文学批評 折口信夫『恋の座』について ――越人「うらやまし おもひ切時 猫の恋」と芭蕉「きぬ/\゛や あまりかぼそく あてやかに」

 

 

 

                                  

 折口信夫は歌(和歌、短歌)について、『古代研究』、『国文学の発生』、『口訳万葉集』、『日本文学の発生 序説』などの「学術的」論考や同時代批評を残しており、約四十巻に及ぶ『折口信夫全集』は歌・文学(釈迢空名での歌集『海山のあひだ』、『倭をぐな』、小説『死者の書』など)の「国文学」と「民俗学」(『大嘗祭の本義』などの天皇学、『かぶき讃』などの芸能学)がほぼ半々となっていて、それらを称して「折口学」と呼ばれている。

 歌についてはそれほどの質と量であるが、俳諧(俳句)については、前身としての連歌を含めても一巻をなすこと到底かなわず、歌の百分の一にも満たないのではないか。

二十数巻からなる『折口信夫全集(ノート編)』では、『連俳論』、『連歌俳諧評釈』によってかろうじて一巻をなすが、あくまでもノートで終っているのだ。

 それは文学としての歴史時間的な長さにもよるだろうが、たぶんに折口の吸いつくような「口うつし」の偏執的・粘着的体質が歌に向いていて、俳諧的ではなかったからではないか、という推定はひとまず置いておくとしよう。

 あまり論じなかったからといって、折口の俳諧に対する理解、読解、解釈が足りないということを意味しはしない。芭蕉『恋の座』を読めば、芭蕉と越人(えつじん)をめぐって、俳諧とは、連歌とは、芭蕉文学とは、恋句とは、日本文学における恋愛とは何であるか、の核心そのものが論述されている。

 

 折口信夫『恋の座』は、素直とは言いがたい、やや複雑な構成をとっている。

 以下、折口の章立て名称に従って読んでゆく。

 

恋風雅 恋欲情>

《   うらやまし。おもひ切時 猫の恋   越人

先師、伊賀より此句を書贈りて曰く、心に風雅有もの、一度口にいでずと云事な し。かれが風流、此にいたりて、本性を顕せりと也。此より前、越人、名四方に高く、人のもてはやすほ句多し。しかれども、此に至りて、初て本性を顕すとはの給ひけり。(去来抄

越人の作物は、前から評判を得てゐたが、風雅の本質を吐露するに到らなかつた。ところが、この句にはじめて、彼の優れた素質が顕れて来た。》

 ところが、「風雅有もの」が「俗情あるもの」となって流布した暁台本があって、文意は正反対になってしまっている。折口は、俳諧師という隠者伝来の優越感と、後来発生したらしい越人勘当説、一方で隠者の持って廻った重苦しい表現法による解釈も頭に入れて妥当性を検討したうえで、《師翁、越人の発見を賞賛して、「風雅を哀心に抱くもの、いづくんぞ廋(カク)(筆者註:=隠(かく))さむや。此句に到つて、其本心の良質を吐露することを得たものよ」と喜んだ報告らしく聞えて来る》として「俗情あるもの」を退けた。

 さらに折口らしく、問いそのものを問う。

《それに今一つ、猫の恋の作為を、風雅として迎へるか、俗情として却けるかに纏綿して、二様の解釈が生じ、こんな文面の変化が起つたことも、一通り考へておかねばならぬ。

つまり、かう言ふ句づくり(・・・・)は、蕉風からしては、外道として悪まれたか、文学の本髄として待ち迎へられたかと言ふ所に、結句、問題が集つて来る訣なのだ。だから、よくもあしくも此句などは、芭蕉文学のある指標として、重大な意義のある作品だと言はれよう。「猫の恋……」を俗だとするのなら、てんで(・・・)問題にはならぬ。春季では既に相当重いものに見られてゐた規の語で、連歌以来の成句であり、約束である。此季題の渉る聯想を排除するやうな鑑賞は、俳心からすれば、寧大いに俗情あるもの、と言はれよう。なま温くて、色情的で、清潔なものを感じないからと言つて、之を俳諧的でないと言ふうけとり方をするなら、其は古俳諧は勿論、蕉風にも、風馬牛な俳論になつてしまふ。芭蕉は古俳諧の題材の内において、寧改竄修正することを極度に避けて、おし拡げられる限りおし拡げ、含みを持たせられるだけは含みを持たせ、成長させられる限り成長させて、俗悪・低劣を俗悪・低劣なるが為に、愈人生的に深いものゝ感じられる所まで、其を普遍化した。そこに蕉風の価値があり、俳諧の意義のある訣である。》

 

 安東次男もまた『続 芭蕉七部集評釈』の中で軽く、「欲情あるもの」は誤伝、あるいは偏見が生んだ改鼠だろう、としている。ここに紹介すべき安東の指摘は、次の文章ぐらいであろう。

《そうした越人流の滑稽が、よく物の本情に届いたのは『猿蓑』入集の「うらやましおもひ切時猫の恋」であろう。同じく『猿蓑』に入ったかれの「ちるときの心やすさよ米嚢花(けしのはな)」と同想異曲の句でありながら、前者のなかに作者が見た断念の正体は後者のなかにはない。句は、恋猫が思切ったときの哀れさに恋の正体を見届けたというのであって、恋人をあきらめたときに恋猫をうらやましく思ったというのではない。初五文字の次に切字が働けば、「おもひ切時(が)猫の恋」としか読み様がないからである。》、《「猫の恋」の句は越人の秀作である。そうには違いないが、『猿蓑』あたりを境にしてかれが新風の「軽み」に随いてゆけなくなったことも事実で、荷兮・野水らと共に次第に芭蕉から離れていった。》

 

俳諧における典拠>

芭蕉俳諧師としての知識は、即座に此が、藤原定家作と言ふ「うらやまし。世をも思はず のらねこの妻恋ひさそふ春の夕暮れ」――尤、果して其作物かどうかは疑はしい。其上、世間かまはず恋をする猫が羨しいとはとれない様な羨しが何を羨んでゐるのか、春の夕暮れが妻恋ひをさそふと見てよいのかと謂つた、辻褄のあはぬ所がある。伝来の怪しいものだが、連歌師俳諧師の間には、さう言ふ伝説を持つて伝へられて居たことも考へられる。之を翦裁して俳諧化し、更に発句として独自の生命を生ぜしめ、更に歌を以て旁註たらしめ得た――芭蕉の発句と、古歌との間にも、屢此と同じ関係が見られる。其に、本歌も、短歌における関係と、発句における関係とでは、全然違つてゐる――点を、まづ芭蕉が大きく認めたに違ひない。さうして、此句の持つてゐる小説的な題材の選択と、抒情式な風情を愛して、此こそ、恋の句の行くべき道だと、直観する所が、あつたのであらう。実は、翁自身が求めて居たものに、接し得た気がした訣である。》

 ところで折口は『連俳論』で、芭蕉の古典味について次のように講義している。

芭蕉連句のよさは、いろいろいえるが、恋の句が非常に洗練されていることである。おそらく、彼の恋の句を厳重に調べていったら、室町時代の名高い連歌の巻物のものに、起源があるにちがいない。芭蕉のえらかったのは、連歌をよく勉強し、名高い百韻や千句をよく読んでいることである。叙景の句のよくできているのも当然だが、恋の句を巧みに作っていることは、驚くばかりである。

 芭蕉の恋の句のよさは、クラシックのよさである。クラシックなもので、現代生活をつつんでいるところにある。芭蕉の恋の句は、芭蕉ひとりの経験から出たのではない。古典によって刺激されたものが出てきてるとみるのが本当だ。たった一人の芭蕉のために、何十人もの人があるようなものだが、それだけよい種が、連歌にあったことが考えられる。高尚な遊戯として、連歌をもてあそんだ連歌師の一生など、無駄なようだが、芭蕉ひとりによって救われている。》

『恋の座』に戻る。折口信夫による句の読みの確かさ(歌の読みから来ているのは当然)、音感、語感、調べに対する鋭い感覚が読みとれる。

《だが、当時の俳諧者流の約束を超えて、此句の音覚を正直に言ふ段になると、古典的に感じることは、知的な錯覚で、正しいものだつたとは謂えぬ。「思ひきるとき(・・) 猫のこひ(・・)」の句の関聯に、著しいをどり(・・・)を感じる。二句とも、い列音で終結し、其が更に等しく名詞感の深いものである。殊に此発句の、強力な第一句のい列音の形容詞どめが、二三句に響いて跳ね返るやうな音覚の無内容な鋭さが、穏和であるべき此句の内容に、どれだけ、破綻を来してゐるか知れぬ程である。歌で言へばしらべが、破れてゐるのである。》

 蕉風を切り開き、広める前衛者、蕉門を先導し、指導する心構え、ついてまわる昏迷、孤独について、折口は次のように推定する。

《ともかく、越人の句を採つた芭蕉は、句自身の価値よりも、之を理論的にとりあげ過ぎ、又自ら待ち望んでゐたものが現れた、といふ喜びに囚われ過ぎた点が、十分に見えてゐる。つまり、芭蕉の懐包してゐる理論の方向には一致しても、其の、円満に具体化せられたものではなかつたと言ふことになる。(中略)

自分から出たものが、育つて自分に還つて来たのに驚いたことも、芭蕉には度々あつたであらうし、又自分の欲したと思はれるものが、弟子の心から出て来たのに驚かされたこともあつたに相違ない。(中略)

芭蕉はこのやうに、弟子から与へられるものを、自由にとり入れた人だが、此後も転化飛躍して、門弟子からは遥かに離れた文学境――寧、文学ではない境――に踏み出した。かうなるともう、誰も追随して行けぬやうになつた。「この道や、行く人なしに 秋の暮」は言ふまでもなく、此実感を寓してゐるので、先行する者なきを言うたものではない。だが其かと謂つて、全然弟子の持つ新しい刺激に、方角の暗示を感じなかつたのではない。》

 このあたりの記述、述懐には、自身における「折口学」の弟子たちとのことを連想しうるだろう。

 

<題材と理論と>

《どうも恋の文学だけは、別の物のやうに、芭蕉は腹をきめてかゝつて居たのではないかと言ふ気がする。が又、さうでもなかつたとしたら、翁の恋の句のみづ/\しさは、失はれてゐたに違ひない。さう言ふ作物から窺へる芭蕉の色気や、艶は、かうした理会の上に持ち続けられてゐたのかも知れぬ。ともかく彼が、今思ふよりも、遥かに艶(エン)なる境に、俳諧の「恋」の目安を置いて居たことは、信じてよいと思ふ。だから、越人の句を俗情と罵つたものと考へることは、芭蕉の恋の句を、俗情としてとり扱ふと、おなじことになるのである。蕉風以前の恋の句が、どんなものだつたかと言ふことを見れば、それはすぐに訣る。談林全盛時代又は、貞徳前後の恋の句及び其に相当するものゝ名高いものゝ多くが、単に恋の字を結んだと言ふやうなものでなければ、頗猥雑放恣なものであつた。論より証拠、翁早期の作物自身が、どんなに糜爛したものであつたか。其と此とを考へ合せると、よくここまで達したと言ふ気がする。品もあり、あはれもあつて、而も恋であるだけに、みづ/\しさも落されないと言ふのが、結局恋の句に対して、心構えを異にしてゐた彼の翁の腹の中であつたのではないか。》

 ここで、『折口信夫全集(ノート編)』の『連俳論』、『俳諧「あら何ともな」の巻抄』などを参照すれば、「猥雑な恋」として「談林全盛時代又は、貞徳前後の恋の句及び其に相当するもの」の例としては「くびをのべたるあけぼのゝそら/きぬ/\゛におほ若衆のくちすひて」、「火によくあふれまへようしろよ/雪の暮女若衆のたつねきて」などいくらでもあげられ、「翁早期の糜爛した作物」としては、桃青を名乗っていた芭蕉初期の「寺参り思ひ初たる衆道とて(伊藤信徳)/みじかきこゝる錐で肩つく(桃青)」や「あゝ誰ぢや下女が枕の初尾花」などが該当するだろうか。

《さうしてこの「恋」に対する態度が、ある意味における絶頂に達して居り、他の句境も、勿論之と同列の水準を、まだ動かなかつたのが「猿蓑」であつた。芭蕉自身は其から更に転身して、謂ふ如き「炭俵」の軽みに達するのである。猿蓑の古典主義から、炭俵の自然主義への転化を諾(ウベナ)はぬ人々は多い。さうした心持ちも、よく訣る。古典主義は、文学鑑賞上の一つの普遍論であり、又相応に健康的な啓蒙主義でもある。自然主義は、正しい文学の方向ではあるが、ある人々にとつては、文学らしさを持たぬ文学を推挙することがある。》

 

<隠者資格の認定>

 ここでは、『猿蓑』と「猫の恋」の句とを念頭に、越人と芭蕉との伝記的な足跡(芭蕉は『更科紀行』の旅路に越人を伴い、そのあとで江戸深川へ誘った)に触れている。また蕉門の高足の中で、越人はもっとも俳諧隠者らしく、隠者生活表現から言うと、其角のは新風であり都市風で、芭蕉・越人などは、旧式で、地方的な点を存した、と考察している。

 

<古典的創作>

 この章は『猿蓑』の有名な恋の句の折口ならではの精妙な評釈である。これに続く二つの章、<連句の特異な表現法>と<日本恋愛文学の歴史>は、連句ならではの表現法、読みの解釈、制約の解説と、日本「恋愛」文学の歴史講義であって、どの文章も重要なので全文引用する。

 

《  きぬ/\゛や あまりかぼそく、あてやかに   芭蕉

   かぜひきたまふ声の うつくし         越人

芭蕉一代でも有数な附け合ひである。私の師匠柳田柳叟(筆者註:柳叟(りゆうそう)は柳田國男の俳号)先生、常に口誦して吝(ヲシ)むが如き様を示される所の物である。越人之に先立つて「足駄はかせぬ雨のあけぼの」の前句を出してゐる。翁は侍女たちが女君の心を推察して、後朝の帰り、急ぎ立ちする男を去(イ)なすまいとする様に見立てゝ、――足駄を隠したり、とりあげたりするやうにとりなしたのである――之に、別れを悲しむ女君の様をとりあはせたのだが、さう言ふ風に見てゐるのは右の男の心である。離れ難い愛著――後髪ひかれると言ふより、もつとなごり惜しい心持ち――立ち去らうとして、そこに悩む姫の顔姿の繊細に、高貴な様、言説のよくする所でないあえかさ(・・・・)に囚われてゐる男の心である。平安末期から鎌倉初期へかけて、あれほど恋愛描写の叙事技巧に苦労した歌人たちも、こゝまでは行つて居ないし、又其人々の作物がある窮極に達すれば、間違ひなく、此とほりの表現をとつたことが信じられる。語が大体此範囲を離れてはならぬし――連句と、短歌との様式上の相違をどうして乗り越すかゞ、よほどの問題である――又時代を超越して、此情調を構成する詞は勿論、情景も、此まゝでなければならぬものである。つまり、時・処・形態の障壁を無視して突発させた表現である。越人の附け句は、稍時代の指定を自由にしてゐる。「かぜひき給ふ」ことが、其古典時代にも勿論あつたのであるが、語が世話に砕けて来てゐる為に、我々はやゝ時代感を自由にすることが出来る。前句の清純なのに比べて、柔靡性を含んだ通俗質を十分に持つて来てゐる。文学としては第一義的な点は、師翁の作に譲らねばならぬが、俳諧性は寧此方に逞しく見られる。謂はゞ、古典の口訳から来る笑ひたさと言ふべきものが出てゐるのである。も一つ、越人を褒めてよいなら、其口訳味の為に、前句の古典体な品位を破つて居ぬ点がえらいと思ふ。連句では、寧さいあつた方が、変化を喜ばれることが多いのだが、あまり美しい長句の情趣を破るに忍びず、変化はさせながら、急転させず、時代を稍さげて来たと言ふいたはり(・・・・)の十分見える所がよいのである。「風邪ひき給ふ」は、「風邪をひいていらつしやる所の」であることは言ふまでもない。起きてゐる女性(ニヨシヤウ)で見てもよいが、風邪をひいてるのだから、起きあがらずにゐるものと見るのがほんたうだらう。寝ながら物言ふ人の声が、風邪声(カザゴヱ)ながら、――又其風邪声であることの為に、いよ/\うつくしく聞えるのである。風邪の鼻声に美しさを感じたところに、近代感がある訣である。前句は、男の心持ちに這入つて行つてゐるのであるが、――そこに又、特殊なしなやかさがあるのだが、此は別れに悩む佳人の様子を第三者として述べてゐるのである。「きぬ/\゛や」は此附け合ひの鑑賞の上には、問題にせずともよいが、実はこゝは軽く見て行つてよいのである。

序に言はうなら、其附け句は、師翁「手もつかず、昼の御膳もすべり来ぬ」である。之も亦恋とうけ取つても、恋の連続、四五句に渉ることもあつた習慣から、勿論さし支へはないのである。だが段々、早くくりあげる傾向が著しくなつて、二句ぎりのも頻りに出て来るし、さうあつてはならぬことになつて居た、一句ぎりで棄てる恋の句すらも、許される風に向いて来た頃であつた。》

 

連句の特異な表現法>

《前句の表現全体に、附け句がぴつたり張りついて行かねばならぬものではない。連句は屢、前句の一部分を力強く把握して、其部分だけに密接する方法をとる。近代の例をとれば、すぽつとらいとを、一部分だけに鮮明にあてる。其によつて、他の部分の描写能力が非常に減退する。即、附け句は、先行した句の一部の表現だけを鮮かに捉へて、其に意義を連接させる。さうすることによつて、残りの部分の表現力を薄れさせてしまふ。さう言ふ風に考へたと言ふより、さうした表現法が認められ、其が更に、次第に能力をおし拡げて来た為に、一句一文の中に、意義を持つ部分と、意義を喪失してしまふ部分が出来ても、毫も後味のわるい未解決な気持ちの残らぬと言ふ、連句特有の表現法が、次第に著しくなつて来たのである。前句自身が意義の一部を失ふのではなく、附け句の方向によつて、前句の意義が、一部的に集約せられて来る訣である。だから連句では、附け句が、表現の根幹をなすもので、前句は、其局限力を脱することが出来ぬのである。たとひ前行した句が、如何ほど優れた句でも、此様式上の制約からは、離れられないことになつて行つた。

お上から御膳がさがつて来た。朝もさうであつたが、昼の御膳部も、其まゝ箸を触れられた痕もなく、そのまゝ静かにずつとさがつて来た。御主はこゝのところ、風邪ごゝちがまだ癒えられぬのである。「かぜひきたまふ」と言ふ句を前句の中心表現と見て、外は顧みずに、「手もつかず……」と連接したのだ。此つけ合ひでは、まだしも其風邪ひいた御主の声のうつくしくはなやいで聞える様につけたと思うても、必ずしも誤りではない。又、さう解釈する自由もある訣だが、さう言ふ点に、解釈法の普遍性と言ふことを立てる必要がある。もつと解釈を自由にする必要があるのである。さうでなくては、連句などは、自由解読に任せられてゐるだけに、解釈の公理と言ふものを失ふ虞れがある。其で、強ひても、かうした詞章全面の連接と言ふ、一見健康さうな解釈法を顧みることの出来ぬ場合の多いこと――又其が、当然であることを明らかにして置く必要がある。

尚一つ、前の句のつけ味を説いたところにも述べたが、「きぬ/\゛や……」に対する「かぜひきたまふ……」は、後朝(キヌゞゝ)に関係なくつけてゐると見てよいのであつて、寧その方が正しいといふ考へが、こゝまで話が進むと起つて来るだらうと思ふ。後朝の別れに女は風邪をひいてゐる――さう見ることもないのである。唯漠と翳(カゲ)の如く、月暈(ツキガサ)のやうに、ぼつと視界の外に喰み出てゐると見ておけばよいのである。かう言ふ風に、内容を感受する修練が、連句鑑賞の上には、必ずいるのであつて、此用意がなくては、解釈があくどくて、堪へられなくなる場合が多いのである。風邪心地に寝てる女性の声にほひやかに、顔姿のあえかに、清い状態だけを言うたのだとした方が、一つ前の句――即、隔句(ウチコシ)――に対する前句の関係と、後句に絡む其句との交渉の形が、かはつて来るのがよいのである。かうした前句の意味が、おなじであつても、隔句――打越――と後句とが、全然別な立ち場から附けて居ればよい訣である。又、強ひて隔句と附け句との連接において、一つの語句の意義が、すつかり変つたものと扱つたち、同音異義に解したりせぬ方が、自然でよい。が、何としても変化の乏しい嫌ひがないでもない。其で、隔句と附け句とが、別々の面からつけて行くと言ふ態度を守つて行くにしても、中軸になる前句の意義の変転が望まれる様になる。そこで起つて来た方法がある。即、附け句は、前句の一部の意味を明るく照し出し、そこに連接して行くといふ行き方が、次第に望ましい形と思はれて来たのである。

越人の句は、翁の前句に対して、毫も遜色を示して居ない。其どころか、師翁の前句のよさを、おのれの句を以て、発揮させてゐる。其は、今も言つた風に、時代や地位や人柄を、少しにじらしてつけてゐる所にあるのだ、と言ふことを考へる必要がある。》

 

 安東次男は『続 芭蕉七部集評釈』で、『猿蓑』の「雁がねもの巻」において、「足駄はかせぬ雨のあけぼの/きぬ/\゛やあまりかぼそくあてやかに/かぜひきたまふ声のうつくし/手もつかず昼の御膳もすべりきぬ/物いそくさき舟路なりけり」一連を、これまでの諸評に対して冷徹、辛辣に、しかし連衆の一人と化しているかのように評釈している。その中で『恋の座』にも言及している。

《これは折口信夫も「恋の座」なる文で言っていることであるが、連句というものは前句の表現全体にかかわらねばならぬというわけではなく、おのずからかかわり方の強弱はあってよい。》、《折口はこの句の付あじを前句の後朝に関係なく付いている、と言う。つまり後朝は風邪気味の女の視界の外に在って、「唯漠と翳(カゲ)の如く、月暈(ツキカサ)のやうに、ぼつと」はみ出ている、と言うのである。匂付ということをどこまで句の情景から引離して読むか、これはむつかしい問題であるし、また「雁がねもの巻」興行のころそれほど進んだ匂付の解釈があったか、ということも疑問になる。とりかわこの句は芭蕉の付ではなく、越人の付であるから、そこのところの判断は猶のことむつかしくなる。しかし、折口の解釈が許されぬわけでもない。》

 安東はまた「手もつかず昼の御膳もすべりきぬ」を次のように評釈している。

《打越以下、対象が三句同一人物という点に気がかりの残るはこびだが、句の表はいずれも他からの観察あるいは噂であり、なよなよとした女人の姿は狂言廻しにすぎない。床臥も風邪のせいばかりとも言えぬのである。あとをたのんで帰ってゆく男と、のこされた侍女たちとの感情のやりとりの方が、話の本筋だろう。そこに気がつけば、この越人・芭蕉の付合からは、女主人を気遣う表情のほかに、男女の仲についてあれこれとささやき交し、男の品定めをする女どもの様子までも浮かんでくる。場所も別室に移し替えられている。はこびの障りはあるまい。『猿蓑』「夏の月の巻」の、

   待人入(いれ)し小御門(こみかど)の鎰(かぎ)    去来

  立かゝり屏風を倒す女子供  凡兆

の付合と、男が帰ると来るとの違はあるが、よく似た情景の句作りである。

 芭蕉の「手もつかず」の句はすでに恋から離れているが、恋の余韻をまだのこしていて、これは何ともうまい。》

 

<日本恋愛文学の歴史>

《千載集時代から新古今集期へかけて、短歌における「恋歌(コヒカ)」は、其以前のものよりも確かに進んでゐる。つまり文学としての立ち場を発見したことである。個人経験としての愛欲を述懐し、恋情を愁訴する態度から離れて、如何に美しい恋愛の心境があるか、其をとり出し、表現しようとする、文学としての立ち場を発見したことであつた。だが其は、徹頭徹尾文学に終始してゐて、生活内容が欠けてゐた。時としては、あべこべに生活を文学化した人々の逸話が伝へられてゐる。やはり極めて古い中世にも、芸術を模型として、生活を表現しようとする者があつたのである。真実を中核とする恋愛生活においては、さう言ふ生活表現が、如何にも、ふまじめ(・・・・)なものに、今日からは見えるが、昔は必ずしもさうは思はなかつた。真に美しい感情生活に殉じたものとして、賞賛せられた伝説が多かつたのである。も一つ前の「恋歌」は、今言つた王朝末の歌の出る前提として、自分の恋を陳べるよりも、恋愛の心理解剖に傾いてゐた。此が、小町等の代表する恋歌であつた。かうした物の出て来る原因は訣つて居て、解説の興味も、十分に感じて頂けるとは思ふが、今は其に時を移すことが出来ぬ。たゞ中古においては、恋の呪歌とも言ふべきものが、恋愛詩の本流と見えてゐたのであつた。こひかと言ふ名義自体が、恋の成就を呪する歌の義であつた。かうした中間発生が、後世に脈を引いたに繋らず、恋歌の真の本流は、其以前にあつて、真に愛の哀情を訴へるものであつた。併し其も、後世からは、恋愛の正しい表現は、正に其より外にない様に見えたのだが、さうした表現自身が、やはり最古い時代の呪法で、思ふ人の魂を、おのれの内界に迎へとることによつて、遂げられる恋愛――結婚――を考へたのであつた。日本人の恋愛の表現法は、専ら此「魂(タマ)ごひ(○○)」――迎魂(コヒ)――以外になかつたのである。だから、此方法の線に沿うて、恋愛表現が発達して来たので、恋愛文学も、単にその呪詞呪章の変化したものに過ぎなかつた。王朝末では、本来叙情詩であるべき歌の上に、抒情詩以外に姿のあるべくもない恋愛が、叙事詩の形を持つて出て来たのである。千載・新古今の恋歌は決して抒情詩ではない。小説と言へば早わかりのする叙事詩である。「こんな恋がある」といふ報告を、出来るだけ美しい境遇に描きあげた画であつた。美であり、文学ではあつたが、生活ではなかつた。

まづ、これと似たものを、俳諧の上に持ち来(キタ)したのが、芭蕉である。だから、芭蕉作物の中、最文学であり、美であつたのは、恋の句であつた。其にも繋らず、他の芭蕉文学は、美の境涯にのみは留らなかつた。今一つ先の領域に既に踏みこんでゐた。蕪村は即、其一つ手前に留つた為に、あの唯美の文学とも謂はれるものを、連句及び発句の上に築き上げた。唯、芭蕉の更に優なる点は、其を抜け出ることの出来たところにある。さうは言ふものゝ芭蕉の偉大なことは、いつまでも其処には、踏み留まつてゐたのではなかつた。発見しては又、其を棄てゝ進んだのである。従来の猥雑な「恋」の文学を整頓し、醇化しようとして、方法に、中世の短歌を捉へたのである。此が一つの道であると共に、今一つ別の途があつた。おなじく、以前の「恋の句」の処理から出てゐる。猥雑は猥雑とし、卑陋淫靡を貫徹することによつて、終に普遍性を捉へ得たのであつた。其方法としては、軽みを態度としては、技巧を突破して自ら口を衝いて出る言語に期待することであつた。芭蕉晩年の恋の句は、其いづれかに属するのである。其中、価値の高いのは、文学らしさの少い、軽みの恋の句であつた。俗悪に見える題材が、却て痛切な生に即せしめて、その作物に、切実性と、飄逸味とを持たせる事になつたのである。併し其にしても、恋の句における芭蕉は、他の境涯をとりあげたものよりは、文学的であることを生命点としてゐることは、著しいことである。

文学的なものゝ大きな傾向は、古典的であり、擬古的であつたことである。――其から大いに自由を得て、地方的生活の古典味に到達することが出来てゐる。此は俳諧道における俗悪味のくり返しから卒業して到つた軽みではあるが、其整頓の力量は、文学上の古典玩味力が齎した所も多いのである。

多くの芭蕉党の人々は、俳諧の猥雑から出た芭蕉なることは、万々知り乍ら、尚且、恋の句の行蹟を見て駭(おどろ)かされることが多かつた。》

 

<隠者の芸術生活><掛け合ひ文学の持続><連句以前の恋>

 前章までを受けたようであっても、論点を微妙にずらしたような、ここまで来て芭蕉以前に時代をさかのぼるような、しかしこれを言いたかったがための迂回でもあったような、折口独特の展開となる<隠者の芸術生活><掛け合ひ文学の持続><連句以前の恋>の章については、有名な『女房文学から隠者文学へ』や『連歌俳諧発生史』などに則して隠者・唱和に焦点を当てた文学史的・発生史的な、及び民族的・民俗学的なものに回帰して、芭蕉の恋の句から離れて行くので省略する。

 最後に、折口信夫による後記を引用しておこう。

《恋の座ということ、俳諧用語としては、厳格には使はぬものである。たゞ時として、昔から世間の常識として、希まれ、月・花の座を言ふやうに言はれてゐる。此文の表題には、何となきことばの練れ(・・・・・・)を愛して、利用することにした。恋愛が、日本抒情文学の主座を占めて来る過程が、幾分でも書ければといふ望みを持つ小論なのである。其が、恋の座の字に、執(シフ)する所以であると言へば、その外に言ふことはない。》

                                 (了)

      *****引用または参考文献*****

*『折口信夫全集』(第十四巻に『恋の座』所収)(中央公論社

*『折口信夫全集(ノート編)』(第十六巻に『連俳論』、『連歌俳諧評釈』所収)』)(中央公論社

*安東次男『芭蕉七部集評釈』(集英社

*安東次男『続 芭蕉七部集評釈』(集英社

*『安東次男著作集Ⅰ~Ⅲ』(青土社

東明雅芭蕉の恋句』(岩波新書

ドナルド・キーン『日本の文学』吉田健一訳(解説:三島由紀夫)(中公文庫)

文学批評 カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』とプラトン/カフカ

 

 

 

 ケント大学で英文学と哲学を専攻したカズオ・イシグロは「カズオ・イシグロ・インタビュー ~The Art of Fiction 第196回」(『THE PARIS REVIEW』2008年春号収録)で、

「『わたしを離さないで』にも中止した幾つかのバージョンがあると聞いています」と尋ねられると、それに答えてから、

「クローンを使うことの魅力のひとつは、読む人が「人間であることにどんな意味があるのか」と思わずにはいられなくなることです。魂とは何か?というドストエフスキー愛読者たちの問いに対する世俗的な道筋です。」と「魂」という語を持ち出す。

「実はあなたはドストエフスキーのファンですね」と告げられて、

「そしてディケンズ、オースティン、ジョージ・エリオットシャーロット・ブロンテウィルキー・コリンズといった、大学時代に初めて読んだ本格的な19世紀の小説も。」と語る。

「何が気に入っていますか?」との問いに、

「フィクションの中で作られた世界が私たちが住んでいる世界に多かれ少なかれ似ているという意味でのリアリズムです。また、夢中になれる作品でもあります。物語ることへの信頼があり、プロット、構造、キャラクターといった伝統的なツールが使用されています。子供の頃あまり本を読んでいなかったので、しっかりとした基礎が必要でした。『ヴィレット』と『ジェーン・エア』のシャーロット・ブロンテドストエフスキーの四大長篇小説。チェーホフの短編小説。『戦争と平和』のトルストイ。(ディケンズの)『荒涼館』。そして、ジェイン・オースティンの6つの小説のうち少なくとも5つ。これらを読んでいれば、非常に強固な基礎ができています。そして私はプラトンが好きです。」

 

プラトン――「魂の配慮」>

 カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』の最終章は次のように終わる。

《数日前、提供者の一人と話していて、記憶が褪(あ)せて困るという不満を聞かされました。大事な大事な記憶なのに、驚くほど速く褪せてしまう……。でも、わたしにはわかりません。わたしの大切な記憶は、以前と少しも変わらず鮮明です。わたしはルースを失い、トミーを失いました。でも、二人の記憶を失うことは絶対にありません。

 ヘールシャム? そう、それも失ったと言っていいかもしれません。いまでも、ときどき、元生徒たちがヘールシャムを――いいえ、ヘールシャムがあった場所を――探し歩いているという話を聞きます。ヘールシャムの現状が噂になることもあります。ホテルになっている、学校だ、廃墟だ……。でも、わたしは、これだけ車で走り回っていても、自分で探そうと思ったことはありません。いまどうなっているにせよ、あまり見たいとも思いません。(中略)

 でも、申し上げたとおり、自分から探しにいこうとは思いません。どのみち、今年が終われば、こうして車で走り回ることもなくなります。ですから、わたしがヘールシャムを見つける可能性は、もうないに等しいでしょう。それでいいのだと思います。トミーとルースの記憶と同じです。静かな生活が始まったら、どこのセンターに送られるにせよ、わたしはヘールシャムもそこに運んでいきましょう。ヘールシャムはわたしの頭の中に安全にとどまり、誰にも奪われることはありません。》(P436:『わたしを離さないで』(ハヤカワepi文庫の頁数(以下同))

 

 これだけでも、『わたしを離さないで』をプルーストのような記憶の文学、ジェイン・オースティンのような人間関係(語り手キャシーと寄宿学校ヘールシャムで一緒だったトミーとルースとの三角関係)の機知と機微をめぐる物語のようだと類推することができるけれども、続く最後の文章に注目したい。

《一度だけ、自分に甘えを許したことがあります。それは、トミーが使命を終えたと聞いてから二週間後でした。用事もないのに、ノーフォークまでドライブしました。(中略)なんといっても、ここはノーフォークです。トミーを失ってまだ二週間です。わたしは一度だけ自分に空想を許しました。木の枝ではためいているビニールシートと、柵という海岸線に打ち上げられているごみのことを考えました。半ば目を閉じ、この場所こそ、子どもの頃から失いつづけてきたすべてのものの打ち上げられる場所、と想像しました。いま、そこに立っています。待っていると、やがて地平線に小さな人の姿が現れ、徐々に大きくなり、トミーになりました。トミーは手を振り、わたしに呼びかけました……。空想はそれ以上進みませんでした。わたしが進むことを禁じました。顔には涙が流れていましたが、わたしは自制し、泣きじゃくりませんでした。しばらく待って車に戻り、エンジンをかけて、行くべきところへ向かって出発しました。》(P438)

 最後の抑制のきいた「行くべきところへ向かって出発しました」とは「介護人」から、ルースやトミーと同じ「提供者」になって(つまりは臓器提供を二~四回行うことで「使命完了」の)死を迎えることであり、そこにはソクラテスの最期にみられる「自己への配慮」が見てとれよう。

 

 イギリスの哲学者ホワイトヘッドに「ヨーロッパの哲学伝統の最も安全な一般的性格づけは、それがプラトンについての一連の脚注からなっているということである」という有名な言葉があって、西洋哲学のすべてはプラトンの哲学の注釈に過ぎないということを意味するが、カズオ・イシグロの小説もまたプラトン哲学の果てしなき注釈となっている。

 知られているように、プラトンパイドン』は、死刑判決を受けたソクラテスの最後の日の様子を、弟子のパイドンが語って聞かせたソクラテスとの対話を、プラトンが書き残したものだが、その終幕、「ソクラテスの死」は次のとおりだ。

ソクラテスが語り終えると、クリトンがこう言いました。

「いいよ、ソクラテス。だが、ここにいる者たちやぼくに言いおくことはあるかね。子供たちのことや、ほかになにか、ぼくたちがやっておけば君が喜ぶようなことだが。」

 彼はこう語りました。「クリトン、まさにいつも語っていることだよ。なにも新しいことなどない。つまり、君たちが自分自身を配慮していれば、なにを為すにしてもぼくにもぼくの子供たちにも君たち自身にも悦ばしいことをすることになる。君たちが今、なにか約束などしてくれなくてもね。他方で、もし君たちが君たち自身を配慮することを怠れば、つまり、足跡に従うように、今語られたことと以前かに語られたことに従って生きようとしなかったら、たとえ今この場で多くのことを力強く約束してくれたところで、なにをやっても意味はないのだ。」》(114B:ステファヌス版プラトン全集の頁数(以下同))

《クリトンは、私よりももっと前から涙を抑えきれなくなっており、席を立ってしまいました。アポロドロスは、以前にもずっと涙を止められなかったのですが、この時はさらに叫び声を上げて身悶え嘆き崩れ、ソクラテス自身を除いた、その場に居合わせた私たち全員を泣き崩れさせたのです。

 すると、あの方はこう言われました。「なんということをやっているのだ。驚いた人たちだね。私はまさにこのことのために、つまり、こんな失態をしでかさないようにと、女たちを家に帰したのに。私は、静寂において死を迎えるべきだと聞いている。だから、落ち着いて、耐えなさい。」

 私たちはそれを聞いて恥ずかしく思い、涙を流すのをこらえました。(中略)

 すでに、あの方の下腹部あたりはほぼ冷たくなっていました。すると、顔を布で覆っていたのですが、その覆いを除けてあの方は言われました。これがソクラテスが最後に発した言葉です。

「クリトンよ、ぼくたちはアスクレピオスの神様に鶏(とり)をお供えする借りがある。君たちはお返しをして、配慮を怠らないでくれ。」

「そのことは、そうしよう」とクリトンは言いました。「ほかに、なにか言うことはないかね。」

 こう尋ねましたが、もはや答えはありませんでした。少しの間があって身体がピクリと動いたので、あの男が彼の覆いを外しました。あの方の目は静止していました。それを見て、クリトンは、口と目を閉じてあげたのです。

 これが、エケクラテスさん、私たちの友人で、あの頃私たちが巡り合った人々のうち、語り得る限りでもっとも善く、もっとも叡智に富み、もっとも正しくあった人の、最期でした。》(117D~118A)

 

 西洋古代哲学、古典学専攻の納富信留プラトンパイドン』の解説(光文社古典新訳文庫)に、

《現代フランスを代表する哲学者ミシェル・フーコーは、晩年に古代ギリシア・ローマの哲学へ「トリップ」したが、コレージュ・ド・フランスでの生前最後となった一九八四年二月~三月の連続講義では、『パイドン』を『ソクラテスの弁明』『クリトン』に連なる「自己への配慮」(エピメレイア)の哲学として扱い、とりわけソクラテスの最後の言葉(一一八A「クリトンよ、…」)にこだわりを示す。二月一五日の第二時限に、フーコーはこう話題を切り出した。

  あのテクスト(『パイドン』の最後の数行、より正確に言えば、プラトンによって報告されているソクラテスの最後の言葉)がずっと、哲学史における盲点、謎めいた点、小さな裂け目のようなものであり続けたということは、かなり興味深いことです。

 フーコーは比較神話学者デュメジルの解釈を援用して、伝統的な「生という病からの治癒」という解釈を退けながら、ソクラテスとの議論でクリトンがそこから癒された言論の病、つまり、 誤った言説からの解放という治癒に対して、アスクレピオス神へのお礼を言い残したと解する。「配慮を怠らないでくれ」という語は、「配慮」という哲学の主題を人々に言い遺す言葉であった。

 私は基本的にこの解釈に共感するが、それ以上に、エイズによる死を前にした哲学者が、「異様な月並みのなかにとどまっている」と評したソクラテス最期の言葉に、異様な執着を見せた点に惹かれる。「真理の勇気」を論じる最終年の講義で、フーコーがこの言葉を熱心に論じたのは、何故だったのだろう。彼が死を迎えたのは、その四ヶ月あまり後、六月二五日のことであった。

 ソクラテスが死を迎える場面は、その簡潔な描写で美しい一幅の絵画のようである。パイドンが語るソクラテスの生と死のあり方は、彼が語ってきた言葉そのものと完全に重なり、不死なる魂がそこに具現しているようである。》

 

 先に引用した『THE PARIS REVIEW』のインタビューで、「そして私はプラトンが好きです」と語ったイシグロは、「なぜ?」と訊かれて、

ソクラテスとの対話のほとんどの場合、こういうことが起きます。自分は何でも知っていると思っている男が通りを歩いていて、ソクラテスと座ることになる。そして論破される。完膚なきまでやっつけなくても、と思うかもしれませんが、プラトンが言いたいことは、善とは捉えどころのないものだということです。人は自分の人生全体を一つの信念に委ねてしまうことがあります。心底それが正しいと信じるのですが、誤っているかもしれないのです。これは私の初期作品のテーマです。自分は知っていると思っている人々についての話です。でも、ソクラテスのような人物は出てきません。彼ら自身がソクラテスの役割を果たすのです。

 プラトンの対話篇の一つで、ソクラテスがこんなことを言う一節があります。理想主義的な人たちは二度三度裏切られると人間嫌いになることがよくある。プラトンが示唆しているのは、同じことが善の意味の探究にもあてはまるということです。拒否されても幻滅すべきではない。探求は困難であるが、それでも探求し続ける義務が自分にはある、ということに気づけるかどうかにかかっているのです。」(『THE PARIS REVIEW』2008年春号収録)(Hunnewell 53-54)(森川慎也訳)

 これはプラトンパイドン』の下記部分に相当するだろう。

《「ではまず最初に、このことに注意しようではないか。」つまり、言論には何一つ健全なものがないという思いが魂に入り込まないようにし、むしろ、まだ健全な状態でないのは私たちだという事実に心すべきである。そして、男らしく勇気を持って、健全になることを強く望まなければならない。》(90E)

 

「探求は困難であるが、それでも探求し続ける義務が自分にはある」という意味で、「挑戦」という表現が『わたしを離さないで』に出てくる。

 愛し合っていて、それを証明できれば、ヘールシャムを運営している人たちによって、提供まで丸々三年間の猶予をもらえるという噂を聞いていたルース、トミー、キャシー。三人で湿地に座礁している漁船を見に行った帰り道、ルースはどこまで記憶をさかのぼってもカップルはキャシーとトミーのはずだったのに邪魔し続けたのは許しを請(こ)うことすらできないけれども、マダムから猶予をもらって、わたしがだめにしたものをあなたたち二人に取り戻してほしい、と懇願し、危険を冒してマダムの住所を調べあげていた。

