文学批評 折口信夫の『源氏物語 若菜』――「反省の書」 (引用ノート)

 

 小林秀雄本居宣長』は、小林が折口信夫の大森の家を初めて訪問し、『古事記』について尋ねての帰途、駅まで送ってきた折口が、《お別れしようとしたとき、不意に、「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ、では、さようなら」と言われた》というエピソードから始まる。

 大森駅まで一緒に送った住込みの弟子岡野弘彦によると、「小林さん、本居さんはね、なんと言っても(・・・・・・・)源氏ですよ」と改札口を挟んで切羽詰まって発したことが記憶に残っているという。小林は『本居宣長』冒頭でこのエピソードを印象づけはしたものの、宣長が『源氏物語』に『古事記』よりもさらに深い思いで入っている、さらに深い愛情を注いで読み込んでいる、ということについては書いてられない、と岡野は「源氏物語全講会」で発言している。実際に小林は、宣長紫文要領』や『玉の小櫛』を参照しながら『源氏物語』の「もののあはれ」に触れはするものの、力点を『古事記』においてしまったのはよく知られるところだ。

 

 意外かもしれないが、『折口信夫全集』で『源氏物語』に関する論考は少なく、片手の指で数えられるほどといってよい。それには、下記のような事情がある。

 折口信夫木々高太郎池田弥三郎小島政二郎奥野信太郎による座談会『源氏物語研究』(昭和二十六年九・十月「三田文学」)によれば、

池田 先生(折口氏)は源氏をお読みになつたのはいつ頃なんですか。万葉よりはずつと後ですか。

折口 相当に遅いでせうね。もつとももとは専門にしてゐなかつた所為もありませう。三矢(重松)先生が専門にして居られ、従つて、源氏全講会を始められた。江戸の学者のした和学講談みたいなことをなさつたら、どうですかと私がおすゝめして、先生がお始めになつたのが大正十一年の秋でした。これは、国文学の全講会(万葉講座などの類)のはじめでした。残念なことは、その年の七月お亡くなりになりました。桐壺から若紫までいつてましたから、速度が早かつたのですな。先生が亡くなられ、翌年御遺族が続けていけと仰しやつたので、そのあとをさせて貰ひました。さういふことがなかつたら、万葉一つで、ずつと通してたでせうね。だから万葉と源氏の両刀使ひみたいな一生になつてしまひました。(笑)いつたい奈良朝以前と平安朝ですから、ちよつと調子がをかしいですが……。それに学校が国文学専門といつてもよい学校でしたから、それでも世間で場違ひだとは見てくれないですんだのです。》

 遅い始まりだったとしても、折口の『源氏物語』への想いは深く、博識の下で着眼点は鋭い。数少ないが、残された論考を引用しながら、「折口源氏」の核心を読んで行く。

 

<『折口信夫全集 ノート編 追補第四巻 源氏物語3』――『若菜講義』/『若菜』を読まぬと本当に源氏を読んだとは言えない/強い性格>

 岡野弘彦は「源氏物語全講会」の『若菜 上』の講義で、折口信夫は亡くなる前年の昭和27年に「源氏全講会」の『若菜』講義に入り、昭和28年9月の死によって途中で終ってしまうのだが、その最後の講義について、『折口信夫全集 ノート編 追補第四巻 源氏物語3』を読みながら、ところどころ補うような解説の言葉、所感を、記憶をまさぐるように語りだす。

 まず、『折口信夫全集 ノート編 追補第四巻 源氏物語3』の冒頭の『若菜 上』の概要文を書き写せば、

《「若菜」の名は年の賀によっている。しなで算賀と言う。日本でもその語を使っている。

「若菜」は年の賀、算賀に関係がある。貴族の徳の高い人が年をとると、娘分の人が嫁菜の吸い物を作って食べさせる。若菜の羹(あつもの)を捧げる仕来りだ。しなから来た仕来りだと言うが、日本だけにもそういう風習はかなり古くまで遡ることができる。この巻は源氏の四十の賀を中心として書かれている。次の「若菜下」の巻は、源氏の兄、朱雀院の帝の五十の賀を中心としている。女三の宮が若菜を勧める。両方とも賀が中心なので、それでこの巻々を「若菜」と言い、上下としている。

「若菜」という名をつけたその考え方も。小説的にうまく考えている。それだけでなく、源氏が人生を昇りつめたところの生活を書いていて、これ以後は下り坂になる。源氏の人生の花の時代を書いている。内容も他の巻に比して小説的に優れている。大まかな味わいがある。小味なところでは玉鬘の系統の巻々が優れていて、いいものだが、「若葉」になるとさすがにえらいものだと感じる。源氏もこの巻々を読まぬと、本当に源氏を読んだとは言えない。

