にすぎないとしても、正しい映像が必要だった。私にとっては、「温室の写真」がそれだった。

 ただ一度だけ、写真が、思い出と同じくらい確実な感情を私の心に呼びさましたのだ。それはプルーストが経験した感情と同じものである。彼はある日、靴を脱ごうとして身をかがめたとき、とつぜん記憶のなかに祖母の本当の顔を認め、《完璧な無意識的記憶によって、初めて、祖母の生き生きとした実在を見出した》のである。シュヌヴィエール=シュル=マルヌの町の名も知れぬ写真家が、自分の母親(あるいは、よくわからないが、自分の妻)の世にも見事な一枚の写真〔写真17〕を遺したナダールと同じように、真実の媒介者となったのだ。その写真家は、職業上の義務を超える写真を撮ったのであり、その写真は、写真の技術的実体から当然期待しうる以上のものをとらえていたのだ。さらに言うなら(というのも、私はその真実が何であるかを言おうとつとめているのであるから)、この「温室の写真」は、私にとって、シューマンが発狂する前に書いた最後の楽曲、あの『朝の歌』の第一曲のようなものだった。それは母の実体とも一致するし、また、母の死を悼む私の悲しみとも一致する。この一致について語るためには、形容詞を無限に連ねていくしかないであろう。そのようなことは割愛するが、しかしこの写真には、母の実体を構成するありとあらゆる属性が盛り込まれている、ということは確かだった。この写真とは逆に、そうした属性の一部が欠けるかまたは変質すると、母のほかの写真のようになってしまって、私を満足させることができなかったのだ。そうした写真は、現象学で言うところの《任意の》対象であって、ただ類似しているにすぎず、ただ単に母の自己同一性を示すだけで、母の真実は示されないのだ。しかし「温室の写真」はと言えば、まさしく本質的な写真であった。私にとって、それは、唯一(・・)の(・)存在(・・)を(・)扱う(・・)ありえない(・・・・・)科学(・・)というユートピアを実現させてくれるのであった。》

 

《私はまたつぎのことも考察から省くわけにはいかなかった。すなわち、私は「時間」を遡ることによってその写真を発見した、ということである。ギリシア人たちは、あとずさりしながら「死の国」に入っていったという。つまり彼らの目の前にあったのは、彼らの過去であった。同様にして私は、一つの人生を、私の一生ではなく私の愛する母の一生を遡っていった。死ぬ前の夏に撮った母の最後の映像(私の友人たちに囲まれ、わが家の門の前に坐っている、いかにも疲れきった、いかのも気高い姿)から出発して、私は四分の三世紀を遡り、一人の少女の映像に到達したのだ。私は目をこらして少女時代の、母の、母=少女の「最高善」の姿を見る。確かに、そのとき、私は母を二重に失おうとしていた。人生の最後の疲労につつまれた母と、最初の写真、私にとっては最後の写真に写っている母とを。しかしまた、まさにそのとき、すべてがひっくりかえり、私はついに、母のあるがままの姿(・・・・・・・)を見出したのである……》

 

 ところが「温室の写真」は掲載されない。排除される、空虚、欠如。読者にとって、存在させられない。「時間」の遡行。「時間」のめまい。

《その特別な写真のなかには、何か「写真」の本質のようなものが漂っていた。そこで私は、私にとって確実に存在しているこの唯一の写真から。「写真」のすべて(その《本性》)を《引き出す》こと、その写真をいわば導き手として私の最後の探求をおこなうことに決めた。この世にある写真の全体は一つの「迷路」を形づくっていた。その「迷路」のまっただなかにあって、私は、このただ一枚の写真以外に何も見出せないことを知り、ニーチェの警句を地で行くことにしたのだ。すなわち《迷路の人間は、決して真実を求めず、ただおのれを導いてくれるアリアドネを求めるのみ》。「温室の写真」は。私のアリアドネだった。それが何か隠されたもの(怪物や宝物)を発見させてくれるからではない。そうではなくて、私を「写真」のほうへ引き寄せるあの魅力の糸が何で出来ているのかを私に告げてくれるだろうからである。これからは、快楽の頂点に立つのではなく、ロマン主義的に言えば愛や死と呼ばれるであろうものとの関連において、「写真」の明証を問わなければならない、ということを私は理解したのだった。

(「温室の写真」をここに掲げることはできない。それは私にとってしか存在しないのである。読者にとっては、それは関心=差異のない一枚の写真、《任意のもの》の何千という表われの一つにすぎないであろう。それはいかなる点においても一つの科学の明白な対象とはなりえず、語の積極的な意味において、客観性の基礎とはなりえない。時代や衣装や撮影効果が、せいぜい読者のストゥディウム(筆者註:バルトによれば、《あるものに心を傾けること、ある人に対する好み、ある種の一般的な思い入れを意味する。その思い入れには確かに熱意がこもっているが、しかし特別な激しさがあるわけではない。私が多くの写真に関心をいだき、それらを政治的証言として受けとめたり、見事な歴史的画面として味わったりするのは、そうしたストゥディウム(一般的関心)による》、《文化的なものであるという共示的意味(コノテーション)が含まれている》、ラテン語のstudium。バルトは、対する第二の要素をプンクトゥム(punctum)と呼び、《ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然なのである》。)をかきたてるかもしれぬが、しかし読者にとっては、その写真には、いかなる心の傷もないのである。)》

 

《それゆえ、「写真」のノエマの名は、つぎのようなものとなろう。すなわち、《それは(・・・)=かつて(・・・)=あった(・・・)》、あるいは「手に負えないもの」である。ラテン語で言えば、それはおそらく《interfuit》〔動詞intersum「~のあいだにある、相異する、居合わせる」の完了過去〕ということになろう(ラテン語を使えばさまざまなニュアンスが明らかになるのだから、これは必要なペダンティスムというものである)。つまり、いま私が見ているものは、無限の彼方と主体(撮影者(・・・)または観客)とのあいだに広がるその場所に、そこに見出された。それはかつてそこにあった、がしかし、ただちに引き離されてしまった。それは絶対に、異論の余地なく現前していた。がしかし、すでによそに移され相異している。Intersumという動詞には、まさにそうした意味がすべて含まれているのである。

 写真の日常的な氾濫と、写真が呼び起こしているように思われるさまざまな形の関心のため、《それは(・・・)=かつて(・・・)=あった(・・・)》というノエマは、抑圧されることはない(ノエマは抑圧されない)としても、わかりきった特徴として無関心に生きられるおそれがある。「温室の写真」は、まさにそうした無関心から私の目を覚まさせたところであった。》

 

《母のあの写真が黄ばみ、色あせ、うすれていって、いつの日にか私の手でごみ箱に捨てられるとき――といっても、私は迷信深いから、まさかそうはしないだろうが――、少なくとも私の死後に捨てられるとき、いったい何が失われてゆくのであろうか? 失われてゆくのはただ単に《生命》(それは生きていて。カメラの前でポーズをとった)だけではない。ときにはまた、何と呼んだらよいのか、愛が失われてゆくのである。父と母が互いに愛し合っていたことを私は知っているが、その二人が並んで写っている唯一の写真を見て私はこう思う。永久に失われてしまうのは、宝のような愛である、と。なにしろ私がいなくなれば、もはや誰もそれについて証言することはできないからである。》

 

《私は文化的な関心の場(ストゥディウム)と、ときおりその場を横切りにやって来るあの思いがけない縞模様とを、区別することができると考え、この後者をプンクトゥムと呼んできた。さて、いまや私は、《細部》とはまた別のプンクトゥム(別の《傷痕(スティグマ)》)が存在することを知った。もはや形式ではなく、強度という範疇に属するこの新しいプンクトゥムとは、「時間」である。「写真」のノエマ(《それは(・・・)=かつて(・・・)=あった(・・・)》)の悲痛な強調であり、その純粋な表象である。(中略)

 少女だった母の写真を見て、私はこう思う。母はこれから死のうとしている、と。私はウィニコット精神病者のように、すでに起こってしまっている破局(・・・・・・・・・・・・・・・)に戦慄する。被写体がすでに死んでいてもいなくても、写真はすべてそうした破局を示すものなのである。(中略)そこでは「時間」の圧縮がおこなわれ、それはすでに死んでいる(・・・・・・・・・・・)、と、それはこれから死ぬ(・・・・・・・・・)、とが一つになっているのだ。》

 

 

 デュラスにとっても、バルトにとっても、「存在しない写真」とは、絶対の写真の欠如とは、「時間」の遡行、「時間」のめまいであり、その不可能性は、「時間」というプンクトゥム、《それは(・・・)=かつて(・・・)=あった(・・・)》という映像(イマージュ)の表象であった。

                                (了)

         *****引用または参考文献******

マルグリット・デュラス『愛人 ラマン』清水徹訳(河出書房新社

*『マルグリット・デュラス 生誕100年愛と狂気の作家』(「対談 港千尋×塚本昌則 存在しない写真へのまなざし」他所収)(河出書房新社

*『ユリイカ 増頁特集 マルグリット・デュラス』(青土社

マルグリット・デュラス/ミシェル・ポルトマルグリット・デュラスの世界』桝田かおり訳(青土社

*アラン・ヴィルコンドレ=文、ジャン・マスコロ=写真コレクション『デュラス[愛の生涯]』田中倫郎訳(河出書房新社

ロラン・バルト『明るい部屋 写真についての覚書』花輪充訳(みすず書房

*芦川智一『『愛人』における「絶対の映像」について――写真をめぐるディスクールとしての『愛人』』(成城大学フランス語フランス文化研究会機関紙『AZUR』第1号)

*『現代詩手帖 ロラン・バルト 1985年12月臨時増刊』(多木浩二「パトス/現実(レエル)/想像的(イマジネール)なもの 『明るい部屋』を読む」、他所収)(思潮社

青弓社編集部編『『明るい部屋』の秘密 ロラン・バルトと写真の彼方へ』(滝沢明子「ロラン・バルト『明るい部屋』考察――写真の時間と狂気」、松木健太郎「言語と写真――ロラン・バルトの『明るい部屋』における時間遡行の意義」、他所収)(青弓社

 

オペラ批評 ワーグナー『トリスタンとイゾルデ』――「沈黙」と「愛死」に関する引用ノート

 

 

 誰しもワーグナートリスタンとイゾルデ』を論じるとなれば、ニーチェの『この人を見よ』の《あれこれ考え合わせてみると、私はヴァーグナーの音楽がなかったら、私の青年期を持ちこたえることが出来なかったと思う。(中略)レオナルド・ダ・ヴィンチの示すあらゆる異様な魅力も、『トリスタン』の最初の一音で魔力を失ってしまうであろう》あたりの、いかに『トリスタンとイゾルデ』に麻薬的に魅了されたことから始まって(そして後年のニーチェの愛憎相半ばしたワーグナーへの毀誉褒貶のいきさつも眺めたうえで)、トーマス・マンの『リヒャルト・ヴァーグナーの苦悩と偉大』におけるショーペンハウアーの「意志と表象」、ドイツ・ロマン派のノヴァーリスへの言及や、マン『トリスタン』の短篇小説的魅力解説に触れるだろう。

 そのうえで、マティルデ・ヴェーゼンドーク宛の書簡(『トリスタンとイゾルデ』の産みの苦悩と愉楽、『トリスタン』前奏曲についての解説)や、ワーグナーによる「日記」、「未来音楽」、「移行の技法」といった音楽秘法的な一文を引用紹介するとともに、「トリスタン和音」「半音階」「モチーフ」について言及するのが一般的だ。

 ちょっと捻ったところでは、三島由紀夫が自分の原作を監督・脚色・主演で映画化した『憂国』があげられる。三島が選択した背景音楽は『トリスタンとイゾルデ』で、三十分ほどの映画で、九分の「第三章 最後の交情」は『トリスタンとイゾルデ』の第二幕の交情に、八分もの「無為の待機」として「沈黙」のうちに続く「第四章 武山中尉の切腹」は第三幕の「愛死」に合致する音楽であることに違いない。しかし、丸谷才一が「女の救はれ」で論じたような、日本文学における「お初徳兵衛」「梅川忠兵衛」「小春治兵衛」「お染久松」「おかる勘平」といった女人の名が先に来る仏教的な救われではなく、あくまでも男トリスタンが主体(シェイクスピアロミオとジュリエット』、ダンテ『神曲』の「パオロとフランチェスカ」も同様)であって、しかもワーグナーに顕著な、女に救われる男の独りよがりな死への悦楽と言えるだろう。

 他にも、近松心中物(皮肉なことに形而上的なものの欠如ゆえに涙を誘う)との比較論や、T.S.エリオット『荒地』での『トリスタンとイゾルデ』からのパスティーシュや、村上春樹文学におけるワーグナーの登場頻度などを語ることができようが、ここでは寄り道しない。

 それらよく知られた道筋、解説は容易にたどれる(アッティラ・チャンパイ、ディートマル・ホラント編『名作オペラブックス ワーグナー トリスタンとイゾルデ』は網羅的だ)ことから、ここでは『トリスタンとイゾルデ』における哲学的問題としての「沈黙」と「愛死」に関する優れた論考を引用したい。

 

「沈黙」については、カール・ダールハウスとハンス・マイヤーの論考が核心を摘出している。

 

<「ハンドゥルング(行為、劇の展開)」>

《《トリスタン》はワーグナーによって<ハンドゥルング(行為、劇の展開)>(<音楽劇>ではなく)と副題を与えられているのだが、このシンプルな表記は人目を引かずにはおかない。実際《トリスタン》は、通常の概念からするとドラマとも叙事詩劇とも言えない代物なのである。もっともワーグナーは通常の概念など拒み続けてきたのであるが。3幕目の真中に位置しているという以上に、内容的にも作品の中心をなす第2幕において、無音のカタストローフとして成就するもの、それは、行為も、それどころか、そもそも言葉すら持たずに立ち現れる。すなわち、トリスタンとイゾルデの対話は伝統的ドラマの対照法からあまりにかけ離れており、いま話しているのが果たしてトリスタンなのか、イゾルデなのかほとんどどちらでも良いようにみえ、彼らの話す文あるいはその断片は交換が可能で、実際しばしば交換されている。》(カール・ダールハウストリスタンとイゾルデ」から)

 

 

 

<内面的な>

《第3幕について、すなわちトリスタンの負傷、カレオールへの逃亡、そして<女医イゾルデ>への苦渋に満ちた待望等は、――誤解に基づくマルケ王の和解について沈黙するために――ワーグナーによる筋書スケッチでは語られていない。このことが意味するのは、そもそも語り得るような<出来事>は、内面の出来事として、第2幕の出来事を持たない会話においてすでに先取りされていたものであり、それがここで外に現れたものに他ならないということである。「救済があるとしたら、それは唯一、死のみだ、没落すること、もはや目覚めないということだ!」。(中略)

 ワーグナー1860年に《未来音楽》の中で《トリスタン》についてこう書いている。「私の《トリスタン》詩劇をひと目見ていただければ、ただちにおわかりになると思いますが、歴史的題材を扱う詩人は、内面的モチーフを明白に示すのを不利益と考えて、行為の外的連関をこと細かく、詳しく説明するのに躍起のようですが、私はあえてこの内的モチーフだけを使うことにしました。つまり、完全に人を把える行為が現れるのは、最も内面的な魂がそれを必要とするときだけなのです。そして、それは内面であらかじめ形作られているそのままの姿で明るみに出るのです」。

 ドラマは少なくとも近代的な意味においては、いわば行為の媒体である対話において構成されるのであるが、この決定的な要因を、ワーグナーは《トリスタン》が<ハンドゥルング>の典型だと宣言するとき(これはじつは<ドラマ>を意味しているのだが)見誤っているのである。このことはしかし、この作品にドラマの弁証法が欠けているということではない。第2幕にある対話の本質はまさに弁証法なのである。とはいえ、この対話はドラマの規範に反して2人の人物の間の会話としてではなく、この人物の内面での内的な共有の事件として展開するのだ。》(同上)

 

<「響きわたる沈黙という深遠なる技法」>

《愛し合う2人の間で本当の会話が交されるべきときに、会話は我と汝の共存ではなく、我をもう一方の我の中で放棄することを目指す。愛し合う2人の返答は交換可能なのである。あの夜もまた真理へではなく、自己放棄の過程へと通じている。この過程は――いかなる死亡よりも前にすでに――死を意味し、と同時に歌をも意味するものである。したがってリヒャルト・ワーグナーの「響きわたる沈黙という深遠なる技法」という言葉は本当はそのように理解されねばならない。

 この愛の歌は、昼と妄想、生と名誉、憎悪と黙秘の終焉を告げ知らせるためのものなどではない。それは同時に2つのこと、つまり沈黙と音、死と歌とをもたらすのである。もし次のように考えるならば、それはトリスタンの底知れぬ深さを見誤っていることになるだろう。つまり、あのロマンティックな一夜のお膳立てが、昼と社会のあらゆる因襲から解放することによって、愛し合う2人に心の充足をもたらしたのだと考え、ここ、すなわちあの愛の一夜において人間の自己疎外の止揚が成功していて、それは、ちょうどシラーSchillerの《歓喜に寄せる歌Lied an die Freude》が伝え、またベートーヴェンの《第9交響曲》が奏でようとしたあの魔力、<時流>つまり因襲のあらゆる制約を勇ましく打ち破る人間的共感という、歪められていない真の感覚の魔力と似たようなものなのだと考えるならば。リヒャルト・ワーグナーベートーヴェンの最後の交響曲を好んでいた。しかし《トリスタン》は、ブルジョア社会における人間の自己疎外を啓蒙や倫理的な芸術によって取り除こうというこのような努力を引きつぐものではない。》(ハンス・マイヤー「トリスタンの沈黙」から)

 

<「黙することを私は学んだ」>

《トリスタンはアイルランドの王妃と彼女の医術の神通力を知っている。瀕死のタントリスは彼女のもとに教えを請いに行く。沈黙をも彼はそこで学ぶのである。「沈黙の姫」――船の天幕で最初に再会した際、この愛する敵の王妃のことをトリスタンはそう呼ぶ。もはや肝要なのは死ぬことであると悟ったとき、《トリスタン》の台本の大きな特徴である対照法の言いまわしを用いて、「気が鬱(ふさ)ぐ」と言う。

  沈黙の姫が黙っておいでですから/私も黙っています/姫が隠しておられることは、私にもわかっていますが/姫がおわかりにならないことは、私も黙っています

 沈黙の姫が沈黙を教える。彼女のもとで学んだトリスタンは沈黙の術に関してはいまやこの姫さえも凌駕したと考える。なぜなら彼は彼女が隠して言わなかったことを見抜いていて、しかし自分が彼女に隠さねばならなかったことは知られていないと思い込んでいるからである。しかしそれは思い違いなのだ。なるほどイゾルデはタントリス(筆者註:トリスタンの偽名)の事情をトリスタンに思い返させていた。「黙することを私は学んだ」、そして死の誓い、「このことは沈黙を守ると誓ったのだ」。しかし内心ひそかに彼女は彼女でまた別のことに気づいていたのである。イゾルデの「私の夫として選ばれた者が――私のもとから失われた」という言葉は、単に彼女がトリスタンを愛していると内心気づいていることを意味している。》(同上)

 

「愛死」についてはスラヴォイ・ジジェクが『オペラは二度死ぬ』で長い論考を提出している。

 

ショーペンハウアー経由の)仏教的涅槃と形而上学的エロティシズムと>

《では、イゾルデはなぜ歌うのか。まず最初に銘記すべきは、イゾルデの最後の歌がもつ、行為遂行的で自己再帰的〔自己反省的〕な側面である。(中略)崇高な愛死Liebestodの瞬間にあっては、イゾルデの歌そのものが問題となるのである。ここで歌は単に彼女の内面を、命をすてることによってトリスタンと結合するという彼女の願望を、表現しているだけではない。彼女は歌うことによって、歌に没入することによって、死ぬのである。いいかえれば、声との同一化の高まりこそが、彼女の死の手段なのである。

 では、何がこの愛死を構成しているのだろうか。答え、つまり(ショーペンハウアー経由の)仏教的涅槃と形而上学的エロティシズムとのワーグナーによる折衷主義的な結合という答えは、明白であるようにみえる。構造的な対立は、昼と夜のあいだにある。つまり、象徴的な責務および名誉からなる昼の宇宙と、夜においてその宇宙がエロティックな自己消去へとむかう「至高の悦楽höchste Lust」を通じて廃棄されることとのあいだにある。》(スラヴォイ・ジジェク『オペラは二度死ぬ』から)

 

<生を過剰に享楽したいという欲望>

フロイトによるエロスとタナトスの対置に対してワーグナーがあたえる解決は、その二極の同一性である。つまり、愛そのものは死において極点に達するのであり、愛の真の対象は死であり、愛する者を恋いこがれることは死を切望することなのである。フロイトのいう死の欲動Todestrieb)は、ワーグナー的主人公にとりついた衝動なのだろうか。われわれは、まさにワーグナーを参照することによって、フロイトのいう死の欲動は、自己消滅に対する、いかなる生の緊張もない無生物的な状態への回帰に対する渇望とはいっさい関係がない、ということを理解できるようになる。死の欲動は、死に安らぎを見出すことを望むワーグナーの主人公に備わっているのではない。それとは逆に、死の欲動は、死ぬこととは正反対のもの(・・・・・・・・・・・・)――死を迎えられないまま続く永遠の生そのものの状態につけられた名前、罪と苦痛にさいなまれながら、いつまでもひたすら彷徨を続けざるをえないという恐るべき運命に対してつけられた名前――である。したがって、ワーグナー的主人公が終局でむかえる死(オランダ人、ヴォータン、トリスタン、アムフォルタスの死)は、彼らが死の欲動の支配から解放(・・)される瞬間なのである。トリスタンが第三幕において絶望的な状態にあるのは、死への恐怖からではない。イゾルデがいなければ彼は死ぬことができず、永遠の渇望状態にとまることになってしまうからなのだ。彼は死を可能なものにするために、イゾルデの到着を待ちこがれる。彼が恐れるのは、イゾルデを見ぬままに死ぬこと(恋する者によくありがちな不満)ではなく、むしろ、彼女を欠いたまま終わりなき生を送ることなのである。したがって、ここでフロイトのいう死の欲動のパラドクスがはっきりする。死の欲動とは、その語が予想させる意味とは正反対のことに対して、不死ということ(・・・・・・・)が精神分析の内部に現れる事態に対して、生の不気味な過剰性に対して、生と死、生成と頽廃の(生物学的な)循環をこえて存在しつづける不死の衝動に対してフロイトがつけた名前なのである。精神分析の究極の教えは、人間の生はけっして「単なる生」ではないということである。つまり、人間は単に生きているのではなく、日常的な事物の成り行きを脱線させる剰余に強い愛着をいだきながら、生を過剰に享楽したいという欲望に取り憑かれているのである。

 過剰なまでに満たされた生を経験すべくそのように奮闘すること。それがワーグナーのオペラの内容である。この過剰性は、主体を不死の状態にする傷というかたちをとって人間のからだに刻印され、死ぬための力を主体から奪っている。》(同上)

 

<侵犯行為>

トリスタンとイゾルデの神話は、愛とは、あらゆる社会的、象徴的紐帯を一時無効にするラディカルな侵犯行為である、という宮廷恋愛の原則をあますところなく表現した最初のものである(この原則が必然的に行き着く先は、愛と結婚は両立しえないということである。社会的、象徴的な責務にしばられた宇宙の内部では、真の愛の不義というかたちをとらざるをえない)。しかし、侵犯行為としての愛という概念をもうしぶんなく現実化している点だけにワーグナーの『トリスタン』を還元するのは、単純すぎる話である。『トリスタン』の偉大さは、その表向きのイデオロギー的企図と、テクストに緻密に刻印された、その企図に対する距離感とのあいだの緊張関係に存するのだ。アルチュセールであれば、こういっただろう。ワーグナーエクリチュールは、それ自身の明示的なイデオロギー的企図を掘り崩す、と。『トリスタン』というオペラは、自己消滅へとむかう夜への沈潜を言祝いでいるようにみえる。しかし、それは実際には何を表現しているのか。この自己消滅の最初の試み(第二幕の二重唱)は、芸術史におけるもっとも暴力的な性交中断といってもよいブランゲーネの叫びによって冷酷にさえぎられる。第二の試みは成功するが、しかし、それはずれをともなっている。愛し合う二人は、いっしょに死ぬのではない。順々に死ぬのである。二人の死は、平凡な外部の現実の侵入によって――ふたたび――切断されるのである。まずはじめにトリスタンが死ぬ。それは、彼が突如ヒステリーをおこしてイゾルデの到着の「光を聞く」ときにことである。続いてイゾルデが死ぬ――いや、彼女は本当に死ぬのだろうか。本章全体は、ジャンーピエール・ポネルによる一九八三年のバイロイト公演を支持するための議論として読むことが可能である。その上演では、実際に死ぬのはトリスタンだけである。イゾルデの出現と死は、死を迎えたトリスタンが見る幻想にすぎない。》(同上)

 

独我論的な夢に沈潜する>

《『トリスタン』におけるワーグナーの明示的なイデオロギー的企図がラディカルであるのは、その表面上の単純さにおいてである。それは、その導き手であるショーペンハウアーが反対しているものを取り込んでいる。ショーペンハウアーにとって、救済とは、生への意志――性的渇望はその究極の表現である――が完全な自己消滅を果たすことにほかならない。これに対しワーグナーは、この二つの対立物を単に結び合わせるだけではない。彼からすれば、われわれが完全に性愛に身をゆだねることは、贖罪的な自己消滅をもたらすのである。したがってわれわれは、(たとえば『ロミオとジュリエット』とは対照的に)ワーグナーの『トリスタン』が悲劇ではなく、探し求めていた至福に到達するという「幸福」な結末をもった神聖な美学的―宗教的楽劇である、ということをけっして忘れるべきではない。(中略)最後に愛する二人が死をともにすることは、ロマン派オペラではよくあることである――ベッリーニの『ノルマ』における、あの意気揚々とした「いっしょに死のう」を思い出せば十分だろう。これをふまえて強調されるべきは、この死の共有を明示的なイデオロギー的目標にまで高めたオペラであるワーグナーの『トリスタン』において、そもそもこの共有が実際には起きていない(・・・)、ということである。音楽において、愛する二人はいっしょに死ぬようにみえる。しかし、現実には、二人は順々に死に、それぞれの独我論的な夢に沈潜するのである。》(同上)

 

<日常的現実の介入>

《では、『トリスタン』の三つの幕のどれもが、死を求める企て(第一幕における毒をあおる行為、第二幕における愛の二重唱、およびメーロトに命をあずけるトリスタン、第三幕における、ブランゲーネの到着によって中断されるイゾルデの恍惚状態)において山場をむかえるのだとすれば、そして、そのたびごとにこの企てが日常的現実の介入(毒のすりかえと、コーンウォールへの到着を告げる船乗りたちの合唱、愛する二人の耽溺状態に割ってはいるマルケ王の到着、そして第三幕におけるブランゲーネと王の到着)によって妨げられるのだとすれば、ここでラカンのいう現実的なものは、どこにあるのだろう。それは、二人が消滅する場として望む夜なのか、それとも、この自己消滅の恍惚状態をさまたげるものの予期せぬ介入なのか。逆説的ではあるが、現実的なものとは、現実が崩壊する場としての夜の深淵ではなく、なんども現れては脱我的な夜への沈潜というなめらかな動きをさまたげる偶発的な障害物のことである。この障害物は、空想的な夜への沈潜を内側から掘りくずす内在的な不可能性を物質化しているのだ。

 トリスタンとイゾルデが希求するのは、互いの差異を無化するものへと、合わせ鏡の像のように二人で沈潜することである。これこそが、第二幕の長い二重唱の内容である。その(いささか早まった感のある)結びはこうなっている。「あなた(わたし)はイゾルデ、トリスタンは(わたし)(あなた)、もうトリスタンではなく! もうイゾルデではなく! 名を呼ぶこともなく、離れることもなく、新たに認め合い、新たに燃え上がる。とこしえに果てなく喜び(意識)をひとつにして、永遠に成長する愛、こよなく高い愛の喜び」。分節言語は、このプロセスにおいて崩壊しているようにみえる。それは、シンタックスが不明瞭になるにつれて、ますます子供じみた、反転する鏡像のようになってゆく。(中略)誰にも制止できない、この自己消滅という究極の至福への上昇は、突然、暴力的に(これ以前に、夜はすぐに去ってしまうと二人にやさしく忠告していた)ブランゲーネによって中断される。ワーグナーによるト書きはこうなっている。「ブランゲーネがけたたましい叫びをあげる。トリスタンとイゾルデは恍惚としたままである」。昼の現実が介入し、マルケ王は恋人たちを驚かす。ここでは二つの特徴が重要である。第一に、恍惚としたメロディの高まりは、不明瞭な叫びによって中断される。第二に、この叫びは、完全な不意打ちのかたちで暴力的な突発事態として介入するのだが、にもかかわらず、それは厳密な構造的理由からみて必然的であり、自己消滅という空想の完全な実現を内的にさまたげる障害を具体化している。(中略)ここではあたかも、過剰な享楽jouissanceに接近しすぎたために、至福がその対立物に変わらざるをえないかのようなのだ。したがって、真のトラウマは、至福への没入を中断する外的現実の介入ではなく、喜びがその対立物に転化することである。客観的現実が介入するのは、内的な障害を外在化するため、この介入がなかったら至福への没入は絶頂をむかえていたはずだという空想を支えるためなのである。》(同上)

 

<相互受動性>

《第二幕の長い二重唱を注意深く読めば、トリスタンの立場とイゾルデの立場の差異を示す微細な、しかしきわめて重要な特徴が、おのずと明らかになる。長い再帰的〔反省的〕なやりとりから、有名な「そうであるなら死のうではないか、離れることなく」ではじまる最後の雄弁な恍惚状態への移行の直前、すなわち、たとえかねてから望みの死を手にすることになったとしても自分の内部の愛は死に絶えることはない、とトリスタンがくだくだと語ったあと(「トリスタンの愛が死なないのなら、どうしてトリスタンがその愛のために死んだりしようか?」)、イゾルデはやさしく、しかしはっきりと彼に悟らせる。この愛にあっては、あなたはひとりではないのだ、と。「しかし、私たちの愛は、トリスタンと――イゾルデという名ではないの?」。トリスタンが、死は二人の愛を破壊しないだろうという主張を繰り返すとき、イゾルデは二人の死の仕組みを簡潔に提示する。「しかし、この<と>という小さな言葉――もし万一それが壊されれば、どうしてイゾルデ自身の死を通じてトリスタンが死を迎えることができようか」。要するにトリスタンは、イゾルデの死において、そしてイゾルデの死を通じて、はじめて死ぬことができるのである。だとすれば、ワーグナーの『トリスタン』は、死そのものの、「死ぬと想定された主体」の相互受動性を示す最たる事例ではないのか。トリスタンは、自分の死をイゾルデに移す/ずらすことによってはじめて死ぬことができる。いいかえれば、彼が死ぬことができるのは、イゾルデが彼の立場に立って、彼のために死に至る自己消滅の至福を十全に経験するかぎりにおいてである。さらにいいかえよう。『トリスタン』第三幕で現実に起きているのは、トリスタンによる長い「夜の底への航海」だけである。それに対してイゾルデの死は、トリスタン自身の空想的な補充物、彼が平穏に死ぬことを可能にする、錯乱した精神のうみだす構築物である。》(同上)

 

<回想のサイクルの反復>

《傷ついたトリスタンが第三幕においてたどる内面の旅は、二つのサイクルを描いており、どちらのサイクルも回想―悪態―再転落―期待という流れとして構造化されている(Kernan)。第三幕においてもトリスタンは、すでに生ける屍になっている。そこでの彼は、二つの死のあいだに住まい、もはや現実に足場をもっていない。また、夜の至福の領域から昼の生へと連れ戻された彼は、ふたたび夜の領域にもどることを望んでいる。最初のサイクルにおいてトリスタンは、イゾルデに対する自分の愛を呪っている。その愛によって彼は、「広大な、果てしない夜の国」から昼の平凡な現実へと引きずり出されたからである。「私のもとを訪れ、私を悲嘆にくれさせた愛、それが光を見よと、私を追い立てたのだ」。イゾルデへの愛がある以上、トリスタンがふたたび平安を得るためには、彼は彼女との結合を果たすしかない。「私は彼女を求め、見とめ、見出さねばならない。トリスタンが救われるには、彼女と結ばれるしかないのだから」。この回想は、彼の平安を乱した昼に対する悪態において最大の山場をむかえる。「呪わしいのは、昼とその輝き!」。体力を消耗しきって衰弱した彼は、幻覚のなかでイゾルデの到着をみることによって活力を取りもどす。「近づいてくる! 近づいてくるぞ、思い切った速さで! はためいている、ひるがえっている、マストに旗じるしが。船だ! あの船だ! あそこの岩礁をかすめて来る! あれが見えないか? クルヴェナル、あれがお前には見えないか!」船が実際には来ていないことを知って意気消沈したトリスタンは、さらなる回想へと沈んでゆく。彼は自分の置かれた、終ることのない苦境を適切に表現したあと(「私は死を憧れているにもかかわらず、まさにこの憧れによって死ねなくなっている!」)、そうなった原因は媚薬にあると断定する。「私は、あの飲み物が私をすっかり癒してくれることを望んだ。しかし、そうはならず、私には強力な魔法がかけられた。私を殺すのではなく、私をとわの苦しみに委ねるために」。しかし、彼はその飲み物を呪いはしない。それどころか、彼はこう認めるのだ。幼年期における両親の死にはじまる出来事をよりあわせて、そこからこの飲み物を醸造した(つまり、己の悲しい運命を調合した)のは自分である、と。「私が、私自身が、その媚薬を醸したのだ。父の苦しみと母の痛みから、愛の涙のしずくの、折々に流されたものから/……私は狂気の媚薬を蒸留したのだ」。その結果として、この原―フロイト的な自己分析は、最終的に、トリスタンが自分の運命の責任をすべて引き受けることに、自分を呪うことに行きつく。「呪われてあれ、無慈悲な薬よ! 呪われてあれ、それを醸した男よ!」。ここで起きている反復は、重要である。ひとは一気に真正な立場にたつことはできないのだ。最初の試みは必然的に、物象化による神秘化に行きつくのだが(「それは<運命>だ、私ではない!」)、回想のサイクルを反復することによって、ひとははじめて実際に自分の過去を受け入れられるようになるのである。》(同上)

 

<「光を聞く」>

《トリスタンが自らの主体的立場を明らかにしたあと、あたかもそれによって条件が整ったかのようにイゾルデが到着する。悪態をついたあとで第二の虚脱状態におちいったトリスタンは、新たな期待にみちた熱狂を手にするが、今回は正しかったことがはっきりする。羊飼いは、もの悲しい懐かしい調べに代わって陽気な歌を演奏しはじめ、イゾルデの船が本当に到着したことを知らせるのだ。この知らせに対するトリスタンの反応は重要である。幻覚を生み出す暴力的な狂気を爆発させながらトリスタンは立ち上がり、負傷個所の包帯を引き裂いて、あえて自分から血をながす。なぜなら、彼はこの時、自分はいまようやく死ぬことができる、と悟るからである(ようこそ、我が血よ! 楽しく流れろ! 世界のなかに溶けてしまえ、私が彼女のもとへと急ぐあいだに)。そして、複数の感覚を融合させた最後の、特異で突発的な幻想(「なんと、私は光を聞いているのか?」)のなかで、彼はイゾルデの腕に抱かれて死んでいく。この「光を聞く」は、不可能な現実界との出会いの、もっとも純粋なかたちではないのか。要するに、対象―声がもはや(耳で)聞くことのできないものである以上、それを知覚する唯一の方法は眼を用いることであり、また逆に、視覚的対象(眼差し)を知覚する唯一の方法は、耳を用いてそれを聞くことなのである。おそらくこの一節は(オウガスト・エヴァーディングがかつて主張したように)、事実上、モダニズムの誕生を厳密にしるす場所であるといえよう。事実上、モダニズムの誕生を厳密にしるす場所であるといえよう。モダニズムは、このように異なる知覚の様態が交差し合うところからはじまる。それは、われわれが「眼で聞き」「耳で見る」ときにはじまるのだ。》(同上)

 

<愛死のおかれた位相空間

《劇の最後にくる愛死Liebestod――あるいは、ワーグナーがそう呼んだように、昇天というべきだろう、というのも、奇妙なずらしなのだが、愛死というワーグナーのつけた前奏曲の名称が、現在フィナーレの呼称として一般的に使われているからだ――は、自己消滅という永遠の至福のなかに飛び込んでゆくことを表している。これは、この時点にいたるまで繰り返し中断されてきた行為である。ここできわめて重要なのは、トリスタンとイゾルデの差異である。トリスタンは、死を迎えるにいたるまで、ヒステリー症的な神経過敏な状態にある。彼にあっては、死もまた前方への跳躍であり、それは穏やかな自己消滅や「なりゆきまかせ」ではない。そうした状態に最終的に到達できるのは、イゾルデだけであり、その意味においてまさに彼女は、トリスタンの空想なのである。したがって、イゾルデの死は、トリスタンの長い死の行程が終点をむかえる瞬間にすぎない。自己消滅へとむかう彼女の「至高の悦楽」への没入を通じて最終的に平安を得るのは、トリスタンなのである。最後の愛死の場面にあってイゾルデは、完全に男(トリスタン)の症候になっているのだ。それゆえに、イゾルデの最後の「アリア」は、第三幕(あるいはオペラ)全体の結びとして聴かれるべきであって、七分間の独立した作品として物神化すべきではない。その「アリア」は、分離されると意味を失う。なぜなら、そのときその「アリア」からは、背景、それが最終的に解決する緊張関係という背景が、失われるからである。イゾルデの愛死を独立した出来事として演出するという通常のやり方は、まったく見当違いである。そのように分離したのでは、愛死のおかれた位相空間が失われてしまう。つまり、イゾルデの最後の歌は、トリスタンの長い死の行程の終点であるという事実が失われてしまう。トリスタンは、イゾルデの幽霊を見守る純粋な眼差しに自己同一化するとき、はじめて最終的な解放を手にするのだ。》(同上)

