
荷風『濹東綺譚』は「五・一五事件」のあった昭和七年一月に玉の井を散策したことから端を発し、奇しくも「二・二六事件」があった昭和十一年九月に起稿、十月に脱稿されているが、その四年余りの間に荷風がとりわけ小説の想を練っていたとか、暖めていたという様子はうかがえない。
もちろん荷風は「五・一五事件」のことも「二・二六事件」のことも『断腸亭日乗』に書き残している。
<昭和七年五月十五日の『断腸亭日乗』から>
《五月十五日。晴れていよいよ暑くなりぬ。晡下銀座に徃きて夕飯を食す。日曜日なれば街上の賑ひ一層盛なる折から号外売の声俄に聞出(きこえだ)しぬ。五時半頃陸海軍の士官五、六名首相官邸に乱入し犬養を射殺せしといふ。警視庁及(および)政友会本部にも同刻に軍人乱入したる由。初更の頃家(筆者註:荷風の家は麻布区(現港区)市兵衛町(現六本木)一丁目6番地の偏奇館で、官公庁に近接していた)に帰るに市兵衛町表通横町の角々に巡査刑事二、三名づつ佇立(たたず)み、東久邇宮(ひがしくにのみや)邸門前には七、八名立ちゐたり。如何なるわけあるにや。近年頻に暗殺の行はるること維新前後の時に劣らず。然れども凶漢は大抵政党の壮士または血気の書生らにして、今回の如く軍人の共謀によりしものは、明治十二年竹橋(たけばし)騒動(そうどう)以後かつて見ざりし珍事なり。(後略)》
<昭和十一年二月廿六日の『断腸亭日乗』から>
《二月廿六日。朝九時頃より灰の如きこまかき雪降り来り見る見る中(うち)に積り行くなり。午後二時頃歌川氏電話をかけ来り、〔この間約四字抹消。以下行間補〕軍人〔以上補〕警視庁を襲ひ同時に朝日新聞社日〻新聞社等を襲撃したり。各省大臣官舎及三井邸宅等には兵士出動して護衛をなす。ラヂオの放送も中止せらるべしと報ず。余が家のほとりは唯降りしきる雪に埋れ平日よりも物音なく豆腐屋のラッパの声のみ物哀れに聞(きこゆ)るのみ。市中騒擾の光景を見に行きたくは思へど降雪と寒気とをおそれ門を出でず。風呂焚きて浴す。
〔朱書〕森(もり)於菟(おと) 台北東門前町一五八文化村四条通
九時頃新聞号外出づ。岡田斎藤殺され高橋重傷鈴木侍従長また重傷せし由。十時過雪やむ。》
続く二月廿七日も荷風らしく、好奇心と醒めた観察眼と我関せずの的確な文体で記録していて、ドキュメント映像などを見ると異常な緊迫感が雪景色もあってひしひしと伝わってくるものの、荷風の筆を読むに、意外とのんびりした野次馬的光景だったのかもしれない。
《二月廿七日。曇りて風甚だ寒し。午後市中の光景を見むと門を出づ。東久邇宮(ひがしくにのみや)門前に憲兵三,四名立つ。道源寺阪を下り谷町通にて車に乗る。溜池(ためいけ)より虎の門のあたり弥次馬(やじうま)続〻として歩行す。海軍省及裁判所警視庁等皆門を閉ぢ兵卒これを守れり。桜田その他内曲輪(うちぐるわ)へは人を入れず。堀端(ほりばた)は見物人堵(と)をなす。銀座尾張町(おわりちょう)四辻にも兵立ちたり。朝日新聞社は昨朝九時頃襲撃せらるたる由なれど人死(ひとじに)は無之(これなし)。印刷機械を壊されしのみなりといふ。銀座通の人出平日よりも多し。電車自働車通行自由なり。三越にて惣菜(そうざい)を贖(あがな)ひ茶店久辺留(キュベル)に至る。居合す人〻のはなしにて岡田斎藤らの虐殺せられし光景の大畧(たいりゃく)及暴動軍人の動向を知り得たり。〔この間約一行抹消〕歌川竹下織田の三子(し)と三十間堀河岸の牛肉店末広に至り晩餐をなす。杉野教授千香女史おくれて来り会す。談笑大に興を添ふ。八時過外に出るに銀座通の夜店遊歩の人出いよいよ賑(にぎやか)なり。顔なじみの街娼一両人に逢ふ。山下橋より内幸町を歩む。勧業銀行仁寿公堂大坂ビル皆鎮撫軍(ちんぶぐん)の駐屯所(ちゅうとんしょ)となる。田村町四辻に兵士機関銃を据(す)えたり。甲府より来りし兵士なりといふ。議会の周囲を一まはりせしが〔この間約六字抹消、以下行間補〕さして面白き事なく〔以下補〕弥次馬のぞろぞろと歩めるのみ。虎の門あたりの商店平日は夜十時前に戸を閉すに今宵(こよい)は人出賑なるため皆燈火を点じたれば金毘羅(こんぴら)の縁日(えんにち)の如し。同行の諸子とわかれ歩みて霊南阪(れいなんざか)を上るに米国大使館塀外に数名の兵あり。人を誰何(すいか)す。富豪三上の門内に兵士また数名休息するを見たり。無事家に帰れば十一時なり。この日の新聞には暴動の記事なし。》
翌廿八日、廿九日も銀座に足を運ぶが、三月初一には事件の記述はフェードアウトしてしまう。
しかし、荷風にとっては、そして『断腸亭日乗』を読む我々にとっても、二月廿六日の事件よりも、その二日前、二月廿四日の記事の方がずっと重要である。
《二月廿四日。昨夜は霽(は)れわたりし空再び曇りて風また寒し。午後徒(いたずら)に眠を貪(むさぼ)る。燈刻銀座に徃(ゆ)かむとせしが顔洗ふが面倒にて家に留り、夕餉(ゆうげ)の後物書かむと机に向ひしが何といふ事もなく筆とるに懶(ものう)く、去年の日誌など読返して徒に夜をふかしたり。老懶(ろうらん)とは誠にかくの如き生活をいふなるべし。芸術の制作慾は肉慾と同じきものの如し。肉慾老年に及びて薄弱となるに従ひ芸術の慾もまたさめ行くは当然の事ならむ。余去年の六、七月頃より色慾頓挫(とんざ)したるを感じ出したり。その頃渡辺美代とよべる二十四、五の女に月〻五十円与へ置きしが、この女世に稀なる淫婦(いんぷ)にてその情夫と共にわが家にも来り、また余が指定する待合にも夫婦にて出掛け秘戯を演じて見せしこともたびたびなりき。初めのほど三、四度は物めづらしく淫情を挑発せらるることありしが、それにも飽きていつか逢ふことも打絶えたり。去月二十四日の夜わが家に連れ来りし女とは、身上ばなしの哀れなるにやや興味を牽きしが、これ恐らくはわが生涯にて閨中(けいちゅう)の快楽を恣(ほしいまま)にせし最終の女なるべしや。色慾消磨し尽せば人の最後は遠からざるなり。依てここに終焉の時の事をしるし置かむとする。
一余死する時葬式無用なり。(中略)
一余が財産は仏蘭西(フランス)アカデミイゴンクウルに寄附したし。(中略)
一余は日本の文学者を嫌ふこと蛇蝎(だかつ)の如し。(中略)
一余は三菱銀行本店に定期預金として金弐万五千円を所有セリ。この金を以て著作全集を印刷し同好の士に配布したしと思ふなり。
夜も既に沈〻(ちんちん)としてふけ渡りたれば遺書の草案もこれにて止(や)む。》
だが、いくら戦前では老齢とはいえ、このとき荷風いまだ五十八歳にすぎない。
「二・二六事件」から間もない昭和十一年三月末から荷風は玉の井に足繁く通うようになり、四月には「寺じまの記」を出している。そして五月十六日の『断腸亭日乗』に「玉の井見物の記」を載せ、九月にはほぼ毎日のように『濹東綺譚』の取材のためと称して玉の井に通ったことが『断腸亭日乗』から読み取れる。
「寺じまの記」は『濹東綺譚』の序文か、筆ならし、習作のような玉の井見聞記であり、後の『濹東綺譚』の背景、叙景描写、土地風俗に活かされてはいるものの、詩情に乏しく、荷風が得意とする会話文も硬い。これは『濹東綺譚』内小説『失踪(しっそう)』や、「わたくし」が中年のころに作ったとされる『見果てぬ夢』からの引用文でも同じ作為である。
<大岡信/川村二郎/丸谷才一「鼎談 荷風文学を語る」の『濹東綺譚』>
荷風『濹東綺譚』の批評は、江藤淳「永井荷風論」のような無暗に人格面まで突っかかったものから、佐藤春夫「『濹東綺譚』を読む」のごとき頌まで多くあり、さらには伝記、考証が散見できる。
『現代日本文学大系24 永井荷風集(二)』(筑摩書房)の「月報60」、大岡信/川村二郎/丸谷才一による「鼎談 荷風文学を語る」では、「翻訳詩「珊瑚集」」、「「偏奇館吟草」」、「荷風の小説」、「散文詩「断腸亭日乗」」について打ち解けた会話がなされており、『濹東綺譚』に関する部分が一皮むけた本質の指摘なので摘録する。
《川村 僕はさっき、荷風という人は本質的に非常に素直な人じゃないかといったけど、その素直さということでいえば、小説でいろいろな人間のからみ方を書くときに、細かい屈折を技巧的につけようなんてしないで、こういう女ならこういう女がいるということを、とても自然な見方で見ていく。この見方を通じてその女が大変生きいきしておもしろく読者にも見えてくるというところに感心するわけです。一般的にいって、女はとてもおもしろいんだけど、男はおもしろくないね(笑)。「濹東綺譚」は好きなほうですけどね、相手の女はとにかくよく書けていますよね。だけどそこへ行く男のほうは、作者のある程度、自画像ふうなものをもっているんだろうけど、まあ、いい気な男だよね。作者がそのいい気なところまで見て書いているかどうかということに疑問があるし、ただ、そんなところまで見なければこの小説の世界が成り立たたないかというと、むしろそういう男に対する目を切り捨てたところで小説の世界が成り立っているという気もする。
丸谷 荷風はナイーブな人だというような荷風論は今まであまりなかったんじゃないかな。何か意地悪だというふうに見るほうが強いんじゃないかな。その点、たしかに今の説はおもしろいと思う。ただ、こういうことは言えるんだよね。小説技術的にいって、人間の把握が型でいっているでしょう。だから非常に類型的なんだな。毒婦は毒婦、淫婦は淫婦、そして敵役は敵役で、人間を類型としてとらえていく。それをしかるべく配置して、それでやっていく。これはある意味でいうと小説を書くときの技術の基本みたいなもので、荷風がこれをしっかりと身につけていたのは、世間で人がいうフランス小説の影響とか江戸戯作の影響ではなしに――もちろんそれもあるだろうけど「金瓶梅」のような中国小説がずいぶん影響を与えてるんじゃなかろうかと思う。
大岡 荷風の小説はひとことでいうと変形された才子佳人小説じゃないかな。たとえば鷗外の初期の小説「舞姫」あたりにも中国の才子佳人小説の名残りがいろいろなところに指摘できるといわれているようですが、そういう才子佳人小説というものを描こうとしても、まともに受けとめれば日本には材料がない。そこで彼が材料としたのは、芸者の世界とか、色町の世界にだいたい限定された。しかし作品の骨格をなしているのは、案外才子佳人小説の大伝統で、その中でこそむしろ自由に生きいきと彼は呼吸できたんじゃないかな。
丸谷 ところが、どうも僕の読んだ範囲では、荷風は中国小説を読んだ話は書いてないんだよな。
大岡 あの人は自分のいちばん好きなものをかくしていたんじゃないか。
丸谷 かなりかくすね。あるいは意識しないほど早い時期に読んでいるのかもしれない。あれくらい漢文ができればすらすらとでしょうしね。
大岡 荷風はフランスの、ゾラなどのリアリズムの小説、詩でいえばパルナシアンたちの詩が、パリならパリの街を実に細かく具体的にとらえていることに非常に感心していますね。その態度をたとえば「濹東綺譚」を書く場合に移してくる。こまかく土地風俗を見ていって、克明に小説の中に記録していくといった態度をとっている。彼の長期にわたる小説には一貫してその態度が見られますが、ひるがえって見れば、中国の小説の伝統にもそれはあるような気がするね。