源氏の四十の年を中心としてその前の年と後の年のこととが出てくる。朱雀院の帝は病気がひどくなり、出家したいと思っているが、したくてもできなかった原因の女三の宮がやっとの思いで源氏が受け取ってくれた。それで肩の荷が下りて、御室の御所で得道した。このあと源氏は日本中でいちばん上の人で、自然と自由な気がしてくる。今までになかった性格も出て、人間としての自由さも発揮してくる。それは狭い根性からは非難されるが、小説としては非難できない。源氏が女三の宮を迎えることは、表はきれいだが、裏を言えば、実は朱雀院の財産が付いている。この宮を迎えると源氏に大きな財産が付いてくる。朱雀院という御殿は、御殿にも諸国にも大変な財産がある。領分がたくさんあるのだ。これが流れ込んでくる。もっと昔の人なら書くのを億劫がるところだが、それを書いている。知識を持って読むとはっきりわかるように書かれている。

一方、女三の宮を迎えたことで紫の上が寂しい気がしてくる。衰えてくる。しまいには死病にとりつかれる。紫の上の運が傾くもとになる。一方、朱雀院が入道したので、これまで遠慮していた朧月夜尚侍と忍び逢うようになる。これは、普通の道徳で考えるべきでなく、いろいろのことが織り込まれている。この巻では小説的な大きな動きが出てきて、源氏程の人もやはり社会の動きにつれて変わってゆくのだと感じさせる。

明石の入道が住吉の社へ奉った願文が公表せられる。それによって明石の姫君が后になられた理由がわかる。明石の入道の誓いによってできたことだ。帝の后になるような人がその家から出てきた。入道が明石の方を源氏に勧めたのは、源氏に見込みをつけて、この人に上げるとこの人が天子になると思っていたが、それは実現しなかった。が、次の時代になって娘の腹から生まれた子が天子の后となった。昔の人の宗教心が情熱的に書かれている。その点はよく書けている。

源氏にしても、本当の娘が中宮になるのだから大変な誉れだ。今まで六条御息所の娘を冷泉院に差し上げているが、これは養い子だ。源氏のこの世の宿願も極点に達している。それと新しい恋。女三の宮に対しては源氏が恋心を持つとは書いていない。源氏の作者はこの人を少し劣った人のように書いている。源氏がこの人に思いを寄せているとは書いていない。が、好意は持っている。それと柏木の右衛門督とが密通する。柏木は女三の宮とのことを残念に思っていたのが、蹴鞠の折、御簾が上がり、すだれの隙間から顔を見て、どうしても忍ばれぬ恋心を起こす。女三の宮の女房に頼んで取り持ちをしてもらう。この巻から次の巻へかけて源氏の他の巻にはないような強い性格が出てくる。》

 

 折口の『若菜』に対する感動の在り様について、岡野の講義を文字起ししてみると、

「若菜に感動する人は他にもないことはないけれども、折口信夫ほど若菜に深い感動を、そして若菜の巻々(まきまき)の内容に重要な問題を読みとっている人はないと言ってもいいんですね。」

折口信夫がよく言った言葉ですけれども、近代に入っての源氏物語の読者っていうのは、宇治十帖を面白がるんですね。折口は宇治十帖はほとんど評価しない。あんなものは、いつの時代だって書けるんじゃないか、というふうな感じですね。つまり光源氏が中心になっている巻々のもっている日本人の伝統的な心の大きさ、そして登場人物たちが演じてゆく動きの、力強さ、あるいは情熱的な心の在り様、魂の在り様、これが源氏物語の一番優れている部分だというふうに見ているわけですね。現代小説を読むような感じで読めば、それは宇治十帖がいかにもこう、か弱い現代人の感覚にも共感できるような、あるいはその心の動きというものが理解できる感じがするわけです。光源氏が中心になっていることに、この光源氏の人生が大きく人間として充実してきた時期の、光源氏の行動、ものの考え方、色好みの心の在り様というふうなものは、現代人には、ことに現代の知識人には、とてもあの、よほど深く考えて、そしてよほど日本の古典の中の、伝統的な心の在りかたをたどっていってるものでないと分ってこないわけです。なんかより古風な、あるいは未開な、むくつけき愛情の在りかた、男女の愛の在りかた道を、こんな、我々には理解しがたい源氏の、淫乱のようにすら見える、奔放な愛の在りかたというものが、どうしても我々の感覚にはしっくりと響いてこない。そこのところを折口は、そのところが、我々の感覚に沿う様な形ですうーっとそのまま入ってこないところが、源氏物語の大きさなんだ。あるいは我々がもう失ってしまった日本人の心の伝統の大事な部分なんだ、その具現者が光源氏なんだと、まあそういうふうな考え方を、少し誇張して言えば、分かりやすく言えば、そういうふうな心を持っているわけです。」

 

<『伝統・小説・愛情』――残虐/二重表現/隠忍の激情/貴人のみさを(・・・)>

 折口信夫は『伝統・小説・愛情』(昭和二十三年一月「群像」)で、一番好きだった『若菜 下』を、末の方の章の訳とともに解説している。

《源氏は、第三の北の方とも言ふべき女三宮(ヲンナサンノミヤ)に、あやしく狎れてしまつた柏木衛門督(カシハギノヱモンノカミ)の手紙を発見して以来、心一つにをさめて、人々に語らず、静かに注視することを忘れなかつた。十二月になつて、朱雀院(スザクヰン)ノ上皇の五十賀(ガ)を行ふに先だつて、試楽を六條院で行うた。柏木はひどく煩つて居るやうに言つて、参加しないことにして居たが、父太政大臣も、ひねくれてゐるやうに思はれてもよくないと励すので、苦しさをおして、その六條院であつた試楽に出ることになつた。今日は、かうした試楽の日だが、源氏の系統の若い貴公子たちの舞があつて、皆感動した直後のことである。