 

<すべての悦びは永遠を欲する

《イゾルデの愛死Liebestodは、明らかに二つのパートに分かれている。最初のパートは平穏な物語であり、そこでは<他者>が呼びかけられるにしたがって、緊張関係が高まってゆく(「見えないのですか?……みなさん、彼をご覧なさい!」)。それに対して第二のパートは、イゾルデが孤独を受け入れるときからはじまる。そのとき彼女は、生きたトリスタンの微笑む姿は彼女にしかみえないことを認めている。「みなさんには感じられませんか、見えませんか? 私にしか、この奇跡にあふれた荘厳な調べは聞こえないのですか?」。(ここで注目すべきは、イゾルデがいかにトリスタンの知覚の混乱を反復しているかということである。彼女もまた、他人には見ることのできないものを聞いている)。

 イゾルデが命を奪いかねない性的な恍惚状態に没入することができるのは、こうして孤独を受け入れることによって、つまり、象徴的コミュニティから身を引き離すことによってである。これが意味するのは、第二のパートにおいてイゾルデは、ワーグナー的境遇を完全に受け入れ、トリスタンの夢の形象以外のものではなくなっている、ということである。要するに、性的な恍惚感に満ちたイゾルデの自己消滅という空想のなかで、トリスタンは、彼自身の現実の死を空想化するのである(ポネルの演出は、トリスタンがすでに彼の語りの最初のほうで、到着したイゾルデの船の幻影を見ていたという事実によっていっそう正当化される。ポネルはその幻影を反復しているにすぎないのだ)。この自己消滅へとむかうクライマックスにおいて、オーガズムによるいわゆる小さな死は、現実の「大きな」死と一致する。だから、ワーグナー的愛死Liebestodにおいて起きているのは、まさに二つの死の融合なのである。ラカン的な用語でいえば、われわれがここで扱っているのは、不可能なモノ—享楽jouissance―とその残滓、対象aとの破滅的な融合である。これは、『ツァラトゥストラ』に出てくる、永遠に享楽jouissanceを求めつづける夜の深淵をめぐるニーチェの詩「もう一度」のなかで、究極の表現を与えられている融合である(筆者註:ニーチェツァラトゥストラ』、第四・最終部「酔歌」12の「もう一度」の歌、「世界は深い、昼が考えたよりも深い。/……しかし、すべての悦びは永遠を欲する――深い、深い永遠を欲する!」)。》(同上)

                                 (了)

            *****引用または参考文献*****

スラヴォイ・ジジェク、ムラデン・ドラー『オペラは二度死ぬ』(ジジェク「私はその夢を、見たくて見たのではない」所収)中山徹訳(青土社

アッティラ・チャンパイ、ディートマル・ホラント編『名作オペラブックス ワーグナー トリスタンとイゾルデ』(ディートマル・ホラント「「ここでは死が荒れ狂う」 ワーグナーの《トリスタンとイゾルデ》について」、ワーグナー「マティルデ・ヴェーゼンドンクに宛てた書簡」「《トリスタン》前奏曲についてのワーグナーの解説」「ワーグナーの<移行の技法>」「未来音楽」、ニーチェ「《トリスタンとイゾルデ》について」、トーマス・マンリヒャルト・ワーグナーの苦悩と偉大」「ショーペンハウアーワーグナー」、エルンスト・ブロッホ「トリスタンの夜」「ワーグナーの《トリスタンとイゾルデ》における逆説」、カール・ダールハウストリスタンとイゾルデ」、ハンス・マイヤー「トリスタンの沈黙」、他所収)高木卓、須藤正美、尾田一正訳(音楽之友社

ニーチェ『この人を見よ』西尾幹二訳(新潮文庫

ニーチェツァラトゥストラ手塚富雄訳(中央公論社

ニーチェ悲劇の誕生手塚富雄訳(中央公論社

ニーチェ『反時代的考察』小倉志祥訳(ちくま学芸文庫

トーマス・マン『リヒャルト・ヴァーグナーの苦悩と偉大』青木順三訳(岩波文庫

トーマス・マントーマス・マン短篇集』(「トリスタン」所収)実吉捷郎訳(岩波文庫

テオドール・アドルノヴァーグナー試論』高橋順一訳(作品社)

*カール・ダールハウスリヒャルト・ワーグナーの楽劇』好村冨士彦、小田智敏訳(音楽之友社

*ハンス・マイヤー『リヒャルト・ワーグナー』天野晶吉訳(芸術現代社

アラン・バディウワーグナー論』(附論:スラヴォイ・ジジェクワーグナー反ユダヤ主義、「ドイツ観念論」――後書き」)長原豊訳(青土社

*広瀬大介『もっときわめる! 1曲1冊シリーズ03 ワーグナー トリスタンとイゾルデ』(音楽之友社

*『決定版 三島由紀夫全集 <別巻>映画「憂国」』(新潮社)

文学批評 丸谷才一『輝く日の宮』の『源氏物語』成立史(引用ノート)

 

 

 丸谷才一『輝く日の宮』で、熱海から東海道線に乗った国文学の専任講師杉安佐子は、バッグからノートを出して読むこととした。自分の考えている『源氏物語』成立史をおさらいしてみよう、光源氏藤壺との最初の関係を書いた幻の第二巻「輝く日の宮」の喪失ないし脱落について事情が明らかになるだろう、というわけで……

 

《995 長徳元年 秋、藤原宣孝、方違(かたたが)へにことよせて藤原為時邸に来り、紫式部と見合。縁談不成立。

 

 この年、宣孝は四十二、三で、前筑前守(さきのちくぜんのかみ)であつた。つまり為時と同じく受領(ずりょう)(地方官)階級に属するし、それに、わりに近い親類である。宣孝の邸には正室がゐたらしいが、紫式部の父、為時は。この宣孝と婚期の遅れた娘(二十代半ば)との結婚を企てたやうで、男のほうも若い娘との婚姻を望み、そこで方違へといふ迷信を利用して見合をした。当時、方違へはこんなふうにいろいろ使はれてゐた。ところがその夜、何か変なことがあつたらしく、翌朝、紫式部はそれを咎めるきつい歌を朝顔の花につけて送つてゐるが、四十男はしやあしやあとした感じの歌を返してゐる。とにかく、見合はうまくゆかなかつた。

 

  996 長徳二年 一月、為時、越前国守となる。初夏、紫式部を同行して任地へ。

       越前の国府は武生(たけふ)。

       秋から冬にかけて物語の構想が浮ぶ。

 

 はじめての田舎住(ずま)ひは侘(わび)しかつたらうし、北国の晩秋と冬は辛い。それに、うまく運ばなかつた縁談が心に傷を残してゐる。寂しさがつのつた。文才に富む娘が、花やかなものを空想し、豪奢なものに憧れるための条件が整つた。孤独や憂愁をそのままぢかに差出すのではなく、それを動力にして美しい世界、輝かしいものを創造し、そのことの果てに悲しみや虚無を漂はせようとする方法を、都で育つた娘は鄙(ひな)にあつて模索してゐた。しかし彼女の想像力がうまく発揮されるためには、宮廷風俗についての知識と情報が要る。これは彼女が持合せてゐないものだし、何しろ学者肌の官吏だから一向に要領を得ない。どうしても、女の視点で見た話を聞かなければならない。全体が、さるお女中がお女中たちに語る話といふ仕組にしようといふのだから、なほさらのこと。親類の老女たちを訪ねる必要が生じた。

 

  997 長徳三年 十月、紫式部帰京。中河わたりの家に住む。これは広い邸で、 為頼、為時兄弟の共同の住ひ。

  999 長保元年 一月、紫式部藤原宣孝と結婚。

  1000 長保二年 紫式部、長女賢子を産む。

  1001 長保三年 四月、宣孝死す。紫式部、一年の喪(も)に服す。

        春、越前より為時帰京。

 

 角田文衛の考證によると、為頼の邸は、堤中納言と呼ばれる藤原兼輔から伝来したもので、東京極大路東、正親町(おほぎまち)小路(こうぢ)南にあつたといふ。ずいぶん広い邸で寝殿造。このため兄弟と親族が同じ邸にあつて、寝殿、東対(ひんがしのたい)、西対(にしのたい)、といふ具合に分れて暮してゐたらしい。紫式部はここへ帰つて来て、取材したり想を構へたりしてゐたが、それを聞きつけて宣孝がまた迫つて来た。そして結婚することになる。宣孝の邸には正室がゐた。通ひ婚である。為時の詩に「家旧(ふる)く」とあるその中河に近い家の、紫式部の日記に「あやしう黒み煤けたる曹司(ぞうし)」とあるその部屋で共寝したのだ。おそらく執筆はその曹司でではなく、もつと明るい所に出て。翌年、娘が生れ、その翌年には夫が亡くなつた。わづかな年月の結婚。

 

  1001 長保三年 春、越前から帰任した為時は、紫式部の書き溜めた『源氏物語』のはじめの数巻を読む。

  1003 長保五年 為時は『源氏』のはじめの数巻を道長に献じた。「桐壺」「輝く日の宮」「若紫」「紅葉賀」「花宴」「葵」の六巻であつたらう。

 

 武生ではすこししか書いてなくて、父に見せなかつたといふのが、安佐子の推定である。長保三年春、どのへんまで進んでゐたかはむづかしいが、「桐壺」と「輝く日の宮」だけだつたはずはない。「若紫」を書いたときにはじめて作者は手ごたへを感じ、自信を得、父親に読ませる気になつたのではないか。夫と死に別れた寂しさをまぎらすといふこともあらう。

 為時はまつたく新しい型の読物に接して舌を巻き、自分が前まへからこの子を見込んでゐたのは正しかつたと思ひ、でも、その喜びは、これは果して客観的な評価なのか、子煩悩にすぎないのかも、といふ不安と相半ばしたのではないか。ここで安佐子は思ひ出す。お父さんは「週刊花冠」の記事(筆者註:シンポジウムで、『源氏』には「桐壺」と「帚木」の間に「輝く日の宮」の巻があったと主張する19世紀文学専攻の杉安佐子と、『源氏』学者の大河原篤子との対立、論戦をとりあげた記事)について、どうも安佐子が得をしてるみたいな感じ、親のひいき目かもしれないが、とつぶやいたことを。あんなことでさへ親はわからなくなる。判断に自信が持てなくなる。まして前例のない作品の出だしの所を娘から差出されたら、すごく困る。道長に見せようか、どうしようかと悩みつづけたにちがひない。もともと道長と為時は小説好きだつた。どちらも唐宋小説の愛読者で、為時は越前にゆく前、道長が手に入れた新着の書を借りて読み、それを紫式部も読んだにちがひない。たとえば『杜陽雑編』のなかの日本の王子の話。(中略)

 越前守が京に帰ると、小説本の貸し借りが復活する。日本最初の小説批評と言はれる『無名(むみょう)草子(そうし)』の先駆のやうな対談がまたはじまつた。海外文学中心ではあるけれど。さういふ仲だつたので、為時は娘の作を見せたくて仕方ないが、気おくれして、一年以上もためらひつづけた。何しろ相手の文学的な指揮権と趣味が大したものなのだ。しかし、もう我慢ができなくなつたし、あるいはつひに確信が生じたし、それとも駄目なら笑ひものにされてもいいと度胸を決めて、何巻かを献上することにした。父親は、自分で写本を作らうかと思つたけれど、ここはやはり女手のほうがいいと考へ直して、娘に書かせた。紙はもちろん越前紙である。

 この場合「桐壺」「輝く日の宮」の二巻は発端だから落すはずがないし、「若紫」は充実してゐて変化に富むから、見せるに決つてゐる。しかし、ここまででよしとしたとは考へられない。宮廷生活の公的な豪奢な面を描いた「紅葉賀」と私的な色つぽい面の「花宴」を添へて賑やかにしたにちがひないし、それだけではなく、もう一つ変化をつけて怪奇小説的な「葵」を加へ、これで道長をびつくりさせようと企てたはずだ。

 道長は驚嘆したし深い感銘を受けたけれど、でも、大事を取つた。慎重を期した。きつとさうだつたと思ふ。何しろこれまで日本の物語でも唐宋の伝奇でも読んだことのない破天荒(はてんこう)なものだから、ひよつとすると眼鏡(めがね)ちがひぢやないかと心配でたまらなかつた。これは当然の話。今の批評家でも新人の第一作を絶賛するときはかなり不安になると聞いたことがあるけれど、小説といふ概念が確立してゐる現代でもさうだから、世界最初の型の小説が現れたとき、いくら鼻つ柱が強くて自信満々の道長だつてずいぶん迷つたらう。多忙のなかで「桐壺」から「葵」まで何度も読み返し、漢詩の会で為時と顔を合せても、空つとぼけて、まだ読んでないやうなふりをしただらう。しかし結局、圧倒的な魅力に逆らふことができなかつた。道長は激賞し、この本が参考になると言つて『蜻蛉(かげろふ)日記』を渡した。ひよつとすると『蜻蛉日記』が世に出たのはこれがはじめてかもしれない(筆者註:丸谷はこの記述に先んじて、『蜻蛉日記』の作者は、道長の父兼家と結婚して道綱という子を産んで「道綱母」と呼ばれているが、道長から『蜻蛉日記』を借覧した紫式部は、その風俗と人情を重んずる近代風の、写実的な人間のとらえ方を学んだのではないか、と推定している)。紫式部はもちろん喜んだし、書き進めるのの励みになつたけれど、為時の興奮ぶりはそれをしのぐものがあつた。そして道長紫式部を宮仕へさせることを思ひついた。これには、稀代の才女であること、父の為時が衣装代を持てること(この衣装代の件は大切な条件らしい)などのほか、道長正室倫子と紫式部が又(また)従姉妹(いとこ)だといふことも……

(中略)

 

  1004 寛弘元年 道長、方違へのため中河わたりの藤原伊祐宅(従姉妹である紫式部も住む)に赴く。

  1005 寛弘二年 十二月二十九日、紫式部はじめて出仕。

 

 当時、貴人が自分より身分の下の者を訪ねるのは不謹慎なことだつたので、道長は方違へに名を借りて紫式部のところへ出向いた。ぢかに人物を見なければ心許(こころもと)なかつたし、好奇心もつのつていた。その印象はよくて、つまりテストに合格した。そのとき、対面したか、それとも非常に特殊な役目を果すお女中を雇ふのだから、ぢかに話し合つたかもしれない。しかし、何しろ仄暗くて、あまりよく見えなかつたはずだし、それでも紫式部は消え入りさうなくらゐ恥しがつてゐたにちがひない。道長は『源氏』を褒めちぎり、紫式部は『蜻蛉日記』を貸してもらつたことの礼を述べた。もちろん大量の紙のお礼も言上した。宮仕への件はかたはらにある為時に向つて言つたらう。父も娘もこの就職を拒否できる立場ではないけれど、しかし子供がもうすこし大きくなつてから、と猶予を願つたのではないか。それでも、寛弘二年になると道長の督促がきびしく、それで、押し詰まつてからの出仕といふことになつたのだらう。なほ、この方違への夜、道長紫式部のあひだには何事も起らなかつたと思ふ。もしあつたら、寛弘五年に交渉がはじまるのがをかしい。などと考へながら、こんなふうに推測に推測を重ねるのは、寝殿造の建物の奥へ、外光や風が、何枚もの戸、簾(すだれ)、障子、凡帳、衝立(ついたて)、衣類がかけてある衣桁(いこう)などを透かしてはいつてゆくのに似てまだるつこしいけれど、千年前に迫つてゆくにはこれしかない、と安佐子は吐息をつく。

 

  1006 寛弘三年 花山院撰『拾遺和歌集』成る。

  1007 寛弘四年 道長、『源氏物語』を流布させる。

 

『拾遺』と『源氏』の関係はたしかに見のがしてはならない。何と言つても勅撰集だから『拾遺集』はみんなの関心を集める。とすれば、同じ時期に『源氏』を発表するのはまづい。一年くらゐ間を置かなければ、と考へたに決つてゐる。誰のが何首はいつたとか、一首もはいらなかつたとか、しきりに噂してゐる最中に『源氏』を出したら、あふりを食つて損をする。道長は日本文学史上最初にして最高の大ジャーナリストだつたから、その辺の計算はしたたかだつた。それに自作が、『拾遺抄』には一首も取られなかつたのに『拾遺集』には二首撰入する。もちろんこのことはとうに知つてゐた。それでやはり自慢したかつたといふこともすこしある。

 その二首はもちろん紫式部はそらんじてゐる。とりわけ「岩の上の松にたとへむ君ぎみは世にまれらなる種ぞと思へば」(岩に生えた松にたとへよう、皇子(みこ)たちお二人は世にもまれな尊い血筋を受けた方々だから)といふ賀歌には感銘を受けたはず。と言へるのは、「柏木」でこれに影響を受けた和歌を作つてゐるから。光源氏のもとに降嫁した女(をんな)三(さん)の宮(みや)が柏木と通じて子を生(な)す。柏木の没後、女三の宮が仏門に入らうとすると、光源氏はこれを咎める歌を詠んで女三の宮を恥ぢ入らせる。「誰が世にか種はまきしと人問はばいかが岩根の松はこたへむ」(昔、種をまいたのは誰、と人が訊ねましたら、岩の上に生えてゐる松はどう答へるかしら)と。これは表面は『古今』の本歌どりだが、しかし記憶のなかから道長の詠が作用してゐたらう。もちろんこれは後のことだけれど。

 物語はまづはじめに中宮、それから帝が読んだ。これは間違ひないが、問題なのはここから。つまり道長はどの巻を最初に流布させたのか。わかりやすくするため番号を振ると、

① 桐壺

⑤ 若紫

⑦ 紅葉賀

⑧ 花宴

⑨ 葵

の五巻だつたと思ふ。

② 帚木

③ 空蝉

④ 夕顔

⑥ 末摘花

を読ませなかつたわけだが、これは当り前の話。a系b系論(筆者註:『源氏』五十四帖のうち、第一帖から三十二帖「藤裏葉」までにはa系(紫の上系)と、のちに書かれて嵌め込まれたb系(玉鬘系)の二系列があるという説)でゆけば(そしてこれは正しいと思ふけれど)まだ書いてなかつたのだから。しかし困るのは、

②´輝く日の宮

が抜けてるといふこと。

 紫式部は……もちろんまださうは呼ばれなくて藤(とうの)式部(しきぶ)だけれど……藤式部は『源氏物語』を中宮様に誰かが読んでお聞かせする席につらなつてゐて、何日かに「桐壺」を読み終へると、その翌日はいきなり「若紫」の冒頭、光源氏が瘧病(わらはやみ)にかかつて北山の聖(ひじり)を訪れるくだりになるので、本当にびつくりした。朗読の係りのお女中にそつと声をかけて訊ねても、「輝く日の宮」の巻はないといふ返事。それで茫然としてゐる作者を置き去りにして「若紫」が読まれ、中宮様もお喜びだし、お女中たちもおもしろがつて、藤式部が変だ、変だと思つてゐるうちに物語は進んでゆく。出だしの二巻目がまるごと失せてしまふなんて、あまりに異様なことなので、これは殿(と彼女は呼んでゐたらう)が故意に除いたのだとはつきり了解するまで、才女にしては珍しく時間がかかつた。あそこを飛ばせば変なことになるのに(しかし聞えて来る評判はよくて、みんなおもしろがつてるし、筋があやふやになるのもあまり気にしてない様子で)作者としては不思議でたまらない。狐につままれたやうな気持。どうしたわけかとあやしむものの、殿に訊ねるなど、とんでもない話。第一、そんなこと思ひつかない。道長と藤式部では、王様や女王様とモーツァルトくらゐ身分が違つてゐたし、それに平安朝における物語は十八世紀ヨーロッパにおける世俗音楽よりもずつと位置が低かつた。漢詩や和歌とくらべることもできないほど。『続本朝往生伝』に一条天皇の御代は人物を輩出した、と述べて八十六人の名がずらずら並べてある。文士(漢詩文)は十人で、高階積善(『本朝麗藻』の撰者)も藤原為時(言ふまでもなく紫式部の父)もはいつてゐる。和歌は七人で、しかし式部とあるのは和泉式部のこと。これはもつともなことで、歌人としての紫式部が地位を確立するのは御子左家(藤原俊成、定家の家)による文学革命つまり『千載』と『新古今』が『源氏物語』をかついで成功したからだつた。異能といふのは相撲のことで、これは四人。だが物語といふ項目はない。相撲以下の扱ひだつた。向うは呪術的な権威のあるものなのに、こちらは単なる娯楽にすぎない。さういふわけだから、そんなものの一巻や二巻なくなつたつて別にどうつてことはない。さうしてゐるうちに月日が経つてゆく。そのあひだにも稿が進む。ときどきは宿下りして書くこともあつて、寛弘五年の末にはもうとうに光源氏が明石から都に帰つて来てゐる。それを道長は一巻づつ中宮に奉り、中宮は帝に差上げ……やがて写本が出まはる。ちようど連載小説のやうな仕組。

 一条天皇が、どのへんの巻かわからないけれど朗読を聞いてゐて、関心し、「この作者はよほど『日本記』に詳しいに相違ない」とつぶやいたので、その朗読係りが藤式部に日本記の御局と綽名をつけた。それを当人はひどく厭がつて、まづ日記に書き、それからb系のかなりあとのほうの「蛍」の巻の物語論で「日本記などはただ片そばぞかし」(『日本書記』とか六国史なんかに書いてあるのは人間的現実のごく一部分よ)と憎まれ口を叩いた。かなり執念深い女。「蛍」を書いたときは一条天皇は亡くなつてゐたはずだけれど。(中略)

 

  1008 寛弘五年 五月末か六月はじめ、中宮彰子の前に『源氏物語』があるのを道長が見て、その席にあつた紫式部をからかふ和歌を詠む。返歌あり。

        七月十六日、懐妊の中宮、土御門邸(道長の邸)へ。紫式部随行

        七月、道長紫式部の関係が生じる。

 

 五月か六月、といふのは、中宮の身辺に読みかけの『源氏』といつしょにお菓子がはり(?)の梅の実があつたことで見当がつく。懐妊してゐるので酸つぱいものがほしいのである。梅の実が載せてあつた紙を取つて道長は書いた。

「すきものと名にし立てれば見る人の折らで過ぐるはあらじとぞ思ふ」(酸つぱいもの=好き者と世間では評判だから、手を出さぬ男はあるまいな)。『源氏』には色恋沙汰が多いからその作者もきつと浮気者にちがひないといふ、昔も今も同じ文学と実生活の混同による冗談。それを酸つぱい梅の実にかけて。そしてもちろん裏では、『源氏』の好評を喜んでゐる。その場にゐる当の作者も嬉しがつてゐる。彼女の返歌は、あら、好き者だなんてとんでもないことです、くらゐのもの。これは明らかに道長が言ひ寄つてゐるので、何なら一つ自分が折りませうかといふ歌なのに、今までの注釈はさう見てゐない。どうかしてゐる。一つには、懐妊した娘の周囲を自分の勢力下の者で固めたい、そのためにはしつかり者の女中に手をつけて置くに限る、といふ策略があつた。それにもう一つ、評判の物語の作者は道長の召人(めしうど)(妻妾に準ずる同居者)だとしきりに取り沙汰されてゐる様子なのに何もしないのでは男の沽券(こけん)にかかはる、といふ気持もあつた。そんなあれやこれやでかういふことになつたと思ふ。

 七月に中宮が内裏からお里の土御門殿へ行つたのはお産のため。こんなことをするのは母系制の名残りである。道長紫式部の仲がはじまるのは、歌に水鶏(くひな)があしらつてあるのを見ると、夏至(げし)のあとと見当がつく。とにかく七月十六日以後のことである。中宮のお供をして土御門殿へ行つてゐて、その寝殿造の渡殿(通路だけれどそこに局(つぼね)とか曹司(ぞうし)とか個室をしつらへることもある)の部屋で、夜、休んでゐると、戸をたたく人があつた。日記ではその者の名を伏せて、しかしそれが道長だと察しがつくやうにしてある。後世の藤原定家は『新勅撰』の作者名を記すとき、はつきり道長だとした。紫式部は怖くつて(と表向きは言ふ)返事もしないでゐる。翌朝、道長から歌が届いた。「夜もすがら水鶏(くひな)よりけになくなくぞ真木の戸口にたたきわびつる」(夜どほし戸をたたきましたよ、水鶏みたいに、鳴いて=泣いて)。そこで返歌。「ただならじとばかりたたく水鶏ゆゑ開けてはいかにくやしからまし」(一大事みたいにして戸をたたく水鶏を真に受けて開けたりしたら、どんなにくやしい思ひをしたことでせう)。これについてはいろいろ言はれるけれど、求愛されたら一応は拒むといふ型に従つたまでのこと。それがあのころの風習だし、作法として確立してゐた気配がある。じらすことで色情の趣を深くするのだつた。後世、さまざまの説が生じたなんて聞いたら、きつとびつくりしたにちがひない、紫式部も、道長も。どうしてこんなこと、わからないのだらうなんて。

 それで翌日の夜、今度は戸を開けて招じ入れる。寝物語になつて、しばらくしてから女は言つた。

「巻が一つ除いた形で出まはつてをりますので、びつくりしました」と。抗議とか不満とかぢやなく(そんなこと口にできる立場ぢやない)、ごくあつさりと。男は笑つて、

「あのほうがいいと思つてね。どうでした?」なんて訊ねる。何しろ著作権などといぐ概念はない時代だから、平気でである。そこで女はつぶやく。

「花落林間枝漸空(クワランリンカンシゼンクウ)、多看獏々灑舟紅(タカンバクバクサイシウコウ)。季節はづれですけれど」と。上機嫌で笑ふ男の体の動きが女の裸身にいちいち伝はる。これは彼が二年前に作つた漢詩の出だしの所。訓読すれば「花は落ち林間枝(えだ)漸(やうや)く空(むな)しく、多(た)だ看(み)る漠々として舟に灑(そそ)ぐ紅(くれなゐ)」くらゐの感じ。そのころ漢詩人はみな音読してゐただらうし、それも遣唐使を廃止して百年以上経つてゐるから、きつと、本式の中国音ではなくて、日本化した発音だつたはず。「輝く日の宮」が削られたせいでまるで桃の花が散つたみたいに枝(物語それ自体)が寂しくなりましたが、でも紅い花(「輝く日の宮」の巻)がちらちらと舟に降りそそぐやうで、これはこれで風情(ふぜい)がございます、と引用によつて述べた。相手の作つた詩を暗誦して答へるのはもちろん社交的礼節。そしてこの詩は、そのときの作文会(さくもんえ)に出た父親から見せてもらつたもの。

 道長は、

「あれは今度の総集にはいる由」と嬉しさうに言ひ、紫式部は、

「きれいな詩でございますもの」とたたへた。(中略)

 それから男は、飛ばした巻の件は忘れてしまつて、若い娘とのこともよいが年増との共寝はいつそう楽しい味のものなどとお世辞を言ひ、女が笑つて受け流すと、一転して少年のころの思ひ出話をはじめた。頭のいい聞き上手が相手なので、話上手がいよいよ力がこもつて、素性(すじょう)の知れない娘と知り合つたときの綺譚が巧みに語られる。ひよつとすると何度も披露したことがあるのか。女の住ひは陋巷(ろうこう)にあつて、隣家の物音がうるさいし、瓦屋根でも檜皮葺(ひはだぶ)きでもない板屋根の隙間から枕もとに月の光が洩れ落ちる。その真直(まっすぐ)な白い線のせいで、ふと、今宵は八月十五夜と気づき、長く打ち捨ててある荒れた別荘へ連れ立つて赴いたところ、その出さきで女に頓死されたといふ一部始終を詳しく語つたのだ。そしてひよいと言ひ添へる。

「あれは十七の年だつたか。二十何年も前のこと」などと。

 添臥(そひぶし)してゐる三十女は権力者の回想を、テープ・レコーダーのやうになつて聞いてゐた。

 幾夜か経つて、また男の若いころの思ひ出。貴い身分の方を夜(よ)一夜(ひとよ)よろこばせ、霧の深いあした、見送ることもおできにならぬほど疲れ寝させた。侍女にせつかれ、形ばかり頭(かしら)もたげて挨拶なさるのをお受けになつたあと、その娘にやはやはと謎をかけると、粋な歌で上手に拒まれたといふおどけ話。歌ものがたり。そして又の夜には、がらりと趣向の違ふ恋がたりを聞かせられる仕儀になつて。さながら「輝く日の宮」の件を避けようとしてのやうに披露なさる問はず語りのかずかず(筆者註:この辺りの道長が語る話は「夕顔」巻に読みとれる)。そしてまた、……

(中略)

 

  1008 寛弘五年 七月某日夜、道長紫式部の局を覗く。

        九月十一日、皇子誕生。

        十月十六日、天皇、土御門邸に行幸

        十一月一日、五十日(いか)の祝宴。このとき藤原公任、「このわたりに若紫やさぶらふ」と声をかけておどける。

        中旬、中宮の前でお女中たちが、天皇へのお土産にする『源氏物語』の豪華本を作る。

 

 七月といふのは女郎花(をみなへし)からの推定。関係が生じてからのある朝、道長が庭を散歩してゐる。おそらくは他の召人の局を訪ねての朝帰りの途中だつた。咲いてゐた女郎花の一枝を折つて、それを手にして紫式部の部屋を几帳の上から覗く。それがじつに粋で立派な感じで、紫式部が圧倒されてゐると、道長から歌を催促された。即興の才が雅(みや)びなことなのだ。そこで、こちらがまだ化粧してない朝顔(寝起きの顔)なのにかけて、「女郎花さかりの色を見るからに露の分きける身こそ知らるれ」(今を盛りと咲く女郎花の美しさを見ると、朝露の恵みにあづかれない身のあはれが思ひ知らされます)と、今朝まで道長に添臥ししてゐた若い女をねたむ(ねたむふりをする……ふりをして男への愛を示す)歌を詠むと、

「おや、早いね」と微笑して、硯を所望(しょもう)し、「白露は分きてもおかじ女郎花こころからにや色の染むらん」(露が分け隔てなどするものですか。女郎花は心のありやう一つで色つぽくなりますよ)と返歌を詠んだ。上手に言ひ返し、やきもちを慎しむほうがきれいに見えますよとユーモアに富む言ひ方でたしなめてゐる。情(じょう)緒(ちょ)纏(てん)綿(めん)。

 十一月一日の五十日(いか)の祝ひは、はじめは儀式的でやがて酒がはいると乱れるパーティ。今と同じこと。

 藤原公任が几帳のあひだからこちらを覗いて、

「このあたりに若紫がおいででは?」と声をかけた。これは『源氏物語』の評判がよく、とりわけ若紫といふ作中人物の人気が高かつたことを示す。藤式部(とうのしきぶ)が紫式部となるのはこのころからか。

 しかし公任は、「若紫」と呼ぶところを見ると、まだ「若紫」のへんまでしか読んでなかつた。この箇所をとらへて寛弘五年十一月には「若紫」のあたりまでしか出来てなかつたと見るのは尾上八郎の説。一九二六年「日本文学大系」本『源氏物語』の解題。すばらしい指摘で、ここはどうしても慧眼(けいがん)といふ言葉を使ひたい。ただし日記のすぐあとに、「源氏に似るべき人も見えたまはぬに、かの上(うへ)は、まいていかでものしたまはむと、聞きゐたり」(源氏の君に似てる方もいらつしやらないのに、ましてあの上の方がどうしておいでになるものですかと、あたしは聞いてゐた)と書いてゐた。上と呼んでゐる。紫の上と呼ばれるのは「薄雲」(藤壺の死、冷泉帝が出生(しゅっしょう)の秘密を知る、六条院(ろくじょういん)の構想)から。そこでこのころには「薄雲」まで進んでゐた、というのは武田宗俊説。一九五〇年の論文。四半世紀かかつて学問がぐつと展開した。そしてここから「藤裏葉」までは一グループをなしてゐるから、このころにはもう「藤裏葉」まで書いてゐたらうと見る。つまり明石の姫君が入内(じゅだい)し、紫の上と明石の上は親しくなり、光源氏は准太上天皇(じゅだいじょうてんのう)となり、帝は六条院に行幸するといふあたりまで。きつとさうだった。物語の冒頭の予言が的中して、いいことづくめになつてゐた。このことを考へ合せると、帝にお土産に差上げる御祝儀の本といふのが納得がゆく。慶祝性が強くて時宜(じぎ)にかなつてゐる。もちろん道長の企画。それでたぶん、「梅枝」「藤裏葉」などの巻々は、いや。もつと前の「絵合」「松風」「薄雲」「朝顔」「少女」もさうかもしれないけれど、帝にお目にかけるのが封切りだつたかもしれない。もちろん中宮は別。そのおこぼれにあづかつて取巻きのお女中たちも読んでゐて……聞いてゐて……それにまじつて紫式部も耳かたむけてゐる。読者といふか聴衆といふかの反応を見て、満足したり、喜んだり、当惑したり、軽蔑したりしてゐた。

 もちろん全体としては大受けで、中宮彰子の妹、後に三条天皇中宮になる姸子(きよこ)などは、物語のさきが読みたくて、父親にねだり、それで道長紫式部の留守中、部屋をあさつて、実家から持つて来てある下書を探し出して娘に渡す。ほんとに困るなんて日記に書いてある。とにかくすごい人気だつた。

 公任などはまだ「須磨」「明石」のへんまでも行つてなかつたかもしれない。本を借りるのが大変だから、どのへんを読んでゐるかで序列化される。ちようど左京でも上京(かみぎょう)のほうは地価が高く六条以北なら安いし、右京には落ちぶれた人が住んでゐたと同じやうに。公任は必死になつて道長に取入らうとしてゐたから、その権力者と親しい仲になつたお女中から軽んじられるといふこともあつたらう。しかし「若紫」あたりであの物語を推しはかられては迷惑ですといふ、自負心もあつたのではないか。いいえ、もつとさき、このあひだ書きあげたばかりの「藤裏葉」までで決められるのも困る。あの物語には理想的な主人公を扱ふサクセス・ストーリーといふ側面もあるけれど、でもそれは「藤裏葉」までで、理想主義小説を突きつめたあげくのどんでん返しをこれから書かうとしてゐるのに。これまではむしろ準備、用意、伏線なのに。そんな気持だつたらう。(中略)

 しかしそんなに気負つてゐても、作者としての不安は、寝殿造の邸の下を流れつづける水のやうに絶えなかつたらう。どんな小説家だつてそれが普通かもしれないが、この場合は特別な条件が加はつてゐる。心配になる一番の理由は、道長が、あれほど認め、褒めてくれるくせに「輝く日の宮」を除いた形で流布させ、しかもそれについて、関係が生ずる前はもちろん、親しい仲になつてからも、何も語らないことだつた。あの巻なしの形で読んだのでは、当然、筋はみちのくのをだえの橋さながら、たどりにくくなるのに、不思議なことに読者たちは、脱落ではなく飛躍と取つたやうである。いや、もつと気もそぞろな読み方で、読んだり聞いたりしてゐるのだらうけれど。つまりあの処置はあれでよかつたのか。でもあれではあんまり、などと彼女は悩んだ。

 不安がいつそう昂(こう)じたのは、道長の問はず語りめく話を聞くやうになつてからであつた。はじめのうち、その色ばなしのかずかずはまことに興が深く、魅惑された。巧みな絵師の描いた絵巻を、いきを心得たお女中が然るべき速さでくりひろげ、巻いてゆくときのやうで、おもしろくてたまらない語り口だけれど、思ひ出話を裏打ちする現実感の強さにいつも驚かされた。まるであの『蜻蛉日記』の細部のやう、と。かういふ実感、あたしの書いたものにあるかしらと反省すると、たとへば「花宴」の、出会ひがしらに犯す、向うも喜んで犯されるあの場面でも、何か小説的な勘どころをもう一つ押へてゐない。われながらもどかしい。ほかの巻でも似たやうな欠点がいろいろある。とすれば、これだけの材料を寝物語でせつかく手に入れたのに、それきりはふつて置くのは勿体ない。これを取入れれば光源氏が段違ひに颯爽と歩きまわるし、喜劇的な趣も備はるので、いい男がいつそう魅力を増す。今までの書き方では理想と貴公子を描かうといふ狙ひのせいで、どうしても賛美ばかりしてゐて扱ひ方にむごさが足りない。しかし、幾夜もかけて耳にしたかずかずの挿話は若いときの話で、これからの、中年以後の光源氏には向かない。どうしよう、どうしたものかしらと思ひあぐねてゐるうちに、あるとき、今までの巻と巻とのあひだに適当に挟めばいいといふ案がひらめいた。あ、これいいぢやないの。