丸谷 これは話のついでだけど、たとえば「日和下駄」の場合、あれはフランスの何とかいうジャーナリストの書いたものを、留学中に読んでいて、その影響で書いたと荷風はいっている。だけどあれは寺門静軒の「江戸繁昌記」とか「新潟繁昌記」と結びついているような気がするんだけどね。
川村 「日和下駄」はいいですね。この作品には、荷風という人は観察ということがとても好きだった人だと感じがよく出ていると思う。観察の対象に関していえば、なんといっても女好きですよね。女のことを一生懸命書いている作家が必ずしも女ずきとはかぎらないと思うけど、荷風は女のいろいろな型というものを生命あらしめていくだけの、対象に対する非常な好奇心があるし、愛情があるし、そういうものに基づいた上での観察のこまかさが類型を埋めちゃって、類型と感じさせないところまでいっているという気がします。
丸谷 その腕のたしかさだね。それは本当に素晴しいものだね。ただ僕は「濹東綺譚」はあまり好きじゃないんだなあ、小説がつまらなくて、おしまいの詩がまたつまらないでしょう。
川村 あれは荷風の詩ではいいほうじゃない?(笑)
丸谷 荷風の小説の随筆体小説という問題があるでしょう。私小説否定論者の僕がこういうことを言うとおかしいが、荷風の随筆体小説はとっても好きなんですよ。
川村 たとえばどういうもの。
丸谷 「雨瀟々」「花火」非常に好きなんだ。でも「濹東綺譚」は好きじゃない。
川村 だって「雨瀟々」と「濹東綺譚」はどこで区別しますか。違うことはたしかだけど。
大岡 むずかしい問題だな。
丸谷 むずかしい問題でしょう。ただ、「濹東綺譚」は随筆体小説であるにしてはあまりにも小説くさくてそれが鬱陶しい。そういうことは言える。(後略)》
丸谷才一のいう「あまりにも小説くさくて」とは、『断腸亭日乗』の昭和六年二月七日《堀口大学訳著『パリュード』美装本を寄贈せらる》や、昭和六年十二月十三日《終日家にあり。ヂットの小説『贋金(にせがね)つくり』を読む》の影響が指摘される、種田(たねだ)順平(じゅんぺい)という英語教師を登場させての作品『失踪(しっそう)』を入れ子とした「小説内小説」(額縁構造)や、小説末尾の「ここに筆を擱(お)くべきであろう」に続く詩などが顕著な特徴だろう。ここにおいて荷風の随筆体小説の魅力があまりにも勝ってしまって、本来丸谷が好むはずの構造(丸谷『樹影譚』など)がかえって鬱陶しくもうさんくさく作為的に感じてしまうという皮肉がここにある。
<昭和十一年五月十六日『断腸的日乗』の「玉の井見物の記」から>
『断腸亭日乗』五月十六日から、「玉(たま)の井(い)見物の記」を抽出する。
《初て玉の井の路地を歩みたりしは、昭和七年の正月堀切(ほりきり)四木(よつぎ)の放水路堤防を歩みし帰り道なり。その時には道不案内にてどの辺が一部やら二部やら方角更にわからざりしが、先月来しばしば散歩し備忘のため畧図(りゃくず)をつくり置きたり。路地内の小家は内に入りて見れば、外にて見るよりは案外清潔なり。場末(ばすえ)の小待合(こまちあい)と同じくらゐの汚さなり。西洋寝台を置きたる家尠(すくな)からず、二階へ水道を引きたる家もあり。また浴室を設けたる処もあり。一時間五円を出せば女は客と共に入浴するといふ。但しこれは最も高価の女にて、並は一時間三円、一寸(ちょん)の間(ま)は壱円より弐円までなり。路地口におでん屋多くあり。ここに立寄り話を聞けば、どの家の何といふ女はサービスがよいとかわるいとかいふことを知るに便なり。七丁目四十八番地高橋方まり子といふは生れつき淫乱(いんらん)にて若いお客は驚いて逃げ出すなり。七丁目七十三番地田中方ゆかりといふは先月亀井戸より住替(すみかえ)に来りし女にて、尺八(しゃくはち)専門なり。七丁目五七番地千里方千慧子といふ女は泣く評判あり。曲取(きょくどり)の名人なり。七丁目五十四番地工藤方妙子は芸者風の美人にて部屋に鏡を二枚かけ置き、覗(のぞ)かせる仕掛をなす。但し覗き料弐円の由。警察にて検梅(けんばい)をなす日取りは、月曜日が一部。火曜日が二部。水曜日が三部といふ順序なり。検梅所は玉ノ井市場側昭和病院にて行ふ。入院患者大抵百人以上あり女の総数は千五、六百人なり入院料一日一円なり。女は抱えといはず出方さんといふ。東北の生れの者多し。越後の女も多し。前借は三年にて千円が通り相場なり。半年位の短期にて二、三百円の女も多し。この土地にて店を出すには組合へ加入金千円を収め権利を買ふなり。されど一時にまとまりたる大金を出して権利を買ふよりも、毎日金参円ヅツを家主または権利所有の名義人に収める方が得策なり。寝台その他一切の雑作(ぞうさく)付きにて家賃の代りに毎日参円ヅツを収るなり。その他聞く処多けれど畧(りゃく)して記さず。(後略)》
<昭和七年の『断腸亭日乗』から>
昭和十一年五月十六日の『断腸亭日乗』「玉(たま)の井(い)見物の記」に、《初て玉の井の路地を歩みたりしは、昭和七年の正月堀切(ほりきり)四木(よつぎ)の放水路堤防を歩みし帰り道なり。》と記された昭和七年一月十八日、廿二日の『断腸亭日乗』は次の通り。
《一月十八日。晴れて風寒し。午前執筆。午後中州病院に徃き薬を請ふ。乗合汽船にて吾妻橋に至り東武電車にて請地(うけち)曳舟(ひきふね)玉(たま)ノ井(い)などいふ停車場を過ぎ堀切(ほりきり)に下車す。徃年綾瀬(あやせ)の川口より菖蒲園(しょうぶえん)に行きし時歩みし処なり。電車停留所は荒川放水路の土手下にあり。(中略)東京府下の新開町は中野目黒巣鴨辺また池上蒲田(かまた)あたり、いづこも同じやうにて特殊の情景はなけれど、隅田川以東の地は紳士の邸宅らしきものもなく見るもの皆貧し気にて物哀れなれば、世を避けてかくれ住むにはかへつてよかるべし。(後略)》
《一月廿二日。快晴。暖気春の如し。午後中州に徃。去冬より中州に赴く日には、その帰道夕飯の頃まで処定めず散策することになしたれば、今日は清洲橋(きよすばし)の袂(たもと)より南千住行の乗合自働車に乗りぬ、浅草橋(あさくさばし)駒形(こまかた)を過ぎ田原町辺より千束町(せんぞくまち)に出て吉原(よしわら)大門前(おおもんまえ)を過ぐ。日本堤(にほんづつみ)は取除かれて平坦なる道路となれり。小塚原(こづかっぱら)の石地蔵は依然としてもとの処にあり。ここにて金町(かなまち)通の乗合自動車に乗替へ、千住大橋を渡り旧街道を東に折れ堤に沿ひて堀切橋に至る。枯蘆の景色を見むとて放水路の堤上を歩み行くに、日は早くも暮れて黄昏(たそがれ)の月中空に輝き出でたり。陰暦十二月の十五夜なるべし。枯蘆の茂りややまばらなる間の水たまりに、円(まる)き月の影盃(さかずき)を浮べたるが如くうつりしさま絵にもかかれぬ眺めなり。四木橋の影近く見ゆるあたりより堤を下れば寺嶋町(てらじままち)の陋巷(ろうこう)なり。道のほとりに昭和通玉の井近道とかきたる立札あり。歩み行くこと半時間ばかり、大通を中にしてその左右の小路(こうじ)は悉く売笑婦の住める処なり、小路の間に飲食店化粧品売る小店などあり、売笑婦の家はむかし浅草公園裏にありし時の状況と更に変るところなし。立寄りて女のはなしを聞くに、玉の井の盛場は第一区より第五区まであり、第一区は意気向(いきむき)の女多く、二区三区には女優風のおとなし向が多し、祝儀はいづれも一、二円なりといふ。路地を出るに商店つづきたる道曲り曲りてほどなく東武鉄道の停留所に達せり。電車より昇降する人甚(はなはだ)多し。江東の新開(しんかい)町(まち)にて玉の井最繁華なりと見ゆ。(後略)》
このとき、玉の井で女を抱いた様子はない。
<昭和十一年の『断腸亭日乗』から>
昭和十一年四月になると、玉の井詣は連日のようになり、取材と実事(●)を兼ねていた。
《●四月十四日。日の光忽夏のごとし。午前小品文放水路を草す。午後庭を掃ふ。夕餉して後食料品を銀座に贖ひ、玉の井を歩み四ツ木橋より乗合自働車に乗りてかへる。燈下また執筆。》
《●四月廿一日。八重桜満開となり木〻の若芽早くも舒びたり。午後一睡。覚めて後執筆一二時間。感興来らず。晩餐後浅草より玉の井を歩む。稍陋巷迷路の形勢を知り得たり。然れども未精通するに至らざるなり。空くもりて星なし。深更雨》
《●四月廿二日。晴。玉井の記をつくる。午後改造社〻員及岩波書店〻員来談。夜雨風吹起りて蒸暑し。》
《●四月廿三日。晴。午前執筆。午後中央公論社〻員雨宮氏来り余が全集出版の如何を問ふ。晩餐後重ねて玉の井に徃。道順その他の事につき再調を要する処多きを知りたればなり。(後略)》
《九月初七。晴。朝の中既に華氏九十度の暑なり。夜隅田公園を歩む。(中略)言問橋をわたり乗合自働車にて玉の井にいたる。今年三、四月のころよりこの町のさまを観察せんと思立ちて、折々来りみる中(うち)に ふと一軒憩(やす) むに便宜なる家を見出し得たり。その家には女一人ゐるのみにて抱主(かかえぬし)らしきものの姿も見えず、下婢(かひ)も初の頃にはゐたりしが一人二人と出代りして今は誰もゐず。女はもと洲崎(すさき)の某楼の娼妓なりし由。年は二十四、五。上州辺の訛(なまり)あれど丸顔にて眼大きく口もと締りたる容貌(きりょう)、こんな処でかせがずともと思はるるほどなり。あまり執(しゅう)ねく祝儀(しゅうぎ)をねだらず万事鷹揚(おうよう)なところあれば、大籬(おおまがき)のおいらんなりしといふもまんざら虚言(うそ)にてはあらざるべし。余はこの道の女には心安くなる方法をよく知りたれば、訪(と)ふ時には必(かならず)雷門あたりにて手軽き土産物を買ひて携へ行くなり。この夜余は階下の茶の間に坐り長火鉢(ながひばち)によりかかりて煙草くゆらし、女は店口の小窓に坐りたるまま中仕切の糸(いと)暖簾(のれん)を隔てて話する中、女は忽ち通りがかりの客を呼留め、二階へ案内したり茶の間は灯を消したれば上り口よりは見えざるなり姑(しばら)くして女は降り来り、「外出」だから、あなたが用がなければ一時間留守番して下さいと言ひながら、着物ぬぎ捨て箪笥(たんす)の抽出(ひきだ)しより何やらまがひ物の明石(あかし)の単衣(ひとえ)取出して着換へ始める故、一体どこへ行くのだと問へば、何処だか分からないけれど他分向嶋(むこうじま)の待合(まちあい)か円宿だらう。一時間外出は十五円だよ。お客ほど気の知れないものはない。あなたなら十円にまけるから今度つれて行つてよと言ふさへ呼吸急(せわ)しく、半帯しめかけながら二階へ上りて、客と共に降来るをしつと窺ひ見るに、白ヅボンに黒服の男、町の小商人(こあきんど)ならずば会社の集金人などに能く見る顔立ちなり。女は揚板(あげいた)の下より新聞紙につつみし草履(ぞうり)を出し、一歩先に出て下さい。左角にポストがあるからとて、そつとわが方を振向き、目まぜにて留守をたのみいそいそとして出行ぬ。一時間とはいへど事によれば二時間過るかも知れぬ臨時の留守番。さすがのわれも少しく途方に暮れ柱時計打眺むれば、まだ九時打つたばかりなるにやや安心して腰を据(す)え、退屈まぎれに箪笥(たんす)戸棚(とだな)などの中を調べて見たり。女は十時打つと間もなく思の外に早く帰り来りぬ。行つた先の様子を問ふに、向嶋の待合へつれて行かれしが初めより手筈がしてあつた様子にて、「ノゾキ」の相手に使はれしものらしく、ひよつとすると写真にうつされたかも知れない。通りがかりの初会で奇麗に十五円出すとはあんまり気前がよすぎると思ひましたと語りながら、女は帯の間より紙幣を取出し、電燈の光に透(すか)して真偽をたしかめし後、猫板の上に入れたり。早や十一時近くになりたればまた来るよとてわれは外に出でぬ。留守中にかきしこの家の間取り左の如し。