 年のふけて居られる上流の公家たちは、皆感涙を落された。

 主人役の六條院は、かう言ひ出された。

  どん/\とつて行く年齢(トシ)につれて、酒のあとの酔ひ泣きは、なか/\とめられ なくなつて来るものだ。衛門(ヱモン)ノ督(カミ)が、おれの方を念入りに注目してゐて、にこ/\せないで居られぬと言ふふうにしてゐるのが、何だか気のひけることよ。其にしても、さう言ふこともほんの今(マウ)ちよつとの間だらう。誰しも願ふとほり、逆さまにとつて行つてくれぬ年月だもの。年よると言ふことは、脱却出来ぬことだものな……。

 と言つて、柏木の方へ視線をおよこしになるので、外の人から見ると、ずつときちんとした風を崩さず、むつゝりして居て、――其から此は個人的な話だが――、気分もひどく苦しくなつて来たので、今日のとても結構な行事も、印象が残らないやうな気分で居るこの人をば、選りに選つて、相手にしてかゝり、生酔ひの風をして、こんな風におつしやる。それは、じやうだんめいた風にしてゐられるのだけれど、場合が場合だからひどくどきり(・・・)としてしまつて、――自分の前に盃のまはつて来るのすら、頭にひゞくやうに感じるので、ほんの形式だけですまして居るのを、源氏が見とがめなさつて、盃を手から手へお持たせになつたまゝで、幾度も重ねて強ひられるので、あげもさげも出来ないで、処置に困つてゐる様子、平凡な身分の者の場合とは違ふのだから、其だけに又、さうした様子が、人の心をひく。……だがそれは、一時的なわる酔ひのせゐだと思つたが、そんなことではすまなかつた。其まゝ、ひどく病ひづいて、お苦しみになる。……

若い北の方を竊(ヌス)んだ男――勢力の対立した親族の家の後継者――に対して、これが源氏のしたことなのだ。源氏読みの人々からは、円満具足した人格のやうにみられてゐる源氏が、かう云ふ残虐を忍んでするのだ。ところがまだ/\こんなことではすまなかつた。此がもとで、柏木衛門ノ督はとう/\死んでしまふのである。若い恋敵をさう云ふところまで追ひこんで、凝視をやめない。さうした態度を、静かに持ち続けたゞけではなかつた。三ノ宮の方も出産の苦しみに耐へられなかつたにもよるが、源氏を恐れて出家しようとする。其を源氏はたゞ通り一ぺんの挨拶で、不賛成を示したばかりであつた。結句三ノ宮は尼になられる。御室(オムロ)から、我が子の初産を看る為に来られた朱雀院ノ上皇と三ノ宮と。限りなく貴くて、美しい親と子と。唯才能の著しく欠けてゐる所のある二人の貴人が、大事件の前におろ/\(・・・・)して居られる。其も源氏は、唯一とほりの形の上の悲しみだけで見送つて居るのである。

この物語の作者は、昔から女性だとの推定が、動かぬものとなつてゐるが、これが、脆弱な神経では書ける訣のものではない。

古来光源氏を愛した人々は、文章にたとひさうなつて居ても、さうは読まなかつたのである。其をこゝまで負けないで、書きとほしてゐる。えらいものだと思ふ。

平安朝の物語には、書き方によつて、反語的効果を持つと言はうか、二重表現があるので、此特殊な文体は、読み馴れゝば、馴れて直に流れいるやうにうなづける気分を持つて書かれてゐる。さうした階級に発生した表現法が、小説の一つの姿態を作つてゐるのだ。