(中略)

 

  1008  寛弘五年 十一月中旬、中宮の発意で内裏(だいり)還御(かんぎょ)に当り、帝へのお土産として、『源氏』の豪華本を御前で作る。

         この月、道長より中宮への贈り物あり。見事な細工の品を収めた櫛の箱。手箱が二つあつて、上には藤原行成と延朝の筆蹟による三代集(『古今』『後撰』『拾遺』)、下段には大中臣能宣清原元輔のやうな歌人の私歌集。すばらしい造本。

  1009 寛弘六年 三月、為時、左少弁(さしょうべん)に任ぜられる。この年、高階積善撰『本朝麗藻』成る。

 

紫式部日記』にはただ物語としか書いてないけれど、これが『源氏』なのは言ふまでもない話だし、それに中宮の発意とはいふものの、道長が発案したに決つてる、と安佐子は考へる。やはりこれはお女中たちが中宮の前で清書してゐたのではなく、ほうぼうに依頼して出来あがつて来た清書を、製本してゐた。道長は顔を出して、はしやいで、冗談を言つたり、上等の紙や硯を持つて来たりした、と日記にある。『源氏』の成功が皇子誕生と重なつて、二重に嬉しい。

 この満悦の体(てい)と、翌六年春、為時が左小弁(筆者註:詔勅を書く役)に任ぜられたこととは明らかに関連がある。(中略)

 ここで帝への贈り物の件に戻ると、問題なのはこのとき『源氏』がどの巻までかといふことである。いくら考へてみても「藤裏葉」までで、つまり光源氏は准太上天皇になり、六条院に帝の行幸があつて、源氏一族の栄華の極みといふ所まで。これだと区切りがよくて、すっきりしてるし、光源氏が明石から帰つてからここまでは、一気に筆が進みさうな気がする。もちろん「玉鬘」から「真木柱」までのもたもたした十巻は除いての話。あのへんはあとで入れたので、どうも入れ方がうまく行つてない。それから「末摘花」とか「蓬生」とかb系全部もないし、もちろん「輝く日の宮」も道長の判断ではいつていない。つまり

 ① 桐壺

 ⑤ 若紫

 ⑦ 紅葉賀

 ⑧ 花宴

 ⑨ 葵

 ⑩ 賢木

 ⑪ 花散里

 ⑫ 須磨

 ⑬ 明石

 ⑭ 澪標

 ⑰ 絵合

 ⑱ 松風

 ⑲ 薄雲

 ⑳ 朝顔

 ㉑ 少女

 ㉜ 梅枝

 ㉝ 藤裏葉

の十七巻を差上げた。そして「澪標」以後のはかどり方は大評判になつて、そのせいで道長の次女姸子は父親にねだつて下書のほうを手に入れたりした。あの挿話は、娘ごころと親ごころの取合せがいいので、何べん思ひ出しても楽しくなる。そのことを日記に書くときの紫式部の文体の嬉しさうなこと。作者冥利(みょうり)に盡(つ)きる思ひだつた。

 そして同じ時期に、帝への贈り物は『源氏』、中宮への贈り物は三代集としたのも、『源氏』の格をあげるための道長の策略だつた。こんな具合に配慮してもらつて、万事うまくゆき、好評で、紫式部道長にお礼を言上した。閨の外でも、共寝しながらも。そしてa系の物語の合間合間に、道長の体験談がヒントになってゐるb系の説話を入れたいといふあの計画を打明けた。道長は、若いころの自分の面影が光源氏二重写しになるといふ話にいたく満足して、しかし、「おや、また物入りだ」などと紙の消費を嘆く冗談を言つたことだらう。「紙屋院(かんやいん)をもう一つ建てなければ」などと。そして紫式部は、「実はもつと要るのでございます」などと恐縮して、光源氏の一代記を終へたら彼なきあとの世を書くつもりといふ計画を口にしたと思ふ。つまりd系(筆者註:「橋姫」から「夢浮橋」までの宇治十帖)。といふのは、多分このころ物語全体の眺望が見えてきたはずだから。光源氏の魅力によつて、儒仏二教到来以前のこの国の、モラルといふか気風といふかをいはば時代物のやうな調子で書かうとしてゐた彼女が、ここまで書き進めてきて、そして道長から聞いた話を使つて光源氏をもつと生き生きと活躍させることができさうな気になつて、そこで光源氏がゐなくなつたあとの現代物といふ形で古代的なものの喪失を嘆く、世界の衰弱を悲しむ、さういふことを、すなはち「匂宮」から「夢浮橋」までを、心に思ひ描いたのではないか。

 光源氏の死後、世の中が小ぶりになるといふ史観は、紫式部の最初の構想の底に予感のやうな形でおぼろげにあつた。事実、さういふふうに描かれてゐる。つまり古代の終焉。そしてこの話を聞いた道長は、わが意を得たみたいな思ひだつたらう。だつて、歴史哲学といふか、史論として、自分の考へ方に近いから。道長はかなり似てゐる史観をいだいてゐたはずだ。伯父に一条摂政伊尹(これただ)がゐて、その家集といふか、ほとんど恋歌(こひか)ばかりの本の冒頭で、近頃の若い貴族は利口になつて、われわれのころと違つて愚かな恋をしなくなつたやうで寂しい、みたいなことを言つて同時代を批判してゐた。あれはつまり色好みがすたれて気風がちんまりとしてきたと嘆いたので、甥の道長のほうも同じことを感じていたはず。そしてこの古代的なものの衰弱と仏教の末法思想とが、からみ合ひ、重なり合つて、平安中期の精神史の、世も末だみたいな風潮が形成されて行つた。実際『源氏物語』は、さういふ二つの思想の融合として出来あがつてゐるし、その点でも道長と共通したものを持つ。あの物語はじつにいろいろな意味で、紫式部道長との合作だつた。

(中略)

 

  1009 寛弘六年 六月、再度懐妊の中宮、土御門邸へ。

        紫式部随行。十一月、敦良親王誕生。

  1010 寛弘七年 二月姸子、東宮に入侍。

        この年b系成立。ただちにc系(筆者註:「若菜」「柏木」から「竹河」まで)に取りかかる。

 

 娘である中宮のまはりに、自分と関係のある女を配置するのが道長の常套手段で、とすれば情報を受取るのは共寝のときが多かつたはず、と安佐子は考える、大勢ゐたわけだし、当然、実事ありになるはずだから(でなければ相手が承知しない)、かなりタフだつた。

 政治家は、妥協とか、欺瞞(ぎまん)とか、懐柔とか、恫喝(どうかつ)とか、いろいろな手を使ふ。血を流すのは好きな政権もあるし、嫌ひな政権もある。一般に荒つぽいことをしないのが公卿の流儀だつた。保元の乱からはちよつと別になるけれど。菅原道真の流刑それとも左遷でさへ、あれだけみんなに厭がられた。そして道長のやり口は、いざとなると果断であるけれど、むしろ政敵を自滅させる策を選ぶ傾向がある。とすれば「輝く日の宮」を書き直させないで湮滅(いんめつ)するといふ手を思ひついたのは、いかにも彼らしい。ずるくて、しやあしやあとしてゐて、後くされがない。はじめは呆気に取られてゐたが、「帚木」を書き、「空蝉」「夕顔」と進んでゆくと、だんだん気持が変つて、すごい解決策だと思ふやうになつた。現実処理の能力といふか、工夫の才に舌を巻く思ひだつた。

(中略)

 b系の巻々は好評だつた。道長の体験談を使つてあるので妙になまなましいし、それに作者の腕だつてぐつとあがつてゐる。これはもうすこしさきの話だけれど、「玉鬘」にはじまる十帖はすこしもたもたしてゐる。でも、あれだつて、いろんな趣向で釣つてゆく。筋の流れの太い線でぐいぐい引張つてゆくわけではないにしても、部分的にはおもしろいし、うまい。いよいよ人気を博した。

 それで「真木柱」で玉鬘が髭黒の大将といつしよになつて、光源氏の彼女に対する恋ごころが変な形で結着がついて……何だかあそこの始末のつけ方、強引だなあと思ふけれど……とにかくb系を書きあげ、それがa系の終りの二巻「梅枝」と「藤裏葉」につながる。明石の姫君の入内(じゅだい)が近づき、夕霧と雲居の雁の恋がうまくゆき、源氏は准太上天皇になつて、幼いころ高麗人(こまびと)の相人が述べた予言が、的中といふか、成就した。サクセス・ストーリーの完結。理想主義小説の理想が全部かなつた。a系とb系が合体して、いはばダブル・プロットがきれいになひ合せられた。そこで紫式部はすぐにc系にとりかかる。これは光源氏の晩年で、女(をんな)三(さん)の宮(みや)といふ若い姫君の降嫁があつて、もともとは朱雀院(すざくいん)の帝の押しつけだけれど、光源氏もまんざらではなかつた。色情の面でも、貴い初花には関心があるし、それにこの方を引受ければ朱雀院の厖大な財産がついて来る。ところが、柏木の寝取られ、柏木の子を自分の子として育てる羽目になる。その姦通事件の一部始終から源氏の死までをたつぷりと叙述する。紫式部はどうやらかなりしよつちゆう宿下りして、それも中河の邸ではない別の所に仕事場があつて、そこで書きつづけた様子。「若菜上下」と「柏木」は前まへから楽しみにしてゐた巻々で、『源氏物語』全体の急所だし、自分がやうやく、人生のこんな皮肉な局面――人間にとつて理想の叶(かな)ふことがどんなに不しあわせなことか――を書けるやうになつたといふ思ひもある。心が弾んでゐたにちがひない。ちようど都へ向ふ望月の駒や霧原の駒が逢坂の関にさしかかつたときのやうに。

 それで多分このあたりで「輝く日の宮」が焼かれた。こんなこと空想するのはあたしの悪い癖だけれど、と安佐子は自分に語りかける。(中略)

 

  1011 寛弘八年 二月、為時、越後守に任ぜられる。六月、一条天皇、病のため三条天皇に譲位。八月、姸子、三条天皇の女御となる。

  1012 長和元年 彰子、皇太后となり、紫式部は引続き仕へた。

  1014 長和三年 二月、後一条天皇(敦成=母は彰子)即位。六月、為時、越後守を辞す。甥にして婿である藤原信経に譲るため。

  1017 寛仁元年 八月、敦明親王東宮を辞し、小一条院院号を授けられ、准太上天皇となる。

  1018 寛仁二年 彰子、太皇太后となり、紫式部は引続き仕へた。

        紫式部藤裏葉」に加筆か。

  1020 寛仁四年 菅原(すがはら)孝標女(たかすゑのむすめ)、京に上り、翌年(?)かねて熱望してゐた『源氏物語』五十余帖を入手、耽読する。

  1027 万寿四年 十二月、藤原道長没。

 

 a系とb系との結合でいよいよ興趣が増し、人気が高まつたので、道長は気をよくして、その結果、為時が越後守になつた。(中略)

 敦明親王が准太上天皇となるのは『源氏物語』に示唆を得ての処置といふ清水好子先生のおもしろい説があつて、この策を思ひついたのは道長にちがひないが、これが世に受け入れられると彼が見たことは、この年、寛仁元年には『源氏』はずいぶん広く読まれてゐたことを示す、と安佐子は考へる。もちろん『夢浮橋』まで書きあげてゐた。それは菅原孝標女が東国にゐたころから『源氏』の評判を知つて憧れてゐたことでもわかる。長和三年に為時が越後守を甥であり婿である信経に譲ることを許されたのも、案外、『源氏』の完成と成功を祝ふ意味合のものだつたかもしれない。ただし、それでも折りにふれて加筆してゐたけれども。》

 

                                (了)

     *****引用または参考文献*****

丸谷才一『輝く日の宮』(講談社文庫)

丸谷才一大野晋『光る源氏の物語』(中央公論社

*角田文衛『紫式部伝 その生涯と『源氏物語』』(法蔵館

*倉本一宏『藤原道長御堂関白記」を読む』(講談社選書メチエ

木村朗子『女たちの平安宮廷 「栄花物語」のよむ権力と性』(講談社選書メチエ

*『ビキナーズ・クラシックス 蜻蛉日記 藤原道綱母』(角川ソフィア文庫

*『ビキナーズ・クラシックス 紫式部日記』山本淳子編(角川ソフィア文庫

文学批評 江國香織『去年の雪』は何処  ――スケッチ・サイクル・群像/エピファニー・不穏/断片・モザイク/物語・時間

 

 

                                 

 江國香織『去年の雪』の123の話、断片(断章、スケッチ)は短いもので半ページ、長くとも数ページからなり、ひとひらひとひらはさらさらと舞い散る淡雪か細雪のようであり、湿って結び合うぼたん雪のようでもあり、あるいは知らぬ間に溶けて消えるかと思えば、黒く汚れていつまでも残り続ける。

 テーマが連続することは稀だが、登場人物たち(100人以上もの名前、ときには猫、犬)や細部や余分な記憶が緩く連動し、時間と場所の時空(平安時代、江戸時代、1970年頃、現代(2020年頃か))を超えて侵犯し、通奏低音で響きあい、境界は溶融し、物語はシャッフルされて震え、反復と微妙なズレの仕掛けがあって、幻想を生じる。

 オムニバス、過去の思い出、数珠つなぎ連想、しりとり、つながっているようでつながっていないのか、他愛なき「三千世界」の老若男女の群像たち(死者までも)一人一人の人生は、「あみだくじ」にたった一本の横棒が追加されたように、「万華鏡」がほんの少し回転したように、それぞれの視点が相対、相反、逆転して多面的なプリズムと化す。ときに不穏のモザイク、ときにセックスへの耽溺、新たな生に悦び、世界はがらりと変わってしまうが、しかし本質のライト・モチーフは波のように寄せてはかえし変容することなく、孤独、寂寥、無常観、生々流転、完結することも閉じることもなく、永劫回帰のように……

 

<スケッチ・サイクル・群像>

 丸谷才一『文学のレッスン』(聞き手・湯川豊)から。

丸谷 短篇小説とは何かという定義となると、一筋縄ではいかない難しさがあるから、それは脇に置くとして、短篇小説の短さにもおのずから限度があって、極端にうんと短くなってしまうと、それはアネクドート(逸話)になる。短篇小説じゃなくなる。アントニー・バージェスというイギリスの作家・批評家が『エンサイクロペディア・ブリタニカ』の「小説」の項目でそういってるんです。バージェスの説は、たとえばワシントンが桜の木を伐(き)って、それを正直に父親にいった。父親がその正直さをほめて伐ったことを許したという話、あれはアネクドートであって短篇小説ではない、ということですね。(中略)

アネクドートは短篇小説ではないとしますね。そのアネクドートと接して、ここから短篇小説になるというのは、スケッチという言葉がぴったりかも知れない。川端康成の「掌の小説」は駄作もあるけれど、おおむねいいものが多いんです。今の作家では江國香織さんの書くものは、短篇小説というよりもむしろスケッチに近いものがあって、あれ、うまいですね。》

丸谷 もう一つ、連作短歌とか連作俳句というのがあるでしょう。俳句の場合だと水原秋桜子(しゅうおうし)とか山口誓子(せいし)とかが、どこか旅に出て、長崎なら長崎の句を連作としてつくって一緒に発表するというものですね。あの連作に似ているのが、小説のサイクルという方法です。サイクルというのは、この場合、一団とか一群という意味なんです。

 具体的にいうと、ジョイスの『ダブリン市民』。ダブリンの人びとのことばかりを短編連作のように書いて、一冊の短篇集にしている。あれはサイクルです。》

 

「待ちに待った江國香織さんの最新作は、今こういうときこそ読みたい小説だ! 『去年の雪』」(本が好き。)で、江國はこう語っている。

《「これまで私の興味はいつも個人に向かっていました。ですが、今回はいろんな人がさまざまに生きている世の中の話を書きたいと思ったんです。いろんな個人がいる世の中に初めて興味を持ったといいますか(笑)。この世からいなくなった人も、今生きている人と同じ時空間に生きていることを描きたいと考えました。私たちが生きている土地は限られていますが、同じ一つの場所にいろいろな生命体が発生しては消えていくことを、細かく説明せずに、いくつもの物語を重ねていくことで小説にできたらいい、と」》

 それに江國は、「作家の読書道」というインタビューで、「童話屋さんでアルバイトをしていた頃(筆者註:短大を卒業したころ)って、もうご自身でも小説を書き始めていたのでは」と訊かれて、「そうですね、「お話つなぎ」とか、自分で遊びで書いているものの延長だったんですけれど。」と答えている。

 

<『去年の雪』読解(1話~30話)>

 1話:「事故はあっというまに起き、制御不能で、どこを打ちどこが切れどこが折れたのか、皮膚がどうなり眼球がどうなりどの内臓が破裂したのか、頭ではもちろん身体感覚としてもわからなかった。(中略)死ぬという言葉を進行形で使ったのははじめてのことだったが、それを感慨深く思う余裕もなく、謙人(けんと)は息をひきとった。」 江國の小説は軽やかな印象とは裏腹に、ときに重く暗い「死」と「過去(時間)」を背負いもする。

 2話:三保子が電話で、圭子ちゃんのお友達の御主人の息子さんの事故死を知る会話。「公にやっていることじゃありませんのでね、ご縁のあったかただけ、亡くなったかたのお名前をもう一度おしえてくださる? ウダガワ、ユウタさん? どんな字を書くの?」

 3話:「夏レンコンは白い。」 ピーラーで皮をむきながら、律子はその野菜の肌に見とれる。夫の死後、律子の義理の母(2話の三保子?)が無料でやっている「供養」と「あちらとの交信」(亡くなった義父は死者たちの様子を事細かに教えてくれるという)について、台所に坐ってゲームに夢中の夫と会話している。この後、「白」の逸話は脈絡なく反復される。

 4話:藤田みずきが大谷春香と海に来たのは写真を撮ることが目的だった。みずきは波打ち際で、「ざばん、ぷちぷち、ざばん、ぷちぷち、ざばん」という波の音とともに、「だけれどもさ、ヨーコさんだって悪気があって言うわけじゃないだろ」と、ふいに、はっきりと聞えた(おじさんっぽい声だった(3話の亡くなった義父?))が声の主らしい人は見あたらない。「六時すぎには恵比寿につくね」春香が言う。「竹田たちでも呼び出して飲む?」

 5話:プラットフォームと電車のあいだの隙間をまたぐとき、小沼茉莉子はいつもすこし緊張する。電車に乗った初老の茉莉子は行儀よく坐っている目の前の男子小学生に思いをはせる。重ねたのは、すでに成人している息子の凛ではなく、五十歳そこそこの若さで祖母になった女子大からの親友香坂真紀子の孫勇也だった。小学生が降りた席に腰を下ろすと、尻に「キャラメルの空き箱」の感触を知る。「老い」もの。

 6話:いやな事件(筆者註:黒い霧事件)があった翌年、稲生(いなお)が監督に就任した年(筆者註:1970年)のこと。両親がリコンをしたため先月東京に引越してきたばかりの、西鉄の野球帽を被り、習字の道具を持った小学三年生の末松織枝は、「クリームキャラメルの空き箱」をバスの座面と背もたれのあいだに押し込む。5話と違って、男子小学生ではなく女子小学生、電車ではなくバスであり、連続ではあるが微妙なズレがある。「子供」ものは、その繊細な感覚、どちらかというと孤独さをモチーフとした断片が、思い出したように繰り返され、積層してゆく。

 7話:(4話で)大谷春香にラインで呼び出された竹田礼生(れお)は、気乗り薄の高橋雅人を説きつけて恵比寿に駆けつける。ロータリーに櫓(やぐら)が組まれ、ピンク色の提灯がたくさん、滲(にじ)むように灯(とも)っていた。高橋は店の確保でその場を離れる。大谷春香と藤田みずきは海に行ったのだという。二人が夏の終りを満喫する写真が、すでにインスタにあげられていた。

 8話:恵比寿のバス停で高橋は、バスから降りてきた、真冬みたいな服装をして、古くさい野球帽を被って習字道具を持った女の子(6話)からユーテンジ(祐天寺)に行く道を聞かれる。歩くと遠いよ、電車で二駅分だから、と教えてやると「ゲバゲバ」(筆者註:1969年から71年まで日本テレビ系で放送されたヴァラエティー番組『巨泉・前武ゲバゲバ90分!』に由来)と返ってきた。バスに乗った方がいいよ、と言うのに歩いて去って行った。

 9話:野村健太と裕子は渋谷のラブホテルでセックスに耽る。セックスに耽溺する男女の断片はこのあともいくつか嵌め込まれるが、どこか孤独な淋しさ、無為、無常観が漂っている。「セックス」もの。

 10話:田中野花(のか)はアイスカフェラテを吸いながら、“ごめん。きょうはやっぱり無理だわ”という隆昭(たかあき)(空腹なときの方が気持ちがいいからと、会えばまずホテルに行き、食事はそのあとだ)からのラインを受ける。と、店の奥にいて帰り際に野花を見つけたという高校時代の級友「宮(みや)たん」に声をかけられる。野花は月に一度は会っている四人組に“誰に会ったと思う?”とラインを送る。

 11話平安時代を舞台としたシリーズ(『更科日記』を現代語訳した経験が生きているのだろう、比較的長い数ページからなる)で、荻原(おぎわら)正嗣(まさつぐ)、茴香(ういきょう)、規那(きな)(正嗣の弟)、柳(やなぎ)(茴香の妹)が登場してくる。正嗣は茴香と逢瀬を重ねている。「けんと」(1話の市岡謙人(けんと))という名の「もののけ」が現れる。

 12話:連続して平安時代シリーズ。片方の羽の一部が緋色に染まったカラスが柳をじっと見ている。「御帳台(ベッド)」「簀子(ベランド)」「汗衫(ガウン)」といった時空の溶融表現。

 13話:十五歳の土屋恭子が学校をさぼって公園のベンチでお弁当を食べながら、行き交う人々に見とれる。学校にいたら決して見られない種類の、昼間の人たち。「違う場所に行けば違う時間が流れている、ということを、学校にいると忘れそうになる。」 江國の小説は「見ること」の小説でもある。

 14話:結婚祝いに妹から贈られた苗木だったが、玄関脇の狭い地面に植えたところよく根づいて、十一年間毎年春には白い可憐(かれん)な花を咲かせ、秋にはまっ赤な実をつけてくれた姫りんごの木が「死んでしまった」ので、幹の途中ですっぱり切られ、痛々しい切り株になっている。その悲しみに比べれば、夫の健太が数か月前から浮気をしていることなど、とるに足りないと野村萌音(もね)は思う。

 15話:伊吹慎一と妻のありふれた家庭内会話。鳩時計がポッポオと十二回鳴く。他愛もない「老い」もの。

 16話:夫も子供もなく、持っているものといえば、定年まで働いて貯めたお金と両親の残してくれた家と愛猫のトムだけの大垣香澄(かすみ)は、月に一度の割合で利用する男性コンパニオン(性的な接触は厳禁)と中華料理の食事をとっている。今回の男はたべ方が気持ちよく、マスカットのむき方まで美しかった。あの指に、今度は鮨かピザをつまませてみたいと香澄は思い、果汁に濡れた男の指先を見つめる。「老い」が忍び寄る。

 17話平安時代シリーズ。琵琶を弾く規那は「けんと」という名と答えた「もののけ」のことが頭を去らない。「あなたときたら、さっきから暗い顔で暗い曲ばかり」と母親に叱られ、“うぐいすと皇帝”を弾いてちょうだいと言われる。

 18話:「雨音が聞こえ」島森りりかは、ピアノを弾く手を止める。ストリーボッグという作曲家による「すみれ」というピアノの音と雨の音との混ざり合う叙情に浸る。

 19話:「雨?」 施術台から顔をあげた客に訊かれたマッサージ師の千葉考大(こうだい)は「みたいですね」とこたえる。考大は男性コンパニオンのアルバイトもしていて、婚約者の陽水(あきみ)は快く思っていない。最近年配の女性と中華料理をたらふくたべた(16話)。

 20話:「雨が降っている。」 (白石)みどりは会社の営業車のなかで同僚の国見智志(さとし)とカーセックスに耽る。溺れる「セックス」もの。

 21話:瓜生明彦(うりゅうあきひこ)の妻麻江は物置にトイレットペーパーを買い占めている(筆者註:過去、「トイレットペーパー買占騒動」はオイルショックによる1973年と、コロナ初期の2020年2月末の2度発生している。たしかに本作には1970年頃の話が出現するものの21話は1973年の設定ではなさそうであり、また本作発表は「小説野生時代」2017年11月号~2019年7月号なので執筆時にはコロナによるそれは未発生である)。玄関で、背の高い男が「コーポ・エリゼってなかったですか?」と長女恵(めぐみ)に尋ねてきて、「コーポ・エリゼ」ものがはじまる。

 22話千奈美と真奈美は小学生の双子だ。かみなりと雨粒の音の中で、「あなたときたら、さっきから暗い顔で暗い曲ばかり」という、パパにもママにも聞こえない声が二人には聞こえる(17話)。

 23話:「ゆうべの雨はあがっていた。」 遠藤拓也は妻の小言と詰問に辟易している。切り株に片手を添えた隣家の妻がわざわざ玄関の外まででて夫を見送っていて、世の中には幸運な夫もいるのだ、と思う(14話)。

 24話:小学二年生の佐々木絵美里は“夏休みのできごと”という題に、「おじいちゃんが死にました」と作文に書き、おじいちゃんの顔を思いだそうとする。「子供」もの。

 25話:空港内のカフェレストランで、カメラマンの早坂みのりはカツカレーをたべている。こういう場所でカツカレーをたべるのは、もう十年も前につきあっていた男の習慣だった。

 26話:遠藤由香は夫拓也が耳を貸さず無自覚なことにうんざりしているが、洗濯機からだしたばかりのバスタオルはあたたかく、夫のいない家のなかは静かで安らかで快適で、問題ないよと由香に囁く(23話との夫婦の心理の綾)。日常生活は長く重く暗いばかりでなく、さざ波はあっても安逸でもある。

 27話:「コーポ・エリゼ」もの。バーのカウンターで、鍋島(なべしま)亘(わたる)を主体とした、亘の恋人でコーポ・エリゼの住人七海(ななみ)、バーテンダーの瞬(しゅん)、美容師琴子の会話。亘が「コーポ・エリゼ」を見失った話でいじられる。

 28話:27話の続き。琴子が主人公で、マグに入ったモスコミュールを飲む。

 29話:おばあちゃん子の香坂勇也はおばあちゃんの化粧、身支度をじっと見ずにいられない。両親は離婚しているのでお父さんは家にいないが、ときどき遊びに来る。「子供」もの。

 30話:瓜生恵は「コーポ・エリゼ」がどこにあるか気になっている。恵の学校で三年生のときに転校してきて三年間おなじクラスの末松さん(6話)が学級会で掃除の仕方について提案するが多数決で却下された。でも恵は末松さんの言ったことを正しいと思った。家に帰ると母がピンクのトイレットペーパー(21話)が一袋盗まれたと騒いでいる。「子供」もの。

 

エピファニー・不穏>

 丸谷才一ジョイス『ダブリン市民』の「サイクル」「群像」について言及したが、新潮文庫の訳者安藤一郎は「エピファニー」を解説している。

《『ダブリン市民』は、十五編の短篇から成り、ことごとくダブリンとダブリン人を題材にして、幼年、思春期、成人もしくは老年の人間によって、愛欲・宗教・文化・社会にわたる「無気力」(麻痺(パラリシス))の状況を鋭敏に描いたものである。二十代の初期におけるジョイスは、詩のほかにスケッチ風の短い散文を書きはじめていて、これを彼自身が「エピファニー」と称していた――「エピファニー」というのは、宗教上の意味でキリストの降臨を言うのであるが、それから何か神聖な、もしくは超自然的存在の顕示あるいは出現をさすのである。ジョイスは、『スティーヴン・ヒアロウ』の中でつぎのように述べている。「エピファニーということで彼の意味するのは、ことばまたは身ぶりの俗悪においてでも、精神それ自身の記憶すべき様相においてでも、突然の精神的顕示のことである。彼は、そういうものそれ自身が時々(ときどき)の中でもっとも微妙でつかのまのものであることを見て、極度の注意深さでこれらのエピファニーを記録することは、文学者の役目であると信じていた」 つまり、感情の宗教的昂揚(こうよう)を、文学の創造におけるインスピレイションに変えているわけで、「美の最高の特質を見いだすのは、まさしくこのエピファニーにある」とも言う。文学を宗教におき換えているのが、ジョイスの思想の根本だったのである。》

 また、リチャード・エルマンは『ジェイムズ・ジョイス伝』の中で「エピファニー」を次のように論じた。

《彼の言うエピファニーは、神の顕現、すなわちキリストが東方の三博士の前に姿を現わしたことを意味するものではなかった。ただ、それは彼の頭にあったもののメタファーとして有用であった。エピファニーとは、突然の「ものの本質の顕現」、「きわめて卑俗なものの魂がわれわれに輝いて見える」瞬間のことであった。彼の考えでは、芸術家はこのような顕現の瞬間の感知を委ねられているのであり、芸術家はそれを神でなく人間の中に、それも何気なくさりげない、時には不快でさえあるような瞬間に求めねばならなかった。「突然の精神的顕現」は「卑俗な言葉やしぐさ」か「精神それ自体の記憶すべき相」の中にあるかもしれない。時にはエピファニーは「聖体拝領的(ユーカリスティック)」であるかもしれない。この言葉もジョイスがおこがましくもキリスト教から借りて、世俗的な意味を与えたものであった。このような瞬間は充溢もしくは情熱の瞬間である。エピファニーは、時には不快な体験の匂いを正確に伝えるという意味でも重要であった。ジョイスの特徴的な主張でもあったが、精神は両方のレベルにおいて顕われ出るのである。これらのエピファニーは文体的にも多様である。あるものは見慣れない言語を用いたメッセージのように読める。そのようなエピファニーの秀逸さは、独特の大胆さと、意味を即座に明白にしてしまうような技法はすべて妥協の余地なく拒否している点にある。しかし中には意図的に暗号性を解除され、抒情に傾いているものもある。(中略)平凡な言葉と、人と場所の不思議な夢のような不確かさを巧みに対照させ、その結果、全体の効果は奇妙で、ほとんど不気味と言える。このようなスケッチの面白みがジョイスやこれを見せられた少数の者の心に刻みつけられた。(中略)

 短篇「姉妹」の方法は完全に非妥協的である。叙情的エピファニージョイスを『芸術家の肖像』に導いたとすれば、飾らない抑制されたエピファニーが『ダブリンの人びと』の最初の物語へ彼を導いた。物語の中では一度もそうは言っていないが、彼は司祭の麻痺をアイルランドが病んでいる「狂った社会の全体的麻痺」の徴候にした。アイルランド人は違うことには目を向けず、一つ事にしがみついて、衰えてゆく。ジョイスは司祭の性格を、それぞれ異なる証言者――子供時代の不安な記憶を甦らせる語り手、疑り深い一家の知人、伯父、最後に、司祭と一緒に暮らしていた姉妹――の証言によって作り上げてゆく。それぞれの証言は読者に、司祭の落伍や、彼の破滅感、感じやすい子供に何気ないそれとない仕方で堕落を移し植えようとしている司祭の態度を暗示している。しかしこの不健康さは示唆にとどまっており、それは何もかも承知の二人の姉妹の不死身な様や、言葉の誤用と敏感さの混合する彼らの様子と対照をなしている。単語は平明だが、文章は精妙な律動性を持ち、言葉の抑制を捉えるジョイスの能力が現れている。》

 デイヴィッド・ロッジは『小説の技巧』の「エピファニー」の項目で、ジョン・アップダイク『走れウサギ』の一節を引いて説明する(ここでは『走れウサギ』での具体的解説は割愛)。《カトリック背教者ジェイムズ・ジョイスにとって、作家という天職は司祭職の俗世版のようなものだったから、エピファニーという言葉にしてもジョイスは、ありふれた出来事や思いが、作家が技巧を駆使することによって時を越えた美を帯びるに至る過程を言い表わすのに用いた。「ごくありふれたものの魂が、我々の目に光り輝いて見えるとき」と彼の小説上の分身スティーヴン・ディーダラスも言っている。現在この語はもっと広く、見る者にとって外的世界が一種超越的な意味をたたえているような場面一般について使われる。物語やエピソードにクライマックスや結末をもたらすという、伝統的な物語では何か決定的な行為や事件が果たしていた役割を、現代小説ではエピファニーが引きうけることも多い。この点でも先駆者はジョイスである。『ダブリン市民』の短篇の多くは、一見アンチクライマックス(敗北、挫折、あるいは何かささやかな出来事)で終わっているように見えるが、言語によってそのアンチクライマックスが、主人公あるいは読者にとって――またはその両方にとって――真実の瞬間に変容するのである。(中略)エピファニーにおいて、小説は抒情詩の言語的緊密さに限りなく近づく(現代の抒情詩の大半は実のところエピファニー以外の何物でもない)。》

 やはり十代のころ詩を書いていた江國香織も、『去年の雪』ではアンチクライマックスであっても、「ごくありふれたものの魂」の「エピファニー」がそこかしこで「我々の目に光り輝いて見え」て「真実の瞬間に変容する」。

 

 ところで、江國香織の小説を語るとき、「不穏」という表現がよくでてくる。江國自身も他の作家を書評するときに「不穏」という言葉をよく用いる。

たとえば、『がらくた』のキャッチコピー(新潮社)は、《私は彼のすべてを望んだ、その存在も、不在による空虚さも――。45歳の翻訳家・柊子と15歳の美しい少女・美海。そして、大胆で不穏な夫。彼は天性の魅力で女性を誘惑する。妻以外のガールフレンドたちや、無防備で大人びた美海の心を。柊子はそのすべてを受け容れる、彼を所有するために。知性と官能が絡み合い、恋愛の隙間からこぼれ出す愉悦ともどかしさを描く傑作長編小説。》

『思いわずらうことなく愉しく生きよ』のキャッチコピー(光文社)は、《犬山家の三姉妹、長女の麻子は結婚七年目。DVをめぐり複雑な夫婦関係にある。次女・治子は、仕事にも恋にも意志を貫く外資系企業のキャリア。余計な幻想を抱かない三女の育子は、友情と肉体が他者との接点。三人三様問題を抱えているものの、ともに育った家での時間と記憶は、彼女たちをのびやかにする。不穏な現実の底に湧きでるすこやかさの泉。》

 たとえば、柳美里『自殺の国』の書評では、《随分恐い表紙(とタイトル)なので、恐がりの私としては、最初、読むのがためらわれた。けれど読んでみてわかった。これはとても可憐な本だ。顔の見えない他人と(ときに陰湿な)やりとりをする「ネット」、そこで「自殺」を計画したり、一緒に死ぬ仲間を募ったり、実行したりする人々、という道具立てはたしかに不穏で毒々しいが、背景に惑わされずにまっすぐ読めば、そこにはごくありふれた、一人の、少女がいる。》

 井上荒野『雉猫心中』の書評では、《ホラーといえば、小副川さんという人物がでてくる。「ハンサムな老人だ。若者が着るようなカーキ色のフリースのパーカに、スラックスという恰好(かっこう)だったが、着物を着せたら、歌舞伎役者のように見えるだろう」と描写される町内会長で、言葉つきも人当りもやわらかい。凡庸な作家なら好々爺(こうこうや)、不穏な不倫劇における一服の清涼剤、的な役をわりふりそうな人物だけれど、この人のこわさは尋常じゃなく、私はずっと、この人がもうでてこないことを祈りながら読んだ(でもでてくる)。》

 江國『ちょうちんそで』の出版社対談で江國は、《平穏なものをちょっとつついたら不穏なものが出てくる。それも、どっと出てくるのではなくて、どこにもかしこにもそういうものがあって、そのうえで凪いでいるように見える。それってふつうのことなんじゃないかなと思います。》と語っている。

 江國は「江國香織さんの最新作『去年(こぞ)の雪』。不思議な読後感を残す物語はこうして生まれた」(「家庭画報.com」2020.4.7)で、

《――万引き癖のある姉と、そんな姉と縁を切れという隠れアイドルおたくの夫。ふたりのことを考えながら、どちらが怖いだろうと自問する妹(妻)の言葉も残りました。

江國 世の中ってそういう不穏さがありますよね。たとえば電車には、痴漢はしなくても大きな胸やお尻に触ってみたいと思っている人はいるかもしれないし、誰かの顔に拳をめり込ませたいと思っている人もいるかもしれない。電車のなかだけでもそうだから、世の中全体となればどうだろう、と。》

『去年の雪』のほとんどは、あからさまに濃くない話でも、隠微な「不穏」の匂いがする。

 実際、江國は「待ちに待った江國香織さんの最新作は、今こういうときこそ読みたい小説だ! 『去年の雪』」(「本がすき。」)のインタビューで、《「実は私……電車の中で他人の顔面を拳で殴りたいと考えたことがあるんです。もちろん、行動には移しませんが(笑)、私がそう思っていることを、その電車に乗っている人は誰も知りません。そして、そう思っている人は私以外にもいるかもしれないのです。作中、何人かの人に“今、何を考えているのか”と言わせているのですが、どれだけ親しくても、その人が何を考えているのか他人にはわかりません。これって怖いことですが、面白いことでもあると思うのです。本書に限らず、私はいつも“正解はない”ということを書きたいと思っています。正解はないのにみんなあれこれ考えて何とか生きています。そういう全体を“いいなあ”と思えるような小説を書けたらいいなと思いました」》と答えていて、72話で小説仕立てにしてしまった。