〔欄外朱書〕女の名詳(つまびらか)ならず。自分では秋田の生なりといへどもこれまた詳ならず。常州下館(しもだて)の芸妓なりし事あるが如し。(九月晦日(みそか)記入)
(間取り図略)》
『濹東綺譚』のお雪のモデルの一人とも推定される女との出会いであろう。
《●九月十三日日曜日晴れて風やゝ涼しくなりぬ。読書半日晩飯すまして後隅田公園に徃く。震災後変り果てたる浅草の町を材料となし一篇の小説をつくりだしたしと思ふなり。言問橋をわたり秋葉裏の色町を歩み玉の井に至り、いつも憩(いこ)ふ家に立寄るに、女は扁桃腺を病みて下座敷の暗き中に古蚊帳つりて伏しゐたり。十一時ころまで語りてかへる。蚊の声きくもむかしめきて亦おもむきありき。》
《九月十五日。(前略)午後曝書。夜玉の井に徃く。途中牛の御前祭礼の飾物を見る。いつもの家にて女供と白玉を食す。一杯三十銭とは高価驚くべし。この夜女は根下りの丸髷(まるまげ)に赤き手柄(てがら)をかけ洒(さらし)木綿の肌襦袢に短き腰巻の赤きをしめたり。この風俗余をして明治四十年代のむかしを思起さしめたり。但しその頃には暑中赤きてがらや真赤な湯もじを用るものは素人にもなかりき。根下りの丸髷総髪の銀杏返(いてふがへ)しは仇ッぽく見えてよきものなり。秋の蚊の群れ来る破団扇にてばた/\と叩く響も亦むかしを思返すよすがなり。》
《九月十九日。(前略)電車にて向嶋秋葉神社前終点に至りそれより雨中徒歩玉の井に行きいつもの家を訪(と)ふ。横浜ちゃぶ屋にゐたりしといふ女一人新に加りたり。雨降りてやまず。路地の中(うち)人の跫音(あしおと)絶え、家の中にて蚊の鳴く声耳立つのみ。長火鉢囲みて女二人の身の上ばなし聞きて十時過に帰る。》
《九月二十日日曜日(前略)日曜日にて街上雑遝(ざっとう)甚だしければ電車にて今宵(こよい)もまた玉の井の女を訪ふ。この町を背景となす小説の腹案漸く成るを得たり。驟雨濺(そそ)ぎ来ること数回。十一時前雨中家に帰る。
〔欄外朱書、ただし九月廿一日の欄外にあるべきもの〕『濹東綺譚』起稿。》
《九月廿一日。秋霖霏霏(ひひ)。午後読売新聞記者来訪。三時過雨中昼間の玉の井を観察せむとていつもの家訪ふ。女は新に立派なる桐の重箪笥(かさねだんす)と桑の茶棚を贖(あがな)ひ下座敷に据え付けたるところ。四十歳ばかりなる抱主と二人にてあたりを掃除しゐたり。(抱主は許可地外に住居するなり。)女は箪笥が九十円茶棚が七十円。抱主より前借して出物(でもの)を買ひたるなりといふ。六時過女は髪結(かみゆい)に行くとて余の帰るを送り六丁目角にて別る。銀座食堂にて夕餉(ゆうげ)を食し八時家にかへる。雨歇(や)まず虫の声頗りなり。燈下小説起稿。》
《●九月廿二日。晴。午後日高君来談。哺下(ほか)また玉の井に徃く。東武電車玉の井停車場の西方に樹木鬱蒼たる別墅(べっしょ)の如き一構(ひとかまえ)あるを見、その方に歩みを運ぶ。人に問ふに安田銀行の別荘なりといふ。京成電車もと玉の井停車場はいつの頃よりか電車の運転を中止し既に線路と共に待合所の建物をも取払ひたれば、線路敷地の土手に芒(すすき)生茂(おいしげ)り、待合所の礎石プラットフォームに昇る石の階段のみ雑草の中に聳立(そびえた)ちたるさま城塞(じょうさい)の跡の如し。(後略)》
《九月廿三日。去(さる)七月頃朝日新聞社の記者某氏日高君を介して小説の寄稿を需(もと)めしことあり、その時は曖昧(あいまい)の返事をなし置きしにいよいよ来月中旬より拙稿入用の由申来(もうしきた)りし故病の託して辞退したり。余は菊池寛を始めとして文壇に敵多き身なれば、拙稿を新聞に連載せむか、排撃の声一時に湧起(わきおこ)り必(かならず)掲載中止の厄(やく)に遭(あ)ふべし。余はまあ年〻民衆一般の趣味及社会の情勢を窺ひ、今は拙稿を公表すべき時代にあらずと思へるなり。哺時銀座に赴き髪を理し、浅草公園を過ぎて玉の井に少憩し、再び銀座に戻り夕餉を食して家に帰るこの日秋分》
と一応は小説の発表を断わってはみているものの、すでに連日のように玉の井取材を重ね、起稿しはじめている荷風の熱意は往時を彷彿とさせるものがある。
《十月五日。庭の萩まだ散らず昼の中より虫の声盛なり。小説の稿漸く進む。夕餉して後銀座にて買物をなし玉の井に立寄りてかへる。夜気冷かになりて炎暑の夜の如き勇気も今は消磨したれば、かの女の家を訪ふも今宵をかぎりにせむかなど思ふこと頻なり。燈下また執筆一時過寝に就く。
〔欄外朱書〕渋谷にて藝者と巡査の情死あり。》
《●十月六日。(前略)白髭橋東畔より京成バスに乗りて玉の井なるいつもの家を訪ふ。日は早く暮れたり。家には三ッ輪のやうなる髷(まげ)ひし二十一、二才の女新に来り、また雇婆も来り、茶の間にて夕餉を食しゐたり。主人も来りたればこの土地のはなしをききて、七時頃車にて銀座食堂に飰して麻布にかへる。》
《十月七日。秋陰昨の如し。終日執筆。命名して『濹東綺譚』となす。(後略)》
《十月二十日。一昨夜より降続きたる雨暮方に至りて始て霽(は)る。夕陽燦然たり。濹東の遊興なほ失せず。夜また徃きて例の家を訪ふ。帰宅後執筆。暁二時に至る。》
《十月廿五日日曜日晴れて暖なり。落葉を焚く。『濹東綺譚』の草稿成る。(後略)》
《十月廿八日。晴。笄阜君来訪。拙稿『濹東綺譚』を『朝日新聞』夕刊紙上に掲載する事となす(筆者註:昭和十二年四月から『東京朝日新聞』に木村荘八挿絵で連載)。(後略)》
荷風の玉の井詣が単なる取材ではない証拠に、脱稿してからも、十月廿七、廿九、十一月初二、五、十四日に玉の井に足をのばして、ほとんど実事(●)があった、と『断腸亭日乗』から知れるぢ、そればかりか昭和十五年あたりまで頻度は少なくなっていくが「玉の井」という地名を読むことができる。
<『濹東綺譚』から>
『濹東綺譚』から、主人公(「わたくし」)と「お雪」との愛すべきやりとりの部分と、荷風の実地観察に基く「日和下駄」風の随筆体小説の部分を引用するが、『断腸亭日乗』に記載された細部の観察が生かされているのがすぐにわかるだろう。
《二
(前略)大分その辺を歩いた後、わたくしは郵便箱の立っている路地口の煙草屋で、煙草を買い、五円札の剰銭(つり)を待っていた時である。突然、「降ってくるよ。」と叫びながら、白い上ッ張を着た男が向側のおでん屋らしい暖簾(のれん)のかげに馳け込むのを見た。つづいて割烹着(かっぽうぎ)の女や通りがかりの人がばたばた馳け出す。あたりが俄に物気立(ものけだ)つかと見る間もなく、吹落(ふきおち)る疾風に葭簀(よしず)や何かの倒れる音がして、紙屑と塵芥(ごみ)とが物(もの)の怪(け)のように道の上を走って行く。やがて稲妻が鋭く閃(ひらめ)き、ゆるやかな雷(らい)の響につれて、ポツリポツリと大きな雨の粒が落ちて来た。あれほど好く晴れていた夕方の天気は、いつの間にか変ってしまったのである。
わたくしは多年の習慣で、傘を持たずに門を出ることは滅多にない。いくら晴れていても入梅中のことなので、その日も無論傘と風呂敷とだけは手にしていたから、さして驚きもせず、静にひろげる傘の下から空と町のさまとを見ながら歩きかけると、いきなり後方(うしろ)から、「檀那(だんな)、そこまで入れてってよ。」といいさま、傘の下に真白な首を突込んだ女がある。油の匂で結ったばかりと知られる大きな潰島田(つぶし)には長目に切った銀糸(ぎんし)をかけている。わたくしは今方(いまがた)通りがかりに硝子(ガラス)戸(ど)を明け放した女(おんな)髪結(かみゆい)の店のあった事を思出した。
吹き荒れる風と雨とに、結立(ゆいたて)の髷(まげ)にかけた銀糸の乱れるのが、いたいたしく見えたので、わたくしは傘をさし出して、「おれは洋服だからかまわない。」
実は店つづきの明(あかるい)い燈火に、さすがのわたくしも相合傘(あいあいがさ)には少しく恐縮したのである。
「じゃ、よくって。すぐ、そこ。」と女は傘の柄(え)につかまり、片手に浴衣(ゆかた)の裾(すそ)を思うさままくり上げた。》
有名な『濹東綺譚』の出会いの場である。これほど人物たちの動きを伴って情景が活写された、眼に見えるような活きのいい文章は、谷崎潤一郎『細雪』冒頭の《「こいさん、頼むわ。―――」 鏡の中で、廊下からうしろへはいって来た妙子(たえこ)を見ると、(後略)》くらいではないだろうか。
昭和十一年五月十六日『断腸的日乗』の「玉の井見物の記」の《路地口におでん屋多くあり。ここに立寄り話を聞けば、どの家の何といふ女はサービスがよいとかわるいとかいふことを知るに便なり》の舞台装置である。
歌舞伎めいた戯作的構成として、にわか雨での男女の出会いは、荷風がこの時期に愛読した為永春水の『吾嬬の春雨』に類似している。
《三
稲妻がまたぴかりと閃(ひらめ)き、雷(かみなり)がごろごろと鳴ると、女はわざとらしく「あら」と叫び、一歩(ひとあし)後れて歩こうとするわたくしの手を取り、「早くさ。あなた。」ともう馴れ馴れしい調子である。
「いいから先へお出で。ついて行くから。」
路地へ這入(はい)ると、女は曲るたび毎に、迷わぬようにわたくしの方に振返りながら、やがて溝(どぶ)にかかった小橋をわたり、軒並(のきなみ)一帯に葭簀(よしず)の日蔽(ひおい)をかけた家の前に立留(たちどま)った。
「あら、あなた。大変に濡れちまったわ。」と傘をつぼめ、自分のものよりも先に掌(てのひら)でわたくしの上着の雫(しずく)を払う。
「ここがお前の家(うち)か。」
「拭いて上げるから、寄っていらっしゃい。」
「洋服だからいいよ。」
「拭いて上げるっていうのにさ。わたしだってお礼がしたいわよ。」
「どんなお礼だ。」
「だから、まアお這入んなさい。」
雷の音は少し遠くなったが、雨は却て礫(つぶて)を打つように一層激しく降りそそいで来た。軒先に掛けた日蔽の下にいても跳上(はねあが)る飛沫(しぶき)の烈(はげ)しさに、わたくしはとやかく言う暇(いとま)もなく内へ這入った。