源氏にとつては、憎くて/\ならぬのである。ことし四十であるが(筆者註:丸谷才一は『光る源氏の物語』の「若菜 下」で折口の訳と言説を引用しながら、《これはもうちょっと上です。折口信夫くらいになると、頭のなかに『源氏物語』が全部あるから、四十七と四十と間違えるなんていうのは平気なんです》と流しているが、たしかに岡野弘彦も、《折口先生は、『源氏物語』の全講会の前の晩に、その木版本(筆者註:『湖月抄』)を声に出して読んでいくだけであった。そして朱の筆でテン・マルを打っていく。それが先生の予習なのであった。『万葉集』をはじめ歌集などを講義するときは、先生は予習はしなかった。全部頭に入っているのであろう。『源氏物語』のときだけは前の晩に声に出して読んでいく。講義のときのように声に出して読んでいく。それが予習なのであった》と語っている)、今もちつとも形は衰へて居ない。其を誰よりも一等よく知つてゐるのも、源氏自身である。臣籍に降つてはゐるが、上皇に準ずる待遇を受けて居る自分だ。それに、位置・才能・教養から言つても、自分の足もとにもよりつけぬ男が、唯若いと言ふ一点だけで、一度だつて人に遜色を感じたことのない自分から、愛を盗んで行つた。かう考へることのくちをしさ。しみ/\゛と年をとつたと言ふことのあぢきなさを、感じさせられた腹立たしさ。第一、この美しい昔のまゝで、而も更に成熟した閑雅なおれの容貌が、どうなるのだ。あまつさへ、さう言ふ憤りを表白することの出来ぬ自分――、さしあたつて当然守らねばならぬのは、皇女出の北の方が生んだ若君は、思ひがけなくも自分の胤でないと言ふ秘密であつた。どんなことがあつても、自分だけの知つた秘密として、おし通さなければならない。其を知つたものが、自分と北の方との外の一人があつた。衛門ノ督だ。さうした俗世間へ落ちこぼれ易い知識は、どうしても除かねばならぬ。人ごとであつても、源氏は、さう言ふ事の為の努力はするであらう。此こそ、やまと(・・・)の国の貴人の共同に保つて行かねばならぬ所の外的儀礼――みさを(・・・)であつた。怒りでもない。元より嫉妬でもない。此ではやまと(・・・)の国の貴人のみさを(・・・)が、どう維持せられるのだ。さう考へることから、名状できぬ怒りが、心の底に深い嫉妬を煽り立てゝ来る。計画をせぬ、美しい心のまゝに動いた青年以来の、又壮年になつても変らぬ純な心動きが、今もそのまゝに、源氏の心をおし動かして、思ひはかつたやうな形に、事を導いて行つた。運命が事を牽いてゐるのではない。源氏自身が、すべての運命を、展いて行つてゐるのである。而も、その運命、源氏自身の為の、三ノ宮の為の、恐しい兆しが、源氏が予期してゐたかのやうに、段々形を備へてゆく。柏木の人生の鍛へを経ぬ弱い心は、彼の身を滅してしまふ。三ノ宮は、咲きながらしぼんで行く牡丹花のやうに、美しい位置から姿を隠して行く。さうして再、何事もなかつた、林泉のやうに、枝も動かさぬ静けさに還る。漣も立たぬ無表情な貴い家庭ののどけさが来る。

源氏物語に書かれぬ光源氏自身の心は、源氏読みの人々の心に伝へられた理会のしかたで、奥邃(オクブカ)い二重表現の効果を遂げるのである。かうした運命に対して、絶対に能動の地位に立つ貴人、而も底知れぬ隠忍の激情に堪へてゐる巨人――之を若し忍んで書きとほす女性があれば、恐しいことである。

源氏も、成熟しきつた時期は、紫式部が書いて居るのではない、と私などは信じてゐる。貴族宮廷の生活を書いても、ばるざつくは、瞬間も、その貴人たちに対して、冷笑や苦笑を忘れる事がない。貴族の生活を批評する計画を持つて、貴族の生活を描写してゐると謂つた、彼の目的を感じさせる。

源氏は貴人の持つみさを(・・・)――儀礼的外貌を毀(コボ)つことなく、寛大に、清澄に、閑雅に、この世を過ぎて、而も世の人々のするやうな劣情も、険怪も、執著も、皆心のまゝに遂げて行つた人の蹤(アト)を、其まゝに伝へて行つてゐる。

昔の人の計画なき計画が、希望せぬ希望によつて、まざ/\と実現して行つた姿を書いて行くのが、平安時代の物語の描写法であつた。殊には其が、この事を考へないでは、其小説として持つてゐるよろしさも、たのしさも、殆、空虚なものになつてしまふ源氏の文体にある、物語の姿なのである。》

 

<『反省の文学源氏物語』――深い反省/昔の日本人の信仰と道徳/家の争い/人間の悲しさ>

 折口信夫『反省の文学源氏物語』(昭和二十五年七月「婦人之友」)から。『伝統・小説・愛情』の指摘と重複するところがあるが、それだけ思入れが深いということに違いない。

《人によつては、光源氏を非常に不道徳な人間だと言ふけれども、それは間違ひである。人間は常に神に近づかうとして、様々な修行の過程を踏んでゐるのであつて、其ためには其過程々々が、省みる毎に、あやまちと見られるのである。始めから完全な人間ならば、其生活に向上のきざみはないが、普通の人間は、過ちを犯した事に対して厳しく反省して、次第に立派な人格を築いて来るのである。光源氏にはいろんな失策があるけれども、常に神に近づかうとする心は失つてゐない。此事はよく考へて見るがよい。近代の学者は、物事を皮相的にしか考へなかつた訣ではないが、教へられて来た研究法が形式倫理以上に出なかつた。源氏物語を誨淫の書と考へ、その作者紫式部の死後百年程経て、式部はあゝ言ふいけないそらごと(・・・・)を書いた為に地獄へ堕ちて苦しんでゐる、と言ふことさへ信じられてゐた程である。これは其時代の人々に、小説と言ふものが人生の上にどんな意義を持つてゐるか訣らなかつた為である。源氏物語は、我々が、更に良い生活をするための、反省の目標として書かれてゐた訣を思はないからである。光源氏の一生には、深刻な失敗も幾度かあつたが、失敗が深刻であればある程、自分を深く反省して、優れた人になつて行つた。どんな大きな失敗にも、うち負かされて憂鬱な生活に沈んで行く様な事はない。此点は立派な人である。