 ジョイス『ダブリン市民』のライト・モチーフが「麻痺」であるならば、江國『去年の雪』のそれは「不穏」ではないだろうか。

 

<『去年の雪』読解(31話~60話)>

 31話:伊吹夫婦(15話)は近所を散歩し、妻(弥生)は竹林の葉ずれにまじってたくさんの「声」を聞く。静かで、平穏な、抑制された「老い」もの。

 32話平安時代シリーズ。柳は“あたり”と読める平べったい棒や奇妙なものを幾つも「羽が緋色のカラス」がいた場所に落ちているのを集めている。「直衣(マジュアル服)」「枹(ジャケット)」。

 33話:国見幸穂(さちほ)は産科主任の看護師で、毎日何人もの赤ん坊の出産に立ち会っている。夜勤あけに弟の聖の店でセロリのポタージュを食べながら、娘可奈の留学の話をしている。家のなかは任せっきりの夫(20話の智志)と幸穂は、おなじ家のなかにいても半ば互いを避けるように暮らしている。かつてヨーロッパを放浪した経験のある叔父(おじ)である聖を、可奈は理解者のように考えて、いろいろ相談しているらしい。どの赤ん坊もいずれ育って、可奈みたいに手に負えなくなるのだ。

 34話:ベビーベッドのなかの、先月生れたばかりの娘葉月に赤池麻由美は話しかける。時間を止めて、永遠にこの夏のなかに閉じ込もっていたい、と思う。記憶、過去の物語が江國には多いが、それだからこそ現在もまた「時間」の意識下にある。

 35話:34話に続いて赤ん坊と母親にまつわる逸話。育児経験もない年上の女田辺京子は、地下鉄に降りる銀座の階段で片腕に赤ん坊を抱き、反対の手に紙袋を持った若い女のバギーを持ってあげる。リュックサックのサイドポケットから、のみかけの水の入ったペットボトルがつきだしていて、どういうわけか、そのペットボトルに女の疲労や不安が凝縮されているように感じ、怯んだが、先輩然とした微笑みをつい浮かべる。「エピファニー」の瞬間。

 36話:「死者」もの。気味の悪さがある。歩きだそうとして、自分に肉体がないことに泰三は気づく。泰三自身には見えない自分の肉体が、相手には見えているらしい。男が命からがらの体で自宅と思(おぼ)しきあばら家にたどりつき、戸をぴしゃりと閉めたとき、どういうわけか泰三は、戸の内側にいるのだった。

 37話:妻が会食で遅くなるので、大石洋介は五歳と三歳の息子たちを託児所で迎え、自分で料理を作ろうとスーパーまでの道のり、何を作るか会話している。「鮨(すし)? 鮨はちょっと無理だなあ」「じゃあ、お豆!」「じゃあねえ、おたま!」「オクラ!」「おしり!」 子供と会話をするのは猫と会話をするより難しいのだ。店の前に停めてある何台もの自転車に、「夕方の日ざしが反射してまぶしかった。」 子供たちのとりとめなくつながる会話は『去年の雪』の断片・モザイクの表象のようでもある。

 38話:白石みどり(20話)の不倫相手であり、幸穂(33話)の夫である国見智志の内的独白。「不穏さ」が漂っている。智志にはわからなかった。一体なぜこんなことになったのかも、自分のような男の、どこをみどりがいいと思ってくれているのかも。「夕方の光がアルミの灰皿に反射してまぶしい。」

 39話:「四人組」の、高校卒業以来もう七年も続いている月に一度集まる食事会。田中野花、木元千絵、大和(やまと)留美、白石みどり(20話)はゲストの宮たん(10話)とおおいに盛り上がる。風俗描写。

 40話:奥のテーブルで騒々しく食事をしている若い娘たち(39話の「四人組」らしい)を横目に、村田梓はおよそ四十年前におなじ学校に通った、仁美(ひとみ)、園子と食事をしている。梓が、シェフでありオーナーでもある菅原聖(33話の幸穂の弟)の料理と人柄に、夫婦揃って惚れ込んでいるからで、結婚の早かった仁美に長女果林が幾つになったかを尋ねる。聖がどんなに感じのいい男性であるか、婚期を逃したのは外国暮らしがながかったせいに違いなく、果林ちゃんならこういうお店のマダムも務まると思うのよ、と。

 41話:江戸時代シリーズで、平安時代シリーズと同じような位置づけ。上絵師庄造と三人の娘(長女加代、次女茂(しげ)、三女綾)が登場する。カエルの幽霊の話題。茂と綾は湯屋に行く。

 42話:41話の続き。湯屋から出た茂と綾はうぐいす形の飴を選ぶ。「若月」だ。糸みたいに細い金色の月が、空の低い位置にでている。

 43話:「ほそーい三日月、見て。」と、七海は亘にラインした(27話の二人)。終電だったのですでに真夜中をすぎていたが、家の前(であるはずの場所)まで来たとき、七海は自分の目を疑った。野原なのだ。七海は動くことができなかった。一分か二分、野原はそこに存在し、七海の目の前でふいに消えた。七海の住むアパートを含む見慣れた住宅群が、あたりまえのように出現していた(亘が「コーポ・エリゼ」を見失った話と通底する)。

 44話:「たとえ百人分の乳房が目の前にならんでも、自分には妻のそれがわかるだろうと、岩合(いわごう)和久は思う。」 和久は妻の仁美(40話)の乳房を下から支えるように持って、その重みと感触を味わうことはやめられない。

 45話:「白」の逸話。「梨の肌は白い。」 朝の台所で新町詩織はそう思う。りんごの肌も白桃の肌も白いけれど、梨の肌の白さとみずみずしさには遠く及ばないと。姉の佳織が万引で三度目の逮捕となって、夫とのあいだでの子供たちへの二つ目の秘密となった。一つ目は夫が年若いアイドルグループの女の子たちを熱愛しているという事実だった。自分にとってどちらがよりおそろしいのか、詩織にはわからなかった。

 46話:十六歳の今野まどかは隣のクラスの矢沢翔に誘われて、学校さぼりデートを敢行し、本八幡まで来るが、醒めてしまう。

 47話:退職した古田明良(あきら)はマンツーマンの英語教室に通い、白人英語教師と会話をするが、教条的な教師と噛み合わず、悲喜劇の様相を醸す。「老い」と孤独。

 48話:城戸崎(きどさき)陽水はいくどもカラスに待ち伏せされ、襲われた。結婚が決まって、陽水にべたべたしなくなってきた考大(こうだい)とはいえ、赤いスプレーペンキを噴射してカラスを撃退してくれたのは彼だった。考大と暮らしているマンションの前に着くと、どこかの家で「ひき肉料理をつくっているらしい匂い」が漂っている。ここではじめて、平安時代シリーズに登場する羽が緋色のカラスと結びつく。過去が現在を侵犯するばかりでなく、現在が過去を、未来が現在を侵犯するのだ。江國香織における「時空の侵犯」、「境界の溶融」。

 49話:豊は湯船で息子とタオルまんじゅうで遊ぶ。遠い昔、豊も父親にタオルまんじゅうをつくってもらったが、その父親は豊が高校生のときに病気で死んだので、自分に孫がいることを知らない。豊は高校生のころ、自分で自分に外国名をつけていた。ダン・ブレイディ(別名ラリー・フィッシャー)だった。台所で妻の焼いている「ハンバーグの匂い」(48話)が、風呂場のなかにまで漂ってくる。

 50話:四十二歳で独身、恋人もなく趣味もなかった乗鞍文世(のりくらふみよ)はカルチャースクールのゴスペル教室で、“イエス、神様は私を愛している!”とキリスト教徒でもないのに三回くり返して歌う。そこはかとない孤独の諸相(47話)。

 51話:「たとえ百人分の男性器がならんでいても、自分にはこの人のそれがわかるだろうと、北村いずみは思った。」は40話に相対する、ミュージシャン小出道郎のそれだ。「セックス」もの。

 52話:江戸時代シリーズ。御端下(おはした)の勢喜の趣味は読書で『犬枕』『世界民族図鑑』を読んでいる。親友の加代とお喋りをするのを楽しみにしている。

 53話:TV局の出張で北海道にいる雄大(ゆうだい)を行広(ゆきひろ)は追って来ている。雄大はあっというまに抱く抱かれるの関係に発展してしまった年下の行広の顔を眺めた。行広はフロントガラスごしのキタキツネに夢中だ。さりげないゲイ、境界の溶融。

 54話:「並木道、ガレージの隅に犬小屋のある家、バス停、小児科医院の色褪(いろあ)せた看板――。何の変哲もない風景なのに、そこには何か、昇の心に訴えかけるものがあった。ずっと昔、子供のころに自分はこの場所に立ったことがある、という気がした。が、そんなはずはないのだ。この街に来たのは生まれてはじめてなのだから。」 十月の北海道だった。里美(さとみ)へ求婚と両親への挨拶。空間の「記憶」。

 55話:先崎(せんざき)明日香(あすか)は子供のころからよく忘れ物をした。今度は腕時計だった。フェイスが黒でベルトがアーミーグリーンの腕時計は、去年離婚した元夫の菊地くんに恋人同士だったころもらったものだった。過去の遺物として捨て去るべきか、短かった結婚生活の記念として大切にしておくべきか判断の難しいところだ。物の「記憶」。

 56話:成瀬瑠璃は妹の玻璃(はり)に「デジャブ」と言った(22話に続いて双子)。「場所はまさにここ、代官山のキッドブルーの前で、玻璃のうしろを宅配便のお兄さんが台車を押して通ったことも、そばにトラックが停めてあることも、空気が秋の午前中のそれで、まぶしく晴れていることも、なにもかも記憶どおりだ。」 

「デジャブってね、過去の記憶じゃなくて未来の記憶らしいよ」 紺色の、いかにも手触りのよさそうなセーターを触ってみながら玻璃が言った(都会のシチュエーション、風俗、仕草の描写が、長く重い物語世界など無縁と想わせてしまう、江國の軽妙でお洒落な世界でもある)。「未来のいつかにいまを思いだすだろうって、脳が先取りしてなつかしく感じさせるんだって大沢さんが言ってた」と玻璃はバイト先の画材屋の店長大沢さんに恋心を抱いている。未来の「記憶」。

 57話平安時代シリーズ。柳が拾った物の数々を規那に見せる。宝物(コレクション)は、なかに蘇芳(すおう)色の液体の入った小さな容器(あけると蓋の先が筆になっているので絵師の道具かとも思ったのだが、液体をこぼしてみてもほとんど色はつかず、かわりにぞっとする匂いが立つ)(マニキュア?)や、“あたり”と焼き印を押された木製の棒(棒アイスクリーム?)、硬いとも柔らかいとも言いかねる、さわるとひんやりする白い四角い物体(ある種の覆がつけられており、それにはトンボの図が描かれている)(消しゴム?)、黒い円盤状の物体に、海松(みる)色の帯がついている、円盤状の物体は、何か硬い、透明なもので覆われていて、なかに針が三本閉じ込められている、針のうちの一本はつねに動いており、残りの二本も、ゆっくりだがときどき動く(腕時計(55話)?)。規那「法具だろうか」、柳「唐(から)のものということ?」 いつもそばに羽に緋色の痣があるカラスがいた。規那「見せてもらったお礼に、私も秘密を一つ教えようか」「もののけに加持祈祷(きとう)は効かない」 現代の物たちが、48話の羽が緋色のカラスによって平安時代に運ばれている。現在・未来が過去を侵犯する。

 58話:世のなかはこわいものだらけだ。十一年前に夫が病死し、子供は授からず、両親もすでに他界していた人間不信の奥野広子は、玄関先の郵便受けまででて夕刊を取りだした。妙に古くさい服装の少年が三人と、そばに背広姿の男性がいて「さっき牛乳箱のことでお詫(わ)びにうかがった子供たちのことなんですけど」と聞こえたものの、玄関に飛び込んで鍵をかけ、インターフォンが三度鳴るのも黙殺した。

 59話:(58話の続きらしく)テレビを観せてもらい、りんごも食べさせてもらったと息子たちに説明された佐伯敦夫は、「それは何とも申し訳ない」と、インターフォンにこたえてでてきた、いかにも人のよさそうな赤ん坊を背負った丸顔の女性に言った。敦夫の息子と、息子の友達など五人の子供がどやどやとでてくる。子供が壊した牛乳箱は古くなっていたので牛乳屋に新しいものをもらう、こういうのは慣れっこ、大丈夫です、と言う。「さっきのかたはお母さまですか?」と訊くと女性はきょとんとした顔になる。新聞はまだとりこんでいなかった。さっき見たのは何だったのだろう。会員制クラブのオーナーをしている敦夫は息子たちと別れ、私鉄と国鉄(!)を乗り継いで有楽町で降りた。接待役の女の子たちは美人揃いで、「こういうのは慣れっこ」と言った先ほどの女性とは種族が異なる。赤信号で煙草をくわえた敦夫は、交差点のまんなかで少年のような風貌の女性(ジーンズに運動靴、フードつきのトレーナー、子供のようなリュックサックをしょっていた)とすれ違いざまにぶつかり、「ロジョーキンエンクですよ」と睨みつけられる。敦夫は「は?」と訊き返したがこたえはない。敦夫は1970年ごろの人間に違いなく、58話の奥野広子が幻覚なのか、敦夫がそうなのか。

 60話:江戸時代シリーズ。綾が路地にしゃがんでいると吹きたまが空中を漂った。子供の声が聞こえた。「ちーちゃん、降りなよ」「まーちゃんも乗って。お客さんになって」 幼そうな女の子のものだ。綾はじりじりして「ねえ!」と叫んだ。「どこにいるの?」 沈黙が返る。「まただね」と、二つの声が揃った。

 

<断片・モザイク>

「断片」について、ベンヤミン『ドイツ悲劇の根源』から。

《気まぐれな断片に分かたれていながら、モザイクにはいつまでも尊厳が失われることなく保たれるように、哲学的考察もまた飛躍を恐れはいない。モザイクも哲学的考察も、個別的なもの、そして互いに異なるものが寄り集まって成り来たるのである。超越的な力――聖像のそれであれ、真理のそれであれ――というものを、このことほど強力に教えてくれるものはほかにない。思考細片が基本構造を尺度として直接に測られる度合いが少なければ少ないほど、思考細片の価値はそれだけ決定的なものとなり、そして、モザイクの輝きがガラス溶魂の質に左右されるのと同じように、叙述の輝きは思考細片の価値にかかっている。断片のこまかな細工が造形的な全体また知的な全体という尺度に対してもつ関係に見てとれるのは、真理内実は事象内実の個々の細部のすみずみにまで沈潜していく場合にのみ捉えうる、ということである。》

 

江國香織さんの最新作『去年(こぞ)の雪』。不思議な読後感を残す物語はこうして生まれた」(「家庭画報.com」2020.4.7)から。

 江國は「留められないものを留めるような、断片でできた小説を書きたいと思っていたんです」と話す。

《――たくさんの人が立ち現れては消え、ときに時空を超えてつながってゆく。『去年の雪』はたとえ難い小説でした。書き始める時点では、どんな話にしようと考えていたのでしょうか。

江國 小説を書くときは、大体いくつかのヒントが重なっているんです。そのひとつが、巻頭で引用しているフランソワ・ヴィヨンの詩、「だけど、去年の雪はどこに行ったんだ?」で、学生時代に初めて読んで以来、いつかこういう小説を書いてみたいと思っていました。

それと、連載が始まる前にソール・ライターという写真家の展覧会を見たのですが、その写真が素晴らしかったんです。残された写真はすごくビビッドだけれど、被写体になった人たちは多分もうこの世にいないということが頭に残っていて。この2つがイメージソースになっています。

あと、これもこの作品に限る話じゃないですけど、小説を書くときはいつも読む人に、初めての手触りと感じてもらえるような、既読感のない小説を書きたいという気持ちがあります。

――世の中を映す、人間図鑑のようでもあって。

江國 人が何を考え、どう暮らしているか。人の気持ちや生活の細部などは、たとえ親しい人のことでもなかなか見えないものですが、小説のなかでなら見ることができます。人は自分自身のことでさえ、考えたこと、やったことの大半を忘れてしまいます。取るに足りないことだから忘れるのだけれど、今日という一日はたしかにあって、人はたしかにいたわけで。

今、生きている人はもれなく死んでしまうけれど、でも、とりあえず今日はみんな生きているように、留められないものを留めるような小説にしたいという思いがありました。

――最初からこれほどたくさんの人が登場すると思いながら、書いていたのでしょうか。

江國 断片でできた小説を書きたいと思っていたので、それは最初から考えていましたね。空からたくさんたくさん降っては消えてゆく雪片のイメージと、たくさんの人がそれぞれに生きている情景が重なればいいな、と。

――老若男女国籍を問わず、小説ではいろいろな人が主人公として描かれますが、作者はどんな立ち位置にいるのでしょうか。

江國 私の場合、一人称で書いているときでも、主人公に自分を重ねるとか、物語に入っているということはなくて、物語を書いているときは観察している感じです。子どものときの感覚というのでしょうか。子どもって、まだ世界にちゃんと参加できていない、おミソみたいなものなので、世の中を見ているしかなかった、そのときの感覚に近いのかなと思います。》

ソール・ライターの展覧会を見て、被写体になった人たちはもうこの世にいない、との感慨に、ロラン・バルト『明るい部屋』の母の写真における《それは(・・・)=かつて(・・・)=あった(・・・)》を思わせる。

 

 ちなみにフランソワ・ヴィヨン『去年の雪』の鈴木信太郎による訳は、

《疇昔(ちゅうせき)の美姫の賦

 

語れ いま何処(いづこ) いかなる国に在りや、

羅馬の遊女 美しきフロラ、

アルキビアダ、また タイス

同じ血の通ひたるその従姉妹(うから)、

河の面(おも) 池の辺(ほとり)に

呼ばへば応(こた)ふる 木魂(こだま)エコオ、

その美(は)しさ 人の世の常にはあらず。

さはれさはれ 去年(こぞ)の雪 いまは何処(いづこ)。

 

いま何処(いづこ)、才(ざえ)抜羣(ばつぐん)のエロイース

この人ゆゑに宮(きゅう)せられて エバイヤアルは

聖(サン)ドニの僧房 深く籠(こも)りたり、

かかる苦悩も 維(これ) 恋愛の因果也。

同じく、いま何処にありや、ビュリダンを

嚢に封じ セエヌ河に

投ぜよと 命じたまひし 女王。

さはれさはれ 去年(こぞ)の雪 いまは何処。

 

人魚(シレエヌ)の声 玲瓏(れいろう)と歌ひたる

百合のごと 真白き太后(たいこう)ブランシュ、

大いなる御足(みあし)のベルト姫、また ビエトリス、アリス、

メエヌの州を領(りゃう)じたるアランビュルジス、

ルウアンに英吉利(イギリス)びとが火焙(ひあぶり)の刑に処したる

ロオレエヌの健(たけ)き乙女のジャンヌ。

この君たちは いま何処(いづこ)、聖母マリアよ。

さはれさはれ 去年(こぞ)の雪 いまは何処。

 

わが君よ、この美しき姫たちの

いまは何処(いづこ)に

在(いま)すやと 言問(ことと)ふなかれ、

曲なしや ただ徒(いたづ)らに畳句(ルフラン)を繰返すのみ、

さはれさはれ 去年(こぞ)の雪 いまは何処。》

 

<『去年の雪』読解(61話~90話)>

 61話:「コーポ・エリゼ」ものの拡がり。菅原聖(40話)、風間行広(53話)の会話。かつて聖の店で行広はバイトをしていた。「晴美ちゃんは元気?」と尋ねられ、聖は元気とこたえた。聖には多彩(で、しばしば同時多発的)な女性遍歴があるが、最新の一人が晴美で、「フツー」を信奉していて、「それフツーじゃん?」「フツーがいちばん」などと口にする。「俺には若すぎるのかもな、あの子は」と聖はとりあえず無難と思われる言葉を吐く。

 62話:声が聞こえたとき、真奈美(22話)は家のガレージでしゃぼん玉を吹いていた。姉の千奈美はパパの車のキーを持ちだして、運転席に坐っていた。最初に聞えたのは「ねえ!」だった。次いで「どこにいるの?」 その声が現実のものではないことがわかった。「まただね」 真奈美が言うと、千奈美もそう言っていた。60話と相互に共鳴している。

 63話:「死者」もの。佐々木泰三(36話)は、外国らしい寂れた浜辺に出現している。濡れた砂を踏むことも、波とたわむれることもできない。かつて、自分は死んだことがある、そして、その前には生きていたこともあるのだ、そう考えると愉快だった。鳴いているカモメを友達のように思った。

 64話:「死者」もの。謙人(1話)はバイクの事故で、死んだのだった。自分のいる現実を観察し、耳を澄ませ、匂いをかぐ。ひどく粗末な造りの家で、土間に犬が三匹寝ていて獣臭い。七人のうち、四人は子供だとわかる。数の足りない布団から、汚れた手足がはみだしている。カラカラと、何かが回る、乾いた、どこかなつかしい音が家の外でしきりにしている。女の子が薄く目覚めて謙人の方を見つめたが、微笑み、また目をつぶった。「謙人は安堵(あんど)する。この部屋の平穏の一部でありたかった。謙人にとって奇妙なのはこの場所ではなく、自分が憶えている気のする遠い物事の方なのだから。」

 65話:斉木静香(さいきしずか)は売れた本を棚に補充しながら、ミュージシャンの小出道郎(51話)との結婚について考えている。道郎に複数のガールフレンドがいることは秘密でも何でもない。が、自分が別格であることも承知していた、二十年のつきあいなのだ。気がつけば一人の男性しか知らないまま三十七歳になっているのだった。道郎の返事は「結婚ねえ」だった。「困ったもんだ」と声にだして言ってみる(そうすると、ほんとうは自分はたいして困っていないんじゃないかという気もする)。雨の日の店内には書物が湿気を吸収する、「ひそやかな匂い」が漂っている。

 66話:石鍋(いしなべ)蓮(れん)は一限目が休講になってしまい、近所に住む祖父母の家に行くことにした。祖母が「すずめ」のことで役所に苦情を述べているのに、対処してもらえないらしい。居間全体に、祖母の入れる「コーヒーの香り」が漂い始めている。

 67話:妹は泣きじゃくったが、恩地正彦(おんちまさひこ)は泣かなかった。母親の親友の東(あずま)さんと、その娘の秋子さんも泣いているのに、正彦にはそのすべてが、自分には手の届かない場所で展開されていることのように思える。もう限界でしょう、と医者に言われてから三日、母親はもちこたえた。「母親のふくらはぎを、正彦はいきなり思いだした。ずっと昔、正彦がまだ子供だったころ、脚がだるいからふくらはぎを踏んでほしいとよく頼まれたものだ。布団の上にうつぶせに寝た母親の、生白くつめた、やわらかかったふくらはぎ――。あのころの母親はまだ三十代だったはずで、いまの正彦より妹よりはるかに若い。「患者が死ぬと、お医者さまってほんとうに腕時計を見て時間を確認するのね」 医者と看護師が出て行くと、涙声で妹が言い、東さんも秋子さんも泣きながら笑った。泣くことも笑うこともできない正彦はただ窓辺に立ち、天気がよくてよかった、と、それだけを何度でも思った。」 抑制された断片ながらも、ジョイス『ダブリン市民』の「死せる人々(The Dead)」における叙情的エピファニーを連想させる。

 68話:小学生の大隈修太(おおくましゅうた)は退屈している。ゲームにも玩具にも飽きてしまった。マンションの前の道をゆっくり歩いた。落ちていた空き缶を蹴りあげると、泡立ったコーラが地面にこぼれた。

 69話平安時代シリーズ。露玉(茴香と柳の母)という美しい名で呼ばれていたこともあったのに、近頃ではみんな、お母さま、と呼ぶ。あんなにやってきた男たちも、いまでは夫を含めて誰も閨房にやってこない。ガシャンと音が聞こえて、露玉が近づくと、目に痛いほど鮮やかな緋色の、筒状の物体だった。そばに濁った水がこぼれており、しゅわしゅわと音を立てて泡立つその水を目にした途端、泥の混ざった海水だ、と露玉は直感した(68話で蹴られた缶コーラ)。

 70話:「豆腐は白い。」 白すぎると土鍋の中身を凝視しながら板橋歩(あゆむ)は思った。「ピアノやめていい?」と小学四年の次女がふいに言って、「だめ」という妻のひとことでその話は終るが、「だめ」であっさりひきさがる次女の思考回路がわからなかった。

 71話:ベッドで行為を終え、髪を指ですかれながら、友人の結婚式で出会った、新郎の従妹(いとこ)であり妻帯者であり、自分より八つ年上の薮内章吾に「何を考えているの?」と訊かれたとき、桐葉が考えていたのは、昼間見たねずみの死骸だった。

 72話:もちろん実行するつもりはないが、中島裕介はここのところ、誰かの顔に拳(こぶし)をめり込ませたいとばかり考えている。ただ殴ってみたいだけなのだ。犯罪なので実行はしないが、どんな感じがするものなのか、想像すると胸が躍る。「不穏」さ。

 73話:かわいかったのに。ある日郵便受けにチラシが入って、「すずめ」がとまれなくなるような細工を電線に施します、と役所からの告知だった。すずめの大群について近所から苦情がでたためだと書いてあった。石鍋寿子(ひさこ)(66話の石鍋蓮の祖母)はすぐに電話をかけたが、工事は決定してしまったそうで、たくさんいたすずめたちは、一羽もいなくなった。

 74話:八十になった知花(ともか)は、姪の香澄(16話)が選んでくれた男性コンパニオンの千葉(16話、19話、48話)の車で映画館に向かう。スクリーンで観るのは数十年ぶりだった。フードコートのようなロビーは広すぎるし、のっぺりしている。映画館特有のひそやかさがないし、これから観る別世界を予感させる、陰翳(いんえい)というものがまったくない。ここで映画を観ることはできそうもないわ、もちろん料金は一日分お支払いしますから、とつけ足して、千葉を安心させた。74話、75話と「老い」の悲哀が滲み出ているが、後半に向って「老い」「死者」「無常観」の断片が増える。

 75話:香澄(16話)と暮らしている黒猫トムの擬人的な内面描写。トムは自分がおそろしく年をとったことに気づいている。一瞬と一日と一年の区別が歴然(・・)と曖昧(・・)になり、記憶と現状認識の区別もまた歴然(・・)と曖昧(・・)になり、ほとんどの時間をまどろんで過ごしている。家のなかをふいに風がわたり、部屋も、屋根も壁も床も消えてなくなり、床だったところは水が流れている。彼らがトムに気づくことはない。だからトムも、彼らには構わない。じきにみんな消えてしまうのだ、流れる水も、人も石も木々も。「無常観」。

 76話:二十一歳の小渕優菜は四季のうちで秋がいちばん好きなのに、年々短くなっている気がしている。気候変化ばかりでなく、地震、台風、テロも津波も飢饉も核兵器も。この世はこわいことや心配なことだらけだ。夕方の空は刻々と暗くなっていく。バスが来ず、心細いときにいつもそうするように、スマホをとりだして、グループラインから一つを選ぶ。理生(りお)から、百華(ももか)から、雅美から、次々と言葉とスタンプが増えていく。が、世界じゅうのスマホが突然反乱を起こして停止してしまったら一体どうなるのだろう。優菜のスマホは生きもののように、手のなかで震え続けている。

 77話:鶴田里美は飛行機を降りて到着口までの長い通路を歩きながら、弟の要が住宅リフォーム会社で請求料金の水増しや過剰工事はあたりまえと話したことにぞっとし、富山で十三回忌法要を済ませたばかりの、要をとりわけ可愛がった祖母が知ったなら悲しむよ、あたしが通報したら逮捕されちゃうよ、と訴える。が、要は大袈裟だな、逮捕なんてされないって、とめんどうくさそうに言い、「カツカレー、こっちに戻ったら食おうって飛行機に乗る前から決めてたんだ。向うじゃほら、魚ばっかだったから」とにやにやしながらつけ足して、一人で店に入って行った。25話のカツカレーと関係ありそうでなさそうである。

 78話:また、いる。夜中に目をさましたちさは、寝ている家族の向う側に立つ、ぼんやりした人影を見た。土間には三匹の犬たち(ベエジ、シビチ、カッキャン)が寝ているが吠え立てないから幽霊ではないらしい。薄目をあけ、寝たふりをしたままちさは人影に向って胸の内で祈る。仏さまと思(おぼ)しき人影は、あいかわらずぼんやりと立っている。たくさんのかざぐるま(母親が内職で作って、家の外側で糊を乾かしている)が回るかすかな音がしている。64話で死者謙人が現れた家で、薄く目覚めて謙人の方を見つめた女の子の側からの視点。カラカラと、何かが回る、乾いた、どこかなつかしい外からの音は、かざぐるまだった。

 79話:江戸時代シリーズ。綾は勢喜に、三十も四十もの吹きたまが空に昇ってゆくのを見た(60話)と教える。

 80話:香坂真紀は、女子大時代の友人である小沼茉莉子(5話)に電話をする。一人娘の杏子が離婚して、孫の勇也(29話)を連れて帰ってきて以来、生活の静かさと平穏は消えて、ハンパない。「茉莉子?」という真紀の言葉に返事はなく、混戦している。雑音と他人の会話の断片(「……ホウグだろうか……カラのもの……柳……お礼に……効かない」)(57話の平安時代の会話)だけだったので、切ってかけ直すと無事につながる。時空の溶融。

 81話:玉井(たまい)紫苑(しおん)は久しぶりに電話をかけてきた弟に、毎日愛犬ケイクの散歩に行くと、不思議なほど見事に会ってしまう八十がらみの老女が自転車に乗ってものすごいスピードで疾走してくるのが怖いと訴える。弟の反応は夫や息子と同様に紫苑が過剰反応しているという含みが感じられて憤懣やる方ないのに、弟は由香と離婚したと報告する。由香の希望で離婚はしたけど、当面いっしょに住む、とも。

 82話:大場信吾はメキシコから帰国の空港で、熊本の両親に電話して無事に帰国したことを知らせた。長年の習慣となっている。マンションに帰っても、結婚も子供もいない。五十六歳になったいま、自分の人生を受け容(い)れている。九回の見合い経験があり、デートは何度もあるが、二度目の誘いに応じてもらえたためしはない。しかし一年の半分は南米への海外出張で、そこにはガールフレンドがたくさんいる。帰りついたマンションの部屋が拒絶しているような気がした。自分がこの部屋で異国を(というか、リンダやルイーサやマルガリータを)恋しく思うことはあっても、異国の地でこの部屋を恋しく思うことはないという事実を、この部屋は知っているのかもしれない。さまざまな人生。

 83話:野沢晴美(40話)はバーテンダーの瞬に「聖さんは元気?」と尋ねられ「二週間会ってない」と正直にこたえる。鍋島亘と恋人の七海が反応する。「コーポ・エリゼ」もの(27話、28話、33話、40話、61話)の相手側からみた展開。晴美の恋人である菅原聖はやさしいが、家族にも友達にも紹介してくれない。喧嘩して聖の経営するビストロを飛び出した日に、有楽町の交差点で、くわえ煙草のスーツ姿で帽子までかぶっていた変なおじさんにぶつかって(59話)、「失敬」と言われた。何時代だよと思った。これまでいつだってシンプルイズベストで生きてきて、上手(うま)くいっていたのに、聖との関係においては、何一つシンプルにいかないのだ。雨は安定した降りぶりで空気をふるわせ、道路を濡らしている。

 84話:寺村有為子(ういこ)の「無為」。パジャマ姿のままベッドに寝ころがって海外ドラマのDVDを観る。今月になって四度目か五度目だ。入社一年目なのに。連続ドラマのいいところは、観ているあいだ何も考えずにいられるところだ。次々に事件が起り、陰謀がうずまき、愛が燃えあがったり冷え切ったりし……有為子のかわりに人生を生きてくれる。だから有為子は何もせず、ただ観ていればいいのだ。

 85話:牧野洋美(ひろみ)は空港の免税店で働いている。人は時と共に変るのだから、ヤドカリが引越しをするように、洋美も仕事を変えてきた。ゆうべひさしぶりに会った、今年六十六歳になったはずの父親(大手のレコード会社に勤めて羽振りがよかったのが、何らかの不祥事(そのときには両親はすでに離婚していて洋美は理由を知らされなかった)で離職を余儀なくされて以来、どんな仕事をしているか謎だった)にまたも無心された。母親に相談すべきかと思ってもみたが、母は自分の人生から、かつての夫をとっくに抹消していた。退社時間まで接客に追われた。みんな移動している。まるで回遊魚とか渡り鳥とかみたいで、生れ育った土地での日常生活だけでも、十分に疲れるというのに。25話、77話、82話とおなじく「空港」が舞台だが、どれも『ダブリン市民』の「麻痺」症状に似た倦怠感がある。

 86話:いま市岡謙人(1話、64話)がいるのは馬小屋だった。小屋の隅の、ほとんど天上あたりにいるようだった。輪廻における「中有」のような浮遊感。馬が五頭。体臭がきついが、生命と体温のある好ましさを感じる。ここがどこか考えることを、謙人はもうやめている。どこであれ、いまの謙人にはここが世界のすべてなのだ。「死者」もの。

 87話:「死者」ものが連続する。ほんとうに死んだのか、原田真弓は納得がいかない。涙まじりの父親の悲痛な言葉(「もういい。もう頑張らなくていいから」)も憶えているが、それでも納得がいかない。だってここは、どう見ても遊園地だ。ポップコーンの匂いをしみじみ吸いながら考える。痛みはもう感じていない、それは自分が死んだ証拠かもしれなかった。真弓は父親の背中で眠ってしまったらしい幼い子供のほっぺたに見惚(みと)れる。肉体を持たないいまの真弓には、それに触れることはできないが、吸い込まれそうになるほど近づいて、その白さ、息遣い、質感にびっくりする。子供から離れる。青い空だ。自分には何の義務も予定もしがらみもない。ちょっと茫然とする、そらおそろしいような自由だった。

 88話:「死者」もの。井波真澄は花を見ている。さるすべりの花で、夏だとわかり、夏らしい空と日ざし。温度と湿度を感じてもいる。自分が浮遊している気持ちはしないが、地面に立っている気もしない。薄い花びらがふるえていて、淡い匂いも感知できる。死んだ記憶はないし、死ぬ前に生きていた記憶もない。自分が井波真澄という認識はないが、目の前の花がさるすべりという認識だけがあった。それで十分なのだった。浮遊感、ふるえ、匂い。

 89話:五頭の白馬の絵を前にバイトの成瀬玻璃(56話)は、恋心を抱く店長の大沢淳一郎と話をしている。注文品を取りに来ない古川さんに電話すると、例によって、奥さんらしき人が出て、古川は留守にしているが、電話があったことは申し伝えておきますと請け合ってくれるが、いつまでも取りに来ないのだった。

 90話:大学まで佐賀の実家住いだったが、就職を機に上京して一年半の北條和樹は、三軒茶屋のドラッグストアにきょうも吸い寄せられて、入浴剤コーナーに向かう。日によって香りのちがうものを試したいので、小袋で買う。“やわらかで透き通るようなコットンミルクの香り”、“やさしくフルーティーなイチジクミルクの香り”など四種類がお気に入りだった。何かと物入りなので、帰ってカップ麺を啜ることに決める。実家を離れたのは失敗だったかもしれないと和樹は本気で考え始めている。とはいえ、昭和メンタルの父親に、尻尾をまいて逃げ帰ってきたとは思われたくなく、入浴剤を入れた風呂につかることだけがたのしみなのだった。人々の、余分なものから成り立っている他愛もない日常だが、寂しげながらも幸福感がある。

 

<物語・時間>

 江國香織は「須賀敦子の魅力」という対談で、湯川豊相手に須賀の魅力を語っているが、これらは多分に江國の自己分析、内省であろう。

湯川 さっきちょっと対談に入る前に事前にお話していたら、物語というものを常に感じさせる、あらゆる書かれたものから物語的なものというものを感じ取る、そういう性質に共通点みたいなものがあって、だから懐かしさも感じられるんだというふうなお話をちらっとなさっていますけれども、も物語的体質というか、そういうものは作家である江國さんご自身の中にも非常に濃厚にあるというものでしょうか。

江國 そうですね。ただそれは、小説家だからではなく、もともと性質というか体質なんだと思います。私は、小説を書いていなくても、物語しか信じられないところがあって、書いたり読んだりしていないときでも、現実を物語のように感じてしまうんです。須賀さんにもそのような匂いを感じます。》

江國 ちょっと抽象的なんですけど、概念的に、物語の生息する場所というのがあると思うんですよね。それは、ありとあらゆる物語がそこにある、そこに行かれるか行かれないかのことだと思うんです。

 逆に言うと、でも、そこから逃れられないというのもあって、須賀さんは回想的なものを多く書かれて、実在の名前や土地や、ノンフィクション的な要素のあるものを書かれていますけれども、いくら事実に即して書こうとしても物語になってしまうという言い方もきっとできて、物語を書くまいと、もし思われても、物語になってしまう。それは魅力であると同時に、ある種の枷(かせ)でもあるのではないか。