 そこからルースの使命完了にいたる場面には、《最後にはわたしたちに最善を望んでくれました》(P435)という、最期のソクラテスの「配慮」と、限りある短い人生ながらも、より善く生きることへの肯定的な「挑戦」が顕れている。

《二回目の提供から三日後でした。ようやく会うことを許されたときは、もう日付が変わっていました。ルースは部屋に一人きりでした。できるだけの手当ては尽くされていたのでしょう。医師や看護婦、提供調整官の言動から、今回は乗り切れそうもないとわかっていました。病院の暗い照明の下で、ベッドに横たわっているルースを見下ろしたとき、その顔には見慣れた表情がありました。何人もの提供者に見つづけてきたあの表情です。(中略)厳密に言えば、ルースにはまだ意識があったはずです。でも、金属ベッドのわきに立つわたしからは、そのルースに意志を通じさせる手段がありませんでした。わたしはただ椅子を引き寄せ、ルースの手を両手に包んですわりつづけました。痛みの波が押し寄せてくると、ルースが手を引き抜こうとします。わたしは力を込めて、ぎゅっと握りつづけました。

 許されるかぎり、そうやってすわりつづけました。三時間か、もっと長かったかもしれません。申し上げたとおり、その三時間のほとんどを、ルースは遠く自分の体内に閉じ籠(こも)っていました。でも、一回だけ、体が恐ろしいほど不自然な捻(ね)じれ方をし、わたしがもう少しで看護婦を呼んで、鎮痛剤を、と言おうとしたときです。ほんの数秒間、わずか数秒間、ルースがわたしをまっすぐに見上げ、わたしを認めました。最後の戦いを戦っている提供者には、ふっと明晰(めいせき)さの瞬間が訪れることがあります。あれもそうした瞬間だったのでしょう。ルースはわたしを見、その一瞬、声は出ませんでしたが、言いたいことがわたしに通じました。わたしは「大丈夫」と答えました。「やってみるから、ルース。できるだけ早くトミーの介護人になる」小さな声でそう答えました。たとえ叫んでも、ルースの耳には聞こえなかったでしょうから。でも、二人の視線が結び合ったあのとき、あの数秒間、わたしにルースの表情が読めたように、ルースもわたしの思いを正確に読み取ってくれたと思います。そう願っています。その一瞬はたちまち過ぎ去り、ルースも遠くへ去りました。もちろん、ほんとうのところはわかりません。でも、ルースはきっと理解してくれたと思います。

 あの瞬間に理解できたかどうかは、実は問題ではないのかもしれません。たぶん、ルースは最初から知っていたでしょう。いずれわたしがトミーの介護人になり、あの日、車の中でルースが言ったとおりに「挑戦してみる」はずであることを。》(P360)

 

「多くの批評家が指摘するように、この小説はとても暗いと思いますか?」と問われるや、

「実は、私はいつも『わたしを離さないで』を元気の出る小説だと思っていました。以前、私はキャラクターの様々な欠点について書きました。それらは自分自身への警告であり、人生をどう過ごしてはいけないか、を示す本でした。

『わたしを離さないで』では、人間の肯定的な側面に焦点をあてることをはじめて自分に許したと感じました。たしかに、彼らに欠陥があるかもしれません。嫉妬深く、狭量で、ありふれた人間的感情を抱きがちです。でも、本質的には慎み深い三人を見せたかった。自分たちの時間が限られていることを最終的に悟ったときでも、私は彼らに自分の地位や物質的所有に気をとらわれないで欲しいと思いました。私が望んだのは、彼らがお互いのことをもっとも気にかけ、物事をあるべきよう正してゆくことでした。つまり私にとって、死すべき運命という暗い事実に対して、人間の肯定的な側面を述べることでした。」(『THE PARIS REVIEW』2008年春号収録)

 

「善き人生とはどのような人生だと思うか」という質問に対して、イシグロはここでもプラトンを引き合いに出す。

「それは非常に大きな問いです。思春期の頃、私が大学生だった頃、その年齢の人によくあるように、私はおそらく過剰なまでにプラトンといった人々に影響を受けました。プラトンはまさしくこの問いを哲学的なレベルで発したわけです――善き生とは何か? 無駄な人生とは何か? プラトンを読んでわかったことは、善き生とは何かを知るのは、実際にはきわめて困難だということです。この問いは、考えれば考えるほど、困難な問いになります。しかし同時に重要だと感じたのは、絶望しているだけではダメだということです。哲学的に孤立して、善き生を明確に定義することなど無理なのだから、この問いは諦めよう、などと言ってはいけないのです。ひょっとすると、こうした定義は無意味なのかもしれません。直観的に私が感じるのは、人はみな満足のいく人生がどういうものかを知っている。そうした人生を送っていなければ、幸せではないと感じるのでしょう。私の初期の作品は概してこういう問題を扱っていると言えます。

(中略)

 私の主人公たちについて言えば、彼らの考える善き人生とは、理想的には、(中略)単に衣食が満たされて、子どもを作って、死んでいくだけのような人生ではないのです。大半の人間は猫や犬とは違います。何らかの、奇妙で不可思議な理由によって、それ以上のことをしたいと思うのです。自分たちにこう言いたいのです――私は善きものに貢献した、人類の運動を推し進めた、自分たちが生まれた時よりもいくらかより善い世界を後ろに残した、と。私たちはみなこういう欲求を強く持っているように思います。だからこそ、たとえ取るに足らない小さな仕事をしていても(私たちの大半はそういう仕事をしています) 、どうにかして自分たちの仕事が――それは微力な貢献に過ぎないのですが――より大きな、より偉大なものに貢献していると信じようとするのです。」(Wachtel 28-29)(森川慎也訳)

 これはプラトンソクラテスの弁明』で、ソクラテスが仮想のアテナイ人に語りかける言葉のことだろう。

《「世にも優れた人よ。あなたは、知恵においても力においてももっとも偉大でもっとも評判の高いこのポリス・アテナイの人でありながら、恥ずかしくないのですか。金銭ができるだけ多くなるようにと配慮し、評判や名誉に配慮しながら、思慮や真理や、魂というものができるだけ善くなるようにと配慮せず、考慮もしないとは」と。》(29D~E)

 

 イシグロ『わたしを離さないで』にも「魂」という語がある。

 三年間の猶予をもらえる、という噂を聞いて、

《トミーの声はささやくようでした。「先生がロイに言ったこと、うっかり口を滑らせたこと、おそらく言うつもりじゃなくて言ってしまったこと。覚えてるか、キャス? 先生はロイにこう言った。絵も、詩も、そういうものはすべて、作った人の内部をさらけ出す……そう言った。作った人の魂を見せる、って」》(P270)

《「かもしれん。マダムの展示館がどこにあるか知らんけど、生徒の小さい頃からの作品がぎっしり詰まってるんだ。二人の生徒が来て、愛し合ってると言う。マダムはどうする。昔からの作品を引っ張り出して、二人がほんとにやっていけるのか、その相性を見ようとするんじゃないか。なにしろ、作者の魂を映し出すってんだから。なあ、キャス。本物のカップルか、一時ののぼせ上りか、くらい判断できるだろう」》(P271)

 

 トミーとキャシーは、ルースから受け取ったマダム(マリ・クロード)の住所を訪れ、猶予を申し出る。

 エミリ先生が言う。

《「(前略)あなたはさっき面白いことを言いましたね、トミー。マリ・クロードと話していたときです。作品は作者を物語る、作者の内部をさらけ出す、でしたか? だいたい当たっています。わたしたちが作品を持っていったのは、あなた方の魂がそこに見えると思ったからです。言い直しましょうか。あなた方にも魂が――心が――あることが、そこに見えると思ったからです」

 先生は口を閉じ、トミーとわたしは顔を見合わせました。ずいぶん久しぶりにトミーの顔を見たような気がしました。

「でも、なぜそんな証明が必要なのですか、先生。魂がないとでも、誰か思っていたのでしょうか」わたしはそう尋ねました。

 先生の顔にかすかな笑みが浮かびました。 「あっけにとられていますね、キャシー。ある意味、感動的ですよ。だって、わたしたちがちゃんと仕事をしたことの証明ですからね。あなたと言うとおり、魂があるのかなんて疑うほうがおかしい。でもね、キャシー、わたしたちがこの運動を始めた当初は、決して自明のことではなかったのですよ。(後略)」》(P398)

 

「私は人々がどの程度運命を受け入れるのかということにいつも関心を持ってきました。 [……]人は驚くほど自分たちの運命を受け入れるものです。受け入れるだけでなく、それを価値あるものにしようとします。意味のあるものにしようとするのです。」(Interview, 2011, Hammond)(森川慎也訳)

 イシグロは、クローンの受動的態度について語りながら、そうした受動性、さらには運命の受容が人間全般にもみられるものだと言う。

「私が思うに、『わたしを離さないで』の重要な点は、彼らがけっして抵抗しない、読者が期待するようなことはしない、ということです。臓器のために彼らを殺すプログラムをクローンは受動的に受け入れます。私たちの多くが受動的な傾向にあるということを描くのに一つの強烈なイメージが必要でした。私たちは自分の運命を受け入れます。おそらくクローンほど受動的に受け入れないでしょうが、それでも私たちは自分で考えている以上にずっと受け身です。自分たちに与えられたかのように見える運命を受け入れます。最終的に私がこの作品で書きたかったのは、私たちが死ぬ運命にあり、その運命から逃れられず、いつかはみな死に、永遠に生きられないということをいかに受け入れるかということだと思います。そうした運命に憤る方法はいろいろありますが、結局はそれを受け入れるしかない。さまざまな反応はあるでしょうが。ですから、私たちが老いて、ばらばらになり、死んでいくという人間としての境遇を受け入れるように、『わたしを離さないで』の作中人物たちにも彼らに定められている残酷なプログラムに対して同じように反応させようとしたのです。」(Interview, 2009, Matthews 124)(森川慎也訳)

 

 トミーが死(使命完了)を受容する準備、心構えを、ルースとの約束を果たしてトミーの介護人になっていたキャシーに告げる場面もまた、『パイドン』の「ソクラテスの死」の「静寂において死を迎えるべきだ」という思いを連想させはしないか。

《「キャス、誤解してくれるなよ。このところずっと考えてた。キャス、おれは介護人を替えようと思う」

 トミーの言葉から数秒後、わたしは自分がまったく驚いていないことに気づきました。ある意味、来るものが来たという感じだったでしょうか。でも、それと怒りは別物です。わたしは怒り、何も言いませんでした。

「四度目の提供が来るからというだけじゃない。それだけが理由じゃないんだ。ほら、先週、腎臓がひどかったろう? これからは、ああいうことが多くなる」

「だからじゃない。だから介護人なのよ。何のためにわたしがあなたの介護人になってると思うの。これから始まることのため。それがルースの望んだことよ」

「ルースが望んだのはあっち(筆者註:愛し合うことによって三年間の提供猶予をもらう)のことだ。最後の最後までおれの介護人でいることを望んだかどうかはわからん」

「トミー」と、わたしは言いました。そのときは猛烈な怒りが込み上げていたと思います。でも、できるだけ低く静かな声で言いました。「そういうことのために、わたしはあなたの介護人になったんじゃない」

「ルースが望んだのはあっちのことだ」とトミーは繰り返しました。「こっちのことは別だ。君の目の前で変なことになりたくない」(中略)

「おれはな、よく川の中の二人を考える。どこかにある川で、すごく流れが速いんだ。で。その水の中に二人がいる。互いに相手にしがみついてる。必死でしがみついてるんだけれど、結局、流れが強すぎて、かなわん。最後は手を離して、別々に流される。おれたちって、それと同じだろ? 残念だよ、キャス。だって、おれたちは最初から――ずっと昔から――愛し合ってたんだから。けど、最後はな……永遠に一緒ってわけにはいかん」》(P428)

 

カフカ――「掟の門」>

 ノーベル文学賞受賞者を発表したスウェーデン・アカデミー事務局長サラ・ダニウスのスピーチの、「イシグロの物語はジェイン・オースティンカフカをミックスしたようである」という発言に触発されたインタビュアーの質問に、イシグロは次のように答えている。

カフカは私にいろんな可能性を開いてくれたと思います。様々な異なる書き方というのを教えてくれました。私が思うに、カフカについては、書き方という点で、世界中の作家が今よりももっと参考にできる作家ではないかと思います。カフカは、書く技術という点でも、テーマ設定という意味でも様々な可能性を開きました。私たち作家は、カフカにもっと注目すべきだと考えます。私もカフカのことを意識するようにしてきましたが、彼ほどには新鮮に書くことができません。」

 

 先の『THE PARIS REVIEW』のインタビューでの、「寄宿学校を舞台とすることに特に興味があったのですか?」に対して、

「子供時代の比喩(メタファー)として素晴らしいのです。そこでは、管理者が子供たちが知っていることと知らないことを広くコントロールできる状況にあります。それは実生活で私たちが自分の子供たちに行っていることとほとんど違わないように思えました。いろいろな意味で、子供たちはバブルの中で育つのですが、私たちはそのバブルを適切に維持しようとします。不快なニュースから子供たちを保護します。あまり徹底しているものだから、小さな子供を連れて歩くときにすれ違う人々でさえ、その謀議に加わることになります。口げんかになったら止めます。大人は口げんかをするという程度の悪いニュースであっても子供の目には触れさせたくないので、拷問のことなど言うわけがありません。寄宿学校はそのような現象を具現化したものです。」と答えているが、ここにイシグロ文学におけるカフカの比喩の世界が入り込む。

 

 ベンヤミンフランツ・カフカ』に、次の文章がある。

カフカには比喩を創り出すたぐいまれな力があった。にもかかわらず彼の力は、解釈できるもののなかで決して尽きてしまわず、むしろそのテクストの解釈に抵抗する、考えられるあらゆる予防措置を張り巡らせている。慎重に、用心深く、そしてたえず不信をいだきながら、そのなかを前進していかなければならない。そして前に挙げた寓話の解釈において彼が操作したような、カフカ独特の読解法のことをつねに考えていなければならない。その遺言状のこと思い出してみてもよいだろう。彼が遺稿の破棄を委ねたその文面〔『訴訟』におけるブロートの後記〕は、少し詳細に状況を考えてみれば、掟の前の門番の返答と同じくらいその真意をはかりがたく、同じくらい慎重に吟味されるべきものなのだ。ことによったらカフカは、生きているあいだは毎日のように、解読しがたい振舞いや不明瞭な表明に直面させられたので、せめて死ぬときは周りの世界にしっぺ返しをしたかったのだろうか。》

 スラヴォイ・ジジェクイデオロギーの崇高な対象』にもカフカに関する論考がある。

カフカというと、ふつう次のように言われる――カフカは、その小説の「非合理的な」世界の中で、現代の官僚制やその中で生きる個人の運命に、「誇張され」、「空想的で」、「主観的に歪められた」表現をあたえた、と。このように言ってしまうと、次のような決定的な事実を見落としてしまうことになる。すなわち、この「誇張」が表現しているのは「実際の」「現実的な」官僚制のリビドー的機能を規定している空想そのものなのである。

 いわゆる「カフカ的世界」は「社会的現実の空想的イメージ」ではない。それどころか、社会的現実そのものの真只中で発動している空想を表現したものである。われわれは誰しも、官僚制が全能でないことをよく知っているが、それにもかかわらず、官僚的な機械装置を前にしたわれわれの行動は、官僚制は全能だという信念によってすでに規定されている。ある社会のイデオロギー形態を、その社会における実際の社会的諸関係の連結から導き出そうとする、ふつうの「イデオロギー批判」とは対照的に、精神分析的アプローチは、何よりもまず、社会的現実そのものの中で働いているイデオロギー的空想に狙いを定める。

 われわれのいう「社会的現実」とは、究極的に倫理的構成物である。それは、ある種の「あたかも……のように」に支えられている(われわれは、あたかも官僚制の全能を信じているかのように、あたかも大統領が人民の具現化であるかのように、共産党が労働者階級の客観的利益の表現であるかのように、行動する)。その信念(ここでふたたび思い出さねばならない。信念は絶対に「心理的レベル」で捉えてはならない。それは社会的領域の実際的機能の中に、具現化・具体化されているのだ)が失われるやいなや、社会的領域の全体構造そのものが崩壊してしまう。このことはすでにパスカルによって明快に表現されていた。(中略)

  なぜなら、われわれは自分を誤解してはならない。われわれは精神であるのと同程度に自動機械である。……証拠は精神しか納得させない。習慣こそが、もっとも強力な、いちばん信頼できる証拠となる。習慣は自動機械の動きを左右する。自動機械は、知らず知らずのうちに精神を引っ張っていく。(Pascal)》

 

 東浩紀大澤真幸の対談による『自由を考える 9・11以降の現代思想』で、カフカの「掟の門」が取りあげられている。

大澤 そのデリダもやっていることですが、「法」というものの本質をとらえようとするときに、よく例に出すのが、フランツ・カフカの『審判』のなかに入っている「掟(おきて)の門」という有名な寓話です。

 簡単に説明すると、田舎から来た男がいて、「掟の門」という所にたどり着きます。その門は開いているんだけれども、そこには門番がいて、入れてくれと頼んでも、まだダメだと言われるわけです。いつまでたっても門に入る許可が出ない。最後にその田舎から来た男は門の前で死んでしまいます。ほんとうは、厳密に言うと、男が「死んだ」とは書いていなくて、「眼を閉じた」と書かれているだけです。(中略)男が眼を閉じるとともに、ずっと開いていた掟の門も閉じられます。眼を閉じる直前に、田舎から来た男は、門番に尋ねるわけです。何年もここで待っていたが、自分以外の誰もここに来なかったのはなぜなのか、と。門番は、この門は、もともとお前だけのためのものだったのだ、ということを告げ知らせます。このことが、掟の門についての究極の知です。

 普通に考えると、掟の門において作用している権力は、アーキテクチャとか環境管理型の権力とはまったくの対極にあるわけです。門が閉じられていて、中に入りたいのだけれど物理的に入れないという仕様になっているのであれば、これは、単純にアーキテクチャによる管理だということになります。ところが、この話はまったく逆で、門は開いているんです。物理的には、侵入を阻止するものは何もない。にもかかわらず、なぜか入れない。そこが不思議なところです。入れない理由は、男の、内面的な自己規制であると考えるほかない。そう考えると、この掟の門は、規律訓練型の権力を表現する寓話であると解釈できることになります。

 つまり、これは、環境管理型の権力とはまったく対極的なモデルに見えます。が、別様にも解釈できると思うのです。たとえば、ユルゲン・ハーバーマスのようなフランクフルト学派の人たちが、現代社会を、「レジティマシー(legitimacy=正統性)の危機」ということで特徴づけたことがありますね。そういう観点から、管理型権力、アーキテクチャの権力というものを考えてみたらどうかと思うのです。それは、言ってみれば、レジティマシーなしの、あるいはレジティマシーが希薄な権力です。ご存知のように、マックス・ウェーバーは、物理的暴力、物理的拘束だけによる支配というものはありえないのであって、どのような支配もレジティマシーに裏打ちされているとして、有名なレジティマシーの三分類を出したわけです。このことは、今日でも、支配や権力を考えるうえでの、基本的な前提だと思うのですが、そのうえで、現代の管理型の権力を見てみると、まるで(・・・)、そこには正統的な根拠がほとんどないようにすら見える。(中略)

 だから、管理型権力のもとにあるとき、僕らは、大義なき、理由なき禁止や制約に従っていることになる。そのように考えると「掟の門」と同じ設定になるわけです。つまり田舎者には、門に入れない理由はない。そこには、どんな深い理念も深遠な理由もないわけです。ただ、入れない。つまり彼は「無内容な法」に従っているわけです。(中略)

 掟の門のありかたは、古典的な規律訓練型権力とも、あるいは管理型の権力とも解釈できる。両者をつなぐ蝶番(ちょうつがい)のような位置にあるのではないか、と思うのです。》

 

「掟の門」は小説『審判』(Der Proceß)(邦訳名は『審判』が流通しているが、原題が示すように判決にたどり着かない訴訟の過程(プロセス)の物語)の終盤に置かれた、教誨師がKに話して聞かせる寓話で、短篇集『田舎医者』に「掟の門」(Vor dem Gesetz)(「掟の門前」、「掟の前で」、「道理の前」、「法の前」などと邦訳)の表題で収められている。

 ここでは、ジャック・デリダカフカ論――『掟の門前』をめぐって』を論じた小林康夫『起源と根源 カフカベンヤミンハイデガー』に依拠して、「法の前」(Gesetzは「法」と訳される)としてあらためて引用しよう。

 

《法の前に門番が立っていた。そこへ一人の田舎者がやって来て、法の中へ入れてくれと頼んだ。しかし門番は、今は入門を許可するわけにはいかないと答えた。男は思案したが、それではもっと後なら入れてもらえるでしょうか、とたずねた。「それは可能だ」と門番が言った、「しかし今はだめだ。」法への門はいつものように開け放しになっており、門番は脇へさがったので、男はみをかがめて中をのぞこうとした。門番はそれを見ると、笑ってこう言った、「そんなに中に入りたいなら、わしの禁止にかまわず中へ入ってみるがいい。だが、これだけは覚えておくがいい、わしには威力があるのだぞ。しかもそのわしはここではいっとう下っ端の門番にすぎん。広間を一つ入るごとに門番が立っていて、先へ行くほどその威力は大きくなっていく。三番目の門番の姿でも、このわしなどは恐ろしくて眼もあげられんほどなのだぞ。」そんな厄介な事情があろうとは、田舎者はつゆほども思っていなかった。法は誰に対しても、いつなんどきでも接近可能であるべきものだ、と彼は考えていた。しかし今、毛皮の外套に身をくるんだ門番をしげしげ眺め、そのとがった大きな鼻や、濃くはないが、長くて黒々したダッタン人ふうの顎ひげを見ると、彼は、入門の許可がおりるまで待つほうがいいだろうと考えを決めた。門番は男に腰掛けを与え、門の脇のところに坐らせた。そこに腰をすえたまま、男は何日も何日も待った。男は、中へ入れてもらおうとあれこれ手をつくし、しつこく頼んでは門番を疲れさせた。時おり門番は男にちょっとした質問をし、郷里のことなどいろいろなことをたずねた。しかしそれは、お偉方たちが下々に投げるようなどうでもいい質問で、最後にはきまって、まだおまえを入れてやるわけにはいかないと言うのだった。この旅のためにいろいろと支度を整えてきた男は、門番を買収するために、あらゆる手段をつくし、どんな高価なものでも惜しみなくつぎこんだ。門番は何でも受け取りはしたが、こう言い足すのを忘れなかった。「受け取ってはおくがな、これはただ、おまえが自分のやり方に何か手落ちがあったのじゃないかとくよくよ考えずにすむように、と思ってのことだぞ。」長年のあいだ、男は門番をほとんど見つめどおしであった。彼は他にも門番たちがいることを忘れて、この最初の門番が法への入門をさまたげる唯一の障害だと思った。男はこの不幸なめぐり合わせを、はじめの何年かはあたりかまわず大声で呪ったが、やがて老いこむと、ひとり言のようにぶつくさいうだけになった。男は子供っぽくなり、長年門番を懸命に観察するうちに、毛皮の襟に蚤がついているのを見つけ、その蚤にまですがって、自分を助けてくれ、門番の気持ちを変えてくれと頼むのだった。そのうちにとうとう眼が弱ってきて、周囲が本当に暗くなってきたのか、眼の錯覚なのかどちらとも判然としない。しかし今その暗がりの中に、法の門から一すじの輝きがこうこうと射してくるのが見えた。もはや彼の余命はいくばくもない。死を前にして、男の頭の中には、積年の経験が全部凝縮して、これまで門番に一度もたずねたことのない一つの問いとなった。身体は硬直してもう起すこともままならず、男は眼で合図して門番を呼び寄せた。門番は男の上に身を低くしてかがみこまねばならない。二人の大きさの違いが、男の方にまったく不利な具合に変っていたからである。「今になっておまえはまだ何か知りたいのか」と門番がたずねた。「きりのない奴だな。」「ですが、誰もが法を求めているというのに」と男は言った、「どうしてこの長年のあいだ、私のほかには誰一人、この門に来て入れてくれと頼んだ者がなかったのでしょう。」門番は、男の最期がせまったのを見てとり、遠くなっていく耳にも届くように大声でどなりたてた。「ここではほかの誰も中に入ることはできなかった。これはあまえだけのための入口だったのだからな。さあわしは行くぞ、そしてこの門を閉める。」》

 

『わたしを離さないで』で、「掟の門」(「法の前」)に似た表象として、ヘールシャムの「森」があげられるかもしれない。

《森というのは、ヘールシャム裏手の丘の頂にある森のことです。下からは木々の暗い縁(ふち)が見えるだけでしたが、昼も夜も気になってしかたがない場所でした。わたしだけではなく、同年齢の子の多くが森を怖がっていました。ひどいときは、ヘールシャム全体が森の影に吞み込まれるような気がしましたし、窓に近づくと――いえ、窓のほうに顔を向けるだけで――遠くで不気味に待ち構えている森を感じました。(中略)

 森については、さまざまな恐怖の言い伝えがありました。たとえば、わたしたちがヘールシャムに来る少し前、一人の男の子が友達と大喧嘩して、ヘールシャムの敷地外へ逃げ出したそうです。二日後、その子は森で発見されました。体が木に結わえつけられ、両手・両足が切り落とされていたと言います。女の子の幽霊が森の中をさまよっているという噂もありました。(中略)

 保護官に訊けば、そんな話はでたらめだと言います。でも、年上の生徒たちに訊くと、もうちょっと小さい頃に保護官からじかにその話を聞いたと言います。「もう少しすれば、君らも、耳をふさぎたくなるような真実を聞かせてもらえるさ」と。》(P80)

 

 処罰の噂(隠された「真実」)によって生徒たちに内省的自己規制を促す管理型監視(「監視と処罰」「監獄」)構造が見てとれはするが、ヘールシャムでは、いつかルーシー先生の英語の授業で話題になったようなフェンスに収容所のような電気は流れておらず(P122)、ヘールシャムを出てコテージへ行く年齢になると、ある程度自由に外出できてしまうのだから、カフカ的な「掟の門」は物理的なヘールシャムにあるのではないだろう。

 むしろ、「教わっているようで、教わっていない」という「真理を知ること」の「掟の門」(「法の前」)で、「今はだめだ」と延期されつづけ、やがて提供者となって死(使命完了)を迎える。そして、キャシーとトミーの二人(一般社会を知らないという意味で「田舎者」)は猶予という期待を抱き、新たに描き上げた絵画作品(作者の魂をさらけ出す)にすがってまでマダムを訪ねて猶予の願いを申し出るが、マダムと元保護官のエミリ先生(門番)によって「掟の門」のような冷たい仕打ちを受けるというアレゴリーにあるのではないか。

 その冷たい仕打ち、「今になっておまえはまだ何か知りたいのか」というような態度とはこうだった。

《「じゃ、ほんとうに何もないんだ。猶予も何も……」

「トミー」と、わたしはつぶやき、目で止めようとしました。でも、エミリ先生がそっと言いました。

「そう、トミー。そういうものはありません。あなたの人生は、決められたとおりに終わることになります」

「じゃ、先生、おれたちがやってきたことってのは、授業から何から全部、いま先生が話してくれたことのためだけにあったんですか。それ以外の理由はなかったんですか」

「わかりますよ、トミー。それじゃチェスの駒(こま)と同じだと思っているでしょう。確かに、そういうふうに見えるかもしれません。でも、考えてみて。あなた方は、駒だとしても幸運な駒ですよ。追い風が吹くかに見えた時期もありましたが、それは去りました。世の中とは、ときにそうしたものです。受け入れなければね。人の考えや感情はあちらに行き、こちらに戻り、変わります。あなた方は、変化する流れの中のいまに生まれたということです」

「追い風か、逆風か。先生にはそれだけのことかもしれません」とわたしは言いました。

「でも、そこに生まれたわたしたちには人生の全部です」》(P406)

 

『わたしを離さないで』は、「教わっているようで、教わっていない」ことに、真実を知り、深い意味を理解すること、意味の開示の接線を引こうとして引くことを自己防衛的にためらい、拒絶、忌避、延期しつづける、アイロニカルな教養小説(ビルデュングス・ロマン)でもある。

《でも、トミーはわたしの言葉を無視し、「まだ、あるんだ」とつづけました。「先生(筆者註:ルーシー先生)の言ったことでもう一つ、よくわからんことがある。君に訊こうと思ってた。先生が言うには、おれたちはちゃんと教わってるようで、教わってないんだってさ」

「教わってるようで、教わってない? もっと一生懸命勉強しろってことかな」

「いや、そういうことじゃないと思う。先生が言ってたのは、おれたちの将来のことだ。将来、何があるかってこと。ほら、提供とか、そういうこと……」》(P48)

《いま振り返ると、そういう時期に差しかかっていたのだと思います。自分が誰で、保護官や外部の人間とどう違うかを少しは知りはじめていた時期。でも、単なる事実として知ることと、それの持つ深い意味を理解することは別物です。これと似たことは、きっとどなたも子供時代に経験しておいででしょう。出来事の細部は違っても、心への衝撃という意味では似たようなことを……。保護官がどれほど教育上手でも、理解への最後の一歩は詰めきれません。いくら話を聞き、ビデオを見、討論をし、警告を受けていても、どこか他人事。わが身のこととしての理解までは無理でした。(中略)

それでも、教えの一部は染み透っていたはずです。教えはどこかに潜み、わたしの一部となって、ああいう瞬間がやってくるのをじっと待っていたのでしょう。ひょっとしたら、もう五歳や六歳の頃から、頭のどこかには「いつか……そう遠くないいつか」と、ささやく声があったのかもしれません。「いつか、きっとどんな気持ちのものかわかるだろう」と。》(P59)

《わたしたちは、先生をそれ以上追求しませんでした。もっと知りたいのはやまやまながら、同時に、この危険地帯から早く逃げ出したいという気持ちもあり、テーブル全体に居心地の悪い雰囲気が広がりました。》(P66)

《あの日、わたしたちはなぜ黙っていたのでしょうか。九歳、十歳の子供でした。でも、そんな年齢でも、微妙な話題であることを薄々感じていたのだと思います。当時のわたしたちが何をどれだけ知っていたか、いまとなってはわかりません。》(P109)

《先生が言おうとしたことは話題にならず、たまになっても、「だから何だよ。そんなこと、とっくに知ってたじゃん」という反応がふつうでした。

 でも、それこそが先生の言いたかったことではないでしょうか。わたしたちは、確かに知っていたのです。でも、ほんとうには知りませんでした。》(P128)

《その辺りまでくると、だんだん収拾がつかなくなってきます。これ以上は誰も踏み込みたくない危険領域という感じになってきて、議論もしぼんでいきました。》(P214)

 

 アーレントカフカについて、没後二十年時(1944年)に書いている。

《小説『審判』から話を始めよう。これについてはちょっとした図書館が建つほど数多くの解釈が世に出されてきた。この小説は、自分では見つけだすことのできない法律によって裁判にかけられ、いったい何が起きたのかをつきとめることもできないまま処刑される一人の男の物語である。(中略)

 彼は弁護士を雇うが、その弁護士はすぐさま彼に、現状に適応して批判などしないことだけが唯一賢明なことだという。彼は助言を求めようと監獄の教誨師のところへ行くが、教誨師は組織が人知れず巨大なものであると説き、真相を問わないように彼に命ずる。「というのも、一切を真実として受け入れる必要はないからだ。それは必然として受け入れなければならない。」「憂鬱な結論だ」とKはいう。「それは嘘をつくことを普遍的な原理にしてしまう」。

『審判』のKがとらわれている機構の力とは、まさに、一方でこのような必然性の見かけのうちにあるとともに、他方では人びとが必然性を賛美することに由来している。必然性のために嘘をつくのは何か崇高なことだと思われていく。》

 

「真実としてではなく必然として受け入れなければならない」という「普遍の原理」の話は、エミリ先生に聞かされたルーシー先生がいなくなった理由を思い起こさせる。

《「悪い子ではありませんでしたね、ルーシー・ウェンライト。でも、しばらくしているうちに、いろいろと言いはじめたのですよ。生徒たちの意識をもっと高めるべきだ。何が待ち受けているか、自分が何者か、何のための存在か、ちゃんと教えたほうがいい……。物事をできるだけ完全な形で教えるべきだと信じていました。それをしないのは、生徒たちをだますことにほかならない、って。わたしたちはルーシーの意見を検討して、誤っていると結論しました」

「なぜです」とトミーが言いました。「なぜ誤ってるんです」

「なぜ? よかれと思っていたのは確かでしょう。ルーシーを慕っていたみたいですね、トミー。いい保護官になれる素質を持った子でしたよ。でも、理論が勝った子でした。長年ヘールシャムを運営してきたわたしたちには、経験がありました。ヘールシャム以後も踏まえたとき、何が生徒のためになるかがわかっていました。ルーシーは理想主義者でした。それ自体悪いことではありませんが、現実を知りませんでした。わたしたちは生徒に何かを――誰からも奪い去られることのない何かを――与えようとして、それができたと思っています。どうやって? 主として保護することです。保護することがヘールシャムの運営方針でした。それは、ときに物事を隠すことを意味しました。嘘もつきました。そう、わたしたちはいろいろな面であなた方をだましていました。だましていた……そう言ってもいいでしょう。でも、ヘールシャムにいる間、わたしたちは生徒を保護しました。だからこそ、あなた方には子供時代があったのです。ルーシーがいくらよかれと思っていても、あれに自由にやらせていたら、生徒の幸せなど木(こ)っ端(ぱ)微塵(みじん)です。たとえば、あなた方二人。わたしはとても誇りに思いますよ。わたしたちが与えたものの上に人生を築いてくれています。わたしたちの保護がなかったら、いまのあなた方はありません。授業に身を入れることも、図画工作や詩作に没頭することもなかったでしょう。それはそうですよ。将来に何が待ち受けているかを知って、どうして一生懸命になれます? 無意味だと言いはじめたでしょう。そう言われたら、わたしたちに反論する言葉はありません。ですから、ルーシーには去ってもらいました}》(P408)

 

 イラク政府がテロリストに大量破壊兵器を提供している証拠がないことを記者会見で指摘された、2002年2月12日のアメリ国務長官ドナルド・ラムズフェルドによる返答について、ジジェクが論じている。

ラムズフェルドは、知られていることと知られていないことの関係をめぐり、突然発作的にアマチュア哲学論を展開した。

  知られている「知られていること」がある。これはつまり、われわれはそれを知っており、自分がそれを知っているということを自分でも知っている。知られている「知られていないこと」もある。これはつまり、われわれはそれを知らず、自分がそれを知らないということを自分では知っている。しかしさらに、知られていない「知られていないこと」というのもある。われわれはそれを知らず、それを知らないということも知らない。

 彼が言い忘れたのは、きわめて重大な第四項だ。それは知られていない「知られていること」、つまり自分はそれを知っているのに、自分がそれを知っているということを自分では知らないことである。これこそがまさしくフロイトのいう無意識であり、ラカンが「それ自身を知らない知」と呼んだものであり、その核心にあるのが幻想である。もしラムズフェルドが、イラクと対決することの最大の危険は「知られていない『知られていないこと』」、すなわちサダム・フセインあるいはその後継者の脅威がどのようなものであるかをわれわれ自身が知らないということだ、と考えているのだとしたら、返すべき答えはこうだ――最大の危険は、それとは反対に、「知られていない『知られていること』」だ。それは否認された思い込みとか仮定であり、われわれはそれが付着していることに気づいていないが、それらがわれわれの行為や感情を決定しているのだ。》

 

 帰り道で、二人はエミリ先生やマダムとの間にあったことをほとんど話さなかった。不意にトミーが言う、「ルーシー先生が正しいと思う。エミリ先生じゃない」。突然、車を止めさせて外へ出たトミーが、闇の中で、喚き、拳を振り回し、怒りに歪んで荒れ狂っているのを見つけたキャシーがしがみつく。

 車に戻って走りつづけた長い沈黙のあと、キャシーが言う。

《「ヘールシャムで、あなたがああいうふうに癇癪を起したでしょう? 当時は、なんで、と思ってた。どうしてあんなふうになるのかわからなくて。でもね、いまふと思ったの。ほんの思いつきだけど……。あの頃、あなたがあんなに猛り狂ったのは、ひょっとして、心の奥底でもう知ってたんじゃないかと思って……」

 トミーはしばらく考えていて、首を横に振りました。「違うぜ、キャス。違うな。おれがばかだってだけの話だ。昔からそうさ」でも、しばらくしてちょっと笑い、「だが、面白い考えだ」と言いました。「もしかしたら、そうかも。そうか、心のどこかで、おれはもう知ってたんだ。君らの誰も知らなかったことをな」》(P421)

 

 トミーはまさに、知られていない「知られていること」にあったのではないか。そして、キャシーたちみんなも、知られていない「知られていること」になることを自己保全的に恐れ、逃げて、知られている「知られていないこと」に留まろうとしつづけたのではないのか。そういった外部と内部の戯れ、現実と幻想との信頼性の手袋の裏表をイシグロは巧みに描いた。言葉、文字にはっきり表出しない精妙で朧げな「余白」「曖昧」性に、イシグロが愛好する日本文学(川端文学など)や日本映画(小津映画など)の影響を見ることも可能だろう。

 

 プラトンカフカの影響の揺らぎの下でカズオ・イシグロを読むとき、ノーベル文学賞受賞理由の、“who, in novels of great emotional force, has uncovered the abyss beneath our illusory sense of connection with the world”.(偉大な感情の力をもつ小説で、世界とつながっているというわれわれの感覚が幻想的なものでしかないとの底知れぬ深淵を明らかにした)というプレスリリースは、言い得て妙なのに違いない。

                                   (了)

       *****引用または参考文献*****

カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』土屋政雄訳(ハヤカワepi文庫)

*田尻芳樹、三村尚央編『カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』を読む ケアからホロコーストまで』(「生に形態を与える」マーク・ジャーング、「気づかいをもって書く」アン・ホワイトヘッド、「薄情ではいけない」ブルース・ロビンズ、「公共の秘密」ロバート・イーグルストン、「時間を操作する」マーク・カリー、「看る/看られることの不安」荘中孝之、「『わたしを離さないで』における女同士の絆」日吉信貴、「「羨む者たち」の共同体」秦邦生、「『わたしを離さないで』に描かれる記憶の記念物の手触りをめぐる考察」三村尚央、「『わたしを離さないで』におけるリベラル・ヒューマニズム批判」田尻芳樹、「クローンはなぜ逃げないのか」森川慎也、「『わたしを離さないで』の暗黙の了解」武富利亜、「『わたしを離さないで』を語り継ぐ」菅野素子、「イシグロはどのように書いているか」三村尚央、所収)(水声社

*森川慎也『カズオ・イシグロと理想主義』(「Hunnewell, Susannah. “Kazuo Ishiguro The Art of Fiction No. 196.”The Paris Review, no. 184, 2008, pp. 23-54」、「Wachtel, Eleanor. More Writers and Company: New Conversations with CBC Radio’s. Vintage Canada, 1997」森川慎也訳所収)(北海学園学術情報リポジトリ

*森川慎也『カズオ・イシグロの運命感』(「Hammond, Wally. “Kazuo Ishiguro on Never Let Me Go.” Sydney Time Out 1 Apr. 2011. Web. 19 Apr. 2011. 」、「Matthews, Sean. “‘I’m Sorry I Can’t Say More’ : An Interview with Kazuo Ishiguro.” Kazuo Ishiguro. Ed. Sean Matthews and Sebastian Groes. London: Continuum, 2009. 114-25. Print. 」森川慎也訳所収)(北海学園学術情報リポジトリ

*「カズオ・イシグロ・インタビュー ~The Art of Fiction 第196回」(『THE PARIS REVIEW』2008年春号収録)

*The Nobel Prize in Literature 2017 - Presentation Speech

*The Nobel Prize in Literature 2017-Press Release

日経ビジネスノーベル賞受賞を知っていたら、髪を洗っていた カズオ・イシグロ ノーベル文学賞決定後の会見の全記録」石黒千賀子

プラトンソクラテスの弁明』納富信留訳(光文社古典新訳文庫

プラトンパイドン納富信留訳(光文社古典新訳文庫

ミシェル・フーコー『監獄の誕生 監視と処罰』田村俶訳(新潮社)

*『ミシェル・フーコー講義集成4 精神医学の権力 コレージュ・ド・フランス講義 1973―1974年度』慎改康之訳(筑摩書房

*『ミシェル・フーコー講義集成12 自己と他者の統治 コレージュ・ド・フランス講義 1982―1983年度』阿部崇訳(筑摩書房

*『ミシェル・フーコー講義集成13 真理の勇気 コレージュ・ド・フランス講義 1983―1984年度』慎改康之訳(筑摩書房

東浩紀大澤真幸自由を考える 9・11以降の現代思想』(NHK BOOKS)

多和田葉子編『ポケットマスターピース01 カフカ』(集英社文庫

ヴァルター・ベンヤミンベンヤミン・コレクション2 エッセイの思想』(「フランツ・カフカ」西村龍一訳所収)(ちくま学芸文庫

ジャック・デリダカフカ論――「掟の門前」をめぐって』三浦信孝訳(朝日出版社

小林康夫『起源と根源 カフカベンヤミンハイデガー』(カフカ「法の前」所収)(未来社

ハンナ・アーレントアーレント政治思想集成1』(「フランツ・カフカ 再評価――没後二〇周年に」所収)斎藤純一、山田政行、矢野久美子共訳(みすず書房

*平野嘉彦『現代思想冒険者たち04 カフカ 身体のトポス』(講談社

スラヴォイ・ジジェクイデオロギーの崇高な対象』鈴木晶訳(河出文庫

スラヴォイ・ジジェクラカンはこう読め!』鈴木晶訳(紀伊国屋書店

 

 

 

 

 

文学批評/演劇批評 泉鏡花『日本橋』の「紅と浅黄の段染麻の葉鹿の子の長襦袢」

 

 

                                 