荒い大阪(おおさか)格子(ごうし)を立てた中仕切(なかじきり)へ、鈴のついたリボンの簾(すだれ)が下げてある。その下の上框(あがりがまち)に腰をかけて靴を脱ぐ中(うち)に女は雑巾(ぞうきん)で足をふき、端折(はしお)った裾もおろさず下座敷の電燈をひねり、
「誰もいないから、お上んなさい。」
「お前一人か。」
「ええ。昨夜(ゆうべ)まで、もう一人いたのよ。住替(すみかえ)に行ったのよ。」
「お前さんが御主人かい。」
「いいえ。御主人は別の家(うち)よ。玉の井館ッていう寄席(よせ)があるでしょう。その裏に住宅(すまい)があるのよ。毎晩十二時になると帳面を見にくるわ。」
「じゃアのん気だね。」わたくしはすすめられるがまま長火鉢の側に坐り、立膝(たてひざ)して茶を入れる女の様子を見やった。
年は二十四、五にはなっているであろう。なかなかいい容貌(きりょう)である。鼻筋の通った円顔は白粉焼(おしろいやけ)がしているが、結立(ゆいたて)の島田の生際(はえぎわ)もまだ抜上(ぬけあが)ってはいない。黒目がちの眼の中も曇っていず唇(くちびる)や歯ぐきの血色を見ても、その健康はまださして破壊されてもいないように思われた。
「この辺は井戸か水道か。」とわたくしは茶を飲む前に何気なく尋ねた。井戸の水だと答えたら、茶は飲む振りをして置く用意である。
わたくしは花柳病よりもむしろチブスのような伝染病を恐れている。肉体的よりも夙(はや)くから精神的廢人になったわたくしの身には、花柳病の如き病勢の緩慢なものは、老後の今日、さして気にはならない。
「顔でも洗うの。水道なら其処(そこ)にあるわ。」と女の調子は極めて気軽である。
「うむ。後でいい。」
「上着だけおぬぎなさい。ほんとに随分濡れたわね。」
「ひどく降ってるな。」
「わたし雷さまより光るのがいやなの。これじゃお湯にも行けやしない。あなた。まだいいでしょう。わたし顔だけ洗って御化粧(おしまい)してしまうから。」
女は口をゆがめて、懐紙(ふところがみ)で生際の油をふきながら、中仕切の外の壁に取りつけた洗面器の前に立った。リボンの簾越しに、両肌(もろはだ)をぬぎ、折りかがんで顔を洗う姿が見える。肌は顔よりもずっと色が白く、乳房の形で、まだ子供を持った事はないらしい。
「何だか檀那(だんな)になったようだな。こうしていると。箪笥(たんす)はあるし、茶棚はあるし……。」
「あけて御覧なさい。お芋か何かある筈よ。」
「よく片づいているな。感心だ。火鉢の中なんぞ。」
「毎朝、掃除だけはちゃんとしますもの。わたし、こんな処にいるけれど、世帯持は上手なのよ。」
「長くいるのかい。」
「まだ一年と、ちょっと……。」
「この土地が初めてじゃないんだろう。芸者でもしていたのかい。」
汲みかえる水の音に、わたくしの言うことが聞えなかったのか、または聞えない振りをしたのか、女は何とも答えず、肌ぬぎのまま、鏡台の前に坐り毛筋棒(けすき)で鬢(びん)を上げ、肩の方から白粉をつけ初める。
「どこに出ていたんだ。こればかりは隠せるものじゃない。」
「そう……でも東京じゃないわ。」
「東京のいまわりか。」
「いいえ。ずっと遠く……。」
「じゃ、満洲……。」
「宇都の宮(みや)にいたの。着物もみんなその時分のよ。これで沢山だわねえ。」と言いながら立上って、衣紋竹(えもんだけ)に掛けた裾模様の単衣物(ひとえ)に着かえ、赤い弁慶縞(べんけいじま)の伊達締(だてじめ)を大きく前で結ぶ様子は、少し大き過る潰島田(つぶし)の銀糸とつりあって、わたくしの目にはどうやら明治年間の娼妓(しょうぎ)のように見えた。女は衣紋を直しながらわたくしの側に坐り、茶ぶ台の上からバットを取り、
「縁起だから御祝儀だけつけて下さいね。」と火をつけた一本を差出す。
わたくしはこの土地の遊び方をまんざら知らないのでもなかったので、
「五十銭だね。おぶ代(だい)は。」
「ええ。それはおきまりの御規則通りだわ。」と笑いながら出した手の平を引込まさず、そのまま差伸している。
「じゃ、一時間ときめよう。」
「すみませんね。ほんとうに。」
「その代り。」と差出した手を取って引寄せ、耳元に囁(ささや)くと、
「知らないわよ。」と女は目を見張って睨返(にらみかえ)し、「馬鹿。」と言いさまわたくしの肩を撲(う)った。》
このあたりの記述は、昭和十一年九月初七『断腸亭日乗』の探求の成果である。女の歯ぐきまでも見つくす検診のような視線、井戸水、チブスを恐れる衛生観念(荷風の父久一郎は内務省衛生局部長として近代上下水道の普及に尽力した)、冷徹な眼の持ち主でもある。何かというと明治年間を思いだしたがる荷風。
『濹東綺譚』では『腕くらべ』のような性的行為、肉慾、実事の場面はまったく描写されず、「わたくし」は話し相手だけに終始した好々爺めいているが、ここには荷風の黙説法、「隠し」がある。たとえば、「一時間ときめよう」は実事のことであり、その代金を五十銭とは別に、差し出された手の平に払っているはずである(『断腸亭日乗』五月十六日によれば《並は一時間三円、一寸(ちょん)の間(ま)は壱円より弐円までなり》)。「耳元に囁(ささや)く」言葉は、閨房での秘戯か時間のサービスであったに違いない。
《為永春水(ためながしゅんすい)の小説を読んだ人は、作者が叙事のところどころに自家弁護の文を挾(さしはさ)んでいることを知っているであろう。初恋の娘が恥しさを忘れて思う男に寄添うような情景を書いた時には、その後で、読者はこの娘がこの場合の様子や言葉使のみを見て、淫奔娘(いたずらもの)だと断定してはならない。深窓の女(じょ)も意中を打明ける場合には芸者も及ばぬ艶(なまめか)しい様子になることがある。また、既に里馴れた遊女が偶然幼馴染(おさななじみ)の男にめぐり会うところを写した時には、商売人(くろと)でもこういう時には娘のようにもじもじするもので、これはこの道の経験に富んだ人達の皆承知しているところで、作者の観察の至らないわけではないのだから、そのつもりでお読みなさいというような事が書添えられている。
わたくしは春水に倣(なら)って、ここに剰語を加える。読者は初めて路傍で逢ったこの女が、わたくしを遇する態度の馴々し過るのを怪しむかも知れない。しかしこれは実地の遭遇を潤色せずに、そのまま記述したのに過ぎない。何の作意も無いのである。驟雨(しゅうう)雷鳴から事件の起ったのを見て、これまた作者常套(じょうとう)の筆法だと笑う人もあるだろうが、わたくしは之を慮(おもんばか)るがために、わざわざ事を他に設けることを欲しない。夕立が手引をしたこの夜の出来事が、全く伝統的に、お誂(あつらい)通りであったのを、わたくしはかえって面白く思い、実はそれが書いて見たいために、この一篇に筆を執り初めたわけである。
一体、この盛場(さかりば)の女は七、八百人と数えられているそうであるが、その中に、島田や丸髷(まるまげ)に結っているものは、十人に一人くらい。大体は女給まがいの日本風と、ダンサア好みの洋装とである。雨宿(あまやどり)をした家の女が極く少数の旧風に属していた事も、どうやら陳腐の筆法に適当しているような心持がして、わたくしは事実の描写を傷(きずつ)けるに忍びなかった。》
創作を実事とみせかけるあざとい小説的な論法、技法であって、登場人物たちを現実世界と思い込ませる。
『断腸亭日乗』七月十二日に《為永春水(ためながしゅんすい)の人情本数種を読む。けだし徃年一読せしもの成り。》と書いたように、この時期の荷風は春水をあれこれ読んでいる。戦後すぐ鴎外史伝風文体による随筆『為永春水』を発表したように、巧みな対話文、くだけた「ネエ」の使い方なども春水から学んでいる。
《雨は歇(や)まない。
初め家(うち)へ上った時には、少し声を高くしなければ話が聞きとれないほどの降り方であったが、今では戸口へ吹きつける風の音も雷の響も歇んで、亜鉛葺(トタンぶき)の屋根を撲(う)つ雨の音と、雨だれの落ちる声ばかりになっている。路地には久しく人の声も跫音(あしおと)も途絶えていたが、突然、
「アラアラ大変だ。きいちゃん。鰌(どじょう)が泳いでるよ。」という黄いろい声につれて下駄(げた)の音がしだした。
女はつと立ってリボンの間から土間の方を覗(のぞ)き、「家(うち)は大丈夫だ。溝があふれると、こっちまで水が流れてくるんですよ。」
「少しは小降りになったようだな。」
「宵の口に降るとお天気になっても駄目なのよ。だから、ゆっくりしていらっしゃい。わたし、今の中に御飯たべてしまうから。」
女は茶棚の中から沢庵漬(たくあんづけ)を山盛りにした小皿と、茶漬茶碗と、それからアルミの小鍋(こなべ)を出して、ちょっと蓋(ふた)をあけて匂をかぎ、長火鉢の上に載せるのを、何かと見れば薩摩芋(さつまいも)の煮たのである。
「忘れていた。いいものがある。」とわたくしは京橋で乗換(のりかえ)の電車を待っていた時、浅草海苔(のり)を買ったことを思い出して、それを出した。
「奥さんのお土産(みやげ)。」
「おれは一人なんだよ。食べるものは自分で買わなけりゃア。」
「アパートで彼女と御一緒。ほほほほほ。」
「それなら、今時分うろついちゃいられない。雨でも雷でも、かまわず帰るさ。」
「そうねえ。」と女はいかにも尤(もっとも)だというような顔をして暖くなりかけたお鍋の蓋を取り、「一緒にどう。」
「もう食べて来た。」
「じゃア、あなたは向(むこう)をむいていらっしゃい。」
「御飯は自分で炊くのかい。」
「住宅(すまい)の方から、お昼と夜の十二時に持って来てくれるのよ。」
「お茶を入れ直そうかね。お湯がぬるい。」
「あら。はばかりさま。ねえ。あなた。話をしながら御飯をたべるのは楽しみなものね。」
「一人ッきりの、すっぽり飯(めし)はいやだな。」
「全くよ。じゃア、ほんとにお一人。かわいそうねえ。」
「察しておくれだろう。」
「いいの、さがして上げるわ。」
女は茶漬を二杯ばかり。何やらはしゃ(・・・)いだ調子で、ちゃらちゃらと茶碗の中で箸(はし)をゆすぎ、さも急(いそ)がしそうに皿小鉢を手早く茶棚にしまいながらも、顎(おとがい)を動して込上げる沢庵漬のおくびを押えつけている。
戸外(そと)には人の足音と共に「ちょいとちょいと」と呼ぶ声が聞え出した。
「歇んだようだ。また近い中に出て来よう。」
「きっといらっしゃいね。昼間でもいます。」
女はわたくしが上着をきかけるのを見て、後へ廻り襟(えり)を折返しながら肩越しに頬を摺付(すりつ)けて、「きっとよ。」
「何ていう家(うち)だ。ここは。」
「今、名刺あげるわ。」
靴をはいている間(あいだ)に、女は小窓の下に置いた物の中から三味線(しゃみせん)のバチの形に切った名刺を出してくれた。見ると寺島町七丁目一番地(二部)安藤まさ方雪子。
「さよなら。」
「まっすぐにお帰んなさい。」》
荷風の細やかな観察力。『断腸亭日乗』の《余はこの道の女には心安くなる方法をよく知りたれば、訪(と)ふ時には必(かならず)雷門あたりにて手軽き土産物を買ひて携へ行くなり。》のまめな実践。