 きっと、書かれるだけじゃなくて、そのことはよく自分でも考えるんですけれど、普通に会話をしていても、言葉にした途端に、きのう何を食べたとか、お元気ですかとか、お久しぶりですという言葉すらも、言葉にしてしまった途端に物語性を帯びる、そういう人であったようなきがします。》

江國 たとえばですが、須賀さんの『塩一トンの読書』という本があり、それは、いろんな本について須賀さんがお書きになったエッセイをまとめたものですけれども、その中にジャン・グルニエという作家の『エジプトだより』という本の諸評があります。そこで、須賀さんはその本の中で紹介されているアラブの詩人の言葉を引用されています。

「君より前に生きた人びとの骨からなるこの大地の上をそっと通り過ぎよ。君は不用意にも何の上を歩いているのか知っているのか」

 こういう文章を須賀さんが引用していらして、確かに、そこがイタリアであれ、日本であれ、エジプトであれ、君なり私なりが歩く場所は、それ以前のものすごい数の人の骨の上だし、歴史の上だし、それ以前のすべての後ろにある。その認識が須賀さんにはとても強く、しかも自然にあったような気がするんです。》

湯川 江國さんのこの短い文章(筆者註:須賀敦子『霧のむこうに住みたい』解説》を読んで、思ったことでもあります。江國さんはここで、「本質的には物語とはすべからく長く重く暗いものだということを、須賀さんのエッセイは思いださせてくれる」と書いていらっしゃるんですね。

江國 (前略)だからこそ、小さいことが、仲間がいるということとか、たとえば仲間とめぐり合えた、夫とでもいいんですけど、親友とでも、人と人が出会うということ、そして、ある街を歩くということ、その一瞬が永続はしないからすばらしいわけで、そういう永続しないものたち、既に書かれた時点でもういなくなってしまった人や変わってしまった街、今現在のものだとしても、明日には変わってしまうかもしれない、十年後には、まず間違いなく変わってしまっているであろうものたちへのまなざしというのが、ご本の中では、すごく徹底して、その側に立たれた方であるような気がします。》

湯川 江國さんは二十一歳のときに『ある家族の会話』をお読みになって、非常におもしろく、心惹かれたという文章がここにあるんですが、『ある家族の会話』をどういうふうにお読みになったかというのをちょっと思いだしてください。

江國 (前略)まさにタイトルどおり、家族の話なんですけれどね。家族間でやりとりする言葉の小説なんですね。ある人はこういう口癖だとか、兄弟でも合い言葉じみたこととか、お母さんの言い間違えとか、そういうことがたくさん出てきて、もう、そういうものがただ楽しくて愉快で、何度も読みました。しかもそのとき、私は漠然と物を書きたいと思っていて、二十一のころですけれども、粗筋が大事ではない小説でもいいんだという、それこそクライマックスがあったり、起承転結がはっきりしていたり、教訓みたいな胸打つテーマみたいなものが、ないと言うと乱暴ですけど、わかりやすくなくてもいいんだというので励まされもしました。》

 

 初期の短篇集『つめたいよるに』(1989年単行本刊行)の文庫本で川本三郎が解説した《やさしい。悲しい。といってその気持を深く書きこまない。最後のところで作者は、ふっと読者の前から姿を消していく。説明をしたり、説教をしたりしない。大仰に感動を盛り上げようともしない》は、須賀敦子から学んだ流儀・方法論であろう。そのうえ川本が論じた、《江國さんは、子どものころ早くに、好きなものはいずれ消えてしまうという悲しい事実を知ってしまったのだろう。江國さんの小説世界はそこから始まっている》、《きっと江國さんにとっては、死とは、その“ずっと昔の、私がまだ生まれてもいないころ”に帰っていくことなのだろう。生きているときには、はっきりと意識していなかった故郷に帰っていくことなのだろう。江國さんのなかでは、いまと昔がどこかでつながっている》は、約30年後に書かれた『去年の雪』の「物語・時間」に通底している。

 

<『去年の雪』読解(91話~123話)>

 91話:さやかは、飲むと自分がどんなにいい夫かをまくし立てる磯田さんの斜め前に坐ったことを後悔している。「オレはヨメさんの自由を認めているから」、「ヨメさんを家内とか言う男はゴミだね」、「とにかくね、自由にさせとくのが円満の秘訣(ひけつ)だよ」 電話がかかってきたふりをしておもてにでる。飲み会が嫌いではないが、疲れるとも思う。ということは、たぶん、生きることは疲れることなのだろう。

 92話平安時代シリーズ。茴香は奇妙な夢を見た。あばら家のようなところにいるのだが、そばにいる男は祝言をあげたばかりの正嗣ではなかった。すこし前まで正嗣以外にも通ってくる男が何人かいたが、夢のなかの男はその誰とも似ていなかった。屏風の一つに五頭の白い馬(89話?)が描かれていた。朝食を食べていると、妹の柳が入ってくる。昔から、飾り糸と見れば三つ編みにして、乳母に叱られていた柳が、几帳についた飾り糸を意味なく三つ編みにしてしまう。ほどいても糸にうねりが残ってしまい、なかなかまっすぐ流れるようには戻らないのだ。

 93話:時岡明日美(ときおかあすみ)の掃除はきりがない。夫を会社に、娘を小学校に送りだして、寝室、リビング、廊下、階段、トイレ、風呂場などの掃除に取りかかり、八つある室内ドアの内側と外側を拭き、窓枠に雑巾をかけるころには午後一時を過ぎていた。ようやく済ませ、ソファの上にたたまれた膝掛けを見て、フリンジがまたしてもすべて三つ編みにされていた(娘のしわざに違いなかった)(92話の柳のしわざ?)ことに腹が立った。モヘア糸はほどくのに手間がかかる上、周囲が毛羽だらけになるのだった。

 94話掛川文月(ふづき)は藤丸龍馬(ふじまるりょうま)にうしろから抱きしめられて冬の海を眺めている。十年前に文月が勤めていたアパレル会社とおなじビルに龍馬の会社も入っていて、雑談をする程度だったのが、今年の夏に偶然再会したのだった。すこし離れた場所で、中年の男性が飼い犬にフリスビーを投げてやっていた。フリスビーが、龍馬の足元近くに落ちて、レトリバー犬が突進してくる。「シンディ!」 龍馬は腰をおとして犬をねぎらう。「それは自業自得でしょ」 荒い犬の呼吸音と波の音に混ざって、小さくだがはっきりと聞こえた。「ヨーロッパ?」「絶対に認められない。言語道断だね」「いいわねえ、ヨーロッパ」「だけどもさ、ヨーコさんだって悪気があって言うわけじゃないだろ」(「ヨーコさん」は4話とおなじ声だが、どこから侵犯してくるのか? 「ヨーロッパ」はどこからか(33話の留学話が近いけれど)?) 文月はぞっとして鳥肌が立つ。

 95話:米屋の奈良橋勝善(かつよし)は自転車で疾走してゆく老女(81話)(米屋で御用聞きにまわる勝善なのに老女の住いに心あたりがないと呟くと、妻は老人ホームじゃない、とこたえる)の毅然とした表情や姿勢のよさに、高校時代に憧れていた一学年上の女性、橋本先輩を思いだし、それなら六十八か九だが、老女はどう見ても七十を越えている。私たちも一度、老人ホームを見学に行ってみない、と妻は提案してくる。

 96話:加々美(かがみ)双葉(ふたば)は退屈している。ママといっしょに買物に行かず、留守番を選んだので一人で留守番をしている。いま小学二年生で、友達がいないが、誰とでも話をするので先生が言うとおり「クラス全員が友達」なのかもしれない。家のなかをぐるぐる歩きながら、デタラメな歌を歌う。「げんかんはー、チェーンをかけたのであかないよー。ドロボーがきてもあかないよー。オオカミがきたってあかないよー。魔女がきたってあっかないよー。トラがきたってあっかないよー。」 「子供」もの。

 97話:「死者」もの。今泉牧也(いまいずみまきや)は幼い頃ヴァイオリンの神童と騒がれたが、高校になると興味を失い、大学時代はゴルフに熱中し、結婚して息子二人に恵まれたが十一年で離婚した。父親が亡くなり、その多額の借金を返済し終えたところで再生不良性貧血という病いを知らされたときには、かなり進行していた。でも、それらは霧の向うの過去のことで、いまの牧也が知りたいのはここがどこかということだ。死んで以来さまざまな奇妙な場所に、自分の意志とは無関係に、出現している。湿ったような書物の匂いがして、棚にならんでいる。図書館かもしれない。牧也は読書家ではなく、図書館ともあまり縁がなかったが、今は書棚の間で安らかさに陶然としている。幼い頃にくり返し眺めた図鑑(恐竜図鑑、乗り物図鑑、昆虫図鑑)を思いだす。

 98話:「死者」ものが続く。死んで随分たつので、森田あやめはもう、ここはどこだろうとは考えない。かわりに、ケモノくさい、と思って瞬時に活気づく。自分があやめであることも、子供を五人産んだことも、神田の大火を経験したことも、二度の戦争を生きのびたことも憶えていない。いまは視覚も聴覚もないので、自分が犬の毛のなかにいることを知る手がかりがない(犬は若い雌で、ケイク(81話)という名をつけられているが、あやめにそれを知る由はない)。憂いも曇りもなく、輝かしいばかりに幸福だった。

 99話:「死者」もの。佐々木泰三(63話)は漂っている。「パパはあなたのことが心配なのよ」女性の声がした。「もうすこし時間をかけたら?」 声はほとんど泰三の耳元でささやかれる。「ママはどう思ってるの? 若月くんのこと、ママもつまらないと思ってるの?」とベンチの娘が言って、煙草の煙を吐いた女性が「思ってるわ」と言った。娘の恋人を認めるとか認めないとかの話だろうと理解はできたが興味は持てず、それよりも風呂あがりの肌の匂いに郷愁をかき立てられて、すぐそばにいる女性の顔が見たいのだった。彼女の肉体が自分を通りすぎるのを感じる。

 100話:ラブホテルの壁をうろうろと這っている、ごく小さな蜘蛛に気づいて村上周太(しゅうた)は顔をしかめる。諸岡(もろおか)なつめ(確かそんな名前だ)は気づくふうもなく、ブラジャーをはずしているところだ。簡単すぎると周太は思う。暮に飲み会で知り合って、連絡先を交換して別れ、会いたいとメッセージをやりとりしたあとで、新年早々二人で会った。こうなることを、期待していたのではなく知っていた。大学生活も終りに近づいたいま、わかるのは女の子というものが浅はかな生きものだということだが、浅はか故に好まれるなんて最低だった。よく知りもしない男とこんなところに来やがって。怒りに任せて周太は突き、突いて、突く。罰するみたいに、あるいは、おなじ罪で罰せられていることに腹を立てて――。いっしょにシャワーを浴び(マスカラが溶け流れて黒くなったなつめの顔はまぬけだった)、でてくると、まだ蜘蛛がいた。「セックス」もの。

 101話:朝、窓を開けた瞬間に、富樫(とがし)敏子(としこ)は、きょうも世界を享受できることが嬉しかった、ああ、私、まだ生きている。七十八という年齢は、まだそれほど死に瀕してはいないのかもしれないが、死から遠いわけもなく、自分はいまお迎えを待っているところなのだという自覚がある。楽しい朝食が済むと簡単に掃除をして、朝刊を丹念に読み、息子と娘から電話がきたら、おもしろい記事を話してやる。散歩、買物、昼風呂、映画専門チャンネル、恵まれた老後だと思う。両親も夫も多くの友人たちもいなくなってしまったいま、自分が生きているのは奇妙な気がする。すばらしい人たちだったのだ。ああ、私、まだ生きている、と小躍りしそうに嬉しくなるとき、恥かしさと申し訳なさに身がすくむ思いも、同時にする。「老い」ものだが、明るい。

 102話:浮かせた左足を戻す床がないほどの満員電車で、二十七歳の堂島(どうじま)灯(あかり)は、若月くんに、どう説明すればいいのかわからない。毎年箱根で過す正月は最低だった。若月くんとの結婚を両親に反対されるとは想像もしていなかった。反対の理由は“つまらない”からで、父親は他にもひどいことをたくさん言った。いやな空気を変えようとして、母親が散歩に連れだしてくれた(99話)のだが、母親の意見も大同小異だった。嘘はつきたくないので、時間をかけなさいと母親(自分は二十一で結婚したのに)は言っていたから、結婚はもうすこし待つように言われた、とだけ若月くんに話すのがいいかもしれない。

 103話:5年間同居していて、紙を一枚役所に提出するだけで簡単だった結婚の、初めての日曜日のお祝いということで、地下鉄の運転士である無口な浦部と、スーパーマーケットでステーキと海藻とオイルサーディンとりんごジュースを買ってマンションに戻った優雅(ゆうが)は、買った憶えのないピンク色のトイレットペーパー(古めかしく、外側のビニール袋が劣化している)(30話)を目にして戸惑う。

 104話:江戸時代シリーズ。勢喜の家の向いの宿で長逗留している絵師に興味を持った加代は、奉公先から休暇をもらって帰っている加代と、妹の綾と茂のことで川辺の縁台に坐って話をしている。ぽちゃんと魚が跳ね、加代のすぐ耳元で、子供の歌う声が聞こえた。「げんかんはー、チェーンをかけたのであかないよー。ドロボーがきてもあかないよー」 まわりを見回したが、それらしい子供ぬ姿はない。「オオカミがきたってあかないよー。魔女がきたってあっかないよー。トラがきたってあっかないよー」(96話) 「いまの聞こえた?」と加代が訊くと勢喜は「魚が跳ねただけよ。加代ちゃんたらこわがりね」と可笑しそうに笑った。

 105話:「白」の逸話。「餅は白い。」 気品というか、何か特別な風格がある、と早期退職をした五十八歳の梅原充生(みつお)は思い、「何かに似ているような気がするんだけどね」と呟くと突然、目の前の光景のすべて(台所の炊飯器、リビングのソファ……)が自分とは関係ないものに思え、昼食も摂らずに床に坐って工作(ドールハウス)に熱中している妻も、見知らぬ女(二十八年も)だと思った。大根おろしまみれの餅の残骸を流しに捨てた瞬間、それが冬の朝の障子の、やわらかく仄(ほの)あかるい白さと気づく。が、そのときにはもう餅は生ゴミ用のネットのなかにまぎれて見えなくなってしまった。

 106話:「友達だと思っていたのに」と木村舞(まい)に言われ、大友(おおとも)だりあは泣きたくなった。「二千円でいいから」 舞にはもう十回近くお金を貸していたが、返ってきたことは一度もない。恵比寿と渋谷と明大前で三回乗り継ぎをして、安心な家に帰りたかった。そのためなら二千円払ってもいいと思った。お金を渡すと「ありがと」と言って、ぱっとだりあを抱擁し、「いい友達」と囁(ささや)いた。だりあはいま高校一年生で、卒業までまだ二年以上、あといくら舞にお金を貸すことになるのか、考えるのもおそろしかった。

 107話:ベッドに寝たまま安積(あづみ)大介(だいすけ)は、カラスが至近距離まで匂いがかげそうなほど近づいてきたのを、あれも夢の一部、朦朧(もうろう)とした意識が見た幻想だったのかもしれないと思った。半年ほど前からやってくるようになったカラスは片側の羽に赤い汚れが付着していて(48話)、ふてぶてしかった。ゆうべ発熱し、朝いちばんの病院でもらった風邪薬が効いたのか、汗で湿ったパジャマを着替えると、だいぶ楽になっていた。電話が鳴って、“なみ”と表示された。つきあい始めたばかりの彼女からなのででてみると、彼女の声ではなく、キーンというすさまじく大きな耳鳴りのような金属音が止む気配がなく、いったん切ってかけ直すと、今度は本人が出て、電話などしていない、テレパシーかも、大介くんのことを考えてたから、と。しばらく喋って、寝る前にもう一度薬をのんでおこうと枕元を見ると、確かにそこに置いたはずの薬が忽然と消えていて、またしても、熱のせいで頭がどうかしたのではないかと心配になる。

 108話平安時代シリーズ。母親の乳母だったというお客があって、柳は笙を弾かなくてはならなかった。庭に出ると、旅の疲れをとるために寝(やす)んでいると思ったお客さまがいた。“せいせい”する場所、築山(つきやま)に案内すると枯れ草のなかに白いものが見えた。紙で上手に作られた袋で、まぶしいほどぴかぴかした銀色の、手が切れそうに新しく四角い物体が三つ(それぞれがたくさんの白い玉を内包している)入っていた。あのカラスが運んできたに違いない、ということは、たぶん唐のものだ。袋にはいかにも唐っぽい字文字――内服薬とか安積大介とか――がならんでいる(107話)。宝物(コレクション)に加えて、早く規那に見せたい。平安時代シリーズはここまでで、クライマックスもなく、漂うように……

 109話:綿貫(わたぬき)誠司(せいじ)のスマートフォンには千枚近い写真が保存されている。撮ることも撮られることも好きでなかったのに、数年前に妻の病気が発覚し、すぐに連絡がつくように購入したのだが、妻は逝き、電話が残った。撮り始めると癖のようになった。撮りたいと思ったものを時空間ごと、確かに閉じ込められたと感じる。とどめ置けないものをとどめ置くこと。子供たちか、じきにできるかもしれない孫たちの誰かが発見し、鑑賞してくれる可能性もゼロではない、と思いたい。たとえば自転車で疾走する老女のうしろ姿(81話、95話)、電線に止まった夥(おびただ)しい数のすずめ(73話)、池に張った薄氷、風呂場のカビ、心に訴えかけてくるものは、存外そこらじゅうにある。「とどめ置けないものをとどめ置くこと」とは『去年の雪』のテーマでもあろう。「老い」ではあるが、「新たな生」でもある。

 110話:隣の席の金丸美生(みお)が「言葉ってどこに行くんだろう」と、また変なことを話しかけてくる。木村舞(106話)は美生が苦手だ。舞は小学校に入学した日から舞と呼ばれていたのに、木村さんと呼んでくるのもしゃくにさわった。「だってほら、一度発生した運動は永遠に止まないっていう法則があるわけでしょう? そうしたら、一度発生した声はどこに行くんだろう。ずーっと空中を漂ってるのかな」「消えるよ」舞はこたえる。「美生はね、ずーっと前に弟に言われた『ばかじゃない?』っていう言葉がときどき聞こえるの。思いだすとかじゃなく、ほんとに聞えるんだよ」 この子は、だりあ(106話)ほどには弱くない。舞には本能的にわかる。弟に、そんなこと言うとしめるよって言ってやんなよ、と言うと、無邪気そうに笑って、「美生は誰かをしめたりできないもん、木村さんと違って」と言うのだった。美生の疑問は、『去年の雪』で飛び交う時空を超えて侵犯する「声(言葉)」にも言えることだ。

 111話:いつもとおなじ夕方だった。楫取清(かんどりきよら)は一度帰宅してシャワーを浴び、楽な恰好で約束の店にでかけた。いつもとおなじ夜だった。交際五年目になる恋人の岩渕(いわぶち)真人(まこと)との関係は順調で、週に二日は、いつもの店(和洋中の三軒のどれか)で会って食事をする。 “たべるモード”に入ったのに、「別れてください」というのが真人の言葉で、冗談ではなく、笑っていなかった。「ごめんなさい」「他に好きな人ができました」とシンプルな説明を加える。清は箸をとったが、味はわからず、涙はでなかった。「わかった」清は言い、席を立ったとき、ひきとめてもらえるはずだと、どこかで期待していたが、真人は何も言わなかった。見慣れた景色のすべてがよそよそしく、もう何一ついつもとおなじではない。パスモをだそうとポケットに手を入れると、代々木(よよぎ)のピザ屋(真人と行くいつもの“洋”)で会計のときにくれるキャンディの包み紙が四枚出てきた。傷を抉(えぐ)るような気持ちで反対側のポケットもさぐると、先週真人と観た映画の半券や、去年真人と行った社会人アイスホッケーのチケットがでてきた。すべてポケットに戻す。それらをどうすればいいのか、見当もつかなかった。

 112話:真織が五人の子持ちだと言うと、みんな驚く。フェイスブックの“友達リクエスト”の文言は短く、アロー、真織、私を憶えてる? スウェーデン人のパニーラからで、加齢による変化はあるもののなつかしい友人の顔だった。三歳の長女が寄ってきたので、卵に絵をかいてくれる?と提案する。真織は持てるエネルギーのすべてを子育てに傾注している。過去を、いまではまったく思いださない、というより、自分ではない誰かの過去のように感じる。パニーラをめぐる記憶はアリにつながる。美大生の真織は政府の助成金を得てフランスに留学したが、学業など放棄して、人生の探索と恋愛にのめり込み、留学生だったパニーラとよく遊んだ。八年間、アリ一筋で、永住するつもりだったが、アリに新しい(しかも男性の)恋人ができた(自分がゲイであることに「ようやく気づいた」と説明された)ときには絶望した。アリなしのフランスは耐え難く、逃げるように帰国して、結婚目的のマッチングサイトに登録した。三十歳だった。使い果たしたと思っていた愛情は、一人目の子供が生まれると、アリのときとは比較にならない烈しさで噴出し、十三年間で五人が産まれ、愛情とは別の観点から選んだ夫のことも、子供たちの父親だと思えば大切にできた。さまざまな顔の描かれた卵を手にとって見ながら、パニーラには返信すまいと決める。あの娘はもういないのだ。それに、子供を産み育てるより大切なことなんて、結局のところこの世には一つもないのだから、と。「新たな生」。

 113話:四日前に妻が出て行った。三十二歳の渡辺耕介(こうすけ)は、離婚届が置いてあるリビングは避けている。このまま離婚してしまえばわずか三年で結婚は潰(つい)え、出会いから結婚までの七面倒くさいプロセスをくり返さなければならないので、妻に戻ってきてほしかった。枕元には週刊誌の山とカップ麺の空容器。週刊誌の「食べてはいけない加工食品の見分け方」「あなたの血管年齢は大丈夫か」という記事を読んで暗澹とした。カップ麺を食べたと知ったら妻は激怒しただろう。最近どこからか大量に飛んでくる「すずめ」(73話)が、やかましく鳴き立てている。

 114話:江戸時代シリーズ。絵師の犬喜(いぬき)が描くような奇妙な絵を加代は見たことがなかった。怪しさと美しさと物語性で加代の心をざわつかせる。「またあの犬がいた」と、行為のあと、布団に横たわった姿勢で犬喜は言う。真昼間からこんなことをしていると知ったら、勢喜や妹たちは驚くだろう。煮売屋の裏の道に、誰かを待っているみたいに、じっと立っていて、他の犬とは違うものが、あの犬にはある気がする。灰色でおそろしく痩せている。加代の腹に唇をつけ、このくらい滑らかな肌をしているし、妙な野良着みたいなものまで着せられている、と加代を笑わせた。江戸時代シリーズもまた、起承転結も続きもなく……

 115話:風呂場だ。電気のあかるさと閉塞感(へいそくかん)に市岡謙人は怯む。「俺だって会いたいけど」「五月の連休にはまた帰るし」と風呂場の外側で男の声が聞こえた。相手の声が聞こえないので、電話で話しているのだろう。男が入ってきて、バスタブに入浴剤をふり入れ、「きょうはイチジクミルク」(90話)と電話の相手に言った。生起を男は放っていた。キナ(17話)や、寝ていた子供たち(64話)や犬たち(78話、)や、馬たち(86話)とおなじように。「死者」もの。

 116話:浪人が決定したきょう、海堂(かいどう)治(おさむ)が感じたのはまず解放感だった。四校七学部全部終ったのだ。ローストビーフやちらし寿司(ずし)や、合格祝いになるかもしれないという母親の期待を裏切り続けた。ここ一年自分に禁じていたあれこれ――ゲーム、漫画、街をぶらつく、などなど――を、いましばらくのあいだはしてもいいのだ。来年また落ちたらと不安がないわけではないが、一年や二年の回り道が何だという気もあり、早く食事を終えて自室で漫画雑誌の読破にとりかかりたいのだった。

 117話:若い男が若い女を自宅アパートに監禁した上殺害したというニュースの続報を。糸井(いとい)武男(たけお)(43話の「コーポ・エリゼ」に住む糸井七海との関係は?)は見ることも読むこともできない。その若い男が自分の孫だからだ。喪失感。信じてきたもの、まっとうな人間であるという認識、誇りや信頼、心の平穏といった、あたりまえに所有していたはずのものがすべて消えてしまった。せめてもの救いは、妻がすでに他界していることだ、生前あれほどかわいがっていた孫が何をしでかしたか知らずに。武男は、あの少年(やさしい子供で、金魚を水槽に閉じ込めることさえ嫌がり、携帯電話の使い方を辛抱強く教えてくれた中学生だった)と拘留(こうりゅう)されている犯人とはべつの人間だ、というふりでもしないと正気を保てそうもない。世界はすっかり、そして永久に変容してしまった。

 118話:谷田部理保(やたべりほ)と島原(しまばら)恭子(きょうこ)は小学校時代からの友達で、学習塾にもいっしょに通い、無事おなじ中学に入学した仲で、こんないい天気の日に学校にいるのはもったいない、と公園のベンチに座って、あるジャンルのなかでいちばん好きなものはどれか、について話している。「シブースト」「いちじくタルト」、「サーティワンならキャラメルリボン、ホブソンズならアップルパイ」「サクレレモン」。趣味や考えることが違っていて、驚かされる。「車? 車種とかわかんないな。興味もないし」と理保はこたえ、恭子は「私はハマーが好きなんだけど、もう製造されてないんだって。まあ、私が大人になって車を買うころには、もっといい車がでてるかもしれないけどね」と、まだ免許も取っていないのに、車を買うことが決っているかのような口ぶりに、理保は驚かされ、他に何と言っていいのかわからずに「でてるといいね」と言った。「子供」もの。

 119話:「若い娘たちの気配だ、とそれ(・・)は思う。」 自分の名前もとっくに忘れてしまっているのに、若い娘たちというのがどういうものかは忘れていないのだ。老人が手にしている新聞を、それは新聞としては認識しない。ただ、紙。とだけわかる。それがいま感じているのは草だ。それは気持ちよくその静かな生気を味わう。「死者」もの。

 120話:119話に続いて「死者」もの。「またべつのそれ(・・)もおなじ公園にいる。」 それが感じているのは硬さとつめたさで、青銅製の騎馬像に密着しているからだ。いまやそれにわかるのは、自分と自分以外のものの区別だけだ。ヘリコプターが存在しないころを生きて死んだそれはしかし、その振動を世界の鼓動の一部として、何の苦もなくあたりまえに受け容(い)れる。「死者」ものには詩情が伴う。

 121話:スーパーマーケットで、近田ひかりは、犬のバンビをおもてにつないで待たせ、八人の友人を手料理でもてなすための買物を手早く済まそうとしていた。バンビはイタリアングレイドハンドの雌で、皮膚はベルベットみたいに滑らかな手ざわりで、セーターを着せられ、華奢(きゃしゃ)で優美な身体つきだ(114話)。「バンビ?」 声をかけたが空中の一点をじっと見つめ続ける。まるで、ひかりには見えない何か――あるいは誰か――が見えるみたいに。

 122話:五歳になったばかりの尾形啓斗(けいと)は退屈している。母親に美容室に連れられているからで、うろうろ観察し、お姉さん的な人に対応されるが絶望し、母親の膝につっぷして嗚咽(おえつ)してしまう。「子供」もの。

 123話:坪倉新那(にいな)は喘息の発作で学校を休んでいる。吸入器を当てると、いつものように治まり、もう百回くらい観た気のする“アナと雪の女王”のDVDを観せられたりしているうちに回復する。リビングのひきだしからパパが眼鏡を拭くときに使う小さな紙の束から、そっと一枚だけ破りとる。鼻に、ほっぺたに、おでこに、あごにあてるが紙には何の変化もない。パパがすれば、紙はたちまち濃く深く色を変え、透き通る(!)のに。パパは、その不思議を見せながら、新那も大人になればできるようになるよ(あぶらの問題だそうだ)と言ってくれる。“大人になる”のはいつなのだろう。待ちきれなかった。「子供」もの。

 

 こうして江國香織『去年の雪』は、「さはれさはれ 去年(こぞ)の雪 いまは何処」のごとく……   

                              (了)                                                         

        *****引用または参考文献*****

江國香織『去年の雪』(角川文庫)

江國香織『つめたいよるに』(解説:川本三郎)(新潮文庫

江國香織『号泣する準備はできていた』(新潮文庫

江國香織『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』(集英社文庫

江國香織『薔薇(ばら)の木 枇杷(びわ)の木 檸檬(れもん)の木』(集英社文庫

江國香織『ちょうちんそで』(新潮文庫

江國香織『がらくた』(新潮文庫

江國香織『思いわずらうことなく愉しく生きよ』(光文社文庫

江國香織『ひとりでカラカサさしてゆく』(新潮社)

江國香織『物語のなかとそと 江國香織散文集』(朝日新聞出版)

*『新潮ムック 江國香織ヴァラエティ』(新潮社)

丸谷才一『文学のレッスン』(聞き手:湯川豊)(新潮文庫

デイヴィッド・ロッジ『小説の技巧』柴田元幸斎藤兆史訳(白水社

ジェイムズ・ジョイス『ダブリン市民』安藤一郎訳(新潮文庫

ジェイムズ・ジョイス『ダブリナーズ』柳瀬尚紀訳(新潮文庫

ジェイムズ・ジョイス『若い芸術家の肖像』丸谷才一訳(新潮文庫

ジェイムズ・ジョイス『『若い芸術家の肖像』の初稿断片 スティーヴン・ヒーロー』(付録:エピファニーズ)(永原和夫訳(松柏社

*米本義孝『言葉の芸術家ジェイムズ・ジョイス 『ダブリンの人びと』研究』(南雲堂)

*金井嘉彦・吉川信編著『ジョイスの罠 『ダブリナーズ』に嵌る方法』』(言叢社) 

*金井嘉彦・道木一弘編著『ジョイスの迷宮(ラビリンス) 『若き日の芸術家の肖像』に嵌る方法』(言叢社

ヴァルター・ベンヤミン『ドイツ悲劇の根源』浅井健二郎訳(ちくま学芸文庫

湯川豊篇『新しい須賀敦子』(湯川豊江國香織対談「須賀敦子の魅力」所収)(集英社

須賀敦子『霧のむこうに住みたい』(解説:江國香織)(河出文庫

*「作家の読書道 第206回:江國香織さん」(WEB本の雑誌): https://www.webdoku.jp/rensai/sakka/michi206_ekuni/index.html

*「江國香織さんの最新作『去年(こぞ)の雪』。不思議な読後感を残す物語はこうして生まれた」(「家庭画報.com」2020.4.7):https://www.kateigaho.com/article/detail/75373

*「待ちに待った江國香織さんの最新作は、今こういうときこそ読みたい小説だ! 『去年の雪』」(「本が好き。」):https://honsuki.jp/pickup/30514/index.html

江國香織柳美里『自殺の国』の書評」(All Reviews)

江國香織井上荒野『雉猫心中』の書評」(All Reviews)

*『竹取物語/伊勢物語/堤中納言物語/土左日記/更級日記 (池澤夏樹=個人編集 日本文学全集03)』(『更級日記江國香織訳(河出書房新社

*ナタリア・ギンズブルグ『ある家族の会話』須賀敦子訳(白水uブックス)

*リチャード・エルマン『ジェイムズ・ジョイス伝』宮田恭子訳(みすず書房

フランソワ・ヴィヨン『ヴィヨン全詩集』鈴木信太郎訳(岩波文庫

ロラン・バルト「明るい部屋」花輪光訳(みすず書房

藤井貞和源氏物語入門』(「慿入の文学」所収)(講談社学術文庫

文学批評 折口信夫の『源氏物語 若菜』――「反省の書」 (引用ノート)

 

 小林秀雄本居宣長』は、小林が折口信夫の大森の家を初めて訪問し、『古事記』について尋ねての帰途、駅まで送ってきた折口が、《お別れしようとしたとき、不意に、「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ、では、さようなら」と言われた》というエピソードから始まる。

 大森駅まで一緒に送った住込みの弟子岡野弘彦によると、「小林さん、本居さんはね、なんと言っても(・・・・・・・)源氏ですよ」と改札口を挟んで切羽詰まって発したことが記憶に残っているという。小林は『本居宣長』冒頭でこのエピソードを印象づけはしたものの、宣長が『源氏物語』に『古事記』よりもさらに深い思いで入っている、さらに深い愛情を注いで読み込んでいる、ということについては書いてられない、と岡野は「源氏物語全講会」で発言している。実際に小林は、宣長紫文要領』や『玉の小櫛』を参照しながら『源氏物語』の「もののあはれ」に触れはするものの、力点を『古事記』においてしまったのはよく知られるところだ。

 

 意外かもしれないが、『折口信夫全集』で『源氏物語』に関する論考は少なく、片手の指で数えられるほどといってよい。それには、下記のような事情がある。

 折口信夫木々高太郎池田弥三郎小島政二郎奥野信太郎による座談会『源氏物語研究』(昭和二十六年九・十月「三田文学」)によれば、

池田 先生(折口氏)は源氏をお読みになつたのはいつ頃なんですか。万葉よりはずつと後ですか。

折口 相当に遅いでせうね。もつとももとは専門にしてゐなかつた所為もありませう。三矢(重松)先生が専門にして居られ、従つて、源氏全講会を始められた。江戸の学者のした和学講談みたいなことをなさつたら、どうですかと私がおすゝめして、先生がお始めになつたのが大正十一年の秋でした。これは、国文学の全講会(万葉講座などの類)のはじめでした。残念なことは、その年の七月お亡くなりになりました。桐壺から若紫までいつてましたから、速度が早かつたのですな。先生が亡くなられ、翌年御遺族が続けていけと仰しやつたので、そのあとをさせて貰ひました。さういふことがなかつたら、万葉一つで、ずつと通してたでせうね。だから万葉と源氏の両刀使ひみたいな一生になつてしまひました。(笑)いつたい奈良朝以前と平安朝ですから、ちよつと調子がをかしいですが……。それに学校が国文学専門といつてもよい学校でしたから、それでも世間で場違ひだとは見てくれないですんだのです。》

 遅い始まりだったとしても、折口の『源氏物語』への想いは深く、博識の下で着眼点は鋭い。数少ないが、残された論考を引用しながら、「折口源氏」の核心を読んで行く。

 

<『折口信夫全集 ノート編 追補第四巻 源氏物語3』――『若菜講義』/『若菜』を読まぬと本当に源氏を読んだとは言えない/強い性格>

 岡野弘彦は「源氏物語全講会」の『若菜 上』の講義で、折口信夫は亡くなる前年の昭和27年に「源氏全講会」の『若菜』講義に入り、昭和28年9月の死によって途中で終ってしまうのだが、その最後の講義について、『折口信夫全集 ノート編 追補第四巻 源氏物語3』を読みながら、ところどころ補うような解説の言葉、所感を、記憶をまさぐるように語りだす。

 まず、『折口信夫全集 ノート編 追補第四巻 源氏物語3』の冒頭の『若菜 上』の概要文を書き写せば、

《「若菜」の名は年の賀によっている。しなで算賀と言う。日本でもその語を使っている。

「若菜」は年の賀、算賀に関係がある。貴族の徳の高い人が年をとると、娘分の人が嫁菜の吸い物を作って食べさせる。若菜の羹(あつもの)を捧げる仕来りだ。しなから来た仕来りだと言うが、日本だけにもそういう風習はかなり古くまで遡ることができる。この巻は源氏の四十の賀を中心として書かれている。次の「若菜下」の巻は、源氏の兄、朱雀院の帝の五十の賀を中心としている。女三の宮が若菜を勧める。両方とも賀が中心なので、それでこの巻々を「若菜」と言い、上下としている。

「若菜」という名をつけたその考え方も。小説的にうまく考えている。それだけでなく、源氏が人生を昇りつめたところの生活を書いていて、これ以後は下り坂になる。源氏の人生の花の時代を書いている。内容も他の巻に比して小説的に優れている。大まかな味わいがある。小味なところでは玉鬘の系統の巻々が優れていて、いいものだが、「若葉」になるとさすがにえらいものだと感じる。源氏もこの巻々を読まぬと、本当に源氏を読んだとは言えない。

源氏の四十の年を中心としてその前の年と後の年のこととが出てくる。朱雀院の帝は病気がひどくなり、出家したいと思っているが、したくてもできなかった原因の女三の宮がやっとの思いで源氏が受け取ってくれた。それで肩の荷が下りて、御室の御所で得道した。このあと源氏は日本中でいちばん上の人で、自然と自由な気がしてくる。今までになかった性格も出て、人間としての自由さも発揮してくる。それは狭い根性からは非難されるが、小説としては非難できない。源氏が女三の宮を迎えることは、表はきれいだが、裏を言えば、実は朱雀院の財産が付いている。この宮を迎えると源氏に大きな財産が付いてくる。朱雀院という御殿は、御殿にも諸国にも大変な財産がある。領分がたくさんあるのだ。これが流れ込んでくる。もっと昔の人なら書くのを億劫がるところだが、それを書いている。知識を持って読むとはっきりわかるように書かれている。