かうした内的な書き方だけでは、何としても同じ時代の人の教養では、理会せられさうもないから、作者は更に、外からは源氏の反省をしめあげる様な書き方をしてゐる。すべて平面的な描写をしてゐるのだが、源氏の思うてゐる心を書く時は、十分源氏側に立つてゐるのだし、客観的なもの言ひをしてゐる時は、日本人としての古い生活の型の外に、普遍的なもらあるがあるのだと言ふことを思はせるやうになつてゐる。其は、因果応報と言ふ後世から平凡なと思はれる仏教哲理を、具体的に実感的に織り込んで、それで起つて来るいろんな事件が、源氏の心に反省を強ひるのである。源氏がいけない事をする。それに対して十分後悔はしてゐるが、それを償う事は出来ないで、心の底に暗いわだかまりとなつて残つてゐる。所が時経て後、其と同じ傾向の事を、源氏が他人からされることになつて来る。譬へば、源氏が若い頃犯した恋愛の上の過ちが、初老になる頃、其最若い愛人の上に同じ形で起つて来る。源氏は今更のやうに、身にしみて己の過ちを省みなければならぬのである。内からの反省と外からの刺戟と、こゝに二重の贖罪が行はれて来ねばならぬ訣である。此様に、何か別の力が、外から源氏に深い反省を迫つてゐる様に感じられる書き方が、他の部分にも示されてゐる。源氏が、権勢の上の敵人とも言ふべき致仕太政大臣の娘を自分の子として、宮廷に進めようとする。其時になつて、此二人の後備へとも言ふべき貴族に、途から奪取せられてしまふ。かう言ふ場合、此小説の書き方が、極めて深刻であり、其だけにまた、強い迫力をもつて来る。

近代の小説家の中にも、其程深いものを持つてゐる訣ではないが、小説として書かれたものを見ると、相当に高い精神を持つたものを書くことの出来る人がないではない。其は其人が書いてゐるうちに、其人の実際持つてゐるもの以上に、表現に伴うて出る力があつて、ぐん/\と出て来るのである。源氏物語の作者にも、勿論さうした部分が十分に認められる。寧此力が異常にはたらいてゐる為に、あゝした遥かなと言つても遥か過ぎる時代に、あれだけの作物が出来たのだと言ふことが出来る。(中略)

皮相な見方をすれば、源氏物語は水のあわ(・・・・)のやうにあとかたもないうは/\(・・・・)した作り事であるとは言へる。又若い頃の悪事が、再自分の身に報いて来る因果応報の物語であるとも言へる。然し作者の意図せない意図と言ふものがあつた。其は今言つたやうな所にあるのではなく、もつともつと深いものを目指してゐたのである。学者は其を学問的に説明しようとし、小説家は其に沿つて更に新しい小説を書かうとして来た。源氏物語の背景にしづんでゐる昔の日本人の生活、更に其生活のも一つ奥に生きてゐる信仰と道徳について、後世の我々はよく考へて見ることが、源氏を読む意味であり、広く小説を読む理由になるのである。

          ○

源氏物語の中に持つてゐる最大きな問題は、我々の時代では考へられないほどな角度から家の問題を取り扱つてゐる事である。一つの豪族と、他の豪族とが対立して起つて来る争ひを廻つて、社会小説でもなく、家庭小説でもなく、少し種類の異つた小説になつてゐる。島崎藤村などは晩年此に似た問題に触れてはゐるが、それ程深くは這入つて行かなかつた。平安朝は、さうした問題が常に起こつてゐた時代であり、闘争も深刻であつた。従つて源氏物語も、常に其問題を中心として進められてゐる。最初は源氏の二十歳前に起つて来るもので、源氏の味方となつて大切にしてくれる家と、どこまでも意地悪く、殆宿命的に憎んでゐる家との対立が書かれてゐる。前者が左大臣家――藤原氏を考へてゐることは勿論である。――後者は右大臣家である。(中略)源氏は成人して、左大臣家の娘葵上の婿となる。もと/\左大臣家の北の方は、源氏の父桐壺帝の妹君が降嫁されたのであつて、伯母に当る訣である。(中略)