《四
(前略)しかしわたくしの職業については、女の方ではとうから勝手に取りきめているらしい事がわかって来た。
二階の襖(ふすま)に半紙四ツ切程の大きさに複刻した浮世絵の美人画が張交(はりまぜ)にしてある。その中には歌麻呂の鮑取(あわびと)り、豊信(とよのぶ)の入浴美女など、かつてわたくしが雑誌『此花(このはな)』の挿絵で見覚えているものもあった。北斎の三冊本、『福徳(ふくとく)和合人(わごうじん)』の中から、男の姿を取り去り、女の方ばかりを残したものもあったので、わたくしは委(くわ)しくこの書の説明をした。それから又、お雪がお客と共に二階へ上っている間、わたくしは下の一ト間で手帳へ何か書いていたのを、ちらと見て、てっきり秘密の出版を業とする男だと思ったらしく、こん度来る時そういう本を一冊持って来てくれと言出した。
家には二三十年前に集めたものの残りがあったので、請われるまま三四冊一度に持って行った。ここに至って、わたくしの職業は言わず語らず、それと決められたのみならず、悪銭の出処(でどころ)もおのずから明瞭になったらしい。すると女の態度は一層打解けて、全く客扱いをしないようになった。
日蔭に住む女達が世を忍ぶ後暗(うしろぐら)い男に対する時、恐れもせず嫌いもせず、必ず親密と愛憐との心を起す事は、夥多(かた)の実例に徴して深く説明するにも及ぶまい。鴨川(かもがわ)の芸妓(げいぎ)は幕吏(ばくり)に追われる志士を救い、寒駅(かんえき)の酌婦は関所破りの博徒(ばくと)に旅費を恵むことを辞さなかった。トスカは逃竄(とうざん)の貧士に食を与え、三千歳(みちとせ)は無頼漢に恋愛の真情を捧げて悔いなかった。》
荷風には「世を忍ぶ後暗(うしろぐら)い男」という矜持があり、「日蔭に住む女達」に安息を求めた。
《六
わたくしの忍んで通う溝際(どぶぎわ)の家が寺島町(てらじままち)七丁目六十何番地に在ることは既に識(しる)した。この番地のあたりはこの盛場(さかりば)では西北の隅に寄ったところで、目貫(めぬき)の場所ではない。仮に之を北里に譬(たと)えて見たら、京町(きょうまち)一丁目も西河岸(にしかし)に近いはずれとでも言うべきものであろう。聞いたばかりの話だから、ちょっと通(つう)めかしてこの盛場の沿革を述べようか。大正七八年の頃、浅草観音堂裏手の境内が狭められ、広い道路が開かれるに際して、むかしからその辺に櫛比(しっぴ)していた楊弓場(ようきゅうば)銘酒屋のたぐいが悉(ことごと)く取払いを命ぜられ、現在(いま)でも京成バスの往復している大正道路の両側に処(ところ)定めず店を移した。つづいて伝法院(でんぽういん)の横手や江川(えがわ)玉乗りの裏あたりからも追われて来るものが引きも切らず、大正道路は殆(ほとんど)軒並銘酒屋になってしまい、通行人は白昼でも袖を引かれ帽子を奪われるようになったので、警察署の取締りが厳しくなり、車の通る表通から路地の内へと引込ませられた。浅草の旧地では凌雲閣(ちょううんかく)の裏手から公園の北側千束町(せんぞくまち)の路地にあったものが、手を尽して居残りの策を講じていたが、それも大正十二年の震災のために中絶し、一時悉くこの方面へ逃げて来た。市街再建の後西見番(にしけんばん)と称する芸者家組合をつくり転業したものもあったが、この土地の繁栄はますます盛になり遂に今日の如き半ば永久的な状況を呈するに至った。初め市中との交通は白髯橋(しらひげばし)の方面一筋だけであったので、去年京成電車が運転を廃止する頃まではその停留場(ていりゅうじょう)に近いところが一番賑(にぎやか)であった。
しかるに昭和五年の春都市復興祭の執行せられた頃、吾妻橋(あずまばし)から寺島町に至る一直線の道路が開かれ、市内電車は秋葉神社前まで、市営バスの往復は更に延長して寺島町七丁目のはずれに車庫を設けるようになった。それと共に東武鉄道会社が盛場の西南に玉の井駅を設け、夜も十二時まで雷門(かみなりもん)から六銭で人を載せて来るに及び、町の形勢は裏と表と、全く一変するようになった。今まで一番わかりにくかった路地が、一番入りやすくなった代り、以前目貫といわれた処が、今では端(はず)れになったのであるがそれでも銀行、郵便局、湯屋、寄席(よせ)、活動写真館、玉の井稲荷(いなり)の如きは、いずれも以前のまま大正道路に残っていて、俚俗(りぞく)広小路、又は改正道路と呼ばれる新しい道には、円タクの輻湊(ふくそう)と、夜店の賑いとを見るばかりで、巡査の派出所も共同便所もない。このような辺鄙(へんぴ)な新開町にあってすら、時勢に伴う盛衰の変は免れないのであった。いわんや人の一生に於いてをや。
わたくしがふと心易(こころやす)くなった溝際の家……お雪という女の住む家が、この土地では大正開拓期の盛時を想起(おもいおこ)させる一隅に在ったのも、わたくしの如き時運に取り残された身には、何やら深い因縁があったように思われる。その家は大正道路から唯(と)ある路地に入り、汚れた幟(のぼり)の立っている伏見稲荷の前を過ぎ、溝に沿うて、なお奥深く入り込んだ処にあるので、表通のラディオや蓄音機の響も素見客(ひやかし)の足音に消されてよくは聞えない。夏の夜、わたくしがラディオのひびきを避けるにはこれほど適した安息処は他にはあるまい。
一体この盛場では、組合の規則で女が窓に坐る午後四時から蓄音機やラディオを禁じ、また三味線をも弾ひかせないという事で。雨のしとしとと降る晩など、ふけるにつれて、ちょいとちょいとの声も途絶えがちになると、家の内外(うちそと)に群(むらが)り鳴く蚊の声が耳立って、いかにも場末の裏町らしい侘(わび)しさが感じられて来る。それも昭和現代の陋巷(ろうこう)ではなくして、鶴屋南北(つるやなんぼく)の狂言などから感じられる過去の世の裏淋しい情味である。
いつも島田か丸髷(まるまげ)にしか結っていないお雪の姿と、溝の汚さと、蚊の鳴(なく)声とはわたくしの感覚を著しく刺戟し、三、四十年むかしに消え去った過去の幻影を再現させてくれるのである。わたくしはこの果敢(はかな)くも怪し気なる幻影の紹介者に対して出来得ることならあからさまに感謝の言葉を述べたい。お雪さんは南北の狂言を演じる俳優よりも、蘭蝶を語る鶴賀なにがしよりも、過去を呼返す力に於ては一層巧妙なる無言の芸術家であった。
わたくしはお雪さんが飯櫃(おはち)を抱きかかえるようにして飯をよそい、さらさら音を立てて茶漬を掻込む姿を、あまり明(あかる)くない電燈の光と、絶えざる溝蚊の声の中にじっと眺めやる時、青春のころ狎(な)れしんだ女たちの姿やその住居(すまい)のさまをありありと目の前に思浮べる。わたくしのものばかりでない。友達の女の事までが思出されて来るのである。そのころには男を「彼氏」といい、女を「彼女」とよび、二人の侘住居を「愛の巣」などという言葉はまだ作り出されていなかった。馴染(なじみ)の女は「君」でも、「あんた」でもなく、ただ「お前」といえばよかった。亭主は女房を「おッかア」女房は亭主を「ちゃん」と呼ぶものもあった。
溝の蚊の唸(うな)る声は今日(もんにち)にあっても隅田川(すみだがわ)を東に渡って行けば、どうやら三十年前のむかしと変りなく、場末の町のわびしさを歌っているのに、東京の言葉はこの十年の間に変れば実に変ったものである。
そのあたり片づけて吊る蚊帳(かちょう)哉(かな)
さらぬだに暑くるしきを木綿(もめん)蚊帳(がや)
家中(いえじゅう)は秋の西日や溝(どぶ)のふち
わび住みや団扇(うちわ)も折れて秋暑し
蚊帳(かや)の穴むすびむすびて九月哉
屑籠(くずかご)の中からも出て鳴く蚊かな
残る蚊をかぞへる壁や雨のしみ
この蚊帳も酒とやならむ暮の秋
これはお雪が住む家の茶の間に、或夜蚊帳が吊ってあったのを見て、ふと思出した旧作の句である。半(なかば)は亡友唖々(ああ)君が深川長慶寺裏の長屋に親の許さぬ恋人と隠れ住んでいたのを、その折々尋ねて行った時よんだもので、明治四十三、四年のころであったろう。
その夜お雪さんは急に歯が痛くなって、今しがた窓際から引込んで寝たばかりのところだと言いながら蚊帳から這(は)い出したが、坐る場処がないので、わたくしと並んで上框(あがりがまち)へ腰をかけた。
「いつもより晩(おそ)いじゃないのさ。あんまり、待たせるもんじゃないよ。」
女の言葉遣いはその態度と共に、わたくしの商売が世間を憚(はばか)るものと推定せられてから、狎昵(こうじつ)の境を越えてむしろ放濫(ほうらん)に走る嫌いがあった。
「それはすまなかった。虫歯か。」
「急に痛くなったの。目がまわりそうだったわ。腫(は)れてるだろう。」と横顔を見せ、「あなた。留守番していて下さいな。わたし今の中(うち)歯医者へ行って来るから。」
「この近処か。」
「検査場(けんさば)のすぐ手前よ。」
「それじゃ公設市場の方だろう。」
「あなた。方々歩くと見えて、よく知ってるんだねえ。浮気者。」
「痛い。そう邪慳(じゃけん)にするもんじゃない。出世前の身体だよ。」
「じゃ頼むわよ。あんまり待たせるようだったら帰って来るわ。」
「お前待ち待ち蚊帳の外……というわけか。仕様がない。」
わたくしは女の言葉遣いがぞんざいになるに従って、それに適応した調子を取るようにしている。これは身分を隠そうが為の手段ではない。処と人とを問わず、わたくしは現代の人と応接する時には、あたかも外国に行って外国語を操あるように、相手と同じ言葉を遣う事にしているからである。「おらが国」と向(むこう)の人が言ったらこっちも「おら」を「わたくし」の代りに使う。》
『断腸亭日乗』九月十三日の《いつも憩(いこ)ふ家に立寄るに、女は扁桃腺を病みて》が活かされているか。
《七
わたくしはお雪の出て行った後(あと)、半(なかば)おろした古蚊帳(ふるがや)の裾に坐って、一人蚊を追いながら、時には長火鉢に埋めた炭火と湯わかしとに気をつけた。いかに暑さの烈(はげ)しい晩でも、この土地では、お客の上った合図に下から茶を持って行く習慣なので、どの家でも火と湯とを絶(たや)した事がない。
「おい。おい。」と小声に呼んで窓を叩くものがある。
わたくしは大方馴染(なじみ)の客であろうと思い、出ようか出まいかと、様子を窺(うかが)っていると、外の男は窓口から手を差入れ、猿をはずして扉(と)をあけて内(なか)へ入った。白っぽい浴衣(ゆかた)に兵児帯(へこおび)をしめ、田舎臭い円顔に口髯(くちひげ)を生(はや)した年は五十ばかり。手には風呂敷に包んだものを持っている。わたくしはその様子とその顔立とで、直様(すぐさま)お雪の抱主(かかえぬし)だろうと推察したので、向から言うのを待たず、
「お雪さんは何だか、お医者へ行くって、今おもてで逢いました。」
抱主らしい男は既にその事を知っていたらしく、「もう帰るでしょう。待っていなさい。」といって、わたくしのいたのを怪しむ風もなく、風呂敷包を解いて、アルミの小鍋(こなべ)を出し茶棚の中へ入れた。夜食の惣菜(そうざい)を持って来たのを見れば、抱主に相違はない。