一方、女三の宮を迎えたことで紫の上が寂しい気がしてくる。衰えてくる。しまいには死病にとりつかれる。紫の上の運が傾くもとになる。一方、朱雀院が入道したので、これまで遠慮していた朧月夜尚侍と忍び逢うようになる。これは、普通の道徳で考えるべきでなく、いろいろのことが織り込まれている。この巻では小説的な大きな動きが出てきて、源氏程の人もやはり社会の動きにつれて変わってゆくのだと感じさせる。

明石の入道が住吉の社へ奉った願文が公表せられる。それによって明石の姫君が后になられた理由がわかる。明石の入道の誓いによってできたことだ。帝の后になるような人がその家から出てきた。入道が明石の方を源氏に勧めたのは、源氏に見込みをつけて、この人に上げるとこの人が天子になると思っていたが、それは実現しなかった。が、次の時代になって娘の腹から生まれた子が天子の后となった。昔の人の宗教心が情熱的に書かれている。その点はよく書けている。

源氏にしても、本当の娘が中宮になるのだから大変な誉れだ。今まで六条御息所の娘を冷泉院に差し上げているが、これは養い子だ。源氏のこの世の宿願も極点に達している。それと新しい恋。女三の宮に対しては源氏が恋心を持つとは書いていない。源氏の作者はこの人を少し劣った人のように書いている。源氏がこの人に思いを寄せているとは書いていない。が、好意は持っている。それと柏木の右衛門督とが密通する。柏木は女三の宮とのことを残念に思っていたのが、蹴鞠の折、御簾が上がり、すだれの隙間から顔を見て、どうしても忍ばれぬ恋心を起こす。女三の宮の女房に頼んで取り持ちをしてもらう。この巻から次の巻へかけて源氏の他の巻にはないような強い性格が出てくる。》

 

 折口の『若菜』に対する感動の在り様について、岡野の講義を文字起ししてみると、

「若菜に感動する人は他にもないことはないけれども、折口信夫ほど若菜に深い感動を、そして若菜の巻々(まきまき)の内容に重要な問題を読みとっている人はないと言ってもいいんですね。」

折口信夫がよく言った言葉ですけれども、近代に入っての源氏物語の読者っていうのは、宇治十帖を面白がるんですね。折口は宇治十帖はほとんど評価しない。あんなものは、いつの時代だって書けるんじゃないか、というふうな感じですね。つまり光源氏が中心になっている巻々のもっている日本人の伝統的な心の大きさ、そして登場人物たちが演じてゆく動きの、力強さ、あるいは情熱的な心の在り様、魂の在り様、これが源氏物語の一番優れている部分だというふうに見ているわけですね。現代小説を読むような感じで読めば、それは宇治十帖がいかにもこう、か弱い現代人の感覚にも共感できるような、あるいはその心の動きというものが理解できる感じがするわけです。光源氏が中心になっていることに、この光源氏の人生が大きく人間として充実してきた時期の、光源氏の行動、ものの考え方、色好みの心の在り様というふうなものは、現代人には、ことに現代の知識人には、とてもあの、よほど深く考えて、そしてよほど日本の古典の中の、伝統的な心の在りかたをたどっていってるものでないと分ってこないわけです。なんかより古風な、あるいは未開な、むくつけき愛情の在りかた、男女の愛の在りかた道を、こんな、我々には理解しがたい源氏の、淫乱のようにすら見える、奔放な愛の在りかたというものが、どうしても我々の感覚にはしっくりと響いてこない。そこのところを折口は、そのところが、我々の感覚に沿う様な形ですうーっとそのまま入ってこないところが、源氏物語の大きさなんだ。あるいは我々がもう失ってしまった日本人の心の伝統の大事な部分なんだ、その具現者が光源氏なんだと、まあそういうふうな考え方を、少し誇張して言えば、分かりやすく言えば、そういうふうな心を持っているわけです。」

 

<『伝統・小説・愛情』――残虐/二重表現/隠忍の激情/貴人のみさを(・・・)>

 折口信夫は『伝統・小説・愛情』(昭和二十三年一月「群像」)で、一番好きだった『若菜 下』を、末の方の章の訳とともに解説している。

《源氏は、第三の北の方とも言ふべき女三宮(ヲンナサンノミヤ)に、あやしく狎れてしまつた柏木衛門督(カシハギノヱモンノカミ)の手紙を発見して以来、心一つにをさめて、人々に語らず、静かに注視することを忘れなかつた。十二月になつて、朱雀院(スザクヰン)ノ上皇の五十賀(ガ)を行ふに先だつて、試楽を六條院で行うた。柏木はひどく煩つて居るやうに言つて、参加しないことにして居たが、父太政大臣も、ひねくれてゐるやうに思はれてもよくないと励すので、苦しさをおして、その六條院であつた試楽に出ることになつた。今日は、かうした試楽の日だが、源氏の系統の若い貴公子たちの舞があつて、皆感動した直後のことである。

 年のふけて居られる上流の公家たちは、皆感涙を落された。

 主人役の六條院は、かう言ひ出された。

  どん/\とつて行く年齢(トシ)につれて、酒のあとの酔ひ泣きは、なか/\とめられ なくなつて来るものだ。衛門(ヱモン)ノ督(カミ)が、おれの方を念入りに注目してゐて、にこ/\せないで居られぬと言ふふうにしてゐるのが、何だか気のひけることよ。其にしても、さう言ふこともほんの今(マウ)ちよつとの間だらう。誰しも願ふとほり、逆さまにとつて行つてくれぬ年月だもの。年よると言ふことは、脱却出来ぬことだものな……。

 と言つて、柏木の方へ視線をおよこしになるので、外の人から見ると、ずつときちんとした風を崩さず、むつゝりして居て、――其から此は個人的な話だが――、気分もひどく苦しくなつて来たので、今日のとても結構な行事も、印象が残らないやうな気分で居るこの人をば、選りに選つて、相手にしてかゝり、生酔ひの風をして、こんな風におつしやる。それは、じやうだんめいた風にしてゐられるのだけれど、場合が場合だからひどくどきり(・・・)としてしまつて、――自分の前に盃のまはつて来るのすら、頭にひゞくやうに感じるので、ほんの形式だけですまして居るのを、源氏が見とがめなさつて、盃を手から手へお持たせになつたまゝで、幾度も重ねて強ひられるので、あげもさげも出来ないで、処置に困つてゐる様子、平凡な身分の者の場合とは違ふのだから、其だけに又、さうした様子が、人の心をひく。……だがそれは、一時的なわる酔ひのせゐだと思つたが、そんなことではすまなかつた。其まゝ、ひどく病ひづいて、お苦しみになる。……

若い北の方を竊(ヌス)んだ男――勢力の対立した親族の家の後継者――に対して、これが源氏のしたことなのだ。源氏読みの人々からは、円満具足した人格のやうにみられてゐる源氏が、かう云ふ残虐を忍んでするのだ。ところがまだ/\こんなことではすまなかつた。此がもとで、柏木衛門ノ督はとう/\死んでしまふのである。若い恋敵をさう云ふところまで追ひこんで、凝視をやめない。さうした態度を、静かに持ち続けたゞけではなかつた。三ノ宮の方も出産の苦しみに耐へられなかつたにもよるが、源氏を恐れて出家しようとする。其を源氏はたゞ通り一ぺんの挨拶で、不賛成を示したばかりであつた。結句三ノ宮は尼になられる。御室(オムロ)から、我が子の初産を看る為に来られた朱雀院ノ上皇と三ノ宮と。限りなく貴くて、美しい親と子と。唯才能の著しく欠けてゐる所のある二人の貴人が、大事件の前におろ/\(・・・・)して居られる。其も源氏は、唯一とほりの形の上の悲しみだけで見送つて居るのである。

この物語の作者は、昔から女性だとの推定が、動かぬものとなつてゐるが、これが、脆弱な神経では書ける訣のものではない。

古来光源氏を愛した人々は、文章にたとひさうなつて居ても、さうは読まなかつたのである。其をこゝまで負けないで、書きとほしてゐる。えらいものだと思ふ。

平安朝の物語には、書き方によつて、反語的効果を持つと言はうか、二重表現があるので、此特殊な文体は、読み馴れゝば、馴れて直に流れいるやうにうなづける気分を持つて書かれてゐる。さうした階級に発生した表現法が、小説の一つの姿態を作つてゐるのだ。

源氏にとつては、憎くて/\ならぬのである。ことし四十であるが(筆者註:丸谷才一は『光る源氏の物語』の「若菜 下」で折口の訳と言説を引用しながら、《これはもうちょっと上です。折口信夫くらいになると、頭のなかに『源氏物語』が全部あるから、四十七と四十と間違えるなんていうのは平気なんです》と流しているが、たしかに岡野弘彦も、《折口先生は、『源氏物語』の全講会の前の晩に、その木版本(筆者註:『湖月抄』)を声に出して読んでいくだけであった。そして朱の筆でテン・マルを打っていく。それが先生の予習なのであった。『万葉集』をはじめ歌集などを講義するときは、先生は予習はしなかった。全部頭に入っているのであろう。『源氏物語』のときだけは前の晩に声に出して読んでいく。講義のときのように声に出して読んでいく。それが予習なのであった》と語っている)、今もちつとも形は衰へて居ない。其を誰よりも一等よく知つてゐるのも、源氏自身である。臣籍に降つてはゐるが、上皇に準ずる待遇を受けて居る自分だ。それに、位置・才能・教養から言つても、自分の足もとにもよりつけぬ男が、唯若いと言ふ一点だけで、一度だつて人に遜色を感じたことのない自分から、愛を盗んで行つた。かう考へることのくちをしさ。しみ/\゛と年をとつたと言ふことのあぢきなさを、感じさせられた腹立たしさ。第一、この美しい昔のまゝで、而も更に成熟した閑雅なおれの容貌が、どうなるのだ。あまつさへ、さう言ふ憤りを表白することの出来ぬ自分――、さしあたつて当然守らねばならぬのは、皇女出の北の方が生んだ若君は、思ひがけなくも自分の胤でないと言ふ秘密であつた。どんなことがあつても、自分だけの知つた秘密として、おし通さなければならない。其を知つたものが、自分と北の方との外の一人があつた。衛門ノ督だ。さうした俗世間へ落ちこぼれ易い知識は、どうしても除かねばならぬ。人ごとであつても、源氏は、さう言ふ事の為の努力はするであらう。此こそ、やまと(・・・)の国の貴人の共同に保つて行かねばならぬ所の外的儀礼――みさを(・・・)であつた。怒りでもない。元より嫉妬でもない。此ではやまと(・・・)の国の貴人のみさを(・・・)が、どう維持せられるのだ。さう考へることから、名状できぬ怒りが、心の底に深い嫉妬を煽り立てゝ来る。計画をせぬ、美しい心のまゝに動いた青年以来の、又壮年になつても変らぬ純な心動きが、今もそのまゝに、源氏の心をおし動かして、思ひはかつたやうな形に、事を導いて行つた。運命が事を牽いてゐるのではない。源氏自身が、すべての運命を、展いて行つてゐるのである。而も、その運命、源氏自身の為の、三ノ宮の為の、恐しい兆しが、源氏が予期してゐたかのやうに、段々形を備へてゆく。柏木の人生の鍛へを経ぬ弱い心は、彼の身を滅してしまふ。三ノ宮は、咲きながらしぼんで行く牡丹花のやうに、美しい位置から姿を隠して行く。さうして再、何事もなかつた、林泉のやうに、枝も動かさぬ静けさに還る。漣も立たぬ無表情な貴い家庭ののどけさが来る。

源氏物語に書かれぬ光源氏自身の心は、源氏読みの人々の心に伝へられた理会のしかたで、奥邃(オクブカ)い二重表現の効果を遂げるのである。かうした運命に対して、絶対に能動の地位に立つ貴人、而も底知れぬ隠忍の激情に堪へてゐる巨人――之を若し忍んで書きとほす女性があれば、恐しいことである。

源氏も、成熟しきつた時期は、紫式部が書いて居るのではない、と私などは信じてゐる。貴族宮廷の生活を書いても、ばるざつくは、瞬間も、その貴人たちに対して、冷笑や苦笑を忘れる事がない。貴族の生活を批評する計画を持つて、貴族の生活を描写してゐると謂つた、彼の目的を感じさせる。

源氏は貴人の持つみさを(・・・)――儀礼的外貌を毀(コボ)つことなく、寛大に、清澄に、閑雅に、この世を過ぎて、而も世の人々のするやうな劣情も、険怪も、執著も、皆心のまゝに遂げて行つた人の蹤(アト)を、其まゝに伝へて行つてゐる。

昔の人の計画なき計画が、希望せぬ希望によつて、まざ/\と実現して行つた姿を書いて行くのが、平安時代の物語の描写法であつた。殊には其が、この事を考へないでは、其小説として持つてゐるよろしさも、たのしさも、殆、空虚なものになつてしまふ源氏の文体にある、物語の姿なのである。》

 

<『反省の文学源氏物語』――深い反省/昔の日本人の信仰と道徳/家の争い/人間の悲しさ>

 折口信夫『反省の文学源氏物語』(昭和二十五年七月「婦人之友」)から。『伝統・小説・愛情』の指摘と重複するところがあるが、それだけ思入れが深いということに違いない。

《人によつては、光源氏を非常に不道徳な人間だと言ふけれども、それは間違ひである。人間は常に神に近づかうとして、様々な修行の過程を踏んでゐるのであつて、其ためには其過程々々が、省みる毎に、あやまちと見られるのである。始めから完全な人間ならば、其生活に向上のきざみはないが、普通の人間は、過ちを犯した事に対して厳しく反省して、次第に立派な人格を築いて来るのである。光源氏にはいろんな失策があるけれども、常に神に近づかうとする心は失つてゐない。此事はよく考へて見るがよい。近代の学者は、物事を皮相的にしか考へなかつた訣ではないが、教へられて来た研究法が形式倫理以上に出なかつた。源氏物語を誨淫の書と考へ、その作者紫式部の死後百年程経て、式部はあゝ言ふいけないそらごと(・・・・)を書いた為に地獄へ堕ちて苦しんでゐる、と言ふことさへ信じられてゐた程である。これは其時代の人々に、小説と言ふものが人生の上にどんな意義を持つてゐるか訣らなかつた為である。源氏物語は、我々が、更に良い生活をするための、反省の目標として書かれてゐた訣を思はないからである。光源氏の一生には、深刻な失敗も幾度かあつたが、失敗が深刻であればある程、自分を深く反省して、優れた人になつて行つた。どんな大きな失敗にも、うち負かされて憂鬱な生活に沈んで行く様な事はない。此点は立派な人である。

かうした内的な書き方だけでは、何としても同じ時代の人の教養では、理会せられさうもないから、作者は更に、外からは源氏の反省をしめあげる様な書き方をしてゐる。すべて平面的な描写をしてゐるのだが、源氏の思うてゐる心を書く時は、十分源氏側に立つてゐるのだし、客観的なもの言ひをしてゐる時は、日本人としての古い生活の型の外に、普遍的なもらあるがあるのだと言ふことを思はせるやうになつてゐる。其は、因果応報と言ふ後世から平凡なと思はれる仏教哲理を、具体的に実感的に織り込んで、それで起つて来るいろんな事件が、源氏の心に反省を強ひるのである。源氏がいけない事をする。それに対して十分後悔はしてゐるが、それを償う事は出来ないで、心の底に暗いわだかまりとなつて残つてゐる。所が時経て後、其と同じ傾向の事を、源氏が他人からされることになつて来る。譬へば、源氏が若い頃犯した恋愛の上の過ちが、初老になる頃、其最若い愛人の上に同じ形で起つて来る。源氏は今更のやうに、身にしみて己の過ちを省みなければならぬのである。内からの反省と外からの刺戟と、こゝに二重の贖罪が行はれて来ねばならぬ訣である。此様に、何か別の力が、外から源氏に深い反省を迫つてゐる様に感じられる書き方が、他の部分にも示されてゐる。源氏が、権勢の上の敵人とも言ふべき致仕太政大臣の娘を自分の子として、宮廷に進めようとする。其時になつて、此二人の後備へとも言ふべき貴族に、途から奪取せられてしまふ。かう言ふ場合、此小説の書き方が、極めて深刻であり、其だけにまた、強い迫力をもつて来る。

近代の小説家の中にも、其程深いものを持つてゐる訣ではないが、小説として書かれたものを見ると、相当に高い精神を持つたものを書くことの出来る人がないではない。其は其人が書いてゐるうちに、其人の実際持つてゐるもの以上に、表現に伴うて出る力があつて、ぐん/\と出て来るのである。源氏物語の作者にも、勿論さうした部分が十分に認められる。寧此力が異常にはたらいてゐる為に、あゝした遥かなと言つても遥か過ぎる時代に、あれだけの作物が出来たのだと言ふことが出来る。(中略)

皮相な見方をすれば、源氏物語は水のあわ(・・・・)のやうにあとかたもないうは/\(・・・・)した作り事であるとは言へる。又若い頃の悪事が、再自分の身に報いて来る因果応報の物語であるとも言へる。然し作者の意図せない意図と言ふものがあつた。其は今言つたやうな所にあるのではなく、もつともつと深いものを目指してゐたのである。学者は其を学問的に説明しようとし、小説家は其に沿つて更に新しい小説を書かうとして来た。源氏物語の背景にしづんでゐる昔の日本人の生活、更に其生活のも一つ奥に生きてゐる信仰と道徳について、後世の我々はよく考へて見ることが、源氏を読む意味であり、広く小説を読む理由になるのである。

          ○

源氏物語の中に持つてゐる最大きな問題は、我々の時代では考へられないほどな角度から家の問題を取り扱つてゐる事である。一つの豪族と、他の豪族とが対立して起つて来る争ひを廻つて、社会小説でもなく、家庭小説でもなく、少し種類の異つた小説になつてゐる。島崎藤村などは晩年此に似た問題に触れてはゐるが、それ程深くは這入つて行かなかつた。平安朝は、さうした問題が常に起こつてゐた時代であり、闘争も深刻であつた。従つて源氏物語も、常に其問題を中心として進められてゐる。最初は源氏の二十歳前に起つて来るもので、源氏の味方となつて大切にしてくれる家と、どこまでも意地悪く、殆宿命的に憎んでゐる家との対立が書かれてゐる。前者が左大臣家――藤原氏を考へてゐることは勿論である。――後者は右大臣家である。(中略)源氏は成人して、左大臣家の娘葵上の婿となる。もと/\左大臣家の北の方は、源氏の父桐壺帝の妹君が降嫁されたのであつて、伯母に当る訣である。(中略)

一方、右大臣家との関係はどうかと言ふと、右大臣の長女が源氏の父君桐壺帝よりも、年上の女性である。早くから宮廷に這入つてゐて、弘徽殿女御と言はれた。帝が、後に源氏の生母桐壺更衣を余り寵愛なさるので、自尊心を傷ける。女御の怒りは、日増しにつのつて行つて、まるで咒ひ殺された様な風に死んでゆく。其後源氏にとつても又、右大臣家の人々は非常につれないものになつて行くのである。極単純な感情だが、物語の主人公の反対者は、悪い人間である様な感じを持つものである。昔の人は、其をもつと/\強く感じたであらう。主人公である限りは、はじめから善い人にきまつてゐたのである。昔の人は、其をもつと/\強く感じたであらう。古い注釈書には、弘徽殿女御を悪后と言つてゐる。この右大臣家にも、たつた一人源氏に対して深い好意を寄せてゐる人が居た。六番目の娘で、後、朧月夜尚侍と言はれた人である。偶然の機会、照りもせず曇りもきらぬ春の夜に源氏と出あつたのだが、右大臣家では間もなく宮中に入れよう思つてゐた娘に、敵の様に思つてゐる源氏がおとづれしてゐた事を知つて、非常に大きな問題になる。其結果源氏は追放される事になつてしまふ。昔の物語の書き方では、貴い人をきずつけるやうな噂はせぬ礼儀になつてゐるので、源氏の場合も、京に居づらくなつて、自ら須磨へ行つた事になつてゐる。其上、代々の源氏読みの習慣では、流されたものと見て来た。源氏の亡き父桐壺帝が、源氏を憐れに思つて、朱雀院の夢に現れて嘆かれるので、間もなく京へ呼び返される。其後は、源氏の勢力が俄かに盛んになり、右大臣家との争ひは終る事になる。(中略)

かうした事件の流れの中で、源氏は清らかな心で振舞つたり、時には何となく動いて来る人間悪の衝動に揺られたり、非凡な人であつたり、平凡になつたりして動揺して行く。其姿を大きな波のうねりの様に、まざ/\と書いてゐる。

此外に、表面は源氏の実子になつてゐる、薫君と言ふ男の子がある。母は源氏が年いつてからの三番目の北の方で、朱雀院の御子、女三宮(ヲンナサンノミヤ)である。源氏の若い頃、藤壺ノ女御との間にあつた過ちと同様、内大臣の長男柏木と女三宮との間に生れた子である。源氏は其事を知つて、激しい怒りを、紳士としての面目を保つて、無念さをじつとこらへ通してゐる。

時経てから、源氏が出た或酒宴で、柏木も席に列なつてゐたが、内心の苛責から、源氏に対して緊張した態度をとつてゐる。其が却つて源氏の心の底の怒りに触れて来る。そして源氏は柏木を呼んで、酔ひ倒れるまで無理強ひに酒をすゝめる。柏木は其が原因で病死する。源氏が手を下さずして殺した事になる訣だ。殺すといふ一歩手前まで迫つた源氏の心を、はつきりと書いたのが、若菜の巻の練熟した技術である。美しい立派な人間として書かれて来た源氏が、四十を過ぎて、そんな悪い面を表してくる。此は厭な事ではあるが、小説としては、扱ひがひのある人間を書いてゐる訣である。大きく博く又、最人間的な、神と一重の境まで行つて引き返すといつた人間の悲しさを書いてゐる。作者に、其だけの人間の書ける力が備つてゐたのである。此だけの大きさを持つた人間を書き得た人は、過去の日本の小説家には、他に見当らない。

源氏物語は、男女の恋愛ばかりを扱つてゐるやうに思はれてゐるだらうけれど、我々は此物語から、人間が大きな苦しみに耐え通してゆく姿と、人間として向上してゆく過程を学ばなければならぬ。源氏物語は日本の中世に於ける、日本人の最深い反省を書いた、反省の書だと言ふことが出来るのである。》

 

<『源氏物語における男女両主人公』――色好み/篤い信仰生活/近親婚/あらゆる文化に対する知識>

 折口信夫『反省の文学源氏物語』(昭和二十六年九月「源氏物語」朝日古典講座第二集)から。まず、『源氏物語』を読む近代人としての我々は、「色好み」に対する誤解から解放されねばならない。

《色好みといふのは非常にいけないことだと、近代の我々は考へてをりますけれども、源氏を見ますと、人間の一番立派な美しい徳は色好みである、といふことになつてをります。少くとも、当代第一、当時の世の中でどんなことをしても人から認められる位置にゐる人のみに認められることなのです。さうでない人がすると、色好みに対しては、すき(・・)心とかすきもの(・・・・)とかいふやうな語を使ひました。場合によつては源氏のやうな人格の人でも心得違ひをした時には、作者が軽くすき心だとか好き者といふやうな語を使つてますが、此は正面からの誹謗ではない。

何故、色好みなんていふ語が、非情に意味を持つて考へられてをつたか。今日の我々からいふと驚くべきことですけれども、其は国中の一番立派だと言はれる女の人を選んで、其人と結婚する。さういふ結婚を幾度もする。さうして才能の長けた、宗教的に威力を持つた女性達を男が養うてをる。さういふのは、どういふ人だといふと、日本の宗教の歴史から申しまして、非常に久しい間、日本の国の上に立つて、此国を治めてゐられた人が其に当る人であつたといふことになる。つまり歴史と小説とがぴつたり当て嵌まるといふことは、よつぽど考へなければならぬことですが、かういふ場合に一つ/\も申せませんから、簡単にざつく(・・・)に申して置きます。

我々の祖先の持つた宮廷観、我々の祖先が尊い人に持つてをつた考へ方が、特殊な点を捉へて言ふと――色好みといふ形で考へられてをつた。其人はどんな女性を選ぶことも出来る。どんな宗教力を持つた強い女性も靡かすことが出来る。どんな美しい、どんな才能に長けた女性も、自分の愛人とすることが出来る。さういふ愛人を沢山持つ程、自分の国が富み栄えると考へてゐた。我々の今の考へとは非常に距りのある考へ方になつてゐます。けれども、昔は其が当り前の考へ方だつた。だけれども、段々さういふ性格が宮廷にも返り咲いて来まして、さうした一種の古代の黄金の夢のやうに、其を実現する人物も出て来た。だが、本道の色好みは、日本人の理想でした。宮廷の理想であり、公家の理想、其が又、庶民の最憧れた美しい夢になりました。それ故、源氏が、さいきいの家に現れるきゆうぴつどのやうに、賤の家居を訪ねるのです。

光源氏といふ人は、昔の過去の天子に対して日本人の我々の祖先が考へてをつた一種の想像の花ですね。夢の華と申しませうか。其幸福な幻影を平安朝のあの時分になつて、光源氏といふ人にかこつけて表現した訣であります。だから、光源氏といふ人は、或点では我儘な程自分の欲望の儘に動いてをります。併、作者は非難したことがない。源氏の周囲の連衆も、本道に非難してはゐない。唯作者が非難し、源氏自身が反省し、同じ時代の周囲の人達が排斥したことは、作者が後の世の中の心をもつて、古代の生活を批評した時に出て来るだけなんです。つまり、さういふことが起つて来たのは、日本の国には早くから仏教が這入つて来ました。儒教も這入つて来ました。其前に、既に日本には道徳に似た力があつて、此を色好みといふ語で表してゐました。最優れた女性を選択することの義なのでした。(中略)

篤い信仰生活をする時期が一年に何度かありました。其時には、神聖な人の周囲にゐることの出来る人は、非常に限定されてをりました。貴人の身体に近く仕へることの出来る人は、非常に血筋の近い人なんです。其ために、血筋の近い人同士の間に宗教的な結婚が行はれて行く。其で、ずつと続いて、此が最神聖な結婚であつて、同時に平常の生活では、最忌まなければならぬ近親婚といふことになるのです。信仰上の禁忌として、結婚等級の紛乱はやかましく言ひながら、最後の至純な生活ではさういふ結婚法に這入る他はない。かういふ矛盾が、不言不語の間に認められて来たのが、中世の初め迄の事実らしいのです。

処が、外来の文化の影響を受けて、過去のことをば批判する段になると、みんな間違ひだといふことになつて了ふ。考へれば、間違ひに違ひないですけれども、何のためにさういふ過ちが起つて来るか。其から考へねばならぬことなのです。

我々は、藤壺の女御が、源氏と過つて冷泉院を生んだ、其ことは、源氏及び藤壺の深刻な反省として、一生に亙る深い悔いとして残つていくのだから、なまじの善い事をしたよりも其悪事のために非常に懺悔の生活の価値を知つた。少くとも藤壺は、さう書かれてゐる。其処に我々は道徳的の価値を認めるのですけれども、其処にもつと意味の違つたものがある。人間としての道徳の外に、神に仕へるものゝ行く道――さういふ二重生活が、我々の国の道徳と宗教の上には、時としては、行はれなければならなかつたのです。

だが、あなた方の一部の方は、かう言はれるでせう。成る程、其は過去の事実かも知れない。併、源氏物語を知るのに、其処迄這入らなくてもいゝといふ人もあるでせうが、学問は、そんなに間に合ひの物ではない。要らぬ処も要る処も常に研究して、訣つてゐなければならぬ。少くとも、かういふ風に、色好みの生活といふものに対する理会が行き届いてゐなければ、源氏物語は本道に訣つたといふことは出来ますまい。

源氏は初めから終ひまで、色好みの生活を書いてゐるのですから、光源氏といふ人の一生は間違ひばかりの堆積だといふことになる。其でも通る。併、我々には、もつと根本が訣つてゐなければならぬ。文章が美しいとか、小説の構造がよいとか、或は、こんなに迄書きこなす処の技術だとか、そんなことよりも、描写力――技術――其素晴しさ――さういふ事に対する誉め詞よりも、もつと根本的の問題が、日本人としてはあつた訣なんです。

これは心の底に潜んでゐて、表には考へとなつて現れて来ないことかも知れないけれども、我々は自分を欺かぬ、真実な生活をしようとは、誰でも思つてゐるでせう。其ために、真実の生活をする目標を求めて来る。其ためには、真実生活の類型を過去に求めて来る。小説だとか戯曲などいふものに求めていく、此が小説や戯曲を作つたりする理由なのです。(中略)

併、源氏物語は立派な本だ、立派な文学だと、御念仏のやうに言ひ続けて七百年からも暮して来たけれども、戦争が済んで、初めて源氏が本道に立派なものだといふことを悟りかけてる訣です。其は戦争の時に合言葉ではありませんが、まあ、それでも、遅過ぎはしません。

其では、何を求めるかといふと、過去にあつた真実の日本人の生活といふものをば、此から掘り出してくるといふことですね。其ためには、今後、源氏物語が何度も/\小説や戯曲として書き直され、演劇として度々上演せられなければいけない。さういふ予期を持つてもよいでせう。其間には、優れた人間が、源氏物語に吹きこめて置いた昔の日本人の優れた性格を見出すことになるだらうと思ひます。返す/\も、源氏物語だからと言つて、小説や戯曲的にばかり掘りこんでゐても駄目でせう。もつと広い過去のあらゆる文化に対する知識の用意が要るのです。》

 

<座談会『源氏物語研究』――根本問題/日本の古代の認容と支那・印度の拒否とを負うた反省>

 さきの座談会『源氏物語研究』の、折口発言から『若菜』に関係した部分を引用すれば、

池田 藤壺の事件が、後に女三の宮の薫で繰り返されてきますね。簡単なことばで因果応報だといふやうな

ことを書いてゐるのですが……

折口 さう考えたくないのだけれど……

木々 僕はさう考へない。

池田 だつて、作者はどう考えたでせうね。

折口 考へたくないのだけれど、それよりほかに考へる方(カタ)がないのですね。けれど、考へたくないのです。

(中略)

折口 しかし、根本はなんでせう。日本の昔の貴人の結婚法の非常な親族結婚でなければならぬ時期といふものがあつたためでせう。大きな、最も厳粛な、殊に聖なる資格を持つた人のほか関与できない。

池田 あゝそう/\。そこへ行くつもりですか。

折口 さうした祭事の生活の印象が残つてゐて、常時にもさういふ結婚が行はれると思ひ、また歴史と現実、信仰と生活とを一つにして、たゞの人間としての資格である場合にも、さういふ結婚が行はれてゐるものと考へたでせう。それから藤壺との事件は薫の母女三の宮と柏木との様子とはいくらか違ひますがね。やつぱり非常にわれ/\にとつては大きな事件です。むしろ人生の中の大きな事件です。大きな現実の上の矛盾が信仰からきてゐる。しかも信仰に関してのみあることだといふことを考へない。平常の生活にもあつたのだと歴史的に考へてゐる。だから昔の人にとつては、大きな問題です。それに儒道・仏教の峻拒する不道徳です。かうなると、日本古来の生活に認めてゐる最も峻厳な生活だけに、日本人の中の優れた人間は考へる。それが読者の求める問題といふふうに、懺悔でなく表白、さういふ意味で作家が作物を通して答へる。われ/\の優れた過去人の最も優れた人々が、なぜかういふ行ひをしたことが伝へられて物語の上に伝承してきたか。それを解答でも、説明でも敷衍でもよい。ちつとでもそれに関した知識が得たい。さう思つてゐるのが読者だと作家は思つてゐたのでせう。源氏と藤壺、源氏と朧月夜、女三の宮と柏木といふやうな、それから現実観が一層加はるとやゝ下つた地位の匂宮と浮舟、源氏と末摘花、さういふところまで行くやうになる。過去の物語の口誦せられた時代のものから、書かれるやうになつた物語へ持ち越した日本人の持つ主題となつてきた訳です。解かうとする努力が説く方面ばかりに向かつていつた。だからよほど作家が戒心してかゝらないと、因果応報に這入つてしまふのです。応報とせず、源氏の行為は認容すべきものだと作者が思つてゐる。源氏も因果応報とは考へないで、もつとほかのことを思つてゐる。日本の古代の認容と支那・印度の拒否とを負うて反省してゐる。かういふふうになつてくるのだと思ひます。》

 

                                  (了)

       *****引用または参考文献*****

*『折口信夫全集 ノート編 追補第四巻 源氏物語3』(中央公論社

*『折口信夫全集 ノート編 14 源氏物語1』(中央公論社

*『折口信夫全集 ノート編 15 源氏物語2』(中央公論社

*『折口信夫全集 第八巻 国文学篇2』(『日本の創意――源氏物語を知らぬ人々に寄す』『伝統・小説・愛情』『反省の文学源氏物語』『ものゝけ其他』『源氏物語における男女両主人公』、他所収)(中央公論社

*『折口信夫全集 別巻3 折口信夫対談』(折口信夫木々高太郎池田弥三郎小島政二郎奥野信太郎源氏物語研究』所収)(中央公論社

小林秀雄本居宣長(上)(下)』(新潮文庫

橋本治小林秀雄の恵み』(新潮文庫

大野晋丸谷才一『光る源氏の物語(上)(下)』(中央公論社

岡野弘彦源氏物語全講会」(森永エンゼルカレッジ)

 https://angel-zaidan.org/genji/

岡野弘彦『最後の弟子が語る折口信夫』(平凡社

吉本隆明源氏物語論』(洋泉社

文学批評 漱石『こころ』のアポリア (ノート)

 

 

 夏目漱石『こころ』は、1960年頃からほとんどの高校教科書の教材として国民的に読まれることになった。多くは高校2年の国語教科書で、「全体構成+あらすじ+(下)35~48節+その後のあらすじ」の構成からなる。「学習の手引き」によって、教師からの「教育」的メッセージ(教科書の構成からして「友情か恋愛・エゴイズムか」の二項対立に力点が置かれる)を伴って道徳的に問いかけられる(一方で教科書の教材としては文学国語から実用国語教育へと重点化が動いている現在でも教育現場での立ち位置はいまだ普遍で、『こころ』神話とも呼びたくなろう)。

 この教科書体験および夏休みの課題図書として挙げられた永遠のベストセラー(購入者が実際に全編を読みとおしたかはともかく)による『こころ』読者の記憶は、恨みつらみ、トラウマとして、あたかも「先生」の事後の記憶のように通奏低音として共鳴しつづけ、大人になって再び手に取ったとしても素直には通読できないだろう。

 今でも、時代を超えた(ゆえに時々の批評の流行も取り入れた)副読本による解説・批評(多くはステレオ・タイプな「エゴイズム」「明治の精神による殉死」であったり、深読みによる牽強付会な誤読であったり、単なる事実誤認からの類推・思い込みであったり)が溢れかえっている。

 

『こころ』読解は、その倫理的教えの装いゆえになおさら疑わしさを増す。どれほど『こころ』はアポリア(ここで「アポリア」とは、「解決困難な矛盾・難問」「パラドクス(逆説)」「アンチノミー(二律背反)」「ダブル・バインド(二重拘束)」「アンビヴァレント(両面性)」など、「決定不可能性」を意味する)に充ちていることか。『こころ』のアポリアを思いつくまま列挙すれば、

「先生の内面描写の欠如/罪の意識の過剰」、「よそよそしい頭文字など使わない(私)/友達の名をKと呼ぶ(先生)」、「明治の精神による殉死/正体の知れない不安」、「妻静(しずか)の受動性/奥さんと静の策略性/軍人未亡人の経済的下部構造(民法、土地)」、「ジラールが論じた三角関係における他者(K)の欲望」、「肉体的(肉の臭い)な恋愛の欠如/同性愛(先生と私/先生とK/先生と西洋人)をほのめかす雰囲気(「子供は出来っこない」「まず同性の私の所へ動いて来た」「あなたに満足を与えられない」という先生の声)」、「末期の父親を放って遺書を寄越した先生へ駆けつける」、「反復としての、(親の病気/電報/帰省/夏休み/縁談の回路)/(「淋しさ」/「血」/「純白」/「黒い影」/「罪悪」/「心臓(ハート)」という語)/(私/父、私/先生、先生/K、乃木大将/明治天皇という二者関係)/(伝染病(腸チフス)と病い(尿毒症))/二尺ばかり開いていた仕切りの襖」、「ユーモアの欠如/精神的向上心/精進」、「青年(私)の無邪気さという一種の狂気/真面目さ」、「パラノイア(叔父による財産横領/被害妄想/同性愛気質)」、「小説技法(エンターテイメント)としての引き延ばしによるクライマックス/遅れ/事後性/ずれ」、「信頼できない語り手としての、先生の遺書/私の手記」、「手頸の数珠を爪繰ることの表象性」、「後悔と遅れ」、「(ルソー的な)告白と弁解」、「ニーチェのいうルサンチマン」、「先生死後の私と静の関係」、「学校教材適性としての、教える—教わる/自殺誘導)」、「先生は本当に自殺したのか/どのような方法で/先生の墓はどこにあるのか/遺書・手記は公表されたのか/静は知ったのか」、……

 もう語りつくされていて、いちいち訂正、反論するのも気が遠くなる。

 ポール・ド・マン『盲目と洞察』は『盲目性の修辞学――ジャック・デリダのルソー読解』で、次のように論じている。

《ルソーは、常に体系的に誤読されている一群の作家のうちのひとりである。私が先ほど述べたのは、批評家の洞察にかんする彼ら自身の盲目性について、また批評家自身が言明した方法と、彼らが気づいていることとのあいだの齟齬、それも当人には隠されている齟齬についてである。文学史においてもその歴史叙述や資料編纂においても、この盲目性はある特定の作家にかんする解釈においてくり返し生ずる逸脱のパターンというかたちをとることがある。このパターンは、高度に専門的な註釈者から、当の作家を一般的な文学史のうちに同定し分類するための漠然とした通念にまで及んでいる。それは、その作家に影響を受けた他の作家たちを含むことすらありうる。作家の元の発言がアンビヴァレントであればあるほど、その作家の後継者や註釈家たちに一貫して生ずる誤りのパターンは、ますます斉一的で普遍的なものになる。たしかにすべての文学言語、またいくつかの哲学言語が本質的にアンビヴァレントだという考え方に原則的には同意しようという人は少なくない。しかし、見かけ上は厭うことなくそう同意するにもかかわらず、ほとんどの批評的註釈やいくつかの文学的影響は、なおもこうしたアンビヴァレントをなんとしても取り除こうとする機能を含んでいるのである。すなわちそうした機能によって、当のアンビヴァレントを弁証法的な矛盾へと還元したり、作品中のうまく収まりのつかない諸部分を覆い隠したり、あるいはより精妙な仕方で、テクスト内部で作動している価値づけの諸体系を操作したりするのである。とりわけルソーの場合のように、アンビヴァレンスそれ自体が哲学的言明の一部をなすときにはこうしたことは非常に起こりやすい。とくにルソーの解釈史においては、このような事例は枚挙に暇がなく、ルソーが言ったのとは異なることをルソーに言わせようとする多様な戦略が存在しており、これらの誤読は、諸意味の織りなす一定の明確な布置へと収束するのである。それはあたかもルソーが生前苦しんでいたと想像されるパラノイアが、ルソーの死後に出現し、それに取り憑かれて、敵も味方もこぞってルソーの思想を誤って表象しようと駆り立てられてでもいるかのようなのだ。(中略)ルソーの場合、そうした誤読には、ほとんど常に知的あるいは道徳的な優越の含みが伴っているということだ。あたかも注釈者たちは、もっとも好意的な場合でも、自分たちの作者が迷妄に陥った当のものについて弁明したり治療法を提示したりしなければならないかのようなのである。》

 この「ルソー」は、「漱石」に置換しうる。うんざりするほどなので、T・S・エリオットの引用ではじまる三つ、大江健三郎の晩年の小説『水死』、丸谷才一×山崎正和対談『夏目漱石と明治の精神』、柄谷行人漱石論(『意識と自然』)を、ノート、メモ的に引用するにとどめたい。

 

大江健三郎『水死』>

 大江健三郎の『水死』の扉裏のエピローグには、T・S・エリオットの詩『荒地』からの引用がある。

《              海底の潮の流れが

ささやきながらその骨を拾った。浮きつ沈みつ

齢(よわい)と若さのさまざまの段階を通り過ぎ

やがて渦巻にまき込まれた。

            A current under sea

Picked his bones in whispers. As he rose and fell

He passed the stages of his age and youth

Entering the whirlpool.