「(同じく妻。)だわ。……雛の節句のあくる晩、春で、朧で、御縁日、同じ栄螺と蛤を放して、巡査の帳面に、名を並べて、女房と名告(なの)つて、一所に詣る西河岸の、お地蔵様が縁結び。……これで出来なきや、世界は暗夜(やみ)だわ。」

という稲葉家お考(こう)の台詞を、古くは花柳章太郎や初代水谷八重子、近年では坂東玉三郎の舞台で聞いたことがあれば、あるいは「まあ、長襦袢を見ないで芸者を口説く。……それぢや暗夜(やみよ)の礫(つぶて)だわ。」と言ってのけるお考淡島千景の映画を見たならば、リフレインされる「露地の細路……駒下駄で……」という唄声の通奏低音とともに忘れられないだろう。

 泉鏡花の大正三年作の小説『日本橋』は、翌年には本郷座で、真山青果喜多村緑郎らの脚本によって初演されたが、大正六年に鏡花は戯曲『日本橋』を発表し、以降、新派によってたびたび上演されている(客演として、六代目歌右衛門玉三郎がお考を、二代目吉右衛門、十五代目仁左衛門(当時片岡孝夫)が葛木を演じてもいる)。もともとの小説が、会話を主体としての台詞とト書き構成であることから戯曲化しやすいうえに、戯曲化を前提に背景や場面を書き割り描写されていた。

 谷崎潤一郎が、《鏡花氏の場合に於ては、その多くの作品は、最初から小説にすべきではなく映画にすべきではなかつたかと思はれるほど、それほど映画に適して居るやうに感じられる。》と書いたように、二度にわたって映画化(昭和四年溝口健二監督(フィルムは喪失)、昭和三十一年市川崑監督(淡島千景のお考、山本富士子の清葉、若尾文子のお千世))されてもいる。

 加賀藩の能役者(葛野流大鼓方中田万三郎豊喜)の娘鈴(すず)を母とし、伯父(母の次兄)は宝生流シテ方松本家の養子松本金太郎だった鏡花は、「夢幻能」にも似た回想構造をとって小説を書いたのに対して、演劇と映画は観客のわかりやすさからか直線的な時系列構造とした。もともと鏡花小説が、会話を主体とした台詞とト書き構成であることもあいまって、小説からの戯曲、映画へのアダプテーションは、入り組んだ回想部分をそのまま聞き語りさせるかわりに、観客をあきさせないよう演技、実写したり、鏡花独特の飛躍した空白表現(葛木がお考に別れを告げる場面)をわかりやすさから補完、潤色してはいるものの、筋立ての差異は少ない(もっとも上演ごとに足したり引いたりの苦心の跡が見られる)。

 ここでは小説からの引用を主にとりあげ、芸能、文芸の影響を中心に、その表象としての「紅と浅黄の段染麻の葉鹿の子の長襦袢」を考察してゆきたい。影響というよりもむしろ、積極的に先行する江戸芸能、文芸という伝統から作り上げたということだろう。いわば、T.S.エリオットの「伝統と個人の才能」による「古典と前衛」の世界、宇宙である。

 

 小説は、章題「篠蟹(さゝがに)」「檜木笠(ひのききがさ)」「銀貨入」「手に手」「露地の細路」「柳に銀の舞扇」の(一)~(十七)ではじまり、「河童(かはたろ)御殿」「栄螺(さざえ)と蛤」「おなじく妻」「横槊賦詩(ほこをよこたへてしをふす)」「羆(ひぐま)の筒袖」「縁日がへり」「サの字千鳥」「梅(うめ)ヶ枝(え)の手水(てうず)鉢(ばち)」「口紅」「一重桜」「伐木丁々」「空蝉(うつせみ)」「彩(いろ)ある雲」「鴛鴦(をしどり)」「生理学教室」「美挙」「怨霊(をんりやう)比羅(びら)」「一口(ひとふり)か一挺か」「艸冠(くさかんむり)」「河岸(かし)の浦島」「頭を釘」「露霜(つゆじも)」の章題による二年前の回想(十八)~(六二)を経て、「彗星(はうきぼし)」「綺麗な花」「振向く処を」「あわせかがみ」「振袖」で(十七)に続く現在に回帰しての(六三)~(六七)となる、世阿弥による能の「序破急」構造をなす。

 

 佐藤春夫岩波文庫日本橋』(一九五三年発行)に書き下ろした「解説」の、《この篇を一貫する主題は愛情である》、《怪異談、因縁ばなしや清葉の笛に対する熱情の名人気質の片鱗など、この篇にも鏡花世界の万華鏡の模様は全く影をひそめたのではなく》、《その常套手段たる人情本や草双紙の様式の襲用によりながら、また自然主義に対抗する観念小説でありながらどこまでも鏡花流に終始した別個の近代小説をもくろんでゐる》といった指摘を確かめよう。

 

<「篠蟹(さゝがに)」 (一)>

《盛(さかり)の牡丹の妙齢(としごろ)ながら、島田髷(しまだ)の縺れに影が映(さ)す……肩揚を除(と)つたばかりらしい、姿も大柄に見えるほど、荒い絣の、聊か身幅(みはゞ)も広いのに、黒繻子の襟の掛った縞御召の一枚着、友染の前垂(まへだれ)、同一(おんなじ)で青い帯。緋鹿子(ひがのこ)の背負上(しよひあげ)した、それしや(・・・・)と見えるが仇気(あどけ)ない娘風俗(ふう)、つい近所か、日傘も翳(さ)さず、可愛い素足に台所穿(ばき)を引掛(ひきか)けたのが、紅と浅黄で羽を彩る飴の鳥と、打切(ぶつきり)飴の紙袋を両の手に、お馴染なじみの親仁(おやじ)の店。有りはしないが暖簾(のれん)を潜りさうにして出た処を、捌いた褄も淀むまで、むら/\とその腕白共(わんぱくども)に寄つて集(たか)られたものである。》

《「大な声がどうしたんでえ。」

 と、一人の兄哥(にい)さん、六代目の仮声(こわいろ)さ。》

 お千世のビジュアルな登場。「六代目」とは六代目尾上菊五郎

 

<(二)>

《(何。)とか云ふ鮨屋の露地口。鼬(いたち)のやうにちよろりと出た同一(おなじ)腕白。下心(したごころ)あつて、用意の為に引込んで居たらしい。芥溜(ごみため)を探したか、皿から浚つたか、笹(さゝ)ッ葉(ぱ)一束(ひとたば)、棒切の尖(さき)へ独楽なはで引括(ひつくゝ)つた間に合せの小道具を、さあ来い、と云ふ見(み)で構へて、駆寄ると、若い妓の島田の上へ突着けた、ばさ/\ばッさり。

 が、黙つて、何にも言はないで、若い妓は俯向(うつむ)いて歩行(ある)き出す。

 頸摺(うなじず)れに、突着け、突掛(つツか)かけ、

「やあ、おいらんの道中(だうちう)々々(/\)!」

「大高(おほたか)、旨いぞ。」と一人が囃す。

「おつと任せの、千崎弥五郎(せんざきやごらう)。」》

千崎弥五郎は歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』である。

朝田祥二郎『注解 考説 泉鏡花 日本橋』によれば《傾城に傘をさしかける道中の振事は「積恋雪関扉」の墨染と関兵衛が花道で見せるのをはじめ、歌舞伎舞踊で廓風俗を描写するきまりの所作であって、(中略)本文ははっきり歌舞伎がかりをうたっている》という。

《「笹や、笹々笹や笹、笹を買はんせ煤竹(すゝだけ)を――」

 大高うまい、と今呼ばれた、件(くだん)の(鼬みめよし)が、笹を故(わざ)と、島田の上で、ばさ/\と振りながら、足踏をして唱出(うたひだ)した。

 声を揃えて、手拍子で、

「笹を買わんせ煤竹を――」

 ここで三音諧(さんおんかい)張上げる。気障(きざ)な調子で、

「大高源吾は橋の上えゝ。」》

 笹売りの大高源吾は浪花節『大高源吾』ならびに歌舞伎『松浦の太鼓』で、俳諧の師其角に両国橋で出会う。

 物語の冒頭部(一)~(四)を、世相、人心の鏡である子供たちの講談口調めいた赤穂浪士づくしによって、忠義を称揚する封建道徳、国家主義権威主義を戯画化している。

 

<「檜木笠(ひのききがさ)」 (三)>

《「嘘よ、お前さんぢやないのよ。その大高源吾とか云ふ、ずんぐりむつくりした人がね、笹を担いで浪花節で歩行(ある)いては、大事な土地が汚(けが)れるつて。……橋は台なし、堪らないつて、姉さんが云ふんだわ。」》

 鏡花は浪花節の野卑な語り口を嫌った。「橋は台なし」とは、九代目市川團十郎歌舞伎座浪花節がかかったのを、舞台の板を削れと怒った話からという。

《「不断、然(さ)う云(い)やがるとよ、可(い)いか。手前(てまえ)ン許(とこ)の狂女(きちがい)がな、不断然(さ)う云やがる事を知つてるから、手前(てめえ)だつて尋常(たゞ)は通さないんだぜ。僕がな、形を窶してよ、八百屋の小児(こども)に生れてよ、間者(かんじや)に成つて知つてるんだ。行軍将棊でもな、間者は豪(えら)いぜ、伴内阿魔(ばんないあま)。」》

 伴内は『仮名手本忠臣蔵』で高師直の配下鷺坂(さぎさか)伴内のことで、お考を師直、抱えのお千世を伴内に見立てた。

 

<(四)>

《「僕は赤鞘(あかざや)の安兵衛てんです。」》

 安兵衛は、浪花節『義士銘々伝』の「高田馬場の仇討」の堀江安兵衛。

《「怜悧(りこう)だな。何、天晴(あつぱれ)御会釈。如何(いか)さま、御姓名を承りますに、此方(こなた)から先へ氏(うぢ)素姓(すじやう)を申上げぬと云ふ作法はありませなんだ。しかし御覧の通り、木(き)の端(はし)同然のものでありますので、別に名告(なの)りますほどの苗字とてもありませぬ。愚僧は泉岳寺の味噌摺坊主でござる。」》

 泉岳寺赤穂義士墓所

 

<「銀貨入」 (五)>

《その両方の間(あはひ)の、もの蔭に小隠れて、意気人品(ひとがら)な黒縮緬、三ツ紋の羽織を撫肩に、縞大島の二枚小袖、襲(かさ)ねて着てもすらりとした、痩やせぎすで脊(せい)の高い。油気の無い洗髪(あらひがみ)。簪の突込み加減も、じれッたいを知つた風。一目にそれしやとは見えながら、衣紋つき端正(しやん)として、薄い胸に品(ひん)のある、二十七八の婀娜(あだ)なのが、玉のやうな頸(うなじ)を伸して、瞳を優しく横顔で、熟(ぢつ)と飴屋の方を凝視(みつ)めたのがある。

「あら、清(きよ)葉(は)姉さん。」

 と可懐(なつか)しそうに呼掛けて、若い妓はバッタリ留つた。

「お千世(ちせ)さん。」

 と柳の眉の、面(おもて)正しく、見迎えて一寸立直る。片手も細(ほつそ)り、色傘を重さうに支(つ)いて、片手に白(しろ)塩瀬(しおぜ)に翁(おきな)格子(がうし)、薄紫の裏の着いた、銀貨入を持つていた。

 若い妓はお千世と言う、それは稲葉家(いなばや)の抱妓(かゝへ)である。》

 清葉は日本橋芸者の粋な蒲柳体型、たたずまいで、小間物にまで行き届いた風俗描写で登場する。

 

<(六)>

《序(ついで)にもう一つ通名(とほりな)があつて、それは横笛である。曰く、清(きよ)葉(は)、曰く令夫人で可(い)いものを、誰(た)が詮索に及んだか、その住居(すまひ)なる檜物(ひもの)町(ちやう)に、磨込んだ格子戸に、門札(かどふだ)打つた本姓(ほんせい)が(滝口。)はお誂(あつらへ)で。むかし読本(よみほん)のいわゆる(名詮自称(みやうせんじしよう)。)に似た。此の人、日本橋に褄を取つて、表看板の諸芸一通(ひととほり)恥かしからず心得た中にも、下方(したかた)に妙を得て、就中(なかんづく)、笛は名誉の名取(なとり)であるから。》

平家物語』の滝口入道と横笛の恋物語を思い合わせた。

 物語の最後に清葉がお考に笛を手向けることの伏線で、小説では《清葉が盃を挙げて唄ふ、あれ聞け横笛を。――露地の細路駒下駄で――》、戯曲でお考は《「清葉さん、笛はお持ちか。こゝで手向けておくれ、迦陵頻伽(かりょうびんが)の迎ひのやうに」》と頼む。

 

<「手に手」 (八)>

《飴屋が名代の涎掛を新しく見ながら、清葉は若い妓と一所に、お染(そめ)久松(ひさまつ)が一寸戸迷(とまど)ひをしたという姿で、火の番の羽目を出て、も一度仲通へ。何方(どつち)の家へも帰らないで、――西河岸の方へ連立つたのである。》

「お染(そめ)久松(ひさまつ)」は、歌舞伎、浄瑠璃の『新版歌祭文』や浄瑠璃『染模様妹背門松』からで、お染が着る「段染麻の葉鹿子」はこの後重要な記号となる長襦袢の柄であって、重要な予兆、伏線。鏡花は読み返すと気づくのだが、伏線を張りめぐらしている。

 

<(十)>

《……お千世のためには、内の様子も見て置きたい、と菊家へ連れようとした気を替えて、清葉はお孝を見舞ひに行くのに、鮨というのも狂乱の美人、附属(つき)ものの笹の気が悪い。野暮な見立ても、萎(しを)る人の、美しい露にもなれかしと、こゝに水菓子を選んだのである。》

 鮨につきものの笹が、能で狂い乱れる人物が手に掲げて象徴する「狂い笹」(子を失った母親がシテの『百万』や『隅田川』、男性への恋慕のために狂女となった遊女がシテの『班女』など)を連想させた。

 

<「露地の細路」 (十二)>

《露地の細路……駒下駄で……》

 久保田万太郎の随筆「水上滝太郎君と泉鏡花先生」に、《先生のおすきなもの(中略)唄は上方唄の「愚痴」――「露地の細みち駒下駄で」》とあり、鏡花の愛唱歌だったという。

「愚痴」の全歌詞は、「愚痴ぢやなけれど、コレマア聞かあしやんせ、たまに逢ふ夜の楽しみは、逢うてうれしさ、エ、なんの烏が意地悪な、おまえの袖とわしが袖、合せて歌の四つの袖、路地の細路駒下駄の、胸おどろかす明けの鐘」

 後半部の「おまえの袖とわしが袖、合わせて歌の四つの袖、路地の細路駒下駄の、胸おどろかす明けの鐘」は、歌舞伎『恋飛脚大和往来』の梅川忠兵衛封印切の場(井筒屋)から道行、情死にいたる下座音楽として使われて有名となった。死を連想させもして、不吉といえば不吉である。

「露地の細路」章における若菜家お若の不幸な怪談、物(もの)の怪(け)、怪異性は『源氏物語』(光源氏と同じ鏡花の「亡母追慕」)の「夕顔」に似たところがある。

 

<「柳に銀の舞扇」 (十五)>

《はらりと音して、寝ながら投げた扇が逸(そ)れたか、欄干を颯と掠めて、蒔絵の波がしら立つ如く、浅(あさ)翠(みどり)の葉に掛つて、月かと思ふ影が揺ぐと、清葉の雪のやうな頬を照らす。……と思はず、受けたは袱紗の手。我知らず色傘を地に落して、その袖をはつと掛けて、斜めに丁(ちやう)と胸に当てた。

 清葉は前刻(さつき)から見詰めた扇子(あふぎ)で、お孝の魂が二階から抜けて落ちたやうに、気を取られて、驚いて、抱取(だきと)る思ひが為(し)たのである。

 潜つて流れた扇子の余波(なごり)か、風も無いのにさら/\と靡く、青柳(あをやぎ)の糸の縺(もつ)れに誘はれた風情して、二階にすらりと女の姿。

 お孝は寝床を出た扱帯(しごきおび)。寛(ゆる)い衣紋を辷すべるやう、一枚(いちまい)小袖(こそで)の黒繻子の、黒いに目立つ襟白粉、薄いが顔にも化粧した……何の心ゆかしやら――よう似合ふのに、朋輩が見たくても、松の内でないと見られなかつた――潰(つぶし)島田(しまだ)の艶は失せぬが、鬢のほつれは是非も無い。

 生際(はえぎは)曇る、柳の葉越、色は抜けるほど白いのが、浅黄に銀の刺繍(ぬひとり)で、此(これ)が伊達の、渦巻と見せた白い蛇の半襟で、幽(かすか)に宿す影が蒼い。》

 二階建ての書割は、水平の舞台に垂直の視線を導入してドラマチックであり、歌舞伎『楼門五三桐』や『金閣寺』で見られて、天と地の階層を連想させるが、映画では活かされたものの、舞台では長らく上演されていない。

《我知らず色傘を地に落して、その袖をはつと掛けて、斜めに丁(ちやう)と胸に当てた。》の優美な所作。

「白い蛇の半襟」に浄瑠璃、歌舞伎『日高川入相花王』の清姫、能『道成寺』や歌舞伎『京鹿子娘道成寺』の蛇体のアレゴリーともなっている。

 

<(十六)>

《唯(と)……思つたほどは窶れも見えぬ。

 病気の為めに失心して、娑婆も、苦労も忘れたか、不断年より長(ふ)けた女が、却つて実際より三つ四つも少ないくらゐ、つひに見ぬ、薄化粧で、……分けて取乱した心から、何か気紛れに手近にあつたを着散したらう、……座敷で、お千世が何時(いつも)着る、紅と浅黄と段染(だんそめ)の麻の葉鹿(か)の子(こ)の長襦袢を、寝衣(ねまき)の下に褄浅く、ぞろりと着たのは、――予(か)ねて人が風説(うはさ)して、気象を較べて不思議だ、と言つた、清葉が優しい若衆立(わかしゆだち)で、お孝が凜々しい娘形(むすめがた)、――宛然(さながら)の其の娘風の艶(えん)に媚かしいものであつた。

 お孝は弛んだ伊達巻の、ぞろりと投遣りの裳(もすそ)を曳きながら、……踊で鍛えた褄は乱れず、白脛(しろはぎ)のありとも見えぬ、蹴出(けだし)捌きで、すつと来て、二階の縁の正面に立つたと思うと、斜めに其処の柱に凭(もた)れて、雲を見るか、と廂合(ひあはひ)を恍惚(うつとり)と仰いだ瞳を、蜘蛛に驚いて柳に流して、葉越しに瞰下(みおろ)し、そこに舞扇を袖に受けて、見上げた清葉と面(おもて)を合せた。

「あゝ、お考さん。」

 と声を掛ける。》

 ここで、「紅と浅黄と段染(だんそめ)の麻の葉鹿(か)の子(こ)の長襦袢」が表象記号的に登場する。

「弛んだ伊達巻の、ぞろりと投遣りの裳(もすそ)を曳きながら、……踊で鍛えた褄は乱れず、白脛(しろはぎ)のありとも見えぬ、蹴出(けだし)捌きで、すつと来て、二階の縁の正面に立つたと思うと、斜めに其処の柱に凭(もた)れて、雲を見るか、と廂合(ひあはひ)を恍惚(うつとり)と仰いだ瞳を、蜘蛛に驚いて柳に流して、葉越しに瞰下(みおろ)し」までの鏡花の艶な花柳世界への確かな眼と描写力、そして舞台、映像を喚起する演出技量。

 

<(十七)>

《向うへ対手(あいて)に廻しては、三味線の長刀(なぎなた)、扇子(あふぎ)の小太刀、立向う敵手(あひて)の無い、芳(よし)町(ちやう)育ちの、一歩を譲るまい、後(おくれ)を取るまい、稲葉家のお孝が、清葉ばかりを当(たう)の敵(かたき)に、引くまい、退(の)くまい、と気を揉んで、負けじとするだけ、豫(かね)て此方(こなた)が弱身なのであった。

 張(はり)も、意地も、全盛も、芸も固(もと)より敢て譲らぬ。否、較べては、清葉が取立てて勝身は無い。分けて彼方(むかう)は身一つで、雛妓(おしやく)一人抱えておらぬ。

 此方(こなた)は、盛りは四天王、金(きん)札(さつ)打つた独武者、羅生門(らしやうもん)よし、土蜘蛛よし、猅々、狼も以(も)つて来(き)なで、萌黄、緋縅、卯の花縅、小桜を黄に返したる年増(としま)交(まじ)りに、十有余人の郎党を、象牙の撥に従へながら、寄すれば色ある浪に砕けて、名所の松は月下に独り、従容として名を得る口惜(くや)しさ。

 弱虫の意気地なしが、徳とやらを以て人を懐(なづ)ける。雪の中を草鞋穿いて、蓑着て揖譲(おじぎ)するなんざ、惚気(のろけ)て鍋焼を奢るより、資本(もとで)のかゝらぬ演劇(しばゐ)だもの。

「字(あざな)は玄徳(げんとく)め。」

 と、所好(すき)な貸本の講談を読みながら、梁山泊(りやうざんぱく)の扈三娘(こさんじやう)、お孝が清葉を詈(のゝし)る、と洩聞いて、

「其の気だから、あの妓こは、(そんけん)さ。」

 と内証で洒落た待合の女房(おかみ)がある由。》

 講談本、洒落本の「三国志」および能『土蜘蛛』の諧謔、パロディで、お考の気性を表現している。

 

《「私、……私よ、お孝さん。」

 と二度目に呼んで声を掛けるや、

「葛木(かつらぎ)さん。」

 と、冴えた声。お孝が一声応ずるとともに、崩れた褄は小間(こま)を落ちた、片膝立てた段(だん)鹿(か)の子(こ)の、浅黄、紅(くれなゐ)、露(あら)はなのは、取乱したより、蓮葉とより、薬玉(くすだま)の総(ふさ)切れ/゛\に、美しい玉の緒の縺れた可哀(あはれ)を白々地(あからさま)。萎なえたやうに頬杖して、片手を白く投掛けながら、

「葛木さん。」

 二度まで、同じ人の名を、此処には居ない人の名を、胸を貫いて呼んだと思うと、支えた腕(かひな)が溶けるやうに、島田髷(しまだ)を頂(の)せて、がつくりと落ちて欄干(てすり)に突伏(つツぷ)したが、たちまち反(そ)り返るやうに、衝(つツ)と立つや、蹌踉(よろ)々々(/\)として障子に当つて、乱れた袖を雪なす肱で、緊乎(しつかり)と胸にしめつゝ、屹(き)と瞰下(みお)ろす目に凄味が見えた。》

《崩れた褄は小間(こま)を落ちた、片膝立てた段(だん)鹿(か)の子(こ)の、浅黄、紅(くれなゐ)、露(あら)はなのは》から《支えた腕(かひな)が溶けるやうに、島田髷(しまだ)を頂(の)せて、がつくりと落ちて欄干(てすり)に突伏(つツぷ)したが、たちまち反(そ)り返るやうに、衝(つツ)と立つや、蹌踉(よろ)々々(/\)として障子に当つて、乱れた袖を雪なす肱で、緊乎(しつかり)と胸にしめつゝ、屹(き)と瞰下(みお)ろす目に凄味が見えた。》の「段染麻の葉鹿の子」の静と動との物狂いめいた所作の凄艶。

 

<「栄螺(さゞえ)と蛤」 (二十二)>

《「旦那。」

 と暗がりに媚かしく婀娜(あだ)な声。ほんのりと一重桜、カランと吾妻下駄を、赤電車の過ぎた線路に遠慮なく響かすと、はつと留楠木(とめき)の薫(かをり)して、朧を透(すか)した霞の姿、夜目にも褄を咲せたのは、稲葉家のお孝であった。》

<「おなじく妻」 (二十三)>

《「もし、一寸(ちよいと)。」

 右側の欄干際に引添った二人の傍(わき)へ、すらりと寄つたが、お端折(はしおり)の褄を取りたそうに、左を投げた袖ぐるみ、手をふら/\と微酔(ほろよひ)で。

「旦那、其方のお検べはまだ済みませんか。」

 と斜めに警官を見て、莞爾(につこ)り笑ふ……皓歯(しらは)も見えて、毛筋の通つた、潰島田は艶麗(あでや)である。

 警官は二つばかり、無意味に続けざまに咳(しはぶき)した。

「お前は何かい、あゝ。」

「はあ、お次に控えておりました、賤(しづ)の女(め)でござんすわいな。」とふら/\する。》

 見染めの場。歌舞伎でいえば『与話情浮名横櫛』お富と与三郎の木更津浜潮干狩の場、『生写朝顔話』深雪と阿曾次郎の宇治蛍狩の場、『新薄雪物語』薄雪姫と園部左衛門の清水寺花見の場など。

 

<(二十五)>

《唯(と)顧みて、其処で、ト被直(かぶりなほ)して、杖(ステツキ)をついた処、お孝は二つばかり、カラ/\と吾妻下駄を踏鳴らした。

「唯別れるの。……不意気(ぶいき)だねえ、――一石橋の朧夜に、」

 四辺(あたり)を見つゝ袖を合せた、――雲を漏れたる洗髪。

「女と二人逢いながら、すた/\(かねやす。)の向うまで、江戸を離れる男ッてのがお前さん江戸にありますか。人目に然うは見えないでも、花のような微酔で、こゝに一本(ひともと)咲いたのは、稲葉家のお孝ですよ。清葉さんとは違ひますわ。」》

 七五調の黙阿弥劇めいた名乗り。最後に、清葉への対抗意識。

 

<(二十六)>

《「(同じく妻。)だわ。……雛の節句のあくる晩、春で、朧で、御縁日、同じ栄螺と蛤を放して、巡査の帳面に、名を並べて、女房と名告(なの)つて、一所に詣る西河岸の、お地蔵様が縁結び。……これで出来なきや、日本は暗夜(やみ)だわ。」》

 初出の小説では「日本は」だが、三年後の戯曲では、なぜか「世界は」となった。なぜか、と言えば、映画でこの黙阿弥口調の台詞は淡島千景によって語られることなく、「春で 朧(おぼろ)で ご縁日」とだけ大きく字幕で出た。

 

<「横槊賦詩(ほこをよこたへてしをふす)」 (二十八)>

《「千世(ちい)ちやん、清葉さんの長襦袢を見たかい。」

「えゝ、可(い)いわねえ。」

「色が白くて、髪が黒い処へ、細(ほつそ)りしてるから、よく似合ふねえ。年紀(とし)よりは派手なんだけれど、娘らしく色気が有つて、まことに可い。葛木さん、一寸(ちよいと)、彼処(あすこ)へ惚れたんぢやないこと。」

「馬鹿な。」

「でも可いでせう。」

長襦袢なんか、……些(ちつ)とも知らない。」

「まあ、長襦袢を見ないで芸者を口説く。……それぢや暗夜(やみよ)の礫(つぶて)だわ。だから不可(いけな)いんぢやありませんか。今度(こんど)、私が着て見せたいけれど、座敷で踊るんでないと一寸着憎い。……口惜いから、この妓(こ)に拵(こしら)へて着せませうよ。」

 やがてお千世が着るやうに成つたのを、後にお孝が気が狂つてから、ふと下に着て舞扇を弄んだ、稲葉家の二階の欄干(てすり)に青柳の糸とともに乱れた、縺(もつ)るゝ玉の緒の可哀(あはれ)を曳く、燃え立つ緋(ひ)と、冷い浅黄と、段染の麻の葉鹿の子は、此の時見立てたのである事を、一寸ここで云つて置きたい。》

 因縁の「燃え立つ緋(ひ)と、冷い浅黄と、段染の麻の葉鹿の子」の清葉、お千世、お考の三人にわたる来歴の一端が《一寸ここで云つて置きたい》との唐突な作者の顔出しによって語られる。「燃え立つ緋(ひ)と、冷い浅黄」の色彩と触感に鏡花が終生囚われた「火」と「水」のイマージュが宿る。

 

<「羆(ひぐま)の筒袖」 (二十九)>

《背後(うしろ)をのさ/\と跟(つ)けて来て、阿爺どの。――呼声は朱鞘の大刀(だんびら)、黒羽二重、五分月代(ごぶさかづき)に似ているが、すでにのさ/\である程なれば、然うした凄味な仲蔵(なかざう)ではない。

 按ずるに日本橋の上へは、困つた浪花節の大高源吾が臆面もなく顕れるのであるが、未だ幸に西河岸へ定九郎(さだくらう)の出た唄を聞かぬ。……尤も此のあたり、場所は大日本座の檜舞台であるけれども、河岸は花道ではないのであるから。》

 歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』五段目、山崎街道の場の中村仲蔵による斧定九郎。このあたり鏡花独特の諧謔性、滑稽味がある。

 

《むかし権三は油壺。鰊蔵(にしんぐら)から出たよな男に、爺さんは、きよとんとする。》

 近松浄瑠璃『鑓の権三重帷子』の浜の宮馬場の段の「鑓の権三は伊達者の、どうでも権三は好い男。油壷から出すやうな、しんとろとろりと見とれる男。」

 

<「梅(うめ)ヶ枝(え)の手水(てうず)鉢(ばち)」 (三十五)>

《「ですから、今度つから、楠の正成で、梅ヶ枝をお呼びなさいよ、……其の手水鉢へ、私なら三百円入れてやりたい、と此方(こつち)でも思ふばかりだから、先方(さき)さまでも、お孝がこんな家へ来るもんか、とは言はないわね。……貴方お盃を下さいな、……チョッ口惜いねえ、清葉さんは。……」》

 浄瑠璃『ひらかな盛衰記』の神崎揚屋の段、傾城梅が枝は「君傾城になりさがつても一度客に帯とかず」とあるように、梶原源太に操を立てて客のためには帯を解いたことがない女で、愛する源太を一の谷の合戦に送り出すためにの三百両を工面しようと、小夜の中山の「無間の鐘」を撞くと現世では巨万の富を得ることができるが来世は地獄に堕ちるという伝説になぞらえて、「この世は蛭にせめられ未来永々無間堕獄の業を受くともだんないだんない大事ない」と柄杓で手水鉢を叩くや、お金が二階から降ってくる奇跡が起きる。

 

<(三十六)>

《「何した、お爺さんは遅いぢやないか。」

「あら、姉さん、来るもんですか。」

「私は来るつもりで待つて居たのに――其処の襖を開けて御覧よ、居るかも知れない。」

「まあ、」と可愛く、目をぱち/\。

「可(い)いから一寸(ちよいと)御覧。」

 と言ふ、香の煙に巻かれたやうに、跪いて細目に開けると、翠帳紅閨(すゐちやうこうけい)に、枕が三つ。床の柱に桜の初花。》

 為永春水作の人情本『「春色梅児誉美(しゆんしよくうめごよみ)』に、「翠帳紅閨の中に新枕せしその初は偕老同穴(かいらうどうけつ)のかたらひをなし後世(ごせ)かけて契おくしたしみのあはれにもなつかしく」とある。

春色梅児誉美』は深川芸者の恋の鞘当てが眼目で、鎌倉恋ヶ窪の遊女屋「唐琴屋」の養子丹次郎は、養家を追われて深川でわび住まいをしていた。唐琴屋の内芸者米八は窮状を見て、貢ぐために深川の羽織芸者となる。丹次郎の許嫁のお長もまた、丹次郎に貢ぐため女浄瑠璃竹長吉となる。一方、丹次郎は深川芸者仇吉とも恋仲になり、女たちの恋の鞘当てが始まる。お考と清葉に鞘当てを見ている。

 

<「一重桜」 (四十)>

《「寒く成つた、掻巻(かいまき)をおくれ。」

 とお孝は曲げた腕(かひな)を柔く畳に落して、手をかへた小袖の縞を、指に掛けつゝ男の膝。

「姉さん、私、帯を解いてよ。」

「生意気お言ひでないよ、当(あて)も無しに。可(い)いから持つといで。」

「うまい装(なり)をして、」

 と膚(はだ)の摺れる、幽かな衣(きぬ)の捌きが聞えて、

「御免なさいまし。」と抱いて出た掻巻の、それも緋と浅黄の派手な段鹿子であつたのを、萌黄と金茶の翁格子(おきながうし)の伊達巻で、ぐいと縊(くび)つた、白い乳房を夢のやうに覗かせながら、ト跪ひざまずいてお孝の胸へ。

 襟足白く、起上るようにして、ずるりと咽喉(のど)まで引掛けながら、

「貴方、同じ柄で頼母(たのも)しいでせう、清葉さんの長襦袢と。」

 学士は黙つて額を圧へる。

「姉さん、枕よ……」

「不作法だわ、二人で居る処へ唯(たつ)た一ツ。」

「知らない、姉さんは。」

「持つてお帰り。」

「はい。」

 と立って、脛(はぎ)をする/\と次の室(ま)へ。襖を閉めようとして一寸立姿で覗く。羽二重の紅(くれなゐ)なるに、緋で渦巻を絞ったお千世のその長襦袢の絞が濃いので、乳の下、鳩尾(みづおち)、窪みに陰の映(さ)すあたり、鮮紅(からくれなゐ)に血汐が染むやうに見えた――俎に出刃を控へて、潰島田の人形を取つて据ゑた其の話しの折の所為(せゐ)であらう。

 凄さも凄いが、艶(えん)である。その緋の絞の胸に抱く蔽(おほひ)の白紙(しらかみ)、小枕の濃い浅黄。隅田川のさゞ波に、桜の花の散敷く俤。

非(あら)ず、この時、両国の雪。

 葛木は話したのである。

「姉の優しい眉が凜(りん)となつて、顔の色が蝋のやうに、人形と並んで蒼みを帯びた。余りの事に、気が違つたんぢやないかと思つた。

 顔の色が分つたら祖母(おばあ)さんは姉を外へ出さなかつたろうと思ふね。――兄弟が揃つた処、お祖母さんも、此の方がお気に入るに違いない、父上(おとうさん)、母上(おつかさん)の供養の為に、活(いき)ものだから大川へ放して来ようよ……

 で、出たつ切、十二時過ぎまで帰らなかつた。》

お千世が抱いて出た《掻巻の、それも緋と浅黄の派手な段鹿子であつた》うえに、「貴方、同じ柄で頼母(たのも)しいでせう、清葉さんの長襦袢と。」とお考に嫌味を言われる始末。

《乳の下、鳩尾(みづおち)、窪みに陰の映(さ)すあたり、鮮紅(からくれなゐ)に血汐が染むやうに見えた》はお千世が襲われる悲劇の予兆か。

「凄さも凄いが、艶(えん)である。」以降の緋、白、浅黄の色彩美も凄いが、さゞ波、桜の花の散敷くイメージから「両国の雪」の、舞踊『鷺娘』の降りしきる魔的な雪の白へと意識の流れが溢れ出て、読者への時間、時制、現在、過去への言及もなく、葛木の姉の回想へという急激な場面転換、転調は、読みにくい、わかりにくい、といえばその通りだが、しかし佐藤春夫「解説」の、《鏡花の文章は感情も感覚も理念でさへ時にはごつちやまぜになつた不思議に印象的なさうして飛躍する厄介な文章だから慣れないうちは、読みにくいかも知れないが、この稀代の名文家の文章は見なれさへすれば見かけの難解なのには似ずわかりのいいもので、それもそのはず、工夫に工夫を凝らして、そつもごまかしもないから、文字のままを素直に辿つて行きさへすれば面白さは自らその名かにあり少々は不可解(といふのは時々思ひ切つて飛躍しているからで)でも、おしまひまでゆけば何もかもはつきりわかるやうに親切に書かれてゐるのだから、たとひ途中でつまづくとも安心して読み進めさへすればよいのである。》に納得する。

 

<「空蝉(うつせみ)」 (四十三)>

《「もし/\、貴女様、もし……」

 此処に葛木に物語られつゝある清葉は、町を隔て、屋根を隔てて、彼処(かしこ)に唯一人、水に臨んで欄干に凭(もた)れて彳(たゝず)む。……男の夢の流ではない、一石橋の上なのである。が、姿も水もその夢よりは幻影(まぼろし)である。》

「此処に葛木に物語られつゝある清葉」とは、丁度その時、葛木がお考に清葉との別れを物語っていたからで、この並行的な時間・空間処理は前衛的小説技法ともいえる。

 こうして清葉もまた、お考に続いて一石橋にたたずむ。そもそも鏡花は、『義血侠血』の「滝の白糸」を郷里金沢の浅野川の天神橋に登場させたように、瀬田の唐橋宇治橋、一条戻橋、など怪異の出現する、異界との境界、通路としての「橋」というアレゴリーに憑かれていた。

 お考の清葉への嫉妬を考察するには、鏡花と親交のあった柳田国男の「橋姫」が参考になる。

 柳田は「橋姫」を《橋姫と云ふのは、大昔我々の祖先が街道の橋の袂に、祀つて居た美しい女神のことである。地方によつては其信仰が夙く衰へて、其跡に色々の昔話が発生した。是を拾ひ集めて比較して行くと、些しづゝ古代人の心持を知ることができるやうである。》とはじめて、山梨の猿橋の橋姫伝説に謡曲の「葵の上」や「野宮」が出てくること、さらに美しい女が鬼女に変貌することは重要であるとし、橋姫と謡曲の関係を次のように指摘した。

《つまり「葵の上」は女の嫉妬を描いた一曲であつて、紫式部の物語の中で最も嫉妬深い婦人、六条の御息所と云ふ人と賀茂の祭の日に衝突して、其恨の為に取殺されたのが葵の上である。「野宮」と云ふのも所謂源氏物の謡の一つで、右の六条の御息所の霊をシテとする後日譚を趣向したものであるから、結局は女と女との争ひを主題にした謡曲を、この橋の女神がこのまれなかつたのである。「三輪」を謡へば再び道が明るくなると云ふ仔細はまだ分らぬが,古代史で有名な三輪の神様が人間の娘と夫婦の語ひをなされ、苧環の糸を引いて神の験の杉木の上に御姿を示されたと云ふ話を作つたもので、其末の方には「又常闇の雲晴れて云々」或は「其関の戸の夜も明け云々」などゝ云ふ文句がある。併し何れにしても橋姫の信仰なるものは、謡曲などの出来た時代よりもずつと古くからあるは勿論、源氏の時代よりも更に又前からあつたことは、現に其物語の中に橋姫と云ふ一巻のあるのを見てもわかるので、此には只どうして後世に、そんな謡を憎む好むと云ふ話が語らるゝに至つたかを、考へて見ればよいのである。》と論じた。

 

<「鴛鴦(をしどり)」 (四十七)>

《「姉さんで可愛がられるのに不足なら、妹にまけて可愛がられて上げませう。従姉妹(いとこ)に成つてなかよくしませう。許嫁(いひなづけ)でも、夫婦でも、情婦(いろ)でも、私、まけるわ、サの字だから。鬼にでも、魔にでも、蛇体にでも、何にでも成つて見せてよ、芸人ですもの。」

 と裳(もすそ)を揺(ゆ)つて拗ねたやうに云ひながら、ふと、床の間の桜を見た時、酔つた肩はぐたりとしながら、キリゝと腰帯が、端正(しやん)と緊まる。

「何の、姉妹(きやうだい)に成るくらゐ、皮肉な踊よりやさしい筈だ。」

 掻巻(かいまき)の裾を渚の如く、電燈に爪足(つまあし)白く、流れて通つて、花活(はないけ)のその桜の一枝、舞の構へに手に取ると、ひらりと直つて、袖にうけつゝ、一呼吸(ひといき)籠めた心の響、花ゆら/\と胸へ取る。姉の記念(かたみ)に豈(やは)劣るべき花柳(はなやぎ)の名取(なとり)の上手が、思のさす手を開きしぞや。

 其の枝ながら、袖を敷いた、花の霞を裳に包んで、夢の色濃き萌黄の水に、鴛鴦(をし)の翼に肩を浮かせて、向うむきに潰島田。玉の緒揺(ゆら)ぐ手柄の色。

「葛木さん。」

「…………」

「人形が寂しい事よ。」》

「蛇体」に歌舞伎『京鹿子娘道明寺』などの清姫伝説をみる。

《花活(はないけ)のその桜の一枝、舞の構へに手に取ると、ひらりと直つて、袖にうけつゝ、一呼吸(ひといき)籠めた心の響、花ゆら/\と胸へ取る。姉の記念(かたみ)に豈(やは)劣るべき》とあるように、「一重桜」(三十九)で葛木が聞かせた《一重桜の枝を持つて、袖で抱くようにした京人形、私たち妹も、物心覚えてから、姉に肖(に)ている、姉さんだ/\と云ひ/\した》姉の記念(かたみ)の肖(に)た人形に扮して、「人形が寂しい事よ。」と女から情交を求める濡場であるが、人形は、姉・清葉、次いでお考へと変身、同化するわけだから、近親相姦的な倒錯ともいえる。

 花柳小説、艶本としての荷風『腕くらべ』を思わせさえする技巧、手練手管である。

 

<「美学」 (五十二)>

《嘗て、その岐阜県の僻土(へきど)、辺鄙に居た頃ぢやつたね。三国峠を越す時です。只今、狼に食はれたと云ふ女の検察をしたがね、……薄暮(うすぐれ)です。日帰りに山家(やまが)から麓の里へ通う機織(はたおり)の女工が七人づれ、可(え)えですか。……峠を最(も)う一息で越さうと云ふ時、下駄の端緒が切れて、一足後(おく)た女が一人キヤツと云ふ。先へ立つた連の六人が、ひよいと見ると、手にも足にも十四五疋の、狼で蔽被(おほひかぶ)さつた。――身体はまるで蜂の巣です哩(わ)。

 私(わし)は反対の方から上りかゝつたんでね。峠から駆下りて来た郵便脚夫が一人、(旦那、女が狼に食はれて居ります。)と云ひ棄てて、すた/\行きをる。――あとで、其の顔を覚えとつたで、(なぜ通りかゝって助けんかい。)……叱った処で、在郷軍人でもなし仕方が無い。然う云ふ事も現在見た。