「お雪さんは、いつも忙しくって結構ですねえ。」
わたくしは挨拶のかわりに何かお世辞を言わなければならないと思って、そう言った。
「何ですか。どうも。」と抱主の方でも返事に困るといったような、意味のない事を言って、火鉢の火や湯の加減を見るばかり。面と向ってわたくしの顔さえ見ない。寧むしろ対談を避けるというように横を向いているので、わたくしもそのまま黙っていた。
こういう家の亭主と遊客との対面は、両方とも甚(はなはだ)気まずいものである。貸座敷、待合茶屋(まちあいぢゃや)、芸者家(げいしゃや)などの亭主と客との間もまた同じことで、この両者の対談する場合は、必ず女を中心にして甚気まずい紛擾(ごたごた)の起った時で、しからざる限り対談の必要が全くないからでもあろう。
いつもお雪が店口で焚(た)く蚊遣香(かやりこう)も、今夜は一度もともされなかったと見え、家中(いえじゅう)にわめく蚊の群は顔を刺すのみならず、口の中へも飛込もうとするのに、土地馴れている筈の主人も、暫(しばら)く坐っている中(うち)我慢がしきれなくなって、中仕切(なかじきり)の敷居際に置いた扇風機の引手を捻(ねじ)ったが破(こわ)れていると見えて廻らない。火鉢の抽斗(ひきだし)から漸(ようや)く蚊遣香の破片(かけら)を見出した時、二人は思わず安心したように顔を見合せたので、わたくしはこれを機会に、
「今年はどこもひどい蚊ですよ。暑さも格別ですがね。」と言うと、
「そうですか。ここはもともと埋地で、碌(ろく)に地揚(じあげ)もしないんだから。」と主人もしぶしぶ口をきき初めた。
「それでも道がよくなりましたね。第一便利になりましたね。」
「その代り、何かにつけて規則がやかましくなった。」
「そう。二、三年前にゃ、通ると帽子なんぞ持って行ったものですね。」
「あれにゃ、わたし達この中(なか)の者も困ったんだよ。用があっても通れないからね。女達にそう言っても、そう一々見張りをしてもいられないし、仕方がないから罰金を取るようにしたんだ。店の外へ出てお客をつかまえる処を見つかると四十二円の罰金だ。それから公園あたりへ客引を出すのも規則違反にしたんだ。」
「それも罰金ですか。」
「うむ。」
「それは幾何(いくら)ですか。」
遠廻しに土地の事情を聞出そうと思った時、「安藤さん」と男の声で、何やら紙片(かみきれ)を窓に差入れて行った者がある。同時にお雪が帰って来て、その紙を取上げ、猫板の上に置いたのを、偸見(ぬすみみ)すると、謄写摺(とうしゃずり)にした強盗犯人捜索の回状である。
お雪はそんなものには目も触れず、「お父さん、あした抜かなくっちゃいけないっていうのよ。この歯。」と言って、主人の方へ開(あ)いた口を向ける。
「じゃア、今夜は食べる物はいらなかったな。」と主人は立ちかけたが、わたくしはわざと見えるように金を出してお雪にわたし、一人先へ立って二階に上った。》
『断腸亭日乗』十月六日の《家には三ッ輪のやうなる髷(まげ)ひし二十一、二才の女新に来り、また雇婆も来り、茶の間にて夕餉を食しゐたり。主人も来りたればこの土地のはなしをききて、七時頃車にて銀座食堂に飰して麻布にかへる。》が活かされている。
《二階は窓のある三畳の間に茶ぶ台を置き、次が六畳と四畳半位の二間(ふたま)しかない。一体この家はもと一軒であったのを、表と裏と二軒に仕切ったらしく、下は茶の間の一室きりで台所も裏口もなく、二階は梯子(はしご)の降口からつづいて四畳半の壁も紙を張った薄い板一枚なので、裏どなりの物音や話声が手に取るようによく聞える。わたくしは能(よ)く耳を押つけて笑う事があった。
「また、そんなとこ。暑いのにさ。」
上って来たお雪はすぐ窓のある三畳の方へ行って、染模様の剥(は)げたカーテンを片寄せ、「こっちへおいでよ。いい風だ。アラまた光ってる。」
「さっきより幾らか涼しくなったな、成程いい風だ。」
窓のすぐ下は日蔽(ひおい)の葭簀(よしず)に遮られているが、溝(どぶ)の向側に並んだ家の二階と、窓口に坐っている女の顔、往(い)ったり来たりする人影、路地一帯の光景は案外遠くの方まで見通すことができる。屋根の上の空は鉛色に重く垂下(たれさが)って、星も見えず、表通のネオンサインに半空(なかぞら)までも薄赤く染められているのが、蒸暑い夜を一層蒸暑くしている。お雪は座布団を取って窓の敷居に載せ、その上に腰をかけて、暫く空の方を見ていたが、「ねえ、あなた」と突然わたくしの手を握り、「わたし、借金を返しちまったら。あなた、おかみさんにしてくれない。」
「おれ見たようなもの。仕様がないじゃないか。」
「ハスになる資格がないっていうの。」
「食べさせることができなかったら資格がないね。」
お雪は何とも言わず、路地のはずれに聞え出したヴィヨロンの唄につれて、鼻唄をうたいかけたので、わたくしは見るともなく顔を見ようとすると、お雪はそれを避けるように急に立上り、片手を伸して柱につかまり、乗り出すように半身を外へ突出した。
「もう十年わかけりゃア……。」わたくしは茶ぶ台の前に坐って巻煙草に火をつけた。
「あなた。一体いくつなの。」
こなたへ振向いたお雪の顔を見上あげると、いつものように片靨(かたえくぼ)を寄せているので、わたくしは何とも知れず安心したような心持になって、
「もうじき六十さ。」
「お父さん。六十なの。まだ御丈夫。」
お雪はしげしげとわたくしの顔を見て、「あなた。まだ四十にゃならないね。三十七か八かしら。」
「おれはお妾(めかけ)さんに出来た子だから、ほんとの年はわからない。」
「四十にしても若いね。髪の毛なんぞそうは思えないわ。」
「明治三十一年生だね。四十だと。」
「わたしはいくつ位に見えて。」
「二十一、二に見えるが、四ぐらいかな。」
「あなた。口がうまいから駄目。二十六だわ。」
「雪ちゃん、お前、宇都(うつ)の宮(みや)で芸者をしていたって言ったね。」
「ええ。」
「どうして、ここへ来たんだ。よくこの土地の事を知っていたね。」
「暫く東京にいたもの。」
「お金のいることがあったのか。」
「そうでもなけりゃア……。檀那(だんな)は病気で死んだし、それに少し……。」
「馴れない中は驚いたろう。芸者とはやり方がちがうから。」
「そうでもないわ。初めッから承知で来たんだもの。芸者は掛(かか)りまけがして、借金の抜ける時がないもの。それに……身を落すなら稼ぎいい方が結句徳だもの。」
「そこまで考えたのは、全くえらい。一人でそう考えたのか。」
「芸者の時分、お茶屋の姐(ねえ)さんで知ってる人が、この土地で商売していたから、話をきいたのよ。」
「それにしても、えらいよ。年(ねん)があけたら少し自前(じまえ)で稼いで、残せるだけ残すんだね。」
「わたしの年は水商売には向くんだとさ。だけれど行先の事はわからないわ。ネエ。」
じっと顔を見詰められたので、わたくしは再び妙に不安な心持がした。まさかとは思うものの、何だか奥歯に物の挾まっているような心持がして、此度(こんど)はわたくしの方が空の方へでも顔を外向(そむけ)たくなった。
表通りのネオンサインが反映する空のはずれには、先ほどから折々稲妻が閃(ひらめ)いていたが、この時急に鋭い光が人の目を射た。しかし雷の音らしいものは聞えず、風がぱったり歇(や)んで日の暮の暑さが又むし返されて来たようである。
「いまに夕立が来そうだな。」
「あなた。髪結(かみゆい)さんの帰り……もう三月(みつき)になるわネエ。」
わたくしの耳にはこの「三月になるわネエ。」と少し引延ばしたネエの声が何やら遠いむかしを思返すとでもいうように無限の情(じょう)を含んだように聞きなされた。「三月になります。」とか「なるわよ。」とか言切ったら平常つねの談話に聞えたのであろうが、ネエと長く引いた声は咏嘆の音(おん)というよりも、むしろそれとなくわたくしの返事を促す為に遣われたもののようにも思われたので、わたくしは「そう……。」と答えかけた言葉さえ飲み込んでしまって、ただ目容(まなざし)で応答をした。
お雪は毎夜路地へ入込む数知れぬ男に応接する身でありながら、どういう訳で初めてわたくしと逢った日の事を忘れずにいるのか、それがわたくしには有り得べからざる事のように考えられた。初ての日を思返すのは、その時の事を心に嬉しく思うが為と見なければならない。しかしわたくしはこの土地の女がわたくしのような老人(としより)に対して、尤(もっと)も先方ではわたくしの年を四十歳位に見ているが、それにしても好いたの惚(ほ)れたのというようなもしくはそれに似た柔く温(あたたか)な感情を起し得るものとは、夢にも思っていなかった。》
すっかり若い頃の『あめりか物語』『フランス物語』の情緒纏綿たるロマンティシズムを江戸明治の人情の世界に移植して悦んでいるのだが、ここで、《「もうじき六十さ。」「お父さん。六十なの。まだ御丈夫。」 お雪はしげしげとわたくしの顔を見て、「あなた。まだ四十にゃならないね。三十七か八かしら。」》もまた荷風の黙説法、「かくし」ないし「やつし」として、閨房での性的能力年齢をお雪に言わせてやに下がる年季が入っている。
《わたくしは今、お雪さんが初めて逢った日の事を咏嘆的な調子で言出したのに対して、答うべき言葉を見付けかね、煙草の烟(けむり)の中にせめて顔だけでもかくしたい気がしてまたもや巻煙草を取出した。お雪は黒目がちの目でじっとこなたを見詰めながら、
「あなた。ほんとに能(よ)く肖(に)ているわ。あの晩、あたし後姿を見た時、はっと思ったくらい……。」
「そうか。他人のそら肖って、よくある奴さ。」わたくしはまア好かったという心持を一生懸命に押隠した。そして、「誰に。死んだ檀那に似ているのか。」
「いいえ。芸者になったばかりの時分……。一緒になれなかったら死のうと思ったの。」
「逆上(のぼ)せきると、誰しも一時はそんな気を起す……。」
「あなたも。あなたなんぞ、そんな気にゃアならないでしょう。」
「冷静かね。しかし人は見掛によらないもんだからね。そう見くびったもんでもないよ。」
お雪は片靨(かたえくぼ)を寄せて笑顔をつくったばかりで、何とも言わなかった。少し下唇(くちびる)の出た口尻(じり)の右側に、おのずと深く穿(うが)たれる片えくぼは、いつもお雪の顔立を娘のようにあどけなくするのであるが、その夜にかぎって、いかにも無理に寄せた靨のように、言い知れず淋しく見えた。わたくしはその場をまぎらす為に、
「また歯がいたくなったのか。」
「いいえ。さっき注射したから、もう何ともない。」
それなり、また話が途絶えた時、幸にも馴染(なじみ)の客らしいものが店口の戸を叩いてくれた。お雪はつと立って窓の外に半身を出し、目かくしの板越しに下を覗(のぞ)き、
「アラ竹さん。お上んなさい。」
馳け降りる後(あと)からわたくしも続いて下り、暫く便所の中に姿をかくし客の上ってしまうのを待って、音のしないように外へ出た。》