     ――T・S・エリオット、深瀬基寛訳 》

 

 晩年の小説家長江古義人が亡父にまつわる生涯のテーマ「水死小説」にようやく取り組むと、彼の作品を演劇化してきた劇団の女優ウナイコが現れ、漱石『こころ』の「先生」の自殺を誘引した「明治の精神」について「「死んだ犬を投げる」芝居」という形式の芝居で問いはじめる。その小説『水死』の第六章、中学校の円形劇場でのこと。

《ウナイコは、岩波の小型本全集の『こころ』を片手に、いかにも教室で授業を始めるように口を開きます。彼女はこの三年来、まず県の幾つもの中学校で演劇の出前授業をして来ましたから、高校に進学してる生徒たちとは顔なじみ。さらに熱心なリピーターが待ちうけているんです。

 芝居の建前としては、ウナイコは円形劇場を埋めた中・高校生たちに、授業をしてるんです。この国語の授業で語られる言葉に、コギー兄さんとの話合いの名残りがあることは、後半の展開についても同様、それを兄さんにいう必要もありませんが。

 ――私がこの小説を初めて読んだのは、ちょうどあなたたちの年齢でした。その時に始まって赤鉛筆や青鉛筆で、傍線を引いたり枠で囲んだり……みんなはマーカーでやるかな? ……何度も読み直してきました。ところが、最初から疑問に感じることがあったんですね。そのことから話します。

 予習として、二つ宿題をお渡ししました。第一は、この小説に出てくる言葉で大切に思う単語をひとつずつあげてもらうアンケート、そして第二としては、皆さんに私の最初の読みとりと同じく、ひとりで、『こころ』を読んでもらいました。そこで、この小説の語り手の「私」という青年が、「先生」と呼ぶ人物と親しくなる。ところがその「先生」が自殺してしまって、「先生」の遺書だけが残される。青年は大きいショックのなかでその遺書を読みといて行く……それが小説全体の構成だと知ってるわけです。遺書から、「先生」が青年にはじめて心を許した時のことを先生自身思い出している……その箇所を読んでもらいます。読み手は、私たちの劇団の俳優です。いまここにテキストを持って出て来ます。今度の場合、かれの役割はどれを読むだけですが、私たちの芝居では、それぞれの俳優や女優が、幾つもの役割を担って出て来ます。そのまま舞台に残っている人も、いったん居なくなる人もいます。新しい人物に扮して劇団の人が出てくるたび、拍手することはしなくてけっこうです。

 先生 あなたは物足なさうな顔をちよい/\私に見せた。其極(きよく)あなたは私の過去を絵巻物のやうに、あなたの前に展開して呉(く)れと逼(せま)つた。私は其時心のうちで、始めて貴方を尊敬した。あなたが無遠慮に私の腹の中から、或(ある)生きたものを捕(つら)まへやうといふ決心を見せたからです。私の心臓を立ち割つて、温かく流れる血潮を啜(すす)らうとしたからです。その時私はまだ生きてゐた。死ぬのが厭であつた。それで他日を約して、あなたの要求を斥ぞけてしまつた。私は今自分で自分の心臓を破つて、其血をあなたの顔に浴せかけようとしてゐるのです。私の鼓動が停つた時、あなたの胸に新らしい命が宿る事が出来るなら満足です。

 ――私は最初にいった通り、小説のこの一節を読んだ時、あなたたちの年齢でした。そして単純な話ですが、青年に「先生」と呼びかけられることを受け入れて、このように親身に話をしてやる人物が主人公なんだから、この小説は、自分のような世代への教育を主題としてるんだろうと思いました。

 ところがそうじゃなかった。「先生」と「私」の間に直接の会話はありますが、「先生」はほとんどなにも青年に教えません。

「恋は罪悪ですか」と「私」が尋ね「罪悪です。たしかに」と答えを返される。家には財産があるなら、貰うものはちゃんと貰っておけ、とすすめられる……というくらいです。両方とも「先生」の生涯に翳りをもたらした問題に根ざしてたわけですが。

 そして「先生」が書いた遺書を読む段になって、私はこの作品が「先生」に遺書をつうじて自己表現させるためにだけ書かれた小説だ、と気が付きました。「先生」は社会に対して自分を閉じたまま生涯を生きたのですが、ただ一度の自己表現を目的にして遺書を書いた、と私は思いました。先生は遺書になにを表現したか? 「遺書」には、「記憶して下さい、」という半行と、「記憶して下さい。私は斯(こ)んな風にして生きて来たのです。」という二行がふくまれています。「先生」はこのようにいうことを、自分の人生で唯一の表現としたわけなんです。

 それでは「先生」が斯んな風にして生きて来た(・・・・・・・・・・・・)、という具体的な内容はどんなものだったか? 二十歳の時、「先生」は叔父さんに財産を奪い取られる経験をした。そして人に心を開くことをほとんどしなくなった人物です。学生の時一緒に暮すほど近しくした友人が、下宿の娘さんに恋しているのを知ると、当の友人にはいわないまま、自分がその娘さんと婚約してしまう。傷ついた友人は自殺します。

「先生」は、その現場を見てしまいます。ここは私が読みあげます。

 先生 私は棒立に立竦(たちすく)みました。それが疾風の如く私を通過したあとで、私は又あゝ失策(しま)つたと思ひました。もう取り返しが付かないといふ黒い光が、私の未来を貫ぬいて、一瞬間に私の前に横はる全生涯を物凄く照らしました。さうして私はがた/\顫(ふる)へ出したのです。

(中略)

 先生 私の胸には其時分から時々恐ろしい影が閃(ひら)めきました。初めはそれが偶然外から襲つて来るのです。私は驚ろきました。私はぞつとしました。しかししばらくしてゐる中に、私の心が其物凄い閃きに応ずるやうになりました。しまひには外から来ないでも、自分の胸の底に生れた時から潜んでゐるものゝ如くに思はれ出して来たのです。

(中略)

先生 死んだ積(つもり)で生きて行かうと決心した私の心は、時々外界の刺戟で躍り上がりました。然し私が何の方面かへ切つて出やうと思ひ立つや否や、恐ろしい力が何処からか出て来て、私の心をぐいと握り締めて少しも動けないやうにするのです。

 ウナイコは「先生」としてそのように読み進めては、また女教師の役割に戻って、高校生たちに話しかけます。これでは社会の現場に出て働く生活はむりでしょう、と……

「先生」は、残っている財産で妻とひっそり暮す生活をしてきたんですが、明治の終りの頃でもやはり例外的な生き方だったはずですよ、そのなかでかれに近づいて来た若者とめずらしく交わることになったのだ、と説明します。それは見事な手ぎわです。そして遺書に戻ります。「先生」が、次のように考え続けてきたことが示されます。自分にできることは自殺よりほかない、と……

(中略)

 先生 貴方はなぜと云つて眼を睜(みは)るかも知れませんが、何時も私の心を握り締めに来るその不可思議な恐ろしい力は、私の活動をあらゆる方面で食ひ留めながら、死の道丈を自由に私のために開けて置くのです。動かずにゐればともかくも、少しでも動く以上は、其道を歩いて進まなければ私には進みやうがなくなつたのです。

 そしてウナイコは、さきに説明しておいた一節を、あたしらの胸に刻みつけるように読みあげました。

先生 記憶して下さい。私は斯(こ)んな風にして生きて来たのです。

 そして一拍置いて、――皆さんのアンケートへの回答は正確で、小説に作者が意識してたびたび使ってる言葉と、皆さんのアンケート結果が一致した、といって大いにウケました。ウナイコはアンケートで多かったのは、タイトルどおりに「心」という言葉が42通、「心持」が12通と多かったけれど、その次に多いのは「覚悟」が7通だ、と発表しました。それから、「先生」にその時は来たと覚悟させる出来事が起って「先生」は自殺することになるのだけれど、いま「覚悟」という言葉の回答が多いといったその「覚悟」の内容は次のように説明される、と情感のこもった朗読に戻りました。

 先生 すると夏の暑い盛りに明治天皇崩御になりました。其時私は明治の精神が天皇に始まつて天皇に終つたやうな気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、其後に生き残つてゐるのは必竟時勢遅れだといふ感じが烈しく私の胸を打ちました。私は明白(あから)さまに妻にさう云ひました。妻は笑つて取り合ひませんでしたが、何を思つたものか、突然私に、では殉死でもしたら可からうと調戯(からか)ひました。

 …………

 私は妻に向つてもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死する積だと答へました。

(中略)

 ――最初にいったことですが、私があなたたちの年齢で『こころ』を読んだ時、初めは「教育」の本だと考えて、しかし生徒の「私」と「先生」の間に「教育」らしいやりとりはほとんどないので失望しました。ところが今になって方向付けをはっきりさせて再読しますとね、それを英語でrereadというそうですが、リリードすると、やはり「教育」の本だと思えました。「先生」の遺書になってくると、もうそこでは自分がどのような教育をするのかを先生はいう。生命をかけた「教育」です。これまでに二度読み上げた通り、こういうんです。記憶して下さい(・・・・・・・)。私は斯んな風にして生きて来たのです(・・・・・・・・・・・・・・・・・)。ここも英語にしてみるとよくわかりますが、現在完了形の言い方ね、それなら続いて「先生」が口にするはずの、やはり「教育」としての言葉は、未来形となるでしょう。私は斯んな風にして死ぬのです(・・・・・・・・・・・・・・)。

 そして小説の語り手の「私」と読み手の私たちは、もう死んでしまってる「先生」の手紙を読んだのでした。そこで皆さんのひりひとりにね、この小説の語り手の「私」になって考えてもらいたいんです。この手紙に……もう遺書となってしまってる「先生」の手紙に、あなたは教育されたと感じますか?

 舞台に立っている男女の高校生たちが、口ぐちに答えたのはこうした言葉です。まとめてみます(あたしはそれらが、これまでの出前授業の生徒たちの答えてきたところをまとめて、台詞に割りふったものだと感じました。高校生たちはとても自然に話していましたが……)。

 教育されたと思いません/教育されたと思います/それなら、どのように?/自分の尊敬している人が、死ぬ覚悟をして何もかも話して、その上で死んだのだから。あの人はこのように何もかも話してくれて、その上で死んで行ったと、生き残っている私が考えるなら、それは教育されたことでしょう? こんなに、それこそ胸にきざまれる教育は、初めてだという気がします。僕はこういう教育を受けたら忘れない。忘れられない、と思う。/きみは記憶した、「先生」が斯んな風にして生きて来た(・・・・・・・・・・・・)し、斯んな風にして死んだ、と記憶するわけね。そして一生忘れない。/しかし、それを記憶していることが、どんな内容の教育を受けとめたことになるの? 友達を裏切って、自殺させてはいけない、ということ? そんなこと、誰が知らないと思う? それが教育の内容だとして、習った内容が自分のなかで役に立つの? それは、この小説くらい特種な場合だけでしょう?/きみはそれほどイケルと思ってなかった女の子に、友達がイカレてしまって、そうなると女の子をトラレてしまうのが惜しくなる。告白すると、うまくゆく。それにショックを受けた友達が自殺する……こんなこと起こりうると思う? それほどきみたち、マジメなの? そういうことがあって、社会に出てもフリーターでいるしかなくて、そんなきみと結婚してくれる人がいたとしても、そのうち彼女は逃げだすでしょう? その前に、「平成の精神」に殉死しておくつもり?

 そこで高校生たちは、舞台にいる者も客席のもっと多くの者たちも、大笑いしました。

(中略)

 そして穴井マサオが観客席から立ち上り、発言をもとめたんです。(中略)

 ――私はきみたちの父親の年齢……とまではいわないが、年をくってる世代でね、とマサオは話し始めました。芝居を書いたり演出したりしてる人間です。この地方の出身の長江古義人さんが小説で自分を表現していられるように、私も演劇で自分を表現することをしています。及ばずながら年じゅう表現のことを考えている、そういわせてもらっていいでしょう。

『こころ』の「先生」の遺書ですが、きみたちも読んだ通り、初めの方にある言葉。「私の鼓動が停つた時、あなたの胸に新らしい命(・・・・・)が宿る事が出来るなら満足です。」「先生」は、自分の死が、遺書を読む青年の胸に、新らしい命を宿らせるようねがっている。こういうことをいって死ぬ人がいるのか、と若い私は感動した。それは私が、語り手の「私」という青年に自分を重ねたからです。こういうことを自分に対していってくれて、その言葉通り死ぬ人がいるのだとしたら、と思ったんです。

 しかしね、年をとるにつれて、自分に変化が起りました。『こころ』を読む時、ここのところを受けつけなくなっているのに気が付いた。どうも「先生」は、自分が遺書を残そうとしている青年のことを本気で考えてはいないのじゃないか? 「先生」は、ただ自分のことしか考えてないのじゃないか? その自分のこと、とは何だろう? 「先生」は、それまでずっと社会から閉じこもって、いまの言葉でいえば引きこもり(・・・・・)として生きて来た。それが、ただ一度だけ自分を「表現」しようとしている。つまり、そのように自分を「表現」すること、遺書を書くことだけが、目的だった。それでいて、自分の遺書を読むことが、ひとりの青年の胸に新らしい命(・・・・・)を宿らせると、どうして信じえたのだろう? 今日の舞台で、もう二度も声に出して読まれたけれども、この遺書のハイライトは、「記憶して下さい、」と「記憶して下さい。私は斯んな風にして生きて来たのです。」という二句です。このように、押しつけがましく他人にいうことが、「先生」の「表現」なんですよ。正直いって、私はシラケルね。そうじゃないかい? 諸君!(後略)》

 

 こうして円形劇場での芝居は大成功をおさめ、松山の小劇場での大人の観客相手の再演でのこと。

《ところがめずらしく満員だった観客席の一番うしろに、レインコートを着たまま立っていた三、四人の男たちが、「死んだ犬」をブンブン振り廻して(すぐ投げてしまっては、抗議の威嚇行動を強調できない気がしたんでしょう)、高校の先生に異議を申し立てたんです。かれらがみな教育委員会の連中だったとは言いませんけど、その影響下にある……そこで中学校で行われたことを確認しに来ていた者らだとは、はっきりしています。その種の「国民」の名で、かれらの言論を一括りにします。

 国民 明治の精神が天皇に始まつて天皇に終つたやうな気がしました(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)、ということを疑うのか? 最も強く明治の影響を受けた私ども(・・・・・・・・・・・・・・・・)、ともいってるじゃないか! その上で本当に、明治の精神(・・・・・)に殉じたんだ! この尊い死を貶(おとし)めるのか?

 そして国民たちの「死んだ犬」が高校の先生に投げつけられると、それに同調する一般の観客の(若い人たちの姿も目についたものですが)「死んだ犬」がバラバラ飛びもしたのです。しかし国民たちへの「死んだ犬」攻撃は、ずっと数もあり勢いもありました。そのただなかで、自殺した「先生」に扮している車椅子のウナイコが、スックと立ち上ると、白布をとって、まさに死人のように青ざめた顔を現わしました。小劇場は、静まりかえりました。ウナイコは、見事な朗唱の技術で始めました。いまやウナイコは「先生」の役を演じていた際の声で、当の「先生」について語っていました。

 先生 私は「先生」を演じていながら、この小説の最後まで来て、自分が扮している「先生」の心のなかがわかりません。この私は、じつは自分の内面がよくわからないまま、しかし死んで行こうとする気持だけ急(せ)いていた「先生」のような気がします。そして、それでも人は自殺することができる、と感じ入りもして死のうとしてるように思います。

《私は新聞で乃木大将の死ぬ前に書き残して行つたものを読みました。西南戦争の時敵に旗を奪(と)られて以来、申し訳のために死なう/\と思つて、つい今日迄生きてゐたといふ意味の句を見た時、私は思はず指を折つて、乃木さんが死ぬ覚悟をしながら生きながらへて来た年月を勘定して見ました。……私はさういふ人に取つて、生きてゐた三十五年が苦しいか、また刀を腹へ突き立てた一刹那が苦しいか、何方(どっち)が苦しいだらうと考へました。

 それから二三日して、私はとう/\自殺する決心をしたのです。私に乃木さんの死んだ理由が能く解らないやうに、貴方にも私の自殺する訳が明らかに呑み込めないかも知れませんが、もし左右(さう)だとすると、それは時勢の推移から来る人間の相違だから仕方がありません。或は箇人の有(も)つて生れた性格の相違と云つた方が確かも知れません。私は私の出来る限り此不可思議な私といふものを、貴方に解らせるやうに、今迄の叙述で己れを尽した積です。》

「先生」は、ほらこの通り徹底して個人の心の問題にこだわり、個人の、個人による、個人のための心の問題を、若者に解らせようと力をつくして死んだんです。それが、どうして明治の精神(・・・・・)に殉じることですか? 私の死を私のためだけのものに、取り戻させてください。それを助けるつもりで、あの国民どもに「死んだ犬」を投げつけてください、何匹も、何匹も!》

 

T・S・エリオットハムレット』論>

《観客は曖昧(あいまい)で謎めいた気分に捉えられ、勝手な意味を付与することが可能になって、『ハムレット』はいよいよ人気が高まる、というわけです。私は、それと同じようなことが『こころ』にも言えるんじゃないかという気がするんですよ》と、丸谷才一山崎正和との対談『夏目漱石と明治の精神』(2004年)で推察した。

 丸谷は、「先生」が自殺するとき遺書のなかで、乃木将軍が明治天皇に殉死したように自分も明治の精神に殉じようと思う、と書いているが、なんだか昔から納得いかない気がする、あれは小説家が作中人物を自殺させるためにあの仕掛けを使うしかなかったんじゃないか、という気がしてならない、と語ってからエリオットを引き合いに出す。

《思い出すのはT・S・エリオットハムレット論です。あのなかでエリオットは、芸術で感情を描くためには客観的相関物(オブジェクティブ・コレラティブ)――具体的な物とか事件とか――が必要であって、それがないと観客や読者を納得させられないと書いています。ところが『ハムレット』という戯曲は、ハムレットの憂鬱という感情を表現するための客観的相関物が提示されていない。だから商業的には成功したけれど、芸術作品としては失敗作である。しかし、客観的相関物のない憂鬱が提示されることによって、観客は曖昧(あいまい)で謎めいた気分に捉えられ、勝手な意味を付与することが可能になって、『ハムレット』はいよいよ人気が高まる、というわけです。私は、それと同じようなことが『こころ』にも言えるんじゃないかという気がするんですよ。》

 

 すでに1969年に柄谷行人が『意識と自然』で、このエリオットの『ハムレット』論の「客観的相関物」を手始めに漱石を論じている。

漱石の長篇小説、とくに『門』『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』などを読むと、なにか小説の主題が二重に分裂しており、はなはだしいばあいには、それらが個別に無関係に展開されている、といった感を禁じえない。たとえば、『門』の宗助の参禅は彼の罪感情とは無縁であり、『行人』は「Hからの手紙」の部分と明らかに断絶している。また『こゝろ』の先生の自殺も罪の意識と結びつけるには不充分な唐突ななにかがある。われわれはこれをどう解すべきなのだろう。まずここからはじめよう。

 むろんこれをたんに構成的破綻とよんでしまうならば、不毛な批評に終るほかはない。ここには、漱石がいかに技巧的に習熟し練達した書き手であったとしても避けえなかったにちがいない内在的な条件があると考えるべきである。この点に関して私が想起するのは、T・S・エリオットが『ハムレット』を論じて、この劇には「客観的相関物」が欠けているため失敗していると指摘したことである。エリオットはこういっている。

   ハムレットを支配している感情は表現することができないものなのであり、なぜ ならそれは、この作品で与えられている外的な条件を越えているからなのである。そしてハムレットシェークスピア自身なのだということがよくいわれるが、それはこういう点で本当なので、自分の感情に相当する対象がないためのハムレットの困惑は、彼が出てくる作品を書くという一つの芸術上の問題を前にしての、シェークスピアの困惑を延長したものにほかならない。ハムレットの問題は、彼の嫌悪がその母親によって喚起されたものでありながら、その母親がそれに匹敵しないで(・・・・・・・・・)、彼の嫌悪は母親に向けられるだけではどうにもならないということにある。それゆえにそれは、彼には理解できない感情であり、彼はそれを客観化しえず、したがってそれが彼の存在を毒し、行動することを妨げる。どんな行動もこの感情を満足させるにはいたらず、そしてシェークスピアにしても、どのように筋を仕組んでも(・・・・・・・・・・・・)、そういうハムレットを表現するわけにもいかない(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)のである。(中略)われわれはただシェークスピアが、彼の手に余る問題を扱おうとしたと結論するほかはない。なぜ彼がそんなことをしたかは、解きようがない謎であって、かれがどういう種類の経験をした結果、表現することなどできない恐ろしいことに表現を与えることを望んだか、われわれには知るすべがない。(T・S・エリオット『ハムレット』傍点柄谷)

 まったくおなじことが漱石についていえよう。たとえば、『門』における宗助の参禅は、三角関係によって喚起(・・)されたものでありながら、その三角関係が宗助の内部の苦悩に匹敵しない(・・・・・)で別の方向に向けられるほかないというところに起因している。したがって、「どのように筋を仕組んでも、そういう宗助を表現するわけにはいかない」のであって、やはり漱石も「彼の手に余る問題を扱おうとしたと結論する」ことができると私は思う。それにしても、漱石は「どういう種類の経験をした結果」そのような問題をかかえこむにいたったのか、そしてそこにはどんな本質的意味があるのか。これから私が論じようとすることはすべてこういう謎にかかわっているといってよいのである。》

 さらに柄谷は『こころ』について論じた。

《『こゝろ』の隠された主題は自殺である、と私は先に述べた。それは、先生の自殺が作品の構成的必然としてでなく、作者の願望のあらわれとしてあるということである。友人を裏切ったという罪感情が、あるいは明治は終ったという終末観が、この作品をおおっている暗さや先生の自殺決行に匹敵しない(・・・・・)ことは明瞭だからだ。先生は「倫理的人間」である。だが、同時に彼は「内部の人間」(秋山駿)なのである。にもかかわらず、この小説では『門』や『行人』のようなあらわな分裂がなく、それらが重なりあって暗喩的な像を形成している。

   私に乃木さんの死んだ理由が能く解らないやうに、貴方にも私の自殺する訳が明らかに呑み込めないかも知れませんが、もし左右(さう)だとすると、それは時勢の推移から来る人間の相違だから仕方がありません。或は箇人の有(も)つて生れた性格の相違と云つた方が確かも知れません。私は私の出来る限り此不可思議な私といふものを、貴方に解らせるやうに、今迄の叙述で己れを尽した積です。

「不可思議な私」とはなにか。それは、他者としての私(外側からみた私)と他者として対象化しえない「私」(内側からみた私)を同時に意味している。人間がもし他者としての私にすぎないならば、彼はたとえば赤シャツであり、野だいこであり、要するに単純明快であろう。「自然主義」とはそういう認識にほかならない。

 たとえば、先生は「金さ君、金を見ると、どんな君子でもすぐ悪人になるのさ」という。しかし、『こゝろ』はそういう自然主義的認識を書いているのではない。先生自身は金によって動きはしなかったが、女によって動いた。とすれば、「女さ君、女を見ると、どんな君子でもすぐ悪人になるのさ」といったようなことが書かれているのだろうか。むろんそんなはずがないのだ。

 先生は誠実であり、誠実であることを苦い経験からほとんど決意のようにつらぬこうとした男である。これを忘れてはならない。にもかかわらず、誠実たらんとするまさにそのことが、彼の誠実さを裏切る。ここにはなにがあるか。われわれは自己(エゴ)をつらぬくことが誰かを犠牲にするほかない人間の関係を見るべきであろうか。そうではないのだ。漱石が見ていたのは、そういう自明の理ではない。それでは、彼がなぜ「こゝろ」という題名を付したのかはわからないのである。また、そういう理解は漱石をありふれた倫理学者のおし下げるものでしかない。たとえば、実際に先生が友人Kにある時期に告白しておけば、さしたる問題は生じなかったであろう。このばあいでも、先生が友人Kを傷つけたことにまちがいはない。ところが、先生はKの自殺が恋愛問題によるかどうかをのちになって疑っている。同じように、先生の自殺も、友人Kを死なしめた罪悪感からではないといえるのである。したがって、『こゝろ』は人間のエゴイズムとエゴイズムの確執などというテーマとは実は無縁である。漱石が凝視していたのは、依然として「正体の知れないもの」なのであって、さもなければ先生が奥さんに対して冷淡であったこと、奥さんをおいて自殺したことは、またしてもエゴイズムであると非難されねばならないはずだ。》

 

<「遅れ」と「告白」>

 さきの丸谷才一山崎正和の対談に戻るが、山崎は丸谷の方法論的分析を受けて次のように述べた。

T・S・エリオットが解釈した『ハムレット』と漱石の『こころ』を重ねてご覧になったことは、私は別の意味でも賛成です。ハムレットは、復讐(ふくしゅう)という課題を与えられていながら、いつまでもぐずぐずと引き延ばして成就(じょうじゅ)しない優柔不断な人物なんですね。最後になって外側からの偶然のきっかけが重なって、宮中の皆殺しをやって自分も死ぬという芝居です。(中略)私の見るところ、ハムレットには感情はなくて気分しかないんです。当時メランコリーという気分が知られていて、訳のわからない憂鬱、自分でも見定められない漠然とした感情の影のようなものを、そう呼んでいました。(中略)

 後世になって、その「気分」に最初に名前をつけたのがキルケゴールで、「不安」と名付けた。対象のある恐れではなく、何が不安なのかわからないから不安なんですね。つまり外に感情的相関物がないときに、人間は独特の内面状態を感じているわけで、シェイクスピアは意図的にそれを描いていたと考えているんです。

 なぜこんなことを言うかといえば、実は感情ではなく気分を持っているというところが、漱石の作品の主人公の一貫した特色だと私は思っているんです。『こころ』では、そういう人間は「淋(さむ)しい人間」と呼ばれています。そして森鷗外も、同じ漠然とした不安を懐(いだ)いていました。》

 ここには『こころ』における「遅れ」の問題がある。

 柄谷はさきの論考で「遅れ」について、「告白」と絡めて論じている。

《   Kに対する私の良心が復活したのは、私が宅の格子を開けて、玄関から坐敷へ通る時、すなわち例のごとく彼の室を抜けやうとした瞬間でした。(中略)彼は「病気はもう癒(い)いのか、医者へでも行つたのか」と聞きました。私は其刹那(せつな)に、彼の前に手を突いて、詫(あや)まりたくなつたのです。しかも私の受けた其時の衝動は決して弱いものではなかつたのです。もしKと私がたつた二人曠野の真中にでも立つてゐたならば、私は屹度(きっと)良心の命令に従つて、其場で彼に謝罪したらうと思います。然し奥には人がいます。私の自然はすぐ其処で食ひ留められてしまつたのです。さうして悲しい事に永久に復活しなかつたのです。(『こゝろ』)

 これは後悔である。そして、『こゝろ』の遺書の部分はすべて、なぜあのとき真実をいわなかったのかという後悔にみちている。だが、われわれはむしろこういうべきではないか、真実というものはつねに、まさにいうべき時より遅れてほぞをかむようなかたちでしかやってこないということを。そして、このずれ(・・)には何か本質的な意味があるということを。

 真実を語るとは告白するということだ。誰でも口にしうる真実などというものは真実ではない。そして告白するということは、身を裂くような、そして、それを書きつけたならば紙が燃えあがる(E・A・ポー)ような行為である。先生は告白できなかった。なぜなら告白がたえず一瞬遅れたからである。というより、われわれはつねに告白において一瞬遅れるほかないというべきだ。いかにわれわれが真実であろうとしても、そこにはわずかのずれ(・・)が生じる。このずれ(・・)がわれわれの自己欺瞞の産物でないとしたら、いったいなにによっているのか。

 先生の告白はずるずると遅れていく。だが、たんに遅れるのではない。むしろ告白すべきことが生じたために、お嬢さんへの愛が深化していったという事情がともなっているからだ。これはどうしようもないプロセスである。たとえば、『それから』の代助も告白した。が、その告白は唐突であり機械的である、彼はそれまで自己欺瞞によって無自覚だった「自然」(真実)をさとって、かつて友人に譲った女を奪いかえす。しかし、ここにあるのは単純な図式にすぎない。つまり、自分の本心(自然)と自己欺瞞(人工)の二元的な図式があるにすぎない。

 ところが、『こゝろ』では『それから』のような木に竹を接いだような唐突さ、図式性がない。こうしようとしながら別なふうにやってしまう人間の、どうすることもできない心の動きが無理なくとらえているからだ。本心と欺瞞という図式はここでは成立しない。無意識と意識という図式は成り立たぬ。われわれは晩年のフロイトが言語の問題に関心を移したことを考えてみればよい。彼は意識と無意識についての機械的な図式では解くことのできない、一瞬のずれ(・・)を解明しようとしたのである。「超自我」なるものがわれわれの「自然」を抑圧している、などということは冗談にもならない。告白の不可能性を探っていけば、われわれは欺瞞や自尊心のかわりに、この世界で人間が存在するあり方そのものに眼を転ずるほかないのだ。いいかえれば、われわれがこの世界で存在するありようそのものがわれわれを真実(自然)から欺瞞(ずれ)させているのではないのか。「不可思議な私」とは、そのように存在するほかない人間の不可思議さである。》

 

<「心理をこえたもの」>

 つづいて柄谷は、

《  私は妻から何の為に勉強するのかといふ質問をたびたび受けました。私はたゞ苦笑してゐました。然し腹の底では、世の中で自分が最も信愛してゐるたつた一人の人間すら、自分を理解してゐないのかと思ふと、悲しかつたのです。理解させる手段があるのに、理解させる勇気が出せないのだと思ふと益(ます/\)悲しかつたのです。私は寂寞でした。何処からも切り離されて世の中にたつた一人住んでゐるやうな気のした事も能くありました。

   同時に私はKの死因を繰り返し/\考えたのです。其当座は頭がただ恋の一字で支配されてゐた所為(せい)でもありませうが、私の観察は寧(むし)ろ簡単でしかも直線的でした。Kは正しく失恋のために死んだものとすぐ極めてしまつたのです。しかし段々落ち付いた気分で、同じ現象に向つてみると、そう容易(たやす)くは解決が着かないやうに思はれて来ました。現実と理想の衝突、――それでもまだ不充分でした。私は仕舞にKが私のやうにたつた一人で淋(さむ)しくつて仕方がなくなつた結果、急に所決したのではなからうかと疑がひ出しました。さうして又慄(ぞつ)としたのです。私もKの歩いた路を、Kと同じやうに辿つてゐるのだといふ予覚が、折々風のやうに私の胸を横過(よこぎ)り始めたからです。(『こゝろ』)

 先生は「明治の人間」として死ぬのではない。「慄(ぞつ)とする」ような荒涼たる風景のなかで死ぬのだ。むろん、彼がそういう風景を見てしまったのは「明治の人間」だったからである。しかし漱石はいささかも自分が「古い人間」だとはいってはいないので、ただ「新しい人間」たちに、彼が見なければならなかったものを、そして白樺派の青年たちが見ないでいるものを、伝えようとしているのだ。漱石の倫理観は歴史的なものだが、彼の人間存在に対する洞察はわれわれにとって切実である。(中略)

こゝろ』は人間の「心」を描いたが、心理小説ではない。それは、ドストエフスキーの小説が無限に人間の心理を剔抉しながら心理小説でないのと同じである。人間の心理、自意識の奇怪な動きは、深層心理学その他によっていまやわれわれには見えすいたものとなっている。だが、『こゝろ』の先生の「心」は見えすいたものであろうか。見えすいたものが今日のわれわれを引きつけるはずがないのだ。おそらく、漱石は人間の心理が見えすぎて困る自意識の持主だったが、そのゆえに(・・・・・)見えない何ものかに畏怖する人間だったのである。何が起るかわからぬ、漱石はしばしばそう書いている。漱石が見ているのは、心理や意識をこえた現実である。科学的に対象化しうる「現実」ではない。対象として知りうる人間の「心理」ではなく、人間が関係づけられ相互性として存在すると見出す「心理をこえたもの」を彼は見ているのだ。》

 

 最後に、大江健三郎古井由吉の対談『漱石100年後の小説家』から紹介する。

大江 私は、古井さんの書かれた「こころ」解説が好きなんです。特に最後の段落。

「無用の先入観を読者に押しつけることになってもいけないので、この辺で筆を置くことにして、最後に、これほどまでに凄惨な内容を持つ物語がどうしてこのような、人の耳に懐かしいような口調で語られるのだろう。むしろ乾いた文章であるはずなのに、悲哀の情の纏綿(てんめん)たる感じすらともなう。挽歌の語り口ではないか、と解説者は思っている。おそらく、近代人の孤立のきわみから、おのれを自決に追いこむだけの、真面目の力をまだのこしていた世代への。」

「真面目の力」が、夏目漱石から古井由吉を結ぶ、本質的なものです。》

                                    (了)

          *****引用または参考文献*****

夏目漱石『こころ』(解説:古井由吉)(岩波文庫

石原千秋編『『こころ』をどう読むか 増補版』(奥泉光×いとうせいこう文芸漫談『夏目漱石『こころ』を読む』、水村美苗×小森陽一対談『こころ 夏目漱石』、丸谷才一×山崎正和対談『夏目漱石と明治の精神』、吉本隆明講演『こころ』、山崎正和『淋しい人間』、作田啓一『師弟のきずな 夏目漱石こゝろ』(一九一四年)』、小森陽一『『こころ』を生成する心臓(ハート)』、他所収)(河出書房新社

*アンジェラ・ユー、小林幸夫、長尾直茂、上智大学研究機構編『世界から読む漱石『こころ』』(アンジェラ・ユー『『こころ』と反復』、他所収)(勉誠出版

柄谷行人『増補 漱石論集成』(『意識と自然』他所収)(平凡社ライブラリー

蓮實重彦夏目漱石論』(青土社

大岡昇平『小説家夏目漱石』(筑摩書房

江藤淳『決定版 夏目漱石』(新潮文庫

桶谷秀昭『増補版 夏目漱石論』(河出書房新社

吉本隆明夏目漱石を読む』(ちくま文庫

姜尚中『100分de名著ブックス こころ』(NHK出版)