 又、山の中に、山猫と云ふのが居る、形は嘗て見せん。見たものは無いと云ふです。唯深更に及んで其の啼声ぢやね、此を聞くと百獣悉く声を潜むる。鳥が塒(ねぐら)で騒ぐ。昔の猅々ぢやと云ふ。非常に淫猥な獣(けもの)ぢやさうでね、下宿した百姓の娘などは、その声を聞くと震へるです哩(わい)、――現在私(わし)も、其は知つとる。

 炭焼の奴が、女を焼いて食つた事件もある。》

 鏡花の権力嫌いのカリカチュア(しかし微笑ましく造形化されている)たる笠原巡査の話す奇譚は柳田国男遠野物語』の民話が源である。鏡花は明治四十三年の『遠野の紀聞』という文に「近ごろ近ごろ、おもしろき書を読みたり。柳田国男氏の著、遠野物語なり。再読三読、なお飽くことを知らず。」と残している。

 

<「艸冠(くさかんむり)」 (五十八)>

《お孝は遁げたでないですが。……あの階子(はしご)は取外しが出来るだでね、お孝が自分でドンと突いて、向うの壁へ階子をば突(つツ)ぱずしたもんですだ。(短刀をお抜き、さあ、お殺し、殺しやうに註文がある。切つちや不可(いけな)い、十の字を二つ両方へ艸冠(くさかんむり)とやらに曰(いわく)をかいて。)とお前(ま)ん、……葛木と云ふ字に、突いて殺せ。(名まで辛抱は出来まいが、一字や二字は堪(こら)へて見せよう。さあ早く。)と洞爺湖(どうやこ)の雪よか真白な肌を脱いで、背筋のつる/\と朝日で溶けて、露の滴(た)りさうな生々(なま/\)としたやつを、水浅黄ちらめかいて、柔(やは)りと背向(うしろむ)きに突着けたですだで。

 豊艶(ふつくら)と覗いた乳首(ちゝくび)が白い蛇の首に見えて、むら/\と鱗も透(す)く、あの指の、あの白金(プラチナ)が、そのまゝ活きて出たらしいで、俺は此の手足も、胴も、じな/\と巻緊められると、五臓六腑が蒸上(むれあが)つて、肝(きも)まで溶融(とろ)けて、蕩々(とろ/\)に膏切(あぶらぎ)つた身体な、――気の消えさうな薫の佳(い)い、湿つた暖い霞に、虚空遥に揺上(ゆりあ)げられて、天の果に、蛇の目玉の黒金剛石(くろダイヤ)のやうな真黒な星が見えた、と思ふと、自然(ひとりで)に、のさんと、二階から茶の間へ素直(まつすぐ)、棒立ちに落ちたで、はあ。」

 と五十嵐伝吾は腹を揺(ゆす)つて、肩を揉んで、溜息(ためいき)して言う。》

 お考を付け回す赤熊こと五十嵐伝吾が一石橋で葛木に直訴した情痴話の果てのお考は、あたかも『道成寺物』の「白い蛇」のようだ。

 

<「露霜(つゆじも)」 (六十二)>

《はッと声に出して、思わず歎息(ためいき)をすると、浸(にじ)む涙を、両の腕。……面(おもて)を犇(ひし)と蔽うていた。

 俥(くるま)の上で――もう夜半(よなか)二時過。

 この辻車が、西河岸へヌッと出たと思うと、

「あゝ。」

 葛木は慌しく声を掛けた。

「一寸待て、車夫(くるまや)。」

「へい/\。」

「忘れものをして来た、帰つてくれないか。」

「唯今、乗(め)した処へ。」

「あゝ。」

 夜延仕(よなし)でも、達者な車夫(しやふ)で、一もん字に其の引返す時は、葛木は伏せた面(おもて)を挙げて、肩を聳(そびや)かす如く痩せた腕を組みながら、切(しきり)に飛ぶ星を仰いだ。が、夜露に、痛いほど濡れたかして、顔の色が真蒼であった。

「可し、此処で――此処で――此処で――」

 と焦(あせ)つて、圧へて云ひ/\、早や飛下りさうにしつゝも駆戻(かけもど)る発奮(はずみ)にづか/\と引摺られるように町の角を曲つて、漸(やつ)と下立(おりた)つた処は、最(も)う火の番を過ぎて、お竹蔵(たけぐら)の前であつた。

 直(す)ぐに稲葉家の露地を、ものに襲はれた体(てい)に、慌しく、その癖、靴を浮かして、跫音(あしおと)を密(ひそ)めて、した/\と入ると、門(かど)へ行つた身を飜(かへ)して、柳を透かしながら、声を忍んで、二階を呼んだ。

「お孝さん、……」

 寂然(ひつそり)としていたが、重ねて呼ぶのに気を兼ねる間も無く、雨戸が一枚、すつと開(あ)いて、下から映(さ)す蒼(あお)い瓦斯を、逆に細流(せゝらぎ)を浴びた如く濡萎(ぬれしを)れた姿で、水際(みづぎは)を立てて、其処へお孝が、露の垂(た)りさうに艶麗(あでやか)に顕れた。

 が、其れは浴びるばかりの涙なのである。

 唯(と)、見る時、葛木も面(かほ)にはら/\と柳の雫が、押へあへず散乱るゝ。

 今宵(こよひ)は三度目である。宵に来て、例(いつも)のごとく河岸まで送られて十二時過に帰つた時は、夢にも恁(か)うとは知らなかつた。――一石橋で赤熊に逢つて、浮世を思捨てるばかり、覚悟して取つて返した時は、もう世間もここも寐静まつて居た上に、お孝は疲れた、そして酔つても居た。……途中送る折も、送る女が、送らるゝ男の肩に、なよ/\と顔を持たせて、

「邪慳だね、帰るなんて。」

 ぐつすり寐込んだに相違ない。えゝ、決心は鈍らうとも、まゝよ、此の次に、と一度引返さうとして、たゞ、口ずさみのひとりでに、思はず、

「お孝……」

 と呼ぶと、

「あい。」と声の下で返事して、階子(はしご)を下りるのがトン/\と引摺るばかり。日本の真中に、一人、此の女が、と葛木は胸が切(せま)つたのであつたが。

暖い閨(ねや)も、石の如く、砥(と)の如く、冷たく堅く代るまで、身を冷して涙で別れて……三たび取つて返したのが此の時である。

 お孝は、乱書(みだれがき)の仮名に靡く秋風の夜更けの柳にのみ、ものを言わせて、瞳も頬も玉を洗つたやうに、よろ/\と唯俯向(うつむ)いて見た。

「済まないがね、――人形を忘れたから。」

「はい。」

 と清く潔い返事とともに、すつと入ると、向直つて出た。乳の下を裂いたか、とハッと思う、鮮血(なまち)を滴(したゝ)らすばかり胸に据ゑたは、宵に着て寝た、緋の長襦袢に、葛木が姉の記念(かたみ)の、あの人形を包んだのである。

 ト片手ついたが、欄干(てすり)に、雪の輝く美しい白い蛇の絡(から)んだ俤。

「お怪我の無いやう……御機嫌やう。」

 とはらりと落すと、袖で受けたが、さらりと音して、縮緬の緋のしぼ(・・)は、鱗が鳴るか、と地に辷つて、潰島田の人形は二片(ふたひら)三片(みひら)花を散ちらして、枝も折れず、柳の葉末に手に留(とま)んぬ。

「清葉さん、――然(さ)やうなら。」

 カタリと一幅(ひとはゞ)、黒雲の鎖(とざ)したやうな雨戸が閉つて、……

――露地の細路、駒下駄で――

 と心悲(うらかな)しい、が冴えた声。鈴を振る如く、白銀(しろがね)の、あの光、あけの明星か、星に響く。

 葛木は五体が窘(すく)んだ。》

 男女の別れの「愁嘆場」だが、葛木がお考に別れを告げる場面そのものは、ここでも、物理的な時間の流れよりも心理的、精神的な時間の流れを優先し、時には文章の流れによって時間が操られる印象主義的、プルースト的な文体による、鏡花独特の回想の順序のモザイク模様(三度目の訪問が先に記述されて、その際に二度目の訪問が回想されるので後からの記述となり、しかもどこからどこまでが二度目、三度目とはっきり書かれない)と、肝心かなめの別れの切り口上が省略されているため極めてわかりにくい(さすがに戯曲『日本橋』では「生理学教室(雛祭)」の場を補完、潤色させて具体的に観客にわからせた)。まるで書かないこと、空白にこそ真実、魂が宿る(そういう意味で川端康成は正統の後継者である)とばかりに。

《宵に来て、例(いつも)のごとく河岸まで送られて十二時過に帰つた時は、夢にも恁(か)うとは知らなかつた。》が一度目の訪問。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                             《一石橋で赤熊に逢つて、浮世を思捨てるばかり、覚悟して取つて返した時は、もう世間もここも寐静まつて居た上に、お孝は疲れた、そして酔つても居た。》が、赤熊の自然主義的な直訴で衝撃を受けての二度目の訪問。そこで、一度目の訪問の帰りの《……途中送る折も、送る女が、送らるゝ男の肩に、なよ/\と顔を持たせて、

「邪慳だね、帰るなんて。」》と想い出しつつ、

《ぐつすり寐込んだに相違ない。えゝ、決心は鈍らうとも、まゝよ、此の次に、と一度引返さうとして、たゞ、口ずさみのひとりでに、思はず、

「お孝……」

 と呼ぶと、

「あい。」と声の下で返事して、階子(はしご)を下りるのがトン/\と引摺るばかり。日本の真中に、一人、此の女が、と葛木は胸が切(せま)つたのであつたが。

 暖い閨(ねや)も、石の如く、砥(と)の如く、冷たく堅く代るまで、身を冷して涙で別れて》の、最後の行間で葛木はお考に非情な別れを告げたのだった。

 そうして、三度目こそ、

《もう夜半(よなか)二時過。(中略)

「忘れものをして来た、帰つてくれないか。」

「唯今、乗(め)した処へ。」》

《直(す)ぐに稲葉家の露地を、ものに襲はれた体(てい)に、慌しく、その癖、靴を浮かして、跫音(あしおと)を密(ひそ)めて、した/\と入ると、門(かど)へ行つた身を飜(かへ)して、柳を透かしながら、声を忍んで、二階を呼んだ。

「お孝さん、……」》と他人行儀な「さん」づけの呼びかけで、

《寂然(ひつそり)としていたが、重ねて呼ぶのに気を兼ねる間も無く、雨戸が一枚、すつと開(あ)いて、下から映(さ)す蒼(あお)い瓦斯を、逆に細流(せゝらぎ)を浴びた如く濡萎(ぬれしを)れた姿で、水際(みづぎは)を立てて、其処へお孝が、露の垂(た)りさうに艶麗(あでやか)に顕れた。

 が、其れは浴びるばかりの涙なのである。

 唯(と)、見る時、葛木も面(かほ)にはら/\と柳の雫が、押へあへず散乱るゝ。》

そして《お孝は、乱書みだれがきの仮名に靡なびく秋風の夜更けの柳にのみ、ものを言わせて、瞳も頬も玉を洗ったように、よろよろとただ俯向うつむいて見た。

「済まないがね、――人形を忘れたから。」

「はい。」

 と清く潔い返事とともに、すっと入ると、向直って出た。》とようやく時間は前に進んで行く。

 

《乳の下を裂いたか、とハッと思う、鮮血(なまち)を滴(したゝ)らすばかり胸に据ゑたは、宵に着て寝た、緋の長襦袢に、葛木が姉の記念(かたみ)の、あの人形を包んだのである。

 ト片手ついたが、欄干(てすり)に、雪の輝く美しい白い蛇の絡(から)んだ俤。》の白い蛇体のイメージを、《袖で受けたが、さらりと音して、縮緬の緋のしぼ(・・)は、鱗が鳴るか、と地に辷つて、潰島田の人形は二片(ふたひら)三片(みひら)花を散ちらして、枝も折れず、柳の葉末に手に留(とま)んぬ。》という蛇の鱗にまで細密描写するとは、さすがに装飾的彫金の家職の出だった。

 

<「綺麗な花」 (六十四)>

《「まあ、綺麗に花が咲いた事。」

 一町ひとまち、中を置いた稲葉家の二階の欄(てすり)に、お孝は、段鹿子の麻の葉の、膝もしどけなく頬杖して、宵暗(よひやみ)の顔ほの白う、柳涼しく、この火の手を視(なが)めていた。……》

 お考は、反復するかのように、脱皮しても脱皮しても、「段鹿子の麻の葉」模様である。

 

<「振向く処を」 (六十五)>

《柳に片手を、柄下(つかさが)りに、抜刀(ぬきみ)を刃尖(はさき)上(あが)りに背に隠して、腰をづいと伸(の)して、木戸口から格子を透かすと、ちょうど梯子段(はしごだん)を錦絵の抜出したやうに下りて、今、長火鉢の処に背後(うしろ)向きに、すつと立つた、段染の麻の葉鹿の子の長襦袢ばかりの姿がある。

 がらりと開けると、づか/\と入るが否や、

「畜生!」

 振向く処を一刀(ひとかたな)、向うづきに、グサと突いたが脇腹で、アッとほとんど無意識に手で疵(きず)を抑へざまに、弱腰を横に落す処を、引なぐりに最(も)う一刀(ひとたち)、肩さきをかッと当てた、が、それは引かき疵に過ぎなかつた。刃物の鍛(きたへ)は生鉄(なまくら)で、刃は一度で、中じやくれに曲つたのである。

「姉さん、――」

 虫が知らしたか、もう一度、

「お爺さん。」と呼ぶと斉しく、立つて逃げもあえず、真白な腕(かひな)をあはれ、嬰児(あかんぼ)のやうに虚空に投げて、身を悶えたのは、お千世ではないか。

 赤熊は今日も附狙つて、清葉が下に着た段鹿子を目的(めあて)に刃(やいば)を当てた。

 このお千世の着て居たのは、しかし其では無く、……清葉が自分のを持(もた)して寄越したのであることを、此処で言ひたい。

「一寸、お茶を頂きに。」

 清葉の眉の上つたのを見て、茶の缶をたゝく叔母なるものは、香煎(にばな)でもてなすことも出来ないで、陰気な茶の間が白(しら)けたのであったが。――》

《清葉が自分のを持(もた)して寄越したのであることを、此処で言ひたい。》という、「段染の麻の葉鹿の子の長襦袢」の来歴を(二十八)同様に作者が顔を表して説明することで、「柳に銀の舞扇」(十七)末尾の、《清葉はきりゝと、扇子(あふぎ)を畳んで、持直して、「一寸、お茶を頂きに。」》の、清葉とお千世がお考を見舞いに来る場面へと、音声、聴覚に触発されて戻る円環構造(これもまたプルースト的である)。

 着物を見間違えて殺してしまうのは、黙阿弥歌舞伎『曽我綉侠御所染(そがもようたてしのごしよぞめ)』で御所五郎蔵(ごしよのごろぞう)が傾城皐月の打掛を着ていた傾城逢州を誤って殺してしまう、などがある。

 

<「あはせかゞみ」 (六十六)>

《お千世が、その膝を抱くやうに附添つて、はだけて、乳(ち)のすくお孝の襟を、掻合せ、掻合せするのを見て、清葉は座にと着きあへず、扇子(あふぎ)で顔を隠して泣いた。

 背後(うしろ)へ廻つて、肩を抱いて、

「お大事になさいよ、静にお寝(やす)みなさいまし、お孝さん、一寸(ちよいと)お千世さんを借りますよ。――お座敷にして。」

 と顧みて、あとは阿婆(おばあ)に云つた。

「から、意気地も、だらしも有りませんやね、我まゝの罰だ、業(ごふ)だ。」

 と時々刻んで呟つぶやいた阿婆が、お座敷と聞くと笑傾(ゑみかたむ)け、

「そらよ、お千世や、天から降つたやうな口が掛つた。さあ、着換へて、」

 直ぐに連れて出ると心得た阿婆が、他(ほか)には無い、お孝の乱心(みだれごころ)にゆかしがつて着ていた、その段鹿子を脱がせようと、お千世が遮る手を払つて、いきなりお孝の帯に手を掛けて、かなぐり取らうと為(し)たのである。

「叔母さん、まあ、」

 とお千世はおろ/\。……

「失礼をいたします。」と、何の事やらまた慇懃に、お孝が、清葉に手を支(つ)いたのは涙ならずや。

「これが可厭(いや)なら、よく稼いで、可(い)い旦那を取つてな、貴女方を、」

 と、清葉を頤(あご)、

「見習つて幾枚でも拵(こしら)へろ、そこを退(ど)かぬかい。」と突退(つきの)ける。

「お待ちなさいまし。」

 凜(りん)と留めて、

「切火(きりび)を打つて、座敷へ出ます、芸者の衣物(きもの)を着せるには作法があるんです。……お素人方(しろうとがた)には分りません、手が違うと怪我をします。貴方、お控えなさいまし。――千世(ちい)ちやん、今(箱さん。)を寄越すから、着換へないでいらつしやいよ。姉さんを気をつけて。お孝さん、」

 何も知らず横を向いたお孝に、端正(ちやん)と手を支(つ)いて、

「さようなら。――二人で、一度あわせものをしませうね。」

 と目を手巾(ハンケチ)で押えて帰つた。……

 襦袢は故(わざ)と、膚馴れたけれど、同一(おなじ)其の段鹿子を、別に一組(ひとくみ)、縞物だつたが対(つゐ)に揃へて、其は小女(こをんな)が定紋の藤の葉の風呂敷で届けて来た。

 箱屋が来て、薄べりに、紅裏香(べにうらにほ)ふ、衣紋を揃へて、長襦袢で立つた、お千世のうしろへ、と構へた時が、摺半鐘(すりばん)で。

「木の臭(にほひ)がしますぜ、近い。」

と云ふと、箱三(はこさん)の喜平(きへい)はひよいと一飛(ひととび)。阿婆(おばあ)も続いて駆出した。

 お千世の斬られた時、衣物(きもの)はそこにそのまゝである。》

 ようやく現在時制に追いつこうとする糊代のような一場の回想。内気そうだった清葉が、お考の身代わりのように凛とした日本橋芸者の姿を見せる。

 火事の「摺半鐘(すりばん)」で、『伊達娘恋緋鹿子「櫓のお七」』や『三人吉三廓初買』のお嬢吉三が鳴らす鐘や、能『道成寺』、歌舞伎『京鹿子娘道成寺』に出現するシンボリックな鐘を想わずにはいられない。

 

<「振袖」 (六十七)>

《其の時、山鳥の翼を弓に番(つが)へて射るごとく、颯(さつ)と裳(もすそ)を曳(ひ)いて、お孝が矢のやうに二階を下りると思ふと、

「熊の蛆め、畜生。」と追縋つて衝(つ)と露地を出た。

 が、矢玉と馳違(はせちが)ひ折かさなる、人混雑(ひとごみ)の町へ出る、と何しに来たか忘れたらしく、こゝに降かかる雨の如き火の粉の中。袖でうけつゝ、手で招きつゝ、

「花が散るよ、散るよ。」

 と蹴出(けだ)しの浅黄を蹈くゞみ、その紅(くれなゐ)を捌きながら、ずる/\と着衣(きもの)を曳いて、

「おゝ、冷い、おゝ、冷い。……雪やこんこ、霰(あられ)やこんこ。……おゝ綺麗だ。花が散るよ、花が散るよ。」》

 狂乱の道行。

 

《目の前へ、すつと来て立つたのはお孝である。

「刀をお貸し。」

 黙つて袖口を、なぞへに出した手に、はつと、女神の命(めい)に従う状(さま)に、赤熊は黙つて其の刀を渡した。

「おゝ、嬉しい、剃刀一挺持たせなかつた。」

 と、手遊物(おもちや)のように二つ三つ、睫を放して、ひら/\と振つた。

 眦(まなじり)を返す、と乱るゝ黒髪。

「覚悟をおし。」と、澄まして一言(ひとこと)。

 何か言ひさうにした口の、唯またニヤ/\と成つて、大(おほき)な涎の滴々(だら/\)と垂るゝ中へ、素直(まつすぐ)にづきんと刺した。が、歯にカッと辷つて、脣を決明果(あけび)の如く裂きながら、咽喉(のど)へはづれる、その真中、我と我が手に赤熊が両手に握つて、

「うゝゝ、うゝ!……抉(えぐ)れ、抉れ、抉れ。」

 懐中(ふところ)をころがる小児(こども)より前に、小僧はべた/\と土間を這ふ。

「了(しま)つた。」

 手を圧へたのは旅僧である。葛木は、人に揉まれて、脱け落ちた笠のかはりに、法衣(ころも)の片袖頭巾めいて面(おもて)を包んだ。

「お孝さん。」

「先生。」

 と、忘れたように柄(つか)を離すと、刀は落ちて、赤熊は真仰向(まあふむ)けに、腹を露骨(あらは)に、のつと反(かへ)る。

 お孝の彼を抉つた手は、こゝにただ天地一つ、白き蛇(くちなは)のごとく美しく、葛木の腕に絡(まつは)つて、潸々(さめ/゛\)と泣く。(中略)

お孝は法衣(ころも)の葛木に手を曳かれて、静々と火事場を通つた。裂けた袂も、宛然(さながら)振袖を着た如くであつた。

 火の番の曲り角で、坊やに憧れて来た清葉に逢つた。

「あゝ、お地蔵様。」

 夢かとばかり、旅僧の手から、坊やを抱取(だきと)つた清葉は、一度、継母(けいぼ)とともに立退(たちの)いて出直したので、凜々(りり)しく腰帯で端折(はしよ)つていた。》

「乱るゝ黒髪」は、前の《浅黄を蹈くゞみ、その紅(くれなゐ)を捌きながら》とあいまって、段染麻の葉鹿の子の衣裳で物狂う歌舞伎、浄瑠璃『妹背山女庭訓』金殿の段のお三輪、『心霊矢口渡』のお舟や、『伊達娘恋緋鹿子「櫓のお七」』で見られるそれであって、とりわけここでの《宛然(さながら)振袖を着た如くであつた》に「振袖火事」の照り返しがある。

 また、《坊やを抱取(だきと)つた清葉》に「亡母追憶」「母子愛」が見てとれよう。

最後まで、「白き蛇(くちなは)のごとく美しく、葛木の腕に絡(まつは)つて」のお考の蛇のアレゴリーゆえに、『娘道成寺』の幕切れでもある。「橋」は勿論、「川」「水」「白」がそうであるように、「火事」「蛇」も鏡花の永遠のテーマである。

 蛇となって物狂いせずにはいられない悲しい女たちの纏う「紅と浅黄の段染麻の葉鹿の子」こそ、佐藤春夫解説の《ヒューマニスト鏡花は愛の人であり常に弱者の味方である。女性がわが社会の弱者であるがために彼は亦フェミニストであつた。就中(なかんづく)妓女は弱者中の不遇な境涯の者であるといふ見解で、鏡花はその作品中で狭斜の地の婦女を好んで描き遇するには最も懇切であつた。狂女お考の意地や張、姉のために心ならぬ人に仕へる清葉にも道念や芸に対する心構など鏡花はその愛する妓女たちを描くに当つてはただ容姿の美と境遇の悲しさのみを以ては読者の同情を買はず、別にその各自にも可憐にも凛然たる志を与え、この愛情講義の物語にふさはしい彼女等の精神美を説いてゐるのも注目すべきである。》の象徴である。

 これはまた、若桑みどりが「鏡花とプロテスタンティズム」で論じた、《鏡花の場合、まごころをたて通すのは女である。男は「世間」なり「体制」なり、「職分」なりの「外部」に対して心をゆりうごかす。しかし、男の本心は二つに割れている。そして結局のところ、身をほろぼすのは女と同じである。だが、そのプロセスがまるでちがう。そこのところの二重の心理の対位法が鏡花の作品のライト・モティーフになっている。

 なぜ鏡花は、女に情をたて通させたのか。それは、女がもともと体制にくみこまれていず、権力のどのような段階にも入りこむことがない存在、全階級的にネイティヴアウトローだからである。相対的に男は体制的であり、国家であり、権力であり、富である。鏡花の主人公は片手を「女」につかまれ片手を、出世とか権力とか富の形をした一方の「手」につかまれている。

「滝の白糸」となった「義血侠血」も、主人公の男は、「検事」という体制側の人間としてあらわれ、女は卑しい芸人であり、殺人犯という罪人としてあらわれる。》が、《ドストイエフスキーの娼婦ソーニャや、そして何よりも、アナトール・フランスの娼婦タイスのように、卑しく、この世でおとしめられ、傲慢から遠く、心にあわれみあり、苦しむものが、この世では滅びるが、あの世では、“救われる”のである。》は流転の女たち、お考や清葉のそれであろう。

 

 若菜家お若の死の後に稲葉家お考が引っ越して来て物語が始まり、物語の末尾では、お考の死の後に火事にあった滝の家清葉が引っ越してくる。『日本橋』は「反復」の物語でもある。

《滝の家は、建つれば建てられた家を、故(わざ)と稲葉家のあとに引移つた。一家の美人十三人。

 清葉が盃を挙げて唄ふ、あれ聞け横笛を。

――露地の細路駒下駄で――》

 

 佐藤春夫「解説」の、《その異常な感覚に、その凛乎たち精神に、その純粋な詩的観念に、その印象的な描写に、その飛躍した文体に、幾多の近代文学――否超近代文学――的要素を具へながら、その取材とその表現の様式とのために、鏡花は今日の読者にはわかりにくく、親しまれなくなつてしまつてゐるのであらう。鏡花は正しくもう古い。理由はそれがあまり文学だからである。今日のためにこそ惜しめ、鏡花のために惜しむ要は更にない。

 鏡花はもう古くなつてしまつた。さうして最も新らしい古典となつただけである。》から半世紀以上を経て、その予言性は加速度的にますます真実となっている。

                                   (了)

      *****引用または参考文献*****

泉鏡花日本橋』(「解説」佐藤春夫)(岩波文庫

*『鏡花全集 巻二十六』(戯曲『日本橋』所収)(岩波書店

*朝田祥二郎『注解 考説 泉鏡花 日本橋』(明治書院

佐伯順子泉鏡花』(ちくま新書

*川村二郎『白山の水 鏡花をめぐる』(講談社文芸文庫

渡辺直己泉鏡花論 幻影の杼機』(河出書房新社

*『柳田國男全集 7』(「一目小僧その他」に「橋姫」所収)(筑摩書房

*『泉鏡花集成 8』(「遠野の奇聞」所収)(ちくま文庫

*『谷崎潤一郎全集 22』(「映画雑感」所収)(中央公論社

*『久保田万太郎全集 10』(「水上滝太郎君と泉鏡花先生」所収)(中央公論社

*『国立劇場プログラム 昭和四十九年、第三回 十月新派公演「日本橋」』)(国立劇場事業部)

市川崑監督、映画『日本橋

*『日本古典文学大系 64』(為永春水春色梅児誉美』所収)(岩波書店

*『國文學解釈と教材の研究 特集 泉鏡花・魔界の精神史(1985年6月号第30巻7号)』(若桑みどり「鏡花とプロテスタンティズム」、宇波彰泉鏡花の記号的世界」、郡司正勝「鏡花の劇空間」、延広真治「鏡花と江戸文芸――講談を中心に」等所収)(學燈社

谷沢永一、渡辺一考編『鏡花論集成』(立風書房

渡辺保娘道成寺』(駸々堂

文学批評/オペラ批評  シラー/ヴェルディの『ドン・カルロス』について

  

 

<フリードリヒ・シラー>

 フリードリヒ・シラーのことは、世界史の教科書で、ゲーテと共に「シュトルム・ウント・ドランク

Sturm und Drang」(18世紀後半、啓蒙主義、理性に反発し、感情の優越を唱えてロマン主義へつながる)時代の人物と教えられたくらいで、ゲーテと違って作品は知らない、というのが大勢ではないか。

 しかし、ドイツやロシアでは違う。たとえば、ドイツのトオマス・マン、ニーチェ、ロシアのドストエフスキーはいろいろなところでシラーについて言及し、引用した。

 

 トオマス・マンの『トニオ・クレエゲル』の冒頭近く、

《「僕この頃ね、すばらしいものを読んだんだよ、そりゃ素敵なものを……」とトニオは言った。二人はミュウレン街のイイヴェルゼン雑貨店で、十ペンニヒ出して買ったドロップスを、歩きながら一緒に、一つ袋から食べている。「君ぜひ読んでみたまえよ、ハンス。それはね、シラアの『ドン・カルロス』なんだ。……もし読む気なら貸して上げるぜ……」

「いや、よそう」とハンス・ハンゼンは言った。「貸してくれなくてもいいよ、トニオ、そういうものは僕にゃ合わないんだもの。僕はやっぱり、いつもの馬の本がいいんだよ。そりゃ面白い挿画(さしえ)が入ってるんだぜ。今度僕の所へ来たとき見せてやろうね。それは早取写真でね、馬が早駈けをしたりギャロップをしたり、飛び上がったりしてるところが――つまり実際だとあんまり早すぎて、とても眼で見られないような、いろんな恰好(かっこう)をしてるところが分かるんだ……」

「いろんな恰好をしてるところが?」とトニオは丁寧に問うた。「なるほどそりゃ面白いね。だけど『ドン・カルロス』のほうはね、それこそだあれも想像がつかないくらいなんだよ。その中にはね、いいかい、非常にいいところがあってね、そこを読むと、ごつんと音でもするほどなぐられたような気がするんだ……」

「ごつんと音がするんだって?」とハンス・ハンゼンが問うた。「どうしてさ」

「たとえばね、こういうところがある。侯爵に欺だまされたもんで、王様が泣いたというところがね。……でも侯爵はただ、皇子のためを計って王様を欺しただけなんだぜ。分かった? その皇子のために、侯爵は自分を犠牲にしてるんだからね。そこで御居間から控えの間(ま)へ、王様が泣いたという知らせが伝わって来る。『泣かれたのか。国王が泣かれたのか』って、家来たちはみんなひどく驚くんだ。実際、それには誰でもしみじみと感じちまうんだよ。だってその王様は、恐ろしく頑固な厳格な王様なんだもの。だけど王様が泣いたわけは、実によく分かるんだ。だから本当をいうと、僕は皇子と侯爵とを一緒にしたより、もっと王様のほうがかわいそうだと思うよ。いつでもたったひとりぼっちで、誰にも愛されていないところへ、今やっと一人の人間を見つけたと思うと、その人が裏切りをするんだからな……」

 ハンス・ハンゼンは、横合いからトニオの顔を見た。するとこの顔の中の何物かが、確かに彼をこの話題にひき寄せたのであろう、彼は突然、再び自分の腕をトニオのと組み合わせて、こう尋ねた。

「一体どういう風にしてその人は王様に裏切りをするの、トニオ」

 トニオは昂奮(こうふん)し出した。

「あのね、こういうわけなんだ」と彼は言い始めた。「ブラバントやフランデルン行きの手紙がみんな……」》

 

 ニーチェはシラーを「ゼッキンゲンの道徳トランペット吹き」と当てこすってはみたが、『悲劇の誕生』でシラー的論調なだけではなく、数個所で言及し引用している。

ベートーヴェンの『歓喜』(訳註:シラーの作である『歓喜に寄す』(一七八五)をベートーヴェンが第九交響曲の最後の合唱に作曲している)の頌歌(しょうか)を一幅(いっぷく)の画に変えてみるがよい。幾百万のひとびとがわななきにみちて塵(ちり)にひれ伏すとき、ひるむことなくおのれの想像力を翔(か)けさせてみよ。そうすれば、ディオニュソス的なものの正体に接近することができるだろう。》

《シラー(・・・)は、自身にも説明はつかないが、まずは無難と思われる心理的考察によって、自分の詩作過程をわれわれに明らかにした。それによれば、詩作活動に先立つ準備状態として、彼が自己の前に、自己の中に持っていたものは、思想という秩序だった因果律を伴う一連の映像ではなく、むしろある音楽的な気分(・・・・・・)であったと告白している。

「感覚は私の場合、はじめは確定した明らかな対象をもたない。対象は、後になってはじめて形成される。一種の音楽的な情緒が先行し、そして私の場合、情緒の後にはじめて詩想が生まれるのである」

 そこで今、古代抒情詩全体を通じてもっとも重要な現象、抒情詩人(・・・・)と音楽家(・・・)との結合、むしろ同一性、――これは古代ではつねに自然のことと思われていたし、これと比較すれば近代の抒情詩のごときは頭のない神像のように思われるが――この重要な現象をここに加味して考えてみれば、われわれは抒情詩人というものを、先に述べた美的形而上学を土台にして、次のように説明することができるだろう。

抒情詩人は、まず第一にディオニュソス的芸術家である。彼は根源的一者と、そしてその苦痛や矛盾というものと、完全に一体となったものであり、そしてこの根源的一者の模像を、音楽という形で生産するものである。》

《オペラの発生にあたって二つの観念が影響をあたえたことを、私は以上において述べてきた。この二つの観念を、一概念でまとめてしまおうと思えば、われわれはオペラの牧歌的傾向ということばでも持ち出すしかなかろう。それにはシラーの表現と説明とを借りてくればよい。シラーは次のように述べている。――

 自然と理想とは、悲哀の対象であるか、それとも歓喜の対象であるか、そのいずれかである。自然が失われたものとして描かれ、理想が到達されえないものとして描かれるときには、これらはともに悲哀の対象である。両者が現実的なものとして考えられるときには、これらは歓喜の対象である。第一の場合は、比較的狭い意味における悲歌(エレギー)を、第二の場合はきわめて広い意味における牧歌をあらわす、と。》

《ドイツ精神が、これまでの歴史で、ギリシア民族から学ぼうともっとも雄々しく苦闘したのはいつの時代のことであったか、そしていかなる人物たちにおいてであったか、そういう疑問は、他日、公正な審判者の目によって、判定されることがあるかもしれない。そしてわれわれは、もの無二の誉れを与えられるのはかならずやゲーテ、シラー、ヴィンケルマンのこのうえなく高貴な教養の闘争であろう、と、今は確信をもって仮定しているのではあるが、あの時代以来、あの闘争の直後にみられた若干の影響以来、彼らと同じ道をたどって教養とギリシア人に向かおうとする努力は、どういうわけか、しだいに衰弱していく一方であった。ともかくこの事実は、言っておかなければならないことである。》

 

 ロシアでいかにシラーがよく読まれたかは、ドストエフスキーにあたってみればわかる。

 井桁貞義『ドストエフスキイ 言葉と生命』にはこうある。

ドストエフスキイは最晩年、一八八〇年八月二十八日付オズミドフ宛ての手紙で次のように回想を語っている。

「美しきものは子供時代には必要欠くべからざるものです。十歳の時に私はモスクワでシラーの『群盗』を見ました。モチャーロフ主演でした。誓って申しますが、これは当時の印象のうち最も強いもので、私の精神面にとても有意義な作用を及ぼしました。」》

《兄ミハイルに宛てた手紙で十九歳のドストエフスキイは次のように言っている。

「兄さん、あなたはぼくにシラーを読んでいない、と書いていますね。とんでもないまちがいですよ。僕はシラーを暗記しました。彼の言葉で語り、彼によってうわごとを言っているのです。私の人生のうちで運命がこれほどのことをしてくれたことはありませんでした。つまり、僕の生活のああした時期にこの詩人をぼくが知るようになったとは、あの頃ほどよく彼(筆者註:学友であると言う)を見知り得る時期はなかったでしょう。シラーを彼と読みながら、彼に教えてもらって、高潔な炎のごときドン・カルロスも、ポーザ侯爵も、モルチメールも検証したのです。(後略)」》

《一八四四年四月の手紙で、ドストエフスキイは兄ミハイルにシラー『ドン・カルロス』の翻訳を提案している。(中略)この翻訳は同じ年の夏には完了したようで、弟ドスチエフスキイは兄のミハイルの訳にいろいろ注文をつけている。(中略)

「『ドン・カルロス』を落手しました。翻訳は非常に結構です。ところどころ驚くほどの出来栄えですが、あちこちに上出来とは言いかねる行がありますね。しかしそれは急いで訳したからです。でもまずいのは全体で五、六行くらいのものです。ぼくは多少手を入れて、詩の響きをよくしました。何より残念なのは方々に外国語を入れてあることです。<……>けれどもこうしたことは些細なことで、翻訳は驚くほどよく出来ています。」(一八四四年九月三十日付)

 翻訳は一八四八年にかなり検閲を受けた形で雑誌に掲載され、一八六四年、一八七七年と徐々に完訳に近い形で発表されてゆく。》

 ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟』において、

《『ドン・カルロス』に由来するプロットとしては、父と子が同じ一人の女性を間にして対立する、ということが挙げられよう。フョードルとドミートリイはグル―ションカを自分のものにしようと暗闘を続けるが、『ドン・カルロス』ではフェリペ二世とその息子カルロスがエリザヴェートをはさんで対立する。エリザヴェートはカルロス王子のフィアンセだったものをフェリペ二世が妃に迎えてしまう。第二幕第二場のおわりで、息子カルロスの目に一瞬殺意が走り、「おお、聖霊たちよ、いまこそおれを守ってくれ」と言う場面は、フョードルに手を上げようとする瞬間のドミートリ―を思い出させる。》

《イワン・カラマーゾフの大審問官伝説はおそらく確実にこの戯曲を材源としているといえよう。そのことは、イワンが大審問官伝説を語り始める直前に、シラーの詩「あこがれ」(一八〇一年)からの二行を引用していることで読者に告げられている。

  信ぜよ、心の語ることを

  天からの保証は何もない

ドン・カルロス』とイワンの詩劇とに共通なモチーフとして挙げられるのは、まずその設定が十六世紀のスペインであること。次に大審問官の像の共通性が挙げられる。『ドン・カルロス』ではその登場は次のようである。

「大審問官の枢機卿、九十歳の高令で盲目。杖にすがり、二人のドミニコ僧につきそわれて登場。一同の居並ぶ中を通るとき、貴族たちはその前にひざまづいて衣の裾にさわる。枢機卿、かれらに祝福を与える。」(北通文訳)

 一方イワンの詩劇では、大審問官が民衆の中に姿を現わすという点にドストエフスキイの独創を見ることができる。

「これはもうほとんど九十歳になろうという老人で、背が高く、躰はまっすぐで、その顔はやせこけ、目は落ちくぼんではいるが、両眼からは火花のような光が輝いていた。<……>群衆は一瞬にして、さながら一人の人間のように、額が土につくほどに深く老審議官におじぎした。老審議官は沈黙のまま民衆を祝福すると、彼等の間を通って行った。」》

《『ドン・カルロス』では、フェリペ二世および大審問官の側にあるのは静かな平和である。王はポーザに言う――「おれのスペインを見渡してみよ。雲ひとつない平和のうちに、人民の幸福が花咲いているではないか」――このスペインの幸福はイワンが描き出す「我々は彼等に静かなおとなしい幸福を授けてやろう」という老審問官の言葉へと響いてゆく。》 

 ドストエフスキーの蔵書には、アメリカの歴史家ウィリアム・プレスコット『スペインの王フェリペⅡ世の治世の歴史 』のロシア語訳があった。ドストエフスキープレスコットの『メキシコの征服』、『ペルー征服』、『フェリペⅡ世の治世の歴史』を高く評価し、青年たちにプレスコットを読むよう助言した。『ドン・カルロス』で、ドン・カルロスは残酷な父王によって婚約者を奪われた悲劇の主人公だが、プレスコットではドン・カルロスは英雄ではなく病弱で、独立運動に共感したのも情動的であり、スペインの異端審問については、レコンキスタイスラムから取り戻したスペインにカトリック国を維持するためにはやむを得なかったとしている。

 

 バフチンは『ドストエフスキー詩学』で、ドストエフスキーのカーニバルを説明するに際して、ドストエフスキーが『ドン・カルロス』に親しんでいたことをそれとなく教えてくれる。

《『詩と散文によるペテルブルグの夢』(一八六一年)の中でドストエフスキーは、彼が作家活動を始めたばかりの頃に経験した、生の独特にして鮮烈なカーニバル的感触について回想している。それは何よりも、ありとあらゆる激しい社会的なコントラストを伴った、《幻想的で魅惑的な夢想》のような、《夢》のような、現実と突飛な空想の境界線上に立っている何ものかのような、ペテルブルグの感触であった。(中略)ドストエフスキーはこうした都市、および都市の群衆に対する感覚を土台として、『貧しき人々』を始めとした初期の文学構想が発生する様子を、もっとずっと激しくカーニバル化された画面の中に納めようとしている。

  こうした僕が目を凝らして見始めると、突然、何だか奇妙な人々がいるのに気づい た。彼らは誰もかも、奇妙で不思議な、まったく散文的な連中で、ドン・カルロスとかポーサではさらさらなく、どう見たって九等官のようでもあった。誰かがこの空想的な一団の陰に隠れていて、僕に向かってしかめっ面を見せながら、糸かぜんまいのようなものを引っ張ると、それら一団の人形が動くといったあんばいで、そいつがげらげら笑うと、みんなもげらげら笑うのであった!(後略)》

 

 

ポリフォニー

 ミハイル・バフチンは『ドストエフスキー詩学』の「第一章 ドストエフスキーポリフォニー小説および従来の批評におけるその解釈」を次のように始める。

ドストエフスキーに関する膨大な文献を読んでいると、そこで問題にされているのは長篇小説や短篇小説を書いた一人の作家=芸術家のことではなくて、ラスコーリニコフとかムィシュキンとかスタヴローギンとかイワン・カラマーゾフとか大審問官とかいった、何人かの作家=思想家たちによる、一連の哲学論議なのだという印象が生まれてくる。文学批評家の頭の中では、ドストエフスキーの創作は、彼の主人公たちが擁立するそれぞれ別個の、相互に矛盾した哲学体系に分裂してしまっているのである。作者自身の哲学思想は、そこではけっして中心的な位置を占めているわけではない。ドストエフスキーの声は、ある研究者にとっては彼のあれこれの主人公たちの声と融け合っており、別の者にとってはそれらすべてのイデオロギーの声を独特に総合したものであり、さらに別の者にとっては、結局はただ他の者たちの声によってかき消されてしまうのである。》