一方、右大臣家との関係はどうかと言ふと、右大臣の長女が源氏の父君桐壺帝よりも、年上の女性である。早くから宮廷に這入つてゐて、弘徽殿女御と言はれた。帝が、後に源氏の生母桐壺更衣を余り寵愛なさるので、自尊心を傷ける。女御の怒りは、日増しにつのつて行つて、まるで咒ひ殺された様な風に死んでゆく。其後源氏にとつても又、右大臣家の人々は非常につれないものになつて行くのである。極単純な感情だが、物語の主人公の反対者は、悪い人間である様な感じを持つものである。昔の人は、其をもつと/\強く感じたであらう。主人公である限りは、はじめから善い人にきまつてゐたのである。昔の人は、其をもつと/\強く感じたであらう。古い注釈書には、弘徽殿女御を悪后と言つてゐる。この右大臣家にも、たつた一人源氏に対して深い好意を寄せてゐる人が居た。六番目の娘で、後、朧月夜尚侍と言はれた人である。偶然の機会、照りもせず曇りもきらぬ春の夜に源氏と出あつたのだが、右大臣家では間もなく宮中に入れよう思つてゐた娘に、敵の様に思つてゐる源氏がおとづれしてゐた事を知つて、非常に大きな問題になる。其結果源氏は追放される事になつてしまふ。昔の物語の書き方では、貴い人をきずつけるやうな噂はせぬ礼儀になつてゐるので、源氏の場合も、京に居づらくなつて、自ら須磨へ行つた事になつてゐる。其上、代々の源氏読みの習慣では、流されたものと見て来た。源氏の亡き父桐壺帝が、源氏を憐れに思つて、朱雀院の夢に現れて嘆かれるので、間もなく京へ呼び返される。其後は、源氏の勢力が俄かに盛んになり、右大臣家との争ひは終る事になる。(中略)

かうした事件の流れの中で、源氏は清らかな心で振舞つたり、時には何となく動いて来る人間悪の衝動に揺られたり、非凡な人であつたり、平凡になつたりして動揺して行く。其姿を大きな波のうねりの様に、まざ/\と書いてゐる。

此外に、表面は源氏の実子になつてゐる、薫君と言ふ男の子がある。母は源氏が年いつてからの三番目の北の方で、朱雀院の御子、女三宮(ヲンナサンノミヤ)である。源氏の若い頃、藤壺ノ女御との間にあつた過ちと同様、内大臣の長男柏木と女三宮との間に生れた子である。源氏は其事を知つて、激しい怒りを、紳士としての面目を保つて、無念さをじつとこらへ通してゐる。

時経てから、源氏が出た或酒宴で、柏木も席に列なつてゐたが、内心の苛責から、源氏に対して緊張した態度をとつてゐる。其が却つて源氏の心の底の怒りに触れて来る。そして源氏は柏木を呼んで、酔ひ倒れるまで無理強ひに酒をすゝめる。柏木は其が原因で病死する。源氏が手を下さずして殺した事になる訣だ。殺すといふ一歩手前まで迫つた源氏の心を、はつきりと書いたのが、若菜の巻の練熟した技術である。美しい立派な人間として書かれて来た源氏が、四十を過ぎて、そんな悪い面を表してくる。此は厭な事ではあるが、小説としては、扱ひがひのある人間を書いてゐる訣である。大きく博く又、最人間的な、神と一重の境まで行つて引き返すといつた人間の悲しさを書いてゐる。作者に、其だけの人間の書ける力が備つてゐたのである。此だけの大きさを持つた人間を書き得た人は、過去の日本の小説家には、他に見当らない。

源氏物語は、男女の恋愛ばかりを扱つてゐるやうに思はれてゐるだらうけれど、我々は此物語から、人間が大きな苦しみに耐え通してゆく姿と、人間として向上してゆく過程を学ばなければならぬ。源氏物語は日本の中世に於ける、日本人の最深い反省を書いた、反省の書だと言ふことが出来るのである。》

 

<『源氏物語における男女両主人公』――色好み/篤い信仰生活/近親婚/あらゆる文化に対する知識>

 折口信夫『反省の文学源氏物語』(昭和二十六年九月「源氏物語」朝日古典講座第二集)から。まず、『源氏物語』を読む近代人としての我々は、「色好み」に対する誤解から解放されねばならない。

《色好みといふのは非常にいけないことだと、近代の我々は考へてをりますけれども、源氏を見ますと、人間の一番立派な美しい徳は色好みである、といふことになつてをります。少くとも、当代第一、当時の世の中でどんなことをしても人から認められる位置にゐる人のみに認められることなのです。さうでない人がすると、色好みに対しては、すき(・・)心とかすきもの(・・・・)とかいふやうな語を使ひました。場合によつては源氏のやうな人格の人でも心得違ひをした時には、作者が軽くすき心だとか好き者といふやうな語を使つてますが、此は正面からの誹謗ではない。

何故、色好みなんていふ語が、非情に意味を持つて考へられてをつたか。今日の我々からいふと驚くべきことですけれども、其は国中の一番立派だと言はれる女の人を選んで、其人と結婚する。さういふ結婚を幾度もする。さうして才能の長けた、宗教的に威力を持つた女性達を男が養うてをる。さういふのは、どういふ人だといふと、日本の宗教の歴史から申しまして、非常に久しい間、日本の国の上に立つて、此国を治めてゐられた人が其に当る人であつたといふことになる。つまり歴史と小説とがぴつたり当て嵌まるといふことは、よつぽど考へなければならぬことですが、かういふ場合に一つ/\も申せませんから、簡単にざつく(・・・)に申して置きます。