小森陽一・中村三春・宮川健郎編『総力討論 漱石の『こゝろ』』(翰林書房

若松英輔『『こころ』異聞 書かれなかった遺言』(岩波書店

*『文藝春秋 【臨時増刊号】(特別版)「夏目漱石と明治日本」』(丸谷才一×山崎正和対談「夏目漱石と明治の精神」所収)(2004年12月臨時増刊号)(文藝春秋

大江健三郎『水死』(講談社

高橋哲哉現代思想冒険者たち デリダ 脱構築』(講談社

ドゥルーズ『差異と反復』財津理訳(河出書房新社

ポール・ド・マン『盲目と洞察』宮崎裕助、木内久美子訳(月曜社

T・S・エリオット『エリオット全集3 詩論・詩劇論』(『ハムレット』中村保男訳、所収)(中央公論社

大江健三郎×古井由吉対談『漱石100年後の小説家』(『新潮』2015年10月号)(新潮社)

*『筑摩世界文学大系32 キルケゴール』(『反復』『死にいたる病』桝田啓三郎訳、所収)(筑摩書房

 

文学批評/映画批評  マン/マーラー/ヴィスコンティの『ヴェニスに死す』 

 

 

 

ルキノ・ヴィスコンティとの対話」(『ヴィスコンティ秀作集1 ベニスに死す』に所収。この本ではトーマス・マンの原作小説”Der Tod in Venedig”を『ヴェニスに死す』、ヴィスコンティの監督映画”Morte a Venezia”を『ベニスに死す』と訳名を表記分けしているが、この論考では映画も『ヴェニスに死す』と一本化する)におけるヴィスコンティの発言を主軸に、「筆者註」として、トーマス・マン(1875~1955年)の『ヴェニスに死す』(1912年)、『ファウストゥス博士』(1947年)、「『ファウストゥス博士』の成立」(1955年)、『非政治的人間の考察』(1918年)やテオドール・W・アドルノマーラー 音楽観相学』(1960年)、グスターフ・マーラー(1860~1911年)の『交響曲第五番』(1901~02年)などから引用、補填することで、ヴィスコンティ(1906~1976年)の『ヴェニスに死す』(1971年)を多層的に理解したい。

 というのも、映画『ヴェニスに死す』に関するいくつかの解説、言説を読んでみれば、ほとんどすべて、ヴィスコンティがこの対話で誠実に(と私には思われる)語ったことの焼き直しにすぎないからで、それならばいっそ源泉を引用符のヴェールで覆うことなく、ヴィスコンティ自身の言説をそのまま書き写せば奇妙な脚色も過不足もないからである。

 

 対話のインタビュアーの名前記載がないのだが、かなりヴィスコンティと親しく、忌憚なく意見できる(が断定的な見解をぶつけ、結果としてヴィスコンティの反発、本心を引きだしている)映画批評家であったらしいことは感じ取れる。ここでは、インタビュアーの質問そのものは、ヴィスコンティの回答発言が分かりにくい場合に補う程度の引用とする。

 

<何故『ヴェニスに死す』なのか>

――まず第一に、『ヴェニスに死す』でマンが言おうとしていることは、今日ではのり越えられてしまったのか、という意味では「古くなった」とは私には思えません。(中略)

 審美的願望を抱く芸術家と実人生の間、また、はっきりと歴史の上に立っている芸術家の存在とブルジョワ的な《史的》状況に身を置いていることの間に横たわる矛盾、というようなテーマに私はいつも惹きつけられましてね。(中略)

 こういう事だったのです、つまり、老境に達した一芸術家の芸術と生活の葛藤というテーマに取り組むには、以前よりはずっと適切で、それを必要としているような精神状態があるように思われましてね。そういうわけで、『地獄に落ちた勇者ども』(筆者註:1969年)のすぐあとで、私はいく人かのイタリアの製作者に企画を提案したのですが、すべての製作者が企画を理解せず、ばかげていて危険だという考えでした。

 私に最も好意的な意見は、タッジオを美しい少女に変えたらどうかというものでした。しかし私は頑固に、マリオ・ガッロ(筆者註)制作者)の頑固さに私の頑固さを結びつけて、二人してイタリアで拒絶された映画を作る可能性を、外に求めたわけです(筆者註:ハリウッドのワーナー・ブラザーズの資本で完成することとなった)。

 

<グスターフ・フォン・アシェンバッハ>

――あなたは少し考えすぎているようです(筆者註:『地獄に落ちた勇者ども』でナチズムのイデオロギーと真理を人格化している登場人物の名はアシェンバッハであり、プロシャのフリードリッヒについての著作を持つ『ヴァニスに死す』の作家グスターフ・フォン・アシェンバッハもまたナチズムの背後にある階級の文化、一種の特殊な文化に帰属する、と指摘されて)。疑いもなく、あなたが例としてあげている事実は存在しているし、唯名論的一致も存在します。私の作品に頻繁に起こっているそうしたことは、多分、直観的なことであって、決して計画的なものではありません。

 マーラーという名の『夏の嵐』(筆者註:1954年)のフランツを考えてみてください。ハイネの文化で陶冶(とうや)されたオーストリアの小貴族を、フランツで私が作り出したかったことを考えてみてください。つまり、その姓名で彼はボヘミヤンになったわけです。こういうことが偶然から生まれたと言いたくありません。私たちは一つの新しい作品を前にして、私たちの過去から切り離され、隔絶されて生きているわけではありません。あらゆる作品の中には、はっきりと全ての過去の遺産と部分的ではあるが、未来の先取りもあります。

 私は『夏の嵐』のフランツに与えた名前のマーラーという謎について言いましたね。しかし、『夏の嵐』ではブルックナーの音楽を使いました(筆者註:交響曲第七番のアダージョ)が、彼はマーラーの師でした。だから、もうおわかりでしょう。マーラーとの特殊な関連は、孤立したものでも偶然でもなかったわけです。

 

<パロディー的な調子>

――マンの言葉遣い、マンというドイツ人は、例えば意図的と言える程「学者的」であり、表現としてはブルジョワ的に洗練されていますが、時折、大げさになりますね。しかし、この極めて文学的な表現というものをどうやって映像の中で再生させるか? そこで私は作家のああいうタイプのパロディー風の風刺を私の映画では抜き出してしまって、小説の中ではパイドロス(筆者註:小説でアシェンバッハはタッジオを観察して、ソクラテスパイドロスの対話の「美こそはわれわれが感覚的に受容れ、感覚的に堪えることのできるたった一つの、精神的なものの形式なのだ」を思い起こすが、映画ではシーン22で作中人物アルフリートの台詞として、「いや、グスタフ…美は感覚に属す…感覚だけに!」と発言させる)についての独白として典型的に文学的表現部分で出される、「教養的」かつ「知的」雰囲気をとりもどす役割を二人の音楽家の対話に与えてみた、というわけなんです。さらに、私はこの役割を特に視覚的方法にも持ちこみました。たとえば、音楽家が化粧する全場面にはパロディー的な色調を出しました(筆者註:ヴェニスへ渡る船の甲板でのシーン7で、グロテスクな化粧をした老人が未来のアシェンバッハの姿を暗示し、ろれつ(・・・)の回らぬ舌で「可愛い愛しいお方によろしくお伝えください…」とタッジオの出現を預言する)。(それは小説のその場面にはなかったものです。)つまり、主人公が一種の操り人形、でくの坊のように見えるからです。

 同じように、ヴェニスでの最後の散策の場面で、彼が井戸の傍でくずおれるように倒れる時、操り人形の糸をゆるめた時に起こるようなものにして、堪えがたい哄笑を作り出しましたが、それは少々、彼自身についての風刺的で堪えがたい哄笑でもあるんです。(中略)アシェンバッハは単に泣いたり、態度に出したり、つまり苦しむだけであったわけでなく、自己をあわれまなければならなかった。つまり自己の状況というものを意識していたということに私は苦心をはらいました。

 

<グスターフ・マーラー

――映画では文学者よりも音楽家のほうが「表現しやすい」ということです。つまり音楽家ならば、つねに音楽を聞かせることができるが、文学者だと、「オフ」の声のようにあまり表現に富むとは言えない耳ざわりな手段に訴えざるを得ないわけですからね。もしこれがアシェンバッハを文学者から音楽家に変えた理由の第一番のものであるならば、音楽家グスターフ・マーラーの歴史的具体像がどのようにマンの小説のインスピレーションに流入したかを明らかにしている、原作についての二、三の資料や解説からもたらされる示唆が、決定的重みをしめたとも言っておかねばなりません。

 父の書簡集の序文でそれをはっきりと言っているエリカ(筆者註:トーマス・マンの長女、エリカ・マン)は別にしましても、作者とはそのことについて前もって全く交渉はなかったんですが、アシェンバッハにマーラーの容貌をあてて小説の挿絵をかなり描いていた、画家のヴォルフガング・ボルンにあてた一九二一年の手紙で、マン自身それをはっきり言っているんですよ。いずれにしましても、マーラーとのマンの出会いはほんの短いもので、その後のエピソードはありませんが、作家マンに深い印象を残しています。

 たとえば、その出会いの直後に音楽家マーラーにあてた書状で、彼は「われわれの時代の最も神聖で峻厳な芸術的意思を体現している」人物と規定しています。またマンのことですが、彼が心の中でブリオーニで『ヴェニスに死す』の執筆にとりかかろうとしていた時、音楽家マーラーの重病に関する容態の報がとどき、つづいて彼の死という報が入ったわけですが、それは非常に深く印象に残ったと言っています。ですから。アシェンバッハという名はグスターフ、まさにマーラーの名前であるという事実を偶然なものとしては、絶対に考えることはできません(筆者註:シーン16/aで、聴診器を当てられた苦しそうなアシェンバッハは医者に「自分の心臓を誇らしく思うような理由はまったくない」「休暇が必要だ…長期間の完全な休息が」と言われ、シーン22では、アシェンバッハがアルフリートに、「時々、芸術家は闇におおわれた狩人のようだと思うことがある…獲物を射止めたのか…獲物が何だったのかさえ分からない。と言って、われわれは人生に獲物を照らし出してもらったり、狙いを定めてもらったりすることは期待できないのだ…」と語るが、これらは妻アルマ・マーラーの回想記から来ているだろう)。

 

マーラー第五交響曲の「アダージェット」>

――初めは、多くの考えや仮説というものをたくさん持っていたし、マーラーのたくさんの「楽曲」もいく度となく調べたりしました。というよりもむしろ、ほかの部分をすでに準備していて、どんなふうに作用するのか確かめるために視覚的な面についてのテスト・モンタージュの時に用意していたんです。

 さて、その日なんですが、第五交響曲の「アダージェット」をためしたところ、イメージ、動き、調子、内的リズムと一致していて、あたかも「あらかじめ」用意されてでもあったかのように、完全にぴったりと合うことがすぐにはっきりしたんです。第十交響曲の第一楽章にも、あなたが記憶しているようにある点ではうまくいったかも知れませんが、第五交響曲の「アダージェット」のほうがうまくいってますね。同じようなことは、撮影前から私の頭の中にあった「亡き子を偲ぶ歌」についても言えます。視覚的な面には合いませんでした。いずれにしても、第三交響曲の第四楽章の選択は次のように歌われている、ニーチェの非常に美しい詩句(筆者註:フリードリヒ・ニーチェ(1844~1900年)の『ツァラトゥストラはかく語りき』の第三部「後の舞踊の歌」および第四部「酔歌」の「おお、人間よ!」で、『ヴェニスに死す』のライト・モチーフとも言える)によって決定されたんです。

  おお、人間よ! おお、人間よ!

    注意深く聞け!

  深淵なる夜は何を言っているのか。

    私は眠っていたのだ。眠っていたのだ。

  深い夢から私は目覚めたのだ。

 意味の深い詩句です。それは映画のあの諸場面の集まりからなる精神に完全に入りこみますね。

(筆者註:トーマス・マンが『『ファウストゥス博士』の成立』で書いているように、マンは《アドルノの音楽論考には実際何か「重要なもの」があった。私は極めて大きな進歩と精緻さと深さを兼ね備えた芸術的=社会学的な状況批評を見出したのだが、それは、私の作品の理念、すなわち、そのなかで私が夢中になって生きていた「作曲」に対していかにも独特な親和力を持つものであった》とばかりにインスパイア―され、《十二音階または音列の音楽様式というシェーンベルクの着想をアードリアーン・レーヴァーキューンのものにした》ことで『ファウストゥス博士』を書きあげ、かつアドルノ夫妻に原稿を読んでもらって意見を聞いている。

 そのアドルノは『マーラー 音楽観相学』でアダージェットに関して次のように論じている。《たとえば第五交響曲のアダージェットのアプゲザングの形態がある。この性格を作っているのは、始まりの部分が長く広がるということ、すなわち時間の経過を一時止めて音楽を回顧へともたらす、一種のためらいの身振りである。この種の終結型にとって本質的な要素は、マーラーが非常に好んだ下降する二度の動きである。この動きは下降する声の響きを聞き取ってまねたもので、言葉の末尾を落とす話し手のようにメランコリックである。両者の間で意味のずれを生ずることなく、言葉の身振りが音楽へと移される。当然、二度の下降形のようにありふれたものは、身振りという点から見れば、強調されたものとしてのみ、その役を果たす。このアダージェットにはすでに二度の下降はたくさんあるのだが、この後楽節部分においてのみ、広がりによってそれは特殊なものとなっている。マーラーの音楽には、全体として下降する旋律の傾向がある。従順にも音楽言語の重力による傾斜に順応しているのだ。しかしマーラーは、この重力を明確にわがものとすることにより、通常の音の連関の中では欠けていた表情豊かな彩りをそこに生じさせる。》というが、この「下降する」感覚こそ、『ヴェニスに死す』の精神の海面で妖しく揺蕩するのであり、また《アダージェット[第五交響曲第四楽章]においては、美をいつくしむ感傷性(クリナーリツシユ)へと近づいている》、《第五交響曲のアダージェットは一つの曲として全体の中での重要な構想にもかかわらず、その甘い響きによりほとんど風俗画風のものとなっている》は『ヴェニスに死す』の本質を音楽の言葉で表現している。)

 

ムソルグスキーの「子守歌」>

――あれも計画された計画されていたものではなくて、偶然生まれたものです。アシェンバッハの死ぬ少し前に、浜辺は初めの雑踏に続いてほとんど人が誰もいなくなり、ロシア人だけ、つまり、恐れを知らず、外交的で、おしゃべりな人たちだけが残ることを予定していました。

 その場面を撮影する段になって、「音楽」には元宮廷歌手で非常にすぐれたマーシャ・プレディットが居ることが私の頭に浮かんだわけです。そこで、彼女に何かロシアのものを歌ってくれるように頼んだのです。すると、ちょっと驚いたようでした。つまり楽譜を持っていなかったから、そらで歌わなければならなくなり、それについて丸一日考えてくれてから、ムソルグスキーのあの挽歌(筆者註:ムソルグスキーの友人、詩人ゴレニシチェフ・クトゥーゾフの詩からなり、病いの幼児のところにやってきた「死」が子守歌を歌い、母親の抵抗むなしく幼児の命を奪ってしまう)を歌ったというわけです。彼女が歌っている間中、スタッフ全員はびっくりしていましたが、みな感動していました。あの抒情的な楽章は、アシェンバッハの死に、まさに必要な適切な音楽的序曲ではないかということをすぐに思いました。

(筆者註:このようなBGM的ななにげない音楽としては、シーン19のホテルのホールで、アシェンバッハがくつろいで新聞を読みながらポーランド貴族一家の中にタッジオの完璧な美しさを見初める場面において、ホテル専属の楽団が演奏するフランツ・レハールオペレッタメリー・ウィドウ』からの「唇は語らずとも」がある。アルマ・マーラーの回想記には、結婚してからの五年間、私たち夫婦は楽しいパーティーにも、マーラーが指揮するオペラ以外は劇場にも行かなかったが、ただ一回例外があって、『メリー・ウィドウ』を見に行き、楽しかったので、家に帰ってから二人で踊り、ワルツを記憶で弾いた、とある。)

 

トーマス・マンファウストゥス博士』>

――それを私は望んだのです(筆者註:タッジオと売春宿の娘エスメラルダ(映画では、ヴェニスに向う汽船の舷側に「エスメラルダ号」(Esmeralda)の文字が見てとれる)が「エリーゼのために」を弾くことで、タッジオをちょっと売春婦にし、売春婦を少しばかりタッジオにしたわけですか、と問われて)。「頽廃」や官能的誘惑の要素と幼児にある清純の要素を一つにし、同時に二つに分けることを実際私は気にかけていました。いずれにしても、売春宿の娘は、タッジオが少女のような清純な顔つきをしているのでタッジオを少し想起させます。その挿話は、それを読んだことのある人にとっては少くとも『ファウストゥス博士』、もっと正確にはニーチェの伝記を暗示させるものを『ファウストゥス』が含んでいたことを、思い出させます(筆者註:シーン23で、アシェンバッハはアルフリートから悪魔の誘惑的芸術論議で挑発されて激論となる。アルフリート「叡智? 尊厳? それが何の役に立つ? 天才は天賦の…いや! 天賦の苦悩だ! 天来の才能の罪深く病的な閃きだ!」/アシェンバッハ「芸術のデモーニッシュな力は認めん」/アルフリート「それは間違いだ。邪悪は必要だ。邪悪は天才の糧だ!」/アシェンバッハ「芸術は教養の最高の源泉だ!…芸術家は模範的でなければならない。…調和と唯一義の模範でなければ!」/アルフリート「唯一義だって?…しかし、芸術は多義的なものじゃないか、いつだって。ましてや音楽は最も曖昧な芸術だ。曖昧さこそ体系を築くのだ」……。ここで、アルフリートの「天賦」云々の台詞は、『ファウストゥス博士』の《美の観点からは、とインスティトーリスは言った、賞賛すべきものは意志ではなくて、天賦の才能なのです、そしてこの才能だけが功績と呼びうるのです。努力とは賤民的なもので、高貴なのは、そしてそれゆえに功績でもあるものは、ただ、本能的に、無意識のうちに、軽々と生起するものだけなのです》に相当し、「多義的なもの」云々は、音楽修業時代のアードリアーン・レーヴァーキューンが友人ツァイトブロームに《「ぼくが発見したことを知ってるかい?」と彼は聞いた。「音楽は体系(システム)としては曖昧だということだよ。――この音、あるいはこの音を例にとってみたまえ。君はこれをこう解することも出来るし、あるいはまたこう解することも出来る。下から上げられたものと理解してもいいし、上から下げられたものと理解してもいい。そしてもし君が老獪なら、君はこの曖昧さを好きなように利用できるんだ」》から来ているだろう)。

  要するに、売春婦の思い出、すなわち何年も前に持った「頽廃」にタッジオの出現を結びつけることで、アシェンバッハはタッジオに対する自己の態度の紛らわしいが極めて罪のある様相を充分に打ち出すことになるのです。つまり彼は餌食になるのです。何年も前のエスメラルダとのように、もう一度屈服の餌食となるのです。だからタッジオはアシェンバッハの実人生の極性の一つ、実人生を表わしながら――厳正に知的な宇宙、アシェンバッハが閉じ込もっていた「至高な生」と交代し、正反対に――死をもって終わる極性であったものを、要約していることになります。エスメラルダとタッジオは単に実人生を表わしているのではなく、彼を悩ませ、頽廃させる彼の特殊な次元に属する生、それはまた美でもあるが、そういうものを表わしているのです。「結婚について」マンが書いたものの中で彼は、プラーテンの次のような詩句を引用しています(筆者註:アウグスト・フォン・プラーテン(1796~1835年)はバイエルン出身で、晩年をイタリアで送り、シチリア島コレラにかかって死んでいるように、ミュンヘンに自宅がありヴェニスで客死したアシェンバッハと少なからぬ因縁がある。引用された詩は、作品『ヴェネツィアソネット』の中の「トリスタン」から)。

  自己の目で美を凝視した者はすでに

  死に供えられている。

 これは映画の「宣伝文句」ではないか、というのはむしろ、まさにその中に彼の最大の官能が閉じ込められているからだ、と言いたいのです。

(筆者註:エスメラルダについては『ファウストゥス博士』のⅩⅥ章から引用したい。

その前にマンは『『ファウストゥス博士』の成立』で次のように述べている、《ニーチェの生涯からこの小説に引用したことを挙げると、ニーチェがケルンで娼家に連れ込まれた体験や彼の病気の徴候などをそのまま文字どおりに引継いだこと、ⅩⅩⅤ章の悪魔に『この人を見よ』から引用させたこと、ニーチェがニツァから出した手紙で知れる食餌養生の献立を引用したこと――これはほとんど読者の誰にも気づかれない引用だと思う――、あるいは、やはり目立たない引用だが、精神の暗夜に沈んだニーチェに花束を持っていってやったドイセン(筆者註:パウル・ドイセンは、ニーチェの親友で、ショーペンハウアーインド哲学の研究者。『フリードリッヒ・ニーチェの思い出』にニーチェとの娼家訪問のエピソードを書き残している)の最後の見舞いを引用したこと、などである。引用というものは、機械的な性質を持っているにもかかわらず、特別に音楽的なところのあるものだが、その上に、引用というものは、虚構に変化する現実であり、現実的なものを吸収する虚構であって、現実と虚構という二つの領域の独特に夢想的な魅惑的な混合ともいうべきものなのだ。》

 さて、『ファウストゥス博士』のⅩⅥ章、ニーチェの生涯から引用された娼家に連れ込まれるエスメラルダ体験を少々長くなるが引用する。シーン34に映像化された。

《ぼくがベルを鳴らすと、扉がすうっと開いて、玄関の間に飾りたてたマダムが迎えに現われました、頬は干葡萄色で、胸の脂肪の塊の上に蠟色の真珠のロザリオをかけています。マダムはほとんど上品といっていい態度で歓迎の意を表し、待ちに待った人がやっと現われたとでもいうように、いかにも嬉しそうに絶えず囁きかけ、いちゃつき、お世辞を言いながら、幾つもの帳(とばり)をくぐってきらきらと輝いている部屋にぼくを連れて行きました、壁には縁飾りのついた内張りがほどこされ、水晶のシャンデリアが輝き、鏡の前には枝燭台が点っています、そして絹の寝椅子がいくつかあって、それに、君、水精(ニンフ)たちや砂漠の娘たちが六、七人坐っているのです、さあなんと言ったらいいか、モルフォ蝶、ガラス蝶、エスメラルダ蝶たちです、衣裳はあまりつけていません、チュール、紗、きらきら光る布などの透き通る衣裳を着ているのです、長くしどけなく垂れた髪、捲毛の短い髪、化粧した乳房、腕には飾環をはめて、彼女たちは期待に満ちた、シャンデリアの光を受けて煌(きらめ)く眼でじっと君を見つめているのです。

 いや、君ではなく、ぼくを見つめていたのです。あいつは、ゴーゼのシュレップフースはぼくを魔窟の隠れ家に案内したのです! ぼくは立止まって動揺を隠していました、すると、開いたままになっている一台のピアノ、わが友が眼にとまりました、ぼくは絨緞の上を足早にピアノの方に駆け寄って、立ったまま、和音を二つか三つ弾きました(筆者註:映画ではエスメラルダが、タッジオが弾いたのと同じベートーヴェンの「エリーゼのために」を弾いている)、それが何だったのかぼくは今でも覚えています、というのはその時ちょうどぼくの頭の中にはその音現象が浮んでいたからです、それは『魔弾の射手』のフィナーレで太鼓、トランペット、オーボエがハ音の四六の和音で入ってくるあの隠者の祈りの中にあるような、輝かしい半音の距離、ロ長調からハ長調への転調なのでした。いや、これは後で知ったことです。あの時にはそれを知らずにただ弾いただけでした。そのとき小麦色の膚(はだ)の女、スペイン風の胴着を着た、口の大きな、鼻が低く反っている、巴旦杏(はたんきょう)のような眼のエスメラルダがぼくに近づいてきて、腕でそっとぼくの頬を撫でたのです(筆者註:映画でもエスメラルダは左腕の内側でアシェンバッハの右頬をそっと撫でる)。ぼくは向きなおり、膝で腰掛を払いのけると、絨毯の上を飛ぶようにしてこの肉欲の地獄を横切り、喋りまくる遣手婆(やりてばばあ)のそばを駆け抜け、玄関の間と階段を一足跳びに跳んで、真鍮の手摺に触れもせずに、一気に路上に飛出したのです。》)

 

<悪夢の挿話>

――タッジオは単に母親と海にいる子供というわけではありません。浜辺でアシェンバッハの心を打つということは親子関係的恋の牧歌、つまり頽廃的でない幸福感、晴朗な雰囲気なのです。しかしその牧歌の「フラッシュバック」(筆者註:シーン49から54にかけて、マーラー交響曲第三番の第四楽章「おお、人間よ!」が聴こえて来る)は、その晴朗な空をおおう雲で終わります。この悪天候はどのようなものかと言うと、浜辺に帰るとタッジオが外に出ているということです。いずれにしても、タッジオとの関係はマンにおいても曖昧なんですよ。

 アシェンバッハにふりかかる事件は、すべて頭脳的で知的なことです。マン自身それについて言うには、「非常に瀆れのないこと」――むしろフランス語で「トゥレ・コンヴナブル=非常に穏当な」と言うほうがずっとよいのです――と言っています。ですが、同時にそれはアシェンバッハを悩ませ、彼の精神的均衡と「品位」を崩すような要素を含んでいるのです。(中略)この曖昧な微妙性という限界の中で私自身を保存するのに、小説の中にもあり、脚本の段階でも予定していた悪夢の挿話を映画では撮らなかったということをあえて言っておきます(筆者註:原作のワルプルギスの夜(魔女たちによる卑猥な饗宴)に代えて、ミュンヘンのディスコでの堕落した喧噪シーン81を脚本化するが、結局は趣味が悪く、調子が崩れるだろうと削除され、アシェンバッハが「いやだ!…いやだ!…」と悪夢から目覚めるシーンとなった)。

 そこで私は悪夢を――本の中では最も精神的に沈滞した時であり、死のプレリュードが始まること――コンサートを開く芸術家の「大失敗」に置き代えたわけですが、そこは映画の中でも最も精神的な沈滞期で、終局の前の絶望に対応するところなんです。

 

<映画の時間的韻律>

――小説ではたしかに最初の困惑は、町とその雰囲気からのものです。しかし、これはともかくまだ何だかわからない虫の知らせで、その後、小説の筋が進むとかなりはっきりとした事実となります。そして、タッジオの出現があのような精神的困惑に一役買っていて、むしろそれが鍵となっていることを思いきって自分に言う、あるいは自覚しようとはしないのです。(中略)

 結局、書かれたものは映画というものが譲歩し得ないひろがりを許すということです。だから私は情緒をおさえこみ、それをできるだけ積み重ね、一つ一つずっと凝縮しなければなりませんでした。それと同じ理由で、映画の時間的韻律は本のそれとは違ったものです。

 小説では、出来事は二、三週間続いて、アフリカからの蒸し暑い風(シロッコ)が吹き、ヴェニスが崩れ落ちるという感覚に満たされ、町は空になり、困惑と不快感の入りまじった感覚がおとずれる、と言った具合です。しかし、映像は書いたものよりも明確でそれとは違った具体性を要求するので、映画ではそういうわけにはいかないのです。

 

<小説の端緒>

――しかしここでも、小説の端緒は映画に映す場合にはうまくいかなかったと、はっきり言っておきます。

 考えてみてもください。「一九××年の春のある午後」フォン・アシェンバッハ教授は「少し長い散歩」をするために外出し、墓地に行き、そこで「放浪者」に出会います。放浪者は彼に旅立ちという考えを起こさせて、アシェンバッハはジャングルやエキゾチックな国々を思い浮かべて家に帰り、必要なものを調えて出発します。最初トリエステに行き、それからポーラですからブリオーニということになります。ここには騒がしい観光客がいて、彼には居心地が悪いので、一隻の老朽船に乗ってヴェニスに行きます。

 全部こういった題材を、それが本筋の物語の序にすぎないのだということを忘れて、全く変更せずに一つの映画にもりこめると思いますか。そうは思わないでしょう。脚本の段階からその問題についてはかなり考えていたから、私は初めヴェニスに向かう老朽船を予定していました。ですから、最初の「フラッシュバック」としては、墓地で放浪者との出会いがあったわけです(筆者註:該当のシーン3は、実際に撮影され、視覚的にすばらしいスチール写真があるにもかかわらず、編集で全てカットされた)。そのあとで家の中の場面があるわけですが、そこで旅立ちの準備に没頭するアシェンバッハが画面に現れ、その準備をしている時、気分転換をし、自分自身をみつめ、自分をわかろうとするために休暇をとることに決めた、と彼がアルフリートに言うわけです(筆者註:シーン4だが削除された)。

 紙の上ではこれは全部うまくいっているが、映画では初めから物語を挿入することになるので、メチャメチャでした。同時に、観客はよくわからなかっただろうと思います。実際アシェンバッハが感じている不意の旅立ちの必要性を画面に出すには、「放浪者」を見せるだけでは確実に充分であるとは言いがたいのです。

 いずれにしても、もう一度言うと、小説の中でマンによって表現された出立の動機の心理的過程を、スクリーンの上ではそのとおりに《再生産できる》ことにはなりません。そこできっぱりと別の解決方法を打ち出し、不明瞭なものをそのままにしておくのを避けたわけですね。そこで、私は充分納得ずくで全部削除したというわけです。

 

<「フラッシュバック」>

――「フラッシュバック」は実際には二つの事柄について構築されています。

 その一つはマンであり、もう一つはマーラーのです。マンに関する「フラッシュバック」は、イデオロギー的なものと謂えるかと思います。それは美についての対話の場合のように小説に含まれている題材的部分と、『ファウストゥス博士』における暗示の部分とです。一九〇〇年の初頭とは違っていますが、一貫した方法でマンが芸術と芸術家についての自己の主張をはっきりと言っている作品が、描き出されているということです。

 マーラーに関するそれは、反対に家族的な生活のエピソードを基にしたものです。まさにマーラーについては、ジフテリアではないかと思うのですが、幼い娘が山で死んでいます(筆者註:マーラーの長女マリアの死にもとづく挿話はシーン69、「チロルの峡谷と湖畔のシャレ—風別荘」「彼方の別荘の近くに、小さな葬列ができ、僅かな村人や純白の四輪馬車に載せられた白く、小さな棺(ひつぎ)が見える」)。当然、正確なことについてよりも暗示についてのほうが多いわけです。音楽家グスターフ・フォン・アシェンバッハの像とグスターフ・マーラーのそれの間に、たとえ部分的であるにせよ同一視をすること、あるいはなんらかの方法で私が伝記的意味でのマーラーのエピソード(筆者註:ちなみにマーラーは敗血症のため、ウィーンで亡くなった)や、資料に言及しようとしていると信じること以外には、何も根拠はないんじゃないですか。

 それに、たとえば失敗の挿話(筆者註:アシェンバッハの交響曲の初演の失敗シーン79)は、それが《音楽的》様相の場面をとっていますが、さまざまな視点からというよりも、私にとっては『若者のすべて』(筆者註:ネオレアリズモ的作品、1960年)に対する非難の思い出の上に生まれたものなのです。それは批評的性格のものだけでなく、ほかのジャンルのものも含めて、曖昧を避けるために、明瞭なものにしたわけです。

 たとえば、アルフリートは一種のシェーンベルクではなかろうかと誰かが言ったそうですが、あまりにも根拠のなさすぎる推論だと思えます(筆者註:アルノルト・シェーンベルク(1874~1951年)は十二音技法の創始者で、マーラーと親交があった。トーマス・マンファウストゥス博士』の作曲家アードリアーン・レーヴァーキューンはシェーンベルクニーチェがモデルともされる)。アルフリートは単に主人公の悪い――あるいは良い――意識という「もう一つの自己」なわけで、精神的危機の間中ずっと自分自身についての一種の悪夢的な投影として、彼につき纏(まと)っているわけなんです。ですが、人は私が知らずに創造しているものを私の映画の中に見つけるということがよくあります。しかしそれは私が意識的に創造したものではないが、どちらかと言えば私が直観でそうしたと言えると思います。

 

プルースト

――『ベニスに死す』のあとの今、私がプルーストの『失われた時を求めて』(原註:ヴィスコンティは、『ベニスに死す』の後、フランスの作家マルセル・プルースト(1871~1922年)の七巻からなる『失われた時…』の『花咲く乙女たち』と『見出された時』の映画化を準備。だが、製作費の問題でこの企画は挫折し、『ルードウィヒ』にとりかかる。)に取り組んでいるのは偶然ではないでしょう。マルセルはまさしく一九一一年に「もう私は朝早くからかなりねてしまった。」と書き始め、一八年にそれを書き終えています。その時、マンは『非政治的人間の考察』に示された反動的嵐の中にすでに立たされていて、『魔の山』の原案を作り始めていたことを思うと、結局、時代の出来事というものは同時に起こるんですよ。

 あの時代は大雑把に言うと、一一年から一八年というのは、マンだけでなく、ヨーロッパのブルジョワ文化が行き詰まってしまって、すべての問題が新しい光の下に立たざるを得なくなります。そして、戦争が古い解決方法や古代的幻想をすべて掃蕩してしまうのです。こういったことからも、マンではもっぱら風刺という形で表現されているあの《将来についての意識》をあなた方に気づかせるために、『ヴェニスに死す』の今日的課題の広がりをいくぶんなりとも私は示唆したかったのです。

 

ファウストゥス博士』の主人公アードリアーン・レーヴァーキューンのモデルともされたニーチェが親しい友人の音楽家ペーター・ガストがいるヴェニスを始めて訪れたのは、バーゼル大学を辞した翌年の1880年で、3ヶ月あまり滞在した。2度目のヴェニス滞在は4年後の1884年だった。若きニーチェワーグナーに心酔し、のちに離反して批判を書き連ねる幾重にも屈折した愛憎劇はよく知られたところだが、ワーグナーもまたヴェニスを好んで6回滞在し、1883年にグラン・カナル沿いのパラッツォ・ヴェントラミン・カルレジで心臓発作により終焉を迎えている。ニーチェは1887年まで毎年のようにヴェニスを訪れ、『ツァラトゥストラ』、『善悪の彼岸』などを完成させたが、(エスメラルダ挿話の)梅毒の影響もあって精神と肉体が蝕まれてゆき、1989年トリノのカルロ・アルベルト広場で昏倒、生ける屍と化して精神の暗夜に沈み、世紀の変わり目の1900年にワイマールで死す。

 ヴィスコンティは「人は私が知らずに創造しているものを私の映画の中に見つけるということがよくあります。しかしそれは私が意識的に創造したものではないが、どちらかと言えば私が直観でそうしたと言えると思います。」と控えめに語ったが、そのような意味合いで、映画『ヴェニスに死す』には、マン、マーラーのくっきりとした影だけではなく、プルーストの影もほの見え、さらにはワーグナー(1813~1883年)や、マーラーが若い頃に傾倒していたニーチェといった北方的な精神が南方的なものへ憧憬する入口、天国にして地獄の門ヴェニスの、「愛と死」「実人生と芸術」の潮の干満の表徴があって、アシェンバッハの死にワーグナーニーチェの死さえも多重映像化したくなるではないか。

                                                    (了)

          *****引用または参考文献*****

*『ヴィスコンティ秀作集1 ベニスに死す』(「ベニスに死す=ルキノ・ヴィスコンティ、ニコラ・バタルッコ」柳沢一博訳、「ルキノ・ヴィスコンティとの対話」長谷部匠訳、「「ベニスに死す」をめぐる対話=ニコラ・バタルッコ(脚本)、フランコ・マンニーノ(音楽)、マリオ・ガッロ(制作)」兵藤紀久夫訳、「「ヴェニスに死す」トーマス・マン書簡」兵藤紀久夫訳、リーノ・ミッチケ「トーマス・マンの「ヴェニスに死す」とルキノ・ヴィスコンティの「べニスに死す」」兵藤紀久夫訳、所収)(新書館

トーマス・マン『トニオ・クレーゲル ヴェニスに死す』高橋義孝訳(新潮文庫

トーマス・マンヴェニスに死す』実吉捷郎(岩波文庫

*『トーマス・マン全集Ⅵ』(『ファウストゥス博士』円子修平訳、「『ファウストゥス博士』の成立」佐藤晃一訳、他所収)(新潮社)

*『トーマス・マン全集Ⅺ』(『非政治的人間の考察』森川俊夫、野田倬池田紘一、他訳、「ヒトラー君」高田淑訳、他所収)(新潮社)

*テオドール・W・アドルノマーラー 音楽観相学』龍村あや子訳(法政大学出版局

*テオドール・W・アドルノ『新音楽の哲学』龍村あや子訳(平凡社

*アルマ・マーラー『マーラー 愛と苦悩の回想』石井宏訳(音楽之友社

*『ユリイカ 特集ヴィスコンティ』1984年5月号(青土社

*L・ヴィスコンティ、S・C・ダミーコ『シナリオ 失われた時を求めて』大條成昭訳(ちくま文庫)

プラトンパイドロス』藤沢令夫訳(岩波文庫

ニーチェツァラトゥストラ手塚富雄訳(中央公論社

マルセル・プルースト失われた時を求めて吉川一義訳(岩波文庫