 これは、シラー『ドン・カルロス』にもあてはまらないだろうか。ふつうシラーは、初期(前期)のいわゆる「シュトルム・ウント・ドランク」を背景にして、二項対立、二極化、二律背反の人として理解されがちであるが、初期の最後に創作された『ドン・カルロス』は、はみ出している。それは『ドン・カルロス』創作の遅延、紆余曲折、およびシラー自身の迷い(そこから創作活動を中断しての歴史研究、カント読解につながってゆくのだが)によって発生したものではないのか。

 そしてまた、シラー『ドン・カルロス』を原典としたヴェルディのオペラ『ドン・カルロス』の(六人にも)分裂した主人公たち(ドン・カルロス、ポーザ候(ロドリーグ)、エリザベート、エボリ公女、フェリペ二世、大審問官)においても。

 

 バフチンは続ける。

それぞれに独立して互いに融け合うことのないあまたの声と意識、それぞれがれっきとした価値を持つ声たちによる真のポリフォニーこそが、ドストエフスキーの小説の本質的な特徴なのである。彼の作品の中で起こっていることは、複数の個性や運命が単一の作者の意識の光に照らされた単一の客観的な世界の中で展開されてゆくといったことではない。そうではなくて、ここではまさに、それぞれの世界を持った複数の対等な意識が、各自の独立性を保ったまま、何らかの事件というまとまりの中に織り込まれてゆくのである。実際ドストエフスキーの主要人物たちは、すでに創作の構想において、単なる作者の言葉の客体であるばかりではなく、直接の意味作用をもった自らの言葉の主体でもあるのだ。したがって主人公の言葉の役割は通常の意味の性格造形や筋の運びのためのプラグマチックな機能に尽きるものではないし、また(バイロンの作品におけるように)作者自身のイデオロギー的な立場を代弁しているわけでもない。》

 

 バフチンは同時代のドストエフスキー論を批判的に検討してゆくなかで、「劇」のポリフォニーについても言及している。

グロスマンの理解は、ドストエフスキーの対話を劇的な形式として捉え、あらゆる対話化がすなわち劇化であると捉えることを特徴としている。(中略)戯曲における劇的対話および物語形式における劇化された対話は、常に確固不動のモノローグ的な枠に収められたものなのである。劇においてはこのモノローグ的な枠はもちろん直接言葉では表現されないが、しかしまさに劇においてこそこの枠はとりわけ強固なものとして存在するのだ。劇の対話の応酬は、描かれた世界を分断することも多次元化することもない。それどころか対話が本当に劇的であるためには、描かれる世界が一枚岩の同一性を備えていることが必要なのである。劇においては世界は単一の素材からできあがっていなければならない。世界の同質性が少しでも緩むと、それだけ劇的性格は減退してしまう。劇の主人公たちが対話的に出会うのは、作者、舞台監督、観客それぞれの単一な視野の中においてであり、背景となるのは単一構造の世界なのである。あらゆる対話的な対立を解消してゆく劇の事件の概念も、純粋にモノローグ的な性格のものである。本物の多次元構造は劇を破壊してしまうだろう。なぜなら劇の事件が世界の単一性に依拠している以上、それは複数の次元を結びつけることも許容することもできないだろうからである。》

 と、劇そのもののポリフォニーについては否定的な見解である。さらにはルナチャルスキーが、ポリフォニーの分野におけるドストエフスキー先行者としてシェークスピアを提起しているとして、

シェークスピアポリフォニーについて彼は次のように述べる。

思想的傾向性を持たない(少なくとも非常に長いことそうみなされてきた)シェークスピアは、極度にポリフォニー的である。シェークスピアの優れた研究者、模倣者もしくは崇拝者たちは、彼が自分自身とは関係のない人物像を創造する能力を持つこと、しかもその人物像が信じられぬほどに多様であり、それぞれの人格が際限のない輪舞の中で見せるすべての発言や行動が、驚くべき内的な論理性を備えていることに対して、まさに驚嘆の念を表明してきた。彼に関するそのような言説は枚挙に遑(いとま)がないほどである。(略)

 シェークスピアに関しては。その戯曲が何らかの命題を証明することに捧げられたものだとは言えないし、またその劇世界の巨大なポリフォニーに導入された複数の「声」が、劇の構想や構成のために、それ自体としての価値を失っているとも言えないのである。

 ルナチャルスキーによれば、シェークスピアの時代の社会的条件もドストエフスキーの時代のそれと類似している。

  シェークスピアポリフォニーに反映された社会的事実とはどのようなものであっ たか? そう、それは無論のところ、ドストエフスキーの描いた現実と本質的に同じものだったのである。シェークスピアとその同時代の劇作家たちが生まれた時代には、ルネッサンスは多彩にきらめく無数の破片となって飛び散っていたが、それは無論、比較的穏やかな中世イギリス世界に資本主義が乱入した結果に他ならない。そこでもまったく同様に、大規模な崩壊、大規模な変動が生じ、それまでけっして相互に触れ合うことのなかった複数の社会生活様式や意識形態が、思いがけずも衝突し合うことになったのである。》

 バフチンは、シェークスピアの戯曲の中に、ポリフォニーの何らかの要素、その契機や萌芽を見出すことは可能であるが、一貫した目的を持って完成されたポリフォニーであるとみなすことは、次のような意味で不可能であるとした。

《その理由は第一に、劇というものがその本性からして、本当の意味のポリフォニーとは異質なものであるということだ。劇は多次元的ではあり得ても、多世界的ではありえない。すなわちただ一つの計量システムを許容するばかりで、複数のそれを許容できないのである。

 第二に、十全な価値を持つ複数の声の共存ということは、シェークスピアの創作全体に関しては言えるが、個々の戯曲には当てはまらないのである。個々の戯曲において十全な価値を持つ声は本来一つしか存在しない。しかるにポリフォニーが成立するためには、一つの作品の中に複数の十全な価値を持つ声が存在しなければならないのである。そのような条件が満たされたときに初めて、ポリフォニー的な全体の構築の原理が成立するからである。

 第三に、シェークスピアにおける複数の声は、ドストエフスキーにおけると同じ程度にそれぞれの世界への視点を表現してはいない。シェークスピアの主人公たちは、完全な意味におけるイデオローグではないのである。》

 と、バフチンポリフォニーの定義に厳格なあまり、ドストエフスキー崇拝のような堂々巡りの反論となっている。もう少し柔軟に、それこそ多面的に適用してもよいのではないか。それに、ドン・カルロス(1545~1568)が生きた時代はシェークスピア(1564~1616)の時代と隣接し、シラー(1759~1805)が作劇した「シュトルム・ウント・ドラング」の時代も、ヴェルディ(1813~1901)が作曲した時代(イタリア統一運動)もまた、大規模な崩壊、変動が生じ、複数の様式、形態が衝突し合っていた。

 

 ポール・ド・マンは『美学イデオロギー』に収められた「カントとシラー」講演で、カントの『第三批判』(『判断力批判』)受容をめぐり、カントの原典のもつ鋭さをわかりやすく説明し、敷衍しようと試行を企てることで、シラーのテクストのような退行がつねに存在する、とシラーを難じる。

《シラーの『美的教育にかんする書簡』のようなテクストや、カントに直接言及しているシラーの他のいくつかのテクスト、これらが母胎となって、ドイツにおいて――さらにはドイツ以外のところでも――一つの伝統が完全なかたちで誕生したのです。その伝統とは美的(エステティック)なものを強調し再評価するという方法にほかなりません。つまり美的なものを、範例的なものとして、範例的なカテゴリーとして、統合化のカテゴリーとして、教育のモデルとして、さらには国家のモデルとして掲げるわけです(筆者註:ド・マンは本講演をナチスゲッペルスの演説で結んでいる)。実際、シラーに特徴的な論調というのは、ドイツにおいて一九世紀をつうじて一貫して認められる論調となっています。たしかにそれはまず最初にシラー自身のうちに認められる論調でしょうが、しかしその後、ショーペンハウァーや初期のニーチェ――『悲劇の誕生』は論調その他の点で純粋にシラー的です――、さらにはある点でハイデガーのうちにも認められる論調でしょう。そうした論調とはつまり、芸術についてある種の価値評価を行うこと、芸術にア・プリオリに価値を認めることです。》

 

 シラーの二極対立について、ド・マンは、

《そこでは一組の二極対立、さまざまな二極対立がくっきりと印(マーク)され、たとえば<自然>と<理性>といった二極対立のように、二極のそれぞれが厳格に対立させられています。崇高が論じられる章節においては、二極対立の一方の極は<恐怖>、すなわち怯えること、<恐怖>におののくことに関わり、もう一方の極は<恐怖>とは正反対のもの、すなわち<平静>に関わることになるでしょう。(中略)恐ろしいものになりうるというのが<自然>の属性であり、平静であるというのが<理性>の属性です。<自然>がいつでも恐ろしいものであるとは限りませんが、しかし崇高な自然にかんするかぎり、恐ろしいものになりうるという点は<自然>の一つの属性、しかも必要不可欠な属性なのだ、といってよいでしょう。実際シラーは、崇高な自然は恐ろしいものでなければならないということを、とくに強調して論じています。》

《シラーの場合、われわれはむしろ鮮明な二極対立から出発することになります。つまり、シラーいうところの二つの「衝動」Triebeが、はっきりと真っ向から対立する関係に置かれている、ということです。この「衝動」という言葉は――Triebe〔衝動・欲動〕はフロイトでお馴染みの言葉でしょう――カントにはそれほど出てきません。カントは法Gesetzeについては語りますが、Triebeについて語ることはほとんどありません。しかしシラーではこの言葉は何度も繰り返し登場します。シラーが対置させる二つの衝動というのは、認識しようとする衝動、表象しようとする衝動(そしてシラーによれば、世界を変え自然を変えようとする衝動)と、事物を維持・保存しようとする衝動、事物が変化してもなおそれを変わらないままにしておこうとする衝動のことです。維持しようとする第二の衝動の例となるのは、自己保存をめざす欲望でしょう。人は死にたいとは思わない――つまり、人は自己保存によって自分自身を守り、事物を現状のままにとどめておこうと欲するものです。他方、認識しようとする衝動のほうは、変化と関係した衝動ということになります。》

ドン・カルロス』で言えば、戯曲第三幕第十場(オペラ第二幕第二場)でフィリップ二世王に熱弁をふるうポーザ候は、<自然>の極に立って、理想の実現を実践する変革行為(自己犠牲をもいとわない)によって<恐怖>を引き起こす存在である。一方、戯曲第五幕第十場(オペラ第四幕第一場)で、語り合う王と大僧正は<理性>の極にあって、<平静>を維持してきたと自負してみせる。

 

 シラー『ドン・カルロス』はシラーのカント研究以前の作品なので、カントからの影響は及んでいなかったことになるものの、ド・マンの次のような指摘は、カントに惹かれてゆく劇作家シラーの創作心情、実践的な信条を表現していて、カントの哲学的な企てに対するシラーの実践的・実用的な現実主義はド・マンの揶揄へと至る。

《シラーが次に取りかかるのが価値評価です。彼は実践的なものを理論的なもの以上に高く価値づけようとします。彼は理論的崇高について正しく理解していたはずなのに、それを完全に犠牲にするようなかたちで実践的崇高だけを論じようとするようになる。こうして彼はもともとカントにはなかったものをカントに付け加え、そのうえで自分が後から付け加えたものをカントに実際にあったものよりも重要なものとして価値づけることになるわけです。このような価値評価はいくつかの段階に分かれて出てきています。シラーを引用しておきましょう。「理論的崇高というのは、表象をめざす欲望、認識をめざす欲望と相反することを主張し、実践的崇高というのは、自己保存をめざす欲望と相反することを主張する。第一の場合には、われわれのもつさまざまな認識力が唯一のしかたで顕現させられることにたいして、異議が唱えられている。ところが第二の場合には、認識力がいかなるかたちで顕現するにせよ、そうした顕現を支える究極的な根拠となっている生存そのものが、攻撃の対象となっているのである」。(中略)

 シラーはこうした価値評価をさらに続けます。「それゆえわれわれの感性は、無限な存在物などよりも、脅威をもたらす存在物のほうにはるかに直接的に関わっていることになる」。――無限なものというのは理論的崇高のことでした――「(中略)すなわち、恐怖というのは美的(エステティック)な表象において無限よりもいっそう生き生きと快活にわれわれを動かすはずであり、したがって感動する力という点では実践的崇高は理論的崇高よりもかなり優位に立っている、ということである。これは経験によって確証されることでもある」。

 こうした一連の件りについて印象的なのは、それがじつに説得的であり、心理学的・経験的にきわめて理にかなったものである、ということです。しかし劇作家としてのシラー自身の関心に即してこうした件りを考えてみれば、これはもっともなことでもあります。つまり、「想像力という能力の構造とはなにか?」という哲学的な問題を問うのではなく、「どうやって私は受けのよい芝居(プレイ)を書いてゆくのか?」という実践的な問題を問うてみればよい、ということです。こうした問いが相当程度シラーの関心だったのです。実際それは無理もないことでした。無限のように舞台の上で容易には再現〔表象〕できない抽象観念を用いるよりも、恐怖を用いた方が、すなわち恐ろしい光景を用い、<自然>が直接的に脅威となるような光景を用いた方が、観衆により大きな効果がもたらされるだろう、というわけです。このように、驚くほど素朴で子供じみたことですが、シラーには超越論的な関心が完全に欠如しています。哲学的な関心が驚くほど欠如しているのです。》

 

 

<シラー『ドン・カルロス』>

 シラーがこの戯曲に着手することを決断したのは1783年3月、初めて完成をみたのが1787年2月であるから、構想から完成まで四年をかけている。

戯曲を書くにあたってシラーが最初に参考としたのは、主要資料であるサン・レアル『ドン・カルロスの歴史、スペインの王フィリップ二世の息子』で、ドン・カルロスとエリザベートとの近親相姦的な恋愛悲劇、フェリペ二世との家庭愛憎劇でもあった。次いで、ワトソン『スペインの王、フィリップ二世の王国の歴史』からはフェリペ二世の人間性と歴史事実を学んでいる。

 この初めの構想は四年の間に変化する。カルロスへの好感がポーザ候に移行し、家庭劇が政治劇へと変化したとされ、これは家庭劇か政治劇かの議論を長くまきおこすこととなった。

 エーミール・シュタイガーは『フリードリヒ・シラー』で、

《筋の展開はまことに停滞的であり、主人公は優柔不断である。執筆しているシラー自身もまたそうである。(中略)最初の三幕はいぜんとして、動きのない同じ状況のまわりを堂々めぐりしている。ポーザ候が手近な目標に注目していこうとついに決意するところからわかるように、彼の術策はじつに狡猾で手が込んでいる。したがってわれわれは繰り返し訝しい思いを抱くことになり、二人の親友の間で一体なにが起こっているのかを理解するには苦労がいる。最初の三幕は、シラー自身が『ドン・カルロスに関する書簡』で認めているように(二二―一三八)、実際、あとの三幕が見せるのとは違った展開を予想させる。詩人の気持のなかで、カルロスの株は下がり、ポーザ候の株は上昇する。それも『書簡』によれば、ポーザ候のほうがカルロスよりも成熟した人物像であるからというばかりではなく、無気力な大衆を動かし、つとに気の熟した行動への活力を吹き込むことができるからでもある。》

《初期作品ではシラーは、偉大によって卑小なるものを圧倒し絶滅することができるとまだ信じている。厭わしい現実においてではなく、劇場のなかで、つまりおのれの専制的な芸術が無理やりかきたてる、おそらくは一時的にしかすぎない急激な興奮のなかでは、それが可能である。その力をシラーは疑いはじめる。シラーはかつての情熱をもはや感ずることがないと、繰り返し嘆いている。そしてさらに困ったことには、一体なにが重要なのか彼はもはやわからなくなったようである。彼は唖然としている人々にもっぱらおのれ自身を押しつけるには齢(とし)をとりすぎているし、他方、おのれの人格だけに根拠づけられるわけではない文学のより高い意味を確実に掴むにはまだ自分にとらわれすぎている。それゆえ彼は、途方にくれてあちこち手探りで進み、憂鬱に沈み込むかと思うと、思いがけず奮い立つが、それとても、真に力溢れてというよりはむしろ発作的である。こうしたすべてが『ドン・カルロス』に反映している。作者自身が不統一の原因と見なしているその長い成立史にも(二二―一三八)、登場人物たちにもそれが現れている。たとえば王子は「シェイクスピアハムレットの魂」をもっているが、箍(たが)のはずれた世界を旧に復さねばならないとは思ってもいないし、ポーザ候はおのれの人生をすべての人々の政治的自由のために捧げつつも、すべての行動を全能の宗教裁判に監視され、その崇高な精神的高揚において無力である。王妃は美しき魂の自由を守ろうと努めながらも、手ずから陰謀の網の目を編むのに加担し、王は、猜疑の目で人間を見ていながらも、信頼を抱いて迎え入れたただ一人の人間が自分の信頼を悪用して手ひどく騙した後では、むろん、シラーの意思に反して、正しかったとされる。》

《たしかに『ドン・カルロス』は、出来事の徹底した動機づけ、ならびに筋の目標指向性という二つの基本的要請をどちらも満たしてはいるが、しかし第一の要請は作品の前半部においてしか満たされておらず、第二の要請は作品の後半部においてしか満たされていない。》

 シラーの不統一な状況、意思が思いがけずもポリフォニー的な劇を創造させてしまったのに違いない。

 

ヴェルディドン・カルロス』>

 ヴェルディのオペラ『ドン・カルロス』はフリードリヒ・フォン・シラー(1759~1805)の初期戯曲『ドン・カルロス』が原作である。

シラーは『群盗(ヴェルディ『群盗』の原作)』(1781)、『たくらみと恋(ヴェルディ『ルイーザ・ミラー』の原作)』(1783)、『ドン・カルロス』(1783~87)といった、いわゆる「シュトルム・ウント・ドランク」期(前期/初期)を過ごすと、『ドン・カルロス』執筆に触発されての歴史研究(『オランダ独立史』、『三十年戦争史』)及び1791年から3年間に及ぶカント研究(『優美と品位について』、『美的教育に関する書簡』、『素朴文学と情感文学について』など)に力を注いだ。

 その中断期を越えて、『ヴァレンシュタイン(ヴァインベルガー『ヴァレンシュタイン』の原作)』(1799)、『マリア・スチュアルト(ドニゼッティ『マリア・スチュアルダ』の原作)』(1800)、『オルレアンの少女(チャイコフスキー『オルレアンの少女』、ヴェルディ『ジョヴァンナ・ダルコ』の原作)』(1801)、『メッシーナの花嫁』(1803)、『ヴィルヘルム・テルロッシーニウィリアム・テル』の原作』(1804)を制作した(後期)。

 ほとんどの戯曲作品がのちにオペラ原作となっていて、上演頻度にばらつきはあるもののオペラ向きであることがわかる。シラーについて触れたことがないという人も、もしオペラ・ファンならば知らずに原作のオペラを楽しんでいたことになる。

ドン・カルロス』の経緯について、高崎保男『ヴェルディ全オペラ解説③』は、

《1864年夏、パリ・オペラ座の総監督に復帰したエミール・ぺランEmile Perrinからこの劇場のためにグランド・オペラの作曲を依頼されたヴェルディの最初の返答は「ノー」だった。「オペラ座は(音楽の)大きな百貨店にすぎない」とかねて悪口をいっていたヴェルディは、とくにこの劇場の運営能力のルーズさと上演機能の不備に我慢がならなかったらしい。「オペラ座に欠けているのは、Rhythm(リズム)とEnthusiasm(熱狂)なのだ」(パリの出版社エスキュディエ宛の書簡、1867)。(中略)

 ヴェルディが当時最も意欲を抱いていたのは、彼が十数年前からずっとあたためつづけてきたシェイクスピアの悲劇『リア王』のオペラ化だったが、オペラ座に要求される充分にスペクタキュラーな効果を満たし得る材料とは思えなかった。「『リア王』は崇高な主題であり、私の熱愛してやまぬ悲劇ですが、そこにはスペクタクルが欠けています。それに、歌い手をそろえることが難しい。とくに、コーデリアの役を歌うすぐれたソプラノを見出すことは不可能に近いでしょう」(1865年7月、ぺランへの手紙)。その他、フローベールの小説『サランボー』などいくつかの候補が次々に消えていったあげく、前記の『ドン・カルロス』がヴェルディの関心を強く惹きはじめる。「これは力強いドラマだと思います。あるいはいささかスペクタクル的な要素が不足しているとしても。最後の幕切れのところに、カルロス五世が出現するというのは、すばらしいアイディアです。フォンテーヌブローの場もおもしろい。私はシラーの原作と同様に、フィリップと大審問官(盲目で非常な高齢の老人)の短い対決のシーンとか、フィリップとポーザ候のシーンがたいへん気に入っています」(同)。》

 詩人ジョゼフ・メリーは《「できる限りシラーの原作に忠実に、ただスペクタクルとして必要な要素を充分に加える」という条件でリブレットの完成にとりかかる。メリーはイタリア音楽の深い理解者で、「イタリアこそ神の音楽院」といっていたほどの人だったが、それから間もなく、老齢と病気のために世を去ってしまった。残された仕事を引き継いで完成させたのは、メリーの秘書をつとめ、また自らもジュール・デュプラのオペラのためにシラーの戯曲『コリントの花嫁』Die Braut von Korinthをもとに台本を書いた経験をもつカミーユ・デュ・クロールであった。》

 原作との大きな違いということになると、

《原作では最後の結末(サン・ジュスト修道院ではなく、王妃の居室)は、エリザベートドン・カルロスが最後の別れを告げたとたんに、国王フィリップ二世が入ってきて、カルロスの腕をつかみ、大審問官に向って冷然と「私は私の義務を果した。あなたもその義務を果されたい」と述べて息子を引き渡し、王妃はそのまま絶命するところで終っている。オペラではそれを、先帝カルロス五世の霊によってドン・カルロスが救われるかのように改められた。

 この超現実的な結末に関しては、さまざまな解釈の余地があるが、メリーとデュ・ロークルは、グルック以来フランス・オペラでしばしば愛用されてきたDeus ex machina(機械仕掛の神、の意。複雑にもつれあったドラマを一挙に解決に導くような、思いがけない出来事の出現を指す)の手法を応用したと考えるのが最も自然だろう。ヴェルディ自身はこの超現実的な結末がたいへん気に入っていたことは、数多い彼の書簡からもうかがえる(第Ⅲ幕フィナーレできこえる「天の声」は、いわばこの超現実的結末のための伏線に当る)。》

 

 よく知られているように、オペラ『ドン・カルロス』は主として上演時間が長すぎるという問題から、さまざまな改訂・変更が加えられて、諸エディションが存在することとなった。

①5幕フランス語版(1867年版)

②5幕イタリア語版(1872年版、ナポリ版)

③「フォンテーヌブローの森の場」などを削除した4幕イタリア語版(1883年版、ミラノ版)

④③に「フォンテーヌブローの森の場」を加えて構成した5幕イタリア語版(1886年、モデナ版)

現在、多くは③もしくは④が演奏されるが、もともとの旋律がフランス語にあっていることから①も演奏されるようになっている。ここでは、①の5幕フランス語版をもとに戯曲とのおおまかな異同を考察する。

 

 オペラではスペクタクルの観点からいくつかの場面が追加され、わかりやすさから(政治的な観点の希薄化、停滞していると指摘されたポーザ候、エボリ公女の手紙による騙し合いの簡略化)原作の場面を前後させ、統合化している。

・オペラ第1幕 フォンテーヌブローの森  (「 」はアリア)

  ドン・カルロスとエリザベートのめぐり逢い、「フォンテーヌブロー 広大な寂しい森」⇔原作なし

・第2幕第1場 サン・ジュスト修道院の内部

  修道士登場(先帝カルロス5世の声)⇔原作なし

  ドン・カルロスの嘆き、「永遠に失ってしまった」⇔原作なし

  ドン・カルロスとポーザ候の再会、「友情のテーマ」⇔原作第1幕第2場、第9場  

・第2幕第2場 修道院の前庭

  エリザベート王妃、ポーザ候、エボリ公女の会話⇔原作第1幕第4場    

  王妃とドン・カルロスの出会い⇔原作第1幕第5場

  フィリップ二世王の登場と王妃の嘆き、「泣かないで友よ」⇔原作第1幕第6場

  王とポーザ候の対話⇔原作第3幕第10場

・第3幕第1場 王宮の庭園

  ドン・カルロスとエボリ公女の会話⇔原作第2幕第8場

  ポーザ候の割り込み⇔原作第4幕第17場

  ドン・カルロスとポーザ候の手紙の受け渡し⇔原作第4幕第5場

・第3幕第2場 聖堂の前の広場

  異端者たちの処刑⇔原作なし

  ドン・カルロスとフランドルの使者たちによる直訴、「私が生き返る時が来たのです」⇔原作なし

  王の命でポーザ候がドン・カルロスを逮捕させる⇔原作第4幕第16場

  天よりの声⇔原作なし

・第4幕第1場 王の書斎

  王の苦悩、「ひとり寂しく眠ろう」⇔原作第3幕第1場

  王と大審問官(大僧正)の対話、「わしは王の前におるのか」⇔原作第5幕第10場

  宝石箱を奪われた王妃の訴え⇔原作第4幕第9場

  エボリ公女の懺悔、「呪わしき美貌」⇔原作第4幕第19場、第20場

・第4幕第2場 ドン・カルロスのいる牢獄

  ドン・カルロスの牢獄へポーザ候が来るが狙撃され、「わが最後の日」⇔原作第5幕第1場~第3場

  王はドン・カルロスに剣を返す、暴動が起きる⇔原作第5幕第4場、第5場

  大審問官を前にして暴徒はひれ伏す⇔原作なし

・第5幕 サン・ジュスト修道院

  王妃の嘆き、「世のむなしさを知る神」⇔原作なし

  ドン・カルロスと王妃の密会⇔原作第5幕第11場(大詰め)

  王と大審問官の登場⇔原作第5幕第11場(大詰め)

  修道士(カルロス5世の亡霊)がドン・カルロスを引きずって行く⇔原作なし

 

 重要なのは、シラー『ドン・カルロス』第5幕第10場と、ヴェルディドン・カルロス』第4幕第1場の差異、改変である。大審問官がかねてからポーザ候を監視していたという台詞が削除されてしまった。

 シラーでは、

《 第十場

 王。大僧正。 (長き間)

大僧正  わしは陛下の御前(ごぜん)にたっているのか。

  そうじゃ。

大僧正  こういう時が来ようとは、わしは思いがけなんだが。

  己はフェリーペ王子の昔に返って、師の坊の助言が求めたいのじゃ。

大僧正  こなたの父者(ててじゃ)のカルル殿もわしの教え子であったが、わしに助言を求めたことはなかったがのう。

  それだけお仕合わせであられたのじゃ。大僧正。実は己は、殺人の罪を犯して、心の安まる時がないのじゃ――。

大僧正  なんでまた殺人などをなさったのか。

  前代未聞の詐欺のためじゃ――

大僧正  それはわしが知っている。

  どういう事をご存知なのか。何時(いつ)。誰の口から。

大僧正  何年も前からじゃ。こなたが漸く日の入りから知られた事を。

  (不信気に。)それでは、あの男のことをこなた方は前から知っておられたのか。

大僧正  あれの生涯の一部始終は、サンタ・カサ(訳注:宗教裁判所本部)の黒表の中に載せてあるのじゃ。

  それでも、あれが自由の行動をしておったのは。

大僧正  なに。綱の先を飛び廻っていたに過ぎぬ。あれにつけて綱は長かったが、決して切れぬものであったのじゃ。

  彼奴は早くに己の領国外に出ておったが。

大僧正  どこにおろうと、そこにはやはりわしもおったのじゃ。》

 それから大僧正は王が異端者ポーザ候を宗教裁判所の手に委ねる前に勝手に殺害してしまったことを詰(なじ)る。ついで王は謀反を企てているカルロス王子を手に掛けても信仰に背かないか、救われるか問いかける。

 

 一方、ヴェルディでは、ドン・カルロス王子を殺しても免罪してくれるかを問いかけた後に、

大審問官  ではわしから話そう 王よ!

この美しい国では これまで異端者が支配したことはない

だが一人の男が 神の館を侵そうとしておる

そ奴は 王の友にして忠実な腹心であるが

王を深みへと引き込む誘惑の悪魔なのじゃ

あなたがなじっておる王子の企みなど

そ奴の罪に比べればまるで子供のいたずらじゃ

そしてこのわしは 審問官として振り上げてきたのだが

異端の罪人どもの上に この剣を持った手を

この世の権力者に対しては わが怒りを忘れて そ奴を

のうのうと見逃しておったようだ…そしてあなたもじゃぞ!》

とあって、かねてから監視していないばかりか、「のうのうと見逃しておったようだ」という体たらくだ。そして大審問官はポーザ候を自分たちに引き渡すよう要求する。

 これにともなって戯曲からオペラでは、全体を統一化、秩序化していた神のごとき視線・眼が、大審問官(大僧正)による宗教(神)からカルロス5世の亡霊へと変幻してしまう。

 

 また、シュタイガーは『フリードリヒ・シラー』で次のようにも指摘した。

《しかし、詩人の念頭に浮かび、かつ詩人が無口な言葉で聴衆に注ぎ込む術を心得ている主人公のこの究めがたさに対応するのが、われわれが王子とともに入っている不透明な世界である。われわれは彼の敵対者たちをどう評価してよいのか、決して正確にはわからない。(中略)アルバ公は恐ろしい人物ではあるが、恐れを知らぬ非の打ちどころのない騎士であり、フィリップ王は玉座の高みにありながら寒さに震えている人物である。大審問官さえも、われわれは戦慄と少しばかりの憐憫と尊敬の混じった眼差しで眺めるのだが、それは彼自身が職務の強要する恐ろしい業を知っており、それに耐えているからである。(中略)

 こうした登場人物に相対すると、われわれは判断を差し控えてしまう。そして、それを許すことに傾きがちである。われわれが許すのは、彼らを理解するからであり、理解するのは、もはやおのれ自身ばかりに依拠せずに、その出自と環境の刻印を多様なかたちで受けている人物像を認めるからであり、また、荘厳でもあり、かつまた息苦しくもあるほとんど克服しがたい伝統というものが、いたるところで同時に作用しているからである。すなわち、スペイン王国の位階制度であり、その背後には教会があり、起居動作の一切を洩れなく規定するばかりか、それとともに感情をも規定する儀式典礼である。換言すれば、これらの登場人物、そして彼らの行動や振舞いは、いまや徹底的に動機づけられているのである。》

さらには、戯曲における王と大審問官への理解と同情を呼び起しもした台詞を、歴史上も政治的にも最重要な人物アルバ公をオペラでは完全に消し去ったように、歌詞から削除した。

それは、戯曲では王と大僧正との会話であり、

大僧正  一体あれがこなたの何者であったのか。あれがなんぞ変った事でもこなたの目に掛けたのか。あれたちの改革熱というものが、こなたにはそのように珍しいものであったのか。世界を改善するとか言うて咆える詞が、こなたの耳にはそのように聞き慣れぬものであったのか。こなたの信念の建物が、詞ぐらいでぐらついてしまうなら、――一体こなたは、数万の血迷うた者どもを、それも只事にではない、火炙りの薪の上に載せようとする宣告書に、どのような顔をして署名さるる。それを聞かせてもらおう。

  己は人間が一人(ひとり)欲しかったのじゃ。己の周囲(まわり)におるドミンゴその他の輩は――

大僧正  なんのために人間が。人間はこなたに取っては、ただ数じゃ。そのほかには何ものでもない。わしは頭(かしら)に霜を置く教え子に、王者の術を復習させんではならぬのか。地上の神というものは、手に入り兼ねる惧(おそれ)のあるものは欲しがらぬことを覚えねばならぬものじゃ。――こなたがおめおめと人の情を欲しがっては、自分と対等の人間が世の中におることを白状することとなるのじゃ。対等の人間に向って、王者の威をどうして示すおつもりか。

  (どっかと長椅子に座す)己は小さい人間じゃ。それは己がよう感じている。――こなたは造られた者に向って、造り主でなければできぬような事を望んでおいでなさるのじゃ。

大僧正  いや、陛下。そうではない。わしの目は誰にも昏まされぬ。こなたの胸中もわしが見抜いている。こなたはわしらの手を脱れようとなさったのであろうが。宗教裁判の鎖をこなたは重荷にして、それを脱れて、憚るもののない一人者(いちにんしゃ)になろうとなさったのであろうが。(中略)――今日(きょう)、もし、わしがこなたの前に立たなんだら、神に誓うて、明日(あす)はこなたがわれらの前に立つようになったであろう。

  怪しかるお詞じゃ。大僧正。少し仰しゃることをお控えなされい。あまりといえば己を蔑(なみ)するお詞じゃ。》

 地上の人間は「数」として地上の神たる王(カントローヴィチ『王の二つの身体』の、感情に動かされる自然的身体を捨てた、民を統治する政治的身体)に監視され、その王は神の代理人たる大審問官(大僧正、宗教裁判長)に監視されている。

 

 戯曲では「大詰め」に王の次の台詞をもって幕となる。

  (冷やかに、徐ろに大僧正に向い)大僧正。己の用は果した。今度はこなたの用を果されい。

(入る。)                      (幕)  》

 

 しかしオペラでは、その後に修道士(カルロス(シャルル)5世の亡霊)が現れる(高崎保男によれば、《〔フィナーレ Final〕最後に、ドン・カルロスを救出する人物も、Le Moine(修道僧)ではなく、カルロス五世Charles-Quint(Le Moine)とスコアに明記されて、よりリアルな扱いになっている。現行版では「修道僧」だが、最後のト書の部分で、ヴェルディ自身のペンでLe MoineをCharles Vと書き直している。》)。

 この場面は、常にプロダクション毎にさまざまな演出が施され、多様な解釈(先帝の亡霊による救済/冥界に引きずり込まれる/等々)を生み出している。

 王によっても、大審問官によっても、世界は二項対立的に閉じられることなく、カルロス5世の亡霊が出現することで、いっそうのポリフォニーとして幕が下りる。

ドン・カルロ  (絶望して)ああ!神が私の復讐をするだろう!

血にまみれし審問所は神の手で打ち破られるのだ!…

ドン・カルロスは身を守りつつシャルル五世の墓の方に戻って行く すると扉が開き 修道士が現れる

ドン・カルロスを彼の腕の中に引き寄せマントで覆い隠す)

修道士  息子よ この世の苦しみは

この場所にまでも追って来る

そなたの望んでおる平安は

神によってのみ与えられるのだ!

大審問官  皇帝の声だ!

合唱  あれはシャルル五世だ!

フィリップ  (おののいて)わが父上が!

エリザベート  ああ神さま!

(修道士は回廊の中を気を失ったドン・カルロスを引きずって行く)

修道士の合唱  (チャペルの中で)シャルル五世 かの偉大な皇帝も

今や灰に 塵になりぬ   

                      (幕)  》

                             (了)                                        

      *****引用または参考*****

*シㇽレル『スペインの太子 ドン・カルロス』佐藤通次訳(岩波文庫

*トオマス・マン『トニオ・クレエゲル』実吉捷郎訳(岩波文庫

ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟原卓也訳(新潮文庫

*『ドストエフスキー全集20 書簡1(父母兄弟への手紙)』工藤精一郎訳(新潮社)

*『ドストエーフスキイ全集18 書簡 下』米川正夫訳(河出書房新社

ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟亀山郁夫訳(光文社古典新訳文庫

ミハイル・バフチンドストエフスキー詩学』望月哲男、鈴木淳一訳(ちくま学芸文庫

*井桁貞義『ドストエフスキイ 言葉の生命』(群像社

*オペラ対訳プロジェクト「ドン・カルロス」(フランス語5幕版)https://w.atwiki.jp/oper/pages/357.html

*オペラ対訳プロジェクト「ドン・カルロス」(イタリア語5幕版)https://w.atwiki.jp/oper/pages/951.html

*加藤浩子『オペラでわかるヨーロッパ史』(平凡社新書

*高崎保男『ヴェルディ全オペラ解説③』(音楽之友社

*オットー・ランク『文学作品と伝説における近親相姦モチーフ 文学的創作活動の心理学の基本的特徴』前野光弘訳(中央大学学術図書)

*エーミール・シュタイガー『フリードリヒ・シラー』神代尚志、森良文、吉安光徳、他訳(白水社

*ランケ『ドン・カルロス 史料批判と歴史叙述』祇園寺信彦訳(創文社

*梅澤知之他編『仮面と遊戯 フリードリヒ・シラーの世界』(鳥影社・ロゴス企画)

*ジョゼフ・ペレス『ハプスブルク・スペイン黒い伝説 帝国はなぜ憎まれるか』小林一宏訳(筑摩書房

*2020/2021シーズンオペラ・プログラム『ドン・カルロス』(小畑恒夫、岸純信、伊東直子、加藤浩子、丸本隆、他)(新国立劇場

*青木敦子『シラーの「非」劇 アナロギアのアポリアと認識論的切断』(哲学書房)

ニーチェ悲劇の誕生西尾幹二訳(『世界の名著 ニーチェ』に所収)(中央公論社

ポール・ド・マン『美学イデオロギー上野成利訳(「カントとシラー」所収)(平凡社

*E・H・カントローヴィチ『王の二つの身体』小林公訳(ちくま学芸文庫

文学批評 ナボコフ『フィアルタの春』を読む――細部と記憶の螺旋

 

 

                                       

 ナボコフ自身もっともお気に入りの短篇小説だという『フィアルタの春』は、ロシア語で書かれた(1936)(のちに自ら英訳(1956))最後の小説だが、比較的初期の作品ながら、すでにナボコフ作品の特徴、秘密の種をほぼすべて持ち合わせている。

 

 ナボコフ『賜物』の第3章で主人公フョードルは家庭教師先に向かう途中で、自分の「思考の多面性」という能力を発揮できない現状を嘆く。

《だって、ぼくには自分の言葉があって、それを使えばどんなものでも――ブヨだって、マンモスだって、千種類の雲だって――創り出すことができるのに。一万人、十万人、いや、それどころか、ひょっとしたら百万人のうち、自分一人にしか教えられないこの上なく神秘的で精妙なこと、それを教えられたらいいのに。例えば、思考の多面性について。それはこういうことだ。君はある人間を見つめると、その人間の姿が中まで水晶を通すようにくっきりと見えてしまう、まるで自分で息を吹き込んで作ったガラス製品みたいに。ところがそれと同時に、この澄みきった境地をまったく邪魔することなく、どうでもいいような細部に気がつくのだ――例えば、電話の受話器の影がちょっと押しつぶされた巨大な蟻に似ているとか。そして(このすべては同時に起こるのだが)、第三の思考が頭をもたげ始める。それはロシアの小さな駅でのよく晴れた夕べの思い出だったりする。つまり、誰かと会話をしているとき、外面では自分自身の言葉の一つ一つ、内面では相手の言葉の一つ一つを捉えてその周りを駆けまわっているのに、その会話とは合理的な関係が一切ないことを何やら、ふと思い出してしまうということだ。》

 

 若島正が「ナボコフの多層思考――短篇「フィアルタの春」を読む」で、『賜物』に書かれた「多層思考」(=「思考の多面性」)について論考していて、この部分の重要性指摘の慧眼は眼を見張るものがある。《第一は、今目にしている人物のレベル、第二は今ふと気がつく物の細部のレベル、そして第三は過去の記憶のレベルである。》

 しかし、『フィアルタの春』のクライマックス場面への適用については残念ながら読みと詰め手を間違えているのではないか。ナボコフの言葉、「合理的な関係がいっさいない」と書いていることを鵜呑みにするわけにはいかないと、若島の論理によって深層部で照応させるのだが、どうにも心と知に響かない。ナボコフ読解に時に必要なこととはいえ、うがちすぎであろう。ここでは詳述を避けるけれども、石の温かさとニーナの肉体が持つぬくもり、雪景色の中の燃えるように熱かった首筋を照応させ、銀紙の輝き、コップの照り返し、海のきらめきと曇りがちだったのに太陽が照りだしたことを照応させて、ニーナは肉体も心も温かく、誰とでも寝る、身持ちが悪いということではなく、心の広さ、利己心のなさを表していることがこの短篇を支える論理である、と多層思考を適用させるのは無理がある。ナボコフの主義主張を誰よりもよくわかっているはずなのに(わかりすぎているからこそ、ナボコフの言葉に単純に騙されまいとするのか)、ナボコフがインタヴュー、小説、講義の中で、ウィーンの妖術師と嫌ったフロイトの夢判断・精神分析のようであり、かつまた自分の小説は二流作家トーマス・マンと違って「社会的な目的も道徳的メッセージもない」という主義にも反している。

 頭で読書をするのではなく、ぞくぞくする背筋で、多層思考におけるモザイク模様の細部と記憶の「合理的な関係がいっさいない」にも関わらず胸をときめかせ、締めつける精妙さ、芸術的な悦びを享受しながら、クライマックス場面をはじめ、いくつかの場面を精読すれば、つねにこの多層思考(思考の多面性)があり、さらには小説全体の構造が細部の喚起力と記憶の夢見による螺旋になっていることに気づくであろう。

 

『フィアルタの春』で読みとるべき「細部」とは以下のようなことだ。

ナボコフナボコフロシア文学講義』にその例が述べられている。

トルストイアンナ・カレーニナ』第一編第九章のスケートの場面は詩的比喩の宝庫だ。(この講義でナボコフが引用する文章は、この小説のガーネット訳にナボコフが手を加えたものであり、教室での朗読に適するよう、多少省略したり、言い換えたりしてある――編者。なお、ナボコフはガーネット訳をきわめて貧弱だとし、ところどころで誤りを指摘、訂正している。[ ]はナボコフの註記)。

《キティの従兄(いとこ)のニコライ・シチェルバツキーは、短いジャケツに細いズボンという恰好で、スケート靴のままベンチに腰を下ろしていたが、リョーヴィンの姿を見つけると大声で呼びかけた。