我々の祖先の持つた宮廷観、我々の祖先が尊い人に持つてをつた考へ方が、特殊な点を捉へて言ふと――色好みといふ形で考へられてをつた。其人はどんな女性を選ぶことも出来る。どんな宗教力を持つた強い女性も靡かすことが出来る。どんな美しい、どんな才能に長けた女性も、自分の愛人とすることが出来る。さういふ愛人を沢山持つ程、自分の国が富み栄えると考へてゐた。我々の今の考へとは非常に距りのある考へ方になつてゐます。けれども、昔は其が当り前の考へ方だつた。だけれども、段々さういふ性格が宮廷にも返り咲いて来まして、さうした一種の古代の黄金の夢のやうに、其を実現する人物も出て来た。だが、本道の色好みは、日本人の理想でした。宮廷の理想であり、公家の理想、其が又、庶民の最憧れた美しい夢になりました。それ故、源氏が、さいきいの家に現れるきゆうぴつどのやうに、賤の家居を訪ねるのです。

光源氏といふ人は、昔の過去の天子に対して日本人の我々の祖先が考へてをつた一種の想像の花ですね。夢の華と申しませうか。其幸福な幻影を平安朝のあの時分になつて、光源氏といふ人にかこつけて表現した訣であります。だから、光源氏といふ人は、或点では我儘な程自分の欲望の儘に動いてをります。併、作者は非難したことがない。源氏の周囲の連衆も、本道に非難してはゐない。唯作者が非難し、源氏自身が反省し、同じ時代の周囲の人達が排斥したことは、作者が後の世の中の心をもつて、古代の生活を批評した時に出て来るだけなんです。つまり、さういふことが起つて来たのは、日本の国には早くから仏教が這入つて来ました。儒教も這入つて来ました。其前に、既に日本には道徳に似た力があつて、此を色好みといふ語で表してゐました。最優れた女性を選択することの義なのでした。(中略)

篤い信仰生活をする時期が一年に何度かありました。其時には、神聖な人の周囲にゐることの出来る人は、非常に限定されてをりました。貴人の身体に近く仕へることの出来る人は、非常に血筋の近い人なんです。其ために、血筋の近い人同士の間に宗教的な結婚が行はれて行く。其で、ずつと続いて、此が最神聖な結婚であつて、同時に平常の生活では、最忌まなければならぬ近親婚といふことになるのです。信仰上の禁忌として、結婚等級の紛乱はやかましく言ひながら、最後の至純な生活ではさういふ結婚法に這入る他はない。かういふ矛盾が、不言不語の間に認められて来たのが、中世の初め迄の事実らしいのです。

処が、外来の文化の影響を受けて、過去のことをば批判する段になると、みんな間違ひだといふことになつて了ふ。考へれば、間違ひに違ひないですけれども、何のためにさういふ過ちが起つて来るか。其から考へねばならぬことなのです。

我々は、藤壺の女御が、源氏と過つて冷泉院を生んだ、其ことは、源氏及び藤壺の深刻な反省として、一生に亙る深い悔いとして残つていくのだから、なまじの善い事をしたよりも其悪事のために非常に懺悔の生活の価値を知つた。少くとも藤壺は、さう書かれてゐる。其処に我々は道徳的の価値を認めるのですけれども、其処にもつと意味の違つたものがある。人間としての道徳の外に、神に仕へるものゝ行く道――さういふ二重生活が、我々の国の道徳と宗教の上には、時としては、行はれなければならなかつたのです。

だが、あなた方の一部の方は、かう言はれるでせう。成る程、其は過去の事実かも知れない。併、源氏物語を知るのに、其処迄這入らなくてもいゝといふ人もあるでせうが、学問は、そんなに間に合ひの物ではない。要らぬ処も要る処も常に研究して、訣つてゐなければならぬ。少くとも、かういふ風に、色好みの生活といふものに対する理会が行き届いてゐなければ、源氏物語は本道に訣つたといふことは出来ますまい。

源氏は初めから終ひまで、色好みの生活を書いてゐるのですから、光源氏といふ人の一生は間違ひばかりの堆積だといふことになる。其でも通る。併、我々には、もつと根本が訣つてゐなければならぬ。文章が美しいとか、小説の構造がよいとか、或は、こんなに迄書きこなす処の技術だとか、そんなことよりも、描写力――技術――其素晴しさ――さういふ事に対する誉め詞よりも、もつと根本的の問題が、日本人としてはあつた訣なんです。

これは心の底に潜んでゐて、表には考へとなつて現れて来ないことかも知れないけれども、我々は自分を欺かぬ、真実な生活をしようとは、誰でも思つてゐるでせう。其ために、真実の生活をする目標を求めて来る。其ためには、真実生活の類型を過去に求めて来る。小説だとか戯曲などいふものに求めていく、此が小説や戯曲を作つたりする理由なのです。(中略)