さりげないが《少し下唇(くちびる)の出た口尻(じり)の右側に、おのずと深く穿(うが)たれる片えくぼ》はお雪の性的魅力を暗示している。「わたくし」に嫉妬の感情はない。
《八
(前略)わたくしの胸底には先刻お雪が半(なかば)冗談らしく感情の一端をほのめかした時、わたくしの覚えた不安がまだ消え去らずにいるらしい……わたくしはお雪の履歴については殆ど知るところがない。どこやらで芸者をしていたと言っているが、長唄(ながうた)も清元(きよもと)も知らないらしいので、それも確かだとは思えない。最初の印象で、わたくしは何の拠(よ)るところもなく、吉原(よしわら)か洲崎(すさき)あたりのさほどわるくない家にいた女らしい気がしたのが、かえって当っているのではなかろうか。
言葉には少しも地方の訛(なま)りがないが、その顔立と全身の皮膚の綺麗(きれい)なことは、東京もしくは東京近在の女でない事を証明しているので、わたくしは遠い地方から東京に移住した人たちの間に生れた娘と見ている。性質は快活で、現在の境涯をも深く悲しんではいない。寧むしろこの境遇から得た経験を資本(もとで)にして、どうにか身の振方をつけようと考えているだけの元気もあれば才智もあるらしい。男に対する感情も、わたくしの口から出まかせに言う事すら、そのまま疑わずに聴き取るところを見ても、まだ全く荒(すさ)みきってしまわない事は確かである。わたくしをして、然そう思わせるだけでも、銀座や上野辺あたりの広いカフエーに長年働いている女給などに比較したなら、お雪の如きは正直とも醇朴(じゅんぼく)とも言える。まだまだ真面目な処があるとも言えるであろう。》
《九
(前略)古本の虫干だけはやっと済んだので、その日夕飯(ゆうめし)を終るが否やいつものように破れたズボンに古下駄(ふるげた)をはいて外へ出ると、門の柱にはもう灯(ひ)がついていた。夕凪の暑さにかかわらず、日はいつか驚くばかり短くなっているのである。
わずか三日ばかりであるが、外へ出て見ると、わけもなく久しい間、行かねばならない処へ行かずにいたような心持がしてわたくしは幾分なりと途中の時間まで短くしようと、京橋の電車の乗換場から地下鉄道に乗った。若い時から遊び馴れた身でありながら、女を尋ねるのに、こんな気ぜわしい心持になったのは三十年来絶えて久しく覚えた事がないと言っても、それは決して誇張ではない。雷門(かみなりもん)からはまた円タクを走らせ、やがていつもの路地口。いつもの伏見稲荷(ふしみいなり)。ふと見れば汚れきった奉納の幟(のぼり)が四、五本とも皆新しくなって、赤いのはなくなり、白いものばかりになっていた。いつもの溝際(どぶぎわ)に、いつもの無花果(いちじく)と、いつもの葡萄、しかしその葉の茂りはすこし薄くなって、いくら暑くとも、いくら世間から見捨てられた此路地にも、秋は知らず知らず夜毎に深くなって行く事を知らせていた。
いつもの窓に見えるお雪の顔も、今夜はいつもの潰島田(つぶし)ではなく、銀杏返(いちょうがえ)しに手柄(てがら)をかけたような、牡丹(ぼたん)とかよぶ髷(まげ)に変っていたので、わたくしはこなたから眺めて顔ちがいのしたのを怪しみながら歩み寄ると、お雪はいかにもじれったそうに扉(とびら)をあけながら、「あなた。」と一言(ひとこと)強く呼んだ後、急に調子を低くして、「心配したのよ。それでも、まア、よかったねえ。」
わたくしは初めその意を解しかねて、下駄もぬがず上口(あがりぐち)へ腰をかけた。
「新聞に出ていたよ。少し違うようだから、そうじゃあるまいと思ったんだけれど、随分心配したわ。」
「そうか。」やっと当(あて)がついたので、わたくしも俄(にわか)に声をひそめ、「おれはそんなドジなまねはしない。始終気をつけているもの。」
「一体、どうしたの。顔を見れば別に何でもないんだけれど、来る人が来ないと、何だか妙にさびしいものよ。」
「でも、雪ちゃんは相変らずいそがしいんだろう。」
「暑い中(うち)は知れたものよ。いくらいそがしいたって。」
「今年はいつまでも、ほんとに暑いな。」といった時お雪は「ちょいとしずかに。」といいながらわたくしの額にとまった蚊を掌(てのひら)でおさえた。
家の内の蚊は前よりも一層多くなったようで、人を刺すその針も鋭く太くなったらしい。お雪は懐紙(ふところがみ)でわたくしの額と自分の手についた血をふき、「こら。こんな。」といってその紙を見せて円(まる)める。
「この蚊がなくなれば年の暮だろう。」
「そう。去年お酉様(とりさま)の時分にはまだいたかも知れない。」
「やっぱり反歩(たんぼ)か。」ときいたが、時代の違っている事に気がついて、「この辺でも吉原(よしわら)の裏へ行くのか。」
「ええ。」といいながらお雪はチリンチリンと鳴る鈴の音(ね)を聞きつけ、立って窓口へ出た。
「兼ちゃん。ここだよ。何ボヤボヤしているのさ。氷白玉(しらたま)二つ……それから、ついでに蚊遣香(かやりこう)を買って来ておくれ。いい児だ。」
そのまま窓に坐って、通り過る素見客(ひやかし)にからかわれたり、またこっちからもからかったりしている。その間々には中仕切(なかじきり)の大阪格子(おおさかごうし)を隔てて、わたくしの方へも話をしかける。氷屋の男がお待遠うといって誂(あつら)えたものを持って来た。
「あなた。白玉なら食べるんでしょう。今日はわたしがおごるわ。」
「よく覚えているなア。そんな事……。」
「覚えてるわよ。実(じつ)があるでしょう。だからもう、そこら中浮気するの、お止しなさい。」
「此処(ここ)へ来ないと、どこか、他(わき)の家(うち)へ行くと思ってるのか。仕様がない。」
「男は大概そうだもの。」
「白玉が咽喉(のど)へつかえるよ。食べる中うちだけ仲好くしようや。」
「知らない。」とお雪はわざと荒々しく匙(さじ)の音をさせて山盛にした氷を突崩した。
窓口を覗(のぞ)いた素見客が、「よう、姉さん、御馳走さま。」
「一つあげよう。口をおあき。」
「青酸加里か。命が惜しいや。」
「文無しのくせに、聞いてあきれらア。」
「何いってやんでい。溝ッ蚊女郎。」と捨台詞(すてぜりふ)で行き過るのをこっちも負けていず、
「へッ。芥溜(ごみため)野郎。」
「はははは。」と後から来る素見客がまた笑って通り過ぎた。
お雪は氷を一匙口へ入れては外を見ながら、無意識に、「ちょっと、ちょっと、だーんな。」と節をつけて呼んでいる中、立止って窓を覗くものがあると、甘えたような声をして、「お一人、じゃ上ってよ。まだ口あけなんだから。さア、よう。」と言って見たり、また人によっては、いかにも殊勝らしく、「ええ。構いません。お上りになってから、お気に召さなかったら、お帰りになっても構いませんよ。」と暫くの間話をして、その挙句あげくこれも上らずに行ってしまっても、お雪は別につまらないという風さえもせず、思出したように、解けた氷の中から残った白玉をすくい出して、むしゃむしゃ食べたり、煙草をのんだりしている。》
『断腸亭日乗』九月十五日の《夜玉の井に徃く。途中牛の御前祭礼の飾物を見る。いつもの家にて女供と白玉を食す。一杯三十銭とは高価驚くべし》から来るのであろうが、お雪の素見客との生態を、目の前で行われているかのように生き生きした音と映像で活写している。
《わたくしは既にお雪の性質を記述した時、快活な女であるとも言い、またその境涯をさほど悲しんでもいないと言った。それは、わたくしが茶の間の片隅に坐って、破団扇(やれうちわ)の音もなるべくしないように蚊を追いながら、お雪が店先に坐っている時の、こういう様子を納簾(のれん)の間から透(すか)し見て、それから推察したものに外ならない。この推察は極く皮相に止(とどま)っているかも知れない。為人(ひととなり)の一面を見たに過ぎぬかも知れない。
しかしここにわたくしの観察の決して誤らざる事を断言し得る事がある。それはお雪の性質の如何(いかん)に係らず、窓の外の人通りと、窓の内のお雪との間には、互に融和すべき一縷(いちる)の糸の繋(つな)がれていることである。お雪が快活の女で、その境涯をさほど悲しんでいないように見えたのが、もしわたくしの誤りであったなら、その誤はこの融和から生じたものだと、わたくしは弁解したい。窓の外は大衆である。即ち世間である。窓の内は一個人である。そしてこの両者の間には著しく相反目している何物もない。これは何(なん)によるのであろう。お雪はまだ年が若い。まだ世間一般の感情を失わないからである。お雪は窓に坐っている間はその身を卑しいものとなして、別に隠している人格を胸の底に持っている。窓の外を通る人はその歩みをこの路地に入るるや仮面をぬぎ矜負(きょうふ)を去るからである。
わたくしは若い時から脂粉の巷(ちまた)に入り込み、今にその非を悟らない。或時は事情に捉われて、彼女(かのおんな)たちの望むがまま家に納(い)れて箕帚(きそう)を把(と)らせたこともあったが、しかしそれは皆失敗に終った。彼女達は一たびその境遇を替え、その身を卑しいものではないと思うようになれば、一変して教うべからざる懶婦(らんぷ)となるか、しからざれば制御しがたい悍婦(かんぷ)になってしまうからであった。
お雪はいつとはなく、わたくしの力に依って、境遇を一変させようという心を起している。懶婦か悍婦かになろうとしている。お雪の後半生(こうはんせい)をして懶婦たらしめず、悍婦たらしめず、真に幸福なる家庭の人たらしめるものは、失敗の経験にのみ富んでいるわたくしではなくして、前途になお多くの歳月を持っている人でなければならない。しかし今、これを説いてもお雪には決して分ろうはずがない。お雪はわたくしの二重人格の一面だけしか見ていない。わたくしはお雪の窺(うかが)い知らぬ他の一面を曝露(ばくろ)して、その非を知らしめるのは容易である。それを承知しながら、わたくしがなお躊躇(ちゅうちょ)しているのは心に忍びないところがあったからだ。これはわたくしを庇(かば)うのではない。お雪が自らその誤解を覚(さと)った時、甚(はなはだ)しく失望し、甚しく悲しみはしまいかということをわたくしは恐れていたからである。
お雪は倦(う)みつかれたわたくしの心に、偶然過去の世のなつかしい幻影を彷彿(ほうふつ)たらしめたミューズである。久しく机の上に置いてあった一篇の草稿はもしお雪の心がわたくしの方に向けられなかったなら、――少くともそういう気がしなかったなら、既に裂き棄てられていたに違いない。お雪は今の世から見捨てられた一老作家の、他分そが最終の作とも思われる草稿を完成させた不可思議な激励者である。わたくしはその顔を見るたび心から礼を言いたいと思っている。その結果から論じたら、わたくしは処世の経験に乏しい彼の女を欺き、その身体(しんたい)のみならずそのの真情をも弄(もてあそ)んだ事になるであろう。わたくしはこの許され難い罪の詫びをしたいと心ではそう思いながら、そうする事の出来ない事情を悲しんでいる。