「よう、ロシア一のスケーター! いつ来たんです。すばらしい氷ですよ、さあ、早くスケートをお着けなさい」

「ぼく、スケートがないんですよ」リョーヴィンは答え、彼女の前でそんなに大胆かつ無造作な態度をとるニコライにびっくりしながらも、彼女のほうは見ずに、しかも一刻たりとも彼女の姿を視界から見失わなかった。太陽が近づいて来るのが感じられた。(中略)彼女の滑り方は全く危なげであった。彼女は紐でつるした小さなマフから両手を出して、万一に備えていたが、リョーヴィンの方を向いて、彼の姿を認めると、自分の臆病を恥じるような笑みを見せた。カーブが終ると、弾力のある片足で一蹴りして、まっすぐに従兄の方へ滑りこんで来た。そして従兄(いとこ)の手につかまると、笑顔でリョーヴィンに会釈した。彼女はリョーヴィンが思っていた以上に美しかった……だが、予期せぬことのようにいつも彼を驚かすのは、彼女のつつましい、落ち着いた、誠実そうな目の表情だった……

「もうずっと前から来ていらして?」キティは彼に手を差しのべながら言った。「あら、すみません」と付け足したのは、マフから落ちたハンカチを彼が拾って渡したのだった[トルストイは作中人物を鋭く監視する。作中人物を喋らせ、動かすが、その言葉や行動は、作者が作った世界のなかでそれ自体の反応を生み出す。このことがお分りだろうか。よろしい]。

「あなたがスケートをなさるなんて、知りませんでした。とてもお上手ですね」

キティは注意深く彼の顔を見つめたが、それはなぜ相手がどぎまぎしたか、その原因を見きわめようとするふうだった。

「あなたにほめていただくなんて、光栄ですわ。だって、こちらでは今でも、あなたがすばらしいスケーターでいらしたという評判ですもの」黒い手袋をはめたかわいい手で、マフに落ちた細い霜の針を払いおとしながら、キティは言った[再びトルストイの冷徹な目]。

「ええ、昔はずいぶん夢中になって滑ったものでした。なんとか完璧を期そうと思いましてね」

「あなたは何事も夢中になってなさるのね」キティは微笑しながら言った。「お滑りになるところを、ぜひ拝見したいわ。さあ、スケートをおつけになって。ご一緒に滑りましょうよ」

《一緒に滑る? そんなことがあっていいものだろうか》リョーヴィンはキティの顔を眺めながら思った。

「すぐ、はいて来ます」彼は言った。

そしてスケートをつけに行った。》

 この「マフに落ちた細い霜の針」こそ、ナボコフが重視した形象の「細部」である。ナボコフは「注釈ノート」に、「(40)スケート場」の註釈に続いて、次の註釈を加えた。

《(41)雪の重みで巻毛のような枝をすべて垂らしている庭園の白樺の老樹は、新しい荘重な袈裟で飾り立てられたように見えた。

 すでに述べたように、トルストイの文体は、実用的(「寓意的」)比喩が豊富である一方、主として読者の芸術的感覚に訴える詩的直喩や隠喩がふしぎなほど見あたらない。この白樺の木は例外である(少し先に「太陽」や「ばら」の比喩が出てくる(筆者註:《太陽が近づいて来るのが感じられた》、《リョーヴィンにとっては、この群衆の中から彼女を見つけることは、刺草(いらくさ)の中からばらの花を探すように、いとも容易だった》)。これらの老樹はまもなくキティのマフの毛皮の上に少量の輝かしい霜の針を落すだろう。

 リョーヴィンが求婚の最初の段階でこの象徴的な白樺の老樹を意識したことは、この小説の最後の部分で激しい夏の嵐に悩まされる別の白樺の林(それについて最初に語るのは兄のニコライである)と比較してみれば、たいそう興味深い。》

 ローマン・ヤコブソンが、「トルストイはアンナの自殺を描こうとして、主に、その手提について書いている」と換喩的方法の例としてあげたアンナの赤い手提の描写は、「細部」の力による喚起力を示している。

《細部の組合せは官能的な火花を発するが、その火花なしでは一冊の書物は死んだも同然である》。

 ナボコフは、一八七〇年代の夜行寝台車の内部をスケッチして見せ、赤い手提に注目する。片方が破れた手袋、マフに落ちた細い霜の針、分娩に邪魔なイヤリング、白い毛糸の目をひと目ひと目ひろうきゃしゃな手首、などトルストイはどんな仕草も見逃さず(しかも作者の姿を見せず神のごとく偏在して)素晴らしい細部を物語に織りこんだ。

《アンナの赤い手提は、トルストイがすでに第一篇第二十八章で描写している。「玩具のような」「ごく小さな」と形容されたその手提は、しかし次第に大きくなる。ペテルブルクへ帰る日、モスクワのドリーの家を出ようとして、アンナは奇妙な涙の発作におそわれ、上気した顔を小さな手提に押しあてる。このとき手提に入れたのは、ナイトキャップや、バチストのハンカチなどである。この赤い手提を再び開くのは鉄道の車輛に落ち着いてからで、そのときは小さな枕や、イギリスの小説や、そのページを切るためのペーパーナイフなどを取り出し、そのあと、赤い手提はかたわらでうたたねする女中の手に預けられる。四年半後に(一八七六年五月)アンナが汽車に跳びこんで命を絶つとき、この手提は彼女が最後に投げ捨てる品物であり、そのときは手首から外そうとして少し手間どるほどの大きさである。》

 ナボコフはこういった細部を読むことにこそ小説の愉楽があるとしたが、『フィアルタの春』には「細部」が髪飾りのように散りばめられていることに注意しながら読み進めよう。

 

 ついで、「螺旋」とは、ナボコフ『初恋』(自伝的小説『記憶よ、語れ』に組み込まれた)の末尾の、細部(『ロリータ』の萌芽)と記憶の溶けていく螺旋イメージを連想するのがよい。

《私たちが帰途の旅を続ける途中で一日だけ滞在したときには、もうコレットはパリに戻っていて、そこの小鹿公園で、冷たい青空の下、私はコレットと最後の再開をした(きっと双方の家庭教師が気をきかしてくれたのだろう)。彼女はフープとそれを廻す短い棒を持っていて、身につけているなにもかもが秋物で、パリっ子らしい、都会の女の子ふうのとてもお洒落で似合う服装だった。彼女が女家庭教師から受け取って弟の手の中にすべりこませたお別れの贈り物は、砂糖をまぶしたアーモンドの小箱で、それは私のためにだけくれたはずだったが、たちまち彼女は離れていき、きらめくフープを突っつきながら光と影の中を抜け、私が立っているそばにある枯葉がつまった噴水のまわりをくるくるくるくると廻った。その枯葉は私の記憶の中では彼女がつけていた靴と手袋の革と混じりあっていて、そこにたしか、彼女の衣裳のどこかに(もしかするとスコットランド帽についているリボンか、それともストッキングの模様か)、ガラスのおはじきに封じこめられた虹色の螺旋をそのとき連想させたものがあったのを憶えている。私は今でもその虹のかけらを手に持っているような気がして、それをどこにぴったりはめこんだらいいのかわからないでいるうちに、コレットはフープと一緒にさらに速く私のまわりを走り、環状になった低い塀の交差アーチ形が砂利道に投げかける細い影の中にとうとう溶けていってしまう。》

 

 螺旋ということでは、『賜物』第1章に登場する、鏡と樹影をめぐる主人公の視線と思考の螺旋的な動きとその文体がナボコフの特徴である。

《角の薬局に向かって道を渡るとき、彼は思わず首を回し(何かにぶつかって跳ね返った光がこめかみのあたりから入ってきたのだ)、目にしたものに対して素早く微笑んだ――それは人が虹や薔薇を歓迎して浮かべるような微笑だった。ちょうどそのとき、引っ越し用トラックから目もくらむような平行四辺形の白い空が、つまり前面が鏡張りになった戸棚が下ろされるところで、その鏡の上をまるで映画のスクリーンを横切るように、木々の枝の申し分なくはっきりした映像がするすると揺れながら通り過ぎたのだ。》

 

 少し脱線するようではあるが、ナボコフにおける「鏡」「ガラス」「影」「窓」は同じようなテーマ群にある。

 ナボコフの短篇小説にもあった(はず)という、主人公の樹影の記憶を題材に丸谷才一は『樹影譚』を書いた。そのナボコフの短篇の実在性に関して村上春樹が『若い読者のための短編小説案内』で推論し、三浦雅士は『出生の秘密』でとりあげた。対してナボコフの樹影にまつわる小説としては『ベンドシニスター』に半分ほど似たような記述があると秋草俊一郎が指摘した、《それはあたかも、ある土地に生えている樫の樹(以下、固体樹Tと呼ぼう)が、その樹独特の影を、緑と褐色の地面に投げかけているところを見かけた人物が、自宅の庭に、おそろしく手の込んだ装置を組み立てはじめるようなものだ。その装置は、ちょうど、翻訳者の霊感や言語が原作者の霊感や言語とは違うように、それ自体としては特定のいかなる樹とも似てはいないが、さまざまな部品や、照明効果、そよ風を発生させるエンジンといったものの精妙な組合せによって、完成の暁には、固体樹Tの影とまったく同じ影を投げかけるようになる――もとの樹と同じ輪郭が同じように変化し、同じ二つ、あるいはひとつの斑点が、一日の同じ時刻、同じ場所にちらちらと揺れるのだ。》

 自作品の翻訳者(母語ロシア語から亡命したアメリカの英語へ)でもあったナボコフならではの翻訳論、技法論ともいえるもので、記憶を呼び起こすトラウマ的な樹影(たしかに『ベンドシニスター』の冒頭と末尾にも樹影(そして水溜りに映る影)のイメージがでてくるが、過去・記憶への円環的な技法の梃とはなっていない)とは違っているだろう。

 ついでにいえば、ナボコフ『青白い炎』の詩の第一行は『わたしは窓ガラスに映った偽りの青空に/命を絶たれた連雀の影だった。』である。

 

『フィアルタの春』を読む(以下、引用はナボコフ『フィアルタの春』(『ナボコフ短篇全集Ⅱ』に所収のロシア語版)沼野充義訳からとし、適宜『ナボコフの一ダース』に所収の英語版(中西秀男訳)を参照した)。

 

《フィアルタの春は曇っていて、うっとうしい。何もかもがじめじめしている。プラタナスのまだら模様の幹も、トショウの茂みも、柵も、砂利も。青みがかった家々は、やっとのことで立ち上がり、手探りで支えを捜そうとしている人たちのようだ。彼方には、その家並みをでこぼこで不揃いな縁取りにして、青白いかすかな光に照らされた聖ゲオルギー山のおぼろな輪郭が見えているのだが、その姿が絵葉書のカラー写真とこれほど似ていない季節は他にないだろう。この山の絵葉書は(ご婦人がたの帽子や、辻馬車の御者たちの若々しい姿から判断して、写真はおよそ一九一〇年頃のものではないか)、紫水晶(アメシスト)の結晶を歯のようにむきだして見せる石と貝殻が織り成す海のロココ美術の間にはさまれ、固まりついて動かなくなった回転木馬のような売り台の上で押し合いへし合いしていて、旅行者がやって来るとすかさず出迎えてくれる。空気は暖かく、焦げ臭いにおいを漂わせている。海は雨をたらふく飲んで塩気も薄れ、くすんだオリーブ色になった。波はもっそりしていて、泡立とうにも、決して泡立つことができない。

 まさにそんなある日、ぼくはまるで目そのものになったかのように開く――町の真ん中の急勾配の坂道で、いっぺんにあらゆるものを取り込みながら。絵葉書の売り台も、珊瑚でできたキリスト磔刑像を並べたショーウィンドウも、片隅が濡れて舐め取られたように壁からはがれている巡業サーカス団のポスターも、青みがかった灰色の古い歩道に落ちた、まだ未熟で黄色いオレンジの皮も。歩道のあちこちには、まるで夢を透かして浮き出てくるかのような奇妙なモザイク模様の名残が残っていた。ぼくはこの小さな町が好きだ。それは、この名前の響きのくぼ地に、あらゆる花のうちでも一番ひどく踏みしだかれてきた小さく暗い花の砂糖のように甘く湿った匂いが感じられるからだろうか、それともヤルタという響きが調子っぱずれに、しかしはっきりと聞こえるからだろうか。あるいはこの町の眠たげな春がとりわけ魂に香油を塗りこむような作用を及ぼすからなのか。わからない。》

「まるで目そのものになったかのように開く」のは主人公だけではなく、読者もまた「目」となってシネマ的な映像と色彩を甘受する、感官を刺激されて記憶の中に揺らめく細部……「プラタナスのまだら模様の幹」「青」「焦げ臭いにおい」「キリスト磔刑図」「巡業サーカス団のポスター」「夢を透かして浮き出てくるかのような奇妙なモザイク模様」「名前の響き」「小さく暗い花の砂糖のように甘く湿った匂い」「魂に香油を塗りこむような作用」……。

 

 目頭を充血させ、ちろっと舌なめずりしたイギリス人の視線の先にニーナの姿を見つけたのだった。

《彼女とはもう十五年ごしの……友達づきあいというべきか、それともロマンスなのか、正確にはなんと呼んだものかよくわからないが、ともかくそんな間柄で、この十五年の間、いつ会っても、彼女はすぐにはぼくのことがわからない、といったふうだった。今度も、ニーナはぼくのほうに半ば顔を向け、好奇心もあらわに、よくわからないけれどひょっとしたら、とでも言いたげな愛想のいい風情で、一瞬の間、じっと立っていた。その首には影をまとい、レモンのように黄色いスカーフを巻きつけている。このスカーフだけが、飼い主よりも先に知り合いを見つけた犬のように動き出し――それからニーナが急に叫び声をもらし、両手をあげ、十本の指を宙に踊らせたのだった。そして道の真ん中で、昔からの親友に会った喜びを隠さず熱烈に表しながら(別れ際にぼくのために十字を切ってくれたときと同じ優しさで)、口全体で三度、ぼくの頬にキスをし、並んで歩き始め、ぶら下がるようにぼくの腕にしがみつき、跳ねたり滑ったりしてなんとか歩調を合わせた。脛(すね)の脇にスリットの入った赤茶色の細身のスカートのせいで、歩きにくいらしい。》

  否応なく「時間」の観念が介入してくる。「十本の指を宙に踊らせた」「細身のスカート」に注意せよ。

 

「ちょっと待って、わたしをどこに連れて行こうっていうの、ヴァーセンカ[ヴァシーリイの愛称]ったら?」

《どこにって、過去にもどるんだ。きみと会ったときはいつもそうしていたように、発端から最後の付け足しまで、これまで蓄えられた筋書きのすべてを繰り返すかのように。ロシアのお伽噺で物語が新たに前に進もうとするとき、それまでに語られたことのすべてがもう一度拾い集められるように。》

 英語版で言えば、《過去へ連れ戻すんだ、過去へ連れ戻すんだ》(“Back into the past,back into the past,as I did every time I met her,repeating the whole accumulation of the plot from the very beginning up to the last increment.”)。

 

 ニーナとの記憶・回想は、発端(序幕)から最後まで、フィアルタでの「現在」を挟みながら二重螺旋となってほぼ時系列で進んでいく。実は、小説の最後まで読めばわかるのだが(途中でも、何度か呟くようにフィアルタでの時間もまた回想だと匂わされてはいて、例えば、「これが最後の出会いだとわかっていたとしても」とか「これが一生で最後の食事になるとも知らないで」など)、フィアルタでのことも「現在」ではなく、語り手はミラノ駅に立って(第三の時間)、フィアルタでのひと時を回想しているのであって、回想内・回想という額縁回想小説、つまりは三重螺旋になっている。

 記憶の中のそのときどきのニーナのコケティッシュで抒情的な細部と、ニーナへの感情、思いを、ニーナとは違って自分でどう扱っていいのかわからない主人公(語り手)の心理描写が素晴らしい。

《ニーナとの出会いの序幕はとても昔、ロシアでのこと。時代の記憶のあちこちがもう古い舞台衣装のように擦り切れてしまっているが、舞台裏から左翼運動の轟が聞こえていたことから判断すれば、きっと一九一七年のことだろう。名の日の祝いか何かで、ぼくは叔母さんのルガ近郊の屋敷に遊びに行った。澄み切った田舎の冬のことだった(屋敷に近づいたことを示す最初の印として脳裡に焼きついているのは、白い野原の真ん中にぽつんと立っている赤い納屋だ)。ぼくは貴族高等学校を卒業したばかり。ニーナには婚約者がいた。彼女はぼくと同い年で、二十世紀とも同い年の十七歳、小柄で痩せていたのに、いやそれだからこそだろうか、そのときは歳よりもかなり上にみえたし、三十二歳になったいまはその逆に歳よりもずっと若く見える。(中略)いずれにしろ、追憶の装置がきちんと働きはじめるのは、明かりに照らされた家に戻ろうと、重苦しい雪だまりの中の細い小道を一列になって歩いているところからだ。(中略)ぼくは足を滑らせたはずみに、誰かに押しつけられた電池切れの懐中電灯を落とし、手探りしたがすぐには見つけられなかった。そしてぼくが畜生といった言葉を思わず口にすると、すかさずそれを聞きつけて小声でせかせか元気に笑う声がした。何か面白いことが起こると予期するような笑いだ。そしてニーナがさっとぼくのほうを振り返った。いまニーナとは言ったけれども、そのときぼくが彼女の名前を知っていたとは思えない。そもそも知り合っていっしょに何かをしたり、話をしたりする機会など、それまでなかったのではないか……。「だあれ?」とニーナは好奇のまなざしでたずねたが、ぼくはもう彼女のすべすべした首にキスしようとしていた。襟首のあたりがまるで燃えるようなのは、キツネの毛皮のせいで熱く蒸れてしまったせいだろう。この毛皮がしつこくキスの邪魔になったのだが、そのうちに彼女のほうからぼくの肩をつかみ、いかにも素直にあっさりと自分の唇をぼくの唇に押し当てたのだった。それは敏感に反応する、仕事熱心な唇だった。(中略)それから出発のときまでぼくたちは互いに何の話をすることもなく、将来について何の約束もしなかった。いまにして思えば、そのときすでに、はるか彼方に向けて未来の十五年が動き始めていたのだけれども。》

 こういう文章を読むと、ナボコフ『アーダ』の第4章に「時間の織物」という言葉があるが、隠喩やアナロジー、穏やかな抽象概念、過去から現在への時間の織物の肌触りこそ小説の悦びであるというのが理解できる、

《僕の目的は、時間の織物に関する論考という形式を取り、そのヴェールのような実質を考察していく過程で、例証となる隠喩がゆっくりと増え、きわめてゆっくりと論理的な恋愛物語を構築していき、過去から現在へと移行し、具体的な物語として花開いて、またちょうど同じくらいにゆっくりとアナロジーを逆転させ、穏やかな抽象的観念へとふたたびほどけていくような、一種の小説を書くことだったんだ》

 

 ふいにフィアルタの春の季節に戻る。

《「最後に会ったのは、パリだったかな」と、ぼくは言った。暗い木苺色の唇をし、頬骨の張った小ぶりな彼女の顔に、お馴染みの表情の一つを呼び起そうと思ったのだ。すると案の定、彼女はつまらない冗談はよしてよ、とでも言わんばかりに、薄笑いを浮かべた。もう少し詳しく言えば、運命がぼくたちの出会いの場所に指定した(そのくせ、運命自身は姿を現したことがない)あちこちの町も、プラットホームも、階段も、そしてちょっと小道具めいた横丁も――そのすべてがすでに演じ終えられた他の人生の残り物であって、ぼくたちの運命の演技にはほとんど関係がないので、そんなことに触れることじたいほとんど悪趣味だ、とでも言わんばかりの表情をニーナはしたのだ。

 ぼくは彼女といっしょに、行き当たりばったりにアーケード街の商店の一つに入った。》

 

 ふたたび回想が挟まれる。

《ロシアを出てから最初に会ったのは、ベルリンの友だちのところだった。ぼくは結婚を控えていたころ。彼女は婚約者と別れたばかりだった。部屋に入ったとき彼女の姿を遠くから認めたぼくは、部屋にいた他の男たちに思わず目を走らせ、自分よりも彼女と親しいのは誰か、正確に見て取った。彼女はソファの端で小柄で心地よさそうな身体をZ字形に折り曲げ、両足をソファの上に載せて坐っていた。やはりソファの上、片方の踵(かかと)のすぐそばには灰皿が置かれている。そしてぼくの顔をまじまじと見つめ、ぼくの名前をじっと聞いてから、彼女は唇から植物の茎のように長いシガレット・ホルダーを離し、長く引き伸ばしながら嬉しそうに「まさか!」と叫んだ(つまり、「自分の目が信じられない」という意味だろう)。すると、ただちに皆に――そして真っ先にニーナ自身に――ぼくたちが古くからの友だちのように思えたのだった。彼女はキスしたことなどまったく覚えていなかったけれども、その代わり(やはりキスを通じて)何か琴線に触れるような大事なことがあったという漠然とした印象が残っていた。それは友情の記憶のようなものだが、肝心の友情は現実にはぼくと彼女の間には一度も存在しなかったのだ。そんなわけで、その後積み上げられていったぼくたちの関係も、もとはと言えばすべて、ありもしない架空の幸せの上に築かれたのだということになる。》

 この場面の細部は反復、変奏されるだろう、「Z字形」「踵のすぐそばには灰皿」「長いシガレット・ホルダー」「まさか!」……。「ありもしない架空の」ということでは、小説の内容も、ニーナも、ひいては小説自体がそうではないかと、見せ消ち地獄が見えて来る。

 

《一年後にぼくはウィーンに発つ弟を見送るために妻と駅にいた。列車が窓を閉め、背を向けて去り、ぼくたちがプラットホームの反対側にある出口に向かったとき、パリ行きの急行列車の前に不意にニーナの姿が見えた。彼女はバラの束の中に顔を浸し、群をなす人たちに囲まれている。それはぼくにとって腹立たしいほど見知らぬ人たちで、環をなすように立ち、まるで物見高い野次馬が路上の喧嘩や、捨て子や、怪我人を眺めるような様子で彼女を見ていた。》

 ぼくは彼女にエレーナ・コンスタンチノヴナ、つまり妻を紹介し、ニーナの結婚する相手の名前フェルディナンドが始めて出た。

《ぼくの手には見分けがつかなくなるほどくしゃくしゃになった入場券が握り締められ、頭の中では十九世紀の歌が――それにしても、いったいどうして、こんな歌が記憶のオルゴールから流れ出てくるのだろうか――執拗になり続けている。(中略)

  あなたは結婚するんですってね(オン・ディ・ク・チュ・トゥ・マリ)

  そしたらわたしが死ぬって知りながら(チュ・セ・ク・ジャン・ヴェ・ムリール)

 その声がたちまちまるで炎の雲のように、彼女の全身を吞み込んでしまうのだった。そしてこのメロディと、心を悩ます悔しさと、音楽によって呼び起された結婚と死の結びつき、そして思い出にまとわりつき、旋律の所有者であるかのような歌声そのものが、その後何時間もぼくの心を休ませてくれなかった。》

 死のイメージがうっすらとまとわりつく。

 

《さらにその一、二年ほど後、用事でパリに行ったときのこと。会わなければならない俳優の泊まっていたホテルの階段の踊り場で、ぼくとニーナは互いに示し合わせたわけでもないのに、またしてもばったり出会ってしまった。彼女は降りていこうとするところで、手に鍵を持っていた。「フェルディナンドはフェンシングをしに出かけたの」と彼女は打ち解けた調子で言い、まるで唇の動きを読むようにぼくの顔の下半分をまじまじと見つめ、一人で何やら考え込んでさっと決めたらしく(彼女は愛のためなら比類のない機転を利かせた)、踵(きびす)を返し、ぼくを連れて水色のビーバークロスの絨緞の上を、華奢なくるぶしを見せ、身体を揺らしながら進んだ。彼女の部屋のドアの前には椅子があり、その椅子の上には朝食の食べ残しを載せたトレイがあった。ナイフには蜜の跡が見え、灰色の陶製の皿には無数のパン屑が散らばっている。しかし、部屋の掃除はもう終わっていて、ぼくたちが部屋に入ったとき吹きこんだ隙間風のせいで、鋳鉄製の狭いバルコニーへの出口になっている観音開きの大きな窓が活気づいて左右にちょっと開き、その間にモスリンのカーテンの白いダリアの刺繡をあしらった縁飾りが吸い込まれた。そしてドアを閉め鍵をかけたときようやく、窓は幸せのあまりうっとりとしたような吐息とともにカーテンの襞(ひだ)を解放した。少し後でこのバルコニーに出てみると、朝の空っぽで陰気な通りはライラックのような青味を帯び、ガソリンと秋の楓の葉の匂いが漂ってきた。そう、起こったのはごく簡単なことだった。ぼくたちは昂揚のあまり何度か叫び声をあげ、少しくすくす笑っただけで、それはロマンティックな用語法には相応しくないものだったから、「不倫」などという錦の言葉を並べ立てる余地はない。その後、ニーナとの逢瀬は病的に痛ましい感覚に毒されることになるのだが、そのときぼくはまだそんなことを感じるどころではなかったから、きっとまったく陽気な顔で(ニーナのほうも陽気だったに違いない)二人でいっしょにホテルから旅行代理店か何かに行って、なくなったとかいう彼女のトランクを探し、それから、彼女の夫と当時の取り巻きが待つカフェに出かけたのだ。》

 たくみな細部としてのカーテンの効果は決定的である。このロシア語版では二人が寝たらしいと思わせるけれども、英語版ではもっとぼかされている。

 

 カフェでのニーナの夫フェルディナンドの姿(戯画化された、冒涜的でもあるキリストの「最後の晩餐」図を連想させもする)と取り巻きたちの態度と、彼への感情と関係性についての複雑な内心の、俗悪で世俗な活写もナボコフ文学のロマンティシズム一辺倒ではないリアリズムがあって、フィアルタでの現在時間に戻るや長いキャンディうぃしゃぶってフェルディナンドが歩いてくる。少し遠くのでこぼこした舗道の真ん中に銀紙が投げ捨てられている。

 と思うと、またニーナとの度重なる引き合わせ場面の引いては寄せるさざ波のような追憶となる。

 ことによったら(信頼できない)語り手による妄想、妄執という部類ではないか(例えばラストで、どこからともなく彼女の手にスミレの花束が現れるなんて)という思いが湧いて来ないでもない(ナボコフには幻想イメージ、分身、二重人格者、信頼できない語り手が出現しない小説が珍しいくらいだ)。

《それにしても、自分でもわからない。この小柄で肩幅の狭い「プーシキン好みの可愛い足をした」(これはきざで感傷的な亡命ロシア詩人の一人がぼくの前で言った言葉だ。彼はニーナにプラトニックに恋い焦がれていた何人かの男たちの一人だった)女は、ぼくにとって何だったのだろう[「プーシキン好みの可愛い足」とはプーシキン作の長篇『エヴゲニイ・オネーギン』第一章三十-三十二節を踏まえたもの。女性の「可愛い足」に対するフェティッシュな賛美があって有名な部分]。もっとわからないのは、運命はいったい何の目的で彼女とぼくを始終引き合わせていたのか、ということだ。ぼくたちにどうしろと言うのだろう。パリで顔をあわせてから彼女にはかなり長いこと会わなかったのだが、その後、家に帰ってみるとニーナがいた、なんてこともある。彼女はぼくの妻とお茶を飲み、ベルリンのタウエンツィーン通りのバーゲンで買った絹のストッキングを手にとって調べていて、ストッキングの下から婚約指輪が透けて見えていた。ある秋には、秋の木の葉と手袋とゴルフ場の景色を満載したファッション雑誌で彼女の姿を見かけた。ある年の復活祭には彩色した卵(イースターエッグ)を送ってきたし、別の年のクリスマスには雪と星の絵葉書を送ってきた。リヴィエラの海岸では、黒いサングラスをかけ粘土の素焼きのように日焼けしていたので、あやうく彼女とは気づきそこねるところだった。またあるとき、たまたま用事を頼まれて面識のない人の家に立ち寄ったとき、玄関のコート掛けにかかった外套の間に(つまり、その家には客が来ていたわけだが)彼女の毛皮外套(シューバ)を見つけたこともある。》

 ロシア人ならその詩をいくつでも暗唱できるプーシキンへのナボコフの崇敬は著作のそこかしこに見てとれる(プーシキン『エヴゲニイ・オネーギン』はナボコフによる英訳と詳細な注釈本は全4巻からなる)のだが、ここでも顔をのぞかせている。

 

 ニーナの夫フェルディナンドに対して語り手はひねた批評を加えるのだけれども、ナボコフ自身のアイロニカルな姿、影が透けて見える。そしてフェルディナンドが女性を描いた文章にはナボコフ的文体のパロディめいた「署名」がなされている。

《また別のとき、彼女は夫の本のページからぼくにうなずきかけてきた。それは端役のメイドを描いた箇所だったけれども、ニーナの面影をとどめていたのだ(それは夫の自覚的な意図には反していたのかも知れなかったが)。「彼女の顔立ちは……」とフェルディナンドは書いていた。「細心に描かれた肖像画というよりは、自然を瞬間的に写した写真だった。そのため、思い出そうとしても、容貌の特徴がばらばらにちらりと浮かぶだけで、その他には何も残らない。張り出した頬骨、そこで光を受けて浮かび上がるふっくらしたうぶ毛、琥珀色の暗がりをたたえすばやく動く目、結ばれた唇に浮かんだ親しげな笑みはいまにも熱い口づけに変りそう……」》

 

ピレネー地方を旅行したとき、ぼくは一週間ほどある邸宅に泊めてもらったが、その家の人たちはニーナの知り合いで、そのときたまたま彼女も夫といっしょに客として逗留していた。その家で過ごした最初の夜のことは決して忘れられないだろう。ぼくは待っていた。ニーナは夜中にぼくのところに忍んで来るだろう、そう確信していたのだ。ところが彼女はやって来ない。(中略)そして翌日、ヒースの茂った丘を皆で散歩したとき、昨夜は待っていたのに、とニーナに言うと、彼女は自分のうかつさを悔んで手を打ち鳴らし、すばやく目を走らせて、さかんに手ぶりをまじえて話をしているフェルディナンドとその友だちの背が充分に離れているか目測した。》

 

 いったい、ニーナとの情事は続いていたのか、愛人関係、「不倫」と呼ばれる類いだったのか、次々と回想される出会いの文章からはただ顔を合わせていただけと読めるが、しかし行間で匂わせているようでもある。それともパリのホテルでの朝の実事だけだったのか(もっともこのことさえ思わせぶりな記述だった)、語り手をどこまで信頼すべきなのか。語り手はフェルディナンドの本に対して《どうして作り話で本が書けるのか》《作り話など、何のためになるというのか》《想像力を持つなんて自分の心(・)だけにしか許さないだろう》《記憶というものは真理が投げかける夕べの長い影なのだから》と批評していたが、それらはナボコフの文学的態度へのパロディとなっていて、あらためて二人の何度かの出会いに関しての次のような内省を聞かされると愛人となって何かあったように読め、曖昧な記憶の影の中を彷徨うことになる。

《ぼくが不安になったのは、何か愛しく、優美で、またとないものがぼくの濫用のせいで空しく浪費されていたからだ。ぼくはまったく行き当たりばったりに、哀れなくらい魅惑的な小さなかけらを勝手に奪い取る一方で、ひょっとしたらそれが囁き声で約束してくれていたのかも知れない、つつましくも確かなものを全部無視していた。ぼくが不安を感じたのは、とにもかくにもニーナの生活を、つまりこの生活の嘘とうわごとを受け入れようとしていたからだ。ぼくが不安を感じたのは、混乱は別になかったのだが、それでもやはり、少なくとも自分自身の存在の抽象的な解釈の次元では、ある種の選択を迫られていたからだ――選択というのは何かと言えば、一方に、ぼくが妻や娘たちやドーベルマンの飼い犬といっしょに坐って(それから野の花を編んで作った花輪や、指輪、そして細身のステッキもある)、絵のような構図に収まる世界、つまりこの幸せで、賢明で、善良な世界があり、他方、もう一つの、何と言ったらいいか……。はたして、ニーナといっしょに暮らすことなどできるのか。ほとんど想像することもできないような、熱烈で耐えがたいほどの悲しみにあらかじめ満たされた暮らし、一瞬ごとに震えながら過去の静けさに耳を澄ますような暮らし。そんなものが可能なのだろうか。とんでもない、ばかげている! 彼女だって、いまの夫と懲役のような愛で固く結ばれているじゃないか……。ばかげている! それならニーナ、ぼくはきみをどうしたらよかったんだろう。ぼくたちの一見気楽なようでいて、実際には絶望的な出会いの繰り返しのせいで少しづつ蓄えられてきた悲しみの在庫を、いったいどこに売りさばけばいいのだろう。》

 ここにはロマンティック・アイロニーがある。

 

 フィアルタに戻り、映画のようなスピード感と、文章によるホワイトアウト/フェードイン技法をもって、クライマックスに突入する。

《フィアルタは古い町と新しい町でできている。しかし、新と旧はあちこちで互いに絡みあっていて……相争っている。》と現在に戻れば、プラタナスの木陰に胴長の黄色く巨大なコガネムシのようなイカルス社製の自動車がとまっていて、ニーナがその車でいっしょに行きましょうよ、と行けないことを知っているくせに誘う。

《磨き上げられたコガネムシの鞘翅に沿って、空と木の枝のグアッシャ画が広がっている。弾丸のような形のヘッドライトの一つの金属部分に、ぼくと彼女の姿が一瞬映し出された――映画の国の細身の通行人が二人、自動車の丸みを帯びた表面を通り過ぎていく。それから数歩進んだところで、ぼくはなぜだか後ろを振り向いた。すると、一時間半先に実際に起こることが見えたような気がしたのだ。自動車用のヘルメットをかぶったニーナとフェルディナンドとセギュールの三人がコガネムシに乗り込む。ぼくに微笑みかけ、手を振る彼らの姿は透明で、まるで幽霊のよう。彼らの身体を透かして世界の色が見えている。と、突然、自動車ががくんと動き出し、走り去り、三人の姿が小さくなっていった(そして十本の指を全部使ったニーナの最後のあいさつ)。ところが実際には、自動車はまだじっとその場に止まっていて、欠けるところのないつるつるした卵のような姿を見せていたのだ。》

 イギリス人のテーブルには鮮やかな深紅の飲み物の入った大きなコップが載っていて、テーブルクロスに楕円形の照り返しを投げかけている。

《痩せぎすの小さな手から手袋を取り、ニーナはこれが一生で最後の食事になるとも知らないで、大好物の貝を食べていた。》

 フェルディナンドが「批評」に悪態をつく。イギリス人が立ち上がり、蛾(ナボコフの好きな鱗翅類)を一匹つかまえ、器用に小箱に入れた。ポスターでたびたび登場していたサーカスが先触れを送ってよこしたらしく、遠くの方からラッパとツィターの音が聞えてきた。

 古い石の階段が気に入って、二人で登っていった。《段を上ってゆくニーナの足が作る鋭角をぼくは見つめていた――スカートの裾を引き上げながら、というのも先ほどはスカートの長さのせいで、今度は細さのせいでそうせざるを得なくなったわけだが、彼女は灰色の石段を登っていく。》

 その身体からはおなじみの温もりが漂ってきて、この前の、つまり最後から二番目になる彼女との出会いの様子を心に思い浮かべていた。パリで夜会に呼ばれたときのことで、《彼女は身体をZ字形に折り曲げてソファの端に腰をおろし、灰皿を踵の脇に置いていた。そして細長いトルコ石のシガレット・ホルダーを唇から離し、長く引き伸ばしながら嬉しそうに「まあ!」と言った。その後、一晩じゅう、ぼくは胸が張り裂けそうだった。》

《そしてある紳士が別の紳士にこんなことを言っているのを聞いた。「可笑しいことにね、みんな同じ匂いがするんですな。香水を透かして焦げたような匂いがね、瘦せこけた栗色の髪の女はみんな」。そしてよくあるように、何を指しているのかもわからない、こういった俗悪な言葉が思い出のまわりにきっちりと絡みつき、悲しみを養分にして育っていったのだ。》

 石段を登りきると、でこぼこの空き地に出た。

《ぼくたちはまるで何かに耳を傾けるかのように、その場にたたずんだ。上に立っていたニーナは微笑みながらぼくの肩に手を置き、微笑みをくずさないよう慎重にぼくにキスをした。そのとき堪えがたいほど強烈に(それとも、いまそんなふうに思えるだけだろうか)ぼくはかつて二人の間にあったことのすべてを、それこそ今回と同じような最初の口づけから、もう一度体験し直した。そして、安っぽく形式ばった親しい「きみ(トゥイ)」という呼びかけを、表現力豊かで心のこもった敬称の「あなた(ヴイ)」に替えて――というのも、世界一周を果たした船乗りがすっかり豊かになって最後に戻ってくるのが、やはりこの「あなた」なのだから――ぼくは言った「もしもぼくがあなたを愛しているとしたら?」ニーナはぼくにさっと目を向けた[ロシア語の「トゥイ」は親しい間柄で使う二人称代名詞。ここで「トゥイ」から「ヴイ」に切り替えるのは唐突で異様]。ぼくは同じ言葉を繰り返し、何かを付け加えようと思ったが……何かが蝙蝠のように彼女の顔をちらりとよぎった。すばやく、奇妙で、ほとんど醜いと言ってもいいくらいの表情だった。ニーナはいつも卑猥な言葉でも気軽に、まるで楽園にいるかのように口にしてきたのに、今回はうろたえてしまった。ぼくも気詰まりになった……。「冗談だよ、冗談」慌ててぼくは大声で言いながら、横からニーナの右胸の下あたりまで手を回して軽く抱き寄せた。どこからともなく彼女の手にはぎっしりと花の詰まった束が現れた。無欲に香りを放つ、暗い色合いの小ぶりなスミレ(フィアルカ)だった。そしてホテルへの帰路につく前に、ぼくたちは石造りの手すりの前でしばらく立ち止まったが、すべては以前と同じように絶望的だった。しかし、石は身体のように温かく、ぼくはそれまで目にしていながら理解していなかったことを突然理解したのだ。どうしてさきほど銀紙があれほどきらきら輝いていたのか、どうして海がちらちら光っていたのか。フィアルタの上の白い空はいつの間にか日の光に満たされてゆき、いまや空一面にくまなく陽光が行き渡っていたのだ。そしてこの白い輝きはますます、ますます広がっていき、すべてはその中に溶け、すべては消えていき、気がつくとぼくはもうミラノの駅に立って手には新聞を持ち、その新聞を読んで、プラタナスの木陰に見かけたあの黄色い自動車がフィアルタ郊外で巡回サーカス団のトラックに全速力で突っ込んだことを知ったのだが、そんな交通事故に遭ってもフェルディナンドとその友だちのセギュール、あの不死身の古狸ども、運命の火トカゲ(サラマンダー)ども、幸福の龍(バシリスク)どもは鱗が局部的に一時損傷しただけで済み、他方、ニーナはだいぶ前から彼らの真似を献身的にしてきたというのに、結局は普通の死すべき人間でしかなかった。》

 

 ベルリンでの二度目の出会いと最後から二番目のパリでの出会いでは、ソファで身体をZ字形に折り曲げ、踵の脇に灰皿を置いたニーナが唇から長いシガレット・ホルダーを離す。白い雪の中でのロシアでの初めての出会いと白い陽光に満たされたフィアルタでの最後の口づけ。ナボコフは円環やメビウスの輪の構造(例えば、『賜物』の書き出しは、小説のラストで主人公がこれから書くと宣言する小説の冒頭部分に相当していて、あたかもプルースト失われた時を求めて』をなぞっている)を好むが、これらの対称形に挟まれた過去は、ニーナの死によって環(輪)を閉じることなく、細部と記憶の螺旋を描きながら“Back into the past,back into the past”と唱えながら、“as I did every time I met her,repeating the whole accumulation of the plot from the very beginning up to the last increment.”とばかりに白く輝いて溶けていく。

                                   (了)

         *****引用または参考文献*****

ナボコフ『フィアルタの春』(『ナボコフ短篇全集Ⅱ』に所収、ロシア語版)沼野充義訳(作品社)

ナボコフ『フィアルタの春』(『ナボコフの一ダース』に所収、英語版)中西秀男訳(サンリオSF文庫

ナボコフ『賜物』(世界文学全集Ⅱ―10、ロシア語版)沼野充義訳(河出書房新社

ナボコフ『アーダ』若島正訳(早川書房

ナボコフ『初恋』(『ナボコフ短篇全集Ⅱ』に所収)若島正訳(作品社)

若島正ナボコフの多層思考――短篇「フィアルタの春」を読む」(「英語青年 特集ナボコフ生誕100年」(1999年11月)(研究社)

毛利公美「時間の壁を超えて――ナボコフ『フィアルタの春』における彼岸のテーマ」(「ロシア語ロシア文学研究」1996-10-01)(日本ロシア文学研究会)

*中田晶子「失敗する読者」(「日本ナボコフ協会 会報『KRUG』Ⅰ巻1号」(1999年9月))

村上春樹『若い読者のための短編小説案内』(文春文庫)

丸谷才一『樹影譚』(文春文庫)

三浦雅士『出生の秘密』(講談社

ナボコフ『ベンドシニスター』加藤光也訳(サンリオ文庫

ナボコフ『青白い炎』富士川義之訳(岩波文庫

*秋草俊一郎『アメリカのナボコフ 塗りかえられた自画像』(「日本文学のなかのナボコフ――誤解と翻訳の伝統」所収)(慶應義塾大学出版会)

ナボコフナボコフロシア文学講義』小笠原豊樹訳(河出文庫

*Vladimir Nabokov ”The Portable NABOKOV”(“Spring in Fialta”,”First Love”)(THE VIKING PRESS)

文学批評 丸谷才一『後鳥羽院』(ノート) ――「しかし」で転回/多層化する後鳥羽院和歌

 

 

                                        