併、源氏物語は立派な本だ、立派な文学だと、御念仏のやうに言ひ続けて七百年からも暮して来たけれども、戦争が済んで、初めて源氏が本道に立派なものだといふことを悟りかけてる訣です。其は戦争の時に合言葉ではありませんが、まあ、それでも、遅過ぎはしません。

其では、何を求めるかといふと、過去にあつた真実の日本人の生活といふものをば、此から掘り出してくるといふことですね。其ためには、今後、源氏物語が何度も/\小説や戯曲として書き直され、演劇として度々上演せられなければいけない。さういふ予期を持つてもよいでせう。其間には、優れた人間が、源氏物語に吹きこめて置いた昔の日本人の優れた性格を見出すことになるだらうと思ひます。返す/\も、源氏物語だからと言つて、小説や戯曲的にばかり掘りこんでゐても駄目でせう。もつと広い過去のあらゆる文化に対する知識の用意が要るのです。》

 

<座談会『源氏物語研究』――根本問題/日本の古代の認容と支那・印度の拒否とを負うた反省>

 さきの座談会『源氏物語研究』の、折口発言から『若菜』に関係した部分を引用すれば、

池田 藤壺の事件が、後に女三の宮の薫で繰り返されてきますね。簡単なことばで因果応報だといふやうな

ことを書いてゐるのですが……

折口 さう考えたくないのだけれど……

木々 僕はさう考へない。

池田 だつて、作者はどう考えたでせうね。

折口 考へたくないのだけれど、それよりほかに考へる方(カタ)がないのですね。けれど、考へたくないのです。

(中略)

折口 しかし、根本はなんでせう。日本の昔の貴人の結婚法の非常な親族結婚でなければならぬ時期といふものがあつたためでせう。大きな、最も厳粛な、殊に聖なる資格を持つた人のほか関与できない。

池田 あゝそう/\。そこへ行くつもりですか。

折口 さうした祭事の生活の印象が残つてゐて、常時にもさういふ結婚が行はれると思ひ、また歴史と現実、信仰と生活とを一つにして、たゞの人間としての資格である場合にも、さういふ結婚が行はれてゐるものと考へたでせう。それから藤壺との事件は薫の母女三の宮と柏木との様子とはいくらか違ひますがね。やつぱり非常にわれ/\にとつては大きな事件です。むしろ人生の中の大きな事件です。大きな現実の上の矛盾が信仰からきてゐる。しかも信仰に関してのみあることだといふことを考へない。平常の生活にもあつたのだと歴史的に考へてゐる。だから昔の人にとつては、大きな問題です。それに儒道・仏教の峻拒する不道徳です。かうなると、日本古来の生活に認めてゐる最も峻厳な生活だけに、日本人の中の優れた人間は考へる。それが読者の求める問題といふふうに、懺悔でなく表白、さういふ意味で作家が作物を通して答へる。われ/\の優れた過去人の最も優れた人々が、なぜかういふ行ひをしたことが伝へられて物語の上に伝承してきたか。それを解答でも、説明でも敷衍でもよい。ちつとでもそれに関した知識が得たい。さう思つてゐるのが読者だと作家は思つてゐたのでせう。源氏と藤壺、源氏と朧月夜、女三の宮と柏木といふやうな、それから現実観が一層加はるとやゝ下つた地位の匂宮と浮舟、源氏と末摘花、さういふところまで行くやうになる。過去の物語の口誦せられた時代のものから、書かれるやうになつた物語へ持ち越した日本人の持つ主題となつてきた訳です。解かうとする努力が説く方面ばかりに向かつていつた。だからよほど作家が戒心してかゝらないと、因果応報に這入つてしまふのです。応報とせず、源氏の行為は認容すべきものだと作者が思つてゐる。源氏も因果応報とは考へないで、もつとほかのことを思つてゐる。日本の古代の認容と支那・印度の拒否とを負うて反省してゐる。かういふふうになつてくるのだと思ひます。》

 

                                  (了)

       *****引用または参考文献*****

*『折口信夫全集 ノート編 追補第四巻 源氏物語3』(中央公論社

*『折口信夫全集 ノート編 14 源氏物語1』(中央公論社

*『折口信夫全集 ノート編 15 源氏物語2』(中央公論社

*『折口信夫全集 第八巻 国文学篇2』(『日本の創意――源氏物語を知らぬ人々に寄す』『伝統・小説・愛情』『反省の文学源氏物語』『ものゝけ其他』『源氏物語における男女両主人公』、他所収)(中央公論社

*『折口信夫全集 別巻3 折口信夫対談』(折口信夫木々高太郎池田弥三郎小島政二郎奥野信太郎源氏物語研究』所収)(中央公論社

小林秀雄本居宣長(上)(下)』(新潮文庫

橋本治小林秀雄の恵み』(新潮文庫

大野晋丸谷才一『光る源氏の物語(上)(下)』(中央公論社

岡野弘彦源氏物語全講会」(森永エンゼルカレッジ)

 https://angel-zaidan.org/genji/

岡野弘彦『最後の弟子が語る折口信夫』(平凡社

吉本隆明源氏物語論』(洋泉社