その夜、お雪が窓口で言った言葉から、わたくしの切ない心持はいよいよ切なくなった。今はこれを避けるためには、重ねてその顔を見ないに越したことはない。まだ、今の中ならば、それほど深い悲しみと失望とをお雪の胸に与えずとも済むであろう。お雪はまだその本名をもその生立(おいたち)をも、問われないままに、打明(うちあけ)る機会に遇(あ)わなかった。今夜あたりがそれとなく別れを告げる瀬戸際で、もしこれを越したなら、取返しのつかない悲しみを見なければなるまいというような心持が、夜のふけかけるにつれて、わけもなく激しくなって来る。
物に追われるようなこの心持は、折から急に吹出した風が表通から路地に流れ込み、あち等こち等へ突当った末、小さな窓から家の内なかまで入って来て、鈴のついた納簾のれんの紐(ひも)をゆする。その音につれて一しお深くなったように思われた。その音は風鈴売が欞子窓(れんじまど)の外を通る時ともちがって、この別天地より外には決して聞かれないものであろう。夏の末から秋になっても、打続く毎夜のあつさに今まで全く気のつかなかっただけ、その響は秋の夜もいよいよまったくの夜長らしく深(ふ)けそめて来た事を、しみじみと思い知らせるのである。気のせいか通る人の跫音(あしおと)も静に冴(さ)え、そこ等の窓でくしゃみをする女の声も聞える。
お雪は窓から立ち、茶の間へ来て煙草へ火をつけながら、思出したように、
「あなた。あした早く来てくれない。」といった。
「早くって、夕方か。」
「もっと早くさ。あしたは火曜日だから診察日なんだよ。十一時にしまうから、一緒に浅草へ行かない。四時頃までに帰って来ればいいんだから。」
わたくしは行ってもいいと思った。それとなく別盃(べっぱい)を酌(く)むために行きたい気はしたが、新聞記者と文学者とに見られてまたもや筆誅(ひっちゅう)せられる事を恐れもするので、
「公園は具合のわるいことがあるんだよ。何か買うものでもあるのか。」
「時計も買いたいし、もうすぐ袷(あわせ)だから。」
「あついあついと言ってる中、ほんとにもうじきお彼岸だね。袷はどのくらいするんだ。店で着るのか。」
「そう。どうしても三十円はかかるでしょう。」
「そのくらいなら、ここに持っているよ。一人で行って誂(あつら)えておいでな。」と紙入を出した。
「あなた。ほんと。」
「気味がわるいのか。心配するなよ。」
わたくしは、お雪が意外のよろこびに眼を見張ったその顔を、永く忘れないようにじっと見詰めながら、紙入の中の紙幣(さつ)を出して茶ぶ台の上に置いた。
戸を叩たたく音と共に主人の声がしたので、お雪は何か言いかけたのも、それなり黙って、伊達締(だてしめ)の間に紙幣を隠す。わたくしは突(つ)と立って主人(あるじ)と入れちがいに外へ出た。》
《十
四、五日たつと、あの夜をかぎりもう行かないつもりで、秋袷(あわせ)の代(だい)まで置いて来たのにも係らず、何やらもう一度行って見たい気がして来た。お雪はどうしたかしら。相変らず窓に坐っている事はわかりきっていながら、それとなく顔だけ見に行きたくて堪らない。お雪には気がつかないように、そっと顔だけ、様子だけ覗(のぞ)いて来よう。あの辺を一巡ひとまわりして帰って来れば隣のラディオも止む時分になるのであろうと、罪をラディオに塗付けて、わたくしはまたもや墨田川を渡って東の方へ歩いた。(中略)
この空地には夏から秋にかけて、ついこの間まで、初めは曲馬(きょくば)、次には猿芝居、その次には幽霊の見世物小屋が、毎夜さわがしく蓄音機を鳴し立てていたのであるが、いつの間にか、もとのようになって、あたりの薄暗い灯影(ほかげ)が水溜(みずたまり)の面(おもて)に反映しているばかりである。わたくしはとにかくもう一度お雪をたずねて、旅行をするからとか何とか言って別れよう。そのの方が鼬(いたち)の道を切ったような事をするよりは、どうせ行かないものなら、お雪の方でも後々(あとあと)の心持がわるくないであろう。出来ることなら、真(まこと)の事情を打明けてしまいたい。わたくしは散歩したいにもその処がない。尋ねたいと思う人は皆先に死んでしまった。風流絃歌の巷も今では音楽家と舞踊家との名を争う処で、年寄が茶を啜(すす)ってむかしを語る処ではない。わたくしは図らずも此のラビラントの一隅に於いて浮世半日(ふせいはんじつ)の閑を偸(ぬす)む事を知った。そのつもりで邪魔でもあろうけれど折々遊びに来る時は快く上げてくれと、晩蒔(おそまき)ながら、わかるように説明したい……。わたくしは再び路地へ入ってお雪の家の窓に立寄った。
「さア、お上んなさい。」とお雪は来る筈の人が来たという心持を、その様子と調子とに現したが、いつものように下の茶の間には通さず、先に立って梯子(はしご)を上るので、わたくしも様子を察して、
「親方がいるのか。」
「ええ。おかみさんも一緒……。」
「新奇のが来たね。」
「御飯焚(たき)のばアやも来たわ。」
「そうか。急に賑(にぎや)かになったんだな。」
「暫(しばら)く独りでいたら、大勢だと全くうるさいわね。」急に思出したらしく、「この間はありがとう。」
「好(い)いのがあったか。」
「ええ。明日(あした)あたり出来てくる筈よ。伊達締(だてじめ)も一本買ったわ。これはもうこんなだもの。後で下へ行って持ってくるわ。」
お雪は下へ降りて茶を運んで来た。姑(しばら)く窓に腰をかけて何ともつかぬ話をしていたが、主人(あるじ)夫婦は帰りそうな様子もない。その中(うち)梯子の降口(おりくち)につけた呼鈴が鳴る。馴染(なじみ)の客が来た知らせである。
家(うち)の様子が今までお雪一人の時とは全くちがって、長くはいられぬようになり、お雪の方でもまた主人の手前を気兼しているらしいので、わたくしは言おうと思った事もそのまま、半時間とはたたぬ中戸口を出た。
四、五日過ると季節は彼岸に入った。(中略)わたくしは年々秋風秋雨に襲われた後(のち)の庭を見るたびたび紅楼夢(こうろうむ)の中にある秋窓風雨夕(しゅうそうふううのゆうべ)と題された一篇の古詩を思起す。
秋(あき)花ハ惨淡(さんたん)トシテ秋草ハ黄ナリ。
耿耿(こうこう)タル秋燈秋夜ハ長シ。
已ニ賞ス秋窓ニ秋ノ不レ尽キザルヲ。
那(イカンゾ)堪ンヤ風雨ノ助クルヲ二凄涼(せいりょう)ヲ一。
助クルノレ秋ヲ風雨ハ来ルコト何ゾ速(すみやか)ナルヤ。
驚破ス秋窓秋夢ノ緑ナルヲ。
………………………
そして、わたくしは毎年同じように、とても出来ぬとは知りながら、何とかうまく翻訳して見たいと思い煩うのである。
風雨の中(うち)に彼岸は過ぎ、天気がからりと晴れると、九月の月も残り少く、やがてその年の十五夜になった。
前の夜もふけそめてから月が好かったが、十五夜の当夜には早くから一層曇りのない明月を見た。
わたくしがお雪の病んで入院していることを知ったのはその夜である。雇婆(やといばば)から窓口で聞いただけなので、病の何であるのかも知る由がなかった。(後略)》
*
《『濹東綺譚(ぼくとうきだん)』はここに筆を擱(お)くべきであろう。しかしながらもしここに古風な小説的結末をつけようと欲するならば、半年あるいは一年の後、わたくしが偶然思いがけない処で、既に素人(しろと)になっているお雪に廻(めぐ)り逢う一節を書添えればよいであろう。猶又、この偶然の邂逅(かいこう)をして更に感傷的ならしめようと思ったなら、摺(す)れちがう自動車とか或は列車の窓から、互に顔を見合しながら、言葉を交したいにも交すことの出来ない場面を設ければよいであろう。楓葉荻花(ふうようてきか)秋は瑟々(しつしつ)たる刀禰河(とねがわ)あたりの渡船(わたしぶね)で摺れちがう処などは、殊に妙であろう。
わたくしとお雪とは、互にその本名もその住所をも知らずにしまった。ただ濹東の裏町、蚊のわめく溝際(どぶぎわ)の家で狎(な)れ暱(した)しんだばかり。一たび別れてしまえば生涯相逢うべき機会も手段もない間柄である。軽い恋愛の遊戯とはいいながら、再会の望みなき事を初めから知りぬいていた別離の情は、強しいてこれを語ろうとすれば誇張に陥り、これを軽々(けいけい)に叙し去れば情を尽さぬ憾(うら)みがある。ピエールロッチの名著『阿菊(おきく)さん』の末段は、能(よ)く這般(しゃはん)の情緒を描き尽し、人をして暗涙を催さしむる力があった。わたくしが『濹東綺譚』の一篇に小説的色彩を添加しようとしても、それは徒(いたずら)にロッチの筆を学んで至らざるの笑を招くに過ぎぬかも知れない。
わたくしはお雪が永く溝際の家にいて、極めて廉価にその媚(こび)を売るものでない事は、何のいわれもなく早くからこれを予想していた。若い頃、わたくしは遊里の消息に通暁した老人から、こんな話をきかされたことがあった。これほど気に入った女はない。早く話をつけないと、外のお客に身受けをされてしまいはせぬかと思うような気がすると、その女はきっと病気で死ぬか、そうでなければ突然厭(いや)な男に身受をされて遠い国へ行ってしまう。何の訳もない気病みというものは不思議に当るものだという話である。
お雪はあの土地の女には似合わしからぬ容色と才智とを持っていた。雞群(けいぐん)の一鶴(いっかく)であった。しかし昔と今とは時代がちがうから、病むとも死ぬような事はあるまい。義理にからまれて思わぬ人に一生を寄せる事もあるまい……。
建込んだ汚らしい家の屋根つづき、風雨(あらし)の来る前の重苦しい空に映る燈影を望みながら、お雪とわたくしとは真暗な二階の窓に倚(よ)って、互に汗ばむ手を取りながら、唯それともなく謎なぞのような事を言って語り合った時、突然閃(ひらめ)き落ちる稲妻に照らされたその横顔。それは今もなおありありと目に残って消去らずにいる。わたくしは二十(はたち)の頃から恋愛の遊戯に耽ったが、然しこの老境に至って、このような癡夢(ちむ)を語らねばならないような心持になろうとは。運命の人を揶揄(やゆ)することもまた甚しいではないか。草稿の裏にはなお数行の余白がある。筆の行くまま、詩だか散文だか訳のわからぬものを書しるして此夜の愁(うれい)を慰めよう。
(後略)》
(了)
******引用または参考******
*永井荷風『濹東綺譚』(岩波文庫)
*永井荷風『摘録 断腸亭日乗(上)(下)』(岩波文庫)
*『荷風全集第二十三巻 断腸亭日乗 三』(岩波書店)
*野口冨士男編『荷風随筆集(上)(下)』(「寺じまの記」他所収)(岩波文庫)
*『現代日本文学大系23,24 永井荷風集(一)(二)』(「月報60 大岡信/川村二郎/丸谷才一「鼎談 荷風文学を語る」」、『為永春水』他所収)(筑摩書房)
*秋庭太郎『考証 永井荷風』(岩波書店)
*野口冨士男『わが荷風』(岩波現代文庫)
*川本三郎『荷風と東京 『断腸亭日乗』私註』(都市出版)
*磯田光一『永井荷風』(講談社)
*高橋俊夫編『近代文学作品論叢書 濹東綺譚作品論1~4』(大空社)