 丸谷才一『日本詩人選10 後鳥羽院』(以下、『後鳥羽院』と略)は「歌人としての後鳥羽院」「へにける年」「宮廷文化と政治と文学」からなる。第二版で、「しぐれの雲」「隠岐を夢みる」「王朝和歌とモダニズム」の三篇を追加した。

 開巻第一の「歌人としての後鳥羽院」冒頭は、「書き出し」が大事だとした丸谷の術の見せどころとなっている。すなわち、世間常識的な定説にならって否定ないし疑問を投げかけておいて、逆接の接続詞(「しかし」「ところが」)でコペルニクス的に転回し、いやおうなく読者を巻き込む。感想ではなく、具体的な論証・引用で次々と的を射ながら、同時に作者の批評姿勢・方法・態度を公開する(丸谷は《小林秀雄の文章は威勢が良くて歯切れがよくて、気持ちがいいけれど、しかし何をいっているのかがはっきりしない》(『文学のレッスン』)詩的な批評を嫌い、河上徹太郎の明晰さを擁護した)。

 ここでは、後鳥羽院藤原定家の時系列的な関係性を論じた「へにける年」と、承久の乱の文化的、政治的な意味を考察した「宮廷文化と政治と文学」については触れず、後鳥羽院の秀歌鑑賞である「歌人としての後鳥羽院」を取りあげる。

 

歌人としての後鳥羽院」の冒頭は次のとおりである。

 

<人もをし人もうらめしあぢきなく世をおもふ故にもの思ふ身は

《 人もをし人もうらめしあぢきなく世をおもふ故にもの思ふ身は

後鳥羽院御集』建暦二年十二月二十首御会。また、『続後撰和歌集』巻第十七雑歌中。

後鳥羽院御集』など誰も読まない。『続後撰和歌集』にいたってはさらに読まれないと言ってよかろう。それにもかかわらずこの後鳥羽院の歌がすこぶる人口に膾炙(かいしゃ)し、「ほのぼのと春こそ空にきにけらし天のかぐ山霞たなびく」よりも、「見渡せば山もと霞むみなせ川ゆふべは秋と何思ひけむ」よりも、さらに「我こそは新じま守よ沖の海のあらき浪かぜ心してふけ」よりもよく知られているのは、ひとえに『小倉百人一首』の力である。すなわち藤原定家後鳥羽院の最高の作品としてこの一首を選んだわけだ。あるいはすくなくとも、上皇の歌としてはこの一首を選ぶようにと、息子の為家に言い残したわけだ。

 実を言うとかつてわたしはこのことに不審をいだいていた。定家が誰よりも恐れていたらしい当代の上手の、全作品を代表させるに足る歌とは思えなかったからである。もちろん『小倉百人一首』が定家の撰であることを疑い、室町以降の定家崇拝にあやかってでっちあげた伝説にすぎないとしりぞけるならば話は別だろう。しかしわたしは、いわゆる実證的研究の成果よりは長い歳月にわたる伝承のほうを重んずるし、それにどうやら最近は、この伝承のかならずしも迷妄ではないという学説がかなり有力なように見受けられる。これは、たとえ百歩ゆずっても、定家の意向が隅々まで反映していたと見るのが無難だろう。大部分は彼の手によって編まれたものを、ほんの一部分、後人の恣意によって手直しをするという事態は、当時の定家の名声から見てどうもあり得ないことのような気がする。すなわち、定家はやはりこの一首を後鳥羽院の代表作と見なしたのであろう。

 T・S・エリオットの名台詞(めいせりふ)をもじって言えば、定家と意見を異にすることは危険である。それはおそらく、ジョンソン博士と意見が分れることよりももっとあやういはずで、よほど覚悟を決めた上のことでなければならない。だが困ったことに、一応そうは認めながらもわたしは相変らずこの歌に感心しなかったのである。

 そのころのわたしの解釈は、至ってありきたりの単純なものであった。一体この歌の語句で問題なのは「をし」と「あぢきなく」くらいのもので、それとても前者は『大言海』に従って「愛(メ)ヅベシ。イツクシ。ヲカシ」と受取、後者もまた同じ辞書の言う「快カラズ思フ。ツラシ。ナサケナシ。無情」と見ればそれですむだろう。もともと難解では決してない歌なのである。しかしわたしがありきたりの解釈と言ったのはそういう語釈の問題ではなく、いわば倒幕の決意を秘めた政治的な歌として見ていたという事情にほかならない。国歌大系本の『続後撰和歌集』には、「人もをし人もうらめし」の注として、「前の人は忠良の臣を指し、後の人は鎌倉幕府の専横者を指す」とあるが、わたしも大体こういう具合に考えて内容の浅さをさげすんでいたらしい。そして、敢えて言い添えておくならば、普通はおおむねそういう性格の歌として受取られているのではないかと思う。

 ところがわたしの考えは、江戸末期の国学者、岡本况斎の『百首要解』によって打ち砕かれたのである。况斎は言う。

『源氏』、須磨、「かかる折は人わろく、うらめしき人多く、世の中はあぢきなきものかな、とのみ、よろづにつけて思(おぼ)す」とあるを用ひさせ給ひて一首となさせ給ひしなるべし。あぢきなく。心にかなはでせんすべなきをあぢきなしといへり。俗ににがにがしといふに似たりと県居翁いはれき。をしは愛の字をよめり。一首の意。せんすべきなき世を思(おぼ)しつづけ給ふにつきては、おんみづからの行く末いかがあらんと、よろづ御こころまかせ給はぬままになつかしく思(おぼ)す人もあり又うらめしく思す人もあり、と也。

 こうなれば話は違ってきて、たちまち『源氏物語』の地平が開けるわけである。『吾妻鑑』の陰鬱な日常のかわりに『源氏物語絵巻』の華麗な幻があらわれると言うほうがもっと具体的かもしれない。とにかく後鳥羽院はこのときみずからを光源氏になぞらえていた。水無瀬の離宮はまだ造営されていなかったけれども、水無瀬殿と須磨とを二重写しにすれば、そういう後鳥羽院の心意気は最も鮮かにとらえられるであろう。おそらく定家がこの歌を『小倉百人一首』に撰抄した動機としては、このような前代への思慕を喜ぶ気持が強く働いていたにちがいない。王朝の古典趣味ないし古典主義によって歌の奥行を増すことは、彼の歌学の基本だったからである。あるいは、文学の伝統を重んじることこそ彼の文学の核心にほかならないからである。

 そして王朝の風情をなつかしむ心でもう一押し押せば、幕末の国学者の言う「なつかしく思す人」とはすなわち寵妃、寵童であり、「うらめしく思す人」とは意に従わなかった女たち、少年たちということになるだろうか。「世」にはまた「男女の仲」という意もあるからだ。

 けれども光源氏の場合にも後鳥羽院の場合にも、もちろん恋愛だけに話を限ってはいけないだとう。彼らにはいずれも政治生活があったからである。と考えれば、ここの「世」には二重の意味が仕掛けられていることになるし、一首全体が恋の哀れと政治の悲しみとの双方を詠んだ、こみいった細工の歌となってあらわれるように思われる。》

 どうだろう、ここまでくれば、本書における丸谷の態度・方法をすでにほとんど言い尽くしている。すなわち、恋と政治とエロティシズムの「複雑で新鮮な味わい」の、時空を超えた多義的で多層的な鑑賞、批評である。

 

 以下、「しかし」「ところが」からの文章を引用するが、その前段部分は類推できると踏んでのことである(もちろん必要に応じて補完)。

 

<我こそは新じま守よ沖の海のあらき浪かぜ心してふけ>

《ところがここに『後鳥羽院御百首』に附した古注(文体から推して室町期のものと目される)があって、わたしに言わせれば一首はそう読むのが正しい。いわく。

   われこそはと云ふ肝要なり。家隆卿隠岐国へ参り、十日ばかりありて帰らんとし     給ふに、海風吹き帰りがたければ、我こそ新じま守となりて有れ共、など科なき家隆を 波風心して都へかへされぬとあそばしける。されば俄かに風しづまりて家隆卿都へ帰られしとなり。

 ただし、藤原家隆藤原定家と対照的なくらい、承久の乱以後も後鳥羽院に盡したことは事実だけれど、実を言えば彼は隠岐へは一度も行っていない。当時の旅の難儀と家隆の老齢を思えば、ただちに納得のゆくことである。つまりこの注釈の伝える挿話は後人の虚構に属するので、室町のころには和歌の功徳をたたえる説話がむやみにはやっていた。

 しかしわたしの言いたいのは、後鳥羽院が沖の海の浪風に「我こそは」と呼びかけるとき、それはみじめな流人として、しかも自分のため、哀願しているのでは決してなく、この島を守る者として、誰か他人のため、海に命令しているのだということである。その誰かとは荒天のため舟を出せずに当惑している漁師であると考えてもいいわけで、「新じま守」という言葉には、案外、つい先日まで支配していた日本の国全体の広さにくらべれば、こんな小島を司るくらいすこぶる易しいという自負がこめられているかもしれない。》

《われわれは、『増鏡』の単純な泪にまどわされて第一句の複雑なユーモアを見落としてはならないだろう。配所に生きる終身囚が寛濶に冗談を言う趣こそ、一首の最大の魅力なのである。

 ただし、単にユーモアを狙っただけのものとして見るのでは一面的になる。それは、滑稽とないまぜになっているだけにいよいよ哀切で、諧謔を弄しているだけいよいよ沈痛なアイロニーなのである。そういう風情を味わうためには、折口信夫の鑑賞が最も参考になるだろう。彼は『女房文学から隠者文学へ』のなかでこの歌に触れ、これは小野篁の「わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ蜑(あま)の釣り舟」、および在原行平の「わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩垂れつつわぶと答へよ」を「創作原因」にしているものだが、「小野篁在原行平が、同情者に向つて物を言うてゐるのとは、別途に出てゐる」と述べた。

  此歌には、同情者の期待は、微かになつてゐる。此日本国第一の尊長者である事の誇りが、多少、外面的に堕して居ながら、よく出て居る。歌として、たけを思ひ、しをりを忘れた為、しらべが生活律よりも積極的になり過ぎた。さう言ふ欠点はあるにしても、新古今の技巧が行きついた達意の姿を見せてゐる。叙事脈に傾いて、稍、はら薄い感じはするが、至尊種姓らしい格(ガラ)の大きさは、十分に出てゐる。

 折口にしては珍しく、「稍」とか「感じはするが」とか、但し書きの背後にためらいがあらわなのは、おのずから一首の貫禄を示すものだが、彼の指摘する「しをり」が忘れられ「しらべ」が強すぎるという二点は、わたしの言うユーモアやアイロニーのためには不可欠の仕掛けであった。しかし「格(ガラ)の大きさ」という言葉は、「我こそは」と大きく出てそのまま一気に詠み下した筆太な勢いをとらえて見事である。さすがは釋迢空と感嘆してもよかろう。》

 

<ほのぼのと春こそ空にきにけらし天のかぐ山霞たなびく>

《『新古今』歌風についてはさまざまに形容されているが、言葉の曖昧性ないし多義性を存分に利用していることはあまり指摘されていないような気がする。だが、何も余情(よせい)妖艶の歌のみに限らず、いわゆるたけ高きさまの場合にも、この手の工夫はずいぶんなされているようだ。曖昧さが詩の特質の一つであり、しかも日本語の一特色である以上、『新古今』時代の歌人たちがこれを利用しなかったはずはないし、第一、縁語とか掛け詞とかいう和歌の基本的な技巧そのものが曖昧性を目ざしているのである。『新古今』の歌人たちはそういう伝統的な技法を極度に複雑化することに腕を競いあった。そして『新古今集』の秀歌で古来論議のかまびすしいものは、みなここのところで話がもつれたものなのである。》と前置きしたうえで、

《たとえば藤原定家の「み渡せば花ももみじもなかりけり浦の苫屋(とまや)の秋の夕ぐれ」について二種の解がある。第一は花も紅葉もない、すなわち春秋二季の代表的な美の欠如した、その喪失の風情を歌っていると取るものである。そして第二は、海辺の秋の夕暮の蕭条たる眺めには花も紅葉も敵すべくはないと見るものである。(中略)

 しかしわたしには、見渡せば桜も紅葉もない、海のほとりの苫葺きの小屋からの秋の夕暮れにしくものはない、桜も紅葉もこれにはかなわぬ、という二重に入り組んだこころを、この三十一文字に託したように思われてならないし、事実、一首の読後われわれの心に残る朦朧(もうろう)たる印象の総体は、強いて散文に直せばこうなるような何かなのである。そして、定家がもしこういう趣を狙い、こういう工夫をこらしていたとするならば、同種のことを同時代の歌人たち、殊に彼の好敵手である後鳥羽院が試みようとしなかったと見るのは、詩人の仕事の現場に立会おうとしない者の見方であろう。そこでこの一首はわたしにとって、「春こそ空にほのぼのときにけらし」と「天のかぐ山ほのぼのと霞たなびく」の二つを、「ほのぼのと」によって、強引にしかも巧妙に結びつけた歌と見えてくるのである。これならば三夕の歌の一つにおける定家の発明にくらべ、遥かに単純なからくりにすぎないから、後鳥羽院には楽々と詠み捨てることができたはずだ。その程度の、至ってたどりやすい曖昧性なのである。ただし実を言えば、その易しさがかえって誤解を招くもとになるのだけれども。

 折口信夫は『新古今』の歌の散文訳を評して、鶏の羽根をむしったようになると嘲ったそうである。これは詩の訳そのものの宿命という局面のほかに、もう一つ、解釈を一方にしぼり単純化するせいで、『新古今』特有の模糊たる情趣が失われることも大きいのではないか。》

 

<鶯のなけどもいまだふる雪に杉の葉しろきあふさかのやま>

古今集』の「梅が枝にきゐる鶯春かけてなけどもいまだ雪は降りつつ」の本歌どりであり、《二つをくらべることは、『古今』と『新古今』の歌風について考えるうえでずいぶん役に立ちそうな気がする》、《本歌では視覚の喜びは関心の対象となっていない。鶯と雪という取合せはもっぱら時間の相のおもしろさでとらえられ、季節はずれの事象に対する知的な配慮だけが全体を覆っている》と前提したうえで、

《ところが本歌どりのほうになると、「ふる雪に杉の葉しろき」といきなりつづく効果のせいで杉の葉のみどりと白い雪とが衝突し、その鮮やかな色彩美に驚くわれわれの脳裡において、鶯いろの春の鳥は白雪の上に姿をあらわす。その訪れ方はまことに優雅で、ここでは春鶯囀はいささかも眼の楽しみをさまたげず、むしろつつましく伴奏しているようである。(中略)こういう鮮麗な色彩への関心は後鳥羽院の好みだったし、(たとえば「此の比は花も紅葉も枝になししばしな消えそ松のしら雪」)、また『新古今』時代一般の(たとえば慈円の「もみじ葉はおのが染めたる色ぞかしよそげにおける今朝の霜かな」)そして殊に藤原定家の、得意の業であった(たとえば「ひとりぬる山どりのをのしだりをに霜おきまよふ床の月かげ」)。この流行にはおそらく舶載された宋の絵画の影響がありそうな気がする。》

 

<見渡せば山もと霞むみなせ川夕べは秋と何思ひけん>

《しかし第三に、彼が個人としてでも詩人としてでもなく、いわば帝王として見渡したという局面があった。このことを最もあらわに示すのは、建保四年二月の百首歌のおしまいの一首、

  見渡せばむらの朝けぞ霞ゆく民のかまども春に逢ふころ

である。(中略)おそらく後鳥羽院はみずからを古代の聖天子になぞらえて国見をおこない、「民のかまど」の繁栄を慶賀していたのである。そのとき「煙」が「霞」に変じ、「立ち立つ」や「にぎはひ」が「春に逢ふ」と婉曲に取りなされるのは、『万葉』や『古今』と違う『新古今』の優雅というものであったろう。

 国見という、高所から国土を見渡して賛美する農耕儀式は古代における天皇の行事であったが、それはやがて時代の移り変わりと共に政治的・呪術的な意識が薄れ、単に風景を観賞するだけの美的な性格のものに変ったらしい。(中略)もちろん一応のところ、後鳥羽院は水無瀬の離宮において春の夕景色を楽しんでいたし、そのとき『枕草子』以来の風景美論は彼の心を去来していた。しかしこのとき、そういう美的な意識の底に、自分は帝王として国見をしているのだという誇り、この眺望はすべて自分の所有するところだという満足が揺れ動いていなかったと判断するのは、むしろ困難なことのような気がする。時に国見に最もふさわしいはずの春であったし、それに上皇は自分を古代の帝王に擬することなど大好きな、芝居っ気の多い性格だったにちがいない。ゆったりとした調べの快さはもともと後鳥羽院の天性のものだが、ここでは古人をしのぶ(あるいは気取る)ことによって、それがいsっそう見事に、そして自然に発揮されることになった。しかもそのいわゆる帝王ぶりが下の句の知的な感触(「秋は夕といふは、常のことなるに、夕は秋とあるは、こよなくめづらか也」と宣長は評した)によってあざやかな

『新古今』調に旋回しながら、それでもなお上の句の鷹揚な味わいをそこなわないあたり、まことに嘆賞に値する。三句切れによって連歌さながらにまっぷたつに割れた上の句と下の句の、衝突と調和の呼吸は、疎句歌の妙趣を模範的に示すものであろう。ここにはほとんど後鳥羽院のすべてがある。》

 

<むかしたれあれなん後のかたみとて志賀の都に花をうゑけん>

 藤原良経の「むかしたれかかる桜の種をうゑてよし野を春の山となしけん」と同工異曲である。

《しかし良経が「むかし」をなつかしんで詠んだ歌は、単に自然としての太古と現在とを対比するだけの若々しくて単純な味のものなのに、ここではむしろ人事として過去と現在とがくらべられ、歴史への感慨の底に個人の悲しみがちらつくという、複雑な仕掛けになっている。配所にあって年老いてゆく上皇は、桜を植えたばかりのころの「志賀の都」と二重映しにして、かつての自分の栄華を眺めているのである。》

 

<み渡せば花の横雲たちにけりをぐらの峯の春のあけぼの>

《しかしわたしはこの歌に執着したい気持を捨てることができないし、同じ小倉の峯の春景色にしても、定家の描いたもの(筆者註:「しら雲の春はかさねてたつた山をぐらの峯に花にほふらし」)よりももっと絵画美に富んでいるように思われるのである。(中略)後鳥羽院の狙いは純粋な色彩美にあった。すなわちわれわれは、「花の横雲」の匂やかな明るさから「春のあけぼの」の薄明を経て「をぐらのみね」の晦暗に至るまでの展望を一時に楽しむことができる。しかもその晦暗は単なる暗さではなく、「小暗し」の「小(を)」によって微妙な限定をつけられ、こうして明暗の対照と調和はまことに洗練された意匠を形づくるのである。》

 

<みよしのの高ねの桜ちりにけり嵐もしろき春のあけぼの>

《しかしここで言っておかなければならないのは、それにもかかわらずこの一首が俊成(筆者註:「又やみんかたののものに桜がり花の雪ちる春の明ぼの」)の模倣ではなく、個性に根ざした自己表現の成果だということである。ちょうど定家が俊成の詠の時間性を歌った局面に留意し、それを掘り下げることで清新な頽廃の詩を創造したと同じように、後鳥羽院は俊成の和歌のドラマチックな様式美という局面に注目し、そこから出発して一種メロドラマチックな、あるいはサディスチックと呼んでもいい豊麗な壁画を描いた。》

 

<夏山の繁みにはへる青つづらくるしやうき世わが身一つに>

《しかし一首の妙味は、上の句が一応はまさしく序詞でありながら、それ以上の何かに高められていることである。夏山の繁みを苦しげに這う一本の青つづらは、ひょっとすると王朝の優雅な趣味に逆らうのではないかと案じられるほど鮮明に差出され、次にとつぜん、憂き世の苦しみを一身に引受けている男の姿が映し出される。その呼吸は映画のモンタージュ手法に似ているが、もっと直接的には、連歌の影響を受けた疎句の放れ業であろう。》

 

<野はらより露のゆかりを尋ねきてわが衣手に秋風ぞ吹く>

《しかし一首の鑑賞で最も重要なのは、第一句「野はらより」である。一体「野原」という言葉は、『源氏物語』若菜 上に、「霜枯れわたれる野原のままに、馬、車のゆき通ふ音、しげくひびきたり」とはあるものの、雅語ないし歌語という性格の乏しい言葉だったのではないかという気がする。「野」や「野辺」や「野中」にくらべてかなり格式の落ちる言葉だったのではなかろうか。『新古今』以前の七つの勅撰集のうち、この語をもってはじまる句を持つ歌が、「拾遺」の「さわらびや下にもゆらむ霜がれの野原のけぶり春めきにけり」と、『金葉』の「ゆふ露の玉かづらして女郎花野原の風にをれやふすらむ」の二首しか見当らないことは、こういう推測を多少は支えてくれるだろう。ところが『新古今』になると、この言葉ではじめる句が四首もあるのだから(たとえば源家長、「けふは又しらぬ野原に行き暮れぬいづくの山か月はいづらん」)、どうやらこの時期に言語意識が改まって、「野原」がとつぜん歌語として取入れられたものらしい。これは一つには語彙をふやしたちという欲求のあらわれだろうが、その際、藤原俊成のよって高められた『源氏物語』への尊敬が大きく作用し、若葉の巻の先程あげたくだりが恰好の言いわけとなったのではなかろうか。

 なかんづく勇ましいのは後鳥羽院で、この言葉でいきなり歌いだすという放れ業をやってのけた。これを放れ業と呼ぶのは大袈裟に聞えるかもしれないけれど、『国歌大観』、『続国歌大観』を通じて「野原」という言葉が冒頭に来るのはこの一首だけなのである。おそらく『新古今』時代の歌人たちにとって、この第一句は呆れるほど衝撃の強いものだったに相違ない。それは歌うべからざるものを歌おうとする破天荒な姿勢なのである。》

 

<橋ひめのかたしき衣さむしろに待つ夜むなしきうぢの曙>

 橋姫は『新古今』時代の代表的な題材で、宇治の女を詠む流行は、たくさんの名歌を残している。たとえば、「さむしろや待つ夜の秋の風ふけて月をかたしくうぢの橋ひめ」藤原定家、「はしひめの袖の朝霜なほさえてかすみふきこす宇治の川風」俊成卿女、などいくらでもあげられる。

《しかし、これは発生的には古代信仰にかかわる話だから、まず民俗学のほうを一わたり調べなければなるまい》

ということで、《柳田国男によれば、「橋姫といふのは、大昔我々の祖先が街道の橋の袂に、祀ってゐた美しい女神のことで」、宇治橋に限らず、諸国の数々の橋に橋姫がいた痕跡があるし(たとえば甲斐の国玉(くだま)の大橋、近江の瀬田橋、青梅街道の淀橋、伊勢の神宮宇治橋)》というふうにあたってゆく。『新古今』時代の歌人たちは、何よりも『古今』の「さむしろに衣かたしき今宵もや我を待つらん宇治の橋姫」読人しらず、に魅せられたらしい。ところで、『源氏物語』の「総角(あげまき)」の「中絶えしものならなくに橋姫の片敷く袖や夜半に濡らさん」という匂宮の歌を介して、「宇治十帖」の世界が寄り添っていた気配がある。

 さらに丸谷は、《ここで当然、歌枕としての宇治川ということが問題になる。(中略)しかし歌枕について考える場合、地名が掛け詞や序という修辞の工夫によってさまざまの色調をおび、さまざまの観念と結びつくことを忘れてはならない。阿武隈(あぶくま)川は動詞「逢ふ」を含み、小夜(さや)の中山は「さやか」という名詞を呼び起す。同様に宇治は「憂し」という形容詞を見えがくれに示して一首の含蓄を深めるのである》と、「宇治」と「憂(う)し」との言葉の重層性に言及したあと、モダニズムの定義を展開して「七夕説話」と「橋姫」の共通点に到る。

《しかし、もう少し別種の文学的技法の問題がある。これは二十世紀のヨーロッパに広く見られる現象だが、文学者たちは写実主義から脱出する手がかりを神話に求め、主義から脱出する手がかりを神話に求め、競ってさまざまの神話を枠組としながら彼らの世界を表現した。それはパスティーシュであり、あるいはパロディであり、あるいは再解釈という形をとったけれども、この「いわゆる神話的方法を用いたなかで、詩を代表するのはヴァレリーの『若いパルク』とエリオットの『荒地』、戯曲を代表するのはジロドゥーの『アンフィトリオン38』とサルトルの『蠅』、そして小説を代表するのはジョイスの『ユリシーズ』とトーマス・マンの『ファウスト博士』ということになろうか。とにかくよりぬきの傑作がむやみに多くて選択に苦労するほどこの方法は一世を風靡したのである。

 こういう態度の根柢には、人間性は時代によって変るものではなく、古代だろうと現代だろうと本質的には同じだという認識があるにちがいない。そしてこれはわれわれのほうから見ると、単に十九世紀の歴史主義への反動となるかもしれないけれど、実は十九世紀の思考が全人類史の例外なのである。歴史主義という近代の病患に犯されぬ限り、人間は常に普遍的なものを尊んできたし、それゆえ神話はこれほど久しいあいだ、何千年の昔から人間の魂をとらえてきたのだ。二十世紀文学の神話的方法は、こういう健全な人間観を再認識し、健全な文学観を再建するための試みにすぎない。

 とすれば、わが王朝の歌人たちが一種の神話的方法を採用したのはいささかも驚くに当らない話だろう。その最も代表的なものは七夕説話で、『古今集』の歌人はたとえば織女の心になって、

  ひさかたの天の河原の渡し守きみ渡りなば梶かくしてよ

と詠み、そして『新古今集』の歌人はたとえば、表むき七夕の歌と見せかけながら、

  七夕のと渡る舟のかぢの葉にいく秋かきつ露の玉づさ

という実は恋歌を詠んだ。そしてわたしの見たところ、『新古今』歌人たちが七夕説話に次いで重んじたものは橋姫伝説にほかならない。

 当然、七夕と橋姫という二つの神話の共通点を探しだすのが必要な手つづきになるわけだが、これは至って易しい。いずれも恋愛神話であり、いずれも悲劇的な設定であると答えればそれで要は尽しているのである。》

 それから丸谷は、《しかし二つの悲恋物語をもうすこし眺めれば、第三の共通点に気がつくことになる。いずれも、いっしょに暮している男女ではなく、ときどき逢う仲だということである》と風俗的な視点も考察し、高群逸枝『日本婚姻史』の「擬制婿取婚」に目配りして、《『源氏物語』に典型的に示される王朝ふうの男女関係は、亡んでいたか、あるいはすくなくとも亡びかけていたのであろう》から《王朝ふうの自由な男女関係が衰えたことを寂しんでいたのであろう》とした。さらには、

《しかしこの男女関係の問題にからんで、もう一つ注目に価する要素がある。平安後期から娼婦の数がふえ、貴顕こぞって白拍子と遊女とを好み、なかには宮廷に出入りする者もあったという現象がそれで、当代歌壇における橋姫ばやりの最も直接的な原因としてはおそらくこれをあげるのが正しいだろう。(中略)そして後鳥羽院が娼婦たちをすこぶる愛したことは、この傾向をいよいよ助長したにちがいないのである。上皇がこの種の女を後宮に入れた例としては、亀菊のことが最も知られている》と平安後期の白拍子・遊女好みの影響にまで及び、橋の女には複合的、多層的なイメージがあって、《それはまた、凡俗な日常に生きる同時代の娼婦にさえも至高の女神の面影を見出だし、変転の諸相を隈なく探ることによって普遍的な人間を捉えるという神話的方法の精髄なのである》と論じた。

 

<駒なめてうちいでの浜をみわたせば朝日にさわぐしがの浦波>

《しかし「朝日にさわぐ」はこれだけ卓抜な句でありながら誰にも模倣されなかったし(『国歌大観』所収の厖大な数の和歌のうち、この句を含むのは後鳥羽院の一首だけである)、それゆえ当然、制の詞(筆者註:中世歌学で使用を制限・禁止した語句。定家の子、為家の歌論書「詠歌(えいが)一体(いってい)」が,特定歌人が創出した個性的表現を「主ある詞」として,後人が安易に模倣・濫用するのを戒めたことに始まる)とならなかった。これはたとえば藤原定家の「雪の夕ぐれ」(「駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕ぐれ」)がくりかえし取入れられたあげく(たとえば、永福門院の「鳥のこゑ松のあらしのおともせず山しづかなる雪のゆふぐれ」)、制の詞に指定されたという事情とほとんど好対照をなすであろう。新鮮すぎるとわたしは言ったが、おそらく後世の歌人たちはこの一句に、王朝文学の正統から逸脱した危険なもの――尚武の気風と革命(あるいは反革命)の興奮を嗅ぎあて、それゆえ「朝日にさわぐ」を盗まなかったのではないか。》

 

<袖の露もあらぬ色にぞ消えかへるうつればかはる嘆きせしまに>

《一首はわたしの見るところ五段がまえになっていて、第一にその心がわりがあり、第二に「袖の露」が「あらぬ色に」すなわち紅涙(筆者註:血の涙)になる。第三にその紅涙さえ(「も」はまずこの意味で使われる)消える(「消えかへる」は「消ゆ」を強調した語)。第四に、秋が草葉に置いた露が消え、第五に、嘆きのあまり自分の露の命もまた消え入りそうでなのである。この第四と第五の層の、草の露および露の命の存在を暗示するために「袖の露も」の「もまた」があるだろう。

 しかし、これだけこみいったことを三十一音に収めた芸もさることながら、最も嘆賞に値するのは、そのはなはだしい多肢と複雑にもかかわらず、調べがまことにおっとりとしていて、天衣無縫なことである。いわゆる帝王調の歌を詠む天皇はほかにもいるし、いわゆる『新古今』調の歌人は数多い。しかし、これだけの高度な技巧を身につけた帝王調の歌人は、日本文学史にただ一人しかいなかった。》

 

<「あとがき」>

 生前、丸谷は挨拶の名人と言われた(『挨拶はむづかしい』『挨拶はたいへんだ』というスピーチ集がある)が、この「あとがき」は見事な挨拶となっている。全文を引用するわけにはいかないが、その一端だけでも感じ取れるだろうか。

《しかし、わたしが『新古今』に熱をあげることになったのは、今となっては遠い昔のある日、何かの用で菊池さんのお宅に伺った際、書架にあった「日本歌学大系」の端本を見て、借りて帰ったのがきっかけのような気がしてならない。そのなかの『東野州聞書』に書きとめてある、

                           藤原定家

  生駒山あらしも秋の色に吹く手染の絲のよるぞ悲しき

の正徹の分析にたちまち心をとらえられたのである。それは当時わたしが、永川玲二、高松雄一小池滋、沢崎順之助、その他の同僚たちと一緒にジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』を読みながら、主として彼らのおかげで発見することができた『フィネガンズ・ウェイク』解読の方法と何一つ変るところがないように感じられた。このときわたしは日本の中世文学を理解し、それと同時に西欧の二十世紀文学を理解したのではなかろうか。あるいは、明治維新以後百年の文学の歪みを知ったのではなかろうか。エリオットの言う「伝統」という概念の真の理解は、まことに奇妙なことに、あるいは当然なことに、わたしの場合「日本歌学大系」によってもたらされたのである。わたしは夢中になって中世の歌論を詠み、『新古今』を読んだ。あるいは、ジョイス=エリオットの方法によるものとしての『新古今』を読んだ。わたしがホメロス以後、ないし柿本人麿以後の文学の正統に近づくためには、ただこの態度しかなかったのである。

 そしてわたしは二重三重に恵まれていた。『新古今』の読み方について教えを乞うたとき、佐藤さんは言下に、本居宣長以降のいわゆる新注に就くことをしりぞけ、連歌師たちの注釈を読めと語ったのである。わたしは自信をもって、『フィネガンズ・ウェイク』や『荒地』をはじめとする二十世紀のイギリス文学と、『拾遺愚草』や『後鳥羽院御集』を代表とする日本中世文学との鮮明な対応という線をたどることができた。図書館の書架でたまたま手にした『後鳥羽院御百首』の室町期の古注によって、小学教科書で教わって以来、久しいあいだ疑問としていた、

                           後鳥羽院

  我こそは新じま守よ沖の海のあらき浪かぜ心してふけ

の謎がとけたのも、このころだったような気がする。そしてこの歌にこだわることは、必然的に、折口信夫の学問へとわたしを導いて行ったし、『女房文学から隠者文学へ』というかけ値なしの傑作はわたしと『新古今』との関係をいっそう深いものにしてくれた。それは日本文学史全体のなかに後鳥羽院と定家とを据えることによって、実は彼らを世界文学のなかにまことに正しく位置づけていたのである。》

 

 こうして、一気に日本文学史と世界文学とを同じ地平で眺めることができるし、事実、無数の可逆的な視線が丸谷才一後鳥羽院』には張りめぐらされている。

 

 ここで突飛なようだが、関容子『芸づくし忠臣蔵』(文春文庫)の丸谷才一「解説」をもって締めくくりとしたい。丸谷の「解説」には、関容子の本について解説しながら自己の方法を開陳している自身の姿が見える。『忠臣蔵』を後鳥羽院和歌に、歌舞伎・日本演劇を日本文学史に置換し、大成駒に藝談を聞く構成・エピソードを「人もをし人もうらめしあぢきなく世をおもふ故にもの思ふ身は」の書き出しと比べてみるがよい。

《歌舞伎の運命に対して強い危機感をいだいてゐる人が、『忠臣蔵』をテクストにして書いた歌舞伎總論なのだ》、《関容子は『忠臣蔵』といふ好個の話柄によつて、日本演劇が生きつづけてゆく姿を具体的にとらへようとした》、《大切なのはこの志の高さと新しさである。そこにはかつての好劇家のそれとは次元を異にする歴史意識がある》、《藝談と逸話を次々に披露しながら、取捨選択によつて批評をおこなひ、さらにはもちろん『忠臣蔵』を論じ、『忠臣蔵』の生成と歴史を説いてゐます》。

《まづ歌右衛門を岡本町に訪ねて藝談を聞くところからはじまるのだが、そのとき、案内の人に成駒屋の愛犬の名を聞いて置き、通された客間でその犬がゆつくりと著者に近づいて来ると、左手を犬に伸ばして小さな声で「花子ちゃん」と呼ぶ。「犬がわずかにシッポを振り、(中略)大成駒が花のように笑っていた」。(中略)開巻第一に伝説的な名女形を持つて来て景気をつけるといふ意味でも、自分の方法を明かすといふ意味でも、この冒頭はじつにうまく行つてゐる》。

 もちろん、関容子が「文庫本のためのあとがき」で述べているように、《考えてみると、物に憑かれたように「忠臣蔵忠臣蔵」と言い暮らしてきました。どうやら丸谷才一先生の『忠臣蔵とは何か』を読んでからなおのことそうなったように思います。とりわけ、判官の非業の死を勘平がもう一度(世話物バージョンで)繰返すのだ、という指摘を読んだときの、目の前の霧がパッを晴れたような衝撃。それに導き出されて、勘平があのあばら家の中で一人浅葱の紋服に着換えるのは、判官の白装束水裃姿に重なる、既に死装束であり、美男の切腹を主題にした遁走曲なのだ、と気づいたのでした。実はここが私の自慢の箇所で、でもあの本に出会わなかったら、「とは何か」と考える態度を勉強することがなく、これは単なる芸談コレクションで終っていたかも知れません》のとおり、「とは何か」によって裏打ちされての『後鳥羽院』なのである。                                                                   (了)

         *****引用または参考文献*****

丸谷才一『日本詩人選10 後鳥羽院』(筑摩書房

*『丸谷才一全集』(新潮社)

丸谷才一後鳥羽院 第二版』(ちくま学芸文庫

丸谷才一『新々百人一首』(新潮社)

丸谷才一『笹まくら』(新潮文庫

折口信夫折口信夫全集第一巻 古代研究(國文學篇)』(「女房文學から隠者文學へ」所収)(中公文庫)

*関容子『芸づくし忠臣蔵』(丸谷才一「解説」所収)(中公文庫)

保田與重郎後鳥羽院』(講談社

 

文学批評 吉岡実、禁欲と侵犯の窃視者

 

                                   

 詩人吉岡実に、舞踏家土方巽についての『土方巽頌――<日記>と<引用>による』という書物がある。その「補足的で断章的な後書」によれば、

《「土方巽とは何者?」誰もがそう思っているにちがいない。この人物と二十年の交流があるものの、私には「一個の天才」を十全に捉えることは出来ないだろう。そこで私は自分の「日記」を中心に据え、土方巽の周辺の友人、知己の証言を藉り、そして舞踏家の箴言的な言葉を、適宜挿入する、構成を試みた。まさしく、「日記」と「証言」に依る「引用」の『土方巽頌』である。》

 その方法にならい、吉岡実の詩、散文や討議・対談の発言を「引用」して、「吉岡実とは何者?」に少しでも迫ってみたい。吉岡は「補足的で断章的な後書」の最後にこう引用したではないか、《「私たちのように思考する者にとっては、あらゆる事物がひとりでに踊るのだ」》(ニーチェ)。

 

吉岡実をめぐる対話 没後三十年を機に 朝吹享二+城戸朱里」(『みらいらん 2020 Summer第6号 特集吉岡実』に所収)の発言と、松浦寿輝「後ろ姿を見る――『サフラン摘み』の位置」(『特装版 現代詩読本 吉岡実』に所収)からの引用を軸に、「討議 大岡信入沢康夫天沢退二郎平出隆「自己侵犯と変容を重ねた芸術家魂――『昏睡季節』から『ムーンドロップ』まで」や吉岡の散文などを絡めながら吉岡実の詩と踊りたい。

 

<「吉岡実をめぐる対話 没後三十年を機に 朝吹享二+城戸朱里」>

《城戸:いちばん重要なのは、吉岡実が、徹底したリアリストであったということだと思います。

 吉岡さん自身が自らの詩を一行、一行、リアリズムと語ったことがありましたが、あれだけ異形(いぎょう)の詩が、吉岡さんにとってはリアルなものとして把握されていた。

 それは、いったいなぜなのか。ここに吉岡実を理解するひとつのポイントがあると思います。

 吉岡さんは社会人としては戦後、筑摩書房に勤め取締役までなったわけで、少なからぬ友人が語っているように、きわめて常識的な人でもありました。コーヒーが好きで、舞踏や美術を愛し、俳句や短歌を好んで読まれていましたが、同時にストリップとポルノ映画の愛好家でもあった。そして、そうしたものから詩想を汲み上げていったわけですが、その意味では、吉岡さんの詩はリアルな何かから始まって、吉岡実という触媒が介在することによって異形の詩の言葉が生成していくという印象がありますね。》

 

 ストリップに関して補足すれば、

 大岡信吉岡実もストリップ劇場に行ってせんべいをぼりぼりかじったりしている連中のなかで出し物を見てると気持ちが安まるってことがあったでしょう。宮沢賢治はストリップには通わない。朔太郎は何やらこわごわと行ったんじゃないか。吉岡実は嬉々として行った(笑)。「岐阜のどことかはすごいよお」とかいう情報を彼から聞いて、なるほど筑摩書房の重役さんはいろんなところへ行っとるなあと思った(笑)。》(討議 大岡信入沢康夫天沢退二郎平出隆「自己侵犯と変容を重ねた芸術家魂――『昏睡季節』から『ムーンドロップ』まで」)

 

 その「リアル」(あるいは「半具象」)に関連して、吉岡実の数少ない散文のうち、「読書遍歴」「リルケロダン』――私の一冊」と、自他ともに詩論を書かなかった吉岡にしては稀有な「わたしの作詩法?」から引用しておこう。

《昭和十六年八月から満州へ出征し、朝鮮済州島終戦を迎えるまでの、四年六ヵ月、わたしは果してどんな本を読んだか、その多くを記憶していない。軍隊の悲惨な日々の中で、ひそかに日記と詩を書きながら、折にふれて、岩波文庫リルケの『ロダン』を読んでいた。内務検査の時、わたしはいつも厩舎の寝藁の中へ、七、八冊の翻訳書を匿したものだ。ゲーテの『親和力』もその数少ない私物品の一つだった。リルケの『ロダン』の手仕事の精神が、戦後のわたしの詩作へ大きく影響しているといえる。》(「読書遍歴」)

《さて、リルケの『ロダン』であるが、巨匠ロダンへの詩人の純粋な魂が、いかに傾倒していったかの、告白の書である。しかし、私にとっては、ロダンの偉大さは、どうでもよかった。透明な空間へ鋳こまれたような、リルケの言葉――肉体の鎖、螺条、蔓。罪の甘露が痛苦の根からのぼって行く、重くみのった葡萄のように房なす形象――というような陰影深い詩的文体に、私は魅せられた。(中略)

ロダン』一巻は、リルケロダンの精神と彫刻を賛美しながら、自己の「試論」を展開しているように、私には思われた。だが真の啓示を受けたと、いえるのは次の章句である。

  何物かが一つの生命となり得るか否かは、けっして偉大な理念によるのではなく、 ひとがそういう理念から一つの手仕事を、日常的な或るものを、ひとのところに最後までとどまる或るものを作るか否かにかかっているのです。

 この言葉はおそらく、ロダンの言葉であると同時に、またリルケの理念といってもよいのだろう。私は一つの方向を指示された思いだった。それからは、詩を書くときはつとめて、職人が器物をつくるように、「霊感に頼ることなく」、手仕事を続けてきたのである。それらの詩篇が、詩集『静物』へと生成していったのであった。》(リルケロダン』――私の一冊)

 

《或る人は、わたしの詩を絵画性がある、又は彫刻的であるという。それでわたしはよいと思う。もともとわたしは彫刻家への夢があったから、造形への願望はつよいのである。詩は感情の吐露、自然への同化に向って、水が低きにつくように、ながれてはならないのである。それは、見えるもの、手にふれられるもの、重量があり、空間を占めるもの、実在――を意図してきたからである。だから形態は単純に見えても、多肢な時間の回路を持つ内部構造が必然的に要求される。能動的に連繋させながら、予知できぬ断絶をくりかえす複雑さが表面張力をつくる。だからわたしたちはピカソの女の顔のように、あらゆるものを同時に見る複眼をもつことが必要だ。中心とはまさに一点だけれど、いくつかの支点をつくり複数の中心を移動させて、詩の増殖と回転を計るのだ。暗示・暗示、ぼやけた光源から美しい影が投射されて、小宇宙が拡がる。》(「わたしの作詩法?」)

 

《  苦力

支那の男は走る馬の下で眠る

瓜のかたちの小さな頭を

馬の陰茎にぴったり沿わせて

ときにはそれに吊りさがり

冬の刈られた槍ぶすまの高梁の地形を

排泄しながらのり越える

支那の男は輝く涎をたらし

縄の手足で肥えた馬の胴体を結び上げ

満月にねじあやめの咲きみだれた

丘陵を去ってゆく

より大きな命運を求めて

朝がくれば川をとび越える

馬の耳のあいだで

支那の男は巧みに餌食する

粟の熱い粥をゆっくり匙で口へはこびこむ

世人には信じられぬ芸当だ

利害や見世物の営みでなく

それは天性の魂がもっぱら行う密儀といえる

走る馬の後肢の檻からたえず

吹きだされる尾の束で

支那の男は人馬一体の汗をふく

はげしく見開かれた馬の眼の膜を通じ

赤目の小児・崩れた土の家・楊柳の緑で包まれた柩

黄色い砂の竜巻を一瞥し

支那の男は病患の歴史を憎む

馬は住みついて離れぬ主人のため走りつづけ

死にかかって跳躍を試みる

まさに飛翔する時

最後の放屁のこだま

浮かぶ馬の臀を裂く

支那の男は間髪を入れず

徒労と肉欲の衝動をまっちさせ

背の方から妻をめとり

種族の繁栄を成就した

零細な事物と偉大な予感を

万朶の雲が産む暁

支那の男はおのれを侮辱しつづける

禁制の首都・敵へ

陰惨な刑罰を加えに向う

(中略)

 これは兵隊で四年間すごした満州の体験である。

支那の男」とは、当時の満人である。満人というより、「支那の男」の方がスケールが大きいと思ったからである。彼らは裸馬を巧みに乗りこなしていた。馬は満馬といって、小形であるが、大変気質が激しく、乗りにくい。

 わたしたち輜重兵は、馬運動と称して、毎日のように、馬にのって遠くの部落まで。高粱畑を越して行った。冬は刈られた高粱が、まさに鑓先を揃えて、どこまでも続く。万一にも落馬したら、腹にでも顔にでも突きささるだろう。そんな恐怖感があった。(中略)「排泄しながらのり越える」とは、兵隊とはいえ、わたしたちの中には、排泄の場所は習慣として、一定のところへするが、満州では、満人部落の周辺といわず、曠野に道に、排泄物がちらばっている。もちろん家畜のものもあるが、排泄物こそ彼らの力であるように思えた。極寒の兵舎の厠のぞっとする底で、火山の噴出物のような排泄物の氷った塊の山をつるはしで崩していた満人の見えない顔。(中略)或る別の部落へ行った。兵隊たちは馬を樹や垣根につなぐと、土造りの暗い家に入って、チャンチュウや卵を求めて飲む。或るものは、木のかげで博打をする。豚の奇妙な屠殺方法に感心する。わたしは、暗いオンドルのかげに黒衣の少女をみた。老いた父へ粥をつくっている。わたしに対して、礼をとるのでもなければ、憎悪の眼を向けるでもなく、ただ粟粥をつくる少女に、この世のものとは思われぬ美を感じた。その帰り豪雨にあい、曠野をわたしたちは馬賊のように疾走する。ときどき草の中の地に真紅の一むら吾亦紅が咲いていた。満人の少女と吾亦紅の花が、今日でも鮮やかにわたしの眼に見える。揚柳の下に、豪華な色彩の柩が放置されているのも、異様な光景だ。ふたをとって覗いて見たらと思ったが、遂に見たことはない。びらんした屍体か、白骨が収まっているのだろう。みどりに芽吹く外景と係りなく。やがて黄塵が吹きすさぶ時がくるのだ。

 反抗的でも従順でもない彼ら満人たちにいつも、わたしたちはある種の恐れを抱いていたのではないだろうか。(中略)

 彼らは今、誰に向って「陰惨な刑罰」を加えつつあるのか。

 わたしの詩の中に、大変エロティックでかつグロテスクな双貌があるとしたら、人間への愛と不信をつねに感じているからである。》(「わたしの作詩法?」)

 

 満州体験と詩篇「苦力」については、

 平出隆《「苦力」というのは特徴のある詩なんですけれども、一つは吉岡さん自身の身ごなしのようなものが見えてくるような作品ですね。いろんな方がエッセイで生身の吉岡さんの身ごなしについて語っているんですけれども、「支那の男」の身軽さ、舞踏性すらある身軽さ、そういうものが詩人自身の身体表現にもつながってゆくわけですね。このことは例えば土方巽さんとの交りなんかともかかわっていくように思えます。》(討議 大岡信入沢康夫天沢退二郎平出隆「自己侵犯と変容を重ねた芸術家魂――『昏睡季節』から『ムーンドロップ』まで」)

 大岡信吉岡実と同世代の大学まで行ったような人たち、つまりエリートコースに否応なく乗ってしまって軍隊に学徒動員みたいな形で行った人たちと彼との違い、一兵卒で招集されて満州へ行って馬と格闘したという違いが、吉岡実の最晩年まで貫いているように思うんです。だけどそうであるから吉岡実は孤立していたかというとそうじゃなかった。そのことがこの人の場合、詩人の栄光としてあったと思います。》(討議 大岡信入沢康夫天沢退二郎平出隆「自己侵犯と変容を重ねた芸術家魂――『昏睡季節』から『ムーンドロップ』まで」)

 

《朝吹:詩集『僧侶』において特筆すべきは肉体の特出性です。吉岡実の詩の物質性についてはすでに指摘しましたが、ここにあらわれる肉体のプレゼンスも凄い。

 ここでとりわけ注目したいのは「管」です。「はげしい空腹と渇き/やみから抽き出された/一つの長い管を通りぬけ/坐りこんだ臓物」(仕事)とか「流通する熱と臭気をぬきながら 肛門につながる管をけんめいにたぐり出す 抑えきれぬゴムの状態で かさばりはじめ 部屋中を占めてのたうちまわる」(伝説)とか「もろい下の躰の管をすすむ血の粗い無責任な軍隊を見すごす」(固形)の出てくる「管」です。次の『紡錘形』の有名な「下痢」もそうですし、疫病で言えば、ペストではなく「コレラ」(『神秘的な時代の詩』)なんですね。人がただ単なる一本の筒であり管になってしまう。まさにアントナン・アルトー的というか、器官なき身体というか。これは強烈です。

 この肉体の(あるいは肉体の空洞化の)プレザンスはしかし言葉のプレザンスそのものなわけです。エロスもそうですね。禁忌への侵犯、羞恥の暴露という要素も言葉の問題として考えています。例えば「死児」の「首のない馬の腸のとぐろまく夜の陣地/姦淫された少女のほそい股が見せる焼かれた屋根/朝の沼での兵士と死んだ魚の婚礼」ここは特にポルノグラフィックなエロスはないのですが、グロテスクな像をむすぶ言葉が重なって、そのイメージの動き、つまり言葉の動きのなかに怖ろしいエロスがあらわれてくる。見てはいけないものを見てしまうエロスがある。「水のもりあがり」でも「女と魚 くらい鏡の割れ目からもりあがってくる水」のような見てはいけないモノを暴露するエロスがあるのですね。》

 

 大岡信吉岡実の愛用した言葉の一つに「いかがわしい」という言い方があります。いかがわしい世界を書きたいという欲望があって、それは『僧侶』ではひじょうに明確にあるんですね。あれは昭和三十三年に出た詩集です。》(討議 大岡信入沢康夫天沢退二郎平出隆「自己侵犯と変容を重ねた芸術家魂――『昏睡季節』から『ムーンドロップ』まで」)

 

《朝吹:『神秘的な時代の詩』は『静かな家』から始まり『サフラン摘み』に至る、それまでのグロテスクなまでの肉のプレザンスによるエロスとはまた異なるエロティシズムが充溢する三部作ともいえる詩集のひとつなのですが、(中略)『僧侶』『紡錘形』の形而下的な肉のあらわれから形而上的なエロスへ、と言っていいかもしれません。『静かな家』でいえば、「桃 あるいはヴィクトリー」に「わ ヴィクトリー/挽かれた肉の出るところ/金門のゴール?」「かがやかしく/大便臭い入江/わ ヴィクトリー/老人の口/それは技術的にも大きく/ゴムホースできれいに洗浄される」といったあいかわらず管化した筒としての肉が描かれますが、どこかきらきらかがやいているところがある。「わたしたち再びうまれるとしたら/さびしいヴィオレット色の甘皮からだ/それはいじるより見る方が美しい」(聖母頌)とあるように見るという、エロスの対象への距離が重要になってくる。それはエロスの後退ではなく、どこまでも到達できない対象への痙攣的な欲望を示しているのだと思います。「夕焼けの空のストロベリージュースを/きみの母の血でなければ/かれらの妹の植物化した直腸の液」(内的な恋唄)のように肉なんだけどどこか遠い。この距離感は批判ではありません。むしろ距離がつくられることでかがやかしいエロスが浮き上がってくる。『神秘的な時代の詩』の「少女こそぼくらの仮想の敵だよ!/夏草へながながとねて/ブルーの毛の股をつつましく見せる」(聖少女)、ここから『サフラン摘み』のアリス詩篇は直結していますね。「それにしてもわしは覗きたい 袋とペチコートの内側を/なまめかしい少女群の羽離れする 甘美な季節の終り/かくも深く彼女らの皮膚を穿ち 水と塩を吸い/夜は火と煙を吹き上げる 謎の言語少女よいずこ」(『アリス』狩り)覗き見、視姦の密かな悦び。しかし、一体何を見ているのか? 言語少女なのです。視姦されているのは言語なのだというのは重要ですね。》

 

《城戸:吉岡実においては「見る」ことが、詩の発端にあったということは重要ですよね。その意味では、吉岡さんにとって、舞踏や美術とストリップやポルノ映画も同じ次元にあるものだったのでしょう。》

 

 天沢退二郎《『薬玉』や『ムーンドロップ』の言葉の在り様、行をズラして括弧でくくって仕切りとして上から見れば見えるということはどこからくるかというと、一つは映画だと思うんですね。吉岡実が好きだったものの一つは映画で、特にロマンポルノなんかはよく観ていましたよね。(中略)吉岡実の詩法が映画と関係があると気づいたんですね。例えば映画のカメラ・アイが玉ノ井の私娼窟で客と娼婦が寝ているところを上からスーと見ているわけですよ。》(討議 大岡信入沢康夫天沢退二郎平出隆「自己侵犯と変容を重ねた芸術家魂――『昏睡季節』から『ムーンドロップ』まで」)

 

《朝吹:確かに「見る」のだけど、言語化することによって、新たに見直すということが起きるのですね。言葉によって新たに見るのです。そういう重層化した「窃視」の構造が明白に意識されるのが『サフラン摘み』なのでしょう。アリスの写真を見るという行為から始まるわけですが、作品化の過程で、言葉によって、見るということがもう一度見られることになる。言葉による「窃視」がもう一度起きる。その重層化が生々しく禍禍しくもあるのですね。》

《城戸:これは私の個人的な思いなのかも知れませんが、エロスとタナトスの壮麗な絵画のような吉岡実の詩を読んでいると、あのニーチェの名高い箴言、「深淵を覗くとき、深淵もまたあなたを覗いているのだ」を思い出すんです。まるで、自分が逆に見つめられ、詩的惨劇と喜劇のなかに巻き込まれてしまうような。これは吉岡実の詩が単純な平面的情緒のなかに完結するのではなく、複層とその逆転から成り立っているからかも知れません。》

 

 

松浦寿輝「後ろ姿を見る――『サフラン摘み』の位置」>

《だが『サフラン摘み』に至って「見る」が回帰する。ここで詩人が、見えないものをたしかに見えていることをわれわれは疑うことができない。実際、詩篇《マダム・レインの子供》を読むたびにわれわれは「マダム・レインの子供」をたしかに見て(・・)、ほんの少し死にたくなるだろう。この驚くべき凝視の力とニヒリズムの輝きを浴びてそうならない者がいるとしたら、その読者は吉岡実の詩とはついに無縁の衆生なのである。

 しかしそれならば、マダム・レインの不可視の子供は初期吉岡実の実存世界と同質の空間に棲んでいるのかと言えば必ずしもそうは言えないというところに、『サフラン摘み』の位置の両義性が露呈しているのだ。(中略)ここにあるのは、可視と不可視を分かつ境界線上の記号の戯れが、猛々しい軽さの闖入によってその基盤を揺るがされ、ほとんど自壊しかけながらなお実存的想像力によって充填され支持されて辛うじて機能している不安定な均衡状態である。》

 

 ジャック・ラカン精神分析の四基本概念』に、《サルトルは『存在と無』の中のもっとも見事な個所で、他人の実在という次元で、眼差しを機能させています。もし眼差しがなかったとしたら、他人というものは、サルトルの定義にしたがえば、客観的実在性という部分的にしか実現されえない条件にまさに依存することになってしまいます。サルトルの言う眼差しとは、私に不意打ちをくらわす眼差しです。つまり、私の世界のあらゆるパースペクティヴや力線を変えてしまい、私の世界を、私がそこにいる無の点を中心とした、他の諸々の生命体からの一種の放射状の網へと秩序づけるという意味で、私に不意打ちをくらわす眼差しです。無化する主体としての私と私を取り巻くものとの関係の場において、眼差しは、私をして――見ている私をして――私を対象として視ている人の目を暗点化させるにまで至る、という特権を持つことになります。私が眼差しのもとにあるかぎり、私はもはや私を視ている人の目を見ることはできないし、逆にもし私が目を見れば、そのときは眼差しは消えてしまう、とサルトルは書いています。

 これは正しい現象学的分析でしょうか。そうではありません。私が眼差しのもとにあるとき、私が誰かの眼差しを求めるとき、私がそれを獲得するとき、私は決してそれを眼差しとしては見ていない、というのは真実ではありません。

 眼差しは見られるのです。つまり、サルトルが記述した、私を不意打ちするあの眼差し、私を恥そのものにしてしまう――というのはサルトルが強調したのはこの恥という感情ですから――あの眼差し、それは見られるのです。私が出会う眼差しは、これがサルトルのテクストの中に読み取ることができるものですが、見られる眼差しのことではまったくなくて、私が〈他者〉の領野で想像した眼差しにすぎません。

 彼のテクストに当たってごらんになればお解りになると思いますが、彼は視覚器官に関わるものとしての眼差しの出現のことを語っているのでは決してなくて、狩りの場合の突然の木の葉の音とか、廊下に不意に聞こえる足音とか――これはどういうときかというと、鍵穴からの覗きという行為において彼自身が露呈するときです――のことを言っているのです。覗いているときに眼差しが彼に不意打ちをくらわせ、彼を動揺させ、動転させ、彼を恥の感情にしてしまうのです。ここで言われている眼差しは、まさに他人そのものの現前です。しかし、眼差しにおいて何が重要かということを我われが把握するのは、そもそも主体と主体との関係において、すなわち私を視ている他人の実在という機能においてなのでしょうか。むしろ、そこで不意打ちをくらわされたと感じるのは、無化する主体、すなわち客観性の世界の相関者ではなくて、欲望の機能の中に根をはっている主体であるからこそ、ここに眼差しが介入してくるのではないでしょうか。

欲望がここでは覗視の領野において成り立っているからこそ、我われは欲望をごまかして隠すことができるのではないでしょうか。》

 

《『サフラン摘み』のこうした危うい過渡期的性格を体現しているものは、後ろ姿(・・・)のイメージであるように思われる。「見ること」の戯れ自体、ここではすでに他人には見えないものが詩人には見えるという特権的想像力の発現ではなく、見たくないものをあえて見ずにはいられないという脅えと受苦の体験へと位相をずらしており、それはそれで十分に徴候的であるが、さらにその当の「見る」べきものが、正面を見せずに後ろ向き(・・・・)で登場しているという点が注目に値するだろう。

  裸のマダム・レインは美しい

  でもとても見られない細部を持っている

  夏ならいいのだが

  雪のふる夜をマダム・レインは分娩していたんだ

  うしろからうしろからそれは出てくる

  これはクレタの王宮の華麗な壁面の中で四つんばいになってサフランを摘んでいるあの少年の、

  岩の間には蒼い波がうずまき模様をくりかえす日々

  だがわれわれにはうしろ姿しか見えない

というこの「うしろ姿」と同じ方向づけを持ったイメージであるように思われる。マダム・レインと同様に少年もまた後ろ向きになって何ものかを分泌しているのだが、彼の突き出された尻から落ちてくる「一茎のサフランの花の香液のしたたり」とは、それに続く「白い三角波」や「猿の首」――「波が来る 白い三角波/次に斬首された/美しい猿の首が飾られるであろう」――ともどもに、それを見たら「そのたびぼくらは死にたくなる」といった種類の光景に属しているものだろう。(中略)やはり『サフラン摘み』に収められている詩篇《自転車の上の猫》にも、「禁欲的に/薄明の街を歩いてゆく/うしろむきの少女」が登場している。

 なるほど『僧侶』の時期の《感傷》にはすでに「桃をたべる少女はうしろむき」という戦慄的な一行が含まれているので、これが『サフラン摘み』で初めて出現したイメージであるとは必ずしも言いきれないのはたしかだが、《感傷》の場合は、語られざる一語としての「尻」を媒介にしての「隠喩」的でもあり「提喩」的でもある桃と少女との結合が必然的に要求する後ろ姿だったのであり、これはたいへん官能的ではあるが思いのほか自然(・・)なイメージでもあると言える。》

 

 吉岡実には、「尻(臀)」への窃視症的偏執があって、丸い(《その球体の少女の腹部と/関節に関係をつけ/ねじるねじる》(「聖少女」)ハンス・ベルメールの人形や、《いままでに彼女の全作品を見ている。そしてその美しい裸に、美しい夢を紡いできた》というブリジット・バルドー(同じく尻フェチのゴダールはバルドーの尻を撮りたいがために映画『軽蔑』を撮影した)、卵、固体と液体、腸(管、筒)、便器、下痢、排泄、肛門などと照合する。

《ときに牝の尻の穴 柔媚な

紅の座を嗅ぎつけ 嫣然と眦をほそめてゆく

時――ああ果は 滂沱たる放尿の海》(「寓話」)

《中の一人が誤って

子供の臀に蕪を供える》(「僧侶」)

《めいめい死児の裸の臀を叩く》(「死児」)

《割れた少年の尻が夕暮れの岬で

突き出されるとき》(「サフラン摘み」)

《わしの知っとる

「もう一人のアリスは十八歳になっても 継母の伯母に尻を

鞭打たれ あるときはズックの袋に詰められて 天井に吊る

される 美しき受難のアリス・ミューレイ……」》(「『アリス』狩り」)

 

《朝吹:『ムーンドロップ』の表題作「ムーンドロップ」はナボコフの章句を借用したと註記されながら、もちろんナボコフもあるのだけど、「ロベルト夫人の下着の下の梨形の/(臀部)/その全体の重み/その(共犯性)」とむしろクロソウスキーへの言及がなされる。引用とか地の文とかの区別もどんどん無化されていて、むしろちりぢりになっている。》(「吉岡実をめぐる対話 没後三十年を機に 朝吹享二+城戸朱里」)

 

 クロソウスキー『ロベルトは今夜』で「窃視」と「尻」は、

《それから彼は、ロベルトの高くもちあげられた動かない手をとらえ、手袋を脱がせて手首をにぎりしめ、背後から彼女の黒のスカートをまくりあげ、尻をあらわにして愛撫しはじめた。ロベルトは、あらわな手ににぎりしめた手袋が落ちるにまかせながら、自分の体にかがみこんでいるヴィクトールを押しのけようとした。彼がいまにも語りかけようとしたのに気づいたロベルトは、手袋をつけていない手のひらを彼の唇にあてた。いっぽうヴィクトールは、まるみのある彼女の尻をなでまわしていた。やがて彼女は、ヴィクトールの口にあてた手のひらをひっこめて、下にさげ、指をのばしてヴィクトールの一物をにぎり、払いのけようとこころみながらも、けっきょくは手放さずに上体をのけぞらせた。(中略)

 それからヴィクトールは、やすやすとロベルトを向きかえさせた。いまやアントワーヌに、うら若い伯母の尻、目、膝のくぼみ、黒いコルセットをつけた長い脚などを見せる時であった。ヴィクトールは、背後から彼女の二つの手首をにぎり、彼女を一物の上にすえつけた。そして彼女は爪先だって、このどうにもあらがいがたい試練をうけいれることになった。アントワーヌはカーテンの後にかくれていた。あまり感動が激しくて、その情景を見つめていることができなかったのである。だがこのとき彼は、しわがれた叫び声を聞いて思わず飛びあがり、もう一度その情景をのぞきこまずにはいられなくなった。》

 同じくクロソウスキーの『ディアーナの水浴』の罪深い「窃視」と「尻」打ち、

《アクタイオーンは牡鹿の頭で自分の顔をかくし、《女神めあてに仮面を被った》とはわれながら実に悪賢いと思いながら、泉に向って進み、洞窟の中にかくれようとする。彼は彼女が来るのを待つ。》

《彼は片手で銀の弓を彼女から奪い、もう片方の手で女神が箙に近づけていた方の手首を押えると、いまや彼女の耳を弓で打ちはじめ、彼女が打撃を避けようとして頭を下げる間に、テュニックは落ち、帯はほどけ、箙は地面に矢をばらまき、そしてついに彼は彼女の尻をまくり上げ、弓も砕けんばかりの一撃を喰わせるが、まるでそれは銀の弓が自分からディアーナの尻の上で踊っていると思わせかねない。そして事実、彼女の暗闇からは光あふれる三日月の角が姿を現わし、彼女はその光輝を長く影の深い手でいまだに隠している。だが尻打ちが激しくなればなるほど、三日月は大きく昇る。そして偶像の臀部に隙間が開くので、アクタイオーンは頭を下げてそこに突っ込む。いまや彼は自己の召命の終点にある。》

 

 吉岡実が「わたしの作詩法?」で自解したように、クロソウスキーもまたリルケに(こちらは直接)学んだ、芸術家としての禁欲(拘束)的苦行と規範の人だった。あるインタヴュー(「エロス・ベルゼバブ株式会社」)で、

《一九二五年にリルケが最後にパリにいた時、毎晩のように家にやって来て、皆で雑誌に新しく出た文章や、モーリャックやジッドの小説などの読書会をしたものでした。その時私が第一に教えられたことは、極めて本質的なことで、それが私の人生を大きく支配する考えとなりました。それは、創造には苦行と絶対的謙下の精神が必要なのだ、ということです。芸術家はその作品の中に消え去らねばならない。無私無欲の創造を行う、修道僧のような不撓不屈の精神――ここに最大限の謙下の意味がある――そして瞑想の対象を生み出すという喜びより外の喜びは持たない。ただし、実際の創作の前にあらかじめ規範を定めておき、それを完全に遵守する。このリルケの教えから、私は絶対的受動性という考えを得たのだと思います。つまり、創造し制作しようという欲求に拘束を課して、表現のあらゆる様式に強制的な規範を設けるわけです。》

 

 平出隆《吉岡さんの詩の変化というのは、こういうものは使っちゃいけないという自分なりのルールのようなものがその時点で確かなものとしてあって、それを自己侵犯していくものとして出てきますね。固有名詞の問題と言い、引用の問題といい。》(討議 大岡信入沢康夫天沢退二郎平出隆「自己侵犯と変容を重ねた芸術家魂――『昏睡季節』から『ムーンドロップ』まで」)

 

 入沢康夫《やはりエロティックなものグロテスクなものも本当はもっとあるわけですよ。でも全部それを出しているとは思いませんね。こういうものを文字にしてはいけないという気持ちが強く働いていたんでしょうね。》

 大岡信《私生活においてもぼくらが知らないようなところで、ひじょうに禁欲的な生活をしていたように思うんですね。》

 入沢康夫《そうですね。これを書いては自分の芸術家としての品格、作品の品格にかかわるということがあったみたいですね。》(討議 大岡信入沢康夫天沢退二郎・ 平出隆「自己侵犯と変容を重ねた芸術家魂――『昏睡季節』から『ムーンドロップ』まで」)

 

 松浦は続ける、《ところで、「後ろ姿を見る」という主題に関しては、まだ語られることが残っている。というのも、「死にたくなる」のを避けようとするあまりか、われわれは未だマダム・レインの「とても見られない細部」を具体的に(・・・・)見てとるべく眼を凝らそうと努めてはいないからである。凝視の必要があるだろう。少年または女性の裸体を「うしろ」から見るというのはどういうことか。つまり、そこにはいったい何が「見える」のかを具体的に問わねばなるまい。(中略)「死の器」への言及に続く、「球形の集結でなりたち/成長する部分がそのまま全体といえばいえる/縦に血の線がつらなって/その末端が泛んでいるように見えるんだ/比喩として/或る魚には毛がはえていないが/或る人には毛がはえている」といった部分に、女陰のイメージを読み取らないことは難しい。本来は「生の器」としてあるべきなのに、「ムーヴマンのない」「体操のできない」「恐しい子供」しか産み落とせないがゆえに「死の器」と呼ばれている女性性器こそ、それを見るか見ないかがこの詩篇において終始問題にされている当のものなのである。マダム・レインの美しい裸体の持つ「とても見られない細部」とは性器にほかならず、そして「恐しい子供」というのも実は彼女の性器それ自体の外在化されたイメージにほかなるまい。(中略)吉岡実における女陰は、人目につかぬ深みに身を隠しつつ言葉の表層にその屈折した垂直的な照り映えをゆらめかすことでおのが存在を誇示している何かといったものではない。それは、言葉の表層にあからさまに現前しつつ、絶えずその水平面上でのイメージ連結の、無方向的な力の戯れを組織しつづけている負の陥没点なのだ。(中略)

  迂回せよ

      月の光に照らされて

               あらわに見えて来る

       〔膣状陥没点〕……

             (《〔食母〕頌》『ムーンドロップ』所収)

 露わに見えているがゆえに「迂回」を強いられる陥没点としての女陰は、或る意味では吉岡実の創造したあらゆる詩的イメージのうちで至高のものである。それは、単に特異な吉岡的エロティシズムの一構成要素というだけのものではない。それはまず、見ることと見ないこととをめぐるまなざしの遊戯の対象として特権的なものであり、そのかぎりにおいて、詩人の視線が世界と関わり(あるいは関わりを拒み)、その関係の(あるいは疎隔の)ありようを分節化するその仕方の雛形を示している極めつけのオブジェである。吉岡実の詩の官能性が窃視症的なエロティシズムに染め上げられていることは間違いあるまいが、「エロス」と「見ること」という二つの主題のどちらが彼にとって本質的であるかと言えば答えは明らかだろう。女体の官能性への関心がまずあってそれを見ることが次に問題となるのではなく、他の何にも先行して吉岡実はまず見る人(・・・)なのだ。というよりむしろ、覗く人(・・・)と言うべきかもしれぬ。そして、見る行為が、その内包する孤絶と距離の意識を尖鋭化させていった挙句に窃視者の脅えと快楽へと近づいてゆくとき、そこに覗き(・・)の対象として唯一至高なるものとしての女性の秘部の主題が大きくせりあがってくることになるのである。それは見えないもの、見たくてたまらないもの、選ばれた瞳の持つ幻視の力によってのみ見ることのできるもの、しかし見ることはできてもそれに触れたりそれを享受したりすることはできないものだ。そうした意味では、吉岡実の創造したすべてのイメージは女陰のヴァリエーションにすぎないとさえ言えるかもしれない。》

 

 ジュリア・クリステヴァは、穢れ、おぞましさというアブジェクト(abject)について、『恐怖の権力 <アブジェクション>試論』で、《おぞましきもの(アブジェクション)に化するのは、清潔とか健康の欠如ではない。同一性、体系、秩序を攪乱し、境界や場所や規範を尊重しないもの、つまり、どっちつかず、両義的なもの、混ぜ合わせである。言い換えれば、良心にあふれた裏切者や嘘つきや犯罪者、人助けだと言い張る破廉恥な強姦者や殺人者……。およそどんな犯罪でも、法の脆さを目立たせるので、アブジェクトとなる。だが計画的な犯罪、狡猾な殺人、偽善に満ちた復讐はなおさら法の脆さを人前に晒すために、より一層アブジェクトである》、《おぞましきもの(アブジェクト)は倒錯〔頽廃〕と類縁関係をもっており、私が抱くおぞましさ(アブジェクション)の感情には超自我に根差している。アブジェクトは倒錯的〔頽廃的〕だ。なぜならそれは禁止や法則や掟に見切りをつけることも引き受けることもせずに、その向きを変え、道を誤らせ、堕落させるからである》、《恐怖症はしばしば窃視症へと脱線してゆく。窃視症は対象関係の構成にとって構造的に不可欠であり、対象がアブジェクトの方向へ揺れ動いてゆくたびに現われる。それが真の意味の倒錯となるのは、主体/客体の不安定さを象徴化する作業に失敗した場合に限られる。窃視症はアブジェクションのエクリチュールの同伴者である》と書いたが、吉岡実もまた同伴者に違いない。

 

 吉岡実「私の好きなもの」(一九六八年)

ラッキョウブリジット・バルドー、湯とうふ、映画、黄色、せんべい、土方巽の舞踏、たらこ、書物、のり、唐十郎のテント芝居、詩仙洞、広隆寺のみろく、煙草、渋谷宮益坂はトップのコーヒー。ハンス・ベルメールの人形、西洋アンズ、多恵子、かずこたちの詩。銀座風月堂の椅子に腰かけて外を見ているとき。墨跡をみるのがたのしい。耕衣の書。京都から飛んでくる雲龍、墨染の里のあたりの夕まぐれ。イノダのカフェオーレや三條大橋の上からみる東山三十六峰銀なかし。シャクナゲ、たんぽぽ、ケン玉をしている夜。巣鴨とげぬき地蔵の境内、せんこうの香。ちちははの墓・享保八年の消えかかった文字。ぱちんこの鉄の玉の感触。桐の花、妙義の山、鯉のあらい、二十才の春、桃の葉の泛いている湯。××澄子、スミレ、お金、新しい絵画・彫刻、わが家の猫たち、ほおずき市、おとりさまの熊手、みそおでん、お好み焼。神保町揚子江の上海焼きそば。本の街、ふぐ料理、ある人の指。つもる雪》

 

 吉岡実年譜(吉岡陽子編)

《一九九〇年(平成二年)七十一歳

一月、国立劇場で正月公演の歌舞伎を観る。「文学界」一月号に詩「沙庭」を発表(最後の詩篇となる)。二月、会田綱雄死去。声帯麻痺のため声が嗄れ 嚥下力も落ち食欲が細る。二十八日、道玄坂百軒店の道頓堀劇場へ行く(長年親しんだストリップ・ショーの見納め)。三月、共済病院で内科の精密検査を受け結果は正常。折笠美秋死去。四月十五日、自宅で誕生日を祝う。りぶるどるしおるの一冊として『うまやはし日記』書肆山田より刊行。鈴木一民、大泉史世、宇野邦一が来宅。差入れの料理とワインで祝杯。近所に住む吉増剛造から復活祭のチョコレートの玉子と〝誕生日おめでとう〟のメッセージが届く。足腰弱り体重三七・五キロの痛々しい七十一歳。一週間で体重二キロ増えるが不調。足の甲が亀のように浮腫む。二十二日、雨の中渋谷駅前で見舞いの飯島耕一夫人と妻が会い入院を勧められる。二十三日、共済病院で検査の結果、翌日入院。腎不全のため週三回の人工透析を受ける。二四時間体制で中心静脈の栄養点滴。『うまやはし日記』弧木洞版限定一〇〇部、書肆山田より刊行。五月九日、結婚記念日。初めての輸血。大泉史世から贈られた銀のスプーンでゼリーひと口食べる。二十五日、白血球六〇〇から二〇〇に減少し個室に移され面会謝絶。三十日、妻の夜の付き添いが許される。重態。三十一日、午後九時四分、急性腎不全のため永眠。臨終には妻の他、居合わせた鈴木一民、妻の親友辻綾子、従妹太田朋子が立ち会った。六月一日、自宅で仮通夜。二日、巣鴨の医王山真性寺で本通夜。三日、葬儀。町屋火葬場で茶毘に付された。》

 ちなみに国立劇場正月公演の演目は、「矢の根」(二代目尾上左近(現四代目尾上松緑)、七代目尾上菊五郎、五代目中村富十郎)、「水天宮利生深川(すいてんぐうめぐみのふかがわ)」(十二代目市川團十郎)、「雪振袖山姥(むつのはなふりそでやまんば)」(四代目中村雀右衛門、五代目中村富十郎)だった。

                                    (了)

       *****参考(吉岡実の詩)*****

「僧侶」

四人の僧侶

庭園をそぞろ歩き

ときに黒い布を巻きあげる

棒の形

憎しみもなしに

若い女を叩く

こうもりが叫ぶまで

一人は食事をつくる

一人は罪人を探しにゆく

一人は自潰

一人は女に殺される

四人の僧侶

めいめいの務めにはげむ

聖人形をおろし

磔に牝牛を掲げ

一人が一人の頭髪を剃り

死んだ一人が祈祷し

他の一人が棺をつくるとき

深夜の人里から押しよせる分娩の洪水

四人がいっせいに立ちあがる

不具の四つのアンブレラ

美しい壁と天井張り

そこに穴があらわれ

雨がふりだす

四人の僧侶

夕べの食卓につく

手のながい一人がフォークを配る

いぼのある一人の手が酒を注ぐ

他の二人は手を見せず

今日の猫と

未来の女にさわりながら

同時に両方のボデーを具えた

毛深い像を二人の手が造り上げる

肉は骨を緊めるもの

肉は血に晒されるもの

二人は飽食のため肥り

二人は創造のためやせほそり

四人の僧侶

朝の苦行に出かける

一人は森へ鳥の姿でかりうどを迎えにゆく

一人は川へ魚の姿で女中の股をのぞきにゆく

一人は街から馬の姿で殺戮の器具を積んでくる

一人は死んでいるので鐘をうつ

四人一緒にかつて哄笑しない

四人の僧侶

畑で種子を播く

中の一人が誤って

子供の臍に蕪を供える

驚愕した陶器の顔の母親の口が

赭い泥の太陽を沈めた

非常に高いブランコに乗り

三人が合唱している

死んだ一人は

巣のからすの深い咽喉の中で声を出す

四人の僧侶

井戸のまわりにかがむ

洗濯物は山羊の陰嚢

洗いきれぬ月経帯

三人がかりでしぼりだす

気球の大きさのシーツ

死んだ一人がかついで干しにゆく

雨のなかの塔の上に

四人の僧侶

一人は寺院の由来と四人の来歴を書く

一人は世界の花の女王達の生活を書く

一人は猿と斧と戦車の歴史を書く

一人は死んでいるので

他の者にかくれて

三人の記録をつぎつぎに焚く

四人の僧侶

一人は枯木の地に千人のかくし児を産んだ

一人は塩と月のない海に千人のかくし児を死なせた

一人は蛇とぶどうの絡まる秤の上で

死せる者千人の足生ける者千人の眼の衡量の等しいのに驚く

一人は死んでいてなお病気

石塀の向うで咳をする

四人の僧侶

固い胸当のとりでを出る

生涯収穫がないので

世界より一段高い所で

首をつり共に嗤う

されば

四人の骨は冬の木の太さのまま

縄のきれる時代まで死んでいる

 

サフラン摘み」

クレタの或る王宮の壁に

サフラン摘み」と

呼ばれる華麗な壁画があるそうだ

そこでは 少年が四つんばいになって

サフランを摘んでいる

岩の間には碧い波がうずまき模様をくりかえす日々

だがわれわれにはうしろ姿しか見えない

年の額に もしも太陽が差したら

星形の塩が浮かんでくる

割れた少年の尻が夕暮れの岬で

突き出されるとき

われわれは 一茎のサフランの花の香液のしたたりを認める

波が来る 白い三角波

次に斬首された

美しい猿の首が飾られるであろう

目をとじた少年の闇深く入りこんだ

石英のような顔の上に

春の果実と魚で構成された

アンチンボルドの肖像画のように

腐敗してゆく すべては

表面から

処女の肌もあらがいがたき夜の

エーゲ海の下の信仰と呪詛に

なめされた猿のトルソ

そよぐ死せる青い毛

ぬれた少年の肩が支えるものは

乳母の太股であるのか

猿のかくされた陰茎であるのか

大鏡のなかにそれはうつる

表意文字のように

夕焼けは遠い円柱から染めてくる

消える波

褐色の巻貝の内部をめぐりめぐり

『歌』はうまれる

サフランの花の淡い紫

招く者があるとしたら

少年は岩棚をかけおりて

数ある仮死のなかから溺死の姿を藉りる

われわれは今しばらく 語らず

語るべからず

泳ぐ猿の迷信を――

天蓋を波が越える日までは

 

「マダム・レインの子供」

マダム・レインの子供を

他人は見ない

恐しい子供の体操するところを

見たら

そのたびぼくらは死にたくなる

だからマダム・レインはいつも一人で

買物に来る

歯ブラシやネズミ捕りを

たまには卵やバンソウコウを手にとる

今日は朝から晴れているため

マダム・レインは子供に体操の練習をさせる

裸のマダム・レインは美しい

でもとても見られない細部を持っている

夏ならいいのだが

雪のふる夜をマダム・レインは分娩していたんだ

うしろからうしろからそれは出てくる

形而上的に表現すれば

「しばしば

肉体は死の器で

受け留められる!」

球形の集結でなりたち

成長する部分がそのまま全体といえばいえる

縦に血の線がつらなって

その末端が泛んでいるように見えるんだ

比喩として

或る魚には毛がはえていないが

或る人には毛がはえている

それは明瞭な生物の特性ゆえに

かつ死滅しやすい欠点がある

しかしマダム・レインの所有せんとする

むしろ創造しようと希っている被生命とは

ムーヴマンのない

子供と頭脳が理想美なのだ

花粉のなかを蜂のうずまく春たけなわ

縛られた一個の箱が

ぼくらの流している水の上を去って行く

マダム・レインはそれを見送る

その内情を他人は問わないでほしい

それは過ぎた「父親」かも知れないし

体操のできない未来の「子供」かも知れない

マダム・レインは秋が好きだから

紅葉をくぐりぬける

 

            *****引用または参考文献*****

*『特装版 現代詩読本 吉岡実』(討議 大岡信入沢康夫天沢退二郎平出隆「自己侵犯と変容を重ねた芸術家魂――『昏睡季節』から『ムーンドロップ』まで」、宮川淳「言語の光と闇」、高橋康也吉岡実がアリス狩りに出発するとき」、松浦寿輝「後ろ姿を見る――『サフラン摘み』の位置」、守中高明吉岡実における引用とパフォーマティブ」、飯島耕一「青海波(せいがいは)」、吉田文憲「覚めて見る、夢」、瀬尾育生「詩は死んだ、詩作せよ」、朝吹享二「エニグム・アノニム」、「代表詩40選」、他所収)(思潮社

*『現代詩手帖 1995.2 特集 吉岡実再読』(「討議戦後詩 野村喜和夫・城戸朱里・守中高明「第一回 吉岡実」」、城戸朱里「「吉岡実」を現在として」、他所収)(思潮社

*『現代詩手帖 1980.10 増頁特集 吉岡実』(鈴木志郎康「詩への接近」、高橋康也吉岡実と劇的なるもの」、三浦雅士「葉の言葉」、「対談 吉岡実金井美恵子」、三好豊一郎「半具象」、千石英世「胚種としての無」、四方田犬彦「内部の貝と外部の袋」、飯田善國「<謎(エニグマ)>に向かって」、他所収)(思潮社

野村喜和夫『詩のガイアをもとめて』(「吉岡実、その生涯と作品」)(思潮社

*『現代詩文庫14 吉岡実詩集』(吉岡実「わたしの作詩法?」、飯島耕一吉岡実の詩」、他所収)(思潮社

*『現代詩文庫129 続・吉岡実詩集』(思潮社

*『現代の詩人1 吉岡実』(鑑賞 高橋睦郎)(中央公論社

*『みらいらん 2020 Summer第6号 特集吉岡実』(「吉岡実をめぐる対話 没後三十年を機に 朝吹享二+城戸朱里」、他所収)(洪水企画)

吉岡実『「死児」という絵〔増補版〕』(「懐しの映画――幻の二人の女優」、「読書遍歴」、「うまやはし日記」、「リルケロダン』――私の一冊」、「ロマン・ポルノ映画雑感」、「ポルノ小説雑感」、「想像力は死んだ 想像せよ」、「手と掌」、「官能的な造形作家たち」、他所収)(筑摩書房

吉岡実土方巽頌――<日記>と<引用>による』(筑摩書房

リルケロダン』高安国世訳(岩波文庫

*『夜想22 特集クロソウスキー』(「ピエール・クロソウスキー「エロス・ベルゼバブ株式会社」杉原整訳」所収)(ペヨトル工房

ピエール・クロソウスキー『ロベルトは今夜』遠藤周作、若林眞訳(河出書房新社

ピエール・クロソウスキーディアーナの水浴』宮川淳豊崎光一訳(美術出版社)

ジュリア・クリステヴァ『恐怖の権力 <アブジェクション>試論』枝川昌雄訳(法政大学出版局

ジャック・ラカン精神分析の四基本概念』ジャック=アラン・ミレール編、小出浩之・新宮一成・鈴木國文・小川豊昭訳(岩波書店

小林一郎吉岡実の詩の世界――詩人・装丁家吉岡実の作品と人物の研究」(「<吉岡実を語る」「吉岡実年譜」「吉岡実書誌」「吉岡実参考文献目録」ほか)http://ikoba.d.dooo.jp/